彼の声88

2012年

1月31日

 別に今日が地球最期の日でもないだろうが、たぶん何が滅亡するわけでもない。そんなことを述べながらも、今頃君はどこへたどり着いたのだろうか。きっとどこかに決まっている。面倒くさいので詮索するのはなしにしておこう。何を知りたいわけでもなく、他に何を感じ取っているのでもない。運はあきらめない人が好きだそうだ。あきらめずに延々と宝くじを買い続けなければならないのか。世の中には宝くじ中毒患者という存在でもあるのだろうか。何を皮肉っているわけでもない。とりあえずなんとかあかぎれが塞がってきたようで、そのまま手を温かく保って事なきを得たいのだろうが、そうは問屋が卸さないか。別にそんなことを述べるためにそんなこと記しているわけではない。では何なのだろう。何かが一段落して一息ついているだけか。このまま何ごともなく月末を乗り切って、少しは心に余裕を取り戻したいものだ。君はさっきから首を傾げている。なぜなのだろう。何か問題でもあるのだろうか。何の問題も見当たらないところが、重大な何かを見落としているように思われ、俄に不安が募り、もう一度始めから見直したくなるのをかろうじて押しとどめ、たとえこれから何かに気づいても、それへの対処は明日に先送りとしておこう。今から何かをやり始めたらきりがなくなり、疲れるだけで嫌になってしまう。今さらなぜそんなことにこだわるのか。そこから遠ざかるために、それとは関係のないことを想像してみよう。イヤホンをしていると耳の中がかゆくなる。何かの到来を周到に回避したいらしい。そうならないことを祈るだけでは不十分なのか。冗談なのだろうか。それで何とかしているつもりなのか。それでかまわないはずだ。たぶんそれらの空洞の中では、語る対象を見つけられないのだ。君は何もないのに無理に語ろうとしている。今は黙って通り過ぎる景色を眺めているしかない。そうしていれば、また何か思いつくこともあるだろう。思いついたらそれを記せばいいのだ。そうしているうちにも何かがどこかを通り過ぎている。君は大切な何かを見逃してしまったのか。それは誰にとって大切なものなのだろうか。見損なうには機会が巡ってこない。それはどういうことなのか。

 たぶん君はそこで何も見ていないのだろう。自然と目を背けている。なぜそうするのか。目を背ける理由を知りたいか。他の誰が悪いわけでもない。見なくても済んでしまいそうだからそうしているのか。どうしても目を向けたくないのなら、では視点を変えて語るとしよう。いったいそれらの振る舞いの何が悪かったのだろうか。どうすれば良かったのか。矢継ぎ早に問い続けても、何も答えるには至らない。君は本気になる必要がない。目下のところはそれで済んでしまうのだから、何も事を荒立てて、非難の矢面に立つ必要はないのだろう。だから澄ました顔して他の誰かの陰に隠れていればいいわけか。何か見え透いていないか。他に何もないからそんなことを述べているだけなのだろう。うまくいかないことを承知で誰かに協力を申し出る。それで頃合いを見計らって邪魔をするつもりなのだろうか。それと気づかれないようにしなければならない。いったいそれは何の話なのか。結果的には何も起こらない。大山鳴動して鼠一匹というわけでもない。何も出てこないのだ。それで気が済むはずもないだろうが、成り行きとしてはそれでうまくいった部類にはいるだろう。そしてタイミングを見計らってその場を立ち去ればいいわけか。それは何かのこけおどし的なイベントだったのだろうか。それとは具体的に何なのか。そこまで想像が及ばないのか。何でもないというのは嘘であり、確かにそこで何かが行われたのだ。だがそれだけのことで、何が行われたかは、誰かの想像にまかせるしかないのだろうか。だからまかせるので、それについて語ってほしい。語れないというのなら、やはり何もなく、何かが行われたという事実さえないということか。儀式の大地では、やがて雨が降る。雪でもかまわない。何を説明しているのでもなく、他の何があり得ないのでもない。それらの空洞の中で誰が歩き回っているのでもない。君はそんな景色を眺めながら、何を思うこともなく、何も思わなくてもかまわないのだから、それについては黙るしかない。何かを避けているわけか。何かが明らかになっては困るのか。それ以前に明らかにすることができないのではないか。その場に居合わせた誰にもできないようなことなのか。もうしばらくはそう思っていてかまわないのだろう。そのうち機会がきたら、嫌でも語り出すだろうか。


1月30日

 感覚がおかしい。だがこれ以上は無理なのではないか。頭が冴えているわけではない。寒すぎるのだろう。別に死にそうというわけではないが、とにかく寒い。弦楽三重奏のゴールドベルグを聴きながら何を思うのか。グールドのピアノに思いを馳せるのか。今は歌唱力の衰えたミルトン・ナシメントを聴いている。老人になっても歌っているのだから偉いことなのか。もはや誰かが語っているのではない。君はそこで何を見出したのか。不思議な感覚だ。何だかわからないが、とにかく語らなければならないようだ。何でもかまわないのだろうか。猫に引っ掻かれた傷が一週間経っても血が滲み出てくる。あかぎれに移行しているのだろうか。前途多難だった野田首相も本当に前途多難になってきたようで、国会で何か答弁しているらしく、それはいいわけのたぐいではないのだろうが、何となく何となくだ。もはやすべてが打ち壊し状態となっているのだろうか。それでも国家の体をなしているのだから、そんなものなのだろう。今日もどこかでそんなことが繰り返され、それについて何か述べようとすれば背筋がぞっとしてきて、もういいような気になってしまう。果たして国は誰を救わなければならないのか。まさかハローワークに吹き溜まっているひどい人たちを救わなければならないのか。独りよがりの自己中は救われないたぐいの人たちだ。誰もがそんなふうに凝り固まってしまったら、いったいこの世界はどうなってしまうのだろうか。人余りでいくらでも人材はいるのに、余っているのはみんなひどい人たちだ。もはやどうにもならない段階まで凝り固まってから、人に文句を言うためだけに生きている。たぶん誰もが抗議しなければならないのだろう。デモに参加して原発反対を訴えなければならないのだ。たぶんそれで正解なのだ。善意でやっている人はそれでいい。でも悪意でやっている人たちはひどすぎる。オレオレ詐欺系の人たちは善意のかけらも持ち合わせていないのだろう。悪くなろうとすればいくらでも悪くなれる。そんな世の中でしかない。要するに悪くないことやればいいわけで、例えば投資や資産運用で合法的に金を稼いでいる人たちには、合法という免罪符が渡されているわけだ。合法的な範囲内なら何をやっても許される。それは当たり前のことだ。たとえ違法行為に手を染めてもバレなければいい。合法と違法の境目で線引きされている限りはそういうことだ。

 君はなぜ虚しくなっているのだろうか。自らが神ではないから虚しくなってしまうのか。たとえ神であったとしても虚しいのではないか。現状はそういうことでしかない。たぶん法律だけで物事が解決するわけではない。君は何を解決したいのか。それは解決できないことだ。解決できないことを解決しようとして、挫折した気分を味わっている。それだけのことなのだろうか。あくびが出てくるようだが、たぶんそれはどうでもいいことなのだろう。解決できなくてもかまわないのだ。絶えず解決しようとする姿勢を貫いていればいい。そうしていればいくらでも粘っていられる。だがそれで何になるのか。少しは前進した気になれるだろうか。そう感じられるのなら幸いだ。前向きに生きていけそうだ。それが気休めに過ぎないというのなら、それでもかまわないと思うしかない。それ以外に何がやれるというのか。人がやれることは限られていて、たとえだめだとわかっていても、やってみるしか他に選択肢がない場合もある。予定調和のごとくに失敗して、辛い体験を嫌というほどくぐり抜け、何の救いも見当たらず、途方に暮れるばかりの状況下でも、そこにわずかな希望の光が射していると錯覚しなければならない。君は本当に錯覚しているのだろうか。他に何を抱いているわけでもなく、希望を捨てきれず、一縷の望みにすがりつきながらも、本当はあきらめているという事実を突きつけられて、どこかで茫然自失状態となっているのだろうか。誰がそれを突きつけているのか。その最後通牒にはどんな内容が記されているのか。もう終わりだということだけか。では終わりの先には何があるのだろうか。また別の終わりがあるだけか。君はその終わりに至るまでの行程を楽しまなければならず、それについて語る権利を有しているのかもしれないが、今のところは黙っている。いつなったら口を開くのか。それとも何も語らずに終わってしまうのか。できれば余すことなく語ってほしいのだろうが、それには時間的な制約があり、つまらない部分や興味の薄い箇所は省いたり簡単に触れるだけにとどめ、肝心要の主題については、できる限り詳しくかつわかりやすく語らなければならないのだろうか。しかしそれはいったい何の話になるのか。まさか終焉を巡るありふれた批評ではあるまい。


1月29日

 なぜかこうなってしまう。やる気もないのにこれはないか。何となくこうなのだから仕方がないだろう。どうでもいいことか。結局こうなのだ。馬鹿げているだろうか。たぶんこういうことだ。どういうことでもなく、こういうことなのだ。計算が成り立っているわけではない。何を証明したいわけでもないだろう。ここまでくるのに苦労したわけでもない。別にどこかの山頂に向かって歩を進めているわけでもないか。山登りなど趣味ではない。何か面倒くさいのか。そろそろ緊張の糸がほぐれてきたようで、精神の集中が持続しなくなってきたようだ。そんな成り行きの中で、いい加減なことを述べている。なぜ言葉を記すのが面倒くさくなるのだろうか。もう少しなのに、そのもう少しができない相談なのか。まだ可能性を捨てたわけではなく、本当にもう少しで何とかなると思いつつも、うまくいかなくなってしまう気配も感じているようだ。だれてきた。少し休んだ方がいいのはわかっているが、一度休んだらそこでやる気を失い、眠ってしまい、気がついたら翌朝になってしまいそうだ。しかしそんなくだらないことを記していて、良心がとがめないのか。何がくだらないと思っているのかわからない。ならば茶でも飲んだ方がいい。少し気持ちを落ち着けた方がいいのではないか。何だかまたおかしな方向へ行きかけているみたいに感じられ、それが何だかわかろうとしていないようだ。紅茶が濃すぎて黒く見える。苦すぎて眠れなくなってしまうか。それより寒すぎるのではないか。もう我慢の限界か。苦渋い紅茶を飲みながら、何を記しているのか。コーヒーを飲んだ後に紅茶を飲むと眠れなくなり、健康を害してしまうだろうか。君はそこで何を狙っているのか。砂糖とミルクを入れたら飲めるようになるのか。そんなことではない。どのような効果を狙って、そんなどうでもいいことを語ろうとするのか。それも違うのか。その視線の先には何があるのだろうか。ただの闇か。何者にもなろうとしないのなら、ならず者になれるだろうか。今は西部劇の時代ではない。ではホームレスならすぐにでもなれるだろうか。なりたくはないか。また何かの冗談に逃げているのか。そうなる以前にいい加減すぎる。何かがおかしいことは薄々気づいているのかもしれないが、頭の中で誰が語っているのかがわからない。正気を疑うようないい加減さだろうか。別にかまわないのではないか。いったい他に何があるというのか。

 フレディ・ハバードを聴いている。トランペットでGiant Stepsだ。ライヴで8分44秒もやっている。30年も前の演奏だ。途中からサックスも入ってきたようだ。誰が吹いているのか。他に感想はないのだろうか。良いとか悪いとか感動したとか記さないのか。そういうこと以前に、まあこんなものなのだろう。日本のサックス奏者もよくライヴなどでやる曲なのかもしれない。同じ曲でもなぜコルトレーンでは感動したのか。素人なので技術的なことはよくわからないが、その辺で何か違いがあるのだろうか。もちろんフレディ・ハバードもすごいトランペット奏者だったのだろうが、Red Clayでの印象がかっこ良すぎるだけに、何となく何となくなのかもしれない。落差を感じてしまうのか。要するに時が過ぎ去ってしまったということだろうか。過去は過去であり、時が経てば未来の時も通り過ぎ、やがてすべては灰燼に帰すのだろうが、今聴いている音楽は今の音楽でしかない。またミシャ・マイスキーのチェロが聴きたくなってきたのか。それも三十年近く前の録音でしかない。The Special A.K.A.のNelson Mandelaも三十年ぐらい前の曲か。歌われているネルソン・マンデラも、すでに自由になって大統領になって死んでしまったのではないか。スペシャルズなんてとっくの昔に消えてしまったバンドだろうが、今から三十年も前に何があったのだろうか。今五十歳前後の人間にとっては多感な年頃だったのかもしれない。しかしそこから遠ざかるだけ遠ざかってしまってから、今は何をやっているのだろうか。こうして言葉を記している誰かもいるらしいが、他の人たちはどうしてしまったのか。たぶん大半は普通に暮らしているだけなのだろうし、きっと誰かもその中の一人に違いない。中には何に対しても興味を抱けない人もいるかもしれないが、トゥーツ・シールマンスのブルーセットを聴きながら、何だか満たされた気分となっているわけか。馬鹿げているだろうか。哀愁のハーモニカ吹きはまだ生きているのだろうか。とりあえず今は感傷に浸っている暇はない。冗談かもしれないが、何かをやり遂げて自己満足に浸らなければならず、その最中で音楽を聴いているに過ぎない。まさかそれが冗談なのだろうか。まだくたばらずに済みそうか。さあ結果はどうなのだろうか。


1月28日

 なぜ追いつこうとするのか。追いつけないのに追いかけているようだ。結果が前もって分かってしまっているのかもしれない。これから何をやろうとしているのか。それがわかってしまったらつまらないか。言葉を記しているだけの現状に嫌気がさしてしまったのか。何かが劣化している。わざとそうしているのではないか。何がそうなのかわからないのはいつものことだ。本気で語るべきことではない。では何なのだろうか。何でもないといえば嘘になるか。君はそんなふうに語りたいのだ。またどこかが外れているようだ。語ろうとするとそうなってしまう。またおかしくなっている。いつものことだとは思えない。闇夜の何かを顕揚したいわけではない。述べている意味がわからないか。誰かがこちらを覗いている。目と目が合い、軽く会釈するが、それが何だかわからないのは相変わらずだ。それはいったい何の話なるのか。何をやるにしてももう遅い。人がどこかで行き詰まっている。人ではない君が何かを思うが、何のことやらわからない。そんなことを語るべきではないのだろう。誰かは胃薬を飲むのを忘れてしまったらしい。また寿命が縮んでしまうのか。そんなはずがないと思うが、冷や汗が出る。そんなのは嘘だろう。夕食後にコーヒーを飲んだら、早速胃が痛くなる。そんな気がするだけか。食べる前に胃薬を飲んでおいたら安心できたのに、なぜそれをやらないのか。大丈夫だと思っていたわけか。今はそんなことを語りたいわけではない。ではなぜ語りたくもないことを語ってしまうのだろう。ただ何となくそうしているだけか。理由など他にあるわけがなく、ただなんとなくそうなってしまい、後悔先に立たずの見本のような結果になるわけか。そうではないと思えばいい。そんなことは大したことではなく、他にもっと大事な何かがあるはずか。自分の命より何が大事なのか。命に関わるようなことでもないだろう。白いお面をかぶった誰かがこちらを凝視している。それはきっと気のせいだ。くだらぬ空想以前の何かに違いなく、何の効果も得られないような何かなのだろうか。言葉が唐突に出現しすぎるのか。そんな話ではない。もとからそうだろう。

 そんなことを思っているうちにも時が経ち、いつか誰かはどこかの神社に参詣する。自らの胃壁が修復されることを願って、賽銭でも投げ込んだのか。病院に行った方が遥かにご利益がありそうだが、他に何か別の病気が見つかってはまずいのだろうか。そんなはずがなく、すべては想定の範囲内で、何も危惧することなどないはずだ。君は自らが何者なのかを問うべきではない。ただの人であり、人間以外の何者でもない。なぜ唐突にそんなことを述べるのか。そこには意味的につながらない文章が記されているのだろうか。さらに意味不明だ。またわざと外れているのか。なぜそんなことを述べなければならないのか。そこかが知りたいところかもしれないが、まだ何も降りてこない。だいいち語っているのはそんなことではないだろう。ではただの支離滅裂なのか。そうならないようにしたいところだが、どうも何かのたがが外れているらしく、どうにもこうにも制御不能に陥っている。わざとそうしているのかもしれないが、何となくそれでかまわないとは思わないようにしているらしく、そんな自然の流れに対して、何とかささやかながらも抵抗を試みているのかもしれず、今こうして何かを語ろうとして、それなりに努力している最中なのだろうか。それにしてはまたよそ見しているらしく、他に関心が移っていきそうになり、あわてて我に返るが、時すでに遅しで、興味がなくなっている。さっきまで何を語ろうとしていたのかも忘れて、途方に暮れているようだが、そんなことは意に介さず、さらにいい加減に言葉を記しながら、何かを探っているようにも見えるが、本当のところは君にもわからず、どうせまたまったく関係のないところで何かを画策しているのだろうし、そんなことはどうでもいいとうそぶいているだけで、内心焦っているのは見え見えで、困った時の神頼みのごとく、何か宗教に関して意見を述べようとしているみたいだが、やはり本当のところはよくわからないか。どうもその辺で何かに守られているようで、その守っている何かが、誰に取り憑いているのかははっきりしないが、そんなふうに思わせておいて、またそれとは別の方面に関心を抱いているふりでもしたいらしく、始めは何でもなかったことが、ここにきて俄に興味深い対象となりかけているのだろうか。そんなことはありはしないか。


1月27日

 誰かの尻に火がついたわけでもないだろうが、急いで先に進めよう。相変わらず語るべきことなど何もないが、そんなことでも語っていればいいのだろうか。問われる前に問うのは反則か。そんなこととはどんなことでもなく、相変わらずそんなことを語っているだけだ。要するに予定調和なのであり、すべては予定通りで、予想通りにそんなことを語っているわけだ。たぶん語っているうちにすべては過ぎ去り、何もかもが消え去って、誰にとってもどうでもよくなってしまうだろう。いつでもどこでも苦難の時代が幕を上げていて、誰もがそこからがんばろうとするが、果たして報われるのか否かは、その時の情勢と運次第か。人はいつでもくだらぬこだわりにしがみつき、己を見失い、自らが大した存在ではないことを忘れ、調子に乗って馬鹿丸出しになりがちだが、何かの巡り合わせで突然我に返ったりするのだろうか。我に返ってどうするのか。そこで何かを自覚してしまうのだろう。まさかそれが悟りの境地ではあるまい。君は相変わらず何も語っていないようだ。そのまま未来永劫黙りこくっていればありがたいか。何の話にもなりはしない。もとから話ではなかったのではないか。ふと見上げれば蛍光灯の明かりがまぶしい。別にそれで我に返るわけでもないのだろうが、何だか無駄で無意味なことを述べている。近頃はひたすらそうなっているのかもしれない。それも同じようなことだ。そこでいったい何があったのだろうか。バルト海の海底で何かの残骸が見つかったそうだ。空飛ぶ円盤か何かだったらおもしろそうだろうが、それだけのことなのだろうか。君は宇宙人の存在を信じているのか。人ではないのかもしれず、人を超えた何かだとしたら、それは神という名で呼ばれる何かでしかない。まったく立て続けにあくびが出ているようだ。何がまったくなのだろうが、パチスロでまったく大当たりが出ないということか。ではいったいいくら吸い込まれてしまったのか。たぶんそんなことを想像しているだけなのだろう。

 なぜか調子に乗ってくだらぬことを述べている。たぶんわけがわからなくなっているのだろう。内心しめしめと思っているのかもしれないが、ここはわけがわからないふりをしておいた方がよさそうだ。君は調子に乗ってさらに語るつもりでいるらしい。別に世の中の何を馬鹿にしたいわけではないが、そんな思い込みに終始していること自体が、頭の中で何かが狂っている証拠だろうか。いったいどこで狂いが生じたのか。たぶん何かをやらなければならないと感じていることが、そもそもの勘違いなのだろうか。誰に諭されているわけでもなく、何を命令されているわけでも、やらされているわけでもない。では何なのか。少なくとも何でもないことではないのだろう。何かのきっかけがあってそう思っているのだろうし、そう思っているのだから、そんなことを述べているのだろうし、そう述べているから、そんなことが記されているはずなのだが、どうもそれが解せないようだ。何かがおかしい。人の考えることには限りがある。無闇矢鱈と考えてばかりもいられないだろう。そんな暇を持て余す生活ではなく、何かの合間に途切れ途切れに考えることしかできず、そんな断片をまとめあげて、何らかの文章として構成する能力に欠けているようで、実際には必要もないのに何かのあっち側から述べてみたり、そうかと思えば不意にそれとは真逆のこっち側から語ってみたり、要するに毎度おなじみの支離滅裂なのだろうが、それがおもしろいと思っているのだから始末が悪く、悪のりしてさらにわけがわからないようなことを述べたがるのだろうが、述べているうちに次第に疲れてきて、もうどうでもよくなったと思ったら、それはそのまま放置されるしかなく、打ち捨てられて忘れ去られ、また何かの拍子に思い出したように、改めてそれについて語り出したりするのだが、それが前回の繰り返しにしかならない場合が多く、語っているうちに次第につまらなくなってきて、またもやどうでもよくなってしまい、そのまま途中でやめてしまい、そんな状況に呆れ返りながらも、そこから抜けきれないようで、今回もそんなことを述べているのかもしれず、またもや自己嫌悪に拍車がかかってしまうのだろうか。


1月26日

 何かのついでに何かを思う。別にこの世界の何が嫌になったわけでもないが、なぜかそれ以外が嫌になり、記していた言葉をいったん削除する。外は相変わらず晴れている。突然気が変わったようだが、それは何かの前触れだろうか。すでに何かが到来しているのではないか。それは君の終わりか。意識がどこかに働きかけているようだが、君の他に誰がいるのか。洞窟の奥底から誰かの雄叫びでも聞こえてくるのだろうか。完全に狂っている。それは誰の空想でもない。やはり何も始まらない。完全にリセットするなど不可能か。そうだとしても明日がある。だが明日も今日と同じような状況が続くのではないか。そう思っていればいい。そして遠からず君はこの世から消え去る。今日と同じように消え去るのか。もう誰もそこにはいない。それでかまわないのだろう。誰かがいてもいなくてもかまわないのか。たぶんそこには言葉を記している誰かがいるはずだ。そんな語り方では何も伝わらないはずだ。たぶんそこで誰かがいるだけでは不十分なのだ。何に関して不十分なのか。冬晴れで乾きすぎているのか。どうも湿気が足りないようだ。では夏になるまで待った方がいいだろうか。何を待っているのだろうか。まさか蒸し暑い夏の到来を今から待っているわけでもあるまい。待つ意味がわからない。どうせ夏になれば冬の寒さが恋しくなるはずだ。その頃には冬の厳しい寒さを忘れているからか。だがそれがどうしたわけでもないだろう。とりあえず蒸し暑いのは嫌いだし、寒すぎるのも嫌いだ。そんなことは誰もが感じていることではないのか。ならば他に何を感じ取ったらいいのだろうか。もっと繊細で微妙な何かか。雪雲の切れ端でも飛んできたのだろうか。陽の日差しが遮られてしばらく薄暗くなる。ここ一週間が寒さの底だそうだ。どうやら何かがいかれてしまって、遅れを取り戻せなくなってしまったらしい。述べていることの支離滅裂さにも拍車がかかっているようで、何に関して言葉を記しているのかわからなくなる。

 それでも何とかなると思っているのだろう。もはや何を語っても大した内容には至らず、暫し語るのをあきらめてしまう。その言葉遣いは何なのか。何がどうしたわけでもないのにそうなってしまい、誰かは言葉を記しながら当惑しているのかもしれないが、それでも記し続けるしかないようで、さらにどうしようもなくなってゆくまで続けてしまうのだろう。たぶんもう終わりなのに、どうしてもそれを認めたくないようで、何もないのにがんばろうとしているのだろうが、それがおかしい。何もできないことで嫌になってしまったのか。それでも何かやっているのではないか。そのやっていることのことごとくが外れている。そう思ってしまうのなら仕方がない。他に何を思うべきなのかわからず、実際に思っていることが記されるわけでもないので、戸惑うしかないのだろうか。なぜそうなってしまうのか。どこかで無理をしているのか。それはもとからわかっていたことではなかったか。今さら何を思ってみても、もう遅いのではないか。しかし何が遅いのかわからないまま、なぜもう遅いと思ってしまうのだろうか。君は嘘をついているのではないか。だが誰が何を疑っているのかわからない。そんなわけで思っていることのすべてがちぐはぐな印象を拭えないようだが、そんな案配でかまわないのか。かまわないとは思わないから、そんな思いを疑っているのだろう。そしてそんな語り方ではだめだと思っている。何がどうあってもそうなってしまうのだから仕方がないと思ってしまってはだめなのだろう。しかし他に何を思えばいいのだろうか。すべては相対的に配置されている。すべてとは何なのか。思わなくてもいいことまで思ってしまうことが、それらのすべてなのだろうか。それらとは何なのか。それらもすべても、そんなことまでいちいち考える必要がないということか。では考えることと思うことの違いは何なのか。それも考える必要のないことか。ではいったい何を思い、何を考えたらいいのだろうか。そんなことを問い始めたらきりがないことを知るべきか。もう知っているのではないか。知っているのにわざとそうやって、何か語っているようなふりをしているだけなのではないか。


1月25日

 だいぶ時が経ってしまったようだ。すべてを一人でこなすことはできない。そんなことはわかり切っているのに、結局そうなってしまう。まあ無理があるのだろうが、無理を承知でやっているのだから仕方がない。そんなことの繰り返しなのだ。死んでしまうだろうか。まだ死んでいないが、死にそうか。あくびが出る。余裕のあくびではない。眠たくもない。だがそれで何かわかるのか。もう追いつけないことがわかったらしい。ではあきらめてしまうのだろうか。精神的なストレスが原因と見ていいのだろうか。それでおかしいのか。まさか言葉を記すことでしかストレス解消とはいかないのだろうか。わけがわからない。そんなことではない。たぶんそうだ。それでも胃薬を飲んだら、しばらくして胃痛が解消され、また深夜に言葉を記し始めるが、相変わらず内容がない。まったくそれこそが胃痛の原因なのではないか。このままでは長生きができないか。誰かはそのまま胃潰瘍になって、それが悪化して胃がんになり、数年後には死んでいることになるのだろうか。悪い方向に考えたらますます心配になり、それこそストレスで死期を早める結果となりかねない。ではどうしたらいいのだろうか。すべてをやめていったんリセットしてしまえばいいのかもしれないが、今さら遅いか。やめたくてもやめられないから現状があり、その現状がそんなことを考えさせているのだから、まあもはや手遅れであることは確実なのかもしれず、今からやれることはといえば、現状を維持しながら、それをできる限り延長させていくことだけか。まさかそれこそが冗談なのだろうか。君の冗談には毒がある。今さら君とは誰かと問う必要も感じられないが、明かりを消して窓の外を眺めている誰かがいて、それが君だとは思えず、誰でもない誰かであるわけでもないのだろうが、さらに誰かがそんなことを記しているようで、それが何になるとも思えず、ただの意志がそこにあるように思われているだけで、そんな意志に従って何かを記している誰かがいることになっているわけなのだろうか。だがそれは誰の意志なのか。そういう問いからは何も生まれない。言葉の連なりが生み出されているではないか。君はそれが気に入らないのか。

 何とかしようと焦っていることは確かだが、たぶん何ともならず、それらの支離滅裂は首尾一貫していて、何か矛盾しているのは当たり前のことだろうが、まるで何かが石ころみたいに坂を転げ落ちているような幻想を抱かせ、途中でどこかにごつごつぶち当たりながらも、さらにやっつけ仕事気味にこなそうとしている。君にはそこでふと立ち止まる勇気がないらしい。内容はともあれ、何ごとも終わりまで成し遂げないと気が済まないのだろうか。内容が伴えばなおいいのかもしれないが、それには途中で立ち止まって、今一度それらの内容を吟味してみる必要がありそうだが、やはり君にはそれができないらしい。先を急いで誰かがひたすら言葉を記し、まるで残された時間が後わずかしかないような切羽詰まった雰囲気を漂わせながらも、それらの作業を忙しなくこなし続けている。君から見れば、そんなことをやっているふりをしているだけのようにも思われるが、実際のところはどうなのか。たぶん言葉を記しているうちに、だんだん実際にやっていることの記述から外れてきて、やってもいない作り話に近づいてきて、ついには心にも思っていないような内容になっていたりするのだろうか。そうなればそこで心に余裕が出てきたことになるわけか。なぜそんなことを思うのだろう。思いもしないことを思うとはいかなることなのか。だからそれが冗談のたぐいで、要するに嘘をついているということか。この世界の価値基準がおかしいと思うのは、人は実際にはありもしない幻想から生じた何かによって、多大な利益を上げていることだ。そんな虚構の産物が多くの人々の心を支配している。それは映像と音声と文字の複合物であり、要するに情報一般のことを指すのかもしれないが、それが良いことなのか悪いことなのかはわからない。人が人として存在している現状が、そうしたものから成り立っているのだとしたら、それは必要不可欠かつ必然なのかもしれない。誰もがそんな現状を受け入れざるを得ず、それなしでは生きてゆけないのだろうから、要するに当たり前のことなのだろう。君にとってもそれは必然なのか。たぶんそれによって君は君という言葉で表現されているわけだ。そういう事態に君は不満を抱いているのだろうか。だとしたら他にどんなやり方があるというのか。


1月24日

 疲れているようだ。今日はやめた方がいい。呼吸をやめたら死んでしまうではないか。そういう冗談とは無関係な何かをやめた方がいい。どこからかそんな声が聞こえてくるのだろうか。退屈で死にそうだ。そんなはずがなく、やめた方がいいのは言葉を記すことか。何を急かされているわけでもなく、今のところは何か思いつく気配が感じられない。また何かが違っているようだ。別に間違っているわけではないだろう。ただ行き詰まっている。そう思っているだけだ。たとえ間違っていようと。気を取り直すまでもなく、そのままでかまわないのか。何がそうなのか。またそれか。そうならないように努力した方がいい。それをやめてしまったら元も子もないだろう。何よりも何も思いつかない段階で語り出すべきではない。もうすでに語り出しているではないか。ところで君はなぜ脂の塊でしかないハンバーガーを食べないのか。脂肪のかたまりだからこそ食べないのだろう。人はハンバーガーとコーラで生きていけるだろうか。すべてはトウモロコシから作られる。トウモロコシを大量に食べた牛の肉と、コーンシロップで甘く味付けされた飲料水によって、肥満体のアメリカ人が形成される。だが君は肥えたアメリカ人ではないはずだ。だから何だというのか。まさかそこからくだらぬ冗談が導き出されるわけでもないだろう。しかし誰かはアメリカ人でもないのに、なぜGー1やAー2のフライトジャケットをほしがるのか。文と文のつながりがおかしいか。意味がわからないだろうか。飛行機を操縦しているわけでも、ハーレーに乗っているわけでもない。どうもわざと支離滅裂を装うつもりらしく、案の定話になっていないようだ。そして何かのアレルギーで肌がかゆくなる。果たして君はこれから何を語ろうとしているのだろうか。頭の中で何かがもがき苦しんでいるようだ。たぶんそれは何でもないことで、何でもないから逆におかしいのだろうが、それとは無関係に体の節々が痛む。昼間の仕事が原因か。寒いのだろうか。頭の中でさらに何かがおかしくなってきた感じがする。

 それも無理におかしくしているのではないか。本当はまともに語れるはずが、ひねくれているのでわざとそんなことを述べてしまう。そしてそれでかまわないと思い込み、どんどんでたらめに逸脱を試みて、ついにはまったく収拾がつかなくなってしまうのか。そこまでいけたら大したものだが、途中で挫折してしまうのがありがちなパターンか。そしてつまらぬこだわりに固執して、ありふれた結果を招いてしまうわけか。だからそうならないようにしなければならないのだろうか。現にそうなっているではないか。外は闇だ。頭の中に何かが入り込み、それが何の情報なのかわからないようだが、たぶんそれに影響を受けているのだろう。そこから何かを語ろうとしていることは確からしい。だが相変わらずまともな内容に至らない。アメリカの中西部では、そのままではまずくて食べられない代わりに、簡単に育って収量が多くなるように品種改良されたトウモロコシを、大量に作付けして、家畜の飼料やコーンシロップやバイオエタノールの原料として使っている。しかしまずくて食べられないトウモロコシを大量に栽培して、しかも政府がそれに補助金を出して、安くて価格競争力のある農業製品にしているのだから、何だか本末転倒のような気がするが、人が直接食べない農産物というのがあり、しかもそれが世界の穀物市場を牛耳っているわけで、先物買いだとか投機の対象にすらなっているところが、やはり正気の沙汰でないと思われ、そんなことが平然と成り立っているアメリカという国はかなりおかしいか。そしてそこに住んでいる人たちは、ベースボールとかアメフトとか、アメリカ固有のへんてこりんなスポーツに熱狂しているわけだ。例えばダルビッシュ一人に数十億もの大金を払ってしまうところも、何やら普通の感覚から著しく逸脱している気がするのだが、果たして彼らはそんなことをやっていてかまわないのだろうか。あんなことをやっていて長続きするとは思えないのだが、何だかヤバすぎないか。この先恐ろしいことが起こるような予感がするのだが、それは君の杞憂に過ぎないのだろうか。


1月23日

 何が完璧なのだろうか。ミスの連続で苛立っているのか。必然性が感じられない。そんな夢を見た。嘘か。夢の中で嘘をついたのだろうか。それこそが嘘か。別にそんなことを問題にしたいわけではないが、他に何も思いつかず、そんなことを記すしかないようだ。まさかそれも嘘だと思っているのだろうか。馬鹿げているわけではない。それでもかまわないのだろうか。問う必要もないことか。では何なのか。人は必ず死ぬ。だからそれも問題とはならない。死ねば何も語れなくなってしまうだろうか。死者が直接語るのではなく、死者について生きている者が語るのだ。だがそれが問題となるだろうか。そんな話をしたいのではない。何も話したくはないのではないか。なぜそれを否定するのか。無理に語ろうとしても何も出てこない。ただ無駄に言葉が記されるだけか。それでかまわないのではないか。また悩んでしまいそうになる。やめるべきかやるべきか。何をやろうとしているのでもないはずだ。ではそのまま寝てしまえばいい。どう思ってみてもそれだけのことだ。ではそれでかまわないのだろうか。気がつけばまたくだらぬ問答に突入しているみたいだ。そうならないように努力してきたのではなかったか。またそんな嘘をつく。そこから逃れたいのだろう。なら黙って眠ってしまえばいい。誰の誘いに乗りそうになっているのか。窓を開ければ暗闇から声が聞こえてくる。きっと気のせいだろうが、あちら側では何かがうまくいっていないらしい。誰かの魔力が衰えてきたのか。もとからそんなものなどありはしないだろう。もう夕方だ。もうすぐ夜になる。そして今は夜か。君の意識はそんなふうにしてどんどん現実の世界から遠ざかってゆくのか。それも違うと思われる。まだこちら側で粘っているのではないか。何とかしようとしている最中だ。昼間は仕事をしていたが、それがどうしたわけでもない。語っている内容が支離滅裂なのも今に始まったことではない。だがそこから話が何も進んでいないはどういうわけなのか。それもいつものことなのか。

