彼の声66
2008年
5月31日
何を企んでいるわけでもないか。ただくだらないと思われる。まるで後だしじゃんけんだ。それでもまだ昨日の段階だ。たぶん君は己を信じられないのだ。何かの隙間から血が滴り落ちる。空想の産物か。動物の死骸を見るとどうなるのか。カフェインの力には勝てないようだ。だがそれで何に屈しているわけではない。それは奇跡か何かを再現しているわけか。そんなことは知ったことではない。誰も知らない出来事だ。何を空想しようと、頭の中にカビが生えているわけでもないだろう。君の中では何かが崩壊しているかもしれないが、それで世の中がどうなるわけでもない。体調を崩しているだけか。それともまた膝の状態でも悪化したのか。どちらにしてもあまり長くはないらしい。もう寿命が尽きようとしているのか。それで誰の同情を惹くつもりもないようだが、皮膚が紫外線の影響を受けやすくなっていることは確かだ。それにしてもあまり意味がないので、急に何かを探し出す。それも脈絡を感じられない。話になってないことはいつもの通りだが、それでかまわないような気もしてきて、そのまま何かを押し進めようとしているのかもしれず、その何かが重要な何かとならないところが、今のどうでもいいような状況を象徴しているだろうか。それもあり得ない嘘の一部を形成しているわけか。それこそ間違っているのだろう。どうも話以前の混濁した言葉の連なりが滞っているようだ。何かの行き詰まるとすぐに文章自身へと言葉が向かってしまい、その空疎な内容は自己言及的な様相を帯びるしかないようだ。しかしそれの何があり得ないのか。何か別の具体的な出来事について語るべきか。苦し紛れにそんなことを述べているのも何かの予定調和か。さっきから気になっているが、その何かとは何なのか。そうではないと思いたい。皮相的な問題にこだわるべきではない。だが深いところで何を理解しているとも思えず、どこに何の深層が提示されているのかを知りたいわけでもなく、たとえいつか隠された真相が明らかになっても、それは見せびらかし以外の何ものでもないだろう。画面上では気持ち悪い顔がお互いに不気味な笑みを浮かべながら向き合っている。それで何を説明したことになるのか。説明が足りない。君がそこから何を導きだせるとも思えない。不足しているのは他にもありそうで、それは何なのだろう。意味のない問いかけだけが過剰に出ている。他に何を無駄遣いしているのか。わかりきったことを尋ねないでほしいか。そういうことだ。ひたすらわかりきっているのだ。話が予定調和であることを証明するまでもなく、何となくそんな気がしているだけで十分か。そして眠たくなってくる。人は眠るために生きているようだ。別に低炭素社会を作るために生きているわけではなさそうだが、そこからどんな幻想が導きだされるのか。利潤の追求の仕方を変える必要でも生じているのだろうか。くだらぬこだわりに引きずられて取り返しのつかない過ちを犯し、悲惨な末路を辿るのがオチか。暴力に訴える犯罪者はそういうことになり、ありふれたことをありふれたやり方で行い、自らが抱いていた欲望に屈して、何となくそこで自ら墓穴を掘っていることにでもなるのだろうか。実際には犯罪者になっていないので、その心境に至れないようだが、それが心残りというわけでもないだろう。これからすぐに死んでしまうとも思えず、何もせずに眠ってしまうだけか。わかりかけていたことを睡眠によって忘れてしまうのが心残りだ。それで何を覆した気になれるのか。今がその時なのではないか。まだ粘っているようだ。執拗に何かを継続させようとして、寿命を縮め、そこから退くタイミングを見誤っている。それで本当に棺桶に片足を突っ込んでいるような心境になれるか。そんな気になりたいとは思わないか。ではなぜ退こうとしないのか。言葉と根気の浪費に拍車がかかっているようだ。まさにやってはいけないことをやっている気になれるというものか。それが犯罪者の心境に近づく早道であるはずもないか。ただわけがわからない。そして文章も終わりに近づいているような気もするのだが、なかなかゴール地点が見えてこないようで、焦るばかりで挫折してしまいそうになるが、さらに寝ぼけたことを述べるなら、そんな心境が君の望んでいた心理状態だったのかもしれない。たぶんそれは真っ赤な嘘だ。いい加減に言葉を並べながら虚無の前を駆け抜けようとして果たせず、途中で息切れとなってしまい、その場に座り込み、他の可能性を空想しているふりをして、わざとらしく泣き言を並べて拒絶され、誰かによって奈落の底に突き落とされたような気になって、今度は被害妄想を抱きながら、行き詰まりの原因を頭を覆っている虚無のせいにして、脚本家もどきの監督もどきがくだらぬ映画宣伝に勤しむ映像を画面から遠くはなれて眺めながら、何も思わない自らに安心している誰かのことを思えば、他に何をやる気になれるだろうか。何か苦しい言い逃れに及んでいるような気がする。それが君にはお似合いの切羽詰まった状況をもたらしているわけか。何を余裕こいているのだ。もっと冷や汗をしたたらせて、必死の形相で言葉を繰り出さなければ、まともな文章を構成できないだろうか。何を記すかは人それぞれであってもいいのではないか。
5月30日
音楽を聴きながらちぐはぐなことを述べている。誰が何を考えているのか知らないが、どうやらそれは考えすぎて、頭の中で言葉が腐って分解してしまったようだ。踏みしめている大地は腐葉土か何かに覆われている。アスファルトの上ではあり得ないことか。それ以前に語っていることがでたらめのようで、説明が足りないのかもしれず、話の途中が省略されているようで、そんなわけのわからなさを笑いながら、森の中に誰かがいるらしい。要するに何の脈絡もなくおかしなことを述べているのだろう。誰かはそこで何をやっているのだろうか。ここに至ってやるべきことは何もないのであり、それで話になっていないのなら、始めからやり直した方がいい。何もやり直せる状況にない。頭の中で何かがおかしくなっているようで、そのとき君は何を忘れているのか。たぶん力が著しく抜けているのだろう。力の限界が極端に低下していて、誰かの語りがその水準に達していないのかもしれない。語るべき内容を失って、ただの文字列と化す。それが馬鹿げていると言うなら、何を基準にそんなことが言えるのか。何となくそう思うだけか。彼は世界中を飛び回って何を見つけたのか。ボールを蹴っているだけか。広く見聞を深めたのかもしれない。ところで彼とは誰のことか。とりあえず来月の初日は晴れている。無理矢理何を見出そうとしても、君はそれを批判する術を知らず、どこまでも晴れ渡った青空の中に何を見つけたわけでもない。空想の中で空飛ぶ円盤に向かって手を振っているのは君ではない。想像力の枯渇によってそういう言葉の並びが生じてしまう。誰かにとってはそれでも冗談なのだろう。そんな風にしてくだらぬ言説をさらしながらも、何かを変えなければいけないことはわかっている。気が散っているのだろうか。何も思い浮かばない。現状では何が可能なのか。何ができて何ができないかではなく、それをやろうとしなければならないと思うが、それとは何なのか。見た通りの文字列の中で、わざとらしい言葉の循環に遭遇しているらしいが、嫌気がさしているのではないか。では一刻も早くそこから抜け出たいのか。その前に何がそうさせるのかを知ろうとしていない。君には無理だろう。嘘に違いない。ならばできることとはそんなことなのか。君が知りたいのはそんなことではない。この世界は何を意味しているのか。現状はいつもの冗談に違いない。意味などあるわけがないだろう。意味があるから意味を知ろうとしている。意味がなければ知る必要もないか。君はそれを知りたがっている。君とは誰なのか。それはつまずきの言葉だ。世界について知ったついでにそれも知りたいところか。発想が貧困だ。いくら絶望のただ中にいようと、そこで誰が思い詰めているのではない。自殺はレクリエーションの一種だ。わからないことは何もない。言葉が偏っている。意識はどこで何をやっているのか。バランスを保つために何をやるべきなのか。そういうことではない。天気予報ばかり気にかけても何も始まらない。何を始めようとしているのではない。ならば何を否定しているつもりになれるだろう。どこで何が形成されているのか。事物が言葉の中にあるとは思えない。それはそれだけのことでしかなく、どれだけ言葉を繰り出してもどこへも達しないだろう。終着点がないのだから、目的地を目指しているわけではない。ではそれで何に気づいたことになるのか。終わりがないということだけか。問いかけの意味がわからない。たぶんタイミング的にはそういうことだ。それはどういうことなのか。何を蒸し返そうとしているのか。現状はそういうことでしかない。要するにどういうことでもないということか。いくら繰り返しても、何を問いかけているのかわからない。そこに何らかの欠陥がある。そしてその致命的な欠陥が君を支えているのか。君は不具合そのものであり、それが無駄に起因していることを誰かは知っているつもりだが、やはり意味がわからないか。わかるように語っていないのではないか。自ら記そうとしている文章を自らが理解できないようだ。誰がそれを記しているのでもないと思いたいのか。どこからともなくそんな意味のない疑念が生じている。ここはどこだろう。戯れに述べているだけで、別に記憶喪失になったわけではない。話の展開的にはありふれているか。ではそこで何を探しているのか。言葉がつながらないだけか。昼の光の中で何かがぼやけて見える。そのとき君は何があり得ないと思っていたのか。この世の何を馬鹿にしたかったのか。頭の中で何かが遠ざかろうとしているらしい。まだ寝不足気味のようだ。幻影はその場に遅れてきたのだろうか。そのままでは意味がつながらないだろう。影はそれでも何かを犠牲にしていると思っている。さらにわけがわからないのもいつものことだが、なぜそうなってしまうのだろう。本当は語ることが何もないのではないか。それが真実だとして、他にどんないいわけを思いつくだろうか。なぜ真実を認められないのか。面倒くさいからだろうか。理由になっていないような気がするが、それでも何かを適当に語ったつもりになれるらしく、少しは日付的な遅れを取り戻そうと努力しているのかもしれない。
5月29日
相変わらず雨が降り続いていて、雨音を聞きながら目を覚ます。早朝らしい。画面以外の何を見つめているわけでもなく、ただそこに画面があるだけだ。何も突飛な発想が伴わず、それは当然の成り行きだろう。未だにそんな案配で、ひたすらつまらない言葉なり述べている現状があり、それがどうしたわけでもないが、何となく虚しさがこみ上げてくるように思われ、実際には何とも思わないのだが、それでもフィクションの中では何かが吹っ切れたような気になっている。しかしどこに登場人物が設定されているのだろうか。気分次第で虚構があることになっているわけか。実際には何もありはせず、いい加減に述べていることが嘘になってしまうか。話以前の話の中で矛盾していることは承知しているつもりだ。何がなんだかわからないが、君が示したい内容ではない。話に当てがないからそういうことになっているのだろう。他に原因は考えられず、そのまま適当に述べるしかないようだ。他に何がそこに生じているとも思えず、さらにおかしくも奇妙な具合になっている。それらの言葉の並びが信じられないか。君が何を述べたいのかわからない。そんなところで立ち往生している。笑ってしまう現状だ。何をそんなに困っているのか。誰が何に困っておるわけでもない。なぜそれを否定しまうのだろう。早朝に寒気を感じてしまうが、今は夜だ。仕事をしていたのだろうか。相変わらず今は何もない。やる気がしないのだ。他人は何に興味を抱いているのか。社会の制度をどうしたいわけでもなさそうだ。人間は人間でしかなく、人間以外の何者でもないか。神でさえない。制度の不具合についてとやかく言っていた誰はどこへ消えてしまったのか。君には自己顕示欲というものが備わっていないのか。それは誰の特性だろう。君に何が課せられているとも思えない。不具合を温存させたまま今に至っているのが制度の制度たるゆえんだ。人はそれらの不具合に魅力を感じている。公平ではないから自分だけは甘い汁を吸おうとしてそこに群がる。君は本気でそんなことを述べているのか。何となく感覚がずれているのかもしれないが、この世界はどのような危機に直面しているのだろうか。それについて何を語らなければならないのか。なぜか誰かが笑っている。君には関係のない話だろう。なぜ大げさな話題から遠ざかってしまったのか。リアリティを感じられなくなっているらしいが、くだらない社会の仕組みをせせら笑っているだけでは何ももたらせない。それはすごいことでもすばらしいことでもなく、何も考えられない間に季節が過ぎ去ってゆく。堕落しているとは思わない。何を肯定しているわけでもなく、何を否定することもできない。感性が摩耗してしまったのだろうか。それも君の知ったことではなさそうか。語り方が時代遅れとなっているようだ。時代などどこにもないか。君はこの世界に何ももたらせないが、もたらそうとしていないのだから、それは当然のことだ。今は何の時代でもない。すべてはすでに終わっているのだ。すべてとは何だろう。すべてでなければ何なのか。かつてギャグ漫画が流行っていた時代があったらしい。映画の中で冒険者を演じている俳優にリアリティを感じられず、物語の登場人物を透かして物語の限界が見えてくる。たぶん物語自体が馬鹿げているのだろう。魔法だの超能力だのが画面のこちら側に力を及ぼせないのだ。感動できないということか。画面の向こう側から襲ってくる大げさな呪いの言葉を無視して、適当な絵画を眺めて感動することもない。モナリザの微笑みにはひびが入っている。それだけ時が経ったということだ。数年前に話題となった最後の晩餐の暗号解きなど子供だましもいいところか。今こそ人が壁に塗り込められた絵に感動する理由を知りたいか。今は知りたくもない。では何を忘れようとしているのか。それが誰かが身につけた否定作用かもしれないが、本気になれない。終わりの季節を聴きながら、誰かがかすかな言葉を思い出そうとしている。何の脈絡も感じられず、唐突な印象を拭えない言説に親近感を抱いているらしい。不自然な文と文のつながり具合が好きなのか。何かおもしろおかしいような気分を求めているのかもしれないが、それで救われるような気持ちにはなり難いか。神はどこから君を救いにきてくれるのだろうか。救世主に救われる理由を知りたいか。誰もそんなものを求めているわけではない。理由がなくても救われるならそれに越したことはない。ならば冗談で神に救いでも求めてみようか。神は君自身の中に宿っているはずだ。妄想の中ではそうなのかもしれず、君は内なる神に救いを求め、ひたすら祈る毎日を送り、他に何もやろうとしない。それがその場で思いついた内容なのか。くだらないと思うなら、もう少しマシな日々を送るように努力したらどうか。君に何がわかるというのか。否定作用以外の文章を導きだせず、すべてを否定し、肯定的な言葉をどこかに置き忘れてきた結果が、そこでの単調な無内容を肯定せずにはいられない逆説を強いているのだ。それで何がわかったことになるのか。誰がろくでなし的な文章を記しているのでもなく、それらはすべて戯れ言の範囲内か。
5月28日
