彼の声97

2013年

7月31日

 久しぶりにコーヒーを飲む。今日は眠れなくなるか。くだらぬ想像はやめておこう。大したことはない。読んだ本が理解できないようだ。また読み返してみればいい。いつかそういう時期がやってくるはずだ。それが今なのか。あり得ないことだ。でも読むしかないか。なんだか恐ろしくなる。それも違うか。何が違うのか。読むしかないようだ。覚悟を決めて読むとしよう。あまりの膨大さに恐れをなして、途中でやめて、また言葉を記すが、君が記す空疎な内容は、書物に含まれる無尽蔵の文字数と比較すれば、まるでちゃちな薄っぺらさだ。この差は何なのか。たぶん何もないのと同じことだ。それでも記すのか。正気の沙汰ではない。でも笑ってしまって、正気だろうと狂気だろうと、どうってことないような気になり、次第にそれでかまわないような気がしてくる。本当にどうということはない。勝負にもなりはしないか。突然そういうことになってしまったのだから、それでかまわないとしか思えない。だんだんそう思えてきて、気が楽になる。まさかこの機会が巡ってくるのを待ち望んでいたわけでもないが、ある程度の必然性はあるのだろう。この先も何かが君を守ってくれるだろう。きっとそうだ。だから君はやれる範囲内でやりたいようにやればいい。それで何かがもたらされるとしても、そういうことでしかない。

 何かに圧倒される。あまりの行動力だ。とてつもないエネルギーに満ち溢れていて、君のような傍観者からみれば、まるで別世界の住人と映るのだろう。でもそれはそれで、これはこれだ。生い立ちと環境が違う。君は君で、それが精一杯のやり方なのだ。別世界の住人の何が羨ましいとも思わず、むしろその慌ただしくも短い一生に哀れみと畏敬の念を抱くだけか。激動の時代を精一杯生き抜いたまでのことで、自らができることをすべてやり尽くそうとしたのだろう。それに比べて君はどうなのか。何をやっているのか。弁解の余地などないが、弁解する気はなく、これでかまわないと思うばかりのようだ。だめか。それほどだめでもないか。別にそんなことはどうでもいいではないか。それでは振り出しに戻ってしまうか。疲れているみたいだ。かまわず語ろうとするが、とりたてて何を語っているわけでもない。何も語れないのに言葉を記している現状は変わらず、さらに追い詰められた心境にでもなっているのか。そんなはずはないだろう。それでかまわないのなら、いくらでも記せるし、そういう記し方に嫌悪感を抱きつつも、我慢すればいいだけで、我慢できないのなら、やめてしまえばいいのだろうが、やめるわけがなく、君自身もそれで精一杯やっているつもりになれるというものだ。

 どうも真剣味が足りないようだ。何だかそんな風に受け取られかねないような空疎な内容となっている。これはどこまでもそんなことの延長にすぎない行為なのだろうか。君はそれを認められないのか。たわいないことでしかないわけか。そうだとすると、いくらやっても徒労に終わるだけの代物か。幼稚なことをやっているわけか。なぜかそれを否定できないところが心苦しく感じられ、他に目的があるわけでもないところが、より一層の空疎な何かをもたらしているようにも思われ、こんなくだらないことはすぐにでもやめた方がいいような気がするらしく、それが良心の呵責へと導かれるのかも知れないが、その手前で何か引っかかるものを感じるようなら、それが何なのか見極めるべきなのか。まさかこれまでに長い間やってきたことから生じるせこいプライドというやつか。そのプライドというのをかなぐり捨てない限り、まともなことは何ひとつ記せないということか。そんなことがあり得るだろうか。本当のところはよくわからない。なぜここまでこんなになるまでやってきたのか。これ自体が取るに足らないまったくの冗談であり、でたらめのたぐいなのか。真に受けることができない。でも深夜にこんなことを記していること自体、かなりの異常事態なのだろうか。事の重大さとか深刻さとかとは無縁なような気がしてならないのはどういうわけか。


7月30日

 またこんなところで言葉が記される。誰に頼まれたわけでもないのに、そういうことになり、唖然としているわけでもなく、真昼の光景の中に何を見つけたわけでもない。ただそこに何かがあり、それを見つけたとしても、それについて考えるかどうかは、君次第ではないのだろう。誰にもそんなことはわからず、誰にとっても知り得ないかどうかも、君の知ったことではないのだろうか。誰の知ったことでもない。そう言い切れる根拠など示しようがないが、それでもかまわず、間違ったことを述べているとしたら、そういうことだ。どういうことなのか。まともに考えるのが面倒臭いのか。理由になっていない。別に何の理由を記そうとしているわけでもないので、それでもかまわないのかも知れないが、そう記して、その先を続けることにして、たぶん何か適当に考えているのだろうが、実際に記していることといえば、それを超えるような内容にはならず、あっと驚くような仕掛けが用意されているわけでもなく、何のことを述べているわけでもないのだが、言葉を記しているうちにおかしな気分となり、それでかまわないような気がして、まさかそれが精神に異常を来たした者の文章に、近づいているわけでもないだろうが、なぜかその兆候を敏感に感じ取っているわけか。それは冗談か。君はそれを知らない。

 その辺でしばらく考え込み、空想を巡らし、新たな文体の発見のつもりで、なおも記すべきとの結論を捏造して、さらなるデタラメの出現を危惧しているようにも思われるが、本当のところはどうなのか。またしてもそれだ。何がまたしてもなのか。君がそれを求めているというのか。それともそれはまったくのでたらめか。まるで石板に文字を刻みつつあるようにも思えるが、そんな経験もないのにそう思うのはおかしく、なぜかメソポタミアの楔形文字を思い浮かべてしまうのも、意味不明な連想か。何がおかしいのか。何もおかしくなく、同時にすべてがおかしいのか。とらえどころがないらしい。たぶんこの世には様々な表現があり、様々な書物も出回っていて、そこで使われている言葉も様々なのだろう。それで何を言わんとしているわけでもなく、それに関して何を主張しているわけでもないのだろうが、とりあえずはそういうことであり、とりあえずでなくとも、そんなことしか述べられないといえば、そうなるしかなさそうだ。それは勘違いの原因ではなく、漠然とした言葉の連なりが織りなす光景のたぐいなのではないか。さらに意味不明だ。それにここしばらく固有名に巡り会えず、具体的な何について述べているのかが、どうしてもわからず、言葉の行き先が見えてこないようだ。

 全体を把握できないというのは、どこかに何かそれを妨げるような要因があるからか。どうも読み返すことができないらしい。読み返そうとする気が起こらず、自らが何を述べているかもわからないのに、その先へ言葉を記してしまうわけで、事態の混乱に拍車をかけて、でたらめで意味不明な文章となってしまうらしい。それでかまわないのか。もしかしてそれ自体がフィクションなのだろうか。それともそういう流れだから仕方がないのか。君はわけがわからず、笑うしかないようだ。いったいどこでどう違っているのだろう。それともそれも誰かがしかけた罠のたぐいか。でもどうせ誰かとは架空の誰かなのだろう。罠も架空で、そこには何もしかけられていないから、架空の罠に架空の誰かがはまった話となり、それがフィクションとして語られるわけだ。なぜそうなってしまうのか。そういう話に誰もが興味を持つからか。そうではない。なぜそうではないのか。そこから先がわからないが、とりあえずそうではないと述べておこう。ごまかしなのだろうか。ただそれはないと思うだけのようで、考えるのが面倒臭いのかも知れず、嫌になってくると、すぐ意味不明な成り行きに持って行ってしまうのかも知れない。頭が痛くなる。このようなやり方にも限度がありそうで、つまらないだろうか。


7月29日

 もうこんな時間か。どんな時間でもないだろう。要するにこんな時間なのか。別に時間を気にしているわけでもないのに、他に何もないから、そんな風に語るが、それで何か語っていることになるのか。別にかまわないか。目くじらを立てるようなことではない。何でもないのだろう。そして何もありはしない。昨日と同じような日だ。昨日もそうだったのか。では明日もそうなるだろう。今日はどうなのか。何か特段変わったことでもあったのか。目が回っていたわけではないが、コーヒーを飲まなくなったことは確かで、何だかカフェイン欠乏症のような気がするが、健康には影響がないだろうか。それとこれとは無関係か。でもそれもこれも何だかわからず、何と何とが関係するのかもわからない。ただそうなってしまうのだから、そうなった結果として受け止めるしかない。それをどうこう言ってみたところで、後の祭りか。しかしそれの何が独白なのか。わかりづらいことをわかりづらく説明しようとしているだけか。それだけではだめなのだろうか。何がそうなのかわからない。それでは何の説明にもなっていない。君は何か勘違いを犯しているわけか。それはどのような過ちなのだろうか。君にわかるわけもなく、それは理解不可能なことだ。何を理解しようとしているのかさえ理解できないはずだ。

 君は何を理解するつもりでいたのか。人の宿命についてか。そんな生易しいことではなく、ではどんな厳しいことかといえば、よくわからないのが実感か。なぜ人の宿命が生易しいのかもわからず、そんなことを記した必然性もないような気もしてくる。おかしな成り行きだ。でもそのおかしさに救われた思いがする。何でこうなるのだろうか。意味不明な方が楽しいのか。でもくだらない。そうなる宿命なのか。どこへ移動しようとしているわけではない。どこへも移動できなかったのかもしれず、移動しようとして失敗してしまったのかも知れない。でも誰がそうなってしまったのだろうか。誰もそうは思わないだろう。それでかまわないのか。そんなはずがないと思うが、思い違いかも知れず、たぶんそうなのだろう。それも何かの成り行きなのか。意味がわからない。何かから解き放たれているのだろうか。薄暗い水面の画面を一時的に見て、それからまた記す。心はここにはない。そんな風に読めるとしたら、何がどうなっているわけでもないだろう。やはりそういうことなのか。いい加減に思う。つき捨てる駒もない。だとしたら自分はどうなのか。たぶん何を求めているわけでもないのだろう。まったく筋が通らないことを述べながら、果たして何が目的だったのか、その辺を再検討してみたい。それは嘘か。

 何も嘘ではなく、たぶんそうしなければ、そこにとどまり続けるしかないのではないか。改めて何かの勝負をしているつもりになれるだろうか。それは暇つぶしのゲームの中だけのことで、現実の世界では相変わらず何もしない傍観者にとどまるしかない。しかしこれは何の話なのか。何の話でもなく、ただ漠然と捉え損なった世界について語っているだけか。でもこれも一つの世界ではないのか。意味がなく、意図も感じられない。興味がないのかもしれず、争いごとの気配さえない。そういうことではなかったのか。では何だったのか。今となっては何でもないことだ。ということは、今という時間と場所があるのだろう。そしてここに何かが宿り、それが君を苦しめ遠ざけ、その後どうなったか知らないが、今ここで何かを再検討する時間と場所を与えてくれたのだろうか。そう願いたいところだが、実際は違っているのかもしれず、何が違っていると思わないにしても、現実に何かが違っていて、君がその違いに気づいていないだけかもしれない。でもそれでかまわない。勘違いのまま間違ったことをやり続ければ、やがてどこか得体のしれぬ地点へたどり着けるかも知れない。まさかそうなることを期待しているのでもないだろうが、とりあえず今現在はここまでたどり着いた。それだけのことだ。


7月28日

 どうも本を読まなければならない成り行きになってきたようだ。それはなぜか。実際に読んでいるからか。たぶんそういうことだ。でも読んだからといって、それが直接記述に反映しているわけではなく、記している内容は相変わらずの空疎そのものか。なんだか自己否定に傾きつつあるみたいだが、ここから持ち直すきっかけをつかめるだろうか。さあわからない。何と戦っているわけでもなく、何に打ち勝とうとしているわけでもない。何だかくだらない気分となってくるようだが、積極的には何も提示できないのかも知れず、それが何を苦しめているわけでもないが、ただ何となく平静を装っているのだろう。それだけに終始しているようだ。ここにはただの静けさがある。だから言葉もそういう類が記される。それだけでかまわないわけがないのかも知れないが、展望が開けない。この状況は何を物語っているのだろうか。嵐の後の静けさか、また来るべき嵐の前の静けさか。どちらにしても今は静かで、本でも読むしかないようだ。何だか冗談みたいに思われるが、たぶん冗談なのかもしれない。冗談のような世界であり、冗談のような世の中なのだろうが、それで何を説明したことにもならないのも、冗談のような話だ。記された文章からは、何が冗談なのかはわからないが、雰囲気的にはそういうことらしい。

 しかし折れない性格のようだ。それでいい。仕方のないことかもしれない。今日は晴れて暑い。天気のことを述べて、何をはぐらかすわけでもなく、そんなことでは何もはぐらかせないことはわかっているが、とりあえずはそう述べておいて、次の言葉が思い浮かぶまでの時間稼ぎのようなことをやり、そんなやり方に呆れ、しばらく記述が滞り、何も考えずに黙っているみたいで、気晴らしに何をする気にもならず、そのままとなってしまいそうだ。そして何を思うこともなく、また言葉を記し始め、何かを何とかしようとしているみたいだが、何とかなるわけもなく、ただ耐えるのみか。いったい何に耐えているのか。自分が記した空疎な言葉の連なりに耐えているのか。でもそれは自分なりの計算と覚悟に基づいて記していることではないのか。意味がわからないようだ。理解不能か。確かに理解不能だが、何だかこれでいいような気がして、その感覚を否定できず、このわけのわからなさを捨てることができずに、今に至っているわけか。君はそこから何を感じ取っているのだろうか。やはりそれでかまわないような気がしているわけか。しかしなぜ君は移動を繰り返すのか。今はとどまっているはずだ。今もそこにいる。疑問の答えになっていない。ではなぜ君はそこにとどまり続けるのだ。

 答えなどどこにもありはしない。それは当然だ。答えを求めようとしていないからか。それもあるだろう。それ以外に何があるというのか。要するに君の知ったことではないということか。しかしわからない。もう少し何とかならないものか。何ともなりはせず、このままのようだ。ここには何もなく、どこにも何もなく、そんな嘘をついていること自体が、何もない証拠となり得るだろうか。意味のないことだ。確かにそうだ。まるで修行僧のごとく、ひたすら無意味なことを記すつもりだろうか。あり得ない。ではいつか必ず意味を伴った言葉の連なりが出現することを期待しているのか。それは無限遠の彼方で生じる出来事となる。そんなはずがない。たぶん違うだろう。また嘘をついている。そんな未来を空想しながら、今の貧窮を耐えているのだろうか。わけがわからない。遠くから蝉の鳴き音が聞こえてくるが、すぐに止み、今は静けさの中で、ひたすら何かをやっている最中のようだが、それはゲームか何かだろうか。さっきから何かの画面を凝視している。目が疲れたのか、盛んに瞬きをしていて、もうあきらめたと見えて、不意に目を逸らす。画面上には何も見当たらない。それは暗くなっているからだ。またそれだ。堪え性がない。ここには乗り越えられないような壁などありはしない。


7月27日

 ここに至るのが一苦労か。波紋が広がっているわけではない。ただの気晴らしにすぎないのか。そうではないと思う。今さら何を読む気にもならないか。そういうこだわりが違うのだろうか。でも逆に何が正しいわけでもないのだろう。そうは見なしていないのではないか。疲れるようなことか。別にかまわないのではないか。確かにまだ時間があるらしいが、これから何を語れるのだろうか。そういう語り自体が余分であることは承知して、さらに無駄で無意味なことを語るはずだ。語るのではなく、記すのだろう。それはいつも述べていることだ。それも述べているのではなく、記していることか。どちらでもかまわない。どうやら歯止めが利かないらしい。利かせようという意思もないようだ。歯止めを利かせなければ、記述も進むか。でも内容が空疎だ。それでもかまわないと思うなら、そのまま続ければいい。そんな続けている自分に嫌気がさしたら、そこでやめればいい。それでかまわないだろうか。誰に了解を得たいわけでもないか。とりあえずはそういうことで、何となくそうなり、そうなったまま、そんなこととは関係なく、さらに言葉を記してしまうらしい。できるだろうか。やっているのではないか。確かにそうだ。あくびが出る。つまらないからか。つまらないからおもしろいのか。屁理屈以前にくだらない。

 理解できないらしい。しなくていいのかも知れない。冷静に判断すべきだ。ことの重大さに気づいていないのか。さあどうなのか。君がそれをわかっているはずがないか。わからなくてもいいのか。分かり合えるとも限らない。きいたふうがない。果たしてそれは何なのか。果たさなくてもいい。でもあの時の約束はどうなったのだ。果たす気があるのだろうか。もう忘れてしまったのかも知れない。君は本当に覚えていないのか。言葉を記す以外に何をやったらいいのか。どうもそこから先へは頭が働かない。やはりこのまま、こんなことを記す以外にないのだろうか。学ぶべきか。ここで何を学ぶつもりなのか。本を読んでいるだけだ。それで学んでいることになるのだろうか。読むことは書くことを促すらしいが、それはこの状況にも当てはまるのだろうか。そこに何か疑問があり。それを解明するための論考が、それらの文章の内容とならねばならないのだろうか。実際にそういう文章を読んでいるのではないのか。でもそれがどうしたのか。それが君の文章には反映されておらず、突きつけられた疑問にも、まともな答えさえ導き出せず、ただいなすばかりで、真正面から向かい合えない現状を打破できずにいるではないか。本当にそれでかまわないのか。それの何が本当なのだろうか。

 それは君の思い込みにすぎず、本当は何でもないことなのだろうか。まあいろいろな方面へアプローチしてみて、あとは結果を待つ以外はないのだろうか。その結果がこれなのではないか。空疎な言葉が並んでいる状態か。それは違うか。確信が持てないようで、述べていることの全体を把握できず、おかしな方面へと何かが逸脱しているみたいだ。これは何か。単に迷いがあるだけだろうか。その辺もよくわからないが、とりあえずこんな具合で言葉を記しているのだから、続けるしかなく、続けて行った結果がこれだとすれば、またさらに続けていくしかなく、こんな状況に戸惑いながらも、このまま言葉を記すようで、実際に記しているわけで、こうして予定調和の自己言及ループにわざとはまり、言葉数を増やしつつ、何もない現状を強引に切り抜けようとしているわけか。いかにも君らしいやり方だが、それでどこまで続けられるのか。後悔先に立たずで、後から悔やんだ頃には、もう手遅れとなっているのか。それでもかまわないのではないか。でも語ることができない。相変わらず何を語ればいいのかわからず、途方にくれている心境を記しているだけで、それで何になるわけでもないのだろうが、とりあえずは言葉が並び、何かを記しているような気にさせられ、それでいいわけがないのだが、結果的にはこうなっている。


7月26日

 今日は何かあるのだろうか。たぶん何もない。何もないわけがないが、何もないと記し、そんな風にして記述を継続させようとするが、やはりそれは無理というものか。でも結局は続けるのだろう。たぶんそういうことになるだろう。どうも取っ掛かりがつかず、いつまで経ってもこんな具合となるしかないが、それが何を意味するのかわからない。これはどういうことなのか。この状況の何を説明したらいいのだろう。この世界はどうなっているのか。どうもなっていないような気がする。相変わらずの世界資本主義に席巻されていて、その中で相対的に貧乏な人たちが、デモだの武装闘争だので散発的に各地で抵抗しているだけか。それだけではないと思いたいが、興味が湧いてこない。その中で何か良くなる可能性がないのだろうか。他人事でしかないか。そう述べては無責任だ。では現状のままで、変わりようがないのだろうか。あと数十年経てば、自ずから変わってくるだろう。だから抵抗運動を続けている人たちは、そのまま続けていればいいのか。でもやはりそれでは他人事だ。君は待つ。ただ待っているだけでは何も変わらないのかもしれないが、やはり待つしかないようだ。それは間違ったやり方に違いない。何か行動を起こさなければならないのかも知れないが、今はわからない。

 自然の成り行きにまかせよう。なぜかそう思うしかないようだ。それではだめなことがわかっていながら、あえて自然の成り行きにまかせようと思ってしまう。積極的に何かをやる気分にならないのか。そうなのかも知れず、その代わりに自分とはまったく関係のない内容の文章などを読んでいる。退屈なのだろうか。持て余しているわけでもない。ただ暇なのか。本を読んでいるらしい。そして途中で立ち止まり、真昼の蒸し暑い空気の中で、周りを見渡してみれば、そこに何があるわけでもなく、だだの風景に取り巻かれていることに気づき、それだけで、それ以外ではないようだ。やはりここには何もなく、どこにも何もない。何も見つからず、途方に暮れるだけのようだ。何を探しにやってきたのか。何かここにあったはずか。確かにあったのかもしれないが、今はもうないということか。かつてあったのは何かの残骸だろうか。自我の残骸か。そんな風に記す必要はない。でも固有名を記すことができない。君はどこで息づいているのか。道端で立ち止まったあたりでおかしくなった。急に何かが意識から抜けていく感じがして、気がついたらどうなっていたのか。たぶんそれは嘘だ。それ以外は何も嘘ではないかもしれないが、虚構の中で誰かがそんなことを記している。

 そういう逃げ方はいただけない。でも何もないのだから、この際多少のごまかしは大目に見てもらいたいか。実際はそんなはずもなく、予定調和の結末を期待しているのだろうが、本当の結末はどこにあるのか。今のところは何が結末であるわけでもなく、話をどこへ持って行こうとしているのでもない。要するに話にならないから話なのか。それも違うだろう。何が違うわけでもないのに、違うと記してしまうこと自体が違うのか。それでもかまわない。そういうやり方に固執している限りは、そうなって当然か。他に何ができるわけでもなく、どう思っているとも言えないが、結果的にそうなっている現実があり、その現実を受け入れるにしろ拒否するにしろ、君の判断に関係なく、そんな現実があり、君を戸惑わせ、場合によっては窮地に陥れるような現実があるらしい。でもそれで君はどうなったのか。現実をうまく味方につけ、窮地を脱したのだろうか。君が体験したのはそんなことではないか。ただわからない。これは仮想現実ではないし、架空の話でもない。どうでもいいといえばそうで、何もないわけだが、そこに何かあると空想することで、かろうじて記述を続けられ、その何かを思うことで、何とか正気を保っていられるわけか。でも実際にはそれどころではないはずだ。


7月25日

 とうとうここまでやってきた。奇妙なことだ。でも肩の荷が降りたような気がする。空白の時間の中で誰が何を思っているのでもないだろうが、それが何かの虚構へとつながる気配は感じられず、さらに空疎なことを述べてしまうかもしれないが、他に何もないので、そうなってしまうのは致し方ないようで、それでかまわないといえばそうなってしまうのだろうが、本当にかまわないのか。かまわないのかもしれない。ではそうなってしまうだろう。この世は君の思い通りか。でも君自身が架空の存在だとしたら、この世自体も虚構でしかない。それでは話にならないか。また思考がおかしなねじれ方をしている。ともかくせっかく押し出されてしまったのだから、架空の存在などではなく、普通のやり方で語るべきなのではないか。しかし何について語るべきなのか。それではだめか。なぜだめなのか。またおかしな問答へと持っていこうとする。どうやら君は何も考えていないようだ。うんざりするだろうか。何を馬鹿にしても始まらないが、何も否定できなくなってきたことも事実だ。いくら書物を読んでも答えなど見つかりそうにない。別にそのつもりで読んでいるわけでもないのだろう。実際に何を読んでいるわけでもなく、夕闇が迫る頃に、何となくそんなことを思い、次いで思っていることを疑う。

 果たしてそれが正しい解釈なのか。実際に何を語っているのか。何か興味深い記述でも見つけたのか。それとも何でもないことだろうか。わからないがそういうことらしく、まだ当分は空疎な内容に尽きる感じだ。何か間違っているだろうか。たぶん間違っている。なぜ自分の行いを正しいと感じないのか。自己正当化するのが面倒臭いからか。何だかわからないが、それでもいいと思われ、さらに何を述べる気もなくなり、黙って天井でも見上げているのだろうか。でも何か言葉を記すつもりなのだろう。こうして記している。それだけのことだが、とりあえずそういうことらしい。しかし何を記しているのか。この世界について何か思っていることでもあるのだろうか。考えを巡らせてみるが、何も思いつかず、世の中で起こっていることのすべてが他人事のように思え、まったく興味を持てないようだ。それは本当なのか。社会的な理論に疎い。関係ないか。たぶん関係ないだろう。心が醜い人たちが嫌いか。でもそういう状況に追い込まれているのだから、そうなって当然なのではないか。しかしなぜそうはならないのか。実際は思っていることとはまったく違ったことを記している。これはどういうことなのか。さっさと立ち去った方がいいのだろうか。現実にそうなっているのではないか。

 過去が勝手に遠ざかっている。それは当然のことだ。しかし未来が見えてこないのはどういうわけか。そんなものはないから見えないのか。今があり続けているだけかもしれない。過去などやがて忘れ去られるだろう。それが過去の宿命だ。冗談だろうか。嘘かもしれない。何に煩悶しているわけでもないようにも思える。もとから普通でなく、何が普通なのかもわからない。たぶん普通でないのだろう。耳鳴りが聞こえ、それが何かを暗示しているのかもしれないが、ともかくその先に記してみよう。相変わらず言葉を記す。それでおしまいなのか。何を挑発されているのか。何もできないままか。今日は雨が降ったのか。どこかで降っていたのではなかったか。それもそのはずだ。語るべきとも思えず、語らなくてもいいような気もして、そこから先がわからなくなるが、嫌なものは嫌なのか。何に関してそうなのでもなく、たぶんあからさまには語れない。そんなことでしかない。何もそこから出られないのか。出たではないのか。でもここからが問題なのだろう。本気でそう思っているのか。たぶんそうだ。そうと決まったわけではないが、そこで何かが決まっている。それでもうまく立ち回ったつもりなのか。やはりよくわからないのではないか。何事も自然の成り行きだと判断するしかない。


7月24日

 何があったわけでもない。何もないわけでもなく、きれかかるが、かろうじて耐え、そんなことの連続に嫌気がさして、君はどこかに消え去ろうとしている。これでいいのだろうか。自我が心から外れようとしている。違っているのかも知れない。そうではないのか。そうでないようだ。消え去ろうとしているのは、くだらないこだわりか。そういうところでこだわるか否かで、その後の運命が決まってしまうわけか。そこでこだわってしまえば、そこにしがみつくだけの人間となり、つまらぬこだわりから自由になれずに、固まってしまう。こだわりを捨てられない人間は成長できない。ちょっとおかしいと思ったのはそういうことか。では危うく罠にはまってしまうところだったのだろうか。すでにはまっているのではなかったか。その辺はこの際どうでもいいことかも知れず、こんなふうに深夜に言葉を記していること自体、記述にこだわり、そういうところで固まっていて、罠にはまっている証拠か。それでもかまわないと思われるのはどういうことなのか。それだけのことだからか。良いも悪いも関係なく、こういうことをやる宿命なのだろうか。しかし何をやらなければならないと思うのか。これも何でもないことの類なのか。君がそう思うならそういうことだろう。別に気にするようなことではない。

 そして押し出されて自由の身になったのだろうか。さあそれはわからない。まだよくわからない段階だが、やるべきことをやるしかないようだ。しかしやるべきこととは何なのか。いったいこの段階で何をやればいいのか。それがわかれば苦労はしない。不条理だろうか。何だかよくわからないが、不条理には違いなく、なおかつこの不条理を生かさなければならないのだから、相当の困難でも伴うのだろうか。ともかく不条理から生じたこの時間を使って、記述を継続させなければならず、そのつもりで言葉を記してゆかなければならない。何だかため息が出るが、よくわからないまま、離れ小島で言葉を記している気分だ。これまでに様々な困難に立ち向かってきたつもりなのかもしれないが、もしかしてそれは独りよがりの勘違いだったのだろうか。この状況をどう説明すればいいのかわからず、無理に説明しようとすると行き詰まるしかなく、やはり途方に暮れるしかないようで、説明する必要はないのかもしれない。今のところはそうなるだろうか。別に大した謎があるわけではなく、どうでもいいような成り行きの果てに、こうなってしまっただけで、それをどう説明してみても何だか釈然としないものがあり、結局はそんなことの繰り返しとなるしかないようだ。それでいいわけはないが、そうなってしまうようだ。

