彼の声85

2011年

7月31日

 どうやら月またぎとなってしまったらしい。できないものはできないか。疲れて眠ってしまったようだ。確かに無理なことは無理なのだろう。そういう宿命なのか。嫌になってしまうが、こんな境遇なのだから、仕方がないといえば仕方なさそうだ。そして誰かが深夜に目覚め、それに関して何を思っているのでもないことに気づく。そんなことなのか。その程度のことというわけでもないが、それほどのことでもなく、やはりそういうことなのだ。そういう成り行きなのであって、別にふざけているわけでもないのだろうが、たぶんそうだ。ふざけているのだろう。現にそれをやってできないことはないとも思い、その気になればできるような気もするのだが、実際にできなかったのだから、要するにできないことだったのだろう。そして案の定翌月翌日の昼になり、どうせまた夜になってしまうのかと思うが、語ることが他にないのだから、それも致し方のないことだろう。ではいったいこれから何を語ればいいのだろうか。誰に問うているとも思えず、相変わらずの自問自答に過ぎないのだろうが、そういうことでしかなく、それ以外の何事でもなさそうで、意識がそこから遠ざかれなくなっていることに気づき、実際にそんなふうに語っているようで、たぶんそれがくだらないことのすべてなのだろう。そう思って差し支えないのか。それはわからないが、すでにそう思っているはずで、無駄に言葉を記して文章を構成しているはずだ。しかしなぜそう思ってしまうのか。それで済んでいるうちはそう思うしかないのだろうか。たぶんどのように感じても、そこから世の中の印象が変わるきっかけを導きだせるはずもなく、相変わらずの日常に心が満たされ、のどの渇きを癒やすような出来事とは無縁に、いつまでも湿り気を感じさせる蒸し暑い空気に包まれた日々を送りながら、すっきりしない思いのまま、執拗に迫りくる不具合に対処しつつも、次第にやりきれなくなり、あるとき不意にやめてしまうような気がするが、実際はどうなのか。

 しかしなぜうまくいかないと思うのか。それよりいったいうまくいく時とはどういう時なのか。どのような結果がでればうまくいったことになるのだろう。今までにこれだという機会に巡り会ったことがなく、いつも中途半端に継続せざるを得ないような成り行きになり、だらだらとそれが長引き、気がついたらだいぶ経っていて、相変わらずそんなことを述べているわけだ。まったく性懲りもなくそうなってしまい、そんな状況から逃れるチャンスも訪れず、もしかしたらチャンスの到来に気づかず、みすみす逃してしまっているのかもしれないが、それでも何とか続いていて、その気もないのに語りだし、語りだしたら途中でやめられず、やめられないと思っていても、本当にどう思っているのかどうかわからず、実際にやめている時もあるのに、それに気づかず、気づいてみれば延々と続けているような気がして、何となくそこであきらめてしまうのかもしれないが、何をあきらめたのかわからなくなり、そんな回り道を歩みながら、どういうわけかそこでさらなる迂回路を探して進み、結局どこへもたどり着けないような案配となり、何となく迷路で道に迷っているような気がして、たまにはわくわくしてきて、そんなつもりでもないのに、何となくそういう具合に語り、それがどうしたわけでもないのに、時折驚いたふうを装い、ヒステリックに何かを主張して、そんな物語の登場人物のように振る舞い、それらの何がフィクションなのかわからないが、作り話的には、いわゆる宝探し的な虚構にのめり込んでいる誰かを遠くから眺め、自分ならもっとうまく立ち回れるのにと嫉妬しているようだが、立場や地位に取り替えが利くとも思えず、やはり自分はこんなことを語っているしかないと思いながら、本当は別のことをやっているつもりなのだ。しかし別のこととは何なのか。やはり話の途中から意味不明になっている。

 何やらその辺でうまくいかなくなっているようで、何がうまくいかないのかわからないが、うまくいかない原因を求めているとも思えず、それでもあやふやなことを延々と述べていて、くどくどと同じような内容を繰り返し、そのうち漠然とした不安に駆られ、とにかくまともな内容にしなければと思うが、時すでに遅しで、ひたすら無駄なことを述べている最中にそんなことを思っているだけで、そこから何をどう改められるわけでもなく、すでに記された言葉の中に意識が埋もれ、神経が麻痺しているようにも思われ、うまくいっていないのはそんなことを記しているせいだと気づくが、やはり気づくのが遅すぎるのであり、すでにそこから抜け出られなくなっているようで、後はどうしようもなくそれを続けるだけとなってしまい、実際に言葉を記し続け、何かそれで満たされた思いになろうとするが、何に満たされているわけでもなく、心を満たしていると思っている空疎でさえ、虚構の一部として記されているだけで、言葉を記している当人は何とも思っていないようで、何事もなく何をはねのけているとも思えず、単純にあるがままの世界で、何か思っているのかもしれないが、それは思っているだけのことで、実際にどんな行動に結びつくとも思えず、それが何かをやる上での障害となっているわけでもなく、やりたければやれる範囲内でやっているはずで、その中の一つが言葉を記していることであり、それ以外にも同時並行的にやっていることがあるのだろうが、それについて語る必要性を感じられず、そんなわけで何を語っているのでもなく、ただ言葉を記しながら、そんなやり方に終始している現状を述べ、そこでうんざりするような何かに巡り会っているのかもしれないが、やはりそれについて何を語るわけでもなく、その代わりに誰かが語っていることはといえば、いつものそれであり、いつまで経ってもそれ以外には何もなく、それを超えるような出来事にも遭遇せず、それ以外の何に裏切られているわけでもなく、ただ淡々とそんなことを述べているに過ぎない。果たしてそれでかまわないのだろうか。


7月30日

 またこの時間帯か。いったいいつまでそうしているつもりなのか。夜にカラスが鳴く。きっと何か考えているのだろう。そのつもりで言葉を記している。だがそこは君の領分ではない。何を語りたいかは君次第というわけではなく、とにかく誰かが偶然に何か思いつかなければならないということだ。その辺で難儀しているのだろうか。君が抱え込んでいる空疎には限りがあるのだろうか。無限の空疎というわけでもないか。ではいったい何をひらめいたのか。そのひらめきから何がもたらされるのか。すべては不確定だ。それが何の原理であるわけでもないが、そんなふうに語る必要がないことが明らかとなり、君は窮地に陥る。そんなはずがないだろう。簡単に述べるならそういうことになりそうで、何が簡単なのかわからないが、遠からず問題が解決して、その先にまた新たな問題が待ち受けていようと、君はそんなはずがないだろうと思う。だからそんなはずがないということなのか。わけがわからないようだ。ではやめた方がいい。何をやめればいいのだろうか。語るのをやめ、言葉を記すのをやめれば、君がおしまいとなるだろうか。そんなはずがない。誰かが知らないうちにそうなり、そうやって何かが繰り返され、言葉が記される。それが自然な流れとなり、今に至っているのではないか。だがもうその辺で限界か。カフェインが欲しいのだろうか。何かの禁断症状がでているようだ。そう思うなら思えばいいだろう。そして何がどうなったのか知らないが、とりあえず缶コーヒーを飲みながら、何か適当なことを思っている。またそうではないと思いたいのだろう。ちょっと唐突すぎるだろうか。相変わらず意味がわからない。そういう範囲から外に出るわけにはいかないのか。わからなければとりあえず言葉を記してみればいい。そうすれば何とかなるはずだ。その辺で合点がつくか。いったい何に納得すればいいのだろう。

 胃が痛いか。では何を予言しているのか。明日の天気か。天気予報を見た方が確実だ。他に何が知りたいわけでもなく、何も知ろうとしていないようにも感じられ、ただ暗闇の中で黙っている。そんなことがあり得るだろうか。嘘をついているのだろうか。嘘のつもりが、思わず本音を紛れ込ませているのかもしれず、話の内容を注意深く聞き取らなければ、それを取り逃がして意味不明に思われ、結局誰かが何を語っているのかわからなくなりそうだ。しかしなぜ支離滅裂に語ろうとするのか。わざとやっていることか。別にどんな思惑や意図があるわけではなく、そう述べて誰を煙に巻こうとしているわけでもないのだろうが、それについて語ろうとすると、なぜかそうなってしまい、語っている当人にもわけがわからず、自分が何を語りたいのかわからなくなる。それでかまわないのだろう。語っているつもりなら、何を語っていても、とりあえずは納得するしかなく、わけがわからなくても納得して、そういうことだと思っている。それこそわけがわからない。別にそれで何がどうなったわけではなく、そういうことを語っているつもりなのだから、それはそういうことだろう。君にとってはそれで納得できるはずだ。納得しがたいのなら、納得できるまで語ればいい。だがそういう問題の解決の仕方がそもそも間違っているのではないか。間違っていようと、間違ったことを語っていればいい。何でそうなるのだろう。それが結論なのか。わからないようだが、それでもそれについて説明しているつもりなのだろう。そしてそこから心が離れてゆき、それにつれて次第にどうでもよくなってきて、気がついたら何かを語っているわけだ。たぶんそういうことでしかなく、そうやっていつも嘘をついているのだろう。しかしそれの何が嘘なのか。それ自体がそうか。本当は何も語っておらず、それはいつもの自問自答の独白に他ならず、内容は何もなく、ただ空疎な言葉が連なり、それについて語ろうとするが、それらの文字列が邪魔をしているようで、語る以前に記された言葉の連なりが、真摯に語るのを阻んでいるようだ。

 だから冗談半分となってしまうのだろうか。たぶんそう述べてもかまわないのだろう。それについてどう述べてもかまわず、それが何だかわからないように語ることを可能としているのかもしれないが、君は薄々気づいているのではないか。もはや君にはそれが何だかわかっているはずだ。ではそれとは何なのか。またそれか。いつもそういう話の展開になってしまうのは、単なる予定調和になっているだけか。たぶん無理にそうしているのであり、そういう成り行きに持っていっているのだろう。そして何を語ろうとしているのかわからないまま、とうとうここまできてしまい、時間的にも余裕がなくなって、このまま終わろうとしているようだ。やはり無内容で馬鹿げたことを述べているとしか感じられず、嫌になってしまうが、これも成り行きであり、そういう成り行きに逆らえるわけでもなく、眠たくなり、あくびがでてきて、もはや限界のようだ。完全にお手上げなのか。何もわからないままに済まそうとしている。済むはずがないのに、強引に語り、これでいいのだと叫びなくなるが、そんな嘘をつきながらも、あくびの合間に言葉を記し、首をぐるぐる回しながら、明日のことが気がかりで、月末が日曜日なのが忙しさに拍車をかけ、きっとまた疲れ果ててしまうのだろうが、それでも夜になって言葉を記そうとして、またさらに疲れてしまうのかもしれず、何だか想像しただけでもうんざりしてくるようで、それが難儀な宿命だとあきらめるしかなさそうだが、本当にそんなことをやる必要があるのかないのか、未だにわからないが、それ以上の何を求めているわけでもなく、そうなればそれをやるしかなく、理由も必要もないのに、やはり言葉を記すだけで、それだけのことで時間を費やし、他の何かをやり損ない、後になって悔やんでも悔やみきれなくなるのかもしれないが、たぶんそれでもかまわないとあきらめるしかなく、そんな納得しがたい状況を受け入れるしかなさそうだ。


7月29日

 今日もまた疲れた。ここから何を記したらいいのだろうか。そういうことだ。何を記したらいいのだろうか、と言葉を記している。馬鹿げているだろうか。たぶん馬鹿げているのだろう。やはりそういうことか。笑ってしまうが、これが笑わずにいられるだろうか。たぶんそういうことに違いない。笑いたければ笑っていればいい。そういうことでしかない。君は疲れている。そして迷っているはずだ。どうあってもうまくいかないようで、何やら我慢比べの様相を呈している。状況はこじれにこじれ、にっちもさっちもいかないようで、何をやっても裏目に出てしまい、さらに悪化させているだけのように感じられ、焦れば焦るほどどつぼにはまり、もう笑うしかない状況で、何もやらない方がいいのではないかと思ってしまうが、実際のところはどうなのか。執拗に誰かを悩ませているあれらの現象を止める手だてはないのだろうか。たぶんあまり難しく考える必要はなく、ただ待てばいいだけなのだろうか。良くなるのを待てばいいだけなのか。焦れったいし、焦るしかないのかもしれないが、とりあえず焦りながらも待っていることにしよう。長いトンネルを抜ける頃には光明が見えてくることを期待して、とにかく今は待つとしよう。待つしかないらしい。そう自らに言い聞かせて、焦る気持ちを鎮めるしかないようだ。もうどうにもならないことはわかっているはずだ。わかっていながらもどうにかしようとしているのだから、執念深いというか、また無理なことをやろうとしているだけかもしれず、どうせまともな結果など得られるわけがないのに、なおもそれをやろうとして、疲れるだけとなってしまいそうで、それがわかっていながら、なぜかやらなければならない状況に追い込まれてしまうのだろうが、それはまったくご苦労なことか。まだ光明などまったく見えてこない。

 嫌気がさしているのならやめた方がいい。わかっていながらやめられないのなら、どうすればいいのか。ただわからないだけか。そういうわけでわからないことにしておこう。冗談を述べている場合ではないが、たぶんやり続けるべきなのだろう。やめた方がいいのにやり続けるべきなのか。そういうことらしく、実際にやり続け、嫌気がさしてやめたくなっているのにやり続け、何やらおかしな心境になっているわけだ。とりあえずこの際は徹底的に膿を出し切るべきだ。それも何かの冗談で述べていることか。他に何があるというのか。君はそんなことを述べてふざけているのか。真面目になるような心境にはなれず、ふざけるしかないということか。いったい何をふざけているのだろうか。それもわからないことにしておくべきか。ますます頭がおかしくなっているのかもしれず、どこかの神経回路が暴走しているようだが、意識の中では何とかしようとしているらしく、実際にどうなっているのか知らないが、とにかくどうかしている状態から抜け出したい一心で、そんなことを述べているのかもしれず、何やら破れかぶれの様相を呈しているようで、ただ言葉を記して、それで何かの間に合わせとなればいい程度のことで、そんなことを述べているのかもしれない。うまくいかないことはわかっている。しかしそれでもやらなければならず、やろうとしていることが間違っていようと、それをやり続け、結果的に何とかならなくても、やはりやり続けてしまうようで、それが取り返しのつかぬ事態を招こうと、それでもやり続けてしまう気配を感じさせ、それが何かの暴走を招いているのかもしれないが、君にはそれを止めることができないわけだ。焦れったいことだが、ただ見守るしかなく、何をどうやってもうまくいかないのだから、もはや手の打ちようがなく、完全にお手上げ状態なのに、やはりそこから何かやろうとして、それが無駄な抵抗なのか、あるいは単なる悪あがきなのかもしれないが、やはりやらざるを得ないのだろう。

 そしてここまでやってきたが、何の感慨も抱けず、さらに言葉が連なるように、君は努力するしかなく、それが何であろうとなかろうと、結果がどうなるにしろ、ただ闇雲に前進するだけで、後先のことなど考えていないようで、行き当たりばったりで言葉を記し、そこで致命的な過ちを犯そうと、状況判断を誤ろうと、それでもそのまま続けるしかなく、実際に続け、ここまでやってきたのであり、さらにこの先へと前進し続け、どうにもならない歩みを進め、たぶん本当にどうにもならなくなってしまうのだろうが、それでも何とかしようとして、何ともならないようなことをやり続け、そんな自己矛盾も無視しながら、その先へと言葉を記し、そこから何がどうなってしまうのかわからないが、何となくそんなことを述べ続け、要するに現状維持とまではいかないにしろ、後退しながらも、その途中で何かを述べ続け、音楽を聴きながら、それで気晴らしにもならないことを承知で、それをやめようとしないらしく、何を語っているわけでもないのだろうが、ごり押しとも受け取られかねないようなことを述べているとは思わず、要するにごり押し気味に事を進め、相手が怯んだ隙を狙っているわけでもなく、そうならざるを得ないような敗北を経験したいとも思わないのだろうが、やはりそれはそれで紛れもない敗北であり、それを自ら認めているのに、負け続けながらも言葉を記し、何が負けなのか定かでないようになるための、それ特有のいいわけが用意されているわけでもないのだろうが、やはりそんなことを語っているようで、客観的に見ればもう終わっているのだろうが、そんな終わりを無視するように語り、終わりは終わりとして認識しているのに、やはりそこから語ろうとしているのであり、そんなどうしようもない語りを続けようとして、なおも言葉を記し、文章を構成し続けるのだろう。君はまったく懲りていないのだろうか。だが何に懲りている必要があるのだろうか。懲りずに語ることが何を意味するのかわからない。


7月28日

 やっと今日の日付に言葉の連なりが追いついたのに、それを記している誰かはもうやる気を失っている。そんなわけでまた遅れてしまうわけか。それはいつものことだ。そんなわけでこの先どうなるかわからないが、とにかくできる範囲内で言葉を記してみよう。たぶん何か考えていれば、自然と言葉が出てくるはずだ。そんな楽観的な気分でいいのだろうか。良いも悪いも、そういう成り行きとなってしまうのだから、それはそれでそういうことだ。そう思っていればそういうことになる。そしてどうなってしまうのか。何がどうなってしまうのだろうか。自らの過ちに気づかなければどうしようもない。どうもならずにそのままとなり、同じことの繰り返しとなる。君はそれでかまわないのか。不毛な我慢比べはやらない方がいい。背信行為を見逃して、そのまま泳がせておいてかまわないのか。どうするべきかわからないようだ。いったいそれの何が背信行為なのか。それが何だかわからない。たぶんわからないようにやっているのだろう。わかってしまっては元も子もないか。では君は何をわかろうとしているのか。そうではないと思う。何がそうではないのだろうか。何に感づいたわけでもなく、実質的には何も定かでない。思っているのは虚構の世界でのことか。それも意味がわからないが、何を再認識しているのか、それについて記さなければならない。だが今は夜でしかない。夜でなければ何なのか。何か他の時間帯を想定しているのだろうか。それについて何を語っているとしても、他に何がどうなっているわけでもなく、今はただの夜だ。君がそう述べているのではないか。ではそれが何を意味するのだろう。何もわからない。ならばそう述べて何から逃げているのか。問わなくてもいいことまで問うているだけだ。それは何なのか。膝が痛い。関係ないが関節痛なのだろうか。やはりそういうことではなく、もっとまじめに考えなければならないということだ。だが何についてそうなのだろうか。

 眠たいのだろう。眠ってしまえばいい。何も考えることなんてありはしない。疲れているのではないか。そうでないことを祈っている。神に祈っているのだろうか。では願いが叶うことを祈っている。まったくとりとめがないようだ。考えがまとまらず、見切り発車的に言葉を記しても、とりとめがない。漠然とした思いにとらわれている。そうだとしてもその先に何かを記さなければならない。無理なのではないか。確かにそれは無理だ。何かに流されているようで、偶然ではないのだろうが、見出そうとすると、そこから離れていってしまうらしく、思い出そうとすると、忘れていることに気づく。君にはもはや考えるための指針が失われていて、何をどう考えたらいいのかわからなくなり、後は途方に暮れるしかないようだが、なぜそれでも考えようとしているのか。何かを見つけ出す手前まできているのだろうか。無意識のうちにそれを探り当てようとしているわけか。無意識ではなく現実にそう思っているのではないか。そこで何かが試されていて、試練の時を迎えようとしているようで、今がまさにその時なのか。そうだとしても何だかわからず、君は一時的に他人を信じることができなくなっているようだ。欠点がわかっているのに、それをあからさまに指摘することはできない。なぜそういう成り行きになってしまうのか。思い通りにいかないことはいくらでもあり、やはり今がまさにその時であり、それが君にとっての試練となりつつあり、やり方を間違うと取り返しがつかなくなってしまうような気もしていて、とにかく慎重に事を運ばないとならないような気がしている。しかしなぜ真正面から堂々とやらないのだろうか。何だかそれで決定的な対立に至るのを避けているようで、その辺で何らかの妥協を導きだそうとしているような気がしてならないが、それが果たして良いやり方なのか、わかりかねる部分があり、結果的に間違っていたとしても、納得できるとは到底思えず、実際にどのような結果がでようと、君は後悔してしまうのではないだろうか。

 果たしてそれでいいのだろうか。たとえ失敗しても勉強になったと思えばいいことかもしれないが、そこで開き直ったり強がってみたりしてしまうと、それ以降も性懲りもなく同じ過ちを繰り返してしまうのではないか。ではどうすればいいのか。せこく損得勘定を計算して、なるべく利益が得られるように事を運ばないとならないか。現にそうしているのではないか。無意識のうちにそうしているのかもしれないが、わからないと思いながらも、そういう成り行きに持っていこうとしているような気もしていて、その辺に微妙なニュアンスが含まれているのかもしれないが、今のところははっきりせず、こうなればそうなるというふうな因果律もわからない。要するに暗中模索ということか。簡単に言ってしまえばそうなるだろうが、やはり微妙にずれているような気もして、ともかく一般的にうまく立ち回ろうとしているのではなく、うまく立ち回れなくて失敗しても、それはそれでいいのであって、うまくいかないなりに、何らかの理解に達したら、それで納得してしまうのではないか。さらにいえば利益などでなくてもかまわないのであり、そんな現象を体験できただけでも、それなりの成果を得られたと感じてしまうのだろうし、そして君はそれでかまわないと思ってしまうのだろう。それこそがいつも繰り返している過ちそのものなのか。あるいはたとえ過ちであろうと、間違っていようと、それでかまわないと思うしかないのだろうか。かまわなくてもそう思ってしまうのではないか。しかしそれはどういうことなのか。なぜそう思ってしまうのか。やはりそこがおかしなところで、君自身が抱え込んでいる欠陥そのものなのかもしれないが、そういう欠陥があるからこそ、何となくそこで愉快な気分でいられるのかもしれず、それではまずいのだろうが、そういう感覚を捨てるわけにはいかないらしく、まだ当分は改められないのだろう。


7月27日

 それで何かの準備が整ったのか。それともそれは勘違いで、依然として何もできない状態のままか。何でそうなってしまうのかわからない。しかし着実に何かが変わりつつあり、そんな状況の変化に対応して、やり方も従来とは違ってきているはずだ。それが単なる思い込みだけでそう思っているだけなのか、あるいは本当に変化しているのか、それがよくわからないようで、君が戸惑う原因となっているのかもしれない。本当にそうだろうか。本当か否かはこの際関係なく、ただそんなふうに思っていればいいだけで、それでその件については片がついたつもりになっていればいいのだろうか。いったい何がその件なのか。相変わらずそんなことを述べているようで、何が変わったのかなんてまったく感知していないのではないか。地震や津波や原発事故が起こっても何も変わらない。それは外部の話ではなく、心境の変化といったたぐいのことか。そうかもしれないし、そうでないとしても、気にするようなことではないのだろう。自然体で暮らしてゆけばいいだけか。やがてそれがわかる時が来るだろう。わからなくてもいいような気もするが、あまりわかろうとしすぎても疲れるだけか。そこから何を見出そうとしても、思い違いの原因を導くだけのようで、何を招こうとも、動じるつもりはなく、そんなことでしかないような気分で、ただ言葉を記し、それが無為自然の営みだとは思わないが、そういう言葉に幻想を抱きたくなり、何やら老荘思想にかぶれて、利いた風なことを述べてみたいような誘惑に駆られ、できるわけでもないだろうが、とりあえずはそんなことを述べて、その場を収めたくなる。だがそれで何が収束するわけでもなく、いったん散らばった言葉を一カ所に集めるつもりはなく、集めたところで、そこからどんな文章が構成されるわけでもない。たぶん何を語ってもそれだけのことなのだ。

 無駄だとは思わないが、無駄に語っていることも確かで、そうしないとたどり着けない境地というのもあるような気もして、それも思い違いのたぐいかもしれないが、何とかそれでもそれをやり続け、そこから何かの境地に達しているような気になる。それに対する反応は様々だろうが、拒否や反発ならありふれていて、おおかたはそうなるようで、そういうのを乗り越え避けながらも、何とかそれを続けようとしているが、そう思うならそう思っていればいいだけで、被害妄想に取り憑かれないようにしていれば、それで正気を保っていられるような気がするが、君はそこから何を学び取ればいいのだろうか。それほどどん欲に学ばなくても、自然に身につく程度のことで十分なような気がするが、とりあえずは学ぶ姿勢は保ったままで、肩肘張らずにその場の状況を受け取るぐらいにとどめておこう。受け入れがたいというのなら、拒否や反発する前に、まずは情勢を分析してみることが、安易な早合点を防ぐことになるだろうか。別に早合点して勘違いの感情を抱いてもいいではないか。拒否や反発が大きければ大きいほど、それが反動となって、後になって強烈に受け入れられることになるのだから、今は耐えるしかないのだろう。耐え抜くことができれば、やがてなんとかなるような気がするが、君にとって結果などどうでもよく、誰にとっても望ましいやり方などありはしないのだから、たとえ受け入れがたくても、それをやり通し、何の利益にも結びつかなくても、やれる範囲内でやることが肝心で、たぶん理由など求める必要はなく、それをやっていること自体を認め、そういう認識を維持していればいいのではないか。何を語っても、そこには何もありはせず、言葉を記せばそれが連なるだけで、意味があろうとなかろうと、そこには何かがあり、何もなくてもそういうことが語られ、成り行き次第で言葉が組み合わさり、そんなことを述べていることになり、語っていることになるのだろう。

 それで何になるというのだ。そう問うなら、そこから他の何かが問われることとなり、その問われたこと自体が問われることとなり、結局何の答えも得られず、いつまでも問い続け、それが文章となり、そんなことを述べているわけだ。それで何になるというのかと問うている。何かのごまかしだろうか。きっとそうに違いないが、何をごまかしているかは、あまりそれを追求する気にならず、たぶん何かをごまかしているのだろう程度にとどめ、それ以上何を詮索すればいいのかわからなくなり、やはりそこで何かをごまかしているような気がするが、そういうことでしかないと納得してしまい、本当に納得しているわけではないのだろうが、そう述べて納得しようとして、そういうことになってしまうのだろう。要するに語る術はどこから出もでてきて、そんなふうに語れば、たとえそれが馬鹿げたことであろうと、語る必要のないことであろうと、語っている現状を受け入れざるを得ず、何かに語らされていることを認めざるを得ない。果たしてそれでかまわないのだろうか。たとえかまわなくても語っている現状に変わりはなく、それを止められないことが、暗黙のうちの了解を可能としていて、思い切ってそれをやめない限りは、それをやっている現状が変わることはない。君がそれにどこまで耐えられるかは定かでないが、今のところはよく耐えているようで、相変わらず何かを語っているつもりで、言葉を記し、文章を構成しているわけか。そんなことを語りながらもあくびが止まらなくなり、眠気を催し、やめたくなっているのかもしれず、画面のまで目をこすりながらも、その内容を把握しようとしているようで、他に何もないのにそうなってしまった原因を探ろうとしているみたいだが、それの何が無理なのかはわからず、さらに言葉を記しながらも、やめてしまいたくなり、とりあえずの中断を余儀なくされ、根を詰めてやる必要性を感じなくなる。その程度のことなのか。たぶんそうに違いない。


7月26日

 そしてまた今日になるようで、今度は今日中に終わらせられるだろうか。たぶんそこまで至らずに、途中でやめてしまうような気もしないではないが、とりあえずはその続きを記してみようか。君がそれでよしとしているかどうかは疑問だが、ともかくそんなことを述べながら、何かひらめくことも期待しながら、どこかで何かが起こって、それに否応なく巻き込まれ、そんなフィクションがよくあるパターンかもしれず、それはそれでそういうことだとあきらめ、君には何も災難が降りかからず、平穏無事に暮らしていけることを祈りつつも、そうはいかないような成り行きにもなったらなったで、それはそれでそういうことにしかならず、その時になってみれば、自らがどういう境遇にあるのかわかるのではないかと期待し、今はひたすらその先へ進もうとしているようだが、たぶんそうはならず、気がつけば逆戻り気味になっていて、いつか誰かが語っていた内容の繰り返しとなっていて、それに気づいただけでも、何となく幸運だったように思われ、そんなふうに語っていること自体が、何だか意味不明で愉快に思われ、何かそれとは別のことを思いつつ、何となくやってしまった感もあり、そんなふうに語っていること自体が、誰かを喜ばせ、何をするのも思い通りにいかないことが、逆に君を戸惑わせ、何をやってもかまわないような気にさせ、そうやって何を達成しながら、それでいいような気になるが、それで済まないのなら、それ以降は何をやったらいいのだろうか。後は君の思うがままに語ればいいのだろうか。たぶんそうはならないだろう。そうはならないからそんなふうになっているのであり、それ以上の何を語ろうと、君は君でそんなことばかり述べているようで、まったく相手にせず、何を言っているのか理解できないふりをしながらも、頭の別の部分で何か適当なことを考えているのかもしれない。

 何か邪魔だったようだ。そして紛らわしいことを述べてしまったらしい。それがどうしたわけでもないのだろうが、何となくそうなってみれば、そうだったようにも思われ、それがどうしたわけでもないのだろうが、結果的にはそういうことになってしまい、誰かはそんな結果に戸惑うばかりのようで、冗談ではないと思っているのかもしれず、何となくそれが冗談のように思われてしまうのだが、君はそれでもそんなことばかり述べているのだろうか。たぶんそういうことなのだろう。とりあえずできないことはできず、できることからやろうとしているわけでもなく、ぼんやりどこかに佇んでいるとも見えず、名所旧跡の風景を愛でる老人に嫉妬心を抱いているとも思えず、それで何がどうなっているのでもないだろうが、その笑いはいったい何なのか。心に余裕があるとは思えないが、切羽詰まっているのだろうか。何をどうしたわけでもない。だが何をどうしていないわけでもなく、どうにかしたつもりなのだろうが、結果として何がどうなっているのか。以前と変わらぬ景色の中で、心に余裕がないようなふりをしながら、忙しなく働き、結果的には何もどうにもならないことを実感して、ひねくれようにもひねくれられない立場となり、誰かはあきらめて家路を急ぎ、ヒステリックにいきり立っている者たちを尻目に、それがどうしたといわんばかりに何をやっているわけではないが、それで済むはずがないと思っていることは確かで、済まないならどうしようとも思わず、済まないなりにも何とか事を穏便に収めようとも思っているようで、それなりに何とか努力しているつもりだが、どういうわけか結果が伴ってこないようで、それはそれで困った事態だが、困ったなりにも光明が見えているような気もしていて、それはそれでいいのではないかと思いながら、まさか開き直って、これでいいのだとは思えず、それはそれでそういうことだとあきらめるしかないようだ。

 そして影は何を語ろうとしているのだ。困った時の影頼みか。君のことではなく、誰のことでもない。すでに夜だ。それはいつものことであり、夜に言葉を記すのもいつものパターンだ。それをどう分析しても何でもないことだ。他に何を分析しているのか。別にそれはいいではないか。今ここで語るようなことではない。君はどこか遠くで何かをしようとしているが、たぶん爆弾テロなどではない。あまりにもありふれすぎていて、この世界に何の影響も及ぼせないのだろう。しかし暴力が支配する世界であり、誰もが結局は目には目を歯には歯をの呪縛から逃れられないのではないか。そこに至らないように工夫しなければならないわけか。最終手段の手前で何とかしなければならないのが、テロとの戦いで得た教訓だと思っている人も多いのではないか。ではどうすればいいのだろう。そうなりそうな気配を察知して、そうなる成り行きを別の方向へと迂回させればいいのだろうか。でもそれではごまかしだろう。そんなごまかしによって人を暴力から救うことができると思っているのか。ごまかしにもいろいろ種類がありそうで、何とかその場で方便になりそうなやり方でも模索しなければならないような気もしてくるが、本当にそれで君はうまく立ち回ったことになるのだろうか。わからないが結果的には対決を避けることが出来らしく、決定的な事態には至らずに、うまく攻撃の矛を収めさせ、何とか逃げ果せて、対立しそうな状況をねじれの位置に置き換えることができ、嘘か本当か知らないが、何の接触もないようで、そこで働いた勘が、結果的には正しかったと思われ、暫定的にはそれで時間稼ぎができたと思われ、そういうやり方をこれからも機会を捉えて行使していかなければならないのは面倒だが、とりあえずそうなった時はそうなった時で、そうなる前に何とかするように心がけなければならないとは思っているわけか。まったく冗談でそんなことを語っているのだから、先が思いやられ、それがいつまで続くかは予断を許さないようだが、本当に誰かは頭のねじがゆるんでいるらしい。


7月25日

 あまり言葉が出てこないようだ。何も語れなくなる。いつものことか。そこからどうにかできると信じている。どうせ何かのごまかしか。焦ることはない。でたらめでもかまわない。そこから逃れたいのではなかったか。過去にそんなことを語っていたはずだ。今さらながら何がそうさせるのだろうか。今ひとつ入っていけない領域があるらしい。そんなふうに思っている。別に何を目指しているわけでもないはずか。雷が鳴っているようだ。どこかの塔に落ちるだろうか。なぜそんなことを述べてしまうのだろう。雷雨ではない。時折雨粒が落ちてくるが、量が少ない。遠くのどこかでは土砂降りか。そんなことを述べているうちに本降りになってきた。長続きはしないだろう。車がきれいになる程度には長続きしてほしい。雷雨になってきたではないか。まさか停電通報機が作動してしまうのか。土砂降りの中を外に出て行かなければならない。そうならないことを祈りながらも、久しぶりの何かだ。彼は何を見ていたのか。そうではないと思っていたはずか。何がそうではないのだろう。君は何かに守られている。そう思いたいのだろうか。祈っているわけではない。そこから逸脱したいのだろう。わけがわからない。確かに長続きしそうにない。もう勢いが弱まってきた。そういえば足の爪が伸びている。それでおしまいか。語ることはない。言葉を記しながら何を思う。そういうことだ。それほど外れているわけではないが、そこから外へでられるとも思っていない。それでも何とか形になってきたようだ。そうこなくてはいけない。何かが一段落しようとしている。別に腑に落ちない点があるわけではない。それは昨晩のことだろう。また言葉を記している途中で眠ってしまったらしい。

 今は翌日の昼か。けりがつくはずがない。またできないことをやろうとしているのか。そう思っているだけで、他に何があるわけでもない。しかしもたついていることは確かで、それ以上の何をもたらせるわけでもない。今の君に何ができるというのだろう。機転を利かせて、うまく立ち回ろうとしているのではないか。誰かは君のそういうやり方が狡いと思っているはずだが、今は君にまかせるしかないだろう。持ち前の多重人格気取りが、今こそ効果的に発揮されて、何が何だかわからないまま、適当な文字列が生み出され、それで何かを語っているように思わせたいのだろうが、果たしてそれでうまくいくのか疑問だが、とりあえずはそういうやり方のうちに活路を見出すしかなく、どこまで本気とも思えないが、何となく言葉を記しながらも、その辺で君がうまくやっているような気になり、それ以降もその調子でがんばっているふりをしていたいのだろう。笑っているようだが、目が怖そうだ。とても本気だとは思えず、見た目はその辺でふざけているようにしか見えず、何を困っているのか見当もつかない。いったいそれは何の話なのか。君は何を狙ってそういう行為に及んでいるのか。何となくでは説明しようがなく、何をどう語ってもそうなるというのなら、そうならない可能性を追求すべきなのかもしれないが、今のところはその気配もなく、そうなるがままにまかせ、そういう流れに逆らわず、それふうに語りながらも、それをどうこうしようというのでもなく、うまくいなしているはずが、すっかり罠にはまっているようで、気がつけばがんじがらめで身動きが取れなくなっているだろうか。それでもかまわず、罠をも引きずりながら、何とか前進しているといえるだろうか。そう思うならそれでもかまわないが、今は素直に自らの負けを認めるべきではないのか。

 それでも何に負けているのかは気づかず、気づかないふりをしながら、反撃の機会でも狙っているのかもしれないが、現状を思えば、このていたらくは何なのか。何でもないとうそぶいても、負け犬の遠吠えにしかならない。それが現状なのだろうか。何が現状でもなく、すべては虚構で、嘘偽りの状況を言葉が構成しているに過ぎないのだろうか。それこそフィクションの醍醐味ではないか。だがそんなわかったようなわからないようなことを述べても、繰り出してくる言葉の端々から浅はかな魂胆が透けて見えるか。そう思うならもっとマシなことを述べてみればいい。今述べている内容がそれだとは到底思えず、何がどうなのかもはっきりしないまま、君は君で知らんぷりを決め込み、無責任に振る舞うばかりで、何も解決せず、問題が何なのかもわからないまま、ただ無駄に時が経つばかりのようで、そこから先で何が起ころうとも、誰もそれに対処できないだろう。だからそれでかまわないのではないか。何をどう述べてもただの文章に変わりはなく、君自身もそんな文章の中で何と戯れているわけでもなく、たぶん誰も身勝手な振る舞いをできないような状況の中で、それ以上の何を詮索しても、意味不明なこと以外は何も見つからないだろうし、君もそれでかまわないと思っているだろうし、ここまできて何の理解にも達しないことが、逆にそれらの何でもなさを浮き彫りにしているように思われ、結局は救いようのない勘違いと誇大妄想から始まった試みなのだから、それ相応の結果となって、それに関わった者たちを落胆させ、後は肩を落として各人が散り散りになっていくだけのような気がして、たぶんそういう終わり方も君には似合っているのではないだろうか。そう思わせるような気がしているようで、最近はもっぱらあきらめムードを漂わせ、やる気をなくし、それでいいと思っている節もあり、たぶんそういうことなのだろう。