また雨が降っている。気がつけば朝になっていた。それは昨日のことか。もう二日が経過しているのかもしれない。魔が差してしまったのだろうか。何も述べることがないのだから、何も記さなくてもいいのではないか。君には関係のないことだろう。何をそんなに笑っているのか。誰かの独り言がそんなにおかしいか。何も思いつかないのに笑っている。笑っているからどうだというのか。なぜ昨日の夕方から今朝までの記憶がないのだろうか。それほど眠らないと体調が戻らなかったわけか。誰かはそろそろ死ぬんじゃないのか。死ぬ人は他にいくらでもいるだろう。人間などいくら死んでもかまわないか。生きている必然性もないし、死んでしまうことも選択肢のひとつか。君は人間ではない。面倒なのだ。人間でなくてもかまわないのだろうか。そこに何かの呪縛でもあるわけか。ひたすら無駄な言葉が連なっているようだが、ここであきらめるわけにはいかないのか。いったい何について語っているのか。誰がどこで何をやっているというのか。誰かは他人より何十年か長生きしたいのかもしれない。それでも平均寿命より五十年も長生きした者はいない。大したことはないが、人はなぜそこに存在しているのか。歴史とは何だろう。何を信じれば納得がいくのか。文章になっていないような気がする。どうも誰かの頭の中はすかすかになっているようだ。人は自らが生きている時間の中で何をやりたいのだろう。何か目的でもあるのだろうか。別に目的があるから生きているわけでもないか。君に向かって何を問いかけても無駄だ。ただ雨が降り続いていて、執拗な天候に嫌気がさす。風邪でもひいてしまったのだろうか。雨空を鳥が横切り、何の感慨にも至らない心を和ませるでもなく、架空の意識は何を考えているわけでもない。言葉には限界がありそうだ。何も思いつかないのもその限界の存在を証明しているのかもしれない。あと五分で現実の世界に戻らなければならない。あり得ないことだろうか。何かようなものを探して、誰かの影はどこまで飛んでいってしまったのか。意味をなしようがない。何を面倒くさがってもどうなるものでもなく、ただとっかかりがつかないままに時が過ぎ去ってゆく。それで言葉が何を見出しているわけでもない。君はそこからどうしようとしているのか。何もできはしない。打つ手がないようだ。たぶん何をどうすることもできないのだろう。君はそこで途方に暮れているのだろうか。呆然とするような光景を目の前にしているわけではないはずか。ただの画面だ。さてどうしたものか。もう笑うことはできないだろう。真剣に討論するようなことは何もない。誰もいないのだから討論も何もないか。架空の討論なら作り話の中であり得るか。では誰と誰が何を討論しようとしているのか。君は人間のどんな性質を否定しようとしているのか。何を肯定できるはずもないか。たぶん予定調和だ。虚無に向かって何を問いかけても無駄だ。何の答えも返ってこない。それが楽しい状況をもたらしているのではないか。いい加減に言葉を並べて意味不明を装いたいか。無理な要求が受け入れられるはずもない。よく見れば影の首が曲がっていないか。それで何を醸し出しているわけではない。受け入れられない要求とは何か。君をどうして欲しいのか。どこかへおびき出してその正体を暴きたてたいか。正体も何もないだろう。それこそ君は影でしかないのではないか。誰の影でもなく自身の影が自らの実体をなしている。だから何だというのか。単なる苦し紛れの嘘か。君は語る相手を間違えているのではないか。それも違うと思う。間違えているのは語っている対象だ。そこには誰もない。そんなことはわかりきったことだろう。ただ強引に言葉を並べているだけか。そうであったらどうだというのか。何を開き直っているのだろう。誰かの目が血走っている。架空の表情をねつ造しようとしているのか。影に顔があるとは思えない。その顔は仮面か。無表情だからといって何を表しているわけではない。ただ疲れているだけか。疲れているのでどんな表情も作れない。それも苦し紛れの嘘か。できないものはできないだろう。何もできないからそんなことを述べている。誰も虚無からの作用を止められない。だから虚無に導かれるまま、開き直っていい加減に語っているわけか。そして何を悩んでいるわけでもない。君には何も見えていないようだ。架空の世界では大きな災いが降り注ぐが、それで何がどうしたわけでもなく、君はわけもわからず見とれるばかりだ。災禍に巻き込まれてもそれは作り話なのだから、痛くも痒くもない。では何に感動しているのだろうか。空疎なことをいつまでも語っている誰かにわけもなく感動してしまう。そこまで語る必要があるのだろうか。必要もなくそこまで語って何を期待しているのか。もたらされるのは誰かの無表情だけか。何も言わぬ沈黙の仮面が画面に映っている。そこからどんなメッセージが発せられるはずもなく、何を問いかけても沈黙のただ中に吸い込まれてしまい、どんな問いかけも跳ね返され、そこには誰の影も映っていないことがバレて、誰かの意識は自身の外部へと放り出されてしまう。そんなことがあり得るだろうか。あり得ないならそれも嘘に違いない。
5月27日
ふと気づいたことを披露しているわけでもないが、それでも何かが変だ。いつもと何が違うのか。何も違わないと困ることでもあるのか。それで誰が困っているとも思えない。たぶんそれは考え方の相違だ。誰と誰の考え方に相違があるのだろうか。誰かがその場で抱いている思い込みこそ、勘違いの最たるものか。だがそれ以前に勘違いの内容が示されていない。わけがわからなくなり、とりあえず沈黙していると、風の音が聞こえてくる。そこで何を黙らせているのか。音楽は無限だ。誰かの感性とは関係ないだろう。少し前まで独り言をつぶやいていたようだ。そしてしばらく意識が遠のいていたのは、うたた寝の最中だったからか。何となくピントがずれているようだ。見えているものが見えていない。あまりにも外れすぎているのではないか。こけおどし的には無意識の奥に虚無があるらしく、その遥か遠くに底知れぬ闇がある。君の感情はどこへ消え失せたのか。いつものように何を語っているのかわからないから、嫌気がさしてその辺でやめてしまい、気晴らしに画面に向かって何を見ているわけでもないが、誰が見てもそれはただのファンタジーだ。映画のたぐいだろう。それはしばらく前の記憶に過ぎないが、ハリー・ポッターは子供だましなのだろうか。君も魔法使いになってみないか。違うと思う。では他に何を楽しめというのか。君は十年後の姿を想像できない。誰が何を眺めていようと、君にとってはどうしたわけでもないか。そんな風にして誰かの意識が不可能に覆われているようだが、冗談でもどうにもならないことは他にいくらでもある。なぜそれがどうにもならないのか考えたことがあるだろうか。それらの発言が配慮を欠いている。何を議論しているわけでもないだろう。でたらめに言葉を並べ、それとは無関係に翌日の天候は荒れ模様だ。しかし馬鹿げていないか。大切なのは自分のやりたいことをやることだ。そんなことを述べてどうするのか。誰かが簡単なことを言ってくれるが、君にはその意味がわからない。話の流れに脈絡を感じられない。何をめちゃくちゃにしたいのかわからない。それでいったい何について述べているのか。世の中の否定的な部分ばかり見ていると絶望的な気分になれるだろうか。どのような感性を文章の中に構成しているわけでもないだろう。言ってはならないことを誰かが言っているらしく、それについては何とも言えないようだ。そこで誰が何を述べているわけでもないことに変わりはない。それが信じられない。なぜそれほどまでにでたらめなことを述べているのか。ただやる気になれないだけなのか。それらの絵にどんな思いを込めているとも思えない。絵ではなく言葉の連なりではないのか。それらを支えていた感覚が去ってしまったのだろう。今ではどうでもいいことに成り果てた。ギターの音色に耳を傾ける。しらけた気分でいるらしいが、何も見当たらないのは今に始まったことではない。行き当たりばったりで何か述べているだけでは、そんな結果に陥ってしまうのも当然のことか。だからもう少し待ってみた方がいいのだろう。君には甘えの兆候がある。黙っているだけでは何ももたらせない。何か主張するべきことがないのか。何の主張もありはしない。述べているのが君ではないのだからそれは当然のことだ。君はどこへ行ってしまったのだろう。文章の中に君の痕跡を探しているわけではない。では何を探しているのか。破綻の痕跡か。すぐに人類が滅亡するわけもない。君には関係のないことだ。関係ないがわからない。わかったところで何でもない。誰かはなぜ国家間競争という幻想を抱いているのか。人はそんなにお国自慢がしたいのだろうか。いくらそれを馬鹿にしてもつまらないだけか。言説内で他国に対する配慮が欠けているようだが、それで何が愚かなのでもなく、要するに当たり前のことなのだろう。本の余興に過ぎないことだ。何も的を射ているわけでもなく、暇つぶしか何かのたぐいだ。少し前までどんな気分だったのだろう。資本主義の何が間違っているのか。幻想を抱いて何が悪いのか。それらの言説は何を開き直らせようとして構成されているのか。たぶん何が悪いわけでもなく、すべては正しい行いなのだ。金儲けにしのぎを削るのは良いことだ。そこでは誰もが典型的な動作を演じている。調子に乗って自らを見せびらかしたい。それが資本主義が推奨する正しい行いの正体に違いない。見栄を張りたいのだろうか。それだけでは嫌われてしまうか。では社会の役に立ちたいと表明してみればいい。君たちはそれで救われるのだろう。誰かも救われているはずだ。誰も彼もが自ら属する社会を繁栄に導きたいのであって、後の世代までその繁栄を長引かせたいと願っているのだろうが、そのような願いに報いるために、天が何かをもたらしてくれるはずだ。天災のたぐいか。神は確実に災いをもたらそうとしている。人々に試練を与えておもしろがっているのか。そうでなければ何なのか。君は神ではないので、君に訊いてもわからない。君は絶えず話をはぐらかそうとしているだけだ。できればそんなことはなかったことにしたい。だからひたすらずれて、話をわけのわからない内容に導こうとしている。
5月26日
それは違うだろう。人類は知的生命体ではない。ただの感情的な猿だ。同じ種族の中で互いに争っている。その自己中心的な感性は救い難く、呆れるばかりの自意識過剰であるために、自らに対峙するような存在を見出せないのだ。外部に向かう視線が欠落しているようで、自らに利益をもたらすことしか眼中にない。それを許しているのは何なのか。自らを否定して何になるのだ。神にでもなるつもりか。何を批評しているとも思えない。勘違いも甚だしい。外は晴れて暑くなっているようだが、まだ何かやる気になっているのだろうか。相変わらず何が見出されているわけでもない。何を考えても何も思いつかず、それで何を考えていることにもならないのではないか。何を感じ取っているのでもないようだ。では何が違っているのか。それとは何だろう。以前と同じようなことを述べている。君の願いがどこかに届いている。それは天上界ではないらしい。空想したければいくらでもしていればいい。何を突き放したような物言いに終始しているのか。眠ってしまってはすべては無駄になる。それが嘘だと思うなら眠ってしまえばいい。何を明らかにしたいとも思わず、何が明らかにされることもない。当たり前の成り行きか。それでも嘘をついていると見なせるだろうか。確かに何が明らかになっているとも思えないが、そうやって同じような言葉を繰り返すつもりなのか。意味がないだろうか。意味を求めているわけではない。それが根拠の希薄な強がりを形成している。たまには弱がってみないか。それも意味不明のなせる業か。さらに意味がわからなくなる。たぶん冗談ではないような気がするのだろう。そんなことを述べている誰かは感情的な猿でさえない。ただの猫か。空想上ではそうかもしれないが、それは即興的な解釈だ。言葉以外の何をもたらしているわけでもなく、定常的な意味を担えない言葉の並びか。わざとわけがわからないようなことを述べているようだ。君はシャガールの絵を見たことがあるだろうか。それがどうしたのだろう。絵を見ればどんな認識に達するというのか。眠気が去って頭でも冴えてくるだろうか。何を云々したいわけでもない。記憶の断片としての挿話にも意味を付与したいようだが、どこでどうなってそんな気になるのか。そういう視点は感心できないか。視点とは何だろう。何を見ているわけでもないような気がする。それで調子に乗る必要はないだろう。田園地帯では人がまばらに住んでいる。人口の密集地帯で生じている幻想を共有する必要はない。文学に偏ることもない。君は君で何を考えていようと君でしかない。君でさえないのかもしれず、君以外の何者でもないのかもしれない。存在論的に矛盾していたいのか。それの何ができない相談を生じさせているのか。君は何もわかっていないのではないか。考えることを放棄していないか。文字を記すことは考えることとは無縁の作業になるだろうか。わざと間違ったことを述べている。そうしなければどうなってしまうのだろうか。果たして知的生命体という概念自体に肯定的な意味を付与することが可能なのか。試行錯誤しているふりをしている。わかりやすく述べようとしていないだけか。それで何を放棄していることになるのだろう。考えることを放棄しているつもりなのか。冗談ではない。自問自答によってどんな思考が形成されているのだろう。予定調和でしかない。わざと遠回りしているようだが、それを楽しんでいるふうはないらしい。何も簡単に述べられなくなっているのだろう。それがそこに生じている障害であり、そんな不具合が文章の継続を助けている。あり得ないことか。そして文章は自然と自己言及へと引き寄せられ、退屈な自家中毒を構成する。それで何を批評しているとも言い難い。それでもそんな状況に慣れていることに変わりはなく、何度もそれを繰り返すうちに、それが当たり前のことのように感じられてしまい、文章的な欠陥の上で誰かの意識は安住しているようだ。要するにそれがどうしたわけでもないということか。人が考えそうなことはどこまでもせせこましい。すぐに効率を重視しようとして、そこから最大限の利益を得られるようにしたいわけだ。君はそうではないようだ。無駄に無理を押し通そうとして失敗しているわけだが、いくら失敗しようと何の反省にも至らず、執拗に無理なやり方を繰り返して、結果的に自滅してしまうわけだ。だがそれは作り話の中で演じられている動作でしかない。そしてそんな作り話は実体化しておらず、空想の中でのみ語られているような虚構に過ぎない。しかしそれの何がフィクションなのだろうか。無駄な思考形態から生じている文章の中でさえ何もない。ただごちゃごちゃした言葉の連なりの中で何かが語られているような気がしているだけで、実際に読み返してみると、何を述べているのでもないことがわかってしまい、それらの空疎な言葉の連なり具合が奇妙な感性を想像させるだけだ。たぶんそんな風に文章を継続させるのは虚しいことだ。だが他にどんなやり方があるというのか。どんなやり方でもあるのだろうが、それができないだけか。そして君はその場から遠ざかる。いくらでも退くことができそうだ。
5月25日
何か適当なことを語っているつもりになるが、それも昨日の延長のようだ。記された言葉が現状を裏切っている。ふとした弾みでそんなことを述べているのだろう。理由がわからない。それが理由ではないのか。何が理由なのだろう。何をとぼけているのか。理由を探しているわけではない。何も述べることがないのではないか。何が気に入らなくてもそういう流れなのだから仕方がない。自らが何を述べているわけでもなく、自然と言葉が連なるような成り行きに持っていかなければならず、自らがそうするのではなく、結果として何となくそうなってしまうわけだ。それはあり得ないことか。君が何をもたらしているわけではない。しかしそれが誰の冗談になるのか。何をとぼけているわけでもない。個人の感情などどのようにも制御可能か。状況がそうさせているだけだ。いつものようにわざとずれたことを述べているに過ぎないようだ。それでもその何でもない状況を何とかして変えなければならないのか。誰に頼まれたわけでもない。神にやるべきことなど何もない。誰も神ではなく、神という言葉が記されているに過ぎない。意味が違っているのではないか。君に意味を求めても無駄か。何もないから虚無なのではないか。どうやら休んでいる暇はなさそうだ。虚無であることが何をもたらしているとも思えない。いったい何が虚無なのだろうか。何でもないから虚無なのであり、そういう話ははじめから成り立たないだろう。平和な社会で暮らす人々は暴力に飢えている。紛争地域で暮らす人々は本当の飢餓にさらされている。そのどちらもが不幸なのだろう。誰もがそれでかまわないとは思っていないだろうが、何となく見解や認識の違いで済ますことはできそうだ。不幸だとは思わなければいい。娯楽と引き換えに忘れてしまえばいい。テレビでも見ていればそれで済んでしまうこともある。冗談でそんなことを述べても虚しいだけか。冗談ではないと思いたいのか。だがそれでは娯楽から遠ざかってしまう。お笑い芸人のショートコントで君は笑えるだろうか。笑えたからといって幸せな気持ちになれるとは限らないか。たぶんそういうことではないのだろう。その場の成り行きに逆らってまでして、自らの思い通りに事を運ぼうとしてはいけないのか。いったい君は何をやりたいのか。そこで何をやりたいわけではなく、どこで何をやりたいわけでもない。何をやりたいのかわからないようだ。何をやるにしても必ず邪魔が入り、結局何もできないような成り行きになってしまうらしいが、そんな成り行きにいつまで従わなければならないのか。だが何に耐えているわけでもなく、耐えようのない精神的な苦痛にさらされているのかもしれない。思い通りにいかないことだらけで、何をやってもうまくいったためしがなく、いつも頭の中で不満が駆け巡っている精神状態か。だがそれでどうしたわけでもなさそうだ。誰かはそんな状況の中に安住してしまっていて、そこから抜け出ようとする気が失せている。それが危険な兆候だとわかっていながら、どうしてもその気になれないのだからどうしようもない。気に入らないことは気に入らないこととして受け流し、自らは何も主張する気がないようだ。無気力に浸りすぎている。それでもなんとかしなければとは思えない。本当になんとかしなければならないのだろうか。気がついたら何とかなっていれば楽なのだろうが、そう都合よく事が運ぶとは到底思えない。事が運ぶとはどういうことなのだろう。早くつまらぬ言説の構築を終わらせなければならない。偶然の巡り会わせに期待しているのかもしれない。ではいつまで待つつもりなのか。待ち続けていれば何が到来するというのか。好機が到来するとすれば、それは何をする好機なのだろう。そうなるためには何か準備が必要だろうか。現時点では何をどうしようとも思えない。その時になってみなければわからない。その時が来ないまま一生を棒に振るつもりか。そうなってもかまわないだろうか。冗談なら許せる成り行きか。意味不明に逃げている。言葉に窮しているのかもしれない。世の中には泥酔する者もいる。意味がわからないが、眠たくなっているのだろう。何に溺れていようと、何かを成し遂げようとする意欲を見失わないことが大切か。さらにわけがわからない。そんなことを述べながらもすでにその身を滅ぼしかけているのかもしれないが、それでも述べなければならないことを見出さなければならないのか。それは努力して見つかるたぐいのものではないらしく、いつまでたっても行き詰まりを打開できないような気になって、その場でまとめようとする気を放棄したくなってくるようだが、今さら目新しいことを述べるわけにはいかないようだ。現に何も思いつかないのだからしょうがない。いったい君は何を怠っているのか。努力する甲斐もないことをやり続けているわけにはいかないのではないか。だからなんとかしようとしているらしいが、いつまでたっても堂々巡り的な言説に終始している。そんな成り行きの中に意識が埋もれているようで、事態が改善する兆しが一向に見えてこない原因の一端がそれらの文章に含まれているらしく、今こそそれらの文章を捨て去る勇気を持つ必要に迫られているのだろうか。それが冗談として受け流されては元も子もないか。
