彼の声91998年11月24日サッカーの21歳以下の日本代表が同年代のアルゼンチン代表に勝ちましたか(1−0)。まあアジア大会の壮行会を兼ねているエキジビションマッチ的色合いの強いものだから、それほど大したことでもないのでしょうが、一応勝ちは勝ちです、結果を出したんだからそれはそれで良かったんじゃないですか(笑)。しかし、私はTVで後半だけしか見なかったんですが、明らかに試合に負けたアルゼンチンのほうが力は上でしたね(笑)。特に日本選手のゴール前でのもたつきが目につきました。なかなかシュートに持って行けないというか、決断のタイミングがワンテンポ遅いというか、アルゼンチンの選手が予測をはるかに超えた素早い動きでしばしば強引に決定的場面に持って行くのとは対照的に、ゴール前で必ず一旦停止しているみたいで、シュートできないで苦し紛れにサイドバックにパスを出して逃げているようで、心の中で、そこだ!なんで打たないんだ!そこでシュート打つんだよぉ!と叫んでいましたよ(笑)。それが力の差と映ったわけですが、でも実際に勝ったんだから、その「力の差」もそれほど大きいわけではないということかな。ま、戦い方次第では勝つこともできる程度の差ということですかね。それから監督のトルシエ氏に関しては、それほど期待はしていませんが、少なくとも前任者のカモやオカピーよりはいいんじゃないかと思います。やっぱ監督が外人だと、くだらない私情が生まれる余地もあまりないみたいだし、見ているほうも気が楽だよね。結果が伴わなかったら辞めさせればいいだけなんだろうけど、それが当たり前なのに、日本人が監督になると、なんであんなに辞める辞めないでぐだぐだもめちゃうんだろうね。まるで子供のけんかみたいに(笑)。子供のけんかを大人が真剣に演じている国会やTVドラマの影響か?
それで、子供のけんかやっている国会ですけど、最近、自由党と自民党がくっつくのくっつかないのでもめているようですね。やはり、新しい波を創る、などと偉そうなこと言っていた小沢一郎も大臣病には勝てませんか(笑)。所詮その程度の俗物なのね(そんなこと先刻承知してますが)。ようするにお国の中枢でお仕事したいわけね。それの言い訳が、ニッポンを救うため、だそうで(爆笑)。アンタなんかに救われたかねーよ。なんだか説教オヤジの野中や亀井なんかと同じように大袈裟な救国の熱弁をふるってるみたいだけど、閣僚ポストを確保して政権与党として選挙に勝とうとするための党利党略がミエミエなんだよね。でも社民党はそうやって自滅したよね。しかし、現に今回のカラ騒ぎで世論調査での自由党の支持率がアップしたそうじゃないですか(はぁ〜)。そんなもんですか、自由党を支持している奴ってどんな奴なんだろうね。もっとも、世論調査なんかで特定の政党を支持する人なんて、頭のイカレた人以外考えられませんけど(私の偏見)。ま、せいぜい自民党と一緒になってその場しのぎのごまかし経済対策に血道をあげてください。話は違うけど、だいたい、なんで銀行の貸し渋り対策で国が銀行を手助けするわけ?国が助けなけりゃならないのは銀行じゃなくて貸し渋りで困っている中小企業じゃないの?今までやりたい放題やって自分で勝手に不良債権作ってきた自業自得の銀行なんかに資本注入する金があるなら、それを銀行なんか通さずに国が直接貸し渋りで困っている中小企業に低利で融資してやればいいじゃん。でも土台そんなことできっこないよな。選挙になると自民党議員はよく農民や中小企業者の味方のフリをするけど、選挙が終われば結局、相対的により多く政治献金もらっている大手都市銀行や農協と一緒になって農民や中小企業者を食い物にしているだけなんだよな。それでも彼らは自民党に投票するわけだろ。ま、それで世の中回ってるんだから仕方ないのかな?でもそんな馬鹿げたことに関わりたくないよ。選挙の投票に行かない人の気持ちもわかるよね(笑)。 11月17日沖縄県知事選挙で現職の太田氏が敗れたようですね。この結果は沖縄県民にとっても太田氏にとっても比較的良いことだと思います。このまま太田氏が知事の職にとどまり続ければ、必ず周りの支持者による太田氏個人の“神格化”が起こってしまって、結局彼の末路は悲劇の英雄か独裁者のどちらかになるよりほかありませんから。今の世の中、アメリカの大統領だって日本の総理大臣だって誰がなっても大して代わり映えはしないのですから、沖縄県知事に誰がなろうと大した問題ではないと思われます。新しい知事の主要な仕事も前任者と同じく、米軍基地問題に絡めてどうやって国から金を引き出すか、という現実路線でしかありません。それは原発を抱える地方自治体と何ら異なるものではなく、また、いささか文学的な“沖縄の自立”をめざした太田氏が敗れたことは、結局、沖縄も、琉球と呼ばれる特別な地域などではなく、単なる一地方県(日本国に依存した)でしかないことをほかならぬ沖縄県民が選挙結果によって示したことになるでしょう。せいぜい沖縄県の皆さんにはこれからも米軍基地の重圧に耐え続けてもらいましょう。それがいやなら沖縄から脱出したらいいんですよ。それもいやだというのなら、実際に当事者の皆さんが何か方策でも考えて行動に移せばいいことです。私は関知しません。話は変わって、今回はこれまでとは少々趣を変えて、物理(といってもごくごく簡単な古典物理)に絡めて過去の自分の経験について話してみようと思います。 たとえば、質量m(時間に関係なく一定とする)、加速度aで運動している物体に加わる力Fは F=ma と表せますが(高校レベルでの話)、この加速度というのは時間当たりの速度の変化を表す概念で、たとえば時刻t1での物体の速度をv1、時刻t2での速度をv2としますと、t1からt2までの時間での物体に生ずる加速度a1-2は a1-2=(v2-v1)/(t2-t1) さらに、速度というのは時間当たりの距離の変化を表す概念だから、たとえば時刻t1までに物体の動いた距離をx1、時刻t2までに動いた距離をx2とすると
v1=x1/t1 となりますが、ここで数学的ごまかしをして(私は素人なのでご容赦を(笑))
t2-t1=Δt で表されるΔt、Δx、Δv、を限りなく0に近づけると、それぞれは
Δt→dt というふうに表されて、この定義から任意の一地点での速度vは v=dx/dt となり、さらに任意の一地点での加速度aは
