彼の声78

2010年

5月31日

 それらに関しては何も思わないまま、昨日の空白はさらに続き、夕方の空が晴れていることに気づき、それは何でもないことだろうが、何となくそんなことを記してみたくなり、誰かが何かを語ろうとしている。民主主義は幻想か。アメリカの軍国主義の上におぼろげに見えている蜃気楼のようなものが、どこかの国の民主主義なのだろうか。しかしあれらの軍隊に守られているものは何なのか。何も象徴的には捉えられず、そういう表現そのものがあやふやだ。何か間違っているような気がしてならないが、正しい認識そのものがおかしいのであり、くだらぬ世の中の意向に添った捉え方なのかもしれない。たぶん人間社会の正しい在り方なんて、その場の状況や雰囲気でどうにでもなってしまうようなたぐいなのであって、あり得ないような理想論を述べることはできるが、それも誰かが語って聞かせるフィクションの中でかろうじて認識できるようなものでしかないのだろう。だが幻想に過ぎない考え方や認識以外に何があるというのか。何でもありの現実を法によって都合よく解釈できる程度のことか。そうだとしても、なおのこと法のもとでの正義が通用するような社会を信じてゆかなければならないのだろうか。何事も信仰の問題に還元したくなるのは悪い癖か。だがそれらの社会に束縛された誰もがそこから抜け出ることはできないのではないか。

 どうも云わんとすることがよくわからないようだが、そこで誰がどのような主義主張に従っているわけでもなく、特定の教義をそれらの言説がなぞっているともいいがたい。しかしそれらについて語ろうとすればそういうことになってしまい、何が何だかわからないようなことを述べるしかないようだ。とにかく単純化して何かを主張してしまうと、わかりやすいのと引き換えにして、この世界が抱えている何かごつごつした感触が省かれてしまい、そこから月並みな結論が導きだされ、何かわかったようなことしか残らなくなり、それで何かを主張しているとはいいがたく、他の誰かが主張していることをおうむ返しに語っているだけとなってしまう。それではだめなのか。だめではないかもしれないが、つまらないことは確かか。つまらなくてもかまわないのではないか。たぶん誰にとってもかまわないが、やはり正しいことを主張するのは間違っているような気がして、その辺に何かの分かれ目があって、そっちの方角へ行ってしまうと、真っ当な意見ばかり述べ立てるロボットのような存在となってしまうだろう。それではなぜだめなのか。だめではないよ思うが、やはりそういうことを述べる気がしないだけか。

 たぶん誰かは浅はかでいたいのだ。何事も深く考えてはいけないのだろう。深さなど幻想に過ぎないだろうが、やはりそうではないと思いたい。何についてどう考えているわけでもなく、それについては何でもないと思っている。この世界をどうしたいわけでもない。いつもそんな嘘をついているようだが、誰かの倫理的な基準に適合するような言説を構成できるとも思っていない。あり得ないことだろうが、この世界についての認識ははっきりとしないのと同時に、複数の認識を持ち合わせているのかもしれず、その時々で違った認識を示すべきだ、とも思っているのかも知れない。なぜそうすべきなのか。そこにはバラバラな可能性があり、それらの可能性のひとつひとつで違った認識を示すべきで、決してひとつの認識によって複数の可能性を説明してはいけないのかもしれない。やはりそんなのは嘘か。嘘だとしてもその方がおもしろいのではないか。冗談ではないと思うなら、それこそが冗談ではなく、真実の嘘になり得るだろうか。いったい何がそうなのか。すべては冗談で述べていることであり、しかも冗談で終わらせてはいけないことなのではないか。ならばそこからどう語ればいいのだろう。それに関しては何の妙案も思いつかず、ただ偶然の巡り合わせを利用しながらそんなことを述べているに過ぎず、今はそれでかまわないのだろう。


5月30日

 君はそこで何を語っているつもりになれるのか。未だにそんなことを虚空に問いかける。たぶんそんなのは嘘だろう。そこからどんな物語は始まるわけでもなく、どこかで誰かがくだらぬことをつぶやくまでのようだ。本当に何がどうなっているわけでもないが、少なくとも冗談ではないらしく、正気でそんなことを語っているようだ。まだ何かで火だるまになっているとも思えないか。しかしそれは何のたとえなのか。笑いながらそんなことを記してどうするのだろう。それで何かをわかっているつもりになれるらしい。実際には何もわからなくても、とりあえずはわかっているふりをしておく必要がありそうだ。それはどういうことなのだろうか。今さら何をどうしようとしているわけでもなく、現状を変えるつもりはないようだ。そこまで気が回らず、どこをどう模索しても至りそうもない。また道に迷っているのだろうか。何に迷っているわけでもなく、そう思っているだけで、本当は行くべき道をわかっているはずだ。冗談でそう思っている。それでは何にもならないような気もするが、気休め程度の効用はあるはずか。何に効いているわけでもなく、無意識がそれを理解しているのかもしれない。

 たぶん人は虚無と何を競うこともない。物語は物語で何も残りはしない。すべてが虚構だと思うならそれでかまわない。実際にそう思っていればそれで済んでしまうだろう。君はそれでもかまわないと思っているのだろうが、何かそれで問題でもあるのか。無理に決まっている。君は何もできはせず、黙ってそれらの現象を眺めていることしかできない。そして何かを傍観しているうちに、どこまでも虚無が広がり、手の施しようのない状況となっている。何か違っていないか。たぶんそう思いたいのだろうが、フィクションの中でどう思ってみても、現実の世界には何の影響もない。そういう認識は間違っているだろうか。何か見当違いのことを考えているのかもしれない。やる気がしないのはわかっている。そして疲れて眠ってしまい、目覚めれば翌朝になっていて、また仕事の時間がやってくるわけか。君はそれもフィクションだと思っているのか。すべてを幻想として片付けたくなってくるか。だからそういうのが無理なのかもしれない。何をどう考えてみても、結局は何も片付かず、どこまでも塵や芥が散らばり続け、それらが集積して文章となる他ない。しかしそれはどういうことなのか。

 虚無とは何か。わかりきったことを問うのはおかしいか。だが虚無に関しては言葉としての意味以外に何がわかっているわけではない。しかし君は意味以外の何が知りたいのか。そこが知りたいところだが、それ以前にいったい君とは誰なのか。君が君でないことは知っているが、誰がそれを知っているのだろうか。だからそんなふうに述べてしまうのがおかしいのであって、それに対する言及も無駄で無意味なことなのではないか。だがそう述べなければ何も語れなくなってしまうだろう。それでかまわないのではないか。語るのをやめれば君は消滅して、君という言葉は記されなくなり、それで無駄で無意味な文章が終わり、その先には何もなくなってしまうだろう。だがこれまでにも無駄で無意味な言葉以外に何があったのか。少なくともそれがあったはずで、それ以外ではなく、それそのものがそこにはあったはずだ。しかしそれとは何なのか。わざとらしく何かが堂々巡りをしているようで、それが何かなのではなく、それなのだ。君はそういうやり方の中に存在していて、それは君という言葉が記された文章そのものである。ではそれがそういうごまかしのすべてなのだろうか。すべてであり、それを超えたすべての中にそれが含まれている。


5月29日

 風の強い日がしばらく続いていた。何かつぎはぎだらけの文章が記している者の意図とは別のことを物語っているようだ。それが気のせいだろうか。どうやらここがタイミングではないらしい。ではどこから引き上げるつもりなのか。話の中からではない。今日は曇っていて、明日は時々雨も降る。それは誰が望んでいることでもなく、そこから先は誰かの想像にまかせよう。まったく話になっていない。何かのきっかけで気が散っているわけか。それは十六年前のことだ。何を思い出したわけではなく、ただの数字に違いない。内容が伴っていない文章になりそうだ。何かの影が薄くなり、蛍光灯に照らされて、青ざめた顔が空想の中からどこかへ浮かび上がる。何も抽出できていない。体験しているつもりのそれはただの現象だ。何を競い合っているのではない。重力が変化しているわけでもなく、ベッドにくくりつけられた病人が、何かうわごとのようなつぶやきを発しているとも思えない。だから何の話でもないだろう。そこから外れているのはお互い様で、誰でもないのは君のことではなく、誰かにとってもそんなのはどうでもいいことだ。

 こぎ着けてみれば何のことはなく、ただの空き地に砂利が敷き詰められている。陽の光が反射して、その加減で何かの空想を呼び起こしたらしく、虚無から分け与えられたのではない。自意識はそこで何を見出したのか。問われていることの答えはどうなってしまったのか。何の返答もありはしない。誰もが疲れきっているのだ。だからもう何も問う必要はない。理由になっていないが、それはいつものことであり、堕落しきっているようだ。まともに返答できる環境ではないらしい。だが何もかもが違っているとは思えない。では何がどうなってそうなってしまうのか。君に何がわかるというのか。何もわからないから、深夜に目覚めて途方に暮れているのか。別にそういうことではなく、君は知っているはずだ。何を知ったかぶっているわけでもないだろうが、少なくともやる気がしない自らの心境を把握しているはずで、そしてできればそういうことではないと思いたいのもわかっている。ならば他に何を思っていることにしたいのか。そこまでは考えていなかったのだろう。だからそれ以外のことは何も思いつかず、何がそれ以外なのかもわからない。要するに未だにそんなことを述べている現状があり、それだけのことを延々と語り続けているわけだ。

 しかしそうまでして何を語っているつもりになれるのか。何かしら語っていたいだけか。何もなくてもそういうことか。何でもなくても語り、それでは気が済まないのに、なおも語ろうとする。それは無駄なことか。君はどうかしている。誰もがそうだろう。どうかしているからこんな世の中なのか。だがヒステリックに何をわめいてみても始まらない。何を始まらせようとしているのでもなく、それが何の終わりの始まりでもないようだ。無駄に語ることに慣れてしまっている。本当はそれだけではないはずなのに、結果的にはそうなってしまっていて、そうではないような話の成り行きに持っていけない。それでも何とかしなければならないと思いつつも、結果的には何ともなっていない現状のただ中で、何をどうしたらいいのかわからなくなり、あきらめきれないのに無理矢理何もかもをあきらめてしまいそうな気配を感じている。そんなのは嘘だと思いつつも、それを否定することができない現状を突きつけられ、それ以上は何も言えなくなってしまう。ならばそこで本当にあきらめてしまうのか言えば、改めて何を問われているわけでもないふりをしていることに気づき、それはそれでそういうことだと思い込もうとして、何とかその場をごまかして、何もかもを次回に先送りしてしまう。要するにそういうごまかしを今まさに実行しているわけだ。


5月28日

 何を思っているのか知らないが、これは漫画ではなく現実か。手首が痛い。それだけではないはずだ。何の脈絡もなく、唐突に何を感じているのか。記された言葉はそれだけのことであり、それらの文章は誰の感情にも訴えかけず、誰がそう思っているのでもなく、ただ苦いコーヒーを飲みながら、何も思わない。他に何を思うだろうか。誰の知ったことでもないはずか。くだらない。そして単純な論理に反発してしまう。それに関して何とも思わないとは言わせないか。やはり誰の知ったことでもないだろうか。君も知ったことではないらしい。確実に大したことではない。冗談のついでに何を述べているのか。それも誰の知ったことでもないのかもしれない。たぶんこの世界では誰がどうなろうと知ったことではないのだ。今がどうであろうと、空想の中で誰かに勝利すればそれで気が済むらしい。それはどういうことなのか。支離滅裂なことを述べているのはわかるが、実際に何に破れているわけではない。しかし夢とは何なのか。しらじらしくそんなことを問うのはおかしいだろうか。誰が見た夢でもなく、くだらぬことをわざとらしく主張している。それはわかりきった結果だろう。曇り空に月はない。小虫が無数に飛んでいる。たぶんその時点で君が旅に出たいとは思わないだろう。

 作り話の中で誰かが何かを眺めているようで、そんなことを誰かが語っているらしい。たぶんそれは語るべきこととは違っているはずだが、どうやらわざと間違っているのだろう。君はそれをわかっていながら、知らぬふりをしている。相変わらず何について語っているのではないらしく、それらの空疎な語りの中から、ロボットのような動作を想像させるわけだ。どうやらさらにチンプンカンプンだが、それでかまわないのだろう。誰かはいつまでそんなことを繰り返しているのか。何かの片がつくまでそういう演技を繰り返しているのかもしれず、もはや途中で切れることなどあり得ない。それを途切れさせるだけの事件など起こりそうもなく、いつまでも口からでまかせがまかり通り、空疎な語りに結実していってしまい、何かの欠如がそうさせるのではなく、過剰に記される言葉がわけがわからなくさせているわけだ。君はそんなふうにしか語れない。それを知っているのは誰かではなく、君自身ではないのか。誰かが記している作り話の中でならそういうことになるだろうか。だから君の知ったことではない。

 そこから何を引き出そうとしているのか。以外と誰かは現実主義者の片鱗も見せているようだ。何を全否定しているわけでもなく、誰かには誰かの取り柄もありそうで、人がそれを知らないだけだろうか。人ではなく何か別の物体かもしれない。その証拠にまるっきり操り人形というわけでもなく、何らかの意思表示をしていて、それに沿った行動も見せている。たぶんその姿が異様というわけでもないのだろう。異形の者は物語の中でしか機能しない。現実の世界では単なる変わり者と見られるだけか。誰がそれを見ているのだろう。型にはまろうとしないのはわざとそうしているわけか。疑う必要のないところで人を疑い、何か奇異のまなざしを誘うつもりらしいが、そういう動作の何かが違っていることは確からしく、本当ではない映像の中で、誰かと誰かが迫真の演技をしていて、それに感動して何を口走るのかと言えば、沈黙を守ることに価値を見出そうとする。ご苦労なことだが、それをいつまでも続けられるわけもなく、我慢すればするほど、その後に待ち構えている饒舌な語りに熱が入ってしまうようだ。君はそうなることを知っていて、たぶん今は知らぬ存ぜぬを貫いているのだ。そんなわけで冗談の続きがまだしばらく続いてしまい、たわいないことを盛んに議論しながら、無為に時を過ごしてしまう。


5月27日

 たぶん身の回りを取り巻いている虚無が何をもたらしているのでもない。状況から何かの異変を感じ取り、心の片隅から疑念が芽生えてくるが、それは勘違いか。慌ただしく仕事をしているうちに夜になる。猜疑心がどこから生じているわけでもなく、思っているのはそんなことではなく、何とも思わない。誰がそれをもたらせるわけでもなく、何ももたらせないからどこかをさまよっているのではないか。そこにどんな目的があるわけでもなく、それはすべてを所有できないことからくる物足りなさか。そしてまたいつもの無い物ねだりが待ち受けている。その避けられない愚かな何かをどうしようとしているとも思えず、何となくほったらかし気味にしながら、さらに言葉を連ねようとする。かなりくだらないことか。それだけで言いたいことは何もない。では何をやればいいのだろう。なぜ現状がそんなに気に入らないのかわからない。テレビで発言する人たちはみんな偉そうなことを言っているではないか。たぶんそれの何が気に入らないわけでもない。ただそういう状況がくだらないと思うだけか。だが思っているのはそういうことではないはずだ。何かが違っていると感じるのは以前からそうだが、ただそれだけのことなのに、そんな些細なことにことさらにこだわっている。

 この世では誰もが大げさに考えすぎていて、それは愚かなのだから仕方がないにしても、それではあまりにもつまらなすぎるのではないか。だが無責任に言いたいことを言うだけなら、他の誰かがやっていることと同じだ。今は何に巻き込まれているわけでもなく、相変わらずくだらないことを考えているだけのようだ。何が気に入らないかなんて忘れてしまった方がいいだろう。どこまでも愚かになりたいわけでもないはずだ。しかし有事とは何か。なぜこの国は自国の軍隊だけで守れないのか。その辺からおかしいと思われる。世界有数の多額の防衛費を計上しておいて、その上にアメリカの軍隊まで駐留させながら、そうなっている理由を誰もまともに説明できていない。何が東アジアの軍事バランスがどうのこうのだろうか。北朝鮮などは戦争したければ、とっとと韓国に戦争を仕掛けて負ければいいだけではないか。両国の国力の差を見れば、誰が見ても圧倒的に韓国が有利であり、韓国が負けるはずがないだろう。またそれと日本とどういう関係があるのか。どう考えても北朝鮮という滑稽な国家が脅威であるはずがない。どこからもお呼びでないのに、潜水艦で戦争ごっこを仕掛けてくること自体が勘違いもいいところだと思うが、ああいう国の存在が、この世界が途方もなく馬鹿げていることの証しとなっているだろうか。

 それにしても世界一の軍国主義国家がアメリカであることは疑いの余地はなく、日本の民意に反して軍隊を退かないならば、同じく民意に反して居座り続けるミャンマーの軍事政権を批判する資格も、人権活動家を抑圧する中国に民主化を要求する資格もないのではないか。日本の小心者の政治家などは、有事をいいわけにして、アメリカ軍の日本駐留を正当化することに躍起のようだが、自民党の谷垣総裁などは、朝鮮半島が有事の際にはアメリカの海兵隊がグアムにいたのでは遠すぎて、沖縄に駐留していなければ迅速な対応がとれない、などと街頭演説でわめいていたようだが、そんなに半島情勢が心配なら、いっそのことアメリカの海兵隊は、沖縄でなく韓国に駐留すべきだと主張すればいい。その方が有事の際にさらに迅速な対応がとれるだろうに。しかし本当にその程度の認識でいいのだろうか。鳩山首相をはじめ、その手の政治家の誰もが安全保障だとか有事の際とかを理由にして、アメリカの意向に逆らおうとはしないようだが、要するに彼らが一番恐れているのは北朝鮮でも中国でもロシアでもなく、本当に怖いのは世界一の軍国主義国家であるアメリカなのだろう。


5月26日

 たぶん今のままでは意味がわからないと思う。しかし危険を冒して何を手に入れようとしているのでもない。それは誰の物語でもないのであって、その辺が意味不明なのだろうが、何を意味するように仕向けているわけでもない。とりあえず今のところはそうだが、言葉を連ねてゆくうちに、次第に何かしら内容が伴ってくるはずだ。そうなってほしいのか。また何かが外れているようだ。君がそれを認めるはずがない。何かの本筋からいくら外れても、そこに記された言葉が確実にあるはずだ。だが何があったところでどうなるものでもない。今ではそれに接するスタイルが変わっていて、くだらぬ言葉遊びに終始していて、何を語っても上の空なのだ。実際に何も語っていないのかもしれず、君はそこで何も考えていないではないか。それでかまわないのだから、本当にそうなのだろう。ではこの期に及んで何を勘違いしているのか。かつて勘違いしていた当時を思い出せない。ならばいったいそこで何について語ろうとしていたのか。さっきからそれほど時間が経っていないはずだ。また外は土砂降りの雨か。本当はそうではないことを祈るとしよう。なぜそんなことを思うのかわからないが、ただそんなことを記しているだけかもしれない。それではやはり意味がわからない。これから何についてどう述べたらいいのだろう。君の知るよしもない。

 どうせ傷ついてしまうのだろう。キズだらけの物体を持て余しているはずだ。だから外れていると述べておいたわけか。何のことやらさっぱりわからないが、とりあえずはそういうことであり、それほど金属アレルギーというわけでもない。それよりもウレタン樹脂がかぶれの原因らしく、長時間接触しているとかゆくなり、皮膚が水ぶくれ状態となってしまう。だが今ではそれもだいぶ癒えてきたらしく、数年ぶりに医者通いから解放されそうな気配だ。

 どうにもならなくなって途方に暮れていたのはいつのことか。それが何の話と関係があるのか。この世界で誰が何を企てているわけでもなく、烏龍茶の色が薄くなる。何杯目に気づいたのか。そんなのはどうでもいいことであり、相変わらず何について述べているとも思えない。たぶん何を気づくべきでもないのだろう。しかし本物とは何なのか。何を見ているわけでもなく、目の前を通り過ぎる景色のすべてが一過性のものでしかない。そしてそれはいつもの支離滅裂な言葉の並びの中に埋め込まれている。それがどうでもいいことの一部始終なのだろうが、君はそういう成り行きに逆らうつもりのようだ。まともなことを述べてみたいか。願いが叶うといいだろう。冗談でそんなことを述べつつ、本当は何を気にしているわけでもない。文章がでたらめのままでもかまわない。気に入らなければ気に入らないままで、そういう成り行きをやり過ごしていればいいのだろう。

 また砂浜に無数の杭が打ち込まれている夢を見る。それが何の原風景であるはずもないだろう。誰かがそこで何かの到来を待ち続けているとしても、たぶん何もやってこない。それは何かの絵画なのだ。それが本当ならがっかりか。誰が夢の中で何に幻滅しているわけでもなく、それは何かのフィクションから生じた夢に過ぎない。別に過ぎ去る風景の一部にそんな記憶が紛れ込んでいるわけではない。だがそれとこれとはどう関係するのか。それらは意味やその時の心情を担うべき言葉ではなく、試行錯誤の末に構成した文章ともなりがたく、偶然の巡り合わせによって、何かをあきらめる機会を捉えて、適当に繰り出された言葉の並びから、かろうじて読み取れる内容らしきものについて、それに関する印象を取りまとめているつもりの文章なのだろうが、もしそれが本当だとしても、それらの意味不明を改めるまでには至っていないはずだ。だから何だというわけではないが、何となくそんな印象が頭の中で増幅されているようで、そこから先に何らかの展開を予感させているらしい。むろんそう述べているほとんどがこれから嘘になる可能性もなきにしもあらずか。


5月25日

 くだらぬことにこだわりつつも、フィクションの中で何かが作用しているらしい。正気でない人によれば、いつか北の島から火の鳥が飛んでくるそうだ。それは何かの予言だろうか。ところで影はこれからどこへ行くのだろう。誰もどこへも行かないか。何かおかしくないか。いつもおかしいだろう。それはいつもの自問自答だ。他に何があるわけではなく、何かの気晴らしとともに、誰かが五階建ての建物の三階の窓からわめいている。それは過去に見た映画の一場面だろうか。画面を見続けていると目が痛くなり、きりがないことに気づく。いったい誰が何を見ているのか。物語の主人公が見るフィクションの世界では、くだらない光景が目の前に広がっているはずだ。そういう決めつけはよくない。まだ君は未来への見通しが立っていないらしい。しかしこの期に及んで命乞いとは呆れたものだ。まだそんなフィウクションを読んでいるわけではないだろう。要するにわざとわけがわからなくしているに過ぎず、まったくいい加減に言葉を連ねているようだ。やる気がしないのだろうか。誰のことを述べているわけでもない。

 何を語っているのかわからないようだ。最近はわかりやすく述べているつもりだったが、気を抜いたらまたいい加減になってきた。何かがおざなりになっている。しかし面倒くさいので今はその場限りがいいだろう。話の中身がなかなか見えてこないが、どこかで何かが行われているらしい。君は何を馬鹿にしているのか。そんな情熱はとうに消え失せたはずだ。ではくだらぬこだわりはその後どうなったのか。何ともいえないような雰囲気を感じるだけか。君が語るのはその場ではないだろう。現に今も何も語っていないはずだ。存在しているのもその場ではないはずだ。今はどこにもいないはずだ。なぜそんなはずがあるのだろう。誰かがフィクションの中で何かを語っているのではなかったか。確かそんな場面に出くわしたこともあったはずだ。ではそれから君はどこへ行ったのだろう。その場から消え去っただけか。ならば話にならないのではないか。何を語りたいのでもなく、それどころか君に関しては何も語られていないか。君は忘れ去られた存在にでもなりたいのか。遠くで雷が鳴っている。

 何かのきっかけで何かが頭の中で完全に外れてしまったらしく、それ以後は夢遊病者のようにどこかをうろついている。確かそんな物語の中にも君がいたようだ。またそんな妄想を抱いている。しかし何かを語るとはそういうことだ。他にも語り方がありそうなものだが、なぜかそんなふうに語ることしかできず、語り進むうちにますますわけがわからなくなってゆく。さっきまでは何について語っていたのか。そんなに冷房を利かせると風邪を引く。明らかに耳が遠くなり始めているようだが、外は土砂降りの雨か。そんなのは嘘で、本当はにわか雨程度のことだが、そうやって無駄に言葉を記す行為から語りが生まれるのか。それも何らかのやり方のうちのひとつで、そんなことに言及しているのが自己言及というやつか。どうやら何かのたがが外れてしまったらしい。自らの無力さを思い知ったのだろうか。そんなのは年がら年中そうであり、しょっちゅう思うことでしかない。何も今に始まったわけではなく、いつでもどこでも自己言及が始まってしまい、そんなふうに語ってしまう愚から抜け出ることができず、愚の骨頂まではいかないにしても、そこから糧を得ている現状から虚無感以外の何を引き出しているわけでもない。それも君にとっては冗談のたぐいに決まっているだろうが、いい加減にそれとは違う話の展開を模索した方がいいのではないか。だがそれがいらぬおせっかいと受け取られてしまうことも承知しているはずだ。


5月24日

 架空の話の中で誰かが遠くを眺めているようだが、その目は何を見ているのだろうか。それは誰の目か。誰かの眼球に映る光景を想像しても意味がない。話の中で違っていると思われるのはそういうことか。いったいそこで何が違っているというのか。今日も無駄で無意味な言葉が並んでいるようだ。確実にそこで何かがどうにかなっているようで、そんなところで違和感が生じているようだが、誰かはそれを語る気がしないらしい。人は妄想の中で誰かと戦っている。少年漫画がそれの典型例となるのかもしれないが、そんなものに共感してどうするのだろう。誰かがそれの何を批判したいわけではない。それどころか君などはそこから逃げている。そしてそこで何かにはまるのを避けているようで、別の何かにはまっていることに気づかない。結局は無為な行為もそんなことでしかない。果たしてそれでいいのだろうか。いいか悪いかではなく、そういう判断を超えて、どうしようもなくそうなっているということだ。それがどんな意味を持つわけでもなく、そうなっている現実の中に誰かの意識がある。やはりそれはそういうことでしかない。

 現実の事象に対してあまり本気になるべきではない。ところでそこに至る回り道で現れたのは蛇と何だったのか。靴の履き心地は申し分ないだろうか。たぶんそんな質問に答えている暇はないのだろう。どこまで歩んでいこうと、どこへ至るわけでもなく、何がもたらされるわけでもない。君は理由もなくそう思いたいのだ。そして何かを見失い、迷子になったような気分になり、その程度のことでは心が揺るぎようがないことを自覚するが、それらの説明には何の説得力も宿らないだろう。それでも誰かがどこかで無理を承知で説明を繰り返している。まったく懲りていないらしい。何がどうあってもそうなってしまうのだから、それはそういうことで、致し方のないことか。しかしそう述べて何をあきらめているのだ。要するにいついかなる時でもまともに語ろうとすべきで、そういう誠実な対応を心がけることが大事なのか。そういうわけでまだあきらめるのは早すぎる。

 翌日は晴れて暑くなる。それから蛇と何かが出現する話はどうなったのだ。人は今日も仕事や遊びや勉学で暇をつぶしている。いったい他の何で暇をつぶせばいいのだろう。まともに語ろうとするが、相変わらず感性がねじれているようだ。そこで何かが言葉が連なるのを妨げていて、それらの行為から逸脱するように仕向けていて、そのためにあらぬ誘惑でももたらそうとしているのか。とりあえず感覚として眠たくて仕方がない。意識が睡魔に襲われつつあるのは正常な成り行きに違いなく、今さらそれに逆らっても仕方がないような気分になっているのかもしれないが、それでもあきらめてはいけないのだろうか。そうこうしているうちに何かの期限が確実に近づいている。それはどうしようもない現状とともに誰かの足かせとなり、そんな現状を呪うこともなく、足かせやら重荷やらを振りほどくこともないような気にさせる何かが、誰かの心の中に宿っているのかもしれない。たぶん期限が過ぎてもそれでおしまいというわけでもないのだろう。

