彼の声98

2013年

9月30日

 またあやふやな思い込みから話を始めてしまう。今のところは何を空想しているのでもない。それらの見解は偶然に導き出されたものだが、そこから話をまとめようとは思わない。ではそのまま放置されてしまうのか。気がついたらそれについて考えているかもしれない。気がつかなければそのままか。どうせまた考える機会が巡ってくるはずだ。その場で何を考えるのか想像がつかない。ある程度はそうかもしれないが、それほど間違ってはいないだろう。きっかけをつかむとしても、それとは別の何かが必要なのだろうか。また何かの瀬戸際に追い込まれている。それも思い込みの一つだ。そこからあらぬ妄想が膨らみ始め、他の誰かを惑わすでもなく、ただそんなことが記されている。相変わらずそんな成り行きなのだろう。すべては途中経過なのだろうか。何に惑わされているとも思えないが、きっと気づかぬ何かに惑わされているのだろう。自ら記している文章の内容に惑わされ、それが焦燥感でももたらしているわけか。そんな心境を想像している。もうあきらめてしまったのだろうか。何についてそう考えているのか。今ここにこうしているだけでも儲けものだ。その程度のことか。それで済むならありがたい。済まぬならどうしようか。そうなったら考えよう。いくら考えても無駄か。やはりそれで済むならありがたい。別に身の回りの景色が真っ赤に染まっているわけでもない。そうならないだけでも儲けものか。気休めに過ぎないだろう。でもそんな気休めを抱いているうちはまだマシな方だ。ようやく涼しくなってきたのだから、ありがたいのではないか。いったいいつ絶望感にとらわれてしまうのか。そうなったときにわかるだろう。今のところはそうなっていないから、まだマシな段階なのだろうか。だからあまり拙速な行動は慎むべきか。でも悠然と構えていても何もやってこないのではないのか。無論何もやってこなくてもかまわない。外部から働きかけがなければ何も動かない。君も動きようがないが、果たして動く必要があるのだろうか。目的もないのに動けないか。ならばねつ造するしかないか。

 そこで思考が止まっている。そういう話にもっていきたいのだろう。今や誰も預言者ではない。過去の人々がそうなのかもしれない。君にはそれがわからない。でも予言者ならいくらでもいるのではないか。誰もが未来を予測したがっているのではないか。気象予報士のようなものか。神が死んだのはいつのことだろう。神が死に、それを創造した人も死ぬ。そんな未来を語りたいのだろうか。崇高な雰囲気とは何だろう。わざとそんな方向へ語ろうとしてしまうが、違うような気がする。語る気もないのにそれはない。無理に方向をねじ曲げると、そこで行き詰まるしかないようだ。今がそんな状態か。正しい答えと間違った答えのどちらが魅力的か。設問にもよるし、答えにもよるだろう。そこに何もないわけではない。何もないからそうなってしまうわけではなく、何かがあるからといって、どれがどうしたわけでもなければ、黙って前進するのみか。でも前へ進んだらどこへ行き着くというのか。要するにまだ答えを導き出している途中の段階か。それとも知らずに設問とも意識せずに問題を解いているわけか。さあそれはどうだろう。別に謎解き探偵気取りではない。そう思ってはいるが、実際のところはどうなのだろうか。ただ漠然とそう思っているに過ぎないようだ。別にそれでもかまわない。君がいる世界はそのまま時が過ぎ去るばかりだ。その中で暮らす誰もがそうなのかもしれず、いくらでもそうあるべきなのだろう。人は働いて糧を得て暮らしてゆかなければならない。それが自然の成り行きなのだろう。だからあまり偶然の巡り合わせに期待して待っていない方がいい。でも君はわざと間違えてしまい、そんな成り行きが外れてしまう。それは思いがけないことだろうか。でも何に選ばれたわけでもないらしい。人にとって宇宙は無限の広さを有していて、どこまでいっても何にも巡り会えないのかもしれないが、巡り会ってしまうのがその手の物語であり、そういう話を構成したいのが人情というものか。そこで誰かに巡り会い、そこから話が進展するわけか。

 でも肩の荷が下りたわけでもない。それどころかまだ何も始まってはいないのではないか。それはいつも思うことだ。何も為されていないと思う。すでに語っているのにそうだ。何とかここまで語っている。それもそうだが、まだ何かあるのだろうか。たぶん語っていないことが無限にあるのだろう。それはそうだが、語りようがないことも無限にあり、それらについて語るのは至難の業だろう。でもある特定の事柄について語らないと、ただ漠然としたままとなってしまい、何について語っているのか皆目見当がつかなくなり、そういう語りはごまかし以外の何もでもないだろうか。今語りつつあるこれらをそう結論づけるのも何だか気が退ける。たぶんこれでも何かについて語っているつもりなのだろう。誰かの意識がそう思い、君を勇気づけ、さらなる話の進展を期待しているのだろうか。不意にそんなことを思うととりとめがなくなり、このままでは理解にたどり着けるとは思えない。しかし話とは何だろう。君は何を話しているつもりなのか。またお得意の蒸し返し作業が始まってしまうらしい。たぶんさっきまでは何か語っていたはずだ。そのへんの記憶が飛んでいるらしい。そんなことはないと架空の意識に言い聞かせ、さらに語ろうとすれば、その先には何もない虚無が待ち受けているわけか。さあそれはどうなのだろうか。また架空の空間でふざけたことを口走り、それで何かをごまかし、現実の世界ではごまかしているつもりはないと思い込むのか。人は眠りの中でそう考える。そんなことを誰かが思い描き、君のでたらめな空想に釘を刺す。今も君は頭のどこかでそう感じているらしい。架空の君もそう思っているのだろうか。どうしても同調し難いようだ。では何か気が利いた反論でも持ち合わせているのか。それについてはノーコメントだろう。話のはじめから考えていない。たぶん思いつかないのだ。でもそれに関してはどう対処したらいいのだろうか。わかるはずのないことに首を突っ込まない方がよさそうに思えてくる。どうやらさらにとりとめがなくなってきたようで、語ろうとすればするほどそうなってくる気配だ。それらの全体を把握できるほど優秀な頭脳を持ち合わせてはいないようだ。でも優秀でなくても、やろうと思えば把握できるのではないか。そのへんは誰かの想像にまかせるとするか。要するに面倒くさいのか。

 言葉を記しているうちにだらけてくる。たぶん振り払えないだろう。何を振り払うつもりもないし、何が取り憑いているわけでもないと思い込もうとするが、実態は違うのかもしれず、確実に何かに取り憑かれている。今度は戯れにそう思ってみるのか。でもそれは君が最初ではない。今回は見逃してくれるだろうか。それが何だかわからないままでは神にも答えようがない。でも神はすでに死んでしまったのではないか。それは未来の話か。誰かはそれらの予定調和的な結論を逃れて、道の何かに取り憑かれたい気分となるが、そんな嘘偽りでも、利用できるだけまだマシか。いったい何がそうなのだろうか。そういうつまらぬ問いが予定調和を醸し出しているのか。でも不意に問われている対象は何なのか。対象などいくらでもありそうだが、思いつくだけそれらを列挙するほどの才能に恵まれず、できなければやらない方がマシだとも感じられ、また自意識がどこかへ引きこもってしまうらしい。できればそんなふうにならないようにしてみたいが、まだそこまで到達していないようで、それ以前にそこまでとはどこまでなのかがはっきりしないまま、さらに語ろうとすれば、自ずから話が支離滅裂の度合いを増して、わけがわからなくなり、誰かをうろたえさせるかもしれないが、たぶんそんなことなど知ったことではなく、さらに混乱と錯乱を繰り返しながら、それらを放置し、突き放して遠くから眺めている誰かがいるらしく、その誰かにいわせてみれば、それらのすべてが予定調和だということなのか。何だかわからないが、それでもかまわないのかもしれず、何かを成し遂げるには、その途中で様々な紆余曲折を経験してみないことには、そこまでたどり着けないのであって、苦労した末にやっとの思いでたどり着いたとしても、何の達成感もわいてこない可能性もあり、それどころか結果として何も成し遂げたことにもならない危険性もあり、下手に語り終えてほっとしてみても、何かもたらされたわけでもないことを実感する結果に終わってしまい、これまでの苦労が無駄になってしまったように思われ、しばらくは鬱な気分で放心状態となってしまっても、それは誰の責任でもないだろうか。君がそう思っているわけでもないのだろう。それは仮定の話か。でもそんなふうに逃れてもいいのか。どこから逃れているのか。またそれも皆目見当がつかないととぼけ、さらに無駄に無意味に語ってしまうわけか。

 無償の饒舌というのはこういうことか。でも先が見えている。時間が限られ、そこから何が導き出されるわけでもない。では話の中で何を予想しているのか。それとも預言か予言か。天や神が君にどんな啓示をもたらしたというのだろう。想像かもしれないが、空想や妄想とは違うのかもしれず、それがあり得ないことを語っているとも思えない。その一方でただ意味が通るように言葉と言葉をつなげているだけかもしれない。そんなふうにして誰かの妄想を軽くいなして、さらにくだらぬ妄想を抱いているふりをしつつ、やがて世界の終末が訪れるとでも予言したいのかもしれないが、実際にノストラダムスもマヤの予言も空振りに終わったようで、何だかがっかりしているみたいだが、他に何か大げさな終末予言でもあるのだろうか。検索してみればいいのではないか。どうやら探せばいくらでもありそうで、それらの予言によればもうとっくに人類は何度も滅びてしまったらしいが、どうやらこれからも何度も滅びる予定日が目白押しのようだ。要するにこれからもこれまでも人々はいくらでも人類が滅びる日の到来を夢見ているみたいだが、こういう願いは聞き入れられないのだろうか。いったい誰が聞き入れるというのか。神が宇宙人か、それとも架空の君か。他力本願では何を望んでも無理か。君もそれを望んでいないのではないか。でも何もする気も起こらないのにそれはない。目下のところすべては白紙状態なのだろうか。まじめに考えられないようだ。真に受ける気分とはならず、怠惰なままどこかを漂流中で、そんな気分を醸し出している雰囲気の中で、何かないかと探しまわり、急ごしらえの問いを辺り一面に解き放ち、返ってくる答えに期待しているわけでもないのだろうが、やはりそんな姿勢を崩す気配を感じられず、いつまで経ってもそのままでいられるはずもなく、自らが破滅に至ろうとする近未来を想像してみるが、たぶんそこにリアリティなど感じられるわけもなく、他にできることはといえば、ただ延々に言葉を記すだけのように思われてくるが、それも何かの冗談には違いなく、本気になれないうちにどうにかなりそうになってしまい、そのときになって慌てふためき、無様な醜態をさらけ出してしまうような予感がしてくるが、まあそうなったところで仕方がないような現状か。


9月29日

 これでいいのだろうか。いいはずがないと思いたいのか。それはまるで奥歯に物が挟まったような物言いか。でもここからが肝心なところだ。様々な出来事とともに時間が過ぎ去り、やがて忘れ去られ、そのとき人は何を思うだろう。どうでもいいと思うしかないのだとすれば、果たしてこれで良かったのだろうか。それは以前と同じ問い繰り返されているだけかも知れないが、以前にも増して疑念が深まるような気がしないでもない。そんなことを考えれば考えるほど怖くなってしまうか。面倒なことだ。すでに普通の心境ではないのかもしれない。でもそれがいいも悪いもなく、現実にこういう成り行きなのだから、仕方がないのではないか。そう思ってしまってはおしまいか。そして相変わらず何かの惰性で言葉を記している。その先には何もないような感じだが、断崖絶壁でも待ち構えているのだろうか。まさかそこへ突っ込んでいくつもりなのか。やめた方がよさそうだ。臆病なのだろう。でも誰が好き好んで崖から飛び降りるだろうか。命が惜しいか。まあ夢の中でのことなら納得がいくだろうが、それ以外に取り立てて何を空想しているのでもなく、まだ道半ばだ。いつもそう思っていて、これからも苦しくなったらそう思うのだろう。たぶんそこですべての出来事が連動しているのであり、その中には君がやろうとしていることも含まれ、そんな事態を外から眺めれば、行動の自由など何もなく、君自身の思考も行動も外部から制御されていて、君は全体として君自身も含まれるそれらの連動体を構成する一部品のたぐいか。でも君がそれを外から眺めることなど不可能で、せいぜいがその内部で自らの行動や思考の自由を夢想しているにすぎないのかもしれず、とりあえず今は事の真偽も確かめずにそう思っていればいいだけか。しかし外部とは何か。別に無理に考える必要などないのだろうが、外部があろうとなかろうと、実際にそうなってしまうのだから、それを内部からではうまく説明できないのはわかっている。でもこの世界の外に出ることはできないのだから、それは仕方がないことで、だから今まで通りの、不完全で矛盾だらけの説明で我慢しなければならないのではないか。しかし君は何を説明しようとしているのか。またそれか。そんなことを考えているとあくびが出てしまうが、どうもそういうことらしい。いくら粘ってみても、状況が状況だけに、それ以上の進展はあり得ず、それに関してはあまり想像を膨らませて独りよがりな思い込みで暴走しても意味がない。すでにそう考えること自体が意味不明な妄想へと自らを駆り立て、またそこからおかしな方面へ言説が逸脱してしまうわけか。だからすでにそうなっているのではないか。

 だからどうもおかしい。それは以前から思っていたことだが、たぶんここに至っておかしくない状況などあり得ないのだろう。いつもおかしいと思っていて、いつもおかしいから、それが普通に思われ、そのおかしな状況が常態化しているのだから、実際はおかしくないのかもしれず、要するにそんなおかしな気分の中で、おかしいという言葉が循環し続けているわけで、何のことはない、それはいつものパターンに違いない。そんな認識で君が納得するとは思えないが、そんな八方ふさがりな思い込みによって、心が押しつぶされそうになっているのかもしれず、結局それはどうしようもないことであり、そんなネガティブな思い込みはさっさと捨てた方がよさそうだ。思えば思うほど胃が痛くなるだけか。要するにできもしないものはできないに決まっているし、やろうとする気も起こらないのなら、どう考えてもやりようがない。そんな現状の中で思考するしかないらしい。でも何を考えているのだろう。それは君にわかるはずもないことか。わからないのならもういいのではないか。そんなわけで運命の神は、どうしてもすべてを振り出しに戻したいらしい。君自身がどう思っていようと、どうあがこうと、いくら遠回りしようと、いずれはそうなる宿命なのかもしれず、実際にそういう成り行きに巻き込まれているような気がして、君は何もできずに茫然自失だろうか。もはやフィクションをねつ造する程度ではごまかせないか。それ自体があり得ないことなのに、苦し紛れに思ってしまうのはそういうことであり、考えていることもそこから生じているわけで、やはりそれはそれで面倒な事態だが、黙って運命に従うしかないらしく、なるべくなら自然体でこれから起こる出来事に接していこうと思っているが、それがどういうことなのかはわからない。ただ思っているのはそういうことでしかなく、実際のところは無意識のうちに行動し、行動した結果に驚き、そういう結果はあり得ないと思うだけか。あり得ているのだからそういう結果がもたらされていることを、自意識は認めたくないのだろうが、認めようと認めまいと、そうなっているのだから仕方がない。どうせこの先もそうなってしまうなら、その度ごとにあり得ないと思っていればいいのではないか。あり得ないと思うから驚き、驚いてしまうから考える。なぜ驚いてしまうのだろうか。そんなことわかるわけないか。でも今までなぜ驚いてしまうのか説明していたのではなかったか。それはそうだが、やはりおかしい。何だかわけもなく執拗にそんなことを記している。うまく説明できていないからそうなってしまうのではないか。説明しようとすればするほど、たぶん説明を阻んでいる何かに突き当たって、跳ね返され、跳ね返される度にますます説明する気が増してゆき、意地になっているのだろうか。そのへんをどう説明すればいいのだろうか。説明しなくてもかまわないような心境を得たいわけか。


9月28日

 今日も今日で大したことはない。昨日もそうだった。どうやら先が見えてきたような気がする。これではだめか。だめでなければ何なのか。でも弱音を吐いても仕方がない。確かに先は見えているようだが、ともかくその先まで行ってみないことには、そこに何があるのかわからない。だからそこにたどり着くために歩んでいるわけか。でも何も語っていない。それが難点だろうか。欠陥なのではないか。それはそうだが、現にそうなってしまう成り行きがある。そういう状況から抜け出られないのだろうか。彼らは何を模索しているのか。どこから来たわけでもなく、誰もが地上で暮らしている。過去から現在まで延々とこれまでの経緯や事情を語ってきたあげくに、未来への展望を示したつもりなのだろうが、それでいいのだろうか。それについてはまた次の書物を読んでみればいいわけか。誰かが否定的な見解を述べていたやつか。まあそういうことだろう。君はそれをあまり信用していないようだ。内容については説得力があり、もっともなことが著されていたことは確かだが、どうも釈然としないものがあるらしい。とりあえずそれについては解決不能だ。不意に今のままでもかまわないのではないかと思ってしまったりもする。でもこの世の中はこのままでいいと感じてしまうのは、君自身の立場がそう感じさせてしまうからなのではないか。もうどうすることもできないとあきらめてしまったら、そこで終わりなのかもしれない。

 人は舞い上がるだけ舞い上げられ、おだてられるだけおだてられ、そうなったところではしごを外されて万事休すなのだろうか。誰がそうなっているとはいわないが、当てはまる人はいくらでもいるのかもしれず、そこで君が何を思ったのか知らないが、もうしばらくは様子見のままにしておいた方がよさそうだ。それで何を述べていることにもならない。でも何も述べられずに焦っているわけではないらしい。ただ不意にそんなことを思ったまでのことか。これでいいということなく、延々と何かを繰り返さないと、どこへもたどり着けない。たどり着けなくてもかまわないのに、やはり成り行き的には繰り返し同じようなことを主張しなければならず、そこで嫌気がさしたり、行き詰まってしまったりするのだろうが、気がつけば性懲りもなくそんなことをやっている。そんなふうにしか事態は進展しない。いったいこれはどういうことなのか。次第に何かが去ってゆくような感じだ。徐々に無駄な贅肉が削ぎ落とされ、引き締まった肉体になってきたと思っているとしたら、それは身体がミイラ化し始めた兆しなのではないか。でもそれは何のたとえなのか。なぜそう思ってしまうのだろうか。腕の血管が浮き出ている人にはその兆候があるわけか。

 またいい加減なことを述べているようだ。そんな気がしただけだろうか。それにしても何でそんなことを思い、それを記してしまうのかわけがわからない。苦し紛れではないような気がするのだが、何となく唐突な印象を拭えないが、正直なところ、困惑するでもなく、かといってそれでかまわないとも思わず、どっちつかずの現状みたいだが、今ひとつそれらの主張がわからない。君は何を主張したいのか。それにしても皮肉な運命だ。気持ちを対象から逸らさないと何も語れない。それが運命であるわけがないだろうが、考えているのとは無関係なことを不意に記してしまい、何となく愉快に思われ、調子に乗って続けようとして、罠にはまったと感じた時には手遅れだ。何かしら心に期するところがありそうだが、それがいつになっても外れている現状があり、何かをやろうとすると、とたんにうまくいかなくなってしまうわけか。そんなはずがないと思いながらも、内心図星であったりするのだろうか。どちらなのかはっきり言えないが、そんな状況から抜け出られないことは確かなようで、それが宿命だと思えば納得できそうだが、納得したところでどうなるものでもないことは明らかで、たぶんいつかはどうにかしたいのだろうが、そのいつかがいつまで経ってもやってこないのが現状なのだろうか。そんなわけでまた振り出しに戻ってしまったわけか。まあ仕方がないだろう。それほど中身にこだわっているわけではないが、何となく気が抜けている。

 件の本を読んでがっかりしたわけではないが、中身に嘘がないだけに、たぶんだまされることがない分、そんなものだと思わずにいられないのだろう。この世界には神秘のかけらもないように語られてしまうと、ああそうですかと受け止める以外になさそうで、本当に何のごまかしも入る余地がないのだとすれば、魅力を感じられなくなってしまうだろうか。ただ人がそう思いたいだけで、どうしても何かトリックや超能力のたぐいや、思いもしなかったような運命だの宿命だのに翻弄されてしまうような、要するにドラマチックな物語展開に期待してしまうのだろう。現実をそのまま受け入れてしまうと、無味乾燥した何かに心が覆われてしまい、そこには何も救いがないので、虚無的というわけではないが、何だか物足りなさを感じてしまう。それだけに正しいことだけ語るのは並大抵なことではないのだろう。君にはそれができそうもない。嘘やごまかしや冗談につきまとわれている方が気楽に感じられ、妄想や幻想を抱いている方が何だか救われる思いがしてしまう。そう感じてしまうところが君の弱点か。でも神ではないのだから、人である限りは完全無欠というわけにはいかないだろう。そんなわけでいい加減なでたらめさに魅力を感じてしまうのは仕方のないことか。たぶん人は間違ってしまうからこそ、そこに幻想が入り込む余地が生まれ、そんな幻想に振り回されながら生きてゆかなければならないのであり、数限りない過ちを犯しながらも、そこに人生を感じてしまうのだろうが、客観的に見るなら、それがどうしたことでもないとしか思われず、ただ愚かな人々が愚かな人生を送っているのであり、もちろんそこに魅力を感じてしまうわけで、そんなどうしようもなさが心を覆い、世界を覆っていると思われてしまうわけか。それが救いといえば救いなのだろうか。まかり間違って正しい認識に目覚めてしまったら、その先にあるのは正しい目的でしかなく、あとをはそれを成し遂げるだけの人生となってしまうのか。

 でもいくらそんなことを想像してみたところで何がどうなるわけでもなく、正しいことを行うのにはそれだけ困難がともない、やっている途中で間違い、我を失い、場合によっては孤立無援を強いられ、途中で挫折して、成し遂げられずに終わってしまう可能性が高いか。だから人々は時流に合ったやり方を模索し、たとえそれが間違っているとしてもやり通して、運も天も周りの思惑も味方に付けて、いったんやり遂げてしまえばこっちのものだと思っている。そしてそこから利益がもたらされ、幸せになれるというわけか。そして実際に成し遂げられたならば、それが正しいことになってしまうのかもしれない。逆にいかに主張や理論が正しかろうと、実現に至るまでには様々な困難や問題が行く手に立ちふさがり、実現されなければいつまで経っても机上の空論にとどまるだけか。それとは対照的に、何もせずに安易な幻想を抱きながら、くるはずもないチャンスをひたすら待ち望んでいるとしたら、それも幸せなことだろうか。それは延々と宝くじを買い続けるようなものか。まあそれらはみな極端な例であって、多かれ少なかれある程度の割合でそれらのやり方が混じり合っていて、結果としてうまくいったりいかなかったりするのかもしれないが、そこに何か希望があるとすれば、少しは人々の良心や世の中の善意とやらに期待したい気分で、期待したところで裏切られてがっかりするのがオチだが、それでも希望を捨てるわけにはいかないだろう。そんな感じで人は生きてゆくしかないらしい。


9月27日

 語っているふりをするのもそろそろ限界なのかもしれない。躊躇しているようだ。わかっていないのだろうか。何かの期限でも迫っているわけか。やがてすべてが台無しになり、何もかもが消えてなくなる運命なのだろうか。でもそれは空想でしかない。たぶんそうではないのだろう。そこに何かがあり、それを探しているのかもしれない。明らかに何かの兆しを感じ取っている。だからこうして言葉を記しているのか。ありふれたことを思い、ありふれたことを記しているつもりだが、なぜかそれが違っているようだ。何かに惹かれているのだろうか。もうふざけた気分にはなれない。心の膿を出し切ってしまったのだろうか。そんなものがもとからあるわけではない。ならば少し面倒なことになりそうだ。頭の中が空っぽになり、ありふれた気分になる。いつもと同じではないか。確かに同じなのかもしれないし、どうも気が抜けているみたいだ。もう秋だからか。何だか夏の暑さから解放されたら嫌になってしまったらしい。

 確かに語る理由などない。それを探るのが面倒くさいから、とりあえずそういうことにしておきたい。ほしいのは理由ではなく結果か。他に何がほしいわけでもないだろう。だからわからないことをあまり考えない方がいいのかもしれない。もとから何もないのだから、そんなことを語るべきではない。では本当に語る理由がないのだろうか。そうだとしてももう遅いのではないか。すでに語り始めている。もしかして疲れているから語るのか。君が疲れているのだろうか。そうだとしてもそれはいいわけに過ぎない。ここでは誰が疲れているわけでもなく、どこかで他の誰かが疲れているのだろうし、それを君がどうしたいのでもない。どのような運命に翻弄されているのでもないし、何を受け入れているのでもない。果たして現状で受け入れられる何かがあるのだろうか。何かとは何なのか。無理に言葉を記そうとすれば、たちまちそういう何かに出くわしてしまい、文章がおかしくなってしまうらしいが、そんなふうにして自由でいられるのも、ほんの一瞬の間でしかない。すでにつかの間の自由を満喫する余裕などありはしないか。いったいこれの何が自由なのか。不意に思いついた言葉を記しているだけで、気がつけばまた粗雑なことを述べているようだが、出くわした何かとはこれか。

 だらけているようだ。何かに憑かれているみたいに現実から逃避している。そんな印象を抱きながらも、それとは無関係に振る舞い、平静を装って、それからまた何かを探しているようだ。その何かが何だかわかるまで探し続けるのかもしれないが、探しているうちに人生が終わってしまうのではないか。でもそういう話なら誰もが興味を惹くのではないか。しかし実際にはそうはならないだろう。すぐにそんなことなど忘れてしまうわけか。すでに眠っているようだ。ではここから先は夢の中の話か。たぶんそれもそうはならず、相変わらず何も語れない状態が続いているのではないか。粘れない。そんな現状だとしても、黙って言葉を記すだけか。現状ではそうなるしかないらしい。しかしこの感覚は何なのか。また毎度のことながら繰り返しそんなことを思うが、感じることと思うことと考えることは違うのだろうか。同じように思われるとすれば、そこに何か欠陥があるわけか。でもあまりはっきりとは使い分けができないようで、その場の流れで適当にいい加減に、感じるだの思うだの考えるだのと記して、それで何か述べているような気になるらしいが、それではだめだろうか。だめであろうとなかろうと、今のところは改める術を知らず、今後もそのままになってしまう可能性が大かもしれない。

 また不意にそんなことを思いながらも、それとこれとは関係がないような気がして、そこで意識が沈黙に包まれ、何ともやりようがなくなってしまうのかもしれないが、たぶんこれからもこの空疎な感じを耐えなければならないのだろう。あまり厳密には語れないのが取り柄であり、いい加減なのが何かの救いとなっているのかもしれず、そうでなければとうにやめているところか。しかしこの感覚は何なのか。またそれだ。世の中がどうかしているのではなく、君がおかしいのではないか。目的がないのが致命的で、生きる気力もなく、それは嘘だとしても、フィクションの中ではそうなのかもしれず、現実の世界ではどちらともいえず、どちらが何なのかもわからなくなり、そうやって何かをごまかしているのだろうが、それが冗談なのだろうか。またそこへ行き着いてしまうところがおかしいのか。マンネリ気味のようだが、そればかりではいただけない。ではこの現状をどう解釈したらいいのか。要するに語る術を失いつつあるのだろう。徐々にそうなってきているのかもしれない。でもすべてが閉塞状況というわけでもないだろう。相変わらず時間をかければ空疎な語りが健在で、こんなふうに延々と続けることができるわけで、何もない平面を文字で埋めるためにこれらの試みが為されているのかもしれず、そうする理由がわからないまま、わかっているのにそれを明らかにしないまま、明らかにせずとも自ずからわかってしまうことだから、あえてそれについて語るには及ばないのかもしれないが、一方でそんな状況から抜け出ようとして、さかんにふざけた言説を駆使して、無駄な悪あがきを繰り返していたのだろうか。そしてまたもとの空虚をもたらしたわけか。

 だがそれをどんなふうに説明しても納得するには至らない。たぶん説明する必要のないことを説明しようとして、結果的に自己言及的な罠にはまっている。でもそうしなければ記述が続かないのではないか。だからこうして楽しい事態に陥っていて、何が何だかわからないように装いつつも、そんな錯綜した結果に満足するようなふりをしながら、内心ほくそ笑んでいるわけか。文章としては意味不明か。途中でだれてしまうとこんな有様になる。それも違うだろうか。進歩が感じられず、工夫が見受けられないように思われ、落胆の色を隠せないようだが、誰がそうなのかわからず、誰もそうではないような気もするが、さらに言葉を記すとするとこんな感じとなり、とりとめがなくなり、晴れた空を仰ぎ見ながら何かをつぶやいている誰かの姿を不意に思い出し、そんなはずもないのだろうが、やはり笑うしかないらしい。なぜそうなってしまうのだろうか。そこに執拗に取り憑いている何かを想像してしまうが、たぶん気のせいなのだろう。君はそれでも前進したつもりになり、前に進んでいるという偽りの実感を噛みしめながら、何とか正気を保ち、これで良くはないのだろうと思い、もうすでに別の何かを考えているのかもしれない。でも不思議だ。なぜそこまで無闇矢鱈と意味不明なことを記す必要があるのだろうか。


9月26日

 なるほどそういうことをやっていたのか。他の文章を読み、なるほどと思ったのか、そのへんは定かでないが、考えてみればそういうことなのかもしれない。浅はかに思えてしまうが、やはりそういうことなのだろう。結局何を記しても何も読まれていないのかもしれない。そんな気がしてくるが、実際のところはどうなのだろうか。何だか考えるのが面倒くさくなってくる。記している内容がだいぶ偏った傾向にあるのだろう。浅はかな水準にとどまっていれば、そう思われて当然か。でも傲慢になれるような雰囲気ではない。威張ってみたり誇ってみたりするようなことは記されていないような気がするが、それを感じ取れないのかもしれず、そのへんは改めて考えてみる必要がありそうだ。しかし君は何に挫折しているのだろうか。他と比べてどうということはないような気がするのは、どうしたわけなのだろうか。毎度のことながらわけなどありはしないか。

 読んでいて心に響かない。確かにそう思える。何だかわからないというのが実感だろうか。なぜかそう思ってしまい、内容が空疎のままでも、そのまま最後まで押し通してしまいたいようだが、実際のところはどうなのか。たぶん何か主張したいことがあるのだろうが、何だか押し付けがましく思えてしまい、心がそこで退いてしまう。生き残るのに必死なのか。そこまではいっていないのではないか。でもいくらなんでもそれでいいとは思わないだろう。記述作業に急ブレーキがかかっていることは確かだが、それが思いがけないことだとは思えない。理解の範疇を超えているのかもしれない。そう思って理解しなければそのままか。でもそれではまずいか。

 そのまま使っているのは流行語のたぐいだろうか。どうも君はそれを肯定できないようだ。好ましく思われない。それを使って何かに見せかけているのかもしれず、そういうたぐいの言説が世の中にあふれかえっているのだろうか。語るということは一面ではそういうことなのかもしれないが、君とは見えている水準が違っているのかもしれない。そう述べて誰を思いやっているのでもなく、実際にそういうことを述べている人は多いのだろう。そういう言葉の記し方もあるらしい。君はそれをやらないのか。それをやるかやらないか迷う以前に、ここが正念場だとは到底思えない。もう少し長い目で見た方がよさそうだ。ここから語りがどうなるとも思えない。もはや劇的な進化など期待できず、いつまで経ってもこのままなのかもしれず、すでにそんなあきらめの境地になっているようだ。

 それでも新たな語り方を模索しているような気もして、それに気づいていないだけで、あとから振り返れば、この辺りが変化している最中であったりするわけか。今のところは何とも言えないが、気の迷いも少しは前向きに捉えた方が身のためか。あえてこれの方がよさそうに思えてくる。何を逆手に取っているとも思えないが、ごり押しというわけでもなく、軽い感じで空疎なことを述べ続けているみたいに思われ、何となく気楽な感じになりつつあるようだ。そんなふうに思われてしまうことが、この先どんな結果をもたらすのか楽しみというわけでもないのだろうが、相変わらずそのへんで右往左往しているのかもしれないし、気がついたらもう完全に遠ざかっているのかもしれない。今のままでは到底深刻な困難に直面しているとは思えないか。でもかまわないのではないか。しかしなぜ真剣に語ることができないのか。読むべきものを読んでしまったあとでは、もはや何を語ろうとしても、それが邪魔になって、それ以上語るのは不可能に思われてしまうのだろうか。君にも越えられない壁という大げさな表現が立ちはだかっているわけか。

 そうは思えないが、しばらくはこのままになるしかなさそうで、押し付けがましい何かともおさらばして、とても気分爽快とは言い難いが、低レベルで安定しているような気がする。何か他に主張したいことがないわけではなさそうだが、ここではタイミング的に無理そうだ。また別の機会に探ってみようと思うが、そのときには忘れている可能性もある。今は何かを逸している時期なのだろうか。すべてを手放しているとも思えず、何を手中に収めている気もしないが、急にやる気が失せて、そのままの状態を保っているようだが、やはりそれで何がどうなったわけでもない。本当はブレーキがまったく利いていないのではないか。惰性で行くあてもなくどこまでも蛇行運転している状況か。ふとそんな状態を想像してみるのも、何だか気が退ける。居眠り運転の最中だろうか。それは違うような気がするのではないか。運転などしているはずがなく、今は黙って言葉を記している最中だ。

 要するにワンパターンでは済まないということか。変なふうに流行語を使って強調してみても、それは世の中に媚びていることにしかならず、こちらはもとからそうした紋切り型的な表現は嫌っているのだから、こんな何も述べていないような具合で行くしかないらしく、いつまでもどこまでもその状態を保てるわけではないが、いったん虚無の言葉を体験したからには、それに拘泥してみるのもあながち見当外れというわけでもないだろう。語ることは結局空疎に行き着くしかないと嘘をつきつつも、たぶん一方で語る対象を定めて、それについて語らなければならない時期もあるのかもしれない。そんなことを記しながらも考えているようで、二者択一を迫られ、どちらか一方の選択を強要させられてしまう状況になろうとも、何とかその中間地帯に踏みとどまらなければならないのか。それが何のたとえになっているのかよくわからない。いったい中間地帯とは何だろう。曖昧模糊とした何かの状態なのか。どうもそのへんで表現が滞ってしまう。何でもないというわけでもないのだろう。

 必ず何かあると決めつけて、その先に結論めいた断言を配置するのもおかしいが、そこに何らかの言説をつなぎ合わせて、何か語っているように見せかけるのも、何だか心をとらえている空疎を無視しているみたいで、それは見え透いたごまかしには違いない。それでもこの感覚は何なのだろうか。空疎で透明な何かに魅せられているのだろうか。それは謎めいているわけではなく、ただ何もないことの証しでしかないのかもしれないが、やはり取り憑かれているとしか言いようがないらしく、たぶん何かに取り憑かれているのだろう。それは何でもない何かであり、心の重荷を解放すると同時に、他に何も語らせまいとする何かか。どうせそんな表現ではしっくりこないのは承知であえて語るとしたら、そうした粗雑な表現になるしかなく、それ以外に語りようのない何かを心が捉えていると見なせばいいのか、それともそれは勘違いなのかどうかわからないが、とりあえずはここまで語ってきたつもりになっているらしい。


9月25日

 何かに毒されている。そんな思いにとらわれ、言葉を記すのが滞り、慎重になりすぎているように思われる。嘘だろうか。不意にそう思っただけか。でも影響を被っていることは確かなようだ。関係ないと言えば関係ないのかもしれないが、とらえどころがない。それに関する知識があまりにも不足しているのだろうか。でもそれとは何なのか。それがわからないまま、それに関してさらに言葉を記そうとしてしまうのだから、要するにそれは無謀な試みになるだろうか。なぜそうなってしまうのか。語るべき対象が定まっていないからか。ただ漠然と言葉を配置して、何か述べているような雰囲気を醸し出したいのか。それはいつものことだろう。いつもそんなふうにして言葉を記し、時々嫌気がさしてため息混じりに自己否定的な心境に達する。そんなことの繰り返しだろう。そしてそれでも何とか文章になっているような気がするから、それが持続してしまうわけか。でもそういう行為を否定するにしろ、居直って肯定するにしろ、あまり本気になってそうしているのではないらしい。どちらでもかまわないような気がするだけか。その場限りの否定であり、同時に肯定でもある。それでは意味がないだろう。なぜか視野が狭いように思われてしまう。嘘か。人は夢と希望を抱いて仕事に邁進したいらしい。君は違うのだろうか。たぶん違うのだ。

 それが気晴らしになっているわけではなく、逆に重荷になっているのではないか。何がそうなのか。あまり無理してまともな内容を追求しない方がいいのではないか。実際にそうなっていないように思われるのだから、それが心の負担になっているのだとしたら、もうそういうのはやめた方がいいのではないか。それで簡単に挫折してしまうわけか。そういうことにしておいた方が無難に思われ、実際にそうなってしまうわけか。それも嘘だろうか。たぶんそういうことだ。嘘でも何でもかまわないような気がするらしい。

 とにかくまだ明日があると思っていればいい。明日があるから今があり、今があるからこうして言葉を記している。今度は屁理屈か。理屈にもなっていないのかもしれず、どうやら内容のまともさを追求するのはあきらめてしまったらしい。そしてあとが続かなくなり、小休止か。依然としてつまらない思いにとらわれているのか。そんなことはないだろうか。反論する気も起こらず、さらに鬱な気分となり、どうにもならなくなってしまう。何かが頭の中でぐるぐる回っているようだ。成り行きとはそういうものだろうか。でも外部からの作用が希薄なのではないか。要するに独りよがりに過ぎないのではないか。そういう成り行きもあるのかもしれない。でもおかしいか。相変わらず何も語っていないのだし、語る術もなくして、困っているのではないか。そんな気もしなくはないが、何となくそれでかまわないように思われてきて、それが語りの無内容へと誘い込んでいるわけか。今さらそんな説明は無用か。

 どうも何も語らないうちに終わってしまうような気配が漂っている。外は雨模様だ。いつしかくだらぬ記憶の上に新たな何かが積み重なり、何でもないことになってしまうような感じだが、それでも君は覚えているだろうか。何を覚えているというのか。何かを調べてそれについて語る意味を考える。そんなことを繰り返さないとまともな内容にはならないのか。そういう手法だけではないだろう。日々感じたことや思ったことを記せばいいのかもしれないが、それだけでは物足りないから、あえてそんなことをやりたがるわけか。そういう事情ではないだろう。ただそんなことを一方的にこちらが想像しているだけで、事情は語る側で千差万別か。君がそんなことを語らなくてもいいのかもしれない。では他の誰かが語っているのを聞いたり読んだりすればいいのか。それで納得できなければ、今度は自らが語らなければならなくなる。そういう状況に遭遇する機会が訪れるだろうか。引きこもっていては無理そうだ。

 たぶん何かを理解したいのだろう。理解したいから書物を読み、それで飽き足らないから語ろうとする。語ることで理解を深めたいのか。深まったとは思えない。では何なのか。それがわからないからネットで調べ、検索結果を読む。そして語っている内容が支離滅裂だと思う。本当にそう思っているのだろうか。たぶんそういうことらしいが、理解できないことに変わりないようだ。何を理解したいのかわからなくなる。理解に苦しんでいるのか。何を理解したいわけでもないように思えてくるが、心が荒廃しているわけではないらしい。それとこれとは別の作用だと思う。一つの理解では満足できないのだろう。それは一つの話題ではなく、一つの考えでもなく、見解でも解釈でもありはせず、何かが複合的に混ざり合っていて、決して理解の範疇に入らない事柄なのかもしれない。それについて考えているのだから困ったものだ。でも途中で投げ出すつもりはなさそうで、何となく続いている現状をどう解釈したらいいのかわからず、解釈する必要もないのかもしれず、とにかく何だかわからないうちに、気がついたらどこかにたどり着いているのだろうか。虫が良すぎるか。でもそこにどんな都合があるわけではなく、誰の都合とも関係ないようで、ただ転がる石のように続いてゆけばいいように思われるが、石が地面を転がってゆくには絶えず蹴り飛ばさなければならず、それでもそれで面倒なことだと思う。ならばそういうたとえでは納得がいかないか。やはりそれでは飽き足らないか。

