彼の声74

2009年

9月30日

 たぶん何をさがしているのでもない。それでも君は意味のない現象を見つけてしまうのだろう。何かの亡霊が言葉を並べている場所がどこかにあるらしく、誰かがそこへ至っているのかもしれない。くだらぬ内容に意識を絡めとられている。至る所にそれがあるらしい。誰かは何を思うのか。他の誰かは画面上でありふれた印象を振りまいている。いつかの夢の中では誰かが意味のない願望に魅入られていた。そこで他に何を想っているのでもないだろうが、あり得ないことが起こることを期待する。そういう思いがありふれているのだろう。誰がどんな心境に至ろうと、それが仏教的な涅槃とはならない。では君はどんな心理状態に至りたいのか。君もありふれた人格をまといたいのだろうか。人格はファッションではないが、演技としてならそれ相応の人格を演じることができるだろう。しかしそれで何がしたいのか。画面上には唐突にわけのわからぬ言葉が記され、意味がわからなくなる。何も読みたくないのだろう。天を仰いで日差しに耳を傾けても、聞こえてくるのは神のお告げではなく、落胆しているわけでもないのに、いきなりわけがわからないことを述べているようで、怠惰と疲労によって、文章を構成する意味がわからなくなりそうだが、そういう成り行きは人をどこかに導いているのかもしれず、そこに至るには様々な方法があるらしい。だがやり方の多様性を人は体験することができずにいる。要するにひとつの方法を選んでしまうのだろう。それが生きる方法なのだろうか。そうやってどこに残ろうとしているわけではなく、とどまる先を見いだせず、それらのやり方を模索しているわけではない。ならば他にどうしろというのか。相手を知らず、言葉に振り回されているわけでもなく、何に動揺しているわけでもない。天啓を得たように思えるが、それは誰の命令でもない。君は神を信じない。ではそこで何を実行しているのか。それに関しては何も覚えていない。すべては過去の記憶から生じていることだ。誰かは道に迷っているのだろうか。そこには選択肢が何もないようで、言葉が出てこない。ならば迷っているのではなく困っているのではないか。それらの文章はどこへ行ってしまったのか。冗談以外は何も思いつかない。本質的にはそういうことではなく、わからないことはまだたくさんありそうだ。それでも迷う理由を知りたいか。誰が知りたいのかわからない。たぶん君は何かを目指している。何か得体の知れない人物になりきろうとしているのだ。そこでは何かがねじれていて、また文章はくだらぬ言葉の付け足しとなっているようだ。しかし君にはわからない。何がわからないのだろう。それらの何がフィクションなのか。またいつもの言葉の並びになってしまう。だが何がどうなろうと大したことではない。その時点ではそう思ってしまってかまわないようだ。深刻な精神状態ではない。君はそこで何を否定しているのだろう。語っている内容は意味不明でくだらない。何か矛盾していないか。矛盾しているのはいつものことだ。どこで何を語ろうと、それらはどこまでもいつものことなのだろう。いつもの成り行きの中に日常の一コマが差し挟まれて、つまらない記憶となって脳裏に刷り込まれる。何を述べてもいつものことなのだろう。誰かがそれを期待していたはずだ。そして今のところ期待はずれに終わっているのは良いことなのだ。今や何も冗談ではなく、いつかこの日が訪れているのは今まさにこの時なのだ。要するに何でもないことが何でもないように起こっていて、誰に何も気にもとめないそれらの現象がそれらのすべてなのだろう。すべてであり、さらなるすべてに含まれるすべてなのだ。とりとめがなく、散漫な印象に包まれていて、それがどうしたわけでもないが、それこそはこの世界のすべてなのだろう。人々はありふれたそれらを感じ取ることができない代わりに、自らの思い込みの中に幻想の秩序を構成しようとする。


9月29日

 話が進んでいないようだ。その気がないのかもしれない。その気になれないのではないか。なぜそこから違う結論を導きだそうとしているのか。たぶんそうではないのだろう。何も見えていない。何が気に入らないのか。そういう話ではないということだ。何を使いこなしていると思えない。記しているのは言葉ではない。言葉を記しながらそう思っていたいのだろう。文章が外れているようだ。それも思い込みのたぐいか。何が違っているのかわからない。意識が違うことを思っているのかもしれない。その場に誰かが居合わせたのが気に入らないのか。指先の傷が治らない。気分がどこかへ行ってしまったらしい。よくわからない表現だ。きっとそれも何でもないことから生じているのだろう。漫画は漫画だ。コンビニで立ち読みでもしていたのか。スーパーだったかもしれない。どうでもいいことだろうか。何かが散り散りになっているようだが、それが言葉でない証拠を見つけたいのではなく、何であってもかまわないのだろう。言葉の並びがおかしいか。そこから何かが生じているが、それが文章だとは思えない。いつものように何かが違っているようだ。

 どこかへ出かけていくのだろうか。誰かがそこへとどまる。気分が優れない。嘘かもしれないが、面倒くさいのだろう。何がおもしろいわけでもない。何もそうではないのかもしれない。興味が薄れてしまうらしい。わからないがなぜそうなってしまうのか。誰に問うているわけでもない。簡単なことだろう。くだらない部分ではそうだ。しかし当たり前のことは当たり前のように述べているのではないか。それは具体的に文中のどの部分なのか。何となくそんな気がするだけかもしれず、ただそれだけのことなのだろうが、何となく何かから見放されているような気がするのはどういうわけだろう。何でもないということだ。何を語ってもそうなってしまい、ひたすら空疎なことを述べているのだろう。どうやらいつもと同じようなことを述べているらしく、それがどうしたわけでもないのに、何となく気に入らないような気がするのだが、そういうことが何でもないのだろう。何を語っているのでもないのはいつものことだ。たぶんそこで何かにはまっているのだろう。そして何かをやめそうになる。そして今はテレビでも見ているのか。

 だからもうやめた方がマシなのか。目の前に言葉が散らばっている。きっと気のせいだ。何かの幻影に見とれている。それが言葉ではない。では今記しているのは何なのか。誰かはそれが文章だと思っている。そして音楽を聴いているはずだ。ただそれだけのことなのだ。人として当然のことをやっている。そういう話なのだからそういうことだ。何か途中から何かをねじ曲げているようだが、そんなことは気にしない。今はそれとは違う成り行きの中にその身をおいているはずだ。信じられるだろうか。この世界で何かが起こっているようで、それが出来事だと思われる。それも何でもないことの一部を形成しているようだ。それでもまだ何かに間に合うだろうか。文章になりつつある。無意識がそうさせるようだ。きっと何とかしようとしているのだ。そんな努力の賜物が空疎な文章として記され、誰かを落胆させる。それでかまわないのだろう。意図的に言わんとしていることから外れているらしい。気に入らないからそうなってしまうが、君はこの世の何が気に入らないのか。すべてが気に入らないとしか答えようのない問いかけに思われる。また馬鹿げた幻想を抱いているのだろう。そんなふうに思われてしまう状況が煩わしい。何とかそれを変えられないものか。誰にその資格があるのか。そういうことではなく、誰がそれを変えようとしているのか。


9月28日

 他の誰かによれば人の人生は何でもないそうだ。そう述べて何を挑発しているのではなく、本当にそうなのだ。君は神ではない。誰もがそうだ。誰かの本心など知れたことでしかないが、そんなことは誰もが知っている。知っているからくだらないのではない。何でもないのだろう。勝手に大げさなことを思っていても、やはり何でもない。どのような心境に達しようと、やがて忘れ去る。誰もが成功を夢見て失敗を積み重ねている。そういう成り行きの中で生きているのだ。失敗するのが嫌なのに、それを恐れずに失敗を繰り返す。どこかへ至りたいのだろう。至った先でまだ成功を夢見ている。要するに幻想ばかりなのだ。まだ幻想が足りないのか。思うところは違っているのかもしれない。間違った願望が楽しげに脳裏をかすめる。何を思っているのでもなく、確かに何かを思っていると思い込み、そこからさらなる過ちが待ち受けているようだ。だからやる気になって、その先に進んでしまうらしい。今さらやめる気などさらさらないらしい。冗談からそんな言葉が生じていようと、それで正解なのだろう。間違っているとしてもそうなのだ。その際論理的な正しさなど何の価値もないことか。だから君がそれに対してどんな反論を用意していようと、何がどうなるわけでもなく、それらの成り行きがどう変わるわけでもない。

 君は何も見出せない。世界の前では誰もが無力だ。個人の力ではどうしようもないことによってこの世は覆われている。ならば誰かは何をしようとしているのか。こうすればこうなるというマニュアルでも作成するつもりなのか。浅はかな試みだが、そういうものにすがりつく者たちを一時的に欺くことはできる。たぶんメディアはそういう役割を担っているのだ。絶えず何らかの処方箋を提供したがっているのか。そのためにそれに携わる多くの人々が考えているわけだ。何か良い方法がないものか模索している。そんなことの積み重なりがそんな成り行きを招いているわけだ。これからもそれは変わらないだろう。様々な努力はそういうことに費やされ、絶えず何らかの成果を追い求めているのだろう。そしてそういう欲求が満足することは決してなく、次から次へと新たな試みが新たな成果を求めて試される。ひとたびそれに成功すればひとやま当てて多額の利益を得られるはずか。それを当て込んでやれば楽しいだろうか。誰もがそんな幻想を抱いているのかもしれない。しかし同じ夢を抱けばそこに向かって熾烈な競争が起こり、毎度お馴染みの物語が生じることとなり、何となくそれに接した人々に感動でも呼び起こすのだろう。そんな予定調和は嫌いか。

 誰かはまたいつもの冗談を述べてしまいそうになっているのかもしれない。それがどうしたのか。やはりどうしようもなくどうもしないか。誰もがやりたいことをやっているわけではなく、やれない人たちには鬱屈した思いがあるはずだ。そこからねたましく思われるような感情が生じて、世の中の歪みを呼び起こし、犯罪などの負の側面が現れるのだろうか。しかし人にはなぜやりたいことが生じて、それがやれる人とやりたくてもできない人に分かれ、さらにやってうまくいく人とうまくいかない人に分かれるのか。それは単なる才能の違いであり、その時の偶然が、成功か失敗か、両者をどちらかに選別してしまうのだろうか。当初はどちらにもやりたいことをやって、それがうまくいく可能性があったはずか。可能性など後から後悔とともに想定される幻想に過ぎず、ただそういう成り行きを認められない者が抱くたわごとかもしれない。君はそれについてどう思っているのだろうか。たぶんこうすればこうなるなんて端から信じていないのかもしれない。結果などどうであってもかまわない。納得するつもりなどさらさらなく、どんな結果についても否定的な見解を述べてそれで済ましてしまうのだろう。


9月27日

 事情がわからないわけではない。たぶん誰もがそれに従って生きているのだろう。しかしインスピレーションとは何なのだろう。何かに触発されて何かをやっているわけか。だが今のところは何がひらめいているわけでもない。ならば何もできはしないか。こうして言葉を記しているではないか。内容が空疎だ。それはいつものことであり、この期に及んでないものねだりはしない方がいい。それでもけっこう虚無的な言葉の連なりを気に入っているはずだ。そんなふうに語りながら、世間の何かに反発しているのかもしれない。だが幼稚な反抗期ではないはずだ。そんなわけでやはり何かを見失っている、それもいつものことだ。切羽詰まらないとまともな主張には至らないらしい。君はいつでもふざけているようだ。そんなとらえ方では気に入らないか。それらの無駄話の中に誰かの本音が隠されていたりするのだろうか。この世界はどこまでも退屈だ。物語的にはそうだ。そうでなくとも手持ち無沙汰か。そういうことが言わんとする内容ではないはずだ。何かの代わりにそんなことが述べられる。君はいつもそういう領域から抜け出られない。だから今日も空疎な内容のままだろう。それが神が与えた予言の言葉だと思うか。唐突に意味不明なのも苦し紛れの策なのか。いったい君は何を求めているのだろうか。すべては語りようのない虚無から生じていることだ。そしてそんな嘘をついても冗談にもならない状況だ。

 何がそうなのではない。何でもないからそうなのか。嘘ではないのだろう。虚無的に振る舞うのは苦痛なのか。ようするに無理をしているということか。誰かならそこから抜け出すことができる。しかし君が抜け出してどうするのか。その中に留まる理由がどこにあるというのか。どこなのではない。ではまともに語るには虚無の他に何が必要なのか。虚無は不要だ。言葉のすべてが虚無的だとは思えないか。それがすべてでないことは誰もが承知しているはずだ。ならば何を語らなければいけないのか。君にわかるようなことではない。だが誰にも理解しようのない言葉の連なりが記されているとは思えない。たぶん誰かはその中で思考しているのだろう。何かを考えているのだ。ならば具体的にそれは何なのか。やはり君には理解不能なことを考えているのか。作り話的にはそうであって欲しいところか。そう願う意味がわからない。誰もそんなことを願っているわけではなく、その場の気分でそんなことを述べているだけだろう。堕落しているのだ。ひたすらくだらない。誰かの神経が耐えられないほどくだらない。また嘘をついているようだ。いつものように本気ではない。遊び半分というわけでもないが、何となく語っているそれは何らかの状況を示しているはずだ。だからいくら正気を保っていようと、何かがおかしいのだ。

 そして途方に暮れたふりをしながら、わけのわからないことの続きがそこでまかり通る。わざと意味不明を装うつもりらしい。どこまでもおろかなことを述べている。だが気を病んでいるわけではない。そう思いたいのだろう。電車の中は蒸し暑い。この中途半端な季節はひたすらそうなのだ。そんなわけで不快感を露にしている。何かをどうにかするためにはそれも必要なことか。どうにもできないからそんなふうに思っているのかもしれない。いったいこの世界はどこへ向かっているのだ。誰が疑念を抱いているわけでもない。世界の有様は当たり前のように思えるだけのようだ。誰もがくだらぬこだわりにとらわれていて、それをめぐって紛争が起きる。それは宗派や宗教の違いであったり、経済的な格差であったり、その時の気分であったりする。思い通りにいかないと不快なのだ。しかし君は何を許しているのか。妥協を許さないわけにはいかないはずか。物語的は壮絶な人生を歩めば世間の関心を集められるのだろうが、それで何になるのだろう。そういう物語を見聞しておもしろがりたいのか。だがおもしろがっているのだろうか。中には感動の涙を流している者もいそうだが、君はそこで何かが違うと思う。登場人物が本気であればあるほど笑ってしまう。君はそこで何かを馬鹿にしているのだろうが、そこからどのような皮肉が導き出されるのか。誰かの想像にまかせよう。


9月26日

 何となくこれでできそうだ。どこで何かと何かがせめぎあっているのだろう。それがおかしいとは思わない。何を語っているのでもないことは楽しい。そこで何かが開き直っているようだ。画面上で生じている不具合など知ったことではないが、そこで何かがおかしくなっているのか。誰でもないからおかしいのだろうか。何とも思っていないのにおかしいはないか。もっとも何に興味があるわけではなく、何がおかしいのかもわからず、それを探るつもりもない。では何を語ろうとしているのか。何も語れないから、頭の中で何かと虚無とのせめぎあいが起きているのか。しかし意味がわからない。おそらく何をわからせるつもりもないだろう。そんなわけできみには何もわからず、わからないままでもかまわないのだろう。だいいち何を語っているわけでもないはずで、それについて何を気にしているわけでもない。すべての成り行きはそんなふうに推移してしまい、誰もその流れを止められない。ならば今さらそれについてわかったふうなことを述べても遅すぎるか。それでも君は何かを語っているつもりになりたいのだ。無理を承知でそんなふうに思っている。それが滑稽な成り行きを呈している原因になっているのかもしれない。

 しかし何が虚無なのか。実質的には何も語っていないから虚無なのか。だからそれらは物語ではない。そういうことではないということか。それの何がわからないのか。それらの全体像が見えてこないようだ。そして何も語れなくなり、それが事実であることを突きつけられ、さらに心が動揺する。なぜそうなってしまうのか。理由も原因もわからず、そんな嘘をつきながら、さらに言葉を連ねようとしているようだが、一向にそれが何だかわからない。この期に及んで君に何ができるというのか。執拗に言葉を連ねているのは誰なのか。誰かがひたすら無駄なことを記しているはずだ。たぶん何かと何かが臨戦態勢に入っているのだろう。それが意味不明の正体か。冗談に決まっている。誰もそんなことまで気遣っていない。ではただ言葉が並んでいればそれで満足なのか。その中で何かを適当に述べている必要がありそうだ。だがその内容が空疎なのではないか。実質的に何も述べていないような気がする。何らかの情報に接していないと、述べるべきことなどそうそう見つかるはずがない。ところで少し画面が歪んでいないか。それの何がごまかしの類になるのだろう。唐突に意味不明でくだらない。

 君はそれでもその先で何かを述べているつもりになりたいのだ。述べているつもりの内容が空疎でくだらなくてもかまわない。だがそういう決めつけはよくないのではないか。何についてそう思っているのだろう。君は誰かの多重人格について鬱陶しいと思っているわけか。それは偽りの鬱陶しさに違いなく、何でもないのに何かがあるように見せかけたいのだろうが、やはりいつものようにわけがわからない。わかろうとしていないのではないか。その辺が理解する気になれないのかもしれず、どうでもいいことを述べている現状をそのままにしておきたいのだろう。しかしそれらの現状は何なのだろうか。何の言葉も当てはまらないような状況なのか。何も思いつかない原因がその辺にあるのかもしれないが、そのままでもかまわないような気もしてくる。現に何やらそれに応じた言葉が記されているではないか。空疎な心境がそのままそれらの文章に反映されているのではないか。それが馬鹿げているのだろうか。たぶんそういうことなのだ。気に入らないからそれらの文章が馬鹿げていると思い込みたいのか。仮にそうだとして、どうしたらそういう状況を変えられるのか。それがわからないから気に入らないのだろうか。やはり馬鹿げているようだ。


9月25日

 今日もまた明日になる。そして明日は明後日になるのだろう。なぜそうなってしまうのかわからないが、それの何がくだらないのだろうか。無理なのだ。無理でなければやるしかないが、何も思いつかない。たぶん無理なのだろう。理解できない。しかし何を否定しているのか。そういうのは飽きている。くだらないことを述べているのかもしれない。だがそれもいつものことだ。いつもの繰り返しには飽きているようだが、言葉を記していくとそうなってしまう。そして誰かはいつものように行き詰まっている。誰かとは誰なのか。それが愚問なのだ。わかりきっていることを問わないでほしいか。今さらそれはないだろうか。だが君にはそれがわからない。わかりきっていることがわからないらしく、近頃は何かの応酬に巻き込まれているようだ。感覚が少しねじれている。何かの感情が何かの邪魔をしているようだ。それで考えがまとまらないのか。それでやはり何となくが多過ぎるのだろうが、ここでも何となくそんな感じがしているようだ。またいつものように無駄で無意味な内容が記されているのだろう。

 君は君の暮らしを無視して何かを行おうとする。君とは誰だろう。またいつもの愚問か。それにしても何か気になっていることでもあるのだろうか。そういう成り行きが繰り返されていて、まともなことを何も述べられなくなり、たわいないことに全知全霊を注ぎ込み、そのくだらぬ行為を何らかの高みに近づけようとしているわけか。その何らかとは何なのか。それがわかればもっとまともな言説になるだろう。たぶん君はそこで何かに挫折しているのだ。軟弱な音楽を聴いている。英語と日本語がチャンポンに入っている。それがどうかしたのか。くだらないと思うだけだろうか。何がそうだとは思うまい。今もそう思っているのではないか。そうだとしたら矛盾していないか。意味のわからない話だ。誰も何も語らず、記された言葉は誰のものでもない。完全に気が抜けているようだ。そういうわけで今日は蛇足の連続で実体がない。そして何がそうなのでもなさそうだ。ふと見ると、画面には二十七人の顔が映し出されている。

 関係ないだろう。何がどうなってもそうなってしまいそうだ。何も関係を見いだせない。何がそうなのだろうか。何もそうではないような気もするが、そんなのはどうでもいいことだ。またくだらないと思っている。大したことはない。気が抜けているなら気が抜けたままでもかまわない。本当に気が抜けているのではないか。現に何も考えられなくなっているようだ。それで何がかまわないのだろうか。ところで神に関する話はあれからどうなったのか。資本主義が宗教だとか何とか述べていたはずだ。思い出せない。ただ面倒くさいだけだろうが、本気になれないのはいつかの気分だったはずだ。今では誰も気にも留めない言葉だが、誰かにしてはそれが最後の台詞だったのか。まだ可能性があるかもしれない。それがどうなる可能性なのか。何も可能性がなくてもどうにかなるだろう。何をどうにかしたいわけではなく、どうにもできないからどうしようもないのではないか。そして述べているのはそんなことばかりだ。だが負け惜しみは言わない。何に勝とうとしていたわけでもないし、実際に負けたわけでもなく、それらのゲームに参加していないだけだ。そして相変わらず馬耳東風を堅持しているようだ。何に出会っても無視している。それは誰でもないのだから、無視してもかまわないか。そういう事なかれ主義では何も思いつかないだろう。そこで何かが起こっているにも関わらず、至って平穏無事を装っているらしい。その態度が意味不明なのか。


9月24日

 なぜか暑い。また今日も晴れている。しかしもう夜だろう。翌日の夜だ。この期に及んで何をどうしたいわけでもないが、やはり何とかしたいのだろう。結局はそういうことなのだ。何も思いつかないからといって、別に機嫌が悪いわけでもないか。本当に何も思いつけないが、とりあえず神は偉大なりだ。冗談をそんな述べているようだ。苦し紛れなのか。何が苦し紛れなのか。すべてがそうなのだ。ならばこの世の何が神なのか。それは愚問に違いない。金に困っている人ならいくらでもいるのだろう。だがそれと神との間にどんな関係があるのか。金は神の回りくどい表現形態か。金と神は同一ではないが、世にはびこる宗教の最も成功した例が資本主義か。安直に金が神だなんて思わないだろうが、資本主義を礼賛している人々は、そこで何を信じているのだろう。人はまとまった金が入ることを前提として将来の夢を抱く。それがローンだろうが自己資金だろうが、それで家だの車だの欲しいものを手に入れる。だからどうしたのだろう。それの何が宗教なのか。結論を急ぎ過ぎか。どうやら君には冗談が通じないらしい。もとからそのつもりか。

 とりあえず人々は金を使って何かを手に入れる。その場合の目的とは何だろう。金を使うことが目的であったり、何かを手に入れることが目的であったり、その何かを使うことが目的であったりするのだろうが、できれば価値のあるものを手にしたいはずだ。それは時と場合によって違うか。手持ちの金を無駄に減らしたくなければ安いもので我慢するだろうが、安く買える商品は値段が安いことに価値がある。値段が高いから価値があるという一般的な概念がすべての商品に当てはまるわけではない。それを手に入れようとする人にとって都合のいい値段なら価値があるのだろう。商人なら安く買って高く売るのが鉄則だろう。普通は誰にとってもそうだ。売ることによってより多くの金を得たいのであって、売れる商品は都合のいい値段で売れることで価値を持つ。しかし価値とは何だろう。最終的には金こそが価値を持つ。ものを買ったり売ったりできるから価値を持つ。だからどうしたというのか。そういう論理が冗談なのか。

 ところでさっきまで何の話をしていたのか。たぶん苦し紛れの結論としては、何が神であるわけでもなく、すべてが神であったりするのだろう。要するにでたらめなのだ。そしてここに至って神の話も宗教の話もしていないような気がする。しているのは金と商品の話だけか。それらの何が神や宗教の話に結びつくのか。わからないが勘違いのたぐいなのかもしれず、そこで挫折してしまうらしい。まったく何を信じていいのかわからない。物語的に語るなら、信じられるのは金だけだ。それはお約束の紋切り型だ。冗談の続きはまだありそうだが、拝金主義者はおもしろい。マネーゲームは世界を破滅に導くか。それも安易な言葉だ。そんなことをいくら述べても何にもならないだろう。それにしても言葉は言葉で、記していることを読むことはできる。それがおもしろいとは限らないが、内容がつまらなくても読むことはできる。だが君にはそれがわからない。なぜそんなことを述べるのだろう。それはただの付け足しに過ぎないのではないか。実際に言葉がそこへ付け足される。しかし宗教とは何なのか。資本主義は相対的なものであり、絶対的なものへの信仰ではない。金儲けによって安心や幸福を求めるのはきわめて自然な成り行きだ。その当たり前の行為を否定的に見なすことはできない。それが行き過ぎたやり方であれば規制の対象となるのだろうが、なぜ誰かはそれ自体を宗教だと断じて批判したいのか。