 それのどこに謎があるのか。たぶん謎などなく、あからさまに空疎な言葉の連なりが続いているだけのような気がして、それ以外には、何かの残骸すら見当たらず、ただ殺風景な空間があるだけで、そこで延々と意味不明なことが述べられているだけか。それではだめか。ならばこれからそうならない可能性を模索するしかないのだろうか。実際にそうなっているのを、無理に捻じ曲げることなど可能なのか。別に捻じ曲げなくても、自然と軌道修正されていくことを期待すればいいのではないか。そういう成り行きの中にいるような気もして、ついつい甘い期待に胸踊らせて、後でそうならずにがっかりするのかもしれないが、それもそれでそういう成り行きを生きればいいのかもしれず、そんなことをやっているうちに、さらなる何かに遭遇して、それに伴って厄介な問題などが生じて、それに関わっているうちに、それなりの歳月が経ち、気がついてみれば老いてしまっていて、心身共に固まり、もう何もできなくなっているのだろうか。そうなればなったで仕方のないことか。とりあえずこのまま、やるべことと思われることをやるしかなく、現にやっているこれが、無意味で無駄なことであろうとなかろうとも、このままやるしかないだろうか。やっているではないか。


7月23日

 今日という日は何なのか。何でもないでは嘘になる。確かに何かあるのだろう。また蒸し暑くなってきた。夕方に雨でも降るのか。だからどうしたわけでもない。何でもないのに不快な気分か。矛盾しているのはいつものことだが、ことさらに矛盾していなくても構わない。自然の成り行きの中にあり、それが当然の成り行きかも知れない。いつもこんな感じになる。何を待っているのだろう。何かのきっかけか。別そこから先回りしようというのではない。どこからでも回ってゆけるはずだ。回らなくてもいいのではないか。まっすぐに進んでもかまわない。進みたければ勝手に進んでほしい。進めればの話か。進んでいいのだろうか。その先に何か落とし穴でも仕掛けられているわけか。それならそれでかまわないのではないか。罠に落ちてから考えればいい。果たして考える暇があるだろうか。すでにこれが罠にはまっている状態なのではないか。ではもはやいくら考えても無駄であり、手遅れか。それならそれでかまわないか。どうも考えるのが面倒だ。本気で考える気がないのかも知れない。また雨が降ってきたらしい。翌朝も雨か。実際に翌朝になり、何も変わっていないことに気づく。変わるわけがない。変えようとしても変わらないのだから、永久に変わらないのだろう。

 また雨だ。今日は一日雨らしい。たぶん明日も変わらないだろう。それは違うか。たぶん違っている。何も違っていないのに、違うと記してみるが、それが違っているのかもしれない。どうも何かの中毒らしい。わからないが、何かおかしいのだろうか。おかしくてもかまわないのか。何がおかしいわけでもない。違っていないわけか。違っていなくてもかまわないのか。堂々巡りとなっているらしい。でも言葉の堂々巡りはおかしい。行き詰っているのではないか。何もかもがそうかも知れない。もはやそれでかまうかまわないの問題でもないのか。たぶんそうだ。そういうことなのだろう。まだ雨が降っている。この先も長いのかも知れない。時間的にも空間的にも無限か。無限という概念がよくわからないが、君がそれに関してを感じていても、そんなことはおかまいなしに、ただ成り行きだけが進行してゆき、君を時として戸惑わせ、たまにうんざりさせ、さらに途方に暮れさせ、どうやら何かが否定的な気分へと誘導しているらしい。そんなわけでもうやめてもかまわないのだろうか。やめようとしても、どうせやめられない宿命なのか。まあその辺はわからないが、もう少し事の推移を見てみないとわからないのかも知れず、いくら見てもわからないものはわからないのかも知れないが、とりあえずこんな具合だ。

 雨がやんだらしい。そして何もない、というのは嘘か。意味がなく、必然性も感じない。では本当に何もないのだろうか。言葉が記されているが、中身が空疎だ。いつものことか。君は自分がやっていることに誇りを感じられるだろうか。たぶんそんなものはいらないのだ。もはやこだわりようがないことを記している。自分が記している内容を把握できていないのかも知れない。いったい君は何を記しているのか。こんな内容だ。これは何なのか。空疎な無内容なのだろうか。客観的に見ればそうなのだろうが、それがどうしたわけでもないことも確かで、それでかまわないとも思えるが、それではだめなのか。そうした自問自答が鬱陶しい。でもそれが君の思う壷だとしたらどうだろう。どういうわけでもなく、そういうことか。君は何が言いたいのか。取り立てて主張がない。別に無い物ねだりをしているわけではなく、ないものはないわけで、あるものでさえ欲しくないのではないか。そんなはずがない。どんなはずもなく、ただそんなやり方では答えにたどり着けないだけで、それを承知でそんなことを繰り返しているのだから、呆れてしまうか。でも呆れるだけでは不十分なのだろう。では他に何が必要なのか。物語か。あるいはいつもの冗談か。どちらでもないような気がする。


7月22日

 季節は夏だ。それはわかっている。他に何か思いつかないか。何もない。雨が降っているようだ。それで終わりみたいだ。眠ってしまったらしい。目覚めてから考える。根気がない。そんな気がしているようだ。別にそれでもいいのかもしれない。気が抜けている。それを知らされる。それとは何だろう。雨音を聞くが、それとこれとは関係ないか。それもこれも違っているのかもしれない。だからそれでかまわないというのか。それも違うだろう。たぶんそうではないのだ。このタイミングでそれもない。タイミングでもないのだろう。相変わらず雨が降っている。今は何時か。問うているのではなく、問われているのでもない。否定しているわけか。語らなくてもかまわない。言葉を記している現状があればかまわない。これが現状なのか。限界は限界として、割り切らなければならない。そしてこれが現状なのか。悲しむべきことか。それはわからない。わかるはずがない。これ以上何ができるというのか。不思議だ。わからないが不思議だ。ここで記述が止まり、すぐに寝てしまいたくなる。外ではカラスが鳴いている。なぜかそうではない。しばらく考えているが、考えがまとまらず、結論が出てこない。果たしてこれでいいのだろうか。たぶんこんなふうにしかできないのだ。これが結論か。

 そういうことだ。空は曇っている。今日もまた雨が降るのだろうか。憂鬱な季節だ。でもかまわない。関係ないか。何と関係がなのか。そういう自問自答とは関係がないのか。季節について語らないと、その後が続かない。続けなくてもいい。確かに必要がなく、続ける必然性も感じないが、それは嘘か。そういう語り方ではだめなのだろう。それはわかっているが、なぜかそうなるしかない。しかしそれでいいのか。いいわけがないが、結果としてはそうなっている。否応なくそうなっているわけだ。そしてそれではだめなこともわかっている。だめなのをわかっいながら、こんなことを続けているわけか。笑ってしまうが、そんな成り行きらしい。そうやって君はそこから押し出されて居場所を失い、途方に暮れてしまうのか。その通りのようだ。なぜそうなるのだろうか。そういう成り行きの中にいるからか。そこから抜け出られないのだろうか。抜け出ようとすれば、何か邪魔が入り、君をそこに押しとどめようとする力が働いてしまうわけか。でも現実に押し出されようとしているではないか。要するに押し出す力と押しとどめようとする力によって、押しつぶされようとしているわけだ。どちらにしろ逃げ道などありはせず、まさに八方ふさがりの日々を送らなければならない。だから憂鬱か。

 なかなか世の中うまくはゆかず、うんざりすることばかりで、嫌になってしまうが、これで相対的には恵まれている方だろうか。別に経済的に困窮しているわけでもないし、不治の病で死ぬ寸前の状態でもない。でも実際にうんざりしている。たぶん経済的に困窮していたり、不治の病にかかっていたりする方が、他人の同情を買えるだけでも、まだ救いがあるだろうか。あくびが出てきて、退屈なことを語っているように思えてきて、自己嫌悪に陥り、またさらに嫌になってくるが、それがどうしたわけでもない。結局はそんなことなのであり、人の心を腐らせる原因が、日常の退屈な日々に潜んでいるにすぎず、それに屈して嫌な人間になってしまうなら、それはそれで自業自得でしかない。その辺がやりきれないところかも知れず、やはりうんざりするしかないのだろうが、今さら気晴らしの娯楽もないような気もして、とりあえずその選択肢はなしで、もうしばらくはうんざりする日々に耐えながら、ここにとどまるしかなさそうだ。それしかないような気がしているうちは、そうなるしかないのではないか。そして来もしないチャンスを延々と待ち続け、待ちくたびれて、喜怒哀楽の感情からよりいっそう遠ざかり、無表情と作り笑いが顔にへばりつき、どこにでもいる特性のない人間となってしまうわけか。


7月21日

 足元がおぼつかない。うず高く積み上げられた何かが今にも崩れそうだ。そんな夢でも見たのだろうか。君が何を把握して、そこからどう判断するわけでもないのに、何かをやらなければならない。それは違うか。何が違うのか。ではそうではないと思う。誰の都合が反映されているわけでもない。それはただの文章だ。誰に何を伝えたいのでもない。だから無用なのだろうか。何かを連想しているのかもしれない。テーブルの上を小アリが這い回る。窓ガラスが叩き割られ、そこから猫が出入りしているようだ。塵も積もれば山となるのか。山となったところで高が知れている。そんな使い方でかまわないのだろうか。別にヒステリーを起こしているわけではない。たぶんここからやらなければならないのだ。何かを利用しなければ、その先へは進めない。それが君のやり方なのだから、それを推し進める以外に道はない。膝が痛いか。そんな感じだ。これではだめか。あまり自分を責めるべきでない。だめなりにやるしかない。試練だとは思わない。楽しいままでもいいだろう。少しは気楽になる。根を詰めるだけではどうしようもない。無理なのはわかっている。無理でないとしたら、どのような可能性があるのだろうか。いつまでも支離滅裂なのだろうか。それがわからない。わかっているのにわからないと記すしかない。

 そんなわけで依然として迷路の中にいるようで、何を語ればいいのかわからず、途方に暮れているようだ。それもふりなのか。嘘か本当か、どちらでもないような気がしてくるが、そんなことを述べている時点で迷いがあり、何をどう述べたらいいのかわからない。何をどう述べても無意味なような気がする。何も語る気がしないのだろうか。それでも言葉を記すのか。おかしい。頭の中で何もまとまらないまま、見切り発車で記し、何が何だかわからなくなり、そのまま意味不明なことを語っているつもりなのか。そんなことをいくら語っても無意味か。別に無意味でもかまわないのだろう。どう考えても現状ではこういうことだ。こうなるしかなく、これ以外にはあり得ない成り行きなのか。まさか精神的に追い詰められて、心の病か何かになっているのだろうか。それにしては愉快だ。まるで冗談のような現状だ。強がりなのだろうか。絶望の中で痩せ我慢の最中なのか。あるいは冗談か。どちらでもかまわないのではないか。やはり意味不明か。本当にどうでもよくなってくるようだ。いったい何を語ればいいのか。何に対しても全くリアリティを感じない。政治のことなどどうでもいいのだろうか。君は今回も選挙に行かなかったのか。もう結果などとうに知れているはずだ。これでよかったのか。

 君は政治に期待しない。このままでもかまわないのか。人の欲望頼みの経済政策なのだから、それはそれで正しいのではないか。誰もが拝金教徒でもないのだろうが、金を使って活躍したいのはわかりそうなものか。そういうゲームなのだから、それに参加するのは正しいことだ。でも君はそこから逸脱したいのではないか。なぜそう思うのか。君は何を目指しているのか。そういうことではない。たぶんそれらの政治活動はある程度有効なのだろう。政治活動によって現状を変革することが可能なのか。たぶんそのつもりで彼らは活動しているのだ。実際に変革しつつあると思い込んでいる人もいる。しかし変革とは何か。別に変革でかまわないのではないか。変革しつつあるのだろう。政治家の活躍によって社会が変革しつつある。そんな物語を信じている人もいる。それでいいのではないか。君は信じていないのだろうか。なぜそういう物語を信じないのだろうか。その辺がよくわからない。それもある種のゲームなのか。政治ゲームというわけか。それの何がゲームなのだろう。君が勝手にそれをゲームだと決めつけているだけだ。どうも何かごまかしているみたいだ。君は政治をわかっていない。それでかまわないのではないか。政治がわかっているいないに関わらず、そんな幻想を抱くしかない。


7月20日

 今まで何を考えていたのか。たぶん何か考えていたのだろう。そしてこうなった。まさか今まで考えていたことの集大成がこれか。これとは何だろう。これはこれであり、それでもあるが、これもそれも何だかわからないか。具体的にはそうだ。すべてが出尽くしている。何がすべてなのか。まさか空疎がすべてか。それでは何の実態もありはしない。何も語れずにいるらしい。さっきからそうだ。いつまでもそうに違いない。何も把握できずに思い悩む。そんな状況だとは思えないか。君が知っているのはそういうことではない。では何なのか。攻撃されているわけか。被害妄想に陥っているのか。どうせそんなところだ。他に何を知り得ているわけでもなく、それが個人的な感情と連動して、怒りや憤りをもたらしているのだろう。心がそれに耐えられるだろうか。大したことではなく、耐えられなくなって、怒りを爆発させてもかまわない。君がどうなろうと君の知ったことではない。どうせ君以外の誰かが困るだけか。そんなはずがない。でも実際はそうなってしまいそうだ。君はその辺で過ちを犯しているらしい。何が冒険なのか。何もそうではない。思い込みのことごとくが君を苦しめ、何かを遠ざけ、行き詰まりを招き、窮地に陥れているようだ。でもそれで何かがわかったらしく、一応の成果をあげたみたいだ。

 本当に腹が立っているのだろうか。そんなふりをしながら情勢の分析をしているのではないか。しかしそれは何の情勢なのか。そんなことを記してから考えるのでは、先が思いやられる。前のめりになりすぎている。もう少し事前に考えて、構想を練ってからから言葉を記すべきか。それができれば苦労はしないか。でもなりふりかまわず闇雲に言葉を記しているだけでは、まともな内容にはならず、空疎な言葉の羅列ばかりとなり、同じような無内容が繰り返されるだけで、やがて飽きてくる。すでにそうなっているはずだ。ではもう無理なのだろうか。無理でも何でも言葉を記すつもりか。そういうやり方に固執しているのかも知れず、それ位外はできなくなっているのかもしれない。自業自得だろうか。何がそうなのか。とぼけてわからないふりをしても、手遅れか。でもここからやらなければならない。焦ってはだめだが、これが焦らずにいられようか。雨空の下で何も語れずに焦っている。興味がないのだろう。何を騒いでいるのか。相変わらずのニュースか。テレビでも見ているのか。状況に変化はない。たぶんそれでかまわないのだ。やがてわかるだろう。大したことはない。そんなことはどうでもいいのか。荒んだ心をそのままにして、どこから立ち去ることもできず、そこにとどまるしかないらしい。

 君がそこにとどまっている間にやがて時が経ち、何か状況の変化を感じることができるようになるだろうか。その可能性に期待しているのか。無意味なことか。期待は失望に変わり、あきらめてしまうだろう。でもそれらの成り行きを眺めているのだろう。今も眺めているはずだ。黙っているのか。架空の誰かが沈黙を守り、その沈黙の光景を眺めている。やはりそれは意味のないことか。君にとってはそうなのだろう。その可能性がある。誰かが何かの残骸を片付けている。文章の残骸を消去しているだけか。君がそれを記している。おかしな具合だ。君に何ができるというのか。言葉を記しているのではないか。相変わらずの退屈な作業か。興味本位なのか。何がか。雑草が蔓延る。自然の摂理か。そんな大げさなことではない。誰かがアメリカで破壊活動でもしているのか。そんな映画でも見たことがあるのだろうか。架空の話かもしれない。正気ではない。では誰が正気を保っているのか。君は架空の何かをつかみ取ろうとしている。それが虚構の話の一部だとすると、それらの漠然とした感じと、とりとめのない言葉の散らばりようは、何を示しているのだろうか。疑問を抱いているのではなく、そう問うことでしか言葉を続けて記せないということか。ますます追い詰められているようだ。


7月19日

 また性懲りも無く何かが舞い戻り、そんな言葉の配置では満足できないと言わんばかりに、何かが嫌悪感をあらわにするが、それが何を意味するものでないことは明らかで、ただ黙ってそれらの成り行きを見守るしかないことも、現状では当然の振る舞いになるだろうか。相変わらずのこれか。もう飽きた。さすがに無理だ。嫌になってきたらしい。救われた気になれず、何だか置いてきぼりか。みんな華々しく散ってしまうのだろうか。でも何の話なのか。同時代ではない。だからそこで何を分かち合いたいのでもなく、やはり傍観者的な視点をとるしかないのか。不満なのか。不満であるならどうだというのか。何が違っているのか。また話の本筋からずれてくる。あり得ないことだ。こういうやり方が意味不明を招き、退屈な何かを再生産しつつあり、何がどうなっているわけでもないことを思い知らされる。でもかまわないのだろう。相変わらずそうだ。やはり外面から内面へと至ることはできず、言葉を記すことによっては、その境界を越えられない。意味を担えないわけだ。これもあり得ないことか。デタラメにもほどがあり、何を述べているのか理解できないまま、事ここに至り、たぶん収拾がつかない成り行きになりつつあるのか。でも事の重大さなどわかりようがない。すでにこうなのだ。

 これではおかしすぎるか。でも気にしていないのではないか。意外とそうだ。では軌道修正が必要か。意味がわからない。たぶん何かについて述べているのだろう。でも疲れていて、それを理解する気になれない。互いに削りあっているうちに、隙を見つけて逃げるとするか。信じられないのだから、退散するしかない。それができるだろうか。何を思っているのでもなく、たぶん居眠りの最中に夢でも見たのだろう。何に挑んでいるのか。風車か何かか。目が回ってくる。めまいがしている。そんなはずがない。やはり目指すべきはデタラメのようだ。とどまろうとしていないのかも知れず、解き放たれたいのかも知れない。無心の心境からは程遠い。でもそれを知らない。知りようがなく、知らなくてもいいことかも知れない。くだらないことか。人は眠りにつく。いつでもそうだ。単純なのか。やっとのことでここまできた。そんな心境にはなれないから、眠るしかない。何を考えているのか。それを知りたいわけでもないのに、なぜかそう思う。自分の考えを知りたいのか。それは無理だ。まだ先は長そうだ。さらに言葉を記してみないと、何も見えてこない。わかるのはそれからでもかまわないだろう。もちろんわからなくてもかまわない。だから今がある。わかるきっかけがあり、それが今なのか。

 さらに努力すべきなのだろう。放射能を浴びているわけではないか。夏の暑さにやられてしまったのか。人は幻想を抱く。まだこの先に道が続いているのだろうか。何だかもう先へ進まなくてもいいような気になる。まだ幻想を抱いているのだろうか。たぶんそうだ。わかりかけているのはそういうことなのか。どういうことなのだろうか。君がそれを知っているとは思えないが、案外無意識のうちに理解しているのかも知れず、それは意識してなくてもかまわないようなことかも知れない。永久に理解し得なくてもいいわけはないが、そのうちわかるだろう。そう思っておいて差し支えないようだ。何も急ぐことはない。逡巡しておいて、何がそうなのか理解した気になる。一通りのことだ。それ以上ではあり得ない。ひねくれたふりなど不要か。今更それはない。もうすぐ結果が出る。それを見極めるとしよう。何がどうなろと、その結果に一喜一憂していれば、それなりの思いが得られるはずだ。間も無くどこかに着くらしい。いつもそうだ。それはとりあえずの場所であり、安堵するにしろ、仮眠をとるにしろ、まだその先があり、他の誰かが冒険の途上にあるのかも知れないが、君は違うらしい。危険なことなど何もないか。でも退屈にやられて、自滅するかも知れない。それでも暇つぶし程度にはなるか。


7月18日

 何を思い、何もないと思い、それでも何かあると思う。それだけのことだ。要するに面倒臭いのか。何をやるのにもそうなり、何をやってもものにならず、そんなフィクションの中で何かを思い、それが真実からかけ離れているとしても、やはりそんなやり方に固執して、結果的に墓穴を掘っているのだろうか。でもそれでもかまわないのだろう。墓穴を掘ろうとも、そんな嘘を信じたふりをしながら、何を思うまでもなく、そこでおしまいとなろうとも、それで結構だと強がる気も起こらず、そのままで結構だとも思わないが、結果的にそうなってしまうなら、今度はそれを受け入れたつもりになり、何がかまわないのでもないのだろうが、それでかまわないと記し、何かそれがゲームのルールであるかのように見せかけ、さらにそれを繰り返し、執拗に同じフレーズをごり押ししているかのようにも思わせ、実際にそうなのかもしれないが、そこで何が弾け飛んでいるわけでもないように、よく読んでみれば、かすかな違いを見つけられるのかもしれないが、たぶん同じようなアドリブが多用されているだけで、何も新鮮には感じられず、それでいいのかと問うならば、やはりそれでもかまわず、そういう成り行きを受け入れるしかないわけだが、果たしてそれで良いのかと再度問うならば、やはりそれでかまわないと答えるしかないらしい。

 嘘なのか。何が嘘なのだろうか。いくら疑問を繰り返そうとしても、それはただの記述だ。記述者が本気で疑念を抱いているわけではなく、要するに見せかけなのだろう。それを真に受けるわけにはいかないらしい。何を考え、いくら工夫を凝らしてみても、何もかもがあまりにも見え透いている。やはり本気になれない。そこに何もないことを、言葉を記すことによってごまかすことはできない。それはわかりすぎるくらいわかっているはずだ。それでも記述を続けるつもりか。無駄で無意味なことだ。もうあきらめたらどうか。誰かが後ろから楽しそうにささやく。そういう虚構はありふれているだろうか。それとも君の守護霊の類が、何か警告でも発していると解釈したらいいのか。でも天啓とは明らかに違う感触があり、心の中で想像しているにすぎず、決してそれは外部から入ってきた異質の言葉でなく、リアリティを抱けず、とりあえずは真に受け取らず、スルーしてもかまわないような按配で、またもやそこに、それがどうしたわけでもないと続けずにはいられない成り行きとなり、やはりというかまたもやというか、いつものように一回りして、予定調和のごとく、振り出しに戻ってきた感がなきにしもあらずだが、果たしてこれでいいのだろうか。冗談なのか。

 たぶんそのようだ。そのつもりでここまで記してきたのだろう。まったく懲りない記述のようで、何が何だかわからないわけでもなく、わかっていることはすべてであり、そのすべてがここに記されているのかも知れず、それを認めざるを得ないような成り行きなのかも知れないが、認めたからといって、何がどうなるわけでもなく、そんなのはこれから記される無意味で空疎な内容の一部でしかないが、それでもそこから読み取るべきは、無意識の主張であり、考えでもあり、そんなデタラメでもあるのか。何かが余分か。それはデタラメだろうか。君はデタラメを廃して、今こそ本当の主張や考えを堂々と示すべきか。何もないのにそれはないか。何もないというのが嘘だとしたら、何かあると考えて、それを提示すべきか。できないのではないか。自信がないのだろうか。だから自信がなければ何もなく、またいつもの振り出しに戻るしかないだろう。それは予定調和の結末だ。それでかまわないのなら、そうすればよく、実際に今まではそうしてきたはずだが、今回は何か違うのだろうか。その気配はなく、何だかまた出発した地点が見えてきたような気がして、嫌な予感がしてくるが、実際のところはどうなのだろう。君には今何が見えているのか。ただの文字が記された画面だけか。


7月17日

 何なのかと問えば、何でもなく、何でもないと思えば、何かあるような気がして、どちらでもかまわないと思えば、その通りなのかも知れない。それに関してどう感じても、どうということはない。要するに空疎なのか。語っている内容はそうだ。おそらくそれだけだろう。とりあえず今はそうだ。今でなくてもいつでもそうか。そしてそれでもかまわないと思い、実際そうなのかもしれない。でもそれではそこでおしまいだろう。おしまいでもいいのか。そうならないからおしまいでもかまわないのではないか。そうならなければ嘘をついていることになり、嘘をついてもかまわないのなら、いくらでもいい加減なことを述べられるか。いくら述べても意味がないか。それが何を意味するわけでもないのだろうが、とにかく言葉は記しているようで、それで何がどうなるわけでもないのだろうが、何か語っているようだ。何でもないことを延々と語っている。それがどういうことなのかわからないわけでもないだろうが、何かくどい言い回しとなっていて、それが君を呆れさせているのかも知れないが、今のところはそういうやり方に固執しているようで、あくびが出ながらも、さらにそんなふうになって、また何かが違っていると思うのだろうか。今の君にそれ以外を期待するのは無理だろうか。

 しかしなぜこうなってしまうのか。何がどうしたわけでもないのが、最大の原因だろうか。何が原因とも思えない。思いたくないのだろうか。ならば何も思わなくてもいいだろう。どうせまた自然に何か思ってしまうのだから、その時が巡ってくるまでは思わなくてもいい。でも相変わらず空疎なことを述べているではないか。それは無意識のうちに何か思っている証拠か。そう思うならそういうことにしておこう。本当は嘘かも知れないが、それでかまわないのではないか。たぶん君には他にやるべきことがないのだ。だから何を思ってもかまわないのに、何も思わないと嘘をついている。そんなはずがないか。何が確定したわけでもなく、そんなはずでもないのに、そんなはずがないと述べて、何か想定外の事態となったつもりで、そんなことを述べてみるが、それが嘘か本当かに関係なく、そうなってしまうようだ。実際にそうなのだから、それはそれでそういうことであり、単なる言葉の羅列のような空疎をまとい、それ以上の何かを模索しているつもりで、さらに言葉を連ね、何だかおかしな事態に遭遇しているようにも思われ、それがあながち見当はずれとも感じられず、やはり何だかおかしな気分となってきて、ひとまずそこから離れて、気休めに音楽でも聴いていたくなる。

 たぶん冗談ではない。冗談でもかまわないのだろうが、これは違うと思われ、記述に区切りをつけられなくなり、どこでどう区切ればいいのかわからず、途方に暮れかけ、妙案も浮かばず、このままでかまわないような気もしてきて、これはもう何かのスイッチが入ったのかも知れず、後は野となれ山となれとばかりに、どんどん言葉を連ねてゆけばいいのかも知れないが、それは恐ろしいことだろうか。たかが知れているのではないか。画面上に記された文章にすぎない。これは書物ではない。物質としては残らず、経年劣化で色褪せ、虫食い状態になることもなく、たぶん読む者が読めば、あとは用無しの文章だ。それだけのことにこだわるわけにはいかないのか。何にこだわっているとも思えず、それが嘘だとすれば、たぶん君は記述の継続だけにこだわっているのか。空疎なことを記すのにもこだわっているようにも感じられ、それらのこだわりがなければ、こんな内容が画面上に記されるわけがないと思うなら、それは月並みな空想をもたらす他ないようにも思われ、それは何かと問うならば、要するに独りよがりの産物にすぎないのだろうか。でも何も答えになっていないようにも思われ、やはりここは冗談の類とみなして、それで済ませてしまうのが、穏便なやり方のようだ。


7月16日

 ささくれ立っていた何かを鎮め、平静を取り戻したつもりになり、何か考えているようだが、言葉にはならず、文章上は何も考えていないのと同じになるらしい。改めて君は何を考えているのか。気を抜いたらまた遅れてしまう。かまわないだろうが、強がりでそう述べているのだろうか。たぶんそういうことだろう。どうも取り止めがないと同時に何もない。それで何を記しているつもりになれるのか。君がそれを知っているわけではない。他の誰が何を知っていようと、どうでもいいことか。わかりやすいことなど記せないか。それも知ったことではない。やがて何を記しても実質的には同じとなってしまうだろう。ただのデタラメだ。それを免れない宿命なのかもしれないが、それもどうでもいいことの部類に入るのか。しかしおかしい。心に靄がかかっているみたいだ。いつものことかも知れないが、とにかくいつもおかしいと思い続け、おかしくない時などあり得ないのもおかしなことか。おかしいと思うのも嘘なのか。嘘であってもかまわないのだろう。何がかまわないわけでもないが、何もない現状に変わりはないのだろう。言葉の並びも変わらない。相変わらずの空疎な無内容か。そんな結果を前にして、何を語ればいいのだろうか。窓の外は真っ暗闇だ。それでも人は何かに挑み続けるのか。

