彼の声82

2011年

1月31日

 それで困難を回避したつもりになっている。ようは気の持ちようか。そういうことではないが、嘘も方便のたぐいに落ち着くかもしれず、結果的には何とかなっているのかもしれない。しかしこの肩こりは尋常ではない。ガタがきているのかもしれない。そんなふうに語るのはおかしいか。それはわかっていることだ。わざとそうせざるを得ない状況か。そういうわけではないだろう。何かを考えようとすればそうなってしまうのであり、何も考えなければそれで済んでしまい、結局は何もやりようがない。そういうことなのだろうか。別にそうでなくてもかまわないのではないか。ならばそうでない可能性を探ればいいではないか。そんなことをいくら述べたところで、そうなってしまう原因はわからないままだ。ではこの先どうすればいいのだろうか。先がなければ何もやらなくてもいいのではないか。しかしなぜそんな消極的なことを思いつくのか。もうすでに何かをやっている最中だろう。それをあえて無視する必要があるだろうか。ただ言葉を記していて、それだけのことで心が動揺するはずがなく、必死さに欠け、何となくだらけた印象を抱いているだけではないのか。そして何の前触れも感知できず、突然の出来事に驚くばかりで、十分な備えもない現状では、なす術もなく被害を被り、何もかもを失って、茫然自失のまま、現地で途方に暮れているわけか。だがそれは何の話なのだろう。テレビのドキュメンタリー番組で、そんな状況が映し出されていたりするのだろうか。だが世界のどこかで誰がどうなろうと、君の知ったことではないか。

 まだそれについてどんな見解が示されているわけではない。とりあえずは何とかしようとしているらしく、今もその最中なのだろうが、何をどうしたいとも思わないというのは嘘らしい。いつ何時でも機会をうかがい、隙あらばそこから利益を出そうとしているわけか。だからそんなことは君とは無関係で、知ったことではないと思っている。君はそういう認識から外へ出られず、いつも固定観念で心を武装し、基本的には聞く耳を持たないらしく、そういうふりをしながらも、絶えず自らを利するように立ち回り、その辺の感覚を研ぎすましているつもりになり、人知れず努力しているらしい。それは誰かの冗談だろうか。なぜ他人の努力を笑うのか。そんなことをやっても無駄で無意味だと諭したいのか。そうならそうで、他にもやりようがありそうだが、何かに固執していることは見え見えで、何とかそういう方面で他の人たちを巻き込んで、自分がそこで一番となりたいのだろう。だから冗談も休み休みにしてほしいか。だいいち何を述べているのか不明のままだ。その辺がおかしく思われ、ぎこちない話の展開にさせている。たぶん語る対象が定まっていないのが不自然な印象を与えていて、そんなものなどありはしないのは一目瞭然の感があり、だからそんなことをいくら語ったところで、意味不明でどうでもいいように思われ、まともに受け取られることを放棄している。しかし誰がそれを望んだのか。

 誰も何も望まず、何の展望もないまま、それらは惰性で続けられ、興味も関心も持たれないことを利用して、好き勝手に語っているつもりのようだが、たぶんそれは思い違いなのだろう。君はどこまでもそれを続けるつもりらしいが、すでに先が見えている。もう長くは持たないだろう。そんなことをやっているうちに、やがて飽きてきて、無駄な努力を放棄しなければならない時がやってきて、そこで悔やんでも悔やみきれない気持ちになり、絶望の果てに架空の登場人物はどうなってしまうのだろうか。だがそれはフィクションではなく、現実に招いている状況か。それはある部分ではどうにかなっているのだろうが、そのどうにかなりようが不満で、もっと何か晴れ晴れした気持ちになりたいのに、相変わらず中途半端な暗さのままにとどまり、どんよりした梅雨時の曇り空のように鬱陶しく思われ、気が滅入ってしまいがちだが、そんな作り話をもってしてもリアリティを獲得できず、何がそこでのリアリティなのか不明のまま、さらに言葉を連ねれば、たぶん何もどうにもならずに、そのままの鬱陶しさが繰り返され、ますます気が滅入り、誰かが神経衰弱となってしまい、そんな嘘を差し挟みながらも、なんとかかんとかそんな体裁を整えているようで、それで何がどうしたわけでもないだろうが、とりあえずの結果がそうなっているのであり、君はそれについて何を思うこともなく、ひたすら作業をこなしながら、その場に漂う虚無的な雰囲気を楽しんでいるのかもしれない。果たしてそれでいいのだろうか。いいわけはないだろうが、現状ではそれが限界なのだろう。


1月30日

 少し正気を取り戻しつつあるようで、今日はまともなことを語ろうとしているらしい。しかし何がまともなことなのか。現状に対する率直な感想ならいつでも語ってきたはずか。たぶんそれは嘘でも何でもない。どうにもならないようなことか。何とかしなければならないのだろうが、これがどうにもならないということか。苦境に喘いでいるわけか。順風満帆でいたいわけか。ある意味では今がそうなのかもしれないが、これが気に入らないわけか。それを何とかしたいわけだろう。だから何とかしようとしているではないか。そんな現状を受け入れようとしている。受け入れがたい現状だが、どうしようもないのだろう。受け入れなければストレスで早死にしてしまうか。だからそういうところが冗談なのか。何をどう考えてみてもやりきれないことばかりで、それをやり遂げようとしているのだから、馬鹿げた現状と思われる。それでも実際にやっているではないか。こうして言葉を記して、無理を承知で現実と折り合いを付けようとしている。それが無理なのだろう。まったくの堂々巡りで、それを繰り返す度に疲労が蓄積していき、変調を来している。それでも何とかしようとしているのだろう。そういうのがまさに堂々巡りなのではないか。現状がわかっているではないか。わかっているからこそ嫌になってしまうのではないか。だからわざと勘違いしようとして、何かうまくいっているような錯覚に浸り、それでごまかそうとしているのではないか。

 悪あがきには違いない。たぶんそうには違いないが、それをやらずして正気を保てるだろうか。だからひたすらそれの繰り返しとなっているのだろう。君は我慢し過ぎて胃潰瘍にでもなろうとしているのか。そうならないように胃薬を飲んでいるのか。それも小手先のごまかしの一環か。そうには違いないが、無意識のうちに食べ過ぎてしまうので、そうならざるを得ず、胃の痛みと膝の痛みをこらえているわけか。馬鹿げているだろうか。たぶんそうに違いなく、フィクションの中で生きているわけではないことを実感させるか。それも嘘の類だが、それでも何らかの危機感と浅く戯れ合い、そこから言葉を引き出し、それを並べてもっともらしい文章を構成しているのかもしれないが、何となくそれは見え透いているように思われ、虎穴に入って虎児を得るようなことをしなければと思う一方で、今ひとつ本気にはなれず、そういう水準で生きていく勇気もなく、今一歩のところでくだらぬ冗談に逃げ、すべてを台無しにしているような気もしてきて、正気でいるためにはそれでかまわないと思い込もうとしているわけか。どうでもいいことだろうか。たぶんそうやって何とかここまでやってきたのだろう。そしてそんなことを述べながらも、次第に胃薬が効いてきて痛みが一時的になくなり、また膝の痛みを緩和するコンドロイチンでも試してみようかと思うが、気が向いたら薬局にでも足を運んでみよう。それも何かの冗談なのか。

 そう述べて何とかなったような気になり、それらの原因を取り除く勇気もなく、それらとともに暮らしているだけの現状に嫌気がさしながらも、半ばあきらめの境地になったような気で入るわけだが、絶えず抜け出す機会をうかがっているような幻想を抱いているわけで、そう思い込むことで耐えているわけか。それを覆すような出来事が起こることを期待しているのではないか。要するにテレビドラマのような運命に翻弄され、気がついてみたら自らを取り巻く環境が一新されていて、何だか爽快な気分にたどり着きたいのだろうか。そういうくだらぬ都合を聞き入れてくれるような現状ではないだろう。そんな厳しい現状から目を背けるために、そんな幻想を絶えず抱き続け、一時的な現実逃避のための妄想とともに、気休めを追い求め、それが気休めでしかないことにがっかりして、そんなことはわかりきっているのに、なおもそういう試みを繰り返し、次第に焦燥感にとらわれ、どこかへ行ってしまいたい気持ちを必死に押さえ込み、なんかそこに踏みとどまっているのではないか。そうだとしてもなおのことそこから離れていってしまいたくなり、何か上の空のような気分でその場を行ったり来たりしながらも、ふとそんな心を浮遊させながらも何とかやっている自らに気づき、それでかまわないと思いつつ、現実に引き戻されていることを残念がっているのではないか。何だかそれは冗談ではないような気がしているのかもしれないが、たぶん本気でないことが、かろうじてそんな語りを可能としているのだろう。


1月29日

 話がわざとらしく横道に逸れている。階段を踏み外したのか。どこかで躓いて転んだわけでもないだろう。では何か嘘でもついているわけか。そうとも思えない。何とも思えず、何ももたらせないと思う。膝が痛くなり、何となく不安になるが、今日は昼休みを取っていなかったので、無理が祟ったのだろう。しかし今日といっても二日後のことか。その辺がややこしいが、単なる日付の問題に過ぎず、どうでもいいことでしかない。日付がどうであろうと今日は今日であり、おかしいことに変わりはない。では何がおかしいのか。それがわからなければおかしいと思ったことすら嘘になってしまう。たぶんそういう語り方がおかしいのだろう。まったく気が入っていないようで。そんな言葉遊びではなく、具体的に何を語ろうとしているのかわからない。そして何を踏み外しているわけでもなく、至って正気なのだ。しかし何が不満なのか。どこかで大地が溶けかかっている。大昔の珊瑚礁が隆起した地形で、地下に鍾乳洞でもあるのではないか。だが不満の原因がそんなところにあるとは思えない。ただおかしなことを述べているだけではだめなのか。わかりきったことを今さら問わないでほしい。君はすでにそれを知っているはずだ。知っているから余裕こいて、そんなことを延々と述べているのか。何を述べているのかわからない。語っている内容と述べていることが違うのではないか。ますますわけがわからないか。深夜にサッカーの試合を熱狂しながら見ていたりするわけではない。だからそれだけではないはずだ。

 何かがおかしいことはわかっている。ただそれに興味がないだけか。あえて語るほどのことではないらしい。何も思いつかなければ、そうやって言葉を連ねていくわけか。どうやっているわけでもないのに、そうなってしまうようだ。だからやはりおかしいのか。どうしてもそれを語ることができない。何をどう語ればいいのかわからないだけなのに、それだけだからこそわけがわからなくなり、やはりそれが語れなくなる。それとは何だろう。何でもないからそれなのか。そうではないと思うが、それはそれではないらしい。だからそういう語り方がまずいのだろう。何も語れないことをごまかすわけにはいかず、苦し紛れに横を向いても、闇が見えるだけか。どう考えてもそれ以上のことは語れない。だからそうやって延々と同じことの繰り返しを演じようとしているわけか。無理がある。風邪気味かと思っていたら、花粉症の前兆かもしれず、症状が悪化してみないことには、どちらかわからない。また関係のないことを述べようとしている。商品を買いたければ、さっさと買えばよかったのだ。迷っている間にその機会を逃してしまい、しばらくは手に入れる機会がないままか。どうせ無駄な物だから、買わなくてよかったのか。買ってしまってからそう思うのは辛いことか。また買うのを逃してからそう思うのはありがちなことか。だがそれで苦しんでいるわけでもないだろう。そんなどうでもいいことを語ってしまうのが心苦しいのか。

 それでも何とかしようとして、ここまでやってきた。結果としては何ともなっていないようだ。そう思うならそれでかまわない。誰がかまうわけもなく、何か利いた風なことを述べているわけでもなく、それ以上でも以下でもないくだらない雰囲気のただ中で、黙って言葉を記している。音楽を聴いているのだろう。なぜ機会を逃してしらけているのか。そういう話ではないからか。意味がわからず下を向いている。やはり話になっていないようで、ただ言葉を連ねれば話になるわけではないことを思い知る。そんなことはわかりきったことだろう。そうしないとその先に言葉が連ならないのだ。それもわかりきったことで、その辺に矛盾を感じているのもわかりきったことか。どう語ってもそうなってしまい、だからこれ以上語るのは無理だと述べているではないか。そして無理だからこそ語っているわけか。だいぶ無理しているので体調が優れない。何か知らないうちに病を患っているのかもしれず、ひょっとするとそろそろあの世へ旅立ってしまうような気もするが、そうだとしてもやめるわけにはいかないのか。また冗談でそんなことを述べているようだ。もちろんここでやめたら長生きができるという保証はない。どちらにしろ早死にしてしまうのではないか。そんなことを述べながらも、二百歳くらいまで生きていたら笑ってしまうか。それはあり得ないことだが、冗談にもほどがあるようなことしか述べられず、そんなどうでもいいことを述べながらもうとうとしてきたので、その辺でやめた方がいいのだろう。


1月28日

 横道に逸れてもつまらなくなるだけか。まだその続きがあるのだろうか。何が続いているのかわからない。きっと何も続いていないのだろう。何かが中断して他の何かが切断される。それでは何を述べているのかわからないか。わからなくてもかまわないだろう。どうせ大したことではない。何を卑下しているのか。そんなことを過去にも語ろうとしたことがありそうだ。君は何を馬鹿にしているのか。馬鹿にされるようなことを語っているのではないか。そうかもしれないが、それでもかまわないだろう。他に何もなく、腕が鈍る。そんな水準には達していないらしく、客観的に思えばそういうことだ。しかしそれの何が客観的なのか。君が語っている内容は間違っている。そう思いたいのなら思っていればいいが、他の人たちには何のことやらわからないだけか。何も語っていないようで、誰も何も語っていない。だがそんなこともかつて記したような気がする。確かにそれらは意味のない記述に違いないが、そんなことを記すのには何か必然性がありそうで、他に何も思いつかないからそうなってしまうのだろうか。たぶんそうだ。ではそれの何がおかしいのか。すべてがおかしいか。特にくだらないことを述べているのが救いようがないか。誰が救われなくてもかまわない。人を救う対象が思い浮かばず、それが神でないことははっきりしているつもりだが、そんな嘘をついてみたところで意味不明でしかないことはわかりきっている。

 どうも今回も無駄に言葉を連ねるだけで終わってしまいそうだ。しかし何に見とれているのか。ただの腕時計ではないか。買いたいのだろうか。超レアなものほどほしがるのが馬鹿げた虚栄心のなせる業か。それでかまわないのかもしれない。買えるなら買っておいた方がいいが、別に買わなくてもかまわない。その時の気分次第で、どちらでもいいのではないか。そんなことを述べておいてどうせ買わないつもりなのだろう。たぶんそうに違いない。要するにたかが知れているわけで、相対的にはどんな商品でもかまわないわけだ。その辺がいい加減な感性の持ち主らしく、買おうと思った時に買わないと、すぐにどうでもよくなってしまい、面倒くさく思う何かが購買意欲を押さえ込んで、買わなくても間に合わせてしまう。結果的に何が間に合っているわけでもないのに、とりあえずそういうことで、どういうことでもないのにそうなってしまい、わけがわからないまま、さらに時が経ち、何を買おうとしていたのか忘れたふりをしながら、本当に忘れている場合もあるだろうが、別に思い出してもかまわないか。くだらぬことを思い出す反面、肝心なことは思い出せない。何を思い出そうとしていたのかも忘れ、やはりそんなことはどうでもいいと思ってしまい、粘る必要を見出せず、そこで眠ってしまいそうになるが、かろうじてこらえることができるのか。

 やめた方がいいだろう。何を語ろうとしてもくだらなく思えて、自己嫌悪に陥るだけか。だからそれがおもしろくなるのではないか。無理強いしてもつまらないものはつまらないか。そしてそんな語り方だからくだらなく思えてくるわけか。相変わらず冗談なのかもしれず、その辺でおかしくなっているのだろうが、それにしても語っている内容が他人事でしかなく、困難に直面しているのに、まったく身にしみていないようだ。そのことについて誰かが反省でもしているのだろうか。何を省みているわけでもなく、ただ闇雲に言葉を記しながら、行き当たりばったりでいい加減なことを述べているだけか。そういうやり方にも限界があり、すでに何も語れなくなっているはずか。自己言及以外に何があるというのか。目の前にあった何かがすでに一掃され、記すべき言葉さえなくなっているはずだ。だからその先には何もなく、あるのは虚無的で空疎な言葉の連なりだけか。そんなこともすでに述べていたはずだ。では同じことが延々と繰り返されるのみか。そういうマンネリ状況から抜け出すためにはどうしたらいいのだろうか。画面の前で笑っている場合ではないか。本気になれないことが致命的かもしれない。そしてすぐにどうでもいいような気になって、それらの続きをいい加減に取り繕い、後は知らんぷりか。そういうことの積み重ねが今の状況を招いていることは百も承知だろうが、そうする以外には語りようのないことを語っているわけで、それができなくなればやめるしかないだろう。ならばやめてしまえばいい。どうせ本気ではないのだから。


1月27日

 どうやら変革は避けられないようだが、そういう成り行きはあらかじめ予想の範囲内でお見通しか。いったい何を予想していたのか。もうすでにそういう成り行きになっているではないか。また何を語っているのかわからなくなり、その辺がうやむやのまま、さらに言葉を記そうとしている。なぜかまともに語れなくなってしまったらしい。今に始まったことではない。それにまた遅れてしまったらしく、今月は遅れを取り戻すことが困難になりつつある。きっと無理なのだろう。深夜に目覚めたところでやりようがなく、何をどう語ったらいいのかわからない。要するにそれはいつものことなのだ。人は自分のことしか考えておらず、政治家たちは自国の利益しか考えられず、それは政治家を批判しがちなメディア関係者にも当てはまり、世界全体としてどうあるべきかなんて眼中にはないらしい。要するにいつまで経っても国家間の経済軍事競争に明け暮れたいのであって、財政赤字などの問題を国内で解決できると思っている。果たして本当にそれができるのだろうか。この世界の中で国家を存在させること自体がもはや無理になりつつあるのではないか。だからそれぞれの国家が、互いに経済的あるいは軍事的に連携しなければならないことは、わかっているのだろうが、それはあくまでも国家という枠組みを維持した上でのことで、その枠組みを取っ払ってしまうことまでは踏み込めないでいる。現時点ではそんなことなどできるわけがないか。

 だから君はもっと地に足をつけて、現状に即して考えるべきであり、現状では国家をなくすことなどできはしないことはふまえながらも、妥協的あるいは折衷的な案を提示すべきではないのか。やはりそれは冗談だったのか。それはわかりきったことだが、ここで何かを主張しようとすると、必ずそういう不具合に突き当たってしまうらしく、何か国家の存在が諸悪の根源のような論調にはまりながらも、すぐに荒唐無稽な冗談を述べようとしてしまうわけだ。それはかなり馬鹿げているだろうか。君はその馬鹿げた冗談を述べてみたいだけなのか。たぶんウケ狙いなのだろうが、それは誰にとっても受け入れがたい内容になってしまう。ではその内容とはいかなるものなのか。そんなものなどあるわけがなく、本当は何も思いついていないのだろう。何だかその辺で腰砕けとなっているらしい。誰かは勇ましいことを語るのが嫌いなのか。好き嫌いの問題ではなく、だからその勇ましい主張とは何なのか。それがわからなければその先に話が進展しないだろう。たぶん君はそれでかまわないのだろう。それはどういうことなのか。本気になれないだけか。それが理由とはなりがたく、また何を述べようとしていたのかわからなくなってしまったらしく、それからしばらくして、そんなことはどうでもよくなってしまうようだ。君にとって国家がどうであろうと、そんなことは切実な問題ではないのではないか。

 どうせ国会が始まれば、与野党の議員たちが互いに罵声を浴びせ合い、いつまで経ってもけんか腰のパフォーマンスを繰り広げ、何を審議しているのかよくわからない事態となって、きっと君はそんなニュースを見ながら何を思うわけでもなく、国会を開くこと自体が税金の無駄遣いような気がするだけで、当然のごとく彼らが主張していることに賛同することもなく、どうでもいいと思いながら、無関心を装うしかないようで、それでも税金を取られている現状に腹立たしさを覚えて、それは公務員全体にいえることかもしれないが、税金をとって、その上国債などで借金までして、いったい彼らは何をやっているのだろうか。要するに彼らの仕事は、税金を取り立てて、そこから自分たちの給料をひねり出すことがメインなのか。そして人件費以外には何があるのかといえば、そういう官僚機構の維持経費だけか。しかしそれで税金を取られている側にはどんな見返りがもたらされているのか。どうやら君は冗談でそんなことを述べているだけのようだ。本当はそれ以外も知っているのだろうが、あえていわずに、何かを糾弾しているふうを装いながらも、本気でそうしているとも思えず、どうせ何かの付け焼き程度の知識を援用しながら、それらしいことを述べているつもりなのだろうが、まったくまともに語っている気がしない。語る以前にあきらめてしまっているのではないか。それについてどう考えても馬鹿げているように思われて仕方がないようで、今のところはそれを改めるための要素が見当たらないらしい。


1月26日

 急須でコーヒーを濾したのを飲んだら、頭がクラクラする。少し濃すぎたのだろうか。そんなわけでまた何かを記しているようだが、テレビなど見ている場合ではない。しかしなぜここから離れられないのか。それは今日が昨日だからか。理由になっていないようで、そう語ることについてはあまり合理的な理由もなさそうだ。どうもそれに対する有効な対策を講じられないようで、何かなし崩し的にくだらないことを述べてしまう。なぜそうなってしまうのだろうか。何をどう述べようとしても、どうしてもそう思ってしまうのなら、それはそれで自然の成り行きであって、無理にそれを改めようとすれば、かえって状態が悪化してしまうのではないか。そう思うならそれはその辺でやめておくべきではないのか。しかしそれとは何だろう。言葉を記していることに違いないが、今さらやめられるわけがないか。そう思うならそれを続ければいい。だがそんなことを語りたいわけではない。では語りたくないこと延々と語っているわけか。記しているのはくだらない内容で、自己嫌悪に陥るような記述を繰り返し、ますます自ら墓穴を掘っているような成り行きにはまりつつある。そしてそんな状況を眺めながら笑っているわけか。誰が笑っているのだろう。それは君に違いないが、君が誰なのかわかるはずがなく、そんなことを記している誰かもそれを知り得ない。それでかまわないのではなかったか。たぶんそうだ。

 人がある認識に達したとき、そこから視界が開け、感知している世界が一変したりすることがあるのだろうか。そうなったらおもしろい。何かの物語みたいで清々しい気分になったりするのか。だからそうなったらおもしろいと述べているではないか。ではそれは何かの冗談なのか。どうにもならずにおもしろくもない。それが現実だ。君はそんな現実を認めたくないから、どうにかしようとしているのだろう。そしてどうにもできずにあきらめかけている。どうやらまたそんなことが繰り返されているらしく、ひたすら無駄なことを語ろうとしている。だからそれが現実であり、君の限界なのだ。しかしそれで君は納得するのか。納得できないから語ろうとしているのではないか。そしてさらに無駄に言葉を記し、以前と同じような過ちを繰り返す。それでかまわないのだろう。何かを語るとはそういうことなのか。そう述べて何を納得しているのか。納得しがたいが、そう述べざるを得ず、そんなふうにして君は何もない現実に引き戻され、仕方なくそこに居座り続け、やがて眠ってしまう。だがそんなのは話でも何でもないだろう。その辺の事情はわかりすぎるくらいにわかっているのではないか。たぶん毎日が戦いなのだ。何とかして工夫を凝らし、かろうじて窮地を脱して一息つくが、すぐさま別の不具合が生じてしまい、今度はその対策にあたらなければならず、めまぐるしく状況が変わり、その都度やり方を変更して、何とかここまでやってきたらしいが、それがどうしたのだろうか。今までやってきたすべてが水泡に帰すような成り行きを期待しているのか。なぜそう思うのだろう。

 それで何かを述べている気になってはならない。まだ具体的には何も述べていないではないか。それでかまわないのではなかったか。そうかも知れない。君は現実の中で何かを考え続け、絶えず新たなやり方を模索しているはずだ。要するに立ち止まること許されず、袋小路で立ち往生している時でも、そこで活路を見出そうとしていたはずだ。幻想を抱いているわけではない。そこにあるのは現実だけで、その現実に順応しているだけではだめで、こちらから何か働きかけなければ、どんどん停滞へと追い込まれる。それが嫌だからそんなことを語っているわけか。実態としては何も語ってない。それでかまわないのだろう。かまわないはずがないか。今はそうかもしれないが、いつでもそうなってしまってはまずいのだろう。だから何とかしなければと思いながらも、そんな状況にはまっていて、そのままでここまできてしまったらしく、今は焦っているのだろうか。だが今さら焦ったところでどうしようもなく、すでにそれらの文章も終わり際だ。結局何も語らずに言葉を連ねて終わってしまうわけか。それでかまわないと思いたいが、何か引っかかるものを感じて、そこから軌道修正を試みながらも、それができないままこうなって、それがどうしたわけでもないと思いつつも、焦れったくも歯がゆい感覚になり、どうあっても何ともしがたいようだ。そう述べながらも延々と無駄に言葉を費やして、何となく虚しく思われるようだが、やはりそれでかまわないのか。君がそう思うならそういうことだ。


1月25日

 それらの何が限界を超えているのか。ありふれた毎日の中で感性が摩耗して何も感じなくなり、無気力無感動に拍車がかかり、それから誰かはどうなったのだろうか。もうそれからがないのかもしれず、そこで終わっているのかもしれないが、当人にしてみれば、何が終わったのかわからないままだ。未だにそうなのかもしれず、今も必死になって言葉を記す毎日なのかもしれないが、果たしてそれによって何がもたらされたのだろう。世間の話題に関心がなくなり、興味を持てなくなっただけか。この世界にはいくらでも人がいて、そこで何が行われようと、そういうことの範囲内で人たちが何かやっているに過ぎず、それ以上でも以下でもないことに幻想を抱いて、当人たちが何かやっていると実感する。まぶたの裏側でそんな光景を再現しようとしているわけか。単に目を閉じている。おそらく眠たいのだろう。コーヒーを飲むのを忘れてしまったらしい。そして言葉を記す気がなくなり、そこでやめてしまうのだろうか。意識がそこへ向いてこない。何を語ってもそうならないだろう。では改めて何を語るつもりなのか。悪あがきばかり繰り返しているうちに、どこかに置き去りにされているような気になり、焦っているようだが、どうにもならず、もはや手遅れだと思うしかないようで、何かを完全にあきらめてしまうらしい。だがそういう話がどこで語られているのだろうか。今さら何をやってみてもどうということはない。

 それはわかっているようだが、未だに足下がおぼつかないのはどうしたわけだろう。君に何ができるわけでもない。誰に邪魔されているとも思えず、すべてが自然の成り行きだと確信して、それに関しては運命だとあきらめるつもりなのか。しかしそこで誰が語っているのだろうか。君の知ったことではないのかもしれない。それでも気晴らしにはなったのではないか。そう語るならそういうことになりそうで、どう語ってもそう語っていることにしかならない。そしてあるとき誰かがいなくなってしまったことに気づき、その生死が定かでないことにさして驚きもせず、何の変哲もない日々を淡々と過ごしながら、相変わらず身の回りで多くの人がうごめいていることを感じ、どこの誰がいなくなったとしても、何が変わるわけでもないことを実感する。たぶん誰の境遇も似たようなものに過ぎず、何がうらやましいとも悲惨とも思わず、そこからどのような結論を導きだそうとしているわけでもないが、あまり本気になれないのは相変わらずで、たぶん平和な環境の中で暮らしていると、それが当たり前のように思われるだけなのかもしれず、戦争や自然災害で傷つき命を落とす危険に常時さらされながら生きている人々とは、その辺に認識の違いがあるのだろうが、平和ボケにもそれなりの苦労がつきまとっていることだけは確かなようで、人は何かの束縛を解かれて自由を与えられると、とたんに生きる気力をなくしてしまうのかもしれない。

 そういうところで、例えば悲惨な戦争や災害を体験し、災禍の中をかろうじて生き抜いて、その悲惨さを後世に語り継ごうしている人々は、何か大きな勘違いをしているのかもしれない。人身事故によって電車が遅れて、コーヒーを飲む余裕ができて、目が覚めたような気になるが、誰かが飛び込み自殺でもやったのだろうか。面倒くさいので熊谷から新幹線に乗って先を急ぐが、新幹線のホームで、熊谷からは富士山が見えないことに気づく。雲が出ているからかもしれないが、それがどうしたわけでもなく、人はどんな状況でも生きていたり死んでいたりしているわけで、どのような状況下で暮らすのがいいわけでもなく、ただそんなふうに生きているだけなのだろう。そしてすぐに夢を叶えるために努力するとかなるのだろうが、まあがんばりたい人はがんばってもらうしかなく、それの何を鬱陶しく感じているわけでもないが、生き甲斐という無い物ねだりの幻想を抱えながらも、そう思い込むために必死で生きていくには、それなりの努力が必要なのだろう。それの何が間違っているのだろうか。君がそう述べてしまうと、どこか間違っているように思われるだけで、本当は人として正しい行いをやっているはずで、そのことについて何ら省みる必要はなく、その辺で皮肉混じりの曲解を披露したげな誰かの方が間違っていることは明白で、たぶん多くの人が正しい行いをすることで社会は成り立っているのだろうし、今後もそんな世の中が続いてゆくのだろう。


1月24日

 たぶん何もない。夜になってテレビを見ながらそう思う。そこには空洞以外の何もない。そういう思い込みをフィクションの中でしているわけか。どちらも嘘だろう。何が嘘でもなく、君が嘘をついているわけでもない。そういうのが嘘なのか。くだらぬことを述べているようだ。結果は自ずから出てくる。それが認められないのか。たぶん違うのではないか。もう一日が経ち、今は翌日の夜だ。少し風邪気味だが、これが新型インフルエンザなら、肺炎になって死んでしまうだろうか。そうなったらおもしろいか。君はそんなふうにして永眠してしまうのだろうか。では死ぬ前に言葉を記すことにしよう。人が死ぬことに何の価値も見出せないが、それは何らかの損失となるのだろうか。君にとってはどうでもいいことで、いつものように冗談のたぐいとして受け流すことにしよう。本当は何が冗談なのでもなく、そんなことを思っていること自体が冗談なのかもしれないが、それを真に受けるわけにはいかないようで、たとえ本人が死んでしまっても、それがどうしたわけでもないと思っているだけかもしれない。だからそれが冗談なのではないか。そう述べて何を蒸し返しているのだろうか。たぶんそうではなく、何がそうなのでもない。本当は何も述べていないのだろう。耳の奥がかゆい。そしてそれから話はどうなったのか。いつもの調子でそれとは関係のないことを語っていて、そして意識はそこから遠ざかってしまうのだろう。

 それでかまわないのか。かまわないも何も、何がどうなっているわけではなく、そこで何が語られているとも思えず、他の誰が政治の話題で世間話をしているわけでもない。いったいそこでは何がどうなっているのか。いつもの通りであり、誰かが右往左往しているようで、それがどのような結果をもたらしているわけでもなく、政治家たちの努力が水泡に帰そうとも、どこかの国で市民革命が起ころうとも、それについてどのような見解が導きだされるわけでもなく、この世は相変わらずどうにもならないことばかりなのか。誰がどんな影響を及ぼしているわけでもなく、どこの国がどうなろうと、どこかの政治家が最小不幸社会を目指そうと、心はいつも何も思わず、至って上の空なのか。それはガソリンの価格がいくら上昇しても何とも思わないのと同じことか。それは違うだろう。危機感が感じられず、身にしみて何も思えない。他人事であることは確実で、君は何も思わず、ただ音楽を聴いているだけか。関心がないのだろうか。そんなことを語るべきではないのかもしれない。関心を持てないのだから、それはそれでそういうことでしかない。あきらめと失望が交差して、そこに誰の意識があるわけではなく、本当はどうでもいいことなのに、要らぬおせっかいをするどころではなく、オオカミ少年的な詐欺に感心しているわけでもなく、何についてコメントしたいわけでもなく、ニュースを聞き流して、テレビゲームに興じているわけでもない。

 すべてに関心が希薄なのは今に始まったわけではない。どこかで誰かが反米武装戦線を立ち上げようとしているわけではなく、アルカイダへ入隊したいわけでもなく、いつものようにしらけた調子で、テレビのバラエティ番組を眺めながら、お笑い芸人たちのおもしろトークに笑い、空っぽの頭に響く言葉に耳を傾け、そこからくだらぬ文章を導きだそうとするが、結局はそれにも飽きて、窓の外の闇の中に誰かの幻影を見つけ、恐れおののくどころか、無表情のまま黙っているだけか。そんな作り話はつまらなそうだ。だいいち話にならないうちから否定されてしまうのでは、もはや何を語っても無駄ではないのか。そう思うならそこでやめてしまえばいいだろう。たぶんそれがそこでの決まり文句であり、そこから先には何の話もありはせず、誰かが記す言葉も空疎なまま、どんな内容も得ることはない。ではそこから君はどうなってしまうのか。君という言葉が記されることは金輪際あり得ないのだろうか。そんな嘘をついてみたところで、何がどうなるわけでもなく、誰かはしらけたまま、自らが通り過ぎてしまった場所を思い起こすこともなく、懐かしくも何ともない故郷とは無縁の荒野を空想するばかりか。人は荒野で生まれ、そんなはずがないと思いながらも、そんな幻想から離れられず、何としても安住の地に入ることを拒絶して、どこか得体の知れぬ地帯をさまよい歩いているふりをしつつ、結局はありふれた街角で敷石に躓いている。