9月23日

 ひらめきとは何だろう。君は何について考えているのか。書物とは何か。何かの幻影か。さっきまで何かを読んでいたらしいが、それらの言葉の並びは憂鬱な気分を呼び込んでいる。何かを語っているようでいて、注意深く読んでみると、何も語っていないようにも感じられるが、たぶんそれでも何かを説明しているのだろう。誰かにはそれがわからないわけではない。ただ正直になれないだけか。もしかしたらそれも違うかもしれない。そこに記されたすべての文章を、理由もなく意味不明に持っていきたいだけなのかもしれない。しかし作り話でしかないだろう。近頃は何を語ってもそうだ。それ自体がフィクションなのではないか。実際には何も読んでいない。しかしそんな嘘をついてどうするのだろう。やはり目的が見当たらず、そんなどうしようもない状況下で何かを考えているだけか。だがそれでも何かについて語っている。確かにそれがそこでの事実だが、たわいないことでしかない。

 それらのたわいない何かから抜け出るためには、何かの習性を利用しなければならないようだ。また何かのでまかせを述べている。だから何だというわけではないが、架空の荒野ではすべてが灰色に見える。それも作り話の続きに違いなく、いつまでたっても意識は現実の視点からものを見られず、常に言葉が先行して、そこに必ず迷い道を形成してしまう。考えすぎているのだろうか。しかし何を考えているのか。理想と現実は異なり、現実を理想に近づけるための努力を怠っているらしく、それを無駄な努力だと思っている。だがそれで何がおもしろいのだろうか。すでに疲れきっているような気がする。この世がすべて不毛の荒野であるわけではない。ふと見上げた青空の中にどんな希望があるとも思えないが、そこで技巧を凝らす必然性は感じられず、ただ淡々と空疎なことを語るだけか。何を語る必要もないのだろう。現時点ではそうだ。そのうち心の病も癒えてくるだろう。本当にそんなふうにな事態に陥っているとは思えないのだが、その手のフィクションでは病がつきものだ。しかし何がそんなにおかしいのだろう。

 どうしても話の中に意識を入り込ますことができない。至って無関心を装うだけか。それに関しては無理解と無関心を貫くことが最大の防御なのだろうか。しかし何から己自身を守り抜こうとしているのか。勘違いのすべてがそこにつまっていると思えるのだろうか。ところで虚無とは何か。君自身が虚無そのものか。気楽に振る舞っているつもりで、細心の注意を怠らず、いついかなるときでも速やかに脱出する機会を捉えようとしている。しかしなぜそこから逃げなければならないのだろうか。どうやら君のでる幕ではないらしい。誰かにまかせきりにしておいて、行き詰まったときだけ助言でもするつもりなのか。それこそがご都合主義の最たるものか。何についてそう思っているのだろう。誰かのフィクションならとっくに飽きられて、どこかに破棄されてしまったのではないか。だがたとえ廃棄物であったとしても、何からかの利用価値を見いだしていかなければならない。この世のすべてには使用価値が宿っているはずか。それは傲慢な認識に違いない。人は何かを何かのために役立てたい。たとえそこからもたらされるものが利益でないとしても、何かを導きだすことが目的となっているのだ。そのための行動が生きている証しとなるわけだ。くだらぬことかもしれないが、そういう目的意識が絶えず試されている。要するにそれは何かの単純化作用から生じた意識だろうか。明確な目的があればそれで済んでしまうような何かに誰かの意識は絶えず振り回され、そうでなければ困るような雰囲気を振り払うことができないらしい。


9月22日

 どこかで苦戦が続いているようだ。しかし何を戦わせる必要があるのか。戦う相手を間違えているのだろうか。どうでもいいが、そこから話が進展することはないだろう。君には過ぎた願いだ。だが何がそうなのか説明できない。相変わらず主張が曖昧だ。この世界の中で何がどうなってほしいのか。人々は今でも普通に生きている。どこでも普通に暮らしていてはまずいのだろうか。何か興味深い現象をとらえられないものか。君に期待しているわけではない。繰り出された言葉は何かを物語り、誰かの心を揺り動かし、行動に駆り立てる。そこに夢でもあるのだろう。くだらぬ夢に振り回され、他の何かにもてあそばれ、そんなフィクションを語ろうとしているらしい。だが誰もそんなことには気づかない。気づくのが面倒くさいのか。何かにいちいち感動していては身が持たないか。それはつまらぬ何かだろう。出来事に遭遇しないうちにそれはないだろう。しかし感動すべき出来事が何なのかわからず、何に対しても無関心でいてもかまわないと思い込み、その場に立ち尽くしながら朽ち果てる。それは枯れ木か何かか。もはや人でない。人でなければ何でもないだろう。だからそれらの現象がつまらなく思えてくるのか。どんな疑念を抱いているわけでもなく、何を惑わそうとしているのでもないらしく、ただそこに存在しているだけのようだ。

 謎掛けはもう終わったのだろうか。アニメの探偵はテレビ画面上で何を解いているのだろう。謎解きはお手の物だが、それは脚本通りの解き方しかできないのではないか。それとは何か。もはや探偵でさえない。話の内容は別の時空にありそうだ。取り立てて何を思い出しているわけでもない。君はもう消え去っていて、それは何かの幻影だったのかもしれない。今ではそう思っているようだ。いつもの音楽を聴きながら、何かを取り戻そうとするが、疑念が消えることはない。なぜそんなふうに語らなければならないのか。誰かは疲れているのだ。そしてそれをいいわけにしながら言葉を記し続け、それらの無内容から離れられずにいる。きっとどこかに不具合が生じているのだろう。だがそれを探し出して修正を施すわけでもなく、それどころかひたすら過ちを繰り返し、それがそれでないような話に持っていこうとしているらしいが、果たして成功するだろうか。失敗してもかまわないのではないか。成功しようと失敗しようと、その結果がどうこう言われるわけでもなく、ただそんな事実が言葉で記されるだけだ。

 そんなわけで夢の続きは何をもたらしているわけでもなく、誰の睡眠を長引かせているわけでもないが、たぶん目覚めたらいつもの朝になっているのだろう。何の変哲もない日常の一コマに誰かの死が差し挟まれ、そんなニュースを見ているうちに、どうでもいいような気分となる。それでも君にはまだ希望があるようだ。未来に対する展望があるのかもしれず、それが目標となって、それに向かって努力している最中のようだが、そんな成り行きはありふれていないか。別にかまわないだろう。どうでもいいことだが、それでも何かしら結果に出会えればそれでかまわないのではないか。それで何がどうなるわけでもないだろうが、それで何かを成し遂げた気分でいられるはずだ。そういう思い込みが生きる糧となって、人を寿命まで生きながらえさせるのか。それも楽しいことだ。そこにありふれた物語が付随していて、それに接した人々を感動させる。何と当たり前の成り行きなのか。もはやどんな皮肉も通用しない。だが君はそれでかまわないのだろうか。他人の運命をどうしたいわけでもないようで、それはそれで結構なことなのだろう。


9月21日

 誰が何を考えているのかわからないが、それでも何か考えているようだ。それは無意識のなせる業か。君はその件についてはどう思っているのか。無人の荒野で誰に問いかけているわけでもない。誰もいないのだから誰が問いかけているわけでもない。それはただの自問自答か。いつものことだろう。興味があるのはそんなことではない。だが言葉を記している内容はそんなことだ。だから君には何も見えていないのか。そう思ってもらって結構だが、他に何を思えばいいのか。誰がそうなのだろう。今までに何について語っていたのか。この世界はとりとめがない。そう思えるのはなぜだろう。誰がその理由を探っているとは思えない。何をさがしているのでもない。では何を否定しているのか。問いかけている相手と内容を間違えている。それが冗談のすべてだ。しかしそんな嘘をついて何がおもしろいのか。おもしろいから嘘をついているとは思えない。たぶん何でもないのだろう。そして何かが振り出しに戻ってくる。そんなわけで誰かはもう疲れているはずだ。

 そして言葉が意味を担っている。普通はそうだろう。普通でなければ気が狂っているのか。そこまで極端な成り行きではない。電車の中で子供がはしゃぎ回り、休日のありふれた光景に意識が溶け込む。それでも言葉はあらぬ方向へと歩みだそうとしているらしいが、それを誰が阻止しようとしているのか。何が行く手を阻んでいるわけでもないだろう。少なくとも現時点ではそうだ。ちまたでは馬鹿げたことの繰り返しか。そう思える根拠を示してもらいたいか。相変わらず誰に尋ねているのか不明だが、そういう語り方なのだから仕方なく、何かの結論はいつまでもどこかの時点へと持ち越され、何が何だかわからないふりをしているだけで、本当に自意識が何を考えているのかわからないようだ。それも誰かが構成しつつあるフィクションの一部だろうか。だからどうだと言うのか。返す言葉が何もない状況から言葉を記す。あり得ないことだ。

 それでもそういうことを前提として何かを語っている。何もないことが楽しいようだ。それが現実なのだろうか。まぎれもない現実であったとして、それで一応はやるだけのことをやっているつもりになれるのか。尋ねている対象に答えを持ち合わせている気配は皆無だ。ではそれで何が馬鹿げているのだろう。少なくとも君が答えるようなことではなさそうだ。それがどんなわけだかわからないが、そうやって無駄に言葉を費やしながら、物語から離れていってしまうらしいが、それが何の物語なのかもわからないまま、さらに言葉を連ねている。

 君には現状を変えられない。君の存在そのものが現状の一部なのだ。では君はそこから消え去るべきなのか。そういう結論には至らず、わざとらしくそういう現状を維持することで、それらの文章は成り立っているのだろう。だから君にはそれをどうすることもできない。だから黙ってそれらの光景を眺めているわけか。しかし本当は何もできないわけではなく、言葉を組み合わせて何かを主張することができるのではないか。そうだとしたら何を主張したらいいのだろう。すでに何かを主張しているのではないか。ならばそれを誰かは読み取らなければならないのか。君はこの世界に対して何かを要求しているはずだ。過去の君ならそうだったはずだ。それを今さら思い出せというのか。いったい誰が思い出してほしいと願っているのか。君は神ではない。誰も神ではない。それがどうしたのだろう。またいつもの冗談を述べているつもりなのか。


9月20日

 それでどうしたのだろう。どうもしないからそうなってしまったのか。ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つそうだ。あれやこれや考え続けていないと、まともなひらめにはたどり着けないか。そういう意味ではないような気がもするが、とにかく考えなければならない。人はどこまでも保守主義で、いつの時代でも総論賛成で各論反対なのだ。矛盾しているがそういうご都合主義が骨の髄まで染み付いている。まあ高速道路の無料化反対だとかダム建設の中止反対だとか、いろいろあるのだろうが、それが選挙公約なのだからやってもらうしかないか。選挙で地元の自民党の候補者に投票して当選させ、ダム建設の中止に反対している地元の住民は、地元の意向を無視して、それが民主主義か、と憤っているようだが、まあ制度的にはそれが民主主義なのだろう。笑ってしまうがそういうことだ。このまま建設するより中止した方がかえって費用がかかるらしいが、仮にそうなったとしても、その代わりにそれなりの地域振興をやるしかないだろう。例えば今流行りのの低炭素社会実現のモデル地域に指定したりして、ソーラーパネルや燃料電池や風力発電の設備やらを投入して、ダム湖に沈むはずだった温泉街をそれに合わせて改装したり、周辺の道路整備をして交通の便を良くしたり、まあそんなところでお茶を濁すぐらいが関の山だろうが、それでも地元の住民は納得しないで反対し続けるのかもしれない。人とはそういうものだ。絶対に許さないだろう。人はいつでも悲惨な境遇の中で感情的に復讐心や嫉妬心を増幅させ、それがたまりにたまった時に爆発させたりして、いついかなるときでも決して自らの正義を曲げるわけにはいかないのだろう。テロリズムとはそういうものか。まあイラクやアフガニスタンではないのだから、そこまではやらないだろうが、だいたいそんなところまで感情が激高するのはあり得ないことか。

 君は冗談でそんなことを述べているのか。それを受け取る人によっては冗談では済まないのかもしれない。しかしそれでも冗談には違いない。何と何を結びつけようとしているのか定かでないが、誰かは相変わらず荒唐無稽なことを述べている。君はそこで何を語りたいのか。それがわからないから頭がおかしくなってしまったのか。それほど気を病んでいるとも思えない。何をどう述べても、何も理由になっていない。無駄で無意味なことを述べているのだ。悪く言えば、人は誰でもそうなってしまうのだ。


9月19日

 なぜかいつになっても言葉を記せなくなってきた。今はいつなのか。いつでもかまわない。言葉を記しているのが誰でもない誰かであるわけがないだろう。フィクションならそれも許されるはずか。しかし現状は作り話にもなっていないような言葉の並びだ。たぶん語りたいことなど何もありはしないのだろう。それでも誰かは言葉を記している。このまま遅れていってしまうとしても、それでもまだ執拗に言葉を記しているのだろう。無理であることはわかっているのではないか。何に追いつこうとしているのかわからない。君はそこから離れているのだ。無駄な言葉とともにひたすら離れているのであり、それによってどんな状況を招いているとも感じられず、つまらぬ意地を張っているだけのような気がしてくる。それで何を述べていることになるのだろうか。少なくとも言葉を記している。だからそれでは何を述べていることにもならないのではないか。たぶんそれでかまわないのだ。それはおもしろいことではない。だからそれでかまわない。そんなやり方がそこでの実態を示している。君は相変わらず誰かの影なのだ。そして唐突に意味不明なのだ。

 何が唐突なのか。君には関係のないことではなかったのか。誰にとってもそうだったはずだ。誰が何を語ろうと無視される世界に暮らしている。それはひがみ根性というやつだ。君には何を語っているのかわからないようだが、どこかではさらなる意味不明を招いているらしい。解決の糸口が見つからないらしい。君に何が託されているわけでもなく、語りたいことを語らずにいるのがそこでの語りらしい。いったいこの世に何があるというのか。記された言葉の連なりがある。誰かはそれを記しつつ読んでいるのではないか。何かを避けようとしている。たぶん何かがどうにかなってほしいのだろう。君がそれを求めているのだ。自由とはいかなる状況でも孤独を捨てないことだ。それがここでの決め台詞なのか。誰が何を決めているというのか。くだらない成り行きにあきれて物も言えないか。君はそう思っていれば事足りるだろう。現に君以外の誰も言葉を発していないはずだ。しかしそれがどうしたのだろう。何を逃げているのか。何もうろたえることはない。何を信じたらいいのかわからなくなり、思い悩む必要もない状況をやり過ごし、何となく窮地に陥ったつもりになるが、本当のところは何なのか。何がチャンスなのだろう。それがわかっていても何も感じていないふうを装い、心の動揺などとうに忘れてしまったらしい。

 印刷された風景はこぎれいにまとまっている。何が誰かの才能を感じているわけでもなく、何を見過ごしているのかを忘れているはずもない。きれいさっぱり何かを洗い流してしまったのか。何の洗濯でもないだろう。四面楚歌とはどういうことだろう。項羽の気持ちになって考えてみないことにはわからないか。項羽ほど愚かでないにしても、自らの力を過信するほどの器ではないのかもしれない。静かな音楽だ。誰がそれを聴いているのか。何かに響いているようで、ひねりを利かせたいような気にもなり、どうでもいいわけではなく、何となくそこから遠ざかるわけにもいかなくなりそうで、文章の意味不明に拍車がかかりそうだ。何でもないことは何でもないままにしておきたい。たぶん他人の身になって考えてみないと、大きな勘違いを伴うような成り行きになってしまうだろう。見かけ倒しでは物足りないか。当初はそれだけではなかったような気がするのだが、いつの間にか化けの皮がはがされ、みすぼらしい素顔と底の浅い行動が周知の事実となり、馬鹿にされる対象となってしまったのだろうか。


9月18日

 近頃の誰かは何も考えていないようだ。何がどうしてそうなったのだろうか。相変わらず理由が見当たらないようだが、少なくとも何かは何かの影響を受けている。この場合の何かとは何かのことだ。何でもないわけでもないが、いつまでたっても何かは何かでしかなく、そこに具体的な事物が示されることはない。それは以前にも述べたことではないか。だからそういうことであり、他に何がどうなっているわけでもない。それではいつもの言葉の並びと変わらないだろう。誰かは何を考えているのか。何も考えていない。なぜかそういうことになっていて、いつものごまかしに違いない。それで何を悪びれているのでもなく、真実がどこにあるのでもなく、それが文章の中に記されているのでもない。君は何かを考えるべきなのだ。何もないでは済まされないか。気持ちがそこで停滞している。何も語れないからそうなってしまうのか。現実から逃げているのかもしれない。だがそれはいつものことであり、それでもいつもの言葉でそれを記している。

 結局はそういうことだ。夜は夜で何も思いつかず、朝は朝で同じような成り行きなのだろう。何かが何かでしかなく、その何かを示せない状況が続いている。窓の外は明るい。空は晴れているようだ。遠くに見える岩山は、ただそこにある。風や雨水による浸食作用にさらされている。鳥が鳴き、人に何を訴えかけているのでもないが、そこからひらめきや霊感がもたらされるような期待を抱かせるが、誰かはわらにもすがりたいのか。そう述べると冗談の続きのような気がしてくる。ところで今日の天気はどうなってしまうのだろうか。意味がない。意味があるべきではないのかもしれない。そう述べていること自体が意味不明で脈絡がないか。誰かはそれらの文章をどうしたいのか。どのような展開に持っていこうとしているのか。たぶんそれは無駄な問いだろう。話のつじつま合わせにもなってない。何かがおかしい。だがそんなことはわかりきったことだろう。

 このままでは何かがなかったことになりそうだ。しかしはっきりしない。何を恐れているわけでもなく、空は晴れているのに気分は憂鬱か。意味がわからず、そんな気分がどんな物語につながるわけでもない。だがそういう決めつけは可能性の幅を縮めてしまう。いいのではないか。それがどうしたのだろう。いつかは決着がつくはずだ。ただしそれが何の決着なのかわからない。決着がつけば君はどうなってしまうのだろう。それもはっきりしない。ただ闇雲に言葉を費やして無理に文章を構成しているだけではないか。それもわからない。何についてそう思っているのだろうか。さらにわからなくなってしまうだろうか。やはりおかしい。それらのすべてにおいて興味がない。だから何をどう語ろうとしているわけでもない。何がどこに刻まれているわけでもなく、過去のどんな記憶が記されているわけでもない。

 しかし冗談の次にはどんな言葉がくるのか。ネタ切れの感は否めない。そんなことを感じているうちに、またひたすら遅れていってしまうか、何も語らないうちに終わってしまうか。既に終わっているのにそれはないだろうか。だが物語は一向に始まらない。始めようとしていないのだろう。何も語れないので始める気がないのだ。語るきっかけがつかめない。そして冗談でそんなことを述べていると思われる。誰にとってそう思われるのでもなく、何となくそれを否定したいだけなのだろう。しかしそれのどこまでが本音なのか。他に何が含まれているわけでもない。何を語ろうとも思わず、それで何を記しているとも思わない。ただの言葉が連なっているだけだ。


9月17日

 それらの何が冗談なのか。何に出会っているのでもないが、またどこかに意識が舞い戻ってきた。たぶんここはどこでもない。どんな場所でもないのに、こんな場所でリアリティを取り戻すのは無理に決まっている。わざと矛盾したことを述べているのか。何を決めつけているのか定かでないが、それでも何とかして、もういい加減に虚無的な文章とはおさらばしたいか。君の思い通りにはいかないだろう。誰がそう思っているのか。まだ何かの途上なのだ。何かを取り戻さなければならない。しかし何かとは何なのか。わかっているのはいつもの自問自答が続いていることだけだ。馬鹿げているだろうか。予定調和の展開か。それも冗談の続きなのだろうか。問うことばかりではつまらないか。そういうやり方が問われているのか。誰が問うているのだろう。やはり何かが舞い戻ってきたらしい。何でもないからそうなってしまい、それがどういうわけでもなく、誰かは途方に暮れている。やる気のない気配とはそういうものだろう。

 そこで何を感じているとも思えない。君はそれを認めているのか。急な下り坂を転げ落ちる。そこから連想されるイメージはそんなところだ。嘘だろう。嘘でなければ何なのか。また悪あがきの連続になりそうだ。それが宿命なのではないか。近頃の誰かは何を思っているのだろうか。どこか得体の知れぬところへ迷い込んでしまったらしい。今や誰かは行方知れずだ。そんなことを述べている場合ではないだろう。金輪際がどうかしたのか。場所はそこではない。どこにも存在しない場所ではない。いつも決まって何かがどこかになってしまう。何も思いつかないからそうなってしまうのか。君にわかるようなことではないだろう。しかしまだその後に言葉を続けようとしている。人は何かに対してどん欲だ。対してではなく、何だろう。それともそれが問いかけの対象なのか。文章とは思えない文章だ。それが何かの限界なのか。

 言葉はさらに断片化する。何を述べているのかわからない。そしてそこから笑ってしまうのか。苦笑いといかなくとも、嘘のただ中で笑っているつもりなのか。いったいこの世界のどこに出来事があるのか。焦りの現れだ。意味がつながらない。だからもうあきらめたらどうか。わからないのだからあきらめるわけにはいかないのか。語ろうとしていることがくだらないのかもしれない。それはもとからわかっていることだ。無理を承知で語ろうとしているのではないか。それもわかっていることだ。人は何のために生きているのではない。それもわかっていることか。何かが違う。

 さらに何も語れなくなる。人はどこまでも他人のことが気にかかる。当たり前のことだ。たぶん人はどうなってもかまわないのだろう。すでにどうにかなっているからか。頭がどうにかなっているのだろう。そしてまた笑う。何を顕揚しても肯定しても、それは違うだろうとは思う。社会とは何か。そういう問いは馬鹿げている。なぜか知らないが、わざと唐突にそんなことを問う。そこにどのような価値観が混在しているわけでもなく、ただの構造だ。人がそこで生きているらしい。それだけのことなのに、何となくそれでは物足りないらしい。物足りないならそこに事件や出来事を導入して、それに関係する人物たちの言動や行動を見物したいのか。見物したいのではなく、そこに関わり合いたいのではないか。しかしそれらのどこに物語があるのか。物語を求めているわけでもないだろう。ただそんなことを語りたいだけか。実際には語れていない。


9月16日

 たぶん何を期待しているわけでもない。空は晴れている。それの何が絶好の機会なのだろうか。流れ去る雲に何を託すわけもなく、それによって何かの琴線に触れているとも思えない。詩的好奇心は空疎な言葉をもたらす。実質的には誰の意識もそこから何も得られず、それらの試みはすべて期待はずれに終わるだろう。そのとき誰かは何を欲していたのか。そのときなどない。詩的現存などあり得ない。記されていたのはただの言葉だ。どこに何が刻まれているわけでもない。それらの言葉は誰の物語を示しているのでもない。誰かは物語の入り口で躊躇している。なぜ語る必要があるのか。何も語る必要はない。結論はすでに出ているようだ。後はそれを受け入れるか否かだ。どうしてもそれを受け入れるわけにはいかないのか。

 しかしわからない。何をどうわかったらいいのだろうか。なぜそこから前に進まないのだろう。いったい君は何について語ろうとしていたのか。問うことはそれの繰り返しになってしまい、他には何もない。馬鹿げた言葉が連なっているが、それでもひたすら考える。何を示しているわけではなく、誰かの信念がどこで垣間見られているわけでもない。それらは無駄な言葉だ。だがそれらがもたらされている。そうではないと思いたいのか。誰が何をもたらそうとしているわけではない。君はそう語っているはずか。迷いがある。なぜ迷う必要があるのだろう。必要もないのに迷っていたらおかしいか。おかしいに決まっている。それが必然だとしてもおかしい。当然の成り行きとしておかしい。しかしおかしいなら笑ってしまえばいいのではないか。そういうたぐいのおかしさではないということか。そういう自問自答もおかしい。何をどう語ってもおかしいことに変わりはなく、そのおかしいと思うままに言葉を記さなければならないのだろう。

 それの何が違うのだろうか。何かを見失っているだけか。おかしいだけではないのではないか。何を問うてもおかしい。誰に何を問いかけているわけではなく、それはどこまでも自問自答の繰り返しにしかならない。それで何がどうしたのか。ただ言葉が連なっているだけか。人はすぐ無駄なことをやるのにかかりきりになり、無駄な歳月を過ごしてしまう。しかし何が無駄なのか。それを無駄と思うから無駄なのか。とりとめのないことを考えているのかもしれない。それらの状況に対して有効な動作を思いつかず、何をやっても悪あがきとなってしまう。冗談でそんなことを述べているのだろうか。翌朝も晴れているようだ。答えになっていないことをわざと述べてみるが、それもフィクションの一部となるだろうか。さらにわけがわからなくなるのは苦し紛れのなせる業か。

