彼の声75

2009年

11月30日

 今日も今日でこんな具合になってしまうようだが、考えるとはどういうことだろうか。それに何かを考えていることになるのか。物語にはどんな魅力が宿っているのだろうか。今さらそれはないだろうか。まったくの他人の話というのが大半だろうが、中には身の上話を自ら語るというのもあるはずだ。しかしそれを他人に聞かせようとしているのだから、それを見聞している人とっては他人の話のはずだ。そんな話の何をうらやんでほしいのか。感動してほしいはずだ。ならばそれは基本的に自慢話なのだろうか。そういう話に接してストレスを感じないか。すべてが独りよがりの自慢話というわけでもない。話に引き込むために同情を引くというテクニックもある。主人公の悲惨な境遇に同情してほしいわけか。それだけでもないはずだ。様々なことが語られていて、中には気持ちがすかっとすることもあるようだ。勧善懲悪的に主人公が勝利したりするわけか。それだけでもない。悲劇的な末路も多いはずだ。勇気ある行動から勇気をもらったり、道徳的あるいは倫理的に感心させられたりすることだってあるはずだ。だから何が言いたいのか。なぜ君は物語を否定するのか。それも冗談のたぐいになりそうだ。本気でそう思っているわけではないだろう。常に物語の何かを馬鹿にしたり茶化したりしたいはずだ。それが君の底意地の悪さを物語るはずか。本当にそういう成り行きなったらおもしろそうだが、君はそこで何かを無視しているようだ。

 実際に何をやっているのだろう。そこで誰が何をやっているのか。何かの文章を読んでいるようだ。読むことが何かのためになるのだろうか。たぶんそうなのだろう。何となくそういうことを主張する人が多いような気がする。たぶん読書の効用を肯定したい輩は掃いて捨てるほどいるはずだ。教育関係者というジャンルに属する人たちは、若者に向かって本を読めと言うだろう。別にそれが物語でなくてもかまわないのだろうが、読めばためになる書物を薦めたいのだ。物語がためになるだろうか。そういう物語なら掃いて捨てるほどあるはずだ。そういう表現が良くない。なぜそこで掃いて捨てるという否定的な表現を使いたがるのか。実際にそうではないのか。別に書物を掃いて捨てなくてもかまわない。破り捨てて燃やしてしまうのももったいない話だが、焚書坑儒の時代も過去にあったらしい。だから何だというわけでもないだろう。物語とは何の関係もない話に逸脱しそうになっている。ところで読めば気が狂うような物語はないものか。まさかブランショの「至高者」あたりを念頭においているわけでもあるまい。いったいあれの何が物語なのか。あれは何だったのか。あれこそ何でもないことの最たる書物か。何でもないわけではないだろうが、君はすでにその内容をほとんど忘れているはずだ。

 君は本を読まずに音楽を聴いている。そして画面を見つめ、誰かが記した文章を読み返している。それが何を意味するのか。私についてこなかった者は、あれからどうなってしまったのか。どこかの迷路で暇をつぶしているうちに、行方知れずとなってしまったのだろうか。物語の中では誰もが消え去る運命だ。現実の世界でもそうだろう。人は死に、誰かの記憶の中に息づいているという幻想とともに、やがて忘れ去られ、その者の存在自体が何でもなかったこととなり、どうでもいいような物語の中に何かの幻影として影響を及ぼすこともあるだろうが、そういう亡霊をありがたがっている者も、やがて消え去る運命だ。それがこの世界の掟なのか。そんな大げさなことではなく、物質が物質であることの宿命でしかない。人は物質から成り立っていて、体内にある物質が外界の物質と接触しつつ離合集散している現象が、人としての実体を物語っているのではないか。しかしそういう説明がいったん文章として記されると、いい加減な認識も知ったかぶりな印象を漂わせ、何だかわかったように気分になるのだろうが、それが知識の怪しいところだ。知識でさえないのかもしれず、ただの独りよがりな結論を導きだすために使われる言葉の組み合わせにしかなっていないのかもしれない。何かから確実に外れているようだ。


11月29日

 どうもまた終わらない話になりそうだ。終わらせるだけの力量がない。君の力が足りない。それは文章読解力ではなく、ただの作文力か。何の話なのだろうか。何でもないから無視してもらってかまわない。何となく膝が痛むようだ。無理のし過ぎか。今のことではなく、これまでの無理が蓄積してそうなってしまったのだろう。心当たりは何もないが、とりあえず言葉を連ねてみればいいことでしかない。どうにかなるのではないか。結果的にはそうなるはずだ。ならばその通りにやってみればいい。だからやっているではないか。そしてやめてしまう。数時間テレビを見ていたようだ。まったくやる気にならない。だから無理なことはやらない方がいいだろう。これから何を考えるつもりなのか。そう述べた時点で、すでにかなり無駄なことを記しているはずだ。まともな内容ではない。決してまともな内容にはならないだろう。だから無理だと述べているではないか。それだけではないと思いたいのか。無理を承知でそうではないと思いたい。みすみす手をこまねいているわけにはいかないのだろうが、君はどこまでも愚かだ。だからできるはずがないということか。まったく理由になっていないが、別に無理して理由をもたらそうとしているわけではない。

 気持ちがどこかから外れているようだが、何について考えているのか。何も考えられないのではないか。たぶんそういうことだろう。気持ちの整理がついていないということか。何のことなのだろうか。この状況で大逆転は考えられないか。いったい何を逆転したいのか。無理を承知で何を語るつもりなのか。材料など何もないのに、それはないだろう。無駄に言葉を記すだけだ。しかしそれが何でもないことの真相になるだろうか。真相も何もなく、それ自体がそうなのだ。今までにどんな困難を乗り切ってきたともいえないはずだ。今がそうなのではないか。他に何も思いつかないとき、それがそういうことだと思い知る。物語は物語であり、それは君に関する話ではない。それがどんなことであろうと、そういう成り行きにはならないはずだ。だからどんな成り行きなのだろうか。まだそれに関して何も語っていないはずだ。おそらく何も語れないのだろう。何も思いつかないから何も語れない。まったく馬鹿げた話か。話以前に話にならない話ではないのか。だからそれはどういうことなのか。またそこで立ち往生だ。無駄に言葉を連ねて、くだらぬことを述べているつもりになればいい。しかしそんなにうまい具合に話が進むだろうか。

 君にはまだ奥の手が残っていて、それを使って窮地を脱しなければならない。その過程が君の物語となるだろう。ふざけすぎていないか。何だか虚しくなってこないか。虚構を奏でているのだから、虚無的な気分でいられるのは当然だ。そうやって何とかしているつもりになれそうだ。まったくくだらないが、それがいいわけだ。ところで君は白い影の歌を聴いたことがあるだろうか。青ざめた白い影を見たことがあるのか。何を述べているのかわからないが、そんなのがあるわけがないか。ただ影が薄いだけではないか。そして気がつくと無駄に言葉を記している誰かが画面に映り込んでいる。冗談ではないと思いたいのか。それが冗談であったなら、どんなに救われた気分でいられることか。何のことはない、それだけのことにたどり着くためにここまで言葉を記してきたのか。そうではないはずだ。だがまだあきらめてしまったわけではなさそうで、何とか次ぎにつながる可能性を模索しつつ、無駄なことを述べているつもりになるが、誰もそんなことは望んでいないはずだ。何とかしたければ、まともに具体的な対象について述べればいいのだ。それができないからいつまでもどこまでも現実から逸脱していってしまい、何を述べているのかわからなくなってしまうはずだ。そしてそれでかまわないと自らに言い聞かせている現実に心を押しつぶされそうになっている。それでもかまわないのだろうか。ただ実際にそうなっている。


11月28日

 たぶん今日という日付では何も語れない。理由はわからないが、明日になってから語ることになってしまうのではないか。では明日になったら何を語っているのか。明日になってみなければわからない。そういうことではないような気がする。だからいつものように空疎なことを語ってみればいいではないか。何について語ればいいのか。そんな自問自答について語ればいい。すでに語っているそれだ。そして君は間に合わなくなる。何を語っているのでもない現状に我慢できなくなり、ついに語ることを断念してしまう。それが何かの物語ではなくなってしまうわけだ。そこに至る経緯がわからない。わけのわからない話は何の脚本でもない。どこまで外れていってしまうのか。だから言葉は自由であるべきではなく、物語に拘束されてこそまともなまとまりを構成するのだ。しかし何を語ろうとしているのだろう。ただ嘘をついているに過ぎないのか。それらのどこに情熱が絡まっているわけではない。たぶん人が街中に住んでいる。それがどうしたのか。心を揺さぶられる話の内容ではなさそうだ。

 何かがどこかで途切れている。迷っているのだろう。本気にならなくてもかまわない。遊び半分でそんなことを述べている。だから真に受けないでほしいか。それはそっちの都合だ。こちらの都合もありそうだ。場合によってはそうなるはずだ。語らなくてもいいことまで語ってしまう。冗談でそんなことを語っている。たぶんそうだ。そうに決まっていると思い込みたくなり、そこから先は誰かの想像にまかせよう。だから何の話をしているのか。何だか回りくどいことを述べているようだ。誰かはそういうことしか述べられない。それは誰に関係する話でもなく、語っている自らにも無関係な無内容を奏でる。そんなことはあり得ない。だから馬鹿げているのか。何でもないことに違いない。この世を楽しめていないのかもしれない。だから今さら何を語っても無駄か。まともな理由を模索すべきだ。語る必然性を導きださなければならない。人はそれでも幻想を追いかけている。君も心の中身は他人と変わらないはずだ。そう願いたいものか。そうでなければどうなるというのか。現実にはどうもせず、無駄に言葉が連なっているだけのようだ。

 それが何かの実態を明らかにしているのだろう。国家にも政治にも興味はない。君は世の中がより良くなるための努力を信用していないようだ。人々が愚かなだけで、そんな人々を見捨てているつもりらしいが、それが思い上がりのすべてに至る気持ちだろうか。そんなことはない。何をどう思ってみても仕方がないのかもしれない。今さらそれはないか。何が今さらなのだろうか。そういう心の逡巡と自問自答がわざとらしく思われ、際限がないようだ。だから語るべきことではないのだろう。そういう心境では何について語ってもおかしく感じられてしまい、納得がいく見解には至りそうもない。どこへもたどり着かず、何かの途中で立ち止まってばかりで、遅々として作業が進まない。だから何がそうなのでもないのであり、それ以上の何を導きだすこともないだろう。いつまでたっても暴力による解決が模索されてしまう。たわいない事件や事故が世界の至る所にはびこり、人がいつまでたっても愚かであることを証している。愚かであることはわかっているが、そこでそういうことをやらざるを得ない状況に追い込まれてしまい、そういう現実をどうすることもできず、結局人は暴力の行使をやめようとしない。

 それは表面的な光景を説明した文章に過ぎないのか。しかし実質や本質がどこにあるのだろう。この世界から何を抽出しているとも思えない。それらの何が貧困なのか。人々にはどのような理解が必要とされているのだろう。それについてどんな見解があるとも思えない。何かの一面を説明しているだけのことに、どんな有効性を見出そうとしているのか。それは何に対する有効性なのだろう。まさかくだらぬ現状を変革したいわけでもあるまい。くだらないままでもかまわないのか。そういうことではなく、やはりどういうことでもないのだろう。そこから先に答えがあるとは思えない。何に答えているわけでもなさそうだ。問題がどこにあるというのか。人はこの世界のとりとめのなさから目を背けようとしているだけだ。わかっているのにわからないふりをしている。人は本質的に自由なのであり、本来は何をやってもかまわないので、そのとりとめのない恐ろしさをわかってはまずいのだろう。理解しがたいことを理解してしまったら、人は狂ってしまう。自由は人を狂わせ、結果的にわけのわからない行動を強いられている。世界がそう強いているのだ。それは逃れようのないどうしようもなさであり、場合によっては滑稽な状況の中で命を落としたりする。戦争もそのひとつだろう。そんな自由とは無縁の状況が、自由という言葉の成れの果てとなる。


11月27日

 それは何かの出来損ないなのだろう。文章になっていないようだ。それは何かのゲームに違いない。それとは何だろう。そう問いかけるばかりで、それが何だかわからないと思いたいが、誰がそう思っているのではない。ただそう記されている。要するにそれだけのことだ。まったく馬鹿らしい。今までに何を語ろうとしていたのか。まだ何も決着がついていないではないか。語っているのは話でも何でもなく、何を楽しんでいるわけでもなさそうだ。いったい君には何が必要なのか。この期に及んでそれはないだろう。だからそれとは何か。そう問いかけることが必要なのだろう。それは何かの呪文に違いなく、そう問いかけ続けることで、それらの文章が形成されているらしい。だから何なのだろうか。それがそれらの文章の形成過程で必要不可欠の要素となっているわけか。だからそれがどうしたのか。どうもしないからそうなってしまう。それでは気に入らないらしい。もっともなことで、それによって記された文章全体を虚無が覆っている。きっとそれは気のせいだろう。それの何が違っているわけでもない。現実にはそういうことだ。

 またくだらぬことを述べているようだが、どこまでもそういうことではなく、どういうわけでもないのにそういうことだ。やはりくだらない。それでは気が済まないのではないか。それでも君は何かを語らなければならないのか。どういうわけでもない。だから語っているのはそういうことではなく、他に何があるわけでもなく、やはり何を語っているのでもないらしい。たぶん現状はそういうことだ。だがそう述べて何を確認しているのか。無駄で無意味なことを述べているのは鬱陶しいか。しかし誰に何を尋ねればいいのだろう。何かの限界にぶつかっていることは確かだ。意識が遠く及ばない不毛の荒野に誰がいるわけでもないが、何となく何かが違っているように思われるのはどういうわけだろう。それについては誰かが語るべきことではないのかもしれず、誰に語らせることもできないのかもしれない。なぜそうなってしまうのだろうか。君にはもう何の中身もなく、それが何かの抜け殻だからか。それは嘘でも間違いでもない。何の問題もなく、問われるようなこともない。ここで何が問われているのでもないはずか。

 だから無理をしない方がいいだろう。語るべきことはすでに語られているはずで、今さら語るまでもないことを語る必要はない。では他に何を語ればいいのだろうか。それをこれから模索すべきなのか。馬鹿げているだろう。何かが馬鹿げているはずだ。今ここでそれを問うべきではないのかもしれないが、やはり何かが問われているような気がする。例えば倫理観はどこへ行ったのだろう。それは何に対する倫理なのか。政治倫理とかそういったたぐいの四文字熟語ではない。では何なのか。たぶんそれは冗談に違いない。嘘かもしれないが、それが冗談なのだ。わけがわからないがそういうことだ。間違っていてもかまわないから、今はそういうことにしておこう。そういういい加減な語り方に倫理観を感じられないのだろう。だが逆説的に何がそうなのか。そうでもない。何がそうでもないのか。そういう問いかけにも倫理観を感じられないか。それ自体がいい加減そのものだ。だからそこで何かが外れていて、話の本筋からわざと逸脱していて、思いっきりずれているのかもしれない。しかしそれが何なのか。近頃はそればかりだ。

 その辺でもう少し熟考する必要がありそうだ。実質的には特定の何について考えているのでもないだろうが、とにかく考える必要があるそうだ。国家とは何か。少なくとも冗談ではない。そう問うても何と対峙していることにもならない。何のテーマでもない。しかし主題とは何だろう。黄昏の景色の中に何があるとも思えない。画期的な意見などどこにもありはしない。そんなものを求める方がおかしい。人はくだらないことに熱中するのが好きで、くだらないからこそ、軽薄にそれを批判できるのだ。たとえば政治の場で画期的な意見は通らない。具体的にそれは何だろう。やはり冗談のたぐいなのだろうか。わざと理不尽なことをやろうとして、それによって今までの慣習を覆そうとしているのか。たぶんそれも違うと思われる。昔の誰かのように荒唐無稽な提案をするわけにはいかないらしい。君は何を救いたいのでもなく、この世界を破滅に導きたいのではないか。何かの映画のような話になってしまいそうだが、少なくともそういう成り行きや結果を誰かが望んでいることは確かなようだ。何事も本気になってはいけないらしく、真に受けるべきは何でもないことに違いない。それはどういうことか。どういうことでもないから何でもないことのようだ。


11月26日

 やはり何がどうなっているのでもないらしい。至って平穏無事に状況は推移している。では何が問題だったのだろうか。何ももたらせないことが問題なのか。もとから何でもなかったのだから、それはそれでそういうこととして認めなければならない。はじめからうまくいくわけがなく、何度も失敗しながら徐々に真っ当なやり方に移行できれば、それで満足しなければならないのだろう。失敗したまま終わってしまう場合だってありうるし、絶えず努力し続けてもそうなってしまった時は、そこであきらめなければならない。もちろんあきらめきれないから、執拗に失敗を繰り返すのだろう。そして呆れ返った何かから見放されて、その後はどうなったのか。いい加減に目を覚ました方が良さそうだ。それもありふれたフィクションの一部をなしているつもりだ。本当のところは何が何だかわけがわからない。誰かは何について語っているのか。わからなくてもかまわないのだろうか。人にはわからない部分が必要であり、そう思っていること自体が意味不明かもしれない。

 国家に未来などない。だから何だというわけでもないだろうが、ならば何に未来があるのか。人に未来などあるのか。自由であることは破滅的な結果をもたらす。そうなる理由などいっさい無視しておいて、たぶんそう断言してしまうのだろう。いったいそれらの何が自由なのだろうか。茶番のテレビ番組を見ているだけか。彼らのどこがおもしろいのか。たぶんその存在のすべてがおもしろい。君もそれを見ながら笑っていたはずだ。たぶんそれらとは違ったものの見方や考え方もできるのだろうが、たとえそうしたとしても、それがどうしたわけでもないだろう。本気になれないのはいつものパターンだ。そして何かがどうかしてしまい、めまいを覚える。しかしそれがどうかしたのだろうか。話としてはつまらない部類に入るか。何の話をしているわけでもないだろう。たぶんこれからどうすべきか迷っているのだ。

 何もまとまらないうちにここまで記してしまったらしい。どうやら今回も具体的には何を述べているのでもなさそうだ。しかし抽象的な内容でもないだろう。ならばただの無内容か。何をどう述べているつもりでも実体がない。語っている主体が希薄なのか。誰が何を語っているのでもなく、何について語っているのでもない。それもいつものことだろうか。いつものことでは気に入らないのか。では少しは目新しい話の展開を模索してみればいい。できればの話だが、何となくそうでなくてもかまわないような雰囲気を感じている。たぶん言葉を記している当人が気づかないうちに、自然とそうなっているのではないか。そうであったら何の苦労もいらない。別に苦労話をしたいわけでもあるまい。鬱陶しい価値観の押しつけは勘弁してほしいか。素直に何かを楽しんでいるのなら、それでかまわないのではないか。たとえそれがくだらない言説の繰り返しであったとしても、そんなふうに述べていることの必然性がどこかにあるはずだ。そういうのを後から全否定しても、ただみっともないだけだろう。

 だからこれから何をどうしようというのか。素直にありのままの状況を語ればいい。簡単にはいかないだろうが、そうなるように努力していればいい。そのうち何とかなるだろう。すでにそうなっているのではないか。君が気づいていないだけか。別に気づかなくてもかまわないだろう。何となくそんなふうに語っていれば、そのうち自らの愚かさに気づくだろう。別に気づかなくてもいいのだ。何をどう語っても、やはりそれは何でもないことだ。未来など求めるものではない。それについて真面目に語らなくてもかまわない。語りようがないことかもしれず、語ること自体が無駄で意味のないことかもしれない。ただ今を生きていれば、やがて未来に近づくだろう。近づくだけで決してたどり着くことはないのが未来だ。だから絶えず近づき続けていればいいのだ。あきれてものもいえないか。何にあきれているとも思えず、そんなこともどうでもいいことかもしれない。語るべきことから逸脱しているのかもしれないが、そもそも語るべきことなんてこの世のどこにもありはせず、語っているのはいつも自らが抱いている幻想についてだ。


11月25日

 それは改めて語るようなことではない。そうではないと思う。面倒くさいのは事実かもしれないが、それは妄想ではない。たぶんそうだろう。紛れもない事実であり、そういうことなのだ。何もないというわけか。何でもないことについて語らなければならない。君にそれができるだろうか。やめさせることはできない。そんな権限があるとは思えない。しかし時間がない。やめた方がいいだろう。それは何かの断片だろうか。話がどこにあるのか。どこにあるとも思えず、言葉がバラバラに飛び散っている。あり得ないことか。何かが壊れているのだろうか。そんなことは気にしていないはずだ。ただ面倒くさいだけだろう。そんな理由でこんなことになるのか。何がどうしているわけでもなく、とりあえずその先に言葉を連ねてみることだが、それを誰が強いているわけでもないだろう。何も導きだせないのなら、あきらめればいいことでしかない。

 君はどこまでも愚かなのか。誰でもないのだから愚かでもないだろう。少し風向きが変わってきたようだ。意識が継続に傾きかけているようだが、何を続けるつもりなのか。何かを続けているつもりなのだろう。誰かと誰かが戦っている。それは漫画の中でのことだ。君は何も読んでいないはずだ。今は何もなすべきではない。なぜそう思うのだろう。体力を消耗しているようだ。それは冗談か。だが今こそなすべきをなさなければならないのではないか。しかしなぜそんなに回りくどいのだろうか。まったくそこから外れていないか。少なくとも述べていることが的外れだ。何が限定されているわけではない。限定的に獲得した知識を無限の世界に適用するのは、誰もがやりたがることだ。それによって誰もが何かをわかったつもりになりたい。それらをそんなふうに解釈したいらしい。それが虚しい試みだとは思わないか。そこで誰が誰を無視しているわけでもなく、たぶん自らの力量を計り間違えているのだろう。

 それでも君は何かを理解している。何かとはすべてだ。君が神ならばそうなるだろうか。他に何を空想しているとも思えず、どこまでも真実を言葉でなぞりたいわけでもない。そんなことができるとは思えない。それでも誰かが何かを解き放とうとしているらしく、そんなふうに考えると、何かを理解したつもりになれるらしく、何だかその何かについて語っているような気にならないか。何を寝ぼけたことを述べているのか。まだ就寝時間にはほど遠いはずだ。しかしどこで何がはじけ飛んでいるわけでもなさそうで、どんな災禍に巻き込まれているとも思われず、ただ淡々と生きているだけかもしれない。それが何になるのだろうか。なぜそんな状況で平静を装わなければならないのか。たぶんまだ何とも思っていない心境なのだろう。だから何だというわけでもなく、またいつものように空疎なことを延々と記しているような気がするだけで、心が何にとらわれているとも思えないのは当然のことかもしれない。

 何だから言葉がどこかで余っているようだ。それらのすべてが余分だとは思わないが、たぶん何かが無駄なのだ。それらのうちに記さななくてもいいことが記されているのかもしれない。何事もやりすぎると本質を見失い、語っているそれが何を求めているのかわからなくなる。要するに支離滅裂なことを語っているように思われてしまうわけだ。だが意志がくだらぬ目的などにとらわれるのはおかしい。どこに誰の意志や思惑が働いているとも思えないようなことを述べるべきか。そんなのは不可能だろうか。だが今は何のために語ることもあり得ないようなことを語らなければならない。だからそれも不可能だと思う。だから思いもしないようなことを述べなければならず、結果的にそんなことを語っているような状況を作り出さなければおもしろくないだろう。しかしそれは誰の意志なのか。誰の意志とも無関係だから、そんなことを述べてしまうわけか。だからまったくそれはあり得ないことだ。


11月24日

 なぜかこんなタイミングで今日になる。よくわからない成り行きだが、それを受け入れて、その先に言葉を記してみるが、うまくいくかどうかはわからない。面倒くさがっていた誰かはどこかへ行ってしまったらしく、何に対するどんなリアクションも無視して、何となく急いでいるつもりになっているようだが、結論はすでに出ているような気もする。何についてどう思っても、それは何でもないことか。いくら考えても、そんな結論にたどり着くしかないのだろうか。たぶんそこに至るのに様々な紆余曲折があったのかもしれないが、いったん結論にたどり着いてしまえばすべては帳消しか。まったく馬鹿げた成り行きか。そう思いたければ思っていればかまわない。まだそこから前進する余地がありそうな気がして、どこへも至らないような迷路が眼前に広がっているような気になり、そんなふうにしてどこかへ向かってどこでもないような境地に達しようとしている。そんなのは嘘に決まっているだろう。

 しかし何を躊躇しているのだろう。ためらう理由など何もなく、それでもためらっているとすれば、君は何かを怖がっているのだ。それがそのときの理由だったのか。わけがわからないが、未知の土地へ足を踏み入れる時はそんなふうに思うものか。だが本当にそこへ至ったわけではなさそうだ。どこかで道を間違えてしまったらしく、迷路で迷っているわけでもなく、やけに簡単に窮地を脱して、それが窮地ではなかったことに気づいたふりをしながら、わざと罠にはまってどうするつもりか。それが罠でもないことにしてしまうのか。虚構の中ではそれを記す者が神なのか。だから今や神の思い通りに事が運んでいるというわけか。そんなことでもないだろう。誰かが面倒くさがる話の成り行きのようで、できればそんな話などなかったことにしたいらしいが、実際には何をどうするのだろうか。もちろん君は何をどうしたいわけでもない。

 戯れ言のついでにさらなる戯れ言を記している感覚だ。誰がそう思いたいのではなく、実際にそんなことを記している。それも面倒くさいことの一環なのかもしれないが、そんな時でも至って平常心でいられるのは、それも何でもないことのたぐいだからか。まさかそんなふうに思っているのが君ではあるまい。何がまさかなのかわからないが、架空の話の成り行きがそんな言葉をもたらしているのかもしれず、そんなどうでもいいことを必死で記しているつもりにもなれず、何でもないことを何でもないことのように語るのは骨が折れると思いたいのだろうが、現実はまったく違っているようだ。やはりそんなことはどうでもいいことなのだろう。ならばわざとらしく語るとは騙ることになるのか。それも実感からは隔たった感慨になるだろうか。

 さらにその先に何か言葉を記すとすれば、どんな無内容がいいか。何にへつらうこともなく、わざとくだらぬことを述べているわけにもいかず、そんな試行錯誤に価値を見出そうとしているわけでもない。現実には無駄で無意味な試みになってしまいそうだ。それでもかまわないのかもしれないが、それを後からそれを悔やんで何になるのか。それでどこまで至ったとも思えないが、とりあえず記された言葉が並んで文章が構成されているようで、それを読み返しつつ、そんな自己言及のなすがままに、この期に及んで何をどう語るべきか迷っているふりをして、さらにわざとらしく苦悩の表情に及ぶこともないだろうが、実際に悩んでいるのはそれとは異なり、そこで誰が何を語ろうとも、現実を受け入れるような言説には至らないのだろう。絶えず何かに逆らっているようだ。


