彼の声67

2008年

7月31日

 言葉を記すほど頭がおかしくなる。さらにわからなくなっているようだ。とにかく昼は暑い。そして何かがねじれたまま元に戻らない。じれったくなるが、ひたすら暑さに耐え続け、そうする理由がわからないが、心を閉じたまま他の何かを開く。それは音か言葉か。いずれにしてもこの世界には興味がないようだ。虚無はどこかに消え去り、もとから何もないのに、さらに何もなくなってしまう。もはや誰に問いかけているのでもない。遠くからやまびこが返ってきたようだ。その時のことは何も覚えていないようだ。それを語っているのは架空の誰かでさえないらしい。だからこれから起こる変動に対処できない。トラブル続きの状態が日常化している。それがこの世界のありのままの姿だ。何かが壊れたままで、そこからの話の進展を望めなくなるが、他の何に期待しているわけではない。他がないのだからどうしようもなく、どうしようもないから話の中身がなくなってしまい、君にはそういう感性がわからないのかもしれないが、さっきまでは何か適当なことを語っていたような気がする。その場で何か気が利いたようなことを思いつき、その気になっていざそれを記そうとすると、何を記せばいいのかわからなくなる。君はそこで何を探していたのか。そこに不協和音が醸し出されるようだが、幻想とは何か。文章の中で何が幻想として示されているのか。話のすべてが架空の域を出ないようで、そんな話に終わりがないわけではない。いつもならそこで終わっていたはずか。冗談だろう。現に何かが終わりそうになっていたのに、それを心の中でまた蒸し返している。いくら言葉を付け足したところで、意味不明になるだけだろう。すでに薮の中なのか。少なくとも迷路ではない。何かの構築物の中にいるのかもしれず、誰かはそこで何を模索しているでもなく、ただ画面に映る文字列を目で追っている。どうやら文章を読めないようだ。読もうとすると頭が受けつけない。そして時折奇声を発して我にかえるが、本当に笑っているのだろうか。実際に何かおもしろそうなことを探し当てたわけではない。たぶんそれとは何かが違うのだろう。何が違うのかわからないが、とりあえず違うと思っているようだ。他に何も思いつかないので、そう思うしかないようで、それらの内容が理解できないが、それ以外の何について語ろうとしているのでもないらしい。今ひとつ気分が乗ってこないようだ。そしてわけもないのにそんなわけで、またもや嘘をついている。作り話の中で嘘をついていることになっていて、他に何を主張しているつもりでもないのだろうが、ただひたすらそんなことを述べている現状があり、それは何かの中毒症状を示しているのかもしれない。何かに取り憑かれているのだろうか。正気でないだけか。ならばこれから何を語るつもりなのか。それ以前にすでに語っているそれはいったい何なのか。たぶん誰かは何でもないことを語っているつもりなのだろう。何でもないから内容はどうでもいいのか。いつまでたってもそんなていたらくから遠ざかれないようだが、そんな事実を誰に突きつけられているわけでもない。自分で自分の行為を否定し続け、そんな自家中毒気味に語っているわけだが、それでも出だしは好調のような気がしているらしい。勘違いも程々にしておかないと、本当に気が狂ってから醜態をさらすことになるか。何が醜態なのか。気が狂ってしまった時点で醜態をさらしていることになる。だがそれが笑い転げるようなことだとは思わない。作り話の中では事の深刻さに欠けているようだ。ただ冗談でそんなことを述べている。そんな偽りが誰かを惑わしているのだろうか。自分で自分に嘘をついてどうするのか。それでは話になっていないような気がするのだが、当人はまったくそうは思わない。強がっているだけか。それで何を打ち消しているのか。何らかの常識から外れているようだ。とりあえず人はどこまでも人でありたいと願い、何とか片時でも人らしい行動をとるように心がけているらしいが、時としてそれが何だかわからなくなる。この世での自らの使命を忘れてしまったらしく、今は何も課されていないような気になっている。少なくとも言葉を記す作業は自らに課せられた使命ではない。少し眠たくなっているのだろうか。ところで話の続きはどうなったのか。意識はさっきとは関係のないことを述べようとしている。何がどこまで進展したのか思い出せない。今のところは何の話もしてないような気分でいたいらしく、そういうことにしておきたいようだ。言葉を記しているのに、それが嘘のように感じられてしまう。どうやら記しているのは話ではないらしい。話でなければ何なのか。ただの自問自答か。それも話のたぐいなのではないか。そうだとしても君に語りかけているのではない。誰に語りかけているのでもなく、心のうちからわいてくる怒りを鎮めるために語っているのではないか。そんな冗談も勘違いの一種なのだろう。それは違うと思っているだけか。しかし不意にそんなことを思いついた事実はありそうだ。それがその場での意味不明を招いている。結果とはそういうものだろう。そんなわけで当てが外れて一段落ついたところらしく、誰かは何も語らずにそこから退こうとしているようだ。


7月30日

 未だに理由はわからないが、何となくそういうことらしい。ただ言葉をつなげようとしているのだろうが、まったくつながらない。だがそこで誰が何を茶化しているのでもない。邪魔なのは記されつつある言葉の方だ。誰かは冗談に決まっているようなことを述べているわけか。それの何が冗談なのかわからない。誰かに何かが託されているようだが、とりあえず今日は雨は降りそうもない。君の存在を無視して、夕暮れ時に蝉が鳴いている。それとこれとは関係ないだろう。夏だからそういう気分になっている。やはりわけがわからないようだ。それはどんな気分なのか。何を説明する気にもなれない。唐突にそれはないだろう。唐突なのはいつでもそうなのであって、そこで文章が破綻していることは明らかである。そこだけではなく、どこもかしこも破綻しているから意味不明なのではないか。しかしそれが何の説明になっているのか。誰かの文章を説明しているつもりになっているのは誰なのか。何もわからなくてもそんな状況に耐え続け、視界が開けるまで歩み続けようとする。破綻していることについて何か反省する必要でもあるだろうか。今さら過去を振り返って何を思い出そうとしているのか。にわかにそんな気分にはなれないが、いつまでも意味不明では困るようで、誰かが何か適当な出来事について嘆いている。どんな出来事に出くわしたつもりになれるだろうか。作り話の中ではそうだろう。実際にはどうなのか。世界を旅する者は風来坊になれる権利でも有しているのかもしれないが、君はそこにとどまる権利を誰から譲り受けたのか。それは権利などではなく、ただ拘束されているに過ぎず、自由を求めるなら、そこから抜け出す必要がある。自由とは何なのか。自由によって何がもたらされるというのか。誰かがとらわれている不自由に耐え続けることができるだろうか。君には不自由と自由の違いがわからない。ついでにそれらの回りくどい文章表現を読んで笑っている。さらに何のことやらさっぱりわからないか。誰かはそこで何か適当なことを述べているだけのようだ。何かの二の舞にならなければいいが、他にわからないことでもあるのだろうか。たぶん君は逃げているのだろう。自由になることから逃げているようだが、それで全面的に不自由を受け入れているわけでもなく、自らが不自由であることをわざとわからないようにしている。気づいていながら気づいていないのだ。わからないふりをしているだけのようだが、現実にはもう終わっているはずだ。何が終わっているのか知らないが、客観的には言語的な試みのすべてが終末を迎えていて、それをわかっているのにまだ適当に言葉を繰り出そうとしている。往生際が悪すぎるか。それを誰に判断してもらうつもりなのか。たぶん冗談に決まっている。どのように検討しようと、そこで何が見えているのでもないはずだが、相変わらず周りの景色を眺めているのは君ではないことになっている。それはどういうことなのか。いったい作り話の中で何が演じられようとしているのか。そんなことには興味もないのに、ただ画面を見ている。子供だましもいいところか。何が子供だましなのか。子供もだませないような無内容だ。読めるわけがない。それについてまた誰かがそうではないと述べている。何を否定しているのでもなく、もとからそこには何もないのではないか。では目的とは何なのか。どのような目的がそこから浮かび上がってくるのだろうか。君はそこで何を感じているのか。いくら問いかけても何の答えも返ってこないだろう。何もないのなら誰もいない。誰かがいれば何かがあるはずだ。その何かが文章の中には見当たらない。何もかもが当たり前のような成り行きになっていて、要するに何でもないことがそこでのすべてであり、問いかけが返答に結びつく気配すら感じられない。やはりすべてがでたらめなのか。なぜそういう結論に達するのか。空白の中では何を思いつけるような状況にもならない。何ももたらせなければそこから撤退しなければならないのか。心の中ではすでに退いているはずだ。何ももたらせないことを隠すために、わかりにくく回りくどい物言いに終始しているようだが、いつものようにそれが何ももたらせない理由になっていない。ならばそれも何かの冗談だろうか。少なくとも言葉の迷宮だとは思わない。冷めた目つきで何を眺めているのか。目を凝らしてよく見れば、誰かが架空の迷路の中で右往左往しているだけのことか。思い違いではないのだろう。わざと嘘をついているのでもなく、めまいがしているのでもない。ただ誰かは呆れていて、さらに呆れ返るようなことを述べようとしている。それらの文章がまったく読めない。読む気が起こらないようだ。だからつまらないわけではないが、おもしろい文章を読めないわけもないか。誰かは盲目だったのか。過去においてはそうだったかもしれないが、今は言葉を記しているのだから、少なくとも目は見えていて、言葉を記しておきながら、それが組み合わさって生じている文章が読めないのだから、何か心の病のたぐいにかかっているのかもしれない。誰かはそういう言い逃れに呆れ返っているのではなかったか。そんな自業自得の自己言及的な文章がそこに記されているわけか。


7月29日

 そこで何かが過剰に語られているらしい。意識とは何か。さっきから気になっているのはそんなことではない。意識は苦し紛れに何を思っているのか。いったいどこで眠っていたのだろう。走馬灯とは何だろう。それに対する答えがどこにも見当たらず、それに関して何も思いつかない誰かが笑いをこらえながらも途方に暮れている振りをする。何がそんなにおかしいのか。わざとそんなことを述べている。意識はいつそこへ帰ってきたのだろうか。今はいらだつような精神状態ではない。誰のことを述べているのだろう。架空の精神が言葉で示される。そんなのは嘘に決まっているだろうが、なかなか皮膚が再生してこない。他に何を述べればいいのだろうか。別にそんなことは関係ない。何と関係ないのかわからない。やはり君は何も述べられないようだ。それで挫折してしまったわけか。今まで誰に支えられていたわけでもなく、ただ虚無に蝕まれている。そんな気がしているだけで、実際はどうかわからない。内容がどこにも見当たらないようだが、君は盲目なのか。別に何に関して盲目であろうと、そんなことはどうでもいいことか。とりあえずできることをやっていればいい。無理に語ろうとする必要はない。語れなければ語らなければいいのだ。自然と言葉が連なっていくまでだ。そんなことはあり得ないと思うなら思っていればいい。思い通りにいかないのが世の常だ。あり得ないことはいつまでもあり得ないままでかまわない。不可能なのだから仕方がないだろう。わからないことはそのまま放置されるがままになり、だからわからなくなって当然なのかもしれない。何がわからないのかわからないのか。とりあえず何もわからなくてもそうではないと嘘をついておこう。何について語っていたのでもない。過去は過去であり、これから何か適当なことを語れば済むことだ。要するに安易なことを述べているわけだ。それで何がわかるのか。それが安易なことだと述べている。そこから遠ざかれるはずがない。無理に語ろうとするとそうなってしまう。語る必要がないのに語ろうとする。そして何も語れなくなり、途方に暮れる日々を送ることになる。そういう作り話はつまらないだろうか。何か新しいことを考えなければならない。そういう必要に迫られているとは思えないが、それはどういうことなのか。何に逃げているのだろうか。そして何がわかりきったことなのか。君はそこから遠ざかれなくなるだろう。心が虚無に近づき過ぎているのだ。他の何に魅入られているというのか。何か切実な事情でもねつ造できるだろうか。何に対しても無関心な君はそこから押し出されようとしている。状況がそうさせていると思っている。語っていることはどこまでもなんでもなく、ただひたすら無意味をなぞっている。無意味とはどんな形をなしているのだろう。虚無とはどう違うのか。それらは何か得難いキャラクターでも伴っているのか。そういう話ではないような気がする。感性の問題だろう。何について語り得ないのかを知りたい。言説が成立するような背景が欠けているのかもしれないが、君はそこで何かを発見しているはずだ。すでにそれを手に入れている。苦労してつかみ取ったわけでもないのに、簡単に入手可能なアイテムだ。それを利用して何を語ろうとしているのだろう。今さら言葉で物語など奏でることはできない。だが厄介な成り行きではない。今なら無理をしなくてもそこに至る経緯を語れるはずだ。過ちは二度も三度も体験できる。奪うに値しないものが世の中にあふれかえっている。欲しかったら買えばいい。買う金がなければどうするのか。我慢していれば済むことか。君はそこで何をやっているのか。何かの模様がどこかに渦巻いている。それを眺めて何を思うだろう。何をどう思うかではなく、何も思いつかないとき、君はどのように語ろうとしているのか。それが問題とは思えない。人はどこまでもスポーツ感覚で何かを追求している。時間があればエクササイズしまくり状態のようだ。いつまでもつまらないことにこだわり続けるのよりはまだマシかもしれないが、いい加減にあきらめてしまえばいいのに、未だにそれを続けるのはかなりおかしい。感覚的に保たないのではないか。首を傾げているだけでは何ももたらせない。だから心を落ち着けて目の前の虚無に対峙しているわけか。それで何にもなりはしないだろう。ふとした偶然で誰かが誰かを知る時、そこから何が生じるというのか。対話や会話ではありふれている。誰かが夢の中で水の上を歩いている。氷の上ならスケートができる。それの何が関係のないことなのか。ありふれた話の続きを知りたくなってくるが、それを知る上で何が必要なのか。少なくともスケート靴ではないはずだが、別にそれで見識を疑われるようなことにはならない。わざとでたらめなことを述べているだけのようで、その中に何か暗号めいたメッセージでも忍ばせているのだろうか。取り越し苦労とは何だろう。その場合はどこに適用可能なのか。たぶん言葉の組み合わせが間違っているのであり、何も思いつかない代わりに、わざとらしい誤用を繰り返し記しているに過ぎないのではないか。だがそんな疑念を抱いているのは君ではない。ならばやはり笑うしかない状況のようだ。


7月28日

 まだこんな時間だ。少し余裕ができたかもしれず、この機を逃すのはあまりにももったいないか。何を企んでいるのでもなく、さらに言葉をつなげようとしているだけか。呆れてしまう。無理のようだ。冗談に決まっているだろうか。また否定的な気分になっている。聞こえてくるのは蝉の鳴き声だけか。今はそれも聞こえてこない。寒気が入って少し暑さも和らいでいるが、一瞬のひらめきと直感を駆使するだけで何とかなるような事態ではないはずだ。しかし無理を重ねている。相変わらず何か適当でいい加減なことを語っているらしい。要するに何でもないことを表現するために言葉を使い、具体的な事物や現象や話題については何も語らない。それで何を裏切っていることになるのか。皮膚と気持ちから何かが剥がれかけている。だが実際にどんな気分を醸し出しているわけでもなく、君の無表情に影が差すことはない。それらは何かのレリーフのような文字列を構成しているのか。君がその内容を知ることはないだろう。闇の騎士が襲いかかってくるのは君の夢の中ではなく、誰かの作り話の中でのことだろう。文字列が心の中で宙づり状態か。意味がわからない。話の焦点が合っていないようだ。老人がハーモニカを吹いているようだが、そこで目と目が合っているわけではない。誰と誰が見つめ合うこともなく、ただ時が過ぎ行き、やがて忘れ去られる雰囲気を共有しようとしているのかもしれない。やはりそれは何でもないことか。どこかで苦しい言い逃れがまかり通る。何かが誰かの妄想の中に出現しているようだ。言葉とは何なのか。誰の意志を表現しているのか。結局何もできはしない。君は疎外感に耐えているのか。なぜそれほどまでに孤独なのか。どうやら時間切れが迫ってきたようだ。それは避けようのない成り行きに違いない。いったい何に絶望しなければならないのか。未来の時間において何かに絶望しているのだろうか。ただそんな気がするらしいが、現実に何を感じているわけでもない。ちょっと横になればすぐに眠ってしまう。話にまったく進展がない。いつ眠ってしまったのか。なぜその気になれないのか。何かが先回りして、邪魔をしているわけでもないだろう。ただそこからわけがわからなくなるらしく、何か適当なことを語っているつもりの誰かにケチをつけようとは思わないが、それを続けようとする意志を鬱陶しく思う。そこに何があるとも思えない。それが目的ではない。目的の外に文章がある。時にはそれは冗談に聞こえてくるが、虚無を軽くかわして何かを導き出す。言葉がそこに記されているわけだ。それは何でもないことだろうか。ひとつひとつの作業を順にこなしていかなければならない。誰かの寝言に聞き耳を立てているのか。無知蒙昧というわけでもない。繰り出された言葉に心との関連性を見出せず、堕落しているだけのような気もするのだが、だらりと垂れた腕を支える術を知らず、それが何を意味するわけでもなく、何のたとえになっているわけでもないことに、何の不思議も感じていないようで、何となく頭に浮かんでくる言葉に何を託しているわけでもないことにいらだつ風も見せず、それはそれでそういうことだと割り切っているようで、とりあえずそれを記して、後から読んでみる。取り立てて何の感想も出てこないようだ。まだ迷いでも残っているわけか。もう少しうまくやれるとでも思っているわけでもないが、その程度の無内容にいちいち動揺することもないだろう。さらにわけがわからなくなっているとしても、それでも一応は文章のたぐいになっているように思われ、それを読み返して笑ってしまうとしても、誰かの心の中ではかまわないと思っているわけか。あきらめているのでも呆れているのでもない。そういう感覚なのだから、それをそのまま受け取る必要がありそうだ。ただ盲目的にそれを信じているわけではないが、その場で生じている偶然の巡り合わせを大切にしなければならない。少なくとも何かを生かそうとしているのだから、行為をそれに従わせるまでか。しかし何をやっているのか。虚無の他に何も見当たらないわけでもないだろう。目に見えない何かの存在を感じ取っている。ノルマの負担が重くのしかかっているわけではない。そこはそう思っておいていいのだろうか。自分自身に何をわからせようとしているのか。あるいは困難を簡単に切り抜けてはまずいのか。そこで挫折する理由を見出せず、何とか言葉の行き先を確定させようとしているのだが、いったんそうなってしまうと後には退けなくなってしまう事情でもあるのだろうか。ともかく何かが前のめりに作動しているような気がするわけで、意識をそれに従わせながらここまでやってきたようだ。少なくとも何かを述べているのだろう。前向きとは言い難いが、とりあえず言葉で空白を埋める作業を続け、何とか前進を果たして、それで苦悩する日々を評価したいらしい。何のことかわからないが、行き詰まりながらも何かの境地に達しているようなつもりになれる。嘘でもかまわないからそういう心境を前向きに評価すれば何とかなるのだろう。わざと気が狂っている振りをすることもないだろう。自然と狂気に満たされているわけでもない。少なくともそれは君が選んだ成り行きだ。


7月27日

 それから誰かはどうなったのか。何を語っているわけでもないのはいつもの通りだ。いったい彼の体調はいつ回復へ向かうのか。そのまま誰かの人生も終わってしまうのだろうか。それは仮の人生であり、作り話の中で息づいているのに過ぎないことだろう。そんなわけで君はさらに疲れ果ててしまうらしい。いつもの成り行きに嫌気がさしている。無駄に言葉を連ねて一息ついているつもりらしいが、空疎な思いはいや増すばかりで、そこに複数の人格が共存できるはずもなく、文章の中ではいつも支離滅裂の分散状態となり、言葉の断片がひとつにまとまることなどあり得ない。そういう状態を誰かは楽しんでいるのだろうか。思いつくまま何かを記そうとしているようだが、それが何を語っているのかを知ろうとしているわけではなく、ただ結果を読んで落胆するだけのようだ。わざとがっかりしている。それがおもしろいわけがない。何を叶えようとしているのか。それらの文字列が意味を伴うような言葉の組み合わせを模索しているわけか。まったくのでたらめだ。嘘に決まっている。何を模索しているとも思えない。冗談だろう。だがそれで何を否定していることになるだろうか。まだ紆余曲折が足りないのか。君は何を楽しんでいるのか。それで何かのきっかけをつかんだつもりになれるか。朝になり空が晴れてきたようだ。今日も蒸し暑いのだろう。そして執拗に何かが続いている。うんざりするような気分になるだろうか。誰かが模索しているのはそのようなことではない。たぶん現実の世界で何かを探しているのだろう。快楽の源泉でも求めているわけか。あるいはこの世の真の姿でも知りたいわけか。何がそうさせるのかを探っているのだろうか。具体性がないようだ。具体的に何をどうしようとしているのか。君をがっかりさせる要因は何なのか。何も思いつかないことが落胆の原因か。それは嘘だろう。絶えず何かを思いついているが、それが言葉に結びつかないだけだ。ただそんな気がしている。そしてその代わりに記されているのがそれらの無駄な問いかけである。問いかける対象がわからないまま問いかけている。いったい何を問いかけているのか、という問いかけになっているわけだ。そんなことはわかりきっているのに、執拗にそれを繰り返しているわけだ。要するに自問自答の無限循環なのか。たぶんわからない。わかっているのにわからないと記す。君はそこで何を疑っているのだろう。またしてもそれだが、そこから抜け出たいのか。何から遠ざかりたいのか。そうなってしまう原因はどこにあるのだろう。そこであきらめてはならないらしい。ではさらに問いかけるべきなのか。すでに朝日が昇っていて、途中で移動しなければならなくなるだろう。自らについて何か他に述べなければならないことでもあるわけか。たぶん君は知っているはずだ。それらの終わりのない問いかけが君のすべてなのだ。他に語るべきことなどありはしないことを。少し耳が遠くなっているようだ。誰かの内なる声が聞こえづらくなる。そこで空疎な話をリセットして、はじめからやり直さなければならないのだろうか。たぶん今日の午後はない。夕方から何をやっても上の空になってしまうだろう。そして何もできないまま翌朝を迎え、いつものように落胆するわけだ。なぜ君は何もできないのか。そうではないと思いたい。誰かが何か適当なことを記しているではないか。ならば君はそれをどうしたいのか。ただ読み返して、そのつまらない内容に落胆しているだけなのか。またそんな問いかけが始まっている。そういう毎度おなじみの成り行きには笑ってしまうしかないが、一方で関心を持てない。一向にその空疎なスタイルを変える気配もなく、ひたすら繰り返されているその画面をいつまでも眺め続け、気がつけば時が経って、それ以外に何もできなくなっている自らに落胆している。それでも自らが何を語っているのかわかっているはずだ。そしてそんな意識から遠ざかろうとしている。君はあり得ない表現形態を目指してそれらの継続を望んでいるのか。いきなり理由も何もありはしない。何が理解できないわけでもなく、暗黙のうちに理解しているそれを心の中で拒否しているようだ。それは何だろう。この世は空疎そのもので、人に生きる価値などありはしないということか。冗談で述べるならそれでもかまわないのだろうが、そういう事実を真に受けているわけではない。この世界の何が空疎なのか。すべてが空疎なのかもしれないが、そこに意味を空想できるだろう。価値はないかもしれないがねつ造することは可能だ。それを信じることも疑念を抱くこともできる。たぶんそういうことの積み重なりの上に文明が築かれていて、人は人の作り出した事象や事物に価値をねつ造したり、それを信仰の対象としたりしている。あるいは自然の造形や現象に畏敬の念を抱いたりしていて、それらの構造や成り立ちを探り、自分たちの言葉で説明しようともしている。それが無意味で空疎な試みだと言えるだろうか。ただそう思いたいだけではないのか。そう思うしかないような事態にでも直面しているわけか。それらを信じられなくなった時、そのような行為を否定しなければならなくなるのだろうか。


7月26日

 疑念が生じているわけではない。そんなことはわかりきっている。わかりきっているが、別にいらだつこともないだろう。さらに遅れてしまいそうだが、やはりそれは違うらしい。何が違うのかよくわからない。武士の切腹や旧日本軍の神風特攻隊のように、日本には昔から命を粗末に扱う風土があり、それは命を大切に思う心とは相容れない伝統である。そして今や神風特攻の精神はイスラム教徒の自爆テロ犯へと引き継がれた。そこに絶望的な状況でもあるのだろうか。絶望しているのではなく、自爆することに希望を見出しているのではないか。絶望の中で見つけた唯一の希望か。冗談でそんなことを述べてはならない。もうこんな時間だ。何も出来ないままここまで時間が経ってしまったらしい。どうやら疲れているのは気のせいではなかったようだ。ならばもう終わりを通り越してしまったのか。そんな都合良く何かを回避できるわけがない。まだそこに居座ったまま、じっと何かの機会をうかがっているのではないか。そんなわけでわけがわからなくなる。なぜ眠くならないのだろう。真夜中に何かをやれという天のお告げでも聞いたのか。さらにわけがわからず、もはや破れかぶれ気味に語っている最中に出くわしているのか。皮膚のかぶれなら薬を塗ってだいぶ良くなってきた。どこかの地域ではにわか雨の最中だ。かなり蒸し暑かったのだろう。何を語る気力も失せて、ただ自動的にそこに記される文字列を眺めている誰かが画面の前に座っている。いささかややこしいことを述べているつもりらしいが、中身は何もない。ただの自己言及もどきに過ぎない。君はそこで何を見出したのか。それは毎度おなじみの虚無に対する語りかけか。君が虚無なのではなく、虚無が君という言葉をまとって立ち現れているのでもなく、冗談のたぐいで済まそうとしているのでもない。そんなことしか述べられない。それは何かの思い込みに違いなく、そんな思い込みが誰かの自我をこの世で支えて、かろうじて自暴自棄になるのを食い止めているのだろうか。他に何をもたらしているというのか。状況はそんなことの域を出ない話を延々と奏でる。そしてわざとそう述べている。間違っているようなことを語ろうとする。さっきから何にこだわっているのか。君に語りかけるような内容ではない。では誰に語りかけているのか。そういうことでもないだろう。徐々に肺炎にでも近づいているのだろうか。たぶん体調が悪いはずがないが、そこであきらめるわけにはいかないようだ。ところで腹切りと自爆テロの話はどこへ飛んで行ってしまったのか。そんなことより何もない今の方が切実に感じられるのか。何を切実に感じているのだろうか。蒸し暑さに体力がついて行っていないようで、気がつけば記憶が飛んでいる。さっきまで君は何をしていたのだろう。何か重大な事実を見逃していないか。君に何かを語りかけているとうの意識を誰かがその内に取り込みきれていないようだ。それで何がどうしたというのか。どうもしなければ何でもないというわけでもない。そういう成り行きにはならないような状況になりつつあり、誰かはさらに語るべき何かから離れていってしまうようだ。それは何かの必然なのだろうか。たぶんそういうことに違いなく、そこから先は無内容に拍車がかかっているのだろう。飽きもせず原爆ドームを描き続ける誰かのように、何かの象徴に心を奪われていて、目の前に広がる廃墟の光景を何か意味のある描くべき事物だと思い違いをしている。そこにある記念碑的な空疎を頭の中で何かの感動に置き換えているわけだ。それで何を語っていることになるのか。たぶん何かを語っているわけだ。偽っているのかもしれず、それらの偽装を当然のことのように思い、何でもないことを感動的な言葉で飾り立てる。まるでオリンピックの実況中継のように、目も当てられぬような悲惨でくだらぬことに大げさに驚いてみせる。ならば果たして真の感動はどこにあるのか。感動すること自体が勘違いの最たる感情なのか。そうだとすれば人々は絶えず何でもないことに感動しているわけか。何でもないことであるはずがないと思い込んでいる。それは感動すべき光景なのだ。そう思い込みたければそう思い込んでいて結構なのだろうが、誰かの意識はそこから逸脱しようとしている。それを客観的に見れば馬鹿げていることだからこそ感動できるのだ。何が馬鹿げているのか。心は常に何かの映像表現によって満たされている。それが映画であれ何であれ、何かの効果音が人々を感動させるらしく、それは喜怒哀楽を極端に増幅させる覚醒作用を伴っていて、そこに映し出された大勢の人々が当然のことのように演じている大掛かりな芝居に必然性をもたらすように、絶え間なく響き渡っているのだ。それは何なのか。何に心を操られているのか。それには軍隊行進曲のような効能でもあるわけか。あるいは赤信号をみんなで渡っても怖くないような麻酔作用でもあるのだろうか。そこは進軍ラッパが鳴り響いているような戦場なのか。あるいは観客の歓声や応援に踊らされる競技場のたぐいか。はたまた神輿を担いで練り歩く祭りの会場か。人々に興奮と熱狂をもたらしているのは何なのか。


7月25日

 何となく誰かが心の中でとりとめのないことを語り始める。そこで何を理解したいわけではないが、気のせいか画面が少し揺れているようだ。思考が何かの限界に達してしまったのか。何かとは何だろう。それだけのことかもしれず、結局何でもないのだろう。夢を見ているのかもしれない。この世が滅びるまでにはまだだいぶ時間がありそうだ。子供だましの漫画を読んでいる最中に何かを思いついたらしい。何かが破滅に至る成り行きを阻んでいるようだ。何かの週末を迎えても、きっと誰かが助けてくれるだろう。意味不明のままではどこにも通用しないか。だがどんな言葉を現実に適用しているとも思えない。それらの言説を何に適用させようとしているのか。誰かが遠くから何かを見ている。見ているのはそれらの景色ではない。たぶん何ももたらせないだろう。繰り出されるべき言葉が消えてしまったのか。何となく遅れたままになってしまったようだが、未来永劫今日という日付に追いつけないか。大げさな表現だ。そんなはずがないと思いたい。そんなことを述べて何を企んでいるのか。今は何日後の時間帯なのか。誰かは疲れ果てているようだ。空は晴れて今日も暑くなるらしい。夕方あたりにうとうとしてきて、気がついたら朝だった。たぶん今日も疲れ果ててしまうのだろう。どうも遅れを取り返すのが困難になりつつある。いい加減なことを述べ続けて貧窮の時をしのぐしかないのだろうか。しのげないだろう。今は今のままであり、昔とは違うはずだ。何が違うと思っているのか。昔はくだらぬ妄想を抱いていた。それは君ではない。それとは何か。何でもなければどうだというのか。確かに何ももたらされない。世の中がわからなくなってきたようだ。そんな風にしてしきりに首を傾げている。今日は何の日だったのか。祝日がいつだったのか思い出せない。君には思い出す理由がなく、ついでに何の才能もない。それとこれとは関係ないか。無駄なことを語る才能ならありそうだ。やはり終わりが近いのだろうか。誰かは別れに際して何を伝えようとしていたのか。何となくわからない。たとえわかっていても、誰かはわからないと記す。それがわからない。誰かはひたすら何を奏でようとしているのか。なぜそこで行き詰まりたいのか。この世界の細部には何が宿っているのか。どこに誰の魂が引っかかっているのだろう。ニューギニアのジャングルの中に旧日本軍の骨やどくろが埋まっている。誰が何を掘り起こそうとしているのでもないか。宝物が文章の中に出現するはずもなく、画面上で演じられる作り話に感動しているわけでもない。好奇心がどこかで腐っているようだ。現実には誰にも会っていない。意識が存在しているつもりなのが架空の空間だからか。現実の世界では支離滅裂の文章の中で世界一周の旅でも始まるのだろうか。そんなはずがないだろう。誰かがテレビを消して何かに集中しようとしている。終わるはずのない作業を続けようとしているわけか。渡りに船の展開になるのを期待している。何かの都合を忘れているらしい。それほどやる気になれないのだから仕方がない。もう少し面倒くさいことを続けなければならず、それから何かを始めようとしよう。旅人は無責任きわまりないか。そういう特性なのだからそれは当然のことだ。たぶんそこで何かを確認している。確かめようとしているのが何なのかを知ろうとしているわけだ。無責任を押し進めるならそんな内容になるだろう。それで君はかまわないのか。律儀にそれをやり遂げようとしている感じだ。冷房が効いているのに蒸し暑い。何となくという言葉を多用しながら、誰かはそこから遠ざかれなくなっていることに気づきつつある。しかしまだ続けなければならないのだろうか。他人は刺激を求めているようだが、他の誰かは何も起こらない静寂を夢想する。接点がどこにも見当たらず、それでは話にならないだろう。何か無駄な買い物でもしたのか。それはしょっちゅうだ。無駄でないものに巡り会うまでが長旅になるらしい。そもそも自分の方が人間的に上だと思っていること自体が勘違いなのか。それはどんな妄想なのだろう。君が抱いているのではない。ただ何とも思わない。それらの何に注目しているわけでもなく、つまらない成り行きに吐き気を催しているわけでもない。きっと彼は病気なのだろう。死の一歩手前で悪あがきの最中なのだ。そういう作り話なら興味がわくだろうか。誰のために何を語っているのでもなさそうだ。曖昧な気分でいると季節の移り変わりを感じ取ることが出来る。それは何かの迷信を想像させ、空想の産物である言葉の連なりを読んでみる気分を得るだろう。いったいいつになったらそんな気分になれるのか。今でなければ間に合わないか。今際の際ではなく、別に何に間に合わせようとしているのでもない。時間はとっくに過ぎている。もうどうにもならないほど遅れてしまっているようだ。今さら過去へ戻ろうとしているのでもなく、未来に向かって何を努力しているわけでもなく、未知の何かを見出したわけでもない。それはどこまで言葉を記してもただの画面上での表現だ。この先それを超えることはないだろう。たぶんその辺が限界なのだ。そこに言葉をとどまらせることが肝心なのか。いつものように誰かの言わんとすることがわからない。


7月24日

 人はなぜそこから逸脱してしまうのか。企業が利益を追求しようとすれば、従業員を低賃金でこき使う必要が出てくるわけか。どこかにしわ寄せを持っていかないと利益を出せないような切羽詰まった状況になっているのだろうか。その辺で幹部社員の良識と力量が問われているのかもしれないが、従業員を低賃金や長時間労働などの悲惨な境遇で働かせなければならなくなった時点で、その会社は危ないということになるだろうか。もっともそれがまかり通るような世の中が今の世の中なのかもしれず、うまく立ち回れないのろまなやつから順にそういう悲惨な労働を強いられているのかもしれないが、それを拒否すれば無職の路上生活者になるしかないのだろうか。そうなる一歩手前がネットカフェ難民か。ともかくそういう環境がある事自体が社会の欠陥なのだろうが、中にはその欠陥によって利益を得ている人や組織や団体もあるのだろう。違法な日雇い派遣で暴利をむさぼっていたグッドウィルグループなどがそうだったわけか。そういう成り行きになってしまうのにはどのような要因が絡んでいるのだろうか。人にはその生い立ちの違いからそれぞれに特有の個性が形成されつつあり、その個性に起因して働く能力にも格差が生まれ、仕事の出来不出来に応じて報酬も違ってきて、能力の低い者は低賃金に甘んじなければならず、最低賃金では満足のいく生活など望むべくもなく、その日その日をやっと生きているという感じになってしまうのか。それがどうしたわけでもなく、当たり前のことが当たり前のようになっているだけか。それは欠陥などではなく、そういう社会の仕組みがないと、人に向上心とか積極性が芽生えなくなってしまうだろうか。そんなわけで人はより高い賃金を得られるように努力しなければならず、そのために人々は日々他人と切磋琢磨しながら競争して、よりよい生活や快適な居住環境をつかみ取ろうとしているわけか。建前的なきれいごとを述べるならそういうことになるだろう。何かのきっかけで競争から脱落してしまった者たちには過酷な運命が待ち受けていて、そういう者たちの生活を保護するために法律があるわけだが、人数が多くなれば財政的にまかないきれなくなる。それも当たり前のことで、きれいごとでは済まなくなる。たぶんそういう水準で人々が何かを突き詰めようとすれば、貧富の格差が拡大する方向にしか事態は進まないだろう。効率ばかり重視しても心が荒廃するだけのようだが、教育によってもたらされるのは効率重視の姿勢だ。受験に合格するという目標を達成するにはそれしかないだろう。教師は子供たちに間違ったことは教えてはいけないルールになっていて、教えた成果を出さなければ教師として失格になるだろうか。受験関連の塾の講師なら建前上はそういうことになる。しかしまっとうに生きようとするなら、そういう建前を真に受けてはならないのだ。物事の本質から著しく逸脱しなければならない。この世界では何を信じても虚しくなるだけであり、行動する上での規範となる正解などどこにもありはしない。何が正しいかを見極めようとする姿勢は間違ってないが、それを真に受けてはならない。たぶん君は間違ったことを述べているのだろう。わざと間違ったことを述べなければならない成り行きなのか。ただ何となく唐突にそんなことを述べている。他意はなく理由など何もありはしない。それは嘘に決まっているかもしれないが、嘘だとしてもそれが現状なのだからそういうことだ。他にどういうことでもない。世の中には悲惨な境遇にある人などいくらでもいるのだろうが、その中の誰に同情したいわけでもなく、それは何か特定の基準に照らし合わせるとそういうことなのであって、そういう基準が万人に適用できると信じることが馬鹿げているのではないか。人はどんな風に生きても死んでもかまわないのであって、そういう生き方や死に方を後からどう評価しようと、そんなのは当人にとってはどうでもいいことなのではないか。どうでもよくなければそれでもかまわない。君はどこまでも無責任な傍観者の立場を離れることはない。架空の存在なのだからそれでもかまわないのか。そう受け取ってもらって結構か。君にとっては何でもないことだ。ただ本気になれない。何か特定の正しいやり方があって、すべての人間がそれを実行しなければならないということではない。だからそこに何が提示されても、それを真に受けるわけにはいかないのだ。たぶん目標を立ててそれに向かって努力することは正しいことだが、誰もがそういうやり方を受け入れなければならないというわけではない。そればかりでは馬鹿の一つ覚えなのだ。そういうところで説得力を持たせようとして、何か具体的な事例を示して力説しようとする者を信じるわけにはいかない。それは正しいことだが、そういう正しさでは息がつまる。それ一辺倒では疲れるばかりだ。何となくわざと間違えたり、目標に向かって一直線ではなく、途中で道草を食ったり回り道をしてみないと、何を経験したことにもならないような気がしてくる。その辺が何かの討論会で声高に持論を主張する人々に違和感を感じる要因となっているのかもしれず、ディベートとかいう討論ゲームを真に受けられない理由なのだろう。


