彼の声76

2010年

1月31日

 何を強弁しようとも思わず、出てくるの冗談ばかりのようだ。たぶんなぜそうなってしまうのか君にはわからないはずだ。至って正気で述べているはずだ。それの何が正気なのか。この世界の行き着く先には虚無があり、情報が空回りするだけの社会にどんな希望があるというのか。だがその対極に理想的な状態を空想できるはずもなく、それらは文化とも文明とも無縁な何かになる。たぶんやってくるのは終末でさえなく、本質的に何かの終焉が訪れることも決してない。何かの循環現象に過ぎないのか。衣食住以外の何が必要なのか。積極的にそれを提示しようとすれば、たちまち失笑を買うような意見となるだろう。目指すべき状態などあり得ず、このままでもかまわず、このまま出なくてもかまわない。だが今が理想とされる状況ではない。理想そのものが理想ではない。だから現実など見据える必要はないわけだ。でたらめなことを述べていれば気が済んでしまい、それを改める気にもなれない。そんな精神状態で何を主張する気なのか。

 目下のところわかっていることはそういうことか。そうではないと述べておこう。でたらめなのだからそれでかまわない。気力がなえないうちにそれを肯定しておこう。君はまだそこまで堕落していないのだ。だからまだ幻想を抱いていて、希望もあるらしい。それが偽りの希望か否かはこの際定かにはせず、とりあえずその先に歩みを進めなければならない。それがどんな結果をもたらすかはその時になってみなければわからない。とりあえずそういうことにしておこう。あきらめてしまったらそこで終わりか。それも冗談の範囲内で述べていることだろうが、あえてそれも肯定しておこう。何を肯定しているのかわからないことも認めながらも、とりあえず肯定しておく。たぶんやめた方がいい。やめられないのにやめた方がいいと思う。果たしてそれでいいのだろうか。何が果たされているわけでもなく、それでいいわけでもないのだろうが、そういうことらしい。これといって肯定するか否定するかの基準が見当たらず、何となくそんなことを述べているだけとなってしまい、それが気に入らないのだろうが、やはりそれでもかまわないのだろう。

 たぶんオバマは間違っている。惜しいところだが、そういうことだ。ああいう発言をせざるを得ないが、それでも間違っているのだろう。人命が無駄に失われるだけで、目的は達成されないはずか。そういうことでもないような気がする。では何が間違っているのか。本当のところはわかっていない。論理的には間違っていないかもしれないが、それで間違っていないからかまわないのではないか。しかし間違っていてもかまわないのではないか。正しい方法などあり得ないのが現状か。そうだとしても間違っているようだ。平和を取り戻すためには戦争の継続が必要だそうだ。それが間違っているとしたら、正しい答えとは何なのか。答えなどありはしない。たとえあったとしても間違っている。それはどういうことなのだろう。正しい答えを見つけ出す行為そのものが間違っているのか。嘘をつくならそういうことになる。君ならどうするのだろう。それはおかしい。君はオバマではないから、答えを探し出す必要はない。要するに無責任なのか。

 意味のない行為などあり得ないが、意味がなくてもかまわないのではないか。そういうことではない。誰がどうすべきかは、判断を迫られている当事者が決めることか。たぶんオバマも判断を迫られて、ああいう間違った判断を下してしまったようだ。ああいう判断しかできない立場だったのかもしれない。ならば立場が違うのだから、それについて間違っていると批判する筋合いでもないだろう。しかし間違っていることは確かだ。ではなぜそういう確信に至ったのか、その経緯を知りたいところだが、それは直感のようなもので、何の説得力もなく、説明すらできないことかもしれない。ただ間違っていると思ったわけだ。オバマがどんな判断を下そうとオバマの勝手かもしれないが、それについて誰がどんな批判をしようと、誰かの勝手なのだろうか。それでは批判する意味がないではないか。だから意味のない行為などあり得ないが、意味がなくてもかまわないということか。まったく馬鹿げているとしか言いようのないことだ。


1月30日

 ようやく意識に修正を施したところか。それは何かの記憶違いだろうか。そんなことはない。どんなことでもなく、今日はまだ二日前だ。このままがんばれば昨日の日付にたどり着くかもしれないが、そんなことを誰が期待しているわけでもない。この世界が本当に滅んでほしいか。そんな状況においても、人は疑念を抱いている。地球は本当に温暖化しているのだろうか。誰に向かって警告が発せられているとも思えない。警鐘を鳴らしているのは消防車のたぐいか。それで慟哭の極みという心境でもないだろう。いったい何を語りたいのか。わざとつじつまの合わぬ言葉を文と文の間に差し入れたところで、何がどうなるわけでもなく、わざとらしく冗談を述べていることにもならない。だからさっきから何がどうなってもかまわないと思っているのではないか。君に心配される筋合いでもないか。そこまで述べておいてそれはないか。いったいそれをどこまで引き延ばそうとしているのか。それは突然の発作だったはずで、それをいつまでも引き延ばしていると、結局何が何だかわからなくなるだろう。ちなみに今がそれだ。

 君はまだ何かを何とかしたいらしいが、この期に及んでそれはないだろうか。この世界はどこまでも偽装空間に覆われている。テレビをつければ何かが演じられていて、ニュースでさえも演劇的な段取りで進行している。それは何かの強迫観念であり、すべてがメディア的なアプローチで虚無の周りを彩るための方法論に支配され、人目を気にしてありふれた人間を演じることが求められている。正気でなくても正気のふりをしていないといけないのであり、たとえば秋葉原で他人を大量に殺傷した人も、この社会で何らかの役目を割り振られていたから、ああいうことをやってしまったわけだ。迫力不足の外観をした彼は、あれで殺人鬼を演じたつもりなのだろう。結果がいかに悲惨なものであろうと、案外人間が人間である証しは、ああいう演技の中にあり、ああいう行為が人間の可能性を示している。人間とは何でもないことを何でもないようにやる者のことを言う。

 誰とでも置換可能な人間は、本来はこれといって特性のない者のことだが、世に言う個性のたぐいも類型的に分類しうる紋切り型の一種で、それほど個性的ではない。結婚詐欺の女も練炭自殺に見せかけられた結婚願望の被害者も、どこにでもいるような人間でしかない。一方は金銭目当てで人を殺し、もう一方はだまされているのに死ぬまで婚活していると思い込んでいた。たぶんこの世にどこにでもいないような人間など存在し得ないのだろう。それはそれとしてどうしようもないことであり、それ以外があり得ないのだから、人はどこまでもありふれた人間を演じながら生きてゆくしかなく、何かを目指すということ自体が、既存のどこかにいるような人間になることになってしまい、人はどこまでもそういう人間になりたいのだ。他人をまねながらそういう人間になろうとする。そういう人間になれるかどうかは、その人の努力次第なのだろうが、仮に願いが叶ってなったとしても、やはりそれはどこにでもいるようなありふれた人間になっただけのことだ。

 別にそう語って人間を否定したいわけではない。ありふれていない人間など存在しない世の中なのであって、無い物ねだりをしている者こそ否定されるべきなのだろう。ならば君は君自身の存在を否定できるだろうか。君がいつどこで無い物ねだりをしていたのか。記憶にないか。都合の悪いことは忘れたつもりになれるらしい。別に否定されること自体は都合の悪いことではないはずか。この世界に誰が存在しているわけでもなく、誰かが存在しているとしても、その誰かは人間に違いない。それは別に否定すべきことではないのだろう。ならば誰もいないのにここにいるのは誰なのか。そういうことではないから誰もいない。誰にもなろうとしていないのかもしれず、面倒くさいからその種の努力を放棄しているのだろう。人は何者かになろうとして、結局人間になってしまうのであり、なろうとしなければくだらぬ演技をする必要はないのではないか。何かをほしがれば、それなりに演じなければならなくなり、欲望に忠実な人間のふりをしなければならなくなる。そういうのは面倒くさいはずか。もし君が面倒くさくないなら、それなりに努力してありふれた人間になればいい。その方が他の人間たちも安心するはずか。

 そういえば世間の注目浴びる人殺し裁判になると必ず傍聴者として登場するのが作家の佐木隆三で、彼のコメントも毎度おなじみのありふれた内容で、彼は彼でニュースショーに登場する一言おじさんを演じているのだろうが、なぜか決まってああいう役柄を演じている者たちは、自分が無力な存在でしかないことの自覚が欠けている。自分たちの発言が何の役にも立たず、他人の心に何も伝わっていないことを自覚できないのだ。そんなわけで当人としては何か気が利いたことを言ったつもりでも、結局はどこかで聞いたことがある内容でしかないことに気づくのには、社会の中では自らがありふれた人間しか演じられないことを悟るべきなのか。例えば携帯電話のCMで龍馬かぶれを演じている武田鉄矢は自らの存在がパロディであることを心の底から自覚しているだろうか。


1月29日

 さっきから誰かがそわそわしだしたようだが、何か気になるのだろうか。とりあえず風邪で味覚と嗅覚が鈍っている。そして忍び寄ってくる眠気に逆らえない。だから二日も遅れてしまったわけか。もう三日になるだろう。ぼやぼやしているとさらに遅れてしまうのだろうか。君の知ったことではないだろう。別にそんなことは気にしていない。それについて今さら誰が何を語り始めるわけでもない。おそらく誰かがフィクションの中でそれとは無関係なことを語っているのだ。だから気にしない。実際に誰が気にしていないわけでもないだろうが、とりあえず気にしないと記されるのがここでの流れだ。そんな流れになっているとは思えないが、冗談の範囲内で空疎なことを述べているのだから、それでもかまわないはずか。何でもかまわないのだから、それでもかまわないのだろう。そして今はそれ以外に何も思いつかないのだから、それでもかまわないのか。どうも誰かと誰かの間では、話が噛み合ないのかもしれない。そんなわけで今の君には睡眠が必要だ。話を噛み合わせるためにも意識のリセットが欠かせない。無理を承知でそんなことを述べている。

 それが無理な状況というのを想像できるだろうか。それについて君は何かを想像しているはずだが、それは自らの終わりか。唐突に話が終わってしまうわけか。話だけではない。しかし自分が終わってしまったらどうなるのか。そんな心配は杞憂だ。それでも何が終わっているわけでもない。そう思っているうちは終わらないのだろう。本当に終わっていても、まだ終わっていないと思いたいはずだ。実際はそれでも終わっているのではないか。終わってしまってもかまわないか。そういう話ではなかったはずだ。居眠りの最中の何か適当なことを思いついたらしい。そんな嘘を記しているうちに誰かが終わっている。だがそれで終わりの何を説明していることになるのだろう。何かの終わりに違いなく、それは途切れた夢の続きだ。それはどういうことなのか。やはりわけがわからないだろうか。少なくともそれは君が知っている夢の続きではない。君はまだ何も承知していない。その辺の事情が理解できないのか。

 おぼろげながらそのときの記憶がよみがえってくる。たぶん作り話のたぐいなのだろうが、やはり君はそこから遠ざかろうとしていたのだろうか。なぜわけもなくそうなってしまうのだろう。話は夢からも現実からも遠ざかり、今は誰かがそんな無内容を記している最中だ。そしてその記された内容は何の説明にもなっていないようで、君はわけがわからず途方に暮れている。どうしてわけがわからなくなっているのだろう。誰かはそれをやり遂げる必要に迫られているのだ。だが言葉を記しているのは君ではない誰かであり、そんなことはわかりきったことなのだが、やはりそれをやり遂げようとしているのは、君とは無関係な誰かだ。たぶんその辺でわざとらしく何かをごまかしていて、そんなことも百も承知で意味不明なことを述べているのだ。だから相変わらず君は何がどうなっているのかわからず、そこから先に何が語られる気配も感じられず、戸惑うばかりの君は、業を煮やしてそこから遠ざかろうとするが、当然のことながら、誰にとってもそんなのはどうでもいいことだ。

 おおよそその辺が意味不明な文章の限界なのだろうか。そうだとしたらもう少し具体的でわかりやすい内容にすべきか。それができないからそうなってしまうのであり、他の誰かが記している内容ならすでにわかりやすく、わかりやすい上に具体的には内容も盛りだくさんだ。君がそう思ってくれるならそれで結構か。他の誰がそう思うだろうか。誰も思わなければそうではないということか。実際に他の誰かのことなど何とも思わない。それは架空の話であり、それに向かって君が考えを巡らしているわけでもなく、誰かが何も考えていないわけでもないのだが、それが今記している文章の内容に結びつかない。たぶん興味がわかないのだろう。ここまで記してきてそれはないだろう。そして君には夢がない。暇がないので眠れないらしい。さっきまでの居眠りは何だったのか。嘘をついているのだろうが、それの何がおもしろいわけもなく、改めて夢を見たいから眠ろうとしているわけでもない。だから何がわからないわけでもないだろう。わかっているのは今日ここにいることだ。だがそれは三日前のことなのではないか。


1月28日

 なんやかんやで昨日の日付になるが、やはりそれがどうしたわけでもなさそうだ。すぐに明日になってしまう。やる気がしないので今日に追いつけそうもない。すでにそんなことを述べている時点で失敗しているのか。別にかまわない。そう思ってしまうのだからそういうことだ。誰かは何を話したいのか。少なくとも映画の話ではなさそうだ。今さら何に見とれているわけでもない。だがなぜ仕事をしなければならないのだろう。それがこの社会に暮らす大多数の人間の欠陥か。次から次へと不具合続きで気の休まる暇がない。芸術とは何だろう。今の君とは無関係だ。何かがずれている。それはいつものことだ。だから君は君としてこの世に存在できるのか。それは誰かがこれから語る嘘の一部だろうか。まだフィクションの体をなしていない。

 意味がわからないが、何かを断言したいのかもしれない。相変わらず話になっていない。たぶん改善していかなければならず、そのために今がある。だがその改善とはどのような改善なのか。人間の存在など何であってもかまわないような世界の中で、真剣なまなざしで人の命がどうのこうの述べている人の気が知れないか。何でも良ければそんなことを皮肉な気分で述べてしまえばいいのだろうか。それは違うような気がする。何も伝わらないか。それだけではだめで、あえて白々しく嘘をつく必要があるのかもしれない。そんなことを述べているうちに誰かがどこかへ戻ってくる。フィクションの中ではそれでかまわないのだろうが、現実の世界ではどうなのか。街行く人々は何を見たがっているのだろう。3D映画でも見て興奮したいか。君はそれを見てどう思うだろう。

 頭が壊れているのかもしれない。虚構の登場人物がそんなことを肯定的に述べているようだが、誰かはそれも少し違うような気がしてくる。それが何か不満や不安を感じさせているのだろうか。未だに何を克服しようとしているのでもない。では何かプレッシャーやストレスを前向きにとらえているところでもあるのだろうか。どうやら文章になっていないようだ。何か得体の知れぬ雰囲気に引き込まれてゆく。夢の中ではいつもそうだろう。勘に頼ってばかりではいつか過ちを犯してしまうのだろうが、それ以外の何に頼ればいいのかわからない。わかっているのにわかっていないだけだろう。答えはすでに出ているはずで、それに基づいて何を述べているはずだ。ただそんな気がしている。

 答えを見つけようとするからわからなくなり。わからなくなるからなおいっそう答えを探し出そうとする思いが強くなり、その結果として意味もなく無限に問い続けるような悪循環に陥ってしまう。そして何を問うているのかわからなくなり、そんな自らが何を問われているかもわからない。しかしそれで何を語っているつもりなのか。つもりではなく、実際に語っているはずだが、それがわからないからここまで語ってきたのではなかったか。それも作り話のたぐいか。何がそうなのかわからない。頭の中で何か断片的に言葉が思い浮かぶのだが、それが誰かの作り話には反映されないようだ。しかしつくづく無駄で空疎なことを述べているようで、もうその辺でやめた方がいいような気がする。

 たぶん君には信じられないような話の展開だ。誰かが疲れていることはわかっているが、それではあまりにもおかしすぎる。意味のない独白ばかりが延々と連なっているに過ぎず、述べている意図や思惑がさっぱりわからない。それで何がどうなっていることになるのか。何もどうなっていないのではないか。それはあらかじめ作られたイメージ過ぎず、そんなイメージを信じるのも誰かの意向に添った成り行きにはならないか。しかしそれで何がわかるのか。そこにわかりたくないような真実が提示されているわけではなく、他の何を信じたいのでもない。ただの見せ物に信じられないほど多額の制作費がかけられ、たとえその見せ物に数千万人が感動することになろうと、それが何だというのか。ただの娯楽ではないか。


1月27日

 疲れたから今日は寝ることにしよう。それからどれほど時間が経ったのだろう。丸一日過ぎただけか。何かに圧迫されている感じだ。裁判は演劇空間のたぐいのようだ。君がそれに見とれているわけではない。それで何がわかるのだろう。人を複数人殺したら死刑か。あまり真剣に耳を傾ける気にはなれない。何でもないと言ってしまえばそれまでかもしれないが、風邪でコーヒーの味も香りもわからない。君は何もわかっていないらしい。君だけではなく誰もがそうなのではないか。その証拠にさっきから何も語っていない。それが何の証拠になるのだろう。またいつもの脱線か。気がつけばまたアトピー性皮膚炎だ。いくら焦っても無駄だ。そんなふうにしか事態は推移しない。だから今の君があるわけだ。

 何を省略しているわけではない。何かの不具合だろう。そこから遠ざかるために君があるのではないか。だから何がわかるというのか。ただそうではないような気がするだけか。そしてまだそんなことを述べている。そんな現状の何がおかしいと思っているのか。とりあえず何とか現状を打開しなければならない。しかし何がそうなのだろう。何をもって何をどうしようというのか。そういう話ではないだろう。誰もそんなことは知り得ない。それでも今が何かをやる機会なのだろうか。言葉を記しているだけでは何のことやらわからない。そしてそんなことを思っているうちに二日が経ってしまったらしく、気がつけば一向に進まなくなってきた。もうやめた方がいい。

 誰かには秘められた過去があるらしい。確かテレビドラマの宣伝ではそんなことが知らされていた。君はどうなのか。宿命とは何か。またそういう話ではないと思う。少しは風邪が快方に向かっているのだろうか。数日後の今日の時点ではそれほど思わしくないわけではない。何を述べているのだろう。心なしか画面がぼやけているように思われる。ピントが合っていないのか。それでかまわないと強がるつもりはない。何とか現状を良い方向へ持っていかなければならず、そのために努力しているはずだが、今のところは一向に出口が見えてこない状況だ。だからもうやめた方がいいのではないかと思う。弱音を吐いているつもりなのだろう。しかしそれでどうなったのか。

 ただ言葉を記せばいい。結局求めているのはそういうことだろう。誰がそれを求めているのだろうか。何か考えているはずだが、今のところは何も思いつかないことになっているようだ。虚構の話の中ではそうなのか。では何を嘘つく必要があるのか。不必要に話を込み入らせようとしているだけか。たぶん誰かはそれだけではないと思っているのだろう。人は自らを裏切ることにその生涯を費やしている。絶えずこんなものではないと思いたいのか。何がこんなものなのだろう。どう考えても単なる人間ではないか。神になろうとしているわけでもなく、何か得体の知れぬ化け物への変身願望があるわけでもない。それで何を落胆する必要があろうか。

 いったいどこからどこまでが生身の人間ができる範囲なのか。何やら支離滅裂な自問自答の無限循環に陥っているようだ。それだけの文章で、それ以外ではない。ただの説明に過ぎない。だからそれがどうしたわけでもなく、どうもしないからなおのこと苛立たしい。無理だと言ったはずだ。いちいち過去の言動なと覚えていない。誰かは小心者で気難しい正確なのか。冗談でそんなことを述べているに過ぎず、まだまともなことは何も述べていないはずだが、これからも述べるつもりはないらしい。要するにひねくれ者なのだろう。君にはその辺がよくわからず、つじつまの合っていない文章を読むたびにさらにわからなくなるだろう。何となく投げやりになりすぎているのではないだろうか。当然それでかまわないと思うのだろうが、かまわないと思ったらその程度のレベルにとどまるだけか。それでは気に入らないのだろう。


1月26日

 誰もが生き残りたいのだろう。自分の職場を守りたい。何か矛盾していないか。だが何でも矛盾で片付けるのは愚かだろう。では何をどうしたらいいのか。誰かはいつでも高みの見物を決め込んでいる、真っ当な答えなどありはしない。それでも何かが違っている。そう思い込んでいるのだろう。目を閉じて考える。考えているのはそんなことではない。君はどこでもいけなくなり、言葉を記している誰かの影として、そこから先がわからなくなる。そんなのは嘘に決まっている。気がついたのはそれらの支離滅裂な言語表現に違いない。何がどうなってここへきたのか。そういう話でもないような気がする。何かのていたらくがいたく気に入っている様子だ。だからそれがでたらめくさくて理解不能なのだろう。さっきまでは理解可能だと感じていたはずだが、それはどうしたことか。何が変わっているわけでもあるまい。

 風邪薬が効いてきたのか。そうだとしてもわからない。誰が何を感じているのか。たぶん何も感じていないはずがない。またその場つなぎのやり方をとろうとしているようだ。気がついたらどこかへ追いつめられていて、それ以外にとりようがないだろう。何か不快な地域へ立ち入ってしまったのか。そうだとしたら何がわかるというのか。何か適当に流している。何を流しているかは不明だが、とにかく流している。それで何か思いついたらしめたものか。いったい何を理解できないのだろうか。いつでもわかっているのはそういうことだ。ここから先が問題なのか。だから早く段落を区切ってそんなのはなかったことにしよう。何かがストレスになっているはずだ。

 なかなか本題に入れないようだが、このまま何もせずに終わってしまってもかまわない。なぜそれが君には関係のないことなのだろう。だから何の話をしているのか。ウーロン茶が苦すぎる。またこの曲だ。指先がかゆくなり、まだアレルギーが残っていることを知る。そして一気に気がついたふりをして、この世界に意識が舞い降りていることを感じる。何を大げさなに語っているのだろう。ここは終の住処などではない。深呼吸するとほこりを吸い込み、何かの拍子に咳き込んでどうするのだろう。わざとやっているには迫真の演技とは言いがたい。くだらないことを述べているだけで愉快な気分になる。ここで終わるには天井の蛍光灯がまぶしすぎる。そんな理由にもならない理由を糧として、日々精進しているつもりになれるだろうか。嘘に決まっているだろう。

 何でもいいわけではなく、この際だからもっと気の利いた内容が欲しいところだが、ここに至っての無い物ねだりも無難な線とも言いがたいか。少なくともそれらのすべてを否定してしまいたくない。声がかすれているようだ。またそんな曲を聴いているのか。いつものようにそれは違うと思いたいのか。もう手遅れだ。違っているはずもなく、そんな曲はそんな曲でしかない。それでもまだその先があると思っているのだろう。無内容に拍車がかかり、もうどうでもいいようなことを述べている。それでも文章は文章に違いなく、何を卑下ているのかわからなくなり、そんな嘘をつきながらも、起死回生の何かを狙って、それをやり続けているようだが、惰性でやっていることに変わりはない。だから誰かはやる気がしないのだろう。

 しかしそれらの何が回るくどいのか。無駄に言葉を浪費しながらも、刻一刻と明日に近づいているような雰囲気がある。それで何の気配を感じているとも思えない。何を予言しようとしているわけでもなく、何かの兆しを言葉にしているわけでもない。ましてや占いなどではありない。少し表現に誤りでもあるだろうか。訂正する気もないのに誤りをさがしてどうするのか。君は弱っているようだ。日々衰弱しているのか。筋萎縮症でもあるまい。ただ何となくそれを恐れているのではないか。根拠がどこにあるのだろう。それを探しまわっているわけではない。誰が何を覚えても、何の勘違いがあるとも思えないが、とにかくそうやって言葉を並べているようだ。まったく馬鹿げていてご苦労なことだ。今日述べたいのはそういうことでしかない。


1月25日

 特に理由もなく、何に興味があるわけでもないと嘘をついてみる。夢を見ているのかもしれず、誰かは知性と理性によって制御された精神を思い描いているのだろうか。休み休みに冗談を言っているつもりにはなれないか。相変わらず空が晴れているようだ。雲が流れているわけではない。無風状態なのだろうか。まがい物とは何なのか。三十年前の流行歌の歌詞だろうか。キッチュを人々は愛していた。ミリオンヒットが何曲も出た時代もあったらしい。YMOも時流に乗ってキッチュな曲をやっていた。そんな曲を今聴いてどう思うのか。どうも思いはせず、iPodの中に入っている数千曲の中の数曲に過ぎない。

 たぶん思うところが何もないわけでもないのだろう。確かに何か思いはするが、例えばそれがマネとダ・ヴィンチの違いを見出すには至らないか。別にマネがキッチュでダ・ヴィンチが本物だとは思わない。さらに別にマネがYMOと似ているとも思えない。逆にダ・ヴィンチの絵には欠けていて、マネの絵には備わっているものがあるらしい。時代の違いと言ってはそれまでだろうが、そんなことが記された書物を誰かは読んでいるようだ。果たしてそこから何がわかるのか。だが書物を読んで何がわかったとしても、すぐに忘れてしまうだろう。それも誰かにとっては暇つぶしの一環にすぎないからか。それで何を否定しているわけではなく、読書を否定して何になるわけでもない。ただそんな誰かを君は馬鹿にしているようだ。では書物を読まない君が何を知っているというのか。君には誰かの考えていることがわかるのか。たぶんわかっているはずだ。わかっていると嘘をついているのかもしれない。

 ところで今の君はそこからだいぶ外れていないか。個人的な事情がどうであれ、とりあえず人は何かに向かって努力しなければ、生きていることにはならないそうだ。そんな性分ではないとしても、無意識のうちに何かを感じ取っているはずだ。そこでどうしなければならないのかもわかっているはずで、その通りに行動している最中なのではないか。それで報われるにしろ何もないにしろ、そういうやり方を貫き通せば十分だろう。誰も文句は言わないはずだ。そんな自己満足的な生き方がいいとは思えないにしても、とりあえずそれで精一杯なのだろうから、そんなふうにやっていれば時が過ぎ去り、やがて今とは違う展開に持っていく機会も出てくるのではないか。もしそうなったからといってどうなるとも思えないが、とりあえずはそういうことになるだろう。

 ではそこから物語の登場人物はどうなってしまうのだろう。誰がそれらのフィクションを物語ろうとしているのか。何か適当に言葉を並べてそれで済ましてしまうのもいい。何でもありだとしたらそれでかまわない。それで窮地を脱したとも思えないだろうが、それが窮地だとも思えず、誰が何をやっているわけでもないと嘘をつくことも可能で、そこから話がどう展開しようと、何でもないことに変わりないような気がしてくるが、その先に何を繰り出そうとしても、大勢は決しているのではないか。ならばここからどうすればいいのだろう。

 たぶん何が本物で何が偽物なのでもない。誰にとってもそれはどちらでもかまわないのだろう。仮に誰かが本物を作って、それが役に立つ物なら、他の誰かはそれをコピーして使えばいい。苦労して本物を作った誰かにはたまらない時代か。そんなことを記しているうちに誰かは風邪が悪化してきたらしく、咳き込みながらもさっさと言葉を記しておしまいにしたくなってくる。まったくとりとめのない話になってしまったようで、自己嫌悪に陥るようだが、一方でそれでもかまわないと思いたいのだろう。そんな言葉の連なりなのだから仕方のないところか。


1月24日

 たぶん今日は晴れている。確か昨日も晴れていたから今日も晴れているだろう。別に雨が降っていてもかまわない。空を見上げて何を見定めようというのでもない。虚空に何があるとも思えない。こだわりがあるとすれば、それが思いつかないことか。相変わらず話の内容から言葉が外れているようだ。それがどうしたわけでもないが、どうせ君には理解不能なのだろう。もう誰も居眠りの最中なのかもしれない。そこで何を演じているわけでもなく、異形の化け物がこの世に出現することもなく、眠気をこらえながらこの世界の中で誰かが生きている。別に眠ってしまってもかまわないのではないか。そんな状況なら、それに従ってそうなればいいのだ。

 だが何がそうなってしまうのか。しかしなぜ彼は強気でいられるのだろう。わかっているのはそういうことではなく、誰かがどこかで金銭を授受していたことか。果たして身の潔白を訴えかけているのは誰なのか。君がそれを認めたいとも思えない。彼とは誰なのだろう。ちまたで話題となっている彼のことか。政治とは何か。立ち入るつもりはない。何に学ぼうとも思わないだろう。だが批評とは何か。そんな書物を読んでいるようだが、誰かには関係のないことかもしれない。