5月24日
何となくそうかもしれないが、どうかしているのではないか。たぶんそうだ。どうかしているから何とも思わない。それでも何かやっているつもりになれる。何が欠けているかはわかっているつもりだが、わかったところでどうなるものでもない。意味をなさず、言葉が外れている。腕が痛い。無理をせざるを得なくなってしまったようだ。それで何となくわかってきてしまったようだ。人は何のために生きているのだろうか。冗談に逃げているみたいだ。君には理由がわからない。そして気がつけばいつもの言葉が並んでいる。誰かはただ生きている。そこに暮らしている。何を疑問に思っているわけでもない。夢を見ているのかもしれない。睡眠中はそうなのだろう。何が起ころうと深刻さが欠けている。そう思い込んでいるのだ。救いがない。救い難い状況にある。いったい何が見えているのか。君の未来ではないはずだ。君は未来に勝てないのではないか。それはどういう意味なのか。なぜそんな問いかけに答える必要があるのか。わからない。問いがそこにはない。やはり何も見えていないようだ。そこには言葉しかない。誰を見捨てたわけでもない。今日はだめなのだろう。何もできやしない。何かに見とれてしまっているようだ。そして言葉が透けて見える。そんなことはあり得ない。また嘘をついているのだろう。刺激が欲しい。人間はまだ生きたいのだろうか。君は人間ではない。言葉が君を構成しているようだ。何かが安易に語られているようだが、戦う理由はない。物語の中ではそうだろう。心の中で躓いてしまう。君は物語から遠ざかってしまう。夢の中ではそうだ。現実の世界では何でもないのだが、煮詰まっているのは当たり前のことだ。人間たちは自らの存在を大げさに捉えたがっているのだろう。たぶん人々の要求が見当外れなのだ。どこかのフィクションでは人類は空飛ぶ円盤に乗った宇宙人からの侵略にさらされている。現実の世界ではネズミやゴキブリやハエや蚊からの侵入にさらされている。どちらが真実なのか。どちらも真実なのだろうが、害虫と宇宙人のどちらとの戦いに真実味があるだろうか。誰が宇宙人で何が害虫なのか。君はどちらでもなく、何と命がけの戦いに突入しているわけでもない。ただ文章の中に君という言葉が記されている。別にこけおどし的な神話に興味があるわけではない。たぶんそれは人によって作られた物語なのだろう。言葉が自然に発生するわけがなく、それを記す者が必要か。それの何が真実味に欠けるのか。君は何をそんなに笑っているのか。それが本当だとしても信じられない。何か馬鹿げたことが起こってほしいのか。それらの出来事に興味があるとは思えないのに、彼らは何を見せびらかしているのか。すべては今あることの延長上にあるらしい。だからこうして悩んでいるのか。そんなわけがないだろう。ただ切羽詰まっているだけか。誰かが誰かに見下されている。それを端から見ておもしろがっている誰かには関係のない真実がどこかに埋もれているのかもしれず、それを誰が探しているのでもないが、君にはそれが真実のように感じられてしまうわけだ。それがどうしたのだろう。もう時間がないということか。あきらめるしかないということだ。それ以外に何を理解したいのか。先が見えている。神や悪魔の話に興味があるわけではない。漫画の主人公がどうなろうと君には関係のないことだ。だからといってそこで立ち止まっていいはずがないが、何となくさっきから集中力が切れているらしく、何もやりたくなくなってしまったようだ。やりたくてもできないのだから仕方がない。何もかもが馬鹿げているように思えてくる。小市民的な祈りに呼応することはできない。すでに夏のような天候か。それとこれと何の関係があるのだろうか。君は何かと何かを取り違えているわけか。わけもなく意味不明なことを述べ続けているだけか。勘違いの原因がどこから生じているわけでもなく、そこで何を探していたわけでもない。わけを探しても無駄か。わけもなくわけを探しているに過ぎない。それはどういうことだろう。もう少し生きろと命令されているわけでもない。神も悪魔も命令されるのが嫌いらしく、人から命令されるのが何にも増して屈辱なのだろう。だが今さら君に何ができるというのか。もう二日後だ。二日前の出来事など何も覚えていないはずだ。だが誰が君の記憶を消し去ってしまったのか。君という言葉に記憶も何もありはしない。確か二日前にもそんなことを記していたかもしれないが、誰がそれを覚えているのか。何を読み返す気も起こらない。ではなぜ人はそこで戦っているのだろう。漫画の中で架空の人物たちが戦っているだけか。だが神は作者の妄想などにつきあっている暇はない。内面の世界は何かのでたらめに起因している。それは誰の内面なのか。君はどこから始まってどこで終わっているのだろうか。君ではないのだろう。君に内面などありはせず、あるのは取り返しのつかない過ちだけだ。それらの思い違いは果てしない。そして言葉が君をどの文章に結びつけようとしているのでもなく、君を架空の存在として文章の中に縛りつけようとしているのでもない。君という言葉はすべての不在を象徴している。
5月23日
怒りが込み上げてこない。その対象がないのだから当たり前のことだ。ではなぜそんなことを言うのか。架空の会話が成り立つような状況ではない。何となく気分的に現実から外れているようだ。作り話的にはそれはどういうことなのか。そうではないと述べておこう。現実が文章に影響を及ぼしていない。ここは未知の世界ではない。何もかもがありふれている。それがどうしたわけでもないが、果たして君に未来があるだろうか。現実に述べている内容はとりとめがない。取り立てて何を気にしているわけでもなく、何かをどうにかしたいのでもないらしいが、それの何が冗談だったのか。冗談でそんなことを述べているつもりなのだろう。ではそれの何が作り話なのか。さすらい人が話の中に出てくる。気晴らしのたぐいでそんな筋書きを構想している。構想するような話ではない。しかし何が話の中でそれを示しているのか。たぶん他人にはわからない何かがそうだったのかも知れない。すべてはでたらめで、偶然に頼り切って言葉を繰り出しているようだが、まったく話になっていない。そのついでに別の話を思いつこうとしているようだ。何かがおかしい。君は気が狂っているのだろうか。見つめている先には何があるのだろう。誰が画面に映し出された田園風景に見とれているわけではない。それとはまったく関係ないのかもしれない。誰かはこの世界に興味を失いつつある。そこに暮らす人は誰でも暴力を愛している。いついかなる時でも禁止されている行為を欲しているのだ。じっとしていられずに暴れだしたい。さかんに暴れる理由を求めている。隙あらば力まかせのやり方を目指している。だがそれで思い通りの展開に持っていけるだろうか。思い通りにいかなくてもかまわない。やらないうちから何を妥協しようとしているのか。他に何かうまいやり方を思いつけるか。何も思いつかなければ、あくびとともに眠ってしまえばいい。眠ってしまったら明日がやってくるだろう。それの何が気に入らないのか。必要以外ことは何もやらずに、なるべく他力本願でありたいと思っているようだが、君の他に誰がいるのだろう。誰が言葉を奏でることができるというのか。それをやろうと思っているわけではない。そこで誰かがかなり意味不明なことを述べている現状があるだけで、何となくそれは違うような気がするが、ノイローゼとはどういうことだろう。君はノイローゼなのか。他に何を馬鹿にしたいのかわからない。それ以上は何を語っても嘘になる。今でも嘘をついているはずか。今さらそれはないか。少し前までは、外は土砂降りの雨だった。語りたいことなど何もありはしない。ただ雨音を聞きながら、それがわからないと思っていた。誰かがいい加減なことをつぶやくが、相変わらず意味がわからない。気がつけば目の焦点が合っていないようだ。それの何がわからないのだろうか。やり直しがきないところまで語ってしまったらしい。怖くなっているとも思えないが、意識が言葉から逃げているのはわかっている。逃げなければどうにかなってしまうのだろう。そんな思い込みにすがりつき、なんとかそれで正気を保っているのかもしれないが、逃げずに今こそ現実を見つめ直すべきか。現実とは何だろう。それを見つめてどうするのか。時として人は理解できない行為に及ぶことがある。誰もがそうなのかもしれない。状況と成り行きがそうさせるのか。にわかには信じ難いような成り行きに遭遇することがある。理由など後からいくらでもつけられるだろうが、やはりその時点では信じられない。感情が行動に結びつき、何かを成し遂げようとしているのかも知れないが、それ以前に心が壊れている。それも嘘だろうか。誰かは焦っているのかもしれない。連ねられた言葉にまったく魅力を感じられない。何かが詰まっているようだが、それは排水溝の話か。何もわからないが、雨の勢いが弱まっている。それで何がわかったのだろうか。文章の行き詰まりを感じ取る。それで何を述べているつもりになれるだろう。かつてそんなことを繰り返し述べていた時期があったらしい。君は現実から逃げているのだ。君は不在だ。わざとそんなことを述べている。それはどういうことだろう。不在の君が何を語ろうとしているのか。そういうことではない。この世界はどこまでもこの世界であり、世界の外はあり得ない。そうではない。声は常に世界の外から届けられる。それは声ではない。背景放射などの雑音だろう。そこで言葉は君に似せられて発せられる。よくわからないことを述べているようだ。今さら修正は利かない。何を語っても無駄になり、君はそこから遠ざかれなくなる。要するに述べていることはまったくのでたらめなのだろう。君はそこで何を欲しているのか。指名手配犯と顔立ちが似ている。そういうことではない。音量がでかすぎるか。わざと何かをずらして語ろうとしているのはいつもの通りに違いない。そして何を語っているのでもないと思いたい。それが君のすべてなのだから仕方がない。できうる限りのことをやっているつもりなのだ。それで挫折や絶望を乗り越えられるとは思っていないが、何も成し遂げられないわけでもないらしい。
5月22日
どうもタイミングが悪いようだ。なんとかしたいのはやまやまだが、たぶん何もやって来ないと思う。何もない代わりに今があるわけか。今という言葉の使い方が間違っているのではないか。意味がわからないが、そうではないと思いたい。そういう話ではなく、未来がない理由を聞かせてほしい。誰にとって未来がないのだろう。でたらめな理由などありはしない。言葉に窮して何かを逸らそうとしているのだろう。何かとは何なのか。目をそらしてあさっての方角を見る。そんな芸当が誰にできるのか。どんなにへりくつを並べようとしても、何も見つけられないようだが、それは求めようとして求まるものではない。それとは何なのか。君はそこで何をやっているのか。何かをやっているはずだ。これから何に向かうのも気持ちの持ちようだ。だが考えていることはそこにはない。ただひたすら蒸し暑い。何かに気持ちが押し戻されている。確かに翌日は暑すぎる。なぜ興味がわかないのか。天気の話をしているわけではない。でたらめに語って、少しは気が晴れただろうか。いつか雨が降る。雨が降ったら涼しくなるだろう。何かの勘違いだろうか。誰かがそこで見捨てられているのかもしれない。何かをゴミかごに向かって放り投げたようだ。鳥の話をしているわけではない。カラスが鳴いている。そして暗闇から何かが飛び出す。気持ちの中で何かを投げ出している。虚しさを逃れようとして、画期的なやり方を見つけようとしているのだろうか。見つかるはずがない。何も見つけようとしていないのではないか。相変わらず心は虚無に覆われている。心などどこにもないと思いたい。すでにそんな風に思っているのではないか。テレビが邪魔なのだろうか。どこに向き合うこともできない。問題は何もない。隠しようのない空虚だ。それは問題ではない。そこから問題が始まるのではないか。曖昧なことを述べているつもりになっている。でたらめに違いない。ニュースなど何もありはしない。それらはすべて旧聞だ。君は過去にしか興味がないのだろうか。なぜ未来を先取りして語らないのか。できないことをできるように語るのはおかしいか。無責任だ。世の中の制度に押しつぶされた者は過労死してしまうらしい。誰かは無理なことをやらされて疲れているようだ。君には関係のないことのように思える。力量を過小評価されている。まだそんな幻想を抱いているのか。何をやっているわけでもない。それも嘘の一部を担っている。わけがわからない。ますますわけがわからない。もうどうにでもなってしまえばいいと思う。もともと君に課せられた仕事ではないのだろう。負担が重くのしかかっているのはどこでも一緒だ。だがなす術がないとはいえないだろう。今こうしてつまらないことを述べている。君に課せられた重荷ではない。息が荒いようだ。膝の痛みが再発している。どこで何をやっているわけでもない。何もやらずに何をやっているのか。さっきまで誰かが眠っていたらしい。寝汗をかいているようだが、体調が優れないのではないか。何を思っているとも思えない。ではもうあきらめてしまったのか。あきらめるのはまだ早いか。空気は熱伝導率が悪いのか。そういう話ではない。隠された何かを探しているとも思えない。すべての中に何かがある。当たり前のことを尋ねないでほしいか。カラスがゴミをあさるようにくだらぬ何かを探しまわる。見えているそれは仮の姿をまとう。何も見えてこないのは相変わらずだ。闇の中で何を思うだろう。あくびが出る。それが君の限界か。そこから先に何があるのか。相変わらず蒸し暑い。見えない何かに導かれているとは思えない。暗中模索の日々を装う。とても微妙な何かが誰かの前進を妨げる。それだけのことだろう。どれだけ苦労していると思っているのか。映像がひっきりなし移り変わる。神経質になっている。心は空疎な何かを求めているらしい。道がそこで途切れているわけだ。何ともやりようがない。努力すべきではないのだろう。一人で重荷を背負い込んでどうするのか。ただわけがわからない。わからないことを述べているようだが、どこに逃げ道が用意されているのか。避難すべき場所が見当たらない。理解できるわけがない。それでもなんとかそこまでやってきて、途方に暮れる暇もなく、さらに言葉を連ねようとしている。無駄だろう。ひたすら無駄なことを述べている。そこまでやる必要があるのか。必要がないからそんなことを述べている。ため息が出る。ただ走り続けているだけか。それでもまだ先があるらしく、その先を見極めようとしている。やるだけ無駄だろうか。無駄でなければどんな報いを受けるのか。どんな結果を予測したいのか。すでに結果は出ているのではないか。君は負けている。負けているだけだ。あらゆる事物に負けている。そう思い込みたいだけだ。本当のところはわからない。仮に負けていてもわからない。勝負を挑んでいるとは思わない。常に外れている。どこまでも外れていて、ひっきりなしに逸脱している。そう思いたいだけだろう。そう思っているうちは何にも巡り会えない。かたくなにそれを続けようとしているだけか。そして虚しさに負けているのだろうか。
5月21日