 そうだとしてもこんな具合だ。このままではどこまでもいつまでもそうなってしまうかもしれない。でもそれが愉快なことだとは思わないか。冗談のような話だ。テレビも見ずにそう思う。あきらめているのかもしれない。でも時間に余裕があり、そんなことを記している現実があるらしく、さらに語ってしまうらしい。語りながら何を極めようとしているのか。怠惰か疲労かどちらか一方だろうか。この先無意味な話が異常に長くなるかもしれず、君自身もついてゆけなくなってしまう可能性もなきにしもあらずだ。自分で語っているのにそれはないだろうか。でもそんな兆しにおびえている自らを空想して、笑ってしまうのか呆れてしまうのか定かでないが、語るとはそういうことだろうか。それとも何か勘違いしているのか。勘違いしているとしてもそういうことだろう。そういう成り行きの中でしか語れないなら、それと続けるもやめてしまうのも君の自由となるだろうか。自由にならないから苦労しているのではないか。それもそうかもしれないが、そうであってもなくてもかまわないと思う。まずは危機を脱して一安心したいわけか。

 それもそれで勝手な思い込みには違いない。そこで何かがずれていると感じるのも思い込みのたぐいか。それが延々と続かないうちに、いつかやめる決断をしなければならなくなるのだろうか。すでに延々と語っているのではないか。さらに迷ってきて、判断がつかなくなるが、どうしたらいいのだろうか。笑みを浮かべながらそう思っているのだから、本気で悩んでいるのではない証拠か。よりいっそうの空虚と自意識の戯れでも記述によって演出したいのか。不意にそんな小難しい何かにたどり着いたつもりになるが、それも本気でない表れだろうか。それにしてもだいぶ煮詰まっている。煮詰まるの使い方が間違っているのかも知れない。どちらでもかまわないだろう。反射神経だけで語ろうとするからそうなってしまう。それも違うか。では現状をどう表現したらいいのだろうか。それがわからないからここまで記してしまったのかもしれない。


9月24日

 成り行きとはいえ、あまりにも律儀になりすぎているだろうか。今さら反省するまでもないか。でもまあそんな成り行きになってしまうのも、その先に何かあるのかもしれず、とりあえずそれを期待しながら身をまかせているのだから、信じるしかないだろうか。でもいったい何を信じているのか。さあわからない。何も信じていないわけでもないだろうが、何となくそれでは子供騙しのような気がして、要するに相変わらず馬鹿げたことしか述べられない現状に呆れているのだろうか。このままではこうなるしかないか。これはこれでどこまでいってもこの程度ことでしかないのではないか。たぶんそうなのだろうが、やれるうちはやるしかないだろう。やれなくなったらやめるしかない。そんなわけで当たり前のことを今さら確認する。立派に振る舞う機会などを求めない方がいいみたいで、いつまで経っても情けない立場でいることをよしとしなければならない。それが現状なのだから、これ以上何があるとも思えないが、やはりこんな成り行きを信じるしかない。それは違うのではないかと疑ってみるが、また嘘をついているような気もしてくるが、たぶんそうなのだろう。大したことではないのかもしれない。ここに世界があり、社会があり、人がうごめいていて、今日も何かやっているらしい。そんなことを思いながら、うんざりしているのならそれでかまわないだろう。別にうんざりする必要もないが、そんな光景を思い浮かべながら、意味もなくそこでうずくまり、意識が何かの気配を感じているようだ。それは終わりの気配か虚無が到来する気配か、はたまた何の気配なのか。

 また眠ってしまったらしい。急に涼しくなったので、気持ちがいいようだ。そのついでに数日前に起きた少しぞっとした出来事を思い出す。君は監視されているのだろうか。不意に思い浮かべた昔読んでいた漫画のストーリーがあやふやになっていたので、度々その漫画を検索していたら、ヤフーからその漫画の全巻セット高値買い取り中の案内メールが来た。ジョジョの奇妙な冒険<全63巻セット>買取価格:15,750円で、ジョジョの奇妙な冒険<1〜50巻セット>買取価格:10,300円だそうだ。確かいつもログインしているFirefoxとは別のGoogle Chromeブラウザで、ヤフーにはログインせずに検索していたと思うが、たまたまログイン中だったFirefoxでも検索したことがあったのだろうか。記憶が定かでないが、何だかヤバい雰囲気を感じて、これからはあまり変な方面に検索するのは控えた方がよさそうに思えてくる。ブラウザに保存されている履歴をその度ごとに消去しても無駄か。面倒くさいからいちいちそんなことはやっていられないだろう。

 そんなことを記しているうちに完全に目が覚めたようだ。また何か書物を買ってきたらしく、性懲りもなく読んでいる。世界の歴史の本か。そういうたぐいの題名なのだから、内容もそうだと思っていればいい。様々なことが書かれ、未来への提言もあるらしく、読んだ人々がそれに期待しているのかも知れない。一部では話題になっているのではないか。ところで旧人と呼ばれるネアンデルタール人も、現生人類と同じくアフリカから他の大陸へと移動してきたのだろうか。肌や髪の毛の色や顔の彫りが深く骨格がごついのも今の白人と似ているらしく、白人には旧人の遺伝子がより多く混じっているように思われるが、そういうわけでもないのだろうか。その地域に長く暮らしているとそういう特徴になってしまうのではないか。でもそれとこれとは無関係だ。そんなことがその書物に記されているわけではなく、要するその著者にとっては毎度おなじみの世界史の構造分析というやつで、マルクスの読解だけでは限界を感じたらしく、マルクス的な分析を自分なりにやってみようと決意したようだ。それでここ十年あまりそんなことをやっているわけか。確かに歴史の教科書としては他のどれよりもわかりやすいのかもしれない。彼は思考集成を読んだのだろうか。

 それにしても何だか隔世の感があるらしい。君は何をやっているのか。何もやっていないと言ったら嘘になるだろうか。たぶん何かしらやってきたはずで、延々とそんなことを記してきたのではなかったか。でも振り返る気にはなれないようだ。その都度何か考えてきたのかもしれないが、今となってはあまり思い出せず、やってきたことが無意味のような気もしてくる。それで君は今何をやっているのか。何もやっていないと言ったら嘘になるのだろうか。そんな言葉が繰り返され、何かの行き詰まりを感じさせるが、今はそれについてどう思っているのだろう。一息ついたところだ。もう何も考えなくてもいいのだろうか。たぶん何か考えているのだろう。ひたすら考えているのかもしれない。でもそれが思想のたぐいになったためしはない。いつもまとまりに欠け、方向も定かでなく、ただ漠然とそう思っているに過ぎない。そして時折照れ隠しにふざけたことを言う。そんなことを繰り返していてはだめか。でも愉快な気分をもたらしている時もあるらしい。それでかまわないか。今のところはそうだ。気持ちが散漫で一つのことを真面目に語っていられないのだろうか。それもあるのかもしれず、ちょうど今がそのようだ。さらに語る必要はないのかもしれない。すでに語れる範囲内から逸脱している。時間も迫ってきたようだ。


9月23日

 だいぶでたらめを記してしまったらしい。そんなことはないか。あまりにも脱線し過ぎだろう。そのへんは何だかわからないが、気分転換のたぐいだろうか。でもそれで本当に転換できたのか。それほど心が動いたわけでもなく、たぶん荒唐無稽に拍車がかかったのでもないのだろう。それでは何でもない話でしかないわけか。やはりそう語りながら何を期待しているのでもないらしい。何も語れずにいるのかもしれない。理論を模索すれば誰もがおかしくなる。何もないのに何かがあるように思われ、そこからわかりやすい説明が生まれるわけか。そして相変わらず粗雑な理論を援用しながら、粗雑なことを述べているわけだ。それは何だか間の抜けた解釈だ。そうならないように努力していたのに、気がつかないうちにそうなっている。そうならざるを得ないわけか。では理論が間違っているのだろうか。あるいは正しいからそうなってしまうのか。どちらであってもかまわず、どちらであろうと結局はそうなってしまう。そういう成り行きの中で君は考えているらしく、君もそれと気づかずに粗雑なことを述べているわけだ。では理論とは幻想のたぐいだろうか。中にはそれを編み出してノーベル賞を受賞した人もいるのではないか。そういう理論とここでの理論は根本的に違うわけか。さあどうなのだろう。本質的には違わないのかもしれない。ただ理論を模索している分野が異なるのではないか。理論が通用する分野と通用しない分野があるということか。それはいえているのではないか。複数の現象が並立していたり錯綜していたり、重なり合い混ざり合ったりしている分野では、一定の理論など立てようがなく、立てたとしても、それはそれらの現象の単純化でしかないということか。ではそういう場合はどう解釈してどう説明すればいいのだろうか。様々な角度から様々に解釈して説明すればいいわけか。それはそうだが、結局言うは易しで行うは難しということか。そう述べてしまっては身もふたもない。でもそういうことだろう。君もそんなふうに解釈しながら説明を試みているのではないか。でもそんなことをやって何か理解したことになるのだろうか。たぶん何かしら理解しているはずだが、説明としては必ずしも納得がいかないのではないか。どう述べても単純でわかりやすい説明にはなりようがない。ついこの間まで説明が複雑すぎて理解に苦しむ書物を読んでいたはずだ。結局はそれ相応の文章読解力を身につけた者でないと理解できず、生半可な読みではすぐに誤った結論が導かれてしまい、それを基にして粗雑で単純化された理論が編み出され、いい加減な言説がまかり通り、そういうのがなまじわかりやすいからもてはやされ、一時的な流行現象となり、マルクス主義だのフロイト主義だの実存主義だの構造主義だの脱構築だのポストモダンだのと、主義主張が入れ替わり立ち替わり、現れては消えていったのが、二十世紀の思想的状況だったのだろうか。

 ではその後二十一世紀に入ったらどうなったのだろうか。あと数十年経って、それ相応の分析力を持った人が登場しないことには、現在の状況はよくわからないか。ちなみに君はどう思っているのだろうか。まさか十九世紀からここ二百年間あまり状況的には代わり映えしていないわけか。その間に大規模な革命やら戦争やらが繰り返し断続的に起こったにもかかわらずそうなのか。現在も民間の武装テロ組織が世界各地でテロを起こしている最中ではないか。それが二十一世紀に入って現れた新たな兆候なのだろうか。世界規模でのマネーゲームのインフレーション的規模拡大現象はどうなのか。それらはただ単に二百年前に生じた資本主義がこの二百年間で世界全体を覆い尽くしたことにともなう現象に過ぎないのだろうか。結局資本主義の拡大によってもっとも損害を被った側が武装テロに走り、もっとも利益を享受した側がさらなる利益を求めてマネーゲームに走っているということか。まあ物事を単純化して考えるのは良くないと述べたばかりだが、他にどういう説明が導き出されるだろうか。とりあえず国家間競争はだいぶ煮詰まってきたようで、ロシアもプーチンがいなくなればだいぶ民主的な社会になるかもしれず、あとどれくらいかかるか不透明だが、中国が民主化されれば世界の大勢は決してしまうだろう。要するに民主主義の独裁主義に対する勝利となるわけか。あとは資本主義をどうにかして、貧富の格差をなくして、世界全体が愛と優しさに満ちあふれたぬるま湯社会で覆われれば、ついにそこで最後の審判の時でも訪れるわけか。あるいは弥勒菩薩が降臨して、弥勒の世を実現するという説もあるらしいが、まあそれは冗談だろう。いずれにしても数十億年後には太陽が燃え尽きて、地球自体がどうにかなってしまうのだろうが、それ以前にも確か二億年後ぐらいに、大陸大移動で地球上の大陸が一つにまとまるらしく、超大陸が生じ、それまでに気候が大変動して、人がまともに住める地域がほとんどなくなっているのかもしれず、そういうのに比べれば、ここ数百年単位で起こることなど、人以外にとってはどうということはないのかもしれない。まあ今のうちに好き勝手なことをやりたい放題やって、場合によってはその好き勝手なことがバッティングし合い、殴り合いだの殺し合いだのに発展するのだろうが、そのへんは程々にしておいて、あえてきれいごとを述べるならば、未来の人たちが住みやすい環境を整備し、作り上げるのが、今生きている者の使命であり、倫理であったりするわけか。どうもそういうのはしっくりこないのなら、自分が死ぬのと同時にすべての人類が死んでしまうような何かを発明することに、残りの生涯を費やしてみるのはどうか。それも冗談には違いないが、実際にはそんなフィクションを空想するのがせいぜいなところだろうか。どうもその手のくだらぬ空想にはきりがないように思われ、語っている途中からどんどん馬鹿らしい方向へと話が逸れていってしまい、何だか気が抜けてしまったようで、この辺でやめておいた方が無難だろう。


9月22日

 今までに知り得たことはこれから知り得ることと何か関係があるらしい。そんなふうには思わないだろうか。知り得たことから知り得ることを想像している。それが未来に影響を及ぼしているわけか。知り得たようなことを知り得たいのか。そして過去から未来へ向かって出来事や現象の連続性を確保したいわけか。もう少しちゃんとしたことを語りたいのだろうが、言葉を記して何を操ろうとしているわけでもなく、操れるような自意識だとも思えず、それもフィクションの一部として空想していることらしい。それでもそこに何かの構造が出現している。また間違っているのかもしれないが、要するに未来に関して何か語りたいのだろう。そこに何か仕掛けがあるようだ。そう思いたい。それが間違いのもとだろうか。経験とはそんなふうにして作用するのかもしれない。これから起こることを予想して安心を得たい。それ以外にどんな目論見があるというのか。それだけではだめなような気がするだけか。たぶんそうだ。では何か他にもっと安心できる方法はないか。何かの保険に入ればいい。思いがけない災難に遭ったら金がもらえるわけか。でもそもそもそんな安心を求めること自体が間違っているのではないか。間違ってはいないが、何だかそういうことを追求するのは卑怯な感じがしないでもない。真面目になるのが嫌みたいで、そんなことにいちいち対処しなくてもいいような気がしないでもない。そんなこととはどんなことなのだろう。逃げてはだめだ。背水の陣というわけか。それは冗談だ。何と戦っているわけでもなく、今がどういう状況であっても、死に物狂いというわけにはいかない。がつがつすると嫌になってしまうらしい。それは君の勝手な妄想だ。そんなわけで語りかけていたことが不意に消えてなくなり、そんなことはどうでもいいように思われてくる。結局やっていることは大本営発表のごり押しとしか映らないが、それがどこまで効力を持続できるだろうか。永遠に続いたらすごいことだ。何とか株価を上げようと躍起になっている。そんな思惑が見え隠れするように感じるが、実体経済はどうなっているのだろうか。それでもだんだん景気が良くなっているわけか。経済に関してはあまり詳しくないので、肯定も否定もできない。笑いながらそういうことにしておいて、話が腰砕けのまま、抱いていた対象から意識を引きはがし、それでも疑心暗鬼を断ち切れず、しどろもどろになりながらも、何とかそれとは別の方面から語り出そうと試みるが、無理なのではないか。不意にそんなことを思う。たぶんどんなことでもないのだろう。日本や世界の経済状況に何を期待しているのでもない。まあ誰もが株価の大暴落を予想したいのだろうが、やはりそれは忘れた頃に思いがけず起こるしかないのだろうか。起こるべくして起こってしまっては、そら見たことかの大合唱で、何だかしょうもないように思われるが、暴落するならもっと上がってからの方が、賭け事としてはスリルがあるということか。ぎりぎりまで買いで、暴落寸前に一気に売りか。誰がそれを狙っているのか知らないが、本当に成功したらすごいことかもしれない。

 そんな未来を誰かが空想している。心がどこか空疎な領域へと引き寄せられているみたいだ。何となく嫌気がさして、そこで語るのをやめてしまいそうになるが、何かもっと楽しいことでも思い描いたらどうか。相変わらずニュースのたぐいでは、毎日人が殺された話題ばかりのようだ。それでは愉快な話とはなり難い。でもそれとこれとは関係ないだろう。では何か別の妄想でも抱くとしようか。その手の掲示板のたぐいを見て、世の中に出回っている話題のたぐいから、何か想像力をかき立てるきっかけを探し出せないものか。例えばスタジオジブリの次回作は、中上健次の『地の果て 至上の時』でもアニメ化したらどうか。何だかそうやって不意に思いついたことを列挙してみたくなり、どうでもいいことがさらにどうでもよくなっていくみたいに思われ、たぶんそんなことが実現したら、アニメファンは退いてしまうだろうが、何だかそんな光景を思い浮かべながら、愉快な気分となる。また例えば蓮實重彦の『凡庸な芸術家の肖像』を、巨額な予算をかけて、有名監督や有名脚本家や有名俳優等を起用して、ハリウッド映画に仕立てたら、蓮實本人は怒るかもしれないが、たぶんアカデミー賞を何部門も取れるのではないか。それも荒唐無稽でくだらない妄想だろうか。でもやはりそんな光景を思い浮かべたら愉快な気分となる。でもたぶん世の中には暗黙のうちにやっていいこととやってはいけないことがあり、先に挙げたアニメ化や映画化は、やってはいけないことの部類に入るのかもしれない。理由はわからないが、日本の世の中全体に漂っている空気が、無言のうちに何らかの禁止圧力となっていて、そういうやってはいけないことの実現を阻んでいるわけか。冗談だろう。そんなはずがないか。ただ単に何かの巡り合わせでそうなっているだけで、そういう流れでそういう成り行きとなっているだけなのかもしれず、別にそんなことが実現しなくてもどうということはなく、実現したところで君が愉快な気分となるだけか。実現させようとしても、途中で失敗してしまうのかもしれず、世の中にはそういう失敗して実現しなかった企画が山とあるのではないか。そしてそれを実現しようとする人々の努力や、その場の幸運に恵まれた企画しか実現されていないのだろうし、そうした結果が今ある世の中を形成しているわけか。でもそう結論づけてしまってはつまらないだろう。それではいかにも物わかりが良すぎはしないか。


9月21日

 奇妙なことを語り、雑なことを記す。いい加減にそう思っている。それ以上はわからない。現状ではわかりようがない。何かあてがあるわけでもなく、手がかりを求めて、はるばるどこまで行ってしまったのか。でも何も見つからず、途方に暮れる。そんなわけでまた戻ってきたらしい。探しても無駄だ。数十年の歳月が流れている。風化と浸食作用で、影も形もありはしないか。そういうわけではないだろうが、すでに何かが飽和状態なのかもしれない。とにかくこれ以上は何も出てこない。ではそこから話を始めるべきなのか。たぶんそうなのだろう。何もないところから話が始まり、話は何もないままに終わる。そんな予定調和が許されるだろうか。実際にそうなっているのではないか。そうなってから君たちは誰にすがりつくべきなのか。死ぬ間際の老人ともう死んでしまった過去の人か。そうなる前にさっさとそこから退散すべきだ。そういう結論に達する前に何かを見極めたかったのではないか。そのために書物を読んだわけか。そうだったかもしれないが、目論見通りの結果を手にすることができたのか。予想通りの結果か。誰もがそこで独自の解釈を施そうとしている。それは浅はかな試みなのだろうか。でもそれはもう終わってしまった試みなのかもしれない。たぶん済んでしまったことなのだ。そして今現在は何もない。そういう話だったのか。そんなふうに解釈すれば、そういうことになってしまう。それは間違った解釈なのだろうか。たぶん間違っていてもかまわないのだろう。人は間違いながら生きてゆくのだろう。何としてでもその間違った行為をごり押ししなければならないか。間違ったまま玉砕覚悟で、どこかわけのわからない渦中へと突っ込んでいってしまうわけか。それは愚かな行為だ。でも聡明な人間ならそうなるしかないのではないか。聡明になりたかったから、血のにじむような努力をして聡明になったわけで、どうせそうなったことを誇りに思っているのだから、あとはどこかへ突っ込んで玉砕するしかないのだろう。たぶんそうなったからといって、それが悲惨な運命だとは思わないだろう。そうなるべくしてなっただけか。でもまだ実際にそうなっていないのではないか。それはその通りで、そういう運命も何かのフィクションの中で、そういう成り行きになるだけなのかもしれない。君がそんな成り行きを空想しているだけか。では現実にありもしない成り行きなのだろうか。実際にそれに近い成り行きに遭遇したら、先ほどの空想に当てはめてみればいい。果たしてそこに物語の主人公を見出せるだろうか。でも見出せたとしても、それで話の説得力を確保できるだろうか。できたとしても、それで何を語ったことになるのか。何かの予言として機能したりするわけか。今のところはそんな気がしているみたいだが、それも想像の域を出ない話だ。まあ冗談で済ませておけば、それでかまわないのかもしれない。それは誰の知ったことでもなく、君が知り得るようなことでもないらしく、この先誰かがどこかでそうなるにしても、それが君に影響を及ぼすような事態にはならないだろう。君はいつまでもそこで空を見上げながら、何か別のことを考えていればいいのだろう。

 本当にそれでかまわないのだろうか。どうも事態を正確に捉える気がないらしい。話にならない話をどこまでも引き延ばす気にはなれないようだ。途中から馬鹿らしくなって、おかしな方向へねじ曲げてしまい、気づいた事実をうやむやに葬り去ろうしてしまい、要するにそこでごまかしているのだろう。本当はわかっているくせに、そのわかっていることを正直に語れない。それではまずいのではないか。たぶんまずいのだろうが、どういうわけか成り行き的にそうなってしまい、それ以上の何かを導き出せず、今体験しつつある現実から記述が遠ざかってしまい、何かわけのわからない情念に突き動かされ、どんどん外れていってしまうらしい。語っているうちに疑念がわいてきて、これではだめだと思ってしまうわけか。結局書物をいくら読んでもわからなかったことがあり、またそれらを読み終われば、すぐに読んだことなど忘れてしまい、何も身につかなかったのかもしれないが、たぶん経験とはそういうものなのではないか。本当は違うことはわかっているみたいだが、そういうことだとしておかないと、何となく書物によって自由を奪われてしまうような気がして、それを読み終わればなるべくそこから遠ざかり、読書などなかったことにしておきたいのかもしれない。いつまでもつきまとわれては迷惑か。ともかくこだわりはいろいろあり、かつて異様なこだわりをもって、そんなことを延々と語り続けていた人がいたらしい。でもそれはその人の死をもって未完に終わり、宙ぶらりんのまま今に至っているわけなのだろうか。途中で語り過ぎると往々にしてそうなってしまうものか。よくあるパターンには違いないが、でもその途中がすごすぎて、君の頭の処理能力ではオーバーフローを起こしてしまいそうだ。途中で死んでくれて良かったのかもしれない。もうそういう人材は二度と現れないだろうから、安心してぬるま湯に浸かっていられそうだ。人々のやっていることはこの二百年あまりの間はあまり変わっていないのかもしれず、国家や社会の不具合は放置されたまま、目に見えた改革はなされずに、事ここに至っているのだろうか。すべてがそういうわけでもなく、科学技術や医療技術の発展によって、だんだん暮らしやすい世の中になっているのかもしれない。どういうわけか悲惨な気分になれないのはそのせいだろうか。あれだけ読んでも全書物の三分の一ぐらいか。他に読みたい書物もあるのだが、どうも翻訳がうまくいっていないようで、その書物は不評を買っている。それを無理に読んでも理解不能のような気がして、もし新たな訳本が出なければ、そのまま読まずに一生を終えてしまうような気がするが、それでもかまわないのだろう。あまりそういうことにこだわるべきではなく、そういう方面は広く浅く見渡して、それらの表面だけでもちょっと触れることができたら、それでよしとしておかなければならないのかもしれない。今はそんな嘘をついてそれで済ませておきたくなる。また何か機会があれば読むとしようか。無理に強引に読む気はせず、読める気もしないし、ましてや読んで理解するとなると、君の能力を超えてしまうのではないか。


9月20日

 何か急に思いついたようで、その拍子というわけでもないのだろうが、せっかくつかみかけていた何かを不意に手放してしまう。たぶんわざとではない。そんな夢でも見たのだろうか。かつて経験した何かをここで記すはずがない。唐突になぜそう思うのか。根拠のないことだ。では何を空想しているのだろう。奈落の底を見たわけではない。今その場所に立っているとも思えない。それはわかっている。そろそろ話を一区切りつけたいところだったが、まだ先が長そうだ。もうそろそろ終わりだと思っていたら、まだ先があることに気づいた。とにかくそれについて言葉を記している。でも限界なのではないか。確かにそんな感じがするが、今さら投げ出せない。中途半端のままでは投げ出しようがない。彼はそう思っている。彼とは誰か。わからないがとにかく彼と記してみた。ところでそれは何の話なのだろう。そんな疑問を抱いているわけではない。あからさまにそういうことだ。どういうことでもないのに、結果的にそうなってしまう。話など何もないのにそんなことを記してしまう。うっかりしていた。結局そんな話になってしまい、がっかりするしかないらしい。そして語ることがなくなって途方に暮れてしまうのか。それはいつものパターンだ。自信がないのだろう。平然とそんな空疎と戯れている自らを信じられず、それがどんな結果をもたらしているとしても、とりあえず自信がないように装っている。君とは趣味が違うのだろうか。でも何が合わないわけでもないだろう。何かの気晴らしとともに見つめる先には空があり、晴れていることに気づく。晴れた空について語ってみたかったわけではない。実際に晴れているのにそれはないか。空が晴れているからそう記してみたまでのことで、そんなふうにしてまたわざとずらして、何か語っているように見せかけたいのかもしれないが、焦点が合っていないようだ。そんなわけでまた挫折を繰り返すしかない。それは本当の挫折ではないのだろう。また不意にそんな言葉が心に浮かんだだけか。挫折しているにしては事態の深刻さが感じられず、戯れに挫折という言葉を記して、挫折という言葉とともにまとわりついてくるそんな雰囲気を軽くあしらいながら、軽い行き詰まりを切り抜けようとしたらしいが、そんな行き詰まりもありはしないか。要するに何かをごまかしている。そんなふうに思われ、そこで記述をやめてみる。しばらく考え込んでいるようだが、いくら考えても無駄なのか。でも実際に何をあきらめたわけではない。それらのすべてが架空の話というわけでもない。だがそれで何とかなっているわけでもないので、こうして無駄に何かを追加して、架空の話として成り立たせようとしているのではないか。でもそれは何の話なのか。あり得ない何かについて語ろうとしているのだろうか。そう述べてまたわけのわからない内容をねつ造しようとしているのかもしれない。最近はそれで何とか切り抜けたつもりになりたいらしいが、たぶん実態としてはそうではないのだ。どのように語ったらいいのかわからず、迷っているだけなのかもしれない。

 でもそこで何が否定されているわけでもない。知らないうちにそこから抜け出している。しばらく眠っていたらしい。そんな記憶があり、そこであやふやなことを語っていたのかもしれない。それもフィクションの一部だろうか。まだ時間がありそうだ。でも解決には至らないだろう。何か解決すべき問題があるわけでもない。嘘といいわけを通過させながら、この世界ではどこまでも自由と平等の民主主義があり、その中で各人が自由に振る舞えば平等ではなくなり、各人の平等を追求すれば自由が脅かされる。そんなふうに考えてはいけないらしい。自己への配慮が欠かせないか。配慮してどうなるというのか。それは他者への配慮ではないのか。たぶん配慮などとは関係のないことであり、どうやらそこで問題を解決しようというのでもないらしい。それとこれとは結びつかず、強引に結びつけようとしても失敗に終わる。だから自由な立場でいられるように、改めて戦略を練り直す必要がありそうだ。本質的にもとから各人が平等ではないのはわかりきっている。だから各人が現状から出発して、自己にも他者にも配慮しつつ、自らの自由をつかみ取らなければならない。そのような行為によって、さらに各人が不平等に導かれるかもしれないが、自由でありたいと願うなら、それを目指さなければならない。でもそこに社会がある限りは、そこには様々な決まり事があって、その中で行動するためにはそれに従わなければならず、従えば自ずから自由は制限を被り、自由をつかみ取る試みは失敗に終わるしかないだろうか。でもそうだからこそ、なおも自由でありたいと願い続けるわけで、あきらめずに性懲りもなく人はあれこれ方法を模索し続けるわけで、実態としてそれらの自由をつかみ取る試みの多くは、他者を巻き込み利用しながら、時には他者の自由を犠牲にしてでも、自らの自由をつかみ取ろうとしているわけだが、あからさまにそう思われては、他者の協力など得られないから、そこに他者への配慮を介在させなければならず、それが詐欺にならないようにするためには、協力してくれた他者にも利益がもたらされるようにもっていくことが肝心で、そのための戦略があれこれ練り上げられ、それらが様々に作用し合って、その一部は資産運用などのマネーゲームを構成しているのだろうが、果たしてそれらの行為を肯定してもいいのだろうか。まあそれらの自由を得るための努力が報われるならば、努力した者にはそれなりの自由がもたらされ、その一方ではじめから努力しない者や、努力しても報われなかった者には、そういう自由はもたらされないから、結果として各人が不平等な立場になるということか。ではそうならないようにするためにはどうしたらいいのだろうか、不平等を感じるのが嫌なら、自由をつかみ取るために努力しろということか。でもそれは毎度のことながら言うは易しで行うは難しだ。そんなわけでまたごちゃごちゃわけのわからないことを考えているみたいだが、答えなどそう簡単には出てきそうもないし、そういうレベルでは出しようがないのではないか。


9月19日

 意味をなさない思い過ごしが果てしなく続き、なぜか昨日は深夜まで起きていたらしい。何かとりとめもなく考えていたのだろう。確かにそこで何か考えていたらしいが、実感としてはこの状況をどう思えばいいのだろう、いつものことか。どうやら心に巣くう虚無は日々成長しているようだ。そしてまたそんな事情とは関係なく、考えている途中でだいぶ寄り道してしまったようで、それに引き続いて今日も何かがおかしな具合となっていて、当分は何を語ってもまともな内容になりそうもない。いったいこの状態で何について語ればいいのだろう。どんな状況かも把握できず、さらに語る対象が定まらず、焦りながらも必死にそれを探しているのかもしれないが、一向に見つかる気配がないらしく、苦し紛れに何か語ろうとすれば、意味不明ででたらめになるしかなく、それでもかまわないと思いながら、強引に続けてしまうと、こんな具合か。無効なのだろうか。そうでないとしても、どこまで有効なのかを知らない。たぶん君はいつもその程度なのだろう。そう割り切れば何ということはないのだろうが、割り切れるほど肝が据わっているとも思えず、さら何かを模索しようとするのだろうが、何を試みてもどこへも行き着かず、またそんな試みの最中でやっていることが嫌になり、とっ散らかるだけとっ散らかり、これではヤバいと感じて、収拾がつかないうちに引き返そうとするが、躊躇しながら周りを見渡している間に、そのタイミングを逸して、さらに状況を悪化させてしまい、気がつけば袋小路でどうにもこうにも身動きが取れなくなっている。要するにいつものように行き詰まっているのであり、出口も逃げ道も見出せなくなって、結局はそれでかまわないと思うしかなくなり、そこであきらめてしまうわけか。その程度で投げ出してしまってかまわないのか。いったい何を放棄しようとしているのか。たぶん何かをあきらめているのだろうが、そうだとすればそこでおしまいとなる定めのようだ。でもそれが何を意味するというのか。何だかわからないが、それでかまわないと思っているだけだろうか。今はそこから外れたいと思っているのではないか。外れようにも離れられないのではないか。それはまさに怠惰の虜となっている証しか。そこから何を予想したいのでもないのだろうが、それについて語ろうとしてしまうことが、結果的に何かを予言していることとなってしまえば、君は胡散臭い占い師のたぐいとなってしまうのではないか。それは避けなければならない結果を有している。しかし結果とは何だろう。何が結果なのか。何か納得のいく結果がほしいか。それを用いて誰を納得させたいのだろう。そのへんが相変わらずわからない。たぶん間違っているのだ。でも正しい結果を導き出したいわけではない。はじめから余分で無駄な言葉を記しているようだが、さらに続けて記すべきか。記していくうちに何か別のアイデアを思いつき、工夫を凝らしながら、次第にまともな内容にもっていけばいいのかもしれないが、果たしてここから軌道修正がうまくいくだろうか。やってみなければわからないが、のっけから外れているのかもしれず、それで何を占っているとも思えない。どうせいつもの病気だろう。病気ではなく癖なのではないか。それにしてもそんなことを記しているうちにも何か思うところがあるようで、数年前から何かがよみがえっているようにも感じられ、そしてそういう成り行きになりそうな気配も感じられてくる。

 しかし長々と無駄に記してしまったものだ。君はいつだって遅れてやってくる。手遅れになってから気づくわけだ。でもやっていることは世界中で同じだ。シリアでも殺し合いの収拾がつかなくなってから国際社会が解決に乗り出そうとするが、すでに時遅しの観を免れない。たぶんそうなるより他はあり得ないのだろう。でもそういう成り行きをメディアを通じて見ている人が世界中にいることが、何か未来に向けて良い兆しを物語っているらしい。遅かれ早かれ国家的な独裁に苦しむ人たちは、そういう圧政に逆らって武装蜂起なり何なりで、抵抗を試みる宿命にあるのだろう。たとえそれが悲惨な結果をもたらそうと、武力で鎮圧されて失敗に終わろうと、数十年あるいは数百年単位で見れば、いずれは民衆の側が勝利するような結果がもたらされるのかもしれない。それがここ数百年間続いている世界情勢の流れだろうか。その間にフランス革命やロシア革命やいろいろあったが、多くの人々がそうなるように願っていて、そういう願いや思いに励まされ、後押しされながら、様々な紆余曲折を経てなお続き、状況がこじれれば悲惨な殺し合いに発展する場合も多いが、やはりそれでも人類はそういう成り行きを避けては通れない宿命にあるのだろう。人々には抑圧に対して抵抗する自由があるらしい。支配しようする力がそうした自由への意志を押さえきれないわけだ。たぶんそういう見方や考え方でかまわないのではないか。中にはそれに反して利いた風な見解を開陳する輩も多いが、そんなふうにひねくれたところで無駄のようで、一時的にはそら見たことかと得意になる時もあるかもしれないが、結局それはぬか喜びでしかなく、早晩そういう人たちは塵や芥のたぐいとして忘れ去られる運命なのかも知れない。善意の力を侮ってはならず、そういうのを馬鹿にしたい気持ちもわからないではないが、そのへんは謙虚になって、おちょくるような真似は避けた方がよさそうだ。一時的な社会情勢とその場の勢いに乗っかって、反原発運動などをやっている人たちをからかったり攻撃したりするのは、自分で自分の首を絞めているようなものかもしれず、その時はざまあみろと得意になったりすることができるだろうが、後の時代になってその手の軽薄な輩がいくらでもいたことを思い知るだろうし、そうなる前に寿命が尽きて死んでいたら、それはそれで幸せなことかもしれないが、わからないまま死んでゆくのも何だか哀れな気もしないではなく、だからどうしたわけでもないのだろうが、偶然の巡り合わせとその場の気まぐれで、何気なくそんなことを記していることに気づき、何だかな〜、とため息が出てしまうが、そのへんはどう考えたらいいのだろうか。どうもわからない。できればそういうのとは無関係でありたいが、そうだとすると他に何も記せいないような気もして、やはりそういう成り行きになったら、そういうことを記すしかなさそうで、それはそれでよしとしておくしかなさそうだ。ひねくれられないのは残念だが、それ以上は何を述べても意味がないだろう。


9月18日

 いよいよどこかで話が佳境に入って、そこで何かが進展中らしい。漫画の話か。そうだとしても話が違うか。では誰の話でもない。何かがどこかへ横滑りしていってしまう。平滑平面か。それは鏡を磨く技術の話かもしれないが、そこから何を連想しているのか。混乱と破壊は部分的に世界のどこかで進行中だ。ありふれた話だろう。君はそこで何をしているのか。命が惜しいから関わらないようにしているわけか。現場から遠く離れているのだから関わりようがない。要するにそこから遠ざかっているのにはそれなりのメリットがあるということだ。でもここには何もない。何もないから何も語れないのか。そういういいわけは成り立たず、何もなくても想像力を働かせながら語ることができる。相変わらずあくびが出る。それほど疲れているわけでもないが、話が難しくなりそうになると、そこから逃げたくなる。また面倒くさくなってしまうのか。どうやらまともに語れなくなってしまったらしく、しばらく休養中らしい。たぶんそういう話もしたかったのだろうが、世の中はどんどん変わってしまう。本当にそう思っているのだろうか。事件や事故などの出来事には興味がないようだ。ではもっぱらフィクションについて語っているのか。まったくリアリティを感じられず、またどこかへと遠ざかろうとするが、今日はそこで踏みとどまれるだろうか。自信はなさそうだ。たぶん何かが違うことはわかっていたのだろう。それは話にならない何かであり、気が向いたらどこへでも行ってしまい、そのくせ何ももたらせない何かだ。要するに想像力がすべてであり、自らが体験しつつある現実と折り合いをつけられず、現実から現実へと渡っていくのが億劫になり、途中で心の殻の中に閉じこもりながら、その場の心境に合わせて想像力を駆使して、荒唐無稽な作り話を練り上げているみたいだが、それはありふれた動作であり、過去から未来までの間に絶え間なく繰り返されている作業なのだろうか。いつも誰かが担っている何かとはそれなのか。そして今日もどこかでそんな作業が行われ、それふうのフィクションが構成され、その手のメディアを通じて世の中へと送り出されるわけか。しかし君はそこで何を説明しているのか。何かの印象をもとにしてそんなことを語っているつもりなのか。どこからともなくそんな印象を抱かせる何かが、誰かの心に取り憑いているのかもしれず、それがそんな語りを生み出すきっかけとなっているわけか。理由をまともに説明するつもりはないらしく、そんな幻想から糧を得る手段もなく、そういう方法を探っているとも思えず、では何を語りたいのかといえば、そこから謎が生じているとでも思えば、納得がいかないまでも、一応の返答やら答えやらを想像させる何かがそこにあるということだろうか。しかしそれでもどうかしていることに変わりなく、どうかしているからこそそんなことを語ったつもりになれるのだろうし、どうかしているということがそこで踏みとどまっている証しとなるならば、なぜか一安心してもかまわないのだろうか。何とかここまで記してきたのだろうから、とりあえずご苦労さんということか。そんなわけでだんだん無駄な言葉が付け足されているようで、そろそろ中断した方がよさそうか。

 気がつけば自己言及の罠にはまっている。想像力も長続きせず、無理に記せば言葉が自らの側に折り畳まれ、自家中毒気味にそれが続いてゆくだけで、何の内容ももたらせず、空疎な記述とともに倦怠感が押し寄せ、次第にそれを越えて空想を世界の中へと行き渡せなくなり、何となく自閉した気分で、その中で言葉と戯れ、妄想を膨らませ、独我論的な様相を呈しているように感じられ、思わず意味不明な冗談を差し挟み、何かがそれに驚いた隙を突いて、また遠ざかりの試みを繰り返してしまうわけか。そんな絶え間ない反復の中から、かろうじて生じている何かが、君をどこかへと引き寄せているのだろうか。でも至る先で躓き転んで、何だかボロボロになっているようで、何かを構築しようとしている端から壊し始めてしまい、もはや何もまともに成し得ない状況となっているのではないか。そうなる前に何か手を打っておくべきだったのか。でも簡単に説明し過ぎるとおかしくなる。とたんに利いた風な理解をもたらし、そこで納得を押し付けられて、そのままとなってしまいそうだ。そういう人なら大勢いるはずで、君もそうなろうとしていたのではなかったか。でもそうなろうとしてなれない原因は何だったのか。それがわかればそうなれるのだろうか。そのへんはよくわからず、たぶんそうなのかもしれないが、根本的に成り行きがそうならなかったのだから、君にはどうしようもできない運命だったのかもしれない。努力する気が起こらなかったのだ。簡単に言ってしまえばそういうことか。こちら側の世界ではそうなるしかなかったのだろう。でもこちら側以外に世界などありはせず、他に世界が見つかるとも思えず、人はこちら側の世界で安住する努力を怠ってはならず、常にそうあるべきなのだろうが、今の君には過ぎたことか。また退屈の虜となっているのか。何かに引き寄せられている感覚はまだ微かに残っているのではないか。それをなくさないようにしなけばならないと思われてしまうが、それは気のせいで勘違いなのだろうか。気がつけばそこに何かがあるらしい。そう思って差し支えないようだが、そんな説明ではわけがわからない。まだ何かとは何なのかを探っている最中みたいだ。性懲りもなくそれであり、どこまでいってもそうなのかもしれず、それは執拗な試みとなって、君の行く手を遮り邪魔をして、それ以外の探求をさせまいとしているみたいに思われ、心の重荷となっているのかもしれない。でもだからそこで踏みとどまれるのかもしれず、一方でそれに感謝しなければならないのかもしれないが、煩わしいことは確かで、その煩わしさを取っ払ってしまえば、君もどこかに安住の地を見出せるだろうか。君はそうならないように努力すべきなのか。なぜ努力しなければならないのだろう。懸命に何かを探しているわけでもなく、怠惰につきまとわれて何もしようとしていないだけで、それだけの人生の送っているようにも思われるが、まさかそれもフィクションというわけでもないだろう。それでも時が来たらいつの間にかどこかに収まって、そこで平穏無事に暮らしているような気もするが、今のところは何なのだろうか。何でもないと言えば嘘になるか。でも何でもないことに変わりがなさそうにも思える。それは気のせいか。またその先に余分な言葉が付け足されてしまいそうだ。