7月24日

 そこで何を待っているのか。誰かの影が月に語りかける。まだ満月ではない。君はまた何かを見逃しているようだ。どうせ窮地に陥ってから気づくのが遅すぎることに気づくのだろう。それでも気づいただけでも大したものか。そこを通り過ぎてしまう多くの者たちがそれに気づかない。気づかないどころか、中にはそれを誇りとしている者さえいる始末だ。だが誰もが気づかないそれとはいったい何なのか。どうせ君も気づいていないのだから、それが何だかわかるはずがなく、そんなことを述べながらも、自らが何について述べているのかさえわからない。それはおかしな話か。わざとそんな冗談を述べているだけかもしれない。そしてその辺で何かの限界に達してしまったらしく、言葉を記すのをやめて眠ってしまうのだろうか。そうなったらいつものパターンだが、眠らずにテレビを見るのもいつものパターンだ。いやに蒸し暑い。冷房をつけたらどうか。夜だから節電する必要はない。昼でも節電していないではないか。そんな話をしたいのではない。それらは何の話でもなく、いつもながらの意味不明か。たぶんそうではなく、何を述べてもそうではないということか。つまらないことを語るべきではない。語っているではないか。では何を語るべきなのか。そうではないことを語るべきで、何を述べてもそうではないと語るべきなのか。それも違うと思われる。そういうわけで君の勝手にはさせてもらえないらしい。誰の勝手でも拒絶するはずだ。筋書き通りの展開ではなく、どこまでも逸脱し続け、何が何だかわからなくなるほど錯綜して、もはや何を語っているのかわからなくなってしまいそうか。まだそこまでいっていないだろう。どうにもならない段階ではないはずか。だからこうして語ろうとしている。わけがわからないようだが、とにかく語らなければならず、そんなふうに語るしかないらしい。

 そうは思えないが、そう思うしかないのだろうか。何がそうなのかわかっているつもりか。つもりではなく、本当にわかっているのではないか。君が語ろうとしていることを知る立場にはない。では誰が知っているのか。君ではなく、他の誰かに違いないが、たぶんそれを語る立場にはないのだろう。そんな言い逃れが通用するとは思えない。別にそんなことを通用させなくてもかまわないのではないか。しかし何を求めているのだろうか。誰が何を求めているのか。そんなタイミングで何を繰り出すつもりなのか。それも何かの試練なのか。そこで何が試されているのだろう。何とか窮地を脱して、危機を切り抜けなければならないのか。しかし何を述べても現実は変わらない。外に向かって言葉を発しても無駄か。それのどこが外部なのか。影がそこへ佇んでいるだけだ。それだけで何が報われ、何が救われるのだろうか。あるいはそんなふうに考える必要がないのか。だが何を考えているのか。考える必要のないことを考えているのなら、それは何なのか。それが思いつかなければ、何も考えていないことになるのか。明かりを消すと羽虫が画面上を這い回る。そんなはずがないと思っても、言葉を記す作業を止めるわけにはいかないらしく、眠ってしまう前にそれを終わらせないと、また昨日の日付で言葉を記さなければなくなるが、別にそれでもかまわないのだろう。ウェス・モンゴメリーが弾いているギターの音色が眠気を催しているわけではなく、ただ眠いだけのようで、何だか面倒くさくなりつつも、それを続け、明日にならないうちに仕上げようと思っているが、空疎な内容であることがストレスとなり、何だかやる気を削いでいるらしい。だからそれでかまわないのだろう。蒸し暑いし眠いし、他にどんな感覚を覚えているわけではなく、ひたすらそれだけのようで、重くなったまぶたを意志の力で押し上げながら、言葉が並ぶ画面のをにらんでいるようだが、それで何がどうなったわけでもない。

 もう無理か。使えないものを使って、言葉を操っているつもりになり、実際は何かに操られているようで、そこで見えない何かを意識するが、相変わらずそれが何だかわからない。ここで眠ってしまえば明日になる。それだけのことだろう。そんなわけですでに明日になっているようで、今は昼休みの時間帯だ。クロノス・カルテットでは場違いな印象を受ける。ではこの時間帯では何が似合っているのか。演歌か。安易な選択となりそうだが、演歌にもいろいろな歌がありそうで、一概に馬鹿にするようなわけにもいかないだろう。でもアクが強そうな人がカラオケで歌っている場面に遭遇すると、ああのど自慢で鐘が二つ鳴る歌い方だな、と内心思ってしまうことが多い。それがどうしたわけでもないが、ジョシュア・レッドマンのサックスを聴きながら、かっこいい音楽とはどういうものなのか、あえて示すまでもないが、キッチュな人はわざとらしく歌いすぎてしまうのであり、カラオケでいかにも演歌風に歌いすぎてしまう人の光景が思い出されて、その辺でスマートな人との間で感性に差が出てしまうのだろうし、それはアメリカ辺りでソウルフルに歌いすぎてしまう往年のソウル・シンガーと同じようなものだろうか。程度に差があることは確かだが、そういうのも行き着くところまで行き着くと、逆に凄みがでて、その圧倒的な歌唱力を前にして、強引に感動させられてしまう域にまで持っていけたら、それはそれですばらしいことなのかもしれず、そういうレベルにまで達したら、もはやキッチュではなくなっているのだろうが、世間にもてはやされている美空ひばり辺りが、果たしてそういう域に達しているかどうかは、それを聴く人によって見解が別れるところか。たぶんああいう歌い方には、人それぞれで好き嫌いがあるのではないだろうか。歌によっては良い部分もあるのだろうが、演歌的に歌いすぎているところもありそうだ。もちろん自身は偉そうにいえる立場にはない。


7月23日

 またいつもの夜だ。それで気が済んだのだろうか。影は何も答えない。君ではないからか。誰もなければ人でもない。彼らはどこからやってきたのか。誰かがそんなことを述べているが、ただの何かに違いなく、君には関係のないことだろう。そういう話ではない。気がかりなのはそれとは関係のない時間帯で起こっている現象か。気がかりならそこへ行って確かめてみればいい。誰もいないことがわかるだけで、君の被害妄想でしかないことがわかる。しかしじわじわと真綿で首を絞められているような感覚が解消することはない。本当にそれが終わりの季節なのか。本当にそこで何が終わるというのか。何も終わりはしない。終わっているのは誰かの言説だけか。そこでいったい何を説明していたのだろう。まだ説明しきれていないようだ。わからない部分が山ほどある。そして何にうろたえているわけではなく、どこへ歩を進めようと、決してたどり着かないような境地に達しようとしているわけでもない。またおかしなことを述べているのではないか。無理矢理ねじれてみせる。根性がねじ曲がっているのか。それとも何かの術中にはまっているのだろうか。そうだとしてもなおのことそうなるしかない。誰かは一途なのか。何がそうなのではなく、そろそろ勝負にでなければじり貧状態から抜け出せないか。するだけの理由がなく、勇気が欠けているようだ。馬鹿げているのではないか。でも何とかしようとしているのだろう。何をそそのかそうとしているのか。別にけしかけられて喧嘩を買うほどの蛮勇を持ち合わせているわけではない。ではいつまで経っても今のままではないか。それでかまわないと思っている。ならばこのままそこで朽ち果てればいいだけではないか。そうなったらなったでかまわないのではないか。

 君は本当にそう思っているのだろうか。たぶん何かの冗談には違いないが、どこへも至らないことが、そこでのルールのようだ。その場にとどまりながらも、あれこれ空想を膨らまして、くだらぬ妄想にとらわれようと、それはそれでそういうことではないのか。そういう時もあるにはあり、そこからどうなろうとも、君の知ったことではない。だからどのようにも言い逃れができると勘違いしているわけか。そうなってしまった理由などいくらでもありそうで、そんなふうに言葉を記していけば、必然的にそうなる他ない。それがここで語られる冗談のすべてか。すべてであるはずがなく、冗談であるはずもなく、何を語っているのでもなく、たぶんそこには何もありはしない。では何がいけないのだろうか。それでいいのだ。いけないわけではない。そんなふうに語りながら、何をもたらすこともなしに、どこへ至るのでもない。君は言葉を記し終わるまで画面の前に座っているだけだ。それ以外に何ができるというのか。コーヒーを飲んでいる。そういうことではなく、語る以外にどのような言葉の記し方があるのか。でたらめに言葉を並べているわけではなく、文法的なルールに従って言葉を連ねているはずだ。だがそういうことでもないのかもしれず、語る以前にどんなことを思っているのか。そこが知りたいところか。たぶんそういうわけでもないのだろうが、無駄に言葉を記すためにはどんな心構えが必要なのか。そうでもないような気がするが、特に語ることがない場合の言葉の記し方を教えてほしいのか。どう思ってみてもあまり建設的な意見は出てこないようで、単なる引き延ばし以外の何ものでもないような気がする。それでかまわないのだろうか。それは君がこれから語ろうとしていることからあまりにかけ離れていて、問題外のことをひたすら問題視しようとしているだけかもしれず、そんなことにかまけているうちに、日付がまた二日遅れとなってしまいそうで、何とか正気を取り戻して、画面に連なっている文章に向き合わなければならない。

 どんなに語ろうとしても無理なことは語れない。コーヒーの力でも無理は無理だ。音楽を聴いても気晴らしにしかならないか。なぜかビリー・コバーンが得意のドラミングを披露して、それふうの音楽が構成されている。楽曲的にはありふれていても、テクニックで他とはひと味違うとこを見せつけているのかもしれないが、まあそういうことなのだろう。君の心境と共鳴するとは思えないが、すぐに終わって、ラッパーがジャズを利用しながら格好をつけ、それも終わって、ギタリストが油絵の具で塗込まれた街の風景の中を歩いている。そう思うなら思えばいい。気晴らし程度の思い込みにはなる。どうせ君はそれとは違うことを考えているのだろうが、気のないことを記しながら、それとは別のことを思っているのはよくあるパターンか。それとも思うのと考えるのは別の領域で作用しているとでも思っているわけか。ますますわけがわからない。論理的なことを記す気がないらしい。たぶんそれでその場の心境から遠く隔たったことを述べているわけではないのだろうが、そこから何を読み取ればいいのだろうか。何もなければ何でもないでは済まないような何かを発見したいわけか。それこそ無理というもので、もう少し次元の低そうな心情の吐露を想像してみた方が、何やら文学的な雰囲気を醸し出せるのではないか。だがそれこそ冗談以外の何ものでもないだろう。確かモチーフはノルウェーのジャズバンドだったはずだ。大量虐殺で今話題騒然のノルウェーか。右翼の人間が国家のために使命感にかられてやったことらしいが、建物が爆破され人が大量に殺傷されただけで、他に何がどうなったわけでもないらしく、ショックを受けた人たちが大勢いるわけか。それで何か変わるのだろうか。少しは変わるのではないか。それだけのことだ。ノルウェーには死刑制度がないかもしれないから、彼は一生牢獄暮らしなのだろうか。


7月22日

 果たしてこれが巡ってきた機会なのだろうか。半信半疑のようで、そんな大げさなことでもないような気もするが、ただの日付だ。大したことではなく、どうしたことでもないが、とりあえず今日という時間帯に言葉の記述が戻ってきたらしく、そのことだけでもぬか喜び的な気分か。まだそれを終えないことには安心できない。どうせまた途中でやめてしまうのだろう。だから今はそうならないように努力すべきか。だが何を語ればいいのか。すでに語っているこれでいいのだろうか。良いか悪かは君が判断することではないだろう。だが本当に間に合うのだろうか。今のところはわからないが、その気で言葉を記すつもりらしく、内容が空疎でも何でもかまわないから、とにかく何か語っているようだ。そして言葉を記している。それだけのことだろう。確かにそれはそうで、何でもないことのなのだろうが、またいつもの自問自答になってしまうのだろうが、それでも何か適当に語っていることは確かなようだ。今はそれで満足すべきか。別に満足する必要はなく、不満であれば、それを改めようとするのではないか。では今改められると思っているのか。いったい何を改めたらいいのだろう。そんなことを述べながらも、すでにいつもの自問自答が始まっている。何をそんなに喜んでいるのか。そういう語り方が馬鹿げているからか。だが何がそうなのだろう。とぼけている限りはそうではないのだろうが、また冗談でそんなことを述べているのだろう。それだけのことだ。他には何もない。そこで何に魅入られているわけでもなく、蛇ににらまれたカエルの心境なのでもない。たぶんまた頭の中がおかしな具合となっているのだろうし、何がそうなのかわからないが、そんなことを述べていれば気が済んでしまうのかもしれない。ならば今できることはそういうことか。それ以外に何ができるというのか。

 そしてそこまでやってきた。やっとことで言葉を記しているはずが、そういう試みが何を意味するのかわからない。君もそれが何だかわからなくなっている。そういうことでいいのだろうか。今日の言葉の並びではいけないのか。だが昨日もそうだったし、きっと明日もそうだろう。しかしなぜそこから外れないのか。冗談でそんなことを述べているだけなのに、いったん語り始めると、そこから外れられなくなり、何の呪いか知らないが、本当に何の呪いなのだろうか。腕に巻くと竜頭が当たって皮膚が擦り剥け、そこが炎症を起こすだけなら、それはダイバーズウオッチの話で、そいうやってまた関係のないことを述べているようで、買った時にはそうなることなど予想だにしなかったと思うが、ではどうすればそうなることを予想できたかといえば、予想できるはずもなく、それはまったくの予想外で、誰も知るよしもなく、そんなことを他の誰が語るはずもなく、そしてそれはただの挿話として片付けられ、そうやって意味不明気味にハッピーエンドへと至るための術なのかも知れないが、客観的に見れば相変わらず何の話でもなく、それはでたらめな言説の一部となっているに過ぎず、時々やけにそれが気にかかり、その部分をいくら読み返しても、納得のいく結論が出てこないのはもちろんのこと、それが何だかわからないことが、致命的な欠陥を構成しているわけで、一方でそんなはずがなく、どんなはずでもないと思いたいのだろうが、そこで眠たくなってきたようで、どうや終わりまで語れそうにないのかもしれない。そして少し横になったら、また眠ってしまったらしく、目覚めたら翌日となっていて、また暇を見つけて、いつものようにこんなことを記しながらも、まったく埒が明かない状況と思われ、だが他に何もないのだから、そんなことが語られているのは当然で、そう述べながらも、何をはかどらせようとしているわけでもないだろうが、他に何も語ることがなく、仕方なくその続きを語らなければならなくなり、どう述べたらいいのかわからないが、突然その辺で終わりにした方がいいように思われ、実際に終わりとなるようだ。まったく馬鹿げているだろうか。


7月21日

 なぜかとりとめのない気分となり、何も思いつかなくなるが、いつものように何でもないのだろうか。可能性はゼロだろう。それがよくなる可能性なのか、あるいは目障りな誰かが死ぬ可能性なのか知らないが、誰を恨んでいるわけでもなく、何のことやらさっぱりわからないが、何となくそんな気分で、何かをどうにかしようとしているらしく、結果的に何がどうなるのかわからないが、君はそこで漠然とした不安を感じているのか。何がそうなのかわからない。そこで何をどうしようとしているのか。ただ言葉を記すだけなら、現にやっているではないか。それでは不満であり、そんなことを述べている自らの存在が不快極まりないか。わけがわからない。何を述べているわけでもないだろう。ただの自問自答に違いなく、そこから一歩も外へ踏み出していない。しかし外の世界とは何か。目で見えている外界と何が違うのか。それに関しては本気で語ろうとしていないようだ。本気とは何か。冗談とは何が違うのか。その辺で何かが違っているのかもしれないが、その辺とはどの辺なのか見当がつかず、そんなことを述べているうちに、その辺を通り過ぎてしまったように感じられ、あわてて周囲を見渡すが、見えている風景は以前と何もかわからず、何か根本から間違っているような気がしてくるが、依然として何がそうなのかわからないままだ。たぶん考えていることと思っていることと、実際に体験しつつある実感を混同しているのだ。君にはそれが理解できない。メディアが馬鹿騒ぎしていることを、君が直接体験しているわけではなく、誰かの目を通してみた風景を、テレビ画面に置き換えて見ているだけで、それらが君にどのような精神作用を及ぼそうと、君はその影響を最小限に食い止められると思っている。それが冗談なのか。そうではないと思いたいが、その辺で幻想を抱くのは誰かの勝手か。

 しかしなぜそうなってしまうのだろう。そしてどうなってしまったのか。大衆が知りたいのはそういうことだ。だが君も大衆の一部ではないのか。もちろんメディアが伝えたいのもそういうことであり、知りたがっていることを伝えるのが自らの使命だと思っている。だがそう述べて何を批判したいわけではなく、ただそういうことだと思う。むろんそういった中には不都合な事実というのもあるのだろうが、それは伝えようとする対象や知りたい対象にとって不都合なことなのであり、そういうのは積極的に好奇心の的となるのは当然だが、それとは違う何かについては、メディアは伝えようとしないし、大衆も知りたくはないわけで、その辺で誰かが考慮しなければならないことなのだろう。果たして君はそれを知っているのか。いったい何がそうなのか。君は取り立てて何に注目しているわけではなく、何がそれを視界の範囲内に浮き上がらせているとも思えず、意図的に隠されているわけではないし、むき出しのまま晒されているわけでもない。また誰かにとって見えているものが君には見えていないといったたぐいのものでもない。たぶんそれは何でもないものであり、何の関心も持たれないようなもので、当たり前のことのように、風景の一部として現前しているはずだ。しかしそれはいったい何なのか。君は何に照準を合わせて語ろうとしているのか。また果たしてそれが、メディアが伝えたがらない物事で、大衆が知りたがらない物事なのか。そして誰にとっても興味のない物事とは何なのか。まさかその辺が冗談で述べていることのすべてなのだろうか。それは違うような気がするが、そうでもいいような気もして、また実質的には何も述べていないような気もするのだが、改めてそれとは何なのか。

 それにしても回りくどい言い回しでわかりにくく、実際にわけがわからないような気になるが、そこから先において具体的な事象が俎上にあげられるとも思えず、相変わらずそんなことを延々と語るだけで、結局何もわからずじまいとなりそうだ。君はまた空疎なことを述べているのか。そうだとしてもその通りのことしか述べられず、それ以外はないような気がするが、ならばどう述べたら気が済むのか。実際にはどうにも述べられないから、永久に気が済まないような気もして、何だかそれが当たり前のことであり、そうなったことについて疑問を呈すること自体がおかしいとも思われ、やはりそう述べるしかないようで、誰かにとっては期待外れに終わってしまうのだろうが、たぶんそれが誰も興味を持たないようなことの一つなのだろう。要するにそれは何でもないことであり、日常の見慣れた風景の一部を構成していて、メディアが大衆に見せようとして、テレビ画面に映し出されるようなものではない。それは感動的でも美しくもなく、驚くべき光景でもなく、それについて考えさせられるようなものでもなく、議論や論争の対象とはなりがたく、改めて語る必要のないことであり、大げさに持ち上げられるような現象でもない。もちろん賞賛の対象でも非難の対象でもなく、誰も喜ばせず、誰も悲しませず、誰も笑わせず、誰も怒らせない存在で、誰もそれが存在していることすら気に留めず、場合によっては存在していないのかもしれず、それを誰が幻想しているわけでもなく、空想しているわけでもない。それとは何なのか。何でもないものであり、何でもないことだ。そこには何もなく、何もないと思えば何かがあり、何かがあるかもしれないが、別に見つけようとする対象とはならず、見出そうとするものでもなく、それについて理解したり納得したりするものでもことでもない。それとは何なのかと問われれば、何でもないとしか答えられないものであり、ことである。


7月20日

 またわからなくなってしまったようだ。なぜそうなってしまうのか。なるほど納得しがたいところがあるが、それはそれで仕方がないような気がして、そうなってしまうのもうなずけるが、とにかくわからない。模造品で何が悪いのか。それは何の話の一部なのだろうか。何となく気が抜けているようだ。たぶん迷路に迷い込んでしまったようだ。何を語る気も起こらないが、それらの何が伝説なのだろう。君は何かに見とれているのだ。もう嫌になったのか。馬鹿げたことを述べているわけではない。たぶん嫌になってしまったのだろう。くだらない結果か。何がそうだというのか。まだ何かが始まったばかりではないか。君がそれをうやむやにするとは思えず、決着をつけるべく何か行動を起こすはずだ。いずれはそうなるだろうが、今はまだその準備ができていないらしく、どうするべきか判断がつかない状態か。だからくだらないことになっていて、嫌な感じがしているのだろう。たぶん何をどう述べても払拭できないような感覚だ。それをやるのは無理だったのではないか。では無理を承知で何を述べているのか。まだ語る段階ではない。ならば語る前に何をやればいいのだろう。すべてをご破算にしてから語らなければならないのか。それは具体的にどういうことなのか。なぜそうならなければならないのか。やはりその辺がわからないのだろうか。それは君に限った話ではない。では何の話になっているのだろう。どうやら語っている途中から語るのが嫌になってしまったらしく、急に口ごもって、後はひたすら沈黙するばかりとなり、そこでやめてしまいそうになり、また言葉を記すのが遅れてしまいそうになる。まったく最近は邪魔ばかりが入り、記述がままならず、本当にやめてしまいそうな成り行きになっているのかもしれない。

 現実問題としてかなり無理になりつつあるのだろう。ではもうあきらめてしまうのか。そうした方が身のためか。それでも言葉を記す機会を伺うには忍耐が必要か。ただひたすら待っているようで、いくら邪魔が入っても平然と受け流していなければならないらしい。まったく何の因果か知らないが、なぜこうも苦労の連続なのか。本当はそうではないのだろう。ただ隙を突かれ、うろたえているだけか。意表をついて破綻の時が訪れ、執拗な攻撃に晒され、うんざりするような成り行きの中で、嫌気がさしてやめたくなり、防戦一方の展開から抜け出せなくなって、次第にじり貧状態となっていく過程で、何とか一矢を報いたくなるが、手だては何もなく、さらなる窮地に追い込まれ、どうにもこうにも身動きが取れないようで、進退窮まったようにも思え、結局どうしていいのかわからず、もうだめだと思うしかないのかもしれないが、それでも何とかしたいのだろうし、何とかできなければやめるしかなく、そこから先は先行き不透明といったところだろうが、まだ何か語る気があるのなら、何か語ればいいのではないか。簡単なことで、ひたすら語る機会が巡ってくるのを待っていればいいのではあって、何も急いで粗雑なことなど語る必要はないだろう。でも実際には語り、そして苦しむわけか。しかし何をそんなに苦しんでいるのか。何でもないなら苦しむ必要などないではないか。それに強がる必要も痩せ我慢する必要もない。そんなことは一切関係ないはずで、ただそんなことを記し、何事もなかったかのように目覚め、また仕事する日々に埋没するばかりだろう。いったいそれ以外に何があるというのか。誰が何を語るわけでもなく、何を語りたいわけでもない。そこに記された言葉の連なりが何を意味するとも思えないし、そんなことはどうでもいいのか。そう思いたければ思っていればいい。

 しかし本当にそれだけのことなのだろうか。何を急いで結論へ至ろうとしているのか。何の持ち合わせもないのに、何か切り札を持っているかのようにほのめかすのはおかしなことか。思わせぶりもいい加減にやめてもらいたいか。だがそれでもやめようとせず、ひたすら語り、ひたすら沈黙を装う。それはどういうことなのか。君がそこで失敗していることは明白で、何が語られようと、そんなことなどお構いなしに、それらの領域を乗っ取るつもりのようで、だめならフリーズするまでか。固まりたいのならいくらでもいつまでも固まっていればいい。そうしているうちにも時が流れ、ひからびたミイラのような醜態を未来のどこかで晒すだけか。だからそうなったところで何がどうしたわけでもないとうそぶき、そうやって君はいつまでも平然としていられるのか。自らの内に滅びを招き寄せ、それで格好をつけたつもりかもしれないが、やせ細った末期がん患者の舞台挨拶ではないのだから、もっと何か良くなる可能性を感じさせるような内容にならないものか。だからいつも失敗してしまうのだろう。否定ばかりでは文章が成り立たず、主張も何もなく、すべてを否定しまくり、挙げ句の果てに何ももたらせない原因を他に求めても、そんなものなど何もなく、何を語っていることにもならず、その辺で嫌になり、もう語るのをやめるしか手だてを見出せず、そんなわけでどうにもこうにも何も語れなくなり、その辺で本当にやめた方がいいのだろうが、なぜかそれを無視しながら語り、何もないのに言葉を記そうとして、そんな馬鹿げた行為の繰り返しの中から、必死で何を見出そうとしているわけでもなく、淡々と言葉を記し、そんな状態を眺めながら、もう少し何とかしなければと思うらしいが、本気でそう思っているわけでもないようで、何となくそんなことを思い、何となくそんなことを述べている現状を変えるつもりもないらしい。


7月19日

 ようやく昨日の日付だが、果たしてできるだろうか。いつものようにやる気がしない。きっとできないだろう。言葉を記し始めてすぐに弱音を吐いてどうするのか。いい加減に記してそれで終わりにすればいいではないか。昔は正気ではないように記していたはずだ。意味がわからないが、どう記せばそうなるのか。かつてはふざけていたのではないか。では今は真面目に語っているのだろうか。冗談でそんなことを述べているのだろうか。何だか別の方面へ意識が向かっているようで、気がついたら何を考えていたのか忘れている。それはわざとらしい嘘か。嘘でないとすると、何が本当なのだろうか。何を忘れてしまったのか思い出せず、今さらそんなことを語るべきではないと思うが、何が今さらなのかわからない。とにかくテレビを見ている場合ではない。それらのごちゃごちゃした感覚を整理整頓して、それがどうする気でもないだろうが、とりあえず続きを語る気でいる。なぜなのだろうか。なぜ疑問に思うのか。何でもないはずだった。何がそうだったのだろうか。鳥が羽ばたき蝶も羽ばたく。それとは何の関係もなく君が何かを語ろうとする。そんなことがあり得るだろうか。しかし何も終わっていないではないか。何を終わらそうとするのか。まだそこまで至っていないようだ。ではそこから始めようとしているわけか。でも何を語りたいのかわからない。君は何も始められないだろう。それは予言か予想か。どちらでもなく推測か。きっかけをつかめず、言葉が組み合わず、何を述べているのかはっきりせず、見切り発車的に言葉を並べて、何かを表そうとするが、表現になっていないようで、とっ散らかった印象しか残らない。いったいそれは何なのか。誰かと誰かがどこかで戦っているのだろうか。

 真に受けることはない。そんなのは嘘だろう。君はそこで漫画を読んでいるつもりなのか。漫画の解説を読んでいるだけかもしれず、そこから読まない漫画の内容を想像している。しかしなぜ小説を読まないのか。単に時代遅れだからか。ツイッターなら簡単に読めるだろう。ただ言葉数が少ないからか。では『凡庸な芸術家の肖像』はなぜ読めたのか。内容が興味深かったからか。ならば『来るべき書物』を繰り返し読んでいた頃もあったはずだ。なぜ今は読まないのだ。読む時間がないからか。音楽ならいつでも聴ける。それに関して安易なことを述べたくはないのに、他ならいい加減に語れるというのはどういうことなのか。ゴダールの映画なんて見る機会もないだろう。それでもかまわないだろうか。死ぬまで踊れと歌っていたのは誰だったか。魅惑的なプラスチック機械が思い浮かぶが、それとこれとは関係ないだろう。しかしどこからか助け舟がもたらされ、それが何だかわからないが、何となくそんな気分で言葉を記し、たまにPファンクでも聴きながら、楽しげな雰囲気を感じられるだろうか。それを失うか見つけるかだ。それは誰の歌なのか。歌ではなく曲かもしれない。そして何を述べているかもわからず、途方に暮れる暇もなく、ただその先へ言葉を記そうとしている。相変わらず何もないか。頭の中身をアップデートしないと無理か。それでも方向性が定まりつつあり、そちらへ向かって何か語ろうとして、今は実際に語っている最中のようだが、ふとiPodを見れば、またボビー・ハッチャーソンが頭を抱えている。それが何を意味するかはわからないが、何となくそういう音楽なのかもしれず、聴いていて心静まるような気分になり、ヘッド・オンというアルバムだからそういうジャケットなのだと理解する。ヴィブラフォン奏者は知的なのか。すべてがそうでもないのだろうが、マイク・マイニエリもそちらの系統に入るのだろうか。しかしそれとの関連でマイケル・ブレッカーがすでに死んでいることを知り、チャーリー・パーカーが三十代で、コルトレーンが四十代で、そしてマイケル・ブレッカーが五十代で死んだわけだから、サックス奏者もだんだん長生きになっているように思われる。まあそれとこれとは関係ないだろうが。

 いったい何の話をしているのだろうか。著しくまとまりを欠き、わざとそうやっているのだろうが、今ひとつ本気で語ろうとしない誰かに苛立って、それからどう語ろうかと考えあぐね、もう何かが出尽くした感もなくはないが、今さらながらドビュッシーもないだろうか。そして屋根を叩く雨音に気づき、遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。もう必ずしも意味的につながらなくてもいいのだろうか。何を考えあぐねていたのか思い出せなくなり、それらを読み返して、魂がどこかで集っているとは思えず、幽霊が出たわけでもなく、ただの音楽を聴きながらも、何かと価値観を共有するつもりもなく、でたらめな水準で言葉を記すことを強いられ、誰が強いているわけでもないのに、己に強いているとも思えず、それに反して、たまにはまともなことを述べてみようとも思うのだろうが、何に反しているのかわからない。それは新たな手法なのか。言語的におかしいだけか。要するに君は意味が通るように語れず、そうするつもりもなく、単に面倒くさがっているのだろう。そして誰かがでたらめを記し、冗談の上塗りではないだろうが、恥の上塗りにも至りそうもない。もうそんなレベルではなく、ただのでたらめに近く、後からまともに読み返す気にもならないようなことを述べているのかもしれず、それはそれでそういう成り行きなのだから仕方がないとしても、それでも明日の風はどちらから吹いてくるのだろうか。北風なら涼しそうだ。夏だからつかの間でしかないだろうが、何となく一息つきたい気分か。それでもかまわないだろうが、できればさっさと夏が過ぎ去ってほしいような気分だ。いっそのこと世界中から夏がなくなってほしいが、世界が温暖化しているそうだから、現実はそれとは真逆だろうことは理解している。要するに冗談でそう思っているだけで、他意はなく、暑い暑いと思っているうちに、そのうち秋風が吹いてくることを期待しているだけなのだろう。


7月18日

 そこに何らかの力が働いているらしい。その力に逆らって進む気があるのか。まさか君が問われているのだろうか。いったい何をどうすればいいのか。考えすぎて、手を退くきっかけを逃してしまったのか。しかし本当にどうもしなくてもいいのだろうか。たぶんそうしたとしても、結果的にはどうしたわけでもなく、何事もなかったかのように状況が推移するだけか。たぶん人がどのように努力しようとどうしようと、皆で力を合わせて何かを成し遂げようと、その成し遂げた成果が何を意味するのだろうか。それらに関わった人たちが自己満足に浸れるに過ぎないのか。そう否定的に述べるならそういうことになるだろうが、それらの行為をメディアが賞賛したりすれば、多くの人が感銘を受け、一時的な高揚感を社会にもたらすのかもしれず、やはりそれがどうしたわけでもないのだろうが、それらとは別の方面でがんばっている人たちが勇気づけられたりするらしく、そんな声がメディアで紹介されたりして、ああそういうものかと納得したりするのだろうが、たぶん自意識はそれらの現象を真に受けているわけではなさそうだ。果たして人に何か価値があるのだろうか。なぜそう思うのか。なぜ人はそんなことを一致協力してやらなければならないのか。まさかそこに肯定的な理由を見出そうとしているわけか。人が生活している社会を維持継続させるためにはそういうことが必要なのだろう。そこに何らかの役割があり、それに基づいて様々な仕事が割り振られ、社会の構成員は社会を維持継続させるために、日夜仕事にいそしまなければならず、結婚して子供を産み育て、次世代の担い手を準備しなければならないわけか。冗談を言うならそういうことだろう。それらはすべて馬鹿げたことなのだろうか。そうだと思うなら、それ以外にどんな可能性があるというのか。君は何を言いたいのか。

 何かがわかりかけているのかもしれないが、雑音が激しく、度々邪魔も入り、それ以上は何とも言えないが、そういう考え方に違和感があることは確からしい。だが君は語ることしかできない。その辺でどう折り合いをつけるべきか考えあぐねているようで、まるでそれらを唾棄するわけにはいかないような気がしているのかもしれない。しかし君は何を目指しているのだろうか。語るべき内容を見失い、その辺で停滞するばかりで、迷ったふりをするばかりで、それで災難が過ぎ去るのを待つわけにもいかず、何か行動を起こさなければと思うようだが、進むべき道筋が見えてこないようで、やはり考えあぐねているだけで、雨空を見上げながら、たぶん永久に雨空が続くこともないのだろうとは思うが、長いトンネルの出口がまだ見えてこないような感覚にとらわれ、未だに暗中模索の日々が続いている。なぜそう思わなければならないのか。何かの途中から脱線して、いつもの自己言及と自問自答になってしまっているのかもしれない。そろそろそうしたやり方から脱却しなければならないようだ。すぐにできるとは思わない。すでに社会は出来上がっていて、一定の機能を果たしていて、その中で様々なゲームが執り行われ、ゲームに内在するルールに基づいて競争していると思い込んでいる人々が存在していて、そんなことをしているうちに、老いてゲームから降りてしまう人がいれば、新たに参戦してくる若者もいて、そうやってそういう何かが続いていくのだろうが、君はそれらの現象を疑いの眼差しで見ているわけか。もちろんただの傍観者でいられるわけではなく、君も否応なく何らかのゲームに参加させられていて、その中で競争していると思い込まされているのだろう。それが現状であり、実際に暗中模索をもたらしているわけか。それで君は何がわかったのか。まさかそこから抜け出すことができないことに気づいてしまったのか。

 たぶん何かを強いられていることは確かで、そんなことを強いられつつも、そこから抜け出そうとして、あれこれ策を講じながら、何とかそれらの共同幻想の外へ出ようとしているのだろうか。出られるとは思わないが、常に出ようとしていないと、何やら幻想の虜となって、そのまま一生を終えてしまうような気がして、身近なところからもメディアからも、そういった人々の生涯がかいま見られるはずで、それでかまわないならそれに越したことはなく、君もそういった人々のうちの一人で、端から見れば区別などつきようがなく、誰もが通るありふれた道を君も通りつつあるだけのような気がする。しかし本当にそれでかまわないのか。かまうかまわないの水準ではなく、そういう成り行きの中で生きるしかないのではないか。そこから外れることなどあり得ず、それは人として生きる限りは宿命的な成り行きなのだろう。フィクションの中でさえ、そこから逸脱してしまう登場人物などいない。だからもうあきらめるべきなのか。とりあえず様々な選択肢は用意されているのかもしれないが、そこで何を選ぼうと、結局はそういう成り行きになるしかなく、そういう用意された選択肢こそが幻想なのであって、あたかも自らが努力してそれをつかみ取ったような気にさせ、幾多の苦難を乗り越え、やっとのことでそこへたどり着かせ、そこで自己満足に浸らせ、何かを成し遂げような気にさせるのだ。それが双六のあがりであり、ゲームに勝利した後の高揚感であり、勝利の女神が微笑んでいるように思わせるのだろうが、そんな幻想にとらわれているうちに、気がつけばもう先がなく、後は生涯を終えるだけとなり、要するに仕上がってしまうわけか。だからそうなったらそれでかまわないと思う他ないのだろうし、他の選択肢など何もなく、そういう成り行きの中で生きて死ぬだけなのだろう。


7月17日

 なぜそんなことを思うのだろうか。何やらストレスに晒されているらしく、皮膚炎が悪化している。数年前から薬を服用しているが、完全には治らないようだ。生活環境を変えなければならないらしいが、もうかれこれ十数年休日のない生活を強いられているので、こればかりはどうにもならない。何とかしたいのだが、完全に仕事を任せられるようなまともな人材に恵まれず、またまともな人材に育てられず、毎日のようにああだこうだと口出しせざるを得ず、現場から離れられない。そしてうんざりするようなトラブル続きで、気が抜けない日々が続き、次から次へと起こる出来事に対処しているうちに一日が過ぎ去ってしまい、気がつけば深夜になっている。もう明日が近いはずだが、そこからどうやって文章を構成するつもりなのか。そこからではないと思いたいのか。ではどこからなのか。二日も遅れてしまうとやる気がでないか。そういうことではなく、何を記そうとしているのか。思いついたのはそんなことだ。一週間の中で半日だけ空き時間を確保しているはずで、今はその時間帯に入っているのだから、そんなに慌てることもないだろう。何に追い立てられているのでもないはずか。時間はどうしたのか。追い立てられたついでに追い越され、置いてきぼりを食らっているのに、さらにどうなるというのか。どうにもならないだろう。どうにかなるようならとっくの昔にどうにかなっている。どうにもならないからこんな状況に追い込まれているのか。だがまだ可能性を信じているのだろう。工夫次第で状況が好転すると思っているはずだ。だから工夫しようとしているのに、周りが足を引っ張って、なかなかそこから抜け出せずにいるのではないか。そんな状況で本当に何とかなるだろうか。

 たぶん何かに気づかなければならないのだろう。それに気づき、改めるべき点を改め、そして工夫を凝らして良い結果をもたらす。そうなればしめたものだ。今はそうなるように努力しなければならず、実際にそれを模索している最中だ。だからその問題は問題で、実際の現場でそれを試せばいいだけの話か。そしてそれとは別にこれがあり、ここでも工夫を凝らしてまともな内容にしなければならない。それがこれだとは思わないが、それらのすべてがフィクションだとも思えず、現実の世界で言葉を記しているのであり、それが文章となり、それを誰かが読んでいるわけか。たぶんそれは嘘ではなさそうで、実際に誰かが何かを述べているらしく、それを真に受けるところは受けなければならず、時には過ちを改め、反省することもあるらしいが、今はどうなのか。いったい何を語っているのか。そんなふうに語っているではないか。たぶん予定調和の自問自答ばかりではないのだろう。どう見てもまともではない人たちを使って何かをやっているわけだから、その辺は戦略的にうまく立ち回って、結果としてちゃんとなるように持っていかなければならない。君はその辺のところを心得ているはずで、微妙なさじ加減も身につけようとしている。しかし人はなぜおかしな具合に固まってしまうのか。何かの一つ覚えのように、同じことの繰り返しに明け暮れることしかできなかったり、周りの状況とフィットしていないのに、自分のやり方をひたすらごり押しし続ける人とか、言われたことを言われたようにやることしかできず、それ以上の進化を望めない人とか、要するに大半の人は大人になると心身ともに固まって、そこから先への歩みを止めてしまうようだ。なぜそうなってしまうのだろうか。そうなるまでに身につけた固定観念から抜け出られなくなり、それ以降はまるでロボットのような動作となる。