 正気とは思えない。なぜそれほどまでにつきまとうのか。うんざりしているのか。でも何につきまとわれているわけでもない。単に頭がおかしいだけだろうか。それも深刻な事態ではないのか。冗談がきついわけでもない。そこまで到達できないのだろう。決してあきらめない気でいるのはわかるが、すでに手遅れだ。どうにもならなくなっているのではないか。制御が利かないらしい。効果もない。デタラメにもほどがある。そして意味不明か。今までの繰り返しではないか。たぶんそうだ。頭を使わなければならない。当たり前のことだろう。でもそこで何を考えているのか。相変わらず暑い。すべてにおいて間に合わなくなり、心に余裕が感じられず、広い視野から物事を捉えられず、狭い範囲内で感情的になり、ついつい腹を立ててうんざりしてくるが、そのままエスカレートさせて、暴力に及ぶことになれば、君も立派な犯罪者となり、人でも殺めたら、ニュースになってしまうのではないか。まあその辺は置いておいて、殺虫剤でハエでも殺して、憂さ晴らしとでもしておいたらいいのではないか。冗談に違いないが、何だか面倒臭い。とても本気にはなれず、うるさくつきまとうハエも殺さず、そのままでかまわないような気になる。結局は何がどうしたわけでもないらしい。

 ところでこれはどうなっているのか。そういう成り行きならそれでかまわないのではないか。まったく馬鹿げている。誰が正気なのでもなく、どうしたいのでもないらしい。様々な人の思惑もあるのかも知れないが、それらが交錯した末に暇ができる。そしてその暇を利用して言葉を記し、事ここに至り、何でもないことに気づき、また振り出しに戻ってしまったようにも思えるが、実際のところはどうなのか。何を記しているわけではないのは相変わらずのところか。途方にくれている。代わりに出てくるのはあくびばかりで、何かの不意打ちを食らって唖然としているわけでもないのだろうが、この状況が誰に有利に働いているのかもわからず、その推移を見守るだけ見守り、それで終わりのような気配も感じられ、何のために何を見守っていたのかわからなくなり、やがてそんなことはどうでもよくなり、今では事の経緯すら覚えていないのか。いったいいつ何がそこで行われていたのだろうか。君はそこで何を思い出そうとしているのか。何か忘れているのかも知れないが、それでかまわないと思う。では何どうやっても無駄なのか。無駄でないことなどあり得ない。やっていることのすべてが無駄だとすれば、これからは積極的に無駄遣いを楽しむべきか。そういうふうにはいかないのではないか。


7月15日

 何を見つけたのだろうか。何だかわからないが、何かを見つけようとしている。時々そんなたわいない嘘でもつきたくなってくるのだろうか。そういうわけでもないか。でも相変わらずおかしい。そう記せばいいのか。いいわけはないが、とりあえず記してみてから判断するか。相変わらず深夜の時間帯だ。もう興味がないのか。何に対してもそんなものでしかないのか。そんなことでしかない。ものでもことでもかまわないか。ただそこに何かがあり、心を煩わせている。そしてそれでかまわないと思っているらしい。でも実際には何を見出したわけでもなく、ただくだらないことに腹を立てているばかりで、一向に埒が開かず、漠然とそう思うばかりのようだ。もう無理なのだろうか。何が無理なのか。それについて考えるのが無理なのかも知れず、それが何だかわかっていないのに、無理だと思うのはおかしいが、何となく無理だと思われ、現実にそうなっていると思われるのはどういうことなのか。嘘なのだろうか。何が嘘なのか。これはどういうことなのだろうか。いつものように無駄に言葉を記しているだけなのか。それはそうだが、これも何かの回り道を歩んでいるわけで、どこかへたどり着くには、避けては通れない遠回りなのだろうか。そう思えば納得がいくとも思えないが、ともかく方便の類なのかも知れない。

 しかしわざと遠回りしながら、何を回避しているのか。どうなることを避けているのか。何かやってはならないことがあり、それをやりそうになっているのを、遠回りすることでかろうじて避けているのだろうか。でもそんな説明はおかしいか。意味不明のように思われるが、何がそうなのか。飽きているのではないか。同じようなことの繰り返しに思われるが、それこそがどうでもいいことなのだろうか。確かに飽きている。語るのが面倒臭い。要するに語るのが無理なのか。外れている。何がそうなのでもないのだろうが、とにかく外れているらしい。昼休みを取らないと無理か。そういうことではなく、外れた軌道を元に戻さなければ、何も語れなくなる。そしてどうやらこのままくだらないことばかり記してしまうのかも知れない。君は何に怯えているのか。失うものなど何もない。でも救いがないのではないか。そもそも何をもって救いとみなすのか。みなさなくてもかまわない。依然として何も成し遂げられていないようだ。もはや語ることがない。そう記すのが間違っているのか。何が間違っていようと、そんな風に語っていることは確かで、誰が語っているのか定かでないが、君がそこで眺めている画面には、紛れもなく言葉が記されていて、それを読むことができる。

 たぶんそれがどうしたわけでもないのだろうが、誰かがそれを読みながら、退屈なひと時を過ごしているのだろうか。誰の知ったことでもないだろう。君でさえ感知できないようなことだ。どうしていいのか判断がつかない。でもこうして言葉を記しているではないか。実際はどうなのかわからないが、近頃は君自身がここで記述しているような気もする。これはどういうことなのか。君が主体的に語ろうとしているとみなしてかまわないのだろうか。誰がそれをみなすのか。君に限ったことではない。何がそうなのか。自らがやっていることを理解でないのは、それが誰の経験にもなり得るからか。でも何をもって経験とみなすべきなのか。それとは何か。またデタラメなことを述べているようだ。投げやりな気分となり、どうでもいいような気持ちで、誰かがそんなことを記して、悦に入るでもなく、ただ困惑しているようにも思われ、何にかこつけているわけでもないのに、他に理由が見当たらず、たぶん探しているのは理由などではなく、そこから外れるきっかけなのではないか。だから面倒臭くなり、わけがわからなくなって、何もかもを投げ出しそうになるわけで、そうならないようにしたいところだが、もはや限界なのかも知れず、いつかそれが暴発して、どこかへ意識が吹っ飛んで、跡形もなくなってしまうかも知れない。


7月14日

 もうこんな時間だ。ネガティブ思考を少しは変えなければならないところだが、相変わらずの遅れだ。何も変えられずにここに至っていること自体が、すでに否定的な状況だ。でも記述の遅れなどいずれどうにかなるだろう。本気でそう思っているのか。本気で思うようなことではないか。とりあえず作業をこなしているうちに愉快な気分となり、何に腹を立てていたのか忘れたつもりになるが、やはりたぶんそれがどうしたわけでもないのだろう。いちいち考えるのが面倒か。しかし戦略とは何なのか。その場限りの気まぐれな行為では戦略とは無関係だろう。でもそれでかまわないわけか。どうでもよく、そのいい加減さが戦略の類だと思い込んでいればいい。それが方便なのか。意味がなさそうで、だめなような気がするが、何を語ろうとしていたのか。嫌な予感についてか。魅力を感じない。さもありなんか。だめなのだから仕方がないだろう。機会を逸しているらしい。それは何がどうなる予感なのか。すべてがご破算になるということか。これからそうなるのだろうか。あるいはそうなることを願っているわけか。どちらにしても嫌な予感がするというわけだ。何かが風雲急を告げるわけか。それも違うか。では何なのか。取り越し苦労の勘違いの類か。それならそれでかまわないだろう。

 とりあえずはそんなふうに思っている。それだけのことだろう。こじれた事態を元に戻そうとしているのではない。できることならもう一段高い状態に持ってゆきたいのか。でも何を基準にして状態が高いか低いか判断されるのか。そもそもそれは何の状態なのか。その辺が曖昧で不確かだ。でもわからなくてもかまわないのだろう。要するにそんなふうに語っていればいいわけか。それも違うか。あるいは違っていてもかまわないのか。どちらでもいいのではないか。またおかしくなってしまうようだ。結局そういうことになり、どうでもいいような感じで、あとは闇雲に言葉を記すだけとなって、しまいにはわけがわからなくなってしまうようだ。そしてまたそれでかまわないと思い、さらにおかしくなってしまうのか。それではだめか。だめに決まっているだろう。でもそうやってここまで記してきたのではないか。それもそれだけのことか。そうに決まっている。何かがおかしいようだが、それを把握できず、どんどん独りよがりなことを述べてしまうのか。そのつもりでそうではなくなってしまうような成り行きを期待して、後は野となれ山となれということか。何かが余分だろう。過剰な何かがあるらしいが、どこにあるのかわからないか。声をからして演説している人もいるようだ。

 ちょっと無理か。記憶ではない。では何なのか。君が知っていることではない。誰も知りはしないことか。だから何でもないのか。君はそれらの内容を知らない。ではこれから何を話しても安心か。人は身勝手だ。何を語ろうとしてもそうなってしまい、ろくでもない結果しかもたらせないようだ。だから困ってしまう。誰が困っているのだろうか。あくびが出て、眠たいことに気づき、そこでやめてしまうわけか。何の話でもなかったらしい。何に気づいたわけでもなく、そんなことはどうでもよくなり、やがて忘れてしまうのだろうが、まだ何かにこだわっているのだろうか。興味がないらしく、何を批判したいわけでもないらしい。では虚しい努力の果てに何を悟ったのか。君の知ったことではないというわけか。それでは進歩がない。でも進歩を求めているわけでもなく、何をどうしたいのかわからない。素直に語れないようだ。だからこうなってしまい、空疎なことを記して、何かをごまかしているようだ。でもあきらめてはいないのだろう。さらに記述を続け、わけがわからなくなるほどそれを続けようとするが、君はそれが虚しい努力だと思っているのか。そう思えて仕方がないようだが、まだやれるらしい。でももうこの辺でいいのではないか。何がいいのかわからないが、とりあえずいいのだろう。


7年13日

 そんなわけで少しは講演会を利用して言葉を記すことができた。それで何がどうしたわけでないが、なぜかつまらないことにこだわり、狭い範囲内で腹を立てても、そんなくだらないことはすぐに忘れ去られ、どうでもよくなり、何だか別の意味で嫌になってくるが、毎日がこんな具合だと、そろそろ身の振り方を考えなければならないか。それともさらに延々と待たなければならないのか。いったい君は何を待っているのだろう。待ちくたびれて、わけがわからなくなる。そういう理由ではないのだろうが、心身ともに疲れているらしい。もうとっくに忍耐の限界は超えてしまったのではないか。これ以上何をやればいいのか。まさかさらなる忍耐を強いられるのか。もう勘弁してほしいか。限度を超えた我慢の後にくるのは、要するに心の病が深刻化するだけだろうか。やめたらいいのだろうか。やめられないから我慢を強いられ、うんざりする日々を送らなければならず、心が荒んでくる。つまらないことにこだわり、つまらないことの虜となって、つまらない人間となる。そういう人は多いのだろうか。そうならないためにはどうすればいいのだろうか。今やっていることの延長で構わないのか。それしかできないのだろう。それしかできないのなら、さらにそれを深化させなければならないのか。そう思うならそうすればいい。

 深化などできるわけがないか。そう思うならそのままでいい。言葉で記すことができるのはそういうことでしかない。たぶんそれとこれとは異質な行為なのだ。とにかく仕事は仕事として、やらなければならない限りのことをやるだけで、それ以外で、これがあるわけか。たぶんそうではなく、実際にやっているそれらすべてに連動して、それらの一部としてこれがあるわけで、やっていることのすべてをおろそかにできず、でき得る限り全力で立ち向かわなければならず、そんなことは実際問題として不可能だが、そんな風にしかならないのなら、それを続けるしかなく、それ以外の現実があるとするなら、それは虚構に違いない。要するに今あるこれがすべてだ。それは今さら言うまでもないことで、たぶん君が現実にこの世界で生きているから、つまらないことで煩悶していて、くだらないことの虜となっていて、嫌な仕事を強いられ、それをやめるわけにはいかない成り行きに悩まされ、事ここに至り、こういう具合となっているわけだ。恐ろしいか。でも突然何もかもを放り出す成り行きを期待しているのなら、それは勘違いもいいところか。その辺がわからないところだが、やはり期待は期待として、心にとどめておき、何かのきっかけを逃さないようにしておかなければならないと思う。

 しかし君はそこで何を語っているのか。なぜ仕事の合間にしか言葉を記そうとしないのか。あとは寝ているだけのような気がして、何だか躁状態のようで、やけに怒鳴りたくなり、それを抑えるのに必死な状態か。頭にきているのはわかっている。うんざりするような毎日だ。正気とは思えない。どうかしている。忙しすぎるのか。ぎすぎすした人間関係に嫌気がさしているのだろうか。でも仕方が無い。実際にそうなのだから、それを前提としてこういうことになっているわけだ。でもどうせあきらめたりはしないのだろう。そんなことなどおかまいなしに時が経ち、人も状況も変わり、気まぐれにそんなことを思い、結局どうでもいいような感じとなり、些細な行き違いも忘れ、何が解消したわけでもないのに、それ以上は詮索せず、あとは面倒なことだと思うばかりか。どうやらうんざりするような毎日に変わりはなく、とても肯定できる心境にはなれず、相変わらずの自己嫌悪みたいだが、やはりそれがどうしたわけでもないと思うしかないのか。この先何がどうなろうと関係ないとは思わないが、考えさせられる場面ばかりで、その時々で、やっていられないと思うのだが、実際に窮地を脱したつもりとなるにしろ、それの何が窮地だったのかわからなくなり、まさかと思うが、やはり窮地でも何でもなく、ただの思い違いだと悟り、ここに至る。


7月12日

 なぜか問題ではないらしい。いつものようにそんなことはどうでもいいのだろうか。自然に押し出されてしまう。それでかまわないのだろう。馬鹿げているのだからそういうことになる。でも相変わらず何が気に入らないのでもなく、そんなことでしかないわけだ。つまらない範囲内で意地の張り合いだ。そんなわけで結局はくだらないことの繰り返しとなり、元の木阿弥なのだろうか。何を主張したいわけではない。ただそれは違うと感じているだけか。違うわけがないのだろうが、実際にはどうなのか。実際も何もなく、何の感想もない。これはこれでこういうことなのだろう。心はすでに虚無感で満たされ、無駄に言葉を記したことから生じる嫌な感じで、不快極まりないか。そんなはずがない。そう思いたいだけかも知れず、本当は違うのだろうか。君に何がわかるというのか。何もわからないわけではないが、わかりすぎるくらいわかっていることもあり、それが逆に嫌悪感をもたらしているのかもしれない。でもそんなことはしょっちゅうか。たぶんこればかりはどうにもならないことなのだろう。何がどうあっても出口から出られない。馬鹿げたことかもしれないが、嫌になってしまう。もううんざりだろうか。いくらでもそうであり、これからも延々とそうだろう。そう思うと気が重くなり、やる気が失せるか。

 それでもやるらしい。できないだろう。確かにできない。ではもうおしまいか。何かが切れてしまったらしい。それでかまわないのか。今のところはかまわないようだ。でもそれで楽しいか。それもわからない。また朝になる。今日は暑くなるのか。久しぶりにそういうわけだ。確かにもう晴れて暑い。しかし晴れた空を眺めていると、自然と躁鬱の両極端な症状も退いてきて、何となく平常心に近づいてくるような気がする。何か違っているのか。別にそういうことではなく、心理状態がどうであろうと、誰も知ったことでないのかもしれず、あまり興味を抱くようなことではないように思われる。それで今日は何なのか。何でもないわけでもない。どういうこともなく。そういうことでもない。また何かのイベントか。缶コーヒーを飲んだ後、ペットボトルの緑茶を飲む。そして講演の内容がプロジェクターからスクリーンに映し出され、それを大勢の人が見ているわけか。勉強になるのだろう。他人事なのだろうか。誰にとってもそうなのだろうか。たぶん知ったことではないのだろう。しかしなぜ他人事なのか。技術的な説明だ。君は何をしにきているのか。勉強会に参加しているのだろう。積極的にではないのかもしれず、付き合い程度であり、講演の内容が知識として記憶に残るかも知れない。そういうことなのか。

 冷房が利いていて、蒸し暑さとは無縁だ。要するに経済効率の話だ。いかに効率的に資源を使うかが問題となっていて、そのための技術があり、実際にそれを使って利益を上げている会社があって、講演会に参加している人たちも、講演者が属しているその会社が提供する技術を使って、利益を上げて欲しいということか。無論それを使う会社が多ければ多いほど、その技術を提供している会社の利益も上がり、要するにその講演会あるいは勉強会を通して、商品の宣伝をしていることになり、その商品を使うといかに経済効率が良いのかについてプレゼンをやっているわけだ。その会社があるスペインでは85%の業者が使っているそうだ。限られた良質の素材を効率的に使い、そうした手法を広め、そこから利益をあげようとしているのだから、おそろしいことか。そういう技術を提供しているのが、世界にその会社一つだとすると、それが世界的に広まれば、その会社の利益は計り知れず、もちろんそれが大々的に成功すれば、他の会社も似たような技術を開発して、より安価に提供しようとして、そこから競争が始まり、毎度おなじみの成り行きとなるのだろうが、要するに人が会社組織を活用してやっているのは、そういうことの繰り返しであり、世界が相対的に平和である限り、延々と続いて行くのだろう。


7月11日

 どうかしている。確かにそうだ。無理か。そうではない。たぶん無理ではない。でも不安か。冗談に違いない。そうやって逃げたらいい。それも冗談の類だ。確かにそうだ。でもそれ以外になるように持ってゆきたいのだろう。その可能性はある。何も危険ではない。何かの騒音で目覚めたのか。近所の犬が真夜中に吠え続ける。繋がれたままで、ストレスが溜まっているのか。イミテーションであり、虚構なのかも知れない。心が疲れる。折れている。あくびをしながらそれを否定している。馬鹿げた動作だ。ゲームの画面か。何かを散らして言葉が記され、それが読まれ、それの感想でも記されるのか。目をみはるものがありそうだ。そんなやり方で我慢できるだろうか。でも知っていることはたかが知れていて、決して満足できるような結果がもたらされているわけでもない。でも眠たいからそれで我慢するしかない。しばらく寝ていたようだ。それで何かをつなぎとめるには至らないが、とにかく言葉を記してみる。まだ時間がありそうだ。別に不安を感じているわけではない。とりとめがなく漠然としているのはいつものことか。でもかまわないはずか。空は曇り、見上げているわけでもないのに、そのつもりになって、降り続く雨でも空想してみるが、意味などない。

 さらにここまできた。どこへ通っているのか。そこに限界があるのだろうか。宇宙はどこまでもはてしない。人は小さな存在だ。時代遅れであり、くだらぬことにかかりきりだ。いつもそうなのだろうか。たぶんそうだ。どうでもいいようなことにこだわり、あえて悲惨な境遇になることを厭わない。愚かなのだからかまわないのか。どうやらその通りのようだ。でも誰もがそうは思わず、幸せになりたいと思っている。それが実現可能であるように思われてしまうのか。そう思うならそれでかまわない。そうならなくても、誰も責任など取ろうとはしないだろう。その程度のことかも知れない。君は無駄な時を過ごす。相変わらず考えていることとやっていることの整合性が取れない。矛盾しているのはいつものことだ。たぶん誰がそう思っているのではないし、君も思っていないのだろうが、自然とそうなり、自らの無能に気づかなくなる。実際にできないのだから、それを認めなければならず、それを踏まえた上で、さらに思考し、行動すべきなのかも知れないが、それの何が冗談なのだろうか。君にわかるはずがなく、何を期待しているわけでもないのだろうが、そういう表現形態の欠点をことさらにあげつらっても、何にもならないような気がするだけか。でも批判せざるを得ない。

 まだ間に合うと思っているわけか。いったい何を間に合わせようとしているのか。君が何を知り得るのか。つまらないことか。何がつまらないわけではないが、つまらないことにしておきたいらしい。それが冗談であるとしても、つまらないと思い込むことに変わりはないようだ。そうしないと言葉を記せないのか。馬鹿げたことに違いない。批判したい者はいつまでも批判を繰り返し、やがてそれが無効になってしまうことに気づかない。そんな狼少年状態となっても、まだ批判をやめようとせず、誰からも相手にされなくなっても、まだ批判している。そうなれば楽しいか。不甲斐ないだろうか。なぜかそう思われ、自らの無力さを実感したりするわけか。でも他に何を実践しているわけでもなく、何だか疲れてくるが、別にわけがわからないわけでもないだろう。たぶんもう少しなのだ。いつもそう思っているはずで、もう少しで何とかなると思っているから、その続きをやろうとしてしまう。でも内容がくだらないか。これはどういうことなのか。どういうことでもなく、そういうことの連続であり、くだらないと思うなら、それでもかまわず、何がかまわないのでもなければ、そういうことになる。だからもう何をやっても無駄なのだ。そして無駄だからなおのこと言葉を記して、何かを表現しようとする。


7月10日

 この落差は何なのか。いつかそう思うだろう。烏合の衆か。たわいないのかもしれない。利益の追求が人をだめにするわけか。でも実際はそうしなければ生きてゆけないのではないか。では世の中には常にだめ人間が増殖中なのだろうか。そんな風にひねりの利いたことを述べるのは楽しいか。果たして実際に利いているのだろうか。馬耳東風こそが適切な対応か。でもそれも楽しそうだ。すべてがそうであって欲しいか。必ずしもそうはならないだろう。要するにどんなにくだらない人でも生きてゆけるような社会の実現が望まれているわけだ。その中で個人はどんどんだめになる一方で、代わりに幸せな人がどんどん増えてゆくわけか。彼らはたわいない人たちなのだろうか。例えば観光産業が人を安易な幸せに導き、高価なブランド品を所有することで幸福感を得たりする。貧乏人なら物見遊山の旅には出られず、ブランド品を買うこともできないか。そんなわけで利益を追求するのはいいことだ。それの何が間違っているわけではないし、大いにやってつかの間の繁栄を謳歌したいのだろう。やがてそのツケが回ってくる。時代の要請に殉じた人たちは忘れ去られ、廃墟も残らない。いくらマネーゲームで大金を稼いでも、死ねばそれまでか。死ぬ以前に引退して悠々自適な日々を送ってしまうこと自体が、すでに終わっていると見なされる。

 たぶん幸せになること自体が目的化した時点で、その人は終わっているのかもしれず、それ以降は何をやっても、何でもないことになってしまい、どうでもいい人と見なされてしまうのではないか。でも今さらそんなでたらめを述べてもいいのか。それの何がでたらめなのか。いい加減なことを述べているのは事実かもしれない。それ以外がないからそうなってしまうのではないか。それは承知している範囲内か。でも誰が承知しているのか。何を蒸し返すつもりもないのに、実際そうなってしまうのはなぜか。なぜもないからか。返答になっていないようだ。現実はそれか。それとは何か。答えなどあるわけがない。そう思って差し支えない。実際に何が目的化しているわけでもなく、ただ普通に生きている。そんなことは考えず、何を思っているのかもわからないまま日々を送り、すべてをやり過ごし、つまらないことにこだわり、何がどちらでもないのに、どちらがどちらなのかも見当がつかず、気まぐれでそんな物語を空想してしまうわけか。ありもしない話だ。何がそうなのかのわからないのに、いきなりありもしないと断定されてしまったら、立つ瀬がないかもしれない。でもそうやって道に迷いながらも、何かを模索しているつもりにならないと、それを記す気になれないのではないか。

 逸れているだろうか。また意識が外れようとしているみたいだ。それで何かの均衡をとっているのかもしれない。あとから考えてみればおかしな話だ。いったい人は何を目指し、どうあるべきだと思っているのか。そんなことを考えている余裕はないのだろうか。そうではなく、安易に何かを目指しすぎていて、どうあるべきだと思い込みすぎているのではないか。そんな風にして目指していることも、思い描いているあるべき姿も、それらすべてはたわいないものでしかないか。何もしないわけではなく、せざるを得ないことをしながら、誰もが懸命に生きているわけか。それはそうだが、そんな当たり前のことをわざわざ肯定するには及ばない。何を肯定しようと否定しようと、それがいくらたわいないことであろうとなかろうと、やはりそうしていることは事実であり、それを認めるにしろ否定するにしろ、誰にとってもそうであるように、君にとってはそういうことなのか。ここでの現実がすべてなのか。すべてではないかもしれないが、実際にこういう現実の中で生きているのだから、こういうふうになるしかないだろう。気に入らないのか。こんなふうではない現実を空想することはできるが、それは現実ではなく空想だ。当たり前のことか。たぶんそうであり、そうなるしかないのだろう。


7月9日

 少しは涼しくなったみたいだ。どうせまた暑くなるのだろうが、ちょっとひと息つけるかもしれない。でも語りたいのはそんなことではなく、たぶんどんなことでもなく、何も思いつかないのかもしれない。要するに、語りたいのに語れないというわけか。ふざけているのだろうか。そういうことか。でもさらに記すつもりのようだ。無駄で無意味か。あるいは言葉の病だろうか。冗談だろう。そのつもりで記しているのだろうが、冗談にも意味不明にも歯止めがかからないようだ。何を考えているのか。何も考えずに、暇を見つけては言葉を記しているだけか。内容は知らない。知り得ないが、記すしかないだろう。でも何かを見つけたつもりらしい。ヤバそうか。ただならぬ雰囲気がある。何かの兆候を敏感に感じ取ったようだ。ではもうやめた方がいいのだろうか。何だかわからないが、ちょっと何かが変だ。どうかしているみたいか。何か不都合があるのか。そうかも知れないし、そうではないのかも知れない。どちらなのか。この感覚には何かある。ヤバそうな感じだ。気のせいではない。しかしではどうしたらいいのだろうか。わかるはずがない。わかったりしたらおかしいか。何をわかりたいのかわからない。それはどういうことなのか。なぜ気のせいだと思うのか。冗談ではないらしい。

 実際には何が冗談でもないのだろう。空は相変わらず曇っている。そして何を思うこともない。何かが欠けているようだ。記すべき対象がない。何かおかしな具合となっているのだろうか。それとも至って正常か。当たり前のことかも知れない。何もない時は何も記さなくてもいいのに、無理に記そうとするから行き詰る。当然の成り行きだ。何を焦っているのか。笑ながらそれはない。別にテレビドラマの主人公ではないのだから、絶体絶命のピンチであるはずもないのに、うろたえたふりでもしたいのか。ふりではなく、本当にうろたえてみた方がいいだろうか。たぶん何が本気なのでもない。すべては嘘で過剰な演技でしかないか。ドラマ自体がそうだ。でも見せものなのだから、そうなるしかないだろう。不特定多数の人の興味を惹きつけなければならないのだから、自ずから過剰な演出とならざるを得ない。商品の宣伝のための時間もある。君が目指しているものとは根本的に異なるのではないか。でも他人の復讐劇を見るのは楽しいか。話が面白いのではないか。見ている人たちを味方につけながら、劇中の心ある登場人物たちも味方につけ、自分を汚い罠にはめて、窮地に追い込んだ人たちに戦いを挑むわけだ。人はそういう話を求めているらしい。でもたぶん現実の世界ではそうはいかない。

 何かの諍いにおいて、自分の側に明らかな正義がある場合は滅多にないのではないか。何が正義なのかもわからないまま、わけのわからない事件に巻き込まれ、その渦中で何度も過ちを冒し、下手をすると犯罪者に仕立て上げられそうになりながらも、その場の偶然の巡り合わせと、とっさの機転によって、かろうじて難を逃れたりして、満身創痍とはいかないまでも、心身ともにある程度のダメージを負いながらも、今の自分があるわけで、たぶん途中でうまくいかなくなって、悲惨な境遇になってしまった人など数知れないのだろうし、自分自身もそうなりつつあるのに、現時点ではそれに気づいていないだけかも知れず、その辺は何とも言えないのかも知れないが、すべては途中経過であって、結果などは神のみぞ知るどころか、神ですら何が結果なのか知りはしないような境遇の中で生きているのかもしれない。ぼやけた日常の中で何を感じようとたかが知れている。抵抗すべき対象など何もないような按配で、時たま生じる喜怒哀楽の感情などは、すぐにまわりのスポンジのような環境に吸収されてしまい、あとは無表情の仮面の素顔とともに、退屈な日常を送りながら、その手のテレビドラマでも見ることによって、結果的に憂さ晴らしにでもなっているわけか。だがそんな風に思うべきではないか。