 わからないがそういう流れらしい。流れに従って段落を区切らなければならなくなる。それについて何か画期的な手法を模索しているわけではない。いつものように何かの惰性でそんなことを記している。君はどこかで道を間違えてしまったのか。そういう後悔の念をフィクションの中で誰かに表明させてみせる。嘘に違いない。何に追いつこうとしているのでもないが、時は勝手に費やされ、何のためにでもなく、空疎なことを述べるために何かが後押ししているような気にさせるが、それも何かの思い違いになるか。しかし何かとは何なのか。

 それで何を空費しているわけでもないだろう。少なくとも金銭的な浪費とはならないようだ。ただ意味が外れていて、文章としても意味不明だ。それでも相変わらず空は晴れていて、君に何を語りかけることもなさそうに思える。確かに何がどうなっているわけでもない。時が止まっているわけでもなく、どんどん何かの終末に向かって進んでいるのかもしれない。たぶん何かがおかしいのだろう。おかしなこだわりが普通の状態になるのを阻んでいるのかもしれない。それらの映像は君に何を語りかけているのか。何を期待しているのでもなく、欲しているとも思えないのだが、それを見ている人々に、ある一定のたがをはめようとしているように感じられ、同じような思考が働くように意識を操作しようとしているわけか。

 それはありふれた見解になるだろうか。いったい君は誰に何をわからせようとしているのか。誰に向かって語りかけているのでもなく、そこにあるのは空疎な無関心にとりかと巻かれた何も知ろうとしない好奇心だけか。人はそれでも生きている。愚かなこだわりとともに時の流れに逆らいながら、何とか平常心を保とうとして、貴重な何かを見失う一方で、ありふれた紋切り型を打ち立てようとする。そういう見慣れた光景に取り囲まれることで安心したいのか。

 そうだとしたどうなのか。それを馬鹿にしてどうするのか。君は絶えず現実はそうではないと考えようとする。人々は大きな勘違いと思い違いのただ中にいると思っている。そういう思い込みがそもそも間違っているのではないか。何を試してみても、それとは違う見解が出てきてしまい、困惑を隠せないような状況に追い込まれているのはどこの誰だろう。例えば有名人は忘れ去られるために存在するのに、一方でそうなるのを必死で食い止めようとする人たちがいるはずだ。誰かをテレビ画面上に繰り返し登場し続けさせることに汲々としているわけか。ネタ切れになろうとどうしようと、忘れた頃に以前と同じネタに少しひねりを加えて登場させればいいのか。だがそれについて誰がどう思っているわけでもないだろう。


1月23日

 あまり深く考えない方が良さそうだ。少なくとも何かから遠ざかりたいのは確かなところか。君がそれを認めるはずがない。何もやっていないうちから逃避願望に心を支配されているのもおかしなことだ。何も語っていないのに語ることに飽きてしまったのもおかしい。風邪薬を飲んだら眠くなる。たぶんそこでやる気がないとは言わせないのだろう。やりたくなくても言葉を記し、何も語っていないのに、語ることに飽きている。きっと病んでいるのだ。心を病んでいる。それについて考えるのが面倒くさいので、そういうことにしておこう。きっとそうに違いない。今は何も述べられず、それ以外の何かを語ることができない。そんなはずではなかったのだろうか。

 何かの弾みで見出されたつかの間の時があっという間に過ぎ去り、気晴らしの何かを忘れているようだが、黙って目を閉じて、そのまま眠っているようだ。気分が優れず、ありふれた雰囲気の中に埋没している。意識が何を思っているのかわからなくなり、自分が自分でないような気がしてくる。ただ居眠りが長引いているだけだろう。今日は相当疲れたらしく、何もやる気にならず、言葉を記すのがいやになる。そして筋肉痛だ。そんなことを述べて何になるのか。戯れ言のたぐいでは不満か。それ以外に何があるというのか。すべてはフィクションに違いない。今さら何を確認しているのだろうか。戯れ言ではまずいのか。

 そんなことはないと思う。何がそうなのかわからないが、とにかく戯れ言の羅列で結構だ。軽はずみに戯れ言だと卑下するのもつまらない。いったい神は何を見ているのだろう。君は冗談で何を述べているのか。どこでもないどこかとはどこなのか。やはりそこから遠ざかってしまいたいようだ。退屈な環境が何かをもたらす。誰かが居住環境を変えようとしているのか。君にはそれがわかっているはずだ。誰もそこから退散しようとせず、いつまでも残ろうとしている。それの何が無理な願いなのだろう。何かが外れているに違いない。もたらされているのはそのときの気分ではなく、ただの眠気だろう。さっきまでは居眠りの最中だった。

 この世界には海の民がいて川の民がいる。漁業で生計を立てているらしい。桜の枝が折れている。何を見上げているのか。探し物は何だろう。半分眠っている状況から言葉を繰り出すのは至難の業だ。何も思いつかないのにそれはないだろう。なぜそうなってしまったのかはわかっているつもりだが、それも外れている原因に違いない。オバマはアフガンで何をさがしているのか。君の知ったことではない。何もあてどない旅の最中ではないし、旅の途中で道草を食っているわけでもない。まだ始まったばかりだろう。何かが始まり別の何かが終わる。それが誰かの人生だとは思うまい。それの何が馬鹿げているとも思えず、決して嘘をついていないわけでもない。またそうやって外れたことを述べているのか。

 外れるはずのない的なんてあり得ない。精神を集中させられないのだろう。そんなたわ言が何よりの何かなのだろう。決してたどり着くはずのない出発地点に戻りたいのだろうか。時が経ち人の顔ぶれも変わる。そこで居眠りの最中なのは君だけではない。そこで弾かれた可能性が君を待ち受けていて、フィクションの中で何かに出会うことになる。もう何が外れているわけでもなく、的を射るような回答の出現が期待され、そうなるように話の中身を整理整頓している最中か。できればそこで終わってほしい。できるはずのないことを願っているようだ。ならばその辺で力つきて、助け船の到着を待ちわびているのか。そんなことを思っているうちに何かが瓦解しているようだが、それでかまわないのか。かまうはずがない。


1月22日

 なぜか追いつめられているようだが、切羽詰まって何を述べるつもりなのか。少し茶が濃い。何も神について語ろうとしているわけではない。少し宗教がかっていないか。気軽に語れるような内容にできないものか。少し休みすぎている。少しではないのではないか。虚構的な作り話にも飽きているのではないか。気がつけば近眼がひどくなっている。それでよく免許証の更新ができたものだ。しかし君はここで何を述べているつもりになれるだろう。

 アニメ映画の「もののけ姫」の中では神の存在が希薄だ。要するに制作者の都合で神が神ではなくなっているのだ。例えば鉄砲で撃たれた少年は死ななければならないが、話の筋としては「もののけ姫」と呼ばれる少女を助けることが少年の使命だから、神が彼を生き返らせなければならなくなり、いったん死んだ少年が神の力により生き返る、という救世主伝説的な話を構成してしまう制作者の力の方が、神の力に勝ってしまうわけだ。だが神の真の力とは何なのか。たぶんそれはそれらのフィクションの中では顕在化しない力だ。神の力とはそういうご都合主義的な物語を粉砕するような力か。それほど大げさな力ではないが、例えばそれは銃撃された少年が死んでしまうことの中に宿っている。少年が殺され少女もそこでとらえられ、そこで話が終わってしまうような成り行きが自然な話の流れなのであって、宮崎駿がそこから先を物語れなくなってしまったら、そこで神の力が発揮されたことになるのだろう。むろんそんなことは宮崎駿が許さないから、ああいう毎度おなじみの少女お助け話がフィクションの中で繰り広げられているわけだが。

 イエスの物語も事情はそれと似ている。当時新興宗教を広めていたイエスが、ユダヤの神官たちから怒りを買い、結果的に磔の刑の処せられて死んでしまうまでの話の中に神の力が宿っている。ただ虚構の語り手がそこで終わらせないわけだ。イエスはそこからフィクションの中で生き返り復活を果たす。そういう宗教を広めたい者にとっては、そういう救世主の物語を布教の道具に使いたかったのだろう。

 ならば神の真の力とは何なのか。それは当たり前のことが当たり前のように推移していく過程にあるのではないか。それは最近起きたハイチでの大地震のように、時には多くの人命を奪い去ってしまうのだろうが、やはりそれは神の力が顕現している証拠かもしれず、一方それに対抗するのが人の力であり、必死の救助作業で何十時間ぶりに救出された人の映像を、世界中に感動的な物語とともに配信したり、地震の記憶を慰霊碑や記念館などとともに、後世に残そうとしてしまうことの中に、人の力があるのかもしれない。

 では神の力と人の力は異質なものなのだろうか。人間にも神の力が働いているとしたら、一見神の力に対抗しているように見なされる人の営みに、神の力はどう作用しているのだろうか。神の力を前にして、人はいつもそこで物語る。大規模な自然災害に巻き込まれながらも、そこで懸命に生きる人の姿を物語る。非業の死を遂げた人には、後から復活伝説がついて回るのもそういうことのたぐいなのだろうし、有名な誰かが死んだ場所には教会や神社などが建つ。それが当たり前の成り行きだとしたら、やはりそこに神の力が働いていることになるのだろうか。

 それでも誰かは冗談を述べていることになるのか。そう思って差し支えない。君は神の存在など信じてはいなかったではないか。今もそうかもしれない。神に逆らうも何も、そんなことができるとも思わない。神の存在など信じる必要がないのだろう。言葉に神というのがある。それだけのことだ。だから気まぐれでそんなことを述べたとしても、それで神との約束が果たされたとは思わない。神が望んだ結末などありはしない。神のみぞ知るというのでもないらしい。だから別にそんなことはどうでもいいのだ。君が結論などを持ち合わせるのは似合わない。


1月21日

 なぜできないのだろう。寝た方が良さそうだ。何となく馬鹿げている。今がすべてではない。昔のことも将来のこともある。だから今があるのではないか。今があるからどうしたわけでもないが、何となく今があることを噛み締めている。そんな表現はおかしいだろうか。何かが違っているのだろうか。それがなぜわからないのか。だからそんなことを語るべきではないのだ。そう思ってしまえばそれで済んでしまうような気がする。もう翌朝になってしまったようだ。いつものように疲れているのだろう。

 相変わらず何も思いつかない。何がどうなってそうなってしまったのか理解できない。もっともそれは理解するようなことではないのかもしれず、気のせいでしかないようなことなのか。何とも思わないのだからそういうことだ。たとえそれが勘違いだとしてもそう思っていれば済んでしまうようなことだ。すでに何かが終わっているのかもしれないが、その先に言葉が記される。

 また以前と変わらぬ空疎に心を支配されているのか。どうということはないのはどうでもいいことだ。何もわかっていないのは幸いだ。本当の意味不明が記されているとも思わない。嘘をついているのだろうか。何を考えているのでもない。何も考えられないのだろう。何かを考えようとすると眠くなり、実際に眠ってしまう。

 昼は仕事をしていたはずだ。もう一日が終わってしまう。何の感想もない。記憶は思い出の中にはない。意味がわからないか。たぶん何も考えていないのだろう。何もわからない。それと何の関係があるのか。君にはわからない。しかしそれで何もわからないと言えるだろうか。何に見とれているのか。また退屈なテレビでも見ているのだろう。その中に何かきっかけがあるようだ。君は何か考えるきっかけが欲しいのか。それはくだらないことだ。この世にきっかけなどない。君はそれを知っているはずだ。

 何を思っているのだろう。何がどうなってほしいのか。何に見とれているわけでもなく、何を模索しているわけでもない。ただ味が苦いだけか。苦しいのではないらしい。心苦しいような態度でいるはずもない。では何がどうなってほしいのか。人生は短い。時間は永遠だ。話になっていないではないか。相変わらずわけのわからないことを述べているようだが、どこまでもそうなのだろうか。少しはわかっていることだってあるのではないか。以前もそんなことを問うていたはずだ。だからわけがわからなくなってしまったのではないか。だからそういう話ではない。結局君は何もわかっていない。だがそれが誰にわかるというのか。

 予定調和の自問自答はやめにしないか。今もかなり苦しいはずだ。そんな言葉には動じないが、何に動揺しているのだろう。3D技術などの映像の技術革新は断じて映画の革命などには結びつかない。白黒からカラーに変わった時も無声映画からトーキーに変わった時もそうだ。果たして映画の撮り方に革命的な手法などというのがあるのだろうか。映画そのものが革命的なメディアだったのだろうか。絵画とどう違うのか。テレビとの関係はどうなのか。君がそんなことを考えているとは思えない。

 ではいったい何を考えているのだろうか。君には関係のないことだ。君が何を眺めていようと、それはただの風景でしかない。その風景の中で何を否定しているわけでもなく、風景に溶け込もうとしているのでもない。そんなことはわかっていると言いたいのか。人は絶えず見せ物を見せられて、それに感動したりしているらしい。果たしてそこに何か考えさせられる現象でも起こっているわけか。人によってはそう感じているのかもしれないが、君にとってはどうなのだろうか。


1月20日

 未だにわからない。いったい何をどうしたらいいのだろう。はたしてそう述べて正解なのか。何が正解だと思っているのか。それは何かのフィクションだろうか。たぶん当たっているような気がする。実際に何かをどうにかしているようで、それが現実なのだ。そして危うく風邪をひくところだったはずだ。もうひいているのかもしれないが、今のところは自覚症状がない。本当にそれが現実なのか。やはり何だかわけがわからない。それでかまわないのか。かまわないから今があるのだろうか。それともやはり何かがどうかしているのか。根本的におかしいような気がするが、とりあえずそういうことらしい。少なくともそれは何らかの現実から派生した感覚だ。しかし何が無なのだろうか。何について語っているわけでもないことが無に結びつくわけか。冗談だと思う。おかしな言語的連なりの中に無という言葉が何かのついでに記されているだけのようだ。たぶんわけがわからないからそう思いたいのだろう。君はそんなふうにして完璧な説明にたどり着こうとしているつもりなのだろうが、それはまったく思い違いであり、現実にはたどり着く行程を大きく外れている。明確な目標もないのに、いったいどこにたどり着こうとしているのか。文章が中途半端な水準にとどまっていることは確かだが、それをどうすればいいのかわからない。わかろうとしていないだけか。

 具体的にどこをどう改善すればまともな内容になるのか。たぶんそういうことではない。ただ言葉を記せばいいのだ。今やっているそれを続けて行けばいい。そうすれば自ずから道が開けるだろう。それが冗談だと思っているのか。冗談だと思えばいい。そう思っていればいつか冗談ではないと思うようになるだろう。君は現状に退屈しきっているからそれが冗談だと思われてしまうのだろう。しかしそれとは何だろう。別に映画を見ているわけではなく、さっきまではテレビでアメフトの試合を見ていたはずだ。人はなぜ何かに興味を抱くのか。それも違う話だと思う。おそらく何かが違っているのだ。その違っている何かが皆目見当がつかない。別に年がら年中感動していたいわけではない。今は眠りたいが、別に寝たきりになりたいわけでもない。君はその件ついてはどう思っているのか。その件とはどの件なのだろう。なぜか語る気がしなくなり、そんな精神状態では駄目だと思うようになる。また嘘をついているらしい。なぜそこまで語れるのか。何も語らずに語ろうとしているからか。それは自己矛盾に満ちているような語りとなっているのだろうか。だからそれが冗談として否定せずにはいられないのだろう。しかし本当に冗談なのか。

 そうなるしかない。そこには罠が張り巡らされていて、その罠にかかると身動きがとれなくなって、何か困った仕草でもしなければならなくなるわけか。まったく本気になれない。わからないから本気になれない。だが何がわからないのかもわからないのではないか。君は何を語っているつもりなのか。何も語らずに語っているだけなのか。そんな自己矛盾について語っているつもりらしい。そんなわけでまったく話の中身が見えてこないようだが、例えばそれは人の欲望について語っているようだ。言葉の連なりがそう語っているらしい。どこかで誰かの肖像画が出回っている。フィクションの中ではそうなのだろう。君はそこから外れていて、まわりくどくもわかりやすい説明にたどり着こうとしている。だからあと少しの辛抱のようだ。肖像画の行き先には何かが待ち構えているのだろうが、あてどない説明が何を示しているのか。何かを補わなければ話が見えてこない。だがその補うべき言葉が見えてこない。何をそんなに笑っているのか。何も思いつかない。それに関して何を述べたらいいのかわからなくなる。わかっているのはそんなことぐらいか。それで何がわかっていることになるのだろう。誰にかに尋ねてみたらいい。何かしろどもどろになっているような気分か。またしても何がそうなのかわからない。だから気分が優れないのだろう。まったく馬鹿げている。


1月19日

 また時間的に少し余裕ができたらしいので、これからどうしようか。どうもこうもなく、すでに言葉を記しているではないか。それも何かの冗談か。誰かはどうかしているらしいが、それもいつものことだろうか。目下のところは何も冗談だとは思えない。そういつもいつも冗談を発するのはおかしいか。もとから何が冗談なのか、その基準がはっきりしていない。気まぐれで冗談だとは思わないようなことも冗談だとみなしているのかもしれないが、今日はくどくどそんな鬱陶しいことを述べすぎているようだ。いちいち無駄にくだらぬ説明を弄して何を語りたいのか。そんなことを執拗に述べる気はなかったのかもしれないが、何となく冗談の続きでそんなことを述べているような気もしてくる。とにかく今日は晴れて少し暖かくなるようだが、それも昨日の出来事に属する言葉の連なりか。だからそれがどうしたわけでもないだろう。まだ感覚がまともではないらしい。そのままで突っ走ってしまうような気がして、それも何となく馬鹿げたことだと思われて、途中で何らかの歯止めが必要だと感じられ、ここでその歯止めを施そうとしているようだが、そういう自己言及が止まらなくなっているようだ。だからそれが何だというのか。段落を区切ればいいだけか。

 しかし何が馬鹿げているのだろう。何も実感がわいてこないようで、それでもかまわないと思っているのかもしれない。目的は本当に言葉を連ねることなのだろうか。そうではないような疑念を抱かざるを得ないような空疎な内容に堕している。それも本音ではあるまい。おそらくそんな言葉の連なりとは裏腹の希望をつかみかけているような気がしているのだろう。単なる勘違いか。その気もないのにそんなことを記しながらも、自らが正気でいることを確認したいらしく、どこまでもそんなふうに述べてしまうようだ。それで本当に正気なのか。本当も嘘もそれを判断する基準が定かでないような気もするが、それもそういう言葉の連なりのうちで述べられていることでしかなく、他に何があるとも思えず、さらにそんなふうに述べてしまうだけか。述べているうちに時が過ぎ去り、そのうち何か思いつき、それとは別のことを述べている機会も巡ってくるだろう。君にはまだ未来がありそうだ。確か過去においてどこかで誰かが死ぬ数週間前にそんなことを語っていたことがあったらしいが、はたしてそれはミシェル・フーコーだっただろうか。そんな書物を読んでいた記憶も残っていたようだが、それは誰の記憶だったのか。別にそれで不吉な予感がしているわけでもあるまい。とりあえず今の誰かはそこから先に言葉を記そうとしているようで、自らの細胞のテロメアがどれくらい磨り減っているかわからないが、いちいち気にするようなことでもないような気はしているようだ。

 まったく今日は無駄に言葉を弄して何かをごまかしているような気がしてならない。要するに語る気がしないのに語っているのがおかしくてたまらないのだろう。そうやって何か空疎なことを語っていることが、自己矛盾のような気がして、そしてそれを修正できないことが、何となくもどかしく思っているのかもしれないが、それでかまわないようなかまわなくないような、何か半信半疑で絶望の中に希望があるような、果たしてそれを信じてどうするのか、未だ闇雲に薮の中を右往左往して、迷い以前の迷路の中で、何かはっきりしないような感覚にとらわれているようだ。たぶんそれのままでもかまわないのだろう。何かのきっかけでそれとは異なる状況を迎えたとしても、今ある感覚を保持していられるだろうか。そうする理由がわからないが、それも一興だと余裕をくれているうちに、何か頭がおかしくなって、述べていることの意味不明度に拍車がかかり、わけがわからなくなってしまうのもいつものパターンかもしれず、それが自らに正直でいることとどういう関係があるとも思えないが、そういうやり方もありだと思っているうちは、まだまだ愚かさのただ中にいることの証拠にでもなるだろうか。


1月18日

 もう少し急いでほしいか。誰に向かってどんな願望が放たれているのでもない。誰かがどこかで狙撃されている。それは映画の中での出来事だったかもしれないが、他の誰が驚いているふうも見せずに、何かの雰囲気に包まれながら、強引に記された文章のでたらめ度を測っているとも思えない。夜がふけて寒さが増してきたようだ。寒空の下で誰かと何かが待ち合わせをしている。別にこれから決闘をやろうというのではあるまい。ではなぜ安易に漫画的な話の展開に持ち込もうとしているのか。冗談の次には何がくるのだろう。気が狂っているふりでもしているのか。愚かな立ち振る舞いだ。にわかには信じがたい話だろうか。でもこれからどこかで立ち会う予定となっているのだろうか。それも信じられない。何かの偶然が作用してそんなことを述べているのだろうが、まったく真に受けられないような話となっている。何について語っているとも思えず、何かについて語っていることは確かなのだろうが、自己言及的に何を証明したいわけでもない。この期に及んでそれはないだろう。何が冗談で何が休み休みに述べられているのでもない。内容は至ってシンプルに尽きる。くだらないと思っているのか。しかし何がどうしてでたらめに述べてしまうのか。でたらめの一言で片付けるには惜しいような気もするのだが、何か他に救いがないだろうか。

 ここは限りない世界だ。当たり前のことが当たり前のようにまかり通り、それが当然だと思うことが正気である証拠だと思われ、そんな作り話でさえ、何かの思い違いだと見なされ、わざと馬鹿げたことにこだわり、それで身を滅ぼす一歩手前で立ち止まろうとして、止まりきれなくなって、崖下へ真っ逆さまに落ちて行き、その死骸はぼろぼろのまま放置され、やがて誰からもその存在を忘れ去られ、行方知れずとなり、それでどうしたわけでもなく、ただのさすらい人の行く末をどう思っているわけでもないのと変わらず、意味不明なことを述べているつもりになっているだけで、至って正気なのだろう。何がそうなのでもなく、君は君で何も取り乱さずにそんなことを平然と受け止め、ついさっきまで居眠りの最中であったかのように、不意に辺りを見回して、まだ終点ではないことを確認したつもりになって、また眠りの世界に引きずり込まれる。要するに何を語っているのでもない。くだらぬ話の一つもなく、言葉の連なりは話ではない何かを表しているような気にさせるが、どうせそんなのは誰かの思い違いだろう。少なくとも君はそうであってほしいと願っているようだ。

 ところでそれから彼はどうなったのだろうか。至って元気そうだ。何の話でもなく、何かの齟齬が何かをもたらし、何かを喋ると吃音になり、自らの意図を他人に理解させる機会を失い、何も難しいことでもないのだろうが、そんなふうにして君は目くらまし的に行方を眩まし、何もなかったことにしたいようだが、何がそうなっているのか定かでない。だから本当に何もなかったのだろう。冗談でそんなことを述べているわけだ。君はもとからそうであり、何も正気と狂気の境目に存在しているわけではなく、どこに境界線も引かれていない空疎な白紙の上に書き込まれている。それがどうしたのだろう。どうもしないからそんなのも嘘に違いなく、何をどう語っても嘘になり、何でもないような言葉の連なりに意味を当てはめるのは無理なのだ。しかし他に何を当てはめようとしているのか。そういうことではないだろう。もとからそういうことではない。そんなわけで相変わらず何も語っていないようだ。誰かは何かの誤りを訂正する気もなく、そのままで済ませようとしている。だから何でもないことは何でもないこと以外ではないということだ。それがどうしたと思われるかもしれないが、そういうこと以外の何ものでもないようなそういうことなのであり、だから何でもないことだ。そしてますます語りの内容が意味不明になるのだろう。


1月17日

 そこでためらっている。理由も原因もわからない。とうとう遅れ始めてしまったらしい。やる気もないのにやろうとするからこのざまだ。だが何を哀れんでいるのでもない。かえってこの方が好都合なのではないか。そんなのは嘘に決まっているだろうが、何となくそんな気がしてきたらしく、開き直ってどうでもいいことをここぞとばかりに語り出すのかもしれない。本当にそうだろうか。今現に語っているのがそうなのではないか。そうだとしたらそれを続けていけば今日という日付に追いつけるわけか。やってみなければわからない。何事もチャレンジしてみることが肝要か。しかしこの世界はどうなっているのだろうか。困ってくるとそんな台詞を記さなければならなくなり、何かの戒めを忘れてしまっているようだ。もう少し知的な内容とならないものか。ないものねだりもいい加減にやめた方がいい。たぶん人はこの世界の中で何かを見つめているはずだ。自己中心的な自画像でも描こうとしているわけか。宗教とは何なのだ。またわざとらしく混乱して見せる。そうであったら何を指し示すつもりなのか。向いている方角が見当違いだろうか。風水的にはどうなのか。たぶんそんなことを語りたいわけではない。

 ネルソン・マンデラの話でもしたらいい。そういう曲を聴いているはずだ。誰でも誰かを神格化したいはずだが、それが彼だとしても驚く気は起こらない。誰かが彼について陽気に歌っている。しかしだれも小沢一郎については歌わないだろうか。関係のない話になってしまいそうだ。歌うなら誰でもかまわないのだろう。どうせなら誰も理解できそうにないマイナーな言語で歌って欲しいか。誰もそうは思わないだろう。当初はそんな気はなかったはずだ。しかしこの世界の中で誰が真の英雄なのだろうか。ルフィか?ナルトか?それは漫画の話だろう。誰かが歌っていた。確かノー・モア・ヒーローと歌っていたはずだ。くだらないことにかかりきりになるのが英雄の英雄たる所以だ。おそらくどこかで誰かと戦っているだろう。フィクションの中でも現実の世界でも戦っている。いつものように君は冗談でそんなことを述べているつもりだろうが、記された言葉の連なりは誰も理解できない内容になりつつある。そしてたぶん君はそれでかまわないと思いたいのだろう。人は一人では生きてゆけない。だから様々なしがらみの中で生きていくしかない。わかっているのはそんなことだ。

 知りたいのは歴史的な出来事ではなく、それについての幼稚で浅はかな見解だ。君はそれを求めている。批判したいからそんなものを求めているのか。権力とは何か。マキャベリにでも尋ねてみればいい。死人に口なしだが、彼の著作が何かを語っているはずか。それがくだらぬ見解だといえるか。そう思いたければ思うがいい。おそらくそう思っていれば正解だろう。愚かなことかもしれないが、別に愚かなままでもかまわない。何も執拗に食い下がってくるようなことはない。ただその場で言葉が放置されている。意味を担うのにも疲れてしまったのか。誰もそんなことは考えていない。何が違っているのかわからないだけのようだ。そうであってほしいのだろう。何も退屈だなんて本音を漏らす必要はなく、常に前向きに努力すればいいのであって、それ以上の何を求める必要はない。何が憶測を呼んでいるはずもなく、虚無的なことなら無言で応答していれば済むことだ。だから君はここまで生き延びてきたはずだ。何がそうさせているわけではない。何もかもが誰かを生かそうとしているわけか。そんなはずがないと思いたいなら、でたらめな文章を記す気も起こらないだろう。君は話のどこかで思い違いをしている。


1月16日

 誰かが画像や映像に見とれている。何か魅力があるのだろうか。おもしろいから笑っているようだが、手が痛い。あかぎれが悪化している。なぜ右手ばかりそうなってしまうのか。君にはわからないことだ。別に何かのたたりではあるまい。寒さに手の皮膚が耐えられなくなったのだろう。だがなぜ別れが突然にやってきたのだろうか。嘘に決まっている。関係のない言葉のつらなりだ。それは月並みな意見だ。そういう話ではなかったはずか。しかしこの違和感は何なのか。その件に関して何を表明しているわけではない。ただの筋肉痛に違いない。そして気がつけばでたらめな言葉の並びに困惑している。壁のない家に住んでいるわけではなく、それに対する理由もなく、それが何を意味するわけでもなく、何のことやらさっぱりわからず、さらに困った事態になっているようだが、まるで深刻さが感じられない。脇腹が痛いのか。だからただの筋肉痛だ。それで誰が困っているわけでもないだろう。それどころか誰もが関係のないことだと思いたいようだ。ここは何を決めるための場でもない。目が見えないのだ。おそらくそうだろう。だからはじめからでたらめなのか。それも君の知ったことではないか。