9月17日

 昨日は何を読んでいたのか。なぜかそこから何かが外れようとしている。数奇な運命ということか。題名を検索してそんな物語の内容を確認するが、すでに意識はそこから遠ざかり、別のことを考えている。この感じを狙っていたのだろうか。何か期すべきものがあったとも思えない。あまりその状態を行き詰まりだと思わない方がよさそうだ。何にこだわっているわけでもないと言ったら嘘になりそうだが、そのつもりでいることは確からしく、硬直した主義主張にはこだわらず、不意に出現しそうな心の襞にも柔軟に対応していくしかなさそうだ。ただそこに現れる凹凸から何を読み取ろうとしているのでもなく、そういう感じを受け止める以外に手だてはないみたいで、理解できないままに放置して、あとから何かを付け足してみるが、さらにわけがわからなくなるだろうか。もう何も持続し得ないようだ。そんなことはない、とどこからともなく助け舟が出されたりするわけか。君はそれを忘れていたようだが、今さら遅いか。あまりに先を急ぎすぎて、またつまらない事象にのめり込もうとしていたのだろうか。それにしても何を期待しているのか。まだ何も語っていないのは相変わらずのことで、そこにどんな仕掛けがあるとも思えず、ただ途方に暮れるばかりで、茫然自失を装い、ため息混じりに何かつぶやいてみるが、そんな嘘も神はお見通しか。でも君は神ではない。では何なのだろうか。しばらくそんな行き詰まりを楽しむ羽目になるのかもしれず、今のところはそこから逃れる術を知らないらしい。しかし襞とは何なのか。それに関するドゥルーズの書物など難しそうで読む気にはならないが、なぜ君はそんな言葉を使うのか。不意に思いついたから、とりあえず試しに使ってみたかったのかもしれないが、何だか理解できそうもない。やはり躓かないうちにそこから遠ざかった方が身のためか。躓いて転んで怪我でもしたら厄介か。それが何のたとえを想像させようと、実際はそうでもないのではないか。しかし演歌歌手でもあるまいし、心の襞も何もありはしないだろう。そんな感覚を持ち合わせた架空の登場人物でも設けようというのか。それも外れた話だ。的外れもいいところか。何かがそこでずれているのかもしれない。それにしても未だ修行中みたいに感じられ、とっさの判断で窮地を脱したのはいいが、そこから先が行けども行けども荒野が続き、通りすがりに道端に生えている雑草を眺めるだけで、あとは何もやることがないように思われ、そんな無味乾燥な状況が、ある意味別の窮地を形成しているのかもしれず、そこから逃れる術を知らぬままに、どんどんどこか得体の知れぬ場所へと引き寄せられてゆくみたいで、何だか不気味な感じがしないでもないが、それでもやはり続けることに意義でも見出そうとしているのだろうか。それはわからない。わからないままにしておきたいのだろうが、一方で何とか結果を見てみたい気もして、それの何が結果なのかわからないが、当分は結末に巡り会うこともないのかもしれない。そういうことにしておきたいのか。

 それにしても読んでいた書物もあと一巻を残すのみとなり、改めてその手の読みづらい翻訳本の難解さを思い知り、疲労困憊して何度も読むのを中断しながらも、何とか終わりまでたどり着きそうなめどが立っただけでも良かったような気がして、十数年前は意味がつかめぬままに読み飛ばしてしまった箇所も、時間をかけてじっくり読めば理解できたように思われるが、果たしてそんな読書が何かの役に立つのだろうか。今までが安易に設定された二項対立に惑わされていたのかもしれず、それに気づいただけでも収穫か。でも気づいたあとから何を記すかが重要で、すぐにまともなことを述べられるとは思えないが、とりあえず歴史上のある時期に何らかの社会現象が終わったり始まったりしたというのなら、そういう言説に逆らって何か批判するようなことは慎んだ方がよさそうだ。それはそれで認めた上で、そういう前提の先で何かを語らなければならないのだろう。二項対立の片方または両方を否定しても、いったんそういうレベルで語り始めると、また別の二項対立を設定せざるを得なくなる。面倒なことだが、軽はずみに批判せずにじっくり構えて、批判しそこなった当の対象をもう一度眺め、そこから導き出せそうな何かを模索するとしよう。まずはそれらを肯定できるとすれば、どのように肯定できるかを考えて、実際にどのように肯定されているかを知るのもいいのかもしれず、そこにどのような思考が働いているのかを理解してみよう。そんな実践を続けてゆけば何かしらわかるかもしれない。まあわからなくてもかまわず、その時はまた別の思考を模索しながら働かせて、とにかく辛抱強く考えなければならないだろうか。結局そんなふうにして事を運ぶしかないのかもしれない。相変わらず何を語りたいとも思わないが、ネット上にあふれかえっている罵詈雑言につきあっていたら、それ以上の思考の進展は期待できそうにない。他人と同じようなことを繰り返していても、やはりマンネリを自覚するしかないみたいで、たぶんそういうことに大勢の人がとらわれているから、そんな現状があり、その手のうざい人々の天下を許しているのではないだろうか。彼らのやっていることに魅力を感じられないのだから、それとは違うことを考えなければならなくなり、要するにそういう場から自然に押し出されてしまうわけだ。まさか押し出された先には無人の荒野しか広がっていないわけか。そういうわけでもないだろう。たぶん今のところは何も見つけられなくても、探してゆけば何か見つかるはずで、いったん見つかればそれについて語ればいいのではないか。そうなるまでは空疎な語りを続けていたければそうするまでで、取り立てて他に語ることがなければそうなるしかない。結局そこで何も見つけられなければ、自業自得だということになるだろうが、そういう事態になっても、何とかそれを受け止めて、そんなふうにそういう状況に合わせた言説を探ってゆけばいいのではないか。ともかくそういうことにしておかないと、ただ漠然と途方に暮れるばかりとなってしまいそうだ。まあそれもそれで君らしいと言えばそうなのだろうが。


9月16日

 語る前からすでに行き詰まりか。はじめからそれではだめだろう。ともかくどうやら君の能力にも限りがあるようだ。それの何が能力なのか定かではないが、君でなくても、人が語れることには何かしら限界があるらしく、その限界を超えて語ることができないとすれば、今さら何を否定しても無駄かもしれないが、どうしてもその限界の手前で、自らをごまかしながら、心ならずもいい加減なことを語るしかないらしい。今のところは実際にそうなっているのではないか。それはそれで仕方のないことかも知れない。それでも何とかしようと思っているのだから、まったく懲りていないというか、無謀なのかもしれず、とりあえず何でもいいから適当に記して、何か語った気になりたいのだろう。それが今できる精一杯の語りか。それ以外の何ができるというのか。語りつつあるそれを理解したいのではないか。そして理解しながら、そこから限りなく遠ざかりたいのだ。要するに語りたくないということか。結局のところ君はそれ以上の何を望むのか。そんな心境になった理由を知りたい。果たして君がそれを知り得るのか。いつか知る時が来るのかもしれない。それを知ればもう語らなくてもいいのか。未来のことはわからないが、語りたければ語るだろうし、語りたくなくても語ろうとするのかもしれない。それについて何か言葉を記せば、語っていることになるのだろうか。平常心を取り戻せるような気がする。今も平常心のつもりか。ただそんな予感がするだけか。今がそんな状態なのだろうか。どんな状態なのか。今でなくてもかまわないと思うが、言葉を記す機会が今であるなら、これから何を記したらいいのか。またわけのわからない先回りを繰り返し、後から追ってくる誰かを待ち伏せて、くだらぬ謎かけで煙に巻く気なのか。そういうやり方で何を知り得るのか。それでも何も知り得ていないわけではないだろう。たいていのことはネットで検索すれば事足りるはずだが、それで何か知っていることになるのだろうか。とりあえず検索した何かを知ったことになるのではないか。でも何を知りたいかがわからなければ、それを知ろうとする気にもならないのではないか。いったい君は何を知りたいのか。知りたくもないことを知りたいわけではないだろうが、では知り得ることを知りたいのか。たぶん知り得ることはすでに知っているのではないか。確かにそれは知り得たことだ。ネットで検索すれば知り得たことになるのか。またそうやってわざと迷路にはまったふりをする。それではいくら本を読んでも何の役にも立たず、そんなふうに語っている現状があるだけのようだ。でもまさかそれで気が済むわけでもないか。要するに君はネットで検索した以上のことを知りたくて、それらの書物を読んでいるのではないか。そして読めば読むほど何を語ればいいのかわからなくなり、記述が行き詰まってしまう。

 この世界がどうなっているのか知りたいとは思わないか。しかしなぜこの世界を変えようとするのだろうか。それが誇大妄想でも何でもかまわず、とにかくそんなことを夢想する輩が多すぎるか。この世界を作り上げた神がそう思っているのだろうか。それも誇大妄想の一部なのか。そんなことを知りたいわけではないらしい。ただ漠然とした思いのとらわれ、そんなふうに思うことで、日々の日常から生じるたわいない出来事から逃れたいのだろうか。要するに些細な感情の変化によって生まれる喜怒哀楽をやり過ごしたいのか。ただ面倒くさいと思い、くだらないとも思うが、現状がそうなのだから、それを受け止めるしかないのかもしれず、そこから目を背けないで、そういう現状の中で生きてゆくしかないのだろうが、それではあまりにもお粗末か。何がお粗末なのか。そんな現状に対して違和感を感じている。そうだとしてもそれをどうすればいいのかわからない。違和感を感じないようにすればいいのだろうが、そうなるにはどうしたらいいのか。あきらめればいいということか。では何をあきらめたらいいのだろうか。そういうことを考えないようにしたらいいわけか。それには気晴らしや暇つぶしが必要かもしれない。他のことにかかりきりになれば、そんなことを思う暇もなくなってしまうのかもしれないが、それではごまかし以外の何ものでもなくなってしまうのではないか。では時にはごまかしも必要だろうか。すでにごまかしているのに、これ以上何をごまかせばいいのか。延々とそんな自問自答を繰り返していること自体がごまかしに違いない。そうであるなら、何をやってもごまかしになってしまうような現状をもたらしているということか。またそうやっておかしな展開にもっていこうとする。そんなことを記しているうちに飽きてきたようだ。そろそろ台風が通り過ぎる時間だろうか。風が強く吹いているようだが、他と違ってここでは大した被害はなさそうで、一安心といったところだろうか。安心するのは台風が過ぎ去ったあとにしてほしいか。そのへんはどうなのだろうか。誰に尋ねているわけでもない。同意を得ようにも、何に同意してほしいのかわからない。昔はかなりおかしなことを記していたようだが、今もそれは変わらないようだ。それについては同意せざるをない。たぶん書物を読んで無理に理解しようとしなくてもいいのだろう。そのへんが君の限界であり、その限界をわきまえた上で、何か語ることがあるとすれば、それについて語ればいいのではないか。たとえそれがたわいないことであったとしても、そんなことを語っている現状を受け止める以外になく、素直に自らの限界を悟った上で、その限界を突破すべく今後努力すればいいわけか。言うは易しで行うは難しだが、たぶんそれで納得したわけではなく、とりあえずそう述べて、行き止まりを一時かわしたつもりになりたいのだろうが、本気でそう思っているわけではなく、現状では相変わらず行き詰まったままなのかもしれない。どうあってもここから先へ前進したいのだろうが、今のところは無理らしい。


9月15日

 目覚めたら何かを忘れてしまっている。夢でも見ていたのだろう。誰でも夢は見る。でもそこから何を語ろうとしているのか。いくらでも批判できるようなことか。そうだとしてももう遅い。忘れてしまっているのだから、語りようがない。そうだとは思えないか。雨が降り続いている。何がそうなのか。そんなことよりまた何かを探すとしよう。記憶の中から語るきっかけを探し出す。何かのかけらだろうか。あくびが出るだけか。どうやら雨の他は何もないようだ。台風が近づいている。雨に打たれて考える。部屋の中だからそんなことはない。また何かを空想している。空が暗い。見上げているのだろうか。言葉の並びがしっくりこないようだ。うまくいかないのはわかっている。何かを記そうとすると、すぐに行く手を遮られ、身動きがとれない。それは何のたとえなのだろうか。中国ではネットに主義主張を書き込むだけの穏健な活動家までが身柄を拘束されているようだ。いよいよ末期的な状況か。それともまた反日デモでも仕掛けて、共産党への批判を逸らす気か。そういうやり方がどこまで有効なのかわからないが、韓国だって従軍慰安婦を利用して反日感情を煽り、国民の政府への不満をかわそうとしているのではないか。まあそれもどこまで有効なのかわからない。オランダ人の従軍慰安婦もまだ生きているらしいが、オランダでは反日デモは起こっていないようだ。しかし過去をほじくり返せば次から次へと厄介な問題が明るみに出てしまうから、日本の国家主義者の皆さんも、当分は勇ましいことは主張しない方がよさそうだが、とりあえず国内で国民に向かってやっている限りは、何とか体裁を保つことができるだろう。もともと国家主義とはそういうたぐいの活動がメインか。数年後にはオリンピックも開かれる予定だし、国民が一丸となって盛り上げようとか主張していればいいわけか。そしてメディアが左翼は反原発運動で、右翼はオリンピックを盛り上げよう運動とかいうレッテルを貼れば、当然右翼の方が人気が出るだろうから、反原発運動をやっている人たちを左翼だ何だのと批判しながら、封じ込めることが可能だろうか。その前に福島の汚染水漏れを何とかしなければまずいだろう。でもそれが何とかなれば原発再稼働ラッシュとなってしまうわけか。まあ先のことはよくわからない。左翼も右翼もそういう呼び方自体がもはや効力を失ってしまった感もなきにしもあらずだ。右翼の街宣車とかはたまに見かけるが、極左暴力集団とかはまだどこかで活動しているのだろうか。思わず革共同・革マル派の公式ホームベージを見てしまったが、何だかどこかの街頭で集会を開いている画像が載っていたり、帝国主義打倒!スターリン主義打倒!万国の労働者団結せよ!ということらしく、相変わらずというか、こちらもこちらで勇ましいことが主張されているようだ。米仏のシリア爆撃を阻止せよ!中東戦乱の危機を突き破る国際反戦闘争の高揚をかちとれ!米仏両帝国主義のシリア軍事攻撃強行を許すな!アサド政権の人民大虐殺弾劾!アサドを支援するロシアの対抗的軍事行動反対!とまあ、要するに全部反対なのだからすごい。結局彼らは武力行使に反対する平和主義者なのか?

 何だかYMOのThe End Of Asiaの、あ〜あ日本はい〜国だな〜、という台詞を思い出してしまったが、この感じは何なのだろうか。何でもない感じなのかもしれず、やっている人たちはそれなりに使命感に燃えてやっているのかもしれない。君には使命感というものが欠如しているのか。誰からの使命を帯びて語ろうとしているのか。天とか神からか。そんなことはわからず、何を告白したいのでもない。天は雨を降らし、神は神社に祀られ、君は何かを知ろうとする。すべてがバラバラだ。そんなことはないだろうか。それでもいいのかもしれず、それらが愉快な気分をもたらしているのだから、でまかせの冗談でも繰り出して、その場を切り抜ければ、またいつもの日常の中へと戻ってくる。これからもそんなことの繰り返しとなるしかなく、退屈を紛らわせるための記述は延々と続き、何かを語っているようで何も語らず、何か語りたいのだろうが言葉が出てこない。そしてまた天を見上げて何を思うのだろうか。誰かが街頭で訴えかけるでもなくしゃべっている映像を少し見る。もう二年ぐらい前の出来事か。彼はその場に集まった群衆に向かって何を語りかけていたのか。君は途中で見るのをやめて、暇と気まぐれの巡り合わせを期待して、その時が来たら彼の著作でも読んでみようとするが、その内容が気に入るかどうかはわからない。気に入らなくてもかまわないのだろう。ただ読めばいいわけだ。何かを記すのに利用したいのか。気が向いたらそうなるのかもしれないが、今のところはわからず、ぼやけた意識が漠然と読書を勧めているのだろう。そのための目的など何でもかまわないのか。かまうはずのない状況から何を想像してもピンと来ないのは致し方のないことか。すべては流れるままに過ぎ去り、誰かのアジテーションとは裏腹に、冷めた気分でそれらの光景を眺め続け、たぶん関係のないことではないのだろうが、あるとしてもどうしようもできないとあきらめ、そのまま通り過ぎるにまかせてしまうのだろうか。この感じは何なのか。君は本当にあきらめているのだろうか。単純化されたイデオロギーに魅力を感じないのはいつの時代も同じだ。面倒くさいなりにも回りくどく説明しながら、それでこちらの真意を受け取ってほしいのでもないが、とりあえず何が真意なのかもわからないまま、それらの取り立てて主張のない文章を読んでほしいのか。誰の都合でそうなっているのでもなく、無理にわざとそういう成り行きにもっていこうとしているのでもないのだろうが、改めてこの感じは何なのだろうか。それはいくら問うても問われてもわからないようなことでしかないか。いつまで経ってもこの感じなのだから、もう問うのはあきらめた方がいいのではないか。それもそうだが、気がつけばそうなっているのだから、これからもそういう成り行きで、何の必然性もなく、問い続けることになってしまうのかもしれない。


9月14日

 何だかおかしい。そう思っていれば何かに突き当たる。そんな何かに興味がある。ふとした拍子に何かを発見したのかもしれない。依然としてそれは何かのままだが、何となくそれでかまわないような気がする。そこに理論があるわけではないが、あまりその手の哲学に深入りするのは禁物だ。相変わらず地べたを這っているようで、まるでトカゲか蛇のようだ。それは何のたとえなのだろうか。哲学ではなく歴史か。さあどちらとも無関係なのではないか。要するにフィクションなのだろうか。そうかもしれず、そうではないのかもしれない。何か考えることはできるのだろうが、それがどうしろこうしろという指図にはならない。ただそれを提示することができるだけか。それとは何か。哲学とか歴史もどきのことか。あるいはそれがフィクションなのだろうか。今のところはわからない。とにかく期限切れにならないうちにまとめようとしているわけか。まとまらなくてもかまわないのではないか。誰がそれを期待しているわけではなく、君にしても何をあてにしているわけでもない。ただ書物を読んでいる。現代はとりあえず議会制民主主義の世の中であり、その中で行政や銀行や企業などの官僚機構が何かやっているわけだ。今ある制度とは違う仕組みを夢想することはできる。たぶんその夢想を実現させようというのではないのだろう。夢想は夢想で現実は現実であり、夢想したいのならいくらでもしていればいい。でもそう述べて誰を突き放しているのでもない。そのへんが定かでないようで、結局何を語っているのでもないらしいが、何となく理解できる。過去の体制や仕組みに戻ることはできない。ただそれは夢想することができるだけだが、そこから何か未来につながるヒントでも求めているのだろうか。現状では何が問題なのか。わかりきったことを語らせようとしているのだろうか。目下のところ様々な問題があり、それらの一つ一つが改善されなければならないということか。確かにわかりきったことだ。でも君がそれをやろうとしているのではない。君がやらないことについては何か問題でもあるのか。何の義務も強制もありはしない。問題に直面した人たちが何かやるはずだ。君も君自身の問題に直面しているのではないか。それはわかっている。わかっていると感じていながら、実際にはわかっていないのかもしれない。わかる術がないのではないか。ならばわかりきったことではない。何をわかろうとしているのか。何もわからないままでは困るのだろうか。でもそれを自らに問いかけているのではないらしい。いくら内面を探ってみても、何も出てこないだろう。空っぽなのか。そんな空洞を黙って眺めている自らを想像している。現実にはあり得ないことだ。そうとばかりも言えないか。たぶんそのへんはどうでもいいことなのだろう。

 問いかけが途切れてしまったようだ。何も批判できないまま、ここに至るが、どこに至っているわけでもないだろう。この世界はどこまでも不透明だ。今までに見聞してきた世界の様々な断片をつなぎ合わせ、何かジグソーパズルのような言説でも構成したいのだろうか。あるいはパッチワークやキルトのようなものか。ニール・ヤングが昔はいていたつぎはぎだらけのジーンズを思い出すが、そこから何を導き出したいわけでもなく、言説が目的と一致しないので、記された言葉が無方向な散らばりを見せるだけかもしれない。本当は目的そのものが不在なのだろう。何をどうしたいわけでもなさそうだ。いつものことか。いくら構造を模索しても何もわからないか。理論でも構造でもないらしい。では何なのか。何かが抜けているのか。問題を解決したいのではないところが、そもそも何をどうしようとしているのでもないことの表れだ。いったい問題とは何なのか。わざとそんなことを記す。本当は何も問題ではないと言いたいところだが、依然として何か問題があるのだろう。そしてたぶんその問題から逃れようとしている。嫌気がさしているのだろうか。いつもそうだ。またしても面倒くさいらしい。ならばそれで我慢するしかない。我慢しきれなくなったらまた逃げるのか。どこへ逃げられるというのだろう。それともそれも誰かが思い描いているフィクションの一部なのだろうか。何だかわからないままに時が過ぎ、パズルを組み合わせるのにも飽きて、また一息入れ、辺りを見回してみるが、これといって語る必然性も感じられず、このまま尻窄みになりそうだ。ただ漠然とそんなことを思ってみても、とっかかりがどこにも見当たらないようでは、何も語れないのも当然と思われ、何から語っていいのかもわからないままにここまで来たらしく、道草を食っていたら迷路に迷い込んでしまったのか。わざとそんなことを語ろうとするが、その気になれないようだ。印象に残っていることはいろいろあるのだろうが、それを文章としてまとめられないのだから仕方ない。ともかく哲学者は古代ギリシアまで遡らないと何か思考を働かせたことにならないらしく、結局そうなってしまう人が多いみたいだが、それより遥か昔にさかのぼってしまうと、何やら話がオカルトもどきになってしまうようで、さすがに大洪水以前の古代シュメールの王が何万年も生きたとかいう話にはついてゆけないか。そんなわけでまあ文献的にも古代ギリシアぐらいで止めておくのが無難なところで、そこに何かの起源を見出せるのかも知れず、さかんにプラトンがどうしたとかソクラテスがどうしたとかいう話になってしまうのだろうが、ところで君はソフィストのたぐいになることを目指しているのだろうか。それにしてはまだその手の議論に加わるような技量は持ち合わせていないようだ。


9月13日

 何やら考えあぐねているようだが、結局はそういうことだ。思考も何も期限切れということか。何がそうなのでもなく、何となくそう思われてしまうところが致命的なのかもしれない。でも何が致命的なのだろうか。何か引っかかるものを感じるが、何かとは何なのか。どうしてもその何かが思いつかない。わかっていてもそれを記すわけにはいかないのか。どうでもいいが、何がどうなっているのでもないのだろう。別に致命的でもないのかもしれず、そう記した誰かの思い違いかも知れない。しかし何が致命的なのか。賞味期限切れのヨーグルトでも食べたのだろうか。ついつい行き詰まるとでまかせを記してしまうらしい。でもそれがどうしたわけでもない。その時点ですでに致命的なミスを犯しているわけか。ならばどうしたわけでもないわけがなく、急いでそこから離脱しなければならない。でも離脱できずに低空飛行のまま、まだくだらないことを述べている現実がそこにありそうだ。当分はこれでもいいのではないか。どうもあきらめ気味になってしまい、向上心から遠ざかっているみたいだ。しかしこれ以上何を向上させたらいいのだろうか。目的がないからよくわからないが、それでもかまわないと思えるだろうか。何かに目を向けて、その対象について語らなければならない。またもや不意にそう思われてしまい、その何かを探そうして、どこかの街中でふらつく羽目に陥ってしまうのか。誰かがそこで何かのきっかけを探している。そういうことにしておきたいのではないか。要するにいつまで経っても何かは何かであり、それは終始謎のまま、誰かの心の隅に異物としてひっかかっている。でもそんなことを想像してみたところで、何がわかるわけではなく、何も変わらないのではないか。君はそこから離れられず、相変わらず何かと格闘している。いつもそれを問い続けているが、問えば問うだけますますわからなくなり、いつしか問いの迷路の中に安住の地を見出している案配だ。何かと何か、それが語りを長引かせる手法なのだ。そう考えれば納得がいくだろうか。別に納得するために問うているわけではない。ただわからない。わかろうとせず、わかり得ないのだろうが、やはりわからないままにとどまるのが気に入らない。でもそれではそうなって当然だろう。何を催促されているわけでもなく、どこまでも独りよがりでかまわないと思い、実際にそうなっているのではないか。だからいつまでも自己に問いかけるのはやめた方がいいというわけか。それもそうだ。

 そんなわけで自己のどこかにきしみが生じているのかもしれない。自己崩壊の兆しでも感じているのか。そうなったらそれでおもしろそうだが、実際にはその遥か手前でブレーキがかかり、また来た道を戻っていくに決まっている。大したことは語っていないのだから、そこまで突き詰めて思考を働かせているわけでもなく、すべてがいい加減に中途半端なままにとどまり、飽きればなおざりにされ、また気が向けばふざけたことを語り、それもとどまることを知らなくなれば、急ブレーキでもかけて事なきを得たとでも思うのだろう。要するにそうなる前に気づいてしまうところが凡庸のなせる業なのか。まあ普通はそうなって当然なのかもしれないが、まれにブレーキをかけられないか、もとからブレーキがない人とかがいれば、それは天才である証しかもしれず、何やらその方面で脚光を浴びるのかも知れないが、そうなったところで、あとは悲惨な運命が待ち受けているか、あるいは栄光を手にするのか、それとも両方を手にするのか知らないが、それもそれで面倒なことかもしれない。何かの巡り合わせというのもありそうで、それは君自身が判断することではなさそうで、他の誰かが決めることであり、誰にも決められなければそのままにとどまり、あとは延々とそういう何かが繰り返され、気がつけば誰も知らないうちに消え去っていたりするのだろう。そしてそういう消え去る運命の人たちが世の中には大勢ひしめいていて、ふとした拍子に誰かの都合に合わせて、その中からとっかえひっかえ脚光が浴びせられ、運がよければしばらく長続きする人もいるだろうが、大半の人たちはあっという間に忘れられ、またそれと入れ替えで新たな人に脚光が浴びせられ、入れ替わり立ち替わりメディア上にそういう人物たちが出現しては消えてしまう。そして一般の人たちはそういう光景を眺めながら、気晴らしの娯楽と思っているのか、はたまたその中から特定の誰かに思いを寄せるのか、そんなことはどうでもいいのかもしれないが、とりあえずそこで営々と何かが生産され続けているのかもしれず、それが人々の糧となり、またそれが目覚めを妨げているのかもしれない。それらは止むことのない催眠作用なのだろうか。近頃のオリンピックごり押し報道を見ていると、何だか恐ろしいと思う反面たわいないとも思ってしまうのだが、外国でも王族に子供が生まれたぐらいで大騒ぎしているのだから、まあその手の現象はメディアの病気のたぐいだと割り切ってしまえばいいのかもしれない。


9月12日

 そろそろだめか。何がだめというわけでもないだろう。壁を這う蜘蛛を眺めながら、何か思いつけばと思うが、まあ大した思いつきではない。また稚拙な内容になるしかないらしい。でもそんなに卑下しなくてもいいのではないか。何とかその程度で踏みとどまれば、またの機会が巡ってくるだろう。それが今日でなくてもかまわない。明日に至れば明日の気分を感じるままに、そこで言葉を記せばいい。まだ可能性はある。それを信じればいい。信じているから今があり、今があるから時間がある。それは屁理屈のたぐいか。理屈ではないような気がするが、何を信じているのでもないような気もする。本当はどうでもいいことかもしれない。でも信じているからこそ、またここへ舞い戻り、言葉を記そうとしている。いったい何を信じているのだろうか。何も蒸し返せない。だからそろそろだめなのではないか。でもだめならだめなりに何か考えているはずだ。ちなみにそこから少しずれているようだが、そのとき彼は何を探していたのだろうか。遥か古代ギリシアまで遡らなければならない理由は何なのか。何かの起源がそこにあるらしいが、それはフィクションとしてそうなのか。あるいは本気でそんなことを考えているのだろうか。でもそうなるとこの二千数百年間はいったい何だったのか。たぶんその間に何かあったはずだろう。何らかの知恵が介在しているのかもしれない。様々な試行錯誤があり、それらを経て今に至っているはずだ。でもそんなことはわかりきっている。今となってはもはや取り返しがつかないことばかりだろう。それらのほとんどは過ちではなく、正しい行いだと思われている。しかしどこへ向かって突き進んでいるのか。このままでうまくいくとは思えない。正直なところうまくいってほしいと思っているのかもしれない。どんな結果をもたらしているのでもなく、それでもそう思ってしまうのだから、意志の弱さを感じざるを得ない。また嘘をついてごまかしてしまうのだろうか。言葉を操り、難しい理論を導き出して、それを他人に押し付ける。そういうわけにはいかないらしい。だいいち理論になっていない。いくら語ってもそうなってしまい、とどまるところを知らない。でもそれでごまかしていることになるのだろうか。何をごまかしているとも思えず、もしかしたら真実を述べているのではないか。

 できれば競わない方がよさそうだ。競えば競うだけやっていることが上達して、そこから利益を生じさせられるのかもしれないが、その利益は競い合いに敗れた側からもたらされ、要するに勝った側が得をして、負けた側が損をする。それだけのことではないか。競わなければ損も得も生じない。でもそういう考えでいいのだろうか。得したければ競い合う相手を捜して競い合い、それに勝てば得して負ければ損するというわけか。そうだとすれば競争に勝つ方法が模索され、勝つためのノウハウを伝授したがる輩が跋扈して、それに群がる人たちも増えるだろう。世の中はそうやって成り立っているわけか。虚しいことだ。そうならないようにしなければならないか。机上の空論を信じ込ませられるだろうか。いったい誰に信じてもらうのか。信じてもらうも何も、まだ空論さえもたらされてはいない。そんな不可能に行く手を遮られ、どうにもこうにも立ち往生せざるを得ない。またそんな嘘をつく。たぶん実態はそうではない。ただ人々は延々と何かを生産し続けているのだ。それらを生産しながら増殖している。しかも常に生産効率を上げようとしていて、そのための技術革新や生産物の流通経路の整備を行い続けている。それらの過程において、競争とか利害とかの経済効率を幻想しているわけだ。常に利益を上げようとして、常に豊かになろうとしている。そしてそういう行為がいつまでも続くと思っているわけだ。うまくやっていると思い込んでいる人々は豊かさを実感しているのかもしれず、実感しているからこそ、さらなる豊かさに向かって突き進み、そんな行為をエスカレートさせるわけだ。まさにそれはとどまるところを知らない暴走行為なのかもしれないが、やはり依然として人々はメディアを通じてそれを賞賛し、奨励しているわけだ。そうすることが正しい行いであり、誰もがそれを目指さなければならず、それが人類がこの地球上で繁栄し続けるための原動力だと思い込んでいる。それがいつまで続くのかは知らない。いつまでも続くとすれば、やがて人類は宇宙に進出して、どこかの星々でも同じようなことを繰り返しているのだろうか。


9月11日

 何だか限りなく何かに近いようだ。何かとは何なのか。いつもそこで行き詰まる。具体的な言葉で表現できないようだ。興味本位で語る気にはなれないが、何が興味本位なのか。またそこで行き詰まり、その何かを導き出せず、そこで記述が途絶え、ソファーの上で横になる。いったい何を語りたいのか。いつもそこから語り出すから結果は見えている。いつの時代も同じような批判者に出会い、批判している対象に目を奪われ、同時にそれ以外の対象から目をそらされ、そしてどうなっていくのだろうか。批判している対象以外は何も語れなくなってしまうのか。そうではない。ただそんな成り行きになってしまうのを想像しているだけで、本当はどうでもいいことなのかもしれず、そうやって語れない理由をあれこれ想像しながら、実際に語るまでの時間稼ぎでもやっているつもりなのか。そしてすでにそんなことを語っていることに気づき、何だかわざとらしく驚いたふりでもしたいようだ。嘘に決まっている。くだらない。自己嫌悪に陥ってしまうか。何でもかまわないだろう。どうも本気ではないらしい。いつもそうやってごまかしている。たわいのないことだ。そんなたわいない言説に費やされた時間と空間の存在を疑う。思考を費やしているのではないか。それの何が思考なのか。それは自分自身にもたれかかってくる何かだ。退屈な小説を読んだふりをしながら、その題名をネットで検索して、あらすじや内容を知り、何となくどうでもいいことに気づく。何がどうでもいいのかとえば、検索をする行為がそうかもしれず、何だかそれを読まないために検索をして、そのあらすじや内容を知って、読む必要がないことを確認する行為が、どうでもいいことなのかもしれない。でも実際に読まなければ気晴らしにならないのではないか。確かに気晴らしは気晴らしにすぎないが、その気晴らしこそが必要なのであり、他に何もできないのだから、気晴らしでもしなければ息が詰まってしまう。しかし読んでもいないのに、なぜその小説の内容が退屈だとわかるのか。評判を知っているからか。あるいはそれに関する批評でも読んだのか。検索内容を読んだ限りでは、当時の評判はすこぶる良かったはずで、それが発表された年には有名な文学賞を取り、単行本は爆発的に売れて、映画化もされたはずで、題名がその年の流行語にもなったはずだが、まさかそういう現象が気に入らないわけか。わからない。ただ何かの拍子にその小説の題名を思い出し、何となくそれを検索して、検索結果を読んで、こうして言葉を記すための材料として使ってみただけか。本当は退屈でも何でもなく、実際に読んでみればそれなりにおもしろいし、何かしら小説の主人公に共感を覚えたりするのかもしれないが、とりあえず今はそこまで至らずに、どうでもいいようなことを述べている。やはりそういう行為は限りなく何かに近いようだ。いったい何に近いのか。

 たぶんそういうことだ。何がそういうことでもなく、何かを想像させ、そういう想像から何かを語り、そしてそういうこととして済ましてしまう。何も済んでいないのに、済んだつもりになり、またそこから遠ざかり、遠ざかるがままにして、その遠ざかる光景を眺めながら、ぼやけた気分を装い、その気にさせておいて、その隙をついて、またそこから言葉をつなげてしまうが、やはりそれがどうしたわけでもない。要するにそれでは何も語っていないことになりそうだ。それでも何かが決定したのだろう。世界規模の運動会が数年後に行われることがそんなに嬉しいのだろうか。ちなみにそこではパン食い競走とかはないらしいが、他にどんな競争が繰り広げられるのか。それに関しては、また検索結果でも参考にしながら、何か語ればいいのかもしれない。でも何かの余興でボルトとカール・ルイスがパン食い競走でもやったらおもしろそうだ。その手のテレビ番組で実現するかもしれない。とりあえず何を検索するかわからなくなり、要するに飽きてきたのだろうが、虚しいことかもしれず、浮かれている人々には申し訳ないが、過ぎ去る時間はあっという間で、くだらぬ出来事も忘れ去られ、何がそこで行われようと、そんなことはどうでもよくなってしまう。まあそれがふざけたパン食い競走である必然性はないだろうが、小学校の運動会なども本当は要らないのかもしれず、そうした学校教育の場で、イベントなど全部なしにすれば、生徒も教師もずいぶんと楽になるのではないか。とりあえず小学校から大学まで入学試験をなしにして、エスカレーター式に全員進学できるようにして、学内では朝礼とかもやめて、運動会、部活動、学園祭、修学旅行、期末試験や年度末試験なども全部やめ、成績表などもなしにして、ただ授業時間に生徒を集め、時間内で教師が受け持ちの科目を教えるだけにすれば、今までのうざい連中とはまったく違った人材が社会に送り出されるのではないか。そうなれば世の中も変わるだろう。たぶんそんなことを実現しようにも、その手の運動会に浮かれるようなうざい連中の抵抗にあって、そうはならないだろうが。


9月10日

 何も示せないような気がする。空は晴れているようだが、清々しい気持ちにはほど遠い。でも誰がそんなことを述べているわけでもないのだろう。たぶんいつまでもどこまでもそうだ。これ自体はどうにもならない。開き直るつもりはないが、意味がわからないし、手探り状態のようで、何を呪っているわけでもない。自然の成り行きとはそんな感じなのだろうか。どうあがいても逆らえない。それは自然ではなく人為的な成り行きなのではないか。そうだとしても批判するようなことではないらしい。誰の思いのままにもならないような成り行きの中で人が生きている。当然そこで利害も衝突するし、諍いが起こる。そうならないようにしなければいけないらしいが、なかなかうまくいかない。わかりきっているのにそれをやる。そこでまた何に出会うのか。空疎な何かか。それは間に合っている感じだ。面倒くさいからやめておこうと思う。嫌な感じがしてしまうらしい。次の機会に期待してしまうのか。しかし何を求めているのか。やっていることが紋切り型で、それを飽きられるまで繰り返す戦略なのだ。押し付けがましい。それも攻撃の一種か。面倒な世の中だ。でもめげることはない。努力するとはそういうことなのだろう。ではそのへんで見切りを付けるべきか。すでに付けられているのではないか。自分からも見放されているわけか。またネガティブな心持ちになってしまうだろうか。それでもかまわないか。まったく懲りていないのだから、さらに語り続けるわけだ。君は何か妄想でも抱いているのか。誰かとどこかで出会い、無限遠で平行線が交わるような体験をしたわけでもない。そういう意味不明で大げさなことではなく、どこかですれ違いが起きる程度のことではないのか。だからあまり期待しない方がいい。とにかくわけがわからないうちに何かを仕上げてしまいたくなり、急いで記述を再開するが、やはり途中で行き詰まる。時間をかけ過ぎなのだろうか。タイミングを逸して、またおかしな迷路に迷い込んでいるのか。そんなことを語り出したらきりがない。でもそこでやめたら負けなのか。ありふれた成り行きだ。ともかく何かをそこで演じたことだけは確からしく、それなりの反応が返ってきて、無難にそれをこなしたことになっているのだろう。それでいいではないか。なぜそんなことをやるのか定かでないが、それは嘘で、わかり過ぎるくらいわかっていて、ただそれが嫌だから、わかっていることすら認めたがらないということか。まあそれでもかまわないか。

 これからさらにおかしな成り行きになってしまうのかもしれない。それはいくら否定しようにも現実に起こってしまう事件か。どういうことなのか。気休めに世界情勢についてあらぬ妄想を抱いている。理解できないことかもしれないが、そういうことではないだろうか。何を語ればいいのかわからなくなり、不意に思いついたことをそのまま記して、その荒唐無稽さに唖然とする。そういうことなのではないか。途方に暮れてしまうのではないか。いつもそうだ。冷静に考えてみれば、どうということはない状況の中で暮らしている。気に入らないこともあるが、その程度は我慢できる範囲内で、嫌ならやめてしまえばいいことでしかないのだろうが、なんとかやめずに続いているわけだ。でもなぜ嫌なのか。こだわるべきではないかもしれないが、不思議とこだわってしまい、またどこかでそうならないような可能性を模索してしまう。これはフィクションなのだろうか。その中で何を語ろうとしているのか。利いた風な意見をネット上で見かけて、にやりとするが、やはりそんなことでしかなく、虚しい気分となるらしい。だいたい意見とか主張とかはその程度のものだ。こうあるべきだと主張することはいつでもできるが、いつでもできるだけに、何ら有効性を持ちはしないその手の意見や主張で、その場が埋め尽くされているとしても、それに苛立ちを覚えるのも無理はないが、こちらからはどうすることもできはせず、逆に自分も意見を求められればそうなってしまう危険性があり、誰もがそういう成り行きの中で主張を展開しているのだから、そうなるのが当然のことであり、その手の主張を繰り返している限りは、たぶんいつまで経ってもそのままなのであり、そういう予定調和の場から抜け出れば、今度は何も主張できなくなってしまう。だからそんな主張や意見が飽きもせず繰り返され、それを真に受ける多くの人たちを、そんなことの繰り返しの中に閉じ込めてしまう。だが世の中のそんな仕組みを理解して何になるのか。わからないが、それはそういうことだと思うしかない。いったいこの閉塞感は何なのか。平和で安定した世の中とはそういうものなのだろうか。散発的にあちらこちらであらゆる事件や事故が起こり、人が死んだりものが盗まれたりするわけだが、多くの人にとってそれは他人事であり、平穏無事に過ごしている感覚があるが、何かすっきりしない。何かを強いられている感じがして、普通に生きるのが嫌になってきて、その押し付けられている何かを振り払って自由になりたいと思うが、今ひとつ理解が足りないようで、漠然としていて、その何かが何なのか捉えられずにいるわけだ。