 自然の成り行きに逆らうことはできない。誰もがそれを受け入れなければならないのだろうが、誰かにはそのつもりがなく、受け入れるための準備もおろそかにしている。だがそれでかまわないと思っているのだから、それはそれでそういうことだ。それもある意味で自然の成り行きなのだろう。今では何に逆らう気力も失せ、それが自然体だと悟っているのかもしれないが、結果として何がどうなっているのでもなく、やはりどこまでもそういうことでしかない現実に向き合い、それが何を意味するとも思えず、ただのありのままの現実に違いないのだろうが、それを受け入れるつもりもないようだが、一方で受け入れがたいとも思えない。そしてそれが優柔不断で中途半端な態度だとも思わないはずだ。それと同時に馬鹿げた現状であることも承知しているはずだが、何となく馬鹿げていてもかまわないと思っているようで、この世界はそういう馬鹿げた行為の積み重なりによって形成されていると思われてしまうのだろう。実際にそんなことばかりだ。しかしそれでも不満が爆発しないのはなぜだろう。すべてが冗談に違いないからか。


5月23日

 翌日は雨のようだ。一日中降り続いている。賢い人たちによると、人は絶えず他人との競争状態にあるそうだ。そういう見解もある条件下では成り立つだろう。そういう時期も機会もあるということだ。また一方では協力し合い助け合うこともある。同じ目的を持ち、かつ限られた者にしかそれを達成する機会が与えられないとすれば、競い合うしかない。たぶん世の中のある一面においては、そういうことをやっている人が大勢いることになっている。試験に合格しようとしたり、商売上で競合する他社があったりする場合は、同じ目的を持っている他者や他社と競争することになるわけだ。そして結果的に限られた者たちが合格したり、ごく少数の企業が市場を独占したりする。何事も共存共栄とはいかないだろう。だが世の中には必ずしも競争に勝った者だけがいるわけではなく、他者との競い合いから脱落した者たちが大勢暮らしている。それどころかそもそも競い合っていない者たちまでいるわけで、他者と競い合っているという感覚が欠如した者も中にはいるはずだ。たぶん受験とか就職活動とか、あるいは自らが属している組織や団体内での出世競争とかの、そういうことを激しくやっている時期から遠ざかれば、あまり他人と競い合うとかいう感覚が意識の表面に出てこなくなるのではないか。

 いったん何も考えずにのんびり暮らせる身分になれば、誰も好き好んで他人と競争しようとは思わないだろう。あるいは生活が安定していて、一定の範囲内で行動や思考が固まってしまい、それをひたすら繰り返す日々を送っている者なら、自分が他の誰と競争しているとも思わなくなるはずだ。事務職などを専門にやっている人ならそういうことも当てはまるのではないか。だから人間社会ではすべての者が競争しているわけではなく、ある一定の時期や機会において限られた者たちが競争しているのではないか。そしてそこから絶えず競争し続ける者もいる一方で、そういう時期を過ぎると競争しなくなる者いる。もちろんそういう競争とは生涯無縁の者も中に入るはずだ。

 では君はそこで何を問いたいのか。人は何のために生きているのか。そういう成り行きに巻き込まれ、他者との競争を強いられている者たちが哀れに思われるわけでもないだろう。たぶんそれを通して何を知りたいわけでもなく、それらの何を理解しようとも思っていないのではないか。何をどう受け取るかは人それぞれであることは承知しつつも、どうも興味を抱けないのかもしれず、この地球上で何やらうごめいている者たちの中で、誰がどうであろうとなかろうと、どんな生き方を貫いていようといまいと、そんなことは何でもないのではないか。ともかく人々が制定した法のもとでの平等が保証されているとしても、本質的に何が平等であるわけでもなく、公平に機会があるわけでもなく、偶然に何かにとらわれ、そこからその人特有のこだわりが生じて、それに基づいて生きていたりするわけで、やはりそれがどうしたわけでもないのは明らかだ。

 そしてそんなふうに語ってもどんな結論が導きださるわけでもない。たぶん法律は法律として万人に公平であるような在り方が求められているのであり、それを追求したければどんどん追求していってほしいが、それとは別の次元で、それとは無関係に、あるいは無責任に生きてしまえることは確かだ。要するに各自が勝手気ままに生きてしまえるということであって、良心的に振る舞うように心がけるなら、とりあえず他人にあまり迷惑をかけない範囲内で生きていこうと思うだろう。そしてそこから利いた風な結論の提示に至るのを避けるならば、やはり人は何のために生きているのでもなく、ただ生きているのだろう。それは結論ではなく、生きているという事実でしかなく、ただそういうことなのだ。


5月22日

 何に突き動かされているとは思えないが、それほど憤っているわけではない。だがそれで気が済んだのか。何かおかしいような気がしている。最善の選択とは何か。それで何を選んだことになるのか。ここにきてまた何かがぶり返しているようだ。おそらく以前と同じような何かを経験することになるのだろう。アレルギー体質なのだから仕方がない。そしてそこで何かを理解しなければならない。それを忘れられるはずがない。君は何かを確実に思い出しているはずだ。そこから遠ざかるわけにはいかないのだ。山岳地帯で熊に襲われる手前で目が覚めた。まだ十分に遠ざかっているわけではない。また夢の中でいつ襲われるかわかったものではないか。いったい何を考えているのか。虚無の仕業ではない。誰かがその先で待ち構えているはずだ。案外それも計算のうちなのだろうか。誰かが先回りして、罠でも仕掛けているのかもしれない。しかし何のために君を陥れようとしているのか。今はそうではないと思いたい。きっとそれも自然の成り行きなのだ。無理してそれに逆らうことはなく、絶えず受け流していれば、いずれ機会が巡ってくる。

 気がつけば何かを語っていて、それを記しているはずだ。そのまま語り続ければよく、余計な詮索は無用だ。だがそれでかまわないとは思わない。同時にそれとは違うことを考えていて、それが雑音のように頭に入り込み、誰かを悩ませる。何に苛まれているのだろう。何かの存在が気になりだしたらきりがなく、四六時中そのことばかり考えているようだ。過去にはそんなこともあったらしく、それが今でないことを祈るが、それはどういうことなのか。それも冗談で片付けるわけにはいかないのか。至る所に張り巡らされた罠にはまったふりをしつつも、それが自分とは無関係だと思い、すべては何でもないことにしておく。だからそれはどういうことなのか。わかるはずのないことかもしれない。誰かがそれを知ろうとするが、仮に知り得たとしても、それで何がどうなるわけでもなく、取るに足らない些細な知識として、すぐに忘れてしまうような何かとしか思えず、それ以上に深く詳しく知ろうとはしないだろう。その程度のことであり、誰にとってもそれは何でもないことの延長上にある。君がその先を知り得るはずがない。誰もその先へ歩を進めることはできず、そこにとどまることさえ不可能だ。そことはどこなのか。

 そんなふうにして君はありふれたことを思っているようだ。たぶんそこで安心してはならないのだろうが、では何をやればそうなるのか。安心できなければどうなるのだろう。何かの悪夢がよみがえってきたりするのだろうか。そうだとしてもそれ以上は知り得ない。どんなに努力してもそこまでなのだ。努力すればするほど次第に追いつめられてゆき、気がつけば何もできなくなっているはずだ。そしてそこが限界だと思い知り、もうそこであきらめるしかない。そんなふうに語りながら、誰かは何をあきらめているのだろうか。またいつもの嘘をついているらしい。たぶん努力しなくてもいいのだろう。この世界に何かの基準となる一定の価値があるとは思えず、そこには様々なやり方があるだけだ。たぶんそのやり方のひとつが目標に向かって努力することなのだ。では例えばそれ以外にはどんなやり方があるというのか。誰かは漫然と暮らしている。なるようにしかならないこと悟り、努力の末に得られるであろうすべてをあきらめている。人はそういうふうには生きていない。君はそれを知っているはずで、多くの人が努力を放棄している事実を当たり前のように目にしている。そこで何かの均衡が働いていて、それに基づいて静かに暮らす人々のことを知っている。そんなわけで人はいつでも風景の一部と化すだろう。


5月21日

 君はテロでも起こしたいのか。何か命がけで行動を起こすだけの理由があったりするのか。それともまたしても冗談で述べていることか。何かを口走ってしまえばそれが実現するかもしれない。妄想の世界でならそうなってしまうだろう。今は現実の世界にその身をおいているはずだが、それらの何がフィクションになるのだろうか。それらとは何か。少なくともテロ行為ではない。だが何を解決させようというのでもなく、ただ何かを傍観するしかない状況の中で、何を考える立場でもないような気がしている。フィクションから離れてその辺を何とかできないものか。しかし誰がそれを望んでいるのだろう。またできないことをやるつもりらしいが、フィクションの中で何をやっても現実の世界は揺るぎようがなく、そんなことは百も承知のはずだ。だから冗談だと述べているだろう。いつから冗談になったのか。何も本気になれないのはもとからそうか。では意識はまだ迷路の中で悩んでいるのか。それは誰の煩悶でもなく、誰かがそんなふうに語っているだけだ。それで現実の何が変わるのか。たぶん何かが変わるのだろう。変えようとして変わるのではなく、どうしようもなく変わってしまうのだ。君はそれがフィクションの力だと思っているのか。

 冗談の続きでそんなことを述べているらしい。誰かはこの世界の内部に異物を混入させようとしている。無理な話だろう。何が冗談となっているわけでもなく、本気でそんなことを思っているのだろうか。それにしては現実に何を画策しているわけではなさそうだ。それでいいならそう語るべきか。何をどうやってそうしているわけでもなく、ただ迷路の中で意味のない妄想を抱いている。それ自体が無駄なことだ。そこで何を見くびっていたのか。軽視すべきことを無視しながら、何でもないことを語り続け、ひたすらそれを繰り返す。たぶんそれはどういうことでもない。要するに実質的には何も語っていないというのなら、それは以前と異なる状況ではない。ではそこから何を主張したいのか。それを知りうる立場にはないというなら、誰かは何を知っているというのか。ただの字数稼ぎに堕している。何を語りたいのでもなく、積極的に何を提示したいのでもない。ただそこで音楽を聴いているだけか。唐突に無関係なことを述べて、何かをごまかしているつもりなのか。そういうことではないような気がする。何でもないことは確かだが、それを肯定しなければならない。理由はわからないが、それが正しい判断だと確信している。

 たぶんどこで何がどうなって、そこからどこへ至ろうとしているのでもないのだろう。ただ安易に言葉を並べているのでもないような気がする。そこにはさらに語るべき何かがあるらしい。それは空疎な何かか。心の中で何かが復活しつつあるらしく、まるでくびきのように作用していたこだわりが雲散しつつある。果たしてそれでかまわないのだろうか。たとえ空疎だろうとかまわない。今はそんな気がしているだけで、後から思い返せば何でもないことか。長い人生の中ではこういう時期もあるというわけか。そんなのは嘘だろうが、フィクションの中ではそういう言葉の並びが説得力を持ちそうだ。実際に何を気にしているわけでもなく、ただ素直に虚無と戯れ、空疎な無内容を受け入れている。たぶんそうなる必然性があったのだろう。そしてそういう状態はさらに続き、嫌になるほど空疎な言葉の並びとなり、呆れを通り越して笑ってしまうような無内容となってしまうのだろうが、やはりそれでかまわないと述べておこう。そうするより仕方なく、それが自然の流れであり、流れに逆らうほどの気力がないらしい。そしてそれがその場での結論となり、そんな結論を表明しながら受け入れている。それらのすべては冗談に違いない。


5月20日

 暇もないのに何をやっているのだろうか。疲れて眠ってしまったらしい。案の定目が覚めたら翌朝になっている。その辺が限界なのだろう。体力も気力も続かない。それでその先はどうなったのか。昼になり、仕事中に暑さで何かを消耗してしまう。とりあえず空き時間を見つけて言葉を記しているようだが、何を語っているのでもないらしい。支離滅裂に語るのはみっともないから、もう語るのをあきらめたらどうか。そうなれば何かがおしまいとなり、幸せな気分となるだろう。だが今はそういうことを語りたいのではない。君は何かを隠しているようだ。それは言葉ではなく、何だろう。何でもない空気のようなものか。しかしそれが誰にとって必要なのだろう。空気のような存在では実態が伴っていないか。たぶんそういう無駄を改める必要が生じているのだろう。相変わらずわけのわからない話となっている。何がどうなってそうなってしまうのかよくわからない。それらの無内容はいい加減で馬鹿げている。何がどうなってそういう八方ふさがりの状況になってしまうのか。とてもそれが冗談の続きとは思えない。

 だが何を深刻ぶってもフィクションの中でのことだ。現実とはまったくの無関係か。しかし何をそこで語っているのか。語っているのも虚構なのだろうか。ではフィクションの存在自体がフィクションなのではないか。だから何なのだろう。たぶん何を考えているわけではない。何も考えられず、何に対しても興味を持てない。人々が知りたいことに興味がないのだろうか。それとも冗談を述べているのか。それの何が冗談なのだろう。君は本当のことを語っていない。何も語っていないわけでもないだろう。それが本当なのかどうかわからない。ただそんなふうにして言葉を連ねるのはよくないことか。しかし何について語ったらいいのか。そういうことについて語るべきだ。ならば今現に語っているではないか。それを続けたらいい。そんなわけでくだらぬ自問自答が繰り返されているようだが、本当にそれでかまわないのか。今はだめかもしれないが、いずれその気になった時にでも、まともなことを語る機会が巡ってくるのではないか。どうやらそれまでは今のままのようだ。これからさらにつまらないことを語らなければならない。君はこの世界から必要とされていないらしく、そんな嘘をつきながらも、それを肯定せずにはいられないのだろう。

 いったい君はそこで何を肯定しているのか。そこは虚構の場であり、何を肯定してもそれは嘘になる。そんなふうに思うこと自体が虚構なのか。実際に誰が何を思っているわけではなく、そういうふうに言葉が記されているに過ぎず、記している当人は何を思っているのでもないらしい。しかしそこで誰が何を記しているというのか。そこではなく、記しているのは現実の場所だ。それは虚構ではないらしく、現実に誰かが何かを記していて、その内容がそういう無内容となっている。君はそれが気に入らないようで、虚構の世界で盛んに不平不満を募らせ、誰かが記している内容にも疑念を抱いていて、誰かは正気でないとも思っているようだが、それもフィクションの内で思っていることであり、現実の世界で誰かの精神状態がどうであれ、何でもないことに変わりはない。誰も何も気にしていないらしく、何のリアクションも期待できないだろう。しかし誰が何を期待しているのかわからない。それは虚構の中での期待なのか、はたまた現実に何を期待しているのか。それに関してこれから具体的に何を述べようとしているのか。たぶん冗談だろう。ここは冗談に逃げるしかないようだが、そうする理由が定かでない。しかしそれはどういうことなのだろうか。単なる自問自答の積み重なりがそういう状況をもたらしているだけか。


5月19日

 今日はなぜか気分がいい。時にはそんな嘘をついてみたい気になるが、たぶんそれは冗談ではないのだろう。わからないがやる気がしないようだ。今はそうだが、しばらくすれば気が変わったりするわけか。だが何を語っているわけでもないのはいつもの通りで、それで何がどうしたわけでもないのもいつものことだ。そういう語り方がまずいこともわかっているはずだが、どういうわけかそういう風にしか語れない。そして何をわかろうとしているのでもなく、くだらぬ妄想に耽っているわけか。そういう成り行きなのだから、あきらめてそれに従うとしよう。それにしてもやはり冗談にもほどがあるか。何が冗談なのかわからない。そしてそれで済むとは思わないが、何を済ませようとしているのか。何を済ませようとしても、冗談では済まないということか。それについてはまだ何も述べていないはずだ。何も思いつかないのが実態だろう。だがたとえそれが真実だとしても、そこから先に無駄な言葉が続いてしまうのだろう。それが文章を継続させようとしている君の狙いではないのか。それはくだらないことだろうか。

 しかしこれからくだらぬ内容の話を続けようというのではない。何とかしてまともな内容にしようとしているのではないか。実態としては無理で無駄な試みのようだが、それでも自然治癒を目指してそういうことをやっているというのなら、いったいいつになったらまともな内容になるのだろうか。わかるはずのないことを予測するのは無理だろう。そんなことを述べている時点で決定的に無理となっているはずだ。だからそう語っている限りは無理なのだ。完全に外れてしまっている。そしてそれでかまわないと思いつつも、それではだめだとも思っていて、そういう矛盾した状況もそのまま放置しているわけだ。そんなわけで君はどうしようもなく外れているらしい。いったいどこから何が外れているのか。この世から心が外れている。それはフィクションの中で起こっていることだろう。それでも外れていることに変わりはない。外そうとして外れているわけではなく、自然に外れてきてしまい、どんどん逸脱していってしまうわけで、どうしようもなくそうなり、君には何もできはしない。自らの心が自ら外れていってしまうのを防ぐことができず、外れたままで、さらにそこから意識が遠ざかり、何を語ろうとしても、何でもなくなってしまうわけだ。

 この世界では論理と論理がぶつかり合っていて、どちらの論理もそれを主張する側にしてみれば正しいことを述べているつもりになっているわけで、お互いの正しいと思っている主張が真っ向からぶつかり合って、それとともに生じている諍いを増長させる。いったい人々は何を競い合っているつもりなのか。それは何かの浪費かもしれず、無駄に言葉が費やされて、何かが停滞している現状を覆い隠すのに役立っている。何が停滞しているのか。たぶんそこから人々は行動しなければならないのだろう。君にとってはどうでもいいことか。ではなぜ君はそこから逃げてしまうのか。誰かは言葉から逃げることによって言葉を記している。決定的な破綻をごまかしによって回避しているのだ。現状ではどうにもならないのに、それによってどうにかなっているような錯覚がもたらされ、それで何とか正気を保っているわけだ。しかしなぜそんなに眠たいのか。余裕をくれている場合ではないだろう。笑っている場合でもなく、今日と明日の狭間に追い込まれて、焦らなければならないのではないか。その必要がないとはいわせない。今さら焦ってどうなるものでもないだろうが、そこで何を夢見ているわけでもなく、その代わりにどんな現実に直面しているわけでもなく、どんな努力も無効にしてしまう虚無に周りを取り囲まれ、まさにお手上げ状態か。


5月18日

 結局何がどうなったわけでもない。最近は無駄な買い物を控えているようだが、まだ日付は昨日だ。そしてもうすぐ明日になるだろう。気を抜いていると一昨日になってしまうだろう。それにしても何も記せない。もしかしたら今記しているそれは言葉ではないのかもしれない。頭の中で何かがずれているような気がして、いつものようにそれは何でもないのだろうが、少し気分が変だ。まだ時間が残っているのだろうか。残された時間は有効に使わなければならない。しかしそんな話がどこから出てきたのか。何の話をしている最中に言葉を記していたのか。気が散っているようで覚えていない。何か適当なことを語っていたはずだった。そして今はすでに言葉を記しているが、何から何までが外れているのかわからなくなり、かなり意味不明となっているようだ。聴いている音楽もわけがわからない。なぜ簡単に外れてしまうのか。できることならそんなふうには語りたくなかってはずだが、気がつけば見ての通りで、言葉と言葉がどこまでも隔たり、文章になっていないようだ。要するにそこまでが誰かのいいわけとなっている。

 今の君にはそれが似合っている。だから今は何も語らずにおこう。どこまでも意味不明のままでかまわないのではないか。意識に何を刷り込んでいるわけでもないだろうが、とりあえずそんなふうにして頭に浮かんだイメージを言葉につなげることから始めよう。すぐにまともなことを述べられるとは思わないが、徐々にその場の状況に慣れてゆかなければならないだろう。もはや君には何も残されていないのであり、新たに何を語ることもできないはずだ。人はどこまでも愚かだ。その愚かさを後生大事に抱え込んでいる限り、君には何もできないだろう。そう思っていればいい。別に嘘をついているとは思わない。しかしそこで想定される嘘とはどういう嘘なのか。君にはそれを語る権利があり、それを今こそそれを行使すべきだ。冗談に違いない。だから今ここで何かを語ろうとしているのではないか。だが君は架空その存在でしかないだろう。少なくとも文章の中ではそうだ。だからそうではない存在をもたらすべきか。いったいそれをどこで見出すべきなのか。どこにもそんな場所はないだろう。文章の中ではそういうことか。今ここで誰が冗談を述べているわけでもなく、真実の何を提示しているわけでもない。実態とはそういうものか。

 どうやら対処しているとはいいがたい。わけのわからぬ文章を記して何に対処しているつもりなのか。現実にはどうしたらいいのだろう。また無駄に製品を増やすべきなのか。買いたければ買えばいい。安物をいくら買ってもきりがないが、そうしたいのならすればいい。膿を出し切らなければ新たな心境にはなりがたい。そしていつの間にか傷口が塞がっていることを想像してみよう。その時になったらわかることが、今の君にわかるのか。たとえわかったとしても、それは無駄で余計なことだ。知らなくてもいいことまで知ってしまうと、判断を誤ってしまう。だがそれで取り返しがつかなくなるわけでもない。失敗したら何度でもやり直してみればいい。すでに時間がなくてもそれを繰り返して、時間を無駄に費やしているように思えば、それで上出来だ。どうせ後は何とか取り繕って、それで何かを語ったような気になれば、そういうことにしかならないだろう。今の君に課せられているのはそれを繰り返すことだ。そう思い込んでいるのだから、その通りに過ちを繰り返して、後悔したり嫌な気分になったりしたらいいだろう。きりがないようなことをやっているのが、人としてのやり方なのだろう。人は神ではない。人以外の何者にもなれず、くだらぬ過ちを嫌というほど繰り返すようにできている。


5月17日

 相変わらず心は飽くなき何かに取り憑かれているようだ。それでもようやく昨日の日付までこぎ着け、そこで一息ついているのかもしれないが、まったく見通しが立っていない状態に変わりはない。たぶん見通しを立てようとは思っていないのかもしれない。現に語ろうとしていることはそれとまったく関係ない。だがそこで誰が何を馬鹿にしようとしているのでもない。現世の何を嗤う気もなく、皮肉混じりに批判を展開する芸当も忘れ、ただ倫理的に語るつもりなのだろうが、果たしてそれがそうなのかはわからない。もはや冗談を述べるのも忘れ、何が何だかわからないのはもちろんのこと、とりあえず言葉を記さなければ気が済まないだけかもしれないが、何が何でもそれを継続させようとするのは無駄なことなのだろうか。そうだとしてもそれをやめるわけにはいかないのだろう。そして今日も何かを思いつく。実態としてはひたすらいいわけを繰り返しているだけのように思われ、そんなやる気を削ぐような言葉の連なりに何を思うわけでもなく、単に強がっている他に、何かに導かれて言葉を記しているような気になっているのかもしれず、それをどこまで信じているのか不明だが、とりあえずはそういうことで、そんなふうにして言葉が連なってしまうのだろう。それが自然の成り行きのように思われる。

 たぶん何かをごちゃごちゃ考えている時もあるのだろう。現状をどうにかしようとしているのではないか。根本的には自己満足を得るためにそうしているのだろうが、外部の世界とのつながりを意識しつつ、絶えず考えを巡らせ、このとりとめのない状況を理解したい一心から、ひたすら言葉を連ねて、そういう行為を通じてわかろうとしている。果たしてそれが正しいやり方なのか。行動が伴っていない。だが短絡的にそう考えるのもおかしい。雲をつくような話か。それはどういうことなのか。それでも仕事をしていることだけは確かか。何がどうあってもそういうことになってしまい、現実の世界に直面して、なす術を知らないことに気づく。人はいくらでもこの地上にうごめいていて、様々に行動しているそこに、どのような法則を当てはめてみても、何かわかったような気になるだけか。それではだめなのだろうか。だめだから困っているのではないか。いったいそれで何を困ることがあるのか。何らかの理解に到達したいのなら、それで満足すべきか。いくら考えたところでそんなことでしかないのだろうか。それがそういう行為の限界なのか。そうだとしても気に入らないはずだ。

 君はそうやって何かを何とかしようとする。語れないことを語ろうとして、そこから自己満足とともに一定の理解を導きだしたい。ご都合主義もいいところか。それでもそれを続けることが肝心らしく、たぶんやがてどこかに到達することを信じて疑わないのだろう。たとえ勘違いの徒労に終わろうとも、それをやめる気はないらしい。今のところはそういうことだ。いつまでたってもそういうことかもしれない。それで人生を終えてしまうわけか。冗談がきつすぎるだろうか。何となくそういう執念を突き放したくなってくるが、まだつきあっていられるだけの余裕があるだろうか。そんな何をどう考えても何がどうなっているわけでもない現状をどうにかしようとすることが、誰にかに課せられた使命のような気もするが、やはりできればそれを無駄な悪あがきにならないようにしていくことが必要か。できない話だ。ならば何もかもを無駄に費やさないと気が済まないのではないか。しかし君はそこから抜け出られない。そんな認識自体が間違っているのだ。どこまで言葉を記していっても、どんな認識に至るわけもなく、何を得られることもないだろう。


5月16日

 どうやら翌日はかなり蒸し暑いようだ。暑さに負けて、フィクションの中で語るのに苦労している。なぜそうなってしまうのだろう。実際にそんなあり得ないことを述べている。それの何があり得ないのか。また何かから逸脱しようとしている。そして相変わらず何の内容もありはしない。世の中のすべてがくだらないように思えてきて、それらについて語る気が起こらない。音楽を聴いているのだから、それについて語ればいいではないか。言葉の持ち合わせがないので容易に語れるはずがなく、ここはそれ以外のことでごまかそうとする。何も語れない状況をどうしたいわけでもない。そのままでかまわないとさえ思っている。それで済むならそういうことにしておこう。君の忍耐にも限界がありそうだ。何が語ることを不可能にしているわけでもなく、単にその手の語りを成り立たせるだけの言葉が見当たらないだけだ。興味を引く話題がなく、他に何の持ち合わせもない以上、それについて何か語ることはできない。そして何も語るわけにもいかないわけではないにしても、とりあえずはそんなふうにしか語れない。今回は外れすぎているようだ。

 何かがどこまでも意味不明に感じられ、何をどう語ればいいのかわからなくなるのも毎度のことだ。そればかりなので嫌になってしまうが、わざとそうしているわけでもないので、そういう成り行きにまかせるしかない。そして何も言葉が出てこない状態となり、そこで継続を断念する。言葉を記しているではないか。それとこれとは違うのだろうか。違うにしてもそれが何だかわからないので、そういうことを否定できない。たぶん何を信じられないわけでもなく、何かを語っている事実がそこにあり、それをどうしようもなく否定するしかないのだ。あり得ないことだがそういうことになる。何があり得ないわけでもないのにあり得ないらしい。要するにそれはどういうことなのか。やはり何でもなければどういうことでもないということか。ならばまた話は振り出しに戻ってしまう。そしてそこからいくら賽を振ってもどこへ行けるわけでもなく、それは何かの堂々巡りなのかもしれない。それではまったく呆れてものもいえなくなってしまうか。そうならそうでかまわない。何がどうなってもそうなってしまう成り行きなのだ。実際に何をどうしたいわけでもないのだろう。後はただ延々とそんな言葉を連ねていくだけか。まったくわけがわからない。

 一夜明けて外は相変わらず晴れているようだが、いくら空を仰ぎ見ても心が晴れることはない。誰かの興味はそこから離れ、どうしようもなく逸脱していってしまう。やはりやる気がしないようだ。いったいそこで何が外れているのか。目先の利害関係に気を取られ、人として筋を通すことを忘れ、社会の腐敗に手を貸しているわけだ。それの何が問題なのか。社会を構成する各自が倫理的に立ち振る舞い、そこで正義が通用するように配慮することが大切なのかもしれないが、それが万人に受け入れ不可能だとしたら、人は何をどうすべきなのだろう。それに気づいた者たちが啓蒙していかなければならないのか。それには限界がありそうだ。フィクションの中で簡単に語ることができても、現実の世界では通用しない。君は冗談でそんなことを述べているのだろうか。どうやら長いトンネルに突入してしまった気配だ。何を語ろうとしてもそうなってしまい、具体的な事象については何も語れなくなり、それが何を意味するのかわからなくなる。そしてまたもやそんなことを述べている現状がある。なぜそうなってしまうのか。それがそこでの決まり文句で、それで何を煙に巻いているつもりでもないのだろうが、今は虚無に蝕まれた箇所から言葉の膿を出している最中なのだろうか。そうだとしてもどこへ抜け出るかは不明のままだ。