 何とか間を保ちたいのだろう。その距離感が大切だ。奇形の音楽だろうと関係ない。聴いてよければそれでいいのだ。眠れぬ夜を過ごしているわけではない。まだ明日になっていないはずだが、昨日の文章に手こずっている。このまま何もせずに眠ってしまったら二日遅れだ。君がそれに関係しているとは思えず、そういうことならいくらでも遅れてしまった方が、かえってあきらめがついて好都合なのではないか。それでも誰かは言葉を記そうとするだろう。それが無駄な悪あがきだと思われ、自らが記した文章の内容に落胆するはめになる。君もがっかりしているはずだ。しかし勘違いの妄想とは何か。君が見つめている画面上でうごめいている者たちから、他の誰が見つめられているのか。ジャングルの中でターザンが雄叫びをあげているようだ。何の話でもありはせず、それが前後の内容と関連性が皆無の言葉の連なりだとしたら、君は焦るだろうか。だから何の話でもない。またいつものようにくだらぬことを述べているだけか。頭がおかしいのではないか。本当にそうだとしたらどうしたことか。どうもしなければならない理由などありはしない。

 同じ時系列で言葉が並んでいるとは思えない。精神がまともではないのか。だからさっきから筋肉痛なのだ。明日の朝にはもっと痛くなるだろう。何も考えられずにいるのかもしれない。洒落たジャズだが、何を馬鹿にしているのか。今さら無理にひねくれても仕方がない。この世には限りがあり、人の寿命が尽きるのにも大した期間を要しない。君はその限られた時間内で何を見聞しているつもりになれるだろうか。仕事にはとりとめがなく、いくらやっても報われず、次から次へと苦難が降りかかり、やる気をなくさせるような成り行きへと持っていきたくて仕方がないようだ。たぶん正気の沙汰ではなく、絶えずやっていられないような気分にさせるのが、仕事という苦行の正体か。それに耐え続けているだけではまったく楽しくないだろう。だからそういう一切合切をほっぽり出して、どこか遠くへ逃亡したくなってくる。だがそんな弱音を吐きながらも、何とかやり遂げて今に至っているのではないか。明日もきっとそういう気分になるだろう。しかし生き甲斐とは何なのか。何がどうなればそういう前向きな気分を感じられるようになれるのだろう。それが馬鹿げていることはわかっていて、どういう気分になろうと、有無を言わさぬような状況に陥るのが常であり、否応なくそれをやっていかなければならず、そういう宿命から逃れられないのか。


1月15日

 また今日が昨日になってしまう。日付的にはそうだが、何がおかしいわけでもないだろう。マイケル・ムーアによるとアメリカでは貧富の格差が大きく、一割の富裕層が九割の富を独占しているそうだ。それで資本主義反対か。安易な話だが、そういうわかりやすさが多くの人の支持を集めているのだろう。だがありがたがって彼の映画を見る気も起こらない。それの何が安易なのか。安易な理由など思いつくはずもなく、何となくそう思っているだけか。富が一握りの富裕層に集中しているのは今に始まったことではなく、昔からそうだろう。昔はそれが王侯貴族であったり、大商人であったりしたわけで、今も昔もそれほど状況は変わっていないということか。今は所得に対する累進課税や相続税などで、貧富の格差が極端に広がらないような制度になっているのかもしれないが、それでも合法的な金儲け自体は奨励されているのだろうから、その中で金儲けのうまい人と下手な人が出てくるわけで、金儲け競争がある限り、貧富の格差は広がって当然だろう。何しろ国家自体が儲けた金から税金を徴収して、その税金を主な財源として国家予算を組んでいるのであり、金儲け競争をやめさせるわけにはいかない。

 まったくわけのわからない世の中だが、たとえ冗談でそんなことを思っていようと、何について述べていることにもならず、本当に空疎な語りに終始しているようだ。君には人間社会の本質が理解できていないのだ。まったくそれも冗談で述べていることだろう。本当に何もわかっていないなら、その先に言葉が続かないはずだ。実際に続くはずがないのに、語っている当人も理解不能なことを語ろうとしているわけで、偶然を排して必然に転化しうる何かを述べようとしている。嘘に決まっているだろう。どうもそこから先に言葉が続かないのは必然らしく、決して偶然の巡り合わせなどではない。どうも語り得ないことを語っているわけではなく、単なるでたらめについて述べているわけでもないらしい。文と文とのつながりを見出せず、まったく関係ない文の羅列で文章を構成しているわけか。しかしそれこそがでたらめの最たるものではないのか。そんなわけで何となく強引にわけのわからぬ展開に持ち込んでしまったらしいが、意図するところは何もないわけではなく、要するにつまらぬ話題に意識がついてゆけなくなってしまったのだろう。そして投げやりに言葉を連ねてゆくうちに頭がおかしくなってしまったらしい。

 チルファドとは何か。ただそんな曲を聴いているに過ぎない。君はさっきまで見ていた映像を無視している。だがそれで一安心か。もとからそんなことはどうでもよかったはずだ。資本主義などという主義は主義ではない。金儲けには夢があり、金には希望があり、その使い方によっては無限の可能性があるように思われる。誰もが金で商品を買いたいのだ。実際に買っていて、買わなければ生きてゆけない。だがそういう次元で物事を考えるわけにはいかないのであり、何かもっと違ったアプローチでそれらの仕組みを解明したい欲望にかられているのだろう。何か当たり前のことを改めて思考の対象としなければ、何もわかったことにならないような気がしてくるのだ。だから君はいつも別の何かを求めていて、何か紋切り型の羅列のようなテレビドラマの内容にも、どうしてそういう構造になっているのか、それを知ろうとしているようだ。なぜ人はわけのわからない現象にわかったような説明を加え、そのわけのわからなさを隠蔽してしまうのか。そのわけのわからなさこそがそこでの真実であるにも関わらず、そこに誰もがわかってしまう紋切り型的な構造を加えて、結局ありふれたフィクションを構成してしまうのだ。


1月14日

 何もしないうちに時間が過ぎてゆく。たぶんまた何かに見とれているのだろう。それが何となくわからないのではないか。何かに逆らっているつもりなのに、結果的にはそうはならない。そして何かが叶わずにいるようで、何を叶えられないのかわからず、何かいつものように矛盾しているような気がするが、それでもかまわないのだろう。しかしはっきり言って無理だろう。何も思いつかず、そこから先に言葉が続かない。だからそれでかまわないと思っているではないか。もうくだらぬ言葉遊びはやめにしたいのではなかったか。語るのがいやになってしまったのだろうか。いつもそうだろう。その辺で何か適当な気分を集めて、それで文章を構成しているに過ぎない。あくびが出るような状況で、何か気が利いたことがいえると思うか。気分が乗ってこない。気乗りしない雰囲気に心が包まれている。何となくそう思いたい。

 大して興味もないのにアメフトの季節だ。テレビで大詰めを迎えた試合を放送していた。それがどうしたわけでもないのはわかってるつもりだが、本当にわかっているのはそういうことか。体調が悪いから疲れているのだろうか。だから早く寝て明日の朝に備えておくべきだ。それで何に備えているとも思われないが、それは理由ではなく必要不可欠な回り道に違いない。はじめからそれを何とかしなければ先へ進めなかったのだから、やはり無駄に言葉を連ねて空疎な文章を構成すべきなのだ。どこかで地震が起こり、それとは別のどこかでは火事があったらしい。

 精神がそれほど混乱を来しているわけではないが、なぜそうなってしまうのだろう。やる気がないから何かに流されているようだ。強風にあおられて火事が飛び火しているわけか。しかし心は今どこにあるのか。そういう話の展開ではない。未曾有の大地震がどうしたというのか。ハイチで死傷者が多数出ているそうだ。やはり関心があるわけではない。だからそれに関して述べるのは無理だと思っている。何も思わないまま寝てしまう。そして翌日になり、何も思いつかなかったことに落胆する。それは予定調和の成り行きだ。

 そして翌日の夕方になっている。語り得ないことを語ることはできず、結局いつもの空疎な内容になっている。いったい文章とは何なのか。笑ってしまうが呆れているばかりでは何ももたらせない。誰かは映像の中に何を見つけたのだろうか。目に映っている事物ではない。それは何かの雰囲気だろうか。断片的な何かだ。誰かによって指し示されている対象が君を惑わすが、それでも何を述べているのでもないと思っている。事物についての具体的な説明を放棄しているわけか。しかし雰囲気だけで何を語ろうとしても意味不明だ。そこには何もありはせず、言葉の並びによって何を想起しているわけでもない。

 そこから何を語る気になっているのか。何を語っても大したことはない。本当は何も語れないのではないか。フィクションの中で本当のことを述べてどうするのか。いったい何が虚構なのか。そういう毎度おなじみの自問自答が鬱陶しいのもわかっているはずだが、他に述べることが何もないので、執拗にそれが繰り返される。ジャズを聴きながらジャズのような文章とはいかないようだ。だが何をもったいぶってそんなことを述べているのではなく、その場の思いつきがそんなことなのかもしれず、呆れ返る以前に脱力感の方が強そうだ。呆れてものも言えないどころではなく、呆れながらもそんな呆れるようなことしか述べられず、自己嫌悪に陥ってしまうらしいが、今や自己がどこにあるのかもわからない。


1月13日

 昨日は曇っていて小雨もパラついていたが、今日は晴れている。たぶん今日は今日という日なのだろう。何を確認しているとも思えないが、そういうことに違いはなさそうだ。別にそれで頭が冴えているとも思えない。要するに相変わらず語る対象がないということか。アフガニスタンで戦争稼業に従事している米兵も、迎え撃つタリバンの戦士も、掃討する側とされる側の区別はあるものの、そこで人を人と思わないような殺され方をされたとしても、それで何か現状を打開しようとする試みの中で、そういう運命を強制的に背負わされているわけだから、まあ外から見れば悲惨なのだろうが、限られた歳月の中で、ある意味では精一杯生きているといえるのではないか。そしてそんなことを誰かが述べているとしても、彼らに何を同情しているとも思えず、君にはそれが語るべき対象だとも思えないか。とりあえず人が死ねば悲しむ者がいて、悲しむ者は自らの内に喜怒哀楽の感情のうちの一つが備わっていることを自覚するだろうか。だがそれで何に気づいたことになるのか。君も何かに気づいているはずだ。おそらく誰かは冗談でそんなことを述べているのだろう。他人の生き死ににもまったく本気になれないようで、それどころかそれがさらなる冗談の続きをもたらすと確信している。

 だから何だというわけでもないだろうが、今こそやらなければならないことを悟ったわけでもなく、何をそんなにふざけているわけでもないが、やはりだからどうしたのだろう。なぜ人は何かを煽ろうとしているのだろうか。このままでは日本が危ない、あるいは世界が危ない、とかいう類の紋切り型に世の中は満ち溢れている。何かを主張したい者たちはいつ何時でも警鐘をならしたいようで、自分が真っ先にこれから起こるであろう危機を感じ取ったと不特定多数の人たちに向かって告げたいわけだ。そしてこれから起こる危機を乗り切るためにはこうしなければならないという持論を説いてまわりたがっているわけか。そういうのが職業と化すとこの世界はどうなるのだろうか。だから今あるようにこんな世界となっているわけだ。君はそれが気に入らないのか。では君は何を主張したいのか。他に主張することなど何もありはしないのではないか。世の中はこうなるべきだという主張以外に、何か一般大衆にまともに受け取ってもらえるような主張というものがあるというのか。冗談でならいくらでもありそうだ。例えば何もしなくてもかまわず、このまま無為自然に従って生きていればいいのか。今さらそんなまともなことを主張してどうなるというのか。

 まったく何が冗談なのかわからなくなるが、まともなことを主張しようとすると冗談だと思われてしまう世の中も愉快なものか。たぶん何がまともな主張でもないのだろう。何かを主張すること自体が滑稽な行為になってしまい、嘲笑の対象なのだろう。そんなわけで今の世の中では預言者がお笑い芸人となっていて、予言は茶化されるためにあり、真に受けとられないのが今も昔も変わらぬところか。だから他人から尊敬されるのではなく、馬鹿にされ貶められ、場合によっては怒りを買い、挙句の果てに十字架に張り付けられて死んでしまったのが、誰もが知っている二千年前の預言者だとすれば、今の預言者はどうなっているのだろうか。やはり極少数の者からは慕われているが、死んで大衆向けの仮面をかぶらされてからでないと、容易には受け入れがたいことを主張しているのだろうか。しかし果たしてそれは誰なのだろうか。必要もないのにそれを見つける気にはなれないだろうが、そういうことを述べていること自体が冗談にもほどがあり、まったくふざけているとしか思えないようだが、それでも誰かには何かしら確信めいた自信があり、そんなことはどうでもいいと思いながらも、人知れず何かの到来を待っているのかもしれない。


1月12日

 誰かの感性が研ぎ澄まされる代わりに、あらゆることに鈍感なふりをできると思っている。そんなのも嘘か。嘘でなければ何を述べている気にもならない。しかしキッチュとは何なのか。この世の何がまがい物なんだろうか。何もかもがそうだと思いたいのか。それともそんなのもどうでもいいことの類か。何も同質的な世界ではない。それはどういうことなのだろう。何かが右から左へと通り過ぎてゆくだけのようだが、何がそうなのか。それに気づいてどうするのだろう。何も違っていないようだ。現時点ではそういうことになる。過ぎ去った歳月が短すぎるか。そこで何を手に入れたわけでもなく、手にはいつも空疎が握られている。そして頭がおかしいと思い、そんな勘違いを正当化する手立てを思いつこうとする。いったい何ができない相談になるのだろう。だが心配することはない。君はわかっているはずだ。幻影を追い求めることが無益であることはわかっている。そんなふうに物事をとらえるのもおかしい。何がどうなっているとも思えない原因はそこにある。しかしそこから何かわかったような認識にたどり着くのもわざとらしい。まったくリアリティを感じられず、それが嘘や偽りであることを願い、何とかそれをなかったことにしたいようだが、今さら無理か。無理でなければどうなるというのか。

 そこに何かのきっかけがある。そう思いたいだけかもしれないが、何となくそう思っていて差し支えないような成り行きを夢想している。この期に及んでまだ何かを記している。誰かはよほど忍耐強いらしい。やはり何をあきらめているわけでもないのか。そう思っていれば、いつかは何かを完成するに至るのか。だから今はわけがわからなくてもかまわないのか。別に結論の提示を急いでいるわけではない。そこに至るまでの試行錯誤でさえ、書き記すような内容からは程遠いか。では何を記すべきなのか。退屈ならそれがわかったふりでもすればいい。しかしそこに繰り広げられている話は何なのか。誰かは記す必要のないことばかりを記している。そればかりでは退屈だろう。他に記すべきことが見つからないようだ。近頃はそんな嘘ばかりついているのか。誰に向かって嘘をついているのだろう。意味のない問いかけばかりに終始している。それは何かの末期症状と呼べるだろうか。そんな冗談に逃げているようだ。そんな嘘やそんな冗談ばかりでは意味不明か。君にはそれがわからない。それも逃げ台詞の一種だろうか。ついでに同じような言葉を繰り出すなら、それでもかまわないのだろう。現状でそれ以上を求めても仕方がないのだ。

 あり得ないことかもしれないが、何かを語っているついでに何かを見失っている。それはよくある意味不明か。もはやそれでは通用しないだろう。何に通用したいのかわからないが、何となくそう思い、そういうのはやめにしたくなり、それとは違うやり方を模索しようとするが、未だ果たせずにいるらしく、結局それを続けてしまっている。そういうやり方で何とかしようとしているようだが、本当にそれでかまわないのか。何かもう一工夫したいところだが、そんな時間的な余裕はなさそうだ。だからそのまま突っ走って、苦境をうやむやのままにやり過ごそうとして、実際にそうしてしまうのだろう。何となくそれはえげつないやり方に思われるか。それでもかまわないとなぜか思っているようで、考える間も与えずに言葉を記しつづけているみたいだが、やはり何となく違和感が伴っているようだ。だが果たしてこれでいいのか云々は決まり文句の紋切り型でしかない思考過程をまねいているに過ぎず、それ自体もそういうやり方の一部であり、結果的に何ら目新しい方向性も示されていないことを明かしている。だからはたしてこれでいいのかという言葉が、これでいいのかという内容をひたすら反復するだけの結果をもたらしているわけだ。


1月11日

 たぶんそういうのが退屈なのだろう。誰かはまた昨日と同じようなことを述べている。それは何かのごまかしだろうか。それ以外の何ものでもない。とにかく翌日の空は曇っていて、今にも雪が降ってきそうだ。何も思いつかないのは今に始まったことではないが、雪が降れば何か思いつくか。何も困難な戦いに身を投じているわけでもない。すでに翌日の夜になっている。相変わらず何も語らずに言葉を記しているようだ。それはどういうことでもなく、何か特定の観念にとらわれているわけでもない。誰かの意識がそこにとどまっているだけで、君はそれが気に入らないわけでもなく、至って無関心だ。では今聴いている曲は何なのか。くだらぬ問いに答える義務はないか。では何に答えたらいいのだろう。答える必要はなく、何にこだわっているわけでもない。だから何をどうしようと思っているわけでもなく、そんな嘘をつきながら、何か他のことでも考えているのだろう。人はなぜそんなことに興味を持ち、それに関するくだらぬこだわりに思い入れがあるのか。他人の人生を再現した映像を見ながら感動する人も多い。そこには誰もが抱く夢が詰まっていて、幾多の苦難を乗り越えてそれを目指す生き様に感動するのだろう。ありふれた人生だ。自らもそのありふれた人生を体現しようとしているのか。冗談ではないか。

 今と昔はかなり違う。そう思っていれば済むことだ。誰がそんな認識を共有しているわけでもなく、悲しみに打ちひしがれているわけでもない。それはどういうことなのか。それだからそういうことなのか。だからどういうことでもないのだ。おそらく何かのごまかしに違いない。あくびがでてきて眠たくなる。さっきからどうでもいいことにこだわりすぎだろう。テレビが面に映っている坂本龍馬がどうしたというのか。どうせドラマの最終回にでも殺されるのだろう。それまでの間彼は何をやっていればいいのか。脚本通りの演技をしていればいい。一年周期でテレビに映し出されるドラマの主人公が替わるだけか。もはや何をやっても何かの蒸し返しだ。それで誰が何を批判しているとも思えない。君は相変わらず夢の中で何かの幻影を追い求め、それに幻滅する機会にも至らずに、夢から覚めて何とも思わない。今日もまた以前とは違う夢でも見ているのだろう。それではまったく考える暇がないのではないか。しかし何がそうではないのか。いったい君は何を見ながら感動しているのか。誰かの幽霊でもテレビが面に映っているわけか。仮にそれを見たとして、それがどうしたのか。

 たぶんそれは他人の人生でさえない。そういう劇を構成している者たちの願望が劇に反映されているのだ。それだけのことか。それだけではないから人は感動しているつもりになれるのか。それがまるっきりの嘘だとは思わないが、何となくある部分では嘘になるように思われる。何が嘘だとはっきりとは断定できないが、たぶん君は嘘をついている。何に感動しているわけでもなく、何をテレビ画面上に確認したわけでもない。それは紋切り型でも何でもなく、歴史の新たなる解釈を可能としているのかもしれない。そういう嘘をついていると気分がいいか。だがそれは誰の気分でもなく、そこに特定の人格が介在しているとも思えず、たぶん何かの偶然が作用して、結果としてそういうことが語られているのだ。では君はそこで何をしているのか。テレビ画面を覗き込むことが生きがいなのだろうか。それこそが何かの冗談に違いない。そしてそんなことを記しながら何を考えているわけでもなく、誰かはさっきから居眠りの最中のようだ。やはりそれがどうしたわけでもなく、生きがいも何も思い浮かばない代わりに、あくびだけがひっきりなしに起こり、無関心と無感動の狭間で、まだあきらめていないような気になっている。


1月10日

 わからないがその気はないようだ。何をやめたいわけでもなく、何もやめたくないわけでもない。その辺が何となくはっきりせず、誰かは自分が何をやりたいのかわからないようだ。しかし何をはっきりさせたいのか。それに関しては対象が何も思い浮かばないようだ。ではまたそこで行き詰まってしまうのか。今はそういうことになるだろう。そして何でもないようなことにこだわって、つまらない内容を書き記すことになるわけか。今まではそうだったはずだが、これからはどうなるのだろう。これからもそうであってほしいだろうか。だからそうであるから困っているのではないか。何か矛盾しているだろうか。そんなわけで君は狭い範囲内で煩悶する。そうなる理由など何もない。では困っているのはいったい誰なのか。何かと何かを取り違えているのかもしれず、それも勘違いだとすると、事実はどこにあるのだろう。勘違いしているのが唯一の事実か。君が何を求めているのでもない限り、それは勘違いでも正しい認識でもなく、ただの何だろう。あるいは何でもなければどうだというのか。事実何でもありはしない内容に終始しているはずだ。そしていつものように心が動揺して、何が何だかわからなくなり、次いで気が動転してパニックを起こしているわけか。

 たぶんそんなのは嘘だろう。何もないから嘘をついているだけか。そうだとしてもそんな空疎なことを述べている。何もないのに何かあるのだろう。そしてその何かを探しているわけか。まったくご苦労なことだ。だが君には何も見つけられないだろう。なぜそう思うのか。理由も原因もありはせず、ただそう思うだけか。そこに存在していない何かを探しているだけのように思える。何か幻想を抱いているのだろう。現状が今より良くなるとでも思っているわけか。そうだとしたらとんだ勘違いか。それでも良くなってほしいと願っているのは当然の成り行きだ。誰もが絶望的な状況下でも希望を捨てないはずだ。何とかなると思っているし、実際にこれまでは何とかしてきた。結果的に何ともなっていなかったとしても、何とかなったと思い込んでいるわけだ。それの何が哀しい事実なのか。誰もそうは思っていないはずか。別に誰が多重人格を有しているわけでもなく、そこで何を語ろうとしているわけでもない。心はいつまでも虚無に包まれているようだ。考える対象を見出せずに、何も考えられなくなり、沈黙の底から抜け出せなくなる。それどころかどこまでも降下していく気分だ。

 君はそこで虚無以外の何を求めているのか。また音楽を聴いている。何もないからそうなのか。誰に問うているわけでもない。未だに何も語っていないのではないか。そうだとしたらどうなのだろう。黙って誰かが言葉を記している。画面上に言葉が並び、文章が形成される。君はそれで満足しているわけか。そう思ってもらってかまわない。それで気が済むならそう思っていればいい。気がつけばまたどこかへ外れていってしまう。意志も意識もないらしい。まったくそれで何をやっているのか。誰かは延々と言葉を記している。ただそれだけのことなのだ。そして疲れている。どこまでも疲労感を覚える。無理を承知でそんなことを述べているのだ。それの何が無理なのだろう。語るべき内容ではない。おそらく言葉の連なりはどこへも行き着かず、途中で道に迷い、誰かが途方に暮れている状況を作り出す。それでもなおのこと言葉を記し続け、さらに道に迷い、わけがわからなくなって作業は放棄され、そこから先は未来に登場する人格が指し示そうとするが、相変わらずそれが嘘だと思っている。君にとっては何もかもが何でもないに越したことはない。考える暇を与えないような成り行きになってほしいのか。今がそうかもしれない。


1月9日

 まるで空想の世界だ。虚空には何もない。何を気にする間もなく眠りに落ちる。意味がわからないが、誰かが上を向いたまま動かなくなる。死んでいるのだろうか。別に夜空を眺めているわけではないようだ。また意識は昨日の風景の中にとどまり、そこで何気なしに言葉でも記しているのだろうか。別に退屈を持て余しているわけでもないのだろうが、言葉の他に何を連ねていたいのか。君にはそれがわからない。わかろうとする必要すら感じられない。さっきから何かの雰囲気に気づいていないようだ。別に死臭が漂っているわけではなく、無味無臭の雰囲気に包まれているのでもない。そんな雰囲気がどこにあるのだろう。何か表現がおかしくないか。おそらく語彙が貧困で、うまくその雰囲気を表せないのだ。では他に何を記しているつもりなのか。いいわけじみた説明がそれらの文章には必要らしい。それが何を意味するわけでもないだろうが、とにかく言葉を記しているとそうなってしまう。それが何かを呼び込んで、それに感動している。要するに時にはそんな嘘をついてみたくなり、それがどうしたわけでもないような雰囲気に浸りたいのだろう。

 そしてそこから何でもなくなってしまい、またしても述べている意味がわからなくなり、その部分の記憶が飛んでいる。それは何かの不連続面を覗いているような気分だ。そこからいきなり何を思いつくのか知らないが、何か疑問を感じるとすれば、世界の調和とは何だろう。なぜ人は世界を意識するのか。そしてなぜ歴史を我がものとしたいのだろう。くだらぬ妄想に違いないが、それが何を意味するのか。そこに人間などというものは存在せず、世界の調和こそが幻想に過ぎず、何かの存在を感じられないような言葉の羅列の中に、何かの魂があると思い込みたいのだ。それはどういうことなのか。どういうことでもないから意味不明に感じられ、そこから答えを導きだすのは困難かもしれない。そして冗談ではなく、ちんぷんかんぷんな文章を記している感覚になり、わからないことで自己満足に浸ることができる。実際に誰も理解不能だと思い込んでいるのだろうが、その辺が誰かの欠点を示していて、本当は誰もが理解できることが記されていて、それを強引にそうではないと思い込み、何となく自分だけが優越感を抱いているつもりなのだろうが、その辺が愚かなのだ。本質的にまったくの子供だましだろう。そこで誰が世界と向き合っているわけでもない。

 誰かには余計な意味が理解できない。その余計な意味こそが世界を説明しているのに、それを無視して、強引に意味不明を装い、そういう浅はかな行為が、君自身の存在を見失わせているのだ。本当にそうだろうか。別にそうでなくてもかまわないだろう。まったく説得力の伴わない説明に終始している。たぶんそれこそが説明の本質なのかもしれない。言葉がつながれば内容など何でもかまわないのか。そういうことではないが、結果的にそうならそうでかまわないということだ。基本的に何を語っているとも思えないのだから、何でもなくてもかまわない。自然の猛威も何もあったものではなく、常に記された言葉がそれを裏切っているのだ。そんな状況下で君はいつも語り得ないことを語っているつもりになり、記された言葉に裏切られ、何も語っていないような気にさらされ、そこで語ることをあきらめ、挫折してしまう。そしてその挫折を忘れようとして、そうではないと思いたくて、そんな現状をなかったことにすべく、誰かが記す言葉の連なりが意味と内容を持つように祈っているわけか。それはあり得ないことだろうか。あるいはふざけた見解か。何がふざけているとも思えないまま、相変わらず君は誰かが記す文章上で何かを語ろうとして、それが果たせずにいるようだ。


1月8日

 物語はあれからどうなったのだろうか。何かのきっかけで誰かがわざとらしい諍いに巻き込まれて、そうやって話が進行していくわけか。話の途中で人が殺されたらありがちな話の展開になるだろうか。ありがちな話の展開が気に入らなければどうすればいいのだろう。例えば人ではなくクジラが捕鯨船に殺されたら、環境保護団体のシーシェパードが怒るだろう。彼らはクジラ専門の環境保護団体なのかも知れないが、できればクジラ以外の環境保護にも関心を持ってもらって、沖縄の貴重な自然を守るために、名護市の辺野古沿岸へアメリカ軍基地が移転するのにも反対してほしいところか。そして捕鯨船などではなく、アメリカ軍の原子力空母にでも特攻をかけてほしいところか。そんなつまらぬ冗談が有効に機能するとは思わないが、果たして有効に機能する冗談とは何なのか。そんなことを誰が考えているわけもない。作り話の中では誰も何も考えず、ただ作者の思惑通りに話が進行していくだけか。それもくだらぬ冗談のたぐいか。そして相変わらず何を語っているのでもないと思いたい。

 ところで君は話のどの部分で殺されたのか。君は君の話には興味を持てないようだが、誰がそこで身の上話を語っているのでもなく、君は君で君の死には無関心だ。君は自らの死を自覚できないからだ。そんな当たり前ことに関心を持つ必要はない。だからそんなことはどうでもいいのであって、無関心でかまわないのだ。それは何かの屁理屈なのだろうか。しかし眠りに落ちれば一切が消えてなくなる。それが誰かの死か。誰の死でもなく君の死でもない。ただの眠りに違いない。退屈な冗談の連発に飽きて眠ってしまったらしい。だが君はそれが何なのか未だわからずにいる。時にはそんな嘘をつきたくなるようなわけのわからなさに呆れ、何に呆れているのかもわからず、何かわざと矛盾しているような雰囲気に慣れているような気もするが、それだけのことに憤るのも筋の通らぬ話だ。やはり興味の外にそれらの言葉の連なりがあるらしい。君はそんな戯れ言に興味はない。だからそこで眠ってしまったのだ。そして夢の中で何を語っているのでもないことに気づいたふりをして、急いでまともなことを述べようとするが、結局何も思いつかず、いつものように沈黙に終始しているようだ。

 いったい話の出口はどこにあるのだろう。話も何も、誰が何の話をしているのか。物語の主人公ならとっくにあの世へ旅立ってしまったはずだが、それはそれとは別の物語の中のエピソードから生じた成り行きのはずだ。そしてそれも君とは無関係な物語か。いったいこの世において人は誰と戦っているのか。何を問われているとも思いたくないが、まさか戦っている相手が自分自身とはならないはずか。そういう筋書きならありふれているので、自分自身と戦っているその他大勢の人たちを差し置いて、君がもったいぶって表明するようなことではなく、それで誰かの退屈な気分を振り払うには至らない。ただ当たり前のことを当たり前のように表明するのは誰に許された行為とも思えず、本気でそんなことを述べているわけではなく、それを真に受けるような輩も存在せず、それを受け流すしか選択肢のない言葉は、たぶん何について述べているのでもないことになるのだろう。誰もそれを信じていないのであり、自分自身について語っているつもりが、誰でもない誰かについて語っていることになる。それも嘘のたぐいになるだろうか。そうかもしれず、それはくだらないことのたぐいにもなりうるはずだ。要するにそれもどうでもいいことの範疇か。


1月7日

 朝方少し雪がちらついたが、昼の空は快晴だ。夜には寒空に星が瞬いているのだろう。近頃はそんなことしか思わない。何も思っていないのではないか。何も感じていない。感覚がどこにもない。そんな嘘をついてもつまらないだけだ。勘違いをしているのか。そうだとしたら何なのか。相変わらずつまらないことを述べている。まだ正直になれていないらしい。眠たくなってくる。関係のないことだ。関係などあるわけがない。何を答えるはずもない。何も答えられないようだ。実際にそうだ。君は何も答えていない。答えられない。何かが去っていったようだ。たぶん考えていたのはそれだろう。冷静に対処しなければならない。まだ時間があるようだ。病気だろうか。それとも少し謙虚になるべきなのか。どちらも合っている。何かが状況と合致しているようだ。ならば君はこれからどうしたらいいのだろう。何をどうするべきなのか。そこで言葉を知るのをやめたらいい。別にそれは悪魔のささやきなどではない。何もかもが想定内の出来事だ。なぜそうなってしまうのかはわかっているはずだ。

 たぶんここからが重大な局面なのだ。覚悟して事にかからなければならない。もう手遅れかもしれないが、そういうことなのだろう。それを承知した上で何とかしなければならず、君にとってそれは大変なことだ。まだ迷っているのか。そういうことでしかない。それ以外はありえないのだ。迷わなければ何がどうなるわけでもないだろう。本当にもう手遅れなのだろうか。そんな運命を受け入れるべきなのか。それでも君はわかっている。それがそういうことでしかないことを痛いほどわかっている。そこから先で何がどうなっているわけでもない。君にとっては何もかもがそういうことなのだ。だから現状を受け入れているではないか。それが現状であることも承知している。だからそんなことを述べているのではないか。それはどういうことなのか。そういうことでしかなく、そんなことしか述べられないということだ。そうなるべくしてそうなってしまったのだから、そういう現状であることを受け入れて、観念した方がいいということだ。だがそれでも何かに逆らいながら何かをやろうとしている。具体的にそれはどういうことでもないが、何となくくだらない気分で満たされているようだ。今はそれも仕方のないことか。

 翌日の空も晴れて寒い。遠くに見える岩山が霞んでいる。昼になると暖かくなる。どこかの国の大統領は国際テロ組織のアルカイダと戦争状態にあると発言している。いったい彼は何に気をとられているのだろうか。作り話の中で誰かがどこかへ向けて旅立つ。旅立たなければ話が始まらないからだ。彼には旅立つ理由があり、目指すべき目的地もある。それが物語のすべてか。単純な構造だ。もちろん誰かはそれだけではないと思いたいのだろうが、君は物語のすべてを知っているはずだ。君は神ではないのか。そうだとしたら何なのか。神であり他に何と呼ばれているのだろう。たぶん誰かは嘘をついている。きっと君も嘘をついているのだろう。そしてそういう話はなかったことにしたいのではないか。しかしそれでどうなるのだろう。神とは何か。誰も神ではないから神なのか。誰が神になろうとしているわけでもない。それは何かの物語なのだろう。そしてそんな作り話の中に神が現れて、誰かに指図するわけか。確かそんな話ではなかったか。君には何もわからないだろう。それは話になっていないから物語にもならない。


1月6日

 今日はまったくやる気にならないようだが、少し安心してしまったのか。今日が今日だからそんな成り行きなのだ。そんなことを述べても仕方がない。そうなってしまう原因がわからないようだ。わかる気がしない。わからなくてもいいのかもしれない。緊張感を失っている。そして語ることがない。そんなのは当たり前だろう。気が散っているのだ。他のことに気をとられている。何を語っているわけでもなく、何も語っていないわけでもない。とにかく言葉を記して文章を構成している。そういうことを語ってはいけないのか。おそらく語っている方向が違うのだろう。そこで何となく終わっているようだ。それがわからない。わからないからなおのこと何かを記そうとして、虚無の深みにはまり込む。意識はそこから抜け出そうと躍起になっているようだが、そう思うほどさらに空疎な文章が構成されてしまい、きっと明日は睡眠不足でいらついていることだろう。所詮君には何もできない。それが証明されてしまうような無内容をさらけ出す。いったい君はそこから何をどうすべきなのか。

 そんな状況下で何を理解しているつもりになれるだろうか。たぶんそれを理解しているのだろう。それとは何か。それは君が理解しているつもりのそれだ。だからそれとは何なのか。それについては何も知り得ないだろう。わざと知ろうとしないのではなく、何となくそう思っているだけなのかもしれない。君はそれが何だかわかっているのではないか。君には理解できないそれのことを語っているはずだ。それはどういうことなのだろうか。そういう問いがそれかもしれない。それは嘘に決まっている。何も意外ではない。何か予定調和のような話の展開に戸惑っている。これも回り道の一つなのだろうか。そうだとすれば、さらに停滞が長引きそうな気配だ。このままではきっと何も見出せずに終わってしまう。今はそれでかまわないとは思えない。ではどうすればいいのだろうか。方策など何も思いつかず、内容はそれが唯一の選択であるかのようなでたらめに終始しているようだ。そして肝心なのは何でもないことか。君はそんな外れた気分で何を醸し出そうとしているわけでもなく、ただひたすら音楽を聴いている。何が唯一の救いなのだろうか。何も語っていないだけかも知れない。

 名人芸というわけにはいかない。何となく何も語っていないだけだ。それでも何か語っているのでないか。頭がどうかしている。やめた方がいいのではないか。やめられないから苦悩する。偽りの苦悩だ。何が魅惑するのだろうか。文章になっていないようだ。驚きはしない。驚くべきことではない。魔法ではない。そうやって何を否定しているのか。もうすぐ何かが始まろうとしている。居眠りの最中に夢を見た。それの何が架空なのだろう。言葉が並んでいる。何に気づいているとも思えないが、そこに何かがある。確証を得られないまま、そこでやめてしまうわけにはいかないようだ。そして何かを得られたつもりになりたい。得られた何かを手放そうとしている。それは空気のようなものだ。何が困難となっているわけではない。さっきからひたすら言葉を記している。そう思っているのだからその通りだろう。何も間違っていないはずだ。それを物語るわけにはいかないのか。それとは何だろう。未だにそれがわからず、どうしようもないような気持ちで胸がいっぱいとなる。それも嘘に決まっているはずか。何が確定しているわけでもない。


1月5日

 なぜかそこで考え込んでいるようだ。何か幻影でも見たのか。空想の中で誰かが何かを発見したようだ。嘘だろう。何をそんなにうろたえているのか。だからそれも嘘だろう。ここは作り話の中ではない。実際には何も見ていないはずだった。それが幻影であることは承知している。何が幻影なのでもない。たぶん君は何も見ていなかったはずで、そこで居眠りの最中に意識が途切れている。それだけのことだろう。だから何がどうしたわけでもなく、誰かがそこから退いているだけか。意味がわからない。そこで何を知ろうとしているのだろう。まったくのでたらめな言葉の並びに戸惑っているようだ。それらの文章は何を表示しているのでもなさそうに感じられ、意味不明に拍車がかかっているような気にさせる。本当に何について述べているのか。何がどこでどうなっているのでもない。何が突き詰められているのでもなく、語ろうとしているのは誰でもない。果たしてそれで何を表現しているのだろう。ただのでたらめか。そうだとしてもその後に言葉を続けて記すつもりのようだ。まったく馬鹿げているか。

 何かがどこかで狂っているようだ。そして何がそうなのかわからない。たぶんまだ機が熟していないのだろう。それはどういうことなのか。冗談にもほどがあるが、冗談にもなっていないのではないか。そんな単純な理由ではない。では何が理由なのだろうか。何の理由もありはせず、ただの怠惰な気分でそうなっているのだ。どうも近頃は頭が使い物にならない。何かが自由になりすぎている。本気になれないのはわかっているが、ふざけすぎではないか。気がつけば文章が無駄で無意味な言葉で覆われている。わかっているのはそれだけのことだ。他に何に気づいているわけでもなく、暗中模索の日々の中で、何かが確実に腐っているのだろう。いくら言葉を連ねても、それで何を語っているわけではない。過ちを何度も犯しつつ、まったく懲りていないような言葉の並びに飽きれながら、それでもそうなってしまう現実を受け入れざるを得ない。何かがおかしいことは承知している。だから困っているわけだ。しかしそれは必然の成り行きに違いなく、かえってそうならなければおかしい。もう何かの限界をこえているのだろう。語るべきことが見当たらず、語る気もないのに言葉を記そうとしている。それではでたらめになるしかない。

 君はそこで何を探しているのか。まともな文章ならすでに遠い昔に記されているはずだ。今さらそれを求めても手遅れだ。今はそういう域から大きく逸脱していて、何を語っているのか判別困難なことが記されているはずだ。だからそれが冗談なのだろう。形式的には冗談になっていないが、実質的にはそれが冗談なのだ。そこからまともな内容に持っていくのは不可能だ。だからこうして悪戦苦闘しながら何かの浪費に加担しているのか。君には以前からそうなる兆しが感じられたはずだが、それを改善する見込みがなくなるまで放置しつづけたのはなぜだろう。何がどうなっているとも思えない。実際には何でもないことであり、何が深刻な状況でもないか。ではすべてが嘘で、作り話の中でかろうじてそんな事態に陥っているだけか。いったい君は何のことを述べているのだろう。何がどうなってそうなっているというのか。そういうことではないはずだ。どういうことでもないから、ひたすらそんなでたらめを語っていても平気なのだ。何の向上心も羞恥心もありはせず、今やそれが当たり前のことであり、そうなって当然だから、そういうことを語りつづけているのだ。それで何がわかるというのか。別にやけになっているとは思えず、至って平常心を意識しているようで、平然と淡々と言葉を記しているだけのようだ。


1月4日

 またどうということはない時間帯に入る。気分は至って普通であり、取り立てて何を思っているわけでもないらしい。だから一通り思いを巡らして、何かを考えているような状況に持っていかなければないらしい。さてそこで何を考えているのだろうか。目的も目標もないというのは何かのいいわけか。本当は違うのかも知れず、何か適当なことを思いながら、誰かは何かに向かって言葉を記しているのだろう。たぶんそうだと思われる。しかし具体的に何を述べているとも思えないのはどういうわけか。これから何かを述べるつもりなのだろうか。そうだとしたら、ここまで述べてきたことは何だったのか。また何でもないということになるだろうか。そうかも知れず、そうでなければならないわけでもないだろう。本当に何でもないことなのか。たぶんそうだ。しかしこの抵抗感は何だろう。それではだめだと思っているわけか。たぶんだめなのだろう。だめだから何でもないわけではないと思いたいのだ。もっと何かまともなことを述べなければだめだと思っている。それは冗談だろうか。

 そうでなければ何なのか。絶えずそうではないと思いたい。眠気をこらえて言葉を記しているようだ。しかし何をそんなに急いでいるのか。何がそんなに楽しいのだろう。それ以外は何も語れないということか。果たしてそれで楽しいだろうか。誰がそんな現状を楽しんでいるのだろうか。それでも心を入れ替える必要はなさそうだ。現状ではそんなことしか述べられず、そんな現状を誰かが楽しんでいるようだ。きっとそれも冗談の続きなのだろう。しかしそんな冗談では笑えないか。それは笑うための冗談ではなく、楽しむための冗談か。笑えない冗談で楽しめるか。そういう屁理屈に答えはない。だが何ももないことに憤っても無駄だろう。何をそんなにいらついているのか。そんなのは嘘だ。何もない言葉の連なりの中でそんなことを述べているだけで、実際に誰がいらついているとも思えない。また見渡せば普通の光景が広がっている。まるでこの世界が君には何も思わせないように仕組んでいるかのような光景を前にして、誰かは何を記すつもりなのか。今記しているそれがそうか。そう述べている意味がわからず、ついでにわけもわからない。

 そんなわけでわざとらしく空疎なことを述べているようだが、あくびとともに別の何を思うこともなく、青空の下で日差しがまぶしく降り注いでいる光景のただ中に、誰の何を想定することも不可能のように思われ、どうやらこの状況では他に何を述べることもかなわないようだ。それがどうかしたのか。どうもしないから何も述べられない。そんなことを思っているうちにも、世界のどこかで誰かが何かをやっているのだろう。たとえばそれは自爆テロか何かか。アルカイダの拠点がイエメンにあるらしく、またそこで空爆などが行われているらしいが、それがどうかしたのか。たぶん楽しいのだろう。誰かがそんなニュースを見ながら楽しんでいる。冗談にならないような冗談だと思っているらしい。アフガニスタンでの戦況はどうなったのだろうか。戦争ごっこの行く末を誰が案じているとも思えない。争いごとの中から人の本性でも浮き出てくるのか。高みの見物をしている場合ではないか。しかしなぜニュースメディアはそれを多くの人々に見物させるのか。戦死者が星条旗に包まれた棺桶に入って帰還する姿をオバマが出迎えている。それが悲惨なことだろうか。

 たぶんそこに何らかの真実があるのだろう。そしてそれについて何かを思っている。いくら兵士が死んでもそれをやめるわけにはいかず、愚かな行為にも歯止めがかからず、それを武力だけで解決できないのは分かりきったことだが、そこには制度や構造上の限界があるのだ。国家による世界の分割状態を抜け出さなければ、決して解決には至らないだろう。今が国家の力を弱めてその存在を形骸化させ、すべての国家を融合させてゆくに至る過渡期なのだろうか。誰もそうは思わないか。中国やロシアやインドなどでは、今まさに国家主義の全盛期を迎えているはずだ。ではまだこれから数百年は様々な国民国家が台頭してきて、その度に国家間で紛争が起こるわけか。しかしアルカイダは特定の国家には属さないテロ組織ではないのか。国家間を横断する武装集団に対して、複数の国家が連携してそれを武力で抑え込もうとしているわけだが、果たしてそれがうまく機能するだろうか。これからが見ものかもしれないが、それで何を楽しんでいるわけでもないだろう。


1月3日

 やっと昨日になった。しかし気を抜くとまた二日前に逆戻りだ。もういい加減に諦めたらどうか。この期に及んでどんな悪あがきがしたいのか。まったく何の皮肉とも無縁の境地だ。そんな嘘をつきながらも、虚無の隙を伺いつつ、何かの虚を衝いて斬新な表現を模索しているつもりになる。それは何かの妄想の類だ。本当は何もなく、何でもないことを語っているはずだ。そして空疎な言葉を獲得して、それふうの文章を構成しているわけか。何の主張とも巡り会えず、自虐に走る気も起こらず、やはりそれは何でもないことだと思う。何をそんなに語りたいのか。人はなぜそんなことにこだわるのか。何かを語っていないと気が済まないだけか。そうであったとしても、何もないからそういうことになる。まったくくだらない。だがそう思っているうちは何かの可能性があるということか。人は絶えず何者かになろうとする。もちろん何者でもかまわないわけではなく、何となく格好の良いルックスや人格を獲得したい。他人から良く思われたいのであって、あわよくば尊敬の対象となりたいのだろう。だがそれがどうしたのか。ありふれた意見を述べて何とも思わない。今日は疲れているのだろう。たぶんそういうことだ。

 冗談でさえ気に入らず、それ以上の何かを求めようとする。ストレスでも溜まっているのだろうか。しかしそれを解消してどうするのか。相変わらず思っていることは何でもないようだ。何が萎縮しているわけでもない。ではそこから何がどうするのだろう。何の批判にもなりはしない。語ろうとしていることは何でもない。大晦日の殴り合いや笑わせ合いや歌い合いをどう思っているわけでもない。そのとき誰かがテレビを見ていただけか。人気映画の中では大げさな事件が何を物語っていたのだろう。主人公の手に汗握るアクションシーンがこの世界にどんな影響を及ぼしているのか。そういうことではない。おそらくそれも冗談の類に違いない。日常の中で地味に仕事をしながら、テレビでド派手な虚構を見ている。ニュースは事件の羅列状態だ。何を思う間もなく、それは昨晩の記憶の残滓となり、やはりそれに関して何を思うでもないらしい。この世界では何かがどうにかなっているのだろう。それだけのことであり、それ以外の何かもあって、それについて語れば何でもないこととなるようだ。そんなことが繰り返されているのがこの世界のすべてなのか。そうであったらどうだというのか。

 たぶん飽きているのではないのだろう。それどころか喜悦の表情を浮かべている者もいるらしい。それは何のリアクションなのか。この世は何でもないことだけではだめなのだろうか。そこに驚きや感動がないとつまらないか。めりはりのない生活は退屈か。しかしそれがどうしたのだろう。どうもしないからそうなっている。どうでもいいと思うからどうでもいいことに巡り会い、それに驚きもせず、冷静さを保持しているつもりの自らに安心しながら、たまには思いがけない出来事に巡り会いたいと願い、それに巡り会っていることに気づこうとしない。それで何を見出したつもりになれるのか。結果的に何かを見出したのだろう。君に皮肉は通用しない。何を語ろうにも何にもないのだから、それはそれで何もないことを語っているわけか。君は何者にもなれないので、君という言葉となって空疎な文章の中に出現している。それがここでの現実か。しかしそうだとしたら何なのか。いつも通りの空疎な世界に覆われている。そこからは誰も出られずに、世界の内側で外の世界を妄想しているのだ。君にはそんな状況が耐えられるだろうか。実際に耐えているのではないか。そこで生きている限り耐えていることになり、死んだらこの世界から消え去るのみか。

 言葉は言葉であり、言葉ではない。誰かの意識がそれを操作している。だがそれで何になるのだろう。だから何かになると思っている。何にもならないはずがない。それはそれでそういう内容を担っていて、それに応じた雰囲気を持ち、それを利用して言葉が記されているはずだ。君はそれ以上の何かを求め、本当にそれを獲得しようとしているようだが、それがそこに構成された文章なのだろうか。そうだとしたら何なのか。そこに行き着き、それ以上は何の進展もない話となり、そこで言葉と内容が停滞しているわけだ。その先には何もなく、だれもは入り込めない未開の荒野でも広がっているのか。強引に言葉をつなげているだけだ。だから何でもないことは何でもない段階に止まり、そこから先にまともな内容を見出せず、いつまでたっても何かの繰り返しが執拗に続いている。それらの行為のどこに希望があるのだろうか。何も苦し紛ればかりではないはずか。だがもう手遅れだ。そんなのは嘘だろう。何が嘘でもなく、さらに駄文が続いている。そういう話なのだからしかたがない。わざとそうしているわけではなく、自然とそうなってしまい、それを修正することさえできない。だからそれ以上は何を述べても無駄なのか。


1月2日

 また誰かがくだらぬことを考えている。何が仕方ないわけではないが、とりあえず理由もなく言葉を記しているようだ。人はなぜ危険を冒して山に登るのか。魅力があるからだろう。何らかの達成感でも求めているわけか。幾多の苦難を乗り越えて山頂に立ったときの爽快感は他の何ものによっても得がたい体験か。だから山に登る理由などいくらでも設定可能なのだろう。誰かはそこに山があるから登ると言っていた。そんなわけでくだらぬ行為によって命を落とすのも崇高なことになりそうだが、何がくだらぬわけでもない。他にくだらぬことなどいくらでもありそうだ。だが大半はそれがくだらぬことだとは思わないのではないか。君もそうは思わないくちか。山登りは崇高な行為か。そこにどんな皮肉があるわけでもないだろう。誰の意識がそこから何を得ようとしているのでもなく、ただそれがくだらぬことだと思っている。しかしそれで果たして気が済むだろうか。何か気の利いた文句でも思いついたのか。あるいはまたいつもの何でもないことか。

 誰かは何か窮屈そうに言葉を記しているようだ。現状がそうなのだから仕方がないだろう。いつものように何を語るふうもなく、ただ言葉を記しているに過ぎないのであって、そんなことは改めて述べるまでもないことか。そこからどんな内容を導き出そうとしてるのか。何も思いつかず、何も思い浮かばないのが現状か。それでも少しは何かが進展しているらしい。言葉の連なりが少し長くなる。誰かが山で遭難したらしい。そんなニュースが記憶の片隅に残っていたのだろう。それがどうしたわけでもなく、君にとっては関係のないことだ。この世ではちょっとしたことで死んでしまう人が多い。あの世ではすでに死んでいるのではないか。だから何なのか。何でもないからそんなことを思っているのだろう。人はくだらぬいざこざに巻き込まれ、たわいないことに腹を立てたりして、喜怒哀楽の感情を使う機会を得る。何に感動しているわけでもない。結局はそんなことを後から思い出して悔やんでいるわけか。それもどうでもいいことだろうか。

 テレビを見ているだけで社会の仕組みを理解するのは難しいか。そこにどのような構造があるのだろうか。今何が問題となっているのか。つまらぬことが問題となっているらしい。それだけでは何が何だかわからない。わかりたくもないことをわかろうとしているわけではなく、誰もが興味を引くようなことをわかりたいのではないか。だからそれが見つからずに困っているのだろう。それは冗談に違いない。本当はわかっているのに、あえてそれを語らないようにしている。まったくひねくれ者だから仕方のないことだが、いつまでそんなくだらぬ意地を張り通せるだろうか。何がどうなってほしいわけでもなく、何もどうにもならなくてもいいのかもしれないが、たぶんそれでは気が済まないはずだ。人はどこまでも強欲だ。何を欲しているわけでもないだろうが、それでは済まない構造があり、誰もが何かを欲していなければ社会が成り立たず、経済が停滞してしまうか。だからそれがどうしたのかと問うならば、そこから冗談以外の何が導き出されるだろうか。いったい何がそこでの冗談なのか。社会に蔓延する問題意識から逸脱しつつ、それが問題だとは思わないような意識を獲得できる機会が巡ってくることを願っているのかもしれない。それはいつもながらの回りくどい文章表現だ。

 他に何か適当なことでも思いついただろうか。誰に尋ねているわけでもなく、自らに問うているわけでもない。何も問えないからこうなってしまう。意識がどこからか脱落してしまったらしい。なぜそうなってしまうのだろうか。真正面から社会問題に取り組めないか。そんなのは嘘だ。その気もないのにそんなことを語ろうとする。それの何が問題なのか。少しまともに考えてみた方がいい。人はなぜ物事について考えようとするのだろう。君はそこから離れたくなる。おそらく考えるのが面倒くさいのだろう。本気になれないのだ。何も切実になれない。身につまるような話でもなく、どこまでも拡散していくような何かをとらえきれずにいる。それが思考の対象となっている事物だというのか。まったくリアリティが伴わない。どこまでもどうでもいい話だ。だから君は絶えず遠ざかろうとしているのだろう。何も見出せないまま、その状況に安住しているようで、要するに開き直って虚無と戯れようとしているわけか。何ともいえないようだが、何となくそれでもかまわないような気がしくる。それは何かの罠なのか。そうだとしたらそこから逃れる素振りでも見せるべきなのか。いかにもわざとらしい。


1月1日

 去年はどうだったか。今は惰性で何かを考えている。いったい今日はあれから何年後の世界なのか。今さらあれとは何だろう。あれについては関心がない。いったいあれとは何なのか。わからないからあれになってしまうのだろう。おそらくそういう説明はくだらない。何かをわかろうとして何もわからなくなってしまったらしい。そしてどうやらそれも違うようだ。語っている内容以外に何が違うのかわからないが、他に何かが違っているような気がする。思考する傾向が世の中の主流から外れていることは確かだ。それについては理解できないことがある。何が主流なのかわからないが、静かな夜だ。さっきから話の脈絡を感じられない。いつものことだろう。くだらぬ思いはくだらぬままにとどまり、何を考えてもそれは違うような気がする。それだけのことで夜が明けて朝になるまで何かいい加減に思っていったらしい。結局それは何のことはない。

 しかし何を認められないのか定かでない。おごり高ぶっているわけでもないのに油断があり、気がついたら風邪を引いている感覚だ。それも誰かの作り話の中でのことか。だから何が何だかわからないわけではない。少しは気づいていることもありそうだ。今日も誰かがどこかで仕事をしている。そこから先が行き止まりだから引き返してきたのだろうか。困っているのは君ではない。それが誰でもないから困っているのか。何も確証がもてない。それに関して言葉がどこから生じているわけでもなく、何をどうしたらそうなってしまうわけでもない。風味が違っているのだろう。それだけのことだとしておこう。ますますわけがわからなくなってしまう前に、文章を一区切りつけておけばいい。

 何がどうなったらどうなるのか。たぶんそれをやり遂げる必要はないのだろう。途中に躓きの石が転がっているはずで、わざとらしく躓いてみせれば誰かも満足するのだろう。どこかで誰かが転んでいる。それで都合がついたのか。何の都合でもないような気がするが、とにかくそういうことで、その場を丸くおさめて先へ進むとしよう。思わぬ遠回りを強いられている。それが単なる自己満足に過ぎないことはわかっている。どのように言葉を記しても手探り状態であることに変わりはない。具体的に何を語っているわけでもないのだから、そういうことになって当たり前だ。だから何を努力する必要も感じられず、その不可解で何の必然性もない衝動を抑えることもできない。

 それが気晴らしだったり気休めだったりすることに、何を覚えたらいいのかもわからず、どう考えても不快だとは思えないようだ。何でもないと思うのはおかしいか。それほどおかしくもないだろう。ではそれが持続していることについてはどう思っているのか。性懲りもなくそんな問いかけに終始しているようだ。難しい局面だと思っている。何がそうなのか。何もかもがそうだ。そんな中で何かが絶えず再生産され続けているようで、感動の押し売り状態でもないだろうが、人はなぜそんなものに感動するのだろう。

 映像の魔力に抗えないのか。そこに魔力があるわけもなく、ただの思い込みだろう。では記された言葉にはどんな魔力が宿っているのか。それを読む者の心を動かし、何か突飛な行動に駆り立てるわけでもない。それを見ているだけで満たされた気持ちになるのは心が荒んでいる証拠か。その逆かもしれない。毎度のことながら、本気でそんなことを述べているわけでもない。いつものように心がそこから外れているようだ。そうなってしまうのは心外か。意味が違うのではないか。今は何が違っていてもかまわないはずだ。もとから外れていて、逸脱しているのだから、その状態を押し進めて、何か今までとは違った心境にならなければ気持ち悪い。たとえそれが馬鹿げていようとくだらないことを述べていようと、やはりそんなことはどうでもいいだろう。


2009年

12月31日

 まったく話の構成も何もありはしない。気がつけば支離滅裂が何かの合い言葉となっている。本当にそれを信じていいのだろうか。君はそこで行き詰まる。言葉が出てこなくなって、何も語れなくなる。そしてどうなったのだろうか。そこから先にどんな可能性があるのか。その先には何もないはずだ。そう思っていればそれで言葉を記すのをあきらめられるだろう。誰がそう思っているのだろうか。誰もそこにはいない。それはいつものことだ。そういう成り行きだからそうなってしまうのか。君の知ったことではない。

 君はそれらの顛末を知っているつもりになれる。どんな事件か思い出せないが、そういうことなのだ。それがどういうことかは誰かの想像にまかせるとして、その後はどうなってしまったのか。君の心にゆとりはない。いつも切羽詰まっていて、焦るばかりか。君はそれでも耐えられるのか。しかしそれは何のことなのか。誰かは惰性で言葉を記している。そして知っているのはそんなことではない。たががが外れているのはどこなのか。誰かはそれを楽しんでいるようだ。自らの崩壊を楽しんでいる。そうであってほしいのか。現実はそれとは異なり、ますます元気になっているようだ。空疎なことばかり記すと何かが増進するのだろうか。

 誰かは指針を見失っている。話の外れまくりはそのせいだ。本当に何も考えられなくなっているようだが、そこで必死に耐えているわけか。まったく冗談にもほどがある。それらの何が冗談なのかわかりづらいが、わざとそう述べているだけか。この世界では人はどのようにも生きられる。そんな嘘をついているところがわざとらしくも愉快な気がするのだが、何のためにそうしているのでもないところが冗談のたぐいかもしれず、何がどうなって現状を受け入れる決心がついたのか知りたいところだ。それともそれも嘘なのか。いくら現実を受け入れようとしても、何の実感もわいてこないのはどういうわけなのか。それこそが本当の冗談だからか。まったく出過ぎたまねをすべきでない。今後どうなってもかまわないなら話が別だが、事を穏便に運びたければ、今はじっとこらえるべきだろう。何の話なのかわからないようだが、それも誰かの想像にまかせておけば、何かしら思い当たることでも出てくるわけか。少なくとも誰かはそう思っているはずだ。

 しかしそれについては具体的に何を話したらいいのだろう。今後それを語る機会が巡ってくるとは思えない。もとから何もないはずだ。語ることなど何もない。だがそれで何を否定しているわけでもなく、何もないことを肯定しているようだ。しかしそれがどうしたのだろう。どうもしないから何でもない。ならばそこで話は終わってしまうのではないか。何が終わろうと話など何もない。

 いつまでも冗談でそんなことを述べているようだ。それが何のことなのか、到底それがわかるとは思えないが、それでもそのまま延々と言葉を記していけば、その先に何かありそうな気がしてくるのが不思議だ。おおかた嘘に決まっているだろう。フィクションだから仕方ないか。語っている内容のすべては嘘だ。そう思っていればそれで済んでしまいそうだが、いつまでたっても真実を明かせないのは歯がゆいのではないか。もとから何もないのだから、それが唯一の真実だろう。もうそんなことはわかりきっていて、今さら述べるまでもないことであり、君はそんなふうにして何かを語っているわけだ。そして沈黙のただ中で真っ黒な壁に塗り込まれ、輪郭を失い、絵画ではないことが証明されてしまうか。それでは意味不明のでたらめになってしまう。まったくいつまでたってもわけのわからぬことを述べているようだ。


12月30日

 もういいのではないか。何となく誰かが黄昏れているようだ。もうすぐこの世からいなくなってしまうような気もしてくるが、それは誰のことなのだろうか。君に意識はない。誰でもなければ君でもないだろう。どうやら何かをあきらめなければならないようだ。すでに旅立ちの時は過ぎている。誰が旅立つのでもないらしい。洞窟の中に人影は見えない。本気でそんなことを信じているわけではない。ただ何も思いつかない。人は人を利用して何かをやろうとしている。人でないからわからないが、人が人であるために必要な条件とは何か。人が人でなかったら何になるというのか。違う人になるのではないか。君と誰かは無関係だ。そういう話ではないだろう。では誰を振り向かせようとしているのか。それも違うと思われる。何でもないから違うのか。

 心が壊れているのだろうか。あきらめているらしい。君はそうなる運命だ。そこであきらめかけている。もうおしまいか。話を終わらせるつもりはない。いったいこの世はどうなっているのだろうか。苦し紛れの問いかけは空振りに終わるだろう。そこには何もありはせず、どこにも何もないはずか。乾いた笑い声が空洞に響き渡る。おそらく正気ではあるまい。それが何の正体なのか。それを誰が確かめようとしているのか。それも違う話だと思う。おそらくそうではないのだろう。いつものように外れている。宝くじの話ではない。

 腐ってしまったのか。それとも脳みそが豆腐状態か。意味のない会話にもならない。そんなふうに語っているだけだ。他の誰がそうしているわけでもない。君は至って正気のつもりだ。コーヒーはこんな風味だったのか。どうでもいい話だ。心のたがが外れているようだが、それは意味不明なたとえか。実際には何が外れているのでもないのだろう。そこで誰かが笑っているだけかもしれない。精神的に耐えられない状況か。そうだとしたら何なのか。

 それとは別のことを考えているようだ。満たされた気分だ。すぐに何かがこぼれ落ちてくる。陽の光を浴びていたのは午後のことだ。今は夜になっている。そして黙っていれば夜は更けて明日になるのだろう。何が人体にとって害になるのか。夜更かしが原因なのだろうか。何のことやらさっぱりわからない。何について語っているのか。夜の思考などありはしない。それらの何が冗談であるわけもない。ただ笑いたいだけか。そんなふうに思うのはどうしてなのか。どうでもいい話ではないか。それがどうしたのか。

 どうもそこへ至れないようだ。何か境地に至れない。それで何かわかったのか。ただ言葉を記しているだけはだめのようだ。今はそれしかできない。しかし頭が冴えている。嘘かもしれないが、そういうことにしておこう。何となく本音を語るのが面倒だ。そこに何が見出されていようと、やはりどうでもいいことなのだ。君はそこから外れていて、戻って来れずにいるだけか。いったいそこで何をやっているのか。言葉を記しているのは別の誰かだ。それが何かの幻想を構成している。語る対象となっているのが誰の心でもない。意識しているのはそんなことではなく、どのようにしてそうなってしまったかだ。いいわけに過ぎない。

 何はともあれここまでやってきた。もう一息ということか。何がそうなのかわからないが、とにかく誰かはそういう文章を構成しているようだ。焦点の定まらぬ内容を醸し出していて、どこかで誰かがうなだれているようだ。きっと疲れているのだろう。勘違いなのか思い違いなのか、はたまたそれでいいのか、何について語っているのでもないのに、何となくどこまでも言葉を連ねているようだ。そんなことがあり得るだろうか。何かの病気なのだろうか。あまり深く考えないことが肝心か。たぶんそれも冗談に違いない。


12月29日

 誰かは相変わらずいい加減なことを述べている。それが何でもないことは明らかなようだが、何か他に気にかかることでもあるのだろうか。たぶんまたいい加減な言葉をネット上にばらまいているのだろう。安心するのはまだ早いか。何がそうなっているのでもない。また文章として意味不明に近づいている。そんな現状の何が気に入らないのか。馬鹿げているのは現状ではなく、君の考え方の方か。どこからどこまでが本音なのかわからない。そしてだんだん眠くなり、今日はあきらめてしまいそうになる。はじめから無理な話だったのだ。笑ってしまうがでたらめしか語れないようだ。そして自信を喪失して、それが冗談ではなくなり、真剣に悩んでしまう。だからそれが冗談なのかもしれない。軽薄でどうでもいいようなことを述べている。それだけなら人畜無害だろう。君はそうではないと思いたいのだろう。やはり時間に追いつめられているのだろうか。それがどういうことなのかわからないが、確実に切羽詰まっているはずか。

 人は虚しさをネット上に振りまく宿命のようだ。自らの不快感を世界中に広めたいのか。そうだとしたら何なのか。すべてから無視される。狭い範囲でだだをこねているだけだろう。それでもやらなければならないことがあるらしい。それが誰かの幻想だとしても、とにかくそれを記さなければならない。かなり長い時間が過ぎ去ってしまったが、それが歳月だというのだろうか。相変わらずの支離滅裂かもしれないが、それでも何とか言葉を並べて、それが誰かの記した文章だと思い込んでいる。それはいつものようにどうでもいいような内容だ。

 記憶はどこで途切れているのだろう。ドラマの中で事件が起こり、探偵気取りの誰かが謎解きをしながらそれを解決してゆく。ありふれた話の展開だろうか。語ることに意味を感じられず、歌う理由を知り得ない。音楽を聴いているのだろうか。テレビはもう見飽きたはずだ。お笑い芸人ばかりだ。他のどこかで何かが起こっている。たぶん君には関係のないことだ。別にこの世界に関係を持ちたいとも思っていないのだろう。はじめはそういう話ではなかったはずだ。他の何かにかぶれてしまったのか。背中がかゆい。それが誰かのペースなのだろう。かいているうちにさらにかゆくなってしまう。もはや精神が崩壊状態か。それほどでもなく、何となく強がっていて、心に余裕があるような素振りだ。それが嘘偽りで、本当は焦っているのだろうか。いずれにしてもどうでもよく、やはりそれは君には関係のないことなのだろう。

 どうやら文章がまとまらないまま明日になってしまうらしいが、果たしてそれで良かったのだろうか。だから無理だと言ったではないか。それは誰の声でもない。とぼけたことを述べても後の祭りだ。誰かはもう寝てしまったらしい。言葉を記すのをあきらめて、それが何だかわからなくなりかけている。天井裏で鳴いているネズミがやけにうるさい。きっと気のせいだろう。君にはまだその先がありそうだ。何かの顛末を記していないではないか。

 それから君はどこで何をやっていたのだろう。ここは地の果てだ。別にバグダッドカフェがある砂漠ではない。さっきから地鳴りの音がしている。ここはどこでもない空想の場所だ。空中庭園のたぐいか。何を空想しているわけでもなく、そんな場所から出られなくなったわけでもない。とにかく迷路だか何だかわからないが、もっとまともなことを述べてみたらどうか。何に迷っているわけでもないだろう。誰かが記しているのは雑文のたぐいだ。それらのすべてが読むに耐えるものでもないはずか。


12月28日

 そんなことはどうでもいいが、翌日の空は晴れている。とりあえずはそういうことだ。どういうことでもなく、そういうことらしい。いつもの日々の中にありふれた感慨が潜んでいる。大したことはない現実の中で人は生きている。ニュースの中の激動する時代に翻弄された人々とは無関係に生きている。まるっきり無関係ではないかもしれないが、とりあえずはそう思いたいのだろう。人は物であり、使い物にならなければ失業するだけだ。用済みとなったらどこかの介護施設に入り、廃人の生活が待ち受けている。それの何が残酷なのか。メディアがそう思わせたいのかもしれない。人はなぜ生きているのか。自殺する人も年間三万人を突破しているそうだ。それの何が過酷な現実なのか。そう思わせれば誰かの同情を買えるわけか。それはまったくひねくれた見解に違いない。どう考えてもつまらない時代だろうか。そう思えるだけ幸せなのかもしれない。これから何がどうなろうとそれが続いてゆくような気もするが、この先何か思いがけない出来事をきっかけとして、事態が一変したらおもしろいだろうか。そう思いたければ勝手な妄想を膨らませて、何か大規模な天変地異でも起こって欲しいと願っていればいい。数年前のインド洋で起こった大津波もそれの類だったのではないか。あれで数十万人が命を落としたにもかかわらず、今の退屈な世界がある。

 何がどうなってそうなってしまったのだろう。そう思いたいからそうなっていると感じているだけか。ならばそれはそれでそういうことでしかない。誰かが背後から何をはやし立てようと、大したことはない。今日は晴れていて明日になっても同じような天候が続いていることだろう。見渡せば高圧鉄塔の下に住宅街が広がり、そこに大勢の人が住んでいる。空は相変わらず晴れていて、そこに未確認飛行物体が浮かんでいようと、それをビデオ映像に収めることに成功しようと、さらにそれがどこかのメディアで紹介されて、その手の専門家がどんなコメントで誰かの好奇心をくすぐろうと、それがどうしたわけでもないか。何を探求しているわけでもなく、言葉が言葉であるように、それらのどこに歯止めがあるわけでもなく、延々とそんなことが起こり続けるのだろう。君の心には依然として諦念と退屈が渦巻いている。すでにこの世界から見放されているのだ。冗談だと思うなら、この世界のどこかで何か宝物でも探し当てて、くだらぬ達成感にでも浸ってみるがいい。ほんの一瞬の間は以前とは違った光景にめぐり逢えるかもしれない。もちろんそれが誰かが記すフィクションであることは百も承知のはずだが、そんな書物でも読んで気晴らしをもたらせたらしめたものだ。読書にも少しは効用があったということになる。それともひねくれ者の君にとってはそんな結果はうんざりか。

 しかし誰かはそこから何かを導き出せると思っている。この世界が退屈であろうとなかろうと、その存在を信じている。少なくともこの世界は存在しているらしい。それがどうしたわけでもないのだろうが、どんな希望を冗談だと見なそうと、浅はかで子供だましであるとしても、そこから言葉の連なりを導き出せば、それで気が済んでしまうのではないか。たぶんそれで冗談の続きが得られると思っているのだろう。それは幻想であり、何かの幻影を追い求めていることの証なのかもしれず、それを続けていればいずれそこから視界が開け、何か新しい認識に到達できるとでも思っているのだろうが、それをひたすら信じて言葉を連ねつづけてもいいのだろうか。だから冗談だと述べている。その場の雰囲気に流されながらも、それに逆らってそれとは無関係なふりをしながら、意味不明で適当でいい加減に言葉を連ねて文章を構成して、それがこの時代に適合した文章だと思っていればいい。例えば金に糸目をつけずに収集した厖大な資料を活用して、過去の時代の節目に活躍したらしい他人の人生を、あたかもドキュメンタリー仕立てに構成して、そこに自分の思いを反映させるような愚を犯してしまった先人に習う必要はない。


12月27日

 またそうなってしまうのか。君は結論を急ぎ過ぎのようだ。それで何がわかったというのだろう。まだそこまで行っていないはずだ。そしてそんなところまで行けるはずがない。誰かは何かを調べて、その結果を記そうとするが、そういうやり方が退屈に思われ、そうではないやり方を模索しているようだが、事はそんな単純な具合には行かないようだ。そこに至る途中から外れている。何かを外して話を進めようとしているわけだが、それは無理に決まっているか。何について述べようとしているのだろう。それがわからなければ、そんなのはどうでもいいことか。だがそこで終わるわけにはいかないのだろう。まだ語り始めて間もない段階で、そこで確実に行き詰まっている。毎度お馴染みのくだらない状況か。うんざりしているのなら、気晴らしに別のことを考えてみることだ。人はすぐにご都合主義的になれ、勝手な主張を飽きもせず繰り返す。それが嫌なら、もう少し今までとは違ったアプローチも必要だろう。しかし本当にそこで終わってもかまわないのだろうか。終わりようのない成り行きのただ中で強引に終わらせることができようか。実際には何を終わらせようとしているのでもない。ほんの気晴らしで無駄に言葉を弄して文章を構成しようとしている。

 君の実力を知りたい。誰かが何かとともに挑戦してくるようだが、それは作り話の中での出来事に過ぎず、面倒くさいのでそんな話はなかったことにしてみよう。何でもありだから、それでもかまわないのだろうか。そうではないと思いたい。何か具体的なことについての言説が求められているはずだ。ここではそういうことか。何かを期待されているのだろうか。人はどこまでも執念深く、一つのことをやり遂げようとする。石にかじりついてもそこから離れようとしない。そんなたとえが何に結びつこうとしているのか。まったくどこまでも浅はかだ。要するに大したことはないということだ。やり方が違っているだけだろう。そう思いたいだけで、本当は過ちに気づいているはずだ。いつものように過ぎたるは及ばざるが如しか。それで何を述べていることになるのか。今やっていることにまったくリアリティを感じられないのなら、死ぬ数週間前にこれからの構想について語っていた彼を思い出そう。彼はいったい何をやるつもりだったのか。君は過去において自由について語っていた。それが大きな過ちを犯すきっかけだったのか。

 いったいそこで何を模索しているのか。今のことではなく、過去のことでもなく、未来のことでもない。まったく言うは易しだ。何でもないことについて語っていたのではなかったか。それが今に属するというのか。そうであったなら、これから何が始まろうとしているのだろう。もしもの話ではない。今これからやろうとしていることについて述べなければならない。他の何かを馬鹿にして、それで終わりではつまらないか。それでは批判にならないだろう。歴史は歴史であり、すでに起こってしまった出来事について語っている。たらればで後から何を語ってもくだらないか。この世に娯楽以外の何があるのだろう。それを改めて学ぶ必要があるだろうか。誰かは死ぬまで学びつづける気でいる。死ぬ直前に自己満足に浸りたいのだろうか。そうでなくとも学びざるを得なくなる。では目的とは何だろう。学び続けることによって何を目指すべきなのか。何か涅槃の境地にでも至りたいのか。過去にそういう事例でもあったのか。それについて思い当たる人物でも記憶の片隅から浮かび上がってきたりするわけか。何をくだらぬことを延々と述べているのか。それでかまわないのだろう。

 とりあえず君は何かを知っている。それは究極の何かではなく、ありふれた何かだ。探求すべきはそういうことか。これから何を見届けようとしているのでもない。真の敵などどこにもいはしない。これはフィクションではないのだ。誰もが関心を払うようなことでもない。では何なのか。ただの現実に違いない。何でもない現実だ。いつものようにそんな現実に悩まされているわけか。それで何がわかったことになるのだろう。人は幻想を抱いている。現実が何でもないことに耐えられず、そうではない状況を思い描き、絶えずそうなって欲しいと願っている。実際にどうなれば満足するのか。どうなっても満足からは程遠く、常にそれ以上の何かを追い求め、そのために方法を模索する。どうすればうまくいくのか。感心があるのはそればかりだ。実際にはそうならないから、なおのことをそうなった瞬間を夢見て、ひたすらそうなることを熱望しているのだ。いったい君は何になりたいのだろうか。億万長者にでもなりたいのか。それで宝くじでも買ってみたわけか。安易なやり方に違いないが、万が一ということもありうるから、期待せずにはいられないか。まったく愚かさには限界がない。


12月26日

 意識の中身はまた昨日のことになっているようだ。心はどこへ行ってしまったのだろう。ここにあるはずか。ここにあるのはこの世界の現実だ。いったい心の持ち主は何に行き詰まっているのだろう。だからもう少し簡単に物事を考えてみたらどうか。仕事中に何か思いついたはずだ。それはこれとは別のことだろう。ならばこれとは何なのか。まったくわかりにくい文章表現にはまっている。主張がどこにも見当たらない。誰の主張なのだろう。これでいいとは思わない。当たり前のことだ。このままではどこへも行き着かない。これの何が不満なのか。これ以外に何があるというのか。別に画期的な構想を温めているわけではない。昔は何らかの思想に寄りかかって物事を考えていたような気がするのだが、ある時期を境にして、何かが見る見るうちに色あせてしまい、それが現代につながる思考だとは思えなくなっている。なぜそう思われてしまうのだろう。それに代わるものがあるわけではないが、何もないのが今だとはいえないはずだ。他に何かあるといえば、毎度お馴染みの代わり映えのしない現象だけか。別にテレビでやっている過去の偉人伝的なドラマに興味を抱いているわけでもなく、そういうものの有効性が及ぶ範囲が安易で浅はかな人々までだとは承知しているが、他に何があるのか。

 人はゲームに参加することで盲目になれる。この世界が見えていなくても、ゲームに興じていれば安心してしまう。だがゲームとは具体的に何を指すのだろう。この世界の中で誰もが競い合っているつもりのそれら全般がゲームなのだろうか。競い合う相手がいて、最終的に優劣が決すると信じられているもののすべてがゲームだと考えられる。人はゲームによってこの世界に接していると思い込んでいるのだ。だからゲームが続いているうちは安心できる。勝利という最終目標があらかじめ設定されているから迷うことがない。もちろん負けそうになると焦りとともに迷いが出てくるわけだが、負けないためにはどうしたらいいか考えるようになって、自分なりに導き出した方法を選ぶか否かで迷う。だがそれはゲーム内で生じている迷いに過ぎず、あくまでもゲームに依存した迷いだ。君の迷いはそれとは違うのだろうか。まず君はそれがゲームであることを疑っている。もしかしたらそれがゲームである必要はなく、何も積極的に競い合わなくてもかまわないのではないか。競い合っているのはテレビの中のスポーツ選手や芸能人だけでかまわないのではないか。確かに彼らが競技やクイズ番組などで競い合っていて、君たちはそれを見ているだけでかまわないはずだが、実生活の中でゲームにはまってしまう場合はどうしたらいいのだろうか。テレビゲームや受験競争や見栄の張り合いなどか。仕事上でも職種によってはあるのではないか。成績を比べられて、その上位者を表彰したりするやつで、それが仕事の励みになったりするわけか。何となくくだらないような気がするが、それを真に受ける人は多そうだ。だが人々はそんなことを繰り返しながら、最終的には何がどうなってほしいのか。まさか勝ち誇って虚栄心を満足させたいわけでもないだろう。

 この世界には虚無と空疎が満ちている。人は絶えず夢や幻想を抱きつづけ、それに向かって努力することで達成感でも得たいのか。人が人であるためにはそうすることが必須条件だろうか。そして達成すると同時に虚しさをも味わい、黄昏た気持ちになって、詩でも詠んでみたくなるのかもしれない。一方挫折して破れ去った者たちは、哀愁をにじませながらうらぶれた姿さらし、それもそれでその時の鬱屈した気持ちを詩に託して、憂さでも晴らすのか。たぶん冗談でそんなことを述べているのだろう。君はいつもそういうメロドラマ的展開を馬鹿にしていたはずだ。そして実際はそうではないことも実体験を通して学んできたはずだ。やはりそれらすべては何でもないことになる。自らが歩んできた過程で生じた業績などを誇ってしまうのは馬鹿げている。たとえ世のため人のために何をしてこようと、そんなのはすべて最終的には無に帰さないと納得できない。どの時点が最終的な状態だとはいえないが、とりあえず努力はすべて虚しい努力であり、水泡に帰すべき努力だ。そうでなければその努力のすべてが虚構となってしまう。それがこの世界の本質を物語る現象であり、そうでないものはすべてフィクションの中で生じた結果である。


12月25日

 虚構の中で頭が痛くなってくる。頭痛の原因はこれか。これとは何か。何でもなければこれでない。結局わからずじまいのようだが、それで気が済むはずがない。気が済まなければ他のことを語ればいい。どうやら今こそそれらの退屈な問答の応酬を終わらせなければならない。またずいぶんと勇ましいことを考えているではないか。相変わらず他に何もないが、何もなければどうにもならず、その先に言葉を連ねられなくなる。だが今はそれでかまわないはずだ。そうする理由が不明で、そんなことを述べていること自体が馬鹿げている。では何をどうすればやめられるのか。その言葉には飽きたが、今はそれしかないようだ。そして何も思いつかずに途方に暮れる。そんなわけでいつものようにくだらないことを述べている。そしてそれだけのことにだいぶ時間をかけている。述べているのは自らに対する言及ばかりで、そんな自問自答の日々にも飽きていたはずだ。しかしこれから何を語ればいいのだろうか。何も思い浮かばず、言葉が出てこないようだ。それでも何とかしたい。たぶん冗談でそんなことを述べているのだ。ならばそれで気が済んだのか。君にそれがわかるはずもない。

 まだ幻想を抱いているらしい。それらの作業を終えることができるだろうか。今日中に無理を無理でないようにしたい。何でもなければそうなってしまうだろう。しかし相変わらずくだらない。何も語っていない現状も変わらず、またずいぶんと遠くまできてしまったようだが、それで何がもたらされたわけでもない。ただ何もできずに苦悩しているだけか。そうだとしたらそこからどうやって救い出されるべきなのか。何を救出しようとしているのでもないが、何を妄想してもどうでもいいことだ。そこで何が導き出されているわけでもない。誰かの苦悩をよそに、言葉が執拗に連なり続け、君の意識をそれらの文章から弾き飛ばそうとする。そこで止まるわけにはいかないのだろう。何を止めようとしているのでもなく、どこまでも続けようとしているのでもない。眠たくなっているようだ。寝て起きて何もできていないことに気づき、急いで言葉を記そうとするが、やはり言葉は何も出てこない。何とかしたいが何ともならず、何ともならないのに言葉が連なり、それで何とかなっているとは到底思えないが、どうやらその辺が限界なのだろう。そこから君はどこへ行くのか。

 まだあきらめていないようだ。誰かは何とかできると思っているようだ。何がスランプなのでもない。ただ何もできていないだけか。それはわかっていることだ。わかりようがないことであり、わかりようがないことは承知している。そして何とかできると思っているのだろう。しかし現実がこれだ。これで何とかなっているとは思えない。ではどうしたらいいのだろうか。そこから先へと言葉を連ねればいい。いつかまともな内容が導き出せるだろう。その時がくるまでつまらないことを記し続けていればいい。胃が痛くならないか。今日はコーヒーを飲みすぎているようで、だから胃が痛い。そしてみかんを食べる。何の脈絡もありはしない。何かが緩慢に推移して、君を落胆させる結果が出る。それでどうしたのか。まだその先があるというのか。君にとってはそれで終わりなのかもしれないが、それで誰かの気が紛れるはずもなく、半ば意地になってつまらないことを記そうとする。それがくだらない結果を呼び込んで、結果的に君を落胆させているのだろうが、それでかまわないと思っているのは誰なのか。誰でもなければ君でもなく、君でもなければ誰でもない。ではなぜそんなことを述べているのだろうか。ただの気晴らしの暇つぶしなのか。そうだとしても本当はそうではないような気もするのだが、そこから先には何もなさそうだ。


12月24日

 どうでもいいような何かが執拗にまとわりついて心から離れない。いったい君は何を意識しているのか。たぶん誰かは何もしていないわけではない。少し回りくどいがそういうことのようだ。しかし依然として語っている内容がわざとらしい。確かにそれは否めないが、何もないからそんなふうにしか語れないのではないか。別にそこには理解できないようなことが記されているわけではない。逆にわかっていることが多すぎる。だから以前と同じような言葉が並んでしまうのではないか。それもわかり過ぎるくらいにわかっていることか。では何がわからないのだろうか。そんなふうに言葉を記す理由や動機がわからない。そこで何が事件になっているわけでもないだろう。相変わらずの空疎な無内容に終始しているだけか。そうだとしたら何なのか。何でもなければそれ以上の内容を期待しない方がいいだろう。では他に何を期待したらいいのか。何も期待しない方がいい。ここから先はいつもの言葉が連なるだけか。

 いったい人はこの世界の何に期待しているのか。何がどうなってほしいのか。何もどうにもならないことの何が気に入らないのだろう。それでも何かがどうにかなっていると思いたい。勝手な幻想を抱いている。思い通りになっていることを夢見て、必死に努力しているつもりになる。本当に努力しているのではないか。そうだとしたらその努力が報われるような結果になることを期待している。君は本当に現状を何とかしようとしているのだ。だから誰かが言葉を記し続けているのか。誰かと君とは無関係だったはずか。誰かが記している虚構の文章の中に君という言葉がある。そんな嘘をついて何が楽しいのか。楽しくなければおもしろくない。それが何の理由になるだろう。言葉を記す理由とならなければ嘘になるか。嘘でも偽りでもかまわず、結果として言葉が記されていればそれでかまわないはずだ。しかしそれはどういうことなのか。君はどうでもいいようなことを語っているわけか。そうかもしれないし、そうでなければ文章にならないのかもしれない。それも嘘だと思っておけばいい。

 しかし君は何を信じられないのか。そんなふうにして誰かが文章を構成していることが理解できないか。それは冗談だろう。少なくとも本気で述べているのではない。では何がどうなってそうなってしまうのか。どうにもならずにそうなっている。結局具体的なことは何も記されない。それは誰の意見でもなく、君が思っていることでもなく、ただそこに文章が記されているだけだ。それは何でもないような現象であり、ひたすら同じような無内容の繰り返しだ。それでも文章になっているから恐ろしいか。当たり前のことかもしれない。安易でくだらぬやり方が蔓延している。そう思うなら思っていればいい。それ以外にどんなやり方があるのか。開き直っても同じ語り方しかできないだろう。だからそこには虚無がもたらされ、誰かを無関心にさせる作用があるらしい。そして嫌気がさしてきて、言葉を記すことなんてどうでもよくなってしまうか。それでかまわないはずだ。何も語っていないのだから当然か。それでも何かが続いている。まったくふざけるのもいい加減にしてほしいか。

 君は何かが起こるのを期待していたはずだ。この世の最後を体験したいか。終わりなどありはしない。終わってしまったら楽しい。誰かの努力が水泡に帰す。いったい誰かはこれまでに何をやってきたのか。ひたすら言葉を記してきたはずだった。では今さら何を反省しているのだろうか。どこへ誘導されているとも思わない。たぶん架空の尋問を想定しているわけで、それでそんなことを述べて、誰かの戸惑いを誘っている。気分でも優れないのか。何となくそんな気分になっているに過ぎない。しかし何がそんなに気に入らないのだろう。まったく心当たりはない。そうでなくともどうかしているままここまでやってきた。このままさらに何がどうなるわけでもないことも承知しているはずだ。だからこうして言葉を記している。安心しているわけか。どうしようもなく停滞しているらしい。いつまでたっても低空飛行から抜け出せず、そんな誰かに嫌気がさして、君はどこかへ消え去ろうとしている。できることではない。何をどう語っても、それは違うこととなってしまい、文章上では何も語っていないこととなり、何がそうなのかわからずじまいで、結局何も語っていないような文章が記されている現状に突き当たる。それで何がどうなっているのだろう。


12月23日

 それの何が現状に当てはまるわけもないが、どうにも修正しようのない誤りを積み重ねているみたいだ。ここで誰が何を語るはずもない。ただ言葉を記して文章を構成するのみか。少なくとも君は語っている。もうこんな時間だ。たぶん君が知っているのはそんなことではない。だが知らなくてもいいことまで知りたいはずもなく、知り得ないことを知りたいわけでもないらしい。ではなぜ誰かはそうやって執拗に言葉を記そうとするのか。何も語る気がしない。ならばやる気がないのだからやめた方がいい。やる気があるから言葉を記している。実質的には何も語っていないではないか。わかっているのはそんなことか。そこで開き直る必要はないだろうが、いったい言葉を記しているのは誰なのか。そういう自問自答の繰り返しは退屈だ。だからそういう問答の繰り返し状態から抜け出さなければならない。だがそれが無理だからこういうことになっているのだ。ではどうすればいいのだろう。現にこうしているではないか。それが問いに対するまともな回答か。君はそれがくだらないと思っているようだ。別に自虐的なことを述べているわけではないが、何となくそれでかまわないとは思わないらしい。

 たぶんそれでかまわないのだろう。かまわないからこうなっている。現状の何を否定しているわけではない。そしていつものように行き詰まっているわけか。だが昨日のことは昨日のことだ。それでどうなるわけでもない。今日は今日でそんなことを語っていればいい。そこから何かをつかみ取れるはずだ。それがたとえ空疎な幻影であろうと、それについて語れば自然と言葉が連なり、それなりの文章が導きだされるだろう。君はそうやって虚無から遠ざかっていけば、やがて現実の事物をつかみ取れるようになるだろう。そしてこの世界に具体的な何かをもたらすに至るはずだ。そんな明るい未来を目指してさらに言葉を連ねていこう。それがここでの冗談なのだろうか。相変わらず誰かは素直になれないようだ。それでもそれを続けて、期待外れの何かを導こうとしている。そんなことがあり得るだろうか。真理に至るには言葉が余分だ。

 ところでこれから自分は何をどうしたいのだろう。神からの返答を求めているわけではない。しかし何か違っていないか。それも返答の一部だろうか。退屈な時間の後に退屈な時間が続き、それが連続しているような実感をもたらして、この世界の中に誰かの意識があることを思い出させてくれるだろうが、自らに対して素直になるとはどういうことなのだろう。思い通りに生きてみればいい。できたら誰もがそうしたいところか。ではしばらくそれをやめてみようではないか。それとは何だろうか。呼吸をやめたら死んでしまう。そんなはぐらかしは空振りに終わるだろう。何を信じたらいいのかわからないからそうなってしまうのか。だがそれがこうなっている理由になっているわけではない。君は何かを乗り越えなければならない。それが何だかわからないだろうが、そこから君の苦難が始まっている。誰が何を占っているでもない。それは今実際に起こっていることだ。

 それでも何とかしようと思っているのだろう。現実に何とかできているのではないか。これがそれか。たぶんそれがこれなのだろう。何とかしている現実がこれなのか。何をここであきらめているのか。しかしなぜ笑ってしまうのだろう。やはり冗談なのかもしれない。今はそれしかない。興味本位で何を見ているわけでもない。そんなことはどうでもいいはずだ。それがどんなことなのか知る必要さえない。君は何かを語り、誰かは何かを記す。それでかまわないのではないか。だからこうなってしまったのだ。今はそれを認めて、その先に進んでいこうとしている。何とかできている現状をさらに良い方向へと進展させようとしているわけだ。それがこれなのであって、これが現状であり、誰かの思い通りにここまでやってきたはずだ。今はそういうこととして現実を受けとめている。そんなのは何でもないことかもしれないが、それがとりあえずの結論であり、それをさらに踏み越えて、その先に広がる荒野を歩んでいくようだ。


12月22日

 荒野に惹かれているのは誰でもない。誰かの意識はどうでもいいようなことを覚えている。冗談の次にはそこが巡ってくるようだ。そこはどこなのか。よく見るとそこで何かがぐるぐる回っているようだ。少なくともそれは言葉ではなく、何かの紙切れがつむじ風に巻き込まれて舞っているだけなのかもしれないが、眠気とともにかろうじて覚えているのはそれだけかもしれない。たぶんそこはこの世界の中のどこかだったのだろう。完全に目が覚めた今となっては、まだそれを探し出せる見込みがあるだろうか。さがす気もあてもないのに、誰かがそんなことを記している。気がつけば無駄な言葉がだいぶ連なっているようだが、誰かにとってはそれが無難な線なのだろう。

 何者にもなれない人は人でなしだろうか。人はそれでも人でいたいらしい。人としてできることはそういうことか。そういうこととはどういうことでもなく、自分が人だと思っていることだ。それでも誰かは人だと思っている。それがそういうことであり、無駄に言葉を記しているのもそういうことの一環だろう。そうだから人は何かをあきらめきれない。いったい何がそうなのか。何でもなければ結局そういうことになる。だから今はそれに逆らって、そうではないことを記したいはずで、懸命に眠気をこらえて何か別のことを思いつこうとしているようだが、今のところは果たせていないらしい。だから無理だと述べている。どうあがいてもそれは無理だ。では無い物ねだりもいい加減にやめてほしいか。やめたければ勝手にやめればいいし、できなければやめているだろう。しかし冗談の続きならいつでもできるはずで、君がそれを求めているのではなく、それどころか誰も求めていないのに、勝手にそれがそう記されてしまう実態がある。だからやはりまともなことを記すのは無理なのか。そう思っていればそうなってしまうだろう。

 しかしいったい何が無理なのか。結論から言えば何も無理ではない。現に誰かが懲りずに言葉を延々と記し続けているではないか。たぶんそれはフィクションなどではなく、紛れもなくここでの現実だ。要するに何も思いつかないから、代わりに空疎な言葉が記される。とりあえず記せるなら内容など何でもかまわないのだろう。無意識のうちにそう思っているのかもしれない。ならばそれがここでのルールだというのか。そうだとすれば意味のない決まり事かもしれず、そんなどうでもいいようなことに精神を縛られて、まったく他の方向に思考が働かず、気がつけばどうしようもなくなっているわけだ。まったくこの世はどうでもいいことばかりにこだわることでしか生きてゆけないらしい。君は自らが生きていると思っているのだろうか。フィクションの中ではそう思っているのかもしれないが、実際にはどうなのか。そこから先はいつものパターンか。ならばやめた方がいいだろう。

 少し気が動転していたようだ。そんな嘘をついてもまともなことを記せるわけもなく、いつもの無内容に終始するしかあり得ない。だから画面の前で笑ってしまい、そんな独白もどきにもしらけている。ならばそこで一服か。意味がわからなくなってしまうかもしれないが、もともと意味などありはせず、ただ何となくそんなことを記しているだけか。しかし出だしの荒野の光景はどうなってしまったのか。日が暮れて夜になり、オオカミの遠吠えでも聞こえているのか。その手の大自然を扱ったテレビ番組ではありふれた光景になるだろうか。それよりも日頃から見慣れている光景の方が圧倒的な印象を持つのではないか。丘陵地帯を埋め尽くすマッチ箱ハウスのことだ。確かに東京の郊外を走る私鉄沿線ではありふれた光景だ。そこでマイホーム願望というありふれた夢が実現しているわけで、小さな人の小さな所有欲が寄り集まってそういう光景を作り上げている。それは見れば見るほど恐ろしくも奇怪な光景に違いない。なぜそう思ってしまうのだろうか。


12月21日

 それはくだらないことのようだ。いったい誰が何を予言しているのか。また性懲りもなく何かが復活しつつあるようだが、たぶんその内容は馬鹿げている。そしてそれについては今のところ誰が何を語ろうとしているのでもない。どうやらそれは真面目に語るべきことではないらしく、何かの予感かもしれないが、それ以上は意識が心の中に踏み込めないようだ。だからもうやめた方がいいだろう。今はそんなことを語るべきではない。気がつけばつぎはぎだらけの文章になっている。君にとっては我慢ならない状況か。それほどのことでもあるまい。

 しかし時代とは何か。過去の時代へとさかのぼって、誰かが勝手に物語を構成している。別にそんなことがしゃくに障るわけでもないだろう。今はその内容を説明する必要も感じられず、ただ何となくそんなことを思い出しているに過ぎない。他にどうでもいいことはいくらでもあり、そのどうでもいい出来事の中に、誰かを悩ませる退屈な構造が潜んでいるわけだ。たぶんそれらがもたらす現象をどう受け止めようとも、その場の思いつきを記す理由を見出せるわけもなく、それらは何でもないことの延長上にある認識と何ら変わるものではないのだ。だからそれについて何を語ろうとも、意味をもたらすような成り行きにはならない。

 君はそこで視点を変えて、何か別の現象に着目しなければならないのか。そうしないと言葉が続かないだろうか。それでもかまわないと思いたいが、そこが誰かの見解とは異なるところだ。君は幻想を抱いている。それ自体はどうということはないが、そこから君の領分を逸脱して考えるとなると、何となく無理があるようだ。人の意識には限界があり、容易にはそこへ入り込んでいけないような愚かさを見つけてしまう。そしてそこで言葉を記すのをやめてしまうらしい。要するに説明するのが面倒くさいのだろう。だがそれ自体が説明ではないのか。

 面倒くさいことは他にもありそうだ。しかしなぜ今頃になって君はそんなことを述べているのだろうか。他に述べることがないからか。そうではないと思いたいのだろう。その辺の思考形態は相変わらずのようだが、君には語れることと語れないことがあるらしい。今はその語れることを語っているはずなのだ。そしてそれが自己言及もどきでしかないことに落胆して、この世界には他に何もないことを悟っているわけか。君はもう外部の思考とやらを忘れてしまったらしく、過去の君を苦しめていた誰かの二番煎じも、今となってはどうでもいいことだと思うようになっている。果たしてそれでかまわないのだろうか。

 たぶんそういう具合に言葉を記していれば作業もはかどり、いつの間にか今日という日付に追いついて、一安心の一件落着となってしまうのだろうが、一方ではそれが安易な行為だと思い、そういう流れに逆らって、そこから逸脱して何か別のことを述べようとしているはずだ。そしてそれが無理であることも承知していて、そんなわけで言葉の停滞を受け入れざるを得なくなっている。それはくだらない状況か。くだらなくて気に入らないようだが、そんなことはわかりきっているはずで、今さら述べるようなことではない。確認するまでもなく、退屈なのかもしれない。

 しかし眠たくなってしまうらしい。君はそこで何をどうしたいのかわからなくなっている。たぶんそれらの言葉の連なりを終わらせるべきなのだ。それを記し続けている誰かを止めなければならない。そして魅力のないそれらの文章を破棄すべきか。できるならすでにやっているところか。また無理なことを述べているようで、やりもしないことをやるべきだと述べて、誰かの心の中に葛藤を生じさせようとしているらしい。まったく冗談にもほどがあるが、それで何が報われるというのか。ただどうしようもない。どうしようもなくそんなことを述べていて、それ以外に述べることがないらしい。だから冗談にもほどがあるというのか。


12月20日

 何がおかしいのか。鏡を覗き込みながら、自分で自分に問いかけ、返ってこない返答をあれこれ空想する。誰がそんな無益な行為に及んでいるわけでもなく、それ自体がフィクションの中で進行中の話以前の何かの断片だ。だからまだ君には何も見えていないらしい。ふと見れば何かの調和が崩れかけている。下弦の月が西の夜空に沈もうとしているわけだ。そんな光景を窓越しに眺めているわけでもなく、何の理由でもなく、ただそんなことを述べている現状があるらしい。もちろんそんなのは嘘だ。言葉が他に見当たらない。

 気休めを求めているのではない。たとえそうであったとしても気休めは必要だ。ならば誰かは何を欲しているのか。気休めに翻弄されている。それが運命だとは思えないのだろう。しかし宿命とは何なのか。誰がそれを受け入れる必要があるのだろうか。君がそうなのかもしれない。誰でもない君が自らの宿命を受け入れる。それが誰でもないことの報いだとは思えない。冗談の先には冗談があり、君が君でないことの何が冗談なのかはわかっている。わかっていなくてもわかっていることになっている。それが冗談なのだからそういうことだ。それの何が間違っているのか。だから何を反省することもない。

 さっきとはわずかに話をそらしてみよう。そんなことをやったとして、それで何がわかるのか。だからそういう話ではないのだろう。何も語らないことが肝心なのだ。そしてさらに過ちを繰り返す。過ぎたるは及ばざるがごとしか。その過剰な言葉の記述が誰かの破滅を招いている。本当にそうであったなら、それらの現状は何を物語っているのだろうか。その辺で一休みして、我に返って沈黙を破ってみれば、そこから見知らぬ者との会話が弾むか。そんな話をどこから仕入れてきたのだろう。唐突に意味のないことを思いついたのかもしれない。

 それをこれからどうしようというのだろう。そんなことではない。たぶんそれが正解だろうが、それとは何なのか。要するにまたしても何でもないということか。結論など何もありはしない。そして思い悩むこともなく、何がどうなっているわけでもなく、君にとってそれ以上の結論はない。君が君でないのだから、何でもないのは当たり前のことであり、そんな君に何が導きだせるわけもない。だから何だというのだろう。それ以上の何を導きだそうとしているのか。話はそこで終わっているはずだ。

 しかし話が終わった後も誰かが言葉を記しているようだ。何かが杞憂に終わらなうちに、気がかりなことを思い出してほしいか。君は何を忘れているのだろう。君に何ができるのか。少なくとも今日という日付に向かって言葉を記している誰かを止めることはできない。たとえ空疎な無内容であろうと、言葉が連なっていればそれでかまわないのだろう。それが気に入らないことは承知している。だから何かに抵抗しているつもりになって、そこから生じる拒否反応を誰かにぶつけようとしているのだ。それはまったくの子供だましかも知れないが、精一杯の抵抗なのではないか。笑ってしまうわけにはいないのだろう。

 それで今回のフィクションは終わりのようだが、まだ思いついたことを述べていないのではないか。君がそう思っているわけではなく、誰かがそう思いたいだけなのだろうが、その先に言葉を連ねるとすればどのような成り行きがふさわしいのだろうか。話が終わった後に言葉を付け足すのは単なる蛇足に違いない。それこそが冗談なのか。別に冗談を述べることにこだわっているわけではなく、ことさらに話を引き延ばしたいわけでもないのだろうが、ただ何となくそれらが話になっていないような気がするらしい。


12月19日

 たぶん物語的な話の展開には飽きているのだろう。映像が話の欠点を補っているわけでもない。限られた時間内にそれを終わらせなければならず、そこに現実にはあり得ないご都合主義が出現せざるを得ない。しかし君は何に飽きているのか。今さら娯楽的なテレビドラマに感動しなければならないわけでもないだろう。その程度のことに言及してしまうのは精神的に追い込まれている証拠か。そういうことだ。もはや冗談とともに語るのは間違っていると思われる。それが何のための冗談なのかわからず、目的を明らかにする必然性を感じられない。だからそういう冗談を述べている現状がおかしいのだ。何を語っているのかわからない。

 それでも何か語っているはずだ。何がそうなのではない。なぜ現実は退屈なのか。そう思っているからそうなのだ。それが現実であり、心ときめくような出来事には巡り会えないだろう。果たして君は冗談でそんなことを述べているのだろうか。それに関しては何ともいえないが、誰も詳細を把握できていないようだ。それはいったい何の話なのか。誰も話の内容を定めることができない。だから迷っているのではないか。誰が迷っているのだろう。

 それらの空疎な存在に気がついているわけではないが、誰も自分が自分からかけ離れた存在だなんて思わないだろう。わかっていることはいくらでもあり、自分が自分であるためには、自分が自分であることを知る必要がありそうだ。そんなわけで何も思いつかなくても何とかしたいわけか。それとこれとは関係ないだろう。無関係であろうとなかろうと、とりあえずそこから逃げるわけにはいかないようだ。君は確実にそれらの文章には無関心になりつつある。虚無以外には何ももたらせないことが原因だろうか。それともそんなふうに語りたくないのか。ではいったい何が間違っているのだろう。

 後からつぎはぎされた記憶に寄りかかりながら、画面上で過去の人物が何かを語り始める。それに関して君が何を語ろうと、きっと物語の作者と劇の台本が誰かを手助けしてくれるだろう。君が君でない証拠はいくらでもある。君である必要はなく、誰か有名な俳優が君を演じれば、それがそのときの君なのだ。ドラマとはそういうものだ。それは簡単な仕組みだ。

 なぜ話の内容を起承転結にもっていきたいのか。誰がそうしたいのだろう。何がわかりやすいわけでもないだろうに、何となくそこで単純明快な主張が要求されているらしい。それを見ながら誰かがカタルシスを感じている。そういうものを見ていると気分が良くなるのだろうか。君としてはそれの手助けができれば本望なのだろう。一時現実から離れ、フィクションを体験して、何か救われたような気持ちになる。人にはそれが必要らしい。時にはそうなのだろう。

 何か精神状態が安定していないか。ここで動揺するわけにはいかないだろう。やっていることは戯れ事に違いなく、どう考えてもどうでもいいことだ。それ以外ではあり得ない。今のところはそうだろう。今ではなくてもそう思う。何が戯れ事なのでもない。虚構の話の中でそうなっているだけだ。本当は誰もそうは思わないはずか。その当時ならそう思うはずだが、今となっては娯楽の対象だ。当時とは何の関係もない誰かが、それを見て感動したりする。当時者意識などの共有を期待するのは虫がよすぎる。


12月18日

 世界のどこかで誰かが叫んでいる。どうかしているのかもしれないが、それだけのことに言葉を費やすわけにはいかないらしく、何となく言葉を記すのが停滞している。他に何をやっているわけでもない。相変わらず馬鹿げているのか。そんなふうに思っているだけだ。内容を見出せずに語るのを放棄してしまうわけか。まだそこまで追い込まれていないだろう。しかしもう夜だ。いつものように夕方まで仕事をしていたはずだ。きっと明日もそうだろう。それで何を思いついたのか。冗談の切れ端ならもう勘弁してほしいか。では何を記せばいいのか。浅はかな見解ならいつでも記せるか。そういうことではない。そこからまともな見解を導きだしたいなら、何をどう考えればいいのだろう。それも違うと思う。欠陥人間について何を思っているのだろう。いきなりそういう話をするのはおかしい。ならばそれも違うのだろうか。人はすぐに疲れてしまう。別に心を病んでいるのではない。とりあえず人は機械ではないから、疲れてしまうと何も考えられなくなって、その後はどうなってしまうのだろうか。何も得難い体験とはならないだろう。笑ってしまって、何もなくなってしまう。それがどうしたのか。何を考えているのでもないようだ。何も思いつかないのだから考えようがない。そして無駄な言葉が並んでいるわけか。

 体験しているのはたわいない現実か。そうではないと思いたいが、本当にそうではないようだ。しかし感動するとはどういうことなのか。何かにだまされて感動しているわけか。ならばもう答えが出ているはずだ。その感動は偽りなのだろうか。たぶん誰の知ったことでもない。たとえ嘘偽りだろうと、実際に感動したのだから、それでいいのではないか。だからそれは君の知ったことではない。意味がわからないが、そういうことだから、それはそれでかまわないのではないか。誰かはフィクションの内容にだまされて感動している。よくできた作り話には違いない。それの何が我慢がならないわけでもない。最近は記す言葉が多すぎるようで、少し文章が長くなっていたらしい。その結果として嫌気がさしていたはずだ。無駄に言葉を弄して意味不明気味に適当なことを語っているつもりだった。それの何がいけなかったのか。退屈にやられて頭が重くなる。勝手に血を吹いたわけではない。おそらくわかる人にしかわからないだろう。しかしそれが何でもないことの結果なのか。そうであったとしても、まだ執拗に言葉を記している誰かがいる。それによってどんな効果を狙っているわけでもなく、思惑も何もありはしない。では何を求めているのか。ただそこにまともな内容が欲しいだけか。それだけはできない相談か。

 それでも君は何とかしようとしている。あきれてものもいえないが、それがそういうことだったのだ。おもしろおかしい話の展開に感動してしまうわけか。すべては台本どおりだ。それでかまわない。今はそうだろう。昔も将来もそうかもしれない。何も考えず、何とも思わない。それだけのことに時間を費やし、それが浪費だと思わない。君は何かの価値を認めない。例えばそれは何だったのか。何がたとえとなるのだろう。語っている内容をなかったことにしたいらしい。虚無的な意見だ。苦し紛れで述べているのなら、それは当然の結果から生じた事実になる。君はいつものようにそこで行き詰まっているわけだ。そして何かを語りだす。いつものように退屈なことを述べていたいようだが、眠くなってきたようだ。どうやら何も語れずに今回も終わってしまうらしい。言葉を連ねて何も語らない。ただあるのは沈黙のみだ。どこをどうやってもそうなってしまい、そこからどう語っても空疎な無内容の連続だ。そしてあきらめて寝てしまう。目が覚めれば翌朝になっているだろう。しかし今さら何を後悔しているのか。まだ何も語っていないのであって、それらの言葉の並びは君とは無関係だ。要するにそれがどうしたわけでもなく、どうもしないまま文章は終わりに近づき、君は何も語れないまま、その場を立ち去らなければならなくなり、それからどうなってしまうのだろう。どうにもこうにも未練がましく何かを告白してしまうのか。


12月17日

 なぜかそうなってしまうようだが、なぜそうなってしまうのだろう。本当にそれがわかっていないのか。わからないからそうなってしまうのだろう。そうではないと思いたい。本当にそうではないのだろうか。いつまでたってもわからないままだろう。状況は何かの一歩手前なのだろうか。それが何だかわからない。わからないはずがない。崩壊の一歩手前か。壁の崩壊ならずいぶん昔の話だ。これから何が起こるとも思えないが、テレビドラマのようなことが現実に起こるのだろうか。誰かの心がけ次第か。何の話なのかわからなくなり、それがいつものことだと悟る。君は眠いだけのようだ。誰かがそれに気づく。その誰かが君自身だからか。しかし今日は話になっていないようだ。くだらないと思っている。そして何かがイカレている。誰かの頭がそうなのか。まったくどうでもいい話だ。人がどこかで群れ集う。誰かは孤独である状況を終わらせようとしているのか。それが君でないことは確からしい。記された言葉がそこから外れていってしまう。そんなことを述べるべきではなかったのかもしれない。今さらそれはない。何がどうなってそうなっているのだろう。どこかで違った話の展開を模索しているのかもしれないが、君がそれを望んでいるのではない。誰かがそれを外そうとしている。それは何かの頸木なのだ。誰かはそれを外そうとして果たせず、未だに悪戦苦闘の最中で、もがき苦しんでいるようだが、何となく次第に無理のような気配が漂ってくる。

 駄目な理由はわかっている。何もないからか。そして眠くなってくる。しかしあったとしてもつまらないことしか述べていないだろう。それで今日は終わりだ。何もお呼びではなく、何をからかっているわけでもない。ふざけるのもいい加減にしてほしいか。それでもそこから退くわけにはいかないらしい。その何もなくても退くに退けない心境が妥当だとは思わないが、作り話なのだろうから、それはそれでそういうことだと思っていればいいことでしかない。自然とまわりくどいことを述べているようだが、やはりそれがどうしたわけでもなく、何かが適当に引っかかっていて、それについて語りたいようだが、言葉を記そうとすると、それとは別の無内容が出てくる。何がどうなってしまったわけでもなく、いつもの成り行きの中で、言葉の連なりが醸し出している虚無と向き合うしかない。それでかまわないとは思わないが、結果的にそうなっている現状をどうすることもできず、それが何を示しているとも思えず、ただの現状の中に意識が溶け込んでいく。それは誰の思惑が反映した結果でもない。未だに何とかしようとしているのだ。それが弛まぬ努力の一環だとは思えないが、実際にそんなことを記しているのだから、それは何かをあきらめきれていない証拠となるだろうか。何かとは何だろう。

 そこで何が語られているのか。何も語られていないようで、代わりに何かが終わっているようだ。だからそれに関して語るのも今回が最後かもしれない。たぶんそれが最後の言葉なのだろう。他に何も語ることができない。この世界には興味がないらしい。しかしそんな嘘をついても無駄だ。興味がなくても言葉を連ねて文章を構成しなければならない。誰に強いられているわけでもなく、自らの意志で何かを語ろうとしているのではないか。実際に適当なことを語っているはずだ。たぶんそれは幻想ではなく現実だ。だからどうしたわけでもないだろうが、そんな文章を記しているのだからこういうことになっている。それはどういうことなのか。どうしたわけでもなく、どういうことでもなく、こういうことだ。要するにまたしても何でもないようなことを述べている。それが紛れもない現実なのだろう。そして何かが終わろうとしている。ところでそう述べて君は何を馬鹿にしているのか。さっきから感覚がおかしい。すでに終わっているのに終わることができない。なぜそうなってしまうのかわからないが、とにかく誰かは言葉を記すのをやめようとしない。何とかしたいのだろうが、結果はことごとく裏目に出てしまっている。しかしそのおかげで何かわかったのではないか。無理なことはやらない方がいい。そんなのは当たり前のことだろう。それがわかっているのにやめられないのも当たり前のことだ。


12月16日

 在日米軍の移転先として、冗談ようだがよく考えれば妥当な場所を思いついた。それはロシアと中国だ。ロシアや中国は国土も広いし、人家から遠く離れた場所などいくらでもあり、騒音問題など起こらないのではないか。またロシアのメドベージェフ大統領も中国の胡錦涛国家主席も結構シャレのわかる人らしいから、案外快く承諾してくれるのではないか。具体的な場所としてはウラジオストックと上海あたりがいいと思う。北朝鮮からもそれほど遠くないし、特にウラジオストックは元々ロシア軍の軍港があるから、共同軍事訓練などもできるだろうし、利便性も高いだろう。しかし笑ってしまうが、こんなことを述べていていいのだろうか。思いついてしまったのだからかまわないか。そしてそれが必ずしもくだらないとも思わない。軍事専門家あたりなら現状維持的なことしか考えられないのだろうが、本当に各国の軍事的なパワーバランスなどというものがあるのだろうか。無政府状態のソマリアとかテロだらけのアフガニスタンなら、戦争もやむを得ないところかもしれないが、日本の周囲にある軍事力に何の意味があるのだろう。戦争に踏みきるのを躊躇させるための抑止力が働いているというなら、中国もロシアもアメリカも、互いに自国の領土に他国の軍事基地を受け入れておけば、より有効に抑止力が働くはずだ。

 気まぐれに誰かが何か述べているようだ。ところで君の沈黙はその後どうなったのか。何か心境の変化とやらに至って、本音で語る気にでもなったのだろうか。誰かは基本的に誰の気も知らない。それの何が見え透いているわけでもない。たぶん冗談の次に書き記されるのは空疎だ。君の虚無的で架空の言説には何か隠された目的や思惑が潜んでいるのではないか。何を深読みしたいわけではなく、誰かの興味をつなぎ止めるためにそんなことを述べているのかもしれないが、それがうまくいっていないはずだ。なぜそんなことがわかるのだろう。君の知ったことではない。確かに知ったことではないが、君が何を述べているわけでもない。今さら暇にまかせて何をやるわけでもない。何も語れなくなっているだけか。そうかもしれないし、そうでないかもしれないが、そんなことはどうでもいいのだろう。さっきからくだらない語りが長引いている。たぶん誰かは何となく生きているのだろう。世界情勢などとは無縁か。何に憤っているわけでもなく、他人の境遇までこだわっていられないか。誰が何を発言しようと、そのほとんどは無視される傾向にある。誰かはそれでかまわないのだろうか。

