彼の声71
2009年
3月31日
何もないので今回も回りくどい語り方をとらざるを得ない。誰かとは別の誰かが作り話の中で孤独を愛している。君とは相容れない立場を有しているようだが、そこから何か新たな展開が生まれることはないだろう。眠気の他に何を感じることもないが、意識は何をとらえているのか。何かがまとわりついていて、内容がわかりにくい。そこで誰かは悩んでいるようで、何も語っていないのかもしれない。語る対象となっているのは何でもなく、心にまとわりついている何かではないのかもしれない。先月もいよいよ終わりに近づいているが、何だかまともなことは一度たりとも述べていなかったような気がする。それは誰の実感なのか。そういう話の進め方が気に入らないか。君にはどうでもいいことか。たぶんそれも違うと思われる。君は迷っている。いつものことだろう。何をやるにも目的が必要か。目的がないから迷いが生じるのか。そういうことではないような気がするのだが、はっきりとはわからない。そしてわからないから寄り道してしまうわけだ。それはわけのわからない方向性を示しているが、それが間違っているのだろうか。君の勘違いということか。では何を勘違いしているのか。いらぬおせっかいをしすぎているのか。誰にやっているのだろう。君自身にではないのか。君とは誰なのだろう。くだらぬ言葉遊びだ。さっきから同じような言葉が循環している。まったくそれらの動作はどこまでもいつもの通りだ。君には変更できない成り行きになっている。君が語っているのではないのだから、君はその有様を黙って眺めるだけか。誰かが自らの考えを変更せざるを得なくなるように持っていくことができない。君にそれを期待しているわけではない。そうなるはずのないことを期待しても意味がないだろう。しかし意味がないのがそれらの文章だ。探せば意味などいくらでもあるだろうが、その気にさせない状況を生じさせている。今日もまったくやる気がしない。そんなわけでまったく言葉がまともな意味を持つように組合わさらないようだ。そんなことがあり得るだろうか。現に記されている文章を読み返したら、あり得ないことがわかるだろうか。しかしそれでもなぜできないのかわからないまま、さらに無駄な言葉を記している誰かの存在に気づき、あきれてものも言えない心境となってしまうのか。だがそれで何かまともなことを述べている気にはなれず、相変わらずその場から心が離れられない。その場とはどの場なのか。そういうくだらないことを述べている己を許せないのか。だからどうしたわけでもないだろう。どうもしないからそんな成り行きとなっているわけだが、それを改められないのは、どういう原因があるからでもなく、原因が何もないからそうなってしまっているのではないか。またそんな嘘をついてその場を取り繕いたいらしいが、体裁を整える間もなく、道に迷い、どこか得体の知れぬ場所へと導かれていってしまい、我を忘れ、感情的にこの世界の有様を否定したい気になってしまうのだろう。そして大げさな見解に至る。この世界は再構築されなければならず、人々は悔い改めなければならない。それは馬鹿げた見解だろうか。具体的に何をどうすればいいのか。それがわからなければそんなことを述べる意味がない。答えを見つけられないまま、すべては振り出しに戻り、これまでに考えてきたことが無駄になり、リセットされてしまう。だから何について述べているのだろう。君はそれを理解しなければならないのか。何をどう考えれば理解できるのか。それ以前に何を理解しなければならないのか。いつかは苦悩の日々が終わることを理解しなければいけないのか。だから何だというのだ。終わってしまってはまずいのだろうか。とりあえず先月の日付を伴った文章ならそろそろ終わりのはずだが、いったいいつになったら今月の文章になるのか。もうあと十日で今月も終わりそうなのに、未だに先月の文章を記している。焦っているのではない。あきらめているのかもしれないが、それでもかまわないと思っている。あきらめきれないから、こうして何かいい加減なことを記しているのではないか。あきらめきれなくてもかまわないだろう。何も選択肢がないということは、何を選んでもよく、しかも選ぶものが何もないのだから、選んでいいのに選べない状況なのだろうか。要するにそれは何でもないということだ。何も語れず、語る対象がないのに、それでも語っている現状があるらしいが、それもそろそろ限界だろうか。このところの甚だしい言葉の遅れが何よりの証拠か。そんなのはもとからわかりきったことだろう。だから何だというのか。君はすぐにそういう状況から逃げようとする。逃げられないのに逃げたがり、とどのつまりが逃げる振りをしながら、逃げられない事実を忘れようとする。そんなのはごまかしに決まっているだろうが、それでも気晴らし程度の効用を期待してしまうところが人間的な弱さを露呈している。では実際には気晴らしになっていないわけか。誰が気晴らしになっていると思い込んでいるわけではない。誰かにとって何かの重荷となっているらしきそれらの文章が云わんとしていることは、そういうことではないようだ。誰もそれに気づかない。何に気づかないのかわからないのだから、気づくはずのないことに決まっているだろう。しかしそれとは何だろう。それが何だかわからないのが、それらの文章の中では当たり前のことのようだが、果たしてそれとは何なのか。それとは問い続けるわけにはいかない何かか。何でもないでは気が済まないのだろうか。君はただそれをおもしろがっているだけのような気がする。誰がそんな気になっているのか不明だ。少なくともその時の君は君ではない。君が何を述べているのでもないことは明らかか。たぶん誰かはそういうことを述べたかったわけではないのだろう。しかしそれとは何かと問うしかない状況に追い込まれている。
3月30日
何やらいい加減な紆余曲折を経て、ようやくここまできたらしいが、もう夜だ。寝てしまえばいい。何もかも忘れてしまうはずか。そんな都合良く事態は推移しないだろう。たぶんまたわけのわからない迷路が待ち受けているのだろう。そして気がつけば翌朝になっている。今の君は馬鹿げた成り行きのまっただ中にいるらしい。そしてもう誰かには君が誰がかわからない。自らが書き記してきた作り話が破綻していて、君の存在などどうでもよくなってしまったのかもしれない。何がどうなってこうなってしまったのかも、原因を探る努力を放棄している。面倒くさいのだろう。しかし面倒くさいのになぜ続けているのか。何かやめるわけにはいかない事情でもあるのか。それらの文章はやめられない事情を探り当てなければ終われないのだろうか。そんな事情が本当にあると思っているのか。誰かがどこまで本気でそんなことを考えているのか、その真意を計りかねるが、やはり冗談の続きでそんなことを記しているのだろうか。その偽りの自問自答が何を暗示していようと、今後もわけがわからないままなのかもしれず、いったい何について述べているのか明らかにならないまま、さらに混迷の度を深めていくのだろう。だが果たしてそれで利いた風な見解を語っていることになるだろうか。そういう認識がわからない。別に利いた風なことを語りたいわけでもなく、何について語ろうとしているのでもない。ではなぜ語っているのか。そう問われると返答に窮してしまう。なぜそんなわけがわからないことを語っているのだろうか。だからそれは誰にもわからないことなのではないか。少なくとも誰かが記している作り話の中ではそういうことになっている。そこでは何かがひたすら循環していて、気がつくと以前と同じことを述べているような気がするのだが、実際はどうなのか。後から記された文章を読み返す気になれない。だからどうしたというのか。さっきから何を述べているのだろう。すぐに忘れてしまうのは興味がないからか。それともわざととぼけているからか。たぶん興味がないからだろう。もう何かを書き記すことには飽きてしまったらしい。しかしそれは矛盾していないか。興味が薄れてしまったのに、なぜ未だにそれを続けているのか。理由がわからない。ただわかろうとしていないだけだろう。それはいつものことで、わかろうとするのが面倒くさいのだ。理由になっていないだろうか。別にここで理由を追及しているわけではない。しかしそれは何をする理由なのだろう。また忘れてしまったのか。たぶんそれは言葉を記すのをやめる理由だ。やめてどうするのか。何を迷っているのだろうか。面倒なので迷わないことにしていたのではなかったか。また嘘をついているらしい。語るはずの内容を忘れているようだ。だからもうやめたらどうか。語るはずのないことを語るのは無理に違いない。いつの間にか述べていることがずれている。やはり本気になれないのだ。本気で語る必要のないことを語ろうとしている。ただの無駄話にもなりはしない。それほどまでにこの世界はくだらないか。そういうつもりで述べているのではないか。わからない。くだらないとすばらしいの区別がつかない。無理に区別をつける必要を見いだせないようだ。それはなぜだろうか。この世界はくだらなくもあり、すばらしくもあるからか。それがこの世界についてのくだらない見解か。たぶん君にはわからないのだろう。わかりようがないことを考えている。何をどう考えても話はどこへも進まない。ここにとどまっていて、同じようなことを繰り返し述べている。それ以外には何の進展もあり得ない。だから困っているはずだ。何かをやめたくなっているはずだが、その何かとは何なのか。少なくとも音楽を聴くことではない。こうして無駄に言葉を記し続けるのを回避する方法はないのだろうか。別に気が狂っているわけではあるまい。やはり本気でそんなことを述べているわけではないらしい。何かそれとは違うことに気を取られていて、まったく違うことを考えていたのかもしれないが、今さら何を考え直しても始まらず、たぶんこのまま無駄に時間を費やして、無駄なことをひたすら語るのみのようだ。なぜそうなってしまうのかはわからない。他の何について語る気もしないのだから、そういうことになるしかないだろう。他に何ができるというのか。現に何もやろうとしていない。そして時間だけが滞りなく経ってしまい、誰かは虚無感とともに言葉が記された画面を眺めている。結局何ももたらせなかったようだ。それは脳裏に焼き付いた何かの映像か。また馬鹿げたことを述べようとしている。さしずめ無駄な悪あがきといったところか。もたらせなかった物事を空想して何になる。まったくくだらない。くだらないが面白そうだと思っているのだろう。それが浅はかな発想なのだ。それでも終わらない。言葉を記すのを終わらせられない。君のせいではないだろう。誰のせいでもなく、誰が終わらせようとしているのでもない。誰かが無駄に言葉を記しているだけのことで、他に何をやっているわけでもなく、何をやろうとしているわけでもない。そういう説明が無駄なのだが、無駄に説明しないと話が先へ進まないようだ。そんなわけで君は当てもなく話を先へ進め、それが君でないことに気づかない。君は嘘をついていたのだ。嘘をついたついでにくだらないことを述べている。君が述べているのではない。それは以前にも述べたことだろう。述べているのが君でないと以前から繰り返し述べきたはずだが、なぜ今さら断りを入れるのか。だからそれが今までに繰り返し述べられてきたことだからだ。ひたすらそんなことを述べていて、いやになるほど述べているのは君でないと述べてきた。それはどういうことなのか。どういうことでもないからそう述べているわけか。そう述べることによって、何となく虚無的な印象を抱かせているのかもしれない。
3月29日
何事もやってみなければわからないこともあるらしいが、それが無駄骨だとわかった時、そこから先には何が待ち構えているのか。自信を失い、何もやる気がしなくなる。現状がそれか。ではなぜそれをあきらめなければならないのだ。いつものように理由がわからない。無駄だとわかったからだ。結果が出なければ無駄なのか。結果とは何だろう。何がどうなれば結果なのか。自問自答しているだけでは何もわからない。とにかく現状を把握しなければならない。何ももたらせないのはどういうわけか。結果を求めていないからそうなってしまうのか。だから結果とは何なのか。君には何もわからない。冷静さを失っている。平常心ではないらしい。なぜ思ったことをそのまま語ろうとしないのか。誰が何を思っているのだろうか。たぶんその辺がわからないのだろう。この世界がどうなってほしいわけでもない。どうにもならないから世界なのだろう。どうにかなってしまったら、それはフィクションの世界だ。ではこの世界をどうにかしたいと思うのは間違いなのか。どうにかしようと思って政治家を目指し、それでどこかの国の大統領になった者もいるだろう。いったい彼に何ができるのか。興味はないが、なぜか気持ちが緩い。たぶんまだ結果は出ていないはずで、落胆するのはまだ早い。確かに早いかもしれないが、落胆してもかまわないのかもしれない。早くあきらめて、何か新しい試みを模索した方がいいのではないか。しかし何をそんなに迷っているのか。何も語れなくなっていることが焦りを生じさせている。まったく馬鹿げた話の成り行きだ。何かこの世界が変わる必要があるのだろうか。それに関しては何も語らなくてもいいのかもしれない。黙っていても変わる時は変わるだろうし、実際に変わりつつあるのではないか。変化なき時代というわけではないのだろう。誰にかにはその変わり方について責任があるわけか。変化を掲げてどこかの国の大統領になったわけだから、任期中にそれ相応の変化を達成しなければならないわけか。とりあえず今の君にはわからない。意識がないのだからわかりようがない。また意味不明な嘘をついているらしい。それも下手な回り道の一つだろうか。いったいどこまで迂回すれば気が済むのか。遠くへ離れすぎて、もう二度とここへは戻って来れないのかもしれない。たぶんそんなふうに語っていれば時間稼ぎができると思っているのだろうが、ただ無駄に時間を浪費しているだけでしかないことに気づいていないようだ。それでも人には目的があるらしい。生きてゆくためにはその目的とやらが必要なのだろう。本当はどちらでもかまわないのだが、目的があるとないとでは、何かが違ってくるのだろう。何かを達成することで満足感を得たいのだろう。だがそんなことを否定的な気分のまま思うのは浅はかだ。なぜそういう動作を肯定できないのか。ただひねくれているわけか。何か想定してなかった事態に直面しているのかもしれない。それがこれか。まったく馬鹿げている。なぜそれほどまでに本気になれないのか。新しい状況に順応できないようだ。ならばもはや滅びるしかないだろう。しかし滅び去るにはどうしたらいいのだろう。冗談でそんなことを述べるべきではない。暗闇で誰かに見つめられ、それで焦っているわけでもない。もう古い知識ではどうにもならないのだ。要するに意味不明なのだろうが、それらの支離滅裂に業を煮やしているとはとても思えない。いったい何についてそう述べているのか。何を思っているわけでもなく、ただ言葉を記しているだけのように思われる。それでかまわないはずだ。かまわないからこんな結果をもたらしているのだ。心は何もない地平まで到達してしまったらしい。誰かにいわせればそんなのは嘘に決まっているのだろうが、作り話の中ではそれで真実に近づいているつもりなのだ。人の存在も世界の存在も何でもない。誰が何を語ろうと、そこにはいっさいの価値もない。だから長々と無駄なことを書き記しているのであって、それ以外に何もやりようがないのだ。何もやりようがないから、そこでは何の出来事も起こらない。そんなことがあり得るだろうか。フィクションのつもりなのだから仕方がない。現実には言葉が延々と続いているはずだ。それが唯一の出来事といえばそうなのかもしれない。だから誰かは無駄だと気づきつつも執拗に言葉を記し続けている。しかし果たしてそんなのが理由なのだろうか。わけがわからないのならそれでもかまわないか。もちろん誰に尋ねているのでもなく、誰が問うているのでもない。文章の中で問うているのは、ただそれが話の成り行きだからだ。そんなのは馬鹿げているだろうか。嘘であってほしいか。嘘であろうとなかろうと、そんなのはどうでもいいことか。どうでもいいことかもしれないが、それではなぜそんなことを述べる必要があるのだろうか。どうでもよくないからそれをひたすら続けているのではないか。何やら図星のようだが、そんなことにこだわっているのが煩わしいようだ。いつまでたってもやめられないのが鬱陶しくてたまらないのかもしれず、いつやめてもかまわないのにやめられないのが腹立たしくてしょうがないのかもしれない。まったく笑ってしまう状況のようだが、呆れ返りながらもまだやる気になっているのはどういうわけか。要するにまだ終わりまで至っていないからだ。そういう思い込みが間違っているとしても、そんな空疎なことを述べる原動力となっているのだろう。それがたとえ同じことの繰り返しであろうとなかろうと、何となく心になじんでいるようで、たぶん受け入れざるを得ない空疎さなのかもしれない。そこで君の心は虚無の境地に達している。冗談かもしれないが、そんなふうに思ってしまうこと自体が愉快でたまらず、くだらない思いつきにすぎないのに、心が和んでしまうこと自体が正気でない証拠かもしれないが、それも作り話の中でのことだ。
3月28日
何か無駄なことをひたすら繰り返しているようだが、それで何をもたらそうとしているのか。虚しさの他に何があるのだろうか。虚しいことは楽しいことか。くだらぬごまかしに違いない。いつものようにやる気がしないらしい。またこんな時間に画面を覗き込んでいる。ただ文字が一列に並んでいるだけか。だがそれは誰が見た光景でもなく、誰かが思いついたフィクションの一部を構成するはずだった。また嘘をついている。まだ危機を脱しきっていないらしい。それが危機だというのか。誰もそんなふうには感じない。何かが終わる機会が訪れているのではないか。たとえそうだとしても、言葉の連なりを延長させなければならない。意味がわからないだろうか。何となく何かの反応が鈍いようだ。そして誰かが疑いの目で何かを見ている。さらにわけがわからないか。わざとそうしているのだから、それは当然のことだ。君は誰かを誤った方向へと導こうとしているのか。君にはわからないことだ。たぶん話になっていないのだろう。それは誰に関する話でもなく、誰かに話すことなんて本当は何もないのだ。では君はこの世界にただの意味不明をもたらそうとしているだけか。そんなことはわからない。何が意味不明なのかもわからず、自らが何に関して語ろうとしているのかもわからない。頭の中が混乱しているのだろうか。何かと別の何かが錯綜状態にあるようだ。なぜ言葉が意味もなく複雑に入り組んでしまうのだろう。まるで何も語ろうとしていないみたいだ。まともに語るのを避けているのかもしれない。あからさまに何かを名指しして、批判したり馬鹿にしたりしてはいけないらしい。それはどういうことなのか。それに関しては何もわからないが、雰囲気的には何も述べられない状況のようだ。突然何かひらめいたらしいが、それを言葉で表現できない。それは何かの感覚なのだろうか。君が抱いている感情はいつも否定的に作動する。それを今さら持ち出して何に使うつもりもない。では何をそんなに迷っているのか。何を語ろうとしているのでもないことが、文字列となって連なってしまう。文章に行き詰まっているのに、まだ何かを記そうとしている。そんな自己言及がごまかしのすべてなのだろう。それがわかっていながら、未だに改められずにいる。馬鹿げた成り行きに違いない。たぶん今の君は頭がおかしい。本当は君でないのだからおかしくて当然か。しかしそれの何がおかしいのだろうか。フィクションなのだから、誰が君でもかまわないのではないか。だが何でもフィクションで片付けてしまうのも考えものだ。何も考えられないのよりはマシだろう。とりあえず何とかしようとしているだけでも、少しは前向きに努力している気配が感じられ、好印象に結びつくのではないか。しかしいったいそれで誰の印象を良くしたいのか。君でないことだけは確かなところか。また嘘をついている。誰もが他人からよく思われたい。だからわざと悪びれることはないだろう。もっと堂々と自らを取り巻く虚無について語ったらどうか。堂々と語るほど虚無に詳しいわけではなく、それが本当に虚無なのかどうか疑わしく思っているのかもしれず、たぶん何について語っているのでもないと指摘されればその通りなのだろう。本質的には何でもないことについて語っているはずだ。ただ言葉を記すことで時間を無駄に浪費している。だから問題の解決にはほど遠い状況だ。何の問題を解決しようとしているのかもわからない。本当は何もやっていないのではないか。少なくとも何か考えていて、実際にこうして言葉を記しているはずだ。しかしそれで誰が納得しているのか。君は不満そうだ。まったく答えを導きだせないのが不満なのか。誰かは何を問うているのだろう。この世界についてどんな見解に至りたいのか。問われていること自体が理解不能か。それで気が済むならそれでもかまわないが、もう少しまともな話にならないものか。誰かはまともに語っているつもりかもしれないが、君にとってそれは理解不能で意味不明なことか。ただわけがわからない。そこから何をどう述べたらいいのかわからず、途方に暮れている最中かもしれない。何かを難しく考えすぎているのか。それでも今日の分を終わらせる必要がありそうで、必死になって何かを語ろうとするが、うまくいっていないようだ。たぶん無理に決まっていて、それも架空のフィクションの中で演じられている何かの芝居なのだろうか。まったく意味がわからない。誰かはまだありもしない作り話にこだわっているようだが、何かを語るという動作が誰かを嘘偽りの結果に導こうとしているのか。それは結果ではなく原因なのではないか。君が何も語れないから、その代わりに誰かが言葉を記す。それが嘘だというのなら、ここに並べられている言葉の連なりをどうとらえたらいいのか。何かのバリエーションの一環で語られていることかもしれないが、毎度のことのように空疎な内容では、それを理解する気も起こらない。意味のない試みを理解するには及ばず、実際に読んで理解できないのだから、何を語っていることにもならず、後からどうあがいてもその事実を隠蔽することはできず、それはあからさまに記されている言葉の連なりから真っ先に感じ取れることか。それ以外に何を語ろうと、何の興味も示せないことに変わりはなく、誰かは落胆しているかもしれないが、それ以上の何でもないのだから、自分の力不足を悟り、説明不足の何かについて述べようとすることが、不可能の最たるものだと気づく間もなく、さらに中途半端な始まりと終わりの間に、それらの言葉が求める対象があるようで、それが虚無そのものだと主張したところで、その実態はいつも不可視の領域に包まれ、誰もそれをかいま見ることは叶わず、それが何でもないことだと認めたがらないのだが、仮に認めたところで何がどうなるわけでもないことは承知しているので、残された選択肢は無視することだけだ。
3月27日
正気に戻るとはどういうことだろう。こういうことだ。気がつけばこの場所に戻っていて、いつものように長々と言葉を記している。中身のない文章だ。それらの何かが嘘に決まっているのだろうが、その何かが何だかわからない。どうやらまた以前と同じ問題に直面しているようだが、今日は面倒くさいので何も思いつかないか。理由になっていないようだが、君はそれで困っているわけだ。正確には困っているふりをしている。なぜ嘘をつくのだろう。些細な違いにあまり目くじらを立てるべきではないか。たぶん無駄な言葉が多すぎるから、そういう言葉の記し方にあきれると同時に腹が立つか。目が笑っているではないか。意味のない言葉の連続によって、いつものように空疎な文章となってしまうらしい。それを食い止める手だてがない。どうもこちらの環境に戻ってしまうと、すぐに怠けてしまって、本当に何も思いつかなくなる。たぶん何を考えているのでもないのだろう。君はそれを認めるわけにはいかないのか。しかし他に何を認めるべきなのか。自らが無能であるというのは嘘なのか。誰がそれを証明するのだ。何がわからないのかわからない。君は自分が無能であることを認めようとしない。君とは具体的に誰なのか。フィクションの中の人物設定が、その辺ではっきりしていないようだ。風が強い。しかし歴史とは何か。そういう話には乗ってこないようだ。唐突すぎて話にならない。そして何の話題ももたらされず、君は空を眺める。文章のどこかに空白がありそうだ。意味がわからないか。誰にもわからないだろう。理解力の向上を目指しているわけではない。それは何のための理解なのか。人は他人を理解したい。それは本当だろうか。では何が本当だと思っているのか。納得できる見解を示せない。納得したら終わりか。何が終わってしまうのだろう。何となくそう思っているだけか。だから納得できない。わけがわからないが、とにかく納得しないことにしておこう。フィクションの中ではそういうことのようだ。そしてその作り話の中には誰もいない。また誰かはいい加減なことを述べているようだ。作り話について語っていることが作り話になっていない。それも嘘のバリエーションの中の一つのパターンなのか。まだ何も話していない。誰もいないのだから、必然的にそういうことになるだろう。ではそれは何の話なのだろうか。ちょっと寄り道に逸れているようだ。気分的に乗ってこないのだろう。そしてまた何もやっていないことに気づき、急いで言葉を記そうとするが、文章の内容が空疎だ。それがどうしたのか。今日はやる気がしないと返しておこう。誰と誰が対話しているわけでもない。そういう会話もどきの何かがおかしいのは毎度のことだが、気晴らしや気休めでやっていることではない。では君はそこから何を見いだせるのか。単に言葉が並んでいるだけか。それの何が気に入らないわけでもないらしい。しかしなぜ未だに先月なのか。それでかまわないと思うからそうなっている。さすがに一ヶ月遅れたら、ようやく自らの終わりを悟るかもしれないが、まだ精神的に耐えきれなくなって、感情が爆発するような事態には至っていない。ひたすら余裕をくれて、このどうしようもなさを楽しんでいるらしい。まったく馬鹿げたことだが、それを終わらせるわけにはいかないらしい。まだ途中ではないか。冗談でそんなことを述べているのはわかっているが、そろそろ冗談にもほどがあるか。我慢の限界はとっくに超えている。だから笑うしかないらしい。本当にくだらぬことだ。それが嘘だとしてもくだらない。だがそれでも後からわかってくることが山ほどある。わかってしまうからやめられないか。では何をわかったのか。この世界には何もないことか。少なくとも何かがあるだろうと思うのは幻想にすぎない。本当に何もない。それが嘘だとしても何もありはしない。では何に感動しているのか。君は実際にどんな驚愕すべき出来事に遭遇したというのか。ただの退屈な日常が日々続いてゆく。ただそれだけのことだろう。それ以外に何があるというのか。君が知っているのはそこまでだ。その先に君が存在する余地はない。ただの作り話に違いない。誰かがそんなことを語っていたはずだ。そんなこととはどんなことなのか。それがわかれば一件落着するだろうか。わからない。君は文章の終わり方を知らない。それに関して何も知らないわけではないが、少なくともこの世界を終わらすことができない。人にも神にもそれは無理というものだ。そんなことができたら、君は真っ先にこの退屈な世界を終わらせてしまうだろう。そして世界の終わりとともに君も消失してしまい、誰かは何も記せなくなる。それは文章ではなくなり、何でもないものと化すだろう。そんなのは嘘に決まっているか。ならば嘘でもかまわないから、この世界を終わらせてほしい。たぶん冗談で述べていることだろうが、君はそれを真に受けて、どこかで世界を終わらせる試みを実行中か。今度こそ嘘に決まっているだろう。くだらぬ挑発には乗らないことにしているのかもしれない。別に振り込み詐欺のたぐいではないのだから、今は冗談を真に受けてほしいが、そう述べている意図をはかりかねる。何のためにそれらの文章があるのか。また理由や根拠のねつ造に加担しようとしているのか。誰がそうするつもりなのかわからない。きっと切羽詰まって苦し紛れの冗談を述べている最中なのだろう。しかし心の底から笑い飛ばせないのはなぜなのか。理由がない。誰がそう述べているわけでもなく、世界が君をどうにかしようというのでもなさそうだ。君はいつまでも無視される存在のようで、自己主張する手間が省かれているのだろう。君は元来面倒くさいことが嫌いなのだ。しかしそれらの回り道をなぜ受け入れているのか。ただ単にそうせざるを得ないから、成り行き的にそうなってしまっているだけか。そんなわけでいつも回り道を強いられている。
3月26日
何かが矛盾していて、誰かはその矛盾を放置しているようだ。よくわからない気分をどうすることもできない。なぜそう思うのか、何の根拠も示せないが、とりあえずは今はこのままでいいと思っておいた方がよさそうだ。一応はこんな現状を肯定しておかないと、さらなる迷宮にたどり着けないような気がする。別に迷宮にたどり着いてどうするわけでもないだろうが、なぜか今は理路整然としたことを述べられそうにない。述べていることの何かが違っているらしいことはわかるような気がするのだが、何が違っているのか述べられない。たぶん何かが違っているのだろう。そうでなければこういう状況にはならない。しかしこういう状況がどんな状況なのかわからずにいるようだ。そんなわけで何もはっきりしたことを述べられずにいる。それは何かごまかしの類だろうか。わからなければどうなるわけでもないが、そんな風に述べていることのすべてが冗談かも知れないが、どういうわけかそれを理解しようとする気が起こらない。確かにメディアや政府は世の中が不況だなんだと騒いでいる。実際に困っている人もいるのだろう。しかしそれは実際に食っていけずに窮地に追い込まれなければ実感できないことだ。君はなぜそうは思わないのか。本気になって語れないのはどういうわけか。他人の気持ちまではわからない。この世界のシステムには飢餓や貧困も必要悪として含まれている。要するにそういう切羽詰った状況から這い上がってくる一握りの成功者を求めているわけだ。くだらぬ人々が感動するためにそういうサクセスストーリーが必要とされる。そういう物語は何のためにあるのか。たとえ今は悲惨な境遇の中で暮らしていても、いつかはそこから抜け出て成功をつかみとる、という夢を捨ててはいけないと励ましているわけか。君にはわからないことだ。誰にとってもわからない。では夢をあきらめてしまった人たちは何をすればいいのだろう。荒んだ心のまま、何もせずに生きていられるだけ生き続ければいいのか。そこには何が生じるのだろう。たぶん詩が生まれる。人は詩に託して何かを訴えかけるが、それは君が捏造したフィクションの中で起こっていることだ。天には空があり、夜になれば星が瞬いている。その輝きは誰の思いとも無縁だ。昼の時間帯に思っていることではないらしく、誰かは眠たくなって言葉を記せなくなる。何か現状には似つかわしくないようだ。たぶんそういうことではないのだろう。もっと気楽な気分を求めているようだ。人には実際にその渦中にいながら楽しめる出来事が必要だ。君には睡眠時間が必要か。システムを変えなければいけないわけではない。強引に変えられるだけの力など誰にもありはしない。しかし今までは何だったのか。何か無駄な思考が作動していてわけか。思考力の有無がどんな差をもたらすわけでもない。むしろ考えないほうが楽しく暮らしていけるかもしれない。無理に自らを切羽詰った状況に追い込むこともないらしい。今やすべてが過渡期にあるらしい。そう思っているのだから、それが思い違いだとしても何のことはない。本当に間違っているのなら、正しい認識へと導いてほしい。自力ではそこへ至れないようだ。テレビ画面上で繰り広げられるスポーツなどのゲームへと関心を向かわせるには、何かもったいないような雰囲気を感じ取る。そういうくだらないことに満足してはいけないようだ。昼の空は曇っている。誰が雨を降らせようとしているのでもないらしい。作為的な話には気持ちが乗っていかない。たぶんこの世にもあの世にも救いを求めるのは無理のようだ。救いとか癒しとかいう概念を信じられない。それで何を強がっているのでもなく、実際に音楽を聴きながら癒されているような気がするが、それで何がどうなっているとも思えない。ならばもうあきらめてしまったらどうか。何をどうあきらめたら納得するのだろう。ある一日の記憶と行動がどんな傾向を見せようと、それを改めるには何が必要かもわからず、ただ闇雲に言葉を記しているだけでは済まなくなっていることも自覚する必要がありそうだが、やはり実際にそれで何がどうなっているわけでもないらしい。すべてはその程度のことだ。何がどうなっているわけでもなく、現状は現状のまま、予定調和の範囲内で推移するしかないようだ。君には何かそう述べなければならない理由があるのだろうか。できればもう少し救いのある内容にしたほうが気晴らしになるだろうに、誰かは否定的な気分しか言葉で示せない。しかし何について語っているのか。もう自分が記した内容を忘れてしまったのか。人の趣味は多種多様であり、それらの一つ一つについていちゃもんをつけるほど暇があるわけではない。誰かには他にやるべきことがありそうだ。言葉を記すのをすぐに止めて、それを実行すればいいだろう。ならばそこで思考が止まってしまうのか。考えがまとまらず、文章にならないらしい。たぶんそういうのは幻想だろう。何を考えているのかわからないのに、わけのわからない文章が記されてしまうのがここでの実態だ。未だかつて考えなどまとまったことがない。しかしここではそれもゆき過ぎた嘘になるだろうか。わけがわからないのに、そんなことがわかるわけがないか。そんなわけで語っていることのすべてはひたすらあやふやな水準にとどまってしまう。その時の気分が言葉にならない何かを心につなぎとめているようで、それがわかりやすい文章に構成されるのを妨げている。だからそれがどういうことなのかわかるわけがない。たぶんそこでは何が繰り広げられているわけでもなく、何となく言葉にならないような気分を言葉で表現しようとしているようで、それは矛盾した行為だろうが、そうせざるを得ないような成り行きに、何かが強いているような気がしてならず、それを押しとどめることができないから、こうしてわけのわからないことを述べているのだろう。
3月25日
何となく誰かが記した言葉の意味を理解しようとしている。理解しなければ誰かの存在を感じられないか。また何かが捻じ曲がっているようだ。だからというわけではないが、何かの曲解を楽しもうとしているのかも知れず、それを真に受け取るつもりはなく、今日中に作業を終わらせるのは無理だろう。それは昨日の記憶だ。数日前でも数週間前でもない。そして気がつけばすでに今日になっていて、昨日からの作業の続きで、何となく自らの存在意義を自らに問うてみる。それとこれとは無関係か。そんなわけで天に向かって何を問いかけても無視される。天のどこに誰かの居場所があるわけではない。ではいったいそれの何が正義なのか。意味がわからない。何事も突拍子もないところから語られるようだ。しかしなぜそうなることを君が求めているのか。求めているのは暇つぶしや気晴らしの類か。別にそれで誰かが死体と化すわけではない。君には依然として意味がわからない。何を語っているのだろうか。気まぐれに述べていることの中身はいかなることか。世の中の変化についてゆけないらしい。ならば今はそれ以外の変化を受け入れてみよう。誰がそうする必然性を有しているのだろう。それはまったくのご都合主義だ。気晴らしの一環として、気分的にそうなってしまう理由を知りたいか。普段はきっとそれとは別のことが語られているのだろう。人は大げさなことをやり遂げると、心地よい疲労が醸し出す達成感とともに、至福の時を手に入れたと思い込み、それで自己満足に浸れるようだ。それは映画的な幻想であり、誰もがそれを見て楽しめるように、様々な嗜好が凝らされているようだが、しかし君がことさらに幻想の欠点をあげつらってどうするのか。現状ではまったくあり得ない話だからか。そうでもないような事情もどこかにあり、ありそうでなさそうな話だからそこに幻想を抱けるのではないか。誰もがそこに人の幻影を見ている。君もその場に居合わせているような気になることがたまにはあるはずだ。君はいつかそんな成り行きから抜け出られると信じていたようだが、そこで何かに裏切られ、地獄の業火に焼かれ灰となる。だからいつまでたっても意味がわからず、そこに至る成り行きのいっさいが語られていないことに不満を抱く。誰かは相変わらずそれに関して、またそれ以外でも、何かいいかげんで適当なことを語っている。君の心境などまったく意に介さず、途中の挿話など思いっきり省き、納得できる結論とは無縁の、余分な付け足しだけで文章を構成しようとする。それが気に入らないのか。君だけではなく、それを記している誰かも気に入らないようだ。近頃はいつもそればかりだからうんざりしてしまう。そして今日もまたその続きが無造作に記され、それらの退屈な儀式を何食わぬ顔してやり過ごしてしまいたい衝動に駆られながらも、執拗にそれが構成する現実にしがみついている誰かを蔑み、何もないのに強がっているだけの、誰かの作られた無表情が、君をいっそう迷わせる。それらの何を唾棄すべきなのか。それは思いもしなかった心境か。通常では至れるはずのない心境をそれらの文章が構成しているように思いたいが、実際に誰が思いたいのでもなく、そのように記されてしまう理由を知る勇気がわいてくるわけでもなく、何がどうなってそうなってしまったのか、それを説明するのが面倒くさくなり、どうもまた常軌を逸して、くだらぬ言葉の付け足しに精一杯で、文章の内容を把握できなくなっているようで、通常の軌道からはみ出して、わき道から獣道へと迷い込み、それが嘘であることを自覚しつつも、それで何とかその場を強引に取り繕うつもりらしい。まったく余裕が感じられないが、それでももう一方の作業は何とか終わってしまい、それで一安心している誰かが画面の前に座っている。たぶん誰かが語れるのはそういうこと以外には何もない。だが何もないからこそ、こうして仕事の合間に平和な時を過ごせるのか。それとこれとは認識が微妙にずれているような気がするのだが、今はそれでかまわないだろう。ただそれからの君が具体的に何をどうしたかが、それらの空疎な文章には欠けているようだ。興味がないからそれでもかまわないのか。実際そんなことはどうでもいいことだ。それが気に入らないなら、願わくばそういう無駄な言葉を記さないように、誰かに何か別のことを考える機会でも与えてくれないか。八百万の神々よ、どうか誰かの思考力をまともな水準に戻してくれたまえ。他に何がほしいわけでもなく、ただひたすらに常識的な精神の持ち主でありたいか。ところで誰かはそういう話をどこで仕入れてきたのか。それ以外の理由を知りたくなる。そこでの必然性は言葉の何に取りついているのだろうか。すべてが君に問われていることではない。ではこの世界では何が誰に問われているのか。少なくとも君のことではない。誰のことでもなく、何が問われているわけでもないが、ここで記された言葉にはもとからリアリティが伴っていないようだ。だからといって現実から逃避して何を記そうとしていたのではない。現実ではないのだから、どこにも逃避しようがない。たぶんそうではない。わけのわからないことを書き記しているのは紛れもなく現実だ。そんな現実を突きつけられて、その先にどんな言葉をつなげられるというのか。それが大したことではないと思い込むのは卑怯か。誰かのまなざしは画面を見つめている。君が探していたのは死人の言葉ではない。老いぼれた人が何かつぶやいていたらしいが、たぶん君にはそれがわからない。残された時間は後どれほどあるのか。君はこの世界から引き剥がされようとされている。もうすぐこの世界の一部ではなくなってしまうのだろう。そんな成り行きのどこまでが本当なのだろうか。それともその場で気まぐれに思いついた嘘に過ぎないのか。だがそのときの君は言葉から逃げていた。恐ろしくなってその場から逃げ出してしまったのだ。
