彼の声80

2010年

9月30日

 やはりそれは冗談なのだろうか。少なくともこの世界で起こっている出来事とは関係ない。だがそれによって何か不吉な予兆を感じ取ったわけではなく、何も思わないまましばらく休む。ふと窓から外を見やれば、また雨が降っているようだ。確か昨晩の記憶によると、屋根を叩く雨音に気づいた誰かが、部屋の中で何を語ろうとしていたわけでもなく、遠くからかすかに聞こえてきた犬の遠吠えに意識が呼応したわけでもない。ではあれらは何だったのか。ただの幻影か。幻影でさえなく、もとから何でもなかったのかもしれない。誰かが他の誰にとっても関係のないことをひたすら記そうとしていただけか。君はそれが気に入らないのだろうか。だがそれは君にとって何ら不都合な状況を招いているわけではない。もはや君は何も語らなくてもいいのだ。それはもとからそうなのではないか。語らなくてもいいのに語ろうとするからすぐに行き詰まる。そんなことの繰り返しで疲れていただけで、他に何をやっていたわけではない。しかしなぜ語る気もないのにすぐにそうやって語ろうとするのか。そしてまたわざと矛盾したことを述べようとする。それでもすべては君に起因する問題ではない。言葉を記している誰かに問題があるのではないか。しかしそれが本当に問題といえるだろうか。それの何が問題なのか。それらのどこにも問題がないことが自体が問題なのか。はたしてそれが問題なのだろうか。問題でなければ何なのか。何でもなければ君はどうしたらいいのか。

 とりあえず問題がないのだから解答ができなくなる。それでも何か答えようとすれば、そこで何をどう答えればいいのだろう。普通は問題がなければ答えようがなく、それでも語ろうとすれば、それは問題でも解答でもなく、やはり何でもないということになるだろうか。そんなことはあり得ないか。もしあり得るとしたら、それはたぶんまったくのでたらめだ。おそらく何らかの偽りなのだろう。要するに君は嘘をついている。そしてそんな状況から逃れられず、どうしてもこの世界から偽りの問題を導きだそうとして、次いで無理矢理それに対する答えをねつ造しようとしている。しかし実際にねつ造できているのだろうか。できていなければ、やはりそこで予定調和のごとくに行き詰まるしかない。君はそれが気に入らないのであり、我慢がならないのではないか。ではどうしたらいいのか。そういう行き詰まりを打開するには何が必要なのだろうか。例えば今の君には偽りの経験が必要だ。間違えることを恐れず、問題ではない問題に取り組み、解答しなければならない。しかし何をわけのわからないことを述べているのだろう。確か架空の話の中では、誰かが今さら何を解き明かそうというのでもないが、とにかく嘘でもかまわないから、勝手にわけのわからない設問が出現して、それに対して誰かが適当にいい加減に答えなければならず、それは意味も根拠もないような答えとなるのかもしれないが、誰かはそれでかまわないと思い込もうとしているはずだ。別に何を強いられているわけでもないのに、偽りの問題とそれに対する偽りの解答をねつ造して、それで何かを語っているつもりになり、そこから達成感をもたらしたいのだろう。だからさっきからそれがでたらめだと思っているはずだ。そんなわけでどうもわけがわからず、誰かは何をどう語ればいいのかもわからず、結局何が問題なのかもわからない。それは紛れもなく冗談のたぐいだろうか。

 その場の雰囲気にのまれ、そんな状況に流されながら、君はそれでかまわないと思ってしまう。もはや語っているだけで満足してしまい、その内容が冗談でも何でもかまわないか。そう思うなら確かにそれでかまわない。この期に及んで無理に真実を語る必要はないし、根本的にその必要がないのだから、あえて必要のないことを語ればよく、それで万事が収まるはずだ。しかし誰かは何を開き直っているのだろう。別に何を語ろうと、すべてが冗談だからいいのだ。そんなことがあるはずがないが、その代わりにあるのは軽薄でくだらないつぶやきばかりではないのか。それでもつぶやいていればそれで満足してしまう。確かに架空の物語の中ではそうだった。そして今や君は自身のそんな境遇を認めざるを得ないのだろう。だからしばらく黙っているつもりだったはずだが、数日前に突然どこかの文章の中に出現して、何やら利いた風な意見を述べるに至り、これで君が完全復活したと宣言するのは時期尚早だろうが、冗談のつもりでそんなことを言い放ちたくなり、これもまた別のフィクションになってしまうのだろうが、そこでまたもや君が出現して、調子に乗って何かわけのわからない意味不明の台詞を叫んでいるようだ。いったいそれはどうしたことなのか。そんなことを語っていること自体が嘘なのかもしれず、本当は何もありはせず、依然として君は押し黙ったままなのかもしれないが、なぜ誰かは急にそんなことを語りだしたのか。やはりそれは何かの前触れで、これから重大な何かが発せられることを予知して、その前に先回りして、決定的な言葉が発せられる直前で、それを阻止しようとしているのか。


9月29日

 現状からはかなりかけ離れている状況だ。それで何がわかったというのか。何もわからなかったが、何かしら手に入れたはずか。ではそういう決まり文句で何を表現しようとしているのか。それの何が決まり文句であるわけもなく、ただの言葉に決まっている。君は相変わらず行き詰まっているらしい。それは当然のことか。当然だからこそ誰かがそんなことを語っている。その辺が君にはわからないことか。もとより何をわかろうとしているのでもなく、それをわかろうとしているのは誰かの方だろう。誰にもわかりはしないだろう。そんなことまでわかってたまるものではないか。そういうことでもないような気もするが、それでも誰かは何をわかろうとしているのか。地面が傾いた映像を誰かが眺めている。そこから何がわかるわけでもないだろう。わからないからありふれたことを思っているわけか。それは何かのこじつけだろう。気がつけば言葉と言葉が離れすぎていて、まったく意味をなさなくなっているようだが、それはどういうことなのか。どういうことでもなく、ただのでたらめか。そう思って差し支えない。そしてそこから先にも意味不明な言葉が続いていると思うと、何か歯痒さでも感じているのだろうか。いったいそれらの文章は今後どうなってしまうのか。ただの意味不明になるだけか。そう思っているのならそれでかまわないはずだ。

 さらに粗雑なことを述べなければならない。やる気がないのだろう。図星か。それがどうしたのか。どうもしないが、やる気を出せと励ますこともできはしない。いったい何をやれというのか。君がそれを知っているとは思えない。知らなくてもかまわないのだろう。だが君はそうなることを知っていた。どうなることを知っていたわけでもなく、実際にそうなってしまったのだ。そしてそれがどうしたわけでもなく、こうなってしまったわけだ。ここからすべてが始まるわけではなく、すでに何かが始まっている。始まっているからこうなっているのだろう。そしてそれを認めがたいから、君は自らが何も語っていないと思い込もうとしている。それでどうなるというのか。ところで人々は何についてどう思っているつもりなのか。この世界はこの世界だ。そういうことの積み重ねが現実感の獲得につながるのかもしれないが、君はそこから何を夢想しているのでもない。何ももたらせないことはわかっている。ただ言葉を記すだけでは何かが足りない。いったい何が足りないのだろうか。それは冗談か何かか。なぜそこでふざけてしまうのか。なぜ彼はそんなことを記すのか。それは彼が彼ではないからか。また誰かは嘘をついているようだ。そうまでして言葉と言葉を近づける義理はないか。

 たぶん君はそこから何かを引き寄せようとしているのだろう。だがたぐり寄せたそれが君にとって必要か否かはその際まったく考慮されていない。とにかく誰かが言葉を記すことによって、何らかの雰囲気を醸し出せばしめたものだ。それで君の願いが成就するわけではないが、とにかく言葉から言葉へと君の意識が移ってゆけばいい。それで文章を読んでいるつもりになれるはずだ。つもりでは物足りないなら、実際に古本屋にでも出向いて、その書物を探し出して買って読めばいいことでしかない。それをやっている余裕がないのか。だから誰かはネットで買い求めたのだろう。そしてその書物を半ばまで読んで、何を思ったか知らないが、何となくその先は読まなくても済んでしまうような気になり、実際にそこから先の読書がなおざりにされている。もう読む必要はないのだろうか。そんなことはなく、いずれ時間を見つけて残り半分も読んでしまうのだろうが、それによってどんな認識を得るわけでもないか。その書物は書物で、君に何か考えるきっかけとなるだろう。だがそれだけのことだ。君は君でそれとは違う認識に至らなければ、それらの文章を読んだことにはならないのではないか。だから実際にそれらとは別のことを考え続けているのだろう。そしてそれがどんな結論を得るとも思えず、得られるものは誰かが記す文章に反映されるのかもしれないが、今のところはそれが何だかわからないままだ。


9月28日

 何となくそういうことだったようだ。君は機械のフォルムに幻想を抱いていたのか。それはデザインの一種だろう。しかしそんなものを買ってどうするのだ。単なる自己満足に過ぎないし、そんなものにいつまでも浸っていても、何がもたらされるわけでもないだろう。要するに無駄で余計な物ばかり買っているわけだ。それが現代人の特性なのか。何でもかんでも現代の特性であるわけがないが、そう述べるとそんな気がしてくるのがおかしな具合か。そんなのは嘘に決まっている。どうでもいいことには違いない。誰が何を買おうと、そんなことはどうでもいいのだろうか。たとえそれが無駄な気晴らしであろうとなかろうと、買える物を買っているのだから、どうということはないのではないか。だから安心しきってそんなことを予定調和気味に述べているわけだ。たぶんそれはたわいないことでしかないが、何となくそんなふうにして何かを述べていると、それはそれでどうしようもなく自然な成り行きに思えてくるだろうか。そう思うならそう思っていてかまわないか。要するにそう思わざるを得ない状況に追い込まれているのだろう。ならばこれからどうしようというのか。そう思っていればいいのではないか。それだけのことだろう。なぜそれだけことに何か引っかかるものを感じ取っているのか。それだけではないと思いたいのか。その何かを買うことによって、従来から抱いていたその商品に関する固定観念が瓦解してしまったのかもしれず、今はそのことに感動しているのではないか。

 しかし何を説明しているのか。その説明の対象となっている物について、もっと具体的に語らなければならないのではないか。それは何かの冗談だろう。そう思いたいらしく、その物についての説明はそこでおしまいになってしまうのかもしれない。要するに説明するのが面倒くさいのか。それもあるだろうが、それ以上にすでにその物について興味を失っているのかもしれない。まだ商品が届いていない段階でそれはないか。それどころかそれはもはや何だかわからなくなっている。そんな嘘をついてどうするつもりか。どうするつもりもなく、どうにもできないからそんなことを述べているだけかもしれず、そこからどんな言葉が続いてゆくこともできずに、また同じようなことの羅列となってしまいそうになる。それでかまわないのか。今はそういうことだ。だからまた機会を待っていればよく、その時が来たら今までとは違う言葉の連なりを導きだすとしよう。ただ今は以前と同じような言葉を記すのみで、誰かにはそれができそうな気がするらしい。ではお手並み拝見としよう。まったく冗談になるしかないだろうが、何となく誰かの影が楽しそうに画面を眺めている。どうせ何もできやしないだろう。そう思いたいのか。ならばその期待を裏切って、でたらめなことをこれでもかと並べてみせる。それは無理というものだ。

 なぜ無理なのかといえば、その先はどうでるつもりなのか。そういう話ではないということになるだろう。ならばそれで一件落着か。そういうことになる。くだらぬことはどこまでもくだらぬことであり、そのくだらぬ状況から言葉を記すことによって抜け出られるはずもなく、その先にいくら言葉を並べたところで、それはくだらぬことの繰り返しにしかならないだろう。君にはそれは嫌というほどわかっているはずか。そんなはずがない。ではそれに対して何か反論らしき言説を構成できるのか。今から何を述べたらいいものか、何も思いつかずに途方に暮れてしまうだろうか。そうに決まっている。そう決まったらそういう線で言葉を組み合わせ、そういう文章を構成してみたらいかがなものか。やはりそれは冗談に過ぎず、本当は何を語ろうとしているわけでもなく、ただむやみやたらと言葉を記しまくって、それでその場を取り繕うとしているだけかもしれず、良心の呵責を覚えながらも、そうしなければならない状況に従いながら、誰かはそんなことを語っているつもりになり、要するに急場しのぎという明白な結果を導きだそうとしているわけだ。だがそれでいいのだろうか。良くないから良心の呵責を覚えるわけか。だが影にとっては別に良くなくてもかまわないのであって、逆に良くないことが糧となり、ひたすら執念深くそれをやり遂げようとしているのだろう。たぶんそれがそこでの結果なのだ。


9月27日

 そして昨日のことになる。翌朝に何を思ったわけではない。ただそんな気分を書き留めようとするが、それは夢の中での出来事だったかもしれず、そんなふうに考えていることに、何か意図的な思惑があるわけではなく、それも虚構のたぐいだったかもしれない。だからその内容を記さないのか。本当は何も思い浮かばなかったのだろう。就寝中に夢を見たかもしれないが、今はもう記憶にないようだ。そして何かを考えようとするが、それが頭の中でまとまらず、後はひたすら余白に余分な言葉が並ぶばかりか。そう思うならそれでもかまわないだろう。君がそれを認めがたいとしても、誰かは無視するばかりのようで、そんなふうにして文章を構成し続ける。たぶん何かに自足してしまっているのだろう。君はそれを否定したいが、それをどうすることもできはしない。どうにかしたいのは痛いほどわかるか。誰がそう思っているのだろう。とりあえず今はそんな気分ではない。目の前の現状はいつもの通りだが、人はそこから何を導きだそうとしているのだろう。ありふれた観念か何かか。事物の捉え方がありふれているのは致し方のないことだ。誰もが現代人なのだからそうなるのは当然であり、この世に救いがあるとしたら、たわいない娯楽にうつつを抜かしている時でしかないだろう。それ以外は仕事をしている時間か。そうであるなら、それはありふれた人間として幸福な人生でも送っていることになるだろうか。

 現代人にこれといって特性などない。たぶん誰もが群衆の中の一人であって、その他大勢のうちの一人なのだろう。しかしその他大勢以外にはどんな特性を持った人間が存在するというのか。例えば有名人と呼ばれる者たちが持っていると思われる、その人特有の個性とは、誰もが思い描く幻想に過ぎないのか。それはやっていることの出来不出来で決まる相対的な差異でしかなく、出来の良い者は他の者たちから一目置かれ、それがその者を取り巻く大勢の人たちの間で広く知れ渡ると有名人になるのであり、あいつは他の奴らとはひと味違うと誰もが思うようになることで、それがその者に備わった個性だと思われ、それが幻想としてその有名人を崇める者たちの間で共有されるわけだが、誰もがそう思うこと自体がありふれた現象であり、そういう現象が社会の方々で起こることで、多数の有名人が出現して、世の中が有名人だらけとなり、要するに有名人もありふれた存在のうちのひとつとして、その他大勢の者たちのうちに含まれてしまわけだが、そこから何を導きだすことができようか。つまり現代人のありふれた特性のうちのひとつが、有名人を作り出す能力なのか。ならばこれといって特性のない現代人が過去の歴史から隔てられる特性としては、大勢がよってたかって有名人を作り出す能力があるわけだ。

しかし誰もが有名人という同じような幻想を抱けることは、何によって可能となったのだろうか。それは学校教育が成し遂げた功績かもしれず、教育は誰もが同じような幻想を抱けるという点において、均質な社会を作り出すことに貢献しているわけだ。だが均質社会という割には、依然として経済的な貧富の格差が厳然とあるではないか。現実に金儲けのうまい者と下手な者がいることは、教育だけではどうしようもないところだろうか。いや教育によっては金儲けの方法を教えているところもあり、金を儲けたければそこから学べばいいということだろうし、だから現状が貧富の格差があるとしても、社会の中で教育は貧富の格差を縮める方向に作用しているのではないか。ともかく学校教育によって、大勢の人たちが同じようなことを教えられているのだから、そこから学んだ者たちは同じような人間になって当然だろうし、そこに差異があるとしたら、学んだ内容の理解度に応じて結果として示される試験の点数のように、それは相対的な差異でしかないはずだ。そんなことが前提となっている社会において、やはり誰もが抱く幻想が誰の心をも捉えて離さないから、要するにこの世は均質な社会にならざるを得ないということか。たぶんそれを受け入れるのも、反発してそれに逆らうのも、両方とも誰にでも備わったありふれた能力なのだろう。


9月26日

 目が覚めればまた翌朝になっている。それはいつものことで、何がおかしいわけではないが、今日も朝から雨が降っている。昨日は違っていたはずだ。だからそれの何がおかしいのか。これからおかしくなるのだろう。誰かには謙虚さが足りない。だから具体的にどのような言動からそういう結論に至ったのか。それが示されなければわからないだろう。そんなことはわかりきっているだろうが、何となく誰かがそういう言葉を記しているだけかもしれず、そう記すことにあまり意味がないのだろう。そんなわけで相変わらず何も語らない。もう今は夜だ。いったい何を語れば良かったのか。君にはもう何も語ることができず、黙ってその場を離れるしかないようだ。そして誰もいなくなり、いつもの静寂が戻る。そんな具合に事態が推移すればしめたものか。冗談に違いない。だがそれ以外に何があるのか。何もなければそれで終わりとなるだろうか。いったい何が終わるというのか。またそんなふうに語りだし、とりとめのないことを記し続け、何でもないようなこの世界の有様を実感することになるのか。本当はそうではないはずか。そうでなくともそうなってしまうのがここでの成り行きだ。ここは黙ってそれに従うしかあるまい。そんなはずがないだろう。君はそれを知っている。本当だろうか。何が本当で何が嘘なのか。君がそれを知っているはずがない。だがもうここまで語ってきた現実がある。今はその現実を肯定すべきか。

 国家とは何だろう。行政区分のたぐいか。唐突に何を思っているのか。それだけではないから自国の領土がどうしたこうしたと騒ぎだす。まずはそういう意識を嫌うことから始めよう。それも冗談のたぐいだろうか。たぶんそうだ。まったく悲惨な人たちだが、そういう人たちが実際に何らかの力を持っているわけだ。それは困ったことだろうか。別にそういうわけではなく、今時の国威発揚の一形態としては申し分ない。なるほど本気で自らの属する国家が他国に勝ったと思えばうれしくてたまらないか。だがそういうのは何となく面倒くさくないか。君にとっては国家と国家が対決して勝ったの負けたのと思い込むのは馬鹿げたことに違いない。幻想に過ぎないだろうが、そういう幻想を抱いている人々が未だに存在することに驚くはずもなく、まあその程度の人間など掃いて捨てるほどいると思いたいのだろうが、何となく虚しい気分になる。どう思ってみても、そんなことはどうでもいいことには違いない。無人島の周辺海域に地下資源が眠っていたり、漁場であったりすれば、そこが自国の領土だと主張したくなるのだろう。国家主義者の限界がその辺にあることもわかりすぎるほどわかっているはずだ。過去の戦争の結果も気に入らないことのひとつなのだろう。たぶんそういう経緯は今さらどうにもならないことだ。しかしだからどうしたわけでもなく、国家の首脳が他国に脅しをかけるに及んで、なるほどそういうことなのかと合点がいくようだが、やはり何となくみっともないように感じられ、時には腹も立つだろう。

 まあしかしどう考えてもその程度のことなのだ。結局お隣の国家も国民も大したことはなく、たぶん脅威でも何でもない。騒ぎたいなら騒いでいればいいだけでしかなく、底が浅く軽薄な人たちが周りではやし立て、キャンプファイアーのごとくに馬鹿踊りを繰り広げ、その結果として何らかの現象や出来事が引き起こされようと、それだけのことだ。尖閣諸島が歴史的に自国の領土だとしたら、チベットやウイグルや内蒙古や満州は歴史的には中国ではなく、それらの地域の中国からの独立を今こそ承認すべきではないか。もちろんそんな屁理屈は彼らには通用しないのだろうが、どう考えても国家が国家として主張していることは、それが日本であれ韓国であれ中国であれどこであれ、要するにご都合主義の極みなのだろう。北方領土も竹島も似たような事情に基づいている。それらがどの国の領土であろうとなかろうと、そんなことはどうでもいいような気がするのだが、やはり国家としては自国の領土だと主張せざるを得ないところに滑稽な結果を招いている原因がありそうだ。だからこの際世界中の国境をなくし、ひとつの政府または行政機構のもとに統一されればいいのかもしれないが、今のところは一足飛びにそうなる可能性はなさそうで、それどころかそれとは逆の事態も起こっていて、例えば狭いパレスチナの地をユダヤ教徒とイスラム教徒で分割するしないでもめているのだから、そんな国家という存在のどうしようもない現実をニュースで見せつけられて、誰かはただ呆れるしかないようだ。


9月25日

 その後何がどうなったか知らないが、結果はそういうことだ。何がどうなったわけではなく、いつもの通りに事態は推移して、そしてこうなっただけか。たぶんそこから具体的な説明に入らなければならないのだろうが、ここでの語りは空疎なまま続けられ、何を語っているのでもない現状が固定化してしまう。それでかまわないのだろうか。かまわないのだろう。そんなことしか語れないのだから仕方ない。そんな現状に誰かが危機感を抱いているのかもしれないが、たぶんそれでかまわないのだろう。今はそう思うしかないらしい。現実にそれ以外は何もなく、他のことを語れなくなっている。それがここでの現実に違いない。外では雨が降っていて、部屋の中で誰かが言葉を記している。それだけのことだろう。それだけのことなのにことのほか手こずっている。実際はそれだけではないのではないか。君にはそれがわかっているはずだ。まともな内容にしなければならない。それができないから困っているのではないか。そう思って差し支えない。なぜそう思ってしまうのだろう。でたらめでもかまわないのではないか。だからでたらめに言葉を記そうとしているのではないか。誰がそうしているのだろう。君ではないと思っているのか。君は誰でもなく、その証拠に何を思っているのでもない。いったいどこに証拠があるのだろうか。だからそういう語り方がでたらめなのか。そう思うならそう思っていればいい。そう思う以外にない。

 誰かが語っているのはそういうことだ。それ以外には何もない。それでかまわないのだろう。誰に何を尋ねているわけでもなく、自問しているとも思えない。そこには何もない。誰かが音楽を聴いているだけだ。そういう水準で自足しきっているのだ。満たされていないのに満たされていると思いたい。たぶん何がどうなっても満たされない。喉でも渇いているのだろうか。だが虚構の中で何を言い放っているのでもない。それがどうしたのだろう。何となくそんなことを思いついただけか。それがわからない。おそらく君はそこで悪あがきの最中なのだろう。きっとそういうことだ。なぜそう思うのか。そう問うことからしてわざとらしい。何だかそこで述べていることが見え透いている。だからなぜそう思うのか。目の前に黒い影があって、それが画面を抜け出てこちら側の世界に侵入してきているからか。ますますわざとらしくもわけがわからなくなるが、そういう成り行きが前もってわかりきっていたことなのか。そうだとすればその先はどうなるのだろうか。何も語れなくなってしまったわけではない。実際に何かしら語っているではないか。だからそこから外で抜け出る必要があるわけだ。なぜそう思うのだろう。理由が定かでなく、根拠も希薄だ。だからそういうことなのだ。それでかまわないと思っていて、その先に言葉を記すにはそういうわけのわからなさが必要なのだ。しかしそれがわからないことに変わりはない。

 それほど奇をてらう必要があるのだろうか。もっとまともでマシなことを語れるはずだが、わざと意味不明ででたらめなことを語っている理由がわからず、君はさっきから盛んにそうする理由を探っているようだが、君自身がそこに存在している必然性がなく、他の誰がそうしているわけでもなく、どこかでその理由を探っているのは君でしかなく、君自身が君でないことを証明するしか、そこから抜け出る方法はないようだ。もっともそんなのは嘘で、わかりきったことかもしれない、だがそう述べて何かの雰囲気を醸し出したかっただけかもしれず、別にそれがわかりきったことでもないような気もするが、何となくそう述べてしまったことを、後から修正しても不自然であり、違和感が残るのは致し方のないことか。では何をどう述べたら納得するのか。何も述べなければいい。そうすればすべてが終わるだろう。君にそんなことができるのか。これはおもしろい。頭の中で何かが暴走しているようだ。誰かは本当に気が狂ってしまったのか。そう思うなら、もはや君は君が構成したフィクションの中に生息しているはずだ。何を笑っているのか。たぶんこれは現実ではなく、フィクションの中だ。そう思ってくれれば差し支えないか。何が差し支えないのか。君にそれがわかるとは思えないが、そこから誰かの物語でも始まるのだろうか。


9月24日

 何もないというのは嘘ではない。たぶんそれは事実だろう。依然として何かがおかしい。しかしその語り方は何なのか。それがくだらないか。だがいくら自己否定してもその程度のことだ。何もわからないことに変わりはなく、それに関して何を語っているわけでもないことも確かだ。だから君に何ができるわけでもない。そういう結論の持っていき方がおかしいのではないか。そうに違いない。確かに違いないが、所詮は苦し紛れに記しているのだから、ある程度は不自然であっても、それは当然の結果だ。だから何とかしなければならないのだろう。それは本当だろうか。どうも本気になれない。ここしばらくはそんな言葉ばかりが並んでいるようで、何か冗談のつもりでそんなことを述べていたいのに、まったく冗談にもなっていないように感じられ、他の何にもなっていないのは確からしいが、それで何も述べていないというのもおかしいか。とりあえず述べている内容は何かのいいわけに違いない。何も語れないことのいいわけとしてそんなことばかり語っているのではないか。それの何が不都合なのだろう。仮にそうだとしてもかまわないということか。その辺で何か違っているような気がしてくるが、いつものように何が違っているのかはわからない。

 それが今の予定調和の結果となっていることは確かだ。だがそれがどうしたわけでもなく、さらに意味のないことを記してしまうらしく、もう当分はそんな言葉遊びの罠から逃れることができないようだ。君はそんな現状に退屈しているのか。だがどうなってしまったわけでもなく、さらに言葉を記していくと、やがてどこか視界の開けた場所に出るかもしれない。そんなことはあり得ないだろうか。今の時点では何ともいえず、このままわけのわからないことばかり述べているだけかもしれないが、そうなってしまったら、誰かは気が狂っていることにでもなるのだろうか。それが冗談なのだろう。あり得ない冗談かもしれない。しかしそれの何が冗談なのだろう。未だにそんなことを述べているのが信じられないか。過去にどんなことを述べてきたわけでもなく、たぶん今と同じような無内容だったのかもしれない。今となっては何も思い出せないか。そんなことはないと思うが、そんな嘘をつきながらも、本当は違うことを考えているのかもしれない。誰かはかなり精神的に参っているらしい。実際はそうなのだろう。何も強がっていないのにそれはないか。だがそれが誰の反論にもなっていないところが意味不明だ。そしてまたしても以前と同じような言葉の並びとなっている。

 本当にやる気がしないのだろうか。今の君に何を語る資格があるというのか。別に君が語っているわけでもないだろう。誰も語らず、言葉を記しているつもりの誰かも語っていないはずだ。だからどうしたわけでもなく、画面上には相変わらず空疎な文章が記されている。案の定今日もそればかりのようで、嫌気がさすような言葉の並びを前にして、何を感じ取れるわけでもなく、何もないところから何かを語ろうとしていること自体に無理があるような気がするが、それでも語ろうとしているわけだから、たぶん誰かの頭はおかしいのだろう。とりあえずフィクションの中ではそういうことになっている。またありもしない虚構の語りの中に逃げてしまうのか。誰がそこへ逃げ込めるというのだろう。実際には君はフィクションの中に住まう人物のはずだろう。確か以前にそういう話の筋書きを空想していたはずだが、何も語られていない現状では、未だかつてそれが実行に移されたためしはない。君はそこで何を実行しようとしようとしているわけではなく、ただ黙って画面上を眺めているようで、そこから何を読み取る気もなく、実際に何か起こっていることにも無関心だ。この世界の政治経済情勢がどうあろうとなかろうと、まったく無関係を装い、何を求めることも探すこともなく、ただそこでじっとしているようで、何の目的も目標もなく、その場に立ちすくむばかりで、何にあっけにとられているのでもない。