 そこから何が見えているのだろうか。またいつもの闇が見えている。ところで君は何を読もうとしているのか。書物など何も読んでいないはずだ。なぜか眠っていて、電話が鳴って目が覚めたようだが、まだ意識がもうろうとしているらしく、誰かが何を考えているのかよくわからなくなってしまったようで、面倒くさいので言葉を記すのを見送り、そのままフェードアウトしてしまうところだったが、どうにかこうにか自意識が踏みとどまったようで、相変わらずのそんな案配のまま、こんなことを述べている次第か。そのまま虚しい努力を続けるつもりなのか。いったいここはどこなのか。たぶん何かを記すつもりだったのだろうが、それがわからなくなってしまったようで、意味不明気味に何かを記しているらしい。果たしてこんなのでかまわないのだろうか。良くないことは確かだが、実際にそうなのだから、それはそれでそういうことでしかなく、たぶんそのままで終わりまで行ってしまいそうな雰囲気があり、ちょっと焦っているみたいだが、取り返しがつくはずもなく、今さらそれはないだろうか。深呼吸しているうちにまた眠くなってきたようだ。どうもまだ寿命が尽きているわけではないらしく、もうしばらく生きながらえるみたいで、それが後数十年先なのか数ヶ月先なのかわからないが、そのとき何が起こるかはそのときになってみなければわからず、どうせ精根尽き果てて死んでしまうのかもしれず、それが誰の死なのかは、その時のお楽しみということもないのだろうが、果たしてこの先いつまで続けられるかもはっきりしない段階で、将来に向かって漠然とした不安でも覚えているのか知らないが、この先いくら努力してみたところで、何がどうなるわけでもないはわかり切ったことで、そう思うとやめてしまいたくなってくるのかもしれないが、そんな成り行きになりそうになるのを、かろうじて思いとどまらせる何かが、心の中に生じていることは確からしく、たぶんそれだけが今の誰かを支えているのだろう。君はそのわけのわからない何かを明らかにできるだろうか。別に明らかにしなくてもかまわないのはもちろんのこと、君に何の義務も使命もありはしないことは承知しているようだが、では何のために君が出現しなければならないのか、不在のままでもかまわないのだろうし、そんなことを述べる必要もないのだろうが、たぶんそれは何か巡り合わせでそうなっているだけなのだろう。


1月22日

 どうも寒すぎる。それでだめなのだろうか。たぶんそうだ。寒すぎるのだからだめに決まっているだろう。何がだめなのか。すべてがそうだ。ではすべてとは何か。そういう意味でのすべてだ。どうもわからない。時が経ってしまったからわからないのだろうか。そんなことを語るべきではない。何か幻想を抱いているのではないか。考えが足りないようだが、忘れ去られるとはどんなことなのか。人は何を覚えているというのだろう。何か忘れ得ぬような記憶が必要なのか。忘れられない思い出があったりするのか。そういうことではない。ならば何なのだろうか。今体験している状況から学ばなければならない。学んでどうするのだろう。何かの機会にそれが役立つ時が来るのだろうか。だからその時が来るまで、それを覚えていなければならない。また冗談でそんなことを述べているのだろうか。たぶんそれはあり得ないことかもしれないが、そうした経験の蓄積が何かの時に役に立つ、と思っていれば、少しは冷静さを保ちながら事態に対処できるのではないか。その程度のことか。わざとそれらの効用を過小評価している。嘘だろう。何が嘘なのだろうか。何となくそう思っているに過ぎず、実際に何をどうしようとしているのかわからない。君はいつまで経ってもわからないようだ。そこで迷っている。それらのすべてが馬鹿げていると思われてしまい、何だかやる気にならないようだ。なぜそれほどまでに躊躇してしまうのか。うまくいかなくなれば冗談では済まないからか。だがすでに賽は振られ、何かがはじまっていて、今さら後戻りはできないのではないか。それはそうだが、そんなのはいつもそうであり、それらが一通り済んだ後から結果がわかり、思い通りに事が運んで喜ぶか、あるいは思い通りにはいかず、落胆しつつもそれでもよしとするのか、悔やんでも悔やみきれなくなってしまうのか。結局そんなところで事が済み、どうせまた懲りずに新たなことをやっているのだろうが、その時にはまた少し何かが蓄積されていて、もっとうまく事を進める術を身につけているわけか。

 しかしそんなことをやり続けて何になるのか。まさか皆がそういうところやり続けていれば、人類の進歩と調和に行き着いたりするわけか。また冗談に逃げようとしている。でもそんなこと以外に思いつくことができず、あながち冗談ではなく、本気でそんなこと思ってもかまわないような気になってしまったら、それはかなりヤバい兆候だろうか。たぶん思考を先回りさせて結論ばかり追い求めてしまうのはよくないことなのだろう。何だかわからないが、とりあえずそれをやり続けていた方がいいような気がする程度のことでかまわないのではないか。実際に何だかわからないのだから、それで何がどうなるわけでもなく、何をどうしようというのでもないはずで、ただ言葉を記し続け、それだけのことで何を成し遂げられるとも思わず、それでも思わぬところで何かに遭遇したらラッキーで、それについて記せば、その途上で何かを考えるきっかけとなり、そこで何かひらめいたりするのかもしれず、そうなればしめたものかもしれないが、たいていは何も思いつかず、そのままくだらぬ成り行きに流されていってしまい、気がつけば何も覚えていないようで、何だか疲れ果てているようで、まさに骨折り損の草臥れ儲け的な気分になり、そこで強がれば何ごともなかったように振る舞うのだろうが、実際には疲労の色を隠すことはできず、また一つ年を取ってしまったように思えてきて、だんだん前方にゴール地点が見え隠れしてしているような気にもなり、まともなことは何も成し遂げられないまま、人生を終えてしまうような感じがして、挫折感に打ちのめされて、もう何もやる気がしなくなってしまうのかもしれず、それこそが冗談なのかもしれないが、そんなことを記していくと、またもや先回り的な状況に陥っていることに気づくのだが、なぜそうなる途中で立ち止まって考えようとしないのだろうか。考えるのが面倒くさいからか。今ひとつ本気になれないことは確かだが、そんなことをいくら記してみても、何がどうしたわけでもないことはわかりきっていることで、まずは何かをやらなければ何もはじまらないこともわかりきっている。


1月21日

 孤独とは何か。危険な言葉だ。恐ろしくて冗談に逃げてしまいそうになる。やめておこう。他人の心を上手に透視してどうするのか。思い込みと過信に傾いてしまいそうだ。では心とは何か。小説の題名だろうか。確かそれはひらがなでこころと記されていたように思う。君はテレビを見ながら眠ってしまったらしい。今は翌日の夜か。さらに遅れた日付で記している。日記ではないのだから、そんなところでこだわる必要はない。人がそこで生きているはずだが、何のことやらわからない。間もなくわかるはずだ。君は誰を嫌っているのか。問われるまでもない。呪われた館ではサイコな気分で誰かが住んでいるはずだ。誰が誰を呪っているわけでもなく、そんな映画でも見たいと思っているだけか。相変わらず君は誰でもないようだ。ヴァイブラホーンの演奏でも聴いているのだろうか。何かが起こらなければ張り合いがないか。たぶん今日は何も起こらない。至って平穏無事に済んでしまう。何が済んでしまうのだろう。誰かの人生が済んでしまうわけか。済んでしまうとは終わってしまうということか。どうせまだこれからだと思っているのだろう。冗談の次にはどんな言葉が記されるのか。気分が乗ってこないようだ。何かの分岐点にさしかかる。そこからどこへ行けばいいのだろうか。そこで閉塞感を感じているのなら、そこから出ていけば済むことか。簡単すぎて話にならない。本当は無理なのに、どこかで何かをうそぶいている。そういう言葉の使い方は間違っているだろうか。だいぶ話が短くなってきたようだ。支離滅裂なのは相変わらずだが、何となくそれでかまわないと思うのはいつものことか。もうすぐ何かが起こるはずだ。イスラエル諜報機関がイランで原子力の研究者を次々に暗殺しているらしい。最後の審判でも近づいてきているのか。そのとき誰が得をするのか。自称ユダヤ人たちは救われないのか。まさか君が救うつもりだとは知らなかった。

 誰が得するとも思えない。だからつまらぬ妄想はよしにしよう。誰が何を企んでいようと、きっとうまくいかなくなるだろう。アメリカの大統領予備選挙では、軽薄な人たちがお互いの人格攻撃に終始しているようだ。結局誰も救われはしない。ではみんな地獄へ堕ちるわけか。堕ちてゆく先がそういう名称で呼ばれる場所なら、そういうことになる。それでも君は苦しまないのか。誰を苦しませようとしているのではない。誰も苦しまないならおもしろくないか。別に話をおもしろくしたいわけではなく、何をどうしようと、何も報われないと思い込んでいるわけだ。そこでどんな陰謀が巡らされていようと、たぶん君は動じない。魅力がないから心を揺り動かされないのか。誰が感動したいわけでもなく、ただそんな成り行きを見守っているに過ぎない。君は眠りたい。永眠してしまうつもりなのか。確か白熊は冬眠するそうだ。間もなく熊谷に到着するそうだ。それは意味不明だと解釈すればいいのだろうか。ただの気まぐれに過ぎない。何かを語るのが面倒くさいのだろう。夜の闇にまぎれて誰かがやってくる。モサドに雇われた暗殺者だろうか。そんな諜報機関が未だに世界で暗躍しているとは驚きか。だからイスラエルは信用できないというわけか。日本でも公安調査庁が暗躍しているのではないか。でも邪魔者を暗殺したりはしないはずだ。たぶんそんなことをしなくても日本という国家は成り立っているのだろうし、それに対してイスラエルは周りを敵に取り囲まれていて、邪魔者を殺さないと成り立たない国家なのだろう。少なくともそう思い込んでいるからそんなことを仕掛けているのだろう。だからイスラエル人は孤独感に苛まれているわけか。まさかそういうわけでもないだろうが、そんなことをやり続けている限り、真の友人は現れない。自業自得だといえばその通りだろうが、そんなことを平然とやっているイスラエルをアメリカが経済的あるいは軍事的に支えているとなると、何となく嫌な感じがこみ上げてくるか。


1月20日

 たぶんわからないのだろう。確かにこれから先のことなどわかるわけがない。予想しようとすればいくらでもできるだろうが、それがあてになろうがなるまいが、予想自体がこれから起こる想定外の出来事に対するいいわけや気休めになってしまい、驚きや精神的なショックを最小限に食い止めるための方策として、何でもかんでも予想したがってしまうのだろうが、万が一予想が的中したところで、そら見たことかと図に乗り、せっかくの機会を活かせないばかりか、かえって状況の悪化を招いてしまうだけか。ところで君は何の話をしているのか。たぶん相変わらず内容など何もなく、その場の雰囲気だけを感じ取っているに過ぎず、少なくとも何かのためになるようなことは一つも語っていないはずだ。そしてまたそれでかまわないと居直ってしまうのだろう。人は無駄で意味のないところで感性を浪費してしまい、肝心なところではうろたえるばかりで、何一つ有効な対策を打ち出せずに、その代わりにやっていることはといえば、罵り合いであったり内輪もめであったりする。それ自体が直面している現実からの逃避を意味し、そんなことをやりながら、災禍が過ぎ去るのを待つしかないようだ。

 しかしそれで何か気が利いたことを述べたつもりになれるのか。そうは思わないだろう。まだ何に似ついて述べているのかわからないらしい。直面している具体的な出来事が見えてこない。すべては言葉遊びのたぐいなのだろうか。そうだとしても、もう少し何か具体的な問題を浮かび上がらせたいのだろうが、それが出てこない。別に先回りして、どこかで待ち伏せしているわけではないだろう。いったい君はそこで何を待っているのか。何か天変地異のような出来事が起こってほしいのか。そう都合よく何かが起こるはずがなく、起こるとすれば、誰も予想だにしなかったような出来事が突然起こり、人々はそこでパニクって右往左往するばかりになるしかない。それが事件の現場なのだろうから、それが一通り一段落した後から何を説明しようと、またそれがどんなに説得力を伴った説明であろうと、たぶんその唐突な出来事の本質を捉えているとはいいがたい。ただ原因と結果の因果律の中に封じ込めているだけで、そこから驚きや感動が抜け落ちてしまうのは仕方のないことで、それが事件に対するごく真っ当な捉え方になるしかない。

 そういうやり方でかまわないのだろうか。君の知ったことではないか。またそうやって投げやりになってしまうらしいが、とにかく何か適当にいい加減なことを語っているらしいことは確かで、それ以外にはあり得ないような語り方で、そんなことを語っているわけだ。どんなことなのだろうか。君はこれまでに自らの生き方を変えるような驚くべき事件に遭遇したことがあるだろうか。そんなことは覚えていないか。覚えていたとしても、当人が気づかないうちに生き方が変わってゆくだけで、それに関して何を述べるまでもなく、そんなことを説明する必要はないのかもしれず、何かを記したり語ったりすること自体が無駄で無意味なことかもしれない。まさかそんなふうにして自らがやっていることを自ら否定するとは思いもしなかったか。その場の成り行きでそういうことを記しているのだから、それも冗談のたぐいなのだろうか。要するに人が何かをやろうとすると、必ずそのやっている何かを否定しなければならなくなり、それが何かをやる上での試練となり、それを乗り越えないと、何ごとも成し遂げることが困難となってしまうのだろうか。だがそれはありふれた認識であり見解だろう。誰もがそういうたぐいの困難を乗り越えながら、やらなければならないと思い込んでいることをやり遂げて、達成感という自己満足に浸ってしまうのだろうか。


1月19日

 なかなか差が縮まらない。無理だろう。何を説明したらいいのだろうか。二日後には夜になっても雨が降り続いている。それだけのことなのか。だからわからない。いったい世の中はどうなっているのだろうか。そういう話ではないだろう。では何なのか。それに関しては何も語れないのか。なぜそうなってしまうのか。さらに三日後になってしまったらしい。この辺が限界だろうか。何を調べたかったのか。それが思い出せない。なぜそうなってしまうのか。それがわからない。かなりの重傷だろうか。誰かがひき逃げで死んだりしたのか。ニュースでそんなことが報じられるが、君には関係のないことだろう。不安なのか。何がそうなのだろうか。たぶん何もそうではない。しかしだめなことは確かだ。何も語れなくなってから久しいだろうか。昨日は何か語っていたはずだ。何も語っていないはずがない。たぶんそこから後退しているのだろう。何もできなくなっている。どうにもならないようだ。君は何を考えているのか。そういう逃げの姿勢がいただけない。

 人には悲惨な末路が待ち受けている。君はそれらの現象に何を期待していたのか。中世の武士団は一族郎党皆殺しという末路が多い。源氏も平氏も主立った武将は皆殺されているし、鎌倉幕府の御家人も有力どころは皆殺され、その最期に殺す側だった北条氏が殺されて鎌倉時代が終わってしまったわけだ。どうも権力に近づけば近づくほど殺されてしまうのは、古代のギリシアやローマ、中世のイギリス・ドイツ・フランス・イタリア辺りでもそうだし、要するによくあるパターンなのだろうか。最近ではリビアのカダフィ氏や、ちょっと前ではイラクのフセイン氏などもそうだし、今まさに民衆を弾圧し続けているシリアのアサド大統領なども、ちょっとしたきっかけでそういう運命を辿ってしまいそうだが、まあそうならないための最善の方策が、目下のところは民主化ということになるのかもしれない。だがどうも思うに、民主化とは結局のところ権力の空洞化ということではないのか。日本でもアメリカでもヨーロッパでも、国を代表する最高責任者に相当する地位に就いた者が何もできない。

 だから民主化がだめだとは思わないが、選挙で選ばれた各国の首相や大統領がリーダーシップを発揮しながら、何か民衆のためになるようなことをやる、という夢物語が破綻しているだけのことで、現実にはそういう役職の人が記者会見等を開いて、国民に向かって、これこれこういうことをやります、と宣言したりすることが、そういう人たちに残された唯一の役割なわけで、経済の情勢や世論の動向を見極め、政治家や官僚たちから意見を聞きながら、どういうことをやれば国や国民のためになるのかを探り、それらから導き出された結論が、記者会見や国会の所信表明演説などとなって発表されるのだろうが、そこから先がうまくいっていないようだ。日本では何をやろうとしても、やる以前に猛烈な批判に晒され、民主党のマニフェストなどそのほとんどが腰砕けとなってしまい、首相が次々に交代して、今の野田首相などは、かつての自民党と同じようなことを主張する始末で、しかもその自民党と同じような主張でさえ、とうの自民党から批判され、何だかわけがわからないことになってしまっている。結局次の総選挙で政権交代となってしまうのだろうか。


1月18日

 なぜそんなことを語らなければならないのだろうか。まだ何も語っていないはずだ。いつものようにつじつまが合わない。久しぶりの雪だったが、今は雨が降っているようだ。日付的には二日後のことか。もう三日後になっている。努力は報われないものだ。いくらがんばっても無駄なのだろうか。たぶんそういうことだ。それでかまわないのではないか。努力の甲斐があってしまってまずいことでもあるのか。ひねくれ者としては我慢がならないところか。そういうことではなく、何となくそう思っているだけで、実際に努力の甲斐があってうまくいけばいったら、それはいいことなのだろうが、現実はそんなに甘くないということか。予約しても三ヶ月待ちの一流レストランの料理長が、周りのコックや見習いコックたちをどやしつけながら忙しなく料理を作っている。そんなドキュメンタリーを見ながら、何となくヤバそうな雰囲気を感じる。三ヶ月も待って高い金を払ってまでうまい料理にありつこうとは思わないが、人は何をやるにも究極のレベルを目指す必要があるのだろうか。目指せる資格があったりなかったりして、目指す機会に恵まれた者たちは、全身全霊を傾けて目指さなければならないのだろうか。そのオーナシェフも共同オーナーも、自分たちは金儲けのためにやっているのではなく、うまい料理を出すために原価すれすれでやっていること誇りに思っているらしく、まるで戦場のような調理場で、ミスをしたコックを怒鳴りつけながら、常時張りつめた空気の中でやっているわけだ。恐ろしいことだ。なぜそこまでやる必要があるのか。世界のレストランランキングで二年連続トップをとったりして、努力が報われたと思ったりするわけか。虚しいことだ。たぶんそういう成り行きになってしまった者は、そういうことを延々と続けていかなければならない宿命なのだ。悲惨な境遇だろうか。栄光の日々なのだろう。自らはすごいことをやっていると思っているはずだ。そんな解釈でかまわないのか。たぶんそういうことだ。それ以上の何ができるというのか。日々精進しなければならない。それだけのことか。それだけのことがなかなかできないのだ。だから彼がやっていることの何を否定するわけにもいかない。

 君はそこで何をやっているのか。雨音を聞いているのは誰なのか。雨が降っている地域では誰もが聞いているはずだ。君は何を思っているのか。何も思っていないことにしておこう。それでは話にならないではないか。誰かがそれでかまわないと思っている。話にならなくても、言葉が記されていれば文句はないのか。そこから外れたいのに外れない。何を外そうとしてもがいているのか。そこで何かを空想しているのだろう。もう嫌になってしまったのか。言葉を記すのが嫌になったのか。ならばやめればいい。それで済むならありがたいが、そうはいかないのが世の常だ。意味がわからない。だが意味がわからないから意味不明というわけでもないだろう。他の誰かにはプライドがあるらしい。それがあるから自らがやっていることを正当化したいのか。だがそれでうまく立ち回っているつもりなのだろうか。たぶんそういうことだ。君たちには未来がある。そう思い込んでいるのだろう。確かに生き続ければ未来があるだろう。まだ過去の人になってしまったわけではない。そしてそこから再起を図ろうとしているわけでもない。君はすでに永眠してしまったのか。そんな嘘をついても動じない。わけがわからなすぎるだろうか。あいにくそんなことに腐心しているわけではなく、はなから無視しているわけでもない。ただそれについて語るのが面倒くさいのだ。語れないのに語ろうとするからさらにおかしくなってしまう。いったいそれは何の話なのか。またそれらしい。何事か書き記そうとしているようだが、うまく書くことができないようだ。たぶん君にはできないのだ。君は努力する人ではない。あきらめが早いのだろうか。そうではないと思いたいだけか。何ごとも違っていて、その違っている一つが努力の仕方か。見当違いのところでひたすらがんばっているのではないか。何がどうあってもそんなところにこだわりたいのか。そういう強情なところが墓穴を掘ってしまう原因か。何もかもがんばる必要はなく、必要と感じた時だけがんばればいいわけだ。そんなことができるだろうか。なぜかそこでやる気をなくしているのはどういうわけなのか。本当はがんばろうとも思わないのではないか。では努力がきないということか。なぜそうなってしまうのだろう。


1月17日

 何かの途中でそういうことではないと思う。何だかやる気にならない。最近はいつもそうかも知れないが、今日は特にどうにもならないようだ。原因も理由もわからず、対処しようがない。とにかくそれについて何を語ればいいのかわからない。それはいつもそうなのではないか。まだ何も示していないので、それがわからないのは当然のことかもしれないが、それでもこうして言葉を記している誰かがいるらしい。誰かとは君のことなのか。君に向かって問いかけているわけではない。誰であってもかまわないのだろうが、今は君以外の誰かが何かを記している。ここではそういうことにしておこう。嘘でもかまわないが、別のところでは違うというのか。たぶん違うのだろう。根本的に君が語るような話ではないはずだ。君が間違っているのだろうか。なぜそうなってしまうのだろう。心の中で誰かが叫んでいる。冗談はなしにしよう。そうならないことを願う。意味がわからないのだから、わかり得ないのか。では決裂するしかないようだが、何をわかってほしいのか。まだそこから出られない。別にそれが心の叫びであるはずがない。放っておくと何もかもがどんどん遅れていってしまう。焦りに焦って頭の中ががちゃがちゃしてくるが、それが何だかわからないまま、語っている内容が作り話に傾いている。何も話になっていない段階でそれはないか。それらの中で何が真実に結びつくというのか。少しはわかりかけているが、結局わからないのだろうか。そういうことではないと思うが、依然として何がどうなっているわけでもない。どこへも至れないらしい。そんな話などどうでもよくなってきてしまったのか。何か語ろうとしていることは確からしいが、なぜか結果的にそうなっていない。そして眠くなり、寝てしまうようだ。目が覚めたら翌朝になっていて、またいつもの一日が始まり、誰かがどこかで仕事をしているようで、架空の君がそれを眺めている。その存在自体があり得ないのだろうか。もとから不在だからそういうことになる。相変わらず意味のわからないことを述べているようだ。何も述べていないのに言葉が連なり、それを君が読んでいる。やはりそれはあり得ないことだろうか。

 何かがからむと必ず事件が起こり、そんなこんなでにっちもさっちもいかなくなり、ややこしい事態に直面して、人は思い悩むことになるようだ。それが気のせいだったら楽なのだろうが、どうもそうではないみたいで、君の与り知らぬところで何かが進行中のようで、それによって君は窮地に立たされ、そこから先はどうなってしまうのか。たぶんその先から話が始まるのだろうが、どういうわけかそこまで行かないうちに話が終わってしまい、何だか拍子抜けとなってしまう。限界なのだろうか。どこかおかしいのはわかっているはずだが、何がおかしいのかわからないままで、何もできないまま時が経ってしまう。毎日がそんなことの繰り返しだ。またそんな嘘をついている。でも言葉が続かない。それから数日後にやっと雨が降り、やがて雪になるそうだ。それがどうかしたのか。珍しいことか。よくあることではないのか。たまにそんなことになる。何がそういう状況にさせるのだろうか。気味が悪いわけではない。何も手出しができないということか。天気の話ではなかったのか。心の病なのか。君には何もわからない。たぶんそれは報われない努力の果てにたどり着いた心境なのだ。心は灰になってしまったのか。そんなはずがない。気力が萎えてしまったわけではなく、何とかしようとしている最中であり、今がそうなのだから、これから何とかなる可能性があるはずだ。それほど楽観しているわけではないが、何とかなると思っていることは確からしく、その件については考えすぎないようにしているのだろう。わからないのだから心配してもはじまらず、何を心配したらいいのかもわからないはずだが、もとからそういう話ではなかったのかもしれない。すでに君はそこで新たな知識を獲得しているはずだ。今はそれに基づいて行動すればいいだけのことだろう。実際にそうなっているのではないか。成り行きとしてはそういうことだ。ならばそれでかまわないはずなのに、いったい何を心配しているのか。何かがだんだん遅れていることがそんなに心配なのか。そういう成り行きなのだから仕方がないだろう。つまらぬ意地を張ってその流れに逆らうのはやめておいた方がいい。事を荒立てず、穏便に運んでおいた方が疲れないだろう。そういうことなら我慢していればいいというわけか。


1月16日

 ここはどこでもない。またそんな嘘をついているようだ。そんなところから何を語ろうとしているのか。何も思いつかないだろう。何もない。すべてがあるが何もない。それがすべてではないことはわかっていて、何ももたらせないのに何かがもたらされているようだが、君とは関係のないことだろう。誰とも関係がないのだろうか。君は誰かではない。誰でもないわけがないが、そんなことはどうでもいいのか。何かをやるとなるとトラブルはつきものだ。迷惑しているのだろうか。何の話でもない。人身事故で電車が遅れるのは日常茶飯事だ。何に関心があるわけでもないらしい。空は晴れているようだ。何の宣伝に踊らされているわけでもない。ここはどこなのか。いつもの場所でしかない。金網に蔓植物が絡みついているのが見える。ここはどこでもない。どこでもないからここなのか。どこでふらついているわけでもない。君が眺めている風景を説明する必要があるのか。何を求めているのかを知りたいところか。遠くに山並みが見えているだろうか。そういうことではない。線路沿いに家が建ち並び、そこに騒音がそれほど苦にならない人たちが住んでいるのだろうか。そんな想像を働かせるのは意味のないことか。間もなく何かが起こり、それが地震だったりするわけか。電車が揺れているのでわからない。何かの景色が変わっている。配色に狂いが生じているわけか。やはり何の話でもないようだ。少し眠くなり、それに影響を受けてわけがわからないことを述べているのかもしれず、それもそれで面倒なことだが、どうもそんな雰囲気に包まれているようだ。別に霧が周囲を取り巻いているわけではないが、心に靄がかかっているような気がする。目を閉じてあくびが立て続けに出て、無為な時を過ごしているような気になる。黄昏れるにはまだ早いが、朝から何を思っているのか。君はそれを何とかしようとしているのだろう。大事にならなければいいが、斜面を転がり落ちてくる大岩を受け止めようとしているのではないし、すべては成り行きまかせなのだろうから、それなりに楽しませてもらうしかないようだ。

 君はそこから外れて自由になりたいのだろう。何も考えずに時を過ごしたいのだ。要するに休みたいということか。そういう解釈は妥当でないような気がする。不可能に挑戦するつもりか。またわけのわからないことを語ろうとして、途中で嫌になってしまう。もう飽きてしまったのだろう。だがまだ先は長い。記さなければならないことなど何もなく、代わりに記している内容は、不必要なことばかりになってしまうわけか。それでもかまわないわけではない。たぶんまたおかしな気分になって、非常識なことを語る機会をうかがっているのだろうが、そう頻繁に語れるはずもなく、ごく真っ当な意見でも述べていれば無難なのだろうが、聴いている音楽が突飛な曲ばかりか。当然のことながら、それとこれとは無関係だ。何を語るのも、そこから先が正念場となってしまうようだが、至ってくだらない気分となり、もうなんでもかまわないようなつもりで、強引に言葉を記してみるが、今ひとつぱっとした結果に恵まれず、ありふれた気分でありふれたことを述べているようにも思われ、それが何を意味するわけでもないのはもちろんのこと、そんな無意味なことを語っていること自体が何か言葉のお遊戯ののような思われ、まともなことを語るという趣旨から大きく外れ、何やら自意識を裏切って、どこか得体の知れぬ領域へと、それらとは無関係な言葉の連なりを導いてしまうような、おかしな作用が働いているのを感じてしまうのだが、それが何なのかわからないのはもちろんのこと、何かとりとめのないようなことを語っている架空の意識が不在のまま出現しているようで、どこに出現しているのか皆目見当もつかないようで、それでいてそんな嘘をついているでたらめな何かの存在を明らかにできず、その辺で文章表現の限界を感じてしまう。巧みに言葉を配置してごまかし通せる自信もなく、中途半端な気分のまま、さらに言葉を記していくと、何やら前方に道が開けているような気もしてきて、たぶん何かの勘違いなのだろうが、それを信じてみようとする気持ちもないではなく、冗談半分でそんなことを思いながらも、それらのとっ散らかった言葉の連なりをまとめるつもりもなく、それはそのままに終えようとしている。


1月15日

 またこんなところで滞っている。いったいいつになったらまともなことを記せるのか。何かとの相性が悪いのかもしれない。そんな理由や原因があるとも思えないか。とにかくまた見切り発車で言葉を記しているようだが、早く誰かはくたばった方が身のためか。それも意味不明のたぐいか。冗談も程々にして早く本題に入りたいが、そんなものはもとからありはせず、そんなやり方に固執する限りはそんなどうでもいいことを記し続けるしかなさそうだ。どうも深入りしすぎていて、そこから抜け出られなくなっている気配もしてくるが、そうではない証拠を今こそ見せなければならないのか。誰かはそんなことが記されている画面を覗き込みながら、いつものように首を傾げるばかりのようだ。もう周囲は闇に包まれ、夜の時間帯のはずだが、それがどうしたわけでもなく、思い通りに意味を担えない言葉の連なりを読み返しながら、君は次第に不機嫌になってしまうのだろうか。そうならないようにしなければならないのだろうが、そうなってしまう流れに逆らうことができず、今はどんどん無意味な方向へ押し流されている。そんなことに気を取られているうちに、またあかぎれが痛くなる。それこそ関係ないだろう。今の君に何が備わっているわけではなく、無防備の極みのような何かになり、そんなことを思いながらも、何とかそこから立ち直ろうとしているようだが、何だかやる気がでず、気がつけばほったらかしになってしまいそうで、そんなふうに語っていること自体が変で、そういうやり方に疑念を抱いていて、そんな結果を受け入れがたく、釈然としないみたいだ。もっと違うやり方があったのではないか。迷いがあるのはいつものことだろう。それを断ち切るわけにはいかず、迷いながらも疑いつつ考えてゆくしかなく、まだ当分はそこから抜け出るつもりはないらしい。納得がいくまでとどまって、滞っている当の状況を眺めながら、そんな思考停止状態をくぐり抜け、何とかその先で何かを見出さなければならず、その何かについて語らなければどうにもならないのだろうか。

 君は無駄に考えすぎている。それが取り柄なのではないか。また冗談をかましているわけか。そんなやり方ではいつまで経ってもまともな語りに至らないか。だからそれが君の取り柄なのではないか。どこまでそんな問答を繰り返しても平行線だ。だからそれでかまわないのだろう。はじめから答えなど求めていないはずで、どこに至ろうともせず、その辺でさまよっているだけか。すべてのしがらみを断ち切って旅にでも出たいのか。そうなるのはいつのことか。まさか死への旅立ちまでどこへも行けないのだろうか。そんなはずがなく、今日もどこかへ移動中ではないのか。それが旅だといえるだろうか。ただ家路を急いでいるだけか。それはロマンとは無縁の単なる移動に過ぎず、どこをさまよい歩いているのでもないことが一目瞭然か。君は嘘をついているわけか。そんな認識でかまわない。誰かが寒い電車の中でそう記し、時折窓の外を眺めている。そこには夜の闇があるだけで、目に映る何が興味深いわけでもなく、それらの景色から何を感じ取っているとも思えず、遠くに見える街灯の明かりが、そこに道路があることを示しているだけのように思え、それの何が気に入らないわけでもなく、まさかそこからこの国の将来を形而上学的に憂う機会も訪れないだろうし、靖国神社に放火しようとした男が、謝罪を文字を書き込んだTシャツを見せてにっこり笑った映像をテレビで見ても、それで何がどうなったわけでもないと思う他ないようだ。君はそこで何を思い出しているのか。それらのすべてが君には関係のないことになってしまったのだろう。今はそう思うしかなく、そんなことを考えていた時期もあったと後から思い出しても、何をまた蒸し返そうとも咀嚼しようとも思わないだろう。どうも物事を深く考えるのが苦手となってしまったようで、考えるとっかかりを見つけられないまま、どんどん無関心になっていってしまうようで、もはやそれが後戻りできない段階まできてしまったようだ。現にそこから何も導き出せず、何を批判する気も起こらず、たまに思い出したようにそれにふさわしいと思う言葉を投げかけてみるが、そのことごとくが空振りに終わっているような気がして、まったく熱くならずにそこから降りてしまい、何の後始末もつけないまま、適当に言葉を散らかしたように感じられるだけか。