9月9日

 誰かがそこに居合わせた人たちとぬか喜びを演じていた。彼にはそういうふうに映るらしい。どうせまた誰でもない誰かの話のようだ。それにしてもようやく秋の気配が感じられ、涼しくなればそれだけ眠くなってしまう。気のゆるみが生じている。それでもまだその話題で持ち切りだ。しばらくはそれでかまわない。否定するまでもないことだ。大して技巧を凝らしていたわけでもない。とりあえずそうなったのだから、あとは思わぬことが起こるだけかもしれない。ここまで来たのだから、もう少し待ってほしいの知れないが、誰もがそういう成り行きには逆らえないらしく、別にそれほどそうなることを懇願していたわけでもないのに、何やらそういう雰囲気に流されてしまうらしい。誰が災禍を招いているのだろうか。君は死神の夢を見た。たぶん嘘だろう。嘘であってほしいか。嘘であろうとなかろうと、たわいのないことだ。昨日は雨が降っていたが、今日は晴れている。それでも救いがあるとすれば、今日はまだ死神からのメッセージが届いていない。うとうとしてきてまた目を閉じる。暗闇の世界が目の前に広がる。どうやらここまでたどり着けなかったようだ。いったいいつまで待たせるのか。冗談であってほしいようだが、こればかりは信用するしかないらしい。かつて君は神を信じないことになっていたはずだ。嵐を引きずってきて暴風雨をもたらそうと、こればっかりはどうしようもない。しかし予定は予定だ。神社の裏山で呪いの藁人形を打ちつけている暇もないだろう。君に見えていることが他人には見えていないようだ。それが罠だったのだろうか。安易に考えてはならない。本当はそのへんに転がっている空き缶か。でも死神の正体が空き缶では意味不明だろう。そういう思いつきがでたらめなのか。彼には何かが取り憑いている。君にはそう見えた。まるで催眠術にかかっているようにも見える。これからどうなってしまうのだろうか。今のところはうまくいっているのではないか。オバマは彼のヤバそうな雰囲気をいち早く察知しているらしいが、とりあえず気づかないふりをしつつも、まるで他人事のように振る舞っている。一応同盟関係があろうと、面倒なことには関わりたくないようだ。周りの連中もまさかとは思っているのだろうが、とりあえずうまくいっているうちは事を荒立てたりしないだろう。そのうちとんでもないことが起こるかもしれない。でも狼少年のように騒ぎ立てるのはごめんか。今は黙っておいた方がよさそうだ。

 しかし君は何を待っているのか。語っていることはフィクションの範疇でしかなく、現実に起こっている現象とは何の関係もないことだ。それでかまわないのなら願ってもないことか。でももう少し待ってみよう。不意に何か出てくるかもしれない。待ち伏せというわけでもないが、とにかく何を欲しているのでもない。自分のことは自分でやればよく、そういう運命なら喜んで引き受けるとしよう。でも今ひとつ乗り気ではない。だから機会をうかがいつつ、その時が来るのを待っているわけか。すでに織り込み済みなのかもしれない。やがて時間も終わり、空間もしぼんでしまう。まさかその時まで待たなければならないとは思わない。すべては過ぎ去ったことになり、君には無関係な成り行きまでが終息してしまう。それでも待っているつもりなのか。そうやって待っていることが何を意味するのかわからないが、たぶんそれらを巡って語る必要はないのだ。ただ黙って待てばいい。君は意味するものを求めているわけではない。何も見えてこないなら焦る必要はない。ごまかしはごまかしであり、それを認めるしかないらしい。すべてはそうなっているようだ。いずれ化けの皮がはがされ、手痛いしっぺ返しを食らうことになるかもしれないが、別にそうならなくてもかまわない。そのへんが微妙なところであり、何だかうまく切り抜けられるような気もしていて、胸を撫で下ろす場面も出てきそうだが、そこに至るまでがまた一苦労か。今のところは持ちこたえているようだ。そういうことにしておかないと、打つ手がなくなってしまう。本当はどうかわからない。冷静に考えてみれば、やはり大したことにはならない。いくらでも取り返しが利きそうで、楽観視してもよさそうで、自然と笑みもこぼれてきそうなところだが、そんな情勢でも君はひたすら待つのか。待ちくたびれても待つ姿勢に変化はない。辛抱強く待っている。何が来るのかわからないが、その時が来るのを待っているのだろう。でも待ちわびているわけでもないのだろう。ただそれを確認したいだけなのか。今見えている光景が変わるまで待っているつもりか。君が変えようとしているのではないのに、それではあまりにもネガティブな姿勢だろうか。何かをあきらめていることにならないか。何かになることを望んではだめなのか。いったいここから何になれるというのだろう。君がそうなることを望んでいるとは到底思えず、本当は何を待っているのでもないのかもしれないが、とにかく待っているふうを装いながら、その姿勢を崩そうとしないのには、どんなわけがあるとも思えない。そうする理由がないのかも知れない。


9月8日

 気のせいか、どんよりしている。ここで一休みか。ここからだいぶ先に何かがありそうだが、そこまでは遠い道のりのようだ。途中でばててしまうか。谷間の小道を大きな岩が塞いでいる。声が出ないが、他に何を絞り出そうとしているのか。何がでてくるとも思えない。奥の方に滝があったような気がしたが、それらしき音が聞こえてこないので、思い違いだったかもしれない。ソファーで眠っていたらしい。目が覚めて空想の世界が閉じられ、のどの渇きを覚える。焦点の合わない目を閉じて、また眠ってしまうのか。そこに何があるとも思えない。何かあったはずか。気のせいだ。夜の時間帯ではない。ところで今日はでたらめを語らないのか。成り行き次第ではそうなってしまうだろう。まだ行き詰まりを感じないのか。そうなればそうなる。そうならなければ嘘かもしれない。横たわっているのは屍ではないようだ。不意に砂利道で転んだ記憶がよみがえるが、理由は定かでない。缶コーヒーでも飲めば思い出すか。自販機が遠い。たぶん見上げていたのは夏の空ではなかったはずだ。思い出すには考えていることにとりとめがなさすぎる。もう少し話がまとまっていないと、わけがわからないままになりそうだ。でも今はそういう流れらしい。話になっていないのだろうが、話の流れがそうなっている。記憶もそこにあり、意識がそれを操ろうとして、結果的にそうなっている。何とかしようとしている。相変わらずそのようだ。しばらく脇道に逸れている。心に思い浮かべた映像が君を揺り動かし、そこから逃れ去るようにして、たぶんそんなことを記しているのだろう。理解不能な説明だ。君は岐路に立っているのか。いつもそう思う。間違ってはいないが、嘘をついているのだろう。そんな予感を利用して、またそこから何かを絞り出し、声にならない声を上げ、そんな空想を糧として、何か得体の知れぬイメージを追い続け、そこに並んだ言葉を眺めている。何も生まれていないわけではないらしい。何がそうさせているのでもない。でも何もないといったら嘘になる。何とかしたいわけだ。

 寝転んだ拍子に何かを見つけ、それを目の前にたぐり寄せる。お宝だろうか。綿埃なのではないか。つかみかけているのにつかみきれないようだが、強引につかむべきか否か、他人に同意を求めるまでもない。つかみ取ってしまえばこっちのものか。そんな見慣れた風景から遠ざかり、やっとのことで何かをぬぐい去り、また目を覚ましたようだ。説明を要するような状況ではない。そこで立ち止まる術もなく、どこかへ押し流されていってしまう。そんなことをやるまでもなく、ここにいる。ただいるだけかもしれない。何に取り憑かれているわけでもなく、ただここにいる。だからもう少しの辛抱だ。意味などつかめなくてもかまわない。ここにいるだけで自然と言葉が出てくる。それは嘘なのかもしれないが、自信を持てない分だけよろめいてしまう。君はその先にある何かの存在を知っているのではないか。それでもただあるだけでかまわないと思っているのか。あるのは誰の魂でもなく、存在でもない。物自体か。そこで誰かが、自由であれ!と叫ぶわけか。わけがわからないが、狂気の世界ではないらしい。思考と別の思考との間で生じる差異でしかないわけか。どうもそのへんが理解できないようだ。今日はだめらしい。読みすぎているのかもしれない。読む必要のないことか。それはそうかもしれないが、読まないと読書が先へ進まない。読み飛ばしてしまえばいいわけか。そんな誘惑に駆られながらも、かろうじて踏みとどまっているようだが、無理に読んでも何の糧もならないだろう。あとで理解できたりするのだろうか。それにはまた読み返す必要がありそうだ。しかし三度目があるだろうか。これで二度目であり、十分に苦痛を覚えるのに、さらにもう一回挑戦したりする機会が訪れたりするわけか。そうなったときに読めばいいことでしかないが、とりあえずそれまでに他の書物も読まなければならないだろう。徐々に周りから攻めてゆき、機が熟したところで、不意に読んでみたりするわけだ。そして本当の理解に達して、一安心したいわけか。それは冗談だろう。ともかく何とかここまで読んできたのだから、あと数巻読めばひとまず終わりになる。

 しかしわざとそんなことを述べて、何を装うつもりなのか。君はそれが何だかわかっているはずだ。大半は理解しているはずだが、理解しきれていない部分もあるということか。そしてそこにへばりついている何かを引きはがそうとして、さらに思考を働かせようとしているが、うまくはがせずに、強引にはがしたらちぎれてしまって、面倒な何かがはがれずに残ってしまう。もうやめておいた方がいい。これ以上むきになると、収拾がつかなくなり、すべてが台無しになってしまう。ほどほどのところで手を引かないと、今までに得たものも失い、今までの苦労が水の泡か。でもそれがその場の成り行きなら、それでかまわないのではないか。すべてを打ち壊しにして、また一から出直しとすればいい。そこでせこく立ち回って守りに入ったらおしまいだ。でも本当にそう思っているのだろうか。もうこの辺が潮時なのではないか。とりあえず建てかけていたものは、途中で放棄せず、終わりまで構築する必要があり、今はそれをやっている最中なのではないか。そうだとするならば、もう少し辛抱する必要がありそうだ。まだ何かの途上なのだろうから、それをいったんやり遂げてから判断すべきか。しかし君はそれを誰に言い聞かせているつもりなのか。自らにではない。どこかに架空の人格を設定して、それに向かって何か忠告でもしているつもりなのか。そんなはずがないだろうが、どうもまた何かをごまかしているような気がしてならず、ごまかされている側にしてみれば、ちゃんと真実を告白してほしいと思っているのだろうが、それらのフィクションはそういう制度にはなっていないようで、何でもかんでも行き当たりばったりで済ませてしまう傾向にあり、そのへんはいい加減に受け止めておいた方が無難だ。だからさっさと済ませて先に進むとしよう。誰にも真実など物語る義務などなく、それが嫌なら嘘八百を並べ立てて、ごまかしたいところは適当にごまかし、そんなに嘘で塗り固める必要はないのだろうが、普通に本当らしく振る舞っていれば、それでかまわないのだろう。自己を探求し過ぎると独我論の罠にはまり、本物の独我論に至らないうちに力を使い果たし、中途半端な見苦しさばかりが目立ってしまう。


9月7日

 気持ちにぶれが生じている。ここに来て怖じ気づいたのだろうか。そんな表現で心境を捉えているとは思えない。記そうとしているのは誰の心境なのか。結局そんな疑念を記している。何だかくだらないように思われ、その先に言葉が続かない。また我慢しなければならないのか。何を我慢して、何を語ろうとしているのか。そんな疑問を記すのにも飽きた。どうも何かを語る水準に達していない。何を語り、何を説明したらいいのか。またしてもそんな問いだ。これから何かを物語るつもりなのだろうか。きっとそうに違いない。これから何が起きるのだろうか。地震か何かか。何だかそういうことらしい。いつか起こるに決まっている。地震にしろ何にしろ、君の空想の中ではすでに起こっていて、街中がパニック状態になっているのかもしれないが、それを今から予言してみせるわけか。冗談だろう。何もできはしない。何をおもしろがっているのでもないらしい。ただの空想であり、予言などではありはしない。外れたらヤバいか。無理して予言を外す必要などない。外れる予言などしなければいいだけだ。予言ではなく予測としておいた方が、外れた時のいいわけにも事欠かなくなるのかもしれないが、予測をするのはその筋の専門家であり、素人の予測などいい加減でどうでもいいことのように思われるしかない。そんなわけでこれから何がどうなろうと、君の知ったことではなく、神の知ったことでもない。では誰の知ったことなのだろうか。シリアで化学兵器を使って人をいくら殺傷しようと、それはアサド大統領の勝手であり、アメリカ人の知ったことではないか。大統領とその一族が自分たちの権力を使って一財産築き、中国でも共産党の幹部とその家族が同じようにして一財産築いているようで、結局何十年も前のイラン革命の時のように、民衆の力でそういうことをやっている連中を追い出さない限りは、事態が前に進まないということか。現状では厳しいだろう。中国では過去には周恩来元首相のように、清廉潔白を貫き通して、家族共々死ぬまで質素な生活をしていた人もいたらしいが、現在その行き過ぎた不正蓄財の槍玉に挙がっている薄熙来とかいう共産党の元幹部を、見せしめに罰することで、何とか民衆の間にたまっている不満をガス抜きしたいのだろうが、その薄熙来自身が、かつて腐敗した役人や警察ら権力者たちによる大規模汚職事件の摘発に乗り出し、ガス抜きしていた張本人だというところが笑ってしまうが、本当のところはよくわからない。まあオバマはそんなことをやらなくてもいいような制度の中で、アメリカの大統領をやっているわけで、実際大統領を辞めても食うに困らない立場でいられることはもちろんのこと、回顧録でも出版すれば、たちまち多額の印税が入り、合法的にそれなりの金持ちでいられるわけだ。まあそのへんは政治制度の違いというか、世の中の仕組みが違うといえばそれまでなのだろうが、周恩来が偉かっただけでは済まない話か。

 それにしても民衆の間に不満がたまっていることが、現状を変える原動力だということは確かであり、そのたまっている不満を利用して、政治家も何かやりたいのだろう。民衆を味方につけるとはそういうことであり、不満が爆発寸前であればあるほど、それをうまく利用すれば急激な変革を成し遂げることができる反面、諸刃の剣で、一歩間違えば文化大革命の時の林彪みたいに粛正されたりして、そういうことやっている政治家自身の立場も危うくなる。今の日本が、そんなのるか反るかの状況でないことは百も承知だが、そのせいぜいがオリンピックの誘致に成功するか失敗するかぐらいのことで大騒ぎなわけで、失敗したら猪瀬東京都知事や安倍総理の政治生命が危うくなるとしたら、何だかたわいのないことであり、くだらなく思えてくるが、あまりその手のメディアが煽っているのを真に受ける気にならないのはもちろんのこと、でも本当にそうなったら愉快な気がしないでもなく、死に物狂いで住民を殺しまくりのアサド大統領などとはまったく次元の違う問題なのだろうが、要するに今の日本の政治情勢は、ぬるま湯に浸かりながらスマホでゲームでもやっている感覚なのか。そしてそのぬるま湯が知らないうちだんだん煮え立ってきて、かつてその手のニュースキャスターが、盛んにゆでガエルとかたとえに出して、警鐘を鳴らしていた状況になるかどうかは知らないが、実際にカエルはゆでガエルにならないうちにお湯から飛び出そうとして、そんなのは根も葉もない作り話であることが明らからしく、かえってぬるま湯がさらに冷えていって、何も起こらずお寒い状況になった方がおもしろいような気もする。それはどんな状況になることのたとえなのか。オリンピックの招致に失敗して、株価が下がって景気も悪くなるということか。でもそれはその手のメディアが懸念していることだ。本当はオリンピックが開催されてもされなくても、その効果は限定的であり、それによって浸かっているぬるま湯の温度が上がったり下がったりするとしても、許容できる範囲内でそうなるに過ぎず、その程度の出来事では決して破滅をもたらすような結果はもたらし得ないということか。では破滅をもたらすような出来事とは何なのか。東南海沖地震とか首都直下型地震とかがそうなのか。東北大震災や原発事故でも持ちこたえたではないか。とりあえずそこに暮らしている民衆の不満がたまったり爆発したりしないうちに、オリンピックや万博などを開催して、不満の方向を逸らしたり、いざとなったら政権交代でも演出して、うまくガス抜きしながら、体制の維持継続を図りながら、何やら改革しているように装い続けているのが、今の日本の現状なのだろうか。そんなわけでどうも現状では危機感を抱くには至らないようで、かえってその方が深刻な何かを見逃しているようで、ヤバいのかもしれない。では君もゆでガエルのフィクションを持ち出しながら、警鐘でも鳴らしてみるか。


9月6日

 現状はとりとめがなく、この世界は果てしなく続いているように思われ、そんな先が見えない穴蔵生活というわけでもないのだろうが、だいぶ時が経ったらしい。相変わらずそこで何を意識しているとも思えない。とりあえず朝は涼しくなってきたが、もう語る時間があまり残されていないようだ。なぜそう思うのか。何か予感がしているのだろうか。予感ではなく事実か。何もないのにそれはない。それは予感でもなく事実でもない。そう記して心の動揺を誘っているわけか。そうする理由がない。それにしても記憶は何を呼び起こそうとしているのか。何かまたネット検索をしているようだが、出てくるのは他の誰かの画像ばかりだ。君ではない。誰を巡って語られているのでもない言葉の連なりを記しながら、誰でもない誰かについて何を語れるというのか。またすべてが否定の連続となりかねない。そうならないようにしたいところだろうが、何となくそんな兆候が感じられ、何かがご破算になってしまいそうな雲行きだ。気がつけば振り出しに戻っている。無意識のうちに何かを忘れ、わざとそうなるように仕掛けているようで、事がうまく運んでくれれば、元いた地点に戻っている。そう願ったわけでもないのにそうなり、また一からで直しで、積み木をひとつひとつ積み上げてゆく作業を余儀なくされ、それが出来上がるのに途方もない時間を要するように思われ、ため息が出る。そして気づかないうちにまたしても何かが起こり、積み木が容赦なく崩され、君は振り出しに戻っているわけだ。どうあっても終わりまでたどり着けないのだろうか。ここでおしまいという気にはなれないようだ。しかしそれは何のたとえなのか。何かの秩序を保とうとしているのではない。何を仕上げようとしているのでもなく、何かの完成を目指しているのでもないらしい。何かを成し遂げたいのはないのか。とりあえずそのつもりになって、取り組んだ方がいいのかもしれないが、そこから何に取り組もうとしているのか。とにかく同じような動作が定期的に繰り返され、何かが壊されては建てられているみたいだ。それが秩序だとは思えないが、そうでなければ何なのか。何でもないわけがないと思いたいところだが、もしかしたら何でもないのかもしれず、それをいったん認めたら、もう何もできなくなってしまいそうで、なかなか認められないと行ったところだろうか。しかし君はそこで何を語っているのか。

 またよくわからなくなってしまったらしい。目下のところすべてから逃げている最中か。そんなはずがないだろう。どこかで踏みとどまっているのではないか。現実に何かに追われているわけではない。しかしそれは誰の境遇なのだろうか。フィクションの中の誰かか。映画やテレビの逃亡者ならいくらでもいるだろう。何を想像しているのだろうか。逃亡者になったつもりで、その場から一目散に走り去った記憶をたぐり寄せるが、その後どうしても横道に逸れてしまいがちになり、言葉を記すのも面倒になって、記述が停滞してしまう。君はなぜ自らやっていることを簡単に放棄してしまうのか。そうならないように辛抱強く努力してきたのかもしれないが、結局そういう成り行きになってしまうらしい。嫌なのだから仕方がなく、いったん嫌気がさすと、遠からずやらなくてもいい成り行きになってしまうのが不思議だが、それは君に備わっている能力の一つなのか。そう思ってみても納得がいかないところかもしれない。そうやって腑に落ちないまま、とりあえずそれはそれとして、嫌な作業を放り出し、どこか遠くへと走り去ってしまうわけか。それは何だか釈然としない結末であり、フィクションだとしても意味がわからない。何がどうなってそうなったのか、説明がまったくなく、そんな要領を得ない言説から何を探ろうとしても、明確な話のあらすじを導き出せるわけもなく、すでに終わってしまったことなのに、それらの事件の顛末は謎のまま取り残され、今となっては何が事件だったのかもわからず、もうすでに忘れられているのかもしれないが、今ここでそれを蒸し返す気も起こらず、そのままどうでもいいこととして片付けられてしまえばいいのだろうか。しかし誰が何を片付けるというのか。君がそれらの不完全な物語を放棄しているだけか。でもそんなに気がかりなら、そこで何が起こり、その後君はどこへ行ったのかが、ちゃんと説明されねばならないと思うが、もう手遅れだろうか。確かにだいぶ時が経ってしまったようで、もはやそれについて記す気力も残っていないか。そういう逃げ方は良くないのかもしれないが、途中からそうなってしまったようで、やはりそれは明らかにしたいことではないらしく、どうしても避けて通ってしまう出来事だったのだろう。ともかく君に告白の義務など生じていないのだから、そういう制度に縛られる筋合いもなく、そこで何を懺悔しているつもりにもなりたくないようで、あくまでも無責任に振る舞い、立ち止まって罪を認める気も起こらず、自分の身に降りかかろうとする罪悪感など無視して、さっさとどこまでも逃走し続ければいいだけなのかもしれない。


9月5日

 どこを見渡しても何もない。そこで何を探しているのだろうか。また雨だ。時折雷も鳴っている。今日はこんな天気なのだろう。そしてどうなってしまうのか。退屈を持て余し、何か適当に考えを巡らしている。何も考えられないのに考える。それは嘘だろう。辺り一面に雑草がまばらに生えている。地面はコンクリートのように固い。誰かが蟻の巣を見つける。空想の世界にしては貧相な植生だ。実際の風景を思い浮かべているに過ぎない。それにしてもとりとめがない。郷愁も何もない。でもそれを否定したくないのだろう。まったくどこへ行ってもポイントカードだ。この煩わしい現象は何なのか。店員もいちいち尋ねるのが面倒くさいのではないか。馴れてしまえばどうということはないか。ならば嫌がらずにもっていないことを告げればいい。それだけのことで買い物に行くのが嫌になるわけでもないか。何に腹を立てているのでもない。どこに不都合な現実があるわけでもない。それがあるとすれば、実力行使で不都合を取り除けばいいわけか。シリアへの空爆が近づいている。空爆したら大変なことになるぞ、とアサド大統領も警告を発しているようだが、ここら辺でアメリカとしても、アフガンやイラクに続く大規模な戦争が必要なのだろうか。空爆だけなら大したことはないか。期限も区切られている。アサド大統領の居場所を突き止めて、そこへミサイルでも打ち込めば、それで終わりとなるのだろうか。それを今から予想したところでどうなるわけでもない。しかし相変わらずの雨だ。誰かが雲が分厚くたれ込めた空を見上げている。どうせまた時が経つにつれて雲は風に流され、晴れて澄み切った空の下で、気晴らしに何かしたいと思うのかもしれないが、それも今から思い描くようなことでもなく、そん場で考えればいいだけか。果たしてそういうことを考える機会が訪れるだろうか。それもそのときになったらわかることだ。どうもそういう思いばかりが先回りしてしまうようで、そんなことを思っている自らは相変わらず部屋の中で引きこもり状態か。もしかしたらそんな状況も、誰かがどこかで思い描いているフィクションの一部でしかないわけか。そのへんは君の想像にまかせるしかない。

 そんなわけでまたいつもの思い込みが作動する。たぶん何かが欠けているのだ。音楽か。軽はずみに何をやろうとしているのか。たぶんそれはフィクションの中での動作になるだろう。架空の人物がどこかで重大な違反行為でもやらかすのか。そう述べて誰を煙に巻こうとしているのか。そこでまたもや吃音に見舞われ、焦ってしどろもどろとなってしまい、やるべきことをやらずに、急いでその場から立ち去ってしまうのだろうか。そのすべては演技に違いない。結局何が欠けているわけでもなく、何もかもが滞りなく執り行われ、それらの架空の劇が君に関係するような内容を含んでいたわけでもなく、当てが外れてがっかりしてしまったのかもしれないが、どうやらさらに時間の経過を早めて、その先で何が起こったのか確かめてみる必要がありそうだ。今見ているそれはビデオ映像か何かの録画で、君は映像を早送りしながら、そこに映っている何かを見つけたいらしい。何かと何か。またそれだ。次第にそれらしき複数の人影が暗闇の中で右往左往しているのが見えてきて、ついにそこで何が起こったのか知ることになったわけか。そんな具合に事が運ぶとは思えない。麻薬の取引でも空想しているわけか。あるいは密輸品の買い取り現場だろうか。そんなふうに話が進むとは思えない。きっと何かの冗談に違いなく、ボロが出ないうちに、そのへんでその話はおしまいにした方がいいのかもしれない。話でも何でもないだろう。ただ中途半端に幻想と戯れ、それで糊口を凌ごうとしているようだが、すでに語る気になれず、その先の話の展開も思い浮かばず、やはり君に欠けているのは想像力だと思い当たり、それもその場しのぎの思いつきかもしれないが、たとえ何が欠けていようと、それを別の何かで埋め合わせなくても、どうにかなるのではないかと高をくくりながら、面倒くさいからさらに時の流れを早め、どんどん話の終わりへと近づいていってしまうのかもしれない。結局君はそこで何を探し当てたのか。ただの空疎な時の流れか。そんながっかりするようなことは言わないでほしいか。では何なのか。それを今から考えてみても何も思いつかないだろう。君はそれらの無駄で無意味な営みに価値を見出せずにいる。自己嫌悪に陥ってしまうだろうか。笑いながらそれはないか。ならば価値とは何だろう。なぜそれらに価値を見出す必要があるのか。相変わらず結論を得られず、話は宙づりになったまま、後にも先にもも進まないらしい。焦れったくなり、あきらめてしまいそうになる。もういいのではないかと思う。そのまま話を進めても、ありふれた結末を迎えるだけか。ならばいっそ宙づりのまま放棄してしまった方がよさそうだ。どうせ君はこれから体験する出来事を前もって予言したつもりになっているわけだから、今は黙っていた方がいい。


9月4日

 またこれだ。この感覚は何なのか。具体的にどんな感覚なのか説明できない。外では雨が降っている。何かが雨を降らせているのだろうか。何かと何なのか。雲と気圧配置か。そういう天候なのだろう。誰が雨を降らせたがっているわけでもない。台風でも近づいているのだろうか。天気図的にはそのようだが、どうせここまではやってこないだろう。竜巻が別の地域で発生して被害が出ていていたらしい。一難去ってまた一難と言うではないか。何が一難なのかわからない。相変わらずおかしな表現だ。君にとっては雨天が不都合なのだろうか。別に不都合というわけでもないが、できればこの地域が秋雨前線の北側に入って、今よりもっと涼しくなってほしいのではないか。もう暑いのはごめんか。蜘蛛がまた壁を這っている。この環境では獲物を見つけることは不可能なのではないか。でもまだ生きているのだから、何かしら獲物がいるわけだ。埃にまぎれて小さなダニでもいるわけか。しかし雨と蜘蛛とダニの話では盛り上がらない。でもそういう話の成り行きらしく、何だか否定作用が骨身に染み付いているようで、ここからの軌道修正は容易でない。そんなことはできないのではないか。でも君はそれ以上の何かを求めている。ちなみに不都合な現実とは何か。実現不可能な未来とは何か。そんな問いは無効か。安易にふざけるべきではない。それもわかりきったことだ。良くなる可能性がないように思えるが、何かきっかけがほしいところか。そういえばようやく倦むという漢字が読めるようになった。意味としてはだいたい想像はついていたのだが、なかなか漢字が読めなかった。要するに飽きるということだろう。それにしてももう記述にも飽き飽きか。久しぶりに紅茶の香りと味がするが、それはペットボトルに入った液体でしかない。

 たぶん現状では表面的には全世界が監視と規律社会に覆われているのだろう。それが果たしてどこまで有効なのか定かでないが、とりあえず自由と民主主義の国を標榜しているアメリカなどでも、平然と国家ぐるみでインターネットを監視していて、国内外の様々な公的私的機関に対する盗聴活動などもやっているようだ。ただ中国や北朝鮮などのように、あからさまな検閲はしていないところが巧妙で、そんなことをやらなくても国内の治安を保てるところが、アメリカの強みといえるのかもしれない。だてに世界の警察を自認しているわけではないか。まあそのへんは日本などもうまくやっている方なのかもしれず、民間業者に自主検閲を求めるような空気を醸し出し、また社会のモラルに反するような画像や投稿などがネット上に出回れば、すぐさまそれを自警団気取りの密告屋が嗅ぎつけてきて、炎上とかいう攻撃を繰り返して、情報を発信した個人をつぶそうとするわけか。笑ってしまうが、笑い事で済ませられるところが日本の強み?だろうか。その一方で、そういうことがうまくいっていないエジプトやシリアなどでは、本物の武力衝突で多数の死傷者が出ている。彼らはやり過ぎなのだろうか。民衆を弾圧しなければならない状況を作った時点ですでにおしまいか。というか政府が今まで独裁体制の上にあぐらをかいてきたから、国民に対する監視と規律の押しつけが不十分だったのではないか。それ以前に押し付けるやり方が技術的に未熟だったのかもしれない。国家が国民をただ一方的に抑圧するだけでは、まだ監視と規律社会の成立が不完全で不十分ということだ。民衆の方が自主的に規律を守るように相互に監視し合うような状況にもっていかなければならず、そのためには飴と鞭の飴の方である、経済的な豊かさやゆとりをもたらさなければいけないところだろうが、それがうまくいかなかった結果、政府に対する民衆の不満が爆発して今や内戦状態というわけか。それでも国家や軍の上層部の人たちは、国民を監視と規律で縛り付けようとして、自分たちに逆らう者は容赦しない態度を取ることで、何とか地位や立場を死守したいのだろうが、すでに収拾がつかない状況なのだから、何をやってもうまくいくはずがなく、いったんそうなったからには、弾圧する側も抵抗する側も死に物狂いだろうから、どちらも当分は引き下がるわけにはいかない。欧米諸国もまだ検閲しなければ国内の治安を保てないロシアや中国の抵抗にあって、下手に手出しはできない情勢のようだ。


9月3日

 何か方法があるわけでもなさそうだ。わかるための方法を探しているわけでもないのだろうが、とりあえず誰かがそういう語り方に満足していない。でも状況と何なのか。未だにそれか。たぶんわからなくなってしまったのだろう。そんなわけでまたこうなってしまい、どうなってしまったのでもないと思う。ただ今日も暑い。それで切り抜けたつもりになっているのだろうか。つもりではなく、本当に切り抜けてしまったのかもしれない。結局切り抜ける方法など何もなかったのかもしれず、ただ迷路の中で右往左往していればいいだけだったのかもしれない。しかしそれで切り抜けたことになるわけか。疑問に思うのは無理もないが、実際にこうなっているのだから、それは仕方のないことなのではないか。ではいったい結果としてそれらの状況はどうなっているのか。眠ってしまったようだ。意味がないか。無駄なのだろうか。思考を無駄に費やしている。それが何の役に立っているというわけでもない。やはり無意味なことだ。しかし何かを探り続け、未だにその何かにとらわれていることは間違いない。ではそのとき切り抜けたと思ったのは何だったのか。思い過ごしか何かか。それが行き詰まりというのなら、それ以外でもいつでも行き詰まっているはずだ。ではそれらの現象をどのように捉えたらいいのか。

 その中である程度はうまくやってきたはずだが、どこかで躓き、いつの間にかそれらの外へと弾き出され、そこで外部の自由を得て、何もせずに言葉を記しているのかもしれないが、それが今に至る何かを示しているとも思えず、嘘偽りでその身を固め、何とか行き詰まりをやり過ごしたつもりになり、続けられない記述を続けているように装い、続けるための方法を模索しているような気になるときもあるが、それこそが間違いで、実際に続けられないから行き詰まっているのだろう。でもそれは行き詰まっているふりをしていることになり、続けられないのに続けている最中で、たまにはそんな気分になるらしく、またそこから何かが逃げてしまい、あとからそれを取り逃がしたことに気づくわけだ。

 何に気づいてわけでもないのにそう思い、実際に何を取り逃がしているわけでもないのに、すべてを取り逃がしたような気になって、あわてて書物を読み返すが、その内容を理解できず、また夢の中でそうなっているのではないかと思いつつも、たぶんそれが夢でないことなどとうにわかっていて、あえてそう問うこと自体が、くだらぬごまかしであることも承知しているのに、そんな見え透いた嘘を文と文の間に差し挟みながら、何かを幻惑しようとしているのかもしれないが、悪あがきもいいところか。そんなわけでますます状況の混乱に拍車がかかり、何が混乱しているのかわからないまま、ともかくここが何かの分かれ道のような気がしているわけか。しかし状況とは何なのか。何もない状況が混乱しようがなく、それでもわけがわからないことにしておいて、そこから逃げるわけにはいかない、というのがそこでの状況か。何だかくだらなく思えてくるが、それで一件落着ということか。ごまかしに違いない。

 そしてさらに頭の中がごちゃごちゃしてくる。何について語ろうとしていたのか忘れてしまい、本当はもとからそんなつもりではなかったのかもしれないが、要するに語れなくなり、迷っているうちに見失いかけた何かの断片を、今さら探し出そうとしているのではないだろうが、そんなあてのない探索に一縷の望みを託してしまうこと自体が、何やら末期的な症状を示しているような気がして、またそうではないようなケースを想定しながら、そこから密かに遠ざかろうとしているのかもしれない。また逃げ出すつもりなのか。いったいどこから遠ざかろうとしているのか。そんなあてのない逃避行に何か特定の目的を押し付ける気にもならず、たぶん何がやりたくてそんなことをやっているわけでもなく、何もやる気がないわけでもないのに、何かやっているように見せかけたいのかもしれないが、今のところはそれが功を奏しているとも感じられないのだが、まあ冗談の続きといえばそうなってしまい、そのへんで退散した方がいいのかもしれない。要するにまた逃げているわけか。まったく逃げられないのに逃げる素振りばかりが目立ち、かなり鬱陶しい状況となりつつあるようだが、でも自業自得であることに変わりはなく、仕方のないことなのだろう。

 ところでそれに関して君は何か見当外れなことを述べているのだろうか。またそうやって話を蒸し返そうとするが、それが悪あがきでしかないことは一目瞭然で、まだその先に記述を続けようとしていること自体が間違っているのかもしれず、何だか止めどなくそのへんに空疎が溢れ出してしまうような気がしないでもないが、ともかくその気になっているので、さらにわけのわからないことを語ろうとしてしまう。まさかそれが延々と続くわけでもないだろうが、とにかくきりのいいところで終わらせなければならず、何とかそのきっかけを探っているうちに夜が明けてしまい、そんな虚構を思いつくわけだが、それらのないが虚構なのかもわからず、ふとした拍子に現実の世界へ戻っていることに気づき、そこで目を覚ましたのかもしれないが、相変わらずの現状だ。目の前には別に荒野が広がっているわけでもなく、ソファーに座りながら天井を見上げれば、そこに蜘蛛が這っているわけでもなく、たぶん何を見失っているのでもないことに気づく。見えているのは普段の光景なのだから、驚くには当たらない。君がそんな幻想を繰り返し抱いているとしても、それだけのことなのだから、それ以上でも以下でもないということか。わかってしまえばそんなことだ。


9月2日

 どうも否定的なことを記してしまうが、これも自らの弱さの表れか。たぶんすべての現状を肯定しなければならない。屁理屈だろうが何だろうが、使えるものはすべて総動員して現状を賛美するのか。それはあり得ないか。あり得なくてもそうすべきなのかもしれないが、すでに思い描いていた妄想が砕け散り、その破片が心に突き刺さり、その痛みに耐えられず、苦しみもがいている最中なのではないか。そんな冗談のような光景を思い浮かべ、本当は何も思ってもいないのだろうが、それ自体が妄想なのかもしれず、それ以前に何を記していいのかわからず、とりあえずそんなどこにも出口がないような迷路の中で、また右往左往しているつもりになっているのかもしれないが、そういつもいつもつもりばかりで、実際には何もやらずに、妄想ばかり抱いているのもおかしなことで、そんなことはあり得ないのかもしれないが、それでも苦しんでいるふうはないようで、それで何を肯定していることになるのかわからず、そのつもりになればいいということでもなく、何を肯定しているとも思えないまま、強引に何かを肯定しているつもりで、言葉を記せばいいのだろうか。なぜそうしなければいけないのか。少なくとも疑念を抱くようなことではない。取り立てて理由などなく、理由がないままそこにとどまり、そこで理由もなく何かを記そうとしているわけだ。そんな理由はあり得ないと思いながら、理由という言葉を繰り返し記しているに過ぎない。要するに何を語っているのでもないらしい。そして話は振り出しに戻り、躁のあとは鬱がやってきて、そこで誰かがしばらく黙り込む。そんな具合に状況は推移して、やはりここは迷路の中だと感じるのかもしれない。でもそれがどうしたわけでもないのだろう。結局はそこに行き着き、そこから先が出てこないことに業を煮やし、それを超える何かを思いつこうとするが、何だか馬鹿げたことを述べているように思われ、そこで何かが途切れてしまうのかもしれない。安易なことはいくらでもいえるのだろうか。でもその安易さに安住してしまうのも退屈だ。何も出てこないなら、そのまま何も出てこない状況を言葉で記せばいい。それも安易な選択かもしれないが、それを安易でないように感じさせなければならないのか。それは無理というものか。しばらく前から何かに圧倒されているようだが、それは他の文章なのかも知れない。

 でもそれも読み終わり、さらに言葉を記してゆくが、どうもいたたまれない。苛立っているのか。そういう表現は否定的であり不適切だ。安易な否定ならすぐにでも記せるというわけか。何を語ろうとしているわけでもないに、すぐにそれを否定してしまう。何か語っているつもりらしい。それは気晴らしにも気休めにも結びつきそうにない何かだ。それについて何も考えるわけにはいかないのか。たぶん考えているのだろうが、たわいのないことだ。そのとき何を思いついたのか、それを思い出そうとしている。考えあぐねているのではない。そのまま遠くへ走り去っていってしまったのかもしれないが、その時の記憶が定かでない。勘違いしていたのだろうか。そこに見えている物体がそうでないものに見えてしまう。それも思いつきの何かだ。それでも思いついたのだから語ってみたらいい。勘違いしていると思うなら勘違いのままでいい。それ以外は思いつかないのだろうから、その思いつきを語ればいい。まさかそれがこれだとは思うまい。しかし本当にこれなのだろうか。現状に対して何か復讐心でも生まれているのだろうか。それが現状の否定へと導き、時折皮肉混じりの嫌な言葉が発せられてしまうわけか。それもつまらない成り行きには違いないが、それ以上の何が求められているわけでもなく、そんな現状を馬鹿にしつつも、その中へとらわれてしまう現状を打開できないまま、ひたすらそこへとどまっている現状があり、たぶんそうではないような現状を想像できず、そんな現状に苦しみのたうち回り、本当はそうではないのに、そんな言葉を記してしまう現状に呆れ果て、それも嘘のように感じられ、君は現状を言葉で捉えきれていないことを自覚するが、まさかそれが現状のすべてを物語っていたりするわけか。どこまでいっても現状ばかりが語られ、それ以外は何も語れないような現状が続いてゆくが、これでも現状を否定的に捉えていることの証しとなるだろうか。たぶんそういう認識でかまわないのかもしれないが、一方でそうではないような現状を空想してしまい、そうではなくなるような可能性を模索している現状があるわけか。それはありもしないことだ。ではやはり記しているのはどこまでも現状なのか。現状であり続け、同時に空想の上の現状であり続け、ありもしない現状でもあり続ける。でも結局それが現状だと思うしかなく、そんな現状の中で現状について思いを馳せ、記された言葉が今の現状を物語っていることに唖然とするでもなく、当然のことのように感じられ、そんな当たり前の現状に直面しているわけか。何だかきりがなく、すでに疲れてしまっているようだ。