7月8日

 相変わらず蒸し暑い。何がどうなっているわけでもないのに、夏だからとにかく蒸し暑い。嫌な季節だ。君が何をどうしたいわけでもないのに、要するに夏という季節はお手上げ状態なのか。そういうことだ。実際の日付では参議院選挙が間近に迫っているらしい。たぶんどうでもいいことなのだろう。自分の勘では、ここではないらしく、どこでもないのかも知れない。もはやこの先永久にどうでもよくなってしまうのかもしれない。やがてそれが決定的になるときが訪れるだろう。焦点がそこにはないのだ。それがわかっていないのが他ならぬ誰かさんだ。だからやることすべてが三文芝居の出来損ないになるしかなく、やがて笑ってしまう事態となるだろう。そうなってしまったらもう手遅れなのだろうが、それでかまわないわけだ。手遅れにならないと事態が前に進まない。悲惨な人たちが自らの愚かさを自覚しないことには、どうにもならず、まだ夢を見ている段階の人たちに向かって、どんなに警鐘を鳴らしてみても、何も聞こえないだろう。だからそういう人たちには、まだまだ頑張ってもらって、とにかく事態を手遅れに導いてもらわないことには話にならず、実際にそうなってからが、さあどうするか判断のしどころとなるわけだ。まあ悲惨といえば悲惨なのだろうが、ある意味滑稽な成り行きなのだろうか。

 そんなわけで今は誰の出番でもなく、選挙などスルーしてかまわないのだろう。選挙自体には何の意味も意義もなく、どうでもいいことなのかもしれない。もしかしたら政治自体がそうなのかも知れず、ただ無駄に莫大な金と労力を費やしているお祭り騒ぎの典型なのだろうか。それでも一応は民意が反映されているわけだから、やめるわけにはいかないのか。選挙はオリンピックやワールドカップと同じようなものか。テレビの選挙速報を見ているだけでも暇つぶしにはなりそうだ。またそんな心にもないことを記して、誰かの気を引こうとしているのか。冗談に違いない。嘘かも知れず、本当のことを述べていないのかも知れない。だから冗談なのだろう。本心から語ろうとしないのは悪いくせだ。でも適当に流して記せば、それだけ字数が稼げるか。それともそれも冗談の一環なのか。何だかわからない。何かの途中でどうでもよくなってしまうのはよくあることだ。そしてつまらないことを記してしまったことを後悔しているわけか。そんなはずがないか。記している何もかもが冗談のようで、君は状況の変化を把握できない。まさか時代が変わろうとしているのか。まさかでもないだろう。ではそれもどうでもいいことか。それとも君は時代の変化とともに、この世界から消え去ろうとしているのか。

 何の兆しも感じられない。実際に時代が変化している最中だとしても、それは後から劇的に語られるようなことでかなく、どうせ後の時代にNHKスペシャルのようなテレビ番組で、何やら大げさな効果音と共に、その時何かが起こったようなことになってしまうのだろう。まさかそれを見ながら、君は何か思ったりするのだろうか。笑っているのは強がりの兆候か。別に誰かが抱いている危機感を、せせら笑っているわけでもないだろう。それに関して誰が何を語っても、それを批判するつもりもなく、ただ黙って眺めているのだろうか。君が眺めているのではなく、誰もが眺めているのではないか。君は盲目なのか。そういう話の設定でもかまわないが、何でもいいのかも知れない。時代に向き合う必要はない。架空の存在ではあっても、君は何かを記しているはずだ。そんな嘘をつきながらも、真面目に考えることではないと確信する。誰かは思い込みが激しい。その思い込みの激しさが、時として話のリアリティをもたらすことがあるのかも知れないが、たぶん無理な方がいいのではないか。君は他人が求めるものを表現できないらしい。記しているすべてが、独りよがりのごり押しばかりか。だから冗談になるのではないか。たぶんそれもでたらめなのだろう。まったく本気になれないが、それも嘘なのか。


7月7日

 君は何か思い違いをしていないか。見上げれば夏空が広がり、ただそれを眺めているだけになり、ふとそんなことに気づくのがおかしく思われ、それがどうしたわけでもないのに、何だかそこに立ち尽くしている自分が、自分でないような気がして、そんな思ってもいないようなことを記していること自体が、今度はおかしく思われてしまい、そんなことばかり記していると、取り止めがなく、やはりそれもどうでもいいことの一環だと思うしかなく、気がつけばそればかりとなっていることに関しては、たぶん何かの中毒になっていると捉えたら、何だかしっくりくる感じがするが、それもどうでもいいことか。何だかわからなくなる。どうしてそんなことを記してしまうのか。冗談ではないらしいが、冗談であってもかまわないのだろうか。虚構なのかもしれない。何かを語ろうとすること自体から派生した虚構なのだろう。今はそんな認識でかまわないような気がして、それ以上を求める必要も感じられず、そんな気分のまま、次第に興味が薄れてきて、またしてもそこから外れながら、意識が遠ざかってしまうのか。でもそれでかまわないと思っている限りは、そんなことしか記せないだろう。予定調和の成り行きか。だがそれもかまわないことの一部ではないのか。

 本当にそんなことを記しているときりがなく、いつまで経ってもそればかりとなってしまうようだ。しかし昨日は疲れた。どうせ今日も疲れるのだろうが、そんなことの繰り返しで、なおのこと疲れてしまうが、それはどういうことでもないらしく、ただそうなっているだけで、他に何があるわけでもなく、君は延々とそんなことを思い続け、いつも疲れていると思い込んでいるわけだ。何かおかしくないか。そう思うなら何かおかしいのだろうが、それもいつものことで、君はいつも何かがおかしいと感じてしまうらしい。実質的には何も語っていない。昨日と同じか。状況としてはそうだろう。またここで立ち往生だ。またおかしいと記す。おかしくもないのにそれはない。それはないが、それしかないらしい。そんなふうにして無駄に言葉を連ねて、しつこく何かを継続させようとしているみたいだが、やはり悪あがきとなるより仕方ないのだろうか。そうだとしても毎度おなじみで、それでかまわないと思うしかないらしい。そういう成り行きの中から新たな方向性を模索するしかない。本当にそれをつかみ取ることができるのか。何をつかみ取ろうとしているのか。実際には空気をつかもうとするばかりで、いくらつかんでも手のひらの中は空っぽのままで、文字通り空疎そのものをつかんでいるだけなのではないか。

 現実がこれか。何がまさにそうなのか。冗談かもしれず、まだその続きの最中なのかもしれない。要するに悪あがきを続行中なのか。その通りのようだ。でもそれで弱っているとも思えない。それどころかますます破れかぶれで記述を続行中みたいだが、果たしてこれでいいのだろうか。いいわけがないが、やるしかない。冗談かもしれないが、そういうことらしい。この際何かの勝ち負けなど度返しで、そういうことをやらなければならない状況みたいで、本当は嘘なのだろうが、そうであるはずがなく、そのように記すのは矛盾しているが、それでかまわないのだ。ただの戯言で戯れ事なのかもしれない。でもそれでそのときの心境が反映されて、そういうことになっているのだから、一方ではそうならざるを得ないわけで、ある意味では正しく、別の意味では間違っていて、本当はどちらでなくてもかまわないのだろうし、どちらであってもかまわないわけだ。ただ記述を混みいらせて何か述べているように装いつつも、実質的には何も述べていなくてもかまわないような仕掛けで、そんなことを記しているわけか。それほどたいそうなことでもないのだろうが、やはりそれでかまわず、要するにそこに言葉が並んでいて、何か述べているようになっていれば、それでひとまずは済んでしまうわけか。


7月6日

 拍子抜けとはこのことか。何のことなのか。やはり説明が抜けてしまうらしい。何を語るべきでもない。実際にそうなのだから、それでかまわないのだろう。翌朝は曇っている。嫌なことばかりだが、我慢して過ごすしかないらしい。でもそれがどうしたのか。さらに記述が遅れてしまったことに気づく。かまわないだろう。語る必要を感じられない。確かに必要がない。何も語らなくてもいいのかも知れない。言葉を記せばいいのか。それも違うか。では何をやればいいのだろう。たぶん何もできない。困惑するばかりか。なぜそうなのか。なぜも何もないからか。語るべきでもなく、言葉を記すべきでもない。では他にやることでもあるのかといえば、何もない。ならばこれが本当の終わりなのだろうか。そう思って差し支えないようだ。面倒なことだ。そう思っているうちはそのままだろう。それで事足りるなら楽なことだ。ではどうすればいいのか。事足りなくなればいい。本当にそう思っているのだろうか。風が吹き、そんな風景を眺めつつ、そのまま固まってしまい、本当に何もでなくなり、お手上げ状態となっているらしいが、それは見え透いた嘘だろうか。なぜそう思いたいのか。ここで終わらせてはまずいわけか。冗談に違いなく、冗談のまま終わらせてはまずいのかもしれないが、その理由を知らない。

 知っているのは理由ではなく、他の何を知っているわけでもなく、たぶん何も知らないのでもないのだろう。では何なのか。言葉に詰まり、そこで立ち往生しているわけか。テレビを見ている。何に興味があるわけでもないか。盤面を見て、駒の配置に欠陥でも見つけたのか。外れているようだ。攻め入る隙はなく、またあきらめて寝てしまう。いったいそれは何のことだろう。やる気がしない。誰かが遠くを眺めている間に、至って正気であることに気づくが、ただ無駄に言葉を記しているだけであることにも気づくだろうか。そんなことではない。ではどんなことなのだろう。苦し紛れか。意識は物語の内部から存在しているわけではなく、たぶん物事のあるなしとは無縁なのだろう。わけがわからなくなり、何かがでたらめに近づいているようだ。それでも君にできないはずがないと思っているのか。でもとっくにテレビの将棋番組は終わっている。君が何を思い知ったわけでもなく、ただ時間内に勝敗が決しただけだ。いつものことでしかなく、また延々とやり続けられるわけか。そんな風に言葉が記され、何を戸惑っているわけでもなく、知っていることの範囲内で、それを組み合わせて、そんなことを述べているように装い、それで済んでしまったようにも見せかけ、何かを語ったことにしたいらしい。

 利用できるのはせいぜいのところそんなものか。でも少しは前進したように思われ、何かの錯覚かもしれないが、つっかえていたものが少しは出てきたような気がして、それで何とか窮地を脱したことになるだろうか。まだこれからのようだ。何ともなっていない。何も叶えられていない。ではまだその先があるという仮定で言葉を連ねてゆけばいいのか。何がどうしたわけでもないと思うのはやはり苦し紛れなのか。そんなことはわからず、それ以上に何を類推するわけにもゆかず、たぶんこんなことでしかなく、まあ馬鹿げているのだろうが、こんなことでしかないといえばこんなことでしかない。違っているのはその場の巡り合わせだけか。結果としてつまらないことばかり語っているのかもしれない。そんな感触でかまわないのか。さあどうなのか。何が違っているわけでもなく、ただ語れないだけかもしれず、語るべきことが思いつけないのだから、こんな具合になるしかないだろう。でもそれで前進した気にはなれないのではないか。何事もそつなくこなせないのかも知れず、何をやろうとしても、どこかにひっかかりが生じて、無駄に考え、結果的に遠回りとなってしまい、なかなか届かず、そうかと思えば通り過ぎてしまい、何かを達成した気になれず、いつも途中で挫折しているような感じか。


7月5日

 今日は夕立もなく、ひたすら暑い。書物を読んで何かをつかんだような気がしたが、気のせいだったのか。二律背反とは何か。矛盾とは違うのだろうか。構築と脱構築の関係でもない。人は理論にしろ実際の建築にしろ、何かを構築して、それを成し遂げたような気になるものか。この時期に自動販売機で暖かい缶コーヒーを買ってしまい、それを冷凍庫で冷やして飲む。それとこれとは無関係だろうか。たぶん何を語りたいのでも、何について説明したいのでもない。ただそんな状況に直面して、ふと思う。保冷剤で首筋を冷やしながら、何かを成し遂げることの困難さでも痛感しているのか。まったくわからない。でもこんなことの繰り返しなのはわかっているのではないか。あまり無理をすべきではない。ひたすら消耗するだけか。たぶん何かの不具合ですら利用すべきなのだ。別にそれで優位な立場を占有したいわけでもなく、物事がうまく回ってくれれば、それでいいだけなのかもしれず、そのためにも機会を捉えて、最善と思われる手を打たなければならない。でも果たしてそれでうまく回ってくれるだろうか。何事もその時の成り行き次第か。でも実際には何もできずにこうなってしまう。早朝に言葉を記しているようで、それがどうしたわけでもなく、また横になり、あきらめてしまう。

 何かが足らず、何かが過剰にある。空疎があり余り、やる気が不足気味だろうか。でも相変わらずそれがどうしたわけでもないと思い、何かが元の木阿弥だと気づかされ、間違った感覚を助長させ、誤った言葉の使用をもたらす。それの何があり得ないことなのか。どうも内容が何もない。語るべきではないのかも知れないが、そんなことはどうでもいいのだろうか。語る理由がない。ただ語れないようだ。何も語れないのに言葉を記そうとする。無理か。それからどれほどの時間が経っただろうか。激しい土砂降りの中を車で走っている。腕のアレルギーがかなりひどくなってきた。全身に回らないだけでもまだましか。腕のかゆみを堪えながら言葉を記しているわけか。だからどうだというわけでもない。うだるような暑さの中で薬品を調合したから、汗を通してアレルギー反応が出たのだろう。そんなことを語るべきではないのかも知れないが、他に何もない。かまわないのか。何がかまわないわけでもないのだろうが、何だか不毛なことを記しているだけのように思われ、気力が減退して、あきらめて眠ってしまいそうになるが、果たしてこのままどうでいいようなことを記していていいのだろうか。君に判断を委ねるようなことでもないか。でもそうなるしかないようだ。

 もう少しの辛抱か。記していれば、やがて何か思いつき、それを記す機会も巡ってくるだろうか。そうなるまでがまた一苦労で、さらに気が遠くなるほど空疎なことを記さないと、そんな状況には至らないのではないか。だからといって延々とそんなことを記す理由になるわけもないか。でも延々と記している現状があり、それをどうにか変えたいと思っているのではないか。そう思っていること自体がおかしい。変えられないからそうなっているのではないか。無意識のうちに腕をかいてしまうで、だんだん痛痒くなる。辛抱が足りないのだろうか。どうやらさっさとやめた方がよさそうだ。やめられないからそう思い、実際に辛抱強く記述し続け、何とか終わりまで持っていこうとしているではないか。チュニジアの夜を聴いている。腕をかき出したら止まらなくなり、さらに痛痒くなる。もう少しの辛抱ができないらしい。こんなものか。厳しい現実に直面しているわけか。何が厳しいのかわからないが、一方でたわいないと感じるのはなぜだろう。どうということはなく、そのどうということはない感じが焦れったいようで、別に死ぬか生きるかの深刻な状況とは無縁なのに、やはりこのどうにもならない感じがどうしようもなく感じられ、このままではだめなような気がして、焦り出すわけか。

7月4日

 気がつく前に翌朝だ。本当に目が覚めているのだろうか。目が覚めた夢でも見ているのか。そんなはずがない。くだらぬ空想だ。しかしそこから何が導かれるのか。何を読み解こうとしているわけでもないか。呼吸をしなければならない。そこに現前しているのは誰かの名が刻まれた墓石の類だろうか。それも空想の一部を構成する。他に何があるというのか。誰かの霊を眺め、次いで問いかけてみる。そんなはずもない。他に何が描かれ、どんなリアリティを醸し出したいのか。あり得ない。またもや不可能に直面する。やる気がしない。仕事の最中か。そのつもりのようだが、言葉を記している暇もあるらしい。だから冗談なのか。ハエが執拗にまとわりついてくる。汗の匂いに引き寄せられる。面倒なことだ。どうでもいいのに焦れったい。大したことはないのに蒸し暑い。熱中症で老人が死ぬ。弱い人間は淘汰されてしまうのか。君も弱ってくればその対象か。でもそんなことはどうでもいい。君が弱って死のうが生き残ろうが、君以外にはさほど影響はないか。記述がそこで途絶える。せいせいするだろう。それでもやはり面倒なことに変わりはないか。何が面倒なのだろうか。にわか雨だ。大気の状態が不安定なのか。要するにそれが面倒なことなのか。でもそれの何が気に入らないわけでもないのだろう。

 とりあえず今が今でないことは承知している。そんな天気と共に誰かがいる。誰もがそこで暮らしている。冗談ではないらしい。でもどうでもいいことだ。しかしそのどうでもいいことを記している。別にそれが画期的なことだとは思わないが、何だか不思議な気分でいるようだ。嘘か。嘘ではないとは思えない。だから嘘なのだろう。でもどちらでもかまわないのだろう。どうも思い込みが激しいようだ。それも違うだろうか。ともかく当たり障りのないことを語らなければならない。でも説得力がないか。やれる範囲内ならそれでかまわないだろう。別にそれが限界なのではないだろうが、現時点ではそういうことになっている。それに関して何か思い違いでもあるのだろうか。意味がわからないか。何がわからないのかわからないわけではない。でも意味の通った文章にならないような状況の中で言葉を記している感じだ。おかしいだろうか。笑うような状況ではないだろう。でも心の中では笑っているのではないか。矛盾だらけですべてが間違っているのに、それでかまわないと思っている。たぶん間違っているのが良いことなのだ。そんなはずがないと思いたいが、結果的にはそうなってしまうわけだ。しかしこの感じは何なのか。なぜでたらめなことをやろうとするのか。正気とは思えないか。正気でなくてもかまわないのではないか。

 何かがおかしい。そう思っていること自体が大きな勘違いなのか。でもそれで何かの均衡が保たれているのではないか。まさかそれも大間違いの勘違いなのだろうか。では何が正しいのかといえば、そんなことなどわかるわけがなく、相変わらずでたらめなことばかり述べている。それでも語っていること自体が信じられないか。言葉を記している状況ではないのではないか。それはその通りだが、言葉を記しているタイミングがないので、ここで記すしかない。まあいいだろう。これが宿命だ。だめな時はだめであり、だめなりに言葉を記さなければならず、その結果がこれなのか。おかしいか。それはわかっているはずだ。わかっているからこうして無理にも言葉を記しているわけか。意味がわからず、わけもわからないか。なぜ違うことをやりながら同時に言葉を記しているのか。それをやらないとまた遅れてしまう。やはりおかしいか。結局わけがわからないうちに嫌になってしまい、眠ってしまったらしい。一夜開けても相変わらずの意味不明か。今日も暑い。明日も暑いだろう。何が君を後押ししているわけでもなく、ひたすらわけがわからないまま、こうして言葉を記している。人はなぜ言葉を用いてわけのわからないことを表そうとしているのか。どうしても引くに引けない状況なのだろうか。


7月3日

 また夕暮れ時か。この時間帯まで何を考えていたわけでもない。音楽を聴いているようだ。眠たくならないのか。さっきまでコーヒーを飲んでいたからその点は心配ないか。目を閉じて意味がないと思う。また語れなくなっている。その必要がなさそうで、ただ闇雲に言葉を記していれば、それで何か語っているような気がして、そんなはずがないと思いつつも、一方でそんなでたらめでもかまわないと思っているみたいだ。本当のところはどうなのか。何を感じ、何を見ているわけでもなく、そこに何があるとも思えないが、たぶんそんな成り行きの中で言葉を記しているのだろう。それで何がもたらされるわけでもないらしい。記された言葉の連なりがあるだけか。いったい何がそうなのか。たぶん何がそうなのでもなく、誰かの頭の中で何かが思い描かれ、それに関して何か語ろうとすれば、そんなふうになってしまうわけか。しかし何がそんなふうなのか。君に理解できるようなことではないかもしれない。そんなわけでだんだん回りくどい言い回しとなり、何について語っているのか不明のまま、何だか虚無によって納得させられたようになり、そんなはずがないのに、わけがわからなくなって、そこから先に語られるべき内容を失い、またもや行き詰ってしまうのだろうか。

 あまりにも安易か。何がそうなのだろうか。君の知ったことではないか。わかるわけがない。とにかく言葉を記さなければならない。その中のどれに関してでもなく、それに関してでもない。何も記さなくてもいいのに、言葉を記す。それだけのことか。それだけではまずいだろうか。それは相変わらず君の知ったことではないようだ。いくら語っても無駄なのか。内容がなければそういうことになる。でも冗談でならありか。至って真面目な風を装うわけにはいかないようだ。何でもないのにそれはないと思いたいが、実際のところはどうなのだろう。蒸し暑い。それは相変わらずの状況になりそうだ。そして何かの我慢が優先されるらしく、君はそれらの蒸し暑さに耐えながら、何かについて考えようとする。無駄で無意味なことだろう。そうだからこそ考える価値があると思われたりするわけか。あり得ないことだが、案外それでかまわないのかもしれず、そんな風に考えている限りは人畜無害なのだろうか。なぜそう思われるのか。あるいは別に誰が思っているわけでもないか。そういうやり方が見え透いていて、何でもないことについて大げさに語ろうとも思わないのに、その手の虚構に魅入られ、それを自分の言葉でなぞろうとして、あえて失敗してみせるのかも知れない。

 それこそあり得ないことか。君はそれに関して何か重大な事実でも知っているのか。冗談だろう。何も知りはしないからそうなってしまうのであり、いつもこの辺でつまずいて転び、また失敗に終わったことを悟るはずだ。そうでなければとっくに済んでいるはずで、何もかもが終わりを迎え、後はさっさと退散する段階となっていて、もう何も語らなくてもいい状況の中で、憩いのひと時を過ごしているはずだ。なぜそんな具合とならないのか。現実にはいつも何かの途上で、中途半端に焦れったいことを語りつつも、そんな状態から抜け出られずに、もがいているように装い、何かを探求する仕草を誰かに向かって見せているつもりなのか。すでに見破られているのではないか。でもそれでかまわないのだろう。そこに何かが記されていればいいのであって、何か適当に内容があり、利いたふうなことを語っているように感じられなくてもよく、常に虚無的な無内容をあからさまに見せていようと、そういう成り行きでそう記しているのだから、やはりそれでかまわないのだろうか。でもそれはどういう成り行きなのか。内容を諦めているわけでもないのに、そこから締め出されてしまうのを良しとしていて、そんな語り以前の語りを用いて、何か示したつもりになっているのだろうか。


7月2日

 相変わらず晴れて暑い。それだけのことか。それだけのことなのに難儀している。それに今日は成り行きで缶コーヒーを飲みすぎて眠れなくなる。何がどうなっているわけでもないのに、これはないか。こういう感覚なのだから仕方がない。もう夜中だ。明日になってしまうらしい。何だかおかしいようだ。テレビで風景画を見るが、それがどうしたのか。何かが壊れている。架空の目的が見当違いか。ただひたすらテレビを眺めていたら、こんな時間となる。壊れたついでに何か思い込んでいるようだ。相変わらずのテレビドラマか。君とは無縁だ。勝手な思い込みになりそうか。壊れた風景画家の絵は確かにうまい。天才なのだろう。でも見ているのは絵以外の何物でもなく、それは絵でしかない。必要がないか。気楽に眺められる絵があればそれでかまわないのだろうか。実際の風景を眺めれば済んでしまう。では画家は必要ないのだろうか。またそんな嘘をつく。誰とって必要なのかが問題なのか。問題ではない。必要のあるなしとも問題のあるなしとも関係なく、人ができることの一つとして絵を描く能力があるだけか。それでかまわない。そんな認識では何かを取り逃がしてしまうかもしれないが、大したことではない。にわか雨に降られて温度が少し下がったかもしれないが、蒸し暑いことに変わりないか。

 変わりない。何もないからそのままだ。何が間に合うと思っているのだろう。それとも言葉を記すのが遅すぎて、間に合うはずがないと思っているのか。すでにこんな時間だ。深夜なのだろうか。それがどうしたわけでもなく、そんなはずないとも思うが、悪夢にうなされているわけでもないらしい。どうせまたやるべきことをやれずに終わってしまうわけだ。そして意識が途切れ、目覚めたら翌朝か。面倒なことだ。別に壊れているわけではない。気がついているのではないか。たぶんそのはずだ。そんな気がしているだけでそういうことなのか。スランプに陥っているらしい。でもこんな感じで記述の継続は欠かさない。焼け石に水だろうか。でもどこで石が焼けているのか。どこかでそんなたとえが用いられているわけだ。何の話でもありはしないのだろうが、それでかまわないと思うしかないらしい。相変わらず頭の中で何かが錯綜している。それもそんな気がしているだけで、実際は整理ができているのだろうか。とっ散らかった印象を免れず、語っているすべてがおかしいように思われてしまう。でも依然としてこうなのか。こうなるしかないのだろう。これが限界なのか。そういうことになり、君は何かの望みを絶たれて途方に暮れるのか。それでもかまわないのではないか。しかし君が何を望んでいたかは知らない。

 そんなことはどうでもいいと嘘をつきながらも、そこで何かをさらに前進させる気になり、ない知恵を絞り出して、言葉の組み合わせを変更しようとしているみたいだが、うまくいくわけがないか。でもうまくいこうがいくまいが、続けて言葉を記すつもりなのだろうし、もう内容などにこだわっている場合ではなく、ただひたすら言葉を記し続け、今日の日付に追いつかなければならないか。できるはずがないか。はずがなくてもやるつもりらしく、たとえさらなるどツボにはまり込んでも、やっているのかもしれず、まあご苦労なことなのだろうが、それだけでは済まなくなるだろうか。だが君が心配するには及ばない。君が君自身では何も決められないように、この世界もそれ自身では何も決められず、何かが決まるには、常に偶然の巡り合わせの介在がない限りは、何も決まらないのであり、君の思い通りにゆかないのはもちろんのこと、たぶん誰の思い通りにもいかないような成り行きの中でこそ、努力のしがいがあったりするのだろうか。まあそれは冗談には違いないが、何が冗談だとしても、こんな風にしかいかないのであり、こういう成り行きがすべてなのかもしれず、君が語るべき内容ではないとしても、今後ともそういうことを記していくしかないようで、それが宿命といえばそうなのかも知れない。


7月1日

 大した雨でもない。でも降っている。悪夢にうなされていたような気がする。気のせいか。語る理由にはならない。何も語れなくなったはずがないか。実際のところはどうなのか。またしてもそれは関係のないことなのか。何かが錯綜している。それで物事が前に進まないのか。でも知ったことではないのだろう。誰がそれで困っているのでもない。何が原因でも理由でもない。ただそうなっているだけで、そうなっていることから影響を受け、現実にこうなっているわけだ。面倒なことだが、こういう成り行きに対応しなければならない。そしてそれなりに対応しているつもりのようだが、うまくいっていないのではないか。でもいつもの泥縄式で今日も切り抜けた。こんなやり方でいつまで切り抜けられるのか。でもその時々でやり方も千差万別で、決して同じやり方のごり押しではないはずだ。よくいえば臨機応変に対応しているわけか。その結果がこれだ。また疲れて眠ってしまったらしい。相変わらず何もない。語れないようだ。あくびが出るだけか。それでかまわないのか。数日後は晴れて暑くなるらしい。またそうだ。そんなふうになるしかない。蛍光灯をつけたまま眠ってしまったので目が痛い。早朝に言葉を記しているとしても、それが何を意味するものでもないか。何とか続けている。

 もうだめだと思うはよくあることか。君はどうかしているか。何を問うのか。今さらながらの悪あがきか。それでも前を向いているわけでもないか。間違っているようだ。たわいない。語りたいことと語っている内容に落差がある。でも何を語りたいのか。語る必要がない。そんなはずがない。アレルギーで腕がかゆい。でも本当にかなり遅れてしまったらしい。言葉を記している余裕がなく、さらにうんざりするようなことばかりで疲れてしまったようだ。そしてまたもや深夜に目覚める。いったいこれはどういうことなのか。どうしてしまったわけでもなく、何を語っているわけでもない。馬鹿げているのだろうか。たぶんそうだ。何もできはせず、もはや工夫のしようがない。そう思うならそこまでのことか。でも何とかしようとしているではないか。無意味で空疎なことなら語れるはずだ。瞬く間にこんな具合となり、何だか心境の変化のような感じだが、面倒なことの連続らしい。これからもそういうことになるだろう。あくびが出るが、もう少しやるとしよう。届かなくとも、それが運命なのだから、わざと逃すこともないだろう。それでも届かないのだとしたら、あきらめるしかない。でもそうなっても言葉を記しているような気がするのは、どうしたわけでもないだろうか。

