彼の声70

2009年

1月31日

 もう一週間も遅れているだろうか。あまり切実な願いとはいえないが、何となくそういうことを願ってみる。何だかわからないが、そういうことだ。しかし誰かはそういうことの中身を知りたいのではないか。たぶん今日は何もない。何ももたらせないような予感がする。いつものことではないか。もたらされているのは空疎な言葉の連なりか。それだけでももたらされているだけマシか。マシではない。うんざりしているようだ。それだけではない。そう思いたいだけだろう。何かを思い出そうとしている。悲劇を見ているわけではない。切羽詰まって何をやろうとしているのか。誰かがどこかで自殺した。誰かがニュースの中でそんなことを語っていた。そういうことではない。何がそういうことではないと思っているのか。やはりそういうことではない。ただそういうことだ。紅茶が濃すぎるようだ。関係ないだろう。関係ないからといって、そこから話が進まないわけではない。この世は格差社会なのだそうだ。笑ってしまうことだが、そういうことらしい。君はまだこの世から学んでいないようだ。いったい何を学んだらいいのか。学ぶ機会が巡ってくるだろうか。すでに何かから学びつつあるのではないか。君が学んでいないのではなく、誰かが学びつつあるようだ。それは言葉遊びのうちで述べられていることに過ぎない。何かを作るとはどういうことだろうか。唐突に言葉が飛んでいる。いつもの意味不明だろう。とりあえず自殺することとは関係ないだろうか。それはこの状況では語りようのないことだ。この状況とはどんな状況なのか。にわかには何も思いつかないなら、それがこの状況になるだろう。それに関して何も思いつかないから語りようがない。人は何かを作っている。誰かが記しているのが作り話だとしたら、誰かがそれを作っていることになるのだろうか。わざとらしくわかりきったことを述べないでほしいか。内容がない。何も語る気がしないのだろう。しかしそれで作り話の結末がどうなってほしいのでもない。わけがわからないのは当然のことか。何かに対してアレルギー反応が出ているのだろうか。そういうことではない。何でもないのはいつものことだ。そして言葉が出てこないのも、話になっていないのもいつものことだ。虚無が出尽くしているような気がする。むやみやたらと頭がかゆくなり、今やすべてが足りないようだ。心の中では誰も何も語っていないことになっていて、それがますますわけがわからなくしている。架空の作り話の中ではそういうことらしい。たぶん説明とそこに至る経緯が無駄なのだろう。誰かはひたすら無駄に言葉を連ねていて、気も散っている。散漫な気持ちで何をやろうとしているのか。気がつけば周りの風景が歪んでいるだろうか。それは嘘かもしれない。そういうやり方ではこの世界へ戻って来れなくなる。妄想の中では確かにそうだ。しかし意味がわからない。しかしでもないだろう。何でもないのかもしれないのは当然だとしても、記された他のすべても何でもないのだろうか。たぶんこの行き詰まり状況も何でもないことなのだろう。何をどう語ろうとしてもこうなってしまうのだから、これはこれでこういうことでしかないのだろうが、これも以前に同じようなことを述べていたことの繰り返しに過ぎない。そしてそれがどうしたわけでもなく、ここで誰が虚無と戦っているとも思えず、何と格闘しているわけでもないのに、悪戦苦闘しているふりをしながらも、戦って死ぬのも病気で死ぬのも自ら命を絶つのも同じように何でもないことだが、それとこれとは関係なく、映画の中の一場面にそのような光景が映し出されていようといまいと、君は黙って音楽を聴き続け、誰かは時折思い出したように言葉を記している。互いの実体が希薄だ。語っている主体が不在なのかもしれず、自らが何について語っているのかも理解しようとしない。自らは本当に架空の存在なのだろうか。誰かの影が何を考えているのかを知りたいわけではないが、何となくそれが違っているような気がするだけだろうか。格好をつけようとする者は真っ先に敗れ去ってしまうらしい。架空の話の中ではそうなる。虚しいだけの話だ。そしてそれが気に入らず、話はそれだけではないと思いたいのだろう。人生を短絡すれば、人は死ぬために生きている。それがどうしたわけではないが、何となくそれではつまらないような気になり、他に何があるか考えてみるが、何も思いつかない自らに愕然として、この世の中がつまらない原因がそんなところにあることに気づいたふりをしてみせるが、誰かが記している作り話の中では嘘になってしまい、実際に何を語っているのかわからなくって、そんな話はなかったことにされてしまうらしい。しかしいったい君は何について語っているのか。架空の話の内容を把握できないままに言葉を並べているようで、このままでは結局いつもの意味不明な無内容になるしかないのだろうか。いつもと同じならそれでもかまわないのだろうし、要するに同じことに繰り返しになっているだけなのかもしれず、それについて何をどう思っても無駄なのかもしれない。


1月30日

 思い通りにいかないは当然だとしても、とりあえず今は冗談ではない。わかっているのに白々しくそんなことを述べてみる。他に何を語っているのでもないだろうが、現状に何か不満でもあるのだろうか。だが何が気に入らなくても現状のシステムを維持継続させたいのだろう。そして何を語ろうとしているのでもない。いくら考えても何も出てこない。わからないのではなく、何も思いつかないことがわかったのだ。それが嘘でない証拠がどこにあるのか。述べていることがかなりおかしい。そんな気がするだけで、文が文法的にそれほど間違っているとも思えないが、言葉の流れが何か袋小路のような場所へはまっているようだ。だからそんな気がするのだろう。確かにそういうことらしい。そういう言葉の並びを招いているそれが袋小路というわけか。だからそうなのだろう。気がつけばひたすらそんなことを述べている。いつもの意味不明だろうか。何を忌み嫌っているのか。そういうことではない。君が現状をわかっているはずがないが、それでもそれを知ろうとしなければならず、理解しようとしなければならない。やはりそういうことではないようだ。人は誰かを英雄視しなければ気が済まないのか。眠いのでそんなことはないと思う。空は晴れて風が強い。昼寝をしている場合ではないが、どうしようもなく眠たい。かなり疲れているのだろうか。結果として何も語れないのだからそういうことかもしれない。しかしわけがわからない。なぜ無駄に言葉を記そうとしているのか。心の中がごちゃごちゃしている。いったい何をやっているのか。何もやっていないわけではないが、言葉を並べるのとは別の作業だ。そして今はそれも一段落ついて、気晴らしに音楽を聴いている。どうあっても遅れてしまう定めにあるようで、影は誰かに向かってもうやめてしまえとつぶやいているようにも感じられ、そういう成り行きになりつつあるのだろうか。さらに時が経てばわかることか。わかるのはいつだろう。それは今から数ヶ月後になるだろうか。もっと前に大勢が決してしまうような気もするが、このまま虚無に飲み込まれて精神が四散してしまうか否かは、今後の言葉の並び次第か。何をたわけているのだろうか。わからないが結局はそういうことだろう。とりあえず今は空疎なことしか述べられず、何も語れない自らに自らが愛想を尽かしているわけか。しかしどのように語ろうとしても、そういうことではあり得ないのではないか。何があり得ないのか。ただまともなことを述べられないだけだろう。君にはそれが歯がゆいはずか。しかし今さら焦ってみてもはじまらない。いったん空疎な自己言及をひたすら述べてみて、それに行き詰まってしまう時を待つしかないようだ。だから今はそれをやるしかない。馬鹿げているがそういうことだ。それの何が気に入らないのか。例えばそれが英雄的な行為とは無縁の作業だからか。そう語ることが強引なこじつけ以外の何ものでもないが、だからそう語ってしまうことが気に入らないのだろう。文章上での原因と結果が配置が違っているだろうか。それもおかしな言い草だ。いったい何を間違っているのか。そもそも何もないのに語ることが間違っている。だから何を語っても間違っているわけか。そういうわけではない。どういうわけでもなく、ただそんなことを述べている。まだそればかりのようで、なかなか新境地に至れないようだ。やはり何を述べても無駄なのか。無駄なことを述べているだけだ。わざとそうしているのかもしれないが、今がそれ以外にはあり得ない。たぶんそれの何がおかしいわけでもなく、ただそんなことを述べているのが面倒くさくなってきただけか。何をどう語ってもそうなってしまうのだから仕方ない。しかしこの世界には何があるのか。何の幻想も抱けないのはどうしたわけか。それがどうしたわけか。何がどうなってそうなってしまったのだろう。それは何でもないことで、以前からわかっていることであり、それでも焦る必要はない。誰かを取り巻く状況の変化がすべてを解決してくれるだろう。今は嘘でもかまわないからそう思っているしかない。いくら悪戦苦闘の最中にもがき苦しんでいるふりをしても、やはりそれは何でもないことだ。誰が同情してくれるというのだろう。それどころか物笑いの種となるだけか。まだ具体的には何も語っていないのにそれはないだろう。語る前の段階で行き詰まっているのであり、画面の前で笑っている誰かがいるらしい。それが君でないことがあり得るだろうか。ならば誰かは自らが君であってほしいのか。わざとそんな回りくどいことを述べているようだが、そう述べて何になるのか。何にもならないからそう述べているのではないか。別に転落の人生を歩んでいるのではない。では誰かが誰かをちやほや溺愛しているのか。自分を否定している誰かには罪悪感でもあるのか。それでも新しい何かがはじまるとつぶやいている。たぶん冗談でそんなことを述べているのだろうが、だから何を述べても無駄なのだ。笑いながら投げやりな気分でそんなことを述べているのだろう。そしてもうそれも終わりに近い。何かが終わり別の何かがはじまるのだろうか。ただそうなってほしいだけだろう。他に何がどうなることを望んでいるわけではない。


1月29日

 また何も思いつかなくなったらしい。何かがどうにもならない。君はどこからそれを持ってきたのか。宝物ではないが、ゴミくずでもない。そんな感じだろうか。形骸化しているので、作り話にもならない。何を語ろうとしているのかもわからない。何がわからないのか。実際に語っているではないか。確かに何かいい加減なことを語っている。語る必要がないのにそんなことを語っているわけだ。この世にはどうにもならないことがあるらしい。それを避けて通れない。わかっていても避けようのない出来事に遭遇する。だからどうしろというのか。しかしなぜそれが君の知ったことではないのか。理解できないらしい。どのような危機に遭遇しているとも思えない。しかし今の時代には何が必要なのだろう。たぶんそういうことでもない。何も思いつこうとしない。君はすべてを忘れているのだろうか。たまに何かを思い出すようだ。思い出すだけで何も語ろうとしない。それはいつまで続くのだろうか。いったい何が続いているのか。同じような言葉の繰り返しだ。誰かがどこまでそんなことを記している。それは何か開き直りのような印象を受けるが、やはりわからない。何をどう語ったらいいのだろう。相変わらず迷っているだけで、何ももたらせないようだ。現状ではそんな言葉しか並ばない。誰がどうなろうと他人事だ。この時代はすべてが急速に滅び去ろうとしているわけだ。それはどういうことだろう。何か虚しくならないか。何を求めているわけでもなく、すべては言葉と映像に還元され、通常ではそんなことはあり得ないだろう。ではなぜ還元されてしまうのか。たぶん君の思い過ごしだ。そんなでたらめで片付けてよいものか。誰が決めるわけでもなく、何も決まらないから宙ぶらりんのままになる。君のやり口はわかっているつもりだが、その際の捨て台詞は何だったのだろう。意味不明に決まっているだろう。何を語っても最後は意味不明で片付けられる。そして結局は何を述べているのでもないことになってしまい、どうでもいいような虚しさが辺りに漂う。作り話的にはそういうことだが、実際に誰かは何を語っているのか。何も語らずに言葉を並べている。しかしそれだけのことにどれほど無駄な時間を費やしているのだろうか。まったく馬鹿げていて、呆れ返ってしまうだろうか。誰があくびをかみ殺しながら何を語っているのだろう。やはりそうではないと思いたいのか。何を想ってもそうでないと思う。そういうことでしかないのが馬鹿げているということだ。しかしそれ以外に何があるというのか。三十数年前の音楽を聴いている。ただそれだけのことでは作り話を構成できないだろう。では他に何が足りないのか。言葉だ。言葉を繰り出すに値する体験も足りない。それは無い物ねだりだ。現状ではそんなわかりきったことを述べているだけか。それが気に入らない。だからここは無い物ねだり以外にあり得ない。はじめからやり直そう。そんな嘘をつきながらも、さらに続けて言葉を並べてみるが、ため息しか出てこない。そして考えあぐねているうちに時間が足りなくなる。結局はそんなことの繰り返しだ。たぶんそれは不可能なことなのだ。今さらまともなことを述べるのは不可能に違いない。そしてこの世のすべては冗談だと思いたくなる。何もリアルには感じ取れない。生きているという現実感が希薄なのだ。その先に言葉がつながらないのは、それが夢の中で言葉を並べているからか。あり得ないことだ。嘘に違いない。要するに何でもないのだ。何でもないことを何でもないように思うのは至難の業か。人々は人々の屍が折り重なった上で生活しているのだ。いつもの意味不明か。苦し紛れなのだろうが、前後の内容とは無関係なことを述べている。そして君はまだあきらめていないらしい。何をあきらめきれないのだろう。自分自身に問い質してみるがいい。意味不明ながらも話の継続をあきらめきれないのだ。今なら簡単に答えが出てきそうだ。あきらめてしまえばいい。答えが違っているわけではない。現時点ではそれが答えなのだろう。だからさっさと眠ってしまえばいい。何をぐずぐずしているのか。それらの惨状のどこに未練があるのだろう。実際に何も語っていないではないか。いつかはそうなってしまうだろうが、それが今でないわけがない。君は疲れているのだ。きっと誰かもそうだろう。だから何も述べられず、ひたすら同じような言葉を繰り返し記している。飽きもせずにではなく、完全に飽きているのになおも続けようとする。それはある意味ですごいことだろうか。完全に常軌を逸している。心のバランスが崩れ去り、不安定な心理状態で、かろうじて奇声を発するような醜態になるのを押さえ込んでいるみたいだが、いったいいつまでそれに耐えられるだろうか。理由もなく感極まっているわけではないが、とりあえず今がその時なのだ。おそらく君はそれらの虚脱状態から這い上がろうとしているのだろう。うつろな目つきではない。偶然の巡り合わせが君を守ってくれる。必ず機会がやってくるはずだ。それは何をやる機会でもなく、どのような未来に巡り会うのでもなく、ただその時が到来する機会がやってくるはずだ。その時とはどんなの時なのか、その時が来てみなければわからない。だがそれでもそれが君の過ちを最小限に食いとどめ、必ず正しい方向へ君を導いてくれるはずだ。


1月28日

 この世のどこかに妄想の源泉があるらしいが、人々はそこから何を汲み取っているつもりなのか。どこにもそんなものはないと断言したところで意味がないか。この世界の何を正当化したところで、正当化しているとうのものから見放されてしまうだろう。何かを肯定すれば、その肯定によって肯定している意識が窮地に追い込まれる。要するにその存在を否定されてしまうわけか。馬鹿げた行為を正当化し、そんなやり方を肯定しているは愚かなことだ。似たような生活様式をともにする意識たちが統合されて、それらが一つの超自我のごとき意識を形成しているとしても、それによってこの世界が一定期間席巻されていると考えようと、君はそう考えることによって何を目指しているのか。自らが思いついた認識をこの世界に広めたいわけか。そして認められたいのだろうか。いったい何に認められたいのだろう。他人か、あるいは多数の他人の意識が寄り集まって形成されている超自我のような意識の総称である世間にか。しかし現実には何を目指しているのでもないとしたらどうだろう。どういうわけでもないような気がする。実際に何を見出しているのでもないらしい。この世界がある特定の勢力によって支配されようとしている、あるいは現実に支配されている、等の妄想を抱くのは容易いことだ。しかし支配とは何だろう。そこに暮らしている人々をある一定の行動と考え方に従わせているわけか。だが支配する側にはそれによって何がもたらされるのか。自己満足に過ぎない。簡単に述べるならそういうことだろうが、それではあまりにもくだらなすぎるか。支配によってこの世界には恒久的な平和がもたらされ、人々が安心して平穏に暮らせる世の中が到来したりするのかもしれない。それも冗談の延長上にある絵空事か。支配する側の宣伝文句としてはそういうことになるだろうが、支配には必ずそれに対する抵抗運動が伴うものだ。抵抗運動の力の強弱に比例して、局地的なゲリラ戦になるか、あるいはとりとめのない内戦状態になるか、どちらにしても戦いは終わらない。戦いを終わらせるには支配をやめればいい。しかしそれでは支配という目的を達成できなかったことになり、支配しようとする側が自らの敗北を認めてしまうことになる。それは認め難いことだろうか。ならば出口はどこにあるのだろう。支配をそれが支配だと悟られないようにすべきか。要するにそれは法による支配だ。支配する側の意向が反映された法を、支配される側の人々に支持してもらう。むろんそのためには法に支配される側の人々の意向も反映されなければならず、両者による妥協の産物としての法が制定され、その法を両者ともに守ることを宣言するわけだ。それでより合理的な支配の形態が確立するわけか。しかしそれが支配といえるだろうか。法が支配する側とされる側の区別をなくして、法が人々を支配することになる。そういうやり方が人の知恵から編み出された合理的な方法なのだとしたら、超自我とは法のことか。確かに一つの法の下に暮らしている人々は似たような生活様式を共有していて、要するにそれが国家を形成しているのだろう。誰かの冗談とはそういうことでしかない。それの何が冗談なのか。君にはわからないだろうが、それは誰にもわからないことだ。どうもそうではないような気がするらしく、それを誰かは言葉で表現できない。冗談だからだろうか。とにかく資本主義はどこかから搾取しなければ成り立たない。例えばここ数年の日本の自動車業界や家電業界などの場合は、派遣労働者を安くこき使うことで利益を得てきたようだが、今後はどうなってしまうのだろうか。利益を得られるだけの量の製品しか作らなければ、製造に携わる従業員の数や設備を減らさなければならず、当然余った従業員は解雇されて、新たな仕事先を見つけなければ暮らしてゆけなくなる。ところですべての人がまともに暮らしてゆけるだけの仕事がこの世にあるのだろうか。それは疑問だが、ローンを抱えたまま失業したらなおのこと悲惨だ。借金をするとは未来に得られるはずの利益を搾取することであり、得られるはずの利益が本当に得られるかどうかは、その時になってみなければわからず、将来にわたって計画通りに利息を付けて借金を返済できなければ、そこで破産だ。まったく今まではそれが当然のことのように行われてきたのだから、状況の変化はそういうやり方に頼り切って生活してきた者たちに残酷な結果をもたらす。だから確かに法は人を支配するが、人が法によって守られているかどうかは、現状では完全に守られているとはいえないようだ。だから法の支配に屈するわけにはいかないか。法は万能ではない。状況の変化に従って法も変えていかなければいけないのは当然だろうが、それでも必ず法の不具合や弱点を突くような形で状況が変化しようとしているのかもしれず、結果として誰の思い通りにもいかない成り行きとなってしまうのではないか。それを承知でさらなる改革の旗を掲げて、指導者的な存在たちはこの世界に戦いを挑んでいくのだろう。彼らは絶えず何かをどうにかしなければ気が済まない性分の持ち主なのだ。


1月27日

 何がビアソラなのか。深夜に何を聴いているのだろうか。誰かは未だに行き詰まりを打開できないらしい。もうやめてしまったらどうか。思い浮かぶのはそんな言葉だけか。そして相変わらず何に気づいたわけでもない。馬鹿げている。心が何かから離れようとしている。だが何に耐えているわけでもない。話になっていないのはいつものことだ。それでも何とかしようとしているのだろう。とりあえず言葉を記す以外のことなら何とかできたらしい。それが現実の世界でのことだろう。虚構の世界ではどうなっているのか。どうにもなっていないから作り話にもならないらしい。本当にそうだろうか。嘘だから作り話なのではないか。しかしそれでも何を語っているのでもないと思われる。要するに何でもないということか。ではいったいこの世界の有り様は何なのか。何でもないわけではないだろう。未曾有の何とかいう台詞を発したい輩なら山ほどいるはずだ。ならば君も派遣労働者に同情して、小林多喜二の「蟹工船」がどうたらこうたら述べてみたらいいではないか。君にはわからないことだ。なぜ人は仕事をしなければならないのか。それはかなり馬鹿げた問いになるだろう。でも根本的にそういうことではないだろうか。誰もが仕事をしないで遊んで暮らしてゆければ、そんなに楽なことはない。だがそれはあり得ないことだ。わかってはいるが、やはりそういうことだ。しかし人は何のために生きているのか。例えば仕事をするために生きていたり、遊ぶために生きていたり、果たしてそんなことが真実なのだろうか。社会通念上はそうかもしれないが、通念とは何なのだろう。とりあえず生きている限り、何々のためにという目的がついて回るだろう。だから何なのだろう。その逆も可能なのであって、生きるために仕事をしたり、生きるために遊んだりするのも、正しかったりするのかもしれない。たぶんそれはそういう言葉では解決しない問題だろう。もしかしたら解決するしないの問題でもなく、問題ですらないのかもしれない。ならばやはりどうでもいいことなのか。どうでもよくはないが、しかたのないことなのかもしれない。ただ人は生きて死ぬだけで、死ぬまでの間に何かをやっている。何もしなくても呼吸ぐらいはしているのではないか。少なくともそれで何かをやっていることになる。しかし今人間社会で問題となっているのはそういうことではない。不況で雇用がどうたらこうたらとか、地球の温暖化がどうたらこうたらとかいう問題だ。たぶん主流の良心的な人たちはそういうことについて語らなければならないのだろう。ならばそこからどういう目的が導き出されるのか。例えばより良い未来を築き上げるために、あるいは皆が平等に富を分かち合うために、とかいうきれいごとの目的が思い浮かぶが、そういう目的を達成するために、世界中のすべての人たちが一致団結して、たゆまぬ努力を続けなければならないわけか。何となくそういうことだと思う。正しい見解なのだろう。本気にはなれないが、そういうことなのだろう。実際はそうではないと思いつつも、そういう正解に反発しつつも、要するにそういうことなのだ。しかし君はそのために何をやっているのか。こうして誰かが正解を記しているではないか。いったい何がそんなにおかしいのか。何を鼻で笑っているのか。どうも誰かはひねくれ者らしい。そしてそのひねくれ者の影が君なのだ。冗談でそんなことを述べている。しかし馬鹿げている。人類全体は自分たちが馬鹿げた存在だと気づくべきか。とうに気づいているのではないか。いつも間抜けで喜劇的な存在であり、論理的整合性の皆無な矛盾だらけの存在だ。感情に押し流され、利己的に固執して、くだらぬこだわりを捨てられず、無駄で無意味で底の割れた愚かさを放置している。要するに人が理想と思っている正反対の存在なのだ。そんな存在が集まって何ができるというのか。たぶん何かをやろうとしているのだろう。実際に生きている限り何かをやっていて、やり続けようとしている。それは生きているという現象なのだ。死んで動かなくなったら何もできなくなってしまうだろうか。だが依然として問題はそういう水準にはない。そういう水準で語ってしまったら、何も問題ではなくなり、人はただ生きて死ねばいいだけとなってしまう。本当より良く生きて、納得のいく形で死にたいのだろうが、そうはならないのが世の常だ。無駄なことに人生を費やし、非業の最期を遂げるわけか。冗談を述べるならそういうことだ。しかし実際には誰もが小林多喜二のような具合にはいかない。醜態をさらしながら執拗に生き続け、痴ほう老人となり、わけがわからないまま、死を意識することもできずに死んでいったりする。やはり人間という存在自体が何でもないものなのだ。憎しみ合ったり傷つけ合ったり殺し合ったりするのは勘違いのなせる業だ。やる必要のないことをやっているに過ぎず、それは自らが何でもない存在であるのが受け入れ難いことから生じている。では傷つけられるような自尊心があるかのように思うのが、そもそもの勘違いなのか。たぶんそういうことだ。そしてそういうことであるのが受け入れ難く、信じられないから、人は自らを愚かな存在に仕立て上げる。


1月26日

 それほど意表をついているわけではないが、またやる気をなくしてしまう。現状では何から逃れることが可能なのか。すべてをなかったことにしたいのか。それでもまだ時間がありそうで、無意味なことを少し語ることができそうだ。もちろんそれは君が語るのではなく、誰かが何かに語らせられるのだろうが、それでは不満か。嫌ならたまには君が語ったらどうか。フィクションの中ならそれもありだろう。いつもの冗談に違いないが、君は何を語る気にもなれない。君は何を糧として生きているのか。フィクションの中では何をやっているのか。語ることの他に何があるというのだろう。全般的にはそういうことではない。誰かの意識は完全に現実感を失っている。だが君がそれを嘆いているとは思えず、むしろ虚構の存在として語る方が好都合ではないのか。違っているか。そこには君自身が不在なのだ。だから何も語ることができない。何だか馬鹿らしくなり、その辺から何かの雲行きが怪しくなり、何も本気で述べているのではないような気になる。君には言葉とは違う何かがありそうで、それは何かを表現する手段とはなっていないような何かだ。要するそれは沈黙のたぐいだ。たぐいではなく、沈黙そのものが君の不在を示している当の現象なのではないか。しかし沈黙の何が現象といえるのか。それが言葉を遮っている現象だとでもいうわけか。誰がいうのだろう。言葉に詰まって意味不明な気分となる。まったく何もありはしない。深夜に目が覚めてわけがわからないようだ。疲れていたのだろうか。二日間も夕方から深夜にかけての記憶がない。どうも語ることに挫折して、本当にあきらめてしまったのかもしれないが、気がつけば意識が戻っていて、気を取り直しているのだろうか。あるいは眠ってしまうことで風邪を引くのを回避したわけか。無意識のうちに何をやっていたのか理解できない。たぶんまたそれで貴重な時間が無駄になってしまったのだろうが、誰かが本当にそう思っているのか否かは定かでない。生身の肉体に宿っているつもりの意識にとってはそうではないのだろう。それは何の罠でもなく、自然の流れに沿った成り行きに違いない。こうして何でもないことについて記している現実がそれを物語っている。その場で考えていたすべてを忘れ去ってしまったのだ。そしてたぶんそのすべては虚構だったのかもしれず、忘れてしまった方が良かったようなことだったのだ。それは本当だろうか。いくら疑念を抱いても何も思い出せないだろう。誰にかにとっては過ぎ去った出来事ですらない。わからないのだが、それはどういうことなのだろう。どういうことでもないからそんなことを述べているのではないか。わからないがそんなことを述べているのはまったく馬鹿げているだろうか。たぶんいくら述べてもそれに対する答えなど出てこないような気がする。ならば君はそこでやめてしまうのか。何も語りもしないうちから何をやめてしまうのか。それもわけがわからない話の展開の一環か。そういうことではないような気がする。そんな現状に言葉によって何らかの必然性を持たせようとしているのかもしれないが、それも違うような気がする。意味不明なのは君も誰かもお互い様だ。何もなくても何とかしようとしているのはご苦労様だ。笑ってしまうが、現状はそういうことでしかないようだ。そして何をあきらめきれないわけでもなく、それでも何かいい加減なことを語ってしまうのもそういうことの延長上なのだ。そんな試みに心を支配されているのだろう。だが無理をすればそれだけ心が虚無に近づき、さらに何も述べられなくなってしまう。この場合虚無とは自らの死のことか。そんなふうに感じるならそれも答えの一つとなるだろう。他にどんな答えがあるというのか。わからないが、そういうことの他に何を感じているのか。どんどんわからなくなっているようだ。人は何のためにそんなことをやっているのか。問いかければ問いかけるほど意味不明となってゆく。誰にとってもそれは同じことのようだが、そんな状況下でひたすら何かをやろうとしても、それが何になるのかわからない。たぶんいつまでたってもわからないだろう。何となく今はそう思ってしまい、それ以上の探求を放棄してしまうようだ。実際言葉を無駄に費やしているだけで、何も探求とはなっていない。どうももはや何を述べても意味不明では済みそうにない。心も状況もそれを超える何かを求めているように思われ、同じような言葉の循環に嫌気がさしているのかもしれないが、それ以外に何があるのか。逆に問い返しても何も出てこない。何かの終わりが近づいているのかもしれない。それはどうにもならないような終わりであって、もはや避けようのないことか。継続が困難に思われてくる。そうだとすればどうしたらいいのだろうか。本当にそこが終わりなら、そこで終わったらいいのだろう。終わらなければ嘘だったということだ。簡単に思われてしまうのだが、本当にそれでかまわないのか。かまわないのならそういうことでしかない。もはや誰かに未来は残されていないのかもしれない。


1月25日

 相変わらずつまらないこだわりから抜け出られているわけではない。そんな調子で何かを述べようとすると、いつもの通りの展開となりそうだ。話とはならずにただ言葉が並んでいる。そんな結果を予想して、事前にやる気をなくしてしまうのだろうか。何でもないようなことを述べているのだろう。ひたすら何でもなく、空疎な語りに心が染まってゆく。それが何だかおかしく、笑ってしまうだろうか。馬鹿げているようだが、そういった試みをやめるわけにはいかないのか。やめられないわけではないが、今のところはやめようとしていない。そしてそれが現状のすべてを構成している。わかりきったことだが、またくだらないと思っているのだろうか。そんな自己嫌悪は偽りに決まっている。そうやって自らに嘘をついている。だからやめた方がいい。何をやめるべきかはっきりしないようだが、たぶんそのときの記憶が定かでない。君はどこまで真実について語れるのか。そこで何を試されているとも思えないが、とりあえず語っている内容は真実から遠く離れている。生身の身体がどこへ追い込まれているわけでもないだろう。君の思い違いは多方面に及んでいるらしい。どんなわけでもないが、そうなったわけを知りたいとも思わず、誰かがひたすら言葉を記しているようで、君とは関係のない現象について述べようとしているが、それが何を意味するかわからないままだ。だがわからなくとも何とかするつもりで、何か適当な言葉を並べているらしい。むろんそのときの状況とは無縁だ。要するに言葉に裏切られているのだろう。君はそのことについてどこまで理解しているのか。事前に知り得た経緯から導き出された結論は、そうした嘘偽りではなかったはずだ。何を見誤ってしまったのか。君に何を尋ねてみても、その説明は要領を得ず、そのすべては枝葉末節的などうでもいい出来事の積み重ねだ。だがそれを今さら言説的な欠陥としてあげつらってみても無駄だ。もう済んでしまったことだろう。誰かはこれから何かを語らなければならないのであって、過去に犯した過ちから何を学ぼうと、今は昔とは状況が違う。だから何だというのか。そういう開き直りは誰かの癖なのか。そこから誰が何を知り得たわけではない。ならばまだ隠された秘密がどこかに眠っているのだろうか。いったい何について語っているつもりなのか。それがわからなければ何か不都合でも生じているのだろうか。取り返しのつかぬ過ちなら今までにいくらでも犯してきたはずか。それは誰のことを述べているのか。それとは何なのか。過ちは後から知るものだ。後から過ちだと気づけばそれで済んでしまう。それの何が取り返しがつかないのか。君は気づいただけで何もしないのか。何もしなければ取り返しがつかなくなってしまうのか。いったい何を取り返そうとしているのだろう。過ぎ去った時間は二度と戻ってこない。それはどうしたのだろう。どうもしないからそのまま受け流してしまう。それで過ちを犯したことになるのだろうか。別にそれが過ちでなくてもかまわないだろう。また何かをずらしてうやむやにしようとしている。そんなはずがない。君はひどい人間だ。まともではない。いつまでもそういう嘘をついている。他に何を述べているのでもない。たぶん思考がどこかの迷路にはまり込んでいるのだろう。それは外界からもたらされた仕打ちではなく、自業自得の物語的な展開だ。君は死の間際に自己否定的な人生の一部始終を告白しなければならない。そういう機会が巡ってくるのは、それがフィクションだからか。偶然の巡り合わせではなく、物語が要求する必然的な成り行きなのであって、君はそれに逆らわなければならなくなり、饒舌になるが無言を貫くか、その場で二者択一を迫られる。あり得ない事態だ。君にとってはそうだろう。そうなる理由などどこにも見当たらないのに、なぜか告白を迫られるのは理不尽な仕打ちか。誰が何を迫っているというのか。たぶん何かを語れば、すぐにそれが告白と見なされてしまうような社会に暮らしているのだろう。そんな社会もあり得ないか。作り話の一部としてそんなことが語られているだけのようだ。今はそう思うしかないような荒唐無稽の感がある。君はそれを感情的に否定したいのか。論理的に話の筋道を辿る余裕がないらしい。誰かが並べた文字列をそのまま受け取ってはならない。それは神の言葉だろうか。またおかしなことを付け加えてみせる。試行錯誤もいい加減なやり方ばかりでは無意味だろうか。おおよそまじめな取り組みではあり得ない。まったく本気になれないのはいつものことだが、それでも何かを語っているような感覚を得られるのは甘えそのものか。何をそんなに甘ったれたいのか。そういうことでなく、どういうことでもなく、やはりそういうことではないだろう。しどろもどろ気味に言葉を繰り出そうとするが、まったくどこにも逃げ道が見つからないらしい。本気で見つけようとしていないのだ。とりあえず今はそれで済んでしまうだろう。そしていつまでもそうだとすると、それは怠惰な努力となり、放棄できないほど無駄な言葉が連なるだけのようだ。


1月24日

 やはり馬鹿げている。何とかしなければならないのだろう。なぜか昨日と同じような時間帯の中に意識がある。虚無の他に何が見出されているのではなく、暗闇の中で光を求めているのでもない。言葉を記す作業から逃れられないようだ。別にどこから逃げようとしているのでもない。気まぐれに言葉をどうしようというのか。どうもしないし、どうにもできないだろう。何をどうしようというのでもなく、何もどうにもできないのではないか。だがすでに賽は振られている。誰の運命でもありはしない。たぶんゲームではないのだ。何が起きてもおかしくない。君はそれほどナイーブではないだろう。だから危険な罠にはまってしまう。この世の矛盾に対応できない。論理的だけでは済まないのだろう。やはりこればかりはどうしようもないようだ。何かが破綻している。たぶんアメリカの次に核兵器を実戦で使うのはイスラエルだろう。君はアラブ諸国で原爆が爆発する様を見てみたいのか。それはどのようなキノコ雲になるだろうか。ありふれた妄想だ。これまでに何度も経験してきたことがまた繰り返される。たぶん何を見定めているつもりにもなれないだろう。人類の愚かさが明らかになるだけか。そもそもメディアは国家に支配されているはずだ。ロシアのテレビ局はそうだ。NHKも部分的にはそうか。だからどうだというのか。何も明らかにできないわけではない。そもそも国内で国家に敵対すること自体が不可能なのではないか。合法的に税金不払い運動など繰り広げることはできない。南極以外は世界中の大地が国内だ。だからこの辺で方向転換してしまうのだろうか。まだ何も述べていないはずだ。別に反国家思想を世間に広めているわけでもない。君には何もできはしない。目下のところ有効な手だてなど何もありはしない。世間とはそういうものだ。そんな世間を相手に何を告発しようとしているわけでもない。要するにそれらの言葉の連なりは意味不明なのだ。しかしそれは以前からわかっていることだろう。わかっているから誰かはそんなことをひたすら記している。何がわかっているというのか。君にはわからない。何もわからないからひたすら沈黙を守っている。だがそれは神の声ではないはずだ。彼の声ではない。言葉を並べることによって何を主張しているわけでもない。そういうやり方自体が無効なのか。どういうやり方なのだろうか。明確な主張が何もない。目下のところはそうだろう。ではいずれはその主張が鮮明に浮かび上がってくるとでも言いたいのか。いったいどこから浮かび上がってくるのか。文章上に決まっているだろう。いつ浮かび上がってくるのか、それが知りたいところだが、少なくとも今ではないらしい。まったくの嘘かもしれない。何もなければそういうことだろう。そしていつもの冗談に違いない。あるいは何かの神経症か。言葉がどこかから外れている。それは何かの症例になるだろうか。君に何が託されているわけでもなく、また皮膚炎か何かがぶり返してくるだろう。誰かに破滅の足音を聞き取る能力はあるとは思えない。自らに免疫抗体がつかなければ何も解決しないようだ。君は状況のどんな変化も受け入れることができない。久しい年月が何かを台無しにしているのか。ではこれまでに述べてきたことが何を示しているというのか。そんなことを知りたいわけではないが、何も振り返ることができず、ただ前進することでしか活路を見出せないのではないか。しかし活路とは何だろう。何が今の君を痛めつけているのか。そういう話でもないような気がしてくる。だいぶ前からそうなのだ。虚無は依然としてそこから動かない。何をどうやってもそれを打ち消す力が健在のようだ。すべての努力を台無しにすることでしかその存在意義を見出せないのかもしれず、それ特有の意志とは存在のすべてを否定することだろう。もとから何も存在していなかったのだから、それにとってはすべてが幻影に違いない。しかし君にとっては何が見出されているわけでもなく、存在も幻影もただの言葉に過ぎず、そのどちらもが不在なのだ。だが不在だからどうだというのか。さっきからひたすらわかったようなわからないようなことを述べているつもりのようで、現状の何を分析しているとも思えない。そして相変わらずまともな言説からはほど遠いような気がしているはずだ。それは誰の意識が思っていることなのか。誰もそうは思わないだろうか。君に何を尋ねているわけではない。事実文章上の問いかけはまったく返答を期待していないそれだ。だから文章になっているのではないか。そこではひたすら言葉が並んでいて、対話とは無縁の自問自答を表しているはずだ。文章上で対話など不可能だろう。本当にそれがあるとすれば、それはフィクション上での対話だ。対話のふりをしているだけなのだろうか。そうだとすれば文章は不可能を内包しているわけだ。そこで何も主張できないのではなく、何かを主張しているふりをすることができるだけで、何を主張しているつもりでも、実際にはフィクションの範囲内で主張しているに過ぎない。果たして君はそれで気が済むだろうか。