9月1日

 現状はすでにこれだ。これでも闘争の最中か。ただ漠然とそうなのかもしれない。見えない敵でも想定しているのか。そんなはずはない。味方が敵なのか。何を混同しているのか。考えるとますますわからない。あらゆるところに権力がある。蔓延っている。考えてみればそういうことだ。とっかかりがない。そもそも世の中の仕組みを変えようと考えること自体が無理なのか。誰もが変えようと試みているのではないか。少なくともこれでいいとは思わないだろう。でも結局は功利主義なのかも知れない。生きてゆくのに精一杯だ。ゆとりや余裕があったら仕事をしなくなってしまうか。まあ結婚して子供が生まれて家をローンで購入でもしたら、嫌でも仕事をせざるを得ない。子供の頃から延々とそういう価値観を刷り込まれてきたのだから、それが当たり前だと思うし、そうなって当然なのだろうが、中にはそうなりたいのに、そこまで至れずに苦しんでいる人もいる。それも競争なのだろうか。要するに幸せ競争ということか。そして家庭では子供や配偶者に権力をふるい、学校では教師が生徒に権力をふるい、会社では上司が部下に権力をふるう。そうやって力のある者がない者を従わせようとする。そんな権力闘争の中でみんな生きているわけだ。要するに誰でもそれなりに権力をふるう機会があるわけで、ふるっている間は王様気分になれる。でもそうやって威張っている人は見苦しい。嫌な感じがする。そんな世の中を変えるのは不可能か。階級闘争といったところで、階級の中でも権力闘争があり、内ゲバみたいなことをやっているうちに、革命も何も実行不可能となってしまうわけか。笑ってしまうが難儀なことだ。マルクスは資本主義は貧困を作り出すとかいったそうだが、このまま低所得者層がどんどん増えていって、結婚して子供を産んで家を建てる、とかいう夢が実現不可能となってくれば、いよいよ資本主義もヤバくなっていってしまうのだろうか。それともそうなればまた別の価値観を刷り込めばいいわけか。人手不足なら労働はロボットにかませて、人間はマネーゲームでもやっていればいいことになるのだろうか。そうなるとマネーゲーム用に通貨供給量ばかりが増えていって、実際に物を売ったり買ったりすることの意味がなくなり、毎日相場が映し出される画面とにらめっこしているうちに、周り中が機械だらけとなり、もはや人がいなくても世の中が回っていってしまうだろうか。そしていつの間にか地球上から人類が消え失せ、それでも延々と自動的に株式や為替の売買が行われ、実際に株価や為替レートが変動し続け、それ自体で何かやっているようなことになるわけか。そうなったらおもしろいだろうが、果たしてそこまでいくだろうか。いくわけがなく、冗談の域を出ない話か。

 たぶん人はのんびり暮らしたいのだろう。できれば一生遊んでいたいのではないか。レジャーを楽しむ時間がほしいのだ。古代のローマ市民のように遊興娯楽だけの人生を送りたいのかもしれない。あるいは何もしない時間を過ごしたいか。鎌倉の禅寺で座禅でも組めばいいのか。そしてそれに飽きたら趣味に興じたいか。世界旅行に旅立つのもいい。オーストラリアに行ってエアーズロックを見たり、南極大陸まで出かけて行ってペンギンと戯れたり、ラスベガスやマカオまで行ってカジノで賭け事をやったり、ルーブル美術館や大英博物館などを見て回り、アルプスやロッキーやヒマラヤの絶景を眺め、マチュピチュやイースター島やガラパゴス諸島にも行き、あとは万里の長城で記念撮影でもすればいいのか。そして世界各地で撮った写真や土産物で自分の部屋を飾り立て、思い出に浸りたいのだ。金と暇さえあればそんなことをやりたいのではないか。そのためには仕事をして金を貯めなければならないか。その手のメディアもそれを煽っている。だがそれらを全部やるには相当の金持ちにならなければならず、実際になれるのはほんの一握りの人たちだろうから、とりあえずそこまでやらなくても気が済むように、我慢すべきところは我慢して、世界各地の観光名所の画像ならネットからダウンロードして、当地の土産物ならネット通販で買えばいいだろう。アマゾン辺りなら売っているかもしれない。そんなことをやらなくても、そういう光景を画面上で見ているだけで気が済んでしまうか。そういうわけでだんだんやっていることがしょぼくなり、終いには飽きてどうでもよくなってしまうかもしれない。結局娯楽も仕事もたわいない。そう思ってしまうと、あとは引きこもり人生でも待っているわけか。くだらぬ空想を働かせているようだが、take it easy となるしかないらしい。世界の最果てにウエストコーストがあり、そこが人にとってのパラダイスのようで、たぶんまた冗談でそんなことを述べているのだろうが、そこに行けばどうにかなるらしく、どうにかなったついでに、内陸の乾燥地帯で乾涸びて、そのへんに散らばっている牛の骨と区別がつかなくなってしまう。また意味不明なことを述べているみたいだが、どちらにしてもすべては消え失せる宿命なのか。何がどちらなのかわからないが、何が消え失せようと知ったことではなく、やれる範囲内でやるしかなく、偶然の巡り会わせと、その時の気まぐれによって、そこから大きく逸脱してしまう時もあるだろうが、そうなったらなったで、腹をくくって、そういう成り行きの中へその身を投じて、そこで何かやってみるしかない。でもまあそうなる気配を感じているわけでもなく、予感があるわけでもないので、今のところはこのままのようだ。


8月31日

 何とかここまで来れたが、まだ何か語れるのだろうか。たぶん語れなくても語ってしまうのだろう。たまに語り損ねたりするが、それはご愛嬌で、何を語りたいのかもわからないふりをしながら、それでも語っているはずだ。そんなわけでさらに語ってしまう。君にはそれが必要なのだ。そう自分に言い聞かせながら語る。そこに語る理由を見出そうとして語る。そこから抜け出るきっかけを探しながら語る。そしていくらでも語ろうとしている。今日も暑くなるらしい。台風が近づいているようだ。だからあまりその気にならない方がいい。静かにしている方が無難だ。そうやって自らに何かを語りかけている。確かに世界は不可能に満ちあふれているが、そう思わなければいい。気まぐれにそう思う。そこに語る可能性がありそうだ。今日もどこかが外れている。何かが崩れ落ちそうに見えるだろうか。そんなはずがない。ご大層なことだ。建築も何もありはしない。砂上の楼閣を見ているわけでもない。まだ雨も降っていない。何か降ってくる気配はない。何かが戻ってくる気配もないようだ。探し求めているのはそれとは違うらしい。ものなのだろうか。ものではなくことか。出来事とは何だろう。出来事を利用しなければならない。なぜそう思うのか。越えるべき壁もなく、何が障害物となって行く手を遮っているわけでもない。そのまま歩いてゆけばいい。そこで何か思いついたのかもしれない。それはいつのことなのか。だいぶ昔のことらしい。今は思い出せないようだ。たぶん記憶の中でそれらが何らかの物語を構成していたのだろうが、どうせたわいのないことだと思ってかまわないのだろうか。面倒な成り行きは避けて通ろうとしているわけか。面倒でなければ戯れに思い出してみればいい。そのうち思い出すだろう。嫌なことは記憶に残っているものだ。気を取り直して言葉を記す。何も語っていないわけではないらしい。たくさんの言葉が画面上に並び、それを誰かが読んでいる。処理の仕方は多種多様になり、様々な組み合わせを想像させ、それに応じて意味も変わってくる。そんなふうに思えるなら、なぜか気が楽になるだろうか。なぜかとはなぜか。疑念を感じるのならどうしたらいいのか。

 あまりにも長くこだわりすぎている。気が変わってしまったのか。飽きっぽい性格だろうか。そうだとしてもこれはない。ではここから問題だ。まさか架空の設問に答えようというのか。それはないが、何か問題なのか考え込む。そういうやり方で凝り固まり、答えに窮し、八方ふさがりとなってしまうのか。それはないだろう。いくら答えが見つからなくても、それでも何か見つけたはずだ。答えとは違う何かを見つけている。それは探していたものではなく、偶然に見つけた何かか。そうだとしても、それが気休めになるわけでもなく、気休めを求めているわけでもない。では何なのか。結局はそういうことになる。雑なことを述べているだけのようにも感じられ、何だかどうでもよくなってしまうのではないか。それはいつものことらしい。離れ小島に取り残され、ロビンソン・クルーソーになったような気分か。そんな妄想を抱いてみても現状は変わらない。そのへんで右往左往しているようだが、そこは迷路ではない。しかしいつどこで君は目を覚ますつもりなのか。まだそのタイミングではないらしい。そして何を誤解しているのでもなく、ここは夢の中ではない。こことはどこなのか。部屋の中であることは確かだが、そこから空想を働かせた先にここがあるわけか。何とも回りくどい表現だが、要するにここはフィクションの中なのか。フィクションですらなく、ここという言葉が記された文章上にここがあるのかもしれないが、さらにくどい言い回しになっているようで、また例の悪循環が始まっているのかもしれない。心の中でか。あるいは実際の文章上でだろうか。どちらにしてもたわいないと感じられ、記している内容も空疎だ。それでもここから何か思い出すのだろうか。思い出したところでもう遅いか。それを書き留める気にはならない。すべては停滞したままで、一向に動き出さず、その気配さえ感じられない。そんなことはないだろうか。君は何かを忘れているらしい。そう思われてならないが、思い違いなのだろうか。別にどうかしているわけではない。たまに思い出す時もありそうだ。その機会を捉えてそれについて記せばいい。今がそうしている最中なのか。そんな気がしないようだ。

 何かに影響を受けながらも、その何かに反発し、結局独りよがりで自分独自の何かを構想しようとしては失敗し、あきらめてそこから遠ざかろうとしている。何か置いてきぼりを食っているような感じだ。そんなはずがないと思いながらも、そんな感触を振り払うことはできない。そうやってそこにとどまろうとするが、とどまりきれずに流され、流れ着いた先がここなのか。でもここは無人島ではあり得ない。相変わらず部屋の中にいて、断続的に間欠的に言葉を記している。そう思ってしまうらしいが、それがどうしたわけでもなく、何を弄んでいるとも思えず、さらにその中に埋め込まれているように思え、外の暑さに負けてしまいそうで、尻込みしているようで、なかなか部屋から出ようとしない。君はそれを利用しなければならない。状況を逆手に取って、取ったつもりで、また後は野となれ山となれなのかもしれないが、それほどやけくそになっているわけでもない。そこで何が読まれようとしているのもない。もうすでにここまで読んできたのではないか。それも違うだろうか。ここから何か的外れな批判を繰り返すつもりか。そんなつもりにもなりたいところだが、他にどんなつもりになりたいのか。すべては何かのゲーム上で起こっている出来事なのだろうか。君は何を賭けているのだろう。まだ掛金があったのか。それほど何かに不自由しているとも思えない。それを今も何かに賭けているのかもしれない。そして何かになることを目指しているのか。しかし何かとは何なのか。まさかならず者になることか。今でさえそうなのかもしれないのに、改めてなるようなものでもないだろう。しかし他に何も思いつかず、それ以上の何を求めているわけでもないらしいが、そのへんで独白もどきをやめて、もっと何かまともな内容を求めているのかもしれない。要するにそれは無い物ねだりなのだろうか。何だかわからないが、このまま終わってしまいそうになってきたようで、それはそれとして受け入れなければならない成り行きのようだ。とりあえずここまでやってきたのだから、前向きに受け取っておくしかないだろう。内容はどうあれ、よくぞここまで盛り返したものだ。そういう成り行きを否定してはならないようで、やがて何かをもたらすことを期待しながら、ひとまず閉じておこう。


8月30日

 少し行き詰まってしまったようだ。何かそれとは違う可能性を提示できないか。あまりにも内容が否定的だ。独りよがりなのかもしれない。それにしても馬鹿げている。そんな言葉しか思い浮かばないが、それでかまわないのか。誰に同意を得ようとしているのでもない。どうかしているらしい。どうもしないのにこれでは先が思いやられる。その先に何が続くのだろう。続かないのかもしれない。続けられないということか。たぶんそうだ。嘘でない。嘘かもしれない。どちらなのか。それはこれからわかることか。そこで何かがやり取りされているようだが、会話なのだろうか。それは空想上で繰り広げられた会話か。また夢でも見ていたのか。しかし人々は何を求めているのだろうか。革命か。冗談に違いない。どうしても笑ってしまう。急には無理だろう。くだらぬ妄想に違いない。でも無理だから妄想を抱くのではないか。意味のないことだ。しかし空想上の会話の内容がどうしたのか。なぜそれを記さないのか。記したくても記せないということか。どうせまた何も思い浮かばないのだろう。ゴミ箱へ何かが投げ捨てられ、それがゴミの役割を演じているように思われ、覗き込めばただのゴミだとわかる。冗談にもなりはしないか。しかし頭の中で言葉と内容が結びつかず、やはり行き詰まっていることを悟り、どうしたものかと考えあぐねるが、それだけのことだ。かつて考えていた人々は老いるか死ぬかして、まともに思考を働かせられる人はほとんどいなくなり、世の中を冗談のような虚無が覆い尽くしていると感じられ、暗澹とした気分になるらしいが、逆にそれは無視できるようなことなのか。君はそこで何を無視しようとしているのか。またそれだ。だから冗談となってしまう。くだらぬ成り行きだ。それでは意味がない。当然のことらしい。そしてまたいつものように話は振り出しに戻り、気がつけば何かを反復しながら言葉を記している。何かとは何なのだろうか。そういう問いそれ自体なのではないか。

 それでも問い続け、やがて答えが見つかるような気がしているから、なおも問い続ける。それは悪循環だろうか。いい加減にあきらめたらどうか。どうせ半ばあきらめているのだろう。でも完全にあきらめていても、まだ問い続けているのかもしれない。あきらめるか否かとは無関係に問い続ける。それでは話にならないか。なってもならなくてもどちらでもかまわず、とにかく問い続けなければならないらしい。この世界はどうなっているのか。たぶんどうもなっていないのだろうが、どうなっているのかと問い続ける。それを繰り返すことから何を生じさせようとしているのか。問いを生じさせている。他に答えなどありはしない。きりがないから答えなど求めない方がよさそうだ。さらに問い続ければ、悪循環にはまって、そこからなかなか抜け出られなくなり、嫌になってしまう。笑っている場合ではないか。気を取り直してさらに言葉を記すとしよう。しかしこの状況は何なのか。何でもないといえば何でもなく、何か語ろうとすれば、必ず空疎な問いかけが記されてしまう。それで何を語っているつもりなのか。しばらく考えてみるが、答えなど見つかるわけもなく、また次の問いが発せられる。この世の中は何なのか。漠然とそう問い、答えに窮して、いいわけを並べ立て、それで納得がいくはずもなく、さらに問う。相変わらず無駄に問い続ける悪循環から抜け出せない。何かを無駄にすり減らしている。何を消耗させているのか。またそんな問いで切り抜けようとしている。さすがにたまらない状況になってきた。業を煮やしてでたらめに突入してしまうのか。それは避けなければならない成り行きか。でも避けようがない。悪口やら皮肉やらをぶちまける人はネット上にいくらでもいて、批判という言葉で検索すれば、そんな言葉がひしめいているはずだ。果たして君たちは批判という言葉を使って、誰の悪口を掲示板のたぐいに書き込もうとしているのか。またしてもそんな問いか。そのうち嫌気がさして、今度は他人を褒める方に全力を傾ける成り行きとなるだろうか。でたらめだ。君たちには通じない。君たちが誰でもないからそうなのか。特定の誰それを指すわけではなく、それは君たちという言葉でしかない。

 どうも今日はだめらしい。まあネット上の有名人批判を読みながら、君がそれに追加して何を批判しても始まらないことを実感して、そのついでに朝まで生テレビ!とかいう番組がまだやっていたことを知る。みんな相変わらずの討論を繰り返しているのだろうか。東浩紀とか十数年前と比べるとずいぶんと太ったように見えるが、彼は何を語っているのか。テレビがないからわからない。確かデリダがどうしたこうしたという書物を出していたはずだが、どうも今はそういうたぐいの話はしていないような感じだ。とりあえずネットから得られる情報からは、その学歴というか経歴がすごそうだとわかるが、彼が今何を語っているとしても、どうせ君には興味のない話か。そういえばネットで東とともに話題に上がっていた大阪の橋下市長も、従軍慰安婦という地雷を踏んでからは、その勢いを完全に失ったみたいだ。しかし維新の会とは何なのか。公式的には坂本龍馬に影響を受けている集団なのかもしれないが、どうも実際にやっていることは、その手の小説だのテレビドラマだのに登場する龍馬像からかけ離れているようだ。その手のフィクションの中で龍馬が何をやったのかといえば、薩長同盟を成し遂げて、日本を明治維新へと導いたことになっていたはずで、これからは薩摩も長州も幕府もなく、一つの日本としてやっていかなければならない、という広い視野の持ち主だったという物語設定だった。そこから空想を働かせて考えれば、今の時代に坂本龍馬が生きていたら、当然のこと広い視野の持ち主で、これからはアメリカだとか中国だとか日本だとかいがみ合っている場合ではなく、一つの世界としてやっていかなければならない、となるのではないか。幕末の龍馬が日本の統一を願っていたなら、今の龍馬なら世界の統一を願うところか。それなのに維新の会は、未だに国家主義の呪縛から抜け出られずに、何だか憲法改正とか国防とか狭い範囲内で右往左往している状況か。まあ世界に出て行ってどうしたこうしたとなると、橋下氏では力量不足なのかもしれないが、日本国内で保守派の老人たちと徒党を組んで、侃々諤々をやっている程度なら、まだ通用する範囲内なのだろうか。


8月29日

 また空疎な手探り状態となるが、それでもうまくいっている方なのだろうか。何がそうなのか。誰が知っているようなことでもない。急いでいるわけではないのだから、現状からあまり何かを引き出すべきではないのかもしれず、とにかく限られた資源を有効活用しなければならない。妄想も空想も無尽蔵ではないということか。そう思っていること自体がよくわからないが、また急いで何を引き出そうとしていたのか。そのとき何をやろうとしていたのか思い出せないが、たぶん夢を見ていたのではない。でも他に何を見ようとしていたのでもない。それは視覚から入ってくる情報ではないらしい。触覚か何かか。何かの感触なのだろう。それでまた検索か。意味がわからないか。まだ漢字が読めていないようだ。もういい加減に他人に媚びようとするのはやめた方がいい。浅はかこの上なく、皮肉や冗談の連発となるしかない。取り立てて何を求めているのでもないのにそれはないか。空は曇り、雨でも降るのかも知れない。まったく懲りていないのかもしれない。そのへんで気持ちが停滞している。そして抽象的な言い回しとなり、いつもの意味不明へと還っていく。言説がそういう流れなのだ。でも際限がない。だらだらと無駄に語ってしまう。

 日々の話題に安易に飛びつくのもいかがなものか。でもそんなところからありふれた認識が生まれる。要するに今の日本でプロレタリアートといえば、コンビニや飲食チェーン店やスーパーなどで働くバイトな人たちということか。工場労働者や運送業者などとともに、そんな人たちが低賃金で働かされているわけか。またブラック企業といわれる衣料品チェーン店のバイトもあるだろうか。バイトでなくても店長などは、長時間勤務やサービス残業を強いられ、過酷で悲惨らしい。でもそれをどうしろというのか。別にそれに関して主張すべきこと何もなく、人を低賃金&パートタイムで働かせて、統括会社が儲けていることを批判する筋合いはなく、統括会社の社員でさえ、下っ端の人たちは過酷な労働を強いられているのではないか。そんな事例など他にいくらでもあるだろう。そうやって無理なところを立場の弱い人たちがちょっとずつ分担し合うことで、全体として何とか社会が成り立っている。そういう仕組みを誰が変えたがっているのだろうか。何だかどうしようもないような気がしてしまい、結局は先進国だの何だのといっても、実態はその程度のところなのだろう。階級闘争も何もありはしないか。逆にバイトは多くを望まず、マニュアル通りに言われたことだけやればよく、無責任の事なかれ主義に徹すれば楽な仕事か。何にしても一長一短はあり、苦労して成功を手にした者にはそれなりの自負があり、その主張にも説得力があるのだろう。

 それでも何か不都合な点があるのだろうか。そうなってしまう必然性を覆さなければいけないのか。それはかなり無理なことだ。貧乏人は安い商品にしか手を出さず、金持ちならこれ見よがしに高級品を買い漁る。誰もが背伸びしたいのだろうが、安月給なのに無理してローンで高い買い物をすれば、借金地獄が待っている。そんな当たり前の認識でいいのか。そういう当たり前の成り行きを打ち破るには、賭けに打って出なければならない。試練に身をさらし、障害を克服して、難局をうまく切り抜ければ、栄光やら成功やらが手に入るわけだ。それも当たり前の認識か。どうもそういうありふれた認識から抜け出られない。君たちは何から抜け出ようとしているのだろうか。とりあえず下っ端で働いている人たちにもそれなりに不満はある。何よりも命令される立場なのが気に入らない。気に入らなければ悪ふざけの一つもしたくなるか。それではモラルがないといえばそういうことになるが、そういうモラルを押し付けてくるのも、上からの命令として受け取れば、やはりおもしろくないだろう。そうなると結局は無理ということになりそうだ。よく学校で先生が怒り出すまで悪ふざけをやめようとしない生徒がいるだろう。そういうかんかんに怒っている先生を見ながら生徒は、内心やったー!と思っているわけだ。また先生が気づかないように、同時に仲間の生徒にはわかるように悪ふざけをやって、ざまあみろと思うこともあるかもしれない。そういうのもたわいのない階級闘争のうちに入るのだろうか。それともありふれた冗談のうちか。


8月28日

 また何か夢でも見ていたらしい。でも大したことはない。どうということはない内容だ。そして気づいてしまうわけだ。自己顕示欲の表れか。あんなことをやっているわけだ。どういうことでもなく、あんなことだ。とりとめがなく、漠然としているのはいつもの通りだ。まだそこから十分に離れきっていないらしい。危うく自分を信じられなくなるが、それでもかまわないのだろうか。でもちゃんと説明できないようだ。意味がないのかも知れない。やっていることがそうなのだろうか。ではいくらやっても無駄なのか。そうかもしれないし、そうではないのかもしれない。相変わらずどちらでもかまわないようだ。今のところはそういうことだ。いつまで経ってもそうかもしれない。これはもうどうしようもないことだ。どうやってもこうなってしまう。しかしもう後戻りはできない。後戻りすることがどういうことなのかもわからない。だからこうなってしまうのか。だからというわけではないか。様々な出来事積み重なり、いろいろな思惑が交差して、闘争を繰り返し、それに打ち勝とうとして、跳ね返され、すでに何を語っているのかわからなくなっているはずだ。たぶんそういう成り行きなのだろう。それ以上の解釈は不要だ。そしてまた現実の世界に戻ってくる。何が変わったわけでもない。少し眠っていたようだが、どうでもいいことではない。さらに考え込んでしまうが、やはりそれがどうしたわけでもないのだろうか。人々は何に逆らっているのだろう。些細な抵抗がゲームと化し、それが広まって流行現象となり、何となく愉快な気分を増幅させている。くだらぬ連中が互いにつぶし合い、消耗戦を繰り広げているわけか。ご苦労なことだ。でも楽しいのだからやめられない。突き放してみても酷だ。みんなおせっかいを焼きたいのだろう。だから楽しくて仕方がないのか。それも面倒なことか。他人の足を引っ張ることに全知全霊を賭ける人もいるらしい。よくある復讐心のたぐいだろうか。自分が直接何をされたわけでもないのに、他人の悪ふざけを見かけると無性に腹が経つというやつか。要するに自警団気取りの密告屋といったところだろうか。いつの時代にもそういう輩が必ずいるわけか。

 社会の秩序を乱そうとするのは、何かの本能がそうさせているのだろうか。それほどのことではなく、そういう些細な行為でも、見せしめとして、結果的に秩序の維持や統制に貢献しているのだから、それはそれでご苦労なこととしか言いようがなく、やってはいけないことの実例として、槍玉に挙がっているわけで、それはフーコー的なミクロ権力が動作していることの証しでしかないわけか。まあ難しく考えてみても仕方のないことだが、この世の中はうまく機能しているのだろう。そしてみんな楽しそうにそれと知らずに騒いでいる。この流行がいつまで続くかわからないが、下火になったところで、また何らかの些細な侵犯現象が起こるのかもしれず、そうなったらなったで、みんなで騒いでみればいいだけか。おせっかいな心理学者気取りの皆さんも、また次から次へと獲物が見つかれば、商売繁盛この上なしなのではないか。でもどうせそれで話を終わらせてはだめなのだろう。いくら皮肉を述べても無効だ。逆に君はそれらの行為を肯定し、断固支持しなければならない。マジですか。みんなでがんがん悪ふざけをして、その画像をネット上にばらまいて、後は野となれ山となれだ。でもどうせ君は野次馬の見物人にとどまり、自分では何もやらずに、それらをただ眺めながら、にやにやしているだけなのではないか。他人事でしかなく、君には関係のないことでしかない。それ以上でも以下でもなく、ただ黙って様子をうかがい続け、気が向けばまたつまらぬ皮肉の一言も発すれば、それで気が済んでしまう。やはりそれでは何を述べてみても無効だ。でも度胸試し的に悪ふざけをしたい連中の気持ちもわからなくはない。とりあえず悪ふざけの対象となっている存在が嫌なのではないか。その時点で無意識のうちに敵だと感づいているわけだ。だからついつい敵に対して悪ふざけ攻撃をしてしまうのだろう。そしてやったあとから、それらの攻撃対象からひどい仕打ちを受けて、やっぱり本物の敵だったと気づいてしまうわけだ。要するに先制攻撃した時はそれと気づかず、倍返し以上の猛烈な反撃を食らったあとから、ああそうだったのかと気づいてしまうわけだ。何だか笑ってしまうが、自業自得気味に社会的も経済的にも厳しい制裁を加えられた若者諸君も気の毒だが、やっぱり愉快だ。比較するのも意味不明だが、路上で無差別殺傷事件を起こして死刑になってしまうよりはかなりマシで、こちらの方がユーモラスで楽しそうに見えてしまう。


8月27日

 しかしでたらめも程々にしたいところだが、その一方で何となく思いっきりでたらめを語ってみたい気もする。そう思っていれば、自然とでたらめを語っている気になれるだろうか。別に無理に語らなくてもかまわないのではないか。なぜかキャリーバッグを買おうとして、それらしい店の中をうろついている夢を見たが、なかなか見つからなくて、店の中を行ったり来たりしているうちに、目が覚めてしまったようだ。どこか旅にでも出るつもりだったのか。まさか夢がこれから起こることを、前もって告げてくれたわけでもないだろう。

 彼はオウムの指名手配犯のような風貌だ。彼とは君のことなのか。そのへんははっきりしないようだが、要するにまだ何も終わっていないということか。確かに何を終わらせようとしているのでもなく、それどころかさらに続けようとしているのかもしれないが、終わるにしろ続けるにしろ、何かはっきりした兆しを感じ取れないうちは、その気になれないのではないか。ただ漠然と気まぐれにそう思ってみても、何ともしようがなく、何もやりようがない。それに関して君が何を思っているのか知らないが、時間が許す限りは、また延々と無駄に言葉を記し続けるしかないような気もする。それにしてもただの暇つぶしではないのだろう。これほどまでにこだわっているのだから、何かあるのではないか。

 誰かは記述を継続させるために、すべてを犠牲にしているわけか。すべてとは何なのか。何がすべてとも思えず、それが誰の強がりであろうとなかろうと、今はそうなのかもしれない。いったい何がそうなのだろうか。何もそうではなく、どこか心の中で引っかかっていることがあるらしく、それがもとで情緒不安定になっているのだろうか。今さら何を思ってみても遅すぎる。賽が振られてからもうだいぶ経つはずだ。出た目の数だけ進んだはずだが、それからどうなったのか。未だにそこで何か探しているのだろうか。どこかで時間が止まっている。どうもそのまま前に進めなくなってしまったらしい。でもそれで弱音を吐いているとは思わない。まだ始まったばかりではないか。常に始まり続けているのだろう。いくらでもそうなっているらしい。そしてそれに執拗につきまとい、終わらせまいとしている。

 そんなわけで無駄な抵抗はやめた方がいい。その代わりに無駄に言葉を記すことは可能なようだが、それで抵抗だとは言い難いだろう。ちなみにそれは岩のかたまりか。あるいは小惑星か何かか。それとも単なる石ころか。すぐ近くに同じような岩のかたまりが映っているのだから、小惑星だったら二つが互いの重力で引き合い衝突して、合体するか跳ね返って遠ざかっているところか。では単なる石ころを二つ並べて暗闇で撮影しただけか。そうだとすると夢がないか。別になくてもかまわないだろう。CDのジャケットを見ながら何を想像しているのか。結局は何を記してみても、つまらない字数稼ぎになるしかないのだろうか。それがうまくいかなくてもかまわないと思う。少なくとも暇つぶしにはならず、そんな行為から生じた自己嫌悪を引きずるだけで、それ以上の何をもたらすとも思えない。

 近くと遠くで犬が吠え合っているのを聞きながら、苛立つでもなく、そういえばオウムの指名手配犯はすべて捕まったことを思い出すが、それもどうしたとも思わず、それについて何か感慨を抱いているわけでもなく、さらに時が経つだけのようだ。そうしているうちにも何もかもが押し流され、そこで生じている何にしても、それが誰の主張だとしても、それらが主張されている時代と対峙していて、そういう制限の中で何か述べていたのだろうが、やはり君もそういう状況の中から、何か主張しなければならないのだろうか。でもいったい何を主張する気でいるのか。相変わらずのいい加減で単純な構造を設定して、そこから何か指摘したような気でいるわけか。

 ところで日本ではブルジョワ階級とプロレタリア階級との間で、何か明確な境界があったりするわけか。中産階級はどちらに属しているのか。世の中から肉体労働がなくなったら、プロレタリア階級が消滅したことになり、階級闘争も不要となり、マルクス主義もそこで終わりなのか。では将来その手の科学技術が進歩して、肉体労働をすべてロボットにでもまかせられるようにでもなれば、それで労働問題が解決したことになるわけか。また冗談でそんなことを述べてしまうが、たぶんそういう問題ではなく、要するに富の不均衡を何とかしたいのだろう。では世の中に金持ちと貧乏人がいると不都合なのだろうか。それとも貧乏でも衣食住が足りて、必要最低限の生活ができて、要するに金に困らなければいいわけか。さらにできればすべての人が好き勝手なことをやっていられればいいのかもしれないが、そうなるにはどうしたらいいのか。

 好き勝手なことをやっているように思わせておけばいいのかもしれない。それは集団催眠か何かを仕掛ければいいわけか。どこかの漫画のような荒唐無稽な話だが、要するに自分に自分が好きでこの仕事をやっているように思い込ませればいいのだろう。自己暗示ということか。それができればあきらめがつくかもしれないが、それでは納得できない人が大勢いることは確かで、自分のやりたい仕事をできない人たちが不満を募らせ、できればやりたくないのに仕方なくやっているから、嫌な気分となり、好き勝手にやっているように見える人たちをうらやましがり、くだらぬ復讐心で凝り固まってしまうわけか。だがそんなことをどこまで述べてみてもすっきりしないようで、逆に嫌な何かがこみ上げてきて、また自己嫌悪に陥ってしまうのかもしれないが、たぶんそのへんに思考の限界があるのだろうか。

 それが限界というわけでもないか。実際には学校教育によって、子供の頃から仕込んで、たとえ嫌な仕事を押し付けられても、不平不満を言わずにそれをやるようにさせればいいわけで、教育自体がそういうふうな仕組みになっていて、結局それができるかできないかは、当人の心がけ次第ということで、そこから先は教育者の知ったことではないのかもしれないが、でも果たしてそれで納得がいくだろうか。とりあえず大多数の人が素直に従い、そんな従順さを保ちながら真面目に努力するように仕込めばいいだけで、ごく少数の納得がいかない者たちは、逆らってその腹いせに校舎の窓ガラスでも割って、非行に走ればいいわけか。それはありがちな紋切り型だが、冗談はさておき、こんな低次元の話しか思い浮かばないと、さらに自己嫌悪を募らせてしまいそうだが、この程度であきらめるしかないのだろうか。現状ではそうなのかもしれない。


8月26日

 今日は何も出てこないだろう。幽霊がでる気配もない。眠っている間に夢を見たらしいが、今は覚えていない。朝から空は晴れ渡り、残暑が辛そうだが、汗をかく必要もない環境の中で、何をやっているわけでもなさそうだ。何に取り憑かれているわけでもない。やれることにも限りがあり、糧となる資源を使い切ってしまったのかもしれない。それで満足しているのか。やはりあくびがでるようだ。何だかそこで立ち往生している。何を読んでいるのか。そこで本当に神は死んだのだろうか。今は本当に神が死んだ後の時代なのか。何やらそれらしき内容の書物を読み、心を浸食されているようだ。意味のない幻想だろう。もしかしたらその神に取り憑かれているのだろうか。またおかしな妄想を抱く。冗談にもほどがある。読めない漢字にあれこれ読み方を当てはめてみるが、一向に読めてこない。別の漢字の読み方が間違っていることに気づくが、それを何と読むのか気になって、そのことが頭から離れず、なかなかその先へ進まない。漢和辞典でも買った方がよさそうだ。手書き入力も手だが、今は手元にないので無理のようだ。しかし神の話はどうなったのか。人が神を必要とする時、神がどうやって人に啓示を与えるのだろうか。何かが突然ひらめいて、それを神からの啓示だと思い込めばいいわけか。それ以上はあまり深く踏み込まない方がよさそうで、とりあえず宗教とは無縁でいたいようだ。物事を深く考えるとろくなことはない。先人たちはみんなそういう罠にはまって、年老いて死んでいったわけか。考えすぎてもまだ死んでいない人もたくさんいるだろう。それも意味不明な述べ方だが、何となくそう感じてしまい、今はそんな気がしているだけのようで、ネットで検索すると、十数年前の人たちのその後の姿がでてきて、みんな年老いていることに気づくが、自分もそれだけ年老いたわけだ。それにひきかえ君はいつまで経ってもならず者か。冗談も休み休みだろうが、いつまでもならず者でいられるわけもなく、永遠のならず者はそのまま故人となるしかない。確かクリント・イーストウッドはまだ故人ではなかったはずだが、もうすぐなのか。さあそのへんはよくわからないが、彼ならもうとっくにならず者ではないのではないか。

 また少しまどろんでいたらしい。西部劇などすでに忘却の彼方だ。君は大してそれらの映画やテレビドラマに興味があったわけではない。今も昔もアメリカは荒野のただ中にあり、そこには何もなく、人もあまりいない。でも相変わらずそこは犯罪者たちの聖地であって、年がら年中ドンパチやっているらしい。都市部に行けばいっぱい人がいるだろう。派手で大げさな映画も作られ、大勢の人がそれを楽しみにしているはずだ。プロスポーツも盛んで、世界中から有望な人材が集まってきて、高額な年俸を手にしながら、日々生き残りをかけた闘争を繰り広げている。確かにそれらはたわいのないことではないが、それを見ている人たちにどんな影響を及ぼしているのだろうか。人々が抱く欲望のすべてがあれらの荒野に詰まっているわけか。それは人がやれることの可能性のすべてか。でもそこから何を得ているとも思えない。人々が見ているメディアの視線がすべてアメリカに向いているとしても、そこには何もない。あるのは人跡未踏の荒野だけだ。では日々騒いでいるあれらはすべて幻なのか。たぶんそうだろう。すべては人々の幻想であり、それらが所有している都市も軍隊も企業も、すべては空疎な幻に過ぎない。たぶん荒野が世界中に向かって、人々が抱いている幻想を、当の人々に向かって、それを致死量にまで増幅して送り返しているのだ。要するにそんな欲望を抱いた時点で、お前は破滅だということか。それは乾いた大地に降り注ぐ日光の強烈な照り返しであり、すべてを焼け焦がそうとする力があり、実際に誘惑に屈して、そこへ向かった者たちの精神をずたずたに引き裂き、その体をボロボロにして放り出す。力のない者が大リーグへ挑戦すれば、そうなって当然か。力も才能もあってもそうなるようだ。運がなかったということだろうか。運もありその場で一時期活躍したとしても、結局はそれが最終到達点となり、いったん到達したら、あとは力が衰えるに従って、そこから無様な敗者となって転げ落ちるだけか。それでも何か結果を残せば、栄誉は讃えられるだろう。たぶんそれで満足すべきなのかもしれず、それ以上の舞台がないのだから、たとえずたずたに引き裂かれボロボロなっても、それで納得すべきなのかも知れない。それが何もない荒野に魅入られた者たちの定めなのか。


8月25日

 雨が降って涼しくなってきたようだ。ようやく夏も終わりに近づく。また暑くなるだろうが、だんだん涼しくなってゆくだろう。しかしため息が出る。どうしたらいいのかわからない。わからなくても自然とどうにかしている。そういうことでしかない。そういう状態を保っていればいい。そのうち何とかなるだろう。何とかならなくてもそう思っていればいい。やはりそういうことらしい。すべてはそうだ。今がその機会なのか。きっとそうに違いない。だから何とかしている最中だと思っていればいいわけか。賽が振られて目が出たというわけか。結局その調子で言葉を記して、それを続けながら、日々を過ごしていればいいわけか。それでいいかどうかはわからないが、現にそうしているのだから、そういうことでしかない。それに関してはいくら言葉を連ねても同じふうにしかならない。何かが繰り返し反復されるだけだ。同じような言葉が繰り返し記される。それ以上は何もわからないのだから、そういうことにしておくしかない。何の達成感ももたらさないかもしれないが、ひたすらそうなのだから、そういうことなのだ。何がどうあってもそれは変わらない。そういう有様を眺めているわけだ。眺めているだけではどうしようもないのに、他は何もなく、眺め続ける立場しか残されていないようで、ただそんな成り行きの中でそれらの光景を眺めている。今後もひたすらそうなるしかないようだ。変えようとしても変わらないのだから、そうなるしかなく、そんなふうに記し、語っているつもりになるしかない。たぶん語っているのだろう。何かを語っているはずだ。今はそう思うしかない。それについてはあまり深く執拗に考えても意味がない。どんなに考えても何も導き出せないだろう。ただそうしているだけなのかもしれない。ひたうすらそうだ。そういう成り行きや結果を真摯に受け止めながら、その先に言葉を記してゆけばいい。どうもさっきから同じことを延々と述べているような気がするが、気にすることはないのだろうか。そう思っているのならそうなるしかない。君の思い通りになるような成り行きではない。

 それはわかっていることではないか。そういう認識に到達したのだから、確かにそれを理解していることになるはずだ。社会のしがらみの中に誰もがとらわれている。それは当たり前のことだ。君はそこから何を導き出そうとしているのか。そこには何もない。あえてそういう嘘をつく。どうしてもそこから離れたいようだ。遠ざかりたいのだろうか。しかし遠ざかってどうするのか。そこで君は何を眺めているのか。それは未来の光景だろうか。あり得ない。何かと何かがそこで対峙していて、一向に動き出す気配を感じられない。焦点が定まらず、状況を分析できなくなっている。もう眺めることに飽きてしまったのか。ではそこであきらめてしまうのだろうか。またそれだ。しかし今まで何を眺めていたのか。抽象的な絵画か何かか。そんな気もするし、そうではないような気もする。ではまた夢でも見ていたのか。それもあり得る。何でもありで、そこに何を当てはめてみてもそれらしく思われ、さらにとりとめがなくなってしまいそうだ。それでかまわないのかもしれず、無理に抜け出そうとしても、すぐにもといた場所へと引き戻されてしまうのかもしれない。そんなことを思い浮かべていると、またあくびが出る。今日はまた一段と眠たそうだ。何だか自分自身についてゆけないものを感じているらしい。何かの明証性を手に入れたいのかもしれないが、はっきりしたものは何も捉えられず、常に思考の対象を取り逃がしている。そんな感じなのだから、具体的なことは何も語れなくなってしまうらしい。いったいこの世界はどうなっているのか。現実にこうなっているからそんな気分でいられるわけか。でもそんな気分とは何でもないのだから、それについては何も語りようがない。君の力が及ぶ範囲には、語る対象となるものが何もないということか。それでもやがて何かを語り出すだろう。身の程をわきまえていたら、何も語れなくなってしまうのかもしれない。常に背伸びしていないと、また勘違いや思い違いを利用しながらでないと、あるいは誇大妄想的に考えを巡らさないと、この世界からは何も導き出せないということか。冗談だろう。ではやはりそれは大間違いなのか。たぶんそういうことだ。そうでなければこうはならない。しかしそれでは笑ってしまうしかない。

