彼の声792010年7月31日あれから誰かは何をやっていたのか。相変わらずの蒸し暑さに嫌気がさしながらも、一応は仕事を終えたらしい。それは奇跡的なことか。たぶん挫折しようがないのだろう。やり終えなければならないから、やり終えるまで仕事を続けなければならない。そういうことでしかない。それは当たり前のようでいて、絶望的に選択肢がなく、仕事をやり終えるしかないのだ。そして実際にやり終えて、そういう成り行きになったらしく、誰かはいつものように言葉を組み合わせて、文章を構成しようとしている。ただそれだけのことなのだろう。他に何があるわけでもなく、何を期待しているわけでもない。いつまでたってもそういうことだ。どこまでもそういうことになるのだろうか。それはわからないが、今の段階では少なくとも何かが継続しているようで、相変わらず自己言及的で代わり映えのしないことを記しているはずだ。たぶんそんなことはどうでもいいのだろう。それが誰であれ、人がやっていることはそれと似たようなことか。それ以外の何をやれるわけもなく、いつまでも以前の続きをやろうとする。君はそういうのが気に入らないのだろう。では人はなぜそこに存在しているのか。何かをやるために生まれてきたのだろうか。生き続けることが何かをやっている証しとなり、何もしないで生き続けることはできない。それは当たり前のことだろうが、誰かはそこで何をやっているのか。他の誰かが漫画を読んでいる。また別の誰かがテレビを見ている。それが何を意味するかといえば、誰かがそういうことをやっているわけで、それについて何をとやかく言う筋合いはなく、ただそういうことでしかない。作り話としてはそれではつまらないのだろうが、テレビドラマのようにそう頻繁に事件が起きるわけではなく、何の興味もひかないようなことが延々と起こっていても、それが取り立てておかしいわけではなく、それで何の問題もない。よく見れば頭上の蛍光灯が切れかかって点滅しているようだが、それに気づかなくてもかまわないのだ。ところで君はそこで何をやっているのか。黙って呼吸をしているだけか。ならばそれは君が生きている証しとなるだろうか。たぶんそうに違いなく、そこで本を読んでいようと食事をしていようと、生きているならば呼吸をしながらそうしているに違いなく、たぶんそれが取り立てて何を意味するわけでもないにしろ、そういうことの連続としてこの世があるわけだ。
ならば君はそこで何を求めているのか。必要最低限の衣食住が足りていれば、それでかまわないのだろうか。例えば君にはそこで野望を抱く余裕がないのだろうか。中にはそういう人もいるだろう。基本的に合法的な範囲内でなら、何を望もうとその人の勝手だ。ある意味でそれもわかりきったことだろうが、例えば誰かが世界征服を企むなら、それは漫画の中の登場人物が抱いている野望となる。たぶん誰かは冗談でそんなことを述べているのだろう。君が読んでいる漫画の中にもその手の登場人物が出現しているはずか。しかしそう述べてしまうと、何かはぐらかされたような気になってしまうのはどういうことなのか。現実の君は実際に何を望んでいるのか。誰かは生き続けることを願い、他の誰かは鬱状態で自殺願望になっている。そんな話をどこかで耳にして、何を心配しているわけでもないだろうが、他人事にあまり首を突っ込まない方がいいだろう。君はまだ生き続けるつもりらしく、自らの将来像を思い描き、それを実現させるために努力しているようだ。そんな話もどこかで聞かれたことかもしれないが、それらのニュース的なありふれた感覚が、いかにも作り話のようで、何となくどうでもいいような気になってしまうのだろうが、君にとってもそれはどうでもいいことなのだろうか。誰の知ったことではないのかもしれない。
7月30日急いで何かをやろうとするが、そこで目が覚めて、何もやっていないことに気づく。それで虚無は安心してしまったのか。いったい誰が虚無なのか。何が虚無でもなく、それはただの言葉だ。誰もそこにはいない。だから虚無は君の相手をするような状況にない。言葉が誰と対決することもないか。しかし何を焦っているのか。でたらめで意味不明なことを述べているのがおかしくてたまらない。そんなはずがないと思うが、それが現実のようだ。さっきまでの眠気はどこへ吹き飛んだのか。何も思わないように心がけても、それがおかしい心がけであることに変わりなく、わざとそう思っているのでもなく、本気でそんなことを思っているはずがない。たぶんこれから語ろうとしているのはそういうことではない。無理に語ろうとしても何も語れないだろう。だからそこであきらめてしまうのか。勝手にそう思っていればいい。誰もそうは思わず、何を思っているのでもなく、君はそこで何かと出会うだろう。またいつもの言葉か。それらの言葉に適切な使い道があるわけではない。あるのは無視と無理解だけか。それどころかそこには何もなく、無駄な言葉さえも記されてない。では何が無謀な試みなのか。無知と無理解だけでは不満なのか。そこから遠ざかるためには何が必要なのだろうか。あえて無難な線を狙っているとも思えず、何を守っているのでもない。でたらめに何かを奏でているとも思えない。それが楽器ではなく、ただのキーボードか。だが文字を打ち込むためには必要なアイテムか。しかしでたらめな文章を記すためのものでもないだろう。相変わらず意味不明で空疎だ。君はそう思いたいのだ。そう思っているからこの世界がある。そんなのは嘘だとしても、この世界の何かに影響を受けて、それらの文字列が記されているはずだ。なぜそこで眠ってしまう必要があるのか。それとこれとは無関係で、君の眠りとこの世界からの影響が何をもたらしていようと、君はいつまでも慣れないキーボード操作にまごつき、ブラインドタッチなどからはほど遠い感覚を温存させながら、気まぐれに思いついたことを記そうとするが、実際に記しているのは他の誰かだ。君はただそれらの光景を眺めている。何も思わず何に納得しているわけでもない。ただ見ているだけだ。そしてそれらが何でもないことだと気づき、そこで眠ってしまう。目が覚めたらまた翌朝になっているのだろう。だから何をやめられるはずもなく、何に納得するはずもない。
君は不幸にしてそんなことを思い、何を思っているのでもないと思い込む。そこから何が得られるわけでもない。だが相変わらず言葉が記され、その並びを読むと意味不明と虚無がもたらされ、心はマイナスのイメージに包まれ、何も得られないどころか、何かを吸い取られてしまうような感覚に襲われ、そこから急いで遠ざからなければならないような気になり、実際に遠ざかり、眠ってしまうわけだ。そして今の君にやることがあるとは思えなくなり、何か無駄で余分なことをやっているような気にさせる。それが言葉を記すことなのだろうか。そうだとすれば今やそれをやめなければならないのか。それらの無駄で余分な記述作業とはきっぱりと縁を切り、自らの幸福に向けて何か他の努力をしなければならないのか。それが冗談だと思われるのはなぜなのか。言葉の魔力に取り憑かれ、それをやめさせない何かが働いているから、そう思われてしまうのだろうか。ならばどうしたらいいのだろう。その魔力を振り払うためにはどうしたらいいのか。あるいはさらにそれを突き詰めて、突き抜けるような過剰さが必要とされるのだろうか。いったい君はそこから何をやろうとしているのか。そしてそれの何が冗談だと思わせるのか。
7月29日夢の中で君は何かの死に立ち会っているはずだ。だがそれが何を意味するのかわからず、誰が何を語っているのかもわからない。それで話になるのだろうか。暑さに負けて体力を消耗し、だいぶ遅れてしまったようだが、これから何を語ればいいのか。また誰かが冗談でそんなことを述べている。何も真剣に語れないようだ。それは今に始まったことではないが、それでかまわないのだろうか。相変わらず暑く、夜には雨が降り、それは誰の意識とも関係がない。そして君は何を思うこともなく、疲れて眠ってしまう。それの何が不思議でもなく、ただ何もできないのだ。精魂尽き果てた末の今があるわけで、誰かはそんな認識が嘘ではないことを証明したい気になっているのかもしれない。それは本当だろうか。その気は多少なりともあるだろうが、実際に証明することなど不可能であることも承知しているはずだ。そういえばさっきから蝉が鳴き続けている。君がそれを求めているわけでもないだろう。何かに行き詰まっているようで、さらに話がそこから外れているようだ。もうどこから逸れているのか見当がつかない。何も思いつかないので、わざとそうしているのかもしれないが、それでかまわないのか。何だかテレビを眺めているうちに時が経ち、気がつけばこんな時間だ。さっきまで君は何を語っているつもりだったのだろう。たぶんそうではないと思いたかったのだ。またわけがわからないことを記しているようだが、やはりそれでかまわないのだろうか。そういうことではなさそうだ。たぶん他の何かを語るつもりだったのだろうが、それが出てこない。人はなぜ仕事をしているのだろうか。わかりきっている答え以外の返答を求めているようだが、それがなかなか出てこない。たぶんその必要がなければ仕事などしなくてもいいのだろう。だから人は仕事をする必要があるから仕事をしている。冗談でそんなことを述べる以外には何も出てこない。他に何があるのか。どこかのトンネルの中にレコードプレーヤーが設置されている。また苦し紛れに無関係なことを記そうとしているようだ。何が苦しいわけでもなく、気まぐれにおかしなことを述べようとしているだけかもしれない。君はそれでかまわないのだろうか。誰がかまわないわけでもないだろう。とりあえずそうなってしまったのだから、それを記すしかないのではないか。そこで君は虚無と妥協している。
君はそこで何かに気づいているはずだ。沈黙があたりを支配しているように感じられ、少しの間は冷静でいられるらしい。そして何かを悟り、何もないことを受け入れ、それに関して言葉を記そうとする。それはどこに記されるのだろう。今誰かが記しているでたらめな内容とは違うのだろうか。それ以外に何があるのか。何もないからそこに虚無があると思ってしまう。それはとんだ思い違いか。しかし虚無とは何だろう。記された言葉に明確な意味があるとは思えない。それを読み取れなければ意味などない。そう断言するだけの自信はないが、何となくそう述べてしまうと、後は何でもかまわなくなってしまいそうになる。とりあえず適当に言葉が並んでしまえばそれでかまわないのか。誰がかまわないと思っても、それで済んでしまうなら世話がない。それも何もないということの裏返しか。何が裏返しだとも思えないが、君はそんなことを述べているだけで眠くなってくる。フィクションの中ではそういうことか。実際に誰が何を語ろうとしていたのか。それは君の知ったことではなかったはずか。誰にとっても知ったことではないだろう。要するに君が知り得る立場にはないということか。だから何を知ろうとしているのか。誰もそこで自問自答を続けるつもりはないはずだ。しかし現実にそうなってしまっている理由は何なのか。
7月28日相変わらず何も思いつかぬまま今に至り、また適当にいい加減に言葉を弄して何かをごまかそうとしている。慌ただしい日々をいくらかやり過ごし、何の感慨にも至らない体験の連続に疲れ、何をしている最中にもうつろな耳鳴りを覚え、別に何かの幻影を戯れているのでもないのに、迫りくる何かの影におびえ、そんな嘘を記しながらも、一向に気分が晴れず、聞こえているのは幻聴などではなく、ただの音楽であることに気づいたふりをしてみるが、今さらわざとらしく驚いたふりをするのもおかしいことに気づく。意味がわからないのだろうか。誰に何を伝えたいのでもないらしい。今のところはそうだ。今までもそうだったし、これからもそうだろうか。いつの間にかそこで言葉が途切れ、眠っていたらしい。たぶんそれも嘘で作り話の一部か。くだらぬ言葉が続いているうちに嫌になってしまったらしい。どこかでオオカミの遠吠えが聞こえている。実際に聞こえるはずがなく、やはりそれは作り話の中でのことか。作り話でさえなく、話にもならないことかもしれない。話にならなくてもかまわないのではないか。感覚的にそれでもかまわない。それはどういうことだろう。記憶が曖昧で、そのとき何を思い出そうとしていたのかわからなくなり、無意識のうちに何を記しているのか見当もつかず、それらのまとまりにかける言葉の連なりを文章だと認める気にはなれない。君はそこで何を記している気でいたのか。目が覚めている感覚がないようだ。 だからその辺が限界なのだ。それ以上は話にならないようなことを話そうとして、自らがそれを語ろうとしていることに矛盾を感じ、それが正しい認識だと思うようになり、現実に何を語っているのでもないことに気づかない。ただそこで誰かによって言葉が記されているだけか。しかしその誰かとは君のことではないのか。それが気のせいなのかどうかわからないが、今はそんなことを述べるべきではないのかもしれない。では他に何を述べればいいのだろうか。君は誰の指図にも従わず、誰がそこで指図しているわけではないと思い込みながらも、今ひとつ確信を持てずにいる。それがどういうことを意味するのかわからないのか。案外状況を支配している法則をわかりかけているのかもしれない。時にはそんな嘘をついてみるのも一興か。 そんな何もかもが不確かな現状の中でも、そこで何かが外れかけているのは間違いないようだ。なぜそう思うのだろう。君が所有しているつもりの言葉のコレクションはいびつな造形を表現している。そう記してまたもや誰かは嘘をついているのだろう。あくびをして眠いことを認める。わざとらしい言語表現には飽きてしまったのか。誰がそれを記しているのでもないだろう。どうやらまだ先は長そうで、どこかに余白がだいぶ残っているようだ。何も思いつかないからそうなってしまうのだろう。今は何か思いついている気でいるようだが、それを言葉で示せない。それが意味不明な語りのすべてか。何がすべてでも一部でもなく、何となく記しているそれらの言葉の連なりがいい加減なのか。だから何でもないと述べている。
そんなことを述べているうちに、さらにその先に待ち構えている限界に近づいているようだ。しかし限界とは何だろう。それが文章の終わりだとは思えず、何が始まろうとしているのでもないような気もする。すでに終わっているのに、文章はその終わりに触れようとせず、ただいたずらに引き延ばしを図ろうとする。だから嫌になってくるわけか。嫌ではなく、それでかまわないと思っていて、半ばあきらめているのではないか。それが自己言及であろうとなかろうと、もうどうにでもなってほしい。君はそうやっていくところまでいってしまうのだろうか。どこまでいくかはその時の気分次第で、そこに論理的思考が差し挟まれる余地はない。
7月27日終わりが見えてきた。それが何の終わりかわからないが、とにかく何かの終わりなのだろう。しかしこのまま終わってしまうのだろうか。それが気に入らないことは確からしいが、君には無理だろう。できっこないからそうなってしまうのであり、疲れて眠ってしまうのがオチか。とにかく君以外のすべてが何かを終わらせようとしているわけだ。それに抵抗を試みるのは愚かなことか。わからないが目が覚めて言葉を記し始め、何となくその辺を実感しているようで、何かそれがあり得ないことのように思えてくる。なぜそうなってしまうのか。そういう自問自答がおかしい。そこから抜け出そうとして言葉を記しているのに、それ以外の言葉を見出せないのだ。疲れているのはわかっているはずだが、それだけではなく、もはや何も残っていないのではないか。空っぽの頭がそこにあるらしい。フィクションなのだろうが、現実の世界ではどうなのか。文章を構成する行為が必要ないのかもしれず、無駄なのだろう。おそらく君は無駄で無意味なことをやっている。それでかまわないのではないか。それ以上の何をもたらせるとも思えず、何かの悪あがきとして、こうして言葉を記しているはずだ。しかしそう述べて何を否定しているのか。ではなぜ君はそこから外れられないのか。疲れて眠ってしまったのなら、そのままやめてしまえばいいのに、なぜか目が覚めて言葉を記し始める。それは君ではなく、他の誰かがやっていることだからか。そう思うならそれでもかまわない。しかしなぜそこで開き直るのか。言葉を記しているのは君でも誰かでもなく、私が記しているはずだ。それがそこでの虚構なのだろうか。わからないがそういうことにしておきたい。それ以上の詮索を可能とするような状況になく、何となくそこで思考が止まり、そんなことはどうでもよくなってしまう。誰かがそうやって言葉を記し、君はそうやって何かを語っているわけか。それがそこでの自問自答だろう。そう述べて文章を台無しにしているのだろうか。何か他に記すべきことがあるとは思えず、実際に記していることもそうではないような気がして、なぜそこでやめられないのかよくわからないが、気がつけばそうやって言葉を記しているわけだ。だから君にはおかしいと思われる。意識がそれとはまったく別方向へずれていきたいのに、言葉を記している現状を変えることができない。
それは何かの冗談だと思いたいのだろうが、現実がそうなのだ。君がそれを食い止められない現状は変わらない。そうなってしまう現実を受け入れられぬまま、誰かがひたすら空疎なことを記している。それは君ではない誰かなのだ。おそらくそれが嘘なのかもしれないが、嘘でもいいからそう記さざるを得ず、それによって何も思いつかない苦境を抜け出ようとする。なぜそうなってしまうのか。何とかしたいと思っていて、実際にそれで何とかなると確信しているのだ。同時にそんなのは無理で、ごまかしに他ならないとも思っているはずだ。それでどうにかなったのだろうか。現実がこれか。君は語りようのないことを語ろうとして、挫折したつもりなのだが、現実に記された文章を読み、落胆とともに安堵する。矛盾しているのはわかっているが、そうなるより他ないこともわかっているはずだ。相変わらずできないことをやろうとしている現状に変わりはなく、実際に何も語っていないのではないか。それらの文章の中で語られている自問自答以外は何も語られていない。それが唯一の語りなのか。そこで記されている文章そのものだ。そしてそれのすべてが気に入らないのであり、何もまともに語っているとは認めがたく、それが強いられたことのように思えてきて、何によって強いられているのかわかっているつもりだが、それがどうしようもないことであるのも承知している。
7月26日それは不思議な出来事か。何となくしっくりこない。誰かは相変わらずそうではないと思っているようだ。それで何かを打ち消しているつもりになり、そうしていることをどう思っているわけでもない。猫が誰かを呼んでいるらしく、深夜に起きて外へ出す。誰かは見え透いた動作でこれ見よがしに何かを示そうとするが、わざと無視され、ふてくされて寝込んでしまったのか。それにしては天井の蛍光灯がまぶしすぎる。それが何を意味するのかわからない。眠ってしまってはまずいわけでもないだろう。そのまま永眠してしまう危険性はないはずだ。とりあえずは起きて、また世の中の仕組みを理解しようと心がけ、次いで何となくそれに嫌気がさして、情勢に乗り遅れていることを自覚できないらしい。それで楽しいのならそれでもかまわないだろうが、風に逆らって何になるのか。ただそういう曲を聴いているだけか。ジャズか何かなのだろう。他に何もできないことをやろうとしているわけでもなく、でたらめの内容でもかまわないから、とりあえず言葉を記さなければ、と思っているようだ。別に君が思っているわけではなく、それは誰かの気のせいでそうしていることになるだろう。そうすることに何の根拠も理由もありはせず、何かの勘と偶然の巡り合わせでやっていることか。君がそれを後追いする宿命なら、誰かは喜んででたらめを記すだろう。それはあり得ない話になるだろうか。それでもかまわないと思うより他はなさそうだ。誰もがそこから外れていて、その中でも誰かの外れ方が尋常でない。正気の沙汰でないというわけか。そう思うならそれでもかまわないのだろうが、今ひとつ何かをはっきりさせる方法に欠け、そのついでに決め手にも欠け、それが何のついでなのか意味不明に思われるが、とにかくそういうことでその場を収めないと、さらなる逸脱がその次に待ち構えている。君はそういう成り行きの中で、ますますできないことをやるはめになり、困り果て途方に暮れながらも、それを継続させるつもりなのだろう。目下のところはやめる理由を見出せず、居心地が悪く、タイミングも大きく逸しているのかもしれないが、とりあえずはさらにでたらめを記している現状に変わりはないようだ。おそらく君はそれ以上を望まないだろうし、誰かもそれ以外のやり方を試せない。そんなわけで妥協の産物として、そこに無駄な語りが偏在し、それをさらに続けようとする気があり、現実に続いているらしく、実際のところ何でもないような努力が続けられ、結果的に何かが生じている。
それを誰かが肯定すべきか否かに関係なく、そういう記述が現時点では可能らしく、それ以外の何がもたらされているわけでもない。それが文章なのだから仕方なく、半ばあきらめ気味にそれを記しているわけか。その辺で何か現状に対する疑念でも抱くべきかもしれないが、大したわけでもなく、事を大げさに荒立てる気にもならず、今はそれを全うすることに専念すべきで、何かをやり遂げることに精神を集中しているようだ。しかしおかしい。何を望んでいるわけでもないのに、そういう結果を得て戸惑い、別に課せられた使命でもないのに、それに逆らえず、ただ黙って言葉を記すしかないように思われ、今まさにそれを実行中なのだろうが、やはり何かがおかしくてたまらず、そういう表現形態を認めるつもりはなく、それはあくまでもとりあえずのものでしかなく、何かの間に合わせのための言説になっていて、空っぽの頭の中で、それらの言葉が空疎で虚無的に響き合い、君をなだめるつもりもなく、気休めにもならないような無内容を突きつけ、君はあっけにとられたまま、何も思わない瞬間が永続しているような感覚に襲われ、実際にそれがどうしたわけでもなく、精神的な痛手を被っているわけでもないか。
7月25日いつもの冗談とは関係なく、何か気分転換になるようなことでもあったのだろうか。それは気のせいかもしれない。居眠りの最中に何がどうなってしまったのかわからないが、だいぶ心が遠くまできてしまったらしく、気がついたら誰かの目が覚めていたようで、それから何がどうなったかは知らないが、君はそのとき何を考えていたのか。たぶん思いついたことはたわいなく、つまらぬ理由にこだわり、いつまでたってもそうする理由を知り得ず、とりあえず何をどうしたいわけでもなく、さらに遠くまで言葉を記そうとしているようだが、本当に君はそこで何を知り得たのか。とりあえずわかっていることは、何がどうなっているのでもないのに、この世界があり、人がいて、どこかでうごめいていて、無駄なことをやり続け、生まれて生きて死んでゆく。今のところはそんなことぐらいだろうか。それだけでは物語的につまらないだろうか。もっと何か具体的で誰かの頭を刺激するような現象を体験できないものか。例えば人はこの世界で何をしているのか。多くの人が仕事をしている。自らの頭脳に自信がある者なら、金を巡る宗教じみた資本主義にはまり、金儲けの手段をあれこれ模索して、いかに効率よく金を集めるかを他の同じような者たちと競い合い、利益を蓄積しながら、より多く儲かりそうな試みに投資し、さらなる資本の集積を目指す。そしてそれとは無関係なある者は、それに関して何をどう思っているわけでもなく、ただ漠然と時を過ごし、マスメディアが仕掛けてくる流行現象に心を奪われ、同じようにして心を奪われた者たちと同じようなことを思い、同じようなことに夢中となり、同じような生活様式に従い、同じように生き、同じように死んでゆく。幸せとはそういうことかもしれない。だがそれが何かの皮肉と受け取られてしまうと、何となく嫌みな印象が残ってしまいそうだ。本当に君は何を考えているのだろうか。 本気で何を考えているわけでもなく、ただの冗談として受け取ってほしいのか。だから何を考えているのだろう。また雨が降ってきたようだ。昼間が暑すぎたのだろう。他に話題もないのに話題をそこへ逸らそうとしている。また意識を虚無の領域へと退散させるつもりなのだろうか。誰がそうしたいのだろう。それらの文章は話者を欠いている。今さら何をねつ造しようとしているのでもないだろうが、とにかく誰かがそこで語らなければ話が前へ進んでゆかず、いつまでたっても逸脱と逡巡と戯れるばかりか。君はそれでかまわないと思っているのだろう。たとえ何かが存亡の危機であったとしても、君には関係のないことなのだ。そこで何を心配しているわけでもなく、どこの誰を助けようと思っているわけでもない。しかしなぜそんなことを思うのだろう。やはり何かの冗談なのだろうか。話の内容が理解できない。
そういうわけで何だかわからないようだが、とりあえずごまかしの積み重ねによって今があり、そんなことを述べているうちに時が経ち、言葉を導きだせぬまま、沈黙に抗うこともできない。そしてどうやらその辺が限界であることを知り、誰かはまたあきらめてしまうのだろうか。現実に何も語ることができない。何だかブレーキがかかり続けているようで、前に進むことができず、何も考えられなくなっているようだ。なぜそこから先はごまかしがきかないのか。先ほどまではごまかそうと思えばいくらでもごまかせる気でいたのかもしれないが、どうやらそれにも限度があり、限度を超えてごまかそうとすればどうなるのか。たぶん現状がそれだ。もはや何も語ることができなくなり、そんなふうに語っていることを除けば、それは真実かもしれないが、今さらそんな嘘をついてどうするのか。たぶんどうもせず、ありのままの現実が語られているだけだ。
7月24日誰かはそんなフィクションの中で何を悟ったのか。嘘と冗談でしかないのかもしれない。あるいは何も悟れずにあきらめてしまったのかもしれず、それ以外で語られているのは相変わらず何の話でもなく、何も語らずに言葉を記す、とか言う毎度おなじみを述べようとしている。だから今は何も思いつかないから、語っているのは無内容で、何か気が利いているふうを装う必要もなく、上から目線でこの世界で起こっていることを批判する必要もない。そして期待を裏切られて、あっけにとられるような結末に遭遇して、それが予定調和の物語でしかないことには気づいていながらも、要するにそれを期待している。そういう定型には収まりきらないような何かの出現を待ち望むことも、それらの物語の範囲内だということも知っているはずで、さらに違った話の展開を望むのは、何かの中毒症状になっている証拠か。そうだとしても誰もがそれでかまわないのではないか。何がどうなろうと知ったことではないのが、無責任な好奇心の行き先を暗示していて、それを超える何を待ち望んでも、出てくるのは幻想と妄想の狭間で期待される何かの出現でしかなく、少年漫画に出てくる大げさな対決が示しているように、そこに作者と読者の願望が反映されていて、見せかけの夢を見ながら、単純明快でわかりやすい目標や目的の影の部分に、何やらおぞましい情念を忍ばせながら、作者と読者がともにともにそれをわかろうとすべく、影を巡る謎解きを楽しんでいるのかもしれない。しかしそれで何がわかるのか。すでにそれがわかっているのではないか。たぶん現実の世界でも漫画の中でも、あるいはテレビドラマでも、常に人は行動し、時には意見の違いから衝突したり、あるいはそれを経ながら、時には固い友情で結ばれたりしながら、誰かにとっては受け入れがたい何かに至ろうとするわけだ。それは物語としての結末か何かか。いつか話は終わらなければならず、そこに終わる理由があろうとするわけだが、それが何を意味しようと、それがどうでもいいことに気づくには、いったい何が必要で、それに関してどう説明したらいいのだろうか。そこで君は何について述べているつもりになれるのか。何をどう考えても、話の途中からあらぬ方向へ外れているようだが、それでかまわないのか。途中で自ら述べている内容を忘れ、意識と連動しながら言葉が記されるにつれて、いい加減で当てどない思索と偶然に出会う雰囲気に戸惑いながらも、わざと迷子になったような気になり、自らが作り上げた言葉の迷路の中で途方に暮れ、そんなことを思っているうちにも何かを語り、それを語りながらも、何を語ったらいいのかわからなくなり、その先に記される言葉の連なりを知り得なくなるわけだ。そしてそれがどうしたわけでもないと思い、さらに夢の中で言葉を記そうとしている。それはあり得ないことだろうか。