1月23日

 そんなことはあり得ない。確かにそうだが、それでもかまわないだろう。実際に言葉を記しているのだから朗らかな気分ではある。馬鹿げているだろうか。それはいつものことだ。何が哀しいわけではないし、そういう言葉は状況に当てはまらない。言葉の問題ではないだろう。何も感じないのだからそれは嘘になる。どこまでも通り過ぎているようだ。何を通り過ぎているのかわからないが、とりあえず通り過ぎている。何に対しても効果が期待できないような何かを通り過ぎている。それは何なのか。わからないからいつまでたってもそれになる。そんな嘘はくだらないか。嘘でないとしたら何なのか。実際に何に遭遇しているとも思えない。それでも何とかしようとしているらしいが、何にもならないようだ。現状では何も思いつかない。突然何を思い出したのだろう。何も思い出せないと言ったら嘘になるだろうか。誰も何も言っていないだろう。言葉を記しているだけか。どうやらそれ以外にはあり得ないようだ。それの何が気に入らないのではなく、結果的にそうなっているだけだ。やはりそれも何でもないことか。それは人としての習性かもしれない。作り話の中では誰も人ではないかもしれないが、何となくそういうことのようだ。わざとわけがわからないように語ろうとしている。それがわざとらしい。他にやりようがないのだからそうなってしまう。嘘かもしれないが、何となくそんなことを述べているようで、それは思いもしなかった展開になるだろうか。当初は何を想い描いていたのか。そのときの話をにわかには思い出せない。何もないのだからそういうことだ。要するにさらにずれているわけで、何もかもをずらして言葉をつなげている現状があるらしいが、肝心の中身が空っぽだ。今はなにについて語っているのか。語っていないのかもしれない。誰でもない誰かでもなく、君でもなく、ただ誰も語っていないのだ。その代わりに虚無が言葉を記している。そんなのは嘘か。冗談にもほどがあるだろうか。それほどのことでもないだろう。もとから何でもないのだから、そういう空っぽの内容もありふれた展開の一つに過ぎない。誰かはそれでも言葉を記すことが可能だが、今まではそれを封印してきたわけではない。嫌なときでも嫌でないときでも、そのすべての時間と空間の中に誰かの意識がある。作り話の中でなくてもそうだ。たぶんそういうことにしておいた方がいいのかもしれない。何かの間口を広げているとも思えないが、入力に対応して出力がある方がおかしい。何も入っていないのに、唐突に何かが出てくる方が自然だと思われる。言葉は気まぐれで、何の必然性もなくても否応無しに文章として記されるわけだ。そこにどんな思惑も意図もありはせず、ただ純粋というわけでもないが、何となく何かを述べている現状があり、それが誰を困らせているとも思えないが、勝手に何かを述べているわけで、ひたすら語る対象とは無縁に語ろうとしているようだ。もちろん誰が語っているわけでもなく、何となくそういうことの積み重ねとして文章が構成されてしまうのだろう。だからそれは何を示しているかなんてどうでもいいことだ。君にとってはそれで正解だ。正論であり虚構でもあるような何かがそこに提示されているわけだ。嘘に違いない。そして何かがどこかをさまよっている。意識してそうなのかもしれず、無意識がそうさせているのかもしれないが、さまようことが文章として示される。その一部始終が空疎な内容を伴っていて、それを読んで何を想うこともないだろうが、読んでいる事実が君を何かの迷宮の中に誘っているような気にさせるかもしれず、それが何かの勘違いを呼び覚まし、何か大げさな秘密が文章の中に隠されている気にさせる。また嘘をついているようだ。思いもしないことを述べている気がしてくる。しかしたぶん今しかない。これを継続させるにはこういうやり方しかない。やはり勘違いのなせる業か。何かに魂を売り払ってでもやるようなことではないだろうが、とりあえずここまでやってきたようだ。どういうわけでもなくここまで何かを書き記してきたのだろう。馬鹿げたことかもしれないが、冗談でかまわないのだろうが、とにかくそんなことを述べているようだ。そんなこととはそんなことだ。どんなことでもなくそんなことだ。少なくとも気休めに述べるようなことではない。どうでもいいのにそんなことを述べている。たぶんだから行き詰まってしまうのだろうが、何となくそれでもかまわないような気がしてきて、愉快な気分になっていることに気づき、画面の前で笑っている。得意満面というわけではないが、空疎なことを語るのにも何らかの効用があるらしいことをわかったつもりになり、それ以上の何かを求めるのは筋違いかもしれないが、ひとまずそれで満たされたつもりになる。それはかなり馬鹿げていて、くだらないかもしれないが、やはりとりあえず壁の向こう側に回り込むことができたように思う。それは様々な迂回路のうちの一つなのだろう。今までに隠されていたわけでもなく、それどころか以前にも通ってきた道なのだろうが、何となくそうすることが必然のような気になってくるのが不思議だ。やはりそれは勘違いなのか。


1月22日

 どうかしているのかもしれない。たぶんいつもどうかしている。そんなつもりになってその続きを記すのだろうか。気まぐれにそんなことを記してみる。何かが馬鹿げているのは承知しているはずだが、いったい何が馬鹿げているのか。言葉を記そうとしていることか。たぶんそうなのだろう。まじめなことは良いことだ。嘘のつもりでそんなことを述べてみる。冗談にもほどがあるだろうか。いったいどこの誰がまじめになれるというのか。そういうことではない。たぶんそうに違いない。何でもないからそんなことを述べているのだろう。それについては今後ともゆっくり考えてみたらいい。聴いているのは誰かのライヴ演奏だ。別のおちゃらけているのではないはずか。何を確認しているのだろう。このままではたぶん簡単に苦難を乗り越えてしまうだろう。そんな気がしてくる。人は何なのか。人ではないから人なのか。そういう逆説は意味不明でありふれている。たぶん人は神なのだろう。自らの内に神が宿っているから人なのか。何を神がかっているのか。むろん冗談でそんなことを述べている。目が疲れているのかもしれない。ぼやけて見えている。失明の危機なのか。そんな作り話も迫真に迫っていない。すべてが冗談だとは思わないが、どうも本気ではないらしい。何かが違っているのはいつものことだ。懲りずにいい加減な言説を弄しているだけだ。今はそうでもないらしい。嘘かもしれないが、迫真の演技にはほど遠いだろうが、何となく意味不明を演じているようだ。それこそわけがわからないか。誰のことを述べているのでもない。誰でもないからそんなことを述べられるのだろう。では何を顕示したいのか。何かもかもが意味不明というわけではなく、そうなることを待ち望んでいるわけでもない。君には何かが取り憑いている。作り話の中ではそうなのだろう。それは何の但し書きとなるべきなのか。わけがわからないでは気が済まないのか。それ以上を望むとしたら、あとは気が狂うだけか。その時君は誰でもない誰かを成り果てるわけか。誰がそんな物語の実現を望んでいるわけでもあるまい。ただ現状を何とかしたいだけだ。果たして君にそれができるだろうか。やってみなければわからないだろうが、現にやっているそれは何なのか。ただの戯れ事か。何と戯れているわけでもなく、言葉とも虚無とも戯れているつもりなのかもしれないが、実際にはそのすべてが空振りに終わっているのかもしれない。しかし現状では空振り以外の何を望むことができようか。ただ冗談でそんなことを述べている。それでも君は何とかしたいのだろう。結果的には何ともなっていないかもしれないが、人知れず努力を惜しまないその姿勢がいつか報われる日が来たりするわけか。それこそ幻想でしかないようだ。目下のところはそうだ。他に何を付け加えているとも思えない。それが現実なのだから、受け入れる以外にあり得ないか。だからひたすら黙っているわけか。しかし壁に掛かっている自画像に向かって自問自答を繰り返しているのだから、それは狂人の動作だ。そんな光景を想像して笑い転げるのも、作り話の中での出来事か。そんなことを今までに語ったことがあっただろうか。誰が語っているのか。君に決まっているか。そうでないとしたら誰かとは誰なのだろうか。そういうずらしがわざとらしい。話になっていないのも話のうちだ。君のやり方はいつもの通りで、その動作も毎度おなじみのそれだ。だから何だというのか。何でもないからそういうことになる。そうやって何かを指し示そうとしているのだろうか。何もない空間に向かって指差している姿は何なのか。誰かの銅像に違いないが、それはアウグストゥスのそれか。思い浮かんだのはありふれた像に違いない。死の直前の悪あがきではあるまい。もう誰も死にはしない。今さら作り話に変更を加えてもそうなってしまう。結局話が破綻しているのだ。何を語っていることにもならないのもいつもの通りだ。君がこの世界に何をもたらそうとしているのでもない。ただ暇つぶしに音楽を聴いているだけだろう。それとこれとはまったく異なる。それもこれも知りはしない。両者が出会うことは永遠にない。両者ではなく、いつまでたってもそれとこれなのだ。だから何とも思わない。ため息が出るが、そういうこと以前に何があるわけでもなく、起源も終焉もない。何も始まらず、いつまでもたっても何も語っていないのに作り話も何もありはしないだろう。君はそれでもかまわないのか。かまわないからこうして誰かが記している文章を読んでいる。そしてひたすら黙り込むしかないようで、何の感想も抱けず、困っているわけでもないが、何となくだまされたような気分に近いのかもしれない。君はまったく期待はずれもいいところか。もとから何に期待していたわけでもないだろう。何ももたらせないのだから、別に何らかの返答を期待するのはお門違いだ。君はその先で待っているはずだ。いつも手ぶらで何をしたいわけでもなく、何について考えているわけでもない。そうではないのと思いたいのだろうが、そう思うしかない現状にとらわれているはずだ。


1月21日

 誰かは今頃になって言葉を記し始める。できないことをやろうとしているのだろうか。いきなりくだらない気分になる。たぶんやる気がしないのだろう。今はそんな気がしている。気まぐれにぼやけた動画を見ていて、目が疲れているのか。それの何が気まぐれなのか。そういう返しがつまらない。ならばそうではないと思う。何について述べようとしていたのだろう。ありふれたことだ。気まぐれや気晴らしでそう述べているのではない。では何が気に入らないのか。気に入らないのはそんなことではないか。現状が相変わらずだからか。この世界が何のために存在しているのでもなく、神の存在が人々が抱く幻想と関係していて、そこから何か意義があるような言説へと導かれているような気にさせるからか。やはりそういうことではない。だがどういうことでもないとすると、たぶん君の知ったことではないのではないか。だからさっき、やはりそういうことではないと述べたではないか。述べていることが理解できないようだ。誰かがそんなことを述べている。では他の人々は何に興味を抱いているのか。けじめがあるわけではないが、公私混同というわけではないだろう。それは何のことか。君にはわからないだろうが、誰にとってもそうかもしれない。まともに理路整然というわけにはいかないらしい。漫画の中の戦いに興味があるわけではなく、スポーツの結果に一喜一憂しているとも思えず、現実の戦争に参戦しているわけでもない。だから何なのか。何でもないから平和に暮らしているのに、それでも他人の言動が気に入らないらしい。勝手な行動にもいちいち目くじらを立てたいのだろう。まったく人は気に入らないことを糧として生きていくしかないようだが、それの何が本質的な感情を示しているのか。何が本質なのだろうか。他人と争わなければ手持ち無沙汰なのだろうか。そういう次元でものを考えるのは下品か。何も考えていることになりはしない。たぶん違っているのだろう。何が違っているかといえば、それは何だろう。何も思い浮かばない。そういうことを述べていてはだめなのか。ただの支離滅裂に違いないが、それしか述べられない。今はそんな気がしているようだ。だがそれはさっきまでの今であり、今現在は違うかもしれない。だから今はそんなことしか述べられない。それは冗談か何かか。たぶんそれだけはないのだろうが、そこで考え込んでしまう。あと四日しかないが、日付が違っている。焦っていることは確かだが、なぜかそれを無視して無駄に言葉を記していて、それがある日の生活の一部分を形成している。聴いているのは四人の英雄の曲か。その調子なのだ。勝手に思いつくそれは論理的ではないようだ。だから支離滅裂だと自覚しているだろう。夜の曇り空が誰かを活気づかせる。意味不明だ。求めているのはそういうことか。誰が求めているのか。政治状況とは関係ない。では誰が何を求めているというのか。そういうことを述べているのではない。そんなわけで簡単に拒絶されてしまうが、誰かは幻想を抱いていたらしい。その幻想の中身を知りたいのか。君が知りたいとは思わないだろう。ありふれた曲だ。あまり考えていないのかもしれない。何も考えていないのだろうか。今はそういうことにしておこう。それでも何とかしようと努力しているのだし、現に意味もなく言葉を連ねている最中だ。では何に気づいたのか。もう何もあてがない。頼るべき物事を知らない。聴いているのは誰かの音楽だ。それだけのことが延々と述べられている。歌っているのではなく、語っているつもりなのだろう。そのまま語り続けてかまわないのだろうか。君に同意を得ているわけではなく、自問自答を繰り返しているわけでもないが、ただ意味の定かでないことを語り続け、言葉を記しているらしい。誰かはさっきからそんなことを述べていたのではなかったか。誰に尋ねているのだろうか。話を聞く相手を間違えていないか。不在の誰かについて語る必要を感じられず、君のことなど知るわけもなく、誰でもない誰かについて語っているのでもない。ただそういうことにしておきたかったのだろう。この地球に暮らしているのは誰でもない。人は人ではなく、ゴミや芥のたぐいなのか。たぶんそれでも人なのだろう。金を稼ぎながら暮らしているだけか。それが幻想の報酬だ。人はそこで立ち止まる必要があるのだろうか。自らが何のために生きているのかを問う必然性があるのか。いったい誰に向かって問うているのだ。まともな返答など期待していないようだ。空に向かって誰かが叫んでいるようだが、きっとそれは芝居か何かだろう。誰かがそういう者を演じているわけだ。だからそれらの映像が何を意味しているわけでもなく、それは人の行動パターンの中の一動作に違いない。君はそれを見ても何とも思わない。愚かな行為だと蔑む気も起こらず、ただ黙って眺めている。神はそれらの人々に何を期待していたのか。死んだ人々が生け贄だとは思えない。たぶん何でもないのであり、人が死んでも生きても何でもないのだ。それらは罪でも罰でも報いでもない。


1月20日

 またこんな時間帯の中に意識が舞い戻っている。今は昼だろうか。別に居眠りの最中ではない。誰が何について語っているとも思えないが、意識は誰かの意識には違いない。たぶん何か適当なことを思っているのだろう。今でもそう思っている。それは無駄な言葉の中の意識であり、誰かの思い込みなのだろう。さらに言葉を進めなければならない。そんな思い込みがそれらの文章もどきを支えている。継続させることがそんなに大事なのか。何を続けようとしているのだろうか。心の動揺を抑えきれないわけではない。そういう状況ではないのだろう。たぶん勘違いのたぐいだ。そして現状に戸惑うための何かが欠けている。それは戸惑わなければわからないことであり、わからなければそれでもかまわないような何かだ。そしてそれは嘘かもしれず、本当な何もわかっていないのかもしれない。いい加減なことを述べているようだが、やはりその場ではわかるわからないはどうでもいいことなのか。どうでもいいからそんなことを述べている。しかしもう目が覚めただろうか。死人が目を覚ますわけがない。死人のことを述べているわけではないはずか。さっきまで居眠りをしていたのは誰かの方で、君ではないらしく、やはりそれもどうでもいいことのようだ。さっきからそんなことを思っている。どうやらひたすら言葉を連ね続けるのは無理のようだ。その前にあまりにも考えすぎている。虚無について述べているわけではないが、人は他に何かを考える。これからのことについて、どのように考えたら合理的な結論を得られるだろうか。まだ意味不明の域を脱していない。しかし昼なのに暇な人が大勢いるようだ。それでも人は生きている。ひたすら生きているわけではないが、とりあえずこの時間帯では大勢の暇人が地上をうごめいている。暇人ではないかもしれないが、何となく理由もなくそういうことにしておこう。政治とは何だろう。調和のとれた未来を思い描くこととどんな関係にあるのだろうか。いったい政治家は何について語るべきなのか。君にわかるようなことではないのかもしれない。それは誰にとってもわからないことか。少なくともわかりづらいことではありそうだ。言葉によって何を実現させようとしているのでもない。たぶん誰かは何かを実現させるためにがんばっているのだろう。言葉ではない何かによって実現させようとしている。しかし意味がわからない。イスラエル軍はガザ地区で大規模な害虫駆除でもやっていたのか。唐突にそんな非人道的なことを思い浮かべてみる。誰を挑発しているわけでもないが、そこからどんな突破口が開けるのか。どんなではなく、そんな現実なのだ。現実が過ぎ去り、人が害虫である可能性について論じる気にはなれず、居眠りの最中に見た夢の内容も忘れ去られ、さらに状況は何でもないような成り行きになっているようで、人々はその場で適当に暮らし続ける。その場合未来は誰のためにあるのでもなく、ただ無人の広野が広がる世界を思い描き続ける神がいるだけだ。そんなのも嘘か。君には何もわからない。わからなくてもかまわないからわからないだけではなく、わかってしまっては神が困ってしまうからわからないのではないか。未来を見通せるような力を持っていないから人が人として存在できるのか。そういう言い方はおかしい。たぶんこの世界に向かって何を問いかけているのでもないのだろう。人はひたすらそこで生き残ろうとしているだけだ。何かをわかるということは、君には不可能なことだ。わかり得ないからくだらぬ妄想を抱いている。わかってしまえばそれらは何でもなくなってしまうだろう。正気でない無内容の中にそれらの言葉が連なっているだけのことに、画期的な何があるというのか。誰かは冗談の続きでは済まないようなことを述べているらしいが、それらはかなりいかれた内容になっているだろうか。君にどんな解釈や認識がもたらされるとも思えない。自分が何を述べているのかわからないはずだ。そして意味不明な自らの存在について何を想うこともなく、そこに誰が不在なのかも認識できない。まったく魂のかけらもありはしない。誰かは文章の中で何かの片鱗が伺われなければ気が済まないのだろうか。もとからそんなたいそうなものではないだろう。いったいそれらの現象にどんな期待を寄せていたのか。何もわかっていないようだ。本当に君は何もわかっちゃいないが、何がそんなにおかしいのだろう。さっきから作り話の中では笑い転げていることになっている。くだらぬ空想だ。それはくだらぬ空想だ。自意識が何をもたらしているのでもなく、この世界にある何を否定しているとも思えない。まったく冗談がきつい。何かきつい冗談を述べただろうか。嘘に決まっているだろう。たぶんわからない。何か適当なことを語る必然性を感じられず、またしても意味不明気味に文章を閉じようとしている。それは君の常套手段かもしれないが、記しているのは君とは別人か。誰かはそんな嘘も記し飽きたかもしれない。まったく本気になれないようだ。何を言われても馬耳東風のふりをしている。


1月19日

 何かの力が弱まっている。そんな感じがしているだけだろう。たぶんどうでもいいことであり、それが何の先なのかわからないが、その先にどんな言葉が続くのだろうか。結局のところ何も出てこないようだ。何を述べようとしているのでもなく、またそんなところで行き詰まっている。それでどうしたのか。誰かは妄想を抱きながら生きている。生きてはいないのかもしれない。生きようとしていないのだ。だが死んでいるわけではない。ではどうしているのか。空白に言葉が記され、誰かがそれを読み返してみるが、どうしても文章が意味をまとうことができないように思われ、だから意味不明なのかもしれないが、たぶんそれは気のせいで片付けられる。それでも徐々に何かを語っていけば、何か意味らしきものを文章の中にもたらせるはずだ。それが幻想なのだろうか。この際妄想も幻想も同じような概念か。そこで何かを見失っているようだが、見失った何かを探し出すことができるだろうか。しかし何かとは何なのか。性急に答えを求めても、わからないものはわからないだろう。粗雑な言説の中に苦し紛れの何かが紛れ込んでいるが、それは所詮言葉でしかない。君はそれをわかっているはずだ。そしてわかっていてもわからない。そうやってわざと矛盾したことを述べている。だから何がわからないということではなく、たぶんそういうことなのだろう。そういうこととはどういうことでもないということだ。時にはそれが思い違いということもあるはずで、状況的にどれほど追いつめられているわけではなく、いくら精神的に追いつめられていようと、まだ眠ってしまえる余裕が現にある。要するにこの先どうなってしまってもかまわないということか。いったい何がどうなってしまうのか。何がどうなろうと、今はそんなことをいちいち気にしていられる状況ではないのかもしれず、ただひたすら言葉を記している最中かもしれないが、一向に文章の終わりが見えてこないのはどういうわけか。それは終わりのない文章なのだから、これで終わりということはないのかも知れない。本当にそういうことかもしれないが、いつまでも言葉を連ねていることはできない。できなければやめてみればいい。何を挑発しているのか。何もないのだから意識も人格もありはしない。しかし心の片隅に虚無が宿っている。それが何になるのか。きっと気のせいだろう。心などという概念も幻想だ。心があったりするから感情的になってしまうのか。感情的になって他人を非難すると鬱陶しいか。端から見ればそうかも知れない。他人が思い通りにならずに逆上する様は見ていて愉快だろうか。何を意地悪なことを述べているのか。何でもないことだ。実際に誰がそうなっているわけでもないだろう。今はそうだが、どこかでそういう光景が見られるかもしれない。誰かにはそれが見苦しい光景に思われ、思わず目を背けたくなってしまうようだが、本心からそんなことを述べているわけではない。しかしそれを黙って受け流しているのは誰でもない。過ぎ去った出来事を思い起こすにも至らず、終わっているならとっくに終わっているはずだが、何が終わっているのかわからないままに、まだこんなことを述べている状況の中に意識があるらしい。現状はどう考えても何かの途中だ。何も兆候がなければそういうことでしかないが、本当にそうなのだろうか。何もなければそこに疑念があるというわけか。そんなことは何でもないが、それは偽りの何かかもしれない。素直に考えるならそうだ。素直というには語弊がありそうだが、たぶん何かを思うとはそういうことなのだろう。誰かの勝手な解釈かもしれないが、それは何に対する解釈なのだろう。君にとってはそれではないのかもしれない。解釈以前の印象に過ぎないか。何となくそんな気がするだけで、はっきりしたことは何も述べられない状況にあり、それが言葉を連ねる上で有効に働いているわけか。しかし何のつもりなのだろうか。何様のつもりか。そうではない。たぶんどういうことでもなく、そういうことなのだ。すでに何について述べてきたのか忘れているはずだ。その先に言葉を連ねるには何をどうしたらいいのだろう。だからそれを考えている最中なのではなく、すでに言葉を連ねている最中なのだ。暇でもないのにひたすらそんなことをやっている。それが無駄だと思えばそうだろう。では無駄であることは無敵の行為か。なぜそういう発想に至るのかわからないが、関係ないと言えば関係ないのだろう。何が関係ないのかといえば、無駄であることと無敵であることだろうが、それは無謀な結びつきを想像させる。そんなのは嘘に決まっているだろうが、要するに誰かは虚無的に無駄と無敵と無謀を結びつけるふりをしているわけだ。まったく冗談にもほどがありそうだ。同じ文の中で三つの単語が記されていれば、それは文章的に結びついていることになるのか。何かを間違って用いているだけか。その何かとは何なのか。今回はそればかりのようだが、たぶんそれが明かされることはない。わからないから明かすことができないのではないか。


1月18日

 いったい君は何に興味を持っているのか。愚問とは何だろう。時間がないようだ。何かが途中で止まっている。そんなもんなんじゃないだろうか。何がそうなのか。まるで指人形を操っているようだ。いつものように何とも思わない。何をどう思っているのかさえわからない。わかろうとしていないのもいつものことか。やはりそんなことには興味がないようだ。うまくやろうとしてもだめなときはだめだ。つまらない出来事が続き、それが原因とは思えないが、何も思いつけなくなった。言葉にこだわらなければいい。それだけのことなのだろうか。たぶんくだらないことだ。何にこだわってもどうなるものでもなく、現状は変わらない。君はなぜ彼について語らないのか。彼が君ではないからか。粗雑な言い回しには飽きている。それだけなのだろうか。金を稼がないと生活できないか。なんて簡単な言い草なのか。そこに至るまでの紆余曲折はどこへ行ってしまったのだろう。活動的でなくなってしまったらしい。そして口を開けば他人の悪口しか言わない。惨めなものだ。人々は何にそんな大金をつぎ込んでいるのか。世の中の無駄をすべて省いてしまったら、公務員もテレビタレントもいらなくなってしまう。君はそういう水準で語っているのではない。完全に語るべき内容を見失っているだけだ。では他に何を思いつくべきなのか。そういうことではないのは明らかだ。笑っているだけではわからない。雰囲気も何も伝わってこないだろう。まだ何も述べていない。誰も何も述べられず、空疎な言葉だけが虚しく連なる。誰かがその場の空気を読んでいるようだが、そんな映像に興味があるわけではない。なぜ仕事をしなければならないのか。冗談でそんなことを述べているようだが、誰もが仕事をする必要はない。競争そのものが破綻している。もうこの世界は一握りの人たちで構成されているわけだ。世の中は競争に破れた敗者たちであふれかえっていて、いらない人たちで飽和状態だろう。生きている意味のない人たちはその他大勢でしかない。そこにどんな夢があるというのか。それが誰かの勘違いである理由を見出したいわけか。ぬるま湯につかっていればそれでかまわないのかもしれない。しかしそれは本当に一時的な現象なのだろうか。君が世の中から受け取ることができるのは娯楽しかないのか。それはメディアを介して受け取っているだけだ。それ以外にあるのはつまらない日常生活だけだろうか。何にも興味を持てないからそう思うだけだ。確かに君に関する作り話の中ではそうだ。そこで何かを解き明かすことを放棄しているようだが、謎解きや宝探しだけではつまらない。その辺は誰もが勘違いしていることで、要するに仕事がすべてなのだ。娯楽は付け足しの浪費要素でしかなく、仕事で稼いだ金を娯楽につぎ込んで、そこから快楽を得ていると勘違いしているわけだ。幻想の虜となっているだけだ。それを知っている誰かはただひたすら待っている。果たしてそれ以外を実行する機会が巡ってくるだろうか。今がそうなのか。部分的には言葉を記しているだけのことに全霊を注ぎ込んでいるつもりになっている。嘘に決まっているが、そういうことだろう。実質的には何でもないことだ。しかし哲学とは何なのか。すでに滅び去った学問の一分野なのかもしれない。君はさっきから音楽を聴いている。気晴らしのたぐいだろう。ではニューヨークの秋がどうしたというのか。そんな曲名を記しているだけか。四月のパリもそれと似たようなものか。どうもそこから言葉が進まない。軽い行き詰まりか。別に他に何があるわけでもなく、ただ音楽を聴いているだけの時間だ。それだけで気が休まるわけか。馬鹿げているだろうか。そうではなく、虚しい気分にでもなるのだろうか。それも違うと思われる。何かが違っているのだろうが、それは昔からそうだ。また以前と同じようなことを述べている。語りたいことが文章となって出てこない。それは語りたいことがないからだ。誰かと誰かがテレビ画面の中で争っている。国家が国家を保つために何をやっているのだろうか。くだらないことだ。それは詩的な試みとは何の関係もないか。まさに馬鹿げたことだ。そういう言い回しが意味不明で馬鹿げている。わざとそうしているのだから、予定調和の範囲内だろう。君にとってはそうだが、誰かにとってはそうでもない。面倒だからわざとそんなことを記している。それも意味不明の続きだろうか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。君はそれが違うと思う。話になっていないようだ。実際にはそういうことではないのだろう。そう記すことによって過去に犯した罪を償おうとしているのではないはずか。さらに意味不明だ。まったくやる気がないからそういうはめになってしまうようだ。本当にそうだろうか。しかしなぜ人は逆境から這い上がろうとしているのか。また冗談か。他人から不快に思われていることに気づかない人は悲惨だろうか。そういう君はどうなのか。何かの被害妄想に染まっているのかもしれない。だがそれでうろたえることがあるだろうか。答えは否だ。


1月17日

 なぜか今日は何もできない。ただ言葉を記せないだけだろう。昼は仕事をしていたはずだ。ではなぜ時間に追いつけないのか。それは考える余裕がないからだ。意味がわからない。そんなことを考えているうちに、また眠ってしまったようで、気がついたら翌朝になっている。そして相変わらず何も語ることがない。いったいそれの何が冗談なのか。誰が冗談だと思ったのか。実際に冗談ではないだろう。本当にそうなのだから他に何を付け加えても、それは嘘になる。何が本当なのかわからないのだが、とりあえず何か適当に記してみるが、しっくりこない。今は昼だが、それは途中の時点でのことだ。昼休みか何かだったのだろう。それは何でもないことだ。ただその時点ではわけがわからないようで、なぜかそれがおかしい。何がわからないのかわからない。文章的にはすでに破綻しているのではないか。それで別に笑っているわけではないが、とりあえず無駄に言葉を連ねている現状がおかしい。そしてそんなことを記している意味がわからない。意味もなくおかしいだけか。意味ならさっき示したはずだ。君にはそれがわからない。何か他の言葉が必要なのかもしれない。それは君には思いつきそうにない言葉だ。嘘かもしれない。何を迷っているのだろう。今さら道に迷っているわけではないはずか。誰かから笑みが漏れている。呆れ返っているのだろうか。勝手に述べていればそれでかまわない。それ以外にはやりようがないはずだ。現にそういうことを述べて、暇つぶしの一環となっているわけだ。また嘘をついているのだろうか。そうに違いないようだが、やはり他に述べるべきことが見つからない。述べるべきことではないだろう。述べなくてもいいことを述べているはずだ。なぜそうやって自らの精神を窮地に追い込んでいるのか。それは冗談かもしれない。冗談でなければそんなことを述べないか。しかし窮地とは何だろう。その意味を知りたいわけではなく、ただそんな疑問が意味もなく繰り返されるのが、ここでの成り行きのはずだ。ならばこことはどこなのか。それも繰り返し出てくる疑問の一つだ。そういういつものパターンから脱却するには、そうではないようなことを述べる必要がありそうだ。だがそれも以前から繰り返し述べてきたことかもしれない。そんなことを述べてきた結果がこれなのだ。君はこれについてどう思っているのか。何かの歩みが止まっている。何かとは何なのか。またそれだ。まさにいつもの成り行きとなってしまい、そのパターンが延々と続いてしまう。ますますわからなくなる。堂々巡りばかりで、言葉の迷路から外に出ることができない。それも冗談の続きなのだろうか。冗談に逃げているわけではない。では何を否定しているのか。冗談ではないと述べている。それが冗談ではないのか。そういうことかもしれない。では何を肯定しているのか。こういう現状を肯定している。そこには何かの壁みたいなものがあって、それ以上は語りを前進させられないような状況になっていて、無理に言葉を繰り出せば以前と同じようなパターンの繰り返しとなってしまうらしい。君もそんな事実に気づいたはずだ。だから笑っているのか。外はありふれた天気だ。冬で寒いのだろか。それは何かの集会場だろうか。折りたたみいすが整然と並べられている。それは空想ではなく、何かの光景が画像の表面上にある。誰かが気をそらしているようだ。現実を直視し続けるのが面倒くさくなったのだろう。馬鹿げたことはどこまでも馬鹿らしい。いつまでも馬鹿げたことを述べていても何も打開できない。それはまったくくだらないことだ。だからこうなってしまったのだろう。そして意味もなく笑い続けている誰かがいる。いったい何を語りたかったのだろう。何も語りたくはなかったのかもしれない。つまらないことを述べている。そればかりではさらにつまらなくなってしまいそうだ。だからもう無理に語る必要はないのではないか。そうかもしれないのだが、誰かは未だに言葉を記し続けている。それがわからない。冗談なのにわからない。たぶんそれは冗談ではないからだろう。心が腐りかけているのかもしれない。それはスマートな対応のおかげか。何に対して対応しているのか。君の知ったことではないが、それは何かが発せられたときの決まり文句だっただろうか。君が発した何らかの言葉に対応して、知ったことではないと記されたのかもしれない。そしてそんなことを述べていてはさらにつまらなくなってしまうだろう。それでもかまわないからそんなことを述べているのではないか。そうだとしたらどうだというのか。誰と誰が言い争っているわけではない。さっきから誰かが笑い続けているだけかもしれず、それが嘘だとしたら、苦し紛れにそう述べているだけだろう。何となくそれで現状を理解できたようなつもりになる。今はそういうことを述べる時期なのかもしれない。特に理由はないが、ひたすら言葉を記し続けていると、やがて何かが飽和状態に達してしまい、それ以上は何もまともに述べられなくなってしまい、それが今到来しているわけだ。しかしそれの何がおもしろいのか。また苦し紛れにそういうことを述べてしまう。


1月16日

 いったい誰が神とともにあるのか。また誰かはいい加減なことを語ろうとしているのだろうか。それの何にうんざりしているわけでもなく、その心は現実の世界で何をとらえているとも思えないが、何となくそういうことを語り始めなければならないらしい。それはまたしても虚無についてだろうか。そう思ってもらって差し支えないが、何かの巡り合わせで、たまにはまともなことを述べている時間帯もあるかもしれない。今がそれであることを期待したいが、実際にはどうなってしまうのか。気概とは何だろう。冗談のたぐいかもしれない。他に何を示すべきなのか。言葉であってはならないのだろうか。それとは何だろう。何がそれを指しているのか。たぶん何かの方向ではない。何でもないことの一部として言葉があるらしいが、そこに何か意味でも付与したいのだろうか。言葉の使い方がおかしいか。とにかく言葉が人を幸せにするわけにはいかないらしい。そういうとにかくはどういう成り行きで使われているのだろう。何かを否定したいわけか。それらの作用のすべてを否定するわけにはいかない。何らかの効用を顕揚したいのか。さらにおかしくなりそうだ。現にそうなりかけている。君は常識から外れていることを誇りたいのか。言動に注意しているわけではない。注目すべき対象を見失う。そうなることを見越して空疎なことを述べていたのではなかったか。何もない時にどう述べるかが肝心なのだろうか。だがそれでは技術論のたぐいになってしまう。それでかまわないと思うなら、そういう話になってしまうだろう。そこからどうやって言葉を届かせようというのか。誰かは他の文章など何も読んでいない。そこから致命的な欠陥が生じていて、それを見過ごしているわけではないが、何となく放置しているようだ。それを防ぐ手だてを見出せない。いい加減な現状に意識が溶け込んでいるらしい。何かが違っているのだろうが、違ったままでもかまわないと思っている。それ以上の何をやれというのか。何か天啓でも受けているのだろうか。神から何を授かっているとも思えない。たぶん神の話でもないのだろうが、実際の心は虚無にとらわれていて、空洞と化している。そう思いたいのは怠惰のなせる業か。継続をあきらめてしまいたいのかもしれない。まったく溜息が漏れてくるようだが、それは架空の世界でのことか。そんな意味不明ないいわけにうつつを抜かしているわけか。そういうことではなく、それはわかっていることだ。わかっていないからそういうことを述べているのではないか。誰と対話しているのか。冗談に違いない。冗談は至るところにあり、劣悪な人々は神なしでは生きていけない。不信心者の君には受け入れ難いことか。聖書とは何だろう。人々の要求に応えてはならない。聖書の教えに背くことになるのか。それは冗談の続きになりそうだ。胸に突き刺さるような言葉がどこで発せられたのだろう。君は行動しない。たぶん傍観者なのだろう。彼らはがれきの山の中から何を探しているのか。まったくどこに信念があるのかわからない。何がそんなにおかしいのだろう。支離滅裂なことを述べているのは毎度のことだが、その真意がわからない。そんなものなどありはしないといえばそうなのかもしれないが、君の心はそこから離れられない。嘘に決まっているか。それは近頃の決まり文句だろう。いつからそうなのではなく、気がつけばそうなのだ。しかしいつ気づいたわけでもないだろう。すべては嘘から生じていることなのか。嘘でもかまわないと思う。それらのどこにもこだわりが感じられず、文章になっていないような気がするが、やはりそれでもかまわないのだろうか。かまわないと述べるしかないのかもしれない。他に知らないことがいろいろありそうだが、見慣れている風景は一向に変わらない。別に何を変えようとしているのでもないだろう。彼には何も変えられない。彼とは誰なのか。名指しできないほど無名な人間なのだろうか。何も変えられないのだから、そんな人間について何を述べても無駄だが、本当は誰について述べるつもりだったのか。本当も嘘もありはしない。ただの作り話だろう。何を考えているわけでもなく、それは何でもないことだが、相変わらずわけがわからない。近頃はそればかりのようで、自業自得気味につまらなくなっている。そういうことではないと思いたいが、こればかりはどうしようもなく、それについて何を想っているわけでもない。本当に何が気に入らないのか。本当は考えられないような話の内容にしたいが、今となってはそれも嘘に近いだろう。誰かがこちらを向いているように見えるのだが、それは鏡に映った自分の顔だろうか。誰かの意向が画面に投影されているのかもしれない。そこに記された文字列が君の存在を排除しようとしている。妄想とはどういうものだろうか。でたらめは妄想とは違うのか。そういう話をしたいわけではない。何を真摯に受けとめる状況にもなっていないようだ。自らが述べていることに矜持を持てないようだが、自らの存在をくだらないと思ってはいけないのだろうか。君はそこで何を確かめようとしているのか。


1月15日

 責任とは何だろう。わからない。誰に責任が生じているのだろうか。誰かを選んだ責任が他の誰かに生じているらしい。他に何を求めているわけではない。他がなければ何があるというのか。どうせまたつまらないことでも考えているのだろう。君のことではない。誰のことでもなく、何を想っているとも思えない。何も生まれていないのだから、そこに何が記されるとも思えないか。ならばこれからどうしようか。どうもしなければ、またいい加減な言葉の連なりに遭遇するはずだ。たぶんまたかなり馬鹿げてくる。曇り空から雪でも降ってくるか。昼でも暗い。鉄橋の下には川が流れていて、そこで路上生活者が芥子でも育てているのだろうか。昔そんな歌があったはずだ。意識はまだ迷路で迷っているわけか。そんな夢でも見て、起きてまた忘れてしまうが、考えていることとは無関係だ。時たま何か別の用事を思い出すが、気まぐれに忘却の彼方からよみがえってきた言葉の断片は、現実を無視しているらしく、要するに妄想の域を出ない。思うことは簡単なようだが、それを現実に移すと、とたんにうまくいかなくなってしまうのだろう。よくあることだ。理想と現実がかけ離れているわけか。不利益を被った人々は何を告発しているのか。聞く耳を持たないようだが、君に何がわかるというのだろう。いつもの台詞に行き着いただけらしく、それをどうしようというのでもない。休養は十分にとったはずだ。誰かが商品の宣伝の中で言い放っている。嘘は嫌いだそうだ。その商品は誠実なのか。嘘偽りのない品質なのだろうか。何かの峠を越えたらしい。別に絶望の淵から這い上がってきたわけではないが、何となくそんな体調を維持しているようだ。だが相変わらずいわんとしていることがよくわからない。物事の成り立ちを言葉で理解できない。それは違うと思うが、それでかまわないとも思っている。どちらでもかまわないわけか。復活するとはそういうことなのだろうか。頭の中で何がよみがえっているのか。肝心なのはスポーツ的な勝ち負けにこだわらないことだ。勝ったり負けたりという単純な結果を過大評価しても意味がない。ではこれから何をどうしようというのか。作り話の中身は相変わらず空っぽのようだが、なぜそれでもかまわないと思いたいのか理解できない。人が関わって生じる世の中の現象に興味を持てないのだろう。アフガンやパレスチナで生じていることは何なのか。なぜテロリストと対話しなければならないのか。冗談でそんなことを述べているわけではない。人は何を糧として生きてゆくべきなのか。たぶんそういう話ではないらしい。どういう話でもなく、有無をいわせず自爆テロだ。それは何かに勝つための努力なのだろうか。そうした努力の一環として人が死ぬ。攻撃のしかたとしてはそれでかまわないのだろうか。何か不満があるのだろう。世の中が平和であってはならない。平和な世の中では武人の居場所がなくなってしまうか。よくわからないが、なぜ対決せざるを得なくなってしまうのか。価値観か何かの違いだろうか。そこで何を構築したいのか。人は何のために生きているのだろう。誰かと対決するためか。妥協できないときは対決せざるを得ない。しかし勝算があるのだろうか。なぜ勝とうとするのか。負けてもかまわないなら、対決する必要はない。冗談で対決する必要もない。そんなわけで何かが違っているようで、現実からかけ離れたことを考えている。たぶん君に何を分け与えているのでもない。知恵とは自ずから身に付くものか。そう願いたいが、実際はそうでもなく、何らかの努力を必要とする場合が大半だ。君は己の至らなさに直面して弱っている。神経衰弱か何かか。たぶんそこからどこにたどり着こうとしているのでもないのだろう。苦悩する理由はない。何でもありならテロもその選択肢に入るのだろうが、それで何が変わるというのか。君は何かを忘れている。力の加減を考えていないようだが、それで架空の対話を成り立たせようとしているのではない。対話はいつも幻想に過ぎず、幻想を追い求めるのは暇つぶしの一環なのだろう。しかしそこで実利を求めて何になるというのか。不具合ならどこにでもある。ならばどこかに誰かの信念でも見出そうとしているのか。君が探している事物は宝物のたぐいではないはずだ。それはいつでも何でもないことであり、いつの世でも塵や芥のたぐいに違いない。人は本気で生きるべきではないのかもしれない。そこには何らかのごまかしや息抜きが必要なのだろう。君は誰と何を語り合いたいのか。そういう話にはなっていないようで、それを探ろうとしても今のところは無駄だろう。要するにそういうことではないと思いたいのであって、そこでは要するも何もなく、何もいらないような話になっているのかもしれない。何もかもがどうでもよくなっていて、言葉を記している誰かは、何にこだわっていいのかわからなくなっているようだ。たぶんそれらの空疎な話を要約すれば、そういうことらしく、現実の世界で何を実現しようとしているわけではなく、そこで述べられているのはいつも虚無についてだ。


1月14日

 どうもそれだけのことだ。曇り空を眺めている。雷の到来を空想する。眺めているのは夏の空でない。何でもないことのようだ。背景を確認したい。脈絡を感じられない。どこからそうなってしまったのだろう。性に合わないのは何なのか。くだらないことにかかりきりだ。情報とは何だろう。暗闇で何が必要とされているのでもない。蛍光灯の明かりでは不満なのか。どこかに秘密が隠されているわけではない。見たままの情景に何を付け加えようとしているのでもなく、何を語ろうとしているのでもない。違うのかもしれない。今は黙るべきだ。まったく言葉を発しない。それは壁だろう。何かに囲まれている。どこかに誰かの感情へと至る通路があるらしい。何か重荷を抱えていそうだ。それの何が独自の語り口になるのか。君にわかることは誰にとっても承知していることだ。螺旋階段の底から無言で叫んでいるふりをするが、まったくわからない。誰と誰がわかり得ないのか。吸収しきれない情報量だ。何を期待していたのだろう。うまく言い表せないのは誰のせいでもなく、何となくそんな感じのようだ。現状がそうなっている。何かによってしむけられているのかもしれない。それは妄想ではない。体が動かない。そういうことになっているわけだ。冗談ではない。何でもないのだからそれは当然だろう。本当に冗談になってしまうようだが、それでも何もできない。何か思いつく状況ではないらしい。とてもそんなふうには思えない。気がつくと眠ってしまっている。もちろん目が覚めてから眠っていたことに気づくわけだ。そしてさらに作業が何も進んでいないことに気づく。もう何も出てこないようだ。たぶんそれが楽しい状況に己の身を導いているのだろう。何が楽しいのか。深夜に目が覚める。ただそれだけのことだろう。それがさらなる苦境だとは思えないのだが、何となくそこから言葉を記す作業が始まるようだ。嫌になったらまた眠ってしまえばいい。何がどうなってもそういうことでしかなく、そうなるしかない。ただそれだけのことなのだ。何を恐れているわけではない。すでに恐れていたことが起こってしまったのだから、何ならそれを繰り返せばいい。意味がわからないが、無意識のうちではそういうことなのだろう。君は何かに守られているのかもしれない。そう思っていれば気が楽になるだろう。実際にそういうことなのだろう。確証はないが、そういうことだと思う。そうでなければ何なのか。ただ当てが外れているだけだろうか。そう思うならそうなってしまうだろう。ならば思わなければいい。しかし何をどう思えばいいのだろうか。まさかそう来るとは思いもしなかったか。何がそう来ているのだろうか。やはり冗談なのかもしれない。何を語っているわけでもないのに、そんなことを述べている現状がある。君にとっては相変わらず意味不明に思われるのかもしれないが、何をどう述べてもそうなってしまうのだから仕方がない。そしてそこまで述べてきてさらにわからなくなる。何を引き延ばしているのか。もはやそれは言葉のつらなりとは思えないか。思えなければ思わなければいい。止まらなくなっているのかもしれず、同じような言葉の羅列を止めようとしていないのだろう。そう思いたいのだ。それで何かのつじつまを合わせようとしているのかもしれない。まったく理解不能だが、そういうことだと割り切ってしまえばいい。それをさらに続けようとしているから、その結果としてわからなくなる。そういうことではないだろうか。誰に同意を求めているのか。誰かわからないが、延々とそんな言葉を連ねているらしい。今日はそれだけの文章だ。何も思いつかなければそうなってしまうようだ。そういう状況を過ごさなければその先へ進めない。どうしようもなくそうなってしまう。他に何もなければそういうことだ。しかし何を決めつけているのか。君にはそれがわからない。わからなければそうなってしまい、ひたすらそういうことを述べている。他に何がどうなっているのでもない。それが誰が招いている状況でもなく、君がそれを招いていると思っている。本当にそうなのだろうか。何が本当なのだろうか。それらの言葉は君に向かって何を知らせようとしているのか。それがわからないようだが、もうやめてしまえということか。それは以前からそうだ。そうでなければそうならない。しかし実際にはやめていない。どこかとどこかの間を行ったり来たりして、必ずしもその間に言葉を記しているのではないが、時にはそういうこともあるらしい。だからわけがわからなくなる。何がだからなのか。そこにどんな理由があるというのか。たぶんわからないからそんなことを述べているのだろう。はじめから理由がないとは思えない。ではそれは何のはじめなのか。語るきっかけはどんなところから生じているのか。それを語っているわけではなく。それとはまったく関係のないところから語り始めているつもりだ。だからわけがわからなくなる。ならばそれとは違うところから語り始めるべきだろうか。できればそうしたいのはやまやまだが、それができないからこうなってしまう。


1月13日

 今日はやる気になれないらしい。何がそうさせるのでもなく、そこから遠ざかりたいのだろう。またそれか。わけがわからない。理由などいくらであるはずだ。くだらない状況が納得できないのだろう。苛ついているだけか。彼はどこを見ているのだろう。何がそんなに気に入らないのか。遅れを取り戻せないことか。焦ってみても仕方がない。無理なものは無理に決まっている。これまでがくだらないことにかかりきりだったように思われる。しかし何をそんなにやりたくないのだろうか。仕事全般が性に合わない。冗談か。思惑が人それぞれで違っているのだろう。それを一つの方向へ持っていくのは至難の業か。そんなことをやる必要はないのかもしれない。無理にそんなことを述べる必要もない。では何をやったらいいのだろうか。何もやる必要がないということはどういうことなのか。隠された意図などありはしない。何もないからそんなことを述べているはずだ。しかし現実とは何なのか。やりたいことをやっていないからそうなってしまう。精神的に追い込まれているのかもしれない。だから気晴らしも気休めもない。心にそれを思いつくだけの余裕がない。何もやれないまま、その場で言葉を記そうとする。無理に決まっている。現に何も思いつかないだろう。そんなわけで何を語っても、君には関係のない話になる。どんなわけでもありはしない。話になっていないようだが、それでも何とかしなければいけないらしい。馬鹿げた話だが、そういうことだ。どういうことでもないと述べている。単にやる気がしない。それは以前にも述べたことだ。自分はないような気がする。未来の時空に自分が存在していない。だが目が死んでいるのは疲れているからだ。意味がわからないが、そういうことなのだろう。君はそのままでかまわないと思う。たぶん何とかしようとしているのだろう。何でもないのに何とかしたいらしい。現状とはそういうものだ。嘘に決まっているだろう。確かに嘘だが、それは空疎だ。だから何だというわけでもないが、さらなる虚無の襲来を予感させる無内容だ。何がどうしたわけでもない。まだそんなところでごちゃごちゃ述べている。やる気がないならすっぱりやめてしまえばいいのに、それができないらしい。いったい人は何のために生きているのだろうか。またそれか。何を語っても、どんなに空疎なことを語っていても、結局その問いに行き着いてしまう。かなり馬鹿げていないか。そう思うなら、さっさと先に話を進めてしまえばいい。どうせ空疎なのだろう。空疎な空想か。さらに馬鹿げてくる。誰だってやりたいことがあるはずだ。それを嘘だと決めつけるのは傲慢か。それの何が嘘なのだろうか。ちまちましたところで意地の張り合いをしていてもくだらない。そんなことばかりだから馬鹿らしくなってくる。君は何を狙っているのだろう。そこがおかしいところか。なぜ人は生き残ろうとするのか。君は冗談が好きらしい。結果として生き残れそうにない。だからそこであきらめてしまうわけか。あきらめきれないから言葉を記しているのではないか。誰かはそうしているようだが、君には関係のないことだ。いったい誰かとは誰なのか。現実から外れた意識の持ち主が誰というわけではない。それでは問いに対する返答になっていない。虚しい試みにとらわれている。決して報われることのない努力だ。しかしそれが悲劇につながるとは思えない。すでに君は突き抜けている。薮や迷路とは無関係か。だが見通しはどうなのだろう。なぜ何も思いつかないのか。何かのいいわけが欲しいか。それは言い逃れのたぐいではないか。では何を振り出しに戻そうとしているのか。君が語っているのではない。面倒なので誰も語っていないこととしよう。何が面倒なのかわからない。そんなていたらくの状況を眺めている。ますます意味不明となっているようだ。眠たくなってきたのだろうか。本気にも真剣にもなれず、取り組めない。まるで問題がないかのように振る舞いたいが、合理性に欠ける。またつまらないことでも記しているのだろうが、誰がそれを読み返す気になるだろうか。何とかしなければならないのだろうが、たぶんそういうことではないのだろう。何もしなくてもかまわないのではないか。高みの見物を決め込んでいればいい。そういう境遇になったやつが悪いのだ。面白みに欠けるようだ。だからぎりぎりのところでそうなるのを回避している。君はそれがわかっていないようで、つもりもないのにそのつもりになり、いつまでも的外れなことを述べているようだが、生き残るには何を犠牲にしなければならないのか。そこで終わってしまうのはおかしい。その続きがあった方がおもしろそうだ。どう考えてもそれは違うと思われる。抵抗がないのだろう。何もないのに何があるわけでもなく、何もかもを否定したい気になるが、それが何の罠なのかわからない。はまっているのはそれとは違うような気がする。たぶん導き出せないのはそういうことなのだろう。それはどういうことなのだろうか。何の結論にも至らない。たぶんそれがそこでの何かなのだ。


1月12日

 なぜやる気にならないのか。言葉を記す時間が長く感じられる。何も述べられなくなってから久しいが、いったいそれの何が危険なのか。君は何かを忘れている。それを感知できない。だから開き直っている。それは意味不明だろう。不安感を煽り立てるやり方が間違っているのか。例えば百年に一度の未曾有の経済危機だからどうしたというのか。それも今の君には関係のないことだ。またしても何も思いつかない。見えない敵におびえているわけではない。他に何があるわけでもなく、何もないから虚無と戯れている。それは嘘かもしれないが、そんなふうに思う理由があるとは思えない。何が嘘なのかわからない。しかし何も出てこない。それは誰かの考え方なのだろう。何次第でもなく、君次第なのだろうか。述べている意味がわからないか。君に何をわからせようとしているのでもない。では何が君次第なのか。誰かはそれを考えている最中か。心の中の何を封印すればいいのか。いきり立つようなことではない。ただそこに言葉を並べてみただけで、それの何に感動しているわけではない。そこに何かがあるらしい。それは空疎な内容の文章か。たぶん君にはわからない。認識できないのだ。何を認識できないのか。それがわからないのか。どうやら何も認識するつもりがないらしい。もう何でもかんでもわからないで済ましてしまいたくなっているようだ。冗談でそんなことを述べているのだろうか。他人に読ませるような文章ではない。どこで何をやっているのでもないらしい。意識がないのだろうか。あるにはあるが、君の意識ではない。何かが本末転倒のようだ。その言葉の意味がわからない。わからないならわからないなりに、どうしてわからないのか考えてみたらどうか。思い当たることは何もない。利いた風なことを述べたくはないし、知ったかぶりの意見もごめん被りたい。しかし何を述べても、わかりやすく述べようとすれば、自然とそうなってしまうのではないか。だがそれがわかりにくいことのいいわけにはなり難い。自らが述べたことに関しては何も正当化したくないのだろうか。それは無理というものだ。背中がかゆくなる。嫌というほどお茶を飲む。意味がわからない。でたらめに文を並べている。だからといって思いつくまま並べているわけではない。そこに何らかの計算が働いていてほしいのか。馬鹿げている。もう飽きてしまったようだ。画面には夜の風景が映し出される。そこにたどり着いただけでも大したものだ。何をあざけり笑っているのでもない。馬鹿にしたい対象から馬鹿にされてみたいものだ。倒錯とはそういうことか。少し違うような気もするが、あまり深く考えるのも面倒だ。ならば少しは言葉を省略してもかまわないのではないか。すでにいくらでもはしょっているはずだ。その結果として何について述べているのでもなくなっているはずだ。そう思いたいだけだろう。でたらめに述べていることが何かの話のように感じられたらおもしろそうだ。そうは思わないと誰かが思うが、それも馬鹿げた話だ。なぜそうなってしまうのか。たぶんそれがわからないからそうなってしまうのだろう。未曾有の危機がどうたらこうたら唱えている人たちにはわからないことであり、その件に関してはオリンピックのメダリストは勘違いしている。たぶん勝ったり負けたりしたらまずいのだ。ゲームに参加するのは面倒だ。これ以上疲れることはやりたくない。目的のために生きるのはこりごりか。もとからそんなことのために生きているのではないはずだ。もしかしたら生きていないのではないか。たぶん死んでいるのでもない。誰のことを述べているのだろう。そもそも生きるとはどういうことなのか。そこに目的がなければならないのだろうか。それも冗談の続きのように思われる。そういう言葉を信じられるのは愚かな人だ。嫌気がさすならやめればいい。それだけのことができないようだ。当てが外れたのだろう。そんなことを述べている場合ではなかったのかもしれない。だから一休みしなければならなくなり、そこで眠ってしまう。やはり目を覚ますのが面倒なのだろうか。まったく世の中には何の問題もありはせず、困り果てているふりをしたいらしいが、君はそこで何を見ないようにしているのだろうか。たぶん人をいくら殺したところで、何が解決するわけもなく、かえって混迷を深めるだけらしく、軍事力にものをいわせている勢力は途方に暮れるばかりのようだ。今や人という存在自体が殺す価値のないものに成り下がっている。地球上には六十億を超える人がいるわけだから、その中の千人あまりを殺したところでどうということはなく、それによって状況の変化を期待するのは馬鹿げている。たぶんこの世にかけがえのないものなど何もありはしないということを、誰もが無意識のうちに認識しているのではないだろうか。いくら悲惨な事態に陥ろうと、人は常に過剰なくらいに存在しているわけで、人余りで金余りなのであって、偽りの繁栄を謳歌することさえ億劫になっているから、世界的に不況なのだろう。冷めた気分で何に熱狂することもなく、過去に熱狂していた対象がくだらないことに気づき始めているのかもしれず、人々は徐々に理性を獲得しつつあるのかもしれない。


1月11日

 以前とそれほど状況が違っているわけではない。やっていることは同じであり、同じような現象に出くわして、過去に遭遇した何かを思い出す。それはかつて経験したことだ。勘違いというわけではない。だから何だというのか。無感動に慣らされているので、言葉は何も出てこない。そんなわけで面倒くさいので、また眠ってしまったらしい。さらに言葉が遅れてしまうのだろうか。どこかおかしい。様子が変か。彼はすでに死んでしまったのだろうか。近頃は以前のように苦しんでいる様子がない。そこで夢から覚めたようだ。果たして本当に目が覚めているのだろうか。なぜそうなってしまうのかわからないのだが、とにかくどこか感覚が狂っているようだ。何とかしようとすると、必ずそれとは逆の現象に遭遇してしまう。そしてそれまでの努力が水の泡となり、元の木阿弥になってしまった結果を恨めしく思う。冗談はその辺でやめたらどうか。まだ何も語っていないはずだ。本当にそうなのだろうか。そう感じられるだけで、実際は違っていてほしいのか。そもそも何でそんなことを述べているのか。その辺の真意がつかめない。自分が何を想っているのかわからない。誰かを煙に巻くために、わざとそんなことを述べているのではないか。本当は何も思いつかず、途方に暮れているはずだ。それもその場しのぎの思い込みか。それでも何とかしようとしているわけか。結果的に何とかなっているとは思えない。本当に何も思いつかないようだ。ならばそこで終わらせてしまえばいい。果たして終わることができるのだろうか。彼らによればどこかの国が経済危機らしい。君たちは何の危険性を訴えているのか。世界情勢の何が問題で、どう好転すれば満足を得られるのだろうか。たぶん君はその辺がよくわからない。少なくともこのままでかまわないわけがないか。現状では無理に違いないが、早く時間に追われる日々から脱却したい。このままでは無理に決まっているだろうが、不意に思いつくのはそういうことで、それが現状の何を説明しているとも思えず、意識は常にそこから逃れようとしている。要するに現実を直視する気がないだろう。ただその辺に何かが横たわっている。冗談で片付けるわけにはいかないようだが、横になって何を見ているとも思えない。影がこちらを向いている。それは照明の位置がそうだからか。大したことはない現象だ。たぶんその影は何を目指しているわけでもない。意識がそこへ向かないので、気持ちが続かない。そこに何かの断絶があるのだろうが、不連続なのでその場での時流を把握できない。そんなわけで何をどう述べても意味不明になる。どうもその辺に無理があるらしい。わけがわからないなりに、とりあえず言葉を記しているようだが、それを読み返すと、さらにわけがわからなくなる。君がそこで何を述べているわけでもないことは明白か。しかし何に関してどう述べているのか。いったい君はどのような水準で何を理解したいのか。そしてそれを誰が知りたいのか。そこで行き詰まってしまうらしい。行き詰まる理由もわからず、まったく話になっていないようだ。国家の危機など何でもないことだ。人などいくら死んでもかまわないか。国家の危機が人の大量死につながるとは思えない。そんなのは嘘に決まっているだろう。わざと間違ったことを述べている。紅茶の渋さで頭がいかれてしまったのか。それも嘘だ。もはや何を述べても嘘になってしまうらしい。わざと空疎なことを述べているようだが、他に何を述べられるというのか。それが君のやり方なのか。たぶん君はひねくれている。そしてそのままでもかまわないと思っている。国家にとっては失業者が路上にあふれているのが普通の状況なのかもしれない。たぶんそれを解決する必要はないのだろう。多くの人々が路頭に迷うべきなのだ。とりあえず企業の論理を最優先させるべきだ。資本主義は非人道的であり、人を物として扱うことで成り立っているはずだ。だから資本主義を礼賛する人々はそれを突き詰めてゆけばいい。実際にはそれができない理由は何だろう。働く先がなく、食ってゆけずに餓死する人が出てくるからか。アフリカの紛争地帯へゆけば、餓死者などいくらでもいるだろうか。人が死んではいけない理由はない。すべての人はいずれ死ぬだろう。ならば他人が死ぬことの何が楽しいのか。そういう問いがわざとらしい。君がひねくれている証拠だろうか。しかしすべての人が死ねば地球が楽になるのではないか。地球に意志があるわけではない。人がいてもいなくても地球は何とも思わない。そういう方面で地球の話をしても意味がない。言葉が無駄に連なるだけか。だが君はそれでもかまわないのだろう。誰かがそういうことを記していたはずだ。しかし君は誰かではなく君だ。果たして誰かの影でしかない君に独自の意志があるのだろうか。それも意味のない問いの一つになるだろうか。誰からも返答がないようだ。それは君にとっては好都合か。だがそこから勝手な意見を述べるわけにはいかないだろう。何も思いつかないのだから意見などあるはずがないか。


1月10日

 それは違うだろう。何かの限界を超えているのではないか。何かを語るきっかけをつかめない。テレビを見ているだけではどうしようもない。超えているのではなく、超えられずにもがいているのではないか。しかし意味不明で抽象的なことを述べている。何を恐れているのだろう。誰もそこにはいない。その事実を簡単に否定するわけにはいかないらしい。それらの空隙の中に言葉がある。やはりわけがわからない。言葉が君から離れているようだ。君は何も語れなくなっている。沈黙が辺りを支配していて、何も言葉が出てこない。しかし何が選択のときなのだろうか。自ら命を絶つ人が多いそうだ。これ以上追い込まれるのはごめんか。君の話ではない。誰が何を想っているのでもなく、君も何も思わない。本当にこれからどうなってしまうのだろうか。依然として君には関係のない話だ。メディアはどうすればいいのかを伝えようとする。自殺対策も何もないだろう。誰かは何を主張したいのでもなく、ただ言葉を記している。いったい何から逃げているのか。自らの死から逃走しているのではない。しかし逃げているだけではつまらないだろう。いったい何から逃げているのか。精神的に追い込まれると死ぬしかないらしい。年間三万人もの人が自殺しているわけだから、追い込まれている人が相当いるはずか。君はどうやって追い込まれてしまったのか。なぜ追い込まれてしまったのに自殺しないのか。何をそんなに空笑いする必要があるのか。ここで踏ん張らなければどうにもならなくなってしまうだろう。それでも遊び半分で言葉を弄しているのは誰なのか。まったく本気になれずに缶コーヒーを飲む。その馬鹿げた成り行きに呆れているわけか。そんなふりをしているだけで、内心気が気でないのかもしれず、いつやる気を出してくれるのか、祈るような気持ちになっているのだろうか。そんなことを述べてもまともな内容には至らない。君は本気になれる機会をわざと逃しているような気がする。いったい誰が本気になる必要があるのだろう。なぜそんなことを述べてしまうのか。それはいつも無駄な問いかけに結びつき、その場しのぎの嘘に至る。それで君は満足してしまうのか。そうだとしたらどうなのか。こういう事態に陥っていて、いつまでも空疎なことを述べ続ける。やはりわからない。そういう予定調和の結論なら前もって予測できたはずだが、予測通りにわからないわけで、やはりわからない、と述べることしかできない。そして馬鹿げている。そう思っているのならそれでかまわないだろう。もはやそれ以外の言葉を導き出すことは不可能なのだ。だからそれでも自殺からはほど遠く、どんなに追い込まれようと、遊び半分の君にとっては縁遠い行為と認識するしかないだろう。もしかしたらそれほど追い込まれていないのかもしれず、ふざけた話だが、自殺という言葉を遊び半分で弄び、あまたの自殺者を愚弄しているのではないか。そうは思えないが、実際それらの言語行為はどう映るのか。画面には相変わらずいい加減な文字列が映っている。君はバッハでも聴いているつもりか。実際に聴いている。誰かの耳にはその奇怪な旋律が届いているはずだ。それは一瞬のことで、気がついたらいつも聴いているフォーク・ソングとなっているはずだ。そして話から話がそれていることに気づき、軌道を元に戻そうとして、あれこれ手を尽くしてみるが、過ぎ去った時間が戻るはずがなく、今はもうどうでもいいような気分となっている。だから何だというのか。それ自身が無駄な言葉だ。君はそれらの無駄から逃れられない。だからひたすら逃走を繰り返すのだ。何度も失敗して、もとの振り出しに戻ってきているのに、懲りずにさらなる逃走を試みるが、まだ一度も成功していない。そして成功したためしもないのに、何やらにんまりしている。君にとってはそれでかまわないということか。画面に文字が並んでいればそれで満足なのか。そこで何を試しているとも思えず、同じことの繰り返しでしかないのに、それを重ね、いくら重ねてもらちがあかないのに、何となく惰性で続けているのが現状なのか。想像上の現状だ。実際には何も試みていないような気がする。たぶん忘れた頃にそう思っているだけだろう。そこでもやはり思っているふりをしているのか。言葉を記しつつも、それが組み合わさって成立している文章のことなど何も考えていない。要するにそれらの時空には何もなく、君は考える術を獲得できずに、沈黙するしかないようだ。死ぬことも生きることもできず、ひたすら黙るしかない。だが語るすべてが苦し紛れであるはずがなく、待っていれば必ずまともなことを述べる機会が巡ってくるはずだ。そういう慰めをどこまで真に受ければいいのか。そういう事態にどう対処したらいいのかわからず、途方に暮れることもできない。ただ何も思いつかないだけで、そしてそれでもかまわないと思い込み、変化するきっかけを逃してしまう。逃げているだけではだめであることをわかっていながら、結果的に逃げてしまっていることを残念に思っているわけでもなく、ただそれでもかまわないと思い込む。


1月9日

 何かから遠ざかって久しいような気がしてきた。心があてもなくさまよっているわけではないが、果たしてどこで何をやっているのか。空は晴れている。遠ざかってしまった何かとは何だろう。何かが違うような気がする。それはいつも感じていることだろう。この世界の何が残酷なのだろうか。単純作業を生業としている人たちが路頭に迷うことか。爆撃で死ぬ人もいるだろう。当たり前のように行われていることが、何となく疎外感をもたらすようだ。人はその立場によってやるべきことが異なる。誰かはなぜ音楽を聴いているのか。それがわからないからそうしているのではないか。馬鹿げたことを考えているようだ。パット・メセニーの癒し系音楽を聴きながら、何も思わないわけではないことを不思議に感じている。すべてが何でもないことなのに、なぜそれが同時にくだらないことなのだろう。人々は何を競い合っているのか。それはスポーツと呼ばれる無駄な身体運動の中に集約されるだろうか。そのすべてが金の無駄遣いに結びつく。しかし無駄なことをやるのが誰もが目指している贅沢なのかもしれない。くだらぬことに金を使い、それを競い合い、幻想の経済発展を演出している。街には高層建築が立ち並び、文明が繁栄しているような気にさせるが、その実態はいかなるものなのか。とりあえず人々の間に格差がないと納得し難いだろう。他人より優れていると思い込みたいか。それより幸せになりたいのかもしれない。ここではないどこかへ行ってみたい。何かを遠くから眺めているようだ。あそこまで行ってどうするのか。くだらない眺望が広がっている。何がくだらないのだろう。また君は嘘をついているようだ。面倒くさいのでそういうことにしておこう。少し眠ってしまったらしい。何も思いつかないようだ。違和感とは何だろう。本気で疑念を抱いているわけではない。それがおかしいのか。誰かは暇があれば地の果てまで行ってみたいと思うようだが、たぶんそれは気のせいだろう。馬鹿げた理由を導き出したい。いったい何のために行動すればいいのか。取り立てて理由がなければそこにとどまっていればいい。何がどうなってそんな心境に至っているとも思えず、たぶんそこでは違うことを考えているのだろう。人々はどんな処方箋を必要としているのか。この世界のどこが良くなってほしいのかわからない。それはとりとめのないことだ。ただ漠然とそんなことを思っているだけか。それについて君が何を想っているわけではない。もはや何を否定しても無駄だろう。否定的な人が否定的なことをやっている時勢なのだから、それについて何を否定してみても、そこに驚きも感動も起こらない。能力のない人が能力を超える仕事をやりたがっているだけだ。誰もが背伸びするために平気で借金を申し込む。実質が伴っていないわけだが、それを批判するつもりはない。身の丈の合っていることをやるのはつまらないからだ。中には生活に行き詰まる者も出てくるのだろうが、それは夢を追い求めた代償だ。しかし君はそこからどんな将来像を思い描いているのか。冗談だけでは身が持たないか。言葉を記すにも行き詰まり、いつの日かそれを放棄しているのかもしれないが、そのときがいつやってくるのかわからない。まさかどこまでも現状を維持しているわけにはいかないだろう。すでにどうにかなりつつある。どうにもならない状態なのではないだろうか。しかしそれがわかっていながらどうにもできないわけで、それがどうにかなりつつあるような幻想を抱き、かろうじて正気を保っているらしい。だがそれも冗談でしかないだろう。無理に無理を重ねて何が言えるというのか。まさかそこから自己批判でもしようというのではあるまい。空は相変わらず晴れて寒い。昨日の雪が嘘のような快晴だ。心は相変わらず何も思わないふりをしている。また嘘をついているのだろうか。無駄に言葉を記しているだけか。それが誰かの悪い癖か。何が悪癖だとも思えないが、ここまで述べてくればそうなるより仕方ないだろう。他に何を述べられるというのか。開き直るのも無理はないが、何かいい加減に述べている現状を肯定するわけにはいかない。ならば否定するだけ否定して、それで終わりか。もう何を蒸し返す気も起こらない。それで笑っていられるとすればそれはどういう了見なのか。もう嘘には飽きたかもしれない。虚無的な言葉の連なりにもいい加減飽きてきた。だから何か別のことを語るつもりも自信もないが、何とかしなければならないことは確かなようだ。近頃はそんなことばかり述べている気がする。その煮詰まり具合も半端ではないのだろう。そろそろ本当の終わりが近いのかもしれない。しかし本当に終わってしまったら他にやることがあるのだろうか。君自身の存在もそこで終わってしまうのではないか。それはありがたいことだ。厄介ごとが片付いて、誰かにとっては好都合かもしれない。しかし終わったからといって何が変わるわけでもなく、この世界は相変わらずこの世界のままだろう。誰かの存在もやがてこの世界から消失する。結局何もなかったことにされてしまうのだろう。


