彼の声83

2011年

3月31日

 やはり案の定翌月に持ち越してしまったようで、別に何か記すことが切実に求められているわけでもないのだから、また何かの後始末のように、架空の無気力を糧として、無駄で無意味なことを記してしまうのかもしれず、現にそうしている最中なのだろうが、やはり改めて何を記そうとも思わないのではないか。そう思うならそこで終わってしまう。だがこれで終わったことになるのか。それでもかまわないような気がしているだけか。心の内側で何を思っていようと、焦っているふりをしていても、気持ちが落ち着いていることは確かで、何となく普通の視野で物を見て、その輪郭から物の名前を当てることもでき、それがどうしたわけでもないだろうが、架空の誰かには正常な判断力が身についているらしい。そう思うならそういうことになるだけのことで、思わなければ、後から作り話でもでっち上げ、その話の中でそう思っていることにすればいい。だがいったい何について述べているのか。そこで気づくようなことではないだろう。それともすでに気づいていて、後から絶妙のタイミングを捉えて、何かを繰り出しているわけでもないが、その場の都合に合わせてそういうことを述べているだけなのではないか。だがいったい何を述べているのか。別に気にするようなことではなく、気になるようなことでもないだろう。ただ君はその場の成り行きにあわせて、そういうことを述べている。何を述べているのかと問われれば、そう答えるしかない。

 そしてそういう機会を捉えて君は途方に暮れ、わざとらしく気まぐれに見せかけながら、何かの演技に没頭する。それが焦っていることの理由となるだろうか。今は焦っているわけではなさそうだ。では何ももたらせない理由でも思いついたのか。それが理由になっていれば、話に説得力が宿るかもしれず、話していても話甲斐を感じるかもしれないが、実際は何を感じているのだろうか。無気力と無感動が強がり痩せ我慢を行う上では必要とされるわけか。何に対しても動じないのとはわけが違うか。内心動揺して冷や汗が滴り落ちかかっているのを隠しながらも、無表情を装い、平然と見え透いた演技をごり押しして、周囲から失笑を買っている現実を無視して、さらにそういう動作へとのめり込んでゆく、そうなったらもはや正気とは思えず、そういう人物を目の前にして恐怖心すら湧いてきかねないが、やはりそこでも人それぞれだと受け流し、それはそれで傍観するしかなさそうで、君はその辺で冷静な対応と受け答えをしているはずだ。下手に騒ぎ立てて、事態を変にこじらせてしまうのは愚の骨頂だろうから、妥当な線でそれらの狂態に接しているつもりらしく、何となく悲惨な気もしないではないが、何を言っても馬耳東風なのだから、そうするしかないのだろう。そしてその件は遠からず解決に向かう気配も出てきたようで、よほどのことがない限りは、決まりきった結末が待っていることだろう。たぶんその時がいつ来ても、君は平静を装うはずだ。それはわざとではなく、言葉の意味の通りだからか。

 たぶん報われない人間はいつまで経ってもそのままなのだ。そういう状況下で生きているのだから、自然とそうなってしまうのではないか。いくらそれなりの人間を演じても、遠からず必ずぼろが出て、化けの皮がはがされ、そのピエロ的な双眸があらわになり、周囲から落胆と失笑混じりのため息が出てくるころには、大したことはない結末が用意されているわけか。誰かはその用意された結末を受け入れられるのか。その時になってみればわかることか。その時にどんな反応が出てこようと、何を拒否してみても、そういう行為を含んだすべてが結末なのであり、きっとそれを受け入れざるを得なくなるだろう。たとえそんな結末を受け入れなくても、その受け入れない態度そのものが結末となってしまい、いくら取り乱しても、もはや手遅れであることを実感するしかないだろう。そこで後悔してももう遅いはずで、今までにやってきた数々のごまかしが仇となり、実際に取り返しがつかなくなるほど人間関係を悪化させているわけで、現に周囲の誰もがそんな結末に納得していて、誰も同情するつもりもなく、ただ突き放して見下すばかりだ。そうなってしまったらもう終わりだ。その場にいられるはずがなく、またその人物は流浪の民となり、ハローワーク通いの日々を送ることになるのだろう。そして運がよければ、新たな金づるを探り当て、また例によって何の反省もなしに、わざとらしくもまともな人間を演じながらも、結局は同じことの繰り返しとなってしまうのか。君はその人が少しは反省して、演じるのではなく、普通に自然の流れでそういうことをやってくれれば、普通に生きられるはずだと思っているらしいが、それができないから、そうなってしまったことを思い出し、何となく暗澹とした気分となるだろうか。


3月30日

 果たしてそこから話が進むのだろうか。今のところはその兆しが感じられない。すでに月末になり、一日遅れを否めないが、誰かは今から二日分を記す気でいるようだ。たぶん無理だろう。実際に何も思いつかないではないか。それでも言葉を記そうとするのはおかしいだろうか。もとからおかしいのではないか。頭がおかしいのか。それでもかまわないが、格好が悪いので正気のつもりでいることにしよう。たぶんまともなことを記そうとしているのだろう。それがそうか。そうではないが、いつかそうなるかもしれず、その時が来るまで言葉を記していればいいのではないか。きっと君もそう思っているはずだ。冗談か。たぶんそうなのだろうが、何となくそれでかまわないような気がするのはいつものことだろうか。たぶんよそ見をしている場合ではなく、どうせテレビを見れば原発と地震の話題ばかりか。それとこれと無関係であり、別にそれについて述べなくてもいいのではないか。実際にそうでないことを語ろうとしているはずだ。それにしてもすでに夜で、気分が優れないのは仕方がないとしても、それで何がどうなったわけでもないが、ともかくこの世界の何かについて語らなければならないのだろう。ところで君は何を焦っているのか。そこから何かが逆戻りし始め、また語り始めに戻ろうとしているかのように語ろうとしているが、きっとそんなのは嘘に違いなく、君はその場の空気を読み違えている。

 しかしその場とはどの場なのか。場などどこにもなく、空気を読み違えているのはどの場でもないのではないか。ならば君が語る場などどこにもないのか。君自身が不在の存在なのだから、それはそれで当たり前のことか。そこに君と記されているだけで、君がいるかどうかはわからない。以前にもそんなことを述べていたはずか。いったいいつになったらそこから抜け出せるのか。それは永遠に無理か。無理なら無理でかまわないのではないか。そんなことを気にしていたら何も語れなくなってしまうだろう。現実に何も語れていないのではないか。言葉は記すが何を語っているわけでもなく、何を語ればいいのかもわからず、いつも途方に暮れているはずだ。だからそういうことを語っていることを肯定すべきか。どうせ君には認められないのだろう。だから誰が君なのかもわからないのに、認めてもらうつもりもなく、ただ延々とそんなことを記しているわけだ。そして君はそれを認めざるを得なくなり、認めることと引き換えにして何かを得ようとするが、結果として得られたものはといえば、ただの空疎か。そう思いたいのだろう。何とかそんなふうにしてそれをその場に定着させたいのだろうが、たぶんその場で空気を読み違えているのだろう。それではだめで、まったくのでたらめとなってしまうか。すでにそうだろう。内容のない、意味不明な言葉の羅列となっていて、ひたすらつまらない説明に終始している。

 君はそれでもかまわないと思うだろうか。あるいは君ならどう語っているところか。今さらながらグレン・グールドのピアノ演奏を聴いているが、他のピアニストとどう違うのか。説明など要らないだろう。ただの思い込みなのかもしれない。そう思うならそれでもかまわないのではないか。何を語ることもなく、ただ聞き流せばいいだけのことでしかない。だがそれでは何を語ったことにもならないというのなら、代わりに君が説明すればいいだけか。君がいたらの話だが、誰かはそんなことには目もくれず、そこにたどり着きたいだけで、必死に言葉を記し、内容など何もこだわらず、己の信じている通りの結果をもたらせれば、それでかまわないはずだ。それはどんな結果なのだろうか。これからそれを提示しようとしているのではないか。話の完結など、まだほど遠い段階のようだ。だからさらに無駄な紆余曲折を経て、幾度も迂回を繰り返し、当たり前のように道に迷い、どこを歩いているかもわからなくなり、そんなことを経た後でないと、まともな言説を記せないのかもしれない。だから今はそれでかまわないのか。ご都合主義も甚だしいか。でもそれで今までは継続を保ってきたのだろう。なぜか画面にはボスポラス海峡が映し出され、たぶんそれはイスタンブールの衛星画像なんだろうが、どうも聴いている音楽との関わりを想像できず、まあそこがアジアとヨーロッパとの交差点で、クロスロードといえばそうなのだろうが、なるほどそれが作品のタイトルとなっているわけか。しかしそんなことを唐突に述べる必然性は何もないようで、それも何かのごまかしなのかと問えば、その通りだと答えるしかないだろう。


3月29日

 今確実に言えることは何だろう。何かを取り戻そうとしているのは確からしい。だがそれが空疎と虚無だとしたら、だいぶあてが外れているようだ。市販の風邪薬を一日四回飲みながら、それが誤りだと思わないのはどういうことだろう。それは何かの中毒なのか。たぶん風邪中毒だ。だからもうやめた方がいいと忠告したではないか。だが翌朝になったら少しは体調が改善したようで、何となくそんな気分で何かを語る気になったらしいが、とりあえずは何もありはせず、少し頭痛がするくらいでは生ぬるいか。君の知ったことではないか。アンドレ・ブルトンがシュールレアリスム宣言で、容赦せずに襲ってくる想像力を賛美していたことを思い出して、まったく馬鹿げたことだと思いつつ、それらのみょうちくりんな絵画を電車の中の広告で見かけ、何かが前後しているかもしれないが、別に奇想天外的に奇をてらっても、後の時代では一般市民の観賞の対象にしかならないことを、当時の誰かはどう思っているのだろうか。もう当時の人々は死んでしまったのだから、何も思うわけがないか。だから君は絵画に感動するわけにはいかないのか。その辺が今ひとつわからないところだが、たぶん身の回りを取り巻くすべての事象から、いかに距離をとるかが問題で、その距離感がそれらの芸術を成立させる条件なのかもしれない。しかしなぜ唐突にわけのわからないことを述べているのか。なぜそう思うのか説明不足のようだが、それはそれに携わる誰にとっても説明しようのないことか。ならば何かの間違いかもしれない。

 たぶん時間が必要なのだろう。何をするのにもそういうことか。誰のせいでもありはしない。それは偶然の巡り合わせであり、取り立てて災難にあっているわけでもない誰かにとっては、目の前の現実に対処していかなければならず、そうやってその日その日を乗り切っていくだけか。そう述べれば簡単なことだが、何かと思い通りにはいかないことは確かで、適当なところで妥協を強いられ、それを受け入れざるを得ないことから不満が鬱積していって、それがどこかの時点で爆発してしまうことも想定され、何とか平常心を保ちながら、そうならないように気を鎮める努力を怠らないようにしなければならず、そんなふうに振る舞い続けることしかできない自らの境遇を呪うわけでもなく、たぶんそれは誰にとっても当然のことでしかないと思いつつ、誰かは今日も生き続けるのだろう。普通の人間には普通の日常があるということか。たぶん人などいくらでもいて、地震や災害で多くの人が死んでも、それらの地域ではその数十倍から数百倍の人たちが平然と暮らしているわけで、その辺の感覚をあまり深刻に受け取らない方がいいようで、たとえ原発の事故処理がうまくいかなくて、放射能が撒き散らかされて、多くの人々が数十年以内に癌になろうと、やはりそういうことでしかないだろう。因果応報で、無理なことをやれば、後で手痛いしっぺ返しがくるだけのことだ。

 とにかくあまり本気でそんなことを思ってみても、君にはどうすることもできない。その辺で誇大妄想的に想像力を働かせてみても、結局はスペクタクル映画のたぐいに吸収されてしまうようなことしか思いつかない。要するにそれは人類に滅亡の危機が迫っているとかいう物語になり、例えばそれは旧約聖書で語られるノアの方舟から、新約聖書で語られるヨハネの黙示録に至る、ある意味で大げさでありふれた話か。別にそれでもかまわないのだろうが、メディアがどんなに危機感を煽っても、どうにもならないことはどうにもならない。確かにそれを伝えているメディアだけではどうしようもないから、なおのこと危機感があるのかもしれないが、別にそれでかまわないのではないか。君はそれを真に受けないだけのことで、生きて死ぬだけの人間にそれ以外のどんな可能性もなく、いくら想像力を働かせて、この世界の理想像を思い描いてみても、目の前の現実がこれなのだから、それはどうしようもなく受け入れざるを得ないことでしかなく、そういう現実を受け入れられなければ、どこか別の地域に逃亡するか、その気力が失せたのなら自殺でもするしかないだろう。とりあえず君には無関係なことかもしれず、その辺であまり深刻に受け取れないことの理由が、地域的に遠く離れていることからくる安心感となって現れているのだろう。でもたとえ関西地方に暮らしているとしても、福井や石川などの北陸地方に多くの原発を抱えているのだから、あそこがはねれば深刻な事態となるわけで、まったくの他人事ともいえないか。


3月28日

 それで何かはその後どうなったのか。今日もまた昨日で、また誰かが何かについて語ろうとしている。もうそういうのはやめにした方が良さそうだが、そうでもしない限りは言葉を記せない。たぶん季節はもう春だ。それは唐突の記述になるだろう。意味も理由もありはせず、そこで何かを捨てているのかもしれない。相変わらずなぜそうなってしまうかはわからないが、とりあえずそこで立ち止まり、誰かがしばらく考え込んでいる。何を語るかはすでにわかっているはずか。それは地震のことでも原発のことでもなく、何も語っていないことについて語りたいのだろう。実際に何も語っていないようだ。今さら何を考えてみても、すべてが的外れな答えを期待してしまい、要するにでたらめを並べて、それで何かを語っていることにしたいのかもしれず、君はそんなことを語っているふりをしながらも、沈黙の中に沈み込み、そこで居眠りの最中かもしれず、一方言葉を記している誰かは、何でもないように何でもないことを語るのが難しいことに気づく。そんなふうに言葉を記してはまずいのか。それも錯誤のたぐいで、何か勘違いしているのだ。そしてそれでもかまわず、適当にいい加減に言葉を記しながら、心の中で何かが降りてくるのをひたすら待っている。君は密かにそれが冗談でないことを祈りながらも、そんなふうになったらなったでかまわないような気もしてくるが、それの何が違っているのかわからないらしい。たぶんそれも間違いのたぐいなのだ。そんなふうに語ってはならず、今はまともに語ることが望まれているのだろう。

 力が抜けている。そんな感覚の中で、そこから遠ざかろうとしているのだろうが、実際にどこかから遠ざかっているのは、電車の中にいる乗客か。自動車を運転している人も遠ざかり、避難指示地域の外側へと移動しようとしているのは、別に誰であってもかまわないだろうか。そういう具体的な遠ざかりではなく、あてもなく目的もないような遠ざかりに直面しているのは、フィクションの中の登場人物かもしれず、そこに記された言葉から引きはがされて、それを読んでいる誰かの記憶の中へと遠ざかろうとしているようだ。しかし誰がそれを導いているのだろうか。君の心の内側へと、誰かの魂が入り込んでゆくわけでもなく、むしろその外側へと、無根拠な自由を求めて遠ざかろうとしているのではないか。だがそんなくだらない言葉遊びの範疇に何が宿っているのだろうか。たぶん何かを記すとは、そういう成り行きの中から生じてくる行為なのではないか。しかしそれはどんな成り行きなのか。風邪が治りかけていることとの間にどんな関係があるのだろう。誰かはそうやってわざと関係のないことを記しているようで、それらの言葉と言葉との間にある隔たりの間に、誰の思い込みが封印されているわけではなく、そこにあるのは空虚そのもので、君はそれを糧として今まで生きてきたはずだ。それは何も語らないことの中にあり、誰にそれを伝達しようとしているのでもなく、そこで途切れてしまうような何かなのかもしれず、その何かを巡って語られているのが、それらの言葉が連なった平面なのだろう。

 そしてなおも記すなら、すべてが砕け散った後に残った残滓から、それらの障害物のようなものが生じていて、必ず行く手を阻むように配置され、思考の邪魔をして、何も考えさせないように仕向けているのだ。君はただそこで眺めていれば、すべての現象が滞りなく行われ、その後にはそれについて記された言葉の連なりが残っているだけで、それを読んで無理に感動する必要はないが、とりあえず目を通して、文章表現の誤りを見つけ、訂正を施せば、何となくそれが完成したように思えてくるのだが、実際にはその後があり、さらに読み返して、それが云わんとしていることをつかまなければならず、それができないならば読んだことにならない、という迷信のごとき誤りを、平然とはねのけ、とりあえず読んだことにしておいて、すぐにその内容を忘れなければならず、そんな忘却の中から、新たな言葉の連なりが生まれ、それを誰かが記し、他の誰かが読んでいるかどうかはともかく、以前の文章から何らかの影響を被っていることを自覚し、今度はそうではないような何かを求めているわけで、絶えず新たに何かを生み出そうと努力しているのかもしれず、それが無駄な努力にならないようにしたいところだが、そんなことを記している時点で、すでに言葉を記すという行為に酔っているのかもしれず、すでにその時点で何かを見失っているのかもしれず、その見失われた何かが、これから追い求められる何かになることは疑いようがないが、たぶんそれが過ちであり、知らないうちにどこかを通り過ぎてしまっていることの証しとなるだろうか。


3月27日

 この期に及んで何を訴えているのか。もう終わりだろう。退屈ぶるのはおかしいだろうか。君はそこで押し黙ってしまう。憂鬱を理由にして、何を語ろうとしているのか。かなり馬鹿げている。どこから脱して何をやろうとしているとも思えない。謎に満ちているわけでもなく、あからさまに狙っている効果などもありはしない。ただ目立ちたいだけか。本気でそんなことを述べているのではないのだろうが、それこそ馬鹿げているのではないか。ならば粘るのはやめにしたらいい。眠たければさっさと寝てしまえばいいだろう。そんなわけで風邪のおかげで二日も遅れてしまったようだ。しかし二日経っても相変わらず空疎なことしか記していないようで、何となくくだらない雰囲気に包まれているように感じられる。何が変わったわけでもないが、風邪が治りかけているのは確かなようで、少しは気分が上向きになるのかもしれず、それに期待しながらも、とりあえずは言葉を記していくしかなく、テレビでは相変わらず地震と原発事故のニュースばかりのようだが、地震が発生した時に、住民の避難誘導をしていて津波から逃げ遅れて死んだ消防団員のことを、美談のごとく伝えているのは、何となく戦時中のニュース映像を思い出させ、なるほどこういう時にはこういうことを伝えなければならないのか、と納得してしまう。そしてサッカー選手やミュージシャンや芸能人が、がんばれがんばれと励ましのメーッセージを送っているのを見ながら、そんなに励まさなくてもいいんじゃないの、と感じられてしまうのはなぜだろう。

 どうやら君はいつまで経っても傍観者の立場から抜け出られないようだ。たぶん必要がない限りはそれでかまわないのだろう。当事者になった時にそれ相応の対応をとればいい。今も別の面では当事者だろう。そこではそれ相応の対応をしていて、現にそれをやっているから疲れて風邪もひいて、昨日は夕方から寝込んでいたではないか。だが一晩経ってまた昼は仕事をして、それで何がどうしたわけでもないが、やはりどうも何かが違っているように感じるのか。どこかで考えていることがずれているような、あるいは何だろう。急に咳き込んだ拍子に何かひらめいたわけでもなく、たぶん何も思いつかないわけでもないのだろうが、思いついたそれが文章に反映されないようで、何かを記すとなると、決まって空疎な記述が先行して、何も内容が記せないままに終わってしまうような成り行きになる。それも今はそれでかまわないのか。しかしこのまま記すことが何もないままに、延々と記述して、そんなことをやっているうちに寿命を迎え、あの世行きだろうか。その辺がわからないと言えばわからないのだが、君はいったい何をわかろうとしているのか。とりあえず誰ががんばっても、他の誰ががんばらなくても、この世界は世界であり続け、たとえ人類がこの世界から消滅しても、この世界は世界であり続け、そんなことを考えているととりとめがなくなり、ただ漠然と世界の有り様を感じているに過ぎないのだろうが、そこから何を学び取ろうとしても、学ぶ目的がなければ学んだことにはならず、学んだことを有効活用しなければ、その努力が生かされないままに終わってしまうのか。

 しかし学ぶとは何なのか。急にそんなことを思いつくのはおかしいだろうか。君はどこかで学ぶ行為そのものを馬鹿にしていないか。そうかもしれないが、別にそれほど軽んじているわけでもないだろう。現に今も自らがおかれている状況から、何かを学ぼうとしているのではないか。何かを感知して、それを役立てて、うまく乗り切ろうとしている。何を乗り切ろうとしているのかといえば、要するに死を乗り越えて、生き残ろうとしているわけだ。生き続けているうちには、結果的に乗り切っていることになるのかもしれない。ではそれを乗り切れなくなった時は、自らが死を迎える時なのか。そういうこともあるだろうが、学ぶことがそれほど大げさなことに結びついているわけでもないか。より軽く考えるなら、それはゲームのそれであり、宝探しのそれであったりする。ゲームを制するためにはどうしたらいいかとか、宝物をいかにしたら見つけられるかとか、それを成功させるにはどうしたらいいか、ということを学ぼうとしている人は多いだろう。もちろんそれが結果として危機を乗り切り、生き残ることにつながるわけで、要するにそれが生き物の生存競争のたぐいであることはわかりきったことで、そういってしまえば身もふたもないのだろうが、何となくその辺でそれとは違う答えを見出そうとしているのが、誰かが考えていることなのか。そうだとしても答えはすでに出ていないか。ではその答えとは何なのか。別に自らが生き残るために学んでいるわけではなく、人類は平和で安全な暮らすための方法をしを学んでいるわけでもなく、ただ状況から学び、学んだことを用いて状況に対応しようとしているわけだ。そんな繰り返しの中で生きて死んでゆくだけのことか。


3月26日

 結局それだけのことなのか。もう答えが出ているようだが、気持ちが邪魔をして、どうしてもそれを認めたがらない。気の迷いがそんなことを思わせ、そんなことを思っているから、なおのことややこしくなる。どうでもいいことかもしれないが、何か勘違いしていないか。いつもそうか。いつでもそうだ。ならば君に語るべきことなどないはずだ。願わくばそういうことにしてほしいか。でもそれは違うだろう。誰にとっても語るべきことなど何もありはしないのが、この世界に生じている言説空間の有り様なのではないか。また回りくどくて意味の定かでないことを述べているようだ。しかしなぜ君は外出したがらないのか。別に屋内待機区域でもないだろう。面倒くさいのでそんなことを語るべきではないか。昨日は言葉を記しているうちに眠くなり、横になったらそのまま眠ってしまったらしい。何を考えていたわけでもなく、ただ何ももたらせないことに気づいただけか。とりあえず言葉を記しているではないか。それがもたらされたすべてなのか。妄想と幻想の狭間で何を思っているのか。いらついているわけではないが、何となくあきらめかけているのかもしれず、晴れた空を見上げながら、何を思い何を考えているのかを明かせない理由を、あれこれ探っているのかもしれないが、とりあえずはこんな現状であり、どうにもならないことをどうにかしようとしているようだが、どうにもできずに、つまらない結果を招いてしまっているのかもしれない。たぶんそれが結果なのだ。わかりきったことを述べている。近頃はひたすらそうだ。

 とりあえず今できることはやっているはずだ。具体的には何をやっているのか。言葉を記しているではないか。その空疎な内容が問題か。別に何が問題とも思えないが、なぜそんな嘘をつくのかわからないところが不思議だ。そしてもう何かの限度を超えていて、元には戻りようがなく、おかしくなった範囲内で、何かが行ったり来たりしているだけか。しかし何かとは何なのか。たぶん何かとは何か以外の何ものでもない何かなのだろう。それ以外には何も思いつかず、こうして翌日になっても、相変わらずわけのわからないことを述べている次第だ。そしてそれについて何を述べようとしても、ますますわからなくなり、もはや文章としての体をなしていないのかもしれないが、それでも語らなければならないのだろうか。実際に語っているではないか。ほとんど何かを語っている。だが何がほとんどなのか。問うところを間違っているのではないか。ではなぜそうなってしまうのか。急の寒波にやられて風邪でもひいたのか、あるいは単なる花粉症か。どちらにしても大したことはない。それにしても語るべきことがない。実際に語っているのにそうだ。それはどういうことかと問うてみても、かえってくる答えがおうむ返しなのがいただけない。なぜそうなってしまうのだろう。またそれだ。そんなことを繰り返している限りはそこから抜け出せず、誰かの思うつぼにはまっているわけか。それでかまわないのだろう。今はそうか。

 それでも君はだいぶ遠回りして、どこかにたどり着こうとしているらしい。何かを再利用しながら、それを執拗に繰り返して、何が何だかわからなくなるほど繰り返し、あげくの果てにどこかにたどり着くだろう。すでにここへたどり着いている。ではこことはどこだろう。いつもの部屋の中だ。そしてここで言葉を記し、何を思うこともなく、ただ音楽を聴いている。結局何ももたらされていないようで、がっかりしつつも、心のどこかで安堵しているはずだ。君は他のどこへもたどり着けなかったことがそんなにうれしいのか。ざまあみろとでも思っているのか。たぶんそういうことではなく、どういうことでもないのだろうが、それらの記述が架空の冒険へとつながっているわけでもなく、何のことはない紆余曲折の果てに、戻ってきてみればわけのわからない文章を記していて、そんな成り行きをいぶかしく思っているとも思えず、それが当然のことのように織り込み済みで、誰かがそこで右往左往するはずもなく、ただの自然の成り行きでそうなっているわけで、君はそれに対してどうこう言う前に、すべてが予定調和のごとくに、周りの風景にはめ込まれているように、今までと大して違わない雰囲気で、以前と同じような言葉が連なっていて、それに関して何を思ってみても、それだけのことであり、それ以上でも以下でもなく、それらは依然としてただの文章なのだろうか。誰かが記しているのだから、それは間違いないことだ。そしてこれも以前と同じように、君がそこで落胆しているわけか。


3月25日

 今は何かの過渡期なのだろうか。ならば現実に移り変わろうとしているのは何なのか。時代か何かか。君にはそれがわかっていないようだ。確かにはっきりとはわからないが、でも何かが変わろうとしている気配は感じているはずで、今回の地震騒ぎが変わるきっかけとなっているわけか。そこまではよくわからないが、それとこれとは直接関係ないわけもないだろう。たぶんそれは天啓のようなもので、同時に矛盾するが、そんな大げさなことでもないのだろうが、要するに当事者の人たちはがんばらなくてもいいのだ。今さら何をがんばる必要があるのか。それどころか誰もがんばる必要などない。君は真夜中にジャズを聴いているはずだ。きっと疲れているのだろう。そしてそれらの出来事は断じて天罰などではなく、単なる偶然の巡り合わせでしかなく、それに伴っていくら人が死んだとしても、そんなことはどうでもいいことだ。人が愚かであろうと聡明であろうと、この際そんなこととは無関係に出来事が起こり、ありふれた結果をもたらしているに過ぎず、うろたえている人々を巻き込んで事態が推移しているだけで、結果として多くの人を不幸に陥れているとしても、あるいはこれまでの努力と人生を台無しにしていようと、なおのことそういうことに過ぎないわけで、それについていかなる予断を差し挟んでみても、その通りになったりならなかったりするだけだ。そして君は相変わらずそれでかまわないと思っている。

 たぶんそうならざるを得なかったわけではなく、それとは違う結果もあったかもしれないが、実際に起こったのはそういうことだ。そして誰もがそれらの信じられない出来事に驚き、それからしばらくして我にかえったわけか。君にはそれが冗談のように思われ、笑わずにはいられないか。同時に気の毒だとも思っている。そして誰かが楽しげにつぶやく。もう手遅れだ。今さらがんばっても仕方ないか。でもがんばらずにはいられない人々が懸命にがんばっているはずで、そんな状況の中で歯を食いしばって何かに耐えているのかもしれないが、がんばるのをやめてしまえば幸せになれることに気づかない。それは本当だろうか。別に嘘をついていてもかまわないのではないか。そんな必然性を感じられず、何となくそう思ってしまい、どこかでひんしゅくを買っているのかもしれないが、もとより嫌がられるのにはなれっこか。それも今となってはどうでもいいことだが、少しはその辺でこだわりを見せたいところだったのではなかったか。誰かはそこから遠ざかり、今はそれとは違うことに関心を持とうとしているらしく、それに伴ってやるべきことをやっていないようだ。なぜそうなってしまうのかはわかっているつもりだが、そうならざるを得ない状況でもないのに、何となくそう思い、そんなことを述べながらも、それとは違うことを思い、結局は回り回っていつものパターンとなり、相変わらずどうでもいいことを述べているわけだ。

 だからどうもやる気がしない。いつものことには違いないのだろうが、それがいつになくつまらない。誰かは本当のことを述べているのだろうか。何に関してそうなのか。言うべきことはすでに言ったはずだ。だから何も言うべきことがない。ならばその辺でもう一工夫が欲しいところか。悪あがきをしなければならないようだ。それは無理なんじゃないだろうか。今はそう思う。そして居眠りの最中だったことに気づき、あわてて起き上がったついでに言葉を記し、何となく自らががんばっていることに気づく。それともまだ夢の中か。もう少しだからその辺をどうにかしなければならず、やはり工夫して、まともなことを述べているように装わなければならないのか。それとも今となっては無理なのか。どうせそのうちに壊れて、あきらめてしまうのだろう。だからそれまでは何とかそれらの状態を保たねばならず、だから今こうして言葉を記している最中か。何やら途中からわけがわからなくなってきたようだが、息切れのたぐいか。全く笑いようがないことを笑い、だいぶ無理を重ね、どうかしているようで、限界を超えているのだろう。その辺の何が限界なのかわからないが、とにかくそうなってしまったらしく、それに関して君はあきらめているようで、ため息混じりに、どうせこんなことなのかと思い、その先に言葉を記すのが嫌になり、終わりが近いことを予感させる何かをつかみ、その先で努力し続けている誰かを哀れみ、無理ならやめた方がいいと助言したくなるが、どうせ聞き入れられないことはわかりきっているので、放っておいて差し支えない範囲内で、それらを放置し続けているようだ。


3月24日

 何となくまとまりを欠いている。それは言葉ではなく思いでもない。では何なのかといえば、何でもないのかもしれない。いつもそうだ。こんなふうに絡めとられてしまう。だから今は忘れたことにしておこう。君はそれを知りたいのだろうか。何を知りたいわけでもなく、ただそれだけを知りたいのだ。理由など何もなく、気にしているわけでもない。何も気にしていないのだろうか。そういうわけではなく、たぶんまともなことを述べている状況にしたいのだろう。成り行きとしてはそういう方向へいくように努力しているが、実際には何ともいえないところではある。とても本気だとは思えない。すでにこんなことを記しているではないか。たぶんそれでかまわないのだろう。今はそれをどうすることもできない。すでにそこから遠ざかれなくなっているはずだ。それを知り得ない立場にある。しかしそれとは何だろう。いつもはそういう話だった。そしてそれでもかまわないと述べている。まったくの予定調和の無内容か。そうとばかりは言っていられなくなる。そういう状況に陥って、なおのことそうなる。ただ具体性に乏しいだけだろう。本当に何も語らないつもりなのか。心に決めているわけではないが、状況としてはそういう感じになりつつある。いくら言葉を連ねてもそうなってしまうのだから、たぶんそういうことだろう。そんな気分なのだから、とりとめがないのは当然のことだ。今は何かを語る気分ではないらしい。別にそれでもかまわず言葉を記しているようだが、無内容でとりとめがなく、やはりいつもの通りか。