 いったいこの世界は何のためにあるのだろうか。そういう疑問を発すること自体が間違っている。答えのない問いに対して無理に答えようとすると、そこから先はくだらぬ妄想の世界となる。人間が存在していることには何か崇高な目的があるはずか。では冗談の先には何があるのだろう。そう述べて誰かは話を逸らそうとしている。本質的な内容ではなく、崇高な目的を省いて、別の何かがもたらされるように努力すべきなのか。それでも人は生きている。だから君はそこで語るのをやめなければならない。どこかで何かが遮断されているようで、それが誰かを迷わせる。君は寒さに凍え、やがて眠ってしまう。そこで凍死してしまうわけか。架空の存在がいかにして凍死する成り行きが示されるのか。たぶんそんな話を空想していたのかもしれないが、誰が空想していたのだろう。フィクションを構成できるほどの力が誰に残っているとは思えない。また疲れてしまったのか。何かの途中からでたらめに推移しているようだ。話がそうなのか。君がそうなのかもしれず、そこで冗談を述べているのは君に違いない。そして気がつけば日付が今日になっている。それが何の冗談なのかよくわからないが、事実としてそうなのかもしれない。だから明日になってしまわないうちに、さっさと言葉を配置して、何かに関する記述を終わらせるべきだ。案外君もそういう気でいるのだろう。テレビ画面からはすでに背を向けて、一心不乱というわけでもないが、とりあえず誰かが言葉を記しているようで、それの完成もすぐ近くまできている。何が間近だとも思えないが、中途半端に終わらせてもかまわない。


12月15日

 どういうわけか知らないが、そんな嘘をつきながらも、何となくそういう方向に言葉の連なりは進んでいってしまうらしい。それでいいわけはないだろうが、どうしようもなくそうなってしまい、あきらめなければならない成り行きになっているようだ。例えば過去に実在した人物について何を語ろうと、その人物伝的な小説やテレビドラマに感動して、そこから生きていくための教訓などを学んだつもりであっても、やはりそれは違っているのかもしれない。知識として身につき、頭の中に蓄積された経験を活用して生き抜くつもりらしいが、そういう話ではないらしい。君はいったい何を見据えてそんなことを語っているのか。何かが君を裏切っている。それは期待であり希望なのだろう。人はどうしようもなくそういう成り行きに巻き込まれ、困難に立ち向かい、それを克服するために努力を惜しまないのかもしれないが、たぶんそれだけでは駄目なのだ。やはりそういうことではないらしい。具体的に何をやっているのだ。何に思い悩みどう行動しているのか。そんなことでもない。しかし何がどうでもいいことなのだろうか。そこから意識が逸脱していってしまうようだ。そして季節は移り変わり、歳月の経過とともに忘れ去られ、その時何を考えていたのか思い出せなくなり、またたわいないこだわりにとらわれている自らに気づく。

 事前に打ち立てられた戦略も戦術もある程度は通用すると思われ、その通用する状況の範囲内で何かうまくやっているような幻想を抱いているのかもしれない。何か様々な試行錯誤の末にたどり着いた境地のようなものに浸っていて、そこで自己満足を味わっているのかもしれないが、一時の安らぎが何をもたらしているとも思えない。一方で努力の甲斐あってそこまでやってきたのだから、それで満足すべきかもしれず、その辺が限界であり、それ以上を望んでも仕方ないのかもしれない。何が方便でもなく、やはり自己満足に浸って、そこまでだとあきらめるべきなのか。まったく何について語っているのかわからず、そんなふうに語るべきではないのかもしれない。ではいつものように冗談で済ますべきなのか。何もかもが馬鹿げているように思われ、それで考えるのをあきらめてしまいそうになる。要するに黄昏ているわけか。それが冗談のすべてだと思われる。まったくたわいないことだ。果たして初志貫徹と臨機応変は共存可能だろうか。浅はかな思考の持ち主にわかるはずがない。言説をそこまでひっぱっていくこともない。だからその辺でやめにしたいが、何となく惰性で続いてしまい、それが困った事態を引き起こしているわけか。

 いったいどこまで長続きするのか。たぶん何をどうするつもりもないのではないか。まだ何をあきらめたわけでもないようで、気がつけば忘却の彼方から過去の亡霊が蘇っていて、盛んに君をどこかへ誘おうとする。だから何とかできる範囲内で何とかするのが倫理的な態度かもしれない。今のところ何が正解とも思えないが、結果的に間違っていてもかまわず、とりあえずそれを続けてゆくしかない。たぶん何とかできるような事態に直面しているわけでもない。何とかできないから迷っているはずで、迷いながらも、その迷いを抱え込んだまま続けている。思いついた言葉は記されなければならないのだろうが、思いつかなくとも言葉を連ねて文章を構成してゆくべきなのだ。それが不可能であり、そこに残された可能性なのだろう。そしてそう思うことが確実に間違っているわけだから、やはり間違っていてもかまわないということか。矛盾しているようだが、それだけのことであり、現実にそういうことなのだろう。たぶんそれ以外には何もなく、何もないからそんなことを述べている。それで何が明らかになっているとも思えないが、そういうことでしかない。君は絶えずできないことをやろうとして挫折を繰り返す。それでかまわないのだ。


12月14日

 何かをやるには窮屈な環境で何をやろうとしているのか。わからないが何か適当なことを語ろうとしているらしい。それでどうしたのか。何がわからないのだろう。たぶんタイミング的に間違っているのかもしれない。君は今取り返しのつかない過ちを犯しているのか。そうであったらどうだというのか。何も心配することはない。君ではない誰かが適当なところへ導いてくれるだろう。そこがどこだか見当はついているかもしれないが、取り立てて騒ぎ立てるようなところではない。君はいつものように沈黙を守っていれば、それで万事が丸く収まるのか。しかしここでの万事とは何なのか。ただ文字を記すことがすべてなのだろうか。何か他に思うところでもあるのだろうか。思っているとすればそれは何なのか。何を思っているとしても、それがどんな効用をもたらすとも思えない。たぶん少し冷静になるべきだ。ひたすら何でもないことを述べているのはおかしいだろうか。たまにはそうではないと思いたいのではないか。何か中身のあることを述べているつもりでないとやりきれないか。とりあえず今はそんなことにこだわっている場合ではない。ただ文字を記して、何か語っているような気でいればそれで構わないはずだ。そして構う構わないの問題でもなく、そこで何か適当なことを語っている現状を認めるべきだ。そしてそんな現状をさらに続けなければ気が済まないはずだ。

 どこからともなく冷気が忍び寄ってくる。今は冬で夜なのだから、そんなのは当たり前のことか。だから君はそんなことを述べてみたのだろう。確かに誰かの作り話の中ではそうだが、それがどうしたわけでもないのも当然のことに違いない。しかし君はいったい何を語りたいのか。そんなことではないはずか。では本当に語りたい内容が見当たらないのはどうしたわけなのか。ただ思いつかないだけか。今の君は投げやりな気分になっているのだろう。誰かの想像ではそういうことだ。他に何を空想したいのでもないらしい。たぶんそんなことを述べている必要はないのだろう。必要もないのに何か適当なことを語っているふりをするのがそこでの決まりごとだ。誰が何を決めたわけでもなく、その場の思いつきでもないことを決まりごとだと記してみる。そうすればどうなるのだろうか。こうなっているだけか。どうなっているわけでもなく、現状はこうなっている。君はそんなことを述べているつもりになれる。架空の存在だからそれも許されるのだろう。そういうことにしておこう。それでも弛まぬ努力の最中なのかもしれず、たとえそれが思いっきりの勘違いだとしても、何となくそれでも構わないような気がしている。そう思ってしまうことがおかしいのか。そうだとしても、もうここまできてしまったから、そんなふうに続けていくしかない。君にはどうしようもできないことだ。

 冗談はさておき、何も冗談だとは思わないが、何となくそれではまずいような気もするので、何かまともなことを述べるように努力してみるつもりのようだ。それはどういうことなのか。この世界の中で人々は何をやっているのか。何を考え、どう行動しているのだろう。誰かが音楽を聴いている。またくだらない思いつきを言葉で表現しようとしている。それがかなわぬ願いとどう結びつくのか興味津々というわけでもないだろうが、人はそれでも何か適当なことを考えようとしている。守るものは何もない。君はテロリストではなく、誇り高き戦闘民族でもない。要するに土人ではないということだ。人にも色々な種類があるのだろう。見た目でどんな印象をまき散らしているとしても、たわいないことに命がけにはなりたくないらしい。殺しあう人々にはわからないことが、君に理解可能というわけでもないが、とりあえずの見解としては、別に本気で語り合うような問題ではない。何がそうかといえば、すべての問題がそうなのかもしれず、誰かはそれらの障害を取り除こうとはせず、ただ避けているだけのような立ち振る舞いに終始している。何だかそれが呆れ返るような反応をもたらしているわけで、さすがにそれでも構わないと強弁するつもりはないようだが、実際にそんな言動や行動に接していると、何だか愉快な気分になれる。確かにそれで楽しそうに言葉を記している誰かを想像しながら、心の中で笑っているようだ。


12月13日

 どうも今日はやる気がしない。思うことは何もなく、夜になり明日になろうとしている。誰かは何を努力しているのか。心は何も感じていない。誰かはそこで何を感じていたのだろうか。誰もいないから何も感じていない。緊張感が欠如しているようだ。何も語る気がしない。そんなことを述べながらも、何について語っているのだろうか。文章も虚無に侵食されている。今日という日付から遠ざかっていくらしい。心が抑え込まれているように感じられる。虚無がそうしているのだろうか。なぜ無駄な努力を繰り返すのか。宝探しの物語がどうかしたのか。君は今日も疲れているはずだ。疲れているから眠たくなる。ストレスを感じているのだとすれば、何がそうなのか。そんなに眠たいのならすぐに寝てしまえばいいだけのことか。ゲームはまだ終わっていないらしい。君は参加していないはずだ。いったい何を無視しているのだろう。できることとできないことの間にはどんな可能性が横たわっているのか。それは何でもないことではなさそうだが、他に何も思いつかず、やはり何でもないと嘘をつきたくなる。本当ではないのに何でもないことになる。それとは何だろう。感性が何からずれているのだろう。人々はいつまでも幻影を追い求める。それが何の幻影なのかわからないまま追い求めているのだ。だから君が述べることは何でもない。理由になっていないのにそう述べるしかない。

 また何かのアレルギー症状が出てくる。皮膚が痒いのはそういうことだ。画面上や紙面上やスクリーン上に幻影を求めるわけにはいかないらしい。では何も追い求めなくても構わないのか。結果を求めず、酬われないことが肝心だ。それは幻影ではない。何かの気分なのかもしれない。気分次第で何にでもなるだろう。幻影でなければ何なのか。だから何でもないと述べているはずだ。何を語っても何でもない。何がそうなのではなく、すべてがそうだ。だから何も語れなくなるのだろうが、それでも言葉を記している。それの何がおかしいのか。確かにそれはおかしなことだ。何を確認したいわけではない。何かがおかしいだけか。何もおかしくはないが、ただおかしいと思っている。やはりそれだけのことなのだ。考えあぐねて一夜明けたら二日遅れとなっていた。だから無理だと思っていたはずだ。人は幻影を追い求め、幻想を抱き、それからどうなるのだろうか。ありえない未来を思い描きながら死んでゆくだけか。君はそんな結果に満足するのか。不満に思っているのだろうが、やがてあきらめてしまうだろう。人には限界があるらしい。それは当たり前のことだ。

 とりあえず今日は何とかしなければならない。人は人によって作り出された環境の中でそれを体験する。それについて君はどう思っているのか。ただのゲームだ。果たしてこの社会にはゲームに参加すること以外の選択肢があるのだろうか。何もしなければ生きてゆけない。では何かをすることがゲームに参加することなのか。人がやっていることを何でもかんでもゲームだとみなして、それ何を語ろうとしているのか。ただそれがゲームだとみなしているだけか。語っていることの意味がわからない。誰が何を語っているのか。少なくとも君はそこで何も語っていないはずだ。しかしそれが文章なのだろうか。それの何がまともな内容を有しているのか。今よりよくなる可能性がないか。それが何の可能性なのか定かでない。誰かはそれでも何とかできると思っているのだろう。今まではそうしてきたはずだ。語ることが何もなくなってからもそうしている。ただ言葉を記し連ねているようだが、本当に何もない。それが君が知っている現状だ。この世界には何もないという偽りの認識を誰かと共有しているつもりになっている。だからそんなことはありえないだろう。だがありえなくても構わないようなのだ。


12月12日

 それから何かはどうなったのだろうか。何も語らず、ひたすら沈黙を守っている。そんな話が以前にも語られていたかもしれない。誰かが歌っている。誰も何も語らないが、それは誰もいないからか。そこは空洞のただ中だ。心の中に何が穿たれているとも思えないが、何となくそんな印象を感じる。他に何を覚えているのでもない。石畳の道を歩き、それがいつの記憶か探っているうちに、誰を捜していたのか忘れていることに気づく。アニメの中の探偵ではないので、犯人を捜していたわけではない。少し落ち着いて記された文字を追って、そこに何が書かれていたのか理解しようとするが、何となくしらけている。何がつまらないのではなく、すべてが無内容なのか。それはありえないことだろうか。君に限って文章読解力が欠けているとも思えない。それでも何かが違っているのだろう。それがわからずにどうすることもできず、今に至っている。たぶん何もできない現状を打破して、何とかしなければならないのだろう。近頃はそんなことばかり考えているようで、思うだけ思って実行力が伴っていない現状がある。だからそれを打破しなければならないのだろう。何か同じような言葉が繰り返されていないか。それはきっと気のせいだ。

 要するに行き詰まっているわけか。別にそれでどうなっているとも思わない。ただその後に言葉が続かないだけか。何も最後の悪あがきというわけでもないだろう。今も何とかできると思っているはずだ。ただ何とかしたいだけか。いったい何について語っているのだろう。粗雑なことを語っているようで、それが言い訳になっていないようだ。しかし本当に何をどうしたらいいのだろうか。音楽を聴いているだけでは埒があかない。いつまでもそんなことばかり語っているわけにはいかなくなる。できればそうなってほしいものだ。何かを調整して文章をまともな内容にまとめ上げようとしているのか。いったい何を調整しているのか。心理状態を平常心に保ちたい。語るとはどういうことなのか。いきなりそれはないだろうか。たぶん語るとはそういうことではないのだろう。論理的な説明ができないようだが、何となくそう思っている。それでも何とかしたいのだろうが、どうしても何でもなくなってしまうようだ。気がつけば空疎なことを語っている。昼間仕事をしながら何かに気づいたはずだ。この世にはできることとできないことがある。わかりきったことだ。それができないから悩んでいるのではないか。

 君は粘り強く仕事をこなそうとしていて、それが今ある現状を作り上げている。どうにもできないからどうにかしようと努力しているわけだ。はじめから無理な話だ。無理なら現状を受け入れなければならない。だから受け入れ難いからそうしている。矛盾しているのを承知で何とかしようとしているのだ。やけになって軽はずみなことをやってはいけない。冷静になってもう一度よく考えてみるべきか。いつもそうやっているつもりなら、さらに冷静になるべきか。いくら冷静になってもどうなるものでもないだろう。考えあぐねているはずだ。迷っているだけで、どこへも一歩も踏み出せずにいるらしい。何とかしたいのはやまやまだが、妙案が浮かんでこない。心は沈んだまま、どこに沈んでいるのかわからないが、何となく意気消沈しているようだ。ようはタイミングなのかもしれない。そう述べて何を単純化したがっているのか。何に反論したいわけでもなく、どこに話の出口があるわけでもない。美的な感性が備わっているわけでもなく、戦争によって紛争を解決しようとしているどこかの国の大統領を気の毒に思っているわけでもない。ガラスの林檎をどこへ飾っているわけでもなく、そんな曲を聴いているだけかもしれず、それが何の解決にもなっていないことをいぶかしく思うはずもない。ただ何となくそれで構わないような気がするだけか。


12月11日

 またわからなくなってきたようだ。気がつけば不思議なことを語っている。何を混乱していたのか。確かに思いがけない事態に遭遇してしまい、その不可解な現象に出会い、信じられないような気分となる。何がそれほどまでに驚かせたのか。何となく呆気にとられていたのかもしれないが、それがその時の心境だったのか。君は後からそれについてどう思ってみても、すでに新鮮味が失われているだろうが、今は疲れているだけのようだ。何の理由でもなく、ただの言い訳がましい言葉とも無縁の何かがそこで語られていたわけか。やはり君にそれがわかるとは思えない。わからなくても構わないのかもしれず、何もわからないのに、わかっているように振る舞うこともできる。しかしいったい何がわかっているのか。まったく話が見えてこない。その空疎な内容が何なのか。何でもないから空疎なのだろうか。そうかもしれないし、そうではないのかもしれない。どちらなのだろうか。だからまったくわかっていないのではないか。

 そして気がつくとまた夜になっている。今日も仕事をしていたはずだが、そのことについては何も語らない。つまらないから語る必要性を感じないのかもしれない。世界の辺境地域では状況が悪化しているそうだ。ニュースでも見ているのかもしれない。その時の記憶は何でもないのですぐに消え去り、また新たな記憶が脳裏に刻まれ、そこから先には適当な話が語られるのではないか。だが時間的な順序がわからない。何が語られた後に別に何が語られるのか。そしてそんなことに誰が興味を持つのか。始まりは今の雰囲気とは違っていたはずだ。これは何の話だったのか。信じられないくらいに空疎で虚無的な気分になってしまいそうだ。本当にそうなのではない。そこで何かを見つけたのかもしれない。そして今はわからなくなってしまったことについて言葉を費やす。それが正直な気持ちだろうか。嘘に決まっているだろう。本気ではありえない。そんなふうに思っているだけか。それも嘘かもしれず、何をどう述べても嘘になってしまうような気がして、その先を見据えて何を考えたらいいのかわからなくなっているようだ。たぶん本当にそうなのではないか。

 それこそありえないことだろう。記憶はいつも曖昧な印象を持つ。ところでそれの何がありえないのか。今語っている理由が見えてこない。何か適当に言葉を並べているだけだろう。それが何を意味するのか。たぶん何らかの心境の変化でも物語っているはずか。何がありえないのではなく、そういうことでしかない。何もそういうことではないが、とりあえずそういうことだと思っている。誰が思っているのでもなく、誰かがそう思っていることにしている。だから何がそうなのでもない。何もそうではないのだ。すべては空疎から生じている。にわかに湧き上がる感情もそうだ。過去の自分を否定して、ありふれたことを思う。明らかに間違っている。それを否定するのがありふれたことなのか。間違ったことを肯定できないのもありふれている。体調が思わしくないらしい。いつだってそのつもりであり、気分が壮快なんてありえないことだ。だが思い通りにいかないから悩んでいるのもありふれている。だからこうしてありふれたことを述べているのではないか。君の何が正気の沙汰から遠いわけでもなく、理由など無視しながらそうなっているのが当たり前のことなのだ。ならば何をどう語ればいいのか。今語っているように語ればいい。それがここで実現している語りの一部始終になるだろう。だから結果的に何を困っているわけでもない。


12月10日

 しかしそれがまともな対応なのだろうか。つまらない理由からつまらないことを考える。そこから何を求められるだろうか。たぶんまたつまらない妄想でも抱いているのだろう。新しい環境に慣れなければならないのだろうが、もう少し何とかならないものか。疑念を抱いている。それで正解なのだろう。疑問だらけの行動だ。茶番劇ではないのか。何がそうなのかは誰もが知っているはずだ。おそらく今さらそんなことを述べるべきではないのだろう。君はそこで何かを見失う。そして少し何かを我慢しなければならない。たぶんつまらない理由でそうしているのだろう。先ほど述べた茶番劇の中で人々が互いに怒鳴り合っているのだろう。やはり誰もが馬鹿なんじゃないだろうか。おそらく真剣に語るべきことではない。ではくだらないことを述べているだけなのか。そうかもしれないし、気が散って何もまともに考えられないのだろう。実際に何を述べているのでもない。そうではないと思いたいだけのようだが、残念ながらそういうことだ。そうなってしまっているのだから、それを受け入れなければならない。それ以外の話の展開は無理であり、いつまでたっても意味不明のままだ。

 なぜこの世界には魅力がないのだろうか。思い通りにならないからか。いったい君は何がくだらないと思っているのか。感情にまかせて怒鳴り合うのはテレビドラマの中で行われている演技だ。君には関係のないことだろう。それが誰の逃げ口上なのか定かでないが、少なくとも誰かはそうではないと思いたい。語っているうちにだんだんわけがわからなくなってきた。おそらくまだその時ではないのだろう。しかし何がその時なのか。決定的な言葉とは無縁だ。話になっていないだけだろう。何とかしたいのだろうが、現状では何ともなっていない。とっ散らかった話の内容を整理する気も起こらず、気休めに聴いている音楽にも関心がない。なぜそうなってしまうのか。理由を探る気にもなれない。ただ興味を持てない。薄暗い影がこちらに向かって近づいてくる。どうやら嘘をついているらしい。何に気づいたわけでもないはずだ。語る気にならないのは、語ることがないからだ。何を批判しているわけでもなく、ただ騒ぎたいだけなのかもしれない。だが何を騒ぎ立てているとも思えない。では何をそんなに打ち消そうとしているのか。受け入れられない話ではない。

 本当に何も語っていないようだ。さっきまではそうだった。きっとこれからもそうだろう。何を語るにも至らない。内容を見出せない。だからもうあきらめた方がいい。そのまま何も語らずに言葉を連ねていったらいいだろう。それが気に入らないのだろうか。気に入らなければどうしようというのか。君はそれに反論すべきなのか。何か他に語るべきことがあるというのか。たぶんそういうことではないような気がする。どこかで何かがずれているのだろう。怒りも湧いてこないし、批判すべきことなど何もない。そんなふうに語るべきではないのだろう。ではそれが自然の成り行きに沿った語り方なのか。客観的にそれはただのでたらめに思える。本当にそれだけのことなのだ。そう思われてしまうのだからどうしようもない。意味のない言葉の連なりが延々と続いているだけのような気がしてくるのだ。なぜそこから何らかの主張が湧き上がってこないのか。それがないものねだりであることは承知しているつもりか。だから何だというのだろう。今こそ何もない現実を見据えなければならない。たとえそれが嘘だとしても、そう思っているのだからしかたがない。そこには何もないわけではなく、言葉とともに誰かの思いがあるはずだが、それがつまらない現実を言葉で表現しているわけか。

 それでもまだ心の底から何らかの主張や本音が上がってくることを願っているのだろう。だからさらに言葉を連ねて、その機会を待っている。待っているつもりなのだ。結果がどうあれ、待ちつづけなければならないと思っている。骨折り損のくたびれ儲けになっても構わないか。言葉に行き詰まっているのに言葉を連ねている。もう少し真面目になれないものか。何をそうすればまともな言説を記すに至るのだろうか。そこから先に考えが及ばないのだろう。どこへも至らなくても構わないのかもしれない。そういうわけだからそれを続けてしまっているわけだ。まったく埒があかないようだが、さらに言葉を連ねようとして、実際にこうして言葉を記しつづけ、うんざりするほど行き詰まる。それでも言葉を記すのをやめようとしないのだろう。それはどんな意志に基づいているのでもなく、惰性でやっていることではないのか。それに対する返答としては、それがどうしたと述べるしかない。そしてそんな懲りない開き直りがさらにやる気を失う。そんなわけで君はどこまでも愚かだ。続けているのをやめなければさらに愚かになるしかない。何がどうしてそうなってしまうのだろうか。いったいそれの何が問題なのか。


12月9日

 もう夜だ。辺りから誰のささやき声が聞こえてくるわけもなく、何がさっぱりわからないわけではない。またつまらないことでも考えているのだろう。君は何の到来を待っているのか。漫画的には天変地異でも待っているのだろうが、フィクションを楽しむことはできない。何を信じればいいのかわかっているつもりだ。だがそんな嘘をついて何をもたらしていのでもない。それは君が語るべきことではない。では何も語れないではないか。何をそんなに心配しているのか。誰と誰の対話でもない。ただ笑ってしまう。何をそんなに無視しているのか。誰もそんなことはおかまいなしだ。何がそうなのではない。話はどこから逸脱しているのだろう。何でもないというのは嘘だったのか。かなり苦しそうだ。まだ遠いのだろう。何から遠いわけではない。ただ耳が遠いふりをしているだけで、聞こえていることを聞き逃したように振る舞う。心が何かの強迫観念にとらわれているのだろう。どうしようもなければ、そこから出てゆけばいいことでしかない。

 もう外れてしまったのか。別に心を病んでいるわけではない。やる気をなくしているのは毎度のことで、ただ何もなかったことにしておきたいのだろう。今はその気ではないのか。何も疑念を抱いているとは限らない。少なくとも外れているのは心だけだ。感情がどこへもついてこない。何とも思っていないのだろう。何が起こっても何とも思わない。そればかりか、近頃は自分ではないような気がしている。そんなことがあるとは思わないが、それが誰の独白だとも思えない。誰かは誰に向かって何を告白しているつもりなのだろう。それに対して何をどう説明すべきなのか。それでもまだそこから外れていないと思っているわけか。実際にそこで何がどうしたわけでもなく、他に何を説明しているわけでもないらしい。しかし誰にそれを伝えようとしているのだろうか。君にそれがわかるわけもない。まだ何かの途上なのだろう。それらの文章は文章として、そんなふうに推移しているわけで、その成り行きについて誰が何を思うこともない。誰かはまだフィクションの中にいる登場人物以外の何者でもない。

 少し意味不明が過ぎるだろうか。少なくとも少しではない。では大いに何が何なのか。並べられた言葉は多ければ多いほどいいか。内容が何も伴っていないのではないか。ならばそこで何を反省すべきなのか。意味のない言葉の連なりがジャズだとは思わない。ジャズ的な言葉の配置でもなく、そんな配置を空想しても、ジャズとは何の関係もない文章になるだけか。そう述べている時、いったい誰かが何を念頭に置いているのだろうか。だから少なくとも意味不明ではないわけか。大いに意味があるわけでもないだろう。ただ何だかそれは違っているような気がするだけか。何を打ち消しているとも思えない。では何かがうまくいくように努力しているつもりなのか。しかしそこで行われている作業とは何なのか。何かしらやっていることについて説明すべきなのか。それがそのものなのかもしれない。だから何だというわけでもないが、とりあえずはそこで何とかしているつもりになりたいようだが、結果的に何がどうなっているわけでもないのはどういうことなのか。

 未だに何を思っているのだろう。この世界について何か述べるべきことでも見つけたのか。倫理的には何もなく、何の責任も感じない。君の心はすべてから外れているようだ。今は誰もがそう思いたい。それは誰の被害妄想とも結びつかず、精神的なダメージを最小限に抑えるためのやり方とも違う。わざと言葉を外しているだけだ。的外れなことをひたすら述べているのかもしれない。それがやる気を失っている証拠か。ただの余分な無内容だ。何でもないのに余計に何でもないように感じられてしまい、その先に何もないことを悟ってしまい、わざわざそれについて語るのが余計なおせっかいだと思いたくなる。本当にそうなのだろうか。よく見れば赤錆に覆われていて、盛んに意味不明でぎこちない動作を繰り返しているようだ。いったいそれが何をもたらすというのか。まだ何かを検討している最中なのかもしれず、まともな結論に至るには、さらなる言葉の連なりが必要とされている。そんなのは何かの思い込みに違いない。誰も何も思っていないようなことが述べられているだけか。たぶんそれは何かの勘違いだ。


12月8日

 現状の何が問題というわけでもないだろうが、とりあえずそこからが問題なのか。この世はこの世で、あの世も死後の世界もこの世に含まれるだろうが、そのすべてがどうしたわけでもなく、ただこの世で暮らしている。虚構の物語の中に息づいているわけではなく、誰かがそれを見聞して楽しんでいる。いったいそれの何が不都合なのか。わかっているのは何も思いつかないことだ。何をはやし立てているのだろうか。何がそんなにおもしろいのか。誰もがゲームに参加していて、たぶんその中に自業自得の不具合が生じているのだろう。常に誰かと何かを競わなければならないという強迫観念に取り憑かれ、それが不要であるような世界を思い浮かべられなくなっている。実態は何でもないのにそればかりなのだ。