 語るべき対象を笑い飛ばし、次いでもはや何も語るべきことがないと嘆き、そんな世界の有り様に嫌気がさし、そしてここに至り、自らがどこに至ったのかもわからず、途方に暮れ、何だか何もかもが不可能に思われてくるようだが、それが今語っている冗談のすべてなのだろうか。冗談もここに極まって、それから何を語ればいいのか。またそうやって何かを繰り返そうとするが、果たして繰り返せるだろうか。何を批判しようとも思わないが、それでも何か批判を繰り返しているように装うつもりか。たぶんそうだ。そうかその手があったかと気づき、突然気づいたふりをしながら、そこからいけしゃあしゃあと何か語る気でいるのだろうか。いかにもわざとらしくそんなことを述べながらも、急ぐべきではないと考える。本当は何も思いつかず、何を批判しようとも思っていないはずで、しばらく言葉を記すのを中断して、また書物を読んでいるらしい。それは嘘か。でも時間稼ぎには至らない。考え込んでしまう。外側からその対象を眺めるばかりで、決してその内部には斬り込まず、それに関する書物ばかりを読み漁り、それの何を批判する素振りも見せず、それを模倣しようとも思わず、ひたすら眺め続け、何らかの見解に至るのを避け、眺めるにとどめ続け、言葉を記す機会を失っていることに気づきつつも、さらに眺める。もうすでに手遅れか。このまま何も語らずに去るべきなのか。でもどこへ去ればいいのかわからない。君には理解できない対象なのかもしれない。またあくびが出る。要するに力不足なのだろうか。では本当に語るのをあきらめてしまうのか。たぶんいつか語れるようになるだろう。勘違いでも思い違いでもかまわないから、一度素直に語ってみたらいい。それについてでなくてもかまわない。それらの現象について語ってみたらいい。そうやってまた何も語れない現実をはぐらかそうとしているみたいだが、それでもかまわない。はぐらかせられるものならはぐらかしてみればいい。はぐらかしてみたところで、この世界がどこか遠くへ逃げていってしまうわけでもないだろう。そこには見たままありのままの光景が広がっているだけだ。それをまた気が済むまで眺めていればいいだろう。それが冗談のすべてなのだから、納得したければしておけばいいだけのことだ。


8月24日

 何について何をどう考えたらいいのだろうか。またとりとめのないことを述べてしまうが、どうもそうではないような気がする。しかしそこから進展がない。それに関してあまり否定的な見解を示してみてもつまらない。これをやれということなのだろうが、まさそれが神からの啓示なのか。神とは何か。言い逃れの何かか。それともいいわけに結びつける何かか。どちらも似たようなものだ。今から十年後を想像できない。依然として蚊帳の外であり、五里霧中でしかない。何も修正できず、間違えたまま壊れたまま立ち往生か。どう考えても納得がいかないか。そういうことではないのかもしれず、すでに光明が見えているのに気づいていないこともあり得るが、何に気づけばいいのだろう。あるいは気づかないままでもいいのか。それとも気づいていながら気づかないふりでもしているのか。どちらにしてもそんなことはどうでもいいのだろうか。どこかを歩いていれば何かひらめいたりするのか。偶然の巡り合わせと自然の成り行きに頼るしかないのだろうか。それでは何に頼っていることにもならないだろう。あくびが出る。またソファーに横になりたくなる。またいつもの成り行きにはまっているわけか。ふと見上げれば壁を蜘蛛が這っている。空が落ちてくることもない。部屋の中にいるのだからそんなことはない。まさか天井が崩れてきて、その下敷きとなって死んでしまうのだろうか。何を空想しているのだろうか。地震の前触れでも感じたのか。そんなことはない。それらの状況には何も巻き込まれていないようだ。大したことはない。また何か勘違いをしているらしい。いつものようにそこには何もなく、誰がそこでうろたえているわけでもない。気のせいだろう。今日も長い。答えなど出るわけがなく、ひたすら何かに問いかけているだけのようだ。病んでいるとは思えないが、それも気のせいだろうか。でも無理に言葉の連なりを引き延ばすべきではない。実際にそうしている。認識はそれとは違う結果を示し、誰かを一時的にうろたえさせるが、今は何でもないらしい。

 何が終わるわけでもなく、何も気にしていないわけでもないが、何となくそういう気配を感じ取り、一方でそれがどうしたわけでもないと思い、結局何が何だかわからず、戸惑うふりをしながら様子をうかがい、やがてどうでもよくなってしまうのかもしれないが、やはりそれはそれで大したことではないのだろう。でもいったいそれで何を語っているつもりなのか。どうも具体的な内容を導き出せない。そこまで気が回らないのかもしれない。それではだめか。君は気づいていないようだ。状況の変化に気づいていない。そういうことにしておきたいのか。本当に何が変わりつつあるのだろう。コーヒーが飲めなくなる。何だか飲むと調子が悪い。変わりつつあるのはそういう体調の変かとは無関係な何かか。でもそこから先が出てこない。本当な何も変わっていないのではないか。そんなわけでまたいつもの悪循環に突入してしまうらしい。蜘蛛は今壁のどの辺を這っているのか。獲物は見つかっただろうか。何が間違っているわけでもない。すべてが間違っていると言いたいところだろうが、あいにくそういうわけにもいかないらしい。またどこかへ飛び出してゆかなければならないのだろうか。それも違うか。少なくとも何かが変わり、どうかしてしまったのかもしれず、たぶん計算が狂ってしまったのだ。これで良かったとは思えず、何が悪かったのかもわからずに、誰かの画像を眺めながら、退屈を紛らわしているようだが、それは誰の画像でもなく、誰かの文章でもない。匿名の何かなのだろうか。どこかで何かが機能している。それだけのことのようだ。日がな一日ひっきりなしに画像をアップして、何かやっているつもりの人もいるらしいが、たぶんそれで何かやっていることは確かなのだから、それは大したことだ。感動してしまうか。誰に感動しているわけでもないのに、ついそんなふうに記してしまうが、別にそれを馬鹿にしたいわけでもないのだろう。たわいのないことだとも思わない。でもため息が出る。君はそういう方面では機能しないらしい。やはり面倒くさいのか。福島の原発も相変わらず放射能漏れが止まらないらしい。この先何十年もそのままか。周辺諸国の人々がいい加減にしてもらいたいと思うわけか。

 しかし反原発運動の急先鋒だった元俳優の参議院議員も、メディアからのバッシングがきつそうだ。変わったことをやる人は徹底的に社会から排除したいのだろうが、相変わらずのムラ社会か。そんな紋切り型的な反応にも呆れてしまうか。でもすべてがそういうわけでもないのだろう。時にはそういうことも肯定しなければならず、わざとそんなことを述べようとしているのだろうが、どうも見当違いのようだ。今さら何を否定的に見ても仕方がない。気に入らないことには断固抗議すればよく、何をどこに向かって抗議したいのかわからないが、それで何かが変わってゆくのかもしれない。また冗談でそんなことを述べている。しかし日本人が農耕民族だから日本は排他的なムラ社会なのだ、という紋切り型的な見方にも、もう何も新鮮味が感じられないことは確かで、世界中のどの農耕地域で暮らしている人たちも、排他的なムラ社会を形成しているとしても、それと日本のムラ社会がどう関係しているわけでもないだろうに、農耕とその地域で暮らす、民族というカテゴリーに入っていると見なされる人たちとの間に、どのような関係があるにしても、その関係を否定的に捉えるのはちょっと今さらながらで、退屈のような気がする。要するにそれに関して新たに定義し直すのが面倒だから、とりあえず農耕民族だから排他的なムラ社会だと述べておけば、何かごもっともなことを言ったような気がするのだろうが、もう少し何か新鮮味を感じさせる肯定的な表現はないものか。でもいったい君はそこで何を肯定したいのか。まさかムラ社会を肯定したいのか。それでもかまわないか。ムラ社会だろうが何だろうが、ひねた評論家崩れの人たちと、そういう人たちが述べている言説に毒された一般の人たちが、そういう概念を弄んでいるだけで、それは無視してもかまわないようなことでしかなく、個人がムラ社会だと感じていなければそれでいいような気もするが、そんなことを述べてしまうと、もはや何も語ることがなくなってしまうだろうか。とりあえず現実にそれについて適当にいい加減に語れたのだから、今回はそういうことを述べている人たちに感謝しなければいけないようだ。


8月23日

 何だか視界がぼやけている。でもまだこんな時間だ。左手の人差し指の皮膚がはがれる現象もようやく一段落したようだ。どうやら数ヶ月前の軽い火傷を忘れていたらしく、その時の軽くやけどした皮膚が今頃になってはがれたようだ。以前から発症していた乾癬ではなかったみたいだ。これで一安心か。そうもいっていられず、相変わらずの現象の方も何とかしなければならない。現象とは何か。何やらわけもわからず言葉を記しているこの現象のことか。それもできる範囲内でやっていることで、やっている当人は気楽にやっているつもりのようで、客観的に見ても大したことはなく、その程度のことにすぎず、それがどうしたわけでもないのは一目瞭然だが、他の誰がそれ以上の何を求めているわけでもなく、それ以下でもないところが、つかみ所がなく、どう見てもそれだけのことらしいので、やる気を失ってしまうのだろう。それもでもそれを改善させる方策はいくらでもあり、それを試してみればいいだけだと思い込み、そのへんでうまく自意識をだましたつもりになっているようだが、そんなはずがないだろう。それでうまくいく保証など何もなく、その一方でたとえうまくいかなくてもかまわないような気がして、さらにやる気を失う成り行きに突入してしまうが、うまくいかなければまた別の方法を模索すればいいだろう。しかしなぜいつもそうなってしまうのだろうか。具体的にそれらの現象が何を示しているわけでもなく、それらの何とでも受け止められる記述結果に一喜一憂することもないだろうが、やはりそれだけのことなのか。どうあってもそこからは光明が見えてこない。それは気のせいで済ませられる問題でもないような気もして、またそれは夢の中での話でもないのだろうが、どうも意識はすぐにそこから逃避してしまうようだ。改めて思えばどうしたわけでもないのだろうが、たぶんそれではだめで、実際に何もないのだからそれは嘘だ。いつものたわいのない気分でそんなことを述べているだけだ。それが何を意味するのかわからないように装い、一応はそういうことにしてしておきたいわけだ。そしてそれはそれとして、さらに言葉の連なりを先へ延ばしてゆかなければならない。わけがわからないままでもかまわず、その先へ言葉を記してゆこうとしている。

 またうんざりするような自己言及が一通り済んだようで、何か別のことを語らなければならないだろうか。思いつかず、途方に暮れ、またさらに自己言及が続いてしまうのか。冗談だろう。冗談には違いないが、冗談以外に何があるのか。またつかみ所のない話になってしまうのだろうか。すでにごまかしようがなくなるほど心を虚無に支配されてしまっているのかもしれない。でもそういういいわけは聞き飽きた。本当は何もないだけなのだろう。図星か。都市は今日も静かだ。ひっきりなしに車が行き交い、排気ガスが充満している大通りを避け、誰かが迷路のような狭い住宅街の道を歩いている。どうせ行くあてなどありはしない。住宅工事現場では足場を解体している最中のようだ。近頃はコンビニの高い弁当を買うのも嫌になったみたいで、スーパーで安いパンを買って凌いでいるみたいだ。それほど余裕がないわけでもないのに、何だか貧乏性になったようだ。誰かはどこで何をやっているのか。そしてその誰かに君も含まれているのか。くだらぬ疑問か。荒んだ人たちには憩いの場があり過ぎる。この世がまるで天国のように思われてくる。子犬が甲高く鳴いているようだ。子犬といっても小さく品種改良された成犬だ。だがそれを見たのは数日前だ。嘘八百もここまでくると呆れを通り越して感動すら誘う。でもそれの何が嘘なのか。誰かがどこかで叫んでいる。君にはまだ存在価値があるだろうか。価値など相対的なものに過ぎず、事と次第によってはいつでも無効となる。でも何を求めている欲しているわけでもないときに、いきなり何かがもたらされることがあり得るだろうか。君はそこで何を望んでいるのか。どうせ妙案など何もないだろう。誰もがこのまま生きて死んでゆく。それが定めであり、宿命なのではないか。でも悲観する必要はない。どのような苦境に追い込まれていようと、案外みんな楽しそうにしているのではないか。冗談のような成り行きなのだから、それはそれで楽しくてたまらないはずだ。そんな中で君は何を語っているわけでもなく、それらの光景をただ眺めているだけで、何の闘争にも参加していないはずだ。これはゲームなどではない。そう思い込んでいるようだ。では何なのか。何でもないのだろう。とりとめのないことであり、つかみ所のない話だ。把握しようにも、どこから手をつけていいのかもわからない。

 誰かがあんなものにはもう興味がないと叫ぶ。曇り空の下で誰が何を企んでいるわけでもない。不意にかゆくなったすねをかきながら、前方を見やると、何かを押しのけながら、洪水が押し寄せてきて、ありもしない企みを木っ端微塵に打ち砕こうとする。気が狂っているのだろうか。それとも意味不明な冗談のつもりか。まあいいだろう。夢の中での光景かもしれない。あるいはまともに語るのが面倒だから、そんなありもしない空想を抱いているつもりなのか。戯れには違いないが、それから君はどうなったのだろうか。洪水に押し流されて、誰かが思い描いている架空の世界で死んでしまったのか。そうだとすればつまらない顛末になりそうだ。ありふれている話か。何がそうなのかわからないが、どうやらまともな話にはならないようだ。何を空想してみても、興味が続かない。でも今にも雨が降ってきそうな天候には違いない。しかしさっきは住宅街の狭い路地で何を見つけたのだろうか。道端に生えている雑草か何かか。あるいはそこにあっと驚く抜け道でも見つけたのか。でもその抜け道の先に何があるのか想像できない。抜け道などあるわけがないのだろうが、どこから抜け出そうとしているわけでもないのに、それはおかしな話だ。では誰かの幻想が生み出した洪水はその後どうなったのか。まさかそこでノアの大洪水を予言しているわけでもないだろうに、いきなり旧約聖書も何もないか。無理に文と文をつなげようとしても、つじつまが合うとは思われず、そんな案配で、さらに文章の中身が意味不明になりそうだが、人はいつの世でも未来に期待を寄せている。かつてファシズムや軍国主義に投資した人々は、それによって明るい未来の到来を予感していたのだろうが、一時的には裏切られ、何百万人もの犠牲者を出したにもかかわらず、何の反省もせずに、今度はアメリカ帝国主義に投資して、うまく事なきを得たわけで、それが偽りの平和をもたらし、もちろん偽りなどではなく、真の平和だと思い込み、現在に至るわけで、たぶんそこから導き出されるのは、戦争に対する反省や謝罪の気持ちなどではあり得ず、それは悲惨な戦争などでもまったく途切れることはない、資本主義社会の揺るぎない継続なのかもしれない。そんなわけで人の欲得に基づいた強固なシステムを打ち倒すのは不可能に近いが、とにかくそのような社会がいつの日にか変わる光景を空想し想像したくなるのかもしれない。


8月22日

 何かを型にはめようとすると、必ずはみ出てしまう箇所が現れる。型に石膏でも流し込めば、はじめからぴったりを収まりそうなものだが、なぜが比喩的にはそういう順序になっていないようだ。間違っているのだろうか。何を語ろうとしているわけでもないだろうが、記された言葉の配置が何らかの表現を見せているのかもしれず、どこかで誰かがそれを読み解こうとして、何やら思索に耽っているのかもしれない。意味のないことだ。でも意識はそこから逃れられず、それらの継続を模索する。意味はあるのかもしれない。意味ではないような意味がありそうだ。やはりそれはごまかしのたぐいなのか。でもそこで外れてしまっては意味がない。どうでもいいことだと思ってしまっては意味がない。でも結局はかまわないと思ってしまう。あきらめてしまうわけだ。わからないことはわからない。いつかはわかることもあるだろう。わかるまで待てばいい。待っている間に年老いて、寿命が尽きて死んでしまえばそれまでだが、たぶんそれでもかまわないのだろう。なるようになるしかなく、ならないようには決してならず、要するにすべては成り行きまかせなのだろうか。それを信じるか信じないかは自分次第か。でも何を信じようとしているのか。なるようにしかならないことを信じなければならないのだろうか。信じなくてもなるようにしかならないのではないか。ならば信じても信じなくても、結局なるようにしかならないということか。要するに自分次第ではなく、君がどのように思ってみても、なるようにしかならないというわけか。それでは君は何をどうすればいいのだろうか。やりたいようにやれる範囲内でやればいいということか。ふざけた結論かもしれないが、そういう結論に居直る気にもなれず、ただそうではないような道を模索しつつ、どこかで面倒な迷路にはまっているのかもしれない。しかしなぜかそれもどうでもいいことだと思い、その先へ言葉を連ねてしまうような成り行きの中で、そこで立ち止まる勇気を持ち合わせていないらしい。そんなのは嘘か。

 さっきまでは何かの付け足しを強いられていたようだが、この先も付け足しのたぐいだろうか。しばらく立ち止まっている。立ち止まった光景を想像しているらしい。何の変哲もない立ち止まり方か。そんなことに何の意味があるのか。わかるわけがなく、今の君にわかるはずもない。ただ立ち止まって周りを眺めている。そしてそれを空想している。楽しい気分だろうか。気分とは関係ないのかもしれない。矮小な範囲内での風景に囲まれ、身動きするのが面倒になる。時間を間違えているのかもしれない。まだ誰もそこには来ていないようだ。まさか場所を間違えてしまったのか。でもそれはこれから記そうとしているフィクションの中での話か。それは違うだろう。何も記せないから、そんないいわけに頼ろうとしているのではないか。何をどう考えてみてもしっくりこない。何かの断片が意識の中でまとまりの欠けるイメージを呼び寄せている。それもいいわけのたぐいだろうか。外れてしまうのは致し方ない。なるようにしかならないとは、そういうことなのではないか。別にそれを身にしみて感じているわけでもないのだろうが、うまくいかない時はそういう思いにとらわれてしまうようで、なかなかそこから抜け出せなくなってしまい、思うようにいかないことを痛感させられ、それも違うような気がしているのだろうが、ともかくそんな気分で、さらにその先へと言葉を連ねてみよう。その気もないくせにそんなことを述べてみるが、まだ君はそこで立ち止まったままでいるようだ。そんな状態を空想しているのか。そこから何か進展があるようには思われないが、なぜそんなふうに思ってしまうのだろう。何かそこに突破口でも見出したいのか。意味がわからず、そうしていることの意図もわからない。でも何だか愉快な気分となってしまう。誰がそう思っているのか知らないが、ともかくそういうことで、誰かもそこで楽しそうに立ち止まっているようだ。それは奇妙な光景であり、そこには君一人しかないのに、誰かにとっては誰一人としていない。嘘かもしれないが、わざと何かをねじって、そういうことにしておきたいのか。そのへんは誰かの想像にまかせるとして、やはりその先を記すつもりらしい。

 誰の想像も及ばないところに誰かの想像が出現する。そんな光景を空想しながら、君は夢でも見ているのか。どうやら立ち止まってばかりもいられないらしい。言葉が続かなくなり、否応なくその場から追い立てられ、また面倒な迷路の中で行ったり来たりする羽目になりそうだ。デカルトは何を疑っていたのか。自らが夢の中にいるのではないかと疑っていたわけか。でも夢の中でも何か考えられることに驚いたのだろうか。そしてそんな自分が気が狂っているわけではないと確信を深めたわけか。間違っているかもしれないが、あえて単純化すればそういうことになるだろうか。別にそれ以上そのへんの事情に踏み込む気にはなれないが、そんなことをラテン語で記して、それを後世の学者たちが自国語で解釈を施し、ああでもないこうでもないと侃々諤々の議論を戦わせ、結果的に哲学者としてのデカルトの名声を高めたわけか。君はそこから何を理解したのだろうか。そこから逃れ去る何かを感じているのか。そして君はそんなことを疑いつつも、そこに自らが存在しているつもりになっているようだが、それはとんでもない勘違いか。だいいちまだ何も語っていないではないか。語りようのないことを語る気でいるようで、それもその場限りの嘘かもしれないが、何となくそんな思いにしばらく取り憑かれていて、なぜかそこで立ち止まってしまったらしい。また後付け的にそんな嘘をついてみるが、やはりしっくりくるようなことはなく、それどころかますます疑念が深まるばかりで、なぜそんなことを記しているのかわからなくなるのはもちろんのこと、何かを記していることが、何を考えていたのか忘れさせるような気がして、それが思考の継続を困難にしているようにも感じられ、そのへんで記述作業を投げ出したくなり、そんな自分が気が狂っているのではないかと疑ってみるが、今度はそう記すこと自体が冗談のように思えてきて、たぶん冗談のつもりでそんなことを記しているのだろうが、ますますそこで立ち止まることの愉快さを実感しているつもりにもなるわけか。何だかどんどん噓八百を並べ立てているような気がして、収拾がつかなくなってきたらしい。


8月21日

 どこかを誰かが夢遊病者のように歩いている。いつか来た道を戻っているようだ。でも君はそんなくだらぬ想像を脇に追いやり、得体の知れぬ何かをつかみ取る。つかみ取った気でいるようだ。実際にそんなことを空想している。そしてとりとめがなく、ただ漠然とした思いに捉えられ、ぼやけた頭で何かを考えているようだ。明晰な感覚を取り逃がしている。どうかしているのだろう。そんな気分のまま何を考えても、まとまった思考を取り繕うことはできない。でもおかしい。おかしいのにおかしいままでかまわないと思われ、そのままの雰囲気をこわさずに、何を記しているとも思えないまま、やはり続けて何かを記そうとする。何かの惰性で言葉を記しているようだ。そのへんの意識に慣性の法則が働いていたりするのだろうか。でもそこに何らかの力が働かなければ、ものを動かすことはできないはずだ。しかしものとは何なのか。何がものであってもかまわない。もの自体が何なのか、一概にはいえない。君は何か障害物のようなものを意識していて、それを動かさないと何もやれないような気がしている。それがものなのではないか。言葉を記すにしても同じことだ。慣性の法則に従うだけでは記せない。そんな思い込みを利用しなければ、その先へ言葉を連ねられないような気がしてくる。たぶんそれはくだらぬ思い過ごしかもしれない。でもこれまでもそんな思い過ごしを利用しながら言葉を記してきたのではなかったか。ならばこのまま、そんな気分で続けるしかないか。それは開き直り以外の何もでもないが、今はそれに頼らないとやってゆけないのだろう。そんなわけで何だかただでさえ空疎な内容が、さらにめちゃくちゃなことになりかねない状況だが、それも君の思い過ごしか。そういうやり方は狡いのではないか。確かにそうやって言葉をつなげることはできそうだが、やはり何だかおかしい。やめた方がよさそうだ。でも本気でやめようとは思っていない。そういう成り行きを感じながら、悦に入る素振りも見せず、淡々と継続を試みているようだ。

 他に何ができるというのだろう。それも開き直りの言葉だ。君は相変わらず眠りについているようだ。でもそれは昨晩のことだろう。また誰かが過ちを指摘する。見え透いた嘘もいい加減にやめてほしいか。君はそこで何を疑っているのか。疑念を抱いているのなら、それを具体的に説明してくれないだろうか。別にこの世界を哲学的に把握しようとしているのではない。その中で人が何をやろうと、また何もやらなくても、別の人が何かをやっているだろうし、また何もやらないふりをしているのかもしれない。だからそんなことは何でもないのか。哲学とは無関係のようだ。限られた範囲内で何か述べないと、現実感を失ってしまう。いつものことだが、具体的な事柄が抜けている。それでは何について何を主張したことにもならず、たぶん何も主張せず、何も語っていないことになってしまう。またそれでかまわないと思いたいのか。頭の中が空っぽか。冗談には違いない。それでも何かを考えているようだ。何か思うところがあるらしい。ねじ曲げようとしているのか。あるいは何かの闘争の最中か。しかしそこで何を肯定したらいいのか。人々の闘争状態を肯定すべきか。オリンピックはスポーツを通しての闘争を肯定している。テレビでプロ野球中継を見ながら、そこで繰り広げられている闘争状態を見て楽しんでいる人が大勢いる。実社会でも人々は他人にものを売り込むために、また自分のやり方を押し通すために、日々闘争中だ。それらは果てしなく続き、闘争に明け暮れ、それに嫌気がさし、そんな状況に疲れた人々を苦しめている。またそんな闘争に打ち勝った一握りの人々や、その家族や子孫が、その報酬として受け取った過剰な富を蓄積していて、そしてそうした結果を羨み、自分もそうなりたいと願う人々を奮い立たせ、さらなる闘争の激化をもたらしているわけだ。その一方で人々は安らぎを得たい。闘争中毒になって、死ぬまで闘争していたい人はともかく、適当なところで闘争を切り上げて、あとは蓄積した富を使って、悠々自適な余生を送りたい人もいるだろう。そういった成り行きのすべてがこの世界を覆っているのだろうか。正気とは思えないが、それが当たり前のことらしい。

 たぶんそういった社会を根底から変えたかったのがマルクス主義者たちであり、それらの大部分は闘争によってそれを成し遂げようとしたが、そのほとんどすべては挫折や変節を余儀なくされ、今に至るわけなのか。大したことではないが、それらの何が間違っていたのか。政治制度や官僚機構は、それらの闘争を調整し、行き過ぎたところは押さえ込み、何とか破綻を来さないように維持継続させたい。そうしないと自らが構築している統治機構の存続が危うくなる。できれば税の取り立ててによって、行き過ぎた富の不均衡を是正したいところだが、発言権があるのは常に闘争に打ち勝った側であり、とりあえず彼らの言うことは聞いたふりでもしていないと、体制を維持できず、そういった人々を機構側に取り込み、彼らの意見が反映された制度に見せかけなければならない。そしてその一方で闘争に打ち勝つ見込みのない大部分の人たちに幻想を抱かせ、あたかも自分たちも闘争の勝者であるように見せかけなければならず、それがいつまでもだましきれないから、政権交代などの見せかけの民主主義を機能させて、国民全体が心理的あるいは経済的な豊かさを実感できるように、すべての人々が幸福になれるように、国民を代表する政権を担う政治家たちに、未来永劫の努力を課しているわけか。それは凄まじい欺瞞だとも思えるが、やはりそうなるのは宿命なのだろうか。君はそこから何を導き出したいのか。それはそれとして置いておいて、自分も闘争の勝者になるべく、何やら策略を巡らし、自分が有利になるような状況でも模索しているのだろうか。それともまさか君もマルクス主義者として、この社会を根底から覆すための方策でも模索しているのか。冗談だろう。今のところは冗談に過ぎず、たとえ本気でそんなことを考えているとしても、誇大妄想の域を出ない話だ。たぶん無理に考えなくても、そのうち何とかなるような気がしているのだが、それも無責任な話だ。では少なくともそれについては何か妙案でも思いついたら、それがどんなにくだらないことであっても、その場で適当に表明だけはしておいて、それが責任逃れのアリバイ工作だとでも思い込めばいいのだろうか。それも冗談のたぐいか。


8月20日

 相変わらずというわけにもいかないようで、そろそろ暑さも一段落してほしいが、今のところその気配は感じられず、たぶん来月になっても暑いのだろう。暑さにうんざりしながらも少しは馴れ、あきらめがついた頃にようやく涼しくなる。毎年そんなパターンなのかもしれない。それにしても何もない。人はなぜ当たり前のことを当たり前に思い、当たり前のように言い、そうではない人に反感を抱くのだろうか。そうではないと思うからか。誰が疎外されているとも思えない。でもそれらの何が美しいとも思えない。また何かをごまかしているのだろうか。たぶんでたらめに語りたいのだろう。正しいことを述べられないようだ。何かが重荷になっているのかもしれない。でもそれででたらめになることもないだろう。しかし何なのだろうか。ただ暑いだけか。まだ夏なのだから仕方のないところだ。でも何に居直っているわけでもない。どこかへ何かを移動させなければならないのだろうか。そんな気配を感じながらも、何かの到来を待ち続けているように装い、虚勢を張っているのかもしれないが、たぶんそれは孤独な末路を呼び込むだろう。君はまだもう少し書物を読んでいなければならないようだ。今さらながら、文章読解力のなさを痛感しているみたいだが、それでも昔よりは読めるはずだ。現に昔読んでわからなかった箇所が理解できるようになったではないか。それも勘違いのなせる業か。そう思ってしまっては身も蓋もなく、少しはわかったふりをしなければ、読んでいて楽しくないだろう。読む気力も失せてくる。だからひたすら読もうとしているわけか。それが理由になっているようには思えないが、ともかくそこから浮かび上がってくる問題を何とかしたいのだろうし、そのための解決策を模索しているわけでもないのだろうが、気晴らしもかねて十数年ぶりにひたすら書物を読む。読んだ先に何があるのだろうか。この先に何が待ち受けているとも思われない。でも不意に何かが見つかれば、それが何かの出口であったり、それを脱するきっかけであったり、そういう幻想を抱きたいのだろう。

 思いがけないことは二度と起こりようがないか。それはわからない。そうなる手前で気づいてしまうか。でも気づいてしまった元も子もないのではないか。では気づかないうちに罠を仕掛けなければならないのか。子供じみている。たぶん罠も何も必要ではなく、率直にそれらの出来事に驚けばいいだけで、起こりようがないことが起こったことに感動していればいいのではないか。怠惰に振る舞えば、そのつけが君に何かをさせようとするだろう。それだけのことに呆れていては、何ももたらせなくなり、そこでおしまいとなってしまう。だからこうして言葉を記しているのではないか。また理由になっていないことを述べているらしいが、今はそれでもかまわないのか。そういう成り行きを甘んじて受け入れて、隙だらけのように見せかけ、その内に何かを呼び込もうとしているのか。でもそれは戦略でも戦術でもなく、ただのいいわけに過ぎず、そんな態度では何も得るものがないのではないか。要するにまた君はフィクションの中でそんな言葉を弄んでいるのだろうか。話になっていないか。でも具体的に何を話すつもりだったのか。それを忘れてしまっては話にならないか。忘れているのではなく、もとから話などなかったのではないか。でも本当に何もないわけではなく、何かあるのかもしれないが、それが具体的な相貌を見せてはおらず、潜在的な領域にとどまったままで、しかも顕在的な領域では不在のままであるそれに向かって、何やら言葉の連なりをまとわせようとしている限りにおいて、それが話といえば話の体裁を取り繕っているのであり、そんなあやふやな説明によって誰を惑わそうとしているのでもないのだろうが、とにかく無理にそれについて語ろうとすればそういうこととなり、次いでそれが何だかわからないうちに語り終えてしまい、謎といえば見え透いた謎を残しながら、また次の語りにつながっていくわけで、たぶんそれは誰にとってもどうでもいいようなことかもしれないが、やはりそれがとりあえずの話の中身なのだろう。要するに冗談なのか。

 そう思ってしまえば身も蓋もない話になりそうだ。何がどこで区切られているわけでもなく、どこまでも無駄話には違いないだろうが、今のところそれを続ける成り行きにはなっているようで、いつまで続くかはわからないが、続けている現状があり、いつまでも続くわけもないのだろうが、今は続けていて、実際に続いているわけだ。でもそれではおかしいだろうか。続ける意味も意義も見出せない。意味も意義もないから続けられるのかもしれない。続けようとする意志がそういう虚無的な思想の虜となっているのだろうか。そう考えれば何か納得がいくとも思えないが、そういう理由を後付け的に加えれば、何だかそれらしい文章となるような気がして、それも一つのごまかしには違いないが、たぶん実際には思想も何もありはせず、何が思想なのかもわからないうちに、それを語ったように見せかけ、次いでもうそれは済んでしまったこととして、その先に言葉の連なりを延長させようとする意図が見え見えで、何だかくだらなく思えてくるのかもしれないが、それも冗談のたぐいだろうか。わかってしまえば何のごまかしにもならない。だからわからないように事を進める必要があり、誰が何を進めているのか知らないが、そんなはぐらかしも文と文の間に差し挟みつつ、傷ついた皮膚が徐々に再生してくように言葉を記してゆけばいいのかもしれず、何事もなかったかのように語り続けば、それで済んでしまうのだろうが、しかしなぜそうなってしまうのか。今さら何を蒸し返しても後の祭りか。蒸し返す対象さえ定かでなく、何に反発してみても、反発する対象も定まらないまま、疑問を投げかけられている当のものからひたすら遠ざかるだけで、それ以外の運動や現象はどこにも見当たらず、それを意識すればするほど困惑の度を深めるばかりで、何の結論にも至り得ないのはわかりきったことかもしれないが、それでもなお疑念を抱くとすれば、それはその先に言葉を連ねるための方便となり、君をますます記述の虜にするための罠なのかもしれないが、やはりそれがどうしたわけでもないわけか。今のところはそうだ。


8月19日

 微かな記憶をたぐり寄せ、どうにかこうにか体裁を取り繕いたいが、何も出てこないようだ。またくだらないことでも考えているのか。君にそれがわかるはずもない。もういいのだろう。わからなくてもかまわない。わかるはずのないことをわかろうとしても、それは無理というものだ。だからわからないままでかまわないのではないか。君はもう疲れている。落ち込んでいる。急に何かが外れてしまったみたいだ。たがが外れたのか。これでは前進しようにも前へ進めないか。それでもかまわないだろう。時が経てばどうにかなっているはずだ。どこへ向かって何を主張したいのでもない。もはや衰弱するにまかせているのかもしれない。脆弱な体質を放置したままにしておいたのが仇となったわけか。でもどこへも歩み寄れず、何の助けも借りられないのだから、自業自得とはこのことか。所詮はその程度のことなのだろう。しかし本当にだめなのだろうか。そのへんは考えさせられるものがあるが、今さら何を考えてみたところで手遅れだ。君は誰が何にこだわっているのか理解できない。そのこだわりは何をもたらそうとしているのか。それがわかるには気晴らしが必要だ。何の根拠もないが、とりあえずそこから離れなければならない。面倒くさいのを我慢して、もう少し彷徨い歩かなければならないようだ。果たしてその気力が残っているだろうか。試してみなければわからない。夏は暑すぎるだろう。不意に天から何かが降ってくることはないだろうか。いったい何を期待しているというのか。君にそれを期待するのは酷か。ならばいつものでたらめに拍車がかかるばかりのようだ。そうならないうちに手を打たなければならないか。またそうやって引き延ばし工作が始まってしまう。もはや冗談では済まなくなっているのではないか。でも気合いで乗り切れるはずもなく、やはりよりいっそうの衰弱が致命的なダメージをもたらし、君はそこで終わってしまうのだろうか。

 そうなる公算が強まっても、まだ執拗に言葉を記し、最後の時まで継続を目指し、そのへんで憤死か。それはちょっとまずいか。何とかそうならないようにしなければいけないか。でもそれだけの力が残っているとは思えない。ではそのままふさぎ込んで引きこもり、鬱状態が悪化して、誰かは自殺してしまうのだろうか。そういうのはよくあるパターンか。そのへんに言葉を配置すれば、そういう物語を生じさせることができるかもしれないが、そこで踏みとどまれないのがいつもの成り行きで、どうせすぐに忘れて、何も思い出せなくなり、何を考えても話がまとまらず、次第に空疎な気分で意識がぼんやりしてきてしまうのだろう。要するに本気になれないわけだ。自らが何をやっているのかわからなくなる。ここは橋の上だろうか。確か数日前は歩道橋の上だったはずだ。そこで君は不意に何を思いついたのか。自由とは何か。冗談のたぐいか。それもあるかもしれないが、要するに世の中には明確な法律や暗黙のルールなどがあり、そういったものから日々規制され束縛されているように思われるから、人はそこから自由になりたいと思うわけで、自由自体がもとからあるわけではなく、規制されたり束縛されたりする障害物がなければ、人は自由という概念すら想像することもできないのだろう。ならば君はそういったものから現に抑圧されているから、自由であることを望むのか。だからそれが冗談なのだろうか。何だか破れかぶれになってきているようだが、いつの間にやらフィクションの中で笑いが止まらなくなり、そうした漫画の中でうごめいている感情を爆発させそうになってしまうが、かろうじてこらえ、さらにその先へと歩み出そうとしているようだが、果たしてそれが可能かどうか、目下のところ思案中なのか。とりあえず述べていることの意味がわからなくなり、文章のまとまりがつかなくなっているのはいつものことのようだが、さらにそのへんのところを言及したくなり、続けて記すとしよう。

 それは本当なのだろうか。ごまかしのたぐいか。でもそこに至るには何らかの必然性がともなっていて、偶然の巡り合わせがあるにしても、安易に身をまかせるべきではない何かがあるのだろうし、まあよくわからないと記しておけば事足りるようなことでしかないのかもしれないが、ともかく無意識のうちに自由を求めてここまでやってきたことは確かで、それで何かの束縛から逃れられたとは言えないのかもしれないが、とりあえずはこうして言葉を記している誰かが部屋の中にいる状況を設けたのであり、それはそれで君の目論見通りの結果だったのかもしれない。でもそれによって失ったものは計り知れず、信用を失い、経済的な不安定をもたらし、路頭に迷う覚悟をしなければならず、要するにいいことは何もないわけで、そうまでして執着するようなことでもないのに、なぜかそうしたどうでもいいことにこだわり、なおかつ無謀にも何の利益ももたらさないことに専念してしまう誰かを生み出してしまったわけで、これはもうあとに待ち受けているのは破滅以外の何ものでもないわけだ。いったいこれは何のフィクションなのだろうか。たぶん小説でもテレビドラマでも漫画でもありはしない。誰かがベッドに横たわりながら抱いている妄想のたぐいか。そんなふうに思うなら思っていてもかまわない。要するに誰かは今現実逃避の世界で夢を見ているわけだ。でも君の策略は用意周到だ。そういう状況を利用しない手はないだろう。そこから現状を突き崩して、何かを得ようとしているのかもしれず、その何かよって誰かが生き続け、妄想の中で言葉を記し続け、君をこの世に出現させようとしているのかもしれず、まさかとは思うがその機会が間近に迫っているとしたら、それはただの冗談なのだろうか。そうであるとしても否定すべきことではなく、拒否すべき現状なのでもなく、そのような成り行きがさらに持続するように、何らかの手を打たなければならないのだろうか。君が本気だとは到底思えないが、まだもう少し情勢を伺っている最中なのかもしれない。


8月18日

 どこかに寄りかかっている。疲れているのだろう。しばらく休んでいたようだ。どこを彷徨っているわけではなく、誰がそれを眺めているわけでもない。ただそんなことを記してみるが、意味がわからない。たぶんおかしいのだろう。今度は歩道橋の上から眺めているようだ。昨日通りすがりに見た光景だ。背後から足音が聞こえてくるが、誰のものでもない。あと一歩が踏み出せずにいるらしい。それは夢の中でのことか。なぜかバスに乗っていたようで、なかなか終点に着かずに焦っていたのかもしれない。それからだいぶ経ってやっと終点に着き、降りようとして財布を取り出すが、小銭が見つからない。いつの記憶なのだろうか。思いつくままでたらめな順序で過去の出来事を記しているのかもしれず、それがどうしたわけでもないが、何となくやる気を失ってくる。すべては無に帰すのだから、記された言葉もやがて消え去る運命だ。誰かの都合に合わせて、何だか遠い未来の話になってくる。やる気を失えばそうなってしまうのかもしれない。すべては無に帰すから何もやらなくてもいい、という話でもないような気がするが、成り行き的にはそんな雰囲気のようだ。そしてまた意識は歩道橋の上に戻ってくる。どうということはない光景が目の前に広がり、午後の風を感じながら別の誰かが佇んでいるようだ。道路工事の看板が目につく。目についたところで興味があるわけではない。夜の光景も見てみたいような気がするのだろうか。終電に間に合わなくなってしまうのではないか。君はどこで何をやっているのだろうか。どこかで道に迷い、戻って来れなくなってしまったのかもしれない。しかしどこへ戻ってこようとしていたのでもない。話のつじつまを合わせようとしない。そんなやり方では戯れ事の範疇で、まともなことは何一つ記せないような気がするが、それでもかまわないような気がするのは毎度のことらしく、何がどうしたわけでもないのに、ここまで記してきて、何だか呆れてしまうようだ。

 確かにすべては崩れ去る運命なのだろう。風雨にさらされ、だんだん浸食されてくる。でもそれは何のたとえなのでもなく、自然の地形について述べていることだ。また誰とも無関係なおかしなことを記しているようだ。理解不能な書物の読み過ぎか。それを読んで何かためになっているのだろうか。今のところはわからない。でも理解不能ではだめで、理解できるように努力すべきなのかもしれない。今さら無理だろうか。それは君に関係することなのか。実際に読んでいるのだから、少しは関係しているのだろう。風雨に晒されて浸食した地形も少しは関係しているのではないか。かつてそんな地形を見たことがあるのかもしれない。テレビの映像でか。それもあるが、何かのたとえとして、そんなことを語ろうとしていたのではないか。どうやら途中で話が脱線してしまったらしい。要するに何かが消え去ったり崩れ去ったりすることで、そんな光景を目の当たりにして、誰かがものの哀れとかを感じるのではないか。そういう話にしておけば、何となく話がまとまったような感じがするのかも知れないが、それとこれとは無関係なのだろうか。違う話になっているのかもしれない。実際に指先の皮膚の表面が少しはがれてきて、何だか心配になってくる。かつてほどひどい状態にはならないような気がするが、他はかなり治ってきているのに、左手の人差し指だけは、一カ所から絶えず皮膚がはがれ続けていて、痛みやかゆみは感じないものの、見た目や触った感じが不安をかき立てるようだ。まさかそこからすべての崩壊が始まってしまうのだろうか。もちろんはがれたあとからは新たな皮膚が再生していて、はがれ続けている部分が境界線となっていて、その境界線が徐々に広がっているわけで、このまま広がり続ければ、人差し指の領域からはみ出して、全身に広がってしまうような感じになるのかもしれないが、途中で進行が食い止められたりするのだろうか。すぐ隣の親指はそうだった。ではそれほど心配するほどのことでもないだろう。でも今のところ治る気配は感じられず、治るまでは心配し続けるのかもしれない。

 些細なところからだいぶ話が横道に逸れて、話そのものもどうということはない内容なので、それはそれでどうしたわけでもないのだろうが、何だかろくでもない成り行きになってきたようだ。とにかく大したことではなく、何かが自動的に解除されたようで、今からそれを設定し直して、また改めて起動させている最中のようだが、それでいつもの言説を回復できるだろうか。もうこんなところまで記してしまった。ここから修正は利かないだろう。でもへこたれてしまってはだめなのだろう。今は1970年代ではない。すべては過去の話だ。やがて朝が訪れる。朝日が昇り、何の変哲もない一日が始まり、君は相変わらず途方に暮れている。それだけの話だ。わけなど何もなく、何に困っているのでもない。歌の中でニール・ヤングが盛んに教えてくれと懇願しているようだが、やはりわけなど何もないのだろう。君とは関係のない話だ。でもここには世界があり、人が住んでいる。もはや人間という概念はとうに無効となってしまったのかもしれないが、今はそこから40年以上の月日が流れた。今この時点で何を語ればいいのだろうか。教えることなど何もなく、逆に学ぼうとしているのかもしれないが、学んでいる気がしない。確か二十世紀の哲学者としては、前半はハイデッガーで後半はドゥルーズがそれを代表しているらしいが、どちらにもそれ特有の限界があるらしく、別にそれらの哲学に何を求めているわけでもないのだろうが、何となくそれを理解したつもりにもなれず、そのままスルーしてしまいそうになる。いったい君はそこから何を認識し理解したいのか。やはりそれとこれとは関係がないのか。君のおかれた状況とは無関係なのかもしれず、勘違いも甚だしいか。笑っている場合ではないような気がするが、相変わらずの無内容に呆れ果て、今日も何も語っていないと思い、あとはさっさと退散するしかないようだ。何だかますますわけがわからなくなってしまうらしい。


8月17日

 今日は何だか言葉を記せないような気がするが、実際はどうなのだろう。少し前までは眠っていたようだ。また幻想を抱いていたのかもしれない。社会の中で人がやれることは限られている。興味の対象はメディア上にあり、実際にやっているのは他人と似たようなことだ。みんな同じように生きているのだろうか。その似たようなことや同じようなこと以外に何があるというのか。やはり幻想を抱く以外にあり得ないのだろうか。何か自分独自の生き方を貫いていると思い込めば楽しいだろうか。疲れてこないか。虚しいことだ。君はその虚しさに寄りかかり、そこに自由を見出そうとしているようだが、それは浅はかな思い込みだろうか。言説上のごまかしか。表現がおかしいだけか。何とでも言える。でもそれで何か言っているような気がしない。長続きしないらしく、また眠ってしまったらしい。思考が雑なのだろうか。しばらくデジャヴに襲われ、そこから抜け出られない。本当にそれはかつて見た光景なのか。記憶違いかもしれないが、しばらく考え込んでいるようだ。似たような経験ばかりが記憶に蓄積されているのかもしれない。知らないうちに歳月が積み重なっているのだろうか。心ではない。では何がそうなのか。均衡がとれないだけだろうか。何が不釣り合いなのか。頭が重い。何を感じ取っているわけでもないのに、床が傾いて感じられ、不思議な感覚を覚え、またやる気を失い、さらに言葉を記すのが困難になってくる。でもそれが何の物語に接続するとも思われず、いくら首を傾げても元に戻りそうにない。そういう事態は想定していなかったようだ。別にかまわないだろう。それも何かの効果なのだろうから、今はそれを楽しめばいい。やがて目が覚めて、何も変わっていないことに気づくだろう。でも君は気づいている。確かに変わってしまったのだ。往時の面影はない。ふてくされている場合ではなく、さらに奥へと進まなければならない。そこで何も見つからなくても、その奥へ歩んでいくしかない。

 それらの堂々巡りに飽きて、何か別の道を模索しているみたいだが、なかなか見つけられないようで、苛立っているわけか。それともそれは嘘なのか。まだ何も起こっていないことに腹を立てているわけでもないが、たぶん現状では何も起こりようがない。君の記憶は確かなのか。作為とは関係ないみたいだが、自然体とも言い難い。しばらく放っておいても大丈夫か。誰が放心状態でもないのだろう。空気が薄く感じられるが、ここはどこかの山の頂上というわけでもない。気のせいだ。そこで何かが破綻している。気持ちのせいだろう。何もなくても何もなくはないということか。それはどういうことなのか。息継ぎできずに水の中で苦しみもがいているということか。溺れてしまうのではないか。でもそれは架空の話の中でのことだろう。今は部屋の中で画面に向かって言葉を記している最中だ。何かの幻覚に襲われているわけでもないし、正気を保っているような気もしている。薄っぺらいことに惑わされているのかもしれない。些細な行き違いが仇とっている。だから冗談に思われてしまう。すべてが万事そうかもしれない。でもそれで何を強調しているのか。自己を正当化する理由が見当たらない。君は君で君のままでかまわないのではないか。他の誰も君ではない。作為的な仕掛けを巡らす間もなく、不用意に言葉が記されてしまい、君は困惑の度を深めているみたいだが、そういう成り行きなのだから仕方がないだろう。どこで何を釈明する機会も与えられず、君はただ誤解を解消できないまま、そのままそこを立ち去ることしかできず、途方に暮れる暇さえなく、慌ただしく動き回っていたのではなかったか。何のためにそうしていたわけでもないのに、今思えば不可解なことだらけか。しかし何を思い出しているのだろうか。何もないのに何かがあると思うしかない。思い出しているのはそういうことらしい。

 文章としておかしい。何がそうなのだろうか。さっきから気になっているようだが、もう済んでしまったことかもしれず、今さら修正は利かない。冗談かもしれない。そういうことにしておきたいのか。何かがつながらない。一息ついているみたいだ。疲れたのだろうか。このままでもかまわないような気がするが、何かもうひとひねり必要か。何もないようだ。確かに何もないが、その何もない状態を肯定しなければならないとしたら、それをどう説明すればいいのか。ごまかしによって何かあるように見せかけなければならないのか。それでは肯定にならない。ではごまかしではだめか。そこから言葉をつなげてゆけば、自然と何かを肯定しているように思えてくるだろうか。それはおかしな肯定の仕方だ。また何かの冗談が混在している。そう思っていればいいのではないか。それも手か。手詰まりを解消しなければならない。本当だろうか。別に将棋や囲碁をやっているわけでもないだろう。では何かのたとえか。それともそれがごまかしのたぐいなのか。どちらでもかまわない。たとえごまかしであろうと、それを認めることにして、その先を記すとしよう。何も見えてこないが、怠惰に流されて、意識をそこまで押し戻すことができないようだ。それも記述の一部なのか。でも表層にとどまれず、またずるずると落ちていってしまい、何かの藻くずと消えてしまう。またおかしなことを記しているが、苦し紛れなのか。一向に持ち直す気配がない。さっきからそうらしいが、そこに至ってなお何かを肯定できないだろうか。それを模索中なのだろうか。そう思うならそれでもかまわないだろう。たぶん思考の横道に逸れてしまい、あらぬ場所でぐるぐると堂々巡りの最中なのかもしれない。まだ正気を保っているだけでもマシな方か。どうやらいつになってもそこから抜け出られないようだ。たぶんその中で何が愚劣なのでもなく、すべてがすばらしいと思えば、そういう感じでごまかされてしまうのかもしれないが、やはりひねくれ者の君には、それらのどこかで引っかかるものが感じられてしまうらしい。


8月16日

 少し前までは今にも途絶えようとしていたのに、まただいぶ無駄なことを記している。だがそれは今に始まったことではない。そんなふうに語っているのだから、そういうことになる。戸惑っている場合ではない。宿命なのか。そんな大げさに考えることでもないだろう。それでも何とかしようとしているのだから、放っておけばいい。気が済むまでやらせておけばいいだろう。でもいくらやっても気が済むはずがない。それはわかっていることだ。ではわからないふりをすればいいのだろうか。またはぐらかそうとしている。なぜそうなるのか。そうならないようにしなければいけないのか。拒否したいのだろう。何もかも否定したくなり、どこかあり得ない場所へ逃走したいのかもしれないが、そう思ったところで何が変わるわけもない。現状がこうなのだから仕方がない。何かできる状況ではなさそうだ。とてもそんな心境にはなれない。でもやがて気が変わって、何かやり始めるのかもしれず、そうなるまで待てばいいのではないか。もうしばらく待つとしよう。そこで行き詰まりなのか。行き止まりの方角を眺めている。またはぐらかせばいい。いくらでもそうやってきたではないか。そして今もそうだ。倦怠のただ中で、そこから遠ざかりたいと思う。いくらでも遠ざかればいい。実際はそうでもないのに、言葉を記してみると、そんなことを記している。かなりおかしな現象だ。でもまだこんな時間だ。ここからどうしたいのか。誰の知ったことでもないらしい。まだ気力が残っている。限られた時間内で成し遂げられるようなことではないが、その不可能に向かって努力しなければならない。やはりあり得ないことだ。でもそのあり得ないことをやらなければ、何事も前進しない。でも本当に前へ進もうとしているのか。言葉がそこで停滞しているようだ。無理もないことだろう。無理に何かを注ぎ足しているだけかもしれない。

 光明がなかなか見えてこないが、ここはトンネルの中ではない。無理に語ろうとするからそうなってしまう。でもあきらめないらしい。語っている内容がどうなろうと知ったことではないのだろう。もう破れかぶれか。そんなはずがないが、状況はそれに近かったりするのだろうか。君に味方していたのではなかったか。それもそうだが、焦る必要はない。そんなふうにして切り抜けてしまってもいいわけだ。いつものごまかしか。そうなってきそうだが、そうとは感じられない何かを探している。見つからないだろう。見つからないのに見つかったふりをすればいいのか。それもごまかしだ。そう思ったら急いでそこを離れたくなるが、何となく離れられず、しばらく佇んでいるようだ。風を感じられない。近くにある建設中の住宅から工作機械の音が聞こえてくる。暑いのに大変そうだ。意識は街の中を彷徨っているのだろうか。誰かの冗談なのだろう。君はそこで語っていないようだ。では何かの神話作用が君を活かしているのか。例えば政府の閣僚が終戦記念日に靖国神社に参拝することが、何らかの神話作用をともなっているわけか。そこに隠された意味でも見出されたりするのだろうか。見出されるとしても、わざわざ君が見出すほどのことでもないだろう。それに関しては共産党や左翼系の雑誌などが、何かもっともらしい主張を展開するのかも知れないが、少し古びた何かを思い起こさせるにとどまるだろう。何かを成し遂げるには遠すぎる地点にいるらしい。みんなそんなことなど眼中にないのだろう。何かの利害関係があり、とりあえずその関係をこわさない程度には振る舞わなければならず、そのための一環がそんな事態を招き、どうということはない光景がその場に現れる。すべては惰性で行われていることであり、そういう儀式が何らかの意味作用を行使していた頃はとうに過ぎ去り、今は空疎な形式だけになってしまったのかもしれない。要するに半ばあきらめムードなのだろう。

 人はますますどうでもいい存在となり、何をやってもくだらなく思えてくる。そんなはずがないと思いたいだろうが、荒んだ気持ちを改められずにいるらしい。ホームレスがホームレスの悲惨な境遇を絵に描いて、それを一般の人たちが眺めて感動したりする。描いたホームレスは救われるかもしれないが、描かれたホームレスは悲惨な境遇のまま死ぬ運命にあるのだろうか。それともそれも何かのゲームなのか。絶え間なく己のうちからわき上がってくる自己顕示欲が、君たちを突き動かしているとすれば、君たちはそこで何か芸術作品でも造り出さなければならないのか。でもそこで現実に何が起こっているのだろうか。そういうところで立ち止まるとすれば、君たちは人が人を食らう現実に直面するしかないわけだ。絶望した者たちは喜んで画家の食料となり、食らわれることで画家の血肉となり、その画家が世間の脚光を浴びることによって、絵のモデルとなった人たちも救われた気がするのかもしれないが、果たしてそれでいいのか。一見穏やかな平和を享受しているように見える社会の中でも、人は絶えず他人との闘争に明け暮れ、自らをすり減らしながら自らの死に向かってばく進中なのかも知れず、今流行の、やられたらやり返すとか言う台詞をフィクションの中で吐かなければならないほど追いつめられ、中には近所付き合いが破綻して、手負いの野獣となり、猟友会に仕留められてしまう猪のように、五人殺して森の中で発見された殺人鬼の老人もいるではないか。まあそういう人もいるのだろうから、平和な世の中といっても、そこで何かの関係がこじれると、すぐに暴力の応酬となるような状況でしかなく、ヤバいことに変わりないようで、気を抜いて、あきらめムードに浸っている場合ではないのだろう。でも一方で冗談のように思われることは確かで、みんなギャグのつもりで倍返しだとか言っているような気がしてならない。


8月15日

 振り返ってみれば、何かわかりそうなものだが、これが重要なことなのだろうか。記述を何かに優先させているのだから、そうなのかもしれない。ともかくやる気でいるようだ。自らの内に矛盾を抱え込み、目的も目標も定かでないまま、何となくそんなことをやっているのだろうか。しかし労働とは何か。そこに価値を見出せない理由は何なのか。嫌な制度かもしれない。荒んだ気持ちにさせる。君はそこから逸脱したいのだろうか。すでに逸脱しているのではないか。わからないが、生活するには労働が欠かせない。遠からずそうなるだろう。生きたまま労働から解放されるためには、ひたすら労働して金を稼ぐしかない。そんなはずがないか。別のやり方もあり、それは博打を打って一度に大金を手にすることか。たぶんそのへんが矛盾しているのだろう。どう見ても何とかなるような状況ではないか。でもそれでかまわないのだ。何とかならなければ、何とかしようとすればいい。努力するしかないらしい。フィクションの中ではそうなのかもしれない。現実の世界ではどうなのか。君はそこから逃げているのか。さあどうなのだろう。面倒な問題だ。何かをごまかしている。ごまかせば何とかなるのか。そういうわけでもない。何とかならないからこうなっている。それで笑ってしまうわけか。まだその段階ではないようだ。何を賭けるような時期ではないらしく、今はひたすら本を読んで言葉を記すのみなのか。しかし記している内容がこれではいただけない。ではこれもフィクションのたぐいだとごまかして、その先にでたらめな言葉を連ねてしまうのか。どうもそれは違うらしい。当人はまだうまく切り抜けたつもりでいるらしい。でも君には到底危機を脱したとは思えず、この先にさらなる困難が待ち受けていることを予感させる。

 また誰かがごちゃごちゃとわけのわからぬことを述べているらしいが、別に気がふれているわけではないのだろう。客観的に見れば悲惨な境遇にあるわけでもない。では何なのか。ふざけた自問自答を繰り返しているだけか。それ自体がごまかしの一部か。何だかわからないが今日も言葉が積み重なるらしく、それが今にも崩れ落ちそうになるほどでもないのだろうが、とにかく中身はないがそれなりの分量になるのだろうか。そうやって絶えず何かを避けているのだろう。どこかに至るのを避け、どうにかなろうとしてしまうのを押しとどめ、そして眠くなり、目が覚めたら翌朝になっている。昨晩はどんな夢を見たのか。この世界では絶えずどこかで人が選別され、そこでふるい落とされた人々が労働者となり、ありふれた夢を抱きながら働き続け、時の経過とともに老いてゆく。単純な成り行きだ。物語にもなりはしないか。それはふるいに残った少数の人たちが抱く夢だろうか。そういう認識は否定すべきなのかもしれない。でもいくら物語を多様化させて生きる選択肢を増やしたところで、選ばれた少数の人たちの特権は残るのではないか。選ばれなかった人たちはどうなるのか。バイト先での憂さ晴らしのふざけた行為を、投稿画像としてネット上にのせて、世間から注目を浴びようとすればいいのか。それは違うだろうか。どうも途中で何かをねじ曲げているようだ。大部分の人たちは真面目に働いているはずで、そこから何らかの生き甲斐を見出しているのだろう。深く思考することから遠ざからなければならず、現に今自らがやっている行為を肯定しなければならない。それが自らがこの社会の中で機能している証しなのだから。でも君はそれが何かの冗談だと思っているはずだ。意識はそれ以外の選択肢を絶えず求め続け、ここではないどこかへと向かっていて、勝手気ままに振る舞う自由を求め続け、それが障害となり、今いるここから遠ざかってしまう原因となるだろう。安定を望まないわけだ。

 では君はどこへ向かっているのか。どこへも向かわずに部屋の中で言葉を記している。それは架空の誰かだろう。君は君自身の存在を否定したいらしい。誰かが冗談でそう思っているようだが、相変わらず現状を受け入れられないようだ。でも何も為していないわけではないのだろう。必死に何かに食らいついているわけでもないのだろうが、平静を保ちながら、何かに取り組んでいるのかもしれない。そういうことにしておきたいのか。そういう自問自答が何かの出現を阻んでいるのだろうか。吹っ切れていないようだが、そのままの状態をいつまでも維持できるわけもなく、時が来たらそこからも押し出されてしまうのだろう。そうなるまでの間の辛抱なのか。耐えているとは思えない。耐えきれずに何を語っているわけでもなく、ただ平然と言葉を記しているに過ぎないようで、現状はそれ以外ではないのだろう。それがフィクションの中で語られているとは思えないが、実際のところは不明確か。たぶんそこから脱出してきた後に、それらの記述がさらに続いてゆくのだろうが、今は何とも言えず、そんなふうに語っていること自体が嘘みたいに思われ、たぶんそれは無駄に無闇矢鱈と言葉を記していることの表れなのだろう。でもこんな内容ではだめか。自己に対する反省にもなっていないようで、そんな自己がどこに出現しているわけもなく、それらとは違う道を歩み続けているらしく、目下のところ何の事物にも突き当たっていないような感じなのかもしれないが、それは気のせいか。これも何かの機会と思うべきなのか。そしてその機会を捉えてどこかから押し出され、さらに記述を継続する羽目になり、今に至っているわけなのか。誰かの都合を考慮すればそういうことになるらしいが、それにしてもまだ先が見えてこないようで、延々と何かを繰り返しながら、その先へと歩を進めている段階なのだろうか。


8月14日

 これを無理に変えようとは思わない。どう変えようとしても、変わるときにしか変わらない。その時がいつなのかわからないが、とにかく今はこのままらしい。この後に何かがつながってくる。そう思うしかないのだろうか。君は何か思い違いをしている。それもあるのかもしれない。でもそこで踏みとどまりたいのだろう。何とかしなければならないと思う。幻想だとしても、その先があると信じなければいけないらしい。だからそうなっているわけだ。現実を受け止めるならば、やはり成り行き通りになっているということだ。確かな手応えがないとしても、それが現実なのだろう。どういうわけか知らないが、そうなってしまうわけだ。運命の架空の一日が過ぎ去り、なぜかほっとしている。何でもなかったのだ。君には関係のないことだった。それはある程度予想していたことだ。その程度では何も変わらない。わかっているのはそういうことだ。君に何ができるというのだろう。流れを止める力がない。それが君にとって悪い流れなのか、あるいは良い流れなのかもわからず、ただそれを止められないと感じるだけのようだ。だから押し流されている。それほどのことでもないのかもしれない。濁流でも何でもなく、そもそも川の流れではないのだろう。それを川の流れにたとえたいだけか。実際はそうだが、押し流されているとは感じない。気のせいで、本当は流されていないのかもしれない。冗談だろうか。その時はそう思っただけか。でも不可解だ。そんなことを記せば記すほど、そうではないように思われてくる。だから冗談であり、嘘なのか。でもそんなことを記している流れは止めようがない。まったくいつまで経ってもそれなのだから、我ながら呆れてしまうか。あるいは楽しんでいるのだろうか。

 戯れ事に違いない。記述そのものがそうなのか。たぶんそうだ。ある日突然それが打ち切られたらおもしろいか。なぜそうなるのか。何だか何もかもが遠いような気がする。どこを目指しても到達不可能な地点にいるのだろうか。そもそも目指していないのではないか。それは嘘だろうか。知らないうちにくだらぬ自問自答となっているが、それも冗談のたぐいだと断言できるか。違うだろう。そういう流れなのだから、そうなるしかないだろう。流れに逆らえば何も記せなくなり、そこで終わりか。でも終わったところで何がどうなるわけでもなく、深刻ぶるような心境には至らないだろう。だから戯れ事なのか。そして何の手だてもないわけか。改めようとしていないのだから、そうなって当たり前のことか。そこからそうやっている意味や理由を導き出せず、そうなしなくてもいいのかもしれない。何も復讐心に燃えているわけではない。なぜそこからそんな言葉が導き出されるのかよくわからないが、たぶん何かの気まぐれなのだろう。君は今どこで彷徨っているのか。部屋の中で画面に向かって言葉を記しているのは誰なのか。それの何が違っているのだろう。何もかもがそうで、すべてが苦し紛れの何かだろうか。それほど切羽詰まっているとは思えない。君は何か勘違いしていないか。いつもそう思うところだが、それが躓きの原因か。冗談であれば幸いだが、幸いでなくてもかまわず、何が求められているわけでもないことを悟るが、何でもかまわないわけでもなさそうだ。では何なのだろうか。そこから先は逃げの一手なのか。なぜそう思うのか。そのへんもわけがわからないところだろうが、やはりそういう流れなのか。でもそれで済ませてしまうには引っかかりが多すぎる。もっと何か違う原因を探してみたい気にさせるのは、どういうわけなのだろうか。わけでも何でもないからか。

 またこんな具合となってきた。だらだらと言葉を連ねて、何やら嫌悪感でも増してくるか。そういうわけでもなさそうで、逆に自己満足でも得たいのかもしれないが、それも勘違いのたぐいか。それもそれはそれ、これはこれとして、人を荒んだ気持ちにさせる何かが、心の中で蔓延っているのかもしれず、それが社会全体に浸透していたらおもしろいところだが、そういうわけでもないのだろう。何かふざけたことでもやってみたいのか。若者ならそれを安易に実行してしまうのだろうが、君にはやる力も必然性も備わっていない。要するに面倒くさいのかもしれない。そういえば数年前に秋葉原で連続殺傷事件を起こした人は、思い詰めているみたいで、たいそう真面目そうに見えた。それとは違ってコンビニのアイスクリームケースの中で寝そべってみせた若者は、やんちゃな盛りなのだろうか。比較するようなことではないが、でも楽しそうだ。暇な人の攻撃対象を無意識なのか意識してなのか知らないが、自ら買って出るのは勇気がいることなのか。社会の中で誰もが攻撃しやすいようなことをやってみせること自体が、何だか娯楽の延長上なのかもしれず、そういうこれ見よがしの安易な罠に向かって、非難の集中砲火を浴びせる人たちも、何だかたわいのない存在なのかもしれない。でもそういう人たちを馬鹿にしてはいけない。社会の中でやれることは限られていて、何か格好の攻撃対象がネット上にでも現れたら、モグラたたきゲームのように、急いでそれに向かって反応しなければならず、それを怠惰にまかせてやり過ごそうものなら、それらのゲームに参加する機会を失ってしまい、何だか損したような気になるのではないか。炎上だの何だのと大げさにメディアに取り上げられて、そういう出来事に参加しているだけでも気分がいいだろう。それ自体が攻撃対象に向かってみんなで攻撃を加えるゲームなのだから。


8月13日

 予感は予感としてあるが、果たしてそれが実現するだろうか。どうなる予感なのか。何を見せびらかそうとしているわけでもないが、運命の一日なのだろうか。テレビドラマかどこかのイベントでの話か。君には関係ない。まったく違っているのだろう。でも貧相な語彙だ。同じような言葉が延々と続いて記される。何かが飽和状態なのだろう。それは以前からわかっていたことだ。そのような悪循環は断ち切ろうとしても断ち切れないものなのか。意志が弱い。今のところはそうだ。いずれ情勢が変われば、簡単に変わってしまうようなことかもしれず、それまではそんな具合のままなのかもしれない。何もかもが中途半端か。それは否めず、この状況をどうにかしたいが、現実にどうにもならない、というジレンマに陥っているのだろうが、笑ってしまうか。何を語ればいいのだろうか。そんなふうにしか言葉がつながらず、途方に暮れてしまうらしい。何もないのに思い通りに行くはずがない。時にはそんな嘘もつくらしい。語りたくても語れないのではないか。この状況で、今さら楽しそうに何を語っているつもりになれるのか。意味がわからない。それもごまかしのたぐいか。きっとそうだ。君はそうなることを知っていたはずだが、あえて止めようとしなかった。君の怠慢か。そしてこれからどうなるのかもある程度は予想がついている。今までの成り行きをざっと振り返れば、そんな言説になるだろうか。これからは君への友愛のために語ろう。冗談のつもりなのか。何かの付け足しに違いない。呆れているらしい。破壊と修復の末に、何かが成るのだろう。今では忘れ去られた何かだ。それは歌でも何でもなく、相変わらずの言葉の羅列か。要するにでたらめなのだろうか。

 それでも焦ることはない。でたらめなりにうまくいっているはずだ。それが勘違いだとしてもかまわない。君はそれを知ってしまったのだから、もう後戻りはできない。今さら何を試みようとしても無駄だ。批判もままならず、後はそのまま黙るしかないだろう。そして時が過ぎ去り、いずれそんなことなどどうでもよくなってしまう。それらが君を否定することはない。君はよくやったのだ。君は確かにそこで何かに出会い、何らかの影響を受け、それについて語ったのだ。それでいいではないか。ただそれだけのことだ。それ以外は何もない。でもそう断言したらそれで終わりだ。そこで終わらせないためには、嘘をつくかごまかすか以外にはあり得ないのだろうか。そうならないでほしいか。できればそう願いたいところだが、事はそう単純ではない。ではそれもごまかしのたぐいだろうか。たぶんそうだ。無駄に言葉が付け足され、繰り返しそうなっている。君はそれを楽しんでいるのだろうか。それもたぶんそうだ。何かを説明しようとしていることは確かだが、自分が記述していること以外は何も説明していないのではないか。ただ記し、その記している最中のことを説明しようとしている。それで何を述べていることになるのか。だから焦らなくてもいいということか。逆説的にそうなのだろうか。間違っているかもしれない。でも苦しんでいるわけではない。ではそれもこれもいいわけに過ぎないのか。そう思ってもらって結構なのだろうか。それほど外れているわけではなさそうだ。差異は差異として捉えねばならないだろうが、それをひたすら反復させても、結果を揺り動かすには至らない。そして当分はそんな成り行きで推移するしかなく、それを黙って眺めている君がいて、結論はいつまでも先延ばしにされてしまい、君は宙ぶらりんのまま、何もできずにいるわけか。

 それも楽しいことの一部を成しているのだろうか。近頃は安易なことばかり述べている。そういう印象がある。でもそれ以上に何を求めているわけでもなく、安易なことを述べられるだけでも、まだマシな方なのではないか。何も述べられなくなったら、その時が本当の終わりか。ではまだ終わっていないということだろうか。わざとらしくも白々しくも、相変わらずの物言いだ。何を終わらせようとしているのでもなく、その架空の終わりを阻止しようとしているわけでもないのに、なぜか終わりについて語り、それが暇つぶしの虚無を引き寄せ、ますます内容が空疎になってゆくのを横目で見ながら、君は策を講じようとしない。歯止めが利かないらしい。昔買った何かを眺めながら、何を再発見することもなく、とりあえず書物を読み、君とは無関係な何かに接したつもりになり、その巧みな言葉の配置に感動しているのだろうか。君には到底不可能な芸当だ。そんなわけで難解な書物を読んでますます落ち込み、それも嘘かもしれないが、自らの文章読解力のなさでも痛感しているわけか。それで何を理解したのか。歴史上の有名な武将やら政治家やら軍人やらが、まことしやかに活躍してしまうテレビドラマ的な歴史に感動していた頃が懐かしく感じられ、特定の偉大な個人が歴史の流れを変えたと思っていた頃が、何だか遠い昔のように思われ、要するにそんな娯楽に魅せられていたのだろうが、なぜそれだけではないと感じるようになってしまったのか。それがたかだか宇宙の片隅にあるありふれた恒星の周りを周回する小さな岩のかたまりの表面上で起こっている現象の一部に過ぎないからか。ものは言いようだ。それもあるだろうが、たとえ人の歴史の中でそういう出来事があったとしても、今の有り様はこうなのだから、過去の出来事は過去に属するしかないのだろう。


8月12日

 作り話的には何か手を打たなければならないが、現状ではどう考えても無理か。何かあっと驚くような構想でもあるのだろうか。では冗談の次は何なのか。君が知っているようなことではない。誰も知りはしない。そう思ってもらって結構か。何を語っているわけではなく、どう語ろうとしているわけでもない。君はそこで躓いていて、転んで起き上がり、夢から覚める。そんな案配だろうか。何かが目の前を通り過ぎているようだが、今日も暑いか。冷静さが邪魔なのかもしれないが、それについて熱く語るわけにはいかないらしい。それとは何なのか。またその問いだ。そういう成り行きには馴れっこになっている。くだらないのだろう。君がそう思えばその通りになり、まさに思い通りの展開と行きたいところだが、実際は違うのだろうか。何が違うというのか。それについては何も語らず、その先を見据えて、何か別の言葉を記そうとしているのか。今まさにそうしているように記す。たぶんそんなことの繰り返しなのだろう。信じられないような光景に出くわしているわけではない。見た通りの見慣れた風景の中に何かがある。その何かとは、それについて語る必要のない何だ。だから語らないのだろうか。でもそんな理由でかまわないのか。もっと何か人の関心を引くようなことを述べなければならないのではないか。できればそうしたいところかもしれないが、思いつかず思い浮かばないのだから、それはそれでごまかすしかないだろう。何をごまかしたことにもならないのに、とりあえずそう記してみるが、意味がないか。

 また長く無駄に記してしまう。機能していないのかもしれない。わざとそうしているのではなく、無理にそうなっているのでもない。自然の成り行きなのか。誰かがそう思う。意識が記された言葉と言葉の間をすり抜け、どこか遠くへと吸い寄せられていくような感じだ。その行き先は無際限な彼方となる。だがそれも作り話の一部に過ぎない。ここにあるのは何なのか。何もないわけではない。何を信じているのだろうか。やがて何かが起こり、それについて記す日が訪れる。そういう成り行きになる。信じていることのすべてはそこにある。誰かがそう思い、他の誰かもそうなることを信じて、そこでひたすら出来事の到来を待ち続け、やがてそんなことも忘れて、何を待ち続けていたのかもわからなくなり、不意にそこを離れたときに、その待ち望んでいた何かが起こり、間がさしてその場を離れたことを悔やんでも悔やみきれなくなり、何も手につかなくなり、その後のことはすべてどうでもよくなってしまうわけか。君はそのとき自らの感情の何を制御できるだろうか。そうやってまた誰かの気持ちをはぐらかしてしまうのか。意味のない記述だと思う。他に何が見出されているわけでもないのに、それはないか。それはありふれた出来事だろうか。何を想像しているわけでもなさそうだ。そこから気持ちが外れそうになっている。体にガタが来ているようだ。記しているそれも意外な内容の変遷を経て、信じられないような紆余曲折を経て、ようやくここにたどり着き、何か感慨深げに佇んでいるのかもしれないが、相変わらずそこで何が起こったわけでもなく、あるのはいつもの虚無と何もない風景だけか。

 でもそこで思い知らされたわけではない。事のすべては想定内か。今のところはそれで片づいているようだが、将来の破滅は前もって予期され、目下のところそれに向かってばく進中というわけではないだろうが、何だかまだ余裕があり、そうならないように今から最善を尽くさねばならないところだが、取り立てて何をやっているわけでもなく、要するに成り行きまかせで済まそうとしている。そんなのがありだろうか。たわいのないことだ。膝の痛みも増してくる。何が君に合っているというのか。それで罠にはまるのを回避したことになるのか。すんでのところで機転を利かせたことになるわけか。何だかわからない。でもここまで来たことは確かで、この先どこへ行き着くかわからないが、辛抱強く記してゆくしかないらしい。実際にそうしているのかもしれないが、何だか違和感があり、物足りなさを感じ、もう少し記す量を増やそうとしている気配もある。空疎なことをこれ以上記して何になるというのか。すべては何かの表層で起こっていることであり、そこにとどまり、決して浸透してゆかず、その結果それについて思いを巡らせても、引っかかってくるもの何もなく、意識は相変わらず言葉を素通りして、その透明性を増すばかりで、つかみ所のないことを考えているようだ。でも昔買った書物は読んでいるのだろう。そこから得られるものが何なのかはっきりしていないが、読書を通して無意識のうちに何か技法でも学んでいる最中なのだろうか。それを想像することはできるが、本当にそうなっているかどうかはわからず、もはや過ぎ去った何かについていつまでもこだわり続けても、何の埒も明かないのではないか。それはそうだが、そういう成り行きなのだから、今はそれに身をまかせるしかないのではないか。


8月11日

 今さら何を付け足そうというのだろう。これが何になるわけでもないが、とにかく誰かが語っているらしい。しかしこれとは何なのか。現時点から外れた何かか。でもその外れた何かを利用している。あるいは現状が何でもないことを願っているのだろうか。どうせ何事もなく経過して、君はそれらすべてが過ぎ去るのを待っているのだろうか。でもやる気がしないのは誰のせいでもなく、止むことのない熱波のせいでもないらしい。何かの果てには何かがあり、それで何がどうなったわけでもなく、これらの現象は極めて当たり前のことなのだろう。でもおかしいことに変わりない。他の何が正常だとも思えないが、とにかくおかしく感じているのだから、その通りの対応をするしかないのだろう。そう思っている時点でもう嫌になっていたのか。たぶんそうだ。でもそこで何が問題となっていたわけでもない。別に急を要するようなことでもなかったはずか。何かが間違っていたのだろう。その何かが要因となって、誰かがそこから弾き出され、おかげで他の誰かが自由の身となった。そんなことでしかない。とにかく君はつかの間の何かを手に入れたはずだ。それはすぐに手放す必要のない何かだ。でも誰がそう思っているのだろうか。君がか。笑ってしまうか。何を改めて問い直そうとしているのではなく、言うまでもないことかもしれない。そして何だかそこで足踏み状態となる。意味がわからないようだ。しばらく休むとしよう。

 昔の勘を取り戻しているとは思えない。ただ思っていたことを実行に移したまでのことで、それで何がどうなったわけでもないが、現状がもたらされた。なぜかすべてがもたらされている。これがすべてなのだろうか。疑念を覚えているわけではない。何を抱いているのでもなく、ただそう問わざるを得ない成り行きなのかもしれない。そうやって絶えず何かを前進させているようだ。焦ることはない。焦らなくても自然と時が経ち、いずれは事が進展して、どこか未来の時空へと移動してしまう。そのとき何がどうなろうと、今の君には知り得ないことだ。別に自らに訪れようとしている死を、否定し拒否しながら、俺は死んでなんかいないぞ!、と狂気の叫びを残して死んでいった架空の誰かの気持ちを推し量る必要はない。そんな内容の小説をかつて読んだことがあるだけで、それを不意に思い出しただけのことだ。何の脈絡も必然性もありはしないが、しかし今の君はどうなのか。それについて何とも思わないのか。何についてどう思えばいいのだろうか。またもやそんなどうでもいい疑問を抱きながら、はぐらかしてごまかそうとしているようにも思え、何をそうさせたいのか理解に苦しむが、それも誰かが生じさせようとしている独白のたぐいなのだろうか。何だかわからないことにしておきたいらしい。ただ面倒くさいのだろう。他の何について語ろうとしているわけでもなく、語っているわけでもないのだろうが、とにかく面倒くさい。

 また暑くなってきた。眠っていたようで、何を記していたのか思い出せない。そしてそれらの何を批判すべきなのかわからない。それらとは何なのか。また神社に参拝するだのしないだのの話か。ニュースでも見ていたのだろうか。たぶん何らかのパフォーマンス効果を狙っているのだろう。でもそうやって君は話を別の方面へと逸らして、何かの核心に入るのを避けている。それについてはあえて語らずにいることの何が美徳なのか。ただ単に卑怯なだけか。そうであったとしてもそれでかまわない。どこかに脇道があり、本道から外れて、不意にそこへ入ってしまったわけでもないだろうが、しばらく誤った方向へ進んでみる。気まぐれか何かか知れないが、無理にそれを語ることはない。語れなくなったらごまかせばいい。そんなわけでどこから外れたのかも思い出せず、何の進展もない記述を放棄して、意識がそこから遠ざかるにまかせていたようだが、そこに世界があり、世界の中で誰かがうごめいていて、くだらぬ作業を命がけでやっているわけか。でもなぜそれをくだらないと言わなければならないのか。くだらないではなく、すばらしいと言い換えた方が、より肯定的な感じが出るだろうか。別に皮肉なことを述べているとは思えない。そして何が皮肉な巡り合わせなのでもなく、労働は労働であり、金のない人は労働して、その糧を得なければならず、たとえその労働がたわいのないものでもあっても、やらなければならない状況に追い込まれているとすれば、たぶんそれをやるだけしか選択肢が残されていないはずだ。


8月10日

 まだわからないことがある。わからないままでもかまわないのだが、わかればなおいいのだろうか。でも相変わらずわかろうとしていないようだ。考えが甘いのか。甘いのは承知の上で、痛い目に遭わなければわからない。それまで待つのだろうか。いつまで待てばいいのか。それがわかるまで待つつもりか。もうすでに手遅れか。断言はできないがその可能性が高い。でもここからだと思っているはずだ。勘違いも甚だしいか。でもそれでかまわないのだろう。冗談なのかもしれないし、本気になれないことに変わりなく、こんな具合で固まっている。たぶん運命なのだろう。冗談のような成り行きだ。何かに引きずられ、どこまでも引きずられていってしまう。そしてそういう成り行きを受け入れているわけだ。それが宿命なのかもしれず、意識はどこまでもそれらの顛末の外部にとどまるのだろう。確かに本気にはなれない。あまりにも馬鹿げているように感じられて、何だかどうでもよくなってきてしまうが、それではだめなのか。何がだめなのかわからないところがだめか。でもそれはいつものことのようだ。いつもそうなってしまい、結局どうということはないように思われ、なおざりにされてしまう。今もそうなのだろうか。たぶんそうだ。怠惰な気分でいるようだ。少しもやる気にならず、打ちのめされたようにも思われ、鬱状態なのかもしれない。