5月15日

 外は晴れているが、心の中まで晴れ渡っているわけでもないようだ。いつものように迷っているのだろうか。相変わらず具体的に何をどうしたいわけでもないが、なぜか状況が馬鹿げているように感じられる。それに関していい加減に語ろうとするのには理由がありそうで、何かがきっかけとなっているのだろう。しかし考えあぐねた末に何を記しているのか。フィクションの中では誰かが否定的な気分になっているようで、すべてを投げ出したくなってくるらしいが、そういう言語表現は適切ではない。いったい創意工夫とは何だろう。くだらぬ想像力が滑稽な文章の形状をもたらしているようだ。まだ日付的には二日前か。何にこだわっているのでもないが、それでもおかしいことに変わりない。気分がどうかしている。またそう思いたいのだろう。それだけのことで、それは何でもないことだ。何でもないから何も語れなくなっている。そんないいわけが説得力を持つわけがない。そんなふうに語っているすべてが冗談であるはずがないが、やはり馬鹿げているように思われ、何をどう語ろうとしてもそうなってしまうのだから、なおさら馬鹿げているのではないか。

 何かが機能不全に陥っているらしい。それが妙な雰囲気を醸し出していることは確からしいが、誰もそれを批判することはあっても止めることはできず、連日連夜批判を繰り返すばかりだ。そんな状況の中で大半の人たちは改めてマスメディアの無力さを思い知っているのだろうか。冗談だろう。彼らは何をどうしろと主張しているのではなく、ただああ言えばこう言う方式で批判しているだけだ。君はそれに関しては何も言わず、黙って音楽を聴いているだけか。すべては冗談なのだから仕方がない。それ以外は何も語っていないはずで、言葉を記している誰かもひたすら沈黙を守っている。もう何もかもが馬鹿げていることは当たり前のことで、それに関して何を批判しようと、そんなことはどうでもいいことになってしまう。だからそれに関しては何も触れずにおくことが、唯一残された選択肢なのだろうか。そうだとしても馬鹿げていることに変わりない。何が馬鹿げているのかといえば、それは誰もが察してくれることだろう。だからここではそれに関して何も語らない。だから何もないわけだ。冗談の他には何もない。しかし何が冗談なのだろう。何か君にとっては気に入らぬ社会情勢というものがあるのだろうか。

 この世界にはびこっている正義とは何か。誰もが守るべき唯一の原理とは何か。それは冗談だろう。君は自らが良心に基づいて行動していると思っているのだろうか。語るべきはそんなことではない。何もかもがそこから外れているはずだ。たぶん嘘をついてはいけないのだろう。嘘も方便ではなく、とりあえず誰もが自らが真実と思っていることを語らなければならない。何かに対して誠実であらねばならないのだろうか。そういうことではない。その辺がどうも違うような気がする。では君はどこからそれらの冗談を見つけてきたのか。考えが及ぶ範囲外なのかもしれない。それは何かの外部であり、そしてそこから先は説明不能に陥ってしまい、それが冗談のすべてだ。君はそんなのは嘘だと思っているらしいが、実際に語っていることがそうなのだから、それこそが真実なのだろう。冗談かもしれないが、それが真実であることに変わりはない。まったくのでたらめなのに真実なのだ。そういう冗談を述べていると楽しくなってしまう。何がどうなってそうなっているのでもなく、くだらぬことや馬鹿げたこの集積がこの世界を形作り、人にはどうすることもできない状況を作り出しているわけだ。君はそれがおかしくてたまらず、それらの混迷状況がさらにいっそう深まってほしいとも思っているようだ。


5月14日

 やはり追い込まれないとやる気がしないらしい。何か他にいいわけがないか。近視眼的なことを述べている。語る術を知らない。視力が落ちているのだろうか。少し乱視気味だ。苦いコーヒーをすすりながら、長い曲を聴いて、首を傾げている。そうではないと思いたいだけのようだ。何について語っているわけでもないのが、ジャーナリズムの本質だろうか。しかし本質とは何か。たぶん文字や映像や音声によって何かを伝えているのだろう。ならば時事問題とは何だろう。そんなのは問題ではない。移ろい行くのは世の中のあり方などではない。では君は何を否定しているのか。何も肯定していない。それはまったくの短絡的な空疎だ。コーヒーが苦すぎる。それとこれとは無関係だろうが、何となくそんなことを述べて何かをごまかそうとしているのだろう。不吉な余韻を残しながら、ジャズの音量が次第に小さくなってゆく。それがその場の雰囲気を形作っているとは思えない。それは何の雰囲気でもなく、ひび割れたどこかの大地を表現しているでもなく、乾期に砂塵舞う内陸地方を誰がさまよっているのでもない。しかしそれは何というごまかしなのか。少なくとも比喩表現とは無縁だ。

 もう飽きてしまったようだ。言葉に飽きてわざとらしい文章表現に嫌気がさし、その場に生じたくだらぬ雰囲気を投げ出して、どこか闇の向こうを見つめながら、それが何だかわからないことに気づき、さらに袋小路に追いつめられてゆくのか。馬鹿な話だ。その気になったのだろうか。思わずのけぞるような仕草を期待しているわけではない。ではそこから何を語り始めるのか。見てはいけないものを見ているわけもなく、テレビを消して、画面に向き直り、何かを記そうとするが、それは何でもないことだ。君が何を考えているのかわかっているつもりだ。時にはそんな嘘をついてみるが、フィクションの中ではいつも結末がそれを知らせてくれる。それも嘘の類なのか。わかっているのはそういうことではない。君は何を否定しようと、何度否定しようと、それで何を語っていることにもならないのは、君自身があらかじめわかっていることだ。まだそこまで到達してないだけなのか。そうだとしたらこれから何をどう語ればいいのだろう。

 空疎なことを述べるのに疲れてしまったのだろうか。では何がのるかそるかなのか。なぜそれほどまでに空疎にこだわるのか。何について述べているのでもないことはもはや動かしようのない事実になりつつあり、そこから逃れられず、逃れようともせずに、すべてが違っているのもいとわずに、さらに何でもないことを述べようとしている。それが何だか知っているつもりで述べようとしていて、今さらやめるわけにもいかないような成り行きになっているが、それがどうしたというのか。戻り道ならいくらでもあるはずだ。ならばこれからどうしようというのか。このゴミに埋もれた世界から言葉によって何をすくいあげようとしているのか。冗談に決まっているだろう。君はいつだって本気になっていなかったはずだ。今でもそうだ。だからそんなことなどどうでもよく、何がゴミで何がゴミでないかなんて知ったことではないはずだ。もとからどうでもいいこと以外は何も述べていない。ただそこに何かの余韻が残っていて、それがかろうじて言葉のつらなりとして記されているに過ぎず、それを読んで何を思うわけでもなく、大げさ否定とともに、読まずに無視するほどの文章でもなく、他に何がどうなっているのでもないらしい。何も思い悩むような問題など皆無だ。だからとりとめがなく漠然としているわけか。いったい何がそうなのだろう。たぶん語るべきことを語っていないのが焦れったいのだろう。だが冗談としてならそれでもかまわない。しかしそれの何が冗談なのか。そこには何もなく、否定すべき内容さえありはしない。


5月13日

 相変わらず暇を見つけてはだらだらと意味の定かでない文字の連なりを記している。どうやらすべてが悪い方向へ向かっているようだ。実際に何を警戒しているのでもないが、何が杞憂に終わるとも思えない。仮にこれからとんでもないことが起こるにしても、何がどうなってそうなってしまうのか。まだ何も起こっていないうちからそんなことがわかるはずもない。ではわからないことはわからないままで済ませられるのか。それとは無関係な君にはそれも可能だろう。そして気休めに言葉を繰り出しながら、誰にとってもどうでもいいことを語りだし、無理でもないのにそんなのは無理だと思うようになる。たぶん嘘に決まっている。無理だからこそそうなってしまったのではないか。実際に無理を承知でそんなことをやっていたはずだが、今さら後悔しても始まらない。どうしても無理なら、語れないことを語っているつもりになればいい。しかしそれは何かの気休めだ。何かではなく、ただ単にそうだろう。ではそうだとすればそこからどうすればいいのか。誰がそんなことに答えられるわけもなく、やはり無理なことを語っているらしい。

 しかしそれで気が済んだのか。君には何も語ることができない。いつでもそうだ。何かの読経を聞きながら、それが音楽だと感じている。できることならもう少し開き直った方がいい。いい加減に破れかぶれに語るしかないだろう。何を笑っているのか。本気ではないのだろう。また同じような言葉の並びだ。それがわからない。なぜそうなってしまうのだろう。君に文章を構成する能力がないからか。たぶんそうに違いない。それでかまわない。何も思いつかないのだからそういうことだ。もはや語る術を知らず、何をどう語っていいのかわからなくなり、適当に言葉を並べてそれで済まそうとしてしまい、結果としてくだらぬことを述べている。わざとそうしているのだろうか。きっとそうに違いない。それでかまわないと思っているのだろう。

 人々は何に興味を持っているのだろうか。漫画か何かか。君だって漫画を読んでいるのではないか。では何を馬鹿にしたいのか。それに関して何かを思い出したらしいが、それを語りたいわけではない。だから君にはそれがわからない。いったい君は何を語りたいのか。そういうことだ。そう問いかけたいのか。何を問いかけているのでもない。もう外は闇だ。心が闇に溶け込んでゆく。何でもない。何も思っていない。誰かがテレビを見ている。暇でないのに暇にまかせて何をしているのか。テレビの画面上では何かが終わっているらしい。誰かをひいきにしている解説者がここぞとばかりに無い物ねだりをしているが、スポーツにおいて絶対ということはないらしい。だから負ける時はそんなものだ。

 それでもつまらない世界の中で何かが起こっているようだ。この世界につまらないは余分だろうか。それが運命だったり偶然の巡り合わせだったりするのだろうが、何となく楽しめない世の中だ。くだらぬことがまかり通りすぎている。笑いながら何を述べているのだろうか。くだらない人たちがくだらないことにこだわっている。しかしそんなことを主張して、その後はどうするのだろうか。きっと楽しい未来が待っているのだろう。この世は天国なのだろうか。きっとそうに違いない。嘘でもいいからそう思っていれば気持ちが朗らかになれるだろうか。そういう話ではなかったはずか。たぶん何の話でもありはせず、何を語りたいのでもなかったのだろう。ただ音楽を聴いている。語る必要がなく、それをまったく感じられない。だからもう限界なのではないか。とっくにそうなのかもしれない。


5月12日

 文章から何かの断片が抜け落ちる。たぶんそれは言葉ではない。それに関して何か興味を引く出来事でもあったのだろうか。それは昨日のことでしかなく、昨日のことは忘れてしまった。少なくともそのとき誰かが何かを語っていたはずだが、それを思い出せないのか。何も語らずに言葉を記していたわけではなく、誰かがそういうことを語っていたのだ。しかし語っていたのはそれだけのことなのか。だからそれは昨日のことでしかない。別に誰かは昨日の出来事にこだわっているわけではないはずだ。しかしそこで何を主張したいのかわからない。迷っているのだろうか。いったい何を迷っているのか。君は何も迷っていない。実際にそうだ。そういうことになっているのではないか。だから何も語る気がしないわけだ。だがそれらの何が語る気がしない理由となっているのだろうか。そういうこだわり方が間違っている。誰かの心の中から黄色い何かが消え去っている。それは何かの警告なのか。意味不明だ。

 それは語りたいことではないのだろう。君は何を信頼しているのだろうか。この世界は終わりに向かっている。それは誰かの認識か。少なくとも君の認識ではない。誰が何を予言したいのでもなく、それは紛れもない真実か。誰の勝手でもない。まだ抜け出られないのか。迷路の中で何をやっているのだろう。何かいい加減なことを語っているのかもしれない。君は自らの終わりに気づかない。しかしそれの何が問題なのか。北風が強い。数日後のことだ。もう二日も言葉を記すのが遅れている。それでも語ることは何もない。人はなぜ語ろうとするのだろうか。語る理由を知らず、語らなくてもいいのに語っている現状をどうすることもできず、結局それが何だかわからない。そんなわけでまだ何かを語っているつもりになりたい。頭の中は空疎そのものだ。霧に覆われているのだろうか。偽りの幻覚に襲われているわけではない。

 それらの内容に意味があるとは思えない。では何か意味を求めているのだろうか。それはどんな意味なのか。意味もないのに意味を求めるのはおかしく、正気とは思えないか。空は晴れていて、空気は乾いている。意識が劣化しているのかもしれない。気分が優れず、何を語っているのでもないような気がしてくる。もはや何も工夫を凝らせなくなっている。それに気づいた時点で自らの終わりを悟らなければならないのか。冗談に違いない。たとえ空疎の極みだろうと、語り続ける必要がありそうだ。何を語っているのでもないのにそれを継続させるつもりのようだ。君はそれを容認できるのか。誰が君なのか。無理難題であることに変わりなく、それで何がどうなっているわけでもないことは確かか。どうにもできないことをどうにかしようとしているだけか。たぶんそれではますますわからなくなってくるだろう。

 実際には何に気づいていないわけでもなく、確実に気づいている。それが何だかわからないが、そこで異変が生じているのは確かだ。君はそこで何かを生じさせようとしている。それはこの世界にとっては無駄な何かか。なぜそう思うのか。たぶん無駄に考えすぎているのだろう。それが理由だとは思えない。では他に理由があるだろうか。いったい何が無駄なのだろうか。これ以上何を語ればいいのか。何も語れないことのいいわけでも語ればいいのではないか。しかしそうする理由がわからない。なぜそういう成り行きになってしまうのか。それがわからないから苦労しているわけか。要するに理由がわからないからそうなってしまうのではないか。ならばそれをわかろうとすればいいではないか。また冗談でそんなことを述べているらしい。まったく懲りてないようだ。だから何をどう語っても空疎になり、何を述べているのでもないことになってしまうのだ。それは事実だろうか。誰がそうなのでもない。


5月11日

 そんなことはどうでもいいのか。わからないがそういうことらしい。二十世紀の現代絵画はガラクタだ。そういう主張も言説としては成り立つ。だがそれに何が言説なのか。現時点では何も説明していない。君はふざけているのだろうか。誰かはこの国を愛していないようだ。しかし人のカリスマ性とは何だろう。なぜ人の周りに人が集まってくるのか。たぶんそんなことはどうでもいいのだろう。他人事に過ぎず、君には関係のないことか。目の前で何かが灰色になる。また夢でも見ているのだろうか。何かを応用してそんな状況から抜け出す算段でも練っているのだろうか。しかしそれは何のための構想でもない。計画などもとから何もありはせず、行き当たりばったりでいい加減に言葉を並べ、それを後から読み返して笑っているのか。馬鹿げているだろうか。決まっているだろう。何だか投げやりな気分になる。結果から人は評価されるべきか。たぶんそれが公平なやり方になる。何がどういうことでもなく、そういう仕組みの中で人は生きている。だからそれがどうしたわけでもない。

 何がわからないのかわかっているつもりのようだが、相変わらずそんなことを述べている現状をどうすることもできず、具体的には何も語っていないことを悟る。君は何も語らないだろう。実際に語っていない。別にそれでかまわないはずだ。できないことをやろうとしても無駄か。それで何を見定めようとしているのでもないのだろうが、とりあえずでたらめに言葉を連ねて、何かの様子をうかがっているらしい。毒を以て毒を制しようとしているのではない。大したことはやっていないつもりか。では何をそらんじているつもりなのか。それとも唱えているのは何かの呪文か。もはや語る術を完全に見失ってしまったようだ。君はそれを知っているはずだ。だがそれで何を知り得たつもりになれるだろう。実際はそういうことではない。何かに酔っているのだろうか。今さらそれはない。それでも君は何かの限界を知っている。終わりはもうすぐそこまで来ている。

 そう思っておいて差し支えない。嘘でも終わりは終わりだ。春が終わり夏に近づいている。しかし季節が過ぎ去っているわけではない。何かが適当に循環しているだけか。別にそんなのはどうでもいいことだが、そんなことしか述べられず、やはり目の前から何かが遠ざかる。君は機会をわざと逃しているのだ。そんなことができるはずがないか。現にやっているではないか。それがわからないだけで、気づこうともせず、ただ漫然と時を無駄に費やし、仕事以外に何をやることもなく、そこから遠ざかっているのか。いったい何から遠ざかっているのだろう。聴いているそれはお経のようなラップか。そんな話ではない。では何をどうしたいのだろう。いつもながらの焦れったい言葉の並びに翻弄される。心は何を欲しているのだろう。馬鹿げていると思われる。さっきからそれだけのようで、そこから抜け出られずにいるらしい。それがいつもの無理だ。やはり語り得ないことを語ろうとしているのか。

 まだそうと決まったわけでもないだろう。ただ何も決まっていないだけか。決められないのだ。何も語れず、何も決められず、いつまでも逡巡し続ける。まさかそこから架空の物語が語れるはずもなく、語る必要もない。ならばここはどこなのか。どこでもないわけでもなく、何を探しているわけでもない。すべては行き詰まり、そのすべてを知り得ない。だからそれがすべてではないということだ。やはりそう述べながらも何かをあきらめていないようで、継続への意志を捨てきれずにいるらしい。まったく馬鹿げている。呆れているのかもしれない。無理なのにその無理をごり押ししながら言葉を記す。そんなことの繰り返しによって心も文章も荒廃して、そこから先には何もない地平へと近づきつつある。そんなのも嘘に決まっているのか。誰かの心の中ではそうかもしれないが、そんな心の内が他の誰かに見透かされているように思われ、焦っているつもりになれるような気がしてくるが、本当のところはわからない。実際は何をどう思っているのでもないような気がしているが、それも嘘かもしれない。


5月10日

 たぶんそれが間違っている。そう思うならそうだろう。しかしそれとは何か。おかしな気分だ。空が落ちてくる夢を見る。冗談でそんなことを述べているのだろう。ならば何も間違っていないはずか。冗談になってしまうこと自体が間違っているのか。だが何を語っているのでもない。無理に言葉を並べて何を記してもおかしい。どうやら気分が優れないようだ。そう思っておいて差し支えない。では何をからかっているのか。誰がそうしているわけでもなく、何をそうしようとしているわけでもない。ではどこかで何かがどうなっているというのか。どうもなっていないなら、何を考えているのだろうか。そこまで語る必要はなく、何が冗談なのでもない。ならば冗談でなければ何なのか。よくわからないのが実情だろう。そしてそんなふうに語るのが間違っているのだ。だがそんな認識も間違っているのではないか。何が間違っていようとかまわないか。どこまでいってもきりがない。

 何も語る必要はない。何に感動しているのでもなく、何がどうなっているのでもない。意識は現実離れした何かを夢想していて、現状が現状でしかないことを忘れようとしているのか。何を忘れられるわけでもないだろう。しかし思い通りにいかないことをどうにかしようとしていることだけは確かだ。それは無理なのではないか。どうにかしようとしてもどうにもできないか。誰かがあくびとともに何かを思い知る。いったいどんな認識に至ったのだろう。例えばタリバンやアルカイダと戦争ごっこをしているどこかの国について何を思っているのか。何とも思わないが、感覚的に漠然としていてとりとめがない。人が死ぬなんて何でもないことか。そういう状況に身を置いたらそうなってしまう。それが当たり前のことであり、何も身につまされることはなく、今はそれよりも重要なことがありそうだ。たぶん君は語らなければならないのだろう。小雨に濡れながら何を思うこともなく、何でもないのに何かを語る。爽快な気分からはほど遠い。

 今さら何に気に入られようとしても無駄だ。はじめから見当違いのことを述べていて、他の何に興味があるわけでもない。だからどうしようもないのか。通り過ぎる貨物列車を横目で見ながら、駅のホームで何を考えているわけでもない。覚悟がないのだろうか。そんなに眠いのなら居眠りの最中に何かを考えればいいだろう。できもしないことをやるように仕向けても意味がない。確かにそれはそうだが、それは何かの口実で、それをやっていくうちに、何か目新しい認識にでも至りたいのか。その辺が誰かの意図するところを知りたいような気がするが、案外何も考えていないのかもしれず、ただ闇雲に言葉を連ねてそれでよしとしたいのか。しかしそれで何になるのだろうか。たぶん何にもならなくてもかまわないとでも思っているのだろう。現に何にもなっていないような気がする。それはただの惰性でやっていることに違いない。

 誰にも未来はない。そう思うと楽しくなってしまう。ヒステリックに何かを批判する気にはなれず、批判していた過去を懐かしく思うが、いったい君はどこで挫折してしまったのか。何かが違っているのだろう。人は人であり、人でしかなく、人以外のどんな存在でもない。人は悲惨だ。それが楽しいと思っているのだから悲惨だ。だがその悲惨さは些細なことでしかないだろう。要するに悲惨であってもかまわないのだ。他の誰のせいでもなく、そんなふうにしか語れないのだから、そうなってしまった責任は君にある。そしてそれは何かのまやかしに違いない。そんなところにいつまでもとどまっているわけにはいかないだろうか。そうだとしたらこれから君はどこへ行けばいいのだろう。まさか冗談の彼方に何かがあるわけでもあるまい。いずれ何かについてまともに語らなければならない機会がやってくるかもしれないが、それまでの間に何をやっておくべきなのか。それを誰に尋ねているのでもなさそうだ。


5月9日

 もう限界だろう。何かの限界に達しているのだ。たぶんそう思っている。それでも続けようとしている。それは冗談のたぐいだろうか。何かの冗談には違いない。たぶんそういうことになる。そしてどこかに引っかかった何かをたぐり寄せ、それをどうするでもなく、そこで何かの限界を思い知るが、だからどうしたわけでもなく、君は至って何でもない。なぜそれについて語らないのか。語り得ないとは思えないが、わざと語らないのかもしれない。語りたくても語れない場合もあり得る。今はどうなのか。今も語り得ないのだろうか。何を語り得ないのかわからず、それが何でもないことだと思うはずもなく、やはり何のことやらさっぱりわからない。いったいそれで何について語っていることになるのか。まだ何も語っていないような気がする。それどころか何も語ろうとしていないような気もしてくるが、それはどういうことなのか。たぶんどういうことでもなく、何をどうすることもできないのだろう。できるはずがない。何もやろうとしていないのではないか。

 なぜ何かをやらなければならないのか。それ自体が生きていることだからか。ではなぜ生きていなければならないのか。わざわざ死ぬ必要もない。たまたま生きているだけで、生きている理由など何もない。それはくだらぬことだろうか。なぜそう思うのか。少なくともすばらしいことではないが、くだらぬことでもない。普通で当たり前のことだ。そして生きているから何かをやっているわけだ。中にはくだらないと思うことまでやっているはずで、様々なことをやっているはずだ。それだけのことだと思えばそういうことでしかない。そして時として人はくだらないことばかり考えている。中には国家の安全保障がどうたらこうたら議論している輩もいるようだが、それもくだらないことのたぐいなのか。だがそれを職業としている者たちは戦争に備えて日夜訓練を怠らない。まったく悲惨な世界だ。正気でないのはそういう行為を正当化している現状があるということか。国家があり軍隊があり、戦争に備えて多額の出費を強いている現状がある。しかもそれが平穏に暮らしたい人々を苦しめている。

 しかし国家は何と戦っているのか。そこには国家主義があり、そういう主義者たちは自らのよりどころとなる国家を繁栄させたいわけだ。国威を発揚して国民全体で喜びたい。それは馬鹿げた幻想に思えるが、たぶん本気なのだろう。そういう者たちにとっては国境がそのまま境界線であり、境界の内側が何よりも繁栄してほしいのであり、自国が繁栄する姿を見せびらかしたいのだ。そういう虚しい行為に人生を捧げている者もいるのかもしれないが、なぜそういう水準にとどまろうとするのか。彼らは他の何と競争しているつもりなのか。それらの者たちが内包している切実さが君には理解できない。なぜ人々は国家を守ろうとするのだろう。何か抽象的な気がする。そういう種類の意識を取り除くことができたら、この世界はもっと平和になるのではないか。たぶん平和より尊い何かが国家には備わっているのかもしれない。彼らはそう思いたいのか。意識してそう思っているのではなく、ただ漠然と国家を前提として話を進めるのが当然だと思うのかもしれない。

 そしてその辺から頭がおかしくなり、奇妙なこだわりを意識するようになる。国家を守ることがそこに暮らす国民を守ることになり、国家を守るには軍隊が必要で、軍隊は有事に備えて日夜軍事訓練をする必要が生じてくる。そういうことではないか。そんなわけで誰かは冗談の続きでさらなる冗談を語ることになる。軍隊など軍事訓練以外では何の役にも立たない。大規模な自然災害が起こった時にかり出されることはあるにしても、果たして軍隊の存在意義とは何なのか。現実の戦争はいつなったら起こるのか。アフガニスタンで起こっていることがそれか。そうだとしたら戦争とは何か。意味のない消耗戦だ。やる必要のないことを強引にやっている。たぶん他にやることがないから彼の地で殺し合いをやっているのだろう。軍事訓練を繰り返しているだけでは退屈なのだ。やる必要のない戦争をやるための軍事訓練は確かに退屈そうだ。だがそれを怠ると戦争の遂行に支障を来す。それだけのことに過ぎず、何か本末転倒のような行為に夢中なのか。


5月8日

 はたしてそれでいいのだろうか。誰の許可を得て何をやっているわけでもないだろう。また誰かが馬鹿げたことを語っているようだ。そして躓き、そこから遠ざかる。別に跪いて神に祈っているわけではない。ただわけがわからないだけか。求められているのはそういう語り方ではない。あらぬ方角をにらんでいる。まだそれは試していないはずだ。実際何の話でもなく、ただの意味不明に過ぎず、試す必要もないことか。君は演劇的な空間にリアリティを感じない。だから誰が何をにらんでいるのでもなく、壁にかかった絵画でもない。すべてが違っていて、何を語っているのでもないのはもちろんのこと、そんなふうにして説明していること自体がおかしいのだ。それらのいかれた頭は何を把握できなくなっているのか。何をどう説明していようと、結局何を語っているのでもなく、そして暇さえあれば別のことを考えている。要するにこうなっているわけだ。完全に壊れているようだ。それで楽しいのか。たぶん楽な気分でいられる。

 気が進まない。信じられない気持ちでいたい。だが何が信じられないのかわからない。そしてまた眠たくなってきて、気がつけば夢の中か。そんな話ではなかったはずか。ではいったい何を語りたかったのか。少なくともそれは君に関する話ではない。君でなければ誰に関する話にもならないだろう。そんなわけで話になっていないようで、適当に言葉が並んでいればそれでかまわないのだろう。何も語らず、空疎な気分でも堪能しているのかもしれない。そして頭の片隅に乾いた笑いがこだまする。おかしくなったふりをしている。その気もないのに無理に語らなくてもいい。語る気がないのに言葉を並べて何も主張しなければ、それが空疎そのものか。間違っているかもしれないが、やはりそれでかまわない。投げやりになっているとは思えないが、たぶんそういう成り行きになる。誰もがそこから外れようとしているのだ。理性的に物事を考えられない。何事につけても感情が優先され、自分の思いが通らないと腹立たしい。

 気に入らないのはそういうことではないと思いたいが、いったい何について語りたいのか。どうも何がどうなっているのでもなく、同じような空疎の繰り返しのようだ。気に入らないのはそういうことか。どういうことでもなく、まともな内容を導きだせずにいる。どこかが狂っているのかもしれない。語り方がおかしいか。何を待っているのでもない。すでに待つのをやめてしまったようだが、そのとき何を待っていたのかわからない。忘れてしまったわけではないはずか。では何を求めていたのか。それもわからない。何も求めていなかったのではないか。だが誰が何を求めていなかったのか思い出せない。そしてくだらぬことを述べている。誰が述べているのでもなく、その気になって何を語っているのでもない。ただそんなふうに感じられるだけだ。君はすでに答えを導きだしているはずだが、それを表明できない。理由はわからないが、そういうことにしておきたいのだろう。要するに本気になれずに、何を真に受けるわけにもいかないということか。