 まだ途中の段階なのだろうか。何がそうなのでもないらしい。何も語っていないようだ。また眠ってしまったのか。そんなはずがないとは思うが、たぶんそういうことのようだ。面倒臭いのか。何がどうなっているわけでもないのに、これはないか。何もないのにこれもない。そんなわけでここにいる。別にここは離れ小島というわけでもなく、ただの部屋の中か。午前中の仕事を終え、昼休みに言葉を記している。そういえば今月の日付ではまだ何も記していない。どうやら尋常ではない遅れになるようだ。忙しい上に疲れているから仕方のないことか。何が仕方がないとも思わないかもしれないが、現状では仕方がない。どう考えても無理な成り行きだ。何も語れずに何も記せず、そしてこの先どうなってしまうのかまったく見当がつかず、このままフェードアウトしながら終わってしまう危険性もありか。そうなれば肩の荷がおりて一息つけるかもしれないが、それだけのことだ。何かに負けたように思われてしまうが、それでいいとは思わないのはもちろんのこと、何か悔いが残る結末を迎えそうだが、果たしてそんな結果を受け入れられるだろうか。君ならどうするのか。関係ないと嘯けば済んでしまう話だろうか。確かに何がどうなろうと知ったことではなく、それで済んでしまうなら楽なことかもしれない。


6月30日

 何かに振り回されているようだ。相変わらずの国家主義だ。たぶん政治家には役割があるのだろう。ご苦労なことだ。君たちは何を守っているのか。何か解決策があるというのか。その策を選挙で宣伝するわけだ。だからご苦労なことだと思う。後は何かが繰り返され、忘れた頃にまた何か解決策があるかのごとく主張する。やはりこれからもそんなことの繰り返しとなりそうだが、それで楽しいか。楽しいのではないか。経済危機も政治危機も危機の範疇に入らず、政治家が何を主張しようと、そんなことはどうでもいいのだろうか。結果としてうまくやっていることになればいいわけで、その実態がどうであれ、うまくいっていると主張し続ければ、それで通ってしまうだろう。ともかくうまくいっている部分が少しでもあれば、それを拡大解釈して宣伝材料に使い、事ある度ごとにうまくいっていると言い続ければいいわけだ。それを真に受ける人が多ければ多いほど、政治としては成功している部類に入るのではないか。まやかしか。そうではなく、それでかまわないと受け止めるしかない。人がやっているのはそんなことの繰り返しにすぎず、例えば大統領がベルリンで、核なき世界の実現だとかのきれいごとを、聴衆に向かって訴えかけている裏で、各国大使館の通話や通信を傍受して盗聴していたのだから、呆れてものも言えないか。

 では君はそこから何を導き出したいのか。もう夕方だ。何を考えていたのか覚えていないか。たぶんどうでもいいのだろう。それは違うか。何が違うのか。個人がそれを告発してやめさせようとしているわけか。そして亡命先が見つからない。それの何が問題なのか。何の問題もない。楽しいからか。何が楽しいのだろう。個人が国家に歯向かっているからか。でもそれを支援している組織や団体もあるのだろう。何に魅入られているわけでもなく、罠にはまっているわけでもない。君はテレビで野球中継を見ている。人気のないプロ野球チームなので、客席がだいぶ空いている。私設応援団の青年がトランペットを吹いている。そしてなぜか君はそこでテレビを消して、言葉を記し始めるが、今ひとつしっくりこないようだ。もう夜だ。用事を済ませて、何とか記述を再開しているが、これが終わったら、また別の用事を済まさなければならず、身が入らないか。ウィキリークスの支援を受けている青年の話はどうなったのか。それの何が問題なのか。また意味不明気味に何かを蒸し返そうとするが、乗り気でないらしい。眠ってしまう前に終わらせたいところのようだが、うまくいきそうもない。何が矛盾していようと御構い無しだ。不都合を感じない。なぜそうなり、どうしてそれが当然のごとくに思われるのか。

 どこにこぎつけたわけでもないが、何かのこじつけを多用しているわけでもない。食後に飲むはずだったアレルギーの薬をだいぶ遅れて飲み、少し眠くなったところで無駄に言葉を記す。いつになったら面倒な作業から解放されるのか。つかの間の今がそうなのだろうか。それとも何もそうではないか。どちらにしても意味不明か。そうならないようにしたいところだが、ままならない。君の知ったことではない。野球の結果など興味がないのか。スポーツニュースなら暇つぶしによく見ているくせに、そんな嘘をつく必然性などどこにも見当たらず、誰がどこで立ち往生しているわけでもなく、契約や手続きの書類やらに煩わされ、社会の面倒臭さに嫌気がさして、何もかもを放り出してしまいたくなっているわけでもなく、ではどうなのかといえば、かろうじて踏みとどまっているような気がしているのだろうか。でもどこで踏みとどまっているのかといえば、土俵際でも瀬戸際でもなく、ただ眠気をこらえている程度のことで、それ以外は何がどうなっているとも思えず、至ってまっとうなことを思い、まっとうなことをやり、そう思っているだけかもしれないが、それでも誰かがどこかで生きているらしく、こうして何か記している現状があり、それについてどうこう言いたいわけでもないのだろうが、とにかく続けるつもりのようだ。


6月29日

 心の奥底に滞留しているわだかまりをそのままにして、たぶん言葉の用法が間違っているのだろうか、そのまま続けて言葉を記し、何を確かめようともせず、かまわないような気がするらしい。今は朝だ。時が経てば違ってくるだろう。でもそんなことは関係ない。とりたてて何を主張したいわけでもなく、そこから遠ざかりたいわけでもない。要するにまたもや執拗に何でもないわけだ。こんなことばかりで呆れてしまうか。こんがらがっているらしい。これもいつものことだ。何もかもがままならず、どうでもいいような感じになり、さらにこんがらかり、腕が痺れてくる。この感覚も何でもないか。興味やこだわりを失って、何も思わなくても済んでしまうか。それで生きていけることは確かだが、君はそこで嘘をついているのかも知れない。そう思っているなら、それは確かなことだが、やはりそれがどうしたわけでもなく、そんなことを記してみたところで何にもならず、それらは無駄で無意味な記述となるだろう。まったくもって何なのか。そういう成り行きに逆らってみたところで、何がどうしたわけでなく、それ以外の何かをもたらすことは今のところはできそうになく、このままそういう記述を継続させていくだけのような気がするが、別にそれが思い違いの勘違いであることを祈っているわけでもない。

 空は朝から曇り、部にそれが憂鬱な気分をもたらしているわけでもないが、何だか指先が痺れてきて、面倒な感じとなり、何か他のことを考えようとするが、この時代に始まったらしいネット上のつぶやきやブログなどの、どうでもいい書き込みを無意識のうちにしてしまう空気に汚染されているみたいで、そんなことを繰り返すうちにも、それに逆らえないことを痛感するでもなく、そういうことに秀でようとする愚かさを自覚しつつ、それに関して無理やり軋轢を捏造する気にもなれず、そこから生じる論議などたわいないもので、そんなことにも興味が向かないわけか。冗談かもしれない。そのつもりで何を記そうとしているのか。わからない。何かが引っかかっていて、それにこだわる気にもなれず、どっちつかずのままで、立ち往生しっ放しなのか。こだわるべきではないが、こだわることで過ちや愚かさが増幅されていってもいいような気がする。そちらまで行かないことが重要なのかもしれないが、人はいつでも行きすぎてしまい、気づいた時には手遅れで、くだらぬことにかかりきりで、そのまま何かの最後まで突っ走ってしまうのだろう。でも気づかないまま終わってしまう人も多い。でも世間的にはそれでかまわないわけで、その道何十年で、自らがやっていることに誇りを感じたりするわけだ。

 君はそういうやり方を肯定できないのか。別に認めてもいい。その必要はないのかも知れないが、必要のあるなしに関わらず、時が経てばどうでもよくなってしまい、だんだん忘却の彼方へと消えてゆき、何も残らないか、何かの加減で残るとしても、いったん去ってしまった者とは関係のないところで、勝手に歪められ、適当に整形され、それを利用する者にとって都合のいいように再構築されるだけか。そしてそれを外側から眺めたつもりになれば歴史となり、内側から探ろうとすれば、哲学の類に行き着くのか。くだらないことではないのかもしれないが、面倒くさそうで、それについて考えるのは敬遠しがちになるが、あまり深入りしないで済ませて、済んだこととして、それ以上の何かが出現するのを押しとどめ、さっさと遠ざかり、何やら利いた風な内容になるのを回避し、たぶん力量不足でそうなってしまうのだろうが、それを甘んじて受け入れ、いい加減なままでいることとしよう。そんなわけでどうでもいいことになる。その先は意味のない付け足しとなるわけか。本質的にそうに違いないが、君にとってはこちらの方が気楽で、面倒な何かを回避した気がして、何だか解放された気分となるらしい。そしてそれでかまわないと自らに言い聞かせながらも、そのやり方が間違っていることを悟るわけか。


6月28日

 何かが機能していない。そんなはずがない。何を知り得たのか。つまらないいざこざに巻き込まれる。そんな予感がしているだけで、実際は何もない。何もよくならない。何をよくしたいわけではない。ではかまわないのではないか。何もありはしない。何が前提でもなく、何を当てにしているわけでもない。では何なのか。何でもないのではないか。今回はそればかりか。中身のあることは何も記されていない。それでかまわないのか。何もかまうわけもなく、何ももたらせない。それが腹立たしいのか。しかし何もできないのはどうしたわけだろう。それでいいのか。いいわけがないが、そうならざるを得ない成り行きらしい。ではそれのどこか間違っているのだろうか。間違っているとしても気づかないのではないか。君の知ったことではないらしい。でも聞く耳は持っているのだろう。投げやりにならないための第一歩か。くだらないことで自暴自棄になりすぎる。そうならないためにはこうなるしかないらしい。面倒くさいがここは折れて、我を通さず、一歩下がって周りを見渡すとしよう。君には君の道があり、やり方もある。そんな幻想を抱きながらも、それでもかまわないと思うしかないらしい。現状を打開できるめどは立っていない。それもかまわないと思うしかないのか。

 しかし昼は暑い。かまうわけがないが、何だかどうでもよくなってきた。説明できない。何がなのだろうか。何もか。でも取り立ててどうということはなさそうだ。納得してしまう。何がどうあってもそうだ。ここ数十年のことでしかなく、今であり、昨日ではない。やっているのはそういうことだ。誰が何と言おうと、そんなことはどうでもいい。耳をすませば聞こえてくる。何が聞こえるのか。何も問われていない。そこには様々な関係があり、様々な出来事がある。そして誰かがそこにいるはずか。どこかの物語ではそういうことが語られる。君は今からそれを語るのか。何を語るつもりなのか。すでに語っているそれのことか。咳が止まらない。それから何が起こるのか。空が曇っているようだ。黒雲に覆われているから、雷雨でもあるのかもしれず、別に困ったわけでもないが、もう夜だ。自動車教習所の廃墟を通り過ぎる。さらに辺りは暗くなり、周囲は闇に溶け込み、行く当てもなくさまよっているわけでもないのに、何だか心細くなるか。でもそれが何を示しているわけでもないはずだ。何も語っていない。でも果たしてそれがどんな結果をもたらすというのか。いつまで経っても物語とは無縁だ。その日を乗り切るので精一杯か。だから結果的には単なる疲労がもたらされ、気力が失せ、眠ってしまう。

 まだどこかをさまよいたいのか。道に迷っているわけではない。電車の中で言葉を記している。それだけのことだ。冒険でも何でもない。ゲームに夢中というわけでもない。語ろうとしている。意味がないのだろうか。何を模索中なのか。それも違うようだ。語っている気がしないのはなぜだろう。そういう状況ではないからか。また眠っていたようだ。もうこんな時間だ。見出されているのは、記憶にない風景だ。嘘だろう。苦し紛れだと思う。それは正しい認識だ。迷いがあるらしい。意味のない彷徨なのか。そんな大げさなことでもなく、空疎な何かを拡大解釈しているだけかもしれない。でもすでに目的地についたではないか。何をするまでもなく、こんな感じで言葉を記す。意味がないか。矛盾を感じているなら、それはいつものことであり、とりたてて何がどうしたわけでなく、君自身が何を考え、どう行動するかを語ればいいだけで、そうすることに何の問題もないのに、改めて思いを巡らし、何かを吟味しているつもりになりたいのだろうが、たぶんそうはならないだろう。実際に思っていることは、ある疑念についてか。君はなぜ何も思わないのか。そんなはずがないのにそう記してしまう。虚無の遠隔操作にはまり、完全にその術中に落ちているわけでもない。では何なのか。


6月27日

 曇っているのか。空を見ればわかることだ。しかし何を見ているのか。命とは何か。言葉でしかない。まるで見当違いだが、それでかまわないのだろう。まったくできていない。これではだめのようだ。確かにだめだが、まだあきらめないつもりなのか。現状ではそういうことのようだ。さらに空き時間を見つけて言葉を記そうとしている。月末で忙しいのに、面倒なことだ。だがこれはどういうことでもない。何の問題もなく、通常の動作だろう。何がそうなのでもなく、すべてがそういうことで、そんな成り行きが、時として君を惑わすこともあるだろうが、とにかく問題ではない。ただやればいいのだ。そして実際に言葉を記している。おかしなことか。何がおかしいのでもないが、疑問に思い。猫を探しに出た夢をみる。意味不明だろうか。たぶん何かの予兆だと思っていれば良さそうで、実際はまったくの見当違いだろうと、戯れにそう思っていれば良さそうだ。そして他に何を思うこともなく、ただ黙って吹きすさぶ風の音に耳を傾け、何か他に興味深い事象に巡り会うまで待てばいいのか。何も起こりそうにない。もう夜だ。音楽を聴いている。また何かの予感か。そうではない。それすらもない。何もなければ立ち往生だ。そうならないようにしなければいけない。

 だからというわけでもないが、言葉を組み合わせて何かをもたらそうとしているわけか。幻影にもならない。では何に怯えているのか。現にここにある何かか。怯えているのではなく、それは他の言葉で表現しなければならない何かか。そんなものなどありはせず、なぜか架空の誰かが自殺する夢をみる。今までに見たことも会ったこともない誰かだ。首をつりながら君をにらんでいた。そして深夜に目覚め、君は何を思うのか。何も思わない。ただ言葉を記すのみで、誰の知ったことでもありはしない。たぶん何を思う必要もないのだろう。何も思わなくてもけっこうなのか。やはり何がどうなっているわけでもないらしく、何の意味もないことだ。君は呆れている。何の意味もなくそうなのか。そうに違いなく、そうでもないのかも知れない。誰もそんなことは思わないようだ。テレビでは馬や牛が死んだ絵を描いた人が若くしてこの世を去った話だったはずだ。それがどうしたわけでもないが、そんなことを記せば、何か気晴らしにでもなるのだろうか。君の知ったことではないだろう。では予感とは何だったのか。誰かが自殺する夢を見たことか。わからないが、そんなことではありはしないのだろう。それはそれで、何がどうなったわけでもなく、やはり夢の中での話にすぎない。

 そして今は深夜だ。まただいぶ遅れてしまったらしい。もう翌月か。それでもまだあきらめず、何かを記そうとする。自分に腹が立っているとは思えない。何がどうしたわけでもないのにこういうことか。でもそれでかまわないのだろう。何がかまわないわけでもないのにそう思ってしまい、その辺に誰かのいい加減さが垣間見られ、要するに限界なのだろうが、君にとってそれがどうしたわけでないようで、相変わらず無駄に言葉を記し、疲れたら部屋の蛍光灯をつけたまま眠り、深夜に目覚め、また言葉を記しているわけだ。たぶんそれが何になるわけでもなく、明らかな誤謬や逸脱も見当たらず、取り立てて何がどうかしているわけでもない。それでも何とかしようとしているのだ。何ともならないのにご苦労なことだが、少しは何かを前に進めているつもりなのだろう。ではここが踏ん張りどころなのか。君が何を思っているわけでもないのは明らかなところか。それ自体が無駄で無意味な記述だ。そして何も思わないわけか。相変わらずのことでうんざりしてしまうかも知れないが、またここに何かがあるらしく、君は何とかしてそれを捉えようとしているわけか。意味のないことだろうか。意味さえ担えない文章となっているのかもしれず、それが恐れていた結果だとしたら、自業自得なのだろうか。


6月26日

 もう帰りの新幹線に乗っている。行事も済んでしまえばこんなものだ。明日も忙しい。何かを演じなければならなかったわけでもないので、ほっとしている。催し物も端から見れば滑稽かもしれないが、それを真に受ける人がいるから、そういう人向けのメッセージも含まれているようで、しかけている側にとっては、それなりの仕掛けが必要不可欠なのだろう。でもやりすぎな面もあり、ほどほどに願いたいものだが、やはりそれはそういうことがわかっている側からすれば、そういうものにしなければならないのだろうか。人それぞれで、受け止め方も違い、君の場合は深入りしたくないので、あくまでも傍観者を装い、他人事のふりをしたいのだろうが、周りはそうは受け取らず、誰かの忠実なしもべのごとく映っている場合もありそうだ。それは冗談かもしれないが、何が冗談だとも思えず、背筋が寒くなりそうで、ぞっとする時もありそうだ。まさかそれも冗談か。どうもそう述べて何かをごまかそうとしているようで、何がそうなのでもないのかも知れないが、とりあえずその話はなしにしておこう。これ以上そんな些細なことにこだわってしまうと、真意が伝わらないばかりか、何かから大きく逸脱してしまう危険性も出てくる。それにしても今日は不可解だ。吃音がいつもより悪化して、会話に難儀してしまう。

 何かどぎつい見世物を目の当たりにして、ちょと引いてしまったのもあるが、何かを顕示するとはこういうことであり、要するにある種のデモンストレーションであって、そういうことをやらないと、多くの人がついてこないのかも知れないが、そういうパフォーマンスにつられてついてゆく人とは相入れない何かを感じてしまうのは、やはりそういう予感がしているようだ。きっと気のせいなのだろうが、ヤバそうな気がして、後ずさりしたい気分だ。実績があるのだから、何かの洗脳集会ではなく、要するに催し物の類だと捉えれば、一応の正解を得られ、それで済ませてしまえば一件落着なのだろうが、まあなんというか、君にとっては勘弁願いたい行事だろうか。でも済んでしまったので、もういいだろう。とりあえず今日も疲れた。明日も明日で面倒なことが目白押しか。何だか過労死とはいかないまでも、鬱を発症しているのかもしれず、それはそれで深刻な事態にならないように気をつけなければならないか。もう遅いか。笑っている場合ではないだろうか。でも本気にはなれず、まるで冗談みたいに感じられるようだ。そしてすでに帰ってきた。これでいいのか。いいのだろう。関係ないことか。すでにそうかも知れず、あとはいつものように仕事をするだけか。面倒なことだ。

 そして冗談ではないらしく、たぶんそういうことなのだ。君は幻想を抱いていたのか。そうかも知れない。それはそれでどうということはないのだろうが、執拗につきまとってきて、君を苦しめている。何とかしようとすると、なおのことこんがらがり、事態が錯綜して、どうにもこうにもならなくなり、うんざりするような感じになってきて、やめてしまいたくなるが、やめられず、ストレスがたまり、さらに嫌気がさしてしまうわけだ。あきらめれば楽になるのだろうが、あきらめずに努力してしまうから、より一層の困難に直面して、何だか精神的にも肉体的にも疲れ、どんどん何かの悪循環にはまっていくようにも思われ、さらに嫌になり、まったく負の連鎖がとどまることを知らず、精神的にも肉体的にも追い込まれ、たぶんそこから逃れるために、どのような事態になろうと、まるで冗談のように思われ、どんなに深刻な事態に陥ろうとも、笑うしかないような感じになり、すべてが他人事のようにも感じられ、どうでもいいような気分となり、気晴らしに音楽を聴いたり、暇つぶしにテレビを見たり、現実逃避のようなことを思い描いたり、悪あがきのようなことになってしまうのだが、それも無駄で、やがてどうにもならない現実を直視しなければならなくなり、こうしてまた出発した場所へと戻ってしまうわけだ。


6月25日

 蒸し暑さは相変わらずだ。でも言葉を記している余裕などないか。かまわない。何だかどうでもいいことなのか。君にとってはそうなのかもしれないが、他の人たちはたぶん情熱があり、やる気満々なのではないか。それはそうだ。でも彼らは何をやるつもりなのか。他に何をやることもなく、やっている最中なのではないか。そういう事業をやっている人たちが集まり、創立何十周年記念式典をやっている。ご苦労なことだ。でもそういうことだろう。君もその中に含まれるのではないか。形式上はそういうことになっている。それに関して何か含むものがあるわけでもない。ただ滞りなく式典が進行して、そのまま時が経過して、会がお開きになれば、あとは帰途につくだけか。それで何がどうなるのだろうか。事業を継続させるためにそれぞれの人がそれぞれの役割を全うして、結果として事業が継続するわけか。大変なことだ。たぶん今日だけだろう。今日がすべてなのか。今日の分は今日がすべてだ。また明日は明日でやることがあり、明日になったらそれをやっているのだろう。恐ろしいことだが、それが当たり前のことらしく、そんなことをやっているわけで、そういう分野ではそういうことをやっていて、また別の分野では別のことをやっているのだろう。恐ろしいことだが、そんなことの積み重ねがここにあるらしい。

 またこんな具合だ。どんな具合なのか。まだこの段階では式典の最中だ。式が続いているわけか。式典が終わればパーティーのようだ。盛大に執り行われているらしい。実際にその場に居合わせているはずだが、他人事か。相変わらずのひねくれようだ。わざとそんなことを記しているのだろう。別にひねくれているわけではなく、ある意味で楽しんでいるのではないか。しかしこうしてパーティーの最中に言葉を記しているのは、ある意味で無礼なことかもしれず、他の人たちとの歓談を拒否しているわけで、一人ぼっちということか。そうでもないか。席に座り、隣に座った人たちとは時折会話をしているはずで、それほど孤立しているわけでもないはずだ。でも自分から席を立ち、酒をつぎに回ったりしないのは相変わらずだ。君はそういう人間なのか。どういう人間でもなく、こういう人間でもなく、ただの記述者にすぎず、そういうことをやりつつ、他のこともやっているわけだ。どうやらまたもや重要かつ重大かつ深刻なことは何も語っていないわけか。そういう成り行きなのだからそういうふうになるしかなく、それもそれでそういう成り行きに従っているまでで、取り立ててそれが何を招いているわけでもないだろう。君はそれでかまわないはずだ。やはり無関係に思われてしまう。

 さっきから何だかどうでもいいことを黙々と記している。これでいいはずがないのに、このままとなってしまいそうだ。何とかしのぐしかない。でもそろそろ限界なのではないか。酒も飲んでいないのにろれつが回らなくなり、言語不明瞭となってきて、しまいにはその場に倒れこんでしまうのか。そんなことはないだろうが、とにかく蒸し暑く、変な気分となっているらしい。でもあと少しの辛抱だ。でも別に辛抱する必要はないだろう。実際に辛抱していないではないか。通常の感覚で、正気を保っているらしい。大したことではない。何でもない。嘘なのだろうか。さっきまでは嘘をついていたようだ。なぜそんなことを記してしまうのか。意味がないか。また変な迂回を経て、ここに戻ってきた。意識がないわけではなく、意味がないわけでもない。では何なのかといえば、やはり何でもないようで、そんな意味不明な成り行きの中で、何を思うわけでもなく、どんなことを記したいのでもないらしく、ただそんなことを記している。あり得ないが、今ここでこんなことを記している現状があるらしい。これは何なのか。こういうことらしい。後味が悪すぎるか。でもかまわないのだろう。その程度のことだ。どの程度のことでもなく、君はここで何を思わなければならないのか。


6月24日

 雨が降り続いている。難儀なことだ。すべてが面倒臭い。夜になっても降っている。翌朝になっても同じだ。どうも何に難儀しているのでもないが、何だか疲れている。でも翌日は雨も止んで、曇り空で涼しいではないか。それがどうしたわけでもないが、まただいぶ遅れてしまったようだ。できない時はできない。それは明白な事実だ。でも相変わらずそれがどうしたわけでもない。眠ってしまったようだ。すでに四日遅れか。どうやらこの調子でどんどん遅れていくらしい。しかしまた新幹線に乗っている。この成り行きは何なのか。冗談の類だろうか。ここに至るまでの紆余曲折ぶりも尋常ではないか。でも前もって予定されていたことだから、当然といえば当然の成り行きなのだろう。しかしやることなすことちゃんとならず、ことごとくが予想外の結果をもたらすのも笑ってしまうところで、まるでちぐはぐで歯車がかみ合ってないのもすごいことかもしれない。やはりいつものようになぜこうなってしまうのかと訝しく思うしかないのだろうか。でも今は電車の中なので、しかも新幹線だから、よほどのことがない限りは、目的地までは行くような気がするが、まさかここでもわけのわからない成り行きに巻き込まれて、おかしな事態に直面してしまうのか。とりあえずトンネルを抜けると山岳地帯に入ったことがわかる。

 またトンネルだ。北へ行くのは久しぶりだろうか。トンネルだらけなのも久しぶりだ。でも新幹線で新潟方面へ行くのは初めてなのではないか。それがどうしたわけでもないが、それについて君がどう思っているのでもないとすれば、要するにどうというこのはない用事で出かけているわけだ。他人事なのだろうか。そう言ってしまえばそういうことかもしれないが、そうでなければなんなのかといえば、これにも何らかの必然性があるのかもしれず、すでに新潟に入り、さらに北上して、目的地に近づいて行くのだろうが、たぶん現時点では何も起こっていないような気がして、このまま何事もなく行事が終わることを祈りつつも、そうは問屋が卸さないにしても、何とか不測の事態にも対応できるように、心の準備はしておくつもりのようだが、もしそうなったところで、取り立てて何をどうするつもりもないのだろうし、やはりここはどうでもいいように思われるだけか。またわけのわからぬ迂回の言葉が連なっているようだ。これは何なのか。たぶん何でもなく、ただの戯言の連続に直面しているだけなのか。そうだとしたらどうなのか。別に途方に暮れるような事態でもないか。まあ狼少年のようなことを声高に叫ぶのは慎まなければならない。まったく脈絡がないが、不意に車内の電光掲示板のニュースを見て感じたらしい。

 でも政治情勢もこの際行くところまでいかないと面白みに欠けるだろう。君としては安倍ちゃんがさらなるイケイケをやってもらって、取り返しのつかない事態にでもなって欲しいのだろうが、何しろ数年前の大震災と原発事故でもまったく懲りていないのだから、まあここしばらくはこのままでもいいような気がしていて、とりあえず頼みのアメリカがどうにかならない限りは、日本の懲りない面々も調子に乗るしかない成り行きだ。そして傍観者でしかない君にも、大した危機は迫っていないのではないか。堕落しているのだろうか。ただ仕事が忙しいだけかもしれない。要するに君はそちらの方面では終始部外者であり続ける宿命なのかもしれない。だから他人事であり、本気になれないのではないのか。興味もないらしい。どうやら目的地に着いたらしい。そしてこれから行事か。退屈なひと時だろうか。でも暇だから行事の間に記述作業を続けるつもりなのか。ホテル内は蒸し暑い。行事の間も蒸し暑いのか。ネクタイを巻いているので仕方ない。まったく面倒なことだ。でも当事者ではないので、気楽で気晴らしぐらいにはなるかも知れず、そんなこんなで、そういうことらしい。でもこれは何なのか。何でもないのではなさそうだが、浮かれている気分ではいられないか。


6月23日

 何も考えず、ただ思うところの何かを記しているつもりなのか。本当のところはわからない。何も考えていないのかも知れない。何にせよ狂信的なところはヤバそうだ。でも本気なのだろう。人はなぜそうなってしまうのか。君もそうかも知れない。誰もがそうなってしまう可能性がありそうだ。そうなったらなったでかまわないか。でも実際にはそうなっていないから面倒なことになる。そのへんがつまずきの原因なのだろうか。それならそれでいいのかも知れないが、何か文句でもあるのだろうか。眠たい。コーヒーでも飲みたいところだが、あいにく電車の中か。君の仕業ではない。何がそうなのか。一瞬の間意識に空白の記憶が入り込み、ついであくびが出る。まだそこまで達していないか。またそんな具合だ。何がいいのかわかりかねる。どうでもいいと思ってはいけないらしい。では何がいいのか。君のやり方ではだめなのか。それを何にたとえて語ろうとしているのではない。語る対象ではないのか。そういうことだ。語らなくてもかまわないのかも知れない。でもだからといって何も語らないわけにはいかないはずだ。では今ここでその何かについて語りたいのか。今現に語っているそれではまずいのか。そんなことはないが、そのつもりでもなさそうで、要するに思い通りに語れていないということらしい。