ではいったいそれの何がおかしいのか。開き直って何を肯定する気にもなれないようだが、たぶんそれが違っていると感じているのだろう。簡単に述べるならそういうことだが、それがどういうことかわからず、何が違っているのかもわからない。それが違っているだけで、そういうことではないと思いたいのか。だからそこで限界に達していて、そこから先に言葉を連ねられなくなり、そこであきらめて引き返すしかないと思われ、実際にもときた道を後戻りしながら、何かを省みようとしている。何がそこで問題となっているのかといえば、それは問題を探していることか。そして無理なのに続けようとして、そういうことをやろうとすること自体が問題なのに、たぶんわかっていないのだろう。確かにそれは無理であり、すでに終わっていることを今さら蒸し返しても意味がない。要するにそこで話が終わっているのだろうか。君はそんなことにやっと気づいたのか。
7月23日また冗談で行き詰まっているのか。本当はそうでもないのだろうが、焦ってはいけない。それにしても何に対しても興味が湧かないようだが、それでかまわないと思うのはなぜだろう。この世界から学ぶことを忘れたらどうなるのか。なめてかかっていると、いつか窮地に陥った時に、何かを思い知るのだろうか。そうならないためにはどうしたらいいのだろう。そこから何を導きだすつもりなのか。たぶん今のところはわからない。だから思い知るような体験が必要なのか。冗談と述べるならそういうことになる。ところで君はそれで何を思い知ったのだろうか。言葉が何も出てこないことを思い知る。だから何だというわけでもないだろうが、とりあえずは何かを取り繕って、平静を装わなければならない。本気でそんなことを思っているのだろうか。いつも冗談でそう思っているのではないか。それなら状況はそのままだ。まったく懲りていないらしく、何を懲りたらいいのか理解できないようだ。そんなふうに無駄に言葉を連ねて、いつものように何かをやり過ごしているのだろうが、何かとは何なのか。要するにそういうことがそうなのかもしれない。そんなことはどうでもいいのかもしれない。何かが何であってもかまわないということか。何かという言葉以外の何ものでもなく、それが具体的に何を指そうと、そんなことはどうでもいいわけか。いったいこの世界に不具合というものがあるわけか。具体的にあげればいくらでもあるだろうが、そのままであってもかまわないのか。実際に放置されたまま、どうにもならなくなっているのではないか。例えば国家の水準では不具合を是正できなくなっている。景気回復と財政再建の狭間で政策的に身動きが取れなくなっていて、どっちつかずのまま、どちらも達成不可能になりつつある。一方で東アジアの軍事的緊張を理由として、沖縄にはアメリカ軍が居座り続け、地元住民の意向が踏みにじられたまま、現状維持が既成事実化している。またアフガニスタンでは一向に治安が改善せず、パレスチナではイスラエルの横暴が野放しにされている。それがどうしたのだろうか。どうもしなければそのままの状態が続くだけか。実際にどうもしていないようだ。テレビをつければ、相変わらずお笑い芸人が知的文化人気取りで、政治家に向かって利いた風なことを言い放ち、何がどうなるわけでもない現状維持を後押ししているわけか。
たぶんそれらの問題を解決するために、日夜努力している人たちが大勢いるのだろうが、やはり結果的には何がどうなるわけでもないのだろうか。何かがどうにかなる場合もあるだろうが、そんなことが延々と続けられるわけだ。そういうことをやる立場を占有している人たちが、お互いに知恵を出し合って、漸近的に自分たちが理想としている状態に現状を近づけようとするわけだ。たぶんそういうことが繰り返されて、未来の世界が構築され続ける。しかしそれが何なのだろうか。君も君特有の立場に基づいて、君なりの意見を述べ、また行動しているのではないか。だから結局はそれをあきらめてはいけないということになるのだろうか。時にはアホくさくなるようだが、何はともあれ、それらの言葉にしがみつき、それが継続するような算段をあれこれ巡らせているのかもしれず、半ば呆れながらも、何とか正気を保ち、それが誰の感慨ともならないように、とにかく言葉を連ねているようだ。たぶんそれをそのまま続けても大したことにはならないだろう。ただの気休めにさえならず、かつて抱いていた幻想からはほど遠い内容になりつつあり、それが何らかの変化を被った結果だと思い知るわけか。かつての誰かからは、もう後戻りできないほど遠ざかり、今はまったく別人となりつつあるのかもしれない。
7月22日それほど窮地に陥っているとは思えないが、何となく状況が深刻なふりをしつつ、また苦し紛れにできないことをやろうとしているのだろう。もう深夜だ。目が覚めれば翌朝になっている。そして気がつけば昼になっていて、さらに気づけば夜になっている。たぶんその途中で仕事をしているのだろうが、何も記憶には残らない。そうではなく、取り立てて言葉を記す動機がないのだ。それについては何も語らずに終わらせたいのか。終わらせようにも終わり得ない。まだ何も始まっていないようだ。それとも始まってはいるが、何が始まっているのかわからないだけか。君はそこで何を始めようとしているのか。たぶん何も始められず、すでに始まっているそれを知り得ない。要するに何もわからないということだ。何もわかろうとしていない。わからなくてもかまわないのかもしれず、わかる必要がないのだろうか。いったい何をわかったつもりになれるのか。つもりではなく、本当に知りたいことがあるのではないか。いったい何を知りたいのだろうか。誰が何を知りたいのか。そういう問答は飽きているはずだ。だがそうなってしまう現状を変えられない。笑ってしまうが何がそんなにおかしいのか。たぶんそういうことではない。文章上で誰かが何かを語ろうとする。そんな文章をどこかで読んだことがあるかもしれない。そんなことを記しているうちに夕立の時間帯になったようだ。遠くで雷が鳴っている。心を静かにして、どこかからか言葉を選んでくる。思いついたのはそんなことか。日焼けしてしまったらしく、顔がひりひりしてくるが、心がどこから遠ざかってしまったのではなく、炎天下で仕事をしていただけか。そこで何かが折れ曲がってしまったらしく、寸でのところで何かをかわし、わけがわからない作業を延々と続けていたのは夢の中だったことに気づく。とりあえずは現実の世界で生きていることを実感しているらしい。それも他人の言動とは関係のないことか。ただ迷っている。どこをどう通っても以前と同じ地点に戻ってくる。夢の中でどこかを経巡ってきた記憶はあるようだが、それとこれとは結びつかず、何とかしてまともな言説にしようと苦心しているようだが、現実はこれか。相変わらず何の話でもありはせず、言葉が文章から離れていってしまい、文章上には何も残らない。それはただの印象だろう。恣意的な意図など何もなく、他の何に興味を持とうとも思わない。君はそこで何を打倒したいのか。そこで読んでいるのは何かの漫画か。
目が光を失いかけているようだ。そんなフィクションを読んだことがあるらしいが、それは有名人が失明する話か。目の前の色がにじんでいる。誰かが描いた水彩画を見ている。とりとめのないことを語っているのかもしれない。何かの基準が曖昧だからそうなってしまうのか。君が知り得たことではない。何の知識でもなく、知ろうとしていないのに知ってしまったわけでもなく、何となく眠ってしまったらしい。疲れていたのだろうか。それは誰の認識ともならない。そこで何を話しているとも思えず、そこから先に話が進まない。果たして先があるのだろうか。いったいどんな約束が果たされたというのか。無理に語ろうとするが、内容が伴っていないようで、言葉がバラバラで散り散りになっている。たぶん何かがそういうことなのだ。しかし何かとは何なのか。何かの外れ具合が著しくなってしまったのか。あきらめてしまいそうになっているのに、なおもわけのわからぬ動機に突き動かされ、意味不明気味に言葉を並べようとしているが、そこで何かが途切れ、何かが違うような気になっているのか。どうもわからない。頭の中で言葉が錯綜しているが、それが文章になっていない。何があり得ないことなのか。
7月21日たぶん何かを続けようとしているのだろう。何を茶化しているつもりにはなれないが、誰かにはそれをやりきる能力がありそうだ。それができると思っている。そんな根拠のない自信に満ちあふれ、玉砕覚悟で何かに挑みかかり、それから誰かはどうなったのだろう。そこでリアリティが砕け散っている。そして何かが黄昏れ、夕日の中で自信を喪失した何かが踊っている。いつものように意味がわからなくなり、どうでもよくなってしまいそうになるが、たぶんそれでかまわないのだろう。でたらめに言葉を並べ、その一方で何かを述べているつもりでいる。要するにフィクションの中で夕立にあい、濡れたまま冷房にあたっていて、そのままでは風邪でもひくかも知れない。誰かがそんなことを思っているようだが、本当に風邪を引いたら厄介か。ならば急いで長袖のシャツを着込み、エアコンの冷気に耐えなければならない。寒ければエアコンを切ったらいいのかもしれないが、それをやったら今度は蒸し暑さで死にそうになる。死ぬはずがないか。中には熱中症で死ぬ人もいるだろう。だからエアコンを切らずにいるのではないか。何に納得したわけでもない。そんなわけでまだ言葉を記す時間があるだろうか。今から無理ではないのか。では気分転換に居眠りの最中か。そうなってしまえば翌朝まで目が覚めない。また何かのアレルギー反応が出る。いつまでたってもそれが治らず、慢性化しているようだ。君はそこで何を求めているのか。そう述べて何を問いかけているのでもなく、問いかける対象を探しているのでもない。要するに何も求めていないのか。では君は何を求めているのか。いくら問いかけても自分に返ってくるようで、何の返答も期待できず、何も用意されていないから、期待に応えることができない。しかしそれは誰のいいわけなのだろうか。またそこから誰でもないとなってしまうのか。ならば以前と同じことの繰り返しだ。それを目指しているわけでもないのにそうなってしまうのはどういうことだろう。わざとそう述べて、何かをやり過ごしているのだろうか。ではそのやり過ごしているつもりの何かとは何なのか。その辺でわけがわからなくなり、後は意味不明な言説に終始するだけか。それはかなり回りくどくてくだらない成り行きになっている。何かを試みているつもりが、そうなるしかないとしたら、そこで何を修正しなければならないのか。
そうやって何かに間に合わせるつもりなのだろうが、それが本意ではないことはわかっているつもりか。しかしそうなるしかないこともわかっているつもりかも知れない。だから何をわかっていようと、結果的にそうなってしまう現状を変えられないということだ。そしてアレルギーのかゆみに耐えながら、また冷房の寒さに耐えながら、また冷房を切った時の蒸し暑さに耐えながら、結局すべての不快感に耐えながら、何をやろうとしているのでもなく、ただ言葉を記しているわけか。そんな現状をどうしたいのか。昼の仕事に支障を来さない程度の試みにとどめようとしているのかもしれない。それではだめだということもわかっているつもりか。何ももたらせず、そんなあきらめと落胆の中で朽ち果てるのを待つのみか。そういう文学的表現が不快極まりないか。冗談でそんなことを述べているのだから、それはそれでそういうことだと割り切っているのではないか。だからそれがどうしたのだろうか。どうもしないから結果的そうなっているだけで、それも誰かが構成するフィクションの中で起こっていることか。そうだとしても気に入らないことに変わりはなく、それ以外の結果になるように、言葉を入れ替え、心も入れ替え、意識も入れ替えようとしているわけか。たぶんそんなのは嘘で、結果的に何をもたらしているわけでもない。
7月20日相変わらず何もないので語り方が回りくどい。それに気づかない。何かの拍子にきっかけをつかんで、気まぐれなのかどうか知るよしもないが、そこから遠ざかる算段をつけ、本当にそれを実行に移すかどうかは知らないが、ともかくそうなった場合の成り行きをあれこれ思い描き、そんな空想の中で意識が自足しそうになっている。やはり何かの冗談だろう。目下のところは何ができないわけでもなく、たとえそれがフィクションだとしても、何かを語る理由を探す気もないのに、そこで能天気に語っているつもりの誰かを、そのまま放置しながら、誰の都合とも無縁に並んだ言葉の連なりに感動してしまう。もはや語っているのは誰でもない。しかしそんな嘘を信じてもいいのだろうか。意味不明でわけがわからないのはいつものことだ。しかしそれだけでは何かを説明したことにならない。だからそれだけではないと信じている。いったいそれの何が確信につながるのか。そんな自問自答では何もつかめないだろう。つかむ必要がないのではないか。それでも君は何かをつかんでいると確信している。時にはそんな嘘をついてみたくなるらしい。何の意図もなく、そんなことを述べているようだ。今日も必要のないことを語るつもりなのか。何も語りようがない。そして語りようのないことを語るつもりらしい。またそこから外れてしまうのだろうか。無駄で無意味なことだ。それらの行為が何もたらすはずもない。きっとそうではないと思いたいのだ。何をどう思っているのだろう。わざと矛盾させようとしている。時間には限りがあり、それを有効活用するつもりがないらしい。それとは何だろう。言葉がまとまらず、あたりを意識が浮遊しているわけでもなく、それ以前の何かが散らばり続け、君はそれを知っているのだろうか。たぶん芸術ではない。眠れない夜でもない。どこかにまとまろうとしているのかもしれないが、結果として何がまとまっているわけではなく、それが文章になるわけではない。砂混じりのアスファルトが道いっぱいに広がっているだけか。たぶんそれと言葉は無関係だ。イメージの世界では何かと何かがつながっているらしいが、それを現実の世界に持ち込もうとしているのではない。では何なのか。それはいつものように何でもないということか。だらけているのだろう。そして何も語れなくなっているようだ。それらの言葉の配置がよくわからず、何かをあきらめてしまいがちのようで、そうなってしまう現状をどうすることもできずにいる。
着実な歩みとは何だったのか。そこに何かが埋め尽くされようとしていた。おかしなことだ。言葉遣いがおかしい。そのとき何に夢中になっていたのか思い出せない。今となってはどうでもいいことなのか。どこかを通ってここにたどり着いただけの話だ。それが回り道か否かは、後になって思い出してみなければはっきりしない。人はただうごめいている。理由もなしに行動してもかまわないのに、ひとたびそれが事件となると、理由を求めずにはいられなくなり、原因があって結果があるようなフィクションに絡めとられ、それが当たり前のような話となってしまうらしい。近頃は誰もがそんなフィクションの被害者なのだろう。君はそういう作り話を語りたいのか。そうかもしれないし、そんなことができるとも思っていないのかもしれない。君にとってはどうでもいいことなのだろうか。そうだとしてもそれに魅惑されている。だがそれが何かの虜となっている証しとなるだろうか。聴いている音楽が語ることはない。代わりに何かが奏でられているというわけでもないだろうが、何となく落ち着いているようだ。やはりあきらめているのかもしれず、何も語れないことを認めるつもりらしい。いったい何に降参しているのか。
7月19日別にそれが気に入らないわけではないが、とりあえず人がこの世界でうごめいている。君は虫けらか何かのたぐいか。ならば本来の君からはかけ離れている。ところで誰かは人なのだろうか。ならば地上でうごめいているうちの一人か。何を考えどんな行動に出ているのか。たぶんそう述べているうちの何が冗談なのでもなく、少なくとも何か適当なことを語っているはずだ。どこから外れているとも思えない。それは話ではないのかもしれない。何の話でもなく、誰が語るべき内容も有していない。あるのはただ空疎と虚無のみか。ならばただの冗談になる。そう述べて何を裏切っているのでもない。それらのどこに誰の期待が反映されているとも思えない。では君はそういうことを語りたいのか。君が語りたいのではなく、誰かが言葉を記しているだけなのはわかっているつもりだ。君がわかっているのではなく、そのつもりで誰かが言葉を記しているということになるだろうか。だから何がどうなのでもなく、そういうことを述べているつもりなのだろう。そしてそこで空疎な内容が提示され、言葉が停滞している。だが今さらそんなことに気づいてどうするのか。とりあえず何を否定したいわけではなく、それらのすべてを肯定したいわけでもない。なかなかそこで何かを示せないようだ。あるいは何を語るべきでもないのかもしれないが、まともに言葉を記している状況に持っていきたいのだろう。たぶんそれは難しい。調子に乗って世の中で起こっている何かの現象を批判すれば、手痛いしっぺ返しを被るか。だから冗談を述べているわけでもないだろう。そういえば近頃はマーカス・ミラーのベースに出会っていない。二千数百曲の中からそれに出会うのはまれか。誰かの音楽を聴きながら、それとは無関係なことを思いつくが、誰かの心が孤独なのか。なぜそう思うのか。この世界では何が問われることもない。問われているのは何だろう。だからこの世界そのものではなく、それに比べれば枝葉末節なことだ。誰かがどこかで何かを歌っていて、そこで歌われている何かが、問われるべき何かとは限らず、何かの気休めか冗談のたぐいかもしれない。そしてそこで思いついた何かが文章上に記されるとも限らず、それについては何も語らずに何も記されないまま、それらの試みは何も得られずに、誰かは黙ってそこを後にしてきたらしい。それが今ある現状となっているわけか。それが何を意味するというのか。たぶん何のことでもなく、どうしたわけでもない。
そんな誰かの思いも夏空に溶け込んで、強烈な日差しが思考力を鈍らせ、次いで自らが何を考えているのでもないことを悟り、退屈な日常の中で取り立てて何をするでもなく、日々仕事に励み、それが退屈しのぎだとは思えないが、そんなことをやっているうちに老いて、すでに手遅れであることに気づいた頃には、この世ともおさらばか。誰が誰と何を競い合うのも、退屈しのぎの一言で片付いてしまうような気がするのは、競争だとかいう行為の価値を軽く見ている証拠だろうか。しかし何が無意味だとも思えず、価値という言葉の意味を疑い、人がやりたいことを冗談によって否定しようとして、そんな無理を強引に語ろうとしている。しかしなぜそれが無意味だと感じてしまうのか。たぶん人は自らやっていることに格好がつけばそれで満足してしまうのだろう。他人に評価してもらいたいのか。誰かの身勝手でやっていることを他の誰かに認めさせたいわけか。それは虚しい自己主張になるだろうか。そうであったとしても、相変わらずそれをやめようとせず、そうでなければ何をやったらいいのかわからなくなってしまうだろう。そこに何があるわけでもないのだろうが、何かがあるようなふりをしていないと気が済まないのだろう。
7月18日ところで架空の話はどこで話される可能性があるのだろう。何のことやらわからない。そんな話をいつかしてみたいか。しかし誰かが一週間ぶりにどこかへ戻ってみたら、そこで何が起こったのか。君が語っているの内容は相変わらずの支離滅裂のようで、別に話の中で誰と雑談をやっているわけでもなく、ありもしない話について、あれこれ空想を巡らしているだけらしい。後はただいい加減に誰かが言葉を記すばかりか。それでもぼやぼやしているとまた明日になってしまうだろう。そうなるとそれでかまわないことになってしまい、さらにやる気をなくしてしまう。誰かはそうなることを望んでいるのだろうか。時にはもうやめたいとも思っているだろうし、やめるきっかけを見つけたら、そこでやめてしまうのかもしれない。しかし実際にそうならないはなぜか。本当はやめる気などさらさらなく、話の成り行きで、やめたらどうなるか思いを巡らしているだけか。今さらやめる理由など探してみても始まらない。ではそれ以外に何が始まらないのだろう。例えば君の物語が始まらない。それは誰の物語でもなく、物語そのものが不在の物語か。だからそれでは物語とはならない。君はすでに眠たそうで、すでに今日の日付で語るのをあきらめている。本当にそうなってしまったらしいが、なぜこれほどまでに蒸し暑いのか。すでに梅雨明けだから蒸し暑い。しかしそんなことを語って何になるのだろう。何にもならないことを語っているつもりになる。そして今はそれでかまわないと思う。だからそういう嘘をつきながら、誰かが文章を構成しているわけだ。君はそれが嘘ではないと思っているわけか。それが嘘なら、誰と誰が対話することもない。フィクションだからかまわないのではないか。だからそういうことを語りたいわけではないのだろう。では語りたくないことを語っているわけで、それどころか語りたいことなど何もないのではないか。どうやら図星か。わからないがそういうことになるのだろう。いったい何がわからないのだろうか。何もわからないわけではなく、そんなことはわかっているか。では何がわかっているのだろうか。さっきから同じような言葉が繰り返し記されている。
何だか延々と同じようなことを記しているような気がする。やはり何かが違っているのだ。そしてそれを知っていながら改められない。しかし冷静になって考えてみると、述べていることがかなり恣意的でおかしな感覚だ。それも何かのフィクションなのかもしれないが、いったいフィクションとは何なのか。何かを語っているつもりでも、それが虚構なのかもしれず、本当は何も語っていないのかもしれない。しかしそれは以前にも気づいたことだ。そして実質的には何も語っていないにも関わらず、そこで何かを探求しているはずだ。虚無とは何か。あるいは空疎とは何なのか。そんなことを探求しているのだろうか。わからないが、そこで何かが一段落して、結論めいたものを提示できるだろうか。そうなったらそこで終わりではないのか。終わってしまってもかまわない。意識して終わらせようとしているのではないが、自然に終わってしまうのなら、それが本当の終わりなのかもしれず、無理に引き延ばそうとしても、本当の終わりは動かしようがないか。君はそうなることを願っているのか。だから何をやろうとしているのでもなく、何かを語ろうとしているのだろう。そして結果的に何も語れず、何も終わりようがない。終わる以前に始まらないのだ。では何も語り始められずにどうしているのか。どうもせずに何もやろうとせず、その代わりでも何でもなく、君とは無関係に誰かが何か言葉を記していて、それが何か空疎で虚無的な文章となり、そう思い込んでいる君が焦っているわけだ。しかしそんな嘘をついているのは誰なのか。
7月17日その後トラブルは解消したのだろうか。今となっては忘れ去られているようで、事故でも何でもなくなっていて、誰かにとっては何の話なのか定かでないが、それでも架空のそれを乗り越えて、何とかやるつもりなのだろう。しかし言葉を記してどうするつもりなのか。何かの自己満足にでも至ろうとしているのか。だから何の話でもなく、何をどうしているわけでもないが、それで何かを成し遂げている気になる。それは馬鹿げたことか。確かに馬鹿げたことかも知れないが、それを成し遂げて自己満足に浸らなければならない。他に何をやろうというのでもなく、君はそこで何かを期待している気になるが、思い通りにはいかないだろう。たぶんそれも織り込み済みで、何かが邪魔をして、あらぬ方向へ意識が逸れてゆくのも、予定調和の範囲内だ。そしてまたくだらぬ妄想を抱いている。いったいそこで何を夢見ているのだろう。空は朝から晴れ渡り、数日後はかなり暑くなりそうで、本当に暑かったらしく、すでにその数日後を体験していることに気づき、誰かは何の話にもならないような何かとともに過ごしている。実際に何でもないから話にはならず、本当はそういうことではないと確信しつつも、何がそういうことではないのかわからず、気分が優れない。たぶんそうではないだろう。まったく架空の対話にもならず、誰と誰が何を語り合っているのかもわからない。だからそういう話を記しているつもりになれるわけか。しかし今回の外れ具合は尋常ではない。そう思うのもいつもの範囲内にいる証拠か。いったいこの世界にはどのような罠が張り巡らされているのか。それも何かの思い込みの延長上で語っている内容か。何と何が競争しているのでも対決しているのでもないように思いたいのは、何かの気まぐれがそうさせるのか。たぶん答えなどありはしない。あるのは行き詰まりだけだ。何をどうやっても行き詰まってしまうだろう。それ以外にはあり得ないのだろうか。どう考えても競争や対決を回避する手だてはなさそうだ。物語的にはそうなってしまうのが宿命だろう。どうあってもそれがないと話にならず、話そのものが他者との競争や対決なのだから、それを省いたら話にならないことを覚悟しなければならない。しかし馬鹿げている。この世にはくだらぬ話が蔓延しているようで、君はそれがどうでもいいことだと思いたい。本当にそう思うなら、何かを語ろうとしなければいいのだろうが、誰かは言葉を記すのをやめようとせず、理由もなく文章を構成しようとしているが、とても正気だとは思えない。時にはそんな嘘をついてみたいわけか。それがわけなのか。
すべては場当たり的な対処となるだろう。もはやそれしかなく、それがうまくいったらそれで済んでしまい、うまくいかなければ他のやり方が模索されるだけか。そんな試行錯誤の繰り返しが人の歴史となりそうだ。それ以上の何が見出されるわけでもなく、何を見出そうとしているのでもない。何かを単純化すればそうなってしまい、何のための試行錯誤かと問われたら、生き残るためという答えが導きだされ、結局それらはただの生存競争と見なされ、何となくその辺でしらけてしまうわけか。いったいそれ以外に何があるのだろう。君は何を問うために語ろうとしているのか。理由もなく言葉を記している、と嘘をつくわけにもいかないか。本当に嘘をついているのだろうか。その辺に言葉を記す理由が見当たらないのはどういうわけなのか。フィクションだからそんなのもありなのか。何がわからないのかわからないが、何を記そうとしても、そこに記す理由が求められるとも限らず、わけもなく言葉を記しているだけで、それで済んでしまうなら、それでかまわないだろう。確かにそう思いたければそれでいいのではないか。たとえそれが架空の自問自答であろうとなかろうと、やはり取り立てて何を記しているのでもなさそうだ。