a=dv/dt となります(もちろんここで物体はx軸上を直線運動していると考える)。 で、ここでこの d(dx/dt)/dt=a が微分方程式といわれるものなんですが、この式の両辺を時刻t=0からtまでで一回積分すると dx/dt-(dx/dt)t=0=at となり、これは高校の物理の教科書に出ていた速度vと加速度aの公式 v-v0=at (v0はt=0での初速度) に相当するもので、さらに微分方程式をもう一回積分すると x-x0-(dx/dt)t=0・t=(1/2)at・t (x0はt=0での初期位置、また、tの2乗が表示できないのでt・tとした) となり、これも同じく教科書に出ていた距離xと加速度aの公式 x-x0-v0t=(1/2)at・t になるわけです。
私はこのことを大学一年の一般教養の物理の講義の時間に知って愕然としました。高校生の頃、期末試験の前の晩に一夜漬けで必死こいてそれぞれの公式を別々に丸暗記しようと焦っていた愚かさを、なんと受験勉強もせずに二浪もしてたまたま受験して合格してなんとなく入学しちゃった偏差値最低レベルの大学(国士館大学工学部電気工学科)でやっとわかったのですから、これは物凄い遠回りです(笑)。どうりで高校の物理の試験で一度も50点以上取れなかったわけです。物体の運動に関するそれぞれの公式がお互いに関係しあっていることを考えもしないで、ただ闇雲にそれぞれを丸暗記しようとしていたのですから当然です。それを知った後、高校時代の物理の教科書をあらためて読み直してみたら、さすがに微分方程式では説明されていませんでしたが、ちゃんと言葉でそれぞれの式の関係が説明されていました。そうです、高校時代は教科書なんてほとんど読んでいなかったのです(笑)。それに微分方程式に関しては別に数学の時間に習っていたのですが、やはりその程度の馬鹿高校生の自分に、それを物理に応用して考えるなどという芸当はできっこなかったのも当然といえば当然ですが、数学に関しても“公式丸暗記教”に汚染されていたので試験ではほとんど50点以下でした。ま、今から思えば数学以前の問題で、そもそも試験問題を読む文章読解力そのものが不足していた気もしますが(笑)。そして、物理や数学と並んで苦手な英語においても、文法などは何も考えずにただ英単語を丸暗記しようとしていつも途中で挫折していました(笑)。確か英語の試験ではいつも40点以下だったと思います。ようするに私は結果がぜんぜん伴っていないにもかかわらず、高校三年間を通してずーとひたすら“丸暗記教”を信仰してきたことになるのです。やっぱこれって典型的な宗教狂信者の症例ですよね(笑)。傍から見れば不幸のどん底にいるのに、何も考えずにただ一心不乱に念仏やら法華経を唱えているのと大して変わらないんじゃないかと思います。しかしまあ、自分に関しては、ものを考えることを怠った代償は今更ながらかなり大きいですね。こうしてまともに就職もせずに大学を卒業してからもう十年以上もプータロー状態なわけですから(爆笑)。はぁ〜、よく生きてるよなあ…。 11月9日すいません、先週この場で紹介した刑事ドラマ「ナッシュ・ブリッジス」は今週の日曜日はやっていませんでした。そういえばあの時間帯(テレビ東京の日曜午後一時)は、月に一度は映画でつぶれちゃうような気がします。それで今日、本屋でテレビ番組雑誌を見たら、来週の日曜日はやる予定みたいですから、気が向いたら見てください。まあ真剣に見るような類のドラマ(そんなTVドラマがあるのか?)ではありませんが、軽い気晴らし程度の効用はあるかもしれません。それから話は変わって、今週も取りたてて積極的に話すことが見当たらないので、とりあえず、この間読んだ『シンポジウム[III]』(柄谷行人 編著 太田出版)から、浅田彰と柄谷行人のこの発言を紹介しておきます。 浅田 歴史修正主義に関連して言えば、そもそもドイツがやってきた戦後処理というのは、いろいろな問題があるとはいえ、日本の戦後処理よりははるかに徹底している。それは、ある意味で、ドイツ資本主義の利害に沿ったブルジョワジーの対応だったと思う。そうしなければ、ヨーロッパで経済活動をやっていけないんだから。たとえば、ヴァイツゼッカーが大統領だったときの有名な演説(『荒れ野の40年』岩波ブックレット)でも、われわれドイツ人はまずわれわれだけの間で過去を記念しているが、これはぜひとも必要なことだ、われわれには現に過去を直視し責任を自覚する力があるんだ、と言っている ―コンスタティヴというよりパフォーマティヴな発言だけれども(ちなみに、そのために哀悼される死者たちの順序は、まず六〇〇万のユダヤ人、次にソ連・ポーランドをはじめとする他国の死者、そしてドイツの兵士や民間人の死者であって、そこに、これは注目に値することですが、虐殺されたユダヤ人以外のマイノリティ ―ジプシーと呼ばれていたシィンティやロマの人々、同性愛者、精神障害者、そして宗教上または政治上の信念をまげなかった人々が付け加えられ、銃殺された人質、ドイツに占領された国々のレジスタンスの犠牲者、ドイツのレジスタンスの犠牲者、レジスタンスには加わらなかったものの良心を曲げるよりは死を選んだ人々、と続きます)。鵜飼さんが言われるように(「時効なき羞恥」『現代思想』一九九五年一月号)、これは、自分たちには過去の罪を認める力があるんだ、という「自負の戦略」です。保守派が強力な主体を再構築したいというなら、責任を押しつけられるのはいやだと言ってだだをこねる幼児のようにではなく、まさにこのヴァイツゼッカーのように語るべきなので、実際あれこそまともな保守派の言説ですよ。さらに、シニカルな見方をすれば、さっき言ったように、それこそがドイツの資本の利害にかなっているわけです。ドイツを理想化する傾向があって、それは問題だと思うけれども、あれこそたんに「国益」にかなった普通の政治行為だと言っておけばいい。日本の場合、問題がかくもこじれているのは、保守派がその程度の「国益」にかなった行動すらできないでいるためです。しかし、今の日本で、ヴァイツゼッカーのように真摯な態度で堂々と偽善者を演じられるだけの度量を持った真の保守主義者が存在するでしょうか?まあそういう人物を出現させるためには、政府自民党も、ルサンチマンの固まりの元共産党員やら元新左翼やらの取り巻き御用文化人なんかをはやいとこリストラすべきなんでしょうけど(笑)。