1月23日

 また夜になる。今日はだめかもしれない。だめだとわかっていても語ろうとするわけか。もうその時点でだめだ。そう思うと、何も語る気がしなくなり、それ以降はどう対処する気なのか。今からそれを語りだす。無理だろう。肩こりがひどい。おかしな気分だ。そう述べている。文が短すぎるだろうか。君はそうなることを知っていたはずか。事前に何を知り得るのか。何が起こったわけではない。何も起こらなかったから、そんなことを述べているのではないか。だからどうしたというのか。さすらう心はフィクションの中で生じ、そんな歌を歌っている誰かにしても、何を信じているわけでもない。実際には何も生じていない。漫画の中で誰かが叫んでいるようだが、それがどうしたわけでもなく、本は閉じられ、すぐにその内容は忘れられ、気がつけばかなりの歳月が経過している。いったい何を忘れていたのか。膝と肩の痛みが思い出させてくれるわけではない。単なる労働でしかなく、昼間は働いていたのだった。思い出すべき内容ではないらしい。心はすでにそこから外れ、また別のことを思い、それについて考えている最中かもしれないが、それが何だかわからないわけではなく、誰がそれを取り逃がしているわけでもない。そうやって次第に言葉が積み重なっていくわけだ。その連なりを後から読み返そうとは思わないようだが、放置されても腐るわけではなく、何かが記された後に、何かの気まぐれで思い出され、偶然の巡り会わせによって、再考する機会を得る。あのとき誰かは何を思っていたのか。

 瓦礫が辺り一面に散らばっている。それらの何が幻なのか。どこに何があったわけではない。君に何が見えているわけではなく、目に見えない何かに心を支配されているわけでもない。大勢の者たちがどこかの大地を掘り起こし、何かを探している。それはありふれた宝探しの一場面か。何かをねじ曲げようとしているのかもしれない。苦しいのだろうか。苦々しく思っている。何に対してそう思っているのだろうか。たぶんわからない。このままではわかりようがない。ではどうすればわかるようになるのだろうか。わからないままでかまわないのではないか。わかってしまっては話にならないか。現状でも話になっていない。ではどうしたらいいのだろうか。そう問う以前からすでにそれをやっているではないか。すでに何かを語っている最中だ。そう思うしかないような成り行きの中に意識があるらしく、そこで何かの均衡が保たれているように思われ、果たしてそれでかまわないのか定かでないが、とりあえずはそんなことを語っている。また馬鹿騒ぎの最中に、そこから抜け出そうとしているらしく、心は厭世的な気分に染まり、それらの冗談の中に真実が含まれているとは思えないが、そうなるように努力しているらしく、状況がおかしいことは承知しているが、そのおかしさを笑うことができず、その代わりに恐れおののいているのか。矛盾しているが、きっとそうに違いない。要するに無駄に語っているだけか。

 左肩の痛みが退かない。筋がのびてしまったのだろうか。それほどの重傷でもあるまい。だがそういう語り方がおかしい。別におかしくてもかまわないだろう。おかしいからこそ笑えるのではないか。しかし笑っていない。笑える状況ではない。それどころか苛立っている時もありそうだが、それでかまわないと思っている。フィクションの中で誰が何を思ってみたところで、現実の世界の何がどうなるわけでもないのはわかりきったことだが、どこかで影響を及ぼしていると思いたいのだろうか。しかしそれで何がどうなったというのか。単なる自己満足に過ぎず、それでも精神衛生上はいいのだろうか。たぶん何がかまわないわけではなく、それでいいとも思えないのだろう。とりあえず現状をかえるべく努力している。その努力した結果がこれだろうと、次はもっとマシな何かを語れるかもしれない。そう思わなければやっていられないか。しかしそこで何をやっているのか。誰が何をやっているのだろうか。誰も何も語っていないのではないか。そして何を問いかけてみても返答がない。誰かは無人の空洞の中で何を語ろうとしているのか。かつてはそこには何もないと語っていたはずだが、今ではひたすら沈黙を守り、だいぶ前から一言も言葉を発しない。それがその時の気分を示しているのだろうか。君にはそれがわからない。その場の雰囲気を読み違えているのか。別に誰が空気を読んでいるわけでもなく、そんなことをしなくても、もうすぐ終わってしまうはずだ。すでに誰かは匙を投げている。


1月22日

 何かに取り憑かれているようだ。それを振り払おうとしているらしいが、気持ちがバラバラか。それと何が関係あるのか。何を求めているわけでもない。相変わらずそんな嘘をついているのだろうか。少なくとも誰が何を語っているわけでもない。またそんな嘘をついているのか。それらの何が嘘なのだろう。君が嘘をついているのは誰かがお見通しか。そういうことではなく、語っている何もかもが見え透いていて、呆れられているのかもしれない。しかし誰が呆れているわけでもないだろう。ではそれが嘘なのだろうか。それとは何なのか。何に挑戦しているのでもなく、やってみなくちゃわからないことをやっているとも思えない。では何なのか。何でもなければ何でもないということか。君はそこから出られず、必死にもがき苦しんでいると思い込む。もちろん作り話の中でのことか。そんな話などどこにもなく、誰が何を語っているのでもないが、ではそれらは何なのか。何のことでもありはせず、それに関して君は何も語らない。そんなはずがない。確かにそんなはずがないのだろうが、現実はこれだ。それだけのことだろう。誰かは何に勝とうとしているのではない。ただ景色に見とれているだけか。絶景といわれる光景になるだろうか。テレビを見れば、そんな光景に出くわすはずだ。だから君は目を背けて別の画面に向き合う。面倒くさいのだろう。

 物語はそこから先へ進む。君が何を見たいわけでもないだろう。しかし誰かがそれを見たがっている。だからそれらの画面に釘付けか。何とか振り切っているではないか。そして言葉を記して、それらとは別の物語を構成しようとしているわけか。うまくいくはずがない。予定調和の挫折でも味わい、そこから何を導きだすのか。諦念という言葉が辞書に見当たらないが、ネットで検索すると出てくる。なぜ君はあきらめてしまったのか。いったい何を断念してしまったのだろう。そこまでいっても何もありはしない。ただの寂れた街か。誰かが在りし日の思いでを語りだすわけではなく、他に何が見えているわけでもない。見えているのはそれらの画面だけだ。言葉が記されている画面と映像が映し出されている画面が向かい合い、そのどちらを見るのか、選択を迫られているわけか。そんなはずがないだろう。今見ているのは言葉を記している画面で、映像が映し出された画面は消され、心の迷いを断ち切り、一方に神経を集中しようとしているわけか。そんなのは嘘だろう。すぐにグロテスクな映像が映し出された画面に引き戻され、君は何かを断念しようとしているわけか。光景の色彩をどう表現しているのか。何を描いているのだろう。雑なことを述べているだけが誰かの取り柄だ。結局それでは何にも結びつかないだろう。それでも何かを語ろうとすれば、それはそれらの影となるだろう。嘘だと思うなら読み返してみればいい。

 あり得ないことを述べて、そこから何らかの残滓を得る。それはさっきまで見ていた光景の印象になる。それがあり得ない光景への憧憬なのか。嘘に決まっている。現実に引き戻すためには何かを断念すべきか。気を取り直して先を急ごう。いつまでもでたらめばかり述べていては話にならない。人は誰でもここではないどこかへ行ってみたい。そのどこかがここではないことは確かだ。君はそのどこかへ行ったことがあるのだろうか。そこで自分とは違う誰かに出会ったはずか。君はそんな幻影と戦っているはずか。幻影ではなく、実際にそこで息づいている人と対面して、何を思うだろうか。すでに何かを思っているはずだが、それが誰かによって記されたそれらの文章に反映することはない。そうではなく、君に向かって走ってくる車のヘッドライトに照らされて、まぶしさの中で何を思うのか。それも違うはずで、わざと誰かとは関係のないでたらめを並べて、それで何か思わせぶりな気分を導きだそうとしているわけか。それも思い違いか。では何が本当であり正解なのか。そんなものなどありはしないと述べたら、いつものくだらぬ何かをなぞっていることになるのかもしれず、その場で無い物ねだりをあきらめなければならない。そうする理由が定かでないのもいつものことかもしれないが、とりあえずそれらを終わらせようとするなら、その辺が無難なところかもしれない。もう行き詰まっているはずで、何も述べることがなくなっている。だから君はそこから消え去ろうとしているわけか。そういう話なのだから仕方がない。


1月21日

 今日は今日なのだろうか。そんなことを思ったところで語る気がしない。調子が悪いのか。確かにそうだ。そうに違いないが、そんなことはどうでもよく、とにかく生き急がないようにしよう。遅すぎるのではないか。それはおかしな状況か。何を見ながら何を思っているのか。そうやって無駄に言葉を記している。調子に乗っているのだろうか。きっとそうに違いない。調子が悪くても調子に乗っている。確かにそれはおかしな状況だ。言葉遊びのたぐいなのか。何が遊びなのかわからないが、きっとそうだろう。さっきから同じ言葉を使い回して空疎なことを述べている。その説明が何を意味するわけでもなく、そんな気のないことを記しながらも、またろくでもないことを妄想しているのか。誰がそう思っているとも思えない。何かが歪んでいないか。見えている光景が何かおかしいのだろうか。そんなはずがなく、ただの夜で、いつものように蛍光灯に照らされた部屋の中だ。そこで音楽を聴きながら、画面に向かい合う。そんなはずがないか。気分が乗ってこないようだ。心ここにあらずというわけか。どこにもありはせず、何もない。相変わらずのことで、ふくらはぎが肉離れ気味か。そんなことはない。気がつけばゆっくり時間が流れ、どうもしないが、やがて眠ってしまうのかもしれない。眠気を誘う音楽でも聴いているのか。とりあえずまだその時ではない。何も思いつかないのに何とかするつもりなのだろう。

 その通りで言葉を適当に記して、ごまかそうとしているのかもしれない。ごまかしたつもりになれないか。何がそうなのかわからないが、それもごまかしのたぐいか。語ることに飽きているつもりだ。だから何もせずに笑っているのだろうか。だからごまかしていると述べているではないか。適当にごまかしている。それが適切な言語表現だとは思えないが、そう述べるしかない。他に何もないのか。膝が痛い。確かにそう述べるしかないようだ。堕落しているのだろう。実際には堕落するほどの高みまで到達できなかったのではないか。意識としてはそういうことか。他に何が邪魔なのか。意識が意識を邪魔している。同じ意識だ。その程度のことだ。誰がそれを意識しているわけではなく、そこに生じている何かがそれを隠そうとしている。わけがわからないだろう。あまりにも違いすぎるか。いったい何が違うというのか。きっとは明日は語れない。それがどういう意味かわからないだけか。そう捉えておいてもかまわない。何がどうなったわけでもなく、さっきから何を語っているわけでもない。実際の現実との接点がない。嘘をつくならもっともらしい嘘をつくべきか。ケースバイケースだろう。青ざめた白い影が脳裏をよぎり、わざとらしくもあり得ない嘘をついて、道化を装い、誰の笑いを誘うわけでもなく、一気にそこから奈落の底へと落下するわけでもない。いったい君は眠っている間にどんな夢を見ていたのか。だがそこで話も終わりだ。

 まだ時間がありそうで、精神の集中が長続きしないのはもちろんのこと、だらけたことを延々と述べつつも、そこから立ち直って、いつかまともなことを語る日々がやってくることを願い、それが実現するように努力したいと思うが、実際はどうなのか。まだその先があるらしい。それは単なる付け足しかもしれないが、おおかたの予想を覆し、君の思い通りに事態は推移して、何とはなしにそこから外れることを願っているようだが、当てが外れて何を思ってみても、語っている語彙の貧しさに耐えられず、すでにわかっているそれらの欠陥を延々と指摘している誰かは、やがて気が狂って自滅する運命なのか。そうなったらおもしろいではないか。そんな作り話を誰が知っているのか。どうやら脳みそがくだけているようだ。石頭をかち割られて、神への供物として捧げられてしまったわけでもあるまい。それともわざとわけのわからないことを語っているつもりなのだろうか。君が通ってきた道からはだいぶ外れているようだ。別に面白おかしく語ろうとしているわけではなく、冗談にならないような冗談を述べているわけでもないだろう。わざとそう語る理由を探るつもりもなく、たぶんそれも何かのごまかしなのだ。本当はまともなことを語れるはずなのに、あえてそうしない理由など何もありはせず、できることならそうしたいわけでもない。ただそれがその場の成り行きなのだから、それに逆らう理由はない。そしてそう述べて何を馬鹿にしているわけでもなく、至って真面目に言葉を記しているつもりなのかもしれず、今はそこから遠ざかる必要などありはしないのだろう。


1月20日

 それはいつものごまかしだろうか。そうに違いないが、他に何があるというのか。いいわけを述べても無駄だ。すでにそんなことを語りだしている。君はそれについて何を思っているのか。そういう流れで言葉を繰り出していて、それで語っていることになるわけか。たぶんそうだ。そうでなければ、何も語れなくなり、君はそこで黙るしかない。それはそういうことの延長上で示される内容なのだ。では君はそういう結果に納得するしかないということか。何かそれについて反論できるだろうか。とりあえず今は無理だろう。今でなくても無理かもしれず、もう抗うことさえできず、完全に敗北を認めざるを得ないのか。だがそれは何に対して負けていることになるのか。いったん記された文章を、まともな内容に変更できなければ、それで負けたことになるわけか。そういう流れに抗うことができず、どんどん流されてゆき、その結果として今の虚無的な無内容に行き着いたということか。そうであるなら、それを受け入れ、今後はそれ一辺倒でそういう文章を記していけばいいだけか。君にそれができると思っているのか。君がやるわけではなく、他の誰かがやるということか。誰かは相変わらずの逃げ口上を語りだしているようだ。それがそういう意味でそうだとは思わないが、とりあえずのやり方としては、それで十分なのだろう。君はそれに抗うことができず、そういう文章が記されるのを黙って見ているだけか。

 しかし何でそんなことをいとも容易く語れるのだろうか。そればかりでは気に入らないから、何かそれとは違う内容を模索していたのに、気がついたらすらすらとそんなことを記している。何だかおかしいか。たぶんおかしいのだろうが、そういう語り口から逃れられず、記そうとすれば延々と記せてしまう。そして記しているうちにそれが嫌になり、今は小休止状態となっているわけか。迷っているのだろう。果たしてこのまま記してしまっていいのだろうか。そうすると、何か取り返しのつかないことにでもなるのか。すでに手遅れで、そうなっているのかもしれず、後戻りができなくなっていて、そういうことしか記せなくなっているのではないか。それ以外は何も思いつかないことがその証拠か。それでさえ思いついていないのかもしれず、まったく何も思いついていないから、そういうことを記しざるを得ないのではないか。そうだとしたら笑ってしまうか。もはや心に闇を抱えている小説の主人公どころではなく、抱えるものが何もない状態で、心が空洞となっているのではないか。そして空洞の内部で乾いた笑い声がいつまでも響き渡っていて、それ以外のどんな現象も受けつけない心となっているのではないか。だがそうだとしたら何なのか。それが何を暗示しているというのか。何もないから何も暗示しておらず、ただそうなっている心の状態を、誰かが空想しているだけか。それなら人畜無害で、どうということはないではないか。

 相変わらずいい加減なことを述べているようだ。笑ってしまうか。誰が笑っているのだろうか。画面の前に座っている誰かが笑っているわけではない。そしてたぶん誰が気が狂っているわけでもないのだろう。冗談の範囲内でそう述べているだけで、誰もが至って冷静であり、無責任に笑っているだけというわけでもなく、実際に言葉を記し、それによって何かを語っているつもりになりたいようで、そんな試行錯誤の一環として、それらの文章が記されているのではないか。そう説明すればそういうことになるのだろうが、そんなふうにして後から説明の言葉を付け足してみても、もはや手の施しようがないほどに空疎になっているだろうか。そんなのは読み返してみればわかることで、一目瞭然的にそうならば、確かにそれはそういうことに違いなく、君はそこであきらめなければならなくなり、自らの敗北を認めざるを得ないか。だが認めたところで何がどうなるわけでもなく、そんな文章を記してしまった誰かが自己嫌悪に苛まれるだけか。だから笑ってしまうのだろう。照れ隠し気味に頭をかきながら、またやってしまった、と後悔先に立たずで、画面の前で苦笑いを浮かべて、それでもいいかと強引に自分を納得させ、そんなふりをしながらも、とりあえず言葉を記すことができたのだから、それで一安心しようとして、いくら取り返しのつかぬことをやったとしても、結果は結果であり、そんな結果を受け入れざるを得ないのであり、要するにそう述べて開き直っているわけで、やはりそういうところが愚かなのかもしれないが、それでかまわないと思うしかなさそうだ。


1月19日

 何やら繰り返し同じようなことを述べているらしいが、他にないのか。どうにもならない現状は変わらない。しかし何もやらないよりはマシか。空回りしているだけなら、疲れるだけか。すべては相対的だと思って、あきらめるしかないのだろうか。だが相対的な差異だとしても、少しの違いにこだわらなければ、何もしない方がいいことになってしまい、ひたすら現状を追認しているだけとなってしまい、ただ口先だけで改革を唱えていれば、それで済んでしまうだろう。だがそういう物語だとしたら、君はそれに対して何を思うだろうか。はじめから結論ありきで、どのような紆余曲折を経ようと、予定調和の結末に導かれるしかないのか。そうだとしてもなおのことを感動せざるを得ない。そんなのは嘘だろうが、嘘でもかまわないから、それらの物語について何か適当に言及せざるを得ない話の展開が、やはり予定調和の成り行きになっているらしく、たぶんそうならなければ、それについては何も語れなくなっているのかもしれず、その辺に語りを継続させるための工夫が見られ、恣意的な言葉の選別が行われ、何とかそれふうの内容になるような配慮がなされている。だからそれは冗談で述べていることだろう。すべてはまやかしのたぐいで、事実に基づいてそのまま語っているわけではなく、語っている自らに都合のいいことは強調され、都合の悪い部分については極力触れられていないわけだ。誰かはそんなふうにして何を明らかにしようとしているのか。それとは無関係だが、電車に乗ると、よく晴れた日に埼玉の熊谷の少し手前辺りで、ちらりと富士山が見える。

 文脈を無視してわざと誰かがそんなことを述べているようだが、それで君は気が済んだのか。そんな景色に誰が感動しているらしく、熊谷を過ぎると他の山並みに隠れてしまって、すぐに見えなくなってしまうが、それがどうしたわけではなく、そんなことに気をとられているうちに、何を語ろうとしていたのか思い出せなくなり、それまでに語っていた対象がわからなくなる。たぶんそれも嘘で、わざとそんなことを述べているのだけだろうが、要するに何かを語っているうちに飽きてきてしまったのだろう。しかし何を語っていたのか。語っていなかったわけではないだろうが、その対象がわからないまま、語り続けていたのかもしれない。そのまま語り続けていれば、語っている対象に近づけただろうか。言葉がすでにそこから離れていってしまい、今では何のことやらわからなくなり、視界から消えた富士山と同じように見失われ、それに代わる平凡な風景の中で、何を思うこともなく、それでも何か適当なことを思っているようで、それについて何か利いた風なことを記そうとするが、それは今行われている記述に反映しているかどうかは、後から読んでみないことにはよくわからない。少しの間イヤホンからはブルーセットのハーモニカが響いていて、何やら心地良さそうな気分でいるらしいが、それもつかの間のことで、意識は現実に引き戻され、暗い面持ちで気分で物思いに耽っているふりをする。

 何が冗談といえばすべてがそうで、他には何もなく、それで済んでしまうのだから、それはたわいないことかもしれないが、視線の先には何があるわけではなく、うつろなまなざしのまま、雲ひとつない晴れ渡った冬空の下で、多くの人は今日も働いていて、君もその中の一人なのだろうが、ただ闇雲に生きているわけでもなく、年間三万人あまりの自殺者も、それなりの理由があって自死を選んだのだろうが、富士山に代わって正面に見えてくる浅間山がそれについて何を物語っているわけでもなく、またわけのわからぬ冗談に染まっているだけかもしれない。たぶん君はそれでかまわないのだろう。そうやって生きているのだから仕方がない。生きている人間を無理矢理殺すこともないだろう。それはフィクションの中においても同じことか。そこまで考えていないのかもしれず、とりあえず簡単に殺されてしまうのが、事件を扱った物語であり、そうならないと犯人を仕立て上げられず、主人公が犯人を追いつめられないのだろう。それは当たり前のことか。つまらない話をしているようだ。そしてもう夜になっている。またテレビを見ていたのか。今はその画面に背を向け、別の画面に向かって言葉を記しているはずだ。しかし語ることなど何もありはぜず、昼間電車に乗って窓の外を眺めていた記憶しか残っていない。他に何か考えていることでもあるのか。もうそういう話なら終わりだ。気力が残っていないはずだ。では後は寝るだけか。


1月18日

 どうもまとまりのないことばかり語っているようだ。断片的で散漫な印象を受ける。しかし印象を受けている対象については語らず、相変わらず何を語っているのかわからず、その辺でくだらぬことを述べているだけのようだ。それでかまわないのだろう。もはや何を語ってもそういうことになってしまう。それがそういうことをやっていることに対する報いなのか。報いの意味がわからない。別にどこからか報復を受けているわけでもなく、自業自得の因果応報というわけでもなさそうだ。何に関してそうなのかわからないか。そういうわけでもないのだろうが、そうやって無駄に言葉を記してゆくと、自ずからそういう成り行きになってしまうのだろうか。そうであったとしてもなおのことそれをやめるわけにはいかなくなり、できうる限り果てしなくそうやってしまいそうになる。しかしそんな嘘をいつまでついていられるのか。誰かが死ぬまでか。誰がそこで死ぬわけでもあるまい。そしてそんなことを語っても無駄で手遅れだ。何がそうなのか明かされないのだろうが、理由などいくらでもねつ造できる。話になっていないのが理由で、何よりの証拠となっているはずか。わけがわからないのはいつものことで、そこからしか語れないのかもしれないが、それが記憶に残らないのはどういうわけか。ただ印象が薄いだけだろうか。しかしそれならそれは何のための努力となるのか。どうでもいいことをひたすら述べているらしい。

 おそらく独りよがりなのだろう。誰に頼まれたわけでもないのに勝手に言葉を記し、それが何を誘発しているとも思えないが、空疎でとりとめのない気分となっているようだ。それがそれによって生じた唯一の効果か。だがそれで何を意識しているのか。何もないのにそれはないだろう。君はそこで動揺しているようだが、何の演技でもありはせず、そうなったところで他に何が生じるわけでもなく、虚無的な気持ちが何をもたらすとも思えない。まだそこまで語っていないだけか。しかし君はそこで何を語ろうとしていたのか。何も語れないなら、さっさとこの世から退場すべきか。簡単に出て行けないからそこにいるのではないか。いったん生じてしまったものはなかなか消え去らないか。中には簡単に消え去ってしまうものもあるようだが、そうなるかならないかは、その場での成り行き次第だろうか。ではそこではどんな成り行きとなっているのか。こんな成り行きとしか表現できないとしたら、要するに説明不足か、あるいはそれをわざと省いているだけか。しかしなぜ省く必要があるのだろう。説明できないだけではないのか。そうかもしれないし、そうではないのかもしれないが、やはりそんなのは嘘だろうか。何が嘘なのかわからない。だが別にそれがわかる必要はなく、わからなくてもかまわないのではないか。それがかまわないのなら、何でもかまわないのであり、この先何がどうなろうと知ったことではないのかもしれない。また冗談でそんなことを述べているようだが、冗談でなくてもそうならざるを得ないのかもしれない。

 そしてその件についてはどうなったのか。それはどの件でもありはせず、その件か。そんなわけで相変わらず何も語っていないが、それがどんなわけでもないことは明らかか。どうやら言葉の連なりはそうやって次第に言葉遊びのようになってきてしまったが、やはりそれでかまわないと述べるしかないのか。虚しいことだが、空疎な内容のままにそれらは推移して、君を落胆させる。だからそれでかまわないのだろう。それ以外に何も記すことがない。そう思えばそういうことになりそうだが、他に何があるというのか。この世界が平和になると、人の特性は次第に無機質のようになり、生命というよりは単なる物質に近づくだろう。そして物質に目的があるわけではなく、ただそこでうごめいているだけで、時間の経過とともに摩耗し劣化する。河原に落ちている石ころのようなものか。要するに幻想を抱けなくなってしまうわけだ。この世界には何もなく、あるのはこの世界そのものだ。河原に落ちている石ころも人も、この世界の一部として存在していて、他に何をもたらしているわけでもない。意識はそこから外れ、何やら存在することの目的を探し出そうとするが、たとえそれが見つかったところで、それは幻想に過ぎず、それを否定することしかできない。幻想と見なしてしまえばそこで終わってしまうから、誰もがそうではないと反論したくなり、自らが何か主体的にこの世界と対峙しているように思い込みたくなる。たぶんそれでかまわないのだろう。人は絶えず何かを主張していたいし、この世界に働きかけていたいのだ。


1月17日

 なぜそれをやろうとするのか。儀礼的にはやらなければならないことなのか。心に闇を抱えているのは小説の主人公だ。ありふれた物語の設定かもしれず、君はそういう小説を読もうとしない。近頃は書物を買わないだけで、なぜか意味もなくそんな嘘をついてしまう。ただ小説を買わないだけか。昔は買って読んでいたらしいが、今では興味がないのだろうか。突然背中がかゆくなり、首を傾げて何を思うこともない。本当は何か思っているのだろう。ある時期以降は何らかの垣根が取り払われて、別に書物を買って読む必要がなくなってしまったのかもしれず、そういうことを生業とする人たちも徐々にいなくなりつつある。それは本当だろうか。嘘をついていることは明白か。しかしもはや君の意識には、それらの書物が興味の対象とはなりがたくなっているのかもしれず、どんな書物がベストセラーになろうがなるまいが、あるいはメディアに取り上げられて話題になろうとなるまいと、どうでもよくなってしまったのだろうか。そしてそれは映像作品や音楽にもいえることか。そういえば近頃は映画を始めから終わりまで全編通してみたことがないはずだ。テレビで見ても、時々チャンネルを切り替えて、細切れにしか見なくなっているはずで、例えばスポーツ中継とニュースと映画とテレビドラマを同時に少しずつ見て、それで済んでしまうのだから、まったく暇つぶしに見ているだけの話か。もはや何かを見たり読んだりして感動するとか、そういうのは完全になくなってしまったのではないか。

 まあそういうメディアはそういうものでしかなく、たとえそれを軽視していても、無意識のうちに影響は受けているのだろうが、それを見たり読んだりしたからといって、それが何か喜怒哀楽的な感情を誘発するわけでもなく、メディアから送られてくる同じような情報を、まるで日差しのごとく毎日浴びているだけのことで、何か心揺り動かされるような体験とは無縁の何かを受け取り続け、それがどうしたわけでもないと思うだけか。要するにあちらにはあちら側の世界があり、こちらにはこちら側の世界がある。両方の世界は同じ世界の中にあり、地続きなのだろうが、何となく気分的には無縁なのだ。こちらでは毎日つまらないことを延々と繰り返しているだけで、それに飽きたり疲れたりした時にあちら側を見ると、あちらでは何やらドラマチックに見せ物的なお祭り騒ぎを盛り上げているわけで、そういうはしゃぎまくっているのとは無縁のこちらとは、まったく関係を見出せない。彼らはこちら側に向かって何を見せたいのか。現に見せているあれを見せたいのだろう。そして君はあれを暇つぶしに見ながら、要するに暇をつぶしているわけで、心がそこへ入り込んでゆかず、飽きたら別のチャンネルへ切り替え、またそれにも飽きたら別のチャンネルへ切り替え、それにも飽きたら音楽を聴きながらネット上を巡回し、また商品の宣伝が大部分のメールを見たりする。やはりそれはそれだけのことのようだ。

 どうも君は退屈しのぎが大部分の生活を送るしかないらしい。他はすべて仕事か。堕落しているといえば堕落しているのだろうが、それ以外の可能性を見出し得ない状況下で暮らしているのかもしれず、それで何をどうしたいわけでもなく、積極的にどうするつもりもないのだろうし、そのままひたすら耐え続けるしかないわけだが、それに抗って、他に何をしようとする気も起こらないのだから、自業自得といえばそうなるわけか。自分のことなのに他人事には違いない。矛盾しているようだが、それは当然のことで、自らの無謬性を追い求めるほど無謀ではないのだから、多少の矛盾や愚かさは受け入れて当然であり、それがないと気が狂ってしまうだろう。だから現状があり、その現状を耐え続け、ひたすら無気力無感動を装いながらも、起死回生の何を狙っているわけでもなく、延々とそのままにとどまり続け、やがて疲れて朽ち果てるまでそのままなのかもしれず、たとえそうなったとしても、適当に後悔するだけで、何がどうしたわけでもないのだろうが、それでもそんな嘘をつきながらも、君は何を思い考えているのだろうか。くだらぬ冗談ならいくらでも出てきそうで、それが冗談かどうかわからないものまで含めて、それを語っている誰かがどこかにいるのかもしれないが、君にとってはそれがどうしたわけでもなく、いつものようにくだらぬ傍観者を装いながら、何となく日々暮らしているのだろう。これからも延々とそればかりなのだろうか。たとえそうだとしても、そこから逃れる術はない。今のところそれは見つかっていないはずだ。


1月16日

 目が覚めたらどうなっていたのだろうか。辺り一面が白銀の世界か。それほどのことでもない。しかし寒い。それだけのことだ。いくらやってもきりがない。雪がちらついたようだが、昼間は晴れていた。相変わらず行き詰まりを打開できず、それらの痛ましい未来に思いを馳せる。別に痛ましくはないだろう。ただ膝が痛いだけか。それだけで何を担えるのか。そんなことをわかるまでにだいぶ遠回りしてきたようだ。今はそのすべてを説明することはできない。意味がつながっていないではないか。気持ちが散漫なのか。ひとつのことに集中していない気がする。語れないことを語ろうとしているのか。たぶんメディアから影響を受けているのだろう。そう語ってしまえば簡単だが、そこで終わってしまう。別に何を語ろうとしているのではないようだ。言葉をいくら連ねても内容には至らず、何を語っているのでもないことが明らかになり、そこから先はどうなってしまったのか。朝目覚めたら窓の外が白銀の世界か。そんな夢でも見ていたに違いない。どうやら記憶がどこかに後戻りしようとしている。それこそあり得ない話か。しかしもう飽きてしまった。やる気が失せて、ただ笑うしかなくなっている。笑えないのに笑っているのだから、それは何かの演技になる。何を演じているわけでもないだろうに、ひたすら心の中で笑っている。本当は何も考えていないようだ。考える術を知らないのだろう。

 とっかかりがなく、きっかけもつかめず、何をどう語ったらいいのかわからなくなり、それに関してのそれがわからない。いったい何に関して語ればいいのか。たぶん人は人に幻想を抱いているのだろうが、結果がそれを残酷に裏切ることになり、幻想を抱いていた自らの愚かさを悟らせる。それが結果であり、それだけのことなのだが、他がない。あったらおかしいか。たぶんそれだけのことだ。あるはずのない何かを血眼になって探しているわけでもない。そして何もないことから、だいぶ遠くまで見通せるようになったのではないか。しかし君は何をわかったつもりになっているのか。知っているつもりの何かを改めて知ったつもりになり、つもりでしかないことを悟り、知ることをあきらめてしまう。君は何をあきらめてしまったのか。同じ言葉が循環しているようで、要するに語るのをあきらめている。それでかまわないのか。実際に誰かが語っているではないか。君はそれを語りだと見なさないわけか。それでもそういうことを語っている。それは何となくおかしい。世界のどこかで銃撃戦が行われている。そんなことを伝えるニュースを見ながら、くだらないことを思っているのだろうか。翌日も晴れて寒い。それの何がくだらないのか。乾いた強風が吹き荒れる。山の向こうは大雪か。樹木の枝にとまったカラスが鳴き、心を揺り動かされているわけでもなく、ちぎれた雲が頭上を流されてゆく。天は何かを求めている。

 そこから外れて何を思う。何も思えないなら、そう思っているのだろう。客観的視点とは何か。誰の異議申し立てを無視したいのか。しかし革命とは何か。別にそれを否定したいわけではない。国家が経済的に行き詰まれば革命が起こる。それだけのことに感動しているのはどこかの傍観者かもしれない。人々はいつまで経ってもそれらの事件を記憶にとどめようとしている。震災で数千人が死に、その日がくる度に毎年儀式を執り行い、それを語り継ぎたいらしい。それについて君は何を思っているのか。ああそういうことか。何も思っていないわけでもない。何も語っていないわけでもないか。それがわからない。何がわからないのか。そういうことではないらしい。誰かがどこかで人間の殻でもかぶっているのだろうか。骸骨はどこへ行ってしまったのか。だからそういうことではないらしい。何を味わっているのでもない。空疎な気分だ。文章を記している気がしないようだ。意味のつながりが感じられず、確かに何を語っているのでもなさそうだが、それでも語っているわけか。たぶんそうだ。何かを語らないわけにはいかず、その証拠に誰かは革命について語ろうとして挫折し、次いで震災について語ろうとしたらしいが、途中でその気がしなくなってしまったようだ。たぶんそれらの記念日的な儀式を批判できなくなってしまったのだ。理由は定かでないが、何となくそう思うようになってしまったらしく、今ではそれでかまわないと思っている。