7月16日今頃になってやろうとするが、すでに手遅れか。時すでに遅しというわけでもないだろうが、何に呆れているのだろう。それはどのような現象でもなく、たぶんここから心境が変わって、何がどうなるわけでもなく、ひたすら意識が何かから逸脱していってしまう。誰かがそう思っているだけで、本当は無意識のうちに的を射ていることに気づかないのではないか。取り立てて何を指摘しているわけではない。では問題とは何なのか。誰かはそこで何を妄想しているのだろう。たぶんそういうことではない。数日後にやってくる梅雨明けの熱波をくぐり抜け、熱中症で意識を失いかけながらも、ようやくここまでたどり着き、冷房の利いた部屋の中で誰かが言葉を記している。それが実際に体験している現実か。それ以外に言葉の連なりが何を示しているとも思われず、誰かはそれとは違う何かを考えているようだが、いつものように文章の中では明らかにされないようだ。では誰かが記しているのは何のための文章なのか。気休め以外の何のためでもなければ、冗談そのものに違いない。そう述べてまた嘘をついているようだが、たぶんそこから他の何かが明らかになっているのかもしれない。実際に誰かがどこかで何かを示しているつもりになる。要するに結果はごらんの通りだ。それでもどこかおかしい。何をどう述べてもそういうことになる。それでは意味不明だろう。君は無意識のうちに何かを忘れ、誰かがそれを思い出して、行動に結びつけ、そしてこんな結果となってしまう。それがどうしたわけでもなく、またいつものようにそんなことを述べている。なぜそんなことが繰り返されてしまうのだろう。君にはそれがわかっていないようだ。わかったところで何がどうなるというのか。手が滑ってガラスが割れて、面倒なことになる。うまくいかない時はそういうことになる。あるいは他がうまくいってしまったから、油断したのか。そうだとしてもなおのことおかしいのではないか。機械が熱くなり、冷却ファンがうるさく回りだし、そろそろ寿命であることを悟り、面倒くさいが新しいのを買わなければならない時期が近づきつつあることを感じる。いろいろ面倒なことを考えていると、他のところで綻びが出て、思わぬ失態をしでかすようだ。それでも何とかここまできた。割れてしまったものは仕方がない。だから今さら焦っても無駄だ。無駄だと思うからなおさら焦るのではないか。君は無意識の力を信じている。それを活かしてそうなってしまったのだから、それはそれでそういうことなのだ。
そして君にはまだやるべきことが残っているはずだが、それは何なのか。まだそこまで考えが及ばないだけで、そこに至ればやるべきことがわかってしまうわけか。そんな漫画やテレビゲームのような具合にはいきそうもない。どこまでいっても何もわからず、確証を得られないまま、ひたすら試行錯誤を繰り返すのみか。それで何がわかるというのか。わかろうとすることが安易な発想であり、いい加減な話の展開か。それでもかまわないと述べていたではないか。それによってもたらされたすべての結果が気に入らなくても、それでもかまわないと述べるしかないだろう。そういう語り方が今までのすべてだったはずだ。君には強がってみせることしかできず、やせ我慢を強いられている現状をそのまま放置し続けてきた。そして何でもないことにこだわり、そこから一歩たりとも外へ出ずに済ませてきただろう。その報いが今をもたらしているわけか。だからどうしたわけなのか。こうなったらさらに我慢し続けるまでか。いったい何を我慢しているのだろうか。そしてひたすら耐えている現状とは何なのか。今あるこの世界の現状の何が我慢の対象となっているのだろう。別に堪忍袋の緒が切れたわけでもないはずか。そういう表現が意味不明で空疎なのか。
7月15日いつもの調子で何を考えているわけでもなく、何が相変わらずのはずもない。とりあえず昨日の話が二日後に記される。語っているのはそんなことだが、それで語っているといえるだろうか。何も語っていないのと同じことか。切羽詰まらないとやる気がしないらしいが、どういう状況がそうなのかわからず、それで困ることもないだろうが、今は何となくくだらないことを記しているのかもしれない。君はそんなふうにして外れてしまうのだろうが、誰が何から外れてしまうのかわからない。君ではないのか。たぶんそう述べて何かを裏切りたいのではないか。しかし何かとは何だろう。何でもなければ何かではない。だからそこには何かがあるはずで、それらの文章はその何かについて語っている。君はそれが嘘だと思っているわけか。嘘でないなら何なのか。何でもないというわけか。こうして言葉は自然と振り出しに戻ってきて、意味不明気味に何かを繰り返し、それが空疎な語りを構成し、君を戸惑わせ、同時にあきらめさせ、他に何もないような虚無と戯れているつもりになり、何を述べているのでもないような文章になる。そこで何を断念しているのか。今日という日付が記されるのをあきらめているらしく、その気もないのに残念がって、そうではないような気がしつつも、その事実を受け入れ、何となく肩の荷が下りたような気がするが、それは夢だったのだろうか。何かの拍子に目が覚めたら深夜だった。そして今はその続きを記している夢を見ているのだろうか。続きも何もないだろう。点けっぱなしの蛍光灯も何もありはしない。君が抱いている幻想も何もなく、それが事実であり、何でもない現実に過ぎないからか。いったい何がそうなのか。見えているのは現実でも事実でもなく、ただの言葉か。そう思って何を見逃しているのか。ひねりを加えて何かをごまかしているようだが、何かとは何だろう。何かがそうであり、他の何かがそうではないのだろう。君はそこから現実を見出したようだが、やはり何がそうなのでもなく、そこでひたすら何かをごまかしていて、今はその何かについて語ろうとしているのだ。夢の中で語っているのかもしれないが、それが何かの現実なのだろうか。同じ言葉が繰り返し記されているようで、それを前にして君は困惑している。何をどう語ってもそうなってしまう事実を受け入れられないのか。
また何かの加減でどんどん遅れていってしまう。それはもう二日遅れどころではないのではないか。これからどうなろうと知ったことではないのかもしれないが、とりあえず目が覚めたら深夜になっている。執拗にそうなっているようだ。何か同じ時間帯にしか目が覚めないらしく、他の時間帯では眠っているのだろうか。昼は仕事をしていた。要するに疲れているようで、誰かが言葉を記そうとすると眠ってしまう。ここ数日はそんなことの繰り返しで、何もはかどっていないらしい。他に何がどうなっているわけでもなく、相変わらず何もできず、何も考えられなくなっていて、何について語っていいのかわからなくなり、そして今はそれでかまわないと思ってしまう。それからどうなってしまったのか。草原に羊が散らばっているようで、何かの画面上にそんな光景が広がっていたらしく、それについて何かを述べようとしていたらしいが、今となっては何のことなのかわからなくなっている。映像は絶えず切り替わっていて、意識が追いつくことはない。何かについて述べようとすると、もうそこには別の映像がある。それは何の画面なのか。今は音楽を聴いているはずで、何かの加減で過去に見た映像を思い出している。まったくとりとめのないことで、いちいち何を思い出してみても、それが直接言葉を記す行為につながるはずもない。
7月14日君は何かを感じているらしいが、それは何らかの危機感だろうか。書物を読んで感想を抱くことはなく、その代わりに何やらわけのわからないことを記しているようだ。それは何のことなのか。そう問うことが文章となり、実際にそれを記している。それしかできない。それ以外に何を思いつくだろう。たぶん誰かが抱いているつもりの危機感とはそういうことなのだ。何も語ることができず、内容のあることは何も記せない。そして眠ってしまい、気がつけば翌朝になっている。最近はそんなことがひたすら繰り返され、何もできないことから生じる焦燥感とともに、疲労が蓄積していく。幾分妄想気味にそんな危機感を抱いているのかもしれない。それは誰かの思い違いなのだろうか。あるいはそう思いたいだけで、わざとそう思って気を紛らわしているのだろうか。そこから何をどう思ってみても、そういう記述を続けている事実をどうすることもできず、それ以外には何も記していないことも紛れもない事実か。だから君は何をどうしたいのか。どうにもできないことを呪っているわけか。しかし他にどんな悪あがきをできるのか。それではまともなことを記すには至らないだろう。だからそれでかまわないと思うしかないようだ。他人がどう思っているのか、それをことさらに知ろうとしているわけではない。他人にどう思われたいのだろうか。それは決まりきった結果をもたらし、良い印象を与えたいがために、誰かの期待に添えるように努力しているわけか。失敗した方が他人は喜ぶだろう。それが競争相手ならなおさらか。まったく冗談ではなく、他人の成功をねたみ、自らの失敗を隠そうとして、それで体面を保っているつもりになり、やはりそれは冗談ではなく、本気でそう思っているのかもしれない。だからわざとそう思いたいのか。そんなふうに語るなら、そういう結論に持っていきやすい。しかしそれ何かを記したことになるのか。何を省みて何を改めようとしているのでもなく、そんな成り行きに強引に持っていって、その場の行き詰まりをごまかそうとしているわけか。そう思うならそれでもかまわないか。とりあえずはそれによって何かを述べていることになりそうで、そんなやり方によって、そういう結果がもたらされ、そこから意味不明気味に言葉の連なりを引き出しているわけだ。そして結果的に何を思い知るのだろう。君がそこから引き返すことができず、そのままとりとめのない文章の中で迷子になってしまうのを黙って見守るしかないようだ。
君はそういう成り行きの中で何を思っているのか。所詮は言葉で記されたフィクションでしかなく、取り立てて何を思うにも至らないか。しかしそこで焦っているのは君ではないのか。体裁や面目が丸つぶれになることを何よりも恐れ、自らの立場を保持したいがために、場合によっては不正を働き、自らの保身に汲々としていると、人はどうなってしまうのか。その後に待ち受けているのはありふれた結果に違いない。いつかは強引なやり方に綻びが生じて、そこから身の破滅を招いてしまうわけか。そしてそんなことが繰り返されてきた結果がそれらの現状を形作っている。しかし現状とは何か。君が思っている現状がそれなのだろうか。結論を急ぐべきではない。そこから何を導きだそうとしているのか。そんなふうに述べている結果が君に何をもたらしているのだろう。君は何をあきらめているのか。誰もそこから抜け出られるわけがない。人が構成する社会がそういう人を形作り、自ずからそういう行動を生み出し、それにとらわれた心を生じさせ、その結果として誰もがそう思ってしまうわけか。それが気に入らないとすると、そういう結論に逆らって、どんな事実を提示できるのか。だから冗談ではないと述べているわけか。意味がわからない。
7月13日冗談とは何だろう。そんないつもの言葉が記されているようだが、とりあえずは実態として何が国家なのではなく、官僚機構が国家を支配しているわけでもない。君はまた荒唐無稽な妄想にとらわれているようだが、そう思ってしまう理由は何だろう。現状の何が問題なのか。このままでは経済が破綻すると危機感を煽る人たちを信じられない。そう主張することによってメディアは何を得たいのか。たぶん何も得られないが、注目されるのではないか。では誰に注目されることを期待しているのか。メディアがメディアによって注目され、メディア同士で互いに注目し合って、そこに意図や意向がないとはいえないだろうが、そういう思惑を超えて、たぶん何も得られず、何も起こらないだろう。少なくともそういう現象に違和感があるらしいが、たぶんそれがすべてなのだ。国家が経済的に破綻してしまったら、そこに暮らす多くの人たちが困るのだろうが、メディア的にはそういう成り行きになってもかまわないのではないか。それもメディアが伝えるべき事件であり、社会現象だからか。別にそれで誰が困るわけでもなく、後は世間話のたぐいに回収されるだけだ。君はそれらの言説にリアリティを感じられず、そこから漫画的な結末を夢想しつつ、ありふれたフィクションの操作性を現実に当てはめると、どんなに真剣に何かを主張しようと、それが冗談のたぐいとしか受け止められなくなる。だが本気でそんな危惧を抱いているとも思えないが、そう主張することの何がマンガチックなのだろうか。その辺がよくわからないようだが、その辺の事情をよくわかっていなければ、そういうことは述べられないのではないか。君はよくわからないのに、なぜそんなことを述べてしまうのだろう。述べているのが君ではないからか。そこで何かをわかりかけているのかもしれないが、今のところはそういうことらしい。誰かが主張しているような内容に、誰もが問題を共有できる普遍性はない。その場その場で場当たり的に現状を改善しようとしているだけで、根本的には現状の延長上に理想を追い求めているわけであり、それは革命でも改革でもあり得ず、ただの現状維持なのだが、それで何を批判しているつもりになれるのか。つもりでなくとも、そういうわかりやすい話はフィクションに汚染されていて、ご都合主義のたぐいから逃れられなくなり、その場の都合でわざと意味不明気味に言葉を錯綜させようとして、結果的にわかりにくい表現を伴いながら、説明に失敗していると思われてしまうだろう。
現状を維持しようとする限りにおいて、それは官僚機構の温存を後押ししていて、彼らは今ある利害関係が永遠に続くことを願っているわけで、それで何がどうなるとも思えない。まかり間違っても自分たちが滅んでしまうようなことは、誰もやらないだろうし、それは想定外のことであり、今の時点では結果的に自分たちが滅んでしまうような改革の必要性を感じられないはずだ。だが真の意味での改革とはそういうことではないか。だから彼らにとってそれはあり得ない。それどころか誰にとってもそれはあり得ないことだろう。改革を成功させた後に、自らがそれを成し遂げた成功者として脚光を浴びたいのであり、自らの存在が抹消されてしまうような、不当ともいえる成り行きにはさせたくない。軽薄な人たちならば、どうせ明治維新の立役者としての坂本龍馬のような立場を占有したいのだろうが、それこそがフィクション的な勘違いのなせる業なのか。後の時代において、フィクションによって掬いとられるようなことが、果たしてまともな現象なのだろうか。冗談としてはそういうことを述べておくべきなのか。それらの何が冗談でもないのだろうが、とりあえずは冗談の範疇に入るように、何かを茶化しているだけかもしれない。
7月12日誰かは暑さと湿気が苦手なようだが、誰でもそうではないのか。そこにもたらされている気候に耐える必要があり、そんなふうにして毎年そういう季節を過ごしているわけか。他に何を語ろうとしているわけではなく、何も語り得ないことが不思議に思われているわけでもない。またそんな嘘をつきながら、結果として空疎なことを語っているはずだ。そういった不可能を前提として言葉を連ねてゆくのが、ここでのやり方なのだから、それに落胆するのも演技のたぐいになり、それ以上は何も模索できないような状況から逸脱するわけにもいかず、ただ黙って低レベルの語りに甘んじて、それを繰り返し続けてしまうわけだ。そして君はそれが嘘だと思い、フィクションの中から言葉を記している誰かに抵抗を試みているようだが、何となくそれも嘘っぽく思われ、虚構の中の二人の登場人物に関して、何か馬鹿げた冗談のような気配を感じるが、他の誰がそれを覚えているとも思えず、そう思えない主体が誰かでも君でもなく、架空の何かがそう思っているでもなく、誰かがそう記しているだけのことに、思うも覚えるもないのではないかと思うわけか。要するに誰でもない誰かがそう思っていることにしたいのか。それはくだらぬことだろうか。何がそうなのではなく、他の何がくだらないとも思えない。そういう意味で無意味だが、くだらぬことは良いことだ。いらぬ幻想を抱く手間がかからず、何かむき出しの愚かさを文章から受け取ることができ、落胆以前の呆れた心理状態を白日の下にさらしているわけか。だから意味が定かでない。何をどう考えてもそれではだめのような気がして、もう少し根気よくまともに語ることを心がけなければならず、すぐにあきらめて空疎で自己言及的な虚無に逃げてはいけないのだろうか。それがわかっていながらそうしているのは、本気でそう思っていない証拠だろうか。他に何を思っているわけでもなく、文章の意味的なつながりを維持しようとして、それに合わせて言葉を並べようとしているものの、どうもうまくいっていないような気がして、何を述べてもそれが違っていると感じられ、そんな疑念にとらわれて、なかなかそこから抜け出せずにいるらしいが、そう述べて何をもたらそうとしているのか。その辺がよくわからず、その目的も理由も定かでない。なぜそんなふうにして語る必要があるのか。必要もないのに語っているだけか。
そうだとしても言葉を記す機会が巡ってきて、こうして誰かが言葉を連ねて文章を構成しようとしているらしい。それの何があり得ないことなのか。現実にあり得ている。では誰がそう述べているのだろう。それ以外に何を問いかけているのでもない。これからそれ以外の問いかけが行われるわけか。冗談でそう述べてみるが、以外にそうなってしまうのかもしれず、だからといって何がどうなるわけでもないだろうが、何がどうなろうと虚無的な文章が続いていってしまい、語る必要のないことを語り続け、何も語っていないのにそういうことを語っているつもりになる。そして拍手とともに現実に戻り、音楽を聴いていたことを思い出し、それに関して何かを述べようとするが、それも冗談のたぐいだと高をくくり、意味不明になるように心がけ、何となくひねくれているような気分になり、頑なに何も語らなくなり、そこから何かを遠ざけ、この世界のどこかに舞い戻ってきそうになるが、それが誰の意識なのか不明のまま、それ以上の何を詮索する気にもなれず、さらにとりとめのない言葉の並びにやる気をなくし、それを修正できずに、なし崩し的にそのままの水準にとどまろうとして、それ以外は何も語れなくなり、それ以外の可能性をあきらめ、そのままで文章を記すのを終えようとしている。
7月11日たぶん何かの勘違いかもしれないが、何がそうだとは思わないのか。理由を知りたいが、くだらないことばかり考えていると、まともな議論となり得る水準がわからなくなり、まったく話にならないようなことばかり夢想している。しかしなぜそれでかまわないと思うのだろう。現実からかけ離れたことを考えている現状をどうしようとも思わない。現実そのものが馬鹿げているという確信を捨てるわけにはいかないのか。現実に馬鹿げているではないか。あれほど大騒ぎした沖縄の普天間基地の問題はどうしたのだろう。あまりにも無責任すぎないか。今となっては所詮は政争のための茶番ネタでしかなかったということなのか。ではいったい人は何のために生きているのだろう。なぜかそんなふうに飛躍していってしまうようだが、世界最高の水準でボール蹴飛ばし遊びに興じている人たちは、何が楽しくてそんなことをやっているのだろうか。人にはそれぞれに役割分担があって、そういうことをやっている人たちはそういうことをやっていればいいのであって、他の人たちにもそれぞれにやるべきことが決められていて、それを懸命にやっていれば済んでしまうのだろうか。何が済んでしまうのかわからないが、君にはそれが馬鹿げていることに思われてしまう。言葉がどこかに飛んでいってしまい、そんな表現が間違っていることはわかっているつもりのようだが、気がついたら何も考えられなくなっている。そこから簡単に結論に達してしまうなら、君には他にやるべきことがあるのではないか。何が問われているわけではなく、君が本気で語るべきことではないような気がしてくるが、くだらぬメディアの情報操作に踊らされて、何をどうしようとしているのでもなく、何がどうなろうと真に受け取れなくなっているのかもしれない。だがやはりそれがどうしたわけでもなく、誰かは普通に暮らしているようで、君も一般常識の範囲内で生きているはずだ。別にアメリカに対してテロ攻撃を仕掛けているわけではないし、イスラエルに原爆を二三発投下することを夢見ているわけでもないだろう。誰かが思い描く漫画的な妄想の範囲内でなら、フィクションの中でそういうことが起こるかもしれないが、実際にそれを行おうとしているテロリストたちとは無関係でしかない。そんなことを夢想すること自体が、何不自由なく生きていることの証しとなるだろうか。世界の辺境で悲惨な暮らしに耐え忍んでいる人たちから見ればそういうことか。しかしそれも平和な地帯で小市民が空想していることの一部だ。
そして話も言葉もそこから遠ざかる。語っていることの意味がわからないのかもしれない。あるいは冗談なのか。ファンクサウンドに乗ってマイルスがラッパを吹いていて、リズムに乗っかってラッパーも何かを語りだし、久しぶりにそんな曲が巡ってきて、それを聴きながら気持ちが切り替わり、誰かがどうでもいいようなことを夢想するのをやめようとしている。本当だろうか。何が本当というわけでもなく、すべてが事実であるように語ろうとしているのか。それは嘘に違いない。ほどなくマイルスは遠ざかり、替わって北欧のトランぺッターが何かの曲をやっている。それらしい雰囲気に満足して、それなりの演奏によってそういう気分になってしまうようだ。何がおかしいかはわかっているつもりだが、その時間帯ではそういうことなのだろう。要するに何でもないというわけか。そうに決まっていて、そこから急いで言葉を記しながら、心がいやされるような音楽を聴いている現実に他の何を重ね合わせるつもりにもなれないようで、どんな憎しみやねたみにも、そうなる成り行きがあるように思われることは当たり前だとしても、そうならないように心がけているわけでもないのに、今はどうでもいいような雰囲気に包まれているようだ。
7月10日もはやなすべきことは何もないか。何がそうなのかわからず、途方に暮れているわけでもないだろう。意識して冗談をかまして、誰を勇気づけるつもりもなく、作り話的にはどうも二日前の時空から抜け出せないようだが、相変わらず何も思いつかない。少しうとうとしているうちに、もう何かの終盤のようだ。ところでゲームの結果はどうなったのか。それは野球賭博か何かか。そうではないだろうが、冗談でそんなことを述べても、話に脈絡がないから、何のことやらわからない。君にとってはどうでもいいことだ。誰にとってもそうだろうか。すべてがどうでもいいことなら、何がどうなろうと、それがすべてなのだろう。君にそれがわかるだろうか。この期に及んでわざとひねくれて、それがすべてではないと思っているのか。いったいそれらの何がすべてなのだろう。それが語っていることのすべてなのだ。そしてわからないのはそういうことではない。どうも本気で語っているとは思えないが、わけがわからないのはいつものことだ。本気でそう述べているのでもないだろうが、そういう物語をどこかで読んだことがありそうだ。それは本当だろうか。そんなことを述べながらも、何かに救われているのかもしれず、その何かに感謝しているわけでもないのだろうが、暇つぶしにはちょうどいい時間帯か。たぶん語ろうとしているのはそういうことではない。それがごまかしになる。それの何がかまわないのか。それは君にはわかるはずのないことだ。君が君でない限りはそうだろう。すぐにそのことを忘れ、君になりきろうとしているわけでもないのだろうが、フィクションの中では主要な登場人物となり得るはずだ。だから何を語っているのでもなく、君ではない君が何を語ろうとしても、それが記されることはない。そしてそうなる理由など詮索するには及ばない。なぜそうなってしまうのか。君がそう思っているからそうなってしまい、そんな嘘をついている誰かが何かをねじ曲げている。何かとは何なのか。そう問われて答えられるような何かではない。何でもないから何かかもしれないが、それがまともな答えだとは思えず、そんなふうにしてどこまで語ろうと、何がわかるわけがなく、わかろうとしないように頑な態度を取っている誰かの知ったことではない。おそらく何をどう記そうとも、そこから解答を得るには至らず、そんなやり方の繰り返しには呆れているのかもしれないが、一方でそれでかまわないとも思っているはずだ。どうでもいいことをどうでもいいように語ることしかできない。
しかしなぜそこに至ってしまうのだろう。何の不自由もなく生きているわけでもないのに、それでかまわないと思ってしまうのはなぜなのか。あきらめているということだろうか。良くなる兆しが見えてこないからあきらめてしまったのか。それは簡単な理由だが、現状の何がどうなったら良くなったことになるのかがわからない。たぶんそういうことは通常の認識としてはあり得ないのではないか。だが本当はそうなってほしいのに、それがあり得ないとはどういうわけなのか。今ある現状からは考えられない荒唐無稽なことばかり考えているらしく、例えば消費税を十パーセントに上げる代わりに、酒税やタバコ税やガソリン税などの、その他の間接税をすべて撤廃したら、税制がすっきりしていいのに、絶対にそうはならないと思われるのは当然のことか。やはり君が考えていることは荒唐無稽でお話しにならない意見なのだろうか。所詮は君が考えているのはその程度のことであり、現実の政治家や官僚たちが考えていることとはまったくかけ離れていて、相手にされないようなことらしい。だから君は選挙の投票などにはいかないし、民主主義などどうでもいいことでしかないようだ。リアリティを感じていないのはもちろんのこと、現実の政争劇がフィクションとしか思えない。
7月9日たぶんそれが現実の世界だ。夢の中で汗だくになって働いて、それでどうしたのか。何かがおかしいのは毎度のことだが、そこで何について語りたいのか。たぶん何も語りたくない。それは冗談だろう。では救いようのない愚かさとは何か。話の脈絡がない。誰かにはくだらぬことを考えている暇があり、そこに夢があり希望があるらしい。嘘だろう。しかし何のために働いているのか。そのすべてを否定するためにそうしているのか。あるいは何かを主張したいのか。それで世の中を馬鹿にしたいのだろうか。理由は何もわからない。何もわかろうとしていないようだ。ならばそこまでやる必要がないのではないか。いったいどこまでやったのか。夜中に目が覚めて、たぶん何を否定しているわけではなく、また他の何を馬鹿にしたいわけでもない。少なくともかろうじて意味のつながりを考えているようだが、その一方で限りなく支離滅裂になろうとしている。やろうとしていることと、その結果が矛盾してしまうのも毎度のことか。それでも何とかしようとしている。君が何も明らかにできないのは今に始まったことではないが、それが隠された秘密などとは無関係であることも確かか。しかしそれでは何が明らかになっていないのか。何も出さないわけではないが、答えが出ない。今のところは誰の口からも真実が出てこないようだ。そういう虚構があるだろうか。いったい何が虚構だと思われるのか。どこの誰がゲーム依存症であろうと、何がどうなるわけでもないが、とりあえずは何かの暇つぶしなのかもしれない。何かのとは何なのか。わかるはずのないところでわかるはずのないことを問う。それがそこでのお約束か。何がわからなくても誰の知ったことでもない。それは当たり前のことだろう。君はそこで外れているのか。良識からも外れているようだ。何を語っているのかもわからず、言葉を記している。矛盾しているのは当然か。つまらないことを考えていたようだ。そのとき君は何を物語ろうとしていたのか。何かが聞こえなくなっている。相変わらず音楽を聴いていることは確からしいが、他に言葉を記している。それだけだろうか。たぶんそれだけだ。出口が見えてこない。それで楽しいと思いたいのなら、そういうことになるだろう。別に神話の世界から舞い降りたわけではない。誰がどこに舞い降りたのだろうか。それも何かのごまかしになりそうだが、そこで何かを待ち望んでいて、待ちくたびれて眠ってしまったようだ。気がつけば何かが目の前を通り過ぎている。