 正気でない。そういうふうになりがちか。違うだろう。あくびが出る。ちょとの間意識が飛んでいる。やはり正気とは思えない。きれいごとと私利私欲が渾然一体だ。よくあることか。講釈話も際限がない。君はそこで何を眺めていたのか。取り止めのない何かか。まとまりを欠き、漠然としている。君は敵と味方を見間違えているのではないか。それがいいわけではなく、よくないからこうして疑念を感じているのか。でもつまらないままだろう。何とか修正したいのは山々かもしれないが、そこで何をどう改めたいと思っているのか。それがわかれば苦労はしない。別にどうあっても変革が必要だとは思えず、人々は基本的に保守主義なのであり、現状の延長上を絶えず目指していて、そこから生じる自己矛盾については、あえて目を瞑っていて、どうしてもうまくいかなくなれば、その時はなるべくごまかしが利くような次善策を求め、自分たちが抱いている常識に近い線で何とかしようとする。でも君はそんなことに興味などなく、現状についていくだけで精一杯のふりをしながら、自分が何を考えているのかを知ろうとするが、わかるわけがないとも思っていて、結局そんなことはどうでもよくなって、すぐに忘れてしまうのか。何を忘れているのかも当然わからない。まったくご苦労なことだ。

 依然として何がそうなのでもない。今の君にわかるはずがない。どうもそういうことではないらしく、考えるべきは別のことのようだ。ではいったいどうしたらいいのか。別のことでも考えるべきか。それは何なのか。そういう成り行きには出口がないということか。でもなぜ出口を求めるのか。誰の知ったことでもないからか。出口を求める理由になっていないようだ。わざとずらそうとする。なぜだろう。いかにしてそこにたどり着くべきか。それも違うだろうか。気に入らないなら後回しにするべきか。また意味も理由も原因もなく間違える。そんな感じでかまわないようだ。眠たいのだから仕方がない。実際にウトウトしている。やめた方がいいか。たぶんそうだ。まともなことは何も記せないまま、こうして四苦八苦しながら、何とかしようとしている。馬鹿げたことかもしれないが、あと一息だ。すでにすべてから遠ざかり、意識もつなぎとめることがままならず、他人の居眠りを後目に、着々と何かを構築中かもしれず、たとえそれが虚脱感を伴っていようと、今はそれでかまわないと自身に言い聞かせ、何とか正気を保ちながら、それをやり遂げようとしている。まったく冗談もいいところか。冗談だろうと何だろうとかまわず、そういうふうに思っている現状の中に君がいるようだ。


6月22日

 興味がない。何でもいいような気がする。とにかく疲れた。でもまた疲れる原因がやってきた。いったいこの感覚は何なのか。普通でかまわないようだが、それが何を意味するのかわからず、もはや普通の状態ではいられないのかも知れない。すでにそうなっているのか。でも何が何でもやり遂げなければいけないわけでもないのではないか。それはどういうことなのか。昼休みが面倒な作業でつぶれてしまったので、午後が眠い。でももう夜だ。闇夜に何を求めているのでもないし、誰がはしゃいでいるわけでもなく、音楽を聴いているのか。当たり前のことだ。何が当たり前なのか。何も当たり前ではないか。疲れているようだ。心が淀んでいる。無理に言葉を記そうとしている。話にならないようだ。もう朝だ。話にならないまま眠ってしまったようだ。何もない。これが正直な実感か。でもおかしい。では何かがあるらしい。そういう前提で言葉を記せばいい。ごまかしか。ごまかさなければ言葉を記せないのか。それは誰の言葉でもない。何をごまかしているのか。そういうことだ。見え透いたごまかしにも無理があるようだ。どうやらこんな感じで継続を図っていくらしい。無理なのにそれはないか。たぶんないと思うが、何とかいつもの泥縄式なのかどうか知らないが、ともかくこうして意味の定かでない記述に終始している。

 まとわりついてくるハエがうるさい。でも別に昼寝の最中でもないのだろう。何だかわからないまま、さらに言葉を繰り出そうとしているようだが、邪魔が入り、一時中断するのはいつものことで、先が見通せないのも毎度のことだ。そして夕方になり、夜になり、明日になる。これでは何もできないか。言葉を記しているのではないか。空疎な内容だ。誰がそう思っているのでもない。君はそう思わないのか。誰に尋ねているのでもない。そういうねじれた問答が、より一層内容を空疎にさせる。でもそれは内容云々の対象から外れている。本当だろうか。何でもないのに、何かおかしいだろうか。無理に考えることはないが、まだ夕闇が迫る時間帯だ。なぜそんな成り行きなのか。誰に尋ねてもわからない。誰にも尋ねていないのではないか。そんなことはわからない。問答が成り立たないのではないか。たぶん君はわかっていない。誰もわかっていないのではないか。実際に何もわからない。いったい君は何を語っているのだろう。把握できないのか。他人事でしかない。何がそうなのかわかっていないようだ。まったく身が入らない。どうも何も語れない環境になってしまったようだ。別のことをやっている最中に言葉を記しているのだろう。おかしいか。おかしいに決まっている。

 何がおかしいのか。たぶん君が眺めている光景がおかしいのか。何だか愉快な気分のつもりか。にやけているのはわざとだろうか。そんなつもりではないのに、自然とそういう成り行きになってしまう。精神の集中がきれかかり、何について語っているのでもないことが、誰を追いつめているわけでもないのに、妙に他人事のように思われ、ついついどうでいいような感じになってしまうのだが、やはり依然として何を述べているのでもないらしい。だから空疎なのか。関係のない話のようだ。誰とも関係がない。そう思って差し支えないようで、なんだかさらに空疎感がましてくる。とりとめがない。どうかしているみたいだ。そしてどうしようもない無内容だ。しかしそれが面白いのではないか。また冗談のような気分となる。何でもないのにどうしようもない。おかしいのにそれを改められず、もうあきらめているのかも知れないが、それでも執拗に記述を続けているみたいだ。やはりどうしようもない。このまま続けていくしかないらしく、そんな成り行きに戸惑いながらも、さらに無意味な言葉の連なりを許してしまうらしい。いったい誰がそれを許しているのか。君に決まっているではないか。だからそれが冗談なのだろうか。冗談以前に何でもないのではないか。それではつまらないか。


6月21日

 またこんな感じみたいだ。他意はない。そんなはずがないと思われる。それは違うだろう。でも何が違うわけでもないのに、やはりそんな感じとなってしまう。どうもだめだ。また夜か。時間が経つのが早すぎる。余裕がないらしい。何かが目まぐるしく変わる。ただ雨が降っているだけか。誰かがテレビを見ている。なぜそうなってしまうのか。使い勝手が悪すぎるだろうか。どうもここは君の住まう場所ではないらしい。また幻想を抱き、ここではないどこかへ行こうとするのか。現実にはどこへも行けない。君は夢の世界でそう思っているつもりだが、そんなのはあり得ないことか。さらに忙しくなってしまう。しかし何かがおかしい。狂いが生じているのかもしれず、それにみんなが気づかないようだ。それは気づこうにも気づくはずのないことかも知れず、たぶんそこから崩壊が始まるなんて到底思えないのではないか。それはそうなってから気づくことかもしれない。そしてたぶんそれで かまわないのだ。今の虚栄をせいぜい楽しんでいれば、やがて訪れる滅びの苦難にも納得できるのではないか。君はそんな成り行きを想像しながら、黙ってそれらの光景を眺めている。もちろん夢の中でか。あり得ないだろうか。別にそれらの現実がフィクションだと思えばいいのか。それもあり得ないか。

 あり得ないことを夢想しながら、それが現実に起こると信じているのはおかしいか。妄想とはそういうものかも知れず、ただ頑なにそれを信じたいのだろう。君はおかしい。そんなわけで何かがどうかしていて、困っていて、真夜中に目が覚めたりするらしい。それでかまわないのか。脳神経回路は至って正常な動作か。そこから外れようとは思わないのだろう。でもいったい何がそうなのか。君はそういう成り行きに巻き込まれて、何かを放棄してしまったらしい。ここにいてはまずいと思いながらも、ここにいなければならず、それが精神的な重荷となって、心を苛んでいるみたいだ。なぜそうなってしまうのか。そういう状況から逃れたいのでそう思い、なぜの理由や原因を知りたいわけではない。そしてそこで一休みらしく、またじわじわと記述が遅れ出す。日付に追いついたのはつかの間の出来事だったようだ。これも何かの定めなのか。でもめげている暇もなく。さらに遠ざかり、何もかもが過去のことになってしまうほど、どんどん遠ざかってしまう。どうやらまた中身のないことを述べているらしい。何も思いつかなくなった時の常套手段となりつつあるようだが、これでいいわけがなく、何とかしなければと思っているようで、焦りを覚え、思案のしどころだとも思うが、無駄に言葉が記されるがままになる。

 何だか遠くを眺めている。どうも何かの制御が利かないようだ。何を考えているのか。どうもうまくいかない。また忘れてしまったらしい。ここから語るのは無理がありそうだ。でも遅れているから語らざるを得ない。そんなはずがないか。君がそう思うならそういうことにならないか。そうはならないなら、それは誰のせいなのか。君のせいに決まっているのではないか。何だかおかしい。そのへんで間違ってしまうような気がする。すでにそうなっているのではないか。また迷っているのかもしない。安易に過去を思い出しているのではないか。同じことだ。何が同じなのだろうか。わからなくなっているようだ。また何をどう考えたらいいのかわからなくなる。なぜそうなってしまうか。今回はなぜかそればかりだ。どういうわけかそうなっている。何かがかみ合っていないようだ。こういうのはよくあることかも知れないが、やっていることがちぐはぐだ。それでもごり押し君にやれば、何となくその場は切り抜けられるらしく、今こうして冷房に当たりながら、言葉を記している最中のようだ。さっきまで焦っていたのが嘘のようだ。でもどうにもならない不具合がつかの間小康状態なっただけで、いつまたおかしくなってもおかしくはないのだから、気が気でなく、気が抜けないが、どうせまた不意を突かれてあたふたしてしまうだろう。


6月20日

 また暑くなる。眠ってしまったらしい。疲労が蓄積してついてゆけないか。そんなはずがないだろう。もう十分に休んだはずだ。でもここからが問題なのか。たぶんそういうことだ。君は疲れていた。次第にどうでもよくなってきて、感性が愚鈍になりつつあるのだろうか。それはおかしいか。何とか怠惰な現状に打ち勝って、今日の日付に追いつこうとするが、依然として思いは叶わない。でも実際はそんな風には思っていないのではないか。さっきまではどうでもいいと思っていたはずだ。それもそうだが、そういうことではないのかも知れない。何かが壊れているのか。でもそれが何かに順応した結果だとしたら、それは良い傾向なのだろうか。一方で恐ろしいことだと思う。とりあえずもう朝だ。今日もまた仕事か。久しぶりに晴れている。案の定昨日は何も記せなかった。何か問題でもあるのだろうか。ニュースで報じられている出来事のすべても他人事でしかない。目下のところこだわっているのは言葉を記すことだけか。それが問題なのか。それの何が問題なのか。確かに暑い。だがそれ自体には何の問題もない。冷房が利いていて涼しいだろう。もう夕方だ。何がどう思われているわけではない。つまらないことを考えているのだろうか。君がそれついてどう思っているわけでもなく、ただそれを見ている。

 まともに判断できない。今は無理なのだろう。でも何だかヤバそうだ。物事の本質から外れているように思える。ではいよいよおかしくなっていくのだろうか。そうではなく、案外昔からそうだったようにも思える。おかしいのはもとからで、ここに至ってそれが顕在化してきただけか。でも何がそうなのかはっきりしない。語れないわけでもあるのだろうか。はっきりしたわけがあるわけではないが、ただ何となくというのはありそうで、予感がしているらしい。それは何かがだめになる予感か。だめになるというか、一応の結果がわかるというか、その辺がはっきりしないところで、やはりそれについてはうまく言い表せないのか。しかし何を語っているのかはっきりしないまま、ここまで記してきてしまったようだ。これはどういうことなのか。今はわからなくても、いずれはわかることか。たぶんそういう認識でかまわないのではないか。でもわかった時には手遅れにならないのか。そうなってもかまわないと思っているのではないか。なぜそうなのか。やはり何か予感がしているらしい。かなりの的外れで、大きな勘違いかも知れないが、どうやら何かの利用価値があると思っているようで、世の中の常識に照らし合わせれば、絶対に間違っているのだが、なぜかそれでかまわないと感じてしまうらしい。

 しかしそれは何なのか。まさか何かとハサミは使いようだとか思っているのか。さあそれはどうだか。どうも君は真面目で無能な人をテコに使って、せこくてずる賢い人にプレッシャーを与えているようだ。笑ってしまうだろうか。でも何だか愉快な状況か。君としてはそうかも知れないが、無能な彼がそこにいるだけで、周りの迷惑は計り知れないのではないか。それが狙いなのか。そういうやり方は絶対に間違っている。人のせこさやずるさに対して、真面目で無能でどうしようもない人を配置して、何かを思い知らせようとしているのか。その辺の効果がよくわからず、はっきりしないのだが、ある意味で、その最悪の配置が適材適所のような気がして、今後だんだん何らかの効果が出てくるものと期待したりしている。しかしおかしい。頭がおかしいのではないか。でもそれでかまわないのだ。偶然の巡り合わせの効果を少しは利用しなければならず、現状がそれを利用している最中なのだから、もう少し様子を見た方がいいだろう。確かに無能で真面目な人は使い捨て専用の人材にすらならないが、せこくてずるい人が繰り出す嫌がらせに対する避雷針の役目は果たしてくれそうで、とりあえずいつまでもつか見ものだが、まさかあわよくば両者ともに消耗しての共倒れを狙っているのか。それは恐ろしい結末だ。


6月19日

 夜に雨が降る。何がわからないわけでもない。何を考えているのか。何も考えていないようだ。何を警戒しているわけでもない。どうなるわけでもないようだ。対話の窓を閉じてはいけないらしい。絶えず用事が立て込んでも、何とかこなさなければいけないようだ。それで持ちこたえているのだろうか。どのような兆候を示しているわけでもない。ここには何も現れず、他の誰の思惑が働いているとも思えない。要するにまっさらな心境でいるつもりなのか。まっとうなことを述べているとは思わないが、とりあえずはよしとしよう。難儀しつつも、心がついていっているらしい。幻想なのだろうか。何がそうでもないかもしれない。こんな具合だ。これでも語っているのだろうか。何か思い出している。無意識のうちにか。無意味だ。何も思い出していないのと同じことではないのか。でもそう記さないと先へ進めない。面倒なことか。それほどでもない。無理に記しているのだから無理もない。でもしてやったりからはほど遠い。でも時にはそんな風に語る場合もありそうだ。何を語ろうとしているわけでもないのに、語ろうとしている。難儀するのもうなずける。でも本当は納得していないのだろう。するわけがないか。どうでいいのではなかったか。仕方がない。でもあきらめたわけではない。微妙なところか。

 たぶん自分の問題ではない。何もかもだ。関係ないだろう。悲惨な体験を語ることが使命だと感じている人もいるようだが、君は何を狙っているのか。それはその場での成り行きが決めることだ。偶然の巡り合わせがすべてを決めるらしい。いくら悲惨な体験を語ったところで、それはフィクションだ。何が遠い道のりなのだろう。それが悲劇だろうと喜劇だろうと、そんなことは無関係だ。無意識では何も決められない。別に無意識が決めなくてもかまわないのではないか。君自身が決定を下せばいいのに、いったい何をためらっているのだ。まさか語っているつもりのそれが、虚構の意思に基づいていたりするわけか。そんなはずがない。ではそんな風に語ることで、君は自身に何をもたらそうとしているわけか。わかるわけがないか。結局視野が狭くすぐにハウツー的な知識を披露したい人がいて、そういう言いたがる人には言わせるだけ言わせておいて、そこから得られる情報を吟味し、利用しなければならない。実際に利用できるかどうかは、情報の質と傾向にもよるが、演技でも何でもかまわないから、ありがたく拝聴する姿勢を崩さないように心がけ、何とか万事がうまく回っていくように努力しなければないらしい。たぶんそうしようとしていることから生じる困難に直面しているのだろう。

 何かとすぐに知ったかぶりや自慢話に及んでしまうのも困りものだが、やはりそういう人は周囲の呆れ顔に気づいていないのだから幸せなのか。周囲に向かって威張っている人も、威張れるだけ幸せ者か。でも威張れる人は威張る対象の人たちから軽蔑され、陰口を叩かれる。もちろんそれに気づくと怒りだし、その場の雰囲気が険悪になり、最悪な環境となってしまうから、もはや幸せ者とは言えなくなってしまうか。権力を振るいたがる人は孤独だ。うまくいかずに怒鳴り散らせば散らすほど、より一層孤立し、孤独感が深まり、不機嫌になるしかない。時には笑い顔で怒り出したりするわけか。でもそんなことは何でもなく、どうでもいいのかも知れない。人それぞれで、その人がどのようなキャラクターを持ち合わせていようと、それ相応の対応をしていくだけだ。それはそれとして、ともかく何とかしなければ物事が先へ進まず、機会を逃さず、偶然の巡り合わせを利用しつつも、結果として前進していればいいのか。そうなればしめたものだが、果たして坂を転がる石のようにいくものだろうか。それがどんなたとえなのかよくわからないが、どうやら君の狙いはその辺にあるらしい。自然の流れにはなるべく逆らわず、あるがままの現実を受け入れ、なおかつ物事を前進させることができるだろうか。無理な話か。


6月18日

 何かおかしくないか。たぶんまた遅れてきた以外は取り立ててそうでもない。これはどういうことなのか。肩が凝り、首が痛い。寝違えたわけでもないだろう。それでも前を向くはずもない。現実に前を向いているではないか。これはどういうことなのか。たぶん違っているのかもしれない。何かが違う。何も違わないのにそう思い、何をどうしていいのわからず、途方に暮れるわけか。そんなはずがないだろう。何かの間違いか。勘違いの次は間違いなのか。よくある話だ。何とかしなければならないのに、心身がついて行かないのもよくある話だ。明け方の空を見上げながら、何を思うわけもなく、今日のことを考え、昨日のことを思い返してみるが、それが違っているらしい。なぜそうなってしまうのか。正しい認識とは思えないが、それに基づいてやっていることはいつも結果オーライなのだろうか。何だか笑いが込み上げてくるらしいが、それが勘違いの思い込みなのだろうか。そういえば安倍ちゃんも、一度目は「美しい日本」とかいう勘違いなキャッチフレーズを掲げたあまり、精神疾患で悲劇に終わり、二度目はアベノミクスとマスコミに一時的にもてはやされた挙句、冗談ようなマネーゲームに翻弄されて喜劇に終わるわけか。何だか話の筋的にはそうなる公算が大みたいだ。

 それは違うだろうか。でも無理してそんな情勢分析にのめり込むべきではないのかもしれない。本気になる必要性を感じられない。いざとなればやんちゃな中国に脅しをかけているアメリカが何とかしてしまうのか。そのための日米同盟であり、結局はいつまでたってもアメリカ頼みの日本なわけか。それも違うだろうか。アメリカが軍事力と経済力で他国を圧倒していることは確かかもしれないが、たぶんゲームそのものを完全に支配しているわけではないのだろう。でも支配するための軍事力と経済力であり、それで支配しようとしているのは厳然たる事実かも知れないが、本当にそれで支配できるだろうか。そもそもひとつの国家が軍事力と経済力で世界を支配しようというのも、過去の幻想や神話から生じた勘違いの類だろうか。そうかも知れないしそうではないかも知れない。無意識のうちにそんな幻想の類を信じ込む人が多ければ多いほど、そういう国家神話が公然と語られるようになるだけだ。大国の興亡とかいう話か。知識としてはそうなるだろうが、いまいちピンとこない。力による支配という概念はわかりやすく、ついついそういう説明に終始してしまう傾向になりがちで、そうなってしまう人も多いのだろうが、調子に乗って語りすぎてしまうと、何かを見失い、説明のための説明になってしまいそうだ。

 ため息が出る。単純化すれば何でも説明できてしまうのだろう。要するにそういう説明自体が、説明者の自己満足を得ること以外は何の役にも立たず、得意になって利いた風なことを説明している者にとっては、つまずきの石となるしかないのではないか。それでも誰かがそんな説明を読んで、何か適当に理解した気になるのだろうか。たぶん君もそんな説明を鵜呑みにして、何やら国際情勢に詳しくなったような気になっているのではないか。でもそれの何が間違っているのか皆目見当がつかずにいるらしい。どうやらさらに見当違いなことを述べている。しかしこの感じは何なのか。君はどこでつまずいているのだろうか。そんなことはどうでもいいのか。現にいくら躓き転んでも意に介さないようだ。年がら年中おかしな成り行きに巻き込まれ、わけのわからない事態に直面して、そんな風に思うこと自体がおかしく思われ、何か勘違いしているような気がして、その勘違いを利用しながら、それらの記述を継続させているのかもしれず、そんなことをやっていること自体が無意味の極みなのだろうか。そしてまた苦し紛れにそんな冗談を述べているわけか。何だか変な感じになってきたようで、この辺でやめておいた方がいいように思われてくる。果たしてそれで正解なのか。


6月17日

 昨日の今日は忙しい。何だかわからないわけでもないが、おかしな成り行きだろうか。そこに至るまでの間にわけのわからない紆余曲折があるのはいつものことだが、やはり疲れているわけか。でもこうしてそれも切り抜けて、ここに至るのもいつものとか。こことはどこか。そんなどうでもいいような問いを発するのもいつものことだろう。これはどうしたわけか。わけなどありはしないのもいつものことだ。だからどんなわけでもなく、そんなわけでなく、蒸し暑い新幹線の車内で、そんなことを記している。おかしいだろうか。意外な気がしない。何を思っているのか。君は何かを掴みかけているらしい。そういう成り行きになるのを予測していたのか。無意識のうちに感じていたのかも知れず、そんな結果にさして驚かず、冷静になったつもりでそれらの成り行きを見守っている。嘘かも知れないが、間に合わなくてもいいみたいだ。別に楽しみを後にとっておくわけでもないのに、何となくそのつもりらしい。やはりそれはわけがわからない成り行きなのか。嘘かも知れず、本当なのか。嘘でなくとも本当になる。相変わらずのデタラメかも知れない。でもこれからそこへ向かうわけだ。ようやく一段落がつくのだろうか。そうなれば一安心だ。ホッとするのはまだ早いが、何かを掴みかけている最中なことは確からしい。

 人は古いものにロマンを感じるらしい。そこに歴史があれば、思いを馳せて、想像してみるようだ。都合のいい過去を空想するわけか。君にとってはどうなのか。別に都合が悪いわけでもない。しかし何が好都合なのだろう。心当たりはなさそうだ。でも難しい。何でもないのではなさそうだ。何に思いを馳せているわけでもないのに、それはない。また面倒なことになっているのか。一応は冗談ではないらしい。しかし何なのか。もう翌々日だ。ロマンを感じるとかいう話はどうなったのか。何だかわからないまま、立ち消えのようだ。別にそれでかまわないような気がするのはなぜなのか。それにかこつけて、何かを批判する気になれないのではないか。それでは何と無く面倒臭いでかまわないか。特別な感情など何も湧いてこない。この感覚はいったい何だろう。何を語っても、誰からも相手にされず、批判することをあきらめてしまったのだろうか。そういうのならわりとわかりやすい。何だか牙を抜かれてしまったようだ。それも正解だろうか。要するに何でもかまわなくなり、関心を抱けなくなってしまったということか。それも正解でいいのではないか。どうもなかなか間違った見解を表明できなくなってしまったようだ。まさかそれも正解か。正解ばかりでは気が変になりそうだ。

 ではこの辺でさらなる何かを記すとするか。どうせ何かの繰り返しだろう。語らないうちから否定的になってはまずい。もう少し何かを模索してみた方がよさそうだ。まさかそれが冗談だとは言わせないか。でも何を意味しているわけでもなさそうだ。しかしそれとは何なのか。ただの言葉でしかないのに、よく飽きもせず疑問をぶつけてくるものだ。別に何に向かってぶつけようとしているわけでもないのだろうが、なぜかそう記して、何かの勘違いでも持続させているのかも知れないが、こんな記述の繰り返しではだめか。だめかも知れないが、そんなふうに続けている現状を受け入れざるを得ず、そんな誤りを放置することに倒錯的な快楽でも見出そうとしているわけでもなく、実質的には心の奥底からせりあがってくる空疎な思いに耐えているのかもしれず、どこまで耐えられるか我慢比べの最中というわけでもないのに、比べる対象が不在であるにもかかわらず、架空の比較を念頭におきながら、そんなことを記しているわけか。あり得ないことだが、記していくうちに、思いもよらぬ脇道に迷い込んでいるような感覚で、さらにへんてこりんな言葉の組み合わせでも模索しているのか。しかしそれでは取り止めがない。いったいこの現象はどうしたものだろう。果たしてこのまま続けていっていいものか。


6月16日

 やはり無理そうだ。遅れてしまったらしい。何を節約しているのか。時間か、文字数か。どちらでもない。それが何だかわからない。また語るのが面倒臭くなってしまったようだ。なぜか。なぜでもない。どうかしているようだ。そんな風に思われてしまい、なんだか変だ。それは違うか。画面の上を虫が這っている。そんな光景に巡り会う。嘘か。嘘でもないか。たぶんどちらでもかまわない。それの何が気に入らないのでもない。たぶんそれは仕方のないことだ。意味がなく、取り止めのない記述が続く。そういう感じだ。どういう感じなのでも無きにしも非ずだが、さらに意味不明にのめり込んでしまいそうな雰囲気だ。そしてさらなる何かに出会ってしまうのか。おかしい。なぜそうなってしまうのか。理由などありはせず、何が理由なのかわかりはしない。君にとってはそうだ。誰にとってもそうなのではないだろうが、何と無くそんなことを記してしまい。そんな成り行きに驚いている。それは嘘だ。そう思うならそういうことかも知れない。でもそれでかまわないのか。何だかわからないまま、ここまで記してきたようだ。それがどういうわけでもないのだろうが、他に何か気になることでもあるのか。ありすぎて何を記せばいいのか判断がつかないか。そんなはずがない。

 君はそれが何だかわかっていないのだろう。またもやそんなのは嘘か。嘘でも何でもかまわないのだろう。別に嘘でなくてもかまわない。それはどういうことでもなく、ただの気まぐれで述べていることか。そう思っていればかまわないのではないのか。なぜそう思うかなんて気にする必要はないのかも知れない。ただそう記せばいい。しかしこれは何なのか。記述の一部だ。それを記している途上にあり、何を続けて記すべきか考えあぐねるまでもなく、ただ記している。そして記すのが次第に面倒臭くなり、一息つこうとしているわけか。すでに一息つき、また記述を再開しているようだが、それは無駄で余分なそれだろうか。それとは何か。ただ面倒臭い。言葉を記すのがそうなのか。君がそう思っているわけではない。では何なのだろう。意味がなく中身がない。それがここでの記述か。そう思いたいようだが、思っていること自体が意味不明を招いていそうで、さらにおかしなことを述べているつもりらしい。それはどういうことなのか。わからなくてもいいことか。ならばそれでかまわない。君にとってはわかる必要のないことか。ただ何かがなし崩し的にそうなっている。それ自体がわからないことだ。そんな風になる必要もないのに、そうなってしまうわけか。