3月24日
今日も意識ががむしゃらに前進しようとする。手綱を引いてブレーキをかけたいところだが、思うようにはいかず、気がつけば語っているつもりの内容を把握できなくなっている。嘘でもかまわないから気休めに何か都合のいい認識がほしい。しかし自らの都合がよくわからない。都合とは何だろう。このままでは何もかもが尻すぼみになってしまいそうだ。だが他に何も語れない。まともな言説には程遠く、その代わりにもたらされるのは意味のない問いかけばかりか。ならば愚問とは何か。それが愚問に決まっているだろうが、いったいこの世界は何からできているのだろうか。当然のことのように記される馬鹿げた問いと答えからではない。まったく近頃は答えるより先に新たな問いが発せられて、何もわからないうちにひたすら問うてばかりのようだが、そういう無駄な問いかけが積み重なって、空疎な文章を形成してしまうわけだが、それがどうかしたのか。世界はそこで日々起こっている様々な出来事から構成されているのではないか。それは歴史だろう。では歴史とは何か。ふざけすぎだ。馬鹿げた愚問が繰り返されるだけで、誰もがそれでは納得しがたいのではないか。少なくとも納得させたりしたりするようなたぐいの文章ではない。ならば他に何を問いたいのだ。たとえば世界中で起こっている様々な出来事についてどんな認識を得たいのか。それがわかれば苦労はしないが、そもそもいっぺんにわかるはずがない。ならば自らは語ることによってどんな認識に至りたいのだろうか。君は自らには含まれない。では君は何を苦労しているのか。誰の苦労も意に介さず、ただの戯れ事が文章の中で繰り返される。戯れ事とは具体的に何だろう。要するにそれらの出来事は君には関わり合いがないことか。何が要するになのかわからず、それ自体もまったく答えになっていない。しかし出来事とは何か。君が語っているつもりのそれも出来事のひとつだ。それも含めて様々な出来事が積み重なって、この世界を形成している。それはすでに述べられていることだ。それでも答えになっていない。問いと答えが対になっていないようだ。君はそれで何を安心しているのか。一安心を得るにはどうしたらいいのか。まるでちんぷんかんぷんだ。言葉を記している誰かは、くだらぬ言説では何ももたらせないことに腹を立てているみたいだが、そんな誰かの影は、本当はそうではないと主張したいらしい。まともに誰もが納得するような答えが出てしまうと、そこで言説が終わってしまう。それが影にとっての偽りの杞憂なのだろう。君に何がわかるというのか。影が君なのではない。ではわかり合えないような関係を誰と誰が打ちたてようとしているのか。君と誰かが対話しているわけではない。しかし何について語らうことができるだろうか。同じような文章の中で同じような物言いが循環しているだけだ。それで何が不都合なのか。君にはそこに憩いの場が空想されると思う。しかし誰がこの世界を構成しているのか。それが神でないという認識を得られるだろうか。いったい君は何を思いたいのか。何を思い出している場合ではない。また漠然とした物言いだ。以前と同じようなことを述べているらしいが、果たしで今のままでいいのだろうか。今があるわけがなく、それでいいわけがない。ではもう終わりか。何が終わるというのか。何かが終わるのだろう。終わってまた始まるに決まっているが、できれば終わる前に最後の言葉に出会ってみたい。言葉の意味がわからない。何かおかしいのではないか。わざとおかしなことを述べている。そういうのはとてもじゃないが精神的に耐えられないか。弱音を吐く理由を知りたいか。また真夜中に咳が止まらなくなる。それが誰かの最後だったのか。縁起でもないが、たぶんそれは真実なのだろう。フィクション的にもそうだ。事実と作り話がごっちゃになっている。そして作り話の中ではようやく誰かが何かに出会えたらしい。そういう話をしたかったのか。冗談を言うならそういうことになる。事実とすれば相変わらず道に迷い、何かとの出会いを頑なに拒否している。何かとは何なのか。それは非日常であり、それ以外はすべて真実だ。またいつもの冗談なのかもしれないが、なぜ作り話の中ではそうなってしまうのだろう。本当に目を覚ましたのなら、起きて言葉を記さなければならない。いつまでも寝ているわけにはいかない。今日も仕事のはずだ。そして仕事以外は、ただそれだけのことにかかりきりなのだ。そしてそれだけのことなのに難儀している。うんざりしているのではないか。ではさすがにもう言葉を記すのはやめてほしいか。それは誰の要求になるのだろう。まさか自分で自身に要求しているわけか。やはり何かおかしい。おかしいのは体調ではない。起きているうちは咳が止んでいる。それは嘘でも冗談でもなく、そういうことなのだ。体調が万全ではないのはわかっている。ただそれだけのことだ。それで何について語ればいいのだ。確かに終わりが見えているのにそこまでたどり着けない。そこまでたどり着くということがどういうことなのかわからない。そんなことがあるらしい。そこでもがき苦しんでいるのは果たして君なのか。誰かの影ではないらしい。君には影がない。何か話が横道にそれているが、誰かが云わんとしているのはそういうことなのだ。すべてが万事そういう具合に進行中だ。そして君はそれを認識できない。架空の存在だからか。そういう冗談は聞き飽きたか。つまらない以前に呆れてしまうか。しかし痴呆老人の戯言というわけでもないだろう。君はまだ状況が飲み込めていないらしい。未だに終わりを受け入れられないのが何よりの証拠か。なぜそこで終われないのだろうか。まだ何かやらなければならないことでもあるのだろうか。だがそれを感知できないのはどういうわけか。
3月23日
まだやる気があるのか。どこでどうなってしまったのか記憶がないが、なぜか今はこんな状況だ。作り話的にはどこかで倒れてしまったようだが、誰かはまだしぶとく生きている。神は誰を葬り去りたいわけでもないだろう。そんな力がどこにあるのか。君が神なのではない。それはここで再三確認されていることか。実際には何かのために何かがどうにかなってしまったようで、それは何かの転換点だったかもしれないが、それほど騒ぐようなことではない。君には関係のないことか。とりあえずそれでもみんな生きているようだ。死んでしまってもかまわなかったのではないか。とりあえずみんなの中に君が入るとは思えない。形骸化した組織の中で、何となく暗黙の了解事項として、儀礼的なやり方がまかり通っている。そこで誰かは何かがおかしいと感じているようだが、そんなのは気のせいだ。誰かも死にかけた組織の一部でしかない。しかし何かとは何なのか。問いかければすぐに答えが出てくるのだろうか。ここでは無理だろう。まったくすべてくだらない。制度のすべてはおもちゃのような機能しかない。そして何かの内部で何かがさらに悪化しているようだ。だがそれでも一向に崩壊の兆しがない。崩壊という現象を経ずに崩壊しているのではないか。それはどういうことなのか。意味がわからないのはいつものことだ。しかし君はそこで何を期待していたのか。君ではなく誰かではないのか。誰だろうと君だろうとかまわないような話だ。とりあえず何がどうなろうと、別にそうなるために何をやってきたわけではないし、今そこで新たに何をやっているわけでもない。実態としてはどうにもなっていないはずだ。確かに出来損ないのフィクションの中ではそうだ。そこで何かの動作が低レベルで安定していて、それは何ももたらさないのと同じことのようだ。しかし誰かの記憶は何を保存しているのか。誰かはそれに関して何も思い出せない。たぶんそれらは思い出そうとして思い出せるようなことではないのだろう。そんなのはすでに忘却の彼方で消え去ってしまったのかもしれないが、今さらそれに関して何を語ろうとしているのか。語ろうとしても実際に語れないはずだ。現に何も語れなくなって、それについて語ることをあきらめてしまったのではないか。そして何もできなくて落ち込んでしまい、絶望の果てにとうとう常軌を逸した行動に出ているわけか。嘘に決まっているだろう。そういう作り話もありふれた話の展開のひとつか。そんな風に述べて正気を装うつもりらしいが、それでは馬鹿げているだろうか。馬鹿げていたほうが楽しいだろう。他にどんな選択肢があるというのか。この期に及んでいいわけなど何もありはしない。ではいったい空疎な文章の只中で何が起こったのか。わけがわからないのはいつものことだが、本当に君はそれに関して何もわからないのか。その時の君は何かを隠していたようだが、今はなぜそこへ至れないのか。たどり着けないそことはどこだろう。それは冗談の類だろう。陽気にまかせてまたあやふやなことを述べているが、そんなのは嘘に決まっているだろう。たぶんそれは冗談ではない。ひたすら前言の何かを打ち消そうとしているだけで、話はどこへも進んでゆかず、何事も今までのようにはいかないようだ。どうやらやり方を変えなければならない時期にさしかかっているのかもしれない。ならばそれらの言語表現も何かの岐路に立っているということか。とりあえず目新しい何を求められているのでもないらしく、そこにあるのはただの何かだ。要するに何かという言葉なのだ。またそれは誰かが思い描いた幻影かもしれないし、少なくとも現実の断片ではないらしい。だからどうしたわけでもないが、君はその程度で妥協を強いられ、それがどの程度なのか見当がつかないまま、現実を見失ったそのまなざしは渋々空想のかなたへと旅立ち、結局行き着く先には嘘かくだらぬ冗談があるらしい。要するに堂堂巡りなのだが、ところで彼岸とはどこなのか。気まぐれにそんな言葉を連想したに過ぎないが、それがどうかしたのだろうか。苦し紛れの類か何かか。誰が彼岸に行き着いたところで、何もどうもせず、とりあえずそういうことの中で、現実から逃げられないのに、妄想の出口へと心が逃げようとしている。しかしそれでは文章になっていない。たぶんそこで君が思い出したのはそういうことではない。気がつけば真夜中に咳がとまらなくなり、そんな状況を打開するために何をやる気も起こらないようだが、起きて茶を飲んだらかろうじて咳が止んだようだ。まったく執拗な風邪だが、まさか結核か何かか。薄暗がりの中を見渡せば、身の回りには何かが散らかっていて、それらを片付ける気力がないようで、そんなわけで今のところは体力が回復する兆しが感じられない。また日付が過去に後退していってしまうのだろうが、それでも言葉が記されていることに変わりはなく、意識はそんな現状以外の何に気づいたわけでもなく、また性懲りもなくその続きをやらなければならないのだろう。架空の意識はまだ終わりのこない話の只中で考えているようで、そんなわけもなく考えている内容はくだらないことか。いったいこの世界とは何なのか。なぜ世界の存在を感じていなければならないのか。当たり前のことを当たり前のように思ってはまずいのだろうか。まるでわざと答えの出ないようなことを問い続けているみたいだが、やはりそういうことに魅力を感じてしまうのは頭がおかしい証拠か。そういう大げさなことでもないだろう。頭がおかしいことが大げさなことだとは思わない。君はそれで深刻な鬱状態に陥るのを無意識のうちに防いでいるのではないか。要するにそれが冗談のすべてなのだろう。まったく本気になれないから、この世界のおかしさを感じ取ることができるわけで、それを当たり前と思ってしまったら、あとは幸せな余生を送るしかないだろう。
3月22日
なぜそうなってしまうのだろう。意識のすべてが無気力に満たされているようだ。心は重く空は青い。翌月のある日は晴れて暖かい。その一方で時空を適当に隔てて、誰かが雨の中にいる。それとは別の日だ。出来事と記憶が重ならない。それがどうしたわけでもないだろう。何か適当なことを想像しているのかもしれないが、それが何なのかわからない。この段階ではその実像を窺い知ることはない。それはどの段階でも同じか。たぶん意識は何を導き出そうとしているわけでもないのだろう。ならば君はどうしたらいいのか。このままではだめになるか。だめになったらなったで、それでかまわないのだ。かまわないが、そこからだめなりの何かが導き出される。それはくだらない結論か。それの何がくだらないのだろうか。それとは何か。またそこで予定調和のごとく行き詰まってしまうわけか。たぶんそこから先には何もない。力が入らないようだ。それは記憶力ではない。だがそれでもそれに気づいただけ、まだ意識がはっきりしている証か。冗談ではないが、いつもそれではつまらない。それとは何だろう。それだけのことに言葉が無駄に費やされる。思惑がどこにあるというのか。どうやらまた文章になっていないようだ。今さらそんなことに気づいてどうするのだろう。何が記述の邪魔をしているわけでもなく、ただ何を語ればいいのかわからないのだ。ではなぜそんなことを記しているのか。それらは何かの気晴らしでやっていることか。君にはそれもわからない。くだらない国家ごっこをどこかの国でやっているらしい。歴史の狭間で馬鹿なことをやっている。具体的にそれはどういうことなのか。何もかもが中途半端だ。人が過去と現在と未来を物語として統合する。それがどうしたわけでもない。今はのるかそるかの大博打を打っている最中なのか。もう終わりなのかもしれないが、それは以前から述べていることだろう。だから君には何もできないとも述べていたはずだが、それでも今さら何を語るつもりなのか。できないこともできることも、この際はっきりさせておいたほうがいい。それができればの話だが、君はいったい何を語りだそうとしているのか。そこから何が始まるわけでもなく、話は永遠に始まり以前の段階にとどまろうとする。目下のところはそれを打ち破る手立てがないのかも知れず、ひたすらは入り口の前で何かの到来を待っている状況なのか。くるはずのない機会を待ち続けているわけだ。しかしそんな認識でいいのだろうか。何よりも優先されるべきは何なのか。果たして何もやらないことが誰かの美徳なのだろうか。いくら問いかけても、返答など期待するまでもなく、沈黙が画面上の文字列を支配しているようだ。そんなことがあり得るとは思えないが、いいかげんに言葉を選んで適当に配置すれば、そういうことになるのかもしれない。どういうことになってもかまわなかったはずだが、何となく文章的に格好をつけたがっているのかも知れず、無意識のうちに中身のないことを述べながらも、それらの形骸化した言葉の連なりに愛着でも抱いているのだろうか。そうであったらおもしろいか。何をおもしろがっているのかわからない。単にとぼけているだけか。何かがわからないふりをするのは誰かの常套手段で、あまり感心しないが、それで何が述べているようなつもりになれるのもご都合主義のなせる業かもしれない。だがそれで何を述べているのでもないことは明白な事実で、述べるべき内容を知らず、語るべき言葉を見失い続け、まったく空疎な中身の文章をひたすら記し続けている現状があるらしく、それでかまわないと嘯いているのは、文章の中に登場する君なのか。それこそあり得ないことだ。そしてそうやって否定し続けることがここでなされていることの一部始終なのか。しかし何か間違っていないか。間違いだらけだからこの世界に魅力が宿るのだろう。世界が馬鹿げた言動や行為で満たされていなければ、誰も何も批判できなくなってしまう。他人の欠点をあげつらう輩もそれ自身が馬鹿げた存在であるにもかかわらず、やはりけちをつける対象を必要としているわけだ。しかしそれがどうしたというのだろう。君が述べたかったことのすべてがその程度の範疇に収まってしまうわけか。君はそれの何を疑っているのだろう。自らの存在すら疑いの対象としなければならないのか。きっとそこでわけがわからなくなり、言葉の並べ方に行き詰まり、文章を構成できなくなる。内容がないからそれでもいいのかもしれないが、何かがそこには欠けている。今さらわかりきったことをしてしないでもらいたいか。たぶんそんな風に語りながらも、ようやく出口が見えてきたらしい。暗中模索だけでは息が詰まるか。君の知ったことではないかもしれないが、誰かは何かがわかる機会を待っているはずだ。だいぶ前からひたすら待っている。以前から人知れずそれを探っていたのカも知れない。今はどうなのだろう。そこから何がもたらされているのか。疑念や疑問やそれについての問いかけだけは物足りないか。それ以外に何があるのか。文章の終わりがあるはずだが、終わってしまったら何がわかるのだろう。わかるのではなく、わからないままの現状が続いてしまう。だからそれは君に見つけられるようなものでない。それどころか誰にも到達不可能な心理的境地なのかも知れず、それがそういうことではなく、何となく不可能だが、そこに至りたいという思いを抱き続けることが、それらの文章を継続させる原動力なのかもしれないが、そんな嘘に動じるほど現状はやわでない。何もないのに言葉があり、中身がない代わりに空疎があるような状況の、何が魅力や幻想をもたらしているのか。それは勘違いや思い違いから生じている状況なのだろうか。そうだとしたらそれは作り話の中に生じている影のようなものか。
3月21日
未だにこんな日付か。なかなか楽しいではないか。どこの誰がおもしろがっているのだろう。たぶん独り言ではない。誰が何を操っているのでもないらしい。操るべき主体を欠いている。問われているのもそんなことではない。何を犠牲にしているわけでもなく、どこから話が始まっているのでもない。相変わらず何かが違っている。どこまでもいつまでもそんな按配なのだ。もはやそれは病気の類か。そうであったら何をどうすればいいのか。たぶん何も問われていないわけでもない。少しは本気で語るべきか。その必要がないとは断言できないか。今日もくだらぬ遠回りの最中のようだ。それで何が不都合なのか。君はこの状況を把握していないらしい。まさかここで窮地に追い込まれているわけか。まさかだからまさかなのだろうが、別に気にする風を装えなのだから、そんなことはどうでもいいか。まったく懲りていないらしい。いったい何に懲りれば気が済むのか。そういう問いかけ方が気に入らないか。何ももたらしはしないだろう。だから今はそれだけのことにかかりきりのようだ。まったく内容を求めていない。慣れてしまえばこんなものなのか。ならば今の君に何が理解可能なのか。生き残る道はどこにあるのだろう。それは冗談に違いない。そんなわけでもう少しサービス精神を発揮したほうがよさそうだ。人は人と関係しなければならない。架空の存在である君にも当てはまることか。フィクションの中では作者が何かイベントを設けてくれるだろう。君はそれを期待しているのだろうか。実際にそこで思いついたらしく、その思いついたことを文章の中に記そうとしているようだ。できないことはできることと同じではない。だからできないことをやろうとしているのか。できなそうなことをやって、実際にできないことを確かめている。まったく愚かで馬鹿げたことだ。今の君には到底受け入れがたいか。ならばできそうなことをやってみたらいい。ところで今やっているのはできそうなことなのか。自己言及パラドックスにはまりながらも文章を記している誰かがどこかにいるらしい。そんな誰かは今ではかなり古くなってしまった観念にその思考形態を覆われていて、今の世界にその存在がマッチしなくなっている。だからそれを今から改めようとしているわけか。今さらそれはできないことか。何かを見過ごしていて、また別の何かを見落としているようだ。そしてその何かを探ろうと試みるが、未だにそれが何か判明していない。それはまったくの冗談だろう。文章の中身がどこにも見当たらないのだ。そしてそこから何とかしなければならなくなる。具体的な出来事はどこへ行ってしまったのか。君はどのような状況の中にその身をおいているのか。現状を改める上で何が必要なのか。たぶんそれらの説明を回避しなければならないのだろう。執拗に問いかけてくるそれを押さえ込まなければ空疎なままだ。それが冗談のすべてなのか。それとは冗談のことなのか。また問いかけてしまうのも冗談の類なのか。しかしそこで笑っているのは誰なのだろう。君にとっては見知らぬ誰かか。そして本気で問いかけているわけではないことに気づく。この状況を何とかしなければならないのは山々だが、笑ってしまって先へ進めないようだ。なぜそうなってしまうのかわからないのだが、とりあえずそれが自然の成り行きらしく、それをそのままにしておいたほうが無難なのだろうか。では君はそのままの現状を改めるのをあきらめてしまうのか。それでもかまわないだろう。どこからともなくそんな言葉が届いて、君は脱力してしまう。やはり世の中にはできることとできないことがあるらしい。それほど大げさなことではないはずか。確かに大げさではないが、些細なことでもできない場合があるらしい。だから何となく事を穏便に運ぶためにはある程度の空疎はやむをえないのかも知れず、些細な不満にいちいち目くじらを立ててしまうのは大人気ないことか。だからどうだというのか。冗談で済ませられるようなことを語っているのだろうか。たぶん今の君には気づけないのかもしれないが、遠い未来の時空にその身を置いてみれば、なんでもないことになってしまうのだろう。だからそれらの空疎な気分を受け入れる必要がありそうだ。人は人でしかなく、その人なりに最善を尽くしているつもりでも、端から見れば大したことでもないらしく、何かしら立派な信念の持ち主らしきどこかの国の大統領でさえ、できることは限られていて、この世界を思うように動かせないジレンマに直面しているのだろう。君にはその人なりの苦労とは無関係でいることができるかもしれないが、それらのフィクションが君を存在させているように思い込ませるために、どれほど膨大な言葉を費やしてもなお不具合だらけであることについて、無責任な態度をとり続けても、何とも感じないのが君の人格的な欠陥を生じさせていることに変わりはない。しかしそれで何を述べていることになるのか。それをいちいち確認するのも、文章的にはおかしな表現か。それにしてもあれからかなりの月日が経ってしまったらしい。すでにあれが何だったのか思い出せないほどなのだ。しかしそれはどういうことなのか。ただ今となってはどうでもいいことでしかないわけか。それは度々記していることで、今さらそれはないだろう。今はとりあえず空疎な内容を記している最中で、それについて改めて言及している余裕はなさそうだ。何とか文章の一応の区切りまでたどり着くので精一杯なのかも知れず、そこから先は気が向いたときにでも記すことにしよう。いつになるかは今のところはわからず、忘れてしまって結局それについては今後何も記さない可能性のほうが高いだろうが、それにしてもそんな現状を変えるために何か努力を積み重ねているつもりが、予定調和のごとく現状維持になってしまっているようだ。
3月20日
今日は何を語ればいいのだろう。そう思った時点ですでにおしまいか。それならそれでかまわない。何とも思っていないのだからそういうことだ。君には何も語ることがない。何かを思い出すのが面倒くさいのだろう。だが語らなければならないことなんて何も思い出せないに決まっている。思い出そうとする前からあきらめてしまってはいけない。何はともあれ、とにかく今日も誰かが言葉を記しているようだ。それの何が気に入らないわけでもなく、何となくその先に記される言葉の連なりを読んでみる気になるだろうか。いつも君はその先で行き詰まっているのだ。しかしそれを思い出して何になる。今さらながら内容のなさに呆れ返っているだけか。同じことの繰り返しになるようだ。何を想像しているのか。空疎な話の結末を導き出すのはまだ早い。君が語ろうとしているのはそれとは違うと思っている。だが何がそんなに苦しいのか。遠ざかろうとしている光景を思い出す日を想像するのはおかしい。意味がわからない。またいつか巡り会う光景でしかないものに何の価値があるというのか。そういうことを語りたいわけではなく、そこで何を語ろうとしていたのか思い出したいらしい。だからそれは何なのか。何でもなければ思い出す必要はない。しかし何でもないことはないとすると、それらはいったい何だったのか。君にはわからない。言葉を記している誰かにもわからないことだ。それは何かの気休めか。何をもたらしているとも思えない。ではただのでたらめだろう。そう言い切ってしまっていいのか。少なくとも君に害はないはずだ。やる気がないならそこでおしまいにすればいい。しかし肩がこるのはどうしてなのか。無理なことをやっている証拠か。そうだとしたら何なのか。何がどうなったらそうなってしまうのか。未だに事の詳細をつかみきれていないらしい。それは意識の問題だろう。そしてますますわけがわからなくなり、意味不明なことを述べていることに気づき、自己嫌悪に拍車がかかるか。そういうことを述べていること自体が意味不明なのだ。もう何でもかまわないのか。どんな認識にも達しないうちにどうでもよくなってしまうらしい。語っていること自体が馬鹿げているのだろうか。それで吹っ切れたことになるのか。ただでたらめを記すことにどんな覚悟が要るのだろう。ただ嫌気がさしているだけか。それだけのことにこだわろうとするのは愚かだ。もっと広い視野で物事を眺める必要がありそうか。しかし眺めるだけでいいのだろうか。それについて見聞を深めなければならない。たぶん冗談でそんなことを述べているのだろう。実質が何も伴っていない。今は何について述べているつもりになれるのか。この世界では国家と民族と宗教と何が合わさると最悪の結果をもたらすのだろう。経済的にはどうなのか。商売が成り立っているうちはまだ救いようがあるのだろうか。物事を売ったり買ったりすることにどんな幻想が伴っているのか。たとえばそれがブランド品なら虚栄心という典型的な幻想が伴っているだろう。それ以外なら何だろう、商品が人々の生活に役立っていると思い込まれることが肝心か。便利であったり効率的であったりすることは幻想ではないはずか。確かにそうかもしれないが、それがどうしたのか。何かそれに対する反論でも用意する必要が生じているとは思えない。それはそれでそういうことだ。どういうことでもなく、ひたすらそういうことなのだ。君はそういうことに魅力を感じないらしい。では何のために商品を買うのだろうか。その時の気まぐれか。まともな答えになっていない。何となくその場の成り行きで何かを買っているのかも知れず、買った商品にあまり執着していないような気もするのだが、それがどんな結果をもたらしているのだろうか。たぶん無駄なものを買っているのだろう。それは自己満足以外では必要でないわけだから、要するに愚かな行為だったかもしれないが、何となくそれでもかまわないような気がする。今は必要でなくても、もしかしたらいつか必要になるときがくるだろうか。そんなことを期待してどうするのか。無駄なものを大事にとっておくべきなのか。結局納得できる選択肢はその辺にありそうだ。今は何の必要性も感じないが、気がつけばそれを有効活用しているわけか。そんな都合よく事が運ぶだろうか。たぶんそのときがきたらわかるだろう。君の無意識にはそれが必要になる未来を感じ取れるはずだ。そして何かわかったような納得してしまうような成り行きを期待してしまう。それは本当だろうか。たぶんまたしてもそれは冗談に違いない。君は君を取り巻く状況にだまされている。嘘に決まっているが、そんな嘘を信じさせられて、世間の最大公約数的な決まりごとに従わざるを得なくなり、渋々それらの慣習を受け入れることで幸せになれるのかもしれない。だが本当は何も信じてない。一時信じたふりをしているだけだ。それらの一般常識的な慣習にあからさまに逆らうのは気が退けるらしい。少しは人並みな幸せをその手につかみとりたいのか。それとも果たしてそれは先ほどからの冗談の続きなのだろうか。今は何ともいえないが、たぶん誰かが包まれている状況が誰かをそんな成り行きに導いていってしまうような気がするのだが、この先どうなってしまうかは、その時になってみなければわからないだろうが、何となく結果はすでに出ているようだ。そこに提示されたそれが、誰かがおかれた状況を如実に物語っているようで、それに関して何か気が利いたコメントでも付け加えたいところだが、あくまでも本気ではない。ひたすら冗談でそんなことを述べ続けているらしく、たぶんそれらはすべてフィクションなのだろう。君にはそれ以上の何かをもたらす能力が欠けている。だからいつまでたっても作り話の中に記される言葉でしかない。
3月19日
何か病気に感染しているのだろうか。風邪を引いているだけだろう。それにしても相変わらず話に中身がない。誰かはひたすら空疎な文章を記している。君は完全にこの世界から見放されてしまったらしいが、何がそう思わせるのか定かでない。それはこの世界には何も期待していないからではないか。できることなら世界という言葉の意味を知りたい。それは冗談の類だろうか。そう述べていること自体が何かの冗談に違いない。果たして世間というのはこの世界の一部なのか。世の中とは何なのか。君は世の中について何を知っているというのだろう。話の中身が一向に見えてこない。何を語っても嘘になる。それが目下の現実なのだろうか。どうやら語っていることは嘘でないようだ。では何を語っても嘘になるのは嘘だったのか。それはくだらぬ言葉遊びの一部か。たぶん自分だけというわけには行かないのだろう。しかし何が自分だけだったのだろうか。まさか嘘をついていたのが自分だけではなかったということなのか。何も驚くようなことではない。ただ単に話がわからない。いったい何を語っているのか。それらの言動にどのような意図や思惑を感じているのか。言動とは何だろう。またわけがわからなくなっているようだ。語っている内容が話の体をなしていない。君にはそれが何だかわからないようだ。そしてひたすら迷っている。たぶんそんなことはどうでもいいのだろう。何を感じ取っているのでもないらしい。あきれているのかあきらめているのかわからないが、相変わらずそこには何もない。ところで君は何をそんなにおもしろがっているのか。何も述べていないことがそんなにおもしろいのか。何か馬鹿にされているような気がしてくるが、そこでの出来事のすべてはフィクションだ。昔読んだ漫画の一場面でも思い出したのだろうか。そういう話ではない。君は君自身に備わっている能力のすべてを把握していないようだ。しかしそれも違うと思う。誰が何を思っているかを知りたいのか。たぶんそこで何かがずれていることは明白だ。そんなことはたいした問題とはならないのだろう。実際何が問題なのかわからない。文章が砕けている。君の思い通りの展開とはならないようだ。実際話になっていないようだ。君は君自身を裏切る形でしか何かを表現できず、なおかつそれが嘘であることを自覚しようとしている。あり得ない話の展開を期待したいが、話そのものがあり得ない。この世界では万事がすべてそうなのか。いったい何がそうなのだろう。君には知りえないことだ。しかしそれで何を否定しているのか。努力の方向性がおかしい。何の役にも立っていないようだ。本気ではない。ならば努力を怠ってもかまわないのだろうか。結果的にどこへも至らないなら、それらの努力は失敗に終わってしまったということか。それでもかまわない。方向性が間違っていてもかまわない。間違い続けることが迂回路での進行方法なのかもしれない。そしてどこへも至らないことが迷路の中にとどまる方法なのだ。進んでいるのでも退いているのでもとどまっているのでもなく、何もしていないわけでもなく、誰かはひたすら言葉を連ねている。だから間違っていてもかまわないのだ。納得できる理由とはならないようだが、それでかまわない。それが誰かのやり方に違いない。そこで何かを過剰に摂取している。まったくすべてが無駄に消費され、無駄に言葉を並べて空疎なことを述べているようだ。実態はそうに違いない。そして何とかここまでやってきた。しかしまだ終わりには程遠い。だからいつまでもそのままなのか。意識は誰かのひたむきさに毒されている。それは肯定すべきことなのか。たぶん君がやるべきことではないのだろう。やらなくてもいいことを延々と繰り返しているようだ。いつまでたってもそれに気づかないのだから、愚かにもほどがあるか。ほどなどあるわけがなく、ただそういう成り行きにその身をまかせているだけか。目の前に濁流が渦巻いているとは思えない。それでも何かが変わるのだろう。変えていかなければならない。無理に変えたいのか。何かを変えようとしている。たぶん何かが変わるのだろう。君たちはそう述べて時間稼ぎをしているのか。それは無駄なことだ。たぶん無駄なのだろう。いくらでもごまかしようがあるが、いくらごまかしたところで時間稼ぎに過ぎない。それを肯定するわけには行かないようだ。そんなことをしている間にも、着実に世界は変わっていくのだろう。ごまかしが通用しているうちはそれに気づかないだけだ。なぜそう述べてしまうのか理解できないが、そういうことに他ならないようだ。理由も根拠もなく、そういうことなのだ。自然とそういう成り行きになってしまうらしい。しかしなぜそうなのだろうか。それは何かの物語なのか。そこでは予定調和のような結末が用意されていて、いくら抵抗を試みても、用意された結末は動かしようがないのだろうか。しかし抵抗や時間稼ぎの何が無駄なのだろうか。無駄な悪あがきを繰り返すことが誰かの人生そのものか。ならばそれが無駄でないと言いくるめるには、どんな言葉が必要なのか。ただ嘘をついていればいいということではない。嘘をつきとおせる自信がない。君はすぐにそれが違っていることに気づいてしまうだろう。誰かにはわかりきったことのようだ。そしてそんなくだらないことを真に受けるわけにはいかないらしい。それらの出来事から何を読み取ろうとしても徒労に終わりそうだ。確かに徒労に終わるだろうが、それでも何かが確実に変わる。誰の思い通りになるような類のものではないが、勝手に期待してしまうこともありそうだ。では日々のたゆまぬ努力によって皆の期待通りの結果を導き出してほしいか。誰に期待されているわけでもない。しかし君は神ではない。天命を授かったわけでもない。だから何だというのか。
3月18日
今は春なのだろう。別に力まかせというわけではないが、今日も何とかここまでたどり着いたようだ。君にはここに至る苦労がわからない。何も語ることがないのもいつもの通りだが、相変わらず人は何を考えているのか。自己顕示欲の何が肯定されるべきなのか。中には前向きになれない状況もあるらしいが、君はそこで耐えている。何に耐えているのかわからないのだが、とりあえず何とか重圧や障害を押しのけて、前向きに生きていこうとしている。たぶん何が知ったことでもないのだろう。何ももたらせなかったことを悔いているわけではない。市販の風邪薬を飲んだので、何となく嫌な感じが少しだけ退いたようだが、いつ風邪を引いてしまったのか思い出せない。気がついたら熱にうなされる一歩手前ぐらいまできていたのかも知れず、まったく油断もすきもあったものではない。別に気の緩みというわけでもないだろうが、近頃は時間と日付に追いつくのをあきらめてしまったように思える。先月の日付で言葉を記していても何ともないのだ。今までは何をそんなに焦っていたのか、今となっては何もかもがどうでもよくなってしまったのかも知れず、もう追いつこうとする気力が心の内側から生じてこなくなって、それと同時にまともなことを述べようとする気も起こらなくなっているようだ。何がまともなのかも考える気がないらしい。まったく人はいつでもくだらぬことにかかりきりだ。しかしそれが仕事なのだから仕方ないだろう。それらの何を否定しようと、状況が改善する見通しはない。そして君はそんなことを述べるしかないようだ。君は行き詰まっている。言葉を繰り出せなくなり、嫌になってしまうようだ。だが横になれは眠ってしまうだろう。そして目覚めたら朝になっているはずだ。それを思い直すには何が必要なのだろう。心を揺り動かされるような出来事に巡り会いたい。また冗談でそんなことを述べているのだろう。君に何が可能であるはずもなく、できることは言葉を記すことだけか。だがそれは君ではなく、君の知らない誰かだ。君はそこで嘘をついているはずだ。本当に自分でもわからないことを述べている。たぶん内容が空疎なのではなく、何かが違っているのだろう。それは君が語る内容ではない。誰かはそんな風に思っているらしく、さっきから意味もなく言葉を記し続けているようで、それがまるっきりでたらめというわけではないが、とにかくわけがわからない。何を語っているのか把握できず、ただ闇雲に言葉を記すだけの行為にはまっている。突発的に気分が高揚しているようだ。わけもなく言葉を記すことで、何かをとらえようとしているのか。君の知ったことではないだろうか。疑念を抱いているのは誰でもないはずか。だから君の知ったことではないと述べている。すべては冗談で述べていることだ。そこに他意はないらしい。誰がそれを認めているのでもなく、意味不明であることをひたすら踏襲しようとしている。だから何だというのだろう。相変わらずそこで行き詰まってしまう。何でもないのだから、その先に言葉がつながるはずもない。だからいつも君が負けてしまうわけか。いったい何に負けているのだろうか。現実が何も見えてこないようだ。何を見ようとしているのでもない。だから見えないというわけでもないだろう。見ようとしなくても見えてくるものはあるはずか。しかし興味がわいてこない。さっきから音楽を聴いている。何も感慨が沸いてこない。そういう話ではなかったはずだ。ではどういう話だったのか。人は何かのために生きている。そう思い込んでおこう。とりあえずそういうことなのだろう。それだけのことにこだわっている。たぶんくだらない見解で頭が汚染されている。馬鹿なことにこだわっているようだ。それが気に入らないのか。しかしそれの何が独白なのだろう。肝心なことは何も述べていない。何も述べられないのではなかったか。それでも気が狂っているわけではない。そんなことはどうでもいい。たぶん何を語っても無駄なのだ。そして冗談まかせに空疎なことを述べている。今日はひたすらそういうことらしい。何もないのだからといういいわけしかなく、わざとそうなってしまうらしく、やはり今日はわけがわからないらしい。君は語るべきことを語っていないようだが、では何について語ればいいのか。そういうことではない。何について語るべきかを知りたい。だからそういうことではないらしい。君は知りえないことを知ろうとしているわけだ。そしてそういうことではないと述べている。なぜ何についても語れないのか。それでも何かについて語っている。君ではないが、誰かが確実に語っているのかもしれない。要するに風邪を引いてしまったのだ。君はそういうことだと思っている。風邪だから退屈なのか。そういうことではなく、退屈だからそんなことを述べているのだろう。そして君はそれが気に入らない。しかし関係とは何なのか。言葉は何に関係してそうなってしまったのか。君はそれらの関係性をどうしようとしているのか。誰もいない時間帯に何かを考えているらしいが、それでも違うと思われる。何かそんなことはどうでもいいように思われる。ならばやはり行き詰まるしかないのか。その辺で勘弁してほしいか。何か都合が悪かったりするのだろうか。別にそういうことではなくてもかまわないように思われ、ただ何かを述べなければならない馬鹿馬鹿しさにしたがっているようだ。気持ち的にはそれが嫌なのか。嫌ならやらなければいいのだろうが、嫌でもなんでも言葉が記されてしまう現状に変わりはないようだ。だから結果的に継続されてしまうわけで、何も続いていなければ、それらの言葉はどうなってしまうのだろう。君の知ったことではない。そしてそれの何が冗談であるわけでもなく、とりあえずそれが継続されてしまうらしい。