 人には誰でも欲があり、無欲の人にも欲がある。また当たり前のことを述べているではないか。また何かの冗談なのだろうが、もういいのではないか。何に困っているわけでもない。それは何かの妨害か。別に何に妨げられているわけでもなく、取り立てて語ることもなく、何気なく振り返ると何もなく、そこにはただ空虚がある。知らないうちにそんなことを思っていたらしい。要するにそれは何でもないことか。ぼうっとしている間にもうこんな時間なのだ。今までに何を述べてきたのか。それも気にする必要のないことか。さらにとりとめがないようだ。もう気分は投げやりな感覚に陥っている。何がどうしたわけでもないのにこれはどういうことなのか。どういうことでもないからこうなってしまったのだろう。語るとはこういうことなのだ。何も語っていないのにそういうわけになる。要するにどういうわけでもないということか。そうだからこうなっている。そしてそれで何の説明にもなっておらず、ますます空疎なことを語っているようだ。語ってもいないのではないか。そうかもしれず、そういうのはやめた方がいいだろう。では何か適当なことを語るべきなのか。そうなのだろうが、それが未だに思いつかず、気がつけば無駄に言葉を記しすぎていて、もはや何かを語るための余白さえ、無駄で無意味な言葉の連なりで埋め尽くされているだろうか。だが何が用意されているわけでもなく、何を語っても何を記しても、そんなのは語る者や記す者の勝手であり、本質的に自由なのかもしれず、勝手気ままに語られた無内容でさえ、それらの条件を満たしているのだろう。だからそれでかまわないのか。

 また執拗に文章が長くなってきているようで、しかもこれまでに空疎なことを延々と述べてきた感もあるが、やはりそれでかまわないと思うしかなく、開き直ってそういうことの続きを記すしかないような成り行きになってきた。精神的に追い込まれているわけか。そんなのは否定するしかないようだが、実際に肯定すべきとは思えず、何の反論もできないのに、それに関しては否定しつつも、要するに否定すればするほど精神的に追い込まれてしまうのあり、そんな悪循環をそのまま放置して、君はさらに空疎なことを語るつもりのようだが、すでにそれも限界なのだろうか。君がそれをやめれば、文章もそこで終わりとなるだろう。それはわかりきったことかもしれないが、できないわけで、なぜそうしないのか理由が定かでないが、何をそうしたいのかもわからず、とりあえずは無視して語り続け、適当なところで見切りをつけ、そこから先はうまく終息へと持っていきたいらしいが、未だにそうなる手順が明かされず、何かどこかで混乱しているらしく、そのままの気分でそれらの感覚を保持して、そこか先の成り行きを見据え、さらに有効な言葉を繰り出して、その時の気分を書き留めたいようで、それが後から何になるのかわからないが、とりあえずの結論を提示する気で、それに見合った言葉を繰り出そうとしているらしいが、出し損ねているような感じで、結局は何の説明にもなっておらず、そんなことを述べるべきではないと思わせるようなことを延々と述べている現状があり、そういう流れを止められずに、何となくそれらの終わりまできてしまったようで、それがどうしたわけでもないが、何かの必然には違いない。君はそんなことを述べるために、眠気を我慢しながら、何かを語っている気でいたわけか。


3月23日

 今日は晴れている。またくだらぬことを記すにはうってつけの天気か。すでにそんなくだらぬことを記しているではないか。そうではなく、くだらぬ冗談をかましている場合ではなく、今日こそまともなことを記さなければならないのではないか。そんなことを記す理由などどこにもなく、ただそういう語り方ではまずいはずで、もうすでに方向転換できないほどくだらぬことを記している段階で、もはやどうにも止まらなくなっているはずか。いったいどうしたものだろうか。困り果てても何の手だても思い浮かばず、そういう流れに乗ってしまって、そういうことを述べている現状に逆らうこともできず、当初に思っていたことからは、かなり遠ざかっているはずだ。そしてそこから無理に軌道修正する気も起こらず、そのままずるずると語り続けてしまう気配を感じる。だから今日はそんな具合であきらめ、素直にくだらぬ内容に徹した方がいいのではないか。それも判断のひとつになるのだろうか。だがそれで何を判断したつもりになれるのか。まともなことを語るのは無理だと判断したのだろう。間違ってもそこから一発逆転など狙わない方が身のためか。しかしまだ本音が出てこない。たぶんそういうことも含めて、語っているすべてが冗談だと思えばおもしろそうだ。君は懲りずにまだそんなことを述べている。ならばもうあきらめて、次の段落に期待するとしよう。しかしなぜいつもそんなふうに語ってしまうのだろうか。君はそこで何をあきらめてしまったのか。そんなことを語っているうちに空が曇ってきた。

 たぶんそうなって当然の成り行きの中にいるのだろう。曇り空の下を通り抜け、再び日差しがさしてきたようで、たぶん冬型の気圧配置だから寒いのだろうが、今年は地震騒ぎで花粉症を意識せずに済んでしまいそうな気配だ。花粉の飛散よりは原発の事故による放射性物質の飛散の方が怖いか。だがそれも流行り廃りの対象で、いったん何とか収拾がついて、話題が沈静化すれば、懲りずにまた電力供給の原発依存体質を復活させようとするのだろうか。数百年に一度の巨大地震だったのだから、今後数百年は大丈夫だと高をくくって、また東京電力は広報活動に力を入れて、安易な原発安全神話を構築させようとしてくるのか。そういうのに携わる人々がまともな精神を有していれば、そういうことにはならないような気もするが、今までがそうだったように、そういう広報宣伝活動が主な業務の人にとっては、自らの仕事に精を出さずにはいられず、過去の記憶が薄れるにつれて、否応なくそうなってきてしまうような気がして、また今回事故ったのは比較的旧型の原発で、他の最新型の原発は今回の地震にも耐え、実際に事故っていないと主張されても、どうせそれも年月が経ち老朽化してくれば、故障がつきものの世間一般に流通している機械類がそうであるように、事故る確率がそれだけ上がっていくようにも思われ、いったん事故った時の周辺地域への被害を考えれば、やはり原発は事故るとヤバい発電システムだと見なさざるを得ず、だからこそ原発に代わる発電システムが早く台頭してきてほしいところか。

 そんなわけで何やらもっともらしいことを主張しているような気もするが、何となくそれもどうでもいいようなことでしかないような気もして、本当に語りたい内容でもないのかもしれないが、だからといって他に何を語りたいわけでもなく、取り立てて何をどうしたいとも思わず、君の語りたいことなど、この世界のどこにもありはしないと思うなら、その通りかもしれず、だから何も語る必要もないのに語るのはやめた方がいいのだろうが、ならば語るのをやめたいのかといえば、現実にこうして語っているわけで、君はそれをどうすることもできず、誰かが言葉を記している有様を黙って眺めていることしかできず、そのいかんともしがたい成り行きの中で、たぶん本質的に自由を奪われているのだろう。他に何があるわけでもなく、何か興味深い事象が起こっているわけでもなく、いくら地震が起こって津波が押し寄せても、この世界はこの世界のままで、他のどの世界になったわけでもなく、そこに住んでいる人たちは相変わらずの人たちで、また性懲りもなく娯楽を楽しみたいのだろうし、どうせこの先もどうということもない世の中が続いてゆくのだろうが、もはやこの世界は、過去の偉人とか呼ばれる人たちが抱いていた世界などではないのではないか。ただの世界であり、普通の人が普通に暮らしている世界でしかなく、この先そういう状況がどれほど続くとしても、大したことは何も起こらないだろう。そういう意味では漫画の中の世界とは根本的に異なっていて、何か特別な力を持った英雄など出る幕はない。


3月22日

 またこんなところまできてしまったらしい。誰がどこまできたわけでもなく、君がどこへ行ったわけでもないが、とりあえず仕事の途中でそう思う。たぶん空想の中ではどこかへ向かっていて、適当な地点にたどり着いたのだろうが、別にそれがどこであってもかまわないような気がするらしく、とりあえずはこんなところまできたと記して、何やら一段落ついたような気分となっているのかもしれず、それ以外はどうしたわけでもないのだろうが、そんな気分で無駄に言葉を記している現状があるようだ。だからどうということはない現状なのか。取り立てて思うことも考えることも記すこともないだろう。君はそれでかまわないのか。かまわないも何も、そうならざるを得ない状況の中で生きているのではないか。他にどのような可能性があるというのだろう。君にそれがわかると思うか。わからないからそんな現状の中で暮らしているのだろう。だがそうだとしても、何か適当な希望を抱いて、それを捨てずに努力すべきではないのか。たぶんそういうことなのかもしれないが、いったい君は何を望んでいるのだろう。それはこの先どうなることでもない。しかしどうにもならないわけでもないはずで、いつかどうにかなって、現状を打破して、自らが望むような状況にしたいのではないか。それは誰しもが思うところなんだろうか。しかし具体的に何を望んでいるかというと、それがわからず、仮にわかっているとしても、たぶんここで記すようなことではないのだろう。ではそんな記述はまったくの無駄なのか。あるいはそれがわかっただけでも無駄ではないなかったのか。君にわかるはずがないか。

 確かにわからないようで、何を望んでいるかなんてどうでもよく、そんなのは忙しさにまぎれてすぐに忘れられてしまうことかもしれず、今を生きている限りは、その延長上で生きるしかなく、生き続けることから、それに基づく相対的な希望が生じてきて、それが自ら望んだことだと自覚するだけで、要するに現状によって、現状の延長上で実現可能な希望を抱かせられているに過ぎず、そんなことを望んでいる時点で、すでに心身ともに現状に絡めとられていて、そこから一歩も外へ出られないような状況に陥っているのかもしれず、その現状によって限界づけられた範囲内で行動し、思考するしかないのだろう。だから今の君に残された可能性など何もありはしない。あるとすれば、それは現状を維持発展させることでしかないのか。例えば原発の開発製造に携わる人々が、今回の深刻な事故をふまえて、今後やれることといえば、それは原発の開発や製造を断念することではなく、要するにどのような状況下においても、事故の起こらない原発を開発し製造することを目指すわけだ。むろんそれが虚しい努力だとは思わないが、それをやめさせるのは至難の業で、原発より安全で効率の良い画期的な発電システムでも発明されて、今後それが発電の主流とならない限りは無理だろうか。それにしても今回の事故を起こした原発はいずれも廃炉となるらしいが、跡地は何の使い道もなさそうで、立ち入り禁止の危険区域になってしまうだけだとしたら、もったいない話か。

 しかしそんなことを述べつつも、君は何を考えているのか。君には何か画期的なことを語る可能性があるのだろうか。冗談を述べるべきではないか。すでに述べているではないか。要するにそこから先は苦し紛れで、何か適当でいい加減なことを書き記し、それを誰が述べているわけでもないように仕立て上げ、そんな嘘をついている現状を覆そうとしているわけでもなく、むしろよりいっそうそれらの中に入り込み、語ることなどどうでもよくなってしまう地点を模索しつつ、そこから新たに語り始めようとしているのかもしれないが、おおよそ無理に決まっているような妄想のただ中で、それについて述べようとしているのだろうが、新たに語ることなど何もない場合はどうすればいいのだろうか。今語っていることを繰り返すしかないわけか。そうだとしてもそれを続けるべきか否かは、その場での君の判断次第となっているのだろうか。で何を判断すればいいのだろう。わかっているくせにそれを素通りして、とぼけてみせるとともに、そんなことを述べている現状があり、たぶんその延長上にそれらの語りが進むべき道が続いているのだろうが、なぜかそこへは向かわずに、ひねくれて別の道を模索しているのかもしれず、そんなふうに語る必然性など何も感じられないのに、やはりそれらの紆余曲折が、そのままそれらの内容となっていることは否めず、それが空疎だろうと無内容だろうと、それを気にしている余裕などなく、後はひたすらそんなことを延々と語り続けるだけかもしれないが、君はそれでもかまわないと思っているのか。別に誰の同意を得ようとしているわけでもないか。


3月21日

 どうも世間とは感覚が少しずれているようだ。少しどころではないか。たわいないことで意見が対立して、そこから何がどうなったわけでもないが、相変わらずの空模様で、夕べから雨が降ったりやんだりのようで、何を思う間もなく仕事の最中となっているのかもしれないが、昼休みには雨空を見上げ、何を思うこともなく、物思いにふけっているように装うふうも見せず、ただ見上げているに過ぎず、それ以上の何を期待されても迷惑そうな顔つきを想像してみるが、たぶんそうではないのだろう。腹の底を探るような気配もなく、ありふれた言葉を交わして、誰と誰がどこで何を話しているように見せかけているわけでもなく、だから何がどうなってこうなったのかわからないが、とりあえずはそんな言葉を記して、迫りくる何かをかわしているふうを装い、その辺でよしとしなければならないようだ。それはどういうことなのか。意味不明なことを述べているみたいか。別にそこから衝撃的な事実を探り当てようとしているのでもない。今さら何が衝撃的なわけもないか。どうやらその先を記すには、まだもう少しの時間が必要かもしれない。要するに大したことはないのだろう。この先何が起こっても不思議ではないと思うのは、たとえ何が起こっても、大したことにはならないと思うからなのだろうか。だがそう述べて君は何から逃れたつもりになっているのか。いったい世間の関心事とは何だろう。そしてそれを避けるにはどうしたらいいのか。

 避ける必要のないことが起こるのを回避したところで、結果として何がどうなったわけでもないのではないか。至って平穏な時を過ごしているだけか。君はそこで何を考えているのか。いくつかの言葉を省略して、その代わりに何を配置しようとしているのか。たぶんそれは言葉ではなく、何かの空隙であり、行間に埋もれた何かの気配かもしれないが、それらのどこに魂が宿っているわけでもなく、誰かの意志が働いて、どこかそれとは異なる雰囲気を醸し出しているとも思えない。ではそこに何があるのかといえば、それは誰かが記した言葉の連なりとともに、それらの言葉を包み込む空白があるだけか。しかしそれではそこにある存在を余すことなく説明していることにはならないのではないか。だから説明する必要のないところまで説明する必要はなく、それで何を回避したことにもならず、それらの退屈な時間帯のすべてにわたって満ちあふれている何かを、どう表現すれば的を射た言説になるのかもわからず、皆目見当のつかない事態の何を説明していることにもなりはしない。だから結局は冗談に逃げてしまうわけか。それでは何も語っていないのと同じことだ。もとよりそのつもりらしく、そんな思惑とともに言葉を記しながら、そんな結果を期待しつつも、これまでにもそんなことを飽きもせず繰り返してきたのではなかったか。だがそうだとしても腑に落ちないことがあり、そんなことを述べている誰かにとって、そのような行為から何を得るかが問題だったような気がするのだが、今のところは何も得ていないような状況で、それでかまわないとすると、いったいそれを続けてどうするつもりなのだろうか。

 君はどうしてもその先を知りたいのか。ならば話の続きが記されるのを待つしかない。しかしそれでは遅すぎて、君自身がその話の続きをねつ造しながら、先を急ぐ必要があるのではないか。またそんな嘘をついて、事態の収拾がつかないようにしようとするが、そういう話の展開は意味不明でわけがわからない。まったく冗談では済まないようで、その他に何か適当な理由がなければ、そこでの何かを保てなくなっているようだ。ならばどうしたらいいものか。今さらそれはないだろうか。たぶん物思いに耽っているだけでは話が進まずに、そこで意識が停滞するばかりか、その先に続く道を探ることさえ困難となりそうで、このままではまずいと思いつつも、何をどうしたらいいのかわからず、別に途方に暮れているわけでもないだろうが、適当に物忘れをして、そんな出来事などなかったことにしたいのか。だがすべてを水に流すことはできないようで、かすかに残っている記憶の断片をつなぎ合わせ、何やら自分に都合のいい話をでっち上げ、その話の中に登場する主人公気取りで、どこかに介入して、何かをやっているつもりになりたいのだろうが、やっているふりをしているのは明白であり、その辺で他人の不快感を増幅させているのだろうが、そんなことなど意に介さず、やるとなると徹底的に偽りの演技に没頭してしまい、気がついたら一人きりになっているのかもしれず、それを恐れ、盛んに寄生虫のごとくに、他の人のやっていることに取りついて、何とかそこから少しでも利益を奪い取る算段をつけているのだろうが、たぶんそういう行為が見え透いているのであり、やがて誰からも相手にされなくなってしまうのかもしれない。


3月20日

 大したことにはならないようだが、とりあえずは雨だ。空気中に漂っていた放射性物質が雨に混じって落ちてくるだろうか。何を恐れているわけでもなく、今は家の中か。それ以外は何について述べているわけでもなく、たぶん何も述べられないのだろう。頭の中が空っぽのようだ。今は何を見ているのか。何かを見ていることになっている。どうやら地震の死者行方不明者は二万人を超えてしまったらしい。そこから何を想像しようとしているわけでもないが、未だにガソリンスタンドの前から給油の順番待ちをしている車が連なって、朝から大渋滞なのには閉口するか。君が乗っている車も後数日後にはガソリン切れとなるのではないか。果たしてそれまでには順番待ちの行列が解消するだろうか。だがそれで何がどうなっているわけでもない。君はせこい。そう思うならどうすればいいのか。ほうじ茶と烏龍茶を間違える。色が同じだけか。だが文章が何を意味するのかわからない。それも何かの冗談か。君が語っているのではない。ならば後から修正すれば済むことだろう。後があればの話だが。途中から何が何だかわからなくなっているようで、何をどう語ればいいのかわからず、途方に暮れてしまいそうか。そんな語り方でかまわないのだろう。誰かが東へ西へと移動するが、得られるものは何もない。それだけの話だ。

 雨は一時的に小康状態となり、静かに何かを思う。瞑想しているわけではない。きっと空想しているのだ。では何を空想しているのかと問えば、わからないと答えるだけか。いったい誰が何をわかっているつもりになれるだろうか。わかっていることはいくらでもあるだろう。わかりすぎるくらいわかっていることだってありそうだ。なのにどうしてわからないのか。単に推測しても思いつかないだけか。それを思いつこうとしてないのではないか。そしてそうやって言葉を連ねようとしている。くだらぬ試みに気をとられ、物事の本質を見失っているわけか。しかしなぜそうやって空疎なことをいい加減に語れるのか。誰が語っているわけでもないだろう。そんなことを語っている時の誰かはおかしい。まるで冗談で何かを述べている。それでかまわないのだろうか。かまわなくても語り続けるのではないか。実際にそのようだ。何か気を取り直したのかもしれず、投げやりにもなっているのかもしれない。そしてさらに言葉が連なり、頭がどうかしているようで、ついでに何かがおかしい。何かとは何か。そう述べていることがおかしいのか。ちなみにそれのどこがおかしいのか。問い続ける度に何かがおかしくなってゆく。だからもうその辺でやめたらどうか。冗談にもほどがあり、冗談にならないような冗談ばかりかましていると、ただつまらなくなるだけか。君はそれでもかまわないと思っているのだろうが、本当にそれでいいのだろうか。

 嫌になったから、いきなり改行してしまう。これで少しは気分転換になっただろうか。もう少し何かアクセントのようなきっかけが欲しいところか。しかしそれで何がもたらされているのか。問うことを禁じているのに問うのは、誰かの気持ちが少し荒んでいる証しか。なぜ怠惰に逃げてしまうのか。面倒くさいのなら、もっとだらけてみてはどうか。誰に何を勧めているわけでもなく、たぶんそれも誰かの独り言の範疇で展開されている語りなのだろうが、気分が乗ってこない。理由がわからないが、何となくそういうことで、何も思いつかないまま、ここまで言葉を記してきたようだ。まったく困った事態か。誰にとってそうなのか。誰にとってもそうなのか。だがまだ時間と余白があり、悪あがきには事足りる程度のことなのだろう。何がそうなっていようと、特に記すこともなくても、そんなふうに言葉を記して、自己満足に浸ることもなく、当たり前のように事を済ませて、何の感動にも至らない。出るのはため息ばかりか。そうだとしてもそれでいいのか。いいわけがなく、何かの間に合わせでやっているようなことかもしれず、要するに堕落しているのだ。君ではなく、誰がそうなのでもないが、とにかく堕落していると述べれば、そんなふうに思われ、それで何か述べているような気になるだけか。そういう現状が堕落を示しているのだ。わかっているではないか。ここに至り、何もわからないでは済まないような話になっている。だがそれでもそういうことではないと思っていて、何かそれとは違うような何かを空想しているような気になり、今はそれについて述べていると思い込みたいようだ。


3月19日

 それから一日経って何を考えているのか。別に昨日が何の日だったわけでもないか。とにかく何も考えられず、何も手につかず、やっているのは昼間の仕事だけか。それはいつもそうだったはずで、きっとこれからもそうだろう。だからそれとこれとは関係ない。他の話題に気をとられているうちに、頭の中で何かがどうかしてしまったらしい。何かに魂を抜き取られてしまったようにも思われるが、きっとそれも気のせいだろう。この際何でも気のせいにしておけば、何となくそれで済ますことができるような気がしてくるが、それも気のせいのたぐいか。きっと頭の中で退屈の花が咲いているのだろう。それも空想上で考えていることか。何が赤く染まっているわけでもない。それは夕暮れ時の記憶が意識に影響して導きだされた言葉の連なりか。だがそれで何を説明しているわけでもない。不意にチルファドが聴こえてくる。なるほどファドのフュージョンとも形容されるのがチルファドなのか。ネットで検索するとそんなコメントに出くわすが、急須の中でだんだん濃くなってきた深蒸し茶をすすりながら、それに続いて何だかへんてこりんな音楽を聴いているようで、たぶんそれ以外には何も述べることはないのだろう。しかしそこで誰かの影は何とともに消えてしまったのか。ふとした拍子にお金ではなくそれを入れる財布が手に入ったようだが、君にはそれが何を意味するとも思えず、古く皮に黒カビがこびりついた財布からお金やカードや名刺のたぐいを入れ替えて、ついでに気分も一新というわけにもいかないようだ。

 いずれにしてもそれでやっと一区切りか。何がいずれなのかもわからないまま、聴いている音楽はウェス・モンゴメリーに移っている。それも数分で終わって、誰かが次々に違う曲を聴いているようで、それはいつものことなのだろうし、それで何がどうしたわけでもないか。苦い茶の残りを一気に飲み干して、今夜は眠れぬような気がしてくるのは、後悔先に立たずのことわざを思い出させるが、それほど大げさなことでもないか。またつまらない気まぐれに感動するあてもなく、ただとりとめのない感覚に安住して、内容のあることは何も記そうとせず、空疎の中で居眠りの最中のような案配を気にするわけでもなく、意識は依然として覚醒状態からはほど遠く、テレビをつければ地震情報ばかりだから見ないようにしているのかもしれず、その代わりに音楽を聴いているふうを装うが、はっきりしないことを述べつつ、そんなあやふやでいい加減でもかまわないと思っている節もあり、まさか聴いている音楽が何かの最北端を目指していると勘違いしているわけでもあるまいが、その辺で語っていることが意味不明となっているようで、壁にかけられた山の絵が、何を意味するわけでもないのに、例えばセザンヌが描いた山の絵について、何かもっともらしいことを解説できるほど、その手の知識など持ち合わせてはいないようで、煙草の煙が空中で迷路を描くほどの悪環境の中で何をやっているわけでもなく、まったく空想でしかない言葉の連なりはまとまりを欠いて、君からだんだん遠ざかっていくようだ。

 まさかその調子なのか。今回はそれでいってしまうつもりなのか。とりあえず自動巻の時計を数日ぶりに動かしてみたが、手巻き機能がないので、明日の朝までには止まってしまうような気がするが、それがどうしたわけでもないのは言うまでもないことで、ただ眺めるために腕に巻いているだけのようだ。ちなみに聴いている音楽は夢遊病者のそれだ。そして記している言葉の連なりはますますとりとめがなくなり、次第に何も記すことがなくなりつつあるが、それでも何かが自然にわき上がってくるのを期待して、こうして言葉を記し続けているわけか。だからそれが冗談なのだろうか。そんなことを述べているうちに、すでにそれについて述べていることに気づき、結局は自己言及の最中にそんなことを思っているわけだ。それは何かのパラドックスだろうか。しかし誰が自意識過剰であろうと知ったことではないようで、とにかく言葉を記していればそれでかまわないような気配を察知して、急にそんなことを述べている自己に向かって舵を切り、その辺の問題点を指摘したいようで、指摘したからといって何がどうなるわけでもなく、さらにそんなことばかり述べている現状をどうすることもできず、結局はそんな言葉の連なりの前に心が折れて、屈してしまうのかもしれないが、そうなると誰かの思うつぼのようで、そら見たことかとここぞとばかりに自己嫌悪を発動させ、その辺で何かを挫折させてしまうらしく、それも誰かの思惑通りかもしれない。


3月18日

 昨晩は停電になり、それに伴って生じた煩雑な作業で疲れ、停電が復旧してしばらく経った頃には眠ってしまったらしい。疲れているのだから当たり前か。たぶんそういうことなのだろう。そこに居合わせた誰もがそう思っているはずか。だがそれで何がどうなったわけでもなく、停電中は至って辺りは静かだ。夜だからそういうことになり、君もどこかで状況を達観しているらしい。しかし何もない。くだらぬことに惑わされ、いきり立っているわけでもないだろうが、何となく許せないように思われ、そんなフィクションの中で何を考えているわけでもないだろうが、たぶんそれは馬鹿げたことなのだ。どうも頭の奥で警報音が鳴っているようだ。もうやめた方がいいのだろうか。君は何かしら緊張を強いられ、いつも張りつめた気持ちでいるのではないか。しかし何を感知しているのだろうか。それは気のせいに決まっている。別に世界の終わりが到来したわけでもあるまい。そこから遠ざかろうとしているのも誰でもないはずで、何に従って生きているわけでもなく、勘を頼りとしている部分も多いかもしれないが、ある程度は知識も身につけているはずだ。それでも程度の差があるだろうか。だがそれは君が知っている範疇にはないはずだ。邪魔をしようとして邪魔しているわけではなく、よかれと思ってやっていることが邪魔な場合もあるだろうが、鬱陶しい人間にはそれがわからない。君にもそんなことがわかったためしはないか。そうであったとしても、周囲の雰囲気を察知して、何となく感づいてしまうことだってあるはずか。そうだとすれば空気を読めていることになるのだろうか。だがそれでどうしたわけでもないだろう。そんなのは無視しながら生きていられる人もいるらしい。

 要は簡単なことで、君がそこで何を語っているわけでもないことは、今や明白で、そんなわかりきったことばかり述べられていることも明白か。だから誰の知ったことでもないわけか。君はそこであやふやなことを理解できるだろうか。それ以前に何がそうなのかわからない。翌日の昼は、自販機で当たりが出て、缶コーヒーを二本飲んで、それだけ体内にカフェインが吸収されてしまったようで、誰かは何だかおかしな気分となる。昨晩の停電中に記した部分を修正しつつ、また新たに言葉を記しているようだが、大した内容ではなく、その内容が大げさになるとは思わない。しかしなぜそんなことを語らなければならないのだろうか。語るのが不可能なようなことを語ろうとしていないか。それは雲をつかむような話か。ただ漠然としているだけで、取り立てて何を語ろうとしているわけでもないのに、何となく言葉を記し、それについて何をどう思ってみても、やはりとりとめがないようで、でもそんなことを記している現状があり、今さら何を批判しても仕方がないように思える。ならばやはり君は冗談でそんなことを述べているのだろうか。そうかもしれないし、そうではないのかもしれず、そうでなければどうということでもないのだろうが、時間的にはもう翌日の夕方になっているようで、それがどうしたわけでもないのだろうが、何となくそんなことを記してしまったらしい。

 しかし相変わらずとりとめがなく、テレビをつければ相変わらず官房長官が記者会見で原発事故について説明している。その中でどこかの記者が、首相が東日本がつぶれるとか言ったらしいことを問題視して、発言を撤回しろと詰め寄っていたが、現状でもすでに太平洋側は広範囲にわたってつぶれているみたいだし、別に撤回するしないの問題でもないだろう。テレビもNHK以外はもう通常の番組に戻っているようで、CMはいつもとはちがって、派手な商品宣伝は控えられているようだが、何となく普通の感覚に近づいてきた。原発事故も最悪の場合でもチェルノブイリのような惨事には至らないそうだが、少なくともスリーマイル島の事故は超えそうな気配らしく、そうなれば史上二番目の規模の原発事故になるのだろうか。だから何だというわけでもないだろうが、まだ途中経過なのだろうから、これからどうなるかわかったものではないか。とりあえず地震の死者行方不明者は二万人弱となるらしく、数年前のインド洋大地震や中国の四川省で起こった大地震やハイチで起こった地震などをふまえれば、これがどこかの発展途上国で起こったら、死者行方不明が数十万人となっていたのかもしれず、死者行方不明者二万人弱で済んだのは、日本ではそれなりに地震に対する備えがあったということか。


3月17日

 どうもアメリカ軍が事故った原発の半径80キロ圏内から撤退したようだから、日本政府の半径30キロ以内というのはかなり認識が甘いということか。むろん米軍と同様に住民を半径80キロ以内から退去させるとなると、相当な人数となるだろうし、実現は困難なのかもしれないが、微量の放射線を浴びても健康には問題ないという日本政府の主張も、だんだんその信憑性が怪しくなってきたか。まあ人口の数パーセントが数十年以内に癌になったところで、大したことはないのかもしれないが、やはり今後あの辺には近づかない方がよさそうだ。そんなわけで今までのように、過疎地に建造した原発などを利用して、一カ所で大量発電して、それを遠く離れた大都市に電力供給するやり方は、何となくおかしいような気がする。多少コストがかかっても、発電も地産地消にして、需要のある場所の近くまたはその場所で発電して、供給するしかないのではないか。でもそうなると事故るとヤバいから原発は無理になってしまうか。まあ現状ではいろいろと問題があるのかもしれないが、太陽光などの自然エネルギーで発電して、それを大規模なバッテリーなどで蓄電して、そこから安定供給するぐらいしかないのかもしれない。もちろんそれで間に合わせるは、今のところは難しいのだろうが、これからその手の技術革新に期待するしかないか。

 しかし君はどこへ行ってしまったのか。停電のおかげで唐突に正気に戻り、そこに誰かがいないことに気づくが、何のことやら話が見えなくなっているようだ。天気的には冬型の気圧配置で、北から吹きつける強風の音ばかりが目立って聞こえてくる。あとは時計の音だけで、他の機械類がすべて止まってしまったから、辺りがかなり静かになっている。そしてそんな言葉を記しているのは誰でもないようで、君も不在で話にならないようだが、無人の部屋の中で勝手に言葉が記され、そんな嘘をついている誰かもその中にはいないらしく、虚無の視線は季節外れのハエに反応しているわけか。さっきまでは壁にとまっていたようだが、今はどこへ行ってしまったのか。ハエの姿を見失った近くに、ひからびた蜘蛛の死骸が貼り付いている。誰がそれを見ているわけでもないのだろうが、興味があるとも思えず、とりあえずはそんな具合になり、それで何とか言葉をつないでている感もなきにしもあらずだが、そろそろ停電も終わってしまうだろうか。その間はまったく時が止まってしまったかのように感じられ、そんな錯覚も嘘のたぐいでしかないだろうが、何となく停電は楽しいような非日常のような感覚があり、それも冗談で述べていることであり、仕事が止まってしまって困っている現実を無視して、なおも虚無はその手の利害とは無縁の何かを記そうとする。だが本当に言葉を記しているのは、画面の前でキーボードを叩いている当人なのはわかりきっていることで、君に舞い戻ってきてもらって、それ以上の何かを期待するわけにもいかないのかもしれないが、とりあえずはそんなところで、一区切りとしておこう。それは冗談なのだろうか。