 そんな人々は周りの環境変動についてゆけず、変わらなければ滅びるしかないのだろうか。誰もがそうではないのだろうが、機会を捉えて何らかのアクションを起こさなければ変わりようがないことは確かで、絶えずやり方を修正しつつ、時には大胆に転換したりして、何とか対処しなければならないのだろうが、その辺がどこまで対処すればいいのかわからない。別に我が身が滅びる瞬間に立ち会っているわけではなく、例えば交通事故か何かで命を落とす瞬間に、そこでどう対処できるとも思えないし、それらの大半は、取り立てて対処しなくてもどうにかなってしまうようなことでしかなく、だから多くの心身ともに固まったロボット人間たちが蔓延っているのだろうし、そういう人たちが多ければ多いほど社会が安定しているのではないか。平和な世の中が続くと、そういう人たちが増えるのだろうし、たぶんそれでも暮らしてゆけるのだろうから、きっとそういう人たちは幸せ者なのではないだろうか。それで済んでしまうのなら、悩みようがなく、悩まないで生きていられる人間は幸せ者だ。しかし現状の君は悩んでいるはずだ。やっていることがいつものようにうまくいかず、自らの力ではどうにもできないような境遇の中で、それでも工夫を凝らして現状を打破しようとしているようで、無駄な努力だと思いつつも、もしかしたらと期待しながら、それをやり続けているはずだ。そして立ちはだかってくる障害物たちをかわしながら、何とかその先へ進もうとしているのではないか。そう思えばそれらの試みを肯定したくなるようだが、それらのどこに否定しがたい何かが隠されているのだろうか。しかし何かとは何なのか。それらの何が否定しがたいのか。たぶん固定観念にとらわれた人々を否定してはいけないのだろう。何よりもそういう人たちを利用しながら、何かの模索を継続していかなければならない。たぶんわかりはしないだろうが、一応はそれが何だかわかるまで、それらの試みを続けなければならない。


7月16日

 何がわかったのだろうか。いきなり結論が出るわけがない。だが焦る必要はないだろう。しかしとうとう二日遅れだ。もうこの辺が限界だろうか。何も思いつかないのだから仕方がない。だがそれでも何かを記そうとして、そんなことを語ろうとするが、うまくいっていないようだ。それでもかまわないのだろう。言葉を記していればそれでかまわないのか。だがそれは以前にも述べていたことだ。そういえば以前は何を述べていたのか。様々なことを述べていたはずだが、それがどうしたわけでもない。それを忘れていただけか。今はとにかく言葉を記さなければならないらしい。そういう認識が間違っていなければそういうことだ。間違っていたらどうするのか。君が間違いを認めるはずがない。それに他の誰が君の間違いに気づいたふうはなく、それを指摘しているわけでもない。気象情報によると台風が近づいているそうだが、まだ日付的にはそこまでいっていないだろう。だから何だというのか。語ることがない現状に変わりはなく、何をどう思っても、そんな状況から遠ざかれるわけもない。意図的に何かを避けているのではないか。破綻を来している現実を無視しているわけか。そして気力を欠き、言葉を記すのが億劫になっている。だがそれでもこうして言葉を記しているのはどういうわけなのか。できるわけがないことは承知しているはずなのに、なぜそこからがんばろうとするのか。無駄な抵抗をするのが好きなのか。そうだとしても、語っている内容が退屈すぎないか。いつものことだ。たぶんそれだけしか語れないのだろうが、もう少し何か工夫できないか。しかし冗談にも飽きている。それは笑えない冗談だ。冗談ですらないのかもしれない。では何なのだろう。いつものように何でもないというわけか。

 二日後は台風の影響で空が曇っている。明日は雨が降るそうで、久しぶりに気温が下がる。だから何だというわけでもないだろうが、まともな内容に至らないことに変わりはない。その辺がうまくいかないようだ。しかしなぜたまにうまくいくことがあるのだろうか。どういう風の吹き回しか知らないが、それを期待して言葉を記しているわけでもなく、何も思いつかないことが普通の状態で、たまにそこから逸脱することもあるだけのようで、気がついたら何か述べていて、それがまともな内容に結びつくこともあるのだろうが、そういつもいつもそうなるわけもなく、要するにそれらの記述の大半は退屈な無内容になるしかないのではないか。しかしそう述べてあきらめているわけではなく、機会を捉えてまともに語らなければならない成り行きになるように心がけているのかもしれず、そうなった時がそれらのすべてであり、そこで精神を集中させて、ひらめいたことが直接文章に反映されるようにしなければならないわけか。だがまさか今がその時だとは思っていないのではないか。だからまずいのか。でも至って冷静のはずで、もはや記すべき内容など何でもかまわないと思っているのではないか。そこまで投げやりになっているとも思えないが、そんな追い込まれた状況に至って、なお何とかできると思っているのだろう。それが大きな勘違いなのか。やはりそんなところもよくわからないが、何かの冗談としてなら、それでもかまわないと思う。しかし馬鹿げているだろうか。たぶんそうだ。こんなことを語っていてはまずいとも思う。だがどうしようもない。語り続けるかやめるかの二者択一しかなさそうだが、案の定深夜に目覚め、誰かが言葉を記し始める。まったく懲りない誰かだ。今さらどうしろというのか。語ればいい。誰に向かってではなく、悪魔に向かってでもなく、自らに向かって空疎なことを語るのだ。

 そんなわけでまたつまらないことを語っている。そう思いたいのか。そんなことを自問してどうするのか。どうもせず、ただそれを語っている。それだけのことだ。それ以外に何があるというのか。虚しくならないか。そう思うならどうすればいいのか。そんな自問を深めればいい。そしてそれを語ればいい。だがそれで何を深めているのだろうか。混迷を深めているわけか。それの何が迷信だと思われるのか。何かを改善しなければならず、その何かが何なのかはっきり示さなければならないが、未だかつてそれができたためしがない。だから君がそれをやろうとしているのか。そうだとしても、なおさらおかしくなりそうだ。結果として語る必要のないことを語り、肝心なことは何一つ語ろうとしない。そこでふと気づけば、他の誰かがジェリコの砦が陥落したと歌っている。意味がないことか。今ではそうだが、数千年前のある時期においては画期的なことだったのではないか。だからそれがどうしたのか。どうもせず、さらに言葉を記せばいい。何かを語るとはそういうことでしかない。そういう思い込みがそういう語りをもたらし、誰かを戸惑わせ、何かを惑わしながらも、そこに言葉が記され、君を行き詰まりから救い出す。そういう救出のされ方を拒否できるだろうか。わらにもすがる気でそんなことを述べているわけか。何だかわからないが、そういうことを、溺れる者はわらをもすがるというのか。意味としてはそうだとしても、何となく本気で述べているわけではないと思われ、また何かの冗談でそんなことわざを持ち出してきて、何か語っているふりをするつもりかもしれないが、実態としては相変わらずの空疎だ。そしてまたそれでかまわないと思ってしまうのだろうが、やはりそれがどうしたわけでもなく、そんな語りの繰り返しから何をもたらそうとしているのでもなさそうだ。むろんそれでかまわないと思っているのだろう。


7月15日

 そうではない。だがどうしてうまくいかないのだろうか。それは誰しもが思うところか。そういう水準で考えてはだめなのか。しかし何について語ろうとしているのか。それは何かの映像表現だろうか。何を言っているのかわからない。いったいどういうことなのか。どうもしなければ何でもない。何かが錯綜しているらしいが、冷静になって考えてみよう。感情的になってはまずいのか。どうも何かが引っかかっているらしく、勘を頼っていてはまずいような気配を感じながらも、最終局面では、勘がものを言うような気もして、何となく違うと感じながらも、それでかまわないような気もして、たぶん違うとしても正しいとしても、なるようにしかならず、成り行きにそった形での結果しかもたらさないのではないか。頑なにそれを拒否したところでどうなるものでもないが、ともかく抵抗しようと思ったら、とりあえず抵抗してみるべきであり、たとえそれが間違っていようと、間違いがわかるまでは抵抗を試みるべきだ。そこから逃げてはならず、逃げたとしても納得のいく逃げ方があるはずか。それは冗談なのか。そして何に見とれているのだろう。何か考えているうちに、またどこかへ行ってしまったらしい。意識は今どこで何を思っているのか。そんなことを考えている暇はない。いくら思いを巡らせても、結局どこへも至らないだろう。どこか行くあてがあったわけでもなく、ただどこかをさまよっていただけだ。君はそれでかまわないと思っているのだろう。行き当たることがなく、迷い続け、どこへもたどり着けなくなってしまうのだ。それでもかまわないのか。何がかまわないのかわからないが、とりあえずかまわないということにしておいてから、暇があったらその先を考えてみることにしておこう。

 それが違っていることがわかったとしても、違っている通りに振る舞い、何をもたらそうとしているとも思われないように振る舞わなければならず、そこで何が起こっていることにも気づかないふりをしながらも、さらに馬鹿げた演技によって他人を欺き、もうどうしようもなく、立ち直れないように持っていかなければならず、そんな結果になるように画策しているとも思えないが、とりあえずは意識がそこへとどまり続けているようだ。頑なに動こうとしない。君はそれでかまわないのか。しかし意志の強さとは何で計ればいいのか。別にそうやって他人を出し抜こうとしているわけではない。どこかでくすぶっていてもいいのだ。そういう成り行きならそれでかまわない。たまに巡ってくるのは何の機会でもなく、絶望を感じ取るためにそうしているわけでもなく、たぶんそんなことを語るべきではないのだろう。時には腹立たしいこともあるだろうが、それはそういう個性の表れであり、それを認め、受け入れるには至らないかもしれないが、受け流すことはできるだろう。それでかまわないと思っているのだ。本気でそう思っていて、今や君はそれを頑なに信じている。だからそういう話で良かったのだろう。冗談でならそういうことになるだろう。冗談でなければ何でもなかったことになり、そんなことはすべて語るに値しない出来事となってしまう。人は誰でもありきたりなことを思い、ありきたりな生活の中で神経をすり減らし、そして老いて、それら先は無の世界となるわけか。存在しなくなってしまうわけだ。そしてそれでかまわないと思っていると、本当にそうなってしまい、そんなことなど語らなくてもよくなり、やはりそこから先は無の世界の住人が語るわけか。しかしそう述べても依然として何の話でもなく、心は動かない。

 だからそれでかまわないと思えるのか。そうだとしても君はそこから先へ言葉を記さなければならず、まるでつまらない作業をこなすように、淡々と言葉を記し、そんな誰かを他の誰が助けるふうもなく、さらに淡々と事態は推移し、気がつけば夜になっているようで、何を警戒しているのかわからないままに、虚無に気を許してどうにかなってしまうとも思えず、君はさらなるきっかけをつかみ、何とかうまく立ち回って、事態の収拾を図ろうとするが、果たしてそれがうまくいくだろうか。テレビを見たら芸術家の老婆が、時間が欲しいと言っていた。誰かは本当に意志の強さで生き延びようとしているのだろうか。何でもないが、それがどうしたと思いたいのか。何か大げさな事態に発展するとも思えず、波風一つ立たず、何事もなかったかのように振る舞うのが得策のようで、君もそれに倣って、ひたすら沈黙を守っているようだが、それで万事が丸く収まるとは到底思えず、どうせもう一波乱があるのだろうが、それでも何事もなかったかのように振る舞えるだろうか。今さら君が痛い膝を引きずりながら、そこへ現れる機会が訪れるとも思えない。だから誰かはなかったことにしたいのか。それでもたぶん気づく人には気づくようなことに違いなく、君もそれに気づいていながら、あえてそれには触れず、何か他の差し障りのない話題を語り、その辺で無視している当の現象が話題に上らない配慮がかいま見られ、そうやって事なきを得て、平穏無事に過ごしたいようで、できることなら幸運で幸福な日々を送りたいようで、それを阻む要素についてはなるべく考えないようにしているのかもしれず、おかしいことがわかっているにも関わらず、そのおかしさについては不問にしつつ、何とかその場を取り繕い、愛想笑いとともに不吉な影を消し去り、後はいつも通りの言葉の並びが回復していることを願いながら、その場を立ち去るつもりらしいが、そんなにうまく事が運ぶとは思えない。尾を引くような気がして、疲れてしまうのだろう。


7月14日

 なぜ疲れてしまうのか。それほどの苦労ではない。さらに記すならそういうことになりそうだ。冗談ではないのか。そうでないとすると、他にどんな可能性があるのか。気が抜けている。ふとしたきっかけからそうなってしまったのか。何がどうなっているのだろうか。きっかけなどどこにもありはしない。それは見解の相違だ。誰かと同じように軽い精神疾患ではないのか。唐突にそんな冗談を述べていること自体がおかしいか。完全に常軌を逸しているとは思わないが、何がそうなのかわからないことは確からしい。それでも何とかしなければならないのはどういうわけだろう。たぶんどんなわけでもない。何をやる気もしないし、やり遂げようとも思わないが、なぜか言葉を記している。その辺がどうしたわけでもないのだろうが、やはり何とかしなければと思っているのだろうか。明日はこんなことをやっている場合ではなくなり、どうにかなってしまうのかもしれないが、とにかくできる範囲内でどうにかしなければならないのだろう。まったく馬鹿げているだろうか。それとも何でもかまわないからこなしてしまえばいいのか。無責任極まりないか。それでかまわないのだろう。何を語るのも君の自由だし、語らないのも自由だ。内容に制限がなく、とりとめがないのは哀しいことか。そうではないと思いたいが、たぶん何も思いつかないだろう。それが君の取り柄なのではないか。冗談として語るなら、その内容はそういう具合になりそうだが、まるっきりの無内容というわけではなく、その中には多少なりとも独自の主張が紛れ込んでいるような気がして、それを探して必死に過去の記述を読み返す気にはならないだろうが、ともかくどんな時でも何とかしようとしていることは確からしく、まったく左目のすぐ下を蜂に刺された翌週には、右目に羽虫が飛び込んで結膜炎を起こしている。もちろんそれとこれとは関係ないだろう。

 たぶんそんな出来事が自らの危機を招いているわけではなく、それは記述の問題だ。それも作り話の中での危機だ。そこで架空の登場人物が危機に直面しているわけか。だからそういう話の設定自体が作り話なのだろう。それはすでにわかっていることか。いったい何がわかっているのか。少し言葉足らずだ。そんな嘘をついてごまかすような話ではない。だいいち何をごまかそうとしているのかわからないではないか。たぶん実際に君が何を思っているのかわからない。また話の脈絡がつかめなくなり、そんなことではないような気がしてくるが、別に何を語ろうとしているのではないので、そんなでたらめでもかまわないような気がする。要するに君は語る必要のないことを語っているわけで、それについてどう思っても、そんなのも必要ない思いか。しかし何に苦しんでいるのだろうか。果たしてそれは必要のない苦しみなのだろうか。そんな方向へ話を持っていく必要はないのではないか。君は十分に役割を果たしている。そうでなければ話にならないだろう。そして暇を見つけて何とか言葉を記しているではないか。それだけでも大したものだ。冗談でもお世辞でもなく、何となくそう思っているのだから、それはある意味で真実なのかもしれず、思い違いでもなんでもなく、正しい認識なのかもしれない。だがそれだけではどうしようもなく、何をどうしてもそうなってしまうとすれば、それもどうしたわけではなく、誰が苦しんでいるのでもなく、その苦しみを誰が記しているのでもない。ではそれらのすべては何なのか。まさかすべてが冗談だとは思えないだろう。その辺で客観的な現状認識をもたらせるだろうか。まだそこまでは至っていないようで、まずは現状を正確に把握しようとしている段階か。しかし何をわかろうとしているのか。この期に及んでそれはないだろうが、何となくそこが知りたいところだ。

 だが翌朝に目覚めたら、何となくそれがわかってしまう。そして昼になり夕方になり、いつものパターンであることに気づき、愕然としてその続きを記して、文章を仕上げようとするが、相変わらず何も思いつかず、結局は自問自答の繰り返しとなってしまうのだろうか。そうならないように努力すべきか。なぜそんなことをやらなければならないのか。理由など何もなく、ただそんなことをやっているだけか。そうだとしても腑に落ちない点があり、やはり理由を見つけないと気が済まないらしく、何とかそれをやっている理由を見出して、理解し得る範囲内でそれを説明しなければならないと思うわけか。なぜそう思うのか。そう思っているわけではなく、成り行き上そう記さなければならない状況に追い込まれているわけか。そんな大げさなことでもないだろうが、そんなでたらめなことを記していると、何だか気がまぎれ、それでかまわないような気がするらしく、たぶんその辺が妥協点なのだろうが、少なくともそれ以上は何を記せるわけでもなく、何も記せないとなると、そういう低レベルの言説がこれからも続いてゆくこととなり、ますます困惑の度を深めるに至るだろうか。そうだとしても、そこから適当にいい加減に言葉を記し、さらなる空疎をつかみ取るまで語り、そんな嘘をつきながらも、やはり最終的には何らかの感動にいたり、そこでくだらぬ作り話がおしまいとなるのだろうか。別にそこで終わる義務も予定もないのだろうが、何となく歯止めが利かないような気がして、何を語ってもそうなってしまう理由が未だにわからず、積極的にわかろうとしていないのだろうが、消極的でも何でも、もういい加減にそこからどこか違う場所へと移動して、新たなる出発を迎えないと、にっちもさっちもいかず、ひたすら停滞の言説と格闘するはめになり、同じことの繰り返しが延々と続く事態に疲れ果て、たぶんついには気が狂ってしまうだろうか。冗談か。冗談でなくても冗談と見なして、その辺でやめることにしよう。


7月13日

 何やらまた泥縄式でやろうとしているらしいが、意味をはき違えているのではないか。それでもかまわず言葉を記しながら考え、また適当な分量を確保しようとしているのだろうが、それがいつまでも続くと思っているわけではなく、遠からず破綻することを覚悟しながらも、今は自転車操業的にやらざるを得ず、それについて考えれば考えるほど気が重くなり、将来についての漠然とした不安を払拭するに至らないことが、逆にかろうじて今を支えているのかもしれず、できればそこから逃げ出したい気持ちを引き止めているわけか。そうだからといって、今他に何ができるわけでもなく、何となくくだらない状況にはまって、身動きが取れないのはもちろんのこと、そこを抜け出して、自由の身になれたとしても、たぶん何をやっているわけでもないのではないか。ではどうしたらいいのか。まさか現状維持に汲々としていなければならないのだろうか。あるいはそれはそれとして突き放し、同時進行的に別のことに心を奪われていたらいいのだろうか。そうなる可能性があるとは思えないが、ともかく機会が巡ってくるのを待たなければならず、巡ってきた機会を捉えて、そこに生じる何らかの可能性にかけてみなければならないのか。そんなことを述べながらも、君はいったい何がやりたいのか。たぶんそれはその時になってみなければわからないことだろう。しかしそれではどんな機会を捉えたいのかはっきりせず、何を待っているのかもわからないのに、待っている機会が訪れても、そのとき何をやったらいいのかわからないはずだ。それでも何かの機会を捉えようとしているのだから、本当にその時になったらどうするのか。

 たぶんそれがこの時だと直感したら、自然とやりたいことがわかり、機会を捉えてそれをやろうとするのではないか。何だかそれではご都合主義の極みのような感がしなくもないが、ではその時がくるまでのお楽しみということにして、今はとりあえず何をやっていたらいいのか。仕事の合間に暇な時を見計らって、言葉を記して適当な文章でも構成していたらいいのか。だがそれでは暇つぶしの一環と変わりないではないか。これが暇つぶしというのなら、要するにそういうことだ。だから暇つぶしに言葉を記し、文章を構成しているわけか。そんな論理に納得できるわけがないか。たぶん何かのごまかしなのであり、わかっているのにそれをわからないようにしているのだろう。そんなわけでそれらの試みの中では、なかなか積極的に肯定し得る材料が見当たらず、そんな認識から遠ざかれないようで、そこで行き詰まるしかないようなのだが、行き詰まるには早すぎて、間が持たず、結果として沈黙に支配されてしまいそうで、言葉を失い、何もできなくなって、途方に暮れてしまうだろうか。本当にそうなったらおもしろい。何がおもしろいのかわからないが、その場しのぎにそう述べて、強引に間を持たせ、何とか言葉をつなぎ、かろうじて行き詰まりを打開して、そこで一息ついているふりをしながら、その間に次の展開を模索する。果たしてそんなことが可能だろうか。たぶん人前で何かを発表する人は、自分の得意分野で利いた風なことを語り、その人が認識している範囲内なら、何の矛盾もなくそれらを説明し得るのだろうが、それを見聞する立場の人にとってはそうではなく、利いた風な意見にも同調しかねる部分があり、そこから疑念を抱き、質疑応答の時間で果敢に質問を試みるわけだが、たぶんそれについての納得のいく返答はもたらされず、逆に質問を返されて、言葉につまり、まるで煙に巻かれたような気分で会場を後にしながら、どうにもこうにも虫の居所が悪くなってしまうのだろうか。

 誰かはそれでも言葉を記そうとしているようだが、別にそれについて何を語るわけでもないか。語りようがなく、他にどんな虚構と戯れているとも思えず、相変わらずの意味不明に終始しそうな雰囲気だが、君はいったい何について述べているのか。どんな体験をして、それについてどう思っているのか。それは誰にとって都合の良いことなのだろう。語るためにはそういうことが必要なのか。それは何を語るかによるだろう。だが実際に何を語っているのかはっきりせず、未だ焦点が定まっていない。別にそれでかまわないのではないか。特定の何について語っているのではなく、そうではない何かについて語っているのであって、その何かが何でもない何かであり、何でもありでも何でもなくてもよく、気の向くまま適当に語ることもあり、気が向かないのに無理矢理語ることもあり、結局どう語っても良いようで良くないようで、やはりその辺がはっきりしない。そして無駄に言葉が費やされ、無理に言葉を連ねて意味不明になり、それが退屈なごまかしに結びつき、それに気づくと、そうではないような何かを模索して、果たせず、何も見出せないままに自己言及的なことを述べながら、ついにはそれでかまわないような気になっているようだが、たぶんその辺に思い違いが潜んでいるのだろうし、それを繰り返しながら過ちを積み重ねているのだろう。では今こそそれを改めなければならないのだろうか。改めることができればそうしているところか。ではなぜそれができないのか。たぶん過ちを犯さなければ言葉が続かないのだ。正しいことを語ろうとすれば、すぐに終わってしまうところを、わざと遠回しにわけのわからないことを述べつつ、執拗に同じことを語り、同じように反省して、結果的には何も改められず、相変わらずそれを繰り返しているわけで、実際にそれらはうんざりするような長さになりつつある。


7月12日

 目が痛いのか。小虫が目に飛び込んできたのは先週のことだ。今は誰がそれを語っているわけではない。ただ眠れないだけのようで、やはり今日も昨日の日付のようだが、そんなことにいつまでもこだわっていると、そこから抜け出られなくなり、相変わらず空疎なことを語り、つまらぬことに時間を費やし、人生を棒に振ってしまうか。しかし棒に振られるのは誰の人生なのか。野球選手などは棒を振ることに人生をかけているはずだ。だがそれは打者に限ったことで、投手などは球を投げることに人生をかけている。球を投げて、投げられた球を棒で打って、打った球をグローブで取って、取った球を目標めがけて投げて、そんなことを上手にこなせば収入を得られるのだから、それはそれで結構なことなのだろうが、そういうゲームにはまった人たちに、それを見ている人たちは何を期待しているのか。ひいきの選手が活躍して、ひいきのチームが勝てば、それで喜んだりしている。たぶんそういうことなのだ。他に何かこだわりがあるのかもしれず、個々の選手の成績がどうのこうのとか、誰かが新記録を出したのとか、勝因や敗因がどうしたこうしたとか、その他いろいろな楽しみ方があるのかもしれないが、それは枝葉末節なことで、本質的にはそういうことだ。むろんひいきの選手やチームを応援することに人生をかけているのは、ほんの一握りのコアなファンで、大半の人たちは楽しみにしている娯楽の中の一つが野球観戦に過ぎず、それほど熱心にのめり込んでいるわけでもなく、チームが優勝から遠ざかり、長期低迷状態に陥れば、だんだん心が離れていってしまうのだろうが、やはりそれも大したことではなく、そこから何を得られたとしても一過性のもので、逆境から這い上がった選手の活躍に勇気づけられた程度の紋切り型だ。

 たぶんそれでかまわないのだろう。それ以上の何を求めるのか。選手が活躍してチームが優勝するに至る経緯を、美しく感動的に語りあげてしまうスポーツライター辺りの文学的な偽装を、まさか尊くかけがえのないものとして愛さなければならないのか。だからそういうわざとらしい言い回しが皮肉的冗談の域を超えないものなのだ。語る上で都合のいい部分だけを拡大解釈して、冗談に結びつけようとしている。そんなことを語る時の誰かは悪意に満ちている。たぶんそれも半分冗談に違いないが、何となくそれでかまわないように思われ、そうやって何か述べていると、してやったり的な気分に満たされ、それ以上の探求を放棄してしまいがちになり、結果的に自己満足の域を出ない言説となるらしいが、それではまずいのか。まずいかどうかはわからないようだが、どうももう一踏ん張りが利かないらしく、そこで語るのをやめてしまうことが多い。疲れているのだろうか。それとも力量不足か。あるいは才能の欠如か。単に精神の集中が保てず、根気が続かないのだろう。そしてその先に語る言葉が見当たらない。ならば語らなければいいのだろうが、なぜか語っている現状があり、さらにそれ以上語ろうとしているようで、なぜそうしたいのかわからないふりをしながら、どうしようもなくそんなことを語っているわけだが、それの何がおかしいのか。おかしいからそんなことを述べているわけではなく、何がおかしいのかわからないから、何がおかしいのか問いかけていて、どこへ向かって問いかけているわけではなく、要するに自問自答の範囲内で問いかけているのだろうが、たぶんそんな問いかけ方がおかしいのではないか。ならばそれを改めなければいけないのだろうか。君が改められると思っているのだろうか。そんな自問自答自体がおかしいのだ。そしてそんなことを語りたいわけではない。

 では何が語りたいのだろうか。何も語りたくないのではないか。語る必要がないのだろう。ではなぜ語っているのか。必要がないから語っているわけか。何かがくだらぬ矛盾に晒されているようだ。それがどうしたわけでもないが、その辺で語るのをやめておくべきだった、と今さらながら後悔しているのだろうか。それでも語っているではないか。もはや語ることもないのに語り、語らなくてもいいのに語り、無駄で余分なことをひたすら語り、そして語っている内容が空疎になり、それでも自問自答によって語りを長引かせ、病的なまでの執拗さで言葉を記し、完全に常軌を逸しているだろうか。それでも語っているのだから仕方がない。その気がある限りは語り、その気がなくても語る。無理に語っているだけなのだろうが、語らずにはいられず、たとえ正気を失っても語るつもりらしい。そんなのは嘘だろうが、嘘でもかまわないからそんなことを語っているようで、そんな自らの意図や思惑を無視して語り、何が何だかわからないほど語り、それが何だかわかっているのに、わざとわからないと述べ、他の誰を煙に巻く気もないのに、そんなことを述べてしまってから、それは嘘だと訂正して、やはり結局わけがわからないように語っているわけだが、その辺で君の悪意が介在しているようで、無理矢理語りを長引かせようとする意図が見え見えで、言葉を記している誰かをがっかりさせるようだが、そんなことなどおかまいなしに、強引に虚無的な話を進め、あらゆる誤解と思い違いを併せ持った内容にすべく、それらの言葉を組み合わせ、文章を構成しようとしているのかもしれないが、なぜか必死さに欠けるらしく、適当なところで妥協して、今日はこの辺でやめにしようとも思い、言葉が適当に長く連なればそれでかまわないような、そんな案配で何かの終わりに至り、結果として出てきた文章に軽い失望感を覚えつつも、それでかまわないと自らに言い聞かせるように納得するふりをして、体裁を取り繕うつもりらしい。


7月11日

 やっと昨日か。何かの合間にやるのは能率が上がらないか。でも能率も何も、内容が空疎ならどうしようもないのではないか。たとえどうしようもない内容であっても、空疎であったとしても、ただやる分には変わりない。厳密に言えば変わりはあるのかもしれないが、無視し得る程度の変わりか。別にそうならそうでかまわないのではないか。しかし自己言及の自問自答ばかりでは外に向かって発信できないのではないか。だが取り立てて主張するようなことがあるのか。別になければそれでかまわないではないか。だがそういう開き直り方が気に入らない。ではどうしたらいいのだろう。こうして言葉を記しているわけか。まさかこれがまともな返答とは言いがたいだろう。しかしこれとは何なのか。わからないふりをしているようだが、わかっていてそんなふうに述べているとは言いがたい。では実際にはどんなふうに述べているのか。だからそういう語り方がいただけない。しかし今さらながらの無い物ねだりはいい加減にやめてもらいたい。ではどうしたらいいのだろうか。さらに言葉を記している。そしてこうなってしまったらしく、どうなってしまったとも思えず、ネイティヴダンサーを聴きながら、裏声で歌っているミルトン・ナシメントが不可思議に思われ、さらに彼の『塩の歌』を聴きたくなってくる。なぜ悲惨で哀しい境遇の誰かを力強く歌えるのか。これまた不可思議に思われるが、それが冗談とは違ったリアリティを醸し出している虚構的現実なのだろうか。そんな粗雑な言語表現ではなく、もっと何か説得力のありそうな言い回しを用いて説明すべきだろうが、それが君の限界であり、無理なのかもしれない。

 だがどこかしら破綻を来している方が良心的な言説ではないのか。あまりに美しい内容を極めようとすれば、本当の空疎をもたらしてしまうような気がして、美文的虚無に精神を蝕まれ、たぶんそこで何かを失ってしまうのだろうが、たぶんそこまでいくほど才能には恵まれていないようで、これまで通りの中途半端さを堅持している限りは、それがそこでのリアリティを保っていて、何かごつごつした感触を空想しうる程度には、ぎこちない言葉の並びを残しているわけだ。そんな吃音的文章で語るからこそ、何らかの可能性が導きだされるのではないか。もちろんそれが何かの可能性なのか、あるいは不可能性なのか知らないが、そこに何かがあるとは、そういう障害物のようなものを存在させない限り、何の実感ももたらし得ないのではないか。だから語るのか。それが理由になっていないのは毎度のことだが、何かを書き記す理由が本当に必要かどうかはさておき、ともかく言葉を記さなければ何を述べていることにもならず、何も記されてない白紙状態を利用して沈黙を表現しようと、その前後で、あるいはそれに関する説明で、何らかの言葉が費やされ、その空白が何を意味するかについて語らなければならず、結局はそれが何でもないでは済まなくなってきて、何らかの価値を伴った何かでなければ、それは容易に無視し得る対象でしかなくなってしまうだろうし、それを作品として提示する意味がなくなってしまい、それを作り出した意図が理解されなくなる。それでもそんなことを記している理由が必要なのだろうか。たぶんそこに誰かの意識が介在している限りは、その存在を自己主張しようとするのだし、それに接した意識に、それを作り出した力の存在を想起させたいのだろう。そしてそこに何らかの価値が内在しているように思い込ませたいのだろうし、できるならその存在に対して肯定的な評価を下してほしいのではないか。

 だから冗談では済まなくなってしまうわけか。しかしいつまでもどこまでも冗談の側にとどまっていてはまずいのだろうか。もっと真摯な姿勢でそれらの言語活動に接して、本気で素直な意見を表明しなければだめか。また今日もどこかで冗談を述べているらしく、出くわした現象について通り一遍の見解を出して、それで済ませようとしている。むろんそれはそれで状況に対する真摯な姿勢の表れかもしれないが、別に何かを極めようとしているのではなく、ただそれについて何かを述べてみたいという衝動だけで語ろうとしているのだから、そんなやり方でかまわないのだろうし、別にそれに対して批判的な意見を述べるのは勝手で、そうではないような深い読みを示すことができれば、それも結構なことだ。何となくそういうのを見聞していると、何でもありなんだと思うと同時に、言語表現の様々な水準で様々なことが述べられていること自体に感動してしまい、もうそれ以上は必要ないのではないかと思って、別に自らがそんなことに言及するのも無駄だと思われ、さらに無力感を覚え、沈黙するしかないような雰囲気に気づき、それに従うべきか否か迷い、未だそれについては何も述べていないような気がして、やはりそれは君には関係のないことのように思われる。確かにこれから何が起ころうと、誰にとってもどうということはないのだろうし、万が一何か面倒な事件に巻き込まれたとしても、どうせその手のサスペンスドラマのような具合にはいかないのだろう。すべては人の感情とは無縁の事務処理的に片付いて、何の感慨にも至らないように解決して、後は損得勘定で当事者のどっちが得してどっちが損して、要するに金銭問題に還元されて、それで納得したりしなかったりするのが、現代的な事後処理なのではないか。


7月10日

 たぶん何も思いつかないだろう。それで何やら対策を講じたらしいが、それで状況の変化に対応しているつもりなのか。つもりではなく、実際に対処しているはずか。そうだとしても、このざまは何か。何でもないと思っているのなら、その先で何を語れるのか。今語っている内容では不十分なのか。では今何を語っているのだろうか。それは何かのたとえ話か。そうだとすれば話は簡単だが、何に何をたとえているのか。そんなことを思っているうちに眠くなり、眠ってしまったようだが、一夜明けても何も思いつかない。今日も暑いらしいが、それがどうしたわけでもないだろう。しかし暑い。もう昼だ。どうやらまた夜になってしまうらしい。毎日がそうだ。そんなことの繰り返しから抜け出られるのだろうか。永眠して故人になればいいのか。笑うような冗談でもないが、つまらないことを述べているようで、それが毎日のように繰り返され、積もり積もってそれらの文章になるわけか。別に冬の豪雪地帯に暮らしているわけではない。どうもその辺のニュアンスが微妙にずれている。たぶん暑すぎて頭がどうかしているのだ。それで君は降参状態なのか。何がそうなのかわからない。何もそうなのではなく、すべてが幻想の中で生じている文字列なのか。それもご都合主義的な無責任か。過去において何がそうだったのか。とにかくそんな具合に無駄で無意味なことを語っていないと、何か適当なひらめきに遭遇できないようで、そうならずにひたすらそんなことしか述べられない場合もあるのだが、やはりそれを続けていくしかないらしい。まったくそれは難儀なことか。別に好きでやっているわけでもなく、ただ何となく惰性で続けているに過ぎないのに、なぜひたすらやり続けているのか。しかし誰にそれを訊いているのでもないはずだ。

 要するにそれはいつもの自問自答なのだろうか。そうに決まっているのにそういうことを問うのはおかしいか。それだけではないのか。わからないがとにかく暑い。ならばわかっているのにわからないと述べる他ないのはなぜだろう。何をそこでわかっているのか。成り行き的にはそうなる他ならず、わかっていようとわかっていなくても、とりあえずはわからないと答えて、それでどうでもいいような問いに答えたことにしたいわけか。しかしわからないと答えれば答えるほど、その種の問いで文章が埋め尽くされてしまうのではないか。ではわかったことにして、それらの意味不明な問いに終止符を打つべきなのか。それも一興だが、何が一興なのか意味がわからないが、たぶんそう述べて何か述べたような気分に浸りたいのだろうし、本当は何でもないことなのに、そこに問いを差し挟んで、そこに何かあるように見せかけたいのではないか。ではそこには何があるのだろうか。空疎な言葉が連なっている。それは毎度のことだろう。他に何か気が利いた意見が欲しいのか。君はたぶんそうならないような何かを求めているのだ。空疎ではなく、実質を伴った意見を差し挟みたいのではないか。ではそれは何なのか。やはりわからないことでしかないわけか。今のところはそういうことにしておきたいのか。それとも今すぐにわかりたいのだろうか。たぶんそれは君には関係のないことだ。なぜそういいきるのか。答えるのが面倒くさいからか。神はその件についてはどう思っているのか。誰が神なのか。たぶんそういう語りの中に神が潜んでいて、君が理解に至る邪魔をしているのではないか。なるほどそういう認識は新しい。だが笑っている場合ではないだろう。もう少し何かを求める必死さが足りないのではないか。

 言葉を記しつつある誰かは満ち足りた気分なのだろうか。なぜそう思う。虚無的で空疎な雰囲気に心を満たされ、他に何もやろうとしないではないか。仕事をしているのは誰なのか。たぶん他の誰かが仕事をしていて、君とは関係のない領域でがんばっているのではないか。そういうことか。どういうことでもないが、何だかそんな気分に満たされ、なるほどそれが空疎な気分だと気づき、まんざら不快でもないような気になっているようで、他に何も思いつかないのなら、それでもかまわないのではないかと思ってしまい、そのまま何処ともなく消え去り、それでその後はどうなってしまったのか消息不明のようだが、たぶん今それを記しているのは、普段からそこに居座っている誰かなのだろう。君はそれが不満なのか。別にそれでそれほど不都合とは思わず、たぶんそれでかまわないと思っているのだろうが、どう読んでも内容のある話とは言いがたく、当初のもくろみ通りにはいかず、当てが外れているように思われるが、それも泥縄式の極意の表れかもしれず、実質的にまとまった分量に達すれば、それで体裁が整い、何となく満足してしまい、それ以上の探求をあきらめ、そんな水準で停滞してしまうのかもしれず、それでもかまわないのなら、そういうことになってしまい、もう何を述べても無駄な雰囲気が漂い、要するにあきらめてしまったことになるのだろうが、本当にそれでかまわないのだろうか。それ以上の何が可能なのか。何が可能かはわからないが、とりあえず結果的にどのような水準に落ち着こうと、そこでの探求を継続していかなければならず、常に前のめりになっていないと、気分が優れないのではないか。それは冗談だろう。たぶん気分の問題ではなく、何でもない問題なのであって、何の問題もないわけではないが、問題とは直接結びつかないような記述の探求となっているのではないか。それはどういうことなのか。答えとは関係のない問いを発し続け、問いとは無縁の答えを求めている。それは嘘だろう。