3月17日
わからない。相変わらずわからない。しかしつまらない意地を張ってる場合ではないか。ところで誰かが自分の運命は自分で切り開くと啖呵を切ったそうだ。誰に向かって啖呵を切ったのか。テレビの画面上でそんな状況が映し出される。君には関係のない話だろう。しかしそこに至る経緯を知りたいところか。心が話に入り込めていないようだ。だがそうでなければ話にならない。いつかの君にはくだらない話がお似合いだ。今はどうなのだろう。誰が何を語ろうと、それは君に関することではない。文章は君の存在を遠ざけ、この世界では不在であろうとする。気がつけば、誰かがひたすらそんなことを述べている。わけのわからない話だ。君はさっきから何を聞いているのか。たぶんそれは話の内容ではない。だが別に風の音に耳を済ませているわけでもないだろう。夜は無風状態のはずだ。では記された言葉は何を意味するのか。それらはみな無駄な言葉だ。しかし今さら何について語ろうとしているのだろう。まるっきり意味がないわけでもないはずか。ならばその先に何を語ればいいのだろう。冗談でそんなことを述べている。いいわけ的にはそうかもしれないが、いつ本気になるのだろうか。いつでも本気ではない。本気になれないのはいつものことだろう。最近はそればかりではないか。考えてみればおかしなことだ。確かにおかしいが、別に気が狂っているわけでもあるまい。たぶん無駄なことを述べていたいのだろう。だから冗談でそんなことを述べている。それでは理由になっていないか。しかし人は何のために行動するのか。行動しているのではなく、何かいいかげんに語っているのではないか。だが何を物語るにしても、もっともらしい物語ほど違うような気がする。では今何が必要なのか。だからそれは皆が納得して感動できるもっともらしい物語か。だから具体的にそれはどういう物語なのか。それを思いつかなければその先へ話を進められないのか。とりあえず君は空疎なことを語っている。語っているのは君ではないのかもしれない。君は幽霊なのか。幽霊でもまともに語れるだろうか。誰にとってもそれはそういうことではない。語っている意味がわからず、自ら記しているそれらの文章が理解できない。君はどこで何をやっているのだろう。だから君ではないと述べているではないか。誰が幽霊なのでもなく、誰かが現実に言葉を記している。ただそれだけのことだ。それだけのことなのに難儀している。何も語れないわけだ。そしてわけがわからない。まるで君ではないみたいだ。誰でもない。何も語っていないのだから誰でもない。誰でもかまわないのだろう。誰かはそんなやり方が気に入らないらしい。それもいつものことだろう。気に入らないことを現にやっているのが自分だと理解できないのか。そういうことではない。誰かは雨に打たれて風邪を引いてしまったらしい。だがそれも違うと思う。わからないのだ。それはわかっているが、やはりわからない。考える糸口をつかめない。きっかけはどこにあるのだろう。どこを探しても見つからないか。君はどこも探していないのではないか。そこで考え込んでいる。どこでもないのにそこで考え込んでいるふりをする。だからわけがわからなくなってしまうのではないか。物語は残酷だ。何を物語っているわけでもないのに、誰かを記述に駆り立てる。あり得ないことを語っているのかもしれない。そしてその辺で息切れのようだ。空疎な仕打ちにも限界がある。何を知ってしまったわけでもない。夜になって文章を読み返している。空疎な言葉の連なりに感動している。しかし読めない部分もありそうだ。何が気に入らないわけでもなく、ただ読めない。結末を知りたいか。テレビを見たらいい。言葉を記すなんて君のやることではない。もう何も語らなくてもいいのだ。しかしそれが知りたかった結末だろうか。気に入らなければ他の結末も想像してみよう。何も思いつかない。思いつくはずがないか。思いつこうとしていない。心が思いつこうとする意識に逆らっている。水分が足りないのか。関係のない思いつきなら機会がでたらめにめぐってくるようだ。人には希望を抱く義務でもあるのか。絶望の果てにたどり着いた希望の大地で何をするつもりなのか。しかし物語とは何なのか。何も語らないことの何が物語なのだろうか。誰に尋ねているわけでもなく、君に尋ねているのでもない。抱いているのは幻想以外の何ものでもなく、誰かの正体を明かせなくなったことも何の理由からでもない。意味がわからない。文と文が意味的につながっていないようだ。いったいそこでお前は何をどうしようというのか。語りたいことは何もないはずだ。何を待っているのでもなく、語る機会が巡ってきているのでもない。ただ何も思いつかず、いつまでたっても言葉を記す作業を終わらせられない。心を覆う虚無は中途半端に何かを語ろうとする。それが語れない原因ではない。頭の中が飽和状態なのか。何でそうなのか。それを知りたいわけでもないが、知ったとして何になるのだろう。君は遠くへ行けないようだ。心が言葉に縛られている。何を目指しているのでもなく、何も目指していないとも思えないが、切実にそれを望んでいるわけでもないようだ。世の中はひどい仕事で満ち溢れている。それでも仕事をしなければならないのだろうか。それが試練というものか。どこまで正気を保てるかを各自が競い合っているわけか。そういう否定的な認識を一掃したい。できないだろうが、希望を抱くことはできそうか。君の願いはどこかで聞き入れられるだろう。そう思っていて間違いはない。少なくとも希望とはそういうものだ。現に気が利いたことは何も思いつかなくともここまでやってきた。何をやってきたのか知らないが、そういう話で文章を構成してきたはずだ。それはつまらないことだろうか。
3月16日
いつかまた誰かに出会うこともあるだろう。誰かがそう思っているようだが、誰と出会うのか頭の中で特定できないようだ。それはどういうことなのか。どういうことでもなく、いつ出会うのかもわからない。文章の中で明確な構想が欠けている。行き当たりばったりで言葉を付け足しているだけか。だから意味がわからず、そして心がない。君にはそれがわからない。たぶんそういうことではなく、どうもまた違っているのではないか。さっきまで語っていた内容がわからない。そのとき君は何を語ろうとしていたのか。何かを語っていたようないないような、そんな気がしているだけで、そこからまともに話が進展しないらしい。いつものことで、今はそうではないと思っている。何を語るのも先行きが不透明のようだ。だから焦っている。他に気に入らないことはいくらでもあるのだろう。何を語ってもそれは違うと思う。その点で誰かは無力感を抱いているのかもしれない。今こそ剥き出しのままの不具合を修正しなければならないのか。何もなければそのままでもかまわないのではないか。だが人はなぜ仕事をしなければならないのだろうか。その必要に迫られている人は、そんなことは思わない。仕事をしなければ食べていけないのだから、餓死したくなければ働くしかない。そんなわかりきったことを踏まえたうえで、なぜ人は働かなければならないのだろう。要するにそれは意味のない疑問か。果たして人は何のために生きているのか。しかし何が果たしてなのか。継続は力なりか。述べている意味がわからない。疑問とは何だろう。そこで何を問いかけなければならないのか。まったく意図がわからない。なぜそんなことを述べているのだろう。意味がわからないことを述べている。それは高度な情報操作に基づいた行為か。まったく違う。暗号だとは思えない。だから何を述べてもそれほど問題とはならないだろう。実際にくだらないことを述べている。だがそれの何がくだらないのか。それとは何だろう。何でもないことをくだらないと思っているのかもしれないが、それがわからないことだけは確からしい。しかし何がわからないのだろう。本当に人は何のために生きているのか。言葉では答えになっていない。しかし言葉しかないだろう。他に何があるというのか。無駄なことをやっているではないか。それは仕事とは別なのか。たぶんそういうことだ。君は無駄なことをやり、その合間にテレビで映画を見て感動する。それの何がつまらないことなのか。つまらなくてもおもしろい。つまらないと述べることがおもしろいらしい。それが馬鹿げたことなのか。つまらないことだ。そしてそれに関係なく、映画の中の美しい人生は感動的だ。またスポーツも感動的だろう。ではくだらないことはみな感動的なのか。そうとまでは言い切れないが、美しく飾り立てたものには反感を覚えるか。人を感動させるにはそうしなければならないか。それは今の君とは無縁の装飾か。たぶん装飾ではないのだろう。君のとらえ方は間違っている。フィクションには美しさがつきものだ。ある種のドキュメンタリーでさえそうだ。それはなぜなのか。美こそが人間の根源的な欲求をその言葉の中に投影しているからか。君はそうではないと思っている。誠実な態度はむごい結果を招く。それは救われない結末を知ってしまうからか。だから救いを求めるなら美の中に求めればいい。安易な発想だろうか。自ら繰り出した言葉に自信をもてないわけか。たぶん君はその先の成り行きを予想しようとしているのだ。そして他人の夢をかなえようとしているのか。それはこれとは別の作り話の中でのエピソードだろう。君には知らない話か。誰も知らない話であり、そんな作り話の存在など聞いたことがない。ならばそれは架空の話か。君はそれに関して何に答えているのか。誰にも向かっていないし、何に答えようとしているわけでもない。ではその話の中身は何だったのか。誰に訊かれても困ってしまうだろう。架空の話に実体はないようだ。何にトチ狂っているわけでもなく、何について述べようとしているのでもないらしい。ただそんな話の中身として言葉を連ねているのだとしたら、それはどういう話でもなく、何でもない話なのだろう。では果たして君に本当に必要だったのは何だったのか。そのときの状況を覚えていない。誰が覚えているわけでもなく、何に感動していたわけでもない。テレビで見ていた映画はどうだったのか。それを忘れてしまってもかまわないのだろうか。映像は忘れるために映し出されるのか。そういうこじつけに意味はない。たぶん転機が都合よく訪れるのだろう。そういう話はありふれているが、多くの人はそれに感動するのだろう。君が立ち入るべき世界ではないらしい。君は言葉以外に何ももたらせない。したがって感動という言葉とは無縁の人生を送っている。何の感慨も抱けないから、そんな嘘をついてみるが、それは本当に嘘なのだろうか。だから君にはそこに何が足りないのかわかっているはずだ。そしてそこから何も導き出そうとはしない。まだそこまでたどり着いていないのか。一気に何かをやり遂げるには見えている光景が遠すぎる。それに先が見通せないのに先があると思っていること自体に何の根拠もない。だがなぜ慌てているのか。何か不都合な事実にでも気づいてしまったのか。いったい何に気づいたのか。また一日でやり遂げられないようなことをやっているからか。たぶん君にはわからない。何をどう考えても、何らかの不具合に苦しめられるだろう。しかしその不具合をどのようにして取り除けばいいのかわからない。依然として何も思いつかないのだから、それをどうしようとしているのでもない。君は極端な言動に訴えるつもりなのか。わけがわからない。たぶん何を語ろうとしているのでもないのだろう。
3月15日
何となくこんな具合になっているが、何がどんな具合なのかわからないだろう。それについて語るのが面倒くさいらしい。たぶん何も語れないはずだ。確かに何も語っていない。それはどうしようもなくくだらないことか。誰のせいでもありはしない。君はそんな状況を楽しめるだろうか。ただ強がっているだけか。そうなのかもしれない。見通しが何も立っていないらしく、途方にくれる以前にとりとめのない感覚に心を覆われている。それで何をやれるというのか。言葉を記すことならできそうだ。それはいつもの惰性でやっていることで、何の結果も得られない。そして何となく漠然とした思いにとらわれて、何もやる気がしなくなり、気がついたら居眠りから目がさめたらしい。要するに君が語れるのはそんなことだ。他にもたらされるものも得られるものもない。嘘だろう。誰かは嘘を記している。今日も誰かが記した作り話の中で君が空疎なことを語っている。それがあり得ないことなのか。いったい誰に疑念を投げかけているのだろう。誰もいなければ疑念を投げかけても空振りに終わるだろう。では作り話の中に君以外の新たな登場人物でも書き記すのか。また冗談でそんなことを述べているのだろう。それは簡単なことだがやる気がしない。リアリティを感じないらしい。文章は文章でしかないし、そこに込み入った人間関係を構成しても、ただのフィクションになるだけだ。そんなものをおもしろがって読む者の気が知れないか。君には関係のないことか。別に関係なくてもかまわない。読みたければその手の文庫本でも読んでいれば気晴らしになるかもしれない。では君はその手の気晴らしを求めないのか。何に期待するのも億劫になっているのかも知れず、かえって絶望的な状況に身をおいていたほうが気が休まるのかもしれない。確かに作り話的にはそのほうがおもしろそうだが、一方でそういう強がりにも飽きている。それだけのことに本気になるわけには行かないのか。何を馬鹿な行為にでているのか。実際には何もやっていないのだろう。ただ言葉を記して文章を構成しようとしているようだが、未だにその内容が空疎なままだ。そう思えてしまう理由を知りたいところか。知りたくもないことを知りたいと述べて、それで何をもたらそうとしているのか。話を込み入らせて字数の増加と混乱をもたらそうとしているだけか。それが空疎な内容だと述べているのではないか。わかったようなわからないようなことを述べている。そしてそれも嘘かもしれない。文章全体がフィクションの一部を構成しているわけだから、嘘に決まっているだろう。だが未だに何が決まっているとも思えない。まだ誰かの虚無に対する敗北は決定していないわけか。しかしいったん敗れ去ったらどうなるのか。もう何も記せなくなってしまうのだろうか。現状ではそんな風には思わない。ならば後はひたすら空疎な内容に終始するだけか。その可能性は大いにありうるだろうが、果たしてそれで虚無に敗れ去ったことになるのだろうか。逆に利いた風な意見とか、世間で流通している紋切り型の見解を表明してしまうほうが、ひたすら虚無的だと思うが、その辺はどうなのだろう。それを受け取る意識によって異なるのではないか。たぶんそれが利いた風な意見だとか紋切り型の見解だと気づかなければ、それで何かもっともなことを述べていると思ってしまうのだろうし、世間的にはそれは妥当な意識の持ち主だということになるだろう。だがそういう世間の一般常識に洗脳されていることが悪いことだとは思えず、別に虚無に心を侵食されていることにはならないのではないか。健全な精神の持ち主なら誰でもそうだ。だが君は作り話の中で笑みを浮かべていて、何かそういう心を馬鹿にしているような気配を感じる。そうなのだ。そうなった時点でお前は破滅だ。無論それは冗談に決まっているが、何となく間違ったことを述べるのは楽しそうだ。たぶんこの場でのフィクションとはそういうものだ。この場とは架空の場所なのだ。そんなわけでまだ先は長そうに思える。終わらそうとして終わらせられないのだから困ってしまう。もちろんそれも嘘に決まっている。本当は何としても終わらせるわけにはいかず、ひたすら悪あがきの最中なのだろう。図星か。今はそういうことにしておこう。そして冗談でそんなことを述べている。たぶんそれが空疎な文章を記す上でのいいわけになっている。本当は利いた風な意見を表明して、どうだとばかりに悦に入りたいのだろう。人は弱い動物だ。どうしても自己顕示欲を捨てきれずに、感情的に自らの成功を夢見てしまうものか。それを承知していながら、あえて何の成功にもありつけないようなことをしているとは何事か。たぶんそれが皮肉に魅入られてしまった者の末路なのかも知れず、わざと空疎な内容に終始しながら、逆にそんなことを続けられる精神力を誇示しているのかもしれないが、いったい誰に向かって誇示しているのかわからない。それでは単なる自虐でしかない。だから何だというのか。そういう開き直りにも飽きがきている頃か。ならばこれから何を記したらいいのだろう。それはそれらの文章を実際に記している誰にかに訊いてみなければわからないことか。しかし文章の中に記されているだけの君が、その文章を記している誰かに尋ねることができるのか。それも誰かに訊いてみなければわからないことか。もちろんそれは冗談に決まっているか。わかりきったような嘘をついているようだ。そして何となくあきれて、今はそれでもかまわないのだろうが、将来的にはやはりもう少し利いた風なことを述べなければならないような気がしてくる。それができればということだろう。誰かには無理に決まっているような気もしてくる。しかし今までに無理でないことを述べてきたためしがあっただろうか。
3月14日
もはやあきらめ気味のようだが、何となくそれでかまわないような気がする。それで気が済むならいいのだろう。何を語っても無駄だろうが、必要に迫られているとは思えない。君はあくまでも架空の存在だ。そんな風に語っていること自体が意味不明なのだ。そう思うならそれでもいいだろう。現状の何もかもを肯定しなければならない成り行きになってきたのだろう。いつまでたってもそういうことなら、実際にそういうことなのだ。改めて何を述べる気もない。だからそうやって無駄に言葉を連ねているわけだ。それについて理由も何もあったものではないが、何となく理由らしきことを語っている現状もあるらしく、それで納得するわけにはいかないが、語っている内容については突き放した見方しかできない。たぶん何事もそのときの気分次第なのだろう。しかもそのときの気分というのを感じ取れないのだから、嘘もいいところだ。それはいつもの矛盾に違いないが、何となくそれでかまわないような気になってしまうのはなぜだろう。それは言葉を記す上で生じる誰かの癖なのか。そう受け取ってもらってもかまわないが、それを信じているわけではない。何も信じられないからそうなってしまうのだろうが、それがそうなってしまう理由ではないような気もする。そんなことはどうでもいいのではないか。君にとってはそうに違いない。たぶん人は絶えず戦っていなければならないのだ。冗談で的外れなことを述べるならそうだ。誰かはそこで虚無と戦っているつもりで、それらの空疎な言葉の連なりを記している。本当は違うと思うが、他の誰がそう思っているわけではない。誰かが何となくそういうことを記しているに過ぎず、それを誰が確認しているとも思えないが、やはり他の誰がそう思っているわけではない。君はそう思ってしまうのが嫌なのか。たぶん誰に問いかけているわけでもないのだろう。いつものように本気になれない。本気で何を語っているわけでもない。それは何かの迷路なのだろうか。迷っている主体は誰なのか。たぶんそういうことではない。混乱したり錯乱したりしているだけか。そうだとしてもどうなるわけでもない。君にはそれらの迷路から抜け出せる自信があるらしい。だから本気になって悩めないのだ。誰かが記しているすべては戯言の範疇だ。少なくとも今のところはそうなのだろう。何かの加減でそうではなくなるときがくるかもしれないが、今は違うと思う。さっきまでは居眠りの最中ではなかったのか。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。要するにそんなことはどうでもいいことなのだ。そしてもう完全に開き直っているのかも知れず、何を記そうと、それがどんなにくだらないことであろうとなかろうと、誰の知ったことではないのかもしれない。無駄な悪あがきなのか。意味不明な迷路で右往左往して、目が回って方向感覚を失い、これからどうしたらいいのかわからなくなる。でも作り話的にはそれでかまわないのだろう。まともなものは何ももたらせないのなら、塵や芥の類でももたらせばいい。それがそれらの文章だとは思わない。誰が思わないのか不明だが、たぶん誰かしらそんなことを思っていることを願い、それに対して向上心でも芽生えれば幸いか。あり得ないことか。そして脱線して別のことを書き記し、君ではない誰かにお伺いを立てることもなく、そこから意識が遠ざかり、何でもない思いを反芻しながら、それ以上の何かを目指しているように思い込み、言葉を記す理由にでもしているのかも知れず、それは誰の想像でもないが、そこから何か利いた風な意見でも導き出せたらもうけものか。もちろん本気でそんなことを思っているとは考えられない。そしてその辺で一休みのようだ。緊張が持続しないらしく、根気がない。何か他におもしろいことでもないものか。目が疲れているらしい。ならばもうお手上げ状態なのか。いきなりそれはないだろう。頭の中にカビでもはびこっているのだろうか。そういうことではない。何かが違うと思う。何でもないのに微妙に違っている。君にはそれがわからないのだろうか。君ではないからわからないのだろう。ならば本当の君ならその感覚の違いに気づくはずか。作り話的にはそういうことでもかまわない。君は何を求めているのでもない。だから感覚の違いに気づく気もありはしない。だからやはりそういうことではないらしい。ならば誰でもない君に誰が何を求めているのか。そういうことでもないだろう。それらの逡巡自体に意味はない。意識の中で同じような言葉が行ったり来たりして、それが何か迷っているような気にさせるだけか。そうだとすれば何なのか。何でもなければ問われるよう内容ではないのか。いったい何が問われているのか。まさか内容と質が問われているのだろうか。それはいいかげんで空疎な言葉の連なりに問われるようなことではない。しかしそれが何だというのか。もうあきれて何も述べられなくなってしまうか。わからないがそういうことかも知れず、たぶん何も述べられなくなった後から、それらの言葉の連なりが生じているのかもしれない。君にはわからないことか。君でなくともわからないのではないか。だが少なくとも誰かにとっては切実な状況なのかも知れず、何とかまともな内容に言葉の連なりを修正してゆきたいのかも知れない。それは今後に期待するしかないだろうが、期待できなければどうなるわけでもない。どうにもならないからそうなってしまったのではないか。だからそれ自体を改めるのは至難の業かも知れず、下手をすると永久に無理かもしれない。だから困っているのか。いったい誰が困っているというのか。もう誰でもない誰かという言葉は使いすぎて退屈か。そうだとしたらどうするつもりなのか。どうもしなければまた同じような成り行きになるだけだろうか。
3月13日
とうとう終わりがやってきた。それの何が退屈なのだろうか。退屈だから何なのか。それでも誰かはあくびをかみ殺しながら、何か適当なことを述べようとしている。だが果たしてそういうやり方がその場において適当なのかどうかはわからない。いつものようにわかろうとしていないのだろう。意味のないことか。だがそれが無駄で無意味な試みだと思うのはなぜなのか。それ以前にそれとは何なのか。言葉を記すことがそれなのだろうか。空疎な内容だ。それは誰の文章でもない。たぶんそれは終わりの言葉ではない。何かが瀬戸際でもがいている。終わるめどがたたなくなったらしい。しかし何をそんなに笑っているのか。述べていることが意味不明だからか。気分次第で気分が悪くなる。何がどうなってそうなったわけでもない。たぶんそんなのは嘘だ。真実を嘘だと思い込んでいる。人の命など何も尊くない。何かがそれを証明しているというわけか。馬鹿げているだろうか。何かに惑わされているようだが、君はそれでも違うと思っているのだろうか。人は死ぬべくして死ぬらしい。作り話の中ではそうだ。実際には偶然に惑わされている。理由もなく人は死ぬ。それは理由もなく生まれ、理由もなく生きているのと同じことか。それの何が問題なのか。さっきから君は嘘をついているようだ。それの何が危険な兆候を示しているのか。そんなことさえわからない。ではなぜそこまで追い込まれてしまったのだろう。誰かが自殺するとは思えない。この期に及んでそれはないらしい。まだ始まったばかりではないか。これからが苦悩の本番なのだろう。本当にそう思っているわけではない。君はどこかから逃れ去ろうとしているのだ。それが君の終わりではない。もはや十年前の君ではない。どんなに月日がたっても、その歳月分だけ終わりに近づいているはずだが、何となく終わりの予感がまったくしてこないらしい。では終わりがやってきたというのは嘘なのか。そんなことは知らない。ただそう記してみただけのことか。それではだめだろう。まったく話にならないようだ。気が散っているのか。それだけではない。本当にやる気がしない。なぜこんなところで終わってしまうのか。理不尽極まりない。だがそれで何かを終わらせようとしているのではない。ただわからないだけだろう。わかりようがない話の展開かもしれないが、話になっていないのだから、それは話ではない。それがわからないわけだ。なぜまともに話すことから逃げているのか。話しようがないことについて話そうとしているわけか。そんな難しいことではないだろう。君は虚無について知りすぎてしまったのか。そんなことでもなさそうだ。もっと簡単なことではないか。単純に話すことがない。そして君は嘘をついている。それだけのことなのだろう。やはり馬鹿げているのだろうか。だがたとえ馬鹿げているとしてもそれが現状なのだろう。無駄に言葉を並べて文章もどきを構成しようとしている。無理なのではないか。無理に決まっているだろう。かろうじて終わりまでたどり着いたとしても、次はない。次がないからまた新たなやり方を模索しなければならない。できるはずがない。何に挑戦しているのでもない。だから何を語ろうとしているのでもないらしい。そしてひたすら言葉を連ねようとする。そんなことの繰り返しには嫌気がさしているにもかかわらず、それを続けてしまうわけだ。まったく馬鹿げているだろうか。だから早く時間がたって、その不具合だらけの動作を終わらせたい。気に入らないのはわかっている。言葉しか記せないのも承知している。だからもう終わってしまったのだろう。ここから先に言葉は続かない。今ここで終わりなのであって、すべてが清算される時だ。本当にそうなったら面白い。嘘でもかまわないから終わらせたいのだろう。誰かは本当にそう思っている。要するにそこで嘘をついているわけだ。別に強がっているわけでもないし、やせ我慢の最中でもない。そして相変わらず無駄な言葉が記されている。これ以上の何を望むだろう。状況は君の期待を裏切り続け、決して思惑通りには事は運ばない。君はもうわかっているのではないか。これからもそういうことなのだ。この先に言葉が記されなければ、言葉が記されるのは別の方向になるだろう。それは紛れもなくごまかしの方向になるだろうが、別に判断を誤ったわけではない。では何を我慢しているのか。終わってしまったのだから終わりでいいではないか。しかしそこで何が終わったのか。それがわからないうちは終わらないのか。ゴールがまったく見えてこない。すでに通り過ぎてしまったのだろうか。目安がない。それを見落としてしまったのか。ここに至る途中で、何か標識のようなものがあっただろうか。たぶん君はそこで試されているのだ。やめるならそこでやめてしまえばいい。もう何をやめるかわかっているはずだ。言葉を記すのをやめてしまえばいい。それでも笑っていられるはどういうわけなのだろう。君はやめなくてもいいのか。やめるのは君ではなく、誰かの方か。しかし言葉を記しているのは誰なのか。君でも誰かでもない。実際には誰でもない。文章の中ではそういうことになっている。それはその場で思いついた即興か。嘘かもしれない。つまらないことを述べている。くだらなくてつまらない。そんな現状を言葉で隠すことができない。何を隠そうとしているのでもなく、そのままの惨状が言葉で表示されている。だから笑ってしまうわけか。それでもここまできてしまったのはどうしてなのか。何の感慨も抱けず、何も感じられない言葉の連なりを記すことが目的でもなく、君にとっても誰かにとっても何でもないような文章が記されている現状をどうすることもなく、それでもここまできてしまったらしい。だからどうしたのか。この期に及んで何がもたらされたとも思えない。
3月12日
今日も同じような事態に直面しているようだ。いつまでたっても何も思いつかないようだが、誰かは何を考えているのか。何も考えていないわけではない。問いかけたり疑念を抱いたりするやり方が間違っていることはわかっている。語りたいのはそういうことではないと思いたいが、実際に出てくるのはとりとめのない疑念や意味のない問いかけばかりのようだ。確かにそういうやり方が間違っているのだろう。ならば今からでもそれを改めなければならない。できると思っているのか。今は疲れている。そして疲れていることをいいわけにして、これから寝てしまうらしい。それはありがちな成り行きだ。それが気に入らないのか。気に入らなかったらやめたらいい。いつまでたってもやめる気がないなら、そこから何かが生じて、気がつくと三日後の光景が目の前に広がっている。それはありえないことか。嘘に決まっているだろう。たぶんいつもの冗談に違いない。冗談でも何でもかまわないのだが、それがやめられないからこうなっている。しかしそこからどうやってここへ戻ってきたのだろう。ここはどこなのか。そう問われれば、ここはでもない場所になるだろう。そういう成り行きを捏造しているわけだ。さっきまではくだらぬ疑問などいらなかったはずだが、ここではそうではないと思いたいだけなのか。それは作り話以前のどうでもいいことだ。さっきから何かのたがが外れていて、文がまとまりに欠けるようだ。最近はいつもそうなのであり、何もないからわざとそうしているだけなのか。だからそれを改めるにはどうしたらいいか考えているところだったはずだ。記している言葉と語ろうとする内容がちぐはぐなのはわかっている。わかっていて、それを改められない。どうすれば改まるのか。改まらなかったらやめたらいい。それは安易で不本意なやり方だ。ではいったい君はそこで何を見ていたのか。それとこれとは問題が違うはずだ。そういうことではなく、その手がかりを求めて、以前に記したことのある文章を読んでいる。たぶんそこにはいつの記憶が記されているわけでもなく、何かの作り話から派生したたわいないエピソードで覆われているはずだ。そして君は話の中で何を読み返していることにもならず、話の外で誰かがそういうことを記している現実を知ることもない。だから君は何も述べられずに、誰かは何でもない何かについて語り、気まぐれにひたすら回りくどいことを述べているわけか。まるで話になっていないようだ。自らが書き記した話の内容を把握できず、その先にどう話を進めればいいのかもわからなくなっているのではないか。たぶん実際に語っている感覚がおかしいのだろう。あるいは語る順序が間違っているだろうか。そしてたぶんそういうことではないと思いたいのだろう。どうやら天候にそのときの気分が左右されているらしい。それで何かしら違っていると思われるのだろうか。まったく理由になっていないように思われるが、それは余分なことだ。やり方が間違っていること自体はかまわないが、他の作業で気晴らしをしてしまったら言葉を記す作業がままならない。だがそれが仕事ではないだろう。気を取り直してまた言葉を記していけばいいのであって、それが冗談だと思うなら、かまわず冗談を続けて記せばいい。無駄な努力を無駄なまま終わらせてはならないかもしれないが、しかし何をどう語ればいいのだろうか。今さらそれはないか。しかし誰かの心は何に引き込まれてしまったのか。別にどこかへ引きこもっているわけではない。ならばもう少しまともなことを述べてみたらどうか。このままでは正気の沙汰ではない。回りくどいのはもうごめんか。人は何もなければ善人がほとんどだが、そんな人はこの世に存在しない。何かをするから人なのであって、そこに人と人との関係が出来上がり、時としてそういう関係が人を悪人に変貌させる。人は誰でも思い通りに事を運びたいが、必ずうまくいかなくなる。そしてうまくいかないのを強引にうまくいくようにしたくなるわけだ。なりふりかまわず強引に自らを利することで、人は人としての何かを越えてしまう。何かにその魂を売ってしまったのか。その辺はありがちで物語的な成り行きになっている。君はどういう風になってしまったのか。誰でも誰かに変貌を遂げていたりするのだろうか。余分な文だ。しかしそういう回り道をしないとその先に言葉を繰り出せない。あり得ない話か。それでも何とかくらいついていっているようだが、そのとき何か気が利いたことでも述べていただろか。それともそこへ至る過程において誰かの疑心暗鬼が増幅しているわけか。君にはわかるはずのないことでも述べていたかも知れず、それについて今さら説明する気にはならないが、何か気が変わるきっかけでも狙っているわけか。潮目が変わり、何を述べても何となくわかったような気になれる時期がやってきたりするかもしれない。そんな機会をとらえて、君はそれらの問題について何を指摘するつもりだろうか。だが今がチャンスなのではない。少なくとも今は就寝時間だ。そして目がさめたら今日になっている。またいつもの一日が始まるだけか。たぶん何をどのように語っても、それを避けるわけにはいかないのだろう。そんな成り行きの中でひたすら言葉を記し、いつもと同じような日々がこれからも続いてゆくわけか。果たして誰かの精神はそれらの退屈な日々に耐えられるだろうか。そこで何を覚えていないのか。それは違うと思う。何も覚えていないわけではないが、どうも昨日の問題意識がリセットされていて、そのとき何を思っていたのか思い出せずにいるようだ。記憶が完全に消えている。それはあり得ないことか。ならば何かのきっかけでまた思い出されるときがくるのだろうか。今はよくわからない。確かにわからないが、それでかまわないのだろう。
3月11日
どうも近頃は他のことにかかりきりで、ここまでやってくるのに、かなりの労力が必要となってしまったようだ。行く手をさえぎり、立ちはだかってくる様々な障害を乗り越えなければ、ここにはたどり着けない。そしてやっとのことで何とかたどり着いたとしても、その時点ですでに疲れ切っているので、すぐに眠ってしまう。だから何だというわけではないが、ただ何となく終わってしまっているような気がするだけか。それで気が滅入っているわけではないが、終わっているならその終わりを受け入れなければならず、今まで終わりを頑なに拒んできたつけがここに回ってきたということか。しかし何が終わったからといって、他に何をやりたいわけでもなく、やれることは限られていて、だから未だにこうして言葉を記している現状があるらしく、それについて何を感じることもないが、なぜか誰かは裏切られたような気がするらしい。何に裏切られたのかわからないのだが、何となくそんな気がするようだ。誰かはその程度で終わってしまう自分自身に失望しているわけか。それはそうかもしれないが、それならそれでかまわないのではないか。自らの能力がその程度であることを再認識して、かえってよかったのではないか。そしてそういうわけで、また眠たくなって寝てしまう。今日はそこで終わりか。今日が終わっても明日があるだろう。だがすでに話も終わっていて、話以外も何もありはしない。しかしそれで何が終わっていることになるのか。たぶんそれがわからないから、こうして無駄で無意味なことを述べているのではないか。そしてそれが無駄で無意味だというのなら、誰かもその時点ですでに終わっているのかもしれず、ただ自らが終わっていることに気づかないだけなのではないか。ならば君は自らが終わっていることに気づくべきか。そして君以外の誰もが気づくべきなのではないか。しかし終わった後はどうなるのだろう。なぜ終わってしまったのに今があるのだ。本当に終わってしまったのだろうか。そうだとすると今は終焉後の時代なのか。それは不自然な話の展開だ。何かのこじつけか。たぶん誰かの勝手な思い込みに違いないが、そんな風に述べてしまうこと自体が、何らかの終わりに直面している証拠か。そういう認識を持っているかのごとく装っているだけか。また気まぐれにくだらぬことを述べている。何か述べている内容がくどいような気がする。別にくどくても意味が通っていればかまわないのではないか。意味が通っているどころか、完全なる意味不明だ。それほど大げさな過ちではないはずだ。何が大げさなのだろう。それは昔の記憶から終焉後の時代などというかび臭い言葉を引き出してきたからか。そんな言葉を不自然に使っただけでそれほどくだらないのか。ならばそこで行き詰まるしかない。誰かは臆病風に吹かれたのかも知れず、言葉を使うのに必要以上に慎重だ。その理由がわからないだろうか。だから行き詰まっているのではないか。では果たしてそれがくだらない理由になるだろうか。別にもっともらしい理由を求めているわけではなく、何となくいいかげんに言葉を記していればそれで満足なのではないか。だがそんな疑念を述べる必然性がどこにあるのか。たぶん何かの成り行きでそうなってしまっているのはわかるが、そういう成り行きになってしまう理由を知りたくなる。だがその一方で納得できる理由にめぐり合えるとは思わない。何か矛盾しているようだ。あえて矛盾しなければ納得できないのだろう。何をどう語ろうとも納得できないのだから、とりあえず矛盾したことを述べて、そういう現状を認識したいのかもしれない。しかしそれを認識してどうするのか。何か同じような経路で話が堂堂巡りしているだけのような気がする。要するにそれらの文章はただ言葉を並べるためだけに試みられているわけか。そういうふざけた理由なら納得できるだろうか。納得するというより、笑ってしまうような馬鹿馬鹿しさを感じてしまうだけか。仮にそうだとしても、他に何を語ればいいのかわからない現状を変えることはできず、ひたすら意味を解そうとしない気になって、何かごまかしのようなつじつま合わせに終始するしかないだろうか。そうだとしてもそれを認めようではないか。その先に言葉を連ねていくには、くだらぬことや馬鹿馬鹿しいことも記してゆかなければならないように思われる。今はそれしかできないのだから、それをやっていくしかない。しかしわからない。そういうことを述べてしまえることに納得がいかず、何か他にもっともらしいことを述べられないか、それが無駄な試みだとわかっているのに、それを模索せざるを得なくなり、そこで言葉を記すのを中断して、さらに遅れてしまうわけだ。ここ数ヶ月はそういう成り行きの中にはまってしまっているようだが、本当にそこから抜け出せる方法はないのだろうか。誰がないと決めたのか。なければどうなるのだろう。だからこうなっているではないか。無駄で無意味なことを延々と記している。そしてそんな現状を変える方策を思いつかず、きっかけをつかめないままに、ずるずると言葉のアリ地獄の中へずり落ちていっているわけか。そんなたとえがくだらないか。もう何もかもくだらないの一言で済ませてしまえるわけだが、たぶんそれこそが間違っているのだろう。間違っているからおかしいと思い、わざと間違っているのではと疑いながらも、そうではないような理由を探そうとしてしまい、言葉の堂堂巡りをさらに長引かせているわけだ。そしてわかったようなわからないような意味不明という言葉を多用して、何となくわからないような言葉の連なりを、わかっているように見せかけて、何か一時しのぎの安心を手に入れようとしているが、結果的には本当に意味不明で、そのわけがわからない試みは失敗に終わっているような気がする。