 だが何はともあれ、そういう空疎な語り方も少しずつ進歩しているのかもしれない。そしてさらに空疎になり、やがて何を語っているのでもなくなってしまうだろう。すでに自己言及以外はそうなのではないか。それは馬鹿げたことか。誰が悪いわけでもなく、何をやろうとしているわけでもない。侃々諤々の議論を装っているだけで、本当の答えなどどこにもありはしない。要するに批判する対象を探しているだけか。君たちはそれでかまわないのか。平気で偉そうなことを主張できるのか。たぶんできるのだろう。誰もが無責任な態度を取ればそういうことになる。それをやってみればいいのだ。できないと思われることをやる勇気が必要だ。そして誰に責任を押し付ける行為も愚かであり、批判をやめない人たちはその愚かさを悟る必要がありそうだ。しかしそれでも批判するのだろう。誰もそれをやめるはずがなく、他人をひたすら攻撃し続けることは、人の本性から来ている行為に違いない。いったんそのスイッチが入ったら切れることがない。そんなわけでまったく馬鹿げた世の中になっている。


5月7日

 何かをいい加減に考えているようだ。また何も思いつかない時のことを思っているのか。何も考えていないわけではない。たぶんそう思っているはずだ。しかし何も思いつかず、空疎でとりとめのない気分となる。それはフィクションだ。だが虚構の物語を構成しようとしているのではない。実際に何も考えていない。今はそうだ。そういうことにしておこう。では何を無視しているのか。たぶん何も導き出せないだろう。それは答えではなく、問題の解決を模索しているのでもない。ただ言葉を並べて文章を構成しているつもりか。それでは何の意味もないか。疲れているのだろう。誰もが遊んで暮らしたいか。そうは思わないだろう。では仕事をして疲れたいのか。何を目指しているわけでもない。ならば何が滑稽に思われるのか。何でもないことだ。誰かが笑っている。なぜそこには悲しみがないのか。人を悲しませないようにする何かがあるのだろうか。たぶん誰の知ったことでもないのだろう。人はいつでもできないことをやろうとしている。どうしてもそういう成り行きから逃れられない。それも何かの巡り合わせなのだろうか。そうだとすれば君は何をためらっているのか。これから語り得ないことを語らなければならないわけでもないだろう。

 相変わらず何もない。翌日も晴れて暑い。君が何をどうしようと君の勝手だ。そう思いたいのならそう思っていればいい。そこでどんなことが起ころうと君には関係のないことか。そう思いたければそう思っていてかまわないのだろうか。それも君の勝手らしい。誰にも選ぶ自由はあり、その自由を使うか否かは各自の判断にまかされている。君にとってそれは有益なのだろうか。大げさなことではないが、軽はずみなことを述べるのもおかしい。しかしそれでは何も語れなくなり、文章の継続が断たれてしまうか。それでかまわないはずだ。くだらないことにいつまでも関わっているわけにはいかない。だがそう思うのは誰なのか。少なくとも君ではない。誰もそれが君だとは思わない。少なくとも誰かがこれから記すつもりの架空のフィクションの中ではそうだ。それはつまらない嘘だろうか。君はそこで何を読んでいるのか。たぶんテレビを見ているだけで何も読んでいない。やる気がないのは今に始まったことではなく、争い事には感心が向かないらしい。

 結局自らが何を述べているとも思えず、誰かが記しているつもりの文章も意味不明のままだ。何の内容も示せない。気がつけば何も考えられなくなっていて、まるで体内に異物が混入したような拒否反応を示す。昼の紫外線にやられたのか。目が痛いのだろうか。画面がちらちらしているように感じられ、疲れを意識する。たぶん何のこともでありはしない。何を批判する気も起こらず、何もかもがどうでもよくなってしまう。今は後ろ向きに何かを思う。それはそういうことではないのではないか。何もどうにも語ることができなくなり、言葉を記している誰かが視界から遠ざかり、夢を見ていることに気づく。眠っていたらしい。それはどういうことなのか。ネジをまいている暇はない。何がそうなのか。もうそれは過去の出来事だろう。それについて何を語りたいのか。若者が挫折を繰り返しながら夢を追いかける。そんなありふれたことに感動したりする。他の誰かが猛烈に感動している。君の話は意味不明だ。それでも何とかしようとしているのだろうか。人々はそこで何かを競い合っている。そういう社会の中で暮らしているわけだ。そんな見かたやとらえ方ではつまらないか。

 何かの冗談の中で誰かの真実が語られているようだ。無駄な努力を繰り返す。それが何になるのかはわからないが、なぜか続けようとしている。眠たいのだろうか。寝てしまったらいい。そうすればまた元の木阿弥と化すだろう。無駄な努力から開放されて、幸せになれるだろうか。そういうのが幸せな状態だとしたら、そういうことになるだろう。影は君から離れていって、蛍光灯の真下で誰かを待っているはずだ。それが誰になるかはわからないが、君でないことだけは確からしく、君は虚構の話の中で何かを語りあぐねている。どこまでいっても何ともないのだから、話にもならないことかもしれない。まだ安全圏に入っていないわけか。誰の筋書きどおりにもならないのが偶然の巡り合わせの結果か。期待が裏切られるのはそんなに楽しいことか。まだそこまで達していないのではないか。どこに至っているのでもなく、何の結末も示されず、尻切れとんぼの話にもならない。まだ何も始まっていないのではないか。始まる気配さえなく、始まらないうちに終わろうとしている。そういう感覚が君をがっかりさせ、結果的に誰かの思うつぼになるのだろうか。しかし何も述べられないことが楽しいとは思えない。


5月6日

 下界では今日も暑かったらしい。ここは下界だ。少なくとも天国ではない。何が少ないのだろうか。誰かの想像にまかせようとするが、それを記しているのも誰かだ。そんなわけで相変わらず何を語っているのもないようだ。ここには何もない。誰かがそう思っている。不自然に感じる。しばらく何も思っていない。君はそこで何を見ているのか。心当たりはない。君には何ももたらされず、そのことについて語る資格もありはしない。つまらないことを考えているらしいが、それが文章上で明かにされることもない。誰かの主張のことごとくは無視される。それでひねりを利かせたつもりなのだ。本当は何も利いていないはずか。それで何かの聞こえがよくなったのか。今さら何を卑下しようとも思わず、ただ感じたことを述べているはずだ。だがそれに関して何を語っているのでもなく、相変わらずそこから君は遠ざかりつづけ、誰かはそれをどうすることもできず、ただそれとは無関係に空疎なことを記し続け、不満を抱きながらも、それ以外には何もできない。そんなふうに語っているわけか。

 君はそれが何だか知っているはずだ。行き着く先に待っている死も、そこに至る途中にあるすべてを受け入れてからのことだ。たぶんそうはならないだろう。君の行き着く先に待っているのは虚無だけか。そんなたいそうなものでもない。誰もが普通に生きている。そう思って差し支えないが、そうは思わない人も多いはずか。それについて何を思うかは、その人の勝手か。君は何も思わない。実在しないからそれでもかまわない。誰もそこには存在し得ない。そことはどこなのか。なぜそこで行き詰まってしまうのか。たぶんそういう話ではないからだ。実際に何を語っているのか。カラスが鳴いている。君は何も満足していないはずだ。それができていない。またどこかに外れているのだろう。ひたすらカラスが鳴いている。うるさいが我慢しなければならない。実際に何もできはしない。気になりだしたらどうしようもなくうるさく感じられ、耐えられなくなる。それでもそこから立ち去れないのだ。たぶんそういうことではない。そう思いたいのだろう。それは何かの妨害工作か。気になっているのならそう思っていればいい。

 強風が吹き荒れ、カラスが鳴き止まない。気になりだしてからもう数時間も鳴いている。何かが狂っているのかもしれない。君の感覚がいかれているのか。それについて何を思うだろう。いったん鳴き出したら夜通し鳴いているのか。それほどの持続力があるとは思えないが、本当にそうなったらどうしよう。そのうち眠ってしまうだろう。精魂尽き果てるわけか。たぶんそんな表現を必要とする状況ではない。いつの間にか鳴き止んでいるはずだ。そして本当にそうなってしまい、張り合いがなくなり、今度はそれを求めるようになる。心の中で何かが欠落して、ぽっかり穴が開いてしまったように感じる。それは冗談か何かだろうか。何でもなく、さっきまで音楽を聴いていたはずだ。そういうやり方は感心しないが、誰を感心させようとしているのでもないだろう。何かが二重に否定されるのか。誰が何を狙っているわけでもなく、どこかで緊張の糸が切れているだけか。とにかくそんなふうには語らない。誰もそこでは語っていないはずか。いつものようにそういうことにしておきたいのではないか。やはりそれは何の話にもなり得ない。

 騒々しい音楽だ。別に一気に何かを終わらせようとしているわけではない。感性の翼を何かの呪縛から解き放とうとしているわけでもなく、そういう比喩的な表現とは無縁に、ただ適当にいい加減に言葉を連ねて、それで文章を構成しているつもりになりたいのだ。誰がそのつもりでもなく、何のつもりでもなく、それが冗談だったのだろうか。君とってはそうであり、誰にとってもそうであるような虚無について、それを認めがたいような成り行きと必然性を備えた言説にしたいのかもしれず、そんな嘘をついて、何か利いた風なことを述べているつもりにもなりたいのか。この場合は誰の想像にまかせたら気が済むのだろうか。何かが歪んでいるように感じられ、画面から吹き出る色が滲んでいるように思われる。要するにますますわけがわからなくなるということか。それも誰かの想像にまかせたいようだ。研ぎ澄まされた感性とは無縁だ。君はそこで立ち止まり、何を振り返るでもなく、明日のことを思う。出会うのは他愛ない出来事であり、体験するのは大したことはない未来か。しかしそうだとしたらどうなのか。どうもしないか。


5月5日

 それで何を我慢できるというのか。何を警戒しているわけでもなく、どうしようもなくそうなってしまう。まともなことを語れない状況は変えられない。何をどうやっても、どんなやり方を模索しても、そういう成り行きにならないのではないか。相変わらず意味のない言葉の連なりが続いている。できないことをやろうとしているようだ。何が導きだされたわけでもなく、それが答えでないことは確からしいが、それでもどうにかなっているようだ。その場限りのやり方をとる。何かの期限が迫っているのだろうか。思いつきでそんなことを述べている。何かを思いついたから言葉を連ねるのだろうか。そうに決まっているような気がするが、案外そうとも言い切れぬ部分もあるらしい。どうかしているのは君だけではない。眠たいようだ。そして今日も晴れて暑い。こんな天気がいつまで続くのか。いつまでも続くわけもなく、数日後には雨が降るだろう。どんな天気だろうと言葉を記すあてがないことに変わりない。やる気がしないのはお互い様か。わかっていながらそれができない。

 北へ向かえば乾いた空気を満喫できる。それを満喫とはいわないか。蒸し暑いのは嫌だが、これからそういう季節が巡ってくるのだから覚悟しなければならず、それが大した覚悟でもないのに、そういうことを述べてしまい、否応なく呆れてしまうか。何が否応なくなのだろうか。まったく言葉のつながり具合がいい加減のようで、誰かの頭の中は壊れているのだろう。なぜそう思いたいのかわからないが、何がどうなろうと、そういう成り行きに身を任せ、行き当たりばったりで意味の定かでない言説を構成することになるのか。どうやってもそれを避けられるわけでもないだろう。人はどこまでも愚かであり、賢く生きようとする行為が人を愚かな行動に駆り立てる。だがそんな逆説など聞き飽きたか。愚かだからこそそんなことを語りたがるのであり、それで気が利いていると思いたいのだ。そして語った後に自己嫌悪が生じるのか。それはくだらぬ予定調和をもたらす。

 そうならないためにはどうしたらいいのだろう。誰に尋ねているのでもなく、それも予定調和の自問自答に導かれて、くだらぬことを述べている現実をどうすることもできず、さらにそこから逸脱して、何も極められぬような中途半端な状況になる。もはや愚かにもなれず、そうかといって賢くもなれない。至って普通であり、ありふれていて、要するに何でもないことを述べている。だから今日は晴れて暑くなるのだろう。真夏に比べれば大して暑くもないのに、完全に気が抜けているようだ。人は愚かさを経験しながら老いる。そしてその時が来たら、うまい具合にこの世から退場してしまうのだろう。自らの限界が浮き彫りになりそうだ。何も求めようがない成り行きを呼び寄せている。人は誰でも孤独になるしかないが、強がるのでもない限りはそれが嫌なので、孤独にならないようなやり方を模索しつつも、結局は孤独になるしかない。

 しかし何をあきらめかけているのか。言葉はまだ連なり続けるのか。言葉にはそれ特有の何かがあり、無理に意味を担わせようとすると、思っているような意味から外れて、思っても見なかったような並びで文章上に出現して、記述者の主張に逆らい、それ以上語るのをあきらめさせる。もう一息のところで何かが崩れ去り、意志を迷わせ、どうでもいいような無意味さを押し付けてきて、君を途方に暮れさせるのか。だからあきらめきれるような心境にはなれないだろうが、結局他にやりようがなく、それ以上のまともさをまとわせるのをあきらめ、適当なところで妥協して、大したことはない内容を受け入れ、その辺でやる気がしなくなり、潮時だと判断して、それ以上の継続を断念してしまうのか。またやる気になったらやればいい。実質的には何も語っていないのだから、まだよくなる可能性を夢想しながら、答えの出ない問答の再開を期待する。今さら何を卑下しても始まらないことは確からしい。


5月4日

 たぶん今日は今日なのだろう。昼は仕事をしていたらしい。人はやがて死ぬ。騒ぐだけ騒いでいておいて、あっという間にあの世ゆきか。誰のことを述べているのでもない。別に他人の死で盛り上がる理由もなく、どこかで誰かが死んだだけか。この世の何がどうなっているわけでもなく、ただ退屈しのぎにそんなことを述べている。君はどこかで何かをやっている。何かについて語っているのかもしれない。やはりそれがどうしたわけでもないが、そういうことなのだ。歌が言葉で飾り立て、何かの旋律を聴きながら、誰かが歌っているのを聴いているわけか。別にそれで妙案を思いついたわけでもない。人は去ってゆくものだ。それほど旅立ちたいわけでもないのに去ってゆく。誰かの詩がそれに関して何かを示しているかもしれないが、それをそらんじて何をしようというのでもなく、わざと言葉を逸脱させているだけかもしれないが、実際には何から逸脱しているのか。その辺で見解が分かれるところか。いったい誰と誰の見解が分かれるのだろう。

 文章としてはめちゃくちゃか。もとからそうなのかもしれないし、わざとそうしているうちに、さらに意味不明となり、まったくのでたらめだと思っているのだろう。頭の中がこんがらがっているのだ。今はそう思いたい。君はそれに関しては何とも思わないだろう。どうぞ好き勝手なことを思っていればいい。何の話でもない。そんな現状から抜け出るには及ばない。誰が何を語っても無駄になり、聞く耳を持たない輩がそれらの場所を占拠する。現状を認めすぎているのか。立場が違えばそれに対する認識も異なり、逆らえば深刻な事態となると思っても仕方のないことか。その一方で君はあまりにも現実離れしすぎているのか。そういう認識にもある程度は説得力が宿るのかもしれず、馬鹿にしてはいけない。それでも君の知ったことではないのだ。当事者ではなく、単なる野次馬の立場しか与えられず、それがくだらないと思うことの原因になる。そしてそれだけのことに関わっているわけにはいかず、次第に忘却の対象となってゆき、忘れた頃に君とは無関係に解決してしまうのかもしれない。君は常に蚊帳の外なのか。

 じれったいのはわかるが、それは当事者になってみないことにはわからない理由もあるらしい。要するにそこには様々な紆余曲折があり、そういう過程を経ないと動いてゆかないのだろう。今のところは誰にも現実を変える力が宿っていない状況のようだ。きっとこれからも無理なのだろう。もはや誰もが忘れた頃に変わっていることを期待するしかないのだろうか。それが違うことは百も承知なのに変えられず、誰もが焦れているのは当然か。たぶん解決する糸口さえ見つからず、答えなどもとからないのかもしれない。答えを出そうと努力するのは無駄なのか。そうだとしたらあきらめなければならないのか。何をあきらめようとしているのか。君の勘違いにも呆れてしまうか。何のことやらわからないのはいつもの通りであり、それをいちいち気にしていては何も始まらないか。もっとも何を始めようとしているのでもなく、何も始まらないところから語り始めているのであって、何となくそんなふうにしてわざと矛盾したことを述べているわけだ。

 言葉を連ねてゆく度に語る対象を失い、何について語っているのかわからなくなり、それが自己満足にも至らない結末を予感させる。だがそこからさらに言葉を連ね、ますます何かの罠にはまってゆくわけか。それは泥沼か何かか。はじめからそういう結果を求めていたわけではないのは当然だとしても、しかしいつもそうなってしまうのはなぜだろう。なぜだとも思わないのになぜだと問うことこそ予定調和の成り行きなのだろうが、そうせざるを得ない成り行きになってしまうことも紛れもない現状なのは、君のせいでそうなっているとしても、君が誰でもない架空の君でしかないのだから、やはり奇妙なことを述べていることに変わりはなく、それが日常茶飯事なのだから、奇妙とは思っていないのはもちろんのこと、客観的には奇妙だが、主観的には当たり前ののことである以上に、そんなのは何でもないことであって、文章上に記された戯れ言のたぐいにしかならず、それが気に入らないとしても、そこから抜け出る術を知らないのだから、結果的にはそうならざるを得ないわけだ。要するにそうなって当たり前のことを言葉がなぞっているだけか。


5月3日

 うかつだったわけではない。すでに気づいていたはずだ。なぜそこで眠ってしまうのか。眠いから眠ってしまうのは当然の成り行きか。結局何に気づいたわけでもなく、今が夜だ。何がそうなのだろうか。ひたすら空疎な成り行きの中に夜がある。だがそれがどうしたわけでもなく、何の感慨もない。別に何をやったわけでもなく、仕事をしていた。別の時間帯ではどうだったのか。やはり何でもないことの連続か。そこで何かが繰り返され、誰かの記憶が黒く塗りつぶされる。嘘をついているわけか。無言のようだ。語っている暇がないのだろうか。何を語ろうとしているのか。そうではないと思っているのだろう。今日も君はそこで出現してしまうのか。それで何か不都合なことでもあるのだろうか。気が散って話にならないのだろう。またテレビでも見ているのか。さらに何かが追いつめられているようだ。もう何も語る必要はない。誰がそれで満足しているというのか。

 暑すぎる。夜も蒸し暑く、誰かが自らの影の中に閉じこもろうとしているようだ。理由になっていない。何をどう考えればそうなってしまうのだろう。今は何も思いつかず、黙ってそれらの光景を眺め続ける。君にそれができるはずもなく、何をやろうとしていたわけでもない。ではなぜそうなってしまうのか。どのような結果でもない。もう眠ってしまったらしい。話はどこへも行き着かず、何の筋書きもないようだ。君は何を知り得る立場にもない。要するに何も語ろうとせず、その代わりに何を述べようとしているのでもない。何もかもがそこから遠ざかろうとしている。誰もそれを食い止められない。もうすでに語りすぎているのだ。すべてが余分であり、それ以上語るのは無理なほど語っている。おかしいのはわかっている。気分が優れず、気持ちもおかしい。そこから何を続けようとしていたのか。

 具体的には何のエピソードもない。それでも立ち上がる用意ができているというのか。実際には膝が痛くて立ち上がれないか。しかし誰が車いすの生活を強いられているのか。そういう人も中にはいる。人がどうしたのだろう。何か批評すべき文章があるというのか。何も読めはしないではないか。暇がないのだろう。そういういいわけがもたらされることによって何かが過ぎ去り、きっと取り返しがつかなくなるのだろう。気づいた時にはもう遅く、何もできないまま、ひっそりと人生を終えるのか。たぶんそれも物語のたぐいになりそうだ。誰かは自分が何かをもたらしていることに気づかない。それは決して怠惰と憤りなどではあってはならないか。両者の間に何の関連もありはしないが、それに関して何を述べようとしているのでもなく、でたらめの言説を真に受けられないことからくる消化不良に悩まされる。本当にそうなのだろうか。

 ついうとうとしたら、時間が数時間飛んでいた。目が覚めても何を思い出すにも至らない。いったい何を思い出そうとしていたのか。たぶんどこへも至らない話だ。マイルスがファクンサウンドに乗って吹いている。誰かが久しぶりにそれを聴いている。何を奏でているとも思えない。何かの抜け殻なのだろう。それは幻想か何かに結びつくのか。そんなことを期待するはずもなく、至ってとりとめがない状況をそのまま放置する。それが関の山というやつか。それでも語らない。何も思いつかないのだから仕方がない。だがそれが何かの頸木というわけでもないだろう。引きずられているのは誰でもなく、犬も猫も人から自由になるしかない。それで何を勝ち取っているとも思えないのだ。君はどこまでも愚かで、今までに犯してきた数々の失敗を顧みることもなく、さらに失敗を積み重ねてもまったく懲りる気配も感じられない。だからこんなていたらくなのか。すべては何かの予行演習なのだ。


5月2日

 いつもの自問自答ばかりではつまらない。では何か普段とは違ったバリエーションを模索できないか。そう述べた時点で無理かもしれない。現時点では何を欲しているとも思えない。また誰もいなくなってしまったようだ。誰もそこまでは考えない。それもいつもの意味不明な表現だ。また何を語っているのでもなく、何も考えていない。ならば君はそこで立ち往生か。誰かはようやく言葉を記す気になったらしい。何も考えられないのなら、またいつもの空疎に染まっていればいい。心はいつもの空洞状態だ。そう思っていれば、それが嘘でもかまわない気がする。それはどういうことなのか。要するに何もないということだろうか。ならばそれもいつもの通りだ。そしてそればかりでは精神的に耐えられないのだろう。冗談が高じて頭がおかしくなる。間違ってもそんな話にはならないか。やはりその辺がよくわからず、それ以上に何でもない。別にプレッシャーを受けているわけでもない。

 何が何だかわからないのはそういうことだからか。ではこの感覚は何なのか。何でもないからこうなっている。しかしこの違和感は何なのか。何でもないと困ってしまうのは何かの強迫観念か。またつまらないことにこだわっている。問題とは何か。それがわからない。何となくめちゃくちゃなことを述べている気がするが、それはどういうことなのだろう。こういうことであり、読んだ通りの空疎で何も語らない文章となっている。だからますますわからなくなり、言葉を記していて、何を述べているのでもないような感覚に陥る。今がまさにそういう感覚なのかもしれない。誰かがこれから何か問題提起するとしても、まったく真に受けられないのだろう。リアリティがなく、机上の空論の域を出ない話としか感じられない。なぜ実感がわかないのかといえば、それはそこにいないからか。自らが直接関わっていないことには興味がわかない。しかしなぜそんなところで苦悶しなければならないのか。

 それは何の感覚なのでもなく、君が実感しているのは何でもない。人はどこかで何かをやろうとしているだけだ。それが今ここでないとしても、いつかはどこかで何かをやっているのだろう。そしてそれは何でもないことなのか。それがそうだとしても、誰かは何かをやる必要に迫られているのだろう。実際に今このとき言葉を記しているではないか。そしてそれが何でもないことのすべてだ。何でもないことにこだわりすぎて、現状を把握できなくなっている。判断する材料を探し出せなくなっているようだ。まったく馬鹿みたいだ。しかし笑っていられるのも今のうちか。笑うも何も話になっていない。きっといつまでもそうなのだろう。他のことに心を奪われ、いつまでたっても語る気が起こらない。何も語れない原因がそんなところにあるのだろうか。それはどんなところなのか。どこでもないからそんなところか。要するにそれは架空の場所なのか。そうだとしたら何なのか。またしても何でもないということか。どうやら今回はそればかりのようだ。

 本当にどうでもいいことだ。それでいいはずなのに、さらに余分なことをやろうとする。何でもないことをやるのをもう少し待ったらいい。そうしないと無駄な動作に際限がなくなってしまうだろう。いくらでも何かの無駄遣いが繰り返され、そこから抜け出られなくなるだろう。血なまぐさい歴史の一コマでも思い出してみるがいい。何かをやるとは恐ろしいことだ。そこに向かって努力すれば必ずそうなってしまうだろう。勝手な思い込みが命取りとなり、人はくだらぬ消耗品と化すばかりか。もとからそうなのかもしれない。そうならないための努力も徒労に終わるだけか。誰かは仕事をやっていればそれでかまわないのではないか。それだけの人生か。しかし誰がそんなことを思うのか。まだ時間が残されているはずだ。そんな思い込みに従って、さらに無駄な試みを続けようとするわけだ。君はそれでかまわないと思いたい。誰に頼まれたわけでもないのに、言葉を記す行為をやめようとしない。だからそういうことであり、何でもないことの延長上にそれらの結果がある。君はそれを普通に受け止めなければならず、やはりどこまでも何でもないことだと思う。


5月1日

 やりすぎることはない。何をやりすぎているわけでもないのだろう。しかし君に何がわかるというのか。何もわからないから何も語れないのか。そうかもしれず、それが嫌でそうではないと思いたいが、そうであることに気づき、その先に言葉がつながらなくなり、そこで言葉を記すのをやめてしまうのか。そんなことしか述べられず、誰かは自己嫌悪に陥っているらしいが、本当かどうかはわからず、本心からそんなことを述べているのかも疑問か。何もできないことに変わりない。言葉を記して空疎な文章を構成している。何かをやろうとしてそうなっているわけだ。しかしその何かとは何か。またいつもの何でもない何かなのか。そうだとすると相変わらず空疎な言葉の連なりが作り出す虚無的な雰囲気から抜け出せないことになる。仮にそうだとしても述べていることがおかしい。別におかしくてもかまわないのだろうが、何となくそれではだめのような気がする。だからといって何をどうしたいわけでもない。その辺がよくわからないところか。

 だがわからないなりにも着実に空疎な文章を構成していないか。誰の知ったことでもないだろうが、それの何が冗談だとしても、たぶんそういう無駄な努力を継続しなければならないのだろう。いくらやってもきりがなく、心のよどみを覗き込んでも底が見えない。別に何があるわけでもないが、宝探しをやっているわけでもなく、探し物など何もないから言葉を記しているのではないか。だからそれがわからないところだ。商品とは何か。なぜ必要もないのに欲しくなるのだろう。欲しいと思うこと自体が必要としている証拠だろうか。その辺がわからず、とりあえず同じような物を持っているので、新たに買うのを躊躇しているうちに、何となくその気がなくなって、また別の物が欲しくなってしまい、買うかどうか迷って、買わないとさらに何かが鬱積するわけか。たぶんそれでかまわないのだろう。どんどん不満が鬱積すればいい。

 たぶん投げやりになっているわけではなく、何がわからないのかわからないのも毎度のことだろうが、何となくそんなふうにして何かをわかりかけているような気もする。君は何を求めているのでもなく、何を理解したいわけでもない。ただ自然に求めてしまうのであり、結果的に何かを理解しているのだ。そんなことはあり得ないだろうか。ならば何かの勘違いか。勘違いであろうとなかろうと、そう思っていればいい。間違っていてもかまわない。そして実際に間違っているのではないか。だから何を間違っているのか。そういう言葉の無駄な循環は好ましくない。そしてそれでかまわないのだろう。それ以外には何もないのだから、それでかまわない。君は何も語らず、誰かが何でもないことを語っているはずだ。しかし具体的に何を語っているのだろうか。誰かがどこかで何かを語っている。君はそれを永遠に知り得ない。物語の中ではそういうことになっている。