たぶんそうではないのだろう。何も考えられないのに言葉を並べようとするが、やはり無理のようだ。語る理由を見つけられず、また昨日の時間帯から抜け出られなくなってしまったようで、放っておけばさらに遅れてしまうだろう。何をそんなに苦しんでいるのか。何も思いつかないのだから苦しむより他ない。それで笑っていられるのだからかなり精神的に参っているのではないか。何か負い目を感じるような状況になりつつある。もっとまともなことを述べなければならない。君はどこへ向かって追いつめられているのだろうか。たぶん心の赴く先には空疎な言説が横たわっているはずだ。それで何かを述べているつもりにならなければならず、さらに負い目を感じるはめになる。そんなのは嘘だろう。冗談に違いない。今はそれも無理なのか。冗談であることが信じられず、何かに逃げようとしている姿勢から自己嫌悪が生じてくる。負い目を感じた後は自己嫌悪か。それが冗談だとはいわせないか。冗談でなければ無視していればいい。外は静かだ。静かすぎて怖くなる。そんな状況のまま夢から覚めたらどうなるのか。意味がわからないが、現実の世界では、鳥のさえずりと虫の鳴き声の他には何も聞こえてこない。また雨が近づいているのだろう。だいぶ蒸し暑いか。窓から吹き込んだ風を感じて目が覚める。夢の中ではそういうことだ。さらに意味不明か。何となく理解してしまえばそういうことだ。たぶん誰かが強引に他の音を消しているのだろう。こじつけも甚だしい。話になっていない。それでも誰かが語る作り話の中ではそういうことになっている。それは夢の中で語られていた内容なのか。何の話でもない。それに関して君は何も語らない。その場での沈黙が何を語らせるとも思えない。実際に誰かはさっきから何も語ろうとしない。誰かと君は同一人物の可能性がある。だから同じことを二度述べていけないわけではない。そんなわけで何も語る気がしないという表明は聞き飽きたか。どんなわけか理解できないふりをしているだけだ。それがどうかしたのだろうか。取り立てて何について語るつもりもなく、どのように語ることもできないことがそんなにおかしいか。ただ笑っている。心の中では笑っているつもりなのだ。誰が笑っているわけでもない。いつものようにそうではないと思いたいが、今度ばかりはお手上げ状態か。苦し紛れとはそういうことなのか。強引に語りたい話題に持っていこうとするが、言葉がそれを拒絶する。自ずから外れ、意味を担おうとせず、その辺に散らばり続け、それを記そうとする意識から逃げ出してしまう。何がどうなってそうなってしまったのか。当てが完全に外れている。本来なら今頃は何もせずにテレビでも見ている時間帯のはずだった。実際の時間帯では何を考えているのか。何も考えられずに途方に暮れているふうを装うでもなく、理性ではできないことがわかっているのに、なぜそんなことを考えてしまうのか謎だ。そんなこととはどんなことなのか。何をそこで開き直っているのだろう。まだ問いに答えていない。結局自らが何を考えているのかわかず、苦し紛れにひたすら関係のないことを語り続け、語りたいことを語ろうとしない。その辺に矛盾があるらしいが、それを改めることができずにいる。感情がそうさせているのだろうか。焦れば焦るほど言説が違った方向へ逸れていってしまうらしい。現状では何について語っているのでもなく、語り方について語っているだけか。そんな風に語っていること自体、とても正気とは思えないが、コーヒーでも飲めば正気に戻るだろうか。コーヒーを飲むか否かに関わらず、今も昔も正気だろう。正気だからこそ語ることができないのではないか。語ることが何もないのに語れるはずがない。それでも語ろうとしているらしいが、誰かはそれが間違っていると思っている。では語らなければいいのか。正しい行いを拒絶し続けているのはどこの誰なのか。君でなれば誰かは誰なのか。それがどうしたのだろうか。この世の何が問題なのか。何について語ろうとしているわけではなく、それがそこで顕在化している問題のひとつなのだろう。他の問題に関心がいかない。この世界に飢えた人が大勢いるらしい。投機的なマネーゲームによって貧富の格差が拡大し続けている。それがどうしたのだろう。その一方で平穏に暮らしている人も大勢いるはずか。そういう人の方が多いのではないか。彼らは何を見て見ぬ振りをしているのか。何も見ていないわけではなく、たとえニュースで悲惨な光景を見ていても何もできないのだ。実際に何をやる必要もない。そのせいぜいが地球に優しい生活をしていればいいわけだ。そう述べて彼らの何を馬鹿にしているわけでもないが、ごまかしがきかないようだ。何もごまかしようのない状況の中で暮らしている。合法的であろうと違法であろうと、それがそこでのすべての言葉なのだ。他に何があるとも思えず、ただ無駄に言葉を連ねて、何か述べているような気になっている。それ以上に何を望めばいいのか。何を望めるような状況でもなく、絶望するほど精神的に追いつめられているわけではないが、ひたすらなんでもないことを述べていることだけは確からしい。
5月20日
何もかもが普通ではない。また何かの冗談だろうか。ただそんなことを思いついただけのようだ。他に何を思いついたわけでもないらしい。ではなぜそれについて語ろうとしないのか。何となくそういう言葉の並びなのだから、その場ではそういうことを語っているのだろう。相変わらずの空疎そのものだ。君はそこで何を望んでいるのか。人間とは何か。ただの言葉だ。どこかで何かが立ちふさがっている。語ろうとするのを邪魔しているわけか。そうだとしたら何なのか。面倒ならそのまま受け流していればいい。それが洗練された対応となるだろうか。何がなんだかわからないか。何がそこで語られているわけでもない。君はいつもの無視を決め込んでいる。徐々にその場の雰囲気に慣れてきたのだろう。それはそれでそういうことでしかない。それが当たり前のように感じられてしまうわけだ。そんなことはあり得ないと思いたいが、それが妄想の一部を形成しているとしたらどうだろうか。いったい君は何を思い描いているのか。それらの小説を読んでおもしろいと思うだろうか。たぶん読む気がしないだろう。外は晴れているようだ。仕事の最中に何を空想しているのか。それは別の時間帯での精神作用となる。何に夢中になっているとも思えず、何を望んでいるわけでもない。この世界がどうなっても仕方のないことだ。映画の中では何度も破滅的な出来事が起こっている。そうしないと人々の関心を引きつけることができないからだ。大地震でも起こればマスコミが浮き足立つだろうか。人が大勢死傷したらどうなってしまうのか。現実に起こっていることに照らし合わせればそんなことだ。至って平穏な日々の中で、誰かがそんなことを空想している。では君たちは何を実現しなければならないのか。老人にも貧乏人にも病人にも生きる権利があるらしい。たぶんその辺から国家の存在意義が生まれてくるようだ。裕福で健常な人々だけ生き残るわけにはいかないのだろう。国家の中で生きる権利がないのは死刑囚だけか。そんな国家は滅び去った方がマシか。そうなったら人々はどうなってしまうのか。そうなってみなければわからないから、そうなるように努力すべきなのか。たぶん国家はそこに暮らすすべての人々を、裕福で健常であるようにしようとしているのだろう。それは不可能な理念だろうか。しかし実質的には大部分の人が、老人か貧乏人か病人か、そのどれかに含まれているのではないか。国家はそう思い込ませないように努力すべきなのだろうか。しかしそのためにはどんなごまかしを用意すべきなのか。要するに働かせればいいのだ。死ぬまでせわしなく働いてもらえばそんなことを考えているいとまを与えずに済むだろうか。そんなわけで労働者は働いて結婚して子育てして家をローンで買って、そんなことに追われているうちに、気がつけば余命幾ばくもない老人になってしまえば、国家に対して不平不満を叫ぶ余裕もなくなってしまうだろうか。しかしそれではありふれた現状を否定的に述べているだけではないか。たぶん多くの人々はそういう営みを肯定的に感じられるように生きてゆかねばならないのだろう。何となくそんなこと考えているうちに虚しさがこみ上げてこないか。馬鹿げているのではないだろうか。そこからどうやって肯定的な意味や意義を導きだそうと、そんなのはごまかしに過ぎないだろうか。たとえごまかしであったとしてもそれを肯定すべきなのか。そこにどんな思い込みを設けたいのか。その思い込みによって現実を肯定的に捉えられるようになれるだろうか。国家主義者が考える国家像自体が馬鹿らしい。すべては幸福を実現するための幻想だ。たぶんその幸福を実現するための試み自体が不幸や破滅の原因を含んでいる。要するに否定的な言葉を操っているうちは楽しい気分になれるのであって、それは冗談のたぐいに違いない。たぶんそこで正気を保つためには生きる目的を設定すべきで、その目的に向かって行動しなければならず、そういう単純な思考が君を馬鹿げた妄想に導くのだろう。本当はそうではない。ただ何も考えずにうごめいているだけで、世の中を目的もなくさまよっているに過ぎない。その日その時に思ったことをおもしろおかしく述べようとしている。それでどんな思想に達するわけでもなく、それは単なる厭世観だろう。本当は国家などどうでもいいわけだ。犯罪に手を染めず、ちゃんと税金を払っていれば、国家の方でも文句はないはずか。後は何を考えていようと、どんな過激な発言をしようと、マスコミが取り上げて騒ぎにならない範囲内なら、自由にやってもらって結構なのだろう。そこから国家が破綻を来す原因は生まれないか。ならば反国家主義者を自任している誰かにはどんな戦略が必要なのか。ただ冗談でそんなことを述べているだけでは人畜無害だ。たぶんそれも誇大妄想のたぐいに違いない。いったい君は何を述べているのか。誰にふさわしい言説だとも思えない。そんなフィクションを語る資格など誰にもありはせず、自由は何の資格も必要としない行為を必要としているのかもしれないが、それで何がどうなるわけでもないのが唯一致命的な欠陥だろうか。ただ矛盾したことを語ろうとしている。
5月19日
まだその先を見据えられるだろうか。その先とはどの先なのか。歴史の教訓に足を取られているわけではない。躓きの原因は他にあるようだ。たぶんその時の判断が間違うような巡り合わせらしい。言葉が適当に組み合わさって、誰かの過ちを形作る。それで何を述べているわけでもない。君には何もできない。過去の経験から学んでも、どのような結果が出るかはその時の運だ。君の思い通りになるはずがない。そんな思い込みからどんな認識に至れるのか。それでもなんとかしようとしているのだから、まったくご苦労なことだ。響いてくるのは無機質な音だけか。それが何を暗示しているわけでもないか。気に入らないことは他にもありそうだが、今そこで気に入らないこととは何なのか。たぶんなるようにしかならないような気がしているのだろう。たとえそれが思い違いであろうとなかろうと、そこから前向きな回答を導きだすのは不可能だ。何を語ってもそれ以上の見解を求めることはできない。この世界はいったいどうなってしまったのか。君の感じ方が変わってしまっただけなのか。何に対しても怒りがわいてこない。どんなに理不尽な行いが顕在化しようと、そこにはそれなりの必然があるように思われてしまう。しかしそれを許してしまってかまわないのだろうか。許せなかったら怒るべきなのか。何とも思わない。すべては君には関係のないことだ。なぜそこで思いとどまってしまうのか。内面から吹き出そうとするどんな否定的な感情も、吹き出す寸前で押さえ込もうとする。理由が欲しいか。何のことはない、我慢の限界に達していないだけなのではないか。気に入らないなら気に入らないと表明できないのか。いったい君は何を相手に語ろうとしているのか。空は曇り風もやみ、雨はとっくにあがっている。別にそんな天候が気に入らないわけではないだろう。もう夜だ。君はこの世界がどうなってほしいと思っているのか。どうにもならない。はじめからあきらめているのだろうか。君に何ができるだろう。君以外にも何もできない者が存在するらしい。それがどうしたわけでもない。誰もが何かをやろうとして、絶えず思い通りになるようにしようとしているのではないか。それがどうかしたのか。何がどうしたわけでもなく、何もかもがどうかしているのだろう。その結果がその時点での状況を形成している。君にはなじめない状況だ。だからなんとかしようとしているわけか。なんとかしようとしてどうなるわけでもないと思っている。やはりはじめからあきらめているようだ。少し前の時点ではあきらめきれないのに、次第にあきらめかけてきて、その時点ではあきらめている。要するに挫折しているわけだ。言葉を記すのが嫌になってしまったようだ。いくらでもそう思い込みたい。終わりにしたいのだろう。そして何かについて語りたい。空疎な内容はもうたくさんか。この世界が真っ暗闇に包まれる前にどんな言葉を発したいのか。それは冗談のたぐいだろうか。何を真に受けることもできない。言葉そのものが空疎な響きを内包していて、虚しさとともに空白に記される宿命なのだ。何がそれを促しているわけでもなく、自然と中身が抜け落ちてしまうのだろう。残った文章は事物の抜け殻として存在しようとしているわけだ。それが存在の不可能性をまといつつ、それでも文字を並べるように何かが誰かに命じているのだろう。君はそこで何かの罠にはまっているのだろうか。そんな生易しい状況ではなく、他の意識が君に関係することをためらっているのであり、その煮ても焼いても食えないようなものをなかったことにしたいのだろう。そんなものははじめから存在しなかったこととして、それを抜きにしてその先を語りたいのだ。だがそれで何がわかるというのか。わかっているふうを装っているのだろうが、それでわかっていることにはならない。だがわからないとも思えない。そこに何かがあるとしたら、それは事物の影だ。影が本体について語ろうとしているのだろうが、どんな説明を要するのか。実体を言葉で表現できるだろうか。何について述べているのでもないような感覚に陥っていないか。すでに誰かの術中にはまり込んでいるのではないか。冗談ですべての疑念を解消できるとは思わない。怠惰な心はどこまでも怠惰であろうとする。もうその辺でやめもらいたいわけだ。いい加減におしまいにしてもらいたいのだろう。結局自らができないことをやろうとしていることに気づき、そこから退く機会をうかがっている誰かに追従しようとする。いったい君は何について語っていたのか。君の他に誰がいるというのだろう。何も考えられない。考えようとすると頭が痛くなり、自分自身で自分の邪魔をしているわけだ。それが無意識に危険を察知している証拠となるだろうか。音がやけに大きくないか。うるさいくらいに響き渡る。そこは空洞なのだろうか。心を虚無に食い荒らされて、くだらぬ妄想も抱けなくなる。それ自体が妄想なのだ。確かに虚無はくだらぬ妄想だ。その時点ではそうなのだろう。ではそんな思い込みがいつ変化するのか。未知の時において何を悔い改めることとなるのだろうか。虚無に問いかけてみなければわからないことなどあるはずがないか。そう思い込んでいればいい。
5月18日
虚構の中で君はどこまでもとりとめのないことを思い描いている。そしてそこで発せられたすべての言葉には限界があるらしい。言葉も心も無限ではない。想像力には限りがあり、物語に取り込まれてしまうような何かを持っている。際限がないのは虚無だけか。当時の天皇は何を統治していたのだろうか。今は飛鳥時代ではなく、君は一神教の支持者ではない。しかし一神教と飛鳥時代との間にどんな関係があるというのか。テレビを見ながら何を思いついたか知らないが、述べていることは相変わらずのでたらめで、真剣になって何を述べているわけでもないようだが、ならばさっきまでは、冗談では済まないようなことを述べているつもりだったのか。壁紙の表面を黒い犬が走り去る。閉じたシステムの中で何を示そうとしても、すべては空想の産物なのだろう。作り話の中にいる登場人物たちは、物語の外部との交流が必要だとは思わない。たぶんどこかで不具合が生じているのだろう。現実と妄想の狭間で苦悶しているのは架空の意識だ。現実の中で何かをつかみ取る前に、それを示す言葉だけが先行しているわけで、毎度のことで腹が立つ以前に笑ってしまうが、気がつけば久しぶりに影が何かを語ろうとしている。また冗談でそんなことを述べているのだろう。それらの映像を見逃してしまってかまわないのだろうか。たぶんそうではなく、その場に生じた偶然の巡り合わせで、何かを優先させる機会が到来してしまったらしい。どれほど本気になろうと、すべては作り話の範囲内で生じている言葉の連なりだろうが、そこに構成される架空の意識が、どんな話を思いついたわけではなく、テレビドラマなどで語られるありふれた話を見聞したいわけでもなく、ただ言葉を並べてつまらないことを述べているつもりになるが、それで何がわかるわけもなく、まだ何も述べていないことに気づくが、そこに生じているわかったようなわからないような説明もどきが馬鹿げているのだろうか。影はそれ以外に何を語るつもりもないらしく、何かを述べる代わりにひたすら言葉を並べているようだが、それで何を記していることになるのか。それらの言葉をいくら読んでも、何の幻想も抱けない。たぶん架空の誰かは言葉を記しながら夢物語でも見ているのだろう。意味不明である以前に述べていることが矛盾しているようだ。何のためにそれらの文章があるとも思えず、何も思いつかないうちに明日になってしまったようだ。意識が今日という時間帯から遠ざかる。語るべきことがまだ何もないのに、取り返しのつかないような言葉の連なりが生じていて、画面上で誰かが頭を抱えている画像が表示されているようだが、ついに君は何も語れなくなってしまったのか。そうだとしたらどうなのか。やめられるのだろうか。やめたら幸せになれる。そんな思い込みに誘われて挫折感を呼び寄せられるだろうか。他に何かやりたいことでもあるのか。ならばやりたいことをやればいい。過去の意識を言葉で拘束する気はない。そのつもりがあってもできないだろう。そう述べて誰を突き放そうとしているのでもなく、過去を蒸し返して、非難の的となるようなエピソードを探り当てるつもりもなく、それを話題になりそうな話とすり替えようとしているのでもない。彼岸で何かが君を待っている。それは誰かの死か生か、はたまた嵐の予感でもしているのか。文章的につながらない。だが他に何がやってくるとも思えない。さっきから同じようなことを延々と述べているようで、それを読み飛ばしている誰かは、飽きを通り越して呆れているようだが、たぶんそこには誰かの不満が渦巻いているのだろう。本来の君が語ろうとしているのはそんなことではない。本来がなければこの世界には何もない。あるのは誰かの作り話だけか。ありふれたことを語ろうとしても失敗してしまう。天気予報的には本当に嵐が近づいているようで、それは翌日のことだろう。そう述べて別に何をおちょくっているわけでもないが、何となくこの世界を馬鹿にしたくなってくる。そんなわけで物語は閉じたシステムだ。そこに目的があるからいけないのだろう。登場人物が目的に向かってしまうことが、話をつまらなくしているのだ。目的は仮のものでなければならず、本気でそれを達成しようとしてはいけないのであり、どこまでも目的から外れて、そこから遠ざかるように行動しなければならない。だから意味不明な話にならなければならない。わかりやすく語ろうとすると、それが目的となってしまい、この世界の無限性を示せなくなる。現実から遠ざかる代わりに真実から遠ざかってしまい、そこで語りが限定され、いったん有限の範囲が確定されてしまったら、そこで終わりなのだ。愚かな人々に理解されたら後は用がない。謎は終始なぞのままでないと興味を失ってしまう。だから話の始まりから終わりまで目的はわからないままであるべきだ。だがそんな冗談が君に通用するだろうか。それで何か不都合なことでもあるのか。そこで誰が愚か者に近づいているのだろうか。何を語ろうとしているのでもなく、語ろうとする意志を打ち砕き続けている。中途半端に説明しすぎているのであり、それが反省材料になることもない。