3月10日
どうやら誰かはこの世界では必要とされていないらしい。しかしそうなるとどうなるのだろうか。自暴自棄になって犯罪に走るわけか。誰が犯罪に手を染めようと、それは君が予想していることではない。たとえ誰が自らがおかれた境遇に絶望して、自暴自棄になったとしても、この世界がどうなるわけでもなく、すべてはこの世界の中で起こっている出来事の一コマでしかない。だが君が求めているのはそういう認識ではない。ではどういう認識を求めているのか。今はそれを考えている最中か。ご都合主義もいいところだ。たぶんいくら考えても何も思いつかないだろう。利いた風な意見を思いつくのが面倒くさいのか。そういう冗談で笑う者はない。誰も冗談だとは思わないはずか。それはそういうことではなく、ただ考えることをあきらめきれないだけだ。そして誰かが勝手に生きて勝手に死ぬわけにはいかないらしい。そういう話でもない。ならばどういう話なのか。そんなことは知らないが、誰かは自ら記しつつある文章の破綻を回避するために、いつものように頭の中でごまかしが作動中のようだ。しかしいったい君は何について語ろうとしていたのか。たぶんそれについて語ろうとしていたのではないか。それとは何だろう。君にとっては小手先のごまかしなど何でもないことであり、誰がどんなふざけたことを語ろうと、知ったことではないらしい。しかし君はそこで何を語っているのか。何も語っていないとしたら、それらの文章が意図するところは何だろう。やはりそれも君の知ったことではないのだろうか。少なくとも君のせいではない。それどころか誰のせいでもなく、それらは意味のない言葉の連なりに違いない。ではいったい誰かは何を記しているのか。何かが錯綜していて、わざとそうやっているように思われる。本当は何も述べていないのだろう。今は面倒なので、そういうことにしておこう。何となく話が振り出しに戻ってきたようだが、今までに語ってきた内容がまったくの空疎に感じられ、単に言葉を無駄に並べてきただけのように思われる。それは昔からそうだろう。だがどこか語っていることがひねくれているような気がするのだが、それは気のせいか。そうに決まっている。それでも何かまともなことを語れないものか。今さらそれは無理だろうか。無理ならやめればいいのだろうが、それらのおかしな寄り道からも抜け出られない。どこをどう通ってもそうなってしまう状況を何とかしたいが、言葉を記すと結果的に自己言及的な迷路にはまってしまうので、どうにもならない。たぶん何を述べたらいいのかわからないことがそんな結果を招いているのだろう。しかし何について述べたらいいのだろうか。例えばスポーツに熱狂する人々はくだらないか。なぜそうやってわざと反感を買うようなことを述べるのか。きっと誰かはそう思っているのだろう。だがそんなことを思っている誰かもくだらないのではないか。そんな風には思わない。別にくだらない感情を抱いていようと、それが人間なのだから、それはそれでそういうことにすぎない。だがそう述べてはいけないのではないか。何がいけないのかわからないが、別に他人に好かれるような内容を求めているわけではない。だがそれも違うと思われる。わざとくだらないことを述べて、本質的な内容になるのを避けているような気がしてならない。ならば本当はどういうことを述べたいのか。たぶんそんな問いにまともな答えなどあるわけがない。しかし君は今までに発せられた数々の問いに何一つ答えていない。本当に答えがないから答えられないのか。それとも答えるつもりがないのだろうか。問いが馬鹿馬鹿しくて答える気がしないのではないか。ここでは何が問われているわけでもなく、ただ答える必要のない問いが延々と記されているだけだ。それも違うだろうか。違うかどうかは読む者の感じ方次第か。たぶん君は真に受けるのが馬鹿馬鹿しいと思っているのだろう。何を真に受けたらいいのかわからない。たぶんこの世界に驚きは皆無だ。何に驚けばいいのだろう。だから何も驚くべきことではないということか。しかし何に開き直っているわけではない。彼らが何をどうしようと、やはりどうなるわけでもないか。この期に及んでいったい何をどうしようというのか。今回は終始何も語っていない。何もどうにもできないからそうなってしまうのではないか。他に何か思い浮かばないか。誰かは何を考えているのだろうか。何も考えずに、ただひたすら言葉を記している。あくびをしているのではないか。それは気まぐれに発せられたため息だ。それも嘘のたぐいか。何が発せられているわけではない。何も発せられていなければあきらめてしまうのか。言葉はそこでどうしたのか。話の行き先が不透明だ。だからそういうことではないと述べているではないか。ならば君はそこから先に何をどのように配置しようとしているのか。言葉が勝手に並んでくれるはずだ。君の意見とは無関係な内容に近づく。文章がそうなのだから、君はそれを認めなければならない。だから否応なくそういう成り行きになってしまうだろう。君にそれを否定することはできない。今の君には何もできはしない。だから何を否定しようとしているのか。君にどのような選択肢が残されているわけでもなく、唯一の選択肢はそこから消え去ることだ。しかしこの世界では不在の君がどうやって消え去ることができるのか。そこはこの世界の一部ではないのか。あるいはそこも不在の場だとでも見なすつもりなのか。どこをどう見なしても意味がわからない現状に変わりはなく、まったく何を語っているのかわからない状況をどうすることもできはしない。
3月9日
今日も取り立てて何を述べようとしているのでもない。ならば気分はどうなのか。どうでもいいようなことを思いついたわけでもなく、曇り空を眺めながら何を考え込んでいるわけでもない。何かが邪魔なのだろうか。近頃は余分なことをやりすぎているように思われる。本当かどうか知らないが、たぶんそれも遠回りの一環でやっていることなのだろうが、遠回りしてどこへ向かっているとも思えず、行き先も定まらぬまま、ただ闇雲に突き進んでいるわけでもないのだろうが、たぶん道に迷っているのだろう。目的がないのだから、それは仕方のないことか。仕方がなくても迷う必然性は感じているらしい。迷わなければならない成り行きの中にその身をおいているわけか。確かに迷っているようだが、やっていることはいつも通りでしかなく、毎日飽きもせず同じ作業を繰り返している実情もあるらしい。だから何も感じなくなってしまったのだろうか。とりとめもなく空疎な思いだけが心を覆っているのかもしれない。しかしそれで何か問題があるとも思えず、何となくそんな心境でもかまわないような気もしてくるが、それでは退屈すぎないか。ならば何をどうしたらいいのか。やむにやまれぬ思いなど何もないだろう。それの何が問題なのかわからない。やはりわざとわからないままでいるのか。わかろうとしなければならない必然性をまったく感じられない。必要もないのにわかってしまってはまずいのか。では逆に何をわかったつもりになれるだろうか。そう述べる意味も意図もわからない。そんなもの何もありはせず、ただ気まぐれに当てもなく何かいいかげんなことを述べているのだろうが、やはりそれでは何を述べているつもりにもなれそうもなく、どうやらいつものように無駄でくだらない話の成り行きになりそうな雲行きだ。まったくいつまでたっても進歩とは無縁の文章を構成しつつあるらしい。画面の前でにやけている誰かは懲りない性格のようだ。しかし他の誰かの希望的観測によれば、この世界は今後ますます行き詰まりの様相を呈するらしく、君の思惑や誰かの文章と同じように、どうにもならずに徐々に資本主義も国家も崩壊していってほしいそうだが、本当にそういう成り行きになっているのだろうか。たぶん崩れ去るにしても一気にいくわけもなく、嫌になるほどの複雑な紆余曲折とわけのわからぬ展開の果てに、やっとのことで何か今までとは違う社会が出現するのかもしれないが、そうなるまでいったいどれほどの歳月を必要とするのだろうか。最もそのころには君も誰かもこの世に存在しないのかも知れず、君はもともと不在なのだからかまわないのだろうが、誰かは新しい世界を体験することも実感することもなく、間もなくこの世から消え去ってしまうような気がする。しかし誰かとは誰なのか。それらの文章の中では誰でもいい誰かであって、そのときの都合で誰とも置き換えの利く誰かではないか。それが君の誰かの存在についての見解か。君ではないかもしれないが、とりあえずそれが間もなくこの世から消えてしまう誰かだとすると、その誰かとは、たとえばどこかの病院で危篤状態の、君には見ず知らずの誰かであってもかまわないということか。実際にそれで話のつじつまが合うならそれでかまわない。だが君にとってそういう説明は思いがけない回り道であり、話の本筋からの逸脱だ。なぜそうなってしまうかは、その場の気まぐれ以外にありえないだろう。偶然に気分次第で無駄な言葉を用いて誰かが何かと戯れているようで、それこそが空疎そのものになるだろうか。まさに空疎な文章にふさわしい無内容になりつつあるのかもしれないが、それは目指しているところではない。何も目指していないのだから、それはそうだろう。しかし何も目指していないのであれば、いったいこれらの文章が云わんとしていることは何なのか。ただ意味不明なことを述べているだけか。それだけではない。確かにそれだけではないと思うが、とりあえずそれが何だかわからない。たぶん何か適当でいいかげんなことを述べているのだろう。もしかしたらそれだけかもしれない。そんな空疎なことを述べるために貴重な時間を無駄に浪費している。まったく冗談にもほどがあるか。確かに冗談には違いない。しかし冗談でしか述べられないこともありそうだ。だが何かのきっかけで、冗談ではなく本気になってしまったらどうなるのだろう。もしかしたらそれが今現在の誰かが置かれた状況ではないのか。何の結果ももたらせないことにかかりきりであり、ひたすら言葉を連ねて文章を構成しているつもりになっている。まるで何か得体の知れない蜃気楼を追いかけ続けているようで、いくら言葉を連ねても、それが徒労に終わることがわかっているのに、それを未だにやめられない。わかっているというのは嘘なのか。何を目指しているわけでもないのに、蜃気楼を追いかけているというのは何か矛盾していないか。そこに追いかける理由か何かがないとおかしいだろう。その理由とは何だろう。果たしてここで簡単に出てくるような理由があるだろか。たぶん終わらせるために続けているのだ。それらの文章には何か納得のいく終わりが欠けているのかも知れず、誰かは言葉を連ねながらそれを模索しているのではないか。そしてまともに終われないことからくる焦りが、さらなる文章の継続を招き、気に入らない無内容をこれでもかと記す羽目に陥っている。そしてその結果が何も述べていないのに、言葉だけがひたすら連なっている現状をもたらしているのだ。
3月8日
言うべきことはすでに言われている。語るべきことも語られている。ならば何を書き記せばいいのか。今は深夜の時間帯らしい。そして気がつけば朝になっていて、今日も一日仕事だ。昨日もそうだったはずだ。それらの日常からどうやって抜け出ようとしているのか。今さら何をどうやってもこのままのような気がして、何となくあきらめムードの中に誰かの魂がある。それはフィクションに違いないが、嘘の中にも誰かの本音が隠されていて、何やら焦っているようだが、そんなことの繰り返しによって感性が磨り減って、何も感じなくなってしまうのだろうか。それは根拠の希薄でいいかげんな認識には違いないが、それで何を困っているとも思えず、本気でそんなことを思っているわけではないはずだ。毎日の仕事によって何も感じなくなる一方で、新たな別の感性を生じさせているのではないか。そう述べて、何やらもっともらしいことを述べているように見せかけたいのかもしれないが、とりあえず仕事は仕事であり、感性は感性に決まっている。両者の間にどのような関係があるのか。そこから何か利いた風な見解を導き出したいのか。しかしそれはそれでどういうことなのか。ただの言葉の違いか。形式的にはそういうことだが、感性自体が日々の生活から生じているのであり、当然生活の大部分を占める仕事からも影響を受けていることは確かなところだ。だからそこから何を述べようとしているのか。今まさに述べている通りのことだ。それがどうかしたのか。やはり君には関係のないことだろうか。たぶん何の変哲もない日常の生活の中に何でもない感性があり、それについて何をどう述べようとも、それ以上でも以下でもないことしか述べられず、だから述べている内容が自然と空疎になってしまうわけか。それはそのときの状況にもよるだろう。何か興味を引く出来事に遭遇すれば、中身のある内容になるのだろうか。だが今回は中身の有無にかかわらず、誰かはある認識に達しようとしているのかもしれない。人はどのように生きても死んでもかまわない。自らの行為や行動に価値を見出せなければそうだ。それらのすべてが何でもないことだと認識している限りにおいて、そこに価値や目的を見出せなくなる。たぶんそれでかまわないのだろう。今さら何をやっても無駄だと思うなら、その通りだ。ではそうではないと思ったほうがいいのだろうか。それはそのときの気分次第か。本当はどちらでもかまわない。どう思っても心を覆う闇をかき消すことなどできはしない。フィクションの中ではそういうことになっている。それでも君には関係のないことか。何か有効なまじないでもあると思うなら、やはりそれがフィクションであることの証になりそうだが、君がやるべきことではない。誰かがやるべきことだと思い込んでいるのは、ただ言葉を記すことのみか。誰かが言葉を記しながら何を待っているとも思えず、他に何をやっている気配も感じられない。しかし現実の世界で仕事をしているのは誰なのか。誰が仕事をしていようと、君には関係のないことか。たぶんそういう話をしたいのではないのだろう。人にも文明にも価値を見出せない理由を模索する気もなく、この時代の中でただ生きて死んでゆく人々に、どんな感慨を抱く気にもなれない。たぶん価値や目的自体に幻想を抱けないのだろう。たとえばホームレスは一見無価値のように思われるが、マスメディアにとってはニュースやドキュメンタリーを構成するのに欠かせない存在だ。世の中のひずみや社会の不条理を人々に訴えかけるには、悲惨な境遇あるホームレスを使えばよく、そこに番組や紙面を構成する材料としての使用価値が生まれるわけで、そこでホームレスはメディアの商売道具と化すだろう。しかしそんな価値が良いと思うか。では良いと思われる価値とは何か。たとえば高価なブランド品で身を固めている人にはどんな価値があるのか。身につけているブランド品を質屋が鑑定すれば、ある程度の金銭的な価値が生じるだろうか。それらのブランド品を買う気のない者なら、石や金属や動物の皮や毛や植物の繊維を身につけているだけとしか見えないか。センスの良し悪し以前の問題で、そこから何やらよこしまな目的が垣間見えたりするのかもしれないが、それらの虚栄心をどう見るかは、見えている者の社会的な立場や地位によって異なるかもしれない。もしかしたら虚栄心ではなく、本当に栄えているのかもしれないが、それも高価な商品を買えるだけの金銭的な余裕があるかないかの問題で、それをもって栄えていると見なすならば、それは単にそれだけの基準においてそういうことに過ぎず、栄えていること自体がどうということはない概念でしかない。ようするに真に受けられないわけで、言葉の水準で栄えているということが肯定的な意味を担っているということだ。だがそれで何がどうしたというのか。それも何でもないことの一つに過ぎないか。しかしそれで感性とは何なのか。何かを肯定的に見る心を養うことが、その時代の流行り廃りにマッチしていることが、何となく感性の本質のような気がするのだが、センスが良いとか悪いとかが、どのような価値や目的や利益に関係していようと、センスによって他人と差別化をはかろうとする意図がみえみえなのであり、センスの良い人が尊敬され、悪い人が笑いものになるだけのことに、あまり血道を上げる気にはなれないということか。それもひとつの評価基準であり、確かにそれによって何らかの価値が形成されることはわかる。しかしそれがわかったとして、誰かは何をどうすればいいのだろうか。何でもないことは何でもないことでしかないように思われるだけか。
3月7日
相変わらず誰かは何を記せばいいのかわからないままのようだ。そんなわけで現状は何も変わっていない。まだそれらの行き詰まりには相当先がありそうで、これからも悪戦苦闘の連続になりそうだが、何か行き詰まりを打開する方法がないものか。先がないから行き詰まりであり、先があると勘違いしているから悪戦苦闘しているのではないか。それは見解の相違で、君にとってそんなのはどうでもいいことだろう。言葉でごまかしても心の中では気づいているはずだ。もう終わりなのだ。それでもまだ文句があるなら、それに関して何か適当なことを記せば、それで終わりのはずだろう。終わらないから適当なことを記そうとしているのではないか。しかしそんな屁理屈がこの世界のどこで通用しているのか。だから今から言葉を記して文章を終わらせようとしているのだろうが、ここでは未だかつて終わらせようとして終わったためしがない。終わらせられないから、こんなわけのわからない中途半端な状況に陥っているのだ。それでもまだやるつもりなのか。何をやるつもりなのか。やる理由がわからないが、たぶんこれはやめるためにやっていることなのだろう。ただそれでも終わらせられない。君にできるはずがない。そんなことがあり得るのか。あり得なければすぐに終わってしまうだろう。実際には何も終わっていない。ならばどうしたらいいのか。言葉を記しながらその時が来るのを静かに待っていればいい。そうすればやがてその時が来て、もうその後には何も記すことができなくなる。いつか場面に遭遇できるだろうか。たぶんそこに真の終わりがある。もしかしたら今がその時なのではないか。まだ何か適当に記しているではないか。だから今のところそれは想像上の終わりだが、それが現実になったとき、誰かはそれまでに記してきた無駄で無意味な言葉の連なりをすべて破棄できるだろうか。なぜそれらを破棄する必要があるのか。破棄できなければどうなるというのか。待ちこがれてきた終わりのときを通り過ぎてしまうとでも思っているわけか。わけがわからない。なぜそんなことを思う必要があるのか。もう無駄な言葉を記すのが嫌になっているはずで、気持ちがどこかで切れているのかもしれない。何やらリアリティが感じられない話だが、実際に言葉が具体的な出来事をとらえていない。だからそこから具体的な話に持っていくには無理がありそうだ。無理だからそんな話になっている。そういう言い訳じみた語りが違うと思われ、何が違うのかわかろうとしていないのが、致命的な過ちを犯している。また冗談だと思っているのだろう。どうもまともな方角へ話が向かってくれないようだ。なぜそうなってしまうのか。それはこの世界がどうかしてしまったからではなく、誰かの心がどうかしているからなのだろう。心ではなく、記している文章の内容がどうかしているのではないか。それらが空疎な内容になっているのは、語る気になるような現象になかなか巡り会えないからなのかもしれない。行動範囲が狭いから巡り会えないのではないか。何かが障害となっていて、それが邪魔で行動範囲を狭めているわけか。実際ある一定の範囲内にしか自意識の活動領域を見いだせない。しかしそれはこの世界では誰もがそうなのではないか。自らの狭い活動の範囲内でしか何かを語っていないのではないか。だから語っている内容に限界があり、そこに何か欠陥があるのだろう。例えばそれはどういうことなのだろう。誰かの場合は意地の感情がそうさせているわけか。しかし意地を張りながら何をやり遂げるつもりなのか。語っていることが意味不明で支離滅裂になっているのは、わざとそう見せかけたいだけで、そんな風に語ることで、語ることのもどかしさを表現しようとしているのではないか。だが君がわかっているのはそんなことではない。君にとってそれはどんなことでもなく、どうでもいいことでもない。この世界では意識が不在の君にとっては、誰が何を記そうと、それは何でもないことだ。だから誰かが何を語ろうと、君とは無関係というわけか。しかしだから何だというのか。本当に何でもなければ、それらの文章はどうなってしまうのだろうか。何だか投げやりな気分になるだけか。しかしまだやる気だけはあるようで、さっきからしきりに言葉を記して、文章として意味が通るように修正し続けている。たぶんそれで何らかのリアリティを構成したいのだろうが、一方では無駄な時間を利用して無駄なことをやっていることに変わりはなく、そんな自分がやっている作業に対する卑下も平気で記して、何か適当なことを述べているつもりになりたいようだ。つもりではなく、本当にいい加減で適当なことを述べている。どうもさっきから何を述べても心は上の空で、述べていることとはまったく別のことを考えている。そして同時並行して別の作業も進行中で、要するに何かを述べたり語ったりすることに興味をなくしている。本当に何も感じなくなってしまったらしく、たとえ空疎な内容を記しているとしても、もう何とも思わない。ならばそこで終わりだろう。何がそこで終わってしまったのか。それが愚問なのだ。やる気もないのに無駄に問いかけるべきでない。しかしそれでもさかんに何を問いかけようとしているのか。現時点では何も問わない。そう思い込んでいて、他に何を語ればいいのかわからなくなり、話の内容を見失い、それでも言葉を記しているが、何を話しているのでもないことになり、今までに記してきたことがすべて無駄だったような気がしてくる。
3月6日
なぜか自然と無駄で余分な言葉ばかりが連なってしまう。たぶん現状ではその流れを止めることはできないだろう。ならば今こそやり直すときなのだろうか。今さらやり直しがきくとは到底思えないが、なぜそうなってしまうのだろう。まともな答えなど出てくるわけがない。しかしそれでも何かが何かについて答えようとしている。何かとは何なのか。頭が鈍いので、そこで何を問うても仕方がないが、改めて何を問うつもりなのか。感性がすり減っていて、頭がまともな認識に至らない。そういう言い訳には感心しない。近頃はそんな愚痴ばかりだ。それの何が言い訳で何が愚痴なのか。今の時点ではわかりようがないが、今月の時空においては何か目新しい出来事に巡り会ったとは思えない。実際にこの目で見えているのはそういうものではない。どういうものでもなく、ただの日常の光景の中に誰かの自意識があるらしい。そして何かの感覚が少しおかしくなっているのかもしれず、記述の内容に一貫性が感じられない。昔からそうだろう。それでも何かが違うと思っているのは気のせいか、あるいはそれ自体が嘘なのか。嘘だとしたらわざと嘘をついているのだろう。自らが記している文章の内容を把握できなくなっている。そしてあれから数週間が経ってしまったらしい。その間に過ごしてきたのはただの日常だろうが、今改めて考えてみると、あれとはいったい何だったのか。気がつけば現実の日付からは取り返しがつかないほど遅れている。しかしあのときのあれは何かを君に知らせていたはずだ。気のせいだったかもしれない。あるいはそれも嘘の延長上にある言葉か。様々な紆余曲折を経て、かなり遠回りして何とかここまでやってきた。そして今は何をやっているのだろうか。今は今ではないのかもしれないが、そんなのは君の知ったことではないか。知ったことではないかもしれないが、君が現にやっていることだ。そして今は君の代わりに誰かが面倒なことをやっている。君が文章の中で無用な言葉を散らかしすぎて、誰かはわけがわからなくなっている。まったく困り果てて、その後に何を記せばいいのかわからないようだ。だがすべては気休めでやっていることだ。何が気休めというわけではなく、とにかく気休めと見なすことで正気を保っているらしいが、本当は正気の沙汰でないのかもしれず、わけがわからないままに、ひたすら言葉を並べようとしているだけかもしれない。それが気に入らないのはわかっているが、他に何ができるというのか。現実に言葉を記すのとは別に誰かは何をやっているのだろうか。そしてそのやっている何かが何の役に立つのか。それがわからなければ無駄なことをやっていることになるのか。君は問うている途中で答えなければならないことを省いているようだ。なんだか笑ってしまうが、現状はそういうことに違いない。しかしそれは何なのか。ただ言葉を適当に記しているだけで、それを今さらどうしようというのでもない。ではどうすればその無駄な試みを終わらせられるのか。記された言葉を消去すればそれで済んでしまうだろう。語っていることは簡単に記されるのだから、記されたことが気に入らなければ文章から削除すればいい。しかしそれは当たり前のことだ。誰かはさっきから嘘を記しているのではなかったか。嘘でなければ困るのか。言葉を記している環境がもとに戻ってきたようで、誰かはふざけ半分でさらに意味不明なことを記そうとしている。それは君のおかげではない。別に誰のおかげて帰ってきたわけではなく、どこに戻ってきたわけでもない。はじめからもとの場所にいたのだ。それも嘘の延長上で述べていることだろうが、今は何がわかっていて、何がわからないのかを確認しているわけではなく、君が存在する場所などどこにもありはしないことを示そうとして、結果的に失敗しているわけだ。それはここがこの世界ではないからか。わからない。そんな理由になっていない理由など的外れもいいところだが、とりあえず今はわけがわからないままだ。たぶん述べていることのすべてがおかしい。わざとそうしているのだろう。そんな状態で何を語っても無駄なのかもしれない。心の中で何かが無効になっているのかもしれず、それによって記述の存続が困難になってしまったのだろう。しかしそれでもなお画面に食らいついているのは何なのか。誰かの怨霊か情念か。ただの空っぽの言葉が貼り付いているにすぎないか。もしかしたら何かが戻ってくるのを誰かの感情が阻止しているのかもしれない。しかしその何かとは何なのか。今回はそんな答える当てのない問いばかりで、このまま空疎なことを語り続けるしかないようだ。いったい何をどうしたいのだろうか。君にわかるはずがない。たぶん誰にもわかるはずのないことを述べ続け、それで何も述べずに言葉を記しているつもりになっているのだろうが、それは意味のない無駄な言葉を並べているだけで、文章の終わりをひたすら引き延ばしているだけだ。確かに現状を真摯に受け止めるならそういうことになるようだが、それで何かが済んでしまうなら、それも結構なことかもしれない。何となく開き直り気味に冗談で間を保とうとしているのかもしれない。しかしそれでは恐ろしい結末を招くような予感がする。すでに何も述べられなくなっているのに、さらに恐ろしい結末とはどんなことなのか。もしや本当の終わりが到来してしまうのだろうか。だがそれならそれで恐ろしくも何ともないような気がするのだが、真に恐ろしいこととは何だろう。まさかこれから未来永劫空疎な言葉を羅列を続けなければならないということか。
3月5日
どうも今回は以前にも増してよりいっそうやる気が出ないようだ。今回もではないのか。その辺に見解の相違があるらしいが、いったい他に何を語ったらいいのだろうか。他がないからそんな空疎なことを述べているのだろう。今さらそれはないだろう。何もなければすでに語っているそれでいいのではないか。馬鹿げていると思うならやめてしまえばいい。やめられないのなら、それを語ればいい。何かさっきから同じ言葉が循環しているだけのような気がするが、それでかまわないのだろうか。かまわなければ続ければいい。なんて投げやりな言い草だろう。画面も言葉を記している環境も一時的に変わってしまったので、普段のペースをつかめないようだ。もっとも普段のペースで言葉を記していてかなり遅れてしまったのだから、案外こちらの環境の方がはかどるかもしれない。しかし笑えない冗談も前置きもかなり長すぎる。まったく今回はそれだけで終わってしまいそうな予感がするが、他に何を語ればいいのだろうか。だから何も語れなければやめてしまえばいい。そんなわけでまたもや同じ言葉が繰り返されている。やはりそれは冗談の類だろうか。たぶんそうだ。やる気がしないからそんなことを延々と述べている。それもいつものことか。たぶんそうだろう。くだらぬことを語っているらしい。なんとなくそうなのだ。気持ちがどこかで打ち砕かれてしまったような気がする。やる気がしないのはいつものことだろう。何を打ち砕かれたわけでもなく、出鼻をくじかれたわけでもない。ゲームにはたいていの場合は勝ち負けがつきものか。別にわざと引き分けようとしているのではない。君は基本的に何を仕掛けているわけでもない。別にこれから何か驚くべきことが起こり、波乱の予感がしているわけでもないし、思いがけない話の展開に焦っているわけでもない。ただ何もない。それだけのことだ。語っていることもそれだけだ。ひたすらそんなことを述べていて、嫌になってしまうだろうか。ならばやめてしまえばいい。それができないのならそのまま続けるしかないだろう。君はそれを望んでいるのではないか。だからわざとそんな空疎なことを述べて、言葉を記している誰かを試しているのだ。しかしそれの何が試練なのだろうか。嫌ならもう少しまともなことを述べてみたらどうか。別に何かの謎解きにはまっているわけではない。またわけのわからないことを付け加えようとしている。冗談に決まっているかもしれないが、実際には冗談にもならず、単に意味不明になっているだけか。確かにそうかもしれないが、それ以上のやり方を思いつかず、さらにわけがわからなくなってしまうかもしれない。現にそんな具合になっているのではないか。そんな惨状を目にするとまったく情けなくなるか。だがそれらのごみのような文章の中からしか自意識が生じてこないとしたら、やはりそれを続けるしかなくなってしまうのだろうか。たぶん実際にそれを続けているのだから、それでかまわないのだろう。不条理に思えるが、そういうことなのだろう。笑ってしまう。何を反省したらいいのだろうか。笑い事ではないのかもしれない。人によってはこの世界の中で変な戦いに巻き込まれているようで、そんな思いもよらぬ成り行きや結果に釈然としないのはわかるが、そんな結果を招いたことを今さら反省しても仕方がないだろう。人はひょんな成り行きから突拍子もないことをやってしまうらしい。中にはやむにやまれぬ理由があったりするのだろうが、それによって損な役回りを押し付けられた側にとってはたまったものではない。だがそれも冗談の延長上で述べていることだったりして、まったく意味をなさない言葉の連なりにどう対処していいのかわからなくなる。そこで君は何を語っていたのか。たぶん何について説明していたのでもなく、テレビ画面上に映った光景を見ながら、そこで思い浮かんだ言葉を適当につなげて、わけのわからない文章を構成しようとしていただけではないのか。とりあえずその結果がそこに示されていて、君は呆れ返りながらもそれを読み返して、そこから何らかの感想を引き出そうとしているようだが、なんとなく的外れ気味の内容になりつつある。そしてそれがおかしくてたまらないらしく、画面の前で笑い転げているふりをしているつもりだが、妙に顔が引きつっているのはどういうわけなのか。それらの結果の中に何か見込み違いでもあったのだろうか。当てが外れているのは文章のどの部分なのか。当初はもう少しまともな内容になるとでも思っていたわけか。誰が思っていたのか知らないが、たぶん君が思っていたのではなく、また言葉を実際に記している誰が思っていたのでもない。何も思いつかなければこんな按配にしかならないことは、誰もが薄々気づいていたはずだ。だから最初からやる気がしなかったのだろう。そしてやる気がしないのに言葉を記せば、実際にこうなってしまう。誰かはそれを身を持って示したわけか。冗談に他ならない。とりあえずは冗談でここまで述べてきたのだ。そして虚しさが募ってきて、やがて言葉を記したことを後悔するときがやってくる。君はそこまでわかっていながら、誰かが言葉を記すのを止めようとしない。止めようがないし、実際に止められないからこうなったわけだ。だからどうだというわけでもないが、なんとなくそれで済ましてしまうのは心苦しく、痛ましいように思える。果たして誰がそんな結果を受け入れられるだろうか。
3月4日
かなり遅れてしまって気分は最悪というわけではないが、相変わらず何も思いつかず、空白の時間帯のただ中に心があるらしい。そして君がそんなことを述べているわけではなく、誰かが言葉を記しているのだ。そんな当たり前のことを述べなければならない必然性など何もなく、他に何もないからそんなことを述べているのだろう。聴いている音楽に癒され、休息の他に意味のない時間が到来している。考える手間を省いて、その場の雰囲気に流され、何を意識することもなく、何かが訪れるのを待っているわけでもなく、ただ黙って耳を傾けているだけなのか。やはりその場で考え込んではだめのようだ。言葉が何も出てこない。しかし考えなければまともなことを述べられない。だが何について考えようとしているわけではない。この世は考えなくても勘だけで生きていける世界なのか。勘に頼っていても、それで考えていることになるのではないか。無意識のうちに考えていることにでもなるのだろうか。勘に頼った結果を見れば、そこに思考した痕跡でも見つかるだろうか。たぶんそういうことを述べたいのではなく、その辺で無駄に言葉を弄していることが、何か適当な考えに基づいているかもしれないということだ。そんなごまかしでは納得し難いか。始めから納得するようなことは何も述べていないはずだ。最近はそういう無駄な試行錯誤を繰り返すことばかりにかまけているのかもしれない。しかしそんなていたらくで、その先に何について考えればいいのか。例えば世界情勢などなるようにしかならないことはわかりきったことで、君には関係のないことだろう。何も画期的なことが行われているわけではなく、そのほとんどは今までの延長上でなされていることだ。多くの人は労働によって金を稼いで、稼いだ金で生活必需品を買って暮らしている。そういうやり方が今後とも維持されるだけだ。いったい他にどういうやり方があるというのか。そこに幻想を抱く余地はないように思われ、そんな当たり前のことが当たり前のように行われている現状のどこに不都合があるとも思えない。おそらく人々も国家もそんなやり方しか肯定できない。ただ金を稼ぐやり方が多種多様であり、商品を買う方法も多種多様になっていて、いかに効率よく金を稼ぎ、商品を買うかに関して、人々の間に格差や不平等があるだけだ。そこには競争があり、うまく稼いでうまく買って利益を得るためのやり方が競われていて、その辺でうまく立ち回るとひと財産を築けるような具合になっている。国家が多く稼いだ者から多額の税金を課そうとも、結局のところ貧富の格差が生じて、稼げない者はますます稼げなくなり、稼げる者はますます稼いでしまうわけで、そういう成り行きを変えることは現状では無理だ。国家がより多く稼いだ者からの税金をあてにしている限り、彼らを抹殺することはできないし、逆に稼げない者たちは国家にとって役立たずのお荷物に思えてきて、財政が逼迫してくると真っ先に切り捨てられてしまう。つまりそんな現状の上に国家は成り立っているのであり、そういう現状を変えるわけにはいかないのである。人々から税金を徴収して、その税金で国家を運営している制度を続ける限り、そういう事態は避けられないことだ。それを改めるには、国家運営が税金とは無関係であるべきなのだろうが、果たして何かうまい方法があるだろうか。例えば通貨を発行しているのは国家なのだから、国営銀行としての業務を拡大して、今よりもっと多方面に金を貸して、その利子を付けて返済される金だけで国家運営ができるだろうか。たぶん国家が直接金を貸すのだからその利子が安くなり、民間の銀行を駆逐することになるかもしれないが、つぶれる銀行はすべて吸収合併して、金融業のすべてを国家が独占すれば、かなりの収益を見込めるような気がするが、いかがなものだろうか。そして国家が銀行を運営するのだから、それほど多額の利潤を追求する必要もなくなり、それで投機的なギャブル資本主義の台頭を防ぐことができるし、一石二鳥のような気がするがどうだろうか。むろんそれを実行に移すのは銀行業界の猛反対があるだろうから、現状では無理に違いないが、いつか何かのきっかけでそれが可能となる機会がやってくるかもしれない。その場合税金がなくなるので、複雑な税務計算が必要なくなり、公認会計士など必要なくなって、かなり単純な制度になって、大掛かりな事業を興したい場合ほど、多額の資金が必要となり、その分多くの金を借りて、多く返済しなければならないから、現行の税制よりもわかりやすく公平な負担になると思われる。しかしそういう制度に移行するにはどうしたらいいかとなると、ある意味で今がチャンスなのではないか。例えばアメリカの場合、金融危機で大手銀行が半ば国有化状態となっているわけだから、それを国有化のままにしておいて、それ足がかりに次々と他の銀行も国有化していってしまえば、そういうことになってしまうかもしれず、机上の空論的には何かそれが可能なような気がするのだが、本当にそうなってしまったらおもしろいのかもしれない。冗談でならそういうことを空想できるわけだ。まあそうはならないことは当たり前だろうが、何となく他にもいろいろなやり方がありそうな気がする。常識にとらわれなければ方法などいくらでもあるのだろうが、多くの人々は世間の一般常識やそれを押しつけてくるメディアの奴隷だから思いつかないだけか。
3月3日