1月14日

 果たしてそれで何とかなるのだろうか。たぶんわからない。成り行きまかせならそれで正解だ。そうでなければおかしくなってしまうか。でも紆余曲折が伴うのはいつものことだ。事態を静観している誰かがそこにいて、それがどうしたわけでもないと思っているらしいが、願わくば強がりや痩せ我慢でないことを祈っている。しかし本当に対処できると思っているのか。その時になってみればわかることだ。そういうことでしかないだろう。君はその時がくるまで待つしかない。別に最後の審判を待っているわけではない。また迷路で迷っているのだろう。なぜ迷路になってしまうのか。それが何かの必然なのだろうから、あきらめて進んでみるしかない。それについて何か不満でもあるのか。他に選択肢などないはずだ。そんなことができるはずがないが、何をやろうとしているのだろうか。これからそれを思いつこうとしている。時がそれをもたらしてくれるだろう。すべてはそういう成り行きになっている。何がすべてなのかわからないが、誰かがそう思い込んでいるようだ。それはどういうことなのか。何かをわかりかけているのかもしれない。この世界は絶えず変わり続けている。なぜそんな当たり前の見解を述べているのか。自己中心的で自意識過剰で独りよがりな誰かにとってみれば、そうなってもらわねば困るのだろうか。すでに困っているではないか。そいこでうまくいかなくてもかまわないと思っているのは誰なのか。君ではない。君はそうならないような何かを求めている。まるっきりのでたらめではつまらないだろう。少なくともある程度は固定観念にとらわれている必要があり、それを土台として自らの論を展開していかなければならず、その限りにおいて、ある一定の内容を伴った言説が成り立つのではないか。またそんなことはわかり切っていると述べたいのか。それならそれでそういう語り方に終始していればいい。別にそれでそれほどの不都合は感じていないはずだ。だからここまで語り続けてこられた。しかしここから先に語るとなると、突拍子もない飛躍や、革新的な語り口が必要となってくるわけか。それは冗談に違いない。そんなことはあり得ないから、あえてそう述べているだけではないのか。

 それらの出来事が君に関係することはない。そんなことは誰にもわからない。君は君であり、誰かがそれを知っているはずだ。だがそれがどうしたのか。何の問題もないではないか。何を問題視しているわけでもなく、それ自体が関係のないことだ。しかしそれ自体とは何を指すのだろうか。今ここで語っている全体がそれ自体なのか。そう捉えるしかないだろう。結局そうなってしまうわけか。だがそれがどうしたというのか。相変わらずそんなことを語っているだけのようだ。それがかなりおかしいと思われる。それではまるで死人が歌っているようなものか。なぜそう捉えるのかわからず、それとこれとは無関係のように思われる。まったく関係のないたとえだが、それならなぜたとえになるのかわからない。単なるでたらめを述べているように感じられ、それでもかまわないと思うのは無理があるような気がする。誰がどこを駆け回っているのでもないが、無邪気に関係のないことばかり記すのは記している者の頭がおかしい証拠か。ではそれは何のたとえになるのだろうか。さらにわけがわからなくなり、そんなふうに語るのはごまかしのたぐいに感じられる。では何をごまかしているのだろうか。そこには何もない現実を空疎な言葉の羅列によってごまかしているわけか。それでも君は語り続ける。君が語っているわけではないのに、君が語り続けると記され、それが何かの間違いであることを忘れさせ、君を架空の存在と思い込んでいる誰かを記された言葉がたぶらかそうとしている。また嘘をついているのだろうか。何かが大掛かりな虚構を形成しようとしているのだろうか。そうであっても感動するしかないだろう。だまされたことに感動しているわけか。そうなったら幸いだ。よくなる兆しを予感させる。だから何とかなるのだろう。何ともならなくても何とかなったことにしておきたいのか。そういうごまかしはよくないか。よくなくても何とかなったことにしておこう。それでかまわないのなら、それで済んでしまいそうになる。実際に済んでいるのではないか。もう君が関与する領域ではない。ならばここから先には誰が歩を進めればいいのか。誰でもない誰かが架空の一歩を標せばそれでおしまいか。


1月13日

 呆れているのか戸惑っているのか。物語とは何だ。それでも少しは遅れを取り戻す気になったのだろうか。だが未だに状況は変わらない。かろうじて正気を保っているつもりの誰かが、何か適当なことを語ろうとしているようだが、君にとってそれがどうしたわけでもなく、いい加減に語っているそれは、いつもの無内容に違いなく、いったいそれが何の話になるのか、誰にもわからない。これから誰が何を語ろうと、語っている内容に興味などないに決まっている。もとからそうだったはずだ。だからここまで言葉を記してきたのだろう。理由になっていないような気がするが、だから相変わらず何の話でもないことを語っているわけだ。ならば言葉を記すのに費やされた時間を返してほしいか。失われた時間を取り返すことなどできはしない。大晦日の馬鹿騒ぎを覚えていないのは当然のことで、その日も仕事をしていたはずだ。そして正月も仕事をしていて、そして今ここで誰かがどうにかなってしまったわけか。病気になったわけではない。そんな話ではない。やる気がしないだけのようだ。今日もそこで終わってしまう。それが気に入らないとは言わせない。気に入らないのにそれはないが、何かがあり得ないようだ。気分がそうなのかもしれない。日頃からそればかりではないか。それとは何だろう。それがそればかりなのか。無駄なのか。無駄に言葉を記している。うざったいが、それが定めだ。そうせざるを得ないのだからそうしている。そうする理由も何もありはしないが、そうせざるを得ないのだ。わけがわからないだろうか。そう語っているわけか。たぶんそういうことだろう。それだけのことだ。そんなわけでお前はまだ破滅していないようだ。本当の破滅には到達していない。そこまで至れずに、いい加減に言葉を弄して、誰かが破滅ごっこを演出しているわけか。そんな気がしているだけのようだ。そしてそれ以上の理解は得られていない。はじめからチンプンカンプンなのではないか。そう願いたいものだ。別に誰の願いを聞き入れているわけではないが、とりあえずの何かを記しているつもりのようだ。

 何かがすれ違い、意見交換も不調に終わり、挫折してしまう。冗談に違いない。まだやり直せるだろうか。一からやり直すわけではない。そこに至るまでの間に様々なごまかしがあったはずだ。それをことさらあげつらって非難したいのではない。でもすべてを水に流すわけにはいかないわけだ。ならば最終的には対決に至るのだろうか。君はをそれを冗談で済ますつもりなのだろう。それがあり得ないことなのか。腕時計の竜頭が皮膚に食い込んでいる。だから痛かったのだ。今さら気づいてどうするのだろう。そしてまた眠ってしまい、さらに遅れてしまったらしいが、何となく楽観的な気分でいるようだ。この期に及んで何とかなると思っているのか。そう思いながらも、どの期に及んでいるのか。数日後の空は曇っている。君はそれが気に入らないらしいが、言葉を記しつつある誰かは何とも思っていないようで、空模様に興味がないように見える。たぶん他の何に関してもそうなのだろう。またややこしいことになっているのだろうか。そちらへ気を取られているうちに一日が過ぎ去ってしまう。そしてまた夜になり、寒くなって眠ってしまうわけか。そんなことの繰り返しが演じられている季節なのだろうか。別に何を演じているわけでもないが、何となくそんな気分のようで、それ以外は何も思いつかないらしい。なぜそうやって何もかもが過ぎ去ってしまうのだろう。そうやって何か新しいことに興味を持たせないようにしているのか。そうなってしまう原因でも突き止めた方がいいのだろうか。他に何も語ることがない。国家はどこも財政破綻の危機にある。マネーゲームが行き着いた先に待ち受けていた状況がそういうことなのか。何かが過剰に働いているのだろう。すべてがあからさまに露呈されていて、金儲けを企んでいる者たちが何をやっているのかが明らかになってしまったのだ。そしてみんながみんなそれを目指して金儲けしようとすると、当然のことながら競争が激化して、金儲けがうまくいかなくなってしまい、機能不全に陥ってしまうわけか。実際に競争に負けてやる気をなくした敗残者たちが巷にあふれている。


1月12日

 とうとうまた言葉を記すのが遅れてきてしまったようだ。少し自己中で独りよがりが過ぎるだろうか。何のことやらさっぱりか。誰のことでもない。聞く耳を持たないのは君に限ったことではない。誰もが隙あらば好き勝手に振る舞いたいのだろうが、なるべく周囲に迷惑をかけないようにしたいという良心が邪魔をして、あからさまな行動に出るには勇気がいるのだろう。そしてその後はどうなったのだろうか。大丈夫なのだろうか。またおかしくなってきたようだ。平衡感覚がおかしい。横に倒れたまま起き上がれなくなり、全身がけいれんを起こしているようだ。毒でももられたのか。もう長くはないだろう。白目がむき出しになっているようだが、君はそこで何を想像しているのか。たぶんまだその先に話が残っていたのだろう。確かに話があったはずだ。しかしなぜそれを覚えていないのか。二日前のことだから忘れてしまったのか。この二日間は何をしていたのだろう。昼は仕事をして夜は寝ていたはずだ。それ以外は何をやっていたのか。たぶんわからない。あれからまた時が経ってしまったらしく、さらにわからなくなっている。こんなはずではなかったのだろうが、現実にこうなっている。こんな現実を受け入れることしかできない。なぜこうなってしまうのか。君が関わっているわけではない。何もやる気にならないようだ。また音楽を聴いているらしい。何の問題もない。本当にそれでかまわないのだろうか。何か重要な事実を見落としていないか。そこに何か問題でもあるのだろうか。暗い洞窟の中を進んでゆくと、足下に階段があり、そこからさらに下へと降りてゆき、たどり着いたところが地下宮殿だったわけか。それは誰の記憶でもない。君はそんな夢を見ていたらしいが、宮殿の中で何を見たのかを思い出せない。でもそれは誰かが語ろうとしていた話とは無関係だ。では何なのか。思い出そうとしていたことではない。何かがどこかで錯綜しているようだ。それは二日前に語っていた話とは違い、どこかで打ち捨てられた廃墟が発見されたらしく、どこかの学者が壁面に刻まれた象形文字を読みながら感動している。

 そこで何かが断片化しているようだ。どこかの山奥に古びた石段があり、その何百段あるかわからない石段を上ってゆくと、鳥居が見えてきて、それをくぐった先に神社がある。人影は見当たらないが、何かの気配がするようで、気配がする方に歩み寄ってゆくと、そこに何かがいたらしい。確かそんな話だったかもしれない。いったいそれは何の話なのか。誰かの空想に違いない。言葉は相変わらずまとまらず、何も語ろうとしないようだ。何かがおかしいことはわかっているが、どこかで足下をすくわれているのだろうか。しかしなぜそんなところで転んでいるのか。だるまではあるまい。単なる飾りか。誰かが何かに躓き、階段から転げ落ちる。なぜそこに階段が現れるのか。それがわからないことのすべてのようだ。わけがわからないのは当然だ。君は夢遊病者になった夢でも見たのか。それにしてもおかしい。たぶん正気ではないのだろう。テレパシーでも混線しているのか。何かを記そうとすると、急にそれとは違う内容が記されてしまう。なぜそうなってしまうのだろうか。君は焦っているのか。思い通りに語ることができずに困惑気味なのか。本当に何も語ることができなくなっている。それでかまわないのだろうか。そういうわけではないのかもしれない。そんな状況を受け入れることができない。それで誰かが強引に言葉を記そうとして失敗しているわけだ。記しているではないか。そんなふうにして語る必要はないのだ。無理に言葉を記さなくてもかまわないのだ。今は自然にそれが出てきているはずだ。何かが頭の中に出現している。それが何だかわからないが、ともかくその内容を記しているつもりになっているようだ。まさかそれが階段に関する何かなのだろうか。誰かが駅のホームへ上がる階段を上っている。ドローイングだかペインティングだかわからないが、階段の壁面に何かのポスターが貼られていて、それにふと目を止めた瞬間から記憶がない。君はまたそんな夢を見たようだが、どうもそこから先が思い出せないようだ。そこで確実に記憶が途切れていて、君はなぜ今ここに自分がいるのかわからない。ここはどこなのか。目の前にあるコンクリートの壁は何も答えない。


1月11日

 御託とは何か。御託を並べている場合ではない。急にいろいろな出来事が立て込んで、それぞれに対処しているうちに、疲れて眠ってしまったようだ。そんなわけでまた遅れ始めてしまうのか。それでかまわない。事情が事情だが、どうも何かの限界に直面しているようだ。これ以上は無理な気がするが、とりあえず続けていくつもりらしく、今日も誰かが画面上に言葉を記している。それを説明しているのは君ではない。済んでしまったことを覆す気はない。そこで誰が何を思っているわけでもないだろうが、少なくとも何を伝えたいわけではなく、伝えたいことが記されているわけでもなさそうだ。根本的にそういうところがおかしい。そこでは根本も何もありはしない。とにかく言葉を記さなければならないのだろう。だから冗談になってしまう。コーヒーが飲みたくなってきたようだ。眠たくなっているのかもしれない。終わりにしよう。何を終わりにしたいのか。言葉は記している。呼吸もしているのではないか。誰かが言葉を記し、呼吸もしている。たぶん誰かは生きているのではないか。だからこうして言葉が記されているわけか。君の知ったことではない。誰もそんなことは知らないはずだ。ところでそんなこととはどんなことなのか。誰かは心を閉ざしている。孤独なのだろうか。なぜそう思う。たぶん何を尋ねているわけではない。そういうことだと思っている。何でもないのだろう。この世界は何でもない。この世界はこの世界なのだ。それだけのことでしかない。つまらなくなってきた。つまらない作業の積み重ねが大事なのか。何を語ろうとしているわけではない。だからそれでかまわないのではないか。他に語ることがないのだから仕方ない。実態としては何も語らず黙ったままだが、記された言葉の連なりの中で語っているつもりなのだろう。それがごまかしなのだろうか。すべてがそうだ。それなしでは何も語れないし、ごまかし以外の語りなどあり得ない。そんなふうに思うのがおかしいのか。何かの中毒症状が出ているのかもしれない。頭の中で言葉が分散している。

 まずい語り方があったものだ。少しそこから遠ざかった方がいい。今は少し遠ざかっているはずだ。まずいコーヒーを一気に飲み干して、なぜまずいのか理解しようとしている。もう少しなんとかなったはずだ。なぜそうなってしまうのか。何を求めようとしているのか。それがわかりかけている。もう少しで理解に達しそうか。勘違いにならなければいいが、人はどこへ向かっているのだろうか。まだつまらないのだろうか。それらの何を批判する気も起こらず、黙って受け流しているのかもしれない。状況は刻々と変化し続け、君の思いなど置いてきぼりだ。思い入れ自体が思い違いを引き起こす。それだけのことなのに納得がいかないようだが、それがどうしたというのか。それだけのことでしかなく、簡単に忘れられる内容でしかないだろう。もっとうまいコーヒーの入れ方があるだろう。今度はそれを試してみよう。だがたぶんそんなことではない。今問題となっているのはそれとは違う話のはずだが、そんなことはどうでもいいのか。夜も更けてだいぶ寒くなってきたようだ。そろそろ我慢の限界だろうか。だが懲りるはずがない。何だか気分がおかしい。なぜそんなことを語らなければならないのか。何も語っていないのにそれはないか。しかしどうにもならない。何の問題もないのだからどうにもならないのは当然のことだ。他人のことをああだこうだ言う人の末路は寂しいものだ。自身も他人からああだこうだ言われていることに気づいているわけか。何となく人相が悪くなっているのかもしれない。別に特定の人間が語らなくてもかまわないのだろう。ネットで読めばいい。時には昔の週刊誌ネタのようなことを書いている人も見つかるはずだ。そんなのも読めばいい。読めばすぐ忘れてしまうだろう。忘れたらまた同じような記事でも読めばいい。検索すればすぐに見つかる。要するにそんなことでしかないわけで、そればかりに気を取られているわけでもないことを知り、何だかつまらないことにこだわっていた自らに気づく。それから君はどうしたのだろう。どこで何をやっているのか。


1月10日

 目が疲れているようだ。ニュースを見れば、成人式で若者たちが利いた風なことを述べていて、そんな若者たちに対して、コメンテーターがこれまた利いた風な内容のエールを送っている。これからの抱負という通過儀礼なのか。言葉の使い方も一様だ。ああいう局面ではああいうことを言わざるを得ないのだろう。局面というわけでもないのだろうが、要するにニュースの構成要素としては、有名な祭りなどの日本の風物詩と同様に、ああいう場面が必要不可欠なのだ。少なくとも制作する側にはそういう認識がありそうだ。それについてどう思っているわけでもない。呆れる以前にそういうことが全体として一つの儀式なのだから、それはそれとして何の感慨も抱かずにそういうものだと受け止めるしかない。学校の入学式や卒業式から果ては文化勲章の授与式まで、そういう様々な儀式の積み重ねが、社会や国家の存在を人々に信じ込ませるための一環なのだろうから、そんなものだと思うしかない。それはひねくれた認識なのだろうか。別にひねくれていてもかまわないのではないか。それらの何が正しいわけでもなく、あえて間違った認識を表明しているのかもしれないし、その理由が定かでないが、単なる照れ隠しのたぐいでそんなことを述べているのなら、それもそれでそういうことでしかない。君が関知するようなことではないはずか。すでに心はそこから遠ざかり、昼は仕事の最中なのだろうから、他に何を考えているわけでもなく、このままどうでもいい感じになってしまうのだろうが、誰かは何を語っていたのか。別にそれを問題としているわけではない。小さな画面で文字を読みすぎて目が疲れただけか。そのついでに見ていたニュースの話題が、たまたま成人式だっただけだろう。それに関して何の問題もありはしないが、そこから社会だとか国家だとかいう枠組みの存在理由を理解したわけでもない。暇つぶしなのか。なぜそう思うのか。人はそこに理由を見出すのだろう。だから暇つぶしでは済まないわけだ。

 言葉とは何なのか。それを問題としているわけではないのに、なぜそう問うのだろうか。君は幻影を追い求めていて、その正体が何なのか、それが知りたいところかもしれないが、今はもう少し様子見の段階なのだろうか。携帯の一方を電話機能だけのやつに機種変更したので、iPod touchで取得した新しいメールアドレスに以前から携帯で読んでいたメールマガジンを登録したが、新たに登録すると、宣伝用のオフィシャルメルマガがいくつも配信されてきて鬱陶しいので、そのすべてを一つ一つ登録を解除していたら、目が疲れた。たぶんこれからもいろいろ手を替え品を替え、広告メルマガが送られてくるのだろうが、そういった宣伝攻勢によってメルマガの読者を増やそうとしていること自体、まあ当たり前といえば当たり前のことで、やはりそれも何の問題もないことなのだろうが、やはり自ら登録したわけでもないメルマガが次々に送られてくると、こちらも意固地になって、ことごとく登録を解除しようとする。鬱陶しいとはそういうことなのだ。できるだけ多くのメルマガ読者を効率的に獲得するための正しいやり方が鬱陶しい。それが正しいゆえに拒絶の対象となってしまう。だが別にそんなこともどうでもいいことだろう。読んでも読まなくてもかまわないようなメルマガを気まぐれに読んでいる方が、君にとっては鬱陶しいことではないのか。しかし何が鬱陶しくても、君は所詮架空の存在で、実在していないのだから、そういうややこしい話の設定の方が鬱陶しいのではないか。誰でもかまわないような誰かが言葉を記し、それを読んでいるつもりの君が何を思ってみても、誰かの記述に反映されることはなく、実際に何を思っているのでもなく、何に対してどんな注文をつける気も起こらず、闇雲に言葉を連ねるばかりでは、誰が何をやっているのかわからないではないか。そんなことを語っているつもりの君にしてみれば、誰かが記している文章などどうでもいいのはもちろんのこと、成人式で利いた風なことを述べている若者を馬鹿にする気もないのであり、そんな若者たちに応援のメッセージを付け加えているコメンテーターにしても、お仕事ご苦労さんとしか思わないのではないか。それはどういうことなのか。ただの意味不明では済まないようなことなのだろうか。


1月9日

 投げやりになっている。なぜそう思うのか。話がくだらない。では君は何に感動を求めているのか。作り話的に感動を求めている輩が多すぎる。だが需要があるから供給があり、そんな需要を作り出すシステムまでありそうだ。それがメディアか。またいつもの単純化になってしまいそうだ。今度は何を否定したいのか。否定するのは簡単だが、肯定するのは容易ではない。だから安易な選択肢として、世の中のすべてを否定してみせる行為があるらしいが、ニヒリズムとはそういうことだろうか。しかし世の中の権威を否定してどうするのか。今時何が権威なのか。今や世の中ではメディアによってすべての権威が失墜させられていて、ニヒリズムの標的などどこにもなさそうだ。必殺技のマッチポンプにかかれば、もはや肯定すべき事象などどこにも生じないような気がする。どんんなに浅はかで愚かな行為までも、いったん世間の注目を浴びたらもう何もかもを持ち上げておいて、持ち上げられた対象がちやほやされて得意満面になって、ちょっとでも心に隙が生じた瞬間を見逃さず、そこから一気につけ込んで、今度は全力で地べたにたたき落とし、あとは集団リンチさながらにボコボコにして、それらの対象は完膚なきまでに論破され否定されてしまう。そんなことが執拗に繰り返され、今やその手の言論空間では果てしない荒野が広がっていて、そんな不毛の大地ではぺんぺん草一本生える余地もないのではないか。だから世界中でニヒリズムが蔓延しているわけか。そういう状況もおもしろすぎて、何だか張り合いがないような気もするが、自然の成り行きなのだから受け入れざるを得ず、そんな意地悪な見方する誰かからすれば、もっと徹底的におもしろくなってもらいたいと思っているのかもしれず、この先も各方面でどんどん不毛の大地が広がっていって、ついにはこの世界で誰も生きられなくなってしまえば、それこそ誰かの思惑通りで、してやったりとなるのかもしれないが、果たしてそううまくいくだろうか。

 少し目が疲れたようだ。妄想だか空想だかわからない。そんなことを語っているらしい。意識がそこから外れたいのだろうか。実際にはそんなふうにはなりがたい。だが物語としてならあり得ることだろう。たぶん君は鈍感であるべきなのだ。何がニヒリズムでもなく、そんなことを気取って何を述べようと無効に違いない。だからこんな現状を肯定すべきなのだ。からかい半分で批判してはならず、少しは良心的に説明すべきなのかもしれない。大地は何もない荒野ばかりに覆われているわけではなく、その所々に人が住んでいたりして、そこから誰かが情報発信していたりするわけだ。人と人はどこかでつながっていて、単独で存在しているわけではない。君はどこかでその有り様を肯定していたはずだ。この世界にはすべてがある。この世界こそがすべてなのだから、それは当然のことだろうが、何もないというは見え透いた嘘なのか。そうだとしてもさらに嘘をついている。なぜこの世界にすべてがあるのだろうか。それが嘘なのか。たぶんそうだとしてもかまわないのだろう。すべてがあるとしても、それを手にすることはできない。それだけのことなのか。他に何か思いついたことでもあるのだろうか。すべてが手に入らなくてもかまわないのだ。この世界の一部で有限の存在でしかない人間にすべてを与えたら、その手に余ってしまうだろう。だから人が手にすることができる範囲は限られている。別に手に入らないからといって絶望することはない。君は何を否定したいのか。すべてが手に入らないから、この世界を否定したいのか。何か無い物ねだりの逆切れ状態のようだが、やはり何かの冗談なのだろうか。何だかめまいがしてきて、またいつもの何かに頼ろうとして、そこから外れて別のことを記そうとしているらしい。何かと何か。それだけのことだ。この世界は何でもないのだろうか。人が考えるほど複雑ではなく、また単純でもない。どちらでもかまわないのだろうが、どちらか一方を肯定して、もう一方を否定したいわけでもない。要するにどちらか一方を選び取ることができないということか。選び取ってしまうと、それが間違った行為であることを実感させられ、それならばともう一方を選び取っても、やはりそれも間違った行為となってしまい、たぶんどちらも選び取らなくても、結果は同じことだろう。


1月8日

 出だしが遅い。今日も作業に取りかかれない。作業ではなく趣味なのではないか。どちらも変わらないような気もするが、なぜかくだらない気分になる。そんなことを述べても無駄か。では君はもう終わりか。すぐにそうなるわけがない。終わりに至るまでの途中経過がありそうだ。見知らぬ誰かがガード下で首を傾げているようだ。池上線のガード下にホルモン焼き屋があるらしい。検索したらそんな情報に出くわすが、行くわけもないか。そういう話ではない。またテレビを見ていたらしい。しばらく前から何も進んでいないではないか。だが進んだとしても、いつもの無内容に決まっているはずだ。そうならないようにしたいのだろう。だからこうして言葉を記しているはずだが、今のところは期待薄のようだ。またコーヒーを二杯飲んだら気分がおかしくなってきた。嘘をついても無駄か。苦し紛れに決まっている。何を狙ってそんなことを述べているのか。狙いなど何もありはせず、ただの字数稼ぎか。やはりそうならないようにすべきか。もうなっているではないか。人が怪物に追われている映像を見ながら、そんな映画を作っている人たちのことを考えるが、何を考えているのか。子供だましだ。物事の道理を単純化しているのだろうか。怪物に追われているのではなく、現実の世界では時間に追われているはずだ。人がエイリアンだのプレデターだのに次々に襲われて殺されてしまうのだが、時間は君を殺しにきたのではない。語る時間を与えにきたわけか。フィクションの中ではそうかもしれないが、現実の世界では、誰かが時間に追われながら言葉を記しているだけのようだ。今の時間帯ではそうなのだろう。昼間の時間帯では、時間に追われながら仕事をしていたはずだ。なかなか怪物が襲ってくる成り行きにはならないらしく、そのせいぜいが、夏の終わりから秋にかけて、誰かが山奥で熊に襲われるくらいが関の山だが、それの何がおかしいのだろうか。テレビを見ながら笑っている場合ではなく、言葉を記している場合ではないのか。でもテレビを見てしまうわけだ。そんなわけで何だか面倒なことになってきたようで、その先を語らなければならないのだろうか。

 どうもテレビで映画を見ていると、終わりまで見る気にならないようで、途中でチャンネルを変えたり、途中で別のことをやりながら、終わる時間帯に近くなったら、慌てて見たりするわけで、途中の話などどうでもいいかのごとく、途切れ途切れにしか見ない習慣がついてしまったようで、それで映画を見ているといえるのか疑問に感じてしまうが、ともかくそれは映画鑑賞と呼ばれる行為とは違うのかもしれず、ただ偶然の巡り合わせでたまたまそれらの一場面を見ているに過ぎず、要するに映画の一部を一定時間見たという事実なのだろう。それで何を見たことになるのか。何かを見たことになるだけだろうが、ここで横道にそれて、エイリアンとプレデターが対決する映画の続編をウィキペティアで検索して、あらすじでも読んでみることにしよう。なるほどそういうことだったのか。話の筋はわかったが、ラストシーンが見られる時間までにこれらの文章が完成できるだろうか。今は人間とエイリアンとプレデターが三つどもえで殺し合いの最中だ。そんなテレビ画面に背を向けながら、誰かが別の画面上に言葉を記しているらしいが、気が気でないのはどういうことなのだろうか。パロディに決まっているだろう。だがもう終わってしまったらしい。少しは気晴らしになっただろうか。それの続編まであるのだろうか。ちなみに来週はバイオハザードだそうだ。今度はゾンビと対決なのか。そういうゲームでもやってみればいいのではないか。それ以前に仕事で手一杯か。パチスロゲームぐらいなら気晴らしに数分間程度はできるだろうが、面倒くさいのはやっている暇がない。しかしなぜエイリアンもプレデターも醜い顔なのか。ならば人間より美しい顔をした怪物に人間が襲われる話ならおもしろそうか。でも美しいのは怪物とは呼ばないし、美しい顔をした何かが人間を襲うのも映画的にはあり得ないことか。たとえば羽の生えた天使か何かが人をたぶらかす話ならありそうだ。具体的にそれは何か。俄には思いつかないが、くだらない話がさらにくだらなくなってきたようで、もういいのではないだろうか。


1月7日

 またこの時間か。やる気がしないようだ。いつものことか。なぜそうなってしまうのだろう。君に至らないところがあるわけか。そうだとしても直すのは無理だ。改められないのに改めようとすればどうなってしまうのか。こんなふうになる。ぼろぼろになってしまう。それだけのことだ。それだけのことなのに落ち込んでしまう。まさかこの世の終わりを経験しているわけでもないだろうが、できないことに変わりはなく、やろうとしてもできないようだ。言葉を記せなくなり、そこで何かを放棄してしまいそうになる。だからもう終わりだろうか。何が終わろうとしているのか。終わらせないようにしているのかもしれず、そこで何かと何かがせめぎ合いを演じているらしい。そんなはずがないと思いたいところだが、なぜかかなり疲れている。この感覚は何なのか。君は何か間違ったことでもしているのか。心がかき乱されているようだ。動揺しているのか。そんなことでしかないが、それでもやらなければならない。何とかしたいのだろう。一筋縄では行かないのは今に始まったことではなく、どうやってもうまくいかないような成り行きが待っているのであり、それを乗り越えたりかわしたりしながら、何とかどうにかこうにか結果にたどり着いてきたはずだ。もとから安住の地などあり得ないし、何時何時でも危機が迫りきて、思いがけないようなやり方で攻撃を加えてくるのが日常で、これでもかとわけのわからない成り行きに巻き込まれ、翻弄されてしまうのだろう。なぜそうなってしまうのか。そんな問いばかりが頭の中でぐるぐる回っている。理由を探り原因を突き止め、対処したつもりが、今度は別の思わぬ方面から綻びをついてきて、またそれへの対処に追われ、気が休まることがない。そんなことをやり続けているうちに人は老いてその一生を終えてしまうのだろうが、もっと何か溜飲を下げるようなことが起こらないものか。ほんの一瞬そう感じられても、次の瞬間には手痛いしっぺ返しが待っているわけだ。

 そんなわけで音楽でも聴きながら気を紛らわすしかないようで、また明日はどうにかなっている現状に対峙しているわけだ。嫌になることの連続によって、しかも自分一人ではどうにもならない事態ばかりで、そんなことが起こる度にうんざりしてしまうのだが、うんざりしているだけではだめで、それを食い止めるためにあれこれやらなければならず、実際にそれをやってきたわけだが、またそんなことに追われ、それだけで一日が費やされ、疲れ切って夜を迎え、さらにもう一つどうにもならない作業が待ち受けているわけか。それがこの言葉を記す作業なのだろうが、もう明日になろうとしているのにこのざまだ。ダグ・カーンの特徴的な歌い回しを聴きながら、何を思うわけでもなく、次いでランディー・ブレッカーの勢いがあるトランペットを聴いているが、やはりそれがどうしたわけでもない。少しは感動しているのだろうか。何か突き動かされるようなものを感じないか。うまくいくわけがないが、そんなことの連続でも、端から見ればうまくいっていることになるのだろうか。その辺が不思議なところかもしれない。要するに完璧ということはあり得ないのであり、少々の不具合はあっても、全体として滞りなく回っていれば、それでよしとしなければならないのだろうが、それでも何だか嫌がらせのような成り行きが気に障り、それで神経を逆撫でされているように感じられ、そんなことばかり気にするように仕向けられているみたいで、何だか嫌な感じとなるわけだが、そこをぐっとこらえて、努めて平静を装うしかなく、内心はらわたが煮えくり返るようなことでも、そこで怒りをあらわにしたら負けのようなことになってしまい、その辺が胃痛の原因となっているのかもしれず、怒りの矛先をどこへも持っていきようのない事態をどうすればいいのか。妙案など思いつくはずもなく、そこがそういう状況を作り出している側の狙いなのだろうが、そこに特定の意識や意図の介在が確認されず、誰が何を狙ってそうやっているかなんてわかるわけがなく、そういうのを体験している側はもどかしさが増すばかりで、続ければ続けるほどストレスばかりがもたらされ、たぶんそれは避けられない宿命のようなものなのだろう。


1月6日

 相変わらず頭がおかしいのではないか。それでどうやって切り抜けようとしているのでもない。何を語るのにも困難はつきものだ。では何かの罠にはまっているわけか。いったいそれは誰が仕掛けた罠なのか。それとも君の妄想で、罠など何もないのだろうか。見えているのは何かの映像ではないのか。それを見ながら君は何を思うのか。何も思わないのはいつものことだが、今日は違うというのだろうか。他の誰も何も言わない。何やら色とりどりの光が点滅しているらしい。発光ダイオードか何かか。それにつられて何かを思い出している。過ぎ去った未来などあり得ないが、何の脈絡もなくレトロな未来像を思い出して、かつてブリキのおもちゃ的なロボットが街を闊歩しているような漫画を読んだことがあるようだが、それは着ぐるみか何かだったかもしれない。見ている映像とは無関係か。別のチャンネルでやっているドキュメンタリーの中では、北の砦に錆びて朽ちかかっている大砲が並んでいる。それも何かの映像に違いないが、君はそれに関して何を語ろうとしているのだろうか。何も見えてこない。聴いているのはビリー・コバーンのドラミングだ。それがどうしたわけではないが、そこからどこへ行こうとしているのか。心は何にとらわれているわけでもないらしい。たぶん他の何かがおかしいのだ。何でもかまわないのではないか。幽体離脱しているのかもしれないが、それも何かのフィクションに違いない。物語の主人公などどこにもいないようだ。だから誰も何も語れないのだろうか。またおかしくなってしまったらしい。本当に何もなくなってしまったらしいが、またごまかしてしまうわけか。ごまかしようがなく、それらの文章が何もないことを物語っているはずだ。そして君はまたしても裏切られている。何も語りようがない現状に落胆するしかないのか。誰かはもう何かに満たされているようで、ハングリー精神のかけらもなく、どこかで安住してしまっている。なぜそう思ってしまうのか。なぜも何もないからだ。疑問そのものがどこにもない。またそんな嘘をついてごまかそうとしているわけか。今回はそうでもないらしい。無理ならやめてしまえばいい。そろそろ眠くなる頃だろう。