 しばらく経ったが、まだ停電が続くようで、無駄な悪あがきをしている時間が確保されて、安堵したわけでもないだろうが、何となく言葉を記すきっかけをつかめずに、実際にはそんな言葉を記しながら、何か語るような気分でいるらしく、それでどうにかなるとは思えないが、やはりどうにかしようとしているのだろうか。たぶんそういうことになるのだろうが、こうして無駄に言葉を記していると、何か嫌悪感のようなものが心の底からわき上がってくるか。また君は嘘をついているようだ。どこからともなく無意識のようなものが降って湧いて、誰かを惑わせているみたいだが、迷うことはいいことか。いったい誰がそう仕向けているのだろう。何にしがみついているわけでもなく、何かの海を泳いで渡ろうとしているわけでもなく、どこかへ流されていることは確かだが、その流された先に何が見つかるとも思えず、別に何を探しているわけでもないのに、何も見つからなかったといって落胆するとも思えないが、本当はそこで何を探しているのだろうか。たぶん誰かが何かを探しているのかもしれないが、その誰かが君ではなく、君とも無関係で、誰とも無関係な誰かが、何を探しているわけでもないが、その探している何かが、誰かの脳裏に浮かび、それが誰もが求めているものと見なされ、誰もがそれを追い求めて、世界中を右往左往しまくるわけか。だが具体的に何を探しているのが、皆にとって都合がいいのだろうか。それに関してありきたりなことを言うなら、誰もが幸せを探しているのだろう。なるほど君は切羽詰まるとそういう冗談をかますのか。別にそれが冗談であってもなくても、そんなことはどうでもいいか。


3月16日

 どうも有名人とか芸能人とかは、地震の被災者に対して義援金を送る場合でも、名前を伏せて寄付するというわけにはいかないようで、◯◯さんが被災者の方々のために◯◯円送る、とマスコミに報道されるようにしなければならないらしい。それも一種の売名行為になるのかもしれないが、役に立つならそれでもかまわないのか。中には数億円とか十億円とか寄付する人とかグループとかいるらしく、それだけ多額になるのだから、少々の売名効果を期待するぐらい大目に見てほしいところか。また災害報道のあおりを受けてテレビ番組などが休みになって、暇になったからではないだろうが、募金活動をする人たちもいるらしいが、やはりそういうのも、◯◯さんが被災者の方々のために募金活動を行っている、とマスコミに報道されることを狙ってやっているわけでもあるまい。確か泉谷しげるは、昔北海道辺りで地震が起こって津波などでかなり被害が出た時に、一人で延々と何年もの間チャリティーコンサートをやり続けていたような記憶があるが、マスコミにもあまり表立っては報道されず、やはりああいうのは売名行為とは無縁だったのだろう。今回もその辺であまりあからさまに報道されてしまうと、何となくそんなふうに思われてしまい、そんな猜疑心を抱く者の方に問題があるのかもしれないが、それでも何だかそんなことを思ってしまうらしく、自らは寄付も手助けもするつもりもないことを棚に上げて、まさかそれらの行為を非難しようとは思わないのだろうが、そんなことを述べていること自体が、もはや手遅れか。

 どうやらこの辺で雨は降らなかったようで、翌日は晴れ渡り、何も思わず、またいつものように仕事をしているらしく、それだけで一日が終わってしまい、その翌日も同じようなことの繰り返しとなってしまうのだろうが、たぶんそうなったとしても、やはり何とも思わず、誰かは何も思わないまま、日々それらの動作を繰り返している。この世界では何がどうなっているわけでもないようで、驚嘆すべき出来事など簡単に過ぎ去り、人も物も移り変わり、右往左往しているわけではないだろうが、一時迷っていても、そんなことはおかまいなしに時は流れ、気がつけばどこかに置き去りにされている場合もあり、新たな事態に対応すべく、絶えず自らを社会に同調させていかなければならないのか。人それぞれでやれる範囲も違うだろうが、君の場合はどうなのか。過去を引きずりながらも、何とかしようと努力している最中なのか。笑ってしまうが、たとえそうであってもなくても、何となく何かをつかみかけているような気がしているようで、何か有効なやり方を会得したつもりになって、それを少しずつ試しつつも、疑念を抱いていないわけではなく、絶えず軌道修正を施しながら、それも冗談の範囲内かもしれないが、何とかまともな対応ができるように、そんなことを考えているわけか。しかしそれの何が馬鹿げているのか。君にはそれがわかっており、理解しているつもりなのだろう。

 途中から何を語っているのかわからなくなり、誰かが本気でそんなことを思っているとは思えなくなっているようで、また何かの冗談の延長上にそれらの言葉が記されているのだろうと勘ぐり、そこから先には本音を盛り込まないように心がけ、その代わりに何か適当な虚構を練り込んで、内容がそうなってしまうのを避けているように感じられるが、いったい何のことを語ろうとしているのか。もうネタ切れか。ならばここから盛り返さなくてもかまわないか。要はタイミングを捉えて何かを繰り出すことなのか。それ以外に何があるのだろうか。だが勘に頼りすぎると墓穴を掘り、思考と勘とのバランス感覚も大事か。どこで何を配分するかで結果も変わってくるが、何の目的があってそんなことをやり続けているのかと問うなら、そういう問いには明確な返答など必要とされず、ただ最終目的をはっきりさせないことが重要で、いったい何のためにやっているのか、を不問にするような雰囲気に持っていかなければならないようで、そうしないと、たちまちそこで利害関係をはっきりさせようとする動きが顕在化して、どうにもこうにも事が進まなくなり、要するにそこで遠大な計画が頓挫してしまうわけか。しかし君はそんなフィクションをどこから仕入れてきたのか。わざと曖昧な言動に終始していることははっきりしているようだが、とても何か下心があるとは思えず、その辺を悟られないように心がけて行動しているのかもしれないが、何となくそんなことが延々と繰り返された結果として、もはや意図や思惑が見え見えとなりつつあり、どうにもこうにも押さえが利かなくなっているのかもしれない。やはりパンドラの箱が開いてしまうわけか。


3月15日

 君は何に間に合ったのか。何かを間に合わせようとしている。雨が降るらしい。事故った原発もいよいよヤバくなってきたようで、やがて制御できずに暴走を起こして、チェルノブイリのようになってしまうのか。そうなればあの辺一帯は半径数十キロの範囲内で立ち入り禁止区域となって、数十年間は放置されたままか。そうなったところで、そういうことでしかない。そこに無人の荒野が出現して、誰かの願望が実現するだけか。しかし誰かはそこで何を求めているのだろう。言葉を記しているだけで、それ以外のことはわからない。本気でそんなことを述べているわけではないような気もするが、差し障りのないことなど語れるはずがない。いつかそこへ行ってみたいような気もするが、それは架空の誰かが思っていることであり、現実の世界に暮らす誰かは、放射能が怖いので、たぶん行かないだろう。そして壊れた機械は人を夢の世界へと誘う。そんなことを思っている人はどこまでも愚かだ。君もそうではないのか。誰もそうではないと思いたい。君だけが覚醒しているわけではなく、そこでは誰もが睡眠中で、どんな世界の到来を期待しているわけではない。実際には何ももたらせないのだ。言葉以外に何が記されているというのか。何もそれらの物語を過去の時空へと押し戻そうとは思わず、語られた出来事の現前を止めることなどできはしない。もうすでに荒野の風景がどこかのキャンバスに描かれているはずだ。

 戸惑う必要はなく、当たり前のように語れば、すでにそれを語っていることになるのだ。夜の闇が何を暗示しているとも思えず、来るべき何かを予感させるような兆しはどこにも見当たらず、何か拍子抜けしてしまったような気になるが、とりあえずは期待外れでかまわないようにも思われ、取り立てて何を期待していたわけでもないのだろうが、誰かがそんなふうに語っている現状があるらしく、そんな現状を肯定したいとも否定したいとも思わず、とにかくそれを真摯に受け止めて、それをふまえた上での返答が期待されている。まともに語るにはそういうやり方が必要だ。本当に君がそう思っているとは思えないが、何を語るにも限度があるらしく、それを超えて語ろうとすると、内容が意味不明になったり、わけがわからなくなったりするのかもしれないが、君はそれでかまわないと思っているのだろう。いくらそんなことを語ったところで、そこに何が舞い降りるわけでもなく、相変わらずの言葉が延々と繰り返し連なったりしているだけで、それを読み返せば、何も語られていないことが明白にわかるだろうか。君にわかるはずがないか。だいたいそれらの文章は読む者に何もわからせようとはしていないではないか。それどころか戸惑わせ、迷わせようとしているのではないか。できることなら誰もがそんなふうに語りたいのだろう。そうでなければ何かを語っている意味がなく、何も語っていない意味もない。

 マネキン人形が流木の合間に見え隠れしながら、海上を浮遊している。よく見ればそれは人形などではなく、その先は誰かの想像にまかせるとして、たぶんそんなありふれたことを語りたいわけではないのだろう。そうではなく、まだ何も語られていないことを強調したいのか。だがそうする理由が一向にわからない。また話の途中からあらぬ方向へと逸脱しているのか。たぶんそこで語られていないことが肝心なのだ。くだらぬたとえ話には行かず、その代わりにどこに踏みとどまろうとしているのでもないだろうが、とりあえずの内容が記され、それによって誰の興味をつなぎ止めようとしているのでもなく、むしろそれとは正反対の内容を記そうとしているらしく、要するにつまらぬことを記しているのだろう。ただそれだけのことで、何となくやる気が失せ、もうそれふうの内容など求めるのはやめにしたくなるが、それでは生ぬるいのか。未だに無人の荒野を描ききれていないような気がして、描くのに必要な絵の具の種類が不足しているような気もして、中断したまま、かなりの歳月が経過していて、画面全体にひび割れが目立つようになってしまった感もあるが、それを再開させる気がないようで、何となく放置されたままになり、よく見ればほこりがかなりこびりついていて、少しその気になれば、かち割ってバラバラにして、ゴミ出し日に出してしまいそうになるだろう。だが君はそれが作り話でしかないことに気づいているようで、誰かの空想の中で描かれかかった風景に、誰が興味を持つこともないこともわかっているはずだ。


3月14日

 そんなことはどうでもいいか。でも停電騒ぎで朝から慌ただしく、結局は肩すかしを食らってしまったようだが、面倒くさいことに巻き込まれたものだ。まあ今さら政府をぎゃーぎゃー批判しても仕方ないか。だがそれ以外に語ることなど何もなさそうで、その件に触れなければ、世間話的には沈黙を守るしかないらしい。しかしそれでもどうでもいいことには変わりないか。要するに自分の周りに危害が及ぶ可能性が出てくれば、とたんにぎゃーぎゃー騒ぎたくなるのが、人として当然の反応なのかもしれず、大げさに騒いで、騒いでいることをアピールしなければ、かえって無視されてしまう場合だってあるだろう。だから人は騒がなければならないのか。時と場合によってはそうかもしれないが、やはりそんなことはどうでもいいと思っていると、時と場合によっては致命傷でも負ってしまうか。まあそれも偶然の巡り合わせで、何とか切り抜けて今に至っている人もいるのだろう。しかしそれにしてもどうでもいいことだ。今はただ眠いらしい。そんなことを思っている君は、たぶん本気で生きていないみたいだ。それにしても原発の屋根が二つ吹っ飛んで、そんな映像を見て、呆然として言葉が出てこない人もいるようだが、政府はそれでも大丈夫だと言っているわけだから、まあそういうことなのだろう。それで済んだら大丈夫で、済まなければ慌ててしまうのかも知れないが、何とかそこから遠く離れて暮らしていることを幸運に思うか。

 ところで君はどこから遠く離れているのか。この世界から離れているとすれば、君は架空の存在であり、この世界の中では不在で、不在の君が冗談をかますのは一苦労というわけか。そんなはずがないから、こうして誰かが記している文章の中で冗談をかましているのであり、君ではない誰かがそれを代行しているとしても、そんなことはどうでもいいことで、君という言葉が記されている現実をどう思うか否かは、君次第であるわけもなく、誰か次第であるわけでもない。要するに何とも思っていないというのは嘘なのだろう。だがそんなことを述べている場合ではなく、そんなふうに語ってしまう現状こそが唾棄されるべきものか。だから笑っている場合ではないのだろう。電力会社の脅し文句に振り回され、ガソリンスタンドは閉店続出で、コンビニに行けば弁当が売っていないか。カップ麺と水が品切れ状態という噂だ。とりあえず明日も朝が早いから、睡眠をとることを心がけておくとして、他に何の準備をしているわけでもなく、いささか手持ち無沙汰かもしれないが、やはり他は何について語ればいいのだろうか。地震関連の情報ならテレビをつければ嫌というほどやっている。だからとりあえず何を語る気も起こらないようで、黙っているとため息ばかりが出てくるらしいが、それはどうしようもないことなのか。何やらアホくさくなり、人などというのはくだらない存在であり、この世界のどこにいようと、取るに足らないことでしかないように思われ、何を考えても、何がどうなろうと、やはりそういうことでしかないのだろう。

 それはいったいどういうことなのか。それは改めて問う必要のないことであり、要するにそういうことなのだろう。どういうことでもないというわけか。そう思えばそういうことでしかないだろう。君はそういうたわいない認識から遠ざかれずにいるらしい。では他にどんな認識に至れば納得するのか。それがわかれば苦労はなく、わからないからここに至り、そういうことでしかないと思うわけか。とりあえずはどう思ってみても、そんなことでしかないらしく、ひとたび大規模な自然災害が起これば、こんな具合になってしまうのか。そんなことを思っているうちに誰かは眠たくなり、言葉を記すのが面倒くさくなって、一時的にそれを放棄してしまう気になっているようで、たぶんそこから先にいくら言葉を費やしても、それ以上でも以下でもないことしか述べられず、結局はどうでもよくなってしまうのだろうが、それにしてもそういうことなのだ。何をどう思ってみても、いくらテレビを見ても、それ以外の認識に至ることはないだろう。まあそういう状況の中に投げ込まれれば、それらの映像が明かしているように、必死に生きようとするのだろうが、それもそういう時期をくぐり抜け、やがて毎年この時期になると慰霊の日などを迎え、何年何十年と繰り返し語られるような状況となれば、やはりそれはそれでそういうことになってしまうのだろう。しかし大規模な自然災害や事件や戦争などが起こる度に、年がら年中そういう慰霊の日ばかりとなってしまうような気がするのだが、いったい今後どこまでそういう日が増えてしまうのか。まさか後数百年も経てば、毎日が慰霊の日となってしまうのだろうか。それとも古い順にそういう出来事が忘れ去られ、いつまで経っても一定量にとどまるのだろか。


3月13日

 誰かがこちらを見ている。確か今日は日曜日だったはずだ。夕方になってそれを思い出す。まずはこれからどうしようか。虚構の中で何か語ろうとしている。それが現実の世界の中であってもかまわない。しかしそれだけなのだろうか。誰かが自らの内面を見つめているわけではない。そんな話ではなかったはずか。語りたいのではない。語らされている。それだけのことか。それだけではなく、どれだけでもない。まだ延々とやっているのだろうか。たぶんそうだ。そんな状況下では、違っているのは当たり前のことか。何が違っているのだろうか。それをわざと外しているとも思えない。ならば限界を超えているわけか。何の限界なのだろうか。何かの限界なのか。相変わらず昼は仕事をしていたはずで、今はもう夜になっている。その間の記憶も意識もはっきりせず、すべての事象が曖昧のうちに過ぎ去り、今になってそれを思い出そうとするが、思い出せるはずもなく、またその代わりに荒野の風景を空想しているのか。あり得ないことか。さっき飲んだコーヒーで胃がかすかに痛む。茶でも飲んで一息つくとしよう。だがそれによって何を鎮めようとしているのでもない。とりとめのない気分がさっきから心を覆っている。それはたぶん気のせいか。今日はかなり暖かい。もうすぐ春なのか。すでにそうかもしれない。何を収集しようとしているのか。空疎な思いと特定の商品か。そんなふうに思われるのは、話の脈絡とは無関係を装いたいからか。

 何に困っているわけでもなく、すべてにおいて困っているのかもしれず、何に対してそういうわけでもないように思える。いつもの矛盾を言葉を用いて表そうとしているだけかもしれない。思い違いなのはわかっているようだが、それをそのままにしておきたいらしく、あり得ないことをあり得ない時間帯の中で考えているふりをする。意味が通らないではないか。何かの中毒症状が出ているのだろうか。そうかもしれないが、それを直すことはできそうもない。おそらく時間がかかるのだろう。まったく何もかもが時間の経過が解決してくれるわけか。だがそれは解決ではなく、風化現状のたぐいなのではないか。そうかもしれないが、忘却現象こそが、すべての問題に対する救いとなるだろう。わざわざ解決しなくても、そんなことは早く忘れてしまえばいいわけか。何もかもがそれで済んでしまえば、そんなに楽なことはないわけかもしれないが、そうはいかないのが世の常であって、そこから先に何が起こるかは誰かの想像にまかせるとしても、今の精神状態がそういうことなのだから、ここは忘却作用に従って、眠ってしまえばいいのかもしれず、実際に昼寝の最中に夢を見ていたのではないか。また意味が通らなくなってきたようだが、そこから何をどう語るつもりでもないようで、ただ静かに瞑想に耽っているふうも見せず、言葉を記すだけ記して、そんな雰囲気を感じ取っているだけのようだ。

 しかし何が終わりの季節なのか。黙っていてもどこかで季節が移り変わり、それらの存在を忘却の彼方へと送り届け、やがて空疎な言葉の連なりとなってよみがえり、人々を惑わせ、ありふれた興味の対象としてそれらが提示された時には、もはや魅力的な内容は失われ、その代わりに紋切り型の文章表現を詰め込まれ、他の誰かによって発せされてしまうのだろうが、それが物語の本質だとしたら、ある方面に精通している人々にとっては、それはそれでかなり興味深い調査対象とでもなるのだろうか。しかしそれとは何なのか。だがそういう問い自体がその存在を曖昧模糊として、わざとそこから視線をそらす役割を担っているのかもしれず、本当のところはよくわからないのだろうが、ただの文章でしかないそれらのそれを、君はどこから抽出しようとしているのか。もはやそれは誰かが記した言葉の連なりから逸脱して、勝手な想像の産物となってしまいそうだが、それでもそれについて語っていると思い込み、相変わらずわけがわからないと思っているようだが、本当のところはわかりすぎるくらいにわかっており、ただわけがわからないように言葉を記しているだけなのではないか。他に何を記そうとしているわけでもなく、どうやってそこから抜け出ようとしているのでもなさそうで、要するに迷路の中で勝手に行ったり来たりしているだけで、その迷路路さえも言葉によってねつ造された虚構のたぐいであり、それを打ち壊す気もなく、その辺でうろうろしている状態をよしとしている気配が伺える。


3月12日

 様々な出来事が起こっているようだ。なるほどとは思わないか。不可解だとも思わないか。無理が祟ってしまったのだろうか。偶然の巡り合わせか。それにしても福島県が第二のチェルノブイリと化してしまうのだろうか。それにしても原発反対論者が日頃から唱えていた、大地震が起こって原発が事故るという筋書きのままの事態で、それが現実に起こったのを目の当たりにして、こういうことだったのねと思い、これで原発推進者たちに、原発は震度8でも耐えられる、と豪語しながら、そんなのは杞憂だと馬鹿にされ続けていた人たちの思いも浮かばれるか。でもこうなった以上は最悪の事態となってしまったわけで、起こってはならないことが起こってしまったからには、今さら原発反対と叫んでも、もう遅すぎるだろうか。まあこの時点で何を批判しても遅すぎで、たぶん原発推進者たちは、今回のは想定外の突発的な事故だと見なして、今後も原発推進派にとどまるのだろうだから、まあせいぜい安全対策の万全を期してほしいか。しかし近頃の君は、そんなうわべだけの建前論まで平気で述べるようになったのか。君が述べているのではなく、誰かが記しているのだろう。だがそれも君の建前だとしたら、実際に言葉を記している誰かとは誰なのか。何だかわざとらしすぎることを述べているようで、嫌になってくるかもしれないが、別にそれでもかまわないか。それでも本質的には何を記すべきなのでもない。だがこれで東京電力がなぜ東京から遠く離れた福島や新潟に大規模原発を建造したのかが、よ〜くわかっただろう。今回のようなことが東京の近くで起こったらヤバいということだ。福島県民の皆様、御愁傷様です。東京の犠牲となるべく、補助金をじゃぶじゃぶ突っ込まれて、反対派の頬を札束でひっぱたきながら、危ない原発を押し付けられて、あげくの果てがこのざまか。まあ悪く言えばこういうことになりそうだ。まあくれぐれもチェルノブイリのようにならないことを祈りましょう。

 しかし何はともあれテレビから芸能人の姿が一掃されてから丸一日以上が経ち、そろそろ誰もが安全地帯で退屈を持て余している頃か。そういえばカダフィ大佐の件はどうなったのか。反政府勢力を武力でねじ伏せ、これからもリビアでは独裁と恐怖政治が続いてゆくのだろうか。フランスの大統領とイギリス首相あたりが空爆を呼びかけているようだが、実現してカダフィ大佐とその一族を窮地に陥れたりするわけか。だが今さらそんなことには興味がないか。地震のほとぼりが冷めた頃には内戦の雌雄が決していたりするのだろうか。ネットを見たらそんなニュースを見かけ、世の中が地震だけではないことがわかった気がした。やはり今こうして言葉を記している間にも、どこかでコンビニ強盗とかが発生していたりするわけか。そういえば管総理の退陣圧力もぐっと減り、最悪の天災に味方されるとは、やはり悪運が強いといわざるを得ないのだろうか。とりあえず今回の件が一段落つくまでは、総理大臣の座に居座り続け、毎日作業服姿で、人道的な台詞を繰り返していれば、何となくそういうことをやっている人なんだ、と納得させられてしまいそうになるか。そして官房長官の枝野氏とのコンビは、まるで建設会社の社長と専務のような関係に見えないこともない。だから何だというわけでもないが、さすがに地震が起こって二日目となると、フジテレビのアナウンサーは、あのマークの入ったヘルメットをかぶっていないようで、滑稽感が軽減され、その分おもしろみも失われているような気がするが、なぜあのマークを見ると笑ってしまうかについては、誰かの想像にまかせるとして、今回はくだらぬことをいい加減に語りすぎているように思われるので、まったく他人の不幸を話のネタにするのは心苦しく、冗談を発する度に、自責の念に駆られ、そんな心にもないようなことを述べてしまうのだが、もういいのではないか。


3月11日

 地震らしい。かなり揺れていたはずだが、それがどうしたわけでもないか。たぶん死傷者も出ているのだろう。テレビはそればかり報道している。誰かは太平洋沿岸に津波が押し寄せる映像に見とれているのだろうか。何となくそういうことのようで、言葉を記している場合ではないらしい。馬鹿げているだろうか。いったい何がそうなのか。わからないだろう。君にはわからず、誰かにもわからないはずか。では何が君を語らせているのか。自発的に語ろうとしているわけではないか。何がそうなのだろうか。何でもないから何がそうなのでもないか。どうやらまともに言葉を記す気にならないようだ。君はそこで目を閉じて、何を瞑想しているわけでもないだろうが、そんなことを語るのは筋違いだと思われる。あの時からすべてが変わってしまったのだろうか。それとも今があの時なのか。それは誰かの想像にまかせるとしよう。たぶん考えがまとまらないのだろう。君は何ごともなかったかのようにそう思う。それが文章の内容なのか。ますますわけがわからなくなってしまうではないか。少し頭の中を整理するとしようか。それでもだめなら寝てしまえばいい。目が覚めれば翌朝になっているはずか。どうせ死傷者が増えて、阪神淡路大震災の死者数を超える可能性もあるだろうか。それはわからないが、とにかくしばらくは騒ぎが続きそうだ。しかし君はそこでそんなことを語って、何か興味があるような素振りを見せているようだが、本当のところはわからない。あるいはもうすでに別のことを考えているのだろうか。

 だがもうそれを忘れてしまったらしく、そんなこととは無関係に、明日は明日で仕事をしているはずか。皮肉なことになっているようだ。今も余震が続いていて、度々揺れているらしく、まるで船酔いになったようでもないだろうが、烏龍茶の香りで気持ちを休め、これから何か適当なことを語ろうとするが、語ることに意味を見出せないのは相変わらずで、身が入らないようだ。それで何か語っているつもりになれるだろうか。そういうことではないのだろう。また揺れている。そういえばそれはいつのことだったのか。何の話でもなく、そんなことに興味があるわけでもない。それでもマグニチュードはかつてない大きさか。意図的に何かを外しているらしいが、何となくそれがおかしい。フジテレビのヘルメットを見て笑っている場合ではないはずか。そういえば関東大震災を語り継ごうとしている人々には、今回の事態をどう思っているのだろうか。興味がないか。そんなはずがないことは承知しているはずだが、それについて何を論じたいわけでもないらしい。どうも心が外れ、気持ちも別の方面へいっているらしい。それはどういうことなのか。またそれか。何を問うつもりもないのに、それはないだろう。そして少し横になり、体調が思わしくないことに気づいて、何となく言葉を記すのをやめようとしているらしい。そうなったら後は眠ってしまうだけか。それもわからないが、この先どうなってしまうのか。

 しかし何を確信しているのか。確かにその先がある。その先ぐらいはあるだろう。だがまともなことを語ろうとしているわけではないらしく、その辺で気分的にはどうでもよくなっているのかもしれないが、君はまだ粘るつもりなのか。たぶんそれらの終わりまではつきあわされそうだ。また意味もなく笑っているようだが、話になっていない。どうせ語ることなど何もないのだろう。そう投げやりになってもらっても困るが、何か地震以外で語ることはないのだろうか。何もないことは気づいているはずか。だがそれでも言葉をつなげて文章を構成し、何か語っているように装わなければならない。そんなことを思っているわけでもないのに、そう記してしまうのは、かなりおかしな成り行きか。わざとそうしているのだから、それもいつものことか。そしてそんなことを語りながら、だんだん嫌になってくる。だからやめてしまえばいいのか。今さら何をやめる気でいるのかわからないが、そこで何も思っていないわけではなく、何ともないわけでもなく、精神的にはかなりの痛手を負っているわけか。本当はもっとマシなことを語るはずが、何かのせいでぐだぐだの内容になってしまい、それを修正できないまま今に至り、毎度おなじみの自己嫌悪とともに、何となくそれをあきらめているわけか。それとは何か。そう問いたくてそんなことを述べているのか。君はそれでもかまわないと思っているようで、ほとんどのチャンネルで地震情報を伝えているテレビを見ながら、過去の何かを思い出しているようで、それがトラウマとなっているわけでもないのだろうが、何となくまとまりを欠いた文章を記しながらも、それがすべてではないと思うしかない。


3月10日

 簡単に述べるならば、それはそういうことだ。何が何だかわからないのはいつもの通りだが、やはりそういうことなのだ。そう述べて誰かを見殺しにしているわけではない。君は助けに入らないのだろうか。自業自得の誰かを助けるのは虫がよすぎるか。別にそれほど窮地に陥っているわけではないだろう。しかし他に何か気が利いた言い訳がないだろうか。とりあえずは何も思いつかないから、そういうことにしておこう。今さら何を語っても仕方がない。誰もが隙を見つけては勝手なことがしたいわけで、気づかれない範囲内でやりたい放題がしたいわけだろう。だから今こそ日頃から抱いていた妄想を実行する機会なのか。そんな話がどこかのフィクションの中で語られ、それを誰かが読んで、自らの語りに利用できると考えたわけか。そして実際にそんなことを語っているわけだが、どこからどこまでがそうなのか皆目見当がつかず、本当はそんなものはどこにもなく、ただその場しのぎで嘘をついているのではないか、と勘ぐってしまいそうになるが、たぶん真実など明かされる気配はなく、それはそのままうやむやのうちに、葬られてしまうのだろう。本当は何を葬っていることにもならないのだろうが、何となくそう述べて、何か適当に語っているように装いたいだけなのかもしれず、さしあたって人畜無害気味に、毎度おなじみの空疎な何かを語れているような気がしてきて、心に余裕があるうちに、その先に話を進めたいように思われるが、要するにそれらは何の話でもなく、どのような話にもならない語りなのだろうか。

 君はそれらが何に分類されるかについては興味がないようで、そのまま黙って話題なき話題を素通りして、あわよくばその先に待ち構えている虚無さえも避けて通り、何が何だかわからないままに、それらの迷路を通り抜けたいのかもしれないが、それで何がどうしたとも思えず、自らが何を達成したとも感じられないまま、勝手気ままに記されているわけでもない言葉の連なりに目を通して、その出来について何を考えているわけでもなく、記された内容に取り立てて興味があるわけでもなく、ただ黙って画面に向き合い、そこから先の話の展開をどうしたらいいのか、何か模索しているわけでもないだろうが、何となく考えあぐねて力つきているように思われ、もはやどうでもいいでは済まないはずなのに、やはりどうでもいいと思うしかなく、その辺で何かのゾーンに入っていることを自覚しているみたいだ。だから途中でやめたくなり、流れを断ち切り、改めて話を構想し直そうとしてしまうのだろうが、それは何を今さらでしかなく、ここまでくれば手遅れなのは明白か。それでも誰かはそれとは違うことを記したくなるらしく、そういう話の流れを嫌い、しばらく画面を見つめながら考え込んでいるようだ。それはふりではなく、実際に考え込んでいるのだろうが、何か妙案が思い浮かぶはずもなく、焦っているのか苦し紛れなのか、業を煮やしてそのまま突っ走り、結果的に墓穴を掘って自滅の成り行きになっているのだろうか。

 それでもまだかすかに可能性があるのだろうか。一縷の望みにしがみつきたいのか。まさか蜘蛛の糸にぶら下がって何かの地獄から抜け出したいのでもないか。確か芥川龍之介はガス自殺で死んだはずだ。君はその手の文学とは無関係のはずだろう。いつもそれ以前の何かについて語っているはずで、それは現実感のないたとえ話を用いて、学生と雑談を楽しんでいるサンデル教授とも無縁か。では何なのかと問うならば、何でもないと答えることしかできず、要するに何も語っていないのかもしれず、語る必要性を感じないから語っていないのであり、そう捉えるならばそうなるはずで、そうではないと思えば、そうではないような捉え方もできるのかもしれない。だからそこから先は語りようがなく、無理して語らなくてもいいのかもしれないが、無理しなくても語れる範囲内で語ろうとすれば、そういう語りになってしまうのだろう。もはや悩んでいる暇はなく、何を悩んでいるとも思えず、悩むようなことを悩むほどおめでたい状況の中では生きていないか。しかし君はそこで何を出し抜かれているのか。誰に先を越されたわけでもないのに、何を焦っているのだろうか。現状が焦るような状況だとでも思っているわけか。確かにある面ではそうかもしれないが、別の面ではそうではないのかもしれず、焦って事を急いでいる場合ではなく、じっくり腰を据えて考えるべきなのか。だが何について考えるべきなのか。ではまずは何について考えるべきなのかを考えてみようではないか。どうやらそう述べている時点で考える気などさらさらなく、また何かの冗談をかましている気になっているのかもしれない。