 大事なのは何を信じるかだ。誰かがそう語っていた。では何を信じたらいいのだろう。君は何も思いつかないだろう。結局何ももたらせないのだ。そしてどこかへ消え去る。いずれはそうなってしまうのだろう。今はどうなのか。誰がそこで消え去っているのか。誰もいないだけだろう。ここには何もなく、誰もいない。それだけのことであり、それは間違っていないのではないか。では何が間違っているのだろう。またそこに行き着いてしまう。謎解きの冒険なら映画の中で行われているはずだ。少なくとも君の出番ではない。最後まで見ていれば謎が解かれる瞬間に立ち会うことができる。そういう映画はつまらないだろうか。どんな映画もそうだろう。別にそれが映画である必要もないか。漫画や小説でも読んでいれば済むことだ。今はその気もないのに、宝探しや謎解きの話を語ろうとしている。だからそんなのは嘘だろう。君は何も語らずに何も示さず、他の誰かがそれを記しているだけか。


4月30日

 ただそれだけのことで疲れているのだろうか。今さら何について語ろうとしても無駄か。どうあがいても限界があり、それ以上は語れないことばかりか。誰かは君に何を語らせようとしているのか。まさかはじめからやり直させようとしているのでもあるまい。今語っているのはそういうことだ。いつもの自己言及か。しかし自己とは誰の自己なのだろう。本気で語っているのではないらしい。たぶんまた何かの冗談なのだろう。できないことをやろうとしている。そんなふうには語れない。それは何かの病だ。だからいつもそんなことを記している。ただそれだけのことだ。そしてそれがわからず、何を語っているわけでもないことに気づき、言葉の羅列を読む気がしなくなる。何も読み返せなくなっているようだ。なぜそうなってしまうのか理解できない。何とかしようとしてそうなってしまうのだ。結果がそうなのであり、それを覆せなくなり、語っている内容はそれだけになってしまう。それがまずい状況を招いている。そう思っているうちはそうなのだ。そう思いたくなければ、そういうフィクションは目の前から消え去るだろう。そうは思えないが、本当にそうなったらおもしろい。

 誰もが疑念を感じているはずだが、怖くて何も言えない雰囲気がある。そういう状況はよくあることか。場所はどこでもない。何の状況でもないだろう。それはどういうことなのか。要するに面倒くさいのか。語るのが面倒だ。では語らなければいいのに、言葉を連ねて何かを語っている雰囲気を楽しむ。そんなのは嘘だろう。また冗談を語ろうとしている。もう夜明けだ。すでに朝になっている。鳥のさえずりで目覚め、何を思うこともなく、そんなふうに日々を過ごし、おかしくも何でもないこと記し、それが空疎だと思い、たぶんそれが日常の何かと化しているのだろう。何かとは何か。何でもないから何かなのか。そうに決まっているとしても、それで安心してはいけない。何を安心する必要があるのか。いついかなる時でも安心したいから、そうなるようにあれこれ方策を試みているのではないか。具体的に何を試みているのか。わからないがその辺から語るのが面倒になってくる。何も考えていないのかもしれない。だから方策も何もあったものではない。またいい加減に語っていたわけか。その辺は無駄な言葉の連なりとなっている。

 何となくいつものようにおかしなことを語っているつもりになり、それでかまわないと思うようになるが、何について語っているとも思わない。たぶんそういうことだ。そんな現状をどうすることもできず、とりあえずそんなふうにして何かを続けようとしているが、それは間違っている。だが間違っているからこそやらなければならない。それは何かの屁理屈なのか。たぶんそうだが、本当に間違っているのだろうか。そこで誰が何を間違えようとしているのかわからない。君は自分が間違っていないと思っているのか。何を間違えようがあるだろうか。ともかくそういうくだらぬ問答から抜け出さなければならない。コーヒーが苦すぎる。それは関係のないことか。とにかく今は間違っている。そう思っているのだから、それを払拭しようがない。君は冷静になるべきか。だが今さら何をどうしようとしているのか。何もできやしないと思いたいのか。すでに誰かは言葉を記しているではないか。だからそういう自問自答もどきを続けていて、それをやめることができなくなってしまったらしい。それは困った事態か。誰が困ったような仕草をしているのでもなく、たぶんそれも何でもないことに違いない。困っていようが間違っていようが、それがやめるか否かの判断基準にはならないようで、それも困った事態の一部を形成している。まったくややこしくもおかしなことになっているようだ。そしてそれでもかまわないと思いたいのだろう。


4月29日

 それほどやる気がしないようだが、何を機械的にやろうとしているのか。この時間帯では無理に決まっている。君は感情を制御できないのか。怠惰に負けているようで、すでに心がどこかへ過ぎ去っている。それはどういうことなのか。どういうことでもなく、何かの比喩でもない。ただの間違いか。それに関して何か解せないことでもあるのだろうか。何をそんなに笑っているのか。何も繰り出せず、奇をてらうのをあきらめてしまいそうになる。すでにあきらめているのではないか。だから結果としては大したことはなく、ただ何となくおかしい。だがおかしいだけで笑えるのか。いったい何がおかしいのだろう。意味もなく遠くを見つめるまなざしが奇妙だ。何も見えやしないのに、なぜいつまでも暗闇を見つめているのだろう。それでも執拗に目の前に広がる暗闇を見つめ続ける。まだ何も決まっていない。いったいそれは何の話なのか。何の話でもなく、何かが何かを刻んでいる。時計が時を刻んでいるだけだ。それだけのことで、それ以外は何でもなく、たぶん何がそれだけなのでもなく、誰も偉そうなことは語らない。それに関して批判するのは自由だが、批判している側が悲惨に見える。なぜそこまでヒステリックに批判できるのか。たぶん感情的になっているのであり、自らができないことを批判の対象となっている者たちにやらせようとしている。要するにマスメディアの主張は無い物ねだりの域を出ない。しかし具体的に何を無い物ねだりの対象としているのか。その辺が曖昧であり、結果として記された文章がどうでもいい内容になっている。それで君は納得できるのか。

 君たちはそれでかまわないのか。何がかまわないのか定かでない以上、何もかまわないわけもない。では何を否定しているのか。それ以上は語ることができなくなり、たまらず誰かがくだらぬ認識を披露する。どうせいいわけのたぐいに違いない。そして現実に何を述べているわけでもなく、誰かは睡眠中に何か思いついた夢を見て、目が覚めたら翌日になっている。やはり無理なのだろうか。それが何だかはっきりしないが、それでも何かが無理になっているようだ。だからいくら言葉を記そうとしても無駄か。誰かは君に何ももたらせないだろう。何をもたらしてほしいとも思わない。君がそう思っているうちはそうなってしまい、現状ではそう思わないことなどあり得ない。だからそうなってしまうのか。具体的に何をどう思っているのか。それを言葉で示せないのだからおかしい。ただ何ももたらせないだけでは漠然としすぎていて、具体的に何をもたらそうとしているのかわからない。結局そうやって無駄に自問自答の言葉を連ねてしまい、それが自己言及的な言説となり、それの繰り返しが延々と続いてしまうわけだ。それらの問答はまったく馬鹿げているが、記されるのはそういう文章でしかない。誰かは冗談で事実をねじ曲げようとしている。

 しかし冗談でねじ曲がるような事実がどこにあるのだろうか。どこにもなければフィクションの中で事実をねつ造するまでのことだ。だがそれは事実ではないだろう。虚構の中なのだから事実である必要はなく、事実であろうとなかろうと、それを事実を述べてしまえばいいだけだ。それの何が問題なのか。例えばそこからどんな事実が浮かび上がってくるだろうか。冗談のついでに、君はそんな現状を憂い、誰かの行く末を心配している。そしてそれが嘘だと疑っている。本当は何とも思っていないのではないか。それも事実だ。たぶん事実であり、事実でなくとも事実だと述べてしまえる。君は客観的な視点を持ち合わせていない。そして眠たくなり、今日は昼休みを取っていないことに気づき、さもありなんと思っているうちに眠ってしまう。そして目覚めればまた翌朝か。それでは話も何もあったものではないが、たぶんそういうことでかまわない。何を強がっているわけでもなく、それが自然な流れなのだから、それに従うしかあるまい。またいつもの冗談でそんなことを述べているのか。


4月28日

 運命の日とは何か。それが今日だとは思えない。何やらそこから先は劇的な話の展開を期待してしまうが、いつものようにそうはならず、気がつけばひたすら何でもないことを述べているような気もしてくる。君はそこで何に気づいてしまったのか。人には人それぞれに暮らしがあり、それがどうしたわけでもなく、当たり前のことであり、かけがえのないことではない。なぜそう思われてしまうのか。人口密集地帯にはそこら中に住居があり、そのそれぞれで人が暮らしていて、それがどうしたわけでもなく、何でもないことだ。それはとりとめのないことであり、そこから何を学べばいいのかわからなくなり、当たり前のこと以外は何も導きだされないような気がする。しかしなぜこれほどまでに人がいるのか。何の重要性もないような人がいくらでもいて、それぞれが普通に生活している現状があり、全体としてそういう社会が形成されているわけだ。そしてこれ自体はどうでもいいことである。肯定も否定もできない。

 ニュース番組なら世界の片隅で不具合に直面する人々を取り上げるだろうが、それがどうしたのか。その不具合を取り除こうとしているのだろうか。しかし快適な暮らしとは何か。誰もが快適な暮らしを手に入れればそれで問題ないわけか。そうなるための努力を奨励すべきなのだろうか。君はその辺でわからなくなり、わからないからどうでもよくなってしまう。人はなぜそこで暮らしているのか。積極的な理由などどこにも見当たらず、ただ否応なく暮らしているだけではないのか。たぶんなぜそうなってしまうなんてあり得ないことだ。ただそうなっていて、それを強いられていて、嫌ならやめてしまえばいいだけのことであって、そうすることに何の説得力も求められていない。ただ行き当たりばったりで、偶然の巡り会わせによって存在させられている。どう考えてもそうとしか思えないような案配で、とりあえずそこで誰もが暮らしている。そしてそれは何でもないことだ。どこで何をやろうとその人の勝手であり、そこにしがらみがあって、それによって勝手なことをさせてもらっていないだけだ。そう考えると、やはりこの世の現状は恐ろしい。

 しかしそれがどうしたのか。もうすでに君はそんなことを忘れて、また無駄に言葉を弄して続けようとしている。無意味な行為が繰り返され、さらなる空疎へと飛躍していってしまう。そんなことはあり得ないか。冗談でそんなことを述べているわけか。何だかこの期に及んでやけくそなのだろうか。その辺で何を語っているのか、さらにわけがわからなくなりかけているようで、どうも立て直しが利かないらしい。ではその辺が限界なのか。それはいつものことで、何かの冗談として片付けてしまえばいい。きっと気のせいだ。今日という日が終わっていない限り、まだそれを続けられるはずだ。しかし何を続けようとしているのかわからない。それは肯定も否定もできないことなのか。何が何だかわからなくなっていることは確かだ。どこかが変調を来している。だがおかしいのは君のせいではない。たぶん限界を超えて言葉を連ねようとしているのだ。

 だが気に入らないのはそういうことではない。それと意識とがどこでどう関わっているのでもなく、どうやら君はまたしても語り得ないことを語ろうとしているようだ。できるはずがなく、何を語ろうとしているのでもない。ただそう思っているだけかもしれず、誰がそう思っているのでもなく、誰かがそう記しているのだ。そして苦笑いとともに空疎なことを述べて、それで何かを語ったことにしなければ、それ以外は何もないはずか。君はそれで達成感を得られるだろうか。そんなものを欲しいわけでもなく、何を得たいのでもないということで、何となく強がってみせるが、そうする理由を知らず、どんなわけでそういうことを語るのかわからず、誰がそれをわかっていないわけでもなく、それでそういうことが繰り返され、そういう状況の中で、何となくとりとめのない感覚にとらわれ、それが空疎だと思うようになり、たぶん現状とはそういうことなのだろう。要するに相変わらず誰かは冗談まかせにそういうことを記しているわけか。


4月27日

 心の中で何かがねじ曲がり、何となくそんなことを語りだす。夜に何を思うだろう。夜ではないと思いたいのか。ひねくれているようだ。わざとそうしたいのだろうか。記された言葉の連なりがくだらない。意識がどこへくだっていくわけでもないが、何をへりくだろうとも思わない。述べている意味がわからなくなりそうだ。調子が狂っているわけか。たぶん冗談でそんなことを述べているのだろう。しかしわからない。果たして目的を探し出せるのか。君はこの世界に何をしにやってきたのだろう。世界の果てを見てみたいか。そこで何を果たそうとするわけでもないか。人はどこでも暮らしていて、いくらでも生きているはずだ。そこで価値を見出すのは至難の業か。なぜ価値を求めているのだろう。価値のない人生では生き甲斐を感じなくなってしまうからか。しかし誰の人生でもなく、君の人生でもない。では何が人生なのか。冗談だろう。くだらないことを述べているのは価値がないからか。誰の価値でもなく、何の価値でもない。たぶん意味不明に決まっているだろう。何がそうなのかわからないが、そういうことらしい。

 何やらすらすらと意味のないことを記しているようだ。君はどこまでも愚かであり、この世に生きている誰もが愚かなのだろう。中には少しは賢い人もいるはずだが、それがどうしたわけでもなく、賢くとも愚かであることに変わりはない。いくらでも人がいるのは恐ろしいことか。そのことには何の価値も見出せないが、とりあえずその辺に人がいる。うじゃうじゃいるらしく、毎朝毎晩のように通勤ラッシュや帰宅ラッシュが起こっているようだ。それはそれだけのことだろう。人がそこにいるのは当たり前のことだ。そこに暮らしているのも当たり前のことで、人は人によって作り出された事物に興味を持ち、時にはそれを所有して満足感を得て、その満たされた気分を追求するのを生き甲斐としている。それが愚かなことなのか。不必要に道具を集めているコレクターの存在が文明そのものの特性を示しているわけか。それは何かの一面であって、君がそこで何を見てこようと、誰もそんなことは気にしない。何を見ていようと、それがどうしたわけでもなく、興味がなければただの戯れ事に過ぎず、枝葉末節な問題でしかない。

 では何が問題なのか。何も問題ではない。そう思えばそうなのだ。そう思いたくない者だけが問題を提起して、それについて何やら言説を弄して、それで何か述べたような気になっている。しかしそれが問題なのか。問題を提起する者にとっては問題なのだろう。ではそれ以外の者にとっては関係のないことか。関係があろうとなかろうと、それがどうしたわけでもなく、内容がおもしろおかしかったら興味を持つだけだ。いったいそれ以外に何が見出されるというのか。何もないからこの世界があるわけでもないか。だが世界中に人がいる現状が奇異だとは思わない。それが当たり前なのだろうから、それの何が問題であるわけでもないか。しかし退屈なのではないか。人には夢が必要だ。そして今ある現状を変えなければならず、生きている限り前進あるのみだろうか。しかしどこへ進んでいこうとしているのか。目標に向かって前進していると思っているのだろうか。そう思っていればそういうことになる。そうでなければ停滞か。別にそれで何が悪いわけではなく、それで不都合を感じていなければ停滞していればいいことだ。ある種の人々もそうやって生きているはずだ。

 しかし君はその件に関してはどう思っているのか。なぜ君がそんなことを思わなければならないのか。この世界の有り様に何か不満でもあるわけか。不満だらけだからそれを変えなければならないと思っているのか。やはりまた別のある種の人々にとってはそういうことだ。よりよい暮らしを求めて現状を変革していくのが人の生きる道だと思っている。それはそれで正解なのだろう。その結果としてもたらされた現状がそうであっても、そこに不具合が生じていれば、さらなる変革が必要なのだ。そしてその種の変革には終わりがなく、生きている限りは変革者であるべきなのだ。そんなわけで何やら疲れる結論が導かれてしまったようだが、たとえそれが正解だとしても、何となくそういう使命感に燃えている人にはなりたくない。君はこの世界にいくらでも人がいる現状を恐ろしく思っているようだ。誰が何をやっていようと、それが必ずしも他の誰かにも興味があることだとは思えない。誰が使命感に燃えて何をやっていても、それがどうでもいいことだと思われてしまう立場の人も存在している。もちろんそれがどうしたわけでもなく、そんなことは関係ないといえば関係ないのだろうが、やはりそれは恐ろしいことだ。


4月26日

 何を見せびらかしたいわけでもないが、そんな思惑を誰かに見透かされている。何らかの利益を得たいのか。死人でない以上はそういうことだ。行動できなくなったら死人と同じか。君は何かを求め、その求めている当のものを意識しようとしている。できるわけがないか。この世界に存在する何がそうなのではなく、何もそうではないということだ。誰かはわざとややこしくしているだけではないのか。そう思ったらそれで正解か。何も思わなければそこでおしまいだ。だからそれを続けている限りは何かを思い、その思っている何かについて、それを言葉にしなければ明らかにならない。ではいったい何を明らかにしようとしているのか。無駄なことを語っている。とりとめがなく、何を語っているわけでもない。語ることに飽きてしまったのか。ならば何も語らなくてもかまわないのか。すでに語っていないではないか。しかしそれでも言葉を並べているはずだ。それは涙ぐましい努力なのか。たとえそうであったとしても何でもない。言葉の連なりが何を語っているのでもなく、ただ並んでいるだけだ。それらは何かの羅列なのだ。

 とりあえず君は死人ではなく、誰かもそうだ。わかりきっていることだが、何か考えているようで、その何かに絡み付いてそれらの人格が形成されている。誰もが人格のない人形とは無縁の存在なのか。人形にも表情があり、それに基づいて人格が設定されることもある。少なくとも人形劇の中ではそうだ。だがそこで何を語っているのかと言えば、架空の人形劇の内容を空想しているのではない。ただ君は誰かが構成するフィクションの中で語ろうとするだろう。現にそこには架空の語りがあるのではないか。わかりにくそうだが、誰かはそれを記し、その記述の中で君の人格について語られ、そこに記されたフィクションを読み進むうちに、君がどういう人格の持ち主なのかわかる仕掛けか。罠なのではないから、誰が何を仕掛けたわけでもないだろう。仕掛けているのはそれとは別の話の中でのことか。そこで誰かが何かを仕掛け、そういう仕掛けが物語として機能して、例えばそれが何かの書物だとすると、それを読んで誰かが感動するわけか。回りくどすぎることだろうが、たぶんそういうことになるのだろう。

 誰かがそこに没入して、それを仕掛けた誰かが利益を得る仕組みか。そういう仕組みには属さない別の誰かにとって、それはあこがれの対象にでもなるのだろうか。他人を感動させるつもりがないなら、それはどうでもいいことか。君ならそういう仕組みについて何を思うのだろう。何も思わなければ君もそれとは無縁の存在か。誰にとってもそれは鬱陶しい仕組みか。だがそれについて何も語らなければそれでかまわないのではないか。誰かにとってはそれは過去の記憶を呼び覚まし、かつてそこで行われた作業に思いを馳せるならば、何となくそれらのフィクションの全貌が自ずから浮かび上がってくるかもしれず、それについて語っていた当時の気分も伺い知れるだろうか。そこで誰かは傘を忘れたことに気づき、急いで引き返そうとするが、どこへ引き返したらいいのかわからず、やはり途方に暮れるばかりのようで、今さらそれについて何を思っても何でもないことを悟るだろう。今や誰かはそこから完全に外れていて、何でもないことにかかりきりになる機会さえ失われている。

 そしてそこから遠ざかり、絶えず現時点での何かに接近し続け、これが世界だとわかり、他の何も現実ではなく、そこで何を求めているのでもなく、とにかくそこで生き続けようとしているらしい。生きていればやがて機会が巡ってきて、それが何をやる機会なのかわかるときもやってくるだろうか。同時にわかりたい。そうでなければわずかな時間差で遅れが生じ、それが取り返しがつかない出遅れとなり、何かをやる機会が永遠に失われてしまい、それとは別の何かをやる機会が巡ってきて、君はそこで後悔することになる。あの時やっておけばよかったと思うわけか。だから今はそれでもかまわないと思っていて、他のことをやっている自らを正当化したがって、過去の自分を見失い、今の自分が過去の自分でないことを忘れてしまう。それで誰かはかまわないのか。かまうもかまわないも、そんなふうにしか現状を語れないのではないか。だからそれでかまわないと思ってしまうのだ。


4月25日

 今から数日後には何を思っているのだろう。たぶん何とかなるのだろうが、何ともならなかったらどうするのか。外は雨が降っているようだ。どうにも遅れを取り戻せずに、それどころかさらに遅れてしまう気配を感じつつ、何とかしようとしているらしい。たぶん無理だ。降り続く雨がやる気を削ぎ、何をやろうとしていたのか忘れさせてしまう。そんなことはないと思っているそばから眠ってしまい、目が覚めた時には手遅れが決定的となっているわけか。ぼろぞうきんのように何かを絞り出そうとしても、何も出てこないか。それでかまわないのだ。言葉は自然と連なり、空疎な内容の文章が構成されている。心はどこに追い込まれているわけでもなく、何か楽天的な気分になれるわけでもない。そうなってしまった理由など考えるには及ばず、結局は何をどうしたいわけでもないことに気づく。そんなふうに語っているわけだ。

 空疎なことでさえ述べられないまま、さらに遅れてしまうのだろうか。楽しい状況だ。何を語るわけでもなく、ただ言葉を並べてゆく。別に気が狂っているわけでもなく、心は至って正気なのだろう。それが君の行き詰まりなのだろうか。そうかも知れない。本当に何も語っていないのだろうか。たぶんそうだ。何となくそこで目が覚めている。意識もしっかりしているようだ。それでも何も思いつかず、さらに空疎な気分となり、とりとめのない思いにとらわれ、何もないことに憤りを覚えているわけでもなく、何かのついでに憤怒の表情を浮かべている彫像を眺めているわけでもない。何も劇的でない。あたりに漂う意識は劇的な状況とは無縁で、ただ静かな気分だ。どういうわけでもないのに、理由を探るつもりはなく、対象もないのに何かを批判することもない。やはり何でもないのだろうか。わけもわからず誰かが昼の景色を眺めているようだ。

 頭の中で何かがスパークしている。意味もわからずそんな言葉を使ってみるが、雰囲気としてはそういうことらしい。どこから何をもってきたわけでもなく、雨上がりの夜空を眺めることもないだろう。今はまだ昼だ。そう思って差し支えないばかりか、差し支えあるようなことを思う暇もなく、時が流れ、やがて何も思わない時間帯から離れ、何らかの思いにとらわれるのだろうが、それを今から予想するつもりもなく、そこで君は目を閉じて、ありふれた風景をまぶたで塞いでしまうのか。いったい目の前には何があるというのか。もうしばらく無駄に言葉を並べてみないと、そのときの意識には近づけないだろうか。何がかまわないわけでもなく、意識が頭の中から消え去ってしまう。要するに考えるのが面倒なのだ。何について考えたらいいのかもわからず、ひたすらくだらぬテレビニュースを眺め続けている。たぶんそこでどうしたらいいわけでもないのだろう。

 人はどこまでもいつまでも人でいられるだろうか。人でなければ何なのか。それらの塊はただの物質なのだろうか。肉の塊なのではないか。ではその肉の塊が何を考えているのか。別にどこかに意識が宿っているわけではない。複数の化学反応が同時的あるいは逐次的に相互作用し合って、自らが何かを考えていると思っている。君はその考えている内容を知りたいらしい。誰かは何を考えているのか。たぶん君には理解できないことだ。そう思って差し支えない。要するに他人を理解させるのが面倒なのか。それでは独りよがりでしかないだろう。それでかまわないのか。誰かは作り笑いを顔に浮かべながら、それでかまわないと言い放つ。そこから先はフィクションにしかならないだろうが、やはりそれでかまわないのだ。雨上がりの曇り空の下で、人々は各自が抱いた目的にしたがって行動しているつもりになる。それが人の習性なのだから、そういうことでしかなく、やはりそれでかまわないということだ。


4月24日

 どこかで竜巻でも発生したのか。何かが瓦礫となっている。何とかしたいようだが、何ともならない。何も感じないようだ。多くの人がつまらないことに関わっている。君は仕事の最中か。事故や事件が起こり、それを鎮めるための儀式が執り行われる。それはどういうことなのか。どういうことでもなく、それについて誰かが歌っているようだ。誰がそれに感動するのだろう。妥協する理由は何もない。何に妥協すればいいのだろう。誰かによる人道的な配慮を顕揚したいのか。誰が何を語っているのでもない。今日もニュースで誰かが何かを主張している。そんなふうに語るのは間違っているだろうか。何が間違っているわけではなく、何もかもが間違っているのだ。冗談でそんなことを述べているのだろうが、とにかく争っている人々はいずれ和解しなければならないのだ。

 やはり何となく意味不明なことを述べているようで、具体的に何について語っているのかわからない。それでも時は経ち、もう夜になっているはずで、やっと一息ついたところか。他に何をしていたわけでもなく、昼は仕事をしていたはずで、いつもそうなのではないか。だがそれが何の理由になるのかわからず、なぜそういうことを語らなければならないのだろうか。他に語ることがないからか。語ることなどいくらでもあるはずで、ただ今はそれを思いつかないだけか。何とでも言い逃れができそうだが、それをやったらつまらなくなる。だから言葉を連ね続けるのは難しい。やめたらいいのにやめられず、やめるタイミングを完全に逸している。そして気がつけば空疎なことを延々と語っているわけだ。誰かはそれでかまわないと思っている。

 しかし何が無理となってしまったのか。それに関して君は何かを夢想している。だが連ねられた言葉の並びはいつものことでしかない。またどこかに心が隠れてしまったらしく、わかるわけがないことを考え続け、何を考えているのかわからなくなり、それがくだらぬことだと気づく前に、どこかで何かが導きだされて、そんなことはどうでもよくなってしまうのだろうか。たぶん本当に気づいたのはそういうことではない。何がどうでもいいわけでもなく、何に対して怒っているのでもないだろう。君はまだ何も思いついていないのだ。そして何について語ったらいいのかわからなくなっていて、迷いが生じているのは当然だとしても、そのままでかまわないとも思っている。ただ言葉を連ねていれば、あてのない怒りなど治まってしまうのではないか。心に行き場がないわけではなく、誰もが行くあてがない。誰かが記そうとしているフィクションの中ではそうだ。

 それでも何とかしなければならないのはどういうわけなのか。誰にとっても答えなど見つかるはずもなく、ただマスコミがあてのない批判を繰り返している。いくら批判しても無駄なのか。ここぞとばかりに、どうだといわんばかりに、いくらでも批判を繰り返せる時は、どこまでも批判を繰り返す。それがその手の批判専門メディアの特徴だ。だからいくらでもがんばってほしい。君たちには明日があり、彼らには未来がある。誰にとってもそれは喜ばしいことであり、この地で言論報道の自由が保障されている証拠だ。ところで君はなぜ批判しないのか。そしてなぜそんなに疲れてしまったのか。何もやる気がしないのはなぜだろう。マスメディアみたいに批判すればいいのではないか。君にはそれがわからない。何をどうしたらいいのかもわからず、ただ途方に暮れているふりを繰り返し、それで自分が何を述べているのでもないことを悟り、そんな自覚を捨て去ることができない。何でもないのにそこで立ち往生なのか。


4月23日

 おそらくまだ何も考えていないはずだ。現時点で考えられるのはいつもの冗談か。さっきまではそうだった。今もそうだろう。君は何をあきらめてしまったのか。それともまだあきらめきれずにいるのだろうか。まだあきらめていないのなら、とりあえず何とかしなければいけない。では何をどうすればいいのだろう。何をそんなに困っているのか。語っていることはみんな嘘だ。頭の中が混乱しているのだろうか。言葉が分散していて、わざとそんなことを語る。ならばそれらの言説はまったく信用できないのか。言説でさえない。それらの何が何の説明なのでもない。では君は何に見とれているのか。枝葉末節な何に心を奪われているのだろうか。本当にそれは取るに足りないことか。それに関して主張すべきことを主張できていない。誰もが国家論に流されているのだろう。俄国家主義になってしまう。馬鹿げたことだが、それについて真剣に考えてしまうわけだ。