たぶん何を気にしているわけではない。語る必要さえないのに語ろうとしているのだから、それは無理な話だ。それでも闇の中を歩いてゆこうとしているのは、無謀な試みになるだろうか。冷静になれないのだろう。言葉を記しても文章にはならず、文と文が意味的につながらず、何を述べているのでもないような支離滅裂になってしまう。それで君は楽しいのか。楽な気分で何をやろうとしているのでもない。状況を把握しきれていないのかもしれないが、一方でそれでもかまわないと思っているのかもしれない。それはどういうことなのか。単純にそうは思わないとなるだけのようだ。とりあえず今は我慢の時のようだ。おそらく今は待望の時が到来しているわけではなく、もう少し視界が開けるまで待たなければならないのだろう。フィクションの中で誰がそう思っているわけでもないだろうが、それを簡単に批判することは可能であり、同時に批判したら失ってしまう感覚も残滓として心の片隅にあるらしい。それが信じるようなものなのか。信じられずに打ち捨ててしまいたくなるが、それを思いとどまって、温存させようとしている。たぶんそこにかすかな可能性があると思っているのだろう。無駄とわかっているのに、まったくご苦労なことだ。
7月8日どうも真剣に語っているとは言いがたい。では遊び感覚とは何か。漫画の中では登場人物が遊び感覚で人を殺める。何かの冗談だろう。さらに強烈な表現形態を求めるなら、それが遊び感覚なのか。それは何の話でもなさそうだ。さっきからひっきりなしにルータのランプが点滅しているが、ハッキングでもされているわけか。きっと冗談か何かに違いない。無理に言葉を連ねようとしているのか。君はそこで必ず挫折する。面倒くさいのだろう。また眠ってしまったらしい。昨夜は何を読んでいたわけではない。読む前に眠ってしまったらしい。そして今はそれを思い出せない。頭の中が混乱しているのだろうか。ただ何となくそれについて語ることができない。それ以外についても同様だろう。時には気休めにそんな嘘をついてみるが、相変わらずの意味不明だ。君は何をあきらめているのだろうか。まともな文章にはならない。誰がそれを記そうとしているのでもないからだ。はじめからその気がないからだろう。その代わりに何がどうなっているわけでもなく、わけがわからず途方に暮れることもない。そんなことはわかっていたはずだ。君はそれを何とかしようとしている。影にはできない相談か。さっきまでは何をやろうとしていたわけではない。そして目が覚めたら二日後か。やる気がしないのはわかっている。他が忙しくてできないのだろう。そんなふうに思うならそういうことだ。では何が遊び半分なのか。君がそこから逸脱していってしまう理由を知りたいか。たぶん何がどうなっているのでもない。どうもなっていないからこうなってしまうのか。空が晴れているようだ。焦っているのかもしれない。そして何がどうなっているのでもない。君はそこでそう思っているらしい。何もどうにもならない現実に押しつぶされそうか。嘘だろう。嘘だと思いたいだけで、嘘でなければ何でもない。君はそこで躓いている。また外れてしまうのか。外れてしまう話ではないはずか。ではそこから何とかしなければならない。今はそう思っているはずだ。実際には無理なのにそう思っている。現状で何とかできるとは思えない。何とも思わないのだからそういうことだ。それはどういうことなのか。何も思わないまま、無駄に言葉を記している。たぶんそれで何がどうなったわけでもないのだろうが、それだけではだめだと思う。だめなのにどうしてそうなってしまうのか。だから冗談だと述べているではないか。何も納得しがたい返答を期待しているわけではない。
その中身はどうなっているのだろう。何かを決めかねている。それは中身ではなく、何かの表層かもしれない。何かが何かで覆われているのだろうか。眉間にしわを寄せている場合ではない。そんなイラストを見ているのか。やはり中身には踏み込めず、言葉が何かの表層をなぞり、そんな雰囲気が文章として構成されようとしている。だから何を述べているのでもなさそうだ。徹底して外れるわけもなく、部屋の中で観葉植物でも眺めることしかできないわけか。君はそこから外れるだけで、話がまともな成り行きを通るのをあきらめている。先行きがわからなくなると、すぐに冗談を述べているつもりになって、何かをごまかし、それで済まそうとするが、それでは済まないことをわかろうとしない。もう手遅れだろう。そんなことはわかっているのだろうか。わかっていながら、なぜ手を打たないのか。やはりあきらめているということか。ロイ・ハーグローヴを聴きながら、静かに考えようとしているらしいが、何か考えているつもりになれるだろうか。つもりではなく、本気で考えなければならないか。冷めたコーヒは甘過ぎたようだ。そういうことではないだろう。たぶんそれも何でもないことなのだ。何を考えられなくても、それだけのことだ。
7月7日昨夜は何かの出だしで躓いて、寸でのところで転びはしなかったが、何となく言葉を記すのが嫌になって、そこで眠ってしまったようだ。そして気づいたら翌朝になっていて、疲れていたことを悟る。そんないつもの成り行きに嫌気がさすか。別にそれほどのことでもないだろう。困惑するような事態ではない。わからないのもいつものことで、何も思いつかず、久しぶりに晴れた昼の空を眺め、たぶん何も思わないだろう。誰が思わないのか。君はそんなことは思わないのだろうか。君とは誰か。たぶんそういうことではなく、どういうことでもなさそうだ。わからないのかもしれない。そして何がわからないということもわからない。それは誰かの感性の問題か。何を語っているのでもないからわからない。それは本当だろうか。そこから先はでたらめに言葉が並んでいるようだ。それで君の気が済むのか。結果的に済むのは誰の気でもない。ここはそうではないと述べておこう。意味はなく理由もない。そこにいるのは君ではなく、誰でもなく、テレビの謎解きドラマを見ているわけでもない。さっきまでは見ていたではないか。それは誰かが見ていた光景か。誰とも無縁だろう。では何かのアレルギーか。それとこれと無関係で、今はこれについて述べているのではない。単なる言葉の組み合わせか。それで何を表現しているのか。目下のところは何も顕在化してこない。ところでサッカーのけりはついたのだろうか。ボールを蹴っているだけか。あれらの何が決闘でもないか。イラクで何の罪もない一般市民を殺してきた米兵が罪の念に苛まれているそうだ。すべてはゲームか。この世界に暮らす人は誰でもゲーム依存症のようだが、君はそこから抜け出られるだろうか。それは何かの気分だ。苦しいのではなく、アリ地獄に捕らえられてしまったのでもない。おそらくでたらめに語ろうとして語っていることの続きなのだ。そしていつかは我に返り、くだらぬことにかかりきりだったことを自覚する。しかし何を反省する必要もなく、忘れてしまえば済んでしまうことであり、後は無責任に暮らしていればいい。しかしそれは何について語っているのだろうか。ただの作り話に過ぎないのか。話でさえなく、話以前の何かの断片かもしれないが、それらが組み合わさってまともな話になることはないだろう。誰らはさっきから腕時計をしきりに覗き込んでいる。それも何かの話の断片なのか。それとも何かの苦し紛れか。その何かとは何なのか。それが何でもないような気がするのはどうしてなのか。君の知ったことではない。
いい加減に目を覚ました方がいい。また気がつけば翌朝となり、蛍光灯を点けたまま眠ってしまったことに気づく。そんな毎日では疲れが取れないだろう。そうなる以前に何かを仕上げてしまえば事なきを得るだろう。冷房で風邪を引くこともない。それが何かのアレルギーに起因していることは承知しているが、今はそういう話ではない。長くなりすぎた話から言葉を削らなければならないか。幾分願望が混じっているのだろう。一方的にわけがわからないと述べるだけでは意味不明か。だから何とかしようと努力しているのではないか。それで何とかなるなら話が早いが、結果として何ともならないどころか、さらに言葉がこんがらがって連なり、もはや収拾がつかなくなっている状態から、何をどうしたら話の整理がつくのやら。それに関していったい誰かは何を考えているのか。何も思いつかず、考えようのないことを考えようとして、結果的に挫折しているだけか。たとえそうだとしてその先に何かあるはずだ。そう思いたいのはやまやまだが、誰かが切望しているのはそんなことではない。そんな行き詰まりのただ中に何かがあると思っている。だがあるのは虚無と空疎だけだろう。誰かにとってはそれでかまわないのではないか。
7月6日無駄なことをやる気が出てきたようで、たとえそれが無駄に終わろうとも、やり方を変えるつもりがなく、さらに同じような試みを繰り返しているようで、今後も延々とそれが続いていってしまうのかもしれない。それらのすべては冗談かもしれないが、冗談なりのおもしろさを追求する気はなく、膝の痛みを感じながらも、それとは無関係に言葉を記して、目標だとか目的だとかを無視して、それで虚無的に強がっているつもりになりたいのだろうが、やはりそういう心の領域でも冗談に浸食されているようで、本気でそう思っているのではないような気がする。たぶん目標も目的もどこかにあり、本来の人間的な特性が温存されていて、自暴自棄の破滅型人生とは無縁の計画的な生き方を歩んでいるのかもしれない。しかしそこでそんな嘘をつく意図がどこにあるのか。誰の意図でもなく、文章的にはそんなふうに語った方が自然の成り行きに合致しているのではないか。理由になっていないような気がするが、やはりそういうふうに語るのがそこでの流れなのだろう。そんなわけで君の冗談には感性がついてゆけず、冗談にほどがありそうだ。たぶん何かを語るとはそういうことになり、何について語っているとも思えないのに、結果的には何かについて語っているのだろうが、その何かが何なのかわかろうとしないままに、語りを続けていってしまい、それでかまわないと思えるほどに、それが冗談であることを自覚して、何となくそれで済まそうとしてしまう。いったい君は何について語っているのか。たぶんこの世界について語っているのだろう。漠然していてとりとめがないが、ひとつの正解として、そういう返答で我慢しなければならず、自己言及に陥らないための方便として、語る対象をこの世界のすべてと思っていれば、それで何とかなりそうな気がするのは、誰かの勘違いか。しかしいったいこの世界はどうなっているのか。なぜこの世界について語らなければならないのか。ねばならないというのはおかしいか。問うこと自体は自由だが、問わなければならないとすると、問う必要もないのに問う必然性自体が虚構でしかないことに、少しは自覚的になっていることの表れか。わからないから、その答えを知ろうとする試みが問う動作に至るのだろうが、それでもわからないと思われてしまうのはなぜだろう。思考によって何らかの見解に達しても、それで満足できないということか。それでかまわないとは思えない。あるいはかまわないと思っても、それが嘘であることを自覚している。
人にはそれぞれにこだわりがあり、一人のこだわりは些細なことだが、大勢が同じようなこだわりを抱いていることが、何らかの流行を形作り、それにこだわることでこの世界を特徴づけているような気にさせるのだろうが、いったんそれから離れると、そんなこだわりはどうでもいいことになってしまい、そういう意味で何かから遠ざかることにもそれなりの効用があるようだ。なぜそうなってしまうのかわからないが、どういうわけかそういうことを誰もがやっているのであり、それらのこだわりを馬鹿にする時は、そこから遠ざかりながら馬鹿にする傾向がある。君はそういう行為がおかしくてたまらないようで、それ自体を馬鹿にしながらも、自らもそれに染まっていることを自覚しようとする。なぜそうなってしまうのだろうか。それに対する答えなど見つかりそうもないのに、そう問わざるを得ず、無駄な努力とわかっていながら、問うことを欠かさず、いつまでもそんな問いかけに終始して、そんなことをやり続けている自らに呆れ、いい加減にやめたいと思っているのかもしれないが、やめようと思ってやめられるようなことではないと悟り、そこに居直り開き直ることもなく、やはりそう問い続けているのだろうか。
7月5日それでやっと昨日になったのだろうか。たぶんどこへ漂流していくこともない。どこへも行かないからそうなってしまうのだ。君はそこにとどまり、何の幻想も抱けないことを自覚する。この世界ではそんなことの連続になる。そこで何かこだわりを持ち続ける限りはそういうことだ。目の前を通過する風景の中に何を見出すこともなく、黙ってやり過ごしている現状をどうすることもできず、半ばあきらめ気味にため息をつくばかりか。しかし希望とは何か。何を願っているのか。どうなるわけでもないのは承知している。そうならないことを願っても無駄か。フィクションの中ではやりたい放題のはずだが、現実の世界ではその超人的な力を発揮できないらしく、そんなことを述べていること自体がくだらぬ妄想を連想させ、さらに自己嫌悪を増幅させる要因となっているような気もするが、それは避けては通れない成り行きかもしれず、そこから困難を乗り越え、前向きに努力するように自らを導いてゆかなければならない。それが君にできるのか。あくびが立て続けに出て、挫折してあきらめてしまってもかまわないと思う。たぶん長い目で見てゆかなければならないのだろう。何をそう思っているのか。それは観賞の対象とはならない。見るだけではだめで、それについて考える必要もあるだろうか。しかしそれとは何なのか。はっきりとした対象ではない。具体性も乏しく、何について語っているのでもないような気がする。そこから遠ざかれなくなっているのではないか。近視眼的に近すぎて、対象がぼやけているのかもしれない。だがそれとよくわからないこととの間にどのような接点があるのか。そしてなぜそこであきらめてしまうのだろう。それが何だかわからないまま話を進めようとしている。ふと気がつけば、さらにあくびの頻度が増しているようで、それについて考えようとすると、眠たくなってしまい、考えがまとまらないまま、考えることを遮るように言葉を記している。だから何をやっても無駄なのか。そういう結論に至る前に語るべきことがありそうだが、それが思いつかない。抽象的かつ紋切り型的な言説でも読んで、きっかけをつかもうとしているのかもしれないが、無理にやってもうまくいくはずがなく、無理にやろうとすれば、ありふれた見解にたどり着くのが関の山か。ではいったい何をどうすればいいのだろうか。そんな問い自体が無効で、何もどうにもならない現状がここにある。
結果など知るよしもない。誰がそれを知っていようと、君にそれを知らせる義務はない。そんなわけで何も見出せない君はどこかで迷うしかないようだ。いつまでも迷い続け、現実と妥協する機会を逃し続け、なし崩し的に妄想の中に閉じこもり、それからフィクションとしてどうなってゆけばいいのか。それ以降は何をどう語っても冗談に過ぎないことか。そうだとしてもそんなありふれた現象についてありふれた言葉を用いて語るはめに陥りそうで、それを受け入れざるを得ない状況を変えようとして変えられず、そんなことを述べているうちに自然と眠気が去り、この世界がこの世界のままにあり続け、どんな妄想を抱こうと、何が変わるわけではないと悟り、何か心を入れ替えて、現実と妥協を計る方向で、それに応じた模索を開始しようと思っているのかもしれない。それは本当だろうか。その場の思いつきで、案外すぐに心変わりして、結局は今まで通りに暮らしているだけにとどまりそうだ。今さら何をどう考えても何がどうなるわけでもないだろう。そしてそれも嘘で、思っていることと実際にやっていることが一致せず、なるようになるだけの結果にしかならず、それを後から悔やんでみても後の祭りか。本当にそうだとしたらおもしろい。
7月4日時が過ぎ去り、何かがどこかに追いつこうとしている。それにしてもなぜ首を傾げているのか。それの何が不満なのか。あるいはそういうことではなく、そこに何か残滓のようなものがこびりついていて、ぬぐい去ることができないばかりか、それが気になって仕方ないようで、それが何かにこだわっていることになるのだろうが、君は愚かなことだと思いたい。きっとそれは気のせいだろう。何を思っているのでもなく、何を記しているのでもない。それがそこでの結果なのか。誰がそんな結果を望んでいるわけではなく、それは思いがけないことであり、落胆させる結果だ。しかしそれで奈落の底に突き落とされたとは思わないだろう。突然咳が止まらなくなるが、何とかそれに耐えながら、何かについて考えている。この世界がどうしたわけではない。ただその中にその一部として存在していることが気に入らないのか。確かに批判するだけでは能がない。君はそこで何を批判するつもりでいたのだろう。まだそれは誰にも知られていないことか。そんなはずがなく、誰もが知っていることをあえて批判して、他の誰かの気を惹こうとしていたのではないか。だが何に興味を抱いているとも思えない。人はどこでもうごめいていて、絶えず何か目新しいことに引きつけられ、そこで得意になって顕揚してみせるものだ。しかし誰が一番乗りをしたのか。そしてそれが重要な価値を持つのだろうか。何がどうあっても嫉妬に狂うような気分は勘弁してほしいか。それはありふれた反応であり、人は誰でもそうなってしまう。くだらないことだが、自分が何か特別な存在でないと気に食わない。それを認めてほしいわけか。愚かなのかもしれない。当然のことながら、ありふれた存在であってはならないのだ。自尊心を傷つけられ、攻撃的な感情に心を支配されているようで、そんなふうになってしまっては誰かの思うつぼなのかもしれず、虚構の物語ならそういう話題で盛り上がるところだが、今は何となくしらけているようだ。なぜ人はありふれてしまうのか。同じようなことを思い、同じようなことを考え、同じようなことをやっているからか。そうだとしてもそこから抜け出て、何か他人とはひと味違うことをやっているつもりになりたいのであり、その辺で自尊心を満足させようとするのだろう。それも時と場合によっては愚かなことになってしまうのか。いったんそうなってしまえば、多少の羞恥心は残っているかもしれないが、それでもかまわないのだろう。
そして今も何とかしようとしている。悪あがきもここに極まって、何かそれとは次元の異なる事情を持ち込んで、そんなことはどうでもいいとうそぶくことも可能だが、結果はそうはならず、相変わらずの意味不明に頼り切り、何かのつじつま合わせを放棄しつつ、とっちらかったまま、その場を丸く収めるつもりもなく、複数の方向性を温存させようとして、支離滅裂でとりとめのない内容を保とうとしているようだ。それは本当だろうか。漫画を読みながらうとうとしてきて、気がついたら終わりの一歩手前か。何がそこで終わるというのか。何も終わらせないつもりなのに、そこで何かが確実に終わっていると主張したいのか。誰をそれを止めることはできない。何を止めようとしているのでもなく、無視できればそれで済んでしまうようなことを、後からほじくり返して、そら見たことかとわめきたいのか。その程度では痛快な気分とはいかない。だがそれをやめたら自己の存在がありふれた光景の中で見失われてしまい、存在意義とは言わないまでも、何かしら痕跡のようなものをこの世に残したいのかもしれないが、いくら暗黒の大地に自らの存在を刻み込んでも、遠からず浸食作用で失われ、風化して跡形もなくなってしまった時に、君は何を思うだろう。
7月3日相変わらずの二日前になる。たぶんそこで誰が何をどう悩んでいるわけではない。強がっているのでもやせ我慢をしているのでもなく、ただ違っていると思いたいだけか。では何が違うのか。意味がわからない。言葉を記すことに意味を見出せないか。冗談でそんなことを述べているのではないか。対象がないので返答を期待できないようだ。何の手応えもなく、空気をつかむような感覚に陥り、何についてどう述べても、それは違っているような気がするらしいが、左目の奥が痛むのはなぜだろう。それとこれがあまり関係あるとは思えない。要するに面倒くさいというわけか。それも関係のないことか。誰もそれと関係を持つには至らないだろう。それはなぜか。関係そのものが無関係だからか。何をどうしようと、他の何がどうなろうと、そんな無責任なことは述べるべきではないか。それの何が無責任なのかわからない。たぶん君はどこまでもでたらめなのだろう。語っていることがおかしい。そしてそれでかまわないとさえ思っており、それは完全な開き直りで、もうどうでもいいような気分となっているのかもしれない。心から意識が外れている証拠か。何を述べても上の空だ。だからそれ以上のまともさを言葉の連なりが担えないのだろう。潮目が変わり、気が変わり、変節してしまったのだろうか。どれとも当てはまらないか。ただ本気になれない。夜の風景を愛でているわけではないが、何を思うこともなく、それらの光景の一部と化している。またそうではないと思いたいのか。何を思ってもそうはならず、それは何かのご都合主義に染まっていることになるのだろうか。それとは何だろう。不意に知り得ないことを知りたくなってくる。そこから何かを飛翔させたい。しかし何かとは何なのか。そんな行き詰まりの果てに何があるのだろうか。まだそれほど外れているわけではない。そこから何かを捉えなければならず、物事の本質という幻想を追い求め、何かしら結論めいたものを提示する必要性を感じているわけか。個人の能力には限りがあり、それがどうしたわけでもないが、やれる範囲内で何かをやろうとすると、狭い範囲内でまとまろうとする傾向にあるらしい。それでかまわないのだろうか。かまわないから誰もがそんなことをやっているのではないか。とにかくどこかで折れなければ孤立するばかりか。そういう成り行きなら、かえって楽しいのではないか。君はそれらの冗談の中で何を見つけたのだろう。何も見つからないわけがない。
誰の本音か知らないが、もうその辺でやめようと思っているはずだ。そして現実にそこから立ち去ってしまう。すべての場所は通過点だ。道はどこまでも続き、誰かは道を外れ、どこかの荒野で迷っている。そんなはずがないと思われるのは、そこで語られているのが虚構だからか。そうだとしても何を信じられるというのか。語っているのは誰でもなく、言葉を記している誰かにしてみれば、そんな虚構の語りは無視してもかまわないわけか。だから何を語っているのでもないらしい。語る機会を失い、ひたすら沈黙を守り、何かの代わりに何をやっているわけでもなく、そこで免れている当のものをこれ見よがしに示してみせることもなく、逃げられない状況であることを再確認することもなく、どこまでも逃げ続けているつもりで、次第にどこかへ追い込まれていっているとすれば、それはどこなのか。まさか青木ヶ原樹海ではないだろう。他に何を空想しているとも思えず、どこまでも何を遠ざけているわけでもないか。そんなふうにして、一方で頑なに語ろうとしないことがあるようだ。それに関して何か思っていることは確実なのだろうが、それが文章上に示されることはなく、その代わりに空疎な内容が連なっている。
7月2日どこをどう進んでもそうなってしまう。それはなるべくしてなったということか。しかしなぜそうなってしまうのだろう。今は何を問う段階でもない。わからないからそうなってしまうのではないか。だからまたいつもの夜だ。そこでは疲れていたのかもしれない。早めに仕事が終わったのでどうしたわけでもなく、何もしなかったらこんな時間となってしまったらしく、相変わらず何も思いつかないまま、音楽を聴いている。フィクションの中ではそう思っているのだろう。そして時が経ち、さらに追い込まれているようだが、依然として何も思いつかず、気のない言葉を記しながらも、半ばあきらめかけているようだ。時にはそんなことを語ってみる。それは誰からの伝聞でもなく、何でもないことの続きで、無内容に見せかけつつ、苦心して言葉と言葉を組み合わせて文章を構成する。そんな嘘をついてどうするのか。気まぐれでそんなことも書き込まれ、結果としてそれらは何らかの技術的な成果かも知れないが、わけがわからない。何も思いつかないからといって、別に苦渋の選択をしているわけではない。何も選びもしないうちにそれを放棄しているだけか。確かにそれで何を選びとっているのでもなさそうだ。心の中で何かが外れていたのは昨日のことか。それも嘘のうちだ。意味のない言葉の並びに呆れているようだが、それを記しているのは君ではないのか。誰でもないと嘘をついておこう。さっきまでは何もわからなかった。今もそうではないのか。それで何かをわかったつもりになれるだろうか。君は何もわかっていない。そうだとしたら何なのか。君は何に関して無知なのか。だから何を問うても無駄だ。さっきまでは何も問われていないはずか。何を問うつもりもない。実際に問われていないのだから仕方がない。この世界のどこかには何かを問われている人もいるのだろうが、君には関係のないことか。今のところは誰にも関係のないことだろう。問われている内容がない。誰かはひたすら無駄に言葉を連ねるばかりで、何を問うつもりも語るつもりもない。だからこんな案配になってしまったのか。それでかまわないのではないか。今のところは何がどうなろうとこうなってしまう成り行きの中にいる。行き詰まりの中に意識があるようで、息苦しくて窒息してしまいそうだ。またそんな嘘をついてその場しのぎなのか。このままではますますわからなくなってしまうだろう。
まだその時ではなさそうだ。ではそこで誰かは何を聴いているのか。ハーモニカの音色に耳を傾けている。さっきまではそうだったが、今は今で違うと思われる。何を問われているわけでもないのに、疑問を感じているのはおかしいか。何がおかしいわけでもなく、何もおかしく感じられないのがおかしいか。だが気になっているのはそういうことではない。何をごまかしているとも思えない。それはそれで結構なことだが、人はごまかしの中で真実を見出すものだ。どこに証拠が見受けられるわけでもないだろう。それでも君がまだそこに至っていないのはわかりきったことか。何をそんなに焦っているのか。その証拠に何があるわけでもなく、何もないことがそこでの紛れもない現実なのだ。実際にどうにもできないからどうにもならない。何かをどうにかしようとする気配が感じられず、そこで何もかもを放置し続け、不具合をそのままにしておくつもりなのだ。果たしてそれで済むのだろうか。何を済ませようとしているわけでもないのだろうが、それでは済まないとしたら、今後どんな災難に見舞われるのか。今さら何をごまかす気にもなれない。それは災難ではなく、いつもの成り行きに決まっている。おそらく君が語ろうとしていたのは、誰かのそういう意味不明の振る舞いだ。何かを語ろうとしているのだろうが、未だ果たせずにいるらしい。
7月1日今月は何をやることになっていたのか。それが思い出せない。だから予定はいつも未定だ。それもフィクションの一部なのだろうか。そこで何が語られているわけではない。おそらくどうでもいいことを考えているのだろう。精神が崩壊状態なのか。なぜ唐突にそうなるのか。話が粗雑すぎるか。しかしそこで何を待てばいいのだろう。何も待っていないような気がする。待っていても機会は訪れない。それでもいくらでも待つつもりか。待つことで人生を棒に振ることが、そこで課された使命なのか。そんなはずがないと思いたいのだろう。ならばそんなはずがない。何かが訪れるまでひたすら待っていればいい。すでに訪れていることに気づかないだけかもしれない。気がつかないうちに誰かのもとに死が訪れている。死が君を終わらせてくれるはずだ。君の何が終わるというのか。この世界は無限だ。君はそれを知っている。知っているから何なのか。それが何でもないことも知っているはずだ。だから君の試みはどこかで途切れる。理由になっていないのではないか。知って当然のことを知っているだけか。そうだとしても、知っているだけで楽しくなる。時にはそんな嘘をついて気晴らしでもしたいのか。それで気晴らしになっているのだろうか。いつまでたってもそんな曲を聴いている。何かを見つけられないというわけか。歌われているのはそういうことだろう。他に何を理解しているというのか。何も理解されない状況か。誰にそれを理解してほしいのだろう。そういう話になっていない。君には何かが必要だ。それが虚無でないことはわかっている。しかしそれでもひたすら空疎なことを述べている。それがどうしたわけでもなく、何を語っても自由なのだろうが、そこに罠でも張り巡らされているのか。それは何かの被害妄想かもしれない。わざとそういうことを考えている。心のねじれが直るどころか、さらにねじれてしまうのだろうか。語るほどにそうなってしまうわけか。だがそんなことを気にしているわけでもなく、そんな嘘をついて何を隠そうとしているわけでもない。言葉は適当に連なり、すべてが白日の下にさらされていて、どこに真実が記されているのでもなく、でたらめを装いつつ、何も悟られないように語っているつもりなのだろうが、見え透いている。それに関する真実はどこにも記されていない。君はそれを知っているはずだ。現実に知っていた。今はそう思っているはずだ。誰もそうは思わないことを思っていたはずだ。だからそこに君が存在している。