3月9日

 たぶんそれが重要なのだ。何でもないことが肝心なのか。くだらぬ妄想の中に誰かの願望が隠されていて、それを読み取って、その行動を理解しなければならない。だがそこから先に何が待ち受けているのか。何が重要だと悟ってみても、結果がそれではどうしようもないか。何について語ろうとしているわけでもなく、相変わらずただ語っている現状を変えることができないばかりか、さらに状況は悪化していて、最近は空疎なことを延々と語っているだけでしかない。そう思いたいのだろうか。たぶんそれは違うと思う。それを簡単に否定してもかまわないらしい。状況的にそうなのだろうか。怠惰になってきたのかもしれず、考えるのが面倒くさく思えて、実際に何も考えていないのかもしれないが、なぜかそこで行き詰まっているとは思えず、何かしら記された言葉の連なりに納得しがちになっているのかもしれない。作為を排して、無為自然の境地にでも心の有り様が入っているのだろうか。あり得ないことか。しかしだらだらとそんなことを述べていると、心が和んで、そういう記述行為に何か癒し効果らしき作用を期待しているのかもしれず、それこそあり得ないことかもしれないが、誰かの空想の中では、そういう虚構が成立しかけているようだ。しかしそれはどういうことなのだろう。君にわかるはずのないことか。ならばそこでその話は終わってしまうのではないか。まさかそれでもかまわないと思っているのか。たぶんそういうことかもしれない。そんなどうでもいいことに本気で取り組む方がかなりおかしなことだ。

 意識の中で何かが活性化していて、そういうことを思っているうちに、その何かが弾けて、そういうことを記述しだすが、おそらく何かが違っているのだろう。心のどこかに勘違いがあり、それがないと何も語れなくなってしまうだろうが、それを利用しなければ何も語れないというのも、何だか情けなくなってくる。しかしなぜそんな嘘をついてでも言葉をつなげようとしてしまうのか。実態としては何があり得ないわけでもなく、可能か限り、少しでも意味が通るようなら、自らが語りたい内容とは関係なく、時にはそれとは真逆なことまで語ろうとするわけで、要するに語りたいことを語るというこだわりが、心の中から排除されているのかもしれず、その結果として、誰が何を語っているのでもないことを語っている現状があるわけか。そして自意識にはそれはあり得ないと思われ、あり得ない事態が起こっていることについて、心の中で葛藤があり、そんな作り話を信じようとはしていないのだろうが、信じられないのに、そこに信じられない話が記されている現状との間で、また心の中で葛藤があるわけか。たぶんそういうのは冗談のたぐいか。真に受けるような内容でないことは確からしいが、そんなことを語っている現実と、思っていることとの間で生じているずれが、誰かの心の内部に空想上の亀裂を生じさせ、それによって何がどうなるとも思えないが、とりあえずはそんなことが記されている現状を生じさせているのだろう。

 だがそれにしても、他の誰かにとっては何の興味ももたらさないようなことを延々と述べているような気がしてならないが、それでもとにかくそれはそれとして、成り行き的にはそれを記すことしかできないようで、現時点でできることをやるしかなく、やれることとはそういうことを語ることのようで、実際に誰かはそんなことを語り、自己満足とは無縁の作業を続けているらしく、それによって何がもたらされるとも考えにくいが、それを続けざるを得ないように思われ、実際に続けながらも、そんなことをやっていることについて、果てしない自問自答が繰り返されている気配も感じられ、それでも語ろうとしている意志に従い、たぶんここまで語ってきたのだろうが、相変わらずそれがどうしたわけでもないと思い、その先に何が待ち受けているとも思えなくなり、何かをあきらめた気分でいると同時に、あきらめきれないことの証しが、そんなことを語っている現状そのものであるとも思われ、今回はそこから自己嫌悪に陥るパターンには行かないらしく、何となく清々しい気分に至りたくて、心の否定的な部分を意図的に見ないようにしながら、文章を終わりまで記すつもりらしく、そんなことができるかどうかは疑問に思われるが、たぶんそのままの状態を保ちながら、終わってしまうのだろう。実際にここまでやってきて、君がそう思うか思わないかはさておき、これでかまわないのではないかと思うしかないようで、どうやってもそうなってしまうような成り行きを感じながらも、それに従うことで、心の葛藤を押さえ込んでしまったらしい。


3月8日

 意識はどこから抜け出てきたのか。それは空気ではなく、雰囲気でもないようだ。嫌な感じがしているとも思えない。たぶんトンネルを抜け出ようとしているのでもない。すべてが間違っているのだろうか。そう思っていればいい。取り立てて何を探し出そうとしているのでもない。気休めに何をやろうとしているのか。それは気休めなどではなく、気晴らしでもない。そう思っているわけではないが、文章上に示された内容とは関係ない。おそらくそんな気分なのだろう。今の状況を把握したいわけではなく、何を知りたいわけでもない。何かの異変を感じ取っているのかもしれないが、はっきりした兆候をつかんでいるわけではない。何かがどうにかなっているようだが、それが何だかわからない。ではひらめいているのは何だろう。死の予感か。勘違いかもしれず、そうではないのかもしれない。ではどちらなのか。別に生きるか死ぬかの岐路に立たされているとは思えないが、重大な局面を迎えているわけか。それはわからないが、俄には信じがたいか。思い過ごしであることを祈っているのかもしれず、この先どうなろうと知ったことではないような気もしてくるが、そうなるまでは知らなくてもかまわないのかもしれない。しかし手足のしびれが気にかかり、その原因をあれこれ詮索してみるが、わかるはずもなく、満身創痍のような心境に至るまでは何ともいえないのだろうか。そうなってしまっては手遅れなのだろうが、そうならないうちに何とかする気にもなれず、やはり実際にそうなる日を待つしかないのだろうか。

 何かの宿痾に冒され、どうにかなっている気分ではないが、そういえば目の奥の痛みはいつの間にか消え去り、たまにめまいがしているのかもしれないが、そういうことではないような気がしている。そのうちはっきりしてくるのかもしれないが、その時になって慌てふためくことになりそうだ。そしてどうにかなった末に、お迎えがやってくることにでもなるのだろうか。今のところはわからず、はっきりしたことは何も言えそうにない。そんなことを思っているうちに平常心を取り戻し、また何ごともなかったかのように振る舞い、この先何が起ころうとも、平然としているような気もするが、そうなった時にはすでに自分が自分でないように思えてくるのかもしれない。しかし自分とは何なのか。自分ではない誰かがそんなことを思うのはおかしいか。ではいったい誰が自分のことを自分ではないと思っているのか。またわざと話を込み入らせようとしているのかもしれないが、はじめから話になっていないような気もしてきて、やはりそんなことはどうでもいいように思われてしまうのか。たぶんそう思っているのだろう。少なくとも君ではない誰かがそう思っていて、そんなことを気にしている場合ではないとも思っていて、そうやって何か思うことが、無駄で無意味なことのようにも思えてくるはずだ。だからそんなことを記すべきではないのか。だがそれは君の知ったことではなく、誰の知ったことでもなく、それもどうでもいいことのたぐいか。

 ならばそこから何を語ればいいのか。たぶん今語っていること以外の何かを語るべきなのだろうが、それがわからず、何も思いつけず、だから結局そんなことしか語れず、君にはそれをあきらめるしかなさそうに思われ、実際にあきらめているのではないか。たぶん何か強烈な痛みのような感覚に襲われれば、すぐにも病院へ行くのだろうが、何だかはっきりしないような鈍い感覚が長期間にわたって持続していて、他のことに精神を集中させている時には忘れられ、何かの拍子に気がつけば、またそれがぶり返している感じで、それを覚えている間は不安に苛まれ、また別のことに気をとられている間は何とも思っていないわけで、そんなことが延々と繰り返されながらも、拭いきれぬ不安感をどうすることもできず、今に至っているのではないか。だから何がどうしたわけでもなく、そうしている間にも時が流れ、歳月が積み重ねられ、何が何だかわからないうちに年老いてしまうのかもしれないが、やはりそれがどうしたのか。もはやどうにもならない状況か。レールの上を走る電車のように、いったん動き出したら目的地にしか行かず、途中で横道にそれるようなわけにはいかないようだ。だからどうにもならないというわけか。だがいつも電車に乗っているわけでもないだろう。それにたとえ電車に乗っていようと、目的地を通り過ぎて、そこから先は行くあてもなく、延々と線路の上をぐるぐる回っていることだってありうる。だがそうだとしても、それが何のたとえになるわけでもないか。


3月7日

 昼には雨が止んできたようだ。何かを語ろうとして何も語れなくなり、語れない理由を探ろうとして果たせず、行き詰まっているような気がしながらも、そんなことを語り、それが冗談なのかもしれないが、それでかまわないらしい。それはおかしな成り行きか。冗談には違いなく、それで済ませてしまえばいいのかもしれないが、その先が出てこなくなり、やはり何かに行き詰まっているようで、それを打開しなければとは思うが、またしてもその先が出てこない。いったいその先にはどんな文字列がつながるべきなのか。君は正気でそんなことを考えているのだろうか。まず語らなければと思い、内容も見出せないままに語りだし、空疎な結果に落胆する。それがそもそもおかしいのではないか。普通なら、まず語りたいことがあり、それを語ればいいのであって、それがなければ語らなければいいのであって、なぜそうしないのか理解できない。要するに理解の範疇を超えて語ろうとしているのであり、そこにはかなりの無理がある。それでも無理を承知で語ろうとすれば、内容を見出せずに、空疎な語りになるのは火を見るより明らかか。だから現実にそうなっているはずで、今ここで誰かがそれについて語っているのではないか。君はそれがおかしな成り行きだと思っているのか。そうだとしても後へは引き返せず、そのまま語り続け、終わりまで語るしかないだろう。冗談でそんなことを述べているのかもしれないが、実際にそういうことらしく、退路を断って前進するしか道はなさそうに思われ、要するにそんなことを語っているわけか。

 それは恐ろしい話の展開か。とりあえずは偶然に何かが巡ってきて、そこから抜け出せるきっかけをつかむまでは、そんなことを語っていなければならず、今は耐えるしかないように思われ、実際に耐え続けているのかもしれないが、そこで何に耐えているのだろうか。迫りくる虚無の恐怖に耐えているわけか。冗談かもしれないが、笑っている場合なのか。そうだとしても何がおかしくて笑っているのか。今まさに言葉の並びが貧窮の時を迎えようとしているわけか。それはどういうことなのか。わけがわからないで逃げてしまってかまわないのか。いくら問うても何の返答も期待できない。問いかけている対象が不在かもしれず、もはや自問自答すら通用せず、たぶん問いかけている自らの内には収まりのつかないようなことを、自らに向かって問うているのではないか。そうだとすると、答えはどこにもない。少なくとも自らの内には答えがない。だからそれを自らに問うても無駄なのだ。ではどうしたらいいのだろう。また冗談に逃げるつもりのようだが、いくら逃げてもそんな問いを突きつけられ、それに答えられないまま、ひたすら逃げ回り、問いに追いつかれた時が終わりなのか。そこで何が終わるのだろう。答えられないと謝れば済むことだろうか。誰に向かって謝るつもりなのか。自らが問いを発しているのであれば、自らに謝るしかないだろうか。しかし謝りきれない人はどうするのか。自殺するしかないわけか。

 ここではそういう暗い冗談はなしにしたい。できればそうしたいところだが、当人は謝る気などさらさらなく、たとえ逃げ切れなくなって追いつかれても、相変わらず逃げているふりをして、突きつけられた問いなど無視して、何も答えず、さらに平然とそこから逃げているつもりになり、そういう姿勢があまりにも見え透いていて、居心地が悪くなったら、たまらず冗談を発して、それで何となくごまかしたつもりでいるようだが、果たしてそれでかまわないのだろうか。かまわなくはないのだろうが、かまわないと思い込み、それで済まそうとしてしまう。まったく無責任にもほどがありそうで、そのことについて反省も何もないばかりか、都合が悪くなれば、そんなことなどなかったことにして、それで平然としているようで、どうにもこうにもどうしようもなく愚かで、その愚かさの上に居座り、時には意味不明気味に逆切れしたりしながらも、なんとかかんとか自分という存在を保持しつつ、この世界に居場所を見つけ、そこでとぐろを巻いているように見せかけ、他の誰の恐怖心を煽るまでもなく、その居直り具合を呆れられ、それでも生きる側にしがみつき、あわよくばそういう存在を認めてほしいと思い、自己主張のような行為に打って出るが、周りからは無視されるがままで、もちろんそんなことは意に介さず、ひたすら我を押し通すことに汲々としているのだろうか。もっともそれが君の冗談だとすれば、それがそこで語られる物語となるしかないのではないか。そしてそれはそれで望むところで、そうなってくれれば大成功なのだろう。


3月6日

 どうも悩みながらも、何かが二の次となっているようだ。意識はまだそこに居座るつもりなのだろうか。何かおかしいのではないか。おかしなところに意識があり、それが君の頭の中ではないような気がして、それどころか誰の頭の中でもなく、何だか中空に浮いているような感覚になり、そんな嘘をついている誰かが、誰でもないような気がしているのかもしれず、その辺からマイナスのエネルギーが出ているのだろうか。話としてはまったくの荒唐無稽か。現時点ではそれでもかまわないはずだ。そうでなくてもかまわない。要するに矛盾していればそれでかまわないのだろう。別にそう述べて気が狂いたいのでもなく、画面の前で笑っていたいのでもないらしいが、さっきから背中がかゆい。気が散って、話にならなくなるか。それはそうでなくともいつものことだろう。そんなことを語りながらも、誰かが孫の手で背中をかいている。自然とあくびが出て、もうその辺で限界と悟り、眠ってしまうのか。その方がよく、健康のために睡眠時間を十二分に確保した方が身のためだ。ならそうすればいい。そんなわけで誰かが眠ってしまった後に、他の誰かが言葉を記すのを引き継ぎ、そんな嘘をつきながらも、誰かが言葉を記している現状に変わりがなく、今のところは不健康を目指して、それらの作業をやめようとしない。まったく馬鹿げたことだが、いくら馬鹿げていても、そんなことばかり述べながらも、それを継続させ、さらにおかしな具合となっているようで、そのうち自らの寿命を縮めてまでやろうとして、馬鹿げたことに拍車がかかりそうで、その先は死後の世界となりそうな気配だが、そういう嘘はわけがわからないか。

 わけがわからなければ、誰かの思うつぼか。そんなことはわかりきっているのではないか。わかりきっているのなら、少し間を置いて、少しは言葉を選びながら記すべきか。だがその時点でおかしいのではないか。わざとぶっきらぼうに言葉を配置して、ざらついた意識をどこかへ巡らせようとしているのかもしれないが、そう述べていること自体がわけがわからない。具体性のかけらもないことばかり述べているようで、本当に危機的な状況を招いているような気もするが、そんなことをいちいち気にしているようでは、何も記せなくなってしまうだろうか。現に今がそういう状態なら、なぜ誰かは平然と言葉を記しているのか。記されたそれらがでたらめの極致で、何を述べているのかわからないのはもちろんのこと、ひたすら馬鹿げているように感じられること自体が、かなりおかしな状況といえるだろうか。たとえそうだとしても、なぜ君はそれでかまわないと思い込むのか。それは君が君ではないからか。君は不在のはずで、誰が何を思い込んでいるわけでもなく、ただそう記されているだけのことに目くじらを立てているわけでもなく、要するに何とも思っていないようで、誰が何とも思っていないのではなく、誰も何とも思っていないだけではないのか。しかしそれでもそんなことを誰かが記している状況は変わらない。誰も何も覆せず、手も足もでないような状況に陥っているのかもしれず、だからそうだといって、そんなことは無視し得るようなことでしかないのではないか。ならばそれでかまわない。

 かまわないわけがないだろう。どこからともなくそんな声が聞こえてきそうだ。なぜか知らないが、そんなふうに思われ、かまわないからそんな言葉を記しているのではなく、ならばどうかと問われれば、わからないと答えるしかなく、答えに窮して、かろうじて出そうになった本音を記さずにおくことが、何の理由でそうするのかわからない。理由など何もなく、あるいは限りなくいくらでもあって、結局そんな理由など理由にならないような理由であって、理由を述べること自体が無意味になってしまうような状況となり、それが嘘であろうとなかろうと、何となくその辺からわけがわからなくなっているようで、君は気が触れているわけではないことを証明できなくなっているようだが、君でなくとも、誰もが画面の前で笑いながらも、それらの言葉の連なりを制御できなくなっていることを、当然だと思うようになり、それが作り話でなくとも、現実の話であろうとなかろうとも、とりあえずの結論など要らないように思えてきて、他に何を語ろうとも、その辺でおかしくなっていることは間違いなく、何がおかしいわけでもないと思うことが、たぶん嘘の続きを記す機会をもたらしているのだろうが、そうだとしてもどうということはないような気にさせ、さらに言葉を記すならば、それがごり押し気味に記されていることが明らかとなり、やはりそういう行為が馬鹿げているように思われ、もうその辺でやめるべきと思われ、実際にやめようとしているのだろうが、実際に誰がそれをやめさせているわけでもなく、要するにそれが自然の成り行きなのだろうか。あるいはまた嘘をついてしまったらしいか。だがそこで何があるいはなのか。


3月5日

 誰が何を狙っているのかわからないが、さらにおかしなことを述べている。またそれは冗談なのか。たぶんそうだ。何が冗談なのだろうか。まだそれを述べていない。だからそういうのが冗談のたぐいに違いない。君はそれを語るつもりがないらしい。そういうことだ。どういうことなのだろうか。わざとらしく言葉を重ね、そんなふうにして文章を記そうとするが、それではまずいのか。たぶんまずいのだろう。たぶんまずいに違いないが、それをやめられず、ここに至り、どうでもよくなっているのかもしれない。それは何かの罠か。また誰かのせいにしようとするが、根本的には自業自得だ。そうに違いない。君はそれを知っているつもりなのか。きっとそうに違いない。だからそれに耐えられる。精神的にはきついかもしれないが、そんなことなど無視しながら、さらにそれを続けようとしているわけだ。まったく馬鹿げたことだ。そう思っているのにそれをやめられないことが、さらによりいっそうそれを馬鹿げた行為にしているようだ。君は本当にそう思っているのだろうか。しかしわかっていながら、なぜそれをやめられないのか。そんなのは当たり前で、その辺で誰かの本音が出かかっているようだが、まだそれは明かされない。本当はどうでもいいのだろう。だからやりたいようにやればいいのだが、その結果として誰がやりたいようにやっているのかがわからない。それは違うか。どうやら君はまたそんな嘘をついて、そこまで出かかった本音をごまかしているように思われる。

 要するに誰かはやる必要のないことをやろうとして、それをやっているうちに、否応なくそれが本職となってしまったのか。だがそれの何が本職なのか。少なくとも職ではないはずか。たぶんそこで何かが違うことを祈っているだけだ。本当の君はそうではなかったはずか。そうでなくとも何かを経験しなければ、そこへたどり着けないはずだが、いったいどこへたどり着いたのか。誰もそこにはいないではないか。あるのはがらんどうだけで、それらの空洞で何を叫んでも、誰も聞いてはいないはずだ。他に誰もいないどころか、君さえも存在していない。では誰がそこで語っているのかといえば、たぶん誰も語っていないだろう。ただ画面に言葉が記されているだけか。ではそこで不在の君が誰を馬鹿にしているのか。誰もいないのに馬鹿にしているとも思えず、そんなことを述べていること自体がおかしいのではないか。おかしいから何でもなく、何でもないからおかしいわけだが、本当はどちらともいえないはずか。だから君にはそれがわからず、ついでに何を語ったらいいのかもわからない。だからそんなわけで、どんなわけでもなく、ただそこに言葉が記されているわけで、理由も何もないのに、そんな嘘をつきながらも、そういうことが記されている。しかし誰がそこで嘘をついているのか。そんなことを気にする必要はないだろう。誰が嘘をついていようと、そうなってしまうのだから、それはそれでかまわないではないか。

 どうもなかなか本音にたどり着けないようで、たどり着いた先には嘘ばかりが記され、そこで誰が何を語っているのかわからなくなり、何も語っていないのは君だけとなりそうで、君自身が不在のまま、くだらぬ話がどこかに記され、それが君についての物語となってしまいそうだ。だからそんなのが嘘なのだろう。誰かがそこで果てしなく延々と嘘を並べ立てていて、それが止めようにも止まらなくなっているわけで、止める手段が目下のところは見つかっていない状況か。別に止めなくてもかまわないのではないか。止めなくてもそのうち止まるだろう。それらの文章が終われば自動的に止まるはずか。そうなったらそれは予定調和の成り行きとなり、ますます馬鹿げてきて、そんな文章を記すのがくだらなく思えてくるはずだが、それでかまわないのだろうか。かまうかまわないの問題ではなく、たぶんそうなのだ。どちらでもかまわないということか。それが誰かの狙いとなるだろうか。本当は何もなく、何でもないのだろう。言葉として記されれば、何でもかまわないのではないか。それはそうなのだろうが、それで文章となるべきなのかもしれず、最低限は文法として合っていてほしいのだろう。しかしそれがどうかしたのか。まさか苦し紛れにそんなことを述べているわけではあるまい。そういう雰囲気を漂わせながらも、何かの隙をついて、誰かの本音を引き出したいのではないか。今のところは言葉と言葉の狭間に隠れているそれが、何かのきっかけで記されてしまう瞬間を待ちわびながらも、延々とくだらぬことを書き記している誰かが、君の影となって、画面上に浮き出ているわけだ。だがそんなのも嘘のたぐいか。


3月4日

 もうこんな時間だ。誰かがつぶやく。もう時間がないのだろうか。自問自答しても仕方がないだろう。まだあきらめたわけではないはずか。何をあきらめなければならないのか。お前の知ったことではない。しかしお前とは誰のことなのか。文章の中では判断がつかないらしい。ついでに君も誰だかわからない。やはりそんなところから記述が始まってしまう現状は変わらず、意味をつかめぬまま終わってしまうのか。たぶんそれがいつものことなのだ。しかし何にこだわっているのだろうか。日付と文章の長さか。そもそもそれがおかしいのではないか。まず第一に内容にこだわらなければならないはずなのに、どうしてもそういうことにはならず、その代わりに出てきたのが、自問自答の繰り返しか。だからおかしくなってしまう。たぶんおかしすぎるほどおかしく、それが誰かの思うつぼにはまっているのかもしれないが、何となくそれでは自分で自分の首を絞めているだけのような気がしてくる。ではそれが嫌ならどうすればいいのか。もうすでに自問自答になっているではないか。しかしまともな答えが出てこないようだ。どうせまたまともに答えを出そうとしていないのだろう。どこかでねじれているわけか。性根が曲がっていて、根性がねじくれているわけか。同じ意味のことを繰り返し述べていないか。まさかその辺に何か陰謀が張り巡らされていて、知らないうちにそれにはまっているわけでもないだろう。それでは話の脈絡がないか。

 たぶん君がはまっているのは自家中毒だ。だからそんな文章になってしまうわけか。だがそれでもかまわないのではないか。かまわないから困ってしまうのだろう。何でもかまわないから、そんな言葉を連ねて文章が出来上がってしまう。その結果としてまともではなく、内容もない。だからそれでかまわないのだろう。かまわないの無限循環か。君は恐ろしい罠にはまってしまったのか。それが自家中毒の罠で、誰かの陰謀でそうなってしまったというわけか。そんな作り話はくだらなすぎるか。ならもっとまともな内容になるように努力すればいい。そんなわけで振り出しに戻ってくる。それも馬鹿げた成り行きになるだろうか。わざとらしくて見え透いているだろうか。たぶんそれも回り道のたぐいで、迂回しなければたどり着けない場所でもあるのだろう。ではその場所とはどこなのか。少なくともここではないどこかだ。だからそう思っているうちは、まだ回り道の途中で迷っているわけだ。それでもかまわないのだろうか。改めて問うまでもなく、そういうことになりそうで、無駄で無意味な言葉を連ねながらも、何かを探っているのであり、そこから抜け出ようとしているわけか。そう思えるなら、そういうことになるだろう。それが嫌ならそう思わなければいい。だが別に思わなくてもそうなってしまうのではないか。現に今がそういうことか。そうだとすればそれでかまわないのではないか。どうやらまたくだらぬ言葉が循環しているようだ。

 そんなことを記しているうちに、心は何か白黒写真のような光景に取り囲まれているみたいで、それが冗談で述べていることを忘れてしまうが、なぜそうなのかはわからないままだ。いったい何を忘れているのか。今それを述べたばかりなのに、もうその内容を忘れ、後は知らないふりを装うしかなく、そんなことは何も覚えていないようで、それが忘れたふりになっていないところがおかしく感じられ、本当はそういうことではないのだろうが、誰かは嘘のような成り行きを期待しているので、そんなことは無視され、さらに先までくだらぬ言葉が記されてしまうようだが、たぶんそれも違うと思われるのだろう。違うからここまで何か適当でいい加減なことを書き記してきたのではないか。たぶん正しいことを記せば、そこで終わりとなるのだろうが、それがわからないから、こうして延々と間違ったことを記してしまうわけか。だが誰かはそれでかまわないと思っている。本当にかまわないのなら、いくらでも間違ったことを記していればいいではないか。しかしその辺で飽きがきて、もうやめようと思ってしまい、いったんそう思ってしまうと、その先に言葉を記すのが嫌になって、その辺で終わりにしようと思ってしまうのではないか。だから今がそう思っているところではないか。ならばまた回り道の途中で歩みを止めてしまうのか。本当にそう思っているのなら、その通りにすればいいが、実際に誰がそうしているのかはわからない。少なくともそれは君ではなさそうに思われ、君でないとすると、他に誰がそうしているのかわからなくなる。


3月3日

 今日は予定がことごとく違ってしまったようで、夜になり、それらをあきらめざるを得なかった経緯を思い起こしてみるが、ただの偶然でしかないか。巡り合わせが悪かったに過ぎず、誰かにしてみたところでどうしようもなく、その場の成り行きに従うしかなかったのかもしれない。だが本当にそれでかまわなかったのか。たぶんそうだ。そう思うしかない。どうしてもそうは思われないのに思っている。だが今さらそんな嘘をついてどうするのか。相変わらず内容のないことを述べているようだ。たぶんそれも仕方のないことであり、他のことに気をとられて、君にはたぶんわからないだろう。それ以前に何がわからないのかわからない。冗談のはずだ。茶が苦すぎるのか。渋い茶をいくら飲んでも健康に良いわけではないか。どうも何らかの病にかかっているらしいが、それがなぜ冗談に過ぎないのか理解に苦しむ。死んでもかまわないのだろうか。それほど苦しまないだろう。だがそういうことから死ぬのではなく、それも偶然の巡り合わせではないのか。そんなことを問われても、君には生き残る自信があるらしく、余裕たっぷりに何かを見物しているようで、まるで自分の危機が他人事なのだ。だからそうなってしまわないように、事を慎重に進める必要がありそうだ。しかしこの期に及んで何をやろうとしているのか。無理だからあきらめざるを得ないのに、あきらめきれずに悪あがきを繰り返す。それでは何をやっているのかわからない。

 ただ言葉を記しているだけで、夜が更けてくる。それ以外に何かないのか。何もないからまた音楽を聴いているのではないか。だからそれだけだろう。最近はそればかりだが、他にやっていることを記す気にはならないか。どうせ他では苦労しているはずで、それを語ればいいのに、なぜか語る気がしないようで、その代わりに何も語らず、ただ言葉を記しているようだ。それで何を表現できるというのか。結局は何も表せず、何も現れていない画面上に何かの幻影を見出そうとするが、そんなのは嘘に決まっている。どうせまた奇をてらって誰かを驚かそうとしているのだろう。驚くはずがないか。この先に何も記されなければ、きっと誰かも驚くだろうが、そうはならないところが予定調和であり、結果が見えているところがくだらなく感じられ、その辺であきらめているのだろう。まともに語れるはずがなく、語れないことについてその原因を考えようとするから、ますます語れなくなり、語ることに行き詰まっていると思われ、焦れったくなり、その場を放棄して、どこかへ逃げたくなってくるが、時にはそんな嘘をついていること自体が、そこで何か語っているような気にさせるらしい。おかしいのではないか。おかしいからそんなことを述べているのか。たぶんそうだが、それ以外があり得ないようなことを述べているのかもしれず、ただそれだけのことばかり述べながらも、言葉を無駄に記しているような気になり、そのような述べ方に不満を感じながらも、それ以外がないことを悟り、そういう流れでそういうことを述べているわけか。

 しかしまったくきりがない。何の区切りも踏ん切りもつかぬまま、だらだらと言葉を記し続け、さらに空疎な雰囲気を漂わせ、なぜそこに意識が存在していているのか、理由付けを怠り、そんなものなど必要ないのに、気にし続け、やがてどこかおかしいように思いながらも、そんな虚無に引き込まれ、なす術もなく自滅しているようだ。なせばなるのかもしれないが、なす必要を感じていないのだから、なさなくてもいいのではないか。ことさらに何を考えているわけでもなく、そんな記述の途中で思うことなど、すぐに忘れ、まだやる気になっていることを思い出すが、いったいそこで何をやる気になっているのか。そういうことを記す気になっているだけで、それがくだらないことであると思いつつも、一向にやめようとせず、何が何だかわからなくなりつつも、それが嘘であることを自覚していて、本当はそれでかまわないと思っているのだろうが、それらがあまりにも空疎であることに憤りを覚えつつ、さらに繰り返し同じようなことを語るわけだ。ちょっとくだらなすぎるだろうか。それは承知の上でここまで言葉を記してきたのではないか。しかしそれにしても無内容で、呆れ返っている現状のようだが、それでも貧乏揺すりが止まらず、そんなことを繰り返しながらも、その勢いで続けようとして、それがおかしいと感じながらも、やめられないことに腹を立てているわけでもないが、かえってやめるわけにはいかない状況に追い込まれ、そんな案配で今に至り、何を反省するでもなく、そうなってしまう現状をそのままにして、改めるべきやり方のまま、それをさらに継続させようとしているわけか。だからもうやめたらいいではないか。


3月2日

 どうやら雨がやんで晴れるようで、北へ向かうほど日が射してくる。些細なことにいちいち頭にくるのも疲れるだけで、それでもかまわないのかもしれないが、とりあえず利用できるところは利用しなければならないようだ。それだけのことなのだろうが、何だか気分がすっきりせず、くだらないままだと悲惨なような気もするのだろう。まあそれも他人事でしかないわけか。所詮はどのようにも生きていけるわけで、要するに需要と供給の関係で、必要とされる限りは、いかにお粗末な人材であろうと、それを使いながら何とか仕事をまわしていかなければならず、やらせているうちに不快になってくるかもしれないが、それもそれで他人事でしかないか。でもそういう腐った性根を鍛え直す必要に迫られたりするのだろうか。それも君の知ったことではないか。何を述べているのかわからず、理解に苦しむような内容だ。知らず知らずのうちにそうなってしまい、何かを遠ざけているような気もするが、そこから逸脱して、勝手に語りたい気持ちもわからないではないか。だからそうやってますますわけがわからなくなってしまうのはいつもの通りだ。それで何が困るのか。それがわからなければ、そのままでもかまわないのだろうか。たぶん何を語ってもそういうことになり、それ以上の何かをもたらせないようだ。現状はそういう成り行きに沿って語っているのだから、それをそのまま押し進めて、そういう内容を確立すればいいだけの話でしかない。