1月15日

 どうやら何も記せない日になってしまいそうだ。そう述べながらも、適当にいい加減に言葉を記すつもりなのだろうか。無意味で馬鹿げたことなら記せるはずだ。今ここで記しているそれがそうなのか。とりあえずはそうに違いないが、相変わらずそれがどうしたわけではなく、何のことでもありはしない。確かに何がどうしたわけでもないが、それでいいのだろう。言葉を記せばそれで気が済んでしまい、もはやそれは病の兆しとなっている。そんなのは嘘だろう。嘘だが成り行き上そう述べざるを得ない。それも嘘か。嘘でなければ何なのか。冗談か何かか。嘘でも冗談でもどちらでもかまわないか。そんなことを述べるべきではないのかもしれず、述べてはいけないことを述べていて、それが何かの冗談であることを祈りつつも、一方ではそれでもかまわないと思っているわけか。しかし何を探しているのか。くだらぬ探求を繰り返している場合ではないか。だいいちそれの何が探求なのか。では結局それは何でもないことなのか。それとは何か。かつてはそれを知ろうとしていたのではないか。今もそうなのだろうか。誰がそれを知ろうとしているのか。君がそれを知ろうとしているはずか。それは昔のことで、今はどうなのか。きっと今も知りたいに違いなく、探求の最中なのだろう。しかしそれとは何なのか。そんな問いかけばかりが虚しく響き渡る。

 しかし君は何を探しているのだろう。言葉か文章か。そんなものではないことは明らかだ。たぶんどんなものでもことでもなく、何でもないのではないか。結局何も探していないということか。そうであってもかまわないか。だからこれから何を語ろうとしているのかわからない。なぜそれができないのか。何も思いつかぬまま、時が過ぎ去り、今日が終わる。不可思議だができないことに変わりない。君はやってはいけないことをやっているわけか。記してはならぬことを記し、語ってはならぬことを語っているわけか。誰がそう決めたのか。君は何も決めていない。何も決められないから語りようがない。では何をどう決めたら語れるようになるのか。とりあえず物語の主人公の設定はどこへ行ったのか。もとからそんなものなどありはせず、語ろうとしているのは物語でさえないはずだ。そんなことなどわかりきっているのに、なぜか物語について語ろうとしている。あり得ない話だろう。フィクションだからそれは当然の成り行きか。それの何が成り行きなのだろう。要するにそんなふうに語っているわけだ。それはいつもの繰り返しとなり、どこへも至らず、迷路で迷っているわけでもなく、何を語っているのでもない。そういうふうに語っているわけだ。誰がそれを指摘しているわけでもなく、そんなふうに語っている。なぜ君はそれだけのことがわからないのか。しかしそれの何がわからないのだろうか。

 どうも何もわからずじまいのまま、今日という日が終わろうとしているようで、明日になれば何かわかるのかといえば、たぶんわからないままだろうが、わからないままでもかまわないような気もしてきて、何だか開き直っているのかもしれない。何に関して開き直っているのか。わからないままでもかまわないとして、何をわかろうとしてわからないのかもわからず、それでは何も語りようがないのは当然のことだが、延々とこのまま言葉の無駄遣いを続けていくのも忍びないようで、少しはまともに語らなければならないと感じているが、そんなに気を使う必要があるのかどうか、何に対して気を使わなければならないのか、それもわからないと述べたら嘘になるだろうか。嘘でも何でもかまわずに語る必要があるのではないか。しかし現状ではいささか遅きに失しているようだ。関係のないことを考えすぎているのではないか。それについて何を語ろうとしているのではない。要するに語ろうとしていることについて考えているのではなく、それとはまったく関係のないことを考えていて、当然それはまともな語りには結びつかず、その代わりに延々とそんなことを説明するはめに陥っているわけだ。いったい誰が何を説明しているのか。君が何かを説明しているとしたら、何かそこに不都合でも生じてしまうわけか。しかし君が何を説明する必要があるのだろうか。それらの空疎な現状について、今までにそんな説明がなされてきたのだろう。しかしそれらの説明がそうなのではないか。たぶん君にとってはそうなのだろうが、誰かにとってはまったくそうではない。


1月14日

 世の中にはうまい戦術があるらしい。自分は馬鹿で融通が利かなくて難しいことは何もできません、という態度を貫いて、あわよくば雑用係としてしぶとく生き残ろうとする。そういうプラス思考とは真逆のマイナス戦略で、何となく周囲からは嫌われながらも、組織の中ではできるだけ目立たぬように振る舞いながら、結果的にある種のフリーライダー的な立場を占有しているわけだ。例えばそれとは逆に、自らの才能をひけらかしながら傲慢に振る舞い、そういうことをやっていられるだけの実績をしっかりと残して、将来的には組織のトップを狙っている者からすれば、そんなのは塵や芥のたぐいとしか見なしていないだろうが、人それぞれで、どちらの立場になろうとも、そういうのは相対的な差異でしかないのだろうか。どうでもいいことといえば、利害関係の外にいる者としては、やはりそういうことになるだろうが、とりあえず組織を円滑に動かすためには、どのような立場の者であれ、その者の特性に合った機能を見つけ、それに応じてうまく働かせなければならないようで、別に将棋の駒を動かしているわけではないが、そんなたとえがぴったりくるような考え方でいいのだろうか。馬鹿げているのかもしれない。確かにおかしい。あまりその手の人間操縦術的なハウツーにはまり込みたくない。しかし現状をどうするのか考えてゆくと、そういう考え方に浅く接している方が、この先うまくいくような気がしてくる。だから実践としては、そんなまねごとを、それと悟られずに行使しているようなふりをしているのかもしれないが、たぶん本気ではない。何事も見え透いたことをやってはいけない。あくまでも冗談でそう述べているわけだ。

 面倒くさいといえば面倒くさい。どうでもいいといえばどうでもいい。少なくともそんなことを本気で語っている場合ではない。だがそれにしても、あまりにもテレビドラマのようにわざとらしくも見え透いた行為に直面して、呆れを通り越して、笑うに笑えず、近頃はため息ばかりついているのかもしれず、現実の恐ろしくもおかしな状態を、どう表現していいのかわからなくなっているのだろう。だからそれはくだらないといえばくだらない。だが本当はそれだけではないのではないか、と疑う良心が邪魔になってくるほど、やはりどうでもいいようなことかもしれない。とりあえずそんな状況に深くのめり込んで、勘違いの心理戦などを繰り広げたりすれば、あちらの思うつぼで、さらにくだらぬ事態に直面してしまうのだろうから、何となく無視を決め込んで、一定の距離を保ちながら、ロボット的な人格の持ち主を注意深く観察しながら操縦しているつもりになって、本気で本当に操縦しているわけではないのだが、それなりの動きを誘発させているふりをしなければならない。それがそこでのやり方となるだろう。とりあえずはそうやって、事を穏便に収めたつもりになって、本当は収めてはいないのだが、表面的にはそういうことにしておくような取り繕い方を実践しているつもりだが、客観的に見れば、かなりの勘違いで思い違いだろうことは、容易に察しがつくだろう。だがそれでもそういう振る舞いをやっておいて、様子見ということになるだろうか。その辺がうまく表現できないが、常に回りくどくやっておいた方がいいのかもしれない。

 しかし長々と何を述べているのか。いつものようにわけがわからないだろうか。たとえわからなくても、やはりそんなことはどうでもよく、何か語っている気配があれば、それでかまわないのではないか。何を語っても、それは冗談に過ぎず、本気になれないのは本当のところだ。そう思えてならないのは今に始まったことではなく、昔からそうだったような気もするが、やはりそんなこともどうでもよく、それどころか今や語っているすべての内容がどうでもいいのではないか。なぜ投げやりになっているのか。理由などもどうでもいいことか。そうなると何も語れなくなってしまう気がするが、本当のところはどうなのだろう。本当も何もありはしないのか。では嘘偽りを述べているのだろうか。語っているすべてがそういうわけでもなく、事実をその場の都合に合わせて脚色しているだけか。あるいはそれが紛れもない真実であり、実感としてそう思っているのだろうか。たぶんそれは的外れではない。そしてそう述べることによって、困難を克服したつもりになりたいのだろう。実際にそうなのではないか。鬱積した何かを言葉に託して発散したいのだろう。所詮は気晴らしでしかないのか。ネガティブに捉えるならそういうことだが、それは必要なことだ。どこかに至るにはそこに至るまでの過程があり、気を紛らしながらでないと、とてもじゃないがやっていられないことだってある。それは不条理であり、理不尽なのだろうが、無理に語ろうとすれば、そのような過程を経ざるを得ず、そこに至るまでの過程において、様々な障害や妨害が待ち受けているのだろうが、それにいちいちひとつひとつ対処していたらやっていられない。だから無視すべきところは無視して、手抜きをしながらも、肝心なところでへまをしないように心がけるべきか。実際にそうしているつもりだが、結果はどうなったのか。ごらんの通りか。


1月13日

 なぜか面倒くさくなり、やる気をなくす。どうやらそれはいつものパターンのようで、どうということはなさそうだが、そういう気分を振り払い、また今回も利いた風な意見でも述べるつもりなのだろうか。確かにもっともらしいことを語ると、何となく報われたように感じられ、爽快な気分となるようで、冗談でそんなことを語っているのにも関わらず、くだらぬうぬぼれとともに、そんなことを語っている自らを肯定したくなるのだろう。しかしそんなことを述べている一方で、今は何も思いつかない。もう夜になっているらしく、膝が痛む。重い靴を履いていたようで、それがいけなかったのだろうか。わざとらしく何を問うこともない。寄り道をしてしまったらしく、気がつけばどこへも行き着かなくなり、どうにもならなくなっているのだろうか。そこからどうにかしてしまうのがいつものパターンのはずだ。そんなことを今さら信じられるのか。何もやらずに眠ってしまうパターンもある。今回はそのパターンかもしれない。ではこれから眠ってしまい、目覚めれば翌朝になっているわけか。そうなる前に言葉を記してしまうことにしよう。しかし内容がない。それは致命的な事実か。作り話の中でならそうではない。無理矢理そんなやり方でごまかすつもりなのか。見え透いているだろうか。何がそうなのかわからない。わざとらしくとぼけてみても、空疎なことを語っている事実は隠しようがない。今はそれでかまわないだろう。切り抜けることが先決か。すでに取り返しがつかないところまできてしまったではないか。

 そんなわけで無駄に言葉を記して、気乗りしない文章を構成しているようだが、時間がないらしい。焦ってみたいからそう思っているのだろう。本当に焦りたいのか。君はそれを知っている。本当は知らないが、知っていることとしよう。すでに意識がフィクションの中に入り込んでいるようで、嘘であることを承知でそんなことを述べているようだ。誰かがそう記しているのだから、それもそういう事実として捉えるべきか。そう思うなら、それは君の勝手だろう。本当か嘘か知らないが、とにかくそこから何か適当なことを語らなければならない。適当ではなく、嘘八百であってもかまわない。それが適当だと思っていれば、それで済むようなことだ。しかし投げやりにいい加減なことを述べるべきではない。すでにそうではないか。そう思うならその通りだ。何をどう語っても迷路の中か。どこにも出られずに困り果て、さらに同じことの繰り返しが続いてしまうようだ。何とかして状況を打開しなければならない。無理だろう。たぶんそうだ。それはどうにもならないことなのか。記された言葉が現実を捉えきれていない。それは当然だろう。君はまだ何も語っていないのか。そういうことではなく、誰が何を問われているわけではない。そして語ろうとしているすべてが的外れなのだ。それはどういうことなのか。つまらないということか。今はそうではないと述べておこう。どう述べてもかまわないのであり、何を述べているわけでもないということだ。そんな自問自答の成り行きに何があるわけではなく、毎度のことのように意識が外れているのだ。

 どうもニュースを見ていると、世界的に異常気象のようで、もうすぐこの世の終わりがやってくるように感じられるが、それがどうしたわけではない。きっと終わる直前までそのままなのだ。本当か嘘かはわからないが、その時の光景を誰かが思い出す。フィクションの中で思い出すわけか。君はその手の映画でも思い出しているのか。どうせ思い出しても話にならないだろう。話にならないから今があり、フィクションの中で語っているわけではないから、この現実の世界がある。よくわからない話の展開だが、一応はそれに納得したふりをしてその先に言葉を記すが、それがどうしたのか。世界の終わりを実感できるような夢でも見たのだろうか。ノアの方舟の話ではない。それは何かのでまかせか。あるいはその固有名によって何かの終わりを連想したのだろうか。その辺もはっきりしないようだが、何となくどうでもいいのはわかりきったことで、わかりきっているからこそ、そんなことを述べているわけだが、別にそれほどわからないことを語ろうとしているわけではないだろう。だがわからないのだ。何がわからないのかわからない。近頃はそればかりで、わかるためのとっかかりがつかめないようだ。まあ無理だろう。何もできはしない。それでも少しは前進しているのか。たぶん知らない間に何かをつかんでいるのかもしれず、気づいた時には、それをやっているのではないか。やらないよりはやった方がマシか。昨今の政治状況もそういうことか。それとこれとは少し違うだろうが、何をどうやっても大したことはなく、大したことはやっていないのはどこも同じか。


1月12日

 何か引っかかっているらしい。心の奥底でうごめいているものがあり、それが誰かを盲目にさせる。本当だろうか。その場の気分でそんなことを空想してみるが、その後が続かない。また冗談に逃げるわけにはいかないのか。意志が弱そうで、すぐに別のことを思う。今さら何を批判するのもおかしい。もぬけの殻が何をもの申すのだろう。気分が乗ってこないようで、思い当たる節などを探る気になれず、たぶんそんなことを語るべきではないのだろう。もうそれを忘れてしまったらしい。それは間違っても進化ではないか。ただ変化している。何がそうなのではなく、変わりつつあるのだろう。状況の変化に対応しているつもりなのか。わかっているのはそんなことではなく、何かが過剰に生じている時期ではないのだ。誰もがそれを頼りにして生きているわけではない。その辺に何らかの幻想が介在しているのだろう。まるで砂漠のような環境の中で情報が行き交い、そんなたとえを無視してもかまわないほど、たとえようのない何かを奏でる。何か途中でやめていないか。勘違いの果てに何が待ち構えているのか。そこから意識が外れているのはなぜなのか。人は絶えずどこかにつなぎ止められようとして、中には安住の地を求めて放浪している者もいる。関係ないだろう。確かにそれとこれとは関係ない。いつものように晴れ渡り、そんな空を見上げているわけでもなく、必死になって何かにはまっているらしい。熱中しているわけでも夢中になっているわけでもなく、そんな成り行きを受け入れ、それに従いながら生きているだけか。

 それらの中で何が余分なのだろうか。すべてがそうで、それらをすべて取り去ったら、何も残らないか。それが物事の本質だ。君はそんな嘘をわざと信じ込み、それを糧として何かを語ろうとする。きっと頭がいかれているのだろう。そんな芸当ができるはずがない。しかしそれでは芸術とは何なのか。単なるまやかし以外にどんな要素が含まれているのか。そこから外れることが肝要か。絶えず外れようとして、思わぬ偶然を捉えてみせる。時としてそんな言説に行き着いたりするわけか。それも君が信じ込もうとしている嘘の一部か。あるいはそうに違いない。それを求めているわけでもないのに、あちらから勝手にやってきて、心の中に居座ろうする。そんな過ぎ去る風景を眺めながら、何か別の光景を思い出すが、それもやがて忘れ去り、意識は何か興味を引くような情報に飛びつこうとする。時には浅はかな気分になりたいらしい。君はそこから外れるために、どこかの大地に舞い降り、何か適当な作り話の登場人物になろうとして、それが果たされるように、誰かが記している言葉の連なりの中に入り込もうとする。今さらそんな嘘をついてどうしようというのか。まさかそれが嘘ではないことを証明してほしいのか。君の要求には無理がある。作り話さえまともに記せないのに、そこから先の話の展開を期待されても困惑するしかない。それは誰かの能力を超えた話だ。だから今はその程度にとどめておくべきなのか。何がどの程度なのかわからない。

 すべては同じことの繰り返しなのだ。しかし仕事とは何か。比較的偏差値の高い大学の卒業生が大企業に就職しようとして果たせず、就活浪人している話は笑えるだろうか。中小企業ならいくらでも就職先があるのに、エリートとしてのプライドがそれを許さないわけか。人は誰でも無い物ねだりがしてみたいだけのようだ。そういう競争に破れ、世間のざまあみろ的な物笑いの種となり、それで何を思い知らされたわけでもなく、懸命に自らが思い描いた人生設計にしがみつき、夢を実現させるために必死になって努力する。そういう人たちを笑ってはいけない。しかしそういう粘り強い継続性が何をもたらすのだろうか。人は自らが与り知らぬところで別の方角へ向かっている。やる必要もないことをやり、無駄な努力を必死で行い。結果として周囲の者たちとの間で思いもよらぬ軋轢を生じさせてしまい、今度はそれに気をとられ、そのことで神経をすり減らし、気がつけばどうにもならない状況となっている。そんなことの繰り返しで人生が終わってしまうことだってあり得る。やはりそうなると笑ってしまうしかなさそうだ。何かの冗談でそんなことをやっているわけではなく、わけのわからぬ紆余曲折の果てにそういう成り行きとなってしまい、もう笑うしかないような状況となっていて、当人にしてみれば冗談ではないのだろうが、それについてどんないいわけをつけ加えてみても、加えれば加えるほど話がおかしな具合となり、結果が覆る可能性がないばかりか、いいわけそのものが、そういう結果となったことのだめ押しとなっているわけだ。


1月11日

 誰かが何か珍しい宝を探しているようだ。もちろんそれはフィクションの中での話だろう。そういう話はいくらでもあり、君には興味のない話か。ならばそれでその話は終わりか。しかし他に何も思いつかなければ、その興味のない話を続けなければならないか。その辺でわからなくなり、考え込んでいるうちに、やがてそんな話も忘れてしまう。まったく子供だましにもなりはしない。しかしそこで笑ってどうするのか。笑いたくもないのにわざと笑顔を作って、いったい何を考えているのだろうか。別にこれから後に明かされる重要な秘密ではあるまい。だがここでは誰がそんな秘密を持っているわけでもなく、もとから何もありはせず、たぶんまたいつもの冗談でそんなことを述べているに違いないが、それでも何かあてのない話でもしなければならないのだろうか。何を問われているわけではない。問題も何もないか。ではどうすべきなのか。何をどうしようとしているのでもなく、誰かが何か適当なことを語ろうとしているらしく、それについて何を述べようとしているのでもなく、ただ無駄に言葉を費やして、結局は何も思いつかずに、疲れてしまうわけか。どうもそこから抜け出せないようだ。無理をしすぎているのか。そんなふうに思うなら、やめてしまえばいい。まったくいつも結論はそうなるが、やめたためしがないのはどういうわけだろう。とりあえず宝探しの大冒険なら、その手の漫画でも読んでいればいい。君には他にやることがありそうだが、それについて何を思うこともなく、さっさとその場から立ち去るのが肝要か。しかし何が肝要なのか。言葉の意味もわからず記してしまうのはおかしいか。

 昼なのに眠すぎる。もはや今から永眠の準備でもしているわけでもないだろうが、永眠するのにどんな準備が必要なのか。何か遺言でも残しておかないといけないわけか。後は葬儀費用が問題となってくるだろう。まさかすぐに死ぬわけでもないか。まったく冗談にもほどがありそうだが、しかし眠い。もしかしたら永眠ではなく、冬眠がしたいのではないか。仕事がなければ冬眠していたいほど寒いか。確かに寒いが、寒いのと眠たいのには関連性があるのだろうか。例えば雪山で遭難したら眠くなり、そのまま眠ってしまえば永眠してしまい、冬眠している暇などありはしないということか。くだらぬこじつけにもほどがありそうだ。しかし寒くて危うくこたつで眠ってしまいそうになったことは確かで、宝探しの大冒険の漫画など読んでいる暇はないのかもしれず、とりあえず言葉を記すのを早いとこ片づけてしまわなければならないか。何がそうなっているのかわからないが、必要もないのに言葉を記して、それに行き詰まれば、何を記したらいいのかわからず、思い悩み、そんなことが延々と繰り返されるのにも飽きてきて、たぶん何かの潮時はとっくの昔に通り過ぎてしまったのだろうが、今さら悩んでどうなるわけでもなく、どうにもならないから、そのまま言葉を記す作業を続けているのは確からしいが、やはりそこから話を展開させなければならないと感じているわけで、話もないのに何をどう展開させるのかわからないのは当然のことだろうが、要するにそういうことであり、何がそういうことなのかわからないのが現状であるらしい。

 そんなわけでだいぶくだけてしまったが、その先に何かがあるとすれば、それはまたしても何かの滞りであって、晴れた空の下で何を思ってみても、そんな状況に変わりはなく、天気がどうなろうと、語ることなど何もありはせず、そんな現状で何がわからないのかわからないが、少なくとも他の何かがわかっているはずで、そのわかっている何かについて記せばいいのかもしれないが、何となくそれは的外れな内容になりそうな気配がして、記すのをためらっているうちに、またしてもその内容を忘れ去り、何のほのめかしにも至らず、そのまま空疎な内容を記しているだけで、それらの文章は終わってしまうのだろう。それが君にはお似合いなのだ。たとえそれが何かの冗談だとしても、それを真摯に受けとらない限りは、いつまで経っても同じことの繰り返しとなり、やがてそれだけの文章しか記せなくなるだろう。それでもかまわないのか。たぶんかまわないのだろう。誰に何を助けてもらおうとも思わず、独りよがりで身勝手なやり方に固執して、どこにも至らないような成り行きの中で耐え続け、耐えているうちに感性がすり減って、結局は何に対しても鈍感な廃人となる。それが人間としての失格を意味するなら、冗談以外の何ものでもなく、むしろそういうくだらぬ冗談を前面に押し出して、そういうことを積極的に語り続ければ、自ずから道が開けてくるというものか。しかし今だって道は開けているではないか。たぶんそれは出口のない迷路などではなく、いくらでも出口のある何かの中に生きているのではないか。その何かがこの世界なのだろか。しかしそれは文章の終わり方としてはくだらぬまとめ方になるだろう。


1月10日

 別にそこで何に失敗したわけでもないが、実際はその程度のことではないのかもしれない。君はそのことについてどう思っているのか。他では相変わらず粗雑なことを述べて、その中で何がありふれているからだめなのではなく、ありふれたことを述べるのは良いことで、誰にとってもわかりやすいという意味で、それは肯定されるべき語り方だ。それに対して君の説明はわかりにくく、時として意味不明で支離滅裂な印象がある。しかしそれを否定してどうするのか。いくら否定したところで、そこには矛盾しているが故の真実がある。それは本当だろうか。誰かはそこから何を読み取るつもりなのか。しばらく考え込んでいたようだが、答えなど出てくるはずがなく、簡単にあきらめてしまってもかまわないような状況か。何をどう肯定しても、かなりの無理が伴っている。肯定するぐらいなら、安易に否定した方が遥かに楽だ。そういう意味で自らの立場を正当化するのは間違っている。何をどう考えてもその程度のことなのだ。それで何がわかったわけではなく、ただ何かをわかろうとしない決意ばかりが際立っていて、頑なにわかるまいという意志を守り通しているわけだ。おそらく始めから終わりまでそればかりで、それを貫き通すことによって自らの存在意義を認めようとしている。それは恐ろしい戦略か。あるいは自滅の道を歩んでいるのだろうか。そこには何が欠けているのだろうか。そういうやり方を選択した時点で、そうなることはわかりきっていたのかもしれないが、やはりそういうことをやらざるを得ない状況だったのかもしれない。

 選択の余地など考えられない切羽詰まった状況に自らを追い込んでゆき、それは自ら招いた失態でしかないのだろうが、何となく悲壮感を漂わせて自己陶酔に陥りたいのは、悲劇好きの大衆心理からの同情を呼び込みたいのかもしれず、何やら破滅の美学とかいう幻想を共有して、その辺で誰とそれを共有していたのか謎だが、徒党を組んで突撃したい気持ちもわかりすぎるくらいわかっている輩が、フィクションの中でそんな散り際を夢想しているだけかもしれず、その手の漫画なら、そういう場面が至る所にちりばめられているはずだが、君はそれを読んで何を思うのか。別に何を思うわけでもなく、それも何かの冗談の続きで述べていることか。そして誰かの意識がまたそこから外れそうになっているようで、君は必死でそれをつなぎとめようと思っていないことは確かで、どうでもいいが、できることならそのまま言葉を記し続けて、一応の区切りまで連ねてほしいとは思っているようだが、なぜ急にやる気が失せてしまったのか。君はそこで馬鹿げたことを空想しすぎて、誰かに呆れられてしまったのか。笑っている場合ではない。冗談でそう思っていても、実際にはしらけている。ひたすらそんなことを語る続けられるほどの才能はない。誰がそうなのか定かではないが、才能の問題ではなく信仰の問題なのかもしれず、誰かはそれを信じられないのだろうか。そんなことをやって何になるというのか。そういう疑念が生じた時点で、何もかもがどうでもよくなって、後は適当に言葉を書き散らかして、それでその場を取り繕うつもりらしく、実際にそうなりつつあるようだ。別にそれで何が悪いわけでもないだろう。

 そしてこうなってしまったようで、わざとそれに失敗したわけではなく、それは必然的な成り行きに従った結果であり、誰かの愚かさとともに思慮の足りなさが露呈して、誰もがその程度のことかと安堵するわけで、君にとってもそれは、想定内の小波乱に過ぎず、結局はいつも通りのワンパターンに終始しているように思われ、ほっと一息ついているところかもしれないが、それも冗談ではないか。他にどんな冗談が紛れ込んでいたのか。しかしその場で不協和音を奏でているわけでもないのに、何となく重苦しい雰囲気に包まれているようで、別にそれを振り払うつもりはないようだが、そのままでいたいとも思わず、無理に明るそうに振る舞える状況でもないのだろうが、そんな環境をそこにもたらそうとしているのかもしれず、誰かの道化的な振る舞いを期待して、それが期待外れにならないように、目配せしているわけでもなく、無言でそれを促しているように見せかけるつもりもないののだろうが、なぜか期待をにじませるような言動を探っているようで、そんなのは嘘だと思いつつも、そこから抜け出ようとしているわけか。それはどういうことなのだろう。またそれか。いつも行き詰まるとそんな問いかけが出てしまい、またかとなるわけだが、どうもそうではないようなパターンを探るふうでもなく、それに終始してもかまわないようにも思われてしまい、たぶんその辺で何かを失敗しているような印象を与えてしまうのだろうが、君はそれでもかまわないと思うしかない。要するにその辺の自由が利かないのだろう。もっとも自由云々の話ではなく、今まで何について語っていたのか、それが結果として出てくる問題か。問題でもないだろうし、また冗談でそんなことを述べているのがおかしいだけか。


1月9日

 だいぶ不自然な内容になっている。それでも今こそ知るべきことなどあるのだろうか。君はそんなことに興味があるのか。誰もそれを知らない。考えさせられる話の展開か。しかしなぜその話の内容を説明しないのか。すべてが冗談だとは思わない。それどころか誰もそれを冗談だとは思わないだろう。だから何が冗談ではないのか。それを後から説明すれば、何となく納得がいくのは当然の成り行きだ。誰かがそれを理路整然と説明して、その説明を聞いて多くの人が納得するはずだ。たぶんそういう成り行きこそがフィクションなのだろう。人はすぐに現実と虚構を入れ替えて、虚構の物語の中で現実に起こった現象を考えようとする。それがそもそもの間違いなのではないか。現実に起こった出来事に関係する様々な人の証言を緻密に再構成して、そこにありふれた主義主張を忍ばせながら、利いた風なことをここぞとばかりに言い放ってみせる。それが画面上で語られるフィクションのすべてか。そう述べて君は何を馬鹿にしているのか。そうではなく、それらの物語を構成する手際の良さに感動しているのではないか。たぶんそれを見聞した多くの人が納得させられる見せ物なのだろうが、果たしてそれでかまわないのか。かまわないのは当然で、よくできた見せ物に違いないのだろうが、その中に忍ばせてあるありふれた主義主張には納得しがたいか。それでも人々はそこから何かを学び、社会の中でそれを生かしたいとでも思うのだろうが、そう思うこともありふれていて、たぶんそう思ったところで、実際にはありふれたことしかできないだろう。

 しかしそれはフィクションではなく、ノンフィクションであり、ドキュメンタリーだったはずだが、そんなテレビ番組を見ながら、組織内の意思統一だとか、目標を達成させるために必要な長期的な展望の共有だとか、リーダーとしての指導力や決断力だとか、そういうありふれたことの欠如を失敗の原因としてあげてしまうのは、やはりありふれた意見だろう。そんなことをあれこれ指摘して回るのは、そういうことを生業とする人々なのだろうが、それで何か変わるのだろうか。君にはその辺が疑われてしまうのだろうが、従来の紋切り型的な解釈を一新したとは到底思えないか。何かに失敗した後からありふれた失敗原因を思いついたとして、そんなありふれたことしか思いつかない人に、その失敗を教訓として、今度は成功への道を模索することができるだろうか。たぶんそうではないのだろう。何かに失敗して、それを教訓として、成功への糧とする、というありふれたやり方で成功したとしても、それがどうしたわけでもないのではないか。要するにそれはありふれた成功であり、血のにじむような努力をした末に、やっとの思いで成功にこぎ着けたと思うこと自体が、そういうサクセス・ストーリーに頭を汚染されているだけなのであって、それはそれでそういうことでしかなく、誰もがそうすれば成功するわけでもなく、たまたま地道な努力が実って成功した話を、成功者が得意になって語ってみせているだけのことで、それもありふれた社会現象のひとつに過ぎず、そういう話をその手の映像で装飾すれば、誰もが感動してしまうのだろう。

 世の中はそういうエピソードで満ちあふれていて、何でもかんでもそういう話にまとめてしまうと、何だかワンパターンでつまらなくなるか。だがワンパターンだからこそ、麻薬のように人々の意識に浸透していき、同じ感動を得るために何度も何度もそれを追体験しようとして、そんな需要に応えるために、そういうフィクションが粗製濫造され、毎日のように映像によって流されているわけだが、中には一見そういうのとは無関係な、硬派のドキュメンタリーでさえ、そういう物語が忍ばせてあり、物語の語り手である司会進行役が、ここぞとばかりにそういう紋切り型の台詞を付け加えて、話に説得力と感動を付与しようとする。それで多くの人が納得してしまうわけだが、なぜか君にはそういうのがおかしく感じられてしまうわけで、いったいそれで何になるのかよくわからないようだ。物語の中では現状の変革を訴えているのに、その訴え方がありふれていて、訴えている内容もありふれているわけで、どうすれば現状を変革できるのか、その方法もありふれていて、そんなありふれたことばかりを延々と訴えかけている現状もありふれている。そのままでは現状の変革を訴えている現状自体がありふれているにすぎず、現状の変革を訴えること自体が現状の維持に貢献してしまっているわけで、そういう矛盾に気づかない多くの人たちによる現状維持を、それらの物語は後押ししていることになりはしまいか。要するにそれも大掛かりな冗談に過ぎないのだろうか。そんなわけで人々は冗談を真に受けて感動し、そんな冗談に勇気づけられて日々一生懸命がんばっているわけか。もちろんそんながんばり方もありふれているわけだが、君もいつまでもひねくれていないで、それに同化しなければならないのだろうか。すでにそうなっているのだろう。


1月8日

 焦っても無駄だ。結果は目に見えている。別にここから巻き返そうとしているのではない。何とかして何になるのだろう。何か満足のいく結果を得られるとでも思っているわけか。君は何も気づいていないようだ。何を語っても戯れ言の範疇なのだろうが、とりあえず何かを語ってみたいのだろう。そしてできればそれが利いた風な意見でありたいのだろう。冗談なのか。しかしそれでも何を狙ってそんなことを述べているわけではなく、ここでの目的とは、それらの言説を継続させることにある。だがそれらの何が言説なのか。それがわかるまでにずいぶんと遠回りしてきた印象がある。実質的には印象でも何でもない。何がそうなのか。ただの支離滅裂にすぎず、そういう言説になりつつあるようで、その辺を立て直す必要があるだろう。まともなことを述べられるようにしなけばならない。誰かがそんな嘘をついている。君がそう思っているわけではないらしく、語るべきことはそれではないようだ。では何が語るべき内容なのか。それがわからず、さっきから音楽を聴いている。それはいつもの成り行きか。要するに語るべき内容とは、いつもの成り行きで語っていることでしかない。それだけではまずいだろうか。どうやら情けないことばかり空想していたようで、その内容を記すつもりはないらしいが、何となくその辺で呆れている。たぶんそれは常軌を逸しているわけではなく、ありふれたことの範囲内に収まるようなくだらないことだ。