たぶん何ももたらされない。少なくともこの地上は未開の地だ。そう思って差し支えないが、何がそう思わせるのか。君はさらにそこから外れてしまうだろう。何かを思えばそうなってしまう。なぜそうなるのかわからない。結果的にそういうことにしかならないのか。迷いと何かを経て、あれやこれや考えながら、とりあえずそういう結論を導きだし、そんなはずがないと思いつつも、それを認めざるを得ない。この地上にそれがある。何も未開の地ではないことが証明され、そんな嘘をついている誰かがおかしいと感じられ、そこで語られているフィクションの中で何かが起こっているようで、その出来事が君をこの地上に送り出したわけだ。おそらく君は天使でも悪魔でも神でもない。君という言葉自身なのだ。そしてその君が誰かを介して何かを語っているつもりなのか。あり得ないことだろうか。そうだとしてもそんなことが記されている。まったく嫌になるほど何かにこだわっているようで、話の中で素直になれない性分が固定されている。しかしそれに逆らっても何ももたらされないだろう。君がそれ自身なのだろうから、もはやあきらめるしかなく、残された選択肢は、それ相応に振る舞うことしかない。
6月30日また無理な気配を感じ始める。時間的には夜になり、雨が降ってくる。何を考えているわけでもなく、これから考えようとしているのだろう。状況としては何もどうにもなっていないようだ。意識がそこから遠ざかり、何もそこにはないことを知る。確か誰かがそういう虚構を語ろうとしていた。そのはずが、実際にはどうなってしまったのか。現状では何もわからない。何をどうしようとしているのでもなく、考えがまとまらず、何をどう考えていいのかわからなくなる。そういうことを記して、自らに嘘をつこうとしているのか。それはわからない。嘘かもしれないし、嘘ではないかもしれない。どちらでもかまわないのだろう。何をどう語ってもそうなるしかなさそうだ。結果とはそういうものだ。それは結果ではない。まだ何も成し遂げていないばかりか、何かの途中であらぬ方角へと外れている。的外れどころか的さえない。そしていつものようにわけがわからなくなり、まだ何も語っていないことに気づき、言葉を記すのをやめようとしている。感覚がさらにおかしくなってしまったらしいが、それで何に気づくこともない。何かが外れているのはわかっているが、感覚的にはそれで十分だ。そこで何をどう感じてもかまわないのだ。だが対象とする事象がないのにそんなことを述べている。そしてなぜか地面が傾いていないか。床ではないのか。それで何に気づいたわけでもない。では他にどんな言葉が繰り出されるのか。だから何に気づいているわけではない。ではどこまでいっても話は平行線か。そこでどんな交渉が行われているわけでもない。どんなフィクションを読んでいるわけでもなく、何を構成しようとしているのでもない。何もないとはそういうことか。何でもなく、そこにはなにもないわけか。今はそれを否定しようがない。言葉の連なりは依然として何も示さず、何をどうしようとしているのでもない。ただそこから逸脱しようとしているだけか。それさえもできていないのではないか。だからそれはわかっていることだ。わかっているからそんなふうになる。どんなふうでもないということか。そういうことであり、どういうことでもない。雨のただ中で傘をさしている。それは夢ではなく、現実から何を導きだそうとしているでもない。ただそこに現実があり、虚構を介して何があるわけでもなく、ありのままの現実がある。
何がどうなろうと、そうなってしまう。何もどうにもならないのに、そうなってしまう。それだけのことでしかなく、それだけのことなのか。何を確認しようとしているのでもない。ありふれた現実だ。何の変哲もない。では何が外れているのか。それを語ろうとする心が外れている。何も外さない。そう思いたいのではなく、すでにそう思っている。ひたすらそう思い続け、フィクションの中でも思っている。そんなことがあり得るだろうか。疑念を抱いているわけではない。そこに何もないことを言葉の連なりが示そうとしていて、それが語りつつあるフィクションなのかもしれない。蒸し暑いから背中がかゆいか。何かが外れているとはそういうことか。だからどういうことでもない。ひたすら何もない。現実がそうなってほしいのだろう。実際には何かがあるに決まっている。だがそれではフィクションにならないのか。あり得ないことであり、それがフィクションの現実になりそうだ。ややこしそうに語る。そう思わせたいのだろう。何とも思っていないことだ。そうなるべきなのにそうはならない。魂胆が見え透いていて、わざとらしい。できればそんなふうに語りたい。しかしここまで語ってきてしまった。それは過去の出来事だ。少なくとも今日の出来事には属さない。何を語ってもそうなってしまう。
6月29日何か悪夢でも見たのか。他の誰かにとってはそうだったかもしれない。君は何を強がっているのか。何もそこにはない。とっくに目が覚めて、何かそれとは違うことを語ろうとしている。わざとそうしているのではない。たぶん何もないというのは勘違いであり、そこに何かがあり、その何かについて語ろうとしているのだ。そうであってほしいか。それはどのような願望が反映した結果になるだろうか。どんな結果でもなく、ただの結果だ。その結果に驚き、ある意味ではがっかりしている。そういうことなんだろうか。そうだとしてもまだ可能性がありそうだ。それは何とかなる可能性か。何とかしようとしている。実際に何かがどこかで引っかかり、それ以上の何かを望んでいるはずだ。それはどういうことなのか。ただわけがわからないことを思っているだけか。言葉がそんなふうに記される。まったく話になっていないようだ。そして今はそれどころではなく、現実の何かを捉え損ねている。だから何かとは何でもなくなり、何かでさえなくなってしまうようだ。それでわけのわからない話はどうなったのか。君は何かを語りかけるが、その対象を見出せず、何ももたらせないことに気づく。ならば今日はそれで満足すべきか。いったんそうなってしまえば、もう君の力ではどうにもならない。何をどうやってもそうなってしまい、そういう結果から逃れられなくなり、そこであきらめてしまう。しかしそこで何を観念しているのだろう。君はそこから外へ出られない。では誰かが記すフィクションの中で何を考えているのか。そこでは誰も何も記せないか。たぶんそういうことではないだろう。おそらく誰かはまた冗談でそんなことを述べているのだ。そして今では冗談にもならない結果にがっかりしているはずだ。物語的にはそういう話の展開がお似合いなのだろう。そしてそれで万事がうまくいくと思っている。だから冗談を述べていることになるのか。わけがわからない。そしてそうではないと思いたいのだ。ではそうでなければ何なのか。何でもないというわけか。それでは話にならない。話にならなくてもかまわないのなら、そういうことになるだろう。相変わらず誰かは何を語っているのでもなく、ただ延々と言葉を並べて、ひたすらそれを眺める。誰かが記しているつもりのフィクションの中ではそんな毎日を送っているのだろうか。いったい誰がそこにいることになっているのか。少なくともそれは君でない。だから何だというわけでもないだろうが、そういうことらしい。
そんなふうにして誰かは無駄に言葉を記している。それが現実か。それの何が現実なのか。現実にはこうして無駄に言葉を記しているわけだ。だから問いに対する答えがすでに出ているではないか。それで一件落着ではないのか。何がそうなのだろう。何もそう思えないのが困ったところか。そうは思いたくないだけで、本当はわかっているのではないか。わかっているから無駄に言葉を記してそれをごまかそうとしているわけだ。今はそう思えて仕方がない。それが何でもないことなのに気になって仕方がないか。やはりそこから何が引き出されるわけでもなく、その代わりに導きだしているのは、空疎な文字列ばかりか。そんなふうに記しているのだから、それはそういうことなのだろう。どこまで記してもそうなってしまい、どこへも行き着かず、何も成し遂げられない。終わることがなく、結論を得られずに、だらだらとなし崩し的に言葉が連なり、さらに虚無感を蔓延させ、どうにもならなくなった時に、何となくそこから遠ざかっているのだろう。それに気づいていたのか。何がそうなのではなく、何もそうではなく、そういう成り行きを拒絶して、何とかそこから抜け出る算段をつけ、こうして今は何かの外部にとどまっているようだ。
6月28日何を語っても無駄か。それが狙いだったのではないか。なぜそんな嘘をつくのだろうか。冗談に過ぎないことが、そこに深く足を踏み入れるほど、次第に誰かを虜にして、気がつけばいつの間にか本気になっているというわけか。本当にそれに気づいているのか。何がそうなっているわけでもないだろう。その辺はやはりフィクションの領域で、君はそれらの成り行きを黙って眺めているだけで、取り立てて何を語ろうとしているのでもないらしい。そしてそれはいつものやり方に違いなく、また退屈な言葉の並びとなっている。気分転換に空を見上げても、鬱陶しい梅雨空が広がっているだけで、君の心に気休めの何をもたらすわけでもない。わざとそういう成り行きにはまっているわけでもないだろうが、相変わらずとりとめのない気分で、ただそれらの風景を眺め続け、そこには何もないことを再認識するばかりか。本当にそうだろうか。そこで何に負けているわけでもなく、そんな勝ち負けならテレビに映し出されるゲームを眺めていれば事足りるか。しかしスポーツとは何なのか。何でもないわけではないか。たぶん違うのだ。何かが違っているのはもちろんのこと、その違っている何かがわかっていながら、それを前にして、君には何もできない。同時に何も違っていないわけではないが、頭の中がこんがらがっているのはいつものことだ。その辺から言葉の並びがおかしくなり、文章構成力の限界が露呈するわけか。何について語っているのだろう。そこには偶然があり、偶然を偶然と捉えきれない思考がある。やはりそれらの結果が必然的な帰結であることを説明しようとしてしまい、そうしないと説得力を持てないのだろうが、それと引き換えにして現実を見失い、そんな論理的整合性を獲得しようとする行為が虚構を招き、それと気づかずにフィクションの語り手と堕すわけか。しかしそれの何が哲学なのか。それでかまわないはずだ。それは何でもなく、何かを語るという行為そのものだ。では語るすべては夢うつつの中で展開され、あらゆる妄想の産物となるわけか。そう思いたいのなら思えばいい。どう思ってもそこから遠ざかれないだろう。否定したければ否定すればいい。自らが事実に基づいて真実を語っていると思い込めばその通りになる。おそらくそれは正しい認識だ。だがフィクションの中でそう思っているのかもしれない。
本当にそれでかまわないのだろうか。何を断言しているとも思えない。人はいついかなる時でもフィクションにとらわれていて、自らが思い描くフィクションに目の前で展開される現実を重ね合わせようとして、それに成功した時に感動を味わう。思い通りの光景が眼前にあるように思われ、そこで夢と現実がぴったりと合わさり、それは偶然の巡り会わせにしか過ぎないのに、そこに何らかの必然性を見ようとする。それが千載一遇の機会であれ、天変地異の瞬間であれ、何かの特異点に出会ったことが、それ以降の思考や意識や生き方に決定的な影響でも及ぼすのか。そういう意味で、戦争やら大震災やらの強烈な体験を語り継ごうとする人々は、現実というフィクションの中で生きているのだ。後の時代へと自らの貴重な記憶を残そうとしていることが、自らに課せられた使命となり、その大事件に自らの生を捧げることで、そこから生き甲斐を引き出している。それは痛ましい事実なのだろうか。それ以外に何があるわけでもなく、それだけのことでしかない。そういうことも含めて、自らが人間社会に貢献しようとする行為には、何やらそれに対する批判を拒絶する傾向があり、それが絶対的な善行の様相を呈するにつれて、宗教じみた雰囲気をまとい、要するにそういうことをやっている人が聖人なのだろうか。
6月27日またこんな時間帯に遭遇してしまった。おかしな表現だが、何となく誰かがそんなことを記している。何に出会ったわけでもなく、ただの夜だ。別に詩的な表現を目指しているわけではなく、相変わらず記すことが何もないのかもしれない。でも記しているではないか。空疎なことだ。それもいつものことに違いない。君はそんな雰囲気を遠ざけられず、はまっているのかもしれない。それが似合っている気配さえ感じられ、どうしてもそういう具合に言葉を配置してしまう。そして虚無と戯れているつもりなのか。そんな大げさなことではなく、気の向くままに言葉を連ね、その結果として文章が構成されているわけで、それがどうしたわけでもないのはもちろんのこと、お気に召すような結果でもないのだろう。いったい何様のつもりなのか。誰かの影が呆れているわけか。それは違うだろう。そして気がつけば何も語れなくなり、苦し紛れに何か利いた風なことを語りたくなる。例えば神の存在は数学的な証明の対象となり得るだろうか。過去においてはそういうことをやりたがっていた哲学者のたぐいがいたらしいが、今でもその手の輩がいるのか。何か勘違い的な振る舞いの末にそういうことをやっているのかもしれない。そんなことに誰が興味を持っているのだろうか。君にはそれが重大な過ちだとは思えない。神という言葉を担う対象があり得るだろう。虚構であれ、実態がある物体であれ、それを神と呼べばそれが神なのだろう。そんな単純な認識にとどまる限り、神は実在しているはずだ。だがその程度の存在でしかない神では気に入らない輩がこの世の中に大勢いるらしく、何やら大げさな存在であるように妄想を膨らませ、フィクションの中でそれを描いてみせるわけだ。それも気休めとしてはありだろう。君はそういう神に接して感動するだろうか。それが信仰の対象となってもいいだろう。その時の君は神の存在を信じているはずだ。そんな冗談を語るのは楽しいか。そんなふうに神について語ってもいいのか。神を冒涜しているわけか。冒涜の意味がわからず、何となくしらけてくる。たぶんそういうのは嘘だ。話はどこへ向かっているのでもなく、神の存在の有無について明確な回答を示せずにいる。はじめからそのつもりはなかったのではないか。何かのついでにそんなことを語ってみたに過ぎず、それは冗談にもならないことだ。要するに面倒くさいのだろう。本気になれないのはいつものことだ。では他に何を考えたらいいのか。どうやら神は思考の対象としてはどうでもいい存在だったらしい。
だが他に何を語ろうとしていたわけでもなく、神という言葉を思いつかなければ、たぶんさらに空疎な内容に終始していたはずだ。今もそうなりかけている。そうなってしまうだろう。君とって宗教は必然でない。何かのついでに偶然の巡り合わせで神に出会い、そこから見え透いた物語でも始まってしまうのかもしれないが、今の君に物語を紡ぎだす力などありはせず、できることはひたすら空疎な言葉を羅列することだけか。そうだとしてもそれで何かのきっかけとなる場合もあるだろう。誰がそれを望んでいるわけでもないことを、気休めに誰かが記しているようだが、それをどう評価したらいいのだろう。何の価値もないことかもしれず、何の結論にも至らずに、ただ通りすがりに一瞥されるだけか。それでかまわないのではないか。何も望まず、何も求めない行為が言葉を記すことなのだろう。そんなふうに思えば一時の気晴らしになりそうで、それらの行為が何の勝負とも無縁であることが再認識され、気が楽になるだろうか。しかしそんなことを述べてどうするのか。どうもしないからそういう試みが延々と続いてゆくわけか。
6月26日また考え込んでいる。結論など出るわけがない。さらに考え込むだけだ。語るのはそこまでか。それ以上の何がわかるというのか。わかるわけがない。単なる言葉遊びに過ぎず、それが嘘であることを証明するだけか。君が知ることができるのはそういうことか。何の話かわからない。そこで何を語っているのか。またどこからか外れていて、そんなことを述べている。それだけのことだ。他に何がわかるというのか。君が知っているのはそういうことだ。さっきから同じような言葉が循環している。考えれば行き詰まり、行き詰まれば考える。そんなことの繰り返しに過ぎない。それで何が困るのだろうか。困っているからそんなことを述べている。そんな言葉の循環から外へ出られなくなっている。しかし外とは何だろう。外部があると思っているわけか。この世の外があるかもしれないし、ないかもしれない。考えているのはそういう外ではない。もう少し簡単に考えたらどうか。何を簡単に考えるのか。それは君が知っていることではない。知り得ることから外れ、遠く離れようとしているが、同時に何かに近づいている。ならばそこから何を考えればいいのだろう。何がまったく矛盾しているのか。何を語っているわけではない。今さらそういうことだろう。今さらながらそういうことだ。何がそうなのかわからない。たぶんそれが逸脱なのだ。何かから逸脱している。冗談に過ぎないが、そういうことだ。人が考えることはマンネリ化している。そこから離れられず、逆にそこに執着しすぎているのかもしれない。だからわからなくなってしまうのか。最近はひたすらそういうことの繰り返しだ。それだけでは何がどうなるわけでもないのに、気がつけばそういうことをやっているようだが、それがおかしいわけではない。たぶん何かの帰結としてそうなってしまうのだろう。ひたすらそういうことを述べているわけだ。そしてそんなことが記された画面を眺めながら何とも思わない。なぜそうなってしまうのか。語っているのはそういうことでしかない。そんな言葉が繰り返されて、そこから外へ出られなくなり、どうしたら出られるのか考え続け、結局はわからずじまいとなり、そんなふうに思うのは馬鹿げていると感じ始める。いったいそこで何がどうなっているのだろう。
実態としては何もどうにもなっていない。ただの現状があり、そんな現状の中で言葉を記しているわけだ。だからどうしたわけでもなく、どうもしない現状の中で何かをどうにかしようとしている。二日後の空は晴れているが、これから曇って雨でも降るようで、現状が良くなる兆しなどまったく感じられない。それは本当だろうか。どうなれば良くなったと言えるのか。それがわからないのだからどうしようもなく、結局何もどうにもならないだろうが、悲観する理由がわからない。何かがどうにかなることが良いことなのか。どうにもならないよりは良いことかもしれないが、どうにかなった時の状況を想像できない。何に向かってどう努力すればいいのかわからず、それは嘘かもしれない。すでに努力しているそれは何なのか。今も努力しているはずだ。そしてその努力が現状をもたらしている。空疎な内容が延々と記されている現状がそれか。否定すべきはそうした現状ではないのか。それらの何が空疎なのだろう。頭が混乱しているのではないか。たぶんそうではない。語ることがないだけか。では語らないという選択肢が有効に機能するわけか。無理な話だ。そして馬鹿げている。その遠くを見るまなざしは何を意味するのか。何を見ようとしているのでもなく、見えている風景は何も意味せず、どんな意味も担えないだろう。ではそこで何と向き合えばいいのだろうか。無の境地などあり得ない。
6月25日なぜそこから語ろうとするのか。まだ何かの途中ではないか。話は何かを物語り、何かの歴史を構成する。笑ってしまうがそういうことだ。しかし何がそれの冗談になるのか。それとは何か。いつものように定かでないが、なぜか笑ってしまい、そんなことはどうでもよくなってしまう。それこそが冗談なのだろう。他の何に流されているのでもなく、そんな雰囲気を感じているだけか。それでもそれ肯定しなければならず、簡単なことだ。簡単に感動してしまう。わざとそうしているのだろう。他に何を見ているのでもない。君は音楽を聴いている。別に言葉が何を裏切っているのでもない。不条理なのは人が構成する社会の常だ。底が抜けていて、人々は矛盾が作り出す甘美な誘惑に群がっている。そしてそれがどうしたわけでもない。理に訴えるのも情に訴えるのも誰かの自由だが、君は黙ってそれらの光景を眺めている。君は神なのか。ただの人でないと思っているわけではない。だからお前が君なのではない。それは自問自答にすらならず、単なるつぶやき以下の何かなのだ。そして興味深いのはそれらのひねくれ具合だ。大地があり海があり山があり島がある。誰かの詩にはそんな言葉が記されるわけか。すべてがフィクションに含まれ、そこでは何が問われているのでもないらしい。しかし希望とは何だろう。君は何を求めているのか。この世がどうなることを願っているのだろうか。そういうことではない。ではどういうことなのか。どういうことでもなく、ただわからないだけか。結果として何を求めているのではなく、何を願っているのでもない。彼らが踊らされている現象を馬鹿にしているわけでもない。それにしてもわからない。何をどうしたらわかるのか。何を迷っているのか。何について考えているのか。君はそこで何に関して語ろうとしているのか。何もわからない。それでは何も望めないのではないか。はじめから何も望んでいないのではないか。ならば君はそこで笑うしかない。フィクションの中で笑っているのは君だろう。しかし君は誰でもなく、そんなフィクションもどこにも存在せず、結果として何も語られていないが、そんな言葉が執拗に連なり、架空の存在でしかない君を呆れさせる。それはどういうことなのか。何を問いかけても、返ってくるのはねじ曲がった言葉であり、意味の外れた言葉並びか。だからそれはどういうことなのか。君はそこで途方に暮れ、何の返答もできなくなり、何かを問う機会を失い、それがでたらめだと気づき、虚無に言葉を奪われ、沈黙するしかない。だから意味がわからないのか。
テレビ画面上では誰かがボールを蹴っていて、それを見ている多くの人たちが熱狂している。それはゲームだ。ゲームを見ていると楽しいか。楽しいのではないか。深夜にそんなことを思っているようだが、明日も仕事だ。そして雨音を聞きながら眠ってしまい、目が覚めたら翌朝になっている。作り話としてはそんな支離滅裂でかまわないのか。実際にそうなっていて、何も作り話ではないだろう。君はそこでまとまった話の内容になるのを望んでいないではないか。単にそれができないだけの話か。そうだとしてもそこで話を構成しようと努力している誰かの邪魔をしているわけではない。少なくとも何かがどうにかなってほしいのだろう。そしてこの世の何かを理解したいはずだ。だが何かとは何なのか。ゲームとは何か。そういうことではないらしい。そこで行われている何もゲームではなく、ただの何かだ。君は何になりたいわけでもなく、今さら何を語りたいわけでもない。何が今さらなのだろう。その辺がわからず、いたずらに無駄な言葉が増えてゆき、文章はどうでもいいような内容に近づくしかない。だが君はそれでかまわないと思っているようだ。
6月24日自信がない。何を信じているのでもなく、記しているのはでたらめな言葉だ。それは今の心境ではなく、記しているのは誰の言葉でもない。ではこんな時間にこんなところで何をしているのか。いったい何をしているのだろう。実際には何もしていなかった。過去の数時間はそうだった。誰もいないのだから何もしていない。君は何かを忘れている。またそうではないと思いたいのだろう。現実にそうではない。今度はそう思いたいのか。フィクションの中で何かのトラブルに巻き込まれているようだ。誰がそうなのか。たぶんそういう語り方がよくわからない。でたらめでしかなく、それ以外ではあり得ない。何となく今日の誰かは物わかりがいい。気まぐれでそんな嘘をついてみるが、それが誰の気まぐれなのかわからない。そんなことを述べていること自体が馬鹿らしいが、そうなってしまう原因を知り得ない。君はそこで何を考えているのだろうか。何も考えていないと思えば納得がいくか。何を納得すればいいのだろう。どうも納得していないらしい。でたらめなのだから仕方のないところだが、なぜでたらめに語ろうとするのかわからない。だがそれでも何をけしかけているわけでもなく、誰に喧嘩を売っているとも思えず、どこで批判にさらされているわけでもないが、それがでたらめなのか。たぶんそれらのでたらめのすべてが虚構なのかもしれず、何も語っていない事実だけが現実の世界に反映されている。それで何に依存しているのでもなく、虚無に依存しているのではないか。冗談だろう。冗談かもしれないが、何となくそれを脅威に感じているのではないか。底知れぬ恐怖か。何がそうなのだろう。何もそうではない。何かを否定しているのが楽しいのだ。そしてその否定行為に依存している。そんなのも嘘だろう。冗談であり嘘なのか。すべてがそうだ。何がすべてなのかわからないが、何かを説明していることは確からしい。それが冗談であり、嘘なのか。内容がそうだとしたらそういうことなのだろう。だが君は何について語りたいのか。本当のところが知りたいが、本当があるのかないのかはっきりしない。ではすべてが嘘なのか。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。たぶん虚構の中ではすべてが本当なのだろう。しかしなぜそんなことを述べなければならないのか。誰かの勝手だろう。別にそんなことが問題となっているわけではない。
冗談にもほどがある。それはわかっているが、何がわかっているわけではない。何が真実なのでもなく、この世界に決め手など何もない。すべてがどうでもいいことなのだ。そう思っているだけか。だが何を否定しているわけでもなく、フィクションの中ではすべてを肯定していたはずだ。それはどのフィクションなのか。君はそれを知り得ない。君はこの世界の中で何を知りたいのか。それがわからず、わかることを拒否しているのかもしれない。それはどういうことなのか。何が見えているわけでもなく、何を見ようとしているのでもないのに、その目には何が映っているのだろうか。無駄で空疎な言葉が目の前に並んでいる。そうではないと思いたいが、実際はそうなのだ。それに関して誰かはどんなことを思っているのか。知りたくもない現実か。何も考えられず、何とも思わない。世界が君をどうにかしようとしているのか。どうしようというのだろう。何を思っているわけでもない。何をどうしようというのでもない。ただそこで行き詰まっている。何がどうなろうとそれだけのことだ。そして誰かは途方に暮れる。わざとそうなってしまうのだ。何が見出されているわけでもない。言葉に迷い、何かをやり過ごし、それで何とも思わない。だから困り果てているのではないか。そのつもりだし、どうしようもない。
6月23日それの何が言い訳でもなく、どうもその辺でだめらしいが、どのように何を語ろうとしているのでもなく、死ぬか生きるかのどちらでもないのだろう。そんなわけで誰かは相変わらずくだらないことを考えているようだが、今はそんなことを語るべきではない。眠いのか。あるいは他の何かに惹かれているのか。たぶんそういうことではなく、何を語っている状況でもなく、どうやらまた日付が二日遅れになってしまうらしい。何となく忙しく、何かを思いついている暇がない。たぶんそれが今回のいいわけだ。そして翌日の夕方になり、また他の用事で、言葉を記すことができなくなり、夜になってしまうのだろう。とりあえず翌日が晴れていたようだが、他に何か気づいたことでもあったのか。往生際が悪い。何かに対する執着を捨てきれず、それで墓穴を掘っているように思えるのか。意味がわからないが、雰囲気的には意味不明というわけでもないだろう。では何がそうなのか。君はやるべきことを忘れ、結果的に何かが果たされていないようだ。これから果たそうとしているのかもしれないが、では何を果たそうとしているのか。そこで言葉に詰まり、しばらく考え込んでいるようだ。なぜそう思えてしまうのか。まったくの雑念に違いない。何が雑念なのか定かでないが、なぜかそう思われてしまう。まったくいい加減なことを述べているようだ。なぜそうなってしまうのか。君には何かが見えているのかもしれないが、具体的に何が見えているのかが記されないのはどういうわけなのか。なぜかそれに関しては何も語れないようだ。ならば他に何を語ればいいのだろう。はっきりしたことは語れなくても、おぼろげながら感じ取っていることを述べてみたらいいのではないか。本当によくわからないが、少なくともそれは悲惨な結果ではないような気がして、何となくうまくいってしまうような成り行きを予感させるのだ。そしてそれでかまわないと思ってしまい、やはり何となく満たされた気分になる。本当にそれかまわないのか。実際に誰かが記しているのは、まるでゴミくずのような文章ではないか。だからいいのだろう。その時の気分としてはそういうことなのであり、工夫を凝らしてそれ以上の結果を求めてはいけないような気がして、何か利いた風な内容になってしまうとまずいのかもしれない。よくメディア上でコメントされるその手の内容はごめん被りたい。それではときめかないのか。語っている内容が何でもないことでないと、結果として構成された文章に真実が含まれてないのではないか。それはどういうことなのか。
何かひねくれているような感じがなきにしもあらずだが、そう思いたいのだから、そういうことを述べていればいいような気がしてくる。そしてひたすらそういうことの続きを記していればいいのかもしれない。しかし人はなぜこの世界に存在しているのか。そのなぜこそが虚構なのではないか。人が自らの存在理由を求めているだけで、人以外の誰もそんなものは求めていないのであり、さらに言えば、人以外は誰もいないのかもしれず、それを誰という言葉を使って説明すること自体がおかしいのではないか。ならば人とは何だろう。人でないものを人と見なせば人になり、人を物と見なせば人ではなくなり、人がそう思い込んでいるだけの存在が人である。しかしそういう説明では納得しがたいか。それとも人を説明すること自体がおかしいのか。自明の存在に疑念を抱く行為が間違っているのかもしれないが、そうしないとその手の文章を構成できないことも確かで、絶えず疑念を抱き、この世界に疑問を投げかけていることが、そういう文章にとっては必要不可欠なのではないか。しかしそうすることが目的と化してしまうと、それはそれで哲学もどき的なうさんくさい内容となってしまうような気もしてくる。
6月22日たぶん冗談でそんなことを述べているのだろう。すべてにおいてやる気がしない。この世の何に魅力を感じないのか。冗談を述べるなら、そのすべてだ。嘘をついているのだろうが、気力が減退していることは確からしい。見上げれば空は曇り、また雨でも降ってくるのだろう。それに気づいた時には傘をさして、それからどうするのか。昼は仕事の時間だ。そして夜は睡眠時間か。昼と夜の間には何があるのか。フィクションがあり、それを誰かが語り、テレビ画面上で他の誰かが演じて、気晴らしと気休めの時間となる。たぶんそれも嘘に違いない。そして誰かが生き残りをかけて戦うのはどこの戦場になるのか。現実にはアフガニスタン辺りで、漫画の中にはそういう場面が無数にある。しかしそれをすべて置き去りにしながら、忘却の彼方で誰かが眠っているらしい。意味がわからない。たぶんそれも何かの冗談なのだろう。もはや誰かが起こす事件にも飽き飽きしていたところか。ニュースを見ながら何を思うのか。世界的なスポーツイベントでいざこざが起こり、それについて誰かがコメントしているようだ。たぶんおもしろおかしいのはそういうことだろう。君はそれについてどう思っているのか。そんなことはどうでもいいのであって、すべて興味のないことか。では音楽を聴きながら何を思うだろう。ありふれたジャズが誰かの気休めなのだ。人はそんなことにかかりきりになっている。地球の重力に絡めとられた空気の圧力に逆らいながら、大地を踏みしめ、どこかへ歩いていこうとするが、行き先ははっきりせず、行くあてなどありはしない。確かフィクションの中ではそういうことになっていたはずだが、何か目的でも設定してみたらどうか。それで話がわかりやすくなり、安心できるだろう。ある場面では執拗に安心と安定を求めているのは、誰かの不安がそうさせるのか。人はどこにでもいる。いついかなる時でもそうならざるを得ない。意志の弱さが虚無からの逃避を演じさせ、何とか話のどこかで小さくまとまろうとするが、偶然の作用がそれを阻み、意識を常識から遠ざけ、道を外れさせ、何かくだらぬ欲望にかかりきりにさせがちになってしまうが、そんなふうに堕落しながらも、何とか本来の目的を見出そうとして、さらなる挫折でも呼び込んでしまうのか。フィクションの悲劇性とは、そうなりがちな話の中で、身を削りながら人々の興味をつなぎ止めようとする。まったく馬鹿げた話だ。
何か的外れな意見が出力されたらしいが、本当に君はそう思っているのか。それともそれも冗談の延長上にある言葉の連なりなのだろうか。そこにどんな判断が介在しているとも思えず、心から何かが押し出されているわけでもない。うわべだけで何かを語りたくなっているのかもしれず、それが利いた風な意見の羅列を招いているわけか。何が評価の基準に適合しているとも感じられず、何となく一般的な言説から外れているのだろう。君はそれのいわんとしていることを知りたいのであって、君自身が納得できるような言説の出現を期待しているのだろう。だがジャズ的には散漫で支離滅裂な言葉の配置が求められているようで、それが無意識のなせる業なのかもしれないが、そんなふうに語りながらも、何かを回避していることだけは確からしく、その何かが何なのか君が知る必要はなく、知ったところで何がどうなるわけでもないだろうし、語っている内容がまともになるとも限らない。とにかく常道から外れたところで言説を構成して、誰かと同じように不意の一撃でも食らわしたつもりになりたいのだろうが、この世で何をやったつもりになっても、この世界はこの世界であり続け、いくら攻撃を加えたところで、そのすべてを吸収しながら、何の反応も返ってこないだろう。たぶん世界は君の存在を無視しているのだ。それは誰の存在でもある。
6月21日それだけのことだ。ただわけがわからないだけではなく、何かの範囲内で何かが理解されているようだ。ではそこで述べられているフィクションとは何だろう。何かの途中から否定したくなり、そうではないと思いたくなる。君はそうやって嘘をつく。それがフィクションのすべてだ。それも嘘かもしれないが、嘘であろうとなかろうと、そんなふうにしか話が転がってゆかず、途中にいくつも障害物が転がっているようだが、よけることもなくぶつかり、また違う方向へ転がってゆき、そういう偶然の作用がわけがわからないと思わせる。それがこの世界のたとえにでもなっているのだろうか。嘘に決まっているか。何となくそう思いたいだけのようで、それ以上にどこかで変形を被り、歪みきった文体で文章が記されることを願い、無為な試みの全貌が明らかになるのを期待しながら、どうでもいいような言葉を連ね、そんな嘘をつきながらも、やはりそうではないと思いたいのだろう。何かが違っているのは毎度のことで、いちいちそれを指摘するのもはばかれるほど、どうにもこうにもねじ曲がってゆき、そんなふうに語るしかないような状況に追い込まれていくことが、何かの必然のように思われ、わざとそうしているのではないかと疑うことも、それが当然の成り行きになるように語っているのかもしれない。そしてやはりそれがどうしたのだろうか。まるで決まり文句のように言葉を連ね、マンネリの極みに至っているのではないかと疑い、もう少し真っ当な言葉の並びになるように、修正を施したくなるが、それに逆らっている現実に気づき、今さらどうにもならないことを悟り、さらにそれを続けようとして、それに挫折しながら、同時にそれでうまくいっていると錯覚し、わざとそう思っていることを忘れ、何を思っているのか明らかにしているとも思えず、どうせ冗談のたぐいだと高をくくり、何がわからないのかわからないわけでもないと思いながらも、本当のところはわかっていようと、わからないふりをするでもなく、何を語っているのか定かでないようなことを述べていたいだけなのかもしれず、ひたすらそういうこだわりの範囲内で言葉を連ね、それらのどうでもいいような内容を押し進めて、たぶん何でもないようなことを述べていると実感したいのだろうが、それがよくわからなくなるほどの雰囲気を醸し出したいのかもしれない。そういう気持ちはまったくの矛盾を追い求めることにしかならない。
やはり何をどう考えてもおかしいことに変わりなく、そのおかしさが冗談だと思われ、それは何かの勘違いなのかもしれないが、それでもかまわず、そんなことを記しているうちは誰かの心が満たされ、そんな嘘をついていることが、わけのわからない迷いを吹っ切らせ、意味不明なことを述べている事実を肯定させ、それでかまわないと思い込んでしまいたくなるわけだ。くだらないことかもしれないが、そういう思い込みが誰かを後押ししているようで、さらなる四離滅裂を生じさせるように言葉を並べさせ、それが一瞬の間は成功しているような幻想を抱かせ、そういう成り行きの中に君の意識が存在しているのだろう。それはあやふやな思いつきから生じた幻影かもしれないが、そんなやり方が君にはお似合いで、それ以外にはフィットするような瞬間を持ち合わせていないのであり、フィクションとはそういうことだ。誰かがそれを記していて、そういう現実が非現実と融合して、何かのいい加減な作り話を生じさせ、それを語っているつもりでいるのが君なのだ。そしてそんな嘘が通用しているのが、誰かが記しているつもりのフィクションなのか。冗談にもほどがあるだろうか。
6月20日また外れたことを語ろうとしているらしいが、語ることに幻想を抱くべきではない。それは語っている内容にもよるだろうか。誰もが感動するような内容を語っていると思ったら、幻想を抱いてもいいのか。それの何が違っていると思うのか。雨が降ってきた。それも興味のないことか。やはりそういう話ではない。どうにもならないことなどいくらでもあり、そのひとつが今の状況か。目が空ろだ。君はそこで何を見ているのか。テレビ画面ではないはずか。気休めに何かを思うが、物事を突き詰めて考えることができない。そして何も考えがまとまらないまま、翌朝になり、それからどうなったのだろう。昼は仕事か。もうすでに夜だ。何も思いつかずに夜になり、またいつものように無駄な言葉の羅列を記さなければならないのか。何を求めているのでもないから、それでもかまわない。しかしそれで嘘をついているつもりになれるだろうか。何か他にひねりを利かさないと気が済まないとでも考えているわけか。それではますます無駄な試みとなりそうだ。何を楽しんでいるわけでもなく、そういう感覚が理解できない。だが数時間前に夕焼け空を眺めている場合ではないだろう。まだ現時点ではそこまで時が経っていない。またそういう試みもよくわからない話の展開を導きそうだ。何が冗談でもなく、語っている内容を知り得ず、意識が定かでない。それでも人は何を考えているのだろうか。はっきりしたことは何もわからない。おぼろげながらもわかる範囲内で言葉を記すしかないようだ。そこで思考が停滞していることは確かであり、何をどう考えたらいいのかわからず、途方に暮れているわけではないが、何となくそれに近い状況のようだ。人はどうでもいいようなことに興味を抱き、引きつけられている当のものがどうでもいいとは思えないのはもちろんのこと、それに熱中することに喜びを感じている限りはのめり込み、魅入られているのだろうが、そこに客観的な視点というのはあり得ず、そういう架空の視点から見ればどうでもいいことでしかないのに、やはりそれを欲することに価値を見出していて、そういう事実を受け入れ、そういう行為を肯定せざるを得ず、疑念を感じるようにならないうちは信じるしかないのだろうが、なぜ君は疑念を抱かざるを得ないのか。そうやって君は何に逆らっているのか。それがわかれば苦労はしない。だからその辺からわけがわからなくなり、その先に考えが及ばなくなり、そこで行き詰まる。
思考する方角が見当違いなのか。あるいは他に何が違っているのだろうか。そして長い沈黙の後から何を思いつくわけもなく、やはりひたすら目の前に広がる闇を眺め続けるしかないようで、そこに何もないことを確認しつつも、何かそれとは別のきっかけに遭遇するのを期待して、さらに言葉を連ね、そこに何もないことを確認しながら、何か得体の知れぬ幻想を抱いているのかもしれない。それが何かに引きつけられ、魅入られている証拠となるだろうか。君はそれらの虚無的な感覚に惹かれているわけか。つまりそれらの文章は君自身のことを述べていて、君もそれを承知の上で嘘をつきながら、わけがわからないと記される現状を受け入れ、心ならずもそんなやり方に屈しているわけだ。そしてそれがどうしたとうそぶき、一方でそれに対する返答を思い描き、あれやこれや試みているようだが、今のところは思わしい結果が導きだされているわけではなく、そんな現状に苛立ちを覚えながらも、さらに言葉を繰り出して、あてどなく何かを繰り返すしかないようだ。目下のところわかっているのはそういうことか。何がわかっているわけでもなく、わかろうとしていないのはいつもの通りで、以前にもまして支離滅裂に語ろうとしているのではないか。
6月19日この世では何かが競われていることは確かだが、それの何が問題なのか。問題とかそんなことではない。実際に何かが外れていて、勘違いの原因がそこにある。たぶん人々はやる必要のないことをやっているのだろう。しかし人にやる必要のあることなんてあるのか。その存在自体が不必要なのかもしれないのに、現実に存在し、何かをやっているのが人だ。それが勘違いの原因なのだろうか。そう思いたければ思っていればいいだろう。それも何かの勘違いかもしれない。人は他の人から必要とされていて、人にとって必要なことを人はやっているはずだ。まともに考えればそういうことになるだろうが、それでも何が勘違いなのだろうか。君は必要とされていないかもしれない。結果を見るのが怖いか。それの何が結果なのだろうか。意味のない問いかけに誰が答えるわけもない。それがフィクションの効用だとは思えない。だからそこで語られているのはそんなことではない。君はそれを知っているはずだし、勘違いしているはずもなく、その意味を正確に理解しているはずだ。だから君はそこから遠ざかろうとしている。しかし理由とは何だろう。そこに何を語りかける理由があるというのか。たぶん語りかけなければ何ももたらせないのだろう。君はその先へ進めなくなる。だからそこにいたのではなかったか。そしているだけでは物足りなかったのだ。気休めに声をかけるのは物語の中でそうしているのか。そして何かを語っているはずだ。それがこれまでにない内容だと期待している。しかしそれでいいのだろうか。疑念を抱く必要はない。何かがそこで戻ってくる。それが君の台詞のはずだが、果たして目が覚めても覚えているだろうか。たぶん夢の中で何を語っているのでもなく、誰がそこで目覚めているのでもない。それが何かの物語になる。そう思っているだけなのか。意味がわからないが、そこから何かが始まろうとしている。君がそれを語りだすのだ。あり得ないことだが、いつかは沈黙が破られるはずだった。そして語りだす。それは誰の身の上話でもなく、誰かの物語になるのだろうか。わからないが、そういうことになりそうだ。そして君がそれを知ることになり、どこかで外れたことを述べているだろう。誰からも理解されない。
何があり得ないことなのか。何も問われていないはずだった。過去においてはそうだったのか。そこに至る事情がわからないわけではない。少なくとも何かを知っていた。だがその知っていたことが何に結びついたというのか。そこから抜け出るきっかけをつかみ損ねて、またいつもの迷路の中にいるらしい。本当にそれを知り得る立場にあったのだろうか。君は少なくとも知っていたはずだ。君が何を知っているというのか。知っているのはわけがわからないということだけか。それ以外に何があるというのか。何でもあるだろう。何でもあるが興味がないというわけか。なぜ興味を持てないのだろう。興味がないから興味を持てない。何に対しても興味を示さない。そういう作り話だからそういうことになる。何の理由にもならない。そして何も語れなくなり、後は黙るしかない。ならばそこで話が終わってしまうではないか。そうならないように語る必要がありそうだ。では何かに興味を持たなければならない。それは無理な話だ。興味を持つ対象が思いつかず、そこで行き詰まるだけだろう。それでかまわないのか。それで何かを語っていることになるらしい。君はそういう空疎な語りに興味がある。本当にそう思っているのだろうか。君がそう思っていることにしておきたい。フィクションの中で誰が何を思ってもかまわないか。君がかまわないのなら、そういうことにしておきたいところか。だがそれで何がどうなるというのか。
6月18日何を迷っているわけではないが、何が楽しいわけでもない。そんな状況から何を語れるというのか。そんな状況とはそんな状況でしかないだろうが、それはどんな状況なのか。知っているのにそう自問してみる。わけがないからわけがわからないわけか。何を繰り返しているのだろう。疲れているのなら眠ってしまえばいい。この世にわからないことなどいくらでもあるはずだが、それについて語ることができない。そんなのは嘘だと思うが、他にどんな嘘をついたらいいのだろう。君は語るべきことを語っていない。語るのにも限界があることは確かだが、別に無い物ねだりをしているわけではない。だがそれに関して何か画期的な見解を示せるわけでもなく、それが何だかわからない。それとは今記されている言葉の並びではないのか。それがどうしたのだろう。どうもしないからわけがわからなくなり、どうにかしないと意味のある文章を構成できず、どうにもできないからそうなり、そんな言葉が連なってわけのわからない文章になってしまう。それも嘘か。何が嘘でもなく、嘘をついているというのが嘘なのかもしれない。ではそこから何を述べればいいのか。興味がないのはサッカーと野球か。両方テレビで見ていたではないか。興味がなくても見ることができるのは不思議なことでない。どうやら意識がどこかへ外れているようだ。心が空っぽで、ここには何もないということか。そういう問いがおかしい。だが空っぽの自分がテレビを見ていることは確かだ。たぶんそこで何かが外れているのは事実なのだろう。わからないが蒸し暑いので、首にタオルを巻きながら冷房の下で過ごす。蒸し暑いのが嫌だが、冷房も嫌だ。どちらもだめなのだから矛盾しているわけか。わけがわからないとはそういうことだろうか。何のたとえにもなっていないような気もするが、何となくそんなふうに思っていれば、それでかまわないのだろう。完全に精神が崩壊状態か。そんな大げさなことではなく、要するにわかりやすい心境というのが嘘っぽく感じられ、頭の中で何かが外れているように感じられるのは、そう思いたいからに過ぎず、あまり合理的な説明を必要としていないのかもしれない。そんな感覚で一日を過ごし、気がつけば今日も夜になっているわけか。昼はいつものように仕事をしていたはずだが、そんなことはどうでもいいように思われ、今は今でどうでもいいようなことを記している。どちらにしてもどうでもいいようなことばかりなのだ。たぶんそこから何が導きだされるわけでもなく、何ももたらされないだろう。
だから何だというわけでもなく、相変わらず心が身体から外れているらしく、何を思うこともなく、それ以外の何を感じることもない。虚無や空疎が心の抜け殻に巣食う。本当にそうだろうか。本当の心境などどこにも記されはせず、それに関する説明などありはしない。だからどうしたわけでもないのであって、いつまでたってもそんな心境から抜け出られず、抜け殻の心が何を捉えることもない。他の何を思い出そうにも、すでに何もかもが否定されてしまい、すべてが打ち消されている。そんなことがあり得るだろうか。君が何を問われているわけでもなく、何を問うているのでもなく、ただどこからともなく問いかけが投げかけられて、それに対する返答も出ないうちからそれが否定されてしまい、それを説明することもできなくなっている。要するにそれがあり得ないことのすべてだろうか。それの何が嘘であり、間違いなのか。何がどこから湧き出ているわけでもなく、それが誰の言葉だとも思えず、誰が何を思っているのでもない。そんなふうにしてわけのわからないことが語られているだけで、それ自体がおかしいのか。
6月17日何が押し付けがましいのか。やはり言葉を記すのが遅れて、話は昨日のことになるらしいが、そもそも内容がフィクションだから、単に日付が昨日であるだけのようだ。そんなわけで相変わらずそれ以外は何も語れず、それがどうしたわけでもなく、ただ何となく以前と同じように言葉を並べて、文章を構成しているだけのようだ。そこから何をどう工夫しようにも、やはりそんなことの繰り返しで、そこから先に言葉がつながらなくなるだろう。だから君は何もわかっていないようだ。しかしそういう状況下で何をわかろうとしたらいいのだろうか。たぶん何もわからないままでもかまわないのではないか。そういうことならそういうことになってしまうが、何も理由に至れない。無理に至ろうとしなくても、いつかわかる時がやってくるかもしれないが、それまでには忘れているだろう。いったい何を忘れているというのか。君が何を忘れようとしているか、それを君が知るよしもなく、そうなる理由など誰も知りはしない。そしてますますわけがわからなくなり、いつの間にかそんなことはどうでもよくなっているはずだ。たぶん何について述べているわけでもない。例えば世界情勢がこの先どうなろうと、誰の知ったことでもないか。だが少なくとも誰かが何かを知ろうとしていることは確からしく、メディア上では盛んに各種の予測が語られているのではないか。経済情勢やら政治情勢やら、何やらそういうものを知りたい人が大勢いることを前提として、そういうことを語る輩が大勢いるはずだ。君もその中の一人になりたいのか。では今回の冗談はそういうことなのだろうか。冗談でなくても、君がそれを語れるはずがない。ではなぜそんなことを述べようとするのか。誰がどんなことを述べようとしていたのか。君がそれを知りうる立場にあるとは思えない。ならば思えないと思っているのは誰なのか。その辺でそこで語られているはずの架空の話は破綻してしまうのだろうか。だから語られているのは何の話でもないということか。たぶん君が語るにはさらに多くのカフェインが必要なのだろう。今はそれが足りないから何も語れないわけか。そういういいわけも、何か取ってつけたような不自然さがあり、まったくでたらめかもしれず、誰にも信じてもらえないようなことを、誰かが述べているのだろうか。
何かそれとは違う切り口を見せられないものか。それは何の話の延長上にあるのか。何の話でもありはせず、それはいつものことであり、話のとば口で話すのをためらっているようなものだ。あるいは話す気もないのに、何となく話す素振りだけ見せようとしている。いずれにしてもたわいないことをその辺に提示して、それで済ます気なのか。そこで言っておきたいことなど何も思い浮かばずに、フィクションの中で空疎なことが語られているというのも嘘っぽく、何が毎度おなじみなのかわからない。それは誰の事情でもなく、やはり理由もなしにそうなってしまった理由を探している。このままではさらにわけがわからなくなってしまうのか。何に興味があるわけでもなく、なるようにしかならないこの世では、ならないこともなってしまうような案配に、すべてがそういうふうに動いていってしまうのだろうが、それでも言葉を並べている以上は、それらの並びに何らかの意味が宿らなければ示しがつかないような気がしてきて、盛んにもっともらしいことを述べようとしている輩もいるようだが、それがどうしたのだろうか。どうしたというなら、どうかしたのかもしれないが、どうかしたからといって、他に何がどうかしたわけでもなく、それ何かがどうにかなったというのなら、それでかまわないのだろう。
6月16日誰かによると、人は機能しなければならないそうだ。機械と同じようにか。基本的にはそれと変わらないだろう。そう思っているのならそれでかまわないのだ。しかしどのように機能すべきなのか。何か役割分担でもあるのか。人と機械との間でもありそうだ。要するにそういうことか。だがそれに関して君はどうでもいいような気分になる。納得がいくような答えが出ないと困るのか。たぶんそこで何がどうなっているわけでもない。またそれか。そこに何がもたらされているのでもなく、何をもたらそうとしているのでもない。そんな予定調和の言説のどこかに狂いが生じているはずだ。別に何かが精密機械のごとき動作を期待しているわけではないが、少なくともそれによって何かがどうにかなっていてほしいのだろう。誰かは良い結果を求めているはずだ。確かにそうなることを望んでいるはずだが、そうならなかったらどうするのか。どうにもならないだけだろう。どうにかなってもならなくても、君に何がわかるわけもない。それに関して問われていることが、何か違うのだろうか。何が問われているわけでもなく、誰がそれを問うているわけでもない。そうなればいつものパターンになる。結局何でもないというわけか。ところで今君はどのように機能しているのか。ひたすら無駄なことを述べているようだが、それが何の役に立つのか。それが言葉を記している誰かの自己満足につながっているはずだ。そして君はそういう行為がくだらないと思っている。いったいそれの何がくだらないのだろう。誰の反駁でもなく、何を問うているのでもないが、それでも何かを語っている最中なのだ。語ることによって何を変化させているのでもなく、それでこの世界の何を明らかにしようとしているのでもない。しかし言葉を記した分だけ、確実に何かが変わっているはずだ。そして何かが明らかとなり、同時にわからないことも出てくる。そう思いたいだけだろう。取り立てて他に何があるわけでもない。別にそこで詭弁を弄しているわけではなく、ただ何かを適当に語っているだけではないか。そしてそれを他の誰に見せびらかしたいわけでもない。だからわけがわからなくなり、特定の相手に対して具体的に何を説明しているわけではないから、それでもかまわないとも思っているはずだ。しかしそれで何がどうなったというのか。冗談はその辺でやめておいた方がいい。何が嘘でもかまわないのだろうが、何が冗談なのかわからなくなっている。