 だが別にそういう水準で開き直る必要も感じられず、そこから何かまともなことを述べるような機会を模索していくしかなく、きっかけをつかんでそうなれば、しめたもののような気もするが、実際はどうなんだろうか。これが実際か。別に何をあきらめているわけでもないようで、何とかできる範囲内で何とかしようとしているのだろう。そこから外部へと飛び出せば、たちまちとりとめがなくなり、語っているすべてが雲散霧消して、記された言葉が辺りの風景に溶け込んで、まるで遠くに見える蜃気楼のように、幻のたぐいとなってしまうだろうか。だがそれらの文章には、もとから実質など何も伴っていないではないか。たとえそう述べても何を省みるわけでもなく、今までにやってきたことを改めようとしているわけではない。ただいくら屁理屈をこね回して論じてみても、他の何に勝てるわけでもなく、相変わらず無力な存在でしかなく、やはりそれでかまわないのかもしれないが、そういう現実を受け入れながらも、絶えず何とかしようとしているのであり、そういう努力が報われるか否かに関係なく、とりあえずはそんなことをやっていかなければならないらしく、それはいくら否定しようとも認めざるを得ない現状だ。誰かはそうやって何かを語っているらしい。それが面倒くさくなってきたら、そこでおしまいとなってしまうのだろうか。たとえそうなってしまっても、それでかまわないと思うしかないようだ。

 それでやっとここまでだ。途中で何か具体的なことについて語りかけたが、なぜかそれを思いとどまって、気がつけば文章が空疎な言葉の鎧で覆われているようで、なぜかそこから手も足も出なくなり、やはり何をどう語っても、そうなってしまう宿命を受け入れざるを得ないようで、それに対する言及によって今に至っているわけだが、今さら蒸し返すわけにもいかないか。考えているうちに眠たくなってしまい、その辺で思考を止めたくなり、誰かがしばらく音楽でも聴いていることにしたいようだ。実際にそうなのではないか。たとえ眠りから覚めたとしても、現状に変わりはなく、それは一時的な逃避にしかならず、いくら現実から逃避しても、どこまでもいつまでも現実が追ってきて、目の前にありふれた現状を突きつけ、絶えず少しは改善しろと命令するわけか。だが誰が君に命令しているのか。誰に命令される筋合いもなく、思い当たることもなく、そんなことは無視して勝手に振る舞おうとするが、どこからともなく障害物が現れ、行く手を遮り、何をやっても無駄だと諭されているような気分になり、心が折れて、挫折したような気になるのだろうが、それでも言葉を記している現状があるらしく、今度はそれをやめることができなくなっているような気がして、怖くなって画面から目を背け、外の風景へと視線を移すのだが、とりとめのない風景に漠然とした思いが重なり、何を思っているのかわからなくなり、何を考えているのでもないような気にもなり、たぶんそれでどこへ至っているのでもなく、どのような結論が導きだされたわけでもないのだろうが、それがそこでの区切りとなっていることだけは確からしい。


3月1日

 何とかこうなってしまい、たぶん今日は今月だろう。当たり前のことを述べてどうするのか。また空疎な言説もどきを展開するつもりか。それもいつものことに違いなく、途中から何かが降ってこなければ、そのまま終わりまでそうみたいだが、雨ならすでに降っているのではないか。昼でも暗く、陰鬱な気分になるか。別にそれでかまわないのであり、他に降ってくるものなど今ところありはしない。要するに何も思いつかないというわけか。だからそれでかまわないと述べている。身勝手にもほどがあるだろうか。まさか心の病になっているわけでもなく、少なくともそのふりをすることはあるかもしれないが、対応に不手際でもあったかもしれず、それで落ち込んでいたりしているわけか。大したことではなく、また明日になったらその件を何とかしてみよう。たぶん冗談でそう思っているのだろう。どうやらまた難しい局面から何かを打開しようとしているらしく、いつもそういう状況に追い込まれてしまうところが、それふうの雰囲気を身にまとっている宿命かもしれないが、それふうとはどれふうなのかわからず、何がどうなってそうなってしまうかは、すでにわかっているようでいて、本当のところはよくわかっていないのかもしれず、詳しくはわかっていなくてもかまわないのかもしれないが、だからそれふうになってしまい、それふうのままではあまり進歩を感じられず、結局は同じ過ちを繰り返してしまう成り行きとなってしまうのだろうか。

 だからそれでかまわないというわけか。まったく無責任にもほどがあるか。だがいくらほどがあろうと、そのうち痛い目に遭って苦労すれば、嫌でも惰性でやっていることを改めざるを得ず、何とか同じ過ちを繰り返さないやり方を模索するようになるだろうか。だがすでに痛い目に遭いすぎるほど遭っているような気もするが、一向に懲りたふうを見せずに、何と過ちを犯しても、平然と同じことの繰り返しをやり続けているように思われ、そこで何かの無限循環を繰り返しているみたいに感じられるのは、どういうわけなのか。どういうわけでもなく、それがありのままの現実なのだろうか。そうだとするとそこから先は何の進歩もあり得ず、ひたすらその場にとどまり、延々と同じようなことをやり続けているだけで、それらの一生を終える運命というわけか。しかしそれが人としてのまともな在り方だとは思えない。絶えず変化し続けることに、何らかの意味や意義を見出さないと、気が狂っているように思われるか。それはおかしいだろうか。しかしなぜそう思うのか。唐突に理由もなしに、おかしな決めつけが文章上に出現しているようだが、絶えず変化し続けるとはどういうことなのか。現実にあらゆることがそうなっていて、惰眠をむさぼるようにその場を動かず、甘い汁を吸うことだけに汲々としているわけにはいかないか。何が甘い汁なのか。利益の源泉がそこにあり、黙っていてもどんどん金が入ってくるような仕組みを作り上げれば、それはそういうことになるだろうが、そうなると一方的に搾取される側も存在することになり、それは倫理的にまずいのではないか。しかし外部から横やりが入らなければそうなってしまうだろう。

 話の中ではそうなることを誰が狙っているわけではないし、具体的に何がそうなっているかは述べていないようだが、自ずからわかる人には察しがつきそうで、そういう既得権益があればあるほど、停滞した社会になり、それに与れない人々の間で不満が鬱積して、一握りの富める者たちとその他大勢の貧しい人々という構図ができてしまうと、あるとき偶然の巡り会わせによって何かの事件が起こり、それが崩壊する時は悲惨な結果を招くようで、流血革命のようなことになってしまうのだろうか。しかしそれの何が必然なのか。そういう成り行きだからこそ、見物人にとっては興味深く思われてしまうわけで、何だか非日常的なお祭り騒ぎのように見えて、暇つぶし的に楽しめるスペクタクルのように、対岸の火事でも眺めているつもりになれるのか。まさかそこからありふれた教訓話を導きだしたいわけでもないだろう。現に今語っている内容がそうなのではないか。仮にそうだとしても、なおのこと大同小異的に、比較的格差が見えにくい社会においても、そんなことが起こりえるだろうか。現に方々で似たようなことが、ごく穏便に行われているのではないか。ではそれとは何か。それは誰かの想像にまかせておいた方がいいのだろうか。今さらそれはないかもしれないが、何となくそうならないように努力しておいた方が良さそうに思えて、そういう思いに沿って何かを実践している輩もいるのかもしれないが、それは大げさにいえば慈善事業とかいうたぐいの行いになるだろうか。それもありかもしれないし、そうではない場合もありそうだが、では具体的にそれは何かと問うならば、それ各人で様々にやりようがあることでしかないだろう。


2月28日

 たぶんそれでもかまわないのかもしれないが、ここで気を抜いたら明日になってしまいそうだ。どちらでもかまわないのだろうが、とりあえず言葉を記してみようと思う。それでどうということはなく、何となく虚しく思われ、取り留めないようにも感じられるのはいつもの通りで、そこから何がどうなるわけでもなく、何か無駄で無意味なことをやっているのかもしれず、実際にやっているのがそういうことであり、それは例えばソーラー電波時計を見ながら、自動巻の時計の時刻合わせをやっているようなものか。どちらの腕時計も持っているのだから、そうなるのは当然だが、成り行き的に実際に腕に巻いているのは、自動巻の時計の方なのだから、結果的にはかなり倒錯した気分となっている。なぜそうなってしまうのかといえば、そちらの方に魅力を感じてしまうのであり、軽くて時刻も正確なソーラー電波より、機能の劣っている機械式自動巻を選んでしまうのは、ひとえに見た目と腕に巻いた時の感触と存在感が違うということか。まったくそれは馬鹿げているだろうか。たぶんそうなのだろうが、趣味やこだわり的にはそれでかまわないのだろうし、要するに見栄を張りたいわけで、それが愚かしくも馬鹿げているといえば、そうなってしまうわけだが、こればかりは愚かな選択を率先してやってしまう人の方が多いような気もする。しかしそれでも何十万も何百万もする有名ブランドを買うとなると、人数が限られてくるだろうか。芸能人ならそういうのを腕に巻いて見せびらかしたりすれば、それなりの理由も生まれてくるのかもしれないが、どうも誰かはそこまでやる気は、今のところはないようで、何とか数万円程度の安物で我慢しているようだが、たぶんそれでは意味がないのだろう。だから無駄で無意味なことだと述べている。

 ところで君はそこからどんな考えを導きだしたいのか。たぶん何もありはせず、述べていること自体がどうでもいいと思っているのかもしれず、できれば適当に端折って早くそれらの記述を切り上げて、睡眠時間を確保したがっているのかもしれないが、すでにカフェインを体内に取り込んでしまったので、眠りたくても眠れないような気もしてくるが、無意識にもたらされるあくびだけは頻繁に出ているようで、何となくその調子で、あきらめて眠ってしまうことを願っているのかもしれない。気分的にもその辺が限界のようだ。しかし世の中には損な役回りを自ら知らないうちに引き受けてしまう人もいるらしく、昼の仕事を思い出しながら、何となくそんなことを誰かは考えてしまうらしく、他人に対する配慮を欠いた人は、そうなってしまう傾向にあるようで、つまり他人からいったん、この馬鹿野郎が!と思われてしまうと、なかなか損な役回りから這い上がれずに、そのまま悲惨な末路を辿ってしまうことが多いのかもしれない。まあ情けは人のためにあらず、ということわざとなどとは若干ずれているかもしれないが、自らに接している他人が、どんな意図でそういうことを働きかけているのかを絶えず探っていないと、思わぬところから転落が始まってしまい、気づいた時には他人から辛く当たられ続けている現状を覆せずに、どうすることもできなくなっているわけで、もはやいったん貼られた嫌な奴というレッテルを、剥がしようがなくなっている。現実にそういうことの繰り返しで今に至っている人は、見た目も悲惨この上なく、まるでぼろぞうきんの搾りかすのような状態になっているではないか。

 それはどう接しても不快さの塊のような人だった。現に今もそうではないのか。たぶん今までに様々な職を転々としてきたのだろうが、その方々で罵詈雑言を浴びせかけられて、今に至っているのであり、もはや何をやらせても、こちらの意図とはまるで違うねじれた結果しか残せない状態となっていて、気が短い人ならたまらず、この馬鹿野郎が!と叫んでしまいそうな案配だ。いくら情状酌量を考えても、わざとやっているとしか思えず、心のねじ曲がった人としか思えないわけで、現に周りの誰もがそう思っていて、その徹底したねじ曲がり加減が感動的でさえあるのだが、そういう人にも妻子があり、扶養家族があるわけで、生まれてから半世紀近くもかけて、世の中がそういう人を作り上げ、生かしている現状を思うと、何だかいたたまれなくなってくるが、やはり心を鬼にしてクビにしなければならないのだろうか。むろんそれが正解で、もちろん当人が招いた結果がそんな現実なのであって、それはそれとして、いかに不況で就職難であろうと、ひどい人にはひどい状況が到来することを思い知らさねば、真面目に働いている他の人たちに申し訳ないだろう。やめさせるにしても、どうせ一筋縄ではいかないことはわかっていて、手痛い反撃を食らって、本当に最後の最後まで嫌な思いをさせられてしまうのだろうが、とりあえずは限界が近づいているようで、何とかしなければいけないような状況になってきたらしい。しかしそんなことを語っていながら、それもフィクションだとしたらおかしいか。君にはわかりようがないか。


2月27日

 君はそこで何を思い出そうとしているのか。なぜか昨日の日付となり、焦っているわけではないが、翌日の夕方になってやり始めようとする。また月またぎになってしまいそうな気配だが、本当にやる気になっているのか。やる気になっているとすれば、そんなことを述べている場合ではないか。それでもそれでかまわないと思いたいようだが、もう遅いだろうか。すでにこんなことを記している。だが人はなぜ言葉を記そうとするのだろう。今さらそんな疑問はおかしいか。それでもそこからまともな内容へと持っていきたいらしいが、語ることなど何もなさそうで、そのまま空疎な語りに終始してしまう可能性がある。だからそれでかまわないのだろう。今は気に入らないが、そういうことらしい。気に入らないなら、かまわないわけではなさそうだが、そういう成り行きなのだから仕方がない。意識はそこから遠ざかっていたらしい。しばらくの間何やら考え込み、そんなことではだめだと思う。聴いている音楽はそれと同じような何かを感じるが、それとは何だろう。何かの繰り返しがそう思わせるかもしれず、その何かが何だかわからないままだが、わかろうとしていない雰囲気も一方では感じられ、どういうわけかその辺で何かの探求をあきらめてしまいがちであり、それ以上問うことは控えなければならないか。だがそれでも相変わらず何について語っているのでもなく、何を積極的に語ろうとしているのでもなさそうだ。

 そしてまた沈黙してしまうのか。くだらぬ妄想に耽っているのかもしれないが、聴いているその曲には興味がある。想像上の西部を主題にして誰かが歌っているようで、この場合はやはり西部とはやはりアメリカの西海岸のことなんだろうか。あるいは西部劇全般をさしているわけか。そういえば松本零士はガンフロンティアなる漫画を描いていたはずだが、それも西部劇のたぐいだ。だがそれとこれとは無関係のようで、その歌詞からすると映画のバクダッドカフェのような光景を想像してしまうが、なぜイギリス人のジャック・ブルースがイマジナリー・ウェスタンのテーマを歌うのか、その経緯がわからない。またさらにそれとこれとは直接は関係ないが、彼と度々バンドを組んでいて、仲が悪くて有名な、クリームのドラマーだったジンジャー・ベイカーは本当にうまいんだろうか。素人にはそのミディアムテンポが特徴的なドラミングが、俺たちからすれば、ローリング・ストーンズなんかはアマチュアバンドみたいなもんだ、とほら吹き気味に言い切るほどのテクニックを有しているとはとても思えないのだが、本当のところはどうなんだろうか。例えばレス・デマールあたりのドラミングなら、素人でもそのすごさはひしひしと伝わってくるのだが、高速で叩きまくるだけではXのYoshikiみたいなものか。でもチャーリー・アントリーニあたりのドラミングなら、誰でもそのすごさを実感できそうで、やはり超高速で叩きまくるジンジャー・ベイカーのドラミングを是非一度聴いてみたいものだが、ベビメタじゃないんだから、そんなのはあり得ないか。それにヘビメタはドラムではなくギターの速弾きで有名か。

 内容が何もないので、さらにどうでもいいようなことを語りたくなるようだが、ますますとりとめがなくなって、自己嫌悪に陥りそうな無内容になりそうになっているみたいで、それでかまわないと影が呼びかけているのも、何かの皮肉のように感じられて、たとえフィクションであるとしても、もう少し内容を重視したい気もしてくるが、今さらそんな嘘をついても仕方がなさそうに思われる。なぜか今はBirdlandを聴いているようだ。そういえばチャーリー・パーカーは34か5ぐらいで死んだはずだ。彼とはまったく無関係なYesのRoundaboutを聴きながら、何を思っているのか。彼のニックネームがバードで彼がニューヨークで演奏していたジャズクラブがBirdlandで、Weather Reportがそれを曲の題名にして、曲自体が名曲として知れ渡っているわけで、それがどうしたわけでもないが、今となってはかなり古い曲や昔のミュージシャンばかりが記されている現状にあぜんとするばかりで、なぜ今の音楽に関心が向かないのか、その辺が不思議だが、今の音楽をまったく聴いていないわけではなく、かえってそちらの方が聴いている比重が大きいような気もするが、それについて語る気がしないことは確かで、要するに今の音楽はここで語っているような物語を伴わず、ただ音楽そのものを聴いているに過ぎず、それで一向に不都合を感じないわけで、たぶんそれはiPodからの影響があるのだろう。その中に三千曲も入れて、それをランダムに聴いているのだから、昔FM放送を聴いたり、LPやCDや音楽雑誌を買っていた頃のような思い入れとは無縁なのかもしれない。


2月26日

 他の誰かが囚人になる。別に自由を手に入れようとしているわけではない。そこで虐殺されたのは誰か。おそらく昔のことだ。何もかもがバラバラになり、そこから先に何があるわけもないような話の成り行きになりそうだ。それもいつものことか。おおかた空疎で虚無的な無内容に逃げたいのだろう。今はそんなふうにしか語れないはずだ。どうやらまた脇道にそれて、どうでもいいことを考え、くだらぬ妄想を抱いている。その内容が記されることはなさそうだが、他に何を記したらいいのかわからなくなり、何となく今日はやめた方が良さそうに思われる。頭が痛いか。取り立てて何を語っているわけではなく、たぶんまともなことは何も語れないはずだが、それはどうしてなのか。語ることに興味を失っているらしい。他のことに興味がいってしまったのか。そうかもしれないが、それは一時だけのことで、また時期が来たら、偶然の巡り合わせか何かで、まともなことを語ろうと試みるのだろうか。たぶんそうかもしれない。折れたボールペンを眺めながら、なぜそうなったのか思い当たる節でもあるのかもしれず、しばらくそれについて思いを巡らして、ふと気づけばこんな時間だ。何をつまらぬことを考えていたのか。傷ついたステンレスの腕時計をどうしようとするのか。自動巻のそれを覗き込みながら、何を思っているわけでもなく、そんなふうにして言葉を記すのがおかしく感じられ、やめてしまいたくなるか。

 たとえそうであったとしても、何を勘違いしそうになっているわけでもなく、現実の何もない部屋の中で画面に向き合い、ただ言葉を記しているだけのことに心を奪われ、そんな嘘をつきながらも、本当は何を思っているわけでもないことを知っているはずか。何も知らずに何も考えていないわけではないだろうが、そんなことはどうでもよく、知っていることを語ろうとしないことに腹を立てているわけでもなく、それがどうにもならないことを承知しているだけかもしれない。まったくどうにもならず、それらの文字列を消去してしまいたいが、それができずに、代わりに小刻みな貧乏揺すりばかりを繰り返す。苛立っているのだろうか。そうかもしれないが、今に至ってはどうしようもない。何も思いつかず、夜の静寂の中で、ひたすら言葉を記そうと試みるが、内容が何もなく、結果的につまらないことばかりが記されているので、自己嫌悪に陥るか。それでかまわないと強がってみても、もう遅い。無意識の中で何かが自己主張し始め、意識にはその暴走を止めることができず、それの何が暴走だとも思えず、本当は違うと思うしかなく、違わないのに、その違いを認識できずにいるらしいが、それも嘘の類になるのだろうか。独り言のふりをしているだけかもしれず、言葉に記せばそうなってしまうのかもしれないが、それで気が済むはずもないだろう。それでも何とかそれを利用しながら、ここまでやってきたらしいが、冗談では済まなくなりそうな予感もして、その先に言葉を記すのが怖くなる。

 久しぶりにそれを聴いているようだ。Watermelon Manか?不思議に聞こえてどうするのか。君のことではない。少なくともそれは違うだろう。気晴らしの気休めにそうしているだけか。わけがわからないのは当たり前だ。そういう音楽なのだから、そういうふうに捉えておけばいいのだ。だから君のことではないと述べている。ますますわけがわからなくなり、それは違うと思うようになるが、すでに遅いらしい。こぎ着けたところが眠そうな時間帯だった。船を漕いでいたわけでもないだろう。しかしもうすぐお迎えがやってきそうだ。何の物語とも関係なく、唐突に永眠してしまうことを願っているわけか。そんなのも嘘に違いなく、本当はまだ生きていたいのだろう。それはありふれた願望だろうが、皆がそう思っているのかもしれず、君はそれらの運命に従うつもりらしく、無理に死にたいとも思わず、とりあえず明日は仕事をしているだろうから、何かの合間に今日の気分を思い出してほしいか。忘れているかもしれないが、何とかそこで思いとどまって、自分をやりたいことをやろうとすればいい。たとえできなくても、やっているところを想像するだけでも励みになるか。それは嘘だと思うが、何かのジレンマに陥っているらしいが、何とかなっているはずだ。やればできることをやりながら、機会をうかがっているはずで、その時が来るまで仕事をしていればいい。それが何かの気休めだろうと、今はもう時間がないことが明白であったとしても、最後の最後まであきらめないことが肝心だろうか。またそんなありふれた意見を信じようとして、それが暇つぶしの一環でしかないことを忘れている。


2月25日

 理想と現実がかけ離れているのはよくあることだ。だから理想を実現するために努力するのだろうか。たぶん君がそうしたいのではない。それどころか誰がそうしたいのでもなく、誰もが理想主義者を馬鹿にしたいのか。だがそこで何かがねじ曲がっているのではないか。何かとは何なのか。志とかそういうたぐいの意味を持つ言葉か。何だかめまいがしてきそうか。唐突におかしくなっているようだが、なぜそうなるのだろう。そうは思いたくないということか。しばらく考え込んでいるようだが、その辺でうまく言葉がつながらず、心理的にはどのような表現も受けつけないような気分となっているらしい。だからなぜそうなってしまうのか。わけがわからないのは毎度のことらしいが、そういうのにもほどがありそうで、何とかそこから立ち直って、わかりやすいことを述べていかなければならない。だがそんな決意が打ち砕かれて、今に至っているわけで、それが笑い事で済まされるような状況なのかどうかわからないが、できればその辺をうやむやにしつつ、気がついたら抜け出ていたような結果に至りたい。たとえそれが無理だとしても、最低限の前提として、正気を保っていたいのかもしれないが、午後のまどろみの中で、何かいい加減に言葉を費やして、誰かが記述を継続中のようで、それを邪魔したいわけではなく、気がつかれない程度に手助けをしたいわけでもなく、何かの加減でそういう成り行きになっていることを肯定したいわけでもない。

 誰かはその件については何も思わないように心がけているのだろうか。忘れてしまったら、それでかまわないのかもしれないが、他に思い出すべきことなど何もなさそうに思える。確か現実が何かからかけ離れているような気がしていたはずで、君はその何かを思い出そうとしていたのではなかったか。それらを語り始めた当初は何を目指していたのか。わかっていたのはそういうことではなかったはずだ。それがどこかでねじれて、思いもよらぬことを語りだすようになり、そんな虚構が現実を凌駕するようになったわけでもないだろうが、思い描いていた物語はどこかで置き去りにされ、その代わりに無人の荒野で何も起こらないような言葉の配置を模索する日々が始まったわけか。だがそんな嘘はおかしすぎる。何も起こらないのは、物語が失われたせいではなく、他の誰かが死んだのが原因でもない。しかしフィクションの中では誰も死んでいないではないか。それに現実の世界で死んでいるのは赤の他人に違いない。そこで瓦礫の下敷きになっているとも思えず、それらの魂があの世に向かって旅立っているわけでもない。要するにまだ途中経過なのだ。結果が定まらないうちに、様々な憶測が乱れ飛び、そんな憶測を流している当人こそが、結果を自らの利益に結びつけたいのであり、そこに見え透いた意図が伺われ、その場をしらけさせているわけか。だがそうでもしなければ誰も動かないか。

 とにかくそこであることとないことを明確に分けるつもりはないようで、ごちゃ混ぜのまま、やがてそれらが渾然一体となって、誰かの眼前に立ち現れ、それを目にした者を戸惑わせ、意識を錯誤の中に投げ込んでしまうのか。それらにそれほどの力はないだろう。たぶん結果的にはそうならないから、どうということはないのだろうが、おおよそ世の芸術とは、そのすべてが詐欺のたぐいで、現実と程よい調和を保とうとするにしても、あるいはそれに接する者を不安に駆り立て、それによって何らかの新たな認識に導くにしろ、当の作品はあらかじめ安全地帯に逃げ込んでいて、そこでぬくぬくと温存され、その場所との隔たりに依存しながら、ある作品として成り立っているわけで、いくらそれに接した者たちを、恣意的な行動に駆り立てたとしても、不幸や破滅に陥れるのはそんな人々でしかなく、それはしてやったりでも御愁傷様でもなく、そうなってしまった悲惨な者たちを笑い者にしているだけで、お前ら馬鹿じゃねえのか、と小馬鹿にしながらも、そういう人たちからの肯定的な評価を期待しているのであって、そんなくだらないがらくた以下の代物を崇拝してほしいのであり、要するに芸術というどうでもいい作品に接しながら、精神的にも肉体的に堕落してもらいたいのだ。たぶんそれが芸術の本質に違いなく、間違ってもそれらは崇高な理念を具現化した偉大な作品などではない。しかしそれにしても君はかなりおかしなことを述べているようで、冗談にもほどがあるかもしれないが、たぶんそれでかまわないのだろう。


2月24日

 何も思わない日々などあるわけがない。誰かはそこで死んでいるのだろうか。そうあるべきなのだろう。なぜそうなのか。あるべき理由を示してほしいか。どうあるべきかではなく、あるべき姿などどこにも見当たらず、だから死んでいる方がマシか。あり得ないことだ。たとえば現代においてかつての織田信長や豊臣秀吉のようなことをやっていたのが、エジプトのムバラク前大統領やリビアのカダフィ大佐か。なるほど天下人とはかくあるべきか。現代の民主主義的な価値観からすれば、織田信長や豊臣秀吉は独裁者その者になるが、時代が数百年ずれているだけで、一方は歴史ドラマの英雄となり、もう一方は民衆を苦しめる凶悪な独裁者となる。もちろんそういう歴史背景を無視した荒唐無稽な認識など冗談に過ぎないが、数百年前なら有無をいわせずできたことが、今日ではそのことごとくが非難の対象となってしまう。確かに信長や秀吉はムバラク氏やカダフィ氏とは比べ物にならないほど私腹を肥やして、国を私物化していたはずで、当時は民衆から税を取り立てて、それを自分や一族の資産にすることなど当然の行いだった。それによって安土城や大阪城などの豪華な城を建てて、そこで贅沢三昧の生活を誰はばかることなくやっていたはずだ。それは世界各地の皇帝や王侯貴族も例外なくそうだったはずで、そういうことをやるのが非難の対象となってきたのは、二十世紀に入って議会制民主主義が世界の主要国で定着してきてからか。

 とりあえず冗談のついでに流行り廃りの問題として捉えるならば、特定の個人が政治権力を行使して暴力的な独裁体制を築くやり方が廃れてきたわけか。時代はそういう方向へと向かっているのだろう。それはいわゆる民主化という言葉でくくられる現象か。二十世紀後半のソ連の行き詰まりに端を発する東欧の民主化の次ぎにきたのがアラブ・イスラムの民主化か。ではその次にくるのは中国や北朝鮮やミャンマーの民主化となるのだろうか。もしそうなれば全世界が民主化したことになるのだろうか。だからどうしたわけでもないか。すでに民主化されて何十年も経つ日本でこんな感じなのだから、新たに民主化された国々でも、自由と民主にまつわる幻想がそう長く続くわけがなく、現実に経済状況でも好転しない限り、人々の間で幻滅と失望感がたちまち広まり、荒んだ国内状況となってしまい、昔の方が良かったなどとつぶやく老人が出てくるはめになりかねない。君はかつてそんなニュース映像を見た記憶でもあるのか。かつての東欧やロシアの民主化ではそういうのがありがちだったはずか。一概に民主化したからといって自国の経済状況が好転するともいえず、中国などは民主化しなくても経済が好調ではないか。だがしかし当の中国でも、人民の間で民主化に対する幻想が渦巻いているようで、今回の騒ぎに便乗して、ネット上では盛んにデモが呼びかけられているらしいが、当局が押さえ込んでいるそうだ。

 しかしそんなそんなことを述べて、何を考えようとしているのか。それらの時事問題と君がどのような関係にあるとも思えず、君は至っていつも通りのようで、毎日朝から夕方まで仕事をしているだけか。それは他の誰かである君の日常について語ろうとする前兆のようなものか。またわけがわからなくなるようなことを述べて、わざとそうしているのだろうが、世界の民主化については、それから何を語ろうとしているのか。もう誰もついて来れない。要するにその話題についてはそこで終わりか。語っているうちに面倒くさくなりつつあり、もういいのではないかと思うようになってしまったら、そこでおしまいとなる。誰がそこで政治参加を果たそうとも、メディアからの影響を受けざるを得ず、誰もが利いた風な意見を主張するようになり、それに伴って、とりとめのない政治状況となり、ありふれたことしか主張できない人々によって、世論調査による多数意見ばかりが尊重され、それに基づいて政策が決まってしまうので、もはやどうでもいいことをどうでもいいようにやることが、そこでの主な課題となり、今の総理大臣のように、それを愚直にやり遂げようとする輩によって、ますますくだらないことにこだわるしかなくなり、結果的にまともなことは何一つできない閉塞状況に陥ってしまうわけだ。やはりそれは悲惨なことなのだろうか。あるいはそうではなく、それは笑い飛ばすようなことでしかなく、世の中は誰もがお笑い芸人のように振る舞うしかないような世界になりつつあるということか。


2月23日

 それからどうしたのか。天災人災目白押しでメディア的には話題には事欠かないか。君はどうしたのだろうか。快晴の空を見上げながら、何を思うこともなく、音楽でも聴いているのだろうか。だが安らぎのひとときは長くは続かず、すぐさま問題山積の現実に引き戻され、またどうにかこうにか一日を乗り切る算段をたてなければならず、もし乗り切ったとしても、また次の日が待ち構えていて、きっと息つく暇もない日々を送るはめになってしまうのだろう。まったくやっていられないか。そう思うがやっていることだけは確実で、生きている限りはそういう成り行きになってしまい、くだらぬことにとらわれ、どうでもいいようなことを延々と繰り返し、それがどうでもよくはないことを理解しながらも、やはりそう思うしかなく、やっている当人は、世界中で無理なことをごり押ししようとしている人たちと同様に愚かなのだ。そして君は何かをやる度にそれを自覚するわけか。それでは自己嫌悪に陥るしかないではないか。そんなことばかりでは気が滅入ってしまうので、もっと何か肯定的なことを考えられないか。愚かなことを繰り返している自らを正当化したいのか。何かもっと気晴らしのような効用を得たいのかもしれないが、現時点でそれは無理のようで、現状を改善することは不可能に思えてしまうが、なぜそう思ってしまうのか。己の力量に限界を感じているからか。だがたとえそうだとしても、やらなければならないことをやらざるを得ないのではないか。だから現に無理を承知でやっているのではないか。