11月23日

 日付的にはやっと昨日になる。自意識が試行錯誤の末に何らかの認識に達したのかもしれ得ないが、それはフィクションとして自意識に違いなく、それらの虚構の中に何かがありそうだ。しかしなぜ人は歴史上の人物をもとにして虚構を作り上げようとするのか。自ら語ろうとしている内容に真実味を付け加えようとしているわけか。あるいはゼロからフィクションを構築する能力に欠けるから、史実を恣意的に解釈して、それをもってフィクションとするわけか。たぶん何か特定の固有名に魅力を感じていて、その固有名を我がものとするためにそれにまつわる物語をねつ造しようとするのだろう。君はそう述べてわざと的外れなことを主張したいらしい。もとから誰かの魂胆はお見通しだ。何かをずらすだけずらして、意味不明なことを提示したいだけだろう。

 忘れられない思い出が忘れ去られた時、人は何か得体の知れぬ認識を生み出すのかもしれない。そんな嘘をついて、何か他の思考を試みている。そこで何を想像しているのか。空想の産物のひとつが国家だ。おそらくこの世界もそうなのだろう。画家は現実の事物を描きながら、空想の世界を構築しているつもりになり、作家は虚構の中で自らの実体験を暴露したつもりになる。そのすべてがくだらないことだとは思わないが、そうでなければ何を提示したつもりになれるだろう。哲学者がどんな認識に至ろうと、科学者どんな理論を構築しようと、それらの何を笑い飛ばす気はない。別にそれが神の意志だとは思わない。それらのすべてがたわいないことだとは思えないが、何となく冗談のような気になってしまうことは確からしい。

 たぶんどこかに何かが転がっているはずだ。それは何の変哲もない石ころだったり、誰かが捨てた空き缶だったりするのだろう。錆びた空き缶が朽ち果てて、雑草の中に埋もれ、そんな光景を空想している誰かがどこかにいることが、何の意味ももたらさないだろう。だが例えば冗談でそんなことを述べているつもりになれるだろうか。誰がそう思っているのか。虚構の中でそんな人物を存在させるのは無益なことだ。君は現実の中でそう思っているに違いないだろうが、そんな君が実在しているとも思えず、何をどう述べてもしっくりこないような成り行きの中で、誰の意志が介在してそういうことが記されているとも思えない。だからすべては冗談だと見なしたいのか。しかしそれで何がわからないわけでもないだろう。

 安易な願いとは何なのか。それでも人は他人の気を惹こうとしている。そんなに自分が多くの人から注目されたいのだろうか。物語的にそれはどのような過程の途上にあるわけか。どこに成功神話が転がっているわけでもあるまい。だから人は自らがやっている虚しい試みをやめなければならないわけではない。それでもやっていることを正当化するための論理を絶えず構築し続け、それを自らにいい聞かせながら、それをやり続け、自己満足に浸っている自らを空想している。結局はそうなりたいのであり、それを思い描くことが正当な権利であるかのごとく思っている。そうなればいい。そうなりたいのなら、そうなるべきなのだ。たとえ失敗して落胆したところで、それも必然的な結果だと受け取るべきか。夢を見ていた代償がそれなら、いい夢を見させてもらった、と負け惜しみ的な感慨に至ればいいことでしかない。君にはそういう論理が信じられないのかもしれない。まだどこにも至っていないのではないか。未だ何を成し遂げたわけでもなく、何を成し遂げようとしているわけでもなく、誰がどこで何をやっていようと、相変わらず無関心か。


11月22日

 君はこの世界の何を理解しているのか。そういう問い方がおかしい。何を感じ取っているわけでもなく、どのような思想のただ中に意識をおいているわけでもなく、何をどう考えたらいいのかわからないようだ。だがそれだけではないはずか。たぶん今も何かを考えているのだろう。それが何だかわからないが、それをわかろうとしてないことも確かだ。くだらぬ諍いに巻き込まれているとは思っていない。誰も何とも思っていないだろう。だからそこから遠ざからなければならないわけか。相変わらず意味がわからない。いったいそこで何を述べているのか。何をもって何かを考えているといえるのか。やはりそういう話ではないか。何について語っているとも思えないのも相変わらずのことか。生活の一部が何かに浸食されているようで、記憶は絶えず己の風化現象に逆らっている。数日後の空は曇っていて、今にも雨が降ってきそうだ。そこで君は何かを知りたがっているようで、その先の言葉にその何かを見出そうとしているが、依然としてわからないことはわからないままで、君にとってそれは想定内だとしても、そこに試みとしての欠陥があるのかもしれない。

 無駄とは何だろうか。すべてが無駄だと思えないか。そうではないと思うにしても、この世の何が無駄で、他の何が無駄でないのか。何かが均衡を失い、適当な構造が崩れ去ろうとしている。適当ではないから、そういうことになってしまうのではないか。空気が流れ、言葉が適当に記されてゆくが、相変わらず言葉の連なりに意味を見出せず、心が病んでいることに気づくこともなく、それがフィクションであることを認めようとしない。今さら気づいたところで、もう手遅れだろう。眠たくなって寝てしまったようだが、別に夢の中でまで言葉を記す必要はない。目が覚めたら目の前にいつもの光景が広がっていて、何もできない君を助けることもなく、誰が助けようとしているわけでもなく、誰かは音楽を聴いている。それは誰のためでもなく、君のためでもない。人の意識はいつでも幻想に浸かっていて、一時でも現実を見ようとしない。なぜそう思うのだろう。理由をそれらの文章の中に見出すことはないだろう。君はそこで己を見失いながら、何か他の空想によって導きだされた自意識の存在を見出そうとする。まったく難儀なことだ。別にそこが運命の分かれ道だとは思わない。何でもない現実を恐れることはないだろう。

 ただそんな気がしているだけのようだが、何か間違っていないか。今さら何を批判するつもりもなさそうだ。では何がたわいないのか。見出されている結果が笑えるような内容だろうか。知っていることはそれだけではない。何も見出せず、それが結果ではないような気がする。それは腐って朽ち果てるまで放置されているような事物ではない。そこで何を強がっているとも思えないが、ごり押しするような状況とも思えず、無理に言葉を連ねて自滅することもないか。しかし事物とは何なのか。誰が何を描き出そうとしているわけでもないらしく、それは絵画ではない。何かの気休めなのかもしれないが、誰がそれを見定めなければならないのか。大げさに騒ぎ立てるようなことでもない。だから何でもないと思われる。とりあえず人を呪うのは浅はかな行為か。それでいったい何を得られるのか。自己満足はどこからもたらされるのか。状況がわからない。何をどう考えればいいのだろう。人は絶えずどこかで何かを見出そうとしている。いつでも幻想に浸っていたいか。そこで誰かが何かを提示したいらしい。自らの見解を明らかにしたいわけか。この世界について何をどう思えば納得するのか。気が済むような見解を示してほしいか。だがそれによって君が何を知り得たわけではなく、ただそう思っているに過ぎない。言葉の助けを借りてそう思いたいのだ。


11月21日

 相変わらず何もわからないままのようだ。いったい誰かは何をわかろうとしていたのか。もうすでに過去の話になっている。だからもう神に見捨てられてしまったのかもしれない。フィクションの中ではそういうことになっている。それも嘘の類になるだろうか。呆れてものも言えない。誰がそうなのだろうか。それは君ではなく、フィクションの中の誰かなのだろう。誰でも誰かに嘘をつく。それが誰の理解をもたらしているのでもないだろうが、何かの助けとなっているはずだ。だからそういうことを述べているのか。理由などありはしないだろう。何もないわけでもない。そこには何かがある。何とか文章を記したい。少なくともそれは実現している。ただ意味を見出せない。何について語っているのでもない状況がもたらされているはずだ。しかしそんな嘘をついてまでして、いったい何を述べたいのか。たぶんその辺で違っているのだろう。そこに何が渦巻いているとも思えない。だからそれがどうしたわけでもなく、何気なしに暗闇の中でそんなことを記している。君はいつものように疲れているのだろう。判断を誤っている。今は寝る時間なのだ。そして今日も何も収穫がなかったようだ。まだ語るべきことを語っていないまま、眠りについてはまずいと思っている。それがそもそもの過ちだ。

 人はいつまでもどうでもいいことにこだわり続ける。時代とはそういうものから成り立っているらしい。当時の誰かのこだわりがその時代に反映されているわけだ。こだわらなければ時代にならなかった。君もそういうこだわりを何か一つ以上は持っているはずか。そこに暮らす人々のこだわりがそういう時代を生じさせていた。だからそんな時代となってしまった責任は当時の人々にあるわけか。別に責任云々ということではなく、そういうことでしかないということだ。例えば全共闘世代だとか団塊の世代だとかいうのが、その時代を象徴する言葉だったりするわけだ。今となっては中身は風化して、ただの空洞でしかないだろうが、当時は何らかの肯定的あるいは否定的な意味を担っていたはずだ。それらの事象を今頃になって蒸し返しても無意味だ。流行り廃りの対象でさえない。

 しかし君は何から逃げているのか。なぜ仕事をしなければならないのだろう。わかりきったことを問うてみるが、答えなど無視するしかない。まともに返答することはできない。何かが横道に逸れている。言葉が外れているようだ。意味をなさないことを述べていたいのかもしれない。この世界は不条理で満ちている。だからどうだというわけでもなく、ただそう思わせるような状況の中に生きている。何事も思い通りにはいかないからそう思うだけか。そして何事もなかったかのように振る舞い、静かにその場から降りる。ゲームをやめるのか。やる理由はないだろう。そこで生命や財産がかけられているわけではない。何もないところで何かをどうにかしようとしているだけか。君が知っているのはそんなことではなく、どんなことでもない。そこから遠ざかれない。道を外れてどうにかなってしまう。だから何でもないのだろうか。無駄に語りすぎだ。

 どうしてそれが必要なのだ。そこから遠く及ばないところまできていたのではなかったか。何がきていたのだろう。悪戦苦闘はこれからも続くのだろうが、誰かの意識はどこにもない。何も見出せないようだ。だから何もできはしない。そういうことではないと思いたいが、それらの何かがそう思わせる。そしてそれでも何かを語ろうとしている。もう時間切れだろう。できないことをやろうとしているわけか。空は晴れ、今日も仕事をしなければならず、それをどうすることもできない。それとは何だろう。そこに何があるとも思えず、何について語っているとも思えない。いつものことだ。それとはいつものことだ。要するに何でもない。語り得ぬことを語ろうとして挫折している。何でもないことを何でもないように語ろうとして、それができないことに気づく。それはどうでもいいことだろうか。そうではないからわからなくなるのではないか。たぶんそれでかまわないのだろう。


11月20日

 今日もどこかで何かが外れている。失敗の連続がそう思わせる。そして何かの意味がわからない。何かとは何か。その時の記憶が定かでないようだ。まだ何も定まっていないだろう。またやらなければならない。それでも君は生きている。どういうことでもないが、昨日ことを思い出せないらしい。そんなていたらくでかまわないのか。君には理解できないことだ。言葉にならず、文章を構成できなくなる。興味がないのだろうか。心の底から何もわいてこないようだ。本当は何も思っていないわけではなく、その時々で何か思うことがある。ただそれが思い出されず、言葉にならないらしい。勘も鈍り、間違った判断ばかりして、結果的に誰かを窮地に陥らせているのかもしれない。頭の中で処理しきれていない。たぶん思いも寄らぬ出来事が立て込みすぎているのだろう。どこかおかしい。何かが変だ。どことなくどうかしている。気分が悪くなっているのだろうか。語るべきことではない。疲れているのかもしれない。毎度のことだ。なぜそういうことを思ってはいけないのか。風邪が治りかけているのかもしれないが、風邪薬を飲んだ記憶が欠落している。なぜそれを思い出せないのか。どうでもいいことには違いないが、まさかもう一度飲む勇気はなさそうだ。気に入らないことはそれではない。では何について語ろうとしているのだろう。君は計算が可能なことを行っていないようだ。それはどういうことなのか。

 過去は過去を物語っている。とても正気とは思えないが、歴史を思い出してみよう。過去の出来事から何を学ぶのか。今の君には役立たない。何もしないうちに決めつけるのはよくない。だから何も決めないのか。誰のこともわからない。今となっては謎だ。謎のまま何を述べるつもりもないか。いったい何を思い出そうとしていたのか。悲しい記憶がどこかで蘇ってくる。そうではないと思う。何を否定しているのでもないが、とりあえずでたらめでもかまわないから言葉を記してみたらどうか。そのうちやる気が出るはずか。やる気が出なくてもかまわない。これは芸術ではなく、ただの技術に過ぎない。文章作成術というやつだ。そして中身や内容は何でもかまわないわけで、何を記してもそれが文章なら受け入れるべきか。もちろんつまらなくてもかまわない。完全に心が荒んでいるようだ。思い通りにならないから自暴自棄になっているわけか。それほどのことでもないだろう。何かの試行錯誤のつもりで言葉を適当に記していればいい。君はそんなふうに振る舞うべきだ。それが何の立ち振る舞いでもないだろうが、ヒントもきっかけもどこにもなく、それらの何が手探り状態でもない。何かのついでにそんなことが記されていて、そういう内容がどうでもいいことだが、君はそんなことを述べているつもりになる。

 また安らぎの音楽が流れている。勘違いでそんな成り行きを正当化したくなるが、やめたほうがいい。解決すべき課題ではない。何でもないことは何でもない。この世がどうなろうと誰かは生きている。死んでいてもかまわないが、実際に他の誰かが死んでいるだろう。だから人はこの世で生きていたり死んでいたりするわけだ。何のわけでもない。わけなど何でもかまわない。変化を受け入れなければならず、絶えず何かが試されていて、どのような状況の変化の中でも生きてかなければならないならば、時には死んでいたりすることも必要か。本当に死んでいたら、それは他の誰かだとすればいいことか。フィクションの中で死んでいてもかまわない。ただの登場人物に過ぎないだろう。状況とはそういうものだ。そう述べて何かの体勢を立て直して次の記述につなげているわけか。何かとは誰のことなのか。そういうふうに述べてしまうと、何が何でもそこから離脱して、意味を担ったことを記さなければ気が済まなくなってくるか。そういう成り行きになればしめたものだろうが、なかなか言葉の羅列状態から抜け出ることはできず、気がつけば無意味な自己言及を繰り返している。だがそれでも何とかしようとしているのだから、それはそれでそういう成り行きを受け入れなければならないだろうか。何を語っているわけでもないが、何も語らないよりはマシだと思わなければやっていられないか。


11月19日

 何がその気にさせるのか。そんなはずがないと思いつつも、何をやるでもなく、やる気のない自らと何かをやっている自らの狭間で揺れ動く何かを感じ取る。それが誰の心なのか。そういうことではない。暗闇にはじき出された小石のごとく、定かでない行き先を手探りで踏破できると思っているのか。別に山登りの最中ではない。わざとそこからはぐれているのかもしれず、迷子になったと思い込みたいのだろう。誰が迷える子羊でもないか。やらなければならないことは他にもありそうだが、とりあえずはそんなことを述べながらも、そのうち何か思いつきそうな予感はしているようだ。それも嘘の一部だろうか。しかし何をそんなに恐れているのだろう。誰かは何かを感じ取っている。この世界はやがて滅んでしまうわけか。唐突にくだらない。興味がないのはそういうことではない。ではまだやる気があるのか。ただ言葉を記しているだけのようだ。見た目はそうだろうが、何かを密かに考えているのかもしれない。馬鹿げていて、そして切羽詰まって自暴自棄に走るつもりか。意味がわからない。投げやりなことを述べたいのか。

 気分が乗ってこないのだろう。救世主などそう簡単に現れるはずがない。だから無理が祟って自滅してしまうわけか。それも予定調和の結末だ。後からもう少し何とかできたような気がするだけだ。たぶんそれでもいいのだろう。何を述べてもかまわないわけだ。どうにもならなくなってからうろたえて見せるのも悪くはない。だからやり方はいくらでもありそうだ。どれも似たような反応を期待しているのかもしれない。まったくそれは馬鹿げた行為だ。人は愚かなことを繰り返すのが好きだ。人には人それぞれに領分というやつがあるのかもしれないが、そこを逸脱して何かをやろうとすると、途端にどうなるのだろうか。今やっていることがそれなのか。具体的に何をやっているとも思えない。やっているのにそれを自覚できないということか。だから何がどうしたわけでもないだろうが、君には失望している。嘘だろうがそういうことだ。何かの間違いか。何が違っていて、他の何が正しいのだろうか。

 ジャズとは何だろう。戯れ事的な演奏のスタイルだろうか。フュージョンの類なら気休め的に語ることができそうだ。音楽の中で何かと何かが融合している。今ならそんなお粗末なことを述べても許されそうだ。この際感性の鋭さなど問題ではない。鈍感なら愚鈍の極みに達しても許される。そこまでたどり着ける者はまれだ。問題は人ではないのかもしれない。何に携わっていようと、そこにとらわれている理由を見出せるうちは幸せなのだ。何も見出せなくなってからが長い。一瞬のひらめきなどどうでもいいことでしかない。改善できる可能性が失われてから真の苦悩が始まるのか。要するにそこから延々と無駄な言葉が連なり、そんな成り行きから抜け出ることが出来ない。話の展開がそういう方向へ進んでいるわけだ。そこで疲労困憊して心身ともに消耗し続け、やがて無言の時がやってくる。何も語れず、何も述べられない。そういう貧窮の時が今の状況だろうか。何を実感することもない。それ以外はなく、何も語れなくなってから話が佳境に入っている気がする。矛盾しているようだが、何かを語ることの本質がそこにありそうだ。冗談で述べているのだろうが、そんなことがそんなこと以上の力を示す。そこで何を誇示しているわけでもないだろうが、それが沈黙の力だ。

 何が上達しているわけでもなく、ただ意味不明に近づいているような気がするだけで、何を述べているのかわからない。実際に言葉が組み合わせられて文章が形成されているはずだ。恣意的な言葉の組み合わせが誰かの感情を表現している。それは嘘だろう。嘘でも感情は感情に違いない。そこで何かを思っているはずか。そして何とかしなければいけないようだ。そう思うだけで実際には何もしない。言葉が記されるがままの現状が放置されている。それがあるがままの現実なのか。何だかそれはおかしくないか。おかしくて笑ってしまうだろうか。そうではなく何がおかしいのかわからず、妙な印象を受け取って、ただ戸惑うだけなのかも知れない。それが何でもないことだとは思わないが、さすがに何でもないで済ましてしまうのはおかしい。何だか無理におかしさを醸し出そうとしているみたいだ。その場には場違いなことでも述べているのか。要するに的外れなことを述べて、誰かの気を引こうとしているのか。空気が乾燥すると体中がかゆくなり、いても立ってもいられなくなって、その後は何がどうなるのだろうか。それとこれとは関係ない。互いに無関係な文章同士が融合して、支離滅裂なことを述べている印象を受けるだろうが、実際にそうだ。それ以外に現状を言い表せないのだろう。


11月18日

 何がそうさせているわけではないだろうが、いつの間にか空が晴れている。天候が移り変わる。何かをそうさせるものがあるらしい。さっきとは見解が異なるのではないか。だがそれが何の相違をもたらしているのかわからない。君はそれを何とかしようとしている。何かを物語っているわけだ。少し前とは気が変わったのだろうか。そうだとしたら何だというのか。何でもないわけでもないだろう。しかし語る自由があるのだろうか。何を物語るとしても、そこには止むに止まれぬ理由でもあるのだろうか。そんな理由を探して何を物語ろうとしているのか。君には関係のないことだったはずか。語る理由などどうでもよかったはずだ。そこに何かがあり、かつ何でもないと述べている誰かがいる。気がつけば誰かがそんなことを記していて、それを読んでいる誰かがいるらしい。そんなのはありえないか。何がそうなのかわからない。実際はそうでもないのだろうが、少なくともそれらのフィクションの中ではそうだ。そして少し眠たくなってしまい、次第に眠気を振り払えなくなり、やがて居眠りの最中に夢でもみるのだろう。たわいないことの連続が日々の生活を構成する。だからそこに何があるわけでもないか。何かがある。何もなければそんなことを述べていないはずだ。

 たぶんそれが何かなのだ。単なる冗談の続きではなく、何か画期的なことを述べているのかもしれず、そういう思い込みが真実であるように願っているつもりだが、一方でそんなたわいない内容の中に何があるとも思えず、それが何だかわからないまま、大して落胆する様子も見せずに何でもないことを語り続けている。それが紛れもない現状なのだ。それは人がこの地上で増殖しつづけるのと同じように、言葉もつまらない意味を担いつつも自然と増え続ける。延々と言葉が連なっている現状がここにあるらしく、それを誰かが何とか食い止めようとしているのでもなさそうで、何の障害も見出せずにそれらの作業は続いて行くのだろう。そしてそれに関して思うところは何もなく、ただひたすら言葉を連ねて行く。また同じような文が循環している。やはりそれはくだらぬことなのか。そう思っていればそういうことになり、そう思わなければどうなるのだろうか。それでもくだらぬままか。そんなことを述べていればそういうことになる。そしてやる気が失せて寝てしまう。そして目覚めれば翌朝だ。

 とりあえず翌日の空は曇っていて、肌寒い。あいかわらずこの世には興味を持てないか。なぜそれがわからないのか。それとは何か。そこから一歩も前へ動かない。そんなわけで仕事を終えると夜になっていて、また誰かは言葉を記すために、画面の前に座り込み、その場で思いついた言葉を適当に組み合わせながら文章を構成しようとするが、それが何なのか。誰が疑念を抱いているとも思えない。何かに対するアレルギー反応だろうか。気がつけば自己言及の罠にはまっている。それは予定調和の成り行きだろう。あいかわらず以前と同じようなことを述べているわけだ。まったく進歩がない。それでもかまわないのか。あきらめてしまったらそのままだ。それで君はいいのだろうか。君が判断するようなことではないか。では誰がそれを正さなければならないのか。そこには誰もいない。誰かが言葉を記していることは確からしいが、それが誰なのかわからないことになっている。そんなのは嘘だろう。本当に嘘だとすれば、今度はそれと正さなければならないのではないか。だから誰がそれを正すのか。そこで行き詰まってしまうのも予定調和の範囲内か。


11月17日

 その時の気分は何か否定的な見解を導き出そうとしているようだ。人にどんな可能性があるとも思えない。今までに何を試したことがあるのだろう。ただ生きているだけだ。言葉が違っているような気がするが、それ以上の見解を導き出せない。たぶんそれは嘘だろう。ひらめきから見放されている。だからそういう言葉遣いではないような気がして、何か時間の問題なのだろうか。どこかおかしいか。やはり何となくそうなのだろう。しかし冗談以外に何があるというのか。いずれにしても大したことはない。何に見合っているのでもなさそうだ。少なくともその程度の過ちで何がどうなるとも思えず、あいかわらずそんな気分で何をどう思っているのでもない。だから気が変わらないうちにそれらの作業を再開するとしよう。それでも嘘の方便の類になるだろうか。何を目指しているわけでもないと嘘をついてみるが、何となくそれは違うと思うらしく、思っていることを正直に語っていないのだろう。

 何を封印しているのか。外は晴れているようで、一夜明けて雨が止んだらしい。昨日と何も変わっていない。意識して何を語らずにいるわけではなく、たぶん何も語れないのは毎度のこととしても、それなりに昨日と違ったことを述べているような気にさせる何かがあるらしい。しかし気分はどうなのか。何が優れないのだろう。どこで大逆転が起きるかどうかわからないが、とりあえず君がそれらのゲームに参加しているとは思えない。要するにその時の気分で何かを語るつもりなのだろうが、それがくだらぬ結果を生んでいることを承知しつつも、それ以外にどんなやり方があるのかわからず、当面はくだらなくてもそんなふうに語るしかないのかもしれない。だからそれを読み返す気になれないのか。馬鹿げているだろうか。あまりにも情けないと思えるだろうか。それともそれも冗談の続きなのか。いったい何が冗談なのだろう。

 そんなわけで何かには継続性が欠かせないらしい。どこまでもそれができるとは思わないが、いったんそこから離れてしまえば、すぐに何とも思わなくなってしまうだろ。人が社会の中でやっていることは、その程度の成り行きの中で行われていることでしかない。どう考えてもくだらない。しかしそれがすべてなのだろう。だからくだらないと思うのが間違いなのだ。少なくともそれ以上の何かがある。その何かはそれぞれで異なるだろうが、やはりその何かにこだわっているから、それ以上を目指して人は何かをやろうとしているわけだ。それが癪に障るのだろうか。気に入らないと感じれば、それと対決してしまうわけか。それでは少年漫画の世界と同じになってしまう。だからそういう語り方が少年漫画愛好者の癪に障るのだろう。ならば他にどういう語り方があるのだろうか。だから何事も冗談で済ますべきなのか。その先に何もないとすればそれでかまわないのだろう。では何かあるようならどうするのか。まさかその先が今述べているようなことではあるまい。

 誰に未来があるとも思えない。それが誰の未来とも思えず、何がそうなのかわからないのはもちろんのこと、その何かの存在を信じられず、だからそこで立ち止まって盛んに辺りを見回しているようだが、何も見えてこないようだ。しかしいつの間にか何かを物語っているつもりにはなれそうで、それが話の端緒かどうかわからないが、何かの発端にきているのかもしれず、そこから物語るべき内容をつかんだような気になり、それをその場で提示しているつもりで何かを語っているのだろうか。まったく冗談にもほどがありそうだが、今のところはそれが何の物語であるかわからないが、少しは期待感を抱かせるような成り行きになりつつあり、それに関して何か思うところがあるのだろう。しかし冗談の次には何がくるのか。それだけではないと思いたいのだろうが、それだけの可能性もあり、何かのつけたしぎみにそんなことを述べていると、誰かの心がそこから離れていってしまうような気になり、引き止めるつもりはないのだろうが、何となく素直に喜べないような気にさせるものがありそうだ。



11月16日

 夜の闇に紛れて猫が走り去る。どんな目的を設定する気にもなれず、それらの心はあてどなく辺りをさまよう。安らぎを得たいのか。どうせいつもの成り行きになるのだろう。そこまでたどり着けず、そこがどこだかわからなくなり、話の内容を脇へ追いやり、ひたすら無意味なことを述べようとするのか。今から思えば、冗談の続きは何だったのか。たとえ何もわからなくとも、それでも君は見知らぬ誰かに感謝する。君が君であるためには意味不明な言葉の並びが必要だ。誰が誰の足を引っ張っているのではない。誰でも幽霊になれるわけもなく、常に部外者でいることは難しい。だからたまには当事者になって、この世の馬鹿馬鹿しさを享受すべきなのだ。取り立ててそれらの何を否定するつもりもないだろうが、言葉は現実のものではなく、いつも幻影の側に属しているようだ。それが現実の浅はかさを糾弾して、ファンタジーの世界へと人の意識を誘うのか。それは冗談だろう。真に受けられないことであり、何かの思い違いのような気がしてくる。具体的に何をどうすればそうなるのを防ぐことができるのか。依然として何をどうしたいのかわからず、わからなければ遠ざかることもできないようで、意識は虚無のすぐ近くで居眠りの最中だ。あきらめてしまったのか。いったいそこで何を断念したのだろう。