 どうやら冗談がさらに続いているようで、それらの何が冗談なのか定かでないが、その辺で思考が働かない。どうやら今回もくだらないことしか述べられないようだ。すでにそれを述べているではないか。かなり矛盾したことを述べている。矛盾しているのはこの世の常だろう。人にはその人なりの正当性があるらしく、その存在を尊重されなければ気に入らないのは当たり前のことで、その人を生かすような成り行きに状況を持っていかなければならない。それは面倒なことだが、安易に抹殺するわけにもいかないだろう。それは非合法であり、暴力を抜きにしてやることは困難だ。では君は作り話の中で何を実行しようとしているのか。誰にもやり遂げられないことか。作り話の中でならできるのではないか。誰もそんなことを語る気はない。


9月15日

 別に何を思いつこうとしているのでもなく、実際に何を思いつくこともない。そしてなぜかそういう具合に言葉が連なり、誰かを戸惑わせ、どうしようもなく空疎なことを語りたくなる。それは嘘だろう。空は曇り、憂鬱になっているわけではないが、どうも始まりの言葉をつかめない。何もわけがわからないようなふりをするつもりはないが、自意識がそういう語り方に退屈しているような気がする。いつものようにいつものことを記している現状の中で、今日は今日で何をどうするわけでもなく、他に何をどうしようというのでもないらしい。気休めに言葉を記すことによって、誰かは正気を取り戻しているのだろう。偽りの眠りから目が覚めたふりでもしているわけか。それは相変わらずの回りくどい表現だ。もう少し何とならないものか。

 人は今日もどこかへ向かって歩み続けているのだろう。唐突に思いついたのはそれだけか。それだけでは不満なのだろうか。だから何に目覚めたわけでもなく、誰かが昔の記憶を集めている。人はいつもそうなのだ。何か夢物語のような妄想を抱き続け、それで生きる糧でも得ているつもりなのだろうか。誰がどのように生きているわけでもないだろう。昔の出来事にでも思いを馳せて、そこからどんな皮肉を導いているつもりなのか。どこかで誰かがその手の歴史に飽き飽きしている頃だ。人はいつ何時でも行き詰まっている。そう思い込みたいのだろう。君はそれとは無関係だと主張したい。それが誰の主張となることもないか。何がどうしてそんなことを述べるはめになったのか。その経緯を語ってほしいか。まったくのでたらめかもしれない。

 やはりそんなことはどうでもいいのだろう。何をどこまで語ろうと、結局はつまらぬ成り行きに巻き込まれている自らを呪うはめに陥り、そんな思い通りに行かぬことからストレスを感じて、そこから抜け出そうともがき苦しんでいるうちに、あげくの果てに馬鹿げた脱出法を考案して、そんな妄想にすがりつき、すでに自らが破滅していることにも気づかず、さらなる何かの上塗りに全身全霊を注ぎ込み、そんなふうにしてたわいない余生をすり減らしてしまうのか。君はそれらの営みを見物して何を思うのだろう。いつまでも傍観者気取りで入られない。他の誰かがくだらぬゲームに巻き込もうとしている。賭場で身ぐるみはがして、良心とともに何かを捨てさせるように仕掛けているわけか。そんな状況下で誰かは何を思えばいいのだろうか。取るに足らない罠などにはまって暇つぶしをしている場合ではないか。

 言葉で馬鹿にすればどんな所業もたわいないものだ。何を馬鹿にしているわけでもないか。何を馬鹿にしても馬鹿にされる。そんな状況が到来することもなく、たぶん君はいつまでたっても何かを執行を猶予されているのかもしれず、冗談まじりに本音を漏らそうと、それが真に受け止められることもなく、それが退屈まぎれのお遊びだと思われるのがオチだ。だがそれでかまわないのだ。どんな物語の登場人物に成り下がっているわけでもない。この場合自由とは物語から遠ざかり、話から逸脱することか。そしてそれでも自由とは何だろうと問い続けることか。そんなわけで人はいつまでたっても大人にはなれない。何とか事態を単純化したいのであり、そう思い込みたいのと実際のそれとは違うことを認めようとはしない。何となその場を乗り切りたいのだが、結果的に生き延びていることが、その場を乗り切ったことの証しだと思ってしまうわけだ。


9月14日

 たぶん何をどうしたいのでもない。ただ言葉を記して文章を構成したいのか。それの何が矛盾しているのだろう。事を急いではならない。最近は何も語っていないはずだ。頭の中にもやがかかっている。何か適当なことを告白してすっきりしたいのではない。支離滅裂を装うのは何かの照れ隠しか。わからないがそれで正解としておこう。嘘をつくのにも限度がありそうだ。嘘でも何でもかまわないのだろうが、物語にはなり得ない。話でもないようだ。何かを語ることから遠ざかり、何について語っているのかわからず、たぶん何かについて語っているのかもしれないが、それがどうしたわけでもない。どうもしなければ語ることもないだろう。だから何も語れない。しかしそれでは何かの繰り返しではないか。たぶんそこでは何かが繰り返されているのだろう。そうだと思えばそういうことになりそうだ。とにかく今はそうだ。

 実際には何でもないわけではない。そう思いたいのだ。そう思わずにはいられないのだろう。本当にそうだとしたら、後はありふれた話になりそうだ。だがそれ以後が定かでない。後がないのかもしれない。切羽詰まっているわけか。またいつもの冗談が始まっているらしい。いい加減に嫌気がささないか。問う相手を間違えているのだ。誰に何を問いかけているわけでもない。それが何をもたらしているとも思えず、どうもしないようなことを述べている現状がある。君は何かに苦しんでいるのかもしれない。それが自然の成り行きなのだろうが、どうしてもその何かを断ち切ることができない。だからどうしたのか。今さら何を開き直っているのか。そんなのは嘘か。何かのでまかせでそんな具合になっているのだろう。気まぐれに空疎なことを記す。それが何だかわからないが、結局はそういうことなのだ。

 それは何かの方便だろうか。わかりやすく述べなければならない。何と何が矛盾しているのか。それを明らかにしたいわけではない。そうすることがどんな犠牲を伴っているわけでもなく、何でもなければ何ももたらせないことの延長として、そんなことを記しているのだろう。それはどんなことでもなく、そんなことでさえなく、そんな嘘を遥かに下回るような何でもない何かだ。些細でくだらぬことの繰り返しなのか。ならば物語にはなり得ない。何でもないような何かの果てに何があるわけでもなく、それ以上でも以下でもないような出来事以外に何があるとも思えない。それは出来事でさえない。ではそれも嘘なのか。

 どうもしっくりこないようだ。語っていることがよくわからない。それの何が矛盾しているのかわからないが、嘘だとしたら何なのか。嘘でなければ何なのか。あるいはどちらにしても的外れなのか。何が指摘されているとも思えない。だから何を語るのも至難の業なのかもしれず、それ以上にわかりづらいことが語られているようだ。だがまるっきりのでたらめとも思えず、それでも何かしら主張したいことでもあるのだろうか。この世はとりとめがない。それは当たり前のことだが、とりとめがなく支離滅裂であろうとなかろうと、そこに誰かがいるようだ。それが誰であろうとかまわないのだろうが、とりあえず誰かがいて、その誰かが文章を構成しようとしているわけか。そんな認識でかまわない。それがどうしたわけでもないが、それはそういうことでしかなく、それ以外の何ものでもなく、何もそれで落胆するようなことではないはずだ。


9月13日

 相変わらず何が導きだされているわけではないが、焦っても仕方がない。たぶん待たなければならないのだろう。ひたすら待つのみのようだ。だが好機の到来を待っているわけではなく、何がもたらされるのを待っているわけでもない。ただ待っているのだ。骨折り損のくたびれ儲けのごとく待っている。そして待っている間は無駄に言葉を費やし、何を語るわけでもないのにそれを記している。それだけのことなのだ。それでないとしたら何なのか。何でもないだろう。何でもないから待ち続けているわけだ。何を待っているわけでもないのに待っている。目的などとうに忘れてしまったらしい。何を目指しているわけでもないと嘘をつく。嘘でなければ何なのだろう。

 どこかで誰かがうごめいている。話は何もなく、何を語るわけでもないのにうごめいている。ただ行動あるのみか。そんなことはないと嘘をついておこう。真意は定かでない。何が真意とも思えず、何を計り知れないわけでもない。何も与り知らぬことだ。だがわからないと言ったら嘘になる。だから嘘をついているわけで、わからないと答えるしかない。記憶にございませんか。誰に尋ねているわけでもない。問いかける相手のことなど眼中になく、ただ無目的に際限なく問いかける。それも嘘の一部だろうか。そうであるならどうしたわけでもなく、そういう成り行きの中で何か適当に記しているわけだ。確かにそれがわからないと言えば嘘になるだろう。わかっていてそんな嘘をついている。それ以外には何も見いだせず、他に何を見いだそうとしているのでもない。だから君はそれらの内容が空疎であることを承知しているはずだが、それをこれからどうしたいのか。そんなことが問われているわけではない。

 たぶん夜なのだろう。時間帯のことを問うているわけではないが、何となくそういうことになる。何か唐突に気分を害されて、それでどこかに向かって文句をたれている人が、どこの世界にいるのだろう。どこかで見かけたことがあるのか。思いもよらぬ支離滅裂か。それがどうもしないようで、言葉にならない雰囲気を醸し出しているとも思えず、だから無言を押し通すことを断念するのか。しかし沈黙の他に何があるのだろう。興味があるのは話の中身ではない。

 わざとらしい意味不明だ。途中の逸脱にもほどがある。目に余るくだらなさを示していて、君には到底耐えられない。がさつと粗雑の間にそれらの文章が記されていて、何を語っているのか定かでないのはもちろんのこと、そこから何をどうすればまともなことを述べられるのか、皆目見当もつかなくなり、もうそれでかまわないのではないかとあきらめたくなってくる。何となく何かに降参しているようで、それらの空疎なまなざしを遮り、そこで目を閉じて眠ってしまいたくなるが、それも嘘だと強弁したいようだ。何が嘘なのか。何もなければ嘘なのか。たぶんそういうことではない。ならば何かの惰性でそう述べているだけか。そうだとしてもそんなことでひるむような状況ではない。何もかもが気晴らしの範囲内なのかもしれず、何の内容も持ち合わせていないのに、それでまともに語ろうとすること自体が無理なのだ。だが無理を承知ででたらめに語っているのかもしれず、それがそこでの実態なのだろう。至極当たり前のことである。君は何かに流されているようだ。そしてその流れに抗おうとせずに、それらのどこに力を入れているわけでもなく、ただ自然体のまま、何かが盤石になるのを待っているわけか。それはどういうことなのか。


9月12日

 やはり言葉を記すのが遅れてしまったようだ。気がついたら翌朝になっていた。何も思いつかないのだからそれは当然だろう。君は生き方を選べない。何のリアリティも感じないのだ。この世界は大掛かりなフィクションの一部だ。誰かがそれを構成しようとしているが、誰であってもかまわないのだろう。だから何も語ることはない。語ることに何の理由があるわけでもなく、意味不明なことを述べているだけかもしれないが、それがどうしたわけでもなく、何を語っているとも思わないだろうが、それの何がかまわないのかわからない。それとは何だろう。たぶんこの世界のことではない。

 異邦人はこの世界の何に興味があるというのか。エイリアンなら何か思いつきそうか。気が利いたことを述べてみたいか。安易な願望に染まりつつあるようだ。数日後は晴れて乾いている。この世のどこかに富が集中していると思うのは幻想だ。富も幻想の一部に違いない。ただの思い込みとそれらが反映した物質の集合体だ。たぶんゲームの中でしか利用価値のないアイテムといったところだ。君はそれらのゲームに参加していないのか。

 誰もがゲームに参加しているはずだ。そういう思い込みを共有することによってゲームが成り立っている。君にはそれが信じられない。誰がそれを信じているとも思えないが、ゲームのルールに従っている者は多い。誰もがそうなのではないか。そうでない者などいないだろう。法律違反もルールの一部か。そういうゲームに参加していると楽しいか。自分が優位な立場であれば楽しくて仕方がないか。たとえ逆境に陥っていようと、そこから成功への妄想が膨らんで、何とか前向きに生きていけるだろうか。君はそういう馬鹿にはなりたくないのか。馬鹿ではないだろう。成功を夢見て他者と競争しているつもりなら、それによって楽しいと思うのではないか。そういうのを馬鹿にして、斜に構えて傍観者気取りであったとしても、ゲームに参加していることになるだろうか。

 ゲームこそが幻想か。何でも幻想だと述べていれば事足りるようでは、何を語る気も起こらなくなる。もう少し前向きにそれらの現象をとらえられないものか。何を馬鹿にしてもつまらないだけだ。語るに値しないことばかりを語ろうとするのが無理なのか。しかし何を語ればいいのだろうか。冗談でそんなことを述べているのか。それでかまわないと思う。空は晴れ渡り、秋も近づいている。具体的にはそういうことでしかなく、何がそうなのか一目瞭然かもしれないが、そこにどんな言説がもたらされているわけでもない。ではそれについて語る必要はないのだろうか。

 ゲームの中で活躍している人々がうらやましいか。何かの渦中でうごめいていることの何が興味深いのだろう。それをメディアが伝えているのではないか。君はそれを見聞しているはずだ。世間は何かを成し遂げた人を祝福しなければならない。そこにゲームがあってよかったのだろう。ゲームがなければ伝えることが何もない。君は音楽を聴いている。しばらく沈黙していた方が良さそうだ。君にはゲームの中であくせく動き回っている人々の感覚が伝わってこないようだ。それで何に感動できるのか。今日もつまらないことを述べている。悲哀とは何なのか。何かの大記録を達成した人に人生を悲哀を感じてどうするのだろう。


9月11日

 また行き詰まっているようだが、あまり気にしない。本気になれないのは毎度のことだ。何とかしてしまうのだろう。あまり乗り気になれないが、そういうことだ。気がつけば何に対しても興味がなくなっていて、それが嘘だとは思えなくなる。例えば国家や経済に関して何かもの申さなければならないのか。当事者意識が欠落している。現状では何も不都合を感じていないらしい。というかすでにあきらめているのではないか。いったい何をあきらめてしまったのか。とりあえず普通に生きていられればそれでかまわないようだが、それはどういうことなのか。世の中には理不尽な扱いを受けて憤慨するような成り行きが至る所に転がっていて、誰もがいつそうなるかわかったものではないような気がするのだが、たぶんその時になってみないことには、どういう気分にもならないのではないか。それは当たり前のことだ。たとえ君がそこから何かを語りだそうとしても、何らリアリティを感じられない。今はそういう成り行きのまっただ中ではないからか。

 たぶん世界には不都合な現実などいくらでもあるのだろう。だがそれについていちいち語る必要性を感じない。君はどこかで高をくくっているのかもしれない。何に対してそうなのか定かでないが、何となく生ぬるい対応で済まそうとしているような気がする。どうも何か重大な事実を忘れてしまっているらしく、どうしてもそれを思い出せない。

 それらのフィクションは人間の領分を超えている。そして何について述べているのでもなく、そんなフィクションが存在する必然性はない。冗談の次は空疎な内容だった。それらの何が物語なのか。気分次第ですべてを台無しにしているようだが、状況的にはそれも当たり前のことなのか。やはり君は何について語っているのでもないらしい。誰かはそれが気に入らないのだろう。ただ雰囲気だけで何かいい加減なことを述べている。話は物語の構図に収まらず、あてどない迷い道のただ中で何もなくなってしまう。そしてそれの何が本分でもない。何か語る義務など誰にもないのだ。

 人は何をやろうとしているのか。政治家なら目的がはっきりしている。しかしいったい何を楽しめばいいのだろう。くだらぬ劇場があったものではない。誰もが傍観者にはなれない。高みの見物では肩身が狭いか。しかし何をどう喩えたらいいのだろう。比喩などでは無効だ。まったく状況を見誤っているようだが、もとから意味不明なのだからその辺は仕方がないか。何について何をどうしようというのではない。争いごとは虚しい。それを見ながらの実況中継など空疎でさえあり、語るに値しない行為だろう。

 では君は何についてどう語る気なのか。何を悩む必要があるのか。まったく機会を逃しているわけではなさそうだ。すでに語る機会を得て、実際に語っている最中なのではないか。今まさにそれについて語っている。あきらめているふりをしている場合ではない。こんなに言葉が並んでいるではないか。もちろん冗談で述べていることだ。君にはそれらのくだらぬ冗談が必要なのだ。たとえ悲惨な目にあっても、何ももったいぶって大げさに真実を暴露するほどのことではない。すべては些細な感情の起伏から生じている。隠された秘密などありふれた内容ばかりだ。物語の退屈さがそのすべてを暴き立ててくれる。それがお望みの結末なのだろう。


9月10日

 どうも調子が今ひとつのようだが、かまわず言葉を記してみる。目的も定まらないままに言葉を記そうとするから内容が空疎になる。そんなわかりきったことを述べながらも、まったく懲りないようで、さらに空疎なことを述べていて、やはりそれがどうしたわけでもないようだ。しかし人はなぜそこに踏みとどまろうとするのか。たぶん思い通りになりたいからではない。だが君は人ではない。それは無駄な言葉だ。何が違うというのか。たぶんそれが正しいのだろう。君は正しいことを述べている。それは何かの気休めだろうか。そういうことではなく、たぶん正しいのだ。何が正しいというのでもなく、要するに正しいのだ。ではそれの何が間違っているのか。話になっていないようで、文章としても意味的に破綻している。そして何となく気に入らない。正しいことを述べているとは思えない。たぶん嘘をついているのだろう。そしてそれは正しい嘘のつき方ではないような気がする。くだらないことを述べている。そしてさらにそれを突き詰めなければならない。それの何が矛盾しているのだろうか。

 意味のない問いかけには答えられない。君自身は何を求められているのか。誰に問うているのでもない。誰も何も問われていないのではないか。誰もが生きて死ねばそれでかまわないのだろう。それだけでは不満なのだろうか。ならば作品とは何か。それらの何が作品と呼べるのか。作品とは空疎な言葉の寄せ集めのことか。それに関しては何も思いつかない。何でもないことならいくらでも語れるだろうか。何が何でもないのだろうか。そう思うことが何でもないことだ。そして行き詰まる。何でもないのに語れるだろうか。

 たぶん何がそうなのかはっきりわからないのだろう。きっかけは何もなく、そこから先には真っ暗闇が広がっている。だからそこから先は何も見つからないだろう。誰かはそれを否定したいのか。取り立てて何をさがしているわけでもないだろうが、それでも見つかる時は何か見つかるのだろうか。そこには暗闇があり、虚無があるらしい。ならばそれが何でもないことの真相か。そうではないと思いたい。現実に何かがそうではないのだろう。それは何か希望のようなものか。この期に及んで何の出現を期待しているとも思えない。何も見つからないのに何かあるとすれば、果たしてそれを見つける必要があるだろうか。それがわかるとは思えない。そして相変わらずのくだらぬ問答に終始していて、ひたすらそれが繰り返されている現状を変える必要があるのだろうか。

 まだ続きがあるらしく、目指す先はさらなる高みなどではないが、奈落の底でもないのだろう。それらが続いている要因は何なのか。何かの運が味方しているのだろうか。気がつけば答えもないのに問いばかりになる。何もないからそうなってしまうのだろう。だがそれでも何か述べている。だんだん遅れてきているようだが、自問自答にもなっていないようで、何を語るわけでもないのに語っている。今はそれだけのことだ。無意識のうちに粘っている。それが誰かの取り柄であり、同時に致命的な欠陥か。そちらともとれるが、どちらでもないような気がする。それが無の境地というやつなら、わざわざ語ることもないだろう。現実に語っているのだから無ではない。何かをひたすら語ろうとして、結果的に何も語っていないのと変わらない現状を招いているようだが、それでも語っている。何でもないことを語り続けているわけだ。


9月9日

 君は何をあきらめているのだろう。この世は自然の成り行きに支配されていて、人の思うようにはいかないらしい。気に入らないことはいくらでもありそうだ。午前中は晴れていたが、午後から曇ってきた。それとは無関係に、考えるあてもなく心を塞いでいる。そんな表現はおかしいか。思いを巡らすが何も思いつかない。そういうことでもないらしい。その場に誰が居合わせているわけではない。どこが現場でもない。どこで誰が自家中毒の発作に見舞われているわけでもない。絶えず何かを試しているだけか。だから何の当てもなくさまよっているのは誰でもないはずか。意味がわからない。苦し紛れではない。少なくとも今はそうだ。くだらぬ成り行きには違いないが、そこから何とか立ち直ろうとしている。本当にそうだろうか。わからなければわからないままでもいいはずか。そこに何が示されているのでもないはずだ。だから君はわからない。それまでの思考力だ。今さら何とかしようとしても、もう遅いか。しかしそれでどうしたのか。何がぶり返してきたのか。そういうことではないだろう。

 また何も述べられなくなってしまったようだ。疲れて眠ってしまったのか。それもそれだけのことだ。そしてまだ何も述べていない。何をそんなに迷っているのだろう。何もないのはいつものことだ。語ることは何もない。何も思いつかないのだろう。わかっているのはそれだけのことだ。しかしそれでわかっていることになるのか。ならばそれだけのことがわからない。何がそれだけなのだろうか。くだらぬ問答に精神を支配されている。それはないと思われ、必死でそこから離脱しようと試みるが、現状では無理だ。今はそんなふうにして言葉が連なる以外にあり得ない。いつの間にかそうなってしまっている。気がつけばそこから遠ざかれなくなっている。そしてもう後戻りができない。すでに言葉が連なっていて、それを改めることができない。誰かはその気になっているのではない。どうしようもなくそうなってしまっている。そしてさらなる空疎が到来しそうな気配におびえているわけか。わからないがそうであってもかまわないだろう。そんなふうにしてその場の雰囲気を醸し出していればいい。それがその場の成り行きなのだから、言葉がそう連なって当然なのだ。それはどうしようもないことだ。

 しかしそこからどうするつもりなのだろう。何がどうなっているわけでもない。ただそんなことを述べているだけではないのか。それはつまらない成り行きに違いない。いったん日付に追いついて、またすぐに遅れてしまうことはわかっていたはずか。ならばそこからどうしたらいいのだろう。言葉を記しているではないか。今もそうしている最中だ。だが何がそうさせているのかわからない。君はそう述べて何を蒸し返しているのか。いったいこの世界はどうなっているのだろう。誰かを取り巻いている世の中がどう変化したとも思えないが、なぜか雰囲気が違う。頭の中が真っ白で何も考えられないようだ。そんなイメージの中に何かがあるようで、それが何だかわからないようだが、そこから先に空疎な言葉がある。だから何を語っているとも思えず、無駄に言葉を連ねて意味不明に陥るわけか。確かに何を語っているわけではないのだろう。信念も目標もなく、狙いはどこにもない。意図的に語らないわけではないのだろうが、それでも無駄に言葉を記し続け、文章を構成しようとしている。それが何だかわからないが、明らかに冗談の続きではなく、まったく笑えない状況になっている。それでも何か述べているような気になっているのだろうか。


9月8日

 いつの間にかこんな日付で言葉を記している。それらの成り行きの中で何を感じ取っているわけでもなく、とりあえずいつかの話は立ち消えになり、今のところは予定は未定であり、他に何を語ろうとしているわけではないが、何となくそんな気分でいるようで、相変わらずそれが何だかわからない。わからなくてもかまわないだろう。だからどうしたわけでもない。何を語ろうとしていたのか思い出せず、しばらく考え込んでいると、何となく心に余裕が生まれているような気がしてきて、あまり先を急ぐべきないということで、はやる気持ちを押さえ込もうとしている。いつものように回りくどいことを述べている。それで自意識は納得できるのだろうか。そういうことではなく、どういうことでもないだろうが、空疎なことを述べている現状に変わりはなく、どこまでもそんなことを述べられるのか心配になってくるようだが、他に何の当てがあるのだろう。そこでふと立ち止まり、何を改める気になれるだろうか。できないことをやろうとは思わない。しかし現状で何ができるというのか。ならば何をあきらめたらいいのか。だからいくら問いかけても無駄なのだ。何を問いかけてもそれだけのことだ。

 決して常軌を逸しているわけではない。逸脱には限りがないが、いくら外れたことを述べていようと、それは何かの迂回路上で述べていることであり、どんなに逸れていようと、結局は振り出し地点へと戻ってきてしまう。そこで賽を振ること自体がいつもの成り行きを呼び込んでいるのであって、そんなことに言及していることが予定調和の成り行きそのものになっている。それで何を述べていることになるのか。だからその場の成り行きについて言及しているのではないか。それを説明しているのだろう。そういうことなのだから、それについて何を語ろうと、話の流れはその場に戻ってくる。それ以外に何がどうなっているわけでもない。架空の君が語っているのはそれだけのことだ。今はそれでかまわないはずか。実際にはそれしかできないのではないか。やろうと思えばもっと違うふうになるかもしれないが、それはあくまでも可能性の段階であり、現実にやる気配は感じられず、やる気がないことをそれらの語りが実証しているようだ。しかし本当にそれらはそれだけのことなのだろうか。そうでなければもっと違った話の展開になっているはずか。まったくそんなこんなで、いつまでたっても自己言及一本やりではつまらない。

 君はそんな現状ふまえた上で何を反省したいのか。それで良くなる機会を逸している気になれるだろうか。なぜそう思うのか。矢継ぎ早に何を問うても無駄か。問うことが答えることにつながらず、いつまでたっても問い続けることにしかならず、それだけで文章を構成しようとしている。実際にどんな文章になっているのだろうか。何について語っているとも思えず、それが思い違いであることはわかっているようだが、何となくそのままの思い違いを保とうとしているようだが、それで何を主張しているわけでもなく、取り立てて何を見極めようとしているわけでもない。もとからそういう話ではないはずか。だが何かがずれていることは確かなようで、それを改められずに、ひたすらずれ続け、どこまでも遠回りをしているようだが、はじめからどこへ向かっていたのかわからず、何の目的も目標もない歩みの途上で、何かいい加減なことを述べている現状があるようで、それはこれまでにも繰り返し述べてきたことなのだろうが、いくら述べてもそんなことしか述べられず、いつまでたっても延々と同じようなことを述べている。それで何がどうなったのだろう。


9月7日

 何かが終わりに近づいているのだろうか。少なくとも言葉を連ねてゆけばいずれはそうなるだろう。それがなければ何も述べようがない。それはどういうことなのか。わからなければ述べようがないだろうか。その先に言葉が連なってゆく現状を説明しようがない。どうやらまた答えのない問いを発したいようだ。誰かはまた遠くを見つめる。それは架空のまなざしに違いなく、でたらめな文章の中に生じている。しかし理由とは何だろう。それが何かをやる動機になるだろうか。だが何かとは何なのか。その場で俄には思いつかない何かか。何かが何なのかなんてもとからわからないことだ。それでも冗談の次に何かがくるらしい。それは予感でも何でもなく、実際にそういう成り行きになっている。誰かはそんな気でいたいのだ。それはどんな気でもなく、どんな気でもあり、そんな矛盾した気でいたいだけで、気分次第で何とも思わなくなりたいのだ。すべては何でもないことだ。そう思っていたいわけか。どう思っていたいわけでもなく、そう思っていたいのだろう。ただそれだけのことに言葉を無駄に費やして、通常のフィクションとは異なる何かをそれらの時空に醸し出したいのだろう。たぶんそれは不可能なことだ。文章が誰かの期待を裏切っている。冗談ではなく、本当に裏切っているのだろう。だが誰かはそれらの空疎な文章に何を期待していたのだろうか。

 誰かが音楽に合わせて叫んでいる。それを他の誰かが聴いているらしい。何か馬鹿にされているような響きだ。何がそうなのではなく、そう思ってしかるべき音楽なのだろう。嘘に決まっているか。いい加減に何かを表現しているつもりだ。それがその場の雰囲気ではなく、フィクションの中に記されていることかもしれない。誰もがそれをそう解釈したいわけでもないのだろうが、誰かは面倒くさいので、でたらめに言葉を弄して疑念を払拭したいわけではなく、それで払拭できるわけもないことは百も承知で、何となくそういう説明の中に意識を出現させたいのだろう。そしてそれは何となくではない。わざと誤って語り、語っている内容を空疎に見せかけ、そんな説明を無効にしたいのかもしれないが、たぶんそれは馬鹿げているだろう。試みでさえない。それでも何かを試していることになるのだろうか。たぶん正気に戻った方がいいのだろう。何をどう組み合わせてもパズルが完成する見込みはない。言葉をでたらめに組み合わせているだけのような気がするだけか。そしてむやみやたらとそれを連ねたいのだろう。それは何の本質とも無縁で、うわべだけで小難しいことを述べているだけのような気もするが、なぜそれでかまわないのか。

 誰かはわざとまとまりに欠けるようなことを述べているのだろう。そんなことしか記せないのだ。それが妥当な答えになるだろうか。それで正解かもしれないが、気に入らないか。それでも冗談でなら許される程度のでたらめさ加減だろう。その程度では本気になれない。実際に読んでいてあくびがでる。フィクションではそういうことになるだろうか。その辺も意味不明だが、たぶんそう述べることによって何に答えているわけでもないのだろうし、根本的な疑念を抱くような成り行きにはなっていない。何でもかまわないのだから、その程度でかまわないのか。それも正解のたぐいになりそうだが、それだけでは何を述べていることにもなりはしないか。少なくとも何か述べているはずだが、まったく心に響かない。そういう話ではないだろう。ならばそれは何かの付け足しなのか。そうだとしたら安心できるだろうか。別に何に対して安心したいわけでもなく、何となくでもなく、語りたいことが何も見当たらず、そんな理由を理由とは思わず、何について述べているわけでもない状況のただ中で、それらの意識たちは何かを語っているつもりなのだ。


9月6日

 近頃の文章は意味不明に明け暮れている。何も記すことがないのか。夜の風景は味気ない。眺めているのはどこかの夜景とは違うようだ。それは架空のまなざしか。それでも誰かの思うつぼではない。虚無にまみれてもまだ言葉がつながる。まだその先があるのだろう。何もなくてもそれを見いだしてしまい、それが何でもなくても言葉を記す。近頃はそんなことの繰り返しだ。窓越しに夕闇が迫ってきた。誰がこの世から見放されても、相変わらず虚無の世界を感じている。何かがあるようで何もない。たぶん言葉が記されているのだろう。見いだされるのは見いだし得ない風景か。そんな単純な成り行きにはいかないか。何かを見いだそうと努力しているわけではない。音楽を聴いているのだろう。感動をもたらさない音楽だ。気分次第でそんなことを述べてみるが、本当か嘘かはわからない。だがそれで楽しい気分に近づき、近づきすぎないように距離を保とうしているようだが、なぜそうするのか理由がない。どうでもいいことなのだろう。しかし虚無以外の何に興味があるのか。そういう問いそのものがおかしい。誰かはそんな音楽を聴いているようだが、君にはそれが何だかわからない。だからもうその辺で改行すべきなのではないか。そんなわけで相変わらず理由がわからないまま、遠くを見つめているようだ。

 たぶん何かをわかりかけているわけではない。わからないままにしておきたいのだろう。何をわかりたいわけではなく、どのような事柄について述べようとしているわけでもない。空疎な文章を記している。誰かがそんなことを述べているようだ。君はその辺で息切れか。やめようと思っているのか。そういう成り行きにはなりそうもない。まだ何かの物語が始まらず、始まらなければ終わらない。何も物語れないのかもしれない。そこで感性が立ち往生している。だからもうやめようと思っているのかもしれない。外は夜の闇に包まれていて、何も語り得ないことに業を煮やしているつもりになりたくて、何となく焦っているふりをしている。フィクションの中では誰もがそう思う。嘘偽りの中でしか真実を語れないのだろうか。そうだとしたらフィクションとは何か。何でもなく、ただの言葉の連なりに過ぎない。くだらぬ内容だ。そう思いたいらしい。それが本当であってほしいか。だがそれで焦っていることになるのだろうか。現状では何も焦る必要を感じないのはどういうわけなのか。他の何かに魅入られているのだろう。そういうことだ。

 嘘でもかまわないから真実について語ってみたい。そして矛盾したことを述べて悦に入り、何となくそれで何か語っているような気分を得たい。そこへ意識を持っていくような成り行きの中にいたいらしい。それはどういうことなのだろう。詳しくかつわかりやすく説明することができない。説明できるようなことは何も述べていないか。それでも何か適当に語っているはずだ。たぶんそういうことなのだろう。どういうことでもなく、そうであってほしいのか。だがそれで何のつもりになれるのか。何のつもりでもなく、実際に何か適当に語っているはずで、その中に言葉が連なっている。それがそれらの文章なのだろう。そしてその場の成り行きの中で、うまく事を運ぼうとしている。現実に記しているのはそういうことだ。うまくいくはずのない状況の中で、何とか難局を切り抜けて、その先に何か気晴らしのような雰囲気を得たい。それが叶わなかった場合は、その時の気分で何とか正気でも保っているつもりになれるだろうか。どうでもいいことには違いない。誰がどう思っても無視するだけか。相変わらず言葉が何をもたらしているわけでもなく、ただの文章以外の何ものでもなさそうだ。


9月5日

 子供だまし的に何を表現しているわけでもないが、ところで今日は何を思いついたのか。とりたてて意識がどこへ誘われているわけではない。話でないのかもしれないが、何かの途中が省かれているのかも知れず、なぜか誰かがそんなことを述べている。だが実際に進行中なのはそんなことではない。頭が痛いか。いつまでたっても意味不明だから仕方がないだろう。たぶん現時点でわかっているのはそういうことだ。誰かは何をわかっているのだろうか。そこで難しい判断を迫られているわけか。だからそうではない。ならばわかっていないからそうなってしまうのだろうか。気がつけば何も語っていない。気がつかなくてもそうだ。語っている内容が具体性を帯びない。それは永遠の前置きなのか。意味がわからないが、だから何も問わなくてもかまわないのだろう。

 しかし何も壮快ではない。何を語ってもすっきりしないようだが、何かの向こう側から執拗に迫りくるのは何だろう。何かの締め切りなのか。それは仮想のゴールかもしれない。冗談としてならそうだ。しかし目標がどこにあるのだろうか。話になっていないようだ。何も語る気にならない。それに関してもどれに関してもだ。しかし何も知らないわけではないだろう。語ることは誰にでもできるが、それだけではだめのようだ。作品とは何なのか。語っている内容にもよる。しかし本末転倒とは何なのか。行間に何が示されているわけでもない。意志も意識もありはせず、気が済むまで何を語りたいわけでもない。それは対話とはならない。誰かは言葉が出てくるのをひたすら待っている。だから何が記されているわけではない。もう飽きてしまったのか。もとから飽きている。

 何かがおかしい。何もおかしくないのにおかしいと思う。それの何がおかしいのか。当たり前の日常の中に何かがあり、その何かがどうしたわけでもない。それでも何かがおかしいのか。おかしいと思いたいだけではないか。くだらぬ理由を見いだせず、それを見いだそうとする気がない。だから無駄に言葉が連なってしまうらしい。たぶん何ものもその代わりにはならないだろう。それだけのことであり、それだけのことでしかない。今は何を語ってもそうなってしまうようだ。今でなければどうにかなるのだろうか。どうにもならないから今を迎えている。君にはそれ以上の何かを抱え込む余裕がない。だから今のままでいたいのか。そんなどうでもいいような状態を維持できるわけがない。ならばそこからどこかへ飛翔しなければならないのだろうか。それ以前にそことはどこなのか。誰かはそれをわかろうとしていないらしく、そんなのは無視してどこへも話を導こうとしない。だからいつまでたってもそのままなのか。そのままとはどのままなのだろう。

 何となく意識はくだらない雰囲気を感じ始めている。それが何となくではなく、以前からはっきりとそう思っていたのかもしれないが、やはりそれがどうしたわけでもなく、どこかの理想主義者は現世のくだらなさから遠ざかろうとするが、それができないから、ますます嫌気がさしてくるのだろうか。だが誰が理想主義者なのだろう。話の中では誰でもない。これは話ではないのだろうか。話の中では架空の対話さえ成り立たない。フィクションではないのか。何が理想主義なのか。いくら問うても答えが出てこない。そういう話なのだから仕方がないだろう。では今さら何を問いかけても無駄か。いったい闇の向こう側にどんな意識があるというのか。たぶんそこで人は痛みを感じなくなり、何に接しても興味を抱けなくなるだろう。しかしそれの何が楽しいのか。


9月4日

 たぶん何を悩んでいるわけでもない。ではなぜそれができないのか。相変わらずのことだが、結局言葉を記すのが一日遅れとなってしまう。そして気を抜くとさらに遅れてしまうのだろう。本当にやる気がないらしいが、これまでもそうだったはずで、やる気がないのに言葉を記していると意味不明になる。何を語りたいのかもわからなくなる。今回もわからないが、とりあえずそんな自己に対する言及によって言葉を記しているらしく、それもいつものことだろう。そんなわけで現状では何も思いつかない。何も思いつけないのだ。どうもどこかに無理があるらしく、その無理を無効にしたいのだが、それができない理由をさがしているわけではない。要するに堂々巡りなのだ。

 きっかけはどこからともなくやってくる。何がきっかけであり、きっかけとは何なのか。それが無理だとしたら、無理とは何だろう。そう述べることの何が無理なのか。たぶん無理に決まっている。言葉を記すことが無理なのか。実際に言葉を記しているではないか。君は誰に向かって答えているのか。さっきから返答がない。反応もなく、呼吸も止まっているはずだ。だがそういう話ではない。何か残念なような気がする。実際には違っているらしい。そうではないのに、そういうことを述べている。それが現状になるだろうか。現状とは何なのか。完全に意味不明のようだが、それは何かの苦し紛れに述べていることか。息切れを起こしている。

 俄然やる気になっているようだが、今のところは空回りに近く、内容を見いだせず、それが空疎を呼び込んでいて、いつも通りの展開になっているようだ。話がどこにあるわけでもなく、君が何を語っているわけでもない。わかりきったことだ。その手の無駄な言葉の連なりを記すのは毎度のことで、近頃はそれ以外の展開に持っていけないことが多い。そう述べてしまうのが安易なのだろう。君はそんなふうに語っている。本当にそうらしく、それは作り話の中で語られていることではない。さっきとは微妙に何かが違っている。たぶんここは現実の時空なのであり、それがどうしたわけでもないが、それがとりあえずの結論らしく、こうしてつまらない現実が画面に記されているらしい。ここで何を感じているわけでも考えているわけでもなく、架空の誰かが何かを語っているわけでもない。

 何をどう語っても無駄だ。そういう流れの中でそれらの文章が記され、無駄で無意味なことが述べられているようで、それが無茶なことだとは思わない。誰かにとっては当然の帰結なのだ。どこかで確実にあきらめている。それは間違っても芸術なのではない。何でもない行為の中にそれらの試みがあり続け、永遠に過ちを犯し続け、それを改めることは叶わず、どんなに努力してもできないことはできないままだ。たぶんそれができた時が終わりなのだ。何をやろうとしているのかわからないままでは終われないか。しかし現実にやっているそれは何なのだろうか。本当にやりたいことではないはずだが、何がやりたいのかわからない。そして実際に試みているのは無駄で無意味なことだと思っている。それが嘘だとは思えないのだ。では何が嘘なのだろう。何かを試みる以前に無駄で無意味な試みの最中のようだが、それを避けて通ることはできず、それについてひたすら自らを問い続け、わからないことをわかろうとしているのだろうが、一向にわからない。だから実質的には何を問うているのでもないのかもしれない。


9月3日

 残念ながらそこから先に何かがあるようだ。何もなければそこで終わっていたところか。いったい虚無は何を目指してその力を発揮しているのだろう。この世がどうなってほしいのか。新たに政権を奪取した政党の政治家たちに、大胆なことをやらせまいとして、しきりに警告を発しながら、一方では自らの保身のための予防線を張っているようだが、誰かはそんな評論家たちと何が違うのか。そういう人たちに言わせれば、高速道路を無料化したら大変なことになるそうだ。例えば国家が滅んでしまったりするのだろうか。国家などいつ滅んでしまってもかまわない。冗談としか受け止められないだろうが、嘘をつくならもっと荒唐無稽な嘘をついてほしいものか。政権交代ごときで国家の滅亡などを語ってしまうことがすでに荒唐無稽か。ともあれ今までさんざんやりたい放題なことやって、そのために赤字国債で借金しまくりだった人々を止められなかった評論家もどきたちが、これから何かをやろうとする人々を批判している姿が滑稽に見える。まあ彼らは何かの暴走を止めるのではなく、批判するのが商売だからそれは当然のことだ。しかし君は何を批判しているのか。批判している人たちを馬鹿にしてはまずいのではないか。ならばいい加減で軽薄なことを述べている君こそが批判の対象か。いや違う。君は批判の対象ではなく無視の対象だ。ひねくれ者は無視されるわけか。わからないがフィクションの中ではそうかもしれない。

 誰かはいつでもわけがわからない。本当はわかっているつもりだが、わからないふりでもしているわけか。そうではなく、それが何のつもりなのかわからない。つもりではなく本当にわからないのだろう。何がわからないのかわからないのはいつものことか。誰かはいつもそうやってまともに語ることから逃げている。逃げられないのに逃げようとする。実際に逃げているのではないか。たぶん逃げているのだろう。逃げながらいい加減なことを述べている。それは何かのアリバイ工作なのだろうか。冗談として受け止めるならそういうことだろう。冗談ではないのに現状をそうとらえるしかない。そう述べることに意味を見いだせないが、それがいい加減な語りのすべてなのだ。いい加減に物事をとらえれば、それに関する表現が紋切り型になりそうだ。それでかまわないのだろうか。今は何を考えているのだろう。世間に染まった人はつまらないということか。世の中はそればかりなのだろうか。そうだとしたらどうだというのか。誰が世間から逃れることができようか。

 何となく気が引けてくる。誰と誰がどうなったかなんて君にわかるはずがない。誰かは架空の存在で、物語の中にいるはずの君は不在のまま、他の誰かは空疎なことを述べている。それがどうしたのか。そういうくだらぬ問答から遠ざかりたい。たぶんそれらは皆余分な言葉なのだ。そんなことはわかっているはずだ。わかっているからそういう成り行きなるしかない。またいつもの意味不明に陥っている。だからやめた方が良かったのだ。何をやめたらいいのだろう。そこでしばらく考え込むが、その場の状況に合わせた言葉が出てこないようだ。何かに言及したいのだが、その対象が見当たらない。果たして君は冗談でそんなことを述べているのか。誰に問うているわけでもなく、自らに問うているわけでもない。そんなことを記すために問うているのだ。まったくくだらない。しかしそう述べて君は何を卑下しているのか。それの何が冗談なのだろうか。ただくだらないだとか冗談だとか同じ言葉が延々と繰り返される。それだけの文章のようだ。確かに今はそうだが、昔はどうだったのだろう。最近9年前の文章を読む機会があった。


9月2日

 茶番だそうだ。たぶん何かがそうなのだろうが、君にはわからない。別に茶番でもかまわないではないか。それがどうしたのか。さっきまで思っていたのはそういうことではなかった。もう少し前向きなことを語るべきだが、何となくそれができない。その気がないのではないか。あくびがでる。そして否定的な気分になる。何か馬鹿げているような気がする。もう語らなくていいのだろうか。その気がしないならそういうことになるだろう。ならば沈黙するしかない。いつもの遠回りを強いられているようだ。君はそこから遠ざかれないのだ。その必要がないのかもしれない。抜け出られない罠にはまっているのか。そんな気がしなくもないが、それがどうしたわけでもなさそうだ。気に入らないのだろう。そんなことをやっても無駄なのか。では何を語っているのか。それは語る必要のないことだ。近頃はそれ以外にはあり得ない。要するに無駄なことしか語れないのだ。そこに何があるわけでもなく、言葉があるのだろう。他に何を指し示しているわけでもない。そしてくだらぬ無内容だ。それで満足なのか。わかっているのはそういうことだ。

 今さら焦っても仕方がない。語るようなことではないのだろう。何もかもが遅れてくる。時間が通り過ぎている。何かが置いてきぼりなのだ。たぶん正気でそんなことを述べているのだ。わかっているのにわからない。わかろうとするほどわからなくなる。そして同じことの繰り返しになり、気がつけば深夜になっている。それが現状なのか。相変わらずわからない。わからないままここまで述べてしまったらしい。しかし誰が述べているのだろうか。白々しい問いだ。嘘をついている。何が問われているわけではない。確かに世界情勢は誰かを見捨てたようだが、誰かはそれに関して何とも思わない。君には関係のないことだろう。とりとめがなさ過ぎるか。誰にとっても関係がない。意味がないのだ。文章にもなっていない。いくらでも言葉が連なるが、それは意味をなさない言葉のつらなりだ。意味どころではないのだろう。頭の中が真っ白か。それで何がどうなるわけでもないが、とりあえず何かがどうにかなっている。それほど頭がおかしいわけではない。何とかしようとしているのだろう。空疎な無内容であってもかまわないから、言葉を連ねようとしている。

 人と人はなぜ対立するのか。そこに利害関係があり、感情的に相手を許せないのかもしれない。たわいないことだ。だがなぜそれがどうでもいいことなのか。少なくともそれに関して君はがんばれない。もう何でもかまわないのだろう。誰がどうなろうと知ったことではない。それは作り話の中に登場する誰かの台詞か。回りくどいことを述べているようだが、そんなのは嘘だろう。なぜそこで踏みとどまってしまうのだろうか。くだらないことを述べているだけではだめか。たぶんわからないのだ。では何をわかろうとしているのか。そういう問答の必然性をもたらせない。それは無駄なのかもしれない。たぶん無駄だろう。余分な言葉が連なり、意味のない文章が生成している。それでかまわないと思いたいのか。それともそうではないと思いたいだけだろうか。何事もやる前から批判していては何も始まらない。確かに始まらないが、始まらなければ終わらないだろう。そういうのがくだらないのだろうか。君は必死になれない。だからその程度でとどまっているのだ。しかし馬鹿げているのは誰なのだろうか。何を実現できないわけでもない。実際に言葉を記して文章を構成しているのではないか。つまらない内容だが、そういうことの積み重ねが大事なのか。気休めのたぐいだろう。気が休まらないのに気休めであるらしい。


9月1日

 たぶん通常の成り行きなのだろう。知り得たのはどうでもいいことだ。苦労してそんな認識に至ったわけではない。商品の宣伝を黙って聞き流す。何を買う気も起こらず、その場を立ち去るわけでもなく、何となくありふれた光景を眺め続け、どんな感慨に至るわけでもなく、きりがないからその辺で目を閉じて、あてのない空想を終わらせたつもりで、その続きがどこに記されていたのか思い出そうとしている。嘘だろう。誰にも思いつけないことではない。曖昧な記憶は意識を迷わせ、何を思いとどまっているのかを知りたくなるが、それは誰かが思い描くような言葉の組み合わせとは無縁だ。それらの文章はいつまでたっても意味をなさない。誰にとっての話でもなく、蒸し暑い空気を換気できずに、まだ夏が去っていないことを実感させるが、それらの無関係な文と文の間に意味的なつながりをもたらそうとしているわけではない。とうにあきらめてしまったようだ。そして誰かが安心している。もうその先を求めなくてもいいのか。すべては空疎だ。何か得体の知れぬ影を見失ってから久しいようだ。それのどこに希望を見いだしていたわけではない。続けようとしても続けられないこともあるのだろう。

 これからは不可能への挑戦は慎むべきか。ありふれた言葉であり得ないことを語ろうとしているわけではなく、ただ意味がわからない。それについて何をどう感じることもなく、どこへ向かっているとも思わずに、それで何を語ろうとしているわけでもなく、語る対象を見いだせずにいるだけか。そして眠たくなる。それについて何をどう感じているわけでもない。感性が問題なのではない。何が問題とも思えないことが致命的な欠陥なのか。感覚がずれているようだ。ついうとうとしてしまい、気づいたら何を思っていたのか思い出せず、それほど無理をしているわけでもないのに、疲れを感じて、あきらめてしまいそうになる。実際にあきらめてしまったようなことを述べている。だが実際に何をあきらめてしまったのか。それがわからなければあきらめたことにはならないのではないか。それはただの雰囲気でしかなく、そう思っているなら思わせておけばいいようなことなのだろう。さっきから目が覚めている。心も覚めていて、何でもないようなことを述べ続けようとしているらしい。

 行く手を何が遮っているわけでもない。どこへ行こうとしているわけでもない。意識は常にここにとどまり続けている。たぶんあきらめるのはまだ早いのだろう。すべては成り行き次第なのだ。これからどうなるかわからない。わからなければどうなろうと仕方がないのではないか。仕方がなければどうするのか。この世は幻想の産物だ。人は勝手な未来を思い描き、それに向かって突き進もうとするが、一方でそういう生き方がくだらないと思っている輩もいる。心は何かの一部となっていて、それが見慣れた光景であることを望むが、そこから崩壊が始まっているわけだ。結局のところ人は自らが瓦解するために生きているのだろう。日頃から目指している理想が幻想に過ぎないことは承知しているが、そういう幻想をやめるわけにはいかない。それを前提として日頃の生活が成り立っているからか。しかし誰かは本当にそこから遠ざかろうとしているのだろうか。何の希望もない荒野で暮らしていけると思っているのか。暮らしていこうとも思っていないのではないか。しかしまともな思考とはどういうものなのか。何がどうなればそれが満たされるのだろう。そこにどんな夢があるわけでもない。


8月31日

 たぶん何も語れなくなっている。意識がそれを意識しているようだ。他に何をもたらしているわけでもなく、ただ枯れた気持ちに近づく。まだ秋は早いだろう。しかし何を思うつもりもなく、どのようにそれらの空疎な気分を切り抜けるつもりもなく、ただありふれた気分をもたらしたい。他人がどう思っても仕方のないことだ。たぶん誰もが他人ではないと思っているのだろう。自分は自分でしかなく、そこにどんな思いが宿っているとも思えない。だが堕落するほど大げさな状況ではないだろう。職のある人は皆勤勉に働いているはずだ。しかしどれだけのことに必死になる必要があるのだろう。誰もが日々の糧を得るために必死なのだろうか。そうであったりなかったりするのかもしれないが、そんなことはどうでもいいことか。誰にとってもそういうわけではなく、中にはそれを真に受けなければならない人もいるはずだ。君もその中の一人なのだろうか。

 何を思い出そうとしているわけでもない。それは昔遭遇した出来事ではなく、たぶん今この時なのだ。何をどう語ってもそういうことになる。誰にとってもわかりにくい状況とは限らず、その中でうまく立ち回ろうと思っている人にもわかるような皮肉だ。何がそうなのではなく、そこから先には何かが待ち構えていると思って、期待しているような意識が出くわす肩すかしなのでもない。当たり前のことが当たり前のように繰り広げられ、それを当たり前のように眺めているだけのようだ。確かにそれは当たり前の光景だ。なかなか起こらなかった今までがおかしかったのだ。だからこんな案配になっているわけだ。誰が何を騒いでいるとも思えない。そして騒ぐような状況でもない。何かを淡々と見定めようとしている。どうにかなるらしいが、それは程度の差だろう。どのような変化が起ころうとも、何に動じるわけでもなく、どのような現象を目の当たりにして感動することもないだろう。それはそうなって当たり前のことなのだ。それ以外の何ものでもない。

 そして誰かは現実を正視できなくなり、斜め後ろから興味深い何かを覗き込んでいるつもりになる。何かとはどんな現象なのか。何かを覗き込んでいる誰かの動作がそのまま現象に結びついたりするわけか。そこに何らかの関連性を打ち立てなければまともな文章にはならないわけか。何を記しているわけでもない。興味深いと感じているのはそんなことではなく、どんなことでもない。だがすべての状況に対して無関心でいられるはずもない。現状をおもしろがっているのかもしれないし、つまらないと感じているのかもしれない。果たして君はそれらのゲームに参加しているのだろうか。それがどんなゲームなのかやり方を説明してくれないか。たぶん誰かは自由を巡る言説を織り交ぜながら、誰もが真に受けたがらないことについて述べているつもりなのだ。それは例えばどんなことなのか。この世の果てがどこにあるのか。それについて誰が語っているつもりなのか。気まぐれに気晴らしに興じている。そのすべてが冗談なのだろう。音楽を聴きながら、何を思い浮かべているのでもなく、たぶんそれが昔の出来事からきているのでもない。何に起因しているとも思えない。ならばその先にどんな言葉を続けたらいいのか。どうも真正面から語る対象について論じようというのではないらしい。何でもかまわないのだ。だからそこで終わる必要もない。もう少し何かを先延ばしにする必要もない。それが何でもないのに、その何かについて語っているようだ。どうでもいいのにどうでもいいことを述べる。それだけのことにかかりきりなのだ。たぶんそれが何を示しているのでもなく、それだけの作業が君を待ち受けている。


8月30日

 短く言葉をちりばめる。わかっているはずだ。そのはずだったがそれは何だろう。たぶん理由ではない。ではなぜそれには言及しないのか。ひねくれ者だからか。そうに違いない。面倒くさいのだ。いつもの成り行きに呆れている。たぶん君はそれを押し通すつもりなのだろう。何に関しても言及せず、ひたすら空疎なことを述べ続ける。それが間違っていることは百も承知のはずだが、なぜそれを続けるのか。わかりようがないことに囲まれているわけではない。ただ何かが違っているような気がするだけか。近頃はそればかりだ。無理であることもわかっている。

 おそらく時間があるのだろう。何かを語る余裕があるらしい。君には何もない。君ではないのだから何もないのが当然か。誰でもないだろう。何かが去ってしまったらしい。心の中が空洞状態か。馬鹿げていると思われるが、そんな比喩などものともせずに語る必要がありそうだ。まったく意味がない。誰が何をやろうとしても、現状を変えようとしている限りは痛みを伴い、改革とはそういうことなのだろう。しかし結局は何かを少し変えることにしかならないだろう。それでは不満かもしれないが、そういう結果を受け止めなければその先へは進めない。力がないから徐々に変えていこうとすることしかできない。たぶんそれでかまわないのではないか。あまり高望みしても途中で挫折するだけだ。だがそれでもかまわないのではないか。要するに何でもかまわないということか。そうであったとしてもそういうことだ。言葉で示している限りは何でもかまわない。実際に何かをやろうという時にはそれとは違ってくる。そういうことでしかない。

 たぶん感慨は何もない。気持ちは何かに逆らっているようだ。何とかそれをつなぎ止めている。何とかしたいのはやまやまだが、今はそれができていない。やっていることはやっていることであり、語っていることはそれとは違う。何が何だかわからないだろうか。そのために言葉があるらしい。だが最後の最後は実力行使なのか。その実力がなかったらどうするのだろう。何の話でもなく、暴力を行使しようというのでもない。ただの嘘話だろう。何も語らずにそんなことを述べている。何となくくだらなくなっているようだ。またいつものように馬鹿げているのか。そう思うなら、それを変えなければならないだろう。だから執拗に言葉を繰り出しているはずだが、それがいつものパターンなのだ。そういう結果が気に入らないらしい。

 それの何がおかしいのか。いつものようにわけもわからず笑うばかりのようだ。それで何が変わるのか。君にわかるようなことではない。具体的には何もわからず、ただその先の展開を予想したいだけのような気がする。たわいないことにこだわりすぎていたのだろう。それが今回の敗因か。大人げなかったことは確かだったが、それは昔からそうだったのだから、今さら直しようがない。たぶん何も変わっていない。そんなことでは何も変わりようがない。だから今からそれを改めようとしているのではないか。そんな雰囲気なのだからそれを見守ってゆかなければならない。だがやはりそれは馬鹿げた結論だ。何をどうしたいのかもわからず、今はすべてを無視しているのかもしれず、他の誰からも相手にもされていないのに、それでも他のすべてを無視しているつもりらしい。だからわからなくなり、いつまでたっても現状を把握できない。それがどうしたわけでもないが、そんなわけのわからない状況が気に入らない。


8月29日

 たぶんそこまでやる必要はないのだろう。しかし何をやろうとしているのかわからない。翌日の空は曇っている。昨晩は雨脚が強かった。唐突にそんなことを語りだすが、何が思いがけないわけでもなく、そこから何をどうしようというのでもないらしい。実際に何を語っているとしても、君にはわからないことだ。それは何を成し遂げるための努力でもない。君はそこから遠ざかるために言葉を連ねるだけだ。何を語ろうとしているのでもない。現状ではそんなところなのだ。仕方なく誰かはそこで改行しなければならない。もはや何を語っても無駄なのだ。

 政治とは何だろう。無駄でなければ何なのか。そういうことではなく、とにかく何かを成し遂げなければならないのだろう。無駄であろうとなかろうと、それを利用して現状を変えてゆかなければならない。建前論的にはそういうことになるのだろうか。なぜか前向きになれない。だが何を否定したいのかわからない。つまらないことだ。心の中で何かが復活を果たそうとしている。冗談なのだろう。何がそうなのか知りたいところだが、気持ちが何かに負けているようだ。それだけのことにこだわる理由を見つけられず、どうでもいいような気になり、そのまま探求をあきらめて眠ってしまいそうだ。

 疑念を抱いているのだろう。相変わらずそんなことを述べているわけだが、誰かはそれが気に入らないのだろうか。君はそこで何を見定めようとしているのか。それは誰かの予言通りの結果なのか。そうであったとしても何でもないことに変わりない。これからが見物か。いったいどうするのだろう。どうするわけでもなく、決めたことを実行に移せばいい。心の中で何かが分解している。それを探る手だてはなさそうだ。

 やはりそれらの喧噪から背を向けている。画面が何を語りかけているわけではない。くだらない世の中ではなくなるのだろうか。それも今後の成り行き次第か。まだ何も決まっていない段階で何を予想しても虚しいだけか。君にはやり遂げなければならないことでもあるのだろうか。今まさに語りつつある無内容について、誰に責任があるわけでもなく、他に何を示しているわけでもない。そこにはただの空疎が提示されているわけだ。そう思って差し支えない。ただそれだけのことだろう。無駄に言葉が連なっていて、誰かがそれを見定めている。どうやらそれでも虚無については語り尽くされていない。何をどう語っても内容があり、無内容であってもそれが内容であることに変わりない。

 では何をごまかしているのだろう。何もごまかしていない。そう思っているのだからそういうことだ。そういうことに違いない。それが間違った認識であろうと、嘘であろうと、今はそういうことにしておかなければならない。君はそこで何かをあきらめているようだ。まともに語ってはいけないことを語っているわけか。何となく反省するような気配を感じない。それどころかどこまでも居直ってしまいそうだ。それが何を決定的にしてしまうわけでもないだろう。何かと決別してしまうわけでもない。やはり君には関係のないことなのか。何がどうあってもそういうことのようで、それに関して何を語るつもりもないらしい。


8月28日

 本気を出すとはどういうことなのか。今までに経験したことがない状況に陥り、そこで誰かの真価が発揮されるわけでもなく、それほど途方に暮れているわけでもなく、冗談のただ中に誰かが居座っているわけでもない。言葉が断片的に散乱しているだけか。誰に託された言説でもない。それをわざわざ語ることはないだろう。ただ面倒くさいだけか。そんなわけで誰かは何かから逃げているようだ。それは終わらない話になりそうだ。

 面倒くさいからその辺でやめたくなるが、その辺がどの辺なのか見当がつかず、結局道に迷って、語っていることが意味不明になる。だからそんな話はないだろう。そうやって君は何かを終わらせようとしているのだ。何の警告にもなりはしない。差し迫った危険を無視していられるほど無防備だというのか。誰がどこで迷っているのかわからない。ただの戯れか。何がおかしいと思っているわけではない。もう少し中身のある話にしたいわけでもなく、ただ何となく言葉を並べ、行き当たりばったりでその場の成り行きをねじ曲げようとしている。無意識がそうさせるのか。だから君には現実が見えていない。ならばよくわからない忠告をありがとうと返答すれば気が済むのか。誰の気が済むのだろう。

 まだそこまで到達していないようだ。それが何かの頂点であるはずがない。どの山を登っているわけでもなく、それを眺めているわけでもない。だがそれでも画面に言葉が並んでいることに変わりない。それとこれとは無関係かもしれないが、そういうことなのだ。何だか投げやりでやけくそのような気がするが、それで何がわかったのか。

 そこまではわからない。何をしようとしているのかもわからず、誰の意図かもわからない。指図である必要はないのではないか。そうやってまたどこかへ脱線していってしまう。だが逸脱しているのは誰の意識でもなく、言葉の連なりは至って順調か。何がそうなのかわからない。たぶん付け加えるべきはそんなことではないのだろう。このままではどこまでも違ってしまうようだ。まるで言いたいことは何もないかのように話なき話が進行してしまい、空疎な無内容はいつもの通りに表されるのだろうが、それがどうしたわけでもないのもいつもの通りだ。そしてさらにわからなくなる。

 たぶんおかしいのだろう。何がおかしいのかもわからないが、それが一目瞭然だとしたら、君の頭がおかしいのだ。誰でもないのに君はない。それが何でもないとしたら、君はさらにおかしいと思うだろう。おかしい理由が見いだせないようだ。それを感じ取るまでもない。一度文章を読み返してみたらいい。それらのなんでもなさが誰かを追いつめるのか。精神的にはそういうことになるかもしれないが、依然としてそれがどうしたわけでもない。それ以上に何かを知りたいのだろう。だからさらに逸脱して、誰かの忍耐の限界を見極めようとする。それはまったくの冗談だ。そして知り得たことはそんな現状には適合しない。ついに結論に至るわけでもなく、何となく意地の悪いはぐらかしに遭っているような気分になる。そして君は何もわからず、それでも途方に暮れるでもなく、平静を装っているようだが、実際のところはよくわからない。


8月27日

 まだこの日付なのか。それに関しては改めて何を問うまでもないだろう。ただ言葉を記すのが遅れているだけだ。行き詰まっているのか。それとも何かから逃げているのだろうか。その何かから背を向けている。だからどうしたわけでもないが、何となくそういうことなのだ。誰かは普通に暮らさなければならない。どうということはない人生を歩まなければならない。しかし誰かとは誰だろう。そんなことを語っている場合ではない。今は何かを適当に語らなければならないのだ。だがその気にならないのはどういうわけか。それについて時々思うことがありそうだ。でてくるのは何かの断片でしかない。なぜそんなことを延々と繰り返しているのか。それで何が不満なのだろうか。

 気味悪くなってきたので改行してみよう。なぜ同じようなことを延々と述べ続けているのか。時にはそれだけだと思いたい。それだけではないと思うから、いつの同じパターンにはまってしまうのではないか。わかっていながらそういう成り行きになってしまうようだ。何だかそれはお粗末な気がする。ならばいっそのことやめてしまうか。それもいつも思っていることではないか。

 気分次第にいい加減になってくる。時にはそういう成り行きも楽しいか。実際に何がどうなっているわけでもなく、いつもと同じようなことを語っているらしい。空疎な内容だ。それもいつものことか。遠くを見れば雨が降っている。すでにやんでしまったのではないか。虫の鳴き声がうるさい。たぶんそういうことでもないのだろう。それほど嫌気がさしているわけではなく、その嫌気のさし具合を楽しんでいるのではないか。しかしそういうのはありだろうか。

 逃げていることに変わりはない。まともなことを語るのが嫌なのか。それができないだけか。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。生き物はやがて死ぬ。そんな当たり前のことを目の当たりにして何を思うだろう。自然の成り行きはどこまでも自然だ。そこで何をあきらめてしまったわけでもなく、ただそれが自然の成り行きであることを自覚しているだけだ。それでも人はこの世に何かを残そうとしている。自らの意志を具現化したものを残したいのだろう。それを成し遂げるためにひたすら努力する人もいるのだろう。君は皮肉まじりに何を批判しているのか。

 わからないことをわかったふうに感じているのではない。ほどほどのところであきらめたらどうか。しかし誰に何を忠告しているわけでもない。どこかで何かが抜けているのだ。絶えずそんな気がしている。それが偽らざる実感か。しかし何をどう述べたらいいのだろうか。それに関して感じていることではない。カフェインの効果で意識がはっきりしてくる。それの何が倫理的なのか。覚せい剤を使っていたテレビタレントのことではない。人それぞれだろう。あくまでもそういうことでしかないのに、人々はそれに関して一言発したいらしい。

 人がいつまでも人でいられるはずがない。昔の人はどう考えていたのか。たぶんそれは皮肉ではない。君が感じているのはそういうことだ。誰もがそういう人になれるわけがない。様々な段階で脱落者がでて、そういう水準でとどまっている人たちが、さらなる上を目指す人たちの糧となっているのだろうか。しかしそれでは結局階層構造になるだけではないか。新たなる身分制度なのか。


8月26日

 何も意味不明ではない。何がそうなのではなく、それだけのことに手こずっている。ただそれだけなのに、それができない。そういうことでしかないが、それがままならない。語るのがおかしいのだろうか。誰かはそのことについて語っている。そういうことではないのだろう。そうではないと思いたい。近頃はそればかりだ。他に何もない。だからそういう話はそこでおしまいだろう。今はそれとは違う話をしなければならない。とりあえず何かに毒されているのかもしれないが、そこから何かを語らなければならない。それはわかりきったことだ。だがそれができないのもわかりきったことか。だから何かに毒されているのだろう。君がそれを求めているのではないが、何かを語ろうとすればそうなってしまう。しかしそれで何に挑戦しているのか。それでも何かの挑発に乗っているのだろうか。場数を踏んでいるようだが、それが何の役に立つのだろう。君が語ろうとしている内容ではない。そこから大きく外れているのだ。無意識のうちにそうしている。君がそうなのではなく、語ろうとしている内容がそうなのだ。

 便宜上そうなっているだけなのかもしれない。それは簡単な仕組みであり、さらに違う展開を予想させるものではない。いつまでたっても同じことの繰り返しなのか。それで何を示せるのか。実際に示しているのは空疎な語りそのものなのだろうか。しかし誰に何を語らせようとしているのか。そんなことが君にわかるわけがない。どこからともなく何でもないことの延長上に何かがやってきて、その先に言葉が連なっているようだ。それも何でもないことの一部なのか。人は自らを単純化しすぎている。どうしてもそういう方向へ進んでしまうようだ。それが自らを研ぎすましていると思い込むことの要因となっていて、そういう努力の結果として何がしかの成功が手に入り、それが自らの判断の正しさを証していると信じさせるのだ。たぶんそういう成功者は老いて満身創痍のただ中にいるのだろう。社会的な成功への過度な努力が自身の心身へ負担をかけすぎてそうなってしまうのだろうか。中にはそういう人もいる一方で、努力が足りなかったりして、あるいは運がなかったりして、途中で挫折してしまう人がほとんどなのかもしれず、そういうところから何かを達成することの価値の希少性が生まれてくるのだろう。

 たぶんそういう夢の実現や目標の達成のごとき行為は、その過程で人を何者かに変貌させるのだ。あるときそれはたわいない無名の精神の持ち主から、周囲の誰もが一目置く有名人へと進化させるのだろうし、それがたゆまぬ努力の果てにつかみ取った賜物だと信じ込むこと許し、そういう一連の成り行きが結果として何らかの物語を生むのだろう。それは人が感動する物語の典型か何かなのだろうか。たぶん人はそこで何かに圧倒されているのだろう。多くの人がなし得なかった業績のようなものに隔てられているのだ。それが崇高な気分を生じさせ、達成したことの偉大さをたたえようとしているわけだ。しかし君はそれが何なのかと問うだろう。まさか何でもないという結論を提示しようとしているのか。それは何かのフィクションなのだろうか。誰かはそれのへんでやる気を失い、眠ってしまうようだ。何やらそれがどうしたわけでもなく、次第に虚しい試みに結びついてくるようで、そこからそういう物語についての否定的な見解を導きだす手前でかろうじて踏みとどまり、無理に何かを肯定する動作を継続させたいのだが、やはりそれは無理のようで、思い直して眠ってしまうようだ。どうやらその辺が限界らしい。


8月25日

 何がそうなのかわからないが、たぶんそれだけのことだ。そこから物語を始めるつもりなのか。冗談に収まりそうな気配だ。おかしなことはまだあるらしい。何を感じているのだろうか。疑心暗鬼になっているのかもしれない。他人はいつでもそうだろう。くだらぬ被害妄想に染まっている。そう思いたいのだ。では自分は他人とは違って、そういうことはないのだろうか。ありすぎるのではないか。それこそが疑心暗鬼に陥っている証か。わからないがそういうことか。何がわからないのかわからない。たぶんそれ以上は無理だろう。わからないから無理なのだ。そしてわかる必要はないのかもしれない。君は何をわかろうとしていたのか。堪え性がない。焦っても何も出てこないだろう。語ろうとしていないことを記そうとしているのではない。だから無理なのだ。空は晴れ、蝉の鳴き声がうるさい。そして君はどこへも至らない。そして誰の記憶にも残らない。ではなぜ性急に事を運ぼうとしているのか。それは違うと思われる。ただわからないことを述べているだけのようで、他に何を語ろうとしているわけでもない。

 しかしそれの続きはどうなっているのだろうか。続けるのは無理か。何が困難になっているのだろうか。だからこれ以上は語るのが困難になっているのではないか。語れなければ記せばいい。そういう問題ではない。何を解決しようとしているのでもなく、他に何をやろうとしているわけでもない。君はひたすら黙り込む。誰が君でもない。いつものように何かが外れているようだ。それは的外れな指摘なのか。少なくとも何かをやろうとしているに違いなく、たぶん何もできないわけでもないはずだ。誰かにとってはそうかもしれない。君は悪運が強い。それでも何かに敗れ去っているのだろうか。そうとまでは一概に言えない。ならば何なのか。また何でもないことを述べているつもりなのか。そうかも知れないが、実際はどうかわからない。ではその場で何を語らなければならないのか。新型インフルエンザが怖いのか。それとこれとがどういう関係にあるのかわからない。それもこれもおかしいに決まっている。確かに何か内容が馬鹿げているのはいつもの通りだが、そればかりではどうしようもない。たぶんそれでも何かをどうにかしたいのだろう。それにしても疲れている。明日があるからもう寝なければならない。

 どうやら今回も無駄話で終わってしまいそうだ。やはりどうにかなるような状況ではなかったらしい。何もなければこうなってしまうのが当然か。何かあるような気はしているのだ。たぶん何かあるに違いない。それでも人はなぜ生きているのだろう。人は仕事をするために生きている。そうであったら楽しいか。楽をしているわけではない。その反対で実際には苦しいことばかりかもしれない。そんなわけで現実はどこまでもそんな現実でしかなく、つまらない現実ばかりなのか。そう思いたければそう思っていてかまわない。他に何を思っているわけでもなく、他がないからこんな案配なのだ。状況は至って何でもない。そんなことを述べているうちに何かがぶり返してきたのだろうか。自意識は不思議な感覚に包まれている。フィクションを語ろうとしているのに、それが実際に起こった出来事であったりするわけか。君にはそれがわからない。いつまでたってもわからないだろう。何をわかろうとしていないのか。冗談で何を述べているわけでもない。大した対談ではなく、空疎なことを延々と語り合う。なぜ誰かは虚無的な無駄話に惹かれるのか。そこに何もないことがこの世界の現実の姿を物語っているからか。


8月24日

 それでも昨日の日付なのか。ぼやぼやしているとまたいつもの二の舞だ。それでもかまわないのだろうが、大したことはないと思っているうちにおかしくなる。君が必要としているのはそういう状況なのだ。それがないと何もない。現実に言葉の他には何もない。そしてその気になってそこから続けようとしている。何もないのにそういうことだ。もうなれているのだろう。うんざりしているようだが、そんなことの繰り返しだ。それでもそれが何かの積み重ねなのか。ちりも積もれば山となり、それがゴミの山だとしても、その中に誰かの思いが埋もれているわけか。しかし感情とは何なのか。果たしてそれでかまわないのだろうか。たぶんそうではないのだろう。そう思うからそこでやめてしまう。これ以上は無駄に言葉を記したくない。何かを確実に裏切っているようだ。それをやればやるほどそうなってしまい、後戻りができなくなるほどに取り返しがつかなくなる。だから終わっていると言えるのだろうか。たぶんそういうことだ。勘違いでなければすでに終わっているはずだ。君はそれが勘違いであってほしいのか。

 それが現実だろう。まぎれもなくそこで何かがうごめいている。言葉ではない。記していることが間違っているのだ。たぶん間違っている。そう思っているのだから間違いない。冗談の続きではそうだ。冗談でなければ本気なのだ。何を記しているのでもないのはいつもの通りだが、実際に何かを記している。そんなふうにしてその状況を何とかしようとしている。それの何が無駄でないのかわからないが、そこでうごめいているのは誰かの意識だ。そういう結論も嘘なのだろうか。わからないようだ。君は今もそれを真に受けているのか。続けていればいつかは報われるのか。今はそういうことではないような気がするらしい。どこまで述べても作り話には至らない。フィクションではなく現実なのだろう。この世界では現実感が希薄なのだが、それが妙に現実感を帯びているようだ。心の中ではそうだ。何がどうあってもそうなってしまう何かがある。そんな感覚が言葉を記すことによって生じているらしい。だからよりいっそうわからなくなるのではないか。何を語ればいいのかわからない。すでに君はそうなってしまっているのだ。作り話の世界ではない。君はどこまでも君でしかなく、君以外ではあり得ない。だからそう記している。

 冗談の続きはそんなところか。何がどこまでも冗談なのか。いつものように何かが違っているのだ。近頃はそればかりだが、それ以外には何も思いつかないので、どうしようもなくそういうことになっている。君はそれでも何かを見定めようとしていて、その他には何もないような地平のただ中に意識をおいているらしいが、それも作り話の中に空想される光景なのか。だからそんなふうに思っているのだろう。それの何がとてつもないわけではない。ただの幻想なのだろう。誰かはたわいない言葉の連なりを幻想している。実際に記しているのではないか。記しているそれはさらにたわいない。だから何の感慨もわいてこない。それでかまわないのだろう。かまわないが驚きが欠けている。しかし何に感動したいのか。はじめからあきらめていては感動できないだろう。心が動かなければどうするのか。どうもしないからなおのこと何でもなくなってしまう。やはり君はそれでかまわないのか。安易に言葉を連ねて何を述べているつもりなのか。何のつもりでもなく、無意識のうちにそうしているのだろう。それができればそう願いたいところだ。現実にそれができているのではないか。しかし話の中身が何もない。それでかまわないのだろう。


8月23日

 まったくこんな状況で何を記したらいいのか。どんな状況でもないが、とりあえず何かが馬鹿げている。嘘だろう。ならばそれらの大げさな話の中では何がどうなっているのか。内容が空疎で、何が何だかまったくわからなくなる。だが現実の世界では何がどうなっているわけでもなく、たまたまフィクションの中ではそういうことらしい。君にはわからないことだ。そして誰かは言葉を記すこと以外は何もできなくなってしまう。しかしいったん目が覚めれば翌朝になっていて、今日も仕事をしなければならなくなる。現状はいつもの週明けに違いない。やる気がしないのだろうか。何を語ればいいのかわからない。そんなわけでまた遅れていってしまうような気がする。実際に遅れているようだが、それは何かの宿命なのかもしれない。しかし何かとは何なのか。たぶんそれは君には必要のない何かだ。その何かが何だかわからないのだから、必要ではないのだろうが、誰かにとっては何かという言葉がないと文章が成り立たない。だから文章にとっては必要なのではないか。しかしそんな文章自体が無駄で不必要なのだ。ただ記されているだけの文章だ。

 だからたぶん理由もなくわからない。意味もわからず途方に暮れている。世の中はどうなっているのだろうか。どうにもなっていないような気がするが、それがどうしたわけでもなく、ただどうにかなっているようだ。やはり君には関係のないことか。いったいそれの何に関係があるというのか。それとは何だろう。それに関して具体的な内容がでてこない限り、それはないだろう。現状では相変わらずの空疎でしかない。話がないのだ。語ることがない。それが率直な何かか。少なくとも感情の発露ではない。そこで何が露見しているわけでもない。いくらでも語ることができて、言葉は無尽蔵だ。気休めではそうだ。気休めでなければ何も答えられない。だが何が気休めなのかわからない。気休めで何を述べているのか。誰かにはそれがわからない。何かが違っているのは毎度のことだが、それ以外は何も気づいていないらしい。もう終わっているのではないか。何が終わっているのだろうか。話の方はまだ始まっていないらしい。無駄な言葉が邪魔をして、そこから先に話が進展しないようだ。それも嘘の一部なのか。意識はそこまで行っていない。問題なのは自意識ではない。そこで何を意識する必要があるのか。意識は何もわからないわけではない。

 やはりそこまで語る必要がないらしい。きっとどこまでもそうなのだろう。いくらでも無内容になる。何を否定しなくてもそうなってしまう。では安易にそれを肯定すべきなのか。必要もなくそうなってしまうのだろうか。何がそうなのかわからない。できることはそうであり、実際にやっていることもそうだ。何かが先延ばしになり、いくらでも先延ばしになる。何も語れなくてもそうなってしまう。だから今はそれを続けているわけだ。理由もなく続けていて、それの何が話なのではなく、意味もなく言葉がつながってしまうのだ。他に何がそうなったわけでもない。そうなってしまった原因は何もないことだ。わかりきっているようでわからない理由がそれだ。そしてそういうことの積み重なりがそれらの文章なのだ。何も語らずに言葉をつなげている現状があり、そこに迷いが生じているようだが、迷ってばかりでかまわないのだろう。迷えば迷うだけ言葉がつながってしまい、意味もなく何かが先延ばしにされ、その分だけ文章が長くなり、それが思うつぼのようで、そういうのもありだと思ってしまうらしいが、果たしてそれでいいのかと問えば、やはり結果がくだらなすぎるような気がする。やはり馬鹿げているようだ。


8月22日

 政治に興味はない。現状ではそんな嘘をついておくのが無難なところだ。誰かには善意と良心が欠けている。それも嘘の一部だろうか。何がそんなにおかしいのか。笑うところではない。たぶんわかっているのはそんなことではない。それはわからなくてもいいことだ。何をわかりたいのかもわからない。何よりも意味が通らないことを述べている。それで笑ってしまうのか。やる気がないのだ。何をどうしたいわけでもない。何がどうしたわけでもないだろう。ただそんなことを記しているだけだ。だからよりいっそうつまらなくなってしまう。そんなこともないだろう。何がやる気を奪っているのだろうか。仕事上の忙しさか。それは安易な理由に違いない。情熱をなくしてから久しい。感情的になれなくなってしまったようだ。何を否定したがっているのでもないらしい。すべては終わってしまったことだ。何かのきっかけで誰かにはやる気が失われ、特有のこだわりが解消してしまったらしい。君はそこでどうなってしまったのか。物語の登場人物ではなくなってしまったのかもしれない。それはもとからそうだろう。

 どういうことでもありはしない。何がどうなってもかまわないというのが架空の姿勢だ。そこから先は何も語れなくなっている。だからいつまでもとどまり続けるか、後戻りしなければならない。そこへと至る迂回路はどこからどうなっていたのだろうか。どこかの深海で見たこともない奇怪な魚が泳いでいる。それは誰かの知識だ。そんな映像をテレビで見たことがある。そんなふうにして何かと無関係なことを述べているようだ。何かとは何なのか。やはり何でもないのか。何でもなくはないと言いたいところだが、現状では具体的なそれを語ることができない。だからやはり何でもないのだろう。空疎なことを述べるのに慣れている。誰かはいつだってそんなことを記していたはずだ。何も熱意が伝わってこないようだ。熱しやすく冷めやすいどころではなく、心はまったくの空洞で、何も感じない。ただ暇な時は音楽を聴いている。ひたすらそうなのかもしれないが、そこであきらめるわけにはいかないらしく、今もどうでもいいことをひたすら記している最中なのか。誰がそれをやっているのだろうか。誰かは何か決まりきったことを述べていないか。その存在が架空なのかもしれない。

 しかし情熱とは何なのか。それらの情熱は何をやり遂げようとしているのだろうか。そういうことではない。ただそんなことを語りたいわけでもなく、ただでもないのだろう。だから何でもないと述べているではないか。やる気がしないのは毎度のことで、何をやろうとしているわけでもなく、やりたいことは何もない。そんな嘘をついているわけだ。言葉はまったくの堂々巡りに陥って、意味もなく意味不明になり、それらの連なりようがおかしな印象を醸し出す。いったい言葉の他に何が連なっているのか。冗談の連発というわけでもない。それでも何かが記されているはずで、それが情熱の賜物ではないにしろ、単に無気力ならそこまで続けられないはずか。そこで何かが自己矛盾に陥っているのかもしれず、継続への意志は強固なものがあるが、肝心の内容が何も伴っていないのだ。それで何を述べているつもりになれるのか。何がそれでかまわないのか。やけくそで何かいい加減なことを述べているわけでもないはずだ。気が狂っているのでもない。たぶん何もかもがそこから生じているのであり、その何もかもの一部が言葉となって連なっているのだろう。だがそれで何を語っていることになるのか。


8月21日

 少し秋が近づいたようだ。それほど暑くない。そして眠ってしまったことに気づく。ただ疲れていたのだろう。放っておけばそのままだった。放っておけない何かがそうさせるらしい。そして我に返る。正気に戻ったのだろうか。何がどうしたわけでもない。まだ正気に戻っていないのかもしれない。何を認めたくないのだろうか。何も思いつかないのを認めたくない。そんなのは何でもないことか。何でもないからそんなことを述べているだけか。そう決めつけるのはまだ早い。アトピー性皮膚炎がかゆすぎて目が覚めたのだ。当分は治まらないだろう。そういう感覚は執拗に続く。近頃はそんなことの繰り返しだ。何かが一進一退の攻防を繰り広げていて、それが何かの小康状態をもたらしている。そう思っていればいいのだろう。良くなりかけては悪化する。何かがそういうことなのであり、すべてがそうではないが、やはりいつまでもそうなのだ。誰かはそれに耐え続けているようだ。今ひとつ必死さが足りないようだが、とりあえず耐え続けている。そしてそんな案配でその先に言葉が連なる。

 今はそれでかまわない。そう思っておいて差し支えない。まだ言葉を記すだけの時間があるはずだ。それほど時間を有効活用しているとは思えない。だが何のために無駄に時間を費やしているとも思えない。目的がない。それがなかなか見えてこない。たぶんなくてもかまわないような何かを追い求めているはずだが、そういうのは追い求めているとはいわないのではないか。だから何でもない意識のただ中に架空の目的が埋没している。ひたすら回りくどいことを述べているようだ。それは本当に過去の出来事なのか。たぶん何について語っているのでもない。全身に何かの感覚が残っているのかもしれない。だからひたすらかゆいのか。しかし何も理由になっていないだろう。それはまだそこまで至っていない証拠となるだろうか。どこに至ろうとしているのか。それは正気でない境地などではない。おそらくさらに何でもないことなのだろうが、それでも言葉の連なりを前進させていることになるのかもしれず、それで一安心するわけでもないが、とにかく何か述べているつもりになれることは確からしい。薬の塗ったから一安心というわけでもない。どのようなつもりになれるとも限らず、それで何を知り得たことにもならないだろう。

 建前論とは何か。そこからもう一悶着がありそうだ。感覚が疑われる。そんなことは述べていないことになりそうだ。結局はそういう環境を自ら作り出しているのだから自業自得なのだろう。しかしそれは胸にしまっておかなければならず、すぐさま責任転嫁の対象を探し出し、自分は悪くないことになってしまいそうだ。そんなわけで時間稼ぎをしながら何かの出口を模索している。うまく収まるとは到底思えない。収集の当てもないのに、とりあえずの結論を手当り次第に並べて納得させようとする。そんな行き当たりばったりでは納得しがたいことは確かだが、正論も何もあったものではない。何とかなればそれでかまわないのだろう。やっているのはそんなことばかりだが、それでも行き詰まりがつきまとい、どうにもならなくなってから、その先があることを悟るわけだ。まったくあり得ない話なのに、その先があり得てしまい、ことの善し悪しはともかく、何とかとりあえずの結論を押し付けて、それで何とか勘弁してもらわなければならず、勘弁できなければ、泣き落としか何かで強引な態度に訴えることになりそうだ。しかしそれで何を述べていることになるのか。たぶん今日も馬鹿げたことを述べているのだろう。


8月20日

 雑な言葉の処理だ。昼の空は雲っていて、烏と蝉が鳴いている。アブラゼミの鳴き声はうるさい。それは昼の記憶として記されるだろう。何のことはない。何がどうなっているわけでもなく、いつもの日常だ。考えるには言葉が邪魔なのか。何を考えているわけでもないが、それから数時間が経ってしまったらしい。何も思いつかない。今は夜だろう。昼は仕事をしていたはずだが、それがどうしたわけでもない。たぶん君の記憶は曖昧だ。手帳には何の予定も書き込まれていないようだ。カレンダーを見ているだけか。そういう習慣とは無縁なのだろう。絶えず記憶がたよりで、忘れてしまったらそれでもかまわない。季節が過ぎ去り時代も過ぎ去ろうとしているのに、まだ前の時代の感覚で何かを主張しようとしている。だがそれは本当に時代遅れなのだろうか。物語もそれが含まれる時代の制約を受けているわけか。いったい何が限界なのだろう。それらの物語が何を語っているというのか。誰もそんなことはわからない。それは誰が至った結末でもない。しかし物語の内容が文章として示されないのはどういうわけなのか。

 冗談が過ぎるだろう。いつまでも何か適当でいい加減なことを述べているのではなく、もう少し具体的なことを述べてみないか。それは誰からの要請なのだろう。そうではないと思うだけだ。すべてがそんな案配なのだから、もはやまともな内容は期待しない方が良さそうだ。たぶん何がどうなろうと、そんなことはどうでもいいのだ。何かが勝手に語りだしている。それだけのことだ。そしてそれ以外に何があるわけでもなく、ただ言葉が連なっている。気がつけばまた同じことの繰り返しとなっている。それで満足できるわけがない。今がどんな心理状態の中にいるわけでもないこともわかっている。それは誰の意識でもない。わけがわからないと思っているのでもなく、その先に何があるのか確かめようとしているのでもない。何もかもが不透明で、先行きを予想できない心境でいるらしく、理由もなく語りだしているその無内容について何を感じているのでもない。何かの技巧によってそういう文章が成り立っているのだろう。ただそのつもりでいるだけかもしれない。まったくそれらの言葉の並びにはうんざりさせられる。不在の君はどこかで何を考えているのか。そんなことまで考える必要はないか。

 何はともあれやっとのことでここまでやってきた。無駄に不必要な言葉を連ねながらも、そこから何らかの雰囲気でも感じ取れるだろうか。それがどうしたわけでもないが、何となくそんなつもりでいるらしく、無根拠な自信に裏打ちされた何かに圧倒されているわけではない。それとはまったくの無関係だ。他に何をさがしているのでもなく、闇雲に言葉を繰り出しているのでもない。何かに導かれている。それが虚無なのか。わからないが神秘的な何かの存在を感じ取っているわけではない。たぶんその辺に無理が生じているのだろう。言葉を記しているのはまったくの素人だ。誰かがそういうことをわかった上で、そこから先にさらなる言葉を連ねようとする。本当になんでもないのだろう。何がそうなのかも文章上に示されない。それでも今は今日だ。今日の時間帯で何かを記している。そして何がそのまま終わってしまうわけではない。終わらなくてもかまわないのだ。無理に終わらせようとしなくても終わる時は終わるだろう。だから何を期待しているわけでもなく、その時が近づいていることを予感させる何かがあるらしい。それはそれらの文章上には記載されていないエピソードだ。だから誰が何を惑わされているわけでもない。


8月19日

 問いは無限にくだらない。何を卑下しているのでもなく、実感としてそうだ。たぶん今日は今日なのだろう。果たして今日が今日のままに終われるだろうか。気を抜けば明日になってしまう。君はまだどこかで生きているのだろうか。悪霊退散というわけにはいかないのか。何をそんなに恐れているのか。今日が明日になってはまずいことでもあるのか。そんな話をしたいわけではない。もう少し具体的に何をどうしたいのだろうか。例えば日本という国はどうなってほしいのか。たぶん何がどうなってほしいわけでもない。たぶんそれは違うはずだ。単なる字数稼ぎではないようだ。それらの問いに対して誰もが納得するような答えはない。日本がどうなってほしいとも思わない。たぶん全世界的にどうにかならないと、日本もどうにかならないだろう。日本という国家の内側だけでうまくやろうとするのはおかしい。たぶん国家間競争という概念の外側で何かをやらなければならない。最終的にはそういう競争が無効になるような状況を作り出さなければならないだろう。そのためには何をどうすればいいのだろうか。

 各国家にとっての共通の敵などを作り出すのは馬鹿げている。すべての国家が一致団結してテロとの戦いを繰り広げているようではおかしい。人は土地や国家にいつまでもしがみついていてはまずいのではないか。貧しくてその地域で暮らせなくなった人々を、移民として豊かな国々が受け入れなければならない。最終的な解決策はそういうことでしかないような気がする。テロの温床となっている経済的な格差を世界的に平準化しなければならず、貧困は全世界で分かち合わなければ何も解決しない。アフガニスタンの荒れ地で農業を振興しようとしたところで、豊かになれる人は限られている。アメリカ辺りの大規模農業からもたらされる農産物と価格競争などできるわけがないだろう。国境によって外国人を閉め出して、自国民だけ豊かになろうとすれば、貧しい外国人たちによる復讐の対象となるだけだ。あいつらだけいい思いをしやがってというわけだ。だから一民族一国家などというのはおかしい。とりあえずの原則としては多民族一国家であり、さらには国家そのものを消去して、多民族でひとつの世界を構成すべきなのだ。そして最終的には民族という概念も解消すべきだ。

 それの何が冗談なのだろうか。たぶん荒唐無稽な夢だと思われても仕方のないところか。もし実現すれば悪夢となるかもしれない。混乱の極みになるだろうか。たぶんそうなるべきなのだろう。そうならなければ今ある不具合は解消しないだろう。豊かな国で暮らしている人々は自分たちが損するようなことをやらなければならず、それは拒否すべきことだ。受け入れがたいことを受け入れざるを得なくなるわけだ。果たしてそんな度量が誰に備わっているというのか。目先の利益を追求するのに汲々としている現状からは考えられないことか。そんな度量のある人を増やすにはどうしたらいいのか。果たしてこの国の教育がそういう人を作り出すことを目的としているだろうか。そうではないような気がするのは誰しもが感じるところか。たぶんそんなことはどうでもいいのだろう。なるようにしかならないのがこの世の常だ。今のままでもかまわないし、また別の変わりようも可能な気もしてくる。とりあえず世界的に問題となっているのはそういうことであり、解決策もあるにはあるが、そういう解決方法では多くの人が納得できないだけだ。もちろん万人が納得できるような解決策が見当たらないといえば嘘であり、その手の人に言わせればそれがあるらしい。だがそれが本当にそうなのかと言えば、疑念を抱かざるを得ない。


8月18日

 何かしかけでもあるのだろうか。何かが何によって生じているのか。わかるわけがない。何かとは何なのかとは問うまい。馬鹿げているだろうか。誰にとってもそれは何でもないことだ。しかしそればかりではどうしようもない。どうやらまだ虚無の続きが残っているようだ。それを吐き出さないと先へ進めない。まったく難儀なことだ。そんなのは嘘なのだろうが、そうやって言葉を記してどうにかしようとしているらしい。どうにもならなければどうなるのか。どうにかなっているからどうにもならないのではないか。果たしてそういうことで納得するだろうか。誰を納得させようとしているわけでもなく、ただ言葉を記しているだけか。それでも何とかなるような気がする。何ともならなければそこで終わりだ。そして実際にそうなっているわけだ。しかしいつ終われば気が済むのか。言葉を記すのにも疲れている。たぶん何かの巡り合わせでそうなっているのだろう。それは君の宿命というやつか。大げさなことではない。ふと外を見れば空が曇ってきたようだ。それは昼間のことだろう。では今はいったいいつなのか。

 何となくごり押し気味に言葉を連ねている印象がある。そしていつまでもつまらないことを語っている気もしてくる。何とかならないのだろうか。いったん今日という日付に追いついておかないと安心できないらしいが、安心してしまったらどうなるのだろう。またいつものようにやる気を失って遅れだすに決まっている。他の用事が立て込んでやれない時もありそうだ。だからどうしたというのか。どうもしないから今は言葉を記して文章を終わらせなければならない。それができるとは思わない。思いもしないところで邪魔が入って、それを断念しなければならなくなるかもしれず、気が気でないが、とにかく意味不明であろうと、自己言及の連続であろうと、それをやり遂げなければ気が済まない。この際中身などどうでもいいか。いつもそうなのではないか。ならばもう少し気の利いたことを語ってみたらどうか。それができればすでに語っているはずだ。できないから心を虚無に覆われているのではないか。そういう理由が嘘なのかもしれない。本当のことなどどこにもありはしないかもしれないが、それもいったん語られれば嘘になるだろう。理由などもとから何もありはせず、そしてそう述べてしまうとそれも嘘になる。

 だから何でもないわけではない。理由などありふれている。ただ言葉を記したいから記しているだけか。そんな馬鹿げた理由では納得できなければ、何か適当な理由をねつ造してみたらどうか。その気もしないならどうしたらいいのだろう。どうもしなくてもかまわない。ただ理由もなく言葉を記していればそれでかまわないのだろう。誰にとってもかまわないはずだ。しかしそれもいい加減に飽きてきたはずだ。まったく何を語っているのかわからなくなってきたようだ。どうでもいいことを延々と語っているような気がするのだが、それでもかまわないのか。誰に問うているわけでもない。何を語ってもそんな案配なのだ。何でもないのに何かを語っているようだ。どこかの政党の党首の演説ではない。君には目的がないのだ。何を変えなければならないのだろうか。まずは目的を持たなければならない。そして目的を達成させるために語るのだ。しかし目的とは何だろう。君の目的とは何なのか。言葉を記すのが誰かの目的なのだろうか。それは君の目的ではない。君には目的がないのだ。ならば何を主張したいのか。君が主張したいのではなく、誰もが主張したいのでもない。だから何を主張したいのでもない。そんなのは嘘だろう。


8月17日

 なぜ邪魔しにやってくるのか。それは機会ではなく、何のことでもない気まぐれな視線に違いない。注意を惹こうとやってきた偶然の賜物だ。君はそれで困惑の度を深め、何かを中断してしまうのだろうか。そうであってはならないと思いつつも、それに関心を抱きざるを得なくなる。まったく馬鹿げた話の展開に呆れてしまうか。君はそれでもその先を模索し続け、何のことやらわからない話を続け、何らかの結果を強引に導きだして悦に入り、そんな自らを嫌悪してしまう。そんな話の内容なら興味があるのだろうか。話はまだそこまで行っていないのではないか。君はまだとどめを刺されていないらしく、さらに手足をばたつかせて、必死になって立ち上がろうとするが、間もなく終わりの時が訪れるだろう。しかしいきなり死んでしまっては終われなくなってしまうのではないか。いったいその場の状況は何を終わらせるつもりなのか。まったくもってくだらない話の展開以前にわけがわからず、そんな状況はおかまいなしに、何かの混乱に拍車がかかり、それに乗じて誰かの死をうやむやにしたくなり、結局そんな話はなかったことにしてしまう。

 結局それは何だったのか。何でもなければいつもの通りに語り続ければ済んでしまうことか。そうであってほしいようだが。そこから言葉が連なり、さらに何が記される。もう話の継続などどうでもいいのではないか。どうでもよかったはずだが、それ以上に何かをどうにかしようとする気持ちが強いらしく、実際にどうにかしている際中なのだろう。意識は限界を超えて何かを語っているつもりになりたいようだ。だがそんなのは限界ではなく、何かの予定調和がそうさせているに過ぎず、依然としてその範囲内で言葉を記しているのだろう。君にはその先が見えているらしい。何となくそれをやってしまったら終わるのではないかと思っていて、それを期待しているようだが、肝心の話の内容が空疎きわまりないように思われ、そのままでは終われないと思い、それとは別の話の展開を模索しつつも、その場の状況に押し流され、そのままのペースで言葉を並べていることに驚き、何となくいつものように受動的にあきらめてしまい、それでかまわないと思う。確かにそれは適切な判断だ。それ以上は望めない状況なのだから、そういうことでお茶を濁していれば、その場は丸く収まる。他の意識たちに邪魔されることもないだろう。

 だから考えている暇はない。何を考えてもそうなってしまう成り行きの中では何を考えても無駄だ。だからそうなってしまうのだ。君はそれを肯定するしかなく、受け入れざるを得ない。だからそうなってしまっているのだろう。同意するまでもなくそれで正解なのだ。誰も文句のつけようのない結果であるはずがないだろうが、今さら文句をつけても無駄なのだ。すべては後の祭りであり、事前にどんな祭りが想定されていたわけでもないが、とりあえず何かの残骸がそういうことを語らせているのだろう。それで楽しいか。楽しければそれを続けていればいい。つまらなくても続いてしまうのだから、楽しくてもつまらなくてもかまわない。何かを改める余裕ももたらせない。悔い改めてももう遅い。何を信じているわけでもなく、言葉が勝手に連なり、君とは無関係な何らかの文章が記されるだけだ。それについてどう思っても始まらない。君はそこで今に追いついて、何の感慨にも至らないような心境を得る。今に追いついてもそれは何でもないことなのだ。それを知るための努力であり、そういう試みだったはずだ。そして君はそんな期待はずれの結果に落胆して、さらなる先があることを思い知るのだ。たぶんその先も何でもないことの続きだろう。


8月16日

 自己満足の範囲内で今という時間に追いつこうとしている。それがいつ可能となるのか。今において他にないだろうか。機会を逃したらまた遅れていってしまうわけか。それは何としても阻止しなければならないだろうが、誰かの思い通りに事が運ぶとは限らない。君はいつだってしくじっているはずだ。それは今回も同じことで、どうせうまくいかずにあきらめてしまうのだろう。だからといって高をくくることもないか。努力を惜しまなければ、それなりの結果に巡り会えるだろう。だから今がその時なのだ。その気にならなくてもそうなってしまうことだってあるはずだ。思い通りに事が運ばなくても、適当な結果にたどり着かなくとも、中途半端な状況に陥ろうと、何でもいいから言葉を並べていれば、事態を打開しているような気になれる。それは何かの冗談なのか。冗談でなくてもそういうことだ。そろそろ緊張の糸も切れてきた頃に違いなく、眠たくなって居眠りの最中にいい加減な夢でも見てしまうだろう。それで救われた気持ちになるわけか。だがそういう冗談で何を語っていることになるのか。何でもないのはいつものことか。君は何でもないことを語りつつあるようで、それが誰かが記すフィクションの中身なのかもしれない。

 まだそれにこだわる。それは虚無ではない。車窓から見えるただの風景か。そういう記憶も真新しくよみがえってきて、何でもないことの続きを記しているつもりの意識を勇気づける。わけがわからない。そんなことを語っている現状には常に違和感がつきまとい、そうではないと思い、それとは異なる語り方を模索したくなる。たぶんそれは無理だ。すでにかなり眠たくなっている。もうすぐ一時的に意識が途切れるだろう。電車酔いというわけではないが、快速電車は横揺れが激しい。何かが邪魔をしているようだ。誰かに何かをやらせまいとしている。いい加減に言葉を並べるのがそんなに気に入らないのか。自意識はそれについてどう思っているのだろう。それでも何とかしなければならず、そこに葛藤が生じているのかもしれないが、そんなのは無視して言葉を並べたい衝動に駆られ、先を急がなければだめになってしまうような強迫観念によって、その場を乗り切ろうとしているのか。まったく難儀なことで、ご苦労様と言いたいようだが、君はそれによってつまらぬ知識か何かをよみがえらそうとしているのかもしれず、昔取った杵柄のごとき言説を求めているのだろうか。問いの意味をわかりかねる。

 君はそこで立ち往生しているようだ。そんな気でいるとどうにかなってしまうだろう。どうもならなかったことが今まさにどうにかなろうとしている。気持ちが高ぶっているのだろうか。冗談でならそう述べても自尊心が傷つかないか。何を意味不明な言説に終始しているのか。それは偶然の巡り会わせに違いない。要するに何でもかまわなかったのだ。言葉を記すとはそういうことだ。どういうことでもなく、実際に言葉を記している現状がそうなのだ。それで危機を乗り切っているつもりになれるのだろうが、実際はどうかわからない。それについては状況の捉え方によって見解が分かれるところか。しかしどんな見解であっても受け入れるしかないだろう。何を受け入れても痛くも痒くもない現状の中に意識があり、もうそんなことは判断の基準から外れているのではないか。何を判断するための基準がどこにあるのだろう。いい加減に言葉を記していると、そんなこともおかまいなしに述べてしまう。まったくどうかしているのだろうが、どうにかなってしまうのだからそういうことなのだ。それで気晴らしの一環になっているわけだ。


8月15日

 わからないがそういうことらしい。どういうことでもなくそういうことなのだ。空は晴れている。まだ夏の日差しなのだろう。そして君は無駄に何かを語ろうとしている。この世界はいつだって期待はずれの展開を導きだし、君を落胆させ、何を目指していたのかわからなくしてしまう。いつもそんなふうではないはずか。しかし何について語ればいいのだろう。語ることがないから、わざと空疎を装うつもりか。そうであったとしても、何がどうなっているわけでもないだろう。この世界は依然としてこの世界のままだ。そしてそんなふうに語っている誰かがいるらしい。それで何か不都合なことでもあるわけか。君はそこで何をあきらめているのだろうか。それらの文章がまともな内容を伴うようにすることを放棄しているのは君ではなく、名も知れぬどこかの誰かになるだろう。そういうフィクションなのか。たとえそうだとしても、それは何でもないことだ。そんないつもの成り行きから逃れられない。君はいつでもそんな光景を眺めていたはずだ。だからあきらめてしまったのではないか。そんなわけですでに何かをあきらめているようだが、他に何があるというのか。何もないからそんなふうになっている。

 たわいない成り行きに惑わされている。何かを見失っているのはいつものことだ。何もなければそうなってしまう。しかしいったいどこにそれらの快適さが実現されているのか。何もなければ何でもない。だから快適な気分でいるようだ。そう思い込んでいるのだろう。誰かはそれでもかまわないと思う。それでうまく立ち回っているつもりのようだ。それは何らかの動作に結びついているようで、その場をうまく切り抜けるのに有効だと思っている。だがそれでどんな結果が導きだされているのか。何となくそれだけではだめのように感じられるが、そういう成り行きで切り抜けなければうまくいかないのだから、今はそれに乗っかって、何とかそれでかまわないと思うしかない。誰かはそういうことの繰り返しの中で消耗しきっているようだ。しかし安らぎとは何なのか。なぜそんなことを問うのだろうか。それを求めているとは思えない。それはただの文章中の巡り合わせであり、言葉がそういうタイミングで繰り出されれば、何となくしっくりくるような気がするだけか。だからそれでかまわないと思っているのだろう。

 そういう成り行きを通過しないとどうにもならない時もありそうだ。そればかりではつまらないが、それでもそこは我慢して、それ風の言葉を並べている現状がある。君はそれについて何を思うだろう。何とかやりくりをつけているつもりになれるらしく、気分は至って爽快か。痛快とまではいかないだろうが、何となくその程度で我慢していなければ、またそこから逸脱して、長期的に何ももたらせなくなり、手詰まり状態のまま、どんどん遅れていってしまうだろう。それを防ぐ手だては今のところ思いつかない。平常心ではとてもいられないような状況に陥って、どこかへ飛び出していってしまい、そんな意味不明な展開を経験しているうちに、心の底からくだらぬ感情がわき上がってきて、それに振り回されて、さらに致命的な過ちを犯してしまう。それがそこで繰り広げられる物語なのか。しかし何を語っているのだろうか。話はまったく具体性をまとわず、何かについて語っているふうを装うばかりで、一向に話の中身が見えてこない。そんなやり口は卑怯だろうか。なんとでも思っていればいいことでしかなく、どう思ってみても、それらの範疇の範囲内で言葉を繰り出しているわけだ。それが何を意味するわけでもないだろう。


8月14日

 そんなタイミングで何を話す必要があるのか。誰かが読んでいるのは空想科学小説ではない。いきなり的外れだが、そこで何に巻き込まれているとも思えず、たぶんいつもの傍観者気取りなのだろうが、何を興味なさそうに眺めているのか。視線は宙に舞い、目が適当に泳いでいて、相変わらず何かがおかしい。君が何を語っているとも思えない。語っているのではなく、眺めている当のものを言葉で記せない。実際にはそういうことでもないだろう。どういうことでもなく、画面以外は何も眺めていないと言ったら正解だろうか。そんな文章上で誰が何を言っているわけでもないか。今日の誰かはまったく呆れるような物言いだ。人は物ではない。では人物は人ではないのか。やはりそういうことでもないらしい。いつものように何を述べているのかわからなくなるが、それが率直な文章表現の結果なのか。それともあまりにも馬鹿げているだろうか。そんなのはどちらでもかまわないか。それこそくだらないことであり、何を語っても言葉がおかしい。文章になっていないようだ。おそらくやる気がしないのだろう。そんな嘘をついても何も始まらないか。

 そういうことではない。またそれか。何でもないならそういうことになる。そして何でもないから文章なのだ。それを記しているつもりになっている。その辺がおかしいのか。たぶんおかしいはずだ。虚無を意識するほど空疎なことを語ってしまう。何もないからそうなってしまうのか。タイミング的にはその日の気分を感じる頃だ。だがそれがどうしたのか。何の虜になっているとも思えない。まだその季節ではないのだろうか。夏が終わり秋になればどうにかなっている。そのつもりだが、その時期になってみないことには何とも言えないだろう。そして何かを獲得して、それを利用しながらどうにかなるはずだが、その先のことは念頭にないらしい。冗談がきつすぎるか。何がやはりなのか不明だが、やはりそういうことではない。君は何かを間違っているようだ。そればかりではマンネリだろう。何かそれとは違うことを述べなければ気が済まないようだが、果たしてうまく事が運ぶだろうか。そうしなければ無内容のまま終わってしまいそうだ。何を今さらまともになろうとしているのか。時すでに遅しだろうか。今ならそんなふうに思っていてもかまわないのかもしれないが、理由が定かでない。それこそいつものパターンにはまっている。

 何を急いでいるのか。朝だから時間がないのは仕方のないところだ。だが無内容でもかまわないわけではないだろう。何も思いつかなければそうなってしまう。その場の成り行きとはそういうものだ。気まぐれにそんなことを述べている。それは何の気まぐれでもなく、その場の気まぐれだ。当たり前のことを述べているようだ。たぶん何に対しても興味を抱けない心理状態なのかもしれない。だがそういう自己分析がいい加減なのであり、嘘かもしれないし、その場の思いつきでそんなことを述べているだけかもしれず、他意は何もない。まさか何かの伏線でそういう成り行きだとは思えない。だからここは何でもないことを述べて終わりなのだ。そういうタイミングでそうなっているわけだ。また当たり前のことを述べているようだが、それは何かの付け足しに思え、それを省くと何も残らないだろうが、もとから何も残らないのかもしれず、残しようのない空疎を言葉がなぞっているだけかもしれない。そういう手法があることに気づき、これまでに幾度となくそうしてきたのを、改めて思い出した次第か。なるほどそんなふうにして言葉を記していると、もう何でもかまわないような気になり、それは何かを台無しにしているような感覚なのだろう。


8月13日

 テロリズムは楽しい。楽しいというよりユーモラスか。そういう作り話を読むのは楽しそうだ。しかしそれによって未来を奪われた者たちは絶望に打ち拉がれるだろう。冗談でならそういうことだ。冗談でなければ本当の世界になる。たぶん人はいくら死んでもかまわないほど多く生きているのだろう。そういう側面ばかり強調すれば悲惨な世の中だ。だから君は待たなければならない。機会がくるのを待っているのではなく、ひたすら待っているのだ。別に世界が滅びるのを待っているのではない。君にとっては世界の滅亡などなんでもないことだ。そういう映画を見て楽しめば済んでしまうことでしかない。人はいつまでも馬鹿げたことをやっている。君もそうだろう。働いているわけだ。別に失業者たちがうらやましいわけではない。しかし世界の秩序とはどのようなものなのか。それは何かの概念か。構築されるべきものなのだろう。気が抜けているのかもしれない。なぜ人は動かないのか。それもどうでもいいことだからか。たぶん何らかの新世界秩序とやらの達成が待ち望まれているのだ。アメリカの大統領あたりが夢見ていることか。勝手に夢見ていてほしい気もするが、君はその手の妄想にはつきあいきれないのだろう。

 他に楽しげな社会現象とやらがないものか。もう誰もがテロリズムには飽き飽きしている頃か。街中で爆発が起こって人が大勢死傷するぐらいでは驚きも感動もありはしない。誰かはもう少し楽しげな破壊工作を待ち望んでいるわけか。受け身の態度で待ち望んでいるだけではだめで、自分でそれを計画したらいいのではないか。フィクションの中ではその手の誇大妄想家が目白押し状態だろう。そういうのではなく、例えば低炭素社会の実現とか、マスメディアが肯定的にはやし立てそうなことを計画した方が良さそうだ。ではそのためには何をやったらいいのだろうか。どこかで人を集めてプレゼンでも披露してしまうわけか。それこそ馬鹿げたフィクションになってしまいそうだが、もう少しマシなことを思いつかないものか。しかし他に何があるというのだろう。六十数年前の戦争に思いを馳せるとか、それこそ目一杯後ろ向きで、その手の思い込み百パーセントの作り話に賛同できるはずもなく、倫理的にまともなことを主張したいのなら、そういうのではないことを語らなくてはいけないのではないか。

 それで今は何を考えているのだろう。この世界の未来がどうなってほしいのか。どうにでもなってほしい。人は各自が適当に生きて死ぬだろう。その外見やそれに付随する思い込みやら思い入れでその性格が形作られ、個性とかいうフィクションが空想され、それについて語ると何やら利いた風な意見となり、もっともらしい言説が成り立つらしいが、それで何がわかったことになるのか。何となくわかったように気になるだけか。人間とは何か、とかいう主題に基づいて何かが語られてしまうのかもしれない。君にはその何かがくだらないように感じられてしまい、他に何かまともなことを語れないか模索するはめに陥り、そして無駄に言葉を連ねて意味不明な罠にはまり、結局何を述べているのかわからなくなり、そして何かを断念してしまうのだろう。しかし何かとは何なのか。何でもなければ何かではないはずだ。そう語った時点で、君はすでに何かを取り逃がしていることになる。真実は現実ではなく、フィクションに真相などありはせず、ただの妄想でさえなく、要するにそれ以上何を語っても、何でもないことの続きでしかなくなってしまうらしい。


8月12日

 誰かはそこで何に気づいたのか。この世に要らないものなど何もない。では具体的に何が必要なのか。それがわからない。ならばそんな問いは馬鹿げている。そんなわけで何も語れない。目が覚めたらこの世界にいたらしい。それはフィクションの一部か。何かの途中で眠ってしまったらしいが、それが最後の言葉だったのかもしれない。他に何が見いだされているわけでもなく、何か適当なことが記されていたのだろう。君の記憶はそこで途切れている。そして気がつけば真夜中に誰かが目覚めているようだ。そこで何を語っているのか。どうせたわいないことだろう。しかしそれを記さなければその先へ進めないだろう。たわいないことであっても時間との戦いとなってしまう。結局はそういうことなのだ。何かを単純化しなければ気が済まないのだろう。無理に語ろうとするからそうなってしまう。意味不明なことを記している理由はそういうことなのか。どういうことでもない。何となくそれでは気に入らないのだろう。それでは不満なのか。具体的に何がわかったのだろうか。

 自意識が何を拒否しているとも思えない。空は晴れて何を感じているわけでもないが、夏が過ぎようとしている。まだ早いだろう。冗談ではないか。思っていることとは何の関連性もない。たぶん何も過ぎ去らない。過ぎ去ろうとしているのは季節ではない。何も考えられなくなってから何を思うのか。そんなのは嘘だろうか。なぜか心が何かの外側に傾いて、今にも外れそうになっている。何から外れそうになっているのかわからない。たぶんやる気をなくしているのだろう。また馬鹿げたことを述べようとしているのか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。それが馬鹿げたことではないか。たぶん何を語るのも面倒くさいのだ。外は暗くなっているらしい。しかし人は何に興味を持つのか。それは様々なことであり、人それぞれで違うことに興味を持っているのかもしれない。それが君にわかるというのか。そういうことではなく、たぶん何もわからないわけではないのだろう。だからこうして馬鹿げたことを述べているのか。とらえようによっては馬鹿げたことでさえないのかもしれないが、くだらないことでもないのかもしれない。ただ中身がないだけだろう。

 最後の言葉はすでに発せられた。ではもはや死に体か。何が冷たくなっているのだろう。その言葉は君の記憶にはない。他に何があるのだろうか。漫画の中で大げさな戦いを繰り広げている人物たちにはどんな未来があるのだろうか。ひたすら先延ばしになっていた漫画の終わりになって、大げさな戦いが終わり、その漫画も最終回を迎えるのだろう。たぶんフィクションの終わりには戦いのない平和な時代が到来するのだろう。誰かはそう願っているのかもしれないが、熱心な読者にとってはいつまでも戦いが続いていてほしいところか。物語の中で生き延びた登場人物たちがどんどん強くなって、終いには収拾がつかなくなってしまういそうだが、それでも戦わなくてはならないだろう。強さの加減がよくわからなくなり、何となくつじつまが合わなくなって、その強さがその場のご都合主義でどうにでもなるのかもしれないが、漫画のおもしろさはそういうところにあるのだろうか。たぶん君にとってはどうでもいいことだ。


8月11日

 なぜか何かをねじ曲げて語ろうとしているらしい。理由はわかっていて、近頃の君にはよくあることだ。どうしても認められないことがあるのだろう。他の何がそうさせているわけでもないが、何を否定しているのかよくわからない。別に挑発的な言説を構成しようとしているのでもない。気休めで何かでたらめに語りたいのかもしれない。だがそこからどこへ飛翔できるわけでもない。現実の時空は相変わらず何も示さない。誰かが口走っているのはただの世迷い言だ。本当は何でもないことなのだ。そうではないと反論しようと、そんなのは無視されるに決まっている。たぶんそういうことを述べてきたはずだ。だからそんなことはどうでもいい。相変わらず話の焦点が定まらない。視線は何をさがしているのか。空は晴れているのだろうか。確かに数日後はそうだ。今はどうかわからないが、何となくそんなことを思っている。しかし何を思っているのだろうか。何も思っていなければ、そんなことも思っていないのではないか。くだらなすぎる。

 何か具体的でないのだ。少し堪え性がない。なぜそう思うのかわからない。何に関してそうなのだろうか。誰かはどこをほっつき歩いているのか。話の中身が定かでないのは元々そうだ。何を語る気もありはしない。耳栓がジャケットの音楽を聴いていたりする。オチのない話だから漫才ではない。ならばもう少し複雑なことを述べるべきではないか。過ちは二度繰り返さないと本当の過ちにはならないか。しかしそれらの何が過失なのだろう。別に何かの裁判を傍聴しているわけではない。思いつくのはてんでばらばらな言葉だ。実質的には何も述べていない。それで笑っているわけだ。意味のわからない話の展開のようだが、誰かはテクノサウンドについて語っているらしい。嘘に決まっているだろうか。ただそんな音楽を聴いている。別に間を保たせているわけではない。しかし君は何にうんざりしていたのか。それらのくだらない話の中に誰の興味を誘う要素があるのだろうか。誰がそれを知りたいわけでもないはずか。大半を聞き流しているように感じられ、語っている方も興味をもたられても困るように見える。

 まだ誰かが何かを語っているようだ。テレビをつければそんな話の最中だ。君にとって何がどうしたわけでもないのだろう。紅茶を飲み過ぎて眠れなくなる。久しぶりに眠気が去っているようだが、それに気づいているわけではない。何かに気づくのが面倒くさいのだ。どこにそんなものぐさがあるのか。嘘に決まっているだろうか。そして何かを裏切るように、あくびをしている自分に気づく。いつものように眠たくなってきたのだろう。そして何も語らぬままに文章を終わろうとしているようだ。興味を持ち得ない現象がこの世のほとんどか。ならばどう語ればいいのだ。誰に問うているわけでもなく、何が問われているとも思えない。何も思わないようにしているだけではないのか。そうなのだろう。面倒くさいのでそれを肯定してみせる。だが認めたからといって何がどうなるわけでもなく、それ以上の結果を望まない。無理に語ろうとしていないようだ。何もなければそれでかまわないのかもしれない。それで何がどうなるわけでもなく、それらの退屈な言葉の並びを否定してみてもつまらない。


8月10日

 ふざけるのもいい加減にやめたらどうか。わざとめちゃくちゃなことを述べているのだろうか。それにしてもどうも何かが抜けているようだ。間が抜けていることは確かだが、はじめからやっていることがおかしい。現実の意識は何がおかしいのかわからなくなっているようだが、そうやってひたすらでたらめなことを語るのもおかしいか。他に語るべきことがあるのではないか。誰に問いかけているのでもないが、とりあえずでたらめの連続には飽きている。だがそれらの何がでたらめなのか。それらの作り話の中では誰がどこでどんな発言をしているのだろうか。君はそれに関して適当にいい加減に語ろうとしている。それがでたらめの原因だ。また白々しい嘘をついているのだろう。結局君はこの世界に何ももたらせない。それははじめからわかっていることだ。ならばそれ以上は何も語る必要はないはずだ。たぶんそれも嘘なのだろう。だからそういう語り方には飽きている。誰が飽きているのだろうか。また白々しくそんなことを述べてしまい、うんざりしてしまうか。しかしそれでかまわないのだ。理由はない。

 平和な地域で暮らしていれば平和であることは当たり前だ。アフガニスタンなどのような戦火が絶えない地域で暮らしていれば、それが当たり前なのだろう。どちらの地域で暮らしていようと、人は生きて死ぬだけだ。たぶん人にそれ以外の可能性はない。どのように暮らしていようと、人にどのような可能性があるわけではない。遊んでいたり働いていたり勉強していたりする。なぜそう感じるのかわからないが、他に何かあるとすればそれは何だろう。何でもなければそれはどういうことなのか。どういうことでもないのかもしれない。それでも人は生きていたり死んでいたりするらしい。そんな中で自らの体験がなぜ重要であったり貴重であったりするのだろう。なぜなどと問うこと自体おかしいか。たぶん自らの体験を他人に語りたい者が多すぎるのだ。ブログなどで何でもないことをおもしろおかしく脚色しながら語っていると愉快な気がするのかもしれない。それもどうでもいいことのたぐいなのだろうか。誰かにとってはそうかもしれないが、それが気休めか何かになって、それで救われたような気になる者もいるらしい。

 しかし君はそこで何を見てきたのか。ただの常日頃の暮らしか。それ以外に何があるのだろう。戦争体験者には死が身近に感じられる時があったのか。テレビでそんなことが語られる。それを日常の暮らしの中で見て何を思うだろう。君は何も思わないに違いない。時が過ぎ去ってしまったのだ。忘却するには十分な歳月だったのだろうが、彼らには未だに忘れられないらしい。それが特別な体験だと思われて仕方がないのだろう。それはそれ以降が長く平和な時代が続いているからか。だからどうだというのだろう。君はそれらの何に反論したいのか。誰もが何でもないと思う。その時だけはさすがに語り手の切実な思いが感じられるだろうが、それはそういう語りが実質的には何でもないことの繰り返しから生じているからだ。語っている者にとってそれが悪夢のような体験であろうと、今ではただの思い出話に過ぎず、そう言われればそうではないと反論するだろうが、実質的には昔話を語っているだけだ。それ以外の何ものでもない。


8月9日

 しかし何かとは何なのか。そんな語り方が馬鹿げている。誰かは何かをやり直す気にはなれないようだ。そのままの気分ででたらめなことを述べていて、それが現状をもたらしている。しかし現状とは何か。何ももたらせないのが現状であり、そんなふうにしてくだらないことを語っている。頭がおかしいのではないか。何となくそれでもかまわないと思っている。まともに語るのが難しくなっているようだ。相変わらず何も思いつかないのだから、それは仕方のないことだろう。だからこうしてわけのわからぬことを述べている。それは何の物語でもなく、何かの残骸なのかもしれない。まともなことは何も語れないことが何かの苦痛をもたらしているようで、それらのどうしようもなさがあきらめてしまう原因となっているのかもしれない。どこかに限界があるようで、次第に言葉を記せなくなっている。しかし言葉の他に何を記せばいいのだろう。それこそ冗談でしかないか。何を述べても冗談でしかないようだ。その方が気楽だろう。そんなわけでもう何でもかまわないのではないか。

 誰かはこの世界の中の何に興味があるのだろう。人間には興味がないのか。たぶん人に興味があるはずだ。特定の人物に興味があったりするらしい。気まぐれにそんなことを述べてみたりする。時折思い出したように誰かを批判したいのか。そんな態度が気に入らなかったりするのだろうか。ただわけがわからず、途方に暮れる前に呆れてしまう。人は誰でも人前ではいい加減に振る舞いたいものか。そんなふうに語るのは間違っている。本当は特定の現象について語りたいのだろう。隙あらばこの世界の馬鹿げた有り様を批判する気でいる。そんなことを思っている心が隙だらけだ。いくらでも勝つ機会があったのに負けてしまうのは、その手のゲームではよくあることだ。戦争もそういうものなのだろう。誰もが無謀なことをやってみたい。慎重になるのが面倒くさいのだ。だから何を述べているのかわからなくなり、眠たくなって寝てしまう。君は何を語るのが嫌なのだろうか。馬鹿げた問いだ。問われている君という言葉があり得ない。