 何が無理なのかは誰かの想像にまかせるとして、とにかく言葉を繰り出して語っているわけで、いつまでも空を見上げて感慨に耽っているという虚構を維持していても仕方がない。別に何が虚構であるとも思えないが、やっても仕方がないと思うことをやっている現状がおかしいのであって、そのおかしいことを語っている現状をどうすることもできずに、途方に暮れているわけでもない。要するにそれでも何かを語っているという事実を認めざるを得ないということか。またわざとらしく回りくどくもそれを蒸し返して、それで何かをごまかしているように思われ、そのわざとらしいごまかしによってかろうじて何かの命脈を保っているつもりのようで、どうやらどこまでもそれらの行為を肯定できそうにないらしい。いったいそこで君は何をやっているのか。何もやっていないとしたら嘘になり、何かをやっているとしても嘘になるだろうか。君自身が虚構の存在で、この世界では不在の君が何をやり、何を語ろうと、そんなのは嘘であり、どうでもいいことなのか。しかしそこで音楽を聴いている誰かは誰なのか。誰であってもかまわず、たとえそれが君自身であっても、何ら不都合はないはずか。ではそれでかまわないではないか。何がかまわないわけでもなく、何を語っているとも思えないが、そう思っている誰かにしてみれば、何かを語っているという事実が、現実に存在する誰かを苦しめているように感じられ、それをやめさせるために様々な働きかけを行っているらしいが、たぶんそれが実を結ぶのは、今から遥か先のことになるだろう。

 しかしそこでどのような働きかけがなされているのかは、またもや誰かの想像にまかせておくとしても、別にそれで正気の戻ったわけでもないだろうが、気がつけば誰かがそんなフィクションを語っているつもりらしく、たぶんそれは何かの被害妄想にとらわれている結果かもしれず、それも何かの冗談としか受け止められず、虚構のたぐいにしかならないのだろうが、そんなことを述べているうちにも、着実に文字列が長く連なり、それこそが思うつぼかもしれず、嘘偽りを利用しつつも、何となくそんなことを語っていること自体が、ますます君自身の不在を信じられないようにしているのかもしれない。たぶん誰が不在というわけでもなく、そこで死んでしまった人間はことごとく不在となってしまうのであり、だから誰が不在であってもかまわず、とりあえずはそこで不在の誰かが君と呼ばれているだけであって、誰が君であってもかまわないわけで、それ自体が何ら特別な出来事とはならず、ありふれたことのたぐいにしかならず、どうでもいいといえばどうでもいいことであり、そんなことにわざわざ言及するのもおかしいのかもしれず、そんなどうでもいいことを延々と語っている現状が、おかしいといえばおかしいわけで、何やらその辺で行き詰まって、もうそれ以上は語らなくてもいいような気もしてくるが、ではこれまでに何を語ってきたのかと問うならば、そういうことを語ってきたとしか答えられず、それがまともな内容を伴った語りだとは到底思えないことが、何となくそれら全体を否定せざるを得ない結果を招いているのだろうか。だがそんなことはどうでもよく、とにかくいったん語ってしまったら後戻りができなくなるだけか。


2月22日

 もう夜になってしまったらしい。確か世界のどこかで地震が起こり、家屋が倒壊して、死傷者が出ているらしい。また北アフリカのある国では、独裁者の退陣を要求する民衆のデモ隊を鎮圧するために、ヘリや戦闘機や戦車や傭兵部隊が使われ、大殺戮が行われているそうだ。人はいくらでも死に、また生まれてくるのだろう。この世界はすべて民主化されるべきなのだろうか。たぶんそういうことだ。すべての国々が民主化され、同じような制度の下で同じような政治体制が整えば、やがて世界が平和的に統一される日がやってくるだろうか。地震の話はどこへ行ってしまったのか。どこかで火山も噴火しているらしい。イエローストーンの火山が大噴火すれば、人類が滅びるだろうか。何か話が飛躍していないか。語っているうちに、次第にどうでもいいような話になりかけているが、話の焦点が合っていないようだ。それでかまわないのだろう。そこに何がもたらされているわけではないし、君は空疎な気分をもたらす。虚無的な雰囲気が辺りを包み込み、心は何かの空洞の中で不安と孤独感に苛まれ、その後どうなってしまうのか。きっとどこかで言葉でも記しているのだろう。人はいくらでも死に、いくらでも生まれてくるが、誰でもない誰かがそのことについて何を思っていようとも、そんなことはおかまいなしに地球は回り続け、太陽の周りを後数万回も回れば、人類など地球上から消滅してしまうだろう。たとえそうなったとしても、君には関係のないことか。今生きている誰にとってもそうかもしれない。

 他の誰かが社会制度がどうしたこうしたと議論しているのとは違う次元で、誰かはそんなことを思っているらしい。人は経済的な存在であり、仕事をして金銭を得ないと生きてゆけないそうだ。他に何を求めているのだろうか。くだらないこだわりを保持したいのか。それがくだらなくない場合だってあるだろう。何かにこだわっていることに、理由や根拠を求めているとも思えず、ただ好き勝手そんなことを抱いているだけかもしれず、そんなことにこだわっても何の利益も得られないのだろうか。もとからそんなことを気にしているわけではなく、そういうことにこだわるのが好きなだけか。好きでそんなことをやっているのだから、放っておいてほしいか。鬱陶しいのなら、無視していればいいではないか。それができないから口出ししているわけか。人様に迷惑をかけているのならまだしも、無人の荒野で叫んでいるような気がしているだけなら、それはそれで人畜無害か。実際にはそうではないにしても、何かと気になるような素振りを見せたいのなら、当の誰かと対決しなければならないのだろうか。何がそうであるわけでもなく、そんな話をどこかで聞いたことがあるだけで、君がそこで何をしているわけでもないとすれば、この世界は君に対して何をもたらすだろう。何かにこだわって、人様に迷惑をかけてみれば、自ずから他人の気持ちを察するように仕向けられ、まともな人格へと改まっていくかもしれないが、そうでない場合はどうしたらいいのだろうか。誰がそんな事態に直面しているというのか。

 何かがずれているのは致し方ない。正気を取り戻せる気配も感じられず、後はひたすら破れかぶれで、どこかへ突進してゆけば、街頭をさまよう野生のイノシシのように、銃で仕留められ、そこで何かの終わりを体験するだけだ。しかし自堕落とは誰に当てはめられようとする言葉なのか。その場の雰囲気に応じて当てはめる言葉を替え、今はそれとは違った言葉がふさわしいような気もするが、それが何の話でもない限りにおいて、誰がそんな言葉を所有しているわけでもない。たぶん君は何とかしてその場を取り繕いたいのだろうし、うまく立ち回って、事を収めて平穏無事な生活を取り戻したいのだろうが、もとはどうだったのか思い出せずにいて、少しは波瀾万丈を受け入れる勇気もあるようで、正義の味方のような台詞を発してしまう時もあったが、それでも最終的にはありふれた安らぎを得て終わりたいのだろう。だが終わらせてくれるはずがなく、執拗で巧妙な仕掛けを巡らせ、何とかして罠に陥れたいのであり、誰かに破滅を体験させたい意図がありありで、わざとらしくも見え透いた素振りに悪意が感じられ、接するほどに哀しくなってしまうのかもしれないが、たぶん悲惨な人物は自らの悲惨さを利用しながら、他人をも道連れにしようとしているのであり、何とかそういうのを避けて通らなければならず、くだらぬ悪意を受け流しつつも、こちらから決定的な言葉を投げかけないように心がける日々が続いているのが現状で、戦うつもりもないのに戦いに巻き込まれそうな気配に包まれながらも、それに気づかないふりをしながら暮らしているつもりだが、まったくこの先どうなることやら。


2月21日

 しかしそれは誰の言葉なのか。何を忘れてしまったわけでもないが、どうも昨日は疲れて眠ってしまったようで、目覚めたら翌朝になっていた。相変わらず平穏な日々が続いているらしいが、それがフィクションの中でそうなのか、あるいは現実の世界でそうなのかわからない。誰がわからないわけでもないか。だがそうやって無駄に言葉が記されるだけかもしれず、そういう行為が誰かに嫌悪感を抱かせるのか。しかし誰かとは誰だろう。それも無駄に言葉を記している行為の延長上にある文字列だろうが、そんな説明も無駄に記されている言葉のたぐいだ。そしてそれ以外の言葉が記されたためしはない。そんな作り話ならおもしろそうか。誰がおもしろいと思っているわけでもないだろう。たぶんその辺で行き詰まっているのだろう。そして何かが途切れている。簡単なことだろうか。確かに言葉を記すのは簡単なことだ。それがわかっているなら、簡単に言葉を記せばいいではないか。何を回りくどく考えているのか。気にする必要はないのかもしれない。だが今までは何を気にしていたのだろうか。それも考える必要のないことか。誰かは今までに考える必要のあることを考えず、必要のないことばかり考えてきた。その結果がここへきての行き詰まりの原因となっている。そう思うなら思っていればいい。君が語りたかったのはそういうことではない。だがそんなわかりきったことを今さら蒸し返すのは妥当でない。

 そんなわけで考えあぐねた末に、結局は何かの出発地点に戻ってきてしまったらしく、何の因果でそうなってしまったのかわからないが、ともかく何かを語ろうとして、実際にそんなことを語りながらも、君はここから何を語ろうとしているのかもわからず、やはり途方に暮れているわけか。冗談ではない。それはわかっているはずだが、そんな状況を何かの冗談と捉えるしかなく、この世界で起こっている様々な出来事から何を取り出して語ろうとしても、不自然な誇張が入ってしまうことを認めざるを得ず、そんなことを伝え聞いていること自体が、何かのフィクションとしか思えない。それらは様々な水準で起こっていることだろうが、たぶんどうやらひとつの方向性を持っていて、その方向へと変化し続けているようで、それは誰にも止められない流れとなり、この世界を変えようとしているのだろう。要するにそれはメディアによる世界的な民主化か。表面的にはそうであり、実質的にもそれに近いのかもしれないが、なぜ君はそれがフィクションでしかないと思うのか。そこから一足飛びに現実が露呈するわけもなく、何かの物語を介してしか、人々はそれを信じようとしないばかりか、何がどうなっても相変わらず働くしかなく、働くことに生き甲斐を感じている者たちの世界となるしかないわけで、生活の基盤が労働にあるしかない世界の中で、人々はそれを信じざるを得ないのだ。しかしそれとは何なのか。

 それが何でもないわけでもなく、逆に何かでしかないわけだが、何に反対しているわけでもない君は、そこから何を見出そうとしているのか。すべての不具合や矛盾は労働という行為の中で生じていて、人々の絶え間ない労働によって人間社会が成り立っているにしても、多くの人は自分のやりたいことをやっているとは思わず、また様々な困難を乗り越えながらも、自らのエゴを貫き通して、やりたいことをやっている者たちでも、なぜそんなことをやっているのか、明確な理由付けをしているわけでもないだろう。果たしてそれはそうだろうか。誰かはなぜそれほどまでに言葉を記そうとしているのか。そんなことを繰り返しながらも、何を貫き通そうとしているのか。さあそれは何だろう。何をとぼけてみても本当だとは思えないが、たぶん何かにこだわっているのだろう。そんな無益なこだわりによって人生を棒に振っているつもりか。それに関しては何も肯定できず、それを否定するにしても、否定するほどのことでもなく、どうということはないような気がするだけかもしれないが、それにしても何かを忘れているような気がして、それを思い出せずに焦っているのではないか。君に何か目的のようなものがあっただろうか。いったいそこで何をやろうとしていたのか。何もやる気がないのに何かをやっている現状を、呪っているわけでもなく、それが当然とさえ認識していること自体を不思議に思うはずもなく、ただ働いているだけで、そこに理由など介在させる余地もないような気がしてくるが、それでもなぜそんなことをやっているのか。


2月20日

 原始人が洞窟に壁画を描くように、それらが描かれているとは思えず、それが何のたとえなのかよくわからないが、とりあえずそんなふうに考えていて、そこで何を考えているのか示されないところが、狡いところかも知れず、語ろうとしていることがその辺で消滅しているようで、結局は何も語られないのかも知れず、それはいつものことだろうか。たぶんそう考えればそういうことになるのだろうが、そこに不満があるようで、他に何かまともそうな内容を付け加えようとするが、それは無理なのではないか。たぶん無理だろう。ではどうするのだろうか。それをこれから語るつもりのようだ。だからそれは無理なのではないか。無理だからそんなことを述べているわけか。まさかこれから洞窟壁画について語ろうとしているわけでもなく、それを描いていた原始人が、描きながら何を思っていたのかを想像してみようと思っているわけでもなく、ではそれがどうしたのかと問われれば、ただ人がこれまでにやってきた行為は、すべてとりとめがないように思えるだけか。どこかの学者もどきなら、そこから何らかの一貫性を見出すのかもしれないが、それらは君が日頃から抱いているような、無駄で無意味な行為であるわけがなく、何らかの積極的な意味を担えるような行為と捉えるはずだが、なぜ君はそうは思わないのか。

 自らが生きているという自覚が、自らがやっていることを、無駄で無意味な行為だと思わせないのであり、何かしら意味のあることをやっていると信じ込ませるのかもしれないが、本当に人はそれを信じているのだろうか。人はそこで自らがやっていることを正当化せずにはいられないのか。そうでなければ生きている意味がないか。その辺がよくわからないようで、生きていること自体が無駄で無意味なことだと思ってはいけないのだろうか。別に何をどう思っても、それはその人の勝手だろうが、生きている意味がなければ、死ななければならないわけでもなく、死ぬことも無駄で無意味なことなら、生きていようと死んでいようとそれは変わらず、要するに人はすべてにおいて無駄で無意味な存在か。しかしそれでも何を述べていることにもなりはせず、その存在が無駄で無意味な誰かが何を語ろうと、その語っている内容を真に受ける必要はなく、無視していればいいだけではないか。確かにそれはそういうことになりそうだが、ところで誰が何を語っているのか。誰もそんなことまで知るよしもなく、もとからそんな話ではなかったのかもしれない。ではどんな話だったのか。それがわからないのなら、誰かは話にもならないことを語っているわけか。それとも語っているうちに、その内容が当初に語ろうとしたことからずれてきて、今や思いもよらぬことを語るはめになってしまったわけか。それも違うだろう。

 だが本当は何も違わないのかもしれず、語っているうちに、自らが語っている内容を把握できなくなってしまっただけか。それはまったくのお粗末で、それについて何をどう論じていいのかもわからず、途中から話の脈絡もなくなり、まともなことを語ろうとしていた意志を完全に放棄してしまったようで、後はどうでもよくなってしまったのではないか。そしてここに至り、何も語れなくなり、もうお手上げ状態か。君はもはや原始人の領域に入りつつある。語っている内容がことごとく原始的で、時代の流れから取り残されつつあり、見放されているのかもしれず、そんな停滞状況から抜け出られずに、体調不良が悪化して、もうすぐ死んでしまうような予感がしてくるが、実際はどうかわからない。何かの冗談でそんなことを述べているのだろうか。案外嘘ではなく、極めて深刻な容態かもしれず、それらの継続も不可能となりつつあるのか。それがフィクションならまだ救いがありそうだが、現実にそうだとすると、この先それらの試みはどうなってしまうのだろう。続けられる限りは続けるだろうし、継続が途切れたところで誰かがどうにかなってしまったことになるわけか。それが冗談でなければ、君にとってはうれしい事態になってしまうようで、ようやくくだらぬ言葉の連なりから解放され、さっさとこの世からおさらばできてしまうわけか。本当にそうなってしまったらおもしろいが、この続きがどうなるかは、ひとえに誰かの体調次第か。だからどうにかなってしまってから、君の身の振り方を考えればいいだけでしかなく、君などはこの世に存在し得ないとなれば、それらの文章も自然と消滅する方向へ向かうだろう。


2月19日

 そういうことではない。何を否定してもわけがわからず、何を述べているのでもないらしい。今日は何も語れない。いつもそうなのではなかったか。そうなのかもしれないし、そうではなかった時もたまにはあったかもしれない。あきらめかけた時もある。今がそうなのではないか。さっきまではそうだった。だが今となってはどうでもいいような気分となっている。横を向いても何もありはせず、あるのは夜の闇だけか。冗談でそんなことを述べているのかもしれないが、何となく笑ってしまうのはどういうわけなのか。誰かが命がけで何かを戦っているらしく、それが登場人物に課せられた宿命なのか。敵と命がけで戦わないと、読者が真に受けてくれないということか。そういう物語とは無縁の何かを求めているは誰だろう。誰でもありはしないか。君にはそんなふうに語る義務でもあるのだろうか。何をそんなふうに語りたいのだろう。そこで取り扱っているものには限りがあり、何を選ぶかはその場での気分次第だ。しかし誰の気分が選択に反映されることもなく、たぶん偶然の巡り合わせでしかないのだろう。もとから誰もそこにはいないし、誰の意識も介在していない。どうなっているわけでもないから何もわからなくなってしまう。何も語る必要はなく、それでも言葉を記せば、無駄に時間が費やされるだけか。今日はそれでかまわないとは思うまい。

 そんなことを述べているうちにも、話が物語的に進展して、どこかの場面では、誰かがどこかに取り残されているようだ。道に迷って不安になっているわけか。そういう話でもかまわないのだろうか。何がかまわないわけではなく、今こそまともに語らなければならない。今さらそんな嘘をついても仕方がないだろう。まともに語れないからこうなっているわけで、こうならないようにしなければならないから、まともに語ろうとしているのだろう。だからそれが嘘なのか。もうその辺で息切れ状態のようで、後は流して終わりにしたくなる。とにかくもういいのではないか。言葉を記すのが嫌になってしまったのだろうか。それはもとからそうかもしれず、今に至ってますます嫌になり、その辺が限界なのだろう。それはごまかしきれない心境か。今さらくだらぬ冗談をかましても無駄だ。ならばそこでやめればいい。やめられなければ続ければいい。やるかやめるかどちらかを選択すべきだ。そのとき何かの不協和音が耳に残っているのを思い出して、そこ先にそれをつなげてみるが、いかにもわざとらしいことを述べているみたいに思われ、かなり不自然な印象を与えてしまっているようだ。それでも窮地を脱して一息つき、またそこから先に言葉を並べて、その場を取り繕い、何とか続けようとしているようだが、それはかなり馬鹿げたことを述べていることになるのだろうか。そうだと思うならどうにかしてほしいか。しかし誰がどうにかしなければならないのか。君ではないと思いたいはずだ。

 だが君は何とかしたいのだろう。今ならまだ間に合うはずで、今日中にそれらを終わらせることができるはずだ。もはや空疎な内容であっても致し方なく、時刻がそれぞれの時空において微妙にずれているとしても、それは修正できる範囲内に収まっているはずで、何とかしてそれらを正常に戻しつつ、多少の不自然さは無視できる程度だと見なして、その先に言葉を記してみれば、何となくそれがその場にふさわしい文字列に見えてきて、やはりそれでかまわないと思い込むつもりのようで、もうすぐ出口に至ると実感し始めるが、それが何かの勘違いだとしたら、もうその時点で手遅れとなっているわけか。まだ有効な手を打たずに、何を手抜きしているとも思えないが、とにかくその先に言葉を記さねばならず、実際に記しているそれがひどくつまらなくても、そんな現状を受け入れることができるだろうか。いったいそれらは何の話なのか。今さらのその問いは不自然極まりないか。だが自己言及的にごまかしていることだけは確かなようで、相変わらずの語らずに記すパターンにはまっているらしく、それだけが誰かの取り柄で、同時にどうしようもなく悪い癖が出ていることになっているのかもしれないが、何ともなりようがないのに何とかしようとすれば、必ずそうなってしまうであり、そういう必然性を認めざるを得ず、そういう成り行きの中で何か述べるとすれば、たぶんそういう内容になるしかないだろう。実際にそうなっているではないか。だから今はそれを認めて、それでかまわないと思うべきか。さっきから君はそう思っているのではないか。果たしてそれがあきらめの心境となるだろうか。


2月18日

 何か忘れていないか。それは簡単に思い出せるようなことではないのかもしれないが、とにかく何か忘れているような気がするらしい。今こそ自らに課せられた使命を思い出すべきか。あるいは神との約束を思い出して、それを実行すべきか。君は自爆テロ犯か。何かに洗脳されているのだろうか。笑っている場合ではない。そういえばビンラディンはどこで何をやっているのだろう。まだ生きているとは思えないか。確かアメリカのコメディアンが操り人形を駆使して、骸骨になったビンラディンに腹話術を用いて語らせているはずだが、その内容は大したことはないらしい。同時多発テロの黒幕も今となっては過去の人だ。君が思い出すべきことはそれとは違うのか。では何を思い出せばいいのか。そんなことを思っているうちに気分が悪くなり、体調が優れないことに気づくが、もう手遅れか。なぜすぐにそういう結論に持っていきたがるのだろう。たとえば自らに課せられた使命とは何だったのか。それ以前の問題として、自らとは誰の自らなのか。君でなければ他の誰かに決まっているだろうが、誰が誰なのかわからず、誰かに課せられたそれぞれの使命が、自らに関係があるのかどうかもわからない。そうやって逃げの一手に持ち込んで、態度をはっきりさせないまま、うやむやに終わらせようとして、そして自らは責任逃れに成功したわけか。意味がわからず、何のことを述べているのかもわからないが、とりあえずはそういうことだ。

 そして誰かは何もかもを忘れ、それからどうなったのか。また誰もいない無人の荒野で不在の誰かの叫び声がこだまするわけか。わざと矛盾したことを述べて、悦に入るほど愚かなことはないだろうが、そうではないような気がしているのは、どういうわけなのか。何かがうまく機能しているようで、世界は人にとってよい方向へと変化しようとしているのだろうか。君がそれを阻む理由はないはずだ。それに権力も何もない一個人が、阻もうとして阻めるようなことでもないだろう。君はそれらが壊れそうで壊れないことを知っていて、他に何を実感しているのでもないだろうが、自らが思い描いた通りになったと感じているようで、内心ほくそ笑んでいるのではないか。しかしそれは何の話なのか。思わせぶりばかりで、肝心の何かが明かされないまま、それに関してはそういうことで、もうそのことについては語るまいとでも思っているのか。それはどういうことなのか。現状では何もうまくいっているはずがないような気がするのだが、なぜ君はそう思えるのか。この先何かあっと驚くような出来事が起こったりして、そこで初めて気づくような手はずにでもなっているわけか。しかし人は何に気づけば気が済むのか。いくら冗談でそんなことを述べても、誰にわかるわけもないことを、密かに準備しているはずがなく、それでも何があったとして、そんなことを驚くほど人は敏感ではないだろう。

 たぶんこの世界はいつまでもこの世界のままだ。何かが移り変わるとしても、相変わらずこんな世界なのだろう。だから何が悪いわけもなく、何をやろうとその人の自由なのだ。身勝手なことをいくらやろうとしても、できない時はできず、できる機会が巡ってくれば簡単にできてしまうことだってあるのだろうが、やるために浅はかな戦略や戦術を行使しつつ、それでできたら自己満足に浸りたいのだろうが、できずに失敗したら、そういうものではないことを思い知り、またそれとは何か違ったやり方を試みて、そんなことの繰り返しで人生を棒に振ってしまう人だっているのだろうが、何となくそれらの試行錯誤でかまわないような気がしているようで、それによってどうしようもない事態に直面しても、何だか他人事のように感じられ、失敗しようが成功しようがどうでもいい気分となってしまい、それらの事態に冷静に対処しているような気になっているようで、ある程度は他人まかせの部分もあるが、それで丸く収まればそれに越したことはないように思えて、そんなふうにしか状況は推移しないのだから、そんな状況の中で最善を尽くしているように感じられれば、それでいいのではないかと思うらしく、そうならそうで、そこで変なこだわりに固執するのはやめて、そのままの流れを受け入れ、自らが主体的にやっているとかいう幻想を捨て去るべきなのだろうが、どうやらまだかすかにあきらめきれない気持ちも残っているようで、誰かまだそれを継続させるつもりらしい。


2月17日

 何が自由で何が平等なのか。たぶん何かが自由で何かが平等なのだろう。死ぬのは自由で、死は誰のもとにも平等に訪れるはずか。くだらぬ方便は述べないようにした方がいい。誰かが云わんとしているのはそうではないはずか。では何かとは何なのか。国民主権を求めているというのなら、たぶん世界中で大半の国がそういう制度を採用することになるのかもしれず、既にそういう制度が定着している国も多数あるはずか。そして誰もが公然と政府を批判することになる。なるほど批判する自由は誰もが平等に持つべき権利となるだろう。ならば君はそこで何を批判しているのか。誰かが政府に対して何か批判しているらしい。もちろんマスメディアも批判している。それで何かが変わるのか。変わることは変わり、変わらないことは変わらない。君は変わらないことに不満を抱いているわけか。たいていはそういうことになるだろう。君が語りたいのはそういうことではないのか。そういう話ならわかりやすいが、そこまでで切り上げたくなる。当たり前のことを当たり前のように語っているだけで、取り立てて目新しいことはない。しかしそういう語り方が嫌なら、他にどう語ればいいのだろうか。他がなければそういうことを語るしかないではないか。だから語ることなど何もありはせず、君はそこで黙るしかないわけだ。

 しかし本当は他に何か語ろうとしていたはずか。何か興味を惹く社会問題などがあったりするのだろうか。それは君自身にまつわる話題となったりするわけか。まさかそこから先に私小説もどきが記されるわけでもないだろう。どんなわけでもなく、何を記そうとしているのでもない。そして何も問われていないのに、ねつ造された偽りの問いに答えることもなく、何が真の問いでもないことに気づき、それらの何も問われない空気の中で生活しているようで、何かを忘れているような気がするが、その何かがわからないまま、やがてどうにかなってしまうのだろう。誰もが政治に無関心になり、民主主義がもたらされていることをありがたがらなくなる。大げさなことに巻き込まれるのを好まず、デモに参加して警察や軍と衝突して死傷することもいとわないような人々とは無縁の地域から、そんなニュース映像を無感動とともに眺めていて、それと同時に芸能人と芸能人が別れたのくっついたの事件を起こしたのにも多少の興味を覚え、それを嬉々として伝えるメディアの餌食となっているのかもしれず、また東京都知事選挙にその手のメディア有名人が立候補することにも関心を寄せたりしているのだろうか。要するにメディアによって醸し出されたそういう雰囲気にのまれ、客観的な情勢判断ができていないようで、そんな必要もありもしないのだろうが、何となくそこでそういう空気の中で暮らしていると、そういう人間になってしまうのだろう。

 別にそれが悪いわけではなく、その場ではそうなるのが当然の成り行きなのだから、あえてそれに逆らう方が、空気を読めない愚かな人と見なされてしまうだろう。しかしそんな嘘をついていることが冗談のはずがなく、君は意味のない言葉を駆使しながら、何を述べているつもりになっているのか。それらの何が冗談か否かは、他人の判断に任せるとして、語ろうとしていたのはそういうことではないような気がする。ところで君自身は本当にそういう些末なことに興味があるのだろうか。些末なこととは何なのか。たぶんそれはそういうことに興味がなければどうにかなってしまうようなことではなく、無視しながら暮らしていても、どうということはないようなことか。興味がなければそれで済んでしまうようなことだろうが、何やらさっきからぐだぐだといいわけじみたことを述べているようで、なぜしきりにそんなことを繰り返しているのかわからなくなり、それに関しては結論を急ぐべきではないとは思うが、そこから何をどう考えても、それ以上のことは何も述べられないような気がしてくる。そして結局はどうでもいいようなことをどうでもいいように述べているに過ぎず、そこからどんなもっともらしい結論が導かれるわけでもなく、どんなに工夫を凝らそうと、無駄骨に終わるしかないようなことでしかなく、骨折り損のくたびれ儲けで収まらなければ、後は蛇足的にさらにどうでもいいことが、どうでもいいように付け足されるばかりか。だからそれが冗談の本質なのか。別にそれを信じているわけでもなく、ただ軽い気持ちでそんなことを述べてみただけかもしれない。


2月16日

 朝から何もしないままテレビを見続け、そして夜になる。そんな暮らしを十数年も続けていると頭が変になるか。昔はそうだったかもしれない。冗談だろう。きっと嘘をついていて、ここ十年あまりの盆も暮れも正月もない生活に疲れたわけでもなく、昔のことを忘れてしまったはずもなく、昔も今も大して変わらないように思えるが、気がつかないうちに何かが変わってしまったのだろうか。きっとそうだ。だが今は今でしかなく、今あるこれが、こんなことを述べている現状なのだ。そして何も語ることがない。それが真実だとは思わないが、そんなふうにして語ることがないと語るのは邪道か。それで何を語っていることになるのか。たぶん自分で気づかないうちに何か語っているのだろう。しかし本当に語りたいことなんて何もありはしない。ならば語るのをやめればいいではないか。画面の前で笑っている場合ではないだろう。そこには道があり、道を辿ってゆけば、やがてどこかにたどり着くだろう。何か気が抜けて、楽観的な気分となるが、一向に言葉の連なりは空疎な内容をなぞっている。本当にやる気がないのだろうか。たぶんこの先はなるようになるだろうが、そこに君の語りが入り込む余地はない。それは何かの冗談だろうか。冗談ではなく、本気で冗談を語ろうとしているわけでもない。ではなぜ無駄な時を過ごしてしまうのか。何も思いつかないのだから仕方がない。

 何を信じているわけではないが、感じている何もかもを否定しても仕方がなく、心の憂いを解消するために語らなければならない。そういう冗談ならかまわないのか。それの何が冗談であるわけでもなさそうだが、何となく画面の前で笑い続け、誰かがくだらぬ気分で言葉を記そうとしているらしい。本当に何か適当なことを語れるのだろうか。無理だと思うが、それではだめなのだろう。無理なのに語ろうとすれば、こうなってしまうわけか。君は何も語らないだろう。君は誰にもならず、何も示されない。それは語っている気分のすべてが、フィクションの中で記されたことだからか。それでも何も語っていないではないか。なにを語ろうとしても語れない。だから無理だと述べている。できないことをできないというのは当然のことか。それはそうだが、それでもやろうとしているのだから、おかしな事態となっているわけか。確かにおかしいが、それがおかしいと思っていること自体がおかしいのか。そうではなく、おかしいのが事実であることがおかしいのではないか。いったい君は何を述べているのだろう。それも何かのごまかしなのだろうか。そうだとしてもそれをやめるわけにはいかないらしく、さらに言葉を連ねて、文章を終わりまで記そうとしているらしい。まったくそれは無理な話となってしまいそうで、言葉を記す毎にあくびがでて、嫌気がさしてきそうだが、今の君には届かないだろう。

 そんなわけで誰かの思いはどこにも届かず、誰の思いとも関係のない言葉が記され、君を困らせているようだが、それでも君はそれでかまわないと思うわけか。困れば困ったらで、困ったことを続ければいい。それで何かが持続するならかまわないのであり、それを持続させれば誰かの文章が出来上がり、誰かは安心して眠ることになるだろう。またそんな嘘をついているようだが、困惑の度を深めることもなく、至って平静を保ち、そこから語ろうとしているようで、実際にそんなことを語っているようだが、やはりそれは空疎な内容で、実質的には何を語っていることにもならず、何を語っているわけでもないのに、そこに文章が構成されているだけか。だからそれでかまわないのだろう。気に入らないが、そんな文章しか記されず、君は苛立つと同時にかまわないと思うが、本当にそれでかまわないのだろうか。かまわないわけがないと思うが、かまわないと記すしかない現状を受け入れるしかなく、実際にかまわないと記しているではないか。そしてそれが気に入らないのだろう。そんな言葉が繰り返し記されている。それは馬鹿げていて、かなりくだらないことだと思われるのか。そうだとしてもそう思う他なく、それ以外に思いようがない。確かにそれだけの無内容と、同じような言葉が繰り返し記されることによって、誰かの文章が構成され、それが誰かの存在を支えているようだ。それは恐ろしいことであり、行き場のない何かをこの世界の中に記していることになるのだろうか。だが記された言葉の連なりは、何の痕跡にもなりはしないだろう。


2月15日

 とりあえずこれから何が起ころうと、あるいはそれがどうなろうと、大したことにはならない。結局のところは何ももたらせず、冗談のような未来が到来するだけだろう。ただその未来の世界で誰かの姿を確認できるかどうかはわからない。もうすぐこの世界から消えてしまうのだろうか。他に何を透視しているわけでもなく、たぶん君の将来に関しては何もわからず、何も予言することはできないだろう。ではそれらの時空でまた無理に語りすぎているのだろうか。なぜそう思うのか。それらの行間から何を読み取ろうとしているのでもなく、そこで記述された言葉の連なりは未だに有限の長さだ。そんなことは当たり前だろうが、たぶん何かの無限性に触発されてそんなことを述べているのかもしれず、他には何も感じられないが、どうやら君はそれらを記述している理由をわかりかけているのではないか。またそんな嘘をついて思わせぶりなことを述べようとするが、何かの造形やデザインに惹かれながらも、思考の妨げにならない程度にとどめ、何とかして言葉の連なりの持続的な発展を夢見て、何かの状況がここに至っているのかもしれず、苦労して言葉を繰り出す毎日の中で、気休めとしての記述以外の何かを探っているはずだが、結果はどうなったのか。何ももたらせないことがひとつの結果なのか。たぶんそれ以外はあり得ず、誰かはそんな結果に愕然としているのかもしれないが、そこから何をどう語ろうとしても、それらの内容が空疎であることは否めず、それを意識すればするほどそうなってしまい、そんな状態から抜け出られず、焦って空回りを繰り返すだけで、まったく話に進展がなくなり、やけになってまた冗談に逃げようとする。君がそこで体験しているのはそんなことばかりか。それだけではないと反論しようとしても、何をどう論じていいのかわからず、結局はそんな現実を変えられず、何も思いつけずに語るべき言葉を失い、そんな貧窮状態の中で押し黙るしかないか。いったい誰がそこで黙っているのか。

 誰かはそうならないことを祈っているようだが、他の誰かがそれとは矛盾したことを語ろうとして、それがうまくいっているかどうかはともかく、できればそうなってほしかったのではないか。それができなかったのだから、今さらそんなことを祈っても無駄か。だが無駄なことをあえてやるのが、誰かの真骨頂ではなかったか。それらの何が真骨頂であるはずがなく、どうもその辺でまたぐだぐだとどうでもいいことを述べていて、言葉をいくら費やしても、肝心なことは何一つ語られておらず、それどころか無駄な言葉がいい加減に連なって、さらなる停滞をもたらし、投げやりな雰囲気を醸し出しているようで、たぶんそう述べていること自体が、わけがわからないのはいつものこととしても、わざとそういう方向に言葉を連ねていってしまうのも、今に始まったことではないだろうが、そんなことを思っているうちにも、雪が止んで昼には空が晴れ、ぬかるんだ道を眺めながら、誰かが自分の思い通りに事が運んでいる光景を空想しているようだが、それ以前にどうしようもない現実が誰かの行く手を遮っているようで、ありとあらゆることにこだわり、こだわりすぎて身動きがとれなくなり、それでもそんなこだわりを捨てられないどころか、思考の無謬性を求めるあまりに何もできなくなった人々が、とりあえずの現状維持を当たり前のように感じているのだから、どうにもならない世界をこれからどうにかしようとするはずもなく、どこかへ流されるがままに流され、流れ着いた先で勝手なことをやろうとして、それが果たされないことがわかると、また別の流れに乗っかって、どこかへ移動しようとするが、たぶんどこへ行ってもつまはじきにされることがわかってしまって、その辺でやる気が失せ、今度は適当なところで妥協して、身の丈に合ったことをやろうとして、小市民として地味に生きようとするのだが、たぶんそんなつまらない境遇を受け入れるはずもなく、自分には果たせなかった夢を自分の息子にでも託して、そんなありふれた作り話の中で、その生涯を終えようとするのか。冗談には違いないが、途中で何かと妥協してしまったようで、誰かが語りたかった作り話とは似て非なる結果となってしまったらしい。だがこうなってしまった以上は、面倒くさいので、今はそのままで終わってしまうこととしておこう。


2月14日

 ちょっと作為が過ぎる。記述する上での否定的な要因をいちいち挙げていくとすれば、君はどんな心境に至るのか。やる気にならない。言葉を記すのに難儀している。だから面倒なことは考えずに、とりあえずいい加減に語ればいいのではないか。できればそう思いたいが、思えば思うほど作為的になってしまうのはどうしてだろうか。単にそんな嘘をついているだけか。本当は違うと思いたいのも嘘のたぐいか。嘘でも何でもかまわず、とりあえず今は言葉を記さなければならない。そうしないとまた明日になってしまうか。それでもかまわないのだろうが、何がかまわないわけでもなく、できることならまともな内容にしたいのだろう。すでにそれは無理だ。くだらぬ自己言及を語ってしまっているか。近頃は何を語ってもそうなるしかないようだ。馬鹿げた内容なのは毎度のことで、君にはどうすることもできはせず、同じような言葉の並びにただ唖然とするしかないか。夜になり、また雪が降ってきたようだ。別に君が天候を変える力はなく、雪が降るのを止めることはできない。別にできなくてもかまわないのではないか。そういう受け止め方がおかしい。翌朝には止んでしまうのだろうから、できないことをやろうとしているわけでもないのに、そんなことを述べるのは間違っているだろうか。少なくともそれはどうでもいいことだ。不意に出たあくびとともにそう思う。そして本当にどうでもよくなってきたようだ。

 ただ語る必要がないことを語っているようだ。以前としてそうであり、今のところはそれ以外がないのだから、そうなるしかなく、それを延々と続けるしかないようだ。続けられると思っているのか。現に続けているではないか。しかし何でそうなってしまうのか。何を問うても答えなど出てこないだろう。それはまともな答えではなく、問いをずらして導きだされるような返答となり、何に答えているわけでもなく、単なる独りよがりにしかならないようなたぐいか。そうであったとしても、なおのことそうあるべきなのだ。それは本当だろうか。何が本当なのか。何でもなく、何が本当でも偽りでもなく、もとからそれらはどうでもいいようなことだ。もしかしたら語ってはいけないようなことを語っているのかもしれず、君はそこで愚劣な行為に加担しているのだろうか。そうだとしてもかまわないのか。たぶん何をどう語ってもかまわないのだ。今の時点ではそう思っている。言葉を記しているつもりの自意識は呆れているのだろうか。またくだらないと思っているのではないか。もう戯れ言は聞き飽きた。何を聞いているのでもないし、語ろうとしているのでもないが、それは無駄な努力になりそうだ。何も語っていないのが致命的な結果を招いているわけか。そうだとしてもやめられず、ひたすら言葉を記そうとしている。だからやめた方がいいのだろう。

 しかし君は何を続けようとしているのか。無駄な努力ならとっくの昔に終わっているはずか。では今も続いているそれは何なのか。そんなことを思っているうちに眠ってしまい、また翌日になってしまったようだが、今日は何を語ればいいのだろう。昨日の続きがわからない。昨日は何を語っていたのか。そんなことを語る必要はないのだろうか。しかしわからない。わかる必要もないわけか。それに関しては何も考えられず、誰かが黙ってテレビを眺めている。昼休みなのだろう。そうしていないと平常心を保てないようだ。おかしいのではないか。確かに何かがおかしい。気分が優れず、鬱の兆候を示している。フィクションの断片を思い出そうとしているのか。それは語るべき内容を含んでいるのか。何もわからない。わかる必要はなく、語っている内容も示されない。それでは何も語っていないのと同じではないか。何気なく壁にかけられたカレンダーを見ると、それが去年のものだと気づく。退屈しているようで、参加しているゲームが何をもたらしているとも思えない。誰かは孤独なのか。娯楽とは何か。それを知りたいわけでもないのに、誰かに問いかけているようだ。悲惨な人々だ。自分で自分の首を絞めていることに気づかない。何もやらないうちからやろうとしていることを見直そうとしている。メディアが世論調査を用いてすべてを台無しにしつつあるのだろうか。


2月13日

 何に関して言及したいのか不明だが、またこうなってしまったらしい。どうなっているわけでもなく、こうなっているのであって、こういう成り行きに逆らえず、どうしようもなく言葉を記しているが、頭がどうかしたわけでもない。いかれたいのにいかれないということか。述べていることの意味がわからず、途方に暮れているわけでもないのだろうが、さして不都合とも思っていないようで、気まぐれにそんなことを思っているわけでもなく、そんなことがどんなことなのか、わかる術も持ち合わせていないようだ。きっとその時の君はどうかしているのだろう。しかしそれはいつのことなのか。フィクションなのだから、いつでもかまわないのではないか。たぶんそこで何がどうなっているわけでもなく、他に何を記そうとしているのでもない。頭が世間の話題に反応しなくなっているのかもしれず、他に何も記すことがないから、とりあえずそんなことを記しているのだろうか。それらは空疎で虚無的な何かになるだろう。そう思っているのだからそういうことか。何がそうなのだろう。何もついてゆけそうになく、語っているつもりの何かに対しても興味を抱けない。そして気がつけばまた肩が凝っている。やる気を奪っているのは身体的な変調か。だがいったい何をやろうとしていたのか。仕事以外には何もないではないか。

 誰かの気まぐれにつきあっているわけにはいかないのか。偏狭な心になりつつあるらしい。面倒くさいのでそういうことにしておこう。そして君はどこかへ消え失せ、作り話の中では無人の荒野でも広がっているわけか。馬鹿げているだろうか。話になっていないようだ。誰がそれを望んでいるわけでもないのに、そういう話にしようとしている。誰もそこにいないのに、誰かに向かって語りかけているようなものか。心なしか画面の前に座っている姿勢が傾き、絶望の心境でもねつ造しようとしているわけでもないだろうが、視界不良で目の焦点が合っていないようだ。たぶんそういう理由でそうなっているのではない。どういう理由でもなく、いつの間にか貧窮の時が到来している。その意味がわからないのだが、それはどういうことなのか。関心がないのはいつものことで、意味に関しても、どんな意味でもかまわないのだろう。君は暇つぶしに暴力的な映画を見ているようで、その中で何かが破壊され、人も壊れ、何らかの損失を被っているのだろう。現実の世界では真相究明ばかりが叫ばれ、それに関するうがった見方や意見がメディア上をにぎわす。探偵ごっこのやり過ぎなのだろうか。そもそも勝ったり負けたりするのがおかしいのではないか。どうしても勝敗をつけないと納得がいかないのなら、勝つためのありとあらゆる手段を認めるべきで、金銭のやりとりよって勝とうとするのもひとつのやり方になるだろう。

 人々は本物の殺し合いを見たいわけではないらしく、格闘技の試合でも、要するにマンガチックなきれいごとを求めているのかもしれない。要するに正々堂々とした戦いか。他に何やらものすごい修行によってあみだされた驚異的な技が繰り出されるのを期待していたりするわけか。それは荒唐無稽な妄想の産物だろう。どうやら途中から冗談を述べているようで、そんなことはないと思うなら、実際にはどんな魅力があるのだろうか。マニアな人たちなら、仲間内でうんちく満載の格闘技談義などを楽しめば、それで気が済んでしまうだろうか。またわざとずれたことを述べている。どうもそこから大相撲の八百長問題へは話が進展しないようで、無理にそんなことを述べてみても何とも思わないらしく、そんなのはどうでもいい話題でしかないのか。たぶん君はその辺で行き詰まっているのだろう。要するに語る必要のないことであり、いくら世間の話題について語ろうとしても、無意識の抵抗によって、話の途中から逸脱していってしまい、気がつけば意味不明なことを述べているわけか。やはりそれでかまわないと強がるべきなのか。だがいくら強がってみせても痩せ我慢の範囲内か。たぶんそれでかまわないのだろう。強がってみせても、それが痩せ我慢であってもかまわないのだ。では空疎なことしか語れない現状を誇るべきなのか。またそんなわけのわからぬ嘘をついて字数稼ぎになってしまうが、それもそれとして、今はそんな現状を受け入れるしかないようだ。やはり結果的にはそれでかまわないのだろう。


2月12日

 甘いものが欲しい。意味がわからないが、たぶんそのままの意味だろう。別に糖尿病を患っているわけでもなく、それがどうしたわけでもないのはいつもの通りか。そして日付は相変わらず昨日になっている。今日はさらに遅れてしまうのかも知れず、何かの酔狂で砂糖をなめてみるが、味覚が感じられず、そんなはずがないと思い、何となく作り話のような気がしてくる。何がそうなのかわからない。どうということはない。目に見えているものは幻だ。何を考えているのか。何も考えていないからまともな内容を導きだせず、くだらぬことさえ述べられなくなり、要するに意味を見出せなくなってしまうのか。そうとばかりもいえないのではないか。ではそんなことを述べながらも、何を狙っているのか。無意識の意図などわかるわけがない。君はひたすら孤独だ。冗談でそんなことを述べている。本当はそうなのだろう。事実と異なるが、いくらでも嘘をつける立場でも占有しているわけか。それも違うと思う。すでに何かがおかしくなっているのかもしれない。その時点でやる気が失せたと思っているが、それでも言葉を記さなければ今日が終わらない。いったい自らに何を課しているのだろうか。責任を負う立場にはないはずか。いくらでもいい加減であってもかまわないのに、くだらぬことを述べている場合ではないと思う。

 もう眠くなっているはずだ。虚をつかれて呆然とする。そんな話ではなかったはずだ。辺り一面に夕闇が迫る頃、誰かはそれとは違う話に夢中になっていたはずだが、今はもう思い出せない。そんなはずがないだろうとは思うが、それが現実だ。現実にそんなことを述べている。おかしいだろうか。何の話なのかわからない。老いているのだろうか。誰がそうなのか。まったく言葉が聞き取れない。さっきまではそうではなかったはずか。そんな話をしていたのではない。もっと興味を覚えるような話をしてくれないか。何かの画面を眺めていたらしいが、一向に内容が定まらず、言葉を記す間隔が開き気味か。それを語ることに失敗しているのだろうか。何も語れなくなっていないか。たぶんそれでかまわないのだ。語る必要がないのだから、今は語らない方がいい。何を語らないでおけるのか。それは空疎な内容になりそうだが、さらに言葉を記しているのだろう。何もないのにそうなってしまい、呆れているのかもしれないが、それは無謀な試みになるだろう。しかし次の瞬間が待ち受けているようで、何に逆らっているのかわからなくなり、次第にその全貌が明らかになっているようだが、相変わらず君には関係のないことであり、興味を引くような話題ではなさそうだ。だからそこで何かが滞っているわけか。言葉が記せなくなり、何かが行き詰まっていることを実感する。

 ところで今日は短めで勘弁してほしい。何がそうなるのだろう。まったくどうにもならない世界となる。虚構の話だろう。現実の世界は相変わらずの話題で満ちあふれているではないか。いくらそれが気に入らなくても、受け入れざるを得ないのではないか。何に逆らっていても無駄であり、結局はそうなってしまうのだろう。そこから何をどう語ろうと後の祭りか。いいわけがきかなくなり、何もないことが明らかとなり、それらの空洞の中で言葉を記しているわけだ。もう抜け殻さえなく、残滓も何もありはしない。だからもう終わりなのだろうか。何がそこで終わっているというのか。まだその段階ではなく、その手前で悪あがきの最中か。そんなふうに思っていてもかまわないが、なぜそんなことにこだわっているのか。そこでやめてもかまわないのではないか。やめられない理由もなしに続けるのはおかしい。だから言葉を探している。それは何かをやめるための言葉か。そんな言葉がどうして必要なのだろうか。君にはそれがそぐわないとでも思っているのだろうか。そうやってどんどん回り道を選んで進み、どこにも行き着かないような道を探っているのか。それはあり得ないことだ。いくら迷路の中で行ったり来たりしていても、必ずどこかに到達してしまうはずか。だからそれがあり得ないと述べているのか。君はそうではないと思う。思っているだけで、実際にはそうなってしまうのではないか。だからそれがここだ。君はそうなることを避けながらもそうなってしまったのか。


2月11日

 やはりそんなことを語るのはよそう。まだ何も語っていないではないか。そんなわけでまた嘘をついてしまったらしい。だからどんなわけでもなく、何でもないだろう。実際に誰が何を語っているわけでもない。まだ外では雪が降っているのだろうか。それは昨晩のことだ。夜の闇が誰を誘っているわけでもなく、誰かの意識がどこかへ誘われているわけでもない。ここで記されているのはただの言葉でしかないのか。それが実際に記されていることは確かだ。まだ君はそれを理解していないだけか。これからも理解することはないだろう。なぜ言葉の連なりが笑っているのだろうか。何がおかしくてたまらないのか。他の何に失望しているとも思えない。ならば意識は何かおかしいとは思わないのか。そんな語り方ではだめか。唐突にそんな正解を導きだしてしまう。常に間違っていなければだめなのだろうか。いったいそれの何がだめなのだろう。さっきから何も語っていないようだが、それ以前も同様か。君は依然として言葉の迷路から抜け出られないようだ。だから今は何も語らずにおこう。作り話の中では一向に話がわからないままだ。なぜこの世界に関心を見出せないのか。興味がないだけかもしれない。それは同じ意味の内容を繰り返し述べていることにならないか。念を押さなくてもわかっている。

 しかし何に興味があるというのか。語っている内容は誰のことでもありはせず、別に無の境地に心が入りつつあるのでもない。では他に何をやっているのかといえば、ただそんなことを述べているだけか。そして今はそんなことが記されている画面を眺めている。そしてそれ以上の何かを述べられず、焦っているのではないか。焦るも何も、今さら無理なことを語る必要性を感じない。分相応でかまわないはずだが、無理なこととはどんなことなのか。この世界について語るのが無理なのか。あるいは政治情勢や経済情勢を門外漢として語るのが無理なのか。わからないようだが、気が向いたらいい加減に適当に語るかも知れず、ただ今がその機会だとは思えない。まったく気が向かず、興味がわいてこないのだろうか。少なくともそれに関して考えていないので、語るための下調べもしていないのだから、語る材料に乏しいのかもしれない。どちらにしろ何を語ればいいのかわからない。かつてはそんなことを積極的に語っていた時期もあったかもしれないが、なぜか最近は語っていないような気がする。たぶんこれからも語らないだろう。今はそんな嘘をついてもかまわないようだ。嘘をつく理由が見当たらないようだが、とりあえずはそういうことにしておこう。そしてわけがわからなくなったふりをして、言葉に詰まって、本心をごまかそうとしている。

 そんなことを述べているうちに、もうこんな時間だ。今日もつまらないことを延々と述べてきたようだ。さっきまではそう思っていた。だがどこまでもそう思っていたいわけでもなく、いつかはまともなことを述べて、すっきりした気分になりたいのではないか。しかしそれはどういう気分なのだろう。だからそういう気分であり、この状況ではそうなる成り行きを想像できないが、もしかしたらそんな言葉は必要とされていないのではないか。何が言葉なのかわからないが、案外必要とされていないのはこの世界のすべてか。またずいぶんと外れたことを述べているようだが、わざと荒唐無稽なことを述べようとしているのかもしれず、要するにそれは冗談なのだろうか。意味不明に決まっている。何かの途中からさらにわけがわからなくなってしまい、文章として意味が通らなくなって、どうでもよくなってきたようで、もはや投げやりなのかやけくそなのかはっきりしたいとも思わないが、またわざと外れているようで、次第にうんざりしてきてしまい、今日は昨日で、ため息ばかりついている。肩が凝っているのかもしれない。それとこれとは関係ないだろうが、君の意識と無関係なのはすべての言葉であり、君が探し出そうとしているのは、それとは違い、何に関係することでもなく、誰の意識が思っていることを推し量りたいのでもない。では何を述べたいのかといえば、それがわからないのかもしれず、頭の中がぐだぐだになっていて、考えがまとまらなくなっているのだろう。


2月10日

 どうも今日が明日になってしまう気配になってきた。そうならないために言葉を記しているのではないか。記し終えられるだろうか。まだ中身が何もないではないか。これからそれを語ろうとしているわけか。無理に決まっている。実際に何も思いついていない。頭の中が空っぽなのか。心があるらしい。フィクションの中ではそうなのだろう。意識してそんなことを思っているだけか。しかしいったいそこでその時間帯で何を思っているのか。君は何も思わない。何とも思っていないだけで、それとこれとは違うのではないか。ますます意味不明になるだけか。わざとそう述べているのだろう。君はそれが違っていることを知っている。何が違うというのか。だからそれはそういうことになる。ますますわからないか。でも実際に翌日になってみると、なぜか予報通りに雪が本格的に降っているし、それとこれとは関係ないのだろうが、胃の痛みも嘘のように消えている。胃薬を飲んだから当然の結果か。しかしなぜそんなどうでもいいことを述べているだけで、それで文章を構成してしまうのだろうか。結局見え透いたごまかしに過ぎず、そんなことを平気でやってしまうから、いつまで経ってもいい加減なことしか述べられないのか。それでかまわないと思っているのだから、それはそういうことでしかないか。まったく何がかまわないのかわからないが、君はそういうやり方が気に入らないようだ。

 いずれにしても、何と何がいずれの選択肢になっているのか不明だが、誰かがそんな雪景色を眺めながら言葉を記していることは確からしく、その中でいい加減なことを述べながらも、さらにそれについていいわけを記しながらも、あるいはそこから開き直って、そういう行為を正当化しようと、要するに大したことを述べているわけではない。人はどのようにも生きられ、たとえ大した仕事もせずに給料をもらっているフリーライダーにしても、いつも小狡く立ち回って、他人から嫌われていることをわかっていながら、それを改められないにしても、気にせず平然としていればいいのであって、それで済んでいられるうちは、憎まれっ子世にはばかる的に生きていければそれに越したことはない。誰かはそういう輩を黙って眺めながら、そういう存在を利用して、そういうのを嫌っている人々を自分の味方に引き入れようとしているのか。だからどうしたわけでもなく、本気でそんなことを画策しているとも思えず、そういう人間は自滅するまで放置しているだけかもしれない。別に自滅せずにそのまま天寿を全うしてくれれば、それかまわないのだろうが、何となくそれらの見え透いた立ち振る舞いが禍根を残しているように思われて仕方がない。本人がそれと気づかないうちに悲惨な結末に導かれているような気がするのだが、とりあえず下手な諫言はせずに、どう見ても自滅への道を歩んでいる輩を、誰かはただ眺めているだけのように見える。

 しかしそれは何かのフィクションなのだろうか。少しは現実の要素が含まれているような気もするが、気のせいだろうか。何がそうなのかわかりかねる。あることないこと語って、自分の都合のいいように歪ませて、そんな話をさも実際に起こったことのように語るのが、ノンフィクションと呼ばれるジャンルの特徴か。だからそれもフィクションのたぐいでしかなく、それをどうこう批判したいわけでもないのだろうが、君は何かその辺で思い違いをしていないか。たぶん絶えず世の中で起こっている些末な出来事を小馬鹿にしたいのだろうが、冗談ならいざ知らず、本気でそんなことを述べているようには思えないところが、何となくおかしく思われ、要するにそこで記されているすべての言葉が、それを読む者をだまそうとしているのかもしれない。しかしでは実際に誰がだまされたのかと問うならば、たぶん誰もだまされてはいないだろうし、言葉を記している誰かもだます意図はないのかもしれないが、記された言葉の連なりは誰かをだまそうとしているわけだ。それを記した者も記された文章を読んでいる者も、両者ともにだまそうとしているのではないか。そんなことがあり得るだろうか。それこそが嘘に決まっているかもしれないが、何となく何かの気まぐれでそんなことを記している誰かは、意図して記述しようとしているわけでもないのに、そんなことを記してしまう現実に関して、理解不能に陥っているようだが、本当にそれは何かの冗談なのか。それの何が冗談なのだろうか。


2月9日

 久しぶりに今日の夜だ。他に何か語ることでもあるのだろうか。君は愚かだ。他人に隙を見せ過ぎか。わざとそうやって付け込む隙を与え、思い通りにつけ込んでくる輩を陰で笑っているのだろう。何やらだまし合いの様相を呈していると思っているのかもしれないが、それは自意識過剰のなせる業で、相手は何とも思っていないはずだ。だがそんなふうにして語り、そのための方便を述べているのかもしれないが、まったく意味が違っているような気もしてくる。いい加減なことを述べているだけか。それもそうかもしれず、やはりそれでかまわないと思っているらしい。君は単純な物語が嫌いなのか。たぶんそれがおかしいのだろう。物語の中では敵がいたりして、強大な敵に向かって味方同士で結束を深めているわけか。何かのためになる物語というのはあるらしいが、それらはそういう水準の内容ではない。ただ何かを馬鹿にしているだけかもしれず、自らを弱さを隠すためにそんなことを語ろうとしているわけか。そんなわけはないと主張したいところだろうが、たぶんそれが現状を示す手がかりを提供していることは確かだ。何かを賞賛したければ、まずは否定的に語るべきか。なぜ君はそうするのか。冗談だと思いたいのだろう。できればそれで結論としたいところだが、まだまだ言葉が続いてしまうような気配を感じる。

 それは当たり前のことだろう。嫌なものは嫌であり、不快な人間は許せないか。笑っている意味がわからない。苦笑いというわけでもないだろう。わかりやすい物語を読んで多くの人々が感動して、批評家や学者もどきなどもそれふうの解釈を披露したくなる。それだけのことか。たぶんそれの欠陥を指摘する者など一人もいはしない。大衆が支持する人気作品をけなすのには勇気がいるのだろうか。君ならできるとそそのかす気か。漫画というジャンルが物語の構造的欠陥を目立たなくしているのだ。それは嘘だろう。目立ちすぎるくらい目立っているではないか。悲惨な世の中だ。そんな物語に勇気づけられて暮らしている者さえいるらしい。しかしなぜ人はそれを物語らなければならないのか。漫画の荒唐無稽性からすれば、現実の何かは些細なことだ。要するに大したことではないのだ。それと漫画を比較してどうするのか。そうまでして感動したいか。中にはそこから世相を分析する輩までいるらしい。荒唐無稽にもほどがあるか。だが漫画そのものが悪いわけではなく、それをネタにして何やら利いた風なことを語りたがる輩が不快なのではないか。ではこの世界に存在する真のフリーライダーとはメディア関係者のことか。そういう暴論に対して、誰かは冗談ではないと思うのか。わからないがそう述べているうちにも答えが出かかっている。君は以前からそれに気づいているのではなかったか。

 人間というジャンルはやがて雲散霧消するだろう。そんなことを誰が予言したのだろうか。そんなのは嘘に決まっているか。しかし特定のジャンルが消えてなくなるとかいうのは、世界にとっては当たり前のことではないか。種の絶滅は歴史的には日常茶飯事だ。だからそんなことを言い放ったところで、何が目新しいわけでもなく、それこそが利いた風な主張に過ぎない。だがそれでかまわないのだろう。それ以外に何を主張できるというのか。君が主張しているそれがまともだとは到底思えない。ただふざけているだけではないのか。だからそれは主張ではなく、冗談のたぐいになる。それでも君にとってはかまわないのだろう。個人の主張などたわいないものだ。無視されて当然か。しかしそう述べて君は何をもたらしているのか。厭世観と退屈な言葉の並びだけではつまらないか。おもしろそうなことを述べてみたら、それが空疎な現実から生じていることを知り得るだろうか。ではそれがフィクションであることをどうやって証明するのか。見えている何が蜃気楼でもないだろう。それでもどこかにかすっているような印象もありそうで、大した打撃も与えられずに、負け惜しみの弁を語る生前の自爆犯が映し出されたビデオ映像ようなわけにもいかないか。別にそれを狙っているわけではないだろう。ターゲットがどこにも存在しないのが、この世界の恐ろしいところではないのか。君が対峙しているつもりの敵らしき人影は、君自身の影に過ぎず、他の誰の影でもない。


2月8日

 たぶん冷静になって考えてみた方がいい。なぜ未だにあんなことをやっているのか。愚にもつかないことか。君はあれらの何をどうしたいのだ。実際にはどうもしていないようだ。たぶん何をどう考えても何でもないことなのだろう。そこから何が導きだされるわけでもなく、ただ自然の流れに気づかないだけでしかなく、何とか工夫を凝らして何かを食い止めようとしているのだろうが、それが無理であることがわかっていないだけではないのか。だとしてもそれをやらないわけにはいないのだろう。だからいつまで経っても行き詰まりを解消できずに、うまくいかないことの腹いせに、内輪もめを繰り返しているわけか。それ自体がよくある自然の成り行きかもしれず、全体としてそういう構造を呈しているのだろう。だからどうしたわけでもなく、下手な小細工に走ったところで墓穴を掘るだけか。まあそれはそれとして、そういうことがわかるまでには、まだかなり時間がかかりそうだ。しかしそんなことを偉そうに上から目線で語っていること自体が愚かなことか。どうでもいいが、何かをどうにかしなければならない状態であることは確からしく、改まってというよりは、機会を捉えて徐々に修正を図って、気がついたらうまい具合に何ごとも回っているというふうにしていった方がいいだろう。別にそうならなくてもいいが、うまくいかないなりにも、その場その場で対処法が見出される限りにおいて、それを根気よくやり続けていれば、それはそれでそういうことになる。

 たぶん狭い範囲で凝り固まって、不都合なところから目を背けることで、人は幸せを感じるのと引き換えにして、それ以上進化する可能性を放棄している。そういう人にとっては自給自足できていればいいわけで、そうやって安定した生活を満喫できているうちは何の不満もないはずか。毎日趣味と娯楽に興じていられる年金生活者などは、それで充実した余生を送っていると実感できるかもしれない。そしてそういう制度が維持できているうちは、それが社会のあるべき姿となるのだろうが、果たしてそれでいいのだろうか、と問うのはおかしいか。では他にどんな生き方があるというのか。理想とする姿を模索しても、生き方など人それぞれの事情によって多種多様になり、とりとめがなくなるだけか。たぶんそんなところから生きる目的とやらを設定したところで、まったくリアリティを伴わなくなってしまうのではないか。だから焦って早急に結論を出そうとしてはいけない。だいいちそんなことを探求するつもりではなく、ただ無目的に言葉を連ねているだけのはずで、その結果として語っている内容にとりとめがなくなろうと、そんなことはどうでもいいとうそぶき、そこから絶えず逸脱していってしまうのが、そこでの自然の成り行きだと思っている。だから世の中のそういう制度を否定しても仕方がないのだろう。要するに本気にはなれないということか。目標や目的を設けて、必死に努力してそこに到達したとしても、そこから先にも何の変哲もない世界が広がっていて、達成した成果などたかが知れていると実感するはずだ。

 人は自らのこだわりにしがみつくことで、絶えず何らかの幻想を抱いていられるのだ。それにこだわって生きてゆけば、何かを成し遂げるられると確信しながら、そういう一途な信仰とともに生活していて、社会の中でそれとは違う価値観を有している人と対立し、場合によってはそれがもとで衝突し、諍いを起こしながらも、そういう成り行きの中でこだわりに対する信仰を深め、頑なにそれを保っていこうとすると同時に、他の人たちにもそれにこだわることを勧めようして、同じ価値観を有する人と互いに連携し、それとは違う価値観を抱く人たちと戦い、競い合うことになるわけだが、たとえそれらの戦いに敗れ打ちのめされて、転向や変節を迫られても、そういう体質に変化がないどころか、今度は勝った相手によって吹き込まれた新たなこだわりを、以前にもましてよりいっそう強固に信じ込もうとして、どんどん愚かになっていく傾向にあるようだ。もちろん実際にはそういう傾向を解消するような作用も同時に進行していて、その代表的な作用が、人の死だ。こだわりを保持している人が死んでしまうと、次の世代にそれが受け継がれない場合があり、時間の経過とともにどんどん世代交代していくにつれて、状況にそぐわないおかしなこだわりは廃れ、状況の変化に適応したこだわりだけが残ることになり、それが自然の流れというわけだが、結果から考えればそんなことでしかないのに、やはりそういった価値観やこだわりや信仰といったものを命がけで守ろうとする輩が後を絶たない状況が、歴史という概念を成立させているわけか。


2月7日

 それは日付としては昨日の出来事か。ただそう思われるだけで、実際は今日起こったことかもしれない。だがそんなことはどうでもよく、出来事自体もどうでもいいことか。なら話にならないではないか。話をする必要さえないか。だからこうして言葉を記しているわけだ。間違っているだろうか。そうだとしてもそれでかまわないはずだ。間違っていてもかまわない。今は翌日の夜になるのだろうか。たぶんそうだ。間違っていてもそうに違いない。それはどういうことでもなく、そういうことなのだ。どうでもいいことに違いないが、そう述べるしかないのだろう。そこからいくら歳月が流れ去っても、そういうことになる。何かがリセットされ、元の木阿弥の中で何を思うこともなく、さらに遠くまでたどり着こうとしている。ここではないどこかへいってみたいわけか。常に行こうとしているはずだ。行動こそが人をどこかへと導き、迷いの中であきらめさせるわけか。君は感動できないらしい。眠ってしまってはまずいのか。すでにまぶたが重くなり、気がつけば翌朝になっている。立場によって異なる思いは、思い違いに気づかせないようだ。どうでもいいことなのに、何か重大な事件のように思わせ、それに関わっていることを誇りに思わせるのは、やはり愚かな自尊心を捨てられない証拠となるだろうか。そう思うなら、すぐにそこから離れるべきか。

 見くびっているわけではなく、誰かの能力に期待しているのかもしれない。それが忘却に変わらないうちに、何とか目鼻立ちをつけて、ある程度の完成を目指しているようだ。未完成のままではいけない理由はないが、何となく中途半端なままだと、その次へ進めないような気がするだけか。何かを途中でうっちゃるわけにはいかないのか。なぜその必要があるのだろう。もうその気でいるらしい。眠ってしまおうとしている。無駄なことか。語っている内容が無意味である限り、君はそこから離れられない。そこには見極めるべき何かがあるらしく、そこから意味を導きだし、それらの語りを完成させなければ、その次へは進めないのだ。だから今さらやめてもらっては困るのか。考えるべきなのか。想像上の西部をテーマにした歌を聴きながら、暗い顔して言葉が並んだ画面を睨みつけるが、今さらなぜジャック・ブルースなのかわからない。また嘘をついているのだろう。数日後の庭には雪が積もり、白銀の世界に包まれて、そんなはずがないと思うだけか。そう述べて何を空想しているわけでもない。やはり考え方が間違っているのは確かか。だが何を繰り返しているわけでもなく、そこから離れられないのでもなさそうだ。実際に離れつつある。そういう夢を見ているだけではないのか。しかしそれがどうしたのだろう。まだその続きがあると思っているわけか。だとしたら、それを記してみればいい。できなければそこで終わりだ。

 だからそんなわけで、今からそれを記そうとしているわけか。冗談には違いない。だが冗談では済ませないつもりなのだろう。冗談ばかり述べていないで、もっと真面目に語るべきだ。だからそれを語っている最中なのではないか。その割には具体的に何を述べているのかわからないままだ。未だにそこへ入っていけず、本題が何なのかわからないまま、すでにそれらの語りは終盤に差し掛かっていて、物語になる気配も微塵もないのに、強引に語り進めようとしているわけか。君に尋ねても無駄か。何を聞いているわけでもなく、イヤホンを振動させながら聞こえてくる音楽は、君をどこへもたどり着かせまいとするかのように、感動を遠ざけ、無理矢理雑音を耳の穴にねじ込ませるような案配で、不快な騒音をまき散らしているのか。さっきまではそうだっただけで、今は静か演奏だ。それは首を傾け、斜め上の景色を見ても変わらないようだ。誰かはそこから何をやろうとしているわけでもなく、何かの後始末を買って出ようとしているわけでもなく、面倒な結果をたぐり寄せるわけにはいかず、とりあえずは知らんぷりを決め込んで、その場を立ち去るつもりらしいが、気づかれてしまったら開き直るしかないか。誰が何に気づく可能性があるというのか。今さらそれはないだろう。今まさに切り抜けようとしている困難は、誰によってもたらされたわけでもなく、そうなるべく仕組まれた罠でもなく、偶然の巡り合わせでそうなっているに過ぎず、時が経てば忘れ去られるような何かに違いない。


2月6日

 不器用な人間は幸いだ。物覚えに時間がかかるかもしれないが、苦労して身につけたものは一生忘れない。それに対して天才肌の人間には不幸がつきまとう。簡単にできてしまうので、簡単に忘れ、気持ちにむらがあり、何事も長続きしない。しかし誰がそうであるわけでもないだろう。それらの語りから生じている状況は、空疎な成り行きを導き、それらのどこかが間違っているのはわかるが、そういう話ではないような気がする。ところで誰かは休みも取らずに何をやっているのか。相変わらずそれは馬鹿げた行為につながるわけか。いつものように何も思いつかずに言葉を記しているようだ。近頃はそんなことの繰り返しか。君はそこから外れて考える。結果としてはどうにかなっているのではないか。そんなことを思っているうちに眠くなり、安眠妨害の何かを呪う必要もなくなる。それでかまわないのか。その代わりに何をやっているわけでもなく、何が現実に適合しているのかわからないが、何も語っていないのではないか。だからかまわないのだろう。君にはそんなことを語る資格がありそうだ。嘘だろう。資格も何も、語っていないのだから違うか。それに反論するなら、違わない何かを示すべきだ。きっと何も思いつかず、これからも延々と空疎な何かを語るはめになり、あげくの果てに呆れてものもいえなくなってしまうだろう。ではそれで何かをあきらめたことになるのか。言葉で先回りしても不毛なだけか。

 そして案の定わからなくなり、画面の前で笑いながらも、何かを語ろうとするが、忘れてしまったようで、何か付け足し気味に違うことを述べているようだ。果たして何がどうなって、君がそこに出現したのか。気が向いたらそれについて語ってくれないか。誰に語ってほしいわけでもなく、語る内容も知らず、語りだそうとしているそれを阻むような言葉の連なりを記しているようだが、誰がそれを記しているのか。君ではない。主語が見当たらず、それが文章の中にあることは確かだが、それに言及するわけにはいかないらしい。そうする理由が定かでない。では何か違う方面で語らないと、理由を見出せないのか。それはとってつけたような不自然さだ。わざとそんなことを述べているわけか。そうに決まっているだろうが、そうならずして継続することはできない。しかし何を続けようとしているのだろう。何を続けるにしても、淡々と普通に続ければいいものを、必ずぎこちなく振る舞うのはどうしたわけだろう。わけなど何もありはしないのか。何かを語っていればそれでいいのではないか。だが実際には何も語っていない。それでいいのかもしれない。もう疲れてしまったのだろうか。空疎なことを語りすぎていて、それだけで疲労困憊してしまう。だがそれでかまわないのだろう。誰が疲れていようと君の知ったことではない。ただひたすら記述を急かされているだけか。それでかまわないと述べたはずだ。

 まだそこまで到達する気はないらしい。至らないところは後から修正すればいい。気が向いたらそうしているところだ。君はそこから何とかしなければならない。そんなことは語れないか。どんなことなのだろうか。それがわからなければ語れないだろう。だがそうやって何かを語ろうとしているわけだ。それがおかしいと思われるのか。だが何を語ろうとしてもそういうことになってしまい、すべてを自分の流儀に巻き込みたいわけか。それは恐ろしいことだ。しかし当人にとっては当たり前のことであり、毎日そればかり心がけているようで、それを貫き通すための準備に怠りはない。それは本当だろうか。君は本気でそんなことを思っているのか。正気とは思えないか。だがそれでもかまわないのだろう。何がどうなろうと、そんなふうに振る舞えるなら、それで気が済んでしまえるわけか。おかしいとは思わないのか。そうやって失敗してしまったら、自業自得だと思うしかない。だからそれでもかまわないのだろう。着実に実績を積み重ねて、気がついたら世間の常識を凌駕していればいい。たぶんそれは冗談だろう。誰かは君の言動や行動に良心や倫理観が欠けていると思う。実際のところはそういうことだ。それに関して何か思い当たる節はないか。たぶんそれを思い出してほしいのだろうが、何も思い出さないように心がけているようで、とりあえずは過ぎたことは水に流して、先を急ぐとしよう。別に急がなくても、いつか機会が巡ってきて、君も分からず屋的な甘えを改めなければならなくなるのだろう。


2月5日

 そんな何を狙っているのか。語っている内容の抽象性と何かが絡まって、また冗談のような未来について語ろうとしている。それは本当だろうか。でたらめだとしても、それについて何か反省する点でもあるわけか。心はそこから離れない。ではなぜ軽薄な悪口をささやき合うのか。それが冗談だからか。何を批判するにしても、何となくそれは違うような気がするだけか。ありふれた偏見といい加減な決めつけを心から排除できずにいるらしい。今日は外れない。何を外そうとしているのか。たぶんそれはわからないはずだ。わかり得ないことなどいくらでもありそうで、無理に理解しようとするから、要らぬ偏見が生み出され、取り払うことのできない溝が生じる。そんなことはないだろう。君の知ったことではないかもしれないが、何となく違和感を覚え、それとは違う何かを試そうとするが、何かの途中からいつもの流れとなってしまい、結局は元の木阿弥となり、たわいない冗談とともにここに至り、そこから遠ざかることをあきらめ、身近なことにかかりきりとなり、大局を捉えきれずにいるのだろう。しかしそれは何について述べていることなのか。それがわからなければ意味不明の文章となり、心はさらなる遠ざかりの中で意識を置き去りにしてしまうだろう。どうやらかなりわけがわからぬことを述べているようで、それがどうしたわけでもないのにおかしいと思っているらしい。いったいそれはどういうことなのか。

 それが何だかわからないまま、どうもそれが違っていると思う。わからないのに違っているわけか。いい加減にしてほしいと思いつつ、そういう問答を記すのが嫌になっているようだ。君はそれらの中から何を探し出そうとしているのか。どう見てもまともな言葉の並びではないが、そこで誰かが何かを主張していると感じられるだろうか。文章の中には誰もおらず、それが記された画面を外から誰かが眺めているだけか。それだけではないはずか。君はそこで何かを主張しようとしている。それは無理な話か。真面目な話だ。意味がない。考えられないのかもしれず、どう考えたらいいのかもわからない。これから何をどう考えたらいいのだろうか。それがわからない。頭の良い連中はいつでもどこでもうまいことやって利益を出したいのだろうが、それもだんだんと限界に近づいているのだろうか。とりあえず考え方次第か。しかしそれが違うと感じられるのはどういうわけなのか。そんなことはない。考えているすべてが違っているのだ。だいいちその考えをまったく表明していないし、そういう文章になっていないではないか。ではやはりそれを明らかにするのは無理なのか。いったい何を表明すべきなのか。すでにそれが無理だと表明しているではないか。だからまたそこから離れていってしまう。現にかなり遠ざかっているはずだ。君はそれが気に入らず、盛んにまともなことを語りだそうとしているようだが、現実はこれだ。

 ではお前はあきらめなければならないのか。何をあきらめようとしているのだろう。別にそれでかまわないはずだ。かまわないからここまで記してきた。今はそう思っているのだろう。別に開き直っているわけではない。では何を信じているのか。そういう予定調和の問答に未来はない。だが何を探しているわけでもなく、未来の姿を思い描いているわけでもない。それは誰の姿なのか。姿ではなく、影なのではないか。影は利いた風なことを語らなければならず、それは他の誰にとっても理解可能な内容であるべきか。だから君はそこで滅び去るべきなのか。なぜそういうことになるのか。わけがわからないのなら、そのまま世界の果てまで歩み続ければいい。できないことをやろうとしているのではなく、フィクションの中でなら可能だ。だがそれではやったことにならないだろう。何もやっていないのに、フィクションの中で誰かが何かをやったことにして、それで済ますつもりなのか。君は相変わらずわけのわからないことを述べているようだが、本当にそれで済んでしまいそうな気配がしてくる。実際にそう述べているのではないか。だから君はそこから退散できずにいるのだろう。気が済むまで誰かが言葉を記さないと、そこに君が登場できなくなり、当然のことながら、フィクションが成り立たなくなるか。それでもかまわないのではなかったか。実際にそうなってしまう。だからもういい加減に終わりにしないか。


2月4日

 また昨日に逆戻りか。相変わらず上の空で意識が浮遊していて、そこで誰かが利いた風なことを述べているらしい。自分に居場所がないのは誰にとっても辛いことだ。しかし居場所がないからこそ、人は放浪する。このままではいけないから、次なる一歩を歩みだそうとして、そこから先はどうなるのだろう。出口から出て、気がつけば何かの入り口に舞い戻っている。そんな悪循環から抜け出られないことは、何となく自然の成り行きとなりつつある。それの何が良くて何が悪いわけでもなく、何かの必然としてそうなってしまうのだから、それは仕方のないことか。何がどうなっているわけでもなく、他に何を語っているわけでもない。それらは無駄で無意味なことか。たぶんそこから何が求まるわけでもなく、何もわからないまま、今日も何となく言葉を記しているだけのようだ。君は何かをはき違えている。そうかも知れないが、それでかまわないのだ。そして気づいた時にはすでに手遅れか。しかしそこで何に気づいたのだろうか。何かに気づいたことに気づいたはずだが、それが何だかわからないのだから、それでは気づいたことにはならないのではないか。だがそれでは意味不明の言葉遊びでしかないではないか。まさかそれでかまわないと思っているわけでもあるまい。実際にそれでかまわないのではないか。呆れてものもいえなくなるか。

 それでも言葉を記している。何を語っているわけでもないのは毎度のことか。何もないのに何でもない。それだけのことだ。意識がそこで外れている。かまわないのだろうか。たぶんそうだ。何でもないのにここで語ろうとしている。語る理由など何もありはしない。昨日は疲れて寝てしまったはずだ。だから何がどうなったわけでもなく、昼間は仕事をしていた。そして何を思ったのか。相変わらず何も思っていないのか。どこで心が揺れ動いているわけでもなく、いつものようにくだらぬ妄想にはまっているわけか。別にゲームを楽しんでいるわけではない。何も楽しまず、音楽を聴いているわけか。それが唯一の楽しみか。だから何も楽しんでいないと述べているではないか。どうやらくだらぬ問答にはまっているらしい。そしてもうくたびれてしまったので、もう少しまともなことを語りたくなる。嘘に決まっているだろう。それができないからそうなっているのではないか。テレビを見ている場合ではない。さっさと記述を終わらせるとしよう。それは無理か。無理だからそんなことを語ろうとしている。ああいえばこういうパターンに近づくが、耳を澄ませばごちゃごちゃした雑音が聞こえてくるはずだ。それは地球が振動している音なのだろうか。大地が微妙に揺れ動いているのかもしれない。月の潮汐作用か。何を考え込んでいるわけでもなく、馬鹿騒ぎを冷ややかに眺めているとも思えない。それは昨晩のことか。

 人は憂さ晴らしに懸命か。言葉の使い方が間違っている。しかしそれにがんばっている輩も中にはいて、それも懸命に生きていることに含まれるのだろうか。昼休みには脱力感に包まれていたようで、そこで何を思っていたのか忘れてしまったらしく、別にそんなことを語らなくてもいいような気がしてくるが、それがどうしたわけでもなく、そこからさらにそれとは無関係な言葉が連なってしまいそうだ。それでかまわないのだろう。何度もかまわないと思いながらも、疑念を生じさせているわけでもなく、そうなってしまうのだから仕方がないと思うが、思い込もうとしているだけか。そして心はそこから次第に離れ、世間の話題に無関心を決め込み、何を思うわけでもなく、まだ意識が未来に到達していないことを知る。それは不可能か。君は死ぬのではないか。まさか心筋梗塞か何かか。まったくのくだらなさにため息が出る。だがそれが本心ではなく、本当にそれでかまわないと思っているはずだ。今はそれでかまわないのだ。そんなことを述べているうちに、またどこかに何かが舞い降り、いつもの静寂に辺りが包まれる頃、君はまた違うことを思うのではないか。このままではいけないとでも感じているわけか。そうに違いないが、的を射ていない。いったい何がそうなのだろう。君が何か思い違いをしていることは確かだが、それが君にとって重大な錯誤につながっているか否かはわからない。だから今はそれでかまわないと思うしかない。


2月3日

 何かを語ろうとして、結局は何も語れなくなってしまうパターンが多すぎるか。近頃はそんなことばかりで嫌気がさしているのだろうか。だが今はそのことについて考えてみるまでもない。何も思いつかないのだから、そうやって語るしか選択肢が残されていないのではないか。またそんな嘘をついて何かを継続させようとしている。悪い冗談だ。ニュアンスが違うのかもしれないが、そういうことにしておこう。笑っている場合ではないか。どうやらまたくだけてしまったらしく、やる気を出すためには何が必要なのでもなく、何を思いついたところで、それについて語れるわけではないことが明らかになりつつあるだけか。ではいったいそこで何を思いついたのだろうか。そういうくだらぬ問答が何も思いつかなくしている原因なのではないか。そうかもしれないし、そうだとしても、それをやめるわけにはいかないのだろう。軍隊が国家を支配するのは安易な選択肢だろうが、アメリカでさえある程度はそうなのだから、そういう呪縛から解き放たれるのは容易なことではないらしい。まあ暴力を用いて市民の言論を弾圧するのはよくあるパターンだが、エジプトもアフガン戦争当時のパキスタンと同様に、本質的には軍事独裁国家であることが明らかになりつつある。今後チュニジアなどとともにエジプトでも徐々に民主主義の制度が確立されていくのかもしれないが、王族が国を支配しているアラブの湾岸諸国などの現状を見る限り、アメリカは必ずしも民主主義国家だけと同盟関係を結んでいるわけではないらしく、これでは軍国主義国家のミャンマーや北朝鮮と友好関係にある中国を非難できないか。

 まあ大規模の市民デモが起こって、流血の惨事になっているチュニジアやエジプトなどと比較すれば、日本のへなちょこ民主主義もまだまだ捨てたものではないか。比較する対象が間違っているのかもしれないが、どうにもこうにも行き詰まりの閉塞感が蔓延していて、もう笑うしかない政治情勢なのかもしれず、それでも何となくそれでかまわないと思ってしまえるのは、どういうことなのか。首相をはじめ多くの政治家たちが無様な醜態をさらけ出している現状が、政治や政治家たちに対して勘違いの幻想を抱けなくしているのであり、彼らの軽薄な行動や言動によって、みんな大したことはない人間なのだと納得させられ、戦国の武将や明治維新の志士たちのような具合にはいかないことを悟らせるのだろう。君などは菅首相が数年前に街頭宣伝車の上で、未納三兄弟などと当時の自民党の年金未納閣僚たちをあざけっておいて、自分にも未納が発覚してしまって、間抜けなことになってしまった時から、その底の浅いおっちょこちょいさ加減に呆れていたはずだが、たぶん当時とそれほどメンタリティの変わらないその程度の人物が、この国の今の総理大臣であることに関して、やはりそれでもかまわないと思うわけで、日本というへなちょこ国家のへなちょこ総理として、世界に向けて大いにその小者ぶりを発揮してほしいと思うが、何となく憎めないその無能そうな印象は、もはや自民党時代から連綿と続くこの国の伝統となっているのかもしれない。

 しかしなぜこの国の政治家はお笑い芸人のような間抜けな愉快さを身につけているのだろうか。それなりの高学歴を有していて、それなりに頭もいいのかもしれないが、なぜかプレゼンテーション力に欠けている。語っている内容に説得力がなく、それを批判するために待ち構えているメディア関係者を黙らすようなことを主張できない。君はそれでもかまわないと思うわけか。そうであった方が逆に現状を正確に物語っていることになるのかもしれず、政策が決め手を欠いているように思われるのは、本当に決め手がないからなのかもしれない。国会議員もエリート官僚も、誰一人閉塞感を打破して現状を良い方向へ持っていくための処方箋を持ち合わせていないのかもしれず、その代わりにやろうとしていることは、小手先だけの目くらましでしかないのだろうか。まあ時が経てばわかるだろう。時が経ってもわからず、相変わらず閉塞状況が続いているようなら、それはそういうのが普通の状態ということか。君ならそれでもかまわないと思うだろうが、この国の将来を憂うメディア関係者ならそうはいかないだろう。たぶん延々と同じような批判を繰り返しているだけかもしれないが、それとともに何か救世主のような存在の到来を待ちわびていたりするのだろうか。ありふれたことを言うなら、それは現代の坂本龍馬のような存在か。画面の前で笑っていないで、そういうのを真に受けるべきなのか。たぶん例によって誰かが冗談でそんなことを述べているのだろうが、君ならそうは思わないはずか。君としては日本の総理大臣程度は、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎、鳩山由紀夫、菅直人の延長上の、彼らと同じようなへなちょこな資質の持ち主なら誰でもかまわないのではないか。間違っても小泉純一郎のようなハッタリ男はやめてほしいか。威勢のいいハッタリをかますのはメディア受けも良く、国民に人気は出るだろうが、そういう成り行きが鬱陶しいか。


2月2日

 またいつものように問うことから始めなければならない。ところで何かひらめいたのか。余分な言葉が記され、そんなことを思っている現状に逆らいたくなる。何か問われているわけではなく、すべての存在の在り方が問われている。そんなはずがないか。流行り廃りの中で人が消えてゆく。それは当たり前のことだろう。誰も時間と空間を占有できないのだから、一通り自分の考えを主張したら、さっさとそこから退場させられてしまうのは当然の成り行きか。君はそれに興味を持てないらしい。ではそこで何が問われているのか。何を問うことにも至らない。たぶん自分さえ良ければそれでかまわない範囲内で、趣味の話を延々とすることはできそうだが、自己満足以外の何ももたらさないことが気に入らないわけではなく、すでにそんな不満を表明している以上は、何か別の成り行きをもたらさなければ、それはそこで終わってしまうようなことでしかない。別に終わってしまってもそれでかまわないのなら、それはそれで仕方のないことか。人は可能な限りどこからでも利益を得たいのだ。ほんの少しの差異に隙を見つけて、そこをついてくる。死に物狂いなら、なおのことを苛烈な攻撃を加え、何とか相手を倒してそこで生き残ろうとするわけだ。そんな光景をおもしろがりながら眺めているのは誰なのか。それらの生存競争を幻影の中に封じ込めているのがそれだ。君はそこでむごたらしい惨状を見て楽しんでいるわけか。だが見ているだけではつまらないだろうから、一度参加してみたらどうか。そんな冗談をかまして、その場を立ち去ろうとする。

 やはり本気でそう思っているわけではないらしい。今でも何とかしようとしている。それを物語ることによって、何かを明らかにしようとしているわけか。問題を解決するための手がかりでも導きだしたいのか。きっかけをつかんで、そこから抜け出したいのだろうが、過去のこだわっている限り、それは無理なのだろうか。どこかで引きずっているものを断ち切らないと、その先へは進めないのかもしれないが、そう述べていること自体が何を意味するとも思えず、面倒くさいので、それ以上は考えようとせず、そのまま過去を引きずりながら今に至り、それらのどうしようもなさを目の当たりにして、呆れてものもいえなくなる。そんな嘘をつくべきではないか。それとも今は嘘でもかまわないから、それにすがりついてでも、それらのどうしようもない状況から抜け出したいのか。聴いている音楽は無表情だ。何を楽しみにしているわけでもなく、ただそこに立ちすくみ、漠然とした思いにとらわれ、何も手につかなくなるが、おそらくぎりぎりのところで、駆動装置が働き、どこかへあてもなく進んでいってしまうのかもしれない。もはや君には何かを押しとどめる力は残っていないようで、それらの動き出す様を黙って眺めていることしかできず、それを見届けた後、黙ってその場を立ち去り、二度とその姿を見ることはないだろうか。冗談でそんなことを述べてみるが、話の脈絡を見出せないまま、相変わらず何を述べているのかはっきりしないようだ。

 意味もわからずいい加減に言葉を連ねるべきではないか。しかし何がそれを押しとどめようとしているのか。歯止めが見当たらない状況で、何かの幻影から糧を得て、そんなことを語っているのかもしれず、それはいつでもそうなのかもしれないが、それが現状と合っていないようで、齟齬やずれを生じさせ、何となく居心地の悪さを感じるが、その不自然な感覚をさらにゆがめながら、そんなことを語っているのだから、いくらそんなことを問うてみても、何が導きだされるわけでもなく、その辺で何か勘違いがあるのだろう。おもしろおかしいだけでは物足りないわけか。それらを見る限り、それだけではないのは明らかだが、それがメインであることは疑いの余地がなく、そうやって何かを表現しながら、そこから何らかの利益を得たいのだろうし、別にそれを自慢したいわけでもないのだろうが、とりあえずは自己主張の手段として、そんなシステムを利用しながらも、そのことに違和感があるのかもしれない。だがそんなことをいくら述べても、何がどうなるわけでもなく、そういう仕組みを温存させることに貢献しているだけで、要するに君もこちら側の人間であり、反体制派のふりをしながら、そういう体制内でぬくぬく暮らしているわけだ。だがそれをことさら卑下してみても始まらない。世の中には様々な立場があり、たとえ体制批判派であろうと、簡単に体制擁護派と置き換え可能であり、どちらにしてもそういう役割を担っている段階で、すでに体制に取り込まれているのであって、そのすべてを含めたものが体制なのだから、それについてああだこうだ述べているだけでは埒が明かない。


2月1日

 この期に及んで何をやろうとしているのか。別にどの期に及んでいるわけでもない。ただ二月になっただけのことで、どうせひと月経てば三月になるだけか。だから何の話でもなく、この期に及んで命乞いをするようなフィクションの中で、話が進行しているわけでもなさそうだ。相変わらずくだらぬことを語ろうとしているだけか。取り立てて語る内容もなさそうなので、何か幻想を抱くとすれば、それはどんな幻想となるだろうか。この世界が平和的に統一されればいいとでも思っているわけか。経済的軍事的スポーツ的な国家間の争いに、誰かがうんざりしていたりするのだろうか。それもひとつのフィクションに過ぎず、そこで繰らす人々は暇つぶしのゲームを楽しみたいのかもしれない。そんなふうにして幻想に浸りたい。要するにテレビを見ているだけか。あるいはブログとかツイッターに書き込んでいるのだろうか。それにも流行り廃りがありそうで、流行りのアイテムを使って、他の誰かとネット上で交流したいわけか。何を否定しているわけでもない。まだ何も語っておらず、これから何か利いた風なことを語るつもりでいるらしいが、そんなふうにして語るのは無理だろう。何も語りださないうちから無理だと決めつけている。ならば後は沈黙するしかないか。語らなくても言葉を記すことはできる。そしてそれがおかしいのだ。君は何も語れないのに、君ではない誰かが言葉を記して文章を構成しようとしている。そんな嘘をつくべきではないか。それの何が見え透いているのだろうか。おおよそ冗談のたぐいに違いない。だからそれがおかしいと思われるのではないか。だが君にとってはどうでもいいことだ。

 無理ならやめたらいい。実際にやめているのではないか。誰かが言葉を記すのをやめている。では他の誰かが言葉を記しているわけか。そうかもしれないし、そうではないかもしれず、そんなことはどうでもいいのかもしれない。それはわかりきったことではないのか。しかしそれらの何が気に食わないのか。君には語るべき内容がない。それもわかりきったことだ。だから眠たくなってしまうのか。それは疲れているだけか。疲れているからそんなことを記しているのではないか。それが理由では都合が悪いのか。たぶんそうであってもかまわないのだろうが、本来ならそこで理由を探るような文脈ではないはずか。それでかまわないとはいわせない。なぜいわせないのか。理由が見当たらなければ問う必要はない。そんな理由では困ってしまうだろうか。では何がそれの理由となるのだろうか。何でもかんでも理由があるとは限らないだろうが、そんなふうに語ると字数稼ぎにでもなるのだろうか。たぶんその辺もどうでもいいことであり、相変わらず何について語っているのではないらしい。外は暗闇だ。心の奥底にも闇があるらしい。関係ないだろう。たわいないことにこだわり、そこに理由を当てはめようとして、そうではないことに気づき、当てが外れてどうにもならなくなる。そんなふうに語ってはまずいのだろう。そこから外れようとすればいくらでも外れられそうだが、外れてどうするのか。だから当てが外れているわけか。

 だからたわいないことを述べながらも、そこから外れようとしている。何かがそこで矛盾してしまっているのだろうか。気にする必要のないことを気にして、誰かがどこかで墓穴でも掘っているわけか。そんなふうに語っていること自体が失敗の典型か。どうもその辺から何を語っているのかわからなくなりつつあり、その内容はどうでもいいことのたぐいでしかないのだろうが、なぜかそれにこだわり、つまらぬことにこだわっている自らを正当化する試みに同意したくなり、さらに何かの深みにはまってしまうのかもしれず、それが現状を言い表しているとは思えないが、そのままで終わりたくないことだけは確かなようで、焦りながらも必死になって他の話題を思いつこうとしているらしい。だからそれが無理だと述べているのではないか。すでに空疎な内容で語りすぎていて、後から何を付け足すこともできず、結局はそのままの内容で終わりまで行くしか選択肢がなさそうだ。それは何かの冗談か。たぶんそうだ。そうに違いない。無理に後から言葉を付け足そうとすれば、蛇足になるしかなく、そうなれば君の狙い通りの駄文となる。誰がそれを狙っているとも思えないが、ここではだいぶ前から駄文だらけで、もうそれになれきっているのではないか。だから記されているのが駄文だろうと何だろうと、誰も気にもとめず、そういうことが記されている文章を黙って眺めているだけかもしれないが、君はそれを真に受けることができず、いつまで経っても勘違いしている。