 まだその続きだと思い込みたいのか。誰かがそこで生きていることは確かなようだ。だからまだあきらめていないらしい。言葉を記すのを断念してしまったわけではない。だから何かの続きを語っている。どこに追い込まれているわけでもなく、何かの境地に達したとも思えない。そして何とかしようとしている。些細な行き違いに一喜一憂している暇はない。そこで何かをもたらそうとしているのだろう。実際にはそうだ。そうでもしなければそこまで来た甲斐がないか。だからまだ粘って何とかするつもりなのだろう。何とかするつもりがそんな結果を呼び込んでいるわけだ。何について語っているのか。さっきまでは具体的な何かに言及する気だったはずだが、今となっては叶わぬ話の展開になり始めている。冗談の続きがいつの間にか行き詰まって、何やら告白めいたことを述べている。それがどうしたわけでもないのに気がかりなのだろう。それは何かの行く末なのか。もはや何でもないことではありえず、何かしら現実に関係する事柄らしい。君はそこから何か具体的な事象を導き出すべきなのか。君にわかるわけがない。理由は知らないが、たぶんわからないだろう。だいいち文章の内容がくだらなすぎて読む気がしないではないか。それは誰かに限ったことではなく、すべての文章がそうなのだ。いつものでたらめだろうか。

 誰かは逆境に耐えているのだろうか。それでもそこから何かを見出そうとしている。ここに至ってまだあきらめていないようだ。考えがそこまで働かない。考える暇を与えられていないのかも知れず、現時点ではただひたすら言葉を記すことしか考えられないのだろう。だから行き詰まってしまうわけか。何かのきっかけが欲しいところだ。そこから抜け出すきっかけを探らなければならず、それに対応した試行錯誤を繰り返す必要がありそうだが、果たしてそれが可能だろうか。例えば冗談のつぎには何がくるのだろう。そういうことではないか。たぶんどういうことでもなく、結局そういうことなのだ。何も思いつかずに途方に暮れているはずだ。そしてわかったようなわからないようなことを述べつづけ、何でもないこととなってしまいそうだ。気がつけばさっきから何も述べていない。ではもう終わりだろうか。何を終わらせようとしているわけでもない。自然に終わるならあきらめもつきそうだ。しかしそれで気が済むのか。だからそういう問題ではなく、具体的に何を述べたいのか、それが問われている。何も思いつかないだけではだめのようだ。君が知り得たのはそんなことではなく、誰かの深層心理の類か。またいつものはぐらかしで、そうではないことがわかっていながら、あえて的外れなことを指摘したいのだ。そしてさらにわからなくなり、最終的にはどうでもよくなって忘れるつもりか。


11月15日

 今度はこういうことなのか。別にそれが何を表しているとも思えないが、そういう言葉の並びなのだ。それほどくじけそうになっているわけではないが、とりあえず今は雨だ。数日後の光景の中に誰がたたずんでいるわけでもないが、夜に雨が降っている。あいかわらず自意識は物語の導入を拒否しているようで、取り立てて何を語っているわけでもない。この世界は至って平和だ。ある時は暴力に支配されていて、またある時は友愛精神で保たれているらしいが、そこから何を導き出そうとしているわけでもなく、辺境の地で殺し合う人々も含めて、至って平和なのか。そこにどのような偏見が潜んでいるわけでもない。君はさらなる高みへと導かれているような気はしないだろう。それは誰の精神でもなく、他の誰かが地べたに這いつくばって獲得した知恵でもない。ただの気晴らしに相違ない。どこまでもだらけているのかもしれず、それについて何を思うわけでもないが、誰かが何となくそんなことを述べているようだ。話の主軸は少し意味不明に傾いている。君はそれでも何ともないと思いたいのだろうか。

 それらの冗談の先には何が転がっているのだろう。誰の獲物でもありはしない。ただの戯れ事が長じて何になるというのか。人はそれでもそこに留まろうとするだろう。何の地平でもありはしないが、目指すべき場所がそこにあるらしく、盛んにアタックを試みる者もいるようで、中には死ぬまで挑戦し続ける者もいる。くだらぬ試みに違いないが、それが生きがいだと思い込んでいるのだろう。君はそこから脱落できるのか。脱落ではなく、積極的に逸脱したいのかもしれないが、そんなのはごまかしに決まっている。同じような意味ならば脱落と言った方がより正確だ。何に逆らっているわけでもなく、自らの姿勢を正当化できるわけもなく、結局のところそれはリタイアに等しい。何かをやめるとはそういうことだろう。その何かが何なのかといえば、それはあいかわらず何でもない何かに決まっている。どうやらそこで思考が停止しているらしい。それでもやらなければならないことはやっているつもりで、何とかそれをやることによって正気を保っているのだろうが、気がつけば虚しさこみ上げてくる。

 そこで笑っているようだが、冗談の続きがまだあるらしい。語っているのは君ではなく、君は君とは関係のないことを考えている。いったいこの世界はどうなってしまうのだろう。月明かりは何を照らしているのか。君はただ仕事をするだけだ。それ以外に何があるわけでもない。誰を感動させようとしているのでもなく、演技の中に住まうこともなく、テレビ画面に期待しているわけでもない。そこには何もない。あるのは幻影だけか。それさえも感じ取れないようだ。要するに何も眼中にはないのだろう。何をどうしたいわけでもなく、ただ言葉を記して何かを確認している。そこで真に戯れているのは何なのか。それらの行為は何を無視しているのか。現実の世界では何が起こっているのだろう。ただの戯れ事ばかりではないだろう。誰かが煩悶している。それはテレビドラマではない。たぶん日常生活に潜む狂気でもない。至って正気でそんなことをやっているのだ。それらの何を馬鹿にしたいわけでもないのだろうが、とにかく笑うしかないようで、君も誰かも本気になれない。ゲームはゲームでしかなく、誰がゲームの真髄を極めたつもりでも、やはりそれがどうしたわけでもないことは明らかか。


11月14日

 たぶん何もわからない。何をわかろうとしているわけでもないが、決してわからないだろう。そして笑っている。笑っていてもわからない。誰が笑っているのかわからない。そして眠ってしまい、翌朝に目が覚める。そんなことをの繰り返しが怠惰な気分にさせるのか。わからないがやめておいた方が良さそうだ。何を克服しようとしているわけでもなく、そのときの気分を書き留める。それだけのことでは済みそうもない。他が必要なのだろう。言葉を求めているのではなく、何かを達成したいだけなのか。それでも君にはわからないだろう。だからみっともないまねはしない方がいい。それでもやる気が出たのだろうか。冷静にはなれないのだろう。物事を恣意的に考え過ぎだろう。だからわけがわからなくなるのか。それだけではなく、何か大切なことを見失っているのかもしれない。しかしいつものようにその大切なことが何だかわからない。

 誰が何をわからせようというのか。現に何もわからないではないか。では何をいらついているのだろうか。他人の領分を侵したくないか。それも考え過ぎだろう。信じられないくらいに大人げない。そして不快感をあらわにしている。それ以外の何がもたらされているわけではなく、何となくくだらない気分でそんなことを記す。情けないか。しかしそれだけでは気が修まらないはずだ。気に入らないことにいちいちいらついていては身がもたない。それだけのことらしい。だからくだらぬことに関わり合うのは疲れる。何を語ればいいのかわからなくなり、それが単に馬鹿げたことではないような気がしてきて、そこに意味や何かの兆しを感じ取ろうとしてしまうわけだ。しかし予兆を感じ取ったとして、それでどうなるのだろうか。予言者気取りにでもなれるのか。

 それらの振る舞いは人に不快さをもたらす。わざとではないのだろうか。たぶんそうであったとしても、そうは思わない方がいいのだろう。そういう次元で感情的になってはいけない。不快な人にもそれなりの事情がありそうだ。君は誰に同情しているのか。昨日のことは忘れてしまった。そこで動作が止まっている。我々はロボットではない。たぶんロボットとは少し違う動作を期待されているのだろう。だからつまらないことを考えているわけか。誰かはその内容を知りたがっているようだが、君の記憶の中には思考の痕跡が見当たらない。いったいそれは何なのだろう。何でもなければ何も考えていないことになるのか。そういう疑問がつまらないか。答えを導きだすには及ばないか。ならばその辺でその話はやめた方がいい。

 どうやらそこで何を考えているわけでもないようで、誰かは言葉を記しながらも、それらのくだらぬ諍いを避け続ける動作に逆らうこともなく、そのままにしておきたいらしい。やはり誰かはロボットではないようだ。その手の争いごとに未来があるとは思えない。何の行く末を案じているわけでもないのだろうが、謎についていくら思いを巡らしても、謎は謎のままのようで、それは考えるだけ無駄骨なのかもしれない。誰に何がわかるわけでもなく、歯がゆいことだけは確かだが、それ以上の詮索を拒むような雰囲気があり、何かを徹底的に明らかにしてはいけないのだろう。理由はどうあれ、謎は謎のまま葬り去るべきなのか。その言動から伺えることは、明らかに決心がつかず、それを鈍らせている何かにわざと根負けしたように装い、いったん射程にとらえた何かを取り逃がし、さらに泳がせ、ひたすらそれを強いるように仕向けているみたいだ。それが君の戦略なのかもしれないが、それでどのような結果を導きだしたいのか。


11月13日

 誰かは何をやめようと思っているのか。記しているのは今日の気分ではない。昨日は昨日で疲れただけか。それだけのことで何をどうしようとしているのか。たぶんそれを記しているはずだ。それは人の領分ではない。知識が何かをとらえ直している。何かの幻想だろう。何かが何なのか身に覚えはないらしい。何も覚えていないわけではないが、人は動物のたぐいに違いなく、そこに感情が絡んで、事態をややこしくしているようだ。だからそれは何でもないことではないらしい。おそらく君はそこから遠ざかれないだろう。確かにある時期においては遠ざかろうとしていたが、それが果たせず、結局それらの文章上に舞い戻ってきたようだ。そしてただわけがわからないふりをしているだけで、話が一向に進まないようで、それも想定内だとうそぶきたいのだろうが、何となくしらけてしまっている。君は自らの性分を知ってしまっている。だから何だというわけでもないが、何となくそれが何かを考える上で障害となっているのかもしれない。それは何かの冗談だろうか。そうでなければ何なのか。話に脈絡を感じられないだけか。

 そうでもなければこうでもない。ただの無駄な紆余曲折だ。やる必要のないことをやり、語る必要のないことを語っている。そこで何か秘密でもばらさなければ気が済まないのか。暴露が何をもたらすのか。空疎なことを語っているだけだ。誰かは言葉を記しながら何かをわかりかけていると思う。そしてその何かを言葉にできないのが歯がゆいのかもしれない。それはこの世のシステムと何か関係がありそうだが、そこで言葉にできない何かとは何だろう。誰かの感性は何に反応しているのか。システムとは何か。誰かは自らがこの世のシステムに支配されているという認識を信じていない。それは誰の認識なのか。君はそこで何を思い出そうとしているのか。たぶんそういう成り行きにはならないだろう。思い出せないことを思い出そうとしているだけか。そんな話でもないのかもしれない。それでもそこから出て、この世の真実を知ろうとしているとも思えず、何の話でもないような話を延々と記すつもりの誰かの存在も信じられそうもない。それは存在ではないのだろう。誰かの追憶がもたらした幻影の一種だろうか。何となくその場の雰囲気に流されてそんなことを述べてみるが、依然として自分が誰なのかわかりそうもなく、そんな自分の存在さえ信じられない。たぶんそれも冗談のたぐいだろうが、たとえ冗談だとしても、そこから先に何か記さなければならないわけだ。まったく馬鹿げている。

 それは自分に有利な状況なのだろう。自分が何者なのかわからないうちに、何となくそこで放浪者でも演じるつもりのようだ。嘘に決まっているようなことを記しているらしいが、何となくため息が出て、それを試してみる価値もあるような気になり、そんな価値なども嘘に決まっているだろうが、そこで文章をわかりやすくまとめるつもりもないらしい。何かの幻影について語っているのだろう。何とか内容が間延びしないうちに終わらせなければならないだろうが、そういう意向も信じられず、何を信じていいのかわからなくなる。何かの冗談には違いないのだろうが、そこから人としての小ささを導きだすのも、感情に偏りがある証拠か。何となそういう行いをする人を馬鹿にしたいらしい。それもそれでくだらぬ行いになるだろうか。ならば何を思えばいいのだろう。何も思わずに何を考えようとしているのか。そういうことでもないらしい。どう考えても何でもないこと以外の何ものでもなさそうで、それを認めてしまうと何も語れなくなってしまうのだろうが、それが間違っているとは思えず、どうしてもこの世は何でもないことの集積物の上に映し出された幻影でしかないように思われてしまう。


11月12日

 雨がやんだようだ。遠くに雲の切れ間から日が差している光景が見える。人は何を眺めているのか。人でないまなざしがあるとは思えない。また雨が降ってくる。ただ仕事をしているだけだ。疑いのまなざしの中に真実がある。あり得ないとは思うまい。何がそうなのではなく、それらの光景が何かを考えさせる。疲れているとは思わない。わからないことは他にありそうだ。しかし他があり得るのだろうか。たぶんあるのだろう。今はそれらを読み返すつもりはない。かなり無理を押して語っている。それが無理だとは思わないが、無理は無理として認めつつ、その無理を避けながら語っていけばいいのかもしれない。人は予言することが好きだ。誰が何を知りたいのでもないだろうが、それらの予言を知って驚きたいのかもしれない。誰が何を知りたいのか知っているだろうか。誰かは未だにそれを知ろうとしない。どうせ面倒くさがっているのだろうが、そこで考え直した方が身のためだ。気がつけば惰性に流されている。そして何でもないことの続きが空疎な文章に結びつき、さらに怠惰なことを述べている自らに気づくはずだ。そういう怠慢が積もりに積もって身の破滅をもたらすのか。やがてそうなれば、その時にでも気づいておくとしよう。

 君は何を知って何に驚きたいのか。やはり君も知ることを怠って、無知のまま生きていこうとしているわけか。冗談の続きが知りたい。無知ではなく冗談の続きを語ろうとしているのではないか。それは誰のことでもなく、君のことでもないが、同時に誰のことでもあり、君のことでもある。おそらく語っているのは君ではないのだろう。それは冗談の続きではない。要するにどうでもいいのだ。何がそうなのでもなく、何でもそうなのだろう。やはり戯れ言の次にくるのはでたらめか。それほどのことでもないか。何でもいいのかもしれない。一時の気まぐれがそうさせる。そして何が何だかわからなくなり、何でもないことの続きを語っている現状に満足してしまうのだろう。それがどうしたのか。未だにそれがわからないままだ。それとは何だろうか。何でもなければそれはないか。それはないだろう。ではそれがどうかしたのか。どうもしなければどうなるのか。くだらぬことを語っている結果となるのかもしれない。そしてそれで満足しなければならなくなってしまうか。何となくそれでかまわないような気がするが、いったい君はさっきまで何を思っていたのか。たぶんそれはそんなことではないのだろう。

 誰かが絵画に説明を加えようとしている。君はテレビでも見ているのか。君に残された時間があるとは思えない。しかし誰がこの世界に調和をもたらすのだろう。他の誰かが不協和音を奏でる。何でもないことだ。何がそうなのでもなく、何かがそうなのでもない。それは何かの偏見なのか。ありふれた感覚がありふれた言葉をもたらし、それが文章として記されただけか。何がそうなのかわからないが、今となってはそういうことだと思っておけばいい。やはり何がそうなのかわからないか。君は誰かが記している内容を知りたがっているようだ。しかし誰かが記している文章中に君という言葉が記されているのであり、君という言葉に自らが記されている文章の内容など知りようがない。だからそれが冗談だというのか。くだらぬことを語っているだけだろうか。それも冗談のたぐいかもしれない。何がそうなのかよくわからないが、結局そういうことの積み重なりがそれらの文章の内容なのだろう。それをどう思おうと誰かの勝手か。何となく投げやりな気分となり、そこから先に何ももたらせなくなる。その前でも何ももたらしていないような気もするが、それが何だかわからないのは今日に限ったことではない。いつもわからないのだろうか。


11月11日

 何かやる気がしない。何でもないが、それがそれをそれにしようと思っている。もちろんそんなのは嘘で、どうにもこうにも何も思いつかないようだが、それとは何だろう。それは日記ではないはずだ。それでも流行り廃りではある。文章の内容とはそういうものだ。そして今やらなければやっている暇がない。ただそれだけのことに悩んでいては何も始まらない。すでに始まっているそれは何かの序章なのだろうか。それは冗談だ。そんなふうに思えて仕方がないようだが、それでもかまわないのだろう。何かをやるとはそういうことらしい。別に食らいついているわけではない。何かがそうさせるだけだ。君には関係のないことかもしれないが、それが重要なのか。たぶんそういうことだ。何がどうなってもそういうことでしかないようだ。誰かがそれ以外の何も求めていない。それがすべてだとは思えないが、そういう事実を受け入れなければならない。だからそれがすべてなのだろうか。そうは思えないがそういうことか。さっきから何を繰り返し語ろうとしているのか。とりあえず誰かも君もお呼びではないかもしれない。すべての前ではすべての人格も塵や芥のたぐいになってしまうのか。だからどうしたというのだろう。要するにそれ以上を望んではいけないということか。

 だがいい加減に言葉を並べても文章は文章だ。空疎でくだらぬ文章でしかないが、とりあえずそれを提示てその場を凌ぐつもりらしい。そうやって馬鹿げた成り行きに付き従ってしまうわけか。それでもかまわないのか。誰に問うているのだろう。述べていることが支離滅裂であってもかまわないのではないか。それならそれでそういうことを述べていればいいだろう。君は現にそういうことを述べていて、誰かがそれを記してきたはずだが、それの何が気に入らないのだろうか。正しいことを述べているとその身が危なくなる。過去の国家ではそういうことが当たり前だった。だからそれと何が関係しているわけでもなく、間違ったことを延々と述べている君とは無関係の状況についてあれこれ述べるのは間違っている。だから間違っているのではないか。人々はこの世界で何を求めているのか。苦境を乗り切るためには何が必要なのだろう。少なくとも暴力に訴えているのではない。ならば恐怖の力が何をもたらすのか。わざと支離滅裂に語り、当然のことながら話のつじつまが合わないようだ。

 快楽の追求を継続させるために暴力に訴える人々がどうしたわけでもない。では何を語っているのか。戦うことが目的なのだ。それが人の根源的な欲求なのだろう。だからどうしたわけでもないが、人は戦い続けて心身をすり減らすことによって自らが生きていると実感する。それが人であることの証しだと感じている。しかしなぜそれが当たり前のことなのか。たぶん何でもないことだ。戦うことをやめて静かに暮らしているとしても、何でもないことに変わりはない。状況が誰かをすぐにどうにかしてしまうのだ。何かの渦中に、坩堝の中に投げ込んで、誰かをどうにかしてしまうだろう。そんなことは問題ではなく、何をどうに語ろうと何でもないことだ。それでも人は生きて死ぬだろう。それの何が馬鹿げたことなのか。何の問題もないからか。何でもないから馬鹿げているわけか。そう思うならそう思っていればいい。そこには何も見当たらない。誰と誰が戦っているわけでもなく、どこに暴力を行使する場があるわけでもない。無理矢理見せ物的に戦っている人たちにはわからないことだ。それを生業としている人たちは悲惨だが、それも自ずから人であることを証明していることの一環なのか。


11月10日

 ついに継続が困難になってきたようだが、それらの何が問題なのか。つまらない諍いが誰かを動揺させ、そんなフィクションを無視しながら、話の中身が見えてこない。ところで戦争はいつまで続くのだろうか。とりあえず人の死は勇気ある行動を鈍らす。しかしそれは他人の死ではないか。家族が悲しむ。人道的にはそういうことだ。遺族はどのような人道的な配慮を求めているのだろうか。大統領が弔意を伝えればそれで済むのか。その後はありふれた成り行きになる。だがそれだけのことで、他に何があるのだろう。意味など何もないから人は死ぬ。くだらぬ人格の持ち主がフィクションの中で安易に殺されてしまうわけだ。だから何の話かわからなくなる。君はそれ以外の何を求めているのだろう。そういう話ではないようだ。実際には記された言葉の他に何もなく、それが紛れもない現実だ。そして話にならないようなことを述べている。すべてが無駄で無意味で自己嫌悪に陥ってしまうわけだ。

 そして突然この時がやってきた。本当にすべてが終わるのだろうか。そうだとしたら何なのか。君にも終わりの時が訪れているだけか。誰かが去り、文章の継続が困難になる。それだけのことなのか。たぶんそれでもかまわないのだろう。何かが終わるとはそういうことなのだ。何も不思議なことではない。そしてそれらの残骸の中から何がどうなるのか。何もどうにもならなければ、そういうことの繰り返しが無に帰する事態となったわけだ。それで何がすっきりしたのか。唐突にそういう状況となってしまい、本当に困っている。あながちそれが嘘だともいえない。だから何だというわけでもないだろうが、すべてはそういう風に推移していってしまうのか。だからそれがどうしたわけでもない。そういうことの積み重ねの上に今があるわけだ。

 何を悩んでいるわけでもないようで、ただ投げやりな感覚なのかもしれず、そんなふうにして何も考えずに何かを語る。それだけが可能な文章の構成だ。目下のところは自己言及に頼るしかないらしい。何事も悲観的にとらえてはいけない。そういう成り行きは成り行きとして、肯定的に自らに言い聞かせなければならず、たとえそれが自らに対するマインドコントロールだろうと、そういう施し具合を前提として、その後の精神的な安定を求めるべきか。わけがわからないが、そんなふうに言葉が並んだので、それはそれでよしとしておこう。今回はわけのわからない冗談がきつ過ぎるだろうか。無意識のうちに頭の中が混乱しているのだろう。何を装っているわけでもなく、本当にそうなのかもしれず、内心思わぬ事態に焦っているのかもしれない。そして唐突に試練の時が訪れていることに感動しているわけだ。

 それの何が馬鹿げているわけでもなく、たぶん適当にいなして、試練が試練でないように思いたいのだろうが、そういうごまかしが通用するはずもなく、ただそんなふうには思いたくないのだろう。試練は試練であり、乗り越えるような対処が求められているのだ。笑ってしまうがそういうことだろう。何がそうなのかわかっているのにわからないふりをしつつ、冷静に対処しようとしているらしい。それはどういうことでもなく、ただの戯れ事もでもなく、真面目な対応が求められているのだろう。そしてそんなことに応じる気配も感じられずに笑ってしまう。結局はそれだけのことなのか。何がそうでもなく、人にはその人独自の都合があり、その都合に合わせて考え行動するだけで、そういう都合の限界を超えて何かを成し遂げるのには困難がつきまとうのだろう。


11月9日

 今日も誰かは事件に遭遇しているようだが、相変わらず現実が見えてこない。たぶん暇つぶしのニュースでも見ているのだろう。そんな嘘をつきながら画面を見つめている誰かがフィクションの中で息づいている。しかしそこで誰が誰に向かって何を語っているとも思えず、実際にそこで何が語られているのでもないらしい。だから現実が見えていないことになるのか。いったい現実とは何なのか。今さらそれはない。どこから疑念が生じているのでもなく、誰が何に対して疑念を抱いているのでもない。少なくともフィクションの中ではそうだ。現実の世界ではどうなのか。何のことやらさっぱりわからないか。何が意味不明なのだろうか。そういうことではなく、何がわからないのだろうか。何となく回りくどいように思える。単刀直入に何を要求しているわけではない。別に魔法にかかっているわけでもなく、何かのおとぎ話を語っているわけでもないだろう。だからどこまでも意味不明でとっちらかっているのだ。それらは何かの残骸なのか。

 まだそこまで語っていないだろう。語っている何かの残骸はそれからどうしたのか。それらの言葉は心の残骸のことを指しているのだろうか。方向が定まらず、何をどうしたらいいのかわからないらしい。それは毎度のことだ。どこかに脱出口があるのかもしれない。そこから魂まで抜け出るつもりだろうか。しかし他に何を吸い取られているのか。別に吸血鬼に血を吸い取られているわけではない。それに君はコウモリではない。ところで君の魂はどこに属しているのか。何の話なのかよくわからなくなってきたようだ。それはもとからか。たぶんそれも冗談の続きに違いない。それは手続きの問題であり、君はそこに至る手順を間違えているのだ。だから誰かはわけのわからない文章を記している。そして依然としてそれがどうしたわけでもなく、何でもないことでしかない。君はそこからどこへ至ろうとしているのか。

 どこかで何かが安定している。心がそうなのだろうか。少なくとも鬱状態からは脱したはずか。作り話の中ではそうだったはずだ。だから話が見てこない。おそらく何もわからないのだろう。わかっていないのは君も同じだ。わかろうとしていないのだろう。面倒くさいのか。それらを話にするのが面倒だ。だから意味不明のままなのか。そこから何をどうしようとしているわけでもないらしいが、いったい何がそうなのだろう。だから目覚めた方がいいと思っているのだ。くだらぬ言葉遊びはもうやめて、そこから退散した方がいい。しかしさらにわけがわからなくなってきたようだ。誰かは気が狂っているのだろうか。冗談の続きを記しているだけか。何にしてもおかしな具合になってきたようで、苦し紛れにもほどがありそうだ。

 それが幻想であれ、思い違いであれ、何もないということはあり得ない。ならばそれに対するいいわけはどこに記されているのか。すべてが虚脱状態でどこかあらぬ方角で視線が錯綜しているかもしれない。誰が疲労困憊しているとも思えず、誰と誰が物語の中で争っているにしろ、何となくそこでしらけている意識とともに、誰かが考えていることといえば、それは何だろう。フィクションの中の決着など何でもないことだ。人が人に感動しているとも思えない。たぶん君はそうではないと思いたいのだろうが、実際にそこから何が始まるわけでもない。それでも人は人を感動させたいのだろう。途中経過がどうであれ、誰かはそこで何かをつかんだ気でいる。それは根拠のない自信だろうか。そんなわけで君には先が見えているようだ。


11月8日

 またここへ戻ってきたが、意識はどこにもない。そして翌朝になってしまう。いつものように疲れているのだろう。何とも思わず、何も思いつかない。まるで空白の時間帯だ。そうではないと思いたいが、本当にそういうことらしい。気がついたらばかに文章が長くなっている。何も述べていないのに文章が長い。どこかで修正しなければならない。そう思っているうちに眠ってしまったようだ。フィクションの中ではそういう話だったのか。何がそうなのでもない。君は何も思いつかないだろう。眠っているようだが、それは疲れているからだ。それだけのことで言葉を記すのをあきらめてしまう。それはどういうことなのか。この世界はどうなっているのか。いつまでたっても目覚めない。それが違うのだろうか。まったく話になっていないようだ。何かの冗談なのだろうか。何もわかっていないようだ。