 そんなことを述べてどうするのだろう。それを怠けているうちに、研ぎすまされた何かを思い出せなくなっている。何が研ぎすまされた何かか。そんな言葉を聞いたことがあるだけで、無理矢理文章の中に差し挟んでも、違和感が残るだけか。くだらぬ映像に見とれ、しばらく言葉を記すのをためらっていた。忘れていただけだろうか。何を忘れていたのか。また語っている内容が回りくどくなり、次第に意味不明気味にどうでもよくなってくる。それはどういうことなのか。人の好みは保守的に陥りやすい。どのように言葉を配置するつもりなのか。そういう話ではないだろう。何も語らないのは君の信条だったはずだ。聞いたことがないか。繰り出された言葉がバラバラでついてゆけなくなり、それも何かの冗談だと高をくくり、以前にも似たような言葉の連なりがあったことを思い出すが、それがどうしたわけでもなく、何となくそれを続け、嫌気がさすまでそんな案配でいようとする。だからそんなのは嘘だ。要するに雑なことを述べているだけか。相変わらずその気もないのに、そんなことを語っているつもりになり、絶えずそうではないようなことを空想しながらも、実際にはどうでもいいようなことを記しているわけだ。まったくやる気がないらしい。それも嘘だろうか。何を否定したいわけではなく、単に無意味な話を長引かせたいだけか。それも暇つぶしのたぐいだろうか。ただまともな内容に至らないだけのようで、今はそれを認めざるを得ないのだろうか。認めたところで何が変わるわけではなく、開き直っているだけのようだ。

 君は流行がくだらないと思っているのか。印象派以降の現代絵画などファッションのたぐいだと思っていたはずだ。誰がそう思っていたのか。何かがそこでデフォルメされて、恣意的に事物が配置されているだけか。専門家でもないのに、そんなことを語るのはおかしい。誰が語っているわけではなく、それ自体がフィクションなのだろうが、その中でそんなことを語る登場人物を想像できるだろうか。そうではないと思いたいだけか。またもや意味不明に逃げるのか。もう時間がない。そういう逃げ方も以前にあったはずか。やはり君は何を語ろうとしているわけではないようで、その場の思いつきを文章にしたいだけの誰かが、その記された文章の中に、君という言葉を使って、何やら語っているらしい雰囲気を醸し出したいだけなのかもしれず、そんなくだらぬ説明をはねのけるだけの力が、君には宿っていないようだ。しかし何を迷っているのか。そんな君が誰かに約束をもたらし、それを続けていれば、やがて何かが巡ってきて、その何かが空疎な栄光を誰かに与えるだろう。その誰かとは君ではなく、他の誰かでもない。だがそれの何が約束なのか。きっかけが偶然に巡ってくるわけがない。それは自らが破滅するきっかけか。しかしなぜそれを否定的に捉えようとするのか。何かの照れ隠しか。そういう言葉の記述が唐突で、何かの巡り会わせてそう述べているのだろうが、そこに偶然が作用していることを否定できなくなり、やがて自然の成り行きを受け入れる時がやってきて、君はそこでどうなってしまうのだろうか。その先の話は誰かの想像にまかせるしかないか。相変わらずそんな案配で、誰かはそこから外れている。


1月7日

 フィクションの中では誰かが取り乱しているようだが、何の真似でもない。誰かは誰の真似をしているのか。それがオリジナルというわけでもないだろう。たぶん誰が何について述べているのでもないのは、いつもと変わらない。意識がそこまでいっていないようで、その意味がわからないようだが、ではどこまでいけば何かについて述べられるのか。言葉尻を捉えていちゃもんつけても意味はわからない。そういうことではなかったはずだ。誰かはどこかでぞっとする光景に巡り会う。それはいつのことだったのか。その時のことを忘れてしまったわけではない。だからいつかそれを思い出すだろう。いつかその時のことを思い出すはずか。しかし今は虚構の中で何を考えているのか。たぶん今はその時ではなく、昨日の今に決まっている。それはどういうことなのか。そこで何をやる時だったのか。たぶんそれは何かのこけおどしだ。もう言葉がが出尽くした感があり、君が何について語ろうとしているのかわからず、すでに語りだしているそれではないはずだが、ではなぜことさらにわかりきったことを問うのか。そんなふうにして滑稽なことを述べているつもりになり、たぶんそんなことだろうとは思うが、目的地から外れて、誰かは寄り道をしているようだ。それほど道に迷っているわけではなく、わざとそんなふうに振る舞っているだけなのだろうが、それがどうしたわけではないと思いたいのはもちろんのこと、やがて時が経ち、何とも思わなくなってしまうのだろうが、だからそれが何なのかわからず、気分転換にまた茶が呑みたくなっただけか。要するにそれがどうしたわけでもないということを述べたいのか。相変わらずそれがわからない。だが何となくそんな雰囲気に近づいてきたようで、やっとまともに語る機会が巡ってきたらしい。そんなはずがないか。今だって簡単に語ることができる。だが実際に何を語っているのかわからない。実質的には何も語っていないように感じられる。

 それから一日が経ち、本当に何も語っていないようで、何もないので語れないのだろうが、取り立てて語る必要性さえ感じないのはどうしたことか。意識がそんなところで外れている。いったいどこで外れてしまったのか。逃げてばかりでは物事の本質に迫れない。意識は何から逃げているのだろうか。あるいは言葉を記すことに疲れてしまったのか。両方なのではないか。ただ君がそれに気づいていないだけか。君が気づいていることはそれとは違うのか。あるいは取り立てて何に気づいているのでもなく、ただ黙って文章を読んでいるだけか。確かにそれらの文章を読んでいるようだが、それがどうかしたわけでもなく、誰かが記しているつもりの文章に過ぎず、内容は至って空疎なままだ。だからそれがどうかしたのだろうか。気に入らないなら、それとは違うことを語ればいい。気がつけばそんなことばかり述べているようだ。どうやら今日もそれだけで終わってしまいそうで、くだらぬ成り行きとなりつつある。何とかしなければならないが、こればかりはどうにもならないようで、さっきまでテレビを見ていて、言葉を記すのをやめている。やる気が失せているようで、その気力もなく、目標など何もなく、そして誰かはどうなってしまったのか。今もテレビを見続けているのだろうか。では今言葉を記しているのは誰なのか。誰でもないが、たぶん他の誰かが言葉を記しているのだろうが、それも嫌になってしまったらしい。

 もうなす術はないのか。寒いので寝ることにしよう。寒さに耐えられないのか。何を我慢しているのだろう。語らなければならないことを何も語っていない。そんなものなどもとからなかったのだ。何も語らなくてもかまわない。気がつけばさらに一日が過ぎ去っている。合計で二日遅れか。かなりくたびれているようだが、幸か不幸か、何もないことに変わりはない。空は晴れ渡り、雲に遮られずにかなり遠くの山並みが見える。おそらくそんなことを記すべきではないのだろう。では何を記すべきなのか。それがわからないでは何も記せないではないか。何も記す必要はないし、何も語る必要がないのなら、もうやめてしまえばいい。現実にはそんなことを記して、そんなことを語っているつもりでいるらしいが、そういうのはおかしい。おかしいどころではなく、現実にはそればかりであり、それ以外は何も記していないようだし、何も語っていないのだろう。だからもう何もかもがおしまいなのであり、終わった後からそんな蛇足のような無内容を記しているわけで、それについて何をどう語ろうとも、それらはすでに終わったことでしかない。しかし何が終わったのか。またもやそれがわからないでは済まないのではないか。


1月6日

 そんなにそれがおかしいのだろうか。それとは何なのか。何でもなければおかしくはないはずだが、かえっておかしかったりする場合もあるのだろうか。だから何のことを述べているのか。それがわからず、別に途方に暮れているわけではないが、何となくそれがおかしい。気がつけばまた振り出しに戻っているようで、わざとらしくそれについて問いたくなるが、我慢して話を先に進めることにしよう。話もないのにそれはないか。しかし話とは何だろう。話しているのにそれはおかしな問いか。だがそれについて具体的に話さなければ、その辺で行き詰まる他ないか。何でもかまわないのだ。それが何でもかまわないのなら、簡単に話せるのではないか。それとは何なのか。それはそれでしかないはずがない。ならばそれとは何だろう。君はそれから逃げているのだろうか。そうだとすると、それは自らの死を意味する。そんなでまかせに驚き、動揺したりすれば、本当に君は自らの死を獲得できるだろうか。別に獲得する必要はなく、放っておけば必ずいつか死が訪れるはずだ。要するに君はそれを、遠からず訪れる死という出来事にすり替えようとしているのだ。だが君がそれを語っているわけではない。そんなふうに述べて、また何かをごまかそうとしているようだが、その辺がよくわからないところだ。なぜそんなふうに語る必要があるのか。成り行きまかせでそう語っているだけかもしれないが、それとは何だろう。またそれか。

 誰かがそこで何かを思い、そうではないような気配を感じている。誰かはありふれたことを語りすぎている。また遠くからそれを指摘しようとする。人は自らに強いた主義主張に従うことができず、必ずそこから離れていってしまうらしく、その自らによる自らへの裏切りを許せなくなると、何となくヒステリックに自己弁護でも繰り返すのか。君はそんなことをどこまで述べてきたのか。まだどこへも届いていないはずだが、どこへ至ろうとしているのか。それはおかしな感覚になり、たちまち自己矛盾を来して、面倒くさくなって、なかったことにしたいらしいが、心の動揺を完全に消し去ることはできず、それとは何か違うことを述べて、それが語られていたことを忘れたいようだ。しかし誰の都合で何が錯綜しているのか。意識も言葉もどこかで置き去りにされている。何かがそこでとっちらかっているようで、何について述べたいのかわからなくなっているようだが、しかしそれとは何だろう。またそこへ話を強引に戻してしまい、誰の都合でそんなことをやっているのでもないだろうが、何となくそういうやり方に長けているように思いながら、意識をそんな迷路で迷わせているように装い、何かそれとは違う出口を模索しているようだ。このままでは袋小路で立ち往生か。君にとってはそれも計算のうちか。別に余裕をくれているわけでもないだろうが、そんなことを述べていることに酔っているようで、自己陶酔とまではいかないにしても、語っているうちにおかしな具合となってきたようだ。

 それにしても今日は寒い。寒くて何も語れなくなり、そんなのは嘘だとわかっていながら、さらに言葉を記して、自己矛盾をさらけ出し、そんなのは自己矛盾のうちにも入らないと高をくくり、何が自己矛盾なのか理解していないような気もして、そんなことはわからなくても、適当にいい加減にそんな言葉を使って、それらしい文章にしてしまえばこっちのものか。本当はどっちのものなのだろうか。どっちのものでもなく、あっちもこっちも何だかわからなくなり、そこに記された言葉が方々へ散っていってしまうような感覚に陥り、それもおかしな感覚だが、本当らしくもそうでもなく、その辺に考えを巡らせて、それをどうにかまとめようとしているが、現状ではまとまりを欠き、何について述べているのか定かでなく、それをいいことに、さらなるでたらめを繰り出そうとしているらしいが、もうその辺で破れかぶれの様相を呈していて、たぶんそれがでたらめに語りすぎていることの弊害なのだろうが、それでもどうにかこうにかここまでやってきて、何とかそれを終わらせるべく、状況に合う言葉の連なりを模索しているようで、気がつけばそんな自己言及がわざとらしく思えてくるわけだが、君のやり方か相変わらずいつも通りで、ワンパターンのマンネリでしかなく、それはそれで安心できるのだろうが、そんなことに安心している誰かの頭はおかしいのではないか、と疑念を抱き、それをさらに引き延ばしている現実も気に入らなくなり、実際にそうやっているのは、語っている自らでしかないことを認めざるを得ないが、それでもそういうやり方がおかしいことに気づいたふりでもしたくなるが、本当のところはわからない。


1月5日

 慌ただしい一日だったが、もう夜だ。あかぎれを塗り薬で塞いで、画面の前に座り、考え込んでいるようだが、言葉が出てこない。いつもの成り行きか。他に何を思っているわけでもなく、そんなことを思いながら、それはどんなことでもないような気がしてきて、それでかまわないような気がしてくる。たぶん言葉が出ないというのは気のせいだ。無駄で無意味な言葉ならいくらでも出てくる。寒いのか。寒くて震えているのなら、それはフィクションの一部となっている。だがその全体が出てこない。だからそれは気のせいだと述べているではないか。それとこれとは違うはずで、君が述べているすべてがフィクションなのであって、君自身がフィクションの一部だ。だが君はまだ何も述べていない。実際にはそうだが、誰かが記そうとしているフィクションの中では、何か適当なことを述べているはずだ。しかしそんな嘘がなぜ記されているのか。理由は何もないから、何かのついでにそう記しているのだろう。またいい加減なことを述べているらしく、そんなことを記しているうちに、どうでもよくなってきたようだ。要するに意味がないのだ。そして何が要するになのかわからない。またとりとめのないことを記しているらしく、要するに堕落しているわけか。しかし堕落してなかった時など、かつて一度もなかったのではないか。そう思えばそう思えてくるし、思わなければそうは思わないのではないか。要するにどちらでもかまわないのか。

 しかしなぜそこからくるのか。膝が痛いだけでは物足りないのか。君はそれに気づいていないようだが、無理を承知でそんなことを語ろうとするから、まったく意味を見出せない。現実には何も語っていないのだ。では語るのをあきらめなければならないのか。誰に尋ねているのでもない。問う対象となる人物が不在だ。たぶんそういうことではなく、絶えず何かについて語らなければならないのに、その何かが思いつかないだけではないのか。そして勘違いしている。何を思いつく必要もないのに、思いつこうとして、現実に何も思いつかず、何も語れないことに気づき、それについて語るのをあきらめようとしているのだろうが、あきらめきれずに、無理に語ろうとするから、結果としてこういう語り方となり、自己嫌悪に陥っているわけか。冗談ではない。それではまた何かの繰り返しではないか。冗談だと思うなら、それとは違うことを語ってみればいい。気がつけばまたそのパターンに陥っている。いったいいつになったらまともなことを語りだすのだろう。まだ君はそれに気づかないようだ。自らの勘違いに気づかない。すでにそれを語っているはずだ。実際に語りだしているではないか。まともかどうかは知らないが、今までがいい加減に語りすぎたのだから、これからもそれをそのまま語ればいい。それがまともな語り方だ。ひたすら自己言及気味に語り続ければいいのだ。たとえそれが同じことの繰り返してあったとしてもかまわないではないか。

 愚かなことの繰り返しだろうと、気が済むまでそれを語ればいい。すでに気が済んだわけでもないだろう。はじめからそんなことはあり得ないのだ。いくら言葉を記しても、君が語っていることにはならず、そこで誰が語っているのでもなく、そこには誰もいないから、その代わりにそれらの言葉が連なり、全体として誰かの沈黙を表している。そんなことがあり得るだろうか。架空の時空で誰かと誰かが笑いながら向かい合っているわけではない。では対峙しているのは誰と誰なのか。誰かがそんなことを空想しているだけか。またそういう逃げ道を探っている。開き直ってくだらぬことを記しているのだから、途中で投げ出さないで、最後までそれに終始していればいいではないか。また腹の底から笑いがわき上がってくる。そんなのは嘘だと思うが、何となく笑わずにそんなことを記しながらも、笑っている誰かを想像して、やはりそんな状況ではないと思う。ではどんな状況なのだろうか。おもちゃのような腕時計を巻いて、悦に入るわけでもなく、何をどうしようというのでもなく、相変わらず何も思いつかず、そんなふうに言葉を記してはまずいと思いつつも、実際にそんなふうに記している自らをどう思っているのだろうか。脇腹がかゆくなり、ジャージの上からかきながら、昨日のことを不意に思い出し、笑おうとするが、笑っている場合ではないと思い、笑っている自らを想像して、そこで笑っていた原因を思い出そうせずに、他に何を思うこともなく、なぜか我にかえり、その辺で戯れ言を終えようとする。


1月4日

 果たしてこれから何をするのだろうか。自らの死を前にして、フィクションの中の登場人物がしばし考え込む。何とも思っていないのだろう。実際には誰が死ぬわけでもなく、他の誰かが死ぬふりをするだけか。たぶんそれは君ではなく、誰でもない。誰かは何を空想しているのか。その途中で考え込んでいる。結局何も思い浮かばないではないか。それでかまわないのだろう。君ならそこから何を思いつくというのか。それは何かの冗談か。たぶんもうちょっとなのだろう。そこから考えを巡らせれば、どこかにたどり着くはずだ。何を狙ってそう述べているわけではないが、何となくそんなふうに思っているらしい。おそらく何を思っているわけでもないのだろうが、そんなふうに思っていることにしておきたいのだろう。そう述べて何を繰り返しているつもりになれるのか。何も繰り返していない。嘘をつくのは簡単なことか。それの何が嘘なのか。時としてそんな嘘が邪魔になり、くだらぬことを述べているのが嫌になるが、それも何かの定めなのだろう。宿命的な成り行きか。冗談に違いない。馬鹿げたことを述べている。実質的にはすべてがそうだ。だがそれがどうしたのか。いくら開き直っても、それ以上の発展はなく、後はそういう語り方の繰り返しとなり、うんざりするほどそれが続いていってしまう。この期に及んでまた嘘をつくつもりか。では何が真実なのだろう。そんなことを述べている事実を否定しようがないか。そうだとしてもくどすぎる。だからそれがどうしたわけでもなく、君は至って冷静に対応しているはずだ。

 たぶん君はそんなことを延々と述べている。今に至るまでそのことに気づかなかったのか。冗談に違いない。君がそれを知っているはずがない。単なるその場の思いつきに付き従うのは愚かか。だがそれほど知り得ないことを述べているとは思えず、知っていることはいくらでもあるはずで、その中のひとつが今ここで明かされていることか。たぶん何がどうなろうとそういうことになる。笑ってうなずいているのはそれに同意している合図か。何を想像しても、すべて正しいことになりそうだ。何をどう思ってみてもかまわないのではないか。ここには何もなく、どこにも何もない。そういうことになっているのだから、それはそれでそういうことだと思っていればいいのではないか。いったい君はそこで何を思っているのか。この世はとりとめがない。それが誰もが思っていることか。そこから外れて何を思うこともなく、ただそう思っている。君はとりとめのないことを語ろうとしている。それで気が済むのか。その時の気分次第で気が済んだり済まなかったりするのだろう。今はどうなのか。少しは気が済んだのか。何を思ってそう考えるのだろう。そうではないと思いたいのか。たぶんそうではないのだろう。面倒くさいからそう思っている。漫画だと思って馬鹿にしてはいけない。別にそれを読んでいたわけではないはずだ。そんなことを記しているうちに気持ちが萎えてきてしまったらしい。つまらぬことを語りすぎているのだろうか。

 気の赴くままに言葉を記しているわけではない。どこかにこずるい計算が働いているはずか。意味がわからないが、そう述べているのだから、嘘でもいいからそういうことにしておこう。本当は何を語ろうとしているでもない。自然とそんなことを述べているだけか。何が自然の流れなのだろう。川の流れが自然の摂理に従っているはずか。たぶんそんなことを語りたいのではないのだろうが、とりあえずの成り行きとして、そんなことを述べてみたまでのことか。相変わらず意味がわからない。君はそこで何を語ろうとしているのか。漫画を読んで感動したまでのことか。コンビニで立ち読みしたぐらいで何がわかるのか。事実が事実としてそういうことであり、腹が減ったので何か食う。まるで関係のないことを差し挟んで、意味不明を装うつもりのようだが、たぶん失敗しているのだろう。物語から外れて何を思うこともなく、今に至るまで一向に何も思いつかない誰かを揶揄したいわけでもなく、そんなていたらくをどうしたいわけでもなく、やはりそう述べてどうしたいわけでもないらしい。画面を見続けていると目が疲れてくる。だからその辺で終わりにしたいのだろうか。何が整っているわけでもなく、掃除洗濯に忙しいわけでもない。君はまだその場を立ち去っていないようで、去りがたいというわけでもないのだろうが、何となく疲れながらも、その続きを語ろうとしている。確かにとりとめはないが、この世はそれでかまわないのだ。無理に外れる必要はなく、物語から遠ざかる必要も感じない。すでに虚無との折り合いは付けたのか。何が虚無なんだろう。君はそれについては何も理解していないのではないか。


1月3日

 雑なことをやっている。何かの思いつきでそんなことをやってみる。ただ言葉を記しているだけだろう。空は曇っているようで、風が強い。まだ何も語っていないではないか。まともに語れないのだろう。言葉を記すことならできそうか。すでに記しているではないか。それでは不満なのだろう。内なる声に耳を傾けてみたらいい。心は空洞だ。忘れ去られるのはいいことだ。無責任になれるか。違うんじゃないか。誰からも見向きもされない人間になりたいのか。誰かの急所を突いているだろうか。あるいは目立ちたいのか。ウケ狙いが見え見えだろう。堕落しているようだ。君のことを述べているわけではない。雑な気分でそんなことを語っているようだ。空き地には雑草が生えていて、それが何を意味しているわけでもない。目的もなくそんなことを語りながら、またテレビを眺め、やる気がしないことをやろうとしている。そんなのは嘘だ。たぶんそうに違いない。またここまでやってきたようだ。何に気づいたのか定かでないが、辺りを見回して、何かを警戒しているようだが、空き地で何が起こるわけもなく、何を語ろうとしているわけでもない。いつものことだが、誰かがどこかで言葉を記しているようで、その記された言葉の連なりを読んでいる人もいるようだ。馬鹿にしているのか。何がそうなのだろう。君は相変わらず語る術を知らず、闇雲に言葉を繰り出そうとしているが、意味が一向に宿らない。

 何を簡単に終わらせようとしているのか。まだゴミ箱が満杯になっていないはずだ。言葉が捨てられた先にゴミ箱があるわけではないが、何かのファイルを消去して、画面上をすっきりさせようとしているらしく、盛んにそんな作業を繰り返していた記憶が脳裏によみがえり、それが何でもないことだと知りながらも、そんなことを記している誰かが正気を失っているとも思えない。要するに何かの付け足しなのだが、そんなわざとらしいことを、なぜことさらここで記そうとするのか。偶然に思いついてしまったわけか。何かの巡り合わせが、くだらぬ方向へと意識を導いているようだ。だがそれがどうしたわけではなく、暇つぶしにそんなことを思っているとも思えず、それほど苦し紛れでもないらしいが、わけがわからないことに変わりはなく、何事も有効性を見出せないことの表れなのかもしれない。しかしなぜ目的があるのか。何をやろうとしているのでもないのに、そこに目的を設ける必要があるだろうか。そんな嘘をついてみたところで、そこに目的があることに変わりはなく、言葉の連なりを延々と長引かせるために、誰かは四苦八苦しながらも、それをやり遂げようとしているのではないか。でも結果としてはやり遂げられず、やり遂げるためにやり続けているに過ぎず、それを続けるほど、やり遂げるという目的からは遠ざかり、いくらやり続けても、決してやり遂げることはできないだろう。終わらないからやり遂げられないのだ。

 どうやっても終わりようがない。何を述べているわけでもないのに、何かを述べ続け、それがどうしたわけでもないのに、頭がどうかしているみたいに思われる。ただ一心不乱にそれをやり続けているわけではなく、わけのわからない紆余曲折や回り道が待ち構えていて、思っていることを述べられないようにしか事態が進展せず、そのうち何を思っていたのか忘れてしまい、何を述べているのか定かでないことを述べているわけだ。そして気がつけば、そんなことを述べている自らの現状について語っている。そんなのは嘘だと思いながらも、嘘をついていること自体が文章となり、そういうやり方もあったのだと気づき、妙に感心しているように見せかけ、本当はそれも嘘だと気づき、さらにわけがわからなくなり、そんなことを記しているうちに、文章が無駄に長くなる。本当に述べているのはそれだけなのか。他に何か述べることがあったはずだが、今となっては何も思い出せず、その代わりに記していることがそれであり、無駄で無意味で空疎なことが記されていると思い込み、自己嫌悪に陥ったふりをしつつも、それで何とかノルマを果たしたとも思い、一安心したいのだろうが、まったく冗談にもなっていないようで、馬鹿げたことを延々と語っている誰かは、画面の前で首を傾げる。それだけなのだろうか。もっと何か述べることがあるのではないか。なぜそこから外れられないのか。何かから遠ざかれずに近づいているのだろうか。しかし何かとは何なのか。君はその何かを示せない。だからいつまでもそうなってしまうのか。


1月2日

 結局は一日遅れか。言葉を記すのも限界を超えている。しかし空疎だ。何をどう記しているわけでもないのに、空疎に思えてくる。もう語らない方がいいのだろうか。語っていないではないか。実質的にはかなりの期間にわたって語っていない。利いた風なことを述べられなくなっているようだ。ただそんな現状に呆れているだけで、何かをあきらめかけているのだが、わからなくなっていることは確かだ。しかしなぜ人を笑わせなければならないのだろうか。真面目に語る必要がないからか。何かが破綻していることはわかっているようだが、それを認めたくないから、笑わせることによって、意識をどこかへ逸らしているわけか。そういうわけでこの社会では何かが隆盛を誇っていて、それが別に悪いことではないような空気が蔓延している。そう思われるのだから、それはそれでそういうことなのだろう。人が方々で壊れていて、人格の壊れた人々がロボット的な動作を繰り返す。他はただ虚無的に笑っているだけのようで、それ以外に何が必要なのかわからなくなっている。本当に何も思い浮かばない。だから誰かがどこで壊れてしまっても、他の誰が知ったことではないらしく、もとから平和な世の中が頽廃していたことを忘れているようで、その中で人としての有り様が、何かこの社会の現状を維持させるように機能していれば、何も文句が言えなくなってしまうらしい。実際にそれ以上の何を望んでいるのだろう。たぶん望んだように生きているわけではなく、ただありふれた生き方を模索するしかない。

 しかしそれが社会の実態を反映した言説なのか。文句があるならどんな反論が必要なのか。君はそこで暮らしていて、何かを適当に考えあぐねていて、それに関しては何も思いつかず、それが何だかわからずにいるらしいが、それでもそれについて考えようとして、結局は考えられなくなって挫折しているようだが、誰かがいい加減に言葉を巡らして、何かを語っているように装うが、いくら試みてもことごとく失敗しているようで、何が何だかわからない内容となるしかない。そんなことを述べていていいのだろうか。それらはどこまでも偽りを醸し出していて、言説が何か明快な主張をまとうことはなく、何を述べているのかわからないが、とりあえずはそういうことに終始していて、目下のところはそれを続けるしかなく、実際に続けているわけだが、語ろうとすればするほど疑念が増すばかりか。君は何について語ろうとしているのか。何かの途中から逸脱しているようで、今語っているつもりのことは、語ろうとしていたことではない。心の中で何かがねじ曲がっているのだ。あるいはそうではなく、語ろうとしていることを語れないのだろう。君には不可能なことを語ろうとしている。そこから何も導きだせないのに、無理に導きだそうとして、虚無が引き出され、結果として空疎な言説になり、何も語っていないことになるらしいが、その結果を認めがたいのだろう。確かに認められず、それに対して盛んにいいわけを繰り返している。

 たぶん人は壊れていないのだ。架空の世界では壊れているつもりでも、現実の世界では正常に機能している。フィクションの中では、壊れていた方が、それを見聞している人の興味を惹き付けられるから、結果として壊れた人が多数登場して、話をおもしろくしているわけか。だがそういう話の持っていき方はわざとらしい。それは当然で、話の中でわざとらしく振る舞わなければ、現実の世界と区別がつかないではないか。そもそもそれについて話すこと自体がわざとらしい動作で、現実ではないから語れるのであって、ありのままの現実には、言葉では表現できない何かが含まれているはずで、それが何だかわからないから、人は我田引水的に、架空の物語の中で自分の都合に合わせて語ろうとする。それがフィクションとなり、語っている内容の誇張具合が人々の興味を惹き付けるわけだ。本当だろうか。本気でそんなことを信じていいものか。何となく冗談でそんなことを述べているような気になってくるが、話がおもしろくない。テレビを見ながら何を思っているのか。何とも思っていないなら、君の精神が壊れている証拠となるだろうか。それは何の証拠でもなく、ただの戯れ言が招いたつまらない結果に過ぎない。そしてそんなふうに言葉を記しても、何を述べているのでもなく、それ以上どんなことを述べようとしても、ただの蛇足的な言葉の付け足しにしかならないのだろうか。結果的にそうであったとしても、無駄な付け足しに終始するしかないのだろう。


1月1日

 なぜか知らないわけではないが、今年に入ってしまったらしい。今のところ時間感覚は少しもずれていてないようだ。いつも遅れ気味の誰かにしては珍しいことか。とりあえず去年のすべてが終わり、今年が始まっている。それは当たり前のことだが、未だに何も思いつかず、何も語れない状況が続いている。確かにどこかのフィクションの中では、登場人物がそう思っているのだろうが、さしあたりそれがどうしたわけではなく、何か年の初めに考えることでもあるのか。とりあえず最初から躓いているようだ。転んで怪我でもしたのだろうか。頭の中は澄み渡り、そこが空洞であることを自覚しているつもりか。実際には出来の悪い脳みそでもつまっているのだろう。出来が悪いか否かは誰かの主観にもよるだろうが、何となくそう述べておくと無難なような気がして、思わずそんなことを語りだして、そんなこととはどんなことなのかわかっているつもりだが、わざとわからないふりをしつつ、また今年もこんなくだらぬ内容なのかとあきれ果て、どうもすでに嫌気がさしている感じがして、やる気をなくしているらしく、何とかいつもの冗談で逃げない限りは、継続が難しくなっているようだ。何か違っている。今年も同じようなことを述べている状況がおかしいか。だがいくら疑念を抱いても、それが解消する見込みはなさそうに思われる。

 他人は何を考えているのか。自分すら何を考えているのかわからないのに、他人のことまで想像する余裕がないはずだが、とにかく他人は何を考えているのか。元来人には何も備わっておらず、絶えず何かを獲得し続けなければ、たちまち蓄えが底をつき、残されているのは動物的な本能のみか。その時点ですでに人ではなく、人でなければ何なのか。人は人に違いない。今も人が語り、文字を記しているはずだ。しかしそれらの文章にはどんな考えが反映されているのだろう。何がしかしなのかわからない。たぶん何もしかしなのではないのだろうが、とりあえずしかしと述べないと後が続かず、そんな目的のために、意味もなくしかしという接続詞を使うのだろう。それは目的ではなく無目的なのかもしれず、後を続けるという目的も、目的以前の何かかもしれない。しかしそれは何だろう。またしかしか。少なくともそれが苦し紛れに繰り出した冗談のたぐいだとは思えない。他に何を思っているわけではないが、そういう文章は何か社会的な関心事の外にあるような内容を有していて、無内容といえば無内容なのだろうが、何か自然とそういう方向へと導かれているような気がして、もう何も語ることがないというあきらめから生じた何かが、そんな無内容へ作用しているのだろうか。たぶん言葉を記している誰かはそういうことにしておきたいのだろうが、絶えずそういう主流から外れる流れに逆らって、何か利いた風なことを述べたくて仕方がないのだろうが、結果はいつも思い通りにはいかず、気がつけば空疎な内容が記されているわけだ。

 君はそれを認めたくないのだろうか。その割には利いた風なことを述べるために必要な、いわゆる世間の関心事には無関心なようで、その手のニュースに接しても、頭の中を情報が素通りして、何も記憶に残らず、結局思考回路が休眠状態のままで、社会との接点を見失い、本当は社会の中で生きているはずなのだが、何となくそこから外れているように思われ、暮らしている日々が抜け殻のような感覚で、その感覚がよくわからないのだが、たぶんその中でありふれたことを思い、ありふれたことをやっているのだろうが、それが記憶に残らず、同じことを延々と繰り返しながらも、飽きているのにそれをやめる気がなく、仮にやめたところで、他に何かやる選択肢というものがないようで、何か惰性で生きているような感覚にとらわれ、うんざりしつつも抜け出せずにいるわけなのだろうが、やはりそれがどうしたわけでもなく、たぶんそのまま延々と同じことをやり続けているのだろうし、これからも同じような日々が続くだけかもしれず、やはりそれに延々と耐え続けているうちに、新たなことに挑戦しようとする気力が萎え、そういう感性が欠落してしまい、たぶんありふれた日常の風景の一部として振る舞うしか、残された道はなくなってしまうのだろうか。本当にそうなったらおもしろいか。いったい誰がそうなってしまうのだろう。君は間違っても自分ではないと思いたいのだろうが、すでに手遅れとなっていて、今やっていることの延長上にしか、生きていく術は残されていないのではないか。そう思うならそういうことで結構か。