7月9日

 今日も昨日で明日になり、何も思わない日々が続いているのだろうか。ただ暑い。それは昼間のことだろう。冷房の効いた部屋の中で言葉を記しているのか。それがどうかしたのだろうか。別にそこから話を膨らませようとは思わない。たぶんそれだけのことだ。それの何が馬鹿げたことなのか。そうは思わない。ではそれについてどう思っているのか。誰に問うているわけではない。どうやら問いかける対象が不在のようだが、それでも空疎な問いかけを虚空に向かって発していられるだろうか。そういう状況ではないだろう。ではどういう状況なのか。君の知ったことではない。では誰の知ったことなのだろう。それとも誰も知り得ないことか。知り得ないのではなく、語り得ないのではないか。そういう話ではないということか。何の話でもなく、何を語ろうとしているわけでもない。その代わりに何かの効果音でも聴いているのだろうか。わけがわからない。君はそこで停滞しているのだろうか。気持ちが沈んでいるようだ。別に何を語っているわけでもないだろう。それがここでの問題なのか。ただの気まぐれだ。取り立てて何が問題でもなく、ふざけたことを語ろうとしているだけか。そうだとしても言葉が足りない。何だかどこかで寄り道をしているようだが、たぶんそれがどうしたわけでもなく、解読不能な暗号の解読に取り組んでいるわけでもなく、ただの気休めで、何が何だかわからないようなことを述べているらしく、何だか後先考えずに、そんなことやっているとも思えない。夜更かしが無理なのだろうか。しかし何の話でもない。至ってでたらめになっているだけだ。ため息が出そうになるが、誰がそうなっているわけでもない。

 またそれだけなのか。要するにこういうことかもしれない。何も要するにでもなさそうだが、それでも何とか言葉を記している。そして眠ってしまい、目覚めれば翌朝か。いったい何をやっているのか。たぶん仕事以外は何もやっていないのではないか。だが何かに気づいているはずだ。何かをやめる決心でもついたのだろうか。そうかもしれないが、まだ完全にあきらめているわけではないのだろう。この期に及んで何とかしようと思っているわけか。でも何がこの期に及んでなのかわからない。何がどの期に及んでいるのか。それらの試みを趣味として割り切っていいのか。目覚める前に見ていた夢の中に何かヒントでもあったのだろうか。その時はそう思っていたみたいだが、遠くに見えていた山並みは本当に南アルプスだったのだろうか。そしてなぜか夢の中でも道に迷っていて、住宅街の迷路のように曲がりくねった小道をひたすら進み、行く先々でそこにいた人と何か言葉を交わしていたはずだが、その内容までは覚えていない。そこに何か重要な秘密が隠されていて、それを探り当てれば、今直面している問題が解決するわけでもないか。だが問題とは何か。別にそういう話にはまっているとも思えず、その手のフィクションに影響されて、それでそんなことを思ってしまう成り行きでもない。ではただの気のせいか。そんなことを述べているうちに夢の内容などどうでもよくなってきて、思い出せないことを思い出そうとしていないことに気づき、さらにそこから先に言葉を記して、どこへ至ろうとしているでもなく、そこへとどまり続け、そこで何かをやろうとしているらしく、無意識のうちに問題解決のための糸口を探っているらしいが、それでもしかし問題とは何なのか。ここに記すようなことではないのだろうか。

 何か無駄なことに時間を割いているような気がしてならないが、言葉を記すことが無駄なのだろうか。たぶんそのすべてがそうだとは思わないが、記している内容にもよるのではないか。それはありふれた意見だ。何の解決にもなっていないではないか。そしてそれによって何を解決しようとしているのかわからない。解決するどころか、かえって混乱を招き、不安を増幅させる結果となっていないか。なぜそう思うのか。それは厄介な問題で、それについて無理に語ろうとすると、何も語れなくなり、そもそも何を語りたかったのか思い出せなくなって、そこで語るのをあきらめてしまい、それからどうなってしまったのか。まだ粘っているようで、昼休みの間に言葉を記しているみたいだが、何も思いつかないのだからどうしようもないか。しかしなぜそうやっていつも追い込まれてしまうのか。端的に言えばそれは無理だからか。君は無理なのに語ろうとして、空疎なことを語り、そしてそんな結果に落胆して自己嫌悪になる。それの何が冗談なのか。たぶん冗談には違いなく、無理して強がってみせ、それが冗談で述べていることにしたいらしいが、実態としてはぎりぎりの痩せ我慢なのだろうか。そうだとしても意に介さず、なおも言葉を連ね、ますますうまくいかなくなり、とうに限界を超えているのに、さらにそこから語ろうとして、そこから先はひたすら自己言及になってしまうのか。たぶんそうなっているとしても、それでかまわないと思うしかなく、そのさらに先まで至ろうとしているのだろうし、もしそこへ至ったとしてもそれで満足せず、気がつけば言葉を記しているわけか。だから何だというわけでもなく、ただ無駄に言葉を連ねて、何かの体裁を取り繕うとしているのかもしれず、別に崇高な理念に基づいてそんなことを語っているわけでもなく、ただ語っているに過ぎず、それだけのことなのだ。


7月8日

 ちょっとそれはないのではないか。ヤバそうか。たぶん違うのだろう。そんな言葉では語り尽くせないか。ならばやめた方がいい。では今さら何を語ろうというのか。そんなごまかしでは通じない。だからいい加減に語ろうとしている。そのようだが、状況に即した言葉が見当たらない。本当は語る気がないのだろう。たぶんそのようで、でたらめに言葉を記しているだけのようだ。しかしそれで何を見破られたと思っているのか。それは嘘ではない。魔法でもないはずか。ならば何なのか。相変わらずとりとめがない。それが気に入っているのではなかったか。だが同時に気が進まない。言葉と言葉がねじれの位置に記されている。実際にはそんなはずがない。わざととりとめのないことを語っているだけか。それ以外に何が語れるというのか。それを模索すべきではないのか。今は違うと思われる。なぜそうなのか。なぜでもなく、そうでもない。そんなはずがないと思っているようだが、現実にはその通りになっている。だから何だというわけでもないが、何となくそんなことを記しつつ、他に何を思いついているわけでもなく、たぶん今はそんなことしか記せないのだろう。いつもそうなのではないか。そうかもしれないが、たまにはそれとは違ったことを記していることもありそうだ。ならば今それをやればいいのではないか。そう簡単に記せるはずがない。だから苦しんでいるわけか。何を苦しんでいるというのか。そういう自問自答はいただけない。話の進め方が予定調和の展開となっている。ではどうしろというのか。どうもしないでそのままの語りを繰り返せばいいのではないか。だがなぜそこで開き直る必要があるのか。やはりそういうのではだめらしく、他の意識が何か別のことを考えているようだ。

 もう夜だ。さっきまではテレビでも見ていたのか。それはいつものことに違いない。相変わらず何も語っていないのもいつものことか。語る必要がないのだろう。確かにその必要がないようで、今は誰も何も語らずに、何を記しているのでもないらしく、画面の前には誰も見当たらず、ただその場が沈黙している。何も反響してこないようだ。たぶんそこは洞窟の中ではないのだろう。君はそこで何を期待していたのか。何か気が済むような成り行きになってほしかったのか。それがわからない。そんなふうに思うのはおかしい。何を思っているわけでもないのに、何かが起こることを期待しているとは思えない。何も起こらないのがわかりきったことでもないのだろうが、何となく何も起こらないような気がするのはなぜなのか。起こりえないことを空想するのに飽きてしまったからなのか。だがそれではフィクションを記せなくなってしまう。もとから無理だったのだろう。何が無理なのかわからないまま、そんなことを語ることしかできなくなってしまい、それ以上の何を模索することもできず、ただそんなことの繰り返しに自足しきっているようで、やはりそんなことではだめなのかもしれないが、結果的にそうなってしまうのだから、それはそれとして、そのままの経緯で進めたらいい。それができなくなったら、そこで改められるところを改めたら済むことだ。改められると思っているのなら、ぜひとも改めてもらいたいか。君は改められないと思っているわけか。結局はそういうことになるだろう。そしてそれはそこで終わらずに後を引き、いつまでもどこまでも回帰しようとする。君にそれを止めることができるとは思わない。誰かの思い違いかもしれないが、止めようとしていないのだから、止められなくて当然の成り行きだ。

 しかし唐突に何を述べているのか。それが唐突ではなく、自然の成り行きでそういうことを述べているのだとしたら、それはそれでどう思われるとも思えない。何だかそれはいつもながらの意味不明に近くなっているのではないか。それが正しい認識かもしれず、実際に何を述べているのかわからなくなりかけているようで、そんな成り行きに押し流されそうになりながらも、必死になって理解しようとしているようにも思えず、次第にどうでもよくなってきたように思われ、もう後戻りできない段階になって後悔しても無駄なようで、今は仕方なく、それを続けるしか選択肢が見当たらず、そんなわけでさらにわけがわからなくなりそうで、やはりどんなに逆らっても、元の木阿弥になるしかないようだ。しかしなぜそんなふうに語ってしまうのか。語っているつもりの当人にわかるはずがなく、当人には他の誰が語っているのかもわからず、それが当人が語っていることもわからないだろう。現実に気づかない。しかしそれらの何が現実として認識されるべきなのか。そういう問い方がおかしいのではないか。君は現実を見失い、さらにそれらの現実の中に君の姿を見出せないことにも気づかず、画面の前で言葉を記しているのが誰なのかもわからない。だがそれがどうしたわけでもないだろう。そこに言葉以外の何が介在しているわけでもなく、何かが記され、それによって何かが語られ、それを読んでどう思っても、それが現実の一部でしかなく、君の意識を構成しているそれらの文章が、君自身を構成できなくても、そこからすべてが始まっていることは疑いようがなく、その中で君は何を語ろうと、その語っている内容が記されない限りは、君が何を語っていることにもならないのは当たり前で、それらの文章が君の存在を無視しようと、君にはどうすることもできないはずだ。君は沈黙するしかない。


7月7日

 なるほど他人を馬鹿にするのは愉快なことだ。しかしその後が続かない。たぶん続ける必要がないのだろう。そんな中で呆れてものもいえないのは毎度のことで、何となくどうでもいいような気もしないではないが、本当にこれでいいのか。いいわけがないのだろうが、成り行き的にはこれでいいのだ、ということになりそうで、そこから先には何もなさそうだが、さらに言葉を記すなら、その先にはどこまでも虚無的な時空間が広がっていて、それらのすべてにおいてとりとめがなく、何を叫んでも反響は皆無で、何もできずに無力感でうなだれているうちに、どんどん力を吸い取られ、やがて何でもなくなってしまうだろう。何も思わなくなり、何も感じられなくなる。今や世界のすべては闇に包まれ、冷温停止状態になってしまうのか。そうなるまでには後どれくらいの時が残されているのか。そんなことを知って何になる。神でさえそれを知る立場にはなく、仮に知ったところで、君に何ができるというのか。何かできたところで、たぶんそのできたことと世界の終わりには、何の相関関係も見出せないだろう。しかしそれが世界の終わりを意味するのだろうか。そのとき何が終わっているわけではなく、何かの終わりさえ存在し得ないのだとしたら、それとは何か。くだらぬ言葉の組み合わせが世界の終わりを表現できるとは思えず、たぶんそれは終わりでも何でもなく、ただの何でもないことだ。何を言い表しているわけでもなく、そんなことを誰かが述べているに過ぎず、それ以上でも以下でもないような何かについて語ろうとして、完全には果たせずにいるようで、その代わりに述べていることはと言えば、要するにたわいないことか。

 それでも何を語ろうとしているのか。何も語っていないようだが、それでもその先に語りを続けようとして、何やら言葉を連ねて、体裁を取り繕うとしているのかもしれず、たぶんそんなやり方ではだめなのだろうが、実際にそうなってしまい、そのどうしようもない成り行きに唖然として、呆れる以前に気力が萎え、そしてそれらの空疎な内容を削除しようとするが、たぶんできないだろう。君はまだ虚無を極めていないはずだが、そもそもそれは極めるべきことなのか。だが中途半端ではいけない。何がいけないのかわからないが、逆にいけてる状態が想像できず、何をどうすればそうなるのか、皆目見当がつかない。たぶん今さらそれらの内容なき言説を救う手だてはない。ならばどうしたらいいのか。記述的には何かの曲がり角にさしかかっているらしく、どうにもこうにもごまかしのきかぬ状況になりつつあり、いつやめても不思議ではない気分で言葉を記していて、そう述べてしまうのも何かの戦略の一環だと強がってみても、それは戦略なき戦略で、行き当たりばったりで何かを記しているに過ぎず、そして気がつけば自己言及に終始しているようで、かなり何かが煮詰まっているのかもしれないが、未だに心で笑っているのはどういうわけなのか。なぜか知らないが、何の根拠も理由もなく、その調子だと思っているのだろうか。ほんの気まぐれには違いない。何をどう語ってもかまわないのだ。結果的につまらなくてもかまわない。だいいち何がおもしろいのかわからない。ただ続けようとする意志以外は何の目的も見当たらず、漠然と語るしかなく、ひたすら語っているような気分で、語っていない時もいくらでもあり、そんなに語るべきではないとも思っている。ではどうするべきなのだろう。そのまま続けるしかないのだろうか。

 しかし残念ながら答えはすでに出ていて、それをいくら拒否しても、受け入れざるを得ないような成り行きの中で語っているようで、君はそれを認めざるを得ず、認めなければどうなるわけでもないが、すでにそこに記されたそれらの言説が認めているのであって、語っている当人が後からいくら拒否しても無駄なのだ。それはそんなものでしかなく、どんなものでもないと思っても、それ以上の何がわかるわけでもなく、わかりようのないことを語っているのであり、捉えようのない何かについて語るには、そうする以外にあり得ないのかもしれないが、そう思っている意識は、それに対していつも抵抗を試みているように感じられ、そうではないような何かについて語ろうとして果たせず、語ろうとしていることと実際に語っていることとの間で生じているギャップに苦しみ、その差を埋めるべく努力していることは確からしいが、それらの試みはいつも決まって失敗に終わり、試行錯誤の果てにたどり着いたそれがそういう語りであることを忘れ、そんな自己言及を拒否しつつも、それにはまっている現状を打破すべく、さらなる精進を誓い、どこで何に誓っているのか知らないが、時にはそんな嘘をついていることに気づく素振りも見せ、何とかまともな内容を記そうとして、そんなことを述べている現状を分析しつつ、本当のところは何が何だかわからないようにも思われ、実際に何がどうなっていて、どういうことが語られているのかわかっていないようで、分析しているつもりの対象が、何かの幻影に過ぎず、現実に記されている文章を読んでいないようにも感じられ、やはりその辺でわけがわからなくなっていることに気づくはずなのだが、実感としては理解とは無縁の何かを捉えようとして果たせず、そこに何かがあることがわかっていながら、その何かまで到達できていないことが、それらの齟齬を生じさせているのかもしれない。


7月6日

 またその問いか。これから何を語ろうとしているのか。それらの何が価値を持つのか。わかるとは思えない。まさかわからないことがそれを続ける秘訣となっているのだろうか。わかり得ない。要するにいつまでもわからなければいいわけか。その理解は何なのか。実質的には何も理解していないようだ。そんなわけで時にはそんな嘘をついてみるが、相変わらずわからない。この世界がどうなっていて、そこで暮らす人々がどこへ向かっているのかなんてわかりようがない。だが当初の問いはそんなものではなかったはずだ。しかしすでにそんなものは忘れている。そして今は何を思い出そうとしているのではなく、ただ言葉を記していて、その内容が気に入らないようで、部分的に修正を施そうとしているが、それも嘘なのか。たぶん嘘ではない。だがそこから続けて何を記したらいいのかわからず、何となく虚空を見つめて、頭の中に何か探りを入れているようだ。それも嘘だとは思わないだろう。いったいこの世はどうなっているのだろうか。それが最近の口癖だとは思えないが、たぶんこの世にもあの世にも興味がない者の思うことではなさそうだ。要するに条件反射的にそうではないと思いたいのだろうし、そしてそんなことを述べていても埒が明かないとも思っているはずだが、そこから先は何を述べたらいいのだろうか。テレビを見ればそこで誰かが何かを演じていて、現実の世界でも同じような現象に遭遇し、ただ人は社会の中で一定の役割を果たしていれば、それでいいような気になっているのだろうが、別にそれではよくないとも思えず、それはそういうことで、そこを素通りしてしまうと、他に述べることも思うこともなくなり、何でもよくなってしまうようで、たぶんそれではまずいのだろうが、他に考える術が見つからない。

 それを知るための手がかりが見あたらない。現状では何が良くて何が悪いのかがわからないが、誰もが自らの墓穴を掘っているわけではない。しかし自業自得とはどのようなことを言うのだろうか。別にそれをあざ笑うような立場にはないだろうが、誰もが火に油を注ぎたいわけではない。だが相変わらず世の中では、わざと自暴自棄を演じながらも、自業自得気味にまるで火に油を注ぐような行動に出て、世間の非難をその一身に浴びてしまう人もいるらしい。もちろんニュースでそういうことを報道しているマスメディアによって、そういう人に仕立て上げられてしまうといえばその通りなのだが、そういうことに興味がある人が多いといえばそうであり、ニュースを見ている限り、それに興味がないといえば嘘になりそうで、そんな報道に踊らされて、わけもなく腹が立つような人も中にはいるのかもしれないが、しかしそれはそれだけのことでしかなく、いずれそんなことは忘れ去られる運命にあり、そうなればまた新たな標的が都合よく現れ、今度はその人に向かって非難の一斉砲火が開始され、そんなことが繰り返されているうちに一年が過ぎ、年末には世間を騒がせた人たちが一年を振り返る番組に登場して、何となくその時は渦中の人だったことが思い出され、また年が明ければ忘れ去られるわけだが、そんなことを今から思ってみても仕方がないか。しかし他に何を思ったらいいのだろうか。たぶん何も思わなくてもいいのだろう。別に言葉を記すために無理矢理思う必要はなく、安易なウケ狙いは控えて、暗中模索のままならそれでかまわないのではないか。どうも何かを思ったり考えたりするのが億劫になり、何に対しても無気力無関心を装いたいようで、まったく本気ではないにしても、すぐに冗談に逃げてしまいそうになる。

 しかし最近は菅首相のボケ老人力も侮りがたくなってきたようで、このままでは全国の原発がなし崩し的にすべて停止してしまう可能性が出てきたらしい。なるほど原発は定期検査で一旦停止してしまうと、地元の県知事の同意がないと再稼働できないようで、その場の思いつきか何かよくわからないが、ストレステストとか言うのを実施して、とりあえず再稼働一歩手前だった原発の再稼働時期を数ヶ月遅らせてしまったらしい。こまさかこの調子で何やらかんやらいちゃもんつけて、原発の再稼働を阻止するつもりなのだろうか。先日は防災復興担当大臣がなぜか虫の居所が悪かったらしく、唐突に横柄な物言いを始めて、辞任に追い込まれてしまい、今度は原発再稼働の旗ふり役の経済産業大臣が、もうやっていられねー的な心境になって、辞任を示唆しているし、ボケ老人の大暴走もここまでくると神懸かり的な様相を呈しているみたいで、ニュースを見ながら大笑いだが、たぶん日本は彼の有無を言わせぬ支離滅裂的な演技によって救われるのでは、と荒唐無稽な妄想を抱きたくなってくるが、でもさすがにここまでくると、頭にきた周りの連中が、強引に彼を総理の座から引きずりおろしてしまうような気配も漂っていて、実際にそうなったらちょっと残念な気もしないではないが、しかしここ数年の日本の総理大臣は、ある意味凄い顔ぶれがそろったものだ。ハッタリ男の小泉氏に始まり、心身症の安倍氏、すべてが他人事の福田氏、みぞーゆーの麻生氏、お金持ちお坊ちゃんの鳩山氏、そして暴走ボケ老人の菅氏。まったく世界的な漫画大国の日本にふさわしく、無意識のうちにみんなギャグ漫画のキャラクターを演じているのではないか。ならばいっそのことバカボンのパパが総理大臣になればいいのではないか、と冗談で思ってしまう。


7月5日

 それで誰の邪魔をしていることになるのか。また翌日に言葉を記しているようだ。どうせまた遅れてしまうのだろう。なぜそうなってしまうのかはわかっているつもりか。無理なことをやろうとしているわけか。そうだとしても大したことはない。ただ忍耐が試されているだけだ。そしてどこまでも耐える仕組みの中で疲れる。そんなことがあり得るだろうか。君は何か思い違いをしているのではないか。なぜそうなってしまうのかわかっていないようだが、あやふやな理由で一連の出来事をつなぎ合わせても、くだらぬ思い込み以外は何ももたらせないだろうから、ただゆっくりと自然な理解に達するまでは、早合点や拙速な言動は慎むべきか。たぶんいずれあきらめとともに何らかの認識に至るのだろうが、そこまでいけばもう手遅れだということが身にしみてわかりそうだ。だがそうなる以前に何かやることがあるのではないか。君に何かを考える自由が失われつつあることは承知しているが、それでもわずかな可能性を求めて、どこかに見え隠れしている隙間をこじ開けて、その先へと歩みださなければならず、それも何かの勘違いかもしれないが、いつまでもそこにとどまって、うんざりするような停滞に甘んじているのよりはマシか。マシかどうかは今のところわからないが、とにかく言葉を記して何かを説明しなければならず、たとえそれが間違っていようと、間違いから何かを学ばなければならず、君にはどうすることもできない成り行きの中で、何かを考え続けなければならない。また冗談でそんなことを述べているのだろうか。なぜそれが君の知ったことではないのかわかりかねるが、今日も晴れて暑そうだ。

 しかしそうやって何をやり過ごしているのか。その辺がわからないのだろうが、別にやらなければならないことなど何も思い当たらず、では何もやらなくてもいいのかと問うならば、仕事に関することならいくらでもやらなければならないことがあり、それを実際にこなして、どうせまた夜にたどり着き、疲れた気がするだけなのだろうが、それでもそこから言葉を記し始め、また何らかの気分に至るのだろう。そしてそれがそこでの結論であり、たわいないことであれ何であれ、そんなことを思いながら眠たくなり、いつの間にか寝てしまい、また目が覚めたら翌朝になっている。たぶんそれが延々と繰り返される日々のすべてであり、どうしたことはない毎日になるのだろう。それが退屈以外の何ももたらさないことはわかりきっていて、何の幻想も抱けない状況を作り出し、君とともに誰かをあきらめの境地に追いやるわけだが、それでも何からの希望を抱いてみるべきなのか。実際にそうなっているのではないか。まったくおめでたいことだが、たぶん破れかぶれではなく、何らかの勝算を当て込んで、性懲りもなく何かをやろうとして、そのために考えを巡らせ、うまく立ち回ろうとしているのではないか。それが君のやり方なのかどうかわからないが、ともかく何かをやろうとしていることは確かなようで、切羽詰まって苦し紛れにやろうとしていることとは別のところで、何らかの行動を起こそうとしている。それは本当だろうか。言葉を記している限りは嘘っぽいかもしれないが、それも計算のうちで、何かを出し抜くためには、今しばらくは停滞に見せかけておいて、不意に違う展開へと持っていかなければならないか。だが本当にそんなことができるだろうか。いったいそこで何をやろうとしているのか。

 気がつけばまた同じようなことばかり述べているようで、何でそうなってしまうのか。それも何かの戦略の一環でやっていることか。そうだとしても結果が見えてこない。何をどうしたいのかわからず、それで何かをやり過ごしているのかもしれないが、その避けている何かを正視できない理由は何なのか。ひたすら避け続け、可能ならなかったことにしたいわけでもないのだろうが、そうやって何を語りたいのかわからない。それが実際に語っているそれではないことはわかるが、いったいそれ以外の何を語れるというのか。まさかそれにかけているとも思えず、そんな成り行きの中で疲弊してしまうのは目に見えている。しかしなおも余裕こいて、平然とそれらの無為自然状態を眺め、自らは何も手を下さず、思い通りの展開へと持ち込みたいわけでもなく、かといってなすがまま受け入れているとも思えず、そこに何らかの狙いがあることは確からしいのだが、それが今ひとつはっきりとはせず、何もしていないわけでもないのに、何もしていないように装われ、そんなふりをしているだけのように思われてしまうのはなぜなのか。確かに他人の不幸を見て見ぬ振りをしてしまう心境は理解できる。そこで一声かけるのにはかなりの勇気が必要なのだろうが、いざとなったらやはりできずじまいで、そのままその場面を通り過ぎ、後からその時を振り返って、やはりあのとき勇気を出して声をかけておけばよかったと悔やんでみても、後の祭りで、もう二度と機会が巡ってこないことは確からしいが、やはりそれもそういう成り行きに過ぎず、君に落ち度があるわけではなく、不幸を一身に背負ってしまった誰かにも、それなりの責任があり、他人に声をかけてもらえるだけの雰囲気を身にまとっていなかったわけで、まあその辺が難しいところなのかもしれないが、その辺で運を持っているかいないかで、その後の成り行きも違ってくるのだろう。


7月4日

 何とかここへ戻って来れたのか。どこへ行っていたわけでもないだろう。どこへも行かずにここへやってきたのか。そんなわけがない。たぶんまだ希薄な意識でいるはずで、無気力の領域を脱していないのだろう。何も被害妄想になることはない。しかし本当に壊れてしまうのだろうか。別にその人間性を疑っているわけではないが、応対が気に入らない時にはそういう口調になってしまうのだろう。だが故人が生き返るわけがなく、そんなことを今さら蒸し返しても仕方ないようで、それに関しては済んでしまったことでしかなく、何を語ってもそれ以上の返答は期待できない。だからそれはそこまででいいのではないか。たぶんその先には新たな言葉が並んでいるのだろうし、それをまた丹念に読み解き、そういう深読みの積み重ねが、さらなる理解をもたらすのではないか。またそんな根拠のないことを語り、嘘八百を並べて、何か語っているような雰囲気にしたいのかもしれず、そんなやり方ばかり押し通そうとするから、おかしくなってしまうのであり、そのおかしさをいくら笑っても、それは自業自得以外の何ものでもない。ならばそれで気が済んだのか。誰に向かってものを述べているのか。それはものではなく、何かの気まぐれに操っている言葉の組み合わせかもしれず、たぶん呪文のようなものなのだろうが、やはりそれでもものになってしまうことがおかしくてたまらないらしく、無理に笑いながらも、内心その呪縛から解き放たれていないことに苛立っているのかもしれない。しかし冗談にもほどがあり、何かの上っ面だけつかんで、いくら装飾を施しても、あまりリアリティをもたらせないようで、本気で語っているのではないことがバレてしまうが、もとよりそのつもりなのだから、それでかまわないのだろうか。

 それでもなぜへこたれてしまうのか。夏が暑すぎるのはいつものことだろう。それとも虚しい努力に嫌気がさしたのか。それも何かの冗談だと思えば、何とか切り抜けられるような気もするが、そんなことばかり繰り返しているから疲弊してしまうわけで、もういい加減にやめた方がいいだろう。その代わりに何でもかまわないから、もっと前向きな言動に終始して、自らを奮い立たせなければならない。だがそれではさらなる冗談につながるだけで、皮肉混じりの嫌みな内容がどこからともなく押し出されてきて、それを記しざるを得ないように追い込まれてくる。そんな妄想がどこから生じているのだろう。まさか君自身の内側につまっている塵や芥の集合体がそうなのか。そして作り話の中では、誰かが海賊王になるそうだ。漫画の読み過ぎか。何だか自虐的なことを述べているのかもしれず、その辺の気分が果てしない遠ざかりの中にあり、何かをものともせずに、そこへ向かってまっしぐらに進み、意味不明な何かを顕揚するでもなく、やはりそれはごまかしだけの文章なのか。そう思うと自己嫌悪に陥るようだが、作り話の中ではそうであっても、実際には誰が何を思っているのでもなく、そんなことが記されているだけで、他には何もありはせず、そんなやり方ではだめなことは一目瞭然かもしれないが、それでもそれを押し通すことはでき、そんなことを繰り返しているうちに慣れきってしまい、もはやそれが当たり前のこととなっているような気になり、今度はそんなことを記している自らを正当化する気になり、それに関する自己言及を盛んに行い、結局は自家中毒気味につまらない範囲内に住まうことになりそうで、たぶん塵や芥が君を作り上げているのだろうが、君は本当にそれでかまわないのか。

 しかしいったいどこまでがそうなっているのか。話はまだ終わっていないのか。誰が語っているわけでもない話に、意識がついてゆけなくなり、嫌気がさしたついでに、盛んにそこからの離脱を試みているようだが、うまくいくわけがなく、何を語っているのかわからないままに、そこに誰かの影が佇んでいるように感じられ、それを眺めながら君は何を思うまでもなく、ただ沈黙を守り通すことに汲々としていて、そんなことができるわけがないことは承知しつつも、形だけはそんなふりをして、実態が違うとしても、なおのことそれを否定しまくり、わけがわからないことを隠そうとするが、やはりバレバレなのは隠しようがなく、それがわかると、今度は居直りの繰り返しで、何をやってもそれを正当化せずにはいられなくなり、やはりそこで困ったことになる。何も見出せないのにそれはないか。それでも何かが少しずつわかってきたような気がして、それを基にして、何らかの文章を組み立てようとしているのかもしれないが、それがそういうことでしかないのは明白で、意気込みの割には現実がお粗末すぎるか。果たしてそれでかまわないのだろうか。むろんそんなことは君の知ったことではないのかもしれないが、そんなふうにそれなりに語れることが、そういう過ちを増幅させていることは確かで、たぶん今後はそれを何とかしなければならないのだろうが、今は時間がなく、いつもそうなのかもしれないが、それを改め、立て直すだけの時間が必要とされているのであり、それがないことがくだらぬいいわけを呼び込み、そんな停滞の中に意識を住まわせる結果につながっているわけで、もっとどこか別次元の高みに到達させるためには、そういうわかりづらさを打ち捨てる勇気が必要だろうか。またできっこないことを述べてしまっているようで、その辺が欺瞞であることはわかりきっているのに、なかなかそれを改められないようだ。


7月3日

 とりあえずそこで何かが始められ、そうならなければ後が続かない。だから言葉を記しているとも思えないが、とりあえずはそんな理由で何かが変わり、それが誰を震撼させるわけではないが、何かが上の空で進行中だ。そんなわけで相変わらずでたらめなことを記している。何でそうなってしまうのか。たぶん何がどうなっているわけでもない。あまりくだらぬことは語らない方がよさそうだ。そのとき何かが止まっている。別にそれが呼吸である必要はないだろうが、息を止め、空を見上げれば、何かが天から降ってくるのが見えるだろうか。別に天使が降りてきたわけではない。それは時折雨であり、所により雪であり、ことによると雹であったりするが、別にそれらのすべてが自然の猛威であるはずがないだろう。では何について述べているのか。わからないが何かについて述べていることだけは確からしい。フラットな感覚とは何なのか。すべてが大したことではないと思われ、この先何が起ころうと、君とは無関係なことのように思われる。だがそれとこれとは関係がないだろう。それが何であり、これが何であるかについて、具体的にどう説明していいのかわからないが、ともかく積極的にそれらを提示できずにいるらしく、何となく何かを楽しもうとする気力に欠けるようで、何でもよくて何でもないようなことに、こだわる必要も感じられず、その場しのぎの何かに終始しているようだ。しかしその何かとは何なのか。どうもその辺が焦れったいところで、よくわからないとしか答えようがなく、それでも無理に答えようとするなら、何かとはその場で繰り広げられている言葉の組合わさり具合で、そんなことになるのではないか。

 嘘かもしれない。嘘でなければ何なのか。嘘以外の何がそれらに該当するだろうか。それ以外のすべてだろうか。この世界の中ですべてが始まり、そしてすべてが終わろうとしている。それだけのことであり、それだけでは捉えきれない何かのことである。何かとはそういうことであり、そういうことではないのかもしれない。何でもよくて、それではだめだということか。ではどう述べたらいいのだろう。やはりそこで行き詰まるしかないのだろうか。そうだとしても逃げ道や出口を探して右往左往したがり、結果的に無駄な言葉が連なってしまうことになり、そんなことをやっているうちに何かをあきらめざるを得なくなってしまうのか。それで何をあきらめたことになるのか。それに関して具体的な説明が求められ、それに応えられずにいるらしく、相変わらずそんな語り方に終始しているようで、それで分相応だと思われる。ならばかまわないのだろうか。誰に伺いを立てているわけではなく、確認事項が他にあるわけでもない。では何を語ろうとしていたのか。誰かはそんな問答が繰り返されていることを示したかったのではないか。だが君はそれでかまわないと思っている。それは本当だろうか。だからそんな問いかけがいらないのだ。無駄な問答ばかりではまともな内容になりがたい。しかしそんなことしか語れない現状があり、現にこうしてそんなことを誰かが語っているのではないか。それではまずいのか。何だかだめ押し的な問いかけがなされているみたいだ。どうやら今後当分の間はそうした言葉の繰り返しから逃れられそうもない。別にそう述べて何を狙っているわけでもなく、自然とそうなっているのであり、さらに述べるならば、執拗にそれが繰り返されているのであり、もはや君にはどうすることもできない。

 ただどうにかしようとしていないだけで、そんなあるがままの姿を受け入れることもなく、何が姿なのかもわかろうとせず、誰がそこで何をやっているわけでもなく、他に何を否定すべきなのかもわからず、時にはそういう語り方をやめようと思うが、気がつけばやってしまっていて、それが個性だと開き直る気もなく、ただ面倒くさいことを延々と述べているようで、たまに気が滅入ることもあるらしいが、それも冗談のたぐいだとあきらめ、他に何を語ることもなく、そればかりをこれでもかと押し通し、そのあげくに行き詰まり、馬鹿げたことはもうやめようと反省するが、やはりふと気がつけば、いつもと同じ言葉の連なりが記されているようで、たぶんそれは病的なまでに執拗なのだろうが、そんな虚無に晒され続けても、なおのこと語ろうとしてしまう。だからそれがどうしたわけでもなく、さっきまでの反省が簡単に忘れられ、ついでに他の何かが吹き飛び、何の話でもなくなり、いつもの意味不明になるだけか。それではだめだと思いつつも、そうなってしまうことについてはどう思っているのだろう。それらの色合いに興味があるわけか。たぶん何の色合いとも関係ないのだろうが、色合いという言葉が文脈的に意味不明であることは承知しつつも、そんな言葉を記さなければならなかった理由などありはせず、わざとらしくそんなことを述べるためにそうしているのかもしれず、それがとりあえずの理由だとしても、何のことはなく、ただ言葉が適当に連なっているだけで、他に何の意図も思惑も見出せずに、そこからどう言い逃れができるとも思えず、なぜ言い逃れをしなければならないのかもわからず、要するに理由が不明確なまま、そんなことを語っているだけのようで、たぶん他意はない。どこまでもそれだけのことで、いい加減な駄文を記し、それで何かを打ち壊しにしようとしているわけか。


7月2日

 なぜそこでやめてしまうのだろうか。まだその続きがあるわけか。たぶん普通の人は善人ではなく、見栄を張りたい人々だ。そうでなければ着飾ったりしないだろう。でもそういう判断は誤っていないか。別に何かのこじつけでも嘘偽りでもかまわないだろう。それを助長するリアリティならいくらでもある。善人は物語の途中で、周りの人々に惜しまれながらも、非業の死を遂げなければならず、それが何かの常套手段のごとく、どこかで何かが繰り返され、人の心を死によって揺さぶろうとする。しかしそれではつまらないのではないか。ではどうしたらいいのか。日付的には相変わらず前日のままではないか。何も語らずに言葉を並べ、それで意味が通るとも思えない。ではどうしたらいいのだろう。さっきからそればかりではないか。つまらないことを述べてしまったらしい。意味が通らないのだろう。別に通そうとしているわけでもなく、何を語りたいわけでもない。ただ言葉を組み合わせて文章を構成したいだけか。だがそれだけではどうしようもない。だからそんなふうに語ってしまうのだろう。まるでこたえていないようだ。たぶんその辺で意味が通じていないのだろう。そんなことを記しながらも、何かを繰り返しているらしく、それに関して何か述べようとしている。誰にでも我慢の限界があり、耐えきれなくなって、その後はどうするつもりなのか。君は烏龍茶を飲んでいる。それがどうしたわけでもなく、何となくそういう成り行きになっているだけか。しかしこんなになっていたとは思わなかった。誰かが知らない間に何かが増殖していたらしい。それに関して何を語りたいわけでもないのだろうが、ともかくそんなことに気づき、それに対して何か策を講じなければと思う。