 人には何もわからない。だから君にもわからない。そんなのは嘘だろう。意味がわからないが、何をどう思えばいいのかわからない。だが本気にならない方がいいらしい。どうなるわけでもないだろうが、ならざるを得ないわけではない。誰もそうは思わない。ならばあるべき姿などを空想しても仕方ないか。安易にそんなことを思ってもどうなるわけでもない。確かにどうなるわけでもないのだろうが、それでも何かに頼っているようだ。妄想や空想によって絶えず期待を抱いている。何かがどうにかなってほしいのだろう。

 何が違っているのかはよくわかっているつもりか。ならばなぜそれが示されないのか。よくわかっているのにわからないのはどういうわけなのか。職があって生活できればそれでかまわないのだろう。欲が出てそれ以上を求めてしまうと、とたんに無理な状況を招いてしまう。贅沢がしたいのだろうか。それはありふれた欲望に違いない。誰かはつまらないことを述べているようだ。だからなぜそうなってしまうのか理解できない。理解できなくても言葉を連ねる作業は終わらない。馬鹿げたことか。君はそれに関して何とも思わないだろう。

 どうも誰かは状況を把握できていないようだ。改革とは何だろう。人は現状を改革しなければならないらしい。だが脅威とは何だろう。改革に対して何が脅威となっているのか。わからないと述べれば済んでしまうことだ。なぜそうなのだろう。改革を阻止することで何を狙っているのでもない。馬鹿げた物語だ。それを誰かが読んでいる。たぶんそういう大げさなことではないのだろう。物語ではない。興味がないのだろう。そして何を語っているのでもない。やめてしまうのは簡単なことだ。語るのをやめようとしているのだ。それも何かのフィクションなのか。君がそれを妨げているわけではない。

 気に入らないのはどういうことだろうか。何を考えているのか。何が問題となっているわけではない。だから空疎なことを述べているのか。何もないからどうなるわけでもない。しかし誰が懸念をあらわにしているのだろう。ニュースでも見ているのだろうか。人は事件に興味を持っている。それがどうしたわけでもないだろう。君はそこで心変わりして、やめるのをあきらめてしまうのか。それで何をあきらめていることにもならない。何がどうなろうと君には関係のないことだ。だからそんなふうにして言葉が並べられているのだろう。意味を見出せないようだが、それがそういうことの一部始終だ。


11月7日

 何も思いつかない日々の中で、ただ仕事をしている。たぶんそれが普通だろう。今日は何かまともなことが述べられるだろうか。そんなことを記した時点でもうダメか。誰かは何となくそう思っている。しかし何が試されているのか。間違っているのは誰に限ったことでもない。では君も間違っているのか。いったい何が間違っているのだろうか。今はそれが感じられない。何のことやらまったくわからず、そこで誰が何を語っているのか見当もつかない。誰もそれを見つけられないようでいて、すぐそこにあることに気づかない。それがどうしたのか。どうもしないはずだ。依然として何が間違っているのかわからないままだ。笑ってどうするのだろうか。確かに笑っている。フィクションの中でも笑っているのだろうか。誰が笑っているのか。作り話の中では誰もが笑っているはずか。何かを語ろうとすると言葉を失ってしまうらしい。ブレーキがかかっているようだ。だから何だというのか。もうできないというわけか。ではなぜ無駄に言葉を記しているのか。そういう自問自答にも飽きているはずだ。だがそれだけではやめられない。単にやめる気がないだけか。何をやめてもらいたいのだろう。君は何をとぼけているのか。やる気がないのにやめる気がないというのは矛盾していないか。矛盾しているのはわかっている。いつものことだろう。わかっていることは他にもありそうだ。この世界のすべてに魅力を感じないか。それがどうかしたのか。いつも見ている世界だ。それが世界なのか。見ているだけではなく、現に体験しているではないか。誰かはそう思っている。フィクションの中でそう思っているのだろうか。回りくどい話だ。

 他に何を感じ取っているわけではない。心はどこかにいっている。意識がそこから離脱している。ありえないことだ。何がそうなのだろう。冗談の次には何がやってくるのだろう。誰も気にもとめない話だ。それは今語っているそれか。俄然やる気が出る。虚構を記しているわけではない。それは今の気分になるだろう。何をやる気になっているわけでもなく、誰かが画面上に言葉を連ねる。それの繰り返しが退屈に思われるようだ。誰かにとってはそうなのだろう。だがその先には何かが待ち構えているはずだ。何をそんなに期待しているのか。わかっているのはそういうことではなく、どういうことでもないのだろうが、とりあえず自分は話の中で何を語っているのかを知りたい。だからそれはありえない。語っているのは自分ではなく、他の誰かのはずだ。だからそれがフィクションなのだろう。そういう問答も空疎で意味がない。何がそうなのか。何が何でもないのだろう。この世界がどこまでもこの世界であることの何が不思議に思えるのか。他に何を思っているわけではない。それでは何も思っていないのと同じことではないのか。それで何がわかるのだろう。この世界がこの世界であることの何を理解しているのか。そのものだろう。君はこの世界が世界であることを理解しているつもりだ。それはつまらない理解だ。誰かはそれが気に入らないらしい。だがそれでももう一息でどうにかなる段階までやってきた。何がどうにかなるわけでもないが、とりあえず一息つける。何でもないのにそこまでやること自体が大変なことなのか。そう思っていれば自己満足に浸れる。

 たぶん延々とそれを繰り返しているのだろう。ただの記述に違いない。誰かはそれを自覚している。たとえ現実に体験していようと、それがどうしたわけでもないのは辛いことか。これまでの苦労が報われず、ただの無駄となってしまい、結局忘却の彼方で何か空疎なことを述べている。そんなことはすぐに忘れてしまうだろう。実際に数日後の君の記憶には残っていないだろう。誰が何を書き記していようと、それは興味のない範疇でなされていることになる。だがそれしかない場合はそれをやるしかないようだ。ひたすら言葉を連ねて、そういう事実を忘却の彼方へと押しやろうとする。いったい何がそうなのか。人はそれでも生きているのだ。何もないのに生きているらしい。それでも何かがあるだろう。そんな期待を打ち砕くために無内容を書き記す。そんなことをやる必要もないのにそれをやらざるを得ない状況に追い込まれているようで、逃れる術を知らず、超えられないことを悟りながらも、その辺をうろつくだけで満足しなければならないのか。何に満足できようか。それが問題だとは思わない。不満を抱きつづけている状態で何をどうしようというのでもないらしく、とりあえずそういうことを受け入れているわけだ。君にはそれができるはずだ。別に何をやることもなく、自然体で生きていれば何かをやっていることになるらしい。それがありえないことだとしたら、君はフィクションの中で生きているのだ。それがどういうことかわかるだろうか。わかってしまってはつまらない。つまらないからそういうことを述べているとしても、それを不満に思っていること自体が何でもないことだ。どうでもいいことの範疇なのだろう。それが気に入るとか、そういう問題ではなく、ただの文章が記されているに過ぎないことの中に、誰かの思いが託されている。


11月6日

 それは語るべきことではない。語っているのは誰でもなく、誰かは誰でもない誰かだ。そういう前提が間違っていると思われる。語り方がさりげないとは思わない。現実はどうなっているのだろうか。これが結果なのか。これではないだろう。結果を認めたくないのか。どれも結果ではなく、まだ結果が出ていないつもりで語りたいのだろう。そんな現状は何かおかしいように思われる。昨日の結果に動揺している。嘘だろう。際限のない嘘の羅列か。云わんとしている意味がわからず、どこかでそれとは違う響きを探っているらしい。それはどういうことなのだろう。何を語っているとも思えないのは毎度のことだ。しかしそれがどうかしたのか。ただ文章になっていない。しかしなぜ眠ってしまうのかわからない。それも毎度のことで、誰かは言葉を記したくないのだろうか。だが夢の中では奇妙な事件を体験したはずだ。それとこれとは何がどうつながるのだろうか。果てしないことを語っている現状があるらしい。間違っているのだろうが、そんなことをやっている。何がそうなっているとも思えないだろう。ただ果てしなく言葉を記している。夢の内容は何だったのだろうか。これから起こることを前もって夢で体験したのか。夢で体験したら事件に巻き込まれるのを避けられるわけでもないだろう。ではどうしたらいいのか。黙って夢と同じ事件に巻き込まれていればいいのか。そのための夢ではないだろう。本当にそうなってしまうのかどうか、これから見極める必要がありそうだ。たぶんその時がきたらわかるだろう。

 すでにそれを知っているはずだが、まだどう対処していいのかわからず、もどかしい気がする。それも冗談の続きなのか。これから体験するのは夢のとおりではないかもしれない。何かが少しずつ違っていて、案外気づいた時には事件後になっていたりして、夢などどうでもよかったということもあり得る。だから何だというわけでもないが、そうなってしまったらもう手遅れなのだろうか。だから手遅れにならないように、細心の注意を払いながらこれから起こることを感じ取らなければいけないわけか。果たしてそんなことができるだろうか。誰がそれを見極めるのか。誰かに決まっているだろう。その誰かが誰なのかわからない。それがフィクションの中でのことで、本当は今言葉を記している誰かであることはわかりきっているはずだ。だが君は迷っている。誰かが君でないことが気に入らないのか。それもフィクションの中に記されていることだ。夢が実現するなど考えられず、それこそ虚構の出来事であり、誰かとも君とも無関係なところで起こる事件のはずだ。しかしそれで安心できるだろうか。わかっているのはそういうことではなく、あまりにも芝居がかった夢だったので、奇妙な感覚とともに驚いているのだろう。まさか正夢になるとは思えないが、本当にそうなってしまったらどうしようと思っているのだろう。どうしようも何もなく、ただそんな出来事に感動していたらいい。

 それでもまだ平常心でいられるのか。君に問うているのではない。では自らに何を言い聞かせているのか。微妙な恐怖心のようなものを克服できるだろうか。その時になってみなければわからない。夢が自らの行動に警鐘を鳴らしているとかいう、ありふれた解釈を導入して、それで何かを合理化していれば気が済むだろうか。いったい何をどうしたいのか。これから何がどうなってしまうのだろうか。どうやらただの戯れ言を書き記していると思っていればいいわけではないようだ。そこから何か気が済むような見解を導き出したいのだろうが、それが何だかつかみきれていないような気がする。それができるとは思っていないはずだ。誰かはいつもできないことをやろうとしているわけだ。それで誰の考えが変わるわけでもないだろう。だがあきらめきれないようで、何となくそこにリアリティのようなものを感じ取ろうとして、それらの夢を片時も忘れないように心がけているのかもしれず、それと類似する体験に差し掛かった時、まさにいつか見た夢を思い出すつもりなのだろう。その時誰かはどう行動するのか。夢で見たようには行動せず、何とか持ちこたえ、巻き込まれるのを阻止して、そこから無傷で離脱しようとするわけか。何となくそれは虫のいい話だが、ありふれたフィクションの成り行きでもありそうだ。そういう物語の成り行きはよくあることで、事件に巻き込まれように行動することが、より一層混迷を深めながら、かえって事態を悪化させるような成り行きになり、さらに取り返しのつかなくなるような結果となるのかもしれない。


11月5日

 何を取り返そうとしているわけでもないのだろうが、何となくそれがおかしな動作のように思われ、それとは違う気分で何かを述べているような気もしてくるが、それがどうしたわけでもなく、何をどうしようとしているのでもないことに気づく。そこで君は行き詰まってしまったのか。気にしないことだ。何ももたらせないのはわかっていることだ。はじめから行き詰まっている。途中からではない。誰かは疲れているのだ。疲れているから弱音を吐く。だがそれはそれだけのことで、真に受けるようなことではないらしい。何を語っているかは当人がわかっているはずだ。君は今でもそこから遠ざかろうとしているのだろう。文化が違うのかも知れない。語っている内容も異なる。しかしそれで内容を示していることになるのか。内容とは何なのだろう。今さらそれはない。画面に向き合うことができないようだ。テレビでも見ているのか。何を眺めていようと、気に入らないことは気に入らないままだ。それによって何を成し遂げようとしているのでもない。わからないことはいつまでもわからず、気が散って話にならないような状況に耐えている。そんなのは嘘だろう。少し言葉を無駄に散らしすぎだ。それはどういうことなのか。どういうことでもないのは明らかか。まだそこまで至っていないのだろう。どこへも至れないようだ。何かの境地に達したいのか。それがわかれば苦労はしないか。だからその辺でやめておけばよかったのだ。未だに冗談の続きを記している。

 君はそこで何を見ていたのか。テレビ画面ではない。ふと気がつくと、気持ちが何かに吸い込まれている。心はそこで何に警戒しているのか。それがわからないからどうしたわけでもないだろう。言葉が定まらない。意図しないことが記されている。人はどこまでも人であって、神でないことは確かなようだが、それでもつまらない言い訳が用意されているようだ。君は知りたいのはそんなことではない。何にイラついているわけでもなく、何となくそんなことを記している。誰も君ではないのだろう。たぶん誰が君の実在を望んでいるのでもない。誰かはまだその水準から抜け出られない。何の水準なのかわからないが、何かと何かがそこでかみ合っていないらしい。歯車など簡単に作れるものではない。冗談はどこまでも冗談であって、そこから飛躍するわけにはいかないらしい。論理的にはめちゃくちゃなことを述べている。それはノイローゼの一種だろうか。悩んでいる当のものを記せないのに、何に悩んでいるとも思えず、ノイローゼも何もありはしないではないか。では何なのだろう。それらの文字列は何を示しているのか。君という言葉に何を託しているとも思えない。文章の成り立ちがまるででたらめなのか。意図してそうなのだろうか。つまらぬ偶然の巡り合わせではないようだ。ともかく誰かは疲れていて、それについて何をどう考えていいのかわからず、途方に暮れるばかりで、それがフィクションに過ぎないことを忘れているようだ。

 そんな状況をどうしたいわけでもないのだろうが、そこから具体的に何を述べられるだろうか。すでに述べているそれらをすべて否定したいわけか。何を否定しても、否定している当の文章を繰り返すだけだ。言葉を記すとはそういうことだ。そこで何が待っているとしても、とりあえず言葉を記さなければらちがあかない。深く考え込む必要も感じられず、体験する現象は過渡的な変化を示すばかりだ。だからどこまで記せば気が済むというわけではなく、どこまで記してもその先がある。そして言葉を記せば記すほど疲れる。気休めの内容がどこにも見当たらず、虚無の荒野で空疎な無内容をひたすらなぞるばかりだ。それが疲労の原因なのだろう。それでも少しはまともに語ったつもりになれるだろうか。なれないから苦悩しているわけか。しかしそれの何が苦悩なのだろうか。ただの言葉に過ぎない。どこまでもそうだ。だから何を語っても無駄なのであって、どこまで語っても空疎な内容となってしまうのだろう。しかしそれの何が気に入らないのか。誰が気に入らないと感じているのだろう。何がそうなのでもなく、それ自体が違うと感じられてしまうのかもしれない。そこで君は君自身を裏切っている。そんな言葉自体が違うと感じられてしまうのだろうが、それも戯れ言の範囲内で記されていることか。たぶん君にはわからないのだろう。君が君でないことが理解できず、誰が記しているのでもない文章を読んでいるつもりになっているようだが、たぶんそんな幻想を抱けるだけでも幸せなのかもしれない。


11月4日

 それは朝の記憶ではない。眠気とともに自意識は何を思うのか。たぶんありふれたことだ。実際には何も思わないが、フィクションの中ではそういうことにしておこう。それらの何が作り話なのだろうか。意味のない疑念だ。ではついでに意味も付け加えよう。実際に何を付け加えているのかわからないが、とりあえず言葉を記しているようだ。それで文章が意味を担えるだろうか。そういう疑問が余分なのか。ならばそれらの文章は余分だらけで構成されている。しかし今さらながら意味とは何だろう。それに関して君は適当な回答を持ち合わせていないようだ。別に問題を解いているわけではない。奇問や難問というわけでもないはずだ。テレビのクイズ番組に出演しているわけでもない。ただ画面上に映る何かの変遷を眺めている。心変わりでもしてしまったのだろうか。何についてそうなのかわかりかねるが、たぶんまた何かを考えているのだろう。何も見出せないのは今に限ったことではない。そしてわからないことはいつまでたってもわからず、時折苦し紛れの答えをつかみ取ろうとするが、それが幻想であることは承知しつつも、それで済まそうとしてしまい、過ちをさらに増幅させるわけだ。君はそれが何なのかわからない。だが今さら焦っても無駄だ。すでにここまで書き記してしまったのではないか。誰かはそれを悔いているのだろうか。その程度のことをいちいち気にしているようでは神経質過ぎるか。過敏症の類か。しかしそれで何を語っているつもりなのか。いつものように何も語らずに文章を構成しているつもりなのだろう。

 そして君は久しぶりにそこから遠ざかる。何から遠ざかっているのかも理解できぬまま遠ざかり、さらにそこから遠ざかる。それはまったくの呆然自失というやつか。何に唖然としているわけでもない。そうやって文章を構成できる。ただそれだけのことにこだわっているのだろう。それだけでなければ駄目のようだ。それ以外はありえないということか。また眠ってしまったようで、深夜に目覚める。何を語っていたのか覚えていないらしい。どうやらそれ以外がありえたようだ。選択肢などいくらでもある。要するに何も選んでいなかったということだ。わざと矛盾したことを述べている。そして何となくおかしく思い、心の中で笑っているようで、現実の無表情が不気味に感じられ、実際に何を思っているのかわからなくなる。やはり心変わりがしているのか。何のことでもありはしない。述べているのは何のことでもなく、すらすら空疎な内容を書き記し、それで満足しないのは当たり前のことで、だんだん好ましくない結果が場面上に浮かび上がってくるようだが、それらの何に納得してしまったのか。所詮は何でもないことか。いくら悩んでも意味不明に違いない。そしてそれとこれとは無関係であって、それが何だかわからないのと同じように、これも同様にわからず、結果的にはそれもこれも冗談の類となってしまう。だからそういうことで満足しなければならないのか。

 何がどう変わったとも思えない。深夜に何を語っているわけでもないらしく、とりあえず言葉を適当に連ねているようだ。見えているのはそれではない。ではそれとは何だろう。調子に乗っているのか。気分がハイな状態か。そんな精神状態で乗り越えられるだろうか。心の中で何を弄んでいるのでもないらしいが、記された言葉がそんな雰囲気をまとっているように思われ、何だか突っ走っているような感覚にとらわれる。なぜどん底から抜け出られたのか。それがどん底ではなかったのか。視線がどこを向いているとも思われず、何を眺めているのでもないらしい。正気でいられるはずがない状況とは少し違っているようだ。何を語ろうと心がけているわけではないが、そんなふうに思われてしまうようで、どうしようもないというわけでもなく、そういう成り行きに乗っかって、何となくそれでかまわないような気がしてくる。やり直しなど何度でもできてしまいそうだ。わかっているのはそれだけではなく、たとえそれが勘違いであったとしても、君にはそれが幸運な状況であると感じられてしまうだろう。だから冗談でそんなことを述べていてもかまわない。述べているうちに冗談ではなくなってしまうからだ。今や君は何にてこずっているわけでもなく、そんな状況と心が一体化していることを感じているはずだ。自らが状況を取り込んでしまっていて、それと切っても切れない関係となってしまっているようだ。そしてそれの何が当たり前とも思わず、何となくそれがその時の心境となっている。


11月3日

 しかしその時とは何だったのか。何を選んだわけでもない。それはその時ではなかったのかもしれない。どの時でもなく、そんな時などもとからありはせず、あるいは過ぎ去った時だったかもしれず、今となっては取り返しがつかないのだろう。だから何だというわけでもないが、言葉が進まないようだ。今の気分を記述するのが面倒なのか。その気もないのにそんなことを記すはずもない。そんなわけであいかわらず何も思いつかず、いつものように空疎なことを述べているしかないらしい。今はそんな状況が気に入らないわけか。まあ好きにするだけのことだ。どうあがいてもそういう水準の文章しか構成できないのだから、もういい加減にあきらめたらどうか。それが宿命なのだろうか。くだらぬことを思っているようだ。誰でもない誰かはそんなことを思っている。そしてそれ以降の話の成り行きを考える。もとから何の話をしていたのか。それが何だかわからないのは毎度のことのようだが、そうやって文章を構成しているわけだ。まったく呆れるにもほどがありそうな気配を感じている。実質的あるいは客観的に何を述べているのでもない。君はそういうやり方は好ましくないと思っているが、そうなってしまうのだからどうしようもない。冗談にもほどがあるか。飽きれた次は冗談に逃げようとしているらしいが、逃げられるはずがないことも承知している。そういう成り行きでは困り果ててしまうか。ふと見ると誰かが遠くを眺めている。もうあきらめてしまったのかもしれない。

 人には快楽と安らぎが必要らしい。そこで何を選んでしまったわけではない。無駄に言葉を記しすぎている。それに関して何を思っているわけではないが、今さら焦っても無駄か。違うことを考えていたのだろう。たぶん何かをやり過ごしているのだ。そう述べてしまうと元も子もないが、誰かは自らの気分と感情を無視している。くだらぬことが目白押しであろうと、それが世の中なのだから、それはそれでそういうことでしかない。君は何も信じられないのか。何を信じたらいいわけでもなく、何も信じなくてもいいわけでもない。その時の成り行き次第なのかもしれない。それはその時々で違っていて、信じるか否かはその時の気分で異なってくるのだろうが、それで合っているか間違っているのかもそれ次第だ。それとは何なのか。それもその時々で違ってくるだろう。たぶんそこに選択すべき法則などというものを当てはめてみても、恒久的な有効性など期待できず、やはりその時々で考えてみなければならない。だからいくら面倒な成り行きになろうと、そこで焦って感情まかせに強引なことをやってしまってはヤバい。それでもかまわない場合もあるのかもしれないが、後から後悔することの方が多いだろう。

 そんなわけでとりあえずそんなことを述べてしまっているようだが、何をどう述べても完璧というわけにはいない。だから何だというわけでもなく、その場その場でその場の思いつきが記述にはついて回る。回りくどくも慎重に事を運んでいるとも思えないが、やっとのことでそんなことを語っても虚しいだけか。言葉を弄して真実などに近づくはずもなく、虚無のまわりをぐるぐる回っているだけかもしれず、もうその辺であきらめた方がいいのだろう。そして何をあきらめても無駄かもしれない。矛盾しているが、成り行き的にはそういうことだ。そんな成り行きに逆らうのも従うのもどちらでもかかまわず、選んだ先に新たな成り行きが待ち構えているか、これまでの続きが連なっているかであって、切断も継続も驚くようなことではない。別に思いがけぬ事態に遭遇して驚いたり感動したりしてもかまわないのだろうが、君の知ったことではないのだろう。君にはその程度の成り行きは許容できる範囲内なのだろうか。それらの何が成り行きでもなく、それは誰かが記した言葉の連なりでしかなく、今さらそれをどう思っても仕方のないことか。何に驚く必要もなく、ただそれを読んで何か適当な感想を抱けば済んでしまうことでしかないか。いったいそれがどうしたのか。何をしらばっくれているのか。何も思わないのはどういうわけなのか。


11月2日

 ようやくその時がやってきて、何をやるでもない時間帯に入ったようだ。ではまた無駄に言葉を連ねるわけか。どうやらそれが誰かの宿命らしい。世の中のありとあらゆる事象を無視して、ひたすら空疎なことを述べている。それがどうしたわけでもないのに、やはりそれをやっている現実があり、それをやめることはできないようだ。理由もなくやめるわけにはいかないのだろう。だが理由があったらやめられるかといえばそうでもない。やめる理由などいくらでもありそうなのに、一向にやめる気配を感じられない。それはどういうことでもなく、そういうことでしかない。そしてあいかわらずそこで行き詰まってしまい、物語の新たな展開など期待するわけにはいかず、それの何が物語なのかわからないが、そこから先は以前に記した内容の繰り返しとなってしまう。しかし何がサティスファクションなのだろう。下手な演奏のどこがいいかといえば、それがロックだからか。投げやりなことを歌っているわけではないのだろうが、演奏が投げやりな雰囲気を醸し出しているのがたまらないか。スライ&ロビーならもっと洗練されたサティスファクションをやっているはずだ。またオーティス・レディングならロックよりぶっ飛んだサティスファクションだったはずだが、それでも忘れられたバンドのサティスファクションもけっこういい。誰かはテレビジョンの他の曲に興味がないようだ。

 たぶんその時間帯の誰かは音楽を聴いているのだ。簡単に述べるなら、他に述べることがないのだろう。そしてそこで何か述べることに興味をなくしている。音楽さえ聴いていればそれでかまわないのか。投げやりな気分に逆らえず、そのままどこかへ押し流されていってしまいそうだが、流れ着いた先に何があるわけではない。では果たしてその先に言葉がつながるだろうか。その時になってみないとわからないか。今がその時なのではないか。だから何だというのだろう。語る理由などなにもなく、何も述べられなくてもけっこうか。だからそういう投げやりな気分で心を満たされているようだが、その先で何を思うだろうか。これからこの世界がどうなるわでもなく、何が滅び去ることもなく、人類の滅亡と君の未来は無関係なのかもしれない。たとえこの世界が壊れようと、それも君が感知するようなことではないだろう。誰かはひたすら音楽を聴いている。ではいったいこの社会はどうなっているのか。ただ人が地上でうごめいている。別に何を考えているわけではない。他がないからこの世界が成り立っているわけか。別に成り立っていなくてもこの世界はある。ただここにあるだけだ。それについて何を思うわけでもなく、何を暗示させているわけでもない。要するに誰かは考えることを放棄しているのだ。

 それはいちいち気に留めるようなことではない。映画の中で有名な俳優が走り回っているようだが、それがどうかしたのか。それでも誰かは音楽を聴いている。関係ないといえば関係ないことだが、それとこれがどうかしたとも思えず、そのうち登場人物たちが殺し合いでも始めるのだろう。見ている者たちを興奮させているわけだ。そういう効果を真に受けてどうするのか。何の話にもならず、それらのアクションシーンに刺激を受けて、自分も同じことをやろうとしているわけでもない。ただの戯れ事の範囲内で時間を無駄に浪費する。人は本当にスリルを求めているのだろうか。そういう疑問も投げやりに発せられたことだ。本気で映画を見ていたわけでもなく、感動しようとしていたわけでもない。もはやお涙ちょうだいは冗談の類だろう。そして誰かは忘れ去られたバンドのハードロックを聴いている。ほんの気まぐれなのだろう。意味をつなぎ合わせて話の筋を保とうとしているわけではなく、気まぐれに思いつく偶然の巡りあわせに頼っているわけか。なぜかヴォーカルの男が魚言葉で喋っているではないか。何かの大げさなライヴだ。君はまだ気まぐれに可能性を見出そうとしているのか。投げやりだったり気まぐれだったりしても、話の中身が支離滅裂なのはいつものとおりだ。それで画期的な見解に至れるはずもなく、嫌気がさすほどの空疎な内容に呆れ返るばかりのようだが、それが本心から思っているのではないことも承知している。もはやすべては冗談の続きとなっていて、それがどういう気分を反映しているわけでもない。