5月17日
どうやら今日も今日の時間内にいるらしい。今のところはそうだ。今日はどうなるかわからない。昨日は危ういところで明日になってしまうところだった。それがどうかしたのか。相変わらずいい加減なことを述べている現状は変わらない。偉そうに何を述べているわけでもない。ここから先に何があるのだろう。抱え込んでいるのはどんなイメージでもない。音程が外れている。誰が歌っているとも思えない。まとまりがない。切羽詰まらないとまとまらないようだ。死に行く者に対して配慮が欠けている。不吉なイメージなのだろうか。誰かが森の中へ入っていく。今は夜だ。今のところはそうだ。何かの言葉が繰り返されているらしい。呪文のたぐいか。行く当てがない。未だに言葉は誰かの存在を示せない。誰もいないのだから示せなくて当たり前か。言葉が君の出現を妨げている。そんなのは嘘だろう。虚無はどこでもはびこっているはずだ。君の意志とは関係なく、そこに出現している。君に何ができるというのか。何をそんなに恐れているのか。何を恐れることがあるだろう。今日という時間から追い立てられて、明日にたどり着くはずが、それは昨日の時間帯だったかもしれず、そこで何を気にしているわけでもなかったことを思い出す。ならばもうあきらめがついたのか。できないことをやろうとしても無駄であることはわかっているはずだ。無駄であろうとなかろうと、語りかけの話は最後まで語らなければ気が済まない。人は自らが行っていることを知ろうとしない。それがどんな行為であるか定義できずにいる。そこで何を挑発しているのか。その辺の暗がりに何が隠れているというのか。時間切れかもしれないが、まだ何も終わっていないはずだ。君は何かに別れを告げている。何もできずにお手上げ状態なのに、そこから言葉を連ねようとしている。何も必死になる必要はない。自然体という状態を知りたくないか。安らぎとは何だろう。今さら何を奏でようとしているのか。残骸と残骸がこすれ合って雑音が響いている。もっと簡単なことを述べてみないか。暗がりで何かがうごめいている。殺虫剤を吹きかけたハエの羽音がやんでいる。寝言のたぐいか。言葉が状況に当てはまらない。何を語ってもそれは違うと思われる。この世はつまらないことばかりのようだ。空疎な文章の構築を極めるべきなのだろうか。すでに極まっているのではないか。まだどん欲さが足りないようで、うらぶれた姿の中に何があるとも思えないのは、想像力が足りない証拠になるだろうか。感極まって泣き出すような場面でもないだろう。さらに意味不明になり、まともなことを述べようとする気がないらしい。そこでは何もかもが足りないのだろう。急に口数が減ってゆき、黙り込んでいる。最初から無口だったのではないか。何がそうさせているとも思えない。どこまでも遠ざかっているわけでもなさそうだ。虚無に覆われながらも言葉を模索している。新たな連なりが欲しいのか。何を改めるべきでもないらしい。少しはまともに語らなければならず、何について語っているわけでもないが、何となく眠気をこらえて語りだしている。時間的にはどうなのだろう。今の時間帯に見せびらかすものなど何もありはしない。断言できるのはそんなことか。何か拍子抜けのような気がしてくる。不意にウサギの影が画面を横切る。通り過ぎているのはそんな場面ではない。その道はどこへ向かって延びているのか。道を辿ってどこへ行き着こうとしているのか。故郷はここにある。作り話の中に空疎な意見が眠っている。断言すべきことではない。何ももたらせないことを誇ってみせるのも見苦しい。わらをもつかむ思いでつかんでいるつもりのものは虚無ではない。言葉の感触がそれを構成しているわけだ。だからまだその先があるらしく、その先に言葉を連ねてゆかなければ、仮の答えに行き着かないのではないか。本当の答えなど提示するには及ばない。どこに何かのかけらを探しているわけでもないはずで、断片ならいくらでも転がっているはずだ。歩いている地面の感触は石ころまじりの何なのか。砂利道のたぐいか。実際に見えているのだから、わざとらしく盲目を装う必要はない。君がたどり着いたのは夜の時間帯なのか。それだけで何を説明できるだろう。今さら説明するまでもなく、そんなことを述べていること自体が何かの説明に結びついているはずで、そこで述べられていることがそこでのすべてなのだ。君はそこで力尽きているようだが、死んでいるわけではない。かろうじて息がありそうだ。なんとかしなければならないと思い続けている限り死ぬことはない。君の先には架空の君がいて、そこで意味不明気味に言葉が発せられ、そんな言葉を打ち消すような言葉の連なりが模索されている。やはりそれでもなんとかしなければならないのだろうか。あくびの連発であきらめかけている。心の隙間に何が入り込むこともないだろうが、言葉と言葉の間には別の言葉が差し挟まれ、誰かの思いとは違う思いをねつ造して、勝手に連なっている言葉をひとつひとつ吟味することもなく、ただの羅列だと思いつつも、それが取り返しのつかぬ過ちを招いていることを知っているつもりなのだ。
5月16日
時間はいつまでたっても夜だ。昼はどこへ行ってしまったのか。昼は仕事をする時間だったのではないか。ただ疲れている。たぶん何かをやっていたのだろう。何もやらないで疲れるはずもない。今はまだ今日だろうか。今日でなければ今ではないのか。今は今に違いない。もうすぐ昨日になってしまうかもしれないが、今のところは今日なのだろう。そんなことはどうでもいいことか。何を肯定したいわけでもない。何を知っているのでもなさそうだ。何も知り得ないわけでもないだろう。時間の後に時間がある。時間しかなく、結果的に時間がない。急いでいるのだろうか。時間が場所の中に折り畳まれている。何を不毛なことを述べているのか。ただわけがわからない。冗談でそんなことを述べているらしい。いくらでも今日という時が訪れる。それが今日なのだから仕方がない。何か他に伝えることはないのだろうか。何がわからないのか。わかっていることを知りたいとは思わないのか。わかっていることとは何だろう。その物体は何なのか。言葉ではない。伝えたいことが見当たらず、途方に暮れているわけでもないが、何となくそんなことを述べている。背に腹は代えられない。たとえが間違っているのではないか。この世界はこわれものだ。災害によって壊れ続ける。地上は仮の構築物で覆われている。海がすべてを包み込もうとする。空へ逃れたところで満たされることはない。鳥は何に向かって羽ばたこうとしているのか。空疎な未来を受け入れられるだろうか。何か捧げものでも準備されているわけか。誰の怒りを鎮めようとしているのでもない。たぶんとりとめのない現象なのだろう。そこで絶えず可能性が模索されている。無理に生き残ろうとは思えない。本気になれないとはそういうことか。死にものぐるいで生きているわけではないということだ。だから簡単に自殺してしまうのだろう。嵐や地震に遭って九死に一生を得た人なら、わざわざ自殺などしないか。その辺にご都合主義が潜んでいる。放っておいても生きている者は自ら死ぬ権利を有している気になり、かろうじて生かされている者には自殺する余裕などない。自殺は贅沢病のたぐいか。死にたくなってみればわかることか。わからなくなっても自殺するのではないか。自殺する者の心に余裕があるとは感じられない。生きる術を見失っているわけか。君は生きているのか死んでいるのかわからない。行方知れずというわけでもないだろう。誰かは死ぬ気も生きる気もない。ただ生きているのだ。状況としてはそうなのだろう。そうならざるを得ないようなことを述べている。どうならざるを得ないのか。どうにもなっていないような気になる。今のところはそうなのかもしれないが、どうにかなってしまうとはどういうことなのか。突然誰かが幸せになってしまったりするわけか。そうなる必然性を感じられず、普通なら誰もが利己的に生き残ろうとすべきなのだろうが、それが思い違いか幻想のように思われてしまうとき、何をどうしたいのかわからなくなってしまうのかもしれず、自らの資産や子供を増殖させたい者たちにとって、そうした行為に及ぶ理由や根拠など改めて設定する必要もないのだろう。馬鹿げた行為なのだろうか。虚無に魅入られていると思っている誰かよりは健全な精神状態なのかもしれない。だが何を基準に健全か病的なのか判断できるのか。それは世間一般の価値観に沿っているかどうかで決まることだろう。とりあえずはそういうことにしておかないとまともな精神状態とは見なされないか。病的な狂気に脅かされている者なら、何となく実感がわいてくるのかも知れないが、その辺は君にはわからないことだ。何事にも本気にはなれない。この世の有り様が信じられない。現実の世界で起こっていることが絵空事のように感じられ、真実が反映されていないように思われてきて、見聞しているすべてはフィクションの中で恣意的な操作を施されているかのように感じられてしまう。頭に侵入してくる情報自体が馬鹿げているのだろうか。疑心暗鬼も限度を超えると心身症を誘発させるのかもしれない。他の誰もついて来れないようなことは述べていないはずか。何よりも具体的な出来事が記されていないようで、すべてはいつまでたっても謎のままでかまわないのか。それでは誰に何を伝えたいのかわかりかねる。彼は君に何を期待しているとも思えず、誰かが何を記していようと、それは君のことではない。その辺で現実感が希薄になり、心が何にはまっているのでもないように思えてきて、そこから先は惰性でいい加減なことを述べているように思われてくるのかもしれず、ひたすら遠回しに拒絶の態度を取り続け、受け入れ難い現実に対して、言葉によってどんな装飾を施す気にもなれず、何が受け入れ難いのかも示そうとせずに、ひたすら意味不明を装うつもりらしいが、それで何が解決するとも思えず、何かの答えが導きだされるのを先延ばしにしつつ、そんな答えがあり得ような成り行きを求め、結果として何をしようとしているのかもわからずに、ただ言葉を連ねている現状に嫌気がさし、徐々にやる気を失い。そういう展開を望んでいた自らにふと気づいたりするのだろうか。予定調和も甚だしいか。
5月15日
気がつけばまた夜になっている。今から何を考えようというのか。一息ついている場合ではない。限られた時間の中で何をやろうと君の自由のはずだ。何かが邪魔をしているようで、なかなか前へ進まない。どこで何を語らせようというのでもないだろう。もはや君などどこにも存在しない。真実に目覚めてしまったのか。現実とは何だろう。述べていることがわからないのが現実か。何かのアレルギーかもしれない。まるで感覚がばらばらだ。冗談でしか現実に対処できていない。それは虚構の中での実態か。わざと矛盾させなくとも無理なのはわかっている。できるはずのないことをやろうとしているのだから、途中で挫折して当然だろう。わかりづらい言葉の並びにお手上げ状態だ。まさか文字アレルギーになってしまったのか。数週間ぶりにコーヒーを飲んだような気がする。体調を崩していたわけか。もう限界なのかもしれず、誰かはすぐに死んでしまうような成り行きらしい。アドリブが利かない。この期に及んで発せられるさらなる冗談とは何だろう。なぜ朝日が黄金色に輝いているのか。画面以外の何を眺めているとも思えないが、まったく脈絡を感じられない。文章として破綻しているような気がする。それでもなんとか継続をはかっているつもりなのだろうか。いつものことだが理由がわからない。同じような曲を聴いている。知っている人しか知らない音楽か。つまらないとは思わないのか。文と文の間に君の知らない言葉が埋もれているのだろう。それを知ろうとしてどうするのか。どうにもならないから知ろうとしているようだ。近頃は近眼が悪化しているのかもしれず、画面から少し離れると文字が判別できない。どこかに違和感を覚えるが、意味不明なのは当たり前のことだ。なぜ唐突にそんな風に述べてしまうのか。わざと違和感のある文章を構成しているつもりか。昔の君は何を目指していたのだろう。何か世間から脚光を浴びるような努力をしていたとは思えない。そうだとしたらまた文章の始まりに戻らなければならない。何がそうなのかわからないが、昔からそうであったためしがなかったように思える。今となってはどうでもいいことだ。そう断言できるだけ過去から遠くはなれてしまったのだろう。どこかの国のタクシー運転手がつぶやいていた。どうせ俺たちは負け犬だ。映画の中での台詞だろう。何に負けていたのか。成功を夢見る心に負けていたのだろうか。だがそんな答えはありふれている。演劇的な成り行きには興味がわいてこない。決して理解されてはならない。それが言葉を記す上での掟のようなものか。なら理解されずに終わってもかまわないのだろうか。理解を拒みつつも読ませなければならない。冗談でそんなことを述べているに違いない。作り話の中ではすでに誰かは死に体だ。理由がわからないが、そういうことにしておきたいのだろう。常識とは相容れない感性が何かの完結を邪魔している。終わらせようとしないらしい。死んでいるのに言葉を記そうとしている。ゾンビか何かか。彼らはそこで何を語っているのだろう。わけがわからないとはいわせない。本当に意味不明でわけがわからないのに、それでもそんな認識を拒絶させる何かがあるらしい。現実に空疎なことを述べているのに、それでかまわないと思わせる何かがある。何を戸惑っているのだろう。音を操っているのではなく、言葉を操っているのでもない。映像はどこへ消えてしまったのか。動かない画像を眺めている。現実の何を濾し採っているのか。それらの文章に濾過機能が備わっているとは思えない。印象だけで言葉を並べ続ける。何を認めようとしているわけではなく、咀嚼物があるとも思えない。他の何を利用したいわけでもなく、ただ偶然だけが支配する言語空間を構築しようとして果たせずに終わろうとしている。それの何が無理なのだろうか。何が決まっているとも思えない。無理に決まっていると述べたかったらしいが、気乗りがしなかったのだろう。どうでもいいことだ。どうでもよければ旅にでも出てみるか。必然性を見出せないが、街から街へ旅する人もいるらしい。自然の風景が嫌いなのか。とってつけたような転調を狙っているようだが、たぶんそれは嘘だろう。常識から遠く隔たろうとして、そんな努力を認めるわけにはいかないような気分になる。いつも何かに邪魔されてしまうのだ。遠ざかろうとして、実際にはまったく遠ざかっていないことに気づく。そこで死んでしまうのだろうか。誰がそんなフィクションを構想しているわけではなく、誰かがいつか死んでしまうのだろう。それとは何の脈絡もなく、そんな話などあり得ない。やはり意味がわからないようだ。現実にはなし得ないことをフィクションの中でやり遂げたように装うのは虚しいことだ。例えば課長から社長まで出世を遂げた漫画の主人公に何の魅力があるというのか。そういう批判はあてにならない。君が述べているわけではなく、誰かがそんなことを思いついただけか。読んでもいない漫画について何を語ろうとしているのでもなく、何となく受け流してしまいそうな現実に対峙することもできず、何も読む気もないのに、無性に御託を並べたくなるような成り行きの中に、それらの意識をおくことをためらっているのかもしれない。