まともなことを述べかかっているのをやめていいのか。やめさせているのは誰なのか。たぶんそれは世界的な危機ではない。確かに経済的には危機なのだろうが、人々はそれだけではないと思いたい。それについて何か適当なことを語りたいのだろうが、それは誰の感覚とも相容れない意見だ。おそらく君は花粉症なのだろう。馬鹿げたことを述べているのは毎度のことだ。話の内容が定まらず、言葉がまともに連ならない。誰かが抱いている妄想の中では何かと何かがどこかでつながっているようだが、それが具体的に何なのかわからない。とりあえず複数の出来事が連鎖して起こり、それに関して誰かは意味もなく支離滅裂なことを記している。それらの出来事をとらえている感覚が現実からずれているのかも知れない。だから思い通りに話を進められない。そして眠くなって寝てしまうのだが、そのとき意識は何に操られているのだろうか。何か記してはいけないことを記そうとしているのだろうか。夢の中で何かが奇妙な感覚をもたらしている。それが作り話なのではないか。では何が原因でそう思われてしまうのだろうか。ただ言葉を記すのが大幅に遅れているだけだ。それ以外に原因を思いつかず、他に何を知りたがっているとも思えないが、君は何も思わない。どうにもできないことは他にいくらでもありそうだ。だからどうにかしようとしているのか。そんなことはどうでもいいのかも知れないが、遠くに煙突が見えてくる。人が言葉を記すのは不自然な行為だ。それを邪魔するために映像が画面上で動いている。蜘蛛の糸を張り巡らしているのは映画の中での光景か。画面に映し出されているのは君の心の中に広がっている心象風景というやつか。それはあり得ない話だ。なぜ成り行きを無視して飛躍してしまうのか。そこでやる気がしなくなり、お茶でも飲んで一服するつもりらしい。紅茶と緑茶を急須の中で混ぜ合わせ、まろやかな味わいを期待しているのだろうか。話の途中でしどろもどろとなり、わけがわからないままにしておくつもりらしい。やる気がないのだろうか。今日もそれでかまわないはずだ。やるべきことをきちんとやった結果としてそうなってしまったのだから、文句はないか。嘘に決まっている。たぶん今度は文句を記しているのだ。それは承知していて、誰かが眠いのも承知している。それははなから織り込み済みか。気がつけば腕と膝が痛む。気に入らないのならやめてしまえばいいのに、それができないところが気に入らなかったりするわけで、人はいつでも人を支配したい。自分も他人も含めて、自らの思い通りになってほしいのだ。愛のない人にはわからないだろう。愛という言葉が意識の中で紋切り型に反応している。欲望に支配された人にとっては当然の行為に違いない。君はそこで急に考え込むが、落ち込んでいるわけではなく、結論が出ないままに眠ってしまう。そして相変わらず眠ってしまう理由がわからない。知りたいのは理由ではないのか。何をする理由なのだろうか。それは誰が何をする理由なのだろうか。彼らは何に励んでいるのだろう。うがった考え方や見方では理解できない。だからどうもそれらのこだわりには意味がないように思える。本気で述べているようには思えないのだ。究極的には何も救われず、世の中には争いごとが蔓延して、法がまともに機能することはない。誰もが法を信じていないのかもしれない。法は万人に公平であるはずがない。しかし君が述べていることは意味不明だ。今さらそれはないだろう。何か思い出したように意味不明なことを述べているようだが、それがどうしたのか。いったい何について語りたいのか理解できない。まるでその文章は過去に記した文章の断片が寄せ集まったかのようで、意味をなさないのはもちろんのこと、何かの冗談のような脈絡のなさだ。心の病か。それとも心身ともに壊れているのか。なぜそうなってしまうのだろうか。もう何も記さなくてもいいのだろうか。実際に少しずつでも記し続けているので、その辺がわからない。やめていいのならやめられるような気がして、やめられないのならもう少しまともなことを語らせてもらいたいのだが、実際のところ中途半端に意味不明なことを記しているようだ。だから頭が壊れていると思われるのか。心の中で何かの思いが複雑に絡み合っているのかもしれない。そして実際に暮らしている現実が君の思いとは無関係だ。やっていることと述べていることが凄まじく背離しているような気がして、何を述べても違うような気がしてくる。要するに何も語れなくなっているのだから、そこでやめてしまえばいいのだろう。しかしなぜやめていないのか。それも違うことの一部分か。語っていることのすべてが違っていて、記している内容のすべてが違っている。何かがばらばらに分散して、文章の至る所で語りたくもないようなことを語っているようで、それらのすべてが読解不能で理解不能だ。何かが警告を発しているのかもしれない。このままではだめであることは承知しているはずだが、何をどうすればよくなるのかわからない。そのままでもかまわないのだろうか。無意識のうちではかまわないような気がするらしく、意味不明なことをひたすら記していることを何とも思っていない。意識がそれに気づかないうちにそんなことを記してしまうようだ。
3月2日
さっきから妙な気分だ。それは雑な言葉の処理だ。何かのねじが外れているようだ。心がねじれている。たぶんそれが違っている。違っていないから心から外れているように感じるのだろう。本当はどっちなのか。何がどっちなのだろうか。例えばそれによって君からまともな言葉が離れてゆき、意識が何かの淵を漂っているわけか。きっとそれは空想上での出来事だろう。出来事でさえないのかもしれない。今回はそれほどわけがわからないわけではないが、毎度おなじみで意味もなくそんなことを述べてみる。まさか退屈にやられて死んでしまったわけではあるまい。さてこれからどうしようか。そこでは何が嘘なのか。まずは言葉を記さなければならない。とりあえずそれが嘘だろう。誰の素性を調べているわけでもない。いつものように意味がわからないか。何かの背景が浮かび上がっている。何について語っているのでもなく、説明になっていないようだ。何かを求めているのかもしれない。やがて何かの機会が訪れるだろう。何かに巡り会い、気が動転してどうなるわけでもなく、相変わらず何も述べていないことに気づくだろう。本当にそうらしい。今それに気づいている。何をやってもうまくいかないことはわかっている。そんな気がしているだけか。その理由も根拠も示されず、ただそんな気がしているだけにとどまる。それで何を述べていることになるのか。単なるはぐらかしの一種か。毎度のことだろう。そんなことを述べているうちに眠気をこらえることができなくなり、気がつけばまた翌朝になっているわけか。だがわけがわからないのはそういうことではなく、今このとき何を考えているかだ。文章として意味がつながっていないようだ。云わんとしていることがまったくわからない。たぶん伝えることがないのだろう。確かにそれでは何を述べたらいいのかわからない。だが別に誰がこの社会に挑みかかっているのでもないはずだ。テレビドラマの登場人物とは無関係か。わかりやすいのは嫌いだろうか。気分が優れない。たぶんそれだけのことで、他はすべて空疎だ。何も思いつかず、言葉を記すのを投げ出したくなる。文章の虚無化に歯止めがかからないようだ。どんどん何も語れなくなり、終わりを実感させるらしいが、本当に終わってしまうのだろうか。それも一つの選択に違いないが、できればそのまま空疎なことを述べていたいような気がするのは、作り話の中で誰かがそんな気がしているだけだろうか。それで虚無から逃げているとは思えない。依然として何を語っているとも思えず、無駄に言葉を並べているだけのように思えてくるのだが、なぜそれでかまわないのか。誰が疑念を抱いているわけでもなく、呆れ返って何をやめようとしているのでもないらしい。そしてそんな都合に合わせてマイルスが登場してくる。まったく必然性を感じられない。彼の音楽を聴いているだけか。ただのジャズだ。君は何によってこの世界に貢献しているのか。冗談としてはいただけない。だが他に何ができるわけでもないだろう。ただ眠いだけのようだ。だが悩まされている当のものに感謝するのはいかがなものか。画面を覗き込んでいる目がすわっている。もはや茫然自失の段階まで来ているのだろうか。何が来ているとも思えないが、何かの限界を超えていることだけは確かなようで、何も思いつかないのに言葉を記している現状が信じられない。いったいいつからそうなってしまったのか。何も思い出したくない気分か。それに関しては何かきっかけがあったのかもしれない。今さらそれをどうすることもできないだろう。そういうことを語りたいのではなく、他に何かひらめいたわけでもなさそうだ。それでは文としておかしいか。意味が通っていようといまいと、それでかまわないだけか。たぶん何がかまわないのかも知ったことではないのだろう。しかし違うと思うのはそういうことだ。見上げれば月の下弦が欠けている。すでに今月の後半にさしかかろうとしているのだろう。日付的にはそうだが、すでに十日以上遅れてしまっている。今月も誰かは怠惰とやる気のなさのただ中でひたすら言葉を記してきたのかもしれない。この世界の停滞が誰かにそんな成り行きを強いているのだろうか。人々には資本主義の限界が見えているのに、ひたすらそれにしがみつくことしかできず、景気刺激策というごまかしによってその場を取り繕うとしている。それらの何がごまかしなのか。事実経営が破綻している金融機関や大手企業を破綻していないように見せかけているからか。それはよくあることではないのか。国力や経済力を維持するためにはそういうことが必要不可欠だと考えているのだろう。これ以上会社が倒産して失業者が増加すれば、犯罪も増加して社会不安を招くわけか。ありふれたことだろう。君にとっては冗談の範囲内か。国家は誰も助けてくれないし、助ける能力もない。しかし助けるとはどういうことだろうか。何か人を動物的な生存競争から解放してくれる方法でもあるのか。働けない人や働く気のない人に必要最低限の衣食住を提供すれば、それで一応の解決になるのではないか。あり得ない話だろうか。自分や家族のために必死になって働いている人にとっては、まったくもって不公平かもしれないが、そうなってしまえばおもしろいと思う。いつか働く必要のない社会が到来してほしいような気がする。
3月1日
誰かはいつまでも浅知恵に頼っているようで、窮地を脱しきれていないどころか、逆に招いてしまっている。それは本当だろうか。何をどう述べても心配事は杞憂に終わりそうだが、それの何が本当なのだろうか。気分的には鬱ではない。だが何か気分がおかしい。その精神状態を改善するには、まずやるべきことをやる必要がありそうだ。やる気がなくても何とか今月の日付を記したようだが、今日はそれで終わりか。自然に終わらせなければ、無理に続けるしかないようだが、そこで何を続けようとしているのか。誰かが記したそれらの文章を読んでみなければ、その内容を把握できない。ただの文章を記しているだけだろう。読まなくてもわかってしまいそうだが、まだこれから記すところか。何を記す気もないらしい。組織と制度に対抗しようとしているわけではない。何となくわかったような気がする。では誰かの何を貶めようとしているのか。パワーゲームとは何なのか。主導権争いの何がそうなってしまうのか。いったい誰が状況に踊らされて、誰と誰が主導権争いをやっているつもりなのか。そういうことではない。それらの状況を読み解く上で何が障害となっていて、肝心なことは何なのか。そういうことでもないか。誰もが我田引水をやってみたい。実際にそうなってしまえばしめたものか。何を述べているのだろうか。誰でもない誰かがどうしたわけでもなく、何がしどろもどろになっているわけでもない。何でもないとはどういうことなのか。今のうちにやっておかなければならないことなんて何もない。だから困惑しているのではないか。一筋縄ではいかないのはお互い様だが、戦略的には無理なごり押しになっている。それに気づいているか否かが問題なのだろうか。いったいどこで誰が気づいたのだろうか。それに気づくほど勘が鋭いわけでもなさそうだ。些細なことだ。きわめて自然に事態が推移している。たぶん答えをはっきりさせてはまずいのだろう。何事も曖昧なままにとどめておかなければならず、いつまでたっても意味不明を装うべきなのだ。それが戦略的に何に対して有効なのかもわからないままでもいい。君は何の根拠も理由もなく、ただ何となくそんなことを思っているようで、漠然とした思いにとらわれているようだ。誰かにとってはそれが罠だったのかもしれないが、それは誰が仕掛けたわけでもない。ただ自然とそんな成り行きにその身を放り込まれてしまっていて、気がつけばがんじがらめになっていて、それらの制度の虜となっているわけだが、今さら何を想像してみても始まらず、どうやらここは馬鹿なふりをしておいた方がよさそうに思われる。何かの思惑通りなのかもしれない。そして誰かは昇ることも落ちることもないような気分になるだろう。だからそれが意味不明なのであり、具体的に何を述べていることにもならない。それで君は満足するのか。何が君の思惑通りなのだろう。やはり君は神ではないようだ。ひたすら何でもないことを述べているのも誰かであって、断じて君ではない。しかし何を断じる必要があるのだろうか。何でもないのだから、何も断わる必要もないだろう。そして君はこの世をあてもなくさまよい、何をやっているのでもないような立場に追いやられ、語れば語るほど、どんどん無に近づいているように思われ、それは不可逆的な方向性を帯びている。それでもそれらの言葉の連なりは君による作品になるのだろうか。何を心配する必要があるのか。誰が何をどのように述べても、それらの心配事は杞憂に終わるはずだ。何もなさずに何も残らない。残っているのは塵や芥のたぐいになり、それらの残滓をかき集めても、何の意味もなさないだろう。肝心なのは意味ではない。ただ複数の言葉が並び、文章を形成する以前に、ただひたすら連なっている。ならばそれが何なのか。考える必要のないことを考えたいのか。考える前に読んでみればいい。そうすればそれらが何でもないことに気づくはずだ。いつまでたっても誰かはひたすら何でもないことを記し続け、まるで機械のように言葉を連ね続けるだろう。そして眠くなり、気がつけば翌朝になっているわけだ。ところでそれらの文章はいつ完成するのか。もう完成する見込みはなく、終わらせることをあきらめてしまったのだろうか。終わりはないがいずれ終わりのときはやってくるのだろう。終わらせずに終わってしまうわけだ。終わりたいわけではなく、終わらせようとしているわけでもない。無理にそうする理由など何もありはせず、ただそんな場所で立ち止まれないだけだろう。そのとき君は終わりを通り過ぎているはずだ。終わりは終着点ではあり得ない。身体は絶えず動き回ってしまい、一つの場所にとどまることができずに、どこへでも行ってしまいそうになるが、それらの文章が足かせとなり、誰かの活動範囲は自ずから狭められ、記している内容は単調になり、気分的にはつまらなくなってしまうようだ。まだ何も述べていないことに気づき、何も把握できていない頭で何かを考えようとするが、結局は何も思いつかず、これまで通りの話の展開に従うしかなくなり、要するに何でもないことを記している誰かの存在をいちいち確認することしかできない。それで何を再確認していることになるのか。気分転換に何を想っているのだろうか。昔のことではなく、将来につながる何かについてか。
2月28日
何をやってもうまくいかず、さらに言葉を記すのが遅れてしまうようだ。無理なのかもしれないが、無理を承知でどこか得体の知れぬところに挑みかかっているのだろうか。その辺が相変わらずわけがわからないようで、考えようのないことを考えようとしているような気がするが、どうもらちがあかない。だから無理だと述べているではないか。何かを適当に縮めてしまいたい気になるが、寸でのところで思いとどまり、そんな嘘も織り交ぜながら言葉を記している。何もいいわけになっていないようだ。それも相変わらずで毎度おなじみなのか。いったい何がそうなのだろうか。あるいは何もそうではないか。どちらでもかまわないのかもしれず、これから見聞する何もかもが予想の範囲内か。ならばこれまでに何を見聞してきたのか知りたくなるが、知りたいことがわからないのも毎度のことだ。たぶんそれは違うと思う。知らなくてもいいことを知ろうとして、知り得ないことを知ったつもりになりたくて、わざと違うと思っているのだろうが、それが違うというのか。本当はどう思っているのだろうか。たぶん何も本当ではなく、誰かは嘘について語っているようで、そのことに語っている当人が気づかない。語っていることが本当ではなくて悔しいか。何も悔しくないように見えるが、それでも悔しかったら、何をどう思えばいいのか。仮定の話ではなく、それも実際はそういうことではない。ではどういうことなのか。どういうことでもなければそういうことでもない。しかしそれでは語っている意味がわからない。しかしそれはいつもの成り行きだろう。それがどうしたわけでもなく、何がどうなのかという疑問自体が意味をなさない。本当は何もどうでもなく、すべてが何でもないことだ。しかし意味とは何なのか。時には言葉の意味がわかると思うことがあるらしく、その時に感じ取ったのが意味なのだろう。それは意味ではなく、思い違いや勘違いなのかもしれない。しかしそれで何をどう述べていることになるのか。君は本当に何がどうなってほしいのか。誰かが夢の中で誰かの幻影に出会う。そして幻影が誰かの中にいる君に問いかける。それも嘘の続きかもしれないが、人が生きている意味とは何だろう。また冗談でそんなことを問いかけているわけか。それは唐突で意味不明な問いか。どうにもならないからそうなってしまい、そこから何も語っていない現状に気づくわけだが、かなり馬鹿げた成り行きだろうか。誰が暗闇に向かって何を問いかけているのでもなく、君はそこで思いとどまるべきだ。たぶんそうなのだろう。何がそうなのかわからない。閑散とした時間帯だが、それは何を意味するだろう。心は何を感じ取っているのか。そこには誰の意識もありはしない。この世界のどこに関わり合っているとも思えず、思惑も意図も定まらず、自らが何をどうしようとしているのかわからない。それでも人は人を助けなければならないのだろうか。人でなくても助けなければならない。それは別に意味深でも何でもないはずだ。眠気が不意に治まり、眠気をこらえながら何を語っていたのか思い出せなくなる。途中で詳しく語るのが面倒くさくなってしまったのか。人は何をするために生まれてきたのか。理由もなく抽象的だろうか。単刀直入ではない。どこから言葉が迂回してきたのかわからない。今の子供に未来などない。まさかプロ野球選手になって有名になりたいわけか。昔からそうだろう。くだらぬ夢だ。実態として人はただ生きているだけでしかない。何かの前で立ち止まり、何をためらい思いとどまっているのでもなく、自らの存在を貶めて何をやろうとしているのでもないらしい。君はそんな惨状にも耐え得ると思っているようだ。つまらぬこだわりなど捨ててしまったらしいが、今はそうでないと思いたい。何かを後生大事に保持しているふりをする。もうあれからどれほどの時間が経ってしまったのか。昨日の夕方のことだ。時間ではないのだろう。またいつものでまかせか。その日を暮らすことで精一杯なのは誰もが一緒だろう。そして誰しもが思うのはそんなことではない。いつかはそんな苦境から抜け出したいのか。ならば夢とは何だろう。身勝手な幻想を抱くことが夢なのか。他にどんな荷物を抱え込んでいるのか。何が重荷となっているかは知らない。君はひどい心の病なのだろう。そういう思い込みに根拠はない。架空の思い込みであり、作り話の中で誰かが誰かを演じているだけだ。何も歪んだ願望ばかり抱いているのではなく、他の何になりたいのでもない。だからこの世界には夢など何もありはしない。そしてそもそもそれが嘘なのだ。いったい何が嘘なのだろうか。理解不能なのかもしれず、それを理解しようというのだから、まったく難儀なことだが、現実には何が難儀なのでもない。ただそんなことを記しているだけであり、誰かはわざと矛盾したことを述べているようで、それがまぎれもなく難儀な作業を招いているのだろう。そしてそこから先が何もないことに気づいて途方に暮れているようだ。それは本当なのだろうか。まったく翌月の中旬になって、ようやく前月の記述が終了しつつあるわけだから、もうどうにもならないのかもしれないが、それでも何となく状況を楽観しているのが不思議でたまらない。これから何をどうしたらいいものか。
2月27日
それの何が馬鹿げているのだろうか。今日は晴れて暖かい。それとは何か。もう今日の日付に追いつくのは不可能だろうか。ところで誰かが崖から転げ落ちたらしい。彼がそれを何にたとえているのか知らないが、誰かによれば、何をやってもすでに手遅れだそうで、それについては関心が薄れつつあるそうだ。だから何も語ることがない。語る気が起こらないから何についても無関心になっているのだろう。君はそこから遠ざかり、この世界に何をもたらす気もなくなり、相変わらずわけがわからないようなことを述べているわけだ。それでも別に途方に暮れているわけではなく、何かを語っている誰かがうらやましいとも思わないか。どうやら今回も何を語っているのでもないらしい。君にはそういう悲惨な状況がお似合いなのか。それの何が悲惨だと思われるのか。君には何もわからないだろうが、君が語っているのではない。しかし誰かがいくら言葉を記したところで、まともな文章からはほど遠い。何かについての感想とはそういうものだろうか。ただわけがわからず、何も答えられない状況が続いている。いったい何について答えようとしていたのだろうか。考えがまとまらないらしいが、問いが見当たらないのはどういうことなのか。それについては単純明快に述べられない。何が問われているとも思えず、それについて答えようがない。では現状はどうなのか。ただそんな言葉が連なっているに過ぎず、それをどうこう言うつもりはないらしい。かなり不満かもしれないが、それが今の状態なのだろう。何も語らず、無駄に言葉を並べている。何について語ればいいのかわからず、そこで思考停止状態なのかもしれない。だが今はそれでかまわないのだ。何もないのだから、内容がつまらなくても気にしない方がいい。では他に何を語ることができるのか。またこの世界について語り出すのだろうか。頭がいかれているのは承知している。誰の頭か知らないが、それをかち割ろうとしているわけではなく、真夏のスイカ割りでもない。苦し紛れに思いつくのはそんなことか。意味がわからない。夜明け前にはまだ時間がありそうだが、眠ってしまいそうだ。まだ就寝時間には間に合うだろうか。意識があるうちに少しでも余計に言葉を記しておきたいのだろうが、その際話のつじつま合わせなどにはかまっていられないか。そんなことを繰り返していれば、自ずからわけがわからなくなり、自らが何を語っているのか、その内容を把握できなくなる。それの何がかまわないのか。いよいよ行き詰まっているだけだろうか。結果的にはそうに違いない。だからおもしろいなんて強がってみてもだめだ。現実は動きようがない。動かせようとして簡単に動くようなものではない。しかしものとは何なのか。君は何をもの扱いしているのか。「言葉と物」の作者ではないだろう。君が述べたいのはそういうことではないらしい。とりあえず人は動くが、世界が動かない。地球なら自転しながら太陽の周りを回っているはずだが、それでも世界は動かない。しかし世界とは何なのか。何も哲学的な小難しい概念について述べているわけではないはずだ。世界情勢なら流動的なはずだが、それで動いていることにはならないのか。世界における人の役割とは何なのだろうか。何にコミットしなければならないのか。たぶん君が語るべき内容ではない。君には関わり合いのないことか。世界に関してならそうかもしれない。君はこの世界からとうに見捨てられているはずか。不在なのだからそれは当然だろう。影に何が語れるというのか。そういうことではなく、君にとって世界はどのようにとらえられているのだろうか。それについて語るのを避けているだけか。語ってしまったらそこでおしまいか。語れるはずのないことを語ろうとしている。まさに語るのは今なのだろうか。だがその時を待っているのは誰でもない。ではそこで何が到来しているというのか。君にはどんな問いにも答える権利がないらしい。ただそういう話の設定にするのが面倒くさいだけなのだろう。ならば今さら何を述べているのか。だから君にわかるわけがない。君の実体はそこで消え去っていて、影がない。目が見えないのか。そのうつろな眼は画面以外の何を見ているのか。影に眼などありはしない。影にあるのではなく、誰かの顔に眼がついているのではないか。わけがわからなくなる。またひねくれた意志が話を意味不明な展開へと向かわせようとしているようだが、そういうことではなく、何がそういうことではないのかもわからない。どうやら目が覚めて、夜が開けてしまったことに気づいたらしく、何やら気持ちが焦っているみたいだ。また終わらせることが不可能になってしまったからか。しかしそれで何を嘆いているわけでもなく、少なくともわけのわからない作業が前進していることは確かなようで、何とか破綻を免れているようにも思える。実体は虚しいことかもしれないが、それでもどうにかこうにかここまでやってきた。無理を承知でそんなことをやっているらしく、やはりそれは馬鹿げたことか。何をどう考えても愚かな行為なのだろう。今さらそれはないか。ならばそれらの作業を肯定しなければならない。空疎なことを語っている現状を正当化しなければならないか。だがそれも虚しい行為なのではないか。
2月26日
いつまでたってもこの世界はこの世界のままだ。誰かには何かこの世界を変革するあてでもあるのだろうか。別に疑念が生じているわけでもないが、何か思うところでもあるのか。ありきたりの返答で申しわけないが、相変わらず何もない。一日に起こったすべての出来事が自分には関係ないように思えてくる。それが気のせいならありがたいが、どうも最近はそうでないような気がする。たぶんそうではないのだろう。気がつけば無駄な言葉が連続している。本当はそんな心境ではない。では何を思い出せないのか。何を思い出そうとしているのだろうか。いつも使っていた暗証番号を忘れてしまったらしい。それとこれとは関係ないだろう。ならばこの世界はこれからどうなってしまうのか。さっきまで思い出そうとしていたのはそういうことではない。誰もそこでは生き残れない。なぜそうなのかわからないが、誰かが語る架空の話の中ではそうなっているようだ。そこは地獄なのか。現実ではないのだろうか。膝が痛む。今聴いているのはどんな音楽なのか。いつものパット・メセニーだ。曲の中で彼は何を理解したのだろう。必要なのは知性ではない。やはりそれとこれとは無関係だ。何でもないことを何でもないままに伝えることはできない。いつも誇張やゆがみがつきものか。気がつくとまた何かがずれている。記述を駆使して何を伝えようとしているのか。今のところは伝える対象となる人間を知らない。だから不在の影でしかない君に何ができるわけでもない。だが何かできない理由になっているのだろうか。いつものように意味がわからない。意味がはっきりしなければ精神的に耐えられないか。何をそんなに焦っているのだろう。何もできないからか。確かに忙しすぎて何もできない。疲れてすぐに眠ってしまうらしい。何を記しているのでもなく、無駄に無意味なことを述べているようで、それが現状となっている。それ以外の何が現状であるわけでもない。何かが違っているのだろう。気分がおかしい。それだけではないような気がするが、そういうことなのだろう。それが虚無からの攻撃なのだろうか。君にわかるはずもなく、別に茫然自失というわけでもないのだろうが、言葉の意味から見放されているような気がする。いったい誰が何を記しているのか。相変わらず無駄で無意味なことをやっているだけか。悲惨な人は悲惨なまま、くだらないことをこれでもかとやりたがる。そんなことを繰り返す以外にやることがないのだろう。果たしてそれ以外に何をやればいいのか。そこに生じているくだらぬ復讐心が勘違いの源なのか。君にはそれがわかっている。言葉を記している誰かにもわかっているはずだ。悲惨な輩にはそれ以外を思いつけないのであって、だからくだらぬごり押しによってネット上を汚しまくりたいのだろう。そんなのが放置されるがままになっていて、自己満足に他ならない勘違いがそれらの書き込みを形成しているわけだ。人は弱すぎる動物なのだろうか。無理に心をねじ曲げて虚勢を張っていて、自覚がまったくないようだ。しかしそれの何が痛いほどよくわかるのか。それも自分だけの世界を見せびらかしたい一心でやっていることか。そうだとしても実際には醜態をさらしているだけで、哀れみさえかっているのかもしれず、それがわからないからいつまでもそんなことをやりたがるのだろう。不快な感情を抑えきれずに、自らの醜さを言葉に託して攻撃をしかけているつもりなのかもしれない。なりふり構わず欲望を成就しようとする者は醜い。抑制がまったく利かないらしく、何をやっても咎められない自由を悲惨な行為に浪費しているわけで、それはかなりもったいないような気がするが、結局それしかできないらしい。それが現実である。そして君はそういう現実を真摯に受け止めなければならない。この世は虚飾で覆われていて、何もない者たちは歪んだ見せびらかしによって自己主張しているつもりになる。万人に知性が備わっているわけではなく、悲惨なやり方がまかり通ってしまう現状を正すのは余計なおせっかいだと思われてしまう。だから君は君で無駄な努力を繰り返す必要があり、それらの行為に意味や意義を見出すには及ばず、ただひたすら空疎なことを述べていればいいのかもしれないが、それで何になるのだろうか。やはり君にわかるわけがないか。君がわかろうとしていないのはわかるが、そこでそれがわかっているのは誰なのか。少なくとも君でないことは確からしい。今の君にはわかる術がない。だから仕事がいいわけになるとは思えず、忙しさができない理由になることもない。実際に何もやらずに睡眠時間を確保しているではないか。まったく気がついたら寝て起きているのだから世話がない。事件についてテレビで利いた風な意見を耳にしている時間もないのか。ならばどのへんで妥協すべきなのだろう。現実と折り合いを付けられずに人生を終えてしまうのだろうか。確か誰かがそれでもかまわないと述べていたはずだが、相変わらず君とは関係のないことか。言葉を記し続けることは重要な作業ではないのだろうか。少なくとも君にとってはそういうことだ。もしかしたら誰にとってもそういうことであり、それらの行為は何でもないことかもしれず、そこから先はいつもの結果が繰り返されるだけのようだ。
2月25日
どうも眠たい時は寝てしまった方が健康にはよさそうだ。だが寝て起きても何も思いつかない。何も思いつかないということを思いついただけか。何を思いついたとしてもそれは言葉でしかない。言葉では気に入らないのか。思いついたそれを言葉で説明しているだけだろう。それ以外にどんなことを思いつけるというのか。その思いついたことに魅力を感じられなければ興味を抱けないか。たぶんどんな説明がなされようと、何が託されているわけでもないのだろう。君は天から無視されているのか。天啓や天命がない方が気楽だろう。その意味がわからない。ならばやはりそういうことではないと思ってしまうのか。何がそういうことではないのか。君にそれがわかるわけがなく、それは理解できないことだろうか。そうならそれでかまわないではないか。わかり得ないことを無理にわかろうとしなくてもかまわないのではないか。感情的にそれは許されないか。ではその感情とは何だろう。ただ何かをわからなくては気が済まないだけか。わかり得ないことをわかって優越感にでも浸りたいのか。きっとそれは何かの勘違いだろう。わかったふりをするか、わかったと思い込んでいるだけで、本当にわかったわけではない。何をわかろうとしているのかさえわからないのに、それがわかるわけがない。君は夢でも見ているのではないか。ならば夢の中では何を見ていたのだろう。今が夢の中ではないのか。夢だろうと現実だろうと、そんなことはどうでもいい。いつもの破れかぶれの開き直りで、そこで考えることを放棄してしまうのか。ところで君はさっきまで何を考えていたのか。気がつくと誰かがそんなことを記している。たぶん影は何かを利用してここまでやってきたのだろう。君はその何かをわかる必要がないと思っているのか。寝て起きたらそうなっていただけのことだ。睡眠時間を削ってまで考えるようなことではないらしい。何をやるにも限度があるということで、そこに何か特別な意味があるとは思えない。そんなわけで、たぶん考えいたそれが何でもなくてもかまわないのだろうが、それで果たして何かを考えていることになるのだろうか。そうやって誰かは無駄に言葉を連ねている。言葉の浪費によってそれらの文章もどきは成り立っているようで、近頃は誰かはひたすらそうだ。しかしそれで何を否定していることにも批判していることにもならず、ただ誰かがそんな現状を記述しているに過ぎず、そういう現状を何とも思わなくなっているのかもしれない。それらの努力は当初に抱いていた構想からは遠く外れている。外れてしまったままでもかまわないのか。今さらやり直しがきくわけがなく、君にはそれをやる気もなく、わざわざそんな面倒くさいことをやる義理はない。昔の意識がこだわっていたことが、心の中で風化してしまったらしい。今ではたぶん興味がなくなってしまったのだろう。何に対して興味をなくしてしまったのか定かでないが、それでもひたすら言葉を記し続けているのはどういうわけなのか。少なくとも言葉を記すことについては興味をなくしたわけではないということか。その場の都合ではそういうことになるのかもしれないが、やはり今の君に何がわかるわけではない。興味をなくしつつも惰性で言葉を記しているのかもしれない。だから君に何がわかるというのか。何もわからなければ沈黙するしかないのだろうか。君に何が課せられているとも思えず、日本国民に総意としてまともな政治判断ができるとも思えない。たぶんこのまま麻生政権が続いてしまってもかまわないのではないか。それとも日本国に政治などいらないか。官僚制のままでも結構かもしれず、格差社会がより鮮明になるならそれも結構だろう。問題や不具合が生じている世の中のすべてを肯定してもかまわない。自民党政権が永久に続くのも悪くはない。悲惨なら悲惨のままでもかまわないのではないか。社会の底辺に漂っている塵や芥のたぐいの人々が何をできるわけもないだろうし、格差社会によって虐げられて、心が荒んでねじ曲がった人々が何をするわけでもない。ただそのままの社会が継続するだけだ。いわゆる勝ち組の人たちにとっては、自分たちに都合の良い状況が維持継続されるだけで、何が変わるわけでもない。それについて誰かは何を想っているのか。何となく最近の政治情勢については何も語りたくないのだろうか。もしかしたらすべてがよい方向へ進んでいるのかもしれず、懲りない人々は懲りないままに振る舞い続ければいいのであって、そういう振る舞いにどんな罰が当たるわけもなく、勝手なことをやりたい放題やっていてかまわないような気がする。たぶんその行き着く先がどうなってしまうかについては誰も予測できないような気もしてくるが、昔から悲惨な状況は嫌になるほど長続きするのが通例だったように思われる。そして誰もが忘れた頃に、気がついたら世の中が変わっていたりするのが、ありふれた歴史的展開だったはずだ。そんなわけで民衆はいつも末法の世を嘆き続け、そこから救世的な宗教がはやり、そういう宗教に帰依した愚かな人々が救われるわけだ。救われるとは愚かになることだ。救われないから人は知性を身につけるのだ。悲惨な状況を悲惨なままに過ごすことによってまともな人間が生まれるのだろう。
2月24日
いつかは追いつくだろう。死ぬまでには追いつきそうだ。しかし何かが決定的に違っている。なぜそう思ってしまうのかわからないが、とりあえず違っているようだ。誰かが死ぬことを前提として、それらの話が成り立っているわけではなく、常に言葉の行き先が死から外れているように思える。それは本当だろうか。結果として提示されているのは何の話でもありはせず、言葉がひたすら意味不明気味に連なっているだけかもしれない。事実何を語っているとも思えない。誰かは何に追いつこうとしていたのだろう。実際にやっていることが理解できないが、たぶんそれでも何とかしなければならないのだろう。何とかしようとしている。遅れを取り戻そうとしているわけだ。ならば今は必死の形相か。君に何がわかるだろう。まだ必死さが足りないのかもしれず、下手をするとそのまま何もやらずに放置されてしまうのかもしれない。君にはそれがわからない。やる気がないのだからそれでかまわないのではないか。それは誰かの仕事ではない。誰に断わって何をやっているのでもなく、君が何を理解しているわけでもない。何でもなければそうなってしまう。ただそれだけのことだろうか。そうでなければどういうわけでもない。言っていることとやっていることの間にギャップがあるようだ。それが何だかわからないうちは何をやっても違うと感じてしまうのだろう。実際に違っているのではないか。だからそんなことを述べているのか。今頃それに気づいてどうするのだ。いったい何に気づいたつもりになれるのか。君にはわかるはずのないことに気づかされたつもりになっているだけか。それはどういう意味なのか。意味も何もありはせず、ただ言葉通りの意味なのかもしれない。そこでやっていることを放棄してはならない。たとえ無意味であろうと無駄であろうと、それを最後までやり遂げなければならないが、その最後がないのかもしれず、ただひたすらそれらの無益な作業を継続しなければならないのだろう。君にはそれがわかっていないようだ。そこに何かやり遂げなければならないことがあると思っているのだ。何もないのにそう思ってしまうのだろうが、逆に何もないからそう思わざるを得ない。たぶんその先に何があるわけでもないのだろう。何もないからそれを認めざるを得ない。何をどうやってもそうなってしまうのだ。だから結局それ以上の結果を残せない。いつまでたってもそれだけのことに終始して、言葉を並べているだけで何も語らずに終わってしまうらしい。だから君に何がわかるのか。わからないから苛ついているだけなのだろうか。あきらめてしまうのならそれでかまわない。かわないのならそれでおしまいか。実際にかまっていないのではないか。かまわないからそんなことを述べていて、それは無意味なことであり、無駄なことなのだろう。無意味と無駄が文章の中で循環し続け、それが終わりのこない原因なのかもしれない。そこで何かが停滞しているわけか。それは終わりという言葉の代わりの何かであり、それがわからないうちは終わりたくても終われないのかもしれず、ひたすら無意味と無駄を続けるより他ないのかもしれない。今も言葉を記していると睡魔に襲われ、眠気の向こうに見えている終わりにいつまでたってもたどり着けない。それが何の終わりなのかもわからず、もしかしたら無意識のうちに目指しているのは終わりではないのかもしれず、何かの始まりではないかを疑ってみるが、すぐにそれが無意味で無駄な思い込みだと気づき、さらに何に気づいているわけでもないのではないかと疑ってみる。やはりそれも無意味で無駄な疑いだろうか。何か程々のところでやめることを知らないようだ。誰がそう思っているのかもわからなくなる。君に理解可能なことではないのかもしれないが、それは無理にわかろうとする必要のないことか。ならば今の君にとっては何でもそうだ。何を語ってもそうなってしまうのであれば、何でもそう語ればいいことでしかない。今の君にできるのはそういうことだ。だから誰かもそういうことをその通りに記しているのではないか。そういう意味で君と誰かの行為は時空を超えてどこかで連動しているのかもしれず、君と誰かが同一人物でないにしても、同じコインの裏と表に刻まれている何らかの印と同じような関係なのかもしれない。しかしそれで何を述べていることになるのだろうか。その辺で紅茶のカフェインが効いてきて、気分が悪くなってしまい、その辺で何かを中断せざるを得なくなり、その続きがいつ再開されるのか知らないが、何となく夜明けの時間帯に何かを記している誰かの存在を他の誰かが確認しているらしく、それに関して何か無駄で無意味な思いを抱こうとしているのかもしれない。記している文章にはとりとめがない。ただひたすら漠然とした気分で目の前に広がる荒野を眺めているような気分になり、自らがさっきまで何について考えていたのか思い出せない。何かが違うのような気がするのだが、何が違っていると思っていたのかもわからず、ただの違和感だけが文章の中で表明されているようで、それが何だかわからないままに、何となくそれでかまわないような気がしてきて、そのままの心境を放置し続け、気がつけば無駄で無意味な言葉の連なりが形成されているらしい。それが何だというのか。
2月23日
照準が定まらない。やる気はどこへ行ってしまったのか。気持ちにむらがある。一つの作業に精神を集中できない。心の奥底によどみがある。腐っているのだろうか。何かが腐っているのかもしれない。そうなってしまった原因を探りたいのか。それを何とかしたいが、どうもそこで言葉が尽きている。作り話の中で誰かが力尽きているだけだろう。それが問題なのか。しかしそれでは終わりなのではないか。何が終わっているというのか。語るべきことではない。語りたいことが自然に沸いてくるのを待っていては遅いわけか。もういくら待っても何が起こることもない。我慢の限界近くまでいくらでも待っていたはずだ。待つだけ無駄なのだろうか。結果的には無駄だった。そう感じてしまうのにも理由が必要か。しかし他に何をやればいいのか。たぶん他に何を待つこともない。何を待つこともなく、ひたすら何かの到来を何かを待っている。その何かが何だかわからず、今でもそうらしいが、何を待っているのかわからない。少なくとも君にはわからない。わかる代わりにそれはおかしな認識に結びつく。他の何にも結びつかないだろう。君にはその意味がわからない。誰かからもたらされたメッセージを君はわかろうとしていない。わかろうとしなければどうなるというのか。だからもうやめたらどうか。何をやめたらいいのか。言葉を記すのをやめたらいいのだろうが、それは君がやっていることではない。誰かがどこかで言葉を記していて、それは君には関係のないことだ。君と誰かには接点がない。作り話の中ではそうだ。そうでないと安心できないか。誰が安心して虚無と戯れなければならないのか。虚無とは何か。空疎な文章の中で意味のない言葉が不必要に循環しているだけか。それでかまわないと思うが、誰がかまわないと思っているのでもなく、そう記されているのだ。そうなってしまったのは誰の責任でもありはせず、もちろん君に責任があるわけではない。責任の所在がはっきりしないと安心できないのだろう。そして何かがわからなければ安心できない。何かとは何なのか。どうやればそれがわかるのか。君はいったい何をわかろうとしているのか。わかろうとしているのではなく、理解しようとしているのでもなく、何を選んでいるわけでもない。意味もなく焦っていて、言葉を選んでいる暇がないようだ。暇を見つけたらどうか。ところでさっきまで記していた言葉がどこかずれていないか。わざとそうして、内容を意味不明にしているのかもしれないが、無理にそうする理由がわからない。どうやら君は間違っているようだ。間違っているような気がするが、安易に間違っていると思い込んでも仕方ない。ならば黙っていても仕方がない。何がわからないのかわからない。そうやってすぐに否定的な気分になるが、本心からそうは思っているのではないのだろう。ならば冗談に決まっているか。冗談に逃げられずに、他も何も決められず、結局言葉を選べない。選べなかったらどうなるのか。空疎な気分が繰り返され、他に何が繰り返されているのかわからなくなる。それは違うはずだ。たぶん何かが違っている。違っていると思い込みたいのだろう。実際無理にそんなことを述べている。それも違うだろうか。真実はどこにあるのだろう。何がいつまで続くのか。偽りの心は正気ではなく、苦し紛れに何をやっているのでもない。他に誰が何かやっているとも思えない。ただそういうやり方が気に入らないらしく、他に何かがありそうに装いたいのだろうが、なぜそうするのか理解に苦しむ。やはり何かが違っているようだ。結局そんな確信に至って、それから何をどうするのか考えあぐねている。本当にどうするのか。このままではいつまでたってもそのままだ。気分が優れない。たぶん結果とはそういうものだ。何が結果なのかわからないが、たぶんそういうものなのだろう。そして相変わらず君はわかっていないらしい。どうにかできるような状況ではないのに、それをどうにかしようとしているのだから、無理に決まっている。何が無理なのかわからないところが致命的か。君が問われているのはそういうことではない。ではどういうことなのか。何をわかろうとしているのではないということだ。少なくともわかり得ないことをわかろうとしているのではなく、ただわからない。わからないままにわからない。それ以外もわからない。わからないことにこだわっている。誰かが記している文章がそうなのだろう。しかしそれでわかったことになるのか。誰かが記している文章が意味不明であることがわかったのだろうか。だがそれはもとからわかっていたことではないのか。では他に何がわかったのだろうか。言葉を記しているが、実際には何も述べていないことがわかったのか。それはどういうことなのか。嘘をついていることになるだろうか。それとも認識の違いで、何も述べていないということを述べているわけか。それで何かを述べていることになるのか。それも何かには違いなく、何でもないことかもしれないが、何かを述べていることになるのだろう。君はそれが気に入らないのだ。少なくとも何か具体的な事象に言及してほしいが、現実には何も思い浮かばず、何も見つからない。この世界には興味がないのだろうか。ただ語る必要から見放されているということか。
2月22日
君が気の毒に思っていることを誰かが明らかにしようとしている。それが違うとは言わせない。長々と無関係なことを述べているといたたまれなくなる。誰の良心がとがめるのだろうか。しかしそれで何を述べていることになるのか。気が動転するとそんなふうになってしまうわけか。対抗策を思いついたところで、結果的に強くなることも弱くなることもない。わけがわからないが、結果として提示される尺度のたぐいに一喜一憂するのはくだらない。人は制度以外の何に巡り会っているのではなく、そんな決まり事など無視して自由に生きられるわけでもなく、誰が自由を求めているとも思えない。見せかけの世界がメディアを通じて仮想空間内で成立しているだけのことだ。そこに何があるとも思えず、言葉によって何が示されているとも思えない。何かの代わりに示されているのは虚無だけであり、世の中ではひたすら詐欺まがいの行為が横行している。そして状況がそうなってしまう理由さえこの世のどこにもなく、そこで人々は意味もなくさまよい続けるのであり、いくらリアリティを得ようとしても、何かをやっているつもりなっているだけのことだ。しかし述べていることが嘘っぽい。そして何か適当な都合がどこかで生じているらしく、それは誰の都合でもなく、何となくそこに生じてしまうような都合だ。何かの都合でそういう成り行きになっているのだろう。それに関して君が何を述べているのでもない。君はそれらの中身を知ろうともせず、ただ批判したいらしいが、それは形式的な批判であって、中身を伴っているわけではない。相変わらず愚かなのだ。愚かであることに居直っている。今後ともその状態を堅持したいらしい。くだらないことだが、それでかまわないのだろうか。今は何とも言えず、黙って状況の推移を見守るしかないようだ。今さら自分勝手なことはできないか。人はなぜそんなことにこだわりたいのか。君にそれがわかるはずがない。君の知らないところで何かどうでもいいような思惑が渦巻いているのだろう。要するにそれらは君には関係のないことだ。どうやら君はこの世界の何に対しても関われないような存在らしい。本当に存在しているのではなく、実態は不在なのだから、それは仕方がないだろう。誰かの作り話の中ではそういうことになっている。しかし何が作り話なのだろう。どうもその辺から話があやふやになってきて、それらの空疎な内容を把握できなくなってしまい、何か睡眠中に夢でも見ているような心地になってくるらしい。いったいさっきまで君は何を語っていたのか。面倒くさくてそれを思い出そうとする気がしない。やはりそんなのはどうでもいいことか。どうでもよければこの世のすべてがどうでもいいことになってしまい、いつものように論理的に飛躍しているのかもしれないが、その論理自体が定かでない。そこではどんな論理がまかり通っていたのか。言葉ばかりが先行していて、意識が何かを考える上での特定の立場を取れないようで、それが作り話として成り立つ上での障害となっている。だが他のフィクションについておもしろおかしく語りたいわけでもないだろう。語る対象を見出せないのが話が空疎になってしまう原因だが、なぜ見出せないのかがわからないままなので、そうなる他ないのだろうが、だからそのままの状態を否応なく維持してしまうのだろうか。誰が何を維持継続させているのか。何となくそれは違うと思うが、とりあえず先のことはわからないし、昔のことはまったく覚えていない。思い出そうとしないだけだろう。思い出す気はないのだから、無理に思い出すことはないだろう。それでも無理に語ろうとしているではないか。語ろうとしながら昔の出来事を思い出そうとしている。無理にではない。だがそれは誰の声なのか。なるほどそれは新しいやり方だ。しかし確立されているわけではない。述べていることが曖昧なまま定まらずに、結局何もわからないまま今に至っている。そのとき君は何を語っていたのか。まだそれを覚えているだろうか。何を語り出そうとしているのか。今さらそれはないだろう。実際に何を語っているとも思えない。だからもうそれらの空疎な内容を改善させる余地がないのだ。それが内心わかっているからそこで行き詰まっている。もはや窮地を脱することは不可能か。かろうじて自己言及に逃げているようだが、かなりそういうやり方に嫌気がさしている。人は動けるのに動かない。そこを動こうとしない理由などいくらでもあり、そんな理由を動かないことのいいわけに使い続ける。そしてそれに関して語れば語るほど出口が見えなくなり、未来が閉ざされているように感じられ、あとは絶望するしかないようだ。本当に他に生き残る道がないのだろうか。ただ座して死を待つだけではつまらないだろう。だがつまらないことの何が悪いのか。つまらない人生を歩むことが、誰に申し訳ないと思うのか。不況になり、職にあぶれた人々に仕事を配分するのは国家だけとなる。それが最後の神頼みなのだろう。しかし国家は神ではない。今までに営々と築き上げてきた社会の制度や慣習を今こそ捨てなければならない時が来ているのかもしれない。簡単に捨てられるはずがないだろう。捨てられないから苦しんでいるのだろうが、たぶん極限にまで苦しみ抜かないと変革へと至らないのだろう。
2月21日
誰かが気まぐれに支離滅裂なことを述べている。そんな話もかつてはあったらしいが、それを今さら蒸し返す気か。誰かは相変わらずの強硬姿勢だ。何を語りたいわけでもないのに、言葉を連ねようとする。無理なのにそれを続けるつもりらしい。まったく馬鹿げたやり方に固執している。だがそんな誰かの思惑とは裏腹に数日ぶりに空は晴れている。晴れていることとは関係ないだろう。そんなことを述べている理由は何なのか。君には誰かの思惑がわからないようだが、何となく寒気を感じている。風邪でもひいたのだろうか。誰が君の邪魔をしているわけでもない。ただいきなり君とは関係のないことを述べているだけだ。気分次第でそうなってしまう。そこで何が破綻しているのか。そんなことを知りたいわけではない。そしてそれが何だかわからないわけではない。君にはそれらのでたらめな成り行きをわかるだけの理由がありそうだ。ところで今日は冗談に逃げるわけにはいかないのだろうか。できれば語るのをやめてみたい。何かをやめればそれに越したことはないようだが、やめられないからそのような窮地に陥っているのであり、本当にそれをやめたらどうなってしまうのだろうか。たらればという仮定の話では前に進まない。何を前進させようとしているわけではない。いくら前進しようと、たぶんそこから先には何もない。君はそれをわかっているはずで、何もないからそんなことを述べている。嘘だろうか。嘘に逃げてどうするのか。それが嘘に決まってしまったわけではない。そんな決めつけが命取りだということも知っているはずだ。なぜ命取りになってしまうのか。ならばいったい君は何について述べているのか。それがわからないから話が意味不明になってしまうのではないか。だからそれが致命的な欠陥だと述べているではないか。君にとってはそうであり、話の中ではそういうことにしておこう。ところで何の話をしているのだろう。例えばこの世の終わりについて君は何を知っているというのか。さっきまでの内容はそういう話ではなかったはずか。それともこの際話の内容などどうでもいいことか。それはこの世の終わりにも当てはまり、たぶん終わりまで生きられないのだから、君にとってはどうでもいい話になる。話でさえないのかもしれない。折り入って何をきり出したわけでもなく、話など何もなかったのだろう。何となく不自然に語りかけているように装い、何も語っていない自らを否定的にとらえ、それらの文章の中で何かを語りかけなければならないような義務感を醸し出そうとしている。馬鹿げているだろうか。何が馬鹿げていようと、夜になると急に冷え込んでくる。まだその辺一帯は冬らしい。明日の朝には霜が降りているだろか。さっきまで何を考えていたのか。それとも何か独り言をつぶやいていたのか。あてもなくさまよっているのは誰の意識でもない。架空の時空で何を考えているとも思えず、君は相変わらずテレビを見ているようだ。確かさっきまではそうだった。ならば今は何を考えているのか。この世の終わりについてか。冗談でそんなことを述べていただけだろう。たぶんたわいないことばかりに取り囲まれて、神経をすり減らしながら、冷や汗とともにかろうじて今日一日を乗り切ったつもりになっているのかもしれない。時には何かが切れる寸前まで追い込まれ、それでも平静を保とうとしているのだが、まったくくだらない日常だ。そう思われてしまったら、世間に負けているような気がしてくるのだが、それでもかまわないと虚勢を張る気にもなれず、何となく平常心を心の中に生じさせようとしている自らに気づく。そしてそれは冗談に違いなく、語りつつあるのは作り話でしかない。君には何が作り話なのかわかりかねるようだが、とりあえずそれで窮地を脱したつもりになりたいのだろう。しかしそれの何が窮地だったのか。世の中の具体的な事例をいっさい無視しておいて、ひたすら空疎なことを述べているのが何なのか。語っているのは君ではない。少なくともそれが責任逃れになっているとは思えないが、誰かが何かを記している現状を変えることはできない。誰がそれをやめさせることができるのか。何について語っているわけでもないのに、それ以上の何を望む必要があるだろうか。君は現状を直視できずに、何か別の内容を探しまくっている。この世の中が何でもないことを理解できないようだ。たぶんそこに存在するすべての人をどうにかしようとしているのではない。たぶん貧富の格差を縮めようとする試みなどは大きなお世話なのだろう。現状を肯定できないなら、何か夢の世界で自らの思いを遂げるべきか。そこに目標を構築する上で、前提となる条件そのものが意味をなさないのかもしれない。本当に人々は自分たちより悲惨な境遇に陥った人を必要としているのだろうか。食っていけなくなったら死ねばいいのか。だからたらればの話ではないはずだ。社会の仕組みをいくら変えようとしたところで、そういう権限を持つ立場まで登り詰めなければ変えられないか。しかし民衆の力どこで浪費されているのか。それともそんなものなどもとから無効だったのか。だから特定の国家が覇権を握ろうとするのは意味がないことだ。国威発揚に利用されているスポーツのたぐいはくだらない。
2月20日
見栄を張るとはどういうことなのか。意地を張っているわけか。すべては当たり前のことだ。ではすべてとは何なのか。すべてがわからずに当たり前はないだろう。これから何が始まるわけでもなく、何を続けようとしているのか定かでないが、君にはそれを続ける理由がない。それとは何なのか。理由がないのは、君が考えていることがすべてではないからだ。わけがわからない解答がもたらされているようだが、君にはすべてがわからない。くだらぬ言葉遊びはその辺で終わりにしたらどうか。耳を澄ませばどこからかにやけたつぶやき声が聞こえてくる。もうあきらめてしまったらどうか。いつまでも無駄なことを続けるべきではない。まっとうな論理だ。君にはそれが似合いそうもない。まったく無責任になれるならどれほど楽しいだろう。たぶんそれとは無関係に、今日も誰かは興味のないことを語りながら言葉に詰まっている。そんなふうにして自業自得気味に立ち往生しているわけだ。そして相変わらずまともなことを語っているわけではないが、それほどでたらめなことを述べているわけでもない。でたらめなこととはどういうことなのか。くだらぬ疑念はなしにしよう。語るのがだいぶ遅れてしまったようだが、誰かはまだあきらめずにそれを続けようとしている。そんな現状が馬鹿げているのだろう。半ば自嘲気味にそんなことを述べている。実際にそれは違うのかもしれないが、それらのどこにこだわりがあるのか。やめることにもやることにもこだわりを感じられない。誰かはひたすら無駄に言葉を連ねていて、たぶん自身でも何を語っているのかわからないはずだ。いつもそんなことを述べているようで心苦しいのだろうか。それらの行為に意味がないことはわかっている。では今さら何にこだわっているのだろうか。だからこだわりなどありはせず、黙っていても何も導き出せない。黙っていなくてもいい。贅沢が嫌いなのか。それの何が贅沢なのだろう。贅沢ではない。誰かは何かを程々の水準で推移させようとしている。たぶん知り得ない何かが馬鹿げた行為を誘発させているのだ。そして誰かが眠ってしまう。疲れているのだろう。あるいは怠けているのかもしれない。そして寝て起きて、相変わらず何かにこだわっている。それらの行為をやめられないのだ。それらは悲惨この上ない手法だろうか。君にはまったくわからない。だからまたしてもそんなことはどうでもいいことか。君にはそれについて語る資格がない。そう思っているだけだろう。何をどう語っても、具体的に何について語っていることにもなりはしない。ただ語っているのだ。ひたすら語っている。気が済むまで語っていればいいのかもしれないが、それで気が済むはずもない。それでも誰かは何者かになりたいそうだ。何でもないだけでは気が済まないのだろう。そしてそれは気が済む済まないの問題でもない。何でもないことは何でもないことであり、問題ではない。何をどう語っても何でもないことだ。それと同じようにこの地球上でどの国が覇権を握ろうと、そんなのは何でもないことに違いない。しかし覇権とは何なのか。国も覇権も今の時代では意味のないことだ。またそんなことを述べて嘘をついている。それも冗談のたぐいなのか。わからないが、何も述べていないことに変わりないようだ。たぶん認識が単純すぎるのだろう。人は自らの行いを正当化する時、自身の行為が醸し出す否定的な側面をすべて無視する。ただそれだけのことか。少し幼稚すぎないか。利益だけを求めてはいけないのだろう。手段を選んで利益を求めなければならないわけか。まっとうなやり方が通用すると思っているうちはそういうことだ。ハイリスク・ハイリターンにはまり込む人には通用しない論理か。合法的なやり方では無理だと悟った時、人は何をしようとするのか。成功するにしろ失敗するにしろ、そこから先にはくだらない物語の題材にはもってこいの波瀾万丈が待っているのだろうか。なぜある種の人は普通に生きてゆけないのだろうか。大金持ちになりたいとかいうありふれた夢でも抱いているからか。だから君はその辺の認識が単純すぎるのだろう。他人に向かって見栄を張りたいと思うのは普通の人が抱く欲望であるらしいが、本当にそれを実現させたらどうなってしまうのか。程度の差はあるらしい。一般人が格好をつけるのにも限度がありそうで、時にはそれが財政的な限界であったりする。高級ブランドで身を固める人にはどんな思惑があるのだろうか。わかりきったことを尋ねないでほしいか。別に虚勢を張っているわけではないらしい。しかし自らを着飾ることで誇示する行為はいかにも原始的な手法だ。だがさりげない着こなしの中にもわかる人にはわかる贅沢をしている、というスタンスも時として嫌みに映りそうだ。それでも自らの存在を誇示しなければ、周りから無視されるだけだろうから、ある程度の自己主張は仕方のないことだ。しかし君は何を述べているのだろうか。いったいどういうスタンスならいいのか。ちょうど良い姿勢などというのは時と場合によって変わってくるものだろう。そればかりにこだわっている者などまがい物に決まっているが、ではまがい物でない者がどこにいるかとなると、まったく心当たりがない。この世界のすべてがまがい物のイミテーションで覆われているような気がしてならない。すべてとはそういうことだ。
2月19日
なぜ成り行きがそうなってしまうようで、さらに遅れてしまうことが確定してしまった。今は次の機会が巡ってくるのを待つしかないが、本当に次の波が来るのだろうか。波とは何だろう。機会と波が置き換わっているだけか。言葉的にはそうだろうが、それが何を意味するのかはわからない。安易な思いつきに決まっている。誰かはそう思い、それで何かを語っているような気になるらしい。君にとってはやはり意味不明か。何がやはりなのか。気に入らないからやはりなのだろう。馬鹿げている。そしてそれとは無関係に、何か利いた風なことを述べようとしているらしい。うまくいかないことならこの世にいくらでもありそうだ。人は生きるためなら何でもやる。追いつめられれば人殺しや強盗などもその選択肢に入ってくる。そんなことの繰り返しの上に社会が成り立っている。たぶん人の欲望がこの世界を荒廃させているのだろう。繁栄させながら荒廃させているわけだ。自らの欲望を満たすためなら手段を選ばない人々が世界を荒廃させる。そういう人々は自分さえよければ他人がどんな悲惨な境遇に陥ろうと知ったことではない。まさに勝手なことをやりたい放題やってみたいのだろう。しかしそんなことを述べている君はどうなのか。大同小異で似たり寄ったりなのではないか。そんなことはありふれていて当たり前の範囲内か。誰もが望んでいる状況を欲しているのであり、どうやら人の心は荒んでいて当たり前のようだが、君はそれに関して具体的な事例を示さない。人は誰でも人ではないらしい。またわけがわからないことを述べている。人でなければ何なのか。やはり人は何でもないわけか。またしても何がやはりなのか。いつもそこでわけがわからなくなる。思い違いや勘違いは誰にでもあることだ。だからそれの何が思い違いであり、勘違いなのか。ただの言葉でしかなく、それ以外はどうあってもわからないようで、わかり得ないことがわからないわけではなく、何でもないことがわからないようだ。しかし何でもないこととはどういうことだろう。またしてもそれがわからないということになってしまうわけか。何やらわからないという言葉が堂々巡りをしているようだが、わざとそんなことを述べているのか。当たり前だろう。そうだとしたらどうなのだろうか。君は何でもないと思う。そして話がくだらなくなって、語るのをやめてしまいたくなるか。ひどいことを述べていると思う。ならば君はそれがわかって満足なのか。誰がそんなことを述べているのだろう。やはりそういう話ではないようだ。何の話でもなく、何でもないことが述べられている。それだけのことに無駄な時間を費やしているようだ。そしてそれが思い違いであり、勘違いなのだろうか。わかったようなわからないようなことがそんな結論に至らせるが、それでも人は何のために生きているのだろう。この世界がどのような状況に至らしめなければならないのか。たぶん君がそれを目指しているわけではない。この世界がどうなるかは人が抱え込むような問題ではないのかもしれない。人はただ自らが抱いている欲望に向かって努力していればいいのだ。それが人を動物というカテゴリーに分類させる。動物以外の何ものでもないのだろう。いったいそれ以外にどんな可能性があるというのか。たぶん人に可能性などない。冗談でそんなことを述べているわけではないようだが、何か他に思惑らしきものがあるわけか。君は愚かだ。際限がなく、歯止めが利かないようなことに言及しようとしている。そして人間社会全体に新たなシステムを導入しようとする試みを馬鹿にしているのかもしれない。いったいどのようなシステムを思いつくだろうか。誰がそれを思いつくのか。それを思いつくためにはどうしたらいいのだろうか。君の知ったことではないかも知れないが、欲望に際限がないことへと歯止めとして、社会の中で何かを制御しなければならないのだろうか。何かとは何なのか。まさか今の時代に情報統制とかができるとは思えない。ならばくさい臭いはもとから絶たなければだめの論理で、人が身勝手な欲望を抱く源泉を見つけ出して、それを禁止にでもすればいいわけか。例えば銃刀や麻薬の使用は規制されているが、それ以外の何を禁止しようというわけか。過激な性表現などのように、禁止すればするほど欲望をかき立てられるだろうから、そういうのは無効だ。ではどうしたらいいのだろう。たぶん人を規制などの圧力によって制御することはできない。ありふれた主張としては、教育の質を高めて、節度があり抑制の利いたまともな人間を社会に多数輩出するようにしなければならないということか。馬鹿げている。そういう意味では今の君はやるべきことをやっていない。そして何かが達成可能だと思うことがどんな結果をもたらすのかわかっていない。要するに的外れなことを述べている。それに関して学ばなければいけないことはいくらでもありそうだが、誰がそこから逃れられるわけでもなく、何を語っても意味がないわけではない。わけが必ずありそうだが、そのわけを誰が知りたいのか。そこには誰もいないのだから、わけなど誰も知りたくないはずだ。誰かはそんなことを述べて、結局わけがわからないような話の展開へと逃れようとしている。そこに人間としての弱さや怠け心が顕われているということか。いったい誰が人間なのか。
2月18日
泥縄式に何かをやろうとするがうまくいかない。うまくいかないのを承知でそんなことをやっている。だから無駄なのか。いったい何が無駄なのか。何かを思い出さなければならないようだが、どうもそれが違うように感じられる。記憶の中で何かが違っているらしい。だがそれが何だかわからない。そんなはずがないだろう。何もわからないわけではない。わかっていることはいくらでもあるはずだが、では何が違っているのか。考えを巡らすが、いつもそこで行き詰まってしまう。何も思いつけないわけだ。何が違っているのかわからないが、何かが違っているような気がして、それは嘘ではないような気もする。確かに違っているのだろう。だが依然として何が違っているのかわからない。それでいらだっているのだろうか。腹立ちまぎれに誰かが気に入らないようなことを述べようとしているわけではない。お気に召さないのは他でもなく、要するに何でもないことだろう。それはいつもの意味不明か。外は曇っているようだ。昨日も曇っていたはずだ。だから今さら何を考えても無駄だ。何がだからなのか。無駄だからひたすら考えている。あきらめてしまっては気持ちが前に進まない。君は現実の世界にどんな考えをもたらせるのか。実際に何をもたらしているとも思えないが、いったいこの世界がどうなってほしいのだろうか。どうにもなってほしくないか。そんなのは冗談に違いないが、言葉でごまかすわけにはいかないだろう。批判する対象を探しても、どこにも見当たらず、そんなことを述べている自らを自己批判しても落ち込むだけか。やはり冗談でそんなことを述べているのだろうか。それ以外に何も思いつかないのなら、たぶん冗談なのだろう。この世のすべては冗談だ。そんなわけがないだろうが、わざと投げやりな気分へ自らをもっていっているのか。どうも希望に満ちた明日とは無縁の現状があるらしい。理想にはほど遠い今があるわけだ。何を求めているのでもなく、何を語りたいのでもないらしい。そんな気分で何を記しているのか。言葉ではないような気がする。言葉の外に言葉がある。誰がそれを記しているとも思えない。誰かはまたつまらない冗談を記そうとしている。冗談という言葉に依存しすぎている。冗談でも何でもないのに、さかんに冗談と記してそれを理由に意味不明を放置する。それで何を述べていることになるのか。やはり違うと思う。では何を呆れているのだろう。もしかしたら不安に駆られているのか。懸念材料はいくらでもある。いったいそれらの何が原因なのか。結果が原因であるわけがない。彼らは何を語り続けているのだろう。湧いてくる疑念に答えることができない。たぶんなるようにしかならないだろう。それが今の段階でわかっている唯一のことか。それでも君にはわからない。わかりたくないのだろうか。君はすでに終わっている。何が終わっているのかわからないが、とりあえず終わったことにしておこう。確かになるようにしかならないが、終わらせようとして終わるわけがない。誰が終わるのだろうか。君は何を終わらせようとしているのか。何をどうやっても何も終わらない。それは現実的な解決法ではないのかもしれない。もし正気を保とうとするならば、終わらせることで解決するなんて思わないことだ。では続ければいいのか。何を続けているのだろうか。何も続けられない。そんなふうに言葉を記しているのだろう。彼は何も変えられないだろう。悲惨な境遇を変えられない。作り話の中では確かにそうだ。誰が誰にそんな話を語っているのか。人には悲惨な境遇が似合っている。多くの人は普通に生きているが、それは不幸になる権利があるということだ。そんなのは権利ではないか。ならば過酷な現実を目にして君は何を想うだろうか。何も思わないか。この世のすべては冗談から生じていると思っている。目にする何もかもが滑稽だ。悲惨な現実はどこにでも転がっている。人は簡単に転げ落ちるし、転落の人生を歩むことなど造作もない。それは喜劇的であり、悲劇的なのだが、要するに人間の存在そのものが馬鹿げているのだ。それでも人は生きている。なぜ生きているのか、理由など知りたくもないが、とりあえず生きて死ぬ。そして君はそれが馬鹿げていると思う。生きていることが馬鹿げていて、死ぬことも馬鹿げている。その生から死に至るすべてが馬鹿げている。なぜそんなことを思うのか、それがわからないようだ。今の君にはわかりようがないらしい。わかる手がかりがどこにもない。探している方面が違うのかもしれず、それが何かが違っていることの正体なのだろうか。その場の思いつきは安易すぎて信用できない。しかし苦し紛れではなく、何となく不意にそんなことを思ったらしく、それは本当のような気がしてくる。いったん述べてしまうと、たとえそれが的外れなことであろうとなかろうと、そんな気がしてしまうものなのだろう。だから記された言葉は信用できないか。しかしいったいそれを誰が記しているというのか。君でなく他の誰かだと強弁するつもりかもしれないが、たぶんそれでかまわないのだろう。誰でもなくてもかまわない。君が君であって誰かが誰かであってもかまわない。誰でもいいのだから、無責任に言葉を連ねている現状を認めてしまえばいい。それで気が済むならそうすればいい。
2月17日
以前の記憶が呼び覚まされて、何か久しぶりにまともなことを述べたような気になっているが、それは気のせいだろうか。きっと気のせいだろう。実際にはいつもの支離滅裂な内容の繰り返しにしかなっていないのではないか。ならば述べていることが支離滅裂のような気がするのはどういうわけだろう。単なる照れ隠しなのか。誰にとってもそう述べる意図も思惑もわからない。述べているのが誰でもないのだから仕方がない。そしてたぶんそれが思い違いであることを祈りつつも、冗談でそんなことを述べている。自らがそう思っているようだが、ここで記されている自らとは誰のことを指すのか。たぶん文章中にいない誰かのことだろう。実際に誰もいはしない。しかしそれでは何に気づいたことにもならないのではないか。ではどう記せば気づいたことになるのだろうか。それに関しては何も思いつかず、誰かは自らに降りかかってくる災禍を振り払う気もなく、ただその場に不在の影として記されている。しかしそれの何が不在なのか。記されているのはただの言葉ではないか。ただの文章が記されていて、そんな現状について何をどう思ってみても、それは何でもないことだ。そこで誰が何に気づいているとも思えず、実際に述べているのは相変わらず空疎な内容だが、それが何でもないことのように思えてくるのは、誰かの勝手な思い込みに過ぎない。たぶんそれがどうしたわけでもないのもいつものことだろう。君はひたすら語りようのないことを語ろうとしているようで、なぜそれで不可能に挑戦しているような気になれるのか、君自身よくわからないのではないか。いったいそれの何が不可能なのだろうか。実際に記しているのだから、少なくとも記された段階で不可能ではなくなり、何でもないことを述べるのが不可能であるわけがないことに気づくはずだ。それでも君はそうではないと思いたいのだろう。現にひたすら何でもないことを述べているのは、述べようとしていることとは違う内容であるはずだ。君は述べようとして実際には述べられていないことをさらに述べようとしている。たぶん君が述べようとしているのは何でもないことではない。述べているのが何でもないことではないと自らに思い込ませたいのではないか。では何か画期的なことを述べていると内心自負しているわけか。それはまったくくだらないことか。そしてそのくだらないことも何でもないことのうちに入るのではないか。ならばやはりそれはくだらないことであり、また同時に何でもないことか。もしそうであったならそれらの文章はどうなるのか。たぶんどうにもならずに現状のままであり、それは相変わらず何でもないことの範疇なのだろう。しかし何でもないからどうしたのか。どうもせず、そんなふうに述べて開き直ってみても、どうもしなければ何でもないことの延長上に空疎な内容がある。どこをどうやっても、何をどうしようと、いつまでたってもどうしようもなく、ひたすら何でもないことを述べているわけだ。そうやって誰かは空疎な言葉と戯れているようだが、それらはすべて冗談なのだろうか。もちろんそれに対する返答は、冗談ではないということか。誰が誰に返答しているわけでもなく、ただそう記されているらしく、それを記している当人も、記している自らに呆れているはずか。まったく馬鹿げていてどうしようもなく愚かなことをやっていると思えてくるが、やはりそういう状況を通過しないとまともな言説に至れないようだ。心情的にはそのどうしようもない惨状の何を真に受けるわけにもいかないが、少なくとも何かを真に受けないと、いつまでたっても何でもないことを述べているだけに終わってしまう、それではつまらないか。つまらなければどうしたらいいのだろう。どうしたものかわからない。気休めに何かもっともらしいことでも述べてみないか。今の君にそれを期待するのはおかしい。だが君は何がおかしいのかわからない。そこには何もないのだからわかりようがないか。何もないと何でもないの違いは何だろう。君はつまらないことに気づいたらしいが、似たような状況だろう。では今さら君は何を述べているのだろうか。やっているのはいつもの通りだ。たぶん昨日は何も語れなかったのではなかったか。いつどこで何を語っていたのかまったく覚えていない。嘘に決まってる。それは誰の記憶でもなく、そういうことを今ここで述べているに過ぎず、やはりここに至ってもそんな何でもないことを述べ続けている。さらにくだらなくなってしまっただろうか。だが状況をくだらない方向へ持っていっているのは他でもなく誰でもない。誰でもなければ君に決まっているか。今は何を決めつける気にもなれない。何を決めつけようと、何でもないことの延長上にそんな決めつけがあるわけで、それらの文章が何でもないことに変わりはない。たぶん変えようとは思っていないのだろうし、自然の流れでそんなふうになってしまったのだから、今さらそれを恣意的に変更しようとしてもうまくいかないだろう。だからあきらめて今後も何でもない空疎な内容を記し続ければいいのだろうか。結果的にそうなってしまうのであればそれを続けてゆけばいい。自らの思い通りにはいかないのだから、それはそれでそのままの現状を提示していればいい。
2月16日
何も思いつかないような気がするが、昨日と同じような状況だ。しかし昨日は何をやっていたのだろうか。記憶をどこにおいてきたのか。そういうことではない。何が気に入らないのだろうか。そういうことでもないような気がする。引き出しの中に昔の記憶がつまっていて、それをうまく整理整頓すれば有効活用できそうか。やはりそれも違うような気がする。何について語っているとも思えないのは、昨日の記憶ではない。今もそう思っているのだろうか。心の中で何を想っているとも思えない。何かが分散状態なのかもしれず、まとまった内容をもたらせないようだ。要するに気が散っているわけか。しかし述べるべき内容に至らない。拙速に事を運ぼうとしているようだが、何もないのにそれはないだろう。何を調整して、抑制の利いた表現にもっていこうとしているわけでもなく、ただ何でもないことについて述べているようだ。それはいつものことか。君は日記的な出来事の羅列を嫌っているのかもしれない。しかし状況的にはそれしかないのではないか。日常の中ではそれ以外に記すことなんてありはしない。たぶん驚きとも感動とも無縁のようだが、メディアを介さなければそのようなたぐいに出会えないのだとすれば、それは不幸なことだろうか。意図的に大げさな巡り合わせを避けているのではないか。嘘に決まっているだろう。なぜ君はそこで偶然を制御することができるのか。ただ何もない地平を眺めているだけか。何があろうとなかろうと、その存在を無視していて、だから何もないと嘘をつけるわけだ。そしてさっきからまったくあり得ないことを述べているようだが、それを突き詰めなければその先が見えてこない。見えてこなくても結構なのではないか。たぶん勝手な都合でそんな心境に至っているのだろうが、やはりそれも何でもないことの延長に過ぎず、さらに技巧を凝らしているつもりで、空疎なことを述べているのだろうか。まったく救いようのない愚かさが顕われているか。何を顕在化させようとしているわけでもないのだろう。君にはできないことが示されているわけでもなく、誰の空想でも妄想でもないよう言葉の連なりが記されている。しかしそれがどうしたのか。何でもなければどうしたわけでもなさそうだ。たぶんそういうやり方は好ましくないのかもしれず、結局何を述べているのでもないことになってしまいそうだ。しかし今はそれを追求しなければならない状況の中にいるらしい。馬鹿げているだろうか。別に疑念を抱くようなことではない。すべては予定通りの話の展開なのだから、今さらそれを変更したり修正したりするわけにはいかず、ただそのまま突き進むのみの成り行きなのだ。冗談だろう。冗談でなければ何なのか。それでも人はこの地上で動き回っている。何の脈絡もなく、そういうことを述べてしまえる状況であり、誰がそこで好き勝手なことをやっているわけではないが、とりあえずそんな世の中なのだろう。また脈絡を感じられない。君はテレビ画面上に映し出されるニュース番組を見たことがあるだろうか。それらがそれが属する国民に向けてしか情報発信しないことに気づいているだろうか。例えばアメリカのアカデミー賞で、日本人が関わった映画が何かの賞をもらえば、それしか報道しない。主要部門でどのような映画が受賞したかなんて無視して、ひたすら日本人だけに脚光をあてようとする。まったくの偏向報道だろう。メジャーリーグなんかもそれの延長で、日本人選手が出場するゲームだけ伝え、あたかもそれらの選手が主役であるかのような錯覚をもたらす。そういう面でのテレビ報道はまぎれもなく国家主義に汚染されているのだ。そしてそこから論理的に飛躍するなら、世界を国家ごとに分裂させている原因の一端は、それらの国家主義的なメディアにありそうだ。むろんそう述べて何を批判しているのでもなく、人々が関心を抱くのは身近な存在や出来事であり、同じ自国民があたかも世界で活躍しているかのように報道されれば、うれしくなってしまうのが普通の感覚であり、そういうことを伝えるのを非難する理由など何もないような気がしてくる。しかし君はそれの何が気に入らないのか。例えばサッカーのプレミアリーグは日本人がいないからおもしろい。NBAも同様におもしろい。もしそこに日本人が出場するようなことになれば、日本人が所属するチームが弱小チームだろうと何だろうと、それしか見せなくなってしまうだろう。そういう意味では日本人大リーガーがイチローだけだったら悲惨だ。弱小球団のシアトル・マリナーズの試合を来る日も来る日も見せられて、あたかも好守備とヒットしか打てないイチローが大リーグの中心であるかのような錯覚を抱かせられてしまうのではないか。もちろん現実には松坂や松井が強豪チームに所属していて、しかも彼らを凌ぐ才能を持った選手がチーム内にいるおかげで、ファンは少しは公平な視点で大リーグ中継を見ることができるのではないか。だがそんな見方もある意味くだらなすぎるか。たぶん日本人が世界で活躍しているとかいうたぐいの報道を鵜呑みにして、それに感動したり勇気づけられたりするのは愚かなことだ。現実に活躍したり脚光を浴びている人間が日本人である必要はないのだろう。ただそういう方面で活躍している者たちにメディアが脚光を浴びせているだけのことだ。それも何でもないことでしかないか。