 しかし君はそこから何をやろうとしているのか。ゲームに勝つことばかり考えているその他大勢の人々を嘲笑っているだけはだめか。不必要に見栄を張らなくてもかまわないことは誰もが承知していることだが、果たしてそれ以外に何があるのだろう。何も思いつかないだけでは物足りない。この世は何でもないことばかりではない。そんな認識を何によって打ち砕こうとしているのか。そういうことではないだろう。だから君には何ももたらせない。そういう逃げ方では説得力を持ち得ない。

 たぶん何もできないわけではない。現に何かをできているのではないか。幻想ではないのだろう。それで少しは前向きになれるわけでもないのだろうが、とにかく言葉を並べて何かを語っているつもりになれる。それ以上の何を望んでいるのか。ようやく目が覚めてきたらしい。何でもないことの次には何がくるのだろう。誰かは冗談だと思っている。そんなことはあり得ない。そう思っていれば、やがて何か別のことを思いつくかもしれない。そしてそれを記して文章にするのか。たぶん君の未来にはくだらない決断が待ち受けているだろう。ありえない出来事を記述しなければならなくなり、それがありふれたフィクションとなる。それが何なのか。やはり何でもないことに違いない。そして落胆して、その後どうなるのだろうか。

 何かが帳消しとなっているのかもしれず、そこで話が終わっているのだろう。そしてその後にどんな言葉が連なるのか。何も用意されていない。それが事実なのだろう。いつものように君には関係のない話だ。しかしなぜそれができないのか。きっとそれは誰かの呪いなのだ。なぜか笑ってしまう。そうだったらおもしろそうだが、何のリアリティもありはしない。それでも言葉を記している。何となくそうなのだ。それでうまくいっているのだろうか。結果としてはそういうことだ。何も強がっているのではなく、実際にそうなのだろう。今回も中身のない話に終始しているようだが、果たしてそれがいつまで続くのか。続く限り続くのだろう。ただそれだけのことであり、それがそこでの空疎感を醸し出しているのだ。


12月7日

 昨日も晴れていただろうか。問いかけるのはもうやめにしないか。なぜそうやっていつも問いかけてしまうのか。君の知り得るところではない。君とは誰なのか。そこには誰もいない。この世は何から成り立っているのだろうか。人はいつでも画面を見つめていたいらしい。それがテレビであれ携帯電話であれ、そこから何かしら情報を得ている。それが何に役立っているとも思えないが、とにかく暇な時は四六時中画面を見つめている。そこから何がわかるのか。何かの光景を見ているのが好きなのか。好きであったら何なのか。ただ眠たい。退屈を持て余している身分になりたいものだ。それが何の冗談に結びつくとも思えない。たぶん語りたいのはそんなことではないのだろう。

 くだらないことを思っている。君は何かを論理的に考えるのが苦手のようだ。別にそれが愚かなことではない。様々なことを思っている。くだらないこともその中の一つなのだろう。とりあえず今が未曾有の危機ではないようだ。しかし限られた時間内に何をすればいいのか。依然として何も思いつかず、思いがけないことは思いもしないところからくるらしい。君がそれを克服できるとは思わない。いつだってそうだ。

 何を取り乱しているのでもない。そこ本気になってはまずいのか。いつだって冗談半分で軽薄なことを述べていたはずか。いつも空が晴れているとは限らない。たまたま今日は晴れていて、空が晴れているから何も思いつかないわけではない。個人の主張などその効果はたかが知れている。しかし幻想を追い求めても事態は何も変わらない。社会には様々な仕掛けが張り巡らされていて、それらのどこに引っかかっても不思議ではない。そうならないためにはどうしたらいいのだろうか。別にそれを考えているわけではない。少なくとも今は違っている。

 素直にそれらの不具合を何とかしなければならないのだろう。やらなければならないことはすぐにわかってしまうが、実際に何をどうしようとしているのか。君がそれをどうにかしたいらしい。何の権限があってそうしたいわけでもないが、とにかくどうにかしたいようだ。今まさにその最中なのではないか。現にどうにかしつつあるようだ。結果的にはどうにもできなかったことではなかったらしい。何とかしていると思っている。そういう思い込みが本当にそうなのかわからないが、そういうことなのだろう。何も導き出せてはいないが、それがそこでの現状なのだ。

 人はいつまでもあきらめきれない。そういう感覚が抜けきれていないようで、まだやれると思っている。実際に居眠りの最中であるにもかかわらず、夢の中で何かをやっているつもりなのだ。君はまだ不可能に挑戦し続けるつもりのようだ。まったくご苦労なことだ。冷気に当たって少しは目が覚めただろうか。そんなふうには感じないのはどういうわけなのか。何をあきらめることができるだろうか。まったく先が読めない成り行きの中で、君は何をどうしようとしているのか。いくら言葉を並べても、わからないことはわからないままだろう。現状ではそれをどうすることもできない。


12月6日

 たぶんそれだけのことなのだ。それだけのことに時間を割いているようだが、無駄なことに費やしているのだろうか。貴重な時間でも掛け替えのない時間でもない。適当でいい加減なことしか述べられない時間帯だ。そこで何を求めているのか。何も求まらないから苦しんでいるわけか。必死で抵抗を試みている。だが何がそうなのかわからない。そうではないからそうなってしまったのだろう。何も思いつかず、慌てているような気もしてくるが、今さらそれはないだろうか。あるいはさらにそうではないと思いたいのか。何にしてもそれだけのことだ。とりあえずそういうことだと思っている。またそこから先へ歩を進めたいようだ。できないことをやろうとして、やはりできないことを悟る。何を再確認しているつもりになれるだろうか。たぶんそれも何でもないことの続きとなる。具体的に何を語る気もせず、そんな気分で言葉を記して、空疎な文章を構成しようとしている。きっとそれもその場の成り行きに従ったまでのことだ。今はそれ以上を求めてはいけないのかもしれず、ただひたすらそんなふうに語っていればよかっただけなのだろう。すでにその場の光景は過ぎ去っている。

 できればもっとマシなことを述べたいが、状況がそれを許さない。しかしそれはどんな状況なのだろうか。またそれも何でもないことなのか。別に気後れしているわけではない。たぶん気に入らないのだろう。上の空で何を思っているわけでもなく、気乗りしない作業に没頭できるわけもなく、どこまでも何でもないと思いたくもなく、たぶんそれは戯れ言の集合体なのだろう。何が気に入らないのかといえば、そういうことになる。それでもあきらめてはならないらしい。誰かがそんなことを語りながら、この世に存在し続けることをあきらめかけている。いったいそれで何を語っているつもりなのか。そういう自問自答について語っているわけだ。そしていつものようにわけがわからなくなり、考えるのが億劫になって眠りにつく。要するに面倒くさいのだ。だからもう目を覚ますこともないだろう。しかし実際に誰が眠っているのだろうか。君はそれを知り得ない立場にあるわけか。まったくの嘘であり、ただのごまかしに過ぎないことでしかない。ではいったい何がそうなのだろう。

 もしかしたら何もそうではないのかもしれない。そこに連なっている言葉が何を示しているとも思えない。実際に何も語っていないのではないか。そしてそれはやらなければならないことではないらしい。誰もそれの完成を望んでいない。きっと誰かは終わりの時を向かえたくないのだろう。そこで何かが違っているのだ。今はそれを確認している暇はないが、そこで話が完結するわけにはいかないのだろう。だからもう少し時間を与えてほしいか。何かをやる暇がないと困るのか。ただ暇を見つけて言葉を記しているだけでは不満なのか。誰かはフィクションの中で他の誰と話をしているのか。話が一向に見えてこない。もはや何でもないだけでは話しにならないようだが、それはもとからそうだろう。君には語る内容がない。何もないのに語ろうとするからおかしくなる。おかしくなりたくなければやめた方がいい。今でさえそうとうおかしいはずで、フィクションの中では半狂乱の一歩手前か。そんなはずはなく、どのような状況において冷静でいられる。実際にどのような状況でもない。何をどう語ってもそうなってしまうのだから、やはりそれはどのような状況でもなく、語ることに意味はない。


12月5日

 案の定遅れてしまうが、何が思った通りでもないだろう。怠惰と別の用件には勝てない。この状況でやる気になれといっても無理なものは無理か。しかしどんな状況なのか。つまらぬことにとらわれている。それだけのことでどんな心境になれるのだろう。何かの途中でずれているだろうか。思いもよらぬことだ。何かのがらくただろう。寝て起きたら今日だった。そして仕事をして、気がつけば夜になっている。ただの一日だ。未知の力に頼ろうとしてしまうのは漫画の登場人物か。君はそれを知っている。ただできないことをやろうとして、当然のことのように果たせず、やる気を失い。何をやろうとしていたのか思い出せなくなり、時間が前後して挫折する。結局意味不明なことを述べているようだ。記そうとしている文章が長過ぎるのだ。なぜ情熱が消えて、代わりに怠惰が心を支配して、やはりやる気を失って挫折する。そこで何を繰り返しているのでもない。言葉はどこへでも散らばろうとして、目標を失い、何について述べているのかわからなくなり、やがてそんなことも思い出せなくなるだろう。だからその辺でやめにしないか。

 誰を敵に回しているつもりにもなれない。何を述べているのでもないからだ。神はこの地上のどこにも舞い降りない。それが神ではないからか。では何なのか。ただの言葉が記されているだけか。たぶん君が知っているのはそんなことではない。言葉の連なりが何か適当な内容をもたらしているのかもしれないが、それを無視したい衝動に駆られる理由をねつ造しようというのでもなさそうだ。それも冗談のたぐいなのか。君が求めている言葉は常に冗談なのか。わからないがそういうことかもしれない。では何がどういうことなのだろうか。その手の愚問はやめてほしいか。何をやめたらそうなるのだろう。それで何か正気に戻ったような気になるが、まだ疲れが残っているようだ。その疲れをどうしたいわけでもないのだろう。疲れないためにも、もっと簡単なことを述べてみないか。できたらそうしていただろうに、自然の成り行きなのだから仕方がない。たぶん何がどうなってそうなっているのでもないのだろう。

 一度やめてみたらいい。もう何度もやめているはずだが、もう一度やめたところで、何か今とは違う感動でももたらせるだろうか。そんなことではなさそうだ。ところで今は何に感動しているのか。何か他に興味深い出来事に遭遇したのか。ジャズとは何か。そんな曲だ。DJ Smashがどうしたわけでもない。今は違う曲が流れている。何をどう思っているわけでもない。そこにどんな疑念が生じているわけでもなく、ただ言葉を記しているだけか。それだけなら何でもないことだ。何とも思わない。それでかまわないのだろう。話が何かからずれているようだが、その何かが明らかとなっていないのだから、それでかまわないのは当然のことか。何が当然なのだろう。見失っているのは誰かの姿ではなく、やる気そのものかもしれないが、それがものではなく言葉であることは当然で、見失う対象とはならない。何か違っていないか。何だか嘘をついているような気分でそんなことを述べているようだ。しかし何を述べても無駄だろう。すでに言い尽くせないことを言い尽くしてしまったのではないか。仮にそうだとしても、それが何になるわけでもない。

 とりあえずその先に言葉を連ねてみるつもりのようだ。あまりにもフィクションの中で超人的な力に頼りすぎると、安易にその手の物語に毒されてしまう浅はかな人々以外には受け入れられなくなってしまうだろう。たぶん君には夢がないのだろう。居眠りの最中に片時の間夢を見ることがあるかもしれないが、そんな夢は夢のうちに入らない。誰かは基本的に夢見る人ではない。現実と向き合うことも怠り、何についてどんな意見を構成したいわけでもない。言葉は常に停滞しているようで、何も語り尽くせないうちにどうでもよくなり、興味を失い、自己も見失う。言葉を記している当人が何を考えているのかわからず、自分自身の存在を意識できなくなり、散漫な内容の文章をまき散らして、何かを無駄遣いしているように感じられてしまう。要するにそれがどうしたわけでもないのだろうが、人の心はいつの時代でも使い捨ての対象だ。たとえ人心が乱れていようと、それを利用しながら繁栄したらいい。虚無が広まり、どこまでも空疎なことが論じられ、無駄に言葉を費やしてさらなる混乱を誘い、それに見合った心が構成されてしまうのだろう。


12月4日

 今日は用事があって無理だ。だが無理だからやらないわけにもいかないらしい。不可能に挑戦したいわけではないが、何となくそんなことを述べているうちにやる気を失う。誰かは何を期待していたのか。冗談はさておき、冗談ではないと思いたいのだろうが、たぶん述べていることは冗談に違いない。そんなわけで相変わらず何が冗談なのかわからないが、とりあえずはそういうことだ。何がそういうことなのか。やる気がしないのだろう。その気になれないのか。言葉を記すのが面倒で煩わしい。厄介な状況に陥っているわけか。だが誰の知ったことでもないだろう。理由など何もありはせず、ただ語るきっかけがつかめない。もう何も語らなくてもいいのではないか。無駄に語るより沈黙を守るべきか。それで何を知らしめられるのか。目的はそれではない。何でもないから目的などもとからありはしない。君はそれの何を認識しているのか。何をどう述べてもさらにわけがわからなくなり、結局そうではないことに気づかされるだけで、それについて何をどう思っているわけではない。しかし何とも思っていないのなら、いったいそこで何について語っているのか。それがわかれば苦労はしないか。苦労してもわからないのではないか。わからないから言葉に行き詰まり、何を述べているのかわからなくなり、気がつけば虚無的で空疎な無内容を記しているわけだ。いったい誰がそうなのか。君にそれがわかるはずがない。

 聴いている音楽はさりげない。それが誰にふさわしいわけでもないだろうが、とりあえず今の気分を体現している。冗談では何も解決しない。しかし何がわかっているわけでもない。ただ疲れているだけか。何に憑かれているわけでもないが、何かに憑かれたように言葉を記し、それが冗談ではないことを確信するか。たぶん気のせいだ。思い違いか勘違いか。それで目が覚めただろうか。寝て起きただけのことか。それでも君は何かの真相にたどり着いたのではないか。誰が探偵であるわけでもなさそうだ。わけもなく気持ちがうわずっている。それの何があり得ないのだろうか。何もあり得ないことではない。ただ何もできないだけか。では何かができるということがあり得ないか。何がどうなってそうなっているわけでもないだろう。実質的には何もどうにもなっていないのではないか。そういう語り方が様になっていない。だからそんなふうに語るものではない。どうにもならないことについて語っているのかもしれず、それについて何をどう修正しようと、そんなことは何でもないのかもしれない。すべてが水の泡か。何が水泡に帰しているとも思えないか。ただそうではないと思う。そこに何らかの努力があるのだろうが、それについてしゃべればしゃべるほど、しゃべっている内容が月並みの紋切り型に近づく。何かについて語るとはそういうことだ。

 外れている内容であることは確からしい。何から外れているのかわからない。それはいつものことで、ただそんな気がするだけのようだ。本気になってはいけない。何を突かれて窮地に陥っているわけでもないだろうが、何とかそこで踏みとどまろうとしている。だが何のための粘り腰でもないだろう。何がわからないわけでもなく、何から見放されているとも思えないか。ひたすら何とかしようとしているはずだ。その結果としてどこで馬脚を現そうと、そんなことも想定内か。だから何がそうなのか。そうでもないからそうなのか。少なくともまともに語れる内容ではないらしい。わかっているのはそんなことでもない。語るとはそういうことではない。ならばなぜそんなやり方を押し通すのか。人は他人の役に立つことをしなければ他人から尊敬されない。そこで踏みとどまることの意義はそんなところから生じてしまうわけか。しかし何と決別しようと、ついて回るのはくだらぬ感情ばかりだ。後はひたすら耐えなければならなくなり、そんなふうに語るのはおかしいと思いながらも、それ以外にどう語ればいいのかわからず、気がつけばそんなことばかり語っている。今はそんなことしか語れないというわけで、だから何がどうしたわけでもなく、まるで酔っぱらったように、同じことを延々と繰り返し語っているらしく、気がつけば中身が何もない。


12月3日

 なぜか雨が降っている。雨空を眺めていると憂鬱になるか。それが理由ではないだろう。では何が困難な状況なのか。それはあり得ないことだ。何もなくて拍子抜けしてしまう。別に何かの勝負に出ているわけではないが、それでもどこかに障害があるようだ。それにしても何かがおかしい。とりあえず日本ではマスコミも国民も大馬鹿だから、多くの人や業界が高速道路の無料化に反対している。要するにこの国では誰も彼もが世間知らずならぬ世界知らずなのだろう。日本並みに馬鹿高い通行料を徴収している国が、世界中でいったいどれほどあるのだろうか。ほとんどの国が原則無料か、一部有料としても、数百キロ走って日本円にして数百円程度ではないのか。トラック業界なんて無料になった方がコストが削減できていいだろうと思うが、かえって渋滞が増えて時間通りに配送できないから反対だとかいう運転手もいる。自分が本末転倒なことを言っているのがわからないらしい。輸送コストが高い分だけ自分たちの給料が削られていることを理解できない。そして一般の消費者も、物流コストが諸外国より高い分だけ割高な商品を買わされて、その分家計に負担がかかっていることを理解できない。まあ馬鹿だから仕方がないか。それとも何か他のかけがえのない理由や要因があって、それによって数千円から数万円も払って高速道路を使うことに魅力を感じられるわけか。魅力を感じているのではなくて、我慢しているだけだろう。高い通行料を払うことになれているのかもしれない。

 人には人それぞれでいろいろなこだわりや流儀があるらしく、そういうのが文化だの芸術だののもととなっているわけか。しかし今回は何を冗談に転じようとしているのか。誰が何を述べているのでもない。いつものように沈黙の中に空疎な気分が潜んでいる。将来日本が中国やロシアと戦争をする可能性がどれほどあるのだろうか。何のための日米安保条約でもないだろう。意味のない条約はやめるべきだ。勇気があるならやめた方がいいだろう。アメリカとの軍事同盟を解消して、他国の軍隊を国外へ撤退させるように努力すべきだ。笑ってしまうがそれが正解のようだ。正解を実行するのは骨が折れるだろうが、やらないと現状は変わらない。だがそんなのは誰もが重々承知していることであり、それがわかっているのに変えられず、変えられないからそこをつけ込まれ、いつまでたっても日本はアメリカ軍の駐車場だ。しかも駐車されている側が、思いやり予算とかいう馬鹿げた名称で、駐車している側に逆に毎年数千億もの金を払っているわけだ。あきれてものもいえないか。開いた口が塞がらないだろう。それでも日米同盟が日本外交の基軸なのだそうだ。変革をしたいなら、まずはそういうねじれた認識を正してゆかなければならない。もちろんそれも誰もがわかっていることだ。わかってはいるが、それを変えるには多大なエネルギーを必要とするのだろう。たぶん無理に無理を重ねた末に今ある現状になっているわけで、道理の通らないことを無理矢理屁理屈のごり押しによって通してしまったから、一目瞭然の不具合が放置されているわけだ。

 もう国民国家の時代も終わりに近づいているのだろうか。返す見込みのない巨額の赤字国債がさらに膨らみ、誰が見ても末期的な状況を呈しているのだろうが、それでも国民は国家にしがみつきながら生きている。そう思えてしまうことがそもそもの思い違いか。そのつもりもないのに、気がついたら国民にされているだけで、国家とかいう共同幻想を信じるか否かは、各個人の判断に任されているはずだ。しかし国家の存在を信じない者は、代わりに何を信じたらいいのだろう。それはその者の自由で、信じたくなければ何も信じなくてもかまわないはずか。別に神を信じろと命令されているとも思えない。何がそれを命令するのか。天か地か、はたまた何か。それについてどのように考えているのだろうか。まともなことは何も考える必要はない。ただ冗談をその辺にまき散らして、それが結果的に暇つぶしとなっていれば、それでかまわないのかもしれず、あまり本気で考えるようなことではないのだろう。冗談のついでに人はいつでも坂を上っている。坂の上に何があるわけでもなく、ただ坂を上り続けているのだ。たぶんそれがどのような結果を招くとも限らないことが、何かの本質を物語っているのだ。この世界が何でもないことの本質がそれか。だから何でもないことは何でもなく、意味も理由もありはしない。だから馬鹿げているわけか。いったい何が馬鹿げているのだろうか。人も世の中も世界も馬鹿げているか。そう思っているなら思えばいい。それは馬鹿げた思いに違いない。


12月2日

 昼の時間帯が何を意味するわけでもない。どうということはない状況のただ中で、それがどうしたわけでもないと思っているのだろう。まったく馬鹿げたことか。何がそうなのでもなく、そんなふうに思っている。他人の虚栄心についてどう思うこともない。それは何かの感想なのだろう。今そこで何かについて語っているのかもしれず、少なくとも居眠りの最中ではないようだ。それでもそれは何でもないことだろうか。言葉を記している以外に何があるわけでもなく、それ以上の何を求めているわけでもない。なぜ君はそれを忘れてしまうのか。それとは忘れてしまったそれのことだ。ただの戯れ言かもしれない。しかし言葉を忘れて何を語るのか。それは語るべきことではなく、無駄で無意味なことか。結果的にそうなってしまえば、それが何でもないことの最たる表現となるだろうか。表現でさえないのかもしれない。眠気をこらえながら、やっとのことで言葉を記している。とりあえずフィクションの中ではそういうことにしておこう。他に何をうそぶいているわけでもない。厄介な事件に巻き込まれているわけでもないので、テレビドラマのようなわけにはいかないだろう。だから誰が感動するわけでもない。見せるものなど何もありはしないから、そこが見せ場でないことは確かなようだ。要するに何でもないことについて語るとはそういうことなのだろう。今はそれで納得せざるを得ない。たわいないことだ。

 誰かは何か主張したいことでもあるのだろうか。人は過ちを繰り返しながら生きている。それが何に結びつくわけでもないのだろう。そう思っていないとやりきれないか。何をやろうとしているわけでもない。だから何をあきらめる必要も感じない。怠けているのか。考えることを怠って、それ以上の何かに至ろうとする。俄にわけがわからなくなるが、他に語ることがないのか。ふざけているのかもしれない。たぶんそうだ。それでも人はなぜ学ぶのか。死ぬまで学び続けるのは無駄なことか。ならば無駄だからこそ学ぶのだ。そういう居直りがくだらなく感じてしまうのなら、他に理由を求められるだろうか。常に学び続けていないと、この世界を把握できなくなり、少なくとも把握しているつもりにならないと、時代から取り残され、そんな気分で劣等感にとらわれてしまうか。今ひとつ意味がわからないが、その時代に付随している古い価値観こそが、過去からもたらされた遺産ではないのか。遺産は有効活用しなければただのゴミか。しかし君は何を活用してどんな認識に至ろうとしているのか。すべては冗談でしかない。それが何からもたらされた認識なのかわからない。たぶんそれも冗談の一部だ。それはそれとして、それを利用してあまりはしゃぎすぎないことが肝心か。この社会がどうなってしまうとしても、それらの政治がどんな兆候を示しているわけでもない。要するに本気になってはいけないのだ。

 ここに至ってしまったことが何よりも奇跡的な結果なのかもしれない。何はともあれよくぞここまでやってきたものだ。しかし何について述べているのか。今や天国への階段を上っているのは葬儀業者の従業員なのかもしれず、それの何に感動することもなく、誰が誰かの人見知りの何からヒントを得ているとも思えないが、それらの沈黙のすべてが何も語らせない状況を作り上げているのだ。だからそんな状況下では誰もそれを何とかしたいとも思わない。少なくともそれで何か不都合を感じているとも思えない。それらの作り話の一部始終が君の存在を無視し続け、誰が何を語っているのかわかろうとしないことが、いくらでも無関係な言葉を記す状況をもたらす。ところで君はさっきまで何を語っていたのか。君ではなく、他の誰が語っていたとしても、君とは関係のないことについて語りたかったのではないか。何についてどんなに語っても、意味不明から逃れられない宿命なのだ。わざとそうしているのだろう。たぶんそうに違いない。だから今はそう思い込んでいればいいのだ。それで事足りてしまうのだからそういうことだ。それ以外に何があるというのか。近頃はそればかりか。いったい君は過去から何を学んだのか。そこで焦らないことが肝心だ。だがのんびりしていても空疎なだけか。そしていつまでも空疎なことを述べているようで、今さらやり直しが利かないほど、それらを構成する言葉の軽さで、意識は何もとらえられなくなってしまう。


12月1日

 今ひとつ感覚がつかめない。まだ勘が戻ってきていないようだ。この状況で何かの修正が利くだろうか。緩やかに時が流れ、何をやっているわけでもないが、今は夜を感じている。そこで話が消えて、気がついたら朝になっているわけがなく、たぶん意識はそこにある。まだ夜のようだ。意識があるのは虚構の中で定められた任意の時間帯ではない。しかし何がどうしてしまったのだろう。夢の中で目が覚めている。あり得ないことか。そんなのは嘘に決まっている。どこかで時が止まっているわけではない。それらの言語表現が何を訴えかけているとも思えない。相変わらずわけがわからないが、それはどういうことだろう。何でもないわけではない。ただ言葉を記して、それを読み返し、そこに架空の理由を当てはめようとする。何を空想しているのか。淀んだ空気ではなさそうだ。よく見ればそうでもないことがわかりそうだ。今は何を述べているのでもない。そういう時間帯ではないのだろう。何かの処理を誤っているようだが、それでも言葉の連なりを前へ進めたいのだろう。どうかしている。認識がおかしいようで、心はあやふやなことを思っている。いったい今は何について語っているのか。自らに何を問いかけているつもりなのか。たぶんまたそうではないと思いたいのだろう。それ以外に何の意味もありはしない。

 しかし何をやる気になっているのだろうか。果たして馬鹿げているのは何なのか。すべてがくだらないと思うのはおかしい。別に被害妄想がそうさせているわけではない。そんな精神状態でも君は何かを信じている。神経をすり減らして何を努力しているとも思えない。何か嘘でもついているのだろうか。何かが違っているのはいつもの通りで、そういう勘違いが言葉を記す原動力となっている。誰かは綱渡り的な状況の最中に何か他のことを考えているのだろうか。別のことではない。少なくとも根は同じ現象に違いなく、人の心理状態が何かの不均衡に拍車をかけているのだろう。わかっているのはそういうことか。あるいはまたそうではないと思いたいのか。何だか面倒くさい成り行きになっているのかもしれない。人の心はいつもみみっちい環境の中に投げ込まれていて、そこで身動きが取れなくなり、次第に世の中の主流に呑み込まれていってしまい、当初の革新的な心意気は消え去り、何となくあきらめの境地に達してしまうのだろう。そんなふうにしかならないのか。しかし君はそこで何をあきらめているのか。また心を揺り動かされる機会が巡ってくるかもしれず、その可能性が完全になくなったわけではない。だからあきらめきれずに無駄な努力の最中というわけでもないはずか。たぶんそこで何か重要なことを忘れている。すでに重大な転機を迎えているはずで、徐々に何かが変わりつつあるはずだ。

 それの何が冗談なのか。君はそれでも何とかしようと思っていて、それほど絶望的な状況ではないと思いたい。本当にそうだろうか。何が嘘で何が本当なのか。まだ嘘についても本当についても語っていないのではないか。そういう切り返しは不自然だろう。文章の自然な流れを断ち切ろうとしているわけでもないようだ。あれでもなく、これでもないようなことを述べているだけか。どこかで何かが狂っているのは冗談だとしても、誰も何も見出せないような何かの出現を模索しているわけでもなく、何の可能性を示そうとしているわけでもない。また気づけばここに戻ってきているわけだ。明日もきっとそうだ。そしてひたすら何でもないことを述べ続けている。それがここでの現実なのだろうか。もし本当にそうだとしたらどうだというのか。何でもなくてどうでもいいようなこと述べるだけだ。それがここでの正解であり、真っ当な対応なのかもしれないが、別に正しい行いについて語りたいわけでもなく、何がどうあれ、どこかで終わりの時が訪れるまでは語っている必要がありそうだ。それが虚無に心を支配されたをもたらしているわけで、何かを見出しつつ、その何かとは何でもない何かであり、結果的に何を見出したことにもならないような何かになるだろう。語っている内容がそれを物語っているはずか。そんなわけでまったく馬鹿げているようだ。