 ところで君は何について語るつもりなのか。その辺で定まっていないようで、それに関して何もわからなくなってしまい。今日はテレビを見ないようにしようと思う。気が散ってしまうのか。聴いている音楽も気が散るたぐいのものではないのか。チュニジアの夜を聴きながら、何に関して思いを巡らすこともなく、特定の誰をおとしめる言説を読む気にもならず、何がロックなのかもわかりかねるが、何となく心がその辺に漂い出て、何に触れた気にもなれず、たぶん気がふれたわけでもないと思いつつも、君がそこで見たものを誰が獲得しようとしているのでもなく、具体的な何かを表現しようとして、それがいつまで経っても果たせないことに苛立ち、自らがその表現しようとしている何かについて説明しようとしているようだが、それがいつの間にか違う言説につながってしまい、驚き慌てふためくわけもなく、そうなってしまうことが当然のような成り行きに染まり、それが何を意味するのかわからないが、とにかくさらにその先へと言葉を記しながら、何とか出口にたどり着こうとしているようだ。それは何のための出口なのか。街をふらつく二人組が見たものとは何か。そういう話ではないだろう。それらを真剣になって真顔で論じてはならないらしい。しかし何が冗談でもない。そうならないための方策を必死になって模索しているわけでもなく、逆にその程度のおちゃらけ具合が君にとってはちょうどいいらしく、ふざけた台詞で何を煙に巻こうとしているわけではなく、ただの暇つぶしにそんなことを語っていれば、それで気が済んでしまうらしい。それ以上の何を求めたらいいのか。その必要性を感じないばかりか、何もかもが要らない言葉でしか表現されていないような気がして、そんなやり方の限界を思い知らされるわけか。

 やはりその辺で何かがずれているのだろうか。でもそんな語り方しかできないのだろうから、何かがずれたままでもかまわないのだろうし、それらが横たわる影の大地の上で、必死になって実体を探し求めても、何が見つかるはずもなく、幻影の映像の中にどんな現実が映し出されているわけでもない。だから自ら寿命を縮めるような行為に及ぶ必要はない。適当なところで逃げる容易をしておかなければならず、時期を見計らってとんずらするのがスマートなやり方か。またそんな嘘をついて、何をはぐらかそうとしているのか知らないが、とにかくいったん賽が投げられてしまったら、後は出た目の数だけ進むしかなく、それが自らの破滅に向かった歩みであることを知っていようと、後戻りはできない。それも何かの嘘なのかもしれれないが、とりあえずはもう手遅れであるという認識を他の誰かと共有しているのかもしれず、そうなってしまった責任を、誰かになすり付けようとしているのではないだろうが、自らの運命を嘆き悲しむ暇も奪い去られ、今は必死で何をやっているつもりなのか。ただそんな言葉が並んだ画面を見ながら笑っているだけか。本当ところは余裕しゃくしゃくでそんなことを述べているわけか。そうだとしてもどこか動作がぎこちなく、何となくよそよそしい雰囲気を感じさせ、たぶんその場を立ち去りやすくしているのかもしれず、うんざりするような他人の自慢話を作り笑いとともに打ち捨てる勇気もなく、同調するような素振りでうなずきながらも、それを軽蔑していることを悟られまいとして、軽い緊張で語り口調に奇妙なゆがみが生じているわけか。それでその後はどうなってのか。つまらない世間話でその場をつなぎ、何とか乗り切ろうとするのが見え見えで、もういい加減にお開きにした方がいいような気がしてくる。しかしそれは何の話なのか。


7月1日

 なぜかそれで気が済んでしまったらしい。それ以上はやる気がしないというわけか。それが当然の帰結であるはずがない。まだ何も語っていないではないか。では何を強がっているのか。もう済んだことだろう。しかし何を探っているのか。何か気になることでもあるのだろうか。別に隠された秘密を知りたいわけではない。それで何が明らかになるとも思えない。ではどうしたらいいのだろう。相変わらずそれがわからず、途方に暮れてしまうか。それでもかまわないのではないか。操作しているのはただの機械だ。単純な動作しかできない。それ以上の何が知りたいのか。たぶんそんなふうに思う必要はない。堪え性がない。テレビを見ている場合ではない。もう遅いのか。ならばやめた方がいいだろう。できないものは仕方ない。無理なのだろう。それでも語ろうとすれば、疲れが取れずに翌日に響き、さらにどうにもならなくなってしまうだろうか。しかし何に対して批判的になれるのか。すでに翌日になっているようだ。今日はちょっと何か違う。そんな気がするだけで、実際には大した違いはないのかもしれないが、何となくそう思われ、無理に昨日とは違ったものの見方をしたいらしい。それは相変わらずの冗談なのか。たぶんそんなところだろうし、あまり真に受けるわけにもいかず、さらっと受け流して、後は知らんぷりを決め込むつもりらしいが、それにしても一頃と比べると、心なしか文章が無駄に長くなったような気がする。ひたすら無駄なことを述べているわけでもないだろうに、何となくおかしな具合に言葉をつないで、それで何か適当に語ったような気になっているのだろうか。別に気にするようなことでもないのだろうが、そういう流れの中でまともに語るとなると、もう一工夫が必要なのか。

 だが取り立てて何か工夫しているようには感じられず、後から読み返してみれば、いつも通りのつまらない語りに終始しているように思われ、短期的にはまったく改善の兆候が見えてこないのだろうが、とりあえずは辛抱強くやっていく必要がありそうだ。ところで君は昨晩テレビで見た映画に何を感じたのか。それを端的に言えば神とは何かということか。それは目で見えるものなのだろうか。そしてそれは人間と対決しなければならない対象なのか。まあ安易な物語なのだろうが、人為的に映像の中に神を登場させ、それがハンティングの対象となり、結果的に神殺しの話になるのかもしれないが、たぶん最後まで何も解決していない。ただ何かが解決したように装い、登場人物たちが前向きに生きようとするところで終わっているだけか。いったいそこでのリアリティとは何なのか。話の強引なつじつま合わせから、現実にはあり得ないアクションシーンが生まれ、それで何とか物語の主人公を最後まで生かそうとする。その辺の人為的操作があからさまで、リアリティを失っているように感じられ、子供はだませても、多少なりとも知性のある大人をしらけさせる。たぶんその辺が無批判に許容されている現状があり、要するに自然を全面的に賛美しているわけではないのだろうが、やはりそれでもエコロジー的な自然思想に染まっているのに、肝心の話の展開が不自然極まりないのだ。自然な話の流れに従うなら、主人公の少年も少女も話の途中で絶命していなければならず、その後は少年や少女抜きで物語が進行していかなければならないのに、なぜかその二人が最後の最後まで物語の中心に居座り続け、彼らの活躍で、話の途中で心を通わせた大勢の善人たちが救われてしまうわけだ。やはりそういう話をお粗末だと思うのは、感性がひねくれている証拠だろうか。しかし神とは何だろう。なぜ神が化け物じみた姿で登場してしまうのか。まあ真剣に批判するような対象とはなりがたいアニメについて、どう思ってみても仕方がないが、実体を伴った姿で神を登場させてしまった時点で、『もののけ姫』は子供向けのアニメなのだろう。もちろんそんな理由は単なるこじつけに違いないが。


6月30日

 それでまんまと術中にはめたつもりか。そういうことなのだろう。嘘かもしれないが、そういうことにしておこう。何かを深く考えるのが面倒なのか。たぶんやらなければならないのはそういうことなのだ。すでに君はそれをやっているではないか。うまく先手を打っておいて、囮を配置し、引っかかってくる者を陥れ、罠にはまった気にはさせずに、逆に相手が言いくるめたように思わせておいて、それで事がうまく運んでくれればしめたものだ。別に芝居がかったことをやるつもりはない。他人を活用するには、その他人が主体的に動いたように思わせなければならず、中にはどうだといわんばかりのこれ見よがしな行為に及ぶ者もあるが、要するにそう思わせておけばよく、結果としてうまくいくなら大いにやらせておけばいいのだ。しかし君は本気でそんなことを述べているのだろうか。たぶん何かの冗談のつもりで述べていることだ。現実にはもっと事が錯綜して複雑に絡み合い、一筋縄ではいかない場合が多く、中にはこじれにこじれて、結果的にどうにもならなくなってしまうこともあるだろう。だがそれでもかまわないのだ。何がどうなろうと知ったことではなく、基本的にそんなことはどうでもいいのではないか。たまたまそんな出来事があり、結果から見ればそういうことになっていて、それに気づいてなるほどと思ったりする。それが愉快なわけか。たぶんそういう場合は、固定観念にとらわれていると失敗するのであり、思考や行動の柔軟性が求められていて、状況の変化に臨機応変に対応すれば、結果的にうまくいく場合があるわけか。そして多少なりとも不満の残る結果だとしても、後から思えばそれで良かったということもあり得るから、嫌だろうと不愉快だろうと、結果は結果として一応受け入れておいた方が無難か。

 ともかく権力を笠に着た有無をいわせぬごり押しなどは、やめておいた方が良さそうで、その時はそれで収めたとしても、後々に禍根を残しそうだ。まったく君は織田信長か。君とは誰のことを指しているのか。冗談はさておき、冗談では済みそうもないが、それも何かの冗談だと受け取っておいて、その先に関係のない言葉を連ねるとしよう。やはり面倒なのか。近頃は厄介なことしか述べられず、気分がすっきりせず、気が滅入ってしまうだろうか。だから気晴らしに冗談を述べているわけか。要するにそんな嘘をついておいて、つかみ所のないことを語ろうとしているようだが、それも何かの冗談で、どうもしどろもどろな言い回しに終始しているようで、実際にところは何を語りたいのかわかりかねるが、案外話の出口はそんな方向にあるのかもしれず、そんなふうにあることないこと語っていけば、やがてそれなりに何か適当に語っていることになるのではないか。そうなったらしめたものか。別に何を狙っているとも思えず、だいいち狙い所が的外れなのではないかとも思われ、すべてが台無しになる手前で、それに気づけばすごいことかもしれないが、たぶんそこを簡単に通り過ぎて、取り返しがつかなくなってからようやく気づいて、あわてて引き返そうとするがもう遅く、後は奈落の底へ真っ逆さまとなれば、それはそれで物語的にはおもしろい部類に入るのかもしれないが、ある種の漫画だと、そのすぐ後に大どんでん返しなどが都合よく起こったりして、うまいこと奇跡的に危機を乗り越え、要するに主人公が生き延びるための手法の一つとしてそういう成り行きが用意されているのだが、何だか現実の世界ではそれはないだろうということか。それでも君は一発大逆転劇が起こることを信じて疑わないのだろうか。たぶんそれも冗談として受け取っておけば無難なのか。別に信じているならそれでかまわないだろう。

 誰かは後からそれを思い起こしているようで、何かしら途中で改善点があったかのごとき論調で語り、今さら語っても後の祭り的な内容に終始してしまうのかもしれず、それはそれで自らの聡明さを強調する論法だと受け取っておけばいいのかもしれないが、君はその場がしらけたところを見計らって、さっさと退散したいのかもしれないが、できればもう少し馬鹿話につきあってもらいたいらしく、盛んにつじつまの合いそうな言葉をつなげて、何とか説明のつく言説に持っていきたいらしく、はったりの利くようなことを主張して、そのついでに微妙に論点をずらし、要するに出過ぎた真似をしたことをなしにしてもらいたいみたいな展開になっているのかもしれず、何だか誰かにとっては興味深い話に近づいてきたようで、調子に乗ってその先をさらに記したいのか。そうだとしても話は話で、実際に起こった現象はすでに起こってしまったことだから、それを取り消すわけにはいかず、そういうことが起こってしまった前提から出発して、それをどう言いくるめようとしても、あからさまに周知の事実なのであるから、非は非として認めざるを得ず、それについて何らかの反省が必要とされているのだろうが、まさかそれを省くことが容認されるとは思えず、何となくその辺でお粗末な対応があらわになってしまうのであり、受け入れがたくも受け入れさせようとしていること自体が間違っているような気がして、真面目にやっているのが馬鹿らしく思えてきて、やる気がしなくなる原因を自ら作っておいて、その非を認めようとせずに、さらにその先をまかせようとしているのだから、呆れてものも言えなくなるだろうが、それでもできる可能性を探りながら、結局は助け舟を出して、大甘もいいところかもしれず、何とか事がうまく運ぶように試行錯誤を繰り返しているのだろう。しかし君はそれで本当にうまくいくと思っているのだろうか。馬鹿も休み休みということではないだろうが、やはり何かの冗談としか思われないようだ。


6月29日

 今日は蒸し暑そうだ。ここから北へ向かえばどうなるだろうか。どうせ今から数時間後にはわかることか。とにかく夏は暑い。日本は一年の半分は夏のような暑さか。あと何回夏の暑さを乗り切ればこの世からおさらばできるのか。それとももっと寒い地域で暮らせばいいのか。そんな成り行きになったら幸せになれるかもしれない。また冗談でそんなことを述べながらも、まんざらでもない気分に浸っているようで、本気で涼しさを求める機会が巡ってくるのを期待しているのかもしれない。だが夏が涼しければ冬は寒いのではないか。では夏は涼しい地域に暮らし、冬は暖かい地域で暮らせばいいのではないか。また馬鹿げたことを述べているようだ。まあ言うは易しで、現状ではそんなふうに暮らせる可能性はゼロか。そうだとしても夢見ることぐらいはできる。だが夢見ているだけでは満足できないだろう。しかもそれはどうでもいいような夢か。本気で達成しようとしている目標ではなく、何かの気休めで抱くような夢だ。ではそういう水準で何かを語ってはまずいのか。まずくはないが、何となく気が抜けているようで、何か心に余裕が生まれたような気になるらしい。それでかまわないはずだ。他に語ることなど何もなく、いつも語りようのないことばかり語るわけにはいかないらしく、切羽詰まらないためには、何かの気休め程度の語りも時には必要なのではないか。それで満足できるわけでもなく、気が済むわけでもないが、それくらいは大目に見てもらいたいか。もう絶えず何かに急かされ続けながら、苦し紛れにわけのわからないことばかり述べるのはまっぴらごめんか。やがて嫌でもそうなる機会が巡ってくるのだろうが、少なくとも今は違うような気がして、その証拠にだいぶ気が休まってきたようだ。

 そんな気分的には差し障りがない程度の語りに終始できれば、だいぶ楽になるのかもしれない。何かの重荷から解放され、暮らしも快適になるだろうか。本当にそれを求めているのならば、それで結構なのだろうが、実際には困難に立ち向かい、苦労した末に克服して、達成感に浸るような成り行きからほど遠くなり、何やら安易に安らぎだけを求めているような気がして、それはちょっと違うような気がするが、もともと語ってきた苦し紛れの意味不明の方がさらに違っているのだろうから、そのちょっとの違いと大きな違いのどちらがマシかと言えば、ちょっとの違いの方が無難であることは確からしく、無謀なことは語らずにおく方が、それなりに語りが安定して、読みやすく受け入れやすいのだろう。ならばそれでかまわないのだろうか。たぶん現実にはそうはならず、どうせ放っておけば、荒唐無稽ででたらめなことを語りだしてしまうのであり、その方が誰かの性に合っているのかもしれず、やはり無謀なことを語らないと、何か語っている気がしないのだろう。やはり目指す場所は正気と狂気の狭間で、そんな嘘をつきながらも、簡単に前言を裏切り、さらに逸脱させ、どうでもいいようなことを延々と繰り返していると思えば、唐突に別の方面へ出向き、次の瞬間にはさらに違うことを述べていて、支離滅裂でまとまりを欠いた内容になるしかなく、そんな言葉を連ねて悦に入り、どうだとばかりに語っているつもりなのだろうが、それはたぶん独りよがりでどうにもこうにも馬鹿げた文章となる他なく、そんな過ちを積み重ねながらも、時折正気に戻ったようなことも記し、その振れ幅の大きさで、かろうじて何かの均衡を保っているような、そんなことを語っていれば本望か。だがそれは何かの勘違いだろう。

 たぶん思い違いも甚だしく、その思っていることと語っていることの間の距離感が、何かを醸し出していて、それが真実に結びつくのかもしれず、要するに言葉は幻影でしかなく、語りはそれ自体が虚構の産物であり、何かについて語っていることが、そのまま嘘や幻をもたらし、ひとたびそれに気づいたら幻滅を味わうしかなく、そういう面も含めて堪能することが、妥協の産物としての読書なのかもしれない。しかしそれが真実だとすると、何か不都合なことが生じてしまい、それらの文章の作者が必要とされて、その作者の考えがそれらの文章に反映されているのであり、その思想やら思考やらを理解することが読書だと誤解され、そうやって可能性の幅を狭めて理解しがちになってしまうのだろうが、たぶんハウツー本的にはそれで正解なのであり、そういうわかりやすさを競うことが売れる近道となり、そういう売文文化が人々の意識を荒廃させ、自業自得気味にそれらの業界を衰退させる要因となっているのだろうが、そういう場から遠く離れて記される文章に、それらの影響は及ばないのであり、勝手にくだらぬことを延々と記すなり、馬鹿げたことをこれでもかと主張するなりして、何かの可能性やらバリエーションやらを広げ、多種多様な語りを実践して、そこから何を生み出すつもりもないのだろうが、結果的にそうなってくれれば、何となく気分がいいようで、でたらめでも嘘偽りでもかまわないから、勝手なことを自由に語っていれば、それで気が済むような水準で、それらの語りは続けられるべきなのだろうし、だからやるべきことなど何もなく、語るべきこともなしに語られ、そんなことをこれでもかと繰り返していればいいのだろう。それ以外に語りの可能性があるとは思えず、そういうことの積み重ねの上に何かわけのわからぬことが記されようと、それはそれでそういうことでしかないのだろう。


6月28日

 何とか間に合わせようとしているのでもないだろうが、とにかく機会を与えられてしまったらしく、すかさず言葉を記しているようで、何の因果か知らないが、まだ何かの可能性を信じているのだろうか。君がそうなのではなく、誰かがそうなのかもしれないが、相変わらず何がそうなのかはわかっていないようだ。はっきりしていないのはもちろんのこと、何をはっきりさせたいのかもわからず、何か途方に暮れるような状況かもしれないが、それでも言葉を記しながら、そこから何か適当なことを語ろうとしているらしい。そのまま語っていれば、それが何だかわかる時が来るのだろうか。例えばある特定の分野で秀でた才能によって輝きを放つなら、それが何になるだろうか。マスメディアによって騒がれるなら、金銭的な見返りを期待できるかもしれない。スポーツとか音楽や芸能の分野では確かにそうだろう。ではそれとこれとは何の関係があるのか。秀でた才能だとかそれが輝きを放つとか、そういった比喩では語り得ないこととは何か。そこに何があるのだろうか。何か磁力のようなもので何かと何かを引きつけ合っているのだろうか。君が直面している問題とはどういう関係があるのか。何も関係ないわけではないだろうが、しかし何かをやるとはどういうことなのか。なぜそれをやらなければならないのだろう。それは才能よりは根気の問題であり、それが優れているか否かの基準などなく、ただそこに提示され、何の評価にも値せず、それらのいい加減に並んだ文字列から、何を受け取ろうと、そこからは何の利益も報酬も生じないだろう。そんなことがひたすら記されていることについて、何をどう評価したらいいのか。たぶんその辺からわからなくなるのであり、果たしてそんなものを続ける必要があるのか疑問に感じられてくる。

 そこからしか生じないこととは何か。あきらめの心が誰に生じているとも思えない。そうではなく、すでにあきらめを通り過ぎていて、それは語りすぎてしまったことから生じているのではないか。ではそれとは何か。外的な要因によって、内部に構築しようとしていた構造物が、完成しないまま崩れ去ろうとしているのだろうか。しかしそれらの何が未完成なのか。完成しないことから生じる何かが心の中で重荷となっていて、誰かを精神的に追いつめているのだろうか。そんなことではないような気がするらしく、そんなふうに語りつつあることが、逆に確かな確信へと至らせようとしているのかもしれず、誰にかに何か重大なことを語っているような気にさせるのか。そういう面もあるのかもしれないが、そうではないような何かをつかみ取るためには、そんなふうに語りながらも、それを否定してみせることが必要なのかもしれない。しかし実際につかみ取っているものとは何なのか。つかみ取ったつもりで手のひらを開いてみれば、そこには何もなく、身の周りにある空気のようなものをつかみ取ろうとしているだけで、要するにそれはつかみ取る対象ではないのかもしれない。だからいつも君はそういう勘違いから抜け出られないわけか。それは君に付随する問題ではないのかもしれない。君が意識していることは君自身の存在理由とは関係のないことか。だからこそ君はそれを傍観することしかできないのか。本来の君に解くことを課せられた問題とは無縁のことを巡って、言葉が寄せ集まって連なり、君の存在を無視しながら語り始められる時、それが特有の価値をまとい、それを所有することがステータスとなり、通過儀礼的に通らなければならない紆余曲折を省略して、いきなり輝きを増すのが、いわゆるメディア現象のたぐいなのだろうが、別に同調する必要はなく、簡単に通り過ぎてしまい、それらのどこに引っかかる必要もない。

 今やそれが当たり前なのだろうし、それらのどこを通ってたどり着いたとしても、その先に何があろうとなかろうと、すでに獲得しかかっているそれを打ち捨てられようと、またそこで新たに幻想の産物を見出そうとしても、それが君をどう変化させたとしても、君がそれに気づくか否かは、何にかかっているわけでもなく、気づく前に受け入れているのであって、それを当然のこととして織り込み済みにしてしまっているわけだ。君はそこで何に先駆けて先回りしているのか。それは君自身をコンパクトに折り畳んだプロフィールのようなものか。だがそれによって何を示したいわけではなく、その中で箇条書きにされた経歴を利用するわけでもなく、ただ見てうなづき、後はさっさと机の引き出しにしまい込み、もう二度と見ることもないだろう。どうせ大したことはないというわけか。その通過儀礼的な儀式に活用された時点で、もはや用済みとなり、永久に省みられることはないというわけか。果たしてそれだけのことなのだろうか。そうだとしても他に何があるというのか。ただ何もなく、何かがあるとしても、それについて語るのが億劫なだけか。要するにそれは解くべき問題ではないということか。問題でさえなく、実質的には何も問うていないのではないか。ただ放置され、ひたすら無視されて、一度も省みられることはなく、二度と思考の対象とはならない。だからそれは一度きりの現象で、それについてはどんな教訓も生み出さず、何の役に立つこともなく、ただそこに提示され続けるだけで、その存在を全うして、そして次第に遠ざかり、やがて視界から消え、後は忘れ去られるだけとなり、もう君を戸惑わせることもなく、黙ってその場から消え失せ、思い出にも残らず、かすかな記憶を辿ることで、かろうじてその痕跡が見出されるような些細なことでしかなく、だからもういい加減にやめた方がいいということか。


6月27日

 とうとうこんな状態になってしまったようだ。それはどんな状態でもない。何を強がっているのか。切羽詰まっていることを白状したらどうか。ではもう降参の白旗を揚げるわけか。別に誰がカダフィ大佐でもないか。この期に及んでまだ冗談をかましているようだが、心理的な余裕があるとは思えない。だから笑っている場合ではないだろう。しかしこれから言葉を連ねて何を説明したらいいのだろうか。またそんなふうに語るわけか。空疎な無内容にもほどがあり、もういい加減に執行猶予期間が過ぎているような気もするが、今さらながらそんなことを述べながら、時間稼ぎならぬ字数稼ぎをしているみたいだ。それ以外には何も記せない。ならば腹をくくって首まではくくらず、何か利いた風な意見でも表明してみたらいいのではないか。できればそうしたいところらしいが、それが思いつかないようで、思いつくまではまたそんなことを語っているのだろう。今回もそれで終わってしまうのかもしれず、以前とまったく同じようなことが延々と繰り返されるのか。わざと逸脱させない限りは、同じ軌道の上を言葉が連なってしまうだろう。しかし唐突に横道にそれるのもいつものパターンではないのか。ではどうしたらいいのか。語ればいい。どうなってもかまわないからとにかく語ればいいのだ。結果を恐れずに語るべきだ。何を語ろうと君の勝手だろう。ならば語るしかなく、そんな自問自答につられて適当にかついい加減に語るしかないか。今語っているそれが君の語りなのだ。その語りから逃れる術はない。それはいくら否定しても否定しきれないほど繰り返され、いくら忘れようとしても執拗に回帰してくる。実際にそこで語られているのだから、思い出す以前に現前している。

 そして時が経ち、振り返ってみればそれが君自身から生じていることに気づくはずだ。冗談にしてはきつすぎる自業自得から君の語りが生まれ、もう取り返しがつかないような切羽詰まった状況下で語っているわけだ。空疎で虚しく、意味不明でどうにもならない自己卑下を経由して、さらに言葉が連なり、君自身をそこから遠ざけ、この世界の中に居場所を失わせ、もはやどんな出来事にも関心を持たせなくしている当のものが、それらの語りなのではないか。確かにそれは冗談にしてはきつすぎるかもしれないが、冗談の意味さえも変質させ、たぶん実質的には冗談にすらならないようなことを述べているのであり、要するにそれは何でもないことなのだ。何を述べているのでもなく、何を語っているのでもなく、何を記しているのでもなく、つまりそう語っているわけだ。何も語っていないと語り、何も記していないと記しているわけだ。ただそれだけであり、やはりそれは改めて説明すれば何でもないことだ。ただのごまかしであり、詐欺である。それ以上でも以下でもなく、それそのものであって、そのものでなくてもかまわないのであり、何でもありで、何でもなしで、そんなことを述べているに過ぎず、それを超えて何を語っているのでもない。たぶんそこに限界があり、その限界を超えない範囲内で言葉を散らして、文章を構成している。そう思い込んでいるわけか。誰が思い込んでいるわけではなく、誰も思い込んでいないようなことを記しているわけでもなく、それを語っているわけでもなく、要するに語り得るすべての可能性を否定しつつ、それを語ろうとしている。実際に語っているのはそんなことでしかなく、それが何か画期的であったり、これまでにない新しさを有していたりするはずがなく、それだけのことで十分である必要もなく、ましてや何を語っているわけでもない。

 ではいったい何を語っているのだろうか。またいつもの何かを蒸し返しているわけか。それを否定して何になるのか。現実にここまで語ってきたではないか。それを否定するわけにはいかず、否定しようのないことを述べているわけで、別に否定してもかまわないのなら、さらに内容がでたらめになるだけか。それでもかまわないならそうなるしかなく、そういうことを述べていればいいだけだ。何を語っても君の勝手であり、何を語らなくても勝手であり、そう思い込んでいるうちは、何を語ってもいいわけか。良くなくても語ることは可能だ。そして実際に語っている内容がそれであり、良くも悪くもそんなことを語っている。それ以外の何を語っているのか。たぶん何か語れるだろうし、実際にそれを語っているのかもしれないが、現時点での内容はそれか。それでは不満なのだろうか。そうだとしてもそれが記されている現状をどうすることもできず、それを削除して別の内容を記すにしても、それがどうしたわけでもなく、依然として飽きもせずそんなことを記しているわけだ。それ以外の何を記せるのか。記してみたければ、実際にそれを試してみればいいだけのことで、すでにそれをやっているとすれば、やはりそれはそういうことだ。どうやってもそれ以外にはならず、何があってもそうなってしまい、そこであきらめきれなければ、また新たなやり方を模索すればいいだけで、少なくともそれをやっているうちは、それが不満だろうと何だろうと、実際に記されたそれはそうなるしかなく、そこから何がどうなろうと、語っているのはそんなことだ。だからもはや否定しようがなく、そんなことを語っている自らを肯定するにしても否定するにしても、そんな事実から逃れられず、それを認めざるを得ない状況に追い込まれているわけだ。


6月26日

 そうなってしまったらだめか。たぶんそんな気がしているのなら、その通りなのだろう。案の定その気になっていないようだ。だがそれをやらなければどうにもならないのがわかっているのに、やはりそれができない。だから今のところはどうにもならない。果たしてそれでいいのだろうか。良いも悪いも無理なのだからどうしようもない。だがそれでもどうにかしようとしている。無理なのに力わざでどうにかしてしまうのだろうか。そうだとしても結局どうにもなりはしない。それが気に入らないのか。そんなはずがないと思っている。君にそれができるはずがない。いったい何をやろうとしているのか。それがわからないでは済まないはずか。相変わらず何を語っているのでもなく、言葉を並べて誰かを惑わしているだけのようで、それが気に入らないのはわかりきったことだ。報われないことをやっているらしい。おそらくそんなことを語るべきではないのだろう。何も語らずに終わるとしよう。語れないのだろう。実際に語ろうとしていない。だからそんなことは忘れてしまってかまわないのではないか。そんなわけで方向が定まってしまったようだ。あらゆる可能性を排除しながら、今はただ一つの何かを信じている。しかし何かとは何か。それがわからなければ信じたくても信じようがない。だから狭い範囲でいくら思考を巡らせても、何も出てこないのは当然か。それが何でもなければ何かではなく、少なくとも何かであれば、そこから具体的な固有名が導きだされるのだろうか。だがそれはどういうことなのか。あまり真剣に考えたくない。無意味なことを述べているような気がして、何だかやる気が失せる。

 それに関しては必要以上には語れない。謎は謎のままでかまわないようで、誰もが自己主張の機会をうかがっているとすれば、黙ってそれをやらせておけば、自ずから終着点が見えてくる。それは大した結論にはならず、必然的な帰結のようなものだろう。そして沈黙するわけか。なぜそこで黙ってしまうのか。君は信じている。自らが成し遂げたことが大したことではなかったとしても、やはりそれはそこでやる必然性があって、やらなければならなかったことだったのだ。それをやらなければそこを通過できなかったはずだ。それは気休めなどではない。では何なのかと問うなら、たぶん何でもなかったのだろう。またわざとらしくもそこへ逆戻りか。なぜそこから一歩を踏み出さないのか。何でもないはずがなく、実際にかなりの精神的なダメージを受けたはずだ。それなのに何でもないと強がってみせるのは、少し大人げないような気がするが、認められないのは今に始まったことではない。まったくいつまで経ってもそんな案配で、まともに考えるわけにもいかず、たぶん冗談で済ましてしまうような気がするが、そこで踏みとどまって、何とかそれ以外の何かを導きださなければならない。現時点では難しいことか。案外そんな気などさらさらなく、さっさと言葉を記して、それを読み返すまでもなく、意味不明でもかまわないような気がするらしく、その辺で妥協しなければ、さらに困った事態を招くだけかもしれない。すでにそんな傾向を示しているのではないか。現に何を語ったらいいのかわからなくなっているようで、自らが記しつつある内容に自信が持てなくなっているはずだ。いったいどうしてしまったのか。少し間を置いて、冷静に考えてみたらいい。まだ時間があるはずだ。

 なぜそうなってしまったのか。わざとそこへ追い込まれているわけではない。でも実態としてはそういうことか。気がつかないうちにそうなっている。自由を奪われ、行動範囲を狭められ、そんなやり方を強いられている。それではだめなのだろうか。もううんざりか。だがそれが現実ではないのか。やりたくもないことをやらされ、くだらぬ思惑に翻弄され、それでも生きてゆかなければならなくなっている。まったく馬鹿げたことだろうか。だがそれが普通なのだろうから、黙ってそんな境遇を受け入れなければならず、誰もがそんなふうにしか生きてゆけないのだろうし、今さら好き勝手に振る舞うことなど夢見るわけにはいかないのかもしれず、たぶんその辺で自らの限界に遭遇しているはずで、それを悟り、そんな状況に自らを順応させ、しぶとく立ち回って、さらなる機会の到来を待たなければならないのだろうか。果たして待ち続けることが可能なのか。とりあえず踏みとどまらなければ、そのまま流されていってしまうだろう。そしてそれでかまわないのであり、多くの人たちがそうやってその生涯を送っているのであり、それを受け入れることに何の不都合も感じていないはずだが、なぜそこで踏みとどまる必要があるのか。何の利益も得られず、何ももたらせず、結果として無駄な歳月を費やして、人生を棒に振ってしまうだけではないのか。それでもかまわないとは思えないが、いったいそこで何を待っているのか。たぶん何が到来するわけでもなく、何も起こらず、どこへも到達できないだけではないのか。それでも待つ必要があるのだろうか。何を待っているかもわからないのに、なぜそこで待ち続けるのか。君はどうかしているのだろう。きっと何か勘違いしているのであり、取り返しのつかない過ちを犯しているのだ。そんなわけでどう考えてもそれでかまわないとは思えないのだが、やはりそこにとどまるつもりらしい。


6月25日

 それで今日は何を否定したいのか。また無駄に言葉を記すつもりなのか。そんな語り方ではやる気を失う。それでも語る気らしいから、くだらぬ否定はなしにしよう。そう述べて何を否定しているのでもないだろうが、今から冗談半分に誰かのやり方を否定するつもりなのか。どうせ虚構の中でのことなのだから、何を否定してもかまわないが、何を否定しているのかわからないのも考えものだ。君はそこで何を否定しているのか。君自身が自らが否定していることがわからないのなら、いったいそれはどういうことになるのか。またわざとそんなことを述べている。頭の中で何かひらめいたわけではなく、いつものように言葉のつぎはぎに苦心するばかりだ。だからそういうやり方が否定されてしかるべきなのだろうが、それしかできないとなると、それ以外はどうなってしまうのか。そんな心配までする必要はない。今はただ言葉を記していれば、自ずから語ることに結びつくはずだ。それも何かの冗談か、あるいは本気で信じているのだろうか。何を信じているのか。いつかはうまくいくことを信じている。冗談でそんなことを思っているのか。なぜ冗談にこだわるのか。冗談では何も解決しない。何を解決しようとしているのでもないはずだ。解決できないからくだらぬ冗談をかまして、その場を適当にやり過ごそうとしているのか。君がそうしているわけではなく、誰かがそう記しているのだ。嘘かもしれない。嘘である方が好都合か。なぜそう思うのか。相変わらず理由はなく、その場の気分でそんなことを述べている。だがどんな気分でもなく、何を思っているわけでもないはずだ。だからそれが虚構だと述べているわけか。わけがわからない。

 なぜそうなってしまうのだろう。実質的には何も語っておらず、ただ言葉が適当に連なっているだけで、それででたらめな文章が構成されているのだろうか。それがわからず、何を述べているのかもわからない。アレルギーが手になじんできたのだろうか。かゆさが半減か。そういう話ではないだろう。では相変わらずのていたらくか。君にわかるようなことではない。どうやら何も語らないうちに横道にそれてしまったらしく、無理に言葉を並べているからわけがわからなくなる。状況がわかっているではないか。要するにそれではつまらないのだろう。だから何を否定してもどうなるわけでもなく、徒労や無駄骨に終わるだけで、それ以外には何も導きだせない。はじめから無理だったのだ。いったい何が無理だったのか。実際にこうして語っているではないか。これの何が不満なのか。だから冗談だと述べているだろう。誰にそんなことを言い聞かせているわけでもなく、ただ言葉を記しているだけのことだ。いくらそれが気に入らなくても、何を退けることもできず、さらに言葉を記すのみだ。君にははじめから無理だったのだ。言葉を記すのを止めることなどできはしない。しかし誰が記しているのだろうか。君以外の誰であるはずがなく、君でさえないか。そう述べて、わざと矛盾したことを述べているのも、君がそう思っているからそう述べているに過ぎない。今さら横目で何を見ても、夜の暗闇以外は何も見えないはずだ。それの何が不都合なのか。すでに眠くなってきたはずか。だがそれだけではないのだろう。困ったふりをしてもしっくりこないはずだ。それ以外の何かを語らなければ気が済まないか。今ならそれが無理だとは思えないはずだ。また何かの幻想に浸る気なのか。何を抱いているのでもなく、他の出口を見つけたわけでもない。君はまだそこで立ち往生しているはずか。

 まさか目をつぶったままそこから立ち去ることができようか。それらの言葉は何を伝えようとしているのか。まだ語るには時間がありそうだ。十分すぎるほどか。それはわからないが、とにかく何かを語らなければならない。そう思うならさっさと語ればいいではないか。それ以前にだいぶ言葉を記しているようだ。今は調子に乗っている最中なのか。そうでもないが、そうならない前に、何か言い残すことはないか。別に天狗になっているわけではない。ただいろいろな風景の中から何を見出すべきか悩んでいるのか。またその場しのぎの嘘に明け暮れ、本当は何も持ち合わせていないことを隠そうとしている。だからそれだけでは不十分なのであって、他にどんな言葉が必要なのか、改めてそれらの文章を読み返してみる必要がありそうだが、調べているのは誰のサンプルでもなく、何を標準化しようとしているのでもなく、誰がそれ以上の何を求めているのでもない。そこには相変わらず何もなく、他の何を変奏しているとも思えず、今さら語るべきことを探しているとも思えない。たぶんすべては同じなのであり、その中でもわずかな違いを見極め、それについて語りたがっているわけで、すべてはただのラップであるのにも関わらず、意味のわからない英語の語りを聞き流し、そんな醸し出される雰囲気に流され、それ以上の極みを目指さず、それだけのことにこだわるわけでもなく、結局意識はジャズに流れ、また以前と同じような音楽を聴いている自らに出くわし、驚いたふりをする間もなく、さっさとそこから退散して、別に夢見が悪かったわけでもないのに、何かを適当に忘れようとして、昨日の躓きを放っておいて、今日の失敗を省みず、明日になれば明日の風が吹くような気がしてきて、そんな思いとともに何をやる気も起こらず、そのまま言葉を記し続け、屋根を打つ雨音を聞きながら、今に至っているわけだ。


6月24日

 相変わらず昨日か。もう今日の日付には戻れそうもなく、ぼやぼやしていると二日遅れになってしまいそうだ。だからそんなことを述べている場合ではなく、さっさとまともに語らないか。できればそうしたいところだが、何も思い浮かばず、またそんなごまかしになってしまいそうだ。それでもまだ君は語る気でいるらしく、何となく呆れてしまうが、そこから呆れられないような内容にできるだろうか。君には無理だろう。なぜすぐにあきらめてしまうのか。あきらめてしまってもいいような気がしているのかもしれない。実際に語ることなど何もなく、音楽を聴きながら、浮かれた気分になることもないだろうが、うらぶれた気持ちになることもなく、それとこれとがどう関係するのかもわからず、また安易にでたらめを装ってしまうのだろうか。だがいったいこの世界に何があるというのか。またそれか。たぶん何かがあり、その何かを求めて誰かがさまよっているのかもしれず、くだらぬ放浪の旅へと誘われているのだろうが、なぜそれがくだらないのか。何となくそう思うだけで、実際に旅などとは無縁なのだろうから、まったくその辺の実態をわかっていないのかもしれない。どこかのフリージャーナリストが貨物船に乗って旅をしていたドキュメンタリーを見た記憶がありそうだが、それがどうしたわけでもなく、たぶん人はどこか遠くへ旅をしてみたいのだろう。要するにここにとどまり続けるのは苦痛なのだ。退屈で飽き飽きしているのかもしれない。自らの自由を奪うしがらみにもうんざりか。しかしそんなふうに言葉を並べてみたところでどうなるわけでもなく、きっと明日も今日と同じように仕事の最中なのだろう。