7月23日

 どうせまた邪魔が入って遅れてしまうのだから、やれるうちにやっておかなければならない。だがそう都合よく事が運ぶとは思えない。そう思ったのは昨日の夕方のことだ。そこから何を語れるというのか。偽りの何かを騙ればどうにかなるだろうか。どうにもならなければ、君は誰でもなくなるだろう。相変わらずわけがわからない。何か社会全体にひずみでもあるのだろうか。それはひずみではなく、良い兆しなのではないか。君にはわからないことだ。何か現状に対して有効な言説があるのだろうか。利いた風なことを述べても、それは違うと思われる。しかし何が利いた風な言説になるのか。それは誰にとっても余分な言説であり、具体的に何がそうなのか示せない。それでは意味がないだろう。受験競争の敗者が勝者を刺し殺したのは偶然の巡り合わせか。そういう捉え方には悪意が感じられるだろうか。殺すのは誰でもよかったのだから偶然に違いない。それに彼は競争に参加していなかったのではないか。ただ書店でバイトをしていた大学生が刺し殺されただけのことだが、そのあまりにも身勝手な犯行に怒りを覚える人が多いらしい。しかし自暴自棄になって犯行に及んだのだから身勝手なのは当然だ。怒りをあらわにする人々は、前途有望な若者が前途有望でない者に殺されてしまうのが、我慢がならないのだろう。だから何だというのか。子供じみている。君はくだらぬ反論を述べて、それらの善良な市民から嫌われたいのか。反論とは何だろう。それこそ何でもないことか。何でもなければ何も述べる必要もない。だから君は何も述べないことにしているわけか。これから何か適当なことを述べるはずだ。それを誰が期待しているのか。何がそんなにおかしいのか。また笑いが止まらなくなる。良心的な内容にはなりそうもない。何か皮肉な言い草に巡り会えないだろうか。何がどうなるわけがない。これまで通りの成り行きの中で生きていくだけか。それらの何に満足したいわけではない。だが結果は結果だろう。結果でなければ何だというのか。人は満足できる結果を求めている。この時代の人間はこの程度の人間なのだ。社会がこの程度の人間を生じさせる。おそらく君たちは本音で生きているのだろう。本音を言葉で偽装することはできない。しかし本音とは何なのか。たぶんそれらの話題を共有することはできない。何に対しても感情的になれないのか。君の知ったことではない。神は君たちを見下しているのかもしれないが、君が神ではない。言説が時代遅れなのか。やり方があまりにも身勝手すぎる。途中から何を述べているのかわからなくなるのはいつものパターンに入った証拠か。なぜか挫折しているらしい。反論に至れずにぐだぐだになる。はっきりしたことを語るには自我の存在が希薄だ。良心を見出せず、悪意に対抗する術を知らず、ただ怠惰に流されている。ひたすら脱線しまくっているようで、すでに話題など忘れてしまったらしい。君は何を理解しようとしないのか。できないことをひたすらやろうとしていて、そこに何が示されているわけでもない。君はそんな結果を受け入れなければならず、また途方に暮れるそぶりを見せなければならないのだ。演技に決まっているだろう。たぶん殺人なんてくだらないことだ。ただ人がそこで死ぬだけか。そして人々はそこに至る必然性を見出そうとしている。今までに使い捨てにされてきた者たちに命の大切さを訴えるのはナンセンスもいいところだ。その場しのぎの物扱いされてきたパートタイム労働者ほど心が荒んでいるのだろうか。人は人としてどうあらねばならないのか。その前に働いて食っていかなければならない。君は何を空想しているのだろうか。あるべき社会などありはしない。大切なのは継続への意志か。社会の在り方に違和感があることは確かだ。無駄なところに金がかかり過ぎているようだ。贅沢をするために多額の資金が必要とされる一方で、必要最低限の暮らしすらままならぬほど金がない人がいる。社会に順応できずにまともに働くことすら困難を極める人もいる。実際に動作が鈍くて頭の悪そうな若者を雇う会社などありはしない。そんな現実を無視してきれいごとを主張するもナンセンスきわまりないか。だがまともな反応としてはそういうことなのだ。身勝手な犯行に怒りをあらわにするしかなく、殺された学生がいかに善良な若者だったかを見せつけるだけだ。そんな弔い合戦もどきをメディアが演出していて、それを誰かが黙って眺めている。それらの何に不条理を感じているのか。攻撃する対象がどこにもない。何を批判したらいいのか見当もつかない。ひたすら何の変哲もないジャズを聴いている。本当に途方に暮れてしまったらしい。元来そんなことは君の知ったことではない。その気もないのに関係のないことに首を突っ込んでいるだけだ。君に課せられた試練ではない。それらの試行錯誤がどんな結果に結びつくというのか。結果として途方に暮れているだけか。考えること自体が無駄か。いくら考えても思い通りの結論には至らず、必ず期待を裏切るような話の展開を導いてしまうようだ。もはや川向こうの光景がはっきり見えてしまうほど近づいてしまったのか。何に近づいているのか。


7月22日

 翌日は曇り空だが、相変わらず目的が見つからない。目的を見つけるために生きているのではないだろう。君が生きていること自体が疑わしい。ではなぜそんなことを述べるのか。他に言葉が見つからないからか。それで何を語っているつもりになれるだろうか。何も語らずに言葉を記している。いつもながらの言い逃れか。そのついでにどうでもいいことを述べるなら、果たして今日は昨日なのだろうか。少なくとも今は未知の時間帯ではないようだ。経験しつつあるのは既知の成り行きだ。それほど同じようなことを述べているのだろうか。やめてもかまわないのか。何をやめるつもりになれるだろう。何をやめても何の理由にもなっていないようだ。やめる理由がどこにあるのか。それを語っているのは誰なのか。そうやって無駄なことを述べるのが、誰かの気休めにでもなっているのだろうか。だがそれを語っているのは誰でもなければ君でもない。そこには誰もいない。なぜ誰もいないのか。みんな死んでしまったのだろうか。人が死する運命だとすると、抱いている幻想とは何だろう。生きていることが気休めになる。まだ死んでいないわけだ。死んでいないから言葉を記している。死してなお言葉を記しているとしたら、君の存在は何なのか。亡霊のたぐいか。亡霊なら言葉を記すのも容易になるかもしれない。なぜ容易になるのだろう。現時点では何の根拠もありはしないが、実際に亡霊になってみれば嘘か本当かわかるだろう。それが本当なら、生きていると思っている者は皆亡霊のたぐいかもしれない。そうだとしたら君はどちらに属する存在なのか。果たして生者か死者か。どちらでもなければ何なのか。わかりきったことを問わないでほしいか。今さらそれはないだろう。君はいったい何様のつもりなのか。中途半端な冗談で脱線しているようだが、次第に語ることに飽きてきたのかもしれない。何をどこまで述べても、言葉遊びの域を脱しない。その内容が本質から大きく外れているようだが、何が本質なのかわからない。とりあえず人は目的を持って行動していて、いつまでも真実が現れるのを待っているわけではない。ならばさっさと見切りを付けて先を急がなければならないだろうか。このままどうあがいても君はその目的に至れないようだ。だから嫌になってしまったのか。それ以外の理由を思いつくだろうか。何を探しているのか。行動に至る積極性がどこにも見当たらない。今の君は存在しないも同じことか。そして何も語り得ない心境に至り、そこから先は沈黙の支配する領域へと意識が移動しているようだ。それでどうなったのか。どうにもなりはせず、相変わらず君の代わりに誰かが何かを述べている。君がいなくても君という言葉が記されていて、それは誰でもない君の仕業になる。誰かなどという存在は虚構か。存在であると同時に言葉でもある。自らが至り得ないどこかに誰かがいるようで、その誰かと君との間に何の関係も打ち立てられない。ただ言葉を込み入らせてその場しのぎの継続を実現している。君も誰かの作り話に依存しているに過ぎないが、それで何を説明していることになるのか。そんな毎度おなじみの問いかけにはうんざりしている。それでもさらに問いかけられる。君について述べようとしているのではなく、誰かのプライバシーを暴き立てようとしているのでもない。さらにそこから遠ざかりたいだけか。ただひたすら遠ざかる。果てしなく遠ざかろうとしている。何のために遠ざかろうとしているのでもなく、それが自然の成り行きなのだろう。意識がこの世界から遠く離れたいだけなのか。誰かの気持ちなどわかりようがない。文章は文章であり、誰の思いを記しているわけでもなく、誰かが気休めに述べていることが文章として示されている。それだけのことに時間と労力が費やされる。誰からも期待されていないようなことが語られて、読む手間を拒絶するような安易さによって画面上に構成されている。やはりそれはあり得ないことか。何かがあり得るような気持ちになってはまずいのだろう。何となくそれが逃げ道となってしまうらしい。何かを果てしなく続けるにはそうならないための忍耐が必要か。果てがないわけではない。果てはあるにはあるが、そこに近づかないようにしているだけか。ではどこから遠ざかろうとしているのか。そんなことはさっきまで述べていたはずだが、もう忘れてしまったのだろうか。何を忘れたつもりになれるだろう。だいぶ前から意味不明なことを執拗に語っているようだが、もしかしたらそれによって語る理由でも導き出そうとしているのではないか。しかしわけがわからない。それらの全体が頭の中に入りきらないようで、その代わりに文章の断片がごちゃ混ぜになっているような感覚だ。このまま何も導き出せないのだろうか。ただ誰かは画面を眺め続け、それによって何らかの感慨に耽っているのかもしれず、そんな風に事態が推移するばかりで、はっきりしたことは何も提示できない。何かがうやむやになっていて、それについて語る代わりに、それを語っている誰かの心の揺れ動きが文章として定着されているのかもしれない。矛盾や勘違いを承知でそんなことを述べているわけだ。それでも君が述べているのではないと言い張れるだろうか。


7月21日

 それは何かの冗談だろうか。何となくさっきから当たり前のことを述べているようだ。たぶん今が今でないように、今日が今日でないことはわかっているはずだ。それなのにどうして今日という日付にこだわるのか。すべては冗談だと思いたいのか。たぶん何かの勘違いなのだろう。過ぎ行く時に見放されながら、何と戦っているとも思えない。今日も誰かは蒸し暑さに負けている。今日ではないと述べているではないか。ならば今日はいつなのか。答えが見つからないようだが、それでどんな出来事に遭遇しているというのだろう。とりあえず勝てるはずのない成り行きに巻き込まれている。神は気難しいのだろうか。神が頼みの綱というわけでもあるまい。では何がそうなのか。君は何かに耐えなければならない。ひたすら耐え続け、気づいた時には老いている。そういう成り行きに巻き込まれている。やはりそれは勝てるはずのない成り行きだ。それが目下のところの結論か。しかしそこで答えが導き出されたのではない。何を試みていたわけでもなく、自然の成り行きに身をまかせているとそうなってしまう。なぜそれに勝とうとしているのか。誰が勝つ見込みのない戦いを繰り広げているのか。そこで誰が何と戦っているとも思えない。おそらく戦っているのではないのだろう。おそらく無駄に歳月を重ねているのだ。そう述べて何を卑下しているとも思えないが、経験しつつあるのはただの成り行きに過ぎない。そして何かを施されている。フィクションでは防ぎようのない作用だ。それは作り話などではなく、ただの現実なのだ。誰もが経験することなのだろう。だからさっきから終わりが見えているわけだ。君は終わりに近づくことはできても、遠ざかることはできない。それでも意識は遠ざかろうとしているわけで、遠ざかっていると思い込んでいる。無理に決まっているだろう。無理なのにあきらめようとしない。なぜ無理を承知でそれを続けているのか。何を続けているのか。何でもないことなのに、それで行き着くところまで行き着こうとしているわけか。しかし行き着くところとはどこなのか。死に決まっているだろうか。それ以外のどこを目指しているのか。無駄に言葉を連ねているだけではどこへも行き着かない。そう思っているのならそれでもかまわないか。何がどうなろうとかまうはずがなく、かまわないはずもない。どちらにしてもどこへも行き着かない。そういう成り行きではらちがあかない。どうにもならないまま深夜に突入してしまったようだ。そして数日後の朝を迎える。とりあえず現時点でわかっていることは、人は人を征服したがっているということか。他人の心を思い通りに操作したいわけだが、それがなぜ無理なのだろうか。ただの独りよがりに過ぎないからだ。そして無理だとわかっていてもやろうとしてしまう。誰かはいつまでも何とかしようとしているらしい。君はなぜ文章の継続をあきらめきれないのか。そこまでやる理由がわからないが、結果としてやってしまうようだ。できないのにやってしまうから不完全な文章になってしまう。それで何をやっていることになるのか。誰かが中途半端に言葉を記している。今では何となくそれが当たり前のような気がしてくる。できなくて当たり前だ。できないからおもしろくないらしいが、どう考えてもできるはずのない状況だ。それは理解できないことではない。冗談でなら君は誰かの心情を理解できるのか。その場の空気を読めないのはもちろんのこと、決して飲み込みが早いわけではない。これから何をどう述べればいいのだろうか。たぶん記そうとしているのはそういうことではない。今は心が終わりに近づき過ぎている。何かのきっかけで終わってしまいそうで、不安と焦りで冷静さを欠いていて、いつもの調子を取り戻すことができずにいる。それらの作り話はごまかしで成り立っているはずだ。作者の都合を考慮に入れる必要がある。君はそこで何を思いつけないのか。今の心境にはどんな台詞がふさわしいのだろう。それをまとめるには知識と経験が不足している。言葉によってどんな展開に導きたいのか。それらの文章が信じられない。そういうやり方ではうまく表現できないのだろう。言葉のターゲットは君の感情ではない。狭い範囲内に欲望が渦巻いていて、それを真に受ければ誰かの仲間入りとなるらしいが、そこから抜け出るのは容易なことではない。要するにはまらないことが肝心なのか。君はそこからさらに遠ざかるつもりらしい。何も導き出せはしないだろうが、とりあえず言葉を記しているつもりにはなれるはずだ。誰かがどこかでそう述べている。君はそこである認識に至り、そうなることを信じてその先へ進んでいこうとしているわけだ。目の前に広がる荒野は果てしなく続き、誰かの思い込みを遥かに超えた域に架空の世界がもたらされているようだ。どこまで歩んでいっても景色が変わることはない。人々には目的があり、それは幸福になることか。安易に結論に至るならそういうことだろうが、そんなのは嘘に決まっている。実際には暇つぶしに生きている。それも嘘なのかもしれないが、あまり感情的に反発してしまうと、本来の目的を見失ってしまうだろう。君たちは死に至る病にかかっているわけか。程度の差こそあれ、誰もがそうなのかもしれないが、限られた範囲内にしか存在し得ないのが人の欠点であり長所なのだろう。


7月20日

 なぜそんな雰囲気にのまれているのか。相変わらず冗談ではないと述べておこう。どうも近頃は支離滅裂に拍車がかかっているらしい。半ばやけくそ気味に言葉を記しているのかもしれないが、何か理由でもあるのだろうか。わざとらしく何も導き出せない。それで何を嘆いているのか。漢字が読めないだろうか。クレームを付けているわけではない。たぶんいつもながらの偶然の巡り合わせなのだろう。そんな風に語っているのだから、それなりにそれらの文章には真実が含まれている。少なくとも冗談ではない部分もあるらしい。君はそこで何を優先させているのか。それは間違っていないか。間違っているとしたら何を改める必要があるのだろう。人は働いていないと生きてゆけないらしい。金があればそうでもないか。では改めて述べると、人は金がないと生きてゆけないらしい。金がなくても働かなくても生きてゆける方法を模索しているわけではない。いつかはそんな世の中になってほしいと思っているだけか。それはあり得ないことだ。現時点では考えられない。考えられないが、そんなことを夢想することはできる。誰かはあり得ない未来を夢想しているらしい。なぜそんなことを夢想しなければならないのか。働くのが嫌になったからか。それは昔からそうだろう。何も今に始まったことではない。働くのがいやなら死ねばいいか。そう簡単にはいかないようだ。死ぬのがいやなのか。誰でもいやだろう。ならばもう少しまともなことを考えなければならない。働くのは仕方のないことだ。それを前提として生きてゆかなければならない。そういう状況が気に入らないようだ。別に無理に生きてゆくことはないし、無理に死ぬこともないだろう。現状は現状でそういうことなのだ。それを受け入れているから、そんな現状の中で生きている。だから何だというわけではないが、そういうことでしかなく、それがいやならそれはそれで仕方のないことだ。そんなあきらめの言葉がいつまでも頭の中で循環している。なぜそんな馬鹿げた成り行きを受け入れなければならないのか。無理にそうなっているわけではなく、自然の成り行きなのではないか。強引にそれを変えようとしても、挫折するに決まっているだろうか。やってみなければわからないが、やる気にならないのではないか。いったい何をやる気になる必要があるのだろうか。やらなければならないことが思いつかず、言葉を記すことがやらなければならないことだとは思えないが、そういう成り行きで言葉を記していることは確かで、何を語っているわけでもなく、自己言及もどきの文章をひたすら記している気もするが、君には自己がない。記しているのが君ではないからか。今はそういう込み入ったわざとらしさにも飽きているはずだ。飽き飽きしているにも関わらず、そういうことしか述べられない現状があるらしい。そんな現状の中で誰かはひたすら言葉を記しているわけで、それがやらなければならないことではないことは明らかなのだが、なぜそれをやっているのか。理由を示せないだけだ。それが理由ではないのかもしれず、理由でなければ何なのか、という問いを誘発するために架空の理由があるらしく、そのあり得ない理由を利用しながら文章を記し続け、そうやって誰かは嘘をついているのだろう。それは簡単な理由だろうか。意味がわからないだろう。文と文がつながらなくなり、何を語っているのかわからなくなる。架空の話の中では確かにそうだ。そしてそんな話はあり得ない。誰かが記しているのとは違う話などそこには記されていない。君はそれについてどう思っているのか。それも偶然にもたらされた文章なのだろうか。その気もないのに言葉を記せるはずがない。だから誰かは嘘をついているわけか。そんな予定調和の無限循環を言葉で示しているのかもしれない。それを誰に向かって語りかけているのでもない。君には関係のないことだろう。関係のないことに首を突っ込もうとしているのでもない。ただ画面を眺めているのだ。冷めた意識がその辺を漂っている。蒸し暑いのに、心は冷めきっている。情熱が欠けている。夢を抱くことができないのだ。すべてが馬鹿げている。馬鹿げているからそんなことを述べられる。本気になりたければそういう厭世観を心から除去する必要がある。回りくどい言い回しだ。本気でそんなことを思っているのだろうか。たぶんどこかにきっかけが転がっているのだろう。それは良くなるきっかけだったり、悪くなるきっかけだったりするのだろうが、それを拾うのが面倒くさいのか。黙ってそこを通り過ぎ、さらに遠くまで歩んでいこうとしているらしい。しかしそれは架空の世界だろう。架空の世界の中で歩んでいても、他者には巡り会えないだろう。もちろん他者に巡り会うために歩んでいるのではないだろうが、もしかしたら誰に巡り会うために歩んでいるのでもないかもしれず、ただひたすら歩んでいるのであり、何に巡り会うこともなく、何を気に留めることもなく、それは何でもないことでしかないような歩みなのだ。今は音楽を聴いているようだ。さっきから聴いている。いつまでも聴いているのかもしれない。目的も理由もなく、ひたすら音楽を聴いている。それで心が和むだろうか。そんなことのために聴いているのではない。


7月19日

 どうも遅れを取り戻すことが難しくなってきたようだ。誰かは何かのついでにそんなことを記している。何か良い方法はないものか。誰からも何も教わっていないようだ。切羽詰まった状況から何を学ぶ必要があるのか。やめてしまえばいいことはわかっている。他の誰かがそれらの状況を説明しているはずだが、ありふれたことを述べるのはあり得ないことだろうか。いったい君は何を語っているのか。何を語ればいいのだろうか。そういうことではないらしい。それらの作業は仕事ではない。それによって苦しめられているとは思わないが、他で苦しんでいることは確かだ。たぶん何も思いつかないだろう。それがわからない。だがわからないという回答ではだめだ。わかりようがないことに答えなければならない。無理にそう述べているからおかしくなる。本当に何も答えようがないのだろうか。興味がないようだ。君は何について考えているのか。壊れているのは誰なのか。求めようがないことを求めている。それは解答ではない。誰に何を教えようとしているわけでもない。ただ文章になっていない。そんな気がするだけで、他に何があるわけでもないが、誰かを見損なってしまったわけか。やはり何に対しても興味がわいてこない。切実に感じることがない。危機とは思わないのが危険な兆候か。では何が終わりの時を迎えようとしているのか。終焉を巡る言説が有効だったのは世紀末の時代だ。今はいつの時代なのだろう。戦国時代ではない。今から思えば何でもない。それらの言説が何を担っていたとも思えず、とうに忘れ去られてしまったのかもしれない。今は思想なき時代であり、冗談としての哲学すら流通しない。だがそれですべての人が幸せになったのではないか。馬鹿になれば幸せなのか。ではわざとらしく苦悩しているつもりの君は、この世の何を馬鹿にしているのか。また指先にろうそくを立てたトランぺッターが適当な音を奏でている。音楽を馬鹿にしているわけか。そうではなく、マイルスをリスペクトしているのだろう。君には神を敬う気持ちが欠けている。だから果てしなく呪われているのではないか。自らは何も行動に訴えないのが、誰かの性格的な欠陥を伺わせる。そして奇妙な文章とともに自己言及もどきを発動させているわけだ。それで何を述べているつもりなのか。まともな言説を導き出せずにいらだっているのかもしれない。だがそれでどうしたというのか。その先にどんな言葉を連ねようとしているのか。気の利いたことは何も述べられそうもない。しかし教育問題はその後どうなったのだろう。たぶんそこに競争がある限り、教育とは試験に受かることだと短絡した者の勝ちなのかもしれない。そして勝った者には悲惨な末路でも待ち受けているわけか。一概にそうともいえないだろう。試験に受かれば受かったらでそれは良いことなのだ。成功への道が開かれているはずだ。勝者はそう思い込んでいればいい。敗者のことまで考える必要はないだろう。しかし勝つためにはどうすればいいのだろうか。塾の講師でも招いて補習授業でもするのが関の山か。しかし誰が何に勝つつもりなのか。小中学生や高校生が受験に勝利するつもりなのか。君には関係のないことではないか。誰かにとっても過去の話だ。本気になれるはずがないだろう。それの何をどう改革したところで、試験に受かるためにはどうすればいいか、という話でしかない。馬鹿なんじゃないだろうか。馬鹿だからこそ試験に受からなければならない。どうやらあまり建設的なことは述べられないようだ。今さら子供の学力が諸外国と比較してどうたらこうたら述べる気にはなれないだろう。毎度おなじみの考える力が足りなかったりするわけか。単純な計算力や暗記力には長けているが応用力がいまいちだったりするのだろう。その手の紋切り型を信じている人が多いらしい。よく見れば誰かが口が火を噴いている。怪獣か何かのたぐいだろうか。ゴジラの着ぐるみは暑苦しそうだ。君はわざと関係のないことを述べるのが好きのようだ。文章になっていないだろう。だがそれで何が困るというのか。やる気を失っているだけか。漫画やアニメの中では誰かが何かと戦っているはずだ。君は音楽を聴きながら文字を記している。そして時々テレビ画面も覗き込む。何に興味があるわけでもないのに、禁断症状が出るらしく。視線は自然とテレビ画面へと向いてしまうようだ。それでさっきまで何を考えていたのか思い出せなくなっているわけか。そのとき君は何を侮っているのだろう。何かの影響力を無視して話を進めていないか。何かとは何なのか。何でもないから何かなのか。そう述べてしまうと出口が見えてこない。心が揺れているわけではない。ミイラが君に何を語りかけているのでもない。それは映像だ。ただの言葉が映像について語ろうとしているが、語っているのは君ではない。誰かが言葉を記しているつもりになり、君がそれを読んでいるつもりになる。回りくどいことを述べて誰かを煙に巻いているつもりだが、まったくのでたらめだ。架空の話について何を語ればいいのか。何も語れないから言葉を記している。君には不可能なことだ。それ以上の展開はあり得ない。話にならないわけだ。


7月18日

 やる気がないのだろうか。そうだとしたらそれは空想ではない。そんなのはわかりきったことか。ならば言葉の他に何が必要なのか。出来事に遭遇する必要がある。空には雲が必要だ。快晴だったらどうするのだろう。空には電波が飛び交っている。風が吹いている。そんな気がしているだけか。何かに関する情報が欲しい。記された言葉が何をもたらしているとも思えない。そこからどのような話に進展することもないだろう。誰かはそれを進展させなければならないと思っている。言葉が違っている。絶望的な状況ではない。実際に水で薄められた水を飲んでいる。泥水ではないはずか。何かが必要なのだ。言葉とは違う何かを求めている。何かの存在ではない。それをつかみかけているのかもしれない。架空の話だ。他に何を隠そうとしているわけではない。期待は忘却に変わるだけだ。言葉はすぐに遠ざかり、その場での出来事を忘れさせてくれる。何を語っても、それは違うと感じてしまうらしい。そんな状態で誰かの期待には応えられないだろう。いったい何に問題があるのか。すべてが問題だと言わせない気か。昼が暑すぎるのかもしれない。何を検索したかったのか。その言葉を思い出せないまま夜になる。そんな現状を否定しても仕方がない。君は未来からやってきたわけではない。逃げようとしても逃げられない。二日後は薄曇りの天気だ。わかっているのはそういうことなのだろう。言葉が現実をつかみきれていないようだ。それらの雰囲気が何をもたらしているとも思えない。やる気のなさがまたいつもの逃避行動を招いている。耳を澄ますと蝉の鳴き声が聞こえてくる。奇蹟とは何だろう。兵どもの夢の跡というわけでもあるまい。夢は廃墟に埋もれて形をなさない。在りし日の面影はなく。そこで何かをやりたかったのはこの世の者ではない。亡霊は何を訴えかけているのか。君には聞こえない。何も聞こえないふりをしている。彼は何を批判したいのか。何にこだわっているとも思えない。何でもありそうだ。少なくともそれに耳を傾けているふりをしなければ何も聞こえてこない。そんなはずがない。ただそう思いたい。無理であることはわかっていて、立ち直れないこともわかっているつもりだ。それでもかろうじて踏みとどまっている現状があるらしいが、そこからどうなるかはわからない。何とかしようとしていることだけは確かなようだ。それで何とかなっているのか。すでに二日前だろう。できないのならできないままにしておけばいい。それはできない相談か。相談でも何でもない。いったいそれをいつまで続けるつもりなのか。何を続けているのかわからない。たぶんそういう話ではなかったのだろう。答えはすでに出ている。人は何のために生きているのでも死んでいるのでもない。そういう当たり前の答えに疑念など差し挟む余地はないはずか。君は国家のために死ねるか。答えが出ているのに、その答えに逆らってどうするのか。何のためにも誰のためにも死にはしない。では生きている事実はどうなるのか。何のために生きているのだろう。果たしてそれに答えが必要なのか。必然性を感じられない現状だ。求めているのはそういう答えではないのかもしれない。そもそも誰が何を求めているのか。時と場合によってはそうなのだろう。何も答えられない現状に満足している。さっきまで答えていたつもりのそれはすべて嘘になる。できればそうであってほしい。やり直しがきかなくなる。枯れ木に花を咲かせようとしているのではなく、朽ち果てるがままに放置しようとしているのだろう。人は何のためにでも生きられるし、死ぬことだって可能だ。容易い。真剣に考えるべきことではない。それに関しては馬鹿げた物言いに終始すべきなのだ。本気になってはならない。他人の生き様にも死に様にも感動すべきではない。たぶん何かが馬鹿げている。その馬鹿げた感触をなおざりにしてはならない。誰かが生き様や死に様を他人に見せつける場面に立ち会うつもりはない。たぶんそういう成り行きも物語の中で出くわすはずだ。だから最後まで読まずに捨ててしまうのか。それは違うと思う。何が違うのか答えられるだろうか。いったい誰に答えてほしいのか。物語の中の登場人物ならさっき目の前を通り過ぎていったはずだ。記憶違いということもあり得る。それに関して何を覚えているのだろう。何を思い出すべきなのか。何も思いつかず、にわかには何も思い浮かばない。すべては過ぎ去ったことだ。今さら過去について反省するつもりはない。反省したくても思い出せず、実際に何をやってきたのかわからない。それは誰でもない自分のことだろうか。他に馬鹿げた歴史的経緯ならいくらでもありそうだ。君が関与してそうなったわけではなく、関係のないことだろう。時間の不可逆性を改めるつもりはない。改めたくても神がそうさせないか。何をやろうとしているのではなく、ひたすら言葉を記し続けている。二日遅れでわけのわからないことを述べているわけだ。本心ではそれだけではないと思いたいようだが、その場の成り行きがそう思わせてくれないらしい。果たして二日後の君はそこで何を思うだろう。そことは部屋の中でのそこなのか。あるいは作り話の中で登場人物が生じているそこか。


7月17日

 どうやら翌日は雨のようだ。これから雨が降るのだろう。何かが経過している。それからだいぶ時が経つ。何に気づいたわけではない。夕暮れ時の空は晴れている。明日は暑くなるそうだ。日付的には明後日のことになる。それは何でもないことか。北欧にも藁葺き屋根があるのだろうか。画像は北米の風景かもしれない。誰かがそれを眺めている。何の感想も感慨もない。それらの出来事が君を無視している。君はそこから遠ざかれない。単純な結論にたどり着けないようだ。君は世の中を誤解している。馬鹿にし過ぎているのではないか。雲ひとつない快晴を思い、次いで何のことやらわからなくなり、気まぐれにそんなことを述べているのだろう。そこから何を感じ取ろうとしているのか。逃げ場がないわけではない。何かの生け贄になるわけでもない。おどろおどろしい話はごめんか。また何かを水で薄めているようだが、アルコールか何かだろうか。センスがない。他に何が足りないのだろうか。まだ実現不可能な夢でも抱いているわけか。実際は何に向かっているのでもない。月並みな夢以外は何もありはしない。それでかまわないのだろうか。誰に問うているのでもないようだ。誰かが風を集めている。他の誰かがそんな歌を聴いている。誰が何を演奏しているのか。それでも何を問うているのでもない。問いかける対象を知らず、偽りの問い以外には何も記すことができない。妖怪とは何だろう。何か得体の知れぬ存在か。まるで興味がわいてこない。そこまで支離滅裂に語れば十分なのではないか。誰にとってそうなのでもなく、満足からはほど遠い出来か。それでどこから遠ざかっていることになるのか。誰に尋ねているのでもない。問いかける限界を遥かに超える隔たりがある。わけがわからない。わかろうとしていないだけではないのか。いつもの言葉が循環している。だからそこで行き詰まっているわけだ。誰かにしては早すぎる行き詰まりだ。早すぎて文字を記している気がしない。今度は田園地帯の画像が映し出されているようだ。それを眺めているのでもなく、ただ音楽を聴いている。今は精神を集中させて何かをやる時間帯なのだろう。そうでないと特有のこだわりを示せないか。それは何の予行演習なのか。やっていることはたかが知れている。価値など何もない。そう思ってもらって結構だ。何について語っているのでもなく、誰と誰が関わっているのでもない。誰がその超絶技術を評価するのか。君はそれを眺めているだけだ。冗談に違いない。くだらぬ妄想にはつきあいきれないか。今さらそれはない。それよりもう時間がないのではないか。そんなところで何をやっているのか。何をやっているようにも見えないのはどういうことなのか。そのままの光景に溶け込んでいるだけか。蛍光灯の下で文字を記している。星空の下では空想に耽り、暗闇の中でろうそくを灯す。誰かには光明でも見えているのだろうか。それが希望の光というわけではないが、わざと間違ったことを述べるにも限界がありそうで、心の中で何かが後を引きずっている。だが表現的には意味不明だろう。やはり何をどう述べても支離滅裂なのだ。それらの意味不明から抜け出ることはできないようだ。まったく説明しようのないことであり、説明が説明になってないような文章になっていて、何となくごまかしのような気がしてくる。君はそれらの何を知り得たのか。大したことではない。冷房が寒すぎるだけだ。それでやる気をなくしているが、やめるわけにはいかないらしい。そんなところにもこだわりがあるようだ。そうなるまでに通過しなければならない前置きが多すぎる。要するに一時的な使い捨てを繰り返している。それでどこにたどり着こうとしているのか。君には避け難い試練にでも直面しているわけか。何を試されているわけでもなく、他の誰を試しているわけでもない。それはやはり何でもないことだ。あくびとともにそう語るだけか。どこまで語っても何ももたらされず、何について語ろうともしない。たどり着くべき地点から遠ざかり過ぎて、周りをいくら見渡しても、目印となるようなものは何も見当たらず、どうしていいかわからずに呆然としているのは誰だろう。そういう語り方が気に入らないのだ。何をいくら語っても、何がもたらされているわけでもない現状を変えるには至りそうもない。そんなことを述べている者が何と決別できるわけがないか。それらの空疎な無内容は絶えず何かを裏切っている。だが何が期待されているわけでもないだろう。これ以上何がどうなってほしいのか。どうにもならないからそんなことを述べているのであり、どうにかなりそうな雰囲気を感じられず、誰かは語るのをあきらめ、またもや居眠りの最中のようだ。そうやって何かに気づくべき機会を逃し続ける。それでも終わりがすぐそこまで迫っているのか。何かの終わりが近いことは薄々感じているようだが、そうなる運命を変えることはできないだろう。それは決して予言ではない。君はどこかで何とかしようとしているようだが、悪あがき以外をやることはできない。すでに心が枯れている。資源が枯渇しているのだ。頭の中に適当な語彙がない。それを示す言葉を導き出せず、適合する意味を提示できないようだ。わかっていることはそういうことでしなく、それとは何の関係もないことを語ろうとしているだけのようだ。