 くしゃみが出る。それ自体はどうということはないのに、些細なそれが何かのきっかけになったりするらしい。君は相変わらずわかっていないようだ。それどころか結局わからずじまいに終わってしまうことだってあり得る。今がそうなのか。今もそうではないのかも知れず、誰もそうは思っていないのかもしれない。実際はどうなのか。なんとなく魔がさしてしまったのかもしれず、冗談かもしれないが、そんなはずがないと思いつつも、たぶんデタラメなのだろう。笑ってしまうがこれが現実だ。なぜこうなってしまうのかわからず、困惑している。疲れているのではないか。そのはずがないとは思わないだろうか。そんなはずがない。別にそれでもかまわないが、何がそうなのかもわからない。なぜそう記すのか。たがが外れている。そんな気がするが、一方でどんな気がしているわけでもないと思い、たぶんそれが余分なのだろう。疲れるわけだ。疲れすぎている。また嘘か。頭がおかしい。そんなはずがないか。ともかく何を確定させようとしているのではなく、すべてが曖昧模糊としていてもいいのかもしれず、優柔不断のまま、何も決断できずにいるらしい。それが嫌なのか。嫌だが仕方がない。そうやりながら、何とかここまでたどり着いたのだから、そういう現実を否定するだけではだめか。


6月15日

 たぶんなぜでもない。理由などなく、それは疑問に思うようなことではないらしい。まずはその辺をはっきりさせておかなければならないか。でもまだ話になっていないだろう。語る理由も内容もないのに、またいい加減に語り出してしまったようだ。そして途中で嫌になってしまったのか。しばらくテレビを見ていたらしい。これは何なのか。何でもない。これではないのかも知れない。ただ蒸し暑い。冷房を切り、雨音を聞いている。そして翌朝になる。やはり遅れてきた。ここからどんどん遅れてしまうのか。そういうことだ。何もない。なぜなのか。別におかしくはない。これが宿命なのか。たぶん試練なのだろう。何でもないのかもしれないが、痛みを感じない。ちょっと良くなったと思ったら、すぐにこんな具合となってしまうらしい。ネタ切れか。たぶん何も思いつかない。これは何なのか。また苦いコーヒーを飲んでいる。もう賞味期限切れか。気が散っているのか。もう夜だ。何に魅了されているわけでもない。何もないのだから、たぶんつまらないのだろう。でもそれでは話にならない。ではまた途中で嫌になってしまうのか。そんな感じだ。途切れているようだ。完全にか。何がそうなのだろう。ここは何でないと述べて逃げるしかなさそうだ。でもそれで逃げていることになるのか。

 でもようやくこれだ。何だかんだで何でもなく、そうやって字数稼ぎもしつつ、ようやくここまできたらしいが、相変わらず何もない。しかし何に飽きているのか。別にそれでかまわないような気もするが、たぶんそういうやり口が気に入らないのだ。でもそれ以外に何か方法があるのか。それは何をどうするための方法なのか。それがわからないのに、方法も何もあったものではないか。でもそれがいつものやり口なのかも知れず、やはり君はそれが気に入らないらしい。でもだからといってそれとは違う方法など思いつきはせず、さらにそんなやり口を繰り返すばかりのようだ。それではだめか。ためだからこうなっている。しかしそれの何がだめなのか。意味もなく空疎な何かが繰り返され、嫌気がさしてくる。それは本当だろうか。それの何が本当なのか。それに関しては何も感じていないのかも知れない。なぜそうなってしまうのか。ただわからない。それだけのことかも知れず、そうなるしかないのだろうか。今のところはそうだ。他になりようがなく、ただこうなるしかないらしい。恐れていたことが、今まさに現実となって、君を悩ませているわけか。そういうことで正解か。しかしそれが正しい認識だとすれば、君はこれから何をどうすればいいのか。

 またしばらく考え込んでいるようだ。いくら考えても、だめなものはだめだという結論しか出てこないようで、ますます精神的に追い詰められていき、君はもはやノイローゼ気味か。そんな簡単にそうなるものだろうか。では何なのだろう。まさかそこから強がりやせ我慢でしのごうとしているのか。しのげるはずがなく、頭を抱え込んで、ひたすら神に祈る毎日になればしめたものか。そういう逃避動作が、君の頭脳に組み込まれているとは思えないが、選択肢の一つとしてなら、何となく時と場合によってはアリなのだろうか。だいぶずれているようだ。もはや冗談にもならない意味不明の極みでも目指しているのか。そんなはずがない。そんな風に記していくと、何だか何か述べているような気になるだけか。でもそれではだめなのだろう。だめなのにだめなようにしか記せない。これはどういうことなのか。何だかわからず、わからないままここまで記してきただけか。だからますますわからなくなってくる。そしてこれではだめだと思い、また何かが繰り返されている。どうやらまたおかしくなってきたらしい。これがおかしい状態なのだろうか。これとはどんな状態なのか。こんな状態なのだろう。見ての通り読んでの通りか。でもそれが通常の状態だとしたら、君はそこで何を思うのか。逃げているようだ。


6月14日

 何かが幻と消えたらしい。誰かが物語に毒されている。何やら過去に存在した人物について語っているらしいが、その人物が関係した出来事の原因や結果を、その人物に求めているところは、いつものパターンだ。君は明治維新などに興味がないのか。もう済んでしまったことだろう。あの時代にあれらの人々がいて、命がけで頑張ってくれたからこそ、今の日本があるがごとき紋切り型的歴史観を真に受けるわけにはいかないのか。でもそういうものを鵜呑みにして、安心して眠りについた方が身のためだろう。どうやら君はその辺に引っかかりを覚え、疑念を抱いているらしい。今と過去を安易に結びつけるべきではなく、今ある状況を正当化するために過去の歴史を利用しているようでは、歴史から学んだことにはならず、それは単なる過ぎ去った時代への郷愁となるしかない。そういう人は史実や歴史的な資料に基づいてそれらの時代を物語っているのだろうが、物語ること自体が、すでに歴史小説的なフィクションに片足を突っ込んでいるので、あたかも明治維新がその時代の日本固有の問題であるかのような、狭い視野で物事を考えることしかできず、そこから今の日本がどうあるべきなどと飛躍して行ってしまい、日本維新の会のような人々と意気投合してしまうわけか。笑ってしまうがそれは恐ろしいことかもしれない。

 たぶん歴史から学ぼうとしてはいけないのだ。結局それは学ぶことによって、自らを利することに結びつけようとしてしまうので、都合の良い部分しか見なくなり、視野狭窄を招いてしまうわけだ。重要なのはそれらがすでに過ぎ去ってしまったことであり、今となっては取り返しのつかないことだということを承知しておかないと、とんでもない勘違いを犯してしまう。今の時代に過去の時代の人物など必要ないし、今の時代には今生きている人がいるから今の時代があるだけで、それ以外ではあり得ないからこそ、こういう現状があり、現状に何か問題があるとすれば、それは今この時代に生きている人たちが対処するしかない。過去の時代の都合のいい部分だけを今の時代に当てはめて考えてみても、やはりそれは歴史小説とか大河ドラマのような、フィクションの域を出ない話となるしかない。過去には過去で、現代では考えられないような問題が生じていて、もちろん逆に過去では考えられないような問題が、現代では生じていて、それはそれで当たり前のことなのだろうが、むしろ当たり前だと思えないところで、過去と現代を結びつける共通点が見出されたりするのかもしれない。要するにそれは、現代人にとって都合の悪い何かが、過去から連綿と受け継がれていたりすることだ。

 それは歴史を歴史小説や大河ドラマのように語る人々が過去にもいくらでもいて、その時代に支配的な社会情勢を正当化するのに、さらに時代を遡って都合のいい事例を持ち出して、過去がこうだから今もこうだとか主張する輩など、いつの時代でも掃いて捨てるほどいたのではないか。もちろん今でもそういう輩は掃いて捨てるほどいて、そういう人たちが社会の変革を阻止するために一致団結しているのかもしれず、自分たちの価値観を若い世代に押し付けようとして、必死にあがいている最中なのではないのか。そして一方でそれが社会の安定にも寄与していて、若者の自由を奪っていたりするわけだが、だからなんだというわけでもなく、イランの保守強硬派のように国全体を支配しているところもある一方で、日本では体育会系の学校で、生徒を厳しい規律や体罰などで支配してきたりしていて、まあそういう方面で顕著になってきているのだろうが、よくあるパターンだといえばそれまでで、何ら不可思議でもなく、ある意味で当たり前の成り行きなのだろう。人は自分が良しと思うことを他人に押し付けたがるゴリ押しタイプの生き物なのだろうか。これでもかと思うほどしつこく勧誘してくる輩も掃いて捨てるほどいるのではないか。そういう行為がまかり通っているのはいつの世でもありふれたことか。


6月13日

 雨が降っている。そういう思い込みなのだろうか。本当に雨が降っているようだ。白々しいか。何がそうなのだろう。わけのわからぬ思い込みに心を奪われている人は多い。ただ雨が降っているだけなのに、なぜそんなことを述べているのか。他に何もないからか。君がすべてを把握しているはずだ。ならば雨が降っているだけでかまわないのだろうか。それ以外に何があるというのか。そういう話ではないのかもしれない。ではまた今日も的外れなことを述べているわけか。そうらしい。人間社会は手続きだらけだ。手続き代行業で食っている人さえいる。でもそれがどうかしたのか。要するに仕事自体がピンハネの人ばかりということか。広く浅くできるだけ大勢の人からピンハネすれば、チリも積もれば山となり、それだけ多額の金を得ることができる。税金だの保険料だの利息だのわけのわからない手数料だの、そういう類の支払いならいくらでもありそうだ。そうやって集めた多額の資金を運用して、さらに多額の金をゲットしたい輩も大勢いるのだろう。それは錬金術の類か。でもそれらの行為が本質的にどんなシステムで動いているのか、理解し把握している人はまずいないか。終わりが近づいているのかもしれない。そういうことをやっている連中があまりにも調子に乗り過ぎていたのだろうか。

 でも君は物事に終わりがあることなど信じられないのではなかったか。たぶん今でも信じていないはずだ。ことここに至って、なおのこと愉快でたまらない。でもいったいそこで何を狙っているのか。それは無意識だけが知っていることか。ともかくあり得ない話の筋書きを本気で信じていた者だけが悲惨な境遇に陥ることだけは確かなようで、それを面白半分で囃し立てていた者に被害が及ぶことはなさそうだ。理不尽かもしれないが、世の中そういうもので、ある程度は犠牲者を出さないと、そういう現象は終息に向かわないようで、何事も一段落ついたあたりで、その現象をもっともらしく解説してみせる輩が登場するわけだ。まあカネがカネを生み出すようなやり方に熱中していると、自らがやっていることの危うさに気づくのは無理だろうし、自己責任でやっている範囲内については自分で責任を負うしかないわけか。無論手持ちのカネで何を買っても構わないわけだから、借りたカネで株を買おうと、カネでカネを買っても一向に差し支えなく、そういうことをやっている連中の中から、上手く立ち回って大金を手にする者も出てくるだろうし、そういう一握りの成功者を夢見て、よせばいいのにそういうことに人生をかけようとする無謀な者も現れるだろうし、飛んで火に入る夏の虫のごとくに玉砕してしまう者が出てくるのも当たり前のことかもしれない。

 そんなはずがないか。面白おかしく無責任に語ってしまうと、何だかギャグのような語り口となってしまい、ぜんぜん現実感がなくなってしまうが、そんな雑な語りで大丈夫なのか。基準はない。まるで空気をつかむような話で、実感が湧いてこないか。そんなことでもないような気もしてくるが、何なのだろう。どうでもいいことなのか。この際リアリティなどは関係ないようで、とりあえずいい加減に語ってしまいたくなり、笑っている場合ではないのに、笑われているのかもしれず、それでもかまわないと思いたい。どうしても真面目に考えられず、それが何であれ、仕事をして金を稼いで食っていくこと自体が、何だかギャグのように思われてしまうのはどうしたことか。どうしても本気になれない。真面目に考えるのがバカらしく思えてくる。それについて語ること自体が間違っているのではないか。しかし何かを語るとはどういうことなのか。語っている対象となっている何かと、それについて語っている語りとの間に、何か関係があるのだろうか。そんなことを考えていること自体がおかしいのかも知れない。しかしこの感じは何なのか。何か引っかかるものを感じているようで、不意に何かひらめいたりして、もっとわかりやすく説明できる機会がいつか巡ってくるのかもしれないが、今のところその兆しは感じられない。


6月12日

 小雨模様だ。前を向き、そんな気になっているのだろう。君がそうしているわけではない。言葉を記すだけでは何も実行できないか。そういうわけでもなく、ただ安易な心変わりを繰り返しているだけかも知れない。逡巡も躊躇も同じような意味か。しかし何が今なのか。今なのに迷っているらしい。でも語るべきことではなさそうだ。ではまた眠ってしまうのか。体が重い。このまま地面にめり込んでしまいそうか。前のめりに倒れそうになっているのかもしれないが、それほどでもないようで、きっと何かの冗談に違いない。何もないから見え透いているのだろう。意味がわからないのは毎度のことだ。また性懲りも無く何かを思い出そうとしている。幻影だったかもしれない。不思議だ。まだ雨が降っているのだろうか。音楽を聴いているらしい。しかしそこから遠ざかる速さが尋常でない。まだ何かを見ている。まだ一日が始まったばかりの段階でこれでは先が思いやられる。とにかく理屈も屁理屈も乗り越えて、一日の終わりへたどり着かなければならず、途中で力尽きるわけにはいかないらしい。何とかなるだろう。面倒臭いがそういうことだ。何をやってもうまくいかないわけではない。そのうち何とかなるだろう。あくびが出るが、たぶんここからが問題なのだろう。

 雨はやんだらしい。何を眺めているのか。道を人が行きかい、何かの設備の中に吸い込まれ、そこで仕事でもするのだろうか。君は通り過ぎる。行くあてがないわけではなく、たぶんどこかへ向かっているのだ。右往左往しているわけでもない。遠ざかるタイミングを逸しているのか。でも何を見計らって行動に出ようとしているとも思えない。まったく機会を逃しているわけでもない。ここからが腕の見せどころなのか。何かの上っ面をすくい取り、混ぜ合わせて、それが何を捉えているとも思えないが、そんな音楽というか語りを聴きながら、それをただ聞き流していることに気づき、慌てて何をするでもなく、そのまま推移するしかない状況を変えようとも思わず、そこから逸脱できない自らに嫌悪感を抱く間もなく、毎度のことのように交わされる空疎な会話も聞き流し、さらなる何かの高みを目指しているわけでもないので、ここしばらくは地に足をつけて、その辺をうごめいているだけかもしれない。それにしてもだいぶくたびれた。何に癒されることもない環境なのだろうか。そのために何を駆使しているわけでもない。とりあえずはこうなっているわけか。こうなっているだけか。大したことはない。これ以上でも以下でもなく、こんな感じで物事が推移してしまい、やはりたわいないと思い、関心がなくなる。

 今日は一日曇り空でも眺めることになるらしい。無感動で無関心なら、すでに終わっているはずだが、まだその続きがあるのだろうか。あるとすればそれは何なのか。たぶんそれをこれから体験するのだろう。焦る必要はない。別に楽しみにしているわけでもないが、いつかはどうにかなり、何もかもが片付いて、何やらすっきりしたりするわけか。そうなればしめたものだろうが、そこに至るまでが一苦労の予感がする。すでに疲れ、膝も痛い。もうおりてしまいたいが、おりさせてはもらえないだろうか。状況がそういうふうにはなり難く、面倒な手続きが目白押しで、それらを一つ一つクリアしていく度に、またさらに新たな難題が加わってしまい、本当にやり始めるときりがなく、もはや未来永劫死ぬまでやらなければならなくなり、うんざりしてくるようだ。たぶんそれでは済まない。でも済まなければどうなってしまうのか。途中で力尽きてしまうだけか。それが自らの死だ。だから今ここで死ぬまでやっている最中なのか。別にここでなくてもかまわず、どこにいようと、死ぬまでくだらないことにかかりきりとなり、そうやって無駄で無意味な消耗や浪費の果てに、人は無様な最後の時を迎えるのだろう。何事もそうなるより他はなく、それが極めて当然の結末であるような成り行きの途上でそう思わざるを得ない。


6月11日

 今日もまた何も記すことがない。今さらそんな嘘をつく必要があるのだろうか。曇っているようだ。空を見上げているわけではない。何もしなくても知り得てしまう。その程度のことはわかる。夕方の道路渋滞に巻き込まれているわけでもない。しかし何を見ているのか。目を閉じる。音楽でも聴いているのだろうか。たわいない。簡単にいくようなことではないらしいが、何だかたわいない。急にやる気が失せ、眠ってしまったらしい。すべては遅れに遅れ、ひたすら待たされる運命のようだ。この世界には何もない。嘘をつくならもっと本当らしい嘘をつくべきか。確かに嘘をついていたようだが、それはたわいない嘘だ。軽い冗談にすらならない。また眠ってしまったらしい。気が抜けている。なぜか眠い。そして何も思いつかず、考えられない。いとまがないわけではなく、切羽詰まらないとできないのかもしれず、余裕があればあるだけ怠けてしまうわけか、怠惰な気分を満喫しているのかも知れない。それでかまわないように思われ、今はそれ以上の何もいらず、曇り空の下で道路沿いに電柱が林立している様を一瞬の間眺めていたような気になり、他の何が網膜に焼き付けられたわけでもないようで、そんなどうでもいいようなことを記しつつ、何がどうしたわけでもないことに気づいているわけか。

 たぶんいつものように何が冗談なのでもない。でもわかりきったことをいつまでも記しているのも退屈極まりないか。でもそれ以外には記しようがなく、そんな成り行きの中で己の限界を嫌という程思い知るしかないのだろか。そんな大げさなことではなさそうだ。でもそれを説明しようとすると、適切な表現を思いつけず、どうしてもそれについて思い悩んでるように受け取れかねない記述内容となるしかないようで、そんな大げさなことではなく、たわいないその場の気分がそうさせるだけなのかも知れず、軽い気持ちで記しているつもりが、いつの間にやら深刻な言い回しをもたらしたりするのかも知れないが、それてもそれがどうしたわけでもなく、そんなことを記していること自体が余裕の表れで、本当にどうでもいいことだと思い、そこに至る紆余曲折などすぐに忘れてしまい、喉元過ぎれば何とやらなのかも知れず、今までに思い悩んできたすべてがくだらなく思えてしまう瞬間が訪れているのかもしれないが、それでもなお続けて記すとすれば、この世で起こっているすべての出来事は、誰もが思うほど深刻でもなく、誰もが思うほどたわいないのでもない。すべては偶然の巡り合わせであり、すべては必然でもある。いくらねじ曲げて解釈しても、君が期待したほどにはねじ曲がらないものだ。

 だから工夫を凝らしてことさらに曲解を提示するのはやめて、もっと素直な見解を示すべきなのか。できればそうしたいところだが、たぶんそういうことができる境地には至らないだろう。性根がねじ曲がっているのだろうか。そうではなく、単に不器用なのか。違うか。何が違っているとも思えないが、ことさらに違いを見出そうとしているのでもなく、そんなことを記しているうちに、また眠くなり、目を閉じる。もうそろそろやめどきか。不意にそんな思いにとらわれるが、気を取り直してさらに記すと、何が出てくるだろうか。何も出てきはせず、ただ画面上にいつも記している言葉が並んでいるのを目の当たりにして、内心ホッとしつつも、次いでがっかりしてしまうか。なぜハッとするような内容に至れないのか。これまでにたまにはそういうこともあったのかもしれず、それを覚えていないだけかも知れない。何かのきっかけで思い出すこともあるのではないか。でもだから何なのだろう。またそういう機会が訪れるのを楽しみにしているわけか。わけでもなく、わけでもあり、どちらでもよく、それは余分な思いか。何も余分でもなく、すべてが過剰て、そう思うとすべてが物足りなく思えてくる。思いが過剰と不足の間を行ったり来たりしているようで、どちらに思えても、何だか違うように思われる。


6月10日

 何だか今日も暑い。今日は無理みたいだが、やるつもりなのか。何かの合間を利用して何をやるのか。実際のところできないだろう。できないから煩悶している。嘘だろうか。今日も不具合続出で、それらをいちいち数え上げたら切りがなく、嫌になってしまうが、何だかおかしい。いつものことなのか。たぶんそうだが、そう記すことがいつものことで、実際に頻発している不具合の種類は、その時々で違っているのではないか。それでもいつものことだと思い込もうとしているのかもしれず、それをいちいち気にしていたらやっていられず、だからいつものことだと十ぱ一絡げにして、そう思い込むしかないらしい。要するにどうにもならないのにどうにかなっているように装っているわけか。それは違うか。別に違っていなくてもかまわないのだろう。どちらでもいいのにそれはない。頭がおかしいのだろうか。しばらく考え事をしていた。でもその内容は記さず、またどうでもいいようなことを記しているらしい。たぶんそれがどういう意図でそんなことを記しているわけでもないのはわかりきったことであり、何かの巡り合わせでそうなってしまっているだけで、とりたててどうというわけでもないのだろうが、なぜかそうなっていることは確かで、それついて何を記してみても、どうということはない。やはりおかしいだろうか。

 何がおかしいのか。わかっているくせにそれはない。しかし他に何もない。だからこうして言葉を記している。どうも大げさなことは記せないようで、どうでもいいようなたわいないことしか記せない。また苦し紛れにそんな嘘をついてみるが、しっくりこないようで、何やら他に記すべきことを探す必要に迫られているのか。違うだろう。そもそも記す必要がないのに記していること自体に問題があり、記すのは毎日でなくても構わないことがわかっていながら、自己顕示欲か何か知らないが、ことさらに記して見せようとする傾向があり、そのへんが愚かしくも滑稽に思われるところかも知れないが、結局のところは空疎で無駄なことを記しているのかもしれず、それについて自身がどうこう判断することでもないのかも知れない。そうやってやはり言葉を記し、他の何について語っているわけでもないことを自覚して、何となく漠然としている。でもなぜそこで漠然とした感覚になるのだろう。どういうことでもないのにそれはないか。でもなんだか何とかしたくなるのが当然の成り行きなのか、何やらまともなことを語っているように取り繕いたくなり、何か試みる魂胆なのかも知れないが、まあやっただけ無駄になってしまうだろう。まだ何も思いついていない段階でそんなことを述べるのはおかしいか。

 でもデタラメに語るのも面白おかしい。それでかまわないと思っているようで、たとえそれが間違ったやり方であろうと、気分転換になるなら何でもかまわないとは思わないが、あまり正しいことばかり語ろうとしても、何が正しいのかもわからないし、もしかしたらそもそも正しいやり方そのものがないのかも知れず、何かを語ろうとすること自体が間違っていて、要するに身の程知らずなのかも知れない。普通に考えれば、何もなければ黙っていればよく、何か語りたくなるまでは待つべきで、律儀に毎日語ろうとするから無理が生じ、何も語ることがなくて思い悩み、それでも記述を継続させようとするから、内容が空疎になり、無理やり内容をひねり出そうとするから、心労がかさんで、眠れぬ夜を過ごすことになるのだろうか。ただしそれは作り話か。なぜそう述べてしまうのか。理由などなく、理由を語ることが使命でもない。では冗談を語ればいいのだろうか。それも違うか。冗談を語る理由もなく、何が違っているわけでもなく、要するに語っているすべてはデタラメなのか。でも何がすべてでもないような気がして、すべてが語られているわけでもないような気がする。では何なのだろうか。それがわかれば苦労はしないか。でも君にはわかっているのだろう。少なくともそれがすべてではない。


6月9日

 何とか今日の仕事も一段落つきそうな気配だが、やはりそれがどうしたわけでもなく、それについては何も思うところがない。別にやりたくてやっていることではなく、それが何の言い訳にもならない限りにおいて、そういうわけなのであって、その辺が辛いところかも知れないが、でもそれがいつもまかり通るわけではなく、まかり通らない場合は、止むを得ず、やりたくてやっているわけでない、という言い訳を受け入れざるを得ない成り行きに、その空疎な身をゆだね、それについて思い悩んでいるふりをしなければならず、そしてその面倒臭い心理状態を放置したままにするわけにもゆかず、その辺で何らかの正当性を獲得したつもりになり、一方で矛盾を感じつつも、何食わぬ顔と共に、そこに実体として存在し続け、何を説明しているのかわからなくなるほど言葉を込み入らせて、語っていることの意味不明を醸し出し、要するにわけがわからなくなるわけか。たぶんそれはごまかしの類に違いない。本当にわけのわからない説明だ。説明になっていない気がするが、それでかまわないのか。また言葉の用法を間違えているのかも知れないが、あくまでもこれらはとりあえずの文章なのであり、そのへんで自からの記述力に限界を感じつつも、そんな言い訳を記すことで、何かの体裁を整えたつもりで、そのままで済ますとしようか。

 それはいつものようにおかしなことか。どうもおかしなことしか述べられない。そしてそれで構わないと思っている節があり、それがなおのことおかしな感じを助長させ、何だかとりとめがなくなっているようにも思われ、まともな内容になるのをあきらめざるを得なくなっている。しかしそんなのがありだろうか。現実にこうだ。こうなっている以上は、こういう状態を推し進めなければ活路を見出せないのか。しかしこのゆきつく先にはどのような活路が待っているのだろうか。それともこのままでいること自体が正気の沙汰でないか。でもこうなっているわけだ。何が何だかわからないような成り行きの中に、まさに生身の自分が存在するわけなのか。冗談かもしれない。でも冗談だとしても、この冗談のような状況の中に自らがいるわけだ。何だかめまいがしてくる。真面目で無能な人のペースというものが、どの程度の苛立ちを周囲にもたらしているのか、当人には知る由もない。真面目で無能で空気が読めず、十数年務めていた会社をリストラされ、再就職先でも仕事の飲み込みが遅く、周囲に迷惑をかけ続け、なおも当人は頑張っているのだろうが、どういうわけか一向に改善の気配がない。人はいったんおかしな具合に固まってしまうと、もはや粗大ゴミの域から出られなくなってしまうらしい。やはりこの現実を受け止めなければならないのか。

 でも君はここが忍耐のしどころだと思っているようだ。鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス、という具合にはいかないだろうが、とにかくこのおかしな状況に戸惑いながらも、一方で驚きと共に楽しんでいる節もあり、先が見通せないだけに、根拠のない期待も膨らんで、たぶん思い違いの勘違いみたいだが、それでも勘に狂いはないように思われ、このまま耐えていれば、やがて思わぬところから光明が見え、錯綜してこんがらがり、わけのわからぬ紆余曲折を経ながらも、結果的にはうまくいく瞬間が訪れるかもしれず、そうなることを期待してやまないが、まあうまくいかなくてもいいような気がして、うまくいかないならいかないなりに、その経験を糧として言葉を記すまでのことで、現に今やっていることがそうなのかもしれず、これはこれでかなりの遠回りかもしれないが、とりあえずはよしとしておこう。冗談だろうか。そうに決まっているが、それでもかまわないのではないか。別に気短になって怒り心頭になるのは、ちょっとエネルギーを使い過ぎのようで、この程度のことでそうなるのはもったいない。何とかその辺はぐっと堪えて、待つことがいくらか苦痛をもたらすとしても、今は待つしかないようで、実際に仕事が終わるのを待っている。終わったら戸締りをして引き上げるだけか。


6月8日

 何を見ているのか。暗闇の中で画面を見ている。そこで浮かび上がっているのは亡霊の類かもしれず、それが想像された幻影であるとしても、なおのこと禍々しく見え、それに向かって何を語りかけるべきか考えあぐねた末に、結局なかったこととして、何も見ていなかったように思えてきて、たぶんそれは作り話か何かであり、君が語ろうとしているのは、そういう類の話かもしれず、実際には亡霊でも何でもなく、あるいは他の何でもよくて、ただそこに何かが記されていればそれでかまわないのかもしれない。近頃思うのはそんなことのようだ。そしてなんだ気が抜けていて、記述にも身が入らず、ほったらかしになることが多い。気がつけばそうなっている。ここで寝てしまう。それでは駄目か。駄目に決まっている。でもどうにもならずに寝てしまうみたいだ。何だかそういう感じが楽しそうに思えてきて、思わず実行してしまう。でも他に何か思っていて、それが同時に戦略的な倒錯の類に思えてきて、そこからおかしな変遷を経ないと、まともな内容にたどり着けそうにない。冗談を述べるとするとそういうことになるだろうか。まやかしに決まっている。どうやら本気で述べているのではないらしく、何かのきっかけから脱線しているみたいだが、果たしてそれが必然のように思われてくるのはどうしたわけだろう。