5月14日
どうも坊さんをいじめるとたたりがあるようだ。赤い衣の坊さんだとたたりも半端ではないらしい。チベットや東南アジアの坊さんは怖そうだ。相変わらず言葉に詰まって冗談の続きを述べているようだが、今さら慌てる必要はない。その気になればいくらでもやる時間はありそうだ。それは嘘かもしれないが、そんなことをいくら述べても時は確実に過ぎ去ってゆく。その気になっているのに水を差すことはないだろう。では何をそんなに慌てているのか。どこかで誰かが天啓でも受け取ったのではないか。ならば誰かは君に何を託そうとしているのか。たぶん託すべき言葉はどこにもないだろう。そこに何が見出されたわけでもない。説明を要するような現象は何もなく、そんな言説空間はどこにもありはせず、いつものように誰が何を語ろうとしているわけでもない。ただ雨が降り続いている。雨空を見上げながら何を思うこともなく、そんな動作が虚構であることに気づき、なんだか虚しい気分になっているのも作り話の中でのことか。誰がつまらない話を作っているのか。誰かが意味のない問いを発しているようだが、それが誰なのかあえて明らかにする必要はないか。そういう話ではないはずだ。雨もやんで今は夜だ。今までにどんな作り話が構成されたわけでもないが、今のところそれらの虚構に取り込まれているのは君以外にはいない。しかし登場人物が一人しかいないフィクションではつまらないだろう。誰もそれが話だとは思わない。もとから話など何もなかったのではないか。ではなぜここにやってきたのか。誰かはただ眠るのが目的で移動を繰り返しているのだろうか。君に何がわかるはずもなく、言葉を記している誰かにもわからないだろう。何も見えてこない。だがそれでうろたえるわけにもいかず、無駄に言葉を吐き出して、意識の中に埋もれた何かの断片を探し出さなければならない。唐突に何か思いつくだろうか。思いつかなければ現状維持か。とにかく人々は今ある制度を維持したいのであって、中には制度の改革を主張する者もいるが、それは制度の範囲内での改革なのであって、制度をぶちこわしてまったく新しい制度を作るための改革ではない。何よりもまずは自分の立場を保ちたいのであって、改革の結果として自らの地位が危うくなるような事態は避けたい。しかしそれで何が変わるというのか。いったい何を変えなければならないのだろうか。ただ世間から注目を浴びたくて改革を唱えているとしか思えない。それが誰かの宿命なのだろう。そういう話は適当なニュースでも見ればいくらでも見受けられることか。ありふれた話題は嫌いなのか。そこから遠ざからなければ何も語れなくなってしまうだろう。そうなる根拠がどこにあるというのか。何か考えさせるような出来事に遭遇したいのか。すでに出会っているが、忘れているのではないか。誰かはゲームの中にいるらしい。そこで何をやればいいのだろう。言うは易しで行うは難しか。その辺に乗り越え不可能な限界があることはわかっているが、それ以上に何を語ろうとしているのでもなさそうだ。ただそういうことなのだろうか。そのとき何を語っていたの覚えていない。君に何ができるだろうか。ただあきらめず、辛抱強く言葉を探ってゆくこと以外にあり得ない。そんなわけで結果はすでに出ている。やっていることは単純なことであり、やれることは限られている。そして同じような何かについてひたすら語ろうとしている。それがそこから導きだされた答えであり、ありふれたつまらない現実について語っている現状があるらしい。何も魅力を感じないような何かが意識を覆っているわけだ。君はそれを許せるはずもないか。遠ざかろうとして遠ざかれないのがこの世界の現状だ。しかしなぜこの世界についての説明が不足してしまうのか。言葉足らずになってしまうわけを知りたいが、それは状況を把握していない証拠にでもなるのだろうか。何をどう考えてもすっきりしないようだが、それでも思考の欠陥に気づくことはない。そこで行き詰まってしまう。迷っているのかもしれないが、血迷っているわけではない。それが思い違いのすべてなのか。言葉の断片以外は何も見当たらない。誰かの作り話の中では確かにそうだが、現実の世界ではどうなのだろう。視覚が何を感知することはなく、思考がどこに行き着くこともない。何を語ればいいのか。今さらそれはないだろうが、何も思いつかないのだから仕方がないだろう。ではもう終わりか。見当違いも甚だしい。すでに終わっているのに、この期に及んで何を終わらせることができようか。君は文章の終わりを知らない。君の人生はどうなってしまったのだろう。それらの作り話はいつ完成するのか。中断することはあっても完成することはない。いくら言葉を連ねても内容には至らない。いつまでたってもひたすら空疎なことを述べている。いったい君はこの世で何を守らなければならないのか。空疎なことを述べ続けるには何が必要なのか。ただ無駄に時間を費やし、言葉を浪費している。たぶんそれで悩んでいるのではない。書物から遠ざかり、まとまりのある文章を読む機会がない。そして言葉を記す動作が形骸化している。ネット上は言葉のゴミ捨て場か。
5月13日
今日は明日になってしまうのだろうか。何を心配しているわけではない。どこへたどり着いたのか。作り話の中ではどこでもないどこかだ。そんな話ではなかったはずだ。何を語っているわけでもない。何も語らなくても言葉がつながるはずだ。それがあり得ない話になるだろう。何を本気に受け取ってもらっても困るか。気持ちがそこから遠ざかれなくなる。無理なのだろう。何を語っても空疎だ。神は何を見ているのか。天変地異で罪のない人が大勢死んでいる。そして君は冗談でそんなことを述べている。何が神の仕業なのだろうか。嵐や地震がそうだと言えるわけか。神はミャンマーや中国が嫌いなのか。北朝鮮もそうだったのではないか。かつて餓死者が何百万人も出たらしい。今の君には関係のない話だろう。だが君が何を語ろうと君の勝手だ。君は神ではなく、誰も神ではない。神は人ではないのだから、とりあえずはそれで正解か。では冗談で何を述べているのか。君にまつわる話ではない。ならば神はどこへ行ってしまったのだろう。宇宙の彼方か。何がならばなのか。適当な言葉が思いつかない。神の仕業だとしても誰も神を責めているわけではない。ただ冗談でそんなことを述べている。君はいつもうろくしてしまったのか。文が前後で意味的につながらない。違うなら違うと述べてみればいい。何がそこで違っているのだろうか。そこではなく、違っているのはどこでもない。ならば違っていると述べる意味がないだろう。君はそこで行き詰まっている。そして何を述べようとしているのだろうか。どんなことでもなく、そんなことだ。それで何を述べているつもりになれるだろうか。わかっているのはそんなことではない。だが何もわからないと述べるのも白々しい。ならば知っていることをすべて話すわけにはいかないのか。わけがわからない。必然性がどこにあるというのか。それは何を語らなければならない必然性なのだろうか。問いかけてばかりでは何も語っていることにはならない。君には何を語る資格もなさそうだ。だから語らなければならないのだろう。矛盾した語り方が好きらしい。国家は官僚機構を守るためにある。人がいくら死のうと官僚機構が維持されればそれでいいのだ。それはこの国にもいえることで、とりあえず官僚機構を維持継続させるだけの財源が確保されていればいいのであって、そのためには道路工事のための税金を徴収しなければならない。いくらもっともらしい理由をつけたところで、所詮はそういうことだ。たぶん仕事というのは遊びと一緒なのだろう。何かやっているふうを装えばそれが仕事になり、限られた予算の中でどの仕事を優先させるべきなのかといえば、それは自分たちの仕事だ。そこから各省庁間での不毛な縄張り争いが始まるわけか。法律を作って強制的に税金を徴収して、それを使って何かやるという仕組みがおかしいのではないか。それでは資本主義国家とはいえないだろう。やはり官僚機構も独自に商売をすべきであって、商売して利潤をあげて、そこから自分たちの給料を出すべきなのだ。たぶん税金なしでやっていくとなると、今のままでは無理なことははっきりしているが、なんとか将来的にそういう方向へ持っていけないものか。だが行政サービスのことごとくを料金制にしてしまうと、金を払えない貧乏人はサービスを受けられずに国家から見捨てられてしまうだろう。それでかまわないのだろうか。ならばこの際給料を受け取る公務員数をゼロにして、国民がボランティアの奉仕活動のように一定期間公務員として働くことを義務としたらいいのではないか。むろん議員も奉仕活動の一環としてくじ引きか何かで選ばれた人がやったらいいだろう。しかし何を笑っているのか。正気とは思えないようなことを述べているような気もするが、ところで荒唐無稽であり得ないことかもしれないが、もしそうなった場合、道路工事の費用はどうやって捻出すべきなのか。とりあえず車で走った距離に応じて、道路使用料でも徴収すべきなのか。それなら走った距離だけ燃料を消費するのだから、ガソリンや軽油から税金を取るのと大して違わないのではないか。道路使用料を徴収した方が、将来電気自動車が主流になっても工事費用に困らないか。だがそんな風にして国家全体が資本主義一辺倒になってくると、そこに暮らす人々の心が荒んで嫌な世の中になりはしないか。しかし今の税金制度と資本主義は相容れない構造を有している。そういう曖昧な二重構造を温存させていると、資本主義の欠陥が見てこず、貧富の格差などの矛盾をうやむやにしつつ、いつまでたっても資本主義と国家の延命に手を貸しているだけで、それに変わるやり方が模索されないままになってしまうのではないか。とりあえず二十世紀には資本主義に代わる制度として一時脚光を浴びた国家社会主義が崩壊してしまったのだから、今度はとことん資本主義をきわめて、その矛盾や欠陥をあぶり出し、資本主義を崩壊させる意味でも、中途半端なことはやめて、一度国家全体が資本主義に染まるべきではないだろうか。しかしさっきから何を笑っているのか。誰かが冗談でそんなことを述べているのがそんなにおかしいか。
5月12日
たぶん手遅れになってからでないと気づかない。人間とはそういうものだ。それだけではない。手遅れになってからうろたえ、無駄な悪あがきを繰り返し、往生際の悪さと醜態をさらけ出す。平静を保つことなどできはせず、冷や汗を隠しながら冷静なふりをしているが、その目つきはうつろだ。君に課せられた試練はどこでどうなったのか。どんな危機を切り抜けてそこへたどり着いたのか。これから何をどうしようとしているのか。ただ何も思いつかず、何も語ろうとしない。たまにはそんなこともある。不吉な響きだ。何が響いているのか。正気に戻るための手がかりが欲しい。理由がわからない。すでに正気なのではないか。誰が狂気にとらわれているのだろう。君のことを語っているわけではない。誰もそんなことは訊いていない。君の都合を訊いているのでもない。誰もそこには存在せず、辺りは沈黙に支配されているつもりか。何をわかり合えるというのか。誰もいないのではないか。それはわからない。意思疎通がとれていないのではないか。たぶん何を述べているのでもないのだろう。予感が的中したのだろうか。あくびが出る。大した予感ではなかったらしい。本当は何の予感もしなかった。出来事は唐突に訪れ、誰かの心を動揺させる。君の都合に合わせているわけではない。君は何も知り得なかった。話の内容を知りたい。飽きてしまったのか。そういう話だろうか。そうではないと思いたいのだろう。それが最善のやり方だったのだから文句は言えないはずか。今さら何を述べているのか。相変わらず何も思いつかず、誰かが海の歌を聴いている。それが不吉な響きだ。やっと何を思い出したのか。曲が何かの一部を構成しているらしい。言葉はどうしたのか。どこかに置き忘れてきたとは言わせない。誰が何を言うのだろう。文句など何もなく、そこで言葉を記しているのが誰であってもかまわない。君である必要すら感じない。もう君は忘れてしまったのか。あの時のことを理解しているとは思えない。ようやく言葉がつながる兆しを感じている。本気でそんなことを述べているのだろうか。途切れ途切れに何かの音が聞こえてくる。何を説明すべきなのか。まったくの音信不通というわけではなかった。すべては断片的に推移する。要するに話にならないわけだ。苦労してみなければわからないが、それがわかったとしても、苦労は水の泡となる。いったい何が無駄だったのか。余分な情報でしかないようだ。いつまでも淡々としていられるだろうか。的を射るような答えではない。それは何かの妄想に違いない。だが簡単に割り切れるだろうか。何を述べてたらいいのかわからないか。たぶん君の出番ではないのだろう。もっとちゃんとしたことを述べなければならないが、それができないのだから仕方がない。少し近視眼的になっただろうか。そういうことではない。ただ面倒くさいだけか。ひたすら面倒くさいような気もするが、そんなやり方に安住しているのだから、それはそういうことになるのだろう。そんな君に内容を求めるのは酷か。そうであるなら他にやりようがないものか。しかしなぜそんなことが繰り返されるのか。そこにできないことがあり、一方にできないことをやろうとしている者がいるわけか。そんな簡単な図式を提示しても、何も解決には至らない。できないものはできないのだから仕方がなく、それをやろうとしているのだからなおのこと仕方がない。人間あきらめが肝心か。ならば執拗に繰り返されるそれらの言葉は何のためにあるのか。そういう問いかけが出現するために言葉が組み合わさっている。無理にそうすることはない。誰の意図か知らないが、そういうやり方が気に食わない。嫌な感じがしたら、そのまま退散するに限る。義理人情も何もあったものではない。ただ寒いだけのような気がする。気に入らないことは山ほどあるが、いちいち気にするのも大人げなく、何とかそれらのどこかで妥協をはからなければならず、くだらないことはくだらないままに、うまくいかないことはそのまま受け流し、そんな現状を放置し続けるしかないようだ。できないことをやろうとしてもできないだけか。結果がわかっているならやらなければいいのだが、それをやりざるを得ないからストレスがたまるのだろう。まったくままならない世の中だ。だからそんなことは早く切り上げて眠ってしまえばいいということになるが、そうはいかないのがその場の成り行きなのか。納得するまでその場を離れられなくなり、なんとか納得しようとするが、後味の悪さばかりが感じられ、その場を去り難く、足に根がついているように動けなくなる。そんなことがあり得るだろうか。すべては冗談から生まれた現実に違いない。たぶんそんな認識は間違っているのだろうが、自らにそう言い聞かせないとその場を立ち去れなくなる。その辺にどうにもならない事情があり、次回は状況を改善する手だてを模索しなければならないが、巡ってくる機会はたまにしかなく、また同じような過ちを犯してしまうのがありがちなパターンだろう。たぶんそれでもどうにかしなければならないのだろうが、やはり結果的にはどうにもならずにあきらめざるを得ないような成り行きになってしまうらしい。
5月11日