11月1日

 誰かはふざけたことを述べている。とりあえず今日は今日で今日のような気分だが、それがどんな気分なのかわからない。あまり建設的な話にはならない。何を誰に相談しているとも思えないが、やはり闇雲に何を述べているわけでもないような気がして、それをやめるべきでないと思うらしい。それはどういうことなのだろう。ただの気まぐれだ。またそんなことを述べているようで、気が進まないらしい。語ることに飽きているならどうすればいいのだろう。どうやらやめるという選択肢はないらしい。それはありえないそうだ。だからわからなくなる。やめたらすべてがわかるようになるだろうか。またくだらないことを考えている。今回は冗談ではないようだ。気まぐれでそんなことを述べている。そしてあいかわらず中身のない文章を記す。言葉を記す理由がわからないか。人はなぜ理由を求めているのだろうか。やる気がしないらしいが、それでも何かを語っているつもりのようだ。それで何がどうしたわけでもなく、空疎なことを述べている現状は変わらない。だからもう少しおもしろそうなことを語る努力をしてみたらどうか。そんなことを安易に述べてしまう誰にかに呆れてしまう。できるわけがないだろうか。やってみればわかることだ。

 そんなことを語っていてはまずいのか。笑っていては何もできない。何も思いつかないだろう。そしてそんなことばかり述べている現状があるらしい。君は空疎なことを延べるのが好きのようだ。外は雨だ。明日は冷えるそうだ。たぶん興味はないだろう。誰を引きつけようとしているのではない。やっていることは語っていることとは無関係なのだろう。だが何をやっているとも思えない。昼は仕事をしていたはずだが、それとこれとは関係ないだろう。そんなことを述べている場合ではないか。だがそんなことしか述べられず、それ以外はありえないらしい。なぜそうなってしまうのか。近頃はそればかりだ。何がそうなのかわからないが、とにかく馬鹿げている。それだけのことなのだ。君は君で悪戦苦闘の末に空疎なことを述べているのかもしれないが、結果がそれでは無意味でしかない。やっていることに価値などなく、まったく無駄なことをやっているのだ。それでかまわないのか。かまうわけがなく、何をかまっているのでもなく、何となくそういうことのままに現在を迎えているのだろう。それこそ愚かさの極みだろうか。そうだとしたらどうするつもりなのか。どうにもできなければ今のままで、同じことを今後も繰り返すしかない。君はそれでかまわないのだろうか。だからそういう語り方が馬鹿げているのだ。

 どうも今日も長々と無駄で無意味なことを語ってしまっているようだが、本当にそれ以外はありえないのか。目的がないのが致命的なのかもしれないが、それでも目的を拒否しているところが自己矛盾の最たるものか。だからありえないと述べている。何がありえないのかわからないが、とにかくありえないのだろう。ありえないことを述べているわけではない。そう述べられてしまうのだから、それはありえる結果であり、実際にありえているわけだ。だがその存在理由がわからない。わからなくても済むことなら、わかる必要はないだろうが、それでも理由を知りたいのはどういうわけなのか。無理に知りたいと思っているだけだ。誰かは何となくそれで片付いてしまうようなことを述べている。延々と無意味で空疎なことを述べているのだろう。それが何かの落とし穴なのか。思い違いかもしれない。そこから抜け出すには何か具体的な事例について述べなければならないことは承知している。本当だろうか。何を信じたらいいのかわからない。それをわかろうとしていないのは毎度のことだ。ただそんなふうに述べるしかないようで、それについてどう思っているわけでもなく、ここにもそこにも何もないのだろう。ここがどこでそこがどこなのかもわからず、漫画のようにご都合主義的に後から挿話が付け足されるわけでもない。だから何でもないことは何でもないままに推移して、どのような話にも至らないだろう。それがここでのすべてなのだ。


10月31日

 ありえないことだろうが、魂がどこかから抜け出てくる。当たり前のようにでたらめなことを述べているようだ。何かに支えられてここに至る。病が進行している。著しく優れない。そんなわけはないだろう。ここに至って何を空想しているのだろう。どこに至っているわけでもない。そう思いたいのだ。負けず嫌いではなさそうだ。意地を張っているわけではない。ただどこにも至らないだけで、そこに至っているのは別人だ。明日をも知れぬ命を持ち合わせているわけではない。死なない自信でもあるのだろうか。何を信じているのか。どこへも至れないことが何か不都合でも感じさせるわけか。何かの境地とは無縁だ。感覚が事物をとらえきれず、言葉にならない。今さらまともなことを述べたいわけでもあるまい。ただその辺で戯れているだけか。生ぬるいことを述べているわけではないだろうが、どのような現象の中に身を置いているとも思えないのはどういうことなのか。だからどういうことでもなく、何でもないのだろう。そんな言葉を記している限り、いつもそういうことだ。それが何だかわからないのか。少なくとも君は何だかわかっているはずだ。架空の君の不在が文章を可能としているわけだ。

 記しているのは誰の主張でもなく、まとまった内容からほど遠い。それでも誰かが記しているのだろう。あきらめきれずに何かを考えながら、まともな内容にしようとしているようだが、空疎な思いに打ち勝つことはできず、それが真実だと思っている。紛れもなくでたらめなことを記すべきなのか。何がそれの真実を物語っているのだろう。具体的には何もないはずだ。何もないから何も語れない。そして何かを語っているつもりになっているわけだ。矛盾していることは承知しているが、それでも現実に文章が構成され、それを後から読み返すこともできる。そしてそれが何になるわけでもなく、何でもないことの積み重なりが文章になるわけで、それで何か適当なことを語っていると思い込みたい。しかしそれを説明してどうするのか。いったい誰が説明しているのだろう。誰でもなければ説明になっていないか。たぶんそれも自己矛盾を楽しむ方法なのだろうが、そんな方法が何の足しになるのかわからない。方法でさえないだろう。何かの手法というわけではなく、偶然の巡り合わせを期待して、行き当たりばったりででたらめに言葉を並べているだけか。それでも意味が通ればそれでかまわない。それも何かの冗談かもしれないが、それほどおかしくもなく、笑えない冗談も何もあったものではない。

 すべては冗談でしかないようだが、君はそこでの経験を何かの足しにしたいようだ。それはありえないことだろう。何がありえないのかわからないが、そんなふうに語ることに意義でもあるのか。意味がわからない。意味をわかろうとしてはいけないのかもしれず、そういう空疎な文章を読んで何も思わなければそれでいいのだろう。ではそこにどのような効用があるのか。そんなものなど何もなく、ただそこに言葉が並んでいるだけだ。そういうことの繰り返しとして文章が構成されているわけだ。だから何でもないことは何でもなく、それ以外の何ものでもないような文章を構成しているのかもしれず、そこに救いやら安らぎやらを重ね合わせるようなことは勘違いの何ものでもないだろう。楽しもうと思ってはいけない。何でもないと思いたいだけか。読むべき文章ではないようだ。読まなくてもかまわないような内容なのだろうか。それ以前に実質的な無内容なのだろう。そう思って差し支えないだろうが、同時に何かが違うと思うべきなのかもしれず、そういう勘違いがないとつまらないわけか。だから何でもなければそれでかまわないということだ。語る必要のないことを語り、語り以前の何かを目指すような無謀さとともに構成されるべき文章なのだろう。もちろんそんな嘘をついてもわけがわからないことに変わりはなく、わけなど何もありはしないわけだ。わざとそう述べている。


10月30日

 融通が利かない。だが何もないのに何かを見出すことは不可能だ。気に入らないが現実はそういうことだ。だからいくら焦って言葉を連ねても無駄だろう。無理ばかり押し通していては思いつくことも思いつかない。空疎な言葉を羅列している現状では何も述べていないことになる。それでかまわないとは思わないが、この状況ではどうしようもない。そんな状況下で君は何を語ろうとしているのか。そういう話ではない。それは何の物語でもなく、何でもない話の一部を構成しているに過ぎず、これから誰かがそれを延長しようとしている。まったく理解できない。何がどうなってそうなってしまったのか。またおかしな方向へ話がいっているようだ。誰かは方向音痴なのか。いつまでたってもそんな状況では呆れるしかない。話の向かう先には虚無が待ち受けているだけかもしれないが、今はそれでかまわないと思っている。いつかは違う話の展開ももたらされるだろう。偶然の巡り合わせに期待するのは馬鹿げているだろうが、本気になれないのだからしかたがない。言葉が意志を無視して勝手に連なっているようだ。たぶん誰に向かって語っているのでもない。その方角には誰もいないはずか。それでも言葉が連なってしまうのだからしかたがない。

 君はそれらの空疎さを認めざるを得ず、何もない場所から出発して、何も獲得せずに語らなければならないのだ。虚空を見つめても何ももたらされないだろう。夜はいつまでも続く。しかし朝になればそんなことなど覚えていない。それは夢ではない。その場に居合わせた誰も夢など見ていないはずだ。話がないのかもしれない。誰も何も話していない。何か話すことなどあるのだろうか。何もなければ何も話さない。逆ではないのか。何も話さなければ何もない。気が散っているようだが、何かに集中しなければならないのだろうか。語りたいことがないらしい。馬鹿な話か。冗談にもほどがあるわけではなく、それ自体が嘘なのかもしれない。そして何となくめまいがする。とりとめがなさすぎるようだ。気分が優れず、何かがおかしいようだ。さっきまで何を語っていたのだろう。何も語らずに言葉を記していたはずだ。そういうことではなく、とりあえず何か適当なことを語る必要がありそうだ。しかしわからない。何を語ればいいのだろうか。それはないか。何か冗談のような気がするのだが、それは違うのだろうか。単なる字数稼ぎではない。それはやめておこう。だからあきらめた方がいい。

 それでかまわない。かまわないのだろうが気が進まない。居眠りの最中に何を考えているわけでもないが、わからないことに変わりはないようだ。そして目が覚めたら今日が終わろうとしていた。こんな状況がいつまでも続くわけがないか。続けようとして続けているわけではなく、そこから抜け出そうとして果たせず、どうしようもなく続いてしまっているのが現状のはずだ。それをどうすることもできないからこうなっている。だからそれをどうしようとしているのか。抜け出すことなど無理に決まっているか。何がそんなにおかしいのか。もう十分味わっている。何を味わっているのか知らないが、何となくそういうことでしかないようだ。ある意味でそれはそれですごいことかもしれず、そのすごい状況がこれのようだ。何も語っていないわけではない。ただ言葉を記している状況を語っている。無意味でつまらない内容を執拗に記していて、君にはそれができる。それを語ることができる。いったいそれの何がすごいのか。そう思うからそうなのだろう。そんな冗談とともにそういうことになっていて、そんな状況がその時点での君を構成している。しかし君とは何なのか。何も語っていない現状が君自身なのだろうか。何となく的外れのような気がするが、そんなふうに語れることが不思議だ。当たり前のことを不思議がっているのもおかしな話だが、それでもそこにそういう文章が構成されていて、そこで君は何に言及しているのかといえば、君自身について語っているのだ。何か矛盾していないか。


10月29日

 たぶんさらに空疎なことを述べてしまう。安心しているらしい。疲れているのだろう。安心して疲れていることに気づいたのか。空疎なことを述べていることにも気づいたふりをする。あり得ないことか。あり得なくてもかまわない。これではないのか。これとは何か。そういうことではない。あり得ないのはそういうことだ。あり得なくてもかまわないのではないか。それを求めているはずだが、何を求めているのだろうか。いつもと感覚が違うらしい。だからあり得ないことだと述べているはずだ。何となく振り出しに戻ってきたようだ。意識がそう思っている。ところで何があり得ないことだったのか。わざととぼけているようだ。だから疲れている。ひたすら疲れているらしい。膝の痛みがなかなか退かないようだ。だがそれが何もないことの理由にはならず、理由を見出そうとしているのでもないにも関わらず、求めているのはもっともらしい理由だろうか。それでは述べていることが嘘になってしまうか。だからかまわないと述べているではないか。それではますます意味不明になってしまう。呆れ返ってそれでもかまわないと思いたいのかもしれない。誰が何に呆れているのでもない。だからその辺でお開きにしておきたいのか。

 文と文が意味的につながらず、何をあきらめたのかも忘れて、一心不乱に何をやっているとも思えず、あきらめムードをどうする気もないようだが、それでもこの世界で何が試されているのだろう。その試みは誰と関係があるのか。それに関して何を語ることができるだろう。いったい何に言及しようとしているのかわからない。たぶん目が覚めていることは確からしい。今はいつもの夜だ。だが今のことを知りたいわけではなく、知りたいのは未来のことでも過去のことでもなく、では何が知りたいのかと問えば、それは何なのか。知りたくもないことをあえて知ろうとしているのだろうか。気がつけば冗談の続きを述べている。本当にそれは冗談なのだろうか。無限に続きそうな言葉の連なりは何かを案じさせるようだが、それは誰かの行く末とどんな関係があるのだろう。それでも何を語っているのでもないらしい。ひたすら空疎な問答を繰り返し、何を予感させることもなく、何となくそういう状況を引き延ばしているだけのような気がするのだが、それがどうしたわけでもないのはもちろんのこと、やめるきっかけがもたらされているわけでもないことは承知している。

 まったく何をどうしているわけでもないようだ。ただ言葉を記している。たぶんこの世界はどこまでもこの世界なのだろう。何の幻想も抱けない。夢も幻想に含まれているのだろうか。それが君の願いでないことは確からしい。夢にも幻想にも興味はないようだが、あくびとともにでてくるのは何だろう。別に何をさがしているわけでもない。それはもうすぐ終わる出来事に違いない。何かが確実に本末転倒しているわけで、意味のない目的に向かってひたすら努力するのが人の業というものか。それに関して何かと同じ光景を思い出すが、それを言葉で説明することはないらしい。では他に思い当たることを語る気だろうか。誰がそうするわけではなく、沈黙が何かを語らせるだけで、それをどう解釈しようと、どのような作用を誰かの精神に及ぼすこともないだろう。何の影響下にもないらしく、そう思っていれば事足りるようなたわいない出来事に接しているようで、何にも触れられず、どのような感覚を有しているともいえず、それらのたわいなさが君をそんな行為に駆り立て、何かの過ちを増幅させているのだろう。


10月28日

 今日は誰が何を述べているのだろうか。相変わらず何がどうなっているわけでもなさそうだ。何が変わっているわけでもなく、誰も何も語らない。その件については無知なのだろう。現実に何も知らないようだ。だから何も語らなくてもかまわない。実際に語っているつもりにならなくてもいいわけだ。何も語るつもりはない。それでは何もできないではないか。それがわからない。すでに見放されているのかもしれない。運がないということか。今さら何をどうするとも思えないが、君はそこで何か適当なことを語っているつもりなのだろうが、何かを裏切っていないか。気ばかり焦っていて、言葉の連なりを導き出せないようだ。それがどうしたのだろう。それでかまわないはずだ。何の問題もなさそうだ。そういうのは語っている分に入らない。近頃はいつもそうだ。何を語っているつもりでもそうなってしまうはずだった。今もそうなのだろう。だからくだらないと思っているのではないか。ならばそういう語り方はやめた方がいいだろう。それが簡単にいかないから苛立ち、焦っているのだろう。

 もう君は居ても立ってもいられない。意味がわからないが、動揺して取り乱しているようだ。そしてここに至り、涅槃の境地とはほど遠い心境でいるらしい。それの何が嘘なのか。とりあえず気を落ち着けてそれらの諸行を顧みる必要がありそうだが、それで何を述べているわけでもなく、それも何かの計算の内だと思っているらしく、わざと取り乱してみたり、感情的に激昂して見せたりするようで、それも演技の一貫だと思っていて、決して自らの手の内を明かすようなヘマはやっていないと思い込んでいる。何とかそこで踏みとどまっているつもりなのだろうが、結局そういうのは自らの立場を危うくしかねない要因であって、それが不必要に強がっているとみなされる根拠であり、そこにそれほど慢心があるとは思えないが、もう少しスマートに振る舞うことも必要だろうか。しかし現実に誰がそういうことを強いられているわけでもない。

 君はまだ苛立ちを解消できていない。それでも仕返しなどはもっての外だ。笑ってしまうが、小さい人たちの仲間入りはしたくないらしい。他人を疑心暗鬼に陥れようとして、あれやこれやいろいろ手の込んだ嫌がらせをやりつづけ、誰かを被害妄想の虜にしたいのだろう。そんなわけで小さい人たちのやることは悲惨な結果をもたらす。それをやっている当人が悲惨な境遇を体現しているわけだ。小さい人には小さい人生があり、小さな範囲内で生きてゆかなければならず、決してその外部の世界を体験することはできない。だが別にそんなものは体験しなくてもかまわないのであり、小さい人にはそれでよいことなのだ。しかし外部とは何か。何がその外部となるのか。小さい人にはわからず、小さい人を嫌っている人にもわからないだろう。わからなくてもかまわない。気に入らないことは気に入らないままでいいのかもしれず、それを無理やりわかろうとしても、かえって自らの小ささによって理解するのを阻まれて、外部に対して勘違いの偏見を持ってしまうだけだ。たぶん自分たちが外部から馬鹿にされていると思ってしまうだろう。

 小さいとは気が小さいということか。それもあるのかもしれず、ちょっとしたことに過敏に反応して、すぐに嫉妬心や復讐心を燃え上がらせて、陰湿な行動に出るわけか。そういうのはくだらない結末をもたらすだけだろうが、それでかまわないのかもしれず、案外当人はしてやったりと思っているのだろう。それが精一杯のやり方なのだ。だが調子に乗って語る言動の端々に、そのセコさや卑しさが伺われてしまうのが致命的だ。小さくない人たちはそういうことに薄々気づいているようで、それらの会話に調子を合わせながらも、内心いやがっているのだ。ただあからさまに不快感を露にしてしまうと、今度は自分が陰湿な嫌がらせの標的となってしまうので、そういう人の前では微笑みを絶やさず、あたかも気の合う友人のように振る舞うのだろう。


10月27日

 誰かは何かをいくらでも考えているつもりなのだろうが、何をどう考えてもわからないことに変わりがないようだ。やっていることはたかが知れている。しかしそれがわからないのだ。何かそういう認識が間違っているのだろうか。それでよくここまでやってきたものだ。だが笑っているだけではらちがあかないだろう。それでも何とかしようとしているのか。気力はないが、冗談の力で何とかしておこう。しかしそういうのはふざけ過ぎだろうか。気にしないといえば気にしていないようだが、その先にさらなる話の展開が待っているとも思えない。君は何に見放されているのだろう。少し冗談が過ぎる。そのついでに目の前を何かが通り過ぎるが、それは何かの幽霊か。そんな嘘をつくと、この世界がくだらなく思えてきて、もう面倒くさいことはやめてしまおうと思ってしまう。やめられるはずがない。生きるのをやめてしまったら死ぬだけか。死ぬのも面倒くさいはずだ。ではどうしたらいいのだろう。それに関して何か適当なことを述べていればそれでいいのではないか。だがそれではますますつまらなくなるだけだ。

 ならばどうもしなければいい。どうしようもなくどうにかしようとするのをやめればいい。そうすればさらに面倒くさくなるだけか。かなり回りくどいことを述べているようで、ひたすらそれが空疎な内容であることが笑えてしまうが、それも結局以前と同じ成り行きでしかないと思われて、何となくしらけているみたいだ。誰かはそう思っているらしい。少し目算が狂ってきたのだろうか。それも冗談だと思う。客観的にはそういうことだ。それの何が嘘なのだろうか。冗談の次は嘘に決まっている。そしてわけがわからず意味不明に思われてしまうわけで、それが以前と同じ成り行きなのだろう。しかしそういう説明で君は納得するのか。まったくどこまでいってもその場の成り行きしか説明できない。それがどうしたのか。誰かはどのような成り行きでもないような気がしている。ただめちゃくちゃなことを述べているだけではないか。

 何を試しているわけでもない。別に無茶なことをやっているわけではない。しかし無理なのだ。空疎なことしか述べられないのかもしれない。笑いながらそんなことを述べていると、気が狂っていると思われてしまうかも知れないが、何となくそれが楽しいようだ。馬鹿げているが何も語っていないことが楽しい。言葉を記しているのに何も語っていない。なぜそう思われてしまうのだろう。君たちは何かを見失っている。本当に失っているのだろうか。そういうことではなく、どういうことでもない。君は正気を失っているのか。笑っている場合ではないか。

 やはり述べていることは冗談なのか。冗談以外に何があるのだろう。何もなければ何ともないか。別に気が狂っているわけではなさそうだが、何となくそういう述べ方がわざとらしいような気がする。誰かはフィクションの中の登場人物ではない。それでさえない。ただの言葉だ。だから何だというわけでもないのだろうが、そこから何を理解できるわけでもない。どうやら君は何もわかっていないようだ。わかっていないからことさら自らの存在を問うこととなる。自分が何ものなのかはっきりさせたいが、どうすればそうなるのかわからない。たぶんそれが意味不明な成り行きにはまっていることの証しなのだ。そしてそれはいつまでたってもそこから抜け出られない理由でもある。だから誰かはいつまでたっても誰にもなれず、いつまでたっても君は何も語らない。


10月26日

 誰かは内心自らに呆れているのかもしれない。こんな状況で本気になれるはずがない。いったいどんな状況なのか。なぜそれがわからないのだろう。何もないのだからわかるわけがない。そう述べてしまってはすべてが打ち壊しかもしれないが、何もないのだから打ち壊しも何もあったものではない。君にはそれがわかっていない。わかっていないからそんなことを語ろうとしているのか。しかし誰が語ろうとしているのか。誰も何も語っていないのではないか。今のところはそういうことだ。君はもう語ることに飽きているし、誰かも言葉を記すのに疲れている。だから何ももたらせないのか。それはもとからそうなのではないか。もとから何も語ろうとしていない。誰かが記しているのは空疎な文章であり、君はそれをどうしようというのでもなく、ただ言葉が記された画面を眺めているだけだ。それの何が不満なのだろうか。

 何か他に語りたいことでもあるのか。昔はこの世界について語っていた。誰かはそう思っていたらしい。本当は違っていたわけか。それらの文章のどこに本音が隠されているわけでもない。みんな嘘だろう。すべては嘘に決まっていてほしいか。それの何が気に入らないわけではなく、それを否定的にとらえたとしても、まだそこには認めざるを得ない何かの痕跡がある。何がそうなっているというのではなく、ただそうとらえるしかないような現実の中で思索に耽っている。それもあり得ないことだろうか。今はそんな状況でもないだろう。しかしただひたすら言葉を記しているだけのことに何の価値があるのか。何も価値がなければそれも仕方のないことだ。別に価値のあることをしようと思っているわけでもないだろう。だがそういう自問自答が鬱陶しい。

 何はともあれ何かの限界に突き当たっていることは確からしく、誰かはそれを乗り越えようとして、試行錯誤を繰り返しているのだろう。ありふれた見解だろうか。そんなことを気にしている場合でもあるまい。さらに言葉を記しながら、新たな表現を模索しなければならず、それが予定調和の自問自答であろうと、それを繰り返しているうちに、不意に違う展開へと至ってしまうかもしれない。そんな偶然の思いがけない遭遇を期待しつつも、今はひたすら同じようなことを述べ続けているわけか。言葉を記している当人には自覚がないようだ。気まぐれでそんな嘘をついてみるが、いったい君は何を述べているのか。いくら問うても自問自答に変わりなく、君はそれをどうすることもできはしない。ならばどうしようというのか。そう問うことをやめなければならないのか。

 しかし簡単なことを述べている。いとも容易くここまで述べてきたはずだ。そういうやり方にはまると、たとえ空疎なことを述べていようと、楽でたまらない。何も引っかかることがないらしく、すらすらと述べられてしまうらしい。しかし何か馬鹿げていないだろうか。今さら疑念を抱いていてはだめか。そこで停滞するだけのようだが、それではまずいのだろうか。たぶんそれも大事なことには違いないが、それ以上に、それをやり遂げる上で、何となくどうでもいいようなことを延々と述べている必要がありそうだ。それは何かの戦術に通じているのかもしれないが、別に迫りくる虚無と戦っているわけでもないだろう。すでに心は虚無で満たされているはずだ。冗談でそんなことを述べていて、それがフィクションであることを承知しつつも、そういう感じ方が現実を誤った方向へと導いているのかもしれない。果たしてそれでいいのだろうか。


10月25日

 やはり結局のところここまできてしまったようだが、ここから先が難儀なところだ。できることならいつもの無内容にはしたくないのだが、そうならざるを得ない成り行きになってしまうのがここ最近の実情だ。果たして今日はどうなってしまうのだろうか。すでにいつもの成り行きで言葉を記しているのではないか。だからそれはやめようと思っているはずだ。笑っていては何も始まらないだろう。しかしいつもの冗談以外に何を述べられるのか。何かチャーミングなことを語りかけてみたい気もするが、さらに笑ってしまうだろうか。だから人はどこまでもくだらない。今さら本気で語る必要はないだろう。何に反発しているのでもないはずだ。何がどうなってもこの世界はこの世界のままなのだ。それを今こそ認めざるを得ない。しかし笑いながら認めてどうするのか。それは本気でない証拠となるだろうか。何が本気でないのだろう。今はわからないが、たぶんどうでもいいことなのだ。後からそう思うに決まっている。

 だから何はともあれふざけていてかまわないのだろう。虚無的な意識はもう少し言葉遊びにつきあってもらいたいようだ。しかしわけがわからない。人は本当に文章の内容を求めているのだろうか。そうに決まっていると思いたいが、どうも世の中のしきたりになじめないようで、何となく制度的に手順を踏んでそれ風の文章を構成することをいやがっているみたいだ。どうしてもそれがくだらないと思ってしまうらしく、だからといってそれに代わるやり方を見出したわけでもないので、今まで通りの無内容に甘んじてしまうわけだ。それではだめなのだろう。だめなことがわかっているのにそうならざるを得ない。まったく摩訶不思議な成り行きか。冗談ではなく、そんなことはあり得ないだろう。あり得ないからこそ、何かから精神が解き放たれているのではないか。それはどういうことなのか。