 とりあえずこうなってしまった。何か心苦しいのだろうか。また用法を間違えている。それは仕方のないことだろう。うまくいくはずがないか。とりあえずはそういうことだ。仕事の合間に少しでも言葉を記して、記述の遅れを最小限にとどめ、泥縄式でも構わないから、とにかく前進させなければならないと思い、それを実行している最中のようだ。馬鹿げているだろうか。内容など何でもかまわないのか。君の知ったことではなさそうだが、そうなると他の誰の知ったことでもなさそうに思えてきて、またいつものように無駄で意味のない記述が延々と続くこととなりそうだ。それはおかしくも楽な展開のようで、放っておけばそんなことの繰り返しとなり、怠惰な気分に押し流され、そのままとなってしまいそうで、もう二度とまともな内容に至れないのかも知れず、それも記述を継続させるには致し方のないことだと思えば、納得がいくわけもないか。でもおかしい。そんなやり方でここまで記してきた。これは受け入れざるを得ない事実か。君がそう思うなら、そういうことになるだろうか。しかし今回は冗談に逃げるわけにはいかないのか。逃げも隠れもできない状況なのか。そんなはずがない。どんなはずでもなく、何を納得したいのでもないはずだ。ただおかしくて笑ってしまうか。あるいはそれも違うか。

 しかし何なのか。何でもないと記すだけか。現にそう記している。それでは駄目か。またそれだ。しかしどうすればいいのだろうか。人も社会もどんどん進化していくと考えるのは的外れか。わからないが、確かにある面ではそう思われることもあるのだろうが、それとは別の面では、未だに旧態依然なところもあるようで、何をどう解釈するかによって見解が分かれるところか。でもそれで何を述べていることにもなりはせず、勘違いなことでも述べているのかも知れず、その辺はあまり追求するわけにもいかないみたいだが、結果が結果だけに、みんな思い違いの勘違いなことをやっているように思われてきて、口先だけはかっこいいのだろうが、実際にやっていることはたかが知れていて、いかにも大袈裟で深刻な状況に直面しているかのように見せかけているだけで、後はプレゼン術の範囲内でのことにすぎず、要するに関係ない人にとってはどうでもいいことなのだ。そんなことがある特定の業界内でまことしやかにささやかれているわけで、たぶんそれは何の普遍性も持ち合わせていない話でしかない。だからそんなことを真に受けて、そこからもたらされた結果に一喜一憂するのも馬鹿らしく思われ、そんなことをわけ知り顔で語ってみせる輩を訝しく思いいつつも、たとえ釈然しなくても、超然と構えていた方がしっくりくるはずだ。


6月7日

 膝が痛い。限界なのだろうか。かも知れない。深夜に目覚め、性懲りも無く言葉を記す。たぶんもう無理なのだ。ほんの一瞬もとに戻ったようだが、すぐさま遅れ始めてしまうわけか。その通りだ。でもまだ間に合うと思っているのではないのか。でも何を目指しているのでもない。そう思っているだけかもしれない。たぶんそれだけでかまわないのだろう。そう思っているうちは何とかしようとするのではないか。それもおかしな話かもしれないが、実際にこうして何とかしようとしているのだから、それはそれでかまわない。もはや空疎であろうとなかろうと、そんなことは気にもとめず、さらに言葉を記すだけか。おかしいだろうか。そうかも知れないが、やはりそれでかまわないと思うしかないらしい。要するに何とかするとはそういうことになるのだろう。馬鹿げているだろうか。それもその通りで、たぶんそういうことになる。やはり性懲りもない。それで一回りして、振り出しに戻り、またそんなやり方を繰り返してしまうらしい。やる気がしなくなるだろうか。でもそうやって空疎な言葉の連なりを記述中のようだ。それが現在進行形の記述方と合間って、なんだか不可思議な雰囲気を醸し出し、どうでもいいといえばどうでもいいのだろうが、何かの紋切り型に触発されて、君を勇気付ける。そんなのは嘘か。

 でも少し疲れた。もう駄目か。根気が足りない。そんな感じだ。ではここで停滞か。そういうことになる。また眠くなってきたようだ。大丈夫なのだろうか。とりあえず自然体でいくとしよう。何も語るつもりはなく、ただ言葉を記してみればいい。それだけのことだ。他に何があるというのか。そういうことではないのだろうか。またつまらない流れになっているようだ。うまくいかないらしく、たぶん記すべきことがないのだろう。あくびが出るが、さもありなんか。別にそれでかまわないのではないか。つまらないままでかまわない。何も思いつかず、何もできはしないようだ。鳥のさえずりが聞こえ、朝から賑やかだ。もう夜明けだ。この感じは何なのか。空は曇っているのかも知れない。どうかしているのか。頭がいかれているのか。至って正常だろう。今はそう思い、何かのついでにおかしなことでも思っているのかもしれず、またそれがどうしたわけでもないらしい。だからそう思う。わけがない。でも笑うべくもない。言葉の用法が間違っている。誰がそう思い、君も納得している。嘘なのだろうか。しかしすべては過ぎ去り、やがて忘れ去られて、何も思い出せなくなり、感性も磨り減って、言葉が出なくなってしまう。要するに何も語れない。君はそこで困っているのか。

 漕ぎ着ける場所を知らず、とどまれる地が見つからず、でも宙に浮いているわけでもなさそうだ。現実には椅子に座って、言葉を記している最中だ。でもそれがどうかしたわけではない。どうもしないから記述作業がはかどらないのはもちろんのこと、どうかしなければ語れないとすれば、それは極めて自然の成り行きで、君が困るのも無理はない。でもそれではまずいのではないか。すでに翌日の昼だ。何もできないまま、仕事が優先され、記述どころではなくなり、また遅れてしまうみたいだ。なぜ幻想を抱けないのか。その必要がないからか。たぶんそういうことだ。ここにあるのは現実だけで、身動きが取れない成り行きの中で、焦燥感が募り、ただ時間だけが経ち、考えることもできない。でもいったい何を考えたらいいのか。それすらもわからない。見上げれば雲が流れ、何も意に介さず、また置いてきぼりを食っているような気になるが、誰がどこでどうなっているのかわからない。またそう記しているつもりの君が何を思い、どのような意図でそんなことをやっているのかもわからず、もしかしたら何をやっているのかもわからないのかもしれないが、それでは話にならないようで、ただ無駄に言葉を記しているばかりで、それ以外は何もないのかもしれない。


6月6日

 何だか今日は紆余曲折の連続だ。どうしても簡単な成り行きにはならず、偶然の巡り合わせでしかないのだろうが、わけのわからない回り道と不具合の連続の果てに、ようやく一応のけりがつき、ひとまず難局を切り抜け、ほっと一息ついているみたいだが、どうせまた面倒な事態を招くことが予想され、先が思いやられ、暗澹とした気分になるしかなく、それでもやるしかないわけで、なんだか冗談のような気がしてくるようだ。そしてもう夜だ。君は滅びゆく側の存在なのか。そんなことは知らない。夜に苦いコーヒーを飲んでいる。それがどうしたわけでもないのにそんなことを記してしまい、当惑している。たぶんそういうことではない。ではまた言葉を記すのが遅いから、焦れているのか。無理もない。勝手気ままに振る舞うことができない。自由を奪われ、何かの軛をはめられ、牛が田畑を耕している光景を思い浮かべるが、そんなのは時代遅れもいいところか。わざとそんなことを述べているのだろう。何か考え事でもしていたのか。ちょと間を開けると、画面が暗くなる。そんな当たり前のことに驚いているわけでもない。では何なのか。また言葉を記すのが面倒臭くなってきたのだろうか。そうかもしれず、それもいつものパターンであることに気づいているのだろうが、やはり奇妙な感覚のまま、それが抜けきれていないらしい。

 もう嫌になってしまったのだろうか。このところ飽きっぽさがましているようで、気がつくとよそ見をしている。つまらない人生か。そういう表現ではおかしい。もっと違う何かを感じているのではないか。君の意見はわかりづらい。それが意見だとは思えないが、何かしら主張があるのだろうか。でもそれは君が感じていることではないのではないか。それでもかまわない。なぜそうなのかわからないが、わかりづらくてもかまわないような気がして、そのままで済ましてしまい、後から何かに気づくこともあるのかもしれないが、気づいたら気づいたで、また面倒なことになり、そこから嫌になるほどの紆余曲折を経験して今に至り、何だか疲れているようだ。まったくもってどうしようもないか。笑ってしまうが、これが現実だ。でも自己防衛気味にせこく立ち回って事なかれ主義を貫くわけにもゆかず、そういうことができる立場でもないので、嫌な成り行きにもめげず、ひたすら耐えなければならないところは耐え、やっとのことで今日一日を乗り切り、仕事を終え、夜になっても気が気ではなく、まだ何かやり残したことがあるようで、先が思いやられるが、やはり単純作業ばかりの人生を送れる人が羨ましくも気の毒に思われ、いったい人それぞれの経験とは、こうも不公平に割り当てられていて、なおかつ建前としては平等なのが面倒なところだ。

 相変わらずわけがわからないか。それにしても笑うしかない。とにかく下手なギミックはなしにして、ストレートでいくしかなさそうだ。でもそういう建前で、どうせその都度起動修正していくのだろう。君の回りくどいやり方はわかっている。思っていることと実際にやっていることとの間に甚だしいズレがあり、要するに君自身がそれらのわけのわからなさを招いているのに、そういう結果に直面して、やはり予定調和気味にわけがわからないと思うわけだ。だから笑うしかない。そう述べて何を説明しているとも思えないが、それも説明の類には違いなく、でもそんな説明では納得し難く、もっと何かわかりやすい説明を導き出したいのだろうが、そこで考え込むしかない。いったい何を考えているのか。そこで都合良く頭の中が真っ白になったりするわけか。それは何の都合でもなく、文章表現の問題なのだろうが、まだそれを続けるつもりなのだろうか。何を続けているつもりでなく、実際に続けているのだろうが、たぶんそれは意味不明な付け足しとなり、それを記している当人を困惑させるだけかもしれないが、それも冗談の一種だと思えば、何とか許してもらえるかもしれない。しかし誰の許しを請うつもりもないのにそれでは、なんだか無駄な付け足しもいいところか。


6月5日

 またこんな感じだ。もう飽き飽きだろうか。でも仕方ない。こうなってしまうのだから、こう記すしかないらしく、他に方法を編み出せずにいるらしい。これはどういうことなのか。こういうことだ。こういうこと以外にあり得ない。だから行き詰っているのだろうか。果たしてこれが行き詰まりなのか。そう思うならそういうことでかまわない。投げやりな気分でいくら言葉を記しても、うまい具合に行くわけがない。だからなんだとも言えないが、とりあえずこうして言葉を記せるうちは記して行くだけだ。何の不都合もないだろうか。しかし笑ってしまうらしい。うまくいかないことがそんなにおかしいのか。なんだか笑ってしまうが、その一方で、何か重大な見落としがあるような気がしてならない。単なる心配性の類だろうか。今のところはわからない。わからないのに心配しても意味がないか。たぶんわかるようなことではないのかも知れず、手遅れになるまで放って置いても構わないのかもしれない。そんなわけにはいかないか。人は人に出会い、何らかの影響を受けるらしい。その程度の認識でもかまわないのか。中には狭い範囲内で凝り固まってしまい、死ぬまで偏狭な根性を頑なに保持し続ける人もいるだろうが、それでも構わないといえば構わないのであって、どのような性根でいようと、それで済んでいるうちは一向に差し支えないみたいだ。

 それは恐ろしいことでも何でもなく、そういう人物の存在を周囲の人たちが許容せざるを得ない状況があり、その人が一方的にまくしたてる講釈話や自慢話を黙って拝聴するしかないような場面でも、内心不快に思いながらも、時が経って話が一段落する機会を逃さず、タイミング見計らって、その場をお開きに持っていけばいいだけで、何とかそうやりながらどうでもいいような日々を切り抜け、時が経ち、人も心も消え去る様を眺め続けていけば、そんなことを思っている意識もすり減り、ついには何とも思わないような心境を獲得できるのかもしれず、たとえそうなったとしても、それを他人に自慢することもないだろうし、その必要もなく黙っていればいいだけで、それはそれでそういうことでしかなく、どうということもなく、静かな心境を保ち、死ぬまでの日々を過ごしながら、それ以外に何か気づいたことでもあれば、書き記せばいいわけか。冗談としてならそれもありだろう。何が冗談なのかわからないが、あくびと共に忘れてしまうこともあるらしく、それを不意に思い出したりして、何となく驚いてみたりするわけか。ちょっとわざとらしいだろうか。別にかまわず、そんな冗談の続きを記しているらしい。相変わらず何をどう捉えたらいいのかわからないようだ。

 君は若くして亡くなった昔の小説家について書かれた文章を少し読んだらしい。若いといっても五十歳に数年満たない程度だ。死後その作品はある程度残るかもしれないが、その人物が何を思い、どのような活動をしていたかなんて、よほどの偶然が積み重ならない限りは、すぐに忘れ去られ、ほとんどどうでもよくなってしまうのかもしれず、生前の誰かが歴史に名を残そうなどと野望を抱くのは、思い上がりもいいところかもしれない。だから今ここで何をしなければならないのか。つまらぬ冗談を適当にかましているだけではだめか。まさか死ぬまでの限られた時間内に、何か自己満足にでも浸れるようなことを成し遂げなければいけないのだろうか。やはりその辺がよくわからないようだ。冗談では済まないとしたら、いったいどういう風に何をやったらいいのだろう。思っていることを記せばいい。それだけか。それならすでやっていることではないのか。だから今やっているそれをやり続ければいいわけか。冗談か。なぜか冗談で済まそうとしているようだ。済まないのに済まそうとするのはどうしたことか。面倒臭いのだろうか。どうも急いで結論を出すのは無理らしい。たぶん何かをやろうとしてやるのでは、やっている途中で間違ってしまうのかもしれず、やろうとしてやるのではなく、やらなくてもいいのにやってしまうことが重要なのか。意味不明だ。


6月4日

 何だか不思議な感覚だ。これから何を記したらいいのだろうか。それがわからないのに、見切り発車で記してしまうのか。何だかおかしい。わざとおかしいようなことを述べているのだろうか。そうかも知れず、そうだとしたら何か後ろめたいような気にでもなるのかも知れないが、そうではないとしても、ぎこちない言葉の並びに面食らっているようにも思え、違和感ばかりが際立っている印象を拭えず、それらのどうにもならない感じにも困っているわけで、なんだかすべてがおかしいみたいだ。気色悪いとはこのことだろうか。でも依然として何もないことに変わりなく、何を語っているわけでもないのに、こうして言葉を記しているわけだ。一体これは何なのか。何でもないのにこれはない。そんなことばかりが繰り返され、わけがわからなくなる。本当にそうなのだろうか。また君は迷っているのか。この世界は君とどう関係するのか。誰も知る由もない。知りたいのはそんなことではないのかも知れない。たぶんどこへも行けないのだ。なぜか知らないが、そうなってしまい、身動きが取れなくなってしまう。いったい君は何をやろうとしているのか。どうもその辺がわからず、その辺で何かが違うような気がして仕方がない。それはまたいつもの冗談だろうか。

 しかしわからないままだ。何も出てこない。いつまで経ってもそうらしい。果たしてこのままでいいのだろうか。このままとはどういうことなのか。今何を語っていることになるのか。なぜそれがわからないのか。確かにおかしい。どう考えてもおかしく、実質的には何も述べていない。そしてこのままでいいはずがないのにこのままだ。それはあり得ないことかも知れないのに、現にこうなっている。またここからやるのか。もう翌朝だ。遅々として進まない作業に業を煮やしてどうするのか。それならそれで構わないか。まあ他に何を構えているのでもない。何処かの門構えを眺めているわけでもないし、そんな構えの連続から何を導き出そうとしているのでもないらしい。要するにまた意味不明になろうとしているわけか。確かにその辺の感覚が意味不明に違いないが、それがどうしたわけでもなく、そんなことをいくら記したところで、わけのわからなさを増幅させるばかりで、今のところは何の理解にも至りそうにない。そういうわけでまたしても空疎な内容になりそうだが、まあ仕方ないだろう。ここからが問題なのか。そんなはずがないかも知れないが、何となくそれでもかまわないと思えてくるのはどういうわけなのか。またそれは冗談の類なのか。

 でもそればかりでは仕方ない。まったく冗談にもほどがあるか。たぶんもうやめた方がいい。でもやめるわけにはいかないのだろう。だからすべては冗談なのだろうか。それは難儀ことだ。仕方がないといえばそうかも知れないが、もう少しなんとかならないものか。困惑しているばかりでは話にならない。こういう場合、人はどうするのだろう。また困惑に拍車を掛けるような物言いだ。とりあえず今日も晴れて暑くなりそうだ。君には関係ないことかも知れないが、中にはそれについて語らなければならない人もいるようで、そんな人に同情する気になれないのは、君の置かれた状況に原因があるのかもしれず、それがどうしたわけでもないのだろうが、何となくそんなことを思いつつも、そういう中身のないことを延々と記している意味を探ろうとしてしまうのは、そこに何らかの意義を見出そうとしていることの表れか。しかし回りくどいことを述べているようで、嫌になってくる。気がつけば左腕が痺れ、あくびも出て、疲れているのかもしれない。くたびれたのか。何も主張すべきことがない。やっているのは悪あがきばかりのようだ。それでは駄目だ。またあくびが出る。なんでもないことに変わりないのかも知れない。そんなことでしかなく、やっていることのすべてが君に返ってくるとしても、やはりそれに耐えているのだろう。


6月3日

 何をわかろうとしているのでもない。ただ何が何だか分からず、途方に暮れているのではないとしても、少し行き詰っているのかもしれない。どうにもならないだろうか。少しだけだから、少しはどうにかなるのではないか。でも現実にはこんな感じであり、相変わらず何も語っていないようだ。まったくもってどうしようもない。でもあり得ないことではないのだろう。今のところは手こずっているが、やがて慣れてしまうのかも知れず、もう少しの辛抱なのだろうか。しかし暑い。関係のないことだが、とりあえず暑い。また笑っているようだ。手こずっていて、これまでに使っていた脳の神経回路ではうまく動作しないようで、新たな回路網を構築しながら、それらの作業を進めているので、それだけ時間がかかり、頭も疲れ、動作も遅くなり、焦れったくなってしまうのか。しかし何を説明しているのか。自然とそういう説明になってしまうのはどういうわけなのか。眠たいのか。今日は昼休みを十分取れなかったみたいだ。笑うようなことでもないか。でも何となくおかしい。笑ってしまっている。この状況をどう説明したらいいのだろうか。何が違っているのか。滑稽な感じがしている。手詰まり感が否めず、たぶん困っているのだろうが、困れば困るほどおかしく思われ、笑っている自分に気づき、妙な気分とともに奇妙な雰囲気に包まれる。

 頭を使っているわけか。たぶんそうだ。もはやブラインドタッチなど用をなさず、文字入力に全神経を注ぎ込み、その内容まで気を使うことなど無理もいいところか。それではダメか。ダメもいいところだ。いったいこれはどうしたことか。どうしたもこうしたもなく、見たとおり、読んだ通りのことだ。でも何を読んでいるわけでもなさそうにも思われ、実際は意味不明かもしれず、何を語っているわけでもないのは日をみるより明らかか。さらにデタラメなことを述べているのかも知れない。何だか虚しくなると同時に、肩が凝ってきたらしい。でも至って正気なのだろう。そう思っているうちはその通りか。でも完全に外部を失っているようで、世の中の話題については一切触れられない状況となり、文字入力とそこから派生した思いについてしか語れず、そうなってしまう理由も原因もわからぬまま、ひたすらそればかりを記す羽目に陥っているようで、気持ちも晴れず、次第に袋小路に追い詰められて行っている気さえするのだが、果たしてこんな成り行きで大丈夫なのか。後は意味不明に拍車がかかるだけか。たぶんそれでも言葉を記し続けるつもりだろうから、ご苦労なことかも知れず、せいぜいそのつもりで頑張ってもらいたいのか。まさかこれが正真正銘の冗談なのだろうか。

 何はともあれ、ここまできたのだから、このまま終わりまで行けば幸いか。果たしてそううまい具合に行くのか。そうなるように努力している最中だろうか。でも内容がこのままではまずいのではないか。正気とは思えないか。でもそれがいつもの通りだとしたら、一安心して、どうせそのままでもかまわないと思ってしまうのだろう。そういう意味でなんだかどうでいいような気分となり、あとはデタラメに拍車がかかるだけか。実際にそうなっているのではないか。しかし肩が凝る。普段使っていない筋肉と脳の神経ネットワーク使っているからなのか。その辺の理由は定かでない。でも言葉を記していて、こんなに疲れたのは初めてで、こんなに記述作業に苦痛が伴うのも初めての体験か。目が疲れ、肩が凝り、意識が朦朧としてくる。これはどういうことなのか。単に慣れない作業を強いられているからか。それにしてはよく続いているものだ。もう少しの辛抱か。そんな苦行を強いられ、ますますわけがわからなくなり、何のために言葉を記しているのか、その答えを出そうとしているのではなく、ただそれ自体が、何らかの効用があるとしても、たぶんそんなことなど知りたくもないような、あるいはどうでもいいような、ようるにそれ自体が、その場を覆い尽くしている何かなのだろう。


6月2日

 この感覚は何なのか。いつもながらの記述とは違う。かなり遅い。遅すぎて焦れったくなる。画面も小さく、見えずらい。でも何とか記して、ここまでやってきた。iPadに慣れるのには、まだだいぶ時間がかかりそうだ。しかしこれでは話にならないのではないか。それどころの騒ぎではなく、こんな語り方では先が思いやられ、なんだか自分が語っているのではないような感覚だ。そして長く記せないような気がしてきて、何と無くこの辺で挫折してしまいそうになってきて、さもありなんと思わせるような感じになってくるようだ。嫌気がさしているわけか。画面を持っている左手がしびれてきた。もういいのではないか。やめた方がいいだろうか。膝の上に載せて言葉を記してみるが、なんだか安定しない。もうくたびれたか。やめてしまいそうになる。やめた方が良さそうか。でも後には退けないのではないのか。確かにここまで記している。これは冗談ではない。冗談にはなり得ないようで、たぶんなり難いのだろう。左手でも記してみようか。しかしくたびれた。眠たくなってくる。翌朝に目覚め、また言葉を記すが、どうもしっくりこないようで、違和感を抱きながらも、さらに続けようとする。

 果たしてこのまま記し終えることができるだろうか。それとも途中で挫折してしまうのか。あまりどくどくの表現にこだわらない方が無難かも知れず、漢字かな変換も、普通な感じの漢字とかなの組み合わせで妥協するしかなさそうで、凝った感じの表現にはなり様がない。しかし何を説明しているのか。言葉を記している感覚が、これまでとはだいぶ違っていて、戸惑い、面食らっているだけか。キーボードの文字配置と打ち方が違うだけで、こうも違和感を伴うとは思っても見なかった。でもまだやり続けている。これは何なのか。不思議な感覚だろうか。たぶんそういうことだ。なんだか分からないが、このままで構わないのだろうか。構うも何も、実際に続けているのだから、とにかく終わりまで到達しなければならない。たぶんそういうことだ。また焦れったくなる。でも少しつづ進んでいることは確からしい。おかしいだろうか。何がか。なんでもありはしない。それはそうで、そうでしかないのだが、やはり変で、ぎこちなく、何を語っているとも思えないのだが、さらに言葉を記して、何かを前進させている。何かとは、これらの記述に違いないが、やはり空疎な感じを免れ得ないようで、なんだかおかしい。

 何かが違う。タッチパネルだから変なのか。それは当然のことだ。単に慣れていないだけかも知れない。でもそれで納得できるだろうか。するもしないも、もう後戻りできないのではないのか。笑っている場合ではない。なるほど画面を横にすれば、キーボードが若干大きくなり、文字も打ちやすくなるが、違和感は変わらず、いつもと違う感覚に戸惑い、なかなか記述が進まないようだが、内容の方も、完全に記述作業そのものに言及するばかりで、それ以外は何もなく、空疎そのものだ。果たしてこれでいいのだろうか。いいわけがないだろうが、こんな風にしかならないのは確かなようで、なんだか笑ってしまうが、どうやら今しばらくは抜け出られそうにない。これは何かの罠か。でも気づいた時は手遅れで、すでにここまで記してしまっているので、後戻りできそうにない。これはどういうわけなのか。わけもなくそんなことを思いばかりか。それではどうしようもなく、単なる文字の打ち込み作業と化している現状をどうすることもできず、やはり戸惑うばかりで、まるで心身が引き裂かれて、バラバラになってしまったようだ。


6月1日

 やっぱり出直した方がよさそうだ。何だかうまくいかない。寝て起きてまた記す。そんなことの繰り返しか。それで何がどうしたわけでもなさそうだが、いつものことに変わりない。同じことの繰り返しだ。そんなわけで何かが記され、語ろうとしているようだが、いつものようにうまくいかない。笑ってしまうか。なぜ笑ってしまうのか。まだ時間的には深夜だからか。どうせまた夜が明けて、昼になり、夕方になり、夜になってしまうのだろう。なぜなのか。そんな当たり前のことに疑念を抱くまでもない。ただそんなことを記しているに過ぎず、それがどうしたわけでもないのはいつものことであり、字数稼ぎの一環なのかもしれない。だから笑ってしまうのか。冗談ではないか。冗談でかまわないが、状況的にはそうでもないようだ。でもそれではまずいのではないか。今のところはわからない。また迷っているのだろうか。迷っている間に無駄な言葉を記している。何かがおかしいのか。たぶんおかしいのだろう。何がおかしいわけでもないのに、おかしいと思い、それが思い違いであることを承知しつつも、そんなことはないと思い込もうとする。そんなのは嘘か。嘘に決まっているだろう。でも作り話にもならない嘘だ。何を語っているわけでもなく、途方に暮れているわけでもない。何でもないのだろうか。

 くだらないのだろうか。そうに決まっているではないか。しかし株価がどうしたのか。そんなことには興味がないのではなかったか。そうかもしれず、そうではないのかもしれない。どうもうまく語れないようだが、いつまで経ってもそのままみたいだ。これはおかしいだろうか。たぶんおかしい。でも何がおかしいのかわからない。そんなはずがないか。何も語れない現状が続いている。そんなことでしかないか。でもそればかりで、そのまま押し流されてしまうわけにはいかないらしく、何とかしようとしている。だから無理だろう。何が無理なのだろうか。ただ語れない。それだけのことか。そういうわけで、何も語れずに言葉を記している。そんな空疎な現状をどうすることもできずにいるらしい。もう夜だ。これらの停滞は何なのか。不思議な気分を醸し出している。本当に何も考えていないのだろうか。さっきまではテレビを見ていた。またスポーツか。暇つぶしでは何ももたらせない。空疎な何かがもたらされている。他にも退屈な言葉の連なりがもたらされているではないか。それが違うのだろうか。何が違うのか。君はまだ迷っている。迷ってばかりでは何ももたらされない。でも迷いがもたらされている。別にかまわないのではないか。それでかまわない。無駄に言葉を記しながら迷っているわけだ。そしてそれでかまわないと思っている。実際にかまわないのだろう。

 まあ何とかなるのだろう。それでかまうならそういうことだ。かまわなければかまわないと思うしかない。冗談だろうか。たぶんそういうことだ。それ以外に何がもたらされるのか。待つことだ。そんな心境に至るまで待てばいい。待っていればやがてあきらめもつくだろう。しかし何を待っているのか。機会がやってくるのを待っている。それは何の機会なのだろうか。あきらめがついた時を待っているわけか。しかし何をあきらめようとしているのか。言葉を記すのをあきらめられるだろうか。たぶんそうはならないのだろう。あきらめられないということか。そうではなく、結果的にそうならないようにしたいわけか。なぜそうならないようにしてしまうのか。理由は続けたいということだけか。そうならそうでかまわない。かまうわけがないのかも知れない。そのへんで何だかわけがわからなくなりかけている。君はいったい何を記したいのか。意味不明ではだめなのだろうか。なぜそうなってしまうのか。完全にわからなくなっている。何を記そうとしているわけでもないのに記している。それがだめな理由だろうか。合理的ではない。でも合理性を求めているわけでもなく、合理的な判断を下したいわけでもない。ならば意味不明でもかまわないのではないか。だからそれでかまわないということだ。実際にかなりおかしいみたいで、今回はだめらしい。意味不明のまま終わりまで来てしまい、とりとめがなく、ただ漠然とした思いにとらわれている。要するに何でもないのだろう。終始そうだ。