2010年

12月31日

 始まりがつかめない。何を記したらいいのだろうか。テレビのお笑い番組を見ていたら、そのことに気づいたらしい。宿り木が窓の外の梢から生えている。あり得ない光景だろうか。誰かの空想に決まっている。何かの物語の中で希望と絶望と救済が併置されている。テレビドラマの中で詐欺師を演じている誰かがトラブルに巻き込まれる。あらかじめ台本に書かれている架空のもめ事に違いない。それがおもしろいのか。語り方がおかしい。話の順を追って説明していない。話に順序などない。話でさえないからか。言葉の連なりが話であるわけがない。そんな嘘をつく理由を知らないが、何を主張したいのでもないはずだ。冬は火事が多い。ニュースはそればかりか。目がかすんだままだ。また老眼の兆候か。疲れているのかもしれない。言葉を記す気にならないのはいつものことだ。それが誰の独白なのかわからないが、独り言を記しているのは君ではない。何も語らずに何を記すこともないだろう。それはどういうことなのか。実際に言葉を記している。誰が言葉を記しているのか。わかりきったことを尋ねないでほしいか。画面の前でキーボードを叩いているではないか。だから誰が叩いているのか。そんなのはどうでもいいことか。確かにさっきまではそんな話ではなかった。語るきっかけをつかめないということか。今語っているそれではないということだ。実質的には何も語っていないが、テレビ画面を見ながら笑っているだけで、言葉を記すことなどどうでもよくなっている。

 そして今は夜だ。意味もなく夜になっているらしい。意味のある夜があるだろうか。それに関しては何も思いつかず、そんなことを語っていること自体が無意味なことに気づいているはずだ。それ以前に馬鹿げているはずか。確かに無意味なことを語っているつもりになれるが、それは言葉を記すことによって可能なのだろうか。さらに馬鹿げたことを述べている。目が見えなくなって何を語る気力もなくなくなってしまったのだろうか。実際に誰の目が見えなくなったわけでもないだろう。画面を見ているそれは何なのか。誰の両目がそれらの文字列を見ているのか。そういうことではない。笑うのに忙しくて何も思いつかないようだ。何かの限界を超えているようだが、何となくそう思い、何を思っているのか知らないが、少しその気になって、何かを語ろうとするが、周りがうるさすぎるようで、気が散って何も思いつかず、いい加減にテレビを消して、精神を集中させようとするが、今度は語っている内容がつまらなくなってしまうようだ。それはもとからそうではないのか。現状ではまだ何も語れない。それはどうでもいいことなのだろうか。何がそうなのかわからないが、とにかく誰かが言葉を記しているうちに何とかしなければならず、実際に語っているつもりのそれを記している気でいたいのだろう。わけがわからないか。それは誰かの人生の中のある一日の中で演じられている何かだ。何の答えになっているわけでもない。

 そんなわけのわからないことを語りながらも、今年も終わろうとしているようだ。相変わらずこの世界では何がどうなっているわけでもない。どんな変化も起こらず、何の驚きもなく、特に何かあったかもしれないが、すでに忘れてしまっているようだ。思い出す気が起こらないだけか。それでも代わりに何か記憶にないことを語ろうとしている。また作り話のたぐいか。あり得ないことをあり得ないように語りたい。そんなことができると思っているわけではなく、それがあり得ないことだとも思っていない。では嘘をついていたのだろうか。簡単にそんなことを語ろうとしているようだが、わけがわからないのは相変わらずか。内容が何もなさそうだ。要するにそんなふうにはいくらでも語れるのだ。確かに宝くじの当選発表の日まではありふれた夢を見ていたはずだが、外れたことがわかって、我にかえって、何をやろうとしていたのか。来年は何か目標を持って生きようと誓ったりするのだろうか。そういうのもありかもしれないが、またどうせすぐに忘れてしまうだろう。まったく真に受けるようなことではないと思っているようで、冗談でそんなことを述べているだけなのだろうが、それではだめだと思っているから、なおのこと焦り、何とかまともな人生を送れるように、軌道修正したい気も一方ではあるようで、そんなこともすぐに忘れてしまうと高をくくりながらも、それが記憶に残っているうちに、そういう方向へ行動を起こさなければならないのかもしれないが、果たしてどこまで本気なのかわからない。


12月30日

 誰かはまだそのペースを守っているのだろうか。たぶん何を語ろうとしても、何かの繰り返しになるだろう。何がそうなのではなく、今日も今日でやることをやっているだけだ。だからどうしたわけでもなく、それがそういう語りとなっているわけで、たぶんそれが誰かにとっての関心事なのだ。世間の注目を集めるとはどういうことか。そういう人に聞いてみたらいい。君にその機会が訪れるのか。誰のことを述べているのだろう。たぶん君ではない誰かがそうなっているのだろうが、相変わらず君には関係のないことのようで、君はただの傍観者のまま、その空疎な話を終えようとしているわけか。君の話ではない。それとは無関係だが、誰かは指を怪我してしまったらしい。それがどうしたのか。年末になるとテレビ画面上に幽霊が登場する。毎年故人の有名人が出ているだけだ。その人の存在を忘れてもらっては困るということか。もういい加減に忘れさせてほしいか。誰のことを述べているのか。誰でもない誰かであり、かつて固有名を有していた誰かに違いない。だからその名前が君とは無関係だと主張したいのか。確かにそれは君には関係のないことだが、それがどうしたわけでもなく、かつてそんな人物がいたことを、いつまでも語り継ごうとしているメディア関係者とも無関係だ。ついでにそんなことを語っている誰かとも関係なく、君はそのことに関して何も語れなくなり、別に語ろうとしていたわけでもないことに気づく。だから別にその件はどうでもいいことだろう。そんなことは語る前からわかっていたことだ。

 しかしそれ以外の何を語る必要があるのか。それ以外があるとは思えず、必要もないのにそれを語る必要があるとも思えない。またわざとそんなことを述べているようで、呆れてものもいえなくなるか。きっとその時はそうだったに違いない。しかしその時とはどの時だったのか。そんな話ではなかったはずか。たぶんどんな話でもなく、話など何もしていなかったのかもしれない。しかしなぜいきなりそんなことを述べてしまうのか。何だか怪しい雲行きになってきたように感じられるが、言葉を記している誰かは、そのとき投げやりな気分になっていたのだろうか。なぜ過去の話になっているのかわからないが、突然画面がカラフルになり、聞いたことのある曲が流れてくるが、それが何かの合図となっているわけではない。では何が合図なのか。誰かがどこかで合図を送っているわけか。だからそれは何の話なのか。何の話なのでもなく、誰が何の合図を送ってきているのでもない。では君は何かの幻影を見ていたのか。だからそれがおかしいと思っているのだろう。君はだいぶ堕落してしまったようだ。ひたすらいい加減なことを語っているのではないか。果たして君が語っていることになるのだろうか。そんなことはどうでもいいのではないか。確かに誰が空疎なことを語っていても、何がどうなるわけでもない。君はただの傍観者であるしかない。いったい傍観者がこの世界に何をもたらせるというのか。

 どうも近頃は視力の衰えが著しく、ほとんど何も見えなくなっている。糖尿病か何かか。どこかの誰かはそんな頃もあったらしいが、今は生まれ変わって、別人となっているようで、まだかすかに前世の記憶があるらしく、そのかすかな記憶を頼りにして、何かいい加減なことを語ろうとしているらしいが、そんなフィクションにまともな内容があるわけではなく、単なる思いつきで言葉を繰り出し、その無内容に落胆して、また別の話の中に入っていこうとするが、今はそうではないと述べておこう。それはどういうことなのか。また何かつまらないことでも述べているのだろうか。もうその記憶はない。結局何も語らずに終わろうとしているのか。ただ目がかすんでいる。老眼か何かだろうか。一時的な現象なのかもしれないが、何か気の迷いでもあるのだろうか。何も思いつかないことに変わりはない。一向に埒が明かず、気持ちも散漫で、気分が乗ってこないようで、このままつまらない方が正気でいられるような気もするが、誰かの狂気を懐かしんでいるわけではなく、気が狂うこと以外に何ももたらせなかった誰かを、更生させられなかったことを、今さら何を後悔しているわけでもない。それもその場で思いついた作り話の一部か。そこまで至っていないのではないか。何も語らない代わりに、いい加減に繰り出された何かの断片が、語られることのない話の一部となっているわけではないことを物語っているのだろうか。何かを物語る以前に、それは違うと思っているだけか。


12月29日

 唐突に何を述べようとしているのでもない。語ろうとしていることとは違うことを語り、思っていることは何も記さず、絶えず何かがずれていると感じるが、やはりそうではないと思うしかないのか。言葉が有効活用されて、そんな幻想を抱きつつ、意識はそこにとどまらず、他の何かにいついて説明しようとするが、そこから逸脱したいのだろう。大したことはない。同じことを繰り返すのに慣れきっているのか。そんなことはないと思うしかないらしい。クロスワードパズルを解いてる気分にはなれず、さっきまではそんなことなど何も思わなかったのに、今はそのことで頭がいっぱいか。だからわからなくなる。やはりそうではないと思いたいようだ。くだらぬことを述べるべきでない。別にそれを実践しようとしているわけではなく、何も思いつかない現状をどうにかしたいだけだろう。まだ早いか。何がそうなのか。その辺で耐えられなくなっているようだ。たぶんそんなことを思うべきではないのだろうが、とりあえずはそれを記すつもりのようで、実際にその中で何かいい加減に語ろうとする。心の空洞に響き渡るような声を想像できず、何ももたらせずに何かをあきらめていた頃、そこで都合良く病にかかり、長期の休養を強いられ、何かを狙いすぎていたことを反省してみるが、たぶん君にふさわしいのは、そんな物語ではないことに気づいたのであり、それがフィクションであることを考慮せずに、どこかへのめり込んでいく気になっていたのが危ない兆候だったのか。今ではすべてが架空の話だ。

 そんなわけで危うく誰かの物語にはまりそうになっていたらしく、意志の力でそこから抜け出たつもりになって、さらに外れた言葉を記しているようで、でたらめに関係のないことを思い、意識を思っていることごとに細分化して、分割したそれぞれの意識に違ったことを考えさせ、全体としてまとまりを欠いたままにして、それをどうするわけでもなく放置しながら、外部から偶然の巡り合わせを利用して、何かの機会を捉えて不意打ちを食らわせ、それで何か利いた風なことを述べてしまうのを避け、そんなふうに語っている現状をどうすることもなく、何も述べているのでもないように装い、たぶんそこが腕の見せ所とかいう勘違いを醸し出して、事なきを得ようとしているのかもしれないが、言説がそこにとどまれるはずがなく、たぶん何か具体的な事象について語らなければならなくなるのだろう。そのうちそうなることを願って、今はさらにどうでもいいようなことを述べ続け、そこから何らかの結論に至るのを、先延ばしにしようとしているのかもしれないが、そう都合良く事が進むとは思えず、とりあえずの結論を提示しながら、それが真の結論ではないと但し書きのような真似を施し、そんな見え透いた嘘をわざと何かの行間に差し挟み、それで万事が丸く収まり、滞りなく事が運ぶような印象は得られないだろうが、何かの間に合わせのごとくに、いいわけのような効果を期待しつつも、それも何かの冗談だと保険をかけておき、それで何が通用するとも思えない、というさらなるいいわけも添えておき、要するにわけがわからないふりをしているわけか。

 見え透いたことを述べすぎて、少々疲れてきたようだ。それはないだろうということを語りすぎた感もあるようだが、それで何がどうなるわけでもなく、やはりいつもの白々しいいいわけかもしれないが、実際に体験しているのは、具体的な事実に基づいた言説からは遠ざかり、空想の世界から降ってくるイメージを、言葉でつなぎ合わせて、文章を構成することに慣れきっていることが、現実の世界を見えなくしているのか。その代わりにありふれたことを述べているではないか。誰もが思っていることをそのまま文章にしている。それが本来の在り方か。それの何が本来なのかわからないようだが、とりあえずの結論としてはそういうことを述べておいてかまわないのだろうか。たぶん正解だと思われ、それ以外はあり得ないとも思われる。だが意識して何を語っているわけでもないのだろう。何よりも文章としておかしく、それが意図する意味がわからない。何か君は荒唐無稽なことでも考えているのか。ありふれたことをいくら考えても、埒が明かないのはわかっており、何か画期的なことを考えつこうとも思えないが、とにかく闇雲に思考を巡らせ、偶然の巡り会わせに期待するのは、ちょっと虫がよすぎて、正解にたどり着く確率も低いだろう。しかしきっかけとしてはそういうことを期待するしかなく、何かのきっかけで思いつくことを願って、絶えず考え続けているのかもしれない。だが結果としては何にたどり着いているわけでもなく、それは何かの途中経過だと思い込もうとしているようだが、もしかしたらすでに手遅れとなっていて、それに気づくまでには、まだこの先相当の歳月を要するのかもしれない。


12月28日

 世の中では様々な出来事が起こり、そのうちのいくつかが関係し合い、それに関する情報が錯綜しているようだ。そんなことの繰り返しによって世の中が成り立っているわけか。別に成り立たなくなってもかまわないのだろうが、とりあえずそんなことで、何が何だかわかっているつもりで、それについて語っているつもりで、実際には何も語っていない。相変わらず具体的に語るのが億劫なのか。あるいはできもしないことをやるべきではないとでも思っているのか。その辺がよくわからないようで、そんなことを考えながらも、やはり実際には何も語っていないようだ。何かそれは気のせいでそんなことを思っているような気がしないでもないが、とりあえずは適当に言葉を記していることは確かで、それについて何を思っているわけでもなく、他に何をどうしたいわけでもないらしい。だから話がつまらなくなってしまうのか。それでもかまわないと思っているから、なおさらつまらなくなる。しかしつまらなくても笑っているわけで、つまらないことを記しながらも、誰かは愉快な気分でいるらしい。たぶんそれは気が狂っている証拠だ。だがそんな嘘をついても誰が動じることもなく、何となくその辺は素通りして、すぐにそんなことは忘れたつもりになって、他のことを考えるとしよう。果たしてそれができるだろうか。そんなことを述べているうちは無理か。たとえ無理にしても、それらしい取り繕い方があるような気もするが、それをやったらおしまいか。別におしまいでもかまわないのではないか。

 たぶん何かの予定調和的には、ありふれたパターンとして、人々が関わっている事柄が気にかかるようで、一応はそれについて語りそうにはなっているのだろうが、なかなかそこまで至らずに、ぼやぼやしていると他の用事に時間が費やされ、結果的には何も語らずに話が終わってしまうことが多く、気がつけばそんなことばかり述べているようで、それは無駄で無意味な話を構成しているのかもしれず、それを延々と繰り返すことにより、いつしかそれしか語れなくなっていることに気づき、愕然としてしまうわけか。だからそれが予定調和の話の展開であり、ここでは毎度おなじみの意味不明なのかもしれないが、それ以外に何を語ればいいのか。架空の話として、誰かが哲学的あるいは思想的なことを述べてみようとは思う。それは何かの悪ふざけのたぐいか。たぐいではなく、そのもののような気がしないでもなく、どうも近頃はその手の言説を読む機会もなくなり、だいぶ縁遠くなってしまったらしいが、自らが何かを語ろうとする時、絶えずそういうたぐいの言説を意識せざるを得ず、それについて語ろうとすると、必ずそこからの遠ざかり具合を考慮に入れなければならないのかもしれないが、どうしても何かについて語ろうとすれば、それは避けては通れない関門のような障害物となっているようだ。誰かはなぜそれについて真正面から語れないのか。もう語ってもいい機会だし、それだけ遠ざかったのだから、どんなにいい加減なことを述べてもかまわないはずだ。しかしそれはどういう理由なのか。

 君にはそれを知る機会がないわけではない。それどころかすでに知っているはずだ。何を知っているわけでもなく、そんなことを知っている。それではだめなのか。どうもそれについて語ろうとすると、避けようのない何かを避けようとして、結果的には避けられず、わけがわからなくなってしまうわけか。どうしようもなくそれは嘘っぽい。それの何が嘘なのか。それが嘘である理由を述べられないのは、それが嘘である証拠となるだろうか。またややこしいことを述べている。たぶんそうは思わず、そうではないと思っているのだろう。さらにわけがわからなくなっているようだ。予定調和的にそうなっている。だからそれはだめ押し的に間違った感覚の表れだ。それについて語る前に、常にそんなふうに語っていることについて語ろうとするから、結果的にそれについては何も語れなくなり、そういう語り方が間違っていると思う。今わかっているのはそんなことか。そう語って、君は何かからその身を守っているつもりになれるだろうか。身の周りにある具体的な何かから、それらの言説を守っている。しかしそれでは説明がつかず、何を守る必要もないのに、どう守っているのかもわからずに、とりあえず守っていると述べている。それは怠慢の極みか。なぜそう思ってしまうのだろう。冗談でそんなことを思っているから、そうなってしまうのだろうか。そうだとすると何が原因でも結果でもなく、ただそうなっているに過ぎないようなことを語っているのであって、それについて誰が何を思っているのでもなく、誰かがそれをそう記しているわけだ。それでまともな文章を目指していることになるのか。でたらめの極みとなっているようだ。


12月27日

 何とかしなければならない状況なのだろうが、何をためらっているのか。言葉を記せなくなる。なぜそんな嘘をついてしまうのだろう。わかりきっていることではないか。君は冗談でそんなことを述べている。そう思っておいて差し支えない。しかしいつ目が覚めたのだろう。さっきまでは存在していなかった。何がそうなのかわからない。相変わらず意味が不明のままか。そういうことではなかったはずか。もう手遅れだ。君には何もできはしない。君は君とは別人なのだ。ネットで検索すればそうなってしまう。何かの冗談だろう。だからそうではないと思いたいのか。簡単にそうなってしまうのはおかしい。君が君でないことはわかった。それを確かめるために何をやったわけでもなく、ただそこにそう記されているに過ぎず、それは気のせいではない。だから今さらわからないことを問わないでほしい。もういい加減に目を覚ましてほしいか。誰のことを述べているのだろう。今さらそれはない。無理なことが問われているのか。なぜそれを変更してしまうのか。まだわからないことはいくらでもありそうだが、いちいち問われるようなことではない。わからなくともかまわないのであり、わかる必要のないことをわかろうとしても、徒労に終わるだけか。君は未だにそれを何とかしようとしているのだろう。そして今日も無駄な言葉が記されていることにいきり立ち、それを何とか終わらせようとしているようだが、それが間違っているのだろうか。

 繰り返し繰り返し繰り返し、同じ言葉が繰り返され、そして飽きられてあきらめてしまう。言葉を記すのをあきらめしてしまうらしい。また嘘をついているようだ。しかし何がこのままでは終われないのか。何とかしようとして、さらに何ともならない状況になってしまい、このままでは終われないと思うが、すでに終わっていることに気づかないだけだろうか。それでは君の意識は君を取り巻いている虚無の中に埋もれてしまったのか。唐突にそんなことを述べてみても無駄だ。何がそうなっているのでもなく、君自身がこの世に存在していない。たぶんそれも嘘かもしれないが、そんな嘘をついたところで、話にどんな進展がもたらされているとも思えず、ただ無駄に語っているだけか。それだけではないと思いたいようだが、今はそれだけのことに過ぎず、でたらめに何を記そうとしても、すでに記している文章の内容がでたらめなのであって、それを覆せるとも思えず、だからのこの期に及んで残された道など何もないのだろう。それで納得がいくだろうか。いったい何に納得しなければならないのか。もうすでに納得しているではないか。もはやあきらめの境地なのか。何かが蛇足だ。余分なことを説明しすぎている。それで何とかなっている面もあるが、雑な言説過ぎて、何を説明しようとしているのか定かでない。たぶんわかりきっているのはそういうことなのだろうが、それでも何かについて説明しようとしているらしい。

 ひたすら同じような言葉の連なりとなっているが、それを誰が記しているとも思えない。無意識がそうさせているのだろうか。無理がありそうだ。君が記しているのだろうが、今そこで画面を見ながらキーボードを叩いているのは誰なのか。君ではない。言葉を記している誰かがそう思っている。だがそんなつまらぬことにつきあっていられるほど君は辛抱強くない。意識はすでにそこから離れ、眠りの世界へと落ちていってしまいたくなるが、何かがかろうじて踏みとどまらせ、まだ言葉を記そうとしているらしい。すでに時間切れだろう。確かにそうだ。さっきからあくびが頻繁に出て、徐々に思考力が低下しつつある。もう寝るしかないか。しかし仰向けになると天井の蛍光灯がまぶしい。明かりを消せばいいではないか。またわかりきったことを思いつくが、なぜかそれが実行に移されず、さらに言葉を記してしまい、その内容のつまらなさを上塗りしているようだ。馬鹿げているだろうか。それはわかっている。君にもわかっているはずか。それはわからないが、何となくそれを無視しているようで、今はそれどころでもなく、またそんな嘘をついて、その場を取り繕い、そのつもりでさらに言葉を記す。それの何が無駄なのか。そう記すこと自体が無駄な悪あがきになるだろうか。だがそれでも何とかしようとしている。椅子に座って机の上の画面を睨みつけても、何も出てこないのは承知の上で、そうしているわけだから、それはそういうことになりそうで、それを認めなければならないが、ただそれがつまらないだけでは気に食わないのだろう。今はそれ以上の何かを見出したい。君にそれがわかるはずがない。


12月26日

 また否定が連続しているようだ。何を見ているのか知らないが、興味がないらしい。ではそこで何を見出したのか。何を観察しているわけではない。何も見つからずに夜になり、言葉を記す暇がなかったことに気づく。忙しすぎて隙がないか。何かの合間に何かを考えていたようだが、別に間隙を突いて何を語ろうというわけでもない。そして今は音楽を聴いて一息ついている。もう一日が終わってしまう。愉快なことではないか。何を取り繕ってどうしようというのでもないが、とにかく今日もどうにかなってしまったようだ。そして後は眠りにつくだけか。君はどこへ逃げてゆくのか。何に傷ついているわけでもないだろう。だからもう逃げ道はない。またそれか。何の対話でもありはせず、ただ言葉がそれふうに記されているだけだ。何を指摘されても動揺はしないらしい。いったいそれは何の話なのか。なぜそこから逃げようとするのか。そうではないような気がする。では何を考えているのか。今考えられることは、そこからいかにして逃げることか。だからそれがわからない。君は睡眠中にどこかからひたすら逃げ続ける夢でも見ているのか。そんなことを空想してみるが、何か現実感が希薄だ。また心が外れているのかもしれない。ならば今日はそこでおしまいか。何だかわからないが、聴いている曲が変わり、俄にやる気が出てきたようだ。しかしそんな嘘をついてどうするのだろう。たわいないことか。

 それらの意味不明をそのまま放置して、先を急ぐとしよう。今さら何をやり直すつもりもなく、何がどう記されようと、そんなことはどうでもよくなってしまったらしい。とりあえずそこには何もない。テレビを見ている場合ではないか。言葉を記そうとするが、今ひとつ上の空か。意味がわかりかねるが、たぶん何を言いたいのでもないのだろう。君はどこまでも外れたままで、正気を取り戻すことはない。そんな作り話が語られるはずもなく。誰がどうしたわけでもなく、至って正気なのは君ではない。だからどうしたわけでもないだろう。たぶんそんなふうに語るのはよくない。それでも意識が入ってこないのだから、仕方のないことか。しかし君は何に対して否定的なのか。スポーツに対しても政治に対しても文学に対しても否定的か。もちろん冗談でそんなことを述べているようだが、それの何が冗談なのかわからない。そんなことは記されていないのだろう。浅はかなことは述べたくないようだ。だからそれが冗談なのではないか。記された文章が意味を担えないのだ。それはどういうことなのか。割と簡単にそんなことを述べているようだが、それで誰かは楽しいのか。わざといびつな造形を制作しているつもりでいるわけか。そんなふうには思えない。理解されないようなことを述べているのだろうか。決して勘ぐられることはない言葉の並びか。だからただのでたらめなのではないか。今はそう思いたい。

 単なる心境の変化と気まぐれが偶然に重なったのだ。要するにひねくれているということか。そうかも知れない。気分が乗ってきたところでひねくれるのは楽しいか。君に何を忠告しているわけではない。ふざけ過ぎなのだろう。そうに違いないと思うが、そう思っていること自体がふざけ過ぎの延長か。わけがわからない。そう思っておくことにしよう。どう考えてもおかしい。良い意味で緊張が持続せず、またひねくれたことを述べようとしているらしい。それが嫌になって少し言葉を記すのを休む。君には何が見えているのか。それは誰かの死か。誰かが死ぬのはわかりきったことか。だが君は死神ではない。では何なのか。作り話の中に出てくる登場人物のようだ。だがそれが君のフィクションを形成することはない。まだそれが記されていないようだ。永遠にそれはあり得ない。君にはわかっていることだ。誰がそれを期待しているわけではなく、君も望んでいないのではないか。では君は何を望んでいるのか。この世界がどうなってほしいのか。役者がそろっていないのだろう。君には何の役割もない。ただの傍観者でさえなく、ひたすらつまらないことを記している誰かにも見捨てられているようだ。時々そう思われてしまうらしい。まだその先が記されていない。そしてそれが記されないうちに記述が終わってしまい、別にその気になっているわけでもないのだろうが、それにしてもなかなか君の出番が回ってこない。だからもうあきらめて眠ってしまった方が良さそうだ。


12月25日

 狂ってしまった時間軸を元に戻すのは容易なことではない。今見えているのは闇だけか。今が夜だからそうなっている。少なくとも昨日までの夜はそうだった。実際には何が見えているのでもない。ついさっきまで何かの幻影が映し出された画面を眺めていたではないか。君は何を覚えているのか。そんな記憶は遥か昔のことだ。笑っている場合ではない。何がおかしくて笑っているのではなく、それらの何がおかしいわけでもなく、ただ何となく笑い、次いでそんなことを記している。だからそれらの何が矛盾しているわけでもない。まだそれに気づかないだけか。影は他の何に気づいてほしいわけでもない。そんな音楽を聴いている。それはどんな曲なのか。翌日の誰かにはわかるはずがない。そしてさらにおかしな言葉の並びが続いてしまうようで、次第に何が何だかわからなくなり、そんな嘘をつくのにも飽きてくる。少しは意味の通るようなことを述べなければならないか。だが今はその気がないらしい。ではもうまともなことを記すための努力を放棄してしまったのだろうか。何かがずれている。なぜそれを拒否するのか。虫の居所が悪くてひねくれてしまったのか。何となくそれは的外れか。さっきから何か考え事をしているようだ。確かに考えているが、それがまとまることはなく、記している内容は意味不明のままだ。どこかから逸脱しすぎているのだろう。何かから遠く離れてしまった感じだ。しかしなぜそれほどまでにひねくれているのか。何か置いてきぼりを食ってしまった感じだ。

 そして翌日になり、多少なりともわかりやすいことを記そうと思うが、果たして結果はどうなることやら。まだ多少なりともやる気が残っていたようで、そこからまた言葉を記し始め、何とかそれらを終わらせようとするが、その気がいつまで続くかはわからない。未だに語る内容が何もないことは確かで、そのうちあくびが繰り返し出て、案の定眠くなる。また気晴らしにくだらぬ冗談でも述べてみたらどうか。しかし何がそうなのか。何を目指して何を語るつもりなのか。それがわからないまま、そこから外れて、何か別のことを考えようとしているが、たぶん実際に語っているのはそういうことなのだ。こういうことか。どういうことなのだろう。それもわからないふりをしているようだ。君はそんな語り方が気に入らないのだろうが、ならば他にどんな語り方ができるというのか。たぶんできるのはこんな語り方なのだろう。やはりそこから意識が離れているようで、取り立てて何を語ろうとしているわけではなく、そんなことを語っているわけだ。ではそんな語り方でどこまでいけるのか。それをこれから試してみようではないか。何かから外れたついでにそんなことを述べているようだが、それも空疎で虚無的な内容だろうか。たぶんそうに違いない。そこに何があるわけではなく、ただ言葉が連なっているだけで、それが一応は文章として成り立っているわけだ。馬鹿げたことか。ならばその辺で一区切りつけておこう。

 そんなわけで誰かはどこまでも無駄話を繰り返し、自己嫌悪に陥りながらも、そこから抜け出ようとして、もがき苦しむ。そしてそんなことをやっているうちにも年月が流れ、後から気づけば、たわいないことで悩んでいるわけだ。たぶんこれもそれだけのことだ。どうということはなく、それによって何がどうなったわけでもなく、至ってどうしようもない現状を、記された言葉の連なりに反映させているわけだ。それでも何とかしようとして、絶えず考えを巡らし、現実に何かを試みているらしく、それがうまくいったりいかなかったりして、その結果に一喜一憂しているわけか。今がそうなのかもしれないが、結果としてはうまくいったのか、それともいかなかったのか。後になってみればわかることかもしれないが、今の段階ではどちらでもかまわないような気がして、そんなことを述べながらも、何かがおかしいと思っているのだろうが、それはどういうことなのか。たぶんまともなことは何も語っていないのではないか。そんなことはわかりきっていて、だからそれがそれらの試みがうまくいっていない証拠かもしれないが、そんなことを述べていること自体が無駄で無意味なことなのか。ならばそれをやめればいいだけの話だろう。なぜそれができないのだろうか。現実にそんなことを延々と述べてきたではないか。たぶんその辺がおかしいのであって、それをやめて、もっとまともなことを語る努力をしなければならないのだろうが、いったい何のためにそんなことをやらなければならないのか、その理由がわかっていないらしい。


12月24日

 別に何を語ろうとしているわけでもないだろうが、しかし何も語ることがない。ではなぜ言葉を記そうとするのか。それがわからないということにしておいて、毎度おなじみの語る理由探しでも始めればいいのだろうか。見え透いているだろうか。何がそうなのかわからず、ただわからないふりをしているだけかもしれず、そんなふうにして語るのはまずいか。だがそれも毎度おなじみの空疎な語りなのだろうか。そんなことをいくら問いかけてみても、まともな答えは出てこないか。そんなわけで君はいつものように焦り、何を深刻ぶることもできずに、とりとめのない空想にふけるわけにもいかず、また何もできなくなってしまうのか。これまでに何かができたためしはなかったはずか。誰かはそれでも言葉を記し続けるつもりのようで、何かが出てくるまで、ひたすら空疎な言葉の組み合わせを模索し、虚無的な文章を構成し続ける。だが今さらそんな嘘をついてどうするのか。嘘ではなく、本当にそうなっていることを認めてみたらどうか。そんな架空の対話もどきでその場を切り抜けられるとでも思っているのか。急場しのぎは毎度のことだ。しかもすでに飽きているはずで、何かもっともらしい言説でも記してみたい衝動に駆られ、たまには本気を出して、そういう雑文ライターまがいの内容でも模索してみたらどうか。しかしどこまで本気なのか定かでない。たぶん冗談でそんなことを述べているのだろうが、果たしてそれでかまわないのか。

 かまわないわけがない、と誰かが反論したいところかもしれないが、それにしても何も出てこない。ならばどうしたらいいのか。なぜこの世界が存在しているのだろうか。まったくとりとめのないことを問うのはいつもパターンだろうか。その辺に人間の思考構造に欠陥があって、答えがでないことがわかっていながら、あえて問うてみるのは、何か適当に考えているように装うための方便か何かか。そしてそんなふうにわざと間違えてみせるのも、何らかの戦略に基づいた思考形態のなせる業か。それもいつものことかもしれないが、どうもその辺が違っているようだ。何かまともな言説から逸脱させようとして、そんなことをしきりと述べているような気がしてならないが、回りくどく述べているようでいて、やはりそれは何かの欠陥が影響して、そうなっていると思わざるを得ず、そういうやり方ではまずいと思いつつも、結局はそれに頼って文章を構成してしまい、これも毎度のことながら、虚無的で空疎な内容が記されてしまうわけだ。どうもまた迷路の中で迷っているみたいで、次第に何をどう述べたらいいのかわからなくなりかけている。それはありがちは話の展開か。たぶんそうだとしても、それは違うと思うしかないのだろうし、そう思いながらも、それとは違う何かを模索しようとしているのだろうか。そう思いたいが、現実はこれか。これではだめなのか。たぶんそうだ。そうに違いなく、絶えずそれとは違うやり方を試してみなければ、いつまで経ってもこんなことばかり述べていることになるだろう。

 しかしそれでも卑屈になるべきではないか。そしてそんなことを述べている自らの自己欺瞞に気づくべきでもなく、そんな自らを正当化すべきでもなさそうだが、果たしてそれで自分について述べていることになるのか。別にそんなことを述べているとしても、それで自己嫌悪に陥っているわけでもなく、そんなことを記している自らが何者なのかわかっているわけでもない。いったい誰がここで言葉を記しているのか。また冗談でそんなことを述べてみるが、君にはそれを笑えない事情でもあるのだろうか。たぶん君が自分ではなさそうで、言葉を記している誰かも自分からはかけ離れた存在か。君や誰かの性格など誰が知るよしもなく、だいたいそれらのフィクション上では、君も誰かも、それ自身についての説明が何もないではないか。しかし誰がそれについて不満を抱いているとも思えず、それに自分が何を指す言葉なのかもはっきりせず、もしかしたら自分が自分でない可能性もあり、それも嘘かもしれないが、そんなことをいくら間違えても、誰も何とも思わないのではないか。別にそれらの中でいくら誤りを指摘されても、すべてが誤りなら、そんな指摘は無効か。もちろん文章中の何が誤っていて、何が正しいかなんて、君にも誰かにもわかっていないようで、だいいちそんなのは知ったことではないのが、君と誰かに共通するその場の態度なのかもしれず、それもその場の都合でついた嘘かもしれないが、やはり何となくそれでかまわないような気がしてきて、誰がそういう気がしているのか定かでないが、たぶん自分がそう思っていることにしておいても、何の差し支えもないことは確かだろうか。