君は何かに魅入られているはずで、同時にそれを頑に拒否している。それは矛盾しているが、ありがちな成り行きだ。そこから抜け出るためには何が必要なのだろうか。たぶん何かを機能させなければならない。しかし何かとは何なのか。具体的には何も出てこない。だから幻想を抱いているのではないか。そんな単純なことではない。君には影だけがあり、君は君自身を味方につけようとしてる。あり得ないことだろうか。君と影は一心同体か。そういうことではない。そんなことはいくらでも否定できる。何をどう考えても否定すべきことなのだ。では何のために語ろうとしているのか。自問自答に殉じている。それはどういうことなのだろう。どういうことでもなく、そういうことなのだろうが、それではわけがわからない。しかし結果的にはそれでかまわないのだ。何かが外れているようだが、どうもいただけない。何となくそれは違うのではないか。何かが大きく外れていて、どこまでも違うような気がする。なぜだか知らないが、嫌な気分になる。それがどうしたのか。どうしたわけでもなく、こうして言葉を記している。記しているのは誰でもないが、それはフィクションだからか。
6月15日たぶん何を語る必要もないのだろう。その必要もないのに語ろうとするからどうかしてしまい、そこから無理に言葉を繰り出そうとして、何となくおかしな文章が形成されてしまう。それでかまわないのだろうか。やはり何をどうしようとしているのではなく、どうにかしようとしているわけか。要するに矛盾しているわけだ。それでも貴重な時間だ。なぜか無駄で無意味なことを述べている時間が貴重に思われ、それがすべてのように感じられてしまう。そこで何かをやり遂げようとしているのだろう。それはどういうことでもなく、無駄で無意味な自問自答も含めて、それらすべてをやり遂げようとしているわけだ。何とかしようとして、何ともならないことをどうにかしようとしている。どうにかしようとしてどうにかなるようなことではないはずだ。すでにどうにもならなくなっているではないか。語れば語るほど虚無に近づく。無内容で空疎なことを言葉がなぞり、それがどうでもいいような文章を構成してしまう。いったい何について述べたらいいのか。それ以外などあり得ない。そしてそれでかまわないと思われてきて、何かをあきらめているような気分となり、そこから遠ざかれなくなり、さらにいっそう近づいてしまう。そんなふうに語ればいいのか。何がいいわけでもなく、何もよくないのに、結果的にはそれでかまわないらしい。どうにもならないのにどうにかしようとしてはいけないが、そのいけないことをやろうとするのも誰かの性分なのだろうか。それはすべての誰かに当てはまることかもしれず、これまでもそうやってきたのであり、これからも同じようにやってしまうのだろう。だから言葉が無駄に連なり、無駄な文章が構成され、誰かの落胆とともにガラクタが生まれ、それらのガラクタそのものが、それでかまわないと主張しているように思われ、それが実体化した当のものが、それらの言葉の連なりではないのか。そうだとしたらこれから先はどうなってしまうのだろうか。先などもとからありはせず、ひたすらそんなことの繰り返しがそれそのものであり、そうやって同じような言葉が絶えず循環し続け、それらの残念な成果を提示し続けるわけか。まったくの冗談だろう。何かを否定してばかりいると気が滅入り、鬱状態にならないか。そんな精神を誰が所有することもないだろう。すべては所有から逃れ、すべてをすり抜け、どんどん忘れ去られ、何もなかったこととなり、これから何かが新たに始まるにしても、それが終わる前に消え去り、どうでもいいような残滓が記憶として残るだけだ。
しかし何がそれでかまわないのか。きっとその先にはすばらしい未来が待ち受けている、と嘘をついておけばいい。そしてそれが嘘ではないことを言葉によって証明しようとして、必ず挫折してしまうのだろう。それは予定調和の挫折でしかなく、わざとらしい悲嘆とともに、大げさに語られようとされるが、君の知ったことではなく、誰の知ったことでもないような内容とともに、気づかぬうちに偽りの物語へと変貌を遂げ、何かとんでもないような作品の到来を予感させ、冗談でそんなことを述べているのだろうが、そう述べると少しは気休めになるらしく、調子に乗ってさらなる物語のねつ造に精を出して、誰かがその身を滅ぼすことになるのだろうか。それこそが冗談なのではないか。なぜ悲劇的な末路を予感させるのだろう。それは幼稚で単純だった時代の名残りかもしれないが、何かに対する郷愁がそんなことを述べさせるののだろうか。たぶん本気になりたければその手の漫画でも読んでいればいいのだろうが、その気にならないのは当然の成り行きで、どうしてもそれらのフィクションを真に受けるわけにはいかず、何かの冗談だと思うしかないらしく、そう思ってしまうような思考が、これまでの歩みから生じているのだろう。
6月14日翌日の今日は晴れているようで、何のことはない。何か頭の中が空っぽで、思考過程が矛盾しているだろうか。相変わらず何を語りたいのでもないようだ。馬鹿げているのは君の方ではない。それは誰でもなく、何について考えているのでもないようだ。ではそこから誰かはどうなったのか。そこが不明で、文中の不明確な箇所を誰に向かって指摘しているわけでもなく、やはりそこで何がどうなってしまったわけでもないようで、何かを否定し続け、そこから言葉を導きだしているようだ。今回は冗談では済まないのか。では他の何で済ませようとしているのか。何に関してどう語っているわけでもないらしい。人は時代の中にその存在を拘束されていて、過去の出来事に絡めとられ、それについて顕揚すればするほど、どんどん忘れ去られ、それについて語ろうとする者を落胆させる。君は相変わらず冗談でそんなことを述べているのだろうが、それは具体的に誰のことを指しているのか。ジョン・レノンか坂本龍馬か。たぶんどちらでもなく、何かもっと最近の人物ではないのか。だが誰がどうなろうと君の知ったことではないはずか。ジャズとは何か。それも君の知ったことではないか。そういう話ではなく、何かについて述べようとしているのに、すぐにそれを妨害してしまうのは誰なのか。たぶんそれも違うと思われ、実際にはそこで迷いが生じているのだろう。過去において誰が何をしていようと、それに関してどのような評価を下そうと、そういうことではないように思われる。目的もないのに目的を設定するわけにはいかず、人が何のために努力しているつもりであっても、それがすべて無に帰そうと、やはりそれは違うと思われてしまうものだ。そんな話をしたいとも思わず、そこで何かが違っていると思われるそれについて語りたいのに、そこから先には何も言葉が出てこない。だからいつもそこで行き詰まってしまうわけか。いったい何が違っているのだろうか。結論はすでに出ているはずだ。やはり君はすべてを忘却の彼方に押しやってしまいたいのではないか。それはどういうことなのか。すべてとは何なのか。今ある行き詰まり打開する何かが過去にあるとは思えない。しかし未来に何が到来するとも思えず、何かが確実にやってくるとしても、それが求めている解答ではないということだろうか。
別に問いに答えようとしているのではなく、何が問われているのでもないことが、逆に無理に問いをねつ造しようとしてしまうのはわかっているつもりであっても、やはり問わざるを得ないような状況に追い込まれてしまうことがおかしいと思われ、何かが違うとはそういうことなのかもしれないが、しかしなぜ問わなければならないのか。何を問うているのでもないのに、なぜかそれを問うてしまうことがおかしい。しかしいくらおかしくても問わざるを得ず、問うことでしかその先へ言葉を連ねることはできず、無理に言葉を記そうとすると、その理由を問わざるを得なくなり、理由もないのに言葉を記そうとしている、と嘘をつくはめになるわけか。しかし同時にそんなことではないような気もしてきて、何かくだらぬ水準で自問自答を繰り返しているように思われ、今度はそれを認められなくなり、やはりそこからそうではないと思うしかなくなり、そうでなければ何なのかと問い、結局はそんなたぐいの問いが矢継ぎ早に繰り出され、それに答えようがなくなり、呆れてそんなことは何でもないことだと開き直り、馬鹿げたことを述べていることに気づき、何をどう述べていいのかわからなくなり、どうにもこうにも言葉に詰って、それ以上の話の展開を断念してしまうわけか。
6月13日なぜかそうなってしまい、何がどうなろうと、どうしようもなくそうなっているようだ。誰かが記す文章はどこまでも同じような内容になっている。はたしてなぜそうなってしまうのか理解できる機会が、誰かの身に訪れるのだろうか。そうなったらどうなるのか。今までとはまた違った話の展開を記せるとでも思っているのだろうか。たぶんそうなったとしても、それが何を物語っているわけではない。そう思ってしまった時点で何かが違っているはずで、何をどう理解しても、やはり語っていることに変わりはない。それが誰かの能力の限界であり、そこで記されていることは、いつまでたっても気休めであり、何かの冗談以外の何ものでもない。そういう決めつけを記してしまうこと自体が間違っているのだろうが、それ以外に何を記せるというのか。誰に向かって何を問うているのでもなく、何が問われているのでもない。君はどこまでも君であり、誰かはどこまでも誰かであって、どこまでも平行線が続き、両者が交わることは永久になく、従ってそこから物語など生じない。それが誰かが記している冗談なのか。要するにそれは何でもないことであり、何を示しているのでもなく、何を物語っているのでもない。ここはそういうことにしておこう。だから冗談だと述べているのか。しかしそれの何が冗談なのか。まったく笑えないか。何を笑いたいのでもなく、笑うつもりもない。そんなふうに語っていること自体がおかしいが、やはりそれでは笑えない。たぶん冗談ではなく、冗談だと思っていること自体が違うのではないか。そう思うならいつものように何かが違っていると述べればいいことでしかない。それは何かの堂々巡りであって、どこまでも同じようなことを述べ続けていることの証しとなる。そしてそういう成り行きに歯止めはなく、いつまでもどこまでもそういうことの連続となり、嫌気がさそうがうんざりしようが、言葉を記そうとすれば必ずそうなってしまい、それ以外はあり得ないようなことを延々と記し続け、記された言葉の連なりはそれ以上の何をもたらすこともなく、それ以外のどんな話の展開も受けつけず、まるで虚無に魅入られたように空疎な言葉の羅列をなぞり続け、言葉を記している限りそれを止めることはできない。果たしてそれ以外の何がもたらされているというのか。今さら何を問うても無駄か。誰が何を問うているのでもなく、どのような返答を期待することもできず、言葉を記している限りは、それ以外は何もないような空疎を受け入れなければならない。
だから何が冗談でも幻想でもなく、そういう成り行きからもたらされる現実がそれらの言葉の連なりなのだ。それが真実だとすれば、君はそこで何を思えばいいのだろうか。何も思わず、黙っていればいいだけなのだろうか。画面を眺めながら何を思うこともできず、眠たくなれば寝てしまえばいいだけか。そうだとしても、そこから新たに言葉が記され、それが以前と同じような空疎だとしても、さらにそんな言葉が並ぶ画面を見続ければ、何となく満たされた気持ちになるのではないか。冗談かもしれないが、それが紛れもない実感かもしれず、たとえそれがフィクションだろうと何だろうと、そこに何らかの意識が介在していて、そんな意識を介してそれらの言葉の連なりが生まれている現実があり、それが理解の範疇から外れていようと、何となくそういうことを述べている誰かが何かを思っているのかもしれず、そんな思いが文字列からにじみ出ているように感じられれば、それでそれはそういうことになるのだろう。それはどういうことでもなくそういうことなのであり、どこまでもそういうこと以外の何ものでもなく、やはりそういうことなのだろう。
6月12日たぶんできないことはやらない方がいいのだろうが、できるかできないか判断がつかない場合はどうすればいいのだろう。やってみればわかるが、まだやっていない現時点では何もわからない。だが少なくともそれは昨日のことのはずだ。昨日は何をやっていたのか記憶がない。そういう嘘をついて何を否定しているのか。否定できることとできないことがありそうだが、今は何を否定しているのでもないらしく、膝の痛みをこらえながら、どこかに横たわっているのかもしれないが、たぶんそこでまたくだらないことを述べているのだろう。そんなことを述べている君はもはや誰でもなく、完全に架空の存在だ。そしてそこから何を述べているのでもなく、ただ黙って画面を見つめている。それだけのことで話になるわけがない。だから沈黙を守っているわけか。意味がわからない。誰が他の誰と問答を繰り返しているとは思えず、延々と自問自答し続け、何も話が進展せず、他に何を語るわけでもなく、他の何を問い続けているわけでもない。やはりどこまでいってもそれだけのことであり、それ以外は何も語られていないのではないか。そして話に行き詰まり、いつものように眠ってしまう。誰かは二日前の日付で何を語っているのか。空疎なこと以外には何も内容がない。だがそれでかまわないのだろう。何を語るわけでもなく、言葉を延々と記そうとする。それが何かの文章となるらしく、それ以外の何を求めているわけではなく、それ以上でも以下でもないような何かを語り続けているつもりなのだろうが、本当のところは何を述べているのかわからない。それはいつものことであり、他に何があるわけでもなく、たぶん何を語っているつもりにもなれないだろう。そしてそれもかまわないと思いたいのだろう。そこから何がどうなるわけでもなく、何をどうしようとしているのでもない。それは無駄で無意味な行為なのだ。すべてがそうであり、何もかもがそういうことだと理解したい。そんなのは間違っているし、何かの勘違いなのだろうが、それでひとまず安心できてしまえる。何の理由も根拠もなく、何をどう語ってもそうなってしまうのだから、やはりそれ以外に何があるわけでもなく、そこから何を導きだそうとしているのでもない。ただそれも誰かが記しつつあるフィクションの一部だと解釈すれば、それで納得してしまいたくなり、それが何かの救いになるように思い込みたいだろうが、たぶんそれは何かの冗談に違いない。何もないのに何かがあるように装ってはいけない。
その調子でかまわないのか。何の調子でもなく、何となくその辺で転調したくなる。雰囲気としてはそれでかまわないのかもしれないが、本質的には何がかまわないわけではなく、何かが途方もなくいかれているのかもしれず、おかしいのだろうが、わかっていても何がおかしいのか理解できず、それでは何がわかっているのかわからないままだが、とりあえずそういうことであり、そこで何をどうしようと、そうなってしまうような成り行きにとらわれ、どうにもこうにも身動きが取れなくなり、そんなふうに語るのがそもそも間違っているような気もするが、それ以上は何を導きだすこともできず、そういうことを語る以外にはあり得ない状況の中に意識があるようで、それも何かにとらわれている証しとなっているのだろうが、やはり納得しがたいようで、どうしてもそれは違うと思ってしまい、他に何かがあるはずで、その何かを探して、さらなる徒労を継続しようとするのだろう。しかしだから何だというわけでもなく、そういう語りが何かの気休めとなり、そこでの雰囲気を言葉で表現しているのかもしれない。
6月11日たぶん何かに負けているのだろう。その証拠に言葉を記すのが遅れてきた。何がわからないのかわからないまま、何も思いつかなくなってしまったらしい。それは毎度のことでいつものことだが、体調がおかしいわけではないが、頭がおかしいのだろうか。そう思ってみても何の根拠はなく、それでも誰かはそう思っているらしい。結局どうもせずに翌朝になり、いつものように仕事をして、また夜になり、何もできずに眠ってしまい、さらに翌日になる。それはまったくフィクションにならない成り行きで、ただの日常であり、そこで何がどこにあるわけでもなく、誰がそれを求めているのでもなく、この世界において君が何を求められているのでもないことを悟る。何かが確実に空洞化しているのだ。数日後には雨が降り、梅雨になるのか。それがどうしたわけではない。君は相変わらず何ももたらせず、落胆しながらフィクションの中で暮らしている。そしてそういう作り話が君に虚無以外の何をもたらしているわけでもない。この世界では退屈すぎるのだろうか。どの世界でも何も起こらず、どこもかしこも虚無と退屈に支配されているのだ。そしてそれがどういう兆候なのかわからない。誰にとっても嘘でしかないのかもしれない。無駄に時を過ごしながら、何を考えているわけもなく、さらに言葉を記して空疎な気分が増してゆく。それもフィクションの一部なのか。昼には仕事をしていたはずだ。そこからどんな幻想を抱けるだろうか。君には関係のない話になるだろう。だからつまらないのではないか。それの何がつまらないのだろうか。目の前を歩いている人から何かが分離して、それが空を飛んで鳥となる。誰かはあり得ないことを空想しているようだ。現実の生活から何が導きだされているわけでもなく、それとは無関係に言葉を繰り出し、音楽を聴きながら何を思うこともない。誰かがこだわっているのはそういうことではないような気がするが、君はどこで何を獲得できると思っているのか。どうやら完全に目が覚めているわけではないようだ。寝ぼけていると思っているのは君ではない。自らがそう思ってどうするのか。またおかしなことを述べていることに気づき、話のつじつまが合う合わない以前に、何となくわざとそう語ろうとしているのかもしれず、それがどうしたわけでもないのだろうが、そんなふうにしか語れないことを正当化できずにいるらしく、何かが違っていると思いたいのだろう。
ただそれだけのことで現状の何を変えようとしているのではない。ありのままの心境を語っているとも思えない。思っているのはそういうことではないらしい。できないはずがない。何がそうなのか。たぶん何もそうではないのだろう。何そうなのではなく、何もそうではないということか。そう解釈してもかまわないということだ。では何を解釈しようとしているのか。そこにはどのような現象が起こっているのか。君がわからないことではない。誰にもわかっていることだ。君には嫌というほどわかっていることについて尋ねたい。逃げても無駄か。今さらそれはないだろう。逃げられないから、こうして誰かが言葉を記して、文章を構成しようとしているのではないか。ただそれだけのことだ。それだけのことでしかないから、真っ当なことを述べられない。しかし苛立っているのは君ではなく、誰でもない。そう思いたいだけのことか。しかしそこに誰の本音が含まれているというのか。君はそこから何を導きだしたいのか。それがわかれば苦労はしないだろうが、やはりそれらの苦労につきものなのは動機のなさだ。何のために何を主張しようとしているのでもないのだから、こうして空疎なことを記すしかやりようがない。
6月10日ここからどうすればいいのか。そうではないと思うだけのようで、それ以外は何をどう話せばいいのかわからなくなる。だから現時点では何も語りようがなく、何も始まらず、何も終わらない。それが今の実感している真実だとすると、いったい君は何に興味があるのだろうか。とりあえず今の退屈な生活に飽きているはずだ。作り話の中で誰かがそう感じている。意識はまたフィクションの中へと逃げ込もうとしている。それはおかしな語り方のようだが、なぜそうなってしまうのかわからない。少なくとも昔はそうではなかったはずだ。ではどういうきっかけでそうなってしまったのだろう。過去において何があったか知らないが、それに関して事の顛末はどこで語られるのか。君はそれらの出来事の一部始終を語る気がない。たぶんそんなのは嘘だろう。何かのきっかけとなる事件など何も起こっていない。では何が架空の出来事なのだろう。言葉を記している事実が架空の出来事となる。また見え透いた嘘をついているようで、少なくともそれらのフィクションの中ではそういうことになる。そしてなかなかそれらの話に終わりがこないようだ。誰かが自発的に何を終わらせようというのでもないだろうが、それにしてもなぜ終わらないのだろうか。その必要がないからか。終わらないからどうしたわけでもなく、中には終わっている話もあるはずだ。君はそれに関して何を思うだろう。ちぐはぐなことを語っていて、意識の中で何かの均衡が崩れている。持続的に何かをやろうとしているが、気が散って精神を集中できない。そしてそれに関しては素っ気ない印象があり、すぐにあきらめてしまうのだろうが、語っているうちに何を説明しているのかわからなくなって、気がつけばそこで話が終わっている場合が多い。そして今はその話の内容を思い出せず、しかもそれに興味を抱けない。それが何を意味するのだろうか。その時点でもう終わっているということの他に、何か説得力のある見解を示せないだろうか。それを続けるのは無理らしい。あくびの他に何が出てくるわけでもなく、どうしようもなく眠たくなって、何もできなくなるだけだ。今がその時なのか。何を問うているのだろう。この世界はどこまでもこの世界のままにとどまり、それが何を意味するわけでもない見解しか導かれなくなり、そういうことだけがその場の真実を物語り、君はそれに逆らえなくなってしまい、そこで疲労を覚え、眠ってしまうしかないようだ。たぶん他の選択肢はない。
しかしなぜそんなに疲れているのか。それはその場に居合わせてみなければわからないことかもしれず、たぶん必死の努力も虚しく、何かに挫折して、その場に崩れ落ちて意識がもうろうとなっているようだが、それがどうしたのか。現実にはどうにもならないことのようで、何がどうなるわけでもなく、結局は気晴らしにもならないようなことを延々とやるはめになり、何かの見えない力に抗いながら、必死でどうにかしようとしているらしく、眠りから覚める度に、少しずつでも前進すべく、言葉を途切れ途切れに記して、まったく意味をなさないことに呆れつつも、それらの文章の完成に近づこうとしている。なぜそうまでしてやらなければならないのか。意味も意義もあったものでもないのに、ひたすらそれを続けようとしているが、それが何だかわからないのだ。終わりが一向に見えてこない。嫌になるほど言葉を記しているのにそればかりだ。何の体もなしていないことを延々と述べているのにそれなのか。何もそこまでやる必要もないのに、結果的にそうなってしまっているわけで、徒労も何も、完全に無駄で無意味なことを、そこまでやることのどこが何なのか。だからそれは何でもないことなのかもしれず、それでかまわないのだろう。
6月9日いつもながらの作業をこなして夜になり、そういう成り行きの中で何を安心しているのかわからないが、とりあえずテレビを見ている暇はない。たぶんまた言葉を記さなければならないのだろうが、それから話はどうなったのか。そこで語られているのは、相変わらず何の話でもなく、誰かはいつものように空疎なことを述べているようだ。話に中身があってはまずいのか。他の誰かが反感を抱くようなことがあってはならないらしいが、その意図はなくてもそうはいかない。心ならずもそうなってしまった結果を同情しているわけではないが、何がどうあってもそんなことはないと思うなら、必ずしも結果がそうならなくてもそれでかまわない。まだ何も語っていない段階でそれはないか。それでも君は何とかしたいらしい。どうしてもそれらの虚無から抜け出ようとしている。何をニヤついているのか意味不明だが、無理に決まっているだろうか。その先がどうなるにしろ、中身があってはまずいのだろう。そんな嘘をついているうちにも、何かが急速に回復しつつあり、記された言葉が、まるで何かの病原菌のように蔓延るが、我慢がならないのはそういうことではないらしい。誰の良心を踏みにじるように語る場合もあり、いったい誰がそこで語っているのか、よくわからないままに、さらに言葉を連ねようとして、結局は空疎で虚無的な語りに終始しながら、実際には誰も語っていないはずの文章の中で、誰も何も語らせないような雰囲気に、その場が支配されていると思っている。それも何かの冗談か。そう語る意図が誰かにあったりするのだろうか。それは単なる気まぐれなのかもしれない。そうであってほしいのだろう。そうやって何かの成長を止めてしまうわけか。相変わらず話の中身が見えてこない。たぶん君はつまらぬことにこだわりすぎている。くだらぬことを気にしすぎているのだ。その先に何かが待ち構えていてほしいのともうのは、どのような願望を反映した思いなのだろう。愚者にはそんなことまでわかるはずがない。そしてその辺で言葉に詰まって投げやりになろうとしている。やりようのないことまでやろうとするのは悪い癖だ。それでもまだ死に至る病ではないと思い、気休めに言葉を並べ、でたらめに文章を分解するような何かを探し求め、そんなことができるわけがないと高をくくって、それ以上は自意識を問い詰めない。自らに甘いことが誰かの取り柄か。それ以上に何が求まるというのか。とうに君は君自身を見捨てているのでなかったか。まだその段階ではないだろう。自らを見捨てる前に語るべきことがあるとでもいうのだろうか。
自ら記した言葉に意識をかく乱されているのだ。そうだとしても、その後で何ができるというのか。誰に問うているわけでもなく、空想上の虚無が何を問われているとも思えず、興味のない地平で何を語りだしているわけでもないか。心の傷がいくら深くても修復可能だが、それはフィクションの中でのみ可能なのだろう、要するに心の傷自体が空想の産物であり、フィクションで語られていることの中にそういう概念が存在するに過ぎない。そして現状ではそこまで語られていないはずで、なかなかフィクションを語る機会が訪れないのではないか。その気もないのに語るはずがないか。今の君には現実しか見えていない。それも何かの嘘か勘違いかもしれないが、そういう空想上の現実の中で何を思っているわけでもなく、どこまでも堂々巡りの域でない話の中で、さらなるでたらめな言葉の並びに遭遇しているようで、呆れてものもいえないどころか、ただあっけにとられているだけなのかもしれず、そして楽しくなり、なかなか毒が体内から出て行かないことを呪うはずもなく、その場で迷路を構築しつつあるのが誰なのかわかっているつもりのようだ。
6月8日そう語ることに何か理由でもあるのか。どんな思惑が潜んでいるわけでもない。それは意図の定かでない話の成り行きだ。ではフィクションの中で話がどこまで進んでいるのか。気まぐれに誰かが他の誰かの精神状態を推し量る。それは意味のない想像だ。どのような窮地に陥っているわけでもなく、現時点では何が正念場でもなく、いつまでも気が抜けている。なぜか今はそう思わざるを得ない。だがそこで身動きが取れない原因は何なのか。何かが重荷となって今に至っているのだろうか。急場しのぎに、以前とは少し違う話の展開を目指しているわけでもないだろう。今さらそれはあり得ず、相変わらず迷路の中で右往左往しながら、何が目的なのかわからない日々が続く。作り話的にはその方が気が楽か。成り行き的にわけがわからないのは当然だとしても、慣れてしまえば何でもないことでもあり、そこから先がどうなってゆくとも思えず、どんな成り行きを空想しても意味不明に思われ、たぶんどのような話の展開も期待できないだろう。君がそう思いたいのならそれでかまわない。そこから何を空想しようと君の勝手か。誰の勝手でもなく、必然的にそうなっているのだろう。だが何が必然的にそうなっているのか。そこで何が語られているとも思えない。誰によって何か語られているのでもないだろう。だが自然と言葉が連なってゆき、文字と文字の間から意味らしき概念が現れ、そこから何かいい加減な話が浮かび上がってくるだろうか。くだらない表現だ。何を評してそう述べているのでもなく、何となくその場の雰囲気から当てずっぽうに感想を述べているだけか。どうでもいいがそうではなく、何か工夫を凝らしているようでいて、それが技巧以前の稚拙さを醸し出しつつも、何となくわざとそうやっているような気がしてきて、やはりそんなのはどうでもいいことだろうか。いつもの空疎に何かが遮られていて、一向にいわんとしていることが出てこない。何の意図も思惑もないような何かが、言葉を羅列した表面から浮き出ているのかもしれない。そして気がつけば、またおかしな表現になっているようだ。やる気がしないのだろう。何の内容ももたらせず、言葉だけが自然と連なっていってしまい、意識がそれに追いつけなくなる。楽しい現象だ。言葉の並びを見るほどに愉快な気分になってくるか。冗談だろうが、音楽を聴きながらそんなことを述べていると、本当にそういう気分になってくるだろうか。