1月8日

 語っている内容がマンネリだろうか。ひたすら虚無的で空疎だ。そしてさらに馬鹿げている。だから今さらがんばるべきではない。そんな目一杯後ろ向きの結論が出てくる。いったい何が気に入らないのか。どうやら君は何もわかっていないようだ。ふざけたことを述べるには何かが必要だ。その何かがもたらされないと、つまらない話となってしまう。だがつまらないからいいのだ。それが楽しい時間の始まりを告げているらしい。つまらないことは楽しい。その反対におもしろいことはつらい。そんなわけでおもしろいことを述べられない。それはどんなわけなのだろう。何をしらばっくれても無駄か。少なくとも君に関する話ではなさそうだ。誰に関して何を述べているわけでもない。たぶん彼を取り巻く虚無の中で何かが猛威を振るっているのだろう。猛威という言葉に似つかわしくない何かが誰かを苦しめている。それは何でもないことのはずだった。何でもないのに誰かにとっては脅威なのだろう。何かしら意味のある現象なら何とでも対応できそうで、対応できなくてもあきらめがつく。しかし何でもないことには対応しようがない。対応しなくてもかまわないのかもしれないし、それで正解なのだろうが、たぶん何もしないことが気に入らないのだろう。何かしらその何でもない現象に関わってほしいのかもしれない。ところでその何でもない現象とは何なのか。何でもないことは何でもない。どこまでも何でもないことだ。言葉で表されないような現象なのかもしれない。そして誰かは何でもないことについて記している最中だ。嘘ではないのだろう。何でもなければ嘘でもない。それがどうしたわけでもない。誰の死とも生とも関係ない。言葉が生きているとは思えないが、死んでいるわけでもない。何でもないのだからどういうことでもない。ただの言葉の連なりが何を示しているわけでもない。何でもないことを追求しているわけでもない。要するにつまらないのだ。ひたすらつまらない。冗談でそんなことを述べている。それだけのことらしいが、今はそんなことを述べているから、今も何でもないことの延長上だ。適当に音楽を聴きながら時間が過ぎ去っている最中だ。ただそれだけのことなのに、どうして苦痛が伴うのか。それは言葉を記しているからだ。冗談でやっていることではないらしい。君にとってはそうではなくとも、誰かにとってはそうなのだろう。ならばそれらのどこに本音が隠れているのか。苦痛のどこが本音なのだろうか。何がどうなってそういう言葉が導き出されるのか。誰がそんなことを知りたいのか。知りたいのではなく、そんなことを記していて、何かを問いかけずにはいられない。ひたすら意味もなく問いかける。そういう文章なのだから仕方ない。そして何が何だかわけがわからないようだ。だからもういいのではないかと思う。ではそれだけでもかまわないのだろうか。何がそれだけなのだろう。ひたすら無意味なことを問いかけている。君はそれが気に入らないらしい。気に入らないなら、何をどう変更すべきなのか。文章のことを述べているのではない。文章でなければ何なのか。また何でもないと述べたいのか。心が壊れているならそれでかまわない。さらに空疎なことを述べていればいい。同じ言葉が循環しているならそれもかまわない。どうぞ飽きるまで循環させておけばいい。いずれ何か別の内容を思いつくだろう。君はものぐさな人間か。それのふりをしているだけかもしれない。たぶん機転を利かせているわけではない。もう少し器用に振る舞えないのか。それが目的ではないだろう。寒いのだ。空気が冷えている。やらなければならないのはそういうことではない。ただそこから逸脱したいだけなのだろうか。そうでもないような気がするが、今は何ともいえず、何かが違っているだけか。おそらく見込み違いなのだろう。何を語っているのでもないのもいつも通りに違いない。それは技術的な欠陥だ。語ることがないのに語ってしまうのが致命傷なのだ。しかもそれを理由もなく続けなければならない。まったく意味不明でわけがわからないのだ。それが偽らざる心境だろうか。作り話的にはそういうことになる。本気にはなれないが、たぶんそれでかまわないのだろう。そして君がやっていることを理解できない。君が何をやっているというのか。君は誰か影であり、その誰かが何かを記している。だからやっているのは君ではないだろう。理解できないのはそういうことだ。なぜそんなことを執拗に述べてしまうのだろう。それほどまでに文章の継続にこだわるのが理解し難いか。だが一方でそうやって何らかの結論が導き出される。それで何かを語っていることになるわけだ。それはごまかし以外の何ものでもない。だから理解し難いのではなく、意識はそういうことを理解しているわけだ。それは不可解なことか。別に理解しているのだから不可解でも何でもないか。ついてゆけない気がしてくる。要するに正気の沙汰でないということか。状況をそう捉えているのならそれでかまわないだろう。何となくそれで正気を保っているような気がするわけだ。それも冗談のたぐいか。


1月7日

 人はこの世界とどんな関係にあるのだろうか。大げさことを述べるわけにはいかないか。では冗談でなら答えることができるか。それの何が冗談なのだろうか。まだそれに関して何も述べていないことが冗談かもしれないが、そんなごまかしは倫理的に許されないか。誰の倫理なのだろう。倫理ではなく論理ではないか。たぶんそれも冗談の続きに違いない。何事もそこから逸脱している。そことはどこだろうか。だから冗談の範囲内に決まっているだろう。では何がそれを許しているのか。馬鹿げた社会情勢がそうさせているのか。それの何が馬鹿げていると思われるのか。君にはわからないが、それが許される状況にありそうだ。勝手にそう思っているだけではないのか。誰がそう思っているのか。少なくともそれは神の意志ではない。たぶんすべてが過ぎ去ろうとしているのだ。だからどうしたわけでもないが、とにかく過ぎ去ろうとしているらしい。なぜそう感じてしまうのか。それは君が過去の時空の中で考えているからだ。君が考えているのではない。誰かがそんなことを暇つぶしに考えている。ならばそれで何を卑下しているのか。なぜそういう言葉がつながってしまうのだろう。意味がわからないだろうか。それが何の意味なのかわからない。そもそも君は何について語っているのだろうか。別にこの世の終わりについて語っているのではない。誰かが接している現実から言葉が導き出され、それが意味をなそうとなすまいと、とりあえずそれを記さなければならないらしい。だからそれは君には関係のないことだ。確かにどこで誰が死のうと生きようと関係ない。そこに記された言葉そのものが無関係なのか。現世はどこまでも意識から遠ざかり、もはや過去と見分けがつかなくなる。それが今の心境なのだろうが、意味不明に思われる。それでも誰かが何かを語っている。時が巡ってくるのを待っているようだ。そう思われるのはどうしてなのか。何がどうなっているわけでもない。何もどうにもなっていないのに、心のどこかに不満がくすぶっているとは思えない。すべては何でもないことだ。それは何にとってそうなのか。少なくともこの世に暮らす人にとってはそうではない。人はひたすら生きようとする。死の直前まで生きている。当たり前のことだろう。それは何かの冗談か。そうではない。どうでもいいことのように思われる。誰かにとってはそうなのかもしれない。誰にとってもそうではないのに、誰かにとってはそうなのだ。だから馬鹿げていると思われる。くだらぬことにこだわり過ぎか。やろうと思えばできることだ。それを怠ってどうしようというのか。それでも君には関係のないことなのか。だが気に入らないのはそういうことではない。現状を何とかしようと悪あがきを繰り返すことが気に入らないのか。誰がそんなことをやっているのだろう。それでも君にとってはどうでもいいことか。何がそれでもなのかわからない。だからくだらないことはくだらないままに済ましてしまう。何がだからなのではない。それはただの言葉に過ぎず、ただの意思表示でさえなく、その言葉が何を示しているとも思われない。言葉は神ではない。では何をわかりきったのか。何もそうではない。要するに何ももたらさないうちに文章が終わってしまうのだ。誰がそれを求めているわけでもなく、何を意味することもない。すべては時間の進行に沿って起こっていることだ。要するに言わんとすることがずれている。何を言わんとしているのでもないのに、そういうことを述べてしまうわけだ。そしてそれは誰にとっても関係のない言葉の組み合わせを示す。そしてそれがその場で発した冗談の一部始終なのか。嘘に決まっているだろう。述べていることがどこまでもずれている。いわゆる的外れなのか。そうに違いないが、何が違っているわけではない。ではすべてが正しいと思っているのだろうか。そう思ってもらって差し支えないだろう。嘘でも偽りでもかまわないから、そう思いたいのではないか。要するに何でもかまわないということだろう。君に残された時間は後わずかだ。冗談で述べるならそういうことになるだろう。だが君の時間が終わっても、やがて誰かの時間がやってくる。そこで時間がどこかへ引き戻されようとしている。時の流れに逆行しているとは思えないが、誰かは何かをそういうことにしておきたいのかもしれず、君の前に誰かの時間があったらしい。わけがわからず、面倒くさがっているようだ。君も誰かも時間の外で何をやることもできない。何かをやろうとしていたわけか。何もやることができないのを承知の上で、誰かが何かをやっている気分で適当なことを記している。それはまったく馬鹿げたことか。それはそうだが、作り話の中ではそうではない。誰かにとっては画期的な試みなのかもしれず、それをどこかに向かって誇ってみたい気にさせるようで、現にそこで誰かが自慢話をしているつもりになる。そんなことはあり得ないことだろうか。誰にとってもあり得ない話だろう。だから面倒くさいと述べているではないか。たぶんそれがここでの主題だ。


1月6日

 何をどう考えても答えを得られない。それ以上は何も考えられない。そういうふうに考えるのが当然の成り行きか。空気が乾いている。雪がぱらついているのにそれはないだろう。そういう話ではない。何を語りたいのか。たぶんわからない。ならばなぜそこで考えるのか。それはつまらないことだ。考えることがつまらない。何を呼び込んでいるわけではない。それは破滅でも虚無でもない。手短に何かについて述べようとするが、中途半端なところで何かに遮られ、何となくどうでもよくなってしまう。だからわからないと思う。そう思われてしまうのだろう。何を言いたいのからわからなくなり、言葉に詰まって沈黙を強いられる。何をどう述べたらいいのかわからない。冗談でそんなことを述べているのだろうか。語っている内容がまるでサーカスのようだ。人々の気を引くためには命がけにならなければいけないらしい。かなり馬鹿げているだろうか。君には関係のないことだ。関係なければ、それに関して何も語れないのではないか。ではどうしたらいいのだろうか。音楽で癒されるのはごまかしか。それの何が嘘偽りになるのか。君にはわかっているはずだ。たぶん何かに飽きている。勝手な想像に終始する。紫色の夢を見ているわけではない。何だかよくわからないことを述べている。君の知ったことではないのだろう。ではまるで曲芸師のように事を運んでいるのは誰なのか。それも知ったことではない。そして今日もつまらないことを考えているらしい。別の時空では知らないことについて理解不能なことを述べようとする。何かにはまっているのだろう。それは何かの罠か。ただ言葉に行き詰まっているだけだろう。何について語ろうとしているのでもないらしい。ただわからない。この世界は何のために存在しているのだろうか。誰かはわざとわからない問いかけを記している。たぶん簡単な成り行きだ。松林の中を歩いていくと砂浜に出るが、たぶんその先は海に決まっている。そこで何を見ているとも思えない。誰かがありふれた光景を想像している。音楽を聴きながら、何か適当な言葉を記しているだけで、それは期待はずれを伴っているようだが、それでも何とかここまでやってきた。気に入らないのにはそういうことではないのだろう。やがて誰もいなくなる。生まれてこなければそうなってしまうだろう。老人は死ぬだけだ。若者もやがて死ぬ。だからどうすればいいのだろうか。君は何のために生きているのだろうか。介護されながら生きてゆかなければならないのだろうか。人によって異なるだろう。君がそういう成り行きになるとは思えない。今のところはそうかもしれないが、何かのきっかけでいつそうなるかわかったものではないか。そんなことは当たり前だが、先行き不透明だ。現時点では何を批判したいのかわからない。誰かが何かを批判している。誰が困っているというのか。怒りの矛先などありはしないし、内容に危険な傾向があるわけでもない。それは何の内容なのだろうか。誰かの影でしかない君に内容などありはしない。だから君にはわからないのだ。ただの独り言に過ぎないのかもしれず、確かにそれは影の内容などではない。誰かが関心を抱いているのは異国の風景か。それは苦し紛れの言葉であり、君には関係のない言葉だ。この場合の誰かとは他の誰かのことか。さらに本筋から逸脱して行ってしまうようだ。つまらないのだろうか。何がそうなのかわからない。何もないので一休みといったところだろうか。それでも架空の石盤に文字を刻みつけるふりをする。だから苦し紛れでわざとらしい。それで何を終わらせようとしているのでもない限り、君が虚無に出会うことはない。苦し紛れに繰り出された言葉には無意味な響きが伴っている。空疎な響きであり、それ以外の何を想像させることもない。意識は今どこを漂っているのか。誰に助けを求めても無駄だ。何かが倒錯しているようだが、それに気づかない。君が気づいていないのではなく、君が誰かの影であることに気づいていない。まともな内容をもたらせない。そういうわけで挫折しているらしく、心は鬱に傾き、何か得体の知れぬ雰囲気に救いを求めているのかもしれないが、そこから何が導き出されることもない。目の前に並ぶ文字列は相変わらず空疎な雰囲気を醸し出している。そんな状態で君に何を期待できるというのか。それは何かの精神状態かもしれないが、そこに誰の意識が絡まっているとも思えない。意識しているのは何かの香りかもしれない。誰かが過去の記憶から何かの香りを引き出してくるが、君は無関心を装う。いつも漂っているのはそれとは違った趣がある。言葉を咀嚼している余裕がないらしい。だがそれで何かに敗れ去っているとは思えない。今は物事の本質をとらえた言説を構築することはない。ただその表面に何かがうごめいていて、それを誰かの意識が感じ取っているのだろう。かろうじて言葉がつながっているようだ。何かの佳境にさしかかっている気はしないが、話がそこで途絶えることはなさそうで、いったん中断するとしても、頃合いを見計らって、またどこかで再開されてしまうような気がしている。


1月5日

 また何かの限界に近づいてしまったらしい。いつものことだ。そういうのには飽きている。空洞化が進んでいるのだろうか。偽りに虚無に助けを求めるつもりか。仕事は仕事だ。それを受け入れるしかないようだ。他に何がわかっているわけでもなく、幻想を抱ける状況にない。無理なのだろう。雰囲気的にはそうだ。だからその行き詰まりも受け入れなければならない。先のことはわからない。それをわかるわけにはいかないようだ。ただの言葉の循環に過ぎない。何かの偶然が作用している。また嘘をついているのだろうか。まあ日本がどうこういうのはおかしい気がする。もはや国家などどうでもいいか。そういうことではないが、なぜ生きているのかわからない。そこで誰が生きているのだろう。そんな簡単なことではない。雑なことを述べているのは誰だろう。それらの何が粗雑なのか。人々はどうあるべきなのか。民族などという言葉を用いて経済について語るのはかなりおかしい。そういうことがわかっていないらしい。たぶんその手の人々は相手にされていないのかもしれない。例えばイスラエルは一つの国家だ。その国家宗教はユダヤ教なのか。キリスト教徒もイスラム教徒もいるだろう。だからどうだというわけではないが、爆撃で多くの人が死傷している。それだけのことだ。何を突き放しているのだろうか。君たちは何をしなければいけないのか。イスラエルを一つの国家として認めることか。この世界から抹殺してはいけないのだろうか。抹殺できないからイスラエルがある。武力と経済力によって存在しているわけか。人は民族に属してはいけないのだろう。そんなことはわかりきったことだが、心のよりどころとして民族は必要なのだ。幻想を抱いていたいのだろう。人々を一つの目的に向かってまとめあげるにはカリスマ的な指導者が必要か。時と場合によってはそうなのかもしれない。しかし目的とは何なのか。君は目的を信じていない。なぜ人はこの世で生きているのか。何か目的があるのだろうか。そういうものを設定しようとすれば、それなりに目的が導き出される。だが果たしてそれを信じていいのだろうか。たぶん解決方法はただ一つしかない。イスラエルという国家を地球上から抹殺することか。それはできない相談だ。だから解決させてはいけないのかもしれない。中東問題の唯一の解決法が自分たちが滅び去ることだとイスラエル国民も薄々感づいているのかもしれない。だから死にものぐるいで敵を殲滅しなければならない。容赦したら自分たちが滅ぼされる。つくづく悲惨な人たちだ。民族や宗教を捨てられない人々には未来永劫苦難がつきまとう。自分たちが属している民族や信じている宗教を守っていくとはそういうことだ。神にその信仰が本物かどうか試されているのだ。だから神は容赦なく試練を与え、民を苦しめる。古くは出エジプトから始まる流浪の生活やバビロン捕囚、ローマによる圧政、ヨーロッパやロシアでの迫害や虐殺、ナチスによるホロコースト、そして周辺地域を爆撃することでしか国家を維持できない今の状況につながる。まさに自分たちは世界中から嫌われることでしか存在できない。もし自分たちが滅び去ったら周辺諸国に暮らす人々は大喜びすることがわかっているだけに、なおのことつらいのだろう。だから容赦しない。敵がロケット弾を撃ち込んできたら、その何百倍もの損害を敵に与えなければならない。しかしそれを繰り返しているとどうなるか、それにも薄々気づいているはずだ。どうあっても自分たちは滅び去らなければならない。そういう宿命なのだ。イランが秘密裏に原爆でも開発して、それをミサイルの先につけて打ち込んでくるだろうか。すでに隣国のパキスタンは核兵器を持っている。そういう恐怖心に耐えながらパレスチナの狭い地域にしがみついているのはつらいことだろう。だからユダヤの神を信じる者たちは土地を放棄して流浪の民となるべきなのだろうか。何ともいえないが、そういう民族国家幻想を今さら捨てるわけにはいかないから、彼らはイスラエルにとどまっている。そこで待っているのはやがて自分たちが滅びさる運命だ。それは避けられないことかもしれない。だから今のうちにせいぜいガザ地区でも爆撃して、自分たちに憎しみを抱いている者たちを道連れにするしかないのだろう。このままではどうあがいてもいずれイスラエルは滅び去る。暴力を用いて他者に恐怖心や憎しみを植え付けようとする者が滅ぶのは必然であり、古今東西の歴史が実証してきたことだ。もしかしてそれを一番わかっているのは当のイスラエル国民なのかもしれないが、わかっていても武力の行使をやめるわけにはいかないのがつらいところであり、要するにそれも神から下された試練なのだろう。やがてお前たちとお前たちの国は、自ら招いた災禍によって滅び去り、残された者たちは世界中へ散らばってゆくことだろう。それがお前たちの宿命なのだ。我はお前たちの信仰心がどれほどのものか試している。我は我が与える試練に耐え抜いた者のみを神の王国へと導き入れるだろう。


1月4日

 夢の中に白い風景が広がる。わけがわからないが、君は何を否定しているのだろうか。そんなことには興味がない。しかし言葉が続かないようだ。ならば終わりがいつやってくるのか知りたい。たぶんまだわからない。何がわからないのだろうか。たぶん君のことではない。開き直っているわけではない。知りたいのは誰のことでもない。そう思いたいのだろう。自分を見せびらかそうとするのは嫌いか。針のむしろというやつか。自業自得に決まっているが、自縄自縛というわけではない。何のことやらわからない。人が暮らしやすい社会とはどのようなものなのだろう。ものではないか。それは違うと思うだけだ。今生きているこの社会が暮らしやすいのではないか。それも嘘だと思いたいのだろう。何とかしたいのやまやまだが、そうならないところが楽しい。憶測や推測とは関係ないのだろうか。安心したいのだろう。さらにわけがわからなくなりたいのか。本当に意味不明だ。現状が気に入らないならどうすればいいのだろう。現状ではテロリストにはなれない。何かの冗談だろうか。ならばなぜこの世界に戻ってきたのか。誰が生き返ったわけではなく、何をよみがえらせたわけでもない。そこで何かの出来損ないが生じている。まったくわからなくなり、途方に暮れてしまうだろうか。性に合わないのではないか。気に入らないのはわかるが、どうしようもない。これ以上のやり方を思いつかない。他に何をやろうとしていたのか。そうではないのかもしれない。逃げているのだろう。どこから逃げているのかわからない。一休みしている場合ではない。気持ちが何かから外れているのだろうが、今はそうではないと思いたい。何を理解したわけでもなく、わかり得ないことについて考えているのでもない。理解という言葉を信じない。やはりそれは違うと思われるのか。感覚ではなく、言葉が違っているのだろう。苦し紛れの台詞ではない。文章を何とかしたいようだが、それは無理だ。君は確実に間違っている。それが魅力なのではないか。冗談でそんなことを述べているだけだろう。目指しているものが違うのだろうか。いったい何を目指しているのだろうか。何かにはまっているのかもしれない。何を学んでいるのか。たぶんそういうことではない。何もかもがそういうことではないような気がするだけか。では何がもたらされているのか。無駄な言葉とそれが醸し出す雰囲気か。スポーツが馬鹿げた熱狂を伴っていることはわかっている。今はその話ではない。そこに何らかの規則性を見出して感動したいのか。気休めや気晴らしでは心は動かない。ではもうひとひねりが必要なのか。いい加減に語り始める。それとは別のところで何をやろうとしているのか。語りつつある対象を見出したい。それが無理ならどうするのか。何を問いかけても始まらない。あきらめてしまえば済むことか。だからいったん退こうとしているのだ。嘘に決まっている。どこから退こうとしているわけでもなく、退くことを否定しているわけでもない。ではわざと矛盾しているわけか。そう思って差し支えないだろう。心は純粋であることなどできない。だからひたすらふざけているわけか。君が思っているような結末ではないだろう。何を見届ける気もない君に、虚無が何を諭そうとしているのでもない。わかっていることはわからないことだ。だが少なくとも冗談には違いない。誰かが気づいたのはそういうことだ。どういうことでもなく、嘘でもないが、そういうことだ。作り話の中では事実を語りつつあるのだろう。そこで馬鹿げたことが繰り返され、残念ながら何の結果ももたらせないようだ。悪ふざけのし過ぎなのだ。だからわけがわからなくなり、どうでもいいことを記すはめになる。それのどこが楽しいのだろうか。今ではないのかもしれず、それがわかるのは今から何年も先のことになるのだろう。だからまだ結論が出る気配はない。今は何とかしなければならず、何とかしている最中なのだ。君にはまだわからないことだ。このままではいつまでたってもわからないかもしれない。誰にもわかるように語ってくれないか。今の君に何がわかるのか。そこで何をわからせようともがいているのか。知れたことではない。誰にも知れない努力を重ねているつもりだ。ただわけがわからないだけではだめなのだろうか。それがわかっているからわからせようとしているのではないか。救急車のサイレンの音だ。心がつまらないことに引き裂かれているのでもなさそうだ。そんなものなどありはしない。あったら面倒だ。背景がわからなくなる。絵ではないだろう。絵画とは無関係なのか。ひどい言葉だ。そういうものが投げかけられている。嘘だと思うなら表に出てみればいい。何の矢面に立たされているわけでもなく、無視の嵐がどこからやってくるわけでもなく、虚無でもない。やはり記そうとする言葉が違っているのだ。何を記そうとしているわけでもないのに、指先が何かを引き寄せ、その結果がこの惨状なのかもしれないが、それでも楽しければかまわないのだろう。本当に楽しんでいるとは思えないが、とりあえず楽しいということにしておこう。


1月3日

 まだ何かが足りないらしい。それは以前にも繰り返された台詞だろうか。なぜそう思うのか。やりがいがあるのは仕事ではない。情熱を傾けているのもそうだ。そんな君には呆れてしまう。唖然とさせられ、あとは何だろう。そんなことはあり得ないというわけか。ならば今の君に何ができるのか。誰かがどこかで言葉を連ねようとしている。それはどこでもないはずか。少なくとも君ではない。わざと的外れなことを述べようとして、それが果たせたような気がする。たぶん何でもかまわないわけではないのだろう。冗談で済ますわけにはいかず、今こそ本音を語らなければならないか。それこそ冗談に違いなく、強がっているわけだ。くだらぬ痩せ我慢もいい加減にやめたらどうか。まったく話になっていないようだ。いったいあの頃は何だったのか。それはいつの頃の話なのか。何にふれていたわけでもなく、その頃の記憶も曖昧で不確かだ。だから忘れてしまったのではないか。何かを勝負をしているわけではなかった。まがい物をつかまされていたのかもしれない。だから今は頑な態度を取り続けているわけか。それはわからない。今もキッチュが好みなのかもしれない。それがわからない。何とかしなければならないのはやまやまだが、それができない現状を変えることはできない。君のことではない。そこまで語っても誰のことでもありはせず、何でもないことだ。そこから遠ざかれないのだ。心はそっぽを向いている。胸くそが悪いか。そういうことではないが、何でもないこととはそういうことかもしれず、それが何だかわからないようだ。すべては幻想だと片付けてしまいたくなる。仕事はもとより、生きることにも死ぬことにも幻想を抱けなくなり、ただの出来事が積み重なり、何かが目の前を通過していくのを黙って眺めているだけのような気がしてくる。感動は君には過ぎたことだ。何事にも驚愕すべきでない。当たり前のことなのだ。何でもないことを探求しなければならない。君がそれをもたらしているのではない。何とかしなければならないのは君ではない。誰かの方でもなく、何もしなくてもいいのだ。あえてそうしているのではなく、ただ何もしなくてもいいわけだ。そういう話にはついてゆけないか。君が何かを語っているわけでもなく、興味深い事象について語っているのでもない。君にはできないことが課せられている。君は神ではなく、誰が漫画の中で神になっているのでもない。君にそんな義務はないだろう。実際に何をやろうとしているのでもなく、やれることは限られていて、何もやらなくても誰からも咎められないのではないか。君の話ではない。誰の話でもないことを記しているつもりだが、それは嘘かもしれない。そのすべては誰かのことなのだろう。君に何が課せられているのでもないことも、それに起因している。何だかわけがわからないが、つまらないと気持ちが荒んでくる。何とかしようという気持ちがかろうじて言葉を記す時間を生み出しているわけか。それでもわけがわからず、途方に暮れてしまうのだろうか。君に限ったことではないだろう。君はいつもそれ以上の何かを求めてきたはずだ。それが虚無の幻影におびえることになろうとも、身の丈を超えたことを述べてみたかったはずだ。次第に破滅へと導かれていようと、何とかまともな言説になるように努力を惜しまなかったはずか。だから何だというのか。神は君に語るべき機会などもたらせないだろう。ならば誰かが自分で語る場所を作るべきなのか。そういうことではない。すでに語っているではないか。何かの餌食となっているわけではない。そう思っていれば虚無が君から遠ざかり、何らかの希望を抱く機会も巡ってくるだろうから、その機会を逃さなければ、何とかなるような気がする。袋小路で立ち往生することもない。崖の上で立ち尽くしているわけでもない。いつまでもそれはないか。そんなことを続けていればいつかはそこから飛び降りてしまうだろう。だから何らかの歯止めが必要なのか。君にわかっていることが、誰にとってもわかっていることでもないことは承知しているはずだ。だからいつでもどこでもわかりやすく語らなければならない。だが君はそうしない。ひたすら沈黙を守っている。それは最近のことではないのか。君に限ったことではない。何かをはぐらかしたいのだろう。無目的を目指さなければ破滅してしまうだろう。何がそうなのか。それでもやはり君のことではないはずか。では何を語っているのか。まだその先に言葉が連なる予定か。今後のことなどわかるはずがない。君は黙ってその場から立ち去ってしまえば満足なのだろう。格好をつけたいのか。何が何でも何でもないことについて語ろうとする。それが現状なのだから仕方がなく、君もそれを拒否できないはずだ。誰にとってもそうなってしまい、そんな心境がその場を支配している現状を嘆くこともなく、誰かはただひたすら言葉を記し、それらの連なりはようやく一区切りつけるだけの分量となる。ならば一安心してしまうのか。明日もそうなる保証はない。いつまで経ってもそう思ってしまうと困るわけか。何でもないことの何が困るのだろうか。


1月2日

 今さらそれはないだろう。くだらないことならいくらでも述べられる。今回はそれが嘘だとは思わない。誰かはこの世界の何に心惹かれているのだろう。言葉そのものだ。だが繰り出す語彙が貧困なのはそのためだ。ならば豊かになるとはどういうことなのか。何をやれば何が豊かになるのだろうか。まったくの冗談だろう。見え透いたことを語っているようだが、君はそれの何が気に入らないのか。冗談でそんなことを述べているだけかもしれない。それは本当に馬鹿げている。それが何だかわからない。何が馬鹿げているのかわからないが、それはいつものことだ。しかしなぜ君はくだらぬ文章を終わらせないのか。だからわからないと述べているだろう。また焦っている。だからわからないのではないか。心はどこを向いているのでもない。語れるなら何でもいいのかもしれない。外では雪が雨に変わっている。もはや何も語る気になれないのだろうか。だがそうなった理由がわからない。要するにそうやって無駄なことを述べているだけのようだ。しかしそれの何が無駄なのか。どうしてそうなってしまうのだろうか。それもわからないことの一つか。たぶんそうではないと思う。誰が思っているのか知らないが、とにかくそうではない。そうであるのが面倒くさいのだろう。音楽はロイ・ハーグローヴが続いているようだが、その洗練されたトランペットの演奏と音楽は聴いていて心地よいか。ジャズでしかない。それがいいのだろう。わからなくなる。何がそうなのか。何か他に述べなければならないわけか。そんなことはわからない。だが何かを避けなければならない。それがマイルス・デイヴィスであるわけがないだろう。そういうことではない。何かが美的に走りすぎている。何かの種類が違うのか。語っていることはそうではない。意識が心の中で戯れているのかもしれない。意味不明だろう。またもやありふれたポップ・ミュージックだ。クロス・オーバーとはどういうことなのか。つまらないことを考えているのかもしれない。この世には似つかわしくない。コーヒーが苦くなり、紅茶が渋くなる。何かの甘い香りだ。そういうことではない。何とかしなければならないはずだ。それを今まさに実行中なのではないか。それがわからない。日付の遅れを取り戻す気がないのか。そういうことではないのだろう。効果音がその場にふさわしくない。そういうことではない。同じ言葉を繰り返し記している。少し休んだらどうか。眠ってしまうだろうか。君には関係のないことか。誰がそれを読み返すのか。返答はまだない。今さら焦るつもりはない。何でもかまわないのだからそういうことになる。それは君が決めたことではなく、誰が決めたことでもない。心の中から自然と何かがわき上がってくる。それは誰の感情でもない。何も予定が記されていない手帳を眺めている場合ではない。だがそこで何が作用しているとも思えない。感傷的になるつもりはなく、なれないことにこだわるつもりもない。だから何だというのか。何でもない。簡単に言葉を記していればいいのだ。今やっているそれを続けていればいい。他に何ができるというのだろう。やれることをやっていけば自ずと道が開けるはずだ。そこから単なるご都合主義に染まってもかまわない。誰かもどこかでそう述べていたはずだ。人はそれでも生活している。皆が行き詰まっているわけか。少なくとも君はそうではないはずだ。何を述べているのでもなく、何に行き詰まっているわけでもない。君にはそれがわかっている。もう語るのが飽きてしまったのか。何を語っているわけでもないのにそう思ってしまう。人を人と見なさないのが資本主義の本質だ。利益を出すことが最優先され、会社を倒産させないことが肝心なのだ。それに携わる者たちに倫理観などありはしない。とにかくヤバくなったら死にものぐるいで会社を存続させようとする。そして最後の手段は違法行為か。そこまでやってだめだったらあきらめるしかない。それは制度の問題だろうか。やっている者たちはシステムの一部になりきっている。そこから離れて人として振る舞うことなどありはしない。それがたわいないことの一部始終か。どうということはない。近視眼的な思考を総動員して、それらの非人道的な行為を告発しても、制度は制度なのだ。それに携わっている者たちは制度には逆らえないのだ。制度が今の彼らを生かしているのだから、逆らったら彼の立場も危うくなる。保身に走らなければ明日は我が身だ。君たちはそれで満足なのか。明日は我が身でもかまわないのか。制度の外側で生きていくことなど不可能か。例えばホームレスもそれらの制度の一部を構成しているのだろうか。何も悪いことをしていないのに、鉄パイプで殴られるのは理不尽か。むしゃくしゃすると弱い立場の者をいじめたくなるのが人としてのさがなのか。だから何だというのだろうか。誰も助けてはくれないか。誰も来なければ黙って殴られ、場合によっては命を奪われるしかない。そういう立場に追い込まれるのが嫌なら、黙って制度に従えというわけか。それは悲惨な世界だ。


1月1日

 やっと今年になったが、すでに一週間以上遅れている。文章を記す力が衰えてきたのだろうか。まともなことを記そうとして果たせず、焦っているうちにどんどん月日が経ってしまったようだ。たぶんもうやめた方がいいのだろうが、なぜか意に反してやめられない。目的らしき目的に巡り会えないのに、無目的に言葉を記している。これはおかしな事態だ。本当にそう思っているのだろうか。誰に訊いているわけでもなく、自問自答もどきで意味不明になる。それも嘘だろう。見方も考え方も違っているようだ。そして何が違うのかわからない。くだらないことにかかりきりなのだ。実質的にはそうだ。おかげでそれ以外のことは何もできなくなっている。君は馬鹿げた事態に陥っているわけか。君ではないだろう。君でなければ誰でもない。誰でもなければ言葉を記している意味がない。しかしそれがどうしたのか。どうもしなければ何だというのか。やはりわからなくなってしまう。たぶんひたすら馬鹿げているようだ。もうまともなことは何も述べられない。それは困ったことだ。本当は楽しくてたまらないはずだ。だがそんな嘘をついてどうするのだろう。どうもしないからそんな嘘をついているわけだ。要するに嘘という言葉を反復的に記しているわけだ。それは何かの冗談か。そうだとしたらどうなのだろう。それ以外に何も思いつかなくなる。またそんな嘘をつく。意味もなくどうしようもない。意味があったら困るだろう。何も語れなくなる。本当にそうだろうか。君はいつでも嘘をつく。それでも日付の連続性をないがしろにできない。その辺のこだわりが致命的な欠陥だ。日付さえ連続していれば、内容がいくら空疎でもかまわないのか。それは仕方のないことだろう。そんなことしか述べられないのだからそういうことになってしまう。そして今度はそれをひたすら続けなければならなくなり、うんざりしてしまうわけだ。それは自業自得に違いない。それでも内心ほくそ笑んでいて、してやったりの勘違いを抱いている。くだらぬことを記しているだけなのに、それでかまわないと思い込み、自らに嘘をついていることを承知しながらも、なおそれを続けようとする。何かの中毒なのだろうか。それは以前にも述べたことだが、どうにもこうにも言葉を記さないと気が済まないというのはどこかおかしい。無理に語るほどの内容でもないのに語ろうとするのもおかしい。結論としては、君は気が狂っているということか。だから君のことではないと述べているではないか。では誰が述べているのか。誰も述べていないとすると、それは冗談でも嘘でもあるということか。それもかなりおかしなことか。おかしなことだが何でもない。たとえ気が狂っていようと何でもない。すべては作り話の中での話だ。またそうやって逃げてしまう。しかしいくら逃げても状況は変わらない。変わらないから逃げられるのではないか。そして変わらないとすれば逃げていることにはならないのではないか。君は現状の何を変えようとしているのか。とにかく遅れを取り戻したい。それだけのために空疎なことをひたすら記しているわけか。だからそれは君ではなく、他の誰かだ。また責任逃れか。さらにわからなくなる。どうやら予定調和の自問自答にも飽きてきたか。しかしそれ以外に何を語れるのか。いったい記されつつある言葉の連なりは何を目指しているのだろうか。目的などありはしないだろう。それでもそこから何らかの目的が導き出されるとすれば、それはただの継続に過ぎない。意味不明だろうと空疎だろうと、話以前の虚無だろうと、とにかく続けていたいのだろう。現に誰かはひたすら続けようとしている。たぶん気が狂っているとかそういうことではないのかもしれない。至って正常なのであり、冷静に状況を把握している。頭が混乱しているわけではない。そういうことを述べたくて述べているのではないが、とりあえずそんなことを述べている。それだけのことなのだろう。ただそれだけのことなのに、今やそれが話の一部始終なのだ。それ以外にはあり得ない。ひたすらそうなのだ。それは何でもないことだ。何でもないからそうなってしまう。しかし実際は何でもないわけがない。何でもあるわけだ。面倒くさいのでそういうことにしておこう。そうでないと何か差し障りでもあるのか。そういうことにしておこう。面倒くさいのだ。嘘に決まっているだろう。決まっているのは嘘ばかりではない。では何が決まっているのか。冗談でそんなことを述べている。何を述べてもそれだけのことだ。そういうことでしかない。今はそうなのだ。今でなくてもそうであってほしいが、とりあえず今はそうなのだ。そんなふうに述べていなければならない。明確な理由はないが、そういうことにしておこう、そうでなければならない。そういうことだ。決まっているのだろう。何が決まっているのか忘れてしまったが、そういうことにしておこう。現実にそういうことを述べている。そしてそういうことを記している。それは誰にとっても何でもないことだが、そういうことなのだ。それだけだ。