 空疎や虚無や無内容を恐れてはいけないということか。勝手な言い分だろう。だが今さら振り出しには戻れないはずだ。もうはじめからやり直す気力がないのだろう。だからここから先へ言葉をさらに連ね、文章を引き延ばして、どうでもいいような結論を導きだすとしよう。この世界はそれでも楽しいことばかりだ。何もかもが中途半端に崩れ去っている。いずれ人の精神も壊れ、文明も灰燼に帰すだろう。その方が楽しい。もっともそんなことを述べているだけで、実際にはどうにもなっていないはずだ。相変わらずこの世界はこの世界のままなのだ。どこで何が崩壊しているわけでもなく、ただ変化し続けているだけで、他は何ともなっていない。その中で人がどうなろうと君の知ったことではない。ここには何もなく、人が抱く幻想もたわいない。

 君はこの世界の中で何を思っているのだろう。人がどうなろうと君の知ったことではないのではないか。たぶん人のことを思っているのではない。そこで言葉がどう連なろうと、人はでてこないはずだ。君は何も思わず、人も何も思わない。人でない生命とやらにも無関心を貫く。人はそれでも生きているのだろうが、そこで述べられていることは何でもなく、支離滅裂でさえない。言葉の処理の仕方も、何のひねりもなく、至って平板な印象しかもたらさない。何のおもしろみもなく、ただの説明にしかならないだろう。君はそうやって現状を説明しているつもりなのか。そうであったら何なのか。興味がないだけでは気が済まないだろうか。ならば他に何をもたらさなければならないのか。誰にそれを聞いているわけでもないだろう。


10月24日

 何かの途中からそんな言葉が連なっている。ここで何を述べようとしていたのか思い出せないようだが、どうもそれだけではまずいらしい。しかし何か他のことを考えていると、言葉を記すのがおろそかになる。なぜそうなってしまうのかわからないが、気がつけばまた翌朝になっている。このままではもう誰も何も考えられなくなってしまうか。その辺の実情がよくわからない。誰かはわけがわからず錯乱状態にでもなっているわけか。それではあまりにも馬鹿げている。フィクションとしてもそれはあり得ない話だ。だが結末はどうなっているのだろうか。結末に至っているわけではなく、相変わらず何について語っているわけでもないが、そうやって何かを装っているように感じられる。いったいそれはどういうことなのか。結果的にはどうもしないのであって、言葉だけではどうにもならないのだ。君はそれを忘れている。

 たぶんそこから考えなければならないのだろう。考えること自体に幻想を抱くべきではない。具体的に何を考えるかが重要か。だが何も思いつかない現状は変わらず、結局は何も考えられない。それも冗談の続きなのか。そこでやめたらおかしいだろうか。毎度おなじみの自問自答ばかりでは言葉が続かない。考えていることは誰もが同じだ。いかに困難をやり過ごせるか。何が困難を招いているのだろう。無理に言葉を連ねているからそうなってしまうのだ。ついに本音がでてしまったのだろうか。焼きが回っているだろうか。君に何がわかるのか。少なくとも何かをわかろうとしているはずだ。それでも言葉を連ねようとしている。どこかへ突き抜けるまではそれをやめようとしないらしい。本当にそうなるとは思えないが、ともかくそれを続けている現状がある。

 しかし人はなぜそんなことを考えるのか。何かにこだわらなければ生きてゆけないらしい。生きていること自体が生にこだわっている証しか。しかしわざわざ死にに行くこともあるまい。何に反発しているのか知らないが、ともかくそれらのフィクションから擬似的な生と死を受け取らなければならず、それが何かにこだわっていることの証明となるらしいが、君には意味がわからないだろう。だいいち君はフィクションの内容を知らない。いったい誰がそれらのフィクションを構成しているのか。そしてますます意味不明なことを述べているのは誰なのか。心が動揺している。気持ちが晴れない。そんなごまかしでうまくいくとは思えない。だからそこで途方に暮れているのだろう。もはややる気が失せたか。何をやる気だったのかさっぱりわからないだろう。今のままでは本当に意味不明の域を出ない話となってしまい、それだけではくだらなすぎるのではないか。

 では何を語るべきなのか。何となくそれ以上の結果を導きだせないような感じだ。君はすでにあきらめているのではないか。そして今の君には何も必要でない。あるのはその場を覆う虚無だけか。しかしそれがどうしたのか。それでかまわないではないか。何もないのだから、今さら開き直るには及ばないが、何となくそんなことを述べているのでかまわないはずだ。それ以外に何を述べられようか。だがそれはいつもの自己言及パラドックスにはまっているだけだ。それをことさら嫌悪すべきではなく、そういう成り行きに逆らうのは得でない。別にそんなことをやってもかまわないだろうが、そういう面倒な役回りはつまらないだろう。つまらないからそれはやめた方がいいというわけか。なぜか今日は物わかりが良さそうだ。いつまでもひねくれてばかりではだめか。


10月23日

 どうも追いつけない。どれほどやってもこのままなのかもしれない。思ったほどやれていないのではないか。そして今は居眠りの最中だ。気がつけば夕方になっているようだが、それまでは仕事をしていたのだろう。そして夜になる。気がつけば翌朝だ。なぜかやる気がしなかったようだ。否定的な気分のまま、真夜中に様々なことを考えている夢を見た。なぜそれを翌朝に覚えていたのだろうか。理由をねつ造したいのか。何を成し遂げているとも思えない。それでも何か適当なことを考えていたはずだ。それは適当ではなかったかもしれない。君はそこで何を待っていたのか。誰かの使命を思い出せ。そんなフィクションがあったらしい。しかし内容は相変わらずの支離滅裂だ。言葉の並びがそうなっているだけで、本当はそこから何かしらメッセージを受け取ったのかもしれず、ただそれを今は言葉にできていないだけか。本当のところはよくわからない。

 わからないことはわからないままだ。いったい何をわかったらいいのか。わけなど何もなく、ただ今日も考えている。何か特定の事柄について考えているわけではないが、何とはなしにあれやこれや考えているらしい。それはフィクションではない。それとは何だろう。誰かと誰かが夢の中で対決しているわけか。ありふれた現象だ。何がそうなのかわからないが、とりあえず何も考えられない。しかしプライドとは何か。何を誇りに思っているのだろう。自慢することなど何もないではないか。どこかで何かが外れているらしい。曇り空を見上げれば何か思いつくだろうか。冗談以外にはあり得ない。だからどうでもよくなってしまうのだろうか。まだ本意を語っていないはずだ。君は何かが気に入らないらしい。

 まだそれらの空洞には何ももたらされない。心とは何だろう。君はまた嘘をついているようだ。誰でもないのだから、嘘などつきようがないか。そういうことではない。たぶんそれは違うだろう。誰かにとっては厄介なことか。案外冗談の続きかもしれない。だからもう文章としての整合性など気にしている場合ではないだろう。とにかく言葉を並べて適当に構成していかなければ、さらに遅れてしまうはずだ。ここが何か分かれ目なのか。それを継続させてしまうと、納得しがたいことを延々とやっていかなければならないというわけか。そうなると精神が耐えられなくなってしまうか。少し落ち着いて考えてみなければならないだろう。すでに取り返しがつかなくなっているのかもしれないが、他の誰に同意を得ることもできず、誰かは自らの判断で言葉を記すのを続けるべきかやめるべきかを決断しなければならない。何かそこには悲壮感が漂っていないか。冗談からはほど遠い状況なのだろうか。それともそれこそ冗談の最たる結果か。

 だからそんなことは語るまでもないことだ。何も反論したり否定したりする必要はなく、ただそれをやればいいだけだ。実際にいい加減に語り続けているではないか。そしてさっさと作業を終わらせて寝てしまう気でいるはずだ。明日も仕事が忙しそうで、言葉を記している暇などありはしない。本当にそうだろうか。そうだとしたら、またさらに実際の日付との間でずれが生じてしまい、今度こそ戻って来れなくなってしまうかもしれない。それでもかまわないのか。しかし誰がそうさせているのだろう。少しは世間的な話題でも述べて、それを気休めにしたらいいのではないか。なぜそれができないのだろう。何となく気に入らないだけでは理由とはならないか。


10月22日

 何も知らずにその場所へと踏み込む。誰かは泥沼にはまっているのだろうか。そんなありもしないことを述べてみるが、現実からどれほどかけ離れているのか。フィクションには至らない。たぶんその気はないのだろうが、何がそうなのだろう。何がそうさせているわけではない。何も考えられない現状は変わらない。それに関して何を知っているわけでもなく、それを否定しているのでもない。それは当たり前のことだ。目の前に当たり前の光景が広がっている。それは昼間見た光景だろうか。今さらいつでもかまわないか。いつも何かを眺めているはずだ。それはいつものことではない。しかしそんなことはどうでもいいか。いつかやめてしまうのだろう。それがいつかはやめてみなければわからない。今はくだらないことにかかりきりなのか。

 何かが安定しているのかもしれない。精神的にそうなのか、あるいは何だろう。もう何かはいらないのか。何かがあるから言葉が続く。何かという言葉は便利だ。それは何かの思い込みに違いない。だからおもしろいのだろう。嘘をついている。何がだめなのかわからない。わからないからだめなのか。そうかもしれないが、今はどうしようもない。そういう言葉の連なり方が気に入らないらしい。気がつけば夜になっているだけだろう。タイミング的にはそうだが、そこに至る過程があったはずだ。途中の成り行きを覚えていないのか。たぶんそういう話ではなかったはずだ。君はそういう中身のない話についてはどう思っているのか。くだらぬ話だ。誰と会話しているわけでもなく、何とはなしに自問自答の予定調和に陥ろうとしているようだ。そうであってはならないから何かという言葉で何かをそらしているのだろう。それもあり得ない成り行きのひとつになるだろうか。だんだん意味がわからなくなってきた。

 今は何も語りたくない。誰かはそれらの嘘の中身を知りたいようだが、嘘は嘘で、嘘の中身も嘘だろう。どこにも何もありはしないというのは嘘なのか。どこかに確実に何かがあり、それは真実でも事実でもなく、虚構としての現実なのかもしれない。何を述べているのかわからないが、そう述べるとそんな気がしてきて、そんな気がするのも嘘かもしれないが、とりあえずはそういうことを述べているようだ。それが何なのか。何を語ってもそうなってしまう。何でもないから言葉が何かになってしまうわけだ。それが空疎な文章として記されている。それがどうしたのか。それでかまわないではないか。ではとうとう虚無に心を支配されてしまったのか。そうであったらおもしろいだろうか。何の感慨もない。実際に何を語っているのだろう。

 それは違うだろう。なるようにしかならないということだ。実際に何かを語っているのだろう。そこに何もないわけではなく、そこには何かという言葉がある。それはただの何かではなく、何かという言葉であり、当たり前の意味を持ち、当たり前の使われ方をしている。要するにそれは何でもないことだ。何でもないからわからない。何でもなくはないなら、何か適当なことを述べられるはずか。今はそれが何だか思いつかず、成り行き的に何でもない状況に陥っているわけだ。だから空疎で虚無的な文章を記すはめに陥っているわけか。だからそれがどうしたのだろう。どうもしないから何でもないのではないか。だからそうなっている。述べていることは何でもなく、語っていることも何でもない。だからそれがどうしたわけでもないということだ。少し回りくどいか。


10月21日

 それは昨日と同じ感慨だろう。この世界はとりとめがない。漠然と存在していて、その中で様々な意識がうごめいている。誰の思惑でそうなっているのでもなく、誰かがそんなことを思っているだけだ。君は誰でもない。その人格が誰のものなのかわからない。誰もその性格を問題視しているわけでもないだろう。ただロボットのような一途さに恐れをなしている。冗談でそんなことを述べているのか。いつものことだ。誰のことを述べているのでもない。どうやら君はどこまでも虚無の不在を疑っている。そんなのはあり得ないか。しかしなぜそんなどうでもいいことについて語らなければならないのか。誰が何を語っているわけでもない。ただ言葉が記されているだけか。それだけでは不満なのだろうか。誰が不満を抱いているわけではない。

 誰も何も見出せない。そういうわけで何がどうなっているわけでもない。だからどういうわけで言葉を記しているわけでもないか。話がそこで終わっているらしい。はじめから何を語っているわけでもないだろう。誰かはどこまでも意味不明な話の展開についてゆけないようだ。果たしてそこから何を見出せるのだろうか。冗談ではないと思っているようだが、冗談に逃げたくなるような成り行きだ。無駄で無意味な言葉の並びに何を託せるはずもなく、あきらめてしまいそうになる。それ以上は言葉を続けられないようだ。だから翌日に言葉を記しているわけか。何の理由にもなってないだろう。ただ遅れているだけだ。

 誰かがどこかでとぐろを巻いている。あり得ないことだろうか。それは空想の出来事か。君が現実から取り残されているわけではない。わけがないのかもしれない。さっきから述べていることが意味不明だ。そう思われて仕方がない。誰もそんなことは思わないだろう。君は思いがけない事態に対応できない。結局それで何を説明していることにもならないようだ。何かが散り散りになっている。それが物事に対処できない原因なのか。頭がくらくらしているようだ。また停滞の時が到来したわけか。何か得たいの知れないものに悩まされている。くだらぬ妄想だろうか。何かに悩まされていると思うのがそうなのか。それ自体がどうしたのだろう。どうもしないのはおかしいか。何も感じ取れないようだ。誰かはそのときの気分について語っているのか。まったくどうでもいい感覚に包まれている。そんな心境で何を語ったらいいのだろうか。

 それでもそこに意識があるのだろう。何かを語ろうとしている。かろうじてそんな気でいるようだ。やる気がないのだろう。そこで何かが流れている。空気の対流でも感じるわけか。蒸し暑い。夏でもないのにそれはないだろう。疲れているのも毎度のことか。インフルエンザにでもかかったのか。床が傾いているようだ。フィクションの中ではそうなのか。他の誰かはありふれたことを述べていたい。それも作り話の中での気分なのだろうか。誰も登場人物とはならないだろう。やはり何かを物語るのが面倒くさいか。怠け心の気分が頭をもたげて、そんな話は聞いたことがないようだ。まだそこまで至っていない。だからいつも通りの言葉の並びとなっている。変革など期待したくない。気がついたら変わっているのかもしれない。世の中がか。それは誰の想像にもまかせられないような変化か。いつの間にやら誇大妄想となっている。だから無理だと言ったのか。何が無理なのだろうか。紆余曲折の果てにここに至ったのだから少なくとも何かが達成されているはずか。


10月20日

 誰かは今日は何を思うのだろう。何も思わなければいつもの通りに言葉を記すだけか。それだけが誰かの生き甲斐なのだろうか。またそれも冗談のたぐいだろう。では何を思っても無駄なのか。それも使い古された言葉の並びに違いない。他に手だてがないからそうなってしまうのだろう。何も表現しようがない現状の中に意識がつなぎ止められている。そんなふうに思えるのはどういうわけか。わけではなく、ただそんなふうに言葉を並べているだけか。それでも文章が構成され、何かしら述べているような気になるらしいが、それもいつものように空疎な内容に終始している。人はそれでも生きていることになるのだろうか。何か他に興味を持てるような事象に巡り会えないものか。それもいつもの無い物ねだりに違いない。ここにあるのはそんな現状でしかなく、たぶんそれを乗り越えなければその次に進むことができないのかもしれず、もちろんそれもいつもの思い違いのたぐいかもしれないが、そんなふうに言葉を記していると、誰かの気は休まるようだ。

 幻想とはどのような思い込みなのか。君は人に対してどのような幻想を抱いているのか。人は人であり、固有名というその人固有の名称が何を示すわけでもないのだろうが、それは他人と区別される印のようなものだと思っていればそれでかまわないのだろう。ではそう述べて何が問題だと思うのか。固有名のことを論じたいわけではないはずだ。何かの偶然でそんな思いつきに至っただけかもしれず、案の定そこから先に言葉が続かない。何を続けようと思っていたわけではない。何も続かないからそんなことを述べているだけだろう。

 それでもそれが何かの試行錯誤の結果だと映るだろうか。たぶんいつもの過ちを繰り返しているのだろう。しかし何がいつもなのか。いつもそんなことを述べているからいつもなのだ。それは珍しく的を射た返答となっているだろうか。今度は誰に問うているのか。何も問われていないと思われる。きっと疲れているのだろうが、それもいつものこととなるようだ。何を述べようといつものことになり、何も述べなければそこで終わりとなるらしい。そしてそんなことが繰り返されて、それらの空疎な文章が構成される。そういう成り行きにはもう飽きたと思うが、だからといって代わり映えしないことをやめようとは思わない。

 何もないからそれでかまわないのかもしれない。この世界には何もない。どの世界にも何があるわけでもない。そんな思い込みの中に世界があると思っているだけか。それは世界ではなく、心の中にある空洞そのものだ。本当は心があるとも思っていない。だからそんな空洞も思い込みの中にあるだろう。ではこの世界にはそんな思い以外に何もないだろうか。思い込みの外には外部の世界が広がっているはずだ。外部の世界にはすべてがある。そのすべての存在が何もないと思わせる。とりとめがないのだろう。それがすべてだからこそとりとめがない。果てしないと思われ、そのどれかひとつを抽出して述べることを許さない。そんなことが実際にあり得るだろうか。何かについて述べてみればわかるだろうか。いったい誰かは何について述べようとしているのか。この世界について述べているつもりになれるだろうか。だからそれがすべてなのだろう。それが世界なのか。何でもないことだ。何でもないから眠たくなり、考えるのをやめたくなる。何にしても経験を積み重ねることが重要だ。もちろん重要だからといって、それをやらなければならないわけではない。


10月19日

 たぶん無理なのだろう。無理だと思っていればいい。実際に無理なのだから、それを肯定して何が悪いのか。人は夢見て旅をする。たとえそれが気休めや気晴らしであろうと、必要なことはそれだ。あくびの先に未知の時空が広がっている。そんなのはあり得ないだろう。人は自由を求めている。そして発想が貧困だ。君はそこで薄汚い何かを見ようとしないばかりか、何事もきれいごとで済ませようとするから、自己矛盾が生じてしまうのだろうか。それで何が悪いのだろう。悪いも何も、そういう語り方そのものが気に入らず、もっと違う何かを求め、それが何だかわからないのに、欲望ばかりが先走り、結局そこで手にするものといえば、自らが嫌っていた薄汚い何かなのだ。そして自らも薄汚い感情の持ち主であることに気づくわけだ。それが冗談とは思わないか。それを受け入れなければ、他に何があるというのか。

 その受け入れがたい結果をフィクションとして書き記すことに生涯を費やす気はしないだろう。誰かの粗雑な文章を読んでいると、そんなことが思い浮かんでくる。そこにまったくの無駄な人生があるらしい。誰の人生でもなく、フィクションとしての誰かの人生なのか。例えばありふれた時代劇の中でご都合主義的な登場人物たちがそれを体現する。なぜそれ以外ではあり得ないのだろうか。それがこの世界の有り様なのだ。それでもマシな方だ。楽しい心を持ち合わせていれば、さらに楽しい現象に遭遇するだろう。実際にそこで誰かが戦っているわけだ。誰かはそういう状況下でがんばってしまう。無駄な悪あがきの最中か。冗談の次ぎにくる言葉をねつ造できない。それは冗談にすらならないのかもしれない。それとは何だろう。それが冗談なのか。意味がわからず、それをわかろうとする気がないらしい。

 誰かはこの世界に何をもたらすつもりなのか。それは誰に対する問いかけでもなく、そこで何を支配しようとしているわけでもなく、ただひたすら言葉を記し続け、そんな成り行きに退屈しつつも、そこから抜け出るつもりはないらしい。要するに自己言及に終始しているわけだ。言葉はどこへも向かっていない。常に自らの内側に顔を突き合わせている。だから何も見えていないのか。何も見ようとしていないだけかもしれず、盲目であることを誇りに思っているわけではないだろうが、何となく外部への視線を行使するのが面倒くさいのだろう。だからどこへ向かっているわけでもなく、その先に未来などありはしない。何も思わないとはそういうことだ。

 ではそこで何を述べているつもりなのか。君が答えるには及ばない。その必要はなく、答える必然性を感じられない。君はどこまでも君であろうとしているわけではない。君でさえないのだ。幻視しているのは誰の未来でも将来でもなく、何でもないことだ。何が何でもないのかもわからず、そこで途方に暮れているのでもない。記すべき言葉はすでに記しているはずで、他に何もないから自己言及になってしまう。そんな状況に及んで何をどう記せばいいのかわからず、それがおもしろく思えて、それだけではないとは思わないのだろう。たぶん希望のたぐいを心に抱いているのだ。ならばそれが唯一の希望か。少なくとも今のところはそういうことであり、今さらそれを否定しても仕方のないことだ。誰かは言葉を記すことしか念頭になく、ただひたすら内容をそっちのけで言葉を並べて文章を構成している。その結果がそれらの虚無的で空疎な言説だ。


10月18日

 もはや呆れ返って何も言えなくなっているのか。言葉もないだろうか。それは何かに対する感想ではない。書物のどこにそれが記されているのか。そういうことではないらしい。ごく一部の人たちは何を思っているのだろう。何か適当なことを思っているのか。適当でないかもしれない。たぶんそうではないのだろう。何もかもが適当なのだ。それで何が適当なのだろう。くだらぬ問答だ。そう思えるのはいつの日のことか。何か思い当たることでもあるのだろうか。人とは何だろう。そういうことではない。ならばすべてが空疎だ。それも違うと思われる。それは誰と誰の対話でもあり得ない。相変わらず何も語っていないのと同じことだ。それでかまわないのだろう。そうであることを隠す必要はない。

 何ものにもとらわれず、何について語りたいのでもない。もうこんな時間だ。すべての内容が洗い流され、空疎な文章が出来上がる。それが妄想のすべてだ。またあくびがでてしまう。ため息はどうしたのだろう。何も主張がない。この世界を誰がどうしようというのでもない。フィクションの中でなら話は別のようだが、とりあえず現実の世界ではそうだ。くだらぬ現実がどこかの地域を支配している。それだけのことだ。誰かと誰かの対決がないと娯楽が成り立たない。娯楽とは気休めのたぐいだが、それを本気で楽しめない誰かは不幸なのか。信じられないのだろう。それを楽しむ者が存在することが信じられない。だが仕事は仕事だ。

 いったい何に満足したいのだ。影は影であり、誰かの影が君であるはずがない。そして幻想はどこまでも幻想なのだろう。どのような幻想であろうとなかろうと、そんな幻想を抱いている誰かがいる限り、この世界はいつまでたってもこの世界のままか。それで何か不満なのだろうか。誰かのフィクションの中で何かが語られ、それを真に受けたり受けなかったりしているわけだが、所詮はその程度のことだ。それで何と何がつながっているわけでもない。君はそれでも何も思わず、誰かは相変わらず空疎な内容を記している。それによってこの世界がどうなるわけでもない。君はそれとは違う成り行きを求めているのではないか。そして実際にそうならないから困っているのだ。

 何かがこみ上げてくるような状況ではない。誰かが語っている内容を精査しているわけでもなく、どんな試験とも無縁のはずだ。ただそこから遠ざかりたい。もうやめてもかまわないのだろうか。いったい何をやめるつもりなのか。眠気と戦っているらしいが、そのまま居眠り状態となってしまえばいいのだろう。やはり気力が足りないようだが、この世界から意識を遠ざけているものを見出したい。できればそうしたい。

 興味がないとはどういうことか。何に興味がないのだろう。意識と記憶が飛んでいて、それで何に気づいたわけではなく、そんな状況が鬱陶しい。人はどこまでも人であり続け、果たして死ぬまで人でいたいと思っているのだろう。しかしこの社会の中で人以外に何を見出せるのか。機械か構築物か。つまらない発想だ。それがどうしたわけでもないが、何となくその辺で考えるのをやめてしまいそうになる。人が人であり続ける必要性を感じない。それは必然ではあり得ない。古い墓の中から何かが這い出てきて、誰を怖がらせているわけでもない。


10月17日

 何やら難しい状況になりつつある。それでも続けなければならないらしく、現に言葉を記しているはずだが、それが苦痛に感じるようになってしまったらおしまいか。ならばすでにおしまいなのではないか。だから行き詰まっているのだろう。それで君はまた笑っているわけなのか。これが笑わずにいられようか。誰が笑っているのでもない。誰もいないから笑えないのではないか。そういう理由が馬鹿げている。本当に馬鹿げていると思うのなら、何か他のことを述べる必要があるだろう。それができないから馬鹿げているのか。確かに馬鹿げているのかもしれないが、たとえ今がそうであったとしても、後から思えばそれはどこかへ至る途中だったかもしれず、その馬鹿げた成り行きを経ないとその先へ進めないのかもしれない。だから何だというわけでもないが、それはそれでどうしようもないことだ。

 しかし何をあきらめているのか。たぶん何もあきらめていない。そう思いたいだけだろう。何かのフィクションの中では誰が何をあきらめているわけでもなさそうだが、どうしようもない状況の中で何を思っているわけでもなさそうだ。これから何をやるとしても、かなり長い期間を必要とするだろう。だから現時点で事の善し悪しを判断するのは早過ぎる。そう思っている人がどれほどいるのだろうか。だが何も思わなければそこで終わりだ。では何を思っているのか。誰が思っているのだろうか。やはり具体的な現象や出来事には切り込めないらしい。

 たぶんそれでかまわないのだろう。誰にとってもかまわない。今日は今日でそういうことの連続のようだ。何がどうあれ、この世界の現状はとりとめがない。誰かが思っているほど秩序立てて説明できない。人はそこで生きている。多くの人が仕事をしなければならない。それが当たり前のことであり、疑念を差し挟む余地がないようだ。それでも誰かは何を疑っているのか。語ろうとしていることがあやふやだ。

 不可解なことを考えているのかもしれない。それが言葉にできない。この世界の何が不都合なのか。存在する事象のすべては当たり前のごとく存在している。ならば人はそこで何を思っているのだろう。金が欲しいのか。あらゆることがそこへ集中しているわけか。では感情はどこへ向かっているのだ。自分の都合で好き勝手なことをやっていたいか。そうではないような気がする。実際は言葉を駆使して主張していることとの間にずれが生じている。

 どうやらまたくだらぬことを考えているらしい。たぶんそれもとりとめのないことだ。この世界の現状と同じなのだ。まったくどうかしている。平和とは何なのか。たぶんこれが平和だ。間違っているのだろうが、そういうことにしておこう。人によって気に入らないことはいくらでもあるのだろう。それが気に入らないようだ。そう述べてしまってはまずいのかもしれない。何がまずいとも思えないが、とにかく他の誰かにとってはまずいのだろう。人は他者との競い合いの中から自らの人格を作り上げる。そんなのは嘘だろう。目的という幻想を追い求め、そこに到達しようと日夜努力を積み重ね、そういうやりかたによって、この世界のとりとめのなさを一時的に忘れようとする。それだけのことではないか。だから人によってはそれではまずいと思っているのだろう。