12月23日

 どうやら何を押しとどめているわけでもないらしく、ただ単に頭が悪いだけのようだ。取り越し苦労とはこういうことか。しかしそれが何なのか、その具体的な内容を記述するのは面倒なので、また適当に省かれ、何が何だかわからない空疎な何かとなりそうだ。それでかまわないのだろう。そう述べて何を狙っているわけではなく、他の何をどうこうしたいわけでもない。しかしそれらの小説など読む気にならないことは確かで、何がそれらなのか相変わらず不明だが、それらとはそれらでしかなく、特定の何かがそこにあるわけでもないのだろう。君が読もうとしているのは、目の前の画面に映っている空疎な文章に他ならない。君にはそれがお似合いなのか。しかし君とは誰のことを指しているのか。その辺もいつものように明らかにならないところだが、そのまま放置されながら言葉が連なってゆくと、やがて決定的な破綻を来すことにでもなるのだろうか。そうなったらなったでおもしろいから、そうなってから対処するとしよう。だがその時になったら、もはや手遅れとなっているのかもしれず、それ以降に何をどう語ろうと、たぶん意味不明なことばかり記していることになるのだろうか。それもそれでおもしろいか。現代人は常にメディアから影響を受けていて、改まって何か利いた風なことを語ろうとすれば、それはメディアの受け売りみたいなことしか語れないのかもしれず、それを拒否して何か独自の内容を語ろうとすれば、虚無的で空疎なことしか語れないのかもしれない。まあそれは語る人の経験にもよるか。

 だがたとえ自らが経験したことを語るにしても、それがその人しか経験できない固有のものなのかどうか疑わしく、たぶん誰もが経験していることを、その人も同じように経験したに過ぎなく、そうした経験についてはすでにメディア上で語られていて、他の誰かがそれを語っている場合が多く、たとえその人がそれを知らなくても、同じような状況で経験していたりするから、同じようなことを語ってしまい、その人にとって真新しい経験かもしれないが、他の人たちにとっては、誰もが知っているどうでもいいようなことでしかないのかもしれない。だがそうであったとしても、人はそれについて語りたがるものだ。そして中には得意になって、利いた風な見解をこれ見よがしに披露してしまう輩もいて、他人から笑われてしまうのだろうか。だから冗談やギャグがあり、それを使って、笑われる前に笑わせてしまおうとするわけで、そんな需要がお笑い芸人の存在意義を高めているのだろうか。しかしそれがどうしたわけでもないだろう。笑われたり笑わせたりしても、それはそういうことでしかなく、そこに何か肯定すべき要素があるとも思えず、ありふれたことを何かすごいことのように思い込み、勘違いして語れば笑われ、それをわざと勘違いしているように装いながら語れば、笑わせていることになるだけで、笑われている側も笑わせている側も、そんなありふれた世の中で同じように暮らしているに過ぎない。

 そんな世の中で何か救いらしきことでもあるわけか。ありふれたことにありふれた反応を示し、それをありふれたことのように語ったり、あるいは何がそれがすごいことのように語り、笑われたり笑わせたりしている。冗談を述べるならば、そういうこと自体が感動的か。あるいは驚くべき状況だろうか。自虐的に笑いながらそんなことを述べるべきではないか。たぶん君は嘘をついているのではないか。この世界には何か本物の感動があり、それを感じ取る能力を養うべきで、何か勉学に励んだり、どこかで修行したりして、苦労した末に本物の感性を身につけ、君も嘘偽りで塗り固めたような軟弱さを捨て去り、正真正銘の本物の人間となるべきか。しかしなぜそう述べて笑ってしまうのだろうか。どうしてもそんな本物志向を馬鹿にしなければ気が済まないのか。何となくその辺で誰かは虚無的な強靭さを身につけているようで、安易に本物が善であるという出口を提示する気にはなれないようだ。本物志向という幻想も、虚飾に彩られた世の中を否定したい、というこれまたありふれた心理作用から生じたものでしかなく、本物が希少で偽物がありふれているかのような思い込みにすがりついても、その希少で高価な本物で着飾っていること自体が、ブランド嗜好という虚飾そのものなのだから、要するにそれもありふれた人間がやるありふれた行為にしかならないわけで、世の中にはこれをやれば正解というような単純なものはないらしい。もちろんこれもありふれた見解のうちのひとつに過ぎないが。


12月22日

 そんなふうに思うのはおかしい。それらの何が気に入らないのか。そんな言葉があるとは思えないが、無謬性を手に入れたいのか。完全無欠でいられるはずがなく、そういう水準で何を語ろうとしても、独我論的な話の展開となってしまうだろう。何を示そうとしているわけではない。ではただそれを覚えているだけか。覚えていて損はないことを覚えている。そんなものはいくらでもありそうだ。何かを訴えたいらしい。それが切実な願いとなり、次第に何らかのこだわりが生じて、何かをやる上での重荷となり始めているようで、それが誰かを苦しめる。人はそうやって石化してしまうわけか。心身ともに固まってしまうのは老化現象のたぐいか。無理に動かそうとすると転んで怪我をする。だがそんなことをやりたいわけではないのだろう。誰かは何かを語りたいはずで、それを明らかにしたいらしく、言葉を組み合わせて言説を構成しようとするが、考えれば考えるほど何も出てこない。そうする理由がどこにも見当たらず、結局は何を語ろうとしているのでもないことに気づき、途方に暮れてしまうか。何かのために何かをやらなければならないと思うのは、身の回りを取り巻いている無意味な光景に抗っていることになるのだろうか。何かがわかるまではさらに考える必要がありそうで、今は急いで語る気にならない。だからぎくしゃくした対話形式の自問自答とはなりがたい。切羽詰まればそうなってしまうのかもしれないが、とりあえず今はそうなるのを何かが押しとどめているようだ。

 ぎりぎりのところでかろうじて言葉を記しているのかもしれないが、いったんそんなことを意識し始めたらそこで終わりか。気分が優れず、すこし鬱気味になっているのかもしれず、気が滅入るばかりでは何もできなくなってしまうような気がするが、曇り空は次第に晴れてきて、それが何かと裏腹の関係にあるとも思えないが、とにかくそんな状態から抜け出す必要がありそうだ。何とかしなければならず、何も方策がないようだが、その辺で踏みとどまらないと、あたかも堤防が決壊するかのように、一気にどうでもよくなってしまうだろう。ちょうど今がその状態か。それともただ単に眠いだけだろうか。ならば嘘でも冗談でもかまわないから、何としてもそれをやり遂げてしまわなければならなくなっているのか。だからそうする理由がどこにあるのか。そういうパターンならいつもの成り行きだ。まったく何も語らないうちからそれか。なぜそんなふうに語ろうとするのか。その辺に限界があるのだろうか。空は完全に晴れているようだ。また一段と翌朝が冷えるらしい。ただ風景を眺めているだけでは埒が明かず、そこから何かを考えなければならないが、なぜかそこで思考が止まっているようだ。どう眺めてもただの風景に違いない。それについては何も語らなくてもいいように思われ、しばらく押し黙っている。何が崩壊しているわけでもなく、そんな兆しはまったく感じられない。この世界はいつまで経ってもこの世界でしかないだろう。

 たぶん何かに影響を受け、そんなことを述べているのかもしれない。魅力を感じられない成り行きに苛立ち、強引にそれをねつ造しようとしているのでもないだろうが、詐欺やペテンのたぐいに引っかかっているとも思えず、そうなって当たり前のように推移する状況の変化を、誰が押しとどめられるだろうか。どんな理由もなく、それを続けようとしても、やる気もないのに続けるのには少し苦痛を伴うか。別にそれを気にするふうも見せずに、淡々と言葉を記しながらも、たぶんそこから抜け出て、何もやらない日々を送りたいのかもしれないが、実際にはいつまで経っても離れられず、いい加減にやめてほしいと願いつつ、そんな願いを無視して、延々と無駄に言葉を記す日々を送っているのかもしれない。そしてたとえそこから抜け出られたとしても、その先に待っているのは何もない時空だけか。今でさえ何もないのではないか。何かを語ろうとして果たせずにいるのだから、すでにそんな状況からは抜け出ているのではないか。ではこの先いくら言葉を記しても、それは何もやっていないのと同じことか。そう思っているのならそういうことになるだろう。そうではないと思いたいなら、何か中身のあることを語ればいい。それができないからこうなっているのではないか。そんな無駄な努力の日々の中で、そんなことを思いつつも、本気でそう思っているわけではないと強がってみせ、また誰かが何か工夫を凝らして、虚無的な言説を長引かせようとしているのか。君はそうではないことを祈っているはずか。


12月21日

 またいつもの夜だ。昼頃から曇ってきて、今は雨が降っている。明日の昼までには止むそうで、それがどうしたわけでもない。考えているのはそんなことではなく、どんなことでもなさそうで、要するに何も考えていないわけか。心がそこから外れようとしているのか。あまり乗り気でない。それが独特の言い回しとも思えず、何を語ろうとしているわけでもないが、やはり何か語らないと文章にはならないのだろう。それはわかりきったことかもしれない。何かを強引に押し進めようとすれば、軋轢が生じてしまうのもわかりきったことか。誰かが滅びの道を歩んでいる。それが偽ユダヤ人たちであろうと、どこかの超大国に住んでいる住民たちであろうと、そんなことは関係ないか。道理を無視したやり方がまかり通っている社会の現状に絶望しても、そんなことはおかまいなしに、誰かが利益を追求するために、必死になって努力する。どんなに自己正当化しようと、結局はそういうことの範囲内でそうしている。当たり前のことなのだろうが、それをしないと、生きている気がしないのかもしれず、生きているということが、そういうことをやっている自身の存在を誇示することなのかもしれない。だが君はどうもその辺がうまく説明できないらしく、まともに語ろうとすると、必ず語っているうちにそこから逸脱してしまい、気がつけば空疎なことを繰り返し述べているだけとなっていて、当初に語ろうとしていた内容とはまったく違ってしまうわけだ。

 そしてそれでかまわないと思うしかなくなり、さらにそこから離れていってしまい、結局は語ること自体がどうでもよくなってしまうのか。今もそんなふうに語っているのだろう。君はそこから外れたいのか。現に外れているではないか。そこに至る手順を無視して、いきなり物事の核心に至ろうとして、弾き飛ばされ、わけのわからぬ成り行きを経て、どこかの荒野でさまよっているわけでもないだろうが、やはりどこまでも弾き飛ばされたいような気になり、何の理由も導きだせぬままに、そんなことを記してしまうわけだ。そこで誰が放浪しているのでもないのに、何となくそんな雰囲気に憧れ、現実の厳しさを抜きにしたような虚構を作り上げようとするが、果たしてそれに成功したことがあるのか。どこで話が成り立っているとも思えず、いつもの支離滅裂な言葉の分散具合が、ありふれた自己満足を誘っているわけだ。やはりそれでかまわないのだろうか。何がやはりなのかわからないが、たぶんかまわないのだろう。そんなふうにしか語れない現状の中で、誰かが言葉を記しているわけだ。そんな君はどこまでも正しい。嘘をつくとすれば、何かのついでに自らの正しさを主張することだ。そして君の正しさは自らの正しさとは結びつかず、記された言葉の連なりは誰の自己主張も受け入れず、誰の主張の正しさも証明してくれない。今まさにそんなやり方がまかり通っているわけか。君のせいではない。ではそんな現状の中で滅亡することは困難か。

 そこで何が滅亡するのだろう。そういう話ではなかったはずだ。わかりきったことを述べていたはずで、それが君を破滅に導く予定だったかもしれないが、途中で逸脱したために、結果的にはそうはならず、さらなる試練も待ち受けてはおらず、以外とすんなりとここまでやってきてしまったようだ。いったい誰が君の身代わりとなって破滅したのか。そんな話はありふれているだろうか。果たして君は神に生け贄でも捧げたのか。神が無神論者の君が捧げた供物などもらうはずがない。たぶんそんな成り行きにはならなかったはずだ。四人の英雄が奏でる音楽を聴きながら、それについて何を思っているわけでもないだろうが、ただグループがそういう名称なのだろう。それがわざとらしい逸脱といえるか。別にウケ狙いで工夫を凝らしているとも思えない。そんなことはどうでもいいはずで、ようは言葉がそこに記されていて、何やら読ませて感動させたいわけでもなく、そこに何かしら内容らしきものが感じられれば、それでもかまわないのだろうが、別に空疎な無内容であってもかまわないはずだ。現にそうなっているのではないか。そこから何を踏み外そうとしているのでもなく、その何かが栄光への道であるはずもなく、それらのわざとらしい踏み外しを、他の誰かが文章中に再現しようとしているのでもない。それらはどこへも至らない迷路であって、出口も入り口も定かでなく、どこから入ってもどこへ出ても、そんな入り口も出口もとりあえずのものでしかなく、捉えようによっては何でもないわけで、他の何かでさえある。


12月20日

 まだどこかひねくれたことを述べているような気がするが、それが改まらなければ、まともなことを述べていることにはならないのか。別にそうなろうとして努力しているとも思えず、ひねくれているとすれば、それはそれでそういうことでしかなく、何がどうなろうと、それをどうしようとしたいわけでもなく、そうなるならそのままでもかまわないと思い、後はそれを押し通すだけのように思われ、そんなことをひたすら繰り返していれば、そのままで誰かの人生を棒に振ることにでもなるのかもしれないが、それもフィクションの中でそう思っていることに過ぎず、あまり真に受けるようなこともなさそうに思われ、それはそれでそんなことを述べていれば、それで済んでしまうのかもしれない。しかしそこで何をやめようとしていたのか。何か今までの努力が水の泡になるようなことでもやっていたつもりなのか。今さらそれらの何に反論しても無駄だ。何を語ろうとしても、その語っている前提が嘘なのか。単に言葉を記しているだけで、それについて何を述べようと、何となくそうではないような気がするだけで、実際には何も述べていないことを主張しても、そんなふうに思わなければそういうことにしかならず、そこからどのような反論も導きだす気にはならず、それでいてさらに言葉を付け加えようとすれば、やはりそれは何でもないこととなってしまい、ただ馬鹿げた言葉の応酬が繰り返されるのみか。

 たぶん何がひねくれているわけでもなく、そこには真っ当なことを語る土壌がないのであり、ああいえばこういうたぐいの、くだらぬ議論を白熱させているわけでもなく、ただの自問自答とまではいかないにしても、それと似たたぐいの雰囲気を漂わせながらも、そういう範囲を抜け出ようとしているのだろうが、どうも今ひとつ煮え切らないことを語り、その場に漂っている厭世観を利用しつつ、そんな否定的な言説を弄んでいるようないないような、そんなことを述べている現状に嫌気がさしているのに、そこから離れられないことに関して、何かあきらめの境地に至っているのかもしれず、もういい加減い開き直り、そんなことの繰り返しを肯定すべきとも思われるが、その辺も今ひとつ煮え切らないようで、どうしてもそうではないような話の展開を模索しているようにも思われ、現にその辺に躊躇があるようで、何だか馬鹿になりきれない馬鹿のような心境に至っているのかもしれないが、そんなふうになっても現状を変えようと努力しているつもりなのだろうか。たぶんそうだ。今この期に及んでも何とかしようとしているわけで、実際に何とかなっているような未来を夢見ているのだろうし、そんなことを思っているすべてが冗談だとしても、なおのことそこから話を前進させたいようだ。何だかそれは無理に決まっているのに、その無理に向かって進んでいき、無理が無理であることを証明するために、ひたすら失敗し続けているようにも思われる。

 それでもそこから先に進めば何かがあるに違いなく、それを探して、その先へと言葉を記しているようで、その何かが何でもないことだとしても、その先がその先であることを確かめることに意義があるように思い込み、さらに言葉を連ねて、その先の言説を探し当てて、それを提示しようと思っているのかもしれないが、果たしてそれが何を意味するのだろうか。意味があろうとなかろうと、そこへ進んでいくしかないようで、まるで慣性の法則に従っているかのごとく、いったん言葉を記し始めたら、ただ延々とそれを記し続けるしかなく、その内容がどうであろうとおかまいなく記し続け、やがて虚無的で空疎な無内容だけとなってしまうのかもしれないが、それはそれでそういうことの結果としてそうなってしまうだけのことでしかなく、その辺で何かの自家中毒となり、わけがわからないふりをしつつ、そんなふうに思っている自らを正当化しようとするわけだ。人は誰でも社会に対しても国家に対しても会社に対してもフリーライダーとなり得る。たぶん無責任に振る舞おうとすれば、いくらでも振る舞えるのであり、小狡く立ち回れば、ある程度は自らの居場所を確保でき、狭い範囲内で凝り固まって、卑屈なことをやっていられるのだ。勘違い気味に良心を捨て去り、他人に媚びへつらい、その他人から嫌がられながらも絡み付き、どうしようもない下劣なやつだと蔑まれながらも、平然と生きていけるらしい。そして家に帰れば自分の子供たちに、整理整頓ができていない、などと説教したりして、また町内会の役員になって、休日には道路のゴミ拾いなどを率先してやったりして、良き父親や良き市民を演じたりしているわけか。


12月19日

 別に天気の話をしたいわけではないが、たぶん晴れているのだろう。外が明るい。誰かが地下室でうめき声を上げる。そんなはずはないか。ふとそんな光景を空想して、何やら虚構を記そうとするが、そんな嘘をつくまでもなく、誰かが忙しなく後片付けをして、そこから退散しようとしている。何を驚かせようとしていたのか。言葉が意味から外れているのかもしれない。それはあり得ないことだ。ではもう少し違った場面を想起してみよう。眠気とともに影がやってきて、その辺を一回り散歩している猫を捕まえようとするが、自らが何を果たそうとしていたのかを忘れていることに気づき、そうではないと思い、もっと違うことを記そうとするが、もう遅いだろうか。すでにそれらはいつもながらの意味不明に違いない。何がそうなのかわからず、それほど困り果てているわけではないが、やはりまともな文章に近づけようとしているらしく、文脈から外れた箇所の修正を試みているようだが、今さらどうにもなりはしない。すでに何かから外れに外れ、何が何だかわからなくなっている。またくだらぬことを記してしまったらしい。心はどうしてもそこから離れられず、何をどう考えても、虚無的に空疎な記述に終始してしまい、それを改められないまま、気がつけばまた次の段階へと進んでいる。そう思った時にはもう遅いのか。それはそうだろうが、そんなフィクションを受け入れられず、なるほどそれは困った状況になりそうだ。

 どうしてそうなってしまうのか。わざとやっているとも思えず、何かの巡り合わせとしか思えないようだが、やはりそんな語り方がわざとらしいのか。言葉の恣意的な組み合わせが状況の混乱を招き、そうではないと思いつつも、そんな語り方で妥協してしまうようで、誰にも到底受け入れられないような空疎が導きだされ、それがどこかに刻印されているようで、そんなはずもなく、それは違うと思えば、そうではないと返答するしかない。いったい誰の問いかけに返答しているのか。それが返答の体をなさないことは明白か。それ以前に何が違っているのだろう。案外何も違っていないのに、ことさら違っていると思い込もうとして、そういう思い込みが違っていることに気づかないだけかもしれず、要するに何が違っていようと、それは何でもないという結論にしか至らないということか。ならばそれが何かが違っているという問いかけに対する返答となるのか。そう思うならそれでもかまわないだろう。だがそう思わないなら、他にどう思えばいいのだろうか。何とも思わなければいい。それも簡単な返答となりそうで、そんなたぐいの返答などいくらでも可能か。やろうと思えばいくらでもできると思われるのは、それがフィクションの中で述べられていることだからか。そうだとしても、それらの何がフィクションなのかわからず、別にそんなことを問いかける必要も感じられず、そんな問いかけに答える必然性もありはしない。すべては空想の中で成就するような関係でしかないか。

 そこで何を問いかけてみても、まともな返答など期待できず、必ずねじれた対応が引き出され、君を困惑させ、場合によっては苛立たせる。きっとそんなふうにしか事態は進展せず、結果的には期待外れに終わるしかないのだろうが、それがおもしろいのかもしれず、そんなふうに語ってしまうことが、人々をどうにもならない迂回路へと導いているのだろう。骨折り損のくたびれ儲けとなるような成り行きの中で、それを繰り返す度に感性がすり減り、空想力が疲弊して、心が紋切り型的な思考に取り込まれ、同じことの繰り返しを何とも思わなくなり、それが当然のことのように行動して、たぶんそんな自らが大人だと思うようになるのだろうが、別にそれがとんだ勘違いというわけでもなく、それどころかそうすることが正しい行いのように感じられ、意識は次第に日常の平凡な営みの中に埋もれ、どこにでもある風景の一部と化すだろう。それで人の動作が過渡状態から定常状態へと移ったことになるのだろうか。もし君がそうなったとして、それで何かが変わったことになるわけか。当たり前のことを当たり前のことのように思えるようになったということか。では以前はそれが何だと思っていたのか。何かが違っていると思っていたわけか。しかしいったい何が違っていたのだろうか。今となっては何もわからなくなっているのかもしれないが、そんなことを語るまでもなく、たぶん今も昔もそんなふうには思っていないのだろう。では今までに語ってきたすべては冗談だったのか。そう思うならそういうことにしておけばいい。


12月18日

 どうもおかしな状況になってきた。何がおかしいというわけでもないが、とにかくおかしい。また嘘をついているのだろうか。おかしな嘘をついているということか。とりあえずそれに関しては何がどうというわけでもないのだろうが、変な成り行きの中で誰かは言葉を記している。それだけのことだろう。確かにそれはそうに違いないが、言葉を記している環境がいつもと違うだけで、他に取り立てて変わったことはないのではないか。それでもそういうことを記さなければならない状況なのだから、それはおかしなことではないか。他に何を思いついたわけでもなく、小さな羽虫が画面上を動き回り、その言葉を記してる場がいつもとは違うことを感じさせるが、やはりそれだけのようで、他に何がどうしたわけでもなく、相変わらず空疎なことを記しているわけで、そこで何を思ってみても、そこから何か気が利いた思考を導きだせるわけではない。君はあいわからずそんなことを思い、まともなことを語るにはほど遠いレベルで、それらの主張なき主張を明かしているわけだ。そんな案配で何を主張しようとしても、結果的には何も主張していないのと同じことか。そういう状況が気に入らないのなら、それにいかなる反論ができるだろうか。具体的には何を主張しているのか。何もなければ反論しようがないではないか。やはりそれは冗談で述べていることなのか。そういうことならそうに違いないだろうが、果たしてそれでいいのだろうか。

 やはりそういう状況を通り抜けないと、まともな主張には到達できないのかもしれず、今は心に溜まった虚無を吐き出し終わるまで、空疎な言葉の連なりを記し続けなければならないわけか。そうだとしてもそれがいつまで続くのか。続けようにも続けられるはずがないか。まともにはいきそうにないだろう。おそらく途中で嫌になり、中途半端なまま、それを引きずってしまい、いつまで経っても空疎な語りから抜け出られないのかもしれず、それをそのまま延々と繰り返すはめに陥ってしまうのだろうか。そうだとしてもそれを受け入れる必要があるのか。それとも必要もないのにそんなことを述べていること自体が、そうなっている証拠か。どうなっている証拠なのだろう。その辺もよくわからないが、言葉を記している誰かは何かに取り憑かれているのかもしれない。虚無に取り憑かれているとしたら、わかりやすい説明となるだろうか。だからそんなことを延々と語っているはずだが、それらの何が虚無なのか。その辺も文章の中でしっくりくる説明が欠けているようだ。本当に何がどうなっているわけでもないとしたら、ただいたずらにそんなことを記し続けるのもおかしなことか。だからおかしな状況というわけか。そうだとしてもなおのこと謎が深まっているだろうか。だがそれらの何が謎だというのか。ひたすらそんなことを記し続ける理由がわからず、それが心の中で謎を形成しているわけか。だが相変わらず回りくどいことを述べている。

 何の因果か知らないが、状況がおかしいと思わないと、言葉を記せないように思われ、世の中で何か変わったことが起こらないと、それについて語れないのかもしれず、いわゆる事件の目撃者的なことを語るのはありふれているのだろうが、やはりそういう成り行きの中で、誰もがジャーナリスティックに語ろうとして、そんな語り方が蔓延しているからこそ、自らが何か重大な出来事に立ち会っていて、それについて語らなければならないという使命感とともに、大げさに語ろうとすれば、それが現代の紋切り型的な言説となって、それふうの言説を伴った意識たちに受け入れられ、何となくその辺でそういう言説を流通させることで、要するに利いた風なことを述べているという実感が湧いてくるのだろうが、しかし自らにとって重大な事件とは何なのか。例えばどこかで凶悪な殺人事件が起これば、それが自らにとって重大な出来事となるのだろうか。ただそんなニュースを見聞しているだけで、それが重大と感じられることはなく、そういう事件が多発すればありふれたことにしかならず、当事者でもない限り、個々の事件などすぐに忘れてしまうだろう。ならばそんなことはどうでもいいことなのか。たぶん誰もがそうは思わないだろう。では君にとって見ず知らずの人が殺し殺されるのは重大なことなのか。とりあえず興味があり関心があるから、そんな事件が報道されるニュースを見ているのではないか。それが重大か否かは、ニュースを見る上での判断基準とはならず、ただそれがさも重大事であるかのごとき報道のされ方をしているニュースを、暇つぶしに見ているだけかもしれない。


12月17日

 相変わらず疲れているのか。たぶんそうに違いない。それができなくなっている。それとはこれのことか。くだらぬ成り行きにはまって調子を乱されている。たぶん考える必要はないのだろう。それについて何をどう考えても行き詰まるだけか。ならば何も考えずに眠ってしまった方がいい。無駄に考えていたわけだ。そして何も思いつかなくなる。やはり調子が悪い。台本どおりならそこから決定的な対立へと向かい、何かの破局に立ち会わなければならない。ありふれた成り行きだろうか。ありふれた物語の登場人物なら、そこからがんばって、何らかの成果を上げてしまうのだろうが、残念ながら今はそういう虚構を語る機会は巡ってこないだろう。永久にないかもしれない。あり得ないことだが、今はそう思われてしまう。この感覚は確か以前にもあったかもしれない。君はあり得ない何かを覚えている。そこには演劇的なそれではない何かがあるらしく、それに関しては頭の中がまっさらで、まだ何も考えていない領域で、何かが起こっているのかもしれない。しかしまたわけのわからないことを述べているようだが、君はそこで何かを知ってしまったのか。それは本来なら気づかないことか。本来でなくても意味不明だろう。他の誰かがそんなことを思いながらも、今ひとつそれを信じきれず、何かごまかしに走ってしまう可能性も出てくる。その場を取り繕うには、そんな嘘をついて、自らの非を認めなければならないのか。

 何とかその辺で踏みとどまって、さらに言葉を記すとしよう。二日後の空も晴れていて、そこで何を待っているのか定かでないが、とにかく結果を待つ身は辛いようだ。天から何かが降ってくるのか。雨なら降ってきそうだが、それを期待しているわけでもあるまい。何かの機会が巡ってくるのを待っているのかもしれない。中には待ちきれずに犯罪に走る輩もいる。だからその辺が意味不明のようで、何を語っているのかわからず、何となく馬鹿にされているような気になり、わざと不機嫌を装うのもおかしいか。無理に言葉を記しても、まったく文章になっていない。もう現実の世界にその身を置いていないのだろうか。その辺の記憶が曖昧で、どんな夢を見ていたのかはっきりしないらしいが、夢について語る気もないのに、そんなことを記してしまい、後に退けなくなってしまったように思い、かといってそこから強引に昨晩見た夢をねつ造しながら語る気にもなれず、やはり何だかんだで、現実に起こったことを語ろうとするが、そこには何の出来事もありはせず、そんなわけで何も語れなくなる。自業自得だろうか。あるいは心の病か何かか。言葉の病なのではないかと思うが、そんな病があるとも思えず、何事も病で片づけようとするのは、何かから逃げている証拠か。君は目の前にある虚無から逃げているのだ。笑ってしまうが、そんな嘘をついて何になるわけでもなく、それはただの時間稼ぎか何かだろうか。

 しかしそうでもしなければ空白に言葉が埋まらないだろう。その必要もないのにそんなことを述べようとすれば、必然的にそうなってしまうのではないか。だから何をどうしようというのでもないはずで、ただその場で感じたことを言葉にして、それを文章にすればいいだけだろう。簡単にそんなことを述べているようだが、それができないから行き詰まり、焦り苛立ちながら、無理に言葉を繰り出そうとするから、結果的に空疎なことを延々と語っているわけで、そんなことをやっているから、目の前に虚無があるように感じられるのではないか。だがそれで何かを説明したように感じられるのだろうか。たぶん説明しているはずだが、だからどうしたわけでもなく、そんなことを説明しても、何がどうなるわけでもないが、とにかく何かを語っている現状を保とうとしているだけかもしれない。それで何がどうなったのか。言葉が記され文章が構成された。それはありふれたことかもしれず、それでかまわないのだろう。だがもう少し何とかならないものか。できればまともなことを述べているような状況にしたいらしいが、現時点ではそれは無い物ねだりになり、その代わりにそんなことを述べている現状があり、さっきからひたすらそんなことを説明しているような気がしならず、それ以外を求めながらも、それしかない状況に業を煮やし、そこから何をやる気になっているのかわからないが、とにかくさらに言葉を記そうとしていて、ただ闇雲に前進あるのみのような気がして、何となく恐ろしくなってしまう。それは嘘だろうか。


12月16日

 今日は何も語らないつもりなのか。それは今日が今日ではないから語れないということか。すでに日付は翌日になっているはずだが、そんな嘘をつくのもいつものことだ。それの何が嘘なのだろう。いつも何も語っていないようでいて、その代わりにくだらぬことを記しているように思われるが、それでは語る代わりになっていないのではないか。それでかまわないだろう。そこから何が出てくるわけでもなく、取り立てて何も思わない日々の中で、無理に何かを語れるはずもない。では現状では何も語れないのか。たぶん結果的にはそうなってしまうのだろうが、その前に何か適当に言葉を記して、その場を取り繕うつもりらしく、それで済むはずがないように思われるのだが、もうすでに言葉を記し始めてしまったので、君には止めようがない。しかし何を長々と語れないことのいいわけを記しているのだろうか。翌日の空も晴れて青く、朝は冷えて寒い。今は昼の時間帯かもしれないが、仕事の合間に記しているので、記し終えるまでには夜になってしまいそうで、結局は遅れを取り戻せそうにない。別に何も語るべきことを導きだせないのだから、空疎な内容を受け入れるべきか。誰に受け入れられるのだろう。ならばもうくだらないことを記すべきではない。君にそれができるだろうか。やらなければいいのであって、これ以上言葉を記さなければそれでかまわないのではないか。かまうかまわない以前に、言葉を記しているのだから、それを止めることはできない。そんな理由がどこで通用するのか。何を通用させようとしているのでもないか。

 それはいつもの冗談に違いないが、つまらない。確かにつまらないが、それが現状を物語っていないか。つまらない現状というわけか。そんなふうに語ることはできる。頭の中で何かが固定されている。狭い範囲内で凝り固まっているのか。そうだとしても、語る必要のないことを語るべきではない。周りを眺めれば、街並が心なしか傾いているようだ。きっと気のせいだ。自らの首が無意識のうちに傾いているのではないか。君はロボットではない。人間だからといってどうしたわけでもないだろう。人は何を考えているのか。そんなところまで考える必要はない。コーヒーを飲み過ぎているようだ。だがそれが誰かの精神にどんな影響を及ぼしているとも思えない。何かが画面上に滲み出ているようだ。そんなふうに思っているわけではなく、繰り出された言葉がまとまりを欠き、文章として筋道が通らなくなっているのではないか。それでも何を語っているわけでもないと強がっていられるだろうか。果たしてそれで強がっていることになるのだろうか。どうもまた何かが違っているようだ。放っておくと、どこかへ逸脱していってしまいそうか。何かについて語るとはそういう成り行きの連続から形成されるのではないか。ならば願わくばそれが良い方向へ逸脱していっていることを祈ろう。もとから外れているのだから、今さらどこへ逸脱しようとかまわないのではないか。言葉を記している誰かにとってはそうかもしれない。

 難儀しながらここまでやってきた。そんなに苦しむような状況ではないのだろうが、簡単に述べようとすると、必ずわけのわからない迂回路に入ってしまい、そこから抜け出るのに一苦労することになってしまう。気がつけば久しぶりのマイルスの曲だ。音楽を聴いたからどうしたわけでもないが、トラブル続きで、どこかへ逃避してしまいたくなってきたところで、偶然にマイルスを聴いている。それがどうしたわけでもなく、すぐに別の曲になってしまい、やはりそれもどうしたわけでもないのだが、何となくマイルスなのだ。もう夜になっているようだ。どこかに何かの限界があり、それを超えることができないから、人はいつまでも人でいられるのだろう。だがそのいつまでにも限りがあり、やがて土に還る日が来るのかもしれないが、それもどうしたわけでもなく、死んで火葬されて灰になったところで、やはりそれがどうしたわけでもない。たぶん君は何とかその辺で終わりにしたいのだろう。ここまでくれば何をやっても埒が明かない。トゥーツのハーモニカが印象的なメロディを奏でようと、それほど心動かされるわけではない。それから途方もない月日が流れ、やがて誰にとっても終わりの時が来るのだろうが、君がそこで何をうろたえようと、終わりは終わりなのだ。もうその先はなく、何をやろうとしても無理なのだろう。しかし君はそこで生きているのだろうか。いったいそこで何かを悔やんだりする機会が与えられるのか。誰が何をもたらしてくれるわけではない。