9月23日

 たぶん何があったわけでもないのだろう。別に何もないことに腹を立てたわけでも、気分を害したわけでもないだろうが、誰かはさりげなくそこから立ち去ってしまったらしい。ただの気まぐれか。また何もできなくなる成り行きになりつつある。誰が何をやりたいのでもないし、肝心の内容がないのだから、それでもかまわないのではないか。そう何かを卑下することもない。だがまだ何も語っていないのではないか。ならばこれから誰かが語るはずだ。そして君はすでに誰かが語る内容を知っている。そんなのは嘘かもしれないが、何となくそう思いたいのだろう。むろん誰が思いたいわけでもなく、これまでに君が君であったことはない。だから誰がそう思っているとしても、それが特定の誰であることもなく、そんな説明自体が空疎なのだろう。君は疲れているのだ。とりあえずそう思っておいて差し支えない。そしてそれが何もやる気がない理由となっている。語る気さえしないのだろう。誰かが語っている内容がおかしいのもそのためだ。当人は何かを語っているつもりなのに、それが物語となっていないのであり、語っている対象が定かでない。だがそんなのは毎度のことだ。取り立てて何がおかしいのでもなく、至って通常の感覚で何かを語ろうとしているのだ。しかしそれがおかしいのではないか。

 たぶんそれが冗談なのだろう。君はそれについて何を考えているのでもない。君にとってはすべてが他人事なのだろう。だからこうして押し黙ったまま何もしようとしない。そしてそれについて誰かが語り、言葉を記しているのか。どうせそんなはずがないと思っているのだろう。たぶんその通りだ。誰かが嘘偽りを述べていることは承知している。だが承知していながらそのままなのか。では承知したらどうすればいいのか。ただそういうことに過ぎない。そのまま嘘偽りを述べていればいい。それを承知しているのだから、そのままでかまわないはずだ。かまわないから翌日の空は曇り、今にも雨が降ってきそうだ。天候が君の気分に左右されているのではない。フィクションの中で曇っているわけではなく、現実の空が曇っているのだ。それが嘘偽りなのだろうか。やはりそういう話ではないか。要するにそれも冗談の範囲内かもしれない。何もないからくだらぬ冗談でその場を取り繕っているつもりらしく、それが冗談になっていないことがさらなる空疎をもたらし、もう何が何だかわからなくなって、文章の内容などどうでもよくなってしまうらしい。そして何を思うこともなく、意識が心から離れ、さらなる空洞化作用を被っているのかもしれない。君はそこで何を述べているのか。それを誰が知りたいのか。どうか君に教えてやってほしい。誰が何を教えれば自らの愚かさに納得するのか。

 実際には誰が何を教えようとしているわけでもなく、教えられているのは自分の方か。そういうことではなさそうで、現状から何も学んでいないので、その状況をやり過ごしてしまい、何かを語る機会を失い、言葉を記している誰かがそこで途方に暮れる。なぜ自分は画面上に言葉を記しているのか。そこには理由があり、必然性もありそうだが、たぶんそれは示されないだろう。そんなことはわかりきっているほどわかっている。単なる暇つぶしなのか。そうではないと思うなら、何か積極的な理由でもあげてほしい。それはどういうことなのか。たぶんそこから先に言葉は続かないだろう。理由など何でもいいのだ。何かのこじつけであってもかまわない。問題がそこにあるわけではなく、どこに問題があるわけでもない。君はそこでわけがわからなくなり、言葉に行き詰まった誰かを残して、その場を立ち去ってしまい、残された誰かが呆然と立ち尽くすわけでもなく、虚構の中でも何も起こらず、実際の世界ではそういうことは通用しないような気にさせるが、それでもかまわないのだろうか。かまわないも何も、実際に言葉が記され、君とは関係のない内容になっていて、君がそれを読む必要のない文章が延々と連なっていて、おそらく誰の興味も惹かないような無内容になりつつあるのだろう。それでも君は無視し続けるのか。そこで何を無視しているのだろうか。


9月22日

 さっきから時が止まっているらしい。時計のねじが巻かれていないのか。的外れなことを述べているのではない。だからそうなってしまう。君にはわからないがそういうことだろう。たぶんそれで正解だ。質問に答えているのではない。たぶん何に答えているのでもないだろう。ただそういうことを語っている。しかし何がわからないのだろうか。何もわからないが、そういうことなのか。そうだとしたらどうしたのか。もうその辺で限界のようだ。そして簡単に限界を超える。限界ではなかったのではないか。考えている暇がないほどの早さで文章が出来上がる。嘘だと思うなら確かめてみればいい。まるで賽を振るように言葉を繰り出している。それはどういうことなのか。まるででたらめだと思っている。誰かがそう思いたいのだろう。意識が何かから遠ざかっている。そう思えてならないのはどうしてなのか。君自身が何かから外れているからか。そうかもしれないが、それはどうすることもできない事情による。だから必然的に外れてしまうのだろう。そして誰かがそこから遠ざかり、その遠ざかり具合を検証できなくなるほど遠ざかる。だからもう言い残すことなどありはせず、さらにでたらめが続くだけのようだ。そしてそこからいなくなり、もはや要らなくなった何かがそこで消え失せる。

 まだその続きがあるのだろうか。あるとすればそれはどんな内容なのか。君はかなり疲れているはずだ。もう眠らなければならない。その意識には魂も何もありはしない。虚構の心がどこかで割れて、中から何かが這い出してくる。そんなのは嘘に決まっているだろうが、何となくそんなことを述べてみたくなってしまったらしい。それは無意味の極みかもしれないが、何がそうなのかわからず、そこから先に言葉を連ねられなくなるほどのことはなく、さらに言葉を連ねて、隠された意味や意図を引き出そうとするが、もとからそんなものがあるわけがなく、それもこれからねつ造しなければならないこと気づき、やることの多さに音をあげ、何となくそのまま放棄したくなる。しかし何に気づけばいいのだろうか。まずは自らのでたらめを改めねばならず、でたらめな行為を正しい行為に近づけなければならない。本当にそんなことができるとは思っていないはずだ。しかしそれらの何が偽物なのか。できるわけがないことをやろうとしているのはフィクションの中でのことか。そんなはずがない。今こうして誰かが何かを記しているはずだ。それは虚構ではなく現実の中でのことか。だがそうだとしてもわけがわからない。君は何について語っているのだろうか。どこでそんなことを述べているのか。実際に何が問われているとも思えない。

 何かが話の本筋からは外れている。その代わりにひたすら枝葉末節にこだわり、何かから完全に逸脱していることは確かだ。だから何だというわけでもないが、そう思ってしまうこと自体がおかしいのではないか。そんな自問自答がおかしいのだ。何も問われていないのに問い、答えられないのに答えようとする。誰かはそういうことを述べている。だから何も答えようがない。そんな答えでいいのだろうか。何も答えられなくてもいいのではないか。君はすでにそこから逸脱しているのだから、もう何も関係のない話だろう。それがわかっていながらそういうことを述べている。それは虚しいことだろうか。何が虚しいのかわからないが、そういうことを述べていること自体がおかしいのだろう。同じようなことの繰り返しで無内容の度が過ぎているだろうか。そう思うならどうすればいいのか。きっと妙案など何も思いつかない。どうやら何かが違っているのは事実らしい。君はそこで何も述べられずに困っている。何も述べることなどないのにそれはないか。だから困っているのだろう。だが困っているからどうしたのか。どうもしないところが虚しいのか。笑ってしまうがそれが強がりに結びつきそうにない。たぶんそれがどうしたわけでもないから、何とも思わないのだろう。そんなわけで今のところは何も導きだせずにいる。


9月21日

 その時に思ったことを思い出している。誰かがそう考える。それは文章の出だし部分ではなさそうだ。何かが途中から始まっているのかもしれない。空洞に何かの音が響いていて、それを誰かが説明しようとしているらしい。何かを早く終わらせたいのだろうか。だが急かされているのとは裏腹に、なかなか事態が進行せず、いつまでたっても主張が定かにならず、いつも冒頭の気分を表明するにとどまりながら、そのまま最後まで言葉が連なってしまうらしい。それはどういうことでもなく、ただその時の気分と偶然の巡り会わせに伴った何かが絡まって、そういう成り行きを文章上で形成しているのだ。それを君がどう思っても仕方ないか。何が仕方のないことでもなく、現実に何かを記していることを自意識は受け入れなければならなくなり、それに沿った精神作用をその先に記される文章に及ぼすことになりそうだが、それが空疎な文章の形成途中に思いついたことだとすると、それも後の文字列に何らかの影響を与えるわけか。だからどうしたというのか。だからその辺からそんなことを語るのが嫌になってくるのだろう。そしてそんなことを述べている現状が相変わらずあるらしい。そして外は晴れているようだ。君はそれを認めざるを得ないが、ざるを得ないようなことではない。それは文章上の意味的な逸脱行為なのか。そんな大げさなことではなく、ただの冗談のたぐいだと認識すべきなのか。どうでもいいことだが、それによってさらに何かがおかしくなりそうだ。

 そして気分転換をかねて改行する。よく見れば空は曇っている。どうやら晴れているわけではなかった。だがそれはどうでもいいことだ。意識はつまらぬことを語ろうとしているようだ。人々は何に興味を持っているのだろう。君はそれを知っているはずではなかったか。誰かは何かの物語に興味があるらしい。曲がりなりにも文章を記しているのだから、それは当然のことか。他の何が当然だとも思わない。誰かは何も思っていないのかもしれず、物語に興味があるというのも、その場の思いつきで、でまかせのようなものかもしれない。だがそれでも人は風景の中に佇み、そこに何らかの物語を導き入れようとしているわけか。あり得ない話だ。現時点ではそうかもしれないが、それらの風景の中に身を置いてみれば、何かを語りたくなるのではないか。現に誰かは絵はがきの中にその意識が住まうことを望んでいる。だからそれはあり得ないことだ。実際に何を眺めているわけでもないに、唐突に何を思っているのか。とりあえずのこだわりがおかしな情景を奏でようとしているだけで、取り立ててそれがどうしたわけでもないのに、執拗に言葉の連なりをねじ曲げ、目標地点から迂回させようとしているように思われ、その辺で言葉を記してる誰かの限界が見えてくるのだろうが、それでもそれを押し通そうとしているらしく、次第にそれに応じて繰り出される言葉の選択範囲が狭められ、文章が窮屈になり、またいつものようにそこから外れようとしているわけだ。

 しかしそこで何に気づいているのか。嘘とも本気とも取れない。何かについて語ろうとしているのは確かなようだが、そこへ至る前に記された言葉に阻まれ、なかなかそこへたどり着けず、すでにあきらめてしまったのかもしれない。人はこの世界のどこにいても人でしかなく、もしかしたら人でさえなく、動物のたぐいかもしれないが、それも物質のたぐいに含まれるわけで、そんなふうに語ってしまうと、人の存在などどうでもよくなってしまい、人が語る物語の水準がどうあれ、そこから外れようとする試みに惹かれるのも無理はないが、なぜそこで君はくだらぬことにこだわらなければならないのか。何にこだわっている気もしないのに、もろもろの事情からこだわっていることになってしまう。みんな生き残るために必死なのだろうか。別にそんなことをやる必要もないのに、他人の行為に過剰に反応して、時には激高して、怒りと憤りをあらわにしながら、自らの思いを遂げようとするわけだ。過激な主張といったたぐいにはそういう側面が含まれ、それを額面通りに受け取るわけにはいかなくなる。言葉は虚構に含まれる。言葉によって何かを主張するとき、そこに捉えようのない誤謬と欠陥が含まれていることを忘れてはならないようだ。本当だろうか。他にどのような主張が隠されているのか。それは何かの冗談に違いない。君は結果的に本当ではないことを主張しようとして、語り進むうちに自らの限界に突き当たり、そこであきらめるしかなくなってしまう。


9月20日

 夜になったようだ。時間的にはそうだろう。昼の時間帯に何を思っていたわけでもない。相変わらず理由がないようだ。そして音楽を聴いている。それだけのことだ。別にそれ以外があるわけもなく、わけもなく何もない。そういう話ではないだろう。しかしやっと涼しくなってきたようだ。その結果として何が提示されているわけでもないが、何となくそんな感じになる。心が外れていることに変わりはない。君がそれを認めようとしないわけでもなく、何を認めているわけでもない。ただそんなことが記される。それが世にも奇妙な物語となるわけもなく、言葉が適当にいい加減に並んでいるだけか。そんな画面を眺めながら何を思うだろう。たぶんおかしいのはそんなことではない。何がおかしいのかわからなくてもかまわない。何となくそう思っている。頭がおかしいのはもとからか。ジャズを聴いているからそんな言葉の並びになってしまうのか。それはいいわけのたぐいか。わからないがそう思いたいのかもしれない。だがそれで何がわかるわけでもない。たまたまそんな光景に出くわしている。偶然の巡り合わせかもしれない。世の中は相変わらず世の中であり続け、この世界に何か変わった現象が生じているとは思えない。音楽は音楽のまま誰かの鼓膜に響き、そしてたまには感動したりするのだろうか。そうであってほしいわけか。どんなわけを探しているわけでもない。だからその辺でどうでもよくなってしまうのか。

 ところで誰が勝って誰が負けたのか。そんなことに興味があるとも思えず、別の何かを探るわけでもなく、そんなとりとめのないことを述べながらも、何とかそういう努力を放棄したくなり、取り立てて何を語りたいわけでもないのに、そんなことを述べている誰かの有り様が奇妙に思われ、自己以外の何について言及しているとも思えず、冗談でしかないようなことをどう表現しようとしているのか、それを知りたくなってくるが、見た通り読んだ通り以外の内容があるとも思えない。やはり問わねばならないのか。いったい何がどうなっているのだ。どうもなっていないことなど先刻承知だろうが、どうしてもそう問わねばならないようだ。何かが確実におかしい。だがその何かを必死で求めているわけでもないだろう。ではどうしようとしているのか。言葉を記している。ただそういうことでしかなく、それ以外の何ものでもないことも承知している。ならばさらにそれをどうしようというのか。そこでくだらぬ呪文でも唱えられているのかもしれない。そしてそれが文章となり、今に至っているわけか。そういうフィクションでもかまわないようだ。今もそれを語っている最中のようだ。何かの挫折寸前でそんなことを述べているらしい。君はそれに気づいていながら、立て直そうとは思わない。たぶんそのままでかまわないのだろう。

 実際には何がかまわないのでもない。ただそういう成り行きらしい。いったい彼らは何について論じているのだろう。彼らとは何なのか。唐突に文脈を無視してそんな言葉が記され、いつもの苦し紛れだと確信するが、他の何を信じているのでもない。信じられるのはわけのわからぬ言葉の連なりだけか。今やそれだけとなっている。だから君はそれを信じているのだろう。そしてそこから先に何が待ち構えているのかもわかっているはずだ。それは何だろう。単なる問いかけなのか。そう思うなら、それはそれでそういうことに過ぎず、それ以上の何を導きだせるわけでもない。本当はどんな言葉の連なりを導きだしたいのか。静かな世界だ。何がそうなのかわからないが、とにかく静かな空間に心がある。そんな空想が何をもたらすわけでもないが、それとは別の方面から何かがもたらされ、君を困惑させる。確かにそれはそれを超える何かであり、何でもないはずがなく、それを導きだせたら、世界はそれ以上の何かとなるわけか。すでにそんな状況なのではないか。何でもない言葉がひたすら並び、それを記している誰かを判断停止状態に追い込む。おそらく君はそこで疲れているのだろう。疲れて眠ってしまいそうだ。そこに虚無的な妄想が追い討ちをかけ、君を二度と立ち直れなくしそうだ。それでかまわないならそのまま続ければいい。現実に続けているではないか。それについて君はどんな見解を持っているのか。


9月19日

 何を見ているのでもない。ありふれた精神作用に翻弄される。誰かがそんなことを述べていたらしい。間違っても君ではないか。君に役割などというものはない。では何があるのかと問うなら、それは誰かの影として存在することぐらいか。そういうフィクションを誰かは記そうとしている。それがどうしたのか。それは本当のことかもしれないが、君には関係のないことだ。しかしなぜそんなことを文中の話者は述べているのか。君がそうだからか。誰もそうではない。誰も君にはなり得ないということか。そうではなく、君が誰でもないということだ。君は誰かの影なのだ。虚構の語りの中ではそういうことになっている。かつて君はその中でそんなことを語っていた。それも嘘かもしれないが、そこから先に話を進めていかなければならず、君は何らかの成り行きを必要としている。ならば今度は君が物語の話者にならなければならない。本当だろうか。俄に何を語っているのかわからなくなり、そこから何かが逸脱しようとしている。なぜそうなってしまうのか。君は言葉の病にかかっている。どうにもこうにも嘘っぽいことを述べているようだ。今はそんな感じがしてならず、そこから弾き出されたい衝動に駆られ、現実にそれを忘れようとしている。たぶん今はそう思いたいのだ。誰が思っているわけでもなく、君が思っているわけでもないのだが、そんなふうに思われて仕方がない。だからそういうことにしておこう。

 ところで君はどこから外れているのだろうか。この世界からか。だがあの世から手招きしているのは君ではない。しかし架空の存在でしかない君が何を考えているのか。たぶんそういうことではない。それ以前に文章としての体裁が整っていないようだ。言葉と言葉が離れていて、文と文がつながらず、何も意味していないようだが、それはなぜそうなってしまうのだろうか。誰かがわざとそうやっているのではないか。そこでは何かが操作されていて、誰の思い通りにもならないようになっている。それが誰かが記している文章なのだろう。要するにただの支離滅裂か。そう思ってもらってもかまわないだろう。どこからともなく犬の遠吠えが聞こえてくる。微かに虫の鳴き声も聞こえている。それが何を意味するだろうか。無自覚に何を垂れ流しているのか。まったくとりとめがない。テレビをつければ、老人がスキーを担いで雪山を登っている。商品の宣伝だ。聴いている音楽は素っ気ない。虚構の中で君はどこまで歩いていってしまったのか。行くあてなど何もないだろうに、なぜ歩かなければならないのか。たぶん無償の行為なのだからそんな語り方でかまわないのだろう。君は明らかに飽きているようだが、それでも言葉が記され、止めどない彷徨のごとくに並ぶだけだ。君が語っている架空の話とはわけが違い、それらの行為は現実の世界で成り立っていることだ。君には止められない。

 たぶんそれはどのような戦術でもなく、それに接している意識は何も心得ていないのだろう。そこに何があるわけでもない。何もないのかもしれず、そんな決まり文句以外には出てこない話だ。君は歩き疲れて立ち止まり、そこで今までの歩みを振り返る。ただ無駄に歩いてきた。そう思いたいだけか。だが今がその時ではない。今は何をやらねばならぬ時なのか。冗談に決まっているだろう。笑ってしまいたくなり、機会が巡ってこないことに腹を立てている誰かとは心境が違っているようだ。それは何の機会なのだろうか。誰かが屋根の上を歩いているようだが、別に助けを求めているわけでもない。それは何かの映像に違いなく、今読んでいる書物とは何の関係もない。画面を覗き込みながら何を読んでいるのか。もとからそういう話ではないはずか。どうやらだらけきっている。その気でないのが何よりの証拠か。言葉を記すつもりが本を読みながら音楽を聴いている。それだけのことで、まだテレビを見ているよりはマシなのかもしれないが、なぜそうなってしまうのだろう。だから実際はそうでないことを知っていて、わざとそう述べているだけで、あえて嘘をつく理由もないのだろうが、状況が何でもないことに参っているのかもしれない。いったいこれから何をやればいいのだろうか。苦し紛れに繰り出される言葉など塵や芥のたぐいに決まっている。だからさらに語らなければならないのだろう。そうすることに何の意味も導きだせないのに、なぜかそうしたいらしい。


9月18日

 これが今日という日なのか。これとは何だろう。今日は何でもない日だ。たぶんそういうことだろう。この何でもない日に言葉を記している。他に何を装えばいいのか。何のつもりでもありはしない。ただ言葉を記している。それだけのことだ。そして茶を飲む。画面を見つめているのだ。音楽を聴いている。やはりただそれだけのことだ。昼は仕事をしていたはずだ。そして夜になって誰かが言葉を記している。何かになじんでいるようで、実際に和んでいる。たぶんそれだけのことだろう。これから事件などが起こる気配は感じられず、テレビからも目を背けている。それでどうしたのだ。何がどうなったわけでもないのはいつものことか。至って平和なのかもしれない。どこから至ったのか定かでないが、これもそういうことになるらしい。相変わらず君の心は外れている。そういう意味不明な表現に出くわすのも度々だろうから、飽きているはずで、どこから心が外れているのかが示されないことに苛立つこともなく、何とも思わずに君は次に記される言葉を読もうとするが、自らがそれらの話のどこに登場するのかについては関心を持たない。そういう成り行きなのだ。何がどういう成り行きでもなく、たぶん無駄に余分な言葉が記されるのがここでの成り行きなのだろう。誰かはそういう成り行きのまっただ中にいるわけか。そういえば世界の真ん中で愛を叫んだのは誰だったか。そんな作品か何かが流行ったのは数年前のことだったか。唐突にそれを思い出したのに、肝心な内容は忘れてしまったようで、今は記憶が定かでないことにしておこう。

 特定の人のことについて何を語ろうとしているわけではなさそうだ。それでは話にならないだろう。話が合わない。誰と話しているわけでもないのだから、話が合わない以前に話していないのではないか。ふと地面が傾いていることに気づく。きっと架空の話の中では斜面に立っているのだろう。ではそこから時が経つにつれてどうなったのか。何も思い描いていないようだ。だから空想の中ではそうなってしまった光景がない。何がそうなってしまったのか定かでないようで、相変わらず何について語っていることにもならず、はっきりしないことは他にもあり、わざとはっきりさせていないのではなく、面倒くさいので話の内容をねつ造できていないのだろう。誰かは自身の怠惰を糧にして仮定の話を進め、架空の話が架空の話の中で語られているつもりになり、それで何かを語っている気になり、何となくそんな文章を構成しかけていることに気づく。果たしてこれでいいのだろうか。いいわけがないと思うのだろう。ならばこれからどうしたらいいのか。そのいいわけがない話を記している気になるのがいい。なにしろ他がないのだ。誰かはそんなことを思いながらも、他の可能性を探り続け、たぶん誰かが忘れた頃に、そんな何かが文章を伴って出現する時が来るかもしれず、その時が来たら、当時に抱いていた自らの意図や思惑を推測できるかもしれない。

 しかし実際には何を思っているのでもない。とりあえずここまで言葉を記してきただけか。君はフィクションの中で嘘をついている。それはありふれた状況だ。登場人物が嘘をつくのがありふれているのはわかるが、それが取り立ててどうしたというのか。別に取り立ててないのではないか。ならば誰が嘘をつこうがつくまいがどうでもいいことか。ただ君が嘘をついていると記した。誰かがそう記している。なぜそう思っているのか。それの何が君とは関係のないことなのだろう。またあらぬ方向へ言葉を逸らそうとしている。どうせ言葉を記しているうちにわけがわからなくなってきたのだろう。本当に今まで何を語ってきたのか忘れてしまっているらしい。たぶん何も語ってこなかったのだ。ただ言葉を並べていただけか。だがそれが文章だろう。言葉を組み合わせて話を構成しようとしていたはずだが、それを思い出せないのはどうしたわけか。やはり嘘でもついているのだろうか。誰がそうしているのだろう。ここで誰でもない誰かという言葉が記されるらしいが、それにも飽きたか。今やそれが誰かの紋切り型的な表現になろうとしている。誰でもない誰かが何も語らずに言葉を記しているわけか。そんなことを行き詰まる度に幾度となく記してきたはずだ。もうそれは通用しないか。今までにも通用してこなかったのではないか。そう思うならそういうことだろう。今後もそう記してしまうかもしれないが、それは何かに通用していない証しとなるだろう。しかし通用しない何かとは何なのか。おそらくそれも誰かにとっては紋切り型的な表現のたぐいに違いない。


9月17日

 もう季節は秋なのかもしれない。久しぶりの晴れた青空の下で、君は相変わらず何かの存在を否定している。それは君自身の存在か。確か最初はそういう話ではなかったはずだ。では当初はどんな話だったのか。説明するのが面倒なので、過去のことは忘れてしまったことにしておこう。誰かはそれに対していつものようにわけがわからないと嘆いてみせるが、それもわけのわからない反応か。まだ何も語っていない時点でわけがわからないはないか。それとも何か語っていたらしいが、それがたまたま記されていないだけか。たまたまではなく、いつもそうだ。いつも途中からそれらの文章は始まる。たぶんそんなことを語っている誰かには実体も名前もない。それもわけがわからない。たぶんそんなのは嘘だろう。誰かがそれを持っていないのは、どう考えてみてもおかしい。誰が何をどう考えているのか知らないが、いったいそれの何がおかしいのか。すべてがそうだ。この世のすべてがくだらないのだ。時としてそんな嘘をつくのも白々しい。時々そういうわけでもないだろうが、要するに誰かがそんな内容の書物を読んでいるだけか。それはいったいどういうわけなのかわからないが、それでも何となくそういうことになるように思われる。ところで未だにどうしても何かがおかしいのか。それの何がおかしいのか。だからそういうことではない。また無駄で余分な意味不明の言葉が連なっている。それだけのことだろう。それが嫌なら言葉を削ればいい。たぶん何がそれだけのことでもないはずだ。ただまともな内容がどこにも見当たらない。だからそれだけのことなのだろう。それだけではだめなのか。できることならもっと支離滅裂なことを述べてほしいか。やろうと思えばできぬわけでもないだろうが、それをやってしまったら、まともな思考からさらに遠ざかるだけか。そう思うならそれでもかまわない。そう思いたいのだから仕方がないだろう。今はそう思わせておけばいいのだ。何も奇をてらっているのではなく、ごく自然に言葉を費やして文章を記していると確信する。それはありふれたことに違いない。そこからどんな言葉を手に入れてもゲームがおしまいとなる気配は感じられないだろう。そういう境地なのであって、まだ言葉の連なりが文章の終わりまで到達していないのだろう。しかしその調子でどこまで語っても何もない。何も見当たらず、何もねつ造できない。それは虚しい状況か。ふと誰かがそう思う。だからそれだけのことにすぎない。

 誰かがひたすら連ねているのは空疎な言葉だ。それが本日の主題か。主題などありはしないことは承知していながら、わざとそんなことを述べてしまう。それが矛盾しているのは当たり前だが、その矛盾を当然のことと考えていて、いくら矛盾していようと大したことはないだろうと思う。今までに大げさなことは何も述べていない。そして述べているそれが何を意味するわけでもなく、誰が何を語っていることにもなりはしない。では誰かが一心不乱に記しているつもりのそれは、くだらぬ言葉遊びの一部始終に過ぎないのか。そう思うならそういうことになるだろう。そう思わなければ、きっと頭の中がこんがらがっているのだ。もしこんがらがっていないなら、そういうことになっているはずだ。ならばそれが現状を示しているのか。現状とは何だろう。言葉がそういう具合になっている。そこには誰かの勘が働いていて、それに伴ってフィクションの中にいる君の行動が生じているわけだ。そこで君が何を思っているとも思えないが、現状を何とかしようとしているのだろう。だが今までが今までであり、これからも今までの延長上に言葉が記されるのはやむを得ないとしても、そんなやり方がいつまでも続くとも思えず、現に飽きているではないかと他の誰かに指摘されれば、それはそうだと思うまでか。だからそれが何を意味するのかと問われれば、相変わらずそこには何もないと答えるまでか。しかし何がまでなのか。記されているのは貧しい言葉の群れだ。すでに君がそこで何を演じているのでもないのだから、それはやはり何でもないことのはずで、君にはそれがわかっている。わかっているから沈黙せざるを得ない。

 


9月16日

 たぶん君は考える必要のないことを考えているのだ。そして行き詰まっているのか。それは当たり前のことだ。何がそうなのか。人は生活のために情報を得ようとする。また楽しみのためにも情報を得ようとする。それはどういうことなのか。だからそれは当たり前のことだ。君が興味を持っているのはそういうことではない。ならばそれはどんなことなのか。またどういうことでもないのだろうか。それは何かのいいわけだ。誰かは何かのイミテーションを肯定していたはずだ。得られるものがまがい物であってもかまわないと思っている。今もそう思っているのだろう。この世界では何が本物であるわけでもないらしい。たぶん偽物が本物なのだろう。言うは易く行うは難しで、何とでも言えるのだろうが、別に偽物を本物と見せかけることはないだろう。人は誰でもありふれているし、まともな人はどこにでもいる。それらのすべてが偽りの存在だろうと、そんな虚構を信じているふりしていようと、それは何でもないことか。ではそのつまらないいいわけを行き詰まりの原因と考えるのも勘違いなのか。何が勘違いなのかわからず、それを無視しながら言葉を繰り出そうとしている。だからそんなわけでまたいつもの言葉の連なりが導きだされようとしているらしいが、そればかりでは飽きてしまうのもいつものことか。

 だがそういつもいつもそんなていたらくばかり披露していては、他の誰の理解も得られない。だから何とかしなければならないのか。しかし何を何とかしなければならないのか。何よりもそういう余分な問いを削らなければ、まともな言説にはならないのではないか。わかりきったことを指摘しないでほしいか。また誰かが画面の前で笑っているようだ。やろうと思えばできることをあえてやらないのにわけがあるとは思えない。ではまたいつものように理由など何もないと言い放つべきか。何のことやらわけがわからない。そんなふうに思うのはどうしてなのだろうか。それも余分な問いというわけだ。だから何を語ろうとしても、そうした無意味な自問自答が繰り返されるばかりとなり、結果としてそれらの言説はくだらぬ無内容となる。だがそんなふうに思うなら、それでもかまわないだろう。だが君には何がかまわないのか理解できないようだ。だからそれでかまわないのだろう。本気ではないのだから、そういういい加減なでたらめの羅列でかまわないのだ。誰がそんなことを思っているわけではなく、誰かが何かの気まぐれでそう記しているわけだ。きっとその場の気分次第で記す言葉が違ってくるのだろうが、無内容であることに変わりはない。誰かはそう思いたいらしい。そうでなければ頭がおかしくなるか。それは君の知らないことだ。

 しかしそれらの何が偽物なのか。それらとは何なのか。何でもなければそれらでさえない。ならばこの世界には何にもなくなってしまうだろう。そんなことはフィクション以外ではあり得ない。そう考えたところでこの世がなくなってしまうわけでもなく、そういうくだらぬことを想像しているのはたぶん虚構の中でなのだろうが、君がその登場人物というわけでもなく、君とは関係のないところでそれらの虚構が構成されようとしているのだろう。しかし依然として誰が何を語っているのか理解できない。なぜそんなことを述べているのか。君は頭がおかしいのではないか。だが語っているのは君ではないはずか。たぶんそういう水準で何を述べようとしても、単なるでたらめの域を出ない話となっているはずだが、それでも言葉を並べてしまうのはなぜだろう。何かの感覚がずれているのだろうか。たとえずれているとしても元には戻しようがなさそうに思えて、そのままの感覚で言葉を記していく以外に方法はなさそうで、そうだとしても何かがおかしいことに変わりはなく、何か具体的でわかりやすい内容を得る方法でも見つからない限りは、そのまま意味不明でわけのわからぬ文字列が続いていってしまうようだ。君は本当にそれでかまわないのか。自らの影に何を問うてみても返答は期待できない。それが嫌ならそういう予定調和の自問自答をやめればいいことでしかなく、それができなければ未来永劫そのままか。やがてやめてしまうだろう。


9月15日

 確かに冗談ではない。冗談ではないが、冗談として認識している。そんなのは冗談だろう。たぶんそのわけを君は知っている。何をねつ造しようとも思わないが、それがねつ造の果てにたどり着いた結果か。何の結果でもありはしない。実際に何を見ているのでもなく、見ているそれは何でもない光景か。日常の一コマといったところだ。だからどうしたわけでもなく、君はそこから走り去る。まったく何の虚構も構成できず、戸惑ういとまさえない。誰かはそう記して何をねつ造しているつもりになっているのか。それは真実だ。そうだと楽しいか。何が楽しいわけでもなく、その代わりに心にもない台詞が口をついて出る。あり得ないことだ。何を予言したいのでも大げさに宣言したいのでもない。そこにとどまっているのも誰でもなく、何を語っているのでもないらしい。では何をやっているのか。何もやっていないわけか。そうだとしても言葉は残る。君はそれを知っているはずだ。そうなってしまってことを悔やんでいるのではない。心には何も残らず、文章は何を語っているのでもない。だがそんな否定を延々と続けたところで内容は空疎のままだ。それも君は承知済みか。ならばすべてが虚しいから楽しいのか。なぜそういう結論になるのだろう。

 心はどこにも至りはしない。どんなに言葉を連ねたところで状況は変わらず、相変わらず何を述べているのでもない。それはわかりきったことだろう。君はそれ以上の何かを導きだしたかったはずだ。だからそれがあり得ないことなのか。何があり得ないのか理解できないらしく、そこから無理に言葉を繰り出して何かがおかしくなる。何かとは何だろう。それは何かの接続詞なのか。ますますわけがわからないようだ。それを理解するには君は君自身を模倣しなければならない。そんなことはあり得ないだろうか。こんなはずではなかったと思う。どんなはずだったのだろう。今はそれが思い出せないようだ。そんなはずがない。まだフィクションの中で何かを語っているつもりでいるようだ。いったい誰がそうなのだろう。誰もそうではなく、君もどこかで君ではなくなっている。では誰なのか。そういう話ではなさそうだ。誰かは他の誰とも違うことを語りたいばかりに、わざと何かをずらして意味不明を装っているだけだ。それがそこでの真実だろうか。何となく説得力を持ちそうだが、その場の思いつきであることに変わりはなく、次の機会にはそれとはまったく異なる理由で冗談を述べていることだろう。しかしそれが冗談になっていないからおかしい。ただわけがわからないようなことを述べているだけか。そうだとしてもかまわないだろう。

 ではいったい何を述べているのか。だから何を述べているのでもなさそうだ。君には何かを語る才能が欠けている。そしてそれを悔やみ、自らが特権的な語り手でないことを自覚して、どこかへ去ってゆく。意味がわからないか。文章としておかしいのではないか。何かやけくそ気味に述べているのかもしれない。語っている何もかもがありふれているのだ。だからそこからがらくたばかりを引き出し、それを後生大事に保持しようとする。それはどういうことなのか。もはやわけがわからぬでは済まされないことか。今まではそれで済ませてきたはずだ。今回もそれでかまわないのだろう。また冗談でそんなことを述べているのか。そうかもしれず、だからそれでかまわないのかもしれない。堕落しているようだ。それほど大げさなことではなく、堕落するほど立派なことは何も述べてこなかったのかもしれない。そうだとしても堕落しているか。飽きているのかもしれない。そんなふうに語るのに飽きている。もはや語りすぎているのだ。何が何だかわからないのに、とりあえず言葉を連ねている。それがおかしいことの原因となっているわけだ。何かがおかしいのではなく、語っているすべてがおかしいのだ。そして堕落している。冗談でそんなことを述べていること自体が堕落だ。ならばそこからどうすればいいのだろうか。そう述べて何を問うているわけでもないところが致命的か。だから何がかまわないわけではない。


9月14日

 何かを滞りなくやることは難しいかもしれないが、とりあえずそれをやってから次の作業を開始しなければならず、なかなかそこに至るのが一苦労か。しかしまだそこまで至っていないというわけでもなさそうで、何とか面倒な障害をひとつひとつ乗り越えて、または避けながらも、何とか目的地ならぬ一区切りつくような地点へと向かっているらしい。たぶんそれはいつもの冗談とは異なる成り行きになりそうな気配だ。これから何をやるにしても、現時点での課題をクリアしなければやれない。そんなふうに思いつつも、それをやり過ごしながら受け流して、何かのきっかけをつかむような機会を探っている最中か。できればそれが冗談にならないようにしたいと思いたいが、いつもの言葉の集積では冗談で片付けるしかなく、それを超える何かを認識したいのだろう。それは誰もが思いつかないようなことだろうか。あるいはそうではなく、それ自体が誰もが試行錯誤の果てにたどり着く紋切り型の思考か。なぜ人はそうなってしまうのか。たとえばいわゆる不良学生は教育制度から生まれ、社会には必要不可欠なアウトサイダーを作るための養成過程に、粗暴で秩序を乱す不良学生という存在が位置づけられるわけか。そんなことではないだろう。それではまだ浅はかで、それ以上に説明を要するような言葉の連なりが必要とされるのかもしれない。

 ともかくそういう水準で何かを説明しようとしていることではないらしい。しかし君という存在はどんな言葉の群れに回収されようとしているのか。たとえば不良が更生して、真っ当な社会人として生きようとすると、それ自体は賞賛され、周囲の人々は安堵するわけだが、それでその手の物語は終わりとなるのだろうか。またヤンキー的に不良を正当化するような主張を温存させようとすれば、できることなら不良は不良のまま成長して、ヤクザにでもなったら、それはそれでそういう物語として、大衆の暇つぶしのための娯楽作品となりそうだ。あるいはその不良が芸能人となり、薬物中毒にでもなって事件を起こせば、マスメディアが騒ぎ、世間の注目を集めることにでもなるのだろうか。そんなありふれたことを考えていていいのだろうか。それでも文章としてはそれなりに読めるのではないか。だがそれでおもしろいか。何となくわからない成り行きとなり始めているが、何を否定的に捉えているわけでもなさそうだ。たぶんそういうことを批判の対象としたいのはないだろう。では何かが違うと感じるのはなぜだろう。君は何に関してそう思うのか。何について語るとしても、その内容がおもしろいか否かを基準に考えているわけではなく、それをそう語る必然性の有る無しでもなく、そういう理由や根拠のようなもとは無縁に語りたいのかもしれないが、それはあり得ないことだろうか。君は何に関してそう思っているのか。

 たぶん目標や目的が重要なのではない。そう考えることが重要なのでもなく、何が重要なのでもないのだろう。社会や世界の何を肯定しようと否定しようと、それはどうでもいいことかもしれない。ともかくそれを語っていて、ただそれだけのような気がする。そこから何を得られるとも思えないが、とりあえず何かを語っているらしい。それの何が違っているのだろうか。違っているような気もするし、違っていないような気もする。それはそれでそういうことであり、それに関してどう思ってみても、そういうこと以外の何ものでもなさそうだが、それでも君は何かを見誤っているのかもしれない。それとは別の角度から現状を検証しようとするなら、もっと違った見解を示すことができ、魅力を伴うような言説として社会の改善に貢献するのかもしれず、曲がりなりにも言葉を記す人間はそういうことを目指さなければならないわけか。冗談だろう。そこから先は冗談であり、やはり行き過ぎた説明は冗談にしかならないようだ。どうも本気にはなれず、日常の中で実際にやっていることと、画面に言葉を記しながら語っていることがかみ合ってこないようだ。何をどう語ってもそれは違うような気がして、それが違うとしてもどうでもいいように感じられ、語っていること自体が無駄に思われてくる。それでもかまわず言葉を連ねて文章を構成すべきかどうか、今のところはわからないが、ともかくここまで誰かが語ってきたらしい。


9月13日

 しかしお前にはそれができるのか。誰が何を問われているとも思えない。責任の所在がはっきりしないか。そういうことではないだろう。そういうことだと安心できるのか。まともなことを述べてはいけないらしい。君はそれをそういうことだと思っている。勘違いにもほどがある。だが何が違っているのでもなく、しばらく休んでいたのだ。その状況をどうしようというのでもなく、何かを受け流しているだけかもしれない。だがもう息切れなのか。まともに言葉が出てこないではないか。たぶん全く興味がないのだろう。それはただの雑音に過ぎない。それをどう捉えようとしているのか。何かの音楽だとでも思い込みたいのか。その調べを聴くと冥界へと誘われてしまう。そういうフィクションもあったはずか。だが今はどう聴いてみても雑音にしか聞こえない。誰かの不満はそういうところにあるらしく、それをまともに感じ取れない。だからすべては冗談でしかあり得ない。君にはそのすべてがわからず、把握できないようだ。しかしお前にはそれができるのか。お前とは誰だろう。またおかしなことを述べていることに気づく。誰でもないお前がなぜお前と呼ばれるのか。くだらぬ言葉遊びの一環で誰かがお前と呼ばれているだけか。それも何でもないことだろう。少なくとも君にとってはそうだ。

 そしてそこで誰が躓いているのでもない。それとも別に床にひれ伏しているのでもなく、そう述べて何を否定しているわけでもない。ではそう述べていることは嘘なのだろうか。何がわからないのかわかりかねるが、そういうことになる。誰かがそれをわかろうとしている。理由も根拠も提示されない状況で、どうすればわかり得るだろうか。それを提示したらいい。何かを示してそれが理由であり根拠であるように文章を構成したらいい。言葉を編んで虚構を作り上げよということか。どこでもやっていることか。それならそれでそういうことにしかならず、何らかのフィクションが提示され、それに対する賞賛や批判を受け入れるつもりなのか。現実にはそうはならない。目下のところは何も示されず、それに対する外部からの反応も何もない。そこにはいつもの空洞が広がっているだけで、君はそれをどうするわけでもなく、それらの何もない空間をただ眺め、言葉も出てこない現状をやり過ごし、何もやらずに早々に立ち去ってしまうのか。まだそこに誰かがいるではないか。それは置き去りにされた誰かの影であり、昔君と呼ばれていた抜け殻か。いったい今はいつなのか。まだそんなに時が経過しているとは思えない。

 いきなり空想上のの未来へと意識が飛んでしまったのか。そんなことはおかまいなしに言葉が自然と連なり、何らかの文章が構成され、それを誰かが読んでいる。またいつものくだらぬ妄想が反映されて、わけのわからぬ内容となっているようで、読むほどにうんざりしてくるが、それが誰の意見となるかは、その後の成り行き次第か。そんなことを述べている時点で何かがねじれている。君に向かってそんなことを指摘してみても理解するとは思えないが、それでも君はその指摘に応えるべく努力して、何らかの成果を文章に反映させようとするのだろうが、すでにそれは自己言及の範囲内だ。自身が何を述べているかはわかっているのだろうが、それを今さらやめることは不可能で、そのまま黙ってそういう方角へ突っ走るしかないと思っているのだろう。浅はかなやり方であり、そういう兆候はすでにその時点で何かをあきらめている証拠となり、それ以上の飛躍は望めそうもないか。別に以前と比べて何が飛躍しているわけでもないだろう。論理的な飛躍と無理なこじつけならお手の物だろうが、それをやる度にまともな言説からは遠ざかり、結果として愚にもつかぬことを誇らしげに提示して、その場を取り繕っているだけで、何を述べようとしているのか皆目見当がつかず、語っている当人にもわからないようなでたらめになりつつある。目下のところの結果とはそういうものだ。


9月12日

 たぶん何を見ているわけでもない。昨日の夜のことだ。今は雨が降っている。ただそういうことでしかない。それはくだらないことか。何も語っていないと思われる。たぶん君はいつまでもそれにこだわっているのだろう。それに対する配慮が行き届いているみたいだ。そして君はどこまでも逃げてゆく覚悟らしい。あり得ないことだろうか。逃げ遂せられると思っているのか。そうかもしれないが、そうなってしまうと不幸になる。逃げられなくなって、どうしようもなくなってしまった時が、観念して幸せを手に入れようとするわけか。人は誰でもそうするしかない。そうしなかったらどうなるわけでもなく、どうにもならなくなるだろう。今はまさにどうにもならない時なのだろうか。そうかもしれないし、そうではないと思いたいのかもしれない。だが気がつけばまた文章になっていないようだ。いったい君は何を述べているのだろうか。執拗にそんなことを述べているのも冗談の続きか。いつまでもこんなことを述べていても仕方がない。たぶんそれとは違うことを語らなければならないのだろう。だが君には何も語れない。だからどうにもならないわけか。

 そんなことはないだろう。何か語っているはずか。実際に語っているではないか。くだらぬことを延々と語っている。嘘かもしれないが語っている。そういうことにしておこう。馬鹿げているだろうか。そうかもしれず、それではないかもしれないが、どちらでもかまわないのはいつものことだ。そして違う話の展開を考える。しばらく見かけなかったが、君はどこから舞い戻ったのか。別にそこへ放蕩の果てにたどり着いたわけではなく、何か特定の目的があってその地へ入ってきたのだろう。そういう話ならいくらでも話の展開がありそうだが、たぶんそれが何を意味するわけでもない。やはり語るのが面倒くさいのか。そういえば近頃は何も語っていなかった。ではこれから何を語るのか。何を語ろうと、そんな話はくだらないか。物語がおかしい。何も物語っていないのにそれはないか。だれてしまったのだろうか。何かの罠にはまっているのだろう。言葉を記さなければならないという強迫観念にとらわれている。だからおかしいのか。ならば今さら何を語ってもおかしい。それでも語ろうとすればどうなるのだろう。こうなっている。何がわからないのかわからないということか。ただ語れないだけだろう。語っているのに語れないというわけだ。だからそれがおかしいと思われる。

 夜に佇む。それは詩ではない。たぶんそうだ。何かの出来損ないだろうか。君にはそれがわかっているらしい。そこまで語る必要がないのだろう。ではどこまで語るつもりなのか。だからそれを君が知っているというわけだ。すでにそこまで語っているではないか。何もないのに何でもないと述べている。ただそれだけのことだ。そういうことを述べている。それの何がくだらないわけではなく、すべてがくだらないと思って差し支えない。だが本当はそうではないのだろう。君は何かから逃げている。それは当たり前のことだ。そうはならないからそうなってしまうのか。それはどういうことだろう。やはり何を語っているでもないようだ。君はそれを自覚しているらしい。確かに何も語ってない。現時点ではそうだろう。ただ次回は異なる結果になるかもしれないが、今回はそうだ。とりあえずはそういうことになるらしい。だからそれでかまわないだろう。かまわないから思い悩み、思い悩むから行き詰まってしまうのか。そうであってほしいのか。それは無い物ねだりなのかもしれない。現実には何もなく、実際にもそうだ。そしてどうしようもなく大人げないか。そんな語りを聞いたことがある。今では思い出せないことらしい。思い出そうとしていない。だがたわいないことをいつまでも語っているのはどういうわけなのか。わけがないからたわいない。そういうことにしておこう。本当は違うと思うが、ここで本当のことなど語りようがなく、そのすべてはフィクションの中で語られていることだ。


9月11日

 どうも通常の状況らしく、取り立てて変わったことはないようだ。だから語ることが見当たらないのか。何について語ればいいとも思えず、やはり何でもないことを語らなければならず、空疎な内容になってしまうのかもしれない。君はそれでかまわないのだろうか。誰がかまうはずもなく、君はそれらの空疎な事物の虜となる。そんなのは嘘で作りごともいいところか。だから語っていることはフィクションとならざるを得ない。それもでまかせめいていて、誰かの都合でそんなことを述べているだけかもしれず、何の根拠も必然性も感じられない。なるほどそう述べればそういうことのように思われるだけか。だが馬鹿げているような気がする。語るに語れないとすれば、誰かはまともに語れないほど不器用なのだろうか。そういうことではないだろう。それは何となく的外れに思われるか。そういうわけではないのだろうが、すでにこれだけ語っているではないか。君はこの事実が気に入らないのか。できればもっとマシなことを語ってほしいのか。そうだとしてもどうしようもなく、そういうことしか語れないのかもしれない。だからまともに語ることをあきらめなければならないのか。そういう結論に持っていくのもおかしいかも知れないが、何かがおかしいことはすでにわかっているはずだ。

 それでも君は語り始めるだろう。それ自体がフィクションなのだから、実際に語っているかどうかなんて、君の知ったことではないはずだ。そしてそれはどういうことでもなく、そういうことを誰かが今ここで語っており、それが君が語っている架空の話かどうかわからないが、誰かにとってはここで記されていることが語りそのものなのだ。君がそれを承知しているかどうかは疑わしい。しかし誰かが記している文章の中に君という言葉がある限りにおいて、君はそこに記されている架空の登場人物であり、君がそれを認めようが認めまいが、それはそういう文章となっている、だがそれがどうしたのか。どうもしなければ何でもないだろうか。確かに何でもないような気はする。だがそれでも文章は文章だろう。くだらない内容かもしれないが、それが現実に記されている文章なのだから、それの存在を認めざるを得ず、それが何かの堂々巡りで、迷路の中で行ったり来たりしているだけだとしても、それはそれでそういうことでしかない。他に何を語っているわけでもなく、そういうことを誰かが語っているに過ぎない。そう思うと何となく恐ろしくなるだろうか。ひたすら中身のない空疎なことを語り続け、このまま語り続けてしまうと、終いにはどうなってしまうのか、想像するとかなりヤバいことになりそうか。たぶんどんなに語っても何でもないのかもしれず、そのままいくらでも語ってしまうことができ、語るのに飽きたら、それをやめることだってできそうだ。だが本当にやめられるだろうか。

 君はそれを恐れているわけか。やめるにやめられなくなったらどうしよう。笑っている場合ではないか。かえって笑っていた方が正気でいられるだろうか。しかしそもそもそんなことはどうでもよかったはずだ。適当に語り、語るのに飽きたらやめればいい。そんなどうでもいいことでしかなかったはずだ。なのになぜ未だに語っているのだろうか。それはまだ飽きていない証拠だろうか。ではいったいいつになったら飽きるのか。誰に尋ねても返答が返ってくるとは思えない。君はやはりフィクションの中で語っているつもりなのだろうから、君に何かを尋ねる対象の人物をねつ造することはできないのではないか。ではいったい誰がそれらのフィクションを構成しているのか。誰かはすぐそうやって見え透いたことを尋ねてしまい、尋ねている対象は誰か自身に違いないだろうが、それはいったいどういうことなのか。その辺からわけがわからなくなり、わざとそう思っているだけかもしれないが、君には関係のないこととなってしまいそうだ。ところで君はそこで何を考えているのか。何も考えていないことになっているのかもしれない。たぶんそれは誰が記しているフィクションでもない。要するにそこには何もないのだろう。


9月10日

 何の変哲もない。ただの画面ではないか。たぶんそれは浅はかな考えかもしれない。それはどのような効果を発揮するのだろう。そう述べることによって何がどうなってほしいのか。何を狙っているのだろうか。何かを語ろうとするが、そこでどうしたのだろう。必ずそうなってしまうが、何がそうなっているのだろうか。まだ何も語っていないようだ。何かを述べようとする意図がまったくわからない。なぜ彼らはそんなことを思うのだろう。思い通りにいかないことがそんなに嫌か。どうも心に余裕がないようだ。やりたいことをやっていないのだろう。何もやれていない現状がある。では何をやりたいのか。何もやりたくはないのではないか。しかしやりたくもないことを延々とやり続けているはずだ。それはすごいことだろうか。何とかしようとしているに違いない。今は現状を改善している最中なのか。相変わらず何について述べているのでもなさそうだ。それではつまらないだろうか。そんなことは前もってわかっていたことか。ならばこれからどうすればいいのだろう。笑っている場合ではない。また二日も遅れている。

 何かおかしいのではないか。確かにそうだ。君は気が狂っているわけか。君以外の誰がそうなのだろう。そう述べている時点でおかしい。だからもっとまともな内容にしなければならないのだろうか。そう思っている時点でもおかしいか。そんなことを記す以前にまともなことを記せばいいことでしかない。だがわからない。言葉を記すべき対象が見つからず、どうしたらいいのかわからなくなっているらしい。とりあえず君はどう思っているのだろうか。何がとりあえずなのか定かでない。やはり頭がいかれているようだ。だが君は誰でもないはずだ。そう思っているのならそれでもかまわないか。誰がそう思っているのだろう。何やらどうでもよくなってきたようで、何を記してもかまわないような気分となってしまったらしく、何となくやけくそ気味にそんなことを記しているのかもしれないが、それで何を述べていることになるのだろうか。空疎で虚無的に語っているつもりなのか。そんなふうに思っているのなら、もうそこでやめてしまった方がいい。無理にそれ以上語っても、まともなことは何一つ語れないだろう。たぶんそれが君の限界なのだ。

 だから君はそこから退場しなければならない。しかしそこはどこなのか。退場しなければならない場などどこにも見当たらないが、誰かはそれを黙って見ている。具体的に何を見ているのか定かでないが、そこにどんな風景が広がっているのかもわからず、ただそんな光景の中で誰かの意識が佇んでいるらしく、そう記すとそんな気になり、昼の空を眺めているようだ。何もありはしない。雲が空一面に広がり、ようやく夏が終わろうとしているように感じられ、そこから一歩も出られないわけでもないことを証明する気はないようだが、虚空を見つめながら、フィクションの中の登場人物たちは、各々の心を欺いているような気になる。自責の念にとらわれているのか。それはどんな成り行きだったのだろうか。そこに至るまでの経緯がわからない。君は何かを省いて結果も提示せずにどこかへ消え去ってしまい、語ることを放棄しているようで、そこで虚構の物語が成り立たなくなっているようだ。そんなものはもとからなかったのだろう。その場の思いつきが不完全な話を記させ、わけがわからないような気分にさせ、君自身をも欺こうとしているが、それは誰が記している文章でもない。君は何も読む気にならず、他の誰かが読もうとしている凡庸な芸術家の肖像を眺め、やけに分厚い書物だと思うが、そこから先には興味が続かず、その代わりの対象として、面倒くさがりながらも、その先を語ろうとして、何となく挫折した思いにとらわれ、やはりどうでもよくなってしまうようだ。それほどまでに言葉を記すことに執着しても無駄か。


9月9日

 何が続いているのだろうか。空白の時か。またいつもの行き詰まりに陥っている。何も語ることがないわけか。そんなふうに思うなら、何か他のことをやればいい。誰かには興味がないらしい。やることがないのだろうか。暇を持て余しているわけでもあるまい。疲れて休んでいるのかもしれない。何も語る気がしない。そう思わせておいて、誰かは他のことを考えている。他人は何を考えているのか。そんなことを考えているはずがない。君ならもっとマシなことを考えているはずか。その内容を知りたくなるが、虚構の中で何を語っているのか定かでない。君はどこで何をやっているのか。たぶんそれは違うのだろう。何が違うのか定かでないが、また同じようなことを述べていることは確かだ。ならばそれが何かの勘違いなのだろうか。それも違うと思われる。だが違っていても大丈夫だ。大したことはない。少し疲れただけか。そしてさらに沈黙を守る。終わりが近いのだろうか。終わったら語らなくてもいいのかもしれない。しかし何が終わるのか。何がわかったわけでもなく、知りたいことは知り得ないままだ。君は何を知ろうとしていたのだろうか。それは過去ではない。今も変わり続け、これからもそうだろう。何も得られない現状はそうさせているのかもしれない。

 しかし依然として何もできない。君は何を考えているのか。それは残念なことなのか。わからないがそういうことらしい。影は何を考えているのでもない。何か馬鹿げているような感覚だ。全身の力が抜けている。なぜだろう。頭の中で何かと何かがかみ合っていないようだ。それは何かの歯車か。別に機械仕掛けの頭脳でもないだろうが、何となく真っ白になってしまったようだ。いったい何がどうなってしまったのだろうか。それとも何もどうにもなっていないからこうなっているのか。それはどういうことなのか。こういうことなのだろう。それ以外の何ものでもない。だからわけがわからないのか。それと関係があるのかどうかわからないが、また昼が暑くなってしまう。無関係に決まっている。暑いからやる気をなくす以前にやる気をなくしていたはずだ。そして君はそれに気づかない。気づかないからその存在が影にとどまるのか。それは何かの屁理屈だろうか。別に何が不満なのでもなく、何について批判しているのでもない。何か見当違いのことを述べているとしても、それでかまわないのか。たぶんそうだ。何もなくてもそうなってしまい、何があってもそれに気づかず、すべての言説において的外れで見当違いのことを指摘する。そんなふうに思っていれば、それで当たらずとも遠からずかもしれない。

 では具体的に何を述べているのだろう。それらは何についての言説なのか。やはり空疎な言説についての空疎な言説になってしまうのだろうか。その辺がはっきりとは断言できないようだが、実質的にはもっといい加減で、どうでもいいようなことらしく、本質的に何を語っているのか定かでなく、要するに支離滅裂で無根拠な言葉が乱雑に並んでいるだけのように感じられ、ごまかしのたぐいと思われるのも無理もなく、さらに実際にはごまかし以前のでたらめかもしれないが、何となくそんなことを記しているのが性に合っているのだろう。間違っても正論やまともなことを述べてはいけないか。たぶん何のたぐいでもない。君はさらにおかしくなっているだけか。それ以外の何がおかしいのではなく、頭がどうかしている。それだけのことだろうか。しかしそれだけのことでここまできてしまったわけか。愚かにもほどがありそうだが、それが取り返しのつかない愚鈍さを生じさせているとも思えず、まだ何とか正気を保っているつもりでいられ、嘘か本当か定かでないが、それを真正面から語るとなると、とたんにどうでもいい内容となってしまいそうで、今もそうかもしれないが、まだでたらめにとどめておいた方が、現状をそのまま物語っているような気がしてくる。君はそれでかまわないと思いたいのか。


9月8日

 台風が近いらしく、久しぶりに雨が降っていて涼しい。だがそれに何か意味でもあるのか。しかし意味がわからないというのは何かのいいわけになるだろうか。そういう意味ではないだろう。何もないので、いいわけにする理由があるとは思えない。君は周りの環境に適応できないらしい。そんなことを述べている意味がわからない。また無駄に空疎なことを語っている。誰が語ってもそうなってしまう。それが虚構だからか。理由にはなりそうもない。君は語る理由など求めていないはずだ。夕方には台風が熱帯低気圧に変わったようだ。誰かはそんな意味のないことを語っているらしいが、誰も興味を抱くには至らない。まだ何も語っていないだろう。これから何か語るのか。それともすでに語っている空疎なそれでは不満なのか。不満だろうが、そんなふうにしか語れないことも確かだ。相変わらず何について語っているのでもなく、それは次第にガタクタのような内容になりつつある。それとは何だろう。それとは文章とはなりがたいそれだ。それが冗談の範囲内に収まるはずがなく、それ以前の段階で、意味をなさない言葉の連なりに過ぎなくなる。そう思うならやめてしまえばいい。何がおかしいのだろうか。今さら何を語れるわけもないか。それは修正不可能な段階にさしかかっているということか。どうでもいい。

 それについて語りだすと、とたんに意味不明に陥りそうだ。それとは何なのか。そういう具合にわけがわからなくなり、何について語っているのでもないような気がして、それが偽らざる思いにつながってゆき、さらにおかしくなってゆく。しかしそれの何がおかしいというのか。言葉を記している者の頭がおかしいか、あるいは言葉の並びがおかしいか、そのどちらでもないだろうか。では何がおかしいのだろう。単にそうではないような気がするだけか。どうでもいいが、また無駄に言葉を連ねているようだ。誰かは自虐的なことを述べているのだろうか。だがそんな自らをいくら否定しても、冗談に決まっているような気になる。本当は違うのか。何が違うのだろう。たぶん何も違わない。違わないから今の何かがあるのだろう。だから何かとは何なのか。それはそう問うような何かだ。またわけがわからないと思われるような何かかもしれない。要するに何でもないことなのか。そうは思っていないのだろう。だからいつまでもそんな問いを繰り返している。そしてそれが無駄な言葉を生じさせ、それを記している誰かの存在を際立たせることもなく、不特定多数の中の誰かに何かを語らせようとしているわけだ。そんなフィクションだったらおもしろいか。それの何が嘘であるわけもなく、嘘以前に何があるわけでもない。何もないからそうなってしまうわけか。それも違っていると思われ、何が違っているのかもわからない。

 何を語ろうとしても、さらにわけがわからなくなるだけか。それ以外にどんな成り行きがあるのか。君がこれまでにたどってきた道の途中にどんな可能性やきっかけが転がっていたというのだろう。君はなぜそこを通り過ぎてしまったのだろう。眠っていたらしい。また疲れてしまったのか。そうかもしれないが、それでかまわないのだろう。何も語れないのだからそれを受け入れなければならない。そしてまた言葉を記していることを否定したくなってしまうのだろうが、それも糧にして空疎な文章をもたらそうとするのだろう。問いかけているのはそういう成り行きに対する異議申し立てか。わからないがそうではないような気もする。君はそうならないために何を語ろうとしているのだろうか。そういう問いかけがおかしいのか。しかしそうしなければ何ももたらせないだろう。だがそれは空疎な何かであり、実体は何もない。それは何かの影なのだろう。だから影ではなく、その影を作っている本体について語らなければ、まともな言説とはなりがたい。いつまでもそういう説明についての説明に終始するばかりか。たぶん今はそういう空疎な説明でかまわないのだろう。誰もが空疎なつぶやきに言葉を費やしている時代か。そんな言葉が行き交い、親交を深めているつもりの気分を共有したいのだ。


9月7日

 何のことはない。何でもないということか。そうではなく、何のことはないということだ。人は人であり、人が何をしようと、この世界は変わらない。そういう水準では確かにそうだ。では人が形成している社会ならどうか。この社会が人によって変わるのか。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。何かそれは気のせいなのだろうか。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。今のところは何が変わったとも思えない。君は気づいていないのだろう。そうかもしれないが、本当にそうだろうか。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。たぶん何も気づかないまま、時が過ぎ行き、やがて誰もいなくなってしまう。そうなったら無人の荒野で君は何を思うのか。無人であること自体がフィクションか。無人でなければどんな登場人物が必要とされているのか。取り立てて必要ではない。ならば無人の荒野にさすらいのガンマンは余分か。クリント・イーストウッドあたりが馬に乗って登場してしまうわけか。西部劇はもう古いか。何かが違っているようだ。また誰かがそんなことを述べている。たとえ古くさくとも、言葉の連なり具合からすれば、荒野とくれば西部劇になってしまいそうだ。それが何を意味するわけでもないが、雰囲気的にはそういうことになり、それも冗談のたぐいになってしまうのだろう。

 そんなわけで何を語っても虚しいだけか。君は嘘をついている。それで退屈を紛らすようなことにはならない。そんな言葉が不要なのかもしれない。誰の追求を逃れようとしているのでもない。ただ文と文がつながらず、意味が生成し得ないような言葉の並びとなっているようだ。言葉と言葉の間に接続詞を挿入できていないようだ。それで何がわかるのだろう。何となくだらけたことを述べている。音楽を聴いているのが悪いのか。悪くはないだろう。それによって気が散っているとも思えず。それとこれとは無関係のような気がする。先を急ぐべきではないのかもしれない。別に急いでいないだろう。退屈しのぎに言葉を記している。そんなわけはないだろうが、どうもまともな言説にならない。確か南米のパタゴニアではヨーロッパからの移民によって先住民が虐殺され、荒野に羊が放たれ、そこで大規模牧羊が始まったそうだが、オーストラリア辺りでも事情は同じか。もちろんそれ以前に、太古の昔に先住民がその地にわたってきて、そこにいた大型の獣を根こそぎ狩って滅ぼしたわけだが、そこが無法地帯なら邪魔者は簡単に消され、強者が勝手なことをやる。それが人の習性かもしれない。人の習性というより動物の習性だろう。

 しかし今の社会ではどうなのか。勝手なことができないように法律が整備され、法によって人の生存権が守られているというわけか。確かにある程度はそうだ。何とか弱者も強者も共存共栄できように社会が進化したといえるだろうか。たぶんそれでも法の隙間を見つけては、そこで勝手なことをやりたいのが人の習性だ。だがあまりにもやりたい放題やって、特定の者がそこから莫大な利益を得てしまうと、今度はそういうことができないように法が改正されてしまう。そういういうのはいたちごっこのたぐいになりそうだが、だんだん勝手なことができないような社会になってしまうと、人々の間で閉塞感が高まり、不満が鬱積して、法を破ってでも勝手なことをやりたがる輩が増えてきて、社会そのものが崩壊の危機に直面してしまうわけだろうが、そうならないためにはどうしたらいいのだろう。やはりたわいない幻想を振りまくことによって、人の心をその幻想に感染させて、人々を人畜無害な存在にしておかないといけなくなるだろうか。今がそういう社会なのかもしれず、メディアが西部劇的な無法地帯をフィクションとして提供することで、その中で勝手なことをやりたい放題やっている登場人物たちに感情移入させることで、それを疑似体験しているつもりにさせるわけか。おそらく漫画の中で超人的な力を発揮する登場人物たちの存在意義も、そういう感情移入の対象としてのそれなのだろう。


9月6日

 今は夜だが、目覚めているのだろうか。眠っているようだ。とりあえず言葉は記している。それは事実かもしれない。だがかなりおかしい。何が事実でもないのだろう。君はそこから遠ざかり、それは毎度おなじみの言葉の並びになる。そこで何を語っているのだろうか。ただ目覚めている。それだけのことだろう。蒸し暑くて眠れないのか。もう九月だ。やはりそれだけのことか。そうに違いない。誰が何を語ってもそうなる。そういうことになりそうだ。何をどう語ってもわかりようがない。そういうことを語っている。誰にとってもわかりようがない。そういう水準でわけのわからないつぶやきを放つ。意味がわからない。そしてもう翌日だ。時が経つのが早すぎる。そう思うなら、時間を有効に使うべきだ。そのように努力すべきだ。少なくともそれは正解の部類に入りそうだ。あほらしいほどそんなことを考えている。またそんな嘘をつく。その辺で違っているのだろう。語っている内容が違っている。だが何が間違っているわけでもない。ただ空疎なのだ。だから何だというのか。冗談のたぐいかもしれない。

 何を語っているわけでもないが、朝になる。目覚めたらこんな天候になっている。ただの曇り空を見上げ、天候も何もないと思う。雨が降るのだろうか。何がそうなのでもない。何もそうではないのかもしれない。では何について述べているのか。天気の話なのだろうか。述べている内容は当たり前のことだが、それはそうだと思う。何の変哲もない。時の経過についていっているだけか。意識がある。それでも冗談なのだろうか。いったい何がそうなのか。余分な言葉が並んでいるだけだろう。いつものようにそれを記している。それらの過程においてわからないことは何もない。だからつまらないのか。そう思っているだけで、実際は違っているのかもしれず、その違いに気づいていないだけかもしれない。面倒くさいからそんなふうに語っているのだろう。他に何がそうなのでもないらしい。そしていつものようにどこかおかしい。気分がおかしいだけか。ただそこから遠ざかれなくなっているだけかもしれない。今日は朝から何かにかかりきりなのだ。そして意識のずれを直せない。昨日からずれているようだ。たぶん馬鹿なんじゃないだろうか。馬鹿な理由など何もないのに、馬鹿なのか。そんなことを述べていること自体がおかしい。今は夜でも何でもなく、ただの朝なのか。そんなことを述べているから馬鹿になる。そしてかなりおかしい。

 まだそこから抜け出せないのか。どこから抜け出せないのでもなく、そこがないから抜け出すことができないだけか。語っている場がどこにもなく、何も語りようがないのではないか。すらすら言葉を記している気になっているようだが、それがおかしな事態を呼び込んでいるらしく、何について語っているとも思えないが、それについて語っているのだろう。そしてそれはあり得ないそれだ。その場には何もなく、それはこの世界にあるようなそれではない。そう思っていることが虚構で、実際には存在しないそれについて語っているわけか。ならばそれとは何か。いくら考えてもそれはそれであり、どんなに言葉を費やしても、それが具体的な事物を指すには至らないだろう。そこで困っているわけか。何がわけでもなく、わけもなくそれという言葉を記している。だからそれが冗談に決まっているとは思えない。それの何が冗談なのだろう。ありもしないことについて述べようとしているのが冗談なのか。そういうわけでもなさそうだ。一概には何も言えず、言えないから言葉が記されているわけで、何も発せられないから、そこに蓄積されてゆくのか。そんな認識で合っているだろうか。何が合っているとも思えない。正解ではないように思われるが、そんなふうに言葉を記していくと、何らかの文章が出来上がるのだろう。それはおかしな成り行きで、しかも当然の成り行きなのだ。わざとそんなおかしいことを述べているだけか。そうだとしてもなおのこと不思議に思える。


9月5日

 窓の外を眺めていると、不意に夜の闇の中から何かが浮かび上がり、誰かを闇の中へと手招きしているようだ。そんな話をしたいわけではない。だがそんな話の最中に何かを見失い、言葉を記すのを忘れてしまい、別に途方に暮れているわけではないが、何かから見放されたように感じられ、何の根拠もないのにとりとめのない思いにとらわれ、自身が何を思っているのかわからなくなり、それでもかまわないような気もして、今度は愉快な気分になり、それでかまわないと思う。しかし何のことやらさっぱりわからない。いったいそこで何を述べているのか。そことはどこだろう。それは何もない虚無の空間か。心の空洞に言葉が虚しく響き渡り、何かパニクっているような素振りを見せたくなるが、それが誰かの演技であることは百も承知なので、見せかけの危機に深刻さがないことが明らかなのだが、何となく本気で何かを憂うような気にさせるのは何なのか。だからそれは何でもないということだ。何でもないから心配になり、何もない未来に思いを馳せることで、暗澹たる気持ちになってしまうらしいが、やはりそれもフィクションでしかないことなのか。そうだとしたらどうなのか。何を語ってみても、虚構の枠内で語られていることばかりで、そんなふうに語っている現状を真に受けることはできず、何もかもが冗談だと思われてしまうか。だからそれがいつものパターンなのではないか。

 何を語ってもそういうこと以外の何ものでもない。だから愉快な気分となり、おもしろがっている心が危ういような気がする。君はそうではない可能性を模索する。本当だろうか。本当も何も、何かの偶然が作用して、不意に視界が開け、気がついたらまともなことを語っている自らに気づいたりするわけか。そんなありもしないことを夢想しているわけではなく、そうならない方がいいような気でいるのかもしれない。そんな二律背反的でありふれた心境でいるのかもしれない。何となく矛盾しているように思えるところも愉快か。何をおもしろがってみても虚しいだけだろう。君はわざとそんな心境になろうとしているのかもしれない。それは決して本気になろうとしないことの顕われで、どこまでもモラトリアム的な思考に毒されている証拠になるだろうか。仮にそうであったとしてもそれはそれでおもしろい。そしておもしろいことはつまらないことであり、つまらないことは愉快なことなのだ。そんなふざけた言葉遊び的なでたらめなどどうでもいいことか。だから何を語っても仕方ない。だがそうやけになってもくだらない。そしてくだらないからおもしろいのか。わざとそうしているのは明白であり、そんなふうに語りながらも、それが何かの暇つぶしになってしまっていること自体が危機的な状況なのかもしれないが、やはりそれがおもしろい。

 冗談で語っているのなら、後から何とでもいえるだろうし、後出しじゃんけん的にそれらの文章を修正していったらいい。本気で修正するとは思えないが、そんなふうに言葉を記していること自体がある種の修正なのかもしれず、冗談なのに冗談ではないような心境になることを願って、わざと冗談に徹しようとしているわけか。そんなわけがない。だがそんな簡単に否定してしまっては後が続かない。続かなくても一向にかまわず、不連続的に文と文と配置して、それで何かを述べているような気になればいいだろう。その気になっているだけで、実際にはでたらめに何かを語っているふりをしているだけだが、やはりそれでもかまわないと思いたいのか。そうかもしれないし、そうなったらなったで、他に出口を模索すればいいことでしかない。結論など何でもよく、どこへ至ろうと、それが仮の結論となり、それはでたらめの結論でもあり、原因と結果の因果律から逸脱して、君自身を欺き、記された言葉が君の心から外れ、君を虚無へと追いつめ、どこにも出口がないことを知らしめ、もはや狂うわけにもいかず、まともに語ることとは無縁の心境で、ただ日々を過ごしながら、淡々と生きている現状を否定することもできず、何をやる気にもなれず、それでも何かをやっていることを忘れさせ、自らが空洞そのものであるような気になり、そんなフィクションを肯定してみるが、同時にそれがつまらぬ冗談であることも悟っているわけだ。


9月4日

 たぶん君は何を狙っているのでもない。宝などどこにも埋まっていないだろう。フィクションの中に存在するだけの物だ。実際に埋まっているのはガラクタのたぐいで、それを掘り出して喜んでいるのは考古学者のたぐいだ。君はその手の過去に興味はないのか。冗談ではないか。何も冗談ではなく、何かについて真剣に考えているのだろうか。だからそれが冗談なのではないか。では冗談以外では何があるのだろう。君はそれを知っているはずだ。知っているのにそれについて語らないのか。そういう嘘も白々しい。毎度おなじみのそういう話の展開にはうんざりしている。だからひたすら沈黙を守っているわけか。そこには誰もいないから何も語られないのは当然のことか。それも嘘だと思われる。人などいくらでもいて、何でもかんでも安易に語られ、この世界で語られないことなど何もないのではないか。ただそこに人の集団が存在しているだけのようで、人と人の間で言葉が交わされ、何やら語りらしきものが流通しているわけだ。そしてそれがどうしたわけでもなく、ごく当たり前のことの繰り返しのように、何かについて語られているわけだ。仮にそうだとしても、それが興味の範囲内に収まるような内容であることはまれか。おそらく君が語ろうとしていることなど無関心の極みになりそうだ。

 そして君はどこからともなく現れているつもりで、どこにも存在せず、ただの影であるような不在になりつつあり、何に関しても関心を抱けぬことが致命的な欠陥となり、この世から消え去るのみか。本当にそうなったらおもしろい。実際に語っているのは誰でもなく、他の誰に関して何を述べているのでもなく、それで何を説明していることにもならず、だから何を語る気にもなれず、後は関心の希薄な言葉を並べて、空疎な文章を構成するだけか。それだけなら人畜無害か。ならばどうということはないのではないか。だからそう述べているはずだ。ひたすらそんな言葉が連なり、つまらぬこだわりから生じた虚無が心を蝕んでいるのだろうか。そうだとしたなおのことおもしろい。またそんな嘘をついて強がっているのかもしれない。本当は何とも思っていないはずだ。それらの何を否定的に感じていようと、勝手に状況はあらぬ方向へと推移してゆき、時として思いもよらぬ話の展開を見せ、実際に言葉を記している誰かを驚かせているのかもしれないが、それが冗談のたぐいではないと確信すればするほど、何となく違っているような気がしてくる。たぶんそれが何だかわからないのは、何かの方便であって、どこかに至るのに必要な無意識のつぶやきを呼び寄せているのだろう。誰かがそんなことを思っているようだが、それはフィクションの中で思っていることなのか。

 本気がどうかは不明だが、それで話になっていると思っていること自体が大きな勘違いなのだろうか。そうだとしてもそれがおもしろい。たぶんどうでもいいことなのだろうが、そのどうでもよさがおもしろいのだ。何を語っているわけでもないのに、何となく文章が構成されていて、そんな無内容にうろたえながらも、そこへとどまろうとして、そこから抜け出せないのをいいことに、そんな理由をねつ造しているわけだ。本当はとっくに抜け出しているのではないか。それを自覚できないだけか。誰がそう思っているのだろう。君はそう思わないのか。それとも思っていてもそれを否定せざるを得ないような心境に陥っているわけか。それはどういう心境なのだろう。要するにでたらめなことを述べているだけではないのか。単にそうだとしたら、そこまで連ねてきた文章は何だったのか。何でもなかったわけか。だが何でもないような文章とはどういう文章なのだろう。それが無意味で無価値の文章なら、何でもないわけがなく、それは無意味で無価値の文章となるだろう。では何でもない文章とは何でもない文章のことか。本当にそうならばそんなことを述べている意味がない。それでいいのかもしれず、そんなことをひたすら記してきた誰かはそれで納得しているかもしれない。実際にそんなふうに思っているのではないか。


9月3日

 どうも文章にならない。今さら何もないというのは嘘だろうが、本当に君はそんなことを語っていたのだろうか。どんなことを語っていたというのか。それがあり得ないことだ。しかし他があるとは思わなかった。他とは何だろう。それで何に驚いたわけでもなく、何かの出だしで躓き、言葉を失う。しかしそこでわざとらしく茫然自失になってしまう。現実には何を失ったのではなく、言葉が出てこないだけだ。そしてそれだけではないと思いたい。それにしてもありふれた状況だ。何を空想しているのだろう。何となく視野が狭い。そう思って鏡を覗き込めば、暗い顔をしているようだ。しかし何について語ってはいけないのか。語りたくても語れないだけだろう。ではなぜそうなのか。単なる環境の変化か。そういう話でもないだろう。そこで判断がつかなくなっているようだ。なぜ以前と同じようなことを語ってしまうのだろうか。それが同じような疑念だから困っているわけか。何を疑問に感じているわけではなく、疑うべきか否か迷っている。どうやら君は疑わしいことを述べているようだ。少なくとも他に何を説明しているのでもない。それはどういうことだろう。何について語っているのか。だからそういうことではない。たぶん何も要求されていないのだ。何を強いられているわけでもなく、語る必要もないのだ。だから困っているのではないか。何で困っているのか。困っているとは思えないが、やっとそんなくだらぬ答えにたどり着いたのか。それの何がくだらないのだろうか。語っている内容が空疎だ。それだけのことだろう。何がくだらないわけでもないが、ただひたすら回りくどい。

 またかなり余分なことを述べているようで、それ以外は何も語っていないらしい。まともなことは何一つ語る気にならないのだろうか。語れないのだ。そして何がまともなのかもわからない。何もまともではないのか。それについては何も考えられなくなっているのだろう。だから何も語れなくなっているわけか。それが説明になっていないのではないか。たぶんそうだ。何も説明していないような気がする。その通りだと思うが、なぜそうなってしまうのだろう。わかりきったことか。それではだめなような気がする。それだけではだめなのだろう。それもわかりきったことか。わかりきっていはいるが、何がだめなのかわからない。矛盾しているのではないか。確かにそうだ。頭がいかれているらしい。それは嘘だろう。では他に何が嘘なのだろうか。だからそういう話ではない。君は夢を見ているのだ。そういう結論にはならない。いきなりわけがわからなくなる。

 昔誰かがこの世で生きていたらしい。何かについて語れば滑稽な様相を呈するだろう。まがい物の香りがして、たちまち軌道修正を迫られる。それがどんなわけでもないが、人は行方知れずになるのが当たり前のこととなる。君も社会とは無縁だ。人は散り散りになるのが定めだ。そんなことは昔からわかっていたことではないか。老いて死ねば土に還るだけで、それ以上の何を期待するまでもない。人はどこまでも人であり、生きている限りは人なのだ。しかしそんな当たり前のことを語ってどうするのか。馬鹿げているような気がする。だが他に語ることがない。今さら開き直ってどうするのか。やがて何とも思わなくなってしまうのだろう。時は流れ、否応なく心がそうなってしまったらしい。くたびれてしまったのか。くだらないことにかかりきりになりすぎているのだ。だがそんなのは今に始まったことではなく、もうここ十数年はそうだったはずだ。しかし君はくだらない気分のまま一生を終える覚悟ができていない。誰もそうは思わないだろう。だから何とかしようとしているわけか。結果として何ともなっていないのにそれはないか。それがないからこれからなのか。この先に何が待ち受けているとも思えず、取り立てて何を語ろうとも思っていないはずだ。ではこの先はどうしたらいいのだろうか。


9月2日

 なぜか途中からできないことに気づく。わけがわからないのはいつもと同じか。今日もいつもと同じ雰囲気の中にあるようだ。また夜になり、音楽を聴いているようだ。他に何があるとも思えない。君が語っているつもりの虚構も無内容に近い。何も思いつかないだけか。何が事実でもなく、勝手に言葉が並んでゆくが、それも嘘に違いない。君がそれを確かめようとしているわけだ。嘘か否かではなく、君自身がどこに存在しているかを。フィクションの中なのか、現実の世界の中にか。あるいは君は君なのか、君ではない誰かなのかを。そんなのは嘘に決まっているだろうか。そこでくじけてはいけない。君はもう少しそれらのフィクションを楽しまなければならない。誰にそうしろと命じられているわけではないが、そうした方がいいだろう。その状況では何がかまわないわけではない。ではそこで影は何を求めているのだろうか。ありふれた意識の中で何かが炸裂している。そんなはずがないか。寝汗をかいたらしく、不快な気分で目が覚める。きっと眠りの最中に嫌な夢でも見ていたのだろう。今は深夜であり、もう一眠りすればすぐに朝になるだろう。空疎なことばかり語っているからおかしくなってしまうのか。もはやそれがおかしいとも思わないのではないか。誰かにとっては当たり前のことらしく、何を語ってもそうなってしまう。ここ数日の昼はかなり暑かったらしい。

 君の語り方には欠陥があるようだ。それは今さら指摘するまでもなく、わかりきったことかもしれないが、わざとらしくも何がそうなのかわからず、それについては何もわかろうとしていないような気がする。そういう語り方なのだから仕方がないだろう。だから何もそこから出てこない。そこで何かが終わっているかもしれず、そんな終わりが執拗に繰り返されている。ならばすでにお手上げ状態か。そうかもしれず、また言葉が出てこなくなってしまったようだ。無理に何かを絞り出そうとしているから何も出てこない。それだけのことだ。もうこの時間帯では何もできない。昼は仕事をしている。そんなわけでまた夜になってしまうらしい。朝にそんなことを思っている。本当にそうなってしまうのだろうか。そうなったとしてもどうということはないか。言葉が足りないだけか。そして文章にならず、誰かが困ったことになるだろうか。それでも言葉を記しているのだから、何がどうなってもそういうことだ。だから何を悩んでも仕方がない。記された文章が意味を担えなくなっているのだろう。

 また無駄に言葉が並んでいて、それをフィクションの中で君が語れないのに語ろうとする。本当に語れなくなっているようだ。その代わりに何かの幻影が見えている。唐突に嘘でもついてみたい気になっているのだろうか。それが嘘かもしれない。言葉の代わりにあくびが出る。ついでに反吐が出るか。何となくフィクションの世界に片足を突っ込んでいるようだ。それは霊界か何かか。そんなものでもなさそうだ。どうでもいいようなことか。またしてもそうなってしまう。青息吐息でそこでやめてしまいそうになり、胃の痛みに耐えきれずに目が覚めて、癌か何かであるような気になり、長年のストレスでそうなってしまったことにしたくなる。いったい何がそうさせるのか。そうなった原因など百も承知で、そうではないと嘘をつく。ならばそれの何が話にならないのか。だからそういう話ではないと思っている。要するに面倒くさいのだろう。語るのがおかしくてたまらないのか。何の気分にも至れずに、わけがわからないのでもない。そんなふうに語っている現実が違うのか。現実は現実に違いなく、その現実がまとう必然性の前にひれ伏し、全面降伏しようとしているのか。君には誰かの気持ちなどわかるわけがないか。たぶんその時が永遠にやってこないのだ。


9月1日

 やっと今月に入ったのになかなか言葉が出てこない。画面の前に座ってどれほど時が経っただろうか。また苦し紛れでいい加減に言葉を記してしまえばいいのか。茶が濃すぎるようだ。そんな感じがしても何も出てこない。今さら語ることなど何もないか。誰と対面しているわけでもないだろう。そして夜になり、音楽を聴いている。ただそれだけのことなのか。それだけでは語っていることにならないだろうか。君はおかしい。他の誰がおかしいのでもなく、何となくそう思う。それはすでにフィクションの中で述べられていることなのか。そうだとしたら何なのか。語っていることが無駄に引き延ばされ、どうでもいいようなことに多くの言葉が費やされている。それだけのことだろう。他には何の問題もなく、淡々と言葉が連なり、君が何を述べているのでもないことが裏付けられるか。そんなはずがないと思いつつも、それで何がどうなっているのでもないことは確からしい。誰かが画面の前で平然と座っているだけか。ところでこれから何を語ろうか。もうすでに多くの言葉が費やされているではないか。だが果たしてそれで語っていることになるのだろうか。

 たぶんそのつもりなのだろう。そのつもりだから虚無的に言葉を連ねているのだ。そこに理由らしき理由など皆無か。何をどうしたいのでもない。何もしなくても世の中は変わっていく。そこで誰が世の中を変えようとして何をしているのでもなく、ただ何となく生きているのだ。目的も生き甲斐もなく生きている。そんなことがあり得るだろうか。語っているのがフィクションならそれでもかまわないか。そして君はさらに虚無に浸され、何も考えられなくなり、それからどうなったのか。先のことなど予想もつかず、今が未来なのか過去なのか判然とせず、少なくとも今ではないと思いつつも、一方でそんなことなどどうでもいいと思いたくなり、それはそれで忘れてしまうかもしれないが、いったい何を語っているのだろうか。誰に何をわからせようとしているのでもなく、何を語っているのでもないか。それだけのことのようだ。そんなわけで今日も何かがおかしい。何かが違っているようだ。それだけのことだろう。そうは思わないのか。なぜそう思わなければならないのか。それに関して君が何を知ることもないだろう。今のところは知りたくもないことを知り得る立場にないか。

 しかしそうなる理由がわからない。なぜ延々とそんなつまらないことを述べているのだろうか。気でも狂っているのか。それなら話が早いか。ただ無駄に言葉を連ねるばかりで、他には何もないらしい。それだけではないと思いたい。案外無意識のうちにこの世のすべてについて述べていたりするのではないか。それらの何がすべてなのか。たぶん語っているすべてがそれなのだ。それだけの話であり、そういうことでしかないだろう。しかしなぜそうなってしまうのか。他に何もないからか。何もないと思っても、何かあるはずだろう。少なくともそこには記された言葉がある。それだけか。それが表示されている画面があり、それを見ている誰かがいる。それでは不満なのか。そういうことでしかないのが気に入らないか。ならば他に何があるというのか。そこには思考や思索や主張がないとだめか。ただ無駄に言葉を連ね、無駄にエネルギーを使い、環境に優しくないだけではなく、他に何があるのか思いつかない。だからやはりそれだけのことだろう。それだけのことにひたすら言葉が費やされ、それが無駄であることの証しとなり、気に入らないことのすべてとなる。笑ってしまうだろうか。眠たくなってしまうだけのようだ。ようするに誰かは居眠り運転ならぬ、居眠り記述を繰り返しているわけか。そうだとしても何になるわけでもない。誰かにとってはそれがすべてなのだから仕方がない。


8月31日

 しかし時として君は何を考えているのか。何がしかしなのかわからないが、たぶんそれでもしかしなのだろう。しかし暑すぎる。そしてそれが長く続きすぎるか。まあ慣れてくればどうということはないのかもしれない。それでも熱中症の一歩手前まで追いつめられているのかもしれない。ではこのまま誰かは死んでしまうのだろうか。死ぬか死なないかは時の運か。死んでも何でもないだろうが、なるべく死なないような対策でもこうじるべきか。本気でそう思っているのだろうか。少なくとも冗談ではないらしく、何となくくだらぬことを考えているようだ。ところでそれからその件についてはどう思っているのか。思っているのはどの件でもありはせず、それでは単なる字数稼ぎになってしまいそうだが、今はそんなことしかできないのだろう。たぶん無駄に語るべきではないのだ。それでもそれに逆らって語ってしまうとどうなるのか。実際に誰かはくだらぬことを語っているが、そこから何か教訓らしきものを導きだせるだろうか。君が何を語ってもそれは違うと思われるか。君の影ならどうなのか。何も語らないだろう。語るわけがない。だがフィクションの中でなら影に語らせることができるのではないか。その必要があるだろうか。

 やる必要のないことをやってもそれは無駄なことか。だから君は間違っているわけか。だがフィクションの中では間違っていてもかまわない。現実の世界でもそうだろう。誰もが間違っていて、正しいことを主張すること自体が間違っていたりするわけだ。しかし何が正しいのか。物事について考えるのが正しかったり間違っていたりするわけか。そういう認識も間違っていておかしいか。だから冗談でそんなことを述べているのではないか。要するに何も考えがまとまらず、夜中に起きて無理矢理言葉を記しているわけか。ではなぜ目が覚めてしまったのだろう。君がそこで何かを考える必要があるからか。君とは誰なのか。今さらそんなことを考えても、またいつもの堂々巡りになってしまう。それでかまわないのだろう。その堂々巡りが文章なのだ。そしてそこで君の存在は意味不明の曖昧模糊となってしまうだろう。だからそれはどういうわけでもなく、結局何を語っているのでもないわけか。そうだと思うならそこから離れるべきか。離れられないから今があるのだろう。そして愚にもつかぬ事を述べている。それが冗談にもならないことはわかるが、その先に言葉が出てこないのはどういうわけなのか。

 また架空の君がフィクションの中で焦っているのだろうか。そういうことではない。本当に現実の世界の中で誰かが焦っているのだ。そしてすでに眠くなってきて、言葉を記すのをやめようとしている。別に意表をつこうとしているわけではないが、自然にわき出てくるのを待たずに、無理に言葉を記そうとしてしまう。遅れているのだから無理もないが、内容が空疎になってしまうことも否めないか。それでかまわないのならそういうことになる。かまわなくはないが、ここはかまわないことにしてしまうのか。わからないがそんなふうに語ってしまうらしい。しかし何を焦っているのだろうか。もう十分語っただろう。内容が空疎であるにしても、それでひとまずやめた方がいいのではないか。今さらそんなことを述べても無駄か。もう何かの終わりに近い。何を語っているわけでもないのにここまでやってきた。君はそれをどうにかすべきなのだ。思うようにいかないことはわかっているのだから、それを語ったらいい。無理に語ろうとすれば、そこから先に何が待ち構えているわけでもなく、あるのは空白の時間だけか。何も思わず何も考えず、何の興味も抱けない景色が広がり、そんな風景の中で老いるだけか。それが冗談だと思うなら、何か他に興味深い現象について語ったらいい。


8月30日

 まあ近頃のマスメディアは完全に狂っている。世論調査を理由にして、民主党の代表選挙をやること自体を批判しているのだからかなりおかしい。条件を満たせば誰が立候補してもかまわないのに、小沢氏が立候補したら民主党が分裂してしまうとか大きなお世話だろう。何となく正気の沙汰ではないような気がする。例えば高速道路無料化でも、それを阻止するようなことばかり主張するし、自分たちは有効な景気対策など何も思いつかないのに、早急な景気対策が必要だとか主張するばかりで、やっていることは世論調査だけなのか。ことある度ごとにそればかり繰り返していて、完全な世論調査中毒に陥っているのではないか。主張していることは世論調査の質問項目のようなことばかりで、個性も独創性もなく、中身が希薄で同じようなことを繰り返し述べているだけだ。要するにそれは以前と同じキャッチフレーズの繰り返しで、政治と金だとか、円高対策だとか、中小企業対策だとか、〜が求められていると述べるばかりだ。そして円高ドル安になれば、部品を製造している町工場を経営している老人の声を紋切り型の台詞で伝え、猛暑で野菜が高騰すれば、野菜を作っている農家と臨時の安売りをしているスーパーに買いにきた客の声を、これまた同じような内容で伝えるばかりだが、何でそればかりなのか。実際に伝えているのはそればかりではないのだろうが、それを伝えるアナウンサーとかキャスターとか言う人たちのロボット化がよりいっそう進んできた印象がある。時折かますくだらない冗談でさえ、ロボット的に同じような水準にある。

 たぶん世論調査の多数意見ばかり主張していたら、メディアに携わる人間も政治家も、無為無策の無能者ばかりになってしまうだろう。確か清涼飲料水メーカーで試作した飲料水を試飲して、十人中十人がうまいと感じたものは製品化せずに、大多数の者がまずいと思った味のものを製品化したら、その飲料水がヒットした(その商品はポカリスウェットだったと思う)、とかいう話をテレビ番組でやっていたのを見た記憶があるが、それとこれとは別問題なのだろうか。世論調査の多数意見が間違っているとは思わないが、ただそれは凡庸な認識で誰もが思うことであり、そんな意見を参考にして何かを主張したり、政治家がそれをもとに政策を練り上げたところで、世の中を変えられるわけがない。逆に誰もが反対するようなことを信念を持ってやれば、多くの摩擦や軋轢を伴うが、それを乗り越えれば世の中が変わるかもしれず、心ある者ならそういうことを主張すべきで、やるべきなのだろう。たぶん高速道路の無料化などもそういうことなのではないのか。たとえばアメリカ大陸を横断するのに通行料金がほとんど無料なのに、日本国内で数百キロも走らないうちに数千円の通行料金がかかってしまうのでは、一概には比較できないかもしれないが、それは凄まじいコスト差になってしまうのではないか。

 また円高対策というと、すぐによりいっそうの金融緩和を主張して、すでにほとんどゼロ金利なのに、これ以上の金融緩和といったとろで、もう万策尽き果てているのではないか。だからこういう時にこそ逆に金利を上げるべきだと思われ、正常な金融政策ができる水準まで段階的にあげて、ここ十年近く続いている異常な状態を正常化すべきではないか。そして金利を上げたら円高になるのだとしたら、行き着くところまで円高に持っていくべきで、円高になったところで、海外の資産を価値が上がった円で買いたたけばいい。国内の輸出産業は衰退するかもしれないが、輸入製品は値下がりするので、それを生業としている産業は活気づくだろう。だいたい輸出産業といったところで、自動車とか家電製品とかを輸出している工場など、そこで働いている人たちが、人としてまともな生活環境の中で生きているとは到底思えない。たとえば秋葉原の通り魔事件の犯人がそういう工場作業員としての暮らしに対して、どれほど不平不満を鬱積させていたか記憶に新しいところだ。だからたぶん円高になったらなったで、それによってかなりの痛みを伴うだろうが、そういう時として人が人間扱いされない工場作業という習慣を変えるいい機会なのではないか。


8月29日

 この世で語られていることはどこまでも白々しい。そう思うならもっとおもしろそうなことを述べてみたらどうか。それができなければどうなってしまうのだろう。どうもならないし、どうにもならないだろう。現実にそうだ。今まさにそうなってしまっている。ではそうならないためにはどうしたらいいのだろうか。だからそういう成り行きにはならないのではないか。君はそれをあきらめなければならない。だがそれで別に鬱状態になったわけでもないだろう。何かをあきらめたら幸せになれる。またそう思いたいのだろう。影は黙っていてほしいが、誰かの言うことを聞かないわけでもない。どうやらその辺から言葉の並びがおかしな具合になってきた。街路灯がやけにまぶしく感じている。公園のベンチで言葉を記しているでもないだろう。部屋の中というわけでもない。なぜそれほどまでに言葉を記さなければならないのか。その場の気分次第だ。返答になっていないような気がするが、誰に問いかけているわけでもない。君はどこまでもその場にしゃがみ込み、その動作がおかしくてたまらず、次第に何のことやらわからなくなり、自らが何を判別しようとしているのか忘れてしまい、冗談にも度が過ぎると思うようになる。そんなわけがないが、たぶんそこに正解はなさそうだ。

 語るという行為が何かを招いている。その結果がこれか。まるで何かのがらくたか。そうだとしてもなおのことおかしくなりそうだ。いったい他人はどこで何をやっているのか。そんなふうに問いかけているとき、君は目の前の他人を無視している。他人は居眠りの最中かもしれない。ある時はそうだろう。またある時は食事中か。人はやれる範囲内でどんなことでもやる。それだけのことなのに何を驚く必要があるだろうか。君がやろうとしていることはそれとは違うのか。どれだけ違うわけもないか。たとえば歌舞伎役者がテレビ画面の中でやっていることと、どこかで浮浪者が物乞いでもやっていることの間に差異があったりするだろうか。たぶんあるのだろうが、どちらも演技のたぐいではないか。歌舞伎役者が物乞いを演じた場合ならどうか。くだらぬ想像の域を出ない話か。なぜ唐突にそんなことを述べてしまうのか理由がわからないが、君が語ろうとしているのはそういうことだ。とりあえずはそういうことの範囲内で、どうでもいいようなことを述べている。またそう思いたいのか。たぶん何をどうしたいのでもなく、それらの話のどこがおもしろいと思っているのでもない。だが実際に語っているのはそういうことだ。

 しかしそれらの何がありふれているのだろうか。とても正気だとは思えないか。言葉と言葉との間に言葉が抜けているような気がして、その言葉を探し出したがっている。しかし出てくるのはあくびばかりのようだ。もう飽きてしまったのか。まだその先に記すべき言葉があるのだろうか。疑念を抱いている間に時間が迫ってきたようだ。たぶんそこから何かを早めて、早急に結論に至らなければならないようだ。そんな話ではないだろう。では時間がまだあるのだろうか。何の時間なのかわからないが、期限を切られているわけでもなく、途中で打ち切りとなることもなく、そこから先にも言葉が連なっていて、虚無的で空疎な文章が構成されているはずだ。ならば君はそこで何を見ているのか。言葉が並んでいて、それが何かの文章のような気がしているだけか。誰のことを述べているのでもない。何を語ろうとしているのでもなく、誰かの心はすでに外れている。何か駄文のたぐいが記されているのだろうか。それは誰の知ったことでもなく、誰にも知り得ないことだ。そうは思わないが、そういうことにしておこう。やはり何かを語るのが面倒くさいらしい。だから君はそこで語るのをやめてしまうだろう。世の中にはどうにもできないことがあり、誰かがそんな状況に直面しているようだ。


8月28日

 君はそこで何を探し当てたのか。まさか件のお宝であるまい。その代わりでもないだろうが、何となく音楽を聴いているはずで、それ以外の何に関心を持っているわけでもない。聴いている音楽にも関心がないか。そこから何がわかるのか知らないが、すべては後からわかることだ。君は日本語の本質をどのように考えているのか。そんなことを考えているわけでもないか。やはりそういうことではないだろう。フィクションの中のすべてに関して無関心を装い、言葉を連ねているその先に何があるとも思っておらず、登場人物が何もない地平を疾走しているとも思っていないはずだ。それが何のたとえででもなく、何を企んでいるわけでもないことを悟る。ただそう記している。何の思惑も想像できず、何も思い浮かばないだけか。それはどういうことなのか。話が何もなくなってしまったということか。だから何を語っているのでもないことになるのか。わからないがそれでも何かを説明しているらしい。何かの勘違いかもしれないが、そう思ってるのだから仕方がない。

 別に頭から角が生えているわけではない。そんなことはないと思っているだけか。だが他に何が見出されたわけでもなく、誰かは至って正気を保っている。そう思いたいのだろう。気が狂うのが怖いか。それを否定したいのか。何事も思い通りにはいかない。君が思っているほど簡単にはいかないというだけか。では何を勘違いしているのだろうか。何もそうではないと思っている。何もかもがくだらないと思いつつも、そう思っていること自体がおかしいのかもしれない。だがそれでも何がどうなっているわけでもなく、君は黙って音楽を聴きながら窓の外を眺めている。そして今が夜だと知る。そんなわけがないか。しかし何が冗談でもない。君はどこまで愚かなのか。計り知れない愚かさをその身に抱え込み、それからどうしたのだろう。だからどうもしないと述べている。何も語っていないだけで、ただそこで誰かが言葉を記している。それだけでは不満だろうか。きっとそうに違いない。だが疲れきって脱力状態なのだから仕方がないか。そこから何をどうしようというのか。君の知ったことではないか。そういうのは聞き飽きたか。ならばどうもできないから今があるのも以前と同じことだ。それでも何とかしなければならないと思うのはおかしいだろうか。

 疲れているのだろう。それだけの理由でやりきれないと思う。過度のストレスが加わっているのだろうか。では癌にでもなって死んでしまうか。手遅れにならないうちにリタイアしたいか。和んでいるのでも安らいでいるのでもないが、何となく音楽を聴いている。たぶん気に入らないのはそういうことではない。君は政府が打ち出した経済政策を信じていない。そのついでにマスメディアの主張も信じない。たぶん世界中の民に均等に富が行き渡るまで真の意味での景気回復なんてあり得ないだろう。冗談でそう思っているのだろうが、それは本当にあり得ないことなのか。なぜ人は富を求めて努力しなければならないのか。努力しなければ何も得られずに死んでしまうわけか。だからそういう話ではないだろう。何かが違っていることは確からしい。そういうことではないような気がする。ではどういうことなのだろうか。人は目標に向かって努力して達成感を得たいのか。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。やはりそういうことではないのだろうか。たぶんそれも違っているだろう。述べていることが簡単すぎて、当たり前のことでしかなく、何のおもしろみもないから、それは違っているというわけか。では何をどう思ったらいいのだろうか。そういうことではないと思ったらいいのか。それでは身もふたもない。だから何を述べたらいいのかわからなくなってしまうというわけか。わけでも何でもなく、そう思ってしまうこと自体が間違いなのか。そういうわけで君はそれ以上の何かを語らなければならない。そうしなければつまらないだろう。そしてつまらなければ気に入らないのだ。


8月27日

 また何とかしようと思っているのか。その前にバテているのではないか。それについて今さら何をどう思っても後の祭りか。当たり前のことだが、この世界では富のバランスが不均衡だ。誰を馬鹿にしようとしても、結局は回り回って自らに返ってくるだけだ。その先に何が潜んでいるとしても、その何かに遭遇して初めてわかることもあるだろう。だから絶えず前へ歩いてゆかなければならないのか。だがそんな理由を信じられないところがおもしろい。別に何をおもしろがっているわけではなく、何となく楽しいだけか。自らの行動を馬鹿にしているところも楽しいのか。別に何を強がっても仕方がないだろう。誰がそこから遠ざかっているとも思えない。それでも君は他の誰かを馬鹿にするつもりか。そうかもしれないし、本気でもないかもしれない。要するにそんなことはどうでもいいのだろう。人はどこで何をしようと人でしかなく、人以外の何者でもない。そこで何をやらかしても大したことにはならないだろう。たとえそれが自爆テロだろうとそうだ。巻き添えで多くの人が死傷しようと、そういうことでしかない。だから何を恨んでみても仕方がない。君には君のやり方があり、他の誰かにもそれなりのやり方がある。やはり何をやってもそれだけのことなのだろうか。

 しかし何をあきらめようとしているのか。本来的には人のやっていることに優劣はなく、そこに何らかの恣意的な判断基準を導入した時にだけ優劣が生じるのであり、そういう基準に沿うようなやり方をした者が優れていることになるわけで、そういうことでしかない。それをどう思っても仕方のないことか。万人に公平な判断基準などどこにもありはせず、地域的にも職種的にも優劣が生じてしまうのは当たり前のことだ。ではそこから何をどう考えればいいのだろうか。たぶん何をあきらめているわけでもないのだろう。絶えず何とかしようとしていて、現状を変えようとしているのではないか。現に生じている不具合を直そうとしているではないか。誰かは少しは本気になりかけているのかもしれないが、果たしてそれでうまくいくのか。やってみなければわからず、実際にそれをやっている最中だろう。そして誰がそこでもがき苦しんでいるのかわからないが、君にはそれが滑稽に見えてしまう。何となくおかしいのか。なぜそんな狭いところで意地の張り合いをしているのか。少し離れてみれば何でもないことだろう。そこにしがみついて離れようとしないから、視野が狭まり、自らの立場を死守しようとして死に物狂いなのだ。それが競争という行為の本質的な愚かさか。

 誰もそれを愚かだとは思わず、それどころか競争行為の勝者に拍手喝采を浴びせているのではないか。よくぞ相手を打ち負かしたということか。そういう死に物狂いの努力に価値を見出そうとすればそうなる。それらのゲームに動物的な生存競争の原理が導入されているのだから、それはそれでそういうことであり、その一方で平和的な共存を唱えている場合でも、それは勝者たちの間での妥協の産物でしかなく、すでにその足下には敗者たちの屍が転がっているのではないか。だがそういう話をどこまで信じたらいいものか。君がそれを信じようと信じまいと、賽はいくらでも投じられ、出た目の数だけ前進しなければならず、すでにその生存競争ゲームに参加させられていて、他の誰かと競争していることになっているわけか。しかし誰と何を競い合っているのだろうか。たぶん負けた方がいい。勝ってわけのわからぬ幻想を抱くより、負けた現実を直視すべきか。ならば君は何に負けているのか。そんなことを詮索するには及ばず、何をどう考えても、無視すべき現実なのかもしれない。なぜそうすべきかはわからないが、安易に他人を打ち負かそうとしてはいけないのだろう。それは結果的にはどうでもいいようなことであって、自分は自分のできる範囲内で生きていけばいいのかもしれない。明確な答えには至りようがない。


8月26日

 何となくわからないまま、またいつもの一日が始まってしまうらしい。どうもこの世界の仕組みとそれに伴って生じている制度との関係がわからない。そんな大げさなことではないだろう。もう夜だ。今日も仕事で疲れたらしい。煙草の煙が迷路の模様で漂っているわけではない。君は煙草を吸わない。ではそんな光景をどこかで目撃したわけか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。他の何に魅せられているわけでもなく、魅力的な何かを求めているわけでもない。では君はそこで何を見逃しているのか。何がターゲットとなっているわけでもないだろう。狙っているものは違うところにあるというのか。それとも何もありはしないか。どちらでもなく、そういう水準で何かを述べているのではないのかもしれない。実際に何も述べていないのではないか。だがそういう語り方はいつものパターンで、ひたすら空疎なことを述べているだけかもしれない。しかし気休めにそう述べているのではない。何やら自戒を込めて違うことを語ろうとしているのか。わからないが何がわからないのか。まただらだらと語りだしてしまう。確かに何の気休めにもなりそうにない。だがそれ以外に何があるというのか。

 自分のペースを乱されているのが不満か。いつもの成り行きになっている現状をどうすることもできず、そのまま無理に言葉を連ね、結果としてこうなっているわけだ。他に何がどうなっているわけでもなく、何をどうしようとしているのでもないか。ならばいつもの通りだ。それでは語る気が失せるか。失せているからこうなっている。ああいえばこういうわけだ。ならば君の魂胆はお見通しか。そういうわけでもなく、誰かの影が何を反論しようと、それはフィクションの中でなされていることだろう。だからこうなっているわけだ。そういえば何かの牢獄の話はあれからどうなったのか。何か逆襲でも受けて怯んでしまったのか。君にわかることではない。それどころか誰もわからず真相は薮の中か。誰かにとってはそうであってほしいのだろう。これ以上は何かを深く追求する気になれないのかもしれず、それを執拗にやってしまったら、本当の終わりになってしまうのかもしれない。しかし終わりになるということは、最終的にどこに至ることになるのか。誰かの命脈が絶たれ、その後はどうなってしまうのだろう。わからないがその辺を追求すべきではないのだろう。ならばやはりやめておくべきなのか。

 外では何かが揺れ動いているようで、若干そよ風が吹いているのかもしれない。エアコンの冷気とどう違うのか。そういえば以前君は外れようとしていた成り行きからは、すでに外れてしまったのだろうか。影が君に尋ねてどうするのか。君は影ではなく、誰かもそうだろう。だからそんな話はまったくでっち上げで、誰が何を画策しているわけではなく、すべては自然の成り行きかもしれない。だから誰がそこで何を仕掛けていようと、それは当然のことであり、罠を仕掛けている誰かもその場の自然に支配されているのだ。だから気を病むこともないか。だが仕掛けられた方は気を病んでいるふりをしなければならず、そうでなければその場の演劇的効果が半減してしまう。そうなったら何か不都合なことでもあるのか。何となくそれではおもしろくないではないか。だがそれは君の知ったことではないようだ。何がどうなろうとそんなことはどうでもいいのではないか。君にとってはそうだ。それは誰かにとってもそうかもしれないが、画面の前に座って何となく言葉を連ねている以上は、連ねている話の内容がおもしろくないと、言葉を記している甲斐がないではないか。ではどういう風になったらおもしろいのだろう。何となく誰かが罠にはまって、焦ってもがいて、物笑いの種になったらいいのだろうか。それもおもしろいだろうが、何か他にやりようがありそうで、それを誰かは模索しているような気がする。


8月25日

 何となくそんな雰囲気を維持しながら、どうもそこから先に文章がない。もうやる気がなくなってしまったようだ。なぜそうなってしまったかはわかっている。これも何かの巡り合わせだろう。君は何となく終わりの気配を感じている。自らはどうなのか。自暴自棄にでもなっているのだろうか。わからないがそういうことらしい。だがそんな嘘をついてもどうなるわけでもない。何を語りたいわけでもないはいつもと変わらない。君はそれをわかっているはずだ。わかっていながらそれを放置し続けて、今の行き詰まりに至っている。だからどうだというわけではないが、やはり何とかして行き詰まりを打開しなければならないのか。しかしなぜそういう成り行きになってしまうのだろうか。誰に聞いてもわけなどわかるわけがない。そんなふうにしか事態は進んでいかないのだろう。前に進んでいるのか後に退いているのかわからないが、とにかくそういうことらしく、君は黙ってそんな光景を眺めているだけなのか。そうだとしてもそれだけのことだろう。それについて何をどう考えればいいのかわからず、その辺で何もできなくなってしまったらしく、そんな成り行きまかせでいいのかどうかもわからないが、とにかくそういうふうにしか事態が進行していかない現状を傍観することしかできない。

 何となく現実の世界から無理矢理引きはがされていってしまう気がして、それが苦痛を伴っているのだろう。そんな妄想を抱きながらも、たぶんそれでいいわけがなく、それを何とかしなければならないのだろうが、どうも解決の糸口がないような気がしている。だが自然を眺めていると心が和むか。たぶんそこからあらぬ方向へと言葉がずれていってしまうのだろう。わざとそうしているに違いない。いつものように何もないからそうなってしまう。そして眠ってしまい、深夜に目が覚める。蛍光灯がやけにまぶしい。またいつものパターンになってしまったようだ。君はそこで何をやっているのか。また馬鹿げたことを思っているのだろうか。そうかもしれないが、そんなことを記すべきではないのだろう。君は忙しいのだ。この先どこまでできるとも思えない。そして何をやろうとしているのかもわからず、誰かは何を語ったらいいのかわからない。そんなことではだめに決まっているだろう。笑ってしまうが、すでに終わっているのだろうか。そうかもしれず、そうではないかもしれないが、それが紛れもない現状なのだ。

 やはり強引にやり続けるべきなのか。それで気が済むならそうするしかないだろうが、たぶん未来はない。そう思っていればいい。では未来がなければ後は死ぬだけか。そうもならないのではないか。空疎な未来が待っている。そして今もそうなのではないか。空疎な現実か。そんな何もない現実の中で誰が生きているのだろう。君が生きているのではないか。たぶん何に影響を受けているのでもなく、何を知ろうとしているのでもない。そんな思いで何ができるというのか。昼は仕事をしているではないか。誰かにとって労働と目的が一致することはない。それによって生きているのに、それが無駄なことのように思えてきて、そんなことに時間を費やしているのが馬鹿げているように感じられる。そして疲れて眠ってしまい、何も考える気にはなれない。そんなことの繰り返しで毎日が過ぎ去ってゆき、生きている気がしない。それが誰かが体験している空疎な現実のすべてになるだろうか。冗談に決まっていると思いたいが、笑うに笑えない事情もあるらしく、君の勘が正しいとするなら、それがそのまま続いていってしまうように思われる。実際にそうだ。たぶん誰かにとってもそういうことでしかないだろう。今の誰かに何ができるわけもなく、ただひたすら仕事に明け暮れ、後は疲れて眠ってしまう毎日が続いてゆくのだろう。


8月24日

 朝早く目が覚めて、何となくそんなことを思う。まだまだ先は長い。当分終わりそうもないようだ。しかし自問自答ばかりでは飽きてくる。疑心暗鬼にもうんざりしてくるが、そう思わせる何かがあることは確実で、そう思わせていること自体が思うつぼなのだろうが、本当にそう思っている誰かがここにいるようで、君は自らがそう思っている事実を認めざるを得ない。たぶん思い込みとはそういうものなのだろう。しかし他にどう思うかは君の勝手だ。そしてその勝手につけこまれて今に至っているわけで、やはりそれこそ思うつぼのようだ。君もそれを望んでいる節があり、あえてそれをやらせているのかも知れず、嫌がらせがどんどんエスカレートするように仕掛けているのかもしれない。たぶんそれが何かの突破口となるのだろう。そこから先はどうなるか予測不可能だろうが、君はそれを許しながらも何らかの結論に至る道筋を模索しなければならない。そしてもう答えが出ているはずなのだ。君はそれをわかっていながらも、あえてやりたい放題やらせようとしている。それが最善の対処方なのであり、それは浅はかな思いつきを超えるやり方となりそうだ。そして君は誰かの悪意によって自然とそこから押し出されてゆき、後は悪意を抱いている当人に過酷な労働が待っている。やりたい放題やればやるほど、そこから抜け出られなくなり、そういうことをやりながら、一生を棒に振ることになってしまう。自らが周囲に不快さを振りまいている労働環境こそが、彼にとっての牢獄なのだ。

 君はそこで何を狙っているのだろう。ありのままの何かを引き出そうとしているだけか。たぶんそれは恐ろしい何かなのだ。やはり君にはその恐ろしい結末がわかっているのかもしれず、そういう結末になることを願っているのかもしれない。心の中で何かが崩壊しているようで、それは信頼関係というやつか。そういうものを構築するにはかなりの年月と忍耐が必要とされるらしいが、何かのきっかけで崩れ去るときは簡単に崩れ去ってしまう。そんな当たり前のことを今さら考えている。たぶん誰かが犠牲にならなければならないのだろう。嫌な思いをしなければならないということか。だからそこから逃れる必要が生じているのだろう。そして誰かがそれを実行に移そうと思っている。それでかまわないのだろうか。何がかまわないのかわからないが、そういうことかもしれない。何となくそう思い、そこからはどうでもよくなってしまい、後は空疎なことをひたすら記せばいいのだろう。それで今回は終わりとしておこう。そう思えば気楽になり、いい加減に語ってしまうが、それでかまわないなら話が早い。もうとっくに限界を超えているのだから、かなり怠惰なことを述べてもかまわないだろう。

 しかし心境の変化とは恐ろしいものだ。何が恐ろしいのかといえば、大した心境の変化でもないのだろうか。別に何がどうなっているのでもなく、そこから何か適当に思うこともないが、そんなことでしかなく、それ以上に何を思うこともないだろう。そしてそこから退散して、現実から逃避しているように振る舞い、それでどうなったのかといえば、いつもと同じ現実に引き戻される。くだらないことを考えていたようだが、まともな結論に至るにはそれも必要な過程なのだろう。しかし何を考えているのかわからない。何も考えていないのではないか。だが誰のことを述べているのだろう。どうやらそこから言葉を記せなくなってしまったらしい。


8月23日

 何となくありふれた話の展開に呆れ、そこから一歩も外へ出られないことを呪うわけでもなく、そういう成り行きに流され、君はどこか他人事のように振る舞い、そんなふうに思うのもおかしいと思うが、他に何を思っているのか。何も思っていないようで、何も記すことがない。だからフィクションを構成しようとするのか。わからないが、それがどうしたこともないだろう。相変わらず無駄に言葉を弄して、そこからさらにわけのわからないことを語ろうとする。だがすでに行き詰まっているのではないか。確かにそうだ。語ることが何もない。ならばそこから何を語るのか。腹をくくって何も語らないか。それではそこで終わりではないか。それではだめなのか。だめならこの調子でいいのではないのか。くだらぬことを延々と述べている。だから述べるようなことではないのではないのか。ならばそこでやめたらいい。やめられないから今があるのではないか。そうに決まっているだろう。だがそれではだめだろう。だめだから悩んでいるのだろうか。いったい他に何を悩むことがあるのか。たぶん悩んでばかりなのだろう。何もできずに悩んでいる。そしてやることが何もないと嘘をついてみる。やっているのは仕事ばかりではないのか。そうだとしたら今こそ仕事をやめなければならないのか。やめたくてもやめられないから今がある。だがそれを再認識してどうするのか。

 たぶん今は夜だ。夜に言葉を記して何を思うのか。ただの夜だ。他に何もやっていない。そしてそれが現実であることを自覚する。それは無駄な自覚だろうか。何を自覚しようと、それは言葉の連なりの中で考えていることであり、実践では何の役にもたちそうにない。そう思うならそんなくだらぬ自問自答などやめたらいい。だがやめられないから今があるのだろう。しかし今とは何なのか。なぜ今があるのだろうか。今がそれほど重要な時なのだろか。今やらなければどこで何をやるのか。言葉を記す時間などありはしない。ならば時間がないから悩んでいるのだろうか。そうかもしれないし、そうではないのかもしれない。言葉を記していること自体が悩みの種なのではないか。そんなことをやっているから、いつまでも悩んでいるのではないか。それがそこでの真実か。いったい何が真実なのだろうか。そう問うこと自体がおかしい。それなら今までに記してきたことのすべてがおかしいのではないか。おかしならそこでやめるか。やめられないから今がある。またそれか。今回はそんなことばかり述べているようだ。果たしてそれでいいのだろうか。よくないから悩んでいるのだろう。もう夜中だし、そろそろやめた方がいい。

 例えば登山家の方便として、そこに山があるから登る、という使い古された台詞があるが、ではそこに空白があるから、その空白を埋めるために言葉を記さなければならないのか。それはくだらぬ屁理屈だろうか。苦し紛れの捏造か。だが今さら何を否定しても無駄だ。もうすでにここまで無駄に言葉を記している。ではもう取り返しがつかないか。やはりだから今があるのではないか。今は取り返しがつかない時だ。過ぎ去るばかりで二度と戻ってこない。そして言葉を記すのが間に合わなくなり、あきらめて眠ってしまう。そうなったらそれが記すべきフィクションとなるのか。嘘に決まっているだろう。だが何が嘘なのかわからない。そこまで考えが回らないのか。何がそこで至らないのだろう。まともなことを述べる雰囲気にないということか。君はそういう成り行きに耐えられるのだろうか。たぶん誰かはその場の成り行きまかせに言葉を記しているはずだ。それがどうかしたのか。それは当たり前のことであり、それ以外にはやりようがないから、そういうふうに語ろうとしているのではないか。だからそれでかまわないのだろう。だがそういうやり方を変える転機が訪れるのを君は待っているはずだ。だからそうなるように試行錯誤を重ね、やり方を模索している。今のところはそのまま言葉を記すしかないようだが、やがて機会が訪れ、何かのきっかけで視界が開けたりするのだろうか。だからそうなることを誰かは期待し、そうなるように祈っているのだろう。今はそう思うしかないらしい。


8月22日

 相変わらずわからない。興味がないのだろうが、数日後の夕立が屋根を叩く音を聞きながら、いつものように何を思うこともないのだろうが、やはりそんな無内容を記している場合ではない。何かそれとは違う内容を記したいのか。君はそれが無理だと思っているのか。本当に何もないなら、いい加減に架空の物語でも記してみたらどうか。しかし誰かは物語の中で何を語るつもりなのか。この期に及んで何もないはずだ。いったい何がどこに及んでいるというのか。語るのが無理なのはわかっている。だが語らざるを得なくなる。理由は知らないことにしておこう。本当はそういう語りではだめなこともわかっているが、だめなりに語らなければならず、そういう状況を踏まえて言葉を記しているわけだが、やはりそれではだめらしい。君はそういう言いわけじみた語りが気に入らないようだ。だからもう少しまともなことを語らなければならない。夜の街角に何かがたむろしている。それはどぶねずみの群れか。そんな光景を誰が目にするだろう。ありえないことか。記された言葉は君を裏切って、何か関係ないことを語りだす。どうやら物語からは程遠く、その気もないのにそんなことを語ろうとしているようだ。ではまたしても失敗なのか。

 何を基準にどのような状態が成功したことになるのだろうか。そういうことではないだけか。ただ何かを記している。それだけではだめなのだろうか。だからそれが違うのではないか。いったいそれの何が違うのか。不意に何かの転機が訪れている。そういうことだ。わからないがそんなことを思っている。そして今は不快な気分なのだろうか。そんなわけではなく、何がそう思わせているのか知りたいところだ。実際は何とも思っていないのではないか。隙をついて勘を働かせて、何かの真実を突き止めた気でいる。この先そこから誰かが追い出されてしまうのか。そんな話を聞いたつもりになり、なぜか気分が晴れ晴れしているようだ。もう嫌になったはずか。そうなればの話を前提として、その先に進んでしまっていいのだろうか。たぶん何を進めているつもりになっているのでもないだろう。いつもながらの無駄な言葉を連ねている最中なのかもしれない。そこで何を思っても、記された言葉はそれとは違っていて、何の思いも反映されず、それが文章として構成されているだけか。しかしなぜ夜に雨が降り続くのだろう。君はそこで何かを見下している。何を卑下しているのでもないが、何となく闘争を勝ち抜いて爽快な気分になったような気になり、挙句の果てに自らの過ちに気づいたりするのだろうか。

 たぶんくだらない人はいつまでもくだらないのだろう。君もそうなのだ。自らにそう言い聞かせている。君はそう思わないのか。誰が愚かなのでもなく、何がくだらないのでもない。語っている内容がそうなのではないか。そう思いたいのか。何も根拠がないが、記された言葉がそれを否定する。だからそう思いたいのだろう。たぶんそうなってしまうのだろう。ならばどこまでも堂々巡りなのか。果てしないことか。何がそうなのでもなく、それを否定したのかもしれない。だがそこからは何も明らかにならない。どこまで語ってもそうなってしまうだけのようだ。そこで何かが外れている。そして嫌になってしまったのだろう。気がつけば雨が止んでいて、屋上は水浸しだ。排水口が詰まったのだろう。君はそれをどうしようとしているのか。何とかしなければならず、何ともできなければそこで終わりか。何が終わってしまうのか。言葉を記す作業が終わるだけのことだ。それは満足すべき結果ではない。まったくどうにもならない何かが依然として残っていて、それを取り除くことができず、焦っているのか。そう思うならそうなのだろう。そうは思わないと思いたいのだろうが、そうはいかないようだ。そんな現状の中で生きているわけだから、いくらそれを否定しても無駄か。だから君はそこで焦っているわけだ。思い通りにならないことを認めつつも、それを変えようとして変えられない現状に失望している。だからもういいのではないか。


8月21日

 なぜか疲れている。まるで意識が肉体から離脱しているみたいだが、別に幽体離脱というのではないようだ。どこかに記された架空の意識が、それについて何を思っているのでもない。しかしそれは余分な文となっている。それについて語る君の見解はありふれている。他に何がありふれたことでもないのだろうが、ありふれたことを思うのはどんな時だろう。仮にありふれているとして、なぜそれがありふれたことなのか。なかなか話が先へ進まないようだが、留守の間に何か変わったことでもあったのか。雰囲気が昨日とは少し違う。何かが違っているのはわかりきったことか。君がそれを指摘する必要はない。誰もそんなことなどわからず、別にそれが重要なことだとも思えず、他に何を思っているわけでもないが、思ったところで何がどうなるわけでもない。架空の旅人が旅路の果てに思うことなど何もないのと同じことか。たとえがよくわからないが、それで意識がどこへ戻ってきたわけでもないだろう。そこから出発したのは何年前だったのか。君にとってそれは架空の旅だったかもしれない。誰がどこを旅していたわけでもなく、今さらどこへ舞い戻ってきたわけでもない。ではそれらの語りは何だったのか。どこで何が語られているのかもわからず、どこかで話の内容を仕切り直さないととりとめがなくなる。ただ漠然と何を思うわけでもなく、そこから意識が逃れることも叶わず、いつもの部屋の中で何をしているわけでもない。語っているのはそういうことだ。誰かにとってそれがどうしたのでもなく、ただ語っていることが支離滅裂か。だから何がどうなったわけでもない。今もそこでそんなことが繰り返されているのだ。そんなガラクタの中に真実が隠されている。いったいそれはどんなガラクタなのか。何の脈絡もなく、唐突にそんな言葉が出現して、さらにおかしなことが述べられているようだ。それを今はどうすべきなのか。たぶん話にまとまるはずがないだろう。

 そんなわけのわからない状況を踏まえて、どうやら決意を固めたらしく、君はそこで何かを何とかするつもりらしい。何かとは何なのか。まずはそれを明かにしなければならない。本気でやるつもりなのか。またどうせ何かの冗談だろう。やる前から冗談で片付けようとする。今はまだ機会が訪れていないのかもしれず、やり損ねて、それを逸しているわけではないと確信しているようだが、本当にそうなのか。目の前を何かが通りすぎてから、何かを思い出すのがだいぶ遅れてしまったようにも思われ、そろそろ取り返しがつかなくなるような予感もしているらしいが、今こそ不可能を可能とするような画期的なことを思いつかなければならないのか。唐突におかしなことを述べているようだが、だが今のところその兆しはなく、実際に語っている内容も以前と変わらない。いつもと同じなら、いつもの通りに空疎な語りを継続してしまうのだろうが、果たして君にそれができるだろうか。できることをやろうとしているのではないようで、依然として何を試されているのでもなさそうだ。別に語り得ないことを語ろうとしているわけでもない。では客観的に考えれば、君はそこで何を語っているのか。何も語っていないわけがない。またそうではないと思いたいだけかも知れず、ならばそこからどうするのだ、と問われれば、それ以外に何をやろうとしているのでもなく、他の何かに気づいているのでもない。無理に言葉を記そうとしているのはいつもの通りで、それがうまくいっていないこともわかっている。

 ならばそこからどう語るのか。今の君に何が語れるというのか。すでに語っているそれでは不服か。君が納得できるような内容をそれらの文章が持ち合わせることは不可能か。たぶんそれでも何かについての説明となっているはずだ。そして文章が君にそれをわからせようとしているのではなく、それ以上は何を述べても無駄であることをわからせようとしている。しかしそんなフィクションがどこにあるのか。だからもういい加減に目覚めたらどうか。それは語るべきことではなく、虚無によって語らせられていることだ。君がそれをわかるまでは執拗に空疎な無内容が記され、どこまでも君とは無関係な言葉が連なって行く。それがそれらの文章の本質なのか。本質であると同時に虚無だ。もはや何をどう語ってもそうなってしまう。君にそれをどう改めさせようとしているのではなく、なす術がないことをわからせたいのかも知れず、あきらめさせたいのだろうが、その意志がなかなか伝わらずに、さらに無駄な言葉を記さなければならなくなり、そんなことばかりが飽きもせず繰り返されている現状があるらしい。だから君は自らの行き詰まりを自覚できず、その先に可能性があると思い込んでしまうわけか。


8月20日

 何を悩んでいるのだろう。いったい誰が何を破滅に導いたのか。それはありえないことだ。だが別にあれらの努力が水泡に帰したわけではない。むしろそのとき酬われなかったからこそ今があるのではないか。君はその結末を知っているはずだ。そうなるべくしてなってしまった何かがあるわけだ。君はそうなってしまったわけを探しているのか。探しても無駄か。探してもそこから何が出てくるわけでもなく、何も見つからないだろう。それはどこを探しているわけでもないからか。そこに見出されているのは何でもない時間であり場所だ。君に何が見えているわけでもなく、何を感知しているわけでもない。だいいちそこには何もないではないか。何もなく何も見出せないのに、何を見ようとしているのか。そう問われても困ってしまうか。何もないと決めつけられても困ってしまう。何も見えなくても何かあるはずか。誰かはその何かについて語ろうとしている。だからそれがありえないことではないのか。話になっていないようだ。君はそれを話として構成することができない。それでは何も語っていないのと同じだろう。しかしそれがどうしたのだろうか。どうなることを狙っているわけではない。ではやはりどうにもなっていない現状があるわけか。たぶんそれだけのことなのだろう。そして君はそれを冗談としてしか受け取れない。

 誰かは真夏に凍えているのだろうか。奇をてらっている。冗談であり得ないことを述べているのか。どうやら暑すぎて頭がいかれてしまったらしい。そう思うならそこから離脱した方がいい。だから離れようとしているのか。現実には何が起こっているのだろう。不快な気分になり、どうにもできないことを理解する。君はそれらの不愉快をどうしようというのか。本当にどうにもできないわけか。どうにかしようとしていないわけだ。そしてそれが嘘であることも承知している。どうにかしようとして失敗したのではないか。それでもなおのことどうにかしようとするわけだ。君はそこでどんな体験をして、何を思ったのか。わけがわからない。ただそれだけだろう。なぜそうなってしまうのか理解できず、途方に暮れるが、一方でそれがありふれた現象であることも承知している。何をどう考えてもおかしいと思うが、そのおかしい現実があるわけで、それを利用して何かをやろうとしている現実もある。だからそうすることがおかしいのか。現実にしようとしていることはそういうことに相違ない。だがそれでもそこでうまく立ち回らなければならず、それをそのまま放置してしまうととんでもないことになり、何とかそこでそうなってしまった原因を特定しないと気が済まないか。まさか君は冗談でそんなことを思っているのか。そんなこととはどんなことなのか。

 それにしても何とかしようとしていることだけは確かなようで、実際に何とかなりつつあり、そんな内容では気に入らないのだろうが、それもひとつの現実として受け止めなければならないようだ。だが受け止めたからといってどうなるわけでもない。気がつけばそんな現状の説明に終始していて、他に何を語っているのでもなく、そんなどうにもならない現状を否定しつつも受け入れていることになっているらしい。それはどういうことなのか。たぶんどういうことでもなく、そういうことでしかないのだろう。そんな言葉がひたすら繰り返され、さらにうんざりしてしまうか。それがいくらおかしいと思ってみても、それを変えることはできないだろう。変えることができないから今がある。そして今があるからこの場所があるわけか。何の気休めにもならず、何を述べているのでもない。空疎なことを述べすぎている。これでは物語に関するいい加減な思い込みに逃げることもできない。ならばもう終わりだろうか。何が終わりなのかわからないが、それが終わるとして、その後には何を語ればいいのか。そういうことではないだろう。何も語らずに何かを語れるわけがないか。それも違うと思う。君はそのとき何かについて語っていたはずで、今はそれを思い出せばいい。思い出したらどうするのか。なぜそれを思い出す必要があるのだろう。だからそういう話ではない。


8月19日

 どうやらあくびが出ているようだが、また何もないらしい。数日後の晴れた空の下で何を思うこともなく、そんなことを以前に記したことがあるような記憶が蘇ってくる。そんなこととはどんなことなのか。要するにそんなことだ。ありふれたことを思い考え、そして記す。だがその中身がなんだかわからない。ありふれたこととはどんなことなのだろう。どんなことでもないとしたら、それはありふれていないことなのか。屁理屈の類かもしれない。それ以前に馬鹿げていることか。たぶんなにがどうあっても何でもないことなのだろう。実際に何もどうにもならず、以前と同じようなことをひたすら記している。いったい君はそこで何を語っているのか。だからそれが同じようなことだ。では何でそうなってしまうのか。どうにもなっていないからか。結果的にはそういうことだ。何もどうにもならず、以前と何も変わっていない。そしてひたすら同じような言葉が循環している。それでかまわないのだろう。君はもう終わりなのか。何を語ってもそうなってしまう。そこから逃れる術はない。だから逃れようとしているのだろう。しかしこの感覚は何なのか。死が間近に迫っているのだろうか。それが己れの死であるわけがない。なぜそう思うのか。君は死なない代わりにすべてを失うだろう。そういうのならありでいいのではないか。

 君は何か勘違いしているようだ。実際にそう思いたいのだろう。そして自らの死を恐れている。誰もが恐れるのではないか。誰もがそう思いたい。しかしそこで何を見ているのだろうか。死ぬ直前に見ている光景ではない。それは君が望んだ光景ではないはずだ。ところで君が君でないことを君は知っているはずだ。だからそういう話ではない。そして大げさな謎を解いているのでもなく、何から外れているのでもない。君はそこで何かが宙ぶらりんとなっているのをわかっているのか。わかっていたらなぜ行動しない。今が行動するタイミングではないからか。では機会はいつ巡ってくるのだろう。いつか巡ってくることを信じているのか。信じつづけて待ちくたびれた末に、このざまか。どんなざまなのだろう。君がそれを知る手だてはないようだ。少なくとも今のところはそうだ。これからどうなるかもわかっていないはずか。たぶんその時が来たらわかるのだろう。君はそれが到来することを願いつつも、間近に迫った死から逃れる算段をつけようとしている。そういう作り話も、語ってみればそれなりのリアリティを感じさせるだろうか。しかし本当のところはどうなのか。何が間違っていて、何が正しいのか。まさかそれをこれから確かめようとしているわけでもあるまい。たぶんそういう努力の果てにわかることは、わからないことはわからないということだ。そして何かが水泡に帰す。

 そこで何かが目を覚まし、誰かに知恵を授けようとする。嘘だろう。何かを狙いすぎか。君はどこか気が抜けているような気がする。そして目が覚めたら翌朝になっていたようで、今日も仕事に明け暮れることになりそうだ。君はそこで何を探していたのか。それは何か兆しだろうか。よくなるとは思えず、このままひたすら生きているだけのような気がするが、何か他に思うところでもあるのだろうか。胃薬を飲んだら胃が痛む。別にそれが不思議だとは思わない。君がどこから外れようと、生身の体に宿っている限り、やがて朽ち果ててしまうだろう。それでかまわないのではないか。他の誰と対話することもなく、黙っているだけではそれだけか。発せられる言葉に乗り移り、誰かの心の中へと移り住もうとしているのかもしれないが、それが叶う兆しは感じられず、ただ文章の中に記されるのみにとどまっている。今のところはそうだろう。君はそういう状態をこれからどうしようとしているのか。そこに何らかの意思表示を読み取ることはできない。何を問いかけても反応せず、どのような返答も期待できず、問いかけること自体が無駄であることも承知しているはずだ。逃れられない束縛の中にいるわけか。そこには何が存在しているのだろう。ありふれた気分が言葉を記そうとしている誰かを騙しているのかも知れず、そこには何もないと見せかけて、他のどこかへ興味を持っていこうとしているのかもしれないが、なかなかうまくいっていない現状がありそうだ。


8月18日

 どうもここから先が進まない。なぜか知らないが、そういうことになってしまい、ろくでもないテレビに邪魔され、言葉を記す機会を失う。いったい君は何に見とれているのか。頭がおかしいのではないか。雑な話に最後まで付き合わされ、貴重な時間を浪費してしまったらしい。このままではおしまいか。そうなったらおもしろいかもしれないが、たぶん何がおしまいというわけでもないのだろう。しかし何を取り乱しているのだろう。何かそれ風の物語の中でなら、君はそこでひざまずき、天に祈りでも捧げるのか。突然宗教がかる理由はないだろう。ではそれもいつもの冗談なのか。そうであってほしいか。嘘偽りを述べる理由も見当たらず、とりあえずは本当のことを語っているらしい。だがフィクションの中で語っている本当のこととは本当に本当のことなのか。本当だと思うには何が必要なのだろう。たぶん何も必要ではない。語っているすべてが嘘だと思っていればいいのではないか。矛盾しているようで、話のつじつまが合っていないが、とりあえずそんな風に考えてみたらいい。もとから答えなどなく、話の論理的整合性なども考えていないようだ。何となくまともに語るのが面倒くさい。まともに語れないのだろう。本当は何が邪魔をしているわけでもないのではないか。そしていつものように何を語っているのでもないらしい。本当にそれはどういうことなのだろうか。

 本当ではないから嘘なのだろう。そして気が抜けて、そのついで何かの幻影に出会ったような気がする。それは何のついでだったのか。嘘がわかったついでに何を語ろうとしているのか。嘘でも何でもない。そしてどこで何を語っているのでもない現状に嫌気がさしているというわけか。なぜそんな風に先回りしてしまうのか。どこに得体の知れぬ人物が潜んでいるわけでもなく、何を恐れているわけでもないはずだ。たとえ話のつじつまが合わなくても何とも思っていない。君は何とも思わなくても現実に言葉が連なっているではないか。だからそれが何の不思議もない現象であることを認めざるを得ず、それらの言葉の連なりが君の思惑からかけ離れた空疎を伴い、君とは無関係に連なっている事実を受け入れるしかないようだ。そして君はその場から立ち去り、どこへともなく姿を消す。それで話は終わりか。そうだとしたら何の問題もない。君はそれ以上の何かを求めているようだ。虚構の登場人物として話に関与したいわけか。ならばそこで何かを語っていればいい。気が向いたらそれを誰かが記してくれるだろう。気が向かなければ忘れ去られるだけか。それが嫌なら何を思い出したらいいのだろう。そういうことではなく、何も思いださなくても、君という言葉が記されている現実があり、要するに君が話の中に登場しているのだ。何も驚くには当たらない。

 屋上の給水塔の傍らに誰かが佇んでいる。そこで何を見かけたのか。外れているのは意識ではない。シャツのボタンが数ヶ所外れているだけか。しかしそれがどうしたのか。足元に落ちている空き缶を蹴飛ばしたところで、何がどうなるわけでもないか。では拾ってくずかごに入れればいい。自動販売機の横に置いてある空き缶入れに入れて、何となくその自販機で缶コーヒーを買う。それでどうしたのだろう。その缶コーヒーを飲んだだけか。別にそれで何が起こるわけでもなく、ただ何となく一息ついたつもりになり、また仕事に取りかかるだけか。それは昼の出来事だったのか。ここ二日間は涼しかったが、また暑くなるらしい。すでに数日後の今日は熱中症になる寸前だったのではないか。汗をかくと腕の皮膚炎がかぶれて悪化する。そんなわけで結局は何でもなくはなさそうだ。状況の変化に対応できず、苦しんでいるようだ。君がそう思いたいのではなく、誰かがそう記しているのだ。君はそれが気に入らないのか。それが誰かの機能なのだから仕方ないのではないか。そうかといって何をどうしたいわけでもないのだろう。そしてもうこんな時間だ。さっきから心臓が痛むのか。何かの幻影を追い求めているうちにここまでやってきたようだ。腕がかゆい。かいたらかさぶたがはがれて血がにじみ出る。そして目の前の画面にはどこかの街中が映し出されていて、世の中には行く当てもなくさまよっている人ばかりが通りを歩いているわけではないことを知らされる。たぶん旅人は少数派なのだ。そこには暇つぶしばかりしていられない人が大勢いるようだ。


8月17日

 取り立てて何を変えたいわけでもないようで、なかなか思うようにはいかない。だが何とも思っていないのだろう。いつもの君には本気になれない理由がありそうだが、今日は何かが違っているというのか。まだ何も語っていないのは毎度のことか。あきらめてはならないらしい。だがエスプレッソは味が濃すぎる。脈絡がないがそれがうまいのだろう。繰り返しそんなことを述べているわけではない。環境を変えたからといって、安易に心境の変化が訪れるわけもなく、それを誰が期待しているわけでもないか。アイスを食べてコーヒーを飲んでウーロン茶を飲む。頭がおかしくなりそうか。そういうことではない。君がこれから語ろうとするのは何でもない。他に何がわかっているのでもなく、何もわからないわけでもないが、一寸先が闇というわけでもないか。意味的に文と文がつながらないだけのことだ。君はそれで何を語っているつもりなのか。少なくとも何を問うているわけではなさそうだが、それでもどこかに近づきつつある。意識が踏み込んでいるのは見知らぬ大地ではなく、見慣れた風景の中に溶け込みながらも、隠された何かを探し出そうとは思わず、そのままの姿勢を維持しようとしているだけか。ありふれたことをありふれたように思い、それ以上は何も期待できない水準で言葉を並べている。

 しかしそこで何ができると思っているのか。言葉を記すことの他に何があるのだろうか。少なくとも大げさな戦いではない。この地上のどこかで戦われている何かとは無関係のことだ。しかし平和とは何なのか。それは意味のない状況であり、空疎そのものか。そう思いたいだけではないのか。何かの幻影が平和を願う。別に誰がそれについて我慢がならないわけでもない。今さら何に耐えているわけではなく、たぶんあきらめているのだろう。他人が思うようなことではなさそうだ。もう少し精神を集中させなければならず、テレビが邪魔なのだろう。君がそこから外れそうになっているのも無理はない。できないことはどこまでもできず、できないままにとどまり、とっちらかった印象しか残さない。言葉と言葉が離れ離れになりながら、文章が読まれることを拒絶し始めるとき、君が冗談で述べているような気にさせるのが、それらの幻影なのか。ただわけがわからず、そんなことばかり述べていることが、それらの状況にどのような影響を及ぼすとも思えず、そう述べてしまうことがどこまでもくだらないように感じられ、そのくだらなさのただ中に誰かの意志が埋もれているとしたら、そこからどんな意図を汲み取ればいいのかわからなくなる。

 蝉が網戸に引っかかってもがいているようだ。皮膚炎がここ数年治らず、昼夜を問わず襲ってくるかゆみと格闘しつつも、そんな大げさな表現とは無縁の現状をどうするべきか迷い、それが誰の独白でもないことを願い、フィクションであることを祈り、そんな過ちをそのまま放置して、そうではないと思い込みながら、今日も眠ってしまうらしい。果たしてそれは何かの気休めなのだろうか。相変わらず何を述べているのかわかりかねるが、何となくそう思うのはおかしいのかもしれない。それでも結果的には言葉が連なっているのだから、案外そういうやり方でいいのかもしれず、今はそれを推し進めるべきなのか。それをやってどうするのだろう。退屈だと思うなら、その退屈を楽しめばよく、そんなことができないならば、今度は苦しめばいい。そんなことを述べている報いがそこに凝縮されているのではないか。それが具体的に何のことやらわからないが、何かの大地はまだまだその先へ続いているはずだ。では君はそれを踏破するつもりなのか。端からそんなことは思わないだろう。ただちょっと進んで一休みして、また気の向くままに歩みつづけ、その時の気まぐれで出発地点に戻ってきたりするが、どんな理由があるわけでもない。それについて詳しく語るのが面倒くさいのか。そう感じるならそういうことでもいいのではないか。別にそれ以外の理由があるとは思えない。