2008年

12月31日

 ようやく去年の日付もあと残すところ一日となったようだが、やはり何も思い浮かばない、と嘘をついてみる。嘘ではないだろう。何事も他人事なので、本当のところはよくわからない。誰かはピンク・フロイドというバンドを知っているだろうか。確か初期のリーダーのシド・バレットが、麻薬中毒で気が狂って脱退してから、世界的にメジャーなバンドとなったように記憶している。その数十年にも及ぶ活動の時期によって参加している人も違っているが、なぜか君は全般的にその音楽に興味を持てない。その幻想的なライブパフォーマンスを実際に見たり、歌詞を理解しないと良さがわからないのかもしれないが、音楽的には平板な印象しか受けない。同時代的には大げさなバントとなってからしか知らないからか。しかしシド・バレットが去り、ロジャー・ウォーターズが去り、途中から入ったデヴィット・ギルモアが、才能的には抜け殻状態となったバンドを活動させている時代が、一番長いのであり、その時期が君の同時代的な体験なのだから、やはり否定的な感慨を抱くのも無理はないか。だがライブ・コンサートでの観客動員数は、抜け殻状態の時期が一番多いらしい。レコード売り上げもそうだろう。たぶん人は形骸化した音楽に接すると安心するのかもしれない。逆に世間からあまり認められなかった頃のとんがった音楽には危険な香りを感じ取り、そういう耳慣れない斬新なものを聴くと不安を覚え、感動するより否定する心が先に立つのかもしれない。異物を受けつけないのは世の常か。しかし何やら利いた風なことを述べている。かなりくだらない状況か。何がそう思われるのだろう。君の知ったことではない。いつものように関係ないだろう。そしてたぶんおかしい。君はそこで何をけなしているのか。馬鹿げているのはどういうことなのか。心のどこかで何かが不完全燃焼している。そこで誰が何になりたかったわけではなく、居眠りの最中にどうでもいいことで起こされて、少し不機嫌なのかもしれない。シド・バレットに興味があるわけではないが、シド・ビシャスにはもっと興味がないか。ただのいかれた男だ。ならばジョニー・ロットンならゴッド・セイヴ・ザ・クィーンの中で何を歌っていたのだろうか。エリザベス女王の即位二十周年式典が催された日に、テムズ川に浮かべた船の上で大音量でその曲を演奏して、歌詞の中で王族に向かってさんざん悪態をついた末に、お前らに未来はない!と決め台詞を叫んだらしい。まさか日本のパンク・バンドがそれをやったらどうなるだろうか。天皇の即位二十周年式典が催される日に、皇居の外堀か神田川辺りに船を浮かべて、大音量で皇族に向かってさんざん悪態をつき、お前らに未来はない!と叫ぶことなど考えられないか。そもそも皇族はそういう悪態をつく対象とはならないか。まあよくわからないが、ああいうことができたのは世界中で後にも先にもセックス・ピストルズただ一つだ。そしてそれも長続きせず、確か三年足らずでバンドは解散して、俺はピンク・フロイドが嫌いだ、と書かれたTシャツを来て、気が狂ったように、アナーキー・イン・ザ・UKを歌っていたジョニー・ロットンも、知性を身につけてジョン・ライドンとなり、今や一部のマニア以外には忘れられた存在か。しかしパンク・ロックそのものは一過性の音楽ではなく、何十年も続いているバンドも結構あるらしく、元祖パンク・ロックのラモーンズなどはジジイになった今でもやっているような気配があり、日本でもジュンスカとか、未だにパンク風の出で立ちで青春調の歌を歌っているのを、時折テレビで見かけることがある。青春調の歌といえばブルー・ハーツの人たちは、途中からクロマニヨンズとかいうバンドに変わってしまったらしいが、やはりパンク・ロックをやっているのだろうか。その辺の事情には疎いが、もともとその手のロックとは距離を置いていたのではなかったか。当時はすでにアナーキーというパンク・バンドの歌詞が紋切り型でつまらないと感じていたし、カルト的な人気があった伝説のパンク・バンドのスターリンの曲が良いとも優れているとも感じなかった。そして今の君はジャズなどを暇つぶしに聴いている。かなり馬鹿げているだろうか。なぜそうなってしまったのか。何となく趣味の範囲外へと逸脱することはなく、たぶん音楽で何かできる、などという幻想を抱くほど世間知らずではなくなってしまったのだろう。しかし今までに音楽以外でも何かできるなんて思ったことがあっただろうか。すべては冗談の範囲内だ。今実際にやっている何かが、その何かできるの何かでしかなく、それにかかりきりなのだろうから、とりあえずそれをやるしかない。ただそういうことであり、それ以外に思うことは、やはり幻想を抱いているわけだ。もしかしたら人生の残された時間の中で何かできるのではないか。取り立てて何もやる気もないのに、そういうことを思うわけで、心がさかんに無い物ねだりをしようとしているだけなのかもしれず、そういう心理作用をあまり真に受けてはいけないのだろう。語っている内容はそれだけのことだ。


12月30日

 馬鹿げているだろうか。まだしばらくは去年の日付だ。いくら何でももうそろそろ今年の日付を記したいものだが、あと二日去年が残っているらしい。だがその二日が難しいようだ。急に何も述べられなくなり、行き詰まっている。何に気を取られているのか。またテレビでも見ていたわけか。そして疲れて眠ってしまったらしい。翌朝に目が覚めてもやる気がしない。いったい何を語ればいいのか。それはいつも思っていることだ。誰かは昨日もそんなことを思っていたらしいが、相変わらず何も思いつかず、心は沈黙を守っている。言葉が出てこない。ただそれだけのことだろう。語っているのは何でもなくてどうでもいいことだ。そういう心理状態と状況を通過しなければ何ももたらせない。そういうことなのか。どういうことでもない。あとはひたすら遅れてしまうだけのようだが、雪のないスキー場で滑っている夢を見た。それを思い出して記しているところか。やはり何でもないことだ。それがどうしたわけでもなく、つまらないことを述べている。他に何かないのだろうか。君のことではなく、誰かのことでもかまわない。昔の記憶の断片から教訓めいたことでも述べてみるつもりか。人が死んでも誰もが悲しむとは限らない。あれはもう十五年くらい前の出来事か。下水道工事の現場で口うるさい老人が嫌みを言いながら下請けの職人たちに指図して作業を進めていた。老人の口癖は、こんなところで下水道工事をやっているお前らは馬鹿の集まりだ、そんな意味のことを事ある度に口走っていたように記憶している。現場の作業員たちは毎日馬鹿呼ばわりされて、不快な思いをしていたのかもしれない。確か現場監督が土建会社の社長の息子で、それを差し置いて現場を仕切っていたのが、古参の従業員らしきその老人だった。たぶん今でもそうだろうが、一般的な下水道工事はまず道に竪坑をいくつか掘って、そん竪坑と竪坑の間を横穴で結んで、そこに下水管を埋設するわけだが、竪坑の工事が一段落した頃に、急に工事が数日ストップしてしまい、その現場の交通誘導のアルバイトをしていたので、その間は別の現場に回されていたのが、数日後にまた工事が再開されたらしく、お呼びがかかって行ってみると、下請けの親方が、「坂本さんが死んだそうじゃねえか」と話しかけてきた。どうやらその口うるさい老人が自分でタイヤローダを運転していて、なぜかそのタイヤローダに轢かれて死んだそうで、それで工事が中断していたらしい。それを語っている時の下請けの親方の目が笑っていたの印象的だった。嫌みな人が死ぬと周りの人たちは清々するらしく、何だか現場が和やか雰囲気になったように感じられた。そして竪坑の工事が数日で終わり、下水管を通すための横穴を掘削するのはそれ専門の機械を持っている別の業者がやるので、老人から毎日馬鹿呼ばわりされていた人たちはいなくなったわけだが、それと入れ替わりにやってきた横穴を掘る業者の一人が、竪坑を覗き込みながら、「おい、この穴に落ちて死んだやつがいるそうじゃねえか」と言ってきた。どうもその老人は、労災申請が通るように、タイヤローダに惹かれて死んだのではなく、竪坑から落ちて死んだ事にされていたらしい。横穴を掘って下水管を埋設する作業は比較的順調に進み、それが終わってまた業者が入れ替わって、今度は竪坑部分にマンホールを設置して埋め戻す作業になったのだが、その時新たに現場監督になった人は、死んだ老人が仕切った竪坑工事が気に入らなかったらしく、来る日も来る日も老人をののしり続けた。「坂本の馬鹿野郎、コンクリをこんなに流し込みやがって、外れねーじゃねーかよ!」などと、ののしりながら現場を指揮していた。竪坑が崩れないように内部で支えていた鉄板や鉄骨は、埋め戻す際に外して撤去しなければならず、その老人のやり方だと無駄にコンクリートなど資材を使いすぎて、その分費用がかさんでいたのかもしれない。そしてある時、いつものように老人の悪口を言いながら現場にいた監督に向かって、下請けの親方が「おい、あんまり悪口ばかり言っているとバチが当たるぞ」とたしなめたとたん、現場監督の頭にユニックのクレーンの荷をつり下げるカギ状の先端部が命中して、その人は頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。幸いヘルメットをかぶっていたので大事には至らなかったようだが、その後もいろいろあった。埋め戻しの途中の段階で、確か交通量の多い場所にあけた竪坑のふたをしていた鉄板が、夜のうちに陥没していたことがあって、朝来たらその道が大渋滞となっていて、急きょ元請けの土建会社の社員が十数人来て、昼休みもせずにその日のうちに埋め戻してしまったのだが、そのときは朝から夜の七時ぐらいまで、ぶっ続けで片側交互通行をしなければならず、かなり疲れたような記憶がある。確かその竪坑が老人が落ちて死んだことになっていたそれだ。だから何だというわけではないが、不意にそんな記憶がよみがえってきたので記してみたが、果たしてこれは本当の話なのだろうか。実話とすれば出来過ぎか。またそのときのことを思い出してしまったのだが、その工事が終わってから数ヶ月後に、また別の似たような下水道工事の現場で、老人が死んだ現場で竪坑を掘削する重機を操作していた人と、なぜかばったり再会したことがあった。その人が開口一番うれしそうに言ったことは、「坂本さんが死んだそうじゃねえか」。やはりその目は笑っていた。


12月29日

 誰かは空想上で昼の日差しを嫌っている。意味がわからない。言葉ががそこで消失している。そんなことはあり得ないか。つまらないからそれでもかまわないのだろう。相変わらず意味不明だが、どうやら答えが目の前にあるようだ。もう文章の継続をあきらめてしまったのだろうか。たぶんそういうことではなく、他のやり方で何かを打ち消したいらしい。目の前に現れた虚無は何を望んでいるのか。はねのけるわけにはいかないようだ。作り話に違いないが、誰かはそこで気が狂ってしまったのか。そんな夢を抱いている。実現するはずのない夢だ。そこで何になりたいのだろうか。お茶の飲みながら、その渋みに耐えている。飲み方が間違っているのだろう。知らないことは良いことか。別に遊んでいるわけではない。意識したら何でもなくなり、無視し始めるとその正体を現す。だからしばらく現世から遠ざかっていたようだが、君が知っているのはそういうことではない。求道者は滑稽だ。君はそれの道案内をしているわけか。それとは何なのか。何でもなければ楽しくなってしまい、気楽に話しかけようとしているわけだが、そこに人影はない。もう誰かが崖から飛び降りてしまった後か。気づくのが遅すぎたようだ。死んでしまったら元も子もない。それでは誰かの道楽とは無関係になってしまう。やはり話の中身がチンプンカンプンのようだ。いったいあの世で何を語っているのだろうか。その機会をもたらすことができなかったのではないか。そして今回もわけがわからないまま話が終わってしまいそうだが、君はそれを知らずにいるらしい。面倒くさいから知ろうとしていないのだろう。だから知らないことは良いことなのか。だからということではない。しかしそれで何を批判しているのか。君が意味を解さないのは毎度のことだ。だがそれでかまわない。誰かが語っている内容なら、まるっきりでたらめの可能性さえある。ならば君はそこで何を眺めているのか。テレビ画面の表面から幻影が浮かび上がる。桂離宮は庭師と建築士と評論家のおもちゃか。それの何に驚くべきでもない。語る対象がありふれている。だから君は意味を解さない。何も理解できないふりをしているようだが、そこで何を発見したのだろう。君には関係のないことだろう。くだらないと思ってしまったら負けか。何に負けたことになるのか。世間の一般常識か何かか。つまらないから気まぐれにそんなことを述べてみる。それらを簡単に馬鹿にするのは浅はかな行為だ。誰かの短い一生を体験しているわけでもなく、それほど恐れを知らぬわけでもないはずだ。ところで誰が桂離宮に住んでいるのか。それが観賞用だけならありふれている。ならばそれが修学院離宮なら納得できるというのか。そう述べる意図が分かりかねる。何を語っているわけでもないのに、なぜ観賞用の庭園について語ろうとするのだろう。そもそも意味不明以前にそれが間違っているだろうか。それでも月が夜空を横切り、時は明日に近づいている。考えるいとまを与えないようにしているのかもしれないが、テレビは君に何かを見せることしかできない。ならばそれについて虚無は何を想っているのか。何がならばなのかわからない。ならば早く過去から遠ざかりたい。さらに何を語ろうとしているのかわからなくなるが、とりあえず現状では君の願いは叶いそうにない。それは誰のせいなのか。君自身に決まっているだろう。今までが語ることに怠けすぎていたのだろうが、今さら江戸時代の貴族のままごと遊びにはつきあっていられないか。それをテレビ画面越しに眺めているだけだ。贅を尽くした遊びに興じていれば、さぞや楽しかったことだろう。だが現実の視界がとらえているのは過去ではない。外を眺めれば雲が日差しを遮っている。それでも晴れていることは確かだ。誰が天気の話をしているのだろう。庭の話はどうなったのか。昨晩のことは忘れてしまったらしい。わからないが、日が差してきたようだ。昼の気分もやがて忘却の彼方へと退いてしまうだろう。そして夜になり、未だに何も思いつかないことに気づく。誰かはテレビでアメフトを見ているようだ。どうしてあんなことをやっているのだろう。あれらの熱狂の意味がわからない。君は未だにわかろうとしていないのだろう。何が未だなのかもわからないが、答えが風の中にあるとは限らないようだ。君にはわからないことだらけだ。わかろうとしていたとしても結局わからないだろう。理解不能なことが述べられている。芸術とか音楽では解決不可能だ。皆が幻想を抱いていたのだ。日本では刺激のすべてが薄められて流通する傾向にあるらしい。だから本気になれない。誰もが笑って済ませられる範囲内で事が運んでゆく。実際のところはそうでもないようなのだが、表向きはそういうことになっていて、そこで繰り広げられていることの何もかもを真に受けてはいけないようで、とりあえずはシャレの範囲内でほめたりけなしたりしていれば、何とか許容の範囲内に収まるのだろう。だから平気でまがい物に飛びつき、その程度の物事にまっとうな批評を付け加えようとするわけだ。正気でいるとはそういうことだ。


12月28日

 君は自信を喪失している。状況は日に日に悪化する一方だが、これ以上何が悪くなるというのか。ひらめきとは何だろう。それらの惨状にどのように同情すべきかわからず、面倒くさいのでそんな薄められた善意を捨て去り、どこか遠くへ退こうとしているようだ。そしてそんな嘘をついている最中に、誰かは突然何かを思いつく。そこでは誰と誰が連帯しているのか。獲得を目指すべき獲物がはっきりしないようだが、彼らにとっての共通の利益とは何だろう。さっきから言葉が過剰だ。意味不明な言説の中で誰が自惚れているのか。自意識過剰の自意識がどこかに引っかかっている。よく見れば崖の上から下を覗き込み、誰かの自意識を探しているようだ。君の方は壁の前で立ちすくむ。そこで何を見ているのだろうか。誰が架空の対峙を演出しているわけではなく、互いの視線が絡み合うこともなく、誰かは君の思惑をわかりかねる。君の方を見ているわけではない。そこで何をやろうとしているのか。問いかける対象は誰かの幻影か。そうであるなら何を考えても無駄なのかもしれない。たまにまともなことを述べているかもしれないが、今はまったくの空振りだ。とにかく世界は広く世の中は狭い。実感としてはそれは違うだろう。どちらもそれなりに広いはずか。唐突に誰と鉢合わせしたわけではない。そこで何について語ろうとしているのか知らないが、どうも考えている範囲が狭すぎる。必要でないからそういうことになる。だが何が必要とされているわけでもなく、他の何かについて語ろうとしているのかわからないが、何かとは何なのか。だから今こそ必要性を獲得しなければならない。このままではすべてから見放されてしまうだろう。それが君の狙いだったのか。いつものように冗談を述べているわけか。とても本気とは思えないか。たぶん何も必要とされなければ、その時代から消失するしかないのかもしれない。だから楽しいのではないか。必要から見放されれば、それとひきかえに自由になれる。君の幻想はそういうことなのか。何だか意味不明に思われる。それはきっと理解力が不足しているのだろう。わかりやすく説明して理解させようとする気がないらしい。しかし何について語っているのか。それは何かのことだろう。馬鹿げているのかもしれない。日付が馬鹿げている。いったいいつになったら今年になるのか。それが知りたいわけではない。常識的な話だ。何がそうなのだろう。何に興味を抱いているのか。それについて考えを深めることができない。頭の中で常識が外れているのだ。そういうわけではない。何に対して反論しようとしているのではない。向かうところが間違っているのではないか。馬鹿げた話だ。無駄に言葉を記しているが、話が支離滅裂でつじつまも合わない。なぜそうなってしまうのか。雑すぎる。粗雑以前にわけがわからない。それが余分なのだ。何かがおかしい。今頃気づいても手遅れだ。いったい何に気づいたのか。そんなことは知らなくてもかまわないのではないか。実際に何に気づいたわけでもなく、何となく嘘をついてしまったらしい。まったく要領を得ないことを述べているが、それはわざと述べているはずだ。他に何も思いつかない。それはいつものことだろう。空疎で怠惰なのかもしれない。わかりやすく語ることを放棄している。もとからそのつもりがないのかもしれない。完全に切れている。何かが切れているようだが、それが何だかわからない。さらに空疎なことを続けようとしているのか。何がそうなのだろう。本当に何も思いつかなくなってしまったらしい。当人がひたすら語る。誰が当人なのだろう。語っているのではなく、誰かがそれを記しているのだ。君のことではない。それが回り道なのか。迂回しなければ真実に近づけない。真実とは何だろう。粗雑に述べるしかないようだ。今はそれしかなく、たぶん明日もそうなってしまうだろう。そしてどこまでも今日から遠ざかり、過去の日付で空疎なことを述べ続け、結局自己嫌悪に陥るわけだ。予定調和の展開か。それをどうしようというのだろう。無駄なことを延々とやり続けているだけか。しかしなぜ否定的なことを述べ続けるのか。自らがやっていることを否定するのはおかしい。本当はよかれと思ってやっているのではないか。何となく微妙に曖昧な気分だ。そうではないような気がするらしい。そんなわけではないと思いたいのだろう。ここに至ってまだ否定したいわけだ。どこに至っているのだろう。今は夜だ。いつもの夜に違いない。現状はそれだけのことだ。夜に言葉を記している。昼は働いているわけだ。年末も正月も日曜日も働いているのに、それが何のためなのかわからない。ただ誰かは生きている。生きていて働いているわけだ。それだけのことに理由などあるはずがない。何のためでもなく、生きるためでも死ぬためでもない。わからないのであり、わからないことにしているだけかもしれない。本当はわかっているはずだ。かなりつまらないことにもこだわっているはずで、それが現状の貧窮を招いていることも承知しているはずだ。だから楽しいのだろう。


12月27日

 すべては作り話以前の偽りだ。それにしても君はさっきから何を語っているのか。話にもならない話が破綻しているようで、誰かの実感としては、そういうことではないような気がするのだが、何かの途中から何を述べているのだろうか。君にわかるわけがない。語っている当人がわからなくても、意味不明気味に語ることはできるのだろうが、その内容を理解したいような気がすることもたまにはあるらしい。少なくとも今は世界情勢について語っているわけではない。では今さら何を予言しようとしているのか。この中で誰が予言者を役目を担えるというのか。それ以前に作り話の中には誰がいるのか。わざとらしくも苦し紛れの問いかけが続いているが、感覚的にはいつものように意味不明か。また語れないことを語ろうとしているのだろう。君はその気もないのにそんなことを述べてみる。他の誰が述べようとしているのではない。語る言葉がどこにも見当たらない。こびているわけではない。ならばわかりきったことを繰り返さないでほしい。何を繰り返しているわけでもなく、ただ無駄に言葉を記しているだけか。それが延々と繰り返されているのではないか。誰かがそれを繰り返し記しているわけだ。そんなのは君の作り話だ。だから何だというわけでもなく、何となくつまらなくなっているようだ。そう思っているだけだろう。この状態の何がミゾーユーというわけでもないだろう。誰のまねをしても虚しいだけか。世界的な経済危機が君の心に何をもたらしているわけではない。虚無感を漂わせているのは昔からだ。どう考えても子供だましの経済危機だが、資本主義も子供だましなのではないか。虚しいことに金を使うのはやめた方がよさそうだ。今までが金もないのに浪費しすぎていただけではないか。物質的な豊かさも精神的な心の豊かさもまやかしだ。貧しいなら貧しいなりに生きてゆけばそれでかまわないのではないか。中国の農民工とか呼ばれる出稼ぎ労働者がバラ色の未来を夢見ている姿は哀れだ。現状がどうあれ、夢見るのは自由なのだから、そうならざるを得ない。どこにも救いなどありはしない。貧しい者は物心両面での豊かさに憧れ、安い賃金でひたすら働こうとする。世界のどこにもそういう使い捨て用の人間が過剰に余っているのだろう。しかしそんな現状がどうしたというのか。現状では何をどうしたいとも思えない。動物的な生存競争が繰り広げられているだけか。よくわからないが、それもフィクションのたぐいだろうか。物事を単純に考えすぎている。何が子供だましてあるわけでもなく、そう思うのはそれを無理にあざ笑いたいだけの強がりでしかなく、現実に起こっている現象を真に受けられないことの表れだ。しかし真に受けるとはどういうことなのか。そこで何を信じればいいのか。いったいこの世界に住まう子供たちが抱かなければならない将来の夢とは何だろう。子供ではない君には関係のないことだ。なぜそうやって簡単に話を脱線させてしまうのか。説明が足りない。なぜテロリストと話し合わなければならないのか。それも関係ない話で、その場しのぎの話題に持っていきたいらしいが、それは君に限った話ではない。とらえようによっては世界中が意味不明だ。それはありふれた理由からそういうことになる。いつの時代でも不条理は国家の存在から生まれる。国家は自国民を活かし優遇しなければならないので、そのためには国家としてのエゴを優先させなければならず、自国の利益を確保するために、時には外国人や外国製品を排斥したり、場合によっては軍事攻撃によって殺めなければならない。それの何がおかしいのか。何によって人を外と内に分けているのか。それは国境線に違いない。ではその区別の仕方にどのような説得力があるというのか。国家の利益とは何だろう。そこにどのような建て前と本音が隠れているのだろうか。国家の存在目的は世界平和に貢献することか。そういう建て前は矛盾しているだろうか。時にはそのために戦争を仕掛けなければならない。それはこれまでの歴史から導き出された紋切り型の成り行きだろう。だから何だというのか。どうもまともな見解を導き出せないようだ。何がどうなっているわけでもないことは承知しているが、そこからどうしたらいいのかわからない。だからさっきっからご機嫌斜めなのだろうか。君の知ったことではない。浅はかなことならいくらでも述べられるかもしれないが、もはやそういうのでは満足できないらしい。しかし結局はそういう見解で妥協してしまうだろう。そこが誰かの限界に違いないが、いくら粘って考えを巡らしても、それを超える見解を導き出せないことに変わりはない。何を語ろうとしても、そこから何らかの変化を期待するのはおかしいか。たとえ望み薄でも期待せざるを得ないのではないか。人はどんなに深刻な苦境に陥ろうとも、たぶん懲りないはずだ。いつまでたってもいったんその機会さえ与えられれば、やりたい放題なことをやりたいわけだ。そういうのは全世界共通であり、周りがそれを押さえ込もうとするから、これまたいつまでたっても世界各地で不満がくすぶっている。そしてやはりそれがどうしたわけでもない。


12月26日

 今日も心の中で虚無が増殖しているらしい。ふと後ろを振り返っている。それは去年のことだろう。日付が去年のままだから、それは今年のことかもしれないが、そんなことはどうでもいい。他に語ることもなく、現状では何も思い浮かばない。テレビの画面上では何を宣伝しているのか。誰がそうしているのではなく、誰かが何か適当な商品について宣伝している。それを買ってほしいのだろう。人の都合でこの世界が成り立っているわけではない。誰の都合で買わなければならないのか。誰も買わないわけではない。必要と思ったら買うだろう。気まぐれで衝動買いをするかもしれない。たわいないことだ。君はそこで何を考えているのか。何を考えているようにも思えないが、気晴らしにまた昔のことを思い出そうとしているのかもしれない。たぶん他はわからない。それはどういうことなのか。わからないということだ。早く言葉の意味不明ゾーンから抜け出さなければ、ひたすらそうなってしまうだろう。戯れにそこからどこへ向かおうとしているのか。どこへ向かうつもりもなく、夢の中ではそれがどうしたわけでも、どういうことでもないが、とりあえず今年最後の日にまだ数日前の日付だ。その現実は君に何をわからせようとしているのか。もうあきらめろということか。この期に及んでわからないはないだろうか。それでは済まないから悩んでしまうらしい。どうやら昨年の思考には限界があったようだ。たぶんすでにあきらめてしまったらしく、気がつけば来年になっていたようだ。もはや去年の日付で語るしかない。それが通常の成り行きなのだろう。新年になったからといって改まって何を語ろうとしているわけではない。誰かは相変わらず何も語らずに言葉を記すだけで、今年もそんなことの繰り返しになるだろう。そして結局のところ何もわからず、わかろうとしていないようだが、それでも何かを語っている現状があるらしく、それが誰かの気休めになっているのだろう。さっきまでは何かの映像に見とれていた。そこに広がっている風景が心を惑わす。君はそこで何を知ってしまったのか。ただ漠然しているようだが、今でも何かにこだわっているのだろう。そしてそのこだわりが致命的な欠陥をもたらしているはずで、今ある現状がそれを物語っている。なぜそうならなければならないのか。自業自得だろう。腕が痛い。それがどうしたわけでもないが、そこで何をごまかしているのかよくわかる。とにかく何かが一段落してしまったらしく、誰かはまったくやる気がしない。それがわからないのだ。なぜ何も語れなくなってしまったのか。それが冗談に過ぎないからか。それらの状況を受け入れ難い。どう考えても何を語っているのでもない。頭がどうかしてしまったのかもしれないが、それは昔からそうだ。昔は今よりいくらか謙虚だったように思う。どうやら君は他人から学ぶことを忘れてしまったらしい。今がそうなのだ。いったん言葉の薮から抜け出てしまえば、後は何ももたらせなくなる。何をやってもそれが悪あがきになる。しかしそれが絶望的な状況だとは思わない。それでも前進していると錯覚しているわけだ。それは偽りだろうか。錯覚していたいのかもしれないが、嘘に決まっているだろう。本気でそんなことを思っているわけではない。冗談であるだけで、君には明日がある。何もない明日だ。語ることに何の救いもなく、述べていることが空疎で支離滅裂になる。そんな明日が待っているようだが、それでかまわないわけだ。それの何がかまわないのだろう。冗談で偽りの前進について述べているからか。いつものように理由になっていない。理由など何も思いつかず、それが君の嗜好なのだからそういうことだ。要するに強引にでたらめな理由を当てはめたいのだろう。それでかまわないのか。何を述べても本心から述べていない。本音から遠ざかり、嘘偽りでごまかそうとしているわけだ。だがそれで何を述べていることになるのだろう。君の知ったことではない。それは誰かが記している文章だ。無言の君とは無関係か。沈黙を用いて語りかけようとしているわけではない。不可能なことを述べていたいらしいが、それで何から逃げているのか。虚無から逃げていることにでもなるのだろうか。逃げられると思っているのか。まったくの無駄かもしれないが、無駄でなければ記す意味がない。そう述べる意味がわからない。それの何が無駄だと思われるのか。誰かによって君が何かを語っているように記されているらしいが、架空の存在は何も説明する気にならないようで、現実の世界では、たぶんこれからやるべきことが山積状態だろう。そこで何が関係しているわけでもなく、それが君とはまったくの無関係だと言い切るのは、少し粗雑すぎないか。何を説明しているわけでもなく、ここに至ってなおでたらめなことを記しているようだが、何となく疲れてきたらしい。誰かの頭の中では自らが記している文章の内容を完全には把握できていないようだ。言葉を記している最中でも、それが何でもないことのように思えてくるらしく、ひたすら空疎な文章のように思えてしまう。


12月25日

 誰かは何を考えているのだろう。文章の方はひたすらくだらない内容になりつつある。外は晴れて寒い。冬だからそういうことになっている。では何が馬鹿げているのか。なぜそんなことを述べてしまうのか。それがわからないからそうなってしまう。それで何を答えていることになるのか。何の理由にもなっていない。理由がないからそうなってしまうのではないか。理由があったらもっとわかりやすくなるはずだ。言葉を記している当人の意図が分からないが、君がそれを求めているわけではない。ではそうなってしまう理由を知りたいのは誰だろう。君でも誰かでもなく、誰が何を知りたいのかわからないのは毎度のことで、文章自体が破綻してしまっているようだが、たぶんその辺に誰かの気晴らしの理由があるのかもしれない。またもやそんなでまかせが記されている。実際に気が晴れているわけではないらしく、気晴らしに言葉を記して、それが気晴らしになっていないことに気づく。まったくの逆だろう。追い込まれているのではないか。語る理由がなく、言葉を記す理由も見当たらない。何もやらなくてもかまわないのに、ひたすら余分な作業に邁進し続ける。しかもそれをやり遂げられないのだ。いつまでたっても遅れたままだ。君はどこまでもそんな状態を保っているつもりなのか。君がそうしているわけではなく、誰かが何を保っているわけでもない。そういう成り行きになってしまうのだからどうしようもない。君にも誰かにも選択の余地はなく、ただひたすらそれらの破綻した文章に関わることで、この世に存在し続ける。それはあり得ないことだろうか。危機的状態なのにそれが日常化しているようだ。そしてそうなってしまった自らを説明しようと試みる。文章の中で文章について説明しようとしているわけだ。それはパラドックスのたぐいか。くだらぬ言葉遊びにしかならないだろう。それでも何もないよりはマシだ。なぜできないのだろうか。何を問いかけているとも思えない。昨晩から沈黙している。どうも言葉が出てこなかったようだ。心にもやがかかっている。何も思いつかずに寝てしまう。今はそれでかまわないとは思わない。以前よりは少し前向きになってきたのかもしれないが、言葉が出てこない。それでも心はまだそこにとどまっているらしい。何かやろうとしてもがいている夢を見た。それは未来都市での出来事か。しかしなぜ自転車に乗っているのか。自転車に乗って高速鉄道とすれ違う。その状況が意味不明でわけがわからない。断片的な記憶でしかないようだ。物語にも話にもなっていない。なぜひたすら眠ってしまうのか。それで疲れた心身を回復させようとしているのかも知れないが、結果的に言葉を記すのを妨害している。たとえそれを続けても、くだらないことしか記せないのだから、眠ってしまった方がマシなのだろうか。しかし遅れを取り戻せなくなる。このままではひたすら遅れて行ってしまうように思われ、そしてそれが話の内容になる。空疎な話も続いてしまうらしい。心からも体からも毒が抜けていき、本当に何でもないことしか述べられない状況に陥っている。それが現状を構成しているようだ。何を語っているのでもないが、そんなことばかり語っている。しかしそこからどんな効用がもたらされているのか。そうなることが何の役に立っているのか。休息を取るにはそうするしかないのだろうか。きっと何かの思い違いだ。そんなはずがないと思いながらもそれでかまわないのかもしれない。それはどういうことなのか。問い直してもまともな答えは出てこない。前進は止まり、そこで立ち往生するばかりか。何かの限界に直面しているのだろうが、それは以前からそうだ。ひたすら限界に直面していて、そこで跳ね返されてよろけながら道に迷っているだけだ。それを君が語り、他の誰かが記しているが、そんなことをやっている意義を感じられない。それだけのことなのだろう。それだけのことを語り続けていて、それがわかりすぎるくらいわかっているから、嫌になって寝てしまうわけだ。そして数日前の日付の今に至る。もうお前は何もできないだろう。何もできずに途方に暮れ、やがて継続を断念してしまうのだ。それは至極当然の成り行きだ。何もおかしいことではない。それが気に入らないならどうすればいいのだろうか。やめてしまえばいい。やめて忘れることが肝心だ。忘れられないならどうすればいいのか。これまで通りに言葉を記し続ければいい。たとえ内容が空疎であったとしても、続けていれば自己満足に浸れる。君にとってはくだらぬことだが、誰かにとっては一安心なのだろう。何とかその存在を確認でき、そんな自己確認が誰かには何よりも自信となるだろう。君はそれでかまわないのか。かまわないならどうするのか。どうもせずに何も思わない。ただそれが違うような気がするだけか。君はそれに関して何も思わない。そういうことになっている。嘘かもしれないが、今はそうだ。そういうことにしておこう。それがお気に召さないなら、やめてしまえばいいが、やめられないないなら、それでかまわないことになるだろう。


12月24日

 こんな日付には笑ってしまうだろうか。君はつくづく運がないようだ。他に何から見放されているのだろうか。例えばこんなところでこんな状況に陥っている。誰かにはそれが何だかわからないようだが、いつものようにそれがどうしたわけでもない。君にとってはそうだろう。しかしどこに無理が生じているのだろうか。記しているのは何でもない文章だ。他に何もできない。何がどうしたわけでもなく、君は相変わらずつまらないことを述べているだけで、空疎な内容にはそれ以外がないらしく、誰かが考えていることにも意味がなく、おおよそ不可能についてだ。そんなふうにしてわざと話の脈絡を外している。君にそういうことが可能なのか。できなければそのままだ。何がそのままなのだろう。話の脈絡が感じられないだけだ。何について語っているとも思えず、ただ適当かついい加減に言葉を並べているだけのような印象を受ける。その通りなのだからそれはそういうことだ。誰かの思い通りというわけではないが、何となく外れたことを述べていると気が休まるようだが、そればかりだと虚しさが募ってくるはずだ。虚しいばかりでは何が不都合なのか。ならば何について語ればいいのか。それがわからない。わからないから虚しいことばかり語ろうとしているのだろう。それの何がおかしいのだろうか。おかしいのではなく恐れているのではないか。正気でないことをいつ見破られてしまうか気が気でなく、戦々恐々としているわけか。いい加減なことを述べているようだ。君にとってそれはあり得ない心境で、そんな根も葉もない嘘にはつきあっていられないか。では何をそんなに焦っているのだ。それは冗談だろう。架空の存在でしかない君に何がわかるというのか。誰が問うているのだろう。わからないから話も架空になってほしいか。はじめからそうだ。架空ではなく虚構なのではないか。架空であるから虚構なのだろう。そしてそれがどうしたわけでもなく、どちらも似たような意味ではないのか。この際意味が問題なのではない。発音したときの言葉の響きに微妙なニュアンスの違いが感じられる。意味も意味合いも大して違わないだろう。でどちらにしてもくだらないことだ。話が架空だろうと虚構だろうと、君には関係のないことではないか。どちらにしてもリアリティを感じられない。誰かにはそれがわかるだろうか。言葉が思い通りにつながらず、すぐに投げやりな気分になってしまう誰かに、それについて語るのをあきらめさせるのは容易なことだ。虚無が君を後押ししている。だからどうしたのだろう。あくびが出てきて、君の方こそやる気をなくしているようだが、いったいそれらの行為の何に興味があるのか。誰かが記している話の成り行きに魅力を感じないだけで、それがやる気をなくしている主な原因なのだろうが、では他にどのような可能性があるというのか。何を語るのも不可能になった者にとっては、この世界には何の可能性もないように思えて当然だろう。世界は自然現象に支配されているだけで、晴れたら爽快な気分となり、雨ばかりだと憂鬱な気分となり、それはきわめてありふれたことだろう。語るきっかけをもたらず何もかもがありふれている。ならばどうしたらいいのだろう。退屈で死にそうなら、本当に死んでしまえばいい。誰に向かって何を言い放っているのか。少なくとも言葉は神に向かっているわけではなく、君に何を期待しているわけでもない。では君は何もしない立場を守り通すつもりなのか。それはおかしなことだ。何かを語ろうとしているのに、結果的には何もしていないことになる。そんな嘘はどこでも通用しないだろうが、君が語っている話はどこでどうなっているのか。結局何ももたらせないからそうなってしまう。そうではないと思いたいが、結果を見れば一目瞭然だ。誰かが空疎な文章をひたすら記している。それでかまわないのだろうか。そういうことばかり述べていて、そこに何か引っかかるものでも感じているのかも知れないが、結果として話がどこにも至らない。近頃は延々とそうなのだ。頭にガタがきているのかもしれない。頭にきているのとは少し違うようで、何もきていないと言った方がより正確な言い方か。君の知性もたかが知れているようで、何もかもがいつかは壊れる宿命なのであり、だからそれに抗って、必死で文の修復を試みている最中なのかも知れず、それが無駄な悪あがきにならないことを願ってやまないのだろう。誰かは避けては通れない不具合に苛まれているわけだ。どうしようもないのにそこから語ろうとすれば、そうなって当然だろう。そうならない方がおかしい。そんなわけで苦悩するばかりのようだが、出口が見つからないのは誰のせいでもなく、それの何が気がかりなのでもない。迷路は居心地がいいようだ。次第に迷ってばかりの状況に感覚がなれてくる。気がつけばそんなことばかり述べていることに何の驚きも感じない。何かの感覚が麻痺しているのだろう。ならばこれ以上の前進はできないか。すでにだいぶ無駄なことを述べてきたではないか。誰かはそれの何が不満なのだろうか。