2月15日
失われているのは誰の記憶でもない。それらのすべてはくだらないことだ。何に落胆しているわけではない。これでいいのだろうか。良くないのかもしれないが、とりあえずそういうことになったらしい。そのとき君は何を求めていたのか。誰かが君に関して何を知っているとも思えないが、なかなか話をきり出せないようだ。いったい誰が何を求めているのか。もうそろそろ終わりの時間なのかもしれないが、何がそこで終わるのだろうか。何を予想しているわけでもなく、何の話でもありはしない。君には帰る家があり、誰かには記すべき言葉がある。それは嘘かもしれない。何もなければそれは嘘になるだろうか。現状で何がないと言えるのか。君には覇気が感じられない。つまらないことばかり考えている。なぜそんなことを述べてしまうのだろうか。たぶんそんなことではないのだろう。意味がないような気がする。それは君に課せられた仕事ではないのだろう。だが遊んでいるわけでもなく、何をやっているとも思えない。別に崖の上で立ち尽くしているわけではない。何を空想しているのか。でたらめな光景の中に誰の意識があるのか。言葉と何かが入り混じっていて、何もはっきりしないような気になる。まったく努力が報われないようだ。いったい誰がどんな努力をしているというのだろう。功を焦っている。それは誰のための功なのか。実質的には手柄でも何でもない。何かのためならすべては後回しだ。誰が誰の心中を察しているわけでもない。ただの意味不明な文字列を読んでいるらしい。ただではない。心の中で何かの光景を空想している。たぶんそれが何だかわからないのだろう。それの何を誉め讃えなければならないのか。別に反感を抱くような内容ではない。君は何か思い違いをしているのではないか。すべては順調に進んでいる。そして魔が差している。それも予定通りの展開なのだろうか。前もって何が予定されていたとも思えないが、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。それでも誰かは何かをやり抜こうとしている。巡ってきたの何の機会でもなく、それが何のチャンスでもないことは承知している。まったく夢とも希望とも無縁の荒野だ。君はこの世界について述べているのか。そうでなければ何だというのか。何でもないとはどういうことなのか。その言葉に惑わされている。誘惑されているわけでもない。ならば虚無が何だというのか。支離滅裂の原因を虚無に求めても無駄か。何かを無駄に浪費している。何も効率的でない。ただ無駄に言葉を並べている。意味が通らないようだ。まるで文章ではないみたいだ。早くそれを何とかしたいのだろうが、どうもそれが違うような気がしてならない。まるで何かのようだが、その何かが何なのかわからない。はじめから間違っているのだろう。言葉も違っている。だがその先には何が待ち構えているのか。何でもなければ何もいないのではないか。勝手な思い込みに違いない。君にできるのはそういうことだ。機を逸しているか、まだその時期ではないのだろう。以前とはだいぶ述べている内容も違っている。やる気がしないのはいつものことだが、具体的には何を述べているのか。説明しすぎるくらいに説明しているのに、まだ説明が足りないようだ。しかしそれはどういう説明なのか。別に君が死ななければならないわけではない。いつかは死ぬだろうが、それが今でない確証もないが、実際にはそういうことではないらしい。話の内容がわからない。君は話の中で何を指摘していたのか。まったく要領を得ないことを述べている。語っている方向が違うのかもしれず、まるで見当違いのことを語っているのだろうか。さらにわけがわからなくなり、言葉を記すのを放棄したくなる。作り話の中ではそんな心境になったふりをするが、それの何が違うのか。だが今さら何を批判しても無駄だ。たぶんさらにわけがわからなくなってしまうのだろう。いったい君たちはそれらの映像を見て何に感動しているのか。それらの中に日本的な幻想でも含まれているわけか。目的は何もないが、何について述べているのかわからない。それらとは何なのか。自然とあくびが出てくる。眠たくなってきたのだろう。最近は空疎なことを述べすぎているのかもしれない。もう終わりの時代に突入しているわけか。何か大げさなことを省略しているのかもしれない。それの何が問題なのか。君が被っているのはそういうことではなく、自由だの束縛だのとは無関係の意味不明だ。何もできないのではなく、何もやろうとしていないのでもない。無駄に金をためて無駄な買い物をしているだけか。具体的にそれらの何が無駄だというのだろうか。またそれらという言葉が出てくる。なぜそれらがわからないのか。何も思いつかないのだから、それらはそれらでしかなく、具体的な対象物が示されることはない。だから眠たくなってくる。別にそれほどリアリティを求めているとは思えず、出来損ないの作り話でもいいのではないか。だがそれらの文章はそれにさえなっていないような気がする。ただひたすら空疎なだけで、具体的なことは何も語られていないのではないか。その通りだと思うし、それ以外の何ものでもないような気がするのだが、ところでそう思っているのは誰なのか。君ではなく誰かでもないとすると、心の中には他に誰がいるのだろう。
2月14日
いつものことだが、何もやる気がしなくなる。それほど過酷な環境の中で生きているわけではないが、なぜか時間がない。それに関して何か思いつけるだろうか。ただそういうことなのだろう。その時の状況がわからない。君が誰に何を知らせようとしていたのか。語りたいのはそういう話ではない。今は何も語りなくない。昼の日差しがまぶしすぎるのがその理由でないことはわかる。今は夜だろう。もしかしたら語りたくないのは今ではないかもしれない。わざと気が変わったのだろうか。次第に眠たくなってくるようだ。意識はどこで何を考えているのか。それも違うと思う。何が違うのだろうか。考えていることが違うのではないか。たぶん今はアイディアがどうのこうのいう段階ではない。それは何に対するどのようなアイディアなのか。それによって何をどうしたいのか。富の蓄積は何をもたらすのか。なぜそんなことをやらなければならないのか。あくせく働くのが嫌なのか。人は安心して好き勝手なことがやりたくて、金をため込む。金の力で自由を獲得したいのだろう。虚しい試みだ。虚しいことだが魅力的だ。大金を使って優越感に浸りたいのか。あと何ヶ月保つのだろう。誰かの死を予感しているわけではない。誰も死なせはしない。別に激痛でもがき苦しんでいるわけでもない。たぶん話の内容がでたらめなのだ。どこかで誰かが痛みをこらえている。それで何を悟ることができるのか。まだそのつもりになれないだけだ。幻影を見ているわけではない。未だに国家間競争の枠組みを堅持しようとしている。頭の中で何かが壊れているのだろう。根本的に何かが違っているのかもしれない。人にどんな可能性があるのだろう。何に気づいて何に気づかないのか。特定の情報発信者を必要としない社会が到来しようとしているわけでもない。人々はまだ特権階級に対する幻想を捨てられずにいる。憧れているのだろう。しかしあれらの何が階級を意識させるのか。今の時代に下層階級などという概念があるとは思えない。そして何について語りたいのかわからない。そういえば近頃はどのような心境から言葉を記しているのか。人は動物として生きるべきなのか。また的外れなことを述べようとしている。頭がいかれているのかもしれない。話がまとまりを欠いている。わざとそうしているのだろう。君はこれまでに何を見てきたのか。それらの文章が他人に何を想像させるのだろう。君が何を空想しているのでもない。ただ何かをずらして文章を意味不明に導こうとしているのかもしれない。目的も理由もありはしない。何のためにそうしているのでもなく、君自身が戸惑っているだけか。自らの行為に自ら驚いているのかもしれない。つまらない映画だ。君はその映画の存在を知らないはずだ。もう覚えていないのかもしれない。何のことやらさっぱりわからないか。掘削機が硬い岩盤に到達しようとしている。たぶんそれも関係のないことだ。それでも何とかここまでたどり着いたらしく、安心するにはまだ早すぎるが、繰り出された言葉に誰がどんな感慨を抱いているとも思えず、誰も思っても見なかったような物語の展開を示しているのでもなさそうだ。言葉には虚しさがまとわりつき、その結果が誰かを意気消沈させているようだ。だからやる気がしなかったわけで、これ以上は何もできないような気にさせる。君はそうなることを知っていたはずだ。ここまで来て何も語れなくなってきたようだ。ウェス・モンゴメリーのギターも湿ってきた。きっと気のせいだろう。本来なら乾いた音のはずだ。本当はどちらでもないのではないか。脱線はそのくらいにしておかないとまともな軌道に戻れなくなる。君の頭がいかれているわけではなく、誰かが記していることもまっとうな内容なのかもしれない。しかし何を冗談に走っているのか。本気になれないのはわかっている。どこまでいっても人は人でしかない。人がやっていることはたかが知れている。いつまでたっても馬鹿げたこだわりを捨てられずにいるだけか。人生の美学とは何なのか。冗談ではないらしい。少なくとも大まじめに語ろうとすればおかしく思えてくる。何を受け流そうとしているのか。何かについてさらっとふれている。それはここでの問題ではなく、どこでの問題とも思えない。きっと夢でも見ていたのだろう。何に感動するわけでもなく、何に腹を立てているわけでもない。すべては何でもないことの繰り返しなのかもしれない。しかし日常とは何なのか。それらの何が日々の暮らしを反映しているのか。すべては言葉でしかなく、何の思いも反映されていない。ただの言葉なのだ。それだけのことにかかりきりだ。かなり馬鹿げた状況ではないか。だが今さらそれをどうしようというのか。どうにもできないからそうなってしまったのではないか。たぶんその先は行き止まりだろう。そこで行き詰まってしまうしかないらしい。雰囲気だけの音楽を聴きながら何を想うこともなく、昔に聴いた音楽の何に感動したわけでもない。すべての音が通り過ぎ、言葉がどこかへ流れ去り、何でもない時空を閉じることもできない。君が期待していた未来ではない。文章が終わる前に、すでに何かの終わりが到来しているのだ。君はすでに気づいていたはずだが、他に何を感知していたわけではない。他でもないのだからそれは意味不明になる。
2月13日
今まさに何かの継続が絶たれようとしている。冗談だろう。少しふざけ過ぎかもしれないが、とりあえずどこかで誰かは正念場を迎えているらしい。誰かとは誰なのだろうか。誰でもないが誰かでもある誰かか。だがそれでは話にならない。その誰かを特定の固有名に置き換える必要がありそうだ。話にならないままでもいいのではないか。魔が差したのだろう。誰でにもあることに違いないが、おそらく誰でもかまわないのだろう。別にろれつが回る必要はない。時と場合によってはそうだ。誰について何を語っているわけでもなく、そのことについて何を批判しようとしているわけでもない。ただの無内容を記しているだけか。そうに決まっている。何も語る気にならないのだからそういうことになりそうだ。しかし今回もそれでは済まないと思われる。最後の最後には結局つまらないこだわりに行き着いてしまうのだろう。誰かは他の誰かの性格を知り尽くしているような口ぶりになる。何をつまらない成り行きに持っていこうとしているのか。要するに知ったかぶりでも披露したいのだろう。しかしそれでは本当におしまいだ。だから何か謙虚に振る舞う必要でもあるのか。馬鹿げたことを述べている場合ではない。何を述べている場合でもなければ沈黙しなければならないのか。述べていることがかなりずれている。また誰かは何でもないことにこだわってしまうようだが、そのとき何を思い出してしまったのか。まだ時間に間に合うと思い込んでいる。それは夢の中で思ったことだろう。そこでは現状とは関係のない言葉が並んでいるらしい。ひたすらわけがわからないことを述べている。いつものことだろう。軽く受け流す必要がありそうだが、今の君に何ができるのか。ただひたすら沈黙を貫いている。判断を誤っているのだろうか。ではどんな発言をすべきなのか。他の誰に尋ねているわけでもない。なぜそうなってしまうのか依然としてわからない。誰かには才能がないのだろう。簡単に言ってくれるが、それも架空の話の一部か。その切り返しも意味不明だ。それに関して君が何を知っているとも思えないが、才能云々という段階ではないような気がして、ただひたすらやらなければならない時期に来ているのではないか。空疎だろうが同じ言葉の繰り返しだろうが、とりあえずそれでもかまわないのか。それでかまわなければそうなってしまうだろう。確かに何でもないことを述べているようだ。ではこれで誰かの予言が的中したことになるのか。いったいどこで予言が発せられたのか。あとからそんなエピソードを付け加えてもわざとらしすぎるか。たまには不自然なことを述べて驚いてみたいものだ。しかしそれで誰が驚いたのか不明だ。最初からそのつもりだったのがみえみえか。だがそれらの文章のどこが最初だったのか。文章の冒頭が最初とは直接関係がないような気がするが、気がするしないの問題でもないような気がして、気がするだけでは問題とはならないのではないか。では何が問題となっているのだろう。空疎なことを述べているのが問題なのだろうか。それはいつものことであり、いつもの問題に違いなく、その問題を改善するつもりもなく、それらの空疎な内容を放置している現状があるらしいが、誰かはそれを問題とは思っていないようだ。できないことをやろうとは思わない。何ができないのだろうか。君にはそれが不思議に感じられる。言葉が続いているのが奇蹟だと思われる。誰かが奇跡的に何かを述べているつもりになり、調子に乗ってさらにそれらの空疎な内容を延長させようと画策しているは、他の誰の作り話の中でのことなのか。そういう込み入った現状ではない。単純に何かが引き延ばされているだけだ。ひたすら終わりが引き延ばされている。それはそれらの文章の終わりに違いなく、心情的にはすでに終わってしまったことをなかったことにしたいようだが、現実にそれが叶わないから、終わってしまった事実を無視しつつ、それ以降に生じている空疎そのものを幻影として文章の中に構成しているつもりなのだろう。だから君にはそれが不思議に思われて仕方がないようだ。いくら何でもお粗末すぎないか。それらがいったん終わってしまったのなら、また新たに別の内容で文章を構成すればいいのに、なぜ執拗に同じような内容を記し続けるのか。それは虚無的であり、くだらないような気がする。何か他にやりようがないのだろうか。今さらそれをどうしようとしても無駄か。しかしあきらめる前に試してみなければならないだろう。何をどうやって試すのか。今ここで試していることとは違うことを試行する必要があるだろうか。何を試しているのだろう。だからそれはこれまでとは違う内容を記そうとしているのだろう。必死さが足りないか。そういう問題ではなく、それがどういう問題を抱えているのかわからない。誰に何が問われているのでもないような気がする。要するにやる気の問題か。なぜそうやって問われていることを単純化してしまうのか。安易なやり方なら精神的な負担が少なくて済むからか。そして普通の人に通ずる、がんばれとか言うかけ声で済ましてしまいそうになる。何にがんばらなければならないのか不明だが、とりあえず何かをやり遂げる必要に迫られて、誰かは何でもかまわないから言葉をつなげようとしている。
2月12日
たぶん焦っているのだろう。何もできないまま一日が経ってしまうが、それは昼に仕事をしていたからか。何もできないのではなく、仕事をしていたということだ。だが自らに何を問うているわけではない。ただ何か適当に考えているうちに、また言葉を記すのが遅れてしまったらしい。内心何を想っているのか明ではないが、何をもたついているのか理由が定かでない。何も述べることがないからだ。理由とはそういうものか。違うだろうか。万事が思い通りにはいかないことは承知している。単に何も述べる気にならないだけで、そんな理由は嘘だと思う。ならば今さら何を想っても無駄か。考えている対象の何もかもが馬鹿げていて、文章として構成する価値を見出せないだけだ。しかしさらに嘘を並べているように思われ、具体的に馬鹿げている対象について何も述べられないようだ。そんなことを述べているうちに、もうそれを忘れてしまったらしい。いったいそれとは何なのか。画面上で自分を見せびらかして何になるのだろうか。君は理由もなくテレビを見ているだけだ。またそんなのも嘘に決まっていて、何かを考えているふりをしながら、本当は何も考えていないのではないか。だからふりをしていると述べている。だがそれでいいのだろうか。返す言葉はそれでかまわないとなるしかない。最近の誰かは意識の中ででたらめな言葉に酔っているのかもしれない。たぶんそんな状況も現実にはあり得ないことだろうが、いったい君は誰の意識の中でそんなことを述べているのか。それはさらにあり得ない状況か。部屋の中を見渡せば、夢の中で誰かがテレビを見ている。嘘だろう。それは夢ではなく、現実の一部ではないのか。どうやら君が見ているすべての光景がでたらめのようだ。そうではなく、述べていることがでたらめなのだ。何をどう言い換えてみても違っている。そんな気がしているだけで、実際はわからないのではないか。意識そのものが架空なのだから、それは当然のことか。ならばはじめからやり直すしかない。今の君にそれができるとは思えない。それの何がでたらめなのかわからないまま、何度やり直しても文章の中身は何でもないことになる。だからもうあきらめて、開き直ってでたらめなことばかり述べていればいいのではないか。しかしそれがいつまで続くだろうか。続けられるうちはでたらめのままでいいだろう。現実に述べている内容はそうではない。気がつけば自ら述べたことについてひたすらいいわけをしようとしている。たぶん誰かが記しているのはそれだけの文章なのだろう。だから中身が伴っていない。しかしそれで自己の文章に対する批判は一通り終わったのだろうか。それが君にわかるはずがないか。何をどう述べてもそうなってしまう現状を変えられず、ただひたすらそれを繰り返すしかないのは、怠惰の顕われか。何となく文章上でくだらないことが顕著になってきているようだ。このままでいいのだろうか。かまわないのだろう。そんなことが繰り返される。繰り返していればいいのだ。わからなくなってしまうが、わからないままでもかまわないのだろう。この世界はわからない。どの世界もわからない。ならばこの世界がこの世界のままで、どの世界も同様か。要するに世界は一つでも二つでもなく、いくつでもないのかもしれない。なぜ唐突にそんな認識に達するのだろうか。さっきから何も語っていないような気がする。君にはわからないことが誰かにもわからないらしい。現実をわかろうとしていないのだ。不安に駆られて誰もが商品を買い控えるの当たり前のことだ。それとこれとは関係ないだろう。語ろうとすることが違うらしい。君はそのとき何について語ろうとしていたのか。商品の買い控えではないはずだ。借金体質になっている自らの現実でもない。誰かには借金という概念がわからない。興味を惹くのは別の誰かのしどろもどろの会見でもない。不況だろうが何だろうが、君にはこの世界に蔓延している危機感というものが理解できないらしい。人は少し賢くなったのではないか。しかし人とは何なのか。自らの危機に鈍感なのが人ではなかったか。ならば君はあえて火中の栗を拾っている最中なのか。やけどしてみなければ人の痛みを理解できないわけか。そういう成り行きならそのままでかまわないか。避ける必要のない危機のようだ。君にとってはそうなのだろう。架空の意識が消え去るにまかせて、そのまま終わってしまうことも辞さず、たまには同じ言葉の繰り返しとは違ったことを述べてみたくなるらしい。そしてそれが君にとっての冒険だとは思わない。誰が思わないのか今の段階では判然とせず、少なくとも誰が何を想っているのかわからないようなことを述べているようだが、それでもそこには何らかの勘が働いているようで、その間に頼って間違った行いを続行中なのだろう。果たして占いの水晶には誰が破滅する姿が映っているのか。それも架空の水晶なのだろうか。意識はさらに物語から遠ざかり、支離滅裂な言葉の連なりの中に溶け込んでしまうようだ。そう思えるのも幻想のたぐいだろうか。まったく誰が思っているのかわからないのだが、どうしても私という一人称を書き記すことができず、いつまでたっても誰がその文章を記しているのか不明のまま、さらなる虚無の言葉が記されようとしている。
2月11日
たぶんいつものように理由がない。それは誰かの妄想なのか、それとも居眠りの最中に見た夢の中身か。神はそのとき何を終わらせるつもりだったのか覚えていないようだが、どうやら偶然にその機会が訪れたようだ。別に誰がこの時を待っていたわけではなく、たぶんそこに居合わせた誰もが、自らに巡ってきた機会を逃さなければならない運命にあるのだろう。理由は定かでないが、それはどういうことなのか。機会を逃して君たちは何を後悔すべきなのか。それを認識できないのだから、何の機会でもないだろう。たぶんどのような成り行きを経ても、結果的にそうなってしまい、それが過ぎ去った今となっては、そのとき何が起こったのかまったくわからなくなる。それは人の意識では感知できない出来事だ。機会を逃しているのだから当然のことか。たぶんそれは自らの命が尽きる機会ではない。誰かはその代わりに何かつまらぬ観念にとらわれているのだ。今はそんな現状を受け入れている。相変わらずわけがわからないが、少し言葉がねじれている。たぶん機会を逃してはいけなかったのだろう。それは誰かの都合とは相容れない。君自身には当てはまらないことか。結果はたわいない。自らが積極的に何をやろうとしているわけではない。そこで何かの記憶が消え去ろうとしているようだ。今まさに何もかもが消滅しつつある。それは終わりのない物語か。要するに作り話だ。現実には何も動かない。人も物も止まったままだ。時間が止まっている。くだらぬ空想上の世界ではそうだ。しかし現実とは何だろう。君が感知できるようなことではないのか。誰かにとってはそれが認識の外にある現実かもしれない。君はそこから存在する可能性を見出そうとするが、本当にそれが現実だとは思わない。本気になれないようだ。しかし空想や妄想ではあり得ないことだ。あり得ないわけがないか。実際に言葉が記されている。ではそれの何が幻影だというのか。何を述べているのかわからなくなり、どうでもいいような雰囲気を感じ取る。いったい君は何を考えているのか。何も考えていないのかもしれない。本当にそれらの成り行きは違っているのだろうか。何が違っているのか。何も違っていないのかもしれない。やはり冗談でそんなことを述べているのかもしれない。いつもの空疎な内容であることを隠しようがない。それはどういうことだろうか。君は何について述べようとしていたのか。作り話的には無言でその場を立ち去ったのかもしれないが、実際にはその場でどうなったのか。誰かが何かに躓いているらしく、そのついでにまた性懲りもなくマイルスを聴いている。君に理解できるような状況ではない。理解しなくてもかまわないのだろう。やはり君には関係のないことか。誰かはそこで何をもたらそうとして失敗したのか。神の言葉ではない。大げさな予言でもない。躓きの石を軽く蹴飛ばして、何食わぬ顔で立ち去ったわけでもなく、その場に立ち尽くしているわけでもない。では何に絶望しなければならないのか。誰が絶望しているわけでもないだろう。ただ何も語れないだけか。言葉を並べることはできる。それで何とか間を持たせようとしているようだが、その間は何なのか。何かと何かの間に何かを差し挟もうとしているだけか。どこに回帰することもできずに、進むべき方向も定まらず、物語の死に立ち会う勇気もありはしない。今さら物語も小説もありはしない。作り話の一部でしかなく、その成れの果てにドキュメンタリーがあるわけか。現実の再構成に感動するつもりはないようだ。では何に興味があるのだろうか。興味がないからそんなことを記しているのではないか。少なくとも言葉を記すことについては多少なりとも興味があるはずだ。しかしそれでは何の問題にもならないだろう。何について記すかが問題のはずだ。実際何について記しているのか。それがわからないなら何でもないことだ。ただわからないで済まされることに過ぎない。呆れ果てて言葉が出なくなってしまうだろうか。それでもかまわないのだろう。かまわないならやはり何でもないことだ。ではそれ以外にあり得ないとすれば、その先にどんな言葉をつなげていけばいいのだろうか。何も思いつかず、途方に暮れてしまうが、やはりそれでもかまわないのか。かまわないわけはなく、かまわないのだろう。矛盾しているが、そういうことだ。つまらないこだわりは捨ててしまった方がいい。しかしそれしかよりどころがないのではないか。残ったそれが最後の砦か。それではまったくくだらない成り行きに思えてくるが、それでもかまわないと述べるより他はないらしく、やはりそれ以外の返答を思いつかない。要するに誰かも君も何でもないこの世界に退屈しきっているということか。感動や驚きを求めているわけではないのだから、そうなって当然か。すべてがわかっていて、すべて以外が何であるかについて思考を巡らすつもりがないのかもしれず、何の変哲もない日々の日常の中で、何か適当なことを書き記すとすればつまらないことしかなく、それ以外はすべて作り話になってしまうようだ。そしてそれでかまうかまわないの問題ではなく、ただそれだけのことに耐えてゆくだけのことにどんな心境が伴うというのか。誰かは気晴らしに音楽を聴いていて、そして君が誰かの影であることを君自身は承知している。
2月10日
もう何もできはしない。ではそこで降参なのか。何に降参しているわけか。君には何のことかわからない。誰かにもわからないだろう。気まぐれで何となくそんな気がしただけか。今さら君に何を問うてみてもだめだろう。空は晴れている。なぜそれだけのことを記す必要があるのか。必要もないのに記しているだけか。たぶんくだらないことを述べているのだろう。それは何かの被害妄想なのだろうか。精神的に追いつめられているのはいつものことか。まったく本気に受けとめられていないらしい。何をどうやってもそうなってしまうのか。そうであったら何もやりようがない。それでも君には関係のないことか。どのような関係性を架空の物語の中に見出すべきなのか。何と何が関係してそうなってしまったのか。君にそれがわかるとは思えないが、誰がそう思っているのか定かでないが、車窓から見える風景に感動する必要さえない。それはまったく関係のないことか。考えると何も出てこないが、考えなければ空疎な内容となってしまう。ただそれだけのことだ。それ以外に何があるというのか。誰かは君の中に何を見出そうとしているのか。そんなことの繰り返しが誰かに重くのしかかり、それが君にはわからない。わからなければやりようがないか。いくらそれについて語っても無駄なのか。そんなことが問われているわけではなく、何を問うているのかわからない。それは君がわかる範囲にはない。だからわかろうとしても無駄だろう。君には文章の内容を把握できないのだ。そこで何が述べられているのかわからない。もしかしたら何も述べられていないのかもしれず、そう思ってしまったらそれらの文章は何でもなくなってしまうだろう。それが怖いのか。君にそんなことはないと高をくくっているつもりになれるだろうか。それらの批判は甘んじて受け取ることにしよう。ところでこの世界はどうなってしまったのか。なぜ興味を持てないのか。意識が世界の外にはじき出されてしまったのだろうか。気がつけば日付もだいぶ遅れている。それは昔の歌だ。何を聴いているのか。日付の送れとは関係ない。無気力で無感動だから積極的な意見は何も述べられなくなってしまったのだろう。おもしろくない。過去の蒸し返しだけではどうしようもないか。何かを破棄しなければ新たな記憶を獲得できないのかもしれない。ため込むだけではつまらないことはわかっているが、自然と吐き出される機会がいつやってくるのかわからず、無理に吐き出そうとすると気分がおかしくなりそうだ。出来事の積み重なりが歴史なのかもしれないが、人々はそこで何をやってきたのか。ただ地球上を動き回っていただけではないはずか。またそれらの行動の理由を探ろうとしているわけか。それは虚しい試みになる。他人の行動をもとにしてつまらない教訓話でも構成するつもりなのか。いったいそれらの失敗や成功から何を学べばいいのか。何か適当なことを学んで、そしてそれを今後の活動に役立てるつもりなのか。つもりではなく実際に役立てている。役立てているつもりなのだろう。なぜそこにつもりという言葉を差し挟まなければいけないのか。本当は違うとでも言いたげなニュアンスが含まれているわけか。だから今さら君に何を問うてみてもそういうことなのだ。何でもかんでもそれは違うと言いたいのだ。積極的に何も肯定できない。はなからそのつもりがないのだから悪質にもほどがあるだろうか。それほど否定することもない。誰かはこの世界の有り様を認めるわけにはいかないのだろう。そういう立場でありスタンスなのだ。勝手にそう思い込んでいて、気がつけばまたつまらないことを述べてしまっていることに気づき、腹立たしい気分となるのか。一方でそれは冗談かもしれない。気晴らしに今度は冗談だと思い込みたくなる。まったくどこにも逃げ道はなく、すべては被害妄想気味の思い込みなのだ。そうでなければ何なのか。何でもなければどうしようもない。精神的にかなりヤバい段階を通過しつつあるのかもしれず、その先には何が待っているのか、想像するだけで恐ろしくなるだろうか。何を悲観しても無駄か。それも冗談の続きかもしれない。君はただなすべきことを淡々となしていればそれでかまわないはずだ。それは天から下された使命でも何でもなく、ただそういう流れでそういう成り行きに沿った行為に違いない。それ以外に何をやればいいというのか。何を問うても何も返ってこない。無言であることがそこでの返答なのだ。君はもとから見放されていて、何から見放されているのかもわからず、そんなこととは無関係に何かを述べてきたはずだ。そこには別の論理が働いていて、報われないことをやるのが当たり前の行為であるような成り行きだったわけだ。だからそういう無責任な立場を占有するに至ったのだろう。何らかの報いや利益を求めた当時の者たちはもはや消え去っているはずだ。もちろん新たにそういう功利主義者が次から次へと出現している現状があるのだろうが、それも現れては消える泡沫のような存在だ。君は存在ではなく不在という言葉を利用して、何かいい加減なことを述べてきたようだが、それを今さら改めることはできない。この世に不在としてあり続けるには、そんな無の境遇というべき立場を受け入れるしかないのだろう。
2月9日
馬鹿げたことを考えているのかもしれない。冗談で果たして無の境地に至れるだろうか。そこでは何が果たされているのか。始まりの言葉は唐突すぎて、何が始まっているのかわからない。理解できないようだ。何を理解できるだろうか。記された内容を理解できずに、意識がどこかへ流れて行ってしまい、虚脱状態になる。理解することを放棄している。それでも何かを理解するつもりなのだろうか。君は理解しているつもりになれる。君にとってはそれが作り話だからか。そんな理由を付け足す理由がわからないか。今さら何を語るつもりなのか。調子に乗ってこの世界のあるべき姿について利いた風な意見でも述べたいのか。それで調子に乗っていることになるだろうか。馬鹿にされるのオチか。誰が何を馬鹿にするというのか。それは誰にとっても理解不能な意見になるだけだ。たぶん何も果たされていないので、何を理解させたいのでもなく、言い聞かせたいことなど何もありはしないのかもしれない。そして語る対象はいつまでたっても虚無のままであり、それ以外にはあり得ないから空疎な内容となってしまい、それに落胆することもなく、ただ誰かが適当に言葉を記し続ける。それだけのことで、それ以外の何ものでもあり得ず、だからひたすら何でもない内容になっている。それは虚しい試みだろうか。試みですらないのかもしれない。今さら何を語る気にもなれず、語る理由を見出せず、それでも語っているふうを装うのは意味不明か。架空の誰かは意味を見出せなくても語り続ける。作り話の中ではそうだ。そうに違いない。それは蛇足だろう。語ること自体が蛇足で余計なことか。だが誰がそれについて語っているわけではない。誰も語らないからそうなってしまうのか。それとも誰かは語り得ないことについて語っているつもりになりたいのか。いきなり語っている内容が意味不明か。意味がつながらないような気がする。それともつながり得ないことをつなげようとしているのか。また誰かはおかしなことを述べている。自ら述べている内容を理解できなくなり、果たしてそれをそのままにしておいていいものか迷うが、その先へ言葉をつなげてゆかなければらちがあかない。そんな状況なのだから何をどう述べても無駄なのだろう。この際文章の善し悪しなどかまっていられないか。それだけ心に余裕がないということだ。しかしそれは誰の心なのだろうか。たぶん誰かの心なのだろう。ならば架空の心だ。何でもない意識を伴った心だろう。それが無の境地だとは思えないが、そう思っているのは誰なのか。誰でもない誰かではつまらないか。それ以外に何も思いつかないとすれば、それを思いついたのは誰なのか。誰かは今くだらぬ自問自答の最中なのだろうか。いったい何を迷っているのだろう。それがわかれば苦労はしない。苦もなくまともなことを述べられるようになるだろう。ならば誰かは自らがそうなってほしいと願っているのか。まさかいつかその願いが叶うとでも思っているわけか。その時になってみなければわからない。その時がいつやってくるのか。それがいつかなのだろう。言葉が虚無の周りを堂々巡りのようだ。そんな現状をそれらの文章が表している。それらではなく、それなのではないか。それとは何だろうか。何でもないからそれなのではないか。しかし何でもないということはどういうことなのか。ひたすら空疎なことを語っている現状がそれであり、それが何でもないということか。たぶんそれで正解なのかもしれないが、ここでは誰が正解を求めているのでもなく、誰も不正解から生じた言葉の連なりの中に示されているはずで、どんなことが述べられているのでもないと思っているのは、やはり誰でもない。もはや誰でもない誰かでもあり得ないのか。しかしそんなことまで誰が求めているのだろうか。誰も求めていないから、求めざる不正解が言葉で示されているのかもしれず、それが不正解ですらない解答以前の何かである可能性さえ示されていると考えるのも誰でもない。だから間違っているわけか。しかし何が間違っているというのか。間違っている理由が示されなければ、間違いですらないか。要するにそれは何でもないことか。それは文章中に繰り返し現れる言葉の一つに過ぎず、それに関して何を述べたいのでもなく、述べるべき誰かが登場人物として定まっているわけでもない。君は誰かの名前を知らない。名もなき誰かではなく、不在の誰かでもなく、虚無にとらわれた誰かでもない。ただそれに関しては何も見出せない。どんなに言葉を連ねても何も出てこないようだ。そこから話の核心へ踏み込めず、いつまでたっても虚無の周りをぐるぐる回って、意味の定かでない言葉をいい加減に連ねている。そう思うのはどういう理由においてか。またいつもの意味不明か。すでに感情は虚しさとかいう気分を超えているのかもしれない。だから虚無の影は何でもないと述べているではないか。それが不在以前の幻影だと述べても始まらない。もう何も始まらないような成り行きの中にそれらの文章が記されていて、始まりも終わりも定かでないことをひたすら記しているのだろう。そしてそれによって何か適当な感慨に至りたいわけでもなく、何も思わず、何も感じないような、心境以前の何でもなさそのものの中に誰かの心があるらしい。
2月8日
たぶん何かが目当てなのだろう。金目当ての場合が多いそうだ。詐欺は手っ取り早い方法だろうか。違法行為だろうから、やるにはそれなりの覚悟がいるのだろう。まともな人間ならそう思うが、いかれたやつなら何とも思わないのかもしれない。だから何だというわけでもない。詐欺が発覚したら警察に捕まるだけか。まあ難儀なことだ。誰かは何をやりたいのでもないのだろう。ただ外を眺めている。居眠りの最中ではなかったのか。誰かが居眠りの最中に夢の中で誰かに出会ったらしい。誰かはそんな作り話をいつ思いついたのか。まだ作り話の内容がない。たぶんそれはもとからないのだろう。話ではないのかもしれない。どうも違うような気がする。何かが違う。ところで詐欺の話に続きはないのだろうか。もうそれに関しては何も思いつかない。きっとそのときニュースでも見ていたのではないか。今はそれからどれほどの時間が経過したのか。それは誰にとっても関係のない成り行きか。ここに至るまでに数々の障害をくぐり抜けてきたわけでもあるまい。どんな経緯があったにせよ、やはりそれは誰にとっても関係のない成り行きに過ぎないか。それがどうしたのか。どうもしないからいつものように無駄な言葉を連ねている。そして画面の前で薄ら笑いを浮かべている人物がいるようだ。だから君には関係のないことだと述べているではないか。今さら何を焦っているとも思えないが、君にとってそれはどのような作用を及ぼしているのか。関係ないと述べている。では何でもないことなのだろうか。そうだとしたら君は今さら何をどうするつもりなのか。焦っているのは君ではなく、何かいい加減なことを述べているのも君ではない。文章を記しているつもりの誰かはそこで行き詰まってしまう。いったい何を記せばいいのだろう。誰に尋ねているわけでもない。何も記せないわけでもないだろう。現に何か記しているではないか。それの何が気に入らないのか。確か空疎な内容を嫌っていたはずだが、それは昔のことだろう。この時点ではどうなのか。とりあえず何がどうしたわけでもなく、まともな内容を求めているとすれば、それは未来へ先送りかもしれない。きっといつかまともなことを述べられるようになるだろう。それまでは空疎な内容を記していればいいわけか。そう思うならそうしていればいい。何も思わなくてもそうなってしまう。現時点では誰が何を想っているわけでもないらしい。過去は過去であり、未来は未来である。それは当たり前のことなのだが、過去と未来の間には何があるのだろうか。今はどこにあるのか。今この時は何をしていればいいのか。誰かはひたすら言葉を記しているはずだが、そのとき君は何をやっているのだろう。何も思いつかない。取り立てて何も述べることがない。この世界はどのような兆候を示しているのか。今はわからない。少なくとも誰かの思い通りにはいっていないらしい。誰かが何も思いつかずに歯ぎしりしているわけでもない。夜の光景を眺めている。何が夜であるわけでもなく、どこに夜があるわけでもなく、昼は仕事をやっていたはずだが、今は夜なのだろうか。くだらないことだ。何でもないからくだらないのではなく、ただそんなことを記している。理由など何もないか。今の時点ではそうだが、昔は何を想って言葉を記していたのか。昔を思い出す気になれない。それも理由のないことか。何かしら理由があればそれを述べれば済むことだが、何も理由がなければ何も記せないか。それに関してはそうだろう。たぶん何に関してもそうであるわけがない。この世の中では何からしら理由がつきものか。誰もが絶えず何かをやる理由を探ろうとしているはずだ。それは穿った見方か。行動する理由を自らに言い聞かせながら行動に及ぶ者がどれほどいるだろう。なぜ行動に及ぶ必要があるのか。それがわからなければ行動できないのか。たぶん理由は行動したあとからついてくるものだ。あとから理由を付けて己の行動の正当化を図る。我々は正義を示すために行動したのだ。我々とは誰のことなのか。誰かの作り話ではそこまで決められていない。我々は虐げられた民を救うために行動に打って出たのだ。虐げられた民とは誰のことだろう。その辺にいる虫けらのことか。しかし果たして虫けらは民なのか。そうでなければ何なのか。誰かは何でもないと見なしている。この地上には民も虫けらも存在しない。誰もいなければこの世とは何なのか。問うこと自体がふざけている。誰もいなければ誰も何も問いはしない。しかし他にどんな紋切り型を思いつくだろうか。我々には行動しなければならない理由がある。行動する理由を探すには行動が必要だ。行動しているうちに何か思いつくはずだ。行動するには理由がなければならない。ふざけているのにも理由がありそうで、まじめに思考するのにも理由があり、その理由を示せないのにも理由がある。それは理由を思いつけないからだ。それはくだらぬ予定調和的なやり口だ。ならば理由とはいったい何だろう。過度に言葉を信頼してはならない。たぶん理由という言葉の意味を探るのは馬鹿げたことだ。そんなふうに思っていれば済んでしまう。何が済んでいるのかわからないが、今はそういうことにしておこう。くだらぬことを述べていてもかまわないらしく、それは気のせいかもしれないが、そういうことにしておいて損はなさそうだ。それはその場の思いつきで、まともな理由など何もない。
2月7日
時間の経過が君を空疎な袋小路に追いつめる。そこで行き止まりなのだろうか。今はまだ深夜ではないが、すぐに深夜になり、気がつけば明日になっているのだろう。本当に明日になりそうだ。そこで何に屈しようとしているわけではない。ただ記述が遅れているだけか。空疎な記述が時間に追いつけない。まるで過去に引きずり込まれているようだ。それで何に屈していることになるのだろうか。言葉を記す能力にも限界がありそうで、冗談にもほどがありそうだが、それは本当に能力の限界なのか。誰の能力を超えているわけでもないか。架空の君にどんな能力が備わっているかもわからない。ならば何がそれらの文章を構成しているのか。またどうでもいいようなことが述べられている。狭い知識の範囲内で何を否定しようとしているのかわからないが、たぶんそれはくだらないことでしかなく、そして今もまったくやる気がしないが、それは君のやる気ではない。では誰のやる気なのか。そもそもそういうことではない。結局どういうことでもないのだろう。予定調和の展開か。毎度おなじみというわけか。しかし何もそれでいらだつこともないだろう。いつもの成り行きに呆れ返っている。だが今日はそれだけとは思えない。他に何があるというのか。何もなければ今まで通りだ。今まで通りで何が悪いのだろう。何かの機会が巡ってくるのをひたすら待っている。今がその時なのかもしれないが、誰も気づかない。そこには誰もいないから誰も気づかないのではないか。では無人の荒野に何が巡ってきたのか。言葉を記す機会ならとうに巡ってきている。実際に文章の中で空疎なことを述べているようで、馬鹿げた話の成り行きとなっている。たぶん期待はずれに終わっているのだろう。いつものことだ。気休めにそれでもかまわないと述べてみるが、どこまでもそれでかまわないようだ。誰かはそれ以外の返答の仕方を知らない。まさに語っている何もかもがくだらぬことか。それも捨て台詞のたぐいか。いったい誰の捨て台詞なのか。誰かが心を捨てている。現実に対応できないのだ。心が対処できない問題でもあるのだろうか。何を放棄しているのだろう。時間を間違えている。しかしそれが問題なのではなく、何も問題ではない。この世界に対する認識の違いなのかもしれない。過去の繰り返しで満足しているわけか。言葉がそうなっている。いくら小難しいことを述べても無駄なのか。小難しいことではないだろう。以前と同じような言葉が繰り返されているだけか。音楽ではない。言葉が音楽であるはずがないか。そういうことではない。文と文の間に架空の成り行きが省略されているのかもしれない。ご都合主義か。しかし語っているつもりなのは物語でもない。それで窮地を脱したつもりになれるだろうか。そういうことでもないか。何を迷っているのか。よくわからないことを述べているようだ。何かの途中からわからなくなっているらしい。文章の中にまともな内容を構成できないのだろう。些細な行き違いかもしれないが、何がもつれているのかわからない。心の中で誰がいくら悩んでもそれは何でもないことだ。悩んでいるのは誰ではなく君なのではないか。作り話の中ではどこまでもそうだ。そこでは何も述べられていない。だがそれは非難されるたぐいの結果ではないだろう。いったいこの期に及んで何を述べればいいのか。今度は泣き言か。現状では何を述べても否定されてしまう。それは物事を考える能力が低下しているのかもしれない。何も実践できないのだから、空疎なことでも語るしかないだろう。間違ったことは正しいことではない。君はその正しさを信じられないのだ。たぶん何かが間違っているのだろう。それでもいつものように誰が何を批判しているわけではないが、それの何がおもしろいのか。つまらない内容の方が安心できる。その批判しやすさが退屈なのか。そういうことではない。何も述べていないことが問題なのか。狭い範囲で心の闇が投影されているのかもしれず、ただの作り話でしかないのに、それが例えば架空の人情劇とは無縁の虚無的な何でもなさなのかもしれない。現状の教育の何を批判しても、人はそういう教育によって大人になってしまうのだから、それはそれで現実として受けとめなければならないようだ。それの何が悪いわけでもないのだろう。いつものようにそれは何でもないことだ。人は絶えず利益を求めている。矛盾していて奇妙な言葉遣いでしかないが、言葉への無関心が言葉を記しているつもりの誰かの存在を成り立たせているのかもしれない。不在でしかないのに、不在の誰かを巡って何かが語られているのだ。言葉を何にたとえているわけではない。わけがわからないだろうが、そういうことなのだ。しかし何が社会の責任なのか。社会のシステムを変えるにはどうしたらいいのだろう。利己主義はやる気の問題だ。建て前と本音の問題ではない。たぶんやる気がしなくてもやるのは責任感があるからなのだろう。それは何の責任なのだろうか。やる気がしなくて責任感もないという場合はどうだろうか。君は何のために語ろうとするのか。自分のためでも他人のためでもない。この世界のためでもないのかもしれない。要するに何でもないことなのだ。結局そんないつもの言葉に行き着いてしまうようだ。
2月6日
どうもいつものように疲れているらしく、また眠ってしまったようだ。そして遅れている。このまま取り返しがつかなくなってしまうのだろうか。結果的にはそれでかまわないのかもしれないが、状況的には焦ってしまう。焦って当然の成り行きか。しかし空疎だ。気がつけば何も述べられなくなっている。冗談とはそういうことか。無理に冗談という言葉を使っているだけで、何も冗談になっていないようだが、それが冗談なのか。冗談でなければならない必然性はない。しかし冗談としかこの状況を捉えられない。まさに冗談なのだろう。冗談でなければ何なのか。人は今日もこの世界の中でうごめいているらしい。呆れるほど生き残っている。生き残って余った人々は暇つぶしに殺し合いでもやっているわけか。自殺する者たちも多いはずだ。殺し合いをやるにも自殺するにも、そこには何らかの理由があるはずか。単に暇つぶしというわけではないはずだ。しかし暇つぶし以上のくだらぬ理由は思い浮かばないか。中にはもっともらしい理由を思いつく輩も多いはずだ。争うことが好きなのだろう。他人と争えば殺し合い、自らと争えば自殺する。そんなことをもっともらしい理由に結びつけ、何となく殺し合う自分や自殺する自分を正当化したい。それも何かの冗談で述べていることか。そうでなければ何なのだろう。殺し合いや自殺が悪いわけではない。それらを否定できなければそういうことかもしれない。実際にそういう行為に及ぶ者たちは、自らの行いを否定しなくてもかまわないのだろう。何となくそれは当たり前のことだ。別に否定したり肯定したりしている暇などないのではないか。ただ何か適当なことをやっているだけで、それで精一杯なのかもしれない。他にやることがないのだろう。面倒なのでそういうことにしておきたいのではないか。しかしそこで終わってしまうのはもったいない。何が終わっているのか見届けられない。本当に何が終わっているのか。何か悪戦苦闘しているらしいことはわかるが、それでどうしたわけなのか。何をそんなに面倒くさがっているのだろう。誰かはふと何も思いつかないことに気づいて絶望してしまうらしい。そんなところから言葉を引き出しているのがくだらなく思えてくる。昼は晴れて暑かった。風が強い日だった。世の中には冗談で述べてはいけないこともあるらしい。冗談に逃げる前に少しは工夫を凝らす必要がありそうだ。何を述べてもそうなってしまうことから進歩しなければならない。今のところはできないからそうなってしまうのだろう。君はできないことをやろうとしているようだが、そのできないこととは何なのか。何かが違っていてその何かを改善しなければならない。それがそこでの状況なのだ。だがこの社会はただせさえ不具合だらけのはずだ。いったいどこから手を付けたらいいのかわからなくなるほど無駄だらけだ。だからといって片っ端から無駄を省いていいというわけでもあるまい。何も述べられなくなってしまうか。しかし今さらはじめからやり直すわけにもいかない。はじめからやり直すほどの能力がどこにあるのか。ならば頭が悪いほど悲惨なことはない。それでも他のどこからか学ぶ余地があることが救いとなるのかもしれないが、それも拒否したらもはや自己流しか残されていない。あとは馬鹿にされようが何をされようが、ひたすらごり押し気味に自己流を押し通すしかなくなってしまい、周りに迷惑をかけながらもそれをやり続けるわけだ。そうでない証拠がどこにあるのだろう。無理に自己否定するばかりではつまらないか。ならばどうしたらいいのだろうか。君はこの世界で何を求めているのか。他者や自己を破壊してばかりでは心が荒んでしまうか。何をどうしたらそうなってしまうのだろうか。別に気が狂っているわけでもないだろう。たぶん自己自慢と他者に対する嫌がらせをかねてそういう書き込みを行っているのだろう。それが破壊行為であることも承知しているはずだ。人は絶えず何かを破壊したくて仕方がないようだ。そういう本性を生まれ持っているのかもしれず、それを社会常識や法がかろうじて押さえ込んでいるのだろうが、ネット上では言葉による暴力を気軽に行使できるわけだ。それが気晴らしや息抜きとなっていて、攻撃本能を不完全ながらも吐き出すことができて、精神衛生上のガス抜き効果でもあるのかもしれず、そういうありふれたことがさかんに行われるのも、心や社会が病んでいる証拠とはならず、むしろその程度で済ませてしまうことが、効率を追求した結果としての必然的な成り行きなのかもしれない。それが世の中が進歩したことでもあるわけか。何となく虚しいことのように思われるが、心を痛めている人なら反面教師的に自分はこうしないという決意に行き着く可能性もあり、それはそれでそういう効用を期待する向きもあるらしい。だからあまりその手の言葉による暴力を真に受ける必要はないということか。ナイーブな人なら傷つき絶望してまうのが当然か。やはり嫌がらせによって不快感が伝染して、それが広まって荒んだ社会に行き着いているのが現状だ。だがそんな現状を否定するだけで何かを述べたことになるのか。結果として何がどうなっているとも思えないが、メディア社会のあるべき姿が如実に現れているだけではないか。
2月5日
何か適当に思い違いをしていたらしい。そしてそれをもとにしていい加減なことを述べている。別にそれがどうしたわけでもないのだろうが、何となく気分が優れない。結局のところ何を述べているわけでもなく、ただいつもの調子で無駄に言葉を並べ、空疎な文章を構成しているらしい。何かに流されているのかもしれない。ところで感情はどこで何を働かせようとしているのか。どのような効果を期待しているわけでもない。怒りにまかせた行動は悲惨な結末を生むだろうか。ヨーロッパのどこかの街で多くの労働者がデモ行進している。政府のやり方に講義してストライキを決行中だそうだ。それと関係なければそれがどうしたわけでもなく、君は見慣れた風景を眺めながら、何をどう思うこともない。やがて何かの出来事に巻き込まれていくのだろうが、前もって布石を打っているわけでもなく、それに対してどんな対処もできはしない。何もしないつもりなのだから、それでもかまわないのか。そして今日は今日で、曇り空の下で仕事の最中だった。この世の中に不満はない。もうすでにあきらめてしまったのだろう。誰かは目的もなく生きているようで、政治家の言動がどんなにお粗末な内容であろうとなかろうと、何の感慨も抱けなくなってしまった。要するに馬鹿なのだろう。つまらないこだわりに心を支配されているのだ。馬鹿げたことを述べている人は本当にそういうことを考えていて、自らの考えに基づいた行動に出ている。それはその後どうなったのか。たぶんどうにかなってしまったのだろう。実際に何がどうなったわけではない。少なくとも文章上ではそれに関して何も述べられていない。唐突に意識がないようだ。少し眠ってしまったらしい。今まで何について語っていたのか。誰かは何を騒いでいるのか。しかしそれは騒音ではなく雑音だ。背景放射か何かの雑音か。君にはわからないことだ。ならばそんなでたらめのついでに何を述べようとしているのか。何も述べられないのは誰でもないから、少なくとも君ではない。はたして生命に神秘といえるような概念が当てはまるだろうか。誰かは的外れなことを述べるつもりらしい。人に心はない。心ない行為を平気でやりたいのか。それは的外れではなく場違いなのではないか。実際には何も述べようとはせずに、適当にいい加減に言葉を並べているだけのようだ。虚無以外に何が見出されているわけでもないのだろう。君に目的は似合わないが、何かのために何かをやらなければならない成り行きのただ中にいるらしい。だから困ってしまうのだろうか。別に困ったふうは見受けられず、並べられた言葉はそれが指し示す対象を担えずに分散する。いくらでも意味不明を装うことは可能なのだろうか。それでも何とかしなければならないと思っているようで、わけがわからずも何かを述べているふりを装うための文章を構成中なのだろう。気がつけば意味のない自己言及が連続している。果たしてそこにどのような可能性があるというのか。気に入らないことなら何でも省略してかまわないのだろうか。そこで君が意味を解しているとは思わない。思いたくなくても思ってしまうような内容ではない。内容を把握しきれなくなっているのだろう。意識はそこで消え去る運命にあるのだろう。どんなに考えてもそれは考えているだけのことに過ぎず、そこからどのような妄想が生まれようと、機会を逃していることに変わりはない。いったい何が巡ってくるのを待ち続けているのか。それを事前に知り得るとは思わないだろうが、何かが巡ってくることを期待しているようだ。適当な予感を空想しつつ、それが偽りの予感であることを承知しつつも、期待はずれに終わることを期待しているわけではなく、叶うような願いなど何もなく、そんな嘘とともに、それらの状況下で何を願えば気が済むのかわからなくなっていることは確からしい。意味がわからない。それは何の意味なのだろうか。この世界にはどんな意味が似合うのか。わざとそんなふざけたことを述べてみるが、やはり意味がわからない。眠いのだろう。さっきからそうだ。退屈なのだ。ひたすら眠い。本当に語るべき内容を知らず、どこまでも無駄に言葉を並べているような気がして、それについて述べていること自体が信じられない。昔の気分ではない。かつて興味を抱いていた対象にはもう戻れないのだろう。それについて述べられなくなっていることに気づく。今はどのようなゲームに参加しているのでもなく、ありふれた光景に周りを取り囲まれ、君自身がその一部を構成していることを受け入れようとしている。人は今日もどこかで生きている。人でなければだめというわけでもないが、とりあえずそれらの文章を読んでいるのは人に違いない。人でなければ何なのか。思い浮かぶものは何もなく、意識がただの物質に還元されることもなく、意識として人の一部を構成しているのだろうが、それがありふれた現象だとしても、なおのことを人の心に意識が宿っているつもりになって、そこからありふれたヒューマニズム的思考が導かれるのかもしれないが、眠気に逆らうことは体に悪いだろうか。すでに心が逃げているようだが、もう少しの辛抱かもしれない。何をどう語ろうと、楽しくなければ何でもない。苦しかったらなおのことどうでもいい心境になりそうだ。
2月4日
依然としてわからない。わからないことにしてあるのだろう。しかし何がわからないのか。そういう問いも予定調和の範囲内で発せられている。ところで君は何をわかろうとしているのか。誰でもないのだから君ではない。誰が君ではないのだろう。馬鹿げている。たぶん今日も遅れてしまうのだろう。何が遅れてしまうのか。彼は自らの幻想について語っているのかもしれない。彼ではなくて君か。そんなことはどうでもいい。そして何となく呆れてしまう。いったい何を語ろうとしているのか。それも違うだろう。違っているのはそんなことではない。たぶん何も違っていないのではないか。矛盾しているのはいつものことだ。いつも語っているのはそんなことでしかない。勝手な思い込みの中で生きているのかもしれない。君がそうではないといえるだろうか。相変わらず意味がわからない。意味のないことを述べているのだろう。他人の迷惑を気にしなければ何でもできるのか。目的があるとすればそういうことだろう。語るに値しないということか。しかしそれでは何を語ればいいのかわからない。何がわからないのだろうか。他人の気持ちか。本当に何を語っているのでもないようだ。今はそうだろう。今でもそうなのだ。これからもそうだろう。思い違いをしている。勘違いもいいところか。人はただ争う。人と自然が争い、最終的には自然が勝利するわけだ。それがどうして幻想なのか。理由を思いつかない。人には思いつけないのではないか。簡単なことがわからないようだ。だが君はそれを知ろうとしているのではなく、それについて君以外の誰かが語ろうとしている。わけがわからなくなり、どうでもいいことのように思われる。それは君がそこから逃げているからだろう。結局君はこの世界に何ももたらせずに終わるだろう。作り話の中ではそうだが、それが何のいいわけになるのか。いいわけではない。ではただわけがわからないことの他に何があるというのか。意味不明でしかない。文章は特定の意味を求めていない。それは文章ではないのかもしれない。何も根拠はないが、何となく言葉を記しているのに、そう思いたくなってくるはずだ。何の効果も効用もありはしない。他に何を感じているわけでもなく、無感動の極みにあるのかもしれない。空疎なことを述べている。君にはそれがわかっているはずだが、わからないふりをしている。それはいつも述べていることだ。それらの文章にはそれ以外がない。それだけのことをひたすら述べている。それがつまらないことの原因だろう。浅はかな人たちはすぐ他人を攻撃しようとする。それがこの世界をくだらなくしている原因だろうか。他人を馬鹿にすることしか眼中にないらしいが、それがつまらないのだろう。哀れに思えるのだろう。勘違いなのだろうか。自らのくだらない行為を誇ってみせる文章は恥ずかしい。他人の関心を引き寄せたいだけの行為も恥ずかしい。それが金銭的な利益に結びつくとしても、くだらないことに変わりはない。そういう行為に共感する浅はかな者が多ければ多いほど、そういうやり方が流行するのかもしれないが、おそらく時が経てば何も残らないだろう。やはり浅はかな者たちを対象とするやり方は簡単に忘れ去られる。何かを語りかけるにはまともな人たちをその対象としなければ、何を語ったことにもなりはしない。だがそれで何を語っていることになるのか。はたして今語っているそれはまともな内容なのだろうか。君にわかるはずがないか。この世界は君に何をわからせようとしているのか。何をどう述べても無駄だということか。そう思いたいのなら思っていればいい。何をどう思っていようと、その通りなのだから、それを変えることはできない。いったい何をどう変えたいのだろうか。別に世界が資本主義から共産主義へ移行するわけではない。すぐにどうなることもないだろう。どうにかなってしまったら、それは思いもよらぬ変化になるだけか。どこの誰がそうなることを期待しているのか。誰もが変化を期待しているのかもしれない。しかし変化とは何なのか。気がついたら何かが変化しているのかもしれない。すべてはなるようにしかならない。そんな言葉を信じられるほど純真な心の持ち主ではない。相変わらずわからないようだ。君は何を語っているのか。冗談でそんなことを述べているのだろうか。たぶん冗談に決まっているのだろう。何が冗談なのかわからないが、それらのすべてが冗談なのだろう。それ以外に何があるのか。その辺に限界がありそうで、現時点でその限界を超えることができるとは思えない。永久に生きるとはどういうことなのか。空想の物語の中ではそれが可能だろう。人々はそこから何か適当なことを想像する。無理に戦わなくてもいいのではないか。ごたごた内紛ばかりしていても、何がどうなるわけでもなく、何もしないよりはマシだろうということもない。何もしなくてもかまわないのだ。そんな時代になってきたようだ。やはりそれも作り話の中での成り行きなのか。それは本当だろうか。今はそうなるしかないだろうが、いつかはそれもでたらめになってしまうだろう。果たしてこのまま何を語っているのかわからないままでもかまわないのだろうか。それが成り行きならそれに従うしかないか。それは嘘かもしれない。何に従っているのかわからなくなる。
2月3日
なぜかわからないが、さらにわからなくなる。たぶんわかりようがないのだろう。そしてそんなことはわかりきっているようでいて、なおのことわからない。わからないのでわかりようがないか。いったい何がわからないのか。わからないから気分が悪いか。それは気分の問題でない。何も問題ではからわかりようがない。要するにわからなくても何の問題もないということだ。何がわからないのかわからないままに、何か適当に言葉を連ねようとしている。それでも人はどこまでも人であるべきか。君には人の心がわからないらしい。そういうことではない。では何を否定しているのだろうか。それもわからないのか。それともわかっているのにわからないふりをしているだけだろうか。わからないが、とにかくこの世は幻想の宝庫だ。単純に言葉と映像によって人々の欲望をかき立てているだけなのだが、それがどうしたのか。毎度おなじみの紋切り型でしかなく、その手の輩は欲望の赴くまま過剰に生きたいのだろう。そしてその手の輩だけでなく、結局誰もが自分の都合のいいような成り行きに世の中の流れを持っていきたいのは当然だろうが、そういう水準で何を述べても意味がないのではないか。しかし述べていることに意味があるとはどういうことなのか。例えば何か世の中の役に立つようなことを述べなければいけないのだろうか。それは冗談に違いない。冗談が何の役に立つのか。少なくとも気晴らしにはなりそうだ。それにも何かの効用があるのかもしれず、積極的に冗談ばかり述べる気にはなれないが、どうしようもなくそういう成り行きになってしまうのなら、冗談の一つや二つ口にしてみればいい。だが実際には黙っている。心の中の誰も言葉を発しない。そしてこの世の何も肯定する気になれない。そこにはどんな事象があるというのか。そういう話ではないのだろう。誰が何を探しているのでもなさそうだ。では何なのか。眉間にしわを寄せて迷っているふうな表情を空想してみるが、それも違うような気がする。語っている内容が空疎なのだ。誰かの頭の中は空っぽらしい。しかしやる気がしないのはいつものことだろう。何を躊躇しているのか。とても迷っているふうには見えない。話に行き詰まっているだけか。ところで君の戦略とは何なのか。わざと話に行き詰まることか。唐突に何を述べているのではなく、ただ黙っている。たぶんそういうことではない。何か適当なことを思いついたふりをして、でたらめなことを語り出す。作り話の中ではそうだが、実際の世界ではそれが違うと思われる。単純な罠をかけているわけではない。罠ではないのかもしれない。やはり何でもないことか。何でもないことなのに、なぜか邪魔が入る。それが何でもないわけではないことの証拠となるだろうか。君は何でもないことを否定したいわけか。たぶんわからない。何を否定しているのでもないような気がする。では何が馬鹿げているのだろうか。彼は漫画によって何を主張していたのか。君にはわからない。わかりたくはないのかもしれない。漫画を読んで、感動とともにわかってしまいたくないのだろう。何もわかりたくない。わかるのが面倒くさいのだ。本心からそんなことを述べているのではなく、誰かの作り話の中ではそんなことを思っているつもりだ。そして誰にそれをわかってほしいわけでもなく、漫画のように都合よく話が進行しないことを示したいわけでもない。すべての現実がくだらないようだ。作り話の中でも誰かがそう思っている。だが君がひらめいたのはそういうことではない。何をひらめいたのだろう。そう問えば何かひらめかないわけにはいかないか。その辺に話のからくりが見え隠れしている。わかったようなわからないようなことを述べていたいのだろう。それが違っていたらどうするのか。別に何もしないような気がする。たぶん手塚治虫は漫画の世界の住人だったのだろう。何となくそういうことを教訓話に仕立て上げるのが億劫になる。現実はそうではない、と述べれば済んでしまうようなことだ。漫画の中にも真実や現実があるが、それは漫画の中の真実や現実だ。現実の中にも真実の中にも漫画的な部分がありそうだ。しかし誰がそれに直面しているのか。作り話の中の登場人物たちか。それで何を否定しているのでも肯定しているのでもない。ただの否という言葉に過ぎず、そうではないと思っているだけか。しかしそれを否定といわずに何というのか。君はそうでないことを肯定しようとしている。そうではなくて結構なのだ。何でもなくはないということか。そう受け取ってもらってもかまわない。その現実を受け取ったところで君には何ももたらせない。ただ黙っているだけの現実に何の価値があるのか。黙っていられなくなる時がいつかやってくるだろうか。そういうことではない。どういうことでもなく、ただそういうことが現実の一部を構成している。だから君には何も述べられない。何か語る機会が与えられていないので、その代わりに誰かが君とは無関係な言葉を記している。しかしそれでは代わりでも何でもないだろう。要するに誰かは嘘を記しているのであり、それが作り話の一部を構成しているのだろう。だから何だというのか。何でもないから何だというわけでもなく、それらの言葉は沈黙の代わりなのだ。
2月2日
何となくそんな気になってくるが、たぶん何を見ているのでもない。誰かは何も思いつかなくなってからどうなったのか。そこに至る成り行きを把握できない。冗談かもしれないが、相変わらず何がわからないのかわからないようだ。それを誰に知らせたいわけでもなく、ある特定の見解を示すつもりはないらしい。今さら何を否定してもそれは違うと思う。それでも否定せざるを得ないような内容だ。しかし興味があるのは何なのか。それは世の中の情勢か何かか。何かとは何だろう。現時点ではそこから何を語る気にもなれないが、とりあえず無理に言葉をつなげようとしているらしい。それが無理なのだろうか。無理だから無理に決まっているだろう。相変わらずマイルスは死人なのにファンキーな音を奏でる。誰に何を語りかけているわけでもないか。また無駄に言葉を並べているだけか。話の内容が定まらない。まったく頭がどうかしている。何がそうなのか。それは違うんじゃないだろうか。わからなくなっているだけかもしれない。眠たくなってしまったのだろう。言葉を並べるのが面倒くさくなってしまったようだ。架空の世界では何かを過剰に摂取している。作り話なのだろうか。何もかもがそうというわけではあるまい。心が現実を見失っている。それは誰の心なのか。そうではないと述べておこう。おそらく心ではないのだろう。何でもないと思いたい。一度遠ざかってみないと見えてこないものもありそうだ。それがそれほど間違っているとは思わない。しかしそれとは何なのか。疑念ばかりでは何もわからない。疑念以外に何も抱かないというのは嘘か。それは誰の嘘でもなく、君の嘘でもない。今は嘘をついていないのかもしれない。無理に悲劇を語る人は何を目指していたのだろうか。誰かが自らの死を描こうとしていた。生物に命があると思っているらしい。わざとそれとは違うことを述べている。何かに夢中になるとはどういうことか。当時は漫画でも読んでいればそれで良かったのかもしれない。しかし何を思い出しているのか。文章になっていないようだ。それは文章ではない。何かが人を残酷な気分にさせる。それは自己崩壊の途中だったかもしれない。過渡現象の一種だろうか。わからないが、そういうことかもしれない。しかしそれで何になるのか。まだ結果が出ていない。すでに出ていたのかもしれないが、それを見逃してしまったのかもしれない。だからそんなことを述べられる。あまり積極的に推奨したくないやり方だ。君はすでに結末を知っているそぶりを見せるが、何のことなのか不明のまま、何かしら謎の経緯のごとき説明を加えてみる。まったくどこに説明があるというのか。まだ何も説明していないだろうか。たぶんまたわからなくなっているのだ。迷っている。何をどうしたらいいのかわからなくなる。何もどうもしていないことを認めたくないのではないか。それで何かをやっているつもりになりたいのだろう。ただ言葉を記している。何かを記録しているわけだが、その何かとは虚無のことか。そこでわからなくなってしまうらしい。何かが人を苦しめようとしている。それは何かの機会なのだろうか。そこで巡り会っているのは何なのか。何でもなければそれほど苦しめられることもないだろう。しかしなぜそこでわからなくなってしまうのか。普通に語っていればそれでいいはずだろう。その辺からちょっと違うと思うようになり、些細なきっかけでしかないのに疑念を抱いてしまうらしい。たぶん無理なことは明らかだろう。その時点でもはや何も述べていてないことは明白か。わからないと思っているのかもしれない。本当に何もわからない。深夜に何を知り得たわけでもなく、正気に戻れなくなっているわけでもない。ただ沈黙を守っているようだ。意味もなく黙っている。言葉が出てこない。ひたすら出てこない。それだけのようだ。それだけのことにかかりきりになっているのはおかしいだろうか。何かがおかしい。頭がおかしいのではないか。そうだとすると正気ではなく、気が狂っているのだろうか。しかしおかしい。笑ってしまうほどおかしい。実際に笑っていないのではないか。誰が笑わせるようなことを口走っているのか。テレビのお笑い番組でも見ているのだろか。そうだとしても笑えない。ひたすら馬鹿げている。何となくそういうことだ。ただ音楽を聴いているだけだろう。今はニュース番組を見ているのではないか。何か興味を引くような話題でもあるだろうか。たとえあったとしても、それについて語ることはない。そんなふうに思う心が馬鹿げているようだ。どうやら君は何者にもなれなかったらしい。君は神なのか。そうではない。何者でもない。ただそれだけのことだ。そんなわけで今は馬鹿げていて過去はつまらない。ならば未来はどうだろう。未知の時空で何をやるつもりなのか。未知との遭遇がどうしたわけでもない。何ももたらせないのだから、それは何でもない未来になりそうだ。過去の延長上に今があり、またそれが未来へ向かって延長されてゆくような気がする。何でもない時間が果てしなく続いてゆく。たぶんこの世界では誰も出来事に遭遇しない。遭遇するすべてが既知なのであり、驚きが皆無なのだろう。少なくともメディアが伝えている内容は過去の繰り返しがほとんどであり、実際に体験しつつある日常も何でもないことの連続だ。つまらないことに神経をすり減らされているだけらしい。
2月1日
君は自らの精神の状態を知らない。気づいていないのだろう。まさか窮地に追い込まれていることに気づいていないわけか。そういう話は聞いたことがない。何やらさっきまで眠っていたらしい。何でもないから今は死人の音楽を聴いている。心のどこかで何かが戯れている。何かを語る機会を逃しているらしい。ならば今こそ過去の何かを思い出すのだ。唐突にそれはない。何かとは何だろうか。何でもないそれは何だろう。何もないというのは嘘か。何がいつもの冗談なのか。いくら己のことを語っても、なかなか本心が出てこない。己とは何なのか。ようやく作り話の中でも今月の時空に入ったようだが、相変わらず何もなく、語っているのは何でもないことだ。ただひたすらそんなことを述べているようで、語っているうちにどうでもよくなってくる。誰かはまだそこまで語っていないだろう。しかしそんなことを語りながらも突然何に気づいたのか。まだ何も語っていないことに気づいたらしい。言葉だけは適当に連なっている。どうやらまた眠ってしまったのだろう。実際に何に気づいたわけでもなく、何も映らない画面を眺めながら、誰が何を想っているわけでもなく、蛍光灯の下で、誰かが黙って言葉を記している。他にどのような兆候を示しているわけでもなさそうで、外からその精神状態を伺い知ることはできないが、文章上ではまた無駄なことを述べているのだろうか。君はこの世界の有り様が気に入らない。だがそれだけのことで何を述べようとしているのか。それだけではないと思いたいわけか。ならばその思っている内容を言葉で明かしてほしい。それがわからないでは意味不明だ。頭がおかしいのではないか。しかしそれは誰の頭でもなく、ただの言葉だ。どう述べても実在の何について語っているのでもないような成り行きとなってしまう。すべては制度の問題なのか。人が作った決まり事が人を苦しめ続けるのが制度の本質だ。そして制度によって苦しめられているから、その変更を模索しようとすると、必ずそれを阻もうとする者たちが出現する。制度によって利益を得ている者たちにとって、その変更は場合によっては死活問題となる。様々な経緯から人々を苦しめる制度を守ろうとする者たちがいるわけで、そういう抵抗勢力の方が優勢であるのが国家の国家たるゆえんでもある。制度そのものが国家を成り立たせているからだ。だからそういう国家に取って代わろうとする勢力があるとすれば、やはりそういう勢力も国家に取って代わる制度を打ち立てなければならなくなり、要するにそれも新たな国家となるしかないのだろうか。そうはならない状態というのを考えられるだろうか。君がわからないというのはそういう水準でわからないということか。しかしそれがわからない。君ではないのだからわからないのが当たり前で、そういう逃げ口上で何かをうやむやのまま葬り去ろうとしているらしい。そういう意味不明な話の展開なら、わけがわからないながらもおもしろそうか。実際に何をどう考えているのでもなさそうだ。ただそこから遠ざかりたい。さらに逃げてしまいたい。よくわからないがそういうことだろう。たぶん架空の君が目指しているのは新たな制度の構築ではなく、既存の制度を破壊することでもない。制度に包まれながら生きているのに、それを感じないようにしたいだけだ。制度の存在に気づいていながら、気づかないふりをしているだけか。意味がわからない。だからまったくどうでもいいような話の展開になりつつあるわけだ。何に苦しめられていようと、その苦しみによって命を落とすどころか、逆に生き長らえているのだ。現実に誰かは生きている。不平不満を心の奥底にため込みながら生きている。しかし不平不満が生きる糧となっているのだから、それは虚しいことか。たぶん何とも思わないだろう。それらが意識の表面に浮かび上がってくることはない。何がどうなっても無表情を崩さない。そしてそういう人を端から眺めているとむかつくようだ。感情を押し殺して平静を装うのは健康に悪そうだが、制度の問題とは無関係だろうか。さらに関係ないが、何か哀れな姿に見えてこないか。君はいったい何の話をしているのだろうか。誰のことを述べているのか。複合的な光景が思い浮かんでくるようだが、それが何だか言葉では説明できない。わかりやすく語ろうとすると嘘になってしまうのかもしれず、そのまま語れば意味不明となってしまうらしい。本気で語る気になれないのだ。そして具体的に何をどうしようとしているのか不明だ。制度とは何だろう。人や社会がこうあるべきだという意思表示が反映された決まり事だろうか。しかしそれに従っていても、結果としてそうはならず、絶えずあるべき姿から逸脱してしまうのが、制度の欠陥そのものなのだろうが、人や社会にはそれを完全には制御できないところが、完璧な制度が絵空事であることの証しとなっているわけか。人や社会が定める決まり事とはその程度のことだ。だがそれに属している大半の者がそれを守ろうとしない限り、人間社会は成り立ってゆかないのだろう。しかし制度以外に社会を成り立たせる要素はないのだろうか。他者に対する謙譲の心や思いやりだろうか。それよりも自分の都合を優先させる者が多いから、好き勝手にやって他人に迷惑をかけないための歯止めとして制度があるわけか。
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