 しかし破れかぶれに言葉を記しているみたいで、みっともないような気がしてくるが、そんなふうにしか語れないのだから、それはどうしようもないことかもしれず、何かを語ればすぐさまその語りについて言及するのもいつものパターンで、なぜそうなってしまうのか理解できない。理解してしまうのが怖いのか。いったい何の理由があって怖いのか理解できない。別にわからなくてもかまわないから、あえて理解しようとしていないだけか。あるいは何がそうなのかわかりづらいだけか。別に何をわかろうとしているわけでもなく、そんな言葉を散らして何か述べているような雰囲気を醸し出したいのか。実際に何が散らばっているわけでもなく、わざとわかりづらいようなことを述べているだけか。そうだとしてもなおのことそれでかまわないような気がしてくる。しかし放浪の旅について何を思っていたのだろうか。ただそんな言葉にロマンを感じるだけなのか。そうかもしれず、それについてはあまり深く考えないようにしているだけかもしれない。不意にすべて放り出して、行くあてもない旅へでてしまうほど、切羽詰まった状況になっているわけではないか。では今の暮らしで十分なのか。あるいは不満だらけだが、それらのすべてをご破算にしてしまうほどの勇気は持ち合わせていないか。たぶん自らの意志で放浪の旅などに出るほど傲慢ではないし、そういう安易な物語にははまらず、実際に旅する者たちには、やむにやまれる理由とやらがあり、場合によっては命がけで旅に出た者までいるのだろうし、実際に旅の途中で命を落とし、帰らぬ人となってしまった者などもいくらでもいそうで、そんなことを思えば、能天気にロマンを抱いているのも、ただの観光客と変わらないような気がして、その辺でどうでもよくなってしまうか。

 だが何もやらないうちからそんなことを述べているのも狡いか。たぶん虎穴に入らずんば虎児を得ずとかいうことわざ的な、リスクを冒していないと、まともに受け取ってもらえないようなことかもしれないが、しかしそれでもどうせテレビゲームの中の冒険でも、それなりにわくわくドキドキ的な感じを得られるのだし、あまり本物志向的なものへの傾倒も、部外者から見ればどうということはないし、要するに何をやってもそれなりでいられるのが今の世界の有り様で、その中で何に価値を見出そうと、人それぞれということになってしまい、好き嫌いの範囲内で判断されればそれまでのことなのであり、その辺であまり本気になっても、簡単にはしごを外され、それっきりということになりかねず、どうもそれらのすべてが大したことではなく、たぶん命がけで旅をして、志半ばで命を落としても、後は忘れ去られるだけにしかならないのではないか。まあ植村直己のようにマスコミに騒がれていた人なら、死後伝記が書かれたり記念館が建てられたりして、それなりに誰かの記憶にとどめられたりするのだろうが、それもそれだけのことで、要するに歴史上の登場人物のたぐいになるのだろう。三浦雄一郎などともに日本の冒険家列伝のごとき物語に収まってしまうのか。しかしそうなることにどのようなメリットがあるのか。別に死後のメリットを考えて冒険に身を投じていたわけでもないのだろうが、まったくその人の生き方に感動しようが批判的になろうが、それがどうかしたのかと問うならば、どうもしないと答えるしかないようで、過去にそういう人がいたぐらいのことで、何かの分野で有名だった人は大河ドラマの主人公にでもなってしまうのだろうが、やはり現代から見れば、それがどうしたわけでもないと思うしかないようだ。


6月23日

 目が疲れたようだ。冷房が寒すぎるか。たぶん何でもなく、他に何を語ろうとしているのでもない。ではやる気がしないから、今日はやめておくべきか。そこから語りだすのはおかしい。そんなわけでやはり眠ってしまい、翌日に記述が持ち越されてしまったらしく、相変わらず遅れを解消できずにいるようだ。まるで他人事か。君のせいではない。では誰のせいなのか。それは自然現象が関与していて、暑すぎるからやる気がでないのだろうか。そんな理由でもかまわないのか。実際のところは何が理由でもなく、何となくそんな成り行きになっていて、それでもかまわないと思っているのだろう。別に何を記そうとしているわけでもなく、何か適当に言葉を並べて文章が出来上がれば、それでかまわないと思っているのではないか。たぶんそうではないと思いたいのだろうが、実際のところはそうなっていて、思い通りにいかないことで苦しんでいるのかもしれないが、そんな苦しみなど大したことはなく、誰がどこで苦しんでいようが、そんなことなどおかまいなしに事態は進行してゆき、おおよそ誰の思いなど反映されない言葉が連なるばかりか。そして君はそれでかまわないと思うわけか。まったくくだらない予定調和の結果がそれらの文章なのか。だがいくら否定してもそこにはそんなことが記されていて、そういう結果が誰かを苦しめているのだろうか。笑っている場合ではないだろう。では何とかしなければいけないのだろうか。何とかする気になるとは思えないか。たぶん現状は現状であり、執拗に現状であり続け、それは誰かの思いなど簡単にはねのけるほど強固な現状なのではないか。ではお手上げなのだろうか。

 しかしここまでやってきて、今さらお手上げはないか。では何とかしようとする姿勢は堅持するとしよう。結果的にできなくても、やっているふりをするぐらいはできるのではないか。しかしなぜ語っているうちにやる気が後退していってしまうのか。そして気がつけば必要のないことばかり述べていて、それだけで文章が出来上がってしまいそうだ。だから今こそそれを改めて、何とかしなければいけないのだろうか。またそれか。何やらまた同じことがぐるぐる回っているようで、そんな同じ言葉の悪循環にはまっているみたいだ。他に何か語ることがないのだろうか。こうなったら語る必要のないことを積極的に語り、それで何とか格好をつけ、当初の意気込みをいなして、やる気などうやむやにしつつ、そこから無理矢理離脱する気でやらなければならないか。現におかしなことを述べているようだ。暑さで頭をやられてしまったのか。だがまだ滑稽な仕草を披露するには至っていないようだ。しかし使っている言葉がおかしい。わざとそうしているのだろうから、それは当然だとしても、それで愉快な気分になるとは思えず、かえって馬鹿にされているようで、不愉快に感じられてしまうだろうか。でも笑っているらしく、自らが記しつつある言葉の連なりがおかしくてたまらないと嘘をつきながらも、結局は笑っているようだ。それが自業自得の成れの果てなのか。それの何が自業自得なのだろうか。君はそこでどのような報いを受けているのだろう。たぶん罪でも罰でもなく、それとは無関係に勝手なことを記し、それで何かをおちょくっているとも思われず、自暴自棄というより、自虐的なことを述べているわけでもなく、何が何だかわからないように感じられ、それでお茶を濁して丸く収まっているのだろうか。何がそうなのか。

 今ひとつ表現ががさつで、優美さとスマートさに欠けるようだが、それでも言葉が連なっているだけでもいいのか。ここまでくれば内容がないのは仕方のないことで、もう語ることが何もない、と居直ってしまってもかまわないような気がするのだが、それでも語ろうとしていることとの間で生じる齟齬を糧として、思いとやっていることの間に横たわるギャップがすべてなのかもしれないが、たぶんそういう語りでは長続きしそうもなく、早晩行き詰まり、また苦し紛れの自己言及にはまり、否応なくそれの繰り返しとなってしまうのだろうが、そうなっては画面の前で笑っているだけでは埒が明かないだろう。それも愉快なことだと割り切って、強引かつ執拗に続けていれば、やがて自ずから道が開け、気がつけば自動的にまともなことを語っている状況になるのか。あり得ないことかもしれないが、そんなことを期待しながら、もっと前向きに後ろ向きな自己言及を続けるしかないか。そんなくだらぬ冗談をかまして、そこからまた語りだそうとしているようで、嫌気がさしながらも、そんなことを記し、それで自己嫌悪に陥り、それから自意識は何を思えばいいのかわからなくなり、さらに倒錯的な内容に傾きつつあるようだが、それの何が倒錯的なのか理解できず、きっと嘘をついているのだろうとも思われ、いい加減な言語表現をそのまま放置し、それで何かを述べているとは思わないが、それなりに言葉を記していることは確かなようで、何となくそれであきらめてしまえば気が楽になるのかもしれないが、それができないからそんなことを述べているのではないかとも思われ、それで何がどうなっているとも思えないが、やはりそんなことを記している現状に変わりはないのだろうか。それとも過去と比べれば、それなりにうまく記していることになるのか。むしろごまかしに拍車がかかっているだけかもしれない。


6月22日

 誰かがふと過去を振り返り、活動的なことを記述していたことを思い出す。当時はそれで良かったのかもしれないが、今は静寂に包まれている。私が動いていない。しばらく虚空を見つめる仕草をしているようで、何も覚えていないらしい。蒸し暑いし疲れているのだろう。何もそこからは導きだせない。言葉ではないのかもしれない。では何なのかと問うならば、やはりいつものように何でもないと答えるしかないのか。それでは答えになっていない。ならばそれが答えではないのだろう。では本当の答えは何なのか。そういうどうでもいいような問答からは導きだせないような答えか。きっとそうに違いない。このような言葉の配置からは伺い知れない答えなのだろうが、それはどうやったら導きだすことができるのか。そもそも君はどのような問いに対して答えを見出したいのか。何を問われているのかわからず、何か釈然としない状況なのか。そう感じているのなら、そこから他に何か気づくことがあるのかもしれないが、果たしてそれが探している答えに結びつくだろうか。しかし本当に答えを探しているのだろうか。どうもその辺が曖昧で、要するにこれから何か思いついた時点で、これが答えだという実感を伴えば、それがその時点での答えなのだろうか。それでもかまわないのだろうが、そうなると答えはその時々で違ってくるということか。やはりそれでもかまわないと思うしかないのだろう。そうなるともしかしたら何が答えでもかまわないのであり、さらに答えでなくてもかまわず、何を思いついても、それが答えであったりなかったりしてもかまわないということか。またどうでもいい方向へ言葉を散らし、答えなど必要ないかのごとき言説になってしまいそうだが、たぶんそういうことなのだ。

 別にそうでなくてもかまわないのだろうが、とりあえずの方向性としては、どのような方向へ言葉の連なりが導かれようと、それでかまわないと思うしかないようで、そういう成り行きがおかしく思われても、そこからしか言葉が連ならず、その連なりの中からしか答えは出てこないのではないか。ならばこれがこの時点での答えなのか。そう思うならそういうことになるだろう。ではそう思わなければどうなるのか。どうにもならずに、答えではない言葉が連なっているだけか。そう思うならそういうことになるだろう。今はそう思わない方がいいのではないか。なぜかわからない。何に答えようとしているわけでもなく、その連なりから出たいとも思わず、その中で何を語ろうと内容はどうということはなく、ただ語っているという事実さえ確認できればいいのかもしれず、実際に語っているのであり、語っている内容がこれであって、これがある意味では問いに対する答えとなっているのだろう。それだけのことだ。その問題はその程度で片付けて、先に言葉を連ねることとしよう。どうせ知らないうちに出発点に舞い戻っていて、また同じような問いを投げかけて同じように答えることになり、そんなことの繰り返しの中から、さらなる問いと答えが出現することとなるのだろう。そしてそれがどうしたわけでもなく、依然として何でもないことのようで、何を問い、何に答えようと、さらにそんなことの繰り返しとなってしまい、どうにもこうにも収拾がつかなくなり、それらの無限循環を止められなくなり、その辺で話を終わらすしかなくなり、実際にとりとめのない無内容にうんざりしているようで、他に何も語れなくなっている。

 たぶんそうなってはだめなのだろう。ではもはや言葉を記しようがないか。それでも語ろうとしているのはなぜか。ただ意地を張っているに過ぎないのか。何としてでもその先に言葉を記さなければならないのか。そんなことをして何になるのか。そこから逃げ出したいのだろうか。そこで何を語ろうとしているのか。うまくいっていないわけではないはずか。そんなことを記しているうちに気分がおかしくなり、どうかしてしまう。そうならないように平常心を保とうとしているはずだが、実際はどうなのか。虚無的な空疎に心を荒らされ、その先では黙るしかないようだ。だが本当に先があるのか。たぶん先細り的な先があるのかもしれず、その最先端部で息絶え、それ以降は沈黙が支配する白紙状態か。そうならないためにはどうしたらいいのか。今さら遅い。手遅れになってから考えるのでは遅すぎる。では考えない方がいいか。考えなくてもいいことまで考える必要はない。もはや手遅れなのだから、後は虚無にまかせて、とりとめのない気分で言葉を散らして、何か適当に語っているように装うまでか。だがそんなごまかしが通用するような状況ではなく、今までに見え透いた嘘ばかりついてきた報いを今こそ受けなければならず、そんなわけで今がまさに収穫の時なのだ。だがそんな何もない場所で何を収穫するつもりなのか。そんな状況で収穫できるのは、空疎と虚無と空白と余白と虚空と中空と、後は何か。だいぶ否定的な意味を伴った言葉を収穫できて、今年は意外と豊作なのではないか。それはどういうことだろう。何か破れかぶれのような気もしてくるが、何となく今はそういうやり方でもかまわないような気になり、そのままでその先へも突き進んでゆく気になっているようだが、本当にそれでかまわないのだろうか。かまうかかまわないかは、君が決めることではないような気もするが、いったいそれを誰が決定するのだろう。


6月21日

 何はともあれどうにかこうにかここまでこぎ着けた。寝不足なのかもしれないが、結果的には何とかなっているようだ。それもくだらぬ結果の一つなのか。だが別に何を卑下することも悲観することもない。何がどうなろうと大したことはなく、単なる社会現象の一つでしかない。例えばその中には人類滅亡のシナリオまであるわけで、そんなフィクションなら今までに数限りなく語られてきたことだ。だから大したことはないというわけでもないのだろうが、人々はその手の話が好きなようで、可能ならそれが実現された瞬間に立ち会ってみたいとも思っているのだろう。また冗談でそんなことを述べているのか。君にはついてゆけない。偽りであることは確かだが、その架空の存在が荒唐無稽なことを思わせ、くだらぬ紋切り型と戯れる余裕を生み、ひとたびそれについて語るや否や、直ちにそんな言説を無効にするわけだが、そのえげつない先回りは不可能な継続をもたらし、そこに漂う虚無がもうこれ以上は何も語らせまいとするわけだが、そこから無理に言葉を並べて、どうでもいいような文章を編ませるわけで、その何かと何かのせめぎ合いの中で、かろうじて正気を保とうとしているみたいだが、たぶん自意識にはそれを捨て去る勇気が欠けているのだ。その時点では確かにそういうことであり、余計なリスクを冒すことなく、できればそれらの現象から効率的に言葉を回収したいのであり、何か適当に軽く語り、それで済まそうとしている意図が見え見えで、それが狡いと言われればそれを認めるしかないが、現実にそういうやり方をとるしかそれについて語る方法を思いつかず、それは致し方のないことかもしれない。

 君にはそれが似合っている。誰でもないのに似合っているも何もないのだろうが、とりあえずの語り方として重宝しているようで、ごまかしでしかないのかもしれないが、ごまかさなければ言葉が連ならないのだろう。まったく語る必然性を感じないのだから、それをごまかすしかなく、必要もないのに語る愚を犯しながらも、その愚によって架空の存在としてフィクションの中に登場することができるのかもしれず、現実の具体性をまとう危険を回避して、勝手気ままに好き放題語っているつもりになれるわけか。本当はそうではないのだろうが、あえて嘘をつくことによって、その嘘から物事の本質を捉えようとしている。果たしてそんなことが可能だろうか。たとえそれが不可能であっても、実際に語っている内容は、語ることが不可能な何かについてであり、その何かの実態が不明のままなのに、やはり何かを語ろうとしているわけだ。それがこれであり、これが何だかわからないが、そのわからないこれについて語っていることになるわけか。もしかしたらこれも何かの冗談なのだろうか。少なくとも何でもないことは確かなようで、具体的な何を示しているわけでもなく、何も示していないわけでもないが、その空疎な内容が示す通りに、取り立てて特定の何について語っているわけでもなく、ただとりとめのないことを延々と述べているだけで、そこから何がどうなるわけでもなく、無理にそれ以上のことを述べようとすれば、今度はその述べていることについて述べていることになり、どう述べても最終的にはそうなってしまうので、そこで行き詰まるしかないのだろうか。そうだとしてもそんなことを述べざるを得ず、それをやめるわけにはいかないらしい。

 そしてそれからどうなったのだろうか。例えばついさっきまでは居眠りの最中だったらしく、何かのきっかけで不意に目を覚まし、あわてて言葉を記そうとするが、そんな悪循環の現実に引き戻され、またいつもの自己言及に拍車がかかっている気配を打ち消そうと躍起になっているようで、それがなかなかうまくいかず、それもいつものことなのだろうが、自分では悪戦苦闘の最中なのかもしれないが、端から見れば嬉々としてそういうことを述べているように思われてしまうらしく、それでいいのかどうかわからないが、良くないに決まっているかも知れないが、良くないなりにうまく語っているようにも思われ、その辺が容易には否定しがたい現状のようで、それがそれを続けてしまう原因となっているのだろうが、そこから抜け出ようとする気配も感じられず、だからいつまで経ってもそんなことを述べているのかもしれず、そんなことを続けながらも自己批判を繰り返し、その自己批判自体がさらなる自己批判の悪循環を招き、まったく笑ってしまう現状を呈しているのだろうが、一方ではそれでかまわないような気がしているようで、半ば投げやり気味にそんなことを述べながらも、内心しめしめと思っているのかもしれず、もはやそれらの継続にはそういう悪循環が欠かせない要素となっているのだろうし、今さらそれを改めるわけにはいかないのかもしれないが、無理だと思いながらも、その機会をうかがいつつ、そうなるきっかけを模索しているのかもしれず、本当のところはよくわからないのだが、そんなことを語りつつも、たぶんそれではだめだと思っているのだろう。だめだと思いつつもそのだめなことを延々とやり続け、そんな現状に嫌気がさしつつも、一向にそれをやめようとしない。まったく呆れてものもいえないか。


6月20日

 また昨日か。もう一昨日になってしまうかもしれない。今日はさらに行事があるから、言葉を記すのは無理かもしれず、誰かが困っているのだろうが、とりあえずはまた明日何とかしようとするのだろう。無理だから何とかしようとして、結局無理なことに気づき、その場で立ち往生してしまう。よくあることだ。そういう成り行きで今に至っているのだから、しくじった経験の積み重ねがさらなるしくじりを招くということか。たぶんそれでかまわないのだろう。またそれか。もういい加減にそういうパターンはやめにした方がいいのではないか。やめた方がいいのに、なぜそれを繰り返してしまうのか。語りやすいからそうしてしまうのか。ならば別にやめなくてもいいのではないか。だからそういうことを繰り返してしまい、自己嫌悪に陥り、嫌気がさしてしまうのか。別にそれでもいいのではないか。そういうことならそれでかまわないだろう。そして気がつけばまた以前と同じようなことを述べている。それ以外には何も思いつかないからそうなってしまうのか。そういうことでかまわない。延々とそんなことを述べていればいいのではないか。それは性に合っていることだ。今さらわざと違うことを述べてもつまらないだけか。だがそれでもめげずに、さっきとは違う言葉を並べ、それで悦に入るでもなく、何の感慨も抱けず、少し鬱な気分のふりをするわけか。物語的にはできすぎていないか。そういう感じがいいのだろう。冗談としても嘘としても申し分のない気分だろうか。そんな気分がどこにあるのか。

 君は今の気分について語っているわけではなく、ただそんな気分になった時のことを空想している。だから嘘をついているのかもしれないし、冗談でそんなことを述べているのかもしれない。そして嘘でも冗談でもかまわず、ただそんなことを述べている。それだけのことなのか。そうだとは思えないなら、他に何を思ったらいいのだろう。誰かが語る虚構の中で、何を語っているのか知らないが、君の存在意義を見出せない。それならそれでかまわないだろう。君ではないのだから君であるはずがない。とりあえずそういう語り方ができるだけだ。懲りないのだから仕方がない。自己言及であれ、冗談であれ、そんなのは嘘に決まっているとしても、なおのことそこから先へ語ろうとしてしまう。要するに内容が空疎であってもかまわないのか。それは以前にも述べたはずだ。そうなってしまう理由があり、その理由を語ることができないから、そんなふうに述べてしまうのだろう。それを無理に語っている。そしてまた行き詰まっているわけか。それが当たり前だと思うなら、もう完全にお手上げで、どうにもこうにもやりようがないか。しかしそれでもまだ語ろうとしているのは、どこの誰なのだろうか。君ではない。誰でもなく、誰かでもなく、本当は誰なのだろうか。本当ではないからフィクションの中で語っているつもりなのか。悪あがきのたぐいかもしれず、何かを引き延ばそうとしているのであり、要するにそれは往生際の悪さを示しているわけか。だが別にそこでおしまいとなるわけでもないだろう。意味がわからないだけで、何かのアレルギー的な湿疹に悩まされているわけで、かゆみをこらえながら、それとは関係のない何かに至ろうとしているわけか。また困った時の意味不明を繰り出して、事なきを得ようとする。

 それがわからない。その辺がわからないところなのだろうが、いくら困っていても、別にすがりつくような魅力はなく、さっさとごまかしを認め、どこか別の避難所へと退散すればいいだけのことで、またそこから何か食わぬかおして何かを語り始め、まるで何事もなかったかのように平静を装うわけだが、その辺でご都合主義も極まって、どうにもこうにも収まりがつかなくなっているようで、気休めのあくびとともに、どこかの危ないゾーンへと突入して、そこが待避所でないことはわかりきっているのだろうが、それでもまだ良心のかけらが残っているようで、何とかまともな話へと方向転換すべく、努力しているような感じを装い、さらに言葉を記して、結論を得ようとするが、結果的にはどうなったのか。わからないままではどうにもならず、一向に努力が報われないままか。それとも冗談をかましすぎて、すべてを台無しにしようとしているのか。いずれにしてももう一工夫が欲しいところで、それができていないからどっちつかずの中途半端にとどまり、何を述べているのかわからないままで、それ以上でも以下でもなく、ただ単に何もわからないということか。別に何を求めているとも思えず、理解を得られぬままでもかまわないのかもしれず、逆にわかりきったことを語っているようにも思え、要するに言葉を適当に並べて何かを語っているように思わせたいのであって、結局それだけのことなのだから、いくら工夫しても見え透いていて、何をどう理解しようと、大したことはなく、わざとそうしているのだから、内容がないのは当然であり、間違っても幻想など抱きようのないことを語っているはずで、その辺がわかりやすいといえばわかりやすいが、そうする理由を見出せないところが意味不明か。結果的に否応なくそうなってしまうのだから、それは仕方のないことなのか。


6月19日

 またここまできたらしい。なぜきてしまうのだろう。まるで腫れ物に触るような気遣いか。何かがおかしくなってしまったのだろうか。そういうわけでもなく、翌日には普通に仕事の最中で、何を思うこともなく、さっさと作業を終えて、夕方になり、夜にはまた言葉を記しているわけか。意味のないことだ。意味ならあるだろう。要するに生きているということか。それだけのことでしかなく、それがどうしたわけでもないが、やはりそんなふうにしかならないのだろう。そしてそれに関してそんなことを述べているわけだ。それとは何だろうか。そういうことであり、こういうことなのか。だがその先に言葉が見当たらない。何でもないことなのだろうが、それが意外と大変な事態であったりして、様々な出来事に出くわしているのに、それを言葉で説明する気にならず、気晴らしでしかないものに全神経の大半を費やすのはおかしなことか。だが世の中はそういうふうにしかいかないのではないか。テレビを見ている限りはこの世は娯楽だけの世界だ。今さらそんな嘘をついてどうするのか。それはどういうことなのか。人はなぜそんなことに全神経を集中させなければならないのか。それがすべてだからだ。確かに人でなければ生きるのに精一杯か。では人であれば何に精一杯なのか。そこで冗談を語る気にはならない。人だから人非人的な言動は慎まなければならないのか。その辺がよくわからないのだが、例えば原発事故の後始末も大変そうで、いったん広げたおみやげを片付けるのにだいぶ手間取っているようだ。まあ初めてのことだろうから、要領を得ないのは当然かも知れないが、手間取れば手間取るほど、反原発だとか脱原発だとかいう主張が盛り上がるのは確実か。

 だからそれがどうしたわけでもない。人々は常に幻想を抱いていて、国家がどうした世界がどうしたのと、大した違いを見出せない主義主張を戦わせて、やれ自分の主張が正しいだの、相手の主張が間違っているだのと、どうでもいいことに微細な違いを見出し、それをてこにして論争相手を打ち負かそうとしているのだから始末が悪い。だがそうしないと他に何をやればいいのかわからなくなってしまうのではないか。たぶん人は食うに困らなければ、他にやることがないのであって、やることがないから暇つぶしというわけではないのだろうが、他者との間の小さな違いを際立たせて、それを理由に攻撃を仕掛け、論争やら闘争やらを激化させ、互いにつぶし合いをやっているのではないか。まあ自民党と民主党との間の対立も、そんなことのたぐいでしかないのだろう。また外国へ行けばそれが共和党と民主党であったり、さらに別の外国ではそれが保守党と労働党であったりして、何やら世界中でその手の政治ごっこが繰り返されている様相を呈していて、それがくだらないことだとは思わないが、そう思ってしまうとすべてがくだらなく思えてきて、世の中の政争やら論争のすべてがどうでもいいことのように思われてしまう。だから今さらそんな嘘をついても仕方がないように思えてきて、いったいそう述べて何をどうしようというのでもなく、何もどうにもできないからそう述べてしまうのか。その辺もよくわからないが、とにかく言葉を並べて何かをどうにかしようとして、それで何か適当なことを語っているつもりになりたいのだろうが、どうもそれがうまくいっていないように思われる。

 気がつけばもう夜だ。そしてそんな現状のまま、何を思うわけでもなく、それで何がどうなるわけでもないと思えばそうなってしまうのであり、人には人それぞれが置かれた状況によって立場が異なり、それに応じてその主張も微妙に変わってくるのだろうし、そこに生じている差異を無視して大同団結的な正義を主張するわけにもいかないのだろう。別にそうであってもかまわないのだろうが、かけ声倒れに終わることが多く、まれに声を発している者がカリスマ的な資質を持っている場合は、一時的にそうなる場合もあるだろうが、そうなると後の時代において伝説的な物語として小説やら映画やらに取り込まれ、美化され装飾化されて、何やらご都合主義的な魅力を得るに至るわけだが、要するにそれが気晴らしの娯楽として人々に享受され、実際の姿からはかけ離れた存在として、人々の意識に何かを植え付け、それが紋切り型的なヒーロー像であれ何であれ、その存在が実際に直面していた問題とは別の何かを、その存在に自らの願望を投影している心の中に生じさせ、それが美化された物語的な主人公を中心として生じる共同幻想のたぐいなのか。そうだとしてもそれを真に受けるわけにはいかないようで、それを冗談として茶化すだけではなく、そういう存在とそれを支持している数多くの意識たちに対しては、皮肉混じりとは別次元の全面的な肯定を表明する必要があるだろうか。なぜ批判せずに肯定するのか。それもわからないことの一つに過ぎないかもしれず、あまり論理立てて考えないようにしているのだろうが、何となくおもしろければそれでかまわないような気がするだけで、あまり深く考える必要はないのかもしれない。要するに君には関係のないことなのか。少しは関係があるのかもしれないが、それほど興味があるわけではないということか。


6月18日

 どうやらいつまでも昨日の日付になってしまうようだ。それにしても語ることがない。たぶんそんなに語らなくてもいいのだろうが、必要もなく語ろうとしているから、語ることがないのか。わかっているではないか。ならばどうしたものか。どうもせずに語るのをやめたらいい。それが一番いいことかもしれないが、そうはならないのだから難儀なことか。別にかまわないだろう。好きでやっているわけではなく、使命感に突き動かされているわけでもなく、もちろん夢に向かって努力しているわけでもない。では何だと問われるならば、よくわからないと答えるしかない。強いて理由を挙げるなら何だろうか。理由がわからないから語ろうとしているのか。たぶん理由を見出せないままに語っているはずで、理由とは無縁の語りを実践しようとしているのかもしれないが、そんな嘘がどこで通用するのかわからない。別にどこでも通用しなくてもかまわないのかもしれず、いつもとりあえずの語りであり、要するに本気になれないのだろう。また本音が出てしまったらしいが、いったいそれがどうしたというのか。何を開き直っているのか。たぶんそうする理由もわからないのだろう。語る理由を見出せず、開き直る理由もわからない。そうならなくてもいいのにそうなってしまう。それだけのことらしい。迷ってばかりで出口にたどり着けず、そこに居直って、そんな現状を肯定し、肯定している自らを正当化する。やろうとしているのはそんなことばかりか。それだけでは不満なのか。ならば少しはまともに感じられるようなことを語ってみたらどうか。

 それができればとっくにやっているところか。だからそういうことではなく、たぶんどういうことでもないのだろう。言葉を記すこと自体が無駄で無意味なことなのか。なぜそんな否定的な見解しか持ち合わせていないのか疑問を感じざるを得ないが、わざとそんな見解を示して、何かを卑下しようとしているのかもしれない。だが何かとは何なのか。どうやら興味は別のところにあるらしく、それを悟られないために、あえてくだらないことを述べて、何かをごまかしているのではないか。そうだとしても何かが違っているような気がしてならない。そもそも何でそんなことを延々と述べているのだろうか。理由を見出せないから、そんなまともに答える気のない問いを発しているのだろうか。そういう理由で正解なのではないか。ここはそういうわけにしておいて、いい加減にその先を語る必要があるのではないか。その先とは何だろう。また問いか。そういう無駄な問いがそこでの停滞を招き、語る意欲を削いでいるのではないか。それでも延々と同じようなことを語っているではないか。それが狙いなのだろう。いったい何が狙いなのだろうか。別に問いただしているわけではなく、誰が標的とも考えられず、相変わらずのでたらめ口調で焦点をぼかし、何が言いたいのかはっきりしないようだ。たぶん何も言いたくないのだろう。本当は違うのだろうが、何となくそんなことを語り、相変わらずの中身のなさを露呈させ、そんなていたらくにあきれ果てたつもりになって、適当な役割を演じようとしているらしいが、本当にそれでうまくいくのだろうか。うまくいかなくても大丈夫か。君には最後の切り札があると嘘をついておけば十分か。

 どうもそれは違っているようだ。何が違っているのかはっきりしないが、とにかく違っていて、君はその場でそれを改めようとしないばかりか、誰もが俺流を貫きたいのであり、独りよがりの快感に浸っていたいわけだ。もしかしたらそれも何かの答えとなるだろうか。それに関して利いた風なことがいえるのではないか。だがそれはそれだけのことであって、他ではまた別の意見に出くわすことができるだろう。涼しい顔して平気で嘘をつく輩が多すぎる。だからそれは物語の中でのことであり、現実の世界ではみんな真剣なまなざしで真摯な態度に凝り固まっているはずか。なぜ凝り固まる必要があるのか。そういう表現自体が誤りかもしれず、真摯な態度に対する悪意ある中傷がしたいことの顕われか。だがそれならそれで冗談でいなして、何かをうやむやにしつつ、一方で何事もなかったかのように語りだすこともできるだろうか。だがなぜ語りださなければならないのか。君は相変わらずわけのわからぬことを述べているようだが、やはりそれでもかまわないのか。そういうことになりそうで、かまわないからこそ、あえていい加減なことを延々と語っているのだろう。別に首にマフラーを巻いてうつむくような季節ではなく、それが何のたとえでもないことは明らかで、要するにいい加減に語っている見本のようなことを述べてみただけかもしれないが、そこに意味や意義を見出そうとするのが学問的なアプローチであり、そういう言葉の連なりを丹念に解析することで、それを記した誰かの深層心理に至ろうとするのが、何の学問的ジャンルになるのか、にわかには思い浮かばないが、そんなことをやっている人も中に入るのだろうし、まったくご苦労なことで、それが俺流だとか我流だとかいうやり方の正体だとしたら、嘘でもおもしろいか。


6月17日

 何も語る気がしないようだ。たぶん疲れているのだろう。また眠ってしまったらしく、翌朝に目覚め、あわてて言葉を記そうとするが、何も思いつかない。こんなものか。果たしてどんなものなのか。決まった手順で何かをやっているわけではない。しかし何かとは何なのか。外を見れば朝から雨が降っているようで、昨日と同じような天候らしい。たぶんそうだとしてもどうということはないだろう。こんな天気だから気が滅入るわけでもなく、何を思うこともないのだろうが、他に何も思わないわけではなく、何か適当なことを思っているのだろう。思わぬ打ち消しに出くわして、おかしな気分となる。たぶん君がそうしなければならないのはわかっているのだ。誰かがそこで何かをつかんだ気になっているが、一夜明ければもう忘れているはずで、昨日何に気づいたのかわからなくなっている。どうせ些細なことだったのだろう。気に留めるようなことではなく、同じような成り行きの中でまた気づくようなことだったのではないか。そして今日も面倒な行事を終えて、ほんの気晴らしに言葉を記そうとしている。どうせそんなことをやっているうちに、何か考えでもまとまって、まともなことを語れるようになるだろう。でも今のところは望み薄か。しかし常に楽観していないと後が続きそうもない。もともと破れかぶれなのだから、そんなに行儀よく振る舞うのは性に合わないか。それとこれとは違うか。いったい何が違うのだろう。とりあえずそれらすべてはフィクションの中で述べていることにしたいのか。だがまだ何も述べていないではないか。

 確かに何を述べているわけでもないが、たぶんそれでかまわないのだ。無根拠にそう思い、それでかまわないと思い、そこから先はでたらめに語るだけか。そうだとしてもなおのこと好都合だ。理由も根拠もなく、そんなふうに思えてしまうのはどうしたことだろう。何となくそう思えるだけではだめなのか。たぶんそれでもかまわないのだろうが、それ以外には何があるのだろう。たぶん何もない。何もないからいつまで経ってもそんなことを述べているのだ。そしてそれでかまわないと思ってしまう。そんな悪循環から抜け出せずに何を述べているのだろう。今述べているそんなことを述べているわけで、それではだめだと思いつつも、そういうことを述べてしまう。そしてまた深夜になり、それからどうしたのか。苦労していると思われ、本当はそれほどでもないのにその気になって、誰もそんな苦労などわかってくれないと思うしかないのか。何か矛盾していないか。別にそれでかまわないのだろうが、そこから何かいちゃもんをつけたくなり、要するに何が言いたいのかわからないというわけか。そうだとしてもそれで済まそうとしているのであり、何とかなると思っているのだろう。その辺で語りすぎているのか。そうだとしてもそんなふうにしか語りようがなく、他に何を語ればいいのかわからないが、呆れてものもいえないというわけでもなく、とにかくその辺で矛を収めたいのだろうし、うまく立ち回ってなんでもなかったように聞き流し、誰かのわがままをそのままにして、そんな状況を保ちたいのであり、それで万事が収まるわけではないのだろうが、とりあえずの応急措置として、そんなことを繰り返していくうちに慣れてきて、何とも感じなくなってしまうのかもしれない。

 要するにそれは作用反作用の法則なのか。いったい何がそうなのだろう。懲りない面々がああでもないこうでもないと議論し合い、無駄な会議ばかりを繰り返し、それで何か達成感のようなものを互いに共有し合い、何かをやった気でいるわけか。それも暇つぶしの一つとしては有効な時間の過ごし方かもしれず、それでかまわないのならそういうことでしかないのだろうが、そんなことをやっているうちに何かがどうにかなってしまうのだとしたら、まさか唖然としてあきれ果て、あっけにとられたようなふりをして、それから何をどうしたらいいのだろうか。またそんなことの繰り返しに明け暮れるのか。たぶんそれらの成り行きはそういうふうにしか進行しないのであり、君の思いなど無視されて当然なのであって、もはや出る幕もないのかもしれず、黙って退散すればいいようなことでしかないのだろうし、そうすれば結果的にうまく立ち回ったことになるのだろうか。やはりそれはそれでかまわないと思うしかないのか。何かがおかしいのかもしれないが、人にはそれぞれに立場というものがあり、その立場に応じて割り振られた役所というのもあり、それぞれの役所で演じる種類も違ってきて、そうやってそういう機構が複雑になればなるほど、それを動かしている歯車としての役職のようなものが組み合わさって、全体として一つの方向へと動いているのだろうが、人はなぜそういう機構の一部としての役割をあてがわれて、要するに会社組織の一員として生きてゆかなければならないのだろうか。そういったものを含んだ文明とは何なのか。そんな問い自体がちょっと大げさすぎてピンとこないようで、そんなことを思う必要はないことは承知しながらも、やはりそういうことに行き着きざるを得ないような成り行きがあるらしく、たぶんそれがおぞましいことだと思うのも当然のような状況があるのかもしれない。


6月16日

 何もしなければ問うこともないが、謎とは何か。いきなり何を問うているのか。とりあえず誰かが何かを知ろうとしているようだが、それは知り得ないことだ。なぜそう思うのか。誰にとってそうなのかわからないが、そこでは何が効果的に作用するのだろうか。それを知るためにはどうしたらいいのだろう。いったい君は何を知りたいのか。できればその辺のところを知りたいのかも知れないが、言葉が無駄に連なりすぎている。それとこれとはどのような関係にあるのか。たぶんそういう無駄なことを記さないと、その先で何か適当なことを語れなくなってしまうのだ。それは以前からわかっていることか。ではそれの何が謎なのでもなく、君が知りたかったのは、ここには何の謎もないということか。そうであってもかまわないのだろうし、そうでなくてもかまわないのだろう。どちらでもかまわないのであり、さらにいうなら、何もかまわなくてもいいのだろうし、そういう語り方をしてしまうと、何がどうなってもどうでもよくなってしまい、何も語らなくてもよくなってしまい、何かのついでに疲れて寝てしまう。要するに言葉の悪循環にはまってしまって嫌になったらしい。やはりできないものはできないのか。気がついたら次の日になっていた。何もかもが毎度のことのように移り変わり、時の流れに翻弄されているうちに老いてしまうのか。そうだとしてもどうなるわけでもないだろう。時間の経過が早すぎるのか。何もできない君にはどうにもならないことか。それでも何とかするつもりなのだろう。それを語ればいい。

 文章が長くなりすぎないうちに次へ進むつもりなのだろう。言葉を記すのは誰にとっても過ぎたことだ。ならばやめればいいではないか。いずれはそうなるしかないのだから、それ以上の何を求めてみても、その辺で適当な何かをつかむ以外には何も求まらない。つかんだそれが答えなのだ。そうならなければどうにもならず、どうにかしようとするとそうなってしまう。だから君に残された時間があるとは思えず、その時間内でやれることは限られている。ならばすべては予定調和気味に決められていることなのか。そう思ってしまうとつまらないだろう。つまらないがそんな現実を認めなければ、その先の計画もたてにくいか。いったい何が計画なのか。行き当たりばったりの何が計画の一部となっているのか。たぶん冗談の範囲内で述べていることだろう。人は現実に打ち勝つことができるのか。人ではなく君はどうなのか。人は幻想を肯定しなければならない。幻想こそが人を形作るものだからか。そんなでたらめを誰が信用することができるのか。でたらめだからこそ気軽に信じることができるし、冗談のたぐいとして片づけることもできる。しかし現実とは何なのか。まさかそれを哲学的に定義し直して、厳密かつ正確な現実を言葉で説明しなければならないのだろうか。君にそれができるとは思えない。ならばいい加減でかまわないのではないか。とりあえず身の丈に合った語り方で語ればいいのであって、それを超えて語るとなると、正気と狂気の境目で語らなければならなくなるかもしれず、そんないい加減な認識自体が言葉の厳密さや正確さからかけ離れていて、狂気という言葉をこけおどし気味に用いるメンタリティ自体が、ありふれた意識に基づいたありふれた認識からきている。

 たぶん無理に語ると語りすぎてしまい、何かの限界を超えて語っていることに気づかなくなり、ただ語りたいという情念ばかりが前面に押し出され、それが情念なのか冗談なのか、受け取る側で見解の別れるところだが、ともかくその情念が行き着くところまで行き着くと、要するに正気の沙汰でなくなるということなのだろうが、どうもその辺が本当にそうなのか疑問に思われるようで、もしかしたら君は冗談でそんなことを述べているのではないかという疑念とともに、そういうことを述べていること自体がフィクションで、誰かの作り話の中で、狂気とかいうハッタリ的な言葉を使いながら、何かそれらしく言葉を組み合わせて、狂気を恐れる人々に向かって、何やら仮病的本気を見せつけようとしているみたいで、それ自体がくだらないことの羅列のような気がしてきて、語っている途中からしらけ気味になっているようで、もう狂気はいいだろうと思わせ、何かもっとクールでスマートな言葉を求めるようになり、またまたそんな冗談をかましながらも、やはり誰かが画面の前で笑っている姿が思い浮かび、もういい加減にしろと突っ込みを入れたくなるようなならないような、それでいてそんなことを述べながら調子に乗っている最中なのかもしれず、それも何かと嫌みに思われてしまう危険性もあり、やはり何が違っているような感覚にとらわれ、どうにもこうにも居心地が悪くなり、その辺で言葉を記すのをやめてしまうのかもしれない。どうも途中から投げやり気味に言葉を散らして、君を煙に巻くようなことを述べているのかもしれないが、たぶん誰かは自らが記しつつある文章の内容を理解していないのだろう。むろん理解する必要などないのかもしれないが、そうなるとそれらは誰が述べていることになるのだろうか。


6月15日

 いきなり何かの不連続に出くわしてうろたえるが、おそらくそれはフィクションの中での遭遇に違いない。またおかしな具合になってきたようで、膝が痛くなり、頭のどこかで違和感を覚え、自意識を宿している身体が自分でないような気になる。しかしそれが君にとってどんな災いを及ぼすとも思えず、それならそれでかえって好都合な面もあるのではないかと考えを巡らすが、利点を探し出せずに考えを改め、しかも何となく昨日より感覚が重くなったことに気づき、不安を覚え、このままではどうかしてしまうような予感がして、パニクったふりをしながらも、さらにわざとらしく平静を装い、そのどちらが本当なのかわからないまま、そのまま作り話を続けようとしているらしく、でたらめにもほどがあるのだろうが、本心では何を思っているのか、その外見からは伺い知ることができず、何とか探りを入れて、そこから手がかりを引き出すべく、自らに問うてみる。君はいったい何を考えているのか。たぶん君ではないからわからないだろう。ではそれがわかるにはどうしたらいいのだろう。文章中の主語を君から私に切り替えればいいのか。しかし私とは何者なのか。それ以前に君とは何者なのだろう。誰も何者でもなく、たぶん誰かという言葉が指している具体的な名前を伴った人格者でもなく、ただの言葉か。その辺で詰めが甘いのかもしれず、言葉を現実に合うように改め、わかりやすく説明する必要があるのだろうが、面倒くさいからやるつもりはないようで、どうせそのままでたらめを押し通す気でいるのだろう。いったいそれで誰が困るというのか。少なくとも君は困っている。君とは誰かの答えを求めているわけか。そうだとしても気の向くまま、その気にならなければ答えにはたどり着かず、問いはそのまま放置され、さらに関係のない言葉が連なるだけか。要するに忘れ去られてしまうわけだ。

 実際に何を語ろうとしているのか忘れているようだ。たぶん語る気がなかったのだろう。少なくともその時点では言葉を記す気はあったのかもしれないが、何を語るかは決まっていなかったはずだ。言葉を記してゆけば、自然と語っているようになっているはずだ。それにしては内容がお粗末すぎないか。それでかまわないとは思わないが、何となく途中から軌道修正して、まともな内容になるようにしたいのか。どうなるかはともかく、今はまっているいつもの自己言及を抜け出さなければ、具体的な何かには至りようがない。ではそのためにやらなければならないことは何か。またその問いに出くわしてうろたえ、誰かはそれを避けるために妄想の中に逃げ込み、フィクションの中の住人となり、勝手にありもしない話をねつ造しようとして、それに挫折して、また自らに問いかける悪循環にはまって、袋小路で身動きが取れなくなる。そうなったらおもしろいか。しかしそれは誰の話でもない。君が求めているのがそうしたことではないとすれば、どうしたことなのだろう。本当は現状に満足していて、他には何も求めていないのではないか。しかし他とは何か。この世界の他に何があるのか。だが君がこの世界のすべてを手にしているわけではなく、ほんのわずかしかその手中に収めていないのではないか。しかし誰もすべてを手に入れることはできない。そういう前提を君が打ち破ろうとしているわけではないだろう。君は自身がつかんでいるわずかな手がかりから、この世界のすべてを知ろうと試みているのではないか。それも大げさであり得ないことか。では君が知りたいこととは何だろう。

 まさかそこから誰もなし得なかったことをやり遂げようとしているわけか。また大げさになってきたようだが、それも違うと思われる。ふと見上げれば、今日の空は曇っているようだ。たぶん君は何も成し遂げられず、中途半端にやっていることを放棄してしまって、不完全燃焼のままにその生を閉じる。フィクションとしてはありがちなことかもしれないが、それがもっとも可能性の高い終わり方だ。しかし今から終わりを予測してどうするのか。何かもっと自己満足に浸るような話の持っていき方を模索した方がよく、その方が感動を呼び込むことができそうだが、いったいそこで何に感動したいのだろう。どこかのねじがゆるんでいるようで、どこかで巻き戻しが必要なようだが、とりあえずいえることは、自分が語っていることに自分で感動する必要があるだろうか。自己満足に浸れるような内容を求めているとは思えず、逆に絶えず不満が残るような内容にしたいのかもしれず、無意識のうちにそうなるようにしているのかもしれない。たぶんその不満の行き先がそこでの出口で、常時出口を開けておかないと、自らの嗜好の範囲内で同じことの繰り返しとなってしまい、そこで心身ともに固まってしまうことになり、要するに自らの限界を自ら設けてしまうことになるわけだ。もちろんその範囲内で自らが出くわす出来事に対処できているうちはいいのだろうが、それを超える出来事に遭遇した時が悲惨なこととなり、どうしたらいいのかわからずにパニクっているうちに自己崩壊してしまうわけか。だがそれならそれで、その程度の人間として片づけられ、周囲の人たちも自分たちの手を煩わすこともなく、自分で自分の首を絞めてもらって一安心となるのではないか。しかしそれはどのよう状況を想定してそう述べているのか。いったい君が何を述べているのかわけがわからないのではないか。


6月14日

 果たして今日も今日なのだろうか。そんなことを述べてどうしようというのか。まだ今日という日付に含まれた時間帯で言葉を記しているだけで、いつ明日になるかわからない。たぶん今日も何も思いつかないだろう。だがそう述べて何を予告しているとも思えず、君が悲惨な人たちの死について何か利いた風なことを語れるはずがなく、別に他人の死を利用して金儲けを企んでいるわけでもないが、なぜ唐突にそんなことを述べているのか理解しがたいだろうが、電車の中吊り広告で、有名な雑誌が有名人の死について、何か特集のようなことをやっているらしいことを知り、それがどうしたわけでもないのだろうが、それにつられてそんなことを述べてみたまでのことで、たぶんそんな説明自体が不要なのだろう。だがそれでもそれらの虚しい試みを茶化すほど興味を抱いているわけでもなく、社会の中で人に関するイベントの中では、冠婚葬祭のたぐいが代表的な催しであることは確かで、その中の一つを誘発する人の死という出来事が、人々に何らかの感慨を抱かせるのだろうが、死んだ人に関わっていた人々が何を思うとしても、それによって何がどうなろうと、君がそこから得られる何がしかの情報をもとにして言葉を並べようと、やはりそれはそれとして、そういうことになるしかないだろう。誰かの死を偲んだりするわけで、思い出の一部として、感動的な何かを抽出してみせたり、興味深いエピソードを語ってみたり、そうやって言葉を組み合わせて、死者を文章の中に存在させてみるわけだ。それがこの世に残された者に課せられた義務なのか使命なのか知らないが、まあそんな文章を読んで感動したりする人も大勢いるのだろうし、それ自体は意義のある行為なのだろうが、君はそれについて何を語るわけではなく、それを批判したり賞賛したりするわけもなく、何となく件の中吊り広告から目をそらし、何か別のことを考えているようだ。

 人はなぜ生まれたり死んだりするのだろうか。またいつもの冗談でそんなことを述べながらも、その問いに答えようとはせず、なぜ人は容易には生まれてこなかったり、簡単に死んだりしないのか、と問うてみるが、たぶん心がひねくれているから、そんな問いを発しているのだろうと思い、それも無視して、たぶん語りたいのはそんなことではないと思うが、それどころか何も語りたくないのではないかとも思い、本当は語りたくないのに語ろうとして、そんな矛盾する衝動によって語らされていて、それをおもしろがっているようで、要するにおもしろがりたいから語ろうとしているような気もして、画面の前でニヤついているわけでもないだろうが、窓の外を見渡せば、すでに夜になっているようで、だからどうしたわけでもないのだろうが、何かの気晴らしに何を思ってみても、結局は虚しいだけで、そこからどこへ行けるわけでもなく、その場にとどまり、つまらない人生を歩んでいるのかもしれず、やがてその身に訪れる死をどう受け止めることもできないだろうし、やり過ごすわけにもいかず、そこからどこへ行こうと、例えば豪華客船でカリブ海を遊覧している欧米人がうらやましいとも思えず、そんなテレビ番組を見ながら、人がそんな暇づぶしによって消耗していってしまうことが、意味のあることなのかどうかはわからなくなるが、たぶん世界中のどこへ行こうと、観光客に何がわかるとも思えない。少なくとも君が知っていることと大差はないだろう。それでもそういうイベントに幻想を抱かないとやっていけないことは理解できるか。

 空をオレンジ色に染めながら夕闇が迫ってきている。さっきまではそうだったはずだ。金持ちは金を無駄に使うことによってこの世の栄華を謳歌する。君の場合はどうなのか。ある程度は無駄遣いをしているのではないか。だがたかが知れている。誰もが大同小異なのか。たぶんそうかもしれないが、中にはこだわりのある金の使い方を心がけている者もいるのだろうし、そうやって他人と差をつけることを生き甲斐としている者までいそうで、いかに格好の良い金の使い方をするか、あるいはいかに格好の良い商品を買うかにこだわっているのだろうが、そういうのも大同小異の範囲内だろうか。そうだとしても格好の良いことをやって他人を出し抜いた気になるのは、たまらなく格好の良いことか。誰もがそういうことを競い合いながら金を使い、どこかの雑誌が提示する価値基準を参考にしながら、無駄遣いをしまくれば、この国の経済も上向きに転じたりするのかもしれないが、そういう格好の良さを信じられない者が多ければ多いほど、生活必需品以外では買い控えが起こり、無駄遣いがなくなり、どんどん不況になっていくのかもしれず、そうなればそうなったで、それもそれでおもしろいことかもしれない。しかし君はそこから何を言いたいのか。それの何が馬鹿げたこととも思わない一方で、世の中の何に興味があるとも思えず、その辺はフラットな感覚でいるようで、別にスーパーフラットほどには冗談めいていないようだが、何だか正気を保つには何事にも無関心でいればいいかのごとき信念があるわけでもなく、逆に関心を持てないのは狂気の一歩手前のような恐怖心も持ち合わせているかもしれず、とにかくせっかくこの世で生きているのだから、もっと楽しまなければとも思わず、何をやってもどうしたわけでもないという認識を捨てられずにいるようで、何事も程々でかまわないのではないかと思っている節もありそうだ。


6月13日

 そして今日になった。何がどうなったわけではないが、一応は今日という日付で言葉を記している。どうせまた明日になってしまうのだろう。今週は行事が立て込んでいるようだ。もちろんそれがどうしたわけでもなく、遅れたら遅れたで、遅れを取り戻そうとすればいいだけで、取り戻したところでどうということはないだろうが、ともかく演技でも嘘でもかまわないから、がんばっているふりがしたいのかもしれない。結果として何がどうなっているわけでもなく、相変わらず言葉を記しているだけのことだ。しかしなぜそこに感動がないのか。感動は贅沢か。では質素倹約的な言説だから感動がないのか。それは意味不明か。もっとシンプルに何を語ろうとしているわけでもなく、ただそんなことを語り、他の何に見とれる間も与えずにでたらめを記すつもりか。しかしなぜそんなに隙だらけなのだろう。あまり他人の言っていることを真に受けないようだ。だが自分の感性も信用できない。ピンとこないのか。巡り合わせの問題か。ともかく機会を捉えて言葉を繰り出さないと、言っていることが的外れになりやすい。それとももう飽きたのか。たぶんそんなことを述べている場合ではないのだろう。また言葉があらぬ方面に散らばっているようだ。たわいない言葉の並びかもしれないが、もう物事の分別くらいはついている頃か。何のことやらわからない。でたらめだからそういうことか。それでかまわないのだ。結果として何がどうなっているわけでもなく、ただそんなことを記しているわけか。それにしても言葉を記す理由が見当たらない。

 少し短いだろうか。その前が長過ぎたのか。でも文章の長短ではなく、内容が問題なのだろう。わかりきったことかもしれないが、そうではないと反論してみたところで虚しくなるだけか。たぶん認識が間違っているわけではないのだろう。文明と廃墟は同義語であり、それに対峙しているつもりの無為自然は人とは無関係だ。人為的な試みの積み重なりが都市を生み、自らが思い描いた夢の世界の中に住んでいるつもりになりたいのだ。だから君は他人と同じ価値観を共有できない。なぜ相容れないのだろう。ここは大規模なシロアリの巣と同じ居住環境なのか。そうだとしても何かが違っていて、人には文明があり、幻想を抱く理由があるのかもしれないが、そこで実際に君たちがやっていることといえば、ただのゲームでしかない。だがただではないゲームというものがあるのか。すべてがそうだ。常にリスクを伴い、のめり込むと底なしで、中毒患者は廃人から死人へと急速に変貌を遂げる。生きていること自体が、そうなる途上にあるということではないのか。だからそこで無為自然などという寝言のたぐいを唱えても馬鹿にされるだけか。馬鹿にされるならまだマシな方で、相手にされないというのが大半の反応だろう。人々はそんなことに耳を貸さず、自己正当化に余念がなく、隙あらば自らのこだわりを他人に押し付けようとするだけで、そんなことを相互にやり合って、そのせめぎ合いの中でかろうじて何かの均衡を保っているのかもしれず、闘争の中でしか生きている実感が湧いてこないのだ。しかし本当にそんな冗談のようなことを真に受ける者がいるだろうか。君は何を信じていないのか。信じられないのではなく、単に冗談だと思っている。どうもそれが何かの真相のように思われ、それに関して何か壮大な物語でも夢想しつつも、同時にさっきまでの冗談の続きを記そうとしているのだろう。

 君は人類の偉大な旅路を信じていないのか。なぜそれが冗談だと思っているのだろうか。ただ繁殖しながら世界中に広まっただけか。ならばその途中で滅んでしまっても良かったのではないか。何かの巡り合わせでそうならなかっただけで、そこに大した意味はなさそうで、とりあえずのこれが世界の現状なのだろう。しかしこれとは何なのか。国家単位で分裂している世界の現状がどうしたのか。要するに誰もが勝手なことを言い合っていて、他人の意見に耳を貸そうとせず、自分やそれに賛同する者たちのやり方を押し通すのに汲々としているということか。ではなぜそんなことに心を奪われてしまうのだろう。自らが正しいことをやっていると思っているからか。それともたとえ間違っているとしても、他人のやり方が気に入らなくて仕方がなく、自分の主張が通らないことに怒りを覚え、こうなったらどんな手段を使ってでも自分の思い通りになるようにしたいのだ。たぶんそういう思いがそれらの物語の主題となりそうだが、それに伴って生じる諍いがおもしろそうで、恐いもの見たさで野次馬が集まり、何やらどこかで活況を呈しているようだが、それが映画館の中であっても、テレビ画面の前であっても、そういう娯楽のために命がけになるほどおめでたいことはないか。だからそういう言い方が要らぬ反発を呼び込むのであり、後から嫌な思いをするはめに陥ることを恐れ、その辺で口をつぐんだ方がいいのかもしれないが、誰が饒舌に何を語っているわけではなく、他の何を慎んでいるとも思えず、どちらでもないので冗談にもならず、そんな言葉の並びに興味があるわけでもなく、君は黙ってその場を立ち去るつもりかもしれない。


6月12日

 今から何を語ろうとしているのか。たぶん必要のないことであり、無意味でくだらないことになるだろう。もう翌日の昼で、空は曇り今にも雨が降ってきそうな天候だ。それがどうしたわけでもないが、たぶん今日も無理だろう。何が無理なのかわからないが、何か言葉を記そうとしていて、それをやり遂げるのが無理なのか。そうだとしてもどうせそれを続けているに違いない。もはや内容ではなく、継続する意志の強さだけでやっていることなのか。そういう成り行きがかなりおかしいように思われるが、それにしても誰かは執念深い。しかしフィクションの中では誰でもないのに誰かであり、君が誰なのか明らかにされないまま、君という言葉を使い続け、毎度のことのようにそんな説明に終始しているのはどうしたことか。それが語るべきことなのか。そうではないと思うが、とりあえず語っているのはそういうことだ。だがそれが語るべきことではないとすると、他に何を語ればいいのだろうか。何も語れないのがここでの現状か。しかしなぜそればかり語っているのか。他に語ることがないからそうなってしまうのだろうか。そうだとしても、そういう成り行きから抜け出ることができないのはどうしたことか。何か他にないものか。もういい加減嫌になってきたようで、何とかしてそれ以外の語りに移行しなければと思うが、それができるかどうかは今の段階ではわからない。しかしそのこと自体が饒舌に語っているようで、まったくいつまでも自己言及的に語ることができるのは始末が悪すぎる。まったく正気とは思えず、自分で延々と語っておきながら、それを語っていること自体が信じがたいようで、どうやればそれを断ち切ることができるのか、皆目見当がつかず、もはやそれを語り続けることで、自身を破滅に追いやっているような様相を呈しているが、もしかしたらそれも冗談のたぐいなのだろうか。

 たぶん本気ではないのだろうが、それをそのまま続けること自体に、どのような意義を見出せるのか。まさかそれは文章を記すためにやっている練習のたぐいなのか。そうだとしても同じようなことしか記していないので、練習になっていないのではないか。だから練習でないともいえないだろう。すべては文章を記すための練習となり、誰かは日々練習のための練習を繰り返しているわけだ。それ以外に言葉を記す理由があるだろうか。今のところは他に理由などあり得ない。だから空疎なことばかり記しているわけか。だがこの世に空疎でない文章の内容などあり得ないのではないか。なぜそう思うのか。そこまで飛躍して語ろうとする理由がわからないか。理由がないのにそれをわかる方が不思議かもしれない。だがなぜ理由がないといえるのか。要するに何とでもいえるということだろうか。それが理由かもしれず、何をどう語ろうとしても、それについて語ろうとすれば、それは何とでもいえるということかもしれず、もはやそのように語ってしまっていること自体が無効なのかもしれないが、無効であろうとなかろうと、そんなことはおかまいなしに、何とでも語れるのだろう。実際に誰かという人物もどきがフィクションの中で何とでも語っているはずで、それを誰が否定しようが否認しようが、そこに記されている空疎な文章を消し去ることなどできはせず、消し去る必要もなく、ただ無視すればいいだけで、まともに相手にしなければ、何とも思わないようなことでしかなく、現実にはそこに言葉が記されていることだけしかないわけだ。

 別にそれは普通の事態で、何も恐ろしいことではない。ただそこに至る途中で意味のない冗談が差し挟まれているだけで、何やら気が狂っているだとか、虚無的な気分に覆われているとか、どうでもいいようなことがどうでもいいように記され、それらはまったく実態を反映しておらず、誰かがそこで暮らしている日々の日常は至って平穏であり、変わった出来事など何も起こらず、そこからは何の刺激も受けず、たまに見るテレビやインターネットからそれなりの刺激を受けているのかもしれないが、それらはすべて間接的なもので、直接何かを受けるようなことはほとんどないような気がするみたいだが、それは気のせいで、本当はそれと気づかないうちに何らかの現象や出来事に巻き込まれていて、それどころかそれにどう対処すべきか悩み、現実には四苦八苦している最中なのに、それが記された文章にはまったく反映されておらず、ただ空疎なことが延々と記されているだけで、他は何もなく、そんな嘘を平気でついているのに、当人はといえばまったく意に介さないようで、性懲りもなくそんなことを語り、それがやめられないようで、やめるきっかけさえつかめずに、事ここに至り、行き詰まっているふうを盛んに装うが、簡単に切り抜けられてしまい、それが罠なのか落とし穴なのか知らないが、はまっている当人にしてみれば居心地がいいのか、それとも苦悶の表情を演技で示すことしかできないのか、そんなことなどおかまいなしに言葉は延々と連なり、それに関わっているつもりの誰もが置いてきぼりを食っているように感じられ、どうにもこうにも対処しようのない何かにはまっているのだろうか。そしてそれがどうしたわけでもないのが救いようがないというわけか。たぶんそれでかまわないのだろう。


6月11日

 どうも遅れを取り戻せなくなってしまったらしい。なぜこうなってしまうのか。たぶんこういうことらしい。どういうことでもないだろう。何がどうなってこうなってしまったのではなく、いきなりこうなってしまうわけだ。何の脈絡もなく、心の準備も整わないまま、面倒な事態に直面してしまう。そして深夜になり、やる気をなくして寝てしまう。他に何があるわけでもない。翌朝に目を覚ませば、もう仕事の時間だ。昼になり、空き時間を見つけて言葉を記しているようだが、ままならないのは当たり前で、気持ちが散漫な精神状態のまま、何かいい加減なことを記そうとしているらしいが、どうなることやらか。風邪も治りかけているので上り調子なのかもしれず、たぶん機会を捉えて何かを繰り出す気なのだろうが、果たしてそれは何なのか。とりあえずまともな内容とはいかないようで、それがこれだとは到底納得できないか。それでも何について語っているつもりになれるだろうか。君はこの世を覆う空疎について語っているわけか。いきなり荒唐無稽か。それらの何が空疎なのか。それなら問題は解決済みだろう。壊れかけの何かが雑音を出していて、いやに耳障りなそれが誰かの鼓膜を震えさせ、神経を逆撫でしているのかもしれず、結果として思考を妨げ、いらつかせるには十分な音量で、誰かが君に攻撃を加えているわけか。冗談だろう。被害妄想にもほどがあるか。それは昨日の出来事か。いつの出来事でもなく、明日起こるかもしれない事件に含まれているわけでもない。では何なのか。

 そこから先は単なる付け足しになりそうだ。先があるとは思えないが、何が先なのかわからず、それ以前に考えていたことを忘れ、必死にその先で思い出そうとするが、それは単なる何かかもしれず、君は必死になって何でもないようなことを考えていたのだろう。しかしそれが思い出されるべきかこの記憶なのか。だから別に先を急ぐ必要はなく、ゆっくり進むこともなく、たまには後戻りしてもかまわないようだが、ところでそれの何が後戻りなのか。まだ頭の中ががちゃがちゃしているようだ。また壊れてしまったのか。それは誰の頭ではなく、何かの機械だろう。それも故障しているだけではないのか。まさかそこから何が立ち直ろうとしているのか。言葉の並びが破綻しているような気がするが、それでも何かを記そうとすると、こうなってしまう。いったいどうなってしまったのだろうか。たぶん何かが外れている最中のようで、それは理性か向上心か、あるいは何だろう。何でもないような気もするが、さっきからまったく話になっていないようだ。たぶん何も思いつかない状態が長引いていて、何かをあきらめかけているのかもしれず、相変わらずそのあきらめかけている何かがわからない。ところで機械の故障はその後どうなったのか。それは過去の話で、もう君は新しい機械に買い替えていて、それを使って滞りなく作業をこなしているはずか。しかしそれがどうしたのか。もう昼の時間帯ではなく、今は夜で、仕事をしているわけではない。だからそれも今となっては過去の話で、まったく興味のないことか。何かの巡り合わせでチック・コリアを聴いているはずだが、それも何かとは無関係だろうか。おかしな付け足しには違いない。

 そこで何に気づいたわけでもないが、そういえば雨が降っている。だいぶ前から気づいていたはずだが、これから買い物にでも出かける気でいたのか。何だか時間が逆方向へ回っているようだ。きっと気のせいだろうが、もう意識は夢の中なのか。いくら何でもまだ早すぎる。そして語りたいのはそういうことではない。それにしても無意味なことばかり語りすぎていて、本当は何を語りたいのかはっきりしないまま、ここまで来てしまい、もう後戻りができなくなりつつあり、そんな自己言及にはまって、もはや手遅れかもしれない。そんなわけで最近は何だか気分がおかしい。別に気が狂っているわけでもないだろうが、心身症か何かかもしれず、またそんな嘘をついて行き詰まりを打開したいのだろうが、何だかそれが見え透いていることが逆効果で、かえってさらなる行き詰まりを呼び込んでいるらしく、それが妙に心に応え、このままではいけないと思いつつも、それしかできないことをわかっているだけに、どうしようもなく誰かを鬱状態に落ち込ませているのだろうか。それでも君は笑っているのではないか。ざまあみろとは思わないだろうが、何だか残念な気持ちになっているのかもしれない。たぶん何かがわかりかけているのだ。そこに至るまでが苦しいのかもしれないが、途中であきらめるわけにも行かず、それどころか是が非でも到達したい境地というものがあるらしく、もしかしたらフィクションの中でもそう思っているのかもしれないが、それは決して作り話の中では達成されない何かであり、現実の世界の中で行き着かなければならない場所なのかもしれず、君があちら側で模索していることとは無関係の何かなのであり、それが誰かをそこまで導いている何かなのだろうが、やはり今のところはさっぱりわからないようだ。


6月10日

 まだそんなところでとぐろを巻いているのか。昼にアオダイショウを見た。だがそういうことではない。問題はそこからどう動いたかだ。それも違うと思われる。では何が違うのだろう。でたらめにそんなことを述べているだけのように思われ、話に何の脈絡もなく、どこからどこまでが君に関する話なのかもわからない。それは毎度のことか。やはりでたらめに語らないと、先へ話を進められないらしい。しかしそれではでたらめな話となってしまうではないか。そういう話をしているはずではないか。ならばでたらめでいいのか。だからそういう問題ではないと述べているわけだ。ところで君は具体的に何を語りたいのか。それを語ろうとする以前から空疎な問答を繰り返して、いったい話はいつ始められるのだろう。今話しているこれでは不満なのか。しかし誰がこれを話しているのだろうか。またそれか。とぼけるのもいい加減にやめて、もう潔く私という主語を使って語るべきではないのか。なぜそれができずに君とか誰かとかいうとりあえずの言葉を多用するのだろう。わけなどあるわけがなく、その場の気まぐれて使い始めてから病みつきになってしまったわけか。そんな嘘のような原因をねつ造すべきではない。ではこの状況をどう言い表したら納得してくれるだろうか。誰を納得させようとしているわけでもなく、何に納得したいわけでもない。ではまたもや無い物ねだりでもしたいのか。それも違うと思われ、たぶん何をどう述べても違うのだろうが、それは違うと述べたいがために、そういう問いを繰り返しているだけなのだろう。だから君はまったく馬鹿げていて、お話しにならないようなことを語ろうとしているわけか。そうだとしてもそれを誰が止められるのか。誰も止めようとはしないで、ただその場で繰り広げられる狂態をおもしろがって眺めているだけか。だからそういう話ではないような気がする。

 ではどんな話がしたかったのか。それは君に訊いてみないことには何ともいえないが、君が架空の君だとすると訊きようがない。だがどのみち架空の話でしかないのだから、フィクションの中で架空の君に尋ねてみたらいい。君はどんな話がお望みなのだろう。少し冷房が冷え過ぎか。まさかそれで話をはぐらかしたとは思えないが、とりあえず気づいたのはそういうことだ。だがそれでは話が違うのではないか。それとは違う話をしたいのだろうか。しかしそれとは何だろう。話の内容はでたらめで、しかも内容そのものが自己言及以外を知らず、本当はでたらめではなく、ただ内容がないだけではないのか。そんな気がするらしいが、そもそも話の内容とは何なのか。たぶん無内容と内容がないとは違っていて、無ともないとも状態が違うということか。それはどういうことなのだろうか。ますます自らが述べていることがわからなくなってくるが、ここまでくると単なる冗談では片づけられなくなってくるようで、他にどういう表現があるのかわからないが、ともかくそこに何らかの言葉が記されている限りは、何らかの内容があるのかもしれず、それが無内容という内容であったり、内容がないと語ることが、その内容であったりすることなのだろうが、平然とそう語ってしまうこと自体が尋常ではなく、何か狂気のようなものが含まれていて、そう述べることで、どこか得体の知れぬ地帯へと足を踏み入れていることの証しとなっているのだろうか。何だか大げさなことを述べているような気にさせるが、実際には何のことはない冗談のたぐいでしかないのかもしれず、そこに並んでいる言葉の状態を真に受けることもないのだろう。

 しかしそれはどういうことなのか。どうも今回はおかしな方向に問いすぎているのかもしれず、問う必然を感じないのに問うているような感じがして、たぶんその辺で常軌を逸しているのかもしれないが、とりあえず風邪は治りかけているようで、それとこれとは関係ないのに記してしまうところもおかしい。架空の身体にたまっていた膿が、そこへ侵入してきた病原菌に呼応して、その外へと滲み出てきた結果が、それらの空疎な文字列として表されているということか。それもかなりおかしな表現に違いなく、俄には信じがたいような無内容と化していて、そこに何があるわけでもないのに、空疎という言葉が醸し出す雰囲気が何かの存在を予感させ、もちろん何かとは何なのかと問うならば、それは何かでしかないとしか答えようのない何かなのだろうが、そこから先に言葉を記すとすると、やはりそれは冗談のたぐいとなる他なく、おちゃらけてそんなことを記している自ら卑下してみたり、あるいは気が狂っているようなほのめかしがあったり、要するに理解不能な現象を前にして、それを表す言葉の不在に気づいていながら、それと何とか表現しようとするからおかしくなるのであって、たぶんそれが真っ当な対処なのかもしれ知れず、それ以上の表現を模索しても何も出てこないような何かについて述べようとしていて、その何かが何かでしかないのに、その何かを表現する具体的な何かがあるように思われてしまうので、それを探し出そうとしているのかもしれないが、今のところは果たせず、それを認められないから冗談に逃げるしかなく、何とか無理な試みであることを冗談の言葉で覆い隠そうとしているのであり、その試み自体も不可能であることをわかっていながら、やはりそれをやろうとすることしかできないのだろう。


6月9日

 どんなわけでもないが、そんなわけで、なかなか思うようにいかないのはいつもの通りか。だがあまり根を詰める必要もない。その辺はいい加減でかまわないのではないか。自分に甘いと言われればそれまでだが、とりあえずは何に関してそうなのかわからないが、要するにまたわけのわからないことを語ろうとしているようで、すでに語っているつもりの誰かが、暇にまかせてそんなことを記している。それはまったく呆れるほど安易かもしれず、そうでなければ現状のとりとめのなさを語ることなどあり得ないのではないか。だからそれはその場の成り行き通りなのであり、語ろうとして語っているわけではなく、状況に語らされているわけで、そういう状況から必然的にそういう語りが導きだされているわけだ。そしてそういうことを語っている現状が馬鹿げているわけか。そう思うならその通りだろうし、その語り方は相変わらずくどい。無駄に言葉をちりばめ、空疎なことを延々と語っている。君はその辺でどうにもならない現状にいらついているようだが、いくらいらついてもどうにもならないことは確かで、いっそのことあきらめてしまった方がいいのかもしれず、今さら何をあきらめるつもりなのかわからないが、何となくその辺をごまかさないと、その先へは進めないらしい。つまり語ることはごまかすことなのか。そもそも出発点からして、語ることがないのに語ろうとしていたはずで、それを語り得ないのではなく、それがないわけだ。

 要するに語らない方が正解なのであり、何もないのに語るという過ちを延々と繰り返しながら、そこから抜け出られずに、もがき苦しんでいるわけか。だがそれはすべて演技ではないのか。常に何かを装っているのであり、語っているふりをしながら言葉を記していて、言葉を記しつつも、それについて語っていて、だからどこにも出口が見当たらず、迷路の中で行ったり来たりしているだけで、そこから出るつもりがないのかもしれず、抜け出られないのではなく、抜け出ようとしないだけなのではないか。ではなぜそうしないのか。やはりそれができないからそうしないのか。そうだとすると、本当は抜け出られないということか。それではまた出発点に戻ってしまう。わざとそうしているのだろう。君はそんなことを語りながら、空疎な語りを長引かせていて、それらのとりとめのなさをどうしようもできずに、ただ同じことを同じように繰り返し、そればかりでは埒が明かないのに、そこから抜け出るために出口を模索しながら、その出口に背を向けていることに気づかない。それは本当だろうか。本当でなければ何なのか。きっと嘘だと思いたいのだろうが、そういう繰り返しが記されていることは否定しようがない。ではどうしたらいいのか。困ったふりをしても誰も助けてはくれず、自分のことは自分で解決するしかなく、自分のことではないのかもしれないのに、それを自分のことだと思い込もうとしているだけではないのか、と疑ってみても、それはどうしようもない現実で、疑いようのない事実か。そうだとしてもなおのこと問いたださずにはいられず、それについて語らなければならないわけか。まったく正気とは思えない。

 だから正気ではなく冗談なのだろう。しかしそれでもまだ昨日の日付で言葉を記している現状に変わりはなく、相変わらずまともな内容を見出せずに、苦しんでいるのではないか。誰が苦しんでいるのか。またそれだ。誰がではなく君がでもなく、誰かが苦しんでいるのかもしれず、なぜ苦しんでいるのか、その理由は人それぞれで様々な理由がありそうだが、とりあえずそれを知る必要はなさそうだ。なぜそう思うのか。君には関係ないからなのだろうか。そうではなく、何を苦しんでいるのかわからないことが、誰かが苦しんでいる原因ではないのか。そうだとしても君には関係のないことだ。関係ないからそこで話が終わってしまうのも苦しいか。だがいくら苦しんでもどうにかなるとは思えず、どうにもなりそうにないから苦しいのであり、それでもさらに言葉を記そうとするから、よりいっそう苦しくなるわけだ。ならばそれは自業自得ではないか。そんな精神状態でいくら言葉絞り出しても、何が記されるわけでもなく、現実に記している内容は空疎なことばかりなのだから、もういい加減にあきらめて、そのままやめてしまえばいいのではないか。いったいやめられない理由がどこにあるというのか。まさかその理由がないからやめられないということでもないような気がするが、とりあえずはいったんやめて、仕切り直しの再検討でもしていれば、暇つぶし程度の効用はあるはずだが、なぜかそうはならず、結果的にはそのまま言葉を記して、苦しみながらもそれらの文章を完成させようとしているらしく、完成させたからといって、それで何がどうなったわけでもないのに、やはり気晴らしにもならないようなことに執着しているようで、それをさらに続けてしまうらしい。