12月23日

 そういうことではないが、そうではない。めちゃくちゃな気がするだけか。やはりそういうことではない。とにかく少しでも虚しい試みを前進させようとしている。それを卑下しているのは自信がないからなのだろう。文章として成り立たなくてもかまわないか。たぶんそういうことなのだ。それで何を否定しているわけでもない。わからないことはわからないようだが、わからないままでは何を述べているのかわからない。結果的につまらない内容になっているだろうか。それについて考えているようだが、結論は出てこない。やはりわからないままだ。晴れた空に向かって何を語りかけることもなく、そんな架空の語り方がおかしいと思っている。実際には何も語りかけていないはずだが、それはどういうことなのか。嘘偽りの中に真実がある。苦し紛れにそう思っていたいのだろうが、そんなはずがない。単にわからないだけだ。蠅が飛び回って五月蝿いのか。時期的には師走だ。それがどうしたわけではないが、やはり何を述べているとも思えない。うるさいハエをつまみ取って外へ放り出した。冬だから動きが鈍かったのか。君にはわからないだろう。自らが何を語ろうとしているとも思えない。そういうことではないのだろう。何かから目が離せないようだ。気になって振り向いてみるが、誰もいない。雑音に悩まされているわけではない。騒音にならない程度のかすかな音だ。何に対処しているのか。無意識のうちにそういうふりをしている。猫の習性なのだろう。気になっているのはそういうことではない。でたらめなのだろうか。何がそうなのか。そのつもりなのかもしれない。どのつもりでもなく、どういうつもりでもない。他人は何かを語りたい。君とはやっていることが正反対か。自分が他人であるはずがない。自分以外が自分であるはずがない。たぶん何も求まらない。導き出されようとしているのは問いに対する答えではない。とりとめのない言葉の連なりに直面する。何が漠然としているのだろう。まだそんな段階ではないか。そこにどのような手順があるというのか。何を介在させているわけでもなく、ただキーボードを叩いている。丸太小屋に火がつけられ、どんな意図があるのか分からないが、誰かが丸焼けになる。五十二週目の出来事は凄惨か。君はそれを眺めていたのか。実際にはそういうことではないだろう。誰かがヒステリックに騒ぎ立てている。大阪府知事のような者か。なぜ君は本気になれないのか。君の背後には誰かがいて、何やら文字を記しているらしい。刻みつける石盤が見当たらず、くさび形の文字を刻みつけられないだけか。君の背後はどうなっているのか。ただのでたらめかもしれない。神経症のたぐいだろう。魂を抜き取られているようだ。意味不明に思われ、何を考えているのでもないのだろう。その先は通行止めだ。何かの立て札が目に入る。他に何を見かけたわけでもなく、誘導員の指示に従って迂回路へと逸れて行ってしまう。そこで何を見たかったのだろうか。今となっては記憶が定かでない。焼きが回って読経を唱える。脳みそがいかれている。もはや完全に狂っているみたいだ。実際にはそんなふりをしているだけかもしれないが、少しはその気になって反省しているわけか。まともなことを述べられない。今さら架空の君に何を諭しても無駄だ。作り話の上ではそれでかまわないのだから、何を修正する必要もない。一語一句そのまま記せば気が済んでしまうだろう。遠ざかろうとしているのではない。休みたいのだ。眠ってしまいたい。もう一眠りしてしまったのではないか。また映像の魅力に引き寄せられて、言葉を記すのを忘れてしまったようだ。考え直すべきはそういうことではないはずか。では何をどうすればいいのだろう。またくだらぬことを考えているようだ。馬鹿げているだろうか。たぶんそうに違いない。何となくそう思う。そして何がそう思うのかわからない。そう思っていることを言葉で打ち消したいらしいが、意味がよくわからない。別にそんなことはどうでもいいのだろうか。そう思えばそうなってしまうはずだ。表向きはそうだ。しかし裏があるとは思えない。何でもないことについて何でもないようなことを述べている。君たちはそれでもこの社会にしがみつきたいのか。百家争鳴というわけではないが、君たちは何に関して右往左往しているのか。迷ってばかりでは前に進めない。たぶん君は必要のない人間だ。人間ではないかもしれない。架空の人格が何を考えられるというのか。意識ではない。たぶん人に居場所などないのだろう。人は人ではないのかもしれない。少なくとも人間ではない。何を急に意味不明になっているのだろう。君はそこで何をあきらめているのか。話の継続をあきらめているはずだ。だから終わりたくても終われない。話ではないのかもしれない。語っているのは何でもないことだ。何でもないから終われないか。ならず者が活躍できるのは映画の中での話だ。社会の中ではならず者はならず者に過ぎず、誰からも相手にされないだろう。ならず者が脚光を浴びるには、フィクションの中で架空の存在とならなければならない。


12月22日

 慌ただしい一日をくぐり抜け、気がつけばまた夜になってしまう。何となく今は投げやりな気分のようで、どうでもいいよう気になりかかっている。しかし今さらどうしたらいいわけでもないらしい。どうもこの際でたらめでもかまわないようだ。意味不明でも何か適当なことでも適当でないことでも述べて、とにかく言葉を記さなければならないようだ。要するに切羽詰まっているということか。いつものように他に理由はない。馬鹿げているだろうか。たぶんそうに決まっている。誰かは違うような気がするらしいが、何も書き込んでいない手帳を眺めながら何を想うのか。来年の日付が刷られた頁を眺めている。何も書き込んでいないのはいつもの通りだ。しかしなぜ意味のないことをことさら述べようとするのか。そういう話の持っていき方が意味不明か。それが気に入らないので、とりあえず架空の時空ではすべてが白紙に戻される。すべてとはすべてのことだ。誰かはそうではないと思いたいようだが、気休めにまともなことを語ろうとすると無理が出る。気が狂ってしまうのだろうか。そういうことでもないような気がするが、たぶんそこに何かを語らなければならない理由があるのだろう。今は何でもかまわないから、現実に過ごしている時間に記している日付を追いつかせたい。たわいない理由だろうが、それが本心ではない理由を知りたいか。なぜ本心ではないと強がっているのか。強がっているわけでもないだろう。述べている内容が的外れになりそうだ。かまわない。ならば誰に向かって何を問いかけているのか。誰がそうしているのだろう。誰も期待していないだろう。この期に及んで何を期待すればいいのか。たとえ何もできなくなって絶望しても、それがどうしたのか。それしきのことで君が動揺するはずもなく、たとえ述べていることが期待はずれだろうと、君は語り始めなければならない。何でもないことだ。何か必要があるなら、後から理由をねつ造すればいい。語っているのは何のことでもなく、誰かがそういうことを記しているだけで、今は夜だ。それがどうしたのだろう。夜に何がもたらされているわけでもない。退屈になってくるらしい。誰かがどうでもいいことについて述べている。考えているのだろう。これからどうすればいいのだろうか。何をどう考えているのか。何も考えられないなら、どうしてそんなことを述べているのか。誰かについて考えている。面倒なのでそういうことにしておこう。たぶんそれがわからない。人のどのような習性について考えなければならないのか。そこから何が導き出されるのか。人は社会の中でどうあるべきなのか。冗談だろう。それは何かの副作用なのか。誰かは考えることを放棄しているようだ。他に何をやめているというのか。たぶん始めなければならないことではない。言葉はすでに記されている。文字として脳裏に刻まれているのか。またそれでも冗談だろうか。どうやらはぐらかしにかかっているらしい。何かがそこから遠ざかろうとしている。意識は馬鹿げた手順を踏みながら、何とか現実の時空に近づきたいのに、世界がそれを許さない。そんなことがあるはずがないか。馬鹿げた手順とは何なのか。わざと過去の日付を記して、過去から未来までの継続性を再確認するまでもなく、その連続性が断ち切られることを恐れ、ことさらに言葉を一定間隔で記そうとしている。しかしわけがわからない。述べていることがおかしいのではないか。なぜそうなってしまうのか。誰がそれを記しているのだろう。君には読めない内容になる。それでも最後まであきらめないのだろうか。今さら何を語っても無駄なようだが、まだ完全に継続をあきらめたわけではない。では何を続けているのだろう。君にはわからないか。誰にもわかるはずのないことを続けているわけか。君にはわかってほしくないのかもしれない。要するに君にはその理由がわからないが、かつて人類にはその生活様式によって三つのパターンが存在した。狩猟採集民と農耕民と牧畜民か。今でもそのすべての生活様式があるようだが、現代人の大半はそのどれに区分されるのか。どれでもないような気がする。まずは生活に必要な道具を作り、その道具や生活に必要な資源を、運搬道具を用いて他の地域に運んで、それを売りさばき、あるいは道具の使い方を他人に伝授したり、それから何だろう。他人を喜ばせたりおもしろがらせたり感動させたりすることで生計を立てたり、生活全般に役立つ情報を他人に伝えることで利益を得ようとしたり、その地域の住民や会社から税金を取って、その税金を使って人々が暮らしやすい環境を作ることを仕事としていたり、要するに今や大半の人々は、狩猟採集や農耕や牧畜とは関係のないことをやっているわけだ。そういう昔ながらのやり方を馬鹿にしていたりする輩もいるかも知れないが、実際そういうものからかけ離れたことを生業としている者ほど高収入なのではないか。しかし未だにそれらのやり方がないと食料が手に入らず、生きてゆけないのであり、結局そういうやり方によってもたらされる物資を安く買いたたくことで、自分たちの立場を維持しているわけか。だからどうしたわけでもないだろう。


12月21日

 晴れて日差しが暖かい。またつまらないことを述べてしまったようだ。それらの記述とは関係ないだろう。何について述べていれば気が晴れるのか。気晴らしに述べていることを記しているわけではない。そんなふうに語るのがこのところの日課となっている。だからつまらないわけか。対話が成り立たない。誰と誰が対話するために存在するというのか。そういうことではない。そういう語り方が気に入らないはずだ。この際架空の対話などに興味があるわけではない。何がこの際なのか。ならばこの際ではない。別に今際の際というわけでもないはずだ。どこで何をやっているわけでもなく、ただ言葉を記している。今はそうだろう。今でなければ仕事の最中かもしれず、その時何が鬱陶しいわけでもないはずだ。ただわからない。誰かは何についてどう思っているのか。例えばリストラで失業した人たちはどうすればいいのか。別の仕事を探すだけだ。景気後退とはどのような現象なのか。そこで何を実感しているというのか。自動車が売れなくて工場で操業がストップしているようだが、ガソリンの価格が安くなってきたので、昼でも道が混んでいて、街中は自動車だらけだ。いつもの光景に違いない。これまでが過剰生産で過剰消費だったのかもしれない。世の中が不況で人々が節約志向になっていた方が、地球環境には良いことなのだろうか。実際に仕事にあぶれた人たちにとっては最悪の状況か。要するに世の中には人が余分に存在していたということか。その余分な人たちをどう活用できるだろうか。政府が農業公社でも作って、過疎地の田畑でも耕してもらえばいいということか。あるいは介護資格でもとらせて、老人介護などの医療分野で働かせればいいのか。安易なアイデアかもしれない。共産主義国ならいざ知らず、とりあえず当人の意向を尊重しなければならないが、売れない商品を作っていては会社が倒産してしまうから、いつまでも自動車工場にしがみついているわけにもいかないか。どちらにしても仕事をして給料をもらっていないと暮らしていけないことは確かだ。馬鹿げた社会だ。馬鹿げているのはそんなことを思う方か。当たり前のことを馬鹿げていると思う方がおかしい。ではなぜおかしなことを思ってしまうのか。社会の仕組みを疑うことがおかしなことなのだろうか。どうもそんなことを思ってしまうのには何らかの理由や原因があるのかもしれないが、それがうまく言い表せないことが焦りを生んでいるようで、何とかそれについて述べようとしているのだろうが、言葉を記そうとすると必ずそこから外れてしまう。今の段階でそれについて述べるのは不可能なのか。ではどうすれば述べられるのだろう。世の中の何がおかしいのか。あるいはそんなことを述べていることの何がおかしいのだろうか。いったい人は何のために生きているのか。冗談でそんなことを述べているようだ。たぶんそこからどうしようというわけでもなく、人が生きているのは何でもないことだ。自ら考えようとしていることを理解できない。この世界には人がいくらでもいて、すでに飽和状態なのに、そこからさらに何かをしようとしている。何かを思いつき、それを実行に移そうとしている。たぶんたわいないことなのだろう。そこに価値があると思うのは幻想か。確かに価値があるのだろう。その価値を理解できるわけではないが、そういうふうに思い込んでいれば、何となくそういうことになってしまうのだろう。ならば君はそこで何を思い込んでいるのか。君が信じていることを誰かが明かそうとしているようだが、君にとってはそんなことはどうでもいい。どのような言葉の連なりが構成されようと、それがまともに読まれることはない。すべては戯れ言のたぐいか。それでもかまわないのであり、そこで言葉を記していることが重要なのだ。意味がわからないか。わからなければそれでもかまわない。そこにどのような事実が介在しているわけでもなく、誰かがそんなことを記している。君が述べているのではなく、誰かが記しているわけだ。だから意味がわからない。それはまったくのでたらめだろうか。でたらめであろうとなかろうと、君はそういう作業から離れられない。それが馬鹿げたことなのだろうか。馬鹿げているのは世の中の仕組みではなく、それについて述べることか。世の中が不況だから何だというわけでもない。それでも平日の昼間におびただしい数の人々が街中でうごめいている事実をどう思っているのか。年末だからか。あるいはこの地域が繁栄しているということだけのことか。ならばそこにどのような不具合が生じているというのか。多発する犯罪がどうしたわけでもなく、振り込め詐欺がどうしたわけでもない。考えるべき対象を見失っているようだが、それははじめからそうなのではないか。だから何について述べているわけでもない文章となり、たぶん何かについて述べているのだろうが、述べているそれらはどうでもいいことになるわけだ。君はそれでもかまわないのだろうか。いったい何がどうなればかまわないというのか。くだらぬ問いかけに答える者などいはしない。


12月20日

 空中で何かが止まって見える。過去の記憶ではない。誰かが話の続きを断ち切って、その不機嫌な顔を上げて、何を見据えているのか。そういうことではない。そろそろそれらの文章も終わりが近づいている。そんな予感がしているようだが、別に何を気にしているわけでもない。くだらぬ内容なら終わってしまってもかまわないか。執念深く言葉を記すのが嫌になってきた。だいぶやる気を失っているようだが、実際に何がそこで終わっているのか。気力がないようで、誰かと同じでお前もそろそろ年貢のおさめ時か。まだ終わっていないと思いたいが、終わってしまってもどうということはない。ただ相変わらずわけがわからない。窓の外で誰かが何かを叫んでいるらしい。言葉が聞き取れない。そんな馬鹿げたことを記してると、飲んでいる茶が自然と濃くなる。それは客観的に言ってどうだろう。やはり何でもないことでしかないが、とりあえず何を語っているつもりでも、誰とも無関係なところが馬鹿げているだろうか。どこかの映像からそういう場面を抽出している。いつもの嘘だ。実際に何を選んでいるわけでもない。ならば何を述べようとしているのか。そんな声が遠くから聞こえてくる。また飽きてしまったのだろうか。数日前から何となく眠いようだ。夕食後に飲む薬の作用だ。そういえば昨日から言葉をまったく記していない。それも嘘だろうが、実感としてはそんな気でいる。かなり素直でないらしい。しかしそれがどうしたのだろう。どうもしないからそんなことを述べている。だからそこで終わってしまうのではないか。そんな時でも君には終わりの言葉が見えてこない。終わりを理解できないようだ。たぶんもう言葉の連なりが途絶えている頃で、それで困っている。言葉を用いないで何を予言するつもりなのか。君はまだ神との約束を果たしていない。そんなのはとっくの昔に忘れてしまったようだが、神は執念深く思い出させようと仕掛けてくる。まだ何も終わっていない。なぜ君は終わってしまったように感じているのだろう。そこで何かの価値観が変わってしまったのだろうか。それでも意味不明ならやめた方がいい。やめる行為を知らないなら、私がやめさせてあげよう。しらばっくれるのもいい加減にやめてもらいたいか。本当はやるべきことを知らないのではないか。意識は作り話の中にはない。誰もが身勝手なのは当たり前だが、そこでは誰が誰のことを考えているのだろうか。考えているのは誰でもないような気がするが、やはりわからない。誰が神から与えられた自らの仕事を知っているわけではない。ローマ法王とは違うのだろう。君にとってそれは無駄な言葉だが、彼はそれ以外を知らず、何も思い出せずにいるらしい。そういう状況で何を直視すべきなのかと言えば、現実を見るべきなのだろう。それは直視できない現実だ。この期に及んで何を語れというのか。そういうことではなく、語られたすべてが蛇足なのだ。それは簡単なことだが、確実にすべてが違っている。だからすべてを見通せる力など誰にも備わっていない。だから君は誰かではなく、確実に君なのではないか。当たり前のことのようだが、あえて冗談を述べるならそういうことになる。何も述べてはいない。やはりそれrは違うと思っているのか。では何が違うのか。それはでたらめに語ること以外にはあり得ない話の展開か。それとも違うと思う。ならばいつものように何かが違っているだけか。それは何でもないことなのだ。何を語ってもどうでもいいことになるようで、それとも違うと思いたくなるだけか。だがそこから先には言葉が連ならない。何も述べられなくなって寝てしまう。それが昨日の状況だったはずだが、そこから何が進展したというのか。君にはわからないことだ。誰にとってもわかるようなことではなく、誰にもわからないように述べているつもりなのだろうが、だから何だというわけではなく、そんなくだらぬやり方を貫くつもりもなく、何を語っても無駄のようなことをひたすら語り続けているように装う。意図が分からないが、わかるようなことではない。嫌気がさしているのは毎度のことであり、たぶんそうならないと嘘になってしまうのだろうが、嘘でもかまわないようなことを述べていることも確かだ。言葉を連ねることによって、空疎以外の何が見出されているわけでもない。そう述べて何を卑下しているつもりにもなれないだろうが、実際にそう思われても仕方のないようなことを自己言及的に述べているようだ。それが虚無による最後の悪あがきとなるかならないかは、今後の語り方次第だろうか。すでにそこであきらめているような気もするが、ひたすらそんなことを述べていてもかまわないのではないか。誰かが記すことのできる文章はいつもそういう内容のそれであり、それが気に入らないからそんなことを述べているのだろうが、そう述べてしまうことがそういう状況をもたらしていることを知りながらも、そこから抜け出るわけにはいかず、それらの苦しみを終わらせないためにはそう述べるより仕方ない。要するに当たり前のごとくに述べている内容が矛盾しているわけだ。


12月19日

 何だかあっけなくここまできてしまったようだが、途中で遭遇した出来事について述べる気にならない。大したことではなく、どうということでもないのだが、その気にならないのだから仕方がない。何となく馬鹿げているような気がするだけか。また何かに見とれていたのだろう。それはくだらぬ光景か。君に何を訊いてみても仕方がない。問いかける対象が間違っているだろうか。なぜそうなってしまうのだろう。ちょっとしたことが重大な結果をもたらす。それは恐ろしい偶然の巡り合わせだろうか。あっけなくそうなってしまうのが信じられない。君はこれまでに何を見てきたのか。何の衝撃も感じられない光景の中で適当に考える。意味がないだろう。言葉が余分なのだ。何かが散漫で精神の集中がない。だから意味がないのか。意味がないのではない。では何をそんなに否定しているのか。ただわけがわからないでは済まされないような事態に遭遇しているのだろうか。それはどういうことなのか。気分がそこまで至らない。どういうことでもない。相変わらず何でもないことを述べている。気持ちも言葉もどこへも至らず、虚無の周りをぐるぐる回っている。それで何がわかるというのか。少なくとも君にはわかっているはずだ。虚しい気分を言葉が醸し出している。それは君の言葉ではない。馬鹿げたことを述べているようだ。気持ちに粘りが感じられない。さっさとあきらめてしまいそうだ。どこで躓いているのだろう。無気力でいることに慣れてしまっている。心にぽっかり穴があいているみたいだ。さっきまでの気分は嘘なのだろうか。わけがあるわけではない。何をやろうとしているとも思えない。どこかへ追い込まれているわけか。それでも眠くならないのはどういうわけなのか。紅茶の飲み過ぎか。他につまらぬいいわけが用意されているわけではない。何をどう述べても何でもないことだ。具体的な事象が見つからないらしい。当初はどんなことを述べるつもりだったのか。何を忘れたつもりになれるだろうか。まともなことを述べようとすることに何の意味があるのか。何がそんなに馬鹿げていると感じられるのか。たぶん大げさなことを述べたいのではない。何が煮詰まっているのでもない。別に料理の話をしたいわけでもないが、それが冗談だとは思わない。不注意からそうなってしまうこともあるらしい。些細な出来事には違いない。どうでもいいようなことが何らかの効果を発揮することもある。そしてあえて嘘をつかなければならない成り行きになってしまうことだってあるが、それでもだから何だというわけではない。では現実には何がどうなっているのか。時が経ち、何かを忘れてしまったようだ。今では気づかないようなことを過去の時点では気づいていた。その時はそう思っていたのだろう。今となってはどうでもいいことだ。忘れてしまったのだからそれは当然か。昔の記憶にたどり着けない。だからそれは何のことなのか。どこで堂々巡りの最中なのだろう。それにしてもまだ少し時間がある。思い直すのは今のうちなのだろうか。君は無駄に他人を批判している。それで何を思い出そうとしているのか。思い出す手間を省いて偽りの記憶を記そうとしているわけか。何の得があるのだろう。その手の作り話には魅力を感じられない。だが虚無の何が脅威でもないはずだ。話の何が虚無感をもたらしているのか。知るはずのないことを知っているわけではなく、実際に何も述べられないことが虚無に染まっている証拠となる。もちろんそれは偽りの証拠であり、証拠ではない証拠が証拠以外の何を示しているとも思えないが、とりあえず無駄に言葉を並べて意味不明なことを述べているつもりになる。そこからどんな教訓が導かれるというのか。まったく話になってないところが愉快だ。ついでに冗談にもなっていない。それでもまだ話の途中である。意味もなく何かを長引かせようとして、結果として苦痛をもたらす。それの何が苦痛なのだろう。じれったいのはいつものことだ。具体的な内容に行き着かないまま、偽りの話が終わってしまいそうで、時間切れもだんだん近づいてきて、焦りに焦っているふうもなく、淡々と言葉を並べながら、さらに何を想うこともなく、感慨にふけるような内容からはほど遠いこともふまえて、今さらながら不毛なことを述べていることに気づいて、何となく笑っているようだが、他の誰の笑いを誘っているとも思えず、失敗の雰囲気を感じて、その場でどうにもできないことに気づく。どうにかしているではないか。確かにそうだろうが、本当なのだろうか。リップサービスのたぐいを真に受けるわけにはいかないが、何となく晴れがましい気分を想像しながら、まったくの意味不明だろうが、何か適当なことを成し遂げたつもりになって、そこから先に向かい、言葉の終着点を見極めようとするが、まだ話が続いていることに驚くでもなく、それが当然の成り行きのように感じられ、それらの意味不明な成り行きが君にもたらした衝撃を、言葉の連なりが吸収できずに、そこからはみ出てしまう部分によって、感動させられてしまっているのかもしれない。


12月18日

 何を考えているのか。知りたいのはそんなことではない。考えるのが面倒くさいので、何も知りたくないことにしておこう。いくら考えても無駄なのか。語る目的を導き出せないのはいつものことだ。そんな無気力が疎ましいか。誰に何を頼まれたわけでもないだろう。それでも考える理由があるのだろうか。何を考えようとしているのかわからない。ありふれた音楽を聴いている。考えようとすることをあきらめてしまったのか。無理もないだろう。無理もない理由がわからない。わけがわからないのもいつものことか。苦いコーヒーを飲みながら理由について考えてみるが、それが何の理由なのかわからない。頭の中がこんがらがっているふりをするが、天気予報の時間だ。それから数時間が経過してしまったらしい。君はどういう立場なのか。やる気があるとは思えない。誰かは何かを狙い過ぎのようだ。たぶんまともなことについて語らなければならないのだろう。そう思い込んでいる。何かが利いてきて、今からまともになろうとしているのだが、そんなのは嘘だろう。語ることから心が逃げている。気を落ち着けなければならない。そして黙り込む。やはりわからないようだ。ふざけていてはまずいのだろう。ふざけているべきではない。実際にひどい人たちは助からない。人には皆欠陥がある。世の中には適合できない面を持っている。周りの環境にうまく適応できずに滅び去ってしまう危険性を抱えている。結局そこに暮らしている者たちがそういう世の中を形作っているわけで、いらない人たちを大量生産してきたわけだ。今さら国家に文句を言っても仕方ない面もある。だがひどい人たちにも選挙になれば平等に投票する権利が与えられていたはずだ。今からでも遅くないから、次の選挙では自分たちの立場を尊重する政党の候補者に投票するしかないだろう。自分たちの言い分が少しでも政治に反映するように働きかけてみたらどうか。たぶん現行の政治システムと環境の中では、無駄な悪あがきになってしまうかもしれないが、自分たちを都合のいいときだけいいようにこき使ってきた会社とその幹部たちが支持してきたのが、今の政治を牛耳っている政権与党だということは、いくら馬鹿でもわかってほしいとは思うが、どうせそういう人たちはいつまでたっても少数派でしかなく、烏合の衆が一致団結してもどうなるわけでもないような気はする。安倍氏でも福田氏でも麻生氏でも、大したことはない人が総理大臣になれてしまう環境を支えている人たちの方が圧倒的な多数派なのだ。そしてその程度の人たちがこの世の中を形成しているわけだから、別に今後この国がどうなってもかまわないような気もするわけだが、あまり厭世的なことを述べるのも倫理的には気が引ける。ならば何か前向きなことを主張しなければならないのだろうか。どうも何も思いつかない。何をどう述べても馬耳東風的に無駄のような気がする。メディアは付け焼き的かついいわけ的な景気対策を批判して、無い物ねだりのような意見を述べるしかないのだろうが、要するにそうやって不況の嵐が過ぎ去るのを待っているのが実態なのだろう。それについて語ることはできるが、それを変革したりする力がメディアに備わっているわけではない。そういうのが嫌なら、そこに住んでいる者たちが自力で何とかするしかないだろう。選挙に自分が立候補するとか、今までとは別の政党の候補者に投票してみたらどうか。たぶんそれが一番できないことなのかもしれず、要するに今政権を担っている政党の政治家たちにどうにかしてほしい、というのが臆病な本音なのかもしれない。そうやって今まではしのいできたつもりなのだから、今後もそれを続けていけばいいのかもしれないが、それが一番退屈でつまらない事態を招くような気がする。保守主義とはそういうものだと割り切って考えればそういうことなのだろう。だから政治に何を期待しても期待はずれに終わるしかなく、一方では無能な政治家を非難することで溜飲を下げているだけの、これまた無能な大衆が大量発生している状況が維持継続されている世の中なのであり、そういう世の中からひどい人たちが大量生産されているのも当然の事態なのかもしれない。しかしそういう君は何様のつもりなのか。何様でも何でもないということか。とりあえず政治も行政も自民党や公明党やそれと癒着している官僚たちに任せておけば、これまで通りのことはやってくれるはずで、そういうのを批判し続けるメディア関係者も、今まで通りに批判を繰り返していればそれで済んでしまうのかもしれない。万事がまるく収まっている状況とはこのことを言っているわけか。たぶんそれでいいのだ。君には関係のないことか。まるっきり関係なくはないが、君にはどうすることもできないだろう。君の代わりに誰かがそんなことを記しているだけか。それでも何も表明しないよりはマシだろうか。怒りの矛先がどこを向いているわけでもないが、もはや批判する気さえ起こらないような状況を肯定してみるのも酔狂なことかもしれず、それの何が物好きなのかわかりかねる部分もある。


12月17日

 記された言葉は何を示しているのだろうか。君は何を実践しているのか。何か伝えなければならない主張でもあるのだろうか。そうではないような気がする。君のために文章があるわけではなく、君はそれらの何に関心があるわけでもない。そして何となくしらけている。人はどこへも至らないだろう。世の中が不況だろうが世界恐慌だろうが、そんなことは関係ない。何を批判しているわけでもなく、批判する筋合いもなさそうだ。君はきれいごとを述べているのか。要するに言葉が続かないわけか。途切れてしまった後から考えてみる。心の琴線に触れたわけでもない。またいつものように音楽を聴いているようだ。今はやる気がしないらしく、部屋の天井を眺めている。何がいけないのか。空想の世界にはまっているとも思えない。無駄なことは思いつかない。やはり関係ないだろう。そういうことを述べているだけだ。わざとずれているのか。どこかにずれが生じていて、それがいいわけの原因となっている。屋根の上にはカモメが舞っている。空想の世界か。世界ではなく言葉だ。そんな語り方では安心できないようだ。何に言及しているのかわからない。内心ではわかっているはずで、あえてわかっている答えを求めようとしない。それ以上の追求を断念する。嘘だろう。そのつもりになっているだけで、本当はそれについて語っているはずだ。記された言葉が誰かの邪魔をしている。邪念を追い払えずにいるらしい。言葉に詰まって四苦八苦ということではない。それがくだらぬことだと自覚している。それでは君は何で失敗しているのか。行き詰まっている原因は何なのか。それがわからないから行き詰まっているのではないか。冗談的にはそうだ。人は仕事をしている時より遊んでいる時の方が楽しい。まじめになりたくないのだろう。したたかな計算というのもない。時が流れて何もなくなってしまったらしい。それだけではないと思いたいが、君にはそんな自覚しかないようだ。そんなところで立ち止まってはいけないわけか。どんなわけがあるというのか。自然の流れに逆らっているようだ。人としての業なのだろう。そうやって人間たちは文明を築き上げてきた。地表面を破壊しているに過ぎないが、それは雨や風による浸食作用とどう違うのか。時間的な幻想を伴っている。時の経過とともに進歩しているような気にさせる。だが興味深いのはそういうことではない。君たちは何を成し遂げようとしているのか。そんな気でいること自体が間違っているのかもしれず、体質的にそういう特性を持っているだけのことに、自分たちで感動しているまでのことだ。だがやはり結果としてそうなってしまう事実を知ると、何だか楽しくなってしまう。間違っていることを必死こいてやっている姿が妙に似合うようだ。それが人間の本質のように思われて、人間たちによって日々繰り広げられているそれらの虚無的な行為を、誤って肯定したくなるのだが、今さら何を否定するのも虚しいだけか。世界が内側から崩壊し続けているのはいつもそうなのであり、いつの時代でも見受けられる自業自得なのかもしれない。君はたちはそれが楽しくてたまらないのだろう。それでも少しは考えているのだろうか。この期に及んで何をどうしたいのか。身内で身内の業績をほめ合えば、少しは目の前の惨状から目を背けていることになるのだろうか。何をどうするための口実でもきっかけでもない。冗談にかまけて何かを述べていればいい。君たちにはできないことだ。やろうと思えばやってみたらいい。それが楽しいのかもしれないが、言葉が君から逸れてゆくようだ。何かの刺激が腐った頭に働きかけ、たぶん何か適当でいい加減なことを考えている最中なのだろう。できないことをやろうとしているわけではない。そこで何らかの実践が可能なようだが、何を述べても的外れになってしまい。何を述べるのもそれらの実践とは関係がないことに気づくだけか。同じ目的のもとに連帯を呼びかけるのは楽しいことだが、集まってくるのがいつも烏合の衆でしかないとすれば、そこからどんな実践が可能なのだろうか。何を危惧しているわけでもなく、そんなふうに集団で行動するのが常態化している現状がおもしろそうか。興味を抱く対象が間違っているだろうか。きっと何事もうまくいかないことの連続なのだろう。そういうことの何が間違っているのではなく、おそらくすべてが間違っているのだろうが、人々は間違ったことしかできないのだ。この世に正しい選択肢はない。何かを選んでいる場合ではないのだろう。あれやこれやと迷っている以前に、行動に訴えかけなければいけないわけか。冗談でならそうしているだろう。ことここに至ってなお本気になれない。だからなおのこと誰もが不幸になるべきなのだろう。国民はそれでも国家にしがみつくしかないらしい。まったくもって面倒くさいことだ。他人の顔色をうかがうようなマネはもう必要ないのではないか。何となく人々はめちゃくちゃなことをやっているような気がするのだが、それも戯れ事のたぐいなのか。ひたすら今を守ろうとしている。まるで未来がないかのように今にしがみつき、現状維持ならそれでかまわないような行動に出ている。それで何がどうなっているのだろうか。結果を見れば一目瞭然か。


12月16日

 まだその先に何かがあるらしい。影はそれらの言動から何らかの意図を感じているようだ。滅亡するまで過ちを繰り返すのか。たぶんそれはおもしろい傾向を示すはずだ。何かの曲がり角にきているようだが、それは二十年も前の出来事だ。言葉の寄せ集めか。何も疑念を抱くことはない。当たり前のことなのだから、それは当然のこととして受けとめるべきだ。他に何を書き込む余地もない。君には耐えられない時間帯になってきたようだ。誰かがあり得ない時空であり得ないことを述べているらしい。空想しているだけだろう。何もないのに何かを空想している気でいる。妄想とは何だろう。まともな返答など期待できず、突拍子もない言語的展開などもありはしない。また冗談でそんなことを述べているのだろうか。君はその気になっているようだ。ならばそれもあり得ない話の一部を構成しているわけか。そういうことではないような気がするが、その先の曲がり角でどんな事件が起こっていようと、誰かはそこへ至らないだろう。面倒な事態に遭遇するのは面倒なので、前もってそれを回避している。意気地がないので、どこか別の道へと逸れて行ってしまったようだ。しかしそれで君は満足なのか。誰の不満を真に受けているわけでもなく、ただ身勝手に事を運んでいるに過ぎないのかもしれない。誰が不幸になろうと知ったことではないか。たぶん君に何がもたらされているわけでもないだろう。事件は別の時空で起こっていて、それとは無関係に、なぜそう述べてしまうのか、今ではその理由さえ見出せないようだ。少なくとも文章の中には示されていない。まったくのところ遠い道のりだ。まだそこまでたどり着けていないらしい。いつまで歩んでいるのだろうか。何の話でもないところがとりとめもない。ひたすら持続的に、あるいは漸近的に、虚無の中心へと導かれているような気がするのだが、きっとそれは気のせいだ。気がするのだから気のせいには違いない。未だにそんなことを述べている段階なので、先が思いやられるというより、単に馬鹿げていると言った方が、ことの成り行きを正確に言い表しているかもしれないが、この期に及んで何を述べているのでもないと言ったら嘘になるだろうか。君は嘘でもかまわないと思っているようだが、それは作り話の中で思っていることだ。要するにそう思っていることも含めて嘘なのだろう。だがそれで何を述べていることになるのだろうか。簡単にいうなら冗談を述べているらしい。たぶんそれだけではないだろう。それだけならもっとわかりやすいはずだが、自己言及的には冗談ですらないのだろう。本気でそう思っている。誰が本気なのか君には理解できない。だが誰が君に何を理解させたいわけではなく、かえって理解し難いことを述べているように装っているだけで、現実にはまったくでたらめの意味不明に過ぎないかもしれない。簡単にそんなふうに述べてしまえるのだから、そこにこだわりなど何もなく、気が向いたらまた別のまともなことを述べる機会も巡ってくるかもしれないが、それがいつになるかはわからない。その場の雰囲気に流されているようだ。だいぶ沖まで流されてしまったので、言葉を記している誰かは、これまでに述べてきた内容を把握できなくなっている。そこでふと思うのだが、もう少しで何かをわかりかけている心理状態で言葉を記そうとすると、たちまちわけがわからなくなるのはなぜだろう。君はそれが気に食わないのか。もっとはっきりした心境に至りたいようで、できれば明快なことを述べてみたくなる。それには何かを犠牲に供さないといけないのか。そういう発想が的外れでわかりにくい。わざとそんなことを述べているように感じられ、まったくのところ真に受けるようなことではないと思われる。誰かはそれでもその先に言葉を連ねるべきだろうか。やはりそういうことではないはずだ。立ち止まってそこに至った成り行きを顧みなければならない。我慢が足りないようで、テレビを見たくなっている。ならばそこで言葉を連ねる作業も終わりだろう。たぶんこの世界に暮らす人々は救われるべきでない。今が救われない状態なのかもしれず、それがこのまま果てしなく続いてゆくような予感がするが、だからといって悔い改めるべきではないような気もする。人はいつも悲惨な状況の中で生きてゆくべきなのかもしれない。状況を理解しようとしてはいけないのであり、自分たちの都合に合わせて身勝手なことをやり続け、破滅するまでそれを押し進めるべきではないかと思う。そして絶えず不満をぶつけ合って、気の休まる暇などないほどに対立し合い、自分たちが凶暴な動物であることをその身をもって示すべきなのだ。人間たちはくだらぬ存在だ。気まぐれにそんなことを述べれば気が晴れるだろうか。しかし君にはそれがわからない。わかるのが面倒くさいし、わからなくてもこの世界に存在し続けられるのだから、無理にわかろうとするのは愚かなことだ。人々がテレビ画面を意識しつつ罵倒し合い、無い物ねだり的に政治家の悪口を吐き出しているのを見て、何がまともだと思うだろうか。