何かをやる気になったのか。やることは決まっていて、それはいつもの作業になる。今は夜なのだろうか。すでに夜になってしまったようだ。今日は冷える。冗談ではないのだろう。何も実感がこもっていないようだ。何の述べることがないのも昨日と同じか。危機を迎えているわけではないが、聴いている曲がそうなのだから仕方がないか。そこで言葉が停滞しているのもいつものことか。いったいいつまでそんなことをやっているのか。同じことの繰り返しを経なければそこへたどり着かず、たどり着いたところが終わりの時か。終わりに向かって何かが構築されようとしているようだが、具体的に何が構築されるべきなのかは不明のままだ。神話とは何なのか。それが今ある現状とどう結びついているというのか。現実の本質を探ろうとする時、神のうちに何を幻想すべきなのか。もろいことを述べているような気がする。冗談で終わりにしたくないのだろうか。こけおどしの言葉か。装飾的にはそうなのかもしれない、それは君の時間ではない。何かを逸しているのだ。しかし時期とは何だろう。季節とは何だろうか。頭がこんがらがるような言葉の組み合わせに恐れおののくことはない。わざとそうやっているのだから、狂気の深みにはまり込んでいることはなく、常に軽薄な領域で何かを述べている。案外簡単なことなのだ。わかりやすく状況を説明することの方が困難を極めるだろう。君がどんなに工夫を凝らしても、肝心の中身がないのだから、実質的には空疎な文章だ。しかしそれが結果ではなく、結果はその後から提示されることになる。それは誰にとっても無用な結果になるだろうか。ところで神話の話はどこへ行ったのだろう。君に向かって話しかけているわけではない。急いで終わりまで語ることはない。何かもったいないような気がするわけか。そんなことをどう述べても何もわからないだろう。何について述べているつもりなのか。神話の世界では人知を超える現象によって人の運命が決まる。現実の世界でもそうなのではないか。人の努力によって何が変えられるのだろう。たぶん多くの人々によってそう信じられているのだ。努力することによって現状を変えられると思っていないと、誰も努力しなくなってしまうだろうか。君はそうは思わない。しかし誰かがそれを信じている。君という存在を信じている。誰の思い込みなのだろうか。たぶんそういう話ではない。誰の努力も無駄になったわけではない。誰かは自らの努力が無駄になったと思い込みたいのか。そう信じて疑わず、無駄な努力を繰り返している自らを哀れに思っているわけか。そう思い込みたいのだろう。まるで言葉遊びの続きのようだ。時として虚しさを覚える。人には人それぞれに役割があるらしいが、そんな思い込みから人間社会が構成されているとしたら、それは幻想以外の何ものでもないのだろうか。幻想だとしたらそれを捨て去るべきなのか。捨て去ってしまったら何も残らない。その程度のことだ。では夢とは何なのか。幻想にとらわれていると不自由になる。くだらないと思っているとどこまでもくだらなくなり、そんなくだらぬことについて語っている自らが恥ずかしく思えてくるか。それでも努力を惜しまないとすれば、努力しているとうのものとはいかなる評価を得られるのか。まったくの的外れだが、わざとずらしているのだろう。その辺に本気になれない心境が垣間見える。ごまかしがきかぬようなことを述べている。それはどういうことだろう。何でもなければ何でもないことになるだろう。わざとわからないようなことを述べている。誰かは翌朝に東へ向かわなければならない。そんな嘘をつく動機が見当たらないが、たぶんなんでもないようなことに思われ、この世の何が幻想なのかも忘れたふりをして、なんとか体裁を保ちつつも、意識は完全に幻想から遠ざかっているのに、なおも幻想を信じようとしている。意識以外の何が信じようとしているのか。人は何かに縛られていないと気が狂ってしまうのだろうか。この世界は人間にとっての牢獄か何かか。常に監視されているわけではないと思いたい。たぶん他人に自分と同じ考え方を押しつけてはいけないのだろう。自分の至らなさとともに他人の自分に対する至らなさもせめてはいけないのかもしれず、なんとか衝突を避けつつ、無駄に遠回りしている自分を愚かだと思いつつも、そうしなければならない必然性も尊重すべきなのか。何が正解で何が誤解であるかに境界線はない。そのとき犯してしまった過ちを後で後悔しても始まらないが、後悔してしまう必然性も認めなければならないようだ。それでどうなるわけでもないが、どうにもならなくてもそう思ってしまうのだから、それはそれでそういう経緯で紆余曲折があるということだ。今さらそれを改めることはできない。改めようとすれば改まるかもしれないが、改まったところで、また別のあら探しをしなければならなくなるだろう。欠陥などいくらでもありそうで、それらの欠陥を無限に改めているうちに寿命が終わってしまうかもしれない。それでも改め続けるべきなのか。そうしたいなら一生それをやり続けていれば暇つぶし程度にはなるだろう。だがそれだけで終わらせるつもりにはなれないか。
5月10日
わかっていることは限られている。雨空なのか曇り空なのか、どんな風に感じることもできない。何を思うこともなく、何かの途中から雨が降ってきた。聞き覚えのある声がする方向へ向かっていくと、どこへもたどり着かなかった。はじめからたどり着く気がしなかったようだ。意味が見えてこない。見えるはずのない意味を探しているわけもなく、わかりづらいことを述べている現状があり、それが何か奇跡的な成り行きだとも思わず、ただ気が散っているだけかもしれず、ますますおかしくなっている。そんな風に語るのが重要なことだとは思わない。わかっている言葉の並びとは違うらしい。それで何を示しているわけでもない。何も示せないからそんなことを述べているのか。そんな成り行きに頼ろうしている。他に意図を感じられず、誰の思惑から逃れようとしているのでもなく、結果として何を語っているのでもない。ただそういう言説はありふれているだろうか。そういうやり方ではその先に物語を奏でられない。終わりの予感がするのか。さようならという言葉を思いつく。世の中がつまらないと思うなら、その後に待っているのはさようならか。人々は何を食い止めなければならないのか。本音というのはどの辺にあるのだろうか。虚無からこの世界を救うつもりもないはずか。誰がそんなことをやらなければならないのか。自由であることと不自由であることの狭間にどんな思いが詰め込まれているのか。まだそこまでいっていない気がする。途中で挫折しているのかもしれない。たどり着く気がしない。目的を見出せないのだからそんな風にしか思えないのだろう。それでは何かを破り捨てなければならなくなり、どこまでも現状から遠ざかる必要に迫られている。わけがないようだ。相変わらず何かが不明のままだ。ただ音楽を聞き流している。それが真実ではないのだろう。着実に前進したいのだ。それは無理な高望みだろうか。何を望んでいるのだろう。眠りを妨げられていらついているのでもない。そこで切れたらおしまいか。冷静になって物事を考えるような現状でない。それでも楽しいとうそぶくならば、何となくしらけてくる。その後に言葉が続かないことはわかっている。だから余裕が感じられないわけか。何かの虚をついて行動に出ているのかもしれず、そんな行動に正当性を当てはめたいわけではないが、それで結果的にうまくいっていると感じるのはなぜだろう。それが君のやり方なのだから仕方なく、君独自の間合いで思い通りの行動に出たわけだから、それはそれでよしとしておこうではないか。それが成り行きということか。その場ではそうなのだろう。結果がどうあれ、何となくうまくいっているつもりになる。いったいどんな結果を思い描いていたのか。君はそうやって何を裏切ってしまったわけか。とぼけるのもいい加減にしてほしいか。そんなわけでまだ余裕があるらしい。精神的な余裕なのか気持ち的な余裕なのか、そのどちらも同じことかもしれないが、何となくわけがわからないと思いたい。難しく考えるのが億劫なのだろう。何かが間延びしていて、なぜそんな言葉を使うのか理由を導きだすことは困難だが、いかれていることは確かか。そんな理由を理由として提示して、頭がいかれているから何を述べても勘弁してもらおうと思っているのかもしれないが、そういう理由も何となく嘘のような気もする。君が述べようとしていることはその他に関わることらしい。だがそれで何を述べていることになるのか。なぜそんな風にして誰かの思いから外れようとするのだろう。それが君のやり方なのだからそれはそういうことと受け取る以外になさそうだが、それで何がおもしろいとも思えず、思えないからどういうわけを導きだせるはずもなく、何となくという言葉を多用して、なんとか何かの感じを持続しているようで、そういうやり方がいいとは思わないが、それでもそれがその場でなされる語り方でないわけではない。要するに何を述べているのかわからないというわけだ。世の流れは君をその場にとどまらせない。わかりきったことを述べているようだ。何か追憶の中に浸りきっているような音楽を聴いている。君が知っているのはそういうことではない。そのとき彼が述べていた内容とも違い、何かを助け出すような行為でないことははっきりしているようだが、誰かはそこで何を見捨てようとしていたのか。てんでバラバラな絵が連なり、それが何らかの物語のようなものを醸し出そうとしているようで、それについて語ろうとして失敗しているのかもしれないが、適当なタイミングで次の曲が流れ始め、そんなことはすぐに忘れさせるような成り行きに身をまかせることもできず、その場に置いてきぼりになりたいような気もするが、今はあえて先を急いで、その場から立ち去らなければならないらしい。何が気に入らないということではないが、それがその場で感じ取った流れなのだから、その流れに逆らうにはそれ相応の覚悟が要るような気がして、今はそんな覚悟はできていないので、その先に巡ってくるであろう次の機会にそれがあるかどうかわからないが、とりあえず今は終わりを回避しているような結果を受け入れている。
5月9日
行き過ぎた言動に終始しているようで、それは作り話の中でのことだから仕方がないが、そこで君は何に配慮しなければならなかったのか。過去のことだからどうしようもない。誰から助け舟がだされるわけでもなく、何とはなしに一人で何かを背負い込んでいた時期もあったらしく、そこで何をやっていたかは定かでないが、それでも作り話にも限界がありそうに感じられ、何も思いつかず、その辺で言葉を連ねる作業を放棄しているかもしれない。わかっているのはそんなことではなく、どんなことだとも断定できないが、映像や漫画における暴力的な描写を超えて、この世界が何をもたらそうとしているかはよくわからないが、ただ理性という幻想を見ないように振る舞うのは難しい。何を述べているのかわからなくなる。繰り出された言葉に酔っているのか。そこでお前はお前を見失うべきだ。わざとらしい天啓に違いない。虚構の中に実体があるわけがない。実体がなくとも意識がある。それが作り話の正体か。君はどんな話を言葉によって構成しているつもりなのか。そのつもりもないのに何を語っているとも思えず、架空の作り話のことなど知るわけもなく、それは誰が知っていることでもない。わけもわからず否定を繰り返す。一刻も早くそこから退散したいわけか。それこそわけがわからない。そして何がどうなってそうなるわけもなく、ただ何かについて無駄に言葉が費やされているらしい。本当のところは何もわからない。状況の変化を味方につけていないようだ。何かを隙をついて言葉を繰り出しているとも思えない。だが意識が何かの虜というわけでもない。本当にそこから遠ざかれるのだろうか。わけもなく心配するようなことではないはずだ。気がつけば意味のない自問自答に陥っている。だからそんな状況を何とか変えなければならない。それがそこでの建て前なのか。ならば本音がどこにあるというのか。たぶんなんとかしなければならないというのが本音なのだろうが、それで何とかなるとは思えず、思い悩みながらもひたすら時間と言葉を浪費している現状がある。実質的には何を語っているわけでもない。やはり無理なのだろうか。無理だと思うならやめてしまえばいいのだろうか。何を笑っているのか。そんな記述が愉快な気分を醸し出している。相変わらずつまらないことを述べているようだ。たぶん何かが外れているのだろうが、たがが外れていることは疑いの余地がない。できないものはできないだろう。時間がないのだからやりようがないか。今さらそれはないだろう。そういう宿命を受け入れるしかない。冗談だろう。なるべくなら冗談で済ませられるだろうか。何をふざけたことを述べているのか。また無駄に言葉が連なっている。誰かの意識は独り言の独白にはまっているらしい。他に何ももたらせないようだが、そのままで許されるのか。誰が許すというのか。それ以前に無視されているのではないか。誰に無視されていると思われるのか。君は君の存在を無視しているようだ。無視しているのは君だけではない。誰も彼もが誰かと君を無視している。そんな思い込みによって被害妄想を形成できるだろうか。なぜそうしたいのだろう。作り話の中では誰に向かって何を述べているのか。無駄な問いかけが延々と続いているようだ。それだけの文章でしかない。それでは不満なのだろう。そんなことはわかっている。わかっているからそんなことを述べている。ではそれ以外に何を述べられるというのか。何も述べられないからそうなってしまう。そう思った時点で終わりなのだ。何が終わっているのか判然としないが、とりあえず言葉を並べようとしているらしい。単刀直入にものを述べることはできない。対峙すべき相手がいないのだから、何を主張しても始まらないか。議論がかみ合う前に議論する相手を捜す必要に迫られる。それも冗談のたぐいだろうか。君は何によって疎まれているのか。たぶんそういうことではない。日本にパンダを送ろうとしたり、卓球してみたり、その手のパフォーマンスによって、国内向けの体裁を取り繕うとしているのかもしれないが、それだけではないだろう。そうすることによって何かやっている気になりたいのだ。それが外交ということか。無駄で無意味なことにこそ価値がある。そんな強弁を許す土壌がどこにあるのか。どこにでもあり、どこにもない。それらの何を批判しているとも思えないが、自らは何をどう思っているのだろう。それは君に課せられた批判ではない。そこで誰が何を批判しているのでもなく、彼らはチベットの旗を振り、フリー・チベット!と叫んでいるに過ぎず、取り立ててどんな主張があるわけではない。具体的に何を批判することもできず、人道問題がどうのこうの言うのが関の山か。とりあえず人は生かされなければならないのだろう。保険料を天引された七十五歳以上の老人も、ミャンマーで嵐に遭った人々も、死にそうな人を迅速に助けるのが人道主義ということか。君にはわからない。そんなことをやってどうするつもりなのか。どうもしなければ人はただ死んでゆくだけか。後先のない老人に延命治療を施すのが無駄なのか。あるいは自然災害で死にかけている人々に食料や医薬品を届けるのが無駄なのか。たぶんそんなことはないと思うのが人道主義なのだろう。
5月8日
どうも意識は前のめりになって何かを継続させようとしているようだが、明日を先取りするまでには至らない。何となくまた遅れてしまう予定らしいが、語るべきことが何もない。いつもの冗談だろう。それでも言葉を並べ、何かしら語っているような気になりたいのか。この世界に対する否定的な見解ならいくらでも述べられるだろう。しかしそれを述べてどうするのか。ただ述べるだけで、後は無視され、そのまま放置されるにまかせるということか。それが楽しいだろうか。何に対して復讐したいわけでもなく、その対象がどこにも見当たらないことが、とりとめのない言説の構築へと誰かを導いているのだろう。たぶんそういう段階はとっくの昔にクリアして、通り過ぎてしまったのかもしれず、今誰かの意識がどこにいるのかは定かでない。そして何を語ればいいのかわからない。冗談だろう。冗談でなければ何も語れない。そんなわけでまた停滞の時間帯に突入してしまったらしい。何を語ろうとしても叶わない。少し静かにしてくれないか。そよ風が部屋の中に吹き込んで気が散っている。眠たいのだろうか。魅力を欠いた音楽を聴いている。そんな気がする原因を探りたいわけではない。君には何もわかりそうもない。わかる気がしないのだから何ともいえない。何をどうすればそうなってしまうのだろうか。ただ適当に言葉を連ねていればそうなるような気がする。力を出し切ってしまったような気もする。心身ともに消耗してしまったのだろう。心が灰になってしまったのだろうか。そういうたとえは何を暗示しているのか。語り続けるには刺激が足りないようだ。すべてはあり得ないたとえ話の中で語られている。そういうことにしておこう。だから何もない。それで話はどうなったのか。相変わらずのままだ。そこから先へ進めない。君はそこから遠ざかれない。遠ざかろうとしていないからだ。気分的にはどこまでも退き続ける。前へ進めないようだ。それで何を語っているつもりになれるだろうか。意志薄弱だと思いたいのか。神経が衰弱しているらしい。話は自らの存在を否定している。それが何だと思っているのか。何でもなければどうしたというのだろう。そういうことではない。たぶんそうだと思っている。以前と同じような内容だ。表面から何かの色がにじみ出てくる。水墨画のたぐいか。何かが腐っているのかもしれない。青い絵の具のにじみが雲のように見える。空を見上げているのだろうか。時間がないわけではない。時が経てばみんな同じような具合に消えてなくなるだろう。神経をすり減らして何も感じられなくなる。無理を重ねているようだ。ここから遠ざかるまでに言葉が尽きてしまうかもしれない。こことはどこだろう。空の青さばかりが印象に残っている。文字が言葉を表現しない。どこかでずれているような気がして、そのずれを修正できていないのだろう。方向がまったく違うのか。具体的な話はどうなったのだろう。継続の意志はどこで途切れてしまったのか。君は何を続けているつもりなのか。そこには限界があり、それを超える内容を伴った言説を導きだすことはできない。それとは何だったのだろう。それを思い出すことはない。どこかに何かがあり、それについて誰かが語っていた過去と未来があったらしい。作り話の中でのことだ。理由もなくため息が出てくる。そんな風に虚無について語るべきではないのだろう。あり得ない話の中に君の影が映っている。それが鋭い感性の発露だとは思えない。そんな風に述べている。他に何があるというのか。何かの他には何もない。君にとっては何かがすべてであり、絶えずその何かについて語ろうとしているわけだ。それこそあり得ない話だ。自らのやり方を制御しなければならない。抑制がないとメリハリがつかない。無駄なことを述べていないと気が済まないらしいが、期待は持てないようだ。いつも期待はずれになるように語ろうとする。おもしろおかしいことが嫌いなのか。そこで立ち止まるべきではないのだろう。予言者は衝撃的な未来を語ろうとして、自らが世間から脚光を浴びようとしている。だからいつも予言が作り話のたぐいになってしまうらしい。それでも詐欺ではないのだろう。予言者でも社会の中で生きる人間に備わった本能には逆らえないのだ。曲と曲の狭間に不連続な瞬間がある。それは曲の中でも見受けられるだろうか。君は何の話をしているのか。予言者はつまらない未来を予言してはいけないのだろうか。していけないということはないが、それでは世間から注目されない。予言が当たるとはどういうことなのか。何でもないようなことを的中させても誰からも注目されず、衝撃的な事件が起こることを予言し、それが実際に起こらなければ世間から注目されない。要するに予言者は世間の要求を受け入れて、絶えず衝撃的な未来を予言し続けなければならない宿命にあるらしい。いったいこれからどれほどの衝撃的な事件が起こるのだろうか。とりあえずマスコミが騒ぎ立てなければ衝撃的な事件とはいえず、予言者はマスコミが騒ぐような事件を予言しなければならない。そのためにはマスコミの動向に敏感でなければならず、絶えずニュースを見て、どのような事件を予言すればいいかを探る必要があり、世の中の流行り廃りにも目配せしておく必要も出てくる。また予言してそれを発表するタイミングを逸しては、いくら事件を正確に予言しても、誰からも見向きもされない危険性もある。それ以前に予言を発表する場がなければどうにもならないか。そのために必要なのがメディア戦略になるだろうか。まずは有名人になることが先決か。