10月16日

 いったい何をどう記したらいいのだろうか。今さらそれはないだろう。それは冗談ではない。そもそも言葉を記すとは何か。頭の中が真っ白で茫然自失というわけではないが、一向にらちがあかない。やる気がないのだろうか。まだ何も思いつかないまま三日前の文章を記している。かなり馬鹿げていると思うが、たぶんそうに違いない。そしてそんな成り行きにも飽きている。誰かは鬱状態なのだろうか。そうだとしたら何なのか。鳥のさえずりに気づく。関係のないところで、満ち足りた気分なのかもしれないが、たぶんそれは思い違いだろう。何が間違っているのか。とりあえず今は昼ではない。そんなはぐらかしは意味不明か。ただわからないだけのようだ。

 たぶん何がどうしたわけでもないのだろう。誰かはたまに何か適当なことを思いつくようだが、それを言葉に記す段階でうまくいかないらしい。それはできないことのいいわけか。何かもう少し夢のある内容を導きだせないものか。この世界に夢などない。あるのは現実だけか。人は思い込みの中で夢を見る。実際にはそこでうごめいているだけなのに、心の中では何かやっているつもりなのだ。しかしそういう人を馬鹿にしたような述べ方ではくだらないと思われ、やはり何かもっと前向きな内容になるようにしたいらしいが、それはできない相談か。君はいったい誰と相談しているのか。そこには誰もいない。

 どうもこういう語り方では心が気に入らないようだ。マンネリ過ぎて気が重くなってしまうか。また馬鹿なことを述べている。まったく状況も心境も空疎だ。だから何だというわけではないが、所詮人は動物でしかないのだろう。その辺でうごめいている物でしかない。だがそんな言葉の連なりに中身があるわけではない。そうやっていつもながらの自己嫌悪に陥っているのだろうが、何となく魂胆が見え透いている。何をどう語ってもそんな自己言及もどきの言説となる。そして未だにそれが終わらない。

 その辺に欠陥があるのかもしれない。文章に欠陥などあるわけがないか。それらの文章ならあり得るだろう。むろんそれを記している当人にはわからない。だからおかしいのではないか。何がおかしいのだろう。誰かがそんな問いを発しているようだが、そんなのは無駄な問いに決まっている。誰がそれを決めるのか。少なくとも君ではない。誰もそれを決められないからそうなってしまうのだ。だから問いに対する答えを導きだせずにいる。答えを出さなければ終わってしまうか。何が終わるというのか。そういうくだらぬ自問自答が終わるのか。何も終わるはずがない。

 虚無はいつまでもそこに居座り続ける。良くなる処方箋など何もない。冗談の続きはあれからどうなったのだろう。しかしいつまで何が続くのだろうか。何を良くしようとしているのか不明だが、たぶんそれをやり続けなければならないのだろう。だが何かが空回りしていることは確かだ。それは何かがあり続けることの必然なのだろう。そうなるしかないような成り行きがそこに展開されていて、それ以外はあり得ないような成り行きによって、それらの自己言及はいつまでも続いてゆくのだろう。君にそれを拒むことはできない。拒み続ければどうなってしまうのだろうか。現にそれを拒んでいる最中なのではないか。それでこうなっているわけだ。


10月15日

 またかなりおかしなことを述べている。気のせいだろうが、もしそのまま言葉を記していったらどうなるのだろう。その前に行き詰まるか。では文章に行き詰まったらどうするのか。そんなことに意味はない。行き詰まったら行き詰まったままにしておけばいい。今はそんなふうに思える。それはありえない状況だろうか。もしそうなったらどうするのか。何かが繰り返されている。何がそうなのか。何でもなければ何がそうなのでもない。君にそれが理解できるのか。わかることとわからないことがあるらしい。そんなわけで誰かは今日もわかったようなことを述べているが、本当にわかっているのだろうか。誰かはそれを理解しているつもりなのだ。君にはわからないことだろう。所詮は意味不明だ。まったくいつまでたってもそういうことになる。もういい加減に飽きているはずだが、それでも続けようとしているのはどういうわけなのか。どうもこうもありはしないだろう。たぶん誰かはそんなふうにしか語れないのだ。そして言葉を記せない。それは事実であり、都合が悪いからといってその事実は隠せない。しかし何がそんなにおかしいのか。君は何を笑っているのだろう。それは何かの作り話なのか。そうではなく現実の話だ。

 まったく言葉の自由が利かないのは気の毒な話か。それが何の話なのかわからない。何について述べているのかもわからない。気がついたらそんな状況になっていたようだ。そして誰かはおかしくてたまらない。それは何の話なのだろか。君は何を信じているのか。それは神の話ではない。君は何ももたらせない。この世界の住人ではないからか。そんなのは嘘に決まっている。嘘だからそんな当たり障りのない話をしているのだろう。しかしそれの何が嘘なのか。語っている内容がおかしいのだろうか。解釈を拒絶しているようだ。何を理解したいのでもないらしい。だからそんなことを述べているのではないか。そこから動機や理由を導き出すわけにはいないらしい。誰かは何かのどん底でもがき苦しんでいるのだろうか。何を想像しても現状とは結びつきそうもない。現状はいつものように何でもない。記している言葉の連なりもいつも通りで空疎だ。君はそれ以上の何を望むのか。何に打ちひしがれているのだろう。たぶん文章を構成することに意味を見出したいのだ。しかし君は野望という粗雑な感情から遠ざかっている。だが意味を見出すことと野望を抱くことの間にどんな関係があるのだろうか。それは何なのか。

 いつまでたってもわからないではらちがあかない。何を迷っているのか。やめるならさっさとやめればいいではないか。やめられないからそんなことを述べてしまうのだろう。実際に何もやめていない。ただ迷っているだけか。迷っていると述べているだけだ。本当に迷っているのではないかもしれず、ただそんなことを述べているだけのような気がする。意識は何も考えられない。それは何なのだろうか。なぜこういう結果が導き出されてしまうのか。現状では笑うしかないように思える。何について語るでもなく、実際に何も語らずに空疎な内容を記している。この世界は君を疎外しているらしい。だから君は誰なのか。君という言葉でしかなく、それが文章上に記されている。それだけのことで話なるわけがないか。そして実際に話はいつまでたっても自己言及が続いている。それのどこが自己言及なのか。何でもないから自己言及なのか。そう述べて何をはぐらかしているのだろう。何もないからそう述べてしまう。たぶんそういうことだろう。この期に及んで荒唐無稽な話などするわけがない。何もないから何もないと述べている。実際にそうなのだろう。そこから何かの禅問答に発展するわけがないだろうが、とりあえずそういうことになりそうだ。君は延々とそこにたたずみ、何を眺めるでもなく、ただ画面上にその言葉が記される。誰かによって君という言葉が記されているわけだ。それでかまわないのではないか。


10月14日

 たぶん今さら皮肉も何もないだろうが、確実にどこかで何かが繰り返されている。例えば何かの苦し紛れにゲットーの少年がどうしたのか。その時の映像が記憶となり、実体験を抜きにして、意識がそれらの悲惨な境遇に同情しようというのか。少し虫がよすぎる。それでもそれは何かの物語だろう。たぶん誰かが語りたいのはそういう話ではない。話などもとからどこにもありはしない。君はもう別の曲を聴いているはずだ。しかし誰かは何を述べているのだろう。はじめから意味がわからない。だが内容まで至らないのはいつものことだ。それもいつもの冗談のつもりなのだろうが、いったい何がそれなのか。今は何となくそれがわかりかけている。ならばそれとは何だろう。わからないはずがない。少なくともそれは心境の変化からきているわけではない。確かに何かをわかりかけているのだろうが、結局のところはわからないだろう。わかっていてもわからないと述べてしまう。そんなことを述べながらここまでやってきたはずだ。では何をやってきたのか。そこで何をあきらめているのだろうか。そして何を否定しているのか。なぜか気まぐれで言葉を記す環境を変えている。それは以前にも試したことのある状況になるだろう。その中で特に何が変わったわけではないが、何となくそういうことになっているようだ。しかし残念ながら気持ちが持続しない。作り話の中ではそうなのか。実際にそうだ。内容に至らず、とりとめのないことを述べている。それでは誰にとっても関係のないことになってしまうのではないか。無内容だからしかたがない。きっと誰もがその事実をわかりたくないのだろう。実際に君はまったく理解できない。どう考えても意味がわからない。

 ではいったい何をどうしたらいいのか。どうもしなかったのは今までどおりの成り行きだったはずだ。どうもしないからそうなのだろう。そして意味もないのに意味不明のふりをしている。それはどういうことなのか。何かが足りないのはわかっている。何が足りないのかがわからない。そして誰かがどこへ右往左往している。そういうことではない。道に迷っているわけではない。そうやって何を否定しているかもわからず、困り果てる。嘘に決まっている。嘘ではないと思いたいだけのようだ。悩まされているのは雑音か騒音の類だろうか。誰かはまだ冗談でも述べているつもりなのだろうが、そこから先に足りない何かがあるらしい。君はそれも違っていると思うわけか。君とは誰かなのだろか。ところで君はどんな疑念を抱いているのか。話が方々へ飛んで、文章が意味を担えなくなっているようだが、本質的にそれはおかしいか。それらの文章は誰に何を託しているわけではない。君にはそういう主張がわからず、言葉の連なりが行き着く先には興味を持てないようだ。意味不明に興味を抱くのはわけがわからない。だからどこでどうなってしまうのだろうか。何がそうなのか。

 行き着く先には虚無でも待ち構えているわけか。誰かはくだらないと思う。人には表と裏がありそうだ。何についてそう思っているのでもない。誰もが何かにすがりつきたい。誰がそう思っているのだろう。誰でもなければそれは嘘か。だから君には皮肉が必要だ。それがなければ何でもなくなってしまうだろう。何が何でもなくなってしまうのか。たぶん何もかもだ。すべてが何でもないから何でもない。とりあえず君はゲットーの少年ではない。そんな歌を聴いていたのだ。でも今は違い、何に同情していたのか忘れている。この世界の有り様についてどう思っているのだろうか。人の感情では計り知れないものがあるらしい。では何がどうしてくれると思っているのか。語りたいことがないようだ。そして何かが表面上でぶり返している。何がどうしようとも関係ないと思ってしまう。実際に君とは関係がない。誰とも関係のない内容を文章が含んでいる。誰にとっても興味の範囲外だ。そして何よりもくだらない。すべての文章がそうであるべきなのだ。それはいつもの冗談に違いないだろうが、なぜそんなことを述べなければならないのだろうか。


10月13日

 停滞から抜け出すにはどうしたらいいのだろう。誰かは何か適当なことを考えている。誰も何も考えていないはずがない。たぶんそのときの感触がそういう考えをもたらす。実質的にはどういうことでもないが、それはいつもの成り行きの中で考えていることか。そのことの何が証しとなってるのだろうか。意味がわからない。何をそんなに急いでいるのか。まだ話は何の結論にも達していない。それは誰のせいでもない。昼は晴れている。空が晴れているのは誰のせいでもない。そういうことではないだろう。わざとそんなくだらぬことを述べているようだが、それも意味がわからない。さっきから頭の中がごちゃごちゃしているようだ。いったい君は何について考えているのだろうか。現状では何も考えられない。だからわからなくなってしまう。本当にわからない。

 そんな事情で何となくはっきりしない。それが何だかわからず、やはり途方に暮れているのだろうか。それもわからない。どこへ向かっているのでもないのかもしれない。前にもそんな印象について語っていたはずだ。それは印象でしかなく、実質的に何について語っているとも思えず、まるで何だと感じているのか。何を問うているとも思えない。それの何が同じなのだろう。それがわからないから述べている対象がはっきりしないのではないか。

 どんなわけでもないが、言葉の連なりはどこへもたどり着きそうにない。いつものように空疎な内容を示しているようで、それについて何を述べる気も起こらない。だから何だというわけでもないが、何となくその辺で行き詰まってしまうらしい。いつものことだろう。それでそういう語りは終わってしまいそうだ。語りになっていないのではないか。話の運びが形骸化しすぎて、いつも同じようなことしか述べていないような気になる。そしてそれ以外にはあり得ないような成り行きになっている。本当にそれだけだとは思えないのだろうが、記された言葉の並びが嫌が応でもそれをなぞっている。だからそれがどうしたというのか。そう問うこと自体がそうなのだ。そして心は期待はずれの成り行きに落胆するわけか。

 それはどういうことでもなさそうだ。だいいちわかりきっている。何もかもが何でもないことの連続なのだ。そういう成り行きの中で何を語っても無駄か。語りの有用性を見いだせないようだ。何に利用したいのでもなく、それを介してどのような認識に至りたいのでもない。もとからどんな目的があるのでもなく、後からねつ造された目的といえば、それを継続することがそうであり、ただひたすら続けることが目的となっている。果たしてそれが目的といえるだろうか。別に目的などどうでもいいのであって、はなから目的に殉じるつもりはないが、それを続けている間は、目的に殉じていることになるのだろうか。冗談ではないか。目的こそが冗談だろう。

 何を頑に否定しているのか。それが目的であってはまずいのだろうか。そこに至るのに必要な紆余曲折は十二分にふまえているはずか。しかしどこへ至っているのか。現状は意味不明だろうか。だから何だというのか。何でもないからそんなことを述べているはずだ。そして何かに抗いながら言葉を記し、何かに殉じているつもりもないのに、そんな命がけを笑うだけのことに全力を尽くしているような気もするが、それも冗談の範囲内で述べていることか。たぶん未だに間違ったことを述べているのだろう。言説の正しさや説得力とは無縁でありたいと願い、それを実現しているつもりのようだが、そこに違和感があるらしい。


10月12日

 まだ記憶は昨日の時間帯だ。日付がそうなのか。そんなことはわからないが、どうやらそれではだめのようだ。確かにだめなのだろう。日付はもう翌日になっている。今日という日付は昨日から離れて一昨日になってしまったらしい。しかし翌朝になってもそのままだ。すぐに昼になり、気がつけば夜になっているはずだ。慌ただしい日々だが、それが当たり前なのだろう。心休まる暇がない。それが誰の泣き言なのかわからない。いつものように誰でもないのだろう。だから停滞から抜け出られないのか。なぜかその件については笑っている。まったく今日も今日で遅すぎるのだ。そして意味不明で空疎なことを述べている。相変わらずそうなのだから、それが何でもないことの証しになるだろうか。要するに現状が何でもないということだ。何を語ってもそういう現状に変わりはない。だがそれではだめなのだ。何かもっとおもしろいことを述べなければならず、今はそれが無い物ねだりだとも思わない。だが誰が思わないのだろう。少なくともそれが君でないことは確からしい。そんなことを今さら指摘しなくてもいいはずか。

 そして何を述べていたのか忘れている。今は夜だ。何を覚えているわけではない。記憶がどこかへ飛んでいってしまったのか。それは嘘だろう。誰も何も語れない。それは冗談だろうか。またそれか。なぜそうなってしまうのだろうか。他に何もないからだ。だから今後もそうなっていってしまうのだろうが、それが堕落だとは思うまい。逆に必然のような気がしている。では君はそれで満足すべきなのか。今必要なのはそういう問いではないだろう。だがわからないのがそれになる。それはどういうことなのか。わざとそう述べているのかもしれず、語りの方向性を見失っているのだろう。意識が状況を捉えきれていない。今はどんな状況下で言葉を記しているのだろうか。馬鹿げている。わざとらしいことを述べている。何もかもが見え透いているのだ。何もないのになぜ語らなければならないのか。その問いには答えられないだろう。だから疑念はいつまでたっても晴らせない。それはわかりきったことだ。人はだんだん変わってくる。だから何だというのか。同じような思考形態ではいられなくなるのだ。そして忙しないことで利益を得ようとする。死にものぐるいで死活問題だからこそ、必ずそういう方向へと収束する。

 それが行き着く先には何が待ち受けているのだろうか。どこへも行き着かないのではないか。たぶん心に余裕がなくなり、無駄な部分をできるだけ排除しようとしているから、忙しない社会になってきているのだ。だが君は相変わらず無駄だらけだ。すべてが無駄なのかもしれず、それは何でもないことの集合体なのだろう。実際に有用なことばかりやろうとしている人々は何か勘違いしている。そういう行為から逃れられなくなり、そのことで次第に追いつめられてゆくのだ。そんなことばかりやっていると、無駄で無意味なことがたまらなく鬱陶しく思えてきて、それによって人ではなくなってゆくのかもしれない。何かの機械と同じような動作しかしなくなる。しかし限りなく利益を追求しようとすると、早晩そうなるしかない。それは何かの必然なのだろう。そういう成り行きの中で生きていると、それが当たり前のこととしか思えなくなり、自らが利益に駆り立てられていることを何とも思わなくなる。そういう渦中から離れている者にしてみれば、場合によっては突拍子もなく滑稽な行為にふけっているように見えてしまう。要するに真剣になって馬鹿踊りを踊っている最中に出くわしているわけだ。踊っている当人たちが、洒落や酔狂でやっているようには見えないことが、恐怖感すら抱かせるはずだ。


10月11日

 今見えている風景はそれとは違う。それを眺めているのではない。面倒臭いので客観的な判断力を失っているようだ。理由になってないだろう。冗談の次はそれか。何がそうでもないだろう。すべてが廃墟の中にある。それらの中で人は何を叫んでいるのか。たぶん人には関係のないことだろう。電車は林の中を通り過ぎ、住宅街を横切り、そこから先にはしばらく畑が続いているようだ。君が見ている光景とは違うようだ。何かが明らかに違っている。それはものの見方やとらえ方の水準ではなく、本質的に違っているのだろうか。君にわかるわけがない。君は理解することを嫌っているようだ。だから言葉の連なりの上に何ももたらせない。空疎がもたらされているではないか。それで何を述べていることになるのだろう。だからこれからそれを述べようとしているのではないか。だが述べている内容にまったくリアリティを感じられない。空疎だから無内容だろう。たとえ無内容だとしても、そこに興味があるらしく、最近はひたすらそれを繰り返しているのではないか。だから楽しいのか。そう述べている意図がわからないが、やはり何かが狂っているのだろう。何を計算してそう述べているのだろう。しかしそれはどんな無内容なのか。

 やはりそんな内容に落ち着いてしまい、それを否定しつつも、それをひたすら繰り返し、そんな自己矛盾を楽しんでいるわけか。愚かな行為が身についている。それも自己否定の続きになるだろうが、否定に飽きたら今度は肯定に転じることができるだろうか。何かの都合でそんなふうになったらしめたものか。浅はかな思いつきだ。だがそれを否定しても仕方がないだろう。現実に行き詰まっているのだから、藁をも掴む気持ちで状況の好転を期待しているのではないか。しかしそれが冗談というものだ。君はそう述べて何かを馬鹿にしている。行き詰まりを打開できていないのに、話がより一層行き詰まることに躊躇しない。しかし本当にそうなったらどうなってしまうのだろう。どうにもなっていないからそうなってしまうのか。だからそれがその時点でも現実なのだ。君はそこで何かにはまっていて、身動きがとれず、別の時空でもがき苦しんでいる誰かを助けられずにいる。そんな認識を遠ざけることができず、前進するのをあきらめなければならない。

 しかしそれで気が済むのだろうか。たぶんそういうことではない。では何が馬鹿げているのか。そういうことでもない。記憶による蓄積が限界に近づいているのだろうか。それで何を語るつもりなのか。体たらくとは何か。堕落とはどんな状況を意味するのだろうか。何でもないこととは無関係か。では何が現状を示しているのか。言葉の並びがそうなっている。だがそれでますますわからなくなってきたようだ。いったい君は何に関して何を述べているのか。それがわかったら苦労はしないか。何となく困惑ぎみにそんなことを記している誰かには、そのような結果について納得しがたい思いがあるようだが、何も語れない状況はそういうことをなのかもしれず、いつまでもそれを認めようとしないから、虚無に心を覆われた状況が長引いているのだろう。果たしてそれを乗り越えられるだろうか。誰が乗り越えようとしているのか。いつまでも笑っていては前へ進めないが、笑うしかないのにそれはないだろう。君はいつまでたっても笑っている。何も思いつかないのだから笑うしかない。


10月10日

 また数日後の青空の下で何かを考える。くだらない事件はくだらないまま、どこかのフィクションの中で繰り返される。君が感じ取っているのはそういうことだ。もうそろそろそんな季節か。たぶん季節ではない。ではいったい何がそうなのか。今はまた夜になっているはずだ。だがそんなことに気づいたわけではない。何かしら短絡的な思考は避けなければならない。ならば何を考えているのだろうか。たぶん焦っているのだろう。何も考えられずに焦っている。考えている暇がないのかもしれない。しかしそれでも言葉を記している現状は変わらず、あいかわらず空疎なことを繰り返し述べているはずだ。そういう定めなのだから仕方がない。だがあきらめてしまえばそのままだ。それが気に入らなかったのではなかったか。それとも過去のことはもう忘れてしまったのか。そういう話ではない。たぶんそんな状況でも言葉を記していられる。それが何でもないことだからそういうふうになってしまえるのか。だがそれでどうしたのだろう。状況は何も変わらず、誰かは空疎なことを述べ続け、それに関して君が何を思うこともない。

 まったくこの世界には関心を抱けないようだ。たとえそれが嘘だとしても、そんなことしか述べられず、それ以外は何もないようだ。そして今日も夜が更けてゆくわけか。だから君はそこで何を更新しているのだ。この世の出来事の何に焦点を合わせたらいいだろう。誰の知ったことでもない。一度そういう認識に達してしまうと、それ以外はどうでもよくなってしまい、何も興味を示さなくなる。君は本当にそう思っているのか。いったい人々は何をどうしたら満足するのか。誰もそれを求めるわけにはいかないらしい。今はそういうことだ。今でなくてもそうかもしれず、それ以外を言葉がとらえられない。何を失敗しているのか。そういうことではないのかもしれない。人はそれでも生きている。ただの動物に違いないが、それも人の意識を経由した認識であって、何ら目新しいものではない。要するにくだらないのか。何も見出せず、何ももたらせずに途方にくれるか。それも嘘の類だろう。何か確固とした信念のようなものを感じているのかもしれない。

 どうも今回もそこへ至らずに終わってしまうようだ。言及することが不可能なのだろうか。他に何を求めているわけでもないだろう。語ることから遠ざかり、言葉を記すことを放棄して、何を求めているのか。ただ何となくそんな思いが心をよぎっているらしい。そして今なお何も述べていないような気がしてくる。しかし思いとは何だろう。それらのどこからどこまでが現実なのか。それらとは何だろう。人は人でしかなく、それ含む動物もそうだ。いったい人に何ができるというのか。それは人にもよるだろう。だが何もできないからといって人でないわけではない。それでも人なのだろう。過去の出来事の何に期待しても無駄か。誰かは無駄なことをやろうとする。そんな宿命を背負って誰かがこの世に存在しているわけか。そんな大げさなことではない。何がどうなっているわけではなく、何もどうにかなっているとも思えない。ただ眠いのか。それがそこでの現実なのだろう。まともなことは何も述べられないのに、そんな風に振る舞うのはいかがなものか。しかしそれでもそこから抜け出られない。延々と同じようなことを述べている。それがどうしたと居直っても仕方がないだろうが、何も述べないよりはマシだろうか。


10月9日

 とりあえず真っ当な精神を取り戻すには、規則正しい日々を送らなければならないのだろう。そんなことはわかっているが、それができないこともわかっている。何となくそれは冗談か。わけがわからないのはいつものことだ。何について語ったらいいのかわからない。それが素直な何かになるだろうか。実質的には何でもないのかもしれない。誰のことでもなく、いつものように誰にも当てはまらないことだ。だがそれもわからない。文章になっていないのかもしれない。本当に何も語れなくなってしまったらしい。そして苦し紛れにそういうことを語っている。しかしそれだけではないと思いたい。別に三文芝居ではない。そう記す理由がわからないが、少なくともそうなのだろう。まただらしないのでもない。少しは勤勉に生きているのではないか。それともそれも気のせいで、客観的には怠惰な毎日を送っているのだろうか。しかし己について述べているだけではつまらない。己とは何か。何でもないから己なのではないか。

 そういう話ではなかったはずか。だがそれでもかまわないのではないか。自らについては何も語らないことがここでの本分だ。そしてそんな嘘をつきながら言葉を連ねてゆけば、やがて何事もなかったかのように事態は推移して、その場は丸く収まり、何のことやらまったく状況がつめず、わけがわからないようだが、それでも何となくそういうことになるだろう。どうなってもかまわず、その辺はこだわりがない。とりあえず今はそういうことだ。いつもそうかもしれず、場合によってはどこまでもそうなのだろう。本当はそういうことではないと思いたいのだろうが、それらの状況には逆らえない。今さら反抗期にはなれないか。

 だからどうだというわけでもないが、そこで空疎な話の続きに行き詰まる。ふと窓の外を見やると、そこからどんな言葉が導きだされるというのか。空は晴れ、今日も何か適当なことを思う。だから何を知っていても、今までのそれは忘れてしまえばいい。冗談としてならそういうことだろう。たぶんそれで何かを忘れていたことを思い出す。他に何を期待していたわけではない。そしてそれが文章になっていないことに気づくが、意味が通るような文と文のつながりを導きだせずに、何となくそのまま放置してしまう。他に何か述べることでもあるのか。君は何も思いつかないだろう。たぶんそういうことなのだ。そして相変わらず君はそれを忘れている。

 それはどういうことでもないだろう。すでに気持ちはそこから離れている。まったくとっかかりがつかめなくなってきたようだ。そんなことはどうでもいいといえばどうでもいい。それでも何を述べているはずだ。今のところはわけがわからないが、何でもかまわないから言葉を並べて、文章を完成させなければならない。それではくだらないだろうか。誰かはなりふり構わず言葉を記す。無理を承知でそんなことをやっている現状があり、それが君を戸惑わせる。そんなのは嘘に決まっている。いったいそれで何を否定したいのだろう。何を求めているわけではない。この世界は世界でしかない。それは言葉による効果だ。わけがわからないか、そんなところだ。要するにそれも何でもないことでしかない。それは冗談の域を出ない話か。それ以前に何も語っていない。何かについて説明したいのだが、それができずに、できないことのいいわけばかり述べている。まったく笑ってしまうか。そこで誰が笑っているのだろう。たぶんそういうことではない。


10月8日

 どうもがんばれないようだ。それが現状なのか。執念が心のどこにも見当たらない。やはりもうやらなくてもかまわないのかもしれないが、悲嘆にくれても仕方がない。やれるうちは少しでもやっておこう。しかし誰がそれをやるのだろうか。視線が外へ向かってない。関心が薄いのかもしれない。しかしそれが現実だ。闇の中に何かがうごめいている。今は夜なのだ。昨日も夜だった。明日もそうに違いない。きっと数日後もそうだろう。何も思わない日々が積み重なり、それが普通だと思うようになって、その先はどうなってしまうのか。冗談にも続きがあるのだろう。その続きがこれか。その先にはいつもの虚無が広がっているようだ。それで何を語っているのでもない。何に巡り会っても無関心のようだ。それが何でもないからか。簡単に結論へは至らない。何が思考なのかもわからず、何も考えていないのかもしれない。