 たぶん何とかしなければならないのだろう。失語症に陥っているわけではない。魅力を感じられないのがすべてなのだろうか。心に余裕がないらしい。何に関してそうなのだろうか。それがわからなければ救いようがないか。別に何を救いたいわけでもない。君は君であり、言葉を記している誰かは、いつまで経っても誰かのままだ。架空の領域から一歩も外へ出られず、さらにそこへとどまったまま、何も語れずにいるだけか。生活のすべてが空洞化しているのかもしれず、生きている心地がしない。そんな大げさな状況ではないのだろうが、言葉にすると深刻ぶった表現になり、どうでもいいことが人生最大の危機のごとき語りに置き換わり、そこからありもしない問題提起を繰り返して、それを克服するために孤軍奮闘しているような気になり、要するにでたらめなのだろうが、君はさらなる深みに足を踏み入れ、どうにもこうにも抜け出られぬ状況に陥っているようなふりをしたいのだろう。そんな嘘が現実の世界で通用するはずもなく、それの何が嘘でもないのだろうが、何となく嘘のような本当のような、本当はどちらでもかまわないような気になり、その辺を適当にごまかしながら、とにかく何か語っているような気配を漂わせ、それで済まそうとしているのだろうが、済むはずもなく、何だかわからないようなことを述べているのが致命的な欠陥で、それをそのまま放置し続けていることが、救いようのない状況をもたらしているわけか。だから何を救いたいのでも、君自身が救われたいのでもなく、そのままでかまわないのだから、そんな救いようのない状況がこれからも続いていってしまうらしい。だがそれで気が済むわけでもなく、何とかそれとは違った状況をもたらそうとして、どこかで誰かが悪戦苦闘している最中のようだが、何だか孤軍奮闘とか悪戦苦闘とか、状況に似つかわしくないような言葉が記されているようで、それも嘘の類のように思われ、たぶんそうではないような現実の中にいることが、受け入れがたいような気でいるのだろうが、実際に受け入れざるを得ず、現実に受け入れているから今があるわけだ。


1月5日

 何となくこういうことだ。しばらくして正気に戻ったのか。でもだいぶ時が経ってしまったらしい。また頭の調子が悪くなって、しばらく何もやれずにいたようだ。たぶんここを切り抜けたところで何もないだろうが、とりあえずは切り抜けようとしている。君にできるだろうか。何とかなればいいだろう。ならなければ今までと同じパターンだ。退屈にやられているのだろうか。そうでもないような気がするが、いつの間にかそうなってしまっているのかもしれない。誰かの思惑通りになっている。ハイトーンのヴォーカルは古いパターンだ。なぜ無理矢理絞り出すように歌っているのか。たちまちしゃがれ声になってしまうのではないか。それがハードロック系ヴォーカリストのたどる末路だとしたら、それは何を意味するのか。それが魅力だと思っているのかもしれないが、君の現状とは何の関係もない。唐突のそれは何なのか。またわざと横道にずれているようだが、まともに語ろうとすると、どうしても誰かの感性が耐えられなくなるようで、すぐに茶化したり、冗談でごまかそうとしてしまう傾向があるようで、そういうのはやめたいのだろうが、気がつけばそればかりとなってしまい、そんな時は自己嫌悪に陥って、気が滅入ってしまうのだろうか。それも冗談のたぐいだ。そうやって君は誰のことを述べようとしているのか。ごまかしには違いないだろうが、それも何とかしようとしていることの表れか。気持ちはどこへでも突き刺さり、やり場のない何かが頭をもたげ、君を恐怖のどん底へと突き落とすわけでもないのに、何だか不必要に怖い気分となり、このままではだめだと感じるが、未だにそこから抜け出せずにいるようで、それが君の怠惰を告発しているわけでもないが、そうであってはならないような気がするのはなぜだろうか。その辺に漂い出ている意識をかき集め、何とか一まとまりの人格を装うつもりらしいが、何かが希薄なのであり、自分が自分でないような気がしているのだろうが、君は君であり、他の誰が自分であるわけでもないのに、フィクションの中では君も自分とは無関係であるような気がしてきて、誰もそこにいない事実を隠しきれなくなっているようで、たぶんそれ以外は何もわからなくなっているのだろう。しかしそれとは何なのか。またそれか。

 憤りを感じているわけではないが、確かにやり場のない何かをどうすることもできない。なぜ君はこの世界を肯定できないのか。自分の至らなさを棚に上げ、馬鹿にすることしかできず、盛んに否定しているようだが、それでは堪え性がないような気がする。なぜ安易な批判を繰り返すのか。何もかもを単純化して、それで気が利いているとはとても思えない。そんな語り方ではだめなことはわかりきっているようだが、なぜかそれ以外があり得ず、風邪薬の空き瓶が邪魔になる。またおかしくなっている。そういう戯れ言がおかしいのか。常道から外れているようだが、それはもとからだろう。何を正当化しているわけでもなく、自らの語りを否定しているだけのようだが、それもおかしなことか。まともな言説に至れない。思わずそんなことを述べてしまう。それだけのことだろうが、それがなかなか思い通りにいかないようだ。どう考えてもそれは違うと思われ、そうではないようなことを述べているはずが、実際にはこんな具合だ。心身症だろうか。それもおかしい。壊れているのかもしれない。完全といかないまでもそれらのほとんどが壊れかけているのだろう。でもそれがどこからきているのかがわからない。何が壊れかけているのか。それらの文章の印象がそうなのか。苦心していることは確かなのだろう。でもそれにしてはお粗末すぎる。意識も心も頭も固まっている。ブロンズ像のようなものか。何がそうなのだろうか。石頭というわけでもない。また冗談に逃げようとしているみたいだが、かろうじてつまらない領域に踏みとどまっているようで、君にはそれが馬鹿げているように思われ、できれば何とか別の領域に意識を移動させたいようで、しきりにそれとは違うことを語ろうとしているようだが、やはりうまくいかないらしい。今の君はそればかりだ。意識していることが間違っているのではないか。何を意識しているのだろう。また冗談になってしまうようで、誰かがいぶかしく思っているのかもしれないが、強引にそんなことを述べてしまう。なぜなんだろう。それでかまわないのだろうか。何だか始めから終わりまでおかしい。何も語っていないのにここまできてしまったようだ。


1月4日

 空気が乾燥しすぎているらしく、だんだん背中がかゆくなってきた。もう夜になってしまったらしい。今日は何をやるわけでもなかったはずだ。それに関して君は何も語らない。まだそこまで声が届いていないらしい。どうやら今のところは思惑通りというわけにはいかないようだ。何も記すことができずに困惑している。君はどうすればいいのか。フィクションの中では何をやっているのだろうか。そういう話ではないらしい。初期の使えないスマホを機種変更してしまったのか。当時はスマホなどとは呼ばなかったはずだが、たぶんそういうたぐいの多機能端末を、電話機能だけの誰とでも定額にしてしまったようだ。別に解約してもよかったのだが、きっといつか何かの役に立つ日が来るだろう。それがどうしたわけでもないが、いったい君は何を忘れているのか。君がそれを忘れているのではないか。それとは何だろう。またそれか。いったい何を考えているのか。その場に居合わせた誰も何も考えていないのではないか。フィクションの中ではそういうことになりそうだが、それは架空のフィクションだろう。笑っている場合ではない。誰も何も笑っていないだろう。どこかの遺跡で等身大の浮き彫りが掘り出され、どこかの魔法使いが浮き彫りに命を吹き込もうとしている。あり得ない空想か。それ以前に意味不明だ。誰かが言葉を記しながらそんな画像を見ているだけかもしれないが、肝心の話がまったくつながらず、それについて語る気が失せる。何の話なのかわからない。しかしそれだけのことだろう。たぶん何の話でもない。記された言葉の方向がバラバラで、総体として一つの話にまとまりそうもない。だから話になっていないのか。それはつまらないことだろうか。そんな心配は杞憂に終わるしかないだろうが、少なくともおもしろくはなさそうだ。では何とかしなければならない。ここからでは相当の無理が伴いそうだが、だいぶ無駄に言葉を記してしまったらしく、もはや修正が利かないようだ。そういう成り行きなのだから仕方のないことか。

 君が気にするようなことではないが、どうもここから先には進めないらしい。急に何もなくなってしまい、君自身もそこからいなくなり、何も残っていないようで、今日のところはそれでおしまいとなりそうだ。無理なのだろう。案の定翌日になってしまい、夜が寒すぎるから寝るしかないことに気づく。なぜ暖房を使わないのか。壊れてはいないのだろうが、エアコンがおかしいようだ。しかしそんなことを記して何になるというのか。疑念をぬぐい去れないのなら、違うことを記すしかない。おかしな理由だ。言葉を記す動機や理由を思い出せずにいるらしい。思いついたのはそれほど遠い昔ではないはずだ。たぶん何かのきっかけがあったのだろうが、その辺があやふやで、おかしな野望を抱いていたわけでもなく、誇大妄想に取り憑かれていたわけでもないのに、なぜかここまでやってきた。何か得体の知れない気分や雰囲気に導かれ、結果的にこういうことになってしまったのかもしれないが、今ではまるで文章の廃墟を記しているような案配になっている。語っていることにまとまりを感じられず、たぶん内容が支離滅裂なのだろうが、ことさらに冗談を述べようとしているみたいで、そういう意志の介在が不自然に思われ、本当に語りたいのはそれとは別の何かではないかと疑いつつも、それが何だかわからず、現実に何も出てこない。北風がひっきりなしに吹きつけているようだ。山に雲がかかる度に雪が降っているようで、次第に白さを増してくるが、そうした自然現象と君の心境との間に関連性を見出せず、何を結びつけたらいいのか皆目見当がつかないのに、こうして唐突に北風と雪について述べているようで、それが何だかわからないのはもちろんのこと、文章として前後のつながりを欠いているのに、平然と不連続を放置しながら記してしまうことに、ある程度は抵抗を感じているようだが、結局何の修正も施さずにそのまま続けてしまい、それで何か意味のある文章を構築しようとする意図もなく、要するに何だかわからないままそんなことを記しているわけで、たぶんその辺がおかしいのだろうし、疑念を抱いているのだろうが、君にはどうしようもなく、それらの文字列を傍観するだけか。


1月3日

 いつの間にかそれが悪あがきではなくなっている。そんなはずがない。ちょっと前までは思いっきりそうだったはずだ。今は違うというのか。無理をしていないだけか。その気がないだけか。それ以前の水準で述べているのではないか。それがどんな水準であろうと、悪あがきには違いない。今度はなぜそれを否定しないのか。また面倒くさくなってきたわけか。また何かが違っているのではないか。そういうやり方が好きではない。でも結局そうなってしまうわけだ。疑い出したらきりがない。たぶん何もできなくなってしまうだろう。人が良すぎるのだろうか。たぶんずれているのだろう。方向が違っている。君が間違っていることは確からしいが、あまり他人を出し抜こうと考えない方がいいのではないか。また何か頭の中でこんがらがってきたようだ。なぜそんなことを説明しなければならないのか。やる気がしないのだろうか。何か宿痾のようなものを感じるが、もうだめなのだろうか。目覚めたら何も思い出せない。気がついたらまた電車に乗って北へ向かっているはずだ。いつもの景色を眺めている。何が驚きなのか。心身ともにガタがきているようだ。だからそろそろ終わりの季節だと伝えているではないか。何もしていないのに頭が痛いのか。胸焼けがして動悸が激しい。それでも生きているはずだ。フィクションだろう。何でもないわけはないだろうが、何となっているのは奇跡だ。心の病はどこへ行ったのか。もとからそうではなかった。何とかするつもりだったのだろう。それで何とかなったのか。何とかしている最中だ。運命を受け入れるつもりなのか。それはどんな運命だったのか。覚えがない。いつもそうなってしまう。朝日を浴びて、ビルの側壁が輝いている。そんな光景を眺めながら、何を思うこともなく、時が過ぎ去ってゆくのを感じているようだが、まだ時間が残されているのだろうか。だが相変わらず成し遂げる術を知らず、未だに迷っている。あかぎれが治りかけているようで妙にかゆい。とりあえずこのまま仕事をこなしてゆかなければならないようだが、それはそれとして、それ以外ではどうするべきなのか。今やっているそれを続けてゆくべきなのだろうか。

 また迷っているようだが、どうせやり続けるつもりなのだろう。他には何もできないのではないか。昨日は曇っていたが、今日は雲一つなく晴れ渡っている。日付的には明日の天気だろう。誰がそれを気にしているとも思えないが、どこかで争いごとでもあるのかもしれないが、至って平和な気分でいるようだ。目下のところは何も片づかず、すべてが現在進行形で、いくつもの出来事が相互に関係し合い、君を悩ませているのかもしれないが、こじれてしまった原因を取り除くことなど不可能で、自然に治癒するのを待つしかないのだろうが、焦れて勇み足的な行動に出なければいいのか。何とか自らの感情を押さえ込んでいるのかもしれず、かろうじて心の均衡を保っているのだろうが、それ以外の出来事に関わっていることで、そればかりを思い詰めている暇はないので、それほど頭にきているとも思えない。だから誰かの思惑通りになるわけでもなく、それに関わっている人の中で相対的な優劣はあるものの、誰が状況を支配しているともいいがたいので、その辺で付け入る隙が生じているようで、何とかいなしながら、決定的な事態になるのを回避しているようにも思われる。それなりにうまく立ち回っていることになるのだろうか。そうだとしても気を抜いたらやられてしまいそうなるので、勝敗がはっきりするまでは何とか持ちこたえなければならないところか。とにかく相手の攻撃を食らって打ちのめされているふうを装いながらも、それとは関係のないところでうまく事を進め、結果的にそんなせめぎ合いから遠く離れたところまで移動できればしめたものだ。あやふやなゲームであり、厳格なルールもないのだから、こちらの持ち札などいくらでもねつ造可能であり、相手に対峙していると同時に相手から背を向け、相手のやろうとしていることとは無関係のことをやっていればいいわけだ。こちらが不利なように見せかけておけば、相手も嵩にかかって攻撃を仕掛けてきて、その攻撃が利いているように思い込ませることで、それなりに自己満足に浸れるだろう。


1月2日

 何を単純化しているのか。おおざっぱに語ろうとしている。またいつもの冗談なのか。そこから遠ざかれない。いつまで経ってもそうだ。今日は曇り空の下で考えているらしい。軽薄なことを考えている。感性は眠りについているらしい。どこかで誰かが叫んでいる。そんな映像でも見たのだろう。すべては間接的な体験となり、直接手を下さなくても何とかなってしまうところが恐ろしいのか。何を操作しているつもりなのだろうか。この世界のすべてではなさそうだ。誰もそんなことは感知せず、誰からも無視されて、何を述べているのかもわからず、ただ適当に言葉を記しているようだ。それでかまわないと思い込んでいるのだろうか。そこから先に何があるわけでもない。後はひたすら同じような行為が繰り返されるだけで、同じような結果とともに同じような思いが募るばかりか。そうならないようにしたいのだろうか。たぶん何を画策しているわけでもなく、何から影響を受けているわけでもない。それらの気分はどこからもたらされたわけでもなく、すべて君の内側から湧き出てきたのか。そうだとしてもなお謎が残る。そうならないようにしていたのではなかったのか。それを超える何かをもたらすために努力していたのではなかったのか。どこかで歯止めがかかっていたのかもしれず、それが感情の暴走を押さえるために機能しているのだろう。しかしそうだとしてもこれは何なのか。実質的に君はそこで何を語っているのか。いつまでもわけがわからず意味不明でかまわないのか。そうならないように工夫を凝らすべきだ。だからそれが冗談なのではないのか。気がつけばまたおかしなことを述べているらしく、それがどんな意図を含み、何に関して語られていないにも関わらず、そのまま続いていってしまうこと自体がおかしいのだ。もはや誰かの独白にもなりはせず、何か特定の意識が語っているとも見なせず、ただでたらめに言葉が並んでいるに過ぎないような無内容になりつつあり、それで済ませて切り抜けようとしているわけだ。現状はそんなところだろうか。

 誰かの妄想がそういう状況を招いているわけではなく、何も考えていないからそうなってしまうのではないか。ただ文章になっていればそれでかまわないような気でいるらしく、それもいつものことなのだろうが、いつも以上にはならず、ただそんなことを述べていれば済んでしまうような状況に安住しているようで、要するに堕落しているのかもしれず、もう少しまともな内容にしなければと思うが、そうならないところが誰かの限界を露呈させているようで、すぐにそれでもかまわないと思い込み、そんなやり方で完結させてしまうところが、誰かの欠陥を露呈させているようで、やはりそれ以外はあり得ないので、それでもかまわないと思う他なく、それが予定調和となり、何となくそれらの言説をつまらなくなせているような気がするが、ではそれ以外に何があるのかといえば、俄には何も思い当たらず、やはりそうなる他ないような状況下で、相も変わらずそんなことを記しているわけで、そういう成り行きが君を精神的に追いつめているように思われ、誰かを憂鬱な気分へと導いているわけなのか。たぶんそうだとしても何でもない。そのままそれをやり続け、やがて飽きてきて、それとは違うことを語れる日が来ることを願い、実際にそうなった時のことを想像しながら、ひたすら機会の到来を待っているのだろうか。冗談ではないのか。何がそうなのだろう。誰かはまたポテトチップスが食べたくなってきたようだ。カップ麺も食べたいのか。健康に悪そうだ。それだけでは済まないだろう。どうせまたサプリメントでも買ってしまうのだろうが、さらに気分がおかしくなりそうだ。何を空想しているわけでもなく、現実の世界で実際に何か適当なことを考えているようで、それについては何も記さなくても、何だか行間から滲み出てくるような気がして、それらの雰囲気とともに、荒んだ気分を振り払い、何とか前向きに生きていけるようにしたいらしいが、実際にどうなるかはその時の運次第か。求めていることはたかが知れていて、その場で巡ってくる偶然の機会にかけているわけでもなく、真っ当な手続きの積み重ねによって、それを得たいのだろうが、たとえ得られたとしても、それがどうしたわけでもないと思ってしまうのだろう。別にことさら感動しなくてもかまわないのだ。


1月1日

 アメリカが終わり、ヨーローッパが終わり、そのついでに日本も終わり、世界が終わる。それらはみんな終焉を巡る幻想に過ぎない。各国のエリート層が考えていることはどこも変わらない。それはそんな戯れ言を真剣に伝えるメディア側の重大な欠陥なのかもしれない。言論の場は救いようのない愚かさが充満しているようだ。オバマは古典的な国家主義者だ。政治家は自らを支持している有権者の利益を優先させなければならない。要するにそれが障害となっていて、結果として視野を狭めているのだろう。彼に何ができるわけでもないらしい。ただ勘違いしているだけなのかもしれない。何かできると思っている。どうせ前任者と同じように戦争ごっこでもやるつもりなのだろう。国家の形骸化を軍事力によって歯止めをかけたいのだろうが、たぶん無理だろう。歯止めなどかかるわけがないし、国家間で経済的軍事的なせめぎ合いを繰り広げている、という誤解が誤解として鮮明化してゆき、どこか特定の国家がこの世界の覇権を握るのは不可能であることが明らかとなり、国家は単なる行政区分であり、そんなものに愛国心だとかいう幻想を抱くのは馬鹿げていることがわかるはずだ。国家とは何か。北朝鮮を見れば納得がいくはずだ。飢えた人々が指導者に操られて、集団でお遊戯をやっている。あれが国家の本質だ。どこの国でもやっていることだ。それはスポーツというお遊戯であり、選挙というお遊戯であり、政治というお遊戯であり、けんかというお遊戯であり、犯罪というお遊戯であり、裁判というお遊戯であり、学校というお遊戯であり、役所というお遊戯であり、会社というお遊戯であり、仕事というお遊戯であり、家族というお遊戯であり、結婚式というお遊戯であり、葬式というお遊戯であり、時には戦争というお遊戯であったりする。今日もテレビを見れば、画面の向こう側で芸能人たちがお遊戯三昧だ。君はそんなお遊戯満載の日々を送りながらも、他に何をすればいいのだろうか。そんなのはみんなお遊戯に過ぎないと宣言して、結果として誰からも相手にされない事態を招いているだけか。それともこれから無駄な抵抗を試みようとしているのだろうか。

 そもそも何に逆らっているのか。何を目指しているのでもないはずだ。デモとか革命とか民主化とかいうお遊戯に心を奪われているわけではないし、ただ昼は仕事をして、夜はこうして言葉を記しているだけだ。それもお遊戯のたぐいかもしれないが、他に何ができるというのか。正気ではないと嘘をつくことは可能だろうか。狂気にとらわれていることが正気を保つ秘訣なのか。まだ目覚めているわけではないようだ。君とは違って、ロボットに乗って戦争ごっこをやっているアニメの主人公は何かに目覚める。結論から言えばそれがニュータイプなのだろう。相手の動きを見切ってより速く攻撃を仕掛けることができて、結果的により多くの敵を殺すことができるようになるわけだ。何十年も前からそんなことが飽きもせず繰り返されているわけで、それがガンダムと呼ばれる殺人兵器に乗った少年が背負うことになる宿命なのか。これまでは愛する人を守るために敵を殺さなければならない話だったはずだが、今では殺す相手が得体の知れぬ異星人となっているわけか。話が進んでいくにつれて、その辺の事情が明かされる設定なのだろうが、誰がそのテレビアニメを見ているわけでもないらしい。見るのが面倒くさいのか。あるいは興味が薄く、ちらりと数分間見て、さっさと別のチャンネルに切り替えてしまっただけなのか、その時の記憶が定かでないが、どうせ春先には何らかの謎が明らかになるだろうから、ネットで検索でもして、話のあらすじでも読んでみればいいのだろうか。その機会がやってくるか否かは、ひとえに偶然の巡り会わせにかかっているのだろうが、この先世界情勢とテレビアニメがどのように関わり合ってくるわけでもないだろうし、それとこれとは別次元でそれぞれに展開していくのだろうが、それらに関わっている人々の動作をすべてお遊戯と見なしてしまうのも、何だか馬鹿げた単純化だと思われても仕方のないことか。どちらにしても新年早々本気になれないし、真に受けるわけにはいかないことばかりのようで、今年も君は気晴らし的にそんなくだらぬことばかり語ろうとしてしまうのだろうか。


2011年

12月31日

 またどこかで行き詰まっている。道に迷ったのだろうか。何を語りたいわけでもない。腹が減ったらしい。何かが集中的に訪れようとしている。意味がわからないがそういうことだ。誰かは面倒くさくなってきたので、しばらくやめてテレビを見ているようだ。携帯ゲームなどをやるほど退屈していない。どうも他人事のようだ。誰かが笑い、そうでもない誰かが画面に映り込む。他の誰かはどう思っているのだろう。どうでもいいことかもしれない。それだけのことなのか。そんなことを覚えている。やはりそれだけのことのようだ。鬱な気分なのか。そうであってもかまわないような気がするが、何でもないような気もしてくる。ついているのだろうか。きっと気のせいだ。それについての判断は保留しておこう。今はまたそんなことを考えていて、それに関して記すことはないが、何となくそんなつもりで、それとは別に言葉を記しているようだ。何を濁しているのか。ただそんなふうに思っているだけかもしれず、自らの無意識を把握できずにいるらしい。それでかまわないとは思わないが、とりあえず続けて言葉を記してゆけば、何か途中でわかることがあるかもしれない。本気でそんなことを思っているとも思えない。何が見出されているわけでもないが、それは語るべきことではない。きっとどこかでバランスを取っているのだろう。心の均衡を保とうとしている。それだけのことだ。後は何もないようで、ひたすら無駄に言葉を連ね、気が済んだところでやめるつもりなのか。また一段と堕落している。次回はそうならないように努力しよう。架空の存在でしかない君もそう思っているはずだ。またそんな嘘をついているのか。誰が何をやろうとしているわけでもなく、ただ言葉を記しているだけだろう。唐突に誰かの名前を思い出すが、その名が記されることはない。眠れなくなってしまうだろうか。なぜそうなってしまうのか。そうならないように努力している最中だったのではなかったのか。その意図がわからない。

 でたらめでかまわないのだろう。もとからそのつもりか。どんなことを実現したところで、誰から賞賛されようと、そんなのはどうでもいいことなのか。人々はこの世界でゲーム中毒に陥っている。生きていること自体がゲームだと思いたいが、そんなたとえでは誰からも否定されるだけだ。たとえではなくゲームそのものなのではないか。そう思っていればいいだろう。軽薄すぎるか。何がそうなのかわからない。たぶんどうでもいいことだ。この先に何が待ち受けているわけでもないし、すぐに死んでしまうわけでもないのだろう。まだ時間がありそうな予感がしているらしい。君は限られた時間の中で何を成し遂げなければならないのか。それがわからない。今はわからなくてもだんだんわかるようになるのかもしれず、天からの啓示のごとき大げさなものではないかもしれないが、必ず何かをやらなければならない機会が訪れ、嘘のような冗談のようなことをやっていたりするのかもしれず、そんな成り行きになることを今から期待しているのだろうか。誰がそう思っているのか。今ここで架空の存在である君が思っていることだろう。ではそれもフィクションに含まれる文字列なのか。またややこしいことを述べようとしている。画面の前で誰かが首を傾げる。こんなはずではなかったのか。要するに期待外れというわけか。まだ現実には何もやっていない。言葉を記しているだけで、それによって何を作り出しているわけでもなく、それらは幻想ももたらせないような何かだろうか。なぜそう思うのか。誰もそうは思わないか。灰色の大地が目の前に広がっていて、夢の中でそれをひたすら眺めている。何もない。虚無は何もしていないようだ。自らは手を下さない。だから期待外れだと思われてしまう。君はそこで必死に取り繕うとするが、もう遅いらしく、ロン・カーターのピアノ演奏とともに、そこから強制的に退散させられ、何かが一区切りついて、もうそんなことは忘れようとしている。君は指名手配中の逃亡者だったのだろうか。そんなはずがない。またそこへ舞い戻ってくる気でいるのだろうが、果たしてそれはいつのことになるのやら。待ちきれずに誰かが言葉を記そうとしている。


12月30日

 テレビを見ながら何を笑っているのか。二杯目のコーヒーだ。相変わらず何も語らない。そこには空気があり、誰かがそこで呼吸している。それが生きている証拠となるのか。そんなことを問いたいわけでもなく、そんな証拠を示さなくても生きているはずだ。まさか言葉を記しているのが死人というわけでもないだろう。誰の亡霊が何を問いかけているのでもなく、語らずにいることをひたすら隠そうとしているわけでもない。実際に何も見出せないだけのようだ。あくびだけが止めどなく出てきて、退屈を持て余しているようで、またテレビを見てしまいそうになるが、今のところはかろうじて踏みとどまっているようだ。痩せ我慢もいい加減にやめてほしいか。君の知ったことではないらしい。別にかまわないのだろう。誰かがハーモニカを吹いているようだ。この宇宙に謎などない。この宇宙とはどの宇宙なのだろうか。誰かが書物を読もうとしている。君はそう思いたい。この世界で誰を虚構化していかなければならないのか。著者という特権的な立場を占有したいのか。それは誰でもない。よそ見をしている場合か。リンゴを食べたくなったらしい。なぜそれを教えたいのか。画像に見とれている。そして眠ってしまったらしい。目覚めたらまた翌日になっていることに気づく。そんなことの繰り返しのうちに、記述がどこまで続いていくわけでもなく、いつかは途切れてしまうのだろう。ついさっきまでは途切れていた。時間稼ぎをしている場合か。何がそうなのかわからないが、ハッブル宇宙望遠鏡が捉えた星雲の画像に見とれていたわけか。いいわけじみているようだ。途中で何が引っかかっているわけでもないだろう。今日は何の途中で目覚めたのか。たぶんそれは睡眠の途中だったかもしれず、目覚めたのは朝だったかもしれない。それで何を思いついたのか。文章を読めなくなってきた。理解できないのだろうか。そして君は途方に暮れ、何を語ればいいのかわからなくなるが、それは毎度のことらしい。

 それで少しはやる気になっているのだろうか。何かに流されている。まだそれをやる機会があるというのか。腹の探り合いというわけではない。しかしなぜそんな日付で言葉を記しているのか。二日前というわけか。虚構の世界ではそういうことらしい。そうではないような気がするが、まだこだわりが捨てられず、毎日言葉を記しているように装いたいらしい。虚しいこだわりだ。なぜそんな嘘をつくのか。こだわりたくはないのかもしれない。さっきまで述べていたことと矛盾していないか。それが狙いだとすると、君はこれから何を語ろうとしているのか。今語っているつもりのそれをどこまでも延長させる気でいるらしい。無謀な試みだが、それもいつものことに違いなく、どこかをぐるぐる回ってたどり着いたそこが桃源郷というわけでもないのは当たり前のことで、何だかごちゃごちゃ家が建ち並んだ間にある狭い土地だ。枯れ草だらけのそこがたどり着くべき場所なのか。俄には信じがたいが、その狭い土地に家が建つらしく、すでに大して広さの変わらないとなりの区画には建っている。君は本気でそれを信じているのか。たぶんそうなのだろう。数千万円もかけてそこに住んでどうするのか。どうもしないようで、ただ住んでみるだけのようだ。他に理由などありはしないだろう。家は住むために建てるものか。転売したり貸家にしたりするのもありかもしれないが、とりあえずは住むつもりらしい。馬鹿げているだろうか。極めて当たり前のことだ。何だかため息が出るが、何かの冗談のような気がして、今からでも遅くないから正気に戻ってもらって、考えを改めさせようとしているわけか。今さらそんな成り行きでもないだろう。住むなら勝手に住めばいいし、そのつもりで土地を買ったのではなかったか。それだけのことであり、他に何を思っているわけでもないし、どんな思惑や意図があるわけでもなく、自然の成り行きでどこかから押し出されて、そこに行き着いたまでのことか。確かに君はそう思っているらしいが、周りではどう思っているのかもわからないし、何か別の思惑があるような気もしてくる。


12月29日

 これも勘違いのたぐいなのか。でも勘違いから出発しないと何も得られない。どこから出ようとしているのでもなく、何を語ろうとしているのでもない。そんなことを語る必要はないのかもしれず、実際には何も語っていないのではないか。まだ語る以前の段階だ。何を模索しているのか。君の勘違いでしかない。たぶんそれだけのことなのだろう。それだけのことのなのに妙に引っかかるものを感じるのが勘違いなのか。またできないことをやろうとしている。もう深夜だ。明日も仕事なのではないか。やめた方がよさそうだ。そして翌日の夜だ。何もありはしない。今日はテレビを見ずに言葉を記すとしよう。何もないのにそれはないか。なぜがんばらなければならないのだろうか。秘密の三景か。それが何を意味するのかわからない。君はわかりかけているのではないか。またそんなことを述べている。南極にも白夜があるのだろうか。検索してみればいい。あるらしい。だが秘密の三景の一つがそれというわけでもないだろう。君はいい加減に問いかける。間違った答えを引き出そうとしているのか。外れないように努力する気はないらしく、何がどこから外れるのかわからないまま、そんなことをあてもなく述べている。意味不明といういいわけがほしいのか。そんなところからは早めに退散した方がいい。相変わらず何を述べているのかわからないはずだ。そんなふうに語りたいのだろう。考えるのが面倒くさいのか。感覚と感性だけで言葉を並べ、何を述べているのかわからないようなことを述べているように装いたいのかもしれないが、それがわからない。わからないようなことを述べているつもりなのだろうから、それでかまわないのはもちろんのこと、そういうやり方に頼って何かを済ましてしまうつもりなのかもしれず、それが今ひとつしっくりこないようなのだろうが、何となくそうなってしまうのなら、その線で押し通してみればいいだろう。そんなわけで結局わけがわからないことを述べているようだ。

 そしてなぜか頭の中が真っ白になろうとしている。誰かがそういうフィクションを構想しているのかもしれないが、相変わらずそんな嘘をついているだけかもしれず、どこかで変な思想に染まって、それを真に受けざるを得ないような状況の中で、何かに洗脳されようとしているのだろうか。そんな妄想を抱いているだけか。言葉だけなら何を記してもかまわないのだから、そんな話をねつ造して、興味深そうなフィクションを構築してみればいいではないか。君では力量不足か。やりもしないうちから想像だけは勝手に働くようで、どうせやらないことははっきりしているのに、さもこれから何かを語ろうとしているかのように振る舞うのも、思わせぶりが過ぎるだろうか。誰も信用していないのではないか。しかしいったい君はこれから何を語るつもりなのか。もうすでに語っていることの延長上に何があるというのか。そんなことではない。たぶん何も語ろうとしないだろう。誰かがひたすら言葉を記しているだけのようで、たぶんそんなことの中で何かを考えているのだろうが、今のところはその考えている何かが明かされる気配はなく、何も考えていないようなふりをするばかりのようだが、またもやそれも思わせぶりで、本当は何も考えていないのかもしれない。年金暮らしの老人が旅をしている。絶海の孤島を目指して貨物船に乗り込んでいるようだ。やはり君はこらえきれなくなってテレビを見てしまい、そんな情報を得る。君も旅がしたいのか。まだ無理だ。無責任に振る舞いたいが、勝手気ままというわけにはいかない。誰かはそんな映像を見てうらやましく思える。どうせどこにも行くあてはないのだろう。ここは架空の世界だ。そんな嘘をつくと不思議な感覚がもたらされ、二杯目のコーヒーを飲みたくなってくるが、まだ言葉が足りない。なぜそう思うのか。あかぎれを絆創膏で覆い、画面に向かってにやけてみるが、何も起こりはしない。君はこの場にとどまるばかりのようだ。何を思いつくわけでもない。それでかまわないだろうか。誰に同意を得られなくてもかまわない。


12月28日

 半ば勘違い的にここからが正念場だと思う。意味不明かもしれないが、そういうことだと思うしかなさそうだ。それにつれて君は影を潜め、代わりに何かが心の奥底から這い出てくるが、それは何かの亡霊か。塵や芥のたぐいに違いないが、今はそれしかないらしく、かろうじてそれを食い止めている良心のくさびも簡単に引っこ抜け、貧乏揺すりを続けながらそれを記そうとする。無理なのではないか。眠たくなっているはずで、これ以上進むと危険地帯に入ってしまう。明日にも響いてきて、どうせ続かなくなってしまうだろう。ではやめたらいい。さっさとやめて翌日に言葉を記しているようだ。何だからわけがわからないが、そんなことを思いながらも、今ひとつしっくりこないのは毎度のことで、他の誰かが違うことを言っているような気もしないではないが、強引にそれを肯定しつつ、言葉を記している当人は何を肯定したのかわからないまま、その先で行き詰まってしまうわけでもなく、適当にいい加減に何かをいなしながら、前方にある障害物をかわしたふうを装い、それで何を述べているのでもないことを承知しつつ、君はそこから何を得ようとしているのか。結果的に得られたものが虚無だけではつまらないか。言葉の連なりを得て、それが中身のない虚無そのものだとしても、それで満足すべきなのだろうか。不満ならさらに誰かが言葉を付け足すだけで、言葉の連なりが長くなる以外は何が変わるわけでもない。だからそれを冗談だと見なせば合点がいくわけか。それこそ冗談なのではないか。そんな無内容から何が得られるはずもなく、理解しようとしても徒労に終わるだけかもしれず、今はそれでかまわないと思うより他ないような成り行きの中で、君は焦っているのだろうか。誰が冷や汗をかいているわけでもなく、何がそこから先に出現するわけでもなく、ただそれらの文字列は君を困惑させるだけのように感じられる。

 それでもうあきらめてしまったのだろうか。長々と無駄に言葉を連ねる作業に飽きてしまったのか。近頃は洗濯乾燥機の調子が悪くなり、生乾きとなってしまう。またわざと関係のないことを記しているようだが、苦し紛れなのが見え透いていて、それが何を意味するわけでもないことは明白かもしれず、そんな文と文の不連続なつながりをそのまま放置して、その先を記していくつもりらしいが、さらにわからなくなってきたようで、なぜそうするのか理由がなく、その場の思いつきをそのまま放置してしまうことが、どのような意図とも思惑とも無関係なような気がして、そこで謎を深めるにしては、内容が内容なだけに馬鹿らしく思えてきて、結局どうでもよくなってしまうのだろうが、まったく言葉を記している者の頭がおかしいとしか判断しようがない。だがそんなことを記している当人がそんな判断を下したところで、何がどうなるわけでもなく、さらにおかしなことを述べている現状があるだけか。君はそれを説明している気になっているようだが、当人の当人による当人の記述についての説明となり、それもおかしなことかもしれず、何がおかしいのかわからないままに、ひたすらそんな説明に終始しているようだが、それで字数稼ぎのつもりなのだろうが、それも見え透いた行為でしかないか。でもどうにかこうにかここまでやってきたはずで、何となく内容がどうであれ、後退しつつも前進しているような錯覚に陥ってしまうのも悪くないように思われ、前進も後退も同じなのではないかと開き直り、そんな路線で当面の困窮を切り抜けるつもりらしいが、くだらなすぎるだろうか。そうだとしてももうやめようがない段階まで言葉を記してしまったのではないか。では良心を捨て去り、事後承諾気味にそれらの悪ふざけを認めつつ、あまり調子に乗らないようにすれば、何とか程々でやめることができるような気もしてくるが、それがそうは問屋が卸さず、とんでもない深みにはまってしまい、もはや後戻りができなくなるまで、狂気の馬鹿踊りを続けなければならなくなってしまったら、それは恐ろしいことか。そうなればそれしかできなくなってしまうのだろう。


12月27日

 不思議に思われる。U2のボノが歌う I Still Haven't Found What I'm Looking For が良いとは思わないが、なぜか他のブルースやカントリーの歌手が歌うと魅力的に聴こえてしまう。曲や歌詞が良いということか。日本なら北島三郎などの演歌歌手が歌うと栄えるのだろうか。確かU2はアイルランド出身のロックバンドだったから、イギリスとアイルランドの関係を東アジアに置き換えると、日本と韓国のような位置関係であり、要するに韓流系のようなものか。強引なこじつけかもしれないが、君は似たような雰囲気を感じるらしい。それだけのことだ。ではそこで終わりではないか。もう少し話を膨らませないといけないか。どのようにすれば膨らむのかわからない。膨らまないだろう。それでかまわないのだ。無理に技巧を凝らす必要はなく、それ以前にできないのだからやりようがない。今聴いているのはイタリアのマイルスもどきだ。Cesare Dell' Annaの My Miles なのだからその名の通りか。本家以上に至れり尽くせりなのだろうか。その辺は素人なので、トランペットの吹き方が本物よりうまく聴こえる以外はわからないが、曲にもいかにも本家がやりそうな雰囲気がある。それではやはり至れり尽くせりなのではないか。そんなわけで話は膨らまずに横へずれただけのようだ。次はJosé Jamesとかいうヒップホップ系の風貌の輩が、ジャズのスタンダードナンバーを歌っている。これは記している者の勘違いで、案外本格的なジャズシンガーなのかもしれず、バックの演奏も何の飾り気もない普通のジャズではないか。そういえばはらいそを高橋幸宏までが歌っていることを発見して驚いた。日本のスタンダードナンバーがはらいそなのかもしれない。何の飾り気もなく、普通に歌っている歌手が多いように思われ、大してメディアも宣伝していないだろうに、草の根的に広まる歌がスタンダードナンバーになるようだ。そしてはらいそを歌う歌手は砂の岬やトラヴェシアなども歌う。ジャンルも国も違うが共通点でもあるのだろうか。

 身の回りに蔓延っている虚無を振り払うことができないらしい。それが虚無だと思わなければいいのか。それで問題解決なら何の苦労もなさそうだが、何が解決したわけでもないのだろう。何を語ろうとしているのかわからない。わかるのが面倒くさいのか。わかったこと自体が勘違いに思われ、本当はわかっていないのじゃないかと疑い、疑い続けることに安住してしまい、それでかまわないような気がしてくるのだが、それでは何もわかっていないことになってしまいそうで、不安を感じて、少しでもわかろうと努力するのだが、たぶん面倒くさくなって途中であきらめ、どうでもよくなり、そんな嘘をついている自らを嫌悪しているようだが、何となくそこで停滞しているようだ。それより先へは進めず、その辺で逡巡を繰り返し、行ったり来たりしながら、そのうち疲れて眠くなり、いつの間にか眠っていたようで、翌朝目を覚まし、何も進んでいないことに愕然とする間もなく、仕事に出かけ、昼の間は仕事をしているようで、気がつけば夜になっていて、またいつもの逡巡の時間がやってきて、飽きもせず同じことを繰り返し、気がつけば翌朝になっていて、さらにまたいつもの繰り返しが待ち受けていて、そんなことをやっているうちに春夏秋冬を何度も経験しながら年を取り、気がつけば後先短い老人になってしまったようで、それで誰かのつまらない物語が結末を迎えてしまうようだ。そうならないように、現実の世界では努力しなければならないようだが、何をどう努力すればいいのかわからず、そのままどこかへと押し流されていってしまいそうで、もはや流れに逆らう力も失われ、どんどん流されている最中にこんなことを述べているのだろうか。どうにかしなければと思うが、これがどうにかしていることの結果なのか。わからないがわからないようにしておきたいのかもしれず、誰かは救いようのない現実から目を背けるばかりか。いったいこれからどうやって救われるのか。別に救われようとは思わないが、それでも努力し続ける者はいつかは救われたりするわけか。見返りなど何も期待できない。


12月26日

 また何かが外れているようだ。意識がどこかへ流れさる。そんなことはあり得ない。フィクションだからあり得なくてもかまわないのか。リアリティが希薄だ。わざと外しているのではないか。何が外れているのだろう。相変わらずそれだ。そればかりなのだろうから仕方がない。君はそれ以外の何かを知り得ないでいるようだ。だから外れてしまうのだろう。何かが何処とも知れぬどこかへ離れていってしまう。そんな夢でも見たのだろうか。解せないようだ。やはりそうではないような気がして、はじめから記憶をたぐり直してみるが、よくわからない。渋滞に巻き込まれ、いらついていた時のことか。そんな記憶もよみがえるが、そこに痕跡はない。たぶんそこでやらなければならなかったのだろう。現に言葉を記している。それだけのことだ。感覚的に違っているような気がする。それは気のせいだ。衰えてきたのではないか。眼力がない。顔がしわだらけか。そうなったら老人ではないか。いずれは誰もがそうなる。若いうちに死んでしまえば免れるのだろうか。別に何を目指しているわけでもなく、もう若くはないようだ。だからわかりきったことを問わないでほしい。では何を問えばいいのか。この世界の未来について考えなければならないだろうか。大げさなことだ。君が考えなくても未来は自動的にやってくる。それは冗談に違いない。ではどうしたらいいのか。君はそんな成り行きの中で生きている。どうもしなくてもどうにかなるだろう。自然にどうにかしようとして、結果的にどうにかなってしまうのだ。そしてそのどうにかなってしまった結果が気に入らなくても、それを拒否することはできず、受け入れざるを得ないのだ。そこで生きているということは、結果を受け入れている証しとなる。有無を言わせずそうなってしまうのだから、君にはどうすることもできない。

 それで我慢すべきなのか。実際に何を受け入れ、何を我慢しているのだろう。そういう現状なのだから仕方ない。何を問うても無駄か。それでかまわないのではないか。そんなことを記しているうちに、さらに遅れている現状があり、どんどん記述が遅れ、誰かの意識は過去の時空に置き去りにされている。それでもかまわないのか。遅れを食い止めるために努力している。それが無駄なのか。なぜそう思うのか。よそ見をしている場合ではない。気になることなど何もないはずだ。そう願いたいものだが、言葉を記すことに嫌気がさしているのかもしれず、それをやりたくないから無意識のうちによそ見をしてしまうらしい。それも食い止めるべき動作か。結局抗しきれず、すでに言葉を記さなくなってから一時間が経過している。今は再開しているようだが、なぜ後白河法王に関するウィキペディアを読んでいたのだろう。平清盛や木曾義仲や源義経など、いずれも歴史上に名を残した強者の武士を次々に使い捨てにしながら、浮き沈みの激しい波乱万丈の生涯を通して、自らの権威と権力を保ってきたことが興味深かったのか。でも今は昔だ。どうせ将来大河ドラマの主人公にでもなるのかもしれないが、もしかして天皇経験者は畏れ多くて、NHKでは自粛の対象なのだろうか。君には興味のないことか。清盛や義経や頼朝などなら、いつでもその手のドラマの主人公になるのかもしれないが、そういうのばかりだとマンネリ気味のような気がして、その手のテレビドラマなど見もしないくせに、心配することもないだろうが、たまに見かけるニュースの合間にそんな番組宣伝を見てしまうと、またそれかと呆れてしまうらしい。若手で有望株の俳優を主人公に据えて気を惹こうとしているのだろうが、どうせそういうのを見ればそれなりにおもしろいのかもしれず、だからどうしたわけでもないのだろうが、他に記すべき内容に巡り会えないようなので、その辺でお茶を濁してお開きにするしかないらしい。


12月25日

 寒すぎる。寒さに負けている。気力がないようで、何だかますます精神的に追いつめられてきたようだ。師走だからか。年が明ければまたやる気が出るかもしれないが、当分は遅れを取り戻せない状態が続いてしまうようだ。誰かはもうあきらめているみたいで、何もやる気がしない。すでに夜も遅くなっていて、このままでは明日になってしまい、さらに遅れてしまいそうだ。何とかしなければならないが、語っている内容がこれではだめだ。ではどうしたらいいのか。そうではない内容にしなければならず、そのためにはどうしたらいいのか。こうしてつまらないことを語っているだけではだめのようだ。しかし今のところはそれしかないではないか。誰について語る気もせず、自分についても語ろうとしていない。誰かは誰かであり、君ではない。誰も私とは言わず、そこに誰もいないかのように振る舞おうとするが、何がそうなのかわからず、なぜそんなことを述べているのかもわからない。要するに苦し紛れなのだろうか。眠たいのではないか。これが眠らずにいられようか。眠ればいいだけのことでしかない。だが眠ってしまったら終わりだ。明日になり、言葉を記し終えていないことに気づき、さらなる窮地に陥ってしまう。それだけのことだ。そうならないようにしなければならないが、どうすればいいのかわからないままだ。そのままでもかまわないのだろうか。できればそういうことにしておきたいが、やはりそれを改善していかなければならないのか。今それをやっている最中なのか。それにしてはいつも通り過ぎる。そこで誰が迷っているのか知らないが、君に帰る場所などない。今はひたすら語るしかなさそうだが、それがこれではお粗末すぎるか。何も語らないよりはマシだ。そう思っていればいい。そのうちにまともなことを語れるはずだ。だから同じ場所へ帰ろうなんて思うべきではない。気はそこで寄り道することしかできないのだ。それが嫌ならどうしたらいいのか。語るのをやめるわけにはいかないらしい。

 どうしてもそうなのか。道に迷えばいいのだ。そうすれば自ずから道が開けてくる。誰がそんなことを述べているのか。くしゃみの数だけ忘却の度合いが深まるわけではない。気を抜くとまたでたらめを語りたくなり、実際に活路を見出そうとしている。でたらめでいいなら話が早すぎる。これまでの苦労は何だったのだろう。おそらく何かのアレルギーなのだろう。でも何でもかんでもアレルギーのせいにしてしまっては早合点が過ぎる。ではどうしたらいいのか。ファンヒーターの位置を変えたら暖かくなってきたではないか。でも音が耳障りだ。我慢したらいい。他に何か不快なことでもあるのだろうか。君はそこで何かを思いつこうとしているが、何とかできると思いたいのか。何とかしようとしているのではないか。どうにもできはしない。また眠ってしまったようだ。しかしこれはどういうことなのか。たぶんこういう流れなのだ。この流れに逆らうわけにはいかない。それが冗談なのか。おかしなことを記しているだけかもしれない。たぶん正気に戻った方がよさそうだ。それができればの話だが、そんな話でもかまわないのか。いくら言葉を記してもこのままのようだ。このところはすべてがそういうことになる。この世界の中で君が何を変えようとしているのではない。そういう大げさなことではないような気がする。では何なのだろうか。そこから外れて何をやりたいのか。それも違うと思われ、ただ生きているようで、とにかく死んでいるわけではないことは確かで、そこから先がよくわからないのだが、いつまで経ってもこのままでもかまわないような気もするが、たぶんそこは何かの流れで、変わる時は変わるのだろう。どのように変わるかは今のところ定かでないが、今は変わるような気がしているだけのようだ。そんな流れの中に身を置いているつもりなのだろう。

 この先何を語ればいいのかわからないが、たぶんこんなことを延々と語っているらしく、これでかまわないわけはないだろうが、どうかしているのかもしれない。どうあがいてもどうにもならないのに、悪あがきをしながらどうにかしようとしている。それが現状なのだろうか。今あるこれがそうに違いない。それを認めざるを得ないのに、言葉を記している当人は認めるわけにはいかないらしい。だから無理に語ろうとしてしまうわけだ。そしてさらに言葉を記そうとして、空疎なことを延々と記している現状がある。しかも誰もそれをやめさせられず、ただ黙って傍観するしかないらしい。最悪の状況か。そう思えばそういうことにしておいてもかまわないだろうが、当人にしてみればそれほど深刻だとは思っていない。ここからでもどうにかできるような気がしている。現にここまで記してきたではないか。それが大間違いなのかもしれないが、間違っているならとことん間違わないと気が済まない性分のようだ。君にとってはあり得ないことか。君もこんな現状を認めるわけにはいかないのだろうか。そうであるなら君と言葉を記している当人の間で共通認識が生まれつつあるということか。二人は同一人物なのではないか。それを認めたら話が続かなくなるか。別にかまわないだろう。これらの話はフィクションとして記しているのだから、誰と誰が同一人物であろうとなかろうと、その手の虚構の中ではよくあることだ。しかしそういう話なのだろうか。君にしてみればこれも意味不明のたぐいに思われるのか。これとは何だろう。またそれだ。どうやら君は本気ではないらしい。それも違うと思われるのか。なるほどそう思えばだんだん言葉がつながらなくなってきて、意味不明気味になってきたようだが、それでかまうかまわないの話にはならないだろうか。冗談の次に出てきたのがそれなのか。何が次でもなく、次がないからそこで足踏み状態なのかもしれず、延々とそんなことを語るしかないようだ。


12月24日

 心が壊れかけている。寒すぎるから今日は何も語らない。嘘だろう。心に決めているわけではないが、気休めに周囲の風景を眺める。金閣寺も雪景色のようだ。何のことはない。テレビを見ているだけではないか。他に何か目にとまるものがあるらしいが、それについて語らないのか。気まぐれでひねくれて、それを無視して他にめぼしい何かを見定めようとしている。部屋の中には何もないはずだ。誰がそれを必要としているわけでもなく、たとえあったとしても、誰もそんな話は信じないだろう。君が信じたいのは話ではない。それとは違う何かを手に入れようとしている。それは虚無か何かか。いつものと同じではないか。今はそれを探しているわけか。虚構の中で手に入れた虚無を誰かに見せびらかそうとするが、何か違和感があるようだ。夢でも見ているのか。違和感があるのに何が違うのかわからない。どうやらでたらめのようだ。夢の中では相変わらず頭がおかしい。それについて言葉が出てこない。だから君が語るようなことではないはずで、それについていくら言葉を並べても、文章にならないようだ。誰かがそんなことを記している。君はよそ見をしていたらしい。そしてまたできないことをやろうとしていて、それは架空の話になってしまう。本当はそうではないのに、なぜそうなってしまうのだろうか。誰と誰が何をやっているわけでもなく、誰かが相変わらず言葉を記しているだけだ。それはわかりきったことであり、それしかないのに、他に何かあるように見せかけようとしているわけか。それも違うのではないか。君は何をやっても外れてしまう。的外れなことを語ろうとしている。それも技巧のうちなのか。冗談ではない。別に冗談であってもかまわないようだが、そんなふうに語る必要はない。それでかまわないと思っていれば、それでかまわなくなるわけだ。しかし結果としてそれで何を語ったことになるのか。

 相変わらずそこには何もないらしく、それでも何かあるように見せかけているのはいつものことかもしれない。火のない所に煙は立たないのは、よく言われることわざだが、例えば牛乳瓶の底が凸レンズの役割をして、何かの加減で光を集めて火事にでもなったわけか。そんなあり得ないことをわざと述べてみるが、リアリティに欠けるのはもちろんのこと、馬鹿げていると思われるのも当然のことか。何だか途中から脱線しているようで、だがわざとそうしているのだから、別にそれほど自己嫌悪に陥ることもないだろうが、くだらないことに変わりはなさそうで、非の打ち所がないの逆で、全否定されるような内容になりそうで、何だか怖い結末を迎え、そのまま終わってしまいそうは気配さえ漂ってきて、どうも自らが正気とは思えない。そうまでしてそれらの作業を継続させようとしているのか。まったくどうしようもない惨状を呈しているようで、君は何かを否定しまくり状態に移行しつつあるようで、その辺で何とか歯止めをかける必要に迫られ、誰かが仕切り直しを画策しているようだが、今さらそれは不可能か。それでもまだあきらめていないことだけは確からしく、どうせ苦し紛れのごまかしを繰り出して、そんな思いをうやむやにしながら、さらに言葉を記している間に、忘れたふりに及び、本当に忘れてしまったことにしておきたいのかもしれないが、君はそこで何を語ろうとしていたのか。まずはそれを思い出さなければならない。だからそういうことではないと否定したいのか。それではさっきまでの愚行と同じではないか。誰かは言葉を記しながら何を思っているのだろうか。もうあきらめた方がいい。それはわかりきったことだろうが、別にわかっていながら悪あがきをやり続けていてもかまわないのではないか。君がそうするのなら、こちらにもそれなりの対処を検討しなければならず、そこで終わらせてもかまわないような言葉の分量に達したところで、さっさと終わってしまってかまわないのではないだろうか。

 まさに今がそのタイミングなのだろう。しかし終わらせようとするのを阻止する作用も一方では働いていて、二つの作用のせめぎ合いの狭間で心は揺れ動き、迷っているうちにタイミングを逸して、さらに言葉を記し続け、結果としてそれらの記述作業は混迷の度を深めているらしい。まるで他人事だ。次第に投げやりになりつつある。本当にそろそろやめた方がいいだろう。気が狂いそうか。冗談でそんな気分を装っているだけではないのか。ならばこれからどうしろというのか。どこからか大津波でも押し寄せてきて、ビルの階段を駆け上がり、逃遅れた人々を救助するはめに陥ってしまうわけか。今年はそんな映像を嫌というほど見せつけられて、夢にまで出てくるのかもしれないが、別にそれがどうしたわけでもなく、やはり気まぐれの一環として、そんなことを記して目線を逸らし、何か別のことを考えているように見せかけ、本当は何も考えていないことがバレバレな状況なのだろうが、そうまでして無駄に語る必然性も見出せず、それに関して何を講釈する必要も感じられず、さらに言葉を記しながら、どんどんそこから遠ざかり、もう忘れてもかまわないほど時が経てば、たぶんそこから思い出したように語り始めるのかもしれないが、その時にはもうすでに語る理由など忘れているはずだ。今も思い出せないのに、そこで気づくはずなどあり得ない。そうならそうで一安心していいのではないか。やっと何かから解放された気分で、そんな無益な記述からもおさらばして、どこか遠くの旅先で、優雅に遊びほうけていることだろう。本当にそうなればおもしろいかもしれないが、いつまでもそんな空想の世界に浸かっているわけにもいかず、あり得ないことはあり得ないこととして、真摯に今ある現実へ向き合い、これからどう決着をつけたらいいのか考えている最中かもしれず、何とかおとしまえをつけるべく、おとしまえの意味もわからず記してみたものの、やはりどうもそれは違うと感じてしまう他ないらしく、そうではないような状況が到来することをひたすら祈るばかりのようだ。


12月23日

 ここからどうしようというのか。問いかけるのはやめた方がいい。誰に問いかけているのでもない。他に何もないではないか。他がなくてもその他がありそうだ。ただの戯れ言だ。つまらないが我慢しなければならない。またそんなことを述べている。本当は何もないのだろう。何とも思っていないようだ。でたらめでもかまわない。わざとそんなことを語り、それとは違ったふうに記そうとする。アドリブのつもりか。くだらないようだ。やはり語り続けるのは無理ではないのか。自分に問いかけてどうするのか。どうもしない。そしてどうにもならないようだ。笑ってしまうか。だがここから語るつもりでいるらしい。そうは思えないが、ごり押しのごり押しで、無理矢理言葉を記してみよう。嘘をついているような気がするが、変わる時が近づいている。すでにその最中ではないのか。どう思っても、とりあえずそれが正解としておこう。本気だとは思えないが、それでかまわないのだ。しかしまだ内容を伴ったことは何も述べていない。だからそんなことは織り込み済みだろう。何がそうなのかわからないが、とにかく空疎なことを述べていればかまわないようだ。いったい誰がそんなことを決めたのか。君ではない。それはわかりきっている。架空の時空で誰かが何かをつぶやいている。そういうことにしておきたいのか。まったくの意味不明か。誰かはそこで堕落しているようだ。夜の景色の他に何を眺めているのか。何も思いつかないようだ。それは誰の肖像でもない。ただの写真か。半分切れているではないか。それがどうしたわけでもない。またいつもの言い草になっている。何よりもそれを変えたかったのではなかったか。それも何かの無駄遣いには違いない。他に何があるというのか。冗談には違いない。心のどこかが抜けているようだから、間抜けな気分だ。今はそういう嘘をつくのをためらう。それが嘘なのだろう。使っている言葉がおかしい。もう少しなんとかならないものか。ここが思案のしどころだと思っているわけか。

 たぶんそうではないのだろう。そこから心が外れ、何を語っているのかわからなくなり、次いでどうでもよくなって、そこからがおもしろくなってしまうような気もするが、ただわけがわからないだけのような気もして、ますます空疎な内容になってしまいそうだ。そう思っているのならそれでもかまわない。別に何がどうなっているわけでもなく、ただ記述を続け、記された内容のない文章を読み、何も感慨がわいてこないような気がしているだけか。それだけのことだ。それだけのことなのに悩み、そんなことを記していることに嫌悪感でも抱いているわけか。冗談だ。そうは思わないことにしているらしい。自己嫌悪ばかりでは精神衛生上良くない。まかり間違えば自殺してしまうのではないか。それも冗談のたぐいだろうが、鬱を演じる気分ではない。なぜそう思うのかわからないが、そんなことを延々と述べているのは事実で、その事実を誰から突きつけられているのかわからないが、何となくそんな気分で冗談を述べているつもりになり、その辺に漂っている虚無感をごまかそうとしている。ごまかせるようなものではないのかもしれないが、フィクションだと思えばそれも可能に思われるはずだ。まったくでたらめだろうか。それで何とかしているつもりだから、そんなふうに思っていればいいのではないか。それがごまかしている証しとなるだろうか。なぜそれが必要なのか。不要でなければ必要だということにしておいて、それが逃げ道だと思っていればいいのではないか。だがなぜそこから逃げなければならないのか。そこにとどまり続ければ気が狂ってしまうとでも思っているわけか。それでは元の木阿弥となりそうだ。それでかまわないのかもしれないが、少しは従来とは違う変化を望んでいるのなら、そうなってしまった方がいいのではないか。誰がそう思っているのだろう。君か。君でなければ誰か。

 今日は何も出てこないようだ。世間に関する話も皆無のようだ。それが不満なら何か付け加えてみればいい。できたらの話だろうが、現状ではできるはずもない。無理なのではないか。心がどこかへ行ってしまったらしい。無意識が意識に勝っている。そんなことがあり得るだろうか。今がそうなのか。だが何の話でもないことは確かであり、君には関係のないことに終始している。興味が湧いてこないのだろう。だからありふれた動作ばかりで、何だか底が抜けているようで、今までの節約術が役に立たなくなっている。もっぱら買い物ばかりとなっている。今まではそうならないようにしてきたわけか。何かが違うようだが、気分が乗ってこない。気分の問題ではないのかもしれず、精神的に追い込まれ、窮鼠猫を噛むがごとく、破れかぶれで何かに向かって襲いかかろうとしているわけか。そうではないだろう。そんなことではない。また苦し紛れにでまかせのでたらめを述べている。それはいつものパターンに違いない。それで正気に戻るわけがない。ではどうしたらいいのだろう。冗談ではないと思えばいいのか。何がそうなのかわからない。気がつけばもうこんな時間となっている。さっきまではテレビを見ていたはずだが、今は言葉を記している。何か矛盾を感じないか。そんなことでもない。聴いている音楽に影響されているとも思えない。それが君をどうしようとしているわけではなく、それとは何でもない何かであり、それだけではなく、それがすべてではないのはもちろんのこと、語ろうとしているそれが君とは無関係に語られているだけかもしれない。文法的に間違っていないか。君は何を語ろうとしているでもない。それはわかっていることだ。誰かが記しつつあるそれは、君が語ろうとしていることとは無関係だ。それもわかっていることか。ならば誰かは何を記しつつあるのだろうか。それがこれだとすると、これとは何なのか。少なくとも君が語ろうとしていることではない。だから何がどうしたのだろうか。


12月22日

 何の問題もないところが最大の問題なのだろうか。人はいつでも問題に取り組んでいないと気が狂うのか。別に狂ってもかまわないから、少し休ませてほしい。実際に休んでいるようだ。今は言葉を記している。誰かがそうしているだけだろう。君がそれを認めるはずがない。何を認めたがらないのか。また忘れているようだ。それだけではない不満らしい。何がそれだけなのか。状況が呑み込めない。理解不能になっている。深夜に目覚めてそれはない。ではどうしたらいいのか。たぶん言葉を記せばいい。実際にそうしている。別に気が狂うのではなく、気が済まないだろう。ようやく昨晩の間違いに気づいたらしい。もう遅いだろうか。まだ始まったばかりだ。ではこれから修正していけばいい。何を嫌悪しているとも思えないが、しばらくはこの調子で言葉を記していくこととしよう。内容は期待できないが、遅れを取り返さなければならず、それをやるにはこうする以外はあり得ない。ちょっとしたことなのか。ちょっとした違いなのかもしれないが、そんなことを思っているうちにまたやる気が失せてくる。指先がしびれてきて、何かが違っていることを再認識する。どうせ気のせいだ。だが気分がおかしい。このまま続けるわけにはいかないようだ。やめてしまえば困るのは自分か。何を迷っているのだろうか。そんなやり方ではうまくいきそうにない。ならばもう少し待った方がよさそうだ。気持ちを落ち着けてまた出直してくるとしよう。仕事をしているうちに昼になっているようだ。晴れている。何を語ろうとしているわけではないが、とりあえず晴れている。語ることができるのはそれだけだ。雲を眺めながら何も思わず、ただ黙ったまま昼休みの最中だ。雲の切れ間からまた日が射してきたようだ。そこであきらめてしまうのか。それでかまわない。語りたくないのならやめてしまえばいい。

 冗談なのか。逃げ場所が確保できない。追い込まれてしまったわけか。なら言葉を記した方が身のためだ。音楽でも聴きながら、気楽にやればいい。いつか忘れた頃にたどり着くのではないか。今はそれで我慢すべきだ。何も語ることがないのだから、そうするより他にない。空は晴れているのか。夜だからわからないか。星空なら晴れているのではないか。人の意識は空疎だ。人とは誰なのか。中身がない。塵や芥のような存在にしかなれない。君は不在だったのではないか。そうだった時もあったらしい。また嘘をついているようだ。今日はそれほど寒くない。何が起こることもなく、平穏無事に過ぎ去ってくれればしめたものだ。明日はどうなってしまうのだろうか。明日は明日で明日になったらわかることだ。久しぶりのインスタントコーヒーはうまい。クリープと砂糖が入っているからなのかもしれない。ごまかしのたぐいだろう。それがいいわけか。イミテーションでかまわないだろう。人の存在自体が偽りなしにはあり得ない。生きていることがごまかしを必要としている。死んでしまったらごまかしようがない。生きている人間が死んだ人間をごまかすことはある。偽りの経歴を並べ立て、時として英雄に仕立て上げたりするわけか。それは作家のたぐいがやることだ。君はどうなのか。君自身が虚構の存在だ。誰かがそれを記している。それだけのことか。そんなことでしかない。そしてそれを記すのが面倒くさくなり、やがてそれらの記述は放棄されてしまう。もう三日も遅れているはずだ。いったいこれがどう巻き返すつもりなのか。手巻きの機械式時計ではないのだから、簡単にはいきそうもない。だから今やっていることを続けていけば、いつかは追いつくだろうが、そこまで根気が持続しそうにない。今はそう思っていても、やる気が出る時もあるだろう。君はそれを待っているのか。

 別にそれを待ちこがれているわけでもないはずか。いつやめてもかまわないのだ。君はどうかしているようだ。心が動揺しているふりをしたいのか。その辺で黙らないか。だんだん語るのが面倒くさくなってくる。では一休みするとしよう。何だかごちゃごちゃした気分となってきたようだ。めまいがしてくる。そんな嘘をついても動揺している事実はごまかせない。物語的はそういうことにしておきたいのかもしれず、現実逃避の果てにどこにたどり着くのかわかりたくなってきて、あり得ない状況をひたすら思い描いているようだが、話としてはまとまらず、収拾がつかないまま、さらに言葉を記してゆくと、やがて自らが何を語っているのかわかりかけてくる。本当だろうか。テレビを見ていたらまずい。嘘でもかまわないから語っているふりをしなければ、その先へ進めなくなってしまう。今は何とかしている最中のはずだ。架空の動物が宙を舞う。そんなことを空想しながら何をやろうとしているのか。言葉を記しているだけだが、寒いので冷や汗などではしない。寒くても出る時は出るはずで、今がそういう状況ではないだけか。何かが煮詰まっているようだ。そう思っているすぎず、本当は具材さえないので、煮詰めることもできはせず、今はただ何かが煮詰まっている光景を空想しているだけだ。それはおでんか何かだろうか。コンビニのにおいだ。最近は夏でもやっているらしい。需要があるから供給があるのだろうが、服ににおいが移って嫌にならないか。中にはウインナーやらソーセージやらを焼いているところもあり、油くさくなる時もあり、気になる時は気になり、気にならない時は何でもないのだろうが、嫌ならコンビにいかなければいいのだろうが、そんなことでしかないか。別にどうでもいいような話にしかならないらしい。だから何もない時はくだらない。そろそろテレビでも見た方がよさそうだ。そんな気晴らしの気休めが必要といえば必要なのだろうが、それもどうでもいいことのたぐいになってしまいそうだ。


12月21日

 久しぶりに馬鹿げている。ふざけているとしか思えない。実際にふざけているのだろう。君はふざけている。それでかまわないのか。人はごり押しが好きなのかもしれない。絶えず自らのやりたいようにやろうとしている。そのための布石をあれこれ打っておきたいのか。時折口走るくだらぬ冗談もそんなことの一環か。君には理解できないかもしれないが、だが誰かはそこから外れたいと願っている。いったい何から外れたいのか。めちゃくちゃな気分で常軌を逸したことをやりたいわけか。それは何だろう。思いつかないのなら嘘になってしまいそうだが、おそらくそれでかまわないのだろう。わざと気が狂うのが面倒くさいのか。そんなはずではなかったらしく、述べていることが違っているようだ。では何が間違っていたのか。それも思い当たる節がない。世界のどこかに国の政治体制に反対する人々がいる。彼らがヒーローなのだろうか。たぶんそうだ。誰に讃えられているわけでもないのに、日夜黙々と作業をこなしている人々がいる。それだけのことなのだ。彼らは自らの努力に対する見返りなど要求しない。中には命がけでやっている人もいるらしいが、それで死んでしまっては骨折り損のくたびれ儲けかも知れないのに、それでかまわないのだ。富とも栄光とも無縁に生きている方が気楽だ。何よりも讃えられるのが面倒くさい。君はまた嘘をついているのだろうか。要するに破れかぶれなのだろう。それも嘘かもしれないが、やはり嘘でもかまわないと思っているようだ。理由は知らない。知るのが面倒くさいのかもしれない。だから知ろうとしないのかもしれないが、それでかまわないのだろうか。要するに何を知ろうとしているのでもないらしい。何だか同じようなことを延々と述べているようだ。君にはそれが馬鹿げているように感じられ、呆れているのかもしれず、嫌になってしまうようだ。

 どうも何を語りたかったわけでもなかったようで、その辺で行き詰まりの兆候を見せつつ、それでもかまわないと思うは毎度のことだが、何となく腹が減ってきたようだ。だがそれとこれとはいつものように無関係だろう。今はそれもこれもわかりはしないし、代わり映えのないことを述べているようだ。それでも何とかしなければと思い、こうして言葉を記しているわけだが、今ひとつ乗り気でない。別に何に乗っかろうとしているわけでもないだろう。ただ椅子に座って画面を眺めているだけか。そしてそんなことを記していて、それが馬鹿げていると思う。なぜそう思うのだろうか。理由などないのは毎度のことか。あるにはあるがそれを記すわけにはいかないのかもしれず、記すわけにはいかない理由も記さないようだ。そんなのは嘘か。ただわからないだけかもしれず、積極的にわかろうとしていないようだ。馬鹿げているからそうなってしまうのか。だからそんなことを語っている場合ではない。何とかしなければならないはずだが、何ともならないのは仕方のないことなのか。君はそこでくじけているようだ。もうしばらくは立ち直れない。やめたらいいのだろう。あかぎれに薬を塗ったらしみてくる。しばらく痛いのを我慢しなければならない。だからそうではないはずだ。何だかおかしくなってきたようだ。なぜそこで行き詰まるのか。それがわからない。そんな語り方では埒が明かない。わかりきっているのかもしれないが、そんなふうにしか語れないらしい。それが表現なのだから別にいいのではないか。あくびが立て続けに出てきて、もう限界であることを悟ったらしく、しばらく横になる。もう無理だろうか。そうなった時点で終わりだ。その辺でやめた方がいい。君はこの世界から見放されているのか。そう思うなら黙ればいい。黙ることができないなら、ただ闇雲に自己主張をしまくればいい。何も主張することがないなら、もうその時点で終わりなのではないか。だからそこで終わろうとしているのか。