5月7日
今日はどんな天気なのだろうか。わかりきったことを知りたくもないか。たぶん晴れているのだろう。何がメディア戦略なのだろう。あいた口が塞がらない。またいつもの冗談で述べていることに違いない。どこまでも本気になれないようだ。今日の天気とメディア戦略との間にどんな関連があるのだろうか。君はどちらとも無関係か。かなり焦っているふりをしているようだ。本気でないのは百も承知で、出てもいない冷や汗を拭ってみる。何がくだらないのかわかりかねる。ならば気分は爽快だろうか。理由がわからない。君はその手の現象を捉えている。なんだかわからないことではない。知っているのにとぼけてみせる。彼らがくだらないことにこだわっているのにはわけがある。ちゃんとした理由もあり、その理由に基づいて行動しているわけだ。それは自己表現のたぐいなのだろう。仕事であれ遊びであれ、何かをやっている以上はそれにこだわらなければならない。投げやりな気持ちでやっているのにもわけがあり、それはやる気がしないからだ。誰かは君に何を教えたいのか。自らのやる気のなさを教えてどうするのだろう。そして誰に教えるつもりもないことを知りたがってどうするのか。君に向かって何を語っているのでもないらしい。やはり冗談でそんなことを述べているのだろうか。何を見聞しているとも思えない。成り行きは君とは無関係に進行している。着実に言葉が積み重なり、何やら得体の知れぬ文章を形成しているつもりになる。誰かはそんな風にして何か適当な内容を記述しているつもりだ。君にはわけがわからないだろうが、彼なりに筋の通ったことを述べているつもりのようだ。結果として出てきたものは君にはチンプンカンプンの内容だ。また疲れて理解力が減衰しているのかもしれない。それで何がかまわないわけもないが、何となくちゃんとしたことを述べる必要に迫られているような気がする。人に生きる道などありはしない。それを否定したければいくらでもできるだろう。ではそれをやらない理由は何なのか。人という言葉に具体性がないからか。勘違いも甚だしい。そういう語り方にはなじまない概念もあるのだろう。何もかもが支離滅裂なのかもしれず、その散らばり具合が人を人以前の断片に分解していて、人としてまとまりのある概念に至らせないようにしているのかもしれない。何に対しても本気になれない原因もそんなところにあるのだろうか。そしてそれが勘違いだとか思い違いに結びつき、何となく現状から言葉の連なりを退かせているわけか。気持ちが退いてしまう。そんなことを述べても何の意味もなさないような気にさせてしまうらしい。人に目的とか使命とかいう言葉は結びつかない。世の中の何が問題なのかといえば、人に目的を課そうとする思惑なり意志だ。絶えず何かのために生きなければならないように人を追い込もうとしている。ではなぜそうしなければならないのかといえば、それはそうしないと社会が立ち行かなくなるからか。中国などはオリンピックを成功させるために人を大量に動員している。そんな目的のために動かなければならない人々に未来はあるのだろうか。たぶん未来ぐらいならあるのかもしれない。その未来こそが人に課せられた究極の目的か。自らのあるべき姿を追い求めるために未来という時間帯がある。今もそうだろう。自らに割り当てられた時間内に自らのあるべき姿に至らなければならないわけだ。夢を追い求めるとはそういうことだろう。それを達成するためには無駄に時間を浪費しているわけにはいかないか。窮屈な考え方だ。君は何をあきらめているのだろう。究極の何かを目指すこともなく、ただ何も思っていないような気になっている。何となく流れ去る景色を目で追いながら、何を思うでもない。それはそれだけのことなのだ。人は目的から逃れられない。やるべきをやらなければ明るい未来がやってこないか。ならば冗談もそこまでだ。まじめになって何かに取り組まなければならなくなる。疑念を覚えることはいくらでもあるだろう。気がつけば気持ちがそこから離れていっているようだ。それの何がおかしいのか。彼らはどこからやってきたのか。唐突に違うことを記してみる。気晴らしのつもりか。彼らとは何だろう。何が彼らを行動に駆り立てるのか。彼らにはどんな目的があるのだろうか。君は彼らとは無関係だと思っている。彼らとはすべての人間のことだ。その時の気まぐれでそんな嘘をつくと収拾がつかなくなり、さっきまで何を述べていたのか忘れてしまいそうになる。たぶん言葉を記している誰かの目的をぶちこわしにしているのだろう。無意識のうちに何か利いた風な結論が導きだされてしまうところを阻止しているのかもしれず、偶然の巡り合わせが目的を台無しにしようとしている。本気になってはいけない。わかりやすいようなことを述べるべきではない。彼らという言葉にはそういう無目的に導く役割でもあるのだろうか。それによって何を述べているのでもないように文章を終わらせなければならない。それがそこでの架空の目的だ。誰かの目的とは相容れない方向性を持っているらしく、そうすることで誰かの目的も君の存在も無化したいのだろう。なぜそうしなければならないわけでもなく、ただわけもなく言葉を並べている。
5月6日
今から何をやろうとしているのか。やることは決まっていて、それはいつもの作業だ。文学でも芸術でもなく、ただ言葉を並べて文章もどきを記すことだ。近頃は考えるのが面倒くさいから、そういうことにしてある。別にやけくそ気味になっているのではないが、何となくそんな風にしか感じられず、その作業がすばらしいなどと思ったことはなく、無感動を常として、まったく幻想を抱けなくなっている。それがなんなのかわからないが、少なくとも馬鹿げていることは確かだろうか。何が馬鹿げているのだろう。君は自殺する人の気持ちをわかってあげられるだろうか。近親者が自殺すると人は動揺するだろう。想像できるのはそういうことだ。たぶん自殺する人は孤独なのだろう。誰かは冗談でそんなことを思っている。本気になれないのだ。絶望すれば誰でも自殺を考えるものか。そうだとしたら君はどうするべきなのか。絶望して自殺してみればわかるというものか。そういうことでしかない。自殺も暇つぶしのたぐいでしかない。やはり冗談でそんなことを述べているのだろうか。君は思い詰めることができないほど絶望しているわけか。それはどういうことなのだ。思い詰めたら自殺するしかないかもしれないが、絶望しても自殺する危険性があるのではないか。たいていの場合、たぶん自殺したら家族が悲しむだろう。それだけのことでしかない。他人の自殺を笑うほどの状況ではないのだろう。誰を憎んでいるわけでもなく、蔑んでいるわけでもないが、感情を表に出してもつまらない。では自殺の何がつまらないのか。時にはおもしろがって支離滅裂なことを述べたくなり、それに成功したつもりになって高笑いの最中だろうか。誰が何を述べているのかわからない。それも冗談のたぐいなのだろう。人は進んで絶望すべきであり、悩みに悩んで思い詰めるべきなのだろう。些細で瑣末なことに一喜一憂すべきなのだ。馬鹿げているかもしれないが、馬鹿げていて結構なのだろう。自殺してもかまわないが、それは馬鹿げている。末期がん患者なら真剣に自殺を考えるべきか。机上の空論以前にどうでもいいようなことを述べているらしい。冗談でそんなことを述べるべきではないが、そんな正論はここでは通用しない。では君は誰に向かって、死んでしまえ、と言い放つべきなのか。心当たりは何もない。対象を絞り込めず、困ったふうを装い、最後の一撃にすべてをかけているわけでもないだろう。空手の試合ではない。ならば何が冗談から生じているのだろう。これを読んだら自殺を思いとどまってくれるだろうか。冗談でそんなことを述べているので、真に受けてもらっては困るか。どうやら誰かは親身になって他人の悩みを聞いてやるほど暇ではないようだ。ただ正論を吐きたくない。自殺するほどの価値があるような者は世界中探しても誰もいはしないか。誰もが中途半端ながらくた人間なのかもしれず、愚かなまま生きて死んでゆく定めにあるらしい。そんなくだらぬ人間が世界中にはびこり、わけもなくうごめいているだけか。君たちはそこで何をやっているのか。スポーツを眺めているのがそんなに楽しいか。また冗談でそんなことを述べているのだろう。クイズ番組で珍回答を連発するタレントを見て笑い転げていても仕方がない。それほど心が純真ではないはずだ。わざとらしい演技が透けて見える。君は何に対して無関心なのだろう。簡単に考えるなら、自殺は社会的な損失なのだろう。働き手がなくなり、その穴埋めのために残された者たちが苦労を背負い込む。それだけのことでしかないか。自殺する理由とは何か。生きていても周りに迷惑がかかるから自殺すれば、死んだ後にも後始末などで周りに迷惑がかかりそうだ。そういう場合はどうすればいいのだろう。人知れず旅にでも出るべきなのか。そうなると周りの人々が捜しまわらなければならなくなり、結果的に迷惑がかかるだろう。要するに生きても死んでも行方知れずになっても、どのみち周りに迷惑がかかりそうだ。そういう場合はどうすればいいのか。そういう状況は落語の題材にでもなるかも知れない。また冗談に逃げたくなっているようで、本気になれないらしい。君にとっては自殺などどうでもいいことか。その気になってみれば身近な問題とはなりそうだが、たぶんそこにたどり着くまでに気の遠くなるような回り道と迷路を抜けて行かなければならず、そんなことをやっているうちに自殺のことなど忘れてしまうのかもしれない。現状ではそんな終わりにはたどり着けそうもない。確か芥川龍之介や川端康成や三島由紀夫などは自殺した有名人だろうが、彼らには自殺する理由があったのだろうか。それぞれに自殺に至る経緯がありそうで、十把一絡げに考えるのもいい加減きわまりないだろうが、君はそこからどんな結論を導きだそうとしているのか。彼らにはユーモア精神が欠如していたのかもしれない。心に余裕がなかったのだろう。それは結論ではなく、何だろう。何でもないのではないか。ただ君は笑っているようだが、そこで何を軽んじているのだろうか。生きることに絶望しているのに、ユーモア精神も何もあったものではなく、心に余裕があったら自殺など考えないか。ただ当たり前のことを当たり前のように述べて、一通り笑い転げたふりをして、それで今回は終わりとしておこう。
5月5日
さらに先を急いで今日に近づくつもりらしいが、今日に至ってどうするのか。それは今日ではなく明日かもしれないが、明日になったらどうするのか。昨日から何を思い描いているのだろう。明日になったら何をやるべきなのか。たぶんそれは今日やるべきことではないのかもしれず、だからやってはいけないというわけでもないのだろうが、先走りすぎると己の寿命を縮めてしまうような不安に駆られ、そんな嘘も織り交ぜながら今日を目指す言葉の連なりは、この先どうなってしまうのか。それは君が決めることか。決めたからといって、決まり通りに事が運ぶとは限らない。事が運ばなかったら、脇道に逸れてわけのわからない成り行きに身をまかせるだけか。この場合の脇道とはどんな道なのか不明か。意味不明な言説に持ち込みたいだけなのかもしれない。要するに君の知ったことではないというわけだが、誰の知ったことでもないだろう。いったい誰が言葉を記しているというのか。それが君の知ったことではないの原因か。では誰に向かってそんなどうでもいいようなことを語りかけているのか。すでに辺りは夜になっているが、昼に向かって意識は語りかける。それは真昼の太陽が君に向かって照りつけるのと同じことか。何が同じなのか。調子に乗ってわけのわからないことを述べている。たぶん今は勇み足の連続なのだろう。本気になれない芸術のように、何となく甘えの構造を受け入れている。わけのわからなさを売りにしているようだ。それで何がどうなるのだろう。もう少しわかりやすい決まり文句のようなことを主張したらどうなのか。どうもしないだろう。話のおもしろさに惹かれるようなことは唾棄すべきか。ただの強がりの現状肯定で、開き直り以外の何ものでもないか。たぶんそれで楽しい気分でいられるのかもしれない。無責任にならなければそんなことばかり語ってはいられない。自らの言動などに責任を持つべきではないか。何が具体性を担っているのか。わけがわからないだけではおもしろくない。現状から逸脱したいのだろうか。それが現状そのものだという事実を否定したいか。ますます何かのどつぼにはまりつつある。それも間違いだらけの一部を構成しているわけか。過ちとはどのような時に正当化されるのだろうか。誰がそこから退こうとしているのでもなく、すべてから意識が撤退した時に初めてその場を覆う虚無の正体でも見えてくるだろうか。虚無の正体は虚無だ。それは虚無そのものだ。言葉なのだから仕方がないだろう。言葉は虚無以外の何ものでもないか。時には意味を担っているはずだ。それでも楽しいのだろうか。楽しいか否かは関係ないだろうが、どうしても逸脱したくなってくる。その場が窮屈すぎるのかもしれず、何を述べてもくだらないような気になり、それが嘘だと知りつつも、そんな嘘をついていないと間が持たないような気分になり、それがどのような間なのか定かでないが、何となくそんな気がするだけで、そこに明確な理由や原因があるわけではないことは百も承知で、そんなことを述べている現実があるらしく、そんな現実に逆らいつつも、そこから抜け出ることはできず、現状に流されて現状のままにとどまり、とどまっているのか流されているのか、はっきりしないような言葉の連なりに、直面しているような受け流しているような、それも本当のことではないのだろうが、そんな作り話の続きはそういう話の続きから形成されているらしく、それがどこから始まったのか知らないが、いつの間にかそんな風に語っているそれが、誰かの作り話を言葉でなぞっているのかもしれず、君が語りつつある偽りの物語も、それの一部を構成しているのかもしれず、何が物語か知らないが、なんでもないようなことを語っているつもりのそれが、虚無の物語なのかもしれない。たぶんそれがそこでの暫定的な結論なのだろう。君はどこまでも偽りの存在であり、それは不在以前の消滅すらできない存在なのだろう。意味がまったくわからないか。何を知るつもりもないような、話以前の話もどきになっている。そのとき誰かは何を記しているつもりになっているのか。たぶんそれは無駄で不要な言葉の連なりになっている。そして他の誰もそれを修正するつもりはなく、そこに記されているそれが誰かの記述のすべてなのかもしれず、その場合のすべてとは偽りのすべてであって、すべてという言葉が意味的に裏切られるようなすべてなのだ。またずいぶん回りくどく語ろうとしているらしいが、それで何を述べているつもりになれるだろうか。ただ言葉を急いで記して破れかぶれなことを述べているだけか。それだけなら人畜無害もいいところか。誰かはそれでかまわないと思いたいらしい。今の君が何を語れるというのか。何かしら語っている現実があるらしいが、それで本当にかまわないのだろうか。気に入らないなら他のことを述べてみたらどうか。それができないからそんなことを述べているのではないか。そんなこととはこんなことであり、そういう感じでだらだら言葉をつなげているわけだ。それで何がどうなるというのだろう。たぶん何もどうにもならないだろうが、それでもひたすら語り得ないことを語る努力を続けている。君にはあり得ないことだ。誰にとってもあり得ないことだろう。相変わらず冗談でそんなことを述べているらしい。
5月4日
遅れながらも何となく何かを語っているらしい。つまらぬいいわけはもうたくさんか。しかし語るようなことは何もないのだから仕方がない。それで何を正当化しているわけでもないだろう。そんな状況だから何を述べてもくだらなく思えてくる。それで何を卑下しているつもりなