彼の声8

1998年

9月30日

 一日遅れでやっとこの場所までたどり着きました。

 今回は、日本経済新聞9月27日(日曜日)第21面のベストセラーランキングで、そのもの凄さに思わず大爆笑しちゃったので、それをまず紹介します。

ノンフィクション

1『幸福の革命』大川隆法(幸福の科学出版)

2『松本人志 愛』松本人志(朝日新聞社)

3『20世紀エネルギー革命の時代』舛添要一(中央公論社)

4『新ゴーマニズム宣言 5』小林よしのり(小学館)

5『淳』土師守(新潮社)

6『発掘!あるある大辞典 2』番組スタッフ編(扶桑社)

7『小さいことにくよくよするな!』リチャード・カールソン(サンマーク出版)

8『自分の壁を破る人破れない人』渡部昇一(三笠書房)

9『発掘!あるある大辞典』有野有三編(扶桑社)

10『ああ言えばこう食う』檀ふみ、阿川佐和子(集英社)

【9月14―20日、紀伊国屋書店梅田店】

 はははは.....、大川隆法、松本人志、舛添要一、小林よしのり、渡部昇一、阿川佐和子、ベスト10の大半を占めているこれらの面々は、われらが『噂の真相』が、今までコラムや記事で、事ある度にその愚かさをこれでもかこれでもかと嘲笑し馬鹿にしてきた人たちですよね(笑)。それでも売れているわけですよ(中には組織買いもあるのでしょうが)。やはり“サイレント・マジョリティ”の前ではさしもの『噂の真相』も打つ手なしですか。結局『噂の真相』の影響力も、“カウンター・カルチャー”の範囲内にしか及ばないものなのかもしれないですね。

 しかし諸君!安心したまえ!批評界のドンキホーテ柄谷行人大尊師様が例によって『批評空間II-19』の編集後記で皆の衆を奮い立たせるためにこのような檄を飛ばしておられる!しかと目を見開いて脳みそに新鮮な酸素を送り込んで読むがよい!

編集後記

 資本主義経済は「信用」によって成り立っている。「信仰」はなくなっても、「信用」は現代社会の根底に存する。というより、「根底」が信用なのだ。簡単にいえば、信用とは、売れた(支払った)ことにするということにある。しかし、それは最後に決済されなければならない。小は、クレディットカードの使いすぎで破産する学生から、大は、不良債権をかかえた銀行にいたるまで、事態がたんに信用によって進行していただけだということを思い知る。その最大のものは、世界資本主義の信用体系である国際通貨体制である。

 恐慌(危機)は信用の崩壊である。過剰生産も過少消費も産業連関のズレも恐慌の原因ではない。たんにそれが判明することが、いいかえれば、それを隠していた信用が崩壊することが恐慌なのだ。それはいかなる無神論者・ニーチェ主義者をも狂奔させずにいない。「経済主義」を否定していた者たちが誰よりもうろたえる。「経済」こそ上部構造の最たるものだということを知らされる。

 しかし恐慌を恐れる必要はない。恐慌があろうとあるまいと、資本制経済はその蓄積を持続するためには、資本と労働力の暴力的な再編成をしなければならない。恐慌は、フロイトが見いだしたヒステリーと同様に、それ自体一つの資本主義的「解決」なのだ。恐慌を避けるのは、盲腸炎を手術しないで氷で「散らす」ようなものである。どのみち、外科手術は避けられない。

 現在、判明しつつあるのは、現在の生産力(とりわけ通信の速度)に、旧来の生産関係が対応できないでいるということである。旧来のシステムは中世ギルドのような束縛となっている。金融界や官僚機構だけではなく、出版、新聞、大学―これまでなら、傍観者としてありえた部門にそれが目立っている。ギルドにしがみつく者たちを支援すべき理由はない。くだらぬ本を読む暇があるなら、『資本論』全巻を読め。(八月一五日 柄谷行人)

 「くだらぬ本を読む暇があるなら、『資本論』全巻を読め」だそうです(爆笑)。そんなもん読めるわきゃねーだろが、あんたみたいなイカレじじい以外はな!しかし柄谷行人は相変わらずハイ・テンションですね。そのうちニーチェみたいに発狂しちゃうんじゃないかと他人事ながら心配になってしまいます(笑)。でも、現在の“日本経済の危機”に一番うろたえているのは、これからは物ではなく心の時代だ、とか啓蒙してきた人たちであることは確かですよね。そうです、物が豊かでないと心の時代はやってきません。たとえば、金の蓄積または定期的に金が供給されている状況(職に就いている)がないと信用されないし、信用がないとクレジットカードも作れないし、クレジットカードがないとプロバイダにも加入できないんですよね。プロバイダに加入しないと個人でインターネットにはつながらないし...。クレジットカードのない私の場合は、加入しているプロバイダが当時は銀行の口座振替でもOKでしたのでラッキーでした。また、クレジットカードがないおかげで、Win95のデスクトップのアイコンをクリックしても、何かとトラブルの多いMSNには入らずに済みました(笑)。ま、インターネットでHページを覗いて心を豊かにするためには、まずはモノ(コンピュータ、それを買う金、プロバイダに加入するためのクレジットカードなど)が必要だということですか(たとえになってないか?)。

 と、またいつもの癖でしょーもない逸脱をしてしまいましたが、そうですね、小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』なら簡単に読めるとは思いますが、さすがにマルクスの『資本論』ではそうはいかないでしょう。無理矢理読んでも途中で挫折してしまうような気がします。それはプルーストの『失われた時を求めて』やジョイスの『ユリシーズ』についてもいえるでしょう。と、こんなことを言っていて、近い将来それらを読む機会が巡ってくるようなことになったら恐いですけど、ここではそれについて、『批評空間』II−19の共同討議「カントのアクチュアリティ」(黒崎政男+坂部恵+浅田彰+柄谷行人)から興味深い部分(私にとっては)を紹介しておきましょう。詳しくは買って読んでください。

カントと「歴史の終焉」

柄谷 ちょっと話は違いますが、ある現代音楽の作曲家が書いていたけれども、現代音楽だと、専門的には評価はされても、客が来ない。相変わらずクラシックのほうに客が行く。それで、その人がアイロニカルに言うには、人類の五官は、マルクスが言うように世界史的労作かもしれないけれども、だいたい十九世紀の終わりで完成したのではないか、と(笑)。シェーンベルク以降になると、数学で公理を変えて組み立てるというようなものに近くて、悟性では理解できるけれども、感性がついていかない。それはかなり説得的だと思うんです。先ほどの共通感覚は相対的だと言ったけれども、必ずしもそうだとは思っていない。つまり、西洋音楽は相対的だとか、そんなことじゃないと思う。

黒崎 人類史の中で一九世紀がピークだということですか。

柄谷 というか、大多数の人間の感覚はそれ以上進化しないんじゃないか。

浅田 まず最低限言えることは、人間の感覚に限界があるということですね。

柄谷 生存のためのエコノミーがある。ニーチェが言っているけれど、すべてを感受すると気が狂ってしまうから、見ないとか、忘れるとか、そういうふうにできているんじゃないか。

黒崎 それで、相対性を超えて、普遍的になる、と?

柄谷 いや、普遍的ではありえない。しかし、一九世紀までに形成された共通感覚には、相当な強みがあるだろうということです。

浅田 一九世紀までの西洋音楽は普遍的ではない。けれども、ある種の現代音楽になると、データが複雑すぎるから、耳で聴いただけでは解析できなくて、あとでスコアを分析してやっと理解できるというようなことはありますね。それは他のジャンルについても言える。一九世紀ヨーロッパの交響曲なり小説なりが普遍的だというわけではないけれど......。

黒崎 普遍的ではないけれども、すごく成功したとは思いますね。書物の文化というのもそれとパラレルかもしれない。少数の特権的な書き手と多数の読者という構造が、グーテンベルク・テクノロジー以降のあらゆる分野を規定していた。哲学も含めて、さまざまな文化がうまく機能していたのは、そういうグーテンベルク・テクノロジーのおかげだったのかもしれない。ところが、現在は、少数の巨匠が多数の大衆を啓蒙するという構造そのものがなくなってきている。それを壊してしまったあとに、私も書けます、あなたも書けますというふうな文学であったり、みんなが参加してやる芸術であったり、それはそれでまた新しいテクノロジーが時代をつくっていくのかもしれませんけれどもね。

坂部 さっきカントの物自体が問題になりましたけれど、ラカンのいう「リアルなもの」なんかを見ていると、カントの物自体というのはもう時代遅れだなんていう人はちょっと軽はずみではないかと思いますね。ああいうところに姿を変えて出てきているのではないか。

柄谷 カントはたんにリアルなものを見いだしたのではなくて、リアルなもの、シンボリックなもの、イマジナリーなものという構造をつかんだと思うんです。物自体、現象、超越論的仮象ということですね。だから、そういう言葉を消しても、どうせだれかがまたそういう構造を発見するんです―ラカンがそうしたみたいに。

坂部 だから、音楽について言っても、記号操作の極致みたいなシンボリックな音楽もあるし、ロマン派のファンタジーみたいなイマジナリーな音楽もある、だけどそれと別にリアルな音楽ってあるでしょう。そのカテゴリーというのは捨てられないんじゃないかという気がするんです。

浅田 ぼくは黒崎さんの疑念を共有するんで、まだ相対化が緒についたばかりなのに、あんまり性急に普遍性を復元すべきではないと思うんですよ。けれども、どんなに相対化してもいわば特異点として突出するものが否定しがたくある。それがリアルなものだということにもなるんでしょう。柄谷さんは批評家としてどうしてもそういう存在にこだわらざるを得ないわけですね。

柄谷 ぼくは、文芸評論でも、幾つかの固有名を持った人間だけについて書いていますよ。漱石とか安吾とか。あとは一般性の人という感じで、甚だしく差別している(笑)。

坂部 それで言うと、柄谷さんが小林秀雄にこだわっておられた、そのことといまのこととは関係があるんじゃないでしょうか。

柄谷 ええ、小林秀雄もやっぱり、歴史というのは、時代精神とかじゃなくて、固有名を持った個人の数珠玉のようなつながりに見えるということを言ってます。そういうシンギュラーな個人を取ってしまうと、何もない、芸術一般などというものはない、と。

浅田 ただ、その見方には危険がある......。

柄谷 危険がある。ロマン主義から見てもそうなってしまうから。

浅田 歴史を超えてリアルなものに触れた天才がなぜか時々いる、と。

柄谷 ただし、ぼくにとって、小林秀雄はそういう特異点になっていない。シンギュラーな固有名のリストから除外されている(笑)。

浅田 そこでも、カントがやっているように、すべてを歴史に還元できるわけではない、かといって歴史を超えた特権的な個人がいるわけでもないという、一見不分明な立場を取らざるを得ないと思いますね。

柄谷 しかし、カントというのもそういう固有名ですよ。カントとかマルクスとかいう名前で呼ばざるをえない何かがある。それは「可能性の中心」というようなものです。現実のカントやマルクスがどうだったかということは歴史学の問題で、ぼくの関心事ではない。

 私は大藪春彦の小説なら100冊ぐらい持っているし、夢枕獏は60冊ほどですが、自分にとってこれらの小説は最も読みやすい部類に属します。もちろんそれは、だれもが容易に読めるように至れり尽くせりの技法が施されてあるエンターテイメント小説だから当たり前なんですが、それでも大藪春彦の作品には一般の小説からは著しく逸脱している読みにくい部分があるのです(機械や道具についての異常な説明や描写など)。しかし夢枕獏の場合は引っかかるものは何もなくすらすらとマンガを読むスピードで僅か二時間弱くらいで一冊が読めてしまうほどです(が、自分の読んだ中で一冊だけ読みにくいものもありました、それは第十回日本SF大賞を受賞した『上弦の月を食べる獅子』ですが、これについては、自分は完全な失敗作だと思っています。それは、進化論だとか螺旋だとか宮沢賢治だとかの大袈裟な主題を詰め込みすぎて舞台装置ばかり大きくなってしまい、肝心の登場人物が身動きできなくなってしまって、予定調和の展開のなかで作者のロボットと化しているようで読んでいて苦痛でした。私は毒島獣太のようなハチャメチャなキャラクターが好きなのです)。これはこれで短時間で簡単にカタルシスが得られるし、何も悩むこともなく精神衛生上大変良いのですが、こればかり読んでいるとこれが読書のすべてになってしまい、だんだん、そのようなワンパターンの状況にある種の倦怠感と疑念が湧いてきました。ひょっとしておれって馬鹿なんじゃないのか?という疑念とともに、なんとなくこれまで小馬鹿にしていた難しい書物も無理して読むようになって初めて、自分の文章読解力の無さを痛感させられた次第です。別に難しい本を読めたからって、偉いわけでも幸せになるわけでもないのですが(現実はそれの逆じゃないのか)、世の中のすべてを知りたいという不可能な欲求に突き動かされつつ、可能な限りありとあらゆる種類の書物を読みたいという無謀な衝動に絶えずさらされ、「人間の感覚に限界がある」その限界を超えたものに是非出会ってみたい、そんな妄想をいつの頃からか抱くようになった、そんな感じですかね。そんなものあるわけないのに(笑)。


9月22日

 ここ数週間、スポーツニュースでは、大リーグのホームラン記録更新の話題でもちきりですが、当事者の一人であるマグワイアの記者会見での態度について、何か引っかかるものを感じました。あの、球場で声援を送ってくれたファンや自分を支えてくれた家族はもちろんのこと、相手投手にまで感謝し、ライバルのソーサに対しては最大級の賛辞を贈りほめたたえるという、いわゆる“じぇんとるめん”状態なのですが、何もそこまでしなくてもいいのに、あれほどまでにやると、自分にはすげーわざとらしく見えます。もしかして、自身が筋肉増強剤を使っていることに対して後ろめたいものがあって、それをマスコミが取り上げる隙を与えないためにも、必要以上に“いい人”を演じているんじゃないか、と穿った見方をしてしまいそうになります。そして、“いい人”だとマスコミが好意的に取り上げてくれる、という社会慣習は私は嫌いです(私はヒネクレモノですから)。もちろん、“いい人”を演じることが、自然とホームランを打ちやすい周りの状況を生み出す(敵も味方も観客もマスコミもすべて味方につける)、というマグワイアの戦略である、と更に穿った見方もできますが。

 それで思い出したのが、昔NHK教育テレビでやっていた「海外ドキュメンタリー」です。確か「大リーグ・ヒーロー列伝」とかいう類の番組でしたが、その中で、ベーブ・ルースについて述べた回でしたが、なんとベーブ・ルースはのんだくれの大馬鹿野郎で、試合が終わる度に毎晩のように街の酒場に繰り出して、ファンと朝までドンチャン騒ぎをやっていたようです。そして家族をほとんどかえりみなかったので家庭崩壊を起こしていたりして、そのようなムチャクチャな行為が災いしたのか、引退後はどこかのチームの監督になりたかったようですがひとつも誘いが来ず、死ぬまで毎日来ることもない監督就任要請の電話を待ちながら寂しい余生を送ったらしいです。しかし、そういうしょーがねー奴だからこそ、ベーブ・ルースは全米の野球少年達に夢を与えた愛すべきアメリカン・ヒーローなんだ、と番組は締めくくっていたようですが、時代状況が違うといったらそれまでですが、パブリシティを気にして紋切型の“じぇんとるめん”を強いられているマグワイアとはえらい違いですね。ま、当人達にとってどちらが幸せかといえば、現代の価値観からいえば、プライベートでは人間失格のベーブ・ルースより、よき家庭人・よき社会人・模範的なスポーツマンのマグワイアなんでしょうか(笑)。

 また、その番組ではベーブ・ルース以外にもいろいろ興味深い逸話がありました。ちょっと記憶があやふやですが、たとえば、最多安打記録を作ったタイ・カップはすさまじいまでの人種偏見があって、相手チームに黒人選手がいただけで怒り大爆発状態になって、ニガーとは絶対にプレーしない、と試合をボイコットしたそうです(タイ・カップは相当な嫌われ者だったみたいで、さしずめ今でいえば、「ゴーマニズム宣言」の小林よしのりの性格が乗り移ったイチローとでもいうんですか)。そしてその記録を破ったピート・ローズは監督時代に野球賭博で米球界を永久追放になったんですよね。何やら、どこからか、純真な野球少年の夢を壊すなぁ!と紋切型の叫びが聞こえてきそうですが、どうも私は、常に型破りなことが要求されるスポーツマンに一般人の常識や価値観を押しつける気にはなれませんね(これもひとつの紋切型)。ヒネクレモノの私としは、ソウル五輪で全盛時のカール・ルイスを、クスリの力を利用してぶっちぎりで破ったベン・ジョンソンには最大級の賛辞を贈りたいし(あの時の、競技中に負けを悟ったカール・ルイスの絶望に打ち沈んだ表情を浮かべた瞬間は、今でも脳裏に鮮明に焼き付いています)、同じく、ワールドカップ・アメリカ大会でクスリの力できっちりゴールを決めたマラドーナの常識はずれの執念も賞賛したいですね。これと同じ論理からすれば、筋肉増強剤の使用を堂々と宣言して年間最多ホームラン記録を打ち立てようとしているマグワイアもほめたたえなくてはならないんですが(笑)。さらに横道に逸れれば、わけのわからない洗脳にはまりつつも横綱の大役を果たしている貴乃花も立派なんじゃないですか(爆笑)。

 スポーツ談義はこれくらいにして、北朝鮮問題で、トラの威を借るキツネよろしく、外交努力でアメリカとの同盟関係の強化を図ったつもりの日本政府は、それの見返りとして荒唐無稽なミサイル迎撃計画に多額の資金供出を約束させられて、本当に何やってんですかね。なんだか悲惨(滑稽)ですね。その、日本が勝手に同盟国だと思っているアメリカは、仮に世界大恐慌にでもなれば真っ先に、日本のせいだ、と主張してすべての責任を日本にひっかぶせるのは目に見えているのにね(笑)。それ以外に、そういう政治問題に関しては今回は取りたてて何も述べる気にはならないので(長銀問題で与野党合意の約束が違うの何だのと勝手にもめていてください)、ここでは一言、傍観者の振りをしながら安直に「総じて民主主義の夢というやつは、行き着くところ、プロレタリアを引っぱりあげてブルジョアの愚劣さを獲得させようということでしかない」(フロベール)と叫んで、何か気のきいたことを言った気になりましょう(笑)。

 話は変わって、先週のドナルド・フェイゲンのソロ・アルバム『ナイトフライ』に続いて、今週はスティーリー・ダンのデビュー・アルバム『キャント・バイ・ア・スリル』(CAN'T BUY A THRILL)を買いました。まったく、近頃この手の耳当りのいいポップなサウンドにはまっています。完全に現実逃避の世界ですね。でも、そう感じるのは私が英語を聞き取れないことによるようなのです。仮に、私のように英語の分からない人間が日本語の歌詞対訳の付いていない輸入盤を買ったとしたら、ポップなサウンドに乗せてシリアスなことを歌っている事実に気づかずに、永久に誤解が解けないままなんでしょうね。それを考えたら、どうでもいいようなくだらない歌詞であったとしても、少々ニュアンスが違っていようと、日本語の対訳の存在は大変ありがたいです。で、ここではアルバムの中から前から好きだった「オンリー・ア・フール」を紹介しておきます、興味のある方は是非買ってください。『ナイトフライ』よりはラフな感じですが、このアルバムも名曲ぞろいです。

オンリー・ア・フール

世界がサラダと太陽から成っているなんて
誰がそんな事を言ったんだ
夢を持った少年
白いステットソン帽をかぶった
気取らない男
銃を投げ捨てるんだ
ここには銃口を向ける相手はいない
それでも銃をふりかざすなら
嘘をついた証拠になるのさ


誰もが自由な世界が
どこかにあるなんて言ったのは
おまえだったのか
そんな筈はない
一体誰がそんな事を言ったんだ

通りでは男が
重い足取りを進めていく
悪いニュースなど聞きたくはない
自分の顔を思い浮かべるんだ
彼の仕事場で
彼の茶色い靴をはき
9時から5時まで働く自分を
やっとの思いで家にたどり着けば
夢見る男の姿が映っているだけ

(*くり返し)

通りにいる誰もが
殺気を帯びた目をしている
何の痛みも感じないだろう
まだ若いから
理解出来ないのさ

(*くり返し)

Songs written by D.Fagan and W.Becker

〔対訳:加納一美〕

 しかしこの『キャント・バイ・ア・スリル』が1972年のリリースで、『ナイトフライ』が1982年のリリースですか…。フロベールが生まれたのが1821年で、死んだのが1880年…。私が生まれたのが1963年…。この百数十年のあいだに人類にとって何か重大な出来事のひとつやふたつありましたかね。もはや健忘症にでもなるしかありませんか(笑)。


9月16日

 中田君セリエAデビュー戦でいきなり2得点ですか(笑)。やってくれますね、移籍金未払い問題のときは、中田君の大ボケ体質が周りの関係者にまで伝染したのかと気をもませましたが、とりあえず滑り出し好調で良かったね。さっそくスポーツ紙なんか、まだ一試合しかやっていないのに、それにチームは負けたのに、いきなり、世界のナカタ、名門ユベントスに移籍か!?などと大騒ぎですが、なんだかこれから先が思いやられますね…。まあ中田君にとってはこれからが正念場なのでしょうけど…。開幕戦2得点の活躍が後の試合に持続しなければその存在はすぐに忘れ去られるだけだろうし、その後も大活躍して騒がれれば騒がれるほど相手のマークはきつくなるだろうし、ともかくMFとして弱小チームのペルージャを勝利に導かなければ、来シーズンは2部リーグ(セリエB)でプレーしなければならなくなるかもしれないですからね。なんだか現実はきびしいですね。でもまあそのような激しい競争とは無縁の、ぬるま湯にどっぷりつかって身動きできない無気力無感動の自分としては、中田君にはせいぜい世界最高峰とやらのプロリーグで、その持ち前の天然ボケで敵も味方も観客もマスコミも大爆笑の渦に巻き込んで欲しいですね(おいおいおい、なんか勘違いしていないか)。

 話は変わって、レコード屋の割引券がだいぶ溜まっていたので、先日、前々から欲しかったドナルド・フェイゲン(スティーリー・ダン)のソロアルバム『ナイトフライ』を買いました。う〜ん、いいですねえ。特に1曲目の「I.G.Y.」を聴いているとThinkPad(IBM)が欲しくなりますよ(笑)。で、以前「I.G.Y.」とは何のことだろう、と疑問を感じたことがあったんですが、なんと驚いたことに「I.G.Y.」とは International Geophysical Year の略、日本語に訳すと国際地球観測年(CD付属の解説によると「地球全面の国際協同観測の期間で、1957年7月1日から1958年12月31日までの18ヶ月間だった」そうです。)のことだったんです。ということは、あのThinkPadのCMのBGMとして流れていたクールなイントロの曲は「国際地球観測年」という曲だった、ということになります。なんだか不思議な感覚ですね。

 で、せっかく興味深い事実(私にとっては)が判明したので、このCD(またはLP)を持っていない人にためにもその歌詞を日本語訳で勝手に紹介しておきます。

I.G.Y.

星条旗はためく下
私たちは苦難をものともせず立ち
はっきり宣言する
夢は現実となる
もう認めるしかない
遂に全貌が明らかになり始めた
海底を突き進む
グラファイトきらめく列車に乗れば
未来は薔薇色に輝く
ニューヨークからパリまでたったの90分
'76年にはすべては言うことなし

素晴らしい世界がやって来る
解き放たれる栄光の時代

時間があるうちに
宇宙を走る車のチケットを手に入れるんだ
位置は定まった
大空で繰り広げられる
偶然によって勝敗が決まるゲームの
目撃者になるんだ
私たちは勝つしかない
そうすれば太陽の光の恵みを受けて
私たちは街の中で遊びまわることができる
完璧な天候が保証された最新式世界
ありとあらゆる人種にスパンデックス・ジャケットが支給されるはずだ

素晴らしい世界がやって来る
自由になれる輝かしき時代

海底を突き進む
グラファイトきらめく列車に乗れば
ニューヨークからパリまで僅か90分
(全世界のアーティストたちは時間に追われることもなくなる)
情と展望をあわせ持った人間達がプログラムする
ただの機械が偉大な決定を下す
計画が完了すれば
私たちはみんな純粋そのもの
とこしえに自由で
決して年老いることもない

素晴らしい世界がやって来る
自由になれる輝かしい時代

ノート:
 このアルバムに収められている作品は、'50年代後半から'60年代初めにかけて、アメリカ北東部にある街の郊外で育った若者が、抱いていたはずのある種のファンタジーをテーマにしたものだ。すなわちそれは、私のようにごくありふれた体つきの若者が主人公ということだ。
― D.F.(歌詞4ページ上より) ―

歌詞対訳:中川・M・五郎

 この歌詞の内容といえば、日本でいえば「鉄腕アトム」世代の中高年が少年時代に思い描いたようなSF的な薔薇色の未来が歌われているわけですが、歌の中でフェイゲンはそのような「素晴らしい世界」「解き放たれる栄光の時代」「自由になれる輝かしき時代」の到来を宣言しつつも、一方では「情と展望をあわせ持った人間達がプログラムするただの機械が偉大な決定を下す計画が完了すれば…」(よくこの手のSFドラマ等に登場する社会全体を管理する中央コンピュータで“ビッグ・マザー”とか呼ばれるもの)と、およそ自由や栄光からはかけ離れたネガティヴな側面をスパイスとして加えることで、曲だけではなく歌詞についてもその独特なクールさを追求しています。まったく、参加ミュージシャンに一流のセッション・マンを多数呼んで多大な手間暇と金をかけて最高の素材で最高の作品を作るという、“ポップ・ミュージック界の海原雄山か北大路魯山人”ならではのこだわりが感じられる曲ですね。こういう一味違う奴のことをネガティヴな表現で形容すると、ま、“キザな若年寄”とでも呼びますかね(笑)。

 それで、またまた話は変わりますが、今月号(十月号)の『噂の真相』を読んだ限り、『噂の真相』誌上では完全に本多勝一は破滅してしまいましたね。私が読んだ限りにおいてはきわめて妥当な内容に思えるその記事(本多勝一への最終決別宣言!)を読んでいるとき、私は、昔読んで感銘を受けた『日本人とユダヤ人』(イザヤ・ベンダサン著 角川文庫)、『にせユダヤ人と日本人』(浅見定雄著 朝日文庫)、『殺す側の論理』(本多勝一著 朝日文庫)の“三部作”を思い出してしまいました。そこでは、当時の「日本人論」としては超ベストセラーであった『日本人とユダヤ人』の内容とその著者であるイザヤ・ベンダサンこと山本七平氏のインチキぶりを、浅見定雄と本多勝一がそれぞれの書で徹底的に暴いてみせたわけですが、月日は流れ、よもやその本多勝一が当時の山本七平と同じ立場になってしまうとは…。それも南京大虐殺やユダヤ人に対するホロコーストの有無という、いわゆる本多お得意の大袈裟な問題ではなく、自分とその同僚達が仲間のダンナのコネで、格安料金で、高級リゾートホテルで格別の手厚いもてなしとスキーツアーを楽しんだ、という事実を必死になって隠そうとしたために、却って騒ぎを大きくして隠しきれずに自ら墓穴を掘ってしまったという、超間抜けな、ほとんど喜劇的な展開で破滅してしまうとはね。自分自身、昔『噂の真相』の投書欄「読者の場」での『週間金曜日』騒ぎのとき、冗談半分に「本多氏がどのようにして敗れ去るのかに興味があります」と書いた記憶がありますが、まさかこのようなかたちで敗れ去るとは夢にも思いませんでした。まったく、本多氏には、そんな取るに足りないちっぽけな自分ではなく、今まで書いてきた自分の作品を守って欲しいと思います、などと紋切型の一つも言いたくなりますね。良くも悪くも「南京大虐殺」を世に知らしめたのは彼の著作なのでしょう。

 しかし『噂の真相』誌上でこれほどまでに完膚なきまでの敗北を喫したのに、まだ本多は自らの負けを認めずにギャーギャーわめいて執筆活動を続けるつもりなのでしょうか。もしそうだとするとますますあの山本七平に似てきてしまいますよ。彼は浅見や本多によってインチキを見破られた後も平然と執筆活動を続けたし、当然、彼に執筆の場を提供する出版社もあったし、著書もそれなりに売れていたようです。仮に本多が今後も執筆活動を続けるようなことがあれば、やはり今は亡き山本と同じようにもの書き商売が続けられてしまうような気がします。でもそうなるとなんだかやりきれない気持ちになりますね。あの騒ぎはいったい何だったんだ、ということになってしまいます。で、ここで何を言っても無駄なのでしょうが、ここではとりあえず、去年の『噂の真相』6月号の「読者の場」での投稿の繰り返しになってしまうのですが、『来るべき書物』からブランショのこの言葉を紹介しておきましょう。

 ブロッホは、純粋な合理のうちにも不純なる非合理のうちにも、同じようにさまざまな危険を見てとっている。これらはいずれも様式を持たない。一方では自然が、他方では数学が、われわれを、無限性の空虚な要請にさらしている。たしかに、すべての価値体系は、非合理的な要素を遠ざけ、そうした要素の「悪意性」の地上的存在を、より高い合理的な意味へ導こうとしている。「事物にも行動にも本能的に適切な位置を課することがわれわれに可能となる」ようなあの意味の総体の方へ導こうとしている。非合理的で何の価値も持たぬものを或る合理的な絶対へ変形させること、これが課題なのだが、この課題は必然的に挫折する。それは次の二つの理由からである。つまり、人々が非合理と呼んでいるものは、つねに近付きえぬものであって、人はただそれに接近することが出来るだけだ。そのまわりに、次から次へとせまい輪を描くことは出来るし、さまざまな計算でそれを積分することは出来るが、それは結局のところつねにわれわれをのがれ去るのであり、われわれは、おのれの行動方法のなかに浸透している無意味さについては、決して何ひとつ知らぬと言いうるほどだ。「人間は、『下方からの侵入』にさらされていながら、それについて何ひとつ知らない、そして彼がこのように何も知らないのは、彼が、一歩ごとに、また瞬間瞬間に、何らかの価値体系のなかにいるからであって、その体系は、地上と結ばれたわれわれの生を支えているいっさいの非合理を覆い隠し抑えつけること以外に、何の目的も持ってはいないのである」。かくして、まさしく光りこそわれわれが見ることをさまたげるものであり、意味づける能力こそ、意味の背後に身をかくしかかる隠閉を通して活動するものの、それと気付かぬ活動へわれわれを委ねるのだ。

 だが、さらに重大なことがある。すなわち問いの抑ええぬ力によって動かされた、演繹的な、あるいは弁証法的な理性は、絶対を目ざすのである。合理的なものは、超合理的なものになろうとする。論理的運動は、停止にも均衡にも耐えられず、もはや形態も許さない。いっさいの内容を分解させ、何か夢のような抽象の冷ややかな支配を構成する。なぜなら、純粋な理性は、自律的なものになると、非合理的なものよりはるかに「悪意的」だからである。それは、それ自身が持つ分解作用を導入し、すべては、もはや価値の中心もないような抽象的な霧の中に散り散りとなる。そして各個人は、不寛容な慣習の空虚なたわむれに委ねられ、理性の幻のあいだをさまよい動くのだが、なおもそれらの幻を、おのれ以上の確かなものと見なし続けている。その場合、彼は、形而上学的には締め出され、物質的には所有権を奪われた虚無に属する人間であり、おのれの夢のなかをさまよい、さらに夢からも追い立てられて、目覚めることも出来ず、眠ることも出来ぬ夜の不安のなかに投げこまれた夢遊の人なのである。(『来るべき書物』 III 未来なき芸術について 2ブロッホ i『夢遊の人々』・論理的目まい 「脈絡のない断片化した人間」より)

 本多が日頃から主張していることとは、その出来事に関わったと思われる人々のなかから、取材可能なすべての人々から証言を取ってきて、それらをより信憑性のある証言とそうでないものとに、物的証拠や文献などの資料と照らし合わせながら選り分けて、総合的に判断して最もつじつまの合う「事実」を導き出す、それが「真実」に最も近い「事実」になる、ということでしょう。ところが、『Views』の記事において取材・執筆した岩瀬達也は、取材可能な当事者である自分たちにまるで何ひとつ取材していない、したがって、取材可能なすべての人々から証言を取ってくる、という記事を書く上での基本中の基本を怠っているのだから、それは捏造記事である。私には本多はそのように主張しているように思えます。しかし、確かに本多の方法論にはそれなりの合理性があるのでしょうが、はたして「真実」とは合理的なものなのか?計算可能なものなのか?それは「つねに近付きえぬものであって、人はただそれに接近することが出来るだけ」でしかなく、本多が今までにやってきたことといえば、結局のところ「そのまわりに、次から次へとせまい輪を描くこと」や「さまざまな計算でそれを積分すること」でしかないのではないか。もちろんそのような方法で「南京大虐殺」の「事実」により信憑性が増して、本多のかつて書いた記事がより「真実」に近いものになったのでしょう。しかし、その方法だけが絶対に正しい方法だとはいえないでしょう。ましてや、そのような方法を取らなかったものはすべて捏造記事である、とは言えないはずです。

 現に今月号の記事でも、本多たちを接待したとされるリクルート側の証言しか取っていないにもかかわらず、その証言を読む限り、本多たちがリクルートに接待されていた「事実」の信憑性は「南京大虐殺」の信憑性と何ら異なるものではありません。状況的にいって、その程度のことでリクルートの関係者が本多たちに不利になるようにあえて嘘をつく必要がないからです。まさか“敵の敵は味方”の論理で、『噂の真相』とリクルートがグルになって本多たちをはめようとしている、などと被害妄想を叫んだりするつもりなのでしょうか。それこそ非合理的な論理です。つまり、今の本多は、自分の今までやってきた“合理的な取材方法”という「価値体系の中にいる」ことが、自分とは異なる方法を取るものはすべて認めない、という「非合理性を蔽いかくし抑えつけ」ている「事実」を知りえないのです。まさにそれは、「おのれの行動方法のなかに浸透している無意味さについては、決して何ひとつ知らぬと言いうるほど」なのです。私には、今の本多は、先に紹介した後の段落で述べられているような「夢遊の人」になってしまったとしか思えません。しかしまあ、それは、没落する、という至上の能力が彼には未だに備わっていることを示している確かな証拠であり、それはそれで大変喜ばしいことではあるのですが(意味不明)。


9月8日

 前々回、フローベール(一般には「フロベール」と書くようです)について述べましたが、蓮實重彦の『物語批判序説』(中央公論社)には、現代フランスの女性流行作家であるダニエル・サルナーヴという人の『フローベールをめぐる現代批評の当世風思想と紋切型の小辞典』から次のような項目が紹介されています。
辞典(紋切型の) あらゆる作品を限界づける地平?この辞典にはいらいらさせられると白状すること、しかし何か評論でも書く時にはこの辞典をだしに使うこと。
 ところで、この「彼の声」を読んでいる皆さんは、どんな心境でこれらの数々のひねくれた文章を読んでいるのでしょうかねえ。やはりいらいらしながら読んでいらっしゃるのですか?メールで、いらいらさせられる、と白状でもしますか(笑)?中には、何か文章でも書く時にはこの「彼の声」をだしに使ったりしている人もいらっしゃるのでしょうか(爆笑)。

 で、先週古本屋で『フロベールの鸚鵡』(ジュリアン・バーンズ著 斎藤昌三訳 白水社)という本を見つけたのですが、その中の「12 ブレイスウェイトの『紋切型事典』」という章に次のような項目があります。

 → Flaubert,Gustave(フロベール、ギュスターヴ) クロワッセの隠者。現代小説の創始者。リアリズムの父。ロマン主義の虐殺者。バルザックからジョイスへ、そのあいだをつなぐ舟橋の役を為す。プルーストの先駆け。自分の住みかにたてこもった熊。ブルジョワ嫌いのブルジョワ。エジプトに行ったときには「髭の旦那」と呼ばれた。聖ポリュカルポス、クリュッシャール、カラフォン、「司教総代理」、隊長、老殿様、サロンの道化者。以上すべての呼称を冠せられたことのある人物、彼は偉そうないっさいの肩書きに無関心だった。曰く「名誉は不名誉、肩書きは品格を落とし、役職は愚者をつくる」。
 これはかなりいい線いってるとは思うのですが、「現代小説の創始者」、「リアリズムの父」、「彼は偉そうないっさいの肩書きに無関心だった。曰く「名誉は不名誉、肩書きは品格を落とし、役職は愚者をつくる」」というフローベールに対しての肯定的な表現自体、典型的な紋切型ではあるのですが、それに妙に納得してしまい、その部分だけを抽出してフローベールを偉大な作家として祭り上げてしまう危険性があり、それはそれで紋切型の典型的な症例ではあるのですが、それでは『紋切型辞典』のもうひとつの側面である「霰弾のような痛烈な効果を発揮すること」ができなくなってしまうのではないかと思うわけです。まあ辞典の編纂者の好みやそれを読む人の教養のレベルの問題かもしれませんが、ここではそのような肯定的な表現を削って、次のように修正してみてはいかがでしょうか。

ギュスターヴ・フロベール クロワッセの隠者。ロマン主義の虐殺者。バルザックからジョイスへ、そのあいだをつなぐ舟橋の役を為す。プルーストの先駆け。ブルジョワ嫌いのブルジョワ。老殿様。サロンの道化者。

 これなら、どこかに存在するかもしれないフローベールの熱烈な愛読者で知識と教養に満ち溢れたフランスかぶれのお勉強野郎(カルチュラル・スタディーズ)が、次のような紋切型で反論するかもしれません。

 フロベールはその程度の作家ではない!彼は現代小説の創始者であり、リアリズム小説の父でもある、単なる橋渡し役や先駆けとは別次元の、バルザックやジョイス、プルーストにも匹敵するすぐれた小説家であり、いっさいの名誉や肩書きを嫌う偉人でもあり、彼には「名誉は不名誉、肩書きは品格を落とし、役職は愚者をつくる」という立派な名言がある、と。

 うーむ、これはなかなかの出来だ、と愚かにも自画自賛してしまいそうになりますが(笑)、調子に乗って(しょーがねー奴)、これと同じ手法でプルーストについても紋切型辞典の項目を作ってみましょう。

マルセル・プルースト 「社交界の一員で、もっとも空しい社会的な野心やアカデミックな好みを持ち、アナトール・フランスを尊敬し、「フィガロ」に社交界の消息記事を寄稿」した。「さまざまな悪習を持ち、異常な生活を送り、かごのなかの鼠をいじめて楽しん」だ。(『来るべき書物』(モーリス・ブランショ著 粟津則雄訳 現代思潮社)「IV 文学はどこへ行くか? 2ゼロ地点の探究」より引用)
 ‥これは紋切型とは違うか‥。

 …とまあ、今回も前々回に引き続いて「紋切型」に関する知ったかぶりをひけらかしてしまいましたが、しかしこの一週間というもの、「北朝鮮の危険極まりない行為は断固許さない」とか「世界のクロサワ」とかいう類の紋切型がニュースや新聞上にあふれかえっていて実に不快でしたね。もちろん以前からそうであり、そのような紋切型がないとその手のものは成り立たないのであり、いまさらとやかく言っても始まらないんですが、ヒネクレモノの自分としては、こんなところで何を言っても無駄だと知りつつ、今更ながらとやかくイチャモンをほざいてしまうんですね、これが(笑)。

 北朝鮮のミサイル発射(朝鮮当局はロケットの打ち上げだと主張している)に関しては、どうやら世界中で騒いでいるのは日本だけみたいですね(笑)。近隣諸国の中国やロシアや韓国は、自国内の洪水対策や政治的混乱や不況の克服に忙しいようで何の音沙汰もないのはもちろんのこと、頼みの綱のアメリカなんて、さっさと北朝鮮と外交協議をやって、何の制裁措置も行なわずに、これまで通り重油の供給の基本合意に達してしまうし、そのような状況に業を煮やしたのか、自民党なんか、日本もスパイ衛星を打ち上げろ(爆笑)!などとわめいているし、NHKにいたっては、アメリカの国防関係議員からコメントをとってきて、議会はアメリカ政府の弱腰姿勢を批判している、本当はアメリカだって北朝鮮の危険な行為を怒っているんだ!と、しきりにニュースで「国民」を奮い立たせるための情報操作をやっているのですが、肝心の防衛庁が組織ぐるみで汚職をやっているのだから士気が上がらないのは当然ですね。みじめですよね。それに今アメリカでは野球界のベン・ジョンソン(ソウル五輪で9秒79出した奴)、マグワイヤのホームラン記録に沸いていて、北朝鮮どころじゃないでしょう(それとこれとは別問題?)。宮沢大蔵大臣の訪米だってその内実は、早く景気対策を実行しろよぉぉぉぉ、とどやされて、犬のようにあしらわれてすごすごと帰ってきただけでしょう。どうやら日本は北朝鮮とアメリカの双方からナメられてるだけなんじゃないですかぁ?そのうえ、ロシアには北方領土を目の前にちらつかせられながら金をたかられようとしているし、もしかして、日本は世界中からナメられているんじゃないの?

 と、こんなふうにして被害妄想を増幅させれば少しはやる気が出ますか?何を?決まっているじゃないですか、革命ですよ、カクメイ。これから日本を中心として世紀末世界同時革命が勃発するんですよ。そうです、被害妄想の次は誇大妄想です!がんばれニッポン!

 はぁ〜(疲労)、次は「世界のクロサワ」ですか‥。この「世界の〜」という表現自体、その意味するところとは裏腹に、日本国内でしか通用しない日本ローカルな表現でしかないのはもちろんですが、「世界のアオキ」だの「世界のアヤコ」だの「世界のサカモト」だの、結局のところ、日本のマスコミが日本国内に向かって日本のお国自慢をしているわけで、これほど世界からかけ離れた表現はありませんよ。まさに黒澤明を阿呆どものためのイケニエに捧げているわけです。まったく、人の死(しかも葬式)なんかで盛り上がるのはやめにしましょうよ。大袈裟な表現はできるだけ避けて、その死の事実を淡々と報道すれば済むことでしょう。それで興味のある奴はレンタルビデオ屋にでも出かけて黒澤の監督した作品を借りて見ればいいでしょう。余力のある映画関係者は小屋をいくつか借りて黒澤映画を上映したらいいじゃないですか。

 そういえば、浅田彰はゴダールに関する発言で次のように述べています。

「だから、強者を弱者の攻撃から守らなければならない。あるいは、ゴダール風に言うと、マジョリティの規則に基づく文化から例外としての芸術を守らなければならない。実際、ドゥルーズに対応するようにして、結局はゴダール一人が、六〇年代以降、映画を支えてきたと言ってもいいわけでしょ。」

「その点、『新ドイツ零年』や『JLG JLG』をはじめとするゴダールの最近の作品は、ひとり圧倒的な強度で屹立してるとしか言いようがない。それは一万人しか見なかったとしても、一億人の観るハリウッド映画がすぐに忘れ去られる一方で、確実に歴史に残るわけ。音楽でもTVドラマの主題歌になるとか、CDにカラオケの練習用のトラックをつけるとかして、次々にミリオン・セラーが出るとしても、半年もたないもの、ほとんど空虚なマジョリティだよ。他方、一万しか売れなくても、いいものは確実に世界中で聴かれていくんで、歴史に残るのはそっちのほうなんだ。」

「…。最近のゴダールぐらいマイナーになると、世界で一万人ぐらいしか見てないかもしれない。しかし、絶対にあれしか残らないんだから。もっとたくさん見られてる監督たちだって、本当は、ゴダールの後でやることなんてないんだと思ってるんでね。」(『批評空間』 1996 II‐9 座談会「「悪い年」を超えて」から引用)

 本当に浅田の述べているようにゴダールの『新ドイツ零年』や『JLG JLG』がそれほどのものなのか、実際に見たとして自分にそれが理解できるのかどうか不安ですが、浅田彰がそれほどまでに絶賛している、全世界で一万人しか見ていないかもしれない、ゴダールの作品を是非見てみたいものですが、たとえば、ゴダール自身が死亡したとき、ゴダールの母国のマスコミは、決して「世界のゴダール」なんていう紋切型の表現を使ってはやし立てるようなまねはしないような気がします。もっともその国では別の紋切型表現が存在するのかも知れませんが…。

 で、ここで浅田はしきりに、歴史に残る残らない、を基準にして論を進めていますが、一方で、「マジョリティの規則に基づく文化」の中で歴史に残る場合があるのではないか、と思うわけです。それは先に述べたフローベールやプルーストの場合にも当てはまるのではないか。つまり、彼らの作品は誰にも読まれずに、その人名と作品名、それに付随する紋切型の説明、それだけしか残らない、というわけです。それはゴダールについてもいえるのではないか、多分、マジョリティを構成する小市民の皆さん(私自身も含まれる)は一般教養として、ゴダールの人名とその代表作の題名とそれらに関する紋切型の解説を有しているだけで、彼の作品などほとんど見たこともなく、実際に見たとしても、紋切型の解説通りに見ることしかできないのではないか。つまり、これが「マジョリティの規則の基づく文化」なのではないでしょうか。

 このような不安に対して、ブランショは『来るべき書物』の中で次のように述べています。

 公表するとは、読ませることではなく、何ものにせよ何か読むべきものを与えることでもない。公的なものは、まさしく、読まれることを必要としないものである。それは、すべてを知り何ひとつ知ろうとのぞまぬ或る認識によって、つねにまえもって知られているのだ。公的な興味は、つねに目覚めており、飽くことのないものであるが、つねに満足しており、何の興味も抱かないくせにすべてを興味深いものと見なしているのであって、人々は、この運動を、中傷的な先入観をもって語るというひどいまちがいをおかしてきた。つまり、われわれは、ここに、確かに弛緩し静化したかたちでではあるが、文学的努力の根源に障害としてまた手段として存在しているものと同様の非人称的な力を見出すのである。作者は、無際限で止むことがなく、始まりも終りもない言葉に逆らって、逆らうがまたそれに助けられて、おのれの考えを表現するのだ。一方、読者は、この公的な興味に逆らい、放心的で不安定で普遍的で全知的な好奇心に逆らうことによって、初めて読むに至るのであって、読むまえにすでに読んでしまっているあの最初の読みからかくして辛うじて浮かび出るのである。すなわちそういう読みに逆らいながら、だがやはりそれを通して読むわけである。読者と作者のうち、前者はある新しい理解に、後者はある新しい言葉に関わっているわけだが、彼らは、これらを束の間中絶させて、もっとよく理解された表現に場所をゆずろうというわけだ。(『来るべき書物』 IV 文学はどこへ行くか? 6権力と栄光)
 つまり紋切型とは「すべてを知り何ひとつ知ろうとのぞまぬ或る認識によって、つねにまえもって知られている」ものであり、「読むまえにすでに読んでしまっているあの最初の読み」なのですが、それについて、たとえば、NHKや政府自民党が北朝鮮問題についてはさかんに日米の同盟関係を強調していますが、その同盟関係とは、当のアメリカが、スーダンやアフガニスタンに対する空爆に際しては同じ同盟国のイギリスに対しては事前に知らせているにもかかわらず、日本には一切知らせなかった、その程度の信頼関係でしかないことを知ろうと望まないことだと説明すればいいでしょうか。つまりNHKや政府自民党が述べていることとは「読むまえにすでに読んでしまっているあの最初の読み」でしかありません。

 横道にそれてしまいましたが、たとえば、フローベールやプルーストの作品を「読むまえにすでに読んでしまっているあの最初の読みからかくして辛うじて浮かび出る」ように読むことができるのか、はたまた、ゴダールの作品を、見る前に既に見てしまっている紋切型の先入観から「辛うじて浮かび出る」ように見ることができるのか、それを確かめることなど不可能かも知れませんが、ともかく、このブランショの文章からはかすかな希望のごときものが感じられます。そして、これは私の希望的観測でしかありませんが、ゴダールの作品が全世界で一万人の観客しかいなくとも歴史に残るというのなら、ブランショの作品だって全世界で一万人の読者しかいなくとも歴史に残ることでしょう。現にこうしてその読者がほそぼそとその作品の言葉を紹介し続けているのですから(笑)。


9月1日

 まったくしょうがないですねぇ、先週無理矢理ふざけたら、間抜けな間違いを犯してしまいました。ポーラ・ジョーンズさんは、たしかエロブタクリちゃんをセクハラで訴えた人でしたよね。エロブタクリちゃんとラブラブな関係だったのは、ホワイトハウスの元研修生モニカ・ルインスキーさんでした。すでにその箇所は訂正しましたが、「愛しのポーラ」ではなく「愛しのモニカ」です(もちろん「愛しのポーラ」の時代もあったようですが)。

 で、エロブタクリちゃんのミサイル攻撃に対抗してかどうかは知りませんが、先日、北朝鮮がミサイル発射実験をしたようですね(笑)。無断で上空を通過された日本政府の皆さんは、重大な主権侵害だ!だとカンカンに怒っているようですが、じゃあ、事前に何の断りもなくいきなりアメリカにミサイル攻撃されたスーダンやアフガニスタンの場合はどうなるんでしょうかねぇ。北朝鮮を非難する前に同盟国のアメリカを非難するべきじゃないですかぁ?

 少なくともアメリカの有無を言わせぬミサイル攻撃を不問にして、ただ一方的に北朝鮮の行為を非難するのはちょっと不公平だと思いますよ。それに北朝鮮がミサイル発射のデモンストレーションをして売り込もうとしている相手国は、中近東のアラブ諸国だそうじゃないですか。彼らだって国内にイスラム原理主義勢力を抱えている以上、いつまたスーダンやアフガニスタンみたいにアメリカの奇襲攻撃を受けるかも知れない身だし、まさに戦々恐々としているわけでしょう。それにアメリカが不問としているイスラエルの核兵器開発疑惑だってあるし、そりゃあ性能はちょっと劣るけど安くて手軽なミサイルが売りに出されたら一つや二つ欲しがる気にもなりますよね。つまり、アメリカを中心とする西側諸国の軍事的脅威や経済制裁が北朝鮮にミサイル開発の口実を与えているのです。

 …などともっともらしいことを述べちゃってますが、考えてみれば、2段式にしなけりゃ遠くまで飛ばないような北朝鮮のへなちょこミサイルよりは、周りの中国やロシアやアメリカのミサイルのほうがよっぽど高性能でしょう。日本や韓国や台湾だって(モンゴルやフィリピンは無理かな?)、その気になればすぐにでも北朝鮮のよりはましなミサイルが作れそうな気がしますがね(笑)。

 しかし、潜水艦でスパイごっこをしてみたり、ミサイルを日本上空に飛ばしてみたり、国民はテレビの向こうで派手な衣装で変な踊りを踊っているし、指導者はとっちゃんぼうやみたいだし、まったく、人騒がせというか、目立ちたがりというか、とんちんかんというか、ユーモラスというか、北朝鮮のこの手のパフォーマンスってどこかズレていますよね。滑稽ですよ。でもまあ、そんなみょうちくりんな国家の存在が、殺伐とした現代を生きる日本人に、一時の安らぎと生きる勇気と希望を与えてくれているんじゃないでしょうか(根拠なし)。がんばれ朝鮮!国家が滅びるそのときまでアメリカ帝国主義に刃向かい続けてくれ!朝鮮人民諸君!今こそ光り輝くんだぁ!必殺マスゲーム攻撃だぁ!その一糸乱れぬ踊りを見せつけられる度に、私たちは脳死状態に陥り感動に酔いしれむせび泣くことでしょう!君たちこそ反帝国主義闘争を続けるアジア最後の希望の星だぁ!

 そうだ、いつも笑わせてくれるお礼に、北朝鮮の飢えた子供たちを救うために、ユニセフ共同募金でミサイルを買ってあげましょう(おいおいおい)。それに防衛費の削減のためにも、アメリカ製の高くて高性能なミサイルはやめて、北朝鮮製の安くて手軽なミサイルにすれば一挙両得ですよ。日本が率先してミサイルを買ってあげれば、日朝の友好関係の構築にも大いに役立つし、結果的に東アジアの軍事的安定にも大いに寄与すると思いますよ。北朝鮮の飢餓を救うために、たとえば物々交換でミサイル一基で米一万トンなんてどうですか。


8月25日

 はははは‥、Win版のCommunicator4.5PR1をダウンロードして確かめたところ、どうやらJDK1.1対応になっているようです。とうとうIEに追いつきましたか(爆笑)。これでJavaのソースをJDK1.1に書き直さなければならないようですね。いつのことになるのやら(笑)。

 話は変わって、まずは例によって無責任なおふざけから。

 しかしエロブタクリちゃんもやってくれるよね。愛しのモニカに裏切られた腹いせにミサイル攻撃ですか。イラクの次はスーダンとアフガニスタンだもんね。もうこうなったらヤケクソだよね、いくところまでいかないとね〜。祭りだ祭りだぁ〜っ!世界中で報復テロ合戦だぜぃ!アメリカVSイスラムで大花火大会だぁ〜!がんばれがんばれ〜、ついでに北アイルランドのテロリストの皆さんもがんばれよっ!ファイト〜!いっぷぁ〜つ!一球入魂で一爆必殺だぁ〜!しかし、これからいったい何人の人が傷つき命を落とすんでしょうかね。でもいいさ、このへんで景気よくドンパチやってくれれば、不況に打ち沈んでいる世界が活気づきますよ。火事とケンカは江戸の花!テロリズムは世界の活力剤(覚醒剤)!ガッハッハッハ!まさに、ユンケル一本テロリズム、ですね。でも、これでエロブタクリちゃんの不倫疑惑もうやむやになるのかな〜?さあね、知らないよ〜ん。ところで、よくニュースでやっている耳慣れない奇妙な言い回しで、モニカちゃんの衣服に付着した“体液”って何だろう?やっぱ、クリちゃんの精液なのかなぁ?ボカシ表現って、かえって過剰に想像力を掻き立てて卑猥な雰囲気を醸し出しちゃうよね(笑)。

 …う〜む、久しぶりにトバシしてみたけど、どうですか、少しは笑っていただけたでしょうか。それとも、いまいちだったかな?でも、こういうおふざけも読む人が読むと“オトガメ”の対象になっちゃうのかもしれませんね。ふざけるなっ!人の命をなんだと思っているんだあ!とか怒り出すヤボな方もいらっしゃいますか(笑)。やっぱそういう人はニュースキャスターの、卑劣なテロ行為は断固許さない、とかいう紋切型を聞いて安心するのでしょうけど、いくらそんなこと叫んだってどうせテロはなくならないんだから、たまに出現するニュースショーの持ちネタとしての“過激派のテロ”を、せいぜい無責任に野次馬的に手軽なエンターテイメントとして楽しまなくちゃねー。アクション映画やテレビドラマだってそれをネタにして商売しているわけだしね。おっと、こんなこと言うとますます怒るのかな〜。

 で、今回は、こういうふざけた文章を嬉々として書いてしまう私のようなイカレポンチからはかけ離れた、社会の一員として人一倍の責任感に満ち溢れた、より良い社会を実現させるために日夜努力を惜しまない“真面目な社会人”を自認している皆さんのために、蓮實重彦の『物語批判序説』(中央公論社)から19世紀のフランスを代表する小説家フローベールのこの言葉を紹介しましょう。

「ぼくは、誰からも容認されてきたすべてのことがらを、歴史的な現実に照らし合わせて賞讃し、多数派がつねに正しく、少数派がつねに誤っていると判断されてきた事実を示そうと思う。偉大な人物の全員を阿呆どもに、殉教者の全員を死刑執行人どもに生贄として捧げ、それを極度に過激な、火花の散るような文体で実践してみようというのです。従って文学については、凡庸なものは誰にでも理解しうるが故にこれのみが正しく、その結果、あらゆる種類の独自性は危険で馬鹿げたものとして辱めてやる必要がある、ということを立証したいのです。……そもそもこの弁証論の目的は、いかなる意味での超俗行為をも断固として排撃することにあるのだと主張したい。」

「総体は霰弾のような痛烈な効果を発揮することになるでしょう。この書物のはじめから終わりまで、ぼく自身がつくりあげた言葉は一つとして挿入されることはなく、ひとたびこれを読んでしまうや、ここにある文句をうっかり洩らしてしまいはせぬかと恐しくなり、誰ももう口がきけなくなるようにしなければなりません。」

 ヤバいですねえ、なんだかすさまじい誇大妄想ですよ。いまどきの表現を使うなら、これを書いた当時のフローベールはかなりキレていた思われます。これから見れば、私の“おふざけ”などは単なる幼稚な子供だましの域を出ないでしょう(笑)。

 それで、たとえば、皆さんの持っている辞典に次のような記述が載っていたらどう思われますか?

芸術 まったくもって無駄である―それよりみごとに、また迅速にやってのける機械がこれにとってかわったのだから。

芸術 施療院へ通じる道。機械のほうが手際よく、迅速にやってくれるのに、今さら何の役に立つ?

 「芸術」に何の関心もない人はこれを読んでも何とも思わないでしょう。しかし、多少なりとも知識やら教養やらが身についていると自認している、知ったかぶりの小市民の皆さんなどは、すかさず次のように反論するのではないですか。

 芸術とはそんなものではない。真の芸術とはこれこれこういうものである、と。

 たとえばこの、真の芸術とは〜、の後に続く言葉として、ひとりの人間の魂の叫びである、とか、生きる糧を提供する至上物である、とかいろいろあるでしょうが、誰もが気のきいた答えを導き出せるわけではありませんが、このように芸術を肯定的にとらえる言説が、いわば“善”として、社会全般に行き渡っていることは確かです。しかしこのような言説は決して独自なものではないし、少数派の意見でもありません。いや、それどころか誰もが理解できる凡庸な意見でさえあり、つねに多数派の意見なのです。つまり、これこそが「紋切型」の言説なのです。

 で、先に紹介した「芸術」の定義が載っているのが、いわゆるフローベールの『紋切型辞典』と呼ばれるものなのですが、はたしてこれによって彼の当初の目論見は成就したのでしょうか?結果はまるで逆になります。「ここにある文句をうっかり洩らしてしまいはせぬかと恐しくなり、誰ももう口がきけなくなる」どころではなく、誰もがそこに書かれてあることとは反対の意味の「紋切型」を嬉々として口にしたがり、世の中はそういう紋切型の言説であふれかえることでしょう。いや、実際に今この社会はそのような紋切型であふれかえっているのです。何もフローベールが妄想するまでもなく、「誰からも容認されてきたすべてのことがらを、歴史的な現実に照らし合わせて賞讃し、多数派がつねに正しく、少数派がつねに誤っていると判断されてきた事実」は、社会に氾濫する紋切型によって、すでに示されているのです。ただ、そういった連中は、自分達は少数派だ、という多数意見と、自分独自の言葉を有している、という紋切型を共有しているわけです。そしてまた、当然のことながら彼らは「偉大な人物の全員を阿呆どもに、殉教者の全員を死刑執行人どもに生贄として捧げ」ているわけです。たとえば太宰治などは、今ではその作品よりも命日の墓参りのほうが有名なのですから。毎年のように“文豪”太宰の命日の墓参りがニュースで取り上げられるのだから、そうなるのも当然です。まさに太宰の墓参りが観光と化しているわけですね(笑)。もちろんフローベールもそのことに気づいていないわけではなく、そのような紋切型の大洪水状態を小説として描き出そうとしたらしいです。

 すでに記したように、編纂者の一八五二年の書翰には「ひとたびこれを読んでしまうやいなや、ここにある文句を自分もうっかり洩らしていまいはせぬかと恐ろしくなり、誰も口がきけなくなる」ような項目を網羅するというのがその辞典だと述べられていたのだから、その段階おいては、明らかに読まれることを目的としたものだったとはいえるだろう。だが、それから編纂者に死が訪れる一八八〇年にいたる三十年近い歳月をとおして、当初の着想がそのままのかたちで維持されていたという保証はどこにもない。事実「それだけでまるまる一冊の書物になろう」というその序文と思われるものは編纂者の遺稿の中には見当たらず、大筋においてほぼ同じものと見なしうるが、項目や定義の部分にかなりの異同が見られる三種類の草稿が、フローベールの死によって中断された未完の遺作小説『ブヴァールとペキュシェ』執筆のための資料の中から発見されたというにすぎない。そして、発見された構想ノート類や書翰からの傍証によって、こんにちでは、『紋切型辞典』が一冊の独立した書物としてではなく、遺作長篇の第二部を構成するというのが、編纂者の最終的な意図であったことはほぼ明らかではなかろうかと思われている。(『物語批判序説』三四頁〜三五頁)
 では、今日の社会で紋切型でない言説が存在するのか、存在したとしてそれはどのようなものなのか。このように考えること自体が紋切型そのものなんですよね。ある言説に対して、それと二項対立を形成するような反対の意味や概念を持つ言説があたかも存在するかのような思考(幻想)そのものが「紋切型」と呼べるのかもしれません。ニュースステーションで朝日新聞の変なおじさんがわめく大声や、ニュース23で筑紫哲也がしたり顔で説明する言葉をよく聞いてみればわかるでしょう。まさに二項対立の紋切型だらけです。

 そういえは自分が以前この場でバッハについて

 バッハは情念の人ではない。したがって彼にメロドラマは存在しない。モーツァルトのようにサリエリとの確執を題材として映画化されて夭折の天才神話に解消されたりしないし、ベートーベンのように聴覚が次第に失われる病魔との戦いに打ち勝って交響曲第九番を作曲したという、愛と感動の苦難克服物語とも無縁である。(「彼の声1」6月24日)
と書いたら、リンクしているページの掲示板でモーツァルトファンを自認する人が、モーツァルトはそんな人物ではない、真のモーツァルトは〜、的な論法の反論を寄せてきました。しかし結局その人が述べていることといえば、バッハとモーツァルトを二項対立でとらえ、世間に流通しているモーツァルトに関する好意的な紋切型をなぞっているだけで、あえて反論する気にはなりませんでしたが、彼は、モーツァルトが宮廷楽師の地位を獲得するために、これでもかこれでもかと曲を大量に作り続け、派手な興行パフォーマンスで目立とうとした「情念」については、ついに一言も触れなかったんですよね。


8月19日

 はぁ〜‥、またもやJavaにはまってしまいまちた。うぅぅっ、今回もFreeBSD版のCommunicatorでは動かなかったでちゅ。打ちひしがれて心はボロボロでしゅが、もういい加減あきらめて、そろそろJDK1.0.2からJDK1.1に移行しなければと思っているのですが、ソースファイルを全面的に書き換えることを思うと気が重いでちゅ。まぁコンパイルはJDK1.1でやっているのだから今のままでも動くのだけれど、何かすっきりしないんでちゅよね。しかし、1.0.2と1.1ではまるで書き方が変わっちゃって、また一から出直しなんだよね。なんだかなぁ〜、これで1.2になったらまた仕様が変わっちゃうのかなぁ。やる気が失せるよなぁ〜。それにブラウザがちゃんと表示してくれないとつまらないしね〜。Communicator4.5はちゃんとJDK1.1対応になっているのかな〜、今度暇な時でもPR版をダウンロードして確かめてみよっと。

 いきなり話は変わるけど、ここ数ヶ月の『噂の真相』を読んで思うんだけど、なんだか本多勝一のキレ具合は見るも無残だね。哀しいものがありますよ。なんであんなに感情的になって昔の新聞屋仲間をかばおうとするのか、部外者の自分にはまるでよく分からないんですが、センチメンタリズムとでもいうんですかね。昔の仕事仲間を称してよく“戦友”とかいうらしいですが、新聞記者という職業の人たちは、そういう気持ちの悪い固い友情の絆で強く結ばれているわけなのかな。

「疋田はヴューズ誌連載の単行本計画があることを知らない。疋田がこの件で朝日新聞にたのまれて圧力をかけることはあり得ない。」(『噂の真相』三月号「蒼き冬に吼える」第36回)
 これって疋田氏の主張をただ一方的に鵜呑みにして、本多自身が勝手に疋田氏に有利なように推測しているだけでしょう。こんなものを「事実」と断定していいのかなぁ。

 そしてそれに続いて、

「したがって疋田がこの件でヴューズ鈴木哲編集長との話し合いを「要求した」とか「話し合いの席でH記者が尊大だったため鈴木哲が怒り、交渉は決裂した」また「批判したメディアに裏で交渉を求め」などの記述も、この事実はない。」(同号同回)
などと、思いっきり乱暴に結論を導き出しちゃうんだけれど、本多自身にとって疋田氏がいかに信頼に足る人物と思われようと、氏とは何の親交もない赤の他人の、これを読んでいる一般の読者である自分にとっては、この部分にはまるで説得力が感じられないよな。別に自分が悪意から説得力のある説明箇所を意図的に省いたわけではなく、はっきりいって前の引用と後の引用の間にはAという番号が挟まれている以外には何もなく、文章そのものは連続しています。
「前回のこの頁で紹介したように、本誌二月号の記事「朝日新聞の呆れ果てた内憂外患」に対して、その中に書かれている当事者・疋田圭一郎氏が反論しているのは、あくまで基本事実をめぐる問題です。これは第三者同士の論争ではなく、当事者の反証であります。「実に不思議かつ奇妙」(前述のカンボジア虐殺否定派を指す言葉から)なのは、本誌の記事の筆者が、当事者たる疋田氏に全く取材せず、ちょっと会えばわかる話を聞くことさえせず、つまりは現場取材にあたることを一切せずにこんなヨタ記事を書いたところにあります。」(同四月号同37回)
「当事者たる疋田氏に全く取材」しなかったから、記事の中では「疋田記者」とは書かずに「H記者」と書いているのでしょう。直接実名で書いていないのだから“名誉毀損”の犯罪は成立しづらいですかね。でも『噂の真相』では昔からこんな「ヨタ記事」ばかりですよ(笑)、何しろ雑誌の名前にちゃんと「ウワサ」と書いてあるじゃないですか。本多だってそういう記事を読んでいないわけじゃないでしょうし、たとえば、とびらのHイラストについてはどう思っているんですかね。まさか、イニシャルのついたペンダントやイヤリングをつけてそれらしき顔の御両人に、Hしたかどうか当事者達に直接取材しろとでも言うのかな。それで当事者に直接きけば「事実」が判明したりするんですかね。まったく、実際に自分自身がそんな雑誌に連載を持っているのですから、何をいわんやですよね。それに「ちょっと会えばわかる話」なのは“身内”の本多だからでしょう。赤の他人にちょっと会って話を聞いただけで「事実」がわかってしまうのなら、「事実」って何なんでしょうかね。また、件の記事(「朝日新聞の呆れ果てた内憂外患」)には本多のことはひとことも書かれていないのに(ヴューズの記事と混同しているんじゃないの?)、つまりこの記事に限れば本多だって「第三者」でしかないのに、なんで『噂の真相』と「第三者同士の論争」しているんだぁ?やはり「H記者」は本多の“身内”だからなのかあ?本多と「H」とは熱き友情で結ばれた一心同体の人間なのかあ?

 そしてついに爆発しちゃうんだよね、勝手にありもしない挑発に乗って勝手に自爆しちゃうのさ(笑)。

「本誌二月号で「朝日新聞の呆れ果てた内憂外患事情」を書いたレポーターこと「吉田慎平」なる人物も、疋田圭一郎氏当人からの取材は「いっさいなしに」「ムチャクチャ」を書いた。(この事件は私も無関係ではないから放置しない。)その後この男は謝罪していないから、「人間のクズ」「カス」と断定してもいいだろう。」(同五月号同38回)
あ〜あ、さすがに「人間のクズ」「カス」と断定されちゃあ、『噂の真相』も後には引けないよね。かたやイニシャルで呼ばれているだけなのに、もう片方は実名でクズだのカス呼ばわりされているのだから、まったくどちらが名誉毀損しているのやら、本多自身が「ムチャクチャ」を書いているとしか思えませんね。

 なんだかなぁ〜、朝日新聞の記者ってそんなにすごいプライドが高いんですかねぇ、本多にしてみればプライドなんかじゃなく「事実だぁ!」とかわめきそうですが、傍から見ていると変にプライドが邪魔して、どーでもいいような些細な事柄に過剰反応しているようにしか見えないんですけどね。なんだか自分にとっては別世界の話ですよ。自分にとってはエリート記者さんとは何の関係もない、執拗に購読を迫ってくる勧誘員のほうが新聞のおかれている状況を如実に実感させられます。彼らにとってプライドなんて、より多く新聞を売り捌くためには単なる邪魔で余計な感情でしかないでしょうね。そういえば泉谷しげるにこんな歌がありましたね。

奴を殺したのはせこいプライド、見栄はる自信と裏腹に、撃たれて散らばる

「褐色のセールスマン」より




8月11日

 何やら自民党の野中とかいう説教オヤジがしきりに今の日本の経済状態を、国家存亡の危機だ、とかほざいているようですが、まったく、馬鹿の一つ覚えみたいに大袈裟に危機感を煽っていれば国民が黙ってついてくるとでも思っているんですかね。まあ政府自民党と癒着談合しているマスコミの皆さんはついていくでしょうけど(たとえばNHKの政治部記者とかいう肩書きの人が内閣の人事発表のときに宮沢大蔵大臣のことを自民党きっての経済通だとゴマを擦っていましたね)、どうも「国家存亡の危機」という言葉自体にあまりリアリティを感じないんですよね。このままだと国が滅びるぅ?だからどうしたバカヤロウ、この程度の感覚です。ようするに野中官房長官は、参議院選挙での自民党惨敗に伴う「自民党存亡の危機」(これもリアリティなし)が、そのまま「国家存亡の危機」に直結するかのような論理のすり替えで、御用マスコミと一緒になって国民を恫喝しているつもりなんじゃないですかね。

 そもそも国家が滅びることがそんなに重大なことなのか、いまいちピンとこないです。実際に大日本帝国は1945年8月15日に連合国側に無条件降伏して滅亡したわけですよね。もちろんそのとき、無条件降伏したのだから連合国側が日本の戦争指導者をどうしようと何も文句は言えないはずですし、今ごろになって東条英機のことをどうこう言っても始まらないも当たり前なんですが、後の時代に暮らしている自分にとっては、そんなことなどどうでもいい過去の出来事でしかありません。

 国家民族主義者の皆さんは、連合国側が戦争犯罪人を一方的に裁いた東京裁判の不当性を盛んに主張しているようですが、だいたい戦争自体が不当な行為なのだから、負けた側が勝った側に不当に裁かれるのも当然のことでしょう。ただ、今の時代では国連が中心となって公平中立な立場で戦争犯罪人を裁いている、ともっともらしい反論をする人もいるかもしれませんが、旧ユーゴ問題でも、最終的に戦争に負けた側のセルビア人が戦争犯罪人として裁かれているわけですし、もちろん、セルビア人勢力が優勢だったときは、セルビア人がボスニア人に対して、民族浄化という死の裁きを行なっていたわけです。

 では、今日本が滅んだらどうするのか。そのことで自分が不幸になったり幸福になったりするだけでしょう。社会の混乱は今までの秩序が一時的に機能しなくなる時ですから、却って成功するチャンスでもあるわけです。かつて敗戦のどさくさに紛れて商売に成功して成り金の大金持になった人もたくさんいるのでしょう。そんなことより、なぜ不況だと国家が滅びるのか、このへんに論理の飛躍があるかと思われます。

 たとえば、不良債権の回収に行き詰まって日本の大手都市銀行のいくつかがつぶれたとして、そのことでなんで国家が滅びるのか。資本主義市場経済は国境を越えて全世界に広がっています。つぶれた銀行の替わりに欧米やアジアの銀行が進出してくれば済むことでしょう。山一がつぶれてメリルリンチが進出してきたのと同じことじゃないですか。商売が成り立つ条件さえ整えば世界のどこにでも進出するのが多国籍企業でしょう。日本企業もアジアや欧米に進出しているのですから、その逆があっても何の不都合もないはずです。かつて日本の自動車会社がアメリカに工場進出したのは、アメ車が売れずに全米各地で工場閉鎖が相次いだのが要因だったのでしょう。

 それで不都合があるのは政府自民党と癒着談合している経済界とマスコミ関係者だけでしょう。彼らにとっては「日本」という自分たちの縄張りが他国の企業に荒らされるのが我慢がならないのです。ヤクザと同じです。グローバルな世界市場に属していながら、それを一国単位の国民経済という尺度でしか説明しようとしない偏狭な思考の持ち主です。もちろんこのような傾向はどこの国でも似たり寄ったりなのかも知れませんが、特にマスコミ関係者にはうんざりさせられますね。日頃から国際化だとか他国への思いやりだとかをもっともらしく説いていながら、世界のどこにいても自国の国民に向けてしか情報発信しようとしないのですから。

 たとえば、ワールドカップで出場国を紹介する時も、いかに母国の代表チームを国民が熱狂的に応援しているかを報道することに終始し、つまりそれは、暗黙に、だからわれわれも日本代表を熱烈に応援しよう、というスローガンを含んでいるわけですが、その結果、得点王になったスーケル(シュケル)などは、大袈裟な表現で“祖国クロアチアの英雄”と祭り上げられちゃうわけですよ。やっぱそれってサッカーから遠くはなれているような気がしてならないんですがね。

 ま、自分は日本語でしか書けませんし、お前だって自国の国民に向けて情報発信することしかできないじゃないか、と反論されれば返す言葉もありませんが、まぁ、あまりこの作業を自己正当化したくはないですが、ブランショの言葉を借りるなら「この作業は、少なくとも、権力も栄光も求めないという長所をそなえているのだ」(『来るべき書物』)ということですか。


8月5日

 先週FreeBSD版のNetscape Communicator4.05を苦労してFTPの操作を何度も間違えながらもやっとのことでゲットして、慣れないファイル操作でまごつきながらもなんとかインストールしたんですが、開けてびっくり玉手箱!日本語の表示が木版画みたいでかすれているし、自分のページのJavaやJavaScriptがまるで表示できないじゃないですか!ガーン!驚きました、Netscape社のブラウザならOSが違っても同じように表示できて動作すると勝手に思っていた自分の先入観が脆くも崩れ去りました。

 それで、JavaScriptの「Virtual文書」と「Sample文書」が動かない原因はすぐにわかりました。古いNavigatorのJavaScriptに特有の、特定の漢字が文字化けするバグを回避するために、文字化けする漢字の手前に¥を挿入してあったのがエラーの原因で、Communicatorではそのバグは直っているので¥を抜いたところ、今度は正常に動作するようになりました。ついでに「Virtual文書」は西暦2000年問題に対応しておきました(笑)。

 で、Javaのほうなんですが、「ピンクの時計」はまあ仕方ないとして、「Mandelbrot集合」と「Mandel Finder」のJava Applet Window内に画像が表示できないのはショックでした。なんでWin95/NT版のCommunicatorでは表示できてFreeBSD版では表示できないのでしょうか。自分のプログラムがいい加減なのは確かですが、普通は片方でできるものならもう片方でもできそうなものなんじゃないでしょうかねぇ、同じ名前の製品なんだから。まあ、FreeBSDのウインドウマネージャのtwm自体に問題があるような気もしますが、とりあえず、今まで苦労して試行錯誤の果てに作り上げたJavaボタン+Java Applet Windowの組み合わせをいったんあきらめて、オーソドックスでシンプルにHTMLファイルの中に画像を再現する方法に切り替えたんですが、今度は一応動作はするんですが、描画スピードが異常に遅いです。

 まったく、競争相手がいないとNetscape社といえども手抜きをするわけですか。Win95/NT用のCommunicatorがあれほどきれいに表示できて、Javaのスピードが速いのは(ただし起動には時間がかかる)、マイクロソフト社の猿まねブラウザIEの存在のおかげなんですかねえ。Netscape社はこれからはLinuxに重点を置いて行くらしいですが、Linux用に速くてきれいに表示できるブラウザを作ったついでに、せいぜいFreeBSD用にももっとまともなのを作ってほしいですよ。まあ、ただで使わせてもらっているのだからあまり文句は言えませんがね。ま、ソースコードは公開されているそうですから、全世界のプログラマーの中から画期的なブラウザが生み出されたりしますか。でも、大元のSUNが速いJavaを出さなけりゃどうにもなりませんか。

 しかしもう疲れました。かれこれ15時間近くパソコンの前に座っています。本当に気が狂いそうです。いろいろプログラムを修正したんですが、中でも一番修正に時間を食ったのが、冗談半分で作った「ピンクの時計」なんですよね。時計の針の長さと幅を微妙に調整しているうちに3時間くらい経過したような気がするのですが、その出来映えを見ても、だからなんなんだ、としかいえません。まったく労力と結果は結びつかないものなんですね。とりあえず、目はチカチカするわ眠いわ意識は朦朧としているわ腰は痛いわ尻も痛いわで、もううんざりです。今回はこの辺で終わりにします。ひー疲れた。