8月16日

 たぶんそれが何のたとえになっているとも言いがたい。今日も無理に何かを語ろうとするが、いくら言葉を並べても、なぜかまったく話にならず、意識のどこかで何かが荒れているように感じられ、その荒廃の度合いは激しく、意味不明の嵐に翻弄され、まともに言葉を繰り出すどころではなく、どこかの岩場に荒波が打ち寄せる合間に、かろうじて意識の修正を試みるが、うまくいかないようで、君は頃合いを見計らって、いったん話すのを中断して、嵐を鎮めにかかる。しかし今日の冗談はいつにも増してわけがわからない。だがそこで何を見定めようとしているわけではなく、何が見出されているわけでもない。それどころかそういう言葉の連なりに、心のどこかで拒否反応が起こっている。そこで何を拒絶しているのかわからないが、誰かにはそれを受け入れることができない。今さらそれをやめるわけにはいかないらしいが、今はそれについてどう思っているのか。その意味がわからず、そうなってしまう理由もわからない。だからそういうことにしておこう。それはどういうことでもなく、実際に言葉が並んでいる通りの意味しかないだろう。

 そして誰かが途方に暮れる。これから何を語ればいいのだろうか。すでに語っているそれではだめなのか。だめではないが気に入らず、できれば違うことを語ってみたい。だが同時にそれが無い物ねだりだということもわかっているはずだ。それに気づいていながらどうすることもできず、結局その気に入らないことを語るしかない。だが気に入らないから語れないか。語れずに眠ってしまい、翌朝に目覚め、語るのをあきらめてしまう。実質的には何も語っていないのではないか。語りようがないのかもしれず、君はそこでやめてしまいそうになる。なぜ語らなければならないのだろうか。君に語る理由などなく、実際に語っていないではないか。では言葉を記しているのは誰なのか。少なくとも君ではない。誰でもないというのは嘘かもしれないが、それでもかまわないと思ってしまい、そこから何かを導きだすのが億劫になる。おかしな言葉の並びだ。何かが違っていて、それがわかっていながらそれを語っているわけか。だからそこで誰が語っているのだろう。君にそれがわかるはずがない。ではそれは何かの堂々巡りのたぐいか。そうかもしれないし、そうでなければ何かが違っているのだろう。

 しかし何かを語るというのはそれほど大変なことなのか。たぶん何かと同じ環境で語ろうとするから、マンネリ気味にしか語れなくなるのだろう。環境を変えなければこれ以上は無理か。君はその手法を忘れていたはずだ。頑なにそこにとどまろうとするからそうなってしまうのであり、そこから離れて別の環境に身を置けば、何か他に思いつくこともあるのではないか。できればそうしたいところだろう。ならばそれをやってみればいいのではないか。それをやらずして何ができるというのか。まさか冗談でそんなことを述べていて、本当は何もやらずにそこにとどまるつもりではないのか。そんな疑念を無理に表明したところで、すでに決意は固まっているはずか。君はそれをどうにかしたいはずで、実際にどうにかしようとしている。そして結局思いついたのはそんなことであり、それを実行に移し、それらの環境から離れようとしているはずか。いったい君はそこから何を学んだのだろう。いつまでも同じ場所にしがみついていると何もできなくなってしまい、何をやろうとしても同じことの繰り返しとなってしまうだろう。だがそれがわかっただけでも、同じ場所にしがみついていた意義があったということか。そう思うならそう思っていてかまわないが、今はそれとは違うことをやろうとしているはずだ。とにかくそこから離脱しなければならない。


8月15日

 どうもいらないものはいらないらしく、誰かはそれを必要としていないようだ。しかし物語とは何だろう。何を物語れば物語になるのか。たぶん何かを物語ればいいのだろうが、面倒くさいのでそれをやる気にはならないようだ。だがそれでは話にならない。ではもっと何か話になるようなことを語れないものか。例えば他人が思いつかないことを思いついたつもりで、それについて語っていることにならないだろうか。しかしそれでは架空の語りとなってしまう。何となく意味がわからないが、誰かはそこから何をやろうとしているのか。結果的には何もやれずに当てが外れ、何となく沈黙を守っているようで、いつものように途中で投げ出して眠ってしまうが、それでも言葉は連なり、文章らしきものが形成されて、それでかまわないことになってしまうらしい。それはまったく馬鹿げているようだが、それ自身について以外は何を物語っているのでもなく、そんなとりとめのない状況の中で、君は何をやれるわけでもなく、何もやらないうちにやる気をなくし、そんな言葉遊び的な意味不明で自足していることに我慢できない。それでも何かを語っていると思いたいのか。誰かは何を思っているのでもなく、どう思いたいのでもないようだ。ただそこで心が外れそうになっている。やる気がないだけのことで、なぜ心がどこから外れるのかわからない。誰かはそんなやり方ではだめだということがわかっているはずだ。実質的にはくだらぬことをやっているだけではないか。やっているのではなく、語っているのではないか。確かに何かを語っているが、まともに語る上での決め手が何もない。どうやら今日もうまくいっていないらしい。

 うまくいかない理由として無難なものは何だろう。たぶん疲れているのであって、怠けているわけではないはずか。そして知らないうちに意識は眠りの中に引きずり込まれ、夢の中でそんなことをやっている場合ではないことを悟らせ、神は誰かに何かをやめさせようとしているのだろうが、何かの力が作用して、深夜に目が覚め、無意識のうちにその続きをやろうとしてしまう。無理なのではないか。そんな疑念を振り払うことはできないが、それを達観するわけにはいけないらしい。今はそれから半日以上が経過して夜になっているようだ。昼間はまた汗だくになりながらも仕事をしていたはずだ。君にはそれが理解できない。いったい何が理解しがたいのか。それ以前に君とは何者なのか。君という言葉だけでは定かでない。まったくどこからどこまでが君で、その他が誰かなのかわからない。君にそれを理解させたいのではなく、誰かが何者でもないことをわからせたいのでもない。ただそんなふうに言葉を記している。

 たぶんそれだけのことなのだろう。それ自体がいらないものだ。いらないことを述べながら、いらない言葉を記している。そしてそういうことをやる度に迷い苦悩しているわけか。そうだとしてもやらないわけにはいかない。どうでもいいことなのにそれを続けようとして、よりいっそう出口のない迷路にはまり込む。本当にそうだとしたら楽しいか。何をどう語ってもわからないことだらけだ。だがそれがどうしたわけでもなく、何かをどうにかしているつもりになり、それで気が済むわけでもないのに、ひたすら続けようとする。気が狂っているのかもしれないが、誰がそうなのかわからず、別に途方に暮れているわけでもないのに、何となくそういうことを記したくなる。それはどういうことでもない。やはりただ誰かがそこで言葉を記しているだけか。出来損ないの虚構とともに誰かがそう語り、その場はそれで済んでしまうような気配だが、いったいそれで何を述べているつもりになれるだろうか。


8月14日

 なぜか一息ついてしまった気でいるらしいが、これからがどう出るかだ。たぶんわからないはずで、まともに語っているわけではない。それがおかしいのだろう。おかしくてたまらないわけではないが、おかしいことは確かなようだ。また不可能なことを考えているのだろうか。しかし何がそうなのか見当がつかない、要するにまた意味不明になっている。何となくそれで何かを語っているような気がするのだが、やはり具体的に何について語っているのかわからず、よくわからないことを述べているのかもしれない。いったいそれで何がどうしたのか。何かの限界でも感じているのだろうか。言葉は記しているが何も語っていない。ただそれだけのことだ。実際には何かを語っているのに、それが限りなく空疎な感じがする。それをどう修正すればまともな内容になるのかがわからない。このままでは内容がまともになるわけがないか。語るのをあきらめてみたらいい。そしてひたすら文字を記せばいいのだ。そうすれば空疎な文章が出来上がるはずか。しかしそれで何がどうなるのだろう。どうにもならなければそれでかまわないのではないか。それでは言葉を記して文章を構成する意味がないが、成り行き的にはそういうことなのだろうから、それを続ければいい。

 現実の世界では何がどうなっているのだろう。語る対象が漠然としている。たぶんそれは漫画ではなく、フィクションの登場人物のように超人的な力を発揮するわけでもなく、魔法が使えるわけでもない。また娯楽超大作のように、ある日突然大げさな事件に巻き込まれて、隠された秘宝を探す冒険の旅に出発するわけではないし、謎解き探偵のように振る舞うわけでもない。それらはすべてメディアによって娯楽として提供されているわけで、実際にやっていることはといえば、毎日地道に仕事に励んでいるだけか。果たして君はそれで生きているといえるだろうか。たぶん生きているのだろう。別にそういうことをやるために生まれてきたわけではないが、成り行き的にそういうことをやっているわけだ。君はそれの何が気に入らないのか。まるで冗談のような世界に暮らしていることがおかしくてたまらないのか。ではそれらの何が冗談なのだろう。それらの何がおかしくて何が狂っているのだろうか。それがわかるにはまだ経験しなければならないことが山ほどあるわけか。そうは思わないはずだ。君はすでにわかっているのに、それを説明できずにいるのだ。

 ならば君はこれから何を説明する気でいるのか。できないことをやろうとしているのではないはずか。それ以前に誰かが何かを説明している。その証拠に言葉が記されていて、それなりに文章が構成されているはずだ。そして君が説明しようとしているのは、やはりそれについての説明か。それについてとは何についてなのか。それとは何か。たぶんそれとはこれであり、これとはそれについて説明している文章そのものだ。つまりそれは何かのごまかしか。君はそこで何をごまかしているのか。ごまかしているとうのものについて説明してほしいか。それはものではなく、言葉のつらなりであり、そこに示されているのは何らかの説明だ。だから君はそれを説明しているのではないか。何かわざと堂々巡りのようなことを述べている。たとえなタマネギの皮を剥いてゆくと、最後には何が残るだろうか。そこにタマネギがあったまな板の上の空間か。まさか誰かはそれと同じことを語っているわけか。まったく同じではなく、同じようなことか。どちらにしても埒が明かないようで、話の要領を得ないことを述べている。本当にそうだろうか。何を真に受けているわけではなく、すべては冗談のように語られているだけかもしれず、本気でそんなことを語るはずがない。では何が嘘なのか。たぶん嘘ではなく、それらはすべて本当のことだ。だから意味不明なのか。


8月13日

 誰かの背景が歪んでいる。それはあり得ない話か。あり得ないというより意味がわからない。今日も誰かの影は言葉の他に何を取り込もうとしているのか。影だから何も取り込めないだろう。そこに何らかの物質が存在しているとは思えない。では影はいつまでたっても架空の地平で言葉と戯れているだけだ。それもないだろう。だから今は一息ついている暇はない。何が壊れかけているようで、誰かはそれを心配しているのかもしれない。ならば崩壊する直前まで努力すべきか。何が崩壊するのかわからないが、それが無駄な努力だと思っても後の祭りだ。とにかく何かを経験する必要がありそうだ。経験とは何だろう。今さらその問いはおかしいが、これから何を経験しようと、それで何とかしていると思い込むのは勘違いもいいところかもしれない。だが今はそれでかまわないと思ってしまう。勘違いしているのなら、それを続ければいい。それは誰の思い通りにもなっていないことの証しとなるだろう。君にとってはそれは予期せぬ事態かもしれないが、今さら何を開き直っているのでもないことは確かだ。ただまともに語るのが面倒くさいのだろう。利いた風なことを語るのがうざったいのか。それもあるようだが、それを思いつかないというのが実態だ。そして精神の集中が長続きせず、すぐに甘ったれて支離滅裂に走り、どうでもいいような意味不明でお茶を濁しているつもりになる。いったいそれの何がかまわないのか。それでもかまわないと思いたい。何もかまわなくてもかまわないが、それでかまわないことになるのかどうかは知らない。

 とにかく先回りして時間を確保する必要がありそうだ。何かの思い違いであろうとなかろうと、そこで何か他のことを思いつくための時間が欲しい。実際にそんな時間があるのかないのか定かでないが、そこで何かを試してみなければ先へ進めない。そしてなぜ立ち止まってしまうのか、そのわけを知りたい。今はそれを確かめなければならない。いったい残された時間はどれくらいあるのだろう。それは時間がなくなった時に気づくことか。本当にそんな時が訪れるのだろうか。たぶんその時になってみればわかることだ。もしわからなかったら気づかなかっただけの話だ。だからその時はそんなことはどうでもいいことになりそうだ。別にそうならないための秘策などない。そうなる必要もなく、ならない必要もない。どちらでもいいのなら、やはりどうでもいいことか。君はさらにくだらないことを述べていたいようだ。果たしてそれでかまわないのだろうか。別にそれでストレスを受けているわけではなく、それよりも別の所から苦難と苦痛がやってくる。誰かはそれに耐えながらも、必死で生きているつもりにはなれない。

 いったいこの世界の何が問題なのか。地上では人が大勢生きている。その人の在り方に何か問題でもあるのだろうか。たぶん何が問題というわけでもないのだろう。君ならそう思うかもしれないが、他の君ならそれらの在り方に何か問題を見出すことができるだろうか。誰かは恐慌の妄想に取り憑かれ、他の誰かは戦争の妄想に取り憑かれている。それの何が問題なのか。問題はそういう単純なことではないのかもしれない。人一倍努力している自分には人より多くの分け前が欲しいか。それも単純なことか。思いつくことはすべて違っているような気がして、何か重要なことを忘れているように思われ、それを思い出せずに苦悩する。それが問題なのだろうか。人には気に入らないことがあるらしい。その気に入らないことを巡って人々は互いに反目し合い、時と場合によっては争い、お互いを相容れない関係となるらしい。だがそれの何が問題なのか。それも問題とは異なることか。ならば誰かが冗談でそんなことを述べているのが問題か。それも違うと思う。


8月12日

 何も語れないのに語ろうとする。語る前からそう決めつけるのもおかしいか。別に復活を期しているわけではなく、何がどうなったら復活したことになるのかわからない。だがそれがないと思うのはどういうことか。いったい何がないのだろう。誰がそこで復活しようとしているのか。途中から何かがずれているようだが、またいきなり話が意味不明になってしまう。後は何かしどろもどろの説明がついてくるような気がするが、それでも何がどうしたわけでもないだろう。誰かはまたテレビを見ていた。それで言葉を記すのが遅れたのか。見ていたのはまたいつもの謎解き映画か。どうせ最後に謎が解けるのだろう。そして誰かがお宝を手にするわけか。そうなるまでの過程がおもしろいのではないか。わくわくドキドキのスリルとサスペンスの娯楽超大作というわけか。君はそれを見てどう思うのだろう。案外何とも思わないかもしれず、その辺がわからない。真実はまだおぼろげにしか見えてこない。そしてだいぶ眠ってしまったらしい。翌朝に目覚め、さらに言葉を記すのが遅れてしまったことに気づく。君は夢の中で何を見ていたのだろう。映画の話はたわいないものだったが、それで満足するはずがなく、そこからフィクションの欠陥とやらを導きだすつもりのようだ。たぶん冗談に決まっているだろうが、いつもくだらぬことにかかりきりだと、それが見えなくなってしまうらしい。しかし本当は何が見えていないのか。

 何も見えていないというのは嘘だとしても、何かが見えていないというのは事実か。何も見ようとしていないわけではなく、都合の良い部分だけを見ているわけでもない。無意識のうちに何かの存在を感じているのに、それがなかなか見えてこない。見ようとしていないのではないか。確かに何か特定の存在を見ようとしているわけではない。ただそれがわからない。わからないのだから見えるわけがないか。ならばそこで言葉が停滞するばかりか。そうだとしてもそこから先へ言葉を記すつもりのようで、誰かは無理に語ろうとしている。たぶんそんな現状の何を馬鹿にしてもくだらぬだけで、別に自らがやろうとしていることを否定する気もないのだろうが、それにしても空疎なことを語るしかないようだ。すでに語っているそれを否定している。否定する気もないのに否定しているわけだ。

 そしてくだらぬことを述べているうちに時が経ち、やる気もなくし、また眠ってしまうのだろうか。それではさらに遅れてしまうだろう。それは予期していたことか。無理に語ろうとすればそうなってしまう。わかりきっていたことを予期しても何の驚きもないか。いったい何を驚かそうとしていたのか。そういうことではないだろう。敵に情報が筒抜けか。それも違うと思う。語ろうとしていたのは何でもないことだ。ならば今までと同じ結果がもたらされ、それ以外の結果がもたらされる可能性は皆無か。君はそこで何を語ろうとしていたのか。何を語ろうとも、それが空疎な内容である必要はない。耳を澄ませば腕時計の中の歯車が回る音が聞こえてくる。唐突にそんな嘘をついてどうするのか。どうにもできないから苦し紛れにそう述べているだけか。思っていることは現状とは何の関係もなく、ただ無駄に言葉が並んでいる現状を変えようとも思わないはずだ。たぶんそれが現状の説明になるのだろう。

 よく見れば誰かがそこに座り込んでいる。疲れて立ち上がることもできないのか。それでもこの国の現状はくだらない。ただそう思いたいだけか。君が何を思いたいわけでもなく、そんな実感も嘘かもしれない。アメリカの弱肉強食的なアニマル資本主義にもかげりが出て久しいが、人々は未だに何を競争しているのだろう。とりあえず目先の利益にありついて、刹那的に一息つかなければならない。物語の中にそんな登場人物が存在する。物事は単純ではないが、わざと支離滅裂を装うのは底が浅い証拠か。少なくともそこに価値判断を適用できず、何が良く何が悪いのか、比較する事物が見当たらず、何について述べているのかはっきりしない状態が続く、だから君は何ももたらせず、どんな見解も示せず、はっきりしたことは何も語れなくなっているようだ。たぶんそれでかまわないわけがない。文章のわかりやすさを目指す以前に、それらのでたらめを一掃すべきか。


8月11日

 さらに遅れて今度は二日前か。どうせ何も語る気にならないのだから、眠ってしまった方がいいのではないか。そこで何かを語ろうとしているようだが、なぜか理由もなく気が散っている。それで話にならないということだろうか。実際に語るあてが何もない。語るあてを求めて、どこを探しても何も見当たらず、また心がどこかへ行ってしまいそうだ。すでにあきらめているのだろうか。本気になれないのはいつものことだが、冗談としても何も述べられず、それでも無理に語ろうとするとこうなってしまう。いったい何がどうなっているのだろうか。そのわけを知りたければ、君自身に問うてみたらいい。そんなふうに架空の問答を差し挟んで、自己言及に終始しているのなら、それもいつものパターンではないのか。気まぐれにそんなことを述べているようだが、その先に言葉が見当たらない。だからそこから先には何も語れないのか。そうだとしたらどうなってしまうのか。そこから先に何かの闇があり、その闇を心の内側へ取り込まないと、微細で微妙な誰かの感情表現を言葉で示せないわけでもあるまい。意味がわからなければ、それはまったくのでたらめか。誰かが気まぐれにわけのわからないことを記しているようだが、そんなことはどうでもいい。とりあえずごまかし的に意味がわからないふりをしているようだ。

 何やら語っていることが意味不明のような雲行きになってきたようだが、そんなことを述べているうちに、結局は何かの出来損ないのような文章となってしまうのだろう。見上げれば天井に蜘蛛の巣が張られていて、小さな虫でも捕らえようとしているのだろう。一方君は現状を言葉で説明できずに苦悩する。いったい何に苦労しているのだろう。そういうことではないような気がするだけか。別に気分が高揚しているわけではない。そうやってわざと言葉をずらしてその場しのぎか。そういうことに言及すべきではないのかもしれず、それが誰かにとって自ら墓穴を掘っていることになるのだろうか。別にそうであってもかまわないだろう。他に語ることがないのだから、自然とそうなってしまうのが当然の成り行きか。気がつけばそんなことの繰り返しとなっているはずだ。だがいつまでもそれではいけないと思う。それはどこにも通用しないごまかしであり、それが何かを語っているという勘違いを生む原因となっている。まったくの自業自得で自分の首を絞め続けていて、自ら可能性の芽を摘み取っていることになり、その後に不可能の荒野が広がっているわけか。

 その荒野の地平から何が見えるだろうか。見渡す限りの幻影だけか。しかし何を語っても子供だましにもならない粗大ゴミと化しているのだから、何がそうなのかわからず、判断を誤っていて、語るタイミングを逸して、ひたすら沈黙するばかりになりそうだ。君にとってはそれが望むところなのか。だが誰かは確実に疲れている。そしてどこまで行っても何もないと思い込むが、本当にそうなのだろうか。ひねくれてしまって、そこに何かがあるのを見ようとしない。今さら何を見ようとしても無駄だろう。なぜあきらめてしまうのだろうか。言葉を記すのをあきらめて、音楽でも聴いていればいいのか。実際にそんな成り行きになろうとしている。根気が続かずに、粘り強く語る気力も失せ、そうなってしまった後から空疎な言葉が連なる。現状がまさにそれか。そして何かに押しつぶされているように思われ、その何かが何なのかわからず、結局はそんなことばかり述べているわけか。そこから立ち直れそうもなく、そうではないとも思えない。あくびをしながら画面を見つめ、どうしようもなくうらぶれたような気持ちになる。本当にそう思っているのだろうか。今は何を否定する気にもなれないか。


8月10日

 また昨日か。そのうち何か適当なことを思いつくと思ったらそうでもない。日暮れてからどれほど時が経っただろう。なぜかそれを忘れていたようだ。きっと何かと忙しすぎたのだろう。それで今はどうなっているのか。また昨日になってしまう。やる気がしないらしい。そして他の何かに見とれているようだ。たぶん今日はそれで終わりだろう。話の進展は望めない。たぶんそれでかまわないはずだ。何もないのだから仕方がない。何も思いつかず、何も語れなくなり、沈黙に押しつぶされそうになるか。何がそんなにおかしいのか。笑う必要はないはずか。無理なら無理でかまわないはずだ。何も語らなければいい。今は何かを語る機会ではない。睡眠の時間だろうか。眠っている時間帯に語るのはおかしいか。そこしか語る時間がないのではないか。では何を語ろうとしているのだろう。君がそれを知る必要はない。何も語れないから言葉を記している。では誰かは何も語らずに何を記しているのか。空疎な内容をしているのかもしれない。そんなふうに語るしかないのだろう。何も語れないと語っているわけだ。そして呆れている。

 たぶん君はそれを認められず、受け入れられないはずだ。別にそれが衝撃の真実でもないのに、なぜそうなってしまうのだろう。何がどうなろうと、それは君とは無関係か。だから無責任になれるのだろうか。誰がそうでもないだろう。そしてそういう語り方はよくないと思い、何とかまともに語ろうと試みるが、相変わらず果たせていないようだ。必ず自己言及的になり、そこから抜け出られなくなる。それでかまわないのだろうか。そんなことを記しているうちに、また明日になってしまいそうだ。そしてそれらの言葉の連なりは無意味な方向へと突き進んでいってしまうだろう。とりあえずどのように言葉を記してみても、そういう内容になってしまう現状を変えられないのだから、それはそれでそのまま続けていればいいのではないか。何の根拠もないが、今はそれでかまわないはずだ。そしてそう述べる理由がわからない。どうせ堕落してしまったのだろう。何を基準に堕落と判断するのかもわからないが、何かから外れていることは間違いなく、それが何だかわからないが、さらに押し進めて、外れたままにしておきたいのかもしれない。それを君は受け入れられるだろうか。ところで今は本当にそんな状況なのか。

 それがどのような状況なのか知らないが、そこで誰かが何かをどこかにねじ曲げようとしているのかもしれない。だからそれは具体的にはどういうことなのか。詭弁を弄しているのは一部のマスメディアだろう。中には屁理屈をこねて、未だに高速道路の無料化を阻止しようとがんばっている人たちも多いはずだ。変なところで小難しいことを述べながらも、結局は難癖をつけることしかできないのだから、それらの根性は決して見習うべきものではないが、その蛇のような執念深さには案外誰もが感動させられるのではないか。冗談だろう。冗談でなければ、いったい君はそれらの何に感動しなければならないのか。現実にはそうはなっていないと思うなら、そういう感動の機会がやってくるのを阻んでいるのは、世論誘導とかいわれる目くらましのなせる業か。仮にそうだとしても、なおのこと感動すべきではないのか。彼らにとっては今まで通りが一番いいのだろうから、それは現状を批判しながら現状維持を図るために、言葉を弄しているわけだ。一見矛盾しているように感じられるが、現状維持とは現状を批判していられる状況を維持することにあるのだから、それは至極道理にかなったやり方になるわけだ。そしてそれは何を意味するわけでもなく、ありのままの現状そのものになるだろう。


8月9日

 一時的な眠気が去り、これから何を思うのか知らないが、どうせ大したことはないだろう。相変わらず世の中の主流から外れ、そんなものがあるとも思えず、言葉を分散させながら、意味不明なことを記そうとしている。たぶん何があり得ないことでもないのだろうが、そこから外れるわけがないと思いつつ、どこから外れようとしているのでもないようだ。外れられないからこんな状況なのか。だから抜け出ることもできずにとどまっている。要するにこの世から外れることができるはずがなく、それがあり得ないことなのだ。だがそんな答えで満足しているわけではない。それが不可能と知りつつも、その不可能を可能とするようなやり方を模索している最中なのかもしれず、たとえそれが無駄な悪あがきだとわかっていても、それをやめるわけにはいかないのか。だがもうその存在を忘れられてしまったらしい。君はそこで何を忘れようとしていたのか。案外何も忘れられずに、未だに夢を追い求め、その夢に向かって必死に努力している最中なのだろうか。だがそんな話ならありふれている。だからもっと何か斬新なことを述べられないものか。そう思うことが何をもたらすかわからないが、今のところはいつも通りのくだらぬ話に終始しているようだ。

 しかしそれらのどこに心境を変えさせる契機があるのだろう。それに何で心変わりする必要があるのかわからない。誰がそれを求めているのでもなく、それは君にしても同様か。では何の必要もないのに変化を求めているのは誰なのか。もう少し素直になれないものか。あり得ない状況を作り出すための努力が何なのかもわからない。そんなわからないことだらけの現状なのに、さらに言葉を記そうとしていることにいかなる正当性があるのだろう。正当性も何もなく、ただ不当に何をやろうとしているわけでもなく、ただ無駄に言葉を費やして、誰かはそれなりの文章を構成しようとしている。たぶんそれが何をもたらすとも思えず、何ももたらし得ないと思われていることが、後になって思いもしなかった結果をもたらす。そんな幻想を抱いているうちは、まだまだ甘い期待を抱いていることの証しとなるだろうか。だがそうだとしてもそれを改めるわけにはいかず、言葉を記すことによって幻想を抱くしか、残された選択肢はないのかもしれない。いったい他に何があるというのか。何もなかったからここまでやってきたのかもしれず、それを今さら変えるわけにはいかないとなると、これからもそのまま延々と言葉を記していくしかないだろう。

 しかし何かがおかしい。そして気に入らないか。さらに何を笑っているのか。以上に述べたことをすべて否定したくなる。それはどういうことなのか。そこから先につじつまが合うように言葉を記すのが煩わしくなっているのだろうか。それに関して何を否定したいのでもないらしい。では他に何を述べたいのか。例えば過去からの時代的な連続性など幻想に過ぎず、後生大事にそれを保持しながら歴史を語る輩は間違っている、と主張するのはおかしいか。では君は歴史上のどこかの時期に特異点やら不連続点でも設定したいのか。まるでとってつけたような唐突さだ。計画的に順序立てて語るのが面倒くさいのか。そういうことではなく、単にそれができないということでしかない。どうも何のたとえにもなっていないのに、なぜか例えばと語りだしてしまい、文章の連続性を損なっているようだ。別にそれがどうしたわけでもないが、何となくおかしくなって、画面の前で笑い出す。たぶん何かの限界を超えているのだろうが、それは誰かの記述能力の限界か。誰かではなく君ではないのか。では果たして君が何を語りだしているのか。そこから先には沈黙しかない。誰もいないのに君はない。そして誰かはそれらの欠陥だらけの文章を記すのをやめる。


8月8日

 今日がいつであってもかまわないか。また何かから外れている。何がどうなっているわけでもないのもいつものことだ。下手なことを考えていて、それが記されることはない。気休めの戯れになるのだろうか。少し声がかすれているようだ。他の誰かが歌っているのだろう。今のところはそれが何を意味するとも思えず、黙って聴いている。まさか歌のどこかで誰かの秘密が明かされるわけでもない。そういう話ではないと思う。それの何が思い違いだとも思えない。何かの機が熟しているわけでもないだろう。だがこのままではじり貧か。何もやらずに退くつもりか。君はどこから退場させられるのだろう。相変わらず何かの物語が始まっているわけではない。何かを考えている間に時が経ち、決断する機会を逃して、そのまま迷路にはまり込み、どこへ進んでも行き先が定まらず、次第に自らが何をやろうとしていたのかわからなくなる。その時の選択が正しかったのか。今となっては取り返しがつかず、過去に戻るわけにもいかず、いつまでたっても決心がつかない状況が続く。中途半端に安定してしまっているわけだ。

 今が何をやる時なのか判断できない。何かを感知しようとすると、その対象が曖昧になり、それについて考えようとすると、何となく的外れに思われてきて、どうも有効な手だてから外れたことをやっているように感じられ、それが何に対して有効なのか思いつかず、今そこで何の話をしているのかわからなくなる。そんなことがあり得るだろうか。何がどうなったら満足のいく結果にたどり着けるのか。もとからどこにたどり着こうとしているわけでもないだろう。ではここで何をやろうとしているのか。それが今必要なことだろうか。必要もなくやっていることが君の心を蝕んでいて、判断を鈍らせ、他の何もできなくしているわけだ。本当にそうだと思うなら、今すぐそれをやめて、それらの停滞から抜け出る必要があるだろう。たぶん今も冗談でそんなことを思っているはずだが、なぜ本気になれないのか。誰かが言葉を記していること自体が虚構なのかもしれず、誰もそこには存在せず、何も思っていない状況で、果たして誰が本気になれるだろうか。たぶんそれも冗談の一部になるだろう。そんなわけでいつまでたっても話に計画性がなく、苦し紛れに冗談を発しているだけで、他には何も見受けられないようなことを記しているわけか。

 ではそこで行き詰まりなのか。そう考えて差し支えないのだろうが、本当にそれでいいのか。よくないから何か他に打開策を探っているのではないか。だがそんな話ではだめかもしれない。今さらながらそこから引き返すわけにはいかず、このまま押し切ってしまいそうな気配だが、何となく今になって雲行きが怪しくなり、つまらぬ欲が出てきて、何か目新しいことを記してみたくなる。もう遅いか。遅ければどうしたらいいのだろう。それを次回に持ち越して、今はくだらぬ成り行きに乗っかって、言葉を記していかなければならず、眠気をこらえながら話の後始末を急ぐ。だからそれが冗談なのだろう。さっきまでは何かを語っていたはずで、その内容がつまらなくても、君は居眠りの最中の誰かをどうすることもできない。黙ってそれを受け入れ、そのどうでもいいような話の成り行きの中に何かが記されるのを見定める必要がある。そして君は退屈にやられて死にそうになるが、そこが辛抱のしどころか。なぜそう思うのか。辛抱しきれないとどうなってしまうのだろう。現状がそれで、何も語っていない状態となり、ひたすら自己のない自己言及的な無内容となる。そう述べてわざと何かを取り繕って、さらなる惰性の産物を形作り、分散して大気に溶け込もうとする意識をつなぎ止める手段を見出せない。どうやらそこが限界のようだ。


8月7日

 焦ったついでに何かの代償を払っている。今も夜だ。いつもと違うはずがない。どこに果てしない物語が記されているわけでもなく、誰が何を語っているわけでもない。ただ君がそこから外れていくだけのことだ。まったく退屈であくびが連発してしまうか。何を思っているわけではなく、それに関して何を考えているわけでもない。たぶん第二次世界大戦において連合国側によるノルマンディー上陸作戦が実行に移されたとき、最前線で上陸を試みている兵士の何割かが戦死することはあらかじめわかっていたことだ。いったん戦闘機に乗って出撃すれば、そのすべてが戦死することが確定していた日本の神風特攻隊ほどでないにせよ、どう考えても死ぬ危険性が高いのに、突撃せざるを得ない兵士の心境とはどのようなものだったのだろう。それと比べれば、現在のアフガニスタンに駐留している欧米の兵士などは、敵は皆殺しにするが、自分たちは全員生存することを前提とした作戦を展開しているわけで、どう考えても殺す側と殺される側が対等の力関係ではない。むろん想定外の出来事として、戦死してしまう兵士も決して少なくはないのだろうが、何となくそれが馬鹿げているような気がするのはなぜなのか。

 映画の中での、主人公が最後まで生き残る予定調和的な殺し合いを見ながら、人々がそれの何に興奮しなければならないのか、そういうところにある答えを探し当てたような気になる。その答えとは何だろうか。それは弱肉強食的な動物的本能のなせる業か。そうだとしてもそこからは少しずれている。人はそこで何と格闘しているのか。たわいない口喧嘩が殺人に発展しようとどうしようと、どこかで妥協点を見出して、そこで踏みとどまれないのが、戦争の悪しき特性なのだろうか。そういう制度なのだから仕方がない。人が人を抹殺する。それもたわいないことの延長上にあるらしい。特定の宗教や思想に依存しすぎると、ためらうことを忘れて行動しがちになる。暴力を何かを達成するための手段として使う時、時としてその達成すべき目標が、平和な世界の実現なのだから本末転倒なのか。今は戦争状態であったとしても、それを耐え忍べばやがて平和な時が訪れる。そんな明るい未来にするために今を犠牲にするわけだ。それもひとつのやり方か。だからそれがどうしたわけでもないだろう。君は平和な地域に暮らし、昼は仕事をしている。そこで日常以外の何が見出されているわけではなく、登場人物たちが殺し合う映画をテレビで見ながら、どんな感想を抱くわけでもない。

 おそらくありふれたロマンチストなら、戦場カメラマンにでもなって、自らが事件の目撃者として何らかの義務を果たしていると思うだろう。実際はわからないが、フィクションの中の戦場カメラマンなら、戦場で本質的な出来事に出くわし、それに触発されて、人として何らかの哲学を持つに至るかもしれない。そして自らが見聞した光景をルポルタージュ的な手法で文章にして、それが世間の脚光を浴びれば、他の人々の共感を得るに至るわけか。しかしそれは誰の夢物語なのか。君がそれを記しているとは思えない。誰かが記しているのかもしれないが、君はそんなことには興味がなく、何を語ればいいのかわからないまま、沈黙と静寂の虜となっているのか。ひたすら黙り、黙して語らないどころか、そこに存在すらしていないのかもしれない。たぶんそれらはすべて空想の産物であり、そこに何が記されているわけではなく、誰が何を語ろうとしているのでもなく、そんな逃げ腰の態度をさらしているのも誰でもない。たぶん誰かにとってはそれも冗談のたぐいなのだろう。まったく本気なれないのはいつもと同じようだ。


8月6日

 君には相変わらずわからないだろう。映画を見れば、またいつもの宝探しゲームの始まりだ。腕時計を巻けば腕がアレルギー反応を起こす。金属とは別の素材が必要だろうか。たぶんそういう話ではない。また音楽を聴いているようだが、それも話が違う。ではいったい何の話がしたいのか。暗闇に何が封印されているわけでもなく、どこから封印状が送られてきたわけでもない。そこからどんな話が始まるというのか。だから君には無理だろう。語ることは不可能か。その器ではないのかもしれない。おそらくその金属アレルギーも死ぬまで治らないだろう。ならばそこからどうすればいいのか。悩んでいるうちにまた明日になってしまうのだろう。結局何も思いつかず、昼は仕事の時間帯だ。それで何を思いつけるというのか。ありもしないことを思い、不可能なことを考えている。それからどうなってしまったのだろう。眠って起きて、今に至るだけか。それはありふれた現状だ。誰かはそんな現状に困惑しているのだろうか。何ももたらせないようだ。そこには言葉の連なりが記されていて、それを読む間もなく記さなければならない。それはどういうことなのか。君はそこで何を見ているのだろう。君自身の幻影がそれなのか。そうだとしたらどうしたのか。

 どうもせずに今があるらしい。ただの時間の経過がある。それだけではないと思いたいが、現実にそれだけか。数日後の雨音を聞いているのだろうか。それがどうしたわけでもないのに、どうにかなっているようだが、それだけのことに感動してしまうわけでもない。そして無駄に言葉を費やす。確かにどうしたわけでもないだろう。何かがねじ曲がっているのか。もはや何もないのに、君は何かに導かれ、そこで何かを語っているつもりになり、それが何かを示している。退屈を持て余しているのだろうか。心に余裕はない。生ぬるい水を飲みながら、君が何に導かれていようと、君の語りは君次第で変化する。しかしそれで何がわかるというのか。何を取り逃がしているわけでもなく、そこから何かを得ているといえるだろうか。そう思いたいならそれでもかまわないか。それで何かをわかったつもりになり、誰かがそこから先に言葉を連ねるだけか。そこで誰が戦っているわけではなく、別に与えられた役目を果たすためにそこにいるわけでもない。他に何も見当たらないからそこで言葉を記しているのだろう。君が語るのはそういうことだ。他に誰が語ろうとしているのでもなく、自らが語っているのを否定しながら語っている。そんなことがあり得るだろうか。

 それの何があり得ないのか。すべての可能性がある。だがそれで何ができるわけでもなく、君はいつまでも傍観者のままだ。それが物語的な立場なのだろうか。そこで何を焦ってみても、何が変わることもなく、どんなに努力してもそのままの立場にとどまるだけか。いったい君はどのような立場を占有したいのか。たぶん何を語ろうとしても無駄なのだろう。誰かはそれで自らの感性を磨いているつもりなのか。わからないがそういうことかもしれない。君がそこから遠ざかろうとする度に、誰かは言葉を記して、何かをうやむやのうちに鎮めようとする。それらの遠ざかりが実際の遠ざかりとは無関係になるような言葉の並びを模索しているわけだ。それはどういうことなのか。君にはわからないことであり、誰にとっても意味不明になってしまうような試みかもしれない。そしてそれがでたらめだと思われても仕方のないような案配になろうとも、それをやめるわけにはいかないらしい。実際に何をやめようとも思っていないようだ。だからそんなことがあり得るだろうか。別にそれで振り出しに戻ったわけではなく、何らかの動作が何かをもたらしているはずで、そのもたらされた何かが、それらの言葉なのか。果たして君はそれを信じられるだろうか。


8月5日

 また夜になったらしい。それだけのことなのだろう。そして忘れている。覚えていないものは何もかも忘れたいが、それは冗談だとしても、何を忘れているのか思い出せない。またくだらないことを考えているのだろう。君の魂胆はわかっているはずだ。頭がどうかしているのだろうか。どこかに負荷がかかりすぎているようだ。それにしてもなぜそんなに急がなければならないのか。もう時間が残されていないということか。ありふれた物語的な話の展開としては、誰かは余命幾ばくもなく、悲壮感を漂わせながらも、毅然と物事に対処しようとしている。またいつもの冗談だろう。なぜ深刻ぶらないのか。何の持ち合わせもないのだから、少しは焦ったらどうか。実際にはそういう話ではないのか。精神の集中が持続せず、まともに語ろうとすると、それはぐらかそうとして、どっちつかずで気が散って、何もやる気がしない。だからそれは冗談だろう。冗談でなければ何だというのか。何も語れなくなって久しいことに気づき、それが冗談ではないことを実感しているわけか。相変わらず同じような言葉の循環に出くわし、さらにやる気をなくているのだろうか。そうだとしても現状は変わらず、ただ無駄に言葉を連ねて何かを語っているつもりになるだけか。

 それがわかったところでどうなるのか。結果から原因を推測して、その原因と結果を模して作り話を構成して何になるのか。そんなテレビドラマを見ながら、君は何を思うだろう。何も思わないから沈黙するしかないのか。それともそうではないと思いたいのだろうか。何の話なのかわからないようだが、何でもないからそれでかまわないのか。そうだとしてもそこから語る必要でも感じているわけか。ますます何のことやらわからなくなり、ドラマで演じられているようなできすぎた話ではなく、メディア上で語られないような、話にならないようなことを語りたいのか。今語っているのがそれか。やはりそれはそうではないと思いたい。たぶん君が語るような話ではないことは確かなようだ。そして現状では何も語れずに、ただ誰かが言葉を記して空疎な文章が構成されているに過ぎず、それ以外に何があるわけでもない。君の語り方とはまるで違って、それは誰の語り方とも異なり、何も語っていないように思われたいのだろうか。実際に何かに関して無駄なことを延々と語っているようだ。このままではいけないのか。誰がそんなことを問うているのだろう。

 そこから何を活用できるというのか。実質的に何を消し去ろうとしているのでもない。ただ他の誰かが勝手に語っているだけか。では何を語っているのか。そう問われれば何も答えようがない。何も語っていなかったのではないか。誰かは音楽を聴いている。それだけのことで何かを済まそうとしているわけか。何も済まないのはわかっているはずだ。済ませられなかったからこうして無駄に言葉を弄して、何かを語っているふりをしているのだ。誰かはそういう偽装から一歩も外へ踏み出せずにいるようで、ひたすらその手前で立ち止まり続け、他には何も語ろうとしない。だからそこで終わっているのか。何が終わっているのだろうか。語るのをやめているはずだ。何かの途中というわけではなく、いっさい語らないようで、何について語ればいいのかも忘れ、黙りこくったまま終わろうとしている。自意識がそれを容認しつつあるらしく、さらに空疎な文章になることに抗わず、もはやなすがまま、虚無に呑み込まれそうになっている。しかしそれが何を表現していることになるのか。心が移ろい行く様ではない。それだけではないと思いたいのか。どう思ってみても何でもないようだ。たぶん必要なことはいくらでも必要なのだろう。必要だからこそそんなことを延々とやっているのだ。いつまでもそれらは続いてゆく。


8月4日

 まだこんな日付か。そこで何を試みているわけではないが、たぶん出だしが唐突で、いつものように不自然な文章となりそうだ。そして誰かがあり得ないことをあり得ないように思う。それはまた何でもないことのたぐいか。このままではさらに遅れてしまう。だからいい加減にあきらめればいいのに、それに逆らって無理に語ろうとする。本当に何かに逆らっているのだろうか。何かとは何なのか。それはいつものパターンだろう。たぶん何かとは何かなのであって、他の何かではないはずだ。では何がわかっていないのか。そこで何かが外れている。気分が外れ、心が外れ、意識が外れている。それはどういう意味なのか。それがわからない。何もわからないまま夜になり、それから誰かは何を思いついたのだろうか。どこかに挟まっていたものが取れたらしく、すっきりした気分となり、その先を思いついたような気がするようで、そこから何かを語ろうとしているが、実際に記されている言葉はごらんの通りか。相変わらずそれが何だかわからない。わからなくてもかまわないのではないか。そこに言葉が記されていれば、それで満足か。その辺に誰かの勘違いがありそうだ。何もそこまで語る必要はない。何も語っていないのにそれはないだろう。

 そして今は何を思い出しているのか。現状はまるででたらめだ。そして疲れて眠ってしまい、翌朝になる。いったい今はいつなのか。たぶん数日後なのだろう。何も語れずに今に至り、何をどうしていいのかわからなくなる。たぶんそんなことを語っている場合ではなく、何かをどうにかしなければいけない状況なのだろうが、一向に何も思いつかず、無駄に時が経ち、そんな言葉が並び、何となく挫折しているような気になる。早朝に蝉がうるさく鳴いている中で、今が夏であることを実感するが、それが心に何をもたらしているわけでもないだろう。何に対しても興味を持てず、その結果として何がどうなったわけでもなく、ひたすら文章を記せなくなるか。実際に記しているそれは何なのか。何かのいいわけであり、無駄で無意味な言葉の連なりか。しかしそんなので許されるのだろうか。誰に何を許してもらうつもりもないのに、それはないか。しかし現状では何がどうなっているのか。なぜそこで語らなければならない義務が生じているのだろう。今の日付から遠ざかっているから、挽回しなければならないのだろうか。しかしそれは語る理由にはあたらない。

 なぜそうしなけばならないのかわからず、そうではないような気がして、ただそれだけのことで語っているのがおかしいように思えて、語る気をなくす。ならばやめればいいのに、それがどうしてやめるわけにはいかないらしい。成り行き的にそうなっているだけだろう。それで何がかまわないのか。何でもないと思いたいのだろう。なぜそう思いたいのか知らないが、今はそんなふうにしか語れない。誰かはそこでそんなことを思うしかない。悪いがそれで済ますことしかできない。何を済まそうとしているのでもなく、それでは済まないから苦悩するわけか。作り話としてはそういうことになる。実際にはどう思っているのだろう。何かの底が抜けている。別にそれが奈落の底だとは思わない。地獄でもなんでもなく、この世界のまっただ中で何を思うこともない。たぶんそういうやり方で外れてしまうのだろう。外れすぎるほど外れ、もう何も修復が不可能なほど、何かから遠ざかっている。それが苦痛と苦悩を伴っているのだろうか。そう思いたければ思えばいい。そう述べて開き直っても何の意味もないだろうが、もとから無益な試みなのだろうから、その辺で我慢すべきなのだろう。他に何も語れないのだから、それを続ける以外に選択肢はなさそうで、実際にそう述べて、それらの文章を記し終えようとしているではないか。


8月3日

 それは本当に昨日のことだろうか。そのとき君は何を見ていたのか。それを忘れるはずがない。だが面倒くさかったので、何も見ていなかったことにして、その場から立ち去ったはずだ。そんな作り話の続きを誰が思いつくのだろうか。実質的には何を語ろうとしているわけではない。たぶん何かつまらぬものに見とれているのだ。そして何かを忘れ、今に至っても何も思い出せない。今日は今日ではないのだろうか。そういう疑問が無駄なのか。話に脈絡がなくなってしまい、いつもの意味不明になる。たぶん君はそれを待っていたのだ。それが君のペースなのだろうか。だから何を語りたいのかよくわからない。たぶん何が君に向けられているわけではなく、誰かの視線が画面に釘付けというわけでもない。また音楽を聴いているのか。そんな感じがしているだけだろう。虚無的に何を感じているわけでもなく、実際にエアコンから吹き出す冷気を感じている。君はいつものようにそこから遠ざかるしかないらしいが、何がそうなのかわからないまま、どこから遠ざかろうとしているのかも不明だ。誰かはなぜそんなことを語ろうとするのだろう。何かの間に合わせで言葉を並べているだけなのか。それは恐ろしい現実になるだろうか。ますます意味不明になるだけだろう。誰の語りにも束縛されない言葉の並びになっているようだ。

 誰かはまた性懲りもなくそんなことを説明しているのか。それしかできないからそうなってしまう。だからそれ以外にはあり得ないだろう。だが自らがやっていることを正当化しても否定しても虚しいだけか。どちらにしてもそういうことの繰り返しとなり、今までに延々と同じようなことを述べてきたはずだ。それだけのことであり、そういうことしか述べようがないからそうなってしまう。そこから言葉を逸脱させ、話を違う方向へと持っていこうとすれば、さらにわけがわからなくなり、そのわけのわからなさが意味不明気味に感じられ、それもいつものこととなっているような気がして、さらに落胆してしまうか。何をそんなに残念に思われるのか。君が語ろうとしていることとは著しくかけ離れているからか。だからそこから遠ざかっているつもりなのであり、今度はそういう言及の仕方がわざとらしく感じられてしまい、それもいつものこととなっているわけだ。そして君が気に入らないと思っているのもそういう成り行きであって、まさにそれは予定調和の仕組まれた話の逸脱となっているわけだ。そしてやはりそれが気に入らないからこそ、さらなる話の逸脱と遠ざかりを試みるが、たぶんそれも違うと思われるのだろう。

 まったくそうであらねばならぬはずがなく、そうであってはならぬ方法へと話が進んでしまい、さらに不快度を増してしまうが、それも予定調和の範囲内でのことか。きっとそうに違いなく、誰かはさらに落胆し続け、もっと違った話の展開を狙い、結果的に何かのどつぼへはまるか、あるいは内容がマンネリの極みと化すのだろうが、一方でそれでかまわないと思い、してやったりとまでは思わないが、それに近い心境となりそうだ。そして眠たくなって寝てしまう。気がつけば蛍光灯がまぶしくて、それも不快の原因となっているわけか。それから半日が経っている。もう夕暮れ時だろうか。昼間は仕事をしていたはずだが、その間の記憶はどこへ行ってしまったのか。たぶんまた何もも思いつかないつもりなのだろうが、それでは話にならず、何を語っているのかもわからない。そして今回はそれでかまわないとも思えない。さっきまでは何かかまわなかったのだろうか。今まで語ってきたそれらは何だったのか。すべてが無内容で空疎で、何でもなくてもかまわなかったはずか。言葉が記されていたそれらのあらゆる瞬間に何が宿っていたとも思えず、そこにすべてがあったとも思えない。


8月2日

 何となく空模様を眺めているようで、雲行きの怪しさに見とれているうちに、誰かは何を思い出すだろうか。別にそこから外れていたわけではない。語っている内容は至って普通に思えるが、そこから何に逆らうつもりなのか。どこかで起こっている嵐が何を呼んでいるとも思えず、そういう心境に至った何が原因でもないだろう。気休めに音楽を聴きながら、特に何を思っているわけでもない。語り得ないことは他にもありそうで、そのこと自体が何をもたらしているとも思えない。とりあえずそういうつもりで、それなりのことを考え、そこから何を導きだそうとしているわけでもなく、他にどんなわけを思いつくとも思えない。世の中がどうにかなっているのは、それがそういうことだからか。どういうことなのだろうか。君は世間の主流から外れた気分で何を考えているのか。たぶんうまく立ち回って、人並みの幸せでもつかみ取らなければならないのだろうが、何となくそういう思いから遠ざかっているようだ。軽く何かをいなして、通常の時間帯に戻り、仕事の合間に言葉を記し、それが何でもないことのように思う。やはり体験している状況は何でもないことのようだ。そこからどう外れてもどうということはなく、そんなやり方で間に合わせてしまい、すべての何かをやり過ごして、そのままの成り行きに心が埋もれてしまう。

 ここ最近は何の使命感もないようで、あやふやな気分でいられるらしく、何かを一区切りつけるためにそうしているわけではないだろうが、無責任でいられる状況のようだ。おそらくだんだんと事の深刻度を増していくのだろうが、今は小休止状態か。相変わらず何について語っているとも思えず、その辺でとりとめのない気持ちに拍車がかかり、さらに心がこの世界から遠ざかろうとしている。そんなはずがないと思いつつも、それを受け入れることができないようで、必死で抵抗を試みているわけでもないのだろうが、困難を乗り越える術を忘れているのかもしれない。その必要がないからそうなってしまうのだろうか。何が必要で、他の何が不必要なわけでもなく、いらないがらくたを捨てる気にもなれず、塵や芥に埋もれ、身動きが取れなくなっているのかもしれず、それはそれで何ら不快でもないのだろうが、このままではいけないと思っていることも確からしく、悪あがきのたぐいをしている最中なのだろうか。今がそうだとも思えないが、それにしてもまだ時間があるはずで、それは悪あがきをしている時間かもしれない。実際にそうだろう。君は悪あがきの無効性と有効性をともに信じているはずだ。だからそこでそうしていられる。いったい何をどうしていられるのか。そこで生きていられると思っているのだろう。そしてそれが勘違いだとも思えない。そのおかげでこうして君がフィクションの中に登場しているつもりになっているではないか。

 それが何かの勘違いなのか。何がそうなのだろう。この世界がそうなのか。この世界で活動していられるのは、誰かが生きている証拠になるだろうか。たぶんそういうことではない。そこで何がどうなっているとしても、君が語っているつもりのそれは、誰かが記している文章の中に示されているわけではない。あくまでもそれは架空の内容であり、未だかつてどこにも示されていないのかもしれない。そして君がこの世から外れ、逸脱している原因もそこにある。それは本当だろうか。俄には信じがたいが、何を根拠にそういう見解が出てくるのだろう。実際に何が出てきたとも思えないが、見解も何もなく、それは紛れもない事実か。そう信じているのならそれでかまわないか。いったい何を信じているつもりになれるのか。それは大したことではなく、大それたことを望んでいるのでもない。では何を望んでいるのか。たぶん誰かが何かを望み、他の誰かが何かを信じているのだろう。言葉を並べているうちにそんなのはどうでもよくなってしまい、何を望んでいようと信じていようと、そのことが何をもたらそうと、それに無関心でいる限り、何でもないことになってしまうだろうか。しかしなぜ無関心なのだろうか。


8月1日

 終わりそうでなかなか終わらないようで、そこからまた続いてしまうらしい。気がつけば言葉が連なり、日付的にも今月に入っている。別に誰の期待に応えようとしているのでもない。何かがずれているのも変わりなく、さらに外れたままどこかにとどまり、それ以上の何をもたらそうとしているのでもないのだろうが、とにかくその状態のまま続けようとしてしまう。とっくに限界を超えているだろうに、それでもかまわないらしい。もう何でもいいのか。それが言葉ならかまわないだろう。そうやって誰かが何を記している。もはや君は客観的で他人の視線を有しているのかもしれない。誰かとは無関係に何を思うこともなく、誰かが記しているつもりのフィクションの中で何を語っているのでもない。何もできないから、こうして沈黙の中でそれらの光景を眺めているのか。何かを語っている感覚がなく、何も主張していないのかもしれず、そこから何をどう考えたらいいのかもわかっていないのだろうか。誰が君を心配しているとも思えない。君は君でそれ以上の何かを眺めていればいいのか。しかしそれ以上とは何以上なのだろうか。やはり語る術を失っているようだ。それが何なのかわからず、その何かをどう表現したらいいのかも知り得ない。たぶんそれは誰が知っていることでもなく、誰が何を知りたいのかもわからない心理状態なのかもしれない。

 それでは君は何を突き止めようとしているのか。この世のどこに謎があるのか。至る所にあり、例えばその手のテレビアニメの中では当初から謎だらけで、探偵気取りの登場人物たちが、放送が終わる時間に向かって、それらの謎をひとつひとつ解いてゆく筋書きになっているはずだ。君が抱えているのはそういうたぐいの謎ではないのか。そうでなければ謎とは何なのか。謎という言葉でしかない。それに取り立てて興味があるわけではなく、誰かが文章を記すとき、何かの便宜上謎という言葉を使う機会が巡ってきているだけで、それを君が黙って眺めている。時にはそういうごまかしの言葉が欠かせないらしい。しかし君はそこで何を考えているのだろうか。何がしかしなのか脈絡がない。心が外れ、意識も定かでなく、何となく眠たくなってきたように思い、そんなわけで誰かは言葉を記すのに疲れたようだ。ここからどこへ行こうとしているのか。たぶん長い時間をかけて構築された制度を短期間のうちに突き崩すのは難しい。崩壊する時はあっけなく崩壊する時もあるだろうが、それは誰もが思いもしなかった時に起こる。それは特定の誰が行動を起こしたからそうなった、とかいう因果関係とは無縁で、崩壊した後から、あれこれ崩壊の原因を探る試みの中で、因果関係の物語として、特定の登場人物たちに脚光があたることはあるものの、それがそこでの真実とは思えない。

 現状の世界各国で問題となっている財政赤字と景気低迷の問題も、そこにどんな物語や筋書きを導入しても、何となくそれが状況に適合していようといまいと、それについてあれこれ解説的な言葉を当てはめてみても、それについて語れば語るほど虚しさが漂ってくる。たぶん根本的に的外れなのではないか。人は絶えずうごめき続け、利益を求めて世界中を右往左往している。そういう行動の行き着く先に何が待ち受けていようと、ありふれた結末に導かれるだけだ。誰もがそれと地続きであり、そんなことをやりながら生まれて生きて死んでゆく。それを俯瞰すると馬鹿げているように思えてくるのだろうが、それは逃れることのできない宿命のようなものだ。それが人としての表現形態なのであり、それに付随している意味も理由もありふれた動機に基づき、それらの何を解明したつもりになっても、それでどうなるわけでもなく、ただの言説が生じているに過ぎず、それらの何を理解できたわけでもない。誰もが語ろうとすることを他の誰が語ろうと、それに決定的な差異が生まれるわけでもなく、みんな他の誰かと同じようなことを語り、同じような結論に行き着き、同じような思いを抱き、それ以外の何かがもたらされたわけでもない。君の沈黙が意味するところも、そういうことのたぐいの中にある。