7月16日

 それらの気分は誰かに何かを気づかせようとしている。すぐ近くで何かの破裂音がしたようだが、それに関して文章は何も語らない。きっと気のせいだろう。また今日も昨日の話を言葉でなぞろうとしているようだ。それは嘘だ。何を語ってもその場の気まぐれで嘘になる。それとは何だろう。なぜ嘘をつく必要があるのか。本当はそうではないと思いたいだけか。そう述べる理由がわからない。鈍感なのか。あるいは原因を突き止めようとしていないだけか。少し画像がぼやけていないか。他に何を語る理由もない。そう思いたい。目に映る光景は荒廃している。さっきから説得力に欠ける説明に終始しているようだ。それで何をぶちこわしにしているのか。語ることに飽きているらしい。見上げているのは夜の空だ。それも嘘だろう。部屋の中で黙って画面を見つめている。水面に映る影を眺めているわけではない。水で薄められた飲み物用な物を口にする。アイスコーヒーか何かだろう。何かではなくそのものかもしれない。君は信頼に足る人物ではない。人脈とは何だろう。何かの共同体を維持継続させるにはその手の人脈が欠かせない。その手のとはどの手なのか。何を誰かの想像にまかせようとしているのか。孤立している者には思いもつかぬような共同体なのだろう。日本という国家の強みはその手の村落共同体の存在か。そういう幻想を抱かせるのは、誰もが内向きの思考を有しているからか。いったい君は何について語っているのだろう。君には幻想を抱くような成り行きが用意されていないらしい。それが幸か不幸かわからないのか。何かが彼にとっての利益となり得るのか。それを模索しているわけではないが、利益を目指さないことをやっているつもりのようで、そんなことはあり得ないとも思っているようだが、とりあえずそんなややこしい心境を振り払うことができずにいる。誰にとってそうなのだろうか。それはあり得ない話だったのだろうか。少なくとも物語ではない。何かの進化形態というわけでもない。ただの文章に違いない。他に何を語っているわけでもなく、語ろうとしていることすら語っていない。そうやってわざと矛盾させたいだけだ。何と何が矛盾しているのか。君が矛盾させたいのではなく、自然にそうなってしまうのだから、それについて改めて何を説明するまでもない。しかしそれでは何もわからずじまいだろう。それの何がかまわないのだろうか。心が淀んでいるようだ。唐突にそんなことを記してしまうが、それもいつもの嘘に違いない。すべてがその場しのぎなのだ。話に脈絡を感じられない原因はそんなところにある。君はこの世界の何に対峙しているわけでもなく、その一部分を存在として構成しているに過ぎない。では他に説明として補う言葉すらないのか。大げさな成り行きは避けなければならず、そこに生じている個人的な心情の肥大化を見過ごしてはならない。そこで誰が曲芸的な意見を述べているのか。すべてを共同体と外部の関係に還元してはならない。空疎な説明に終始しているようだ。それがすべてではない。たぶん欠陥があるのだろう。確かに見過ごされる欠陥が多すぎるが、それをいちいち指摘して回るのもおかしい。構築物は必ず何らかの欠陥を含みながら存在しているものだ。欠陥も時と場合によっては必要不可欠な要素になる。欠陥を見つけてそれを改善していくのが誰かの仕事になるらしい。たぶん人はそのためのみに生きているのだろう。だから世界が欠陥だらけであることに感謝しなければならない。そんなわけでこれから暇つぶしにはもってこいの作業が君を待ち構えているはずだ。わけのわからない話の展開になっているようだ。世の中を理解するには一筋縄ではいかない。そういう表現は間違っているのではないか。いつまでも心に迷いがあり、そこから先に言葉を繰り出せずにいる。相変わらず何を語っていることにもならないようだ。語る理由がわからないようだ。誰に何を知らせたいのか。意味がわからない。語っている途中までは目的らしきものがあったはずだ。聞いているのは音楽ではない。言葉はどこにあるのだろう。ごまかしやまやかしでない意味がどこに示されているのか。相変わらず理由がわからない。なるべくしてなってしまう成り行きなどあるはずがない。君はそれを信じることができない。文章ではない文章などあり得ない。ただの戯れ言だろう。どこまでも戯れ言なのだ。そしてそれで何を否定していることにもならない。できないことをやろうとしているわけではなく、ただ言葉を記している。それで何を構成しているつもりなのか。街中をいくらさまよってみても誰にも巡り会えず、空想の世界に誰かの居場所があるらしい。そこも村落共同体を構成しているわけか。君には知り得ないことだが、組織とは何だろう。誰が組織の中で居場所を探しているのか。君は何に戦いを挑んでいるのか。すべてが戯れ事であるはずがなく、崩壊する一歩手前に村落共同体的な幻想を抱く人がいる。表向きは競争を押し進めているふりをしながら、裏では談合を繰り返していたわけだ。そういうやり方が今まさに限界に達しようとしているのだろうか。そういう単純な成り行きではない。そうなる前に醜いごまかしが横行するしかないだろう。


7月15日

 どうも君は文章の中で功利主義と利己主義の差異を考慮していないようだが、なぜ執拗に功利主義を利己主義の水準におとしめようとしているのか。功利主義に染まった者たちが偽善者のように感じられてしまうのはどうしてなのか。それは否定すべき行為とは思われない。幸福を追求するのは良い行いに違いないが、それが結果として幸福に結びつくとは限らない。良い行いが裏目に出ることもあり得る。そんなことは百も承知で、それでも幸せになりたいのだろう。利己主義とはそういうところから出てくる。功利主義と利己主義をわざと混同して述べているかもしれないが、要するに功利主義は建て前で、利己主義が本音であり、それらを併せ持つ欲望の別々の側面を示して、表裏一体をなしているわけだ。万人の幸福を追求するのが功利主義で、個人の幸福を追求するのが利己主義だと使い分けられているが、それはご都合主義もいいところだろう。利己主義のいいわけとして功利主義が唱えられる。利己主義であることを隠すために功利主義があり、体裁を取り繕うためには功利主義者を演じる必要があり、自らを利するためには万人の幸福を追求している姿勢を示さなければならない。政治家などはそれの典型だろう。功利主義とはそれを演じることしかできない主義なのであり、意識しているにしろ無意識で演じているにしろ、主に他人を欺くために用いられ、たいていの場合、功利主義者である前に利己主義者であることに当人が気づいていない。それが政治家であろうと、宗教指導者であろうと、無自覚な利己主義者ほど始末に負えない者はいない。大掛かりな詐欺事件の首謀者などはそうなのかもしれない。多くの投資家から金を集めて、結局ねずみ講的に破綻するわけだが、案外本気で金を出したすべての人を儲けさせて、幸せにしたかったのかもしれず、そういう思いが強ければ強いほど、投資家を集めた会合などで熱弁を振るえて、迫真の演技で多くの人をだますことができるのかもしれない。またそういうたぐいの人だけでなく、程度の差こそあれ、世の中には様々な立場で功利主義が幅を利かせていて、例えば我が子のためには金銭や労力を惜しまない教育熱心な父母とか、教え子のためなら何でもやる指導熱心な教師とか、部活の鬼コーチとか、その手のニュースを彩る人々はみんな功利主義者ではないだろうか。最近ではそういう熱心さが裏目に出て、我が子が秋葉原の通り魔になってしまった父母もいるようだが、笑い話ではなく、そういう人々に共通している雰囲気は妙に暑苦しい。しかしそういう熱心な人々に叱咤激励されながら、本当に誰もが夢に向かって努力しなければならないのだろうか。そうだとしたらこの世は本当に救いようのない悲惨な状況かもしれないが、その一方でどうしても冗談としか受け取れないような気分でいる。みんな馬鹿なんじゃないだろうか。たぶんそれで正解なのだろう。オリンピックやプロスポーツに関するドキュメンタリーなどをたまに見る機会があるのだが、そこで繰り広げられている血のにじむような努力のほとんどが気違い沙汰のようにしか感じられない。なぜそこまでやる必要があるのか。日々努力する者たちは悲惨この上ない。この世界にはそれらの悲惨な者たちを賞賛しなければならない決まりでもあるのか。そして彼らに賛辞を惜しまないメディア関係者たちは、本当にそれらの行為を見て感動しているのか。この時代に支配的な物の見方や考え方に染まってしまった人々にとっては感動して当然なのかもしれないが、誰かにとっては受け入れ難い感動のようだ。それらの痛ましい光景がパラダイムとなって人々の神経を麻痺させているわけか。果たして良心はどこにあるのだろうか。しかしパラダイムとは何か。それでこの世の何を否定しても仕方がないが、現状にはそこに至る必然性が多少なりともあるようで、偶然の巡り合わせだけではそうはならないだろう。何らかの意図や思惑が絡まってそんな成り行きになっているのだ。それを後からどうこう批判してみても仕方がない。いったい何を反省しているのか。やる気にならないようだ。今日は語り過ぎなのではないか。やっと今日という日にこぎ着けたというのに、またしてもそこで力つきてしまうのか。それもいつものパターンに違いない。それから長い時間が過ぎ去ったようだ。何を記しても言葉的にぱっとしないが、それで何を評価しているつもりなのか。安易に不完全なことを述べている。何もかもが未完成だ。これでは終わりようがない。そして今日を取り逃がして明日になってしまったらしく、実質的に何がどうなっているわけでもないのにうろたえている。そんな現状がどこにあるというのか。別に不安を煽っているわけではなく、どんな幻想を抱いているわけでもない。たぶんそれは嘘だろう。将来に対する幻想を抱いていないと誰かは生きていけないのではないか。絶望するよりは幻想を抱いている方が精神衛生上良いのだろうか。君は将来どうなりたいのか。それでこの世界がどうなってほしいのか。誰がそういう方向性を追求するのを期待しているわけではない。君には他にやらなければならないことが山積しているはずだ。だから今こそそれに取りかからなければならない。


7月14日

 行き止まりの先には何があるのだろう。居眠りの最中に昨日の夢の続きを見られるだろうか。そんなことを述べている場合ではない。すでに手遅れなのではないか。そうだとしたらもうおしまいだろうか。それはどんな嘘なのか。嘘ではないとしたら、そこからどうすればいいのだろう。たぶん行き止まりの先には何かがあるのだろう。そう思っていないとやっていられないか。何をやっているつもりなのか。文字を記しているだけか。冗談でならそういうことになっている。冗談でなくてもそういうことだ。それ以外に何をやっているというのか。何が重要なのでもない。子供に教えることは枝葉末節の付け足しに過ぎない。他人から教わる前に自分で考えなければならず、それがどのような気休めになるわけでもない。気休めだと思うなら、そういう気休めを仕事にしていれば済むことだ。何よりも根拠が希薄だ。他人から教わるにしても、自力でたどり着こうとするのも、あまり本気になれるようなことではない。どちらでもかまわないし、それについて何を語っても嘘になる。君はそこで何を求めているのか。何をしなければならないのだろう。何もしなくてもかまわないのではないか。ことによるとそれに間に合ってしまうかもしれないが、いったい何に間に合ってしまうのか。誰に何を問いかけてみても無駄だ。それは終わりではない。君の終わりでも誰の終わりでもなく、それで何に区切りがつくわけでもない。では何に惑わされているのか。何に対する信頼が失われているのか。今まで信じてはいけないものを信じてきたのではないか。あまりにもそれに無自覚だったのだ。何かを達成させるための口実として教育を持ち出してくるのは間違っている。夢を叶えるために努力することも間違っている。たぶんそう述べてしまうこと自体も間違っているだろう。本来ならそういう言説自体を無視して語らなければならないのだ。どうでもいいこと以前の問題なのではないか。あえて語らなくてもいいことまで語ってしまうのは蛇足以外の何ものでもない。しかしその蛇足の積み重ねが文章となっていることも確かだ。子供に何かを教えることで何が達成されるわけでもなく、それは気休めや自己満足やいいわけのたぐいだ。正しいやり方ではない。そこにとどまろうとする限りにおいて、そこで教えている人間による思考停止が繰り返されるのだ。そうやって馬鹿な子供を大量に育成して、社会の停滞を招いている。そういうことではないだろう。それも違うような気がする。本来ならこの社会にあるべき姿など何もないはずだ。目指すべき理想という考え方が間違っているのではないか。結論が出てこないのが当たり前の成り行きであり、そのつど以前とは違うやり方が模索され、しかもそれでどうなることもないのがこの世界の実態だ。人はそこに無理矢理結論を持ってきて、何か答えが導き出されたかのごとく振る舞いたいのだ。それが間違っていることは百も承知で、何か一定の結果が出たかのように思い込みたいのだ。そうでなけば何を達成したことにもならず、それまで積み重ねてきた努力が無駄になってしまうような気がするわけだ。努力が何の成果にも至らないことはあり得ないと思っている。自らのやってきたことが無駄だったとは思いたくない。たぶんそんな不安を振り払うために結論ありきなのだろう。子供に何か教えていることが、よかれと思ってやっていることだと自己満足したいわけで、絶えず自らにそう言い聞かせていないとやっていられないのだろう。無駄なことを教えているなんて絶対に認めたくない。だがなぜそれが無駄でないのか。少なくとも将来において何かの役に立つはずだ。功利主義的にはそうだろう。自らを利するための知識を教育によって吸収してきたはずだ。ならばなぜそれが無駄だと思うのか。人が何のために生きているのでもないことが、その知識の用途を無効にしてくれるだろう。目的がなければそのために何を学んでも無駄なはずか。誰かはそういう正論を鼻で笑っている。そうだとしたらどうだというのか。教育によって学んだ知識が何かの役に立ったことを証明してみせればいいだけのことでしかない。証明しようとすればするほど改めて教育の有効性を再認識するのではないか。実際それに対する信仰が強固なものとなっていくはずだ。だから無駄だと言ってみても、それは無根拠で意味のないことか。たぶん目下の者に向かって教えようとする者は、自らの行いにやましさを覚えられないのだ。それがその手の功利主義者の浅ましいところであり、そういう浅ましさが無駄な競争を生み、競争に敗れた無駄な人々を大量発生させ、くだらぬ復讐心を蔓延させ、荒んだ世の中をもたらしているわけだ。それは結局人間社会が弱肉強食の動物世界から何の進歩もしていないことの証しとなるだろうし、富める者が貧しい者を搾取し、貧しい者が抱く絶望が暴力に結びつき、犯罪の絶えない世の中を永続させる原動力となる。たぶんそれが今この世に生じている魅惑のワンダーランドの特性なのだ。世界の至る所でテロや戦争が絶えず、ギャングがはびこり、一握りの富める特権階級が物資を浪費している一方で、大多数の貧困層が飢えている。それは冗談だろうか。たぶん誰かの作り話なのだろう。


7月13日

 誰かがそこで行き止まりの夢を見た。断崖絶壁に行く手を阻まれている。洞窟の夢はどうなったのか。真夜中に目が覚め、重大な事態に直面しているつもりになる。何を受け取っているのだろう。それは受け入れ難い回答か。それに対して誰が何に応じているとも思えない。気に入らないとすれば、いったいそれの何が我慢がならないのか。あまりにも短絡的な結論だからか。しかし途中の何を省略しているというのだろう。そこに人知れぬ努力と苦悩の日々が隠れているわけか。利いた風なことを述べているだけだ。現実には内容が何もない。そんなのはいいわけに決まっている。そんな気がしているだけで、それが真実だとは思わない。歩きすぎて足の筋肉が痛む。膝の具合も悪化しているようだ。そういう作り話はなかったことにしたいが、そうも言っていられない状況があるのだろう。少なくとも冗談ではない。ある程度の真実が含まれているのかもしれない。その中には君にはできないこともある。それは聞いたことのあるフレーズだ。誰にとっても不可能はないというわけか。話の展開に脈絡を感じられず、唐突に違うように思われる。急な思いつきなので成功するかどうかはわからない。君は誰でもない。やはり何を述べているのかわからないのか。気がつけばまたそんなことの繰り返しか。何をやっているのか理解できないようで、手探りの状態のまま、新たに迷路を増築中のようだ。誰がそれを理解できるだろうか。理解できないはずがない。ではなぜ君はそんなことを述べているのか。何が気になって仕方がないのか。それを誰がわかろうとしているわけではない。まだ回り道を歩んでいる最中なのか。無理なことを述べている最中かもしれない。ひたすら無駄に語っている。何も思いつかないのだから仕方がない。何でそうなってしまうのか。やはり最後は笑うしかないようだ。さらに語る必要性を感じられず、そこで終わりにしてもいいような感じなのだが、なぜかそれができない。蒸し暑さに耐えかねて深夜に目が覚めてしまっただけらしい。無駄に言葉を費やしてそんな原因を探り当てたつもりになる。いったいそれまでの逡巡や試行錯誤や紆余曲折は何だったのか。何でもないことだ。だがそれで傷がまったく治らなくなる。それは関係のないことだろう。何に苦しめられているわけでもない。かゆくて引っ掻いているから直らないのだ。それもひとつの理由だろうか。いったい何のためにそんなことをやっているのだろう。そういうことではなく、無意識のうちにやってしまうらしい。やはり理由などいくらでもありそうで、それを語るために何を述べているのでもないのだろうが、たぶんそれは暇つぶしのたぐいに違いない。心情的には気に入らない状況だが、それを我慢して先へ言葉をつなげていかなければならないようで、何とか迷路を脱して視界の開けた場所へ出たくなる。ところで今はいつなのか。二日前ではない。たぶん日付的にはそうなのだろうが、それより少しは前進しているつもりになる。本当にそうなのかもしれない。しかしそれの何が重大な局面なのか。やるかやめるか迷っているのではないか。翌朝に目が覚めたら違っていたのだろう。そんなことを考えている場合ではなかったのかもしれない。そこで何かを終わらせなければならず、さらに言葉を連ねて、何もなかったことにしたいらしい。確かに他意はない。何に苦しめられているわけでもない。世の中の常識から逸脱したことを述べたくなっていたのだ。だがそこで状況を見失い、そうではないような気がしてくる。何が常識なのか判別できなくなり、やはり自らが考えていることが何でもないような気になる。それでも馬鹿げていることは確かなようだ。思うことは何もなく、考えていたことも忘れてしまった。そんな心理状態が何もないことのいいわけでも形成しているわけか。考えられないのだからそういうことだろう。君が考えることではないようだ。興味を抱けないということか。では何のための文章なのだろう。言葉を記すだけでは満足できないはずか。それでどうこうなっているわけではない。その先を見据えることができず、その場にいつまでも立ちすくむ。何を見ているわけでもないらしい。くだらぬ政治状況なのだろうか。それが誰にとって好都合なのか。しつこいかゆみに悩まされているだけか。そこで何を解決しようとしていたのか。そうではない。たぶんただの政治ショーであって、何かを見せびらかそうとしていたのであり、おそらく誰が何を語ってもそうなってしまうだろう。誰もがそういう成り行きを眺めていたはずだ。観光産業ほどどうでもいいようなものはないだろう。誰かにきてほしいだけで、そこに宿泊して土産物を買ってほしいのだ。無駄で無意味な行為の連続であり、そういう本質から外れたことを期待しているのだから、まったく低次元の話だが、果たしてそれをそのまま受け止める必要があるのだろうか。ある地域では受け止めなければならないのだろう。とりあえずそういうことに地域振興の活路を見出そうとしているのだから、それはそれでそういうことなのだろう。ある意味では悲惨な話だが、それを悲惨だとは思わず、そういうことに期待を寄せているわけだ。そんな成り行きを否定しても無駄か。


7月12日

 暇にまかせてしばらくどこかに寄り道をしていたようだが、また性懲りもなく振り出しに戻ってくる。出口はどこにあるのだろう。すでに通り過ぎてしまったらしい。まだ誰かは迷路の中で迷っているのだろうか。君はこれからどこへ出かけるつもりなのか。どこで道草を食っていようと、それほど回り道をしている感覚はない。急いでいるというわけでもない。悲惨なのはそれを商売にしている連中か。それはどういう商売なのか。取り立てて何の話でもなさそうだ。そこまでたどり着けないのだからどうしようもない。一年限りの使い捨てにされるお笑い芸人のように、何か特長的な一発芸でもやるつもりか。それは苦し紛れというものだろう。たぶんその年の流行語になってしまったらおしまいなのだろうが、それはぬか喜びというやつか。どのようにウケても未来永劫脚光を浴び続けることはない。だから意識してそんなことを述べているのか。誰のことを述べているわけではない。何をやるのも苦し紛れであり、何をどう語っても苦し紛れになる。そういう成り行きの中で相変わらず何も思いつかない。何とかそこまで述べてきたのだから、それでかまわないのではないか。作り話の中では誰が他人を笑わそうとしている。何にだまされているのだろうか。君は誰をだましているのか。あからさまにそういう話にはならないが、気まぐれで君以外の誰かをだましているつもりになる。何かの冗談だろうか。外は土砂降りの雨だ。それはいつの記憶なのか。誰の記憶でもないだろう。また日付的にはだいぶ遅れてしまったらしいが、そこでじっくり考えている暇はない。それ以前に自らが利するように行動しなければならない。この際他人の迷惑など知ったことではない。誰かはかなり精神的に追い込まれているようだ。君の方は気晴らしにそんな嘘をついているわけだ。そこで発せられた言葉を真に受けてはならない。思っているのとは逆のことを述べている。そうではないような気がするのだが、結果的にそうなってしまうのだから、それはそういうことなのだろうか。やはり君はそうではないと思っているのか。いくら思い違っていても、何となくそのつもりであり、その事実は動かしようがない。実質的には何を語っているのでもないのだろうが、そんなことを述べている最中からそれとは別の話題に誰かの関心が移ろうとしている。さっきまで君は何について語っていたのか。それらの何を真に受けるべきなのか。真実とは何だろう。考え込むようなことではない。むしろさっさと現場を通り過ぎるべきなのだ。空疎に満たされた文章を完成させて、それとは別の作業を再開しなければならない。いったい何に衝撃を受けたのか。少なくともそれは君が語った内容ではない。誰もそんなことは語らない。語ろうとしても無理に決まっている。無理だからそれをやり続けているのではないか。くだらぬ冗談から派生した問題だ。問題でさえないのに問題だと思っているだけか。本当にそれが問題なのだろうか。たぶん何について語ろうとしていたのでもない。現状から言葉をたぐり寄せることができない。この世界はこのままでもかまわないような気がする。何ら改善する必要はないのかもしれない。思考がそこに至らないのか。何も考えられず、何も切羽詰まった状況ではなく、その場限りの刹那的なギャグにもついてゆけない。たぶんその辺に漂っている希薄な共通認識を共有することができないのだろう。言葉が自らに向かうことはなく、馬鹿げた事件が多発する外部の世界を嘲笑することもない。いったいそれの何が問題なのか。今さら口利きもないだろうが、いつの間にか教師という職業も世襲制になっている地域があるらしく、自分の子供を自分と同じ職業にさせたくて、採用の権限を持っている者に商品券を贈る風習が蔓延していたようだ。教育改革だ何だのと声高に叫ぶ者がいる一方で、そんなことを平然とやっている人たちがいるのだから、それがどういうわけでもなく、要するにどうということはない世の中なのだ。人は自らと自らの家族を利するために行動しなければならない。公共性がどうのこうの言うのは、あくまでもたてまえで、ひたすら心情的な功利主義なのだ。他人に向かって偉そうに説教することに快感を覚える輩は多いが、教師というのはそういう人たちの集まりなのではないか。要するに格好がつかない人たちなのだ。子供に何か適当なことを教えて金をもらっている。それだけでも恥ずかしい限りなのに、たてまえ的にはこの国の将来を背負って立つ子供たちを育成しなければならない。それだけでもギャグになり得る。いったい彼らは何のために教えなければならないのか。たぶん何も教える必要のない子供たちに教えなければならないところが、根本的に矛盾しているのかもしれない。それを職業としているのだから悲惨この上ない。そしてそれだけならまだしも、その上に自分たちの職業を自分たちの子供にも継いで欲しいのだから、それは凄まじい勘違いのなせる業だ。不正を働いてまであとを継がせようとしたのだから、呆れてものも言えない人が多いのではないか。まあそういう人たちが子供たちに教えているわけで、それはそれで人畜無害なことかもしれない。どうでもいいようなことでしかない。


7月11日

 誰かが戻り道を探している。落ち着いているわけではない。道にガラスの破片が散らばっている。印象的な光景か。抗っている流れの中に何があるらしい。君には見えない何かだ。他の何を見ようとしているわけではない。そしてそれが気に入らないことのすべてではない。何を語ろうとしているわけでもない。否定すべき何かを忘れている。何かから遠ざかっているようだ。思い出すべき何かを思い出せずにいる。なぜこの世界の中に存在しているのか。くだらぬ疑念を抱いているようだが、それは誰に伝えるべき情報でもない。もう少し勘を信じてみたらどうか。しかし言葉が分散しすぎている。何を語っているのかわからない。信じるに足る根拠など何もありはしない。どこに足かせが絡まっているというのか。発想が貧困か。記された言葉が現実から逃げているようだ。意識は現実に立ち向かおうとしているのに、なぜ逃げ腰の言葉が連なってしまうのだろうか。現実とは何だろう。わかりやすい現実ならニュースが伝えているようなことでしかない。そこに何を付け加えたらリアリティを得られるのか。言葉ではなく映像や音声か。安っぽい音楽にまみれて脳みそが白痴状態だ。そんなはずがない。ただ結論にたどり着けない。人を集めるにはわかりやすいスローガンを掲げる必要があるらしい。そんなやり方で誰かがどこかでデモ行進の最中だ。にやけたつらで何を馬鹿にしているのか。何かは三つの背景から成り立っているらしい。それらをいちいち説明できるだろうか。三味線の音色ではない。とりあえず君にはコーヒーが必要だ。コーヒーを飲みながら何を思うこともなく、ただ音楽を聴いている。考えるべき事柄を知らない。トランペットで何を語りかけているのだろう。ただ吹いているだけか。言葉で飾り立てたりはしないらしい。冷気さらされ、カフェインも加わり、次第に頭が冴えてくるような気がする。道路脇に転がっていた狸の死骸は一週間で薄っぺらい毛皮だけになってしまったようだ。近所に住んでいる人は片付けようとしなかったが、自分は腐りかけの狸の死骸を庭に埋めたことがある。オーストラリアの荒野の中にある道ばたにはカンガルーの死骸が至る所に転がっているそうだ。琴線に触れるとはどのようなことだろうか。わざとらしい問いかけには乗ってこない。動物の最後を哀れに思うことが大きなお世話なのか。出来事と別の出来事の間に関連性を見出せずにいる。人間の死骸なら切り刻まれて東京湾にでも沈められているところか。そんなニュースの後に話題がスポーツに移る。感性がどうかしているのだろう。魚の死骸は干されて酒のつまみになる。死骸という言葉の使い方が途中から間違っているわけだ。たとえそれが真実を伝えているとしても、不適切な表現になる。人はそこから何を想像し得るだろうか。ハエやゴキブリの死骸なら見向きもされず、ひきがえるが車にひかれてぺしゃんこになっているのを幼稚園児が興味深そうに見つめている。お前もやがてそうなる運命だ。誰が誰に向かってそう告げているのか。神でも悪魔でもなく、誰かの空想上の光景の中でそういう話の展開を期待しているのだろう。誰が何に驚いているわけでもなく、ありふれた光景の中に誰のかの意識が溶け込んでいるらしい。だがそれで何を説明したことになるのか。何らかの取捨選択が行われている。スピーカーからさっきとは違うトランペットが聞こえてくる。計算され尽くした言葉の配置ではない。狙っている効果が発動しているわけではなく、思っていることが違うらしい。何かの冗談なのかもしれない。記憶違いということもあり得る。立ちすくむような光景ではない。君が感じていたものとは違うようだ。駐車場の裏に何かの建設現場があり、そこがかつてのすみかだったのだ。何を具体的に示そうとしているのか。おもしろければそれでかまわないわけか。幻想の光景とは言い難い。映画を見ているわけではない。そこにどのような真実が映し出されているというのか。人は物を集めるのが好きだ。それが人間であるための必須条件か。そうとも言い切れないだろう。飽きれば捨ててしまう。必死に探し求めていた日々を忘れてしまうらしい。忘れっぽいことが人を正気に保っている。こだわり続ければオタクになるだけか。その辺が誰かの限界らしい。作り話の中にはたまに宅八郎が登場するが、まだ生きているのだろうか。それがおもしろおかしい支離滅裂だとは思わない。ロマンとは何だろう。わざと間違ったことを述べるなら、ローマ自体の詩人について思いを巡らすこととは違うらしい。まったく脈絡を感じられないが、そこに何らかの技術的な言語操作が得られることを期待しているわけだ。そうやって何かが得られる機会をうかがっているようだが、そこから呪術的な作用が得られるとは思わない。ただの言葉だろう。それが何かの落とし穴となっているとは思えず、つまずきの石でさえない。罠だと思えばそうなるかもしれないが、罠にはまったからといって、何がどうなるとも思えない。では何が間違っているのだろうか。すべては地球のためにではなく、実質的にはすべては人類のためにやっていることなのだろう。彼らが生き残るためには地球の温暖化を阻止しなければならないようだ。その時代のスローガンのひとつはそういうものだった。


7月10日

 認めようのないことだ。それは何だろう。何かが確実に動いている。確実に変わり始めている。そんな気がしているのは誰でもない。少なくとも君ではない。何かが行く手を遮っているようだ。また邪魔をする気らしい。誰かが何かに悩まされている。何かの力を得て、その先へ進もうとしているようだが、何かとは何なのか。何でもなければ何かではない。そこに何かが存在するのは偶然の巡り合わせらしい。それ以外はよくわからないことだ。理解力を計る基準を知りたいのか。何かの到来を信じているのだろう。どこからともなく水が流れる音が聞こえてくる。洞窟の中に地底湖があるらしい。すべてを遅らせているのだろうか。あるいは何か別のことを考えているか。たぶん違っている。わざとわけがわからなくしていることは確かだ。アレルギー反応か何かであって、ああなって当然なのだろう。最初は暗中模索の日々が続いてゆくらしい。そこから抜け出して安定した軌道に乗るのにかなりの時間を要する。だが誰かが挑んでいるのはそういう試みではない。何とか間を保ちたいのだろう。間とは何なのか。何と何の間なのだろうか。眺めているのは遠くの街だ。遥か遠くに入道雲がわき上がってくる。空は青い。君が眺めている風景からはかけ離れている。そこで何を記しているのか。それが空想された風景なのだろうか。意味のない疑問を呈しているらしい。何かが荒廃しているのかもしれない。またその何かという言葉を利用して文章を記述しているようだ。言葉と言葉のつながりがよくわからなくなり、言葉は記すが何も語っていないような気になる。何かが自ずから間違っているのだ。冗談も程々にしてほしいか。控えめな態度のままにいることはできない。黙っていると自己主張が頭をもたげてくるようだ。それは自然の成り行きなのか。人は人として振る舞いたいのだろう。何となくその辺に人としての規範となる紋切り型が設定されているらしい。だからありふれたことを述べなければ不自然な文章となってしまい、誰にとっても認め難い意味不明を含むようになる。君はそうなることを望んでいるのか。誰もがあきらめきれないままに老いていく。それが当然のことのように思われてきて、それ以外の可能性を思いつかなくなる。それが自然の成り行きなのだろうか。いったい他にどんな可能性があるというのか。そこで何かに飽きているようだ。だから何事も後だしじゃんけんにように行わなければならないのだろう。そうする理由が記されていない。だからという接続詞の使用法を誤っているのではないか。何が後だしじゃんけんなのか。すぐにごちそうに飛びつくのははしたないか。そういうことではないだろう。ではそれはどういうはぐらかしなのか。どうやら君は勘違いと的外れを極めなければ気が済まないようだ。君はどのような物語の巻き込まれているのか。それは西暦千九百八十九年の話か。月が真横に傾いている。あり得ないことだろうか。何を空想しているわけではない。そのまま突き進むことはないだろう。位置エネルキーが飛び飛びの値をとっている。そういう表現は好ましくないか。何を語っているのでもなく、物語などどこにもありはしない。何かを否定するためにそんなことを述べているようだ。すべては心の中にあるらしい。外へ漏れ出ることはないのか。秘密とは漏らされるためにあるらしいが、それは物語への興味を保つためにしか存在しない。何かの秘密を暴き立てることが物語そのものなのか。当たり前のことを述べないでほしい。ならばどこからどこまでが秘密なのか。何がどこからどこまでなのだろう。それは何でもないことか。何が何でもないのかわからない。頭を抱えてこちらを見ている。それは誰でもない誰かではなく、誰かの画像だろう。画面を暗くすると下を向いているように見えるが、よく見ればこちらを見ていて、目と目が合ったとたんに画面が暗くなり、またうつむき加減になる。また遅れてしまうのだろう。できないことをやっている気になるが、実際にはできないことではないようだ。ただ何かを記している。そのつもりになっているのだろう。気に入らないこと他にもあるらしい。たぶん先を急ぐべきではないのだろう。無駄に言葉を記して、そこでとどまり続けるべきなのか。いつまでもそんなことをやっていられないか。何が気になっているのだろうか。それは言葉ではない。言葉にならない雰囲気でもない。無駄ではないのかもしれない。無駄であったりなかったりするわけがない。やはりそれは何でもないことだ。ひたすら現世利益を追い求めているわけではない。そういうことではないのだろう。そこから無関係に飛び去ろうとしているとも思えない。言葉ではないのだから、そこに記されている可能性はない。文字にならない言葉という者があるだろうか。文字を持たない人々がどこか遠くの地域に暮らしているわけか。君に探す理由を求めることはできない。秘密ではなく、言葉でもないのだろうか。他にどんな物事の存在を想定していたのか。存在し得ないようなものを求めているのではないはずか。何となくくだらないような気がしている。何もそこまでやる必要はないだろう。だから話がつまらなくなってしまったのではないか。だからというわけではないが、うまくいかない理由はいくらでもありそうだ。その辺で何か勘違いをしているのだろう。


7月9日

 やはり何かが違っているらしい。語り方に進歩が感じられない。記しつつある文章をどのように進化させればいいのかわからない。そういう段階ではないだろう。その遥か手前で破綻していないか。苦し紛れに周りを見渡してどうするのか。たぶん見飽きた風景の中に何かがある。そう思い込んでいるならテレビでも見た方がましか。それを見飽きたと感じるようになれば、テレビ画面も風景の一部と化すだろう。何に関心があるわけでもないが、一般的に興味深いのはそれらの映像か何かだろうか。あるいはそこで発せられている呪いの言葉か。しかし呪術には限界がある。関心のない人を呪詛で動かすことはできない。それでも宝探しには犠牲がつきものか。ある種の映画の中ではそうなのかもしれないが、それが見る人に向かって何を語りかけているのか。ただ感動させたいのか。感動した後はどうなるのか。映画にもある程度は効用があると思わせる。だがそこで語られているのは紋切り型の話らしい。人に理解可能なことを語っているのが致命的だ。人に理解できても君には理解不能か。理由が一向に見えてこない。それで何を語っているとも思えない。人はそこから何を学ばなければならないのだろう。そこで君は何を無視しているのか。ただ行き当たりばったりで言葉をつなげようとしているだけか。だからそんな語り方では無駄なようだ。筋道も何もなく、話にすらなっていないのではないか。そんなわけでできないことは何をどうしようとできはしない。できないから語ることを放棄しようとしている。だから語ることの不可能性があるのではないか。何も感じさせない不可能性だ。だがそれで何を述べているつもりになっているのか。だからどうしたわけでもないが、昨日とあまり変わらない状況に呆れている。できないことはできないままにしておいた方がいいのかもしれない。無理にやろうとすると空疎な内容になってしまう。だから楽しいのではないか。だからではない。では強がりややせ我慢を肯定しなければならないのか。なぜそうする理由が生じてしまうのか。さっきから自己言及的にかなり馬鹿げたことを述べているようだが、なぜそれでかまわないのか理解できない。君に理解してほしいとは思わない。たぶん呪いの言葉には人を動かす力があるのだろう。それを信じている者の不安感を煽り、心の動揺を誘っているのかもしれない。想像できるのはそういうありふれた理由だ。何が理由なのか。そこには具体的にどんな言葉が記されているのか。他の誰かが読んだ通りの言葉に違いない。君にはそこまで空想できないだろう。語っているのは誰の物語でもない。ただの文章だ。ただの文章などあり得ない。ただでないから文章となるのではないか。実際には何もないはずがない。たぶん君にはその内容が理解できないだけなのだろう。理解させようとして何を述べているのではない。だから誰かにとっては意味不明に近づいているように感じられる。そんなのは嘘だろう。要するに何でもないわけだ。何でもないからわけがわからなくなる。それも嘘か。そう思い込みたいのなら、いくらでも思っていて結構だ。ところで呪いの言葉はどこへ行ってしまったのか。君は何を呪っているのか。人はなぜ虚無に近づくのか。何でもないことを求めているのだろう。意味も理由もないが、次第にわけがないからわけがわからなくなり、そうなってしまうわけを知ろうとしなくなる。ただあるがままに時間が経ち、それについて何も考えようとしなくなり、目の前の仕事に明け暮れ、何でもない人生を送るはめになるだろう。それがありふれた生き方なのだから、君もそういう成り行き沿って生きてゆくだけだ。だがそうなってからでは遅いのではないか。君はそのときそこで何をやろうとしていたのか。真にやりたいこととは何だったのか。現状ではやりたくもないことを仕方なくやらされているだけではないのか。本来ならそんな状況下で暇つぶしに音楽を聴いているだけは済まないはずだ。何をどう済まそうとしてもそこから逸脱する成り行きになるはずだ。だからそこからどうなるのか具体的に説明してほしい。言葉で説明できないのなら、それはどういうことなのか。まったくの無理であり、不可能であるような事象が起こるわけか。それはあり得ないことだが、あり得ないことが起こるのがこの世界の特性のはずだ。しかし特性とは何だろう。現状では言葉以外は何ももたらされないはずか。作り話の中では確かにそうだろう。実際には何が起こっているのだろうか。同じような内容が果てしなく記されていて、結果的に空疎な内容になっているだけか。そうであったとしてもそれをやめるわけにはいかないのだろうか。何をやめようとしているのかわからない。ちなみに作り話の中では誰が何をやっていることになっているのか。そこで誰が呪われているわけではないが、呪いの言葉にはどのような力が備わっているのだろうか。それはさっき述べたことだろう。ではなぜ君は言葉で人を操ろうとしているのか。果たしてそこで何が成り立っているといえるだろうか。さらにわけのわからないことを述べるためには何が必要なのか。また冗談でそんなことを述べているのだろう。冗談でわけがわからないふりをしている。


7月8日

 君はそこで何を見出したのか。またそれか。そこで何を理解しなければならないのか。真実を知りたいか。深夜に窓を開けたら羽虫が飛び込んできたようだが、感知しなければならないのはそんなことではない。君にはわからない。なぜそうなってしまうのだろう。問いかける対象を見出せない。それでも無駄に問いかけているのだから、そんなことはどうでもいいことか。その結果として、また同じようなことを述べているようだ。それで気が済むとは思えない。気が済まないからさらに問いかけようとして、無駄な問いかけに拍車がかかるわけだ。そんなことの繰り返しにうんざりしてしまい、それでも執拗に言葉を並べようとするから、呆れてしまう。今度こそ冗談に違いない。だがそれでどうしたというのか。何に嫌気がさしているわけでもない。だから冗談なのではないか。それだけなら何でもないことだろう。今語ることができるのはそういうことだ。何かを突き放している。それが言葉なのか意識なのかわからないが、何となく誰かの意識がそういう雰囲気に包まれているようだ。他に何がどうなっているわけでもない。何をどうしようとしているわけでもなく、ただそこに何かが存在している。そうやって言葉を記しているわけだ。どうやってそこから転調したらいいのか。しかしそれでかまわないような気がするのはなぜだろう。何か信じられる物事でもあるわけか。そういう成り行きの先に何が待ち構えているのか。何もないような気もするのだが、それでもそれでかまわないような気もする。何もこだわりを感じられなくなってしまったらしい。いくら蒸し暑くてもかまわない。何を強がっているわけでもない。たぶん今はそれほど蒸し暑くないのだろう。冷房の中でそんなことに気づく。何でもないことだ。何をどう考えても何でもない。すべてはこの世界の範囲内で起こっていることだ。ひっきりなしに生じてくる欲望もそれらの何でもない現象からもたらされている。人は絶えず何かをどうにかしたいと思っているらしい。疑念を抱いているのも無理はない。君はこの世界の中で何を求めているのか。ありふれたことを思い、ありふれたことをやっている。それだけでは気が済まないのも当然の成り行きだが、それこそがありふれた成り行きだ。どこにも出口が見当たらないが、何を取り返さなければならないわけでもない。時間はまだたっぷり残されている。何をやる時間でもないが、それでもそれなりに時間がある。それは眠るための時間だろうか。少しうとうとしかけてしまったらしい。たぶんそういうことなのだろう。何を確認したいのか。他に何をやったらいいのだろうか。まだ何も決まっていない。おそらく運命は決まっているのに、それを受け入れられないようだ。それでもそういう運命が待ち構えているのだろう。そういう成り行きに沿って歩んでいく。それがもたらされた心境なのか。そこで何を受け入れているのか。ただの独白もどきになっている。それ以外に何を語れるのか。それも受け入れなければならない成り行きの一部なのか。確認しなければならないのはそういうことか。人がうごめいている。どんな心境に達しようと、それで満足できない人々が右往左往している。大半の人たちは日々働いているのだろう。空疎な思いを抱いているわけではない。目標に向かって努力している人もいる。なぜそんな些細なことに疑念を抱かざるを得ないのか。ただうごめいているだけはだめなようだ。日々の糧を得なければならない。中には必死の思いで何かをやろうとしている人もいる。それは誰かの思い違いで、実際には大半の人たちがそういう成り行きに甘んじているのだろうか。しかしそこから何をどうしなければならないのか。不具合が生じている地域では改善が試みられているのだろう。うまくいかない状況をなんとかしなければならない。それでうまくいくとは限らないが、とりあえず試してみなければ状況はそのままだ。そうすることで何らかの変化を期待しているのだろう。だがそれで気が済むのか。いったい何がどうなれば気が済むのか。そういう言い回しが的外れなのかもしれない。他に何か状況に即した述べ方があるのだろうか。同じような語り口の無限循環から逃れる術を見出せない。そのままではまずいのだろうが、それを変えられないようだ。そんな行き詰まりを承知しながらも、それを延々と繰り返してしまうのはどういうことだろう。惰性でそうしてしまうわけか。慣性の法則が働いているわけか。次第にいいわけがましくなってきて、それを正当化せずにはいられない成り行きになりつつあるようだが、それを裏切るには言葉が足りない。この気に入らない状況を何とかしなければならないのだろうが、やり遂げるには気力と根気に欠けるようで、そして気がつけば自己言及に陥っていて、ひたすら状況説明に終始している現状がある。それで何を語っていることにもなりはしない。やはりそんな風にして言葉を連ねられる状況を何とかしなければならず、わかっていながらそうなってしまうことを、今こそ改めなければその先へ進めないか。しかしそれが冗談だと思ってしまうのはどういうわけか。また疑念を抱いてしまうが、それも何かの繰り返しを示しているのだろう。そういう成り行きなのだから仕方がない。


7月7日

 まだ昨日の日付のようだ。時間的には今日なのに、日付的には昨日だ。だがそれがどうしたわけでもなく、少し焦りながらも、相変わらずこうして無駄に言葉を連ねている。人は死ぬまで生きている。何も語ることがなくても言葉を記しているのと同じだ。語る理由がわからない。自問自答の繰り返しにはうんざりさせられるが、それしかできないのだからそうなってしまう。他に何の理由が必要なのか。この世界が存在することに理由が必要だろうか。そういう話ではない。この世界に君が存在する必要があるだろうか。君の他に誰が存在しているのだろう。誰もが暮らしている。生きている人は皆この世界に住んでいる。それがどうしたわけでもないが、当たり前のことを当たり前のように述べることに違和感でも感じるのか。今はそうではないと述べておこう。冗談でならそういうことになってしまうが、いったい本音がどこに隠れているというのか。この世界はあからさまに存在している。そんなことに感動してどうするのか。他に感動することなんて何もありはしない。そういう決めつけによって何がもたらされるというのか。この世界があろうとなかろうと、それは誰にとっても関係のないことだ。ハエにつきまとわれている。気に障るのはどういうことなのか。君にとって関係のあることとは何か。ハエを振り払ってどこへ行くつもりなのか。何も思いつかないようだ。行く当てがないというわけではないだろう。帰る先ならあるにはある。今はそこに向かっている途中なのだろう。そしてひたすら言葉を連ねているつもりになっている。他に何を語るつもりもない。今語っているのがそれなのか。それとは何だろう。何でもなければそれではないか。それでなければ何なのか。人について語っているのではない。誰について語っているのでもなく、ただ言葉を循環させている。それで何を語っているつもりになれるだろう。そのつもりになれなくても語っている現状があるらしい。自然現象には逆らえず、偶然の巡り合わせを利用しながら前進していかなければならない。君の思惑が君から外れているようだ。誰かがわざとそんな風に述べている。音楽を聴いているようだが、今さらジョニ・ミッチェルはないか。何年か前に死んだギタリストの曲を聴いているようだ。他に何を気にかけているのか。君はそこで死にかけているのか。そうだとしたらそれは作り話に違いない。いったいどこから逃れ去ろうとしているのか。誰の知ったことでない状況に直面しているのか。そんなに話をはぐらかす理由を知りたくなるが、そんなことはどうでもいいのだろう。やはり誰の知ったことでもない内容を述べているのか。冗談ではないらしい。冗談であったらいくらか救いもあるだろうが、本気で述べてそれなのだから、やはり救いようがないか。たぶん今は沈黙の時間なのだ。誰に語りかけるべきではないのかもしれず、ひたすら自らの内面に引きこもり、何か思索に耽っているような振りをしなければならない。考える対象がないのにそれはないか。それでも何とかしているつもりなのだから救われない。現実に何とかなっていると思い込んでいる。君の願いはどこに置き忘れてきたのか。そういうことではない。何かを願わずにはいられない季節ではない。まだ終末に至っていないわけか。君が気づかないだけで、すでに終末のまっただ中なのかもしれない。便利なことは嫌いか。簡単にどこへでもいけるような幻想を抱いているのが間違っているわけか。それの何が幻想なのだろう。君が向かっている先には何があるというのか。たぶんそこは目的地ではない。さまよいさすらうのが作り話の中での行動パターンだ。行く当てがないのにどこかへ向かっている。しかし誰が旅をしているわけではない。誰かはひたすら言葉を記し続け、さかんに作り話があるかのように語りたいらしいが、それがまったく思いつかないのだからどうしようもない。何もないのに語ろうとするから破綻を来す。それの何がおかしいのか。いったい何が限界を超えて作用しているのか。君はそれがそれらの文章の中にあると思っているようだが、今のところは見つかっていない。ならば何を語ってもどうしようもない。たぶん仕事を完全に離れたところに幻想があるのだろう。不可能な自由を満喫することもなく、ただ現状にとらわれ、そこから遊離できずに、夢を抱き続け、夢と現実が乖離している現状を呪うこともなく、夜の闇にまぎれながら、どこか遠くへ逃げ去るつもりもないようで、今ある現状に染まり続け、虚無的な思いを振り払うこともせず、そこでそのまま生きているわけだ。それだけのことでしかないが、それだけのことがすべてなのだから、それ以外があるわけがないだろう。ならば君はそんな現状をぶち破る機会が偶然に訪れることを願っているわけか。今はそうではないと述べておこう。嘘でもかまわないからそういうことにしておきたい。現実は現実以外の何ものでもなく、作り話でさえない。だからそんな話はなかったことにして、その先にさらなる言葉を加え続けなければならず、そうすることで何かの機会を呼び込もうとしているのだろうか。そんな成り行きを狙っているとは思えない。それはあくまでもそれだけのことだ。そうでしかないからそんなことを平気で述べている。


7月6日

 またこんな時間となってしまったようだ。何が導き出されるような時間帯ではない。深夜に音楽を聴いてどうするのか。ただそんな気分になりたい。ひたすら言葉を記しているつもりになる。芝生の上で何かを打ち合っているようだ。行き詰まるラリーの応酬には耐えられない。結果だけをニュースで知る。それでどうしたのか。何か感動するような光景に出会ったのだろうか。今日は昨日から始まるらしい。人は何を聞きたくて他人の話に耳を傾けるのか。それの何がおもしろいのだろう。虚無的に述べてはだめなようだ。安易に語り始めてはいけないらしい。気がつけば何かの羅列になっている。言葉ではない。それではエピソードにならないだろう。何に対してもどのように振る舞っているのでもない。見せびらかすものなどありはせず、何に寄りかかっているのでもないようだが、それでは話にならないのではないか。芝生の上でのボールの打ち合いはもう終わってしまったのか。どこかで続きが行われているのかもしれない。またどこかで道に迷っているのだろう。人はなぜあんなことに熱中しなければならないのか。おもしろいからだろうか。当たり前のことを言わないでほしいか。たぶんその後に破滅が待っているのだろう。君は音楽でも聴いていれば気が晴れるのだろうか。演奏している人は音楽に熱中しているのだろうか。冷めているわけにはいかないわけか。言葉が君を見捨てている。冗談でそんなことを述べるのにも限界がありそうだ。何事も全力でやり遂げなければならないが、そういう基準でやっているわけではない。今さらそんなことを語っても無駄か。無駄なら語らなければいいが、無駄と知りつつ語っているわけでもない。絶えずそうではないと思い続けているのだろう。君にも意地があるわけか。気に入らないことには反発すればいい。それだけのことなのに、そんなつまらなさに耐え続けるのも一苦労か。いつものように矛盾している。人はどこまでも人に近づきたいらしいが、それは意味不明だ。人が人でないわけがないだろう。人でなければ何なのか。何でもなければ人でないか。そういうことを述べたいのではないが、実際に述べているのはそういうことだ。それの何が気に入らないのか。無駄に言葉を連ねているのはいつもの通りだろう。今もそんな言葉を繰り返し記している。ひたすら同じようなことを述べている。それだけで何をやっていることになるのか。しびれを切らして誰かがそこから退いてしまう。そこから退場する人はいくらでもいる。間が持たないのかもしれない。でくの坊は勘が鈍い。そんな風にして自らを追い込むことはないだろう。どこに窮地があるのか。切り抜けなければならないような困難に遭遇できない。たぶんそれが今回の冗談のすべてなのかもしれないが、何が冗談になっているというのか。何かの振り出しに戻っている。ボードゲームをやっているわけではない。野球盤は壊すためにある。君自身が壊れているわけだ。話題など何もない。だから何を後ろ向きに語る必要もない。わざと言葉をずらしているだけか。戸惑わせるための仕掛けなどどこにもない。それをそのまま信じていいのだろうか。他に何を信じているというのか。この世界のどこに信仰の対象があるというのだろう。たぶん信仰がさかんになると、そこにある文明が末期的な様相を呈してくるのだろう。大した理由もなくひたすら何かを信じてしまうことが、考えることを放棄している証拠となり、神に救いを求めてしまうこと自体が、それ以外にすがる術がない絶望のただ中にいるということだ。いくら努力しても報われないことを悟ってしまえば、あとは神頼みになるしかない。そうなる前に何らかの解決方法が見出されなければならないわけだが、それをあきらめた瞬間から人は祈りの世界の住人となってしまうのだろう。そういう意味で祈る人々は怠惰なのかもしれない。努力に努力を積み重ねた末に人は怠惰になる。あとは祈ることしか残されていない。たぶん祈ることは気休めのたぐいなのだろう。祈っている暇があったらさらに努力し続けていればよさそうなものだが、やはりそれでは心身共にもたないのだろう。たとえ一時的に努力を怠っても祈る時間が必要なのかもしれず、祈っている間に気を落ち着けて、やがてやってくる破滅の時に向けて覚悟を決めなければならないのだろう。なぜ彼らはそうやって神に祈りを捧げながら滅び去っていくのか。古今東西そういう同じような成り行きにはまってしまうのが人の業というやつか。文明の崩壊にはそういう信仰がつきまとい、過去のどのような文明にも、たぶんそうなる兆しがどこかに見え隠れしているはずだ。例えば造形とは何か。縄文時代末期の複雑な形状をした土器が何を語っているのか。終わりが近づくと何もかもが大げさな表現形態をとるようになり、それが終わりの一歩手前であることを告げているわけだ。その初期には素朴な造形であった土器が、その用途を越えて過度な装飾性を身につける時、それはもはや使い物にならなくなった証だ。美とはその内に破滅の前兆をはらんでいる。殷王朝の青銅器などにも同じような印象を得るはずだ。その禍々しい造形に人心が魅せられている間に、自分たちの生活基盤が消失している。


7月5日

 言葉が出てこなくて焦っているようだ。考えられないことはいくらでもある。状況はいくら月日が経っても何も変わらないようだ。何がどこへ向かっているのでもない。どこへも向かわないだろう。感覚がない。ここは世界ではない。たぶん感覚がおかしいのだ。なぜそんな場所でさすらうはめになってしまうのか。まったく空想が働かない。ここが世界でない理由はない。言葉遊びのたぐいだ。だが抽象的なことではない。せこい計算は通用しない。それと関連性のありそうな事象を探している。世界のどこかで誰かが働いているらしく、君はそれが日本人である必然性を感じない。誰である必要もなく、誰でもかまわないのかもしれない。人が増えれば自然が破壊され、自然が破壊されれば人が減り、人が減れば自然が復活する。そんな循環では人は気に入らないらしい。自然は人によって保護されなければならない。人によって破壊される自然を人が保護しなければならないわけだ。そんな人が抱く傲慢な論理を打ち砕くために自然がある。冗談をいうならそういうことだ。さっきから何を眺めているのか。君は傍観者なのか。君が知っているのはそういうことだ。それでは何の解決にもなりはしないだろう。気がつけば外は夕立のようだ。時間的にはもう夜だろう。紙の上を墨汁が流れ出す。何やら模様が浮かび上がってくる。誰がそれに見とれているのか。ただ時間だけが過ぎ去ってゆく。さっきからテレビを眺めている。何も思いつかないのだから仕方ないだろう。だがそのタイミングで言葉を繰り出さなければならない。美が見出される時間か。冗談でそんなことを述べているのだろう。ただの彫像に見とれている人がいる。そこからどんな話にもなりはしない。誰が何を解説しているわけではない。しかしそれが無駄な言葉の連なりを構成している。やはり何が見出されているわけでもないらしい。何を解決しようとしているのでもない。しかし何もやらなければ何ももたらされない。それでも何かがもたらされているはずか。無為自然を貫く覚悟でもできているわけか。唐突にわけがわからない。人は何のために存在しているのか。そういうことを述べるために君が存在しているわけか。君が語っているとは思えない。しかしなぜそれを繰り返すのか。何を美しいと思っているのだろう。やはりわけがわからない。少なくともこの世界は人が存在することで美しくなくなっているはずだが、そこで何か矛盾していないか。何かを美しいと思うのは人であって、人がいるから美しいという言葉も存在していて、人がいなければ美という概念自体が存在し得ないだろう。それでも人がいるからこの世界は美しくない。それはどういうことなのか。人が眺める風景に人がいては興醒めなのか。君はそこから矛盾以外の何を感じ取ろうとしているのか。また冗談でそんなことを述べている。他に何を思いついているのだろう。ならば次に出てくる言葉で遊んでみよう。できないことをできると思い込んでみる。それはどんなことなのか。何かが違っているようだ。綱渡りのロープの上でバランスをとっている。それが何を意味するわけでもない。映像は絶えず人を驚かそうとする。大げさな仕掛けだが、すべては画面上で起こっている光景だ。君はそれについてどう思っているのか。何を実感したいのか。沈む太陽のような光景だ。何のたとえでもなく、ただ見たままでしかない。沈まぬ太陽なら白夜を体験できる地域に出向いてみれば経験できる。そこで何を感じようとしているのか。徒労に終わるしかない試みに何かの真実を見出したい。もはや焦っているのではないらしい。余裕があるわけではないが、空疎な内容を受け入れようとしている。それらの感覚を当然の帰結に結びつける気か。何を驚いているのか。何を放棄しようとしているのだろう。答えの返ってこない問いかけが繰り返される。そこに誰かの自由があるようだが、自由とは何だろう。限られた範囲内で行使される権利のようなものか。誰がそれを知りたいわけではない。そこで聴いているのはただの音楽だ。それが直接自由という言葉に結びつくわけではなく、回りくどい言い回しを経由して、何かのついでに発せされるわけだ。偶然の巡り合わせように装われる。何かのにおいがこびりついているようだ。そしてそのタイミングで繰り出されるような言葉ではない。どこまでも外れて行ってしまうらしい。気持ち的に乗ってこない。何かを失いたくないのだろう。人はそこから保守的に振る舞おうとする。自己同一性を見失うのが怖いのだ。だからひたすら同じ場所に回帰し続けるのか。そこに安住の地があるらしいが、実際には幻想を抱いているわけだ。過ぎ去る時を捉えたような気になる。栄光に彩られた不滅の歴史という概念を保持したい。要するに日本という言葉にすがりつきたいのだ。日本には過去から連綿と続く不滅の歴史があり、その歴史に培われた日本人という希有の才能を有した集団の存在を幻想したいわけだ。彼らの心のよりどころとはそうしたものなのだろう。君はなぜそれを笑うのか。あまり馬鹿にするとばちが当たるかもしれない。八百万の神からの攻撃で呪い殺されてしまうか。たとえそういう末路になったところで、それも冗談のたぐいとして片付けられてしまうのだろう。


7月4日

 またはじめから行き詰まりの展開だ。なぜそうなってしまうのか。たぶん今日も何を語ろうとしているわけでもないのだろう。君たちはこの世界で何を夢見ているのか。夢見ることで今ある現状を変えられるだろうか。また冗談でそんなことを述べているのか。誰がそんなことを述べているのだろうか。君ではないのか。簡単に現状を変えるにはどうしたらいいのだろう。今やっていることをやめてしまえばいい。簡単にはやめられないか。ならば今のままの現状だ。そんな自問自答にはうんざりさせられる。たぶんそれも冗談の続きなのだろう。それ以上に何を変える必要があるのか。本気になればいい。そして投げやりな態度を改めるべきか。君がやらなければならないのはそんなことなのか。では他に何をやればいいのだろう。さっきから同じような言葉を循環させているだけだ。それで何かをやっていることになるのか。さっきから何を自問しているのか。冗談の続きならもう飽きたはずだ。実際にうんざりしている。だがそれでもわからない。わかろうとしないのだろう。なぜ私はひたすら沈黙を守っているのか。私という言葉を忘れていた。そしてわざとそんなことを述べている理由を知りたくなる。私以外の誰が知りたいのだろう。たぶん君ではない。それは興味を抱かせるような話ではない。誰かはどこかでありふれたことを述べているようだが、それをなぜここで語らないのか。理由などなく、ここではうまく立ち回る必要はない。それより現状に対する冷静な分析が必要か。そういうことではないのかもしれない。語っている誰かが自分なのだろう。冷静になってみればそういうことだ。他の誰かは何も語らずに言葉を連ねる。君にはできない芸当か。その誰かも自分ではないのか。誰にとってもそれは虚構だ。他に何を見飽きているわけでもないが、今日は話が一向に見えてこない。すでに二日後になっている。何もなければ内容もないが、できることならその内容を知りたい。言葉に溺れかけているわけではない。何を強気になる必要もないだろう。無駄にテレビを見すぎている。それが原因ではないのかもしれないが、ただそんな風にしか語れないだけか。特に何を語っているわけではないと思うわけだが、そこから何か適当なことを思いつかなければならないのだろうか。すでに思いついているそれが適当な文章を構成しているのではないか。眠っている間に夢でも見ていたのかもしれないが、現実の世界では意味のない幻想が見出されているはずだ。無駄に言葉を連ねるためにはそれが必要なのだろう。脳裏にこびついてはなれないような光景があるらしく、それを文章にしなければならない。まったくの虚構だろう。そんな経験をしたことがないだろうか。何も思い出せない。たぶん外は晴れているのだろう。雨音を聞いていない。それはいつの記憶なのか。忘れられない記憶というものは何かの邪魔をしているようだ。君はそこで何を忘れようとしているのか。忘れようとして忘れられるものではない。ならば必死になって何をやろうとしているのか。今さら悪戦苦闘というわけでもないはずか。他の誰の言葉に反発しているわけでもない。蒸し暑さに耐えかねて、夕立でも期待しているのだろうか。夢の中で激しい雨音を聞いた覚えがある。だがそこで語ろうとしてたのはそんなことではない。たぶん虚構の自分は何を期待しているのでもない。では何をあきらめているのか。期待がなければあきらめることもない。客観的には何を主張しているわけでもないらしい。ならば何をはぐらかしているのか。何もないことはすでに明らかなはずだ。要するにこの世界に存在し得ない君に、何を期待するきっかけももたらされないということか。誰が存在し得ないのか。誰かはまた嘘をついているようだ。少なくとも君という言葉は存在している。何をはぐらかしているのか。誰かは自問自答の罠にはまっていないか。罠だと見なしていること自体がおかしい。それはまるでとってつけたような言い草だ。わざとそう述べているだけだろう。実際には誰が何を述べているのでもないらしく、そんな何でもない文章の中で、何となく近頃は笑うしかないようだ。笑っているふりをしているわけだ。笑えないのに無理矢理笑っていると述べる。本当は空疎な内容の連続に呆れているのだろう。そこから何をどうしようというのか。でたらめでも述べていればいいのかもしれない。それは投げやりな発言だ。誰の発言でもないか。結局そんなことを述べているうちに何もわからなくなる。たぶん暑すぎるのだろう。暑すぎて何もやる気がしないのか。今はそんな風に思っていてもかまわないのかもしれない。どうにもならない夏の暑さにやられて、体調を崩してしまったらしい。何も語れない状況でそんなことを記すのはおかしいか。何か滑稽な気分になっているようだ。やはりそこで笑っていなければ正気を保てないか。だが深夜のテレビはつまらない。その時はたまたまそうなのだろう。おもしろい内容の時もあり、たまたま今日はそれに出くわしていないだけか。だがそんなことを述べていること自体がつまらないのではないか。今日はつまらない告白の連続で終わってしまうのだろう。


7月3日

 今日はどうしたわけなのか。どうもしなければ何でもない。いつまでたっても何がどうなるわけでもない。あきらめの心境になった理由を知りたくなるが、そんなのは嘘に決まっている。やはり今日も無駄に言葉を連ねなければならないらしい。誰によって強いられているわけでもない。では何が自発的な試みなのか。しかけられた罠にはまっているとも思えない。行き詰まっていることは確かだが、ただの停滞だろう。いつものことなのだ。何をしかけようとしても無駄だ。言葉にならない雰囲気を醸し出している。何がそうなっているわけでもない。ただの意味不明に決まっている。何を述べているわけではない。それが気に入らないらしい。君は何か適当なことを述べていないと気が済まないのか。しかしそれは適当ではないだろう。当てずっぽうであり、何を語ろうとしているのか実際に語ってみなければわからない。何か気が利いたことを語るためにはどうしたらいいのか、妙案などありはせず、いつもその場しのぎの苦し紛れなのだ。何を語るにも疑念がつきものだ。そんなことを語ってどうするのか。自己言及以外の何ものでもない。それだけにとどまるわけにはいかないだろう。では何をどうすればそこから抜け出られるのか。近頃はそればかりだ。誰かはそれ以外の何かを求めている。それだけではつまらないのだろう。思い出とは何だろう。唐突に何を述べようとしているのか。何か適当なことを思い出そうとしているのだろう。そんな虫のいい話はない。また昔の曲を聴いているらしい。君の真意を確かめたい。何かが壊れてしまっているわけか。たぶんそういうことなのだろう。疲れているに違いない。すでに明日になっている。冗談で何を述べているのだろう。気持ちがそこから退いている。真夜中に雨が降っている。何かを語っているようだ。そこに何かの残骸がある。文章の残骸か。音楽の残骸かもしれない。残骸を目の当たりにして何を思えばいいのだろう。耳の穴の中がかゆい。熟慮する気がしない。何かに対する配慮が欠けているわけか。何が違っているとも思わない。間違っているのは誰かの方か。言葉が誰に向けられているとも思えない。記されているのは熟考を要さない言葉の連なりだ。それでも何かについて述べなければならないのだろう。自己以外の何かについて語る必要がある。さっきから思っているのはそういうことか。誰が何を思っているのだろう。そうではないと思いたいが、何も思っていないふりをしているわけではない。では何を思っているのか。それ以外の刺激を必要としないのかもしれないが、それとは何だろう。何かがおかしいことは確かだ。そんなことしか述べられないのだからおかしいに決まっている。君は何でもないと述べていたはずだ。誰かが君でないことは明らかか。ならばどうだというのか。たぶんそこからは何も出てこないだろう。何を語っているわけではない。雨が小やみになってきたようだ。わざとそうしているのだろうか。いったい何に躓いているのか。眠たくなってきたようだ。まぶたが閉じられる時も近い。そして寝て起きれば翌朝になっている。深夜の時間帯は無駄だったらしい。何も語ることはできなかったようだ。言葉を連ねられずにいるらしい。そんなことを述べても無駄か。人は何について語らなければならないのか。それを探しているうちに文章が終わってしまうだろう。たぶん限界に近づいているのだ。語る題材もないのに言葉を連ねようとしている。馬鹿げたことをやっているわけだ。それも冗談のたぐいなのだろうが、それにしても何もない。天気は晴れていて、これから寒気が入り込んで雷雨になるらしい。いつまでたっても自らが行動する理由を見出せず、ひたすらそこにとどまり続けるが、そこは架空の場所だ。現実の誰かはひたすら働き続けている。現実と作り話の中との間に生じている落差を埋め合わせることはできない。作り話とは何だろう。君はその詳細をまだ語っていないはずだ。それについては何も思いつかないのではないか。それでは作り話にならないだろう。それでも嘘なのだろうか。いったい君はそこで何を語ろうとしていたのか。一夜明けた今となっては何のことやらさっぱりわからなくなってしまったようだ。そんな状況で何も見出されていない事実を認めても仕方がないか。何を認めようと、それで何がどうなるわけでもなく、何をどうしようとしているわけでもない。そんなことを記しながらも、誰かは笑いが止まらなくなり、腹を抱えて転げ回っているわけではないが、もう一息で何とかなるような気がして、必死に言葉を記そうとするが、絶え間なく襲ってくる眠気と怠惰な気分に打ち勝てるわけがなく、誰かは仕方なくそこで作業を中断するしかなさそうだ。そして翌日の夕方になり、ため息をつきながら、さらに無駄な言葉を連ねてゆく。わけがわからない。そうまでして何を語ろうとしているのか。君の意図をはかりかねる。今度ばかりは見捨ててしまってもかまわないのではないか。誰かは何を見捨てるつもりなのだろうか。そういう疑問がわざとらしい。すでに君は誰かに見捨てられているはずか。しかしそれにしてもわからない。無駄に言葉を連ねているのに何とも思わないのはどういうわけか。ただ興味がないだけか。自らが記している文章に興味を抱けないようだ。


7月2日

 別にそれほどの紆余曲折ではないが、それで窮地を脱したわけではない。何の話なのかわからないだろう。ただそこから遠ざかれないだけなのだ。何も思いつかない現状に変わりはなく、そこからどうなってゆくわけでもない。この世界はいつか崩壊する。君には関係のないことだろう。そこで誰が自己主張をしたいのか。原因と結果が入り組んでいるようで、意識をそこに到達させないようにしているのだろうか。それは誰の仕業でもありはしない。自然の成り行きなのだから仕方がないだろう。君にそれを覆す力はない。君はただその流れにそって作業を進めるまでか。何かのただ中で他の何をやろうとしているわけでもない。他からもたらされる不快な感情をはねのけるだけの気力がない。今ある現状とは何だろう。何がそういうことなのか。何かを犠牲にしないと現状を保てない。時間が君を押しとどめる。その場に置き去りにされたがっているのだろうか。そういうことではないと思いたいのか。他に何がどうなっているとも思えない。正気を保っていると思いたい。ただの自然が光景として広がっているだけだ。未来を探ろうとする試みは不毛な結果に終わりそうだ。そこにはどのような思惑も道も存在し得ない。人が至るような未来ではない。遥か遠くの世界ではそうなっているのだろう。要するに何をやっても無駄なような気分になってしまうわけだ。言葉を記す作業も徒労に終わってしまうのだろう。記された言葉も君には関係のない残骸となってしまい、誰にとってもどうでもいいような言葉の連なりとして忘れ去られる宿命なのか。そうなってしまった後から誰かのこだわりなどを見出すことはできない。だから今なのだろうか。現状の中で何を探し出そうとしているのか。互いに関連づけられない言葉の断片だけではないはずか。何も自ずからまとまろうとせず、すべては過ぎ去るにまかせられ、何ひとつとして君の意識には感応しない。そんな状態からどこへ至ろうとしているのか。君が導き出そうとしているのはそういうことではない。たぶんそうではないような気がする。何かの競い合いは厳然としてある。そんなことをやっていないと正気を保てないのだ。すでに古い時代に属する観念なのに、それを続けていないと自己同一性を保てないようだ。それがリアリティを伴っていた過去を懐かしんでいるかのように、執拗にそんなことが繰り返され、ひたすら現状にとどまろうとしているわけだ。そんな状況で君に何ができるのか。そう思う以前に何かをやっているはずか。現状を変えるために必死に努力を継続しているわけだ。ではなぜそれが徒労に終わると確信してしまうのか。現時点では何も根拠を示せないのに確信してしまうのはおかしなことだ。しかし何となくそんな予感がしてしまうのはどういうことだろう。たぶん自信が持てないのだろう。そして冗談でそんなことを述べている現状がある。勘だけに頼っているわけではなく、今までの経験をこれからの作業に役立てようとしている。それが現状なのだから冗談と受け取られても仕方のない部分もあるらしいが、どんなに話を大げさに仕立てようと、所詮は人間が構成する社会の中で起こっている出来事について述べていることでしかなく、そこから考察され、導き出される結論などたかが知れていることは確かなのだが、それにしてもさめきっているような物言いは避けた方がいいだろう。何に対しても興味がわいてこないと嘘をつくのにも飽きてきたか。それで何を得たわけでもなく、他に何を得ようとしているわけでもないらしい。得られたものはそれらの言葉の連なりに他ならない。それ以外にどんな認識に至ることが可能なのか。ありふれた妄想や幻想以外に何がもたらされているというのだろう。言葉がもたらされている。ただ言葉だけがそこに記されている。ありふれた内容が記されている。それだけのことになぜそれほどまでのこだわりを見せるのか。そこから何をどうしようというのか。それ以上の何を求めているのか。何を乗り越えようとしているのでもない。それは困難でさえない。乗り越えることが不可能な安易さの中で言葉が連なっているはずだ。無責任で支離滅裂な無計画から何が生み出されたのだろうか。君はそこで何にあきれかえっているのか。ただの惰性が誰かを堕落させている。そして否定的なことしか述べられなくなってしまう。他に気づくべき内容を知り得ないのか。それでもまだ苦悩の初期段階なのかもしれない。絶望までの道は遠く険しいのだろうか。やはり意識が何に導かれているとも思えない。嘘をつくのに苦労して、真実を述べることもできず、他に何を述べたらいいのかわからなくなり、その辺で終わってしまいたいのだろうが、それが無理な理由を探ろうとせず、ただ闇雲に言葉を繰り出し、わけのわからないことを述べているような気分を醸し出して、それで何を語っているつもりにもなれず、結局それらの言葉が何かを裏切っているような気になるだけらしい。もたらされたのはそういうことか。そういうこととはどういうことなのか。君にはわかり得ないし、わかろうとしなくてもかまわないのだろうが、ただそんな言葉の連なりの存在を認めざるを得ない成り行きになっているだけか。


7月1日

 たぶん今日は今日のまま終わるのだろう。それがどうしたわけでもないが、見聞しているすべてがフィクションの中にあるようだ。語っているのは本当の自分ではない。そういう嘘も虚構から生じているのだろうか。何を空想しているわけでもない。眺めているのは車窓の外か。それが見慣れた風景になるだろうか。どこまで行っても同じような景色が続いている。どうやら今回は何が冗談でもないらしく、ただの現実をどこかに書き留めているつもりになっているようだ。そして得体の知れぬ感覚に包まれる。それはあり得ないことかも知れないが、意識は先を急いでいるようで、何かに急かされている。そんなことはどうでもいいことか。この際記された言葉なら何でもかまわないようだ。それのどこに呼応しているとも思えない。心はどこにあるのだろう。間もなく何かが通り過ぎる。たぶんどこかにこだわりを見出さなければ、そのまま状況に流されてしまうのだろう。しかし現状とは何だろう。何がそれらの状況を構成しているのか。また何か気が散るような成り行きに持っていかれそうになる。それらの感覚は何らかの事物によって操られているのだろうか。事物とは何だろう。そこから何を語ればいいのか。たぶんそういう話の展開にはならないのではないか。ひたすら無駄に言葉を連ねているようだ。それで何を語っているとも思えず、何を批判しているわけでもないらしい。それでも人は生き続けようとするのだろうか。誰かがひたすら走っている。そんな夢を見たわけでもなく、そういう映像が画面に映し出されているだけだ。幻影のたぐいに違いない。オリンピックが近いらしく、誰がそこに出るかが話題となっているようだ。ある種目では単純に走ったり泳いだりして、その速さを競い合っているわけだ。人々はそこで何に驚き、何に感動しなければならないのか。深夜の時間帯には網付きの棒で球を打ち合うゲームが行われていた。昼の時間帯では誰かが働いているようだ。そして夕方になり、夜になる。君には興味のない話でしかないらしい。少なくとも考えるべきことではない。マネーゲームの方はどうなったのだろう。投機的資金によって物資が買いあさられ、それで物価が上がっているようだ。それだけのことなのだろうか。それでも至って平穏な日常が続いている。マネーゲームもどこかで歯止めがかかってしまうわけか。一部の人々は国家に幻想を抱いている。未だに国家間競争の枠組みを信じてやまない。影から誰が何を操作していようと、それで何がどうなるわけでもないらしい。絶えず社会の不具合が顕在化していないと気が済まない輩もいるらしいが、それで何を暴き立てることができるだろうか。それらの人々は何を告発しなければならないのか。どこかで誰かが不正を働いているわけか。この世界ではルールを破らなければ利益を得られないのではないか。それはそれとして、利益を得た後はどうするのだろう。その利益を何か社会貢献にでも役立てようとしているわけか。いったい何のための利益なのだろう。ただ生き続けるためだけならそれほど多くの利益を必要としないはずか。たぶん何らかの欲望を満たすためには多額の金銭的な浪費が必要とされているのだろう。それも社会の構造的な欠陥か。不具合や欠陥が人々の欲望をかき立てるらしい。そこに快楽の源泉があるらしく、功利主義者たちはそこへ向かうことしかできないのだろう。たぶんそれは何でもないことだ。否定するわけではないが、やはり何でもないことでしかない。そういう成り行きの中でそこへ向かうことを強いられている。そういう人々がいないとつまらないのかもしれず、そういう人々について語ることがおもしろいのかもしれない。小説とはそういう人々についての話だ。それらの哀れな末路を語ることで人々の興味を引きつけようとしているわけだ。人間にはその一生の中で栄枯盛衰がないとつまらないのだろう。その手の意識は波瀾万丈ばかりに惹かれるようだが、君にとってはそれもなんでもないことか。そういうドラマを見れば感動するのかもしれない。ただ感動してやがて忘れ去られる。忘れたらまた別の波瀾万丈を見聞すればいい。要するにそれは暇つぶしの娯楽なのか。そこから何か教訓のようなものを学び取れたら、少しは暇つぶしにもいいわけが伴うだろうか。だが何が目的でもなく、それらのどこに芸術性を見出そうと、それはそれでおめでたいことだ。そんな君を無視して誰かはひたすら空疎なことを述べ続け、どこへも至らない代わりに、それらの迷路の中にとどまり続け、さまよい続けることが目的となってしまうのだろう。だからどうだというのか。要するにそこでの結論は何なのか。虚無に心を支配されているだけのことか。それだけでも結論が出たのだから、それはそれで大したことか。ではまた冗談で感動しなければならないのだろうか。何を皮肉ってみても虚しいだけだろう。もう少し前向きな結論に至らないものか。たぶんそうなるためにはこの世界に明るい未来が訪れることを信じなければならないのだろう。たとえ破滅的な状況に陥ろうと、それを乗り越えて幸せをつかむために努力しなければならないか。それはいつになるのだろうか。たぶんいつかそうなってしまうのではないか。だからこれから無責任に心にもないことを誓うつもりらしい。


6月30日

 たぶん気に入らない状況なのだろう。気がつけば同じような言葉が連なっている。何かの判断を誤ってしまったらしく、空疎な文章以外は何も導き出せない。どうやらその辺であきらめが肝心のようだ。いつもくだらないことを述べていないと話が始まらない。それ以外は何も導き出せなくなってしまったのか。それでかまわないのだろう。いつまでもくだらないことを述べていればいいのだ。しかし開き直ってどうするのだろう。まだその続きを受け入れていない。言葉が君を待っているはずだ。冗談ではない。冗談だとは思っていない。だがそれで何がわかるというのか。述べている内容が気に入らないのはよくわかる。放っておけば人は村落共同体の中に引きこもろうとする。似た者同士に囲まれて安堵したいわけだ。君はそう述べて何を馬鹿にしたいのか。そうではないような気がするだけか。たぶん苦し紛れに昔の記憶がよみがえったのだ。今は違うのだろう。まったく本気になれず、リアリティを感じられない言説だ。いったい君はどこへ導かれようとしているのか。痛みを感じられなくなってしまったのかもしれない。気がつけば何かの感覚がおかしい。何を受け入れているのかわからなくなる。それは虚無ではないような気がする。そんなことはどうでもいいのだろうか。たぶんそういうことではないのだろう。何がどうなっているわけではないのだ。結果的に何をあきらめているわけでもない。虚無とは違う何かに導かれているのだろうか。しかし感覚が研ぎすまされているとは思えない。それは誰の感覚なのか。違和感が感じられず、中身のないことを語っていながらも、それでしっくりくる。どういうことなのか。何かとんでもないことを述べていないか。気のせいだろうか。今はその時ではないのだろう。まだそこから先に続きがあるらしい。なんとかしたいのはやまやまだが、気がつけばそんなことを述べている状況では、どうにもこうにもやりようがない。そういう感覚に心が包まれている。それで何を導き出せるというのか。さっきのそれが導き出されたそれだ。人はどこまでも人だ。人以外の何者でもない。おそらく君も人なのだろうが、それは恐ろしいことだろうか。言葉の使い方が間違っている。何でもないことが恐ろしいことだとは思わない。そんな感覚でもかまわないと感じられ、何の問題もないような気がしてしまう。いったいそれはどういうことなのか。誰かが真夜中に陽の光を感じている。フィクションなのだろう。すべては相対的であり、絶対的な価値を見出せずにいるだけか。これというものが何もない。どのような言説であってもかまわないような気がして、内容がないことをいくら述べても気にならないわけだ。それで物事の本質を捉えているような感覚になるわけだ。勘違いも甚だしいか。ただわからない。決して視界にもやがかかっているわけではない。遥か遠くを見通しているのだろうか。この世界にとって何が問題なのだろうか。人間の存在が小さなことのように思われ、人類が何をどうしようと、そんなことは世界にとってはどうでもいいようなことのように思われしまい、すべては予定調和の懸念や杞憂でしかないのだろう。国家間の争いごとなどフィクションとあまり変わりがない。人がいくら愚かになろうと、逆にいくら賢くなろうと、そこからどんな問題が出てくるわけでもない。ただそういう役割を担わされているに過ぎないのではないか。たとえ感情を爆発させて凶行に及び、複数の人を殺めて死刑になろうが、そんなのは当たり前の成り行きでしかないのであって、何の問題もない。どんな人にもそうなる可能性があるだけだ。社会の至る所にそうなるきっかけが転がっている。それは排除しても次々に生じてくるようなきっかけであり、戦場で地雷を踏んでしまうようなことでしかなく、そうならないための方法など何もありはしない。そんなことが当たり前の現状の中で人々が暮らしているわけだ。昔と何が違うのだろうか。昔が良かった式の過去は虚構だ。どのような時代であっても、それはそれでそういうことでしかない。そういうことを想起させるだけのことだ。昔とは違い、今は今で今でしかないのだ。国家間で懸案事項があればそれについて交渉していればいい。テロの脅威など必要以上に恐れることはない。実際にテロが起これば人が死傷して、心や構築物が痛めつけられるだけのことでしかない。地球が温暖化してもそういうことでしかない。そういうこととはどういうことなのか。実際にそうなってみればわかるようなことだ。それ以外にどのようなことが起こるというのか。この世界に何がもたらされようと、どのような事態に陥ろうと、結果として無感覚の無感動がもたらされる。天変地異などその手の映画の再現でしかない。それの何に感動しなければならないのか。国家の中枢で何が行われていようと、そんなのは人がやっていること以外の何事でもない。どうせ権力にものをいわせたくだらぬごり押しばかりがまかり通っているだけだ。自分の思い通りにならないとへそを曲げて、いじけてすねて無言になり、思い通りになると調子に乗って、これでもかと馬鹿踊りに興じてしまうわけだ。何となくあほくさく思えてくる。あげくの果てにはそんなどうでもいいようなことで命を落とす輩まで出てくるのだから、まったく笑ってしまうような世の中だ。


6月29日

 果たしてそれが気晴らしになるだろうか。地図をテーブルの上に広げて、宝のありかを探している。誰かは嘘をついているようだが、どこが出発地点で、どこが到着地点なのか。そこで何をおもしろがっているかは、たぶん見解の相違になるだろう。誰もそんなことには興味がない。どこかで間違っていたのだろうが、誰かは何が違っているのかわからずにいる。憶測で何を述べているわけではなく、それほど冗談に逃げているわけでもない。いつものように何もやる気にならない。やろうとしていることとやっていることの間にずれがあるようだ。そのずれをなくして何を一致させようとしているのか。しかし眠くならないのはどういうわけか。そこでやらなければならないこととは何なのか。君に何が託されているというのか。無駄な言葉が無駄に連なっている。それが無駄というものだ。そんな結論によって何がもたらされているというのか。たぶんそのとき何かをわかりかけていたのだろう。君の試行錯誤によって理解不能な行動がもたらされているわけでもあるまい。たぶんそれ以上にそこから遠ざかりたいのだろう。越えなければならない壁が立ちはだかっているとは思えない。それをゆっくり見つめている余裕がないのだろう。だが何をおもしろがっているわけではない。それで何かを否定したつもりになっている。思い通りにはいかない。ひたすら何もない日々が続いている。誰かはそう思いたいだけで、実際には様々な出来事に遭遇しているはずだが、印象に残らない。いつの世でも人は考える術を知らず、暇な時は娯楽に明け暮れている。どこまで行っても停滞を抜け出すには至らない。それは誰のせいでもなく、そういう成り行きなのだから仕方がない。でもそれでは何の結論にも至らないだろう。だからどうしたというのか。この世界の現状を言葉が捉えることはない。君はまたもや逃げているのだろうか。誰がどこから逃げているというのか。誰でもない誰かに対して発せられるそういう問いかけが鬱陶しい。何がどうなっているわけでもないだろう。どんどん本道から逸れて行ってしまうわけだ。きっと明日も雨が降る。そんなことを伝えるために言葉を弄しているわけではないはずか。何に対して違和感があるのだろう。どのような仕組みによってこの世界は成り立っているのか。君たちはこの世界で何を競い合っているのか。そういう問いには意味がないか。なぜそこに目的があるのだろう。そうではないと思いたいのか。できるだけ詳しく説明しなければならない。他人と語り合うことを拒否している。誰かが見ているのは嵐の映像だ。何を黙っているのか。何かの文字の塊が画面に映っているだけだ。それで黙っていることにはならないだろう。時が過ぎ去った。それだけの事実に追従する理由はない。君はそこで何を語りたいのか。何も語りたくないようだ。ひたすら沈黙を守りたい。誰かの意識が消えかかっている。どこで何をやっているのでもない。ただ文と文が意味的につながらない。それで何にトチ狂っているわけでもないはずだ。指先のろうそくに炎がともる。空想が君をそこまで導いているのだろう。ありもしない出来事が他の誰かを戸惑わせる。ただのでたらめに違いない。まったく要領を得ない話になっているようだが、そこにとっ散らかっている言葉をかき集めて文章を構成するには、ひとつひとつの言葉が離れすぎているかもしれず、意味的につなぎ合わせることが難しいようだ。そのとき君はどこで何をしていたのか。誰に何を尋ねているのでもない。作り話の中で会話が成り立っているように装いたいが、その気になれない理由がどこかにありそうだ。ただ眠いのか。眠ってしまったら明日になる。明日になったら日付が変わって今日になる。それだけのことに驚くわけにはいかないが、理解するのに四苦八苦している。当たり前のことを実感できないようだ。何をするのにもままならない世の中か。折り合いを付けることができないらしい。今日は今日で今日を全うできないだろう。画面の中には誰もいない。その表面に何かが映っているだけだが、何をそんなに恐れているのか。君の影が何かを見つけたらしい。誰が何をわからせようとしているのか。果たしてそれを理解する気があるのだろうか。そのつもりにならなければ何もわからないだろう。君にそれを求めるのはお門違いか。わかりたくないのだろうか。誰がそれをわからせようとしているのか。心当たりはない。だからそこでわからなくなってしまうのだろう。君は何について語るべきなのか。そこまでたどり着けない。そことはどこだろう。無駄に月日が過ぎ去っているようだ。そう思われるだけだ。それで何を理解できるはずもない。なんとかしようとしていることだけは確からしいが、何かを考えあぐねているようで、何も思いつかないまま時が経ち、その何かから遠ざかり続けている。もう関心がないのではないか。それについて興味を示さない状態で何ができるのか。それでも無理を承知でなんとかしようとしているのだろう。焼け石に水的に無駄な悪あがきの最中だ。君はそんな状況の中に自らがいることを理解できるだろうか。理解したくてもできないわけでもあるのか。またそこでわざとらしく理由を求めているようだが、いったいそこからどこへ行けるというのか。


6月28日

 誰かは常に現状を捉え直そうとしている。意識は言葉をもたらす現象を探しているようだ。まだ迷路の中にいるわけか。たぶんそれでも現状を飛び越えて前に進もうとしているのだろう。だがまだ何を語っているわけではない。何かの後ろに何かがあるだけか。たぶんそれは当たり前のことだ。繰り出された言葉が何と戯れているわけでもない。そういうことではないらしい。ただあきらめきれない。だがそれは語るべき事柄ではない。悩みなど何もあるわけがないが、それが嘘の始まりか。では他にあるのだろうか。何でもありそうで、そんなことは誰にでもありそうだ。そうやってまた無駄なことを述べているのだろうか。現状がそうなのかもしれない。君はそこで何を経験しているのか。実際の迷路はただの道だ。人の思い込みによって迷路になっているだけで、出口などいくらでもあるし、カーナビでもあれば容易に抜け出せるたぐいの迷路だ。たぶん君は真剣になれないはずだ。くだらぬことをつぶやきながら音楽を聴いている。抜け出ようとしなくてもいいのだろうか。呪いの言葉はとうに過ぎ去った。今は何からも自由なはずか。そういう一方的な思い込みが勘違いを呼び込む。そこで君が語らなければならないのは誰のことでもなく、君自身についてなのか。またもや自己言及の罠にはまってしまいそうだが、今はそれ以外にはあり得ないような雰囲気に包まれている。それが勘違いを誘発しているのだろうか。いったい君は何を勘違いしているのか。そうなってしまったのは誰のせいでもありはしない。そのあざといやり方に憤りを感じているわけではない。何となく大きなうねりを肌で感じているような気になる。うねりとは何だろう。今は何かの過渡期にあるようだ。今までに主流を占めていた何かが退き、それに代わって新しい勢力が台頭してきているのだろうか。そういう話にもある程度の説得力が宿るような成り行きになりつつある。君はそれに対して何をどうしようとしているのか。ただ静観しているだけではないはずだ。早急に何らかの手を打たなければ、時代の潮流に乗り遅れてしまうだろうか。そうであったとしても気にしないだけの余裕がまだその心にはあるだろうか。余裕があるふりをしているだけでは、世の中の変化には対処できないだろう。しかし君はこれから何をしなければならないのか。皆目見当がつかないか。見当をつけようとしていないのかもしれず、それらの変化から連想されるあやふやな先入観を振り払っているだけか。何かの暴走を食い止められないらしい。人に人それぞれの主張があり、たとえそれが低俗なものであろうとなかろうと、その主張を真摯に受け止めなければならない時がくるようだ。そしてそれについて語らなければならない。何を語っていることになるのだろう。冗談に逃げてはまずいのか。逃げられるものならとっくに逃げているのかもしれないが、結果的に逃げていないからこそ、そんなことを述べている現状があり、ひたすら空疎なことを述べているそれらの現状をどう捉えていいのかわからなくなる。何も捉え直していないのではないか。しかし本気になれない理由がどこにあるのだろう。そういうやり方ではだめなような気がするだけか。ではどういうやり方をとらなければならないのかといえば、それがわからないでは済まないようなやり方になるのかもしれないが、具体的には何も思いつかない。たぶん誰かが気に入らないのはそういう述べ方に関してなのかもしれないが、それ以外にどう述べていいのかわからなくなり、その時点で言葉が君から立ち去っているように感じられてしまい、そこに何らかの見込み違いが生じているのだろうが、それをどうにもこうにも修正できない事情もあり、まともな言説へと誰かの意識を導けないような成り行きとなっている。だから冗談に逃げているような気がするのだろう。そこに誰かに対する君自身の誠意が欠けている証拠でもあるわけか。投げやりに述べながらも、まともに述べることをなおざりにし、実質的な空虚感を文章に定着させているつもりに感じられてしまうこと自体が勘違いなのか。しかし許されざる主張という架空の目標に向かって言説を構築しているつもりになれるということが、君にとってのしてやったりになるかどうかは、そこに醸し出されているわけのわからなさにかき消されている真意をどう汲み取るかにかかっているように思われ、それらのかろうじて理解可能なように思われる文章から、どんな理解を得られているつもりになるか否かに関わらず、とりあえずそう述べている現状を受け止めながらも、そこでなおざりにされているわかりやすさを、どこで実現させるかにその全神経を集中させ、何とかそれに沿った文章を構成しなければ、その先はあり得ないことを肝に銘じておくべきなのではないか。しかしそれがそこから逃げている意識が醸し出している冗談の雰囲気そのものに思われてくるとしたら、そういう状況に絶望すべきなのだろうか。そこで誰が絶望しているように思われるのか。それについて君はいかなる感想を抱いているのか。それらの文章にはどんな感想や主張が紛れ込んでいるのだろうか。どうやら君は今現在もそこからひたすら逃げているように思われる。


6月27日

 作りかけの街中で君は何かを見つめている。画面が点滅しているようだ。何ができるとも思えないが、誰かはそれからどうなってしまったのか。まさか死んでしまったわけでもあるまい。次第にそこから遠ざかれなくなる。それは未来でのことだろう。今はどうなのか。そこにとどまりながらも、何をつかみ取ろうとしているのでもない。そこでどのような法則を発見したのでもない。では何に追いつめられているのだろうか。言葉が君を追いつめている。気のせいか。何がどうなっているのでもない。ただ要件を満たさない。理由を導き出せない。そこには精神が存在し得ないのだ。何がどうなっているのだろう。何も必要ないのかもしれない。心があるわけではない。まぶたが次第に重くなる。思い通りにいかないのはいつもの通りであり、何も出てこないのも今に始まったことではない。何をどう考えてもどこへも至らないわけだ。そんなわけがない。何も思いつかず、結局それが文章となる。それは最悪の展開だろうか。その時点ですでに何かの瀬戸際か。その先に道はない。誰かはその後の話を聞いていないようだ。それらのどこに需要があるのだろうか。虚無こそがすべてだ。虚構がこの世界を作り上げている。それがどうしたのだろう。虚無がやむことはない。終わりはどこにあるのか。終わらないうちから何かが始まってしまいそうだ。言葉が君を避けている。何かの幻影におびえているようだが、君たちはどのような視点を獲得したのか。この世界の有り様をどう見ているのか。どう考えても君たちの世界ではない。何も解決できそうにない。何をどう思うまでもなく、そこまで至らない。至り得ないのかもしれない。いったいどこへ至りようがないのだろう。深く考えると何も語れなくなり、語ろうとすると意味不明になる。だから無理なのではないか。君は次第に何も語れなくなってきているわけだ。いつものことだろう。そしてそこで何を見ているわけでもなく、どこへ立ち尽くしているわけでもない。それはやはり何でもないことか。そう述べながらも、一気に終わりへと近づいているわけか。いったい何の終わりに近づいているのか。蒸し暑い。かなり室温が高くなっていたようだ。冷房で一気に下げて正気を取り戻す。そしてまた気分が悪くなり、つけたばかりのエアコンを切る。君はさっきまで何を考えていたのだろう。このままでは約束を守れなくなる。こだわっていた過去を取り戻せなくなる。現世に何を期待していたのか。いくら努力を重ねても、そこへ至れなかったのかもしれない。そういう物語ではなかったのか。そこは終着点ではなかったらしい。終の住処などあるわけがない。老後の生活が保障されること自体に無理がある。だが落胆する必要はない。物語に終わりなどあり得ないからだ。そこで語りつつあるのは、誰の物語でもないのだろう。君に託されている言葉の連なりがそれを否定している。まったく具体性に乏しい。もはや空疎を通り越して、何もない状況になりつつあり、君は本当に何もできないのだろう。虚無すらあり得ないようで、どこにそれが出現することもないが、それとは何だろう。虚無ではないのか。それはただの言葉だ。ただの言葉を見失い、さっきから目の焦点が合っていないようだ。何について語っているのかわからないのだが、目が見えないわけでもないだろう。言葉が出てこない。それだけのことだ。それだけのことに苦しんでいる。ではどこから抜け出そうとしているのだろう。君が抜け出そうとしているのではない。ならば何を誤っているのか。君はどうやってここまでやってきたのか。常に問いかけてきたようだ。答えの返ってこない問いかけの連続だ。たぶんそれだけではあきらめきれないのだろう。だからさらに言葉を連ねて、新たな疑問を繰り出そうとしている。しかしどこかがおかしい。いくら語っても終わりが見えてこない。どのように語ってもそうなってしまうわけだ。それだけのことにひたすらこだわり続け、何にこだわっているのかわからなくなるまで言葉を連ねようとしている。わざと矛盾したことを述べているのもいつもの通りだ。なんとかしたいらしいが、何ともやりようがない現状にあきれ果て、そこで継続を放棄したくなるが、それでも執拗に言葉が連なってしまい、何が何だかわからなくなりながらも、何かを語り続けているようだ。かたくなな意識に頭を支配されているのだろう。誰かが画面を見ながら笑っているようだ。何もそこまでやる必要はないのに、いつまでもそれを続けようとしているらしい。聴いている音楽は馬耳東風気味に響き、その意味もわからぬままに、何かの空洞を形成しているらしく、そこで意識が完結しようとしている。何かを作り上げたつもりになりたいらしいが、それは今記されつつある文章ではなく、残念ながらの思い違いであることを示しているのだろう。語っているのはそんなところで、それ以上の意味や意義を見出すことはできず、ただの無駄であるような気さえしてくるのだが、それでも気づくのが遅すぎるのだろうか。何を気づいても仕方のないことで、後の祭りというわけか。しかし今さらながら何を痛感しなければならないのか。冗談では済まないようなことなのだろう。


6月26日

 必然性とは何だろう。歴史の必然というやつか。何がなるべくしてなってしまうのだろう。要するに歴史的な言説にはごまかしがつきものだ。自らの主張を正当化するために過去の出来事をつなぎ合わせて、そうなってしまう理由や根拠をねつ造しているわけだ。それがどうかしたのか。すべてはフィクションの範囲内でなされていることだ。当たり前の成り行きにいちいち疑念ばかり抱いていてもらちがあかない。そこには何かの陰謀が渦巻いているような気がして、それらの出来事について思考を巡らそうとしているようだが、それで何がわかるのか。結局それらの現象を言葉で捉えきれずに、何となくごまかしに走ってしまい、わかっている断片だけをつなぎ合わせて。出来事を理解できるように単純化せざるを得ず、誰かは細部を省略した物言いに終始しているらしい。まったく愚劣なやり方だろうか。良心がそれを許さないか。だがそれで何がどうなっているわけでもないはずだ。語ろうとすればするほど、自らが空疎なことを述べていることに気づいてしまい、自己嫌悪にでも苛まれてしまうわけか。そしてなぜか意味も理由もなく今日に至ってしまう。何もやりきれていないらしい。実際はそうではないはずか。この期に及んで何を否定したいのか。苦し紛れに繰り出されるのは無駄な言葉の数々であり、そういうやり方での継続がある種のやましさを生じさせ、嫌気がさして、結局いたたまれなくなり、そこで記述の継続を断念してしまうのか。果たして断念できるだろうか。何やら即興で話を作っているようだが、それはあり得ないことか。継続が無理なことなどはじめからわかっていたはずだ。ならばやめてしまえばいいことでしかない。すでにそこから意識が後退している。できないことをやろうとしているようだが、ここからどこへ退こうとしているのか。退く場所などどこにもない。それどころかここ自体がここでないような気がする。気分次第でそう思いたいだけなのではないか。別に背水の陣というわけでもないだろうが、どこまで退けるわけでもない。そしてやらなくてもいいことまでやる必要はなく、今はやれることをやればいいだけのことで、まずはそれをやるべきか。それとは何だろう。実際は自分で作った迷路にはまっているだけだ。わざとそんなことをやっているのだろうが、君には悪意でもあるのだろうか。心に闇があるわけではない。心がないのだ。それも安易すぎないか。感知できるものは何も否定したくないだけだ。わけがわからない。そんな風にして何かを語っているつもりになる。どうしても継続をあきらめきれないのだろうか。すべてをあきらめられるわけがない。継続がすべてではないはずだ。しかしそれは作り話の中で語られていることだ。君の本意ではないのか。心底から何も願っていない。言葉としておかしいのではないか。ただ何もわからない。わからないことにしたいだけで、そこから逃げているのではないか。わかってしまっては何がまずいのか。それは何かの幻影だったのかもしれない。気のせいだ。君はどこから逃げられると思っているのか。なんとかしなければならないのだろう。君たちは何に立ち向かっているのか。それは困難ではない。わかりきったことを述べないでほしいか。まだ何もわかりきったわけではない。言葉が幻影の正体を捉えきれていない。いったい何が幻影をもたらしているのか。それ以前に幻影自体が具体的に言葉で示されていない。たぶん説明が足りないのだ。わざとそうしているのではないか。ただ説明できないのだろう。説明するようなたぐいの現象ではない。行き詰まるべくして行き詰まっている。なぜそうなってしまうのか。まずはできないことをやろうとしている。それからさらにできないことをやろうとしている。それだけのことであり、不可能なのだ。言葉が具体性をまとえない。言葉以外に何も伴っていないようだ。それが文章だろう。適当な紆余曲折と試行錯誤を経て、そのような認識に至ったらしい。だがそれで何を述べていることにもならない。そう感じているだけだろう。いったいそれらのとりとめのなさは何なのか。いくら言葉を記しても空虚そのものだ。そこから何を導き出せるはずもなく、出てくるのは疑念と不安ばかりか。それで何を理解していることになるのだろう。この世界はそのすべてを否定し尽くすまでは終わらないということか。要するにいつまでたっても終わらないということだ。何を否定する気にもならない。それが君に課せられた態度に違いない。あり得ないことか。虚無は君に何をもたらそうとしているのだろう。そういう言い回しの繰り返しだ。そしてさらに時が経ち、何も述べられなくなるまで空疎な言葉が繰り返され、やがて心を虚無が食いつくし、誰かを誰でもない誰かにしてしまうが、君にしてみれば、それが君の望むところだ。何でもないことなのだろう。いくら否定しても何でもない。誰かは君を助けようとしているのではない。君が眺めているつもりの光景が誰かが作り出した幻影だとするなら、幻影の中に登場するのが架空の君であることは疑いの余地がない。やはりそれは何でもないことだろうか。それでもそれが読むに値する内容か。くだらぬ内容を含んでいる。


6月25日

 誰にかにとってはさらなる空白の時が到来したようだが、そこで何を邪魔されているのか。何やら記している文章がつぎはぎだらけだ。しかしそれでやけくそ気味というわけでもあるまい。君は暇つぶしに漫画でも読んでいるのか。その中では相変わらずの血気盛んな若者たちが暴力の応酬を楽しんでいるようだ。楽しんでいるというより命がけなのだろう。漫画的にはいつでも命がけでないと楽しくないのではないか。気持ちにはりが出ない。満身創痍で血まみれになりながらも、気力だけで立ち上がってくる。そういう成り行きなのだから非難する筋合いのものでもないだろう。他の場面では何かのついでに遊び半分で命がけなのだ。実態としては残酷な話だが、誰かはいつもながらのそういう話の展開を読みながら何を思うのだろうか。どこかの世界では人はさすらうことばかりにかまけているようだ。的外れで感想にもなっていない。では何を批判しているのか。わざと関係のないことを述べているのではないか。それにしても登場人物の誰もが思い込みが激しすぎる。そんなことは作り話以外ではあり得ないだろう。だがそれに関して君はまだ何も語っていない。執着心の希薄な君に何かについて語ることなどできはせず、そうやって他の誰かが無駄なことを述べているのを眺めているだけらしいが、そこから何をどのように述べれば有用な内容になるのか。現状では皆目見当がつかない。しかしなぜそれほどまでに空疎な言葉が連なってしまうのか。それが誰かの才能なのかもしれないが、それは無駄で不必要な才能かもしれず、そうやっていつも何かを台無しにしてしまっているのだろう。そこから何かが改善されて良くなることなどあり得ないか。確信は何もない。信じるに足る内容とはなり得ず、もとから何を信じているわけでもなく、その場の思いつきだけに語りの行く末が左右されてしまう。それが誰かの思い違いであることを祈りたいか。君が祈っているわけではない。思い違いでなければ勘違いになるだろう。そして空疎な語りから自己言及の毒汁がしみ出してくる。突拍子もなくあり得ないことだ。何が馬鹿げているのだろう。何となく人格のあやふやな誰かが語っていること自体が馬鹿げているように思われるが、どうも近頃は何となくという言葉しか出てこないようで、それは何でもないといえば何でもないことなのだろうが、それだけではつまらないような気もしてきて、たぶんその辺に文章に関する何らかの限界があるのだろう。それは切羽詰まった状況の中に醸し出される煩悶のたぐいだろうか。意味不明でわけがわからず、ついでにそれが何だかわからない。それとは何なのか。君にはすべてが理解できないのだ。誰が言葉に詰まって苦悩しているとも思えない。行き詰まった先に袋小路があり、そこで誰と誰がにらめっこしているというのか。ますますわけがわからないか。とりあえず君には何もわからない。今はそれでかまわないはずか。何ももたらせない。たぶんそういうことなのだろう。この世界では誰も何ももたらせないことがわかってしまったようだが、そんなのはどうでもいいことか。君には関係のないことか。そんなはずがない。すべてが関係している。作り話の中では原因と結果の因果関係などいくらでも構築可能か。君がそれを語ろうとしているのなら沿うだろう。しかしそれはねつ造とどう違うのか。現時点では君も私も作り話の中には存在し得ない。そこにあるのは虚無だけか。何も語ろうとしないのだから虚無さえ存在しない。それではますますわけがわからなくなるが、わかりたいのではなく、意味不明を楽しみたいのではないか。結局そういう無責任なことでしかない。述べていることがまったくのでたらめみたいだ。誰かはそこからどうやってまともな言説へと内容を移行できるのか。気がつけばさらに空疎な言葉が連なっているようで、それが君の嗜好を反映しているのではないか。だがそういうことを述べたかったわけではない。では他に何を求めているのか。それがわからないとしたら、さらに述べていることが意味不明となるだろう。それでは困ってしまうだろうか。誰が何を困り果てているのだろう。そういう言い回しがわざとらしい。すべては作り話の域を出ない。君が語ろうとしているのはそんなことなのか。そんなこととはどんなことなのか。それはそういう予定調和の虚無に関する話に違いない。感性が虚無に蝕まれているようだ。それでは何か宝の持ち腐れのような気がするのだが、それは気のせいだろうか。当たり前のことを当たり前のように述べられない質なのだろう。それでいつも冗談に逃げているわけか。やはりわからない。どこまで逃げれば気が済むのか。すでに逃げるだけ逃げてしまったので、これ以上逃げる必要性を感じられないのだが、あやふやで不完全な作り話の中では未だにそうであって、その作り話の中で君が何を語っているわけではない。君は登場人物ではないのだろう。少なくともその話に中には出てこない。ではどの話に登場するのか。現状では時が経っても何も明らかにはならないだろう。それに関してはまったく語る気がないのかもしれず、それ以前に何を語っていいのかわからなくなっているのかもしれない。


6月24日

 君は何者にもなれない。たぶんそうではないと思いたいのだろうが、それでも何について説明していることにもならない。内容が散漫でスカスカの文章だ。それは何のために記されたものなのか。君に何を問うても返答など何も期待できない。空は晴れ渡り、梅雨の晴れ間を拝んでいるわけでもないが、誰でもない誰かについて何を語るわけでもなく、それはただの引き延ばしになってしまうだろう。語ることが何もわけだ。現時点ではそういうことか。それでも君はさらなる言葉の連なりに引きずられて、どこか遠くまで誘い出されたいのか。そんな状況はあり得ない。考えていたら何も出てこない。考える以前に言葉を繰り出さなければ先へ進めない。だがその先に何があるとも思えず、何もないから言葉が連なっている現状を認められずにいるらしいが、それでも意識はそこから離れようとしている。君の願いが成就するにはさらなる空虚の到来が必要だ。何がどれほど引き延ばされているのかを知る必要がある。人はその場にしがみつきたい。自らの主張を世間に認められたいわけだ。メディアにはそういう特性が備わっている。君には関係のないことだと思いたいが、それに接している限りは関係がありそうだ。それらの映像は考えるいとまを与えない。考えるより行動が先だ。しかし何を急かされているのか。君たちは何をやらなければならないのか。そこから逃げ出したくなり、そうではないような環境に身を置いてみたくなる。徐々に自分のペースに引き込みたいのか。何がそこに引き込まれているのだろうか。別に自らを正当化するための何を導き出したいわけでもない。言葉を弄するのに必要なものは何もない。ただの思いつきで述べていればそれが文章となってしまうだろう。誰かはかなりいい加減なことを述べているようだが、それで事足りるのか。何も思い浮かばずに、ついうとうとしかけている。眠たいのだろうか。そうに決まっているだろう。だから何を批判することもできない。そういうことではないはずか。この世界は何のために存在しているわけでもない。それも違うと思いたいが、違う根拠を示せないはずだ。人には時間が必要だ。それは何をやるための時間なのか。暇つぶしには飽き飽きしているはずだ。だからそこから抜け出たいのだろうが、簡単には抜け出られないから苦労しているらしい。何もかもが地球の重力に引き寄せられているからか。そういう話ではない。語りたいのはどういう話でもなく、ただそこに誰かがいるらしい。それだけのことに言葉を弄する必要があるのだろうか。心は漠然としている。空中を漂っているだけで、現世のどこへも入り込めないようだ。仕事とは何だろう。何のための仕事なのか。そんな疑念を抱くようでは答えは出てこないだろう。仕事を逃れて何もせずに過ごすわけにはいかないわけか。それだけでは何をやっているのかわからない。何もやっていないわけだ。今日も晴れて暑くなるのだろう。誰かには何もないらしい。他に考えることがない。世の中が単純に思えてくる。事件や問題や不具合がないと困るのはマスメディアだが、それをなくそうとしているふりをするのもマスメディアだ。政治家は世直しがしたいらしい。いつまでも同じような主張ができるのも、現状維持に余念がないからか。だが現状維持では世直しを推進していることにならない。何となくすべてが矛盾しているような気がしてくるが、考えようによってはそうなのだろう。そこに予定調和という真実があるらしい。誰もが共通に問題に取り組まなければならないそうだ。それは地球環境を人が安心して住める程度には維持したいということか。しかし安心してばかりいては困ることもあるらしい。たぶんそうなってしまっては進歩や発展が見込めないのだろう。常に危機に直面していなければそこで停滞してしまう。しかし何のための進歩や発展なのか。問題を解決して危機を打開するための進歩や発展なのだろう。要するに地球温暖化が人類に新たな進歩や発展をもたらそうとしているわけか。それがなければそこで停滞してしまうわけだ。人類は常に直面する危機を打開しながら、生き延びる方策を見出さなければ滅んでしまうのだろう。要するに危機に直面し続けることが人類を人類として成り立たせているわけだ。いったん神の国やユートピアが実現してしまったら、そこでおしまいとなってしまうのだろう。そういう意味で目指すべき理想とは、そこに至ろうとする原動力を導き出すための方便に過ぎず、決して実現しない概念なのではないか。目の前にエサをぶら下げられて、どもまでも走らされているようなものか。そういう状況を端から眺めれば、かなり馬鹿げていることがわかるかもしれないが、やはりその馬鹿げた成り行きの中でもがいていないと、そこで終わってしまうのであり、一方で終わりたいのに終われない状況もあり、たぶん多くの人がそれに感づいていながら、そこからなかなか抜け出られずにいるのかもしれないが、ある契機を経て、案外簡単に抜け出られてしまうこともあるようで、嫌気がさした者から順番に、この世から退場させられてしまう成り行きがあり、具体的には自殺や病死や事故死など、いくらでも退場方法があるらしく、そんな風にして人々はこの世から消え去る運命なのだろう。


6月23日

 誰が何を見聞しているわけでもないだろうが、その手の憂国論に関心はない。この世界では何が暴走しているのか。因果関係を探っているわけではなく、従って明快なことは何も述べられない。君によってどんな状況がもたらされているわけでもないだろう。産業とは何だろう。二十世紀に生まれた概念が二十一世紀にも継続されているわけか。意味がわからないが、何かの複合体を形成している。では人が何を考えても無駄なのだろうか。単体としては意味をなさないのかもしれない。まったく新しい概念を創造しようとしているとも思えない。人としての在り方自体が無意味に思われる。何か支離滅裂なことを述べているようだが、それでこの世界がどうなってしまったわけでもない。たぶん地球はどこへ向かっているわけでもなく、太陽の周りを回っているだけだ。そこから何がわかるというのか。ジャンルとは何なのか。何か特定の分野で画期的なことが為されていたりするのだろうか。君には何もわからない。興味がなければそこまで考える気になれないのか。ただ漠然とした思いにとらわれる。感動できないわけか。人は何のために生きているのでもない。たまたまその時代に生きているだけか。何もかもがどうということはないだろう。そう思っているのならそう思うしかあるまい。その感覚は何なのか。繰り出された言葉がバラバラに散らばっている。そんな状況では何も思い出せず、何もやる気にならないか。そうではない。そうでなければ何なのか。何でもなければそこで終わりだろうか。この世界には限りがあるが果てしない。人は仕事をすることで利益を出さなければならない。そういう目的を追求しすぎるとおかしくなる。マネーゲームとなってしまえば、その先には高確率で破滅が待ち構えているはずか。そうならないためにはどうしたらいいのだろう。目的を信じないことが肝心だ。過度に信用してはならない。だが実際に起こっていることと照らし合わせれば、そういうことではないのだろう。マネーゲームにならざるを得ない成り行きというものがあり、そこに至る構造的な必然性があるのかもしれず、とりあえずマネーゲームに興じている人々にとってはそれが仕事なのだから、そういう職業が隆盛を極めている間は、彼らがやっていることを正当化する言葉にも説得力があり、メディアの中でもてはやされていたりする。不具合さえ生じなければそれでもかまわなかったはずだ。特定の職種に資金が集中すればするほど、そこから縁遠い者たちは貧困にあえぐこととなるらしく、それが顕在化してくると、今度は一転して過度な金儲けが非難の的となるようだ。まったく人々は何を競い合うべきなのか。派手に金儲けしてはならないということか。儲ける時は気づかれないうちに儲けるべきか。大金を手にするとどんな欲望に心を支配されるのか。普通に生活できる程度にとどめておくのが一番いいのかもしれないが、そうも言っていられないのだろう。儲けられる時に集中的に儲けておいて、後は遊んで暮らしたいか。マネーゲームに興じていること自体が遊びのたぐいではないのか。遊びで金儲けができたら楽しくて仕方がないのではないか。つらい肉体労働は勘弁してほしいか。実入りが少なすぎるだろうか。まったく実感がわいてこないようだ。システムの問題なのかもしれない。誰もが大金持ちになれるわけがない。どのような分野でもそこには必ず競争があり、競争に勝ち抜いた者や組織だけが最終的に栄冠を手にすることができる。そういう制度のもとでは貧富の格差が広がって当然だろうが、それでも競争をやめるわけにはいかないか。だが必然的に生じてしまう貧困層への救済は限定的なものにならざるを得ないだろう。敗者が救済によって裕福になってしまっては競争の意味がない。その状態から抜け出るための努力を常に求められることとなり、低賃金に喘ぎながらも仕事に追われる日々を強いられるわけか。まともな神経の持ち主なら、そういう成り行きから脱落したくなって当然だろう。ホームレスの浮浪者たちはまともな神経の持ち主なのか。かつてはそうだったのかもしれないが、落伍者としての荒廃した生活が神経を狂わせているのだろうか。結果的によくある話に落ち着いてしまいそうだ。要するにそういう境遇をなくすには、働かなくても普通に暮らしていけるようにしなければならないということか。しかし人が働かなくなったら社会が成り立たない。今のままならそういうことだ。逆にすべての人間を強制的に働かせたら、誰もが普通に暮らせる社会が実現するか。普通に暮らせるだけの賃金を保証しなければならない。現状がそれだろう。ワーキングプアをなくせばそれなりに成功といえるだろう。だが結局君は何を述べてきたのだろうか。どこかで思考が逡巡していたわけか。しかし現状を肯定して何になるのか。肯定しなければその先に進めないというわけか。人それぞれが集団の中で役割分担して、自らに課せられた役割を全うすれば、それでうまくいくような社会はユートピアだ。現状がそうではないから問題や不具合が生じているだけか。しかしそういう認識ではつまらないような気がする。たぶん君はそれとはまったく違った世の中の成立を求めているのだろう。それはあり得ない話か。


6月22日

 そこに何が見出されているのでもない。君は現状を知らなすぎる。それは何かの口癖なのか。知らなすぎることにしておきたいのだろうか。知らなすぎるに越したことはない。またわけのわからないことを述べているようだ。あれからだいぶ歳月が経っている。だが言葉が何を指し示しているわけでもない。君に何がわかるだろうか。何もわからないならそれに越したことはない。わざとそんなことを述べているのだろう。なぜそれらの言説に魅力を感じないのか。君はそれらの感覚を得るのに失敗したのだろうか。それはどういうことなのか。何に驚くまでもなく、どうしても強烈な効果を狙った言葉を使ってしまう傾向にあるらしい。そして見当違いの文章を構築して、結果的に何でもないようなことを述べている。そんなことの繰り返しなのだ。しかし何を反省しているのだろう。外は土砂降りの雨だ。感覚が捉えたのは夜の時間帯のようだ。何でもないことをひたすら述べている。意味がわからない。それは恐ろしいことだろうか。何でもないことだ。さっきからそう述べているだろう。要するに空気を読めていない。その必要がないのかもしれず、そんな現状を無視していてもかまわないと思っているのだろう。しかしそんな現状とはどんな現状なのか。そんな現状だ。誰かは千日手のようなことを述べていたいわけか。それはどういうことだろう。そういうことか。それでは話がどこへも行き着かないが、たぶんそんなことはどうでもいいことに違いない。予定調和の空疎な内容か。誰かはそれでも何か希望のようなものを抱いている。産業構造が昔とは違うので、昔と同じような夢を抱けなくなっているのだろう。何が悪いわけでもなく、今が何かの曲がり角に来ているわけか。人の意識も生き方も昔とは違ったものになっていることに気づかなければならず、それにあわせて言説も社会の構造も組織し直さなければならないか。だがそれで気が利いているとは言い難い。ましてや冗談の続きならそれらしいことを述べていた方が賢明に思われる。たぶん何もわからないのだろう。本気になっては困るのだ。大したことを述べているとは思えない。ならばただの愚痴になってしまうのだろうか。何となくつまらないことを述べているだけか。何を馬鹿にされているわけでもない。だから真実を述べてはならないのだろうか。誰かはそれの何かが気に入らないようだ。だが何を逆恨みされる筋合いもないはずか。語るべきことを語らなければならないが、無駄なことをいつまでも語っているようだ。無意識のうちにそう思っている。だがそれが現状だとは思えない。その場から消え去ろうとする者に脚光を浴びせかけても無駄だろう。物語的な人物の関係を好まないだけか。娯楽から遠ざからなければならない。彼を信用できないし、尊敬できない。早く消え去りたいのに、同時にその場にしがみつこうとしていること自体が矛盾しているようだ。脚光を浴びるとはどういうことなのか。くだらぬ栄光を手にするということか。後光が射しているわけではないだろう。神ではないのだから、それは当然のことか。とりあえずまだまだ遠い道のりのようで、まったく完成に至らない状況のようだ。誰かが実感しているのはそんなことか。わざと反感を買うようなことを述べているだけか。そんな風に述べてしまう意図が分からない。人は誰でも一時の栄光にしがみつきたいのだ。メディアからもたらされるのはそんなことでしかない。しかし人が生きている証しとはそんなくだらぬものなのか。人としての存在がくだらないものならそれでもかまわないだろう。しかし君はいつまで馬鹿なふりをしていなければならないのか。何が賢明なやり方なのかわからなくなっているようだ。そして気がつけば雨に打たれていて、その場に立ち尽くすばかりか。冗談ではないだろうか。そんなことをいくら述べても無駄か。無駄であるわけがなく、何を血迷っているのでもなく、わざと迷ったふりをしているだけなのだろう。どのような行動に駆り立てられているのでもない。だがそれがわかるまでにどれほどの歳月を必要とするのか。どこまで述べてもわけがわからない。今回はそういう話なのだから仕方のないことか。手を替え品を替え一時の栄光をつかみ取ろうとしても、後には廃墟が残されるだけか。それさえも残らず、ただ忘れ去られる運命なのか。君は誰のことを述べているのか。誰かに何を忠告する必要も感じられない。単なる見せびらかしだけに専念する輩が後を絶たないようだ。読む必要もない文章をいいわけ程度に載せて、他人の興味本位そのものを自らの商売に結びつけたいらしい。それで何かやっているつもりになれたら幸せか。そういうあり方がメディアの本質的な欠陥を暗示している。要するにまがい物であり、瞬間的な驚き以外の何ものでもなさそうだ。だがそれを本気で批判するのはお門違いだ。それはそれでそういうものでしかなく、それもこの世界にもたらされた様々な意匠を構成している中でのひとつの存在形態なのであり、そういう有り様が一時の気休めを提供しているわけだ。人には絶望から逃れるための気休めや気晴らしが必要なのだろう。それがなければ生きていけないのではないか。しかしそれで何を肯定していることになるのか。


6月21日

 やはり何でもないことなのだろうか。どんな苦労がその先に待っているわけでもない。それを苦労とは見なさないだけか。孤独であるのは当たり前のことだ。孤独であろうとなかろうと、ただ普通に生きてゆけばそれでかまわない。雨が降っている。ただの書き込みだけでは物足りないのだろう。何を空想してみても上の空か。わざと反発を食らうつもりなのか。社会全体が子供じみて見える。たぶんそういう水準まで認識の質を高めなければならないのだろう。それだけのことでしかないらしいが、そういう構造を変えることは難しい。自分で自分の首を絞めながら、そのことは不問にしておいてから、日本が危ない世界が危ない、とさかんに警鐘を鳴らし続ける。それも彼らお得意のギャグだろう。そんなことを述べている誰かには危機感が足りないようだ。どうも違うような気がする。若者は夢が持てないと自分の将来を悲観する。彼らは世間の奴隷なのだ。別に夢など持たなくても生きてゆけるのに、世間が彼らに吹き込む夢とは競争に勝ち抜いた末に選ばれた者しか抱くことのできない夢だ。そういう夢に破れた敗者たちは社会に対して復讐心をかき立てられるようだが、一方で勝者たちも世間の奴隷なのだ。どこかの会社の正社員になって結婚して子供ができて家をローンで買って、とかいう紋切り型の呪縛から逃れられずにいるだけだ。勝者になろうと敗者になろうと、社会が吹き込むそれらの幻想から離れることができず、自らの生活が少しでも紋切り型を正確になぞれていない事態に恐怖心を抱き、何とか型にはまった生き方に自らをあわせようとして、無理な順応を強いられ、そこからストレスが生じてしまうのだろう。その結果として劣等感を植え付けられた敗者は勝者を逆恨みして、復讐心をたぎらせる毎日を送り、日頃の努力の甲斐あって優越感を獲得した勝者の方はといえば、その生活の水準を維持するために汲々としている。どちらにしても結果的に奴隷人生を謳歌していることになる。この場合の謳歌とは苦悩することと同じだ。しかしそういう束縛を逃れて、自由に生きようとすればするほど、今度は周囲からの圧力が強まってくる。社会の規範から外れた生き方をする者はならず者であり、社会への服従を強いられている者たちからすれば受け入れ難く、場合によっては攻撃対象となるわけだ。そういうならず者は是が非でも敗者の側に突き落としてしまわなければならない。そうしないと勝者と敗者がせめぎあう社会そのものが成り立たなくなってしまうからだ。だからならず者にはまず社会が吹き込む規範としての紋切り型に関心を抱かせるようにしむけなければならない。その手の誘惑が必要なのだ。紋切り型を受け入れれば幸せな日々が約束され、受け入れなければ敗者としてのどん底生活が待っている。あたかもそれが二者択一の構造であるかのごとくに思い込ませようとするわけだ。信じて努力する者は勝者になれるが、努力を怠ればたちまち敗者になってしまう。要するに本質的には宗教のそれである。神を信じれば救われるが、信じなければ地獄に堕ちるということだ。二者択一以外にはあり得ないような雰囲気を醸し出して、次第にならず者を精神的に追い込んでゆき、信じるまで周囲からじわじわと圧力をかけてゆくのが人間社会の特性なのだろう。君はそれにどこまで耐えられるだろうか。最終的には屈しないはずがないか。それとは関係なく、すべてが冗談だと思っているのかもしれず、たぶん偶然からくり出される力学的な作用が君を守ってくれるだろう。要するにその場の成り行きまかせであり、偶然の巡り合わせが君に唯一残された選択なき選択肢なのだ。それは戦略や戦術なき戦略や戦術となるだろう。何よりも本気になれない。夢など追い求めるほど子供ではないし、目標も目的もあるのかないのかわからず、無意識のうちに何かがあるのかもしれないが、それを明かすのが面倒くさい。とりあえず何となく漠然とした思いにとらわれているような気がするが、それが何だかわからないままだ。わからないままでもかまわないのかもしれないし、偶然にわかってしまう機会がやってくるのかもしれず、その時はその時でわかってしまう事態を受け入れてもかまわないような気もするのだが、実際その時になってみないことには判断のしようがない。たぶんわからないままだろう。しかし君に残された時間が後どれほどあるというのか。数時間か数日か数年か数十年か、間違っても数百年ということはあり得ないか。いずれにしても大した時間ではなさそうだが、未だに何をわかりたいのかわからないままだ。いくら言葉を費やしてもそこへたどり着きそうにない。まだ出発地点にさえたどり着いてないような気がする。実際には出発点も終着点もありはしないのかもしれない。ただ誰かが言葉を記して文章を構成している。それだけのことに疑問を差し挟む余地があるのだろうか。誰かは君に関して何を述べているのだろう。相変わらず君には関係のないことを記しているのか。誰にも読めるような文章ではないらしい。誰に読んでもらいたいわけでもなく、他の誰を相手としているわけでもないようで、その存在自体が矛盾していることは確かなのだが、それでも誰かはかまわないと思っているらしい。


6月20日

 何も焦る必要はないが、また翌日になりそうな成り行きだ。仕方のないことだが、他に雲行きが怪しいのは天候だけか。脈絡がないだろう。それでかまわないのではないか。何に挑戦しているわけでもないだろうが、その時間帯は休まなければならなかったらしい。疲れていたのだろう。夕方から翌朝までの記憶がない。だから今さら何をいいわけしても無駄だろう。君とは別人の誰かには経験が足りなかったのかも知れない。君はそこから一歩も動けなくなる。もうろうとした意識はまたいつもの冗談に違いないと思いたいらしい。もう少しまともなことを述べなければならないと思いたくなるが、現状はそうではない。くだらない先入観に流されて、気がつけば愚劣な言い回しを弄んでいる。ではもう少し格好を付けた物言いに終始すべきか。そうではない。わざと見当違いのことを述べている現状が愚劣なのではないか。しかしそれ以外に何を述べられるのか。無理だと思うなら、その続きを述べてみればいい。さらなる見当違いを醸し出そうとしている。君はそこから何を語ろうとしているのだろう。何か気に入らないことに巻き込まれているわけではない。しかし事件とは何なのか。テレビドラマの中で頻発するたぐいの出来事か。君は何を解決したいのだろうか。君に何を問うているのではない。その手の事件はテレビドラマが解決してくれるはずだ。君はテレビを見ながら何も心配することはない。その一方で夢の中の君は幻想の虜だ。関係ないだろう。夢とテレビドラマの間でどんな関係を導き出そうとしているのでもない。君に未来があるとは思えない。それも関係のないことだ。では君にとって関係のあることとはどんなことなのか。それが思いつかないらしい。思いつこうとしているわけでもない。頭の中はまったくの白紙状態だ。心の中で誰が何を語ろうとしているわけでもなく、ただ意識は音楽を聴いている。唐突に何を思いつくわけでもないが、この世界はいったいどうなっているのだろう。君の意識はこの世界の現状を受けつけようとしない。人々が行動し考える動機を思いつけない。君にはただうごめいているようにしか感じられないようだが、それはどうしてなのか。ニュースが語る犯罪者の動機というのはくだらなすぎる。まるでテレビドラマや漫画の中に登場する犯人ではないか。なぜその手の人はわざわざ現実の世界で損な役回りを演じようとするのか。もちろんニュースは警察に捕まった犯人の人物像を伝えるわけだから、要するに警察に捕まるようなやつは間抜けということなのか。間抜けだからその人物像も虚構の世界の紋切り型で間に合ってしまうということか。もう少し気の利いたやつなら警察なんかには捕まらないだろうし、だいいち事件など起こさないのではないか。要するに表沙汰にはならないということか。そういう意味では捕まるべくして捕まるのがテレビドラマの中の犯人になってしまうのだろうか。たまには犯人を取り逃がしてそのままになってしまう刑事ドラマがあってもいいような気がするが、それでは放送倫理規定か何かに抵触してしまうわけか。なんなら始まりから最終回まで一度も犯人を捕まえられずに終わってしまうような話なら話題となるような気がするのだが、やはりそういうのは掟破りの御法度なのだろうか。まあお笑い芸人のバラエティ番組でならありそうな話であるが、役者が真剣に演じるドラマではあり得ないことだろう。まったく馬鹿げた話となっているようだ。誰かの気分次第でおちゃらけたことを述べているらしい。今はそんなことしか語れないようだが、他に何を思いつくべきなのか。もう少しまじめに語る必要があるのではないか。今頃彼はどこで何をやっているのか。彼とは誰だろう。君の影に違いないが、影には意味がわからない。君の意識の中でも意味不明だ。何も驚異的なことを語ろうとしなくてもいい。無理に語る必要はない。黙っていれば言葉が勝手に連なってくれるだろう。今は夜なのか。夜の闇の中で何を考えているのだろう。何も思いつかなければ殺されてしまうわけでもない。クイズ番組ではないのだから、十秒以内に答えるようなことでもないが、この世界にはどのような問題が生じているのか。君はそこで何を考えているのだろう。そんな問いかけの繰り返しにはうんざりしているはずだ。だからそこで答えを求めているのではないか。その執拗な問いかけを終わらすための答えを見つけようとしているわけか。問いかけが終わるはずがない。その成り行きを覆すことはできない。君に何ができるというのか。問いかけることの他にはあり得ないだろう。少なくとも現状ではそうだ。だから何を急ぐ必要もなく、ただひたすら問いかけていればいいのだ。そのうち何かの加減で問いかけられない状況が到来したら、そこで問いかけに終止符が打たれたことになるだろう。結果的にそうなればそこで終わりなのだ。だからそうなるまでせいぜい無意味な問いかけに終始してほしい。やがて飽きがくるその時までひたすら問いかけてほしい。君が今直面している問題とはそういうことなのだ。それでもそれが君には関係のないことだとうそぶけるだろうか。しかし何をそんなに強がる必要があるのか。


6月19日

 やってみなければわからない。そのための試行錯誤だったのではないか。今はそれが冗談だとは思わない。人は甘みを好む。甘さに飢えている。それを拒んではいけない。だが説明不足にもほどがある。今から何を説明するつもりなのか。それは過去の事件にまつわる冗談のたぐいか。何も説明できないようだが、何をあきらめているのか。たぶんそういう話ではないのだろう。結果的には何の話にもならないようだ。それは誰に当てはまるケースなのか。君の場合はどうなのだろう。国家は何を痛めつけているのか。例えば国家主義者が受け入れ難い社会とはどのようなものなのだろうか。やはりそれは犯罪に甘い社会か。厳罰主義でないと国家としての威厳を保てないか。死刑を執行してその手の国民の人気取りをしたいらしい。世の中に自分の愛する家族を殺されて憎しみの感情を抱かない者などいないはずか。そういうかけがえのないのない命を奪い去った者に対して国家が厳罰を科すのは当然のことか。それが正論なのだろう。しかし君は何を笑っているのか。社会の秩序とはいかなるものなのか。君の理想は犯罪者を社会の中に野放しにしておいてもかまわないような状態だ。現時点でそれはあり得ないことだろう。人殺しが通りを自由に闊歩している状況を思い浮かべてほしい。それを許していたらこの社会はどうなってしまうのだろうか。たぶんこの世は天国になってしまうのではないか。死刑を望む者が思いを遂げられないということはどういうことなのか。要するにいくら他人を殺めても無駄だということだ。それが利益に結びつかない状況を目指すべきではないか。現実問題として、この世界は人をいくら殺してもどうにもならない世界なのではないか。人間とは殺す価値もないただの動物に過ぎない。いくら殺してもウジのようにわいて出る。ゴキブリやハエやネズミと同じたぐいなのだ。そうやって人間の存在を否定的に述べるのは容易いことだ。しかし価値とは何なのか。人に備わった知性が価値なのか。それの何が価値あることに結びついているのだろうか。そういう思い込みが君を価値ある人間に仕立て上げているとでも思っているのか。なぜ君は人間がかけがえのない存在だと思っているのか。他の誰にとってかけがえがないのだろうか。もしかしてかけがえがないと思っているからこそ、その貴重な命を奪い去ることに価値を見出そうとしているのではないか。つまり人殺しはヒューマニストなのだ。心を安っぽいヒューマニズムに汚染されている。そうでなければ虫けらのたぐいをこれ見よがしに殺すはずがないだろう。どうだといわんばかりに人を殺してみせるということは、やはり人命が大切なものだと認識している証拠であり、その辺に人殺しの人間的な弱さがかいま見られるのではないか。すなわちわざわざ殺すまでもないのに殺してしまうところが、人殺しが犯す最大の過ちなのだろう。今回は少々冗談がきついか。そういう意味ではわざわざ処刑するまでもないのに処刑してしまうところが、国家が犯す最大の過ちとなるだろうか。そこから何となくそういう制度の馬鹿らしさがわかってくるような気がするのだが、果たして人間たちはこの世界で何がしたいのか。集団生活の中でお互いに切磋琢磨し合い、時にはそれがエスカレートして、結果的に傷つけ合ったり殺し合ったりしているだけか。たぶんそれは笑ってしまうような現状に違いない。そんなことをやっている人々に本気になれるはずがなく、ただただ呆れるばかりだ。自分たちがこの世界の中ではとるに足らない存在であって、やっていることもどうでもいいようなことだと知る必要があるのではないか。人間とはそれだけでは価値のない存在なのだろう。価値というのは人が勝手に抱く幻想に過ぎず、価値のあることをやろうとするためにねつ造された目標である。そんなわけで価値は価値を実現するために必要な概念なのだが、何かわざとらしく矛盾していないか。また冗談が過ぎるか。しかし君はそこで何について言及しているつもりなのか。得意の逆説的な言説を繰り出して、してやったりとでも思っているのか。述べていて何となく虚しさが募ってこないか。何がそれらの言説の限界を形作っているのだろうか。途中で遊び半分が本気になってしまっていないか。世間の常識を軽視しすぎて、勇み足の連続となっている。しかしそこからどんな反省が導き出されるというのか。人殺しは人殺しで何らかの悩みを抱え込んでいるようで、そこから人を殺しざるを得ない必然が生じてしまうのだろう。そして殺しすぎた者を死刑にしないと世間が納得しない事情もあるらしく、近親者を殺された遺族や友人にも、そのやりきれない気持ちをどうにかしてほしいという要請があるようで、それに応えるための制度として、そういうものが存在しているのだろうが、それをそのまま維持存続させる理由がどこにあるのか。だからそういう理由で維持存続されているのだろう。ならばそれを変える必要がどこにあるのだろうか。人殺しと国家が共有している安っぽいヒューマニズムに我慢がならないから、それらの制度を変えなければならないのだろうか。人間にとって命が最も大切だからこそ、人殺しと死刑によってその命を奪い去る必要が生じてしまうことに、何となく違和感を覚えてしまうわけか。


6月18日

 やはり何かから逃げているようだ。何かとは何か。そこで言葉を操る者は何に関して逃げているのだろうか。何からも逃げられないような状況ではないだろう。それで何から逃げているとしても理由になっていないのではないか。だから何かとは何なのか。どんなに語ってもやがて飽きがくる。つまらないことを述べているだけの自分に嫌気がさしてくる。そうでなければ何なのか。何が何だというわけでもなく、ただわけがわからず、ひたすら逃げているようだが、そんなことを述べている自分にがっかりする。そうであるならば、何かとは冗談でしかない。何が冗談なのか。それで何が不満なのか。冗談でなければその先に何があるというのか。狂気の時間か。そんな大げさことではないような気がする。誰かは楽器もないのに何かを奏でているつもりになる。狂気ではなく、幻想を抱く時間が近づいているのかもしれない。カフェインが濃すぎるのだろう。さっきまでコーヒーを飲んでいたようだ。たとえこの先の時間帯において何もなくても、その原因を何のせいにしているわけでもなく、ただわけもなくそんなことを述べたかっただけか。それだけではないような気もするが、どのみち君にはわからないことだ。作り話の中では終わりまで語らないとわからない設定になっている。別に何を先走って述べているわけではないが、ひたすら無駄な言説を記そうとしているらしい。言説にさえなっていない。何を説明しようとしているのかわからないのだが、誰にもわからないことを述べようとしているのではない。だがそれの何がおかしいのか。何をそんなに笑う必要があるのか。笑いながらもどこか遠くへ突き抜けていく必要でもあるわけか。また根拠のない動作を求めているわけでもあるまい。人が狂うとき、それは誰にでも可能性があったことだ。たまたま偶然に選ばれた誰かがそうなってしまっただけのことか。そんなわけで君の目算は狂い続けている。どのような結論に至ることも叶わず、ひたすら無内容を言葉でなぞり続けている現状があるらしい。そんなことがいつまで続くのか。それを誰に何を尋ねようとしているのでもない。そこには誰もいないのではないか。そういう話の設定になっているはずで、現実においても空疎な気分のただ中に意識があるはずだ。ではそれの何が必然をまとっているのだろう。君のやり方がそういうのだから、それに沿った現実がその場に醸し出されて当然の成り行きのはずだ。目算が狂っている原因はその辺にあるらしい。だから今の君に何ができるはずもなく、それらの言葉の連なりによって空想される光景を黙って眺めていることしかできない。他に何を思い描いているわけではない。君がそこから退場するまでそれらの幻影がその場に居座り続けるわけだ。そうだとしたら何だというのか。それに対して反論する機会でもいつか巡ってくることを期待しているのか。だから君に何ができるというのか。それらの試行錯誤の結果が現実の世界に存在する事象の何に反映されるというのか。それをこれから見極めようというのでもなく、誰かはひたすら言葉を並べて、それを読み返す作業に没頭しているのかもしれない。その中に君という言葉が紛れ込んでいるわけか。そんな君には何がもたらされているのか。絶望か何かの否定的な感情か。そうだとしても誰が絶望しているわけではない。君の他に誰がいるというのか。時が過ぎ行くのにあわせて光景も過ぎ去り、やがて何もなくなってしまう途上において、何かつかみ取るべき事象でも見出さなければならないわけか。見つけられるはずもない。何となくあきらめかけているような気がするのだが、やがて何ももたらされない現状をいつまでも放置しておくことはできなくなるだろう。近い将来において何か実感を伴ったものを得られるような成り行きになってしまうのかもしれず、それが偶然の巡り合わせなのか必然的な成り行きなのかわからないが、そんな当てにならない予感をどこまで信じられるだろうか。たぶんその時が来たら信じざるを得ないのだろうが、予感の的中に伴って、それを抱いていた誰かの中で、はたして何かが変わったような実感を得られるだろうか。案外今まさに変わりつつある時期なのかもしれず、気づかないうちに何か得体の知れぬ事態に遭遇しているのかもしれないが、だからどうだというのか。相変わらずの意味のない問いかけに終始しているようで、本質的には以前と何も変わっていないようだ。それらの言葉を連ねようとする意志がそんな事態を招いているわけで、そこには何か罠のような仕掛けが張り巡らされていて、それが絶えず誰かを陥れようと狙っている。君は何を勘違いしているのか。何が罠なのだろう。それが罠だとしたら、誰かは自ら進んで罠にはまろうとしているのではないか。罠にはまらなければ何も記せなくなってしまう。誰かはそれらの罠から言葉を拾い集めて文章を構成しているつもりのはずだ。そしてそれの文章が説明意識の希薄な言説そのものとなり、何かいいわけのような案配になっているのかもしれず、あてどない道の途上をその気のない言葉でなぞっているのだろうが、そんな風にして語ることで何がもたらされているとも思えない。


6月17日

 何をそんなに焦っているのか。そんな決まり文句に動じるはずがない。では何がどうなってそうなってしまうのか。その場の話題とは何なのか。なぜ共通の話題を共有しなければならないのか。世間話ができなくなってしまう。君には必要のないことだろう。それだけではないと思いたいが、他に何も思いつけない。嘘をつくのもいい加減にしてほしいか。今回はまんざら嘘でもないのかもしれず、実際に何を語ろうとしても上の空だ。それこそいつもの笑えない冗談に違いない。今のところは今日は今日であり、明日にずれ込む心配はなさそうだ。油断していると明日になってしまう。何も思いつかないのにその余裕はおかしいか。たぶん頭の中で何かがずれているのだろう。そしてそれでもかまわないと思っている。それは何でもないことか。そんな強がりに意味はない。今さら何を述べようというのか。夜の闇に風景が溶け込んでいるようで、興味を引く対象を見つけられずにいるらしいが、君はそこで虚無以外の何を見つけようとしているのか。なぜそこから遠ざかれないのか。何となく居心地が良すぎるのかもしれない。さっきから何かが遅延状態だ。何となく遅れているらしいが、そこから目指すべきものとは何だろうか。目的地がどこにあるというのか。君に何ができるというのか。またいつもの決まり文句に導かれてしまい、結果的に落胆の色を隠せないようだが、どこから回り道に入ってしまったのだろうか。いったい彼らは何を伝えたいのか。浅はかなセンセーショナリズムに乗っかって、どのように言葉を繰り出しているつもりになれるのか。別にそんなことはどうでもいいと思うなら、わざわざそこに記されている文字列を読む必要はない。意識がそこから遠ざかり、視線は自然と夜の闇へと向かうらしい。そういう成り行きなのだから仕方がない。要するに言葉に詰まっているわけだ。何をけしかけられているわけでもない。ただ何らかの存在の喪失によって心が動揺する。そんな風に語るべきではないのかもしれない。まだ驚愕すべき出来事を知らないのだろう。何に感動したいわけでもない。何もなければ感動するはずもなく、逆に行けども行けども何もないことに感動したいのなら、もう少し現状に対する認識を深めるべきか。要するに無感動の元凶は単純化思考にあるのか。誰もがそれだけではないことを知ろうとしないから感動できなくなる。人間のある側面だけを強調しすぎると、それだけで価値判断ができると錯覚してしまい、物事の優劣や白黒をはっきりつけられるかのように思われ、肯定も否定もできない曖昧な部分を感知できなくなってしまうわけか。だがそれくらいのことに驚いてどうするのか。考えるのが面倒ならそれでもかまわないのではないか。思い込みの激しい人ならもってこいの状況か。何かを否定せずにはいられない衝動を甘く見てはいけないような気がする。いったんそれに身を委ねると、否定することこそが自らの思い通りに行くこととなってしまい、とりあえず世の中のありとあらゆる事象を否定しまくっている間は平静を保っていられるようになる。でもそれが遊戯の一種だと悟った瞬間からそうもいかなくなり、今度は否定しまくる態度そのものを否定したいと思うようになり、否定とは逆の肯定作用に惹かれ、否定するしかないような事象を無理矢理肯定するために、ごまかしやレトリックを導入しようとして、そういう言語的な技術によって無理を克服する試みに魅入られ、次第にわけのわからない回り道に足を踏み入れるようになってしまうわけだ。だがそれで何を語っていることになるのか。途中からおかしな方向へずれて行ってしまっているだけではないのか。今はそういう語り方を肯定したい。たぶん誰も現状を正確に表現することはできないだろう。正確さに欠けるから魅力的に思われ、幻想を抱く隙が生じてしまう。何かとてつもない偉業を成し遂げられると妄想してしまい、それに向かって努力している姿が滑稽であることが忘れられるわけだ。端から見ればなんと馬鹿げたことを述べていることだろう。そういう認識を抱いている必要がありそうだが、それだけでは何もできなくなってしまうだろう。正気の沙汰でないことをやっている瞬間に立ち会い続けなければ、現状を打破することはできない。今ある現状こそが君を日常に縛りつけているのだから、そこから離れるためには論理的な飛躍が必要となる。非日常の光景こそがこの世界の真実を物語っているわけか。同時に冗談に過ぎないだろう。何も尊ぶべきものではない。冗談に過ぎないからこそ非日常の光景なのであり、くだらぬ妄想だからこそ、それがこの世界の真実なのか。そんな妄想をひたすら膨らまし続けると、ある時点ではねて、わけのわからない犯罪行為に行き着くわけだ。だから適当な時期を見計らって、真実をかいま見ようとする行為をあきらめなければならない。そうしないと二度と退屈な日常に戻れなくなってしまい、悲惨な現実に遭遇してしまうわけか。運が良ければさすらい人となって、世界を経巡るはめになるか。そんな放浪者は物語の中でしか生きられないような輩だが、やはりそれは魅力的な生き方に思われてしまうのだろう。


6月16日

 何も成し遂げないうちに月日が経ち、死ぬ間際になって自分が何をしようとしていたのか思い出せなくなる。それは誰の告白になるのだろうか。誰が何を探しているとも思えない。それはいつものごまかしの続きとして記されるべき文章の一部だ。回りくどすぎる。燃える朝焼けを眺めていたのではない。関係のないことを述べていたいらしいが、それだけでは不完全だ。何よりも実践が伴わなければならない。では何をやるべきなのか。まずはそれを知るための知識が必要だ。何かが佳境に入っている。それの何が冗談なのか。実際にそこまで出向いて詳細を確かめてみなければわからない。わかろうとしないなら、ここから眺めているだけでもかまわないのではないか。何をそんなに眺めていたのか。今はその必要すら感じられない。君にはできない芸当だ。そのとき彼は何を教えようとしていたのか。誰に何を教える必要があるのだろうか。それはまたしても君には関係のないことか。今日は何を述べても無駄らしい。その気になれないようだ。しかし何がくだらなくてそんな気になってしまうのか。ただそうではないと思いたい。それがくだらないことの一部始終を語る気になれなくしている。相変わらず回りくどいようだ。どこかに不具合が生じているのではないか。それで何を達観しているつもりになれるだろうか。出遅れ気味にどこかへ出発してしまうらしいが、誰のことを述べているのだろう。今さらそれはない。エアコンの冷気が気に入らない。思いついた言葉の羅列には魂がこもっていないようだ。即興演奏か何かのつもりか。馬鹿にされてしまうだろう。いつまでも外れたことを述べているようだ。別に自己崩壊状態というわけではなく、ただそこまでたどり着けない。どこから遠ざかれないのだろうか。もう時間がないはずだ。いったいどれほどの時間が残されているというのか。君は矛盾に取り囲まれているようだ。どちらに転んでもそこは奈落の底まで転げ落ちてしまうような急斜面だ。危うい綱渡りの最中というわけでもないだろう。語っているそれが君の言葉ではない。それで何がわかるというのか。まともな文章を構築できずにいるらしい。そこから逃げてしまいたくなり、逃げ仰せることができないことを承知しつつも、やはり逃げるそぶりを見せておかないと、さらなる深みにはまってしまうような気がする。それはどういうことなのだろうか。誰かは君の代わりに何を語ろうとしているのか。わからないことはどこまでもわからないままであり、それに関して適切な判断を下せずに終わってしまう。そして終わった先には新たなる始まりが用意されていて、そんな成り行きに促されて、君は語り始めなければならなくなるだろう。何を語るというのか。語ろうとしているそれは何でもないことに違いない。たぶん頭がおかしいのだろう。だがそんな簡単に結論を下していいものか。では何を迷っているのだろうか。できないことをやろうとしているわけではない。君はそれでは不満らしいが、今そこで述べられるのはそんなことでしかない。働くことに意味があるらしい。昼の日差しの中で影を引きずりながら歩いていた。君は意味のない暮らしを送りたいようだ。できることなら何もしないで過ごしていたいが、そうも言っていられない事情でもあるらしく、誰かはただ真っ当に働き続け、使い道のない給料をもらい、それ以外は本当に何をやる気も起こらないようだ。そこに苦労があるとしたら、それは回避不可能な必然に違いない。やりたくもないことを無理にやっていると寿命が縮むか。やりたいことが見つからない場合はどうなのか。たぶん人生の外側から内部を覗き込むようなやり方は君にはふさわしくない。言葉を連ねることによって、結果的にどこか得体の知れぬ場所へとおびき出されているような気もするのだが、それがどこなのかわからない。君にはわからないようなどこかだ。しかしそれがどうしたのか。何か反論が用意されていたりするのだろうか。それは何に対する反論なのか。現実的な選択を迫られる。功利主義的に選べばそれほど間違わないだろう。何かを巻き直さなければまともな展開には持ち込めそうもない。夜空を眺めてみれば月の光が薄雲に遮られて黄色く変色している。それは関係のないことか。堕落していることは確かだ。今こそ努力の質が問われている時はない。わけがわからないだろうか。雰囲気だけの展開に嫌気がさしているかもしれないが、実体を見極めることはできず、すべては虚構の霧の中で生じている現象だ。それで何を述べていることになるのか。話の中身が雑すぎるようだ。中身も何もありはしないだろう。そこに苦悩が生じていることさえわからないか。そう述べて誰をおだてているわけでもなく、そういうことではないのはわかりきっているのに、あえてそんなわけのわからないことを述べている意図を知りたくなるが、それはただの引き延ばしに違いなく、意味をなさないことを平然と語っている誰かはくだらない感性に頭を支配されているのだろうか。語ることがないのに言葉を連ねている結果がそこに記されているだけか。やはりそれは回避不可能な成り行きだったのか。ただわざとらしいことを述べている。


6月15日

 何がわからないのか。たぶんそれがわからないだろう。それとは何だろう。それがわからないようだ。本当はわかりたいのだろう。なぜわからないのだろうか。何かに惑わされているのか。その場の雰囲気と言葉に惑わされているようだが、そうならないためにはどうしたらいいのだろう。そうなってからならない方法を見つけようとしても手遅れだ。今はどのような精神状態なのだろうか。何を語ろうとしているわけでもなく、ただ言葉を記して文章を構成しようとしている。人はたわいない理由で死んでしまうらしい。そんな理由で殺されては、サバイバルナイフで刺された人たちも浮かばれないか。人間は偉大ではない。特定の固有名を有する人たちが偉大なのだろう。要するにそういう人たちが偉大だと思っている人が大勢いるということか。メディアで宣伝されればそういう偉人にでもなれるのか。どこの誰が偉人になろうとしているのか。冗談の範囲内でそんなことを述べているらしい。とりあえずトラックで突っ込んでナイフで刺した人は偉人にはなれない。小心者でも大それた事件を起こせることを証明しただけか。人間とは何か。冗談でそんなことを述べている者は人間なのか。別に大それた事件を起こそうとしているわけではない。掲示板に犯行予告でもしたいわけか。何か荒唐無稽なことを書き込めば冗談だと見なされるだろうか。無視されるだけだ。ナイフで刺した彼も無視されていたのではないか。この世の何を真に受けたらいいのだろう。人は簡単に死んでしまう。そうであってはまずいのか。簡単に死なないような世の中になってほしいのだろうか。人は他人の人命を尊重すべきか。そうだとしてもわからない。時として別の論理が優先されてしまうのだろう。冗談で何を語りたいのでもない。仕事の種類によっては心が荒廃してしまうのだろう。従業員の扱い方に問題があるのだろうか。人間としての尊厳を踏みにじられてしまうわけか。人ではなく物として取り扱われてしまうらしい。消耗品でしかなく、要らなくなったら首を切れば済むことか。そうだとしてもそういう仕事に従事することしかできないとしたら、そういう人はどうなってしまうのだろう。それでも耐えて働き続けるしかないか。それでどうなるというのだろうか。安い給料でこき使われて、そういうことに人生の大半を費やさなければならないとしたら、それこそ絶望的な状況か。馬鹿でいればそれでもかまわないのか。君はそういうことも冗談だと思いたいのか。いつかそこから抜け出して幸せな日々をつかみ取らなければならないのだろうか。貧乏人にはそういう夢を抱く必然性でもあるのか。何がいいのかわからない。人はどのような状況下に置かれても人でしかないが、それが誤った認識になる可能性がどこにあるのか。憂さ晴らしに何を起こそうとしても、それはその人の責任でやっていることだ。法律的にはそういうことになっているわけか。ならば本気になれないのはどういうわけだろう。人が人として生きてゆくには何が必要なのだろうか。心にゆとりを持てるようになるには何が欠かせないのか。冗談だけでは無理かもしれない。しかし笑ってしまうことしかできない。秋葉原で刺された人も、アフガニスタンでタリバンと戦っている兵士も、何となくそういう成り行きに巻き込まれてしまった人たちでしかない。いかにもっともらしい目的があろうとなかろうと、結果的にそうなってしまっているのだから、それはそれでそういうことでしかない。それを笑ってしまえる感性が誰に宿っているというのか。人々はその辺でうごめいているだけだ。他人と同じような幸福を求める人は狂うだけだろう。自らのおかれた状況を見ようとしない。抱くのは被害妄想だけか。必ずどこかで妥協を強いられる。それが人間社会の一部として存在しようとしていることから生じる限界だ。その限界を打ち破るにはその程度の人間では力量不足も甚だしいか。この世界は小さき者が集う場所だ。ほんの些細なこだわりを大げさに言い立てる人々が、テレビ画面の向こう側から自らの存在と行為の正当性を主張している。いったいそれの何が馬鹿げているのだろうか。君には理解できないことが多すぎる。それでもそういうことに感動してあげられるだけの善意が必要とされているわけだ。今さら何を馬鹿にしても仕方がない。ひたむきに努力しているその姿が多くの人の感動を呼び込むのだろう。小さき者たちは自らの姿を他の人たちに見せびらかしたいのだ。おれってすげえだろ!と心の中で叫んでいるわけだ。世間に自らの存在を認めてもらうための涙ぐましい努力をわかってほしいわけか。何となく情けない気持ちにならないか。たぶんそういう浅はかな見せびらかしから背を向けた人たちが一方にいて、我関せずの態度をとっているのかもしれず、そういう人たちの存在によって何かのバランスが保たれているのだろう。くだらぬ気違い沙汰は勘弁してほしいか。そこに笑いの源泉があるらしい。冷めた目つきで眺めながら、何をしたいわけでもなく、どうにもならないことはどうにもならないままにして、それ以外に何もなくても、その場で立ち止まり、何か貴重な瞬間を体験しているようなつもりになりたい。


6月14日

 それが不愉快だとは思わない。明るい部屋の中で、気がつけば目の焦点が合っていないようだ。誰がどこを見ているのだろうか。耳を澄ませば何かの音がするようだ。架空の登場人物がどこかに見出され、誰かがどこかでさまよっているようだ。それが中身のない話の始まりだ。始めから話になっていないようだが、何がそうさせるのか。戯れにそうしているだけだろう。暇つぶしに音楽を聴いているのだとしたら、歌の中で心がさまよっているのだろう。宮本武蔵は物語の中では放浪者だ。関係のないことを語りながらさまようのは楽しいか。さまよっているのではなく、迷っているのではないか。語るのが面倒なので、そうではないと思いたいのかも知れない。だが否定する対象がわからない。君が否定するのではない。君に何ができるというのか。何かが気分を害しているように思われ、またどうしようもなく落ち込む瞬間がやってきたようだ。格好を付けることもできない精神状態を装いながらも、誰に向かって何をこびているのでもなさそうだが、横目でテレビを見ている余裕があるとは思えない。じっとしていると、すぐに病のような気がしてくる。気まぐれに嘘をつくのもいい加減にしてほしいか。言葉をこねくり回して何を気にしているのだろう。どこまでも続いている道などない。それは何かの視覚的な効果でそうなっているのだろう。しかし一方で誰が迷路で迷っているとも思えない。路地を抜けるとそこには信号があった。いつまでたっても青に変わらない。虚無がそこで立ち止まる理由を探しているらしいが、勝手に述べているそれが何を意味するというのか。それとは何なのか。君に向かって誰かが何かを叫んでいる。突然の出来事のように思われるが、それは気のせいだろう。ではなぜ後ろを振り返っているのか。何に関心を示しているのだろう。たぶんちょっとした拍子にそういう成り行きに巻き込まれているのだ。そこに何らかの動作が差し挟まれる可能性も出てくるが、とりあえず何に対しても無反応であるわけがない。たぶん君はそこで何か適当なことを思っているはずだ。できるならその場所の位置を知りたい。画面を見つめながら何をやっているのか。さまよっているだけではいずれ飽きがくる。自らがさまよっている理由を知りたくなる。君は本当にさまよっているのか。いったいどこでさまよっているつもりなのだろう。そういういいわけは聞き飽きた。何をそんなにはぐらかしているのか。そのギターの即興演奏に聞き覚えがないか。聞いているのは言葉ではない。言葉でなければ何だと思われるのか。技術的な裏付けを求めたいのか。それほど技巧を凝らしているとも思えない。では何の話をしているのだろうか。いつものように意味がわからないと思っている。そしてありふれた話の展開に呆れている。何がありふれた話なのか。呆れているというのは嘘だ。何を語ろうとしているのでもなく、実際に何かを語っているつもりのようだが、相変わらずその内容を理解できない。虚無に浸食されているようだ。見当違いも甚だしい。何を否定しているつもりになれるのか。そういうことではない。事件が起こらないと話が始まらない。話が君に向かうはずがない。何かに蝕まれていることは確かだ。それは事実なのだろうか。話にならない何かについて語っている事実がそんな妄想を抱かせる。何かの迷宮の中にいるのは君ではない。もう少しつじつまの合うことを述べてみないか。物語になり得ない原因がその辺にあるらしい。だから君ではないと述べていたはずだ。虚無に魅入られているわけではないが、それの何が魅力的に感じられるのか。何もしていないとは思えない。誰かが君のことを述べているのではないらしい。何か突拍子もない成り行きに巻き込まれるのは映画の中での話か。そんな映画を誰かが遠くからさめたまなざしで眺めている。言葉が余分のようだ。空き缶がたまってゆく。バケツの中に水がたまっている。それがたまらない光景であるはずがない。それらのどこに良くなるきっかけを求めているのか。時間切れの気配が漂う。そんなことを述べているうちに夜になってしまったようだ。今は誰と対峙しているとも思わない。言葉は言葉で、君は君で、虚無は虚無だ。虚無が何を語ろうとしているのではない。虚無と君とはお互いに関係のないところまで遠ざからなければならない。言葉は何をしているのか。ただ記されるがままにいるはずがない。今こそ戯れに立ち上がる必要でもあるわけか。性根がねじ曲がってる。奇をてらうことばかり考えているようで、物事の本質を見極める能力が欠如している。たぶんその場で生じたヒステリーを利用して言葉を連ねているのだ。何か他に良い方法がないものか。言葉を弄することによって何を打ち破ろうとしているのでもない。たどり着こうとしている先に何を期待するわけにもいかず、困り果てているだけを装うこともできない。蚊に刺されたらしい。それからどうしたのだろう。漫画を読んでいたのは数日前のことだ。そこからどのような着想を得たわけでもない。終わろうとしている物語内での引き延ばし工作を応援しているわけもないだろう。わざと関係のない枝葉末節な出来事にこだわっているのか。意味がわからない。


6月13日

 戯れに何か適当なことを語りたいらしいが、どうも今日はうまく言葉が出てこないようだ。地面から見上げれば空は晴れ渡り、雲ひとつない快晴状態のようだが、それで何を思うこともできない。朝は北風が強い。今は夜だ。途中から曇って雨がぱらつき、今はまた晴れている。ただ何も思いつかない。何も思いつけそうにない。それがどうしたのか。今はそれだけが気がかりだ。冗談にはならないようだ。何かを語るのが面倒くさいのだろう。だから何でもないことを語っている。画面以外は何も見えてこない。それで何に向き合っているとも感じない。何もないからただ無駄に言葉を弄しているようだ。それだけのことだ。それ以外には何もない。さっきから同じような言葉が記されている。君はそこで何を見ているのだろうか。それらの言葉の連なりの中に君という言葉が記されている。それで何を知り得たわけでもないらしい。疲れたまなざしには何も射抜かれはしない。もとからそんなことはあり得ない。影は何を語り出しているのか。語っているのは影ではないのかもしれず、定まらない行き先に業を煮やして、何か強引にあらぬ方角を指し示そうとしているのは誰でもない。そんなごまかしには魅力を感じない。何とも思わないということか。念を押すようなことではない。気まぐれで道に迷っているだけか。現状ではあり得ない話にならないか。なぜそこから前進しようと試みるのか。這いつくばっている。嘘をついているのかもしれない。斜め後ろから風が吹き込んでいるようだ。そんなはずではなかった。少し具体的なことを述べてみないか。意味不明だけでは間が持たない。何かの出来損ないのようなことを述べている。他人は何を求めているのだろうか。何を想像しているわけでもなさそうだ。そこに何らかの目的がなければ先へ進めないはずだ。ひたすら迷っているふりをしても何も出てこない。心の中で何かがひからびている。出てくるイメージはくだらない。今さらそれは何なのか。何によって深く傷ついているわけでもない。誰に背後から刺されたこともない。そこからは何も出てこないだろう。ただの戯れ言だ。もとからそのつもりだろう。どんな台詞が導き出されたわけでもない。誰かが頭を抱えている画像を眺める。別に困っているとも思えず、何を考えているわけでもないのだろうが、たぶんそれがすべてなのだ。いったん握った主導権を手放すわけにはいかないらしい。そこからゲームが再開される。途中の記憶をどこかへ捨て去ろうとしている。その代わりに何をたぐり寄せようとしているのか。言葉ではない。何かの雰囲気に隠れた真意を明かそうとしない。まったくのでたらめというわけではなさそうだ。あほくさいと思う。なぜそんなことを執拗に語ろうとするのか。何かを行う以前にそれをやろうとしているわけだ。話に言葉が絡み合ってこないようで、誰かの思い出の中で何が語られているとも感じられず、いったん見失ってしまった何かを探し出すのは不可能だ。今のところはそういうことにしておきたい。卓袱台の上にろうそくが灯されている。意味のない映像を空想しているだけか。映像ではなく光景なのではないか。同時に成り立つような言葉を記しているようだ。それでも本当のことは語らない。ならば噛み合ない会話を想像してみよう。どこまで行っても平行線か。それは迷い道などではなく、どこまでも続く直線道路か。だが向かう先には目的がない。途中の過程を省いて、早く何かを終わらせたいのだろう。君は何に呼ばれているのか。死神などではない。そこに誰がいるとも感じられず、君の影が何を語りかけているわけでもないだろう。君はどこまでも無色透明であることを求め、それがどのような意味を担うことも拒否しているように映る。それは架空の映像の中で語られていることか。あり得ない話を延々と繰り返して、わざと嘘をついているような雰囲気を漂わせ、それが何を意味するとも思わないが、ただ何かを感じ取っているのだろう。些細な何かが違っているらしく、その違いの中に君の言葉が記されているらしいが、やはりそれも意味不明か。知ろうとしていない真実について語っているのか。誰かは矛盾した言説を構成するのが好きらしいが、まだそれは言説の段階ではない。無意味なことを語るのもそんなに簡単には行かないようだ。途中でまぶたが重くなり、うとうとしかけて、危うく眠ってしまいそうになる。自己言及気味に淡々と文字を記すこともできない。目の前を何かが絶え間なく横切っているような妄想にとらわれ、それも即興で思いついた意味不明のたぐいだと自らにいい聞かせつつ、何となくそれで正気を保っているような気がするのだが、正気である根拠を何ら示せないことに変わりはない。まだ終わりようのない話に心を支配されているわけか。空気が乾いている。今は梅雨時のはずだが、それは何かの冗談のつもりなのか。そんな風に思われて仕方がないのは如何ともし難いところか。無駄な遠回りだ。何もかもが雑なのだ。それでどうしたのだろう。憂鬱な気分を構成する要素を文中から排除できない原因を突き止めようとしているわけではない。意識はありふれたことを述べていたいようで、実際に述べていることも何でもない。


6月12日

 たぶんそれは何でもないことだ。ジンバブエやミャンマーのような力づくではないにせよ、この国にも政権交替させないような仕組みがあるわけか。何となく衆議院の任期いっぱいまで総選挙の実施を引き延ばしている間に、官民一体となったあの手この手のメディア戦術によって、このところ漂っている政権交替ムードを打ち消してしまうような成り行きになってしまうのだろうか。とりあえずは国民の良識に期待するしかないのだろうが、その良識とやらが一番信用できないような気がするのだが、実際にどうなってしまうのだろうか。案外小泉氏辺りが再登板して、得意のはったりをかませば、たちまち世論の支持がそっちへ行ってしまい、これまでのテロ対策特措法や年金や暫定税率や後期高齢者医療問題など、様々な不具合が生じていることがうやむやになって、気がつけば自民党や公明党が政権に居座り続けていることになってしまったら笑ってしまうか。まあそうなったらなったでどうということはないだろう。今から思えば前任者の安倍氏の、美しい国とかいうキャッチフレーズはギャグだったのかもしれず、ああいうわけのわからないことを本気で述べていた人を支持していた人々が、今の政権を支えているわけだし、要するに日本の政治について真剣に語ろうとするのは、冗談を真に受けるようなたぐいのことでしかないのかもしれない。そんなわけでまったく本気になれないが、あえてまじめなことを述べるならば、政治によって制度や国民の生活に不具合が生じるようになってきたら、野党の政権担当能力云々とかいういいわけを述べる前に、まずは選挙で今の政権を担っている側に否の意思を突きつけて、政権交替を実現させ、今とは別の政治勢力に政権を担わせてみなければどうしようもないだろう。たとえ結果的にそれが失敗しようと、今の政権に反対している側に政権を担わせなければ、いつまでたっても今のままだ。だから政権交替を定期的に行って、政治家全体をより良い方向に育てていくのが、国民の義務といえば義務のような気がするのだが、そんな理想論を大まじめに主張すれば保守主義者から馬鹿にされるのがオチか。君からすれば誰かがどうでもいいようなことを戯れに述べていることになるらしい。そういう認識でかまわないのならそういうことだ。だいいち君は反国家主義者ではなかったのか。冗談でそんなことを述べていた時期もあったはずだ。本気にならないのが君の主義だ。そこで何を見せつけようというのでもないらしい。君に課せられた使命などという大げさなものもない。ならば唐突に何をまじめなふうを装っているのか。何か他に伝えたいメッセージでもあったわけか。なぜ王や神は民衆を支配したがるのか。大昔はそうだったのだろう。そういう神話や伝説があったらしい。今では支配してもそれは単なる自己満足を得るだけだということがわかっている。何を嘘をついているのか。それが間違っている理由を導き出したいのか。だが今のところは他人を支配しようとする動機も宝探しに出向く動機も見当たらない。毎日を切り抜けるので精一杯のようだ。それで自意識過剰になれるわけがない。自分の思い通りに行かないということがせめてもの救いだ。それで絶望してたら世話がないか。ならば君たちは快楽を得るために何をやろうとしているのか。誰かは君に託されている何かを知りたい。そういう作り話を構築したいらしい。そこに言葉を繰り出す理由らしき意味があるのだろう。君がそれを知りたがっているわけではない。その理由は君を超えて他の誰かの意識まで行き着こうとして、行き着いた先で解消されてしまい、それが何の理由なのか理解されなくなってしまうだろう。誰かにとっては理由であっても、君にとっては関係のないものだ。その架空の意識の中の何が理由に関係しているわけでもなく、ただそこに理由を含む言葉の連なりが記されているだけだ。それは君にとってはあり得ない理由だろうか。間違っても君の存在理由などではない。しかし何を長々と述べているのか。途中から意味のない話になっているようだが、それでも君にとっては必然的な成り行きなのだろうか。君はいつもあり得ないことを述べたがり、結果的にすべてを台無しにしてまう傾向にあるようだ。捉えようによってはそれがたまらなくおもしろいとでも思っているのか。ならば勘違いもここに極まれりということか。何か文法的に間違っていないか。それらのどこに思考が介在しているわけではなく、わずかに残っている思想らしき断片さえ、粉々に砕いてしまおうとする意図が感じられ、その結果として生じているような気になっている荒涼とした砂漠の彼方に、幻想のオアシスでも思い描いているつもりか。いったいどこにそんな光景が広がっているというのか。実質的には無駄に言葉を連ねているに過ぎず、そこから誰の意図を感じ取れるはずもなく、無駄に言葉を連ねているうちに何を述べたかったのか忘れてしまった振りをする機会が訪れる。しかし何を無駄に回りくどいことを述べているのか。たぶんそれも冗談の続きなのであって、始めから終わりまでのすべてが冗談だと思わせたいのだろうが、何が誰の本意なのかわからなくなる。わざと混乱を来しているふりをしているだけか。やはりそれは何でもないことのようだ。


6月11日

 意識はなぜそこから退かないのか。漫画の中での復讐劇はくだらないか。作り話には復讐がつきものであり、それがおもしろいから読んでしまうのだろう。そんな君に何を期待しているわけでもないが、誰かは話をつまらなくしたいわけか。たぶん話の中に戦いを導入するには、怨恨を介在させなければ、その理由を導き出せないのだろう。だがそう述べてしまうと話がつまらなくなるから、それだけではなく、何かそこに肯定的な要素を導入しなければならないか。人はなぜ作り話の中でさえ暴力を好むのか。作り話だからこそ自らは直接的な痛みを感じない立場を利用しながら、暴力が行使される光景を眺めていたいのだろう。だがそれで君は何を説明しているつもりなのか。もっと肩の力を抜いた話にならないものか。ではそこで架空の登場人物を命を弄んでいるのは誰なのか。作者以外に該当する者は見当たらないようだが、それがどうしたわけでもない。やはり君には関係のないことかも知れないが、なぜいつもそういう期待はずれの結論に至ってしまうのか。わざとそうやっている理由を知りたくなるが、何となくそこで思考停止になってしまうらしい。そして心はそんな予定調和に安住しているようだが、そんなことを思ってもどんな批判にさらされるわけでもない。何かをはぐらかしていることだけは確からしいが、それが自意識過剰にならない秘訣だろうか。そういうことではない。ただ何も語る気がしないだけか。そんなことは毎度のことだ。何か他に説得力のあるいいわけを思いつかないものか。たぶんその手のフィクションの中では誰もが命がけで戦っているはずだ。ファンタジーとはそういうものだろう。それの何が馬鹿げていると思われるのか。誰もそんなことは思わないだろう。君は物語の中へ入っていかないたちらしいが、そこで何を我慢しているのか。自然に感動しようとする心を無理に押さえ込んでいる。それは精神的に苦痛を伴う行為か。冗談でしかない。そう思いたいだけだろう。本当のところはよくわからないが、それで何を述べていることになるのか。客観的な立場などどこにもありはしない。本当に作り話の中の登場人物たちが戦う理由を見出せないとしたら、それはどういうことなのか。どこかに嘘やごまかしが隠されているのだろうか。誰かは当たり前のことを当たり前と感じることが苦手のようだ。そこで誰かと誰かを戦わせるに至る成り行きが物語として見せびらかされる状況がくだらないと思うらしい。なぜ暴力が行使されなければならないのか。それを正当化するための物語が作者によって用意されているのだから、そういう成り行きにならざるを得ないが、そんな都合良く不治の病におかされるだろうか。そういう成り行きに持っていかなければ決着がつかないのだろう。それらの作り話には成り行きの偶然性が感じられないらしい。どのような出来事にもそうなるべくしてなるという必然性と、そうせざるを得ない理由がついてまわるわけで、登場人物たちの行動に作者が責任を持ち、そこに必然的な理由付けが行われてしまい、そうしなければ話にならない。たぶんその辺にそれらの作り話の限界が垣間見える。話に工夫をこらせば凝らすほど、今度はそうする理由が求められてしまう。何らかの効果を狙ってそうしているのだから、それはそれでそういうこと以外の何ものでもない。たぶん来るべき物語はそういう煩わしい作業から解放されなければならないのだろうが、そんなのはあり得ないことだ。話にまったくのでたらめや偶然ばかり導入しても、話にはならず、何のことやらさっぱりわからなくなり、物書き商売には適合しない話になってしまう。独りよがりなら何でもできるが、それではただの意味不明だろう。乗り越えるべき困難を取り違えているのだ。だからそれらの物語は君には関係のないものとなるだけだ。登場人物たちの行動や思考の理由付け作業を積み重ねることによって作り話を構成しているのであり、それらの積み重ねが作り話のすべてといっても過言ではなく、それ以外は何もないのかもしれないが、君はなぜそれ以外を物語の中に求めようとするのか。冗談か何かでそうしているだけか。それが気に入らないことは確かなようだが、なぜ気に入らないのかよくわからない。たぶんそれらの物語商売に属する作り話のたぐいは、何よりも語る理由がなければ成立しないのだ。その理由が気に入らないのだから、わけがわからなくなって当然だろう。君は絶えず不可能に挑戦しているようで、いつものようにそれらの試みのことごとくは失敗に終わっているらしいが、そんな敗北にめげているふうもなく、無理を承知で絶えず異議申し立てを行い、複雑な話の展開には素朴な疑念によって対抗しているようだ。だが述べているのはワンパターンのそれだ。なぜ登場人物たちは互いに戦わなければならないのか。何のために戦っているのだろう。それらの戦いにはどのような正当性があるのか。要するに話をおもしろくするために戦っているわけだ。それを見聞している者たちに暴力のすごさを見せびらかしている。破壊行為の凄まじさを見せつけている。凄まじければ凄まじいほど、それらの暴力の使用価値も高まってしまうわけだ。果たしてそういうやり方で世間は納得するのだろうか。見聞するだけの娯楽としてなら許される。


6月10日

 どうも今日は晴れて暑いらしい。それは朝の感想か。他に何を体験したわけでもないだろう。漫画でも読んでいただけか。さっきまではそうだったようだ。今は外を眺めている。画面の状況はどうなってしまったのだろう。誰かが文字を記している。ただそんな風に述べているわけだ。何の理由にもなっていないだろう。理由を知らないわけではない。語ることに疲れてしまったのだろうか。何を語っているわけでもなく、ただ文字を記しているようで、現状はそれだけのことだろう。だがそれ以上に何をほざいているのか。言葉の使い方を誤っているようだ。意味がない。意味ならいくらでもあるだろう。無限に想定可能か。たぶん言葉にどんな意味を当てはめようとしても、それは間違っている。そんな思い込みこそが間違っているのではないか。君に何がわかるだろう。何を期待しているのか。他に知りたいことなど何もないが、もともと何を知りたかったわけでもないはずか。今はそうだろう。過去は違っていたのか。未来はどうなのか。未知の時間帯でのことはわからない。過去も忘れてしまったらしい。そこに出来事が介在していたのだろうか。何を見てきたのか。君の過去は知らない。君が誰だかわからない。冗談でそんなことを述べても無駄か。冗談でなければどうだというのか。どうもしない。何でもなければどうもしないか。つまらない言葉遣いになっている。誰と会話しているわけでもないだろう。ありふれた騒音に巻き込まれているのかもしれない。君がたどり着いた先には誰も待ち構えていないはずだ。だが無人の広野ではないらしい。何かがそこにはいるのだろう。人ではない何かが生息しているようだが、君に危害を加えるつもりはないのだろう。その存在は君の知ったことではない。そしてとげのある言い草に他意はなく、ただの癖に過ぎないだろう。まったくよくしゃべる人たちだ。現実の世界では何かの騒音に悩まされているらしい。まったく話になっていない。いったい誰と誰が世間話を楽しんでいるのか。何かの使い方を会得したわけではない。さらにおかしくなっているだけか。別に気が狂っているわけではなく、話になっていないだけだ。それだけのことで心に動揺があるらしいが、地震で地面が揺れ動いているわけではなく、どこかへ向かって移動している最中なのだろう。そして無駄に言葉を記している。沈黙しているわけだ。今はそれが気に入らないのだろうか。近くの会話が急にやんでしまったようだが、それで静かになるだろうか。音楽を聴いているからそれはないだろう。何を突き詰めて考えてみても、この空疎な感覚を払拭することは叶わぬようだ。それが誰の感覚なのか突き止めようとする前に、君はすでにそこにいない。行く当てはなく、どこにも行こうとしていないのに、気がつけばいなくなっている。それは君ではないのだろう。誰が何を語っているわけでもないのもいつもの通りだ。それだけのことに言葉を使っている。それは何でもないことなのだろう。意識の内部で何かが発症しているのだろうか。そんなことは君の知ったことではないが、人格が分裂しているのかもしれない。たぶん言葉の連なりはどこへも行き着かないのだろう。それがどうかしたのか。そんなことはもとからわかっていたはずだ。そこで何かを説明しなければならなかったようだが、何を忘れてしまったのか思い出せなくなり、その忘れていた何かを言葉に記す作業を中断している。ごまかしがきかなくなっているようだ。あくびが出てきて、終わりが近いことを悟らせる。それは予定調和の終わりなのか。果たしてそこから何を再開できるのか。いったん終わってしまったら、そこで終わりなのだろう。本当の終わりが近づいているのかもしれない。永遠に続くはずがない。もうやむにやまれぬ行為なのではない。ただの惰性だ。あきらめてもかまわない頃だ。すべての危険を取り払ってしまったわけではない。何かをやり続けるべきなのだろうが、それでどうなるわけでもないこともわかっているはずだ。不可能なのであり、不可能から始められたことだ。何のあてもなくただ虚無に対する言及を試みているに過ぎず、それだけの説明に終始していたはずだ。作り話もいい加減にしてもらいたい。誰に向かって何を述べているつもりなのだ。君だけにくだされた結論ではない。何と戦っているとも思えない。現状は現状でしかなく、そんな現状の中で沈黙を貫き通している。やはりそれだけのことなのだろうか。どんなに語っても、何を語っていることにもなりはせず、そんな思い込み自体が間違っていることをわかっていながら、そう述べざるを得ず、それが予定調和の現状を構成しているわけだ。言葉はそんな風にしか組み合わされないようだ。だから君に何ができるとも思えず、気休めのイベントだらけの世界に決別することもできない。語るべきはそういうことではないのか。何に知らしめられているわけでもない。できることは語ることであり、語ることは沈黙を守ることになり、沈黙を守ることは何もしないことになる。それでこの世界を一回り見物したことになるのだろうか。駆け足で何を見聞しているつもりになれるのか。冗談も休み休みというわけでもないが、何となくそれではだめなような気がしてくる。


6月9日

 話に終わりも始まりもないらしい。いつも途中から語り出すが、それの何が気に入らないのだろうか。始まることに慣れていないのかもしれない。わけのわからない理由を想像している。また抽象的な問答を構成したいのか。まったく出口が見えてこないようだ。たぶんどこへ向かっているわけでもなく、向かう先を探しているわけでもない。君に何がわかるというのか。唐突に以前の台詞を使ってみるが、それは誰の思いつきでもないだろう。何が託されているとも思えない。言葉は言葉であり、誰の言葉でもないようだ。誰がそれを使っているわけでもなく、何を記している気もしてこない。要するにその気もないのにでたらめなことを述べているだけか。誰かはそれらの出来事について何を語っているつもりになれるのか。君には関係のないことか。語っている内容がわからない。ならばいくら語っても無駄だろう。無駄な言葉がひたすら連なろうとしている。しかし事件とは何だろう。ニュースによってそれを多くの人が共有したつもりになることが肝心なのか。何が肝心なのだろう。その肝心な何かについて語らなければ、何を語っていることにもならないわけか。人それぞれで接し方や感じ方が違っていればそれに越したことはないが、なぜそう思うのか。ならば何を思っていれば安心できるのか。何よりも凶悪な事件が頻発する現状を憂うことが必要であり、そこから想像力を働かせ、何らかの結論に達しなければならないのだろうか。思い通りに行かないのは当たり前のことだが、そこから感情的に暴走してもかまわないのだろうか。実際にそうした暴走が凶悪な事件に結びつくわけか。だとすれば暴走を未然に防ぐ何らかの歯止めが社会に備わっていなければならない。またいつもの冗談が始まる気配を感じるが、ではどのような歯止めを想定すればいいのか。想定される装置は人々の絶望をどうやって吸収できるのか。まやかしやごまかしならこれまでにいやというほど仕掛けられてきたはずだ。それらの催し物で盛り上がっている間は、絶望を忘れられるかも知れないが、中にはそこに参加する気がしない人もいるはずだ。君は見聞型の娯楽には興味がなく、体験型の娯楽にも参加するのが億劫になっているはずだ。そもそも娯楽で絶望を忘れることができるだろうか。そういう話ではないか。共通の話題そのものがないのではないか。他人と何を共有することもできなくなってしまったらどうなるだろうか。絶望するだけか。世の中から相手にされていない、と被害妄想を膨らませてどうするのだろうか。サバイバルナイフを振り回して暴れたら、世間の注目を浴びることになるらしいが、そんな自暴自棄的な快楽に身を委ねるほど純真ではない者はどうすればいいのだろうか。君は今までに何を見聞きして、どんな体験をしてきたつもりなのか。いったい自らの思い通りになるとは、どのような状況になることなのか。想像がつかず、仮にそのような状況が到来したとしても、それに気づかないのではないか。たぶんあきらめなければならないのだろう。妥協が肝心か。妥協しなければ生きてゆけないらしい。いついかなる時も過ちにつきまとわれ、つまずきの石はそこら中に転がっている。しかしそれがどうしたのだろうか。たぶん馬鹿げていると思われる。君は何でもないことについて述べているのか。何を語ってもかまわないとすれば、そんなやり方でも許されるのだろうか。何をどうしろというのでもないらしい。ただそんなことをやってしまう人もいるらしく、そういう人が多くなれば、それが話題になり、その方面の機関が対策を施さなければならない成り行きになってくるのだろう。そうしなければ世間が納得しないか。偶然その場に居合わせただけで殺されてしまったらたまらないか。まあそれも運が悪かったとあきらめるしかないだろうが、冗談を述べるような状況にはないらしい。ならば死んでしまった見ず知らずの他人に同情しなければならないだろうか。差し障りのないやり方を好むならそういうのもありだろう。ひねくれ者の君なら凶行に及んでしまった人に同情するところか。話題を共有するとは善くも悪くもそういう反応を強要されることだ。それで終わりとなってしまう。後は月日が絶ったら自然に忘れてしまうだろう。過去を思い出すのがいやなのか。たぶん何をどうしたらいいというレベルで語ることはできないのだろう。そんな風に語っても、軽薄な心情論に終始するだけだ。要するにメディアが提供する餌に食いつき、罠にはまってしまうわけだ。だがそこからどうやって先回りができるだろうか。どんな目的を仮想しながら語っているのか。ゴールがあるとは思えず、そこへ向かって言葉を投げかける行為そのものが間違っているような気がしてならない。いったい知恵というのはどこから出てくるものなのか。何をどう語れば納得できるのか。単純化された思考作用に屈するつもりはないが、たぶん何をどう語っても軽薄な印象を免れることはできない。事件については何をどう述べても違っているのだ。要するに他人事ということか。それで済むのなら済ませておけばいいのだろう。今日もそんなことを述べながら虚しさがこみ上げてくるようだが、結果的にはすべてが冗談なのだろう。人殺しも冗談の延長上から派生した出来事に違いない。そうやってわざと間違ってことを述べている。


6月8日

 どうも何も考えることができないようだ。何かに煩わされて少し疲れているのかもしれないが、事件にも出来事にも巡り会えない。それでどうしたのだろう。別にそれで意気消沈しているわけでもない。テレビの画面では何かが起きているらしいが、それが何を予告しているのか。どのような事件が起ころうと、世の中は至って平和なのだ。君だけがそう感じているだけか。他に述べるべきことがあるかもしれないが、とりあえずその通りなのだろう。別に何がどうしたわけでもない。他に何か気になっていることでもあるのだろうか。何をはぐらかしているのかわからないが、何か気がかりなことでもあるのだろうか。何かの幻影を見ているわけではない。ならばまたいつもの空疎な語りの最中に意識が迷い込んでしまったわけか。汗だくになって何をやっているとも思えない。蒸し暑さを我慢していれば汗だくになる。そうやって雑なことを述べているらしいが、まるで何が見当違いなのか。何を無視しているのだろう。何を割り切って語るべきなのか。誰かが奇声を発して襲いかかっているようで、そんなことをしきりに誰かが語っている。何か重大な事実を見落としているのだろうか。あるいは何がそうさせるのか、その原因を探ろうとしているわけか。わざとわからないことを述べているようだ。それらの言葉が意味するところは、何かの断片を拾い集めて、それらを組み合わせて何らかの事実を導き出そうとしているようで、今はそれに失敗しつつある過程なのか。意味がわからないが、そんな画面を見て、血の香りを感じられるはずがない。誰かは何かを語りながら、どこかへ近づこうとしているらしいが、現実にはさらにおかしなことを述べている。限界を超えているのかもしれないが、わかっているのはそういうことではない。まとまりを欠いて言葉が散り散りになることを想定しながらも、そんなことはどうでもいいように思われてきて、他に語ることもないので、切羽詰まって破れかぶれ気味に終わりの言葉を繰り出したいのか。さっきから落ち着きを欠いているようだが、そこで何を語らなければならないのか。その事件についてのコメントが求められているわけではなく、誰もがニュース的な話題を共有する必要もなく、それでも何か語らなければならないとしたら、今がその時なのだろうが、少し物わかりが良すぎないか。なぜありふれたことを述べなければならないのだろう。今さら誰のことを語っているわけでもなく、どこかで途切れていた話を再開したいわけでもない。要するにまだそこから遠ざかれない。君はわざとそうしているのだろうが、感情の収まりがつかないようだ。誰かの思うつぼかもしれないが、何を思い悩んでいるのか。今さらそれはないだろう。それはさっきも述べたことだ。何を語っても予定調和に陥ってしまうが、そんな自問自答の原因など、はじめからわかりきっているはずだ。誰かから名指しされているわけでもない君は、人を人と思っていないのかもしれない。その時点で繰り出す言葉としては、それで十分なのかもしれないが、本来はそういう使い方ではないはずか。別の誰かが自嘲気味に語り出す。いくら殺してもきりがないか。殺人ゲームの中では個人の力など限定されたものだ。ゲームに没頭することもなく、自然とあくびが出てくる。君は何を呆れているのだろうか。くだらぬ光景をひたすら眺めているようだが、何をそんなに驚いているのか。それが試行錯誤の結果だとは思えない。突発的な出来事には慣れているはずだ。彼は自分が行使した暴力を誰に何を見せているつもりなのか。それらの光景の中に君が存在した痕跡を見つけられない。探しているのは愛ではない。どこかを見渡せば何がわかるのか。とりあえず遠くに出口があるらしいが、それは本当に迷路の出口なのか。迷路ではない。では他に何を知りたいのか。他がないということを知りたいわけか。それだけの根拠がどこにあるのだろう。また意味がつかめなくなる。抽象的な印象すらない。ただのでたらめだろうが、そこに至る原因があるのかもしれず、それを必死に探っている最中か。馬鹿げている。姿勢が考える人状態だ。それで何かの彫像を想像させるらしい。わからないのはもとからか。それが痛ましい光景だとは思わない。誰もが何かをやりたいのだろう。それだけのことに全知全霊をかけている。君はそこでわからなくなり、眠ってしまうらしい。ひたすら眠り、起きて仕事をすることを忘れてしまうだろう。そうなったらおもしろいか。この世には死刑になりたい人が大勢いるらしく、それを実践して思いを遂げようとする。結果的には他人を殺して国家に殺されて、それで世の中がまるくおさまってしまう。心が消滅するたびに道連れが必要か。この世での楽しい思い出がどこかで君を待ち受けているはずだ。強引に何を考えているのか。テレビの中では無駄なことがさかんに宣伝されているようだ。地球の温暖化は誰にとっても受け入れ難いのか。嵐の予感がしているらしいが、冗談なのかもしれない。たぶんそんなことに関心があるわけではない。君は何から影響を受けてそうなってしまったのか。そのような殺伐とした文字の並びにはどのような思いが反映されているのだろうか。わざとらしく内容のない問いかけに終始している。


6月7日

 勝手に眠って起きて何をするわけでもなく、そんな生活を送りたいか。誰に何を語りかけているのでもない。何を実現させたいわけでもなく、ひたすら生きようとする。意味のないやり方で暇つぶしの最中か。何を求めているわけでもないらしい。抱いているのはどんな幻想なのか。誰がその中身を知りたがっているわけでもないだろう。ただそんな風に述べている。君が述べているのではない。それらの沈黙の中に誰がいるわけでもない。ならばそのとき君は何を語りたかったのか。実際に語っていたそれをどこで再現しなければならないのだろうか。何を覚えているわけでもないが、少なくともその時の雰囲気が文章の中に残っているはずか。嘘をついているのだろう。架空の語りを構成しようとしているらしい。あり得ないことを述べ続けていたいのだろう。いつか冗談では済まなくなってしまうのかもしれないが、それでも意味不明を装えるだろうか。意味のない話だ。実質的には何を語りかけているのでもない。それで遠回りの最中なのだろうか。目的地を見出せず、どこへ行きたいのかわからない。それでもどこかへ行ってしまうのだろう。時間が勝手に経過して、場所も適当に変遷を遂げようとしている。だが行き着いた先が目的地だとは思えない。見渡す限りの荒れ野とはならず、ただの街中のありふれた景色の中に、誰かの意識が漂っているはずだ。人が社会の中で機能しているとしたら、それはどういうことなのか。絵でも描いていればそれでもかまわないのだろうか。ただ仕事をしているようだ。誰もが人生の黄昏を迎えようとしている。ならばそれで終わりなのだろうか。終わってしまう人も中にはいるらしい。悲惨な老人の素顔が画面に映し出される。君たちは老いぼれてしまったのだろうか。そうだとしたらどうなのか。相変わらずどうもせず、淡々と言葉を並べてゆくだけか。悲惨なのは君の方ではないか。別に不幸自慢をしたいわけでもないだろう。いったん終わってしまったら後は始まるしかない。そううまく事が運ぶと思っているのか。誰かは過剰な水分に満たされている。そこから抜け出そうとしてもがいているわけでもあるまい。過去の話はなかったことにしたいらしい。その辺で飽きているわけか。それ自体が暇つぶしではないのか。どこまでも道が続いている。君は歩いているのだろうか。自動車で移動しているのかもしれない。絶え間ない何かに押され気味だ。何かの圧力を感じているらしい。わかっているのはそれだけか。影が疑念を抱いている。この世界の実態を知りたい。どこからやってきたのでもない。今ここに生きているはずか。またわけのわからないことを述べているのだろうか。今回は十分に理解可能だろう。戦いは漫画の中にある。現実の世界でも中東やアフリカ辺りで行われているのだろう。まだ見ぬ人影を想像してどうするのか。やはりおかしな言葉が連なっている。幻覚に襲われているわけでもあるまい。聴こえているのはありふれた音楽だ。君はそこからどうするのか。その先を語るつもりか。話になっていない。心が揺れ動いていると思っているらしい。何をそんなに迷っているのだろう。そうではないと思いたいだけか。ただ内容をもたらせない。なぜ雨が降るのか。水は流れ海に注ぎ込み、塩辛い液体となる。誰が何を求めているのか。何に同情したいわけでもない。人は人でしかないようだ。何に期待してもそれだけのことであり、どれほどの能力が君に備わっているわけでもない。影は何を期待していたのだろう。そこで何がどうなってほしかったのか。近頃は膝の痛みが少し緩和されたようだ。何かの弾き語りだろうか。そんな記憶をどこから引き出してきたのか。発想が闇の中で錯綜している。平べったい絵の中に誰の思いが隠されているとも思えない。君は何を眺めているのだろうか。その場の即興なら使い果たしているはずだ。現実に戦争の最中に巻き込まれている人々も幻想を抱いているのだろう。たぶん道具の使い方に誤りがあるのだろうが、わかりきっているのはそんなことでしかない。一方でその誤った使い方に魅力があり、それが快楽の源泉となっているわけだ。快楽を得るためには凶器を振り回して他人を殺める必要があるのか。中にはそんな人もいるのだろう。少なくとも君の言葉は凶器ではない。気がつけば画面が色とりどりの花々で埋め尽くされている。そんな幻想を抱きながら、君はまるで関係のないことを述べている。たぶんそこに善意の押しつけがましさが感じられ、いたたまれなくなって、君はどこかへ消え去ろうとしている。それ以上は何を語っても無駄だ。意識はどこへでも抜け落ちてしまいそうだが、そこへ踏みとどまる必然性を感じられず、まるで幽体離脱しているかのように、実体がどこかへ退き始める。説明になっていないのではないか。だから先を急ぐべきではない。まだそこにとどまって言葉を適当に組み合わせて文章を構成する必要に迫られている。君は忙しいのではなかったか。何に忙殺されているわけでもないだろう。少なくとも呼吸はしているはずだが、他に何をやるべきだったのか。今さらそれはない。終わりの一歩手前で悪あがきしても遅すぎるか。君なら他にできることがあるはずか。例えばそれは何だろう。


6月6日

 白昼夢というわけでもないが、目の痛みに耐えかねて目が覚める。気がつけば誰かがおかしなことを述べているらしく、何となくそれがあほらしい。何が響いているのだろう。言葉を延々と並べ続けている最中にふと思うのだが、それで何かどうしたのか。先細りの言語的展開を前にして、馬鹿らしいと思うのと同時に、何か奇妙な思いにとらわれる。これまでも同じようなことを語ってきたのだろうか。いったい君はそこで何をやっているのか。無意味な作業に疲れてしまうのも当然のことだ。言葉を記している当人は何を思っているのだろうか。実感としてはどうなのだろう。とても疲れているとは思えない。疲れを感じない体質になってしまったのではないか。それは違うと思われる。何が違うのだろうか。だいぶ前に君は語ることをやめてしまったらしいが、それで良かったのだろうか。良かったと思うなら、誰が何を語っても無駄だろう。なぜそう断言できるのか。もう飽きてしまったのだろうか。仕事の最中に空を見上げる機会もあるらしい。久しぶりに空は晴れている。晴れた空の下で晴れ晴れとした気持ちになれるだろうか。ならなければならない理由が見つからない。たぶん気持ち的には何かの季節を感じているのだろう。それ以外にいったい何を考えているのか。誰がこの世界で生き残りたいのか。君はどうしてもこの世界がこの世界だとは思えない。すべてが虚構のような気がしている。誰が語っているのも空想上の話に決まっている。そしてくだらぬ冗談の洪水状態か。要するに入梅ということだ。何が梅雨の季節をもたらしているのか。雲から地上に何が舞い降りているわけでもなく、今は枯葉舞う季節ではない。それがどうかしたのか。またいつもの冗談か。まったく笑えない。現状では文と文のつながりを無視して言葉が分散している。それがおもしろいと思い込んでいるらしい。ただ馬鹿げている。その場の気分がそうさせるのだろう。またいい加減なことを述べているようだ。誰かが言葉を記している途中で何かを言いかけていたが、君はそこで思いとどまる。誰かの思い通りにはさせない。言葉が画面を覆っている。文字が心を退ける。誰かはそういうパターンが気に入らないらしい。心象風景が絵画を構成する。わざとらしくも馬鹿らしい。そんなことを述べているうちに何かと何かが離れ離れになっているようだ。ただ言葉を記している。気持ちと思考が一致しない。あちらを向いて何を考えているのか。誰が何を考えているわけでもなく、君はこれから何かを考えようとしているのかもしれないが、何も思いつかないようだ。何と悪戦苦闘しているのか。何となくわかりかけていることは、誰かの思惑を逸脱している。その範囲内ではないらしい。意識的にはもう十分に休んだはずだが、まだ寝足りないのか。そこで何を考えても結論には至らないだろう。いつものように何もわからない。きっかけがない。語る動機を知らず、誰もそれを担うつもりがないようだ。いったいどこに言葉があるのか。明日は雨が降るらしい。君は何でも知っている。さっき天気予報でも見たのだろう。今はそういうことではないらしい。暇つぶしの音楽鑑賞か。そこからどうやっておもしろくなるというのか。遠い雪山のいただきにでも至りたい気分か。関係のないことを述べている。やはり何が降りてくる気配もない。また不可能なことを考えているのだろうか。あり得ない話をしたいわけではなく、ただ何も思いつかない。今はそれでかまわないのだろう。それが誰かの強がりになる。否定的な気分でいる時、逆に肯定したい気分になる。何が悪いというわけではなく、語っているすべてが悪いとも思われない。そこで何を聞き飽きているのか。同じような台詞が目白押しか。わけがわからなくなるのは当然の成り行きか。文章を読む気になれない。何もないのだから仕方がない。これ以上くだらぬ言葉遊びにつきあいきれないか。夜になり、カエルの鳴き声が遠くから聞こえてくる。何を考えても行き着く先は神話の伝承か。くだらぬファンタジーに至りたいのだろうか。くだらぬという言葉が余分だ。たぶん何かを所有するというのが幻想のすべてなのだろう。人はそこから狂い出す。資本主義的な幻想が金を価値ある物だと信じ込ませる。それを否定してどうするのだろう。何か心洗われるような体験がしたいのか。無い物ねだりか。それらのイメージは君をどこへも運んでゆかず、心は退屈な日常に埋もれ、ありふれた人生を受け入れざるを得なくなる。それが虚構だとしたら、真実の世界はどこにあるのだろうか。ここに作り話の世界が広がっているはずだ。真実の代わりではなく、作り話自体がすべてなのだ。言葉は真実ではない。そこに精神の素朴さが隠されているわけではない。純真な心が欠けている。何か策略のような意図を感じられる。俗悪な冗談がすべてを台無しにして、精霊がそこから逃げ出すはずだ。たぶんそれは何の話でもないのだろう。何かの付け足しに違いない。真剣に語るようなことではなく、言葉に余分な言葉が付け足され、すべてが台無しになり、要するに蛇足の連続が文章として示されている。君はそれについてどう思っているのだろうか。誰かにとってはそれも冗談ではないのだろう。


6月5日

 気持ちがそこへ行かないようだ。なかなか始められないようだが、この際何が煩わしいのかはっきりさせるべきか。いいわけがましく何を語っているのだろう。語るような出来事に遭遇してないのだろう。そして何が間近に迫っているのでもなく、拍子抜けの気分で何を語れるはずもないが、何も思いつかぬまま明日になってしまったようだ。相変わらず言葉は記すが、内容も意味も伴わず、何を語っているわけでもないのもいつものことか。怠惰に染まった結果としてそうなっている。それでも言葉を連ねようとしている。不具合はどこにあるのか。それほど悩んでいるとも思えない。ならばそれで何がどうしたというのか。どうもしないが、時が経てばそうではないことに気づくはずか。今はいらついているのだろう。そんなくだらないことを記してどうするのか。他に記すことがないのだろうか。たぶんそれは冗談の範囲内で述べていることだ。人間たちが構成する社会は信仰と幻想によって成り立っている。何かを売り買いすると利益を得られると思っているわけだ。誰かはそんな幻想をかたくなに信じている。それだけのことでしかないが、それ以外があることを信じられるだろうか。信じるためにはそれとは別の幻想が必要か。実際に利益を得られずに損失を出してしまったらどうなるのか。時として人は損することをいとわない。そこではどんな結果も肯定的に捉えることが肝心だ。あえて損して徳を取るつもりか。徳ではなくて得ではないのか。徳でも得でもどちらでもかまわないか。他人からよく思われたい者なら徳を重視するところだ。しかしそれの何が幻想なのか。他人からよく思われていると思っていると気分がいいか。陰口を叩かれていると思い込み、被害妄想を膨らませているのよりはマシだろうか。しかし君は何をそんなに心配しているのか。不安に苛まれている理由を知りたいところだが、その先がよくわからない。作り話の仲では確かにそうだ。またそんな嘘をつく理由もついでに知りたいところか。その辺で都合良く何を語っているのかわからなくなる。それがその場面でのいいわけになるだろうか。何に対するいいわけなのか。また無駄に言葉を並べているようだが、そこで何に行き詰まってしまったのか。答えがわかっているのに、それを求めようとしない。あくびばかりで何を語る気にもなれず、ひたすら何かから逃げている。わざと結果に至ろうとせず、責任逃れを正当化しようとしている。君が信じている幻想はどうなったのだ。何かが君をよけているらしい。虚無感に苛まれるのが怖いのか。まだ死ぬと決まったわけではない。いつかは必ず死ぬだろう。しかしそれで窮地を脱したつもりか。何をささやいているわけでもない。それでも信じられることがあるだろうか。情緒不安定か何かか。そんなことは問題とはならない。疑心暗鬼にとらわれたままでは生きてゆけないだろう。何をそんな疑っているのか。君はこの世のすべての存在を疑いながらどこへ行こうとしているのか。きっとどこへもたどり着かないだろう。今は何もかも忘れて眠ってしまうしかないか。この世に信じられるものなど何もない。論理的に話の筋道をつけて語れなくなる。すべてがその場の思いつきで語っているに過ぎず、事前の下準備などあり得ないか。ある時は気まぐれで神を信仰し、次いでそれが嘘だと述べてみる。そしてそんなことはどうでもいいと思いたくなり、結局はその場の気まぐれで述べている自身に気づく。人はその瞬間に生きているに過ぎない。何も永続することはなく、何もかもが流転し、定まることを知らず、どこへでも転がって行ってしまうが、それでもどこかへ行き着くと信じている。私には夢がある。誰かがそんなことを述べていた。大草原のただ中で、都会の人ごみの中で、誰かがそうつぶやき続ける。自らに幸せが訪れることをひたすら信じている者もいた。己の身に死が間近に迫っていることを忘れようとする者いた。それらの詩的な雰囲気がいかさまであることを暴き立てようとする者もいた。君は誰なのか。たぶんその中の誰でもなく、誰にも当てはまらないような境遇になることを目指しているのかもしれず、偶然の導きによって、世界の果てまでたどり着けると思っていたのかもしれない。それはあり得ない話か。君はそこに自分の願望が記されていることを知っている。君以上に君を知っている者などどこにもいないが、それがどうしたというのか。誰が君について語っているのだろう。君はそれを知っているはずだ。自己崩壊の一歩手前で踏みとどまることなどできはしない。闇の向こうから何がやってくるわけでもなく、君は君以外の何者にもなれはしない。だからどこへも行き着かないのだ。どこへも行かず、その代わりに適当な認識に至るだろう。気がつけばいい加減なことを述べ続けている。何から逃げているとも思えない。ただ嘘をついているのだろう。そして言葉に溺れかけているらしい。そこへ踏みとどまるどころの話ではなく、脱線の連続かもしれない。確実に軌道を外れていて。常軌を逸しながら正気でいると思っている。そんなことはあり得ないか。くだらぬ内容で誰かの気を引きたいわけか。どうだとしたらどうなのだろう。ただの蛇足に決まっているのではないか。


6月4日

 近頃はどうも自分を信じられない。何か迷っているらしい。いったい君はこの世に何をもたらしたいのか。いくら問いかけてもまじめな問いとはなり難い。ならばそれらの文章は何なのか。たぶんでたらめな文字列だろう。それでも自らが作り上げた構成物を見せびらかしてどうするのだろう。構成物でさえないかも知れないのに、外部からのどんな反応を期待しているのか。ただ何か述べている。くだらないと思っているのだろう。それがたとえ冗談であっても、何かのついでに少しは言及してほしいのだろうか。そこで何について語っているつもりなのか。何でもないのなら、やはりそれはくだらないことだ。君はそこで何かを犠牲にしている。時間を浪費しているのかもしれない。だから神に祈りを捧げている場合ではない。そんなのは嘘に決まっているが、犠牲の供物など何も用意されていないようだ。祭壇も何もあったものではない。唐突に何か思いついたらしく、いつものようにわけがわからない。書物とは何だろう。時代遅れのメディアか。多くの人がそうではないと思いたいようだが、君とってはたぶんそうなのだろう。なぜ読まないのか。本屋で眺めているのが書物だ。今日も誰かが書物の表紙を眺めている。それだけのことか。君に書物など必要ないのかもしれない。だが早合点してもらっては困る。君は今までどれほど書物を読んできたと思っているのか。読みたくても巡り会えない書物は膨大な量になるかもしれない。読む機会を逸したままになっている。その場の成り行きが君を書物から遠ざける。世界が君を読むことのできないような環境に囲い込んでいる。それらは読まれてしまっては困るような書物なのだろうか。しかし来るべき書物とは何だったのだろう。今となっては謎のままだ。そんなわけで読書の季節は永遠に到来しないだろう。安易な気持ちで軽薄な内容の書物を読む気がしないのは、まだ良心に束縛されている証だろうか。それは悪意に満ちた良心に違いなく、それが悪意に満ちている理由を知りたいところだが、とりあえず人は文字を必要としない。だから人は文字を読めない。そんなことがあり得るだろうか。君が読んでいるつもりのそれは何なのか。少なくとも書物ではない。それの何が文字なのか。文字でなければ何なのか。言葉はどこへ行ってしまったのだろう。君が記しているつもりのそれは何なのか。その辺からわからなくなる。心のどこかで文章がくだらないと思っているようだ。だから本気になれないのだろう。そして何を語っているわけでもない。だからそれらが書物とはなり難い。そういう時期ではないのだろう。その代わりに文字を記して音楽を聴いている。代わりになっていないのではないか。代わりになっていないから楽しいのだろうか。どこかずれているところが書物とは別の可能性を感じさせる。いい加減に述べて、好き勝手なことを語っているのだから、内容がくだらなくなって当然だ。そこに編集者という防波堤がないのだから、いくらでもくだらないことを述べられる。もちろんそれでかまわない。カビ臭い書架に囲まれて暮らすよりはだいぶ健康的か。ところでカビはどこからやってくるのだろう。別に脳にカビが生えているわけではない。ではなぜまともな文章が構成されないのだろうか。他に語ることがないからか。たぶん語ってしまってもかまわないのだろう。ただそれでは書物にはならない。そんな風に語っても自虐的になっているとも思えない。古くからある伝統に則っているわけでもない。文章として成り立っていないのかもしれない。だから他人に読ませるようなものではないか。しかしそんなことは君の知ったことではないだろう。君はただ下界を眺めているだけだ。どこに存在しているわけでもない。そしてそんな嘘もその場しのぎの冗談に違いないが、何よりもそれが冗談になっていないところがおかしくてたまらないらしく、どこで笑い転げているわけでもないが、何をそれと引き換えにしているわけでもなく、ただ眠たいようで、実際に誰かはそこで眠ってしまうらしい。これから起こることがそんな風に記されているようだが、それで何をもたらしていることになるわけでもなく、それは言葉の連なりになるだけだろう。それでは意味がないか。本来的に君は意味を知らないのではないか。それはどういう意味なのか。そこで繰り出されるすべての言葉が意味を知らずに分散してしまい、そんなことを述べていること自体が、相変わらずわけがわからないようで、君はそこで何をやっているつもりにもなれず、実際に何もやっていないことに気づき、翌日になって落胆してしまうだろう。やはりそういう文章以外は構成できないようだ。仕事以外に何をやっているつもりにもなれない。では君はそこで終わってしまうのだろうか。そうだとしたらどうなるのか。どうにもならずにそのままか。そのままでさえない。何を思っても何も記されない。それは言葉にならない思いというわけか。そんなロマンチックなものではない。おかしくて笑ってしまうが、何がおかしいのだろう。何がおかしいのかわからないのに笑ってしまうのはおかしい。要するにくだらぬ言葉遊びだ。他に何をやっているのでもなく、夕暮れ時に気がつけば雨が降っているようだが、それは明日のことだろう。


6月3日

 君はくだらないことを述べているようだ。今さら何を反省しても無駄か。それが気休めだったり気晴らしだったりしても浮かばれない。おかしなことを述べている。そんなことを表明するまでもない。語るべきことが見つからないらしい。何か適当な題材でも探さなければならないのだろうか。いくら探しても、探している過程で生じる無駄な試行錯誤が文章の中に言葉となって埋め尽くされてしまうのだろう。何かを語るとはそういうことではないのか。何について語ることもできず、語ろうとすることについて語ってしまうわけだ。そんなことの繰り返しによってそれらの文章は構成されているらしい。それが君にとっての自己言及パラドックスなのか。そんな大げさものではないが、そうならないためにはどうしたらいいのか。世の中には簡単なスローガンに追従することで矛盾を回避しようとする人々がたくさんいるようだ。夢を実現させようということか。それの何がスローガンなのだろう。そんなところでこだわっている者など誰もいないはずだ。君もそういう単純なスローガンを素直に受け入れるべきだろう。正しい行いをするためにそうしたいのならそれでもかまわない。しかし何が正しい行いなのだろう。夢を実現させればそれでかまわないのだろう。だがそのためには手段を選ばないとなると、正しい行いから外れていってしまうのではないか。夢そのものが世のため人のためになるというならそれでもかまわないか。勝手な思い込みに走っているのではないか。冗談でそんなことを述べている。君はどこまでも本気になれない。そういうことではないのだろう。ならばもう少しまともなことを述べてみたらどうか。翌日は曇っているはずだ。見たまま聞いたままのことを述べたらいいのか。さらなる冗談の続きとなってしまうらしい。世の中の何を馬鹿にしたいわけでもないのだろう。たぶんいきなり彼岸に行ってしまわずに、途中のどこかで思考する対象を見つけ、そこで踏みとどまるべきなのだろう。何かについて語るべきなのか。何かとは何なのか。何でもなければ何かではない。しかし今のところは何でもない。たぶんいつまでたっても何でもないだろう。ならばいつまでたっても何でもないことを語っている、ということになってしまうわけか。それでもかまわないのだろう。君はそこで何かをあきらめている。確実に思考を怠っている。人は何かをやらなければならないと思い続ける必要があるのだろう。それが生きている証になるらしい。馬鹿げているがいったんあきらめてしまうと幸せになってしまう。何かをやり続けることによって生じている苦悩から解放されてしまうわけだ。そしてあきらめた人は老人となる。老いぼれてしまうわけか。たぶん老人とはくだらない思い込みから解放された人のことをいうのだろう。幸せな人々だが後がない。後がないというのは幸せなことか。後がないとはこの世に未練がないということだ。君はまたしても冗談でそんなことを述べているらしい。本気ではない。何か荒唐無稽な野望でも人知れず抱いているのか。何を隠しているとも思えず、たとえ野望を抱いているとしても、それは本気になっているというわけではないらしい。少なくとも野望を実現するために努力しているわけではない。ただ漠然と言葉を並べているに過ぎないようだ。それは野望には結びつかず、ただの惰性でやっていることでしかなく、他意はないらしい。それでも絶えずなんとかしなければと思い続け、そういう自己言及とは違う何かについて語ろうとしているようだが、それが果たせずにいるらしい。要するに語ろうとしていることとは違うことを語っている現状がある。あり得ないことか。あり得ないが、実際にはそれが現実なのか。冗談もいい加減にしたもらいたいか。しかしそれで誰が困っているのだろう。君は思い悩んでいるわけか。それともすべては冗談なのだろうか。何が冗談だとも思えないようだが、誰かにとっては冗談なのだろう。そして語っていることはいつも曖昧であり、冗談の意味がわからなくなっている。そんなわけのわからぬ冗談を肯定すべきなのか。君は何を知りたいのだろう。それが冗談であると理解したいわけか。何をどのように語っているとも思えない。すべては達観できるようなことではない。何をどう考えても虚無から向こうへは行けないようだ。なぜ夢の実現という単純思考を回避したいのか。どうしてそれが馬鹿げていると思われるのだろう。それを否定すればすべてを否定していることになってしまうのだろうか。言説はどこへ向かっているわけでもない。同じ地点から遠ざかることを目指しているようだが、否定すればするほど同じ地点へと戻ってきてしまうらしい。結果としてまったく遠ざかれていない。そんな結果にどう向き合うつもりなのか。何か勘違いでもあるわけか。では勘違いとは何だろう。それがわからなければどうなるというというのか。どうにもならない状態をいつまで保てるだろう。また冗談でそんなことを述べているような気がしてくる。たぶん君にはその先が必要なのだろう。虚無の向こう側に何があるとも思えないが、いつかそれを乗り越えた先にある何かをつかみかけているようなつもりになりたいらしい。それこそあり得ないことか。


6月2日

 もう正気に戻ることはない。誰に向かってそう告げているのか。何を勧めているわけでもなさそうだ。画面上では鳥が飛んでいる。雨はいつかやむだろう。今はそうではない。雨脚が激しくなってきたようだ。そして夕方にはやんでしまったが、別にそれがどうしたわけでもないか。まったくどうしたわけでもない。君は何を思い描いているのか。冗談ではないのだろう。たぶん何でもないことだ。今は夜になっている。いつまでも夜なのだろうか。誰かはそんな内容の物語でも読んだことがあるわけか。何を空想しているわけでもないらしい。少し疲れている。人は人に対して何をしなければならないのか。他人を出し抜き、他人を利用して、やましい気持ちになって、それでもそこから適当な利益を得ようとしている。自己実現とは何なのか。そういうことではなく、社会に貢献したいらしい。他人を助けなければならない。本気でそう思っているわけではない。何かのついでに結果的にそうなったら儲け物か。それこそ冗談に違いないが、それも本気でそう思っているわけでもないのだろう。欲望とは何なのか。感情をどうしようとしているのだろう。出口などありはしない。どこかで拘束されている。何かの束縛から逃れたいのか。それが無理だと決めつけるわけにはいかないらしい。やってみなければわからないと思いたいのか。自由とは何だろう。今は自由の身ではないのか。束縛から逃れたかったわけか。次第にわからなくなってくる。言葉が邪魔なのかもしれない。君は自らが記そうとしている言葉に束縛されている。そんなはずがないと思いたいところだが、実際はどうなのだろう。誰かは無駄なことを述べているらしい。相変わらずどこにも至らない。どこかに行き着こうとしているわけではない。ただその辺をさまよっているわけだ。だから空疎な内容ばかりの文章を記している。それで何がわかるのか。わからないからさらにさまよってしまう。そんなことの繰り返しによって暇つぶしをしているわけだ。そう受け取られてもかまわないようなことを述べている。要するに何もわからないということか。答えを導き出せない以前に、答えを必要とする問いに至らない。そんなことがあり得るだろうか。作り話の中ではいくらでも嘘をついてもかまないわけか。たぶんそんなはずではなかったと思っているのだろう。本当はまともなことを論じてみたかったのではないか。本気でそんなことを思っているのだろうか。君に何が思い出せるというのか。別に記憶喪失というわけでもないだろう。では何を忘れてしまったのだろうか。たぶんこの世のどこに答えが埋もれているわけでもないらしい。ただこの世界から遠ざかりたい。本気でそんなことを思っているわけではないが、とりあえず理由も必然性もなく、何から遠ざかりたいと述べておかなければ気が済まないようだ。それが何を意味するのかわからないが、何となくそういう心境なのだろう。それこそあり得ないことか。そんなことはどうでもいいことなのに、気がつけばそんなことを記している現状がある。そして意味不明な笑みを浮かべながら、車窓から外を眺めている誰かに気づくが、それが誰でもない誰かであることに、何の感慨も抱けず、君が君でないように、それを記している誰かも、誰でもない誰かでさえないことに気づいたふりをしているようだが、本当のところはそれは何でもないことだ。驚く以前に呆れを通り越して、ただの無表情に行き着く。結果とはそういうものだ。何事も君の思い通りにはならないようだが、君はどこかでそれを予想していたらしく、予想通りに事が運んだつもりになり、思い通りに行かない現状に、どこかで一矢報いたような気になっているらしいが、それこそ負け惜しみの悔しさがにじみ出ているように思われ、まったくみっともない言動に終始している自らに気づくことはなく、そんな言説的な展開に持っていったことに少し感動しながらも、一方で自らに嘘をついているような気になり、本音を語っていないことに罪悪感を抱くほどのことでもないが、それで何か述べているような気になっていることは確からしい。それで何が楽しいのだろうか。それらの冗談の一部始終を把握しきれていないことが気に入らないわけでもあるまい。要するに言葉を並べられたら何でもかまわないのか。さらに何かから遠ざかってしまっているようだ。それが本望なのではないか。くだらぬ言説を構成していることについて、してやったりということでもないだろうが、虚しい気分になりたいという願望は叶っているはずか。そんな願望をいつから抱いていたのだろうか。その場の成り行きからそんなことを思っているつもりになりたいだけか。しかしわけがわからないとはいわせない。誰に対していわせないと宣言しているわけでもないだろうが、何となく言葉の並びがそうなってしまったのだから、それは偶然の巡り合わせということにしておいてかまわないのではないか。たぶん冗談ならそれでもかまわないのだろう。どこまで述べても本気になれない現状は変わらないようだが、なぜそうなってしまうのか。本当に語りたいことがないわけではないだろう。ただそこに至るまでに延々と無駄なことを述べていないと、そこに行き着かないように思われる。


6月1日

 窓際の植物を眺めてどうするのか。いつものように何気ない仕草を想像させるようで、枯れ草まじりのガラス瓶の中で、枯れかけた緑色の葉が今にも落ちそうだ。呼吸する感覚が色彩的に黄色い印象を与えている。また道路の真ん中で仁王立ちの画像が現れる。どう考えてもおかしい。誰かが何かを検索していたようだが、それが何を意味しているのかわからない。まるで誰かの文章を読んでいるような気分になる。しかし何をおびえているのか。その大部分は偶然の巡り合わせなのだろう。そしてそれが破滅のきっかけを形作っている。君はもう終わりだ。作り話の中で誰かの意向に逆らって何かがねつ造されようとしているらしいが、君は今この世界がどんな危機を迎えつつあるのかをわかっているはずだ。果たして君は本気なのだろうか。あるいは正気なのか。今が正念場だとは到底思えない。頭の中に何かが弛緩しきっているようだ。今さら何を思い出してもかまわないようだが、それは先月の出来事だろう。しかしなぜそんな風に語ってしまうのか。わざと意味不明気味に語り出し、収拾がつかなくなって語ることを簡単に放棄してしまう。目的が何も見当たらない。そして何がもたらされることを期待しているわけでもない。今の君に何ができるというのか。そんな台詞は聞き飽きたか。今さらそれはないだろう。まだそこで右往左往しているようで、それほどできないことをやろうとしているわけではないが、ほぼ不可能に近いことを実現しようとしているのではないか。それこそが嘘なのかもしれない。中身のある文章が構成されようとしているのが気に入らないのだろう。本当は何も思いつかない。強引にそういう話にしようとしている。無理を承知で言葉を並べているようだが、実態が何もない。雨が降ってきたらしい。なぜそれを忘れてしまったのだろう。記憶にないわけではないのに、その場では思いつけなかったようだ。たぶんわからないだけで、いったんわかってしまえば大したことではなくなってしまうのだろう。復讐心に凝り固まるような雰囲気ではない。ではそこから何をたぐり寄せようとしているのか。本当は何を探しているわけではなく、すべてを放棄しようとしているのではないか。そこから抜け出たいのではない。ならば相変わらず無関係を装うつもりか。たぶん文章の中で君のことが述べられているのではない。背後から忍び寄ってくるのは破滅の兆しではなく、何なのだろう。相変わらず何も思いつかないようだ。焦れば焦るほど言葉が出なくなる。何に気づいてもすでに手遅れなのか。興味をなくしているようだ。では他に何か覚えていることはないだろうか。現状の何が気に入らないのだろう。君に何を思い出してほしいのか。何か大事なことを忘れていないか。今日は何をするつもりだったのか。余裕がないわけではなく、まだ切羽詰まっているわけでもない。ならばもう苦し紛れに何を語ることもないだろう。それはいつものことのはずか。いつもの嘘に決まっている。そうやって何とか言葉の薮を抜け出せたつもりになる。薮の中では果てしなくごちゃごちゃしていたようだが、そんな感覚も虚構のなせる業か。その虚構を構成しているのは君自身だ。今は誰かの気まぐれでそういうことになっている。君も言葉を記してそれらの文章に責任を持ってほしいのだろう。君にはよくわからない。依然として文章の中に私が存在しないのだ。文章の中の君は何をうろたえているのか。突然真実を知ってしまったらしいが、他に何を知らされているわけでもない。他がないからうろたえているわけか。やはり意味がわからず、理由になっていないようだ。わざとそうしているのではないか。それほど気が狂っているとは思えない。たとえ狂気を醸し出そうとしても、それは正気の範囲内でやっていることだ。君にはできないことだろう。それ以前にやる気がしないようだ。何が狂気なのかわかりかねる。文章の中にはそれらしき兆候が見当たらない。戯れ言ならそれでもかまわないが、その場の即興で意味不明を装うのもパターン化してきている。何ら目新しさを感じられず、そんなことはどうでもいいような気さえしている。なぜそんな些細なことで悩んでしまうのか。誰かの意識はそれらの文章からはみ出て、そこから次第に遠ざかろうとしているようだ。またそれか。そういう表現自体に意味がない。そこから遠ざかってどうするのだろう。理由も目的もなくそんなことを述べているだけだ。今ではそれが口癖のように頻発しているようで、言葉に行き詰まると、そこから遠ざかろうとするわけか。そうだとするとかなり馬鹿げている。それでは何を述べていることにもならない。それでかまわないとすれば、今までの苦労は何だったのだろう。誰が苦労していると思っているわけでもないか。何かの渦巻きの中でそんなことを考えているらしい。渦巻きとそれは無関係だ。それは何かの画像に違いないが、それを見ている無表情が不気味に画面に反射して、誰かの網膜に焼き付けられ、その何かに洗脳されてしまったような気になり、わざとそんなことを述べている誰かは、自らに問いかけていることに気づかなくなる。そこで何を問いかけているのだろうか。