 気がつけば形式にこだわっていたらしい。そして文字を記すのが著しく遅れている。何でもないのにそれはないだろう。何かがあったらしい。何らかの事件に巻き込まれていそうだ。そして妄想の中では首を傾げている。現状ではあり得ないことだ。フィクションではないのだろう。確かにそれは違うと思われるが、どこまでがそうでないのかわからず、それについて考え始めるときりがない。だからその辺でやめるべきなのか。何をやめたらいいのだろう。思考が破綻して、文章が循環している。言葉がそうなのか。だからそれ以上はやめておこう。

 何度やっても同じ結果か。何を繰り返しているのか。君はそう思っているはずで、焦っているのだろう。どこへも至らないから焦っているのだ。まったく考えがまとまらず、それを超える結果をもたらせない。思い出したように深夜に目覚めるが、述べていることはいつもの繰り返しだ。そう思われて仕方がないようだ。だから何の話でもあり得ない。何かの作用に抗おうとしているのだろうが、それをあきらめさせるような成り行きにしかならない。結果的にはそうなのだ。だから苦悩してしまうわけか。冗談ではない。話が茶番か。それでもかまわないだろう。茶番に至っているだけマシというものだ。しかし実際にはどこへも至っていないような気がする。だからあきらめて寝てしまったのではないか。だがあきらめきれずに深夜に起きて文字を記す。そんなことの繰り返しだろうか。そしてそんな実態を述べている。

 しかしどうやったら自己満足に至るのだろう。それを求めているわけではないはずか。迷っていることは確かなようだが、それだけでは済まないのだろうか。ではどう済ませるべきなのか。状況を把握できていないらしい。それでもそうなのか。嘘に決まっていないか。何を根拠にそう述べているわけでもなく、ただの当てずっぽうだろう。論理的思考とは無縁の内容となっているらしい。それで困っているわけか。そういう自問自答が鬱陶しいか。問えば問うだけそれにはまってしまう。しかしそれも計算と打算のうちだろう。そして予定調和のようにいらだってくる。そういうやり方が君にはお似合いなのだ。深夜に何かを思い出したように繰り返しているだけだ。きっと明日もそうなるだろう。そうならなければどうにかなってしまうのか。本当にどうにかなってほしいか。できるだけをそれを長引かせているだけだろう。だからそういう文章になってしまうのか。そしてそれも計算のうちで述べていることになる。


10月7日

 誰かはまた昨日の日付を記している。しかし誰かと言っても匿名ではない。また翌朝になってあきらめてしまうのだろうか。何をそこであきらめているのだろうか。今日の日付を記すのをあきらめているに決まっているだろう。だがそんな先のことはどうでもいい。何をあきらめるにしろ、それを実際にあきらめてから、そのあきらめた事実を言葉で示せばいいだろう。しかし何か馬鹿げていないか。馬鹿げているからそう記しているのだ。たぶん馬鹿げているはずだ。しかしうるさい音楽だ。何を聴いているのだろう。何かがおかしいのは周知の事実だ。ここではそういうことだ。どこでもないここではそうなのか。そういう述べ方が何よりもおかしい。わざとずらしているのだろう。やる気がないからそうなってしまい、本気になれないからそれで済ましてしまう。それもわかっていることか。わかっているのにそうなってしまい、それをやめられなくなり、やめるのをあきらめてしまう。それが何を意味するというのか。無駄で無意味で空疎な試みとなるだろうが、たぶん否定しつつもやってしまうのだろう。だからそれを拒否するしかないようだ。

 人はいつまでもそんなことにこだわり、どこかの世界に住む塵や芥のたぐいを惑わしているのだろうか。君にはわからないことだ。誰にもわかりはしない。しかしそれではあきらめきれないだろう。誰が何を思っているのか知らないが、君はそうやって言葉を記すのをためらっている。まともに述べられないのはいつものことだ。何をどうしようと、そうなってしまい、結局は何を述べているのかわからなくなる。そんなわけでそうならないために学ぶ必要性を感じているようだが、いったいそこで何を学べばいいのか。そんな状況で何ができるというのか。しかし状況とは何だろう。そことはどこなのか。そこがどこなのかもわからない状況がそれだ。そしてそこで言葉を記すのが停滞しているわけだ。冗談ではないだろうか。何がそうなのか。何でもないからそうなのかもしれない。そこは何でもなく、そんな状況も何でもない。しかしもう夜も更けてきたから、そういうのはやめた方がいいのではないか。何でもないならもう言葉を記すのを終わりにしたらいい。

 それも冗談ではないのだろうか。それとは現状のことだ。中途半端なことを述べている現状があるらしい。どうせ壊れてしまうのだからチャチはものは手に入れたくないのかもしれず、だからそこで躊躇しているのだ。何が壊れてしまうのかといえば、要するにチャチなものなのだ。数年経っても大して変わっていない。もうあれから何年が経過したのだろう。しかしなぜ歳月は誰を残酷な運命に導いてしまったのか。どこで誰が老いているのだろう。そういう話のどこが残酷なのだろうか。何の話でもなさそうだ。面倒くさいからそれに関する詳しい説明は後回しにして、また意識はどこかへ外れていってしまうのだろう。ここは何かを物語る場ではないらしい。小説的な情念とはすでにおさらばしてしまったわけか。はじめからそこへ至っていないのだろう。誰かの意識はもう画面上にはない。空洞のどこかに心がありそうだが、それも一時的な存在に違いない。そんなわけで誰かはここではないどこかへさまよいでている。面倒くさいからそういうことにしておこう。さまよいでる理由がどこへも見当たらないが、何となく何も語れないようで、それが何かのきっかけを呼び込んでいるとも限らないが、やはり物語にはほど遠い言葉の並びだ。何も物語っていない。それによって時間を制御しているつもりのようだが、そこで思考停止する理由もなく、つまらないこだわりを捨てるつもりもないらしい。しかし物語らないことのどこがこだわりなのか。普通は逆だろう。


10月6日

 それがどんなわけでもないが、どうやら昨日のことを述べているつもりになれそうだ。そんな日付が一時的に期待させるのだろうが、眠ってしまったらしく、翌朝に目覚めたら、また振り出しに戻っていた。いくらサイコロを振っても無駄なのか。それが何を語らせようとしているのでもなく、誰かがそんなことを記すだけのようだ。そして中途半端なところで唐突に話が終わる。他の何を終わらせるように仕向けているわけでもなく、何も思いつかずに途方に暮れる。それが昨日の記憶か。誰もそんなことは覚えていない。昨日は何をやっていたのか。たぶんどこかで居眠りの最中だったのだろう。そして今日も昼寝の最中か。それ以外の時間帯は仕事をしているのではないか。だが何をやっても何かが合わない。何事もうまくはいかないようだ。いくら努力しても無理なものは無理なのだろう。やっている期間に対する時間が間に合っていない。そしてさらに遅れていってしまうのだろうか。その辺はわからないが、とりあえずそうならないために努力しているつもりなのだろう。そして意味不明になる。誰が行方知れずになったわけではないが、何となくそれが何の冗談なのかもわからず、笑えない状況のようだが、笑うに笑えないわけではない。何を語っているとも思えず、どう対応したらいいのかわからない。だから余計にわけがわからなくなるようだ。

 別に退屈にやられて意識がどこかへ散らばってしまったわけではない。ただそれについて何を語ればいいのか。それとはさっきまでの言葉の連なりだ。それにしても何がわからないのか。どこをさまよい歩いているわけではない。今は部屋の中で、画面を見つめている。それは冒険とは無縁の試みだ。おそらくいつものことなのだろう。誰もそれを否定できない。当たり前なのではないか。当たり前すぎて拒否することができず、それらの成り行きに巻き込まれている。それ以外を思いつくことができず、ただ傍観するばかりで、何をどうすることもできず、脱力感とともにあきらめの境地に達してしまうのか。しかし境地とは何なのか。何かがどこかで分解されているようだ。またわけがわからなくなっているのか。誰に対して当てはまる状況なのだろう。それでは少しカフェインが強すぎる。だから何であるかなんて関係のないことで、誰がそこで言葉と戯れているわけでもなく、話せばわかる程度のことでもない。少し言葉が過ぎたのだろうか。あいかわらず何の話でもないだろう。誰のくびきによって虚無の地につなぎ止められているとも思えない。それでも少しは進歩したのだろうか。それとも勘違いか思い違いの類か。

 まだ未来はやってこない。それらは未知の領域ではない。何のたとえなのかもわからない。ただ言葉を記している。それだけのことか。そう思うならそういうことだろう。おそらくそうだ。わけがわからないのなら、それは違うのだろう。何が違うわけでもなく、そういう語り方が間違っているのだ。しかし正しい語り方を模索しているわけではなく、語り方が正しかったり間違っていたりすることに興味があるのでもない。その辺を勘違いしないでほしいか。誰に向かって警鐘を鳴らしているのか。別にそういう大げさなことを述べようとしていたのではなく、わざとそう述べて、それが馬鹿げた行為であることを示そうとしているのではないか。それも的外れな指摘だろうが、わざと的外れなことを述べているのかもしれず、その辺から頭がおかしくなり始めているのだろう。さらにおかしいのか。とりとめのないことだ。コーヒーにも飽きてきた。だからそれ以外を模索しているところか。冗談で的外れなことを述べているようだが、冗談になっていないのがおかしいところだ。それでも君は続けるつもりなのか。何を続けているのだろう。当てのない空想は支離滅裂な文字列に付随する。はじめからそのつもりなのだろうから、それはそれで当たり前の成り行きだ。


10月5日

 数日後は雨が降っている。台風が近づいているらしいが、それに関して何を思っているわけでもない。そこに何かがあるらしいが、何を明らかにしたらいいのかわからない。君は現実の世界で何に出会ったのだろう。日々退屈な現実に出くわして、落胆しているのかもしれないが、それはいつの出来事でもない。それでも何が違うだろうか。たぶん何かを得ようとしてそんなことを繰り返しているのだろう。誰かは自らが記しつつある文章において、まともな内容を得ようとしている。そしてそういう試みを繰り返すことによって、次第に何かが明らかになりつつある。虚無をその手に掴み取ろうとしているのか。そんなのは冗談の類に違いない。きっと気のせいだ。だがそう述べることによって文章が構成されようとしている。実際にそんなことを述べているようだ。たぶんそうなのだろう。そうでなければ現実ではない。現実でなければ空想の類となるのだろうが、何か妄想の賜物のようなおどろおどろしい情念がそこには見当たらない。どうでもいいというわけか。いつものことだ。何がどうなろうと、うろたえる要素がない。誰かは自らに正直に生きているのか。それがわからないから、述べている内容が意味不明になってしまうのだろう。しかしそんな現状のどこに問題があるのだろう。たぶんこの世界はどこへ向かっているのでもなく、ただ人がそこで暮らしているだけだ。できればくらしやすい世の中になってほしいのだろうが、そこで誰の願いが叶えられようと、それで何がどうなろうとも、他の誰にとってもそんなことは知ったことではないのかもしれない。

 人はどこまでも愚かだ。そう思っているならそれでもかまわない。誰がどう思っていても、やはりそう思っているうちは愚かなのだ。理由も根拠もなく愚かだ。何かがそういうことの存在を際立たせている。それも根拠のない思い込みの類か。何かにとりつかれていると思っていても、そのとりついている何かに支配されていると思っていても、ひたすらそうなのだから、それもどうでもいいことに違いない。誰かはそこで思いとどまっているようだ。何かが馬鹿げているのかもしれず、その馬鹿げていることが、誰かの言動や行動を制御しているのだから、それは忘れ得ないことなどではなく、思い出そうとしている記憶の中に、未知の体験として紛れ込んでいるのではないか。しかしそれの何がわからないのか。後から読み返すつもりはない。何を読んでいるとも思えず、読まされているわけでもない。人はどこまでも人なのだろう。人であるからくだらぬ妄想にはまり、時には我を忘れて馬鹿げた作業に没頭する。そして実際にやっているのはそれだけのことなのに、なぜか疲れる。

 誰かは目が悪くなってきたようだ。視力が落ちている。何も語らずに遠くを眺める。意図も思惑もない。だから何でもないことは確からしい。街中で人が大勢うごめいている。そんな光景を眺めながら何を思っているのか。眺望とは何か。見晴らしがいいわけでもなく、そこに言葉が連なることもない。どこまでも殺風景に思われるのか。部屋の中は空洞だ。そこには空気がつまっている。誰がそれを感じているわけでもなく、誰もそこにいないから空洞であり、殺風景なのだろう。しかし殺伐としているのはどの世界なのか。いくら慌てふためいてももう遅い。たぶんその場所を通り過ぎてしまったのだろう。新たな感覚を見出せぬまま、何かが過ぎ去ってしまい、手遅れになった途端に、通り過ぎた景色に興味を抱き始める。そしてそれが何かの繰り返しだと思うのだろうが、そんなことはおかまいなしに、どこかで何かを探し出そうとして、徒労に終わるような試みを繰り返しているわけだ。


10月4日

 わからないがそういうことなのだろう。そんな決まり文句を記しながら、誰かは何を思っているのだろうか。それとは関係なく、相変わらず耳鳴りがしているようだ。この世は何でもないことの集積物として存在する。それは冗談か嘘だろう。俄には信じられない。だが別に信じなくてもそうなってしまうのだから、それはどうしようもないことだ。かなり馬鹿げた話だ。いったいそこで何を理解できないのか。なぜかそこから気が進まない。ドラマとは何か。何でもないからドラマなのか。話があるからドラマなのだろう。だが何もないということはどういうことなのだろう。当たり前のことだ。他に何を求めているとも思えない。何もない地平に何があるだろう。何があるかはわからない。何もなければ他に何があるのだろうか。何がどうしたらそうなってしまうのだろうか。心当たりは何もない。何もどうにもなってない。ただそれだけのことだ。それだけのことで言葉が並んでいる。何でもないことだ。しかし何をあきらめているのか。睡眠をとることをあきらめているのだろうか。そうでもないのになぜか眠れなくなってしまったらしい。それが冗談のつもりなのだろか。相変わらず誰が何を述べているのでもない。何も前向きにはなれない。そして嘘をついている。何がそれの偽りなのだろうか。それがご都合主義なのは当然だろう。

 未だにわからない。何がわからないというのか。それが本当なのかもしれない。何も必然ではなく、すべてが偶然なのだろう。それが不条理だとは思わないか。誰も何も思わないだろう。そう思いたいのだろう。何がそうなのではない。何もそうではないのか。それはもはや意志ではなく、何かの惰性でやっていることだ。そして空疎な内容に嫌気がさしている。君はそれでも語り続ける気か。誰が語っているのかわからない。君が語っているはずだ。何を語っているのだろうか。馬鹿げた自己言及に終始している。君はそこから何を導きだすのか。虚無だけだろうか。それで何を導きだしたことになるのか。出口はどこにもない。何を考えているわけでもない。そういうことを考えているわけだ。考えられないから考えようとする。考えれば世界が変わる。ただ見方や考え方が変わる。物事の捉え方がわかるらしい。それはくだらないことだ。何も変わっていないではないか。またいつもの冗談だろう。さっきから何も考えていないはずだ。

 この世界ではそれぞれが主役だそうだ。自分は他人だ。他人とは誰だろう。少なくとも君ではない。心とは何だろう。どこかに空洞がある。誰も空洞ではない。心は空洞ではない。誰がそんなことを思っているのか。君は誰でもないから君なのだ。述べていることはいつも的外れだ。どこかずれている。君には何に気づいているのだろう。言葉を記している誰かは何を思っているのか。文章は何も語らない。それが文章だとは思わないからか。求めたいのは理由ではない。欲しているのは現実なのか。現実の中に誰がいるのだろう。言葉遊びの範囲内でフィクションが成立している。だがそれがどうしたというのか。どうもしないからそんな状況下で言葉が連なる。連なっているのは言葉だ。君の言葉ではない。誰の言葉でもなく、誰が記している言葉でもない。だからそれが嘘だと思う。誰が思っているのだろう。嵐が近づいているようだが、君がそれを呼び込んでいるとは思わない。それだけでは不満なのだろう。気に入らないのだ。何よりも意味がない。だが君にとっての意味とは何だろう。何が意味のあることなのか。それが何らかの言動や行動に結びつくわけか。しかしあれやこれやではない。君はそれについて何とも思っていないようだ。


10月3日

 世界が闇に沈む時、そこからファンタジーでも始まるのだろうか。テレビゲームか何かかもしれない。そんな宣伝文句に惑わされ、取り立てて何を語るわけでもないが、もう夜だ。朝も昼も仕事をしていたはずだ。はじめからやり直すわけにはいかないのだろうか。何をやり直す気もないのにそんなことを述べている。ここまでの経緯はそういうことだ。いったい今までに何を説明していたのだろう。君には時間がない。誰にもありはしないだろう。しかし何が切羽詰まっているのか。そんなくだらない成り行きの中に何かの真実が隠されている。そうでもしないと話にならず、嘘をついてでもそこから立ち去りたくなり、理由もなく慌てふためき、語彙の貧困さを覆い隠すことも忘れて、一心不乱に言葉を連ねたいか。意味がわからない。空疎な内容が退屈なのだろう。それでも無内容ではないか。何を強調することもない。しかし果たして子供たちには未来が必要なのだろうか。子供だから必要なのか。理由以前に子供たちは子供なのだ。未来は老人のためには用意されていないというわけか。どちらにしてもそれは限られた時間の範囲内でのことだ。未来は誰に与えられているのでもなく、つかみ取るためにあるわけでもない。

 少し眠くなってきたようだ。物語が誰かの人生を翻弄する。フィクションの中ではそうに違いない。確か夢の中でもそうだったはずだ、それは誰が見た夢でもない。文章上にそう記されている。では君はそれを読んでいるのだろうか。耳鳴りがするらしい。それは誰の感覚でもない。何も語れない現状をどうにかしたいが、結果的にどうにもできないからこうなってしまったのだ。そんなわけでそこから先には何もないらしい。いつものことだ。だが何も思いつかないわけではない。それが言葉に結びつかないのだ。何かわかったようなわからないようなことを述べている。君は疲れているのだろう。そんないいわけでは満足しないか。それでかまわないのだ。そんなふうにして言葉を記していれば文章になるだろう。それが気に入らないのならやめてしまえばいい。君の未来が閉ざされるだけか。君は子供ではない。もう老人に近いのかもしれない。だから何だというわけではないが、未来という言葉が何かのキーワードとなるのは何かのフィクションくらいなものか。しかし未来は果てしなく遠い。それは何かの思い違いかもしれないが、明日も今日と同じような状況なら、本当に未来などありはしないのかもしれない。

 そしてそれからどうなったのか。誰がどうなったわけでもない。ただ夜にコーヒーを飲んでいる現状があるだけで、今は誰かが画面を眺めている。そこには目を覆わんばかりの惨状でも広がっているわけか。何か表現が間違っていないか。君はまだ寝ぼけているのか。何でもないのにそんな大げさなことを述べているだけか。語っている内容は何も大げさではなく、ただ無内容で空疎なことをのべている。それがどうしたのだろう。また何かから外れている。言葉から意識が抜け落ちているのかもしれず、何か心がもぬけの殻のような空洞となっている。そういう表現を用いると何か爽快な気分にでもなるのだろうか。馬鹿げている。別に悦に入っているわけではなく、してやったりと思っているのでもない。誰かの喜悦する顔が画面に映っているのでもない。ここに至ってもすべては何でもないことなのだ。コーヒーを飲み過ぎて頭がくらくらするわけか。それも作り話の域を出ない言葉だ。まだどこへもたどり着いていないような気がしてくる。迷宮に迷い込んでいるのでもなく、荒野で途方に暮れているのでもない。やるべきことは言葉を記すことであり、それを連ねて文章を構成することだ。なぜそんな簡単なことができないのか。それが簡単ではないからか。


10月2日

 どうもいつもそういうことになってしまうようだ。昨日のままか。翌朝には雨がやんだらしい。そしていつもの昼に何を思っているわけでもない。時が経ち、夜になってしまう。何も見いだせぬまま一日が終わる。たぶんそんなことが繰り返されてしまうのだろう。それは誰の一日なのか。君ではない。コーヒーを飲んだ後に茶を飲む。そして眠ってしまったらしい。また目覚めれば真夜中か。やはり何がどうなっているわけでもないのだろう。ただの一日で、夕方まで仕事をしていた。そこで誰が何に凝り固まっているわけでもなく、多くの人々が普通に暮らしている。そして君は何も思いつかず、さらに目覚めれば翌朝になっているはずだ。いったいこの世界はどうなっているのか。そこで人々が求めているのは幸せな日々か。たぶん空疎な問いかけに対する答えなどない。何も答えになっていないから何でもないのだ。だから文章が話にならないのだろうか。それが物語でないわけを聞かせてほしい。だいいち意味がわからない。わけになっていないだろう。何の感慨もない。しかし風景とは何か。何が風景になっていないのか。だから唐突に意味がわからず、話の脈絡をつかめない。そういう話にはならなかったはずか。ここで話はない。

 どこでも話はないはずだ。今のところはそうだ。会話でも対話でもなく、同じ道を往復する日々が続いている。物語とは何だろう。少なくともそういう問いかけとは無縁だ。では語る必要がないのだろうか。何も見いだされないから内容が空疎になり、言葉だけの文章に近づいてゆくが、それが当たり前のことだとは思わない。光景も情景もない。では君は何を見定めようとしているのか。そういう話でもない。君はそこで立ち止まってしまうらしい。立ち止まるしかない。目の前は崖か何かか。誰がどこを歩んでいるわけでもない。それよりも以前とは何か違った印象を得たいのだろう。だから試行錯誤の最中なのか。それがそうなのか。ところで何が試行錯誤なのか。わからなければ過去を思い出してごらん。突然おかしな言葉づかいだ。ならばついでにおかしなことの上塗り状態となればいい。例えば手塚治虫の火の鳥がどうしたのだろう。あれも物語だろう。物語ではつまらないか。別に古今東西の物語が何によって乗り越えられたわけでもない。ドキュメンタリーもノンフィクションも物語だ。君はそこで語るのをあきらめようとしている。

 小説とは何か。もう古すぎる表現形態にはつきあっていられないか。冗談も休み休みで、いちいちそれはないだろう。今さら何を否定しても始まらない。話が始まらないということであり、話になっていないからそれは当然のことだ。人が何でもないなら、特定の人物について改めて物語る必要はない。この世界のどこかに特異な性格の持ち主がいるらしい。君は特性のない男について何か知っていることでもあるのか。少なくともそれも物語形式だ。君は何も読まず、読まずに何を批判しているわけでもない。超自然現象から何かを説明すると、話に欠陥が生じて、何となくつまらなく思えてくるのだが、浅はかな読者にとってはそれが物語の魅力となるらしい。それは誰にとってもありふれた結論だ。君は鳳凰について何を知っているのか。勘違いしてもらっては困るのだろうが、その勘違いこそが話の本質をついている。しかし大したことはない。人が描こうとする対象は浅はかだ。深淵など覗けるはずがない。だから君が魅入られているのは断じて虚無などではない。そして誰かは今日も一日の終わりに馬鹿げたことを記している。たぶんそうではないのだろう。そうではないからそうなってしまうのだ。そして誰かは眠ってしまう。


10月1日

 やはり意味不明のままだ。たぶん何もそうではなく、単にそうではないのだろう。意味がわからないが、何となくそう思う。別に何が気がかりなのではなく、取り立てて何を語りたいのでもない。ならば何も語らなければいい。だがそれが誰の答えにもなっていない。それでも自然と言葉が記されるだけか。それはあり得ないことだ。何か思うところでもあるのだろう。いつもながらの日々に何か事件が起こっている気がする。それはたぶん気のせいだ。それ以外は何も思いつかないようだが、誰かは何を求めているのか。ありきたりの言葉が並ぶ。長雨のようだ。たぶん季節は秋なのだ。朝が冷える。月並みな言葉が並ぶ。何がそうなのではない。何もかもがそういうことなのだろう。本気になってはいけないのだろう。あまり穿った見方ばかりしていては当たり前の視線を見失う。そこで何が明らかになっているのだろう。とりあえず何かを終わらせなければならない。本気でそう思っているのだろうか。何かの弾みでそんなことを記してしまうのか。何かが根本的に違っているのだろう。具体的にそれは何なのか。わからないからこうなってしまう。

 何をどう語ってもこうなってしまうのだろう。近頃はこれしかないようだ。まったく堪え性がない。すぐにあきらめしてしまう。探求が必要なことはわかっているが、それは何かの勘違いではないのか。そんな疑念がわいてきて、何も本気にはなれない。きっと君のせいではないのだろう。誰が君ではなく、彼も彼女も違うと思われる。それらは皆人間なのか。たぶんだからどうしたわけでもなく、すべては架空の人物設定に違いない。しかし肝心のフィクションがどこに記されているというのか。誰に何を求めているわけでもない。そこには誰もいないのだろう。だから何が探求なのでもなく、何も探りようのない空洞の中に意識があるらしい。そう思っていれば何もせずに済むのか。そもそもそれが勘違いの最たるものだろう。だがそれでもわけがわからないままだ。何もわかろうとせず、どこまでも勘違いを貫き通し、それが何になろうとも思わず、実際に何にもなっていないのであり、それでかろうじて正気を保っているつもりらしいが、文章の内容は空疎のままだ。要するに何も思いつかない。それで何が楽しいとも思うまい。

 まだそれ以外の方法を模索するつもりらしい。誰かは執拗にそれを求め続ける。それ以外の何かをさがしているわけだ。何もないのに何かを見いだそうとしている。それが不可能であることも承知しているのに、やはりそういう探求を繰り返す。何かの惰性でやっていることなのか。たぶんそれらの自己言及がそうさせているのだ。絶えず自己の内側へと舞い戻り、それについての説明の繰り返しとなり、うんざりするほどの空疎と言葉の戯れを何かが記させるわけだ。それが途方もないフィクションの全貌なのか。それともそれもまったくの勘違いか。だから何についてどう語ろうとそうなってしまうのだから、それはそういう成り行きの中に意識が埋没している証しとなるのかもしれず、それがどうしたわけでもないだろうが、現状とはそういうことになるのだろう。そしてそれについて何をどう思っても何も始まらず、何を落胆しているのでもないだろうが、期待とも無縁の成り行きだ。どこかで何かが外れている。たがが外れているのだろうか。考えるべきことが他に見当たらず、何をどう考えても違うのだろう。何が違っているのかまったくわからないが、案外何も違っていないのかもしれない。違っていると思われるそれが正解なのだ。そしてそれの正しさを認められずにいるわけで、認めようとしないから、いつまでたっても疑念を払拭できず、それ以外を語ることができない。