やはり今日では、彼らがこれまでやってきた「責任を押しつけられるのはいやだと言ってだだをこねる幼児のようにではなく」、「資本主義の利害に沿ったブルジョワジーの対応」が求められている時でしょ。しかし、現に、この間の韓国の金大中大統領の来日では、日本の戦争責任についてこれまでより踏み込んだ謝罪をしたようですし、中国に対しても同様な謝罪をやるようですから、ようやく遅れ馳せながら政府自民党も「「国益」にかなった普通の政治的行為」をやる気になったのかもしれませんがね。そうですよね、戦後50年以上もたったのに、未だに「南京大虐殺はなかった!」だの「東京裁判は不当だぁ!」とかの、自分たちの思いこんでいる真理(だと思っている妄想)にこだわっているようでは、たんに滑稽であるばかりでなく、日本企業のアジアでの経済活動にも支障をきたす危険性がありますからね(笑)。 また、紹介した箇所の後半で、柄谷に「意味がわからない」と馬鹿にされている加藤典洋なんですが、『噂の真相』一九九七年十一月号の「撃」によると、「加藤典洋『敗戦後論』(講談社)が、発売早々に各書店で品切れとなっているらしい。雑誌掲載時から反響が大きく、高橋哲也をはじめとする多くの批判もあって、「歴史主体論争」(と名付けられたそうだ)を引き起こしているだけに、版元も話題性があることは承知していたはずだが、予想をはるかに越えて売れてしまっているということだろう」(「鵠」氏記述)だそうです。ようするに、「ルサンチマンの固まり」が書いたものをありがたがって読む「ルサンチマンの固まり」が世の中には大勢いらっしゃるということですか(笑)。いいでしょう、これが現状です。「鵠」氏は、「それ以上の馬鹿が書いたゴミのような本ばかり売れてしまうという危機的症候のほうが問題なのだ」と心配しちゃってますが、いいんじゃないですか、これが現実です。あんまり危機感を抱いてないで、せいぜいスノッブな知的選民気取りで状況を面白がっていればいいんじゃあないでしょうか。それどころか、浅田や柄谷に至っては、自分たちのことをマジで「知識人」だと思っているのですから、そういう自ら進んで犠牲者(?)の役割を引き受けてくれる人達を応援してあげればいいんじゃないですか。ボクちゃんは応援しちゃいますよ。柄谷チェンチェイ、浅田チェンチェイ、がんばってくだちゃい(爆笑)。 それから、またまた話は変わって、この間(十月二七日の回)でスティーリー・ダンの『彩(エイジャ)』の中で、この場で紹介するような歌詞はない、などと述べてしまいましたが、それは誤りでした。どうやら今までに聞いた曲ばかりだという先入観が邪魔をして、そういう安易な印象が歌詞の読みを妨げていたようです。それで、ここではお詫びのしるしにその中からこの曲の歌詞を紹介しましょう。 |
HOME AT LAST
I know this super highway
Well the danger on the rocks is surely past
She serves the smooth retsina Words and Music by Walter Becker and Donald Fagen
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安らぎの家
このスーパー・ハイウェイも馴染みだし
ロックを襲った危険はもう過去の話
彼女は口あたりのいい地酒をふるまって
さようなら ありがとう 我が友よ 〔対訳:橋本ユキ〕 |
何やらこの曲は、成功の後の虚脱感というか、嵐の後の静けさというか、すべてが終わったあとにもう何もやることがない、といういわゆる廃人状態を歌ったものなのかも知れませんね。そして対訳者がいみじくもこの曲名を「安らぎの家」と訳した雰囲気は、後のフェイゲンのソロアルバム『ナイトフライ』を予感させるものがあります。さらにまた、ここで「ロックを襲った危険はもう過去の話」と歌われている「過去の話」を自分なりに推測してみると、私にはデビューアルバム『Can't Buy A Thrill』の中のこの曲が思い浮かびます。 |
MIDNITE CRUISER
Felonius my old friend
*
The world that we used to know (* Repeat) Song written by D.Fagen and W.Becker
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ミッドナイト・クルーザー
重罪犯の旧友よ
*
僕達が知っていた世界は (*くり返し) 〔対訳:加納一美〕 |
この曲も、どことなく過ぎ去った時代に対する愛惜や郷愁みたいな感じがありますが、しかし、デビューアルバムでいきなり「もう一度だけ君と僕の狂気を同調させてくれ」ですよ。はたしてこんな言葉を発してしまったあとに、更なるシリアスな言葉をつなげられるでしょうか。この水準を維持するのはかなり難しいでしょう。やはりスティーリー・ダンがその後、歌詞(メッセージ・ソング)ではなくもっぱらサウンド指向に転じていったのもわかるような気がします。
それから最後に、最近よく見に行くページでかなり面白いと思ったので、Top Pageのリンク欄に小田嶋隆氏のページおだじまんを勝手に加えました。特に日記はよく読んでいます。サッカーファンは必読か? 11月3日文化の日ですか。世の中にはびこっている政治力のある団体(ギルド)の構成員のじいさんばあさんが年功序列で勲章もらって喜んじゃう日ですか。なんとあの赤塚不二夫まで勲章もらったようですね。役どころはさしずめ“漫画界の重鎮”といったところですか。この道一筋何十年、ギャグマンガ一筋何十年といったところですね。やっぱ人間持続力が大切なのでしょう。努力すればいつかは報われる、というありふれた物語に合致すればいいわけですね。じゃあ鴨川つばめや江口寿史は勲章もらえませんね(笑)。でも今描いてる赤塚不二夫のギャグマンガじゃ笑えないかもしれません。もっとも、たとえば今のビートたけしじゃ笑えませんからそれも致し方のないことでしょうか。あっそうか、赤塚不二夫もビートたけしみたいに映画を撮ればいいのか(安易な展開)。そして蓮實重彦に頼み込んでヨーロッパの映画祭で大賞を取らせてもらいましょう(笑)。