12月20日

 理由がはっきりしない。君にはわからないようだ。なぜそれを買ってしまうのか。誰かは何となく革ジャンがほしくなって、ネット通販で買ってしまったらしい。かっこいいとでも思っているのだろうか。少なくともその時点ではそう思っていたのだろうが、現物が届いてから変わったりするわけか。それにしてもどうにもならない日々が続いている。そういえば北朝鮮の金正日同志が死んだようだ。死体が防腐剤でも注入されて見せ物にされている。彼が死んでも彼の国の体制は変わらないのだろうか。国営テレビのおばちゃんアナウンサーが相変わらず勇ましいことを言い放っているようだが、どう見ても後継者の刈上げお坊ちゃんに国家統治に関する能力があるとは思えない。まあ彼はお飾りの象徴的存在で、実務は官僚機構が集団指導体勢でやるのだろうが、やるといってもすでに破綻状態のようだし、わけのわからぬ虚勢を張っているだけで、空疎で誇大妄想的な主張を喧伝しながら国家体制を演じ続けるしかなさそうだ。しかしいったいそんなやり方がいつまで続くことやら。同じ社会主義国のキューバでは、もうすぐ自国民の出国や入国が自由化されるらしいし、ミャンマーなども中国一辺倒に嫌気がさしているらしく、少しは民主化してアメリカなどとも仲直りするらしいし、何だか世界の中で北朝鮮だけが鎖国体制を堅持しているみたいで、このままでは理論的にもあり得ない世襲型社会主義国の天然記念物的存在となってしまいそうだ。このままの政治体制で後数百年も続いたら驚異的だろうが、意外とリビアみたいに何かのきっかけでもろくも崩れ去って、あっさり民主化されてしまったら大笑いだろうか。そうなったらなったで、そうなる過程において流血の惨事が起こり、多数の死傷者が出るのかもしれない。

 しかし他国のことなどを心配している場合ではないようだ。なら日本のこれからについて何か物申さねばならないのか。君はこの世界から国家という虚構がなくなってほしいと思っている。だが国家は虚構ではなく実体を伴っているのではないか。誰がそう思っているのだろう。映画は影絵のたぐいだ。それに携わる人間は多数いるだろうが、結果として出来上がったそれは虚構以外の何ものでもない。それとこれとがどう関係するのか。途中で雑音が入ってしまったらしく、無理に話をねじ曲げて、まったく関係のないことを述べようとしているようだが、そういう話が気に入らないのか。誰もが幻想を抱いているのは承知している。大阪の橋下市長も同様だ。教育に関して幻想を抱いているわけだ。彼は子供たちに何を教えたいのだろう。真っ当な大人になってほしいのかもしれない。しかし真っ当な大人とは何か。真っ当でない君にわかるわけがない。それ以前の問題として、果たして真っ当な大人が子供にちゃんと教育すれば、子供は真っ当な大人に成長するのだろうか。そしてさらにそれ以前の問題として、子供に教える立場の学校の先生は真っ当な大人なのか。別に学校の先生なんて真っ当でなくても誰でもかまわないのではないか。反面教師という言葉だってあるし、どうせなら真っ当な人間からひどい人間までよりどりみどりでかまわないだろう。子供はそういう大人たちを見ながら成長した方がいいのではないか。中には教え子に手を出したわいせつ教師とかもいるはずだ。また卒業式や入学式で起立して国旗にお辞儀せず、国歌である君が代を歌わない教師とかもいるのだろうし、橋下氏はそういうところに目くじらをたてたいのだろうが、君は国家主義者ではないので理解できない。

 たぶん社会の中で教育の果たす役割なんて限定的なものでしかないだろう。教育がすべてではない。それを勘違いしているのが他ならぬ北朝鮮の指導者たちなのではないか。自国民のすべてに自分たちの価値観を植え付けて洗脳したがっているのだから、当然のことながら日本より北朝鮮の方が教育熱心だろうし、それに費やしている労力が並大抵のことではなかったはずだから、そんなことにかまけているうちに経済がおかしくなって、今では飢餓が蔓延するほどになってしまったはずだ。要するに国民のすべてを自分たちに従わせようなんて無理なのであり、そのためにすべての国民を管理して同質の人間にしようというのがそもそも大間違いなのだ。それこそピンからキリまで様々な種類の人間がいてこそ、社会に活力が生まれるのはわかりきったことだろうが、君はそれも幻想のたぐいだと考えている。そうであってもなくてもかまわないと思う。悲惨な人々が大勢いる北朝鮮もありなのではないか。あれはあれでああいうことでしかなく、日本は日本でこういうことでしかない。どちらも変わる時が来るだろうし、常に刻々変わり続けているのだろう。事実金正日同志だってあっけなく死んでしまったではないか。息子も太り過ぎで不健康そうだから、そのままではどうせ長生きできずにぽっくり逝ってしまうだろう。だからそういう人たちがしがみついているつもりの国家という虚構が不要に思われてしまうわけだ。国旗や国歌や、それを利用して参加者が自己主張しているオリンピックなどは、何だか滑稽の極みのように思われてしまう。そういうのを基として狭い範囲や地域で人々が凝り固まっていること自体が、利己的な人間の愚かさを他の人間たちに知らしめているような気がしてならず、それはそれでありなのだろうが、君はそういう人たちと徒党を組むような事態は避けたいと願っているようだ。要するに大阪維新の会に参加している人たちも、そういった両刃の剣的な危ういことをやっているわけだ。


12月19日

 また曇っているようだ。空は果てしない。宇宙とつながっているのだからそういうことになる。当たり前のことを述べている。それの何を否定したいのかわからない。以前とは少し違うことを述べているのだろう。少なくともそう思い込んでいる。実際にそうなのだろう。日が射してきたようだ。上空を仰ぎ見たわけではないが、雲の切れ間を想像している。忙しない。そう思っている。思いついたのはそういうことだ。相変わらずそんな案配だ。たぶん何も見出されないのだ。影以外のきっかけを探しているらしい。いつも自らの影がきっかけをもたらす。それは語るきっかけかもしれない。あかぎれが痛い。気づいたのはそんなことだ。聴いているのは忙しない曲だ。それも終わり、つかの間の静寂を感じる。誰かは居眠りの最中のようだ。建物の横にクレーン車が止まっている。動き出す気配はなさそうだ。配電盤のボックスを開いてみるが、異常はない。たぶん空想の中ではそうなのだろう。街は静寂に包まれる。耳栓をしているようだ。誰かが車いすで電車に乗り込んできている。バッテリー付きのタイプだ。当然モーターもついている。君がそんな光景を眺めながらたわいないことを思いつく。何かに影響されているのだろう。街並がどんどん遠ざかり、並木の銀杏も葉が落ちて、冬のたたずまいとなる。次の駅で車いすに乗った誰かも降りていって、またいつもと変わらぬ気分となり、さらに北を目指す。昨日はコンビニで漫画を立ち読みしていた。つかの間の出来事だ。思いついたのはそんなことだ。そして今は言葉を記している。立ち読みした何に影響を受けて、そんなことを思いついたわけではなく、その内容が記されないことに奇異な印象を得る。嘘かもしれないが、それで技巧を凝らしているつもりだ。また冗談のたぐいになる。面倒くさいからそれでかまわないのだろう。力の配分が間違っている。何かが崩壊しようとしている。きっとそれは気のせいだろう。そんなことを語る必要がないのだ。

 疲れているわけではない。何も思わないのはいつもの通りで、内容がないのもいつものことだ。君は以前と同じような何かを感じている。それが何なのか記されることはないが、信じているのだろう。そうなることを信じている。それでかまわないとも思っている。どこかで何かが壊れていたようだが、復旧のめどが立ったようだ。そして終わる。この世界が終わろうとしている。荒唐無稽な妄想に基づいているようだ。何かのきっかけでそうなるかもしれないが、フィクションの中では起こりそうなことが、現実の世界ではなかなか起こらない。また居眠りの最中だ。きっと君は夢の中でこの世界の終わりを疑似体験するだろう。それならおもしろそうだ。早く面倒なことを終わらせて、さっさと眠る。今日の夜がそうなったらいい。竹やぶが住宅街に迫っている。対策をとらないと呑み込まれてしまいそうだ。たぶんそうなる前に根がのびてこないようにして、伐採してしまうのではないか。遠くにそんな光景が見えている。嘘かもしれない。空想のたぐいだろうが、探せばそんな光景などいくらでもありそうだ。ついさっきも似たような光景を見かけたように思われ、空想ではなく、過去に見た光景が脳裏によみがえってきたのかもしれない。それにしても眠い。自販機で買った二百円のエスプレッソコーヒーでは効果がないようだ。北へ向かうにつれて畑が目に着くようになり、ついには畑ばかりとなる。砂利が敷かれた駐車場に止まっている自動車もありふれた車種だ。プリウスがやけに多い。エコカー流行りなのだろうから当然のことか。自動車教習所の廃墟を通り過ぎ、庭の広い家が点在し出す。新幹線の高架とともに地方の都市が近づいてくる。人はどこにでもいて、そこで暮らしているのであり、そんな何かの総体として社会を形成しているのだろう。どうということはない感慨を抱く。住めば都の大都市から遠ざかり、誰かが地方に根をおろし、豊かさという幻想とともにそこでの生活を満喫しているようだ。

 それが間違っているとは思わない。差異はたかが知れていて、ネットの通販でたいていの商品は手に入り、それを取り寄せて自己満足に浸り、そんなことをやりながら生きていく。君が目指している何かとは相容れないようだ。君は常に偶然の巡り合わせを利用しようとしている。そこからうまく立ち回ろうとしていて、結果としてうまくいっている状況をもたらしたい。誰かのギターを聴きながら、そんなことを思っているようだが、実際にうまくいっているかどうかはわからない。今ひとつ確証には至らず、良いか悪いかの判断がつかないまま、いつもそんなことをやっているようだ。何か勘違いしているのかもしれない。たぶんいつものように間違っているのだろう。感覚がおかしいようだ。実際にはそうではなく、うまく立ち回れずに、あちらこちらで何かにぶつかって、心身ともに傷つき、痛い目に遭わないと気づかないようなことばかりで、それで絶えず考え方に修正を迫られていて、何とかどうにかこうにかかろうじて生活が成り立っているのだろう。いったんそれが悪い流れになると、やることなすことうまくいかなくなり、痛い目に遭いっぱなしとなり、うんざりするようなことの連続となるわけだが、それでもめげずに辛抱していると、やがて光明が見えてきて、何とか一息つける程度には事態が好転して、そこでやっと何かを切り抜けた気になるのだろうが、それが長続きしないのはいつものことで、油断していると足下をすくわれ、心の隙をつかれてまた痛い目に遭い、また謙虚な気持ちを思い出して、何とかその場を取り繕うとするが、それがうまくいかないことが多く、結局何かの後始末や尻拭いに追われ、やりたいことがやれないまま無駄に時を費やし、そんなことの連続の中で神経をすり減らして、何かをあきらめてしまいがちになるのだろう。たぶんそれでも生きていて、絶えず良くなるように努力しているのだろうが、それがなかなかうまくいかないのが現状のようだ。


12月18日

 夜だ。ただの夜でしかない。他に何もないらしい。語ることもない。誰かがそんなことを語っているようだ。空を眺めているわけではない。君はそこで考えている。これからどうしようか。ここには何もない。電車が動き出す。まともではない。言葉が記されているようだ。一筋縄ではいかないようだ。どこかにたどり着く。うまくいっているのだろうか。偶然だ。何かの巡り合わせを利用している。そうやってここまでたどり着いたらしい。君はそれを知っている。たぶんそれは幻想ではない。事実に基づいて語っている。フィクションではない。だから付け加えることがなく、それだけの結果なのだ。誰かが本を読んでいる。過去の話だ。あり得ない。何がそうなのかわからず、それとは違う話の展開を想像してみるが、蛇足になりそうだ。何を付け足しても無駄であり、今は冬だ。まだ春が遠い時期のようだ。それが偶然に生じている何かに違いない。状況であることは確からしい。ひたすらそんなことを述べている。それだけのことなのに、神秘的な雰囲気を漂わせている。嘘をついているのかもしれないが、今はそんなことにしておこう。トータルでうまく伝わればそれでかまわない。言葉が意識から離れようとしている。無言になってしまう。そんなやり方をたぐり寄せ、それに従って何かが作動している。それでかまわない。そういうことにしてしまう。今はそれでかまわない。何ができるわけでもなく、何をやろうとしているのでもない。作り笑顔のポスターが商品を宣伝しているようだ。それを眺めながら何かが解き放たれたように思う。ひらめきは突然だ。どんな巡り合わせも無視して、唐突に思い浮かび、それを記している。そんな気分なのだろう。途中で気分を害したかもしれないが、もう大丈夫のようだ。その続きを記してゆけばいい。それで気が済むならそうすればいいのだろう。君はそれだけのことに集中している。

 消防車が鐘を鳴らしながら巡回しているようだ。たぶん何かの役に立っているのだろう。今はそう思うしかない。すでに通り過ぎた駅での出来事か。これから人が乗り込んでくる。分からず屋の誰かもそんな雰囲気に浸かっているようだ。ひねくれ者の誰かにも機会が訪れる。おおかたそんな結末が待ち受けているのだろう。年末が近い。努力が報われないようだ。信用されていないのだろう。君にはそれがわかってしまう。疑念を抱かれるような立ち振る舞いが多すぎるのだ。それで墓穴を掘っている。自滅の成り行きだ。君はそうならないようにしなければならない。別に肝に銘じておくほどのことでもないのだろうが、タイミング逸してしまえば、どんなに努力しても決して報われることはない。その辺がわかっていないようだ。身勝手に振る舞っていることを周囲に見せびらかしているのだから、どうしてもその辺で勘が働かなくなり、余分な動作の中にこれまでの怠慢が溜まっている。一生懸命の演技が見え透いているわけだ。そして偶然を味方につけられずに、結果的に貧乏くじを引き、いつまで経っても浮かばれないようだ。実際まだ四十代なのにかなり老けて見える。くだらぬこだわりが邪魔をして、器用に立ち振る舞うことができないらしく、それが周囲に誤解を与え、もはや誰からも相手にされず、一人孤独に強がりと痩せ我慢を繰り返し、それが周囲から反感を買い、さらに窮地に追い込まれ、もはや取り返しがつかないほどの軋轢が生じているようで、誰も手を差し伸べる気が起きないような状況となり、もはや自滅も時間の問題となり、その先がどうなるかは誰もが想像がつくようだが、それでも気にするふうもなく、平然と独りよがりなことをやっていて、そんなことを繰り返して今に至っているわけだから、当人も薄々わかっているのかもしれず、また同じような手順を経て同じような境遇に陥り、さらに同じような行動に出て、それで自らのこだわりを守ろうとするのだろうが、そうやって老いて消耗した果てに待っているのが、自らの死だ。まあそう思えば気の毒な人なのだろうが、君にそれをやめさせる手だては思いつかず、そのまま放っておくのだろう。どうぞ勝手に自らの信念を貫き通して、社会になじめないままさまよい歩き、最期にはあの世へと旅立ってくれれば、それで人一人の人生が幕を閉じるわけで、そんな物語で満足しているのだから、安上がりといえば安上がりだ。


12月17日

 これからどうするのか。どこかの窓には無表情が映り込む。死の一歩手前か。そんなのは嘘に決まっている。ではなぜ笑っているのか。誰が笑っているのだろう。次第に言葉を記すのが面倒くさくなる。ではまた遅れてしまうわけか。すでにそうなっているようだが、少しでもそうならないように努力しているわけか。だがまともに語っていない。やる気がしないようだ。そしてもう時間もない。やはり無理なのか。語ればいい。それだけのことだ。とりあえず蛍光灯の明かりを消すことにしよう。それが昨晩のことか。今日は晴れて寒い。冬晴れというやつか。たぶん仕事以外に何をしているわけでもない。何とかできるとは思っていないようだ。相変わらず心は肉体から弾き出され、行くあてもないままその辺を漂っている。そうやって何をかわしているのか。目の前に障害物が横たわっているわけでもなく、自分自身が物事を考える上での障害となっているのかもしれず、くだらぬこだわりを捨てることができないから、そうやっていつまで経っても迷うばかりで、一向にその先へ進めずにいるのかもしれないが、先へ進んだからといって何がどうなるとも思えず、何の目的もないままに停滞し続け、もはやそこで朽ち果てるのを待つのみか。実際にそうなったら興味深いか。誰がそれを望んでいるのか。そこで何かを探しているのは誰なのだろうか。どこかにこの世界を理解する鍵が隠されていたりするのだろうか。君はもうすでに理解したと思っていたのではなかったのか。君は何を忘れているのか。この世界では何がどうなるべきなのか。ありふれた願望としてはここに暮らすすべての人が幸せになるべきなのだろうが、それが間違った願望なのだろうか。冗談がきつすぎるか。ではなぜ君はそうではないと思うのか。人は喜怒哀楽のすべてをもたらす出来事を経験すべきなのだろう。そして仏のような悟りに至りたいのか。さらに冗談が過ぎるか。どうも伊達や酔狂でおかしなことを述べようとしているようだ。

 しかし夜になったらどうでもよくなってきた。どうも最近は飽きっぽい。たぶんくだらぬことを語りすぎているのだろう。何も語っていないのに語り過ぎはない。くだらぬこと以外は何も語っていないということか。だからそういうことはどうでもいい。たとえくだらなくても語っていることに変わりはないか。またため息が出る。ままならないことばかりの上に、さらに言葉もままならない。そして気分がおかしくなり、やる気を失い、何をやっているのかわからなくなるが、結局言葉を記しているわけだ。それだけのことであり、他に何があるわけではない。今も画面に貼り付いている何かの画像が君を眺めている。そういう脈絡のない唐突な表現が意味不明なのだ。だが誰かがそう思ったのだからそう記しているつもりになり、そんな嘘をつきながらも、したり顔になれないことをいぶかしく思うわけでもなく、そういう水準で何を語っているつもりなっても、くだらぬ内容の域を出ないことを承知しながらも、あえてそう語るのは、何だか意地を張っているだけのような気がして、やはりため息しか出ないようなことなのか。だがそんなに落胆することもないのではないか。わざとらしいか。内心ほくそ笑んでいるわけか。なぜそう思うのか。何でもかまわないのならそれでもかまわないはずか。だがそれでかまわないわけがないとも思われ、どっちつかずのまま、どちらでもないようなことを語っているような気もして、そんな思いもしないような嘘を記しながら、字数稼ぎの域を出ない話となりつつあり、たぶんそれではだめなのだろうが、ところで伊達や酔狂の話はどこかで途切れてしまったようだが、その続きはどうなってしまったのか。はじめからそんなのはあり得ないことなのか。何だかその辺でやめてしまってもいいように思われるようで、いくら言葉を記してもくだらぬことの繰り返しで、一向に埒が明かないように思われる。それだけではないのに、言葉を記していくとそれだけになってしまうのはどうしたことか。

 今こそ何とかしなければならないのだろうか。結果的に何とかなっているのではないか。そんな幻想を抱きながらも、また無駄に言葉を記しながら、過去の何かを蒸し返そうとしているらしい。テレビ画面上で誰かが偽りの旅をしている。俳優や作家が旅人を演じているわけか。部屋の中でそれをぼんやり見ながら、何か思ったのだろうか。すでに忘れているようだ。あからさまなデジタル表示の腕時計で時刻を確認して、そこからさらに遠くへいけることを確信してしまうが、何の根拠があるというのか。涅槃とは何か。何が仏の悟りの境地なのか。そんなどうでもいい問いを無視して、街頭で撃ち殺されたキング・カーティスのサックスを聴いている。別に彼がオリジナルではないが、彼がライヴでやっている A Whiter Shade Of Pale のパクリが「大阪で生まれた女」なのは誰もが知っていることか。もしかしてパクリではなくカヴァーだったのか。しかしクロノス・カルテットがやっているジミヘンの Star-Spangled Banner はかっこ良すぎる。それ自体がアメリカの国歌なのだから、カヴァーのカヴァーがそれか。でもジミヘンの演奏ありきでそういう演奏をしているのだから、クロノス・カルテットにしてみれば、ジミヘンによるアメリカ国歌の演奏がオリジナルと見なされているわけか。しかし何もないので聴いている音楽について語るのは反則だろうか。何の脈絡もないところがだんだん投げやりになってきた証しか。それにしてはおもしろおかしく語っているつもりになっているようだ。でもしたり顔とか近頃流行りのどや顔とかいう気分にはなれそうもない。自らの知をひけらかすのは、所詮は他人の知を借りてきているにすぎないのに、いかにも自分だけが知っているかのように語っているのだから、それでしたり顔になったりどや顔になったりしては、ちょっとみっともないようで、やましさがついて回ってしまい、しかもそれによって誰かのパクリを遠回しに咎めているみたいで、何だか後味が悪くなってしまうか。だからそういう後ろめたさを払拭するためには、やはりパクリではなく、正々堂々とカヴァーすればいいというわけか。何だそれは。


12月16日

 でたらめばかりで心苦しいわけでもないだろうが、相変わらずそれにはまっているようだ。今もまともに語ることができずにいる。当分は無理なのかもしれない。不意に灰色の背景に人影が浮かび上がる。意味もなく唐突にそんなことを想像しているようだが、話には至らないだろう。今さらそんなことに気づいたのか。何に気づいているわけでもなく、今聴いているのはダラー・ブランドのピアノか。君が架空の存在だと思っているのは誰なのか。少なくとも君自身ではない。誰かが裏声で歌っているミルトン・ナシメントを続いて聴いている。ネイティヴ・ダンサーの一曲目だ。それの何に感動したいのか。そういうことではない。またコーヒーを飲んでしまったらしく、胃もたれ状態か。夕食前に胃薬を飲むのを忘れている。すでに手遅れか。他に何を無視しようとしているのか。なぜそれを忘れなければならないのだろう。別に理由などない。ただ進むべき方角を間違っているようだが、いったいそこで何を恐れているのか。何が出てくるわけでもないだろうが、難しい局面を迎えていると思っている。気のせいだろう。きっとそうだ。ではこれからもっと良くなるはずか。何の根拠があるというのか。それに関して何を問う必要もなく、答える必要もない。面倒くさいからそれでかまわないのだろう。またそんな成り行きになっている。赤煉瓦に囲まれているわけではない。港の倉庫街で刑事と犯人が追いかけっこでもやるつもりなのか。そして刑事が腹を打たれて何じゃこりゃと言うわけか。昔やっていたテレビドラマの一場面が思い出されるか。誰かが鏡に映った物体を指し示す。そこに幽霊でもいたのかもしれない。何とかしたいのはやまやまだが、うまくいったためしがない。また砂の岬を聴きたくなったのか。なぜか塩の歌を聴いている。相変わらず語る理由が見当たらない。別に何を探しているわけでもないだろう。

 たぶん誰かは勘違いをしているのだ。そればかりではないか。何かの緩急がありそうだ。本気になってはならない。自らは直接手を下さず、他人の力を利用するのが肝要か。実際にそうやっている。もっと眠っていたいか。そうすればいい。心の中に何かが芽生えているようだ。怠け心のたぐいだ。しばらくの間眠っていたらしい。相変わらず何も思いつかないようだが、何となくそういう感じで状況が推移しているように思えて、まるで経を唱えているみたいだ。まだ君の最期は到来しないのか。まだ言葉を記す余力が残っているようだ。またそんな嘘をつく。もう何も出てこないようだ。寒すぎるのか。寒さのせいにしてはいけない。もっとマシな言葉を引き出すべきか。そんなことを考えているうちに、さらに言葉を記すのが遅れているようだ。君はそんな状況を肯定できるだろうか。仮想敵など作らない方がよさそうだ。それとこれとは違うのだろうか。まだ少し何かが違っているようだ。数日の昼に誰かは何を考えているのか。識者と呼ばれる人たちは労働の現実を知らなすぎる。だが君が知っているわけでもない。それに関しては人それぞれで経験が違うし、感じ方も異なるのではないか。嫌な作業を押し付けられた者なら、うんざりするようなことしか経験していないか。それをうまく切り抜けた先に何が待ち受けているのだろうか。達成感のようなものでしかないか。実際にはどうなってしまったのだろう。特定の誰かに関して想像していることではない。ただ終わりが近づいていることは確からしく、うまく環境に溶け込めなかった者は、自業自得気味に破滅しようとしているわけか。そんな大げさな状況ではなく、普通に失業してしまうだけなのかもしれない。毎度おなじみのどうということはない光景に出くわして、またため息が出るだけか。とりあえず去る者は追わずだ。後はどこかでささやかな幸せを見つけてくれることを祈るばかりか。君はそれでかまわないのだろうか。誰にかまわれているわけでもないか。

 相変わらず何に関して語ろうとしているわけでもない。思いついたことの羅列がでたらめな配置で記されている。そんなはずがないだろう。ではお呼びでないなら退散することとしよう。正直なところ誰に呼ばれたわけでもないのに、墓石をずらして誰かの亡霊が這い出てきたわけか。またでたらめに拍車がかかりそうだ。そうはならないことを願いたいが、もう遅すぎるだろうか。そんな気分なのだから仕方なく、何かの混乱を呼び起こし、そのどさくさ紛れにやりたい放題やろうとしている。そうならない保証などどこにもなく、何かのきっかけで一気に濁流となって、どこかの沿岸に押し寄せ、そこから先は想像を絶する光景が目の前に広がるわけか。実際にそうなったらおもしろそうだが、そんな想像が長続きするとは思えない。いったい君は何について語ろうとしているのか。なかなか迷路の出口が見えてこないようだ。今まさに君は自らの限界にぶち当たっているわけか。それらは何かのコレクションを形成しているのかもしれないが、そのバリエーションがおかしすぎる。まったく統一性が感じられず、どんな意図で集められたのかも一向にわからず、ただのがらくたと思えばその通りで、別に粗大ゴミを集めているのではないだろうが、それらとの親近性を感じられ、内容が希薄で、何かの惰性でそうなっただけのようにも思われ、それ以外の可能性など何もなさそうで、またそれでかまわないとも思ってしまう。たぶん何かの断片であることは確かなのだが、それ以上想像を膨らませても、てんでバラバラな結論に至るしかなさそうで、それに接した各人の思いが一致することはないだろうか。君はそれでかまわないとは思わないか。だがそんなことを気に留めている暇はなく、さっさとそこを通り過ぎ、今は別の何かを探している最中なのだろうか。それでも探し物の一つは最近になってようやく見つけたようで、それで何かの成果が出たように思い込んでいるわけか。


12月15日

 またいつもの夜だ。それが何だかわからないが、これまでに記してきた内容の中で、よくあるパターンとしては何があるだろうか。そんなことを述べて、別に何を探しているわけではなく、他に何があるわけでもないだろうが、ただ最近はでたらめに拍車がかかっている。頭がおかしいのか。せっかくここまでやってきたのに、それを台無しにしたい衝動に駆られているわけではないのだろうが、いったい君は何を考えているのか。君は何も考えていないはずで、誰も何も考えていないのだろう。毎度おなじみの虚構の話の中で、架空の誰かがよく見れば、辺り一面に何かが散らばっているようで、それが何だかわからないということか。今度きた時は、その何かを覚えておくことにしておこう。別に誰が夢の中をさまよっているわけでもない。面倒くさいので明日くることにしよう。よくある捨て台詞を忘れてしまったようだ。明日があるとは思っていない。では今できることは何だろうか。仕事をしているではないか。昼の間はそうだった。そして夜になり、何かごちゃごちゃした雑音から解放されて、ようやくそんな認識に達したようだ。君が求めていたのはそんな状況だったのか。記されつつあるフィクションの中ではどんな状況でもないだろう。そういうことを述べているのではない。誰かがそこで記された文章の断片をつなぎ合わせ、それを別のどこかで再構成したいようだ。コピーして貼付ければ済むことか。またそんな嘘をついている。どうも話に乗り気ではないようで、眠たくなっている。誰かによってそこで語られているつもりの紆余曲折が鬱陶しくてたまらない。やめてしまえばいいと思うが、途中でやめるわけにはいかなくなり、どうやら誰かは最期まで意地を張り通すつもりらしい。そんなことをやっていると死んでしまうか。何でもかんでも自らの死に結びつけるのは良くない。もっと何か違ったことを述べた方がいいだろう。

 近頃は文章が長過ぎる。ゴテゴテと言葉をこねくり回して、意味不明なことを述べたがるが、結局まともなことは何も述べていない。それはわかりきったことだ。何もないのにまともに語れるはずがない。それでかまわないと思いながら、自らを欺いている。またそんな嘘をついて、何をかわそうとしているのか。本当のことは何も言わないつもりらしい。痛くもない腹の内を探られるのがおもしろくないか。そんな状況でもないだろう。どうも込み入っているようだ。そんな気がするだけで、本当は単純明快なことではないのか。それをわざと込み入らせて、さも難しい局面を迎えているふりをしているわけか。たとえそうであったとしても、それをやめる理由が見当たらない。君はおもしろがっているだけなのか。そしてまたいつものように嘘をついているわけだ。何について述べているのかわからないようにしているみたいだが、たぶん何を語っているわけでもなく、何をわかろうとしているわけでもない。何もわからないまま、ひたすらでたらめなことを語ろうとしているのか。実際にはそれすらも語っておらず、ただそんなことを語っているわけだ。そんなこととはこんなことか。別に開き直るつもりもないだろうが、たぶんそれ以上は何も語ろうとしてない。要するに自己言及ばかりが語られ、他には何もない。ごまかしのたぐいか。それでかまわないとうそぶきたくなるが、今は認めがたい。何とかしなければならず、何とかしている最中なのだと思い込もうとするが、ごまかしに違いない。結局それを認めざるを得ないのではないか。それでも努力している。気休めをいうならそういうことになり、それだけが心の支えか。我ながら情けない。そう思うなら、もっと違ったことを語ってみればいい。どうせできっこないだろう。それが悔しいのだろうか。笑っている場合ではないだろう。もっと何か違う話の展開を期待していたようだが、その一方でこうなってしまう事態も織り込み済みか。では予定調和の話の展開なのか。くだらない。

 だからやめた方がいいわけか。貧乏揺すりが収まりそうもない。イラついているのだろうか。そうであったとしても後戻りが利かない段階にまできているのかもしれず、後は前進するのみになってしまうわけか。どうなろうとくだらないことに変わりはない。だが今さら何を卑下する必要もない。こうなったらいくところまでいって、さらなる無内容を極めた方がいい。紅茶が飲みたければ眠れなくなるのを覚悟で飲んでみればいい。昼は胸焼けがしているのに缶コーヒーを飲んだではないか。胃薬を飲む前にコーヒーを飲んでいるのだから、とても正気とは思えないが、飲みたければ飲むしかないと思って飲んで、飲んだ後に胃薬を飲んでから、昼食にしたはずだが、今はすこぶる調子がよく、何ともないようだ。そのうち胃がんか何かで死ぬだろうか。それでも長生きがしたいのか。長く生きたからといって、やることがなければ無駄に生きているだけではないのか。たぶん無駄に生きていると感じる時が愉快なのではないか。では何かの試しに、天に向かってざまあみろと叫んでみるか。そういえば数日前の朝に駅の構内で叫んでいる学生風の男を見た。大声で叫ぶ度に周りの人たちが振り向くのも気にせず、ひたすら叫び続けていたように思う。とても正気であるようには見えなかったが、そのとき思ったことは、自分もまかり間違えば、ああなっていた可能性もなきにしもあらずということか。時々人がいないところで独り言をつぶやいている自分にはっとして、誰もいないのに何となく気まずい雰囲気を感じることがあるはずだ。そういえばかなり昔のことだが、工事現場で工事とは直接関係のない内容の独り言をひたすらつぶやきながら、小型の重機を操作している人のことを思い出した。周りの作業員にも聞こえているはずなのに、いつものことで慣れているのか、まったく気にしていないようで、その気づいているのに無視しているような感じが、その種の出来事に遭遇した者でしかわからないような、不快だがその場に居合わせた限りは、逃げ出すこともできないような、どうしようもない雰囲気が脳裏によみがえり、なるほど興味深い出来事とはこういうことなのかと再認識してしまった次第か。


12月14日

 またいつものペース配分に近づいている。そんなことでしかない。でも落胆するようなことではないか。相変わらず何かがおかしいのは確かかもしれないが、何とか耐え忍んでいるわけか。それでかまわない。それしかないのだろうからそうなるしかない。他に何も語ることができない。蛍光灯の下で言葉を記しているだけだ。今はそうだが、また夕方になったらどこかへ出かけなければならず、電車の中で言葉を記しているわけか。まだそれはわからない。そしていつものようにそういうことを語りたいのではなく、語りたくないことを語っている現状に腹をたて、さらにどうなってしまうのだろうか。そのままか。人はどんな状況下においても行き詰まっているようだ。そんなことはない。誰かがそうなっているだけで、中にはもっと楽な立場で言葉を記している者もいるはずだ。では君だけがいつもうんざりしているのか。それも違うだろうか。とにかくその種の自問自答には嫌というほどはまっているはずで、今もそうなのだろうが、そういう成り行きから抜け出られずに困りながらも、それを利用する以外に言葉を記せない状況であることも確かで、簡単に抜け出られるようなら、そんな内容にはならないはずだ。やはりそれもごまかしのたぐいであることは間違いないか。わかりきったことを訊かないでほしいか。たぶんそれも一つの記述術なのだろうが、あまりにも見え透いていて、言葉を記していて嫌になってしまいそうだが、それをやめるわけにはいかないらしい。その辺がおかしいところで、そういうところから心が壊れる兆しが伺えるのかもしれない。それは何なのか。おかしな物言いか。心が壊れる原因をそんなところに求めるのもおかしな具合だ。そうでない方が話に説得力が出るだろうか。ではどうやって心が壊れるのか。誰かの都合で心は折れたり壊れたりするわけか。そういうことでもかまわないのではないか。そんなことを記しているだけで、実際に誰の心でもありはせず、要するに心自体が虚構の存在か。

 言葉でしかなく、何のたとえでもありはしない。そういうどうでもいいところに食いつくこと自体が、ごまかしの匂いが感じられ、やはり苦し紛れに語ろうとしている証拠か。だが云わんとしていることはわかるはずで、何かがどうにかなっているから、そんなことを語らざるを得ず、たとえ苦し紛れであろうとなかろうと、それらの語りに何らかの真実が内包されていて、そこを読み取らなければ、他に読むところなど皆無なのではないか。その場でそんなふうに語っていることが、真摯にこの世界と対峙していることになりはしないか。そしてなぜそうする必要があるのかと問うならば、そうしなければ語ることなど何もないから、そうせざるを得ないわけか。語る理由になっていないような気がするが、今はそんなことしかいえないのかもしれない。すでに夜になってしまったようだ。しかし何もない。夜景を眺めながら何かを語ろうとするが、たぶん独り言にしかならないのだろう。ちょっと疲れていて、走って新幹線に乗り込んだので息が切れている。何もやらないよりはマシだ。そうやって変わろうとしているのか。別にそれほどうまく立ち回っているわけでもない。だがそんなに急いでどこへ行くのか。誰がそれを促しているわけでもない。何を説明しているわけでもないだろうが、たぶん何かしら思うところがあるらしく、その思いに従って行動しているはずだが、果たしてそれでかまわないのか。それほど見切り発車でもないと思うが、もう少し遅かったら、どこかで固まっているところだったはずで、何とか間に合ったのだろうとは思う。別にどこかで固まって、それ以降は真面目に生きていくしかないような状況になったらなったで、かまわなかったのだろうが、現実にはそうではなかったらしい。ほんのわずかでも変わる可能性が残ってしまったわけか。ならばそういう成り行きに従うしかないか。

 それでこうなっているわけか。後先短いのかもしれない。誰かはそうでないことを願っているのかもしれないが、そうなってみないことにはわからない要素がありすぎる。現時点では何ともいえず、たぶんその先がどうなろうと覚悟はできているのかもしれないが、やはり実際にどうにかなってみないことには、その後の対応のこともあるし、今のところはどうでもいいような域を出ない話か。そんなことをぐだぐだ述べてみても何も始まらない。でもそれがおもしろいのではないか。どうせどこかで何かに裏切られ、がっかりするような予感もしないではないが、今はとりあえず期待しておくだけで、それ以上は意味がわからず、そんな感じでそれを見守り、場合によっては介入してくるかもしれないが、それで何がどうなろうと、今のところは知ったことではないような気がして、君はそこで黙るしかないらしい。君は本当に何かを成し遂げようとしているのだろうか。別に眺めているだけではないはずか。夜景を眺めているのは君ではないのか。誰かが夜の街を高い場所から眺めている。ビルと道路と車と線路と電車と人と街路樹以外に何か見えるだろうか。それが見えるだけでも感動してしまうか。たぶん何に感動していようと、そのすべては明日には思い出せなくなってしまうような些細な光景でしかない。だが今がそうであるならそれでかまわないはずだ。人は何のために生きているのではなく、ただそう思いたいだけなのだ。そう思い込むことによって生き甲斐いを感じているのだろう。目的や目標があれば、まずはそれを達成するために生きていけるので、迷いがなく、漠然とした思いにとらわれることもないか。できれば君もそうなりたいのではないか。ただ風景を眺めているだけでは飽きてくる。本当はそれだけではないのに、なぜかそういうことにしたいらしく、神は他に何もやらせたくないのではないか。神ではなく、言葉を記している誰かがそういうことにしておきたいのだろう。要するに物語を導入するのが面倒くさいのか。


12月13日

 何となくわからなくなる。本当にわからないのだろうか。わかっているのかもしれない。わからないふりをしているのか。なぜその必要があるのか。本当はわかっているはずだ。何をわかろうとしているのか。君には見えているはずだ。何が見えているのだろう。たぶん見えている。目が見えているだけだろう。そんなことは記すまでもないことだ。では何を記したらいいのか。答えるまでもないことだ。記そうとしていることを記したらいい。それは難しいことか。どうやら心境の変化を待つしかない。その気になったら言葉を記してみたらいい。今がその時ではないのか。そこで何を思っているのか。それが知りたいことか。そうならないように努力しているのではないか。なぜそう思うのだろう。素直な気持ちではない。君にはそうなることがわかっていたはずだ。なぜそう断定したいのか。そういう問答では埒が明かない。いつまで経ってもまともな返答が出てこない。何とかしなければと思っているのに、それを打ち壊すような言葉の連なりとなってしまう。堕落しているのだろうか。面倒くさいのか。これではだめだ。だが他にやりようがない。そう思うなら、さらに続けてみればいいだろう。継続していけば何かがわかるはずだ。自らのくだらないこだわりが明らかになりそうだ。できればそう願いたいところだが、途中で嫌になってしまいそうだ。持続しないらしい。ではさっきまでの意気込みは何だったのか。それ自体が嘘なのだろうか。誰の意気込みも感じない。何かの力が抜け、そのまま惰性で言葉を記している。たぶんおかしい。すべてがそうだ。すべてとは何だろう。この世界のすべてがおかしいのか。ではそう思っていること自体がおかしいのではないか。君がおかしいからすべてがおかしいと感じているわけだ。そんなことがあり得るだろうか。冗談のたぐいか。そうであってほしいと願っているわけか。

 無駄に言葉を記し過ぎだろう。無駄なことを記している。それは余計なことか。その内容が余計なのか。そう思うことが余計なのか。どちらでもかまわない。何とかしようとしていることの表れか。時計の針が回っている。ストレスに晒されているのだろうか。そう思うならどうすればいいのか。首をぐるぐる回している。そんなふうに思っているのだろう。もう飽きてきたのだろうか。そんなやり方ではだめだと思う。でもそれをやり続けている。そこから何を導き出そうとしているのか。君はそれを信じているのだろうか。それは遊戯の規則か何かか。だがゲームばかりでは生きている気がしないだろう。君は旅をしているのか。無邪気な気分になれないから、そうではないのだろう。なぜそう思うのだろうか。命がけの旅だってあるはずだ。君は冗談を繰り出しているのか。そうではないと思いたいのだろう。何事もやり過ぎは良くないらしい。機能満載の機械は修理不可能になる。そうならないためにはどうしたらいいのか。できるだけ単純な機構にしたらいいのか。とりあえず壊れにくく、壊れたとしても修理しやすい機械を作ったらいい。あるいは使い捨ての消耗品にすればいい。本気でそう思っているわけではない。どうも冗談が過ぎるようだ。虚構の何かを空想しているだけなのかもしれず、だいぶ手間を取らせているようだが、もうそろそろ幕引きとならないのだろうか。別に宴たけなわというわけでもないだろう。誰もいない。冬の街角は寒すぎるか。君はどこをほっつき歩いているのか。別にそこはイスタンブールではない。なぜそんなことを思いつくのか。それも冗談のたぐいということか。意味不明でしかないだろう。人を馬鹿にしているような言葉の連なりか。ではもうやめた方がいい。やめられたらの話だが、誰がそれをやめようとしているのか。たぶんそうではないのだろう。

 またずいぶんと遠くまできてしまったようで、仰ぎ見れば満天の星空か。冬の星座がくっきり見える。北斗七星とオリオン座か。いつの間にか指にできたあかぎれが修復している。何の関連もなく、ただ目の前の暗がりを見ている。何かが飛び出してこないか。熊だったら死傷しているところか。熊は夜行性なのだろうか。思っているのはそういうことではない。たぶんどういうことでもないのだろう。何も思っていない。ヴァイブラホーンをつかの間聴いている。その後はハウスサウンドか。確かにまったく関連性が感じられない。それでもかまわない。気晴らしにはちょうどいい。本当にそう思っているのだろうか。君がそう思っているわけではなく、誰かがそんなことを記しているに過ぎない。ひどい状態だ。何がそうなのかわからないが、とにかくひどい。そんなのは嘘に決まっているだろうが、何かのアクセントとしてそんな言葉を記す。何がアクセントなのだろう。要するに簡単に言葉を記していると、時折そんなことを述べてみたくなるということか。相変わらず首がぐるぐる回っているみたいだ。何のことやらさっぱりわからないが、とにかくそんなことが記され、それで何とかしている気になるらしい。大きな勘違いを引き起こしているのだろうか。それでもかまわないのだろう。相変わらずコルトレーンのサックスは力強い。マイケル・ブレッカーにはない特徴だ。テクニックがどうこういうレベルではなく、力強い演奏ができる者とそうでない者が存在するようだ。要するに体力の差なのか。だが両者ともに故人だ。ピアノの鍵盤を叩くにしても、力強く叩ける者とそうでない者との間に、乗り越えがたい差があるように感じられ、力強く叩ける者の演奏には、テクニック以前の説得力が宿っている。何だか音に演奏者の魂が宿っているような幻想を抱かざるを得なくなり、そういうところから音楽の神秘が漂い出てくるのだろうか。


12月12日

 何を探しているのか。別にそこから巻き返そうとしているわけではない。とりあえず言葉を記す時間があったから、それをやっているだけか。この世界にはそれを知ればすべてがわかってしまうような究極の理論というのがあって、それを誰かが探しているのだろうか。たぶんそれは違うと思われる。確かに昔は探していた時期もあったかもしれないが、探しているうちに、それが違うような気がしてきたのかもしれず、フィクションとして成り立つ範囲内では、それでもかまわないのかもしれないが、実際にはそうではなく、たぶん人の能力には限界があり、すべてを知ることができないのはもちろんのこと、常に幻想を抱いていて、そんな幻想のたぐいとして、何かこの世界には究極の理論があると思われてしまうわけで、それを知り得ないことが、努力して知ろうとすれば、いつか知ることができるような気にさせてしまうのだろう。今もそう思って努力している最中なのではないか。ではそんな認識でかまわないのだろうか。たぶんそうではない。誰かが知りたいことは他にあり、君はそれが何だかわからないのだ。現状を観察することによって、理論を求めそれを確立して、確立された理論をもとにして現状を説明する。事がそんな単純にいかないことは承知しているはずだ。現状を矛盾なく説明したらそれで終わりというわけではない。終わりがないのが現状であり、常に何かが変動し続け、説明もそれに合わせて変わり続け、何かが確立されることなどあり得ず、そこで立ち止まってしまったら、状況の変化についてゆけなくなり、取り残されてしまうか。君はそれでもかまわないと思いたいのか。昔の思い出とともに、そこにとどまり続けたいのだろうか。冗談としてならそれもありだろう。だが実際は違う。

 君はまた嘘をついているようだ。他に何を考えているわけではなく、誰かが記した言葉の連なりから影響を受けながら、今ここでそんなことを考えているだけのようで、別に昔から考えていたわけではない。今まで読んだ書物から何かを学んできたことは確からしいが、それが特定の何に活かされているとは思えず、それなりの何かを頭の中で形作っているのかもしれないが、それが理論として結晶しているわけでもなく、勘となって、その場その場で臨機応変に出てくることもあるが、何となく流動的に変形しながら、君をどこか得体の知れぬどこかへと導いているのかもしれない。それはどこでもないどこかであり、君も誰でもない誰かかもしれないが、とりあえずは誰かが記しつつあるフィクションの中で、それなりに機能し続けているのかもしれず、そんな文章の構成要素として、今日も君という言葉を伴いながら記され、何らかの意識を表象しているのだろうが、ある時はその存在が鬱陶しく思われ、またある時はその不在が事態を複雑に込み入らせているようにも思われ、何だかわからないような気分でいられるのはそれのおかげかもしれないが、それとは何なのか未だに見当がつかず、一方でそれだけのことでしかないとも思われ、それらのすべてが君には関係のないことのように思われてしまうわけだ。どこかでつじつまが合っていないことは確かなようで、無理に合わせるつもりもないのだろうが、そのこんがらがった言葉の連なりを眺めながら、君は何を思っているわけでもなく、ただそういうものだと捉えるしかないようなそれらを、誰かが再編成する予定もないようで、そのままほったらかしにされ、風雨にさらされて大地が浸食されていくように、やがて言葉も散り散りになり、跡形もなく消え去ってしまう日がやってくるまでは、何とかそんな形態を保っているような気はするが、それらの存在意義は不明のままだ。

 すべては忘れ去られる宿命なのだろう。それらが風雪に耐えて後世に残るとは思えない。しかしそれらとは何なのか。何か実体が伴っているようなものなのか。たぶん何でもないのだろう。外が明るくなってきたらしい。たぶん今見ている光景も絶えず変化し続けているのだろう。それらの何に気づいたわけでもないだろうが、そんな場所から別の場所へ移動したとしても、大して違うわけでもなく、そんなことを思っているうちに、次第に自らがこだわっていることが矮小に思われてきて、そのどうでもいいようなこだわりを捨てて、さらなる変化にその身を晒す覚悟が出てきたような気になるが、そんな大げさなことでもなく、黙っていても変わり続けるのだろうから、覚悟も何も、それ以前の段階で変わっていってしまうような気もして、むろんそれで何か都合が悪いわけでもないのだろうが、そのあっけなさに落胆して、こんなものかと気が抜けてしまうような気分となり、さらに黙るしかないようにも思われ、今までの我慢比べのような状況を馬鹿げたことだとも思うわけだが、それもそこに至るには必然的に通らなければならない成り行きだと思えば、それで納得してしまうのかもしれず、くだらぬこだわりから解放されるには、くだらぬことにとことんこだわり、そんな愚かな振る舞いの果てにようやく気づかなければ、わからないようなことであり、そこに至るまではいくらでも遠回りの迂回路が用意されていて、そこで迷いに迷った末に、ようやくたどり着いたのが別の迷路で、またそこでうんざりするほど迷っているうちに、ようやく気づいたそれが勘違いに他ならず、さらに続くわけのわからぬ成り行きの中で悩んでいるらしく、たぶんそれがフィクションの本質なのだろうが、もうそろそろそこから解放されてもよさそうなものだが、いったいいつになったら終わることができるのか。


12月11日

 もういい加減にあきらめた方が身のためかもしれないが、まだ何とかしようとしている。多少は遅れ気味だが、何とかつかず離れず何かについていっている。何かとは何なのか。冗談のついでにもたらされた気分か何かか。だから何かとは何なのか。たぶんそういうことではないのだろう。目下の目的など何もなく、そう記すことが目的と化しているのかもしれないが、とりあえずは冗談のついでにそんなことを思いながら、何が冗談だったのかわからないまま、さらに言葉を記せば、どうせ適当な言葉の連なりが生じてしまうのではないか。それでは不満なのか。何が不満というわけでもなく、それとは無関係に何かを語ろうとしているのかもしれず、そんな気分で冗談とは違う話の展開に至ろうとするが、思い通りにいくはずもないか。結果的にそうなるとは思わないが、語ろうとする行為そのものに疑念を抱いているようだ。語りたくないのだろうか。今やすべてが行き詰まりの時代だ。何かの岐路にさしかかろうとしているのかもしれず、転機が訪れようとしている。君はどこへ向かっているのか。すぐに死んでしまうわけではないが、すでに折り返し点を通り過ぎてしまったような気もしていて、この世で残された時間はそれほどでもないように感じられてしまう。とてもこれからだとは思えず、終わりを実感しているような気になり、黄昏れているわけか。誰かは言葉を記すことによって、それを否定したいのかもしれない。まだこれからだと思いたい。だが空疎な内容しかもたらせない現状では終わりを否定できない。虚無に取り憑かれている事実を無視するわけにはいかないか。それは俄には認めがたい状況か。実際にそうではないのか。何も改善されておらず、それどころかますます空疎なことを述べている。

 どうしたら現状を打破できるだろうか。居眠りの最中に何を思いつけるわけもなく、気がついたらここまできていたらしいが、まだ何もない。そう思いたいのだろう。この世界を構成する出来事について語る必要性が見当たらないか。では何を探しているのか。探しているのではなく、すでに見出されているそれを見ようとしないのではないか。何かの終わりが近づいているようだ。それは何の終わりでもないのだろうが、何かが終わってしまうことは確からしい。矛盾しているのかもしれない。終わろうとしているそれが君の視界には浮かび上がってこない。遠くに見える山並みは何を語ろうとしているのだろう。あそこにも山があるということを知らせたいのか。地図を見たら山の名前がわかるかもしれない。だがそれで何を確かめようとしているのか。何かの終わりを知りたいのか。別に終わらなくてもかまわないのではないか。何かは何かでしかなく、たとえその何かが終わっても、何の終わりなのかわからないのだから、君には関係のないことかもしれない。だが君はその終わりを待ちこがれていたのではなかったか。そんな話は聞いたことがない。それは何かのでまかせだ。しかし何かとは何なのか。そればかりが気になり、いい加減にそれを教えてほしいような気もしてくるが、それを知ってしまったらおしまいか。なるほど終わりとはそういうことなのか。たぶんその何かを知ってしまった時が終わりなのだろう。では知り得なければいつまで経っても終われないというわけか。確かに今もそうだ。終わりが近いかもしれないが、いつまでも経ってもその終わりに至れず、終わりの手前で立ち往生している。現状はそんな解釈でかまわないのだろうか。他に何を理解しているわけではない。

 人は誰でも孤独を好み、同時に孤独のままではいられない。だから本当の孤独に至れず、そこで自らの弱さを認めざるを得ない。強引に終わりを迎えるのはルール違反なのか。ルールも何も、もとからそんなことは念頭にない。そこにはどんなルールがあるのだろうか。終わりの手前で立ち止まり、次いですぐに来た道を引き返し、一瞬終わりを見物した気になり、それが誰の自慢話に使われるわけでもないだろうが、とりあえずそんな終わりを説明したくなるようで、君はそれが何なのか知ろうと試みているようだ。別に誰が自殺願望に取り憑かれているわけでもなく、それを成し遂げることが本当の終わりだとは思えない。繰り返し襲ってくる苦痛に耐えきれず、病院の窓から飛び降りた人もいるようだが、たぶんそれとこれとは本質的に異なる現象なのだろう。君はただ窓の外を眺め続ける。何の感慨もない。フィクションなのだろう。誰かの想像力が何かの光景をもたらしていて、そんな光景の中で、誰かの魂がそれらの風景と同化してしまっているのかもしれない。だから何も抱けないのか。そういう理由も時には成り立つかもしれないが、君はそれを超えた何かをもたらしたいのだろう。例えばそれは涅槃の境地とかいう大げさな何かではなく、ありふれていて誰からも見向きもされないような何かであり、そんなことを思っている心境に至りたいのだろうか。しかしわからない。それでは何かが何なのかわかりようがない。唐突なたとえに心が動揺しているのだろうか。実際には病気でも何でもないのではないか。何を心配しているのでもないし、どこへ至ろうとしているのでもなく、ただここにいるだけか。ここに何かが存在していて、それは何のごまかしも介在しないで、直接ここに存在しているのではないか。それはどういうことなのか。君の意識の中でこことはどのような位置なのだろうか。すべてはあやふやではっきりしない。


12月10日

 何かが不完全だ。頭が重く、言葉が出てこない。会話もぎくしゃくしているようで、どうかしているのかもしれない。別に外国語をしゃべっているわけでもないだろう。時々生乾きになってしまう洗濯乾燥機の騒音を聞きながら、何を思うわけでもなく、さっきまで思っていたことを忘れているようで、吃音になる一歩手前で踏みとどまっているからおかしいのかもしれず、とにかく要領を得ない説明しかできなくなっている。脳の働きが不調なのか。それでも仕事の最中で、何とか作業をこなしながら、空き時間に言葉を記しているわけか。そんなことをしながら生きている意味がわからないが、死ぬ気もないのだろうか。何とかなると思っているようで、これからどうなろうと、それほど大したことはないと高をくくっているようだが、あらぬ方角が曇っている。そんなはずがないだろう。部屋の隅に暗がりができているだけか。君はそこに誰かの幻影を見たいのか。まさかその影に励まされながら言葉を記している誰かが部屋の中にいるわけでもあるまい。何の説明なのか。フィクションではない。誰かが現実の世界に存在している。当たり前のことだ。冗談を述べているわけでもないだろうが、そんな記述を不思議に思う。それにしてもまた近眼が悪化しているのだろうか。そうではなく、そろそろ老眼鏡が必要な年代になっているのか。近眼と老眼の区別がつかないところが嘘っぽい。唐突に何を語っているのか。どうも今日は頭がおかしい。どうかしているのだろうか。それとも虚構の演技を誰かが記しているわけか。なぜそう思うのかわからない。それはまったくの的外れか。それとも君はそんなでたらめな言葉の連なりにリアリティを感じているのか。どちらにしても意味不明に思われてしまうかもしれない。

 にやけている状況ではないようだ。どうも求めているそれが実体を伴っていないようだ。心は何かの幻影と戯れているわけか。その辺が何ともいえないところだが、またどこかで道に迷っているらしい。何かが変だと思うのは正しい実感だろうか。何が正しくて何が間違っているかなんてわかりようがないのではないか。すべてが間違っているような気がする。何をけしかけているわけではないが、険悪な雰囲気を想像してみる。気が散っているのだろう。面倒くさいのか。何を聴いているわけでもなく、静かに目を閉じ、何を空想したいのでもないことを悟る。どうしたらいいのだろうか。もうだめなのだろうか。何がそうなのか。目を覆うほどの惨状ではない。まだわずかに可能性が残されていると思っているのか。それはどうなる可能性なのだろうか。意識はどこかにたどり着こうとしている。空想の世界で何をやっているとも思えない。現実の世界ではみかんを食べているようだ。そう述べている理由がわからない。何もないのだろうか。その場でそんなことを記しているだけなのか。君にそれができるとは思えない。どうしても語りようがないようだ。どこかへと言葉が散らばってしまう。そんな表現自体が意味不明に思われ、自らが何を述べようとしているのかわからなくなり、記している言葉の連なりの中で意識が迷子になってしまうようだ。君はそこで何を語ろうとしているのか。何も語れなくなっているのかもしれない。何も思いつかず、語るべき何かが出てこない。何かとは何か。意味のないことを問うことはできるようだが、それが何をもたらすわけでもなく、そこで途方に暮れているのかもしれない。それがどうしたのか。そんなふうにして言葉が連なっていく先には、いつもの空疎が待ち構えているわけか。

 今のところは予定は未定だ。ころころ変わる予定は、実際にその時になってみるまではわからない。どんな思惑があってそうなるのかもわからず、君は何かに振り回されているようで、気が気でないが、たぶんそれでかまわないのだろう。実際に受け入れられる結果なのか。そんなことを語らなければならない状況に陥っていることは確かだ。実質的には何を語っているわけでもないのにそれはないか。また誰かのギターソロを聴いている。大したことではない。ほんの気休めのつもりで言葉を散らかしているだけか。しかし贈り物とは何なのか。小包爆弾のたぐいだろうか。開けると爆発して、君は重傷を負って、救急車で病院に搬送されてしまうわけか。そんな想像をかき立てられる物などここにはない。何かを思い出してブラウザを開いて検索しようとしたら、もう検索しようとしていた言葉を忘れている。この感じは何なのか。アルツハイマーか何かなのか。何か重要なことを思い出せない。紅茶を飲みながら考えているが、一向にわからないようだ。誰かが公園のトイレで自殺していたらしい。発見されてから数ヶ月経って、ようやく身元が判明したらしい。知りたかったのはそんなことではない。革靴の底がはがれてしまった。それも違うだろう。君はどこかで頭を強打したのではなかったか。身に覚えのないことだ。自爆テロ犯が生前にビデオで犯行声明を読み上げていた。それも違う。確か駅のホームでよろめいて、ビートルズのホワイトアルバムの二枚目のCDをレールの近くで発見したはずだ。別にホームから転落したわけではない。だがそこで拾ったそれを今でも所有している。どうやって拾い上げたのだろうか。それのLPレコードの方なら、物置の奥深くに置き去りにされているはずだ。今さら探しにいく気も起こらないが、おそらくそれも違うのだろう。


12月9日

 奇をてらって爆発的に何かを増殖させる力がない。何の話をしようとしているのか。気が散っているのか。理想も現実もない。何と何を混同したいのでもなく、ただの記述に近づく。またそんなわけのわからないことを述べているようだが、馬鹿げているだろうか。いつものことだ。失われているのは話の内容だ。その代わりに何を語ればいいのか。別に軍国主義のテレビドラマが見たいわけではない。原作者が原作者だから、そんな内容になるのだろうが、何となく過ぎ去った歴史が大げさに再現されているのだろう。話は恣意的にならざるを得ないようだが、ドラマには主人公がいて、その人物を中心にして話が展開されてゆくわけか。それだけのことで、今の時代にどんな影響を及ぼしているわけではない。またそんな嘘をついているわけか。君はそこで何を鼓舞するつもりだったのか。君とは誰だろう。そんな話をしたいわけではないのか。彼は何のために生き、そして死んでいったのだろうか。そういうことではなく、ただ漠然とした思いを抱きながら、何となくそんなふうに生きていただけか。別に後の時代において縁もゆかりもない作家に賞賛されたくてそんなことをやっていたわけではない。だがそんな思い込みの中で何が間違っているとしても、それでかまわないような気がしてくる。それほど関心があるわけでもないだろう。時代が違うといえばそれまでかもしれないが、今さら過去へは戻れず、過去の歴史から何を学んだとしても、またそれが役に立ったとしても、そういうことでしかない。異なる状況下で異なる立場にいる人間が、そんな話に勇気づけられたりすること自体が、何らかの勘違いを伴っているわけだ。

 では君は何を駆使して生きていることになるのだろうか。なぜそういう問いを発するのか。理由がわからないか。まさか偶然の巡り会わせに従っているだけではないはずか。君は常に体験しつつある状況から学んでいるはずで、自らが接している出来事に対処しようとしている。そしていつも何とかしなければならず、何とかしようとした結果、実際に何とかなっているから、こうして生き続けているわけだ。過去の時代においても他の誰かがそうやって生きていたはずで、それは当たり前のことなのだろうが、なぜこんな状況下で生きなければならないのか、その理由などわからなくてもかまわないのだろう。こうなってしまった原因などいくらでもあるか。きりがないくらいありそうだが、それを知ったところで、こうなった現実を動かしようがない。これからどうにかしなければならないのかもしれないが、どうにかしたところで、その先もどうにかしなければならない事態に陥り続け、常にそんなふうにして生き続けることとなり、本当にきりがないわけだ。常に目の前で起こっている事態に対処し続け、これでいいということはない。絶えずやり方を改善し続けていないと、すぐにおかしくなってしまい、ちょっとした配慮を怠っただけで、とたんに隙をつかれて嫌な思いをしなければならない。もうやっていられないと思ったら、その後に待っているのはうんざりするような不具合の連続となってしまい、どんどんやっている現場から意識が遠ざかっていく。君は休みたいのではないか。新興宗教にでもはまって、廃人になりたいのか。やめたらすぐにそうなるわけでもないだろう。心が折れたらおしまいか。死後数ヶ月が経って白骨死体で発見されたりするわけか。急にそうなるわけではない。

 実際にはまだ何とかなっている。至って正気のようだし、食うに困らず健康状態も比較的良く、それほど金に困っているわけでもない。ならば普通に暮らしていけるのではないか。むろんそんな状態が気に入らないからそんなことを述べているのだろうが、普通に暮らしていけるありがたみを実感できないのは当然のことだ。死ぬほどの苦労はしたくない。それなりの困難に立ち向かっているのだろう。それはそうだが、程々にしてほしいし、できればもっと楽な立場になりたいもので、それが無い物ねだりであることは承知しているようだが、それを空想するのは自由で、そうなった状態を空想して、そこから気晴らしや気休めを得ているのかもしれず、そんなたわいない幻想を抱くことによって、何とか正気を保っているわけだ。そういうことでしかなく、テレビを見ながら何を思うにしても、自らの現状からかけ離れている分、無責任な批判を繰り出すことも可能となっていて、身につまされるようなことではないし、どうでもいいことだと割り切ってしまうことだってできる。そんなわけでさっさとテレビを消して、言葉を記しているわけで、ノンフィクションもどきのフィクションが、その後どういう話の展開を迎えたとしても、ネットで話の結末を知ればいいわけで、そんな話に感動する手間を省略できる。まったく便利な世の中になったといえばそれまでだが、もともと人為的な操作なのだろうから、そんなものに感動したりすること自体が、幻想の感染に他ならないわけで、それを体験するしないで何が変わるわけでもないだろう。君にはその手の感動にはすでに免疫がついているのかもしれない。ああそういうことだと思えば、それでかまわないような気がするだけで、それ以上を何を求めても、後は思い込みが過剰に動作するだけで、それによって心が豊かになったとも思えない。


12月8日

 さっきから瞳孔が開きっぱなしか。どこかで人が死んでいるらしい。人ではなく君か。なぜ興味が湧かないのだろうか。世間に流通しているどんな話題にも無反応だ。またそんな嘘をついて何を語ろうとしているのか。それがあり得ない話の成り行きなることなどあり得ない。誰かが語っているすべてはごまかしだ。ならばそれでかまわない。それだけのことだ。何に納得しているわけでもないが、ただよくわからないことを述べている。まだ語る内容が定まっていないのだろうか。ハーグローヴのトランペットを聴いている。それで気休めになるのだろうか。何を期待しているわけでもない。ただ何となく言葉を記しているだけか。十月という曲だ。それはミルトン・ナシメントではないか。ポルトガル語で歌っているから歌詞の内容はわからないが、そんなことではない。それとは違うことを語らなければならないのではないか。思いつかないのなら、思い出させてみよう。またそんな嘘をついているようだ。いい加減にそれらの影響下から離脱しなければならない。このままでは何も語らないうちに眠ってしまいそうだ。もう刻々とその時が近づいている。さっきからひっきりなしにあくびが出続けていて、今日はここまでやめておいた方がよさそうな予感がしてくるが、まだ無駄に語ろうとしているようだ。気にせずそのまま続けてしまえばいいのか。それは神のお告げか何かか。そんな大げさなものではなく、それ以外の選択肢がないだけなのかもしれないが、今はそうならないように努力すべきだ。それこそが天啓のたぐいなのではないか。またそんな嘘をつく。君は堕落している。神に向かって堕落しているはないだろう。君が神ではないことは承知している。誰が神の名を騙っているわけでもなく、君は君であり、神は神であるということだ。それはくだらないことか。

 あまり拙速に事を進めるべきではない。しばらくは休んだ方が身のためで、機が熟すのを待った方がいい。今がそうだとは思えない。だがいつなったら機が熟すとも思えず、また何を待っているのかもわからず、何もやらずにただ焦るばかりか。それは冗談のたぐいかもしれない。また逃げてしまう。目が覚めたら翌朝になっていたようで、昨晩は何を語ろうとしていたのか思い出せず、思い出すも何も、もしかしたら何も語り得ずに眠ってしまったのかもしれず、たぶん今日もそうなのではないかと不安を覚えるが、とにかく言葉を記すのを再開している。少しずつでも前進させなければならず、その内容はともかく、何とか今日の日付に追いつかなかければならない。それが冗談のたぐいなのだろうか。やめるべきなのではないか。今さら何を語っても無駄か。実質的にはそんなことしか語っていない。たぶんそんなふうに語るべきなのだろう。なぜそう思うのか。やめた方がいいようなことを積極的に語るべきなのか。意味がわからないようだ。一方でやめた方がいいと思いながらも、もう一方ではそれを語るべきだと思う。根本的に何かがおかしいのではないか。なぜそうするべきなのかわからないが、それでも何とかできると思っているのだろう。自己のうちに矛盾を抱えながらも、結局そうしているのではないか。内容はともかく、すでにだいぶ語っているではないか。支離滅裂な内容なのではなく、客観的にいって無内容か。そうは思わないが、何となく黄昏れているようだ。そういう表現が的外れなのは承知しているようだが、なぜかそういうことが記されてしまい、そう記すことによって、他の何かが記されることを阻んでいるのだろうか。誰が妨害工作を巡らしているわけでもないのだろうが、何となく違うような気がするのはいつものことで、そうではないような何かを語りたくなってきて、それを思いつくことができず、そこで行き詰まり、また苦し紛れに自己言及や自問自答を繰り返している。そして気がつけばそればかりとなり、嫌気がさしてあきれ果て、やる気を失い、やめそうになっているのだろうが、結局強引に言葉を記しながら、そんな気分を振り払おうとしてしまうのか。まったくもって馬鹿げている。

 そんな自己嫌悪を乗り越えなければならないのだろうか。だから冗談だと述べている。なぜそうやって逃げてしまうのか。そんな自問自答が気に入らないのだろう。ではどうしたらいいのか。まだそれを続けようとしている。執拗にそれ繰り返しながらも、そこから脱出するための糸口を見つけようとしているのか。嘘か。嘘でなければどうするのか。どうもしないし、さらに執拗な記述を繰り返すだけか。そして疲れ果て、眠ってしまうわけか。そんなことで疲れるはずがない。ではそれが嘘だったのか。手の甲が擦り剥け、手首に痛みが残っている。何をやったのか。打撲のたぐいには違いない。君がそれを認めるわけがないだろう。何を認めてほしいのか。誰が気が狂っていると思われるのだろう。フィクションの中の特定の人物がそれを認めるとも思えない。ごまかしでしかない。もっと正攻法で攻めたらどうか。ルールの範囲内でやっている限りは、大した結果は得られない。だからといって違法行為に手を染めてしまっては元も子もなく、何とかその辺で妥協点を探らなければならず、グレーゾーンでうまく話がまとまれば、双方痛み分け程度の結果を得られるのか。しかしそれは何の話なのか。君にわかるはずもなく、何について語っているわけでもなく、急に咳が止まらなくなるが、薬物中毒というわけでもないか。そういう仄めかしの裏に何があるとも思えず、いつものでたらめに決まっているのだろうが、それが苦し紛れに繰り出された言葉の連なりかどうかは、誰かの想像にまかせるしかなく、君は黙ってその場に佇み、それらの光景を眺めるだけで、どんな言葉も発せず、ひたすら沈黙を守っているわけか。それまったくの予定調和で、後は決まり文句の羅列になるわけか。ここはそうならないうちにやめた方がよさそうだ。そんなわけでどうやら限界に達してしまったらしく、そこで言葉を記すのをやめてしまう。


12月7日

 意味はないが寒い。寒いのだろう。寒いという意味がある。だがそれで何がどうなったわけでもない。近頃はそればかりではないか。どうも要求されている水準に達していないようだが、誰がそれを求めているわけでもなく、たぶん何が求められているわけでもないのだろう。ではなぜそんな水準で語ることが要求されているのか。それ自体が嘘か。またでたらめなことを記している。なぜそうなってしまうのだろうか。苦し紛れに言葉を記しているからか。当たっているのではないか。今度は晴れて暑くなる。たぶん来年の夏になったらそうなるのではないか。今は何を考えているのか。夜になっているようだ。それはわかっているのではないか。わかっていることを記すのが無難なやり方だ。すべては片手間でやっていることか。冗談ではなく、現状を言い当てているのかもしれない。一つとして真剣に取り組んでいるものはないか。それとは無関係に I Remember You を聴いているようだ。君はもう忘れているのではないか。嘘だったのか。何がそうなのだろう。君はそれを覚えているはずだ。何を忘れているわけではない。まだ賞味期限切れではないだろう。ではこれからどうすればいいのか。誰に問うわけにもいかないか。だが今さらながらの自問自答には飽きているはずだ。でもそれしかないだろう。そんな成り行きでかまわないのだろうか。誰に問いかけているわけではない。でもそんな予定調和の言葉でかまわないのか。念を押しても返答などありはしない。アメフトをテレビで見ている間は言葉を記せなくなり、何かの合間にそれを振り切り、何とか続けているようだ。無理かもしれない。すでにそんな案配だ。何がそうなのか。ごまかしでしかない。その辺でまた悩ましい間があるらしい。休んだ方がいい。

 それでもまだ語ろうとしているようだが、もういい加減にあきらめた方がいい。内容を得られないまま、無様に終わってしまう可能性が高い。むろんそれでもかまわないのだろうが、何となくそういうつまらない自己言及にはうんざりさせられ、それがないと空白に言葉が埋まらないのだろうが、まだ何を語っているわけでもないだろう。まだ何かに未練があるのか。受け入れがたい無内容だ。ならば何か思いついて、まともなことを語ってみればいい。できればの話だろうが、できないからそうなってしまっている事実を忘れている。とりあえず君には興味のない話だ。何も感じられない。たぶん何かの巡り合わせが悪いのだろう。そこで停滞してしまっている。いつものことには違いないが、今回は助け舟が出ないようだ。それはなぜだろう。自力で窮地を脱してみろということか。だがそれは誰の自力なのか。少なくとも君ではない。誰でもないが、誰かの自力で抜け出なければ、このまま無内容に終始してしまう。要するにネタ切れか。もとからそうだ。今さら何を探しても無駄だ。ふざけているわけでもないが、真剣になれず、何かに取り組もうとしているのに、その何かが見当たらない。矛盾しているのはいつものことだ。やる気がしないのだろう。君たちはなぜゲームをしているのか。そんな時間があったらどうしたらいいのだろう。そのとき自分が何をやっているのか皆目見当がつかないか。たぶん何もやっていないはずで、他の誰と何も競わず、生きる気力を失っている。それが嘘であることは百も承知なのだろうが、気がつけばそんなことを記しているようで、君が求めている状況は何もしないそれか。ところで言葉を記しているのは誰なのか。君は何もしないが、誰かが言葉を記している。それも嘘なのだろうか。

 国会では何も決まらない。そんなニュースを見ながら何も思わず、君の知ったことではないのはわかりきったことだろうが、他に何もないわけではない。思うところは少しあるはずか。だが何も正論ではなく、それを語ろうとしているわけでもない。実際にはそれとは関係のないところで何かが行われ、それがスポーツであったりしているわけだ。そしてやましさからそれを肯定したがる輩が大勢いる。実質的には遊んでいるわけだろう。それが社会の文化的な豊かさを反映しているとかいうわけか。それでもかまわない。何を批判したいわけではなく、そこに救いを求めるのも結構なことだ。その一方で君には何もありはしない。何があるとも思えないのか。実際にはそうでもないのだろうが、誰かが記している内容はそういうことだけのようだ。君にはそれがわかっているはずだが、あえてそれについては無関心を装う。その必要もないにそんなことが記され、それが誰を惑わしているわけでもないのに、延々とそれが繰り返され、どう見てもごまかしでしかないのに、芸術とかいういいわけに逃げることもなく、どこかへ向かってまっすぐに突き進み、一方では虚無と戯れるふりをしているようにも感じられるが、それだけではないと思っている。君は少しずつ何かをわかりかけていることに気づかないだけだ。それと気づかないまま、無意識のうちにこの世界を理解しようとしているのではないか。残された時間がどれほどあるのかわからないが、とにかく理解を深めつつあるのは確かなようで、そこからそれにふさわしい言葉の連なりを導き出そうとしているわけだ。そしていつか理解できることを期待しながら、今もそれを続けている最中なのではないか。本当にそうだとしたら、これまでより少しは前向きにこの世界と対峙できるだろうか。


12月6日

 時が経つのは早いもので、誰かが気づく前に夜になっている。すでにわかっていたはずだ。そんなことをいくら語ったところで、何がもたらされるわけではないが、語っているつもりの当人としては、着実に前進していると思っているわけか。君は何もわかっていない。顔が笑っていないようだが、何を動揺しているのか。目の前にいるのはさっきまでの誰かではない。では遠くから君を見つめているのは化け物か何かか。誰かの影が語る出すわけがない。まったくのでたらめなのかもしれず、今日はでたらめのままになってしまうかもしれない。それで一息ついているつもりか。急に堕落してしまうらしい。さっきまでの君はどこへ行ってしまったのか。何を語ろうとしているとも思えず、なぜか眠ってしまうようだが、心に響く何を探しているわけでもなく、意識がどこかへ飛んでいるとも思えない。至って正気でいるつもりか。だがもうそこから一日が経ってしまったようだ。相変わらず何も思いつかず、イヤホンでジャズを聴きながら、またどこかへと移動中らしい。まったく最近は頻繁にどこかへ移動している。取り立てて何がどうしたわけでもないだろう。それでもそういう成り行きの中で、何か思うところがあるらしく、頭の中はクリアな気でいる。何かの勘違いか。まだそこまではいっていないだろう。これからあらぬ幻想を抱いてみたり、大きな勘違いをしてしまうところか。そうならないことを祈りながら、それもまんざらでもないような気もしていて、何のことやら今のところははっきりしないが、だんだんそれらのからくりがわかってくるのだろうか。たぶんそこまでは理解できないだろう。何を空想しているわけではなく、世の中の仕組みをしたり顔で説明したいわけでもなく、ただの傍観者のふりでもしていたいのだろうか。

 そうならないように努力するとしよう。君にはまだ先があるのではないか。そこで行き止まりではなかったのか。行き止まりは何度も経験してきたはずだが、行ったり来たりしているうちに、なぜかどこかで迂回路が見つかり、そこを通り抜けてきたはずで、さっきもそんな感じでどこかをすり抜けてきたわけか。そして至って冷静であると思っている。だが目的がわからない。君は何のためにそれらの迷路を経巡っているのか。ただの気まぐれで気晴らしの一環だろうか。何か悩んでいることでもあるのか。あったとしてもここで表明するようなことでもないか。どうということはない何かのためにどこかへ向かっているのかもしれないが、やはりそれがどうしたわけでもなく、それを利用しながら自らに利益をもたらそうとしているのでもない。ただの物見遊山のたぐいか。それもあるかもしれないが、実利を伴っていないといえば嘘になりそうだ。これも何かのためになりそうな経験の一つには違いないが、それを経験したからといって、後々何かの役に立つ時がきたとしても、気づかないかもしれず、これ見よがしな行動や言動に訴えかけるようなことではなく、たぶんそれは様々な行為に出る時の土台となるような役割を負っているのではないか。うまく事を運ぶためには何かが必要で、いきなりやりたいことをやろうとしても、周囲にはそれをやらせないようにしている障害物がいくらでもあり、それらを時間をかけて取り除いたりかわしたりしながら、それができるような成り行きに持っていくまでが一苦労で、そこで試されるのがそれまでの経験であり、その経験に裏打ちされた勘のたぐいなのだろうが、ともかくすんなりといかないのが常で、あの手この手を使って、時には運も味方につけてうまく事を運ばないと、途中で挫折させられてしまう。要するに君はやる気のない素振りを見せながらも、それを狙っているわけか。

 だが一方でそれは、何だか冗談のたぐいのような気がするのだが、もしかしたら本当にはっきりとした目標などないのかもしれない。やりたいことをやろうとしているわけではなく、その場の成り行きに流されているだけで、その時々でやりたいことが思い浮かんでくるに過ぎず、それをやろうとするか否かはその時の気分次第で、気分が乗ってこないとすぐにやめてしまい、そんな途中で放棄してしまったやりたいことは数知れず、まったく計画性など皆無な人間で、ただあっちでふらふらこっちでふらふらしているだけではないのか。そんなやり方でもかまわないだろうか。また嘘をついているわけか。どうしても架空の話では本気になれないようだ。では実際に君は何をやっているのか。電車に乗って夜景を眺め、ジャズを聴いているだけか。今はそんな感じだろう。考えるのが面倒くさいのか。それでも誰かは言葉を記している最中だ。いったい何のためにそうしているのか。冗談と暇つぶしだけでは説明がつかないか。他に何があるというのだろう。なにげに頭痛がしてくる。どうやらまだ健康に不安を抱えているようだが、何か今後大病でも患ってしまう予感でもあるわけか。そうだとしてももう手遅れだ。すでに何かがおかしい。気分も優れないし、体のあちこちが痛む。もはや時間が残されていないのではないか。それならそれで話が早いではないか。永眠してしまえばいいということか。そうならないうちに何とかしなければならないのだろうか。だが何を何とかしたいのかわからない。たぶん何とかならなくてもかまわないような気がしているのだろう。それはそうかもしれないが、ともかくそこでの成り行きに沿って行動しなければならないような気もしているはずで、今もそうしている最中なのだろうから、そうしているうちに案外何かが何とかなってしまうのかもしれず、気晴らしになるような結果がもたらされる可能性もなきにしもあらずだろうか。そうなってくれれば願ったり叶ったりか。虫のいい話だ。


12月5日

 遅れていることをそれほど苦にすることもなく、相変わらず気乗りしないのに、何となくそんなことを語ってきたらしい。それでもやっと二日前だ。空は晴れているが、何を語ろうとしているわけではない。何かのレベルが下がっているようだ。今日はだめかもしれない。たぶん簡単にはいかないのだろう。単純なたとえ話とはならない。それでは満足しがたいのか。だが誰が何をやろうとしているわけでもない。やっていることはいつもと変わらず、調子に乗っているふうもない。そこで行き止まりなのか。道に迷っているわけでもない。そこまでたどり着こうとしていないのではないか。君はもうだいぶ通り過ぎてしまったらしく、そこから後戻りすることなど不可能か。ではどうしたらいいのだろう。何を狙っているわけでもない。とても起死回生とはいかない。くるところまできてしまって、後は惰性で滑ってゆくだけか。そんな気分でいるようだが、実際にところはわからない。案外大どんでん返しが待ち受けていて、わけのわからない展開を経て、うまくいってしまうのかもしれないが、別にそれを期待しているわけではない。しかし何を笑っているのか。何を考えているわけでもなく、何も思っていない。結局何ももたらせないのではないか。言葉を記している。それだけのことだろう。何を皮肉に感じているわけでもない。取り立ててそこに何があるとも思えない。漫画の中の登場人物は戦いの最中だ。たぶん何かに明け暮れているつもりなのだろうが、誰かが体験しているつもりのそれは、これまでにあった様々なバリエーションのうちの一つに過ぎない。それ以外に何があるというのか。それがそこでの決まり文句と化している。

 でもそれほどがっかりしているわけではなく、多くの人がそれを楽しんでいるのだろう。安心して楽しめることが必要とされているわけか。だからそれ以外に何があるというのか。誰もがそこで決まり事の範疇で語らなければならないわけか。実際にやっていることはそれだけではない。何も語らなくてもかまわないはずだ。もうすでに見聞してしまったことについて、後から何を語っても意味がないのではないか。そう思うなら黙っていればいい。君はそれ以上を目指しているはずだろう。意味がわからない。たぶん冷静に対処していく必要があり、想定外のことが起こっても動じることはなく、自らに何が降りかかろうと、他人事のように受け流し、心ここにあらずの態度で、事のすべてを傍観しているようだ。いったい君に何の権限があるというのか。そんな感じで切り抜けようとしているのだから呆れてしまうか。別にかまわないのではないか。本当は違うと思っているのだろう。だがその違いを説明せずに、そんな思いを心にしまい込んだまま、黙って時が経つのを待っている。君はそこで何を浪費しているのか。過ぎ去る風景を眺めながら、イヤホンで音楽を聴いているだけだ。別にそれが贅沢な趣味ではない。時間を有効活用しているのでもない。ただそんな成り行きなのだろう。偶然に見出された時なのかもしれない。他の誰かが全精力をつぎ込んでつかみ取ろうとしている栄光などとは無縁だ。その一瞬のきらめきが、その後に続く転落の人生と必然的に結びついているなどとは想像もできないほど、どこかで歓喜の瞬間が訪れようとしている。そんな誰かの栄光と挫折の物語が、今日もどこかで語り継がれているのだろうか。

 それはもとからフィクションだったのではないか。古今東西でもありふれている話だ。栄光は過信を生み、隙をつかれてやられてしまうのがオチか、細心の注意を払って、いくら永続させようとしても、取って代わろうとしている者などいくらでも周りにいるわけだから、そこに居座り続けることなど不可能か。実質的には偶然の巡り会わせによる要素が大きく、自らの力でつかみ取ったなどと思うこと自体が、勘違いも甚だしいのかもしれず、そういうのを目指す気持ちもわかるが、目指した先に何が待ち受けているかは、だいたい想像がつくのであって、あらかじめそれを織り込んでおいた方がいいだろうか。だがそんなことまで考えていては、歓喜の瞬間に至っても素直に喜べないのではないか。だからそれも傍観者としてそんなフィクションを楽しむのが無難な線か。そこで他人の身に訪れた栄光を眺めて、うらやましそうな素振りを見せておけばいいというわけか。たぶんそれは冗談のたぐいなのだろうが、オリンピックの金メダリストが準強姦罪で逮捕されたとかいう新聞記事を横目で眺めながら、しかもその種目が柔道だから、卑猥な想像を働かせてしまう人が多いのかもしれず、同じ種目で活躍した同じ大学出身のもう一方の金メダリストが、ふざけた言動でひんしゅくを買い、そしてあっさり栄光を捨てて、若くしてプロ格闘家へ転向してしまったのとは対照的に、真面目な優等生で通っていて、将来の有望な指導者として期待されていたのに、それが一瞬にしてご破算になってしまうのだから、どうも彼はその種の物語の罠にはまりすぎているような気がして、何となく誰かはそういう成り行きに感動しているのかもしれない。


12月4日

 また夜だ。毎日がそうだ。昼と夜の繰り返しによって一日が形成される。それは当たり前のことだろう。何が気になっているわけでもなく、適当に紆余曲折を経ながら、どこかへたどり着こうとしている。たどり着いた先で何が待ち受けているわけでもない。ただの移動か。毎週のようにそれを繰り返しているわけだ。それが馬鹿げているわけでもないが、何をおもしろがっているわけでもない。そんなことの繰り返しの中で、何か思うところでもあるのか。昨日は何をやっていたのか。仕事の他に何かやっていただろうか。人がそれらの出来事に絡めとられている。何かに関わることによって人を人たらしめていて、そんな人がいくらでもいるのが人間社会の特性だろう。そこに役割分担らしき何かがあり、機械の歯車のごとく定位置でぐるぐる回っている人もいるらしい。モダンタイムスとかいう映画を見たことがあるだろうか。チャップリンがどうかしたのか。またずいぶんと古い映画の題名を持ち出して、どんなたとえに使おうとしているのか。ただ機械の歯車からそんな映画の題名が思い浮かんだだけか。人は昔から使い捨てにされている。戦争か何かでいくらでも命を落とし、農場や工場や炭坑でこき使われ、病気か何かで体が動かなくなったら、そこで死を迎えるしかなかったわけか。ところで君はこの先どうなってしまうのか。いつ死んでしまうのだろうか。早く労働から解放されたいのか。そうなったとして、他に何かやりたいことでもあるのか。何をやろうとしているのでもない。ただ休みたいだけか。休めないことを知りながらも、休みたいと思っている。この世界に魅力を感じられない。たぶん何かをやっているに違いないのだろうが、やりたくてやっているのではなく、やらなければならない成り行きの中でやっているに過ぎない。

 そんなことの繰り返しの中で何かがすり減ってゆき、やがて力尽きて死んでしまうのだろうか。それは誰にとっても必然的に訪れる死だ。君は自らがやっていることに幻想を抱けないようで、そこに魅力を感じられず、いつもつまらなそうにしているわけか。そんなフィクションを語っていること自体がつまらないか。虚構ではなく、実際にそうなのではないか。他に何をやっていてもそう思うかもしれない。だから休みたいのか。理由にならないような気がするが、誰かが言葉を記すことに生き甲斐を感じているという嘘を信じる気になるだろうか。嘘ではないのかもしれない。君はそれ以上を目指しているのではないか。それ以上とはどんな状態なのか。何か悟りの境地のようなところにでも到達したいのか。たぶんこの世界を理解したいのだろう。それがどういう理解なのか見当がつかないようだが、とにかく理解したい。なぜこうなっているのかわかりたい。そんな理由などあり得ないのかもしれないが、それも幻想のたぐいかもしれないが、とにかくわかりたい。何かの気まぐれでそんな嘘をついてみる。今は嘘ではないとは思わない。たぶん誰かは嘘をついているのだ。そして眠たくなってきて、やる気を失い、気がつけば居眠りから目が覚めたところだ。それも嘘のたぐいなのだろうか。人は今より良い暮らしがしたいらしい。そのために日夜労働に励んでいるのだろうか。働かざるを得ないのは今も昔も変わらない。だから働くことに生き甲斐を感じなければならないわけか。そんな幻想を抱いていられたら、幸せな人生を送ることができそうだ。だが実際にはそんな単純な成り行きにはならず、常に自らが思っていることに疑念を抱かざるを得ないような結果がもたらされ、苦悩するわけか。

 それでも何もやらないよりはマシだろうか。人はいつまでも傍観者の立場を占有しているわけにはいかず、自ら考え行動し決断を迫られ、それによって成功するにしろ失敗するにしろ、そんな結果を受け入れざるを得なくなり、何となくそこに責任が生じていることに驚き、無責任に勝手なことをやっていられないことを悔やみ、自由という言葉が示している意味が幻想に過ぎないことを実感する。要するに身の回りで生じている様々な出来事によってがんじがらめとなっているわけか。それを振り払うには、自らに関係している人たちを裏切らなければならず、その場合自由とは罪を犯すことになる。ことさらに自由を目指す人は、人を裏切り、人間関係を断ち切って孤独になり、そんな身勝手な行為から生じる周りの冷たい視線に耐えられなくなれば、自暴自棄となって自滅してしまうのかもしれず、そんな危険を冒してまで自由を求める勇気がなければ、身の程をわきまえた生き方に徹して、それによってもたらされるであろうささやかな幸せをかみしめながら、小市民としてどうということはない人生を歩んでいくしかないのだろうか。だがそういう人を馬鹿にしたような述べ方は良くないと思われる。もう少し何か誰もが前向きに生きていけるような幻想をもたらせないものか。君だって実質的には小市民のたぐいなのではないか。別にならず者になりたいわけではなく、憧れているとも思われず、ただ淡々とその日その日をそつなくこなしながら生きているだけだろう。フィクションではないのだから、それ以外の生き方などあり得ないのではないか。たぶんそんなフィクションに登場する自由人だのならず者だのは現実の世界には存在せず、その手の存在に憧れる小市民がいるだけか。だがそうだとすると夢のない話となってしまうか。


12月3日

 まだできるのだろうか。俄然やる気が出てきたわけではない。ただ何となくそうなってしまったようだ。それだけのことか。そしてどこか他人事のような気配とともに、心ここにあらずの雰囲気に包まれて、そのまま眠ってしまうのか。そうならないようにした方がいいのだろうか。君にはやるべきことがあり、それは何かを語ることか。何かとは何か。そこで行き詰まり、それ以降はいつもの無内容に終始してしまい、取り返しがつかなくなってから後悔して、そこでおしまいか。何がおしまいとなるのだろうか。そんなふうに問いかけていること自体が気に入らないようで、必死になってそれとは違う展開を模索するが、嘘かもしれない。そのままでもかまわないはずだ。なぜかそう思ってしまう。何に耳を傾けているのでもない。どうも違うのではないか。迷っているのか。何を迷っているのだろう。くだらないと思っている。それは誰の意志なのか。誰がそう思っているわけでもなく、何をやろうとしているわけでもないだろうが、とりあえずそんなことを思い、それもいつものことかもしれないが、それを何とかしようとしている。何かのついでというわけでもなく、その気になって言葉を記し、何かを語ろうとしているわけか。それが何かの成れの果てで、どうしようもないことの繰り返しに陥っているのに、なおもそこから抜け出そうとして、もがいているのだろうが、必死の形相というわけでもないだろう。君は呆れているらしい。そんなふうにしかなり得ないことがおかしくてたまらない。馬鹿じゃないかと思うが、その馬鹿さ加減をどうすることもできず、ただ呆れるしかないらしい。そこから何を導けばいいのか。何か語ることがあるのだろうか。何も語りたくないようで、気が滅入ってくるか。

 そうならないようにしなければならず、何か気晴らしになるようなことをやりたいらしいが、それが思いつかず、それではだめだと思いつつも、だめなままでもかまわないと思うようになり、どんどん何かの悪循環に陥ってくる。まったくどうかしている。いつまでもそんなマイナスの精神状態でいると、ますますどうかしてきて、鬱状態となってしまうか。今がそうなのかもしれず、すでに取り返しのつかない状態で、何が何だかわからなくなりつつあるようだが、そんな中でもまだ誰かは正気を保っているのだろうか。誰かとは君のことか。君ではなく私なのではないか。もはや誰であってもかまわず、誰でもない誰かが君であろうと私であろうとかまわず、それは文章に記された誰でもない不在なのかもしれない。要するに言葉としてそう記されているに過ぎず、そこで誰かが何かを語っているつもりでいるのかもしれないが、実態としては不在の誰かが空疎なことを語っているように記されているだけで、そこにどんな意味も価値も生じていないようで、必要もないのにそんなことが記されているに過ぎない。そう思うとさらに気が滅入ってしまうか。誰がそう思っているのか。そう問うこと自体がおかしく、自らにそう問いかけているのだから、自己矛盾も甚だしいか。それでかまわないのだろう。今はそう思うしかなく、それを追求したら自己崩壊してしまうか。別に重箱の隅をつついているわけでもなく、そこに疑念が生じるべくして生じているわけだから、そんなことは当然なのだから、それ以上何を追求しても新たに何が出てくるわけでもなく、いくらやってもそんなことの繰り返しにしかならないことは承知しているはずで、だからそれはそれでうやむやにしておいて、何かをごまかさざるを得ず、要するにそんな嘘をついているわけだ。

 しかしそんな内容で文章を構成していること自体がおかしい。冗談なのか本気なのか、はたまた他に何もないからそうならざるを得ないのか。問題山積みなのか。それの何が問題なのだろうか。まともに語っていない。それが問題なのか。そんな自問自答も問題か。他に何を語れるとも思えない。それも問題だ。そうではない。改善する見込みもないのにいくら問題提起したところで、ただのあら探しとなるしかなく、予定調和の自問自答を繰り返すだけで、一向に話が進んでゆかない。それだけのことか。記された日付から数日後の今日が寒すぎるのか。そう述べて一瞬何のことやらわからなくなるが、いつものごまかしだと気づき、たぶん行き詰まっているのだろうと想像がつくが、それでもそんなどうでもいいことを記しているのだろうから、ますます呆れ、今後もそれでいくのならそれでかまわないのかもしれないが、何となくそれでは先が見えているような気がして、がっかりしてしまうか。うまくいかないことはわかっているはずだ。うまくいっていること自体がうまくいっていないことの証しとなってしまい、そんな自己矛盾の中で煩悶し、ストレスと疲労が蓄積して、それを続ければ続けるほど自らを追いつめることとなり、さらに何も記せなくなってしまう。その代わりに記しているそれは、記せないことについてのいいわけに終始していて、それも自己矛盾を形成しているわけだが、たぶん今後もそんなことが繰り返されてしまうだろうから、暗澹とした気分となってしまうが、それでも続けようとしているわけで、語れば語るほど語れなくなり、続ければ続けるほど続けることが困難となり、もはやどうにもこうにもやりようがなくなっている。まったく冗談もここに極まっているわけか。誰かは冗談ではないと思いたいのだろう。


12月2日

 果たして君はこれにかけているのか。それほどのことでもないが、穿った見方をすれば、とにかくそういうことだ。何を差し置いても言葉を記さなければならない。そんなのは嘘に決まっているだろうが、実際にそうしているのではないか。誰かは寝る間も惜しんでそうしているわけか。それも嘘かもしれないが、そのつもりでやっているのかもしれず、だんだん頭がおかしくなってきているようで、記すべき言葉が見当たらないのに、わけもなく記そうとしている。冗談にもほどがあるか。別に冗談でもないだろう。それが普通なのだからどうしたわけでもなく、そのまま言葉を記すのみだ。だが君はそれが気に入らない。もっと熟慮して言葉を選び、考えながら記すべきだ。なるほどもっともなことかもしれないが、それはやろうと思えばできることなのか。それ以前に本気でそんなことを述べているのか。たぶん違う。何が違うのだろうか。成り行きとしてそうなっていないではないか。いつも切羽詰まって苦し紛れに言葉を繰り出し、やっつけ仕事気味に何とかこなしているのが実態だ。たぶん熟慮している余裕がないのだろう。そして全体を把握できない。それが何の全体かもわからず、五里霧中で暗中模索のまま、とりあえずその場の思いつきで言葉を記してみるしかなく、自らが何について語ろうとしているのかもわからないまま、それについて語っているつもりでいるらしいが、それとは何なのか。つまりそれは今語りつつある全体がそれなのか。それではわかろうとしてもわかりようがない。ではやはり無理なことをやろうとしているわけか。それはわかりきっている。そこから抜け出せないこともわかりきっているだろうか。

 冗談でそんなことを述べているのかもしれない。たぶんそうだろう。でも持続可能な何かがそれなのではないか。実際に続いているではないか。何か具体的な話題について語るのではなく、空疎な何かについて語る方が続けられるわけか。何もなければネタが尽きることはない。はじめから尽きているのだから尽きようがないか。だから冗談なのだろう。その空疎な無内容自体が馬鹿げていて、読む人を馬鹿にしたようなことを述べているわけか。だがそうではないような気がしているのはなぜか。それで何かを記述することの本質をついていたりするわけか。それこそ冗談も休み休みにしてほしいか。どうも的外れのようだ。たぶんそうではないのだろう。もう夜だ。世の中では何がどうなっているのでもなく、あるいは何かがどうにかなっているのかもしれないが、どちらにしろ君の知ったことではない。誰かにはまだ言葉を記すだけの余力が残っているだろうか。それだけではないはずか。君が語るような内容ではないことが記される。そうなったらおもしろいか。ただ無駄に言葉を記しているだけのようだ。たぶんそうであってもおもしろそうだが、そこで語るような内容ではないのだろう。そことはどこなのか。どこでもないのだろうから、問いかけるだけ無駄か。その必要がないから、どこでもないどこかで語りが継続されているのではないか。そんな思いつきが嘘偽りでないことを祈るが、どう言いくるめても、その場の惨状を覆い隠すことはできず、何も語れない状態で無理矢理言葉を記している状況が延々と続き、疲れとストレスがたまっているわけか。だがそうではないと思い込みたいのだろう。

 今からでも遅くない。今がやめ時なのか。そういうことではなく、どういうことでもなく、さっさと言葉を記し終えて、一息つくとしよう。もう我慢の限界か。そうであるとしても、まだ道半ばだ。今さら逃げ道などあり得ず、逃げたとしても、逃げた先で言葉を記さなければならない。君はそこで試練を課されているのか。そんなふうに思ったことはなく、ただの暇つぶしの一環で語ろうとしているわけか。何を語ればいいのか。それは君に訊いてみたらいい。答えられるはずがない。何も思いつかないのだからどうしようもない。そして言葉を記すことをやめてしまうのか。そうなればしめたものだ。肩の荷が下りて楽になるのだろうか。縁起でもない。誰かが何かつぶやいているようだ。そうならないようにするにはどうしたらいいのだろう。それは簡単なことで、今やっているようにすればいい。毎日思い悩むわけか。何かに取り憑かれている。では祈祷師にでも頼んで除霊してもらった方がいい。ちょっと胃の調子が良くなってきたので、インスタントコーヒーを飲んでみるが、何となく気分が変だ。何か元の木阿弥になりそうな予感がしてくる。そんなことを繰り返せば胃がんになって死んでしまうか。それほど大げさに考える気にはなれないが、もうすでに手遅れかもしれない。そう思うならコーヒーを飲むのをやめた方がいい。それがやめられないのならどうしようもない。だがそれで誰がどうなろうと、依然として君の知ったことではない。君にしてみれば、どこでもないそこで、誰かが言葉を記していればいいわけで、それが誰であろうとかまわないばかりか、誰でなくてもかまわない。ただ文章の中に君という言葉記されていればいいわけか。それ自体がフィクションなのかもしれないが、たぶんそれは正気の沙汰でない。


12月1日

 やっと今月に入ったが、どうもうまくいかないようだ。体調が悪いのか。胃が痛くてコーヒーを控えているらしい。もう夜だ。今から何ができるというのか。言葉を記しているではないか。問題意識を共有できそうもない。君はそれが気に入らない。なぜそんなことを語らなければならないのか。語らなくてもかまわないのかもしれず、そこでやめてしまえば気が楽になりそうだ。負担が一つ減るだけでもありがたいか。たぶんそうはならないだろう。ただ単にできないだけか。やめられないのにできない。やるかやめるかのどちらでもない。闇の中で何かをたぐり寄せようとするが、現実の世界では何もやっていない。やらなければならないようだが、何をやろうとしているのか。気休めや気晴らしのたぐいではない。語らなければならないのか。だから何を語ろうとしているのか。そこで行き詰まってしまう。言葉を記しながら考え込んでいるようだが、答えが出るとも思えない。簡単に語ればいい。語っているつもりになればいい。今がそうなのではないか。実際にそんなことを語っているのだろう。それではだめなのか。だめなままでもかまわないのか。ギターソロだ。ハードロック系のサウンドか。唐突に音楽を聴いている事実に気づくが、脈絡のないことか。蛇足でもかまわないから、そんなことを語っていればいいのではないか。あまり長く言葉を記さない方が健康には良いのではないか。それは何の話なのか。今日の午前中までは時計が動いていた。何の話でもありはしない。では誰がそこで魂をつかんでいるのか。それも関係のないことだ。何も感じないならやめた方がいい。苦悩するまでもない。

 絵の中で誰かが叫んでいる。それは画像だ。ガソリンスタンドの店員か。外は冬になっている。内もそうなのではないか。今は別のことを考えているらしい。どうせ面倒くさいのだろう。意味が通るようにするのが億劫なのか。そんなわけではない。また時間が経ってしまったらしい。テレビを見ていたらそうなってしまい、無駄に時を使って何を思うわけでもなく、ただそんなことを記している。疲れている。それだけのことか。何に影響を受けているのだろう。自転車レースをテレビでやっていた。集団での駆け引きの末に何かが決まる。決まったらどうするのか。喜ぶのではないか。それだけのことだが、それが重要なのか。重要だからこそ世間が注目するのだろう。たぶんわからない。幕引きにしては中途半端だ。何について語るわけでもなく、ただ適当に言葉を並べて、それで終わりとなってしまうらしい。嘘だったのか。何がそうだったのか。心当たりはなさそうだが、これで終わりとはならない。終わり間際にそう思っている。別に絶望の果てにたどり着いたわけではない。何でもないのだろうから、低周波の不気味な音が聞こえてくるが、それがストレスの原因なのだろうか。この時間帯に音楽を聴くのもおかしいか。蛍光灯を消して部屋を暗くしてみよう。少しは耳鳴りが改善されるだろうか。できることなら何でもやって、何とかたどり着きたいのか。いったいどこへたどり着こうとしているのだろう。またできなくなってしまったようだが、そこから何を語るつもりなのか。どうやら蛍光灯がうるさかったらしい。まったくまぶしさとともに騒音ももたらしていたのか。

 そんなレベルではないだろう。だが頭痛は続いていて、これまでにない感覚をもたらしているようだ。調子が悪いのだからもうやらなくてもかまわないのではないか。あまり意地を張り通すと、不幸な結果をもたらす。気を休めて出直した方がいい。そのチャンスがいつ巡ってくるのかわからないが、今は休んでおいた方がよさそうだ。風景の中でその風景を眺めている人物が映し出され、誰がその風景に溶け込んでいるわけでもないだろうが、そんな光景を音楽とともに眺めていると、何が思い出されるのか。何かの整合性がなくなっていて、今語ろうとしていることが、すぐに別の語りと置き換わり、そんなことを語ろうとすると、また別の語りが生じているようで、要するに話になっていないようだ。自身の苦笑いを想像しながらも、そんな場合ではないと気づき、何とかそこから抜け出ようともがくが、別にもがき苦しんでいるわけでもないと思い込み、軽い頭痛とともに時を過ごし、それが当たり前のように思われてくる。そんなことはないか。それも思い込みのたぐいかもしれず、とにかく早く正常な精神状態と体調を取り戻さなければならない。君はツールドフランスを見ながら何を思っていたのか。今は音楽を聴いている。自転車レールに熱狂する人々の姿が君に何を考えさせるのか。栄光はほんの一瞬で過ぎ去り、後は忘却作用によって人々の記憶から消え去ろうとしている。誰もがそれを求めているのだろう。毎年のように行われ、多大な何かが費やされ、そんな成り行きがメディアを通じて広く伝えられているのだろう。それがないとだめなのだろうか。もうすぐ日本で行われる箱根駅伝のような催しか。