12月15日

 相変わらず何を語っているのでもない。そんなふうにして自らの語りを否定してみせても、何の意味もないことだろうが、そんなふうに語らなければ、語りようがない状況下に誰かはいるのかもしれず、そうやってひたすら自己否定的に無駄な言葉を記しながらも、それと同時に無意識が何かを考えているのかもしれない。たまに思いもよらぬことが記されることがあるのかもしれないが、それは無意識が考えていた内容だろうか。そんなことがあり得るのかどうかよくわからないが、君はそれをどうにかして、意識が考えるようにしたいのかもしれず、頭の中で意識と無意識を反転させて、何かいつもまともなことを考えているように意識したいのだろうか。何がそんなにおかしいのか。また無意識のうちに荒唐無稽な妄想を抱いているのだろうか。その内容は具体的にどういうことなのか。それは様々な方面にわたることであり、具体的に何がどうこうというわけではなく、それぞれがまとまってひとつの思考を示すことはなく、だからそれらを言葉で表現するのは難しいのかもしれない。ならばそれについて語るのは不可能なのか。そうであるとすると、意識と無意識とを反転させたところで、事態は何も変わらず、相変わらずわけがわからないようなことを述べているだけで、そもそも意識と無意識とを区別するのは無理な話なのではないか。そしてたまにまともなことを語ろうとするが、それは頭の中の神経回路が、何かの巡り合わせで偶然につながった時だけ、それが作用してまともに語れたように思われるのだろう。

 君がそんな説明に納得するとは思えないが、何となくそれらしい説明になっていれば、その中身がまったくのいい加減であろうとなかろうと、それでいいのかもしれず、もっともらしい内容になるように、話のつじつま合わせをする気にはなれず、たぶんそのまま何も修正を施されずに放置されるのだろうが、なぜまともな言説に近づける気にならないのか。何となくその気にならないだけで、取り立てて理由はなく、強いて挙げれば面倒くさいとなるだろうが、それでかまわないのだから呆れてしまうような状況か。とりあえずはいい加減に言葉を並べて、それが文章らしき体裁を整えているよう感じられれば、それでかまわないというわけか。それに関しては何をどう考えても、まともな答えには至らないようで、たぶんそれでかまわないと思った時点で終わっていることかもしれず、それ以上は何を詮索しても、何も出てこないということか。それでもそうやってそんな説明を延々と続けているではないか。それの何が気に入らないのか。気に入る気に入らない以前の問題として、なぜそんなことを述べているのだろうか。他に述べることがないからか。たまにそれを思いつき、何か述べるべき内容らしきことを語っている場合もありそうだが、やはりそれがどうしたわけでもない。そんなことを述べている場合でも、すぐさまそんなことを述べている自己に言及しようとして、また延々と無駄に言葉を記している場合が多いはずだ。

 だからどうしたというのか。それからその話はどうなったのか。まだ延々と自己言及に終始するつもりなのか。そういうふうになってもかまわないのだろう。そうなった時点でまともなことを語るのはあきらめているはずで、それ以降は同じような語りの繰り返しとなるのも致し方ない。しかしそれは冗談ではないか。何がしかしなのかわからないが、そこで言葉を記すのに飽きてきたらしく、しばらく何も語れなくなり、どうしたらいいのかわからなくなる。たぶん無闇矢鱈と無駄なことを語りすぎているのだ。だがそうでもしない限り、これ以上語ることは不可能か。もう語れないではないか。少なくとも今は何に関して述べているのではなく、ただそのこと自体に関して述べているに過ぎない。そしてそれでかまわないわけはなく、何に関してかまわないわけでもなく、そういう語りは何よりも否定されるべき語りであり、だからやめた方がいいのかもしれず、無理に続けようとすれば、頭がおかしくなってしまうだろうか。そんなことを述べている時点で、すでにそうなのではないか。実際に何もないのに何かを語っているのだから、もはや無理を通り越して、どこか想像を絶する空疎な語りに突入している気がしないでもないが、さらに言葉を記すとすれば、そういうやり方にどこまで精神が耐えられるだろうか。誰もそんなことは求めていないだろうことはわかりきっていて、かといって今さらそれをやめるわけにもいかないらしく、語ることに何の必然性も感じられないのは当然であり、それを誰が肯定できるわけもないか。


12月14日

 晴れた青空を見上げ、そんなことをやっている意味を知ろうとしているわけもなく、清々しい気分になろうとしているわけでもなく、ため息混じりに何を思っているのでもないようだ。スパルタカスがどうしたわけでもない。なぜそれが愛のテーマなのか、その辺の事情はわからないが、そんな曲を聴いている。確か古代ローマにおける大規模な奴隷の反乱の首謀者だったように記憶しているが、それが映画化されて話題となり、アカデミー賞でもとったのだろうか。君もテレビの映画劇場か何かで見たことがあるはずか。話の内容としては、当初は有能な指導者に率いられた反乱軍の連戦連勝で、破竹の勢いだったようだが、結局はローマ軍に鎮圧され、反乱に加わった奴隷たちには悲惨な末路が待っていたわけだが、やはり現代に暮らす人々にとっては、それがどうしたわけでもなく、ただの娯楽超大作に感動したりするだけのことか。二千年前の古代ローマに思いを馳せ、当時のローマ人が何を思い、どう行動していたかについて思考するなんて、興味のある人にとっては興味深いことかもしれないが、興味のない人にとっては無関心の対象でしかない。だが現代社会に何らかの影響を及ぼしていて、ローマ帝国の盛衰を現代社会に当てはめて考えてみるとか、そういうことをやりがちな学者とか作家とかが結構いるのかもしれず、テレビのドキュメンタリー番組とかでも、過去においてそういう試みがしばしば見受けられていたことも確かか。これからもそんなことをやりたがる輩が出現するのかもしれない。

 人類は過去の歴史から何を学んできたのか。冗談でそんな大げさな問いかけをすべきではない。まったく本気になれず、紋切り型の問いかけを真に受けることは困難か。ならば冗談のついでに、君は明治時代を舞台とするテレビドラマから何を学び取ろうとしているのか。そんなものを見ているわけでもなく、皮肉を込めてそれを批判しようとしているわけでもないはずだ。そこでは誰が何をやろうとしているのでもないし、何を期待しているわけでもない。ひと昔前の軍国主義国家にどんな過ちを見出そうとしているのでもない。しかし娯楽とは何だろう。人々は風景や光景を見て、何を楽しんでいるのか。心動かされる場面に遭遇して感動してしまうわけか。あるいはそこから何かを学び、自分がこれから生きて上でためになるようなことを探しているのだろうか。君はそのどちらでもないと思い、時間的にも空間的にも目の前を通り過ぎ、流れ去る光景の中から、何を探しているわけでもない。他の何を顕揚する気もなく、ただの傍観者を気取り、無感動とともに無味乾燥した架空の大地に腰を下ろし、何かいい加減な幻想を抱き、そこに何かを幻影を見ているのかもしれず、それが具体的に何なのかはわからないが、何となく眺めているそれらの光景が、君をその一部としている含んでいる世界だと知る。時にはそんな嘘をついて、何かのこけおどし的な効果を狙っているのかもしれないが、やはりそう述べてしまうことを正当化したいわけではないらしい。

 たぶんこの世界には何もないのだ。興味を抱いているつもりのそれらはすべて幻影であり、実際には何もない。そんな嘘をついていると楽しいか。楽しくもあり虚しくもある。それも嘘の続きだろうが、何となくそんなフィクションに浸っている以外は、たぶん仕事の最中なのだろう。そしてあくびとともに時が過ぎ去り、気がつくと同時に目を覚まし、何かをやらなければならなくなり、実際にそれをやりながら、さらに時が経ち、取り返しのつかぬ時間を無駄に過ごしているのかもしれず、それがどうしたわけでもないと強がってはみるものの、内心うろたえていて、そんな気分に誘導されるのも、自らに自信のない証拠なのだろうが、そこで冗談でそんなことを述べている現実に気づき、あわててそれらの文章がフィクションであるかのように装うつもりのようだが、なぜそんなことをやる必要があるのかわからず、そういう心変わりがとりあえずのことに過ぎず、何を意味しているわけでもないことを悟り、別にそこで自信を取り戻すわけでもないのだろうが、何となくどうでもいいような気分となり、直面する事態を真に受けようとせず、ひたすら自分には関係のないことだと主張したいらしく、実際にそんなことを記しているのかもしれないが、結局それは何のことでもありはせず、何事がそこで起こったようにも思えず、目の前にある何かを無視しているみたいで、それとそれと見なすことができずに、他の何かでたとえようとするのが回りくどく感じているのだろうが、やはり言葉の性質としては、そんなふうに表現するしかないようで、それでその場を取り繕ったつもりになれるのかもしれない。


12月13日

 君はそこからどれだけ遠ざかれたのか。君にその必要があったかどうかは知らないが、ともかくひたすら遠ざかろうとして、その結果に満足したか否かは定かでないが、その遠ざかりによって今ある現状がもたらされ、そこで虚しい気分となっているのが君かどうかは知らないが、何となくそれらが言葉の連なりとなってどこかに記され、それを記しながら読んでいる誰かがいるらしく、君にとってそんな説明が、どれほど心に響くのか定かでないが、とりあえず今はその先を記さなければならない。君にとってそんなことはどうでもいいことかもしれないが、君自身を生じさせるために言葉を記しているとは思わないか。誰がそんなことを思っているのだろう。何となく回りくどいことを述べているようだ。君はそうではないと思いたいのか。他に何を主張しているとも思えず、実際に記された言葉の連なりの中で、君自身にまつわる話題は皆無だ。そう思っているのならそれでもかまわない。そこで誰かはそれらが君の物語になるのを断念しているわけだ。しかし何が物語となる可能性があるのか。君の他にどんな登場人物が現れているのか。たぶん依然として何がどうなる可能性もなく、それらはすぐにも打ち捨てられるだけで、そんな言説でしかない代物に物語を当てはめようとするのはおかしい。無理にもほどがあるか。ではそれらの言説には何が当てはまるのか。何でもありはせず、他の何になる可能性も皆無で、要するにそれ自身に過ぎず、それ以外の何ものでもない。ただの空疎だ。

 君はそれで満足すべきなのか。そういうことではない。どういうことでもなく、そういうことでもないということだ。では何なのかと問われれば、そういうことではないと答えるしかない。それは何でもなく、その何でもなさがそれらの言説を支え、結果的に何でもない言説としているのだ。それは恐ろしいことだろうか。何に恐れればいいのかわからず、それほど恐ろしいとも思わない。だからそれは恐ろしいことではなく、何でもないことだ。ではそうならざるを得ない言葉の並びなのか。そんなことはわからない。そしてそういうことではないのかもしれず、どういうことでもないのかもしれない。何かの雰囲気に染まり、何かのペースにはまっているようでいて、そうではないということだ。たぶんそうではない。君にそれを実現することはできない。だからそれは想像の中にとどまり続け、いつでも可能性のただ中にあるが、決して実現することはできない。ちなみに今記されつつあるのはそれではなく、それについて語っている言説でもない。誰かが何かを記している最中なのは確かだが、それが何なのかと問われれば、そうではないと答えるしかなく、次いでそういうことではないと付け加えられるだけだ。誰かは何でもないことを記していて、それが他の何を意味するわけでもなく、それはただそうではないと述べているのだ。そう述べて何かを否定しているのかもしれないが、具体的に何を否定しているのかは他の誰かの想像にまかせるとしよう。

 そして何かの気まぐれとは無縁に、こんなところまでやってくる。ここはどんなところでもないが、とりあえず誰かはこんなところにやってきているらしく、そこで辺りの風景を眺め、何も思わずに言葉を記す。ところで君の立場はどうなったのか。それは誰の立場でもなく、何がどうなっているわけでもなく、頭の中で言葉が消し飛んでしまって、何を語っているのでもないような気になり、それが何を示すのかわからなくなる。でもわからなくなったついでに、さらに言葉を記そうとしているのではないか。無駄な悪あがきだろうか。何が無駄になっているわけでもなく、そこに記されたすべてが無駄な言葉のように思えてくるが、そこで思いとどまって、中には有用なことを述べている部分もあるのではないかと思い、誰かは過去の文章を読み返しているようだが、そんな嘘をついてみたところで、興味が一向にわいてこないようで、結局何も読まずにその場を立ち去り、家に帰って寝てしまうが、そんな場面が文章のどこに記されているのか。まだ何も記していないうちから、これから語ろうとしているフィクションを空想しても、たぶん何も語らないうちに、すぐさまそれとは違う内容を思い描こうとして、とりとめのないままに終わってしまいそうだ。今はただ漠然とそんなことを思っているわけだが、それも何かの嘘に違いなく、そんなことを述べていること自体が何かのフィクションかもしれず、それはそれでそれとはまた違った内容を記そうとしているのだろうが、相変わらず何を語っているのかわからないまま、面倒くさいので唐突に終わろうとする。


12月12日

 相変わらず二日後の世界に誰かが生きている。そんなフィクションでもかまわないのだろうか。何が虚構なのか。雨は午前中に上がり、午後は晴れて暑い。すでに冬のはずだ。季節は冬に違いない。そしてそれがどうしたわけでもなく、そろそろ自動車のタイヤを冬用に替える必要を覚える。それが語ろうとしていた具体的な話だとは思えないが、今日の誰かはそれで満足しなければならない。君は不満なのか。別にそれらの何がフィクションでもないだろう。そういう意味ではまだ話になっていないようで、どういう意味か定かでないが、とりあえずはそういうことにしておこう。冗談か何かでそう思っているのかもしれず、昨今の政治状況と同様に何がどうしたわけでもないが、その件については、世界中の誰もが失望しているのだろう。誰も支持できないような政治的な指導者が蔓延しているわけか。だが少なくとも選挙の直後は支持していたはずで、マスメディアも彼らを好意的に取り上げていたはずだが、今となってはその存在を否定せざるを得ないというわけか。世論調査で軒並み支持率が低下して、後は辞任するだけなのかもしれないが、要するにそれは期待が大きすぎた反動なのだろうか。君には関係ないことだろう。人々は政治に何を期待していたのだろうか。日米欧ともに景気が良くなって、まともな働き口があればそれでいいのか。それは世界のすべての国々が先進国になるまでは無理かもしれない。

 わかりきったことは簡単に述べられるようだが、その実現にはまだだいぶ月日がかかりそうだ。それどころかそんなことはあり得ないのかもしれない。国々やそこで暮らす人々の間で貧富の格差が常になければ、その格差を利用して利益を得られないか。あるいは一握りの人たちが豊かな暮らしを享受するには、それに奉仕する低賃金労働者の存在が必要不可欠か。その辺が本当にそうなのかどうかよくわからないのだが、誰か聡明な人間が登場して、それが真実かどうか、合理的な説明を披露する機会が巡ってきたらおもしろそうだが、それが偽りであったとしても、世界中の誰もが豊かな暮らしを享受できるとしたら、そうなるには何をどうすればいいのだろうか。今ある社会の仕組みからすれば、それは想像できないことかもしれない。とりあえず今の世界ではあらゆるところで競争が行われていて、それらの競争に勝ち残ることができれば、たぶん成功とともに豊かな生活がもたらされるのかもしれないが、競争に負けてそこから脱落すれば、極貧といかないまでも、それなりの生活が待ち受けているわけか。まあそれでも生きていければそれでかまわないのかもしれないが、何となくうまいことやっている他人をうらやんだりして、劣等感といかないまでも、嫉妬心だの復讐心だのが心の片隅に芽生えてきたりして、卑屈な人間になったりするのだろうか。大半の敗残者たちはそんなふうにはならないように心がけ、自らの境遇にもそれなりの価値観を見出そうとするのかもしれないが、たぶんそれでかまわないのなら、このままでかまわないのだろう。

 今ある現状を肯定するとすれば、人は自分が何らかの分野で、他者との競争に勝ち抜いて、成功する夢を見ながら生きていくことになる。成功するために日々努力を惜しまず、がんばってしまうわけだ。それは肯定されるべき行為であり、幼い頃から家族や学校の先生に、がんばれがんばれと励まされ、がんばり続けることが当たり前だと教え込まされ、たぶんどれだけがんばったかで、自分の将来が決まってしまうかのように思い込まされ、当人が真面目であればあるほどがんばってしまうのだろうが、実際にがんばった先には何があったのだろうか。たぶんそれはがんばった人それぞれにそれなりの境遇がもたらされ、そんな境遇に満足するか否かは、それも人それぞれで異なるのかもしれないが、たぶんそんなふうにして人はこの世界でうごめいていて、やがてその動きを止め、この世から消え去っていくだけなのかもしれず、ただそれだけといってしまえばそれだけなのだろうが、それがどうしたと問われれば、それも人それぞれで感じ方も受け止め方も異なり、それでいいのならそういうことでしかなく、そういうのが嫌なら、また別の人としての在り方を模索するしかなく、誰かは何となくそうではないような在り方を模索したいのかもしれず、現状の虚しい気分とは裏腹に、何となくそんなふうに考えることに、何らかの可能性を見出そうとしているわけか。それは可能性ではなく、人として不可能な在り方なのかもしれず、現時点ではそれを認めざるを得ないが、やはりそれらの不可能性を模索したくなってくるのだろう。


12月11日

 何とかしなければならないのだろうが、どうあっても抵抗が試みられ、自然と何ともならないような流れとなり、言葉と内容に行き詰まり、どうにもこうにもやりようがなくなり、結果としてこうなってしまうらしい。依然として取り立てて記すことは何もない。それほど単純ではなかったということになるだろうか。何がそうなのか示されていない。別に語るようなことでもないだろう。ならばなぜ言葉を記そうとしているのか。何かがそこで試されているのだろうか。誰かにとっての試練となっているのかもしれないが、君にとってはどうでもいいことだ。しばらくはそういう認識でかまわない。君にはいずれ立ち直る機会が与えられ、その時が何かの勝負なのかもしれないが、そんなことは今の君には関係のないことであり、ただ黙ってそれらの光景を眺めていればいいだけか。気がつけば危機が去り、すべてが順調に流れているように思われるかもしれないが、実態としては元の木阿弥のようになっていることだろう。やはり君は何か勘違いしているわけか。それに気づかない方が君のためだ。願わくばそんなふうになってほしいか。具体的にはどんなふうになってしまうのか。現状では何もわからない。わからないふりをしているだけで、本当はそれに気づいているのではないか。うまくいかないことは目に見えている。だから慌てふためいて、何かを修正しているのだろう。だがそれでうまくいくとも思えず、結局年がら年中心配しているわけだ。そしてひたすらストレスがたまり続け、耐えきれなくなって、ついにはその場に倒れ込み、そんな作り話の中でその人生を終える結末になるのだろうか。

 君はいったい誰のことを話しているのか。話しているのは君ではない。君には相変わらず何のことやらわからず、具体的に何がどうなったのかまったく明らかにされないようだが、それでかまわないのだろうか。たぶんかまわなくてもそんな語り方になってしまうのだろう。それ以上の何が見出されるあてもなく、一向にさえないことを述べているようで、さらにそれが深まる兆しも感じられず、結局は語っている内容が意味不明になるわけか。笑っている場合ではない。そういうくだらぬ成り行きから脱却しなければ、まともな言説を記すには至らないだろう。だが本当にその気があるのか。誰かは何をやるつもりなのか。画面の前でまともな言説を記そうとしているのは誰なのだろうか。君ではない。だが君でなければ誰でもない。ならばそこには誰もいないということだ。なぜそんな意味不明な結論に至ってしまうのか。わざとそんな嘘をつく理由は何だろう。それも冗談のたぐいなのだろうか。まったく話になっていないようだ。そんなわけでこの世では不条理な出来事ばかり起こり、それに対して理にかなった行動を求められているのはわかりきったことだが、実際にそのように行動すれば、足下をすくわれて窮地に陥ることがある。まあそれが不条理といえば不条理なのだろうが、何をどう行動しようと、そのような行動に関係する人の間で、立場や利害が異なっていて、各人の都合がすべて満たされることはまずなく、そこには必ず利益がもたらされる者と不利益がもたらされる者とが生じてしまい、結果として不利益がもたらされた者の心に不満がくすぶってしまうわけだ。

 たぶんそれらの試みには正解がないのだろう。どうやっても無理なことは確かなようで、どんなに細かく気配りして細心の注意を払っても、必ず誤ってしまう瞬間がやってくる。そういう成り行きになってしまうのだから、それはそれで致し方ないことだが、そこを巧みについてかさにかかって誤りを非難し追求してくる輩もいたりして、本当にいらつく展開となり、不快感が増してくるわけだが、そこを何とかこらえなければならないのも不条理か。そんなことまでいちいち気にしていたらきりがない。まったくくだらぬことにこだわらなければならない世の中は生きづらい。馬鹿げた冗談でお茶を濁して、憂さを晴らすしかないのかもしれないが、そんな気にもなれず、何となく何も手につかなくなってしまい、本当は違うのだろうが、そんなフィクションを語りながらも、誰かは言葉を記し続け、何とかその場を乗り切るつもりらしく、本当にそれで良いのか悪いのかはその後の成り行き次第だろうが、実際にそれでその場を切り抜けたつもりになっているようだ。まあどうでもいいといえばどうでもいいことかもしれない。それ以外に何が言えるのか。何も思い浮かばずに、何も語れなくなり、言葉を記せなくなってしまうが、まともにはいかないのははじめから承知しているつもりなので、それでも語ろうとして、無駄に思考を巡らして言葉を強引に組み合わせ、それを文章を構成したつもりでいる。だからもうその辺でいいだろう。いくら言葉を無駄に記しても気が済むはずがなく、さらにいらつくだけだ。


12月10日

 二日後の青空の下で、半ばあきらめ気味にそんなことを思う。気休めに言葉を記せば、なにもない空洞がそこにある。そこで聞こえているのは雑音のたぐいか。それらの耳はいったい何を聴いているのか。聞こえてくる雑音が何を語っているのだろう。耳障りな音が誰かをいらつかせ、誰かが何も語っていないことを悟らせる。それに関して君は何も思わない。他の誰も何も思わないだろうか。その代わりにそれらの感覚に対して、果てしない距離感を覚える。それはそこから遥かに遠いということか。それともまたもや的外れなのだろうか。どうやら勘違いにもほどがありそうだ。ならばそこで君は何を語っているのか。もはやそれが意味不明では済まないか。ならばそれとは何なのか。またもや拭いきれない疑念のまなざしはそこへ舞い戻ってくる。ところで語っている途中から言葉の配置がおかしくなっているようだが、後はどうでもいいことの上塗りなのだろうか。まだあきらめるのは早い。これから何かが起こりそうで、それを求めてここまでやってきたわけではないが、その起こっている何かを眺める価値がありそうな気がして、何となくそれらの事件に多くの人々の視線が向けられているのだろう。だがそう述べてしまった後から冗談は通じない。何のことやらわからないが、何か君が世間の話題に関心を持っているということか。そんなふうに思えるのなら、それについて具体的に語ってみたらどうか。今さら冗談ではないのだろう。果たして本気でそう思っているのだろうか。

 そんなことは知らない。無責任に思われるが、君が知り得る話ではない。架空の話としては、何とかそれについて語る算段をたてて、くだらぬ皮肉を封印しつつ、真面目に語ろうとしているようだが、その結果はどうなったのか。まだそこまで至らない。結果とは無関係に言葉を記して、その方面ではくだらぬ結果を残しているらしいが、それは求めようとしている結果ではない。結果でなくて何なのか。相変わらずそこから外れているような、なおかつそれを避けているような気がしてならず、ことさらそれらの結果に言及せずに、また誰かは別の何かについて語ろうとしているが、それらについては何も語れないらしく、そのうちまた自らが何を語っているのかわからなくなってしまうのだろう。そしてそれではまずいと思ったのか、久しぶりをプーアル茶でもすすりながら、何か適当に考えようとしているらしいが、もう夜になってしまったようで、テレビに気をとられている間に時が流れ、結局何も思いつかなかったようだ。しかしそれは何の話だったのだろう。もう二日前の出来事になってしまったので、詳しいことは思い出せずにいる。おそらく君は君で何とか事態を打開しようとしていたのだろうが、それがうまくいかず、結果として不本意な妥協を強いられ、ふてくされていたのかもしれず、さらに今となってはどうでもよくなっているように思われ、その件についてはあまり触れてほしくないような口調となり、わざとその話題から興味を逸らすように誘導している気配さえ感じられ、その話題はそこでおしまいにしたいようだ。

 階段で不自然によろめいて、膝の痛みを思い出し、何となくそれが演技ではないような気になるが、本当に膝が痛いのだろうか。顔をしかめてみせるが、そうやって痛みに耐えているわけか。何の話でもないのだろうが、適当なフィクションを語る気配はない。どうやら話の内容が見えてこないようで、完全に把握できなくなってしまったらしいが、君はそこで何を語っていたのか。目が覚めたのいつだったか。今日は昼寝のし過ぎだったかもしれない。疲れていたのだろうか。一年中仕事に休みがないのだから疲れていて当然だろう。何だか馬鹿げているような気がして嫌になってしまい、それでもそんなことを延々と続け、気がつけばこんな精神状態か。しかしなぜそれでも言葉を記しているのだろう。それは何かの惰性でやっていることか。何ももたらせないことはわかっている。この世界から心を閉ざし、この世界以外にあり得ないのに、何か他の世界のことを思っているわけでもなく、何となくどこにも居場所がないような気がして、それは違うのかもしれないが、過去の何を思い出すこともなく、それらのに何に郷愁を覚えることもなく、そういうことではないような気がするが、やはりどういうことでもないのだろうか。ただでたらめに言葉を並べている。そんな気がしてならないのはどういうわけでもなく、何かの気休めで思っているだけかもしれず、他に理由など見当たるはずがないが、やはり他を探そうとして、何かを探し当てて、驚きたいのかもしれないが、それがお宝などではないことはわかっていて、ただの塵や芥のたぐいでしかないこともわかっているつもりだが、やはりそれを探し出そうとしてしまう。


12月9日

 今日も昨日で、取り立てて何を述べているわけでもない。ただ状況に見合った言葉がどこにも見当たらず、文章になっていないようだ。それはいつものことかもしれないが、たぶん何か違うのだろう。いつもそう思っているようで、何がそうなのかわからないが、とりあえずそう思っているのだろう。それは誰のせいでもなく、何が原因でもない。何かの機会が巡ってくるのを待っている間に、でたらめに言葉を記し、見当外れの内容を語り、その結果として何がどうなっているわけでもないのに、なぜかそう述べている。それでいったい何を述べているのだろうか。とりあえずはそういう文章になっていて、それを読み返しながら、不毛な修正を繰り返す。何となくおかしな気分になっている。君はそこでどうなってしまったのか。まだ誰かが架空の話を語る気配を感じられず、押し黙ったまま、何を考えているわけでもない。たぶんそうやって迫りくる何に対処しようというのでもない。やはりいきなりおかしなことを述べているようだ。話の脈絡が何も感じられず、そもそも話になっていないようだ。やる気もないのに無理に言葉を記そうとすれば、そうなって当たり前か。それでもしてやったりとなることを目指しているわけで、まったく無謀で、わけのわからない気分とともにそんなことを語っているようだが、誰かは正気なのか。至って冷静でいるらしい。何がそうなのかわからないが、誰にとってもそれでかまわないと思われる。

 そんなわけでまたここまでやってきたようだ。別にそれを語っている現状が異常事態というわけでもなく、それほど深刻な精神状態ではないようで、そんなことを語る必要さえないのだろうが、あえて君は何を語ろうとしている。だが何があえてなのかわからない。それは単なるごまかしか。たとえそうだとしても、それはそれで納得できる見解となるだろう。いったい君はどんな見解を持ち合わせているというのか。そこから先に何が記されるのだろうか。それは誰かが記してみなければわからないことだ。これから何を語ろうと他意はない。意味がわからないが、そういうことだ。どういうことでもなく、君は気まぐれに何かを語ろうとしている。本当は何も語れないのに、何かを語っているつもりになれそうだ。君にはそれができると思われ、他に何を思い込んでいるわけでもなく、ただそう思い込んでいるのだ。フィクションの中ではそういうことになっている。要するにそれは空疎で不毛な語りとなるだろう。では何を語ってもいつも通りなのか。そこで誰が目を覚ましても、視界の先にはいつもの光景が広がっていて、虚構の中に自らが存在しているのではないことを知るだろう。そこには現実の世界が広がっていて、それらは君を無視しながら成り立っている世界なのだ。ならば君がいなければ虚構の世界が成り立たないのか。しかしなぜそうやって言葉と言葉をねじれの位置に配置しようとするのだろう。

 やはり誰かは何も語らずに言葉を記すつもりらしい。自然とそうなってしまうのだから致し方なく、それはそれで、そういう流れの中で言葉を配置するのが、そこでの習わしとなっている。それはいったいどういうことなのか。君にはそうする義務でもあるのだろうか。何の根拠があってそう述べてしまうのか。だから何かが違っているのだろう。それらのどこかで間違ったことを述べているわけだ。それどころか記しているすべてが間違っているように思えてくる。言葉を記す順序に問題がありそうだが、どういう順序で記しているのかわからない。順序ではなく、タイミングではないのか。それは何のタイミングなのか。君にはそれもわからないではないか。君だけではなく、誰にもわかりはしない。何がどうなろうとそうなってしまうことについては、他の誰が説明を試みようとしても、説明しているうちに、何の説明なのかわからなくなってしまうのだろう。いったい君はそれらについて何を説明しようとしていたのか。それらの言葉を説明しているのが、それらの言葉の連なりなのではないか。それが文章なのだろうか。それらが文章だと主張するのなら、そういうことになりそうだ。しかし誰かはその辺で疲れているはずで、すでにそれについて言葉を記すのが嫌になっているはずだ。いったい自分が何について語ろうとしていたのかわからず、それを説明できずに困っているようで、もういい加減に我慢の限界に達しているのかもしれず、そこでやめてしまいたくなっているのだろう。


12月8日

 架空の誰かが唐突に何かを描いてみせる。また他の誰かがくだらないことを語っているようだ。そして意識はそこから遠ざかり、静寂の中で眠りにつく。夢でも見ていたのだろうか。話の流れとしてはそうならないだろう。ならば夢の中で描いた絵について語ってほしい。無理を言わないでほしいか。では何を見つめているのだろうか。あり得ない風景の中にそれらの光景を想像してみる。それがあり得ないのだ。言葉の連なりは何を先取りしているわけでもない。空気が乾いているのだろうか。のどがいがらっぽいか。まさか夢の中でそう思っているわけではあるまい。見つめているのも絵ではなく、それはただの壁で、その表面を苔が覆っている。トンネルの中は湿っているらしい。地下水が壁から滲み出ているのだろう。幽霊がそこで何を願っていたわけでもない。誰がどんな存在であろうと、それはどうでもいいことなのか。いったい何がそう思われるのか。君はまだ何も述べていないではないか。そういう雰囲気になるのを狙っていたのだろうか。相変わらず無駄で無意味な言葉が連なっている。誰がそんなくだらない内容を読まなければならないのか。それは君に決まっているだろう。君が読まずして他の誰が読むのか。そういう話でもないか。何となくその辺でそれ以上の物語的展開をあきらめてしまったらしく、またいつもの癖で、そんなことを延々と述べているようだ。だからそこから先は読まなくてもいい内容となっている。

 誰かは何を待っているのだろうか。また機械が壊れて、修理屋を待ちながらも、そんなことを記しているわけか。それらの設備は頻繁にどこかが壊れ、年がら年中修理の連続となる。そんなものだろう。そこであきらめざるを得ないのか。たぶんそうだ。そうに決まっているだろうか。何をそこで決めつける必要があるのか。おそらくそれらのどこかに改善点が埋もれているのだろうが、それをそのまま放置しながら駆動させているから、年がら年中修理の連続なのだ。そんなことはわかりきったことなのに、やはり改められない。何かの惰性でそうなってしまっているのだろう。君はそこから遠ざかりたい。それができれば気分は爽快か。だが放置して逃げるわけにはいかない事情でもあるらしく、どうあってもしがみつくしかないらしい。まったくくだらない世の中だ。何をそう思っているわけでもないのに、時にはそんな嘘をつきたくなり、嫌になったまま、そこで立ち往生している。意識は遠ざかりたいのに、身体は遠ざかれず、いつまで経っても依然としてそこに引き止められたままとなっていて、次第に退屈になり、他のことを考えようとするが、壊れた機械が目の前にある以上は、それを見つめたまま動けなくなっているようだ。いくら見つめていても動かない物は動かず、修理しなければ直ることはない。それだけのことなのに、いつまで経ってもそこから動けずにいる。まったく馬鹿げた状況か。

 それからしばらく経って、何か事態に進展があったのだろうか。夕方遅くなってから修理屋がきて、状況を見てから修理は明日に持ち越しとなるのだろうか。冗談には違いない。骨折り損のくたびれ儲けか。何のことでもないだろう。後片付けをして、今日のところはさっさと退散するとしよう。いつものようにまったく本気になれず、事態を真に受けることもできず、深刻ぶってしかめ面をすることもない。そのまま放置すれば深刻な状況になるのだろうが、もしそうなったとしても、そういうことでしかなく、いつかは何とかするのだろう。ただそれだけのことで、他にどんな思惑が介在しているわけでも、何がどうなってしまったわけでもなく、焦ることもない。そういうことでしかなく、万事が君の思い通りにはいかないのだ。君がただ待つしかなく、たとえ待ちぼうけを食らっても、ひたすら待つしかない。忘れた頃になって、あっという間に機械が修理されて、またいつものように設備が駆動するだけだ。しばらくは滞っているだろうが、それもだんだんと改善されて、何事もなかったかのようになる。ただ一時の間は待ちくたびれて、嫌になってしまっただけのことだ。そんなふうにしか事態は進行しないのだから、嫌になるまで待っていればいいだけでしかない。それが理不尽な結果だとは思えず、いつものことだとあきらめるしかなく、そういうものだと自らに言い聞かせ、いらついている意識を鎮めるふりはするのだが、何とも致し方なく、どうにもこうにもやりきれない思いを抱いているらしいが、それはそういうことなのだ。


12月7日

 嘘をつくならどんな嘘がそれらの状況にマッチしているのか。どこからも何も出てこない状況になっている。何が適合しているわけではない。君が嘘をつきたいわけではなく、そんな文章が綴られようとしているわけか。そんな嘘をついたところで、それらの状況の何が改善するはずもなく、たぶんそれは冗談の続きでしかないのだろうが、何となく的を射ているような気がするのは、どうしたわけでもないと思う。それが嘘なのではないか。語っているうちにだんだんわけがわからなくなるのは、いつもの通りかもしれないが、そこから何を見出そうとしているわけでもないも、いつもの通りとなるだろうか。まったくとりとめがなく、わざとそうしている気配さえ感じられ、それがまともな水準で読むに耐えないことを承知しつつも、それを続けようとしてしまい、おそらく無理に無理を重ねて、どうにかなるような気がしているのだろうが、誰かはそんなことを記しながらも虚しくなってしまうのかもしれず、どうやらその辺でやる気がなくなり、何かを中断してしまうのだろう。なぜそうなってしまうのだろうか。どこかに目を向ければ、何かが過ぎ去り、それが体験している時間だと思うが、やはりとりとめがなく、自分でも何をどうしたいのかわからなくなっているのだろうか。そうだとしてもそんな状況下で言葉を記しているらしく、何になるわけでもないことはわかっているのに、なおもそれを続けようとしてしまい、それがどうしたわけでもないと思い込もうとするが、それが徒労に終わっていることを自覚せざるを得ないか。

 そんなことを思っているうちにも、さらに周りの景色が通り過ぎていき、あらゆる思いを置き去りにしながら、忘却の彼方でいつかそれらが思い起こされるのを待っているとも思えないが、君はそこで何を準備しているのか。まさか死ぬ直前というわけでもないだろう。ごちゃごちゃした街中で何を考えているわけではなく、込み合った電車の中で何をどう思っているのでもなかった。要するに視野が従来のそれから広がってしまったらしく、人はいつまでもそれにこだわり続けるのかもしれないが、どうもそれは精神の摩耗によって、強固な結び目が切れて、余計なことを考えなくてもいいようになってしまったようで、いつの間にかくだらぬこだわりが解消してしまったような気がするが、たぶんまたどうしようもない欲望によってそれが生じて、くだらぬ動作によってそれを果たそうとしてしまうのかもしれず、そんなふうにして要らぬ迂回ばかり繰り返しながら、それに伴って精神どころかそれが宿っている身体の摩耗も深刻になり、やがてそれらはすべてこの世から消滅してしまうのだろうが、いったん消え去れば後には何も残らないわけか。何を残そうとしているのでもないだろうが、何かの偶然によって、そこにかつて誰かが存在した痕跡が残ったとして、それが何を意味するのだろうか。今はそんなことまで考える必要はなく、無駄な考えはこの際捨てて、他に何か考えるべきことがありそうだが、いったい何を考えたらいいのだろうか。

 君はそこで何かをごまかしているのだろう。改めて考えることなどなにもなく、その場その場で考えればいいことでしかなく、何を考えるかはその場の状況次第か。しかし何を当たり前のことを述べているのか。どうやらそこで何も思い浮かばなくなってしまったらしく、要するに何も語れなくなってしまったのだろうが、それでも言葉を記すには何どうしたらいいのだろうか。だからそこで何かを考えなければならないのだろうが、面倒くさいので何も考えられない。だが今さらそんないいわけが通用するとは思えず、どこで何を通用させようとしているのか定かでないが、それでも言葉を記そうとして、実際に何か適当なことを記しているらしく、たぶんそれは空疎な内容となるのだろう。実際にそうか。そうであろうとなかろうと、そんなふうに何かを記していると気がまぎれて、執拗に抱いていたくだらぬこだわりも忘れて、何となく何かから解放された気分となり、一時的に言葉を記すことなどどうでもよくなっているのかもしれないが、そんなことを思いながらも言葉を記している現状に変わりはなく、まったくいつまでそんなことをやり続けるのかわからないが、もはや呆れを通り越して、あきらめの境地に至っているのは確からしい。もういくら言葉を記しても、何がどうなることもないだろう。同じようなことを延々と繰り返すだけで、他にどんな展開があるとも思えず、それらの物語はいくらでも語り継がれ、それは空疎で無内容で何でもないことなのか。本当にそう思っているのなら、それはそれでそういうことだろうが、そこで君がさっきから何を思っているのかは相変わらず定かでない。まさか何かの可能性に賭けているわけでもあるまいが、それがどうなる可能性なのかは、やはり今のところは定かでない。


12月6日

 やっぱり昨日か。どうやら抜け出られないようだ。できないものはできないだろう。紅葉の季節も終わろうとしている。冬なのだろうか。そういうことではなく、どういうことでもないだろう。何がどうなっているわけでもなく、季節は移り変わり、何かの気まぐれでそんなことを述べているわけだ。冬以外の何が巡ってきたわけでもない。時期的にはそういうことか。誰かはそういう時期の中で何をやっているのか。機械を分解しようとしているわけではなく、その機械を稼働させて、稼働させている間中は楽な気分となっているわけか。どうせまた故障するのだろうが、そうなったら修理屋を呼ぶしかない。人が他の猿から区別される特徴としては、道具を作るための道具を作ることにあるそうだが、さらに道具を作るための道具を作るための道具を作ったりして、やっていることがどんどん複雑怪奇になりそうで、そういう制作に際限はなさそうに思える。とりとめがないのだろう。国家や社会の制度もとりとめがなく、場当たり的にどんな仕組みを作っても、どこかで必ず不具合や矛盾が生じてしまい、さらにそれを修正したり解消したりするために、新たに別の仕組みを作らなければならず、そんなことをやっているうちに仕組みが複雑怪奇になってしまい、仕組みの全体を一元的に把握できなくなってしまうわけだ。それはある面では都合が良くても別の面では都合が悪くなり、そういった仕組みを利用する人々の立場によって有利不利が生じて、仕組みのもとでの公平さが保てなくなり、不利益を被った人たちの不満が爆発して、場合によっては大規模な争乱でも起こり、結局は仕組みを絶えず変革していかなければならなくなるわけだ。

 考えてみればそういうことでしかないわけだが、なかなかその変革がうまくいかず、どこの国でも社会でも変革を担当する当事者たちによって、ああでもないこうでもないと侃々諤々の議論でもかわされて、ニュースを見ればそんなことばかりが話題となっているのだろうが、実際に世の中の様々な水準でそんなことばかりやっていて、もしかしたら人がやっていることはそれだけでしかないような気がしてくる。そしてそれがうまくいけば喜び、うまくいかなければがっかりして、毎日がそんなことの連続で、やはりそれがどうしたわけでもないと思うしかないのだろうが、そんなふうに物事を考えてばかりいると疲れてしまうので、時には何かそれとは別の価値や基準を思考に導入したくなるが、あまりそういう方面で幻想を抱く気にはなれず、面倒くさいので結局は何がどうなろうと何でもないと思ってしまうわけだが、なぜ人々は社会や国家を自分たちにとって都合の良い仕組みに作り替えようとして、日々悪戦苦闘しているのか。冗談でそんなわかりきったことを問いかけてみるが、やはり笑うしかないのだろうか。別に無力感に苛まれているわけでも、呆れてものもいえなくなっているわけでもないが、何となく馬鹿げているような気がして、しかしそうするのが人として当然のやり方であることがわかっていながら、何かそれは違うのではないかと疑問を投げかけるのもおかしいような気がしていて、何とも言いがたい歯痒さを覚える。

 まあこれからも人々は飽くことなくそんなことばかりやり続け、自分たちにとって都合の良い仕組みとは何なのかを延々と探求していくのだろう。そしてたぶん人以外にとってはそんなのは何でもないことなのだ。おそらくすべては無為自然の中にあり、人が何をそこに作ろうと、そんなのは人以外にとってはどうでもいいことなのだ。人々が苦心して作り上げたそれらの構築物の中には、すぐにもネズミやゴキブリやダニやハエなどが入り込み、人々が出すゴミや排泄物を糧として暮らし始め、厄介者として駆除の対象となりながらもしぶとく生息し続け、人には根絶不可能な自然の驚異として、いつまでも人と共存していくのだろうし、結局人はそういう存在を見て見ぬふりをするしかなく、大げさに絶滅危惧種の動植物の保護を呼びかけるのとは裏腹に、同じ生物のたぐいでしかないそれらが足下にいることすら忘れようとするわけだ。やはり人の本性というのはどこまでもご都合主義でしかないわけか。まあそういう方面でそういうことを述べていけば、そういう結論に至るのかもしれないが、それとは別の視点で人の存在を肯定的に語ろうとすれば、それはそれで人間讃歌的な誰もが自尊心をくすぐられるような見解を導きだせるのかもしれないが、今さらそんなことを述べてみたところでもう遅いか。述べる気もないのにそんなほのめかし的な態度はいただけない。とりあえず今まで述べてきたことはすべて冗談ということで、その辺の否定的な言動をすべて帳消しにするのは、これまたご都合主義の極みかもかもしれないが、何となくそういうことでその場を取り繕うこととしよう。


12月5日

 さっきから何を気にしているのだろうか。気になっていたことがその後どうなったのか。そこへ出かけて確かめてみればいい。確かめてみてどう思ったのか。思った通りの結果に落胆しているわけか。でも最悪ではない。ある程度は許容限度内で事が運んでいると思う。そう思わなければならない理由でもあるのか。そういうことではなく、何となく安心しようとしているのかもしれず、そううまくいくわけがないと思いつつ、その程度の誤算は受け入れる余裕があるような気がしているだけか。要するに何もかもがその程度のことであり、大して深刻に受け止めるような結果ではないことはわかっていて、なおかつできればうまくいってほしいと思うのは当然であり、その結果として期待外れという最悪の事態ではなかったわけだから、内心ほっとしているのではないか。だからそんな現状を受け入れるのだろう。そしてそれで何もかもが終わってしまったわけではなく、これからも継続して努力していくしかなく、そこに何か目標らしきものを設定するならば、それは今まで通りにやっていけるようにすることでしかないはずか。ところで君はいったい何について語っているのか。それは何のことなのだろうか。たぶん何のことでもなく、そういうことの積み重ねの上に今があるということでしかないのかもしれず、何かについて語るとはそういうことなのだろう。だから何について述べているのか。そんなふうに問うことからそれの継続が保たれているわけで、無闇矢鱈と執拗に問うことが、それらの語っているすべてではないのか。

 何がすべてなのか定かでないが、そこには見込み違いがあるように思われる。当初からそんなことは思わなかったはずで、別に特定の事象をことさら取り上げるつもりはなく、それでは何を語るつもりだったのかといえば、それがわからない。気がついたらこうなっていたとしか言いようがなく、その時には何かしら考えていたのかもしれないが、今はその考えていた何かが思い出せずに、その代わりにわけがわからぬ言葉が延々と連なっている現状があるわけか。そうだとしたら何なのだろう。君はどこかで失敗してしまったのか。少なくとも何かの成功に結びついているわけではなく、執拗に問いかけることでかろうじて保たれている言葉の連なりが、いつか途切れるとき、その考えていた何かが思い出せるような気がしているのかもしれず、その時が来るのが待ち遠しくてたまらないと嘘をついても、それほど違和感は感じられないが、なぜかそこから逸脱して、別の何かを追い求めている状況が到来しても、それはそれで許容の範囲内であるようにも思われ、またその時が来るのが待ち遠しくてたまらないと嘘をつくつもりはないようだが、そこで笑ってしまって完全におかしくなっているらしく、くだらない冗談の連続で疲れてしまったのかもしれないが、なぜかそんな疲労感に比例して愉快な気分が増幅されているようだ。要するに何を述べてもまったく本気になれないことを再認識するはめになったのだろう。そして今はそれでかまわないとも思っているのかもしれず、これから当分はそんなやり方で何かを続けてしまえるわけか。

 君は疲れたついでに何を語る気でいるのか。それがわかれば苦労はしないが、わからぬまでも、誰かが言葉を記していけば、それが自然と君の語りとなるような予感がしている。なぜそう思うのかわからない。何を思っているのかもよくわからないのに、そんな予感も嘘のたぐいだと決めつけてしまえば、そこでそれはそういうことになりそうだが、しかし何について語っているのか。君に何かの冗談を語れる能力があるのだろうか。君は君であり、冗談は冗談でしかない。それとこれとは別問題であり、冗談を述べているのは君ではないらしく、君が述べているのは誰かが記していることではない。では君は何を述べているのだろうか。それが文章として記されない限りは、ここでわかりようがないが、何となく察しはつくとでも述べておけば、意味の定かでないほのめかし的な効果は得られるだろうか。だがそう述べる必要がそれらのどこで生じているのだろうか。おそらく何をどこまでも述べてもきりがなく、ああいえばこういう的なやり方でいつまでも文章を続けられるのかもしれないが、意味もなくそれを引き延ばし続けるのはおかしくないか。意味がなければ虚しくなってしまうか。虚しくてもやろうと思えばできるようなことはやるべきなのか。たぶんまた何かの途中から外れて、逸脱に逸脱を重ねる語りになっているのだろうが、それでもそんなふうにして何かの継続を果たし得ているのであり、それはそれで受け入れ可能ではないのか。それを誰に受け入れてもらいたいのか。もはやでたらめのごまかしでしかないことは明白だろうか。そんなわかりきったことを今さら指摘しても遅いか。わかっていることはわかっているとして、そんな状況をそのまま放置しておくのも、ひとつのやり方なのかもしれない。


12月4日

 どうやら昨日のこととなってしまったらしいが、またできないことをやろうとしていたのか。それほどのことでもなく、やろうと思えば簡単にできることだったかもしれない。だから怠けてできなくなってしまったのかもしれず、こうして翌日に昨日ことを語るはめになったわけか。昨日のことではないだろう。日付を厳密に区切って、その期間に起こったことを忠実に述べているわけではなく、とりあえずのものとしてそんな日付が記されているに過ぎない。現実に日付とは関係なく、相変わらず語っている内容が空疎のはずだ。それはいつものことであり、そのことで何を考えているわけでもなく、ただやる気がしないだけのようで、取り立てて内容のあることは何も記さない方がいいような気がしているのだろう。無理して言葉を並べようとすれば、さらに空疎な内容になってしまうだけか。それでもかまわないなら、そういうことを記してみればいい。現に記しているではないか。だがそんな記述もここで限界だ。まともなことは何も記すことができぬまま、今日はここで終わりとなる。それが昨日のことだったはずだ。そういう部分でそれらの語りは現実に基づいた内容で、少なくともそれに関してはフィクションではなかったようだ。だがそれとは何なのか。それは今語っているそれか。それならそれは空疎な無内容ではないか。だからそれでかまわないのだろう。そんなわけで何かを語ろうとして、また語る以前に戻ってしまうが、それは蛇足だろう。

 焦っているのかもしれない。きっとそうに違いない。君は何か余分なことを語ろうとしているのだ。そしてどうなってしまうのか。たぶんどうにもならずに、無理に語り続け、意識がそこから外れ、どこから外れたのかわからなくなり、そことはどこかと問うはめになる。語っていることが予定調和か。何も語っていないのに、わかりきったことを問わないでほしいか。それでも何も問わないよりはマシか。要するにまともなことは何も語れなくなっているのだ。本当に何も語れない。嘘なら語れるのだろうか。そんなふうに語るのはよくない兆候であり、自虐的になるのもよくない。では語る必要がないことを語っているのだろうか。そうだとするなら、語る前に何かやることがありそうだ。たぶんそこで言葉を記せばいいのだろう。簡単なことではないが、それは今やっていることでしかない。記すべき言葉がどこにも見当たらず、とりとめのない気分でいるらしい。そしてまた翌朝になり、目が覚めて何を思うこともなく、焦りながらも言葉を記す。無理に決まっているだろう。どう考えてもまともにはならない。何も語る気分ではないのか。世の中の何もかもを否定しすぎている。そんな否定している自らを嫌悪しているわけだ。だからやる気をなくしてしまい、何も思いつけなくなっている。それで何がどうなるわけでもないだろう。そんなことを述べているうちに昼になってしまったようだ。仕事をしていたのだから、言葉を記している暇はないはずか。

 やはりくだらないことを述べて、何もない現状から逃避する必要がありそうだ。虚構の物語でもこれから語り始められるのだろうか。そんなことが語られる気配はなさそうだが、一向に事態が打開されないことにしびれを切らして、誰かが苦し紛れにそんなことを記しているらしい。それがどうしたのだろう。気分を悪くしているのではないか。これからどうしたらいいのだろう。そんなことはわかっている。言葉を記せばいいのだ。そしてくだらぬこと述べている現状を受け入れるべきだ。そんなことが可能だろうか。誰かがそれを記せば可能だ。記しているではないか。それがそうなのだろうか。たぶん君はそれを信じられないのだろう。今のところは信じるに足る証拠がない。では何を信じればいいのだろうか。そういうことではないような気がするが、誰かが記す言葉の連なりが空疎で無内容であることについて、何か改善すべき点があるのだろうか。それの関して何もわかっていないことは確かだ。本当はわかっていて、それを語るのが嫌だから、わざとわからないふりをしているのか。なぜそんな嘘をつくのか。そんな架空の問答を続けていると、何もわかっていないことを一時的に忘れさせる効果でもあるのだろうか。その辺もわかってないようで、まともな文章からはどんどん遠ざかっていくみたいで、それが深刻な事態を招いているとも思えないが、何となくそんなふうに語ってしまうことから、何かそう語っている原因でも推測できるだろうか。そう問いかけてしまう理由がわからない。


12月3日

 何かが高速で回転している。そんな夢を見たと述べれば嘘になるだろうか。具体的にそれはどういうことなのか。夢の中で何が回転していたのだろう。ところでそれとは関係ないが、現代人の祖先とは誰なのか。具体的に誰というわけでもないが、二十年ぐらい前の蓮實重彦あたりによれば、それは十九世紀のフランスにいたマクシム・デュカンとなるだろうか。彼は勝海舟や坂本龍馬や西郷隆盛辺りと同時代人で、詩人で写真家で小説家で随筆家でジャーナリストで冒険家でノンフィクション作家で、フロベールの友人で、死後すぐに忘れ去られた存在で、要するにマスメディアで取り扱われる有名人の先駆けといったたぐいだ。『凡庸な芸術家の肖像』にその辺のところが詳しく書かれているが、たぶんそれがどうしたわけでもなく、現代ではありふれた存在で、いくらでもいて、次から次へとメディア上に登場しては消え、その時々で何やら利いた風な意見を述べてしまう存在なのだろう。そういう意味ではもはや現代では誰もがマクシム・デュカン的になっているわけで、ブログやツイッターなどでそういうことを語れば、そういうレベルでは君でもすぐになれるかもしれないが、デュカン本人と同等の立場になるには、後は何かの巡り合わせで有名にでもなり、メディア上でうまく立ち回って名声を維持して、年老いたらその方面での功績により、文化勲章でももらえばいいわけだが、そこまでいくのは本当に限られた一握りの人間だろう。だがそういう一握りの人間でさえ、いったん人々の話題にのぼらなくなれば、その時その人が何を述べていたのか思い出せなくなり、すぐに忘れ去られてしまうわけだが、それが現代の特性といえば特性なのだろうが、そう思うと何だか虚しくなってしまうか。

 だが別に死後すぐに忘れ去られようと、現世においてある程度の世間的な名声を得られたなら、それで自己満足に浸れるのではないか。また死んだ後のことまで気にするほどおめでたいこともあるまい。まあその手の自己顕示欲に際限はなく、周りの人間を利用しながらも、何らかのジャンルで成功して、それなりの栄光を手に入れ、そんな自らのやっていることを正当化したいのは、誰もが思うことなのかもしれない。述べている内容が少しぶれているだろうか。何かその語っている方向性に誤りがあるのかもしれない。ではそこから少し軌道修正するとしよう。要するに何らかの出来事をメディアを通じて知ると、すぐに誰もがそれに対して、あたかも世間の代弁者のごとく、あるいはそれに反抗する尾崎豊風不良の代弁者のごとくに、さらにはニュース番組のコメンテーターのごとく、あるいはまたそれに反抗する文化人風お笑い芸人のごとくに、利いた風な意見をこれ見よがしに語ろうとしてしまうことが、現代に特有な現象ということか。笑ってしまうが、これでも物事の本質を捉えていないのかもしれず、どうも何か違うような気がするのどういうことなのか。そうではないのかもしれない。その辺の認識がどこか間違っているわけか。君はいったい何について述べようとしていたのか。現代とは何か。現代人とは何なのか。それについて冗談をかまして、くだらぬ見解に浸る必要があるだろうか。何を馬鹿にしているのでもなく、自らもそれに含まれてしまう言説を否定して何になるのだろうか。

 そういった世間に語らされてしまう人々のただ中で、そういう現象についてどこまで自覚的であろうと、本質的な何が見えてくるわけでもなく、相変わらずそれらの言説の表層で、何やら同じような言葉の組み合わせを再構成しているだけなのかもしれず、そこに何らかの救いを見出そうとするのは間違いであることは承知しているつもりだが、どうしてもその先にまともな言葉をつなげられず、そんな現状に焦れば焦るほど、それがフィクションの中で語られようとしていることに気づかなくなり、結局は誰もが虚構の物語に絡めとられ、テレビドラマに登場する過去の偉人に感動してしまったりするわけか。どうもそこにそれ以外の何があるのかわからないままに、さらに言葉を記すならば、人が何らかの認識に導かれるとき、それを利用して主張を構成しようとすると、何やら何かの代弁者のごとき主張になってしまいがちになる。例えばそれは世論調査から導かれた最大公約数的な意見を、あたかも自分が抱いていた意見のごとくに語ろうとしてまう、ニュース番組のコメンテーターのようなものか。しかし誰もが世間の代弁者のごとき主張を信じるか、あるいはそれに反抗してみせるかの、二者択一にはまっていいのだろうか。そう述べてしまうとまた本質から外れていってしまうのかもしれないが、そういう現象はそれとして受け入れる必要がありそうで、たぶん軽はずみに惑わされればそれでかまわないのであり、後は平気で世間に流通する紋切り型的な言説を語ってしまってもかまわないのかもしれない。それはそれでそういうことでしかなく、それ以外の何を求める必要もないのだろう。要するに君はそうやってまた冗談をかましているのだ。


12月2日

 何かが滞っているのはわかるが、それをどうしたらいいのかわからない。それの何が率直な認識なのだろう。また頭の中で何かがひねくれているようだ。君はそれを直したいのだろう。無理なのはわかっているが、何とかするつもりのようだ。どこかで妥協点を探りたいのか。完全には直らないまでも、今より少しはマシな状態にしたいのかもしれない。だからそれが無理だと言っているだろう。誰が言っているのでもなく、誰かがひねくれて、わざとそう記しているのだ。そんなわけで疲れる成り行きになる。しかしそこから先には何を記せばいいのか。何かが自然に発動して、君がわざわざ考えなくても、そんなことが記されるようになるだろう。君の影がそう述べているのか。そんなことはわからない。それどころかどんなこともわからず、実際に誰かが何を記しているのかもわからない。またそんな嘘をついて、その場しのぎの言説に持ち込もうとしているわけか。そこでため息が出かかるが、ぐっとこらえて先を急ごくとしよう。まだわかりかけてきたことを記していないではないか。何とかしなければならないのはどこも同じで、結局はわけのわからぬこだわりを捨てて、みんな普通のことをやればいいだけなのに、それができないのは単に意固地なだけだろうか。たぶん心がそこから外れようとしているのは確かなことで、面倒くさい仕来りを無視して、普通に考えて当たり前のやり方をすれば、他の誰もが納得するはずだ。だが実際にそれができないのはどういうわけか。わかっているのにやろうとしないのは、やはり意固地なのか。

 どこかで回りくどい紆余曲折を経験しなければならない。そしてわかっていながら、わざと失敗して、失敗しないためにはどういうやり方が有効なのかを考えてもらえば、うまくいくか。実際にやってもらえばわかることだろうか。今現にやっているではないか。その貧乏揺すりは苛立っている証しか。フィクションの中ではそういうことになっている。他に誰が登場人物として配置されているのか定かでないが、何となくそれらのゲームのやり方を把握しているようだ。しかしそれに勝てば何がもらえるのだろう。まさか命と引き替えにしてつかの間の栄光を手にしたいわけでもあるまい。そこには何かの倒錯や逆説が介在しているのか。そんなことは君には知る必要がないことかもしれないが、たぶんこれからどこかで行方知れずになってしまう君にとって、君がいなくなった以降に、それらの成り行きがどういう変遷を経てどうなろうと、その先行きを心配するのは意味のないことか。だが実際に心配したくなるのはどういうわけなのか。まだこの地に何か未練が残っているわけか。しかしこの期に及んで何の話をしているのか。まったく意味不明にもほどがあり、もう少しでフィクションらしい話の展開が期待できたのに、誰かの意識がそこへ割って入って、強引にそれらを打ち壊しにしてしまう。たぶん記したかったのはそういう話ではなかったのだろうが、まったく堪え性がないようだ。言葉が並んでいればよく、話の内容などはどうでもよかったのか。

 そしてもうそんな話は忘れてしまったようで、さっさと別のことを述べようとするが、今日の天気は曇っていて、もうすぐ雨が降ってくるらしい。それで冗談を述べているつもりになれるのか。冗談ではなく、実際の空模様がそうなるだけか。別に無理に冗談を述べなくても、何が困るわけでもなく、正気でないのはお互い様か。誰もそこにはいない。あいにく不在の君はいつまでも沈黙を守り通し、何かを語る気配は感じられず、そんなことを記している誰かも、頭がどうにかなっているらしく、ひたすら意味不明な言葉の並びを模索している。そういう話ならいつも通りの展開か。まったく何をどう語っても、結局はそこに戻ってきて、よくわからないことをさも関心がなさそうに語るのが、そこでのやり方なのであって、先ほどの失敗がまったく応えていないような語り方となり、いつしかため息混じりに天を仰ぎ、何をやっているのかわからなくなり、ふてくされてどうなってしまうのだろう。実際にそう振る舞えば自ずとわかってくることか。とにかくそういう外れた思いを利用しなければならず、何か意味不明なこだわりに凝り固まっている輩も、それを利用しながらうまく機能させて、何とかその日を乗り切っていかなければならないようだ。要するに馬鹿と鋏は使いようというわけか。そう述べてしまっては身もふたもないが、とにかく気がつけばおかしなことをやりながら、本質から外れていってしまうのだから、こちらは外れていった先に本質を置いておかなければならず、その辺で苦労しているわけだが、こちらが何とかしなければ、そのおかしな動作が的外れなままに終わってしまうだろう。


12月1日

 意識しているのかしていないのかわからないが、またこんなところまできてしまったらしい。とにかくここからどうにかしなければならない。そこで何が終わっているというのか。何かの経過としては、先月が終わり、今月に入ったということだけか。それで今月も何とかしなければならないわけか。何とかする理由がない。何のためでもなく、実際に何がどうなっているわけでもなさそうだ。空は適当に晴れ、晴れた空から雪が舞い落ちているわけでもなく、気分が悪いわけでもない。どこをどう探しても何でもない。それだけで文章を構成するのは無理か。別にそこで何か重大な出来事が起こっているとも思えず、誰かの運命を左右するような状況となっているわけでもなく、取り立てて何もないことが誰かを戸惑わせ、何も記すことがないのに言葉を記している現状が、それらの精神に動揺をもたらしているわけか。何がそれらの精神なのか。君にはそれがわかっている。それが何でもないことを承知しながらも、それでもそこに何かがあると思い込もうとして、必死になって辺りを探しまわっているようだが、それ自体が嘘であり、誰かの作り話の中で探しまわっていることにしたいらしく、そこから何らかの徒労と疲労感でも醸し出したいのか。しかし何が何らかなのだろう。それでも泥縄式に言葉を導きだし、空疎な文章を構成してしまうのだから、そのお手並みは恐れ入ってしまうだろうか。そう述べて何を馬鹿にしているつもりなのか。ただ無駄に言葉を記すだけなら、君以外の誰にでも可能なのではないか。君はそんなくだらぬことを誇るべきではない。たぶんそれも何かの冗談のついでに述べていることなのだろう。そしてそれをそのまま続け、やがて何でもないような言説以前のがらくたが現れる。そう思うならそれでもかまわないか。

 相変わらずそんな案配で言葉を記し、無駄に頭を働かせているようだが、君はそこからそれとは別の何かを発見したつもりになれるだろうか。その場で虚無以外の何が見つかるというのか。何も見つけられずに絶望したいわけでもないだろうし、見つからなくてもかまわないと思うだけか。何も見つからなくても大したことではない。重要なことは何もなく、深刻な状況に至らないのがその場の成り行きで、何も思わないことがそこでは求められている。それは本当だろうか。どうやら心はまたどうでもいいような逸脱を経験しているようだ。どこかから外れ、そこから遠く離れて自己を見つめ直すわけでもなく、ひたすら遠ざかろうとして、実際に意味もなく遠ざかっている。遠ざかることが何を意味することもないような遠ざかり具合で、それはそのことによって何も導かれないような経験となり、すぐに忘れ去られ、気がつけばまた同じことを繰り返しているよう成り行きに、意識が投げ込まれていることに驚かされる。そんなはずがないと思い込もうとするが、結局はそれを認めざるを得ず、そんな状況の中で自らの敗北を悟るしかなさそうだが、何に負けたのかわからないのに、やはり何かに負けていることを意識してしまう。それはどういうことなのか。なぜそれを認めてしまうのだろう。それがわからない限りは認めざるを得ないということか。いったい何を認めざるを得ないのだろう。少なくともそこに何もないことは認めている。本当は何かあるのに、面倒だからそういうことにしているわけではない。成り行きとしてそういうことを述べざるを得ないのであり、そうするしか方法がなく、それ以外ではそこから言葉を導きだせないのではないか。だからどうしたというのか。何を開き直っても結果は変わらない。

 それにしても無駄に語りすぎている。理由もなく言葉を記しすぎていて、そうしているうちにも次第に不快感が増してゆき、精神的に耐えられないような言葉のつらなりとなっているようだ。それがどうしたというのか。意識はそこから心に何かの病が進行している兆しを感じるのだろうか。それはヤバそうな事態か。何とも思わず、何でもないことにしておきたい。もうこれ以上は破綻と崩壊を経験したくないようで、何とか平静を保ちながら、それらのどこかに妥協の余地があることを願って、軟着陸を目指しているようだが、一向に気分が優れず、記された文章にもとりとめがない。病の進行は確実に精神を蝕み、ついには気が狂ってしまうのか。だがそういうフィクションはありふれていて、そういう構造に従うなら、人を何か大げさな気分にさせるためのこけおどし的な効果を狙って言葉が組み合わさり、それによって架空の危機感を抱かせ、何かそれがそれらしい娯楽として機能するように、それらの言説に工夫を加える必要があるようだが、そんなことが今の君にできるとは思えず、できることはといえば、それを目指さずにひたすらそこから逸脱しながら、それらのよくできたフィクションからひたすら遠ざかり、そういう逃避的なやり方に対するいいわけじみた言説を延々と記すだけか。そして実際には君が記しているのではなく、それらは他の誰かによる記述となり、それらの言説は君には関係のない内容となるのだろう。君はそれでかまわないと思い、さらなる遠ざかりを試み、もはや忘却の彼方で何をやっているのかわからないほど、そこから遥か遠くにいるらしい。しかしそんな嘘をつく理由がどこにも見当たらないのがおかしいか。あえて何か重大な欠陥を見落としているだけか。だがなぜわざとそんなことをやるのだろう。