 しかしまだ生き延びようとしているのだろうか。そこからどうやって生き延びるのか。何か起死回生の策でもあるのだろうか。だからそれがおかしいのではないか。いったい君は何を眺めているのだろうか。小さな蜘蛛が壁を這う。獲物が見つかるだろうか。いつの出来事でもなさそうだ。はぐらかしているのかもしれない。これでもだめだと思い知らされるのだろう。そしてその後はどうなるのか。どうにもなりはせず、またいつもの日常が続くわけか。どこかで破綻を来すのではなかったか。そしてこんなはずではなかったと落胆するわけか。予定調和だ。見え透いていて、はじめからわかっていることだ。ふさぎ込んでいるのだろうか。何がそうなのでもなく、何もそうなのでもない。無意味な言葉が繰り返し記されている。それだけのことか。しかしそれで何になるのか。空疎な文章になるわけか。それが誰かの限界だろうか。もう少し我慢した方がよさそうだ。そこで理解されつつある意味を放棄せずに、少しでもつなぎ止めておくことが肝心か。でも君が理解できるのはごまかしの範囲内でのことだ。理解の域に達していないのに、理解したつもりでいるだけだろうか。そうではないと反論したいのなら、その証拠を具体的に示してほしいか。実際にわけがわからない。それは理解できなかった証拠となるだろうか。避けては通れないが、理解できないものは理解できない。これではなおさらだめか。

 だめなようだが、もう少しそれらの書物を読んでみよう。まだ時間がありそうで、十巻全部読めそうだが、まだ二巻目の途中だ。ただ数ヶ月かかって全部読み終わったとしても、それで何がわかるわけでもないような気がする。既に理解できない内容ばかりになりつつあり、読むのを放棄してしまいそうになるが、とにかく時間がある。時間がある限りは読むしかないと思われ、無駄なのかもしれないが、なぜか読む気にはなっているようだ。なぜだろう。なぜも何もないからなぜなのか。そう思わないようにしているのではないか。まさかそこが何かの突破口なのだろうか。それもおかしな話だが、冗談みたいにそう思われてならず、何かからおさらばするには絶好の機会のようにも思われ、今はひたすら読むことに没頭しようとするが、果たしてそんなことが可能だろうか。成し遂げられなかったらそういうことでしかなく、それはそれでよしとして、なかったことになるのだろうか。何がなかったことになるのか。努力が水泡に帰すわけか。それでもかまわない。別にそれほどこだわっているわけでもはないので、でも読むことにこだわっている現状があるわけだが、一方でそれとは違う思惑もあるのかもしれず、そのへんが微妙なところだが、やはり本気になれないのだろうか。馬鹿げたことかもしれない。理解しようとしなければ理解できないだろう。だから絶えずそうしているわけで、たとえ理解できなくても、一応は読んで理解しようとする姿勢は崩していないのではないか。今のところはそうだ。半分投げやりになりつつも、そういうふうに理解しておいてかまわないのだろう。


8月9日

 必要がないことをやっている感じがするが、おかげでアレルギーも治ってきたのだろうか。何が求められているわけではない。やりたいようにやっているわけでもない。何をやらせられているわけでもないか。時は刻まれ、心境の変化をもたらし、状況も変わっていく。へたな小細工も通じない。そして君はどうなったのか。どうもなりはしないと思っているらしいが、実際はどうなのだろう。耳は聴こえるらしい。影もある。守護神はどこで何をやっているのか。空想しているわけではない。書物が意識から遠ざかっている。何かを引き寄せなければならない。何をつかまされているのか。空気か何かか。実体のない何かだ。それが頭の中でぐるぐる回っている感じだ。そんなはずがないと思うが、空想の力を免れることはできない。では何を想像しているのか。何でもないらしく、それが何を意味するものでもないらしい。要するに時が経てば忘れ去られるような何かだ。使い捨ての対象なのだろう。何十年も前の出来事を今さら問題視している。地続きなのかもしれない。すべてがそうなのだろうか。忘れ去られようとしているのに、それを引き止めようとしているわけだ。思い出したいのだろう。でも思い出せる人は限られていて、その他大勢の連中は、想像し空想しているわけだ。それはありふれた営みの中で起こっていることか。

 それにしても君は何を主張したいのか。何かまともに主張できる内容が、それらの言説の中には備わっているのだろうか。君にわかるわけがない。でもそれでかまわないのだろう。何かが折り返され、今度はそれとは違う面から述べればいいだけか。それがごまかしなのだろうか。気晴らしにはもってこいか。それも違うか。でも何も透明ではなく、君に見える範囲は限られていて、それらのすべてを語ることはできない。だからこうして不完全でわけがわからないようなことを述べているのか。それの何が違っているのか。違っているわけではない。違っていないから、そこに真実が隠されていると思うわけか。隠されているのではなく、あからさまに見えているような気もするが、それについて誰が何を述べているわけでもない。何を主張しているのでもなく、何を語ろうとしているのでもない。それではだめか。だめで間違っているのだろうか。間違っていることについてはそれでかまわないと思っている。またひねくれようとしているわけか。何かがそこでねじれているようだ。過剰に語ろうとしているからか。理由があると思えば、それでもいいのではないか。大した理由ではなく、どうでもいいようなことのたぐいとなりそうだ。今さら何を思っても、後の祭りか。それでかまわないと思うなら、たぶん正解なのではないか。

 何が間違っているわけでもないと思う。面倒だからそう思うのか。間違っている原因を探りたくないからか。何でもかまわないのだろう。何が覆されているわけでもないのだから、今のままでもかまわないのではないか。でもそれで何を追認していることにもならず、何もない現状をどう変えようとしているわけでもないらしいが、それにしてもこれはどういうことなのか。呆れてしまう。キッチュな人はどこまでもキッチュで、その際限を知らないらしい。でも大勢の人たちはそうは思わないだろう。それが当たり前になってしまえば、キッチュでも何でもないのかもしれず、そんな現象も時が経てば忘れられ、だいぶ後になって、その時代を語ろうとする誰かが、当時そんなことが流行っていたことを知るに過ぎず、今の段階で誰もがわかるようなことではないのかもしれない。わかっていても、それを指摘して回るほどのおせっかいもいないか。今はたぶん幸福実現主義の時代なのだ。それはそれでそうなる必然性があるからそうなっているのであり、それを少数のひねくれ者たちが馬鹿にしたりけなしたりしても、それで何が変わるわけでもなく、多くの人たちは自らが目標とする幸福をつかみ取るために、また実現されたつかの間の幸福を守るために、せっせと毎日働き続け、守るべき家庭や家族や地域や職場との絆を深め続けているわけだ。きれいごとを言えばそういうことになるだろうか。


8月8日

 何か気になることでもあるのだろうか。何かが循環しているようだ。ここに来て何に気づいたのか。どうやらやり方が間違っているようだ。わかりきったことだろう。しかしいつまで間違ったままでいられるのか。死ぬまでか。さあそれはわからない。間違い続けてみないと結果は見えてこない。でも間違っていないのかもしれない。どちらでもかまわないのではないか。なぜそう思うのだろう。何が間違っていたりいなかったりするのか。くだらぬ問答だ。何がお互い様なのでもないらしい。誰かの独白を読んでいるわけでもない。理解が足りないのか。それは認めるしかない。でも認めているだけでは前に進まない。嫌気がさしたのなら、そこでやめればいい。どうもそういうことらしいが、大したことではない。何も見出せず、書物ばかり読んでもその内容を理解できず、何をどう語ればいいのかわからなくなったらしいが、他に何があるわけでもない。相変わらず何かの周りを思考がぐるぐる回っている。昨日と同じことを考えているのか。停滞しているようだ。すべてに渡ってそうらしい。でもそれが当然の成り行きなのだろう。何もしていないのだろうか。

 何となくやり方がわかってきた。間違ったやり方かもしれないが、それをやっている。時間の経過においていかれそうになるが、かろうじて踏みとどまっているのだろうか。できうる限りのことはやっているつもりか。そのままやればいい。それが天啓だとは思えないが、頭にひらめいたわけでもなく、記憶を辿り直して、意識を何かの真理に到達させようとしているわけでもない。でもこんな具合なのだ。だからこそと言った方が正解に近いか。だが相変わらず何に近づいているわけでもない。でも遠ざかろうとしているわけでもない。外れているとは思わない。ならば何を間違えているのか。そのへんがはっきりしないようだが、わざとわからないようにしているのか。書き写すべき何かがあるわけでもない。外部から何が入ってこようと、吸収できないものはできず、言葉の配置が間違っているとしても、そこに謎があるわけではない。確かに以前そんなことを考えていた記憶が頭の片隅に残っていただけか。それでも今は違うか。偽装しているつもりなのだろうか。でもそれでどうなるとも思えない。またそんな気分で、ふさぎ込む気配もなく、気が滅入っているわけでもないのだろう。もはや逃げ道を見つけられなくなっているのだろうか。

 そうではない。そうではないと思えば、また以前の繰り返しとなってしまうのか。振り出しに戻ってしまう。そこに至るまでの紆余曲折は影を潜め、今や道はまっすぐとなり、先へ延びるばかりだろうか。そうは見えない。それは見方や見る角度によっても異なるのではないか。それはいいわけだ。余分なのだろうか。一本道をまっすぐ進むのは危険か。何のたとえでもなさそうだ。しかし笑ってしまうのは、その先に進むには、常に何かを賭けなければならないということか。賭けるものが何もなくなってしまえば、命でも賭ければいいのだろうか。冗談かもしれず、真に受けるようなことでもないのかもしれないが、そういう状況に立たされたら、君はどうするのか。どうするもこうするもなく、なるべくその時が来ないように、何か策でも巡らした方がいいのだろうか。今は何も思いつかない。順風満帆は幻想に過ぎないが、嘘でもかまわないからそう思い込んでおいた方が無難だ。危機は危機でないし、危機を利用しなければこうはならなかったのであり、危機に際して失うものはいくらでもあり、それらを失いながらも、乗り越えるべく設けられた何かを回避して、それで何を出し抜いたとも思えないが、ひとまずの猶予を手中に収め、こうして言葉を記しているわけだが、やはりそういう成り行きが冗談だと思われてしまうのは致し方のないことか。

 何をごまかしているのか。真実を語らない理由でもあるのか。やはり君はそうではないと思う。語り過ぎるくらいに語っているのではないだろうか。では何を語っているのかといえば、それはこれらすべてであるとしか言いようがなく、これらとは何かと言えば、今語っているこれなのだろうか。わけがわからない。わかっているのにそう思う。わかり過ぎるくらいにわかっていると、反対にわけがわからないと記すしかないのだろうか。そういう状態に追い込まれているのだろうか。君はそういう記述を利用しているわけだ。延命を図っているつもりか。それほど追い込まれていないような気もするが、そう思いたいのだろうか。たぶんそのへんが曖昧で微妙なところなのだろうが、何となくそうやって何かを継続させているのだ。狡いか。わからないが、それなりの代償を払ったような気もする。そして今や君の目論見が試されている最中か。そんなふうには思わないが、それで何とかなるとも思えず、必ず何かの反撃を食らうだろうし、窮地に陥ることだってあり得るだろうが、当面の危機を回避したつもりになっていることは確かで、そういう思いが仇となり、今度はそこにつけ込まれ、嫌な思いをしなければならないのかもしれず、たぶんそうなることは覚悟の上で、あえてそういうふうになってしまったのではないか。でもそうだとしても、依然としてそれで何を述べていることにもならないのではないか。


8月7日

 またそうなっている。夢でも見ていたのだろうか。きっとそうだ。何がそうさせているわけではなく、何を否定しているわけでもない。そうではないらしい。それでもない。それを打ち消しているのだろうか。否定すべき何かが見当たらないようだ。もう飽きたのか。思い違いの勘違いだろうか。そうであることを願っている。たぶんそういうことになっているのだろう。だから先を急ぐべきではないのだろうか。そういう理由ではない。相変わらず理由になっていないようだ。その片鱗も感じさせず、要するに堕落しているのか。それも違うか。何が違っているのだろうか。違っているそれを感知できない。だからそれだけのことだろう。もうすでにそんな具合だ。ため息が出る。他に何も出ないからそうなってしまうのだろうか。また理由とその説明を模索しているのか。昨日と同じだ。そうなるしかない。ここまで来たのだからこうなる。それはわかっていることだ。限界があるらしい。意味がそうさせているらしい。でもまだここからか。

 あれから何度目かのこれか。ここにこうしている限りは言葉を記さなければならない。そんなのは勘違いに違いないが、その勘違いをも利用しなければ先へ進めないらしい。難儀なことだ。でも深刻ぶる必要はない。やればいいということか。確かにそうだ。そうだが、できない時はどうすればいいのか。笑えばいいのか。それで済むなら何の問題もないではないか。済まないはずがないか。どちらでもかまわない。そのときに判断すればいい。今は何とかしようと思っているはずだ。相変わらずその場の思いつきと偶然の巡り会わせに期待しているようだ。それでは埒が明かない。わかっているのにいつもそうだ。そんないい加減なやり方しかできないらしい。まったく進歩がない。でも期待しているのだろう。偶然の巡り合わせに期待し、その場の思いつきに期待している。冗談なのか。たぶんそうだ。冗談であり、本気でもあるのだろう。嘘かもしれないが、嘘でもかまわないのだろう。もっと軽快に言葉を記せないだろうか。すでにそうなのではないか。少なくとも重苦しい雰囲気ではない。今はそんなふうに語っている。それでかまわないだろう。

 何を思い、何を考えているわけでもなく、それらを同時に放棄しているのだろうか。あり得ない動作か。でも語っているではないか。それもそうだ。しかしまだ続いてしまうのか。意味のない語りだ。でもそれが楽な気分をもたらしている。本当に楽しいのだろうか。厄介な問題でも抱え込んでいて、それに対する気晴らし効果でも期待しているのか。それもあるかもしれず、もしかしたらそれ自体がこれかもしれない。これらの記述が厄介な問題なのか。無意識のうちにずらしているみたいだ。何かをすり替えている。なぜごまかすのだろう。何をごまかしているとも思えない。でも何かをやるとはこういうことなのではないか。何でも度を超したらまがい物となる。これもそれのたぐいなのか。もっとスマートに語りたいが、ごつごつした感触を除ききれず、たぶんその中に何か語るべきことがあるのかもしれないが、今はやめておくみたいだ。なぜだろう。たぶん勘違いはしている。でもその勘違いをやめるわけにはいかないらしく、そのままにして、その先を記してゆきたいようで、それが間違いのもとなのだろうが、なぜかその間違いもそのままにしておきたい。そのへんがわからないところか。変わらないと言った方がより正確か。

 意地を張っているわけか。それもあるだろうが、何か別の物事を探り当てようとしているのかもしれず、そんな予感がぬぐい去られない限りは、まだそこで語りたいのだろうか。語っているとは思えないが、当人は語っているつもりなのだろう。とにかく何かを語っていて、それを今後も語り続けたいのだ。あり得ないことかもしれないが、そうするつもりらしく、延々とそれを継続させようとしている。恐ろしいことか。やっていることのすべてがこの無駄で無意味な作業にかかっているわけか。あり得ないことだ。以前はあり得たかもしれないが、今はあり得ないと思う。今後もあり得ないだろう。では今やっていることは何なのか。あり得ないことをやっているわけか。だからそれはあり得ない。またそうやってごまかしてしまい、すべてをうやむやにしようとする。それでかまわないとも思う。でもおかしい。おかしくてもかまわないのか。たぶんそういうことだ。まったくどこまでもこんな具合となってしまいそうで、何だか呆れてくるが、誰に対して呆れているのでもなく、どうせ君は架空の何かなのだろう。不在としておきたいのか。それもごまかしだ。そんなわけで何だかすごいことになってきたような気がするが、それも何でもないことの一部なのか。相変わらず見え透いた矛盾を抱え込んでいて、それがどうしたわけでもないことを悟る。


8月6日

 何をやっているのか。急にそんな思いにとらわれ、それに対応した言葉を探して安心しようとするが、何も見当たらない。たぶん何をやっているわけではないのだろう。何もやっていないわけでもないのに、そう思われ、情緒不安定かも知れず、そういうレベルではないような気もするが、今のところはそんな感じで妥協して、たぶん何でもないふりをしていればいいのかもしれない。本当は違うのか。しかしこの成り行きは不思議で不可解だ。無意識のうちに自分がそう願っていたのかもしれない。でも本当に実現するとは思わなかった。何が実現されたわけでもないのに、それはないか。また虚構の中で誰かがそう思っていることにしたいのか。わけがわからないことを述べているらしい。心の中で何かをごまかしていることは確からしいが、君のせいではない。誰のせいでもなく、誰が何を思っているのでもないらしいが、とりあえずはそう記すしかない。

 まだ始まったばかりだ。何も始まらないうちからそれはない。本当は何が始まったのだろうか。何かのリハビリか。頭が唐突に変か。それは違うだろう。とりあえず書物を読むが文章を理解できない。日本語で書かれているのにわからないらしい。まだ不思議な感覚にとらわれているのだろうか。別に何がどうなっているわけでもないが、言葉を記しても意味がわからない。日本語になっていないということか。今はそれでもかまわないか。とりあえずここまで来ただけでも収穫があったということか。虚無と空疎の収穫か。それでは収穫にならないのではないか。何となくわざとねじ曲げて、文章をおかしくしているように思われる。そういう成り行きの中で言葉を記しているわけか。しかしそれだけのことなのか。でも勘が戻っていないわけではなく、うまく状況にフィットした行動をとれているような気もするが、実際はどうなのか。

 しかし本当に何が始まっているか。それは後々にわかるわけか。わかるには何かのきっかけが必要なのか。でもそれについて考えを巡らすのもおかしな話だ。後からわかるというのなら、その時が来てから気づけばいいだけのことだ。それでは手遅れか。でも手遅れになる前に何をしたいのでもないのだから、手遅れになったらなったで仕方がないのではないか。それもそうだ。しかし手遅れになるとはどういう状態になることなのか。このまま何もしないで終わることが確定してしまうということか。何もしないわけがなく、何かしらやっているわけで、厳密にそれはあり得ないことだろうが、何もしないで終わるの逆で、何かするとはどういうことなのか。そのへんで何をどうすれば何かしていることになるのか、そこがやはり何とも言えないところか。まともにいえないこともあるらしい。だから述べている何もかもが冗談だと見なすわけにもいかないか。

 一気にそうなるわけではない。徐々にどこかへ追い込まれて、ついには終わってしまうのだろうか。何が終わるかは想像にまかせてもらって、ともなく終わらないうちに何とかしなければならず、いろいろ手を打ち、悪あがきでもやりたいのかもしれないが、なぜかその気になれず、黙って様子を静観している最中なのだろうか。それも違うか。それについて語るのが面倒くさいのかもしれず、まともに語れないのかもしれないが、時が来たら語る気になるのだろうか。それにしても嫌な感じだ。くだらないと思われる。できるだけそこから離れたいとも思われ、目を背けたくなるが、やはりそれではだめか。まあ今のところはよくわからないが、わからないふりをしながらも、徐々にわかるように努力しなければならないのだろうか。どうもそのへんが冗談のように思えてきて、あまり本気になれないのだが、本当にそれでかまわないのだろうか。かまうもかまわないも、現実にそういう成り行きになっているのだから、それはそれでそういう成り行きと見なしておけばいいだけか。まったく述べていることがわからず、困惑するばかりのように思われるが、これもこれでこういうことでしかないのだろうか。どうも無駄に語り出すと際限がない。

 でも続けるべきなのだろう。続けてゆけば、いつかまともな何かに出くわすと信じて、さらに続けるしかない。嘘でも偽りでもかまわないから、何か記してゆけばいい。冗談かもしれないが、そういうことの積み重ねが、やがて何かの役に立つ時もくるだろう。そこからしか何も生じないだろうし、何も語れないわけか。実際そうなのではないか。妙なずらしばかり多用して、何とか体裁を整えようとしているが、それではだめなことはわかっているはずだ。わかっていてもやめられないのだろうか。それも違うか。何が違っているわけでもないのに、それは違うと嘘をつき、何とかそうやって継続を図ろうとしているわけだが、ここに来て何だかそれは違うような気がしてくる。嘘か誠か知らないが、徐々に心が入れ替わろうとしているのだろうか。そんなはずがない。とりあえずはこんな具合なのだから、そこから何が読み取れようと、それについてああだこうだ述べて、それでお茶を濁したいのかもしれないが、何だかそれは子供騙しのような気がしてくる。もう少し何とかならないものか。でもそれは次回に持ち越しのようだ。


8月5日

 地図を見る。でも何を探しているわけではない。見つかればいいが、何を見つけているわけではないので、何も見つからないだろう。そしてさらに地図を見る。飽きてきたのだろうか。見るのに飽きたらしく、見るのをやめる。仕上げの時期なのか。これから何を仕上げるつもりなのか。それは空疎な何かか。それでは何だかわからない。かまわないのではないか。わからないまま、何かを仕上げようとしている。意味がわからないらしい。わからなくてもかまわないのだろう。でも期待しているのだろう。何かがどうにかなることを期待しているわけか。でもその何かも何だかわからないはずだ。要するに意味不明なのかもしれない。いつものことだ。そこに何があるわけでもなく、ないわけでもないが、何があるかわかっている場合もあるし、わかっていない場合もある。わかっていながら、わからないことにしている場合もありそうだ。わかっていることが面倒くさいのか。理由になっていないようだ。理由はどうでもいいのかもしれない。あってもなくてもかまわない。あった方がわかりやすいかもしれないが、なくてもどうということはない。

 そんなわけでまたもや空疎な内容となってしまいそうだが、他に何があるわけでもなく、こんな具合となる他ないらしい。飽きもせずこれなのか。たぶん飽きているのにこれらしいが、これしかないことに変わりなく、こんなふうにしかならず、もはや立ち直れないような気分となってくるが、それは嘘か。嘘であってもなくてもこんな感じだ。もうあきらめたのか。何をあきらめたのだろうか。それを空想しているわけではない。ではあきらめた後に何をやる気なのか。相変わらず書物でも読んでいるのか。その手があった。どんな手でもない。自然体でそれらの空疎な状況に臨むだけか。意味のないことか。どのような行為でもありはせず、それだけで疲れるようなこともでなく、さらにそれらの空気の中でそれらの光景を眺めている。何がどうなっているわけでもないのは以前からで、これらからどんな何かが出てくるわけでもなく、それはいつまで経っても何かのままで、それ以上となることはなく、要するに何の価値もない何かとなるだけで、君がそれに感動することはない。フラットな気持ちのままだ。そんなことを語るべきではないのかもしれない。

 でも実際に語っている。誰がそう思っているわけでもないのにそうなり、そういう成り行きに巻き込まれて、こうなってしまったのだろうか。どうなったわけでもないか。どうにもならないからこうなってしまったわけだ。それはある意味すごいことかもしれず、それらの成り行きに感動してしまうが、それだけのことで、そんな成り行きに乗っかって、さらに言葉を連ねているわけで、これでいいのかとも思うが、こうなるしかないのだから、こんなことを記すしかないらしく、実際に記しているわけで、それがどうしたわけでもないのに、君はそれらの成り行きに感動してしまう。まるで冗談みたいだ。でもここが突破口みたいにも思われ、どうせやるならとことんやるしかないようで、やはり君はそれらを取り巻き、複雑に入り組んでいる事情を無視して、ひたすら空疎な内容を記すつもりらしい。何がどうなるわけでもないという思いは違うのか。世の中では選ばれた人間たちが、ある時はスポーツで競い合い、ある時は学問業績や学術論文などで競い合い、ある時は選挙で競い合い、またある時は会社の業績や売り上げで競い合い、何やらそこで技やら主義やら主張やらを戦わせているらしいが、その中の誰かが勝利したりして、メディア上で祝福されたりしているらしく、そんなニュースを目にして、君は何を思うのか。君が抱え込んでいる空疎とそれらの出来事はどう関係するのか。無関係なのだろうか。

 とにかくまだ時間がある。今や言葉を記す時間があり、実際にそれを利用して記しているのだろうが、内容が見当たらない。それを模索する気がないのだろうか。ここでいったい何を探せばいいのか。たぶん自然と探すようになるだろう。追い込まれれば無理にでも探すか。でもすでに時間切れではないのか。それはわからない。今からでも何かできそうな予感がするが、果たして何ができるかは、やってみなければわからない。実際にやっている最中か。何をやっているのか理解できないが、何かやっているのだろう。別にそれでもがき苦しんでいるふうもない。だから楽な気分がもたらされているわけだ。それでかまわないのだろう。くだらぬことにかかりきりになっているわけではないらしい。それがくだらないか否かの判断以前の問題のような気がする。問題でもないのだろう。何が問題となっているわけでもない。とりあえずはそういうことの積み重なりの上に今があり、そこで何かをやろうとしていて、実際にやっているわけで、要するにそんなことが繰り返されているわけだ。別にこれは奇跡的なことではなく、極めて当然の成り行きで、どう考えても大したことではない。そうなって当然の成り行きの中で、そんなことを記している現実があり、それについて何を思うこともなく、君はただ静かにそれらの光景を眺めているに過ぎない。


8月4日

 相変わらずこんな具合か。進歩がない。かろうじてこうなのだろうから、何かのきっかけで、少しでもここからずれてしまえば、どうにも立ち行かなくなる。でもこれが望んだ結果ではないだろう。当たり前だが、だからこそ貴重な時間なのか。何がそうなのか。そう思えばそういうことと捉えるしかない。でもそれでは今ひとつしっくりこないのではないか。それはいつものことだ。もう少し具体的に何がそうなのか考えるべきではないのか。でも考えていることが的外れだからといって、あまり気にするようなことではない。文章の中で少々架空の誰かが出しゃばりすぎたのだろうか。それも言えている。でもそうなるのはある種の必然があったからだろうから、そうなって当然なのかもしれず、要するに自然の成り行きなのだ。それでかまわないのではないか。要するにこうして記されている内容はフィクションなのだろうか。そうとも言えるが、そうでなくてもかまわないだろう。では何なのか。意味不明か。そうではないだろう。

 しかしさっきから何を述べているのか。言説の外へ出ずに内側だけでやっていることに過ぎず、それでは何か述べていると思われないのはもちろんのこと、そこには何かが足りないと感じながらも、その何かを見出せないのは、そういう理由があり、ここではこういうことしか述べられず、それは無理もないことかも知れないが、しかしおかしい。おかしいのはいつものことか。あるいは冗談にもほどがあるか。そういうことではなく、そういうことしか述べられのに、そうではないことも述べるのが可能であるかのように思われてしまうことか。ではどうすればいいのか。どうにもできないからこうなっているのであり、このまま続けるしかないだろう。そして続けていくうちに何かのきっかけをつかんで、そこから今までの記述を改められたら上出来か。だからそんことがどうして可能なのか。それについては理由も根拠も示せず、そんなことはあり得ないのかもしれないが、それ以外が不可能なのだから、さらに言葉を記していくしかない。続けていけばいつか何かが成し遂げられるのではないか。そう信じてさらに続けていくしかなく、今やれるのはそういうことだ。でも開き直る必要もないのではないか。

 それではごまかしが過ぎるだろうか。何をごまかしているのか。語れないのに語ろうとしていることか。では何を語ろうとしているのか。ごまかしではない真の何かか。それもごまかしのたぐいではないのか。ではこのまま嘘をつき通すべきなのか。何が嘘なのだろう。ごまかしも嘘も、それが何だか示されていないのではないか。やはりそういうところがごまかしであり嘘なのだろうか。事後的にそんなことを述べている。おかしい。頭の中で何かが狂っているようだ。違うか。後からごちゃごちゃ言葉を付け足して、空疎な文章をさらに膨らませて、何だかわけがわからなくなりつつあり、それが何かの新境地でもないのに、悦に入ることはないのだろうが、一時的な満足感を得て、そこで立ち止まり、さらに続ける言葉を探しているようだが、わけがわからないままに、おかしな心境に至る。やはりそれは違うのだろうか。何が違うのか。

 もっと自らの外の現象に目を向けるべきか。それもごまかしのたぐいかもしれないが、興味を抱けない。例えば今の政治に何か問題でもあるのか。それに関して何も言えないのか。原発を再稼働させて、増え続ける核廃棄物の処理を未来の人たちに押し付けることに対して、何か嫌悪感でも表明しておけばいいのだろうか。それとも将来誰かが放射能除去装置でも発明することを期待すればいいのだろうか。それも無責任な話か。でも実体経済の数十倍もの金がマーネーゲームで動いている現状を考えれば、もはや何かをまともに捉えようとすること自体が、馬鹿馬鹿しくなってくるような気がするのだが、要するにそれらは、この宇宙がインフレーション的に膨張していることに対応していて、実体のないマネーもインフレーション的に膨張していて、核廃棄物もこの先どんどん増えていって、何もかもがおかしくなっていくことの端緒に、今という時期があるということだろうか。冗談を言うならそういうことになるだろうが、どうせ誰もが、別にそれがどうしたわけでもないと思っているのだろう。


8月3日

 水分が欠乏していたようだ。水を飲めばいいことか。今飲んでいる。どうなっているのか。どうもなっていないようだ。何か幻覚でも見たのか。しばらく意識が朦朧としていた。そんなはずがない。でもこれは何なのか。何でもないのではないか。そういうことらしい。ここから何を見たらいいのだろう。何があるわけでもない。でもどこかから眺めているはずだ。その視線の先には何があるのだろうか。見えているすべてがある。物陰には見えてない事物もあるだろう。それがすべてなのだろうか。別にすべてでなくてもかまわないが、すべてであってもかまわない。それでは意味がわからないか。君はすべての中で何の意味を求めているのか。何も求めていなければ無意味だ。でも現に見えているそれらに意味を見出したいのだろう。おかしい。何もおかしくはないだろう。当たり前の光景であり、ただの自然だろう。建物が建っている。それだけのことだ。何だかわけがわからない。それだけのことであり、それでしかない。言葉にすればそんなところか。他に何か言葉が必要なのだろうか。さらにおかしいか。でも不思議な感じがする。それらを見ようとしなければ見なくてもかまわない。見ようとすれば自然に見える。当たり前のことだが、当たり前でないような気もする。ではどういうことなのか。何かから解放されたからそう見えるのか。気が狂っているからそう見えるのか。そうではないような気がする。至って正気のようだ。たぶんかまわないのだろう。どこかで完全に外れてしまったらしい。何が外れたかはわからないが、とにかく心から何かが外れている。だから見ようとせずに見ているわけだ。何を見ているのか。それらの光景を見ているだけのようだ。おかしなことだが、次第に遠ざかっていくようで、また意識を向けると近づいてくる。それは何なのか。何でもない。だから不思議な感覚なのか。でもかまわないのではないか。そこまでたどり着ければ後は簡単なことだ。すぐに言葉を記して終わりにすればいい。何を終わりにしたいのだろう。それらに関する記述か。それもありそうで、他の何かもありそうだ。面倒くさいがそういうことになりそうだ。

 とりあえずこんなことを記しながら考える。どんなことでもないが、意識のどこかに引っかかってくるらしい。それでかまわないだろう。すらすらとここまで記してきて、何か疑念を抱かせるようなことでもあるのだろうか。わからないが、こんなことならいくらでも記せそうになっている。おかしいだろうか。ちょっと限界を超えているのだろうか。これも何かの成り行きか。自然の流れだと思っておこう。それで済ませて、その後に何を付け加える気も起こらないが、とにかくそういうことにしておいて、その先を空想してしまうが、それは記した後のお楽しみということか。冗談だろう。頭の中で何かが弾けてこうなってしまったのだろうか。そこに至る途中で何かのきっかけが介在していて、それで偶然の巡り会わせによって、こういう具合となってしまったのではないか。でもおかしい。相変わらず変だ。やはり冗談のような気もする。いったいこれがいつまで続くのか。何だか怖くなってくるだろうか。でも恐れることはないのではないか。とりあえずはこのままでかまわない。このまま言葉を記してゆけば、やがて書き終えることができ、記述から解放されるはずで、後は書物でも読んでいればいいのではないか。それも成り行きが簡単すぎるだろうか。その間の紆余曲折はどうなったのか。今が迂回路も回り道も消え失せ、迷路が迷路でなくなったみたいで、やすやすと出口までたどり着けそうで、乗り越えるべき障害物もありはしない。なぜそんな簡単に行ってしまうのだろうか。やはり何かの巡り合わせで、そういう時期もあるということだろうか。ではこれで正解なのだろうか。こんなやり方でうまくいくとは思えないが、とりあえずはこういうことなのだろう。君はこれに関しては何も取り立てて努力したわけでも精進したわけでもない。単に記述を続けたまでのことだ。それがこういう結果となって実を結んだのか結ばなかったのかわからないが、とにかくここまで来たらしく、来たからにはさっさと言葉を記して、それで済ませてしまいたいらしく、そんなやり方でかまわないなら、これからもしばらくは続けさせてもらいたいらしい。そんなわけでよくわからないが、今日という日付にたどり着き、無事に記述を済ませてしまったらしい。


8月2日

それは差し迫った課題ではないのだろうか。大した情報ではない。でもそれがないと暇つぶしができないのではないか。なぜ暇つぶしをやる必要があるのだろうか。それは暇を持て余しているからか。何を求め何を欲しているわけでもなく、ただ漠然と何かを眺めているだけでは、何ももたらされず、どうやらそのへんでじり貧となりつつあるようだが、他に何があるというのか。選択肢が何も見当たらず、焦りに焦って、それを超える何かを望んでいるのかもしれないが、それが何だかわからないのはいつものことで、君が積極的に探しに出なければ、何も見つからないのだろうが、まだその時期ではないのか。追いつめられなければ何もやらない予感がして、そうかといって自分を精神的に追い込む気にもなれず、しばらくはそのままでいたいような気もする。それが怠惰な日々の始まりだということは嫌というほどわかっているが、そういう流れに逆らえず、どうすることもできないまま、そうなりつつあるようだ。どうも面倒くさいらしく、何かにこだわることができないらしい。まあ無理にこだわってもすぐに飽きてしまい、どうということはないこだわりに固執する気も起こらず、そのまま成り行きに押し流されていってしまいそうだが、今はそれでいいのかもしれず、それ以上は何も求めても、ただの幻想や妄想のたぐいとなってしまい、それ以上の模索はできないはずだ。だからこれでいいのか。いいわけがないが、冷静になって過去でも振り返るべきのようだ。果たして自分はこれまでに何をやってきたのか。またこれから何をやろうとしているのか。君は何をやるためにここまで来たのか。現時点ではわかるはずがない。いつまで経ってもわからないのではないか。それでもかまわないだろうか。冗談だろう。いつかわかるはずで、今やっていることのあきらめがつけば、嫌でもわかってくるはずだが、まだ君はあきらめていないようで、ここからさらに言葉を記していくつもりらしい。やはり正気とは思えない。

 でも正気とは思えないというのは冗談なのだろう。自虐的にそう思い込もうとしているだけで、本当は違う思いでいるはずだが、それを素直に表明できないらしい。だから冗談なのか。見え透いているだろうか。まあそれでもかまわないのだろう。どうせこんなふうにしかならないのだから、これを無理に突き詰めようとはせず、この状態を保っていた方が、ヒステリーを起こすこともなく、少しは長続きするだろう。その間に状況が変わるのを待って、そこに付け込む隙を探せばいいのか。そんなせこい真似も却下か。ではどうしたらいいのだろうか。そう記していればいいということか。いつもどうすればいいのかと問う。結局どうもしないのに、ひたすら問い続け、それで字数稼ぎとなってしまうらしいが、やっていることが愚かで、虚しさばかりが漂ってくるのではないか。だからそれも冗談なのか。何がそうなのかわからない。何もそうではないのだろう。どうせ面倒くさいからそんなことを記しているのだ。それも当たっている気がするが、それ以外の何かを提示したくなり、あれこれ考えを巡らしてみるが、何かもっともらしい理由が見つかったのだろうか。ため息が出るだけのようで、そんなものなどもとからありはせず、何かつきものが落ちたように、一心不乱に記述にいそしんでいるふうもあり、それもおかしなことだが、要するに君は君に取り憑いていた亡霊からも見放され、肩の荷が軽くなり、タブレット端末の使用を一時的に放棄したら、なぜかブラインドタッチが身についていることに感動して、キーボードを打つスピードが以前にも増して速くなり、何だか軽々と言葉を記している。これはおかしな現象だ。キーボード操作から一時的に遠ざかっていると、またそれをやり始めた時、以前にあったキーを叩く時の余分な癖や動作がなくなり、スムーズな感触を得て、何だか突然コツをつかんだ感じとなり、ものすごく楽な感じで、いちいち画面とキーボードの間で目線を移動させなくても、画面を見ながらキーボードを見ずにキーを打てるようになってしまったらしい。これはなぜなのか。


8月1日

 やっとここだ。それにしても遅すぎる。まあ無理なのだから仕方がないか。見通しのいい場所へと出る。ここからが問題なのか。確かに何もないが、そんなふうにして何かを記しているのだから、やがて何かが見えてくるかもしれず、そこから何かを導き出せばいいのではないか。それでかまわないはずだ。でもそれは前から常々述べてきたことで、今もそれを繰り返し述べても仕方のないことかもしれず、要するに他に述べることがないから、そんなことを飽きもせず述べるしかなく、そのへんに君の限界を感じざるを得ず、それではだめだと思いつつも、そういうループから逃れられない自らにうんざりしているわけか。でもそれも冗談のたぐいとして片付けられ、気づかぬうちに以前と同じことを述べているわけで、そのへんにごまかしといい加減さが潜んでいて、君を呆れさせるわけだが、今はそんなことを述べるしかなく、それ以外はあり得ないことを悟り、そんな状況に従うだけかもしれないが、やがてそうではない機会が巡ってきたりするのだろうか。またそんなことを述べている。まったく懲りていないようで、確信犯的で、救いようがなく、もうこの先がどうなろうと知ったことではなくなってしまうようだが、やはりさらに言葉を記していくしかなさそうで、何だか嫌になってくるが、どうしようもなく、そういう宿命を受け入れて、前進を試みるらしい。真面目にそう思っているのだろうか。そんなはずがないと反論したいところだが、あいにく反論する材料を持ち合わせておらず、困った事態になってしまったかもしれないが、それでもかまわず、ただ闇雲に言葉を記しながら前進を繰り返し、何だか玉砕してしまう感じもしてくるが、そのへんは後々明らかになるのかもしれず、実際にそうなることを期待しながら、先を記すとするか。記せたらの話だが、本当にこの先に言葉を記すことができるのだろうか。

 無理なのかもしれないか。実際に記しているではないか。何を記しているのだろう。君の今現在の心境か。そんなことはあり得ない。だいいち記しているのは君ではない。また見え透いた嘘をつく。がっかりしてしまうだろうか。誰に迷惑をかけているわけでもなく、何を遠慮する必要があるのだろうか。誰に遠慮しているわけでもなく、架空の君に気を使っているわけでもない。誰に対する気遣いでもないのに、そんなことを記している。意味がわからず、意図もはっきりしない。それでかまわないとは思わないが、言葉を記すことが何かのリハビリだと言うのなら、もう済んでいるのではないか。何が済んでいるのか。そういう問答をやる必要がないということか。たぶんそういうことだ。大したことを述べているわけでもなく、社会の関心事を取り扱っているわけでもなく、ただ無駄に言葉を連ねているだけなら、君の役割は何なのか。誰の役割でもないことを演じているわけか。それでかまわないとは思わないのか。それはどういうことなのか。たぶんそんなふうに思う状況の中に意識が投げ込まれているのであり、それに関して何をどう思ってみても、そこから抜け出ることなど不可能で、言葉を記せば記すほどそういう罠により深くはまり込み、さらにそこから抜け出るのが困難となりつつあるのではないか。それでもかまわないか。いったい何がどうなれば気が済むのか。冗談がきついか。要するに何がどうなっても気が済まないのが、それらの罠の特性であり、そう思えば思うほど気が済まなくなり、さらに空疎な言葉を続けて記してしまうことになるわけか。ではそれは何かの冗談だと思えばいいのか。そう思ってみたところで状況は変わらない。どうすればいいかと問えば、何もするなと答えるしかない。それでは埒が明かないと思うなら、さらに言葉を連ねて罠の奥底まで行き着こうとすればいい。やはり冗談にもほどがあるようだ。正気とは思えない。でもこうしない限りは先へ進めず、埒も明かないだろう。