12月15日

 君はまた以前と同じようなことを述べている。それがわからない。なぜそんなことを述べてしまうのか。何を見ているわけでもない。だがくだらぬ成り行きに一喜一憂するわけにはいかないらしい。その気になれない。何をやらなければならないのか。わかっているはずだ。わからなくてもかまわない。何かを見つけたらしい。誰かはそれを知っている。知らなくてもかまわない。体質が改善されていない。気になっている。その気になっているわけではない。間違っているのだ。正しいことを述べている。そのつもりでいる。好ましくないやり方だが、君はそれを知っている。異物が入り込んでいるのだ。そんな気がしてならない。気分の問題ではない。まだそこで苦悩している。飽きてしまったのか。そこまで来ている。それを説明している。気に入らないのだろうか。機会に巡り会う。ありふれた意見だ。わかりやすい説明を嫌う。それができないのだろう。急速にそうなってしまう。では何を遊んでいるのか。呼吸をしているようだ。答えになっていない。なろうとしてないのだ。ならないうちにそうなってしまう。何もなさずにそこまでたどり着いた。たぶんそれは幸いなことだ。少なくともつらい経験ではない。そのままどこまでもいってほしい。まだそれを見届けていないが、そこまでいくのが億劫だ。君はそれを知っているつもりだ。知り得るようなことか。どうなるわけでもなく、知らなくても問題はない。それを認識する。何かが足りないようだ。言葉を探しているのかもしれない。それを知りたい。何とかしたいのだろう。気に入らないことを気に入るようにしたいわけではないが、それに近いやり方でもかまわない。ならば我慢することが肝心だ。だが何に頼ることもしない。面倒くさいのか。予測が外れて気分が悪いか。それでもまだ勝手なことを主張する。景気が悪くなって皆が正気に戻ったということだ。たぶん現行の制度を維持しようとしているのだろう。何かに気をとられている。ならばそれで状況を把握したつもりになれるだろうか。そのつもりになってもその先がある。何かの終わりが待っているとしても、それで救われるわけでも報われるわけでもない。アホなんじゃないだろうか。アピールするところを間違っているのだろう。それが何かの感情なのだろうか。途中からおかしなことを述べているようだ。何かをつぶやいている。不満があるのだろう。そうでなければ何なのか。何でもないのかもしれない。そこで意識が途切れている。そこから先の記憶がない。まだ何も述べていなかったようだ。先が長いのだろうか。気にするようなことではない。いらない意識ならいくらでもありそうだ。いらない人は本当にいらないのか。屋上で誰かが暮らしている。君がそれを見たわけではないが、屋上で誰かの幽霊を見たらしい。話のつじつまが合わないか。合わせようとしていないのだろう。逃げられない事態を招いている。君はなぜそこから逃げ出さないのか。無理に遠ざかろうとしているわけではなく、自然に遠ざかってしまうらしい。気がついたらそうなっている。それでも何とかしようとしている。やはりつじつまを合わせようとしているのか。悪あがきの連続だ。君はそこで何を見ていたのか。何か間違っていないか。正しい道筋をつけられない。人によって効果がまちまちだ。そうしないと安心できない人もいる。煙草の吸い殻が嫌な光景を形成している。君はなぜそこで立ち止まるのか。自分で自分の首を絞めてどうするのか。まだそこまでいっていない。何とか無難に済まそうという魂胆だ。ならばさっさと出て行ってしまえばいい。残りかすなど気にしていては先に進まない。ある一日の光景に見とれている。別にそれを見聞しているわけではない。微妙な意味だ。果たして症状が改善するのだろうか。指先が軽くしびれているのは気のせいか。まだそこまでたどり着いていないはずだが、前にも何度か訪れたような気がするのは気のせいか。気がするだけではそうなのだろう。そうでなければ気にもしないはずか。そういう問題ではないのかもしれず、深刻に受けとめなければならないか。そうしたところでどうなるものでもない。君はひたすらそうなってしまうのか。このままではそうなってしまうだろう。語りようのないことを語るはめになる。現に今もそうだ。だから不可能に直面しているような気になっているわけか。その気ものないのにそれはないだろう。そういうことではなく、それを否定したいのだが、どのように述べても結局そこへ至ってしまうのだ。何を述べているのかわからないふりをしなければならない。そうしないと正気を保てないか。大げさな言い回しに尽きるしかない。ならばその辺で限界を感じるのは当たり前のことだ。普通の人は嫌なことはやりたがらない。たぶんそんなことしか述べられないのだろう。無理に難しいことを述べても、自分で理解できないのだから仕方がない。君にはできないことだ。できないから他の誰かがそれを記している。さらにどうにかなってしまいそうか。案外そんなのは嘘で、本当は好き勝手振る舞っているのかもしれない。


12月14日

 誰かはどこかでほっつき歩いているのだろうか。何もできなくなるところをうまくいなしている。しかし相変わらず意味不明だ。目が離せないようだ。何かのイベントなのだろう。無力感がどこから出てくる。頭の中ではどうなっているのか。何かがうごめいているようだが、そこがどこだかわからない。君は誰かではない。たぶんそれは嘘だろう。誰もが誰かなのだ。ごまかしのたぐいに違いない。君の名前などすでに忘れ去られている。そういうことではないはずだ。何をごまかそうとしているわけではない。何かが違っていることはもとからわかっていることだ。もういいのではないか。十分遠くまでやってきたはずだ。思い違いであることもわかっている。君のことではない。誰のことでもありはしない。自らが述べていることに自信が持てなくなったのか。はじめからそうだ。そうに違いない。拒否反応が凄まじいだろうか。君に対してではない。ならばもう一度はじめからやり直そう。そういう曲を聴いているのではないか。またイヴァン・リンスか。それは知っている人にしか知らないことだ。誰かにそんなことを説明してもチンプンカンプンだ。では語っているのは何かの暗号についてか。それが嘘ではないような気がする。君は耳が遠くなったのか。誰について語っているのだろう。誰も知らない三人組の写真を見せられているわけではない。気が抜けているのだろう。何が捨てたものじゃないのか。何も伝わってこない。やはりもうあきらめてしまったのだろうか。君の出番ではない。誰もそこから出られない。そういう話ではなく、どういう話でもない。君にはそれがわからない。何と何を取り違えているのか。それはどういうことだろう。未来へ何かを先延ばしにすればいいことか。まったくわからない。何について語っているのか。それを誰がわかろうとしているのか。それは思いがけない話の展開になるだろうか。君の期待は裏切られるしかないようだ。なぜそこで笑ってしまうのか。誰が笑っているのだろう。どうやら話の中身を理解しようとしていないようだ。ドビュッシーは聴き慣れている。だから懐かしく感じてしまうのだろうか。どこかへ心が飛んで行ってしまっているらしいが、あり得ない話だろうか。君には関係のないことか。君はそういうやり方が好かないのだろう。未だに耳が遠くなったままだ。免疫力が著しく低下している。その証拠に何を述べているのかわからない。それが何の証拠になるのだろうか。風邪か何かにかかっているわけか。君の発想は貧困きわまりない。だから何について語ってもかまわないのだろう。理由になっていないところが自由なのだ。何に意見しているわけでもないが、偶然に何かが解消してしまったらしい。それも君には関わり合いのないことなのか。言葉が意味もなくつながろうとしていて、話としてまとまらないのはいつものことなのだが、それでもかまわないと思ってしまうのも毎度のことか。そんないい加減さに呆れてしまうのだろう。君にはどうしようもない。誰にとってもそういうことか。誰かの範疇に入っていない誰かには関係のないことか。言葉がずれているのだ。意味の外れ具合も甚だしい。君には判断しようのないところで何かが決まってしまうらしく、当てが外れてやる気をなくしているが、それでもそれ以上の何かをもたらそうとしているようだ。無内容の最中に何かがある。そう思っていれば何もなくてもそこに注目し続ける。誰かの作り話の中では層かもしれないが、実際にはそんなわけにはいかないか。とりあえずそれを続けるしかないようだ。意味がなくても続けていれば、後から画期的な意味と意義がついてくるだろうか。そんなわけにはいかないからあきらめてしまうのだ。それをあきらめなければどうなってしまうのだろう。年老いてからノーベル賞でももらえるわけか。いたたまれない。大半はそういう結末に至らないから楽しいのではないか。無駄なことをひたすらやっているから楽しいのではないか。それはその人の感じ方次第だろう。他の誰と我慢比べをしているわけでもないが、やはり虚無からの重圧にでも耐え続けているのだろう。建て前としてはそういう話なのだから、言葉が連なっていく方向へと意識を移動させているわけだ。その結果として何でもないことを何でもないように述べているつもりなのか。そんなことを述べている誰かの意図が分からない。いつやめてしまってもかまわないのに、そこに延々としがみついている理由が定かでない。できるうちはやり続けるのが義務なのか。そう思っていれば幸いなのかもしれないが、絶えず疑念に苛まれているようなら、すぐにやめた方がいい。やめられないのにやめた方がいいと述べてみる。そういうやり方が気に入らないのだろうか。それでもここまでやってきた。理由もなく、意志も薄弱なのに、やはりそんなことを述べている。自業自得かもしれず、何でもかまわないわけでもない。だが今さらかまうとかかまわないとか述べても仕方がない。現にそんなことを述べているわけだから、そこにさらなる言葉を付け足すしかないだろう。


12月13日

 誰かは相変わらずの日々を過ごしている。今は夜だろうか。外を見れば暗くなっているはずだ。何に気づいている気になれるだろうか。どこに目をやっているのでもない。大地が心なしか斜めに傾いているような気がする。嘘をついているわけだ。たぶんそういうつもりではない。誰もそうは思わない。ここに誰がいるというのか。何かのアレルギー反応だろう。意味がわからないのもそのためか。何をからかっているのか。それを認めたくないようだが、何のつもりでもないらしい。何もやらずに眠ってしまう。昼は昼で仕事をやっていたはずだ。今は妄想以外に何ももたらせないわけではない。ではなぜ時間がないのか。軽い気持ちで寄り道へと導かれる。心がどこにあるのかわからない。手帳には何も記されていないようだ。予定など何もないというのは嘘だが、それを記すのが面倒くさく、だから手帳など不要なのかもしれない。誰かはまたテレビを見ながら暇つぶしだ。いつもの邪魔が入り出ばなをくじかれてしまう。興味がないのだろうか。図式的な理解では役に立たない。それで何を知ったつもりになれるだろう。何も知らないなら楽しいか。何のつもりでもない。誰が関与しているとも思わない。何かをわずかにずらしているようだ。わけがわからないならやめた方がいい。ひたすらそんなことを述べている。いったいそう述べることに何の目的が宿るというのか。はじめからそうは思わない。ただ述べているだけのような気がする。新しいことができずにいるらしく、やっていることは今までの続きだ。日が暮れてから数時間が経過したようだが、もう飽きてきたようだ。だれてくる。言葉は君を迷宮に押し込める。それらの意図を解さず、今は黙ってその場の成り行きに従うつもりか。そういう状況には慣れきっている。何を述べてもそうなってしまうだろう。世の中が不況だと誰かが危機感を煽らざるを得ない。このままではどうなってしまうのだろうか。どうにかなるだろう。どうにでもなってしまうような気もする。何も色めき立つこともないだろう。歴史は決して過去と同じようには繰り返さない。過去からの積み重ねで今がある。過去と同じような成り行きばかり想像する輩が跋扈しているだけか。不安なのだろうが、そういうことを述べているのはリストラされた当事者ではない。誰かは高みの見物を決め込んでいるのだろうか。そうだとしてもどうでもいいことだ。君はそういうメディアに接しているに過ぎない。なぜだろう。何も不安が湧いてこない。それ以外でなら不安なのかもしれず、ストレスで体調を崩してしまいそうになっているのかもしれないが、やはり何でもないことだとしか感じられない。自らがどうなってしまってもかまわないのか。君はやがて自らの運命を知ることとなるだろう。知ってしまう前に教えてくれないか。楽しみは後にとっておくものか。本気になれないのはいつものことだ。なぜそうなってしまうのだろう。まだそうなっていないではないか。要するにまだ死んでいないということか。最終的には誰もがそうなってしまう。だから今さら何をどうしたらいいのだろうか。誰に尋ねているのでもない限り、返答など期待しない方がいい。まともな答えなど未来永劫返ってこない。まともでないのならいくらでもやってくる。お仕着せがましい奴らが巷には満ちあふれているはずだ。何か主張したいのだから、主張させておけばいいだろう。どうぞご自由にやってもらったらいい。君には何も主張がない。冗談でならいくらでも主張するつもりか。要するに知ったかぶりに慣れるほど世界情勢ついて詳しくはないのだろう。もしかしたら誰もがそうなのではないか。先行きは不透明なままか。とりあえず人の欲望に基づいた資本主義が終わるわけがない。それらの欲望を制御する試みも永遠に試みられ、資本主義とセットになっている。君はそんなことばかり述べていて、それらを無効にする画期的なアイデアをいつになっても思いつかないようだ。近頃はあきらめてしまったのではないか。誇大妄想にもほどがありそうだ。だからいつまでも突っ張っていないで、人並みな幸せでも手に入れたらどうか。それも何かの冗談だろうか。たぶんアイデアだけでは世の中は動かないが、それでも主張しないよりはした方がマシだろうか。そんな奴らはいくらでもいるか。いてもかまわない。くだらぬことを述べている輩の一人になろうと、それが本望だと思っていればいい。何事もそれで済んでしまうならそれに越したことはない。しかしそれで何が済んでしまうのか。誰かの人生が済んでしまったりするわけか。それでも何かが続いているうちはそれでかまわないのかもしれない。君はそうやって生き伸びようとする。それはいつものやり口だ。本当に答えは風の中にあるのだろうか。何かを煙に巻こうしているわけではない。そこで何かが導き出されているような気にさせることができないだけだ。それは謎掛けだらけの倫理に反することか。意味不明だ。それで今はかまわないが、今でなくてもかまわないはずだ。何でもないのだから今ここで答えを出すこともない。


12月12日

 たぶん何かを構築し続けなければならないのだろう。それが無駄だと思いつつも、いつか報われることを気休め程度に期待して、何となく誰かが言葉を記している。それが何かの構築につながるとは思えないかもしれないが、そう思っている君を無視して、続けて言葉を連ねる。やはり数日後の空は晴れている。何ももたらされることのない世界が広がり、地表面を覆い尽くす諸々の事象を部分的に感じながら、そこからどこへ行くでもなく、何に関心を抱くこともなく、一定の範囲内でうごめいているらしいが、まだ幻想を完全に捨て去ってしまったわけではないようだ。虚無的な言動に終始しながらも、何か画期的な見解でも表明できる日が来ることを密かに思い描いているのだろうか。しかし今はわからない。いったい何をどう語りたいのか。この世界の何が知りたいのだろうか。同時にそうではないと思っている。それは違うと思う。違っていて当然だろう。いくら疑念の言葉を連ねても答えは出てこない。答えを出そうとしていないのではないか。無理にそうしているわけではなく、今はそういう成り行きに従っているだけか。何かを補わなければならないが、それは言葉とは違う何かだ。あり得ない何かかもしれない。君はその何かに苦しめられているのだ。そんな気がしてならない。きっと気のせいだろうが、何かとは何なのか。無理に考えてみても何も出てこない。答えを出そうとしているのではなく、きっかけをつかみたいわけだ。何かを知るきっかけが欲しいか。それは知り得ることではなく、君は知らなくてもかまわないのではないか。君からかけ離れて、問いとは無縁の答えがあるわけではない。それは理解の範囲外の答えだ。しかしごまかしではないのか。わけのわからない言葉の連なりに誰かの精神がしがみついている。そこにとどまるべきではないのかもしれない。なぜ理解を超えて何かが作動してしまうのか。感情の暴発とは違い、静かに心を蝕み続けるが、虚無が語っているのは言葉ではないのだろう。そこで何かを完成させなければならず、無理な言い回しを用いて、無難なことを述べるような試みとは違い、決して意表をついているわけではない。自然の成り行きに従ったありふれた言い回しの多用からそれらの言説は形作られ、誰でも読めるが理解不能な内容を形成している。君はそれらを読んで疑念を抱きざるを得ない。やはりいったい何を述べているのか。なぜ文章の全体を把握できないのか。それがまとまった意味を担えないのだろう。意味が言葉から外れてしまっているのだが、ある部分では自然の成り行きに逆らっていて、それが新たな自然の成り行きを導いていたりする。基本的に何でもありなのだから、言説の範囲と制限を確定させるのは難しい。別に支離滅裂になってしまってもかまわないわけだ。そんなわけで語っているすべては何でもないことなのだが、しかしそういう偽りの自己言及がわからない。どのような意図でもないような気がして、その場の気まぐれでしかないと思われる。目的は何なのか。そういう無駄なことを述べるのが目的なのだろうか。それが目的になることはなく、それによっていくら意味不明な言葉で空白が埋め尽くされようと、その空疎な内容によって空しさがよりいっそう増すばかりか。そしてそれでかまわないと強弁したくなる。途中から間違っているわけか。そうではないことを語ろうとしていたはずだ。はじめはそうだったかもしれないが、語っているうちに次第に惹かれていって、虚無の周りで言葉を循環させ、何やら意味のない構築物を文章の中に出現させているのではないか。それが心を蝕んでいる当のものだとしたら、それを取り除く必要があるわけか。確かにがらくたは無用のものであり、それがなければ困ることもないだろうが、いったいそれ以外に何があるというのか。そこで君は何かをわかりかけているはずだ。この世が無用ながらくたで埋め尽くされていることにでも今さら気づいたわけか。それほど簡単なことではない。それらの込み入った内容の中に、誰かの本音が垣間見えているような気がするのかも知れないが、それを見出したところで何がわかるわけではない。いったい誰かの本音とは何なのか。何かをごまかしたいということか。誰かはそれらの文章を記すことによって何をごまかしているのだろうか。自らが何も考えていないことをごまかしているとは思えないか。たぶん何かしら考えているのだろう。何も考えていなくても考えているふりをしているはずだ。だからどうだというわけでもないが、ここまで何を述べてきたのかわからなくなり、その内容を忘れていることに気づく。内容など何もないのではないか。そんな疑念を振り払うことができない。何か語っているようだが、何について語っているのでもないような気がして、それでも言葉を連ねていることに変わりないのが不思議に感じられるが、それらすべてが偽りであるわけでもなさそうだ。何かをごまかしていることは確かだろうが、そのごまかしによって何らかの真実が明らかになるかも知れず、今度はその真実について述べてみたくなるだろうか。それも嘘だとしたらどうなるのか。ただの戯れ言が続いているだけだろう。


12月11日

 誰がやってもうまくいかないだろう。だからそんなことを記したところで無駄か。何がどうなるわけでもないどころか、相変わらずのていたらくをさらしている。何が君を突き動かしているのか。そういう行動に駆り立てられていることに何の意味があるとも思えず、他に何があるわけでもなく、ただその辺の地べたで虫がうごめいているだけのように思えるが、それも違うか。ある意味では正しい認識かもしれないが、ある意味とはどんな意味なのだろう。何のことやら心当たりはない。では現状の何を変える必要があるのだろうか。いきなり話の連続性を失う。誰かは余裕もないのに、何か余裕をくれているふりをしている。案外もうあきらめてしまったのかもしれず、何がどうなろうと動じることもないだろうが、でたらめばかりではつまらない。本当にあきらめてしまったのならば、この先何を糧として生きてゆけばいいのか。糧がなければどうなるというのか。たとえそれがなくなっても、餓死するほどのことでもなく、誰かはひたすら言葉を記すだけらしい。それではあきらめたことにならないのではないか。だが何に対して対抗基軸を見出したいわけでもなく、そこにどのような希望があるとも思えない。あるとしたらそれは何とも思わないようなことであり、たぶん絶望とも無縁の意味不明に違いなく、何をどう語ればいいのかわからず、苦し紛れに語っても冗談に思われてしまう。自分で冗談だと思っているだけで、本当は冗談ではないのではないか。たぶん冗談に違いないだろうが、やはり君には何が冗談なのかわからない。だからそのときの君は、それらの冗談の無効性について考察しようとするが、何もわかっていないのに、それは無理というものだ。それに関して大げさな仕掛けが、どこかに用意されているとも思えない。ではいったい何を語ろうとしているのか。語る以前に何も語れないのではないか。確かに君は語れない。誰かが君とともにそんなことを述べているつもりになれるだけか。虚無が無言に付随しているようだが、言葉の他に何ももたらしはしない。それは吃音のたぐいかもしれず、何事も君の思い通りにはいかないらしい。虚無がどんな言葉を発音しているわけでもなく、そう述べているだけで、何かに抵抗しているつもりなのだ。ただわけがわからないのはいつものことだとしても、それはどうにもならない成り行きだろうか。君にとってはどうにもならず、誰かにとっても同様だろうが、何ももたらさないことが虚無を虚無たらしめているのではないか。そこに君の都合は反映されていないようだが、誰の都合でそうなってしまうのか。答える者などどこにもおらず、誰かはすでに眠っていて、たぶん状況的には真夜中に妄想を抱いている場合ではないらしい。それがいつもの意味不明だろうか。誰にとってもそうかもしれず、やはり絶えず意識がそこから遠ざかろうとしているのだ。いつまでもそんなことばかりやっていられないが、なぜ遠回りばかりしてしまうのだろう。誰にとってもそれが特権的な行為になるわけがない。遠回りの何がそんなに珍しいのか。近づく光景が一向に見えてこない。どこかの高台から街の夜景を一望したいわけではなく、どのような光景も自らに向かってこないように思われ、そういう状況下ではやる気がしないのだろう。すでに眠気が去っているようだが、ちょっと前まで何をやっていたのか忘れている。言葉を記す口実がどこにも見つからず、その辺で精神が立ち往生しているらしい。話のあてがない。何に対しても何でもないような気がしてくる。そんな意識は自らの立場を知らず、何に責任を持っていいのかわからない。心の病か。夢遊病とは何なのか。そこで言葉を連ねることによって、何を克服しようとしているわけではなく、たぶん行き詰まっているようだが、それでも君はそこに様々な相互作用が働いているのを感じているはずだ。意識がかろうじて君をそこに押しとどめている。そんなふうに思えているだけで、実際はどうなっているのか知りようがないが、何とか無理を押し通して困難を克服しようとしている。そんなごり押しがいつまで通用するのか知らないが、今はかろうじて切り抜けてしまうらしく、そういうやり方が何らかの現実に打ち勝ってしまうのだろう。君はそうやって言葉の連なりを押し広げてきたつもりになって、誰かはその先に文章を記そうとしている。まったく懲りないやり口だが、たぶんそれしかないのだろう。それ以外にやりようがない。君がそこで何かをはねのけるのと同時に言葉が記されているわけだ。そして君は自らの行いの意味がわからなくなり、何のための言葉でもないような気になって、何らかの思考に至るのをあきらめてしまうわけだ。やはり導き出されているのは意味不明なのか。今のところはそうでないような成り行きにはならないらしく、君をあきらめさせるには十分な量の言葉が連なっている。やがて君はそれらを認めざるを得なくなり、至って何でもないことなのだろうが、認める代わりに遠ざかろうとしてしまうわけだ。もうやっていられないということか。


12月10日

 雨が降っているようだ。見ればわかるだろう。誰かは何を見ているのか。危機が去っているわけではない。それでも意味不明気味に強がり、笑っているわけか。笑っていられない状況だろう。君は何を目指しているのか。この世界がどうなってほしいのか。歌っているのは他の誰かだ。神は何ももたらせない。誰かがそう願っているのではないか。何に見とれているわけでもない。打倒すべきは国家でも世界でもなく、何でもないということか。要するに例えばスポーツなどの範囲内で、対戦する相手チームを打倒目標に掲げるがごとき矮小な意味において、打倒という言葉が妥当するわけだ。何を急に思いついたのか。そんなことはくだらない。何がくだらないのかわからないようだが、とにかくくだらないということにしておこう。しかしそれの何をどう評価したらいいのか。君は何について述べているのか。さらにわからなくなりそうだ。君が述べるべき事柄ではない。わかりにくいとはそういうことか。何に対抗してどんな策を講じているわけでもない。すべてはこの世界の中にある。要するにそれだけのことなのか。何が要するになのだろう。ただ音楽を聴いている。どうやら考えがまとまらないらしい。いつものようにわざとそんなことを述べている。いったい君はそれの何を批判したいのか。それとは何だろう。たぶんそれもいつものパターンだ。それらの実践は国家があって世界があってはじめて機能するような行為だろう。それらとは別次元で何かをやろうとしているわけではない。ではなぜそういうことを考えてしまうのか。わからないことはわからない。それは当たり前のことなのだが、わかったようなふりをしたいわけか。それはありふれたことだ。よくあるパターンにはまって取り返しのつかない事態を呼び込む。それでかまわないのだろう。わからないままの方がいいのだろうか。わかったふりをするよりはマシか。君に何がわかるというのか。たぶんそういうことではないのだろう。まったくわからないわけではない。少しはわかる部分もあるのかもしれない。しかしそれでどうなるというのか。君は彼らの味方にはなれないようだ。彼らの方もそれを望んでいないだろう。不況で職を失った派遣労働者にメディア関係者が同情するのはおかしいか。失業者の方も同情するなら職をくれということか。やはり資本主義社会には搾取され使い捨てにされる人たちが必要というわけか。そういう人がいないとうまく経済が回っていかないのではないか。だいたい教育による選別からそういう人たちを生産しているのだろう。学校で習うことが実社会に出て何の役に立つのか、などと疑念を抱いた時点でヤバいわけだ。学校の授業についてゆけなくなってきたことのいいわけとしてそういう文句が発せられ、実際に落ちこぼれ、授業に出なくなって、高校を中退したりして、低賃金の不安定な職場へと回収されていくのだろうか。実際に学校で習っている内容以上に、他人から学んで、それを基に自分で考え、応用し工夫して、直面する問題に対処するための訓練を、学校で積んでいることに気づかない。実社会に出て役に立つ云々という浅はかな話ではない。学ぶことを怠った者は馬鹿になるしかない。社会の中で狭い範囲内でしか活動できなくなり、要するにひたすら単純作業に明け暮れ、他に使い道のない者となってしまう。小利口な者たちからいいようにこき使われ、用済みとなったら捨てられる。トカゲの尻尾のような者たちだ。現実の社会にそういう者たちが使い捨て要員として存在しているわけだから救われない。産業構造がそうなっているのだろうか。それは恐ろしい現実でも何でもなく、それが当たり前のこととして平然とそこに暮らす人々の間で受けとめられてきたのであり、実際に不況になって、そういう者たちがリストラの対象となって、はじめて問題として騒ぎ立てられているわけで、今さらそういう者たちに同情するのも、偽善のにおいがぷんぷんしてくるというものだ。たぶんそこで何かが違っているのだろう。君はそういう現実を真に受けることができないらしい。誰かと一緒で自分だけがすべてなのか。他に何があるというのか。物事を浅はかに考えて何が悪いのだろうか。悪いわけではないく、ただ馬鹿になるだけだ。馬鹿になるということが悪いわけではなく、馬鹿とはさみは使いようで、馬鹿も使いようによっては役に立つということか。上から目線でひどいことを述べているようだが、それは現実に馬鹿を利用して利益を上げている者の実感となるだろうか。ともかく他人から搾取することによってしか利益を得られないとすれば、馬鹿は格好の搾取される対象となるのかもしれず、馬鹿を集めて三人組で歌を歌わせ、そこから利益を得ているテレビ司会者などが、そういう成り行きの象徴的な存在といえるかもしれない。それで馬鹿呼ばわりされている当人たちもまんざらでないらしく、猿と猿回しの両者ともに、それを見ている馬鹿者どもから金を巻き上げて共存共栄といったところなのだろう。だから何だというわけではないが、そういう現象がおもしろければそれで許されるのだろうか。


12月9日

 君はまだ夕焼け空を見ているのか。誰かはまだそこで粘っている。そういう絵だ。そこで何かを空想しているらしいが、誰が何を見出したわけでもない。お前は何に耐えているのか。暗い時代だそうだ。誰かが現状を嘆いている。無言なのかもしれない。遥か遠くの山頂に何が翻っているわけでもない。見知らぬ石盤にはひたすら意味のないことが刻まれているようだ。意味を解せないだけだろう。現実の世界に飽き飽きしているから人はファンタジーにのめり込む。ことはそんなに単純ではない。君はそれの何を冗談で済ますことができないのか。それらの言説の中身が何によって進化することもない。それは君の思い込みだろう。すでに終わってしまったことについてあれこれ批判しても始まらないだろう。どこに心残りがあるとも思えず、何が名残惜しいとも思えない。完全に頭がおかしい。何がおかしいわけでもないが、何かがおかしい。それらの思想の何が総決算なのか。何かの安売りに違いない。心は冷静でいるのに言葉が乱れている。つまらない冗談だろう。冗談でそんなことを述べている。そしてそれの何が冗談なのかわからない。それが何なのかもわからない。言葉の暴走を食い止められないようだ。もとはそんな話ではないはずだ。それらはどうも扱いにくいだけのことらしい。何がそうなのかわからない。何がそれだけではないということなのか。つまらないことにこだわりすぎている。だから言葉が進まないのか。そういうことではなく、何について語っているのかわからないのだ。君はこの世界の中で何を信じればいいのだろうか。資本主義とは何だろう。至る所で商品が交換されている。詐欺や強盗によって一方的に物を奪うやり方は許されず、そういうやり方は犯罪と見なされ、国家による取り締まりの対象となるわけだ。そして国家はその官僚機構を維持継続させるために人々から税金を徴収する。そういう決まり事を無視したいか。ソマリア辺りにゆけばそこは無政府状態だそうだから、勝手気ままに振る舞えるかもしれない。ただし命の保証はない。君はこの世界の中で何らかの財産を保有している。それが君の物だと認定しているのは国家なのか。国家による後ろ盾がないと自らの財産さえ保有できないわけか。他の誰がそれを君の物だと認定し、その所有を保証してくれるのだろう。そこから国家に変わる概念が出てくるだろうか。人々を統治するために何らかの機構が必ず必要となってくるのだろうか。人は一人では生きてゆけないし、他人がいる限り自分勝手にやりたい放題できるわけがない。仮にできたところで、自分以外に誰もいなければやりがいもないはずだ。結局どうだといわんばかりに自らを誇示したいわけで、それを見せつける相手がいなければ自己満足にも浸れない。人はなぜそんなくだらぬことにこだわってしまうのか。自らを有形無形の事物で飾り立てて、それを他人に見せびらかしたいわけで、自分が何か特別な存在であることを他人に認めさせたい。そこに虚栄心や虚飾が生じていることは確かだが、そうならないためにはどうしたらいいのだろう。つまらないままに生きてゆけばいいだろう。何もなさず、ただ平凡なことを思い考え、それを実行してゆけば、目立たないが堅実な人生を歩んでいくことができるかもしれない。そういうのはつまらないと思う人には無理な生き方だ。しかしそれの何がおもしろいのか。だからつまらないと述べているではないか。人々が抱く成功願望がこの世界の仕組みを作り上げていて、同時に矛盾もはらんでいる。他人より優れた人間でいたいと思うことが、実際に優れた人に多額の金銭的な報酬をもたらし、劣っている人との間に経済的な貧富の格差を生み、富める者は自らの家族にその富を分配して一族の繁栄を永続化させたいわけだが、国家はその富の一部を税として収奪して、貧しき者たちに福祉として再分配しているわけか。必要最低限の生活を送れる程度には保護しているつもりなのだろう。ともかく貧乏人でも公平という観点からすれば、働けるうちは働いてもらわないと困るのだろうが、そういう人には大抵の場合、低賃金の職しかあてがわれず、働いても貧乏な生活からぬけ出すことは困難だ。だからどう考えてもすべての人が満足できる仕組みを作り上げることは難しい。そういう方面での模索は必ず行き詰まるだろう。しかしそれを放棄して何でもありの自由を許したら、たちまちソマリアのような無政府状態となってしまうだろうか。そうならないためには、結局やりたい放題好き勝手にやりたい人たちを押さえ込むための、ルールや権力が必要となってしまうわけか。そのためには国家が必要であり、それを維持継続させるためには官僚機構が必要となってくるようだが、やはりそういうのが気に入らないわけで、やはり誰かはそれ以外のやり方を模索しようとしてしまうらしく、日々考えているようだが、なかなかまともな結論にはたどり着けず、あきらめてしまいそうになるわけだが、それも冗談のたぐいのような気がしてきて、本当は何も考えていないのかもしれず、結局それも作り話の断片となってしまいそうだ。


12月8日

 要するに書き記そうとする内容が違っているのだろう。どう考えてもそういうことだ。自信をなくしている。他に何が信じられないのか。過去と比べてその内容が激的に変化しているわけではない。君はそこで何を見ていたのか。何も見ていなかったわけではない。では自らに何を問いかけていたのだろう。何も思いつかない原因を探り当てることはできない。そうではないからか。何がそうではないのか。思いついたらさっさとやればいいのか。その悪戦苦闘の日々をどう評価したらいいのか。言葉では何も伝わらない。ではいったい言葉以外で何を伝えようとしているのか。言葉でないとすると、それは何なのだろうか。まさかテレパシーとか以心伝心とかいうわけでもないか。やはりわからない。なぜ飽きてくるのだろう。何に飽きているのか知らないが、とりあえず言葉を記しているらしい。たぶんそういうやり方では何ももたらせないはずだ。なぜ計画的に語ろうとしないのか。ちゃんと下準備をしてから、まともな題材についてまともなことをまともな文章の中で述べるべきか。それができないからそんな成り行きとなっている。だから現状がおかしくてたまらない。無理にそんなことを述べているのではないか。無理のし過ぎできっと頭もおかしくなってしまったのだろう。本当にそうなってしまったのなら幸いか。まったくらちがあかない。どうにもならないということか。そう受け取ってもらって結構だろうが、他に何があるというのだろう。何もなければこのままだ。内部に何かが押さえ込まれているのかもしれないが、それを一気に吐き出すわけにはいかないらしい。出口がどこにもない。とても正しい方向へ歩んでいるとは思えない。方向とは何だろう。それらの文章のどこに方向があるというのか。わざと間違えている。気に入らないとはそういうことだ。無駄な言葉を削ぎ落としたら何も残らなそうだ。またこのままでは何でもなくなってしまうのだろうか。それが気に入らない。君はそういう状態を何とかしようとしているはずだが、今のところは何もできずに、あてもなく言葉が記されるがままに現状を放置している。そういう説明をしているだけだろう。それで何を述べていることになるのか。何も述べていなければ言葉が連なっていないはずだ。実際には虚無的な意識が何かを述べようとしている。たぶんそれが今ある現状なのだろう。だからさっきから繰り返しそう述べているではないか。たったそれだけのことをひたすら述べている。だからもう開き直ってそれを繰り返すしかないだろう。現実に繰り返している。ひたすら同じような言説を繰り返し記しているはずだ。君はそれが気に入らないわけか。何かと我慢比べの最中だろうか。そんなことをやっている誰かの意図がわからなくなる。たぶん人とロボットは同じ種類の動作をしている。そう述べて人を貶めているのではなく、ロボットを貶めているのでもない。ただそれはそれで利用できるということだ。誰かはそれらを利用して何をやろうとしているのだろう。実際にやっているのではないか。それをやっているおかげで身も心も壊れている。たぶん冗談でそんなふうに述べているのだろう。いつものことだ。どこまでもそうなのかもしれないが、誰かは決して文章の中では本心を明かさない。もとから本心も本音もありはせず、そこに記されているすべては虚構かもしれない。案外それが真実なのだろうか。現状ではそうかもしれないが、作り話の中ではどうなのだろう。本気ではない。それほど嘘をついているわけでもないのだろうが、わざと的外れなことを述べているのかもしれず、その辺を割り引いて考えなければならない。やはり本気でそう思っているわけではないが、それはそれで本気のふりをさせておけばいいのだ。まとまりを欠いた支離滅裂なことを文章上に定着させなければならず、それらの何を述べているわけでもない文章を読み返しながら、何を想うこともなく、今はそれが当たり前だと思っていれば、それで済んでしまうわけだ。本当にその場がまるく収まっているとは言い難いところだが、現実に体験しているすべてが他人事のような気がしてくる。それらを理解することが君に課せられた使命だと思えない。今の君にはこの世界の何もかもが理解できない。なぜそうなってしまったのだろう。見聞するすべてが何でもないことのように思えてきて、それらの何も理解する必要が感じられず、その場で途方に暮れているわけではないが、たぶん何かを見失っていることは確からしい。それは何らかのこだわりだろうか。ではいったい君は何にこだわるべきなのか。何も理解できなければそれが見つかるわけもないか。たとえ見つからなくてもかまわないのだろう。今の君にとってはその方が好都合かもしれない。要するにそれは責任逃れができるからかもしれず、何も君が現状の隅々まで目を行き届かせる必要もなく、周りでうごめいている人たちに任せておけばいいわけだ。君には何もやることがなくてもかまわない。そこで黙って移りゆく現状を眺めていれば、いつか何かをやる順番が巡ってくるのかもしれず、それが巡ってきたからといって、そのすべてを背負い込むこともないような気もしてくるが、どうなるかはそのとき次第か。


12月7日

 何がくだらないのだろう。何を否定しても始まらないが、いつものように意味のない話だ。意味がなければ困るのか。たぶんそんなことは知ったことではないのだろうが、数日後の空は晴れているらしい。何がどうなってそうなっているわけでもないが、雨が降った翌日は晴れている。ありふれた天候だろうか。たぶんそんなことを述べたいのではない。なぜかこの世界の現状を馬鹿にしてみたい衝動に駆られ、それも嘘の一部であることを承知しながらも、他の誰かがそう思っていることを想像してみるが、やはりそれでも意味がないような気がしてくる。実際の誰かは何を馬鹿にしているふうもなく、何となくこの世界の中でうごめいている人々のことを思ってみる。それも嘘の続きか。嘘でなければ何なのか。誰がわざと嘘をついているのでもないが、それらの人々の性格はどこから生じてくるのか。各自が関わっている仕事や生活環境や親からの遺伝からそういう性格が生じてしまうのだろうか。だからそれが何だというのか。その人の言動や癖から判断して、そういう性格だと思い込もうとしているだけだ。それはくだらないことだろうか。他人をそういう性格だと断定して、気休めでも得たいのか。くだらなければ他に何を考えればいいのだろう。例えば人類全体としてならどういう性格を有しているのか。いきなり大げさに飛躍してどうするのだろう。そんなことを考えること自体が馬鹿げている。その人独自の特徴を性格という言葉を使ってとらえようとしているだけなのに、人類全体では他に比較する対象がないので、性格という言葉に有効な意味が宿らないのではないか。要するに小難しいことを考えているわけだが、それでは意味がわからなくなるか。自己中心的な君にとっては他人の性格などどうでもいいことで、ましてや人類の性格なんて漠然としすぎている。それでは何について述べようとしているのかわからなくなる。気休めに誰の性格について論じたいわけではなく、別に今さら人類をどうたらこうたら言いたいわけでもない。ならばそこで話の振り出しに戻ってきたわけだ。ではそういう逡巡を繰り返している目的とは何だろう。他に何か利いた風なことを述べたいのだろうか。それに関して何を語ればいいのかわからない。それはないだろう。あまりにも考えが浅はかだ。それでかまわないとしたら何も語らなければいい。語っているうちに投げやりな気分になってくるようだ。誰かが本当に語りたいのはそんなことでもないのかもしれない。人はなぜ何のために語っているのだろうか。なぜでもなく、何のためでもなく、ただ語りたいから語っているだけかもしれない。そういう想像の先に言葉が続くとは思えない。続かなかったらそこで終わりか。終わりたくても終わらせられないようだ。誰かに勝手に終わらせる自由はなく、そこに誰かの目的があり、それは言葉を記すことだ。大げさに理由を求めてきた割には答えが簡単すぎないか。気に入らないなら他に理由を探せばいいのだろうが、そんなわけでさらに意味のない話となってしまいそうで、誰かがそれでかまわないと言っているような気がしてくるが、相変わらず何をどう述べても何でもないことだ。いくらでもその先に空疎な内容が続きそうな気がして、何もまともに語りたくなければ、ひたすらそんなふうに語っていればいいのかもしれない。何が原因でそんな投げやりなことを述べるはめに陥ってしまったのか。そこにも理由があるとは思えず、人は他人との意思疎通に成功している限り、孤独に苛まれて被害妄想を抱くこともないだろう。収入を絶たれて生活に行き詰まれば犯罪に手を染めるしかなくなり、生き残るために手段を選ばず何でもやるようになる。ただそれだけのことにどんなコメント付け加えればいいのか。それの何が君の知ったことではないのだろうか。人はそんな当たり前の成り行きを何とかしてほしいらしい。誰も何ともしようがなく、ただこの世の仕組みを信じられなくなる。未来を先取りしようとしても虚しい結果に終わるだろう。この世に気に入らないことはいくらでもあり、それを改めようとすれば、そこから利益を得ている人たちが阻もうとする。それがくだらないことのすべてなのか。それはすばらしいことだろうか。何らかの利益供給装置がそこにあるとすれば、その恩恵にあずかっている人たちにとってそれはすばらしいことだ。できればそれを糧として今後とも末永く暮らしてゆきたいと思うだろう。それの何が馬鹿げているように思われるのだろう。そうやってほとんどの人が暮らしているのに、何となく虚しくなってくる。何か他に気休めや気晴らし以外の認識を得たい気がしてくる。そういう現実を肯定するための思い込みが必要だが、やはりそれでもくだらない。そう思ってしまうのだからどうしようもない。そしてどうしようもなければどうなるわけでもなく、どうにもならなければ何もしなくてもいいのではないか。そんな結論がどこから出てきたのか。成り行きまかせででたらめなことを述べているだけかもしれず、やはり述べていることにまともな意味を見出せない。


12月6日

 微妙な段階で微妙なことを述べている。誰もそんなふうには思っていないはずだ。ただのでたらめだろう。ではなぜそこで終わってしまうのか。何が終わっているわけではなく、ただそう述べたかっただけだろう。理由のないところが理由のようだが、また意味のない文章になりそうだ。何も思いつかないのだからそういうことになるしかない。本当にそうだろうか。嘘だと思うならそのまま言葉を連ねてみればいい。何も悲壮感を漂わせようというのではないが、何も内容を見出せないことがそんなに悲劇だろうか。君に何がわかるのか。今のところは何とも思っていないのだから、何がわかっているわけではない。何もわからないからそんなことを述べているのだろうか。そうとも言い切れないが、とりあえずそんなところで妥協を計ってもいいような気はする。何か他にはかりごとを巡らしているわけでもない。たぶん現状がでたらめであることに変わりはないのだろう。それは文章の現状だ。それらの文章にはでたらめ以外の何が込められているわけでもない。それが嘘だと思うなら、何か万人受けするような主張でも述べてみたらいい。それこそが嘘になってしまうだろう。たちまち誰かに偽りの主張であることを見破られてしまうはずだ。だから何だというのか。開き直っても無駄か。わざとらしい自問自答の問答はくだらない。では他に何ができるというのか。できることは限られていて、その中の一つが言葉を記すことだとすれば、他に何ができるというのか。それ以外がないからひたすら言葉を記しているのではないか。そうだとしたらどうだというのか。そんなことはやめてしまえばいいと思っているのだろうか。実際にやめていないので、それは違っていると思われる。では何をどう思ったらいいのだろう。どう思えば自意識が納得するのか。君は誰かに向かって無理な要求を突きつけているようだ。そこで何かが違っていないか。今さら挫折はないだろう。嫌になってしまったのだろうか。それでも誰かは言葉を記そうとする。それが誰かの宿命であり、何者かに課せられた使命なのか。冗談でそんなことを述べてみるが、今ひとつピンとこない。またどこかで本筋からずれてしまったようだ。本筋自体があり得ない言語的展開かもしれない。ならばそれで何がわかるのか。でたらめ以外の何を理解しようとしているのだろう。面倒くさいので話の振り出しに戻ってみたくなるが、どこをどう探してみても、出口などどこにも見当たらず、すでに迷い続けている最中のようだ。そこからどうしたらいいのだろう。どうもしないで済むような語り方がないものか。たぶん何もありはせず、それが当然の成り行きなのだ。だから道草を食っている場合ではない。それは意味不明なことか。問いでも答えでもあり得ないようなことなのか。問いであり答えでもあるすべての事象について語っているのかもしれない。それではさらなる意味不明だ。呆れてものもいえないか。そうであったら楽しい。かなり馬鹿げているようだが、それでも楽しければいいだろう。少なくとも不可能な問答ではない。現にそんなことを述べている。どこかピント外れなことを主張している。それは君にとってはどうにもならないことだ。たぶん君はそれらの文章の終わりまでたどり着けないだろう。書くのも読むのも飽きてきた。だから投げ出そうとしているのか。だがそれも無理だとしたらどうするのか。何もできないということもできない。事態を打開するにはまともなことを述べるしかないようだ。人はなぜわかりやすい言説を求めているのだろう。それを読んで理解できなければ無駄な言葉のつらなりとなってしまう。だから文章をわかりやすくする努力は欠かせない。ふざけているだろうか。根も葉もないことではないが、そういうことではない。誰かの噂について述べているのではない。人は自らの活動範囲から一歩も外へ出られない。そういう思い込みが君をその場所にとどまらせている。そこは怠惰と勤勉の果てにあり、今では同じような記述の繰り返しを何とも思っていないようだ。誰かはなぜそんなことを述べてしまうのか。そんな現状をどうすることもできない。人の意識はどこから生じているのだろう。それは人ではない。それらの文章の中に誰かの意識があるわけではない。意識せずに何を貫き通すことができるのか。人が群れて世間を構成し、世間が新しい人を生み出し、時には犯罪者をも生み出す。それがどうしたわけでもないが、世間の役に立とうとしないことが、何らかの見解に結びついている。挫折ならいくらでも可能だろうが、そこから成功することはあり得ない。今はそう思っておいて差し支えない。これから何を知り得るとも思わないが、人は世間にとってはいつでも使い捨ての対象となる。そこに甘んじていることが肝心なのか。どうしようもなくやりきれなくなるが、それが真実なのだから仕方がない。いらなくなれば消え去るしかない。いらないのにそれを続けようとすると、意味不明になるしかないだろう。やはりそれが君の狙いだったのか。現にそうなっているではないか。では結果的には喜ばしい状況となっているわけか。しかし何をそんなにひねくれているのだろう。無理なら無理でそこで立ち止まってしまえばいいことでしかないが、なぜか誰かはそれができない性分らしい。そしてそれが何の理由にもなっていない。


12月5日

 何が苦渋の選択になるのだろう。どうも何かの先に暗雲がたれ込めている。そこで何を我慢しているのか。何か気が利いた嘘でもつきたいところか。出てくる言葉は相変わらずの意味不明だ。いったいどこで何をやっているのだろう。手帳には何も記されていない。予定がないわけではないが、手帳に記すような予定ではない。心に巣くう虚無は何から始まったのか。誰かは何もわからなくなってしまったようだ。これからも支離滅裂に語るしかないらしい。不思議な言葉の並びと感覚だ。何かのでたらめに惑わされているのだろう。語る対象を見出せないのは昔からそうだ。なぜそんなふうに語ってしまうのだろう。そこに何かの不合理が顕在化していたりするのだろうか。何について語っているわけでもないのにそれはないか。目下の状況を言葉で把握できない。それは理論的なことではないらしく、何がどうなってそうなっているわけではない。しかしそれでは意味の通った文章にならないではないか。ただの言葉の羅列になってしまいそうだ。何もないよりはマシか。空疎な内容の中にも何かがありそうな気がする。何もひらめかず、思いつかないのに、何か適当に語っているようだ。何かに言及しているとすれば、それは自己以外の何になるのだろうか。何も深刻にはなれない。そこで生き残るとはどういうことなのか。何が被害妄想を形成しているのだろう。何が永遠のテーマでもない。題材ではないらしい。言葉でもないのだろう。人は被害妄想を抱きながら暮らしている。それが生き乗る術なのか。でたらめにもほどがあるだろうか。それがとっかかりではない。背中がかゆいのは気のせいだ。でたらめな言葉の並びから何か法則のようなものを導き出すのは至難の業だ。人はどこまでも生き残ろうとするが、実際に生き残れない事実が厳然とあるらしい。では君はそこで何をあきらめようとしているのか。やがて死んでしまうのだろう。勝手気ままに生きているわけではない。何かをあきらめかけているのに、状況があきらめさせてくれないことは承知している。だから架空の世界ではなく、現世に魂があるつもりなのだろう。それがそもそもの間違いか。誰もそんなふうには思わない。とりあえず何らかの秩序を破壊したいらしい。果たしてそれが何の秩序なのだろうか。この世界のすべてが無秩序というわけでもないはずか。何もできないからそんなことを述べている。ではそれであきらめてしまうのか。何のことやらさっぱりわからなくなり、何をどう述べていいのか迷うところだ。何をどう見てもそれだけのことらしく、たわいないことにこだわっているのかもしれず、何をどう述べても何が改善するとも思えない。くだらぬ知識を後生大事に保とうとしている。忘れてしまえばいいのに、どうしてもそこにこだわりたいようだ。それは致命的な欠陥だろうか。だからみんな死んでしまうのではないか。ただの物質なら生きることも死ぬこともない。人はそこに霊魂の存在を認めようとするが、過ちがそこから始まってしまうことを認めようとしない。しかしそれの何がおかしいのだろう。笑っているのは他のことについてか。笑わずにいられない理由を探している。考えがまとまらないのだ。思考できずにいる。それとは違う雰囲気の中で言葉を記しているのだろうが、それが何の理由になっているのかを知りたくなる。それとは何かが違っているはずだが、わからないままに言葉を記していることが、さらに状況を悪化させているようだ。それがたまらなくおかしく、思わず笑ってしまうわけだが、誰かにしてみれば冗談ではないのだろう。薬が体に合わないようだ。そんなわけでまたわけがわからず、何を述べているわけでもないように思えてくる。何かがそこまで出かかっているのに、過去を思い出そうとして思い出せないように、かなりじれったくなる。かゆいところをかきたいのにかけないような状況だ。だがそれがどうしたわけではない。何が問題なのでもなく、それが強がりや痩せ我慢には結びつかず、ただひたすら状況に流されてゆき、どこまでいっても何でもないことしか経験できない。記された言葉が誰かの思惑を打ち砕いているようだ。要するにそんな結果しかもたらせない。空疎でくだらなく思えてくるが、それがすべてなのだから、誰かはそれを認めるしかない。確かにじれったいが、今はそこにとどまるしかない。そういう言説が君を構成しているのだ。無意識のうちに困難を通り過ぎようとしている。そして通り過ぎた先には何もないだろう。誰が望んでいることでもないが、望みもしない結果ではない。そうなることを拒否しつつも、拒否した結果がそうなることだったのだ。誰がそれによって破滅しているわけでもなく、結果的に誰もが幸せになっているのであり、君はそうならなくて良かったのだ。だからそんなところで言葉を記しているわけか。結果的にうまくいっていないことが災いして、それでよかったわけだ。そうならないと幸せな未来を迎えてしまうだろう。つまらぬこだわりから抜けて、何も述べくなくても記さなくてもよくなってしまう。そうなればしめたものなのだろうが、現実には誰もそこから抜け出られない。何か文句があるらしく、それをしきりに記そうとしているのだろう。馬鹿げた話だが、それらが目の前にある空疎の一部始終を構成していることを認めざるを得ない。


12月4日

 今さら疑問ばかり並べても何も解決しない。だがひねくれ者なので当たり前の結論では納得し難い。架空の放浪者は何を興味深そうに眺めているのか。君は偽者ではないのだろうか。何もないのに何を偽る必要があるのか。何も語れなくなってから数日が経過している。現実には誰も何も話さないのに、これから誰かが何か適当でいい加減なことを話すつもりらしい。たとえ無視されようと陰で嘲笑されようと、何に対して反論しようとしているではない。まともに語るには何かが不足しているらしいが、何を探しても何も見つからないだろう。それが無駄ではないと思ったところで無駄だ。本当のところは誰にもわからない。何も思わないのに何を語ればいいのだろうか。誰も何とも思っていない。では君はどんな話をねつ造しようとしているのか。普通にそう思っているだけで、何となく語っている内容が支離滅裂だ。それは何も語ることがないのに語っているからか。早朝に強風が吹き荒れる。それは誰かの幻想だろう。風の何が幻なのか。答えは風の中にある。風がやんだら答えがわからなくなってしまうではないか。だから君にはわからず、たぶん誰にもわからない。誰も何もわかろうとしていない。やはりやる気にならないのだろうか。他に何も考えられないが、たぶん他もない。そうやって意味不明気味に言葉を連ねて、わざと見え透いた謎をもたらそうとしているのだろうか。だがそれで何を無視しようとしているのではない。ただ君のやり方はいつもそうだ。虚無以外には何も語ろうとしないわけだ。しかし虚無とは何だろう。意味はわかっているはずだが、いったい誰がそれを操っているのか。今回の君には関係のあることなのか。そこまで述べてしまうとそういう話ではなくなってしまい、結局どういう話でもなく、言葉を記している現状をどうするわけでもなく、ひたすら何かを語っているつもりになっていることに変わりはない。実際には音楽を聴きながらの単調な作業の連続に疲れているはずだ。ひたすら何もないことが繰り返される。誰かはそのつまらない状況をどこまで維持する気なのか。君が問われていることではないが、では顔のかゆみに耐えているのは誰なのか。文脈を無視して唐突にわけのわからない言葉が差し挟まれるが、それはその場の気まぐれか何かか。気のゆるみかもしれないが、時が経てばわかることかもしれない。わかったところで何がおもしろいわけではない。では何がそんなに耐えられないのか。まだ何かに耐えている段階のはずだ。架空の時空では自意識が何かと戦っている最中で、そこで計算に狂いが生じているみたいだが、それは何の計算なのだろう。またわけがわからなくなってしまい、やはり語っている結果としては支離滅裂のようだ。たぶんそういうわけがわからない段階を経ないと、まともな言説にたどり着けないのだろうが、いくら言葉を記してもわからないことが残ってしまう。わからないのはそんなことではないはずだが、目的もなく言葉を連ねていることが問題なのではなく、それらの文章を読んでも理解できないことが問題なのではないか。君はそれらのでたらめな言説から何をわかろうとしているのか。言葉を記している誰かは、何もわからないままに済まそうとしているようだが、なぜその内容を理解しようとすることが無駄になってしまうのか。誰かの無意識は無駄なままに済ませたくないようだが、このままでは確実に終わってしまうだろう。しかし言葉を記すことが無駄なのか。今さらそれはないだろう。とりあえずまともな内容をもたらせなければ、それらは意味不明でわけがわからない。それが君の狙いなのか。そうではないだろうが、このままではさらに意味不明になる。どういうわけか語ろうとしている内容から、実際に記している内容がずれてくるようだ。さっきからまるで話になっていない。たぶん君が語ろうとしている作り話の中では、そこからどうにも語れなくなり、そんな状況に呆れてしまい、語るのをあきらめてしまいそうになる。いつまでたっても何も語れず、何を語ればいいのかわからないままなので、どうしようもなく焦りを覚え、何もかも投げ出したくなってくる。君はそこで挫折してしまうわけか。今のままではそうなる他あり得ず、だから焦っているらしい。実際に無理に無理を重ね、ここまで言葉を記してきたあげくに、挫折してあきらめてしまうわけだ。何も述べられなくなってしまい、そこで眠ってしまう。それの何が悪戦苦闘の日々なのか。そう出なければ何なのか。ひたすら怠惰な日々を送っているだけか。表面上はそうなのかも知れないが、実際は常に煩悶し続けている。ある時は何も述べられないことに腹を立て、切腹でもしているわけか。そんなことをやったら死んでしまうではないか。まったく冗談になっていないようだが、それでそう述べることによって何かの薬が効いていることになるのだろうか。言葉の病に効く薬などない。あるのは何もないという事実だ。何でもないことを何でもないように語り、それだけでは不安になり、いい加減な冗談で取り繕う。それを続けていくとノイローゼのたぐいになるだろうか。よくわからないが、現時点では何も妙案が思い浮かばない。しかし実際にここまで二日がかりで空疎なことを述べてきた。今は徒労感でいっぱいか。


12月3日

 廃墟の中で誰かがうずくまっている。くだらぬ空想だ。ならば今度は見渡す限りの荒野だ。それは何の終焉でも始まりでもない。なぜそんなことを述べてしまうのだろうか。述べていることが馬鹿らしいが、それでも自虐的になる必要はない。たぶん何かを肯定しようとしているのだろう。何かの存在を認めようとしている。それは気分の問題だ。本気ではない。当たり前のことが当たり前のように起こり、何かを台無しにしている。終わりが近いのだろう。現に君は自らの終わりに直面しているはずだ。少なくとも誰かの作り話の中ではそうだ。しかし記されていることは相変わらずの意味不明だ。それの何が気に入らないわけではない。明日冷たい雨が降ったら誰もいなくなり、がらんどうとなった建物の中で何が見つかることもない。言葉はどこに記されているのか。それが誰の台詞を構成するとも思えない。廃墟の街の中に人影はない。考えるようなことではなく、それが言葉を記すのに必要なでたらめに過ぎない。君の背後で時間が経っている。そういうのは気に入らないか。君が気に入るような話には持っていけそうもない。言葉が君を無視している。それは誰かの思い込みだろう。ただやる気がしないのだ。何かが君を追いつめている。それは何かの思い込みだろう。すべては何かから始まっていることらしい。それは何でもないのに何かなのだろう。風景は当時と何も変わっていない。まだ過去の記憶が残っている。何もできずにいるようだ。そこから一歩も先へ進めない。わかりきった罠にはまっている。躓きの石を避けることができない。心はいつもとらわれの身だ。そんなことはないと思いたいが、誰かが地べたへうずくまる。それがわからない原因ではないか。とりあえず話はまだ終わっていない。別に勇気を振り絞って何かを叫ぶ必要はない。もとからそういうことではないのだろう。誰かの文脈から逸脱する。どうしてもそれは違うと思ってしまうのだろう。君にとっては仕方のないことだが、誰かはそこから修正を施して、何でもないことを何でもないように述べている。そんなふうに装い、君を煙に巻いているつもりなのだろう。別に煙草を吸っているわけでも、パイプを吹かしているわけでもない。そういう感じではなかったかもしれない。見た目が当時とはだいぶ違っている。本気になるのが嫌なのだ。だからこれから何をやるわけでもない。誰かが黙って夜空を見上げる。それも何でもないことの延長だ。向き合うべき問題ではない。対峙すべきは心の闇ではなく、そこで述べられている何でもないことだ。意識が空疎なことを述べている現状を受け入れられない。そこで停滞しているのが我慢がならないようだ。指の運びと記している言葉が合っていない。わけがわからないのが今に始まったことではないのはわかっているが、近頃は逸脱しすぎている。わざとそうやっているのだろう。しかしそれでも何を述べているわけでもない。そう思いたいのだ。本当は何かしらそこに主張があるはずだ。しかしわかりにくい。わかりやすく述べられず、そのつもりがないらしい。そういうことではないのだろう。過去を振り返って反省している。しかし何が自業自得なのだろうか。自ら招いた窮地を脱しようとするつもりがないらしい。それも作り話の中でやっていることか。ならばすべては馬鹿げている。実際にやっていることが記している文章に反映していないようだ。君は作り話の中で言葉を記しているつもりになる。君が記しているのはどんな作り話なのか。君は架空の文章の中で何を語っているのだろう。それは誰が記すべきことでもない。現時点ではそれに関して誰も語ることができない。思わせぶりやほのめかしでは何も語れない。今のところ話のすべては謎なのだ。果たして何も語れない状況を変えることができるだろうか。そんなことを述べている限り状況は変わらない。しかし誰かはそれでかまわないと思っている。今でもそうだ。過去でもそうだったし、これからもそうだろう。君はどこまでも空疎なことを述べているつもりだ。作り話の中ではそうだ。現実の世界では何でもないのに、君は未だに己の不在を利用しながら虚構の中で生き延びようとしている。それはどういうことなのか。何について誰が何を述べているとも思えず、それに関して君はどこまでも懐疑的な立場を貫き、そんな嘘を記している誰かをどう評価していいのかわからず、今も迷い、何を述べるべきか考えあぐねているつもりだ。たぶんそれも冗談の続きなのだろうが、そんなふうにして延々と同じようなことを記していることについては、わけがわからないわけではない。何かの惰性が介在しているのだろう。今までに述べてきたことがそういう空疎な言説の流れを作っていて、そこから逸脱しようとする心をとらえて離さないようだ。そしてそういうふうに述べると、どうも嘘っぽくなってしまうように思われ、自らの述べていることが自らが思っていることとは違うような気がしてくるのだが、その辺から誰が何を述べているのかわからなくなってきて、自らは何も述べていないようが気がする一方で、誰でもない誰かがひたすら言葉を記し続けていることを信じられなくなってくる。やはりそれも作り話の中で行われていることになってしまうのかもしれず、わけがわからないの一言で片付いてしまうようなことなのか。


12月2日

 やはりこういう続け方はわけがわからない。辛抱強く続けているつもりだが空疎だ。何かが違っているはずだが、逆に何も違っていないような気もする。たぶんそこで終わるはずがないのだろう。その時の気分次第で、その先へと言葉が続いてしまうらしく、そういうやり方に頼り切っている面もあるにはあるが、それで何とかしようとしていることは確かだ。本当にそれでいいのだろうか。何がいいわけでもないが、結果的にはそれで済んでしまいそうだ。それで精神的に耐えられなくなってきたら、今度はまともなことを述べる努力をすればいい。案外年末は安らぎの季節なのかもしれず、慌ただしさにまぎれて一休みしている気分で、誰かがどこかで居眠りの最中のようだ。矛盾しているようだが、何となくそれでいいような気がしてくる。とりあえずどうにもなりようのないことはどうにもならず、そのまま放っておかれるのだろう。それは考え方の相違かもしれない。当人はやる気満々で臨んでいるのに、状況はまったりとしていて、それほどの緊張感はない。その辺が誰かの限界なのだ。確かに限界だが、限界があるから生きていられる。なければ今頃は雲散霧消していることだろう。そこには言葉すらない。そんなことにはおかまいなしに、時が否応なく過ぎ去り、忘却の彼方で何を叫ぼうと、何も顧みられない。今さら反省しても無効なのだ。たぶん現状を変えられるのは君ではない。君の方でも何も変えようとはしないだろう。今のままでもかまわないのだ。何の不都合もありはせず、今まで通りに言葉を連ねてゆけば、それが誰かが記した文章となってしまうだろう。ハイピッチで連ねてゆけば現実に追いつけるはずだ。そんなことを述べている裏で、適当に思考を巡らし、音楽を聴きながら、何も考えていないように装い、それを誰かの心のうちにしまっておく。それの何が本当なのかわからず、誰が途方に暮れているわけでもないが、何となく君は虚空に向かって意味不明な笑みを浮かべ続け、虚無的な響きに耳を傾けるが、別の時空からは何も聞こえてこないようで、誰かが聴いている音楽に興味を抱いているわけでもなく、何を飲み干そうとしているのでもない。言葉の海に溺れかけているのは君ではない。誰もがそんな妄想を抱けるとも限らず、誰もがそれを求めているわけでもなく、他に何を求めていることもなく、欲望とは無縁の虚無的な響きに心をなびかせているのでもない。要するに何でもないということか。そうは思わないだろう。どうも思わないわけではないが、そういうこともあり得るということだ。だから結果的にどういうことでもないのだろう。そんなやり方が君にはふさわしい。何がどうなっても、それを継続させていけば、自然とそういう成り行きになりそうだ。本当にそういうことを述べていてかまわないわけか。ある部分では間違っているのだろうが、いつも同じ箇所で間違っているので、それは予測可能な間違いだ。言説はいったい虚無の何に魅了されているのか。頬がかゆい。半ばごり押し的にそういう心境に至ってしまったのかもしれず、何でもよくなっているのだろうか。だがやけくそ気味に述べていることではなさそうだ。どんな色にも染まらない透き通った心境なのかもしれない。たぶんそれは冗談だろう。しかし冗談で何を打ち消しているわけでもなく、照れ隠しでもないような気もする。もしかしたらすべては計算のうちなのかもしれない。本気でそう思っているとは到底思えないが、誰かの目の前で起こっていることを信じているようなふりをして、画面の前で笑っているのはどこの誰なのか。その顔に面識などありはしないが、少なくとも架空の君ではなさそうだ。たぶん記すべきことはそういうことなのだろう。理由など何もないが、何となく今はそういうことにしておきたい気分のようだ。それは何かのフィクションなのだろうか。仮にそうであったとしたら、何がそれらの話を構成しているのだろう。相変わらずの自己言及以外に何があるのか。誰がそれを探しているわけでもなく、君にはその気さえないようだが、気分次第で話の行方は適当にあらぬ方向へと移行していくだろう。今回はそんなことを述べていれば終わってしまう。終わりたくないのに終わらせようとしているわけではなく、自然にそうなってしまい、それを誰も押しとどめることはできない。そこには誰の意志も反映しない。ただ時が過ぎ行くままに、言葉も自然と出て行ってしまい、それを記しているつもりになれるのは誰でもない。それが何の境地か知らないが、虚無の癖を知り尽くすことができないように、誰でもない誰かの記述を制御することは不可能だ。今はそんなやり方なのだから仕方がない。それをどこまで押し通せるかわからないが、それは誰の意志でもなく、実際に誰が押し通しているわけでもないのに、自然の成り行きなのだろう。結果的にそうなってしまうわけで、それほど仕方がないわけでもなく、今はそれを肯定したい気分になっている。現実にそうなっているのだから、それを認める必要に迫られているのかもしれず、その自然の流れを有効活用しなければならないのだろう。わけがわからないことは確かだが、こだわりがない。それは嘘か。何にこだわっているかといえば、継続にこだわっていることは確かで、それが現状の虚無的な内容に結びついていることを承知しているはずだ。


12月1日

 ここで何か適当なことを思いつくだろうか。それは今月の時空だ。この世界にそれがあるだろうか。今ひとつやる気にならず、また怠惰な時を過ごしてしまいそうだ。たぶん何も思いつかないだろう。それが君の宿命か。そんな大げさな言葉は似合わない。相変わらず何に興味があるわけではない。ただわからないのだろう。それが何だかわからないのはいつものことだ。ふざけている場合ではない。何をふざける必要があるのか。それ以外に何も思いつかない。ふざけることが君に課せられた使命なのか。今ひとつ本気になれない。まだそんな時期ではない。では今は何をやる時期なのか。実際に誰がふざけているのだろうか。一気呵成に言葉を連ねることはできない。何も映し出されない画面に見とれている。それは漆黒の表面だ。何をわけのわからないことを述べているのだろう。何かの本音から一気に遠ざかる。それは何でもないことであり、いつもの空疎だ。音楽を聴いていて、それで気晴らしになっているようだ。コーヒーを飲んでいて、それでくつろいでいる。どうも違うらしい。何がそんなに楽しいのか。取り立てて何も楽しくはないが、何かしら楽しそうに振る舞っている。たぶん思い違いだろう。何か他に思い当たることでもあるのだろうか。秘密は明かされず、マイルスもどきの音が流れてくる。その代わりというわけではない。何に代え難い音楽でもないだろう。他に千九百曲あるらしいが、驚くほどのことではない。本当はその数倍のストックがある。だから何だというのか。何でもないことだ。記憶はなかなか元に戻らず、何の記憶なのか定かでない。要するに意味不明なのだろうが、簡単に放棄すべきことでもない。その場の雰囲気なのだから仕方がない。たぶんそれで正気のつもりなのだろう。気分転換のたぐいだ。今の君にできるのはそういうことだ。昔の君ならどうしていただろうか。そんなことは忘れてしまったようだ。すでに未知の時空だ。君はそれを忘れているのでも思い出せないのでもなく、もとから知らなかったのだ。今はそういうことにしておけばいい。未来永劫そうなってしまうかもしれない。それでもかまわない。そんなことは知らない方がいい。それでまるくおさまってしまうのだから、それに越したことはない。何か間違っているだろうか。間違っていたらあとから訂正すればいいではないか。そのつもりもないのにそういうことを述べてしまう。意志が薄弱なのだ、そのふりをしているだけかもしれないが、今はそれでかまわない。無駄なことを述べている。さらにくだらないとは思わないが、要するにその調子なのだ。何らかの改良がなされているのだろう。不具合が若干修正されている。アレルギー反応なのかもしれないが、わけがわからない。でたらめに輪をかけているのかもしれない。今はそんなふうに感じられてしまう。しかしそこから遠ざかりたいわけではない。そういうやり方が性に合っているのかもしれない。きっとどこかで方向性を誤っているのだろう。それでどうしたわけでもないが、何となくそれを押し進めようとしているらしい。退屈しのぎにはもってこいのやり方か。そうではないと思いたいが、改めて何を否定する気にもなれず、たとえくだらない結果をもたらそうとも、それはそれで受け止めてみたくなる。要するに今の状況を肯定したい気分になっているのかもしれない。もしかしたらそれでうまくいくと思っているのだろうか。そんなはずがないと思っているが、万が一うまくいってしまったら、もうそれ以上は言葉を繰り出せなくなってしまうのではないか。そんなことがあるわけがないか。現状は君の期待を裏切ってしまうのかもしれず、それで不安を感じているとも思えないが、何となくそれでも勝算がありそうに思えて、何に勝とうとしているのか不明だが、何となくそれでかまわないのだろう。何かに勝ったり負けたりしているつもりになって、それで気晴らしを操作しながら、そこに気分の強弱を醸し出していればいい。要するにわけのわからないことを述べ続け、それが気休めであれ気晴らしであれ、そんな気分につながってしまえば、そういうことを述べているいいわけとなるはずか。そんな嘘をついてしまうのもかまわない。本当は何をどう思っているわけでもないのに、本当だろうと嘘だろうと、そういうやり方が愉快に感じられてしまい、今後もそれを続けたくなってしまう。寝ぼけているのかもしれれない。さっきまで夢見心地で眠っていたのだろう。だからそんなわけのわからないことを述べているわけか。何となくそういうことなのだろう。聴いている音楽の音量をいつもより大きくしてある。それでそんな心理的効果を醸し出しているとは思えないが、何となくそれでいいのかもしれない。そういうことはそういうこととして、それとは別のやり方を模索する気にならず、そういう成り行きが自己言及の無限循環にならないうちに、何とかそこで片を付けてしまいたいようだ。まだ先は長そうだから、この辺で面倒くさい回り道を経由しておいて、形だけでも文章の体を取り繕っておくのもいい。どうもさらにわけのわからないことを述べているようだが、今回はそういうことで、何だか深刻な現状が反映されていないが、本当のところは何が深刻なのか何もわかっていないのかもしれない。