 そのような国家資本主義をやめるにはどうしたらいいのだろうか。やめるわけにはいかないのではないか。それに関してもっともらしい主張ができると思っているうちは、誰もが国家主義者とならざるを得ないのであり、そんなわけでも君も俄国家主義者の仲間入りか。戦争にもなっていないのに、他国と戦争になった場合のことを考える。いったい今現在どこの国とどこの国が戦争をしているというのか。アメリカなどは他の国家と戦争をやっているのではなくて、国際テロ組織のアルカイダや、アフガニスタンの反体制武装勢力のタリバンなどと戦争をしているはずだ。そんな現実を無視して、もし外国が戦争を仕掛けてきたら国家の安全保障はどうなってしまうのか、とか言うことを無理に考えようとしてしまうわけだ。まったく冗談にもほどがあるか。その辺は馬鹿なんだから仕方がないことだろうか。それで片付けてしまうわけにもいかないだろう。だいたい世界中で戦争を仕掛けている外国とは、他ならぬ日本の同盟国のアメリカだ。主に自分たちの同盟国が戦争を仕掛けているのに、外国が戦争を仕掛けてきたらどうしようなんて思っているのだから、頭がどうかしているとしか思えない。

 いったい君たちは何にだまされているのか。どうしても国家間の経済競争や軍拡競争を念頭に置いた議論から抜け出られないのは、現状では当然のことか。自国の産業が国際競争に勝てるように国家が個々の企業を支援しなければならず、官民が協力し合って経済競争に打ち勝つことが、国家の至上命題となっているわけか。何だか明治時代の富国強兵論の域を出ないような話だ。そんな論を真に受けて、そういう水準で国家論を展開してしまうのだから、何となく時代遅れも甚だしいのではないか。学校では古代から明治時代ぐらいまでしかまともに学んでいないのかもしれず、現代史については受験で主題されにくいので、その辺を軽視した結果がそういうことに反映されているのだろうか。もっとも君たちには今さら学ぶ機会など残されていないか。

 トンネルの中にレコードプレーヤーが設置されていて、アンプからからスピーカーを通して流された音楽がトンネルの中に反響して、何やら幻想的な雰囲気を醸し出しているのだろうか。またしても冗談でそんなことを空想しながらも、何かをごまかしているのは明らかなのに、それをやめようとしない。君がそこで嘘をついているのは当然の成り行きかもしれないが、くだらぬ国家論を何に結びつけようとしているわけでもなく、何となく冗談の水準で無視を決め込んで、そんなことはもう忘れてしまったような気分となり、またしてもフィクションの中でつまらぬつぶやきを連発させて、それで済ましてしまう腹づもりなのだろう。途中から呆れを通り越して、どうでもよくなってしまったのかもしれない。もっともその先など何も予定されていないのだから、それはそれでそういうことなのだろうか。実際にそれで済んでしまうようだ。


4月22日

 君の知ったことではないかもしれないが、心に余裕がない。ここに心はないはずだ。そこは誰の居場所でもない。言葉を記す場所などどこにもありはしない。そんなわけで君は状況から学んでいない。わけがわからないということか。そして今はそれだけではないと思う。そこでは何が問題となっているのか。何が冗談なのだろう。いつでも冗談を繰り出しているはずだ。ではそれだけとはどれだけなのか。状況としては何がどれだけでもないはずだ。ならば誰の知ったことではないとは誰が知ったことではないのか。確かに誰の知ったことでもなようなことを語っている。何も知らない立場というのがあり得るだろうか。それに関して君は何も知らない。そういう空疎な言葉遊びはいい加減にやめてもらいたいか。何となくそうやって何もないのをごまかしている。だがそれをやるわけにはいかないのではないか。それは技術的な問題なのだろうか。そういうことではなさそうだ。体験しつつある現実を真に受けられない。

 それは形而上学的な内容だろうか。たぶん何を知ったかぶったところで、何となく程度が知れているような気がする。冗談のついでにくだらぬことを垂れ流しているだけか。別に事情通でもなければ専門家でもない者たちが何を言ったところで、それらのどこに説得力が生まれるはずもない。君は今日も子供だまし的なことを夢想している。それでも誰もが戦争ごっこをしたいわけでもないだろう。暇つぶしにやっていることで人が大勢死傷している。そんなこの世界の実情を真に受けてどうするのか。人の生き死にも暇つぶしの娯楽に含まれるのだから、それはそれで結構なことか。まあ何でもないと言えば何でもないことなのだろうが、呆れる前に何か言っておきたいことでもあるのか。目先の損得勘定を弾き出すのに血眼になり、戦術や戦略を駆使して成功を勝ち取ることが人に課せられた至上命題なのだろうか。そんな愚かな競争を肯定しなければならないだろう。

 それに関しては、もはや呆れてものも言えないだけではだめなのか。そこで誰が何を提言しているわけでもないだろう。だがそれに対する有効な手だてがあるとは思えない。とりあえず今がすべてではないが、この時を逃すと、もう何もできなくなってしまうだろうか。なぜそうなってしまうのだろう。それはいったい何のための動作なのか。何を語っているのだろうか。まったく話になっていないのはなぜなのか。苦言を呈する対象を間違っていないか。だから何も話になっていない。そんな具合に誰かは話にもならないことを延々を述べている。そう思っているのだ。誰が思っているのだろう。何も語らないという実践を誰が行っているのだろうか。何やら言葉の連なりが袋小路に入ってしまったらしく、まったく何かが前へ進まなくなっている。どういうことなのだろうか。画面の前で誰かが笑っているが、作り笑いで焦っているのかもしれず、たぶん何をどうしたらいいのかわからなくなってしまったのだろう。

 いったい君は何を語ろうとしていたのか。そのときのことを覚えていないのか。誰に何を問いただしているのでもない。思考の対象も批判の対象も特定できない。だから何を問うても何も導きだせず、何について語っているのか不明のまま、なぜかここまで語ってきたようだ。何か矛盾しているだろうか。それとも単に何も語っていないという認識が間違っているのか。人ごみの中で何かの光景が歪んで見える。とっさにそれとは関係のないことを述べつつも、認識の誤りについては素直に認めよう。誰が認めているのか定かでないが、どこかで誰かがそんなことを語っていたらしく、それについて何をどうこう言うつもりもなく、君のまなざしは虚空へと向いている。またいつもの笑えない冗談でも思いついたのか。それとも何か切羽詰まって、苦し紛れの何かを繰り返すつもりか。とりあえず今はそうであってほしい。何も語らないよりは空疎なことを語るべきだ。それがつまらない冗談だとしても許してほしいか。


4月21日

 君は劇的な話の展開を嫌っている。そして翌日は雨が降っていて、たぶんその翌日もそうだ。話に何の進展もない。一向にそうだ。現状ではそれを望めないのではないか。誰かが記す架空の物語の中でも話が進んでいない。どうも世間とだいぶ認識がずれているようだ。そう思うのはなぜだろう。誰かが何かを傷つける。それはステンレスか何かか。たぶんその辺で特有のごまかしがあるのだろう。本当は何も考えていない。考えられないのだろうか。今はその気分でない。そう思い込んでいるだけか。何の予感がしているわけでもない。何かの憶測をつかんだわけでもない。何を推測しているわけでもなく、誰かの秘密を突き止めたわけでもない。話は何もなく、何も語っていない事実を隠すつもりもないようだ。何となくそれがおかしい。椅子に座ると腰が痛い。それがおかしい原因かもしれず、それが何となくおかしい。さっきの言葉の繰り返しだ。

 別に後じさりしているわけではない。驚くべきタイミングを逸しているだけか。だがあぜんとすることもないだろう。誰かの横顔が画面に映し出され、それについて何かコメントしなければならないのか。それが何かの合図だとも思えない。何かのついでに何かが動き出し、偶然の作用を思わせるが、何の巡り合わせでもなく、製品は絶えず傷にさらされて、劣化を招いている。それを認めようではないか。何か絶妙のタイミングで何かが発見されてしまうのは、そういう話の展開が筋書き通りだからか。そこでまたわからなくなっているようだ。そこからどう語ればいいのか。誰が思い悩んでいるのかわからなくなる。何が君には関係のないことなのだろう。物語の中では行動の自由がない。では何が筋書き通りだったのか。君は何者でもなかったはずだ。たぶん窮屈な思いをしていたのだろう。それが何のことやらわからない。

 その辺で一区切りつけた方がいいのではないか。すでにそうしている。ところで何がそんなはずではなかったのか。何も迷走していないはずだ。誰もそんなところで道に迷わない。セラミックス製の何かにキズをつけたわけではなく、ガラス越しに雨模様を眺めているわけでもない。目の前には何かの画面があり、言葉をキーボードで打ち込んでいる。誰がそこに座っているのだろうか。冗談でそんなことを述べているわけではなさそうだが、何となく意味不明気味に空疎なことを語ろうとしているらしい。しかし誰のために何をやろうとしているのだろうか。誰もがそう思っているわけではないが、君はテロリストではない。その件についてはフィクションが何かを示している。お宝なんてどこにもありはしない。それは何かの幻影だったのだろう。あるいは話を長引かせるためのテクニックか。しかし何でもないとはどういうことなのか。

 君がそれを語ろうとしているのではなく、それについて何を想っているのでもない。過去のことが因縁を生じさせているのだろうか。何をどう思っても対応がちぐはぐになるしかない。行動が抜けている。それだけではなく、他に抜け落ちているものもありそうだ。要するにまだそこまで語っていないのだろう。そういう環境にならず、そこまで至っていないのだ。また眠たくなってしまったらしい。無理を承知で何をやりたがっているわけでもないが、言葉を記すのにも飽きてきて、そうかといって他に何をやる気も起こらず、今日は黙ってそこから退散したくなり、やるのかやらないのか、どっちつかずのまま、相変わらずの意味不明に拍車がかかり、記している文字列が文章でなくなってくる。誰かがそんな夢見の最中に音楽を聴いている。昨晩はそんな夢を見たらしいが、実際にあくびをしながら言葉を記している。そこでやめるわけにはいかないのだろうか。もうすでに手遅れのようだ。現状から判断するとそういうことらしい。


4月20日

 それらに関して何をどう思っているか知らないが、相変わらずそんな案配か。誰かは粗雑なことを述べている。今さらながら何をどうしたいわけでもなく、とりあえずの見解が積もりに積もってヒステリー気味に何かをもたらし、それがまったくもって冷静さを欠いているらしい。判断力を失い、荒唐無稽なことを妄想しているわけか。だがそれだけでは終わらない。後悔の念が終わらせようとしないわけだ。だからいつもすっきりせず、もやもやした精神状態なのだろう。しかしそれで何がわかるというのか。たぶんわかろうとしていることはいくらでもあるのだろうが、何をどう理解しようとしても一向にわからず、わかるあてもないようだ。やはりすっきりした見解を導きだせずにるようだ。たぶん現状がそれを求めていないのだろう。それによってどこまでも思い悩み、何も導きだせずにあきらめてしまう。だから今さら何を述べても無駄か。しかしいくらでも無駄に述べている現状があり、納得がいかないのにそれを続けようとする。要するにそういう結果が導きだされているのではないか。

 それでも君は何かを何とかしようとしているのだろう。語るだけでは何にももたらせず、誰がどこで途方に暮れているとも思えない。やりようがないことは確からしいが、確かにそこで誰かが何かを語っているのだ。だがそれで何がどうしたわけでもなく、君はフィクションの中でひたすらそれとは関係のないことを思う。誰がそこに関係しているとも思えないのだ。要するに何かと何かがねじれの位置にあり、どこまでいっても互いに交わることはなく、会話も対話も成り立たないような立場を占有しているのかもしれない。だから何に遭遇しても自分には関係ないで済んでしまい、そのまま独りよがりなことをどこまでもやり続けられるのだろう。要するに君は何に対してもそんなふうに語っているつもりなのだ。それは本来ならあり得ないことだろうか。だがそれらのフィクションの中では何が本来の状況ともいえず、何をどう語っても、それは違っているのだ。どう考えてもそれはおかしいが、おかしくない状況などあり得ず、普通の状態というものが見当たらない。

 たぶん常に奇をてらっているのだろう。デザイン的もコンセプト的にもそうであり、何かと奇抜なものを好む傾向にある。それを提示することが君に課せられた役割なのだろうか。そんなことなど誰が知るところでもないだろうが、たぶんそう述べていれば、それを続けることが可能なのだろう。実際にそうしようと思えばいくらでもできるようなことをやり続けているのではないか。結果的にそうだとすれば少々拍子抜けの感を拭えない。やはり苦労に苦労を重ねて、やっとの思いでそこにたどり着いたとなれば、それだけ強い達成感をもたらし、より深い満足を味わうことができそうだ。しかしそういうのはありふれていないか。よくあるパターンであり、何かの定番的な安心を得るための紆余曲折を演出しているだけではないか。それではひねくれ者の満足を得ることは不可能か。ならば簡単にできることをひたすら積み重ねて、つまらない事物について延々と語ることによって、それなりのリアリティでも獲得したらいい。それも誰もがやっていることだろうか。誰もがやらないことをやるという意気込みがありふれているのであり、現状ではつまらないことをひたすら繰り返す方が、現実に対するより真摯な態度を示していることになるのではないか。

 その辺で個々の人格を有する者たちごとに異なる見解を示していることになるのだろうが、気がつけば何かの終わりが近づいている。黙って虚無が指し示す方角を見ていれば、やがて何かの終わりを実感できるかもしれないが、果たしてそれまで待てるだろうか。焦って拙速に事を運んで失敗し、それで中途半端な最後を迎えてしまうのが関の山か。たぶん何がどうあってもそこから逸脱する必要があるのだろう。それまではひたすら待ち、待っている間に、君は君自身が理解不能なことを述べている必要があり、それが単なる暇つぶし以上の効果を発揮する必要がありそうだ。そんなわけでもはや冗談だけでは対応できないほどの複雑怪奇さが求められ、虚無からの求めに応じて、何らかの意味不明状態を突き詰め、さらなる論理的飛躍へとでたらめさを可能な限り拡大する必要があり、それによってかろうじて何かの均衡がとれるように言葉をちりばめて、それらの得体の知れぬ文章を構成すべきか。それはもはや無い物ねだりなどではなく、現実に存在する事物について語っているように装い、それで何かについて述べるという行為が完結するのだろう。そこに至るまではいつでも取るに足らない域を保持していなければならない。誰もがそうだ。


4月19日

 ようやく少し心に余裕が生まれたようだが、それを利用して何を述べようというのか。何の疑念も抱けない。数日後は晴れて暖かい日だ。また翌日には雨が降るらしい。冗談混じりにそんなことを述べているようで、たぶん実態はそうでない。それは簡単に否定されるようなことか。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。どこに選ぶべき選択肢があるわけでもなく、何を選んでもどうなるわけでもないようだ。しかし現状維持とはどのような状況のことを言うのか。それに関しておおよその選択肢は三つありそうだ。

1.日米安保条約に賛成+在日米軍基地国内移設を受け入れる=日米同盟の強化推進

2.日米安保条約に賛成+在日米軍基地国内移設を拒否=現状維持→安保ただ乗り論を招く

3.日米安保条約に反対+在日米軍基地国内移設を拒否=日米同盟の解消→在日米軍の撤退

 この国に未来があると思うなら、迷わず3番を選んでほしいところだが、国民にも政治家にもそれを選ぶ勇気があるとは到底思えず、結局妥協の産物として2番目を選んで、首相の首と引き換えで現状維持となり、相変わらず政府はアメリカにいいようにあしらわれ、沖縄県民は米軍の騒音公害や米兵が起こす暴行事件で嫌な思いをして、愛国主義者の自尊心はズタズタに裂かれてしまうわけか。売国奴は日本がアメリカの一の子分だと思っているだろうが、そういう思い込み自体が相手から馬鹿にされる対象でしかない。アメリカにしてみればもっとも重要な同盟関係はヨーロッパやカナダやメキシコといったところで、必要に応じて日本の頭ごなしに中国やロシアや北朝鮮と交渉するだろうし、日米安保で日本を守るよりも、対北朝鮮で韓国を守る方を重視しているはずだ。

 ではアメリカにとっての日本とはどのような存在なのだろうか。自衛隊を米軍の一部に組み込んで、自国の軍事産業を潤すために高い兵器を購入させ、世界中に張り巡らせた軍事拠点のひとつとして、日本政府に維持経費を負担させながらも、時には恫喝の対象として、またある時は自国が遂行しつつある戦争を国連に認めさせるのに必要な賛成票の一票としての価値しかないような国か。それらの関係を否定的に見ればそういうことだ。

 では日米関係において肯定すべき点がどこにあるのだろうか。例えばスペースシャトルに日本人宇宙飛行士を乗せてもらってありがたがっている。あるいは日本人メジャーリーガーを活躍させてもらってありがたいか。または日本の自動車メーカーを稼がせてもらってありがたいか。いったん日米同盟を解消したら、そういう方面で悪影響が出て困ってしまうだろうか。影響があろうとなかろうと、それとこれとは別問題か。

 たぶん人としての問題なのではないか。徳之島での米軍基地移設反対集会において、子供を使って、オバマさん鳩山さん、どうかこの島の貴重な自然を壊さないでください、とか言わせているのを目にして、何となくそれが卑劣なやり方だと思うのはおかしいだろうか。肝心の日米安保条約の賛否については不問にして、とにかく島に米軍がきてほしくないと訴えているだけで、それが単なる地域エゴと受け取られかねないことには気づかない。どう考えてみても、日米安保条約に賛成なら米軍基地を国内のどこかが受け入れなければならないし、基地の受け入れを拒否するなら、まずは米軍基地の存在を前提としている日米安保条約に反対しなければ、論理的につじつまが合わないような気がするのだが、そういうことを無視して、子供を使って感情論に終始するのは卑劣千万だと思われる。


4月18日

 やはりこんな具合になってしまうのか。何となくそういうことらしい。君はこの世で何をやっているのか。あの世のことなど知るよしもない。語り方がひねくれている。君の知ったことではないかもしれないが、とにかく空疎だ。空疎なことを語らなければならない。この世界は矛盾に満ちていて、だから空疎なことを語らなければならないわけではないが、何となくまともな中身を得られないことを肯定したくなってくる。もうすでに無理なのだ。何が無理なのか知らないが、そろそろ何かの限界らしい。何もないのに何かを語らなければならないのだろう。そんな嘘がどこまで通用するのか。すでにまったく通用していないようだ。同じような言葉の繰り返しが飽きられている。君はそれしかできない誰にかに愛想を尽かしている。しかしいくら見限っても言葉を記しているのは誰かだ。誰かが言葉を記さなければ君という言葉さえ出現しない。そんな当たり前のことを否定しても仕方がないか。

 今さら何を否定しているのだろうか。いったん手に入れてしまえば何でもなくなってしまい、何かの成り行きで手放してしまうと後悔する。それがお宝だと思っているのだから、勘違いもいいところか。何が違っているわけではなく、すべてが違っている。そう思っているだけで、実際にはいくらも違っていないはずか。君は至って正気のようだ。何が正解でもなく、すべてが間違っているとしても、それで正解の場合もあり得る。だから正解であったも不正解であってもかまわず、答えが出なくてもかまわない。すでにそんなことを語っているわけだ。何を語っているとも思えないのに、確かに何かを語っているらしい。どうってことはないが、それで語っているつもりなのだから仕方がない。誰が文句を言っても始まらない。すでに始まっているわけだ。君はそれを認めざるを得ず、何も思いつかない現状を変える手だてを思いつけないまま、ただ無駄に時が過ぎてゆくばかりだ。それの何がかまわないのか。別に開き直っているわけもない。

 何に失敗しているわけでもないだろう。何とも思わないだけか。くだらぬことにうつつを抜かして、そこから先へ進めずにいるらしい。ただ眠たいだけか。だがそれだけではやめる理由にならない。いったい何をやめようというのか。それらのくだらぬ言説に嫌気がさしているのだろうか。何の反論もありはしない。何に反対しているのでもなく、逆に何に賛成しているわけでもない。だからくだらぬ言説に終始しているのではないか。そういうわけでもないだろう。何の主張もしていない。何も主張できないのではないか。何も思いつかないのだからそういうことだ。しかしここまで言葉を記してきたではないか。矛盾しているというわけか。何でもかまわないような気がしているので、そんなふうに語ってもいいのではないか。やはり語ることは何もなく、それでかまわない。そしてそれでも言葉を記していればいい。すべてはそれだけのことであり、要は意志の継続にありそうだ。そんなわけで誰かはまだあきらめていないらしく、ひたすら言葉を記そうとする。

 たぶん言葉を記す行為がまったくの無駄というわけでもないのだろう。何かしら思考へと導かれているのかもしれない。ただ漠然と考えている。考えているふりではないようだ。人はどこまでも考えようとするが、何を考えているかは誰かの想像にまかせよう。着実に何かが積み重なっているようだ。言葉を並べてそんな雰囲気を醸し出し、それで何かを述べているような気にさせる。実際に何かを述べているのだ。どのように語ろうとも、それはそういうことになる。確実に何かを述べている。しかし実態はつまらぬ内容だ。それをどうすることもできない。だがあきらめていないのだろう。何をあきらめる必要があるのだろう。理由もなしにあきらめるわけにはいかないか。理由などいくらでもある。この世界には誰かが不在なのだ。誰でもないのに誰かが不在なのだろうか。わけがわからなくなりそうだが、誰もいないわけでもなく、誰でもいるような気がするが、そういうことに興味がわいてこない。離人症とは何か。そんな言葉に意味があるとは思えない。また君は冗談を述べているのだろうか。


4月17日

 それは何かの物語となるだろう。さっきまで何を考えていたのだろうか。まるで誰かが無人の荒野を歩いているように思われ、それが何の誇張でもないような気がしてくるが、誰もいない荒野で何をやっているのか。たぶんそれは誰かの思い上がりかもしれない。また何かの病だと感じているのだろうか。至って健康なはずなのに、健康だからこそ物足りないのか。だから病に違いない。そして底が見えないほど深い溝の淵で、何かに取り憑かれている。またそんなわけのわからぬ嘘をつきながら、画面の前で笑っているのか。それが何かの病なのだろう。冗談を述べるならそういうことになりそうだ。だがそれでも何かが足りない。具体的には何について語っているのか。そこで何を復活させようとしているのだろうか。それは何かの呪文か。そうではないと思いたいが、そこで君は夢から覚めて、意識がこの世界に舞い戻ってくる。それもフィクションの中での話か。すべてはでたらめであり、何かが違っているのは現実の世界でもわかっていることだ。どこまでも言葉が滞っている。そこで目覚めたわけだ。

 何かをやる気になっているのだ。居眠りの前まではそう思っていた。時刻を合わせているうちに眠ってしまったらしい。感覚がおかしく物足りない。アレルギー症状か。それは昔からそうだ。では何を考えているのか。まるで文章になっていないようだ。何かの幻想から抜け出られない。思っていることと考えていることが一致せず、語っていることが矛盾していることに気づき、どうかしている自らを正気に戻せないようだ。だから機会が巡ってくるまでもう少し待った方がいいのだろう。心が病に蝕まれているのか。そんな感覚のまま言葉を記すわけにはいかないだろうか。それでも少しは進歩しているのかもしれない。考えているのは誰かの苛立ちのことか。どこで何に苛立ってもきりがなさそうだ。気に入らないことはいくらでもあり、いちいちそれに関して言及しても的外れの感を拭えない。だからそれに関しては解決をあきらめて、さっさと歩を先へ進めたらいい。

 今さらながら先がないことを思い知る。先が長いのではなかったか。ないのか長いのかどちらにしろ、その時になってみないことにはわからないか。だがもう二日遅れどころではなくなっているようだ。何も考えがまとまらないうちに時間だけが無情に過ぎてゆくようだ。そして相変わらず何かが付加価値を持つには至っていない。だから何かとは何なのか。もう少しその点をわかりやすく説明しなければならない。何も考えていないのだから説明できるわけがないだろう。考えている最中に眠ってしまっては元も子もない。君は睡眠によって何かを忘れようとしているのか。ではもう思い出せないほど眠ってしまえばいい。またわけのわからぬ冗談でごまかそうとしている。しかしいったい何が治ってきたというのか。あるいはひねくれた性格が直って、素直に物事を考え、それを受け止められるようになったとでもいうのか。だが未だにわからないことが山ほどあり、それについていちいち考えるのが面倒くさい。

 言葉を記す作業が中断され、日付的には三日後に至り、何も思い出せぬまま、誰かがあくびとともに現世に戻る。まだ何かを語りあぐねているらしい。無理に決まっているのにその無理を打ち破ろうとして、そして結果的には挫折しているわけか。何やら雲行きが怪しくなっているようだが、そこで君はどうなってしまうのだろうか。たわいない機械に心を奪われ、そんなおもちゃを眺めながら無駄に時を過ごしているのだろうか。そうであってほしいのかもしれないが、たぶん現実はそうでない。何かの世界観が気に入らないのかもしれない。君はそれがわかっていない。宝物が手に入らなくてもいいのか。何を探していたわけでもないだろう。会話が成り立っていないのではないか。誰と誰が話しているわけでもない。何を思いついてもそれは幻想か。それとも何も思いつくわけもないだろうか。だがそこから去ることはできないはずだ。隠していることは何もない。幻想には違いないが、それを突き詰めてゆくと真実にたどり着きそうだ。時にはそんな嘘をついて、やはり何かをごまかしているのだろうか。


4月16日

 何を語るわけにもいかず、他に何をやっているわけでもなく、いつものように今日という日付になってしまうが、まだ二日前だ。いったい今はいつなのか。何を理解しようとしているわけでもない。方法が見つからない。これといった決まり事はなく、さらに何もなくなってしまうのだろう。無駄遣いのし過ぎから覚めて、やっと正気に戻った気がする。気の迷いからそうなってしまったのだろうか。それも何かの必然に違いない。何かに魅入られて、魂を抜き取られてしまったのだろうか。そうだとしてもそれで本望なのかもしれない。実際に無駄遣いしてみないと、それが無駄遣いであることに気づかない。それは独りよがりの自己満足に違いないが、そこから得られた物が宝なのか。迷いに迷った末にガラクタのたぐいをお宝と思い込むわけか。それでもかまわない。得られた物がそれなのだから、それが誰かにとってのお宝だ。ある程度はそれで獲得欲を満足させたのだから、それでかまわないのだ。

 しかしそれで何を愛でているとも思えない。強がっているのだろうか。何を拒否しているわけでもなく、何がどうなってもかまわないと思っているはずだ。それが強がりなのではないか。そうだとしてもそれでかまわないのだろう。そこから何がもたらされるわけでもないのに、それに見とれている。近頃はひたすらそうなのであり、そこで繰り返されているのはそういうことだ。何かが反復され続け、そうなって当たり前のことのような具合になっている。君は何を憎んでいるのか。そういう話ではない。この世界がどうなっているのではなく、世界の一部でしかない君がどうかしている。わかっているのはそういうことだろうか。だから君は君でしかなく、君でさえないというわけか。どういうわけでもないということだ。君はそこであきらめているのだ。現実と虚構の区別がつかない。たぶん何らかの病なのだろう。

 ここから何かを取り返そうとしているようだ。彼方から何かが迫ってきているようだ。君はそんなフィクションを読んだことでもあるのだろうか。何かがどこかで外れているのだろう。いつものことだが、その内容を把握できずにいるらしく、自らが何を語っているのかわからなくなる。でもそれでパニック状態になっているわけでもなく、至って心は冷静なのだ。正気でないのに正気でいるような気がするが、それも虚構の中で語られていることだろうか。どこかで何かがどこまでも作り話になりつつあり、まったく真に受けられないような気がして、やはりいつもの冗談だと思いたいのだろう。しかしそれが真実なのだ。君はそれに興味があるわけか。危うくそこで引き込まれそうになり、すんでのところで意識が何かを引きはがし、かろうじてこの世界にしがみつく。いったいそれで何を述べていることになるのか。