さらに意識から無意識が遠ざかっているようだ。語ろうとしている内容を把握できなくなり、それが意識か何かもわからなくなる。少なくとも無意識ではない。君が語っているはずがなく、誰も何も語らず、誰かがフィクションの中で何かを述べようとするが、実際に記されているのはそういうことではなく、君はそこで沈黙を強いられ、誰に強いられているのかもわからぬまま、ただひたすらに蚊帳の外だ。自らの無力さを思い知っているのだろうか。誰の思いでもありはせず、何を知りたいのでもない。要するに何の反論にもなっていないということであり、何に対峙しているのかもわからぬまま、どこに佇んでいるのでもないような場面に出くわして、しばらく何も考えられずにいるらしいが、さらに空疎なことを述べざるを得なくなり、言葉が記される速度に追いつけないことに焦りを感じているのかもしれない。そんなはずがないか。そう思ってももう遅い。今さら何を否定しても無駄だ。言葉の進み具合を把握できていないことが、誰にとって有利に働くこともなく、そのまま誰の思いとも無関係な虚無を生じさせているようで、そこから何を修正する気も起こらない間に終わってしまいそうだ。
6月7日しかしそれは何のゲームなのだろうか。誰かはそこで娯楽を追求しようとしているのか。たぶんそれらのどこに目的があるわけでもなく、何を目指しているのでもないのだろう。それでゲームといえるだろうか。政治的な権力闘争というのもおかしいし、穿った見方や認識を提示してみせる深読みし過ぎのメディアも、何かに毒されているから、そういう罠にはまるしかないようだ。かれらは演劇的あるいは物語的な状況の捉え方しかできない。しかしそれ以外の捉え方というのがあるのか。何かについて語ろうとすれば必ずそうなってしまうのであり、何のためにそう述べているわけでもなく、そこに納得できる理由などありはせず、何か批判している対象にしてやられたような感情がそうさせるのかもしれないが、そうだとしても、なおのことありふれた認識から導きだされた何かを、紋切り型の言葉でなぞるしかない。それでかまわないのだろうか。かまわないも何も、それ自身がそういう表現形態なのだから、必然的にそうなってしまう。それ以外に何があるというわけでもなく、何もなければ何でもなく、そういう認識をどう変えることもできない。それはそれでそういうジャンルとして確立されていて、それらの情報はそういう様式として流通するしかない。そこにはそうならざるを得ないような何かがあり、実際にそうだとしても、そんな状況に逆らいつつ語ることができるだろうか。なぜ逆らう必要があるのか。くだらないと思うからか。しかし何をどうすればいいのだろうか。そこにはどうやってもそうなってしまう現実があり、もはや手の施しようがないほどに悪化しているわけか。だからといって警鐘を鳴らすようなことを述べれば、たちまちどこかで誰かが語っていることの繰り返しとなり、それを真に受けることの滑稽さのただ中に意識が投げ込まれてしまうだろう。しかしなぜそれほどまでに、取り返しがつかなくなるほど愚かにならなければならないのか。もはや何を否定しても無駄なのか。それらの状況を否定することがそういう認識をもたらしていて、そういう認識を受け入れることによって、いつまでもそういう状況が続いていく。ならばそういう状況を変えるにはどうしたらいいのだろうか。容易には変えられないから閉塞感に覆われているのではないか。だがそれで何を説明していることになるのか。本質的には何も説明していないような気がするが、それでかまわないのだろうか。そういう説明しかできないのなら、それでかまわないのだろう。
本当にそれでかまわないのか。そう述べて開き直っているのではなく、開き直れないから、いつまでもそんなことを述べているわけか。それでもあきらめて投げやりになっているのではない。何もできない状況から何かをやろうとしているようで、そこから何らかの認識を得たいのかもしれないが、たぶんそれでかまわないのだろう。そんなふうに語っていれば、いずれ何かに突き当たり、それについて語る機会が巡ってくる。嘘かもしれないが、そんな嘘から真理に至りたいのかもしれず、苦し紛れに繰り出される冗談をかいくぐりながら、何らかの結果をもたらして、それを一応の区切りとしたいわけだが、それも冗談のたぐいになってしまい、そういう冗談の物語をそれらの文章が構成している現状を、何かの機会を捉えて、何とか変更しようとしているわけか。相変わらず誰かは無理なことを語っているようだ。そんな現状に呆れながらも、どうにかしようとしていて、少しずつそれらの文字列を変化させようとしているらしいが、なぜ何のためにそんなことをやっているのかわからない。何をどうにかしようとしているのだろうか。そして何がどうにかなればいいのだろうか。やはり何がどうなっても何でもないことなのか。
6月6日ゲームに参加しているとは思わない。またそんなことを語っているうちに翌朝になる。さっきまでは眠っていたはずだが、何となくそれを認めがたい。まだ眠いのだろうか。今はもう夜だ。それがいつの夜なのかわからないが、何を思っているわけでもなさそうだ。取り立てて何を語ろうとしているのでもなく、ただの夜が闇以外の何をもたらしているのでもない。そこで何に迷っているとも思えないが、たぶんその先には何もないのだろう。言葉がどこまでも君を無視する。ただそこで連なっているに過ぎず、何が過ぎ去っているもでもない。時は流れ、歳月の蓄積があるわけでもなく、睡眠中に夢を見ていたわけでもない。そして目の前に広がる暗闇の風景の中に何かが溶け込んでゆく。言葉ではないはずだ。音が響き渡っているわけでもない。では何が問われているのか。誰か風来坊の末路を知らないか。物語が悲惨な結末に誘われる。誰かがそう思いたいのだろう。たとえ悲惨な境遇にあろうと、いつも何かを語っていたいのか。しかし誰が何の語り部というわけでもなく、それらの物語の中で君に何が課せられているわけでもない。君はどこまでも見捨てられていて、この世界の中に居場所がない。誰がそんな妄想を抱いているのか。だがそれに反論する機会はいつまでたってもやってこない。あくびをしながら何を考えているのか。誰かは居眠りの最中に音楽を聴いているようだ。そして何かの風を感じているわけではなく、単に冷房が苦手なだけか。とりとめがない。まったく眠気に勝てなくなっている。そんなはずがないと思いながらも、どこかで何かが弾けているようで、それが意味不明の正体か。それでも誰かは何かを考えているらしい。どこかでよろめいているのだろうか。何かを選ぶ機会がない。選ぼうとすること自体が間違っているのか。ならば文化とは何だろうか。どこかで誰かがあり得ないことを語っているはずだ。そして誰かの期待は裏切られ、やはりどうしようもなくこんな具合となってしまう。だから君は間違っているのだ。安易に間違い、わざとそういうことを述べている。そしてそう思いたいのだ。君はどこまでも間違っている。どうあっても退くことはなさそうだが、むやみやたらと前に出ようとしても、その都度何かに跳ね返されてしまうのだろう。しかしその何かとは何なのか。何がわかっていないわけでもなく、そこで言葉が散らばり、その結果として生成される意味をなさぬ文章をどうしようというのでもなく、言葉が組み合わさって、誰かが語り損なった対象を明らかにしようというのでもない。しかしとらえどころのない現象に直面しているわけがない。
投げやりな態度で語るのはおかしいだろうか。誰かがそれを肯定する。認められないことを認めようとしているわけか。事はそんな単純なことではない。では無駄に言葉を並べて、何を説明しようとしているのだろう。くだらぬ結果に一喜一憂している暇はない。それが何かの定めというわけでもないだろう。君はそこから遠くへ目を向けている。今さら何がどうなってもうろたえることもなさそうだが、その時になってみなければわからないこともある。だから今があるのではないか。何を努力しているわけでもなく、何をあきらめているわけでもない。ではそこから遠ざかるには何が必要なのか。少なくともそういう退屈な問答から抜け出なければならない。しかし抜け出た先には何があるのだろうか。どうやらその辺が堂々巡りの端緒となっている。君はすでにそれがわかっていて、そういう仕掛けになっていることを知っている。知っていながらそう述べている。いくらでもくだらぬ問答を繰り返し、問うことに疲れたら眠ってしまう。要するにそういうとりとめのない反復と循環には飽き飽きしている。しかしそれで何に呆れていることになるのだろう。
6月5日何を語ることもなく、それを否定する理由はない。ただそれが理由になっていない。どこまでもそんなことを述べている。そして何もできないわけではないのに、眠ってしまう。どうも何かから見放されているようで、また記している内容が昨日のこととなってしまった。それらの出来事に興味を抱いているわけではないが、スポーツは単なる娯楽ではないそうだ。見ている人たちに卓越した技能を示して、感動を呼び込み、そこから先にはどんな意見が出てくるのか。楽しそうな未来が待っていることだろう。意味がわからないようで、君には相変わらず目的がない。どこを歩んでいるのでもなく、何を目指しているのでもない。そんな嘘をつきながら、誰かが言葉を記そうとするが、そこから先がはっきりしない。そうではないと思いたいのだろうが、だから何を否定したいのか。たわいないことにこだわり、そこから離れられないことを呪ってみても無駄か。だから無駄に言葉を費やし、意味の定かでない文章を構成しようとしている。どうやらそれは気休めではないようだ。ゲームとは何だろう。娯楽が目的ではなぜだめなのか。そこで何かに魅入られているのは誰なのか。君ではないはずか。ならば誰でもなく、何でもないことだろう。その場に虚無感がもたらされているわけではない。しかしやる気がしないのは事実だろう。それは違うはずだ。君がもたらそうとしているそれとは違う。だから虚無ではない。だがそこから話が進展しないではないか。いったい何を語ろうとしていたのか。どうやってそこまでたどり着いたのだろう。だからそういう話ではない。では誰かがそこでくたばっているようだ。それはテレビドラマの内容だ。そんなわけで言葉を記そうとするが、まったく話にならない。できないものはできないだろう。そこで開き直るわけにはいかないのか。やはりそういうことではないのだろうか。君に何がわかるのか。そんなことでないのはわかっているはずだ。わかっているからそこから外へ出られない。それらは外部を知らぬ言葉の群れだ。語ろうとすればするほどますます意味不明になる。それが楽しいのか。実際には語れないだけのことだ。語ろうとしていないのだから当然のことだ。そこからわかるのはそういうことか。またいつもの自問自答になってしまい、気がつけば悪い癖が出ている。それだけではないと思いたいが、たぶん今はそれだけのようだ。それだけしかなく、それ以外は何もない。そうやって君は何も語れなくなり、途方に暮れてしまうだろう。また冗談か。
いったい君の目的は何なのか。別にそれになりたいわけでもないだろうが、フィクションの登場人物以外に何があるというのか。虚構の文章にそう記されているわけではない。寝不足で疲れが取れず、いくぶんノイローゼ気味というわけでもないが、何を理由にして何も述べられないわけでもないはずだ。ただひたすらそんなことを述べていて、それがたまらない苦痛をもたらしている。そんな内容の話だったら興味深いか。誰の関心を惹こうとしているわけでもなく、ただひたすら眠たい。もはや何かをリセットしなければその先へは進めないらしいが、その方法を知らず、どうやってもそこから抜け出せず、道に迷い、迷路でもないのにどこへも行き着かず、何を語っているのかわからず、あげくの果てにどうなってしまうのだろう。それでもどうにかしようとしているのではないか。そればかりだが、それしかないらしい。どうにもならないのに、その結果を認められず、いつまでもそうではないと思い込もうとする。そんなふうにして君は破滅しているらしい。それが破滅といえるのか。自分の終わりを受け入れられないのは君に限ったことではない。だからどうにもこうにも言葉が見つからず、その原因を知りながら、認めようとも受け入れようともしない。
6月4日取り立てて何を信じようとしていたわけではない。少なくとも君は未だに自分を信じられずにいる。他に信じようとしていたわけでもないが、そこに何があるわけでもない。何を信じようと誰かの勝手だが、作り話の中で誰が何を信じているわけでもなく、それは毎度おなじみの台詞だが、君に何がわかるというのか。唐突にそれはどういうことなのか。何がそれなのかわからない。たぶんそれはそういうことだ。いくら言葉を記しても、それはそういうことに過ぎず、何か時間稼ぎのような気がしないでもないが、やはりそういうことなのだろう。いずれ君はそんな空疎な認識から何か重大な事実を受け取ることになるだろう。そしてそれは真実ではなく、人の手によって作られ、脚色された事実だ。気まぐれでそんなことを述べてみるが、何を期待しているわけではない。何もないからそんなことを記しているだけか。だから君にはそれがわからない。何がそうなっているわけでもなく、ただ誰かが記すべき言葉に迷っているだけか。完全に堕落しているようだ。しかし何が堕落しているというのか。語るべき言葉を失い、何を語ったらいいのかわからなくなり、悩んでいる誰かがそこにいるらしい。そして君はそれが嘘だと思いたい。いったいそこからどこへ逃げようとしているのか。音楽を聴きながら何を考えているのだろう。それは考えられない状況か。今が何でもないことなんてあり得ないか。そして何かが君を追いつめる。では追いつめられて何を思うのだろう。どこで事件が起こったわけではなく、事件の最中に誰が殺されたわけでもない。そんな話の漫画でも読んでいるわけか。君にとっての関心事とは何なのか。もうすぐどこかで世界規模のイベントでも行われるかもしれないが、それが関心事になることはない。君はいつまでも無関心を装い、過ぎ去るのをじっと待っているはずだ。では何が君の前を通り過ぎるのか。道端に立てば車が通り過ぎる。今はそうではないと思いたいのか。では何を否定したいのか。君は君自身の存在を否定したい。それは調子に乗っている証しか。ではもっと格好の悪いことを述べた方がいい。別にうなだれる必要はなく、前を見据えて進んでゆくことが大事か。ではここからどこへ行こうとしているのか。君の行き先などありはせず、黙って仕事をしていればいいのだ。
相変わらず減らず口を叩きながらも自問自答を繰り返す。しかし負け惜しみとは何だろう。作り話の中では何に負けていることになっているのか。くだらぬドラマ以上の何が現実の世界にはあるのか。茨の道とは何なのか。そういう妄想が意味不明でくだらない。漫画の中で誰かが超人的な力を発揮して、同じく超人的な他の誰かと戦っている。今君が体験しているのはそういう現実ではなく、ただ何となくそう思っている通りの現実だ。それがどうしたわけでもなく、それに関心があるわけでもない。しかし宝集めはその後どうなったのか。趣味でやっていることではないはずか。何がどうなってそうなったわけではなく、そこには何かの伏線があり、後から思えばそんなこともあった程度のことになるだろう。君はそれでかまわないのだろうか。何をかまうかまわないの問題でもなく、ただそんな事実があった程度のことだ。各メディア上では相変わらず何かの深読み合戦を呈しているようで、馬鹿な人たちのやることが毎度おなじみであることを伺わせる内容だ。要するに彼らは御愁傷様状態なのか。それではいつもの繰り返しであり、たわいないことに興味を抱かせようとしているだけで、くだらぬ憶測や推測に踊らされて、調子に乗って騒ぎまくっているわけだ。そういうイベント屋のやることは底が浅い。そしてそれらの人たちが騒げば騒ぐほど興味を失い、誰かは無関心になっていくのだろうか。
6月3日何かの後には停滞が待っている。そこからどこへも行けず、何かから出られないようだ。君はそこで何をやっているのか。何もやる気がしない。だから停滞期に入っているのだろう。誰かが不吉なことを述べているようだが、君には関係のないことだ。ではなぜ頭を抱えているのか。それは余分な動作だ。さっきから何も語っていないのではないか。それも事実か。外れていた何かはその後どうなったのか。何に気づいたわけでもなく、それが探し求めていた何かでもないはずだ。ならば今でもそれは外れているのか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。要するにそれは何でもないことか。なぜそうなってしまうのか。何も思いつかないからか。君はそれ以外を知り得ない。ではそれが結果なのか。今はわからず、いつまでもわからないままだろう。本当に何もわからないのだろうか。そういうことにしておきたい気分だが、何がそういうわけでもないだろう。何とは何か。何でもない何かについて述べているつもりか。それではますますチンプンカンプンだろうか。そんなはずがないと思いたいらしい。不健康なことをやっているようで、時にはそんな嘘をついている。そしてその結果としてどこかにじんましんでもできているのか。何も語らずに何を語ろうとしているのだろう。実際には何も語っておらず、それでかまわないと思いたい。何とかしたいのはやまやまだが、どうにもならないようで、どうにかしようとするとあくびが出る。要するに関係ないということか。たぶんそういうことであり、そこから言葉が連ならない。そして何も記せずに途方に暮れ、そこで思っている何が本音なのかわからなくなる。たぶん何もお呼びではない。君もそうだし、誰かもそうだ。君はそんな状況をどうしたいのか。何かまともなことを語っているように装いたいのか。思わず笑ってしまうが、何に笑っているのかわからない。またおかしな語りに走り、意味不明をもたらそうとして、何か失敗しているような気になる。感覚的にそうらしく、頭の中で何かが弾けて、何かの種を見つけたつもりになり、鉢植えにして、定期的に水やりをしている夢を見る。どうせわざとそんな嘘をついているのだろう。言葉に詰まった先がそういう現状になっていて、そこからさらにあり得ないことを語りだす、そんなのは不可能か。しかしなおも粘って窮地を脱しようともがくが、何のことやらさっぱりわからなくなり、自らが何を語っているのか見当がつかなくなり、それが冗談ではないような気がしてくる。まだ良くなる可能性を信じているのだろうか。
しかしなぜそんなことを語らなければならないのか。何かの必然でそうなっているのであって、偶然の巡り合わせだとは思えない。たぶんそうやって袋小路で止まったままの現状を打開したいのだ。だがそんなたとえでは間違っていると思われ、そこで行き詰まっている現状を正確に言い表していないような気がする。だが行き詰まっているのが現状なのだから、まさにそれをそれらの文章の内容が示しているのではないか。内容など何もないように思われ、何について語っているのでもないのだろうが、実際にはそういうことについて語っているわけで、そしてそれについて述べている。どこまでもそういうことの繰り返しに陥っているのことがそういう現状を形作っていて、今はそんなことしか述べられず、何となくそうならざるを得ないような話の展開か。しかし話とは何だろう。今ここで繰り広げられている何かの反復がそれなのか。そういうことだ。そしてそういうことの繰り返しがそういうことであり、どういうことでもないのにそういうことになっていて、もはやうんざりするほどそうなっている。それで誰が楽しいのか。少なくとも君は画面の前で笑っているはずで、内心そら見たことかと思っている。それは冗談ではないだろうか。
6月2日何に関して手を尽くしたのか定かでないが、それらの努力からもたらされた結果は、その程度のことだったのか。何はともあれ済んでしまったのなら、それでおしまいであり、一区切りがついてめでたしなのかもしれないが、結局はどうということはなかったようだ。気がつけばそのときの前向きな気持ちはそこで消え失せていて、それ以降は何を感じることもなく、実際に何も思いつかない。そして今ではそのとき何を思っていたのかも思い出せず、その場で生じた何をどうしていいのかわからなくなっている。それは毎度おなじみのことで、できもしないことをやろうとして、幻想を抱いていたのだろうか。それが実現した時のことを空想して、気分が高揚していたのかもしれないが、やはり結果的には案の定なのであり、何となく拍子抜けの感を拭えず、それはそれでそういうこと以外の何ものでもないようだ。そんな予想通りの結末をどう捉えているわけでもなく、ただがっかりしているだけのようで、そんな言葉の連なりにも否定的な雰囲気がまとわりついている。それにしてもそんな何かを打ち消すように、翌朝は晴れて暑くなりそうに感じられ、そろそろ夏が近づいているのかもしれず、もうじき今年も蒸し暑い季節がやってくるはずだが、君はそこで何を考えているのだろう。そことはどこなのか。どこか遠くへ旅に出ているわけでもない。旅は幻想を追い求めることにしかならず、旅先で暮らしている人にとってはそれが日常であり、旅に出なければ、暮らしているそこが日常の現実となる。だから何がどうなっているわけでもなく、人は常に幻想を追い求め、ここではないどこかへ行きたがるものだが、どこへ行ってもそこで暮らしている人の現実があり、幻想を抱いて旅立つ人には感じられない日常の世界が広がっている。だから君がそこから何を感じ取ろうと、肯定的に感じられるものは、現地の人たちとは無縁の、自分の幻想から生まれた産物だ。しかし簡単にそう結論づけてかまわないのだろうか。そういう水準ではそうであるが、それとは別の水準では、それとは違った現象や事象や価値観や認識を見出せるだろうか。しかし別の水準とはどんな水準なのか。それも否定的に捉えれば幻想の産物なのだろうか。
しかし誰かはそう述べて何を否定しているつもりになれるだろうか。いったい何を否定したいのか。旅先で遊興に耽る人にとってはそれが現実であり、それを否定しても仕方がないだろう。君はそこから何を学び取りたいのか。少なくとも冗談ではない。そして何が何でもなくても、そういうことではないと思いたいのだろう。その辺が何かのごまかしを含んでいて、そう述べてしまうと元も子もないような気がするが、誰が旅に出ようと、そんなのはどうでもいいことであり、誰かが記しているフィクションの中では旅に出る者などいない。ただ旅先で抱く幻想を空想している誰かがいて、そこから何かを美しく思うことの儚さでも感じたいのかもしれず、そういう美的態度が幻想を育み、美しい風景に同化している心を肯定し、それを基とした観光産業の危うさと、それを利用して癒される人々が抱く感慨を、何か価値ある行為に結びつけようとしているのではなく、それが暇つぶしの効用でしかないことを指摘することの虚しさとともに、他の現実を軽んじて、それだけが無意味で無駄な行為と断じたいのでもない。なぜ人は仕事の合間に行う暇つぶしの娯楽が必要なのか。仕事も娯楽もそこで何かやっていることの一部でしかなく、そのどちらに価値を見出しても虚しいだけで、もしかしたら人はそれらの虚無的な現実を忘れるために、ひたすら仕事に打ち込んだり、娯楽に熱中したりしているだけではないのか。そのような行為から何かがもたらされるにしても、やはりそれで何がどうなっているとも思えず、結局のところは相変わらずそこでうごめいているだけだ。
6月1日この世界では何がどうなっているのだろうか。それは当たり前のことだが、多くの人が生まれ、多くの人が死に、多くの人が殺されているだけか。気まぐれにそう述べて、何も感傷的な気分を醸し出そうとしているわけではなく、ただの現実に過ぎないことを誰かが記している。そこには何もないのであり、同時にすべてがある。現実があり、それについて記される言葉があるらしい。何かが連なっているようだが、それは果たして文章になっているのだろうか。悲惨な出来事はどこでも起こりうるだろうし、実際にそれが天災にしろ人災にしろ、いくらでも起こっているではないか。人々はくだらぬこだわりにとらわれ、いくらでも愚かになって、くだらぬ法則に忠実なあまり、簡単に人を殺め、それが当然のことと思い、これ見よがしに行為の正当性を主張してみせるが、たぶんそんなくだらぬ行為にも論理的には正当性があり、そういう論理によって多くの人が行動している現状があり、ちょっとやそっとではそれを覆すことができない。だから人間社会は馬鹿げているだろうか。それらの何が馬鹿げていようと、そこで暮らしている現実を消去することはできない。たぶん様々な出来事や思惑が複雑に絡み合ってそうなっているのだろうが、それがどうしたわけでもないのも現実だ。何かを適当に受け流しながら、余裕で生きている者もいるだろうし、そのふりをしているつもりの者もいる一方で、必死になって他の誰かとの競争や闘争に明け暮れている者もいるだろうが、やはりそれがどうしたわけでもない。やりたければ勝手にやっていればいいだけの話でしかない。そんなわけで人は常に自然から突き放されている。
君が何を思ってみても君の勝手だが、何を思い何を考え、どんな行動に出ようと、君には君なりの正当性がついて回る。君は自らの正当性を主張し、それが間違っていないと思っているはずだ。そういうわけでそれはそれでそういうことでしかない。それについてはそれでおしまいとなり、そこから先にもそんなことが繰り返され、いくらでも延長され、気が済むまでそういうことをやっていればいい。それだけのことでしかないのだ。たとえ気に入らないと思っても、他の何がもたらされるわけではなく、何かに明け暮れ、いつまでもそれをやるはめになり、それが生きていることだと実感するしかなくなり、気がつけば死に際まできているはずだ。たぶんそこでは何らかの物語が反復されていたはずだが、それは徒労の物語であり、それを否定しようがしまいが、とにかく何かが物語られていて、その中の主人公が君になり、それが途切れる時が君の死となるわけだが、そんなことはおかまいなしに、この世界は存在し続け、君の他にも誰か適当な人格が存在していて、そういう存在にもそれなりの物語があてがわれているはずで、相変わらず誰かがそれを物語っているわけだ。そしてそれがどうしたわけでもないと他の誰かに告げられ、何か馬鹿にされたような気分で、その誰かは自らの人生を終えようとしている。それがどうしたのか。どうもしないからこんな世界ではないのか。たぶん一通りそんな冗談を述べた後で思うのはそういうことに違いない。君はそういう成り行きから逃れることができず、その先にさらなる言葉を連ねて、この何でもない世界について語らなければならなくなり、ある時はそれらのとりとめのなさに呆然として、自らに何ももたらさない成り行きを傍観するだけの毎日に退屈し、毎日テレビ画面を眺めながら、その表面上でうごめいている人々についてどう思うこともなく、ただひたすらそこで起こっている数々の事件をやり過ごし、自分には関係のないことと思いつつも、自分が当事者になれないことに苛立ちを感じつつ、やはりそれが何でもないことだと自らに言い聞かせながら、やはりそれらの退屈な日々を自己中心的に分析することに余念がない。いったいそれはどういうことなのか。
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