6月8日

 また耳が遠くなってしまったようだ。それ以前に注意力が散漫だ。何とかしようと思っているそばからこのざまではどうしようもない。しかしなぜ君はゲームにはまらないのか。それをやっている場合ではないが、単に暇がないだけか。とりあえず風邪を引いている。内科で処方してもらった風邪薬は効くらしいが、実際のところはこんなもんか。贅沢を言っている場合ではなく、とにかく言葉を記すつもりらしく、内容が空疎だろうと何だろうと、別に義務でも使命感があるわけでもないのに、そんなことを述べているようだ。君はそんな現状に満足しているわけか。それは違うのではないか。何が違っているのだろう。なぜそんな嘘をついてしまうのだろうか。わざとそうしていることは確かだろうが、別にそれでもかまわないのではないか。何もないのだから、そんな嘘をついてもかまわないと思われ、どんな嘘をついているのか部外者には知るよしもないが、たぶんそこでは何も語られていないのだろう。実際に何も語っていない。ただ言葉が記され、それについて何かを述べようとすると、わざとらしく自己言及となるわけか。たぶんそれだけだ。その他には何もなく、君がひねくれているからそうなっているのではなく、工場地帯の排煙にまぎれて、得体の知れぬ誰かが姿を現そうとしているのでもない。それはいつの光景なのか。そこではそういうことを語る必然性が感じられず、他の場所でもそうかもしれず、何を語りたいのかわからないのは毎度のことで、それ以上にそこで言葉を記していること自体がフィクションなのではないか。しかしそれがどうかしたのか。風邪だから耳が遠いだけだ。

 何を紛れ込ませているわけではない。ただの言葉だ。それだけなのになかなか思うように行かない。あくびが出るが、他に何も出てこない。やはりただそれだけなのか。膝が痛む。のども痛む。出てくるのは泣き言ばかりだ。それでかまわないだろう。本当にそれだけなのだから、それを記せばいい。そしてそれが嘘だと思うなら、何か違うことを記してみればいい。たぶんそれは嘘ではなく、嘘だと思い込みたいだけなのではないか。実際にはそれでも語り、語っていることについて語ろうとしている。やはりそれだけのようだ。だがそれ以外ないとつまらなくなってしまい、それ以外を語らないと自己言及だけとなる。それだけではまずいだろうか。そういう自問自答の展開がおかしく思われる。確かにおかしいが、おかしいのに笑えないのはどういうことなのか。そんなことを述べているのが嫌になり、それをやめて眠ってしまい、それから一晩明けて、風邪薬が効いているようで、何となくそんなふうに思われ、それではだめだとは思わないが、咳き込みながらも、現状を把握しようとする。いったい君は何を語ろうとしているのか。いつまで経ってもそのままではまずいのかもしれず、もういい加減に目を覚まして、もっと何か別のことを語ればいいだろう。ではそれをこれから模索しなければならないか。またそれだ。懲りずにさらなる迷路でも踏破するつもりか。だがまっすぐな道が迷路に見えてくるのはおかしい。それは道ではなく川ではないのか。衛星写真では川も道も区別がつかないということはない。ではいったい何がそうなのか。君にこれ以上の何が語れるというのか。実際に語っているそれは何なのか。

 そのとき君が見ていた光景が答えなのだ。たぶんそれが違うのだろう。翌日の午後にはにわか雨が降る。それの何が違うと思われるのか。それとは何か。それこそが違うのか。どうやら行き詰まりの原因はその辺にあるようだが、どの辺がその辺なのかわからない。橋の下に芥子の実を持った誰かがいて、他の誰かがそんなことを歌っていた覚えがある。手のひらからこぼれ落ちるのは、砂漠の砂か。乾いたアスファルトの表面から揺らめきながら何かが立ち上り、それが誰かの記憶の断片だと思わせるが、一向に話にならず、言葉がまとまらずにどこかへ散らばってしまい、画面の表面で影が何の話でもないようなことを語っていて、それを見ながら書き写すこともなく、それもごまかしのたぐいだと実感しているようで、君はそうではない何かについて語りたいのだろうが、何かと何かと問われ、言葉に窮して、現状が行き詰まりの最中だとわかる。しかしそれが語りたいことなのだろうか。それについて君が何を述べているとも思われず、鼻をかむごとに耳が聞こえるようになり、それとこれとは無関係なのだろうが、風邪のおかげで正気に戻ったような気になり、それが気のせいだとしても、運命の神に感謝しなければならないのか。たぶんそれほどのことでもないのだろうが、外を眺めればまだ雨は降っていないようで、たぶん気がつけば仕事の最中なのだろうが、その時の記憶らしき何かが自己修復を遂げているようで、そのおかげで何とかここへ戻ってくることができたらしく、誰かは一安心しているのかもしれないが、出来事としてはそれ以上の何があったのだろうか。ただの戯れ事に過ぎないのか。そうだとしてもそこで感動すべきなのかもしれず、タイミング的に偶然の巡り合わせが功を奏して、君は窮地を脱してしまったらしい。


6月7日

 気がつけばもうこんな時間だ。何をやっているのか。何もやっていない。ただ車を運転していたはずだ。今は何もやっていない。そんな言葉を循環させるつもりか。確かに行ったり来たりするのが面倒くさくなる。そんな気がして、そんな記述に流され、本当にそんなことを思っているような気になるが、それは気のせいだろうか。きっと何を思っているのでもない。何もやりたくなくなっているのかもしれないが、現実の世界では言葉を記しているのだろう。それで正気に戻れるのだろうか。タイミング的にはそれでもかまわない。機会を捉えて言葉を記しているのだから、それはその場の成り行きに沿った行為だ。本当にそう思っているのなら、それに越したことはないだろう。実際に今の君はうまくやっているはずだ。だがそういう思い込みが思わぬ失態を演じさせる。別に笑うことはないだろう。なぜ思いもしないようなことを述べてしまうのか。それがフィクションを招く原因となっているのだろうか。たぶんそれは本当ではない。本心からそんなことを述べているわけもなく、いつもの冗談のはずか。たいていはそういうことになり、誰かは渋いだけの茶を飲みながら、そんなことを記すべきか否か迷っているようだが、結局は記してしまい、後で痛い目に遭うのか。だがそれは偶然ではなく必然なのかもしれず、そういう宿命の下にそれらの意識があるのだろう。その証拠に相変わらず何を述べているのか、その真意がわからない。

 だがそこに計り知れない思惑があるのではなく、謀略とも策略とも無縁な偶然の巡り合わせがあるだけで、誰がそれを語っているのでもなく、他の誰がそれを記しているのでもない。またそんな見え透いた嘘をつく理由がわからないが、ともかく具体的な何かについて語っているはずで、それが何だかわからないどころか、それらの空疎な趣をわかりすぎるぐらいにわかっているはずで、誰がわかっているのか定かでないが、要するにそんなことを述べても無意味だろう。意味不明なのだろうか。何がそうだとも思えず、ただでたらめに言葉を並べているとも思えない。ではそれは何かの法則に基づいて並べられた言葉の連なりか。たぶんそんなことを語るのがおかしいのだろうが、それはまさに語りようのない空疎について語っているのかもしれない。そうやってまた嘘をついているのだろうか。別に嘘だろうが何だろうが、誰がそれを真に受けることもないだろう。そんなわけでなかなか具体的な何かについて語る気配を見出せないまま、その兆候を記された言葉が妨げているようで、何だか記された文章の内容は、このままだらだらと意味不明気味に推移してしまいそうな成り行きを感じさせ、もう誰かの手に負えない症状を示し始めていて、まさかこのまま意識が暴走気味に突っ走って、力わざとまでは行かなくても、強引にそういうやり方を押し通してしまうのかもしれず、そんな成り行きを目の当たりにして、君は疲労感を漂わせ、何かめちゃくちゃででたらめな作品以前の落書きを思い起こさせるようだが、それを記している誰かも何が何だかわからなくなってきたようで、どうしていいのかわからずに、どうもせずにそのまま放置してしまうような雰囲気を漂わせ、実際にそうなってしまうらしく、もはや手の施しようのない何かを放棄しつつある。君はこのままでかまわないのか。

 ところでメランコリックとはどのような意味だろう。物思いに沈むさま、憂鬱であるさまだそうだが、果たしてそれが今の気分に当てはまるだろうか。何でもありではいけないのか。誰かは急に何を思っているのか。たぶん何も思っていないのだろうし、何とも思っていないように装いたいのだろうが、本当は何を思っているのか。何か適当なことを考えながら、それに基づいて言葉を記しているのではないか。誰がそれを読んでいるのか。風邪が悪化してきたようで、頭がぼうっとしているわけか。そんな感じには見えない。たぶんそうではないのだろう。風邪の他に何かに取り憑かれているようだ。それに関して何か思い当たることでもあるのか。疫病神ならとうに追い払ったはずか。たぶんそういうことではない。ここに来るまでに起こった出来事を順序立てて思い起こしてみるが、それが思い通りの成り行きだとは到底思えず、他の誰かの思惑にはまっているとも考えられない。では何なのか。偶然の巡り合わせでは片づけられない何かがあると思っているわけか。まさかこれまでの努力が実を結んでいるわけでもないか。しかしアンケート調査は無責任だ。それは考えることを放棄した怠慢の表れと見受けられるが、どうせ調査結果ともとにして、調査する以前から想定しておいた結果へと持っていきたいのだろう。それを恣意的に読み解きたいのであり、調査者の意見を調査結果が裏付けしているように見せかけたいのであり、ある意味でそれは卑怯なやり方である。君が笑っている場合ではなく、他の誰を笑わせようとしているのでもなく、くしゃみが止まらなくなった原因を何に求めているとも思えず、要するに風邪を引いたからそうなってしまったのか。わかっているならそれでかまわないではないか。


6月6日

 何やらこの時期に風邪をうつされてしまったらしく、のどの奥がそんな兆候を感じさせる。何だか面倒なことになってきたようで、それが何か思わぬ結果でももたらすのだろうか。君の知ったことではないだろう。相変わらずの意味不明な強がりに終始しているようだが、それで何がどうしたのか。何もどうもしないのだろうか。果たしてその先に何があるというのか。誰かが夢を抱いているようだが、それを叶える術を知らない。物語的にはそういうことだ。誰かが世の中に暮らしている。すべては人が築いたと思っている世界か。例えば摩天楼が立ち並ぶ大都市は、まるで巨大なシロアリの巣という形容が似合っているのだろうか。君は何についてそう思っているのか。この世界は誰のものでもなく、人はそのことに関して鈍感に振る舞うしかない。またわけのわからぬことを述べて、誰かを戸惑わそうとしているわけか。それでも何とか語らなければならない身にもなってほしいか。いったい誰がそうなのだろう。たぶんそれはただの独りよがりでしかない。誰も期待していないことをあえて述べてみせることが、何らかの効用をもたらすとは思えず、やはり無駄なことを述べているだけかもしれず、そのことに気づいていながらそれを改めようとしないのもいつものことだが、テレビで東山魁夷の日本画を見て感動している暇はないか。語りたいのはそういうことではないだろう。たぶんそれでも何か模索している最中なのか。火花散る車輪は事故を起こす寸前の列車についているらしく、どこからともなく煙が吹き出てきて、君は脱線した列車の窓を蹴り割って外へ飛び出したが、そこはトンネルの中だったのか。どこかのニュースでアナウンサーがそんなことを語っていたはずだ。だがそれを今さら思い出してどうするのか。

 唐突な付け足しに心が動揺して、何を語っているのかわからなくなったふりをして、一時的な記憶喪失を装い、それが嘘であることを承知しつつも、その先で何を述べたらいいのかわからない。たぶん無理に語りすぎているのだ。だから不自然な言葉の付け足しに終始していて、まったく話になっていない状況を呈して、何だか語るのをあきらめて、投げやりになっているように思われ、喉の痛みが邪魔をして何も語れない、といいわけを語りそうになるが、果たしてそこで踏みとどまる必要があるのだろうか。横になってしばらく考えるが、語っている内容がフィクションであることに変わりはなく、まったくリアリティを感じられぬまま、またそんな嘘をついていることに嫌気がさして、何だか次第にどうにもならなくなっているような焦燥感に襲われ、どうせまた苦し紛れに唐突なエピソードを差し挟むつもりなのだろうが、先回りしてそんなことを述べてみても、先手を打ったことにはならず、何かの誘惑に勝ったつもりで、暇つぶしのゲームを封印して、それにはまり続ける悲惨な輩を横目に、ただ黙々と言葉を記している誰かを想像しながら、たぶん明日の電車の中ではそんなことをやっている気がしてくるが、それが何を先取りしているとも思えず、そんな誰かの期待を裏切るように事が運んで、どうせ音楽を聴いているだけなのだろうと思うが、それでもまだ語るべき内容をクリアしていないような気がして、さらに言葉を記し、そこで何か適当なことを語っているような雰囲気に浸りたいのだろうが、うまくいったためしはなさそうだ。

 別にそれが饒舌に語っているふうを装っているとも思えず、それが君でないことは確からしく、それを確認するために無駄な言葉を連ねているわけでもないのだろうが、何が無駄な言葉なのかわかろうとせず、たとえ無駄であろうと、記された言葉には変わりなく、それが有効に機能しなくても、とりあえずは言葉を記すことができたわけで、何かためになるようなことを語っているわけではないことに一安心して、その次へと言葉を連ねようとしているわけか。だがさらに言葉を記す必要があるわけではなく、必要もないのに語っていると嘘をつく必要もないのではないかとも思い、それが記された無駄な言葉の連なりの一部であることを確認しながら、君はさらにそこから外れようとして、ジョズ・ジェームスの乾いたヴォーカルを聴きながら、それがクールだとは思わないようにして、ひねくれた根性を演じ、そんな芝居がかりも意味不明の一部をなしているのだろうが、いったい何をどうしたらそうなってしまうのかわからないように思い、また嘘をついていることを自覚して、さらに無駄なことを記そうとしているのだろうが、もはやそれは呆れを通り越して、いつか来た道を引き返している最中なのだろう。どうやら言葉の連なりが意味をなし得ないような状況下で語っているらしく、何かそれでもいいような気がしてしまうところがおかしいのであり、そうならないように努力しなければならないのだろうが、今のところはそれができていないようだ。それでかまわないのだろうか。たぶんそういうことを述べたかったのだろう。だからそれでいいと思われ、何やら面白おかしく語っているような気がして、次第に愉快な気分となっているのかもしれない。だからそれでかまわないと思うしかないのだろう。


6月5日

 使命とは何か。それに関して知っていることはたかが知れている。それにしてもまだそんなところでうろついているようだ。だがそれは君の霊ではない。少なくともそういう話ではない。影が代わりに語りたいのはわかっている。君が語りたいのではないのもわかっている。ではどうすればいいのか。わかっているのはそういうことではない。今日はなぜ雨が降らないのか。そういう問いに答えようとは思わないのだろう。誰にそれを問うているのでもない。わざとそんなことを述べて、それ以前に述べたかった何かを隠そうとしているのか。そんなはずではなかった。どんなはずでもなかったはずだ。そういう語り方ではなかったようだ。またそこまでたどり着けなくなっているのだろうか。そうではないことは承知していたはずだ。ただ気まぐれでそんなことを述べているだけだろう。それもそろそろ立ち行かなくなっている。毎度おなじみの予定調和の行き詰まりなのか。だからそういう話ではないと言っている。影が語りたかったのはそういう内容ではない。だがそれを誰が知っているというのか。誰も知らない架空の話をここですることができるだろうか。無理に決まっているか。それに関する問いならいくらでもある。それとは何か。それだけの話だ。また話がおかしな具合となってきたようだ。それ以前に話になっていないのではないか。いったい何の話をするつもりだったのか。君はそこで何を解決したかったのか。問題はどこにあるのだろう。どうやら何かをはぐらかしているようだ。それは苦し紛れにやっていることか。

 相変わらず長々と無駄に言葉を記している。興味がないのならそういうことを述べるまでもないだろう。本当は興味があるのだろうか。この世界ならどうなってもかまわない。フィクションの中で誰かがそう言い放つが、世界ならすでにどうにかなっていて、誰かが言い放つより先に、誰かの意向を無視してそうなっているはずだ。その世界がどうにかなった結果として、そういう間の抜けたフィクションが生じているはずだろう。君はどうするのだろう。黙って音楽を聴いているだけで生きていけるのか。それとこれとは関係なく、たまに音楽を聴き、そういう行為をその一部として含みながら生きている。そのとき君は何を眺めているのか。この世界の一部を眺めている。そして何も眺めていない時もあり、勝手気ままにいい加減なことを妄想している時もありそうだ。それが今なのだろうか。実際にはそういう話になっていないようだ。現実とは何かが違うのだろう。それを語っているのがフィクションの中でなのか、あるいは画面の前で言葉の連なりを眺めているだけなのか。そんなことをいくら問うてみたところで、何の結論も出てこない。それは君が進むべき方向ではないのかもしれず、君が君であろうとなかろうと、いくら道を外れてどこか得体の知れぬ地帯へと迷い込もうと、そういうふうに言葉が連なっている限りは、それを続ける義務が生じてしまうのか。そんなことはない。意識がフィクションの中へ逃げ込む必要はなく、現実の世界で見聞きしたことを記せば、それで記述のすべてが満たされるはずか。できればそうなってほしい。実際にそうなっているではないか。また君は嘘をついているのだろうか。

 そんなふうに語りたいのだろうか。いったい誰がそう思っているのか。またどこかずれてくるようで、わざとそうしているのかもしれないが、放っておいてもそうなってしまうのだから、それはそういう成り行きの中で述べていることなのだろう。そして君は困り果て、自らの意志では何もできないことを悟り、何となく嫌な気分となっているわけか。しかし今さらひねくれても、もとからひねくれている分が邪魔をするだけで、相殺されてかえってまともになってしまうのかもしれず、そうなることを期待してわざとひねくれているのでもないだろうが、何だかその辺で眠たくなってきたようだ。要するに語ることがないのか。それでも適当に語り続け、まさかそんなことを延々と語ってしまうとは思わなかったらしいが、とうとうここまで来てしまったようで、フィクションの中では海賊たちが世界の果てまで行って、そこでとんでもない光景でも目にして、そんな映像を見ている誰かを感動させているのかもしれないが、それがテレビ画面でしかないことに気づき、画面の向こう側でいくら大げさなスペクタクルが繰り広げられていようと、画面のこちら側では退屈を持て余している誰かがあくびを連発して、ふとした拍子に電源を切り、さっきまで何を見ていたのか思い出せなくなるわけもないだろうが、簡単にそれらの映像から目を背けられることに驚くこともなく、それが当然の成り行きで、日常生活ではそんなことばかりであり、画面の向こう側で繰り広げられている大冒険も、それを見ている君に一時の興奮以外は何ももたらさないことを、残念に思うこともなく、また寝て起きれば、朝から仕事をしている最中でしかないことに、何の不思議もないことを知っているはずで、そんなふうに人は生きているわけか。


6月4日

 蒸し暑いように感じられるが、この時間帯で何を記せばいいのだろうか。相変わらず語る理由はない。ならば語らなくてもいいのではないか。それもわかりきったことだが、それでも語ろうとしてしまうのもわかりきったことか。どちらにしろ、おかしな具合となるのだろう。何かを完全に見失っているようだ。くだらないことを語ろうとしている。別にそれはいつものことか。何かに乗り遅れてしまったらしく、夢の中に意識が取り残されている。嘘をつくならもっとマシな嘘をついた方がいい。嘘にマシも何もありはしない。嘘ではだめなのか。だめに決まっているだろう。また何かのアレルギーか。暑くなるとかゆくなるらしい。話が違うだろうか。かくとなおかゆくなるはずだ。だから話が違うと述べているではないか。そこから何かが違っているのだ。とりあえずは話をもとに戻そうではないか。しかしそれは誰の提案なのか。架空の対話をしている場合ではないか。君が何を語りたいかは知っている。知っているならなぜそれを語ろうとしないのか。君が君でないのはもとからそうだが、本当の君などどこにも存在せず、そんなことさえわかりきっているのに、なおも君はそこから語ろうとして、そんなフィクションの中で語っているふりをしたいだけなのだろう。誰がそう思っているのだろう。君がそう思っているのか。少なくともフィクションの中ではそういうことにしておきたいのかもしれないが、何となくそれが違っているような気がして、そんなくだらぬことを述べていてはまずいように思われてしまうのかもしれない。だがさらに言葉が連なっている現状があり、君はそんな現状をどうすることもできず、黙って目の前の画面に記される言葉の連なりを読むしかないらしい。そんなことがあり得るだろうか。

 たぶんそういうことだ。何がそういうことのなのか明らかにされないわけだ。そういう現状の中で、いったい何を語ればいいのだろうか。そういう問い自体が無効なのか。そうだとしてもなおも問うだろう。問わなければ先へ進めない。しかし先には何もないのに、なぜ先に進もうとしなければならないのか。時間が経過している。時が経ち、君を戸惑わせている言葉の連なりも次第に長くなる。それだけのことなのに苦悶する。痛みを感じているわけでもないのに苦しんでいる。そこに立ちすくみ、何も考えられないことに唖然として、もう手遅れだと悟り、別に自暴自棄になるような場面ではないだろうが、フィクションの中でも何でもありはあり得ないのか。でたらめならそういうことになりそうで、今まさにでたらめに語っている最中かもしれない。だがそれがどうしたわけでもなく、ただわけがわからないことを述べているに過ぎず、それはどう読んでもごまかしのたぐいになるだろう。いったい君はそこで何を語っているのか。それは見た通り読んだ通りのごまかしに過ぎないのだろうか。何が繰り返されているわけではない。本気になるべき時は他にあるらしく、今はだらけたことを述べていればいいわけか。何がそうさせているわけではなく、それはただの思い違いだ。もっと感覚を研ぎ澄まして、思考を効果的に巡らさなければならないが、そんな抽象論では何を述べていることにもなりはしない。それの何が抽象的なのか。だいいち語っていることが違うだろう。何が違うのか。これ以上でたらめに言葉を繰り出せば、さらによりいっそう何かがおかしくなってしまう。何かとは何だろう。

 具体的に何がどうなっているわけではなく、ただ語っている現状があるらしいが、今はそれだけで十分か。何もなければ語りようがないところを語っているわけだから、それが嘘だとしても、何となくかまわないような気がしてくるのだろうが、どうもその辺で何か得体の知れない雰囲気に流されていて、まともなことは何一つ述べていないのに、やはり何かを語っているような気にさせ、君を惑わしているようだが、それを本気で疑ってみてもいいのだろうか。フィクションの中の君はもはや猜疑心の塊とかしているようで、みすみすその場で得られる利益をつかみ取ろうともせず、まったく損な役回りしか引き受けようとしない。だがそういう状況下でも、何やら希望を抱いているらしく、安易な誘惑に負けて、目の前のごちそうに手を出すわけにはいかない意地やこだわりがあるようで、自らがないがしろにされている境遇に甘んじていることが、逆に希望を捨てないでいられるようにしているのかもしれず、誰かが漏らすふとしたあくびがそれを物語っているとは思えないが、何かが君をその場に招き寄せ、君以外の誰かが発した言葉を君に受け渡し、それを使う権利を君に与えているわけか。それは権利ではなく、強引な収奪かも知れないが、とりあえず使えるものは使い、それを利用しながら言葉を記し、それで万事がうまくいくとは思えないが、そこから何らかの結果が導きだせることは確かで、一方でそれはどういうことでもなく、それに関して問えば問うほどわからなくなるだけで、それに対する関心をどこか遠くへ放り投げ、あえて忘れてしまうような状況となった時、そこで初めてふとした拍子に何かがわかるようになるのであり、そういう紆余曲折を経ないことには、なかなかたどり着けない地点があるのかもしれない。


6月3日

 どうも言葉がない。何に衝撃を受けたわけでもないのだろうが、それを記さなくてもいいのだろうか。何でもないのに、思わぬところから破綻してしまう。それも成り行きのひとつか。軽い気持ちでそんなことを述べていればいいだけなのかもしれないが、手こずっているのはそれほどの不具合ではない。だがそこで力を使いすぎたのだ。たぶん途中の寄り道にも、何らかの必然性があるのだろうが、すでに疲れているはずだ。できないことをやろうとして果たせず、やはりできないことだと実感して、それでも深夜に地震速報で起こされ、何の因果か知らないが、そこから言葉を記すはめに陥り、何に困っているわけではないことを知る。他に知り得たのは何か。そこから何かを語ろうとしているのかもしれない。もう昼になっている。午前中は仕事をして、今は昼休みの最中なのだろうか。ふと見上げれば、ウサギのぬいぐるみが宙に浮いている。きっと気のせいだろう。嘘に決まっているか。何かおかしな雰囲気を察知して、たまらず冗談を発しているつもりが、唐突すぎて、正気を疑われているのかもしれない。そんなはずがないと思いたいのか。冷房が寒すぎる。どうもまたおかしな具合になってきたようで、相変わらず道に迷い、それが頭痛の種となっているわけがないとは思うが、それにしても文章が長過ぎるような気がする。無駄で無意味なことを延々と記している。それがいつものことには違いないが、何となくもうそろそろ違う話の展開を期待したいところか。実際にそうなってくれればしめたものだが、なかなかそうはならないようだ。

 しかしこのところの世界情勢はどうなっているのだろうか。興味がないくせに、そんなことを述べるものではないか。だが冷房のおかげで汗が退いてきた。漢字の使い方が間違っているかもしれないが、何となくそういうニュアンスでそうなっているようで、日本では菅首相を辞めさせるらしいが、別に誰が代わりに首相をやったところで、どうなるものでもないだろう。まさか自民党の谷垣総裁にでもやらせるつもりなのか。そうなったとしてもどうということはないだろうが、いっそのこと官房長官の枝野氏にでもやらせたらいいのではないか。少なくとも老人ボケ気味の菅氏よりは頭がキレそうだ。しかし日本の総理大臣がやるべきこととは何なのか。アメリカに追従していればいいというのなら、こんなに楽なことはないだろうが、まあマスコミが喜びそうなことを記者会見で語り、それを実行しようとすればいいのだろうが、それは具体的にどんなことかと問うなら、その辺はあまり興味がないので、とりあえずはわからないと述べておこう。これからどうなるにしろ、君には関係のないことかもしれず、その辺であまり利いた風なことを語ってしまうと、わけ知り顔のニュース解説者のような意見になりそうなので、自重しなければならないか。まあ言うは易しで、それほど大したことでもないように思われ、軽々しくも勝手なことを支離滅裂気味に述べていたかつての討論番組の論客よろしく、おもしろおかしく語ればそれでかまわないのかもしれないが、それでは何となく実質的に無効なような気もしてしまい、その辺で考えあぐねていることは確からしいが、要するにそれに関して何を語ろうと、そんなふうにしかならないのかもしれず、だから何も語らなくてもかまわないのだろうが、それで済ましてしまうのは倫理的にまずいか。

 たぶんこんなことを記述していてはまずいのだろう。ではどんなことを記せばいいのだろうか。それがわかったら苦労はしないか。だからまずかろうとだめだろうと、とりあえずは思いついたことを記してみなければならないということか。だが何も思いつかないのに、なぜそんなことを述べているのだろうか。その何も思いつかないというのが嘘で、本当は思いついているのに、わざとらしく何も思いつかないと述べるのがおかしいのか。おかしいだろうが、別におかしいことを述べてはいけないわけでもなく、とりあえずはおかしかろうと、正気とは思われないようなことまで、適当にいい加減に記すべきなのだろうか。だからそれではだめだと思われてしまうのか。何を画面の前で笑っているのか。やはり言葉の連なりは、わざとらしく堂々巡りの最中のようで、なぜそんなことを述べてしまうのか理解できないようで、別に君が理解できなくてもかまわないのかもしれないが、どうもそういうのはいただけない。何か無駄に余分なことを語らなければ気が済まないように感じられ、それだけ空疎な記述が増えてゆき、まともなことはわずかしか語らず、それで済まそうとしてしまうのだから、呆れてくるようで、ただ漠然とした虚無感を抱き、この世界について何をどう思っても、そんなことはどうでもいいような気になってくるらしい。たぶんそれに関しては気が済むような答えは何も見つからないだろう。人は個人としても群れとしても、何をどうしたらいいというのがないような気がして、好き勝手にやれと言われても、やろうとすれば様々な障害物や横やりが邪魔をして、決して思い通りにはいかないのはもちろんのこと、そもそも自分がやりたいこととは何かということすら、確実にそうではないような気がするわけか。


6月2日

 雨が降っているようだ。すぐやみそうで、言葉を記しているうちにそうなるだろう。そして何も語らないうちにその気がなくなり、何となく画面から目をそらし、何もやらなくなってしまう。すでに眠っているのではないか。そんなことはない。これから何かを語ろうとしていたところだ。今さらそんな嘘をついてどうするつもりなのか。どうもせず、たぶん語る必要もないのだろう。なぜそう思うのか。何も思いつかないからか。図星だろうか。他に何を予測していたわけではなく、たぶんそうなるだろうと思っていただけか。何のことはない、予定調和の言葉が連なっているだけのようだ。何か他に語りたいことでもあるのだろうか。幸せとは何か。ありふれた問いだ。それが答えなのか。何が幸せなのかを問うことがありふれているわけか。いったい何を定義しようとしているのだろう。そんなものを数値化してしまうところが、凡庸な者たちがやりそうなことだ。凡庸でかまわないではないか。何事も凡庸でなければ息が詰まってしまう。聡明であろうとすることが凡庸になる近道だ。誰かが書物の中でそんなことを述べていたように記憶しているが、それは何かの勘違いか。それとも君が誤読していたわけか。これでいいのだという台詞が漫画の中に記される。君はそれを何でもないと思う。この世界には何もないわけではない。少なくともそこに何かがあるのだろう。誰かが幻の獣を探している。虚しい試みだ。君はそこで何を見つけたのか。たわいない猫のたぐいか。そして興味をなくし、そこから遠ざかり、気がついたらだいぶ眠ってしまっていたようだ。もう無理なのだろうか。何が無理なのか。

 気がつくのが遅いのではないか。何かにのめり込んでいたのか。たぶんそうで、体中が痛い。筋肉痛のたぐいか。そこから何とかしたいところだが、どうやら無理らしい。君は疲れているのだ。それで眠ってしまい、起きたら体中の筋肉が痛い。それに近頃は暑くなったり寒くなったり、寒暖の差がありすぎる。ついてゆけないものがある。だからあきらめた方がいいのだろうか。しかし言葉と言葉の間に空白がありすぎるのではないか。そんな文章に出くわし、それで済ましていることに驚かされ、何だか空疎にもほどがあるように感じられ、そういうあからさまなごまかしに唖然とさせられるが、やはり努力が足りないのだろうか。ひたすら無駄な言葉で空白を埋め尽くすのよりはマシか。それでもそこに何らかの技術的な裏付けがある方が良心的だろうか。だがそれはごまかしの技術なのではないか。言葉を繰り出して並べる技術がなければ、結果として余白だらけの文章になり、それがまかり通ってしまうのが、文化といえば文化なのだろうが、まあブログ文化も底が浅いといわざるを得ず、むろん冗談でそんなことを述べているのだろうが、要するにその手の凡庸さをさらけ出しているところが、ありふれた現象なのだろうし、それに反発して、無理に長い文章を記してみせるのも、意固地でくだらぬ反応なのだろう。だが君はそれでもそこから逸脱したいのだろうし、わざと長ったらしい記述を披露して、どうだといわんばかりに空疎な無内容をさらけ出す。何にしてもそれこそ馬鹿げているのではないか。とても正気だとは思えない。だからもうかなりどうでもいいことを述べているようで、いい加減にその辺で次の段落へ進むべきか。

 だがそう述べたところで、結果的にはそれらをバラバラに刻んで、細切れの何かを提示してしまうのだろう。それが誰かのやり方なのか。誰のやり方でもありはせず、誰もそんなふうには記さないだろう。少し思い上がりの兆候があるのだろうか。そうだとしてもそこまで記せるのだから、それを継続させて、何らかのまとまりを提供すべきなのだろう。ある程度言葉がまとまって連なっていた方が、それらしく見えるわけか。だからそれらの文章が読まなくてもよく、ただそれらの全体像を眺めていればそれでいいのかもしれない。しかし読む必要のない文章とはいかなるものか。今眺めているのがそれなのだろうか。それだから何だというのか。そうだとしてもそれを途中で放棄するわけにはいかず、最後まで言葉を記さなければならず、結果としての内容がどうあれ、何となくリズムとして、そういう言葉の並びが必要とされているらしく、そういう間隔で言葉を並べて、平面的にそれらを配置しているつもりになり、それで自己満足に浸りつつも、いつでもどこでも反省しているように装い、すぐにそれが自問自答に持ち込まれ、今度はそれ自身について自己言及的に述べているように見せかけ、わざとらしくも自己批判の様相を呈しているわけで、その辺で呆れとあきらめを感じてしまい、またその程度のことかと落胆してみせ、自分ではそうならないような話の展開を夢想しているのだが、そうではない現実を突きつけられ、何か思い知らされたような敗北感を味わい、まあその辺でお茶を濁しておくのが無難だと感じられ、実際にそういう線で話をまとめあげ、まとまったらそれを示して終わりとして、後は寝るだけか。すでに眠っていたのではなかったか。だからこれから二度寝となるのだろう。どうやらまだ雨はやんでいないらしい。


6月1日

 なぜそれを続けられるのだろうか。だがそれにしてもおかしい。何とかしているような気がするが、これでいいとは思えないのはどういうことか。まだ改善の余地がありそうだが、どうすればいいのかわからない。いつもそう思っているだけで、具体的に何をどうすればいいのか、試行錯誤や模索が足りないような気がする。現にやっているこれではだめなのか。少なくともうまくやっている方かもしれない。不満が残るのは致し方のないことで、いくら努力しても、満足できる結果を残すのはまれなことか。その辺に思い違いがあるのかもしれないが、とりあえずそんなことを語り、そんなことが記されている現状があり、そんなことが延々と続いているようで、時には嫌気がさすこともあるようだが、なぜか続いていて、それが奇跡的なのか偶然なのか当然なのか、あるいはそのすべてが結びついた結果なのか知らないが、とりあえずは続いていってしまっているようで、それをやめることができない状況なのかもしれない。やめる潮時を逃してしまったのだろうか。それとも何か運命に導かれていて、やり続けていれば今後何か決定的な出来事に出くわすのか。しかしそれにしても長過ぎる。いったいいくらやれば終わりがやってくるのか。別に終わりを目指しているわけではないから終われないのか。しかしなぜ終わる必要があるのだろう。少なくとも何かをやればどうにかなるようなことではない。ただ延々とそんなことをやっているだけで、やっていることにとりとめがなく、目標も目的もなく、過去にはあったかもしれないが、それらはすべて摩耗していってしまい、余分なものはすり減って、残っているのは言葉の連なりだけだ。

 本当にそうだとは思えないが、何が本当なのかわからず、それはただの言葉を繰り出し方に関する技術なのかもしれないが、それによって成り立っているにしても、なぜそこまでやる必要があるのだろうか。やる必要もないのにやっているだけかもしれず、知らないうちにそんなやり方が肯定されてしまっている危険性があり、それ以外は何もできなくなっている可能性もなきにしもあらずだが、やはり現実には何もなくなっているようで、ただそれだけのために生きているような気がしてくる。そうなってしまったらまずいのかもしれないが、ともかくフィクションの中ではそういうことらしく、架空の人物に過ぎない誰かは、それらの虚構の中で言葉を記し、何やらわけのわからぬ文章を構成しているつもりのようで、それが誰か自身にどんな効果を及ぼしているのかも気づかず、知らず知らずのうちに病みつきになり、今や中毒症状を示しているのかもしれず、今や完全にそれなしでは生きていけなくなってしまったのか。きっとそれは気のせいだ。たぶん本当はそうではなく、何かの片手間でやっていることに過ぎず、それに費やしている時間はほんの短い間で、それ以外は別の関係のないことをやっているはずで、ただそれをやるのに多大な精神の集中と疲労を伴うから、何かそれだけのために生きているような気がしてしまうのだろう。そして直接的に何の役に立つわけでもなく、無駄で無意味で疲れるだけのように思われてしまうから、何かやる度にストレスがたまり、もうやめた方がいいのではないかを思ってしまうわけか。それはその場で展開されている話の流れから思いついた嘘だろうか。要するにそう思う時もあるし、思わない時もあるということか。そうだとしてもどうしたわけでもない。

 それでもかなりな精神的な負担となっていることは確からしい。たぶんこのまま続けるのは無理なのだろう。それでも続けている現実があり、無理だと思うが、実際には続けられてしまうのかもしれないが、ともかくそういうことで、まだまだその先に続いていってしまうのかもしれず、何がどうなってそうなってしまうのかわからないが、わかっているのにそういうことを述べてしまうのかもしれないが、君はそこで悪戦苦闘の最中だ。そう思っていればいいのだろう。済ました顔で言葉を記し、その無表情が何を意味するのでもないだろうが、ただ延々とそれを続け、その中で何でもないようなことを延々と述べ、いやになるほど同じことの繰り返しとなってしまうのかもしれないが、実際にそうなっているのかもしれないが、今のところはそれが止む気配はなく、何かの低周波音のように、どこかへ延々と響き続け、そんな雑音に悩まされている意識がどこかに存在していたら笑ってしまうが、たぶん雑音に悩まされている当人にとってはたまったものではないのだろうが、それは何かの惰性のように続いてしまうしかないらしく、止めようと思えば止められるのかもしれないが、あえて止めようとは思われず、そんな思惑とは無関係でいられるのかもしれず、君もそれらの雑音源を止める気はないようで、今のところはそういう成り行きに従って言葉が記され、さらにこの先もそれらの悩ましい試みが続いていくように思われ、いつそれが途切れるのかは誰も知らないようだが、もしかしたら途切れた時にそれらの作品が完成するのかもしれず、そうなって初めてそれらの言葉の羅列が、ひとつの作品として完結してしまうのかもしれないが、果たしてそれが作品として見なされるか否かは、これからのさらなる紆余曲折的な試行錯誤の結果にかかっているのか。だが君は別にこれらが作品と見なされなくてもいいような気もしているようで、現状のこれでもかまわないと思っているのかもしれない。