 ここは何かの崖っぷちか。夢の中で誰かがそう思っているようだが、フィクションの出来損ないような話の展開に、思わず笑ってしまい、まったく本気になれず、話に意識が入っていかない。それに関しては複雑な思いが絡まっているようで、なかなかそこから抜け出られずに苦労している。それは誰のことでもなく、それによって誰の自尊心が傷つけられたわけでもない。ただ話が退屈なのだろう。何がどうあってもそういうことになりそうで、何がどうなろうとそこから心が離れられない。たぶん明日の午後は空を眺めているはずだ。何かの気分転換ではなく、何気なしに少しの間気が抜けているだけなのかもしれず、ふと上を向いたらそこが曇り空だったのだろう。それも作り話の一部となるわけか。そんなふうにして誰かが言葉を記して文章を構成している。それがそこでの現状であり、それが今あるすべてになりそうだ。少し話が短いだろうか。


4月15日

 それらの意識は何かを思っている。思っているだけで、その身がどこへ踏み込もうとしているのでもない。君は何かにだまされている。その何かが君の影だ。君には君の影が必要なのだ。必要だからこそだまされるがままか。わざとだまされる理由がよくわからない。影の何を欲しているのだろうか。そういう意味不明な作り話には無理がある。たぶんそれもわざとやっていることではないか。本当は何もないはずだ。語ることなど何もありはせず、何かの間に合わせに無駄な言葉を並べている。誰かは本心からそう述べているのだろうか。嘘をついているとしても大げさなことではない。たわいない何かを深刻に受け止め、それで何かを理解したつもりになる。本当に理解しているのだ。そう思っているからそうに違いない。気まぐれか何かでそんな嘘をついてみる。それも嘘に決まっているはずだ。語っている内容が完全に常軌を逸しているだろうか。まだそこまでいっていないはずだ。だが何のことやらさっぱりわからないことは確からしい。わざとそうしているのだろう。それはいつものことだ。

 それでも誰かは何かを語ろうとしている。君は頭がおかしいのか。そうではないと思いたい。誰がそう思いたいのだろう。何か別のことに心を奪われているのだろう。それ以外は無関心を装っている。流れているのは何かと同じような音楽か。きっと聴いたことがある。そして今は何に見とれているのか。それがおかしいか。たわいないことにかかりきりだ。何かに吸い取られているのだろう。誰かは吸血鬼なのか。馬鹿馬鹿しくてやっていられなくなりそうか。では語るのをあきらめたらいい。それもかなり面倒くさいことか。しかしさらにわからなくなってしまったようだ。ならばそれは何かの呪いに決まっている。おかしな決めつけだが、それでも妥当な線といったところか。そこで君は何かをあきらめている。この地はまともに語る土壌ではないのだ。苦し紛れの言い逃れかもしれないが、いいわけのたぐいだと思ってあきらめてもらいたい。ここはそれでかまわない。

 空疎な気分に束縛されているようだが、何も語れないわけでもなく、それでも何とかしようとしている。やがて憩いの時がやってくる。興味のない話なのだろう。そうに決まっているが、それがどうしたのか。あまりにもくだらなすぎるか。誰にかには夢があり、その夢を叶えるために努力している。それがありふれた物語へとつながっていくのだろうか。だからそうする理由などもとからわかっているはずだ。退屈だからそこから逸脱してしまう。だからもう語れなくなってしまうわけだ。ニヤついている場合ではないか。結局は冗談なのだろう。何も冗談だとは思えないが、深刻ぶるほど笑ってしまうのは冗談である証しだ。だからどうでもよくなって、それだけのことになってしまうらしい。要するに何も語っていない現状があり、そんな状態から抜け出られないのか。そこで何かが違っていることはわかっているはずだ。

 なぜそれがわからないのか。何も考えていないのだから、わかるはずがない。何を考えても答えに到達することもないか。では何をあきらめているのか。何を期待していたわけでもないはずだ。だから答えを出すには至らなくても納得しているはずか。しかしなぜ時が簡単に過ぎ去ってしまったのか。それが時の特性だからか。時間を元に戻すことはできない。そしてここから先はどこまでも過ぎ去るばかりのようで、決して振り返ることはできない。誰かが語りたかったのはそういう話だったのだろうか。もう記憶がない。何も残っていない。君がそこで何を求めていたのかわからなくなる。それは誰の本望でもないはずか。少なくとも君はさらなる話の展開を模索して、言葉と意味をつなげようとしていた。もとは意味不明ではなかったのだ。それがどうして現状の空疎な内容に至ってしまったのか。それに関しては何もわからないでは済まないはずだ。ならばどこから語ったらいいのだろう。何も語れないわけはない。


4月14日

 日付は相変わらず昨日だ。そして何も思いつかない。君は無能だ。それ以前に不在だろう。だから何も思いつかないのは君ではない。誰かが何かを求めているのだろう。誰が不在であろうとそれに変わりはない。そこから言葉を続けるつもりなのだ。無駄な悪あがきか。何を見出そうとしているのでもなく、ただ無駄に時をやり過ごすばかりか。そうだとしてもひたすら言葉を記そうとしている。他にやることがないのか。そういうわけではないが、昼間は仕事をしているらしく、忙しそうだ。それでも夜は久しぶりにマイルスもどきを聴く時間がありそうだ。虚空に向かって何をつぶやいているわけでもなく、つぶやくこと自体が時間の無駄で、単なる暇つぶしとなってしまうのだろう。だが君は画面の前から離れられない。そこで目を背けるわけにはいかないらしい。記された言葉がこの世には不在の君を束縛しているのか。だからどうしたというのか。

 外は寒くなっているのだろうか。それは翌日のことで、どこも天候不順らしい。寒空の下でも人は誰でも生きている。なぜそうなっているのだろう。何かの仕組みによってそうなっているのか。人には社会があり、社会の中で生きている。それは当たり前のことだが、そこからどんな見解が導きだされるのか。それはよくわからないことだ。相変わらず何も思いつかない。それらの社会がどうなっているわけでもなく、何を導いているのでもないらしい。気がつけば何も語れなくなっている。それに関して何とも思わないのだ。ならば何に関して何を思っているのか。それがわからず、何を考えているのか皆目見当がつかない。人は社会の中で何を求めているのだろうか。例えばアメリカにどんな魅力があるというのか。なぜそれがアメリカなのだろう。それを目指す理由がわからなくなっている。知識とは何か。他の誰かがそれを利用して社会に貢献したいわけか。今となってはそれもわからない。

 いったい人はどこで何をやっているのか。どこへ行こうとしているのだろう。何か目指すべき場所でも見つけられるのだろうか。状態が違っている。そこから結論を得ようとするが、実際に得られたそれが何だかわからない。それは何を意味することになるのか。いつまでも意味不明のままでは埒が明かない。そうする理由があるのだろうか。君は君なりにそこから何らかの意味や意義を獲得する必要に迫られているはずだ。何かを見出さなければ何も明らかにならないだろう。もはやそこから逃げ出したい気分か。しかしどこまで逃げれば気が済むのか。逃げないためには何をどうすればいいのだろう。たぶん何のことやらわからない。何から逃げているのかもわからない。そして久しぶりに何かが目覚める。それらは抽象的すぎる表現だ。その中の何が身近な存在となったわけでもなく、相変わらず何を述べているのかわからない。

 それは当たり前のことだが、無駄な趣味が無駄に終始しているようだ。君はそこから何かを理解しようとしている。何もしないでそこまできたわけではない。絶えず何かを模索しているのだ。逃れられない定めなのは誰もがそうだ。目の当たりにしなければならないのもそれらの成り行きに違いない。それを前にして無理にでも笑ってしまいたくなるが、やはり笑えない冗談にも限度がありそうだ。何も得られないような結果をどう捉えればいいのか。わからないことは一向にわからず、わかるのをあきらめてしまいたくなってくる。何をわかろうとしているのかもわからない。もしかしたら答えを求めてはいけないのかもしれない。答えを出しようにも何に答えたらいいのかわからない。いったい誰かは何に関して考えているのか。とりあえずそういうことであり、同時にどういうことでもなく、幕末に江戸幕府がアメリカに結ばされた不平等条約と同じように、かつての政府自民党がアメリカとの間で結んでいた不平等条約が、日米安保条約なのだろう。多くの日本人はそのことに気づいていない。


4月13日

 フィクションの中で誰かが何を語ろうとする。無駄な言葉を空白にちりばめる。それは余計な言葉のつらなりだ。なぜそんなことを述べてしまうのだろうか。そして誰にそんなことを伝えようとしているのか。伝える対象などありはしない。やはりそこで何がどうなっているわけでもなく、何かを語ることによって何をどうしようとしているわけでもない。実際に何もどうにもならないだろう。現状に不満がある者はどこかで救済されるのだろうか。救済されてからどうするのか。救われた誰かが幸せになったりするのだろうか。それはなぜだろう。やはりそういうことを述べるのはおかしいのではないか。何がおかしいのかわからないのか。わかろうとしていないようだ。もとから意味不明なのだからわかるわけがない。だが今はそうではないような気がしているのではないか。そんな気がしていることがそもそもおかしいのか。

 たぶん語っている内容がくだらない。言葉はどこで記されているのか。頭の中には何も記されていない。君はどこまでも空疎だ。そう思っているからそうなってしまうのか。そんなことはない。そうでもないだろう。では何も語らないのはどうしてなのか。心の中の空疎が何も語らない。そんなことはあり得ないか。誰かが窓から外を眺めている。そしてコーヒーを飲みながら何かをつぶやく。すべては空疎だ。そして気がつけば横道に逸れている。いらぬ方角に心が傾き、それらへ強引に引きずられていってしまい、二度と戻ってくることはない。たぶんそんなこともフィクション以外ではあり得ないことだ。だが空疎な雰囲気に引きずられて言葉を連ねている現状を変えるわけにはいかないらしく、それがその場での誰かのやり方なのだろう。そんなふうには考えられないか。考えられないとしたら、では君は他に何を考えているというのか。

 確かに現実の世界では何も考えていない。空想の世界では何か他のことを考えているのかもしれないが、ここから伺い知ることはできない。こことはどこなのか。ここは現実の世界であり、誰かがここで言葉を記しているはずだが、ここでは誰が何を空想しているのか。例えば誰かの将来を憂う必要があるだろうか。誰がそれを注目しているわけでもなく、他の何に興味を抱いているわけでもない。たぶん今日も何かが外れている。気が散っているようで、言葉を並べる作業に集中できていない。その方がおもしろいだろう。いつまでもそこから外れていることで、述べていることが意味不明のままだ。まったく本気になれない。語るべきことなど何もなく、何について語ったらいいのかわからず、いつまでも途方に暮れているふりをしている。実感としては本当にそうなのだ。そしてさっきまで何を考えていたのかわからなくなる。

 しかし宝探しはもう終わってしまったのだろうか。フィクションの中では物語の終わりが近づいていて、クライマックスの大乱闘が続いている。君は途中で眠ってしまい、そこに至るまでの話を知らない。意識ははっきりせず、相変わらずの意味不明状態のまま、あくびとともにその先に言葉を並べてみるが、わけがわからないことに変わりはないようで、それらの歴史の中で特定の人物が果たした役割を調べてみるが、それが誰とでも置き換え可能であることに気づき、何となく歴史上の偉人という存在がそれほど重要でないように思えてくる。単なる世代交代というのではなく、同じ世代でも比較的長生きした者もあれば、有能そうな者があっけなく死んで、しかもその早すぎた死が後の時代において惜しまれつつも、激動の時代ではそういうのはありふれていたことに気づかされる。人は身の危険を感じるような状況を好んで、そこに入り込み、そんな渦中に身を置くことに生き甲斐を感じてしまうわけだ。だからそういうことに敏感である者ほど優秀であり、かつ危険に身をさらしているから短命に終わる可能性が大きい。


4月12日

 何が困惑の対象となっているとも思えない。それどころか何もかもがありふれていて、すべては知られる前に知られていることばかりだ。誰もが知っていることを誰かが苦労の末に知り得たように振る舞い、それで何かを探求しているつもりなのだ。昔の廃坑を再発見したかのごときに騒ぎ立て、その中に転がっている何かの残滓を宝物のように取り扱う。そういったフィクションがどこかで語られ、多くの者がそれに感動してしまう。いったい君たちは何に感動しているのか。そこに何らかの目新しさを見出しているのだろうか。相変わらずくだらないことにこだわっているようだ。たぶん今日は今日でそういう成り行きで過ぎ行くばかりのようで、何を考えていようと、それが余計なことでしかなく、考えすぎると徒労に終わるばかりのようだ。だからそれ以上は無理なのかもしれず、いくら言葉を連ねようとしても、それを超えた何か導きだされるわけでもないらしい。だからさらなる徒労が必要なのだろうか。

 人の暮らしに希望のごとき何かがあるのだろうか。何を望んでいるわけでもないだろう。老人が捨て石になってどうするのか。それは何のための捨て石なのか。たぶんそこで何かの抗争が繰り広げられているのかもしれないが、それで何がどうなるわけでもなく、誰もが囲碁をやっている心境にはなりがたい。世の中には暇な人がいくらでもいるようで、そういう人たちが何かをやろうとしているらしいが、暇にまかせてやろうとしていることは趣味や娯楽の域を出ない。多くの人はそれでかまわないのだろうが、自らが捨て石になる覚悟がある人たちは真剣のようだ。誰かはそこから言葉を抽出して文章を構成しようとしている。それは虚しい試みに違いなく、やはりそれによって何がどうなるわけでもない。誰かが語る何かはどこまでも空疎だ。要するにそれを超える何かを導きだせないまま、いつまでも低レベルの言説にとどまっているようだ。しかしなぜ君はそれでかまわないと思ってしまうのか。たぶんそこから画期的な何かを見出そうとするのは筋違いなのかもしれない。

 だが君は懲りずにさらなる何かを求めて、ひたすら言葉を連ねようとしている誰かに期待している。もちろん誰かは君ではない。音楽を聴いているのも君ではないか。誰でもないから君という言葉が当てはまるのかもしれず、誰かが記す文章上の都合で君という言葉が記されているわけか。しかしそれを説明してどうするのか。見渡せば高圧鉄塔の下に住宅地が広がり、その一角に昔ながらの墓地がある。墓石の下には誰かの骨壺が収められていて、定期的に線香が焚かれているらしい。そんなありふれた光景を気まぐれに説明して、それで気分転換としているらしいが、まだ何が行き詰まっているわけでもないだろう。ならば墓地の近くにあるビニールハウスの中ではイチゴでも栽培されているわけか。何がならばなのかわからないが、やはりそこから何が導きだされるわけもなく、君は何かを語りすぎている誰かをどうすることもできはしない。そんなことを述べているうちにも時が経ち、やがて夜になる。そして相変わらずそこにあるのは何でもない文章に違いない。

 何かがどうにかなって、もはや何でもありの様相を呈しているようだが、事態が切迫しているわけでもない。それは事件でも何でもなく、ただの空想から生じていることか。人はどこまでも人でしかない。その中の誰が英雄であろうとなかろうと、結局はただの人でしかない。だから人の未来もただの未来だ。他に何かがあったりなかったりしても、そんなのはその時になったらわかることだ。誰かがそこで生きている。たぶん何かをあきらめたら、そこで何かが終わりになろうとどうしようと、そういうことでしかないということだ。何かにこだわっていて、こだわりを捨てて新たに再出発しようとどうしようと、たぶんそこで何かに気づいたり気づかなかったりするだけで、それによって何かがどうにかなろうと、それで何かがどうにかなったということでしかない。確かにそれはそういうことだろうが、それではまずいのではないか。そう思ったらそれについて疑念を抱いていたらいいということか。


4月11日

 何を堪能しているわけでもない。またいつもの夜だ。何もないのに闇が迫りくる。それがどうしたわけでもないだろう。昨日の日付で何かを記しているだけのことか。何も思いつかないのは当然だとしても、他に何があるわけでもなく、たぶん何を語ろうとしているのでもないのだろう。人がそこでどんな幻想を抱いているというのか。ただ不具合を是正したい。それだけのことだ。それだけのことなのに、そこから幻想を抱く余地があるとは思えない。それはありふれたことかもしれないが、日本を立て直すとか主張している輩は頭がおかしいのではないか。政治家は頭がおかしくなければやっていかれないのかもしれない。状況はなるようにしかならず、そんな状況の中で何が考えられるのか。それを模索してゆけば、自ずからやるべきことが見つかるはずだ。そして今やっていることがそれなのではないか。何も大げさなことを主張する必要はない。誰もがフィクションの中の坂本龍馬になる必要はない。

 笑ってしまうのはそんなことのようだ。だからそれ以外に何があるというのか。音楽を聴きながら何を考えているわけでもなく、頭の中で何を奏でているわけでもないだろう。人がどこまでも愚かなのは承知しているつもりだが、なぜそこでそんなことを考えなければならないのか。心に余裕がなければならず、例えば韓国のように行き過ぎた競争社会に憧れる必要はない。別に少年が大志を抱く必要はないし、夢を叶えるために努力する必要もない。ただ現実は現実として受け止める必要はありそうだ。たぶん人がどうなってほしいとも思えないのであり、偶然の巡り合わせで幸せになったり不幸せになったりしているだけのことだ。だから無理に幸せになる必要はないし、無理でなくともそれを追求する必要はない。何かをやろうとしなくても、すでに何かをやっている現状があり、それを素直に受け止める必要がある。日常は何でもないことの連続であり、可能な限り誰もがそんな日々を淡々と過ごすべきだ。人は何者にもなれず、すでに何者かになっていることを自覚する必要がある。

 それは間違った認識だろうか。間違っているかもしれないし、そうではないかもしれない。しかし現実を真摯に受け止める必要はある。それが現実なのだから仕方がないだろう。たぶん仕方があるような現実はない。君はそれだけのことにかかりきりなのだ。そしてひたすらつまらないことにこだわり、そこから人としての限界が生じている現実に気づくが、今さらそれを改めようもなく、どうしようもなくそんな現実の中で暮らしているはずだ。それを忘れるわけにはいかない。何もないのに何かがあるように見せかけるのは愚かなことか。確かに愚かだが、そうせざるを得ないのが人であり、誰もが自らを飾り立てようとしているのは紛れもない事実だ。かつての千利休などは逆説的に質素なわびさびで飾り立てようとした。それは魯山人あたりにも当てはまるやり方か。決して華美には飾らない自らの主義を他人に見せびらかそうとしてはいけないか。彼らはそれだけではないはずだ。

 しかし主義主張とは何なのか。このままでは日本がだめになってしまうとかいう紋切り型を正々堂々と訴えるのはどういう了見なのか。本気でそう思っているのだろう。本当にそうだとしたら、そう主張している時点で、すでに日本はだめになっているのではないか。そしてだめになっていてもかまわないと思われてしまう。だめであってもかまわないし、できることなら立ち直らずにだめのままでいてほしいような気もしてくる。だが本気でそんなことを思っているのだろうか。日本という国家がだめになったり立ち直ったりするのはおかしいのではないか。冗談混じりにまともに考えるとすれば、そういうことを主張する前にやることがありそうだ。それは誰がやるべきことではなく、誰もが今まさにやっていることでしかない。大げさなことを主張する以前に、誰もがやっていることだ。


4月10日

 誰かはそこで何を考えているのだろうか。さっきから何もしていないようだ。本当は何もできない。だから何もやろうとしていないのだろう。しかし何かを探しているはずだ。君ではない誰かが何かを探している。君の代わりにそうしているわけではない。誰に頼まれたわけでもないのにそうしているのか。だから君の知ったことではないらしい。翌日は夕方から雨が降っている。昼間は暑すぎた。それだけのことを記すのはおかしいだろうか。記すか否かは誰の自由でもない。気が向いたらまた違うことでも記すとしよう。君に勝っているものを誰かは持ち合わせているようだ。そしてそれを利用して何かを探し出そうとするが、それで本当に探し出してしまったらどうするのだろう。それは何かのお宝か。あるいはそんな物語でも読んだことがあるわけか。まったく本気になれず、すぐに何かを忘れようとする。外は雨だ。

 そして何も思いつかない。相変わらずそんな嘘とも本当ともとれないようなことを述べているつもりだが、要するに何でもないということか。だからそれ以上はやめておこう。またいつもの無駄な言葉の連なりとなってしまいそうだ。それでかまわないのではないか。そんなふうに語るからそんなふうになってしまい、そこから先は同じような言葉が循環するばかりか。だからそれでかまわないと述べている。そんなわけでもないが、この世は気に入らないことばかりか。それで老人たちが立ち上がっているらしい。このままではこの国が危ないそうだ。毎度おなじみの危機感を煽ってオオカミ少年状態のようだが、彼らは少年ではなく老人のはずだ。そして何となく主張していることが抽象的でわかりにくいが、具体的に何をどうすればそうなるのだろう。彼らにの主張には彼らなりの正当性があるのだ。むろんそんなことは君には関係のないことか。

 ならば君はどこで何を主張しているのか。何か主張できるような環境を持ち合わせているのだろうか。何かそれとは別のことを思い出さないか。この世界の中で何を見出せばいいのか。冗談以外に何があるというのか。何でもありそうだ。では何を探しているのか。まるで見当がつかないが、少なくとも探す気はありそうだ。たぶんそれは希少なお宝などではなく、ありふれた事物になるだろう。いつまでも雨が降り続いているが、探しているのは何なのか。何の役にも立ちそうにない商品だ。しかし君はそれから目を背けられず、どうにもこうにも購入せざるを得なくなり、そんなことはあり得ないが、実際に買ってしまい、買った後で後悔する。なぜそのとき君はそれを買ってしまったのか。気まぐれか何かか。何かの偶然が作用していたのかもしれない。そしてひたすら冗談を述べている。それに関してなのか、違う商品に関してなのかわからないが、何となく笑えない冗談だ。どうせ遠からずそんなことは忘れてしまうだろうが、確かにそのときの気まぐれで、何かを探し出してしまったらしい。そしてそう思ったとたんにそれは陳腐化してしまい、まったくどうでもいいような事物だと悟って、急速に興味をなくして、今では思い出せなくなっているようだが、それとは何だったのか。

 少し冷静になった方が良さそうで、ひたすら空疎なことを述べている現実に気づいた方がよさそうか。そんな気は無視してもかまわないのかもしれないが、いったいそれとは何なのか。そう問うている間はそういうことになりそうだ。だがそれがわからない。要するにそれが何だかわからないということだろう。何か重大な事実を忘れているのかもしれないが、やはりそれが何だか思い出せず、思い出せないのだから、現時点ではどうでもいいことかもしれない。それを思い出した時にでもうろたえたふりをしたらいいのだろうか。それは深刻な事態かもしれない。とりあえずその時になったらわかることだ。今はとりとめもないことを思っていて、意識は何を思っているのかもわからぬまま、暇つぶしのテレビを見ている。だがそう思っているのは誰なのか。君ではないと思っているだけか。それどころかもはや誰も君ではない。君は誰でもないということか。ここに至ってようやくそれを思い出したのか。


4月9日

 さてここからが問題だ。何が冗談なのでもないが、また何も思いつかないのか。それらの出来事を何かに結びつけるには無理がありそうだ。言葉にならない。そしてもう忘れてしまったらしい。肝心なことは忘れたことにしておこう。だから今はどこにも何もない。それはどういう理屈でもなく、屁理屈でもない。たぶん何かが破綻しているのだろう。それは語るべきことではない。では語るべきこととは何なのか。何でもかんでも批判ばかりしているマスメディアのようなことを語ればいいのだろうか。それもありかもしれない。彼らは自己矛盾に満ちている。君だってそうだろう。語る立場などというものはこの世のどこにもありはしないことを知っておくべきか。確かに何かを無責任に批判するだけ批判することは可能だ。だがそれはどこまでもそれだけのことであり、何の実りももたらさない。そんなことは承知の上で、批判のための批判を積み重ねてゆけば、それは現状に近づくだろうか。

 それに関しては誰かが主張している通りに、誰もが何かを見落としていることは確かなところだが、果たしてそれを明らかにする必要があるのだろうか。誰がそれを明らかにしようとしているのか。例えばテレビに登場するニュース番組の司会者が、自らは高い出演料をもらっている有名人であり、いわば特権階級に属しているのに、庶民の暮らしがどうのこうの語るのはおかしい。一般庶民は自らが取材対象にでもならない限り、テレビで自らの主張などを訴える機会などありはせず、両者の間での立場の違いは歴然としている。だから何がどうしたわけでもないだろう。君はそこから何を批判したいのか。その辺からよくわからなくなってしまうようだ。もしかしたら何も批判する必要はないのではないか。それどころか、当たり前のことを当たり前のように語る必要もないのではないか。誰かは意味不明気味に何かを主張しようとしているらしいが、それが当たり前のごとくにわけがわからず、そこから先には何も語ることができない。

 どうやら何かの途中で批判するのをやめてしまったようだ。おそらく君が批判したいのはそういうことではないのだろう。批判自体がそういう性質なのだ。たぶんいつの時代でもその手の批判は支離滅裂で論理的に破綻していて、首尾一貫性も欠いているのだろう。ああいえばこういうで、最初に批判ありきであって、批判対象が何をどうしようと、それに対して絶えず批判を繰り返すための批判に徹している。それがマスメディアが陥っている一種の病なのかもしれない。そこから不快感以外の何がもたらされることもなく、他人には責任を取るように要求しながらも、自らは無責任に批判を繰り返すばかりで、しばしば不毛な非難合戦に陥ることがある。しかし何かを語るとは本来そういうことなのではないか。語ることの本質として、そのような否定作用があるのだ。要するにいったん語りだせば、語っている対象を批判することしかできなくなり、それについて語れば語るほどそれに対する批判に拍車がかかる。その反対に相手をほめたりするのはかなり不自然な印象を与えてしまう。

 何かをけなすのは簡単だが、ほめるのは難しい。別にほめ殺しのようにほめる必要はないだろうが、ほめる必要性を感じないのはなぜだろう。確かにほめる気もないのにほめる必要はない。人は他人を攻撃するために語ろうとする。それが批判の本質なのかもしれない。言葉を発することで他人を征服したいのか。一方で利用価値があればほめる。ほめることで自らの立場を優位に持ってゆきたい。ほめている自らをよく見せたいのだ。分別があり優しく度量があるところを他人にわかってほしいわけだ。だがそういう下心が露見してしまうとまずいことになる。ほめられている者が馬鹿にされているような気になり、ほめればほめるほど、かえって反感を買うことになってしまう。だから他人をほめるのは難しい。馬鹿なやつほどほめて利用し、場合によってそれと悟られないようなほめ殺しによって、ほめている相手を陰で馬鹿にしているわけか。だがそうなってしまうと、人をほめる者は嫌な性格の持ち主が多いということになる。


4月8日

 なぜかいつまでたっても何かが進展せず、申し訳程度に深夜に目覚める。それはどういうことだろう。それが何を意味するわけでもないのに、成り行きとしてはそういうことらしい。言葉を記すのが面倒くさいのもいつものことだ。そしてそれがどうしたわけでもないのもそういうことだ。そんなふうにして無駄な言葉が記される。そういうことではないと思いたい。自然とそうなってしまうのが信じられない。別にそれを信じる必要はないのではないか。何がどうなろうとここに誰かが生きている。すでにその事実がある。それは変えようのない事実だ。君はそこで何を変更したいのか。何も変えられないから困っているのだろうか。その辺はあまり重視すべきことではないのかもしれない。そんな成り行きにかまっていられるほど暇ではないのかもしれず、今はただそういうことを記していればそれでかまわないのだろう。果たしてそれで大丈夫なのだろうか。なぜそれで彼らは助かるのか。話の成り行き上はそういうことになる。その辺はあまり深く詮索しない方が良さそうだ。

 相変わらず迷っているのだろうか。また無駄に言葉を連ねている。最近はひたすらそうだ。何となく話のつじつまを合わせるのが億劫になっているようだ。そしてどこまでも空疎だ。翌日の空は雲っているらしい。なぜ人は老いるのか。誰も知りたくもないことを知ろうとするからか。君が語りたいのはそんなことではない。それはわかっているが、他の何かがわからない。本当に誰かは死んでしまうのだろうか。君は自らの死から逃げようとしているのか。フィクションの中ではそうかもしれないが、現実の世界ではそんなふうには感じられない。他に何か適当なことを語っているのかもしれないが、他人に興味を抱かせるような内容ではない。では誰のための文章なのか。わざと支離滅裂を装っているように感じられ、話に行き詰まっていることが明白だ。それらは誰のために記された文章でもなく、読む必要さえない。そんなふうに現状をとらえるべきなのかもしれない。

 他に何か気になっていることでもあるのだろうか。ただわからないと思われる。何をどう語っても結果は同じだ。君はその事実を認めがたい。認めがたいから違う話の展開を模索している。だから行き詰まっているのだろう。そして行き詰まっているのにその先を語ろうとする。何が無理に決まっているのか。たぶん語ることが無理なのだ。ではなぜ言葉を記しているのだろう。無理を無理でないように装うためか。そうだとしたらくだらないだろうか。くだらなくても大丈夫だ。それは何かの自家中毒に陥っているようだが、それでますますかまわない。君はそこから何かをつかみ取り、それを利用しながら何かを語っているつもりなのだ。そんな君には何かが見えるらしい。それが未来の光景だろうか。あるいは未知の状況か何かか。案外誰もが知っていることかもしれない。ならばそれとは何だろう。

 誰かはいよいよ最後の時を迎えつつある。この期に及んで何を予知しようと、それが誰かとは関係のないことになる。もはや何を提示しても無意味だ。そんな物語を誰かが語っている。それは誰の物語なのか。生きようとする意志がくじけそうになっている頃に、何かの希望がもたらされ、それで救われたように感じられ、何かの勘違いかもしれないが、将来への見通しが立ったような気になる。まだ先があると錯覚してしまうわけだ。本当にそれは錯覚なのだろうか。どうやら現実の窮状を認識できないようだ。本当に誰が困っているのだろうか。それは君自身なのだ。空疎な文章を記している誰かがそんなことを思う。君とは誰のことなのか。何がどうなっているわけでもないとはどういう意味でそうなのか。君には何もわからず、そんなことを記している誰かにもそれはわからない。ただこの先に以前と同じような言葉が記され、それを読み返すのも億劫になるほど退屈な内容にそれらは終始しているわけか。


4月7日

 何をやったらいいのだろうか。昼の時間帯は仕事をしていた。それ以外は何でもないか。そこで何がどうなっても誰かの勝手か。勝手に事件が起こり、そこから話が生じてしまうわけか。ここで何がなされるべきでもない。だから何をやるのも無駄なのか。しかし誰がそれをやるのだろう。君がやればいい。無駄なことをひたすらやり続け、一生を棒に振ればいいわけか。誰かはオーケストラの指揮者なのか。それは棒に振るではなく、棒を振っているのがオーケストラの指揮者だ。どうやら誰かは何かの魔力に取り憑かれているようだ。そう思っているうちに眠ってしまい、寝ているうちに夢を見る。そして深夜に目が覚めるが、夢の内容を思い出せない。夢を押しのけて、夢から覚めた時に見たテレビの記憶が思い出される。君は何かの幻影に惑わされているのだろう。そしてそれが何かの原因となり、今の気分に反映されているのだろう。すでにここはどこでもなく、思い出す必要のないことを思い出し、思い出そうと試みていることは一向に思い出せない。そんなふうに事態は推移するばかりだが、それでかまわないのだろうか。

 君を惑わしているすべては君が知っていることの中にありそうだ。それが疎ましいのか。気に入らないことなら他にいくらでもありそうだが、少なくともそれだけではない。それ以外の何かをそれを超えた状況の中に求めているのかもしれず、誰かはそんな状況を自ら作り出すつもりなのだろうか。何をどう考えればそういう見解に行き着くのか。実際に何かをどうにかしようとしている。そう思いたいだけでなく、現にやっていることがそういう状況をもたらすと信じている。そして君は今まさに何かをどうにかしつつあるのかもしれない。それでどうなったのだ。こうなった。こういうことを記している。これはこれだけのことであり、他の何ものでもなさそうだ。では期待外れの結果なのか。そう思って差し支えないが、それ以上の何かがもたらされていると信じながら、誰かは何かを記しているのかもしれない。君はそんなやり方がお気に召さないか。

 君はそこからすり抜けてしまう何かの存在を感じているようだ。誰かの意識をすり抜け、決して文章に記されない何かを感じ取っている。そんなのは嘘に決まっているといえば嘘になってしまうのかもしれないが、何となく今はそう思いたいようだ。あくびをかみ殺しながらそんなことを思っているのは、とりとめのないことだろうか。だがそこであきらめるつもりはないようで、そこからさらに言葉を費やして、どこか得体の知れぬ大地にたどり着こうとしているらしい。そんなのはあり得ないことだ。既知の大地がここにあり、そこで誰もが暮らしている。それはそうだが、何かの比喩として得体の知れぬ大地という言葉を文章上で機能させることができるだろうか。述べていることの意味不明ぶりに呆れてしまう。やはりどこかおかしいのではないか。なぜおかしいのか、その原因を知ろうとしないところもおかしい。だから君はどうかしている。

 そんなことを語っていてはいけないのかもしれない。他に語ることがあるのではないか。翌日は晴れている。晴れ渡った空を見上げていると、気が狂いそうになるか。誰がそうなのでもなく、そんなことを記してみると、少し危ない気配を感じる。それは誰かの妄想に違いない。実際は至って平常心を保ち続け、何を冷静に分析しているわけではないが、何となくそこから外れてしまうような意識をかろうじてつなぎ止め、何を語っているのでもないような文章をさらに続けて記そうとする。そこで何とか踏みとどまるべきなのか。逃げ出さずにいること自体が、継続への意志なのかもしれない。だがそれが茨の道へとつながっているとも思えない。茨など刈り取ってしまえば普通の道になりそうだ。そんなふうに述べてから、またそういう語り方のおかしさに気づき、少ししらけた気分になる。何を述べているわけでもないのに、ひたすら空疎な記述に終始している現状を認めざるを得なくなり、いくら語っても何ももたらせないことを改めて痛感させられる。


4月6日

 果たして今日は何がどうなっているのか。どんな約束が果たされたわけでもない。そしてそんなことがどうでもいいことでもないか。とにかくそんなことを述べながらも、今日こそまともなことを記さなければならないか。また冗談でそんなことを述べている。まったく懲りていないようだ。空は薄曇りで薄日が射していて、それでもそこで人が暮らしているのは当たり前のことだが、何となくそれがどうしようもなく奇妙に思えてしまうのは誰かの嘘か。嘘でなければ何をどう思えばいいのだろう。漫画の中では相変わらず人と人が戦っているらしい。現実の世界でもテロリストが自爆しながら他人を殺めている。だがそれの何が問題とも思えず、いくらでもやりたいようにやればいいのかもしれない。いくらやっても終わりが見えず、これでいいということはあり得ないのだろう。人は働かなければ食べていけず、失業者たちは不満を募らせ、借金がかさんで自暴自棄になったら強盗でもやって、警察に捕まれば刑務所行きか。やはりいくらでもやりようがあるらしい。人はどのようにもそこから逃れようとしているのだ。そことはどこだろう。死に場所か何かか。自爆犯ならそこで死んでいるはずだ。ではどこから逃れようとしているのか。

 この世界には憤懣やることない人々がいる。何がそんなに気に入らないのか。自分が活かされていないと感じているのだろうか。たぶんどうにもならないはずだ。中にはどうにかなってしまうこともあるのだろうが、それは思い通りにどうにかなるわけではなく、思いがけないことなのかもしれない。どこかで成功する夢を見ているのかもしれないが、それが何を意味するのか。現状に照らし合わせて、何をどうすればいいのかを知ろうとしているだけか。しかしそれが思い通りだろうと思いがけずだろうと、いつまでもそういう場所にはとどまっていられず、さらなる何かを求めて、どこかで誰かがさまよっている。そんな放浪者を標的にして、他の誰かによる攻撃が開始され、そこから先は食うか食われるかの生存競争が繰り広げられ、何やら毎度おなじみの光景が目の前に広がっているようだ。今さらそれに関して何をどう思ってみても始まらないだろうが、ただそんなことだけではないような気がして、無い物ねだり気味に何かの理想を夢見ているのかもしれない。

 君はそこで何をやろうとしているのか。あるいは何もできずに途方に暮れているのだろうか。少なくとも行動していて、何かをやっているはずだろう。目覚めたら朝になっていて、今日も誰かが仕事をやっている。別に音楽を聴いて涅槃の境地に至っているわけでもないが、活動の範囲内で活動することしかできず、そこでぐるぐる回りながら同じことの繰り返しに疲れ、やがて何も思わないような気分となり、人はそんなふうにして固まってしまうらしい。それでも夢を見ているとすれば、それは気休め以外の何ものでもなくなってしまうだろう。そんなわけで誰かは気休めにあり得ない未来の姿を空想して、そこに向かうでもなく、相変わらず同じことの繰り返しの中に埋没しながら、自らの感性をすり減らし、それ以外には何もできない老人へと変貌を遂げるわけか。そうならないためにも、取り返しがつかなくなる前に、そこから逃げ出さなければならないのだろうか。果たして逃げ切れるだろうか。無理に決まっているだろう。

 たぶん多くの者たちがその場で安住することを選び、実際にその環境に溶け込み、風景の一部と化しているはずだ。たぶんそれが人のあるべき姿なのだろう。何かをあきらめることで幸せを手にして、あわよくば次の世代に自分の果たせなかった夢を託そうとする。たぶんそれらの言説はそういう人たちを相手にしていないのだろう。だがそれらの言説とは具体的に何を指すのか。まさかどこかにそれが記された来るべき書物が埋もれているわけもない。実際に言説が人を行動に駆り立てているわけでもない。だいいちどのように行動すればそこから逃れられるのか。それがわからなければ何ともやりようがないだろう。現にやりようがないから途方に暮れているのであって、人と人が戦い続ける漫画の中でも答えが出ているわけではない。毎度おなじみの宝探しゲームに登場人物たちを誘い込んで、そこで目くらましを食らわしているにすぎず、そういう幻想の目的を課すことでその場を取り繕っている場合が多い。


4月5日

 人にはそうしなければ気が済まないことがあるらしく、現にそうしている。要するに人は気が済んだ状況を得たいのか。誰かは言葉を適当に連ねて文章を構成すれば、とりあえず気が済むのだろうか。そうだとしたら今まさに気が済みつつあるわけか。そうだとしたら何なのか。何がどうしたわけでもなく、そこから何を導きだせるわけでもないだろう。誰かが導きだそうとしているのはそういう状況ではないはずか。では何を求めているのか。自らが納得のいく内容を求めている。空疎な文章では困ってしまうらしいが、それではいつも困っていることになりそうだ。だが困っているから向上心が生まれ、何とかまともな内容を得るための努力が続けられているのではないか。そうだとしたらこの空疎な現状は何なのか。努力が足りないわけではない。それらの努力はだいぶ以前に限界に達していて、もうそれ以上は前進できないところまできているのではないか。だから空疎な現状を前にして、もうだめだとあきらめてしまったわけか。誰かはそれも嘘だと思いたい。

 たぶん限界を超えて、それ以上の何かを語りたいのではないか。それは実際に語っているそれとはどう違うのか。この世界がこの世界のままであることの何がおかしいと思っているのか。何もおかしくないのに、おかしいと思わなければやっていられないのか。確かに何かがおかしい。どこかで狂いが生じていると思われ、それを探し出して、それについて述べてみたいのではないか。だが現状ではそういうありふれた成り行きになりそうもない。何かがおかしいのではなく、そう考えてしまうこと自体が、人に備わった特性に過ぎないのではないか。絶えず何かがおかしいと思い、そのおかしい何かを正さなければ気が済まないのだ。それがありふれた思考形態のありがちな顕在化だろうか。事実今日もどこかで政治家のたぐいがそんなことを述べていたはずだが、それについて誰かは退屈に感じているはずだ。もう少し違ったアプローチがないものか。

 そこには問題があり、誰かが問題を解決するための方法を提示してみせる。そういう主張が嫌というほど繰り返され、何となく無関心にならざるを得なくなる。それらの何がおかしいのか。何かが必然的に単純化されていることは確かなのだが、それに薄々気づいていながら、実際にやっていることはといえば、結局それの繰り返しだ。そういう単純化から抜け出るにはどうしたらいいのだろうか。それもわかりきったことかもしれないが、なかなかそれができないわけか。では何をどうすればできるようになるのだろう。この世界の捉え方を根本的に見直さなければならないのか。そういう大げさなことではなく、たぶんそれらの問題を問題視する必要はないのだろう。もちろん本気で問題に取り組む必要もない。要するにそれらの問題は問題ではないのだ。問題とはなりがたい問題が乱立しているだけか。そうとらえるのもおかしなことだが、とりあえずそんなふうに述べておいてかまわず、それが誤りであろうと、誤っている認識をそのまま放置しておけばいい。

 誰かの頭を悩ませる数々の問題もやがて忘れ去られてしまうだろう。誤った方向へと導かれてしまうのも一興だ。そうなればそれが必然となり、当たり前のように事態が進んでしまうだろう。それでかまわないのだ。別に高みの見物を決め込む必要はなく、そういうことに参加して、何かに巻き込まれていればいいのだ。それで気が済むならそれでかまわない。何も投げやりになる必要はなく、厭世的に世捨て人のような気でいることもない。人はその程度の存在にしかなれない。それ以上を求めてはならず、孤高の存在などに憧れる必要もない。大げさに物事を考えても、結局はその大げささが問題の根源であることに気づくだけだ。要するに何でもなければ問題でもないというわけで、何でもない当たり前のことを問題視すればそれが問題となってしまう。そういうからくりに心を奪われていれば、この世は問題だらけであり、それが山積していて、それらのどこから手をつけたらいいのかわからなくなる。


4月4日

 そんなはずがないと思いつつも、意識が心から離れているのだろうか。何かを思い描き、それを文章で示そうとするが、今ひとつ内容がはっきりしない。それでも見切り発車気味にまとまらないことを記しながら、それが支離滅裂に堕さないように四苦八苦しているようだが、何となく挫折しそうになっているのかもしれない。相変わらず誰かは無理なことを語ろうとして、それがどういうことなのかわかっていないようだ。そこで精神の集中が途切れ、どうでもいいようなことを語りだす。本当にわからないのだろうが、それでも何を語っているのか。黙って曇り空を眺めている。それが昼の出来事か。そこで誰かは何を空想していたのだろう。その時間帯なら仕事の最中だったはずだが、今となっては思い出せない。だから今はひたすら黙るしかないようだ。黙る理由など何もないが、面倒なので黙っているようだ。

 それから気が変わったわけでもないだろうが、とりあえず今が夜であることは承知しているようだ。相変わらず何も語らず、誰かは黙って言葉を記しているようで、それが何を意味するわけでもないが、画面上で文章が構成されているらしい。たぶん何も思いつかずに、途方に暮れているわけでもないのだろうが、何となくそういうわけにはいかないような気分になる。それでも何も思いつかない。いったいこの世界の中で何を考えたらいいのだろうか。そういう大げさなことではないだろう。たぶんそこで生きる目的を見出さなければ何も思いつかないのだ。誰かは何のために生きているのだろうか。誰に問いかけているのでもなく、どんな返答を期待しているのでもない。ただ虚空に向かってそう問いかけることしかできないのだ。そして何のために生きているのでもないと思いたい。それだけのことのために言葉を連ねるのもおかしいか。

 誰もそこでは生きていないのかもしれない。そことはどこかの墓地のことだろうか。そういう想像にも何となく意味を見出せず、そう思ってそれで済ましてしまうつもりだろう。何かの場面を通り過ぎているのだろうか。しかしそれに見合った映像を思い出せず、それは何でもなかったことになりそうだ。墓地のある風景などありふれていて、ありふれているからこそ思いつくのだろう。そんなことを想像して何か述べているような気になるが、実際にはそれがどうしたわけでもなく、何を述べているわけでもない。とりあえず人はこの世界の中で生きていて、人が誰であってもかまわない。生きる目的があってもかまわないだろうか。あってもなくてもかまわないか。では君はそこで何を思っているのだろう。生きる目的を探している。たまにはそんな嘘をついてみたい。しかしいったいこの世界はどうなっているのか。人は世界を必要としているかもしれないが、世界は必ずしも人を必要としていないような気がする。

 この世界について何かもっともらしい見解を語れるだろうか。この世界とは何なのか。世界は世界であり、世界が他の何であるはずもないか。たぶんそれで正解なのだ。何に返答しているのでもなく、何が導きだされたわけでもない。そういう意味で、国の将来を憂う人々は何か勘違いしているのかもしれない。人が何をどうしようと、国がどうなろうと、それで何がどうなるのか。何かがどうにかなるだけか。それでも絶えず現状を変革していかないと、何となく生きている気がしないのだろう。これといった理想も持ち合わせていないので、理想に向かって努力するつもりもなく、現状が現状であることにそれほど不満を抱いているとも思えないだろうが、やはりそこから何か行動を起こすきっかけを探し出さなければならないのか。何か行動を起こしてどうするのだろうか。やはりその辺がよくわからないところだが、行動しているということが生きているということだと思われるのは、それが目的だからか。


4月3日

 たぶん何を焦ることもない。焦っているからそう思うのか。何をそう思っているのだろう。何をどう思っているのかわからない。そう思っている意味を探ろうとしているわけではなく、何がそう思わせるのか、その理由を求めているわけでもない。それで一通り思っていることを述べたのだろうか。くだらぬ自己言及に落ち着く。結果としてはそういうことでしかなく、何が結果とも思えないが、とりあえずはそういうことだ。誰かは不可思議な感覚にとらわれているのか。そうとも思えないだろう。現時点ではそういうことであり、相変わらず意味のないことを記している。今のところはそこから逃れる術を知らず、何をどうしたらいいのかわからないまま、ひたすらそんなことが記されているようだが、それをやめなければならないのだろうか。やめる理由を知りたいか。やめたければいつでもやめたらいい。そう記していること自体がやめていない証拠か。

 しかし芸術とは何か。果たして現代人に芸術が必要とされているのか。それはまたいつもの冗談なのか。誰がそれを冗談だと感じているのだろう。誰も芸術の必要性云々を述べるような立場にはいないのではないか。では架空の誰かがそんなことを述べているわけか。それもわけのわからぬ意味不明のたぐいだろうが、もはやそれは過去の遺産でしかなく、廃墟の中に埋もれた装飾品のたぐいか。しかしそれを語っているのは今ではない。今は何も語らず、過去に記された文章の中から適当な箇所を引用するのみだ。そしてやはりそれがどうしたわけでもなく、何となくそんなことを語りながら、それらしい雰囲気をあたりに漂わせているつもりなのだ。それはかなり馬鹿げたことだろうか。何がそうなのか、また何の話なのかよくわからないばかりか、誰が何を語っているのか定かでないのはいつものこととしても、そこからどうするつもりなのか。

 誰かは何かの付け足しでそんなことを述べているのだろうか。そんな画面をのぞいている君は相変わらず孤独だ。別にどこの誰が芸術に興味があるわけでもないだろう。明治維新前後では多くの人が命を落としている。それとこれとは無関係だろうが、そんな命を落とした者の中で、有名人を主人公として、誰かが何かを物語るが、誰がそれに感動しているわけではない。ではそう述べて何に反発しているのか。それらは何のことだったのか。誰がそれに関して語っているのだろうか。少なくとも君ではない。要するにすべては娯楽の対象になっているということか。それでかまわないのではなかったか。人は皆消耗品のたぐいだ。この世に生まれてきて何らかの役割を担って生き、そしてお役御免になったらそこから退場か。誰がそれで納得するのか。誰を納得させようとしているのでもなく、何を納得したいのでもない。ただそういう成り行きになってしまうということだ。

 君はそこで何を語っているのだろう。誰が疑念を抱いているわけではない。誰かは何に関して何を述べるつもりだったのか。今となっては意味不明だろうか。何を考えていたわけではなく、何かの雑談のついでに不意にそんなことを語っていただけか。そんなこととはどういうことなのか。それがわかったら苦労はしない。君はそれらの文章読解以外の何に苦労しているのか。それもわからないことのひとつだろうか。何がわからないのかわからないのは今に限ったことではない。何を疑念に感じてもそうなってしまうのは明らかか。結局はそういうことでしかない。たぶんそれを自然に語ってしまっている状況がおかしい。語らなくてもいいような挿話をひたすら語ろうとして、何について語っているのでもないような事態に陥り、そこで困り果て、そんな嘘をつきながらも、結局は語っている自らを否定しまくっているのだ。そしてそういう不確かな説明自体が余分なのであり、まったくどうでもいいことなのか。


4月2日

 いい加減に昨日の日付から抜け出したのだが、なかなか思うような内容を得られず、下手をするとさらに遅れてしまう気配となっている。近頃は何も語れないので、たぶん遠からずそうなってしまうだろう。現に今も何も思いつかない。誰かは何も語らずに言葉を記している。それはいつものことだ。誰かは虚構の語り手なのだ。それもわかっている。他に何を確認するまでもなく、そんなことはすべてわかりきったことか。君はそこから何も導きだせない。何も語っていないのだから、それは当たり前のことだ。だからひたすら言葉を記しているのか。誰がそうなのか。誰でもない誰かがそうなのだろう。この世では誰もが何かを主張しているはずだが、では君は何を主張したいのか。この世では何も主張できない。そんな嘘もおかしいか。それの何が嘘なのだろう。実際に何も主張していないではないか。ただ言葉が記されているだけで、中身は何もない。しかしそれではつまらないだろう。

 現状ではできるはずがないだろうが、少しはまともな主張を文章上に展開した方がいい。気が向いたらそうするとしよう。できっこないくせにそんなことを述べてみるが、何となく誰かはその気になっているのかもしれない。しかし何について語るべきなのか。誰にそれがわかるだろうか。わからないから困っているのだろう。いくら考えても何も出てこないようだ。本当にそうなのだろうか。実際のところは他の誰かの想像にまかせよう。それはそれで君の空想から生じている内容だ。それは終わりの気配を感じさせ、何ももたらし得ない結末を予感させる。結果として何を述べているにしても、そういう言葉の処理もあったはずだ。誰かの意識は周りの環境への順応性がある。それは程度の差はあるにしても誰にも備わっていることだ。だからいかにそこから外れようと、必ず戻ってくるはずの感覚なのかもしれない。だがわからない。

 なぜ人は現状に対して危機感を抱いているのか。例えば政治家などはいつも危機感を煽って改革を訴えている。いったい彼らは現状の何を改革したいのか。各自で何か適当なことを改革したいはずだが、何を改革しようとしても、結局はこういう現状なのか。もうかれこれ何十年も改革が叫ばれてきたのだろうが、とりあえず改革の成果か何か知らないが、少しずつ何かが変わってきたようだ。だがそれで誰かの意識がどう変わったというのか。たぶん何も変わらなかったわけではない。それに関して何の実感もわいてこないのは、興味がないからか。結果として普通に生活できているのだから、それはそれでそういうことでしかなく、今さら政治に何を期待する気もないのは、成り行きとしては当たり前のことだろうか。そういうことではなく、何か勘違いしているような気がするのだが、それについてはいくら考えてもわからないことかもしれない。

 それはどう考えてもおかしい。他に何も考える気がないのだろうか。誰がそうなっているわけでもなく、君は絶えず何かを考え続けているはずだが、それが誰かが記す文章に反映していないのではないか。だから考えているのは誰でもない。それはわけのわからぬ論理だ。冗談たぐいかもしれず、本気で何も考えていない証拠だろう。そしてそれが文章の内容に反映されているわけか。しかしそれがどうしたわけでもなく、無駄な言葉としてそこへ記されているだけではないか。だがそう思ってしまえばそこで終わりだ。もう少し前向きに事態の推移をとらえるべきではないか。とりあえずそんな現状を肯定することから始めよう。何を始めるのかといえば、それはこれまで通りに文章を記すことだ。それで何が変わるとも思えないが、それを継続させようとする意志がある限り、それを続けてゆかなければならない。それこそ冗談なのかもしれないが、もう何度もそんなことを述べているような気がして、それでかまわないといえばかまわないのかもしれない。


4月1日

 今月は気分がおかしい。それは誰の気分でもない。何かの気分がおかしいのだ。誰かは精神的にゆとりがないそうだ。ニュースでそんなことが伝えられる。誰に伝えられているのでもないか。他に勘違いならいくらでもある。たぶん何が間違っているわけでもない。ではなぜそうなっているのだろう。誰が何を強いられているのでもない。ではこれからどうしろというのか。言葉を記してみればいい。それで正気かどうかわかるかもしれない。わかるはずがないか。それを簡単に否定してもらっては困るだろうか。否定すべきは簡単に否定するしかないだろう。現実に何もできなくなっているのだから、それはどうしようもない事実だ。それほどまでに疲れている。時間はいくらでもあるのに言葉が出てこない。極度のスランプのようだ。だから簡単にそれを否定するわけにはいかないのではないか。そうなってしまったのにも理由がありそうだが、今のところはそれが何だかわからず、わかる必要もないのかもしれず、だからわからないままに済ましてしまいそうになる。要するにそれも何でもないことか。そういうことにしておこう。しかし何を納得しているのか。

 だからできないことはできないに決まっているだろうか。それができないことにしておきたいのではないか。ただそういうことにしておきたいのではないか。実際にくだらぬことを述べているではないか。このまま延々と空疎な内容になってしまいそうになる。それでかまわないと思えば済んでしまうことだが、とりあえずはそれを出し切っておかないと、まともな内容になる前に行き着いてしまい、そこから先が何も出てこなくなる。そう思いたいのだ。思いたいから何も語れない現状を肯定している。そして空疎なことを語り続けて何も語れない局面を打開しようとする。そんなごまかしが何時まで続くのか。たぶん続かなくなるまで続けようとするのだろう。そうやって何とかしているつもりでいたいのだろう。ならばすでに何とかなっているではないか。それが気に入らないにしても、実際に言葉が適当に並んでいる現状を認めなければならなくなり、何とかしている自らを肯定したくなるが、果たしてそれでいいのだろうか。よくなければやめるしかない。

 それをやめる気もないのにやめるふりでもしようというのか。本当にやめてしまったらどうなるのだろう。そんな気まぐれが起こらないことを祈りつつ、本当に祈っているとは思えないが、何を祈っているのでもないような気分で、とりあえず遅れてしまった日数を取り戻すべく、ひたすら言葉を並べる時間を確保するとしよう。誰かはそう述べておいて、同時にそれが自身の作り話であることも自覚しているようだ。実際に何を思っているのかわからない。たぶん記している言葉と実際に思っていることの間には、あまり関連性がないのかもしれず、思っていることをそのまま記しているというフィクションを信じられないのだろう。それが本当はそうではないような気がするのだろうか。記している言葉は記そうとしている言葉が記され、記そうと思っていることは確かだが、本当にそう思ったから記そうとしているではないような気がするのであり、何を思っているのか定かでないが、とりあえずそういうことを記して、何かと妥協を計っているような気がしてならず、それは何も本心から出てきているのでもないような気がしているわけだ。それがその時点での無難な出力とでも思っているのかもしれない。

 果たしてそれで納得がいうだろうか。自らが自らが記していることについて語っているつもりなのは、いつも通りの自己言及なのだろうが、そんなふうにしか語れない現状が気に入らないのもいつものことで、それがどうしようもできないことのすべてなのかもしれない。そして無駄に言葉が引き出されて文章が構成され、どこから引き出されているのか知らないが、それは意識と記された文字列が互いに作用し合って生まれているのかもしれず、絶えずそれを読み返しながらも、その結果を反省しつつ、そういう動作から次なる言葉の配列を生じさせているのかもしれない。それはどういうことだろうか。そのままそういうことには違いないが、強引に疑念を生じさせるようなことでもないか。たぶんそこで行き詰まる必要もなく、すらすらと同じようなことを記して、その場を丸く収めれば、それはそれで済んでしまうことに違いないが、なおのこと疑念が生じてくる。果たしてそれでかまわないのだろうか。何を続ける必要もなく、それを続ける必然を探すつもりもなく、どこかで何かがどうにかなって、実際にそういうことになっているのだろう。それがここでの結果なのだ。