 まったく何から何までやる気がない。気分次第でつかみ取ってそれらは、取り返しのつかない過ちをもたらしている。状況的には何もないのだから、それでもかまわないのだろう。誰かの意識はくだらぬ開き直りを伴っているらしい。そしてものすごい眠気が襲ってくる。もう何も考えなくてもかまわないのだ。たぶんそんな嘘をついてもどうということはないだろう。頭の中が空洞のようで、誰かの意識がその空洞の中をさまよっている。それでも語らなければならないのだろうか。たぶんそういうことなのだ。実際に半分眠った状態で、かろうじて言葉に言葉をつなげようとしている。しかしそれでも無内容であることに変わりはない。そういう文章なのだから仕方がない。


8月8日

 どうもここから先がうまくいかない。文章を短くして改行を加え、かなりの遅れを取り戻した気がするが、今日の日付に近づくとやる気をなくしてしまう。空疎な内容が原因のようだが、なぜかどうしようもなくそうなるしかない。そんなわけでやる気をなくすのは楽しい。ただ嘘をついているだけのような気がするが、それが楽しい雰囲気を醸し出す。そしてなぜそんな嘘をつくのかわからない。誰が何を語っているとも思えないか。だがそれがここでの話なのだから、それはそういうことでしかない。君はどこから抜け出そうとしているのでもなく、この世界の中で生きようとしているだけでしかなく、それが笑い事だとは思えないが、何となくおかしい。たぶんくだらないことを語っているつもりなのだろう。もちろんそれがどうしたわけでもなく、他に何を語っているとも思えない。まともに語るのが嫌なのか。君がそれを認める必要はない。君は君ではないのだから話に加わらなくてもかまわないのだ。そしてそれとこれとはまったくの無関係だろう。

 無理に今日という日付に追いつく必要はないのかもしれない。意味のないことか。それが目標になってしまってはまずいのだろうか。そんなことではないはずだ。ただ面倒くさいだけか。何が面倒なのか。何となくまともなことを語るのが億劫になる。語らなくてもいいのではないか。未だに六十年以上前の戦争について語る人もいる。組織とは何なのか。間違った方向へ進んでいないか。結果がそうならそういうことだ。何か適当な思惑があるのだろう。目的を見失った組織はすぐに形骸化する。それが誰もが得意になって語ろうとする紋切り型の意見になる。実質的には何について語っているのでもなく、何となくその場の雰囲気を言葉にしているに過ぎない。君はそれでかまわないのか。たぶんかまわないのだろう。本気になれないのはいつものことであり、それについて何を語るつもりもない。ただ意見以前の何かが記されるだけだ。

 戦争なんてたわいない出来事だ。多くの人が死んでしまうだけだろう。だがそれで何を省いているつもりになれるのか。何が重要なのではない。人が戦争を遂行しているのに人が重要なのではない。守るべきものなんて何もありはしない。幻想だろう。何かを単純化して考えれば、たぶん何でも可能だと思われるようになる。途中で考慮すべき何かを省いているだけだ。間違っているのはそういうことかもしれない。

 必死になって何をやっているのか。昼はそうだったはずだ。その時の状況が誰かをそうさせる。そして今は音楽を聴いている。たぶん今は真夜中なのだろう。自由がどこにあるかなんて考えている場合ではないか。また冗談の続きになってしまいそうだ。そんなことを述べるために眠らずに起きているのか。何が無駄なのだろうか。何を語りだしているわけでもないらしい。ロボットの頭脳を持ち合わせているわけではないから、何を冷静になる必要があるわけでもないが、少なくとも何を語っている感覚にはないようだ。


8月7日

 何を間違えているのだろうか。まだ間違えている。では何を語ろうとしているのか。神は偉大なり。どこかの英雄は時々罪の意識に苛まれるらしい。それは名状しがたい光景か。何を誇りに思っているのでもない。珍しいことではない。たわいない成り行きだが、何に感動しているのか。何のことやらわからない。その時のことはまったく記憶にない。記憶とは何だろう。君はそれ以上の成果を期待している。馬鹿げたことだ。いつものように何を語っているのかわからない。実質的には何も語っていないのではないか。話と言葉に脈絡がない。だが誰がそれを判断しているのか。やはりそういうつまらない話になってしまうようだ。もとからそんなことはどうでもいいはずだ。この世界にどうでもよくないことなど何もない。それが開き直りの台詞の一部をなすわけか。しかし誰が何を発言しているのだろうか。取り立てて何が問われているわけでもなく、何を語ろうとしているわけでもないはずか。ただいたずらに言葉を並べているのが現状だ。それでどうしたのだろう。

 面倒くさいからそこから先はでたらめな内容で勘弁してもらおう。本当に何もありはしない。しかしそれらの何がでたらめなのか。成り行きとはそういうものだ。その場の雰囲気にのまれてしまい、拒否することができなくなり、間違っていると思っていてもやらざるを得なくなる。君はそれに関して何を主張したいのか。何も主張できない。そこで何が試されているのか。選択肢はひとつしかなく、誰が下したわけでもない命令なき命令に誰も逆らえなくなる。馬鹿げた話だが、馬鹿げていると思っていても、その馬鹿げていると思っていることをやらざるを得なくなる。要するに馬鹿なんじゃないだろうか。そこに携わる人たちは悲惨きわまりない。

 ただの宣伝だろう。何を強要されているわけではない。君は何も試されてはいないようだ。どこまでも部外者でいるつもりらしい。果たしてそんなことが許されるだろうか。君の態度が問われているのではない。何かが決定的になるのを寸でのところでとりやめてしまったようだ。君にとってはやめて正解なのだろうが、その結果として何を述べているのでもなくなり、それらの意味不明の残骸がわけのわからぬ文章として記されているわけだ。だから君は何かの風上にもおけない者なのか。しかしそれは卑劣な行動には結びつかないだろう。ただ精神と根気が薄弱なだけか。やはりそれで何を述べているのでもないようだ。意気地なしということか。それとは少し違うような気もするが、大筋ではそういう表現で合っているのだろう。


8月6日

 たぶん無理をしてはいけないのだろう。今はその必要はないはずだ。それは朝思ったことか。ならば今は夜だからどうなのか。体調がさらに悪化しているわけか。それが誰の体調のことを述べているのか。君はその件についてはどう思っているのか。誰かの作り話の中で語られている嘘か。雨が降っているようだが、何が嘘なのかわからない。焦っているのではない。何かがどうにかなっているのだろう。誰もそれに気づかないのか。そういうことではないらしい。永眠しないためには眠らなければならない。何か矛盾していないか。君は未だに気づいてない。何がどうしたわけでもなく、ただ気づいていないだけだ。何を突き詰めて考えているとも思えず、まともに思考する気がしないようだ。だが間違っているのはそういうことではない。わけがわからないのはそのためではないようだが、何となく無駄に言葉を並べて、それらしいことを述べようとしている。君はそれについてどう思っているのか。何とも思っていないなら、何か他に意見や主張でも表明してみたらどうか。たぶんそこからわけがわからなくなってしまうのだろう。だからいつまでたっても本気になれないのだ。

 何が違っているのかわからないが、何かが違っているのは毎度のことのようだ。文字の連なりが意味を示さない。君にとっては扱いにくい領分の中に何かがある。それは意味でない。言葉の構成がおかしいのかもしれない。だが誰にとってもそれは何でもないことだ。何がどうなってもそうなってしまい、誰も何もわからなくなるだろう。何も語っていないのかもしれない。それで何がかまわないのか。何もかまわないわけでもないが、何かが違っているのかもしれず、その違っている何かがきっかけとなって、何かが変わることを期待しているようだ。くだらない話になっている。君の気分を表しているのではないか。しかし馬鹿げているのは誰なのか。誰の行動でも言動でもない。ただいつものように違っているのだ。そして眠ってしまい、目覚めたら翌朝になっている。気分がどうにかなってしまったわけではなく、相変わらず何かが違っているのだろう。

 また何かを忘れているのかもしれない。すべては偶然のなせる業か。巡り合わせがそうなってしまうのだから、それはどうしようもないことだ。そこで何かが破綻していて、そういう結果を目の当たりにして呆然としてしまう。それを食い止められなかったのは誰のせいでもなく、自然の成り行きだったのかもしれない。自らにそう言い聞かせなければとても平常心を保てないか。しかしいいわけは無用だ。とりあえず失敗を乗り越えて先へ進んでいかなければならない。誰かはいつだってどうしようもない現状を変えようとしている。悪あがきかもしれないが、やらないよりはやった方が気が済むというものだ。それで何がどうなるわけでもないのだろうが、馬鹿げたこだわりをごり押ししようとすれば、たちまちそれを利用して利益を得ようとする者たちの罠にはまって、痛いめに遭うのだろう。すでに何度もそういうことを経験しているのに、まだ懲りずにそういうやり方を模索してしまうのが人のさがというものか。まったくご苦労なことだが、そこで行き詰まっても何とも思わないのだろう。ただ運が悪かったと思えば気が済んでしまうのか。


8月5日

 昨夜はまとまった雷雨で眠れず、蒸し暑さで不快感が高まる。何となくそう記してみるが、実感からは少しずれているようだ。エアコンをつければ寒くて眠れなくなる。どっちにしろ不快なのではないか。そしてまた遅れてしまったらしい。何をどうやってもそれ以上の進展は望めず、目が覚めたら翌朝になっている。昨晩は何をやっていたわけでもなく、疲れて寝てしまったのだろう。何のことはなく、そういうことの連続で生きているようだ。君はそこで何に気づいていたのか。何でもない週末だ。ただ言葉を記している。ひたすらそういうことのようだ。まだ寝ぼけているのだろうか。とりあえず今ならまだ間に合いそうだ。朝までに何か適当なことを記しているかもしれない。誰かの無意識がそうさせるのか。君には何もわからないだろう。また言葉から意識が外れているのか。何となくその気配を感じるようだ。そんなわけで元の木阿弥に近づいている。馬鹿げたことの連続で疲れきっているわけではないが、何に遭遇しているのか定かでないらしい。どうやらそれは語るべきことではないようだ。

 何か定まらないような言葉の並びだ。何を観念したわけでもないだろう。参ってしまったわけでもない。だから何に降参したわけでもない。依然として何もないだけなのであって、何を語っているわけでもない。ただそんなことの連続なのだ。ひたすらそうやって言葉を記している。だから何を反省することもないだろう。そこから読み取るべき内容なんてありはしない。すべてが空疎なのだ。昔から何も変わっていないのであり、それは物語などではない。何も語らなくても言葉が連なり、それが空疎な文字列になる。そして気がつけば深夜に目覚めている。天気図的には前線の北側に入っているようで、少し涼しくなった。誰かはそれで気が済んだのか。眠たくないのはカフェインの効果なのだろう。堕落しているわけではない。何をあきらめているわけでもない。ただそこで踏みとどまっているつもりなのだ。何とかしようとしている。実際に何とかなっているのだろう。文章を前進させているつもりなのだ。虚しい試みだ。それは何の冒険でもなく、ただの戯れ事でもない。何かの繰り返しなのかもしれない。

 わずかに正気が戻ってきている。もともと心が狂気に覆われているわけでもない。今さら何を覆そうとも思わないが、意味不明なのはいただけないか。それでも確かに休養は必要なのだ。何かをリセットしないと先へ進めない。だが内容が空疎なまま先へ進んでどうするのだろう。冷静になって過去を顧みれば何も思い浮かばない。何を思い出そうとしているのかもわからず、途方に暮れているようなふりをしているが、実際に何を考えているのだろうか。ただ闇雲に言葉を並べているだけでは何を語っているのかわからない。だが今さらわかりきったことを述べてもつまらないだけだ。しかし別におもしろそうなことを語ろうとしているわけでもない。やはり何もないのではないか。何もなく何でもないことの繰り返しがそれらの文章を構成している。それだけはまずいのだろうか。いったいお前たちは何も目指して今までやってきたのか。しかしお前たちとは何なのか。苦し紛れでお前たちを出してくるなら、唐突ではなく、もう少しその場の成り行きに沿った登場の仕方があるのではないか。ではどうすれば自然な感じが出るのだろうか。何かを物語ればいい。とどのつまりがそういうことになり、何か適当に物語らなければまともな文章にはなりがたい。だがそんなわかりきったことは今さら述べるまでもなく、ただの冗談にしかならないだろう。


8月4日

 今さら何を語れるとも思わない。誰かがどこかでそんなことを述べていた。君は何を語っているのか。ただ無駄に言葉を並べているだけか。そこからどんな発明が生まれるとも思わない。もとからそういうたぐいの話ではない。これは無駄な時間なのだ。それも答えになっていないようだが、いったいどんな疑念を抱いていたのか。誰にも何も語りようがないことだ。本当は何も語っていないのだろう。君はそれを知っている。誰もが知っていることだ。誰かはそれらの文字列が読めるのだろうか。何を読もうとしているのか。普通の精神に読み取れるような文章とはいかなるものか。だから誰もがそこで躓いてしまうのだ。跪いて天を仰ぎ、ひねくれ者でもないのに、神ではない何かに向かって祈りを捧げる。天はどこまでも天だろう。何を告げているとも思えない。地上でうごめいている者たちとは無関係なのか。君にそれがわかるとは思えない。誰にもわからないようなことをわかろうとして何になるのだろう。そこで何を悟る必要もない。そういう話ではないのだ。ただ面倒くさいからそんなことを述べている。あえて嘘をつくならそういうことになる。むろん嘘をつく理由などどこにもありはしない。

 君はそこで何を模索しているのだろうか。言葉を並べて何を表そうとしているのだ。誰に問いかけているわけでもなく、それは自らにも誰にも返ってこない言葉の響きか。そういう決めつけはでたらめの証しになるだろう。何も身の毛もよだつ話にしようとしているわけでもない。何がどうなってそうなるのでもなく、どうにもならないようなことを語るはずもなく、また気分次第で何を語ることもない。そこに記された言葉の連なりは何も語らず、君を落胆させるには十分な空疎をはらんでいるようだ。ただわけがわからないだけでは物足りないのだろう。まさかさらなる孤高の高みなどあるはずもなく、抱いているのはすべて幻想に属するたわいなさだ。人々はものを求めているのではなく、そのものに潜んでいる共同幻想なるいかがわしさに魅入られているに過ぎず、そこに欲望に裏打ちされた幻想が投影されて、そのものを手に入れる価値があると信じ込むのだ。かなり雑なことを述べているようだが、たとえば高価なブランド品に金額以外の価値が宿っているように感じられる仕組みをそんなふうに説明すると、何となくわかった気になるだろうか。

 たぶん誰かは冗談でそんなことを述べているのだ。それ以上の何があるというのか。何もなければそこで終わってしまえばいいのではないか。終わらないとすると、それらは単なる蛇足に過ぎなくなるのか。たぶん冗談ではないと思いたいのだろうが、何を根拠に冗談ではないと主張したいのか。主張したいのは無根拠なことか。外では雨が降っているようだ。気分がそこから乗ってこない。誰の気分でもなく、君に気分の持ち合わせなどありはしない。たぶん虚無しかないのだろう。何を述べても空疎な話になる。何かが間違っているのは承知しているつもりだろうが、その間違いに気づかないふりをするのにも無理がありそうだ。だから君にはわかっているはずだ。そうではないと反論したいのだろう。誰にもそんなことなどわかりはしない。何をわからせようとしているのでもなく、そこに少年漫画に出てくるような大げさな決闘があるはずがない。何を承知していようと、すべてが受け流されるに過ぎず、さざ波のように訪れる些細な対立など忘れ去られるだけで、この世界にとってはどうでもいいことになってしまうだろう。それが何かの宿命だとは思わないが、もちろんその何かとは何でもないことだ。


8月3日

 それは邪魔な思念だ。現実には何も思いつかないのに、それでも誰かは何を思い出そうとしているのか。必死さが足りないのではないか。障害物をよけながら、適当に迂回してここへ来たつもりになっているようだが、それは何かの思い違いだろう。いくら回り道をしてきても、結局はいつもの出だしになる。すでに話はそこで終わっているのかもしれない。それに関して誰も思い悩んでいるふうもなく、面倒くさがりの誰かは、悠然とその場を立ち去ろうとしているようだが、肝心の獲得すべき内容はどこにも見当たらず、何を語っても、一向にらちがあかないまま夜が明ける。結局話は何の進展もなかったようだが、もともと何の話でもありはしなかったのではないか。誰かがその場で闇雲に言葉を並べていただけだろう。果たしてそれでまともな文章になるのか。白々しい疑念を述べている場合ではない。そんなのは誰の知ったことでもない。そしてわけもわからず投げやりなことを述べているようだが、やはりそれもどうしたわけでもない。いくらまともに語ろうとしても、そんなことしか述べられないのが関の山だ。そして語っている自らが嫌になって、それ以上語るのをあきらめてしまう。そんなことの繰り返しがそんな結果をもたらしたのだ。だがそれで何がどうなったのだろうか。相変わらず無駄に言葉が並んでいる。目の前の光景は荒涼としていて、気持ちも荒んでいるようだが、それは作り話の中でのことだ。

 しかし何を主張したいのか。そこから何とかしようとする気にはならないらしい。現状を思えばそれも仕方のないことか。しかしそれでも君は笑っている。君にとっては大したことではないらしい。とにかく仕方がなければ言葉を記せばいい。そして記されたそれを読んで笑っていれば、無駄に時が過ぎ去るだろう。歳月は積み重ならずに流れ去る。果たしてそれは格好の良いことなのか。そんな語り方だから笑ってしまうのではないか。そして何となくそれらの文章に疑念を抱いているようだ。誰かはいつまで現実から逃げ続ければ気が済むのか。逃げ切れなくなったらどうなってしまうのだろう。その時になったら、どうすべきかわかるかもしれない。すでに君は逃げられない状況の中にいるらしい。もはや観念してしまったのだろうか。しかしどこから逃げ切れなくなって観念してしまったのか。作り話の中でならどうとでもなりそうだが、そこで君が何を語っているわけでもなく、ただ笑うばかりのようだ。誰かがまともなことを語らないから笑ってしまうのだろう。そんなわけで君はいつまでも笑い続け、気が触れていることに気づかない。それがわかることなど未来永劫ない。どこまでもそれは作り話であり、誰かはいつまでも嘘をついている。


8月2日

 何でもないことの連続で神経が疲れている。今さらそんな嘘をついてどうするのか。理由がわからないようだが、実感がわいてこない。誰にとってもそういうことだろう。ではそのついでに何を語っているつもりなのか。そこで何を思い出しているのだろう。見慣れた風景の他に何が見えているわけでもない。何かを徐々に感じ始めていると思われたのは気のせいか。いったい終わりはいつやってくるのだろう。何かをやめてしまいたいとは思わず、それに関してどんな衝動に駆られているわけでもない。若干何かが傾いて見える。気のせいではないかもしれない。気が緩んでいるのではないか。まだ何かの途上であり、話が完結したわけではない。くだらぬ魔法使いの物語が映画のポスターに塗り込まれている。それは印刷されているのではないか。どちらでもかまわないが、街中を歩いている時も意識が定かでなかったようだ。他人は何に感動しているのか。文字や映像に感動しているのだろう。しかしサーガとは何なのだろうか。それらの作りごとの中で何が息づいているのか。偽りの冒険を描くために誰かの人生が捧げられているだけか。

 だが他に何があるというのか。何かの幻影に心を奪われ、そこから遠ざかれずにいた時期もあったらしいが、それが誰の影響でそうなったとも思えず、今はそれらの幻影の彼方に終わりが見えているようだ。相変わらずの曇り空だ。空の下で人々がうごめいている。誰のための大地なのでもない。神の意志など無視されるがままだろう。だが歩いていると膝が痛む。そんな断片的な印象がそれらのすべてなのだが、いかなる理由でそんな言葉の組み合わせが実現しているのか。そこでやめてしまってはまずいのだろうか。言葉はどこまでも虚しい。誰かの意志を表しているどころか、今やそれらのすべてを裏切ろうとしているのかもしれず、そんなのは昔からわかっていたことかもしれないが、自らを裏切っている言葉を捨てきれずにいるのが、人としての証だと思っているのだろう。惑わされているのは自我という幻影なのだ。だがそれで何を理解したことにもならない。言葉にはさらにその先があるらしい。

 誰かはそこから遠ざかるために言葉を記している。しかしそんな理由がどこにあるのだろう。混乱の極みの中で、人が大勢死ぬ成り行きに至ろうとも、まったく意に介さないような意志の下で、何かの物語は成し遂げられるのだろうが、そんな代物に接して感動を味わうのは残酷な仕打ちか。誰がその瞬間を欲しているのではなかったはずか。あくびとともにそれらの映像を見ていた誰かは、自分の住んでいる世界が馬鹿げていると思うか。誰に尋ねているのでもない。問いはどこまでも問いであり、決して答えにはなり得ないか。わかりきったことを改めて理解するつもりはない。おそらくそれでもかまわないのだろう。不条理は不条理として頭の中で処理されている。無害でとるにたらない事象だ。世の中の至る所に不具合が生じているのだろうが、それらをここでどうこう語りたいわけではなく、それらの何を改めようとしているのでもない。誰もが自らの経験に照らし合わせて、狭い範囲で何とかしようとしていて、そんなことが互いに結びつきながらこの世界を形成している。たぶんそれが何を示していようと、君の知ったことではないのだろう。


8月1日

 それは何の話でもなかったようだ。気がつけば意味の定かでない話も終わっていて、別に悪夢にうなされていたわけではなかったことに一安心か。しかしどんな幻影だったのか。誰が何を説明しているわけでもないのはいつものことだ。ただひたすら面倒な状況の中に投げ込まれているように思われ、自力で何を解決しようとしているのでもないが、何となくもがき苦しんでいる誰かを助けることはできないと思い、それの何が回りくどい成り行きになっているとも感じられない。何をどう思えないのではなく、何とも思えないような時が過ぎ去り、それらの作業の何をどう評価することもできず、否定的な気分が辺りを漂っているようだが、そんな雰囲気に呑まれることもなく、何かをどうにかしようとしているようだ。まだその時ではないのだろう。別にそれほど機会を逃しているわけではないと思われる。それが勘違いでないことを祈りたいが、誰の勘違いなのか不明か。相変わらずそんなことを語る誰の気が知れない。

 たぶんそんなふうに思うのはおかしいのだろう。どんなふうに思っているとも感じられないが、それは端から見ているだけのことで、意識はすでに何かの虜となっているのかもしれない。冷静に考えている余裕がないらしい。何かに取り憑かれているのだろう。今はそんなふうに思っている。誰もそんなふうには思えないのだろうが、そういうことになっている。君はどこかから外れているのだ。心が何も思わない。矛盾しているかもしれないが、そういうことだ。どうやら説明になっていないようだ。いったい何を説明する必要があるのか。外れているのはどんな気持ちなのだろう。何がわかるとも思えない。意識がその場から遠ざかっているようだ。そしてそんな説明が間違っている。やはり何でもないのか。空は曇り、それほど暑くはない。不快に感じるに至らないような気温だ。どうやら外れているのは君の心ではないらしい。まだ語りたいことがあるようだ。だが遅すぎる。何が手遅れなのかわからないが、とりあえず遅すぎるようだ。

 そんな気分なのだから仕方がない。実際に何が手遅れなのではなく、何となくそう思われるだけだろう。何かのつじつま合わせには飽きているということか。そこまで感じる必要はないのだろう。何を卑下しているわけでもないらしい。ひたすらそんなことを述べている。何かに追いつきたいのだろう。追いつけない期間が長過ぎたのだ。それでつまらなくともかまわないと思うようになった。どこに追い込まれているとも思えないが、何となくそんな気分になっているようだ。何が遅すぎるとも思えないが、やはり今がその機会ではないと思われる。まだ機が熟していないということか。しかしそれで今は何をやったらいいのだろうか。何か行動に移さなければならないようなプランは何も思い浮かばず、ただ何かに流され、時を無駄に費やしているだけか。しかし他に何があるというのだろう。惰性で何かいい加減なことを述べているのかもしれない。一方でそれだけのことに疲れている。語る必要のないことを語っていると疲れるらしい。しかし語るとはそういうことなのだ。あまり過大な期待をかけるには見合わないような行為だ。