そうです、国から勲章もらったんだから今や赤塚も世間が認める立派な文化人です。あとは文化人として箔をつけるために映画監督になるしかないでしょう(笑)。やっぱそうなると、「天才バカボン」の実写版を撮るしかないかあ?しかしそうすると、もちろんバカボンのパパ役は赤塚本人がやるとしても、バカボン役は大川隆法か金正日か迷うところですね。…あまり現実味がなさそうですが、それにしても、文化勲章なんて自分にはまるで縁遠いシロモノです。そうですね、たとえば映画監督の大島渚なんかは、後もう少し長生きして同世代の映画監督がみんな死んじゃったら、年功序列で何かもらえますかね。この間『シンポジウム[III]』(柄谷行人 編著 太田出版)を買って読んだら、スーザン・ソンタグが大島渚についてこんなことを述べているのを発見しました。 ソンタグ 私はポピュリズムの理想という問題について考えたことがありませんでした。しかし、ショックを与えてくれる芸術が現在好まれているのは確かだと言えます。たとえば音楽やヴィデオといった刺激志向の芸術です。伝統的な文学形式、特に長大な物語散文、あるいはかつてのシリアスな映画とは違います。日本は世界でもっとも偉大な映画の伝統を持つ国のひとつです。世界最高の映画監督のひとりで、私が思うに過去三〇年間で最高の映画の幾つかを撮った人物である大島渚は、聞いたところによると、もう映画を撮らず、TV番組のレギュラーだそうですね。いつもTVのトーク番組に出ているゴダールなんて、誰が想像できるでしょうか?仮にゴダールがTVに出演するとしても、それはゴダールの作品を放送するためで、彼のやり方には全く変化はありませんし、完全に妥協を排したものでしょう。しかし、大島渚が「世界最高の映画監督のひとり」だなんてにわかには信じられませんよ。もしかして世界ではあの黒澤明より評価が高かったりして(笑)。私の知っている大島渚は「朝まで生テレビ」でギャーギャーわめいていた馬鹿老人でしかありません。やはり『愛のコリーダ』以前を見たことがあるかないかで、彼に対する印象はかなり違ってくるわけですか。それは、どんな偉大な人物でもTVに出続けると白痴化しちゃう、という言説を裏付ける良い見本なのでしょうか。恐いですね。TVに出て有名人やら文化人と呼ばれるようになったらもうその人は終わりなのかもしれませんね。その昔、カメラで写真を撮られると魂を抜かれてしまうと信じられていた時代があったようですが、それはまんざら嘘や迷信ではなかったのですね。TVカメラは連続して被写体を撮っているわけですから、魂の消耗度もそれだけ大きいということですか(笑)。皆さんも街頭インタビューなどで気軽にTVカメラに身をさらすのはなるべく避けたほうがいいですよ。魂を抜き取られた上にレポーターの馬鹿が伝染しますから。ようするにTVという媒体は、まかり間違ってもそれに出演するようなものではなく、そこに出演している馬鹿どもとそれを見ている自分とを冷静に見比べてみて、自分の馬鹿度がどの程度まで進行しているのかを確認するためのリトマス試験紙のようなメディアかもしれませんね。たとえば、出演者の言っていることを真に受けるようだと、それはもう重度の白痴だということですか(ヒドイこと書いちゃった(笑))。 そういえば大島渚は最近新作を撮り始めたようですが、やはりTVに出て有名になって撮影資金を工面できるめどでも立ったんですかね(笑)。そして、冥土の土産にあと一作是が非でも撮りたいという執念が実った、ということですか。これでスーザン・ソンタグや浅田彰をうならせるような作品ができればすごいですけどね。まあ期待はしていませんが…。
しかしこんなふうにTVを馬鹿にしている私なんですが、最近TVドラマにはまっています(爆)。しかも刑事ドラマです(赤面)。しかも主役はドン・ジョンソン(はははは)。日曜の昼の一時からテレビ東京でやっているんですが、結構面白いですよ。まあアメリカ版「あぶない刑事」(「マイアミ・バイス」の続編か?)みたいなもんですが、出演している刑事のそれぞれのキャラクターに合わせて(服装のコーディネートもそれぞれ特徴がある)毎回シリアスなものからコメディまでの範囲で複数のストーリーが同時進行していきます。今週の内容はといえば、メインの事件が右翼過激派による無差別狙撃事件なんですが、主役のナッシュの相棒のジョーはそんな事件は後回しにして番組の始まりから終わりまでハロウィンの仮装大会で自分の娘に着せるテントウムシの衣装を探すために終始駆けずりまわっていて、背が低くて禿げていて背の高いスウェーデン人の奥さんがいるメキシコ系の彼は常にコメディ担当みたいなんですが、今回は運悪くその事件に警察官のストライキが重なって警察署はてんやわんやの大騒ぎだったんですが、そこに彼の友達のオカマの人が喧嘩別れした愛人の捜索願いに来て、そのオカマがなぜか成り行きで機転を利かせて署内の大騒ぎをいとも簡単に収拾してしまい、その能力を見込まれて彼は一日署長に抜擢されちゃうんですが、そのご褒美として警官の制服一着をおねだりしてまんまとせしめる(彼はその制服をベッドでのプレイに使うといっていた)というストーリーまでおまけでついてくるんですが、その他、狙撃現場にいく途中で信号工事が原因で大渋滞になってしまい、ストライキ中の警官に代ってジョーがハロウィンの仮装で使っていた白バイ隊のヘルメットをかぶってYMCA(日本では西城秀樹のヤングマン)のBGMに合わせて踊りながら交通整理をやって笑わせてくれたり、部下の中国系の女刑事チャンが一般人を誤って撃ち殺した嫌疑をかけられて、その一般人と思われていた人物が実は過激派の仲間だったことを彼女自身が証明してみせるシリアス・ストーリーも平行していて、さらにまた別の部下がSMクラブでの強盗事件が縁でそこの女王様とデートするはめになったりするストーリーも加わります。そうそう、なぜジョーがテントウムシの衣装を探して駆けずりまわるはめに陥ったかは、レストランでヤクが切れて暴れまわっている奴を取り押さえようとして厨房のコンロで買ったばかりのテントウムシの衣装を焼いちゃったからなんですよね…と、なんだか書いていて収拾がつかなくなってきましたが(笑)、メインの事件は最後のお決まりのドンパチで一件落着しちゃうんですが、これだけの多種多彩な内容が一時間のドラマに詰め込まれているわけです。この軽快さは日本のTVドラマにも欲しいですね。