彼の声90

2012年

5月31日

 なんだか意味がないような気がするが、やはり意味があったのだろうか。『日本語入力エンジンとして Google 日本語入力のオープンソース版である Mozc を採用しました。 』そうだから、DELLのINSPIRON miniに入れているLinuxをDebianからVineに変更した。実際にこうして言葉を記していると、なんとなくかな漢字変換の効率が改善されているみたいに感じられる。感じられるどころではないだろう。どうやらちゃんとしているみたいだ。考えてみればそれが当たり前のことなのか。だがこれでまともなことが述べられるとも思えず、どうせ以前と同じように、いい加減で意味のない言葉を繰り返し記してしまうに決まっているだろうか。実際にこうして言葉を記してみればわかることだ。なんでもないことだろう。正気とは思えないか。何がそうなのだろうか。なんでもないと述べておけばいいのだろうか。またおかしくなっているようだが、何がおかしいのかわからない。要するに同じことなのだろうか。どうやら気が抜けているらしい。今までのところはまったくおかしな変換がない。ならばいいのではないか。それだけのことだ。何を試しても同じ結果になりそうだ。ならば良かったではないか。でも記している内容は空疎そのものか。それで構わないと思ってしまうところもおかしい。何も語る気がしないようだ。だからそんなふうに言葉を記すべきではないのか。そのへんがよくわからなくなり、思わず正気でないようなことを述べてしまいそうになるが、かろうじてその手前で踏みとどまり、意識が現実の世界に戻ってくる。感覚がぼやけていたようで、ほとんど眠っていたようで、阪神が千葉ロッテにサヨナラ勝ちしたところで、テレビを付けて居眠りの最中だったことに気づいて、目を覚まして、こうしてまた言葉を記しているみたいで、なんだか理由が定かでないが、不思議な気分になる。ただ漠然とそんなことを思っているのだろうか。ならばさらに意味不明気味に方向転換してみればいいだろう。

 語るべきことなどありはせず、それを思いつかないのだから、致し方のないところだろうが、とりあえず今までのところは、ほぼ完璧なかな漢字変換のようで、これが無料なのだから、ATOKなどは、その存在自体がかなり厳しい立場に追い込まれているように思われ、なんだか複雑な心境になるが、これも時代の流れなのだろうか。でも同情する気にはなれないか。たぶん君が何を思っても、何がどうなることもなく、そんなふうに言葉を記している限りは、そういうことでしかないのかもしれず、何が大問題とも思えないのはいつものことであり、そんなことを気にする余裕もなく、案外他のところで余裕があるのかもしれないが、それはそれでこれはこれでしかなく、それもこれも君とは無関係だったりするのかもしれないが、そうだとしてもなおのこと、そんなことを記さざるを得ず、そんなのは嘘に決まっているのに、やはりそんなことしか記せない現実に直面していて、そういう現実を受け入れざるを得ない状況の中で、いったい何を語ればいいのか、それを思いつくわけもないだろうが、それでもそれを継続せざるを得ず、それも嘘かもしれないが、果たしてそれでいいのかと自問しているわけでもなく、何も考えていないような素振りで、さらにそんなことを記し続ければ、結局のところはどこか適当でいい加減な場所へとたどり着き、そこでも同じようなことを記しているのかもしれず、まったく懲りていないばかりか、なんの進歩も進化もありえないような成り行きで、それを肯定しているわけでも否定しているわけでもないような、どっちつかずというか、どこにもつかないような、そんなことはありえないのだろうが、ただ無駄に同じようなことを記しているだけなのだろうが、やはりそれをやめられず、やめるわけにはいかないような成り行きに、無理に持って行っているのかもしれないが、どうもそのへんが納得できないのだろうが、惰性でそうするしかないのかもしれないが、そうならざるを得ないと思うしかないらしく、そのへんで乗り越えがたい壁に直面しているのかもしれない。


5月30日

 翌朝は晴れ渡り、暑くなるような気配だ。人身事故で電車が遅れ、よくあるパターンなのだろうが、考えさせられる。人は水曜日に何をやっているのか。ありふれたことを思っているようだ。高圧鉄塔と何かが重なり合って見えるが、どこかへ向かって林立している地域にさしかかる。風で梢が揺れているのが見える。ゴミ焼却場の煙突と何かが絡み合って見えるが、また何かの冗談なのだろうか。赤く錆びたレールを見ながら、砂利との狭間で朽ち果てようとしている枕木のことを思うわけもなく、人はどこまでもスマホの画面を眺めながら、何を思うだろうか。老人がパチンコ雑誌を見ているようだ。人身事故で死んだ人は自殺だろうか。当たり前のことか。なぜ大宮から新幹線に乗らなかったのか。新幹線で人身事故というのはあまり聞かないか。線路脇に同じような家並みが続いている地域を通り過ぎ、次第に緑と電信柱が目立ってくる。何を待っていたわけでもなく、何が到来しているわけでもないだろう。オリンピックの年だそうだ。メディアは盛り上げようとしているのだろうか。お祭り騒ぎの中で何を忘れたいのだろう。カーニバルとは何か。ブラジル辺りでやっているあれか。ヨーロッパが発祥の地だったらしい。人々はそこで何を消費しているのだろう。思わずあくびが立て続けに出る。眠たいのだろうか。そこから目をそらし、飛行機事故で死んだギタリストの演奏を聴いている。何を見定めようとしているわけではなさそうだ。見えているのはいつもの光景であり、人も物もどんどん消費されていく過程か。時が流れているのだからとどまることなどできはしない。虚しくならないのだろうか。それの何が虚構なのか。誰かが物語の中にとどまろうとしているが、やっていることが浅はかだ。昼の光景はまぶしすぎる。日差しが強すぎるのか。人の残骸がどこかに安置されているのだろうか。物語の残骸が記憶のどこかに埋もれているようだ。大型ダンプの前に軽自動車がうろちょろ走っている。邪魔なんだろうか。

 もうやめておいた方がよさそうだ。そこまで何かが迫っているようだ。日傘をさした人が通り過ぎる。君が見ている光景が現実なのか。幻影などではなく、すべてが見えているはずだ。剪定された樹木が家を取り囲み、さらに塀で囲まれ、門の横に表札がかかっている。それがすべてなのだろうか。単にすべてを記すことができないだけのようだ。特定の何かをクローズアップすると、別に何かが見えなくなり、その存在に気づかなかったことを後悔したりするのだろうか。まったく馬鹿げているのではないか。何について語りたいのでもなく、ただ何となく言葉を並べているだけのようで、それで何をやっているとも思えないが、たぶん何かやっているのだろう。もう夜になっているが、すでに語ろうとしていたことを忘れてしまったのだろうか。君がそれを知っているとも思えない。ではそれを誰に知らせようとしているのだろうか。君の知ったことではないのはわかっているようだが、それを知りたいわけでもないのに知ってしまう可能性がないとも限らない。別に知ってしまってもいいのではないか。知らないままでいるのよりはマシな可能性もあるのではないか。でも結局のところ何を知りたいのだろうか。君が知りたいわけでもないのに、誰がそれを知りたいのだろうか。君にそれを知る機会が巡ってきたとしても、果たして気づくだろうか。いったいそこで何を知らなければならないのか。まだ何が何だかわからないのではないか。これからをそれを知らされ、動揺してしまうわけか。また何だか冗談のような気がして、さっさとその場を立ち去りたい気分となってしまうのかもしれない。もう手遅れなのだろうか。手遅れだとしたら、もう何も必要ではない。すべては姿を消す運命なのだろう。何もかもが移り変わり、廃れるものはどんどん廃れ、流行り過ぎればすぐに賞味期限切れとなるだけか。あっという間の出来事なのだろう。だが廃れてしまうものにこそ魅力があるのだろう。多くの人たちから忘れ去られてしまうから、それを覚えている自分だけが知っていることになる。そうやって趣味に走った者たちが自己満足に浸れる瞬間が訪れるわけだ。それも馬鹿げたことなのか。


5月29日

 確かに雷雨があったが、通り過ぎてしまったのだろうか。今はもう降っていないようだ。やがて今も数時間前になるだろう。とりとめがないようだ。気が散っているのだろうか。また冗談のような気がする。何がそうなのか定かでないのもいつもの通りか。鉄橋を渡り、電車はどこかへ向かっているらしい。なのにどうしたわけでもないだろうが、やはり話にとりとめがない。趣向を凝らしているつもりなのか。相変わらず何がそうなのかわからず、何を語ればいいのかもわからないが、そういえば蔓延りすぎた竹林を重機で根から引っこ抜いて、畑と田んぼが出来上がっていた。竹の残骸が畑の端に堆く積上っている。思い出すのもそんなとりとめのない光景か。そして今は田植えの最中のようだ。あんなところに田んぼを作り田植えをして、何になるのだろうか。まさか補助金目当てなのか。また雨が降ってきたようだ。電車にずぶぬれの小学生が飛び込んでくる。埼玉県の北部は真っ暗だ。空は黒雲に覆われ、時折稲光が見える。もう夜だろう。遠くに消防車のサイレンが点滅しているのが見える。見えた記憶があるわけか。ちらっと見えただけではないのか。今は定かでない。電車の中が混んできた。高校生が大勢乗り込んでくる。稲妻も空を駆け巡り、何かの到来を祝福しているようだ。スピンドクターズのハードロックを聴くのも久しぶりだ。わけがわからないだろうか。どこかで蛍光灯が寿命を迎え、しきりに点滅しているようだが、それは夜空に瞬く変光星と似たような成り行きを示しているのだろうか。くだらぬ空想の域を出ない話になっているかもしれず、たぶんそれでもかまわないと思っているのだろうが、わざととりとめのないことを述べているような気もしてきて、どこかに落ちた雷を見ながら、ふわふわした感じをさらに想像しながら、それが何と関連するのかもわからず、意味の定かでないラップを聴きながら、さらに落雷を目撃して、電車の窓も時としてテレビ画面よりおもしろい光景を見せてくれることに、ちょっと感動したみたいだが、別にそこから込み入った説明をしようとしているわけでもないようだ。

 電車の中で見ているのは眼鏡をかけたサラリーマン風の居眠り光景だけか。ケミカルブラザーズはジャンル的にはテクノなのだろうか。窓には雨粒が貼り付いて、街灯の光を反射する。さっきから同じようなフレーズが繰り返され、なかなかヴォーカルが始まらないようだが、インストのまま終わってしまうのだろうか。知っているくせにそれはないか。また空が光る。別に君がそれを求めていたわけでもないのだろう。いくら探しても見つからなかったそれが、今ここに出現したわけでもない。グールドのピアノも何を教えてくれるわけでもないか。これからどうなってしまうのか。君がそれを知っているわけでもなく、他の誰が知らせてくれるわけでもなく、この世界は相変わらずあるがままの姿を見せている。先が見えているのは大河ドラマに登場する人物の末路だけか。先が見えていない話ではまずいのだろうか。アブドーラ・イブラヒムの曲で誰かが歌っている。ところでもう君はあきらめてしまったのだろうか。何に降参してしまったのか。これから何をやるつもりだったのか。昼は仕事をしていたはずだが、それ以外に何があったのだろうか。聴いたことのない音楽だ。4千曲もあるとたまに聴いたことのない曲に出くわす。たぶん特定の人物について語るのは物語の欠陥なのだ。君がその人物に興味がないのはわかっていながら、あえて語ってみせるのは、語り手が意地悪だからか。またそんなありもしない嘘をついてみせる。本当は興味があるくせに、わざと無視してみせようとしているわけか。それもあり得ないことか。何かが違っているのは毎度のことで、そんなふうにしてずらし続けないと、何も語れなくなってしまうのではないか。雨はもうやんだのだろうか。素人が何をやろうとしているのか。中吊り広告が教えてくれるのは、安易なハウツー情報だけか。雑誌とは雑なことを語るのをその本分としているのではないか。それが時としておもしろそうに感じるのだろう。それはそれを読んでいる読者も雑なことしか語れないから、互いに雑な話で共鳴し合うわけか。だがそれで何を批判しているのでもなく、君だってむちゃくちゃな雑さで物事について語っているのであり、その辺はお互いさまなのであって、現代人はそんなひどいことを平気で語ってしまう人たちの集まりなのだろう。


5月28日

 そう思っている。たぶん至って正気なのだ。それで何かを知ったつもりになっているようだが、身につけた知識を活かしているとは思えない。それでもかまわないと思っている。床をゴキブリが這い回っているようだ。昆虫はどんな環境でも生きていけるのか。この世界は何のために存在しているのでもない。だがそう思えば何かのために存在していることになるのだろう。君はそう思わなければいいと思っているのか。そう思っているのは君ではないのか。君が何を思っているわけでもなく、誰かがそういうことを記しているのだろうか。それで何がかまわないと思っているのか。また言葉が循環しているようだ。何を記しても同じように思えてくるらしい。君がそう思っているわけではなく、君もそう思いたいのかもしれず、そうではないことを承知していながら、それでもそう思いたいのだ。そんなことがあり得るだろうか。まだ至って正気か。昼は蒸し暑い。雷雨の予報は空振りに終わったのだろうか。それともこれからそうなるのだろうか。まだそれほど外れているわけではないということか。どうも何かが終わっているようだ。そんな気がしてならない。まだそこまで行っていないのに、それはないか。できればそうであってほしかったのだろうか。残念な気持ちとほっとした気持ちが半ばしているようで、虚脱感に襲われ、何だかやる気にならない。別に何をやるつもりでもなかったのだろう。どこかがおかしい。いつもそう思っているだけなのか。それにしても時間がないようだ。ないのは時間ではない。では何なのか。何もないということか。でもそこから道はどこへ向かっているのだろう。歩いてゆけば何かに出会うはずだが、それが人である保証はないようだ。空想の中で化け物に出会ったりするのだろうか。そういうふうにずらしてしまうと、現実から離れていってしまうのではないか。それでかまわないとは思うまい。思わなければ現実に引き戻されたりするわけか。まだその辺は承知していないところだったのではないか。だからその辺で引き返した方がいいわけか。

 それが何の話とも思えず、何を話しているわけでもなく、特に話そとしているわけでもないはずだが、それでも得体の知れぬ話の一部を語っているのかもしれない。そう思わせたいのだろう。本当は何の話でもないのに、そんなふうに語っているふうを装い、それで急場を凌いで、済ませようとしている。ごまかし以外の何ものでもないか。何をごまかそうとしているわけでもないのに、言葉を記していくと、結果的に期待を裏切るような空疎な話になってしまい、それで済ますしか選択肢がなくなってしまい、そんな状況を受け入れざるを得なくなり、困り果ててしまうのかもしれないが、本当に困っているわけではなく、もともと何もないのだから、それで何かあるように見せかけることができたように思われ、何となく満足しているのではないか。だからそれがごまかしなのだろう。そしてそんなごまかしの積み重ねでここまでやってきたのではなかったか。君はそうやって自らを卑下したいのか。そうではないだろう。それでもここまでやってきた自らを誇ってみせたいのだ。どうだといわんばかりに空疎な内容を提示して、何もなくても語れる自らを誇示したいのではないか。それは冗談に違いない。見え透いた嘘をついているわけか。そう思われても仕方のない内容になっているはずか。でもそれでかまわないのではなかったか。いつの頃からか、それでいいのだという意味で、それでかまわないという言葉を連発しているようだが、別に何を肯定しているとも思えない。それどころか何も肯定できず、そんな自らを否定的に見なしている自らを誇っているような気がして、そういう否定の無限循環に陥っているような気がして、時としてくだらなく思えてくるようだが、まだそこから何かを肯定する気力を生じさせる余力が残っているだろうか。何を回りくどく語ろうとしているのか。ゴキブリがこちらを向いている。何かエサでも見つけたのか。必死にその辺を走り回り、あわてて物陰に隠れる。何に反応したわけでもなく、実際には何かに反応したのだろうが、君の知ったことではないか。


5月27日

 何か語ろうとしているようだが、たぶんそれは冗談の続きではない。続かないようだ。続けるのが億劫になってきたらしい。それだけのことだ。それだけでは続かない。またそんなことを思う。疲れているらしく、もうろうとしている。続けようとしているようだが、続けられないみたいだ。確か何かを探していたはずだ。そんなことがあったかもしれない。そうではないと思っていたのだろう。蒸し暑いので冷房をつけたら、意識がもうろうしてきて、調子が悪くなったらしい。それで何を考えているのか。いきなり考えているとも思えない。その辺で少し我慢していた方がいいのではないか。何を我慢しているのか。そう問うのを我慢した方がいい。またおかしくなってきた。何だかわからないが、何がどちらでもいいわけではない。どちらも何もないのではないか。それはそうで、たぶんそうだ。その通りだと思うが、何だかわからない。翌日の昼には寒気の南下に伴って大気の状態が不安定になり、雷が鳴り、雨が降ってきたようだが、それに関して何を思っているのでもないようだ。一段落ついたのだろうか。何に背を向けているのか。何かにとらわれているのだろうか。馬鹿げたことに巻き込まれたくないか。ヤバいのだろうか。とりあえず流行に乗り遅れておいた方がよさそうだ。戦略的にそうしているわけではなく、それが戦術なのでもない。戦わない方がいい。戦わなければ勝ち負けとは無関係だろうか。戦わなければ負けと見なされるのか。それなら負けておいた方がよさそうだ。負けておいて損はないか。負けたら損だろうが、ある程度の損は受け入れておいた方がよさそうだ。そういうことを経験しておいた方が後々役に立つのか。役に立たなくてもかまわない。それでは気が済まなくてもかまわないか。かまわないわけではないが、とりあえずの結果として、そういうふうになるのも一興だろうか。無理にそうならなくてもかまわないのだろう。別にわざと負けているわけではなく、勝つ必要がないだけか。体中の節々が痛む。それでも生きているのだから儲け物か。そんなはずがないだろう。

 フィクションの世界では誰も生きていない。そんなはずもないか。誰かが生きていることの意味自体がフィクションなのではないか。いったい何を持って生きていると定義されるのか。定義など不要か。ただ何となくその場の都合に合わせて生きていたりいなかったりしているのが、自然な捉え方だろうか。無難な線ではそういうことになるだろうか。何が無難であったりなかったりするのもおかしいか。そんなことを考えていくと、もう何をどう判断すればいいのかわからなくなってしまうか。わざとそう思うように仕向けられているのかもしれず、誰がそう仕向けているのかといえば、それは自分自身であったりするだろうか。冗談には違いない。冗談でなければ何なのか。何でもないはずがなく、それでも何か言葉を記しながら考えているのだろうから、少しは真面目な気分にでもなっているのかもしれない。でもそれも冗談のような気がするのはなぜだろう。いつものように本気ではないということか。そればかりではないだろうが、そればかりであったとしてもかまわないと思っているだろうし、そうでなくてもかまわないと思っているのだろうから、どうもとりとめがなく、ただ漠然とそんなことを思っているに過ぎないのかもしれず、そんな感覚に心を支配されているのかもしれないし、もちろんそれでもかまわないのだろうが、さっきから空疎なことばかり述べているらしいことも承知しているみたいで、半ば呆れ返り、そんなことではだめだと思いつつも、一方で何の根拠もなくそれでいいのだと言い放ちたくなるのも事実か。事実でも何でもなく、そんな状況を想像しているだけかもしれない。要するに君はその辺で逡巡を繰り返しているのか。どこかを行ったり来たりしながら、次第に何かが煮詰まってくるのを待っているだけなのか。だが相変わらず何を目指しているのでもなく、何かをどうしようとしているのでもなく、ただ闇雲に言葉を記しながら、何か適当なことを思いつこうとしているのかもしれないが、何が適当なのかわからないのにそれはないとも思い、要するにどっちつかずで、どちらでもいいような気もして、何でもありなのではないかとも思い、それでも何かがそこにあるとでも思っているのだろうか。


5月26日

 たぶん普通ではない。こんなふうにして言葉を記していること自体がおかしいのか。おかしいのかもしれないが、別にそれでどうかしたわけでもないので、何でもないことなのであり、ただ単に言葉を記していること以外に何があるわけでもなく、それ以上でも以下でもないのは当然のことだと思うが、一方で疑念を抱いていることに変わりはないようで、なぜ言葉を記しているのかと自問してみれば、答えに窮してしまうだろうか。別にそれがどうしたわけでもないが、ただ言葉を記しているなら、それを続けようとやめようと、その都度二つの選択肢のうちの一方を選んでいるに過ぎず、やはりそれがどうしたわけでもないのかもしれないが、どうしても続ける理由を見出そうとしても、結局まともな理由などなく、ただ続けたいから続けているに過ぎないとしか思えず、その辺で認識がとどまるだけで、その先に進める気がしないばかりか、そこにとどまる限りにおいて継続が可能となっている他ないのであり、とどまることにどんな価値があるとも思わないが、やめることにも価値を見出せないから、やはり続けるしかないようで、やることにも価値を見出せないのだから、その辺が悩ましいところだが、とりあえず続けている現状を肯定できるような内容にしなければならず、そういうところで工夫を凝らす余地があるのではないかと思いたいが、実際のところはどうなのか。どうもこうもなく、続けているだけで精一杯で、工夫を凝らすまでいっていないのが、正直な認識なのではないだろうか。ではこのような継続は否定されるべき行為か。だが否定されたところでやめる気配など微塵も感じられず、やれる時間と機会がある限りは延々と続けてしまう状況のような気がしているのだが、それはそれで困った状況なのだろうか。困っていようといまいと、言葉を記すしかないようで、そんな思いは置き去りにされるだけで、もはや止めようのない記述に駆り立てられているわけで、それをどうこう評価しても何も始まらないほどの何かに縛られているのかもしれず、そこから身も心も引きはがせないほどの強さで、君は記述に結びつけられているわけか。それも何かの冗談か。あるいは本気でそう思っているのか。どちらでもかまわないか。どちらかを選んでいるわけでもなく、どちらでもかまわないというスタンスを維持しているだけなのか。別にそれが困ったことでもないはずだ。

 頭の中で何かが炸裂しているみたいだ。とても正気とは思えない。冗談ではないのか。冗談ではないだろう。では気が狂っているのだろうか。そう思いたければ思っていればいいが、本当の狂人は自らが狂人だとは思わないはずだ。では正気なのだろうか。たとえ正気であろうとなかろうと、正気とは思えないようなことを記しているのではないか。別にそれでもかまわないのだろう。かまわないとは思わなくても、かまわないと記してしまうのは、そこにどういう理由を当てはめてみても、本当にそうだとは思わないのだろうが、理由などどうでもいいとも思えず、ともかく理由を求めているスタンスを崩さないところが、それらの文章を継続させる秘訣なのかもしれないし、そんな秘訣も何もあったものではないが、とりあえずそう思っておけば、それがとりあえずの理由となり、そんな理由でそれらの記述を継続させていると思っておけば、それで事足りるような気もしてきて、それはそれでそういうことであり、それ以外の何ものでもなくてもかまわないが、それでは嫌なら、また何かもっともらしい理由を探し出そうという素振りを見せておけば、今度はそれがそれらの文章を継続させている理由となるのかもしれず、そんなふうにして記述を続ける理由を問い続ける姿勢が、やはり記述の継続につながっているのであり、そうしている限りは、どこをどう問題視しようと、それこそが記述の糧となるしかなく、そうしている限りはいくらでも継続が可能となるのかもしれないが、果たしてそれでいいのかといえば、いいはずがないと思っても、そのいいはずがないことが、文章の継続に寄与するばかりでなく、そう記すことこそが、それらの文章そのものであり、要するに君はそうやってそれらの文章を記しているのであり、それ以外の記し方は何も試していないことになるわけで、そればかりを繰り返しているからこそ、そこからそれらの継続に対する疑念が生じ、果たしてそれでいいのかと問うことになり、そう記すことも、それらの文章そのものになっているわけだが、要するに君はそれらの問答が無限循環している限りは存在し続けられるのであり、それこそが君の存在理由そのものなのではないか。


5月25日

 しかしわけがわからないとはどういうことか。少しそれについて語りすぎているのだろうか。少しどころではなく、わけがわからなくなるまで語っているということなのか。それはわけがわからないほど意味不明であることの証しなのだろうか。またそれか。それだけではどうしようもないのではないか。ちょっとおかしくなりすぎているようで、何がおかしいのか定かではないのはいつものことだろうが、やはりおかしいことに変わりはなく、そんなやり方で語りを継続させることが間違っているのだろうが、それもそろそろ限界に近づいてきたのか。もう夜だ。外は曇っているようだ。昨日は雨が降っていたはずだ。それがどうしたわけでもないだろうが、それ以上の何を記せるわけでもなく、そう記すのが精一杯で、何となく言葉を記すのが嫌になってくるが、なぜかその辺で迷っているらしい。やるべきかやめるべきかか。その先に何があるのだろうか。その先がないからこうして迷っているのではないか。ではその先がないことに気づいてしまったのか。その先には何がないのだろうか。何かがあるという前提が間違っているのか。たぶん何もない。何もないからその先に何があると思っている。矛盾しているようだが、それもいつものことか。とにかくそれでも無駄に余分な言葉を記さなければならない。ひたすらそうしていないと気が済まないのか。結果的にそう思われても仕方がないような成り行きになっている。でも今がその機会なのだろう。この機会を逃したらまた遅れてしまうか。遅れてしまってもかまわないのではないか。ひたすら無内容ばかり記してしまうのよりはマシだろうか。だがそれでも言葉を記している現状に変わりはない。それは何でもないことであり、何がどうなってもそうなってしまうのだろうし、現実にはさらにそれを続け、それがどうしたわけでもないのに、そんなことを語っているふりをしたいのだろう。外は闇で、この世界も闇に包まれ、それが夜の現実なのだろうが、それも何でもないことであり、ありふれた光景の中でそんなことを記している。君はそれについてどう思っているのか。何についてどう思っているのか定かでない。またそれか。今はそれだけだろう。

 たぶん人ごみの中で何でもない会話に取り囲まれ、何を思うこともないのだろうが、それがこの世界のすべてだと思うのは間違っているのだろうが、それ以上の何があるとも思えず、国会で野田首相が何かしゃべっていたようだが、テレビのニュースでちらっと見ただけでは、その内容にまで興味を抱くはずもなく、忘れているようで、それについて語りたいわけでもなく、消費税率を上げたり下げたりするだけが大問題のだろうし、彼はそうではないと主張するだろうが、実際にやろうとしていることはそういうことでしかなく、そうする理由がどんなにもっともであろうとなかろうと、やはり君には関係のないことか。だがそれでは話にならないのではないか。だからたぶん話にならないから無関心なのであり、無関心だからこそ、そんなことについて語る気がしないのだろうが、確か昔はそんなことについて語っていた時期もあったはずだが、ではなぜ今は語る気がしないのか、理由がわからず、理由を探ろうともせず、ただ興味がないと思うばかりで、どうでもいいような気がするだけなのか。たぶんそんなことに首を突っ込もうとしても、相手にされないことがわかっているので、自然とそういうことがわかってきてしまったので、自ずから興味がなくなってしまったのかもしれず、それにも関わらずまだそんなことについて語ろうとすれば、その先に待ち構えているのは、評論鍵取りの文章を記す結果になるだけなのかもしれず、一時はそんなふうなことを記していた時期もあったのかもしれないが、やはりそればかりでは飽きてきたようで、それではつまらないように思われ、もう少し違った何かを記そうと試みてきた結果が、これであり、それも行き過ぎて、わけがわからなくなり、半分嘘かもしれないが、嘘でもかまわないから延々とそんなことを繰り返しているのかもしれず、要するにそれは自業自得なのだろうが、それをやめるタイミングを逸してしまい、今日に至り、今さら改められないこと気づき、途方に暮れている次第かもしれず、それが冗談なのか身から出た錆なのか知らないが、要するにそんな成り行きの翻弄され、さらなる意味不明を実現すべく、さらにそれを繰り返そうとして、同時にそれも嘘ではないかと疑いつつも、まだそれを続けている現状があるように思われる。


5月24日

 これとは何か。そこから語り始めるつもりなのか。これとは何だろう。何でもないのにこれとは何なのか。ただ文字列に違いない。わざとそう述べているのではないか。たぶんそんなふうに言葉を記しているのだろう。それがいつものやり方か。そうするのは君にとって極めて当然の成り行きみたいだが、何かおかしくないか。おかしいのはいつものことか。おかしいから疑問を感じ、いつも疑念を抱いているはずだ。たぶんそれがすべてなのだろう。本当はすべてではないだろうが、すべてだと述べるのがここでの流儀なのかもしれず、それが何のための流儀なのか定かでないようだが、少なくとも単なる字数稼ぎではないような気がしていて、そういう迂回を経ないと、どこかにたどり着けないのではないか。しかしたどり着いた先に何が待ち構えているというのか。待ち構えているのはこんな結果か。では君はこんな結果に満足しているのか。満足していないから、こうして何度も何度も同じような内容を繰り返し記して、これとは違った内容に至ろうとしているようだが、どうしてもこうなってしまうらしい。それが焦れったくてたまらなかったりするのだろうか。君にとってはそうかもしれないが、たぶん誰にとってもそうかもしれず、早くこれとは別の内容を記してほしいと思っているのかもしれないが、未だここから抜け出たふうはないようだ。たぶんそれも冗談のつもりで述べていることなのだろうが、それしかできないのだから、それはそれでそういうことでしかないだろう。君はさらに苛立つかもしれないが、それもそういう成り行きの中でそう感じているに過ぎず、たぶんそこから逃れる術を知らないのだろう。それは君には過ぎたことなのか。出過ぎたマネをしているわけでもないのだろうが、出る杭は打たれるが、出過ぎた杭は打たれず、そんなことわざを思い出すが、それとこれとは無関係なのではないか。なぜそう思うかは、何かの拍子でそんなことを思いついたまでのことで、あまり意味的にも文章的にも前後のつながりを欠いているようで、要するに意味不明なのだろう。

 ところでそんなふうに述べて何を思いたいのか。風景が過ぎ行き、光景が移り変わり、景色がどうなっているのだろうか。たぶんそのままだ。すべては見慣れている。人も物も動かない。実際には動いているのだろうが、ただ動いていないように見える。何かの錯覚か。何でもないことの延長上にそれらの風景があり、それを見慣れていると思うことが、それらの認識を助長して、そう思っている君は何でもない人間と化し、要するにそれらの風景の中で止まって見えるわけか。だからそんなのは何かの錯覚だろう。錯覚だからこそ、実際には動き回っているのであり、自らが動き回っているように感じられる範囲内では、要するに自らが生きていると実感できるのだろうし、まだこの世界に何らかの希望があると思われ、希望がある限り期待し、そうなるように努力できるわけだが、そう思うことの何が間違っているのか。思っていること自体が錯覚の中で思っていることになるのだろうか。君はまだ自らがフィクションの中の登場人物であることに気づかないわけか。そんなはずがないと思っているうちはそういうことであり、それを自覚した瞬間からこの世界は完全に停止してしまうわけか。だからそんなはずがない。そう思っている限りはこの世界が止まっていることに気づかないわけだ。どうやらまた何かの冗談でそんことを記しているのだろうか。その辺がおかしいわけか。それは君がおかしいのではなく、君にそう思わせているこの世界がおかしいのではないか。しかしそれらのフィクションの中では、架空の君が何を思っていることになっているのだろうか。どうせまたわざとそういうことを記しているのだろうが、記している間に冷や汗が出てこないか。冗談ではない。冗談なのに冗談ではないと記したい。何がそうなのかわからないが、そんなふうに語りたいらしく、それが余分なことだと知りつつも、やはり自意識がそれをやり続けたいようで、その辺で困惑してくるみたいだが、その困惑を乗り越えてでも、それらの継続に命をかけているわけでもないのだろうが、何となく目が疲れてきて、その辺でやめたくなってきて、とりあえずそれらの継続を中断せざるを得なくなり、実際にそうなってしまうようだ。


5月23日

 何も重要ではない。そう思われても仕方がないようだが、そう言いきってしまってかまわないのだろうか。今のところは誰もそんなことを言っていないのではないか。ならば架空のフィクションの中ではそうなのか。君がそこで何を読んでいるとも思えない。では他に何かを見つけたのだろうか。以前の取り決めでは、そういうことではなかったはずか。取り決めも何もないはずだが、このままでもかまわないような気がしてくるのはなぜだろう。今さら何をどう問われても、答えを出す気にならない。それとは無関係に、さっきからしきりに首を傾げているようだが、別に床が傾いているわけでもないらしい。それもさっきまでの成り行きとは違う流れか。つい今しがた何かを思い出したのかもしれないが、たぶんそういうことではないのだろう。面倒くさいだけなのだろうか。今やれることには限度がある。それにしてもまただいぶ言葉を記すのが贈れてしまったようだ。いつものことなのだろうが、機会を捉えて作業時間を確保しているはずなのだが、やはり遅れてしまうのは致し方のないことか。ここに至るまでにはまただいぶ紆余曲折があったのかもしれないが、やはり何の因果か知らないが、こんなふうに言葉を記すはめに陥ってしまい、何だかしっくりこないようだが、そういう成り行きに身をまかせるしかなく、言葉を記すはめに陥ってしまうらしい。たぶんそれで何がどうなるわけでもないのだろうが、そうならざるを得ない流れになっているようで、それも嘘くさいが、やはり何も語らずに、何かを語っているふりをしているみたいで、それにつられて言葉が自然に連なり、そんな成り行きに戸惑うこともなく、それが当然のことのように言葉を記すしかなく、君はさらに虚無を追求するはめに陥ってしまうのだろうか。そんなはずがないと思いつつも、実際に記されたそれらは、そういう無内容を示しているように感じられ、それらの結果は疑いようのない事実を画面上に提示ているわけなのか。いったいそれは何なのだろうか。そんなふうに問いかけようとするから、白々しくも、当然のことのようにそうなってしまうのではないか。実際に何がそうなっているのだろうか。

 君はわかっているはずだ。この世界がこの世界でしかなく、この世界以外の何ものでもないことがわかっているのだろうか。わかっているのはその程度のことなのか。何もその程度ではなく、それ以上でも以下でもないから、そういうことになってしまうのであり、後は妄想を抱く範囲内でそれらのバリエーションがあり、言葉やイメージからこの世界の歪んだ有り様が想像され、中にはそうなってほしいと思っている輩もいるようで、そう思えば思うほど現実離れした世界像を提示してしまうことになるのかもしれず、それに賛同する者たちが、彼らが作り上げた虚構の世界に集い、イメージを具現化した何らかの人工物を形成して、たぶんそれを共通の神として崇拝することになるのだろうが、そういう行為が現実の世界で何を招いているかは、今や誰もが知っているところだろうか。要するに誰もがバベルの塔の建設を目指しているということか。それは具体的に何を指すのだろうか。官僚機構を内包する国家とかそういう構築物のことか。それの何が構築物なのか。また何かの冗談でそんなことを述べているのだろうか。冗談かもしれないが、冗談であろうとなかろうと、そんなことを本気で考える気はないようで、ただ述べていることの中で、何かがずれているような気がして、そのずれている何かを知りたいところなのだろうが、どうもそれをうまく表現できないようだ。そう思うだけではまだ何かが足りないのだろうか。では納得できる答えにたどり着くには何が必要なのか。それがわかればこれらの退屈な回り道から逃れることができるだろうか。そこで君は何を主張したいのか。そういうことではないだろう。たぶんそれはどこかにたどり着こうとすると決まって発動する何かであり、その何かに導かれながら、こんなことを述べているのであって、君が恣意的に何を述べようとしても、決して君の思い通りには述べられないのだろうし、そのような成り行きに従ってでないと、まともなことは何も述べられないようなシステムの中で述べているような気がするのだが、君はそれについてどう思っているのだろうか。どうやらまたおかしな方へと言葉の連なりが向かっているようで、君の制御を受けつけないような成り行きみたいだが、もうこの辺でいいのではないか。


5月22日

 何を疑問に感じているわけでもない。でも現状がおかしいことに変わりはないだろう。まともに語っていないのではないか。それはわかっているが、明日の天気を知りたいのか。またおかしなずらしが入ってしまうが、他に何を知っているわけでもない。他がないみたいだが、とりあえず風が強い。一時のことだろう。明日は雨が降るかも知れない。明日といっても三日後のことか。さらに遅れるのかも知れない。はっきりしたことはわからないが、それもこれもわからないのに、それとこれとで何が違っているのだろうか。また無駄に言葉を追加している。君はまだ現状の何たるかがわかっていないようだ。わかるわけがない。誰にも何が違っているのかなんてわかりようがない。たぶん何も違わないのだ。実際に何も違っていない。では何も違っていないことの何がおかしいのか。今からやろうとしていることがおかしいのではないか。仕事以外は何をやるつもりもない。では何なのか。要するに外部へ向かって伝えるべきことが何もないようだ。外部とは何なのか。内部の世界で同じような記述が繰り返されているに過ぎず、だから何かが違っていると思われるのか。実際に何が違っていることになるのだろう。それ以前に語るべき言葉がない。少なくとも言葉で語るべきなのだろう。他に何で語るというのか。何もやれずに何も語れない。それはさっきからそうか。仕事はこなしているのではないか。それが何でもないことなのに、目隠しされているわけでもないのに周囲が見えず、何かがそこにあるらしいが、それについて語れない。ノイローゼか何かだろうか。それはつまらぬ死語だ。死後を記したついでに何を思いついたのか。ついでではなく、本当に何がそうなのかわからなくなっているようで、そうではないような気がするのを無視しながら、とにかくそれについて語らなければならないと思うが、実際に君は何を語っているのだろうか。支離滅裂でまったくまとまりが欠けているように思われるが、それでも何かを語っているらしい。

 もういい加減に腹をくくって、そんな感じでもかまわないから、とにかく言葉を記した方がいいだろう。MacBook Proだと、言葉を記している途中で、Webを見たりメールを読んだり音楽を聴いたりして、気が散ってなかなか作業が進まず、古いPowerBookだとATOKだからすらすら書けるのだが、FTPに難があって、ファイルが大きくなるとWebページに文章をアップロードできず、結局DELLのINSPIRON mini+Debian Linuxでこの文章を記しているわけだが、これだと仮名漢字変換の効率が悪くなり、変なところで変なふうに変換されてしまうと、何だかイライラしてしまう。ならばもうこの手の機種はあきらめて、いつか流行りのタブレット端末でも買って、それで言葉を記してみようか。だが今のところそれは冗談でしかない。空疎なことしか記せない現状では、何を述べてもくだらぬいいわけにしかならず、それを克服してまともな内容を記せなければ、いくら機種を替えてみたところで何にもなりはしない。わかっているならさっさと言葉を記せばいいではないか。そんなわけでそんなことを記している現状があり、これでいいはずがないのだろうが、ともかく前へ進めないと、さらに遅れてしまいそうで、そんな内容で妥協しながらも、まともなことが記せる機会が巡ってくるのを待つしかないようだ。待てばどうにかなるとも思えないのだが、やはり今は待つことしかできない。他にうまい方法が思い浮かばないのだから、あきらめるしかないようにも思われ、こんな具合に言葉を記している現状を肯定的に受け止めるべきなのだろうか。しかしこれをどう肯定したらいいのだろうか。どう読んでもこれではだめなような気がするのだが、ではまともな内容とはどんな内容なのかと考えてみると、それがよくわからないことに気づき、案外これはこれで、こういう内容でいいのであって、現状ではこんなことしか記せないのだから、それをそのまま続け、そうならないようになるまで延々とそれを繰り返せば、自然と自ずからこれとは違った内容に移行していくような気もして、そうなる期待も込めながら、今後もこのまま続けていく気でいるのかもしれない。


5月21日

 大変なことだ。わざとそうやっている。まだ何も明かされていないだろう。新種のトリックでも仕入れてきたのだろうか。何が仕込まれているわけでもない。たぶん何でもないのだろうが、それが大変なことかも知れず、何でも内容に振る舞うのが大変なのだろうか。何が起こっても至って冷静だ。しかし言葉が抜けている。説明になっていないのだろう。説明する気がないのかも知れない。あくびがでてくる。すべてが遅れぎみになっているようだ。それが愉快でたまらないか。そんな感じなのだから、そんな成り行きに従うしかない。別にそれでもかまわないか。いつもそれで、なしくずし的にそうなってしまうようだ。まったく呆れてしまう。だがそれで何に関わろうとしているわけでもないのだろう。関われないのではないか。説明など必要とされておらず、ただそうなってしまったことを受け入れるだけで、あとはさっさとその先へ進んで、そこで待ち受けている新たな出来事に対処しなければならず、あまりの慌しさに我を忘れがちになりそうだが、所詮はそんなことの連続の中で埋没してしまって、機械の歯車的な人間と化す他ないのだろうが、そこで何が見失われているわけでもなく、それも社会の中で生きる人間の特性といえば特性に過ぎず、多くの人々が受け入れている境遇なのかもしれない。少なくともそうなっているふりをしているうちは、周囲の人々も安心するだろう。そういう意味ではただの人を装うことは、社会の中で生きる上で必要不可欠な振る舞いなのかも知れない。だが別に装っているわけではなく、自然とそうなっているだけで、無理をしていたり、わざとそうやっているわけでもないのではないか。その分相応な感じがいいのだろう。この世界には他に何もありはせず、あるのは瑣末なことばかりだ。そう思っていればいいのではないか。本当はそうではないのかもしれないが、今はそう思っていることにしておこう。またそうやって嘘をついているのだろうが、それの何が見え透いているわけでもなく、それが何かの引き延ばしを誘発しているわけでもないはずだ。

 それらの何が気に入らないのか知らないが、どうも自然とそうなっているとしか思えず、意識してそうやっているわけでもないのは確かなことで、その辺はあまり気にしなくてもいいのだろう。実際に何が語られているわけでもなく、ただ言葉が並び、文字が記されているだけで、それを読めばいいだけのようだ。他に何をやろうとしているわけでもないのだろう。君自身にしても、何かはっきりとした目的があるわけでもなく、ただ漠然とそれらの光景を眺めているに過ぎず、そこから何を抽出しようとしているのでもなさそうで、とりとめのない感覚のまま、恣意的にそれらを捉えて、改めて言葉で再構成したいわけでもないだろう。それらはあるがままに存在しているだけで、君たちに何を告げようとしているとも思えないはずだ。関係ないのだろうか。それらの何に関係したいのか。できれば関わり合いになりたくないのではないか。それらとは無関係な範囲内で、適当にそこにある何かと戯れていれば、それでかまわないと思っているのかも知れず、眠気をこらえながらも、あえて首を突っ込むまでもないことであり、要するにままごと遊びをやっているように思われていれば安全で、あまり本気な素振りを見せないようにしていることが肝心なのかも知れない。たぶんその辺のさじ加減を誤らなければ切り抜けられるようなことでしかなく、深入りせずに済ますことができれば、それでうまくやっていることになるのだろう。それは冗談なのだろうか。君はそうやって切り抜けようとしているわけなのか。しかしその程度のことを切り抜ける必要があるのか。あえて切り抜けずに、そんなぬるま湯に心ゆくまで浸かっていた方が、だめさ加減を演出できて、うまくいくかも知れず、別にうまくいかなくてもいい程度に思っていた方が、より自然な成り行きになるはずだ。しかしそれが何のための演技なのかが、今ひとつはっきりとはわからず、たとえ自己防衛の手段なのだとしても、そんなに卑屈なことをやる必要もないようにも思われ、逆に状況を深刻に捉えすぎていることの証かも知れないが、そんなことを述べているうちにも、どうでもいいことに違いはないようにも思われてきて、それの何が矛盾しているわけでもないのだろうが、何だかおかしな気分となるらしい。


5月20日

 やはりこうなってしまうのか。何がこうなってしまったのだろうか。何もこうなっていないのではないか。ではなぜそう問うのか。また何も思いつかないのだろうか。きっとそうだ。人には人それぞれに固有の事情がありそうだ。別にそれについて語りたいのではない。二日後は雨が降っている。日付的にはそうなる。だがそれがどうしたわけでもない。何を糾弾しているわけでもない。たぶんそれは人固有の問題でさえない。だが何でもないと述べてしまってはそこで終わってしまう。語る必要のないことかもしれない。ならば語らなくてもいいのだろうか。語らなければ話にならないのではないか。そんなところで問答を繰り返していてはまずいのではないか。人はなぜそんなことを考えるのか。やめておいた方が無難だろうか。では語らなければいい。この世に語るべきことなど何もありはしない。そう思っていれば気楽になれるだろうか。別に気楽になろうとしているのではない。では何なのか。語りたいのだろうし、それについて考えたいのだろう。それができないから困っているわけか。でもそれがどうしたわけでもないだろう。そう思えば元の木阿弥になり、ふりだしに戻ってしまう。別にすごろくをやっているわけでもないだろう。賽を振っているわけでもない。くだらぬ問答と独り言の最中なのだろうか。そういう時間帯なのかも知れない。何がそういうことなのか。語る必要がないらしい。人の運命などどうであってもかまわないと思っている。死んでも生きても生き残っても残らなくても、それがどうしたわけでもない。なぜそんな感覚を得たのか。そこにどんな結論が提示されているのか。それを用いて何をバカにしたいのか。たぶんその辺がよくわからないのだろう。なぜかどうでもいいと思ってしまうようで、自分には関係のないことのように思えてしまうらしい。この世の何が気に入らないわけではない。たぶんそれでかまわないのだ。

 嘆く人がいるらしい。なぜそうなってしまうのか。なぜそれが何でもないことなのだろう。重大なことであり、それを感知できないのは深刻な事態なのだろうか。そうかもしれない。確かにそうだ。でもそんな嘘をついても無駄だ。それほど正解を欲しているわけでもないのに、正しい答えが導き出されて、困惑してしまうわけか。そんなはずがない。それをどう説明したらいいのだろうか。どのような妨害工作が待ち構えていようと、たぶんそうなってしまうのだろう。妨害して、その妨害が功を奏して、うまくいったとしても、結局そうなってしまうような気がしてならないのは、どういうわけなのか。わけなど何もないのか。何もなくてもそうなってしまうわけか。なぜそうなってしまうのではなく、単にそうなってしまうのであり、そうなるより他はありえないのかも知れず、どんなにそうならないようにしても、結局そうなってしまうのだから、もはやそんな成り行きに逆らうのは無駄なのかも知れない。ではついに君はそれを悟ってしまったのか。冗談だろう。冗談に過ぎないかも知れないが、冗談であろうとなかろうと、実際にそうなってしまうのだから、誰にとってもそれはどうにもならないことのようだ。運命とはそういうものだ。運命に従うのも逆らうのも運命の範囲内だ。川の民が何を考えていようと、川は流れ、時には洪水で命を落とす。君に何ができるというのか。君には君の領分というやつがあるはずか。だがそれがどうしたのか。そこから遠く外れて何を考えても無駄であり、何をやろうとしても無理なのだ。それでも語りたいのだろうか。もうすでに語っている最中か。それにしては浮かない顔をしている。語っている内容が間違っているのだろうか。それとも語ること自体が間違っているのか。そういうことではないような気がしてこないか。何か間違っているのか。間違っているとしてもそれでかまわないのではないか。間違っていることが正しいような気がしてくる。そうならざるを得ないのだから、間違っていてもかまわないのではないか。今はそう思うしかない。


5月19日

 またおかしなことを考えているようだ。君にまだ機会が残されているのだろうか。神が君に何を望んでいるのかわからない。何も望んでいないのではないか。今の境遇から思えばその可能性が高い。しかし機会とは何をやる機会なのだろうか。別に自爆テロをやる機会が巡ってくるわけもないか。そういう冗談に逃げるのは意味不明だ。君はまだ自分の置かれた立場がわかっていないのではないか。そんなことではない。ただ何も考えられないだけなのだろう。眠たくならないのか。少なくともこんな状況で天下国家について論じるわけがない。いったい君はこの世界で何を見ているのか。見ているものも思っていることも、すべてが冗談なのだろうか。そんなわけがない。どうせまた意味不明なことを述べてしまうのだろう。でもこんなところであきらめてしまったら、この先に何を語ればいいのかわからなくなってしまうではないか。どこかの岩山に誰かが登っている。そんなことを想像して何を語る気なのか。苦し紛れか何かか。コーヒーを飲んだら気分がおかしい。そこで何かが確定しているようだ。もう終わりなのだろうか。また深刻に考えようとしているみたいだが、冗談に決まっているだろう。内容がないのもいつものことだ。やる気がしないのもいつものことか。それでもやっているのだから、本当はやる気があるのではないか。君が知っている話ではないし、感知しているとも思えない。では何なのだろうか。これから何かを語ろうとしているらしい。それだけのことか。どう語ろうとしても内容が支離滅裂となってしまう。笑ってしまうが、これが現状であり、認めざるを得ないようで、何となくやる気が失せて、音楽でも聴きたくなる。

 それは何のための記述なのか。そう述べてまた何かを蒸し返そうとしているらしいが、無理に決まっている。実際に何も思いついていないのではないか。それでも記述を継続させるつもりのようで、結局そんな内容となり、さらにやる気を失ってしまうらしいが、それも冗談のたぐいか。またテレビを見ながら居眠りの最中だったのだろう。だがそれでは見ていないことになりはしないか。それでもかまわずに、その先に言葉を記してみるが、たぶんそれでかまわないのだ。やめておいた方がいいのかもしれない。君がやめないのを知っていながら、そんなことを記しているのは誰なのか。そういうことではない。画面が横にずれていることに気づいただけか。冗談に違いない。何もかもが君が離れていってしまうようだが、それはどういう感覚なのだろうか。もう忘れてしまったのか。あり得ないことをあり得ると思い込みたいだけか。何がそうなのだろう。もうそれには興味を持てなくなってしまったのかもしれない。何か得体の知れぬ感覚に心を支配されている。それも苦し紛れのなせる業だ。そして君は外れているのであり、何から外れているのかわからないまま、さらによりいっそう外れ続け、やはり支離滅裂な結果を受け入れざるを得ない。何も語れないはずだ。いくら笑っても無駄か。できるわけがなく、できないのにやろうとするから、さらに行き詰まり、語っている内容の支離滅裂度が増し、よりいっそう意味不明になるだけか。それでかまわないとは思うまい。そんな現状を受け止め、何か対処しなければならない段階になろうとしている。そうでなければ、さらにおかしくなってしまうだろう。

 ともかく君はそんな選択肢を選んでいるはずで、どうにもならない状況の中で、どこかの袋小路でさまよっているはずか。そんなのはあり得ないことだろうか。だが反論しようがない。この世のすべてが枝葉末節の集積から成り立っていると思っているわけか。苦し紛れの何かが作用して、唐突にそんなことを思いつくが、抜け出られるとは思えない。抜け出る方策が思いつかず、何をどう語ったらいいのかわからないまま、またもやこんなところまできてしまったようだ。いったいこれはどういうことなのか。もう夜だ。何を考えているわけでもなく、考えがまとまることもなく、それを言葉に記すこともなく、そんな矛盾を抱え込んだまま、何が矛盾なのかわからないまま、何となく画面の前で誰かが笑っているように感じられ、記された言葉の連なりに宿っている虚構の意識が、何を捉えているとも思えないが、それについて説明するのが面倒くさいので、そんな嘘はそのまま放置されるだけのようで、君自身の現前を妨げているそれらの文章が、誰によって記されているか不明のまま、それも嘘には違いないが、ごまかしになっていないところがごまかしのように思われ、文章になっていないところがリアルな何かを漂わせているようにも思われ、何だかわからないまま、そんなことを記しているだけでかまわないような気がして、それが怠け心から生じていることも承知の上で、あえて説明しようとせず、説明できないからそうしているのだろうが、ともかくそんな調子で言葉を記して文章を構成している現状があるらしく、それを受け入れざるを得ないような立場を拒否できないところが、やはりそれらの意識が抱え込んでいる致命的な欠陥なのだろうか。そうだとしても今後も改める機会などまったく巡ってこないのではないか。


5月18日

 夜になっておかしくなる。現状と思惑がずれているのではないか。どうも語っている話の内容がわからない。途中で意味不明になってしまうのはいつものことだが、語っているのは話ではないのかもしれない。では何なのか。本気でやりたいことをやっていないような気がするが、やりたくないことをやっているのは毎度のことで、そのおかげでこんなふうになってしまったのではないか。実際にどんなふうになってしまったのか。窓の外では風が吹いている。画面を見ながらよそ見をしているのだろうか。何を見ているわけではない。完全に判断を誤っている。そう思われても仕方がないような気になるが、たぶんそれで正解だろう。君の問題ではない。何がそうなのかわからないが、何もそうではないのかもしれず、結局何がそうなのかわからないのは、そう思われるのが当然のことのような気がして、そのままでもかまわないのではないか、と誤解しそうになるが、それの何が誤解なのだろうか。いったい君は何について語りたいのか。確かに何かがずれているようだ。また語り損なっているのだろうか。語る以前の段階で語ろうとしているのかもしれない。だから何も語れなくなる。実際にそうなっているではないか。だから何とかしなければと思いつつも、そんな思いが空回りしている。そして何が何だかわからないまま、そんなことを記しているわけだ。どうもその辺がおかしいようだが、未だにそれを改められず、見切り発車的にこんなふうになっているようだ。だから何がどうしたわけでもなく、それの何を批判したいわけでもなく、そんなことを単純に考えすぎているわけでもない。しかしそんなことを記しながらも、今から何を語ろうとしているのか。君が何か語りたいのだろうか。そう思ったとたんに眠くなり、思い直してやめてしまいたくなるが、なぜそうなってしまうのだろうか。何も語れないからそんなことを語っているのではないか。そして実際に語っているわけだから、矛盾を感じているはずだ。まともなことは何も語れないが、そんなことならいつでも語れるということか。だからそれがだめなのではないか。それで思い悩んでいるわけか。時にはそんな嘘をつきたくなる。とりあえずそうではないようなことを語らなければ、それらの思い違いや矛盾を解消できそうもない。それでここまで記してきたはずだ。だがそれでは理由になっていないだろう。君には語る理由が必要なのか。

 理由など要らないのではないか。それもこれもごまかしには違いない。ではもう我慢の限界か。しかし何を我慢する必要があるのか。たとえ説得力のある理由を探し出したとしても、それで何が明らかになるというのか。そうではないだろう。何がそうではないのかわからないようだ。どうも文章になっていない。頭が重い。何を問い続けてきたのだろうか。誰かが何かの役割について何か述べていたようだが、君には冗談としか思えない。何の何が冗談なのかわからないが、狭い範囲で何か考えていると、その外側が見えなくなって、ついつい滑稽な認識に至ってしまうようで、あとからそれに気づいて恥ずかしくなってしまうことがある。今がその時なのか。何に気づいたのだろうか。皮膚のアレルギーならだいぶ前から気づいているはずだ。たぶんそういうことではない。君はその辺で誤解に気づいているのだろうか。文章になっていないようだ。おかしいのはそれだけではない。何に関してもそうであって、やっていることと感じていることがずれまくっているような気がしてならず、完全に意識が身体からはみ出しているようなのだ。それはどういうことなのだろうか。感じとしてはそうであっても、現実にはあり得ないことなのではないか。


5月17日

 この感覚は何なのか。少しおかしいだろうか。少しどころではない。やはり何となく変なような気がして、怪しげな雰囲気になっている。しばらく放心状態みたいだ。何もしていないのにそれはないか。シックハウス症候群だろうか。あるいは他の何かのアレルギーか。何にしてもおかしい。このまま死んでしまうのではないか。そんなはずがないだろう。では何なのか。何となく正気とは思えないか。そうではない。また何かが始まったようだ。それは幽体離脱か何かか。冗談のようだが、この感覚に襲われると何もできなくなってしまい、そのまま翌朝まで身動きがとれなくなってしまうだろうか。そんなはずがない。鼻が詰まってきたのでコーヒーを飲むとしよう。その前に鼻をかんだら、耳の奥からキーンという音が聞こえてくる。結局昨晩はコーヒーも飲まずに眠ってしまったようだ。翌日に言葉を記しているようだが、昨晩のあれは何だったのか。単なる嘘か。昨晩はそんな気がしたのだろうが、今は何ともないようで、昼休みに眠気に逆らいながら、誰かがそんなことを記しているわけか。もう夜になっている。体力を消耗しているようだ。昨晩は飲めなかったコーヒーを淹れて、今飲もうとしているらしいが、それがどうかしたのか。たぶんどうもしないはずで、どうかしているとすれば、買って封を開けてからだいぶ経ってしまったレギュラーコーヒーだから、賞味期限切れかもしれないが、飲んでみればふつうの味だ。胃が少し痛むが、とりあえず気分がすっきりする。きっとカフェインの作用なのだろう。

 なんだかスピーカーから聞こえてくる音のバランスがおかしい。そんなところに気づいてどうするのか。どうもしないが、iPodを深く押し込んだら直ったようだ。しかし何を述べているのか。完全にふぬけ状態か。何かを見失っているのかもしれない。まさかとは思うが、おそれていた事態がついに起きたのだろうか。そんなはずがない。また君は冗談でそんなことを述べている。この期に及んで見栄を張りたいのか。またおかしな妄想を巡らしているらしい。君はその現象に心当たりがあるのではないか。君自身が招いたことか。誰がそれに気づいているわけではなく、君もまだ気づいていないはずだ。どこからか病気が伝染してきたらしいが、原因はそんなところにはない。では何が原因なのか。どこかの神社の裏にある大木に、両目を釘で刺したわら人形でも打ち付けられていたりするのだろうか。それは大げさな話だ。その前後でそれにまつわるフィクションが語られなければ、信憑性も何もありはしないか。また冗談で述べていることかもしれず、それ以降は何の進展もないのかもしれないが、話がそこで終わるわけでもないはずだ。では何を語ればいいのだろうか。どうせ面倒くさくなって、そこから外れてしまうのだろうが、何となく見え透いた嘘でもつきたくなってくる頃か。それは苦し紛れに決まっている。だからやめておいた方がいいのだろうか。やめておくべきだったのだろうが、ここまで言葉を記してきた事実は否定しようがない。しかしそれで窮地に陥っているわけでもないのだろう。またいつもの冗談でそんなことを述べているだけか。それにしてもなんだかおかしい。


5月16日

 それはいつものことなのか。そうではない。忘れているようだが、それで何かわかった気がしないか。もう昼間考えていたことを忘れてしまったのか。そんなことを考えているうちに、何だかその手のフィクションの無理さ加減がわかってきたような気がしたのだが、忘れているらしい。それは数日の前のことだ。話の中で危機一髪の場面が過剰に頻発して、その中で人は偶然に生き残り、そうでなければ超自然的な力が必要とされる。それがないと直面している困難を乗り切れず、途中で力尽きてしまう。しかしなぜ困難に立ち向かわなければならないのか。そうする理由がどこにあるのだろうか。そうしないと話がおもしろくならないからか。それはわかりきったことだ。おもしろくしないと話そのものが成り立たず、それ自体が存在しないこととなってしまう。だから無理な話を成り立たせるには普通の人間では無理であり、そのためには力が必要なのだ。しかし力とは何なのか。ある種の超能力なのだろうが、それが発現しないと話にならず、同時にその存在がそれらの物語に致命的な欠陥を生じさせているような気がするが、それでも話に興味を持ってもらうためには、致命的な欠陥や矛盾を凌駕するような超能力が必要なのか。だが物語に生じている致命的な欠陥とは何なのか。君は肝心なそれを思い出せないらしい。冗談だろうか。冗談ではないと思いたいのか。あるいは君は力のインフレーションについて語りたいのだろうか。たぶん『ワンピース』も『NARUTO』も、それがなかったらものすごい物語になっていたはずだ。だがそんな冗談を述べて、君は何を狙っているのか。特定の狙いなどありはしないか。では何を想像しているのか。

 もしかしたら貴種流離譚について語りたかったのだろうか。それは的外れに違いない。たぶん人は武器がなければ戦わず、戦えなければ戦わない方向で努力するだろう。どこにも強大な敵などいはしない。ではいるのは何か。君たちと似たような他人だけか。ではその他人が何をやっているのか。ある方面では、より殺傷能力の高い武器を開発していて、開発した武器の使い方を習得するための訓練が繰り返され、また別の方面では、より効率よく敵を倒すための作戦が考案され、作戦を遂行するための訓練が繰り返されている。君はアルカイダか何かか。そんなことを想像してもつまらないだけか。君には興味がないらしい。では他に何があるのだろうか。人々は働いて金を稼ぎ、稼いだ金で生活している。それだけのことなのだろうか。単純な認識には違いないが、それ以外を思いつかないようで、何だかそんなことを考えているうちにも、だんだん馬鹿らしくなってきたようだ。人は働いて稼いだ金の一部を使って漫画を買い、その漫画を読んで高揚感を得る。高揚感を得るにはそんな漫画うってつけなのか。そんなふうにして合理的に説明したつもりになれば、何だかわかったような気分になるだろうか。君はなぜ気分が昂揚しないのか。漫画を読んでいないからそうなのか。読めば昂揚するだろうか。するかもしれないが、その気がないらしい。たぶん漫画を読むためには偶然の巡り合わせが必要なのだ。何かのきっかけでその気になれば、君も漫画を読むだろう。そして読んでおもしろければ気分が昂揚するはずで、そうなっている間は馬鹿らしくは思わないだろう。君はそうなりたいのだろうか。

 今日も昼間は暑かったようだ。実際に仕事をしていて汗をかいたのではないか。今は静かだ。関係ないだろうか。関係があった方がいいのか。何と何とが関係したいのか。爽快感とは何か。冷えた生ビールでも飲めば爽快な気分を味わえるのか。またおかしなことをわざと述べようとする。そういうことかもしれないが、そうではないような気もしてくる。人は何を欲しているのか。たぶん爽快感だけではない。中にはうじうじしたことを考えている人もいるはずで、せこい損得勘定に固執している人もいるだろう。ではどうしてもフィクションの中でしかできないことをやろうとしている人もいるのだろうか。だからそれとこれとは関係ないだろう。君も超能力者にでもなりたいのか。そしてその力を使ってフィクションの中で暴れ回りたいのか。しかし現実の世界ではどうなのか。仕事の他に何かやりたいことでもあるのだろうか。こうして言葉を記しているのは誰なのだろうか。人は安易に世直しみたいなことを考えがちだ。そんなことを考えていると何か報われることを期待してしまうわけか。実際に何をやったらいいのか。今やっているそれでは不十分なのだろうか。しかし他に何をやったらいいのかわからないのではないか。左腕が痛い。何かにぶつかって打撲したのかもしれないが、その時を思い出せないらしい。気がついたら左腕が痛くなっていて、もうだいぶ時間が経つのに痛みが退かず、嫌な感じがしているらしいが、それとこれとも無関係だろうか。指先のしびれは何なのか。それとこれとは何か関連があるのだろうか。二百気圧の高圧洗浄機を一週間に一度数時間使っているので、それの影響で指先がしびれているのかもしれず、まさか左腕の痛みもそこからきているのだろうか。そうだとしたら何なのか。何でもないか。


5月15日

 雨が降り続いているようだが、相変わらず何も思わない。何も思えないのではないか。何とも思わないのか。少しずらしても結果は変わらない。そんなことはどうでもいいのは相変わらずだ。だがそれで正気を保っているつもりなのだろう。フィクションの中ではどうかわからない。また架空の登場人物について思いを馳せているのだろうか。そんなはずがないか。ではきっと嘘をついているのだ。何でもできるわけではないが、何かを制御しているつもりになっているはずだ。そんなことはないと思いたいのか。では何をいいわけに利用するつもりなのだろう。何も考えていないようで、何を語ろうとしているわけでもない。ただ無駄に言葉を記している気でいるらしい。それも嘘なのだろうか。でもそれではまともな文章にならないのではないか。どうやらまた何かがおかしくなっているらしい。ジャズでも聴いてその気になっているのだろうか。それもおかしな話だ。では何なのか。何でもないという台詞は聞き飽きたか。何の見境もなく言葉を記している。それでおかしくなってしまったのだろうか。誰がおかしいのでもなく、そんな文章がおかしいだけか。何となくそれでかまわないような気がしてくるが、それもおかしな具合かもしれない。しかしこれから何を語ったらいいのだろうか。すでに語っている最中なのに、それはおかしな問いだ。また面倒くさくなってきたのだろうか。考えることはいろいろありそうで、ともかく考えなければならない。

 人はなぜそんなところに存在しているのだろうか。それは相変わらずおかしな問いだろうか。存在していなくてもかまわないのではないか。かまわないから困ってしまうのではないか。いてもいなくてもかまわないのに、なぜそこにいるのだろうか。存在理由や原因をいくら並べ立てても、納得する気はないのだろう。ここは無人の荒野などではなく、電車の中か。数時間前には確かにそうだったはずだ。いつもそうではないが、誰がそう思っているのでもなく、何を考えているのでもない。またそんなところへ戻ってしまう。そうする理由があったり、そうなる原因があったりするのは、いつもフィクションの中でのことなのではないか。理由も原因も定かでないまま、人はそんなところに存在している。それはなぜなのか。問う必要などない。根本的におかしいのではないか。面倒だからそう思うのか。人はなぜ書物を読むのだろう。またそんな問いを不意に発して、何かをごちゃごちゃさせようとするが、意味不明に違いない。また迷路の中なのだろうか。そこで迷っているわけか。わけもなく迷っているわけではない。だかそんなわけこそがどうでもいいことなのだろう。なぜそうするかなんてどうでもいいことだ。だがそのどうでもいいことを記さなければならないのは、どういうわけなのか。またわけを求めてしまうのか。冗談なのだろう。何が冗談でもないはずだが、何となくそう思ってしまう。今はそれでかまわないのかもしれない。そんな自己を正当化していたい気分なのだろうか。おかしいだろうか。

 物語はわかりやすい。わかりにくい時もあるのかもしれないが、時にはそう言い切ってしまってかまわない時もありそうだ。聴いているベースはジャコ・パストリアスだろうか。そうであってもかまわないか。何のことでもありはせず、何について語っているのでもない。またそれだ。そんなふうにしか語れない時もありそうで、今がその時だとは思えないが、何となくでたらめな気分とシンクロして、冗談のようなことを述べていたい気分なのかもしれず、そこで何を語っているとも思えないが、わざと外そうとしているのかもしれない。別にそうなってしまってもかまわないのだろうが、眠たくなってきて、さらにどうでもいいように思われ、そういう成り行きに乗っかって、君はどこで何をやっているのだろうか。何が何だかわからなくなっているのか。本当にそれでかまわないのだろうか。何かがおかしくなったまま、それでも言葉を記そうとしているから、そうなってしまったのだろうか。そんな認識でかまわないのだろうか。だんだん苦しくなっているようだが、それでかまわないと思わなければ、言葉など記せなくなってしまうか。そういうことではない。誰かが知らないうちに、君は書物を読むのを怠っている。そこで人々はどうでもいいことを問題にして、やらなくてもいいことをやりたがり、無駄で無意味な会話に興じている。それで親交を深めているのだろうか。たぶんそのつもりなのであり、実際にそうなのだろう。虚構の世界でもそうなのかもしれない。逃げ道はどこにもなく、人は常に記された言葉に直面していて、それが現実から遠ざかるための手段であることを忘れている。虚構と現実がごっちゃになっているのだろうか。別にそれが悪いことだとも思わないはずだ。


5月14日

 なぜなのでもなく、何も思っていないわけでもないが、何となくそういうことで、君はこんなところで何かを語るつもりらしい。なぜなのだろうか。だからなぜなのでもないということだ。考えるのが面倒くさいのだろうか。そうかもしれないが、それが何を意味するわけでもない。すべては面倒くさいことであり、君がそこで何を語ろうとしても、それは何でもないこととなってしまうだろう。ではなぜ語ろうとするのか。君が狂っているからか。でも架空の存在でしかないのだから、狂っていようと正気だろうと、そんなことは誰にとってもどうでもいいのではないか。だから正気だとは思えないのか。たとえ誰がそう思っていようと、いったい何がそうなのか。君がそれを理解するとは思えないが、無理に理解させようとしているわけではない。別に君にとっても誰にとっても、そんなことはどうでもいいのだろうか。そうではなく、そんなことを述べようとしているわけでもなく、とりあえずそれとは違う内容を記そうとしていたのではなかったか。そして実際にそれができないのだから、たぶんそこで何かが違っているのだろう。違っているからこそ、思っているのとはかけ離れたことを延々と述べているわけなのか。それこそがおかしいのだろうか。

 何がおかしいわけではない。そう思っていることすらが当然のことだ。君にはそれが理解できないだけではなく、ただわけがわからないままに、そんなことを語っているつもりになっているわけか。そんなはずがないと思いたいのだろう。もっと別のことを語れるはずで、まともに語れるはずなのに、なぜか現状がこんな具合で、それがおかしくてたまらないようで、なぜか興味深い現象だと思われてしまうわけか。それも違うか。では何をどう思えば気が済むのか。何もどうも思いたくないのだろうか。思えないのではないか。それは君が架空の存在だからか。ならば架空の君が何を主張しているというのか。もう語るのをやめてほしいか。人々は何を求めているのか。人々ではなく君はどうなのか。たぶんそういうことではない。それも冗談の続きで記していることかもしれず、まったく本気になっていないようで、納得がいかないのかもしれないが、それこそが君のねらいなのだろうか。何をねらっているわけでもないはずだ。とにかくもっとまともなことを語りたいのではないか。現実にそれができないのだから、それを認めざるを得ず、そんな事実を受け入れざるを得ないのではないか。君にはそれができない。受け入れられず、さかんにそれとは違うことを述べようとして、無駄に言葉を弄して、さらなる意味不明をもたらし、収拾がつかなくなっているのではないか。

 そうやって君は何かを破壊しているようだ。それ以外は何ももたらせないのに、あたかも何かをもたらしているかのような幻想を抱こうとしている。雨空を見上げながら、うらめしそうな表情を浮かべるわけでもなく、何も思わないような自らを否定することもなく、肯定できず受け入れられないような状況の中でも、やはり何を思うわけでもなく、どこからも何ももたらされないような状況の中でも、どういうわけか薄ら笑いが顔面に張り付いているように見えるときでも、やはりそれでかまわないような気がするらしく、何がかまうわけでもないのに、何もかまわないようにも思われ、そんなことを述べている意味や意義が見いだせなくても、やはりそれはそういうことなのではないか。君に何ができるとも思えないが、別に気休め程度のことしかできないのよりはましなのだろうか。それでも何か思っているような気がして、君はそこから離れようとせずに、思いとどまりながらそこにとどまり続け、何を思いとどまっているのか定かでないが、とりあえずそんなことを述べている現実を受け入れざるを得ないのだろうか。いったい誰が受け入れるというのか。君でないとしたら他の誰になるのか。たぶんそれとは関係ないだろうが、ATOKの入った古いPowerBookで言葉を記すと、なぜこれほどまでにはかどるのだろうか。内容など何もありはしないのに、変換効率が高いから、すらすらと言葉が記せてしまうわけか。


5月13日

 翌日に昼は風が吹いてくる。これから雨が降ってくるらしい。見慣れた光景に囲まれ、その目は何を見ているのか。何を買ってもすぐに飽きてしまうようだ。誰のことを述べているのか。誰かの容態が悪化したわけではなく、心の病がこじれているとも思えない。そしてまた新製品を買うわけか。馬鹿げているだろうか。それが人なのだから、要するにそういう思いと行動の連携が、人としての欠陥か弱点なのだろう。だからもうやめた方がいいと思うわけか。今さら何をやめる必要があるのだろうか。すでにそこへ引きつけられていて、遠ざかろうとしても遠ざかれず、何を求めているのかもわからないまま、君はそこから何を導き出すつもりなのか。ただ闇雲に問うだけではだめなのだろうか。だめなのに問い続けるつもりなのか。無理に決まっているだろうか。決まっていないから無理なのではないか。それはどういうことだろうか。わからないことを述べている。本当にわけがわからない。機械の内部で何かのねじが外れているようだ。それで故障したふりをしているわけなのだろうか。そんなはずがない。では頭の中で何かがずれているのだろうか。自分を信じるつもりもなく、何を語るつもりもないのに、こうして言葉を記している。それがおかしいのか。たぶんそれは冗談のつもりなのだろう。

 妙に冷静で、落ち着き払っているのはなぜだろう。何の覚悟もありはしないのに、目が据わっているわけでもなく、酔っているとも思えない。みみっちい気分で何かを思うが、それがおかしいことに気づき、あわてて打ち消しにかかるが、そうでもないような気もしてくる。そこで何が行われているのか。たぶん何がどうなっているわけでもなく、君はひたすら黙っているだけのようだ。そうやって何かの気配を伺っているのだろうか。面倒くさいので無視しているだけだろうか。その辺はわかりようがないが、何となくそんな感じで平常心を保っているようだ。しかしなぜそうなってしまうのだろうか。その辺が情熱などとは無縁の何かが心に宿っている証拠となるわけか。別に証拠など要らないだろう。そんなことを記しているうちに眠たくなってくる。要らない機能満載なのに、それを所有しているだけで、何だか優越感に浸ってしまうわけか。それは宝の持ち腐れというやつで、勘違い以外の何ものでもないだろうか。でもそういう無駄な機能がないと、何だか寂しいような気がしてくるのはどうしてなのか。それは人の思い上がりに関係してくるようなことか。それとこれとがどう関係してくるのかわからないが、どうも君は考えるのが面倒くさいようで、それに関しては間違っていようと合っていようとかまわないが、とりあえず当てずっぽうでいい加減な答えを導き出して、それで済ましてしまうような心境になりがちだ。

 要するにどうでもよくなってしまうわけか。またそんなことを述べているようだが、何がそうなのか一向に見えてこない。別に周りの景色が見えていればそれでかまわないのではないか。しかし他人の心を覗き込んでいるわけでもないだろう。週の後半は暑くなるらしく、今年も夏に近づいているようで、だからそれがどうしたとも思えないが、たぶん何をどうしたらいいのかさっぱりわからなくなっているような気もしていて、果たしてこのままでいいのか、いいわけがないのか、その辺の判断もつかないようだ。ちなみに他人はこの世界で何を目指しているのか。興味がないのだろうか。大河ドラマではライバルと比較して主人公に理があるような話の成り行きがわざとらしく感じられ、制作する側がそういうことをやってしまうところが、それらのフィクションの致命的な欠陥を露呈させているように思われ、その辺から歴史を題材とした虚構のみっともなさがかいま見られ、見る人々をしらけさせる原因となっているのかもしれず、たぶんそこから物語に主人公を設定することの必然性を疑う勇気が求められ、そんな冗談でいいのかどうかも疑わしいが、たぶん何を批判しているのでもなく、何を強調したいわけでもないのだろうが、何となく何かを語り出しそうなところを、かろうじて思いとどまり、いつものようにそこから沈黙を形成したいのかもしれず、なぜそうなるのかわからないまま、その辺でやめておこうと思ってしまうようだ。


5月12日

 気まぐれに何か考えているようだ。何を考えたらいいのか。この世界に何があるのだろうか。人がいるだけか。たぶんそんなわけがないのだろう。では何なのか。言葉があり、言葉を組み合わせると文が出来上がり、それを繰り返すと文章が構成され、それを読むと何かを知ることができる。君はそんな幻想を抱いているのか。それとも冗談なのだろうか。冗談ではなくなってしまうのだろう。何も覚えていないようだ。何も思わないはずだ。ではそれだけのことなのか。たぶんそうに違いない。何を説明しているわけでもなく、言葉を並べて記しているに過ぎず、それだけのことといえばそれだけのことなのだが、やはりそれを読んで、考えなければならないのだろうか。では何を考えているのか。何も考えられないようだ。腕がかゆいか。それとこれとは関係ない。

 気晴らしにワンセグテレビを見ている。やめておいた方がいい。もうやめてしまったようだ。他に何をやって時間稼ぎをすればいいのか。そんなつもりではないのだろう。できればその必要がないことを示してほしいか。なぜそうする必要があるのか。言葉を記さなければならない。その理由を探しているとは思えないが、とりあえずそうしている必要がありそうで、必要がないのに必要があると嘘をついているのかもしれないが、それでも言葉を記すつもりのようだ。しかしなぜそんなことをやるのか。何とも結びつかないだろう。立派に見せる必要がないからか。そんな理由が的外れであり、意味不明なのだろうか。何がそうなのでもなく、何もそうではないから、そんなことを述べているのではないか。気晴らしに音楽を聴いている。何を語りたいわけではない。

 根拠も理由もない。語る理由も言葉を記す理由もありはせず、そういうことを思っている根拠を示せずにいるらしいが、どうせそんなのは嘘だろう。だからやめておいた方が良かったのだ。もう君には何もできはしない。そう思いたいのか。思いたいなら思わせておけばいいだろう。そしてそんなふうに語るべきでないことも付け加えておくべきか。だがそれが君に対する忠告であるはずがなく、誰に何を指図しているわけでもないことも明らかか。では何なのか。でも実際に語っているはずで、それをどう捉えたらいいのかもわからないはずだ。そんな語り方ではだめなのだろうか。だめも何も、実質的に何も語っていないではないか。なぜ語ることができないのか。無理に言葉を記そうとしているから語れないのか。わかっているなら言葉を記すのをやめればいい。しかしテレビはつまらない。つまらない番組を見ているからつまらないと感じているだけだ。

 それがわかっているならそれでかまわないではないか。かまわないのなら、生きている意味を見出せないのか。なら死ぬ意味も見出せないはずだ。ではどうすればいいのか。こうして言葉を記していればいいわけか。なぜそうなるのかわからない。だからやめておいた方がいいと思ったのだろうか。誰を困らせているわけでもなく、くだらない話に首を突っ込んでいるわけでもない。安易なテレビドラマから何を学ぼうとしているわけでもなく、それに関して枝葉末節なうんちくを垂れようとしているのでもない。ただ何に対してものめり込めない性格なのか。この世界に足首までしか浸っていないつもりか。それはあり得ないことであり、何かの比喩としても胡散臭いことか。それでもここまで語ってきたはずだ。何でもないのに何でもないことを語っているつもりになり、それで何も語っていないことを自覚していながら、それに逆らうことができずに、結局虚無に取り込まれて、何も語っていない自分自身を持て余し気味になり、うまく説明できずに困り果て、何ももたらしていないことに苛立ち、強引に言葉を記している自らを否定しまくっているようだが、それで何がどうなるわけでもなく、うまくいかないのを誰のせいにもできず、ただ茫然自失となっているわけでもないが、やはりその辺をうまく説明できずにいるらしい。


5月11日

 どうもいろいろとイベントが重なってしまうと、疲れてしまって何もできなくなり、言葉を記すのが遅れてしまう。それはいつものことだろう。これまでも何度もそうなり、これからも何度もそうなるのだろうが、そんなことを記していること自体がおかしく感じられ、もっと何か別の内容で言葉を記すような成り行きに持っていきたいが、なかなかうまくいかないようだ。だから当分はこれだけか。何も思いつかないのだから仕方がない。笑っている場合ではないだろう。疲れているようで、季節外れの寒さも重なり、また夕方から眠ってしまうところだった。しかしなぜだろうか。こんなことを記しても何にもならないのではないか。そんな思いが頭をよぎるが、いったい何を考えているのか。何だかわからないが、そういうことらしく、何となくこのまま最期まで行ってしまう気配だ。おかしいか。おかしいだろう。何だかわからない。確かにわからないが、時間だけが過ぎてゆくようで、何も思いつかないまま、こんなふうにして無駄に言葉を記しているまま、ただ時間だけが経ってゆく。これでいいのだろうか。とてもいいとは思えないだろう。確かにいいとは思えないが、こんなふうにして続けていくしかないのだろうか。今のところはわからないが、とりあえずは続けていく気でいるらしい。何だかおかしいようでつまらないような気もするが、たぶんこれはこういうことでしかないのであり、これ以外にはあり得ないのだろう。

 しきりに首を傾げながらも、ここまでやってきた。君にとってはどこまでやってきたのか定かでないようだが、とりあえずこんな感じなのだ。誰かが画面の前で笑っているが、決して強がっているわけでも痩せ我慢しているわけでもなく、たぶん平常心で臨んでいるはずだ。そういうことにしておきたいのか。頭の中がぐるぐる回っているらしい。本当だろうか。何が本当なのか。そういう問い掛けは時間稼ぎにしかならない。君はそんなやり方についてどう思っているのか。嫌なのか。嫌ならこの場から立ち去るのだろうか。そういうことではないだろう。何でもなく、そんなふうでもない。だから君は間違っているのだろうか。だからといっても何がだからでもないはずで、なぜだからなのかもわからないが、とりあえずだからと記さなければ文と文がつながらないから、だからと記すのだろうか。そんなはずではないはずだ。では何がどうなってこうなってしまったのだろうか。その辺もわからないが、たぶんわかっているのにわからないふりをしているわけでもないのだろう。では何なのか。とりあえず音楽を聴いて気を鎮めるとしよう。何とかしなければならないのだが、どうもおかしいようで、今回は何ともならないまま終わってしまいそうだ。そして何だか寒気がしてきたようだが、たぶん正気で語っているのだろう。そのつもりのようで良心の呵責でも感じているのか、言葉を記すのがしばらく滞っているようだ。

 こんなふうに記せば、わり簡単にここまできてしまうのか。何でもありならこれでもかまわないのだろうか。その辺で疑念を抱かざるを得ないようだが、そこでやめるわけにはいかないらしい。自然とそうなってしまうなら、そのままでかまわないのか。そこであまり深く考えない方がいいみたいだ。ではそのままでいくとしよう。まともなことは何一つ語らないままに内容が推移して、そんな進行の中で何を思う間もなく、ただ言葉だけがどんどん記されてゆき、それにつれて心はどんどんおいてゆかれ、置いてきぼりなのは他にもありそうで、たぶん何もかもがそこから遠ざかってゆくのだろうが、それで何だか嫌な感じがしないらしく、そのままでもかまわないような気さえしてしまい、どうにもこうにもとりとめがないままに、そんな語りに終始しているようで、それが誰にとって好都合で、他の誰にとっては不都合なのか知らないが、とにかくそうなってしまったままで、他に何も記せずにいるらしく、何も批判できず、何も否定できはせず、何の説明にもなっていないのかもしれず、それで何がどうなったわけでもないのだろうが、やはりとりあえずはそういうことであり、どういうことでもないのにそういうことになっていて、君はそんな状況に戸惑うばかりか。だからそれでかまわないとは思うまい。何とかそうではないような状況にしていかなければならず、それが虚無に対する抵抗になるのかどうか知らないが、少しはまともに語ってみたい気もしてくるようで、次回はその辺を改めようとは思っているらしい。


5月10日

 何も思いつかないのに語ろうとするから、出だしがとっ散らかった印象になってしまう。ところで今は何を探しているのか。今ではないからわからないか。では今はいつなのだろうか。少なくとも今が見出された時などではなく、通常の時間内に意識がある。でもまた遅れてしまうのだろう。また何も記せなくなってしまうわけか。たぶんそれでかまわない。とりあえず朝から眠たくなっているらしく、寝不足気味なのかもしれず、朝が寒いからそうなのだろうか。季節外れの寒気が南下しているそうだ。それでも気がつけばこんな季節だ。もうあっという間に今年も過ぎ去ってしまうのだろうか。まだそんなことを思う時期でもないが、そんな的外れな気分とともに君は何をやっているのか。わけがわからないのに何かを語ろうとしているわけか。わけが余分だ。わけも何もありはせず、あるのはこの世界だけか。そんな当たり前のことを述べてどうするのか。どうやらまだ眠気が去ったわけではないようだ。だいぶ眠ってしまったらしく、目が覚めたら何だかおかしいようだ。体が重く頭も重いか。だるい感じなのだろうか。寒気なら東へ去ったらしく、また暑くなってきたようだ。しかしとりとめがない。何について語ろうとしているのかわからなくなり、五月蝿いハエにまとわりつかれながら苛立ち、堪え性がないことを実感させられ、またつまらないこだわりが頭をもたげてくるように感じられる。

 もう夜になってしまったが、ここではまだ何も見出されていないようだ。しかしこれはどういう感覚なのだろうか。言葉を組み合わせて文章を構成しようとするが、何も出てこない。君はそこで何を知りたがっているのか。それに関しての重大かつ深刻な現状を知りたいのか。それとは何か。それはジャーナリスト的な物事の捉え方であり、いつも何かを語る時に、そんな語り口を用いようとすれば、彼は重大かつ深刻な現状しか語っていないことになる。それでもかまわないのだろう。誰かがそういうことを語りたがっているようで、その手のニュース解説ではいつも決まってそういうことが語られているはずだ。君はそれが嫌いなのか。好きでも嫌いでもなく、興味を覚えているのでもない。ではなぜそんなことを述べるのだろう。他に語ることがないからか。きっとそうに違いない。たぶんニュース解説でそんなことを語っている輩にしても、他に語ることがないのだ。だからいつもその手のニュースでは重大かつ深刻な問題ばかりが取り上げられ、このままではもはや国家や世界がどうにかなってしまうような深刻な様相を呈しているのだ。しかしフィクションとは何か。何がそういう言説を弄するように駆り立てているのか。皆がその手の危機感を共有しなければならないのだろうか。少なくとも善良な市民ならそうすべきか。しかし馬鹿げているようだ。どうせ本気ではないのだろう。少なくとも君はそうだ。何を批判しているわけでもないのに、そんなことを語り、まったく本気になれない。だから君はだめなのではないか。

 そんなことを語りたいわけではないはずだ。何を迷っているのか。何を語ろうとしているわけでもないのに、そんなことを平然とやり、要するに言葉をでたらめに記しているわけか。たぶんそこで何かが起こっているのであり、苛烈な何かに逆らいながら、言葉を適材適所に配置しているつもりになって、結果的にくだらぬことを述べているように装っているわけか。そしてそうではないと思いたいのだろう。決してそうは思わないように自らを強引に折り曲げて、心の中で何かをごまかしているわけだ。君はそれを知っていてやめようとせず、もはや何もかもが手遅れになってしまって、どうにもならなくなっているらしいが、なぜそんなにひねくれてしまったのか。誰に尋ねているわけではなく、君自身に問うているのだろうが、返答は何もない。君は返答に窮しているわけでも無視しているわけでもないらしい。沈黙することが返答なのか。何も発せず、ひたすら黙り込んで何を狙っているのか。別に逆転サヨナラ満塁ホームランを狙っているとも思えず、手持ちの札がロイヤルストレートフラッシュであるわけでもなく、たぶん何も持ち合わせていないのだろうが、それが君の狙いなのか。これは故意に狙ってやっていることなどではなく、自然体で物事に対処していると、必然的にそうなってしまうようなことなのではないか。そして君はその辺で笑い転げている。完全に正気を失ってしまったのだろうか。たぶん冗談で気が狂っているのだろう。そういう話にしておきたいようだ。どうせまたありもしない精神状態について語りたいのだろうが、いったいそんな嘘をついて何になるのか。ただわけがわからないだけなのか。それが待ちわびていた結果なのか。だが別にそんなはずがないとは思わないらしい。


5月9日

 たぶん今日は今日だけのことに終始して、明日になれば今日のことなど忘れてしまうか。そんなことまで気にする必要はない。さっきまでは居眠りの最中だったらしく、目が覚めたらだいぶ北まできている。それでかまわないのだろうか。何を目指しているのでもないことはわかりきったことかもしれないが、空は曇り、昨日の蒸し暑さは嘘のようでもないが、とりあえず一息ついていて、指先のしびれも相変わらず職業病の水準まではいかないとしても、意識せざるを得ず、遠くを眺めながら何を思うわけでもないだろうが、何となく不安な気がしているようで、それ以上に何を思うこともなく、ただ淡々としているしかないようだが、相変わらず何がそうなのかわからず、そうではないような気がするだけで、そこでの気分はそこだけにとどめようとしているようで、人が思うことは人が思う範囲内ことでしかなく、人の他に誰がそう思っているとも思えず、誰ともいえない存在を意識しているわけでもなく、たぶんそれだけのことなのだろう。そんなこと記しているうちにまた眠たくなってきて、人から人へと引き継がれる何かについて、そんなことを考えているうちに面倒くさくなってきているようだ。君は君自身の収集物に関して何か思い入れでもあるのだろうか。別にそれを他の誰かに引き継がせたいわけでもないだろう。では君がやっていることは君が死んだらそこでおしまいなのか。それはわからない。

 他に何か文句でもあるのだろうか。他の人たちがその老人の振る舞いに注目している。嫌な感じがしたのだろうか。それもつかの間のことで、すぐに周りの景色は一変しているようで、また違うことを考えている。君は知っているのだろう。そんなことを思うのがおかしいのか。できればそこからちょっとひねって違った言葉の並びにしたいようだが、虚しい努力となってしまうようで、やめておいた方がいいのだろう。できないことをやるべきではなく、まずはできることをやっているふうを装いたいのかもしれない。言葉の連なりを無難な線で落ち着かせたいのだろうか。何かが衰えているようだが、まだ立ち上がれる程度の力は残っている。それだけのことかもしれないが、それでも何とかなっているのだから、少しは楽観視してもかまわないのではないか。人は人の都合でしか考えられず、それが良いことだと思っている。たぶんそれだけのことなのであり、それ以上のことではない。君もやがて消えてなくなる運命なのだ。それは人に意識とは無関係の何かでしかなく、何かの巡り会わせによって偶然に生じた何かなのだろう。どうやらそんな認識から抜け出せないようで、まったく進歩がないらしいが、そんな言葉の並びでかまわないのか。何がかまわないわけではなく、それが必然の成り行きだと思えば、そういうことになってしまうような気がして、自らが状況に関与できないことが、何かをあきらめさせているようで、それ以上の虚しい努力を阻んでいるみたいで、何だかそれによって守られているような気もしてくる。

 やはり君は知っていたのだろうか。何がそれらの宿命なのかを見定めようとしているわけでもないだろうが、それでもそれらの運命を予言したつもりになっていたわけか。しかしなぜ破滅の時がやってこないのか。それがフィクションだからかもしれないが、破滅という言葉に当てはまるような結果がフィクションの中にしかないのかもしれない。それに対して現実の世界では、何が破滅でもないような緩慢さで、状況が絶えず変化している。いくらひどいことがまかり通っていても、それによって破滅することなどあり得ないようで、そこで執拗に何かが作動していて、作用反作用の法則のようなことになり、要するに痛み分けとなってしまうわけか。別に君がそれを操作しているとは思えないが、一喜一憂するほどの真剣さを感じられず、どちらに転んでもどうということはないような結果に、何だか気が抜けてしまうような感じなり、それは他人がやっているゲームの結果でしかなく、思い入れとか応援する気がなければ、それはそれだけのことでしかない。そんなテレビ画面上で生じている現象に馴れてしまっているのかもしれず、それが現実の世界で起こっていることには違いないのだが、リアリティとかが伴っていないのだろうか。あくまでも君が当事者ではないと思っているから、それはそれで当然のことでしかないのかもしれない。それにしてもまとまりの欠ける意味不明な内容に終始しているようで、何について語っているのかさっぱり伝わってこない。それは君の語り方にも原因があるのだろうか。


5月8日

 今日はまだ今日だろうか。何を語ればいいのかわからないまま、さらに言葉を記そうとしているらしい。何もないのはわかっているが、それでも記述を続けようとする。言葉を記していれば何か出てくるだろうか。たぶん何を待っているわけでもなく、どこで何に遭遇するわけでもない。どこにも何もないし、これから誰に出会うわけでもない。そう思っていれば何か興味深い出来事に巻き込まれたりするのか。別にそれを願っているわけでもない。君が願っているのはひたすら沈黙を守り通すことか。そんなはずがないだろう。では誰がそれを願っているのか。その辺から何かおもしろい物語でも始まるわけか。だからそんなはずがないと思っているわけだ。そうならないように努力すべきか。何をどう努力したらいいのだろうか。そんなふうに語っていればいい。そうすれば物語など永久に始まらないだろう。ではそれが君の願いなのか。それは違うと曇り空が答える。そんなはずがない。では誰が答えているのだろうか。何を答えたらいいのだろう。別に思い悩んでいるわけでもないのに、誰かが返答に窮しているふりをしているらしい。そんなはずがないか。ではどうしたらいいのだろうか。そのまま言葉を記していれば、自ずから答えが出てくるだろうか。

 君が何を思い、何をやろうとしているのかを知りたいのか。誰が知りたいのか。フィクションの中で右往左往している誰かが、そんなことを知りたいわけがないか。では誰がそこで何を語ろうとしているのか。思い当たる節はない。何が投げかけられているわけではなく、問いも疑問もどこか遠くへと退いているはずだ。暇つぶしの宝探しなら、その手の漫画でも読んでいれば済むことか。では人はこの世界で何をやればいいのか。なぜそれが宝探しではあり得ないのか。探しているそれが宝ではなく、塵や芥のたぐいなら、誰もが納得するだろうか。神は人々をがっかりさせたいのだろうか。とにかく幻想を抱いている間は幸せで、夢を見続け、幻想を抱き続けるのが、人が人にとどまり続けるためには是が非でも必要なことだろうか。ではそれをやめてしまったら人は何になるのだろうか。何になるわけでもなく、人のままにとどまり、ただ普通に暮らしているだけか。しかしそれでは夢のない話になってしまう。たぶんそうならないために娯楽があるわけで、日頃の憂さを忘れるための何かが人には必要なのだろう。だが君はそれで納得するだろうか。別に君を納得させるために語っているわけではない。君だけではなく、誰も納得させられなくても結構で、とりあえずそこに言葉が記されていれば、それで気が済んでしまうのかもしれない。

 たぶん誰が呪われているのでもなく、誰を呪っているのでもない。フィクションの中で呪われた誰かがいること自体がおもしろいのでもない。では何なのか。呪術によって何を成そうとしているのか。錬金術でも試してみたいだけか。ジャズを聴いている。そんな気分なのだからそういうことなのだろう。何がどうなろうと、実際にどうにかなってしまうとしても、それはそういうことだ。たとえ誰に落ち度があろうと、それはそういう運命だったとあきらめてもらうしかない。どこかで悲惨な結果がもたらされている。ニュースでそんなことが伝えられる。誰がやってもうまくいかない時があり、それが今なのか、あるいはこれからもずっとそうなのか、それは神のみぞ知るというわけでもないだろうが、君は何とかしなければと思っているらしく、今はそれに向けて忍耐と辛抱の日々を過ごしているのかもしれないが、少しは気晴らしも必要なようで、たぶんそこで何か考えているのだろうが、今後ともそれが明かされることはないらしい。ともかくすべてはこれからだ。これから何かをどうにかするつもりのようで、どうにもならなければならないでかまわないようだが、一応はどうにかなるように努力してみるつもりらしい。今もその最中なのだろう。そうやって君は何かを語ろうとしている。悪あがきもいいところかもしれないが、それらの行為を少しは前向きに捉えてもいいのではないか。別に残り少ない人生だとは思わないようだが、何時何時死んでもかまわないように、絶えず最善を尽くしておくべきか。


5月7日

 今日もまた今日で気分が定まらない。それがどうしたわけでもないが、どこへも行き着かないまま、何か思いつくまでの間に、無駄に言葉が連なってしまうだけのようで、空疎なことばかり述べているように思われ、誰がそんなことを思っているのか知らないが、何も思いつかず、何を考えているわけでもなく、ちなみに昨日はどんなことを考えていたのだろうか。それを思い出すまでもなく、どうせつまらないことに違いなく、またそんな嘘をつきながらも、そんな言葉の並びを利用して、さらに延々と無駄で無意味な言葉を記すつもりなのか。冗談ではない。他に何を利用しようとしているわけでもないが、まともに言葉を記そうとしたときに起こる揺り戻しがきつそうだ。そんなことがあるわけがないか。だがそれがまるっきり嘘に決まっているとも思えないが、今は何を説明しようとしているのでもなさそうに思えてきて、そのまま終わってしまいそうだが、まだおしまいにするには早すぎるだろうか。ではその先に冗談の続きが待ち構えているのだろうか。何も思いつかないのだから、記述が可能なら、冗談でもでたらめでもかまわないのではないか。

 そういうわけで君には自意識が欠けているようで、それが原因で何を考えているのかわからないのではないか。今ひとつ乗り気でないようで、そんなでたらめを記しても、行き詰まりを打開できるとは思えないが、たぶんそういうことではないのだろう。心のどこかに何かが詰まっている場所があるように思われ、そこを無意識が盛んにこじ開けようとしているみたいで、扉がちょっとの間開くと、それが何かわけがわからないが、おびただしい数の言葉がたちまち外へと飛び出して、それに連動して何かひらめいて、何かそれらしい文章を構成できる時があるのかもしれないが、それはほんの一瞬の出来事で、機会を逸してしまうと、元の木阿弥のようになり、だらだらと空疎なことを記している原状に戻ってしまうようだ。ちなみに今はそれを取り逃がしてしまった時だったのか。だから意味不明なのだろうか。もはや当人には何がそうなのかわかっていないようだ。たぶん何もそうではないのだろう。とりあえずは蒸し暑い。やがて雷雨でも降ってくるのだろうか。

 実際に何がそうなのかわからないが、何も定まらないまま、そんな意味不明なことを記しているだけで、何だかそこで収拾がつかなくなってくるようだが、君はそれでもかまわないようだ。実際にそういうことでしかなく、今は無駄なことを述べている最中なのだろう。そんな現状に変わりはなく、虚無が幻想を抱くいとまを与えないようにしているのかもしれず、自意識は時が経つのを実感している。それが君の感覚なのだろうか。君でなければ誰の感覚なのか。相変わらず何を語っているのでもなく、そんなふうに言葉を記して、悦に入っているわけでもなく、それしかできないのだから、危機感を抱いているようで、当人はもっと何かまともなことを記そうとしているみたいだが、機会を逃してしまったのだから、できるはずもなく、ただ時が過ぎ行くのにまかせるしかないようで、やがて何かの加減で、ふとした拍子に状況が変わるのを期待するしかないのだろうか。それでもここまで記してきたはずだ。現状は冗談でも何でもなく、ただの現実の中で言葉を記しているに過ぎず、それを続けようとしているだけか。

 それはこういうことなのか、果たして君にそれがわかるだろうか。わからないのなら、誰かそれを君に教えてくれないか。またそんな嘘をついている。教わる気もないのに教えを請うふりをしながら、別の方面で何か適当なことを考えているのか。何となく腕が痛いか。君はそこから何を学んだわけでもない。そうだからといって無知のまま開き直ることはないだろう。その辺の心配は無用か。たぶん何からも自由であることは、どこからも誰からも相手にされないということだ。それで正解だと思ったらおしまいかもしれないが、おしまいでもかまわないのではないか。どこで利いた風な見解に遭遇しているわけでもない。いつでもどこでもどこまでも、それによって何を思いついたというのだろう。実際に何を痛感しているのか。いくらでも痛い目に遭っているはずで、そのつもりもないのに、そういうところで反論を強いられ、そんな成り行きに巻き込まれてしまう。思い当たる節はないというなら、要するにそれは健忘症のたぐいか。しかし誰がそれを求めているのだろうか。君に強いている作業がこの世に何をもたらそうとしているのか。誰がそれを強いているのだろうか。そういうことではない。いくら言葉を連ねても、未だに大げさな成り行きとは無縁のはずだ。たぶんそれがおかしいのだろう。何も思いつかず、何を思いついたらいいのかわからない。君はそこで取り残されているようだ。だからもうやめた方がいいのだろうか。それが冗談だと思うなら、そういう成り行きに身をまかせ、さらなる混沌へと引きずり込まれてしまえばいい。


5月6日

 相変わらず誰かが述べていることの真意を理解できず、ただ闇雲に文章にならないようなことを記しているらしいが、そんな状況が状況なだけに、どんな状況なのかわからないのに、そんな状況はありふれているとうそぶくのは、何だか馬鹿げているような気がして、君にとってはそれも現状と認識するしかないのだろうが、ところで現状とは何だろう。冗談でそんなことを問いかけているのかもしれない。ちなみにこの世界の現状はどうなっているのか。ちなみでも何でもなく、誰かそれを理解する上での指針みたいものを示してくれないだろうか。誰に向かって何を甘えたことを述べているのか。それでも今までのように暗中模索のままでは途方に暮れてしまうか。そう述べていること自体が余分でわけがわからないが、それは嘘なのではないか。それの何が嘘なのだろうか。いつものようにそんなことはどうでもよくて、君の知ったことでないわけがないか。ならばそれを今こそ知るべきなのか。知ろうとして知ることができればいいが、どんなに知ろうと努力しても、結局知り得ないとなると、やはり途方に暮れてしまうか。知ろうとする前から心配するようなことではない。でも今や何を知ればいいのかさえわからなくなっているはずだ。君はまた冗談でそんなことを述べているのか。今の君にとっては、そんなことを記している時が憩いのひとときなのかもしれず、同時にそれこそが冗談以外の何ものでもないはずで、ただそんな現状がおかしいと思いたいだけなのかもしれないが、現時点ではそれ以外に何を記せるのだろうか。実際にそんなことを記している現状があるだけで、それが紛れもない現状なのだから仕方がないと思うしかなく、そんなふうにしてあきらめればいいのだろうか。

 ではそういうことを含めて、現状とは何かと問うならば、そこからどんな見解や認識が導き出されるだろうか。一般論ではない。では何なのか。過去から現在に至るまで営々と築き上げられてきたつもりの人間社会では、政治あるいは経済の全般にわたって不具合が生じていると思う他なく、それがその手の人々にとっての現状と認識されるらしいが、ではその手の人々とはいったい何なのかと問うならば、その手のジャンルでそんなことを述べている人々のことであり、彼らが問いかけているそれらに対する答えなどいくらでもあると同時に、何もないと思うしかないようなこの世界の中で、そんなのは嘘だと思い込むには、いかなる見解や認識が必要とされているのか。なぜそれらが嘘だとわかるのか。君の存在が問われているわけではない。では何が問われているのかといえば、何も問われていないのではないか。だがそれではでたらめなやり方によって煙に巻こうとするごまかしになってしまうのではないか。

 しかしこの世界のどこに不具合が生じているのか。実際にそんな不具合の中で苦しんでいる人でないと、そんなことは身にしみて感じられないのではないか。代弁者のような人なら、マスメディアを通していくらでも主張しているようだが、どうも真摯に受け止められず、実際にそんなことはどうでもいいような気がしてきてしまうのだろうが、それらの実態はどうなっているのだろうか。ニュースでも見ればわかるようなことだろうか。その程度のことなのか。どの程度でもないのかもしれないが、どうもその辺がよくわからず、そこから自分なりの見解や認識を示すには何かが足らないような気がして、その何かを求めているわけでもないのに、探しもしいない何かの存在を無視しているばかりでは、やはり途方に暮れてしまうようで、そこから何も考えられずに、思考停止状態に陥ってしまうらしい。それが現状なのだろうか。とりあえず他人を助けたい人ならいくらでもいて、それを生業としている人もいるのだろうが、だから何なのだろうか。今のところは考える糸口すら見つけられずにいるみたいだ。


5月5日

 今日は昨日か。もう明日になっている。どうも言葉を記すのが面倒くさくなってきて、そんな作業をやり続けることに飽きてきたようだ。別に宝探しの最中でもないのだろうが、どこを探しても何も見つからず、そのうちに何を探していたのかわからなくなり、そんなことはどうでもよくなってしまう。それが君の物語だとは到底思えず、何がそうなのか理解不能のまま、無駄に時が経ち、近頃はそんなことの繰り返しであることに気づくが、もう手遅れか。気力が減退しているようで、何も語れなくなっている。このままではまた頭がおかしくなってしまうだろうか。今も昔も至って正気だと思っているようだが、確か作り話の中では登場人物がそうなってしまったはずだ。そこで誰がどうなってしまったのだろう。誰の知ったことでもなく、そのときふと何かに気づき、耳を澄ましてみればテレビから誰かの叫び声が聞こえてくるが、テレビの画面から背を向けているので、何が起こっているのかわからない。なぜすぐに振り向かないのか疑問だが、きっと過去に放映された映画の話題作だったのだろう。今はそれについて考えるのが面倒くさいので、テレビを消して、こちらの画面に集中することにしよう。

 できるかな。できそうもない。嫌になってきたので早速音楽を聴いているはずだ。いつになっても何もできやしない。何か状況の変化に気づいたふりをしているようだが、相変わらず体験しているそれらは何のことでもありはせず、作業的には単に言葉を並べるだけのようで、何の進展もありはしない。それでも作り話の中では誰かが盛んに活動していて、何となく君はそれとは無関係に冗談の続きを語ろうとしているのかもしれないが、実際はそんなことではない。さっきから何も語っていない状況に変わりはなく、それは冗談どころではないのだろう。ではなぜ何に対しても興味が湧かないのか。意味不明のままでは話にならないような気がするが、現実にそんな話ではないような気もする。今さらそんなことを語る筋合いはないのかもしれないが、君にはそれがわかっているのではないか。君にとって意味がわからないことでも、誰かにとっては興味深い話の内容になっているのではないか。だからそんなところで記述を停滞させている場合ではないのだろう。でも実際に誰かの興味をつなぎ止めるのは至難の業で、いっそのことあきらめてしまった方が気が楽で、もうやめにしてしまってもかまわないのではないか。君に気を取り直す暇が与えられているとは思えない。

 途中からおかしいのは承知の上で、とりあえず事件の顛末をかいつまんで説明してくれないか。そこでは何がそうなのだろうか。だいいち話に無理があるのだろう。今さら話題になろうとするのもおかしく、それが歴史ドラマなのもおかしい。歴史は歴史であり、ドラマはドラマである。別にその二つを合体させる必要はない。リアリティに欠けるのだろうか。ドラマはフィクションなのだから、そんなにリアリティを意識しなくてもいいのではないか。たぶんそういうことではないのだろう。君にとっては単に興味がないだけか。それは何の話なのか。何かの気晴らしか。語るのが面倒くさい。何がどうなっても仕方がないのではないか。君の知ったことではない。思いつくのはそればかりだ。何も思いつかないからそうなってしまう。それがおかしいのではないか。すべては過去の話だ。それはいつもそうだろう。すべてが過剰に現れている。何も報われることはなく、誰も救われないから、そんな状況に逆らって、粘り強く執拗に自らの主張を通そうとしているわけか。それで少しは謙虚になったのだろうか。なぜそう思うのか。それとこれとは無関係なのか。どうにもこうにも理解できず、君はさらに無関心を装うようになり、世の中で起こっている出来事から背を向け、ひたすら沈黙を守ろうとしているが、なぜ何もできなくなってしまったのか。人々は現状に対する不満を口にして、変化を求めるばかりのようだが、いったい誰が変えてくれるのか。誰もいなければ自分たちで変えなければならないのか。現状でできるとは思えない。それこそがありふれた現状であり、君が望んでいた状況なのではないか。


5月4日

 何だか日本語になっていないのではないか。それが率直な感想か。そこで何を読んでいるのかわからないが、何とか今日の日付に追いつこうとしているらしく、粘り強く意味が通るように言葉を連ねようとしている。だが現状ではどうやらそれも無駄な努力となりそうな気配だ。今日は暑すぎて体調が悪い。そんないつものいいわけのついでに、またよそ見をしているようで、さらにそれがどうしたと思っていて、意味不明な成り行きとなりつつある。何かが重荷となっているようだが、その何かが何なのかわかっているのに、それを記そうとしない。何かとはこれ自体ではないのか。そうであっても、それは意味のないことだ。そんなことはわかっているくせに、何となくそういうことを述べている。それはどういうことなのか。どういうことでもなく、そういうことに決まっている。何かに取り憑かれながらも、どこか遠くで何かのバランスを取っているはずで、そんな自らを突き放してみるが、それの何が試しなのだろうか。何らかの実験には違いない。ただそう思っているに過ぎず、実際は何のことでもなかったはずで、君は相変わらず何とも思わない。そんなわけで何を語っているわけでもないのは一目瞭然か。完全に廃人となってしまったようだ。そんな嘘にも動じない。

 これから何を語ればいいのか。それらの何が気に入らないのだろうか。何だかくだらないような気がしているだけか。今ではほとんど忘れられてしまった人たちの中から、誰かを任意に選び出して、その人について語ればいいのだろうか。またやりもしないことをやる気もないのにやろうとする素振りも見せずに、そんなことを語ってみせる。誰か興味深い人の名を思い出せるだろうか。今のところはその名前を思い出せない。要するに世間が忘れているのではなく、君が忘れているのではないか。

 君はわかっていないようだ。君はそれを知っている。君が知っているなら他の誰もが知っていることか。たぶんそうはならないのだろう。今から君がそんなことを語るとは思えない。君はそれをわかっているはずだ。それらの何が話題となっているのか。君はそれを知っている。君はそれを避けている。そう思い込んでいるわけだ。無意識の罠にはまっているのだろうか。誰が何を張り巡らしているとも思えない。そういうことではないような気がする。誰に対する不信感が募っているのだろうか。誰かが語ろうとしているフィクションの中ではそういうことになっているわけか。それも嘘の類だろう。きっとそうだ。そんなわけで何となくだめ押し的な無気力状態となっているようで、剣道の防具と面をかぶった誰かがこちらを伺っている。それも気のせいに違いない。この間まであれほど寒かったのに、何で急に暑くなってしまうのか。カフェオレを飲みながら何を思っているのだろう。意識が連続性を保てなくなる。そんなことはどうでもいいのだろうか。他の何が気のせいであるわけでもない。またとりとめがなくなっているのだろうか。それが何のとりとめなのかわからないが、取り扱っている抗生物質の種類によっては皮膚にアレルギー反応が出るようで、それの何が宿命であるわけでもないのだろうが、できればそんなやり方から抜け出たいような気がする。君はそこで何をやっているのか。

 語るべきではない。何がそうなのかわからなくなり、とっ散らかった印象を得るようで、何について語っているのでもないことを意識する。そうなったらおしまいか。もうどれほど経つのだろうか。『ショートサーキット』のロボットが印象に残る。何か他に検索していなかったか。それらの何が謎でもなく、何もかもが明白な事実としてネット上に記されている。君が気に食わないのはそんなことではないはずだ。まともに語れないからといって、別に残念がることもない。たぶん語る必要のないことを語っているだけなのだ。


5月3日

 現状では何もない。確かに何もないが、記された言葉ならあるだろう。役に立たない。記された言葉が何の役に立つというのか。では何もないことにしておこう。そんな現状でなくても、何もないことに変わりない。ではどうしたらいいのか。どうもしないで言葉を記せばいい。そうしているではないか。それでは不満なのか。言葉を記しながら音楽を聴いている。それはいつものことか。それで至って正気なのか。君の知ったことではない。誰もそんなことは知りはしない。知るのが面倒くさいのだろう。言葉を記している誰かは、そんな現状を認めなくないようだが、君はそれでかまわないのだろうか。今さら何を思ってみても無駄かもしれないが、とりあえず今はそう思う。そんな嘘をつきながら何を狙っているのだろう。この世に標的などありはしない。誰かは他に何もないと思っているから、やむを得ずそんなことを述べているだけなのか。それにしては内容がお粗末すぎるか。何もないからお粗末になり、別にそれでかまわないと思うようになる。今はそんな気分なのだから仕方がないか。またそれも嘘か。他にいつ嘘をついたのか。嘘をつこうがつくまいが、嘘でも本当でも何でもないことだ。よそ見ばかりしていては何も見出せない。気が散っているからそうなるだけで、そんなことはわかっているが、これ以上は無理なのかもしれない。やる気がしなくなっているのだろうか。いつものことだ。他にやらなければならないことがあるのだろうか。あるならとうにやっているはずだ。そんなことを記しながらもあくびが出てくるようだ。実際にそうだ。実際でなければ何なのか。ただ単にそれだけのことなのだろうから、もう記述の継続は無理なのかもしれない。

 翌日も雨降りのようだ。昼間は一時晴れて、蒸し暑くなったのを覚えている。何もないからそんなことしか語れなくなり、そう語ることに特定の意図はない。それでかまわないのではないか。だがそれでは何も語らないのと同じではないか。語らないではなく、語れないのではないか。その通りだと思う。ならもうおしまいか。語れなくても言葉は記せる。言葉を記して何になるのか。それは屁理屈か何かか。たぶんそういうことだ。語るのが無理なのにそんなことを記している。それは無様なことか。そう思っていればいい。そのうちなんとかなるだろう。そう思いながら、強引に何とかしようとしているわけか。それもその通りだと述べておこう。それ以外に何をどうやったらいいのかわからない。だから実質的にはもうおしまいなのだ。そしておしまいなのに、必死の悪あがきをしている。だからそれが無様なことなのだ。そしてそんなことを思っているうちに笑い出し、どうもそれは違うのではと思うようになり、気を取り直して続けようとして、それもまたおかしいことに気づくが、別にそれでもかまわないだろうか。

 実際に独り言ばかりで気がおかしくなってしまったようだ。また疲れていることをいいわけにしてしまいそうで、何だかつまらなくなるが、だいぶ前からだらだらと意味のないことを語っている以外に何を語ればいいのだろうか。とりあえずそれは、今語っているそれではないことだけは確からしく、そういう語り方から脱却しない限りは、そんなことしか語れないことだけは確からしい。だから笑ってしまうのか。何でもないことなのだろう。語れないのだから笑っている場合ではないのに、何となくそれがおかしくてたまらない。そんな嘘をついてもつまらないだけか。話の脈絡を感じられない。脈絡も何も、話自体がないのではないか。何もありはしない。それははじめからわかっていたことだ。しかし話がないのだから、はじめも終わりもないのではないか。だがいくらそんな矛盾を突こうとしてもつまらないだけではないのか。ではどうしたらいいのか。どうもしないとおしまいとなってしまうか。すでにおしまいだったのではないか。たぶんそうだろうが、まさかそんなくだらないことを語りながらも、良心の呵責を感じているのか。そうだとすればどうしたらいいのだろう。もうそれはわかりきっていることだろう。はじめからやり直せばいいのか。今さらそれはないだろう。ではどうすればいいのか。


5月2日

 ここ数日は雨が降っている。外で雨に打たれながら何か考えていたようだが、部屋の中に戻ってきたら、もう忘れている。いつものことだろうか。それとも何か思いだしているはずだが、それは記述に向かない内容なのだろうか。それは何なのか。とにかく先を急ぐべきでないようだ。体調が思わしくない。まだ今日の日付に追いついていないだろう。もうあきらめてしまったのか。画面を覗き込んでいると眠たくなってくる。今さら何を考えても無駄なのか。なぜそう思うのか。そう思うとわからなくなってくる。何を考えたらいいのだろうか。そう考えるのはおかしいか。今日は出口がなかなか見えてこない。そんなことをやるべきでないと思われる。では何をやっているのだろうか。自爆テロか何かか。冗談に違いない。刹那的に生きようと思えばすぐに死ねるということか。矛盾しているのではないか。それも一種の倒錯と考えていいのだろうか。普通でかまわないのではないか。勝手なことを思い、勝手な行動に出て、何かを失い、何かを見失うだけだ。たぶん大したことではないのだろう。政治家が選挙キャンペーンで何かをアピールしている。これまでに積み上げてきた自らの実績かもしれない。ビンラディンを殺した実績はポイントが高いと思っているようだ。オバマがアフガニスタンに出向いて気勢を上げている。ビンラディンの髭面で思いだしたが、オウムの麻原尊師は果たして死刑制度が廃止されるまでに生き残れるだろうか。そういえばホリエモンはもうすぐ出所する頃だろうか。彼がやっていたことはオウムよりはいくらかマシだったかもしれないが、かつて一世を風靡した有名人にも、いろいろな末路があるようだ。この世には人が溢れかえっていて、それらの人たちがどうなろうと、あまり関心がないような気がするのだが、死に物狂いで何かをしなければならないのは、どうやらフィクションの世界に息づいている架空の登場人物らしく、あらかじめ用意された和解の時に向かって、大げさな対決の場面に及んでしまうそれらの人々について、君は冗談半分で何か適当な言葉を投げかけようとしているらしく、そこでどうしようもなく眠ってしまうわけだが、その言葉を今思いだすには及ばないのだろうか。なぜそう思うのか。

 話が途切れて意識が飛んでいるようだが、この先どんな認識に至ろうと、しばらく前に考えていた何かと同等の意味を持つとも思えず、何だか違っていると思うのは無論のこと、自分の都合で事をこじらせておいて、またいったんこじらせてしまった事を丸く収めるために、あれこれ段取りをつけて、交渉の場を設けて話し合い、そんなことの繰り返しの上に現状維持が成り立っているのはもちろんのこと、何だかそれら全体の成り行きが他人事のようにしか思えず、たぶん君にとっては他人事なのだろうが、やはり冗談でしかないのだろうか。そう思ってしまえばおもしろおかしくて、愉快な気分になれるだろうか。たぶんそれはフィクションではなく、世の中には汗だくになって死に物狂いで何かをやっている人もいるのだろうが、または絶えずそういう立場に追い込まれてしまう人もいるのだろうが、だからと言ってその人のことをどうこう思う気にもなれず、たぶん同情する気も起こらないのだろうが、自分がそういう立場になればそうなってしまうだけで、要するに君には関係のないことであり、君が誰か知らないが、君は君で適当に頑張ってくれればいいことでしかなく、誰かも誰かでそう思うときはそう思い、そう思わないときは思わないこともあるだろう。すべてはその場の状況次第か。すべてでなくてもかまわないのだろうが、何となくそんなつもりに事にあたるしかないようで、それで対処できるのかどうか、やってみなければわからないだろうが、冗談でも破れかぶれでも、暗中模索だろうと支離滅裂だろうと、そんなのはこちら側の事情であり、あちら側はあちら側でまた別の事情があるらしく、その辺が面倒なのだろうが、何とか折り合いをつけて事を運んで、できれば一件落着といきたいところだが、そうならなければならないで、それ相応の対応で臨み、要するにそんなことの繰り返しを実感することが生きていることの証となるのかも知れず、それはそれで面倒くさくてややこしいところなのかもしれないが、時にはうんざりしながらも、ため息をついて疲れた風を装いながらも、結局それらの馬鹿げた振る舞いに笑ってしまうのだが、要するにでもないが、何をどうとらえてもおかしいと思ってしまうわけで、とりとめのない気分となるだけかもしれない。


5月1日

 それが昨日のこととなるらしい。まだ何かを語る時間がありそうだ。曇っている。寒すぎず暑すぎず、この程度の気候がちょうどよさそうだが、他に語ることがないようで、時間はあるが、実際に何も語れない。ついうとうとして居眠りの最中だったようで、次いで車窓から見える林の緑に引き込まれそうになっている意識を辛うじて引き戻し、何か語ろうとしているらしいが、果たしてうまくいくだろうか。そんなことを語っている時点でだめか。しかしなぜ執拗に語りたがるのだろうか。どうしても今日の日付に追いつきたいのか。虚しい努力に違いない。たぶん外れているのだ。世間の常識から外れ、他愛ないことの繰り返しから外れようとして、必死にもがいているようだが、相変らずくだらない範囲内で言葉を記しているようで、それ以外を思いつけず、思いついたとしても記述に結びつかない。眠たいのか。もうやめてしまえばいいのだろうか。誰がそれを望んでいるわけでもない。人はどこまでもおろかでかまわなかったのではないか。君が人である証拠があると思うか。君という言葉が記されている。君がそれを記しているのではないか。だが君が君にそう問いかけてどうするのか。そこで何を確定させたいのだろう。また何か得たいの知れないゲームに参加しているという幻想に取り憑かれているのだろうか。それをゲームとみなせばそういうことになってしまうだけだろう。それ以外の意味はない。だから幻想に取り憑かれているならいるで、別にどうということはないはずだ。たとえ語っていることの方向性が定まらなくても、それはそれで好都合だと思っていればいいのであって、あらゆる方向へ語ることができると思い込んでいればいいだけだ。そしてそれも本気でそう思っていないのだから、その辺で勘違いする必要はなく、それらの適当さやいい加減さの中に、空疎な思いが込められているのだから、そこからどう語るかが君にとっての生命線であるわけもなく、すべては何も定まっていないのであり、これからもそんな状態が維持され続け、何も完成しないはずだ。

 あまりにも作品幻想に取り憑かれるべきではなく、たぶん作品という言葉が示す何かが君の意志や感覚を君に縛りつけているのであり、そこから不自由さや限界が生じているわけだから、それを取り払う必要はなく、不自由なままに限界付けられるまま、そんなことを語っているべきなのであり、そしてわざとそう思い込んでいるべきなのであり、そんな自らが自らを演じ続けながらも、正気とは思えないようなことを記していれば、何となくそこで自己満足に浸っていられるだろうし、それで何かの終わりまでの間の暇つぶしとなるはずだ。それでかまわないのか。それともまたそこでの成り行きに逆らって、そんな嘘をついて時間稼ぎをしているわけか。しかしそれは何のための時間稼ぎなのだろう。行動に移らなければならない。そう思っているのなら行動すればいい。何よりも実践ありきのはずだ。君はそんな幻想にとらわれている。それもある種のごまかしなのだろうか。語れなくなったら実践を持ち出してきて、それを語ることの代わりとしたいのか。だがそれが何をもたらすとも思えないのはどういうことなのか。また冗談で述べていることなのか。そんな自らを正当化したくて、その裏付となるようなものを必要としているのか。だから無理になってしまうのか。それではあまりにも馬鹿げている。気がつけばだいぶ遠くまできてしまったようだが、そこで何を求めているのかがわからず、そんなことを思っているうちに、結局自らの限界に挑戦しているような成り行きになってしまい、あくびが立て続けに出て、もうやめたと思い、限界を悟ったつもりになるようだが、それが何の限界なのかわかっているのに、あえてそれとは違うことを述べようとして、また無駄で無意味な迂回路を開拓しようとしているみたいで、何だかまったく懲りていないようにも思われ、呆れる以前に疲れてくるようだが、果たしてそのまま続けていいのだろうか。終わりに違いない。いくら何でももうやめた方がいい。目を閉じたらそのまま眠りに引きずり込まれそうだ。それにしても実際にやっていることがあまりにもどうでもいいように思われてくる。いったいこの世界は何なのか。何のために存在しているのだろうか。


4月30日

 誰かが架空の世界でひたすら言葉を記しているらしいが、そんな嘘をつきながらも君は何を目指しているのか。そこで何を極めたいわけでもなく、そんなことを記して今さら何を狙っているわけでもない。虚無と空疎の他に何が欲しいわけでもなく、退屈を持て余しているので、気晴らしにどこか見知らぬ場所へ行きたいわけでもない。だがそうしているうちにも着実に何かが近づいている。それは自らの終わりか。そうなったらおもしろいだろうが、いつもの冗談なのかもしれない。なぜそう思うのか。君が正気とは思えないからか。君の何がそうなのか。冗談がきつすぎる。たぶん何かがおかしいのだろうが、いつものようにそれがわからない。わかりかけているわけでもなく、わかろうとしているわけでもない。では何なのだろうか。いつものことであり、いつもの通りなのか。そう思うしかないらしい。また悪いくせがでている。君の思うツボにはまっているわけか。だが君が全能であるわけがないことは承知しているはずだ。語っている内容が粗雑なのだろうか。そうであったとしても気を病む必要はない。今までもそうであったし、これからもそうなのだろうから、その辺は気にせず、これからも適当にいい加減に語ろうとすればいいのではないか。君もそれはわかっているはずだ。わかり過ぎるくらいにわかっているから、少々の逸脱を見つけても咎めず、何も言わずに黙っているわけか。本当はもっと手際よくスマートに語ってほしいのだろう。誰がそんな思い込みにはまっているというのか。そうではない。わからなくなっているらしい。たぶんわからない。わかるわけがない。わかり得ないような言葉の並びか。では意味不明なのだろうか。意味がわからないという思うのは勘違いかもしれず、どう語ったらいいのかがわからないのではないか。わからなければ今までどおりのよくない語りで我慢すべきか。それの何がよくないのかもわからないのではないか。相変わらず粗雑なことを語っているつもりのようだ。

 それでかまわないと思っているうちは、そんなことしか語れないだろう。電車の中ではゼウスが降臨しているらしいが、君にとっては意味不明だ。誰にとってもそうかもしれない。雷の嵐と雪の嵐の中で、本能が起動しているらしく、たぶん何かの商品を宣伝しているのだろうが、相変わらず君には何のことやらさっぱりわからず、笑っている場合なのかもしれない。そしていい加減に語っているようだ。もう我慢の限界か。正気を失っているつもりになり、居眠りの最中におかしな夢をみたつもりになる。そして夢の中でそんなことはないとつぶやいているようだが、何がそんなことはないのか思いだせず、記憶にないのだろうから思いだせるわけもないのだろう。それでかまわないのだろうか。とりあえず言葉を記しているようだ。当時のことを思い起こす度にどうなってしまうのだろうか。外では相変わらず雨が降っているようで、北東風によって少し蒸し暑い空気も山の向こうまで退いたようで、快適といえば快適だが、それが長続きするとは思えず、だから何だとも思わないが、何となくその辺で憩いの一時でも過ごしているのだろうか。気分とは無関係にそう記している理由を知りたいところでもないが、では何を知りたいのかといえば、たぶん何も知りたくはないと記している理由を知りたいとは思わないこと同じ理由でも知りたいのだろう。面倒くさくなってきて、それでもかまわないと思い始めているようだ。だからもう限界なのだろう。何となくそんなふうに思われ、それとは異なる認識をもたらせないことに苛立ち、苛立ち紛れに言葉を記せば、さらに空疎と無内容が追加され、もはや焦燥感と虚しさに心を覆われ、どうでもいいような気分となって、やっていること放棄してその場を立ち去りたくなるが、では何をやっているのかといえば、記述以外の何ものでもなく、それをやめようとしても、簡単にやめられると思ってしまうことが、かえって抵抗感を生じさせているようで、そんな成り行きに逆らう形でもと来た道を戻っていってしまうらしい。今はその最中なのだろうか。座席に座って窓から見える外の風景を眺めている。それでかまわないのだろうか。


4月29日

 それでも君は何かを見出しているのではないか。すでに探していたものが見つかったはずで、それは虚無とは違う何かだったはずだ。それは過去の出来事だったのか。久しぶりに『砂の岬』を聴いている。聴いているうちにどこかを通り過ぎてしまったらしい。人は老いる。つまらないことを語るものだ。何を迷っていたのか。誰でもない。誰かは誰かになろうとしていたのか。楽しめないようだ。たぶんどこかへと帰って行ったのだろう。帰る場所などどこにもないのに、強引に帰郷を果たしたわけか。地震や津波や原発事故が原因などではない。人は老いてどこかへと帰ってゆく。それだけのことだろう。つまらない末路だろうか。またどこかで出会うだろうか。この世界で誰と誰とが出会うのか。でも執拗にそこへ回帰してくるのが物語の物語たる所以だ。君が見飽きていようと、他の誰かが興味を抱いている限りは、必ずそこへと回帰してくる。もう見飽きたとは言わせない強引さで、君の頭の中に紋切り型をねじ入れてくるのだ。そして君を従わせようとする。君は物語の前にひれ伏さなければならない。そんなことはありえないか。今のうちにそう思っておけばいい。やがてその力を見せつけるときがやってきて、君はねじ伏せられてぐうの音もでないほどに打ちのめされ、二度と見飽きたなどとは言わなくなるだろう。だからあの時感動しておけばよかったのだ。ひねくれて逆らってみせたりしたの運のつきか。強情なやつほど手痛く叩きのめされ、もはや何もできなくなるほどその支配下に置かれ、完全に奴隷と化してしまうわけか。だからやめておけと言ったのに、戯れに茶化して、皮肉を嫌というほど並べ立て、大げさにバカにしていたくせに、このざまは何なのか。これも冗談のつもりなのか。フィクションだと思っているのだろう。語っているのは君ではなく、言葉を記しているのも君ではない。他の誰かがお節介で語っていて、いい加減に適当に言葉を記しているわけだ。そう思っていればいい。いずれわかる時がくるだろう。その時になって吠えづらかくなよ。君は画面の前で笑っているだけのようだ。

 そんなことはありえない。ありえないからフィクションなのか。きっと誰かがでたらめに語っているのだろう。でもここまできたらしめたものか。あとは適当にごまかして、さっさと切り上げるとしようか。未だに何をどうしたいのかわからないが、誰かの意図を汲み取るつもりはこれっぽちもなく、何がどうしたわけでもないのに、笑い転げたくてたまらないのかもしれず、実際にそんなことをやる気もないのに、そんなことを記して悦に入っているのかもしれない。だから馬鹿げたことだと言ったのか。すべてはそういうことであり、誰もそれを把握しないうちに、こんなところまできてしまったのであり、何かが頭の中で炸裂するようなイメージを求めているのは明白で、それを実現するために言葉を記していると思いたいのであり、それも冗談の類なのだろうが、そんなことならいくらでも嘘八百を並べ立ててもかまわないのかもしれず、そうなってしまうから、そこで何かを操りながらも、少しは自制を利かせたいのだろうが、もはやそんなことを思っている場合ではなく、それを全開にしておかないとすぐに行き詰まってしまうのであり、状況が切羽詰まっているからこそ、そこから遠ざかろうとして、無理に妙ちくりんな何かを繰り出して、それらの行き詰まりから目を逸らして、何か利いた風なごたくを並べて、それでしてやったりとまではいかないとしても、何かの間に合わせにはなっていると思い込みたいわけで、それがだめだとすると、もはや手の施しようがなく、幻想を抱くことさえできなくなって、完全に手詰まり状態となり、自らの負けを認めざるを得ないのだろうが、何に負けているのかがわからないまま、負けなど認める気にもなれず、虚勢を張って、何か適当なことを語っているつもりになりたいのだろうが、どうもその辺が疑わしく、言葉を記している当人にしてみれば、少なくとも弛まぬ努力の成果としてそれらの文章を提示したいのだろうが、文章自体が当人を乗り越えて、当人とは異なる意見を内包していることを主張したいようにも思われ、できれば当人をどこかに置き去りにしながら自立したいのかもしれず、虚構の中でそんなことを夢想している風を装いたいのだろうか。それこそありえないことか。


4月28日

 破れかぶれになりそうなのを辛うじて思いとどまり、それで何かをなそうとしているらしい。あの時の約束を完全に忘れている。そういう話ではない。そうではないと思いたいのだろう。それ以外に何をもたらそうとしているのか。虚無的な気分だ。そんなことはない。ありえないと思いたいのだろうが、今日は今日でそんな気分なのだから、そんなふうに思っていればいいのではないか。数日後の外では雨が降っている。君の知ったことではないのか。だからそうではないと思っているのだろう。何とでも思っていればいいのではないか。君の知ったことではないのだろう。では誰の知ったことなのだろうか。何も投げやりになる必要はない。でたらめに言葉を記しながらも、何とかしているような気もしてきて、それでかまわないと思いたいのだろう。そんなことでは政治的無関心に拍車がかかるばかりか。いきなりそういうところへ話を持っていきたいわけでもないが、それに関して何とも思わないのはどういうことなのか。もはやそんなことは関心事とはならないほど、どこかへ突き抜けてしまったのだろうか。しかし突き抜けた先に待っていたのはいつもの虚無でしかない。これでどこへ逃げても逃げられないことが確定したわけか。やはりそれは君の知ったことではないのだろう。どうも国家の行く末などどうでもよくなってしまったようだ。そこに暮らしている人たちがいようと、たぶんどうにかなってしまうのだろう。どこかの国の首相がいくら将来に向けてのビジョンを語ったところで、それが何をもたらすわけでもないらしい。すべてはなるようにしかならず、ならないようにはならないだろう。思惑がその辺で右往左往している。君の理解はその程度のことらしい。どうせそれではだめなのだろうが、君はそれでかまわないと思っている。本気になれないのだからしかたがない。そして何でもなくてもかまわないと思っているようで、何がどうなってもかまわないと思っている。この世で目的を見出せず、何を思ったらいいのかもわからない。人はどうなるべきでもなく、どうにもならなくてもかまわないのだろう。

 そしてどこかへ行ってしまう。自意識などどこかで捨ててきてしまったのか。何がおもしろいわけでもなく、何をやろうとしているわけでもない。やれることは限られていて、それも自発的にやっているのか、周囲の思惑によってやらされているのかもわからず、そんなことを考えているうちにどうでもよくなってきて、辛抱しきれなくなってきて、気がついたら何もかもをどこかへとうっちゃってしまい、こんがらがってわけがわからなくなって、結局リセットしてしまうわけだ。もういいのではないか。馬鹿げていることは馬鹿げたことだと思っていれば気が済んでしまい、それ以上の追求などする気にもなれず、しばらくすると忘れてしまい、結局思いだせなくなってしまう。何が結論なのかもわからないまま、途中で投げ出してしまい、夜の闇の中で眠っているわけだ。しかしそれで何を説明していることになるのか。君はそこで何を忘れているのだろうか。何を目的だとも思わない。すべてはどうでもいいことか。実際はそうでないのに、あえてそう述べてしまう理由は何なのか。君はそれを知っているはずだが、しらばっくれているわけか。わざとそうしているのだろうか。君はすべてを知っているはずだ。事の真相などに気を止める気にはなれないのであり、それを語らなくても済んでしまうような立場を占有しているわけでもないだろうが、何となく語る気になれないようで、何を知っているわけでもないのに、すべてを知っていることになってしまうこと自体が、虚構の最たる性質なのであって、作り話の中でどうとでも言い逃れができてしまう成り行きの中で、そこで何を知っていようと、そんなことには何の価値もなく、だからそこからどのような結論が導かれるわけでもないのだろうが、事の真相などに関わっていたい人々の末路がどんなものなのか見当がついているはずで、ただそこから利いた風な結論を得たいだけで、それで何かを理解したつもりになりたいだけで、それが虚しい徒労に過ぎないことに気づかないのが、彼らの致命的な欠陥となっていて、語る必要のない結論を語りたがることが、そこでの悪しき慣習となっているわけだ。それが何かの冗談だとしたら、彼らはどうなってしまうのだろうか。君が心配するようなことではない。


4月27日

 こんなところから言葉を記すつもりなのか。正気を疑うような状況ではない。それでかまわないのだ。語るべきことなどありはしないが、とりあえず言葉を記して、何らかの文章を構成して、それで気が済むならしめたものか。冗談にもほどがありそうだが、当人は至って真面目であり、そうすることによって、何かを成し遂げたつもりになりたいのだろう。要するに自己満足に浸りたいのか。そう思ってもらって結構か。何と思われようと君の知ったことではないか。誰もそんなことなど関知していない。それらはあくまでも一人でやっていることに過ぎず、他の誰と関わりがあるわけでもなく、だから無責任に勝手なことを記せるのかもしれないが、実際はそういうことではないのかもしれず、誰かは誰かなりに自らの良心に従いながら、そんなことを述べているのかもしれず、そんな良心こそが誰かを取り巻いている社会から影響を受けて生じていて、それが言葉を記しつつある誰かを突き動かしているのであり、つまり誰かが記している文章の内容は、彼が属している社会の写鏡のようなことが書かれているのかもしれない。しかし今さらそんな嘘みたいなことを述べてどうするのか。それらのすべてが嘘ではなく、少しは真実らしき内容も含まれているのではないか。そうだとしても嘘っぽく思われ、そんな自覚を捨てがたいようで、そういう印象を拭い切れないような何かが心の片隅に引っかかっているようにも思われ、その辺でどう述べたらいいのかわからないようだが、しばらくそのことについて考え込んでいるみたいだが、まったく答えがでてこないのはいつものことで、どう考えても、そういうことではないように思われ、何となく腑に落ちない点が多すぎるのかもしれないが、何がそうなのかもわからないままそんなふうに述べてしまうこと自体もおかしいが、たぶんその辺で何とかしなければならないのだろう。

 やはり何かが違っているのだろうか。結局思いつくのはそんなことばかりで、それだけではどうにもならないことはわかりきっているが、どうしてもそう思われてしまうようで、誰かはその違っている何かを探し出そうとしているわけなのか。そんなわけがない。では違っていることをそのまま放置しているわけなのか。そうかもしれないし、それがそんな認識を招いているのかもしれず、ただ何かが違うと思い込むことによって、それで行き詰まりを打開したいのかもしれないが、そんなことができるわけもないのに、さらにそう思い続けているようで、その頑なな思い込みが誰かをさらなる行き詰まりに陥れていることも自覚しているようだが、それもおかしな話だ。君はそれがありえないことだと思いたいのか。そんなことを思い込むのもおかしいし、そんな思い込みによってどうにかなってしまうのもおかしいか。では何なのだろうか。何でもなければ、そうではないと思いたいのだろう。それは典型的な分からず屋的な態度になるだろう。そもそもそういう次元で何を説明しようと試みても、それはかなりおかしなことにならないか。すでに何を説明しているのかわからなくなっているみたいだし、なぜそうなってしまうのか、わざとそうやって話を長引かせているだけではないのか、そんな疑念を抱かざるを得ず、その辺からまともな話ではないような気がしてきてしまい、ただの冗談から生じた戯れ言であり、真摯に接する必要もないどうでもいい話になりかけているような気もしてきて、うまく言い表せないのだが、何となくとりとめのないことを述べているような気がして、もういいのではないかとあきらめ半分で、それでも敗戦処理的に終わりまで記そうとする生真面目さだけで記しているような気もしてきて、本当にどうでもよくなってくるのだろうが、やはり真に受けるようなことではないのだろうか。もうその時点でゲームオーバー的な事態に陥っているわけなのか。そうならそうでそういうことだと思っておけばいいのではないか。だからそう思っているわけだ。やはり冗談としか思えないような気分で、それらのどうしようもなさをとらえるしかないらしい。


4月26日

 必要もないのに言葉を記していると嘘をつきながらも、現実に行き詰まっているようで、どうもこのままではかなり遅れたまま、来月に突入してしまう気配だ。画面に向き合うと、どうしてもまともに言葉を記せなくなってしまうらしいが、無理なものは無理なのであり、実際に何も語れないのだから、そればかりはどうしようもないだろう。要するにこんなことしか語れなくなってしまっているわけだ。興味が湧いてこないのだから仕方なのないことだ、とあきらめてしまってはまずいのだろうが、あきらめざるを得ないのに、なかなかその気にならないところが、往生際の悪さを露呈してしまっているようで、結局さらにこんなことを記すはめに陥ってしまいそうだ。君はいったい何を記しているのか。こんなこと以外は何も記していないはずだ。今こそこんな現実を直視すべきか。画面をにらみながら直視しているではないか。フィクションではない。たぶんそういうことだ。画面の向こう側から誰かがこちらをにらんでいるわけではない。そこに映っているのは君の顔ではなく、誰とも見分けがつかない見知らぬ顔でもなく、そこには文字が記されているだけで、それを読まなければならないとは思わないが、何となく読んでいるようだ。内容がない。読んでそう思うならそういうことだ。それ以外に何が記されているのだろう。だからもうあきらめてそれを続けるべきなのか。だがそれがなかなか続かないようで、よそ見ばかりしていて、言葉を記そうとしない。そんなのではだめだということがわかっているからか。ではどうすればいいのだろうか。やめたらいい。結論がすでに出ているではないか。それでもやるつもりなのか。何もないのになぜ言葉を記しているのだろうか。いくら自らに問い続けても答えなど出てくるわけがない。それなのに問い続ける。わからないなら問わない方がいい。わかっているならやめたらいい。しかし君に何がわかっているというのだろう。

 そしてこんなところまで記してきた。空疎なことを記している。これでは何も記していないのと同じことか。そうであっても記している。言葉を記すことが自己目的と化している感じだ。いったんそうなってしまったらもうおしまいだろうか。だがおしまいなのに終わっていない。だからそれがおしまいということではないのか。しかしまだ何とかしようとしている。冗談にしては執拗にとどまろうとしているようだが、もう無理か。また雨が降ってきたらしい。風も吹き荒れている。それはきっと気のせいだろう。闇の中で何が見えているのか。明かりがついているではないか。蛍光灯の下で何をやっているのか。言葉を記している。それだけのことだろう。もう手遅れなのに、なぜ手遅れなのかわからないまま、そんな成り行きに逆らって、さらに言葉を記している。なぜそんなことにこだわるのか。迷っているのではなく、迷いを振り払おうとしているのだろう。強引に語ろうとしている。そんなやり方に明け暮れ、悪あがきもいい加減にやめたらいいのに、やはり言葉を記すしかないらしい。何だかわからないが、そういうことなのだ。誰が君を助けようとしているのでもなく、どこで置き去りにされているわけでもないのに、わけもわからずにそんなことを記している。そしてここまでやってきたが、空疎な内容に押しつぶされそうか。その身を引き裂かれそうになっているわけか。きっとそれは気のせいであり、そんなのは嘘に決まっている。それでも言葉を記しているのだから、もはや何を言っても無駄なのだ。ただそこには無言の何かが存在しているようにも思われるが、実際のところは何もありはせず、それは君を惑わしているわけでもなく、障害物すらないようで、君はそこを素通りするだけで、何もないところを歩んでゆくばかりのようだ。孤独なのか。何もないのだから孤独でさえないのだろう。何の感慨にも結びつかないような言葉の並びを黙って眺めているわけだ。ため息さえ出てこない。無表情のまま、その場に座り込んでしまうわけでもなく、椅子に座って音楽を聴きながら、画面を見ている。いくら見てもそこには言葉が並んでいるだけだ。


4月25日

 近頃は何を記してもしっくりこなくなっている。何も思いつかないまま、そのことに業を煮やして、強引に語れば語るほどおかしくなっていってしまうようだ。まったく正気とは思えないが、君は相変わらずこんなところで何をやっているのか。もう意識は目を覚ましたのだろうか。述べていることの意味がわからない。そんな状況が理解不能なのか。いったい何がどうなっているのだろうか。たぶん何もどうもなっていないのだろう。この世界は相変わらずこの世界のままにとどまり、何の変化も感じられず、いつものことがいつものように行われているだけだ。そしてたぶんそれが何をもたらしているわけでもなく、この世界がこの世界であることを保っているに過ぎない。春になり、植物も芽を出して、その周りを昆虫が飛び回っている。このまま暑くなってゆき、やがて夏になり秋になり冬になり、また来年の今頃は春になっているわけか。君もだいぶ年を取ってきたようだ。もうよれよれのぼけ老人状態なのか。そんな言葉はまったく心に響かない。心が空っぽで何もないようだ。何を言われてもハイそうですかとしか返せない。実際にはそんなふうに応対した覚えはなく、どうせまた作り話の一部となってしまうのだろう。そんな成り行きにいらつく暇もないままに眠ってしまい、目が覚めたらまた首を傾げながら、それまでのことを忘れていることに気づく。どうもその辺が限界のようで、何も見出せないままに、昼休みも終わってしまい、また仕事へと戻ってしまうらしい。しかし今日は記された日付から数日後の日曜日のはずだが、現実の世界では、休んでいるのに休めないような、はっきりしない状況が続いているみたいだ。それで何がどうなったのだろうか。さらに何かの混沌が深まっているようにも思えるが、実際のところはそうでなく、気分次第でどこかをふらついているだけで、虚構の世界ではそうなのか、現実の世界では日曜日も仕事をしているのか、そのどちらでもかまわないような世界があるのかないのか、そんなことはどうでもいいのだろうか。たぶんそういうことであり、そこで君は何かをあきらめている。

 またできないことをやろうとしているのか。何だか数日後は蒸し暑い。このままではまた何も語らないうちに終わってしまいそうだ。それでかまわないのだろうか。弱気なのだろうか。何でもないことに変わりないだろう。要するに面倒くさいのか。相変わらず何がそうなのかわからず、何かの試しにそんなことを述べているのではないか、と疑うことしかできず、それも意味がわからないが、何だかおかしい。果たしてこのままでかまわないのだろうか。困っているのだから、かまわないわけがないのだろうが、そんなふうにしか言葉が記されない。君が記しているのではないのか。また何かが循環し始めているらしい。馬鹿げていることはわかっているはずだ。しかしどうにもならず、そんなことをやり続け、その結果がこんな感じなのだろうか。辛い状況なのか。仕事はこなしているではないか。言葉が出てこない。冗談のような気分でそんなことを思っている。たぶんどうでもいいのだろう。数日後のテレビではみんなが鬱病で盛り上がっているようだが、君には関係のないことなのだろうか。どこかで誰かが社会からこぼれているらしい。別にこぼれてしまってもいいのではないか。他人の知ったことではないのか。君の知ったことでもない。誰も知らないようなことを知っていたとしても、それが何になるのだろうか。冗談でそんなことを述べているのだろう。君には何も必要がないのだろうか。たぶんそういうことではない。何に逆らっているわけでもなく、何をやろうとしているわけでもない。ただ言葉を記しているだけなのではないか。誰かがそうしているのだろう。どこかで誰かが楽しいそうに何かをやっている。それだけのことだろう。それだけのことに引っかかっている。他は何もありはしない。本当に何もないのだろうか。何がどうなっているわけでもないが、そういうことになっているのだろうか。結局何がどうなっているわけでもない。その辺が何だかおかしいわけだ。でもそんな空疎で虚無的な何かを本当に肯定できるだろうか。人はなぜ仕事するのか。そういう問いに答えはない。何が問われているわけでもないだろう。君が問いかけている何かも何でもないことだ。


4月24日

 本当にやる気があるのか。まさかその言葉を耳にする機会がやってくるとは思わなかった。嘘に決まっている。何が決まっているのかわからない。嘘ではないのかもしれず、嘘であったとしても、そんなはずがないと思う。では何なのか。何でもなければいつもの決まりごとが実行されてしまうのだろうか。そんなはずがなく、誰が何をやろうとしているわけでもない。おそらく君もそこにはいないのだろう。では何なのか。無人の荒野で核実験でも行われているのか。そんなはずがない。では何なのか。何でもなく、そんなことが記されているだけだろう。君が記しているのではないか。ところで君とは誰なのか。画面の前でキーボードを叩いている誰かが君なのだろうか。便宜的にそうであってもかまわないのではないか。しかし何が便宜的なのだろうか。そんなことを思っているこの意識とは何だろう。たぶん何を思っているわけでもなく、意味の定かでない迂回がこれらの文章を構成しているのではないか。なぜそう思うのか。迂回とは何か。誰かがどこかでわざと遠回りを楽しんでいるわけか。休日にドライヴでもしているのだろうか。たぶんそれは誰の意識でもない。誰もそんなことは思わない。だがそんなこととはどんなことなのか。どんなことでもありはせず、誰かがそんなことを記しているに過ぎない。では何となくそれは馬鹿げたことなのか。なぜそう思うのかわからない。どうも文章としておかしいような気がしてくるが、これは何なのか。これとは今記しつつある文章のことなのか。そう述べてしまうとさらにおかしくなってくるようで、だんだん正気の沙汰ではなくなってくるように思われ、この辺で軌道修正しなければならないと感じて、少しでもまともな内容に近づけようと思っているらしいが、果たしてそれが加能だろうか。できなければどうなるというのだろう。意味不明の後には冗談の続きが待っているだけか。そうではないだろう。そうではないと思いたい。それだけのことか。それだけではないとも思いたい。ではどうなのか。どうにもならないからこうなってしまったのではないか。

 それでもどうにかしようとしているのかもしれず、実際にここまで言葉を記してきたはずだ。それがどうかしたのか。君はどこで何をやっているのだろうか。何を問われているわけでもなく、問いただしているわけでもない。それが冗談には違いなく、それが何だというわけでもないが、何か語るべきことがあるのだろうか。たぶんそれ以外には何もなく、そんなことを述べている場合ではないのかもしれない。だがそうではないことを述べている現実がここにあり、まともに何も語れない現状があるわけだ。これは何なのか。笑ってしまうだろうか。それ以前に意味がわからない。君は何を語っているのだろうか。君ではないからわからないか。たぶん画面の前には君が不在なのだ。不在の君がそこで語る必要があるのだろうか。またややこしいことを述べたくなってきたのだろうか。君は意味不明を面白がっているようだが、あとで読み返してみればつまらない内容でしかないことに気づくだけか。読み返してみるまでもないだろう。どうも今回もまともなことは何も語らずに終わってしまいそうだ。スランプが長引いているわけか。別にいいのではないか。かまわないと思いたいだけか。でも何がかまわないのかわからない。つまらなくてもかまわないということか。少なくとも君はそう思っているのだろう。だが架空の存在でしかないのにそう思う必要があるのだろうか。そういうフィクションを記しているということにしたらいいのではないか。だが何がフィクションなのかわからない。ではどうしたらいいのだろうか。今さらどうにかできるはずもなく、このままの意味不明で記し続けるしかないだろう。しかしなぜそうなってしまうのか。成り行き的にそうだから、そうなるしかないのだろうか。しかしそんないい加減な説明でかまわないのか。かまわないも何も、そんなことを記している誰かが画面の前に座っているのではないか。だがそれで何の説明になるのかわからない。結局誰が何を説明しているわけでもないらしい。


4月23日

 別にそれは意地悪な意見ではない。何がそうなのか忘れているようだが、そんなことは関係ないか。まだ何のことやらさっぱりわからない。それでかまわないのだろうか。かまうわけがないが、とりあえず思いつかないようだ。それではさらに意味不明となってしまい、何やら話がまとまらなくなってしまうかもしれない。だからそれでかまわないのだろう。よそ見をしている暇はなく、君は君の中で待ち続けるつもりなのではないか。そんなことはない。それこそ何のことやらさっぱりわからない意味不明なのではないか。では何なのか。そうでなければ何だというのか。さっきからひたすら沈黙しているのは何のためなのだろうか。あと三分だ。カップラーメンでも食べるつもりなのか。そうではない。どこからともなくそんな声が聞こえてきたような気がするが、きっと気のせいだろう。偏頭痛が治らないのか。それほどの痛さでもないはずだ。あと二十秒だ。もう少しの辛抱か。そうではないはずで、すでにそんなことを記しかけているようだ。それではだめなのだろうか。だめに決まっているだろう。そうでなければどうにもならないのではないか。文章の内容も意味不明のままになってしまう。それでもかまわないのか。別に脅されているわけではない。何に脅かされているわけでもないだろう。では何なのか。そうなってしまっているだけのようだ。それではだめなのにそうなってしまっている。精神的にも肉体的にも疲れているのか。それがいいわけになるわけでもないか。ではどうしたらいいのか。そんなふうにこなしているだけではだめなのだろうか。それでは君の思うツボだ。でも逆らうつもりにはなれず、そのままでもかまわないと思う。本当だろうか。本当でなければ嘘なのか。この間までの愉快な気分が影を潜め、すでにうつ状態なのだろうか。そんな簡単に気が変わるとは思えない。ただ面倒くさいだけなのだろう。

 言葉を記すのが面倒くさくなり、考えるのが嫌になってくるが、別にエスプレッソで淹れたコーヒーしか飲めないわけでもないだろう。当たり前のことでわざとなのだろうが、それとこれとは無関係だ。また文章がおかしなことになっているらしい。やる気がしないのに、言葉を記したがっているようだ。いつもながらの矛盾した感覚に陥っているらしい。冗談でしかない。まったく難儀なことだが、それを乗り越えないとまともな内容に至らないらしく、途中で挫折してしまうとそのままになってしまう。どうやら今回はその兆候があるようだ。何も語れずにここまで至り、それで納得するしかない成り行きになってしまいそうだ。しかし君は何を納得しているのか。何となく馬鹿げているように思われ、とても正気とは思えない。逃げているのだろうか。何から逃げていることになるのか。この世界のすべてからか。それは不可能だ。逃げていることにならないのではないか。では逃げるのをやめるとしよう。そんな簡単にやめてかまわないのだろうか。逃げてもどうにもならないからそうなってしまうのだろう。そして正気に戻り、ひたすら言葉を記している現実に気づくわけか。ひたすらではない。何かの合間に気が向いたらそうしているだけだ。それだけのことのようだが、それはまたいつもの冗談なのか。中身のないままここまできてしまったらしく、放っておけば自己嫌悪に陥りそうだが、そこを何とかこらえて、今回はこのままで我慢するとしよう。なぜそうなってしまうのか。それが何かの技術に基づいた表現形態なのだろうか。そんな難しいものでもなさそうだが、何となくその辺で行き詰まっているらしく、つまらない言葉の並びに嫌気がさしているようだ。またそれか。そこで何もかもが止まっているようで、少なくとも時が経っているから、時間が止まっているわけではないのだろうが、何だかその辺で考え込んでしまい、冗談ではないと思いたいのだろうが、実際には冗談以外の何ものでもないようで、こうなってしまったからには、もはや手のほどしようがないのかもしれず、このままで終わるとしよう。


4月22日

 不意に言葉を記そうとしてしまうが、何を記したらいいのだろうか。この期に及んでそれはないか。まだこの期にも及んでいないところか。しかし愉快な気分だ。言葉を記す環境がLinuxになった途端に愉快になっている。どうでもいいような気分のまま適当にいい加減に記しているだけなのに、何となく楽しくなってくる。まるで冗談のような爽快さがもたらされているみたいだ。きっと馬鹿なのだろう。何でもないのにそんなことを思っている。何がもたらされているわけでもないのに、そんな気がしてきて、平然と無茶苦茶なことを述べようとしているみたいだ。でも何とか虚無の力で踏みとどまり、そんなはずがないのにもかかわらず、どうにかなってしまいそうになる。実際どうにもなっていないのに、そんなふうに思われてしまうのはどういうわけなのか。わけなどなく、あったとしても無視するまでのことで、無視できなくなれば受け入れるしかないが、今のところはそうではないようで、わけもなく愉快な気分でいるように思われ、空疎なこと以外は何も語っていないのに、それでかまわないように思われてくる。それ以外に何ができるというのか。この世界はくだらないことで満ちており、それが素晴らしいと思われてくるわけで、そんな嘘をついてもかまわないようにも思われ、要するに何でもいいのかもしれず、どうでもいいからこそ、こんなことを述べているのであり、満たされない思いを何にぶつけているわけでもないのだろうが、たぶん正気なのだろうし、気が狂っていたらいたで、もっとまともなことを述べているのではないか。

 そんなわけで至って正気のように思われ、どうにかなってしまう一歩手前から、はるか彼方へと意識が退いているみたいで、醒めた気分で意味不明なことを記しているのかもしれず、何かがそこに埋もれているのかもしれないが、それを無理に掘り起こす気にはなれないようで、さっさとその場から遠ざかり、危うく罠にはまるところだったと安堵しているわけでもないだろうが、何だかしらけぎみに画面を眺めつづけ、この程度のことかとがっかりしているのかもしれない。東山魁夷の絵とそれについて語る作家との間に、何となく絶望的な距離があるように思われるのはどういうことなのか。そんなことを意識させるテレビ番組も、東山魁夷の絵とは絶望的に離れているような気にさせるのは、君自身の勘違いか偏見なのか。結局は語ろうとする作家も構成しようとするテレビ番組も、いわゆる物語の虜となっていて、語れば語るほど、分析すればするほど、そこにある絵から離れていってしまうわけだ。その代わりに物語が出てきて、人の意識を言葉によって占有することになる。その結果として、作家やテレビ番組が東山魁夷その人について語ることになり、語れば語るほど、彼が描いた絵からどんどん遠ざかっていってしまう。でもそんなテレビ番組を見ている人々は、それで満足することになるのだろうし、彼についての物語に感動したりするだろうし、絵についての分析や、語っている作家の話がおもしろいとも思うだろう。たぶんそういうことなのだ。ただ普通に絵を観賞しているだけでは得られない何かを、そういうテレビ番組が提供してくれるのだ。その何かとは何だろう。それは絵に関する知識か、あるいは絵から派生した物語だろうか。そして君たちはそういうものに感動するわけか。たぶんそれでかまわないのだろう。


4月21日

 今さら何を付け足しても無駄か。そんな顔をして何を呆れているのか。今日も曇っているようだが、このままでは何も見出せずに何ももたらせないのだろうか。それは愉快なことだ。無駄だと思っていても、まずは行動ありきなのだろう。行動ではなく言葉を記さなければならない。今はそんな状況なのだから、何も避けようがない。ドアがしまる音に驚いて、猫が飛び上がるのを目撃したわけでもなく、それとは無関係に電車の中で画面に向かって言葉を記している光景が思い浮かぶが、話とは何の脈絡も感じられず、何を思い上がっているとも思えず、腕がしびれてきたのは何のせいでもなく、ただの気のせいとも思えず、過酷な労働に耐えきれずに体が悲鳴をあげているとも思えない。目を閉じてしばらく瞑想に耽っていたのか。そういう表現ではない。ではやれないことをやろうとしているのだろうか。いつものことか。簡単過ぎて持て余しぎみになるようだが、とりあえずそんな按配で言葉を記しつづけ、左腕のしびれが解消しないまま、何だか何かの限界に近づいているのかもしれず、電車の中に貼ってあるハウツー本の広告に、砂糖の取りすぎは寿命を縮めると記されているのを読み、何か思い当たる節でもあるのか、ちょっと不安になってくるが、老人が声を枯らしながら歌っているのをイヤホンを通して聴きながら、とりあえず強がるのはやめにしようと一時的に思っているようだ。

 もう長くはない。何を悟っているわけでもないのだろうが、これからの身の処し方など考えているのだとすると、手遅れの前兆だと思って差し支えないのだろうか。そうならないうちに手を打っておかなければならないか。思いつく策など何もないのに、曇り空を見上げながら、何か考えている風を装い、数日前には痛みで上にあげるのに苦労していた左腕が、しびれを伴いながらも、どうにかこうにかまともに動くようになったのだから、体の左半身が麻痺してしまうほどのこともなかったわけで、それに関しては何となく安堵しているわけなのか。いったい何が原因なのだろうか。一時的に脳の血管でも詰まってしまったのだろうか。しかしなぜ甘いものを欲しがるようになってしまったのか。気がつくとチョコレートばかり食べているのは、カカオ中毒か砂糖中毒なのだろうか。そんな中毒などありえないか。ポテトチップスやスナック菓子なども食べ出したら止まらなくなるのではないか。確かミシェル・フーコーなどはコーラとハンバーガーがあれば他に何もいらないと言っていたとかいないとか、その辺の記憶は定かでないが、そうやって人は自らの寿命を縮めていってしまうのかもしれない。そんな些細なことでも気を遣わないと、たちまちおかしくなっていってしまうのだろうか。無論それは冗談の範囲内であり、長生きしようと短命に終わろうと、たかだか数十年の違いでしかなく、大して用らしい用のない現代人にとっては何でもないことなのかもしれない。

 とにかく環境が変われば心境も変わるだろうし、いつまでも同じことを繰り返していても埒があかないのは確かなことで、ここらで心機一転して、何かこれまでとは違うことをやってみたい気分だが、君が本気でそう思っているかどうかは、今のところ判断がつかないようで、そうなってからでないと何とも言えず、早合点する気はなく、結果など気にせず、適当にいい加減なことを述べていたいようだが、たぶん何を求められているわけでもないようで、それでかまわないのだろうし、かまうも何も、それ以前に好き勝手に言葉を記しているわけで、その辺がおかしいところかもしれないが、すぐに何も思いつかなくなり、言葉に詰まって何も記せなくなって、それっきりになってしまうのが落ちで、その辺は記述の暴走など心配する必要はないのかもしれないが、気分はまだ優れず、頭が少し痛いようで、ちょっと居眠りに入りかけて、慌てて気を文字が記されつつある画面に集中させているようで、どこまでもつとも思えないようなことをやりつづけようとしているらしいが、それはどこまでも無駄で無理なことだ。悪あがき以外の何ものでもないか。そう思うなら思っていてもかまわないだろう。そんな君の思いとは無関係に言葉が記されるだけか。でもそれは君がやっているのことではないのか。きっとそうに違いないが、実際にもそうだろうが、何かが違っているのかもしれず、その違いが何だかわかるまでは続けなければならないのかもしれず、そんなわけでそんなことが続いていってしまっているのだろう。


4月20日

 何となくこの程度のことに呆れているようだ。大したことはなく、どうしたわけでもなく、たぶんどうにもならない状況なのだ。相変わらず何も語れないのだろうか。語れるようにしなければならないのだろうが、ままならないことは確かで、何も語れないまま、また数日後の明日になろうとしているらしく、何も思いつかないまま、また夜になってしまったらしい。どうも君は必要とされていないようだ。だが他に必要とされている人間が世の中にいるのだろうか。にわかには思いつかず、君にしても誰にしても、他の人間と取り替え可能な誰かでしかないのではないか。絶えずそういうことでしかなく、いつもそうなので、あたかもこの世の中に誰がいてもいなくてもかまわないような気がしてきて、さらにどうでもよくなってくるようだが、とりあえず言葉を記さなければならず、それだけのことでも、君は君自身に必要とされているのではないか、と錯覚しているのかもしれないが、別に思い違いだろうと何だろうとかまわないのであり、それが気に入らなければ、さらにでたらめなことを記していればいいのではないか。

 あれからさらに時が経ってしまったらしい。別に何を悔やんでいるわけでもないのだろう。気分は最低かもしれないが、ここにこうしているわけだから、それで何とかなっていることの証となるのかもしれず、君は君でうまく立ち回っていると思っているのかもしれないが、それも何でもないことなのか。そういう見方をするならその通りだ。それでかまわないと思うならそういうことになり、それらの状況は何とでも解釈可能なのだろう。君にはそれが歯がゆくてたまらないことなのか。別にそれで何がどうなるわけでもないところも気に入らないのだろうか。たぶんそう思っていてもかまわないのだろう。何がどうなってもかまわないのであり、それについてどう思っても何がどうなるわけでもない。心の中ではそういうことになり、外部の世界で生じている事象についても、君自身がそれに巻き込まれていても、いくら翻弄されても、君にはなす術などありえず、黙って状況に従うまでのことだ。そんな風になっているのだから、それが現実なのかもしれず、君は実際にそんな成り行きによってここまでたどり着いたのだ。

 今は暇つぶしに音楽を聴いているのではないか。ところで言葉を記しながら何を思っているのか。たぶんそんなことではないのだろう。では何がそうなのだろうか。これまでのたゆまぬ努力が何をもたらしたのか。怠惰と虚無か。心が空っぽになってしまったらしい。そんな嘘を記せばそれなりに納得するのだろうか。誰がそう思っているのだろう。思わせぶりに何かをつぶやきたいわけではない。ネルソン・マンデラはまだ生きているらしい。それとは関係のないことを記したいのか。何かおかしなことを思いついたのか。あるいは早く記述を終わらせたいのか。記述が何に効くわけでもなく、効果がないからこうして続けられているのかもしれず、意味のないことを延々と語っていられるのかもしれない。また君は嘘をついているようだ。退屈なのだろう。生きてゆくことに飽きてきたのか。でも死ぬのは嫌なのではないか。しかしこれから何に出会えるのだろうか。大規模な天変地異なら昨年体験したではないか。人が何万人も死んだのに、君は何とも思わないらしい。でもそれであらゆる物語が作為に他ならないことを知ったのではないか。そんなことは前から知っていたのではないか。しかし実感できたのはあの出来事があったからだ。でも懲りない人々が、天変地異さえも自らの内に取り込もうとしていて、そこに恣意的な物語をかぶせようとしているわけだ。思い知らされたはずなのに、まったく気づいていないのだろう。


4月19日

 なぜか知らないが、何も知らないような気もしてくるが、何を記したらいいのかわからず、毎度おなじみのおかしな気分となっている。要するに何も記すことがないのだろう。外では相変わらず雨が降っている。そして無線LANの向こう側にあるWindows Vistaマシンに悩まされる。数日に一度立ち上げる度に更新プログラムのダウンロード&インストールで数時間が無駄に費やされ、何もできずにうんざりさせられる。Windows 7にしてしまえばいいのだろうが、自分のではないのでその辺ができずに、苛立ちながらもさらに待つはめになってしまうようだ。馬鹿げているだろうか。詳しい説明になっていないので、何をやっているのかわからない。

 言葉を記しながら気休めに音楽を聴くとしよう。具体性に欠けているらしい。誰のためでも何のためでもなく、無論金儲けのためではないので、やる必要のないことかもしれず、必要もないのにやっているのだから、無駄でかまわないのかもしれない。だから無駄に言葉を記しているわけか。そんなふうに思っているのだから、それはそれでその通りなのだろうか。そう思っていればいい。それで思い通りに事が運んでいると思いたいのか。何のことやらわからない。どうも今日は説明ができていないようだ。しかしVistaはいったいいくつ更新プログラムをインストールすれば気が済むのか。起動する度に更新プログラムのダウンロードが始まってしまい、動作が重すぎてまともに動いたことがない。これが7になれば少しはマシになるのだろうか。そんなVistaと比べれば、何だか今言葉を記しているMacBook Proがまるで天国みたいに感じられてしまう。楽に動作しすぎて言葉を記す上ではかえってまずいということもあるのだろうか。ならば久しぶりにDELLのLinuxマシンで言葉を記してみようか。

 そんなことを述べているうちに、それ以外は何も語っていないことに気づくが、たぶん何も思いつかないのだろう。君に残された時間は少ない。あとわずかなのだろうか。わずかといえば数年といったところか。少なくとも数百年ではない。ではその間を取って数十年といったところか。またずいぶんとおおざっぱなような気がするが、普通に生きればそうなってしまうだろう。それが数十年ではなく、十数年だったら焦るだろうか。今さら焦ってみても何ができるわけでもない。できるとすればこうして意味不明気味に言葉を記すぐらいが関の山か。君にそうではないような成り行きに持っていける才覚があるとは思えない。今も堕落しきっているはずだ。ならばどうすればいいのだろうか。こうしていればいいのではないか。目下のところはそれだけが取り柄のはずだ。他に何があるわけでもなく、何をやろうとしているわけでもない。

 無理に語ろうとしても無理に違いない。無理だからなおのことこだわってしまい、無理なのにあえてそれをやろうとして、できないことに気づきながらも、やはりそれをやろうとしているわけなのか。結局挫折して投げやりになり、憂さ晴らしにわけもなく無駄に言葉を記し、そんなやり方から抜け出せず、それが延々と続き、今に至っているわけで、そんなふうにしかならないことに愕然とするわけでもなく、それが当たり前のように思われるだけで、次第に何とも思わなくなり、こんなことではだめだと感じながらも、やはりそこから抜けきれずに、惰性でそれを続けている現状があり、それがこんな事態を招いているわけで、こんな自体とは何かと問うならば、問われるまでもないことでしかなく、どこへも逃げられない状況が続き、次第に心身共に疲弊してきて、何が何だかわからないのではなく、すでに気づいていることをここで表明できなくなっているわけだ。本当に君に残された時間はあとわずかなのか。そのときになってみればわかることだ。


4月18日

 今は黄昏時ではない。なぜそう思うのか。今日も曇っているようだ。明日には雨が降るのだろうか。だがそれとは無関係にすべてが後退している。言葉が退き、意識も退く。何を記していることにもならず、もう何もありはしない。たぶん今は深夜なのだろう。それで何が不満なのだろうか。何だかごちゃごちゃした気分のようだ。それでも何かに気づかなければならず、気づいたそれについて説明しなければならないのか。放っておけばすぐに固まってしまうらしい。伸び代がなくなって、つまらない人格をまとうようになる。しかも残酷なのは当人がそれに気づかないところだ。みみっちい人間になり、みみっちいことにこだわり、みみっちい範囲内で生きようとする。社会の構造や制度がそういう人間を生み出しているのだろうか。絶えずそうなるように仕向けているのかもしれない。そしてそういう成り行きに逆らおうとすると、みみっちい人間たちから攻撃を受けるわけだ。さらにそういうみみっちい人間たちが読んでいるのが、主人公とその仲間たちが悪い奴らと戦いながら、人間的に成長を遂げ強くなっていく物語なのか。恐ろしいことだ。彼らのみみっちい境遇と、彼らが日頃見ているテレビや漫画や映画に出てくるヒーローたちとの落差は何なのか。別にヒーローばかりに心を奪われているわけでもなく、それはそれで気晴らしの時間を過ごすために必要な気晴らしの何かでしかないか。雨が降っているようだ。

 いったいそれはいつの話なのだろうか。今日もまた何か考えているようだが、まとまりそうもない。とりあえず陰湿なことをやる人間には悲惨な余生しか残されていないようで、やれなやるほど自らの墓穴を掘ることになるらしいが、君はただそんな光景を傍観することしかできない。どうもそうやってみんなおかしくなっていってしまうみたいだ。人はなぜ自ら進んで小市民になろうとするのだろうか。世の中の仕組みが彼らにみみっちいところで競わせようとしているからそうなってしまうのか。だがそういうみみっちい犠牲者たちを利用しなければ、世の中がうまく回っていかないことは確かなようで、彼らがちっぽけな夢を追いかけているからこそ、それに見合った様々な商品が流通して、大企業が利潤を生み出しているわけで、要するにそういう市民社会が成り立っているわけだ。やはりそう考えると恐ろしくなってくるか。何かもう少しそれらの現象を肯定的にとらえられないものか。いつも暗澹とした気分では、気が滅入りすぎて鬱病になってしまう。YouTubeだのTwitterだのFacebookだのを活用して、君も小市民として相応の交流にでも参加した方がいいのではないか。それが今時のポジティビリティというものだ。しかし本気で述べているのだろうか。それではまたいつもの冗談の域を出ない話となってしまいそうだが、それでかまわないのか。

 君がかまわないのならいいのではないか。どうもまた嫌になってしまったらしい。外では雨が降り続いている。政治家などは市民の味方を標榜していないと選挙で落ちてしまうから、盛んに媚を売るしかないのだろうが、市民の方はといえば、自分のことは棚に上げてマスコミの受け売りみたいな批判を繰り返すしかなく、あまり建設的な関係にないようだが、それでも国家が国家として機能しているように思い込んでいるわけで、その手のニュースにうんざりしながらも、それが当たり前のようにも思われ、たまに世界のニュースとかを衛星放送で見ても、どの国でも同じようなことをやっているみたいで、それが日本だけではないことに少し安堵したりするが、特定の政治家が無能だったり有能だったりする以前に、もはや政治家に不満をぶつけること自体が筋違いなような気もしてきて、互いに互いの足を引っ張り合うのが当然の成り行きの中で、悲惨な人たちは自業自得気味に生きていくしかないのだろうし、当人たちはそれに気づいていないのだから、もはや手の施しようのないことなのかもしれず、人間社会のある一面がそういうことなのだろうから、そこから目を背けるのもいいし、不快に感じている時間がもったいなければ、見て見ぬ振りをするだけでは不十分で、それとなく諭すような努力も必要なのかもしれないが、触らぬ神に祟りなしで、その場その場で対処したりしなかったりでもかまわないのではないか。とにかく気が向いたら何か対策を考えるとしよう。


4月17日

 どうも行き詰まり具合が半端でないようだ。何だかおかしいようで、何でもないのにおかしすぎて笑ってしまい、そんなことはあり得ないのに、そんなことを記してしまう。そして何を記しているのかわからない。嘘だろうか。そうに決まっているだろう。この期に及んで何を語ろうとするのか。いつものように眠たくなってきたらしい。そして翌朝に眠っていたことに気づく。まだ何も思いつかないようだ。しかし眠っている間に見た夢は何だったのか。グリーンランドのどこかにゴミの最終処分場があり、そこで粗大ゴミや不燃ゴミを梱包圧縮していたらしい。翌朝に燃やせるゴミを出す日だからそんな夢を見たのか。冗談には違いない。夢の中でも冗談の続きを演じていたわけか。まったく笑ってしまうが、様々なことが複雑に絡み合っているようで、現実の世界でも夢の中でも、そこで起こっている現象の実態を把握できていないようだ。

 翌朝の空は曇っている。自意識はそんなことに気づいているだけのようだが、他に何か気づいたことでもあるのだろうか。何もやる気がしない。仕事はしているではないか。それでは何かが不十分なのだろうか。言葉を記さなければならないわけか。こうして無駄に記しているではないか。無駄で無意味では不満か。当たり前のことだ。何がそうなのではなく、何もそうではないのかもしれないが、ただ何となくそうなってしまうらしい。そして何がそうなってしまうのかがわからない。たぶん何でもないのだろう。時が経ってしまうと取り立てて何が不満というわけでもなくなり、何となくどうでもよくなってしまうらしい。何を語るわけにもいかなくなっている。なぜそうなってしまうのかわからないが、つまらない気分で言葉を記していると、だんだんそんなふうに思われてくる。君はそれでかまわないのか。

 もはや堕落を認めなければならない状況なのだろうか。しかしそれの何が堕落だといえるのか。君にそんなことがわかるわけがない。では何をどう考えたらいいのだろうか。何も考えられず、言葉を記しようがなくなり、どうにもならなくなってしまう。まったく説明になっておらず、自らが何を語っているのかもわからず、ただ言葉を記して、それで何かをごまかしているみたいだが、うまくいかなくなっていることに変わりはなく、ごまかしようのない空疎があらわになっているようだ。笑ってしまうのか。現状では笑いようもない。それらの何を笑ったらいいのかわからないし、まったく何も見出せない現状の中で、何も言葉が出てこないのだから、何かを語れるはずがないと思われ、今語っているそれは自己言及のそれであり、何も語っていることにならないようなことを語っているわけだ。だからそれでかまわないのかと問うしかないらしい。冗談なのだろうか。

 語る必要がないのだろう。ところで今日は何を夢見ているのか。遅れを取り戻さなければならない。とりあえずはそういうことであり、でも一気にやるのは無理で、徐々に粘り強くやらなければならず、それも無理ならあきらめるしかないか。まだあきらめていないのではないか。とにかく現状ではそうだ。何がどうなっているわけでもない。語れないのに語っているつもりになっている。今はそれで妥協しておくとしよう。いきなりまともになるはずがない。それの何がわかりきったことでもなく、これから意識と言葉を修正していって、何とか読める程度には仕上げなければならないと思っているようだが、何を仕上げるのか定かでないのはいつもの通りで、その辺もはっきりさせておきたいところだが、今のところはこんな案配で、ただ闇雲に言葉をつなげて文章らしき体をなそうとしているに過ぎず、それが意味不明と捉えるならその通りかもしれないが、何となくそんなふうにして言葉を記していくうちに、そんなやり方に半ば呆れつつも、まだあきらめていないことに気づく。さてこれから何を語ろうか。冗談なのだろうか。


4月16日

 何をやっているのか。そんなことは知らない。とりあえず調子が悪いことに変わりはなく、頭がクラクラしてくるが、何が何だかわからなくなるほどではなく、普通に仕事をこなせる程度の状態ではあるのだろうが、何となく何かがおかしい。気分が悪いのかもしれない。しかし君が何を知っているというのか。すべてに関して無知というほどのことではないが、この世界で起こっているありとあらゆる現象に精通しているわけでもなく、時には傍観者気取りでそれらの光景を眺めているに過ぎないのだろうが、どうしてもそれらすべてをひとつのキーワードを基に単純化して理解しそうになってしまうらしく、そこで人々がやっていることの意味や意義を見出せなくなって久しいような気もしてくるが、それで何かをわかったような気になって安心するのは愚かしいことか。愚かだろうとなんだろうと、気休めに安心していればいいのではないか。そうやってこの世界では誰もが幸せになろうとしている。そうだとすれば、実際にそこで行われている試みは何なのか。それらの何が矛盾しているのだろうか。一方に助け合いの精神があり、もう一方に自らの生き残りをかけた生存競争がある。やりたいことをやるという夢は、それらとどう折り合いをつけたらいいのか。そうした幻想は果たして人を幸福に導くのだろうか。競争が激化している分野でやりたいことをやろうとすると、たぶん他人を思いやるとかいう生温いやり方では生き残れないだろう。そこでは助け合いの精神よりも、他の何かが優先されているのであり、たとえばそれは他人を蹴落として不幸に陥れることによって、自らの幸せをつかみ取ろうとする試みであったり、そんなゲームに勝つための努力が推奨されているわけで、人道主義を装いながら助け合いの精神を利用しつつ、誰にも気づかれないようにしながら、我田引水的に自らの利益に結びつけようとしていたりして、利用できるところからは何でも利用しながら、うまく立ち回ろうとしているわけだ。しかしそれでかまわないのだろうか。それらの何が嘘っぽいのか。

 ところで君はさっきまで何について述べていたのだろうか。いつまでも現実と折り合いをつけられずに苦悩しているわけでもなく、乗り越えられないところは無理に乗り越えようとはせず、妥協の産物としての自我を容認しながら、どうにかこうにか生きているはずで、そんな有り様を受け入れて、それから何を語ろうとしていたのか。どうやら昨晩のことなど何も覚えていないようで、いつの間にか眠ってしまったらしく、目が覚めたらすべてリセットされていたらしい。笑っている場合ではないだろう。昨日は何を考えていたのだろうか。昨日記していた内容を読み返してみると、どうもくだらなく思えてきてしまう。実際はそんなことではないような気がしてくるのだが、では何なのかと問うならば、何も答えらしき答えが見当たらないことに気づき、不意に頭が空っぽになり、何も考えられなくなって、何を記したらいいのかわからなくなってしまうが、たぶんどうでもいいことだったのだろう。何となくそうなって当たり前のことを考えていたような気がして、それで何を述べていることにもならないようなことを記していたような気になってしまうのだが、そんなことでかまわないのだろうか。かまうもかまわないのも、それはそれでそういうことでしかないのではないか。君にはどうにもならないことであり、世の中の仕組みがどうこう言う前に、もはや語ることなど何もないのに、それについて無理に語ろうとすると、何だかおかしくなってしまうようで、それが何だかわからないのに、それについて語ろうとしているのだから、その時点で致命的な矛盾を抱え込んでいて、たぶん語ることそのものが虚構の行為でしかないと思われ、相変わらず何も語っていないのに言葉を記し、記された文章をいくら読み返してみても、云わんとしていることがわからず、しっくり来ないようで、何かがずれているような気がして仕方がないのだが、なぜそうなのかがわからないのは、わからなくて当たり前のような気がして、それ以上の詮索は無理に思われてきて、その辺で言葉を記すのをやめるしかなくなってしまうわけか。


4月15日

 何だか気が散っているようだ。何でもないのにそれはないか。たぶんおかしいのか。何がそうなのだろうか。それを知りたいわけでもないし、わかるわけもないか。自然に悟ってしまうのだろうか。何を悟るのか。わからないわけでもないのに、わかっているのかもしれず、わかりようがないのかもしれない。たぶんそう述べて何かをごまかしているのだろう。だがそれはごまかしようのないことかもしれず、いくらごまかそうとしても、ごまかしきれないようなことかもしれない。つまりわかってしまうわけだ。いつかはバレてしまうだろう。それでかまわないのだろうか。しばらく前から何も語っていないらしい。たぶんこれからもそうだ。なぜそんなことがわかるのか。そんな予感がしているだけか。何だかわからないが、そういうことらしい。現状ではこういうことだ。それの何が現状なのか定かでないが、何をはっきりさせたいわけでもなく、何も思いつかず、何も思い浮かばないが、やはりそれはそういうことなのだろうが、ところで今はどこで何をやっているのか。そんな状況で何を語っても、今のところは何の脈絡も感じられない。そうではないような気がしているだけか。ならばどうでもいいのではないか。やめた方がいいのではないか。それでも何かを記そうとしていること自体がおかしい。まだ方向性が定まっていないのかもしれず、とりあえず数日後の今日は曇っていて、他に何もないような気分で過ごしているだけのようだ。

 別に根を詰めているわけでもないのだろうが、疲れを感じているわけでもないのに、心がぼやけているのかもしれない。それ以上の何を求めているわけでもなく、それ自体がどうでもいいことのように思われてきて、そんなふうに語っていること自体に何の意味も感じられず、だからどうしたわけでもないのだろうが、何となく内容に至らない現状に苛立ち、何がそうさせているわけでもないのだろうが、もはやそれは必然的な成り行きのように思われ、すでに言葉が尽きて、これ以上は何も語れない現状を認めざるを得ない。ではそこであきらめてしまうつもりなのか。たぶんまだ継続させるつもりで、何もないのに言葉を記しながら、何か適当なことを語っていることにしたいのかもしれないが、その辺でどう考えても無理が生じているような気がして、無理なのに言葉を記そうとするからおかしくなっているのであり、そんなことはわかりきっているのに、どうしてもそれをやめるわけにはいかないらしい。まったく難儀なことだが、それがいったんやり始めたら容易に早められないという慣性の法則なのか、あるいは何かのこじつけでそんなことを述べているのかわからないが、ただ何となくその辺で右往左往するしかないようで、以前と同じことを繰り返しているだけなのかもしれないが、それでも何とかしようと努力している最中なのであり、それではだめなのかもしれないが、そのだめなことをやり続け、結局何が何だかわからなくなっているようで、やはりそれは馬鹿げているのだろうか。

 いずれはそうなることが現に起こっているわけだ。もう君に残された時間はない。居眠りをする時間はあるが、言葉を記す時間がない。それは馬鹿げたことかもしれないが、実際にそうなっているのだろうから、あきらめるしかないのだろうか。まだそんな時期でもないか。ではさらにぐちゃぐちゃになるまで言葉を記すつもりなのだろうか。結局つまらなくなるだけかもしれず、もはや無内容が記されるだけかもしれない。現に今がその最中なのだろうか。そうであったとしてもやめるわけにはいかないのか。冗談でそんなことを述べているのか。もはやごまかしようがない。それ以前に何をごまかしていたとも思えないが、無意識のうちにそうなっていたのかもしれず、そうするしか続けることができなくなっていたのだろうか。君は何か勘違いしているのではないか。ではそんなのは嘘か。冗談でそんなことを述べているつもりなのか。たぶんそうではないのだろう。今でもごまかそうとすればごまかしきれるのではないか。そういうわざとらしい蒸し返し方がおかしいが、ただぎこちないだけだろう。それも計算のうちだとは思えないが、そうしたいのならすればいいだけでしかない。現にそうしている。さっきからそうしているつもりでいるらしく、具体的に何をしているのか定かでないようだが、どうせ虚構の中での動作なのだろうから、それが何であってもかまわないようで、そこで誰かが何かをしているつもりになっていればいいだけでしかないのではないか。そうやって記述を継続させようとしているのだから、それらはそういうやり方の一部始終を記している誰かによって示されているわけだ。今もどこかの空白を文字で埋める作業の真っただ中に誰かの意識が漂っているわけだ。


4月14日

 今は夜だ。きっと昨日の今も夜だったのだろう。くだらぬ気分で言葉を記している。心の中で何かが折れているのかもしれない。言葉が尽きていて、文章にならないようだ。それでも記すことはできるらしいが、意味不明になろうとしている。たぶんここが終わりの一歩手前だ。終わりたくなければ引き返せばいいのか。なぜそう思うのだろう。どうせまたごまかそうとしている。世の中の何も肯定できないのだから、そこにどんな物事があるとも思えない。ただおかしいのか。そうだとしてもそれなりにつじつまを合わせようとして、何となく文章として読めるように工夫を凝らすつもりなのだ。たぶんそれがごまかし以外の何ものでもないのだろうが、そうするしかない状況なのかもしれない。もうとっくにまともな記述から遠ざかっていて、いくら工夫を凝らしても、そこへたどり着くことなど不可能なところまできているのではないか。君はそれでも冗談のつもりなのだろうか。語るのは不可能なのかもしれず、無理に語らなくてもいいのだろうか。だから言葉を記しているのではないか。そういうやり方にこだわっているのだ。いつまで経ってもそこから抜けきれず、心の中で何かを温存していて、怠惰が芽生えつつあるようで、そう述べてどのような表現を目指しているのでもないようだが、とにかく何にも増して記述を優先させているわけだ。そんなことが許されるのか。誰に許しを請うわけでもないのに、適当にいい加減な内容になるように言葉を並べているつもりで、そのくせ何か思いもしなかったような効果を期待しているのだから、虫がよすぎるか。そうならないだろうからそれでもいいのか。

 神の話はあれから進展したのか。それを今まで忘れていたわけではなく、思い出そうとしていたわけでもなく、何の話でもなくなっている現状を肯定したいわけでもない。どうせでたらめに言葉を記しているつもりなのだろうが、今やそれが仇となっていて、どこかで道に迷い、あらぬところから意味不明な攻撃を受けているわけでもないが、予期せぬ事態に陥っているわけでもなく、ではどうしたのかといえば、何か適当なところで悟りを得たのかもしれず、それが勘違いや思い違いだとしても、なおのこと誤解が誤解を生むように、軽薄なことを記し、それの何が軽薄なのかわからないまま、たぶん頭がおかしくなっているのだろう。だがそれが何かの結果から生じたことだとは思えない。では何なのだろうか。何でもないわけがないが、とにかく何か考えないといけないらしい。でも結局わからないのではないか。わかろうとしていないのだから、それは当然のことなのだろうが、なぜわかろうとしないのかがわからず、何となくわからなくてもいいような気がするだけで、それではどうにもならないことを承知しつつも、そんなところで何かを考えようとしているらしいが、それがどうしたのか。無意識のうちに何かを構築しようとでもしているわけか。たぶんわかるはずがない。要するに何でもかまわないのか。何がどうなってもかまわないということか。では今後に期待すべきことなど何もないか。しかし君は何を期待しているのか。人類の滅亡などを期待するのは冗談に過ぎず、冗談以外には何も期待できない状況が絶望を呼び込んでいるのか、あるいは乾いた笑いしかもたらさないのか、そんなこともどうでもいいと思いつつも、それでも君はそこから何とかしたいのだろうか。

 たぶん何かの続きがあるのだろうが、それをやるか否かは、誰次第でもなく、君次第でもない。ではどうしたらいいのだろうか。少なくともそうなってしまうと何ももたらせない。その必要がないのだから、言葉を記す必要さえなく、語る必要も黙る必要もなく、何をやる必要もなくなって、ただの何かであり、そんなところから世界の瓦解を夢想して、格好をつけたいわけでもないのだろうが、虚無的な気分で日々を過ごしながらも、そうではない可能性を模索しつつ、どっちつかずの何かを括弧にくくり、わけがわからず、意味不明な雰囲気が漂っている中で、そんなことを述べていたいのかもしれないが、やはりおかしい。何かがおかしすぎるのだろうか。でもお先真っ暗というわけでもないし、それなりにうまくやっているつもりなのだろうし、確かにその程度のことでしかなく、それに一喜一憂する気も起こらないし、どこまでもその程度のことなら、それについて語る必要さえなく、ではもう終わらせた方がいいのかといえば、その通りだろうし、そうなる他ないような成り行きになれば、本格的にあきらめなければならないのだろうが、どうも現状ではそこまで至っていないような気がして、どこでも至りきれていないような中途半端な位置にあり、そんなところから何を語っても無駄なのだろうが、何も語っていない現状をふまえつつそんなことを述べているのだから、矛盾も嘘も甚だしいようにも思え、何だかそこでやる気をなくしてしまうのかもしれず、それが何をやる気なのかわからないまま、どういうわけが言葉が適当に記され、ただの意味不明でしかないことを認められない気持ちもわかるが、現状がそんなところである限りは、それ以上は何も望めないような地点を目指すしかなく、まだまだあきらめるわけにはいかないらしい。


4月13日

 また何かがおかしくなっている。しかしここまでたどり着くのにどれほどの紆余曲折があったのか。うまく説明できず、またうまくいかないのはいつものことだが、うまくいくようにしたいわけではなく、それはそれでそうなるしかない定めであり、とりあえずそうなってしまったらしまったで、何とか対処しつつ、対処できなければできないで、それなりの対応を取るしかないだろう。要するにそれが紆余曲折の一部始終だということか。冗談には違いない。紅茶が渋すぎるか。そんなことではなく、問題はそこでいかに立ち回るかだ。またそれも嘘っぽい。しかし本当だろうか。どうもその辺が信用できず、あらかじめわかっていたような素振りで、不意に意表をついてみせるらしいが、たぶんそれは表面だけの現象であり、物事には表層しかなく、深層などあり得ないような成り行きから、それらの出来事が生じているのかもしれない。ではそれに対応してどうすればいいのか。勘違いにもほどがあるだろうか。たぶん認識としては何とかなるようなずれ具合ではない。君は無駄な機能を無駄に保有しているだけで、それらの何も活かせていないようだ。何か考えているわりには実践が欠如している。だがこの期に及んで何を実践するつもりなのか。それに関しては何もわからないようだ。現状では何かをわかるということはあり得ないのではないか。それも違うか。そうではない。そんな問答自体がおかしい。ならばそこで行き詰まるしかないだろう。実際に行き詰まっているのではないか。それはその通りだ。何がその通りなのか。相変わらずその辺がわからない。しかしなぜそうやって言葉を記してしまうのか。そんなことに悩んでいるうちに何かが停滞しているようで、気がつけば時が無為に経ってゆく。それでもそんなやり方でかまわないと思いたいのだろう。それはまったくのご都合主義以外の何ものでもない。

 しかしうまく切り抜けたではないか。機会を逃さず効果的な言葉を差し挟み、それに連動して行動しつつ、同時に攻防の手を繰り出し、結果的にそれで何とかなったわけだが、すかさずわけのわからない問題が発生して、まるでモグラたたきのような対応を迫られている。笑っている場合ではない。やっていることはいつもの通りで、成り行きまかせなのも同じような案配になり、うまく凌いだつもりが、結果が芳しくないような気もするが、たぶんそれが最善の結果なのだろう。とりあえず小康状態を保つしかなく、良い方にも悪い方にも振れすぎないことが肝心なのであり、そうなることによって何かの均衡が保たれているわけなのだから、調子に乗ってその辺をあまりつつきすぎないようにしなければならない。窮鼠猫を噛むではないが、圧倒的に優位な立場を占有することなく、何とかあちらも努力すれば何とかなる程度に思わせておかないと、打ち拉がれてやる気をなくしたらゲームオーバーなので、その辺で慎重に事を運ばなければならない。要するに目的は勝つことではなく、ゲームを持続的に発展させることにあり、そう思わせておかないと、たちまちすべてがだめになり、何もかもが水泡に帰すことになりかねない。しかし馬鹿げていないか。そうは思わないようにしておきたいのだろうが、やはりハリボテの何かが見えてしまう時は見えてしまい、そのみすぼらしい全容がかいま見られる瞬間には目を瞑らなければならず、仮に見えてしまったとしても、見なかったことにしておかないと、それ以上の継続が不可能となってしまいそうだ。そんなわけで君にはもうわかっているはずだ。たぶん神はこの世界が馬鹿げた妄想によって成り立っている事実を隠しきれてないのだ。神自体が妄想の産物であり、それなしですべてはやっていかれないと思っている人々も、自分たちが救いようのない愚かさで凝り固まっていることを自覚しているのに、外部に対してはどうしてもそれを認めるわけにはいかないのであり、それを認めてしまったら終わってしまうので、何とか終わらせないようにするためには、それらのねつ造した物語にすがりつくしかないのだろう。


4月12日

 いきなりそれはないか。君はこの世界で何を成し遂げたいのか。何かを成して世の中に認められたいのだろうか。しかし世間とは何なのか。冗談のたぐいなのだろうか。どうもその辺が違っているような気がするらしく、たぶん何のために言葉を記しているのでもないと思いたいのだ。それが間違った認識を招いているのか。だがそれはどのような認識なのか。まさかとは思うが、そのまさかなのだろうか。そのまさかが何だか君にはわからないようで、それに関しては適当な言葉が見当たらないらしい。いったいそれをどう表現したらいいのだろうか。またおかしな思いにとらわれているらしい。誰がそうなのか。誰もそうではなく、君がそうなのでもないとすると、そんな思いなどありはしないというわけか。無理がありそうだ。かなりおかしくなっているようだが、何がおかしいのかわからない。そこに記された文章の内容がそうなのではないか。どうやらまたそんなところで躓いているらしく、なぜかそこで記述が止まっている。その先へは何をどう記したらいいのだろうか。そうならないようにしたかったのではないか。そのはずがこうなっている。そんな状況がかなりおかしくないか。君が思っているほどでもない。ではこの停滞は何なのか。わざとらしい自問自答にもほどがありそうだ。実質的に何が問われているでもないが、無性にしかもでたらめに問いたくなるのはどういうわけなのか。いったい何がそんなにおかしいのか。また語る必要のないことを語っているのがそんなにおかしいのだろうか。

 またどこかでよそ見をしている。気が散ってそれどころではないのか。言葉を記しているのは誰なのか。君が問われているわけではない。もはや内容などどうでもいいのだろうか。何かがおかしいことは確かなようだが、そんなことばかり述べているのだから、おかしいに決まっているのか。問うまでもなく、問われるまでもないだろう。語ろうとすると、すぐにそうなってしまい、その後に内容が続かなくなる。代わりに無内容が続いているわけか。笑っている場合ではない。はじめからそうだ。自意識は何について語ろうともしない。それは当たり前のことか。なぜそう思うのか。そんなことを繰り返そうとしている。それだけのことだろう。それ以外ではない。だがそれだけではつまらないのではないか。おもしろくするためには何をしたらいいのだろうか。事件を起こせばいい。フィクションの世界ではすぐにその手の事件が起こり、主人公が巻き込まれ、謎解きが開始されてしまうわけか。何がそうなのだろうか。何でもありなのではないか。そんなことを想像してみればいい。テレビドラマでも見ればすぐに殺人事件が起こり、犯人探しが開始され、ドラマの最後で見つかってしまうわけか。途中の謎解きに興味があるのだろう。だが今はテレビを見ていないではないか。興味を失ってしまったのか。誰が語っているわけではない。何が見え透いているのだろうか。そんな話ではなかったはずだ。君は架空の世界では宝探しの最中だったのではないか。そんな空想を否定して、眠くなりながらも音楽を聴いているようだ。

 しかしそのつまらない話にはオチがあるのだろうか。早く結末まで至りたいのか。誰が急かしているわけではない。もうかなり遅れてしまったようだが、まだそれを続けるつもりなのか。何も知る必要を感じない。言葉を記す必要もないのか。それは何なのだろうか。なぜそれについて語らないのか。語る必要がないのだろうか。朝起きたら何か思いついたような気がしたのだが、言葉を記そうとすると忘れてしまう。言葉を記すタイミングと何かを思いつくタイミングがずれている。そう思っておけば気休めになるだろうか。しかしどうしたらいいのだろうか。どうもできないうちに月が夜空の向こう側へ沈んでしまったらしい。きっとそれは思い違いなのだろう。今は朝だ。どうせ後数時間したら昼になり、昼になれば夕方が少し近づいてきて、何も思わない時が到来しそうになるが、そこで思いとどまることができるだろうか。思いとどまろうとする理由を知りたいところだが、たぶんそんなものなどありはせず、気まぐれで思いとどまったりするだけか。たぶん何かを集めているのだろうが、集めているものに一貫性が感じられず、時々何を集めていたのかわからなくなってしまう。君は何を集めているのか。腕時計か何かか。あるいは曲だろうか。金も集めているのではないか。言葉を集めて、それを記しているはずだ。それはどういうことなのか。突然そんなことを思いつき、記してみるが、話に脈絡を感じられない。わざとそうしているのだろうか。そうかもしれず、そうではないのかもしれない。どちらともいえず、そんなことなどどうでもいいような気がしてくるが、それはどういうことなのか。別にシャープペンシルの芯を集めているわけではない。またおかしなことを述べて気持ちを逸らそうとしている。


4月11日

 また誰かがつまらないことを考えている。その内容は今のところ知り得ないようだが、それは妄想か何かに起因するのだろうか。しかしそれとは何か。またそれだ。何か無駄な言葉が差し挟まれているらしいが、そうではないと思う。ここに至ってなおまだ何とかできると思っているはずだ。そして努力し続ければ、いずれ今日の日付で今日になり、一息つく成り行きとなるわけか。馬鹿げているだろうか。そうなるには物語の内容がまだ曖昧だ。物語ではない。それとこれとは関係ないだろう。また内容を意味不明に持ち込もうとしているのか。それが正真正銘の無内容であることを隠そうとしているわけだ。だからあまりにも馬鹿げているわけか。そしてまだそこへたどり着いていない。どこにたどり着こうとしているわけでもないのに、それについて今のところは何の説明もありはしない。何がそうなのか。今も何もありはしないはずで、また何も思いつかないうちから言葉を記している。そうであってはならないのだろうか。たぶんそういうことであり、要するに語りたいことがあったら語り、記したいことがあったら記せばいいのに、語りたいことも記したいこともないのに言葉を記すのが馬鹿げているということなのか。だがそんな説明が何の役に立つのだろう。何かに役立てるための説明にはならない。では字数稼ぎのための説明なのか。また何の脈絡もなく外れまくっている。頭がおかしいのかもしれないが、そうであるならどうしたらいいのだろうか。ただおかしいままに振る舞えばいいのではないか。実際にそうしているはずだ。

 今度はそれがおかしくなる。何が今度なのかわからない。それはどうしたのか。それとは何かという問いが必要だろうか。意味不明だ。不必要なのに必要かと問うこと自体が意味不明なのだ。何の必要もないのに言葉を連ねているのだから、それについて問うこと自体が意味不明であり、おかしいのではないか。そんなふうに語っているらしい。わかっているのはそういうことだ。そんな語りには幻滅してしまうか。それ以前にそんな幻想など抱く余地などないのではないか。ではそれもおかしいわけか。わけではなく、ただおかしいだけだ。何となくそう思っていて、気持ちが落ち着かないらしいが、それが何を意味するとも思えず、冗談でしかないのかもしれない。また語りようのない領域で語ろうとしているのだろうか。それはどこなのか。何が領域なのだろう。それもかなりおかしい。横道に逸れているだろうか。よそ見をしているだけのような気もするが、相変わらずのていたらく気味で、また何を語っているのかわからなくなってきて、根気が続かなくなってきたらしい。怠け心が頭をもたげてきて、くだらぬ冗談で済まそうとしてしまうが、君はそこで何を見ているのか。また何かを見損なっているわけか。そういうことではない。何かが必要なのだろう。それは言葉ではなく、やわな記述とは関係ない。では何なのか。どうもわかろうとしていないようだ。そんなふうに語るべきではないということか。でもここまで言葉を記してきた事実があり、それを肯定するにせよ、どうもその気にならず、だめなような気がする。

 わかるわけがないのだろうか。わかりようがない。ここまできてそうなってしまうのが、何だかがっかりさせるような成り行きになりつつあるような気がして、そこから離れたくなるようだが、もう遅すぎるのだろうか。何がそうなのか。たぶんそれも何かの雰囲気から生じている内容なのだろうが、空疎な思いに心が満たされているのか。そう思うしかないようだ。だんだんそんな気がしてきて、それ以上は言わずもがななのだろう。見ての通り読んでの通りで、そこから遠ざかろうにも遠ざかれないような近さで、虚無が作り出している重力につなぎ止められ、どんどんそこに近づいているような錯覚に襲われているのかもしれないが、やはりそれがそこでの体験なのだろうか。とても真実だとは思えない。そんな文字が連なっている画面を覗き込みながら、あくびが立て続けに出て、何だか飽きてきてしまったようだが、もうしばらくの辛抱だ。腰の痛みに耐えながらも、何かを忘れているような気がして、少なくともそれが記述の実践ではないのだろうが、何を信じ込ませようとしても、頑な拒否に遭うばかりで、どうにもこうにも埒が明かず、苦肉の策ではないのだろうが、妥協点を模索している最中が今なのかもしれず、見出せるわけもない点を見出そうとしているように感じられ、早々にあきらめて、適当なところで済ましてしまえばいいのかもしれないが、それがどこでまかり通るとも思えず、何だかだんだん不安が増してくる展開で、嫌な予感が脳裏をよぎり、いてもたってもいられなくなるわけでもないのだろうが、そわそわし出し、そんなのも脈絡のない言葉の連なりの一部となってしまうわけだろうが、要するに馬鹿げていることは確からしく、また一段とその確信を得ているような気になっている。


4月10日

 それも昨日ことか。河川敷の風景を眺めているのはほんの一瞬だ。では今はどうしているのか。また何か考えているのだろうか。うまくいくはずがないだろう。何もかもがそうなのか。そんなはずがない。今何も思いつかなければ、いつまでもそうだろう。いつまで経ってもこれか。それも違うのではないか。いつもとは何かが違う。そう思いたいだけか。君は簡単に言葉を投げかける。別に野球をしているわけではない。翌日は曇り空を眺め、雨が降ってくることを願っているわけでもないだろうが、そう願う理由を見出したいのか。そんなことではない。ではどんなことでもありはしない。このまま何も語れなくなってしまうのか。いったい何を語ればいいのか。近頃はそればかりか。愚痴も何も、そんなことではつまらなすぎるか。ではまた冗談で何かおかしなことでも語らなければならないのか。たぶん正気とは思われない。そういうやり方がそもそも間違っているのではないか。そのうち呆れてものもいえなくなりそうだ。今も現にそうなりつつある。またそれでかまわないと思いたくなるのだろうが、それが何かの悪循環を呼び込んでいるのかもしれない。人はなぜあんなものに熱狂するのだろう。別にそれが悪循環だとは思えないが、自らの内に致命的な欠陥を抱え込んだ人々が、あんなものに心を奪われているのだ。そして君の心はとうに離れている。何だかおかしいようで、それをおかしいとは思わない意識がさらなるおかしさを呼び込み、もはやまともに取り合っていられないほどおかしくなっている。だがいったい何がそうなのか。

 人々はこの世界の中で何を望んでいるのか。人それぞれで違うのかもしれない。それは当たり前のことであり、それでいいのだろう。狙いが何か特定の事物に定まっているとは思えない。人それぞれでいろいろな意見があってもかまわず、別にひとつの方向にまとまらなくてもいいのではないか。そうすることによって利益を得たいのだろうが、その利益の源泉がどこからきているのかが問題なのであり、一方で利益を享受できる一握りの人々がいて、もう一方には搾取され続ける人々が大勢いるわけで、経済の仕組みを考えれば、成り行き的にはそうなって当然なのだろうが、何だかそれに関して非難のハードルが低すぎるような気がして、偏狭な心で凝り固まっている人も多すぎる。それらのどこに冗談を差し挟む隙間が空いているのか。それを誰が知りたがっているのだろうか。君が知りたいのはそんなことではないはずだ。昔『イントレランス』という映画があったらしいが、たぶん最終的に勝つのは他人に対する不寛容を貫いた人間なのだろうが、それで勝ったとしても意味がないような気がする。勝つことが目的と化せば、大勢の不幸な敗者を生み出すだけだ。だから勝ってはいけないということではないが、たぶん負けてもかまわないのだ。心に余裕がある者なら率先して負けてやるべきだ。本気で戦う必要はなく、相手が本気であればあるほど、こちらは手を抜いて負けてあげればいい。勝つのが面倒くさいのだからそういうのでかまわないだろう。戦い自体がくだらぬことでしかなく、そこで意地を張って価値にこだわる必要はない。

 人はこの世界で何を目指しているのか。君たちは幸せになりたいのだろうか。それは不幸になるよりいくらかマシなことだ。君は居眠りの最中だったのか。ともかく眠っていれば幸いだ。遠くに何かが見えてきて、やがて通り過ぎてしまったような気がする。また夢でも見ていたのだろうか。今日は何だかだるいような気がする。また疲れてしまったのだろうか。何かの機会に思い出すことがあれば、そのときに考えてみるとしよう。君にはまだ考えるだけの時間が残されているはずだ。別にもうすぐおさらばしてしまうわけでもないらしく、そこで何かを見出して、それについて何か考え、何やら意見らしきことを表明したいのだろう。外では小雨がぱらついていて、傘をさした人が足早に通り過ぎる。君はそこで空想を抱いているようだ。何かを働かせてそこまでたどり着いたのだろうが、どうも眠くて仕方がないようで、盛んに頭を振りながら眠気に逆らっているみたいだが、どうも目の焦点が合わなくなってきて、気がつくと意識が飛んでいる。また眠ってしまったのか。それでも目的地に近づいているのではないか。電車に乗っているのだから、それは当たり前のことで、このまま終点まで眠っていてもかまわないのではないか。今さら何を急かされているわけでもないだろう。何とかしようとしてそんなことを述べているのかもしれないが、それが無駄で余分な言葉の連なりであり、何を意味するわけでもないは百も承知でそんなことを述べているのだろうが、とりあえずそれでかまわないような気がして、行き詰まりを打開したわけでもないのに、そんなやり方を肯定しながら、また無駄に言葉を連ねるつもりなのか。


4月9日

 翌日の夕方になる。どうやらここから始めるつもりのようだ。無理だろうか。何もできないうちにもう夜中だ。やはりできないのだろうか。問う必要もなく、そういうことになる。それでも今から何をやろうとしているのか。今さらそれはないか。語ることが何もないのは今回に限ったことではない。では今からどこへ向かおうとしているのか。どこへも行けない。この世界から外へ出ることは不可能か。君がこの世界に存在しているのは明白な事実だ。だから何だというのか。その事実が何でもないところがおかしいわけでもなく、そうかといって何もおかしくないわけでもないが、やはりそれがどうしたわけでもない。ではこれからどうしたらいいのか。退屈を持て余しているのなら、このまま言葉を記し続けたらいい。それができればの話だが、できなくても話になるのではないか。別に話でなくてもかまわない。できるのかできないのかわからないが、君に何がわかるというのか。少なくとも何かわかっているはずだ。わからないから困っているのではないのか。わからなくても何を困る必要があるのか。困っているのではなく、苦しんでいるのではないか。嘘だろう。本当は何も苦しんでいないはずで、別に苦渋の選択を迫られているわけでもない。では何を迫られているのか。くだらぬことでしかなく、そのために生きているのかもしれず、要するに馬鹿げたことなのかもしれないが、それでも何とかしようとしているわけだ。

 馬鹿げていようと何だろうと、結局そんなことを述べているわけだ。何にからんでいるわけでもない。ちなみに足に絡まっているのは何なのか。誰かの影か。そうだとしても誰も君を責めたりしない。そんな話ではないだろう。何を話しているのでもなく、誰に話しかけているのでもない。要するにそんな話なのだ。それ以外の話を導き出せない。ただ空疎なことを語ろうとする。眠たいのか。それで何を導き出せるのか。言葉の連なりを導き出しているつもりなのか。わからないがそうしているのかもしれない。君は何かを語っている。少なくともそういうことだ。それ以上でも以下でもない。その必要もないのにそうしているわけか。必要ならいくらでもあるだろう。必要があるから語っているのではなく、語っているからその必要が出てくるわけか。言葉を記す必要が出てくる。それは無理なこじつけだ。本当は何でもかまわない。こじつけでも体裁でもかまわない。とにかく言葉を記しているという事実が必要なのか。だが相変わらず君の知ったことではない。君は眠いのだ。ではさっさと眠ってしまってかまわないのだろうか。ついさっきまでは電車の中で居眠りをしていたはずだ。では眠る必要があるのだろうか。眠らなければ死んでしまうだろう。永眠してしまうわけか。冬眠ではない。春になり、頭が変になっているのだろうか。そうであってもかまわないのだろうが、かまうかまわないの問題ではなく、何とかしようと努力している最中のようで、何でもかまわないから言葉を記すのが苦渋の選択だったわけでもなく、ただ眠いだけのようだ。

 もはやここまでだろうか。なぜ唐突にそう思うのか。いったい何がそうなのか。まだこれからなのではないか。さらに言葉を記していかなければならず、そうしないと何かを思いつく機会を失ってしまうような気がする。別にそれでもかまわないのだろうが、すでに失っていることを認めないならば、さらにここから言葉を記して、何かを思いつくまで、ひたすら言葉を連ねていく必要がありそうだ。君は冗談でそんなことを述べているのだろうか。なぜそれを信じられないのか。現に今までがそんなことの繰り返しで、どんなに言葉を記してもどこへもたどり着かず、ただ精神的に疲れるだけで、どこへも至らないことがかえって空疎で無意味な文章を呼び込んでいたはずだ。それをやり続けたからこそ今の停滞状況をもたらしたのではないか。そうであったとしても、なおも続ける気なのか。意味もなく理由のない試みをいつまで続けるつもりなのか。そんなことではない。それが勘違いだとしたら、どうすれば正しい理解に至れるのか。それに関して何が知りたいわけでもないのに、理解も何もありはしないか。ではどうすればいいのだろうか。結局行き先も戻り道もなく、どこへ行くあてもなく、辺りをさまよっているに過ぎず、どんな結論も出せずに、ただ闇雲に言葉を記し続けているだけなのか。たぶんそうであったとしても、なおのことそれを続けてしまうような気がしてきて、そう思うと恐ろしくなってくるかもしれないが、たぶんそんなのは嘘だ。わざとらしくて見え透いていて、予定調和の空疎を言葉でなぞっていて、そこから先でも同じようなことをやっている。どこから先でもやっていることは同じであり、ただ言葉を記すのみではないのか。それの何がいけないのか。開き直る理由もわからず、相変わらず何を突き止めようとしているのでもないらしい。それに関する秘密などどこにもありはしない。


4月8日

 君はそこで何に感動したのか。それがわかればどうなるのか。話の展開でも違ってくるのか。今のところは何だかわからないが、そのうちなんとかなるだろう。そう思っていないとやっていられない。だがそれも違うのではないか。何について述べているのでもない限りは、何のことやらわからないままだ。それはいえているだろうか。ではそれがどうしたわけでもないことは、具体的に何を語っているわけでもないことと同義なのか。なぜそう思うのか。何も思わないではないか。疑念を抱くのは無理のないことか。月が西へ傾いている。だがそれでどこへ逃げているとも思えない。もはやどこへも逃げられないのではないか。ではただ言葉を記すのみなのか。それも何だかわからない。たぶんこのままではわかりようがないだろう。わかることなどあり得ないのではないか。誰かの性格的な欠陥を突いているわけか。それもそうだが、実際に不快なのだから、それは修復しようのない結末を用意しているのかもしれない。なぜそうなってしまうのか。悲惨な夢を抱いている人間は世の中にいくらでもいるはずだ。その辺で君も大きな勘違いをしている。何だかわからないようだが、とりあえずは身の丈に合ったことをしていかなければならず、それも何だかわからないようなら、勝手なことをやって、それで気が済めばいいのではないか。だがそれもご都合主義で悲惨な結果をもたらしたりするのだろうか。

 成り行き的にそうなっているのなら、そういう成り行きに逆らうわけにはいかないようで、嫌でも何でも仕方のないことかもしれないが、そういうことになってしまうらしく、それはそれで受け入れなければならないことなのか。すべては君次第だ。君が不在なら、虚無にでも返答してもらおう。だが虚無に言葉はない。あるのはただの沈黙か。では影ならどうか。影が何かを語っているわけか。それはその場の状況次第だ。どうもそこで何かが食い止められているようで、誰かの言葉を遮り、沈黙に追い込もうとする意図が見え隠れする。ではそれは何かの陰謀なのか。物語的にはそちらの方がおもしろそうだ。でもそれも終わりが近いのではないか。なぜそう思うのか。そんな予感がしているだけなのか。何だかわからないが、たぶんそうなってしまうのだろう。それは大きな計算間違いか。別にそれほどでもなく、大したことはないのだろうが、くだらぬ気分を誘発させる効果がありそうだ。そして君はそこから立ち直れなくなり、鬱状態となるのだろうか。それがあまりにも馬鹿げた予想か。たぶんそのときになってみればわかることで、今からそんなことを予想してみたところで、何がどうなるわけでもなく、結果がどうなろうと、少しは前向きに捉えたいところだが、果たしてどんな気分になるかは、そのときになってみないことにはわからない。

 しかし何について述べているのか。また意味不明な話の展開となっているようだ。すでにこんな時間だ。馬鹿げたことにもそろそろ決着をつけなければならない。それは本当だろうか。それで何が決着するというのか。すべては曖昧模糊としていて、何も決着がつく見通しなど立っていないのではないか。その通りだ。では何なのだろうか。いったいこれから何をどうしたいのか。どうもしたくないのが本音か。でもここままでいられるはずがない。ではどうしたらいいのだろうか。言葉を記しているではないか。それでは何の解決にも至らないのにそうしている。だが何を解決したいのでもないはずだ。この世界では相変わらず馬鹿げたことがまかり通っていて、それは馬鹿げたことなどではなく、すばらしいことだと大半の人々が思っているはずで、そういう人々の思惑通りとまではいかなくても、メディアから伝わってくるのは、そういう意識を代弁するような内容だ。それでかまわないのだろう。それが民主主義というものか。何が民主主義であろうとなかろうと、君はそういったものから遠ざかりたいのだろう。だが具体的に何から遠ざかりたいのかがよくわからない。そういったものとは何なのか。それは何かの雰囲気であり空気でさえあるわけだが、それをうまく言葉で表現する術を知らず、ただ漠然とそういったものとしか示せないことが、そういったもののとらえどころのなさを思い知らされ、何となくそこで沈黙するしかないような気にさせるわけか。しかしそれでは何を語っていることにもならないのではないか。


4月7日

 とても感動したそうだ。誰かが何かを見たのか。あるいは読んだか。何のことやらわからない。憎悪とは何か。復讐とは何なのか。ニュースを見ているようだ。またテレビだろうか。だがさらに何のことやらわからない。面倒くさくなり、眠たくなる。眉間のしわが深く刻まれているわけではない。たぶん終わりがあるわけではないのだろう。そんなことはない。そんなことはありそうだ。実際はどうなのか。話にならないようだ。何も思いつかないか。言葉は記している。それでは何にもならないだろう。それでかまわないのか。何がそうなのだろう。何もそうではない。では何を否定しているのか。否定できないから困っているのか。では何を否定できないのか。何も思いつかないことがそんなに辛いのか。ただ面倒なことになっているだけか。それだけではないと思う。だがそれを君が知っているとは思えない。ではどうしたらいいのだろうか。言葉を記してゆけばいい。それだけのことだ。現にそうしているではないか。何もできないのにそれはない。君はそこで何かをもたらそうとしている。それは言葉の連なりに過ぎない。それを記しているのだからそうなって当然だろう。それ以外に何ができるというのか。それをやめることができそうだ。やめてどうするのか。眼中にないことならいくらでもできそうだ。またそんな嘘をつく。

 何をそんなに思っているのだろうか。くだらぬことならいくらでも思っているはずだ。だから具体的に何を思っているのか。それがわからない。わかっていても言葉にすることができない。そんなことはあり得ないだろう。どんなことだってあり得ない。状況によってはそういうことになりそうだ。ではそんな状況でない時はどうなのか。だからあり得ないと思いたいのだろう。君はあり得ないことを語ろうとしている。そんなことはあり得ない。頭の中で何かがひらめいている。そんなはずがない。はじめはそうではなかったはずだ。はじめは何を思っていたのだろうか。だがそれがはじめではない。では本当のはじめには何を思っていたのだろうか。忘れている。たぶんその辺に何かのからくりがあるのだろう。そう思っていればいい。本当は違うというのか。何も本当ではない。何もかもが嘘で塗固められている。そんなふうに思っているのなら思えばいい。ではどう思えば納得するのか。納得しがたいからそう思っているわけだ。ではどうしようもないではないか。だからその話は終わりにしたい。そういう経験から得るものはそういう印象だけだ。何かが途中で終わっている。それだけのことだろう。合点などいくはずがない。君はそれでかまわないと思っているわけだ。別になんでもかまわないのに、そういうことにしたいわけだ。

 だからそれでかまわないのか。納得などいくはずがなく、それで理解できるわけがない。ではどうしたらいいのだろう。だから言葉を記してゆけばいいのか。それは何なのか。たぶんそれだけのことだ。何だか恐ろしくなってきたが、そんなのは嘘に決まっている。何を語っても嘘になりそうだ。それがここでの宿命なのか。それではおもしろくも何ともないか。それでも言葉を記しているではないか。それは慣習か何かなのか。その何かとは何なのか。ここではそう問うことが慣習なのだろうか。では慣習とは何なのか。習わしや仕来りのことか。ますますわからなくなりそうだ。たぶんそれで何とかしているつもりにはなれないのだろう。だから困っているわけだ。そして困っていながらもここまで言葉を記してきた。まさかそれが君の実績になるわけでもないだろう。そういうところがわからないのだが、何か他に語りたいことでもあるはずがなく、むしろ語りたくないことを語ってきたような気になりかけていて、これではまずいと思いながらも、ずるずるとこんなところまで言葉を記してきたはずだが、いったいこれは何なのか。そう問われも答えようがなく、要するに何でもないからこれなのだろうか。それで何をわかりかけているとも思えない。そんなことだからこうなってしまうのか。でも何とかなっているはずで、なっているからこそこうなっているのではないか。しかしこうなっているとはどうなっていることになるのだろうか。


4月6日

 またこんな感じだ。もう少しわかりやすい説明が必要か。しかし何でこんなに寒いのか。いったいいつになったら暖かくなるのだろうか。暑いのは嫌いだが、これほどまでに寒いと嫌になる。でも君の都合でどうなることではなく、仕方がないだろう。寒すぎて言葉を記す気になれないらしいが、目が覚めたので少し記すことにしよう。たぶんそれで何ともなりはしないだろうが、何もやらないよりはマシだろう。またそれか。面倒くさいことになってきたが、それで何かわかるのか。すでにわかっているではないか。そこで何が行われていたのかを知りたいわけではなく、すでに知っていることを知らなかったことにしておきたいのか。何だか回りくどいことを述べているようだ。また意識が何かから外れているのかもしれない。とりあえずごり押しでは打開できないことは確かだ。その辺で不信感が募り、どうも正気とは思えないようなことを思ってしまう。とても本気とは思えないが、それでかまわないのだろうか。かまわないわけがないが、いつものように何とかしなければならず、今がその最中なので、徐々に何かを暴いていることになっているのだろうか。しかし何を暴露しなければならないのか。君にそれができるのか。やってみなければわからない。だが焦ることはないだろう。何とかしようとしている。無意識が君の味方なのか。状況をそう捉えてもらって結構だ。何だかわからないが、そうなる宿命なのかもしれず、不快な人にはそれなりの対応がついて回るわけだ。君はそうしなければならない。

 できなければどうなってしまうのか。さあその先は誰かの想像にまかせるしかないが、そうなったらそうでいいのではないか。できることには限界があるし、一方で曲げられないこともあり、その辺で妥協している現状のようだが、いつかそれもうまくいかなくなるだろう。でもそのうまくいかなくなることが当初の狙いであって、要するに出口はその辺にあるのかもしれず、今その出口へ向かって進んでいる最中なのだろうか。わからないが実際にそうなるまでには相当な精神的なストレスが加わることは確かで、相当の労力が費やされなければそうならないのかもしれない。今も現にそうなっている最中なのか。もう夜だ。君はまた冗談を述べている。さっきまではテレビを見ていたはずだ。それにしてももう忘れてしまったのか。何を忘れているわけではない。マイスキーのチェロを聴いている。たぶん言葉を記さなければならないのだろう。そしてそれを今日中に終わらせなければならない。どうやらまた終わらなかったようだ。スランプなのだろうか。疲れて眠ってしまったらしいが、何やら限界のようだ。

 柔軟性に欠けている。いったい何日ここで停滞しているのか。精神的に参っているのだろうか。体の節々が痛む。様々なことがあり、様々に対応していると疲れ、気がつくと翌朝になっている。それだけのことだろう。たぶん君には休養が必要なのだ。それだけのことだ。これからどうしても乗り越えなければならない何かがあり、そのためには休養が必要なのだ。それは自己暗示か何かなのだろうか。なぜそう思うのか。それとも思っていないから記しているのだろうか。フィクションだからそんな気がするのかもしれない。だがそれを記しているわけではない。それはどういうことなのか。わざと込み入らせて字数稼ぎか。そうかもしれないが、今はそんなことでもないような気もしてきて、要するに迷っているのだろうか。でも何がどうなっているわけでもない。何だかしばらくは暗中模索の日々が続くらしく、それにつれて言葉の連なりもそんな感じになってしまうのだろうか。たぶんそうだろうとなんだろうとかまわないはずだ。とにかく言葉を記していけばいい。そうすれば何とかなるような予感がするが、それでいいとも思えず、たぶんどうやってもそれでいいとは思えないのだろうが、そう思わない方がいいに決まっているだろうか。その辺も何ともいえないが、とにかくそうするしかないらしい。現に今はそうなっているようだ。


4月5日

 今日は都合によりできないか。たぶんそういうことなのだろう。君が助けを必要としているとは思えないか。まだぴんぴんしているのかもしれない。それで本当に元気なのだろうか。何でもないことなのだろうが、とりあえず元気でいるらしく、それが何よりのことか。しかし何でもないのにそれが何になるというのか。たぶん住んでいる世界が違うのだろう。それの何がまずいわけでもない。どうも君は未だにそれ以上の何かを求めているらしい。そこからどうやって外れるつもりなのか。その必要がないからここにいて、この世界に存在しているわけか。ならば話は早いだろう。これから何をどうするつもりなのか。そういうことはない。何もできずにどこへも行けなくなるだけのようだ。要するに仕事をしているということか。それでかまわないだろう。君はそうやって日々を過ごしているわけだ。いい加減に適当に思うことはあるようだが、それが何を呼び込んでいるわけではない。退屈に感じるのはそういうことが原因なのではない。別にそれがどうこうというわけでもなく、退屈であってもかまわないのかもしれず、そこで何もしなくてもかまわないのではないか。黙ってそれらの光景を見ていればいい。そしてそれがどういう具合に変貌を遂げるのかを観察して、必要とあらばその変貌の遂げ具合に感動していればいい。そういう意味でただ傍観していることにも意味がありそうで、後から何かに気づいたりするわけだ。そしてもう終わりが近いと実感しているはずで、たぶんそうなった時のために今があるのだろう。だから今を大切にしているわけか。なるほどとは思わない。でも何かの気休めにはなりそうで、君はそこからいつでも外れられるのだろう。それが何よりの救いであり、たとえそれが不可能となったとしても、今そう思っていられるだけでも気休めになりそうだ。そしてたぶん何とか切り抜ける自信があるはずで、仮に失敗に終わったとしても、そこでそれなりに取り繕っているはずだ。だがそれが何になるわけでもない。ただの気休めなのか。でも気を落とす必要はない。がっかりするのはまだ先のことだ。物語としては終わっているようだが、それ以外の残滓を利用しながらここまできたらしく、それはそれでうまくやっていることに証しとなりそうだ。本当にそれでかまわないのか。

 昨日は何を述べていたのだろうか。いろいろあって帰ってきてからの意識がない。酒を飲んだわけでもないのに、帰ってきてから翌朝までの記憶がない。なぜそうなってしまったのだろうか。単に疲れていただけか。それにしてもおかしくないか。たぶんおかしいのだろう。別に何を思い出そうとしているのでもない。どうもまた急に寒くなって、調子がおかしくなってきたらしい。君はどこから立ち去ろうとしていたのか。何だかどこかで聞いたような台詞だが、それが思い出せずに難儀しているわけか。無意識のうちにそうなってしまったようだ。まさかそう振る舞うことによって誰かをそこから追い出そうとしているわけか。君の知ったことではないか。君は悪魔なのか。呆れ果てているわけでもない。だがそれにしてもおかしな具合だ。いったい何がどうしたというのか。そんな話だったわけではない。別にこちらが折れて関係を修復したいわけでもなく、あちらが何か攻撃を仕掛けてきたわけでもなく、ただそこにすれ違いがあり、齟齬が生じているだけではないのか。ではそれがおかしいのか。今さら血気盛んな若者気取りにはなれないだろう。面倒くさいのでそこから退こうとしているだけか。いったいそこで何があったのか。たぶん時間が必要なのだ。言葉を記す時間より睡眠時間が必要なのか。なぜそう思うのか。気がついたら翌朝になっている。なぜか知らないが眠ってしまっていて、言葉を記している時間が足りなくなり、さらに記述が遅れていって、それからどうなったのか。こうなってしまっただけではないのか。でも今日は今日でやらなければならないことがあるはずだ。昼はそれをやっている最中のようだ。否応なくそうなってしまうだろう。それでかまわないわけがないが、それでも君はそれをやり遂げなければならず、君自身もそういうことをやりながら自己実現を図っているのではないか。そうであったらどれほど幸せなことか。実際はそうではないのだろうか。どうも何かが違っているらしく、どこかで何かがおかしくなっていて、そのおかしさを笑っている余裕がなく、何だか窮地に陥っている気配も漂ってくるのだろうが、結局は寸でのところで難を逃れ、万事がうまい具合に滞りなく動き出しているわけだ。そして君は翌朝に目覚める。


4月4日

 呆れ返るまではまだいい加減な紆余曲折があるのだろうか。また何かがおかしくなっているようだ。意味不明にも度が過ぎるか。そしてさらに何を語ろうとしているのでもないらしいが、それで何が示されているのだろう。どうもそこへ行くまでに弄する言葉の迂回路が長過ぎるようで、へたをすると何も語らないうちに終わってしまいそうだ。今日は晴れて春らしい天気になりそうで、熊谷の手前で久しぶりに富士山が見えるかもしれない。しかしのんきなことを述べている場合なのだろうか。まとまりに欠けるのはいつものことだ。何かが意識の外へ散らばり、線路沿いの桜を眺めながら、真新しい紺のスーツ姿の人たちでごった返していた駅から遠ざかり、やはりどうでもいいような気分になるらしい。何をひねくれているわけでもないのだろうが、郊外の大学へと向かう若者たちと出張先へと向かうビジネスマンを乗せて、がら空きの電車が北へと向かっているだけで、心に何かを封印しているふうも見せずに、他に何を見せたいのかわからないが、何となくそんな気分で、記された文章に何が込められているとも思えず、嵐がさった翌日に、君は空の空色を感じているようで、この何でもないような世界の中で、さっきまで抱いていたくだらぬ妄想を忘れようとしていて、家並みの間かちらりと見える雲を何と見間違えたわけでもないのだろうが、別にアイドルグループが歌っていた曲名を覚えようとしているのでもなく、忘れ去る前に何を思い出そうとしているのでもない。では他に何が気がかりなのだろうか。文章としておかしいのではないか。そんなふうにしてつぎはぎだらけとなってしまうのだから、それを今さら改めるわけにもいかないだろう。まだ何かの集大成にはほど遠い時期で、これから気が遠くなるほどの時間を費やさないと、たぶん何も成し遂げられないのではないのか。そんなところまで至る必要があるかどうかは、人それぞれで好みの問題かもしれないが、とにかく今は続けるしかないらしく、どこかで妥協してしまうその日まで努力しなければならないようだ。

 春だから眠いというわけでもないだろうが、そういう感じで眠くなっているような気もして、何となく適当な気分となり、期待していたほどのことでもなく、何を期待していたのか忘れていることに気づき、あくびが立て続けに出て、やはりそれもどうでもいいことだったようで、薄ぼんやりとした富士山をちょっとだけ見ることができたが、あれが本当に富士山だったのか、あるいは雲と見間違えたのか、そんなどうでもいいことを忘れようとしていた時、不意にひらめいた何かを言葉にする気が起こらないことに気づく。まだ花粉症の季節が続いているのだろうか。居眠りの最中に夢を見たいとも思わないか。ハードロック調のギターとラップのコラボを聴きながら、時折混じる日本語の内容から、ああこういうたぐいのことがラップされていたわけかと感心したりして、iPadで漫画を見ている学生の横で、ふと窓の外を見やると、クリーム色のコート姿のサラリーマンが、駅のホームで四股を踏んでからラジオ体操をやりながら電車の中へと乗り込んできて、座席に座って書類に目を通しながらボールペンでメモを書いているようだ。向かいの席の長髪初老の大学講師のような居眠り男は、茶色のコールテンの背広にタータンチェックのマフラーを巻いて、マスクで花粉でも防いでいるのか、じっと目を閉じたまま固まっていて、時折こっくりこっくりしている。フローベールふうの情景描写をマネているわけではないが、他に記すこともなく、記す必要もないことを延々と記しているようで、たぶん今回はこれで終わってしまうのだろうが、どうも主張が出てこないようで、社会問題に対して鋭い指摘を盛り込むような才能に欠けているのかもしれず、その必要がないからこうなってしまうのかもしれないが、何だか脱力感とともに、たぶん平和な地域で暮らしているありがたみというか、それで済んでしまうことの狡さというか、何ともいえないような虚無感に襲われ、これでいいのだろうが、これでは済まなくなったときに、果たしてちゃんとした主張ができるかどうか疑問だが、それでもたぶん今はそういう時期なのだと思うしかない。それでかまわないような期間がこのまま死ぬまで続いたら嫌か。パット・メセニーに癒やされる。


4月3日

 それで何を導き出したわけでもない。信用されていないようだ。それはフィクションの中での出来事なのか。実際に何が起こったわけでもなさそうだが、そんなことが記されている。しかし何を語ろうとしているのだろう。余裕こいている暇があるのか。だからそんな語彙を知ってしまったのか。そんなことではない。今さら何を否定しても無駄か。ここまできてしまったのだから、後は無意識の赴くままにまかせておこう。そんなことが可能ならそれでいいのかもしれないが、実際には何をやっているわけでもなく、さらに言葉を記そうとすると、ますます意味不明になるのはいつものことなのだろうが、そこからさらなる何かを見出そうとすれば、何となく楽観的な気分となり、適当に何かを繰り出しながらも、それで自己満足に浸ることもできるのだろうが、自意識はそこにとどまりたくないらしく、何となくさまよい、どこかをふらつきながら、思い浮かんだことを記してみたい気になるらしい。果たして何をやっているのだろうか。君の思うがままに事が運んでいるわけでもないはずで、何とかしようとしつつも、何ともならないような気分で、それで何とかしているつもりになりたいらしく、要するにごまかしなのだろうが、それでもかまわず、さらなる何かを探しつつ、無理に急がずに、そこにとどまりながらも、先行する意識に追いつこうする矛盾を自覚しているようだが、もうしばらく考え込んでいるつもりらしい。まだ電車は止まったままか。だが焦る理由など見当たらず、どんな理由に基づいてとどまっているのでもなく、ただどこかへと向かう気がないらしく、そこでさらに考え込むが、なぜ何を考え込んでいるのかが示されないのか。それがそれらの文章の欠陥だろうか。それとも何か誤動作が生じているのか。あるいは強風域が通り過ぎるのを待っているわけか。それが何の理由になるのだろう。頭がおかしい理由がそれか。そんなことはない。別にそこで行き詰まろうとしているのでもない。まだそこから先に言葉を記そうとしているのだろう。もういい加減にあきらめてしまえばいいのに、殊の外執拗だ。

 でもそれが予定調和なのではないか。そう思うなら自意識にそう思わせておいて、後から何か付け足して、それを覆そうとしているのかもしれず、まったく意味不明に歯止めがかからないようだが、何とか気を取り直して、その先に仕掛けられているトラップをかわし、そのつもりになってそういうことを述べながらも、意外と何かに気づいていないのは否めないようで、もう手遅れになってから気づくのがいつものパターンなのだろうが、未だに気づいていないふりをしているのは、新しい試みを模索している証拠となるだろうか。そんなはずがない。たぶん冗談の手前で思うことがあり、それを通り越してから、通り越した何かに振り返り、わざとらしく笑みを浮かべ、ざまあみろとでも言いたげな気持ちを押し殺し、その気もないのに気の毒に思い、してやったりとまでは思わないにしても、とにかくうきうきしてきて、もうどこを通り過ぎたのか忘れようとしている。そんなはずがない。フィクションの中で何を思っていようと、それは嘘なのかもしれないが、どんな動画が何百万人に見られようと、後から思い出される必要もない出来事なのであり、それと同じような現象が世界各地で起こっているのかもしれず、同じような人たちが同じようなことを思い、同じように生きて同じように死んでしまい、それが全人類の滅亡に結びつくはずもなく、洗濯機の中で現れては消える泡のように、同じような人が現れては消えるのが、何かの定めなのかもしれないが、たぶんそれを否定する必要はなく、そんなことが繰り返されている現状の中で生きていることを受け入れざるを得ないだけで、意識が意図的にそこから遠ざかろうとすることも、誰もがそうすることの範疇で考えるべきなのであり、何も特別なことではなく、現実逃避のたぐいでしかないようで、それ以上の何を意味しているわけでもなく、ただそうなっているに過ぎないわけで、それが何かの制度だと見なせばその通りなのかもしれない。君がさっきまで考え込んでいた内容とはその程度のことなのか。よくそんな嘘をつけるものか。たぶんとっさに思いついたことだ。実際には何も考えていなかったようで、電車の車窓から外を眺めていただけだったかもしれず、それも嘘だと見なすなら、たぶん居眠りの最中だったのだ。


4月2日

 たぶん何もそうではない。それではまた昨日のことか。なぜかそうではないと思っている。楽しいのではないか。楽をしているようだ。だがそれだけではないはずだ。冗談の次に思うべきは、どのような出来事についてなのか。また何だかおかしなことを問いたい気分となっている。嘘なのかもしれないが、翌日は暴風雨らしい。所によってはそうなのだろう。実際に風雨が強まっているではないか。春なのだろうか。春の嵐といった風情か。日本海で低気圧が発達しているらしい。風情も何もないか。うるさいのは他の方面だろう。たわいないことを述べているらしい。向こうに着く頃には雨も風も止んでいるはずだ。そう願いたいところだが、そうでなくてもかまわない。とても本気だとは思えず、何がそうなのかわからないが、イヤホンから音楽を聴いているらしい。何を意味するわけでもないだろう。なぜ興味がないのか。そうならないから仕方がないのだろうか。何にのめり込もうとは思わない。交通ダイヤに乱れが生じている。テレビをつけたらニュースでそんなことを伝えていた。またくだらないことを思っているのだろうか。この世界が消滅してほしいか。またずいぶんと大げさなことを願っている。嘘に決まっているはずだが、本当は何でもないのだろうか。何が何でもないというのか。何もいっていないはずだが、それでも適当にいい加減に言葉を記しているはずだ。相変わらずそれが何を意味するのかわからないが、たぶん何とかなってしまうのだろう。現に今日も何とかなっているはずで、そんなやり方で日々を乗り切っている。それもかろうじてそうなのではなく、何だかわからないうちにそうなってしまうのだ。それで何も得られないわけではないのだろうが、他力本願は虚しい気分を誘発するらしく、自力で何とかできれば調子に乗ってしまうのだろうか。すぐに天狗になるわけでもない。少しは謙虚な気持ちでことに接しているはずだが、何だか違和感があり、まるで腫れ物に触るような扱いを受けると、何となくそこで何かを悟ってしまうわけか。

 だからそうならないように心がけなければならず、何とか社会的な横の関係を保ち続ける必要がありそうだが、それがなかなか一筋縄ではいかないところがややこしい。たぶん今までに積み上げてきたすべてを台無しにすることなど容易いのだ。しかしリセットばかりしていては進歩がない。絶えず進歩しているような幻想に浸るのも、何だか勘違いみたいで鬱陶しいが、少しはやっていることを肯定的に捉えておかないと、自己否定の無限連鎖の中で陶酔するばかりだろうから、それらの虚無に浸るのも中途半端にしておきたい。そこで無理に本気になる必要はなく、受け入れようとしている状況からすぐに外れ、嘘とは知りつつも、客観的な視線をねつ造して、それに対応して利いた風なことを述べておかなければならず、それで何とか言葉を記している現実の中に意識をおいておけるのではないだろうか。それがどうしたわけでもないのだろうが、そうしておかないと、何も述べられなくなってしまい、たぶんそこで終わってしまうのだろう。そしてそれでもかまわないと思い、さっさとあきらめて、それとは違うことをやっているわけか。まさに今がその最中なのだろうか。またそんな嘘をついて何かをはぐらかそうとする。無理なのだから、あまり論理的な飛躍を弄ぶわけにもいかないだろう。どこからともなく怠惰が降りてきて、不意にやめてしまいたくなるのだろうが、なぜかそこで思いとどまり、さらに言葉を記していくと、行き着いた先に何かの境地が用意されていて、それを堪能しなければならないのかもしれないが、すぐさまそこを離れ、危うく罠にはまるところだったと勘違いして、結果的に何かを見逃し、立ち直る機会が失われているのかもしれないが、やはりそれでもかまわないと思う他ないのだろうか。わざとそう思っているだけかもしれない。君はそうならないように頭の中で情念を調整しているのだろう。虚構を操作しながら、何か適当なことを思っているようにしたいのだ。そしてそれがいつものやり方である限りにおいて、そこに文章が構成される余地が残っている。そうならなければその場は余白のままなのだろうから、やはりご苦労なことなのだろうか。


4月1日

 またこの時間帯だ。恐怖の時間帯が到来しているわけか。そんなはずがない。君は見え透いた嘘をついているわけか。それも違うだろう。何とかしなければならないのに、思うようにならない。そんな夢を見ているのか。では今は睡眠中か。そんなはずがなく、またもや見え透いた嘘をついている。では何なのか。何でもないから困っているわけか。また言葉が藪の中か。それは何のたとえなのか。意味不明に決まっているようだが、何か反論の余地でもあるのだろうか。うまく語ることができない。それの何が嘘なのか。またそういうところへもっていこうとしている。もうすでに翌日になっているはずだ。ぼやぼやしていると二日後になってしまう。しかしやる気がしない。何か嫌なことでもあったのだろうか。どうやら図星のようだ。それでも言葉を記さざるを得ないのか。やめてしまえばいいことでしかないが、なぜかその瀬戸際で踏みとどまっている。何かに幻惑されているようだ。それでどうしたのか。冷静になって考え込んでいるようだ。君は何物にも代え難い何かをもっているのだろうか。そういうこと述べているのではない。では何なのだろうか。まさか追いつめられているのだろうか。それも意味がわからず、脈絡が感じられない。いくら首を傾げても無駄なのだろうか。実際に無理なのだ。無駄ではなく無理なのか。では何がそうなのだろうか。何とかそれを知りたいのかもしれないが、知るためのとっかかりがつかめないようで、結果とし無駄に言葉を費やして、ますます意味不明なことを述べている次第だ。だがそれがどうしたのか。頭がどうかしているだけか。決心が揺らいでいるようだ。それは本当だろうか。笑いながらそれはないだろう。ではそれらをどう表現したら納得がいくのか。

 たぶん納得がいくことなどあり得ないのだろう。どう考えてもおかしいことをやっている印象があり、それについてあれこれ思ってみても、致し方のない成り行きになっているのだから、もうあきらめた方がいいのではないか。それに関しては長期的なビジョンが必要なのかもしれず、もうしばらくは忍耐を要することのようで、だからやらなくてもいいことまでやる必要はないということか。そこまで割り切れないようで、未だに無駄で無意味な記述にこだわっていて、そのことが足かせとなっているようで、なかなか軽快に身動きがとれないようだ。その理由はわかっていて、そうならざるを得ないこともわかっていて、何だかその辺が微妙なところなのだろうが、でもそうなるしかないことがわかっていて、あえてそうやっているのだろうから、正しいことをやっているわけか。どうも嫌な感じがつきまとい、どうせなら思いっきり間違ったことをやった方がいいような気もして、できもしないのにそういうことを述べるべきではないとも思うが、そういうことではないのだろうか。またそうなってしまい、重苦しい雰囲気になるのを阻止しようとしている意図が見え見えになって、かえって不自然でぎこちない言葉の並びとなってしまいがちだが、それもそういう成り行きに現実感を覚えるのだろうから、致し方のないことか。うまく言い表せないが、心のどこかで楽観的な幻想を抱いていて、まあなんとかなると思うしかないのだろうが、当分はそういうことになりそうだ。まったく次から次へといろいろなことが起こって、それらが君を苦しめているのか、はたまた勇気づけているのかわからないが、まさかこれでいきなり人生の岐路に立たされているとかになってしまうのか。やりたくもないことをこのまま一生続けるのか、あるいはすぱっとやめて、何か別の道を歩み出さなければならないのか、とても踏ん切りがつきそうにないようだが、何もしなくても、その場の成り行きが勝手にどこか得体の知れぬ場所へと導いてくれたらいいのだろうが、どうせまた自らに不可能な選択肢を用意して、どちらかを選べと迫ってきそうで、そのまま自意識がくだらぬ物語へと引きずり込まれ、そんな成り行きが君をありふれた小市民へと変貌させているのだろうか。変貌する前にすでにそうなのではないか。