どうせフィクションなんだから見苦しい感情的な対立なんか極力なしにできないものですかねえ。だいたい普段の実生活においても、ギャーギャーわめき合うようなお互いの衝突を避けるために日頃からあれやこれや感情をコントロールしながら暮らしているのに、日本のTVドラマとなると、出演者の皆が終始感情のぶつかり合いの情緒不安定全開状態みたいで見ていてホントに疲れちゃうんですよね。そしてすぐに争いごとを収めるためにしたり顔で説教する奴が出てくる。それのくり返し。そんな印象しか記憶にありません。 10月27日今回は、そうそう、プロ野球日本シリーズは横浜が西武を破って日本一になりましたね。なんだか高校野球では横浜高校が春夏連覇を成し遂げちゃうし、ベースボールに関しては、今年は“横浜イヤー”として記憶に残る年になるのでしょうか。もちろんその「記憶」も、今後起こるかもしれない新たな快挙によって、数年後には忘れ去られる運命かも知れませんが、そう、1985年の阪神タイガースが日本一なった時も確かこんな雰囲気でした。皆さん、覚えていますか、今から13年前の大騒ぎを。日本シリーズでの対戦相手も今回と同じ西武ライオンズでしたね。西武はいつの時代でも“やられ役”なのかな。やはり麻雀賭博の前科がある東尾監督は悪人顔ですか?それはともかく、当時大阪が大騒ぎしていたように今回は横浜が大騒ぎしているわけですか。そして関係ないけど、海の向こうのアメリカではヤンキースがワールドシリーズを制覇してニューヨークが大騒ぎしているわけですね。というような大騒ぎ以外に日本シリーズで印象に残ったことといえば、西武のエース西口のきゃしゃな体つきくらいです。私はべつにホモではありませんが、西武の西口と松井(こいつは筋肉質)はちょっと危ないですよ。ごっつい体つきのその方面の方々から性の標的にされそうな雰囲気を持ってますよ(笑)。くれぐれもストーカーには気をつけましょう、横浜高校の松坂君もね(何を言っているんだ〜)。それから、そうそう、そうさねえ、そうと言えばサミー・ソーサですが(ダジャレのつもり?)、彼が祖国のドミニカに凱旋帰国した様子をニュースでやってましたね。靴磨きで家族の生計を助けていた貧乏な野球少年が国民的な英雄となって文字通り故郷に錦を飾った、といういわゆる典型的な“アメリカンドリーム”なわけですが、何やらショッピングセンターを創ったり野球学校を開いたり、結局彼も、ホームラン記録を競ったマグワイヤと同じく“じぇんとるめん”だったわけですね(笑)。タイガー・ウッズもそうだけど、今時のスターは慈善事業に手を出して体面を取り繕うのが流行なのか、それが成功者に対する世の中のルール(義務)なのか、もちろん当人達は本心からそうしているのでしょうけど、それってやはり、周囲の好奇の目から身を守るための世間に対する無意識の自己防衛なんじゃないでしょうか。それが有名人の処世術というものですかね。ま、人は誰でも自らの体面を保つために、公の場では“良い人”を演じたがるものですからね。もっとも、そのような行為が度重なる日々が連続すると、それが精神的重圧となって、私生活での荒廃を招くわけですが。案外エロブタクリちゃんの一連の性的ご乱行もその辺に原因があるんじゃないですか(笑)。そう考えると、もしかしたら日本の皇室の方々も結構毎日大変な精神的苦痛を強いられているのかも知れませんね。 しかし、中には好き好んで“イヤな奴”を演じていると思いこんでいるヒネクレモノも世の中には少数存在するようですが、そういう大馬鹿野郎の一人が私なのでしょうかね(笑)。ま、そういう有名人にはできないことができるのも、名もない一小市民の特権というわけですか。何しろこんなふざけたことをここでいくら述べてみても、表立って誰も私を非難できないでしょうから。たとえば、私を公の場で非難することは、却って無名な私を有名にしてしまうことになるわけですから、それは絶対にできない相談でしょう(笑)。せいぜい、卑屈な奴等が蔭でこそこそ馬鹿にしたり悪口を囁き合う程度でしょうね。もちろん、そのような匿名性が世間に対して有効な武器となりうるかどうかは、ここに書かれてある内容次第ではあるのですが、どうなんですかね、このページは。カウンターの増え具合からすると、まるっきり無視されているわけでもなさそうだし、少しは世間に対して何らかの影響を及ぼしているのでしょうか。ま、ささやき程度ですか。しかしそれで十分でしょう。なにしろ大袈裟なことは嫌いですし、実際このような場ではそれが限界でしょう。これが小市民の処世術というやつです(笑)。などと、何やら卑屈なことを述べちゃってますね(自己嫌悪)。でも実際問題として、この場では私個人などまるっきり無視されていていいわけで、重要なのはここに書かれてあることがまともに読まれているかどうかです。もっとも、それ以前にこれらの文章がまともに読めるレベルに達しているのか、そもそも読むに値する文章なのかどうかですが、いずれにしても書いている私には何の確証もありません。ただこれからも適当に書いていくだけです。
で、話は変わりますが、今日、スティーリー・ダンの最高傑作と呼び声の高いアルバム『彩(エイジャ)』(1977年リリース)を買って聴いてみたのですが、どうやら私はドナルド・フェイゲンを少々買いかぶりすぎていたようです。曲自体が昔から聴いたことのある曲ばかりなのが原因かもしれませんが、あまりよく感じないのです。確かにサウンドのクオリティは一流スタジオミュージシャン達によって高度に研ぎ澄まされているのかもしれませんが、それならソロアルバムの『ナイトフライ』(1982年リリース)だって同程度に、いや、それ以上に耳触りの良い音を奏でているし、何より、その豊かなサウンドとは裏腹にヴォーカルのフェイゲンの声量の無さが目立ってしまいます。もちろんそれは好みの問題で、そのような声量のないかすれたヴォーカルが曲全体のクールな雰囲気を醸し出している(シャーデーのように)、とも言えるわけですが(たとえば、アイズレー・ブラザーズがカヴァーすれば私の好みになるでしょうけど)。また、歌詞についても、このアルバムの中では、今回この場で紹介するようなものはひとつもありませんでした。どうやら私が今まで聴いた中でスティーリー・ダンの最高傑作を挙げるとするなら、曲の面でも歌詞の面でも、文句なくそれはデビュー・アルバムの『Can't Buy A Thrill』(1972年リリース)でしょうね。なんだかドナルド・フェイゲンは大袈裟に“ポップ・ミュージック界の海原雄山か北大路櫓山人”と呼ぶより“アメリカの山下達郎”と呼んだほうが妥当かもしれませんね(笑)。 10月21日なんだかNetscape社はFreeBSD用のCommunicator4.5を作ってくれないみたいですね。どうしたんですかね。他のUNIXヴァージョンはあるのにFreeBSD用がありません。まさか以前この場で文句垂れたからいじわるしているんじゃないでしょうね(笑)、こんなマイナーなページにそれほどの影響力はないでしょうけど。困ったなあ、せっかくfvwm95をインストしてデスクトップがWin95風になったのに(それとこれとは関係ないか?)。でも、またもや毎度のことながら設定方法がわからないから、デスクトップ上のボタンが動かない(なぜか電卓のxcalcボタンだけは押すとちゃんと起動する)ので、使い方は以前のtwmの時と同じくターミナル・ウインドウ上でコマンドを打ち込んでアプリケーションを起動させています(しょーがねー奴)。でもタスクバーとウインドウに閉じるボタンがついたのでちょっとだけ使いやすくなりました(ホントにそれで使いやすいのか?)。でもメインで使っているOSは相変わらずWin95です。もうちょっとお金が貯まって暇もできたら、安いDOS/V機でも買ってOSはTurboLinuxでも使ってみたいですけどね。ま、その日がいつ来るかは何とも言えませんが(来ないのかもしれません)、それまではこのページもPC-9821Xs+Win95+WZ Editor+小次郎で作り続けるしかないですね。でも実際この貧弱な組み合わせで今のところ間に合っていることは確かなのですけど(笑)。え?Win98を導入すればもっと使いやすくなるだって?大丈夫です、Win98の代わりにFreeBSD(98)を入れてますから(爆笑)。しかし考えてみれば、今使っているこのPC98は、この二年半の間よくもまあ一度も壊れずに動いてきましたねえ。かなりメチャクチャな周辺機器つないでいるんですけど...、ハードディスクとCD-ROMドライヴはDOS/V用だし、メモリも80Mバイト中16MバイトはDOS/V用で、残りの64Mもメモリの使用可能機種欄にこのPC-9821Xsは記載されてないし、モデムとPC本体をつなぐシリアルポートが最大19,200bpsしかでないのに56Kモデムを使っているし(一応、インターネット上では50Kbps前後の数字が出ているのですが、体感では28Kモデムを使っていた時とそれほど変わらない)、なんだか、いい加減な自分の性格がそのまま反映されちゃってますね(笑)。こんなことやっていて本体が壊れないのはもしかして奇跡的なんですかね、それとも、もともとマシンにこれくらいの許容力があるのは当たり前なのかな?よく立ち読みするパソコン雑誌の投稿欄に、壊れて動かなくなった読者の体験談などがでていますが、それを身を持って実感させられたのは今のところCD-ROMドライヴが壊れた時ぐらいですか。しかし、いい加減買い替えたいのは山々なんですけど(液晶iMacなんて出たら買いたいよなあ、どうもあのブラウン管型は好きじゃないです)、なかなかそれが実行に結びつきません。何もかも惰性で行動するばかりで、このままの生活ではいつまでたってもこのPC98を使い続けているような気がしますね。何か未来の時において変化せざるを得ないような事件が起きるのか、見通しは何もなく、今のところ五里霧中といったところです。結局こんなしょうもないことをやっているうちに、人はどんどん年老いていってしまうわけですけどね。まるで自分自身の人生が他人事としか思えませんよ。これが離人症ってやつですか。 で、話は変わって、『批評空間』II−19を読んでいたら、三宅芳夫の「留保なき否定性 二つの京都学派批判」のなかに次のような文章がありました。 高山が「精神的自主性」の現われと見做したところの近代日本の「ヨーロッパ」の摂取は竹内にとってはむしろ「主体性の欠如」を示すものである。確かに中国は「ヨーロッパ」の圧力に「敗北」し、日本は「ヨーロッパ」の「我有化appropriation」に成功したように見える。しかし日本の「成功」は近代「ヨーロッパ」がつくりだしたルールを前提としたものでしかない。それは言い換えると近代化に「成功」した国家が近代化していない地域を支配するというルールを受容した上で「成功」しているにすぎないということである。この事態を竹内は「主人」と「奴隷」の比喩を用いながら表現する。ここでは、戦時中の軍国日本のイデオローグであった高山岩男や高坂正顕などの京都学派を、近代中国の作家魯迅を手がかりとして批判する竹内好が取り上げられているわけですが、この「近代日本の文化は「優等生文化」であるが、近代日本は「優等生」であることによって自らが依然そうしたルールの「奴隷」であることを忘れて来た」が鋭い批判として有効だったのは、せいぜいのところ1960〜70年代前半の高度経済成長期までのような気がします。確かに近代のある時点においては、欧米の帝国主義を取り込んで成功した日本とそれに抵抗して半植民地化された中国とは際立った対比を見せていましたが、1990年代後半の現時点では、かつて東アジアが中国化し西アジアや北アフリカがイスラム化したように、日本も中国も含めて世界各地で欧米化が進行していて、それによって日本と中国の差異も、もはや相対的なものでしかなくなってしまったように思われます。しかしそのようにヨーロッパ文明が世界文明化されることによって、文明の発祥地であるヨーロッパまでが相対化され、日本や中国と同じように世界の一地方に成り下がってしまったのではないか。ドレイは、自分がドレイであるという意識を拒むものだ。かれらは自分がドレイでないと思うときに真のドレイである。ドレイは、彼みずからがドレイの主人になったときに十全のドレイ性を発揮する。なぜなら、そのとき彼は主観的にはドレイでないから。竹内の視点からすれば日本の「成功」とは近代ヨーロッパの帝国主義がつくりだした「主人」と「奴隷」というルールの枠内で「奴隷」から「主人」へと成り上がることである。近代日本はそのルールを前提とすれば確かに「勤勉」であり、「進歩」し、「失敗」を知らなかったように見える。その意味で近代日本の文化は「優等生文化」であるが、近代日本は「優等生」であることによって自らが依然そうしたルールの「奴隷」であることを忘れて来た。
もちろんその原因として世界の中心を自認するアメリカの存在があるわけですが、ヨーロッパ諸国もそのような状況を打開するためにEUとして結束し、再び世界の中心とならんと欲している、などとどこかで聞いたふうな紋切型の世界情勢論に汚染されていますが、ともかく現在の認識として、世界各地の相対化現象(アメリカまでが相対化されつつある)によって、かつて帝国主義全盛時には比喩としてリアリティを持っていた「主人」と「奴隷」の二項対立関係そのものが、経済のグローバル化とともに希薄化してきたのではないかと思うわけです。そもそも比喩としてではなく、かつて歴史上多数実在した真の意味での奴隷は現代の文明化された地域では公式的には存在しないわけだし(人身売買は法律で禁止されている)、せいぜいSMクラブで演技として一時的に発生するくらいなものですが、しかし、少数派ではありますが今の日本には、比喩としての「自分がドレイであるという意識を拒」んでいる「真のドレイ」が未だに存在していることも確かではあります(笑)。たとえばアメリカの「ドレイ」とならないためにアメリカと経済戦争しているつもりの石原慎太郎とか、「戦争に行きますか?それとも日本人やめますか?」と時代錯誤的に「主人」と「奴隷」の二者択一を迫っているつもりの小林よしのりとか。彼らが今の日本のぬるま湯的状況に業を煮やしていることはある面では理解できなくもないですが、哀しいかなその言説はあまりにもシーラカンス的滑稽さに満ち溢れているんですよね、と、彼らの著書を読みもしないで伝聞と推測だけでいい加減なことを述べちゃいましたぁ〜。すいましぇ〜ん、ちょっと私の認識が甘いのでしょうか、未だに世界では国家同士民族同士で血で血を洗う弱肉強食の生存競争が繰り広げられちゃってるわけですか?その今まさに突入しつつある大競争時代に生き残るためにゃ今こそニッポン民族の大団結が必要なわけでちょーかにぇ。ぼくちゃんはいやでちゅ、死んでまちゅ(笑)。 10月13日国会での与野党入り乱れてのすったもんだの挙げ句、いよいよ金融機関に対する公的資金投入が本決まりになるようですね。これからホントに資金が投入される銀行の経営内容の情報開示が野党の主張通りきちんと行なわれるのか、はなはだ疑問ですが、とりあえず、政府自民党と癒着談合している大手マスコミの皆さんが、ちゃんと開示している、この銀行には資金投入すべきだ、などと新聞の社説なんかでお墨付きを与えれば、それがいつの間にやら“国民の総意”となって、強行突破的に自民党に政治献金している一民間銀行の救済をやっちゃうわけですかね。そうですよね、もし銀行がつぶれてこれ以上景気が悪化したらどうするつもりだ!という景気を人質に取ったつもりの「正論」的恫喝には誰も反論できませんよね(笑)。少なくとも、いっぱしの社会常識と大人の分別をわきまえていると自認している健全なる「国民」の皆さんなんかは、もろ手を挙げて賛成しちゃいますか。ま、大政翼賛会的に「国民」が一丸となって、大手都市銀行は一行もつぶさない、という護送船団方式でこの難局を乗り切ろうというのなら、どうぞ勝手におやりになってください、と傍観者を決め込むしかありませんが、そうやって「預金者保護」と「融資企業の連鎖倒産防止」という大義名分を楯にして、税金を使って銀行を延命させながらひたすら嵐が通り過ぎるのを待っている間に、更に景気が悪化したら笑っちゃいますけどね。でも、ホントにそれほど危機的状況なんですかね、今の日本経済は。自分の実感からすると、ちょっと騒ぎすぎじゃねーの、としか感じませんがね。確か失業者が三百万人もいるそうですが、実際、地方の3K職場では未だに人材難なんですよ。職安に募集告知を出しても、冷やかしのおじさん以外は誰も来ませんから。結局、いついなくなるかもしれない外国人労働者に頼る以外やっていかれないわけです。どうりで中国人密航者が絶えないわけですね(笑)。まったく、初任給二十万じゃいまどきの日本人は働く気が起きないんですかね。仕事を覚えてまじめに働いてくれれば、すぐに三十万はいくんですがね。更に、信頼のおける“できる人”なら、責任者やってもらって四十万以上出すのに。えっ?金の問題じゃないって?ようするに、きれいなおべべ着てエアコンの効いた部屋でパソコンをピコピコいじっているテレビドラマ的職場環境なら、やる気のある優秀な人材が多数集まるわけですか(笑)。しかし、そんなところで働けるのは、現代版“科挙制度”で選ばれたほんの一握りの人間でしかないのに、そういう人間が働いている大企業が危うくなると、途端に馬鹿マスコミが大騒ぎし出すのですから、何かが歪んでいますよ。もちろん、そういうマスコミ自体が「大企業」であり、その騒がれている大企業と日頃から広報室と記者クラブを通してお付き合い(接待)を重ねているのだから仕方ありませんか(笑)。 と、なんだか今回はもっともらしいことを述べちゃってますが、あまり真に受けないでくださいね(笑)。労働なんて自ら積極的にやるもんじゃありません。たとえば、中には、自分が強いられている労働に生きがいやら目的やら使命を見出しいる幸せ者(奇特な人)が存在するのでしょうが、少なくとも私はそうはなりたくはありません。一生労働しないで遊んで暮らしていけたら、これほどステキなことはございません。それがさまざまな理由でできないないから、時間と神経をすり減らして(中には頭髪をすり減らしている人もいる)否応なく労働するはめに陥っているのです。なんて不自由な世界なのでしょうか、なんてくだらない世界なのでしょうか、なんてウンザリさせられる現実なのでしょうか。出口がないし、行く道も見当たりません。
…しかし、ものは言いようで、それを“労働”とは呼ばずに“仕事”と呼んでみたらどうでしょう。途端にある種の幻想が付随してくるんじゃないでしょうか。テレビなんかを見ていると、よく、これは私の一生の“仕事”なのだ、なんて真面目くさった言い方で、芸術家やら伝統工芸職人やら作家なんかが自らの“労働”を正当化する場面に出くわすでしょう。そしてそこから、いやいややっているのが“労働”で、好きでやっているのが“仕事”で、片手間でやっているのが“趣味”、などという区別をつけたりできますが、しかし、いやいややっている、というリアリティがなくなったら、そこから先はどうしてもロマン主義的な幻想の世界にはまりこんでしまうのではないか、という気がするのです。現にそうやって「幸せ」をつかみ取ったつもりの人は大勢いらしゃるのかもしれませんが、それって、単に、いやな部分を見ないようにしたり忘れようとしたりすることでしかないんじゃないでしょうか。それが“人間の弱さ”であって、私も限界のある弱い人間なので、そのような他人を非難する勇気は持ちあわせていませんが、自分自身「いやいや労働を強いられている」というリアリティは捨てられませんね。そこがあちらとこちらの分水嶺なんじゃないですか、やはり分別のある常識人にはなりたくないですよ(笑)。 10月5日日曜の早朝、テレビをつけたら久々にやっていましたね。オウム騒ぎ以来3年ぶりくらいじゃないですか、この手の盛り上がりは。警察とマスコミが示し合わせての自作自演の大袈裟な逮捕劇で、テレビ東京とNHK教育テレビ以外は主要各局がそろいもそろって、容疑者夫妻が逮捕されて警察署まで搬送される過程をヘリコプターまで使っていっせいに実況生中継ですからね(笑)。夫妻の自宅の周りや警察署に続く沿道に群がって格好の被写体を撮るため傍若無人に右往左往するカメラマンと、テレビカメラに向かって、これは我々が騒いでしかるべき一大事なんだ、と言わんばかりの表情で、真剣な眼差しで実況しているアナウンサーと記者の姿を見ていて、つくづくそれにいったい何の意味があるのか理解に苦しみながらも、このような過剰演出をしなければ世間が納得しないのか、と今現在の日本社会のおかれているしょーもない状況に思わず同情してしまいました。しかし、逮捕された夫妻がこのまま事件への関与を否認し続けて物的証拠が何も見つからなかった場合どうなるのか興味があるし、そうなることを密かに期待してもいます(人非人な私)。おっちゃんおばちゃんがんばれよっ!絶対自供なんかすんじゃねーぞ!関西人のど根性見せたらんかい!応援しとるで!あ〜ぁ、心にもないことを書いてしまいました(笑)。でもまあ、あそこへ殺到したマスコミの数だけ、テレビ局、新聞社、週刊誌、月刊誌等があるわけで、現にそういったものを見たり読んだりする人も大勢いるわけで、それだけ世間が好奇の目をむけている事件ということなんですかね。しかし、そういった“世間”を作っているのがほかならぬマスコミ自身であることも、ある面では現実なんでしょうが(情報を洪水的に流して世論操作をする)、その“現実”と呼ばれるものも、所詮、街頭インタビューで“街の声”とか“近所の人の声”として扱われる程度の現実でしかないことは確かです。ようするに、井戸端会議や世間話やお茶の間の話題を提供するためにあれほど大騒ぎしているわけですね。そんなもんにマジになっている奴は馬鹿です。たとえ人が4人死んでいようが馬鹿は馬鹿ですよ。でも、警察の皆さんはそれが仕事なんだからしょーがありませんか。せいぜいその方面の方はこれを読んでマジに怒り爆発してください(笑)。 そしてもちろん、警察関係者と同様に、それを伝える側のマスコミの皆さんもマジで報道しているのでしょうね。当たり前です、給料もらって一生懸命働いていることになるわけですから。しかし、容疑者の顔写真を撮るために警察の護送車に突っ込んでいくカメラマンの姿はどう見ても滑稽ですよね(笑)。それは、別に自分一人がものにするかもしれない特権的なスクープ写真というわけではなく、容疑者が護送車の中にいるカットが欲しい、という編集サイドからの要請でしかなく、なぜ欲しいのかといえば、容疑者の逮捕報道にはそのカットが付き物だから、よその社もそれを載せるから、という各社横並びの紋切型の要請でしかないわけです(笑)。どこにでもあるありふれたものを撮るために、皆が同じものを撮るためだけにあれほどの数のカメラマンがひしめいているのです。怪我を覚悟で必死こいて護送車に突っ込んでいかなければならないわけです。何なんですかね、やはり馬鹿なことですよね、この馬鹿さ加減を何と形容したらいいのでしょうか。 しかしこうした、周りの迷惑を顧みずに人権無視の犯罪報道をしながら、一方ではその“人権無視の犯罪報道”を批判する、という一人二役・マッチポンプ・自作自演を続けながら、そこから何がしかの利潤を得る、というやり方自体にはいささか飽きがきましたね。もはや何のときめきも感じないし、何の興奮も得られませんよ。しかし退屈を紛わすためにはテレビでもつけるしかないし、テレビをつければ、ドラマやバラエティで演じられる出演者同士のわざとらしい対立なんかにはウンザリだし、結局はニュースぐらいしか見るものはないんですよね。ともかくニュースやCMは次々と場面転換してくれるから、くだらない話題でも数秒後には消えてなくなることでかろうじて気力が持続するのですが、ニュースキャスターやらアナウンサーやら記者やらゲストやらお天気おねーさん・おじさん・おにーさんなんかが内輪で会話をし始めると、とたんにウンザリしだしてチャンネルを変えてしまいます。なんでおまえら同士で世間話しているんだぁ?おまえらはブラウン管のこちら側に情報を伝えればいいだけじゃねーのか、世間話は番組が終わってからすればいーじゃん、と感じてしまうのです。親しみやすさを出すための演出なんでしょうが、それって結局ニュースのバラエティ化・ドラマ化でしかなく、会話のわざとらしさしか印象に残らないんですよね(中にはその会話が気にならないアナウンサー・キャスターの人もいますが(テレビ東京の夕方5時からやっている番組))。ともかく“サイレント・マジョリティ”には受けが良いのかもしれませんが、大半は私にとっては逆効果です。
と文句を述べつつも、ま、どうでもいいことはどうでもいいんですよね(なんじゃそれ?)。ホントは以上に述べたことについてはあまり気にしておりません。ただ書くことが見当たらないんで適当に書いてみただけです。と書いちゃうと本当に書くことなんて何もなくなっちゃいますね(笑)。世の中はどうでいいことだらけです。たとえば、世界経済なんて各国の首脳ががん首並べてなんだかんだ話し合っても、結局はなるようにしかなりませんしね。株価がどうなろうが円が上がったり下がったりしても、それがどーしたホトトギスですからね。やはり私は相変わらず無気力無感動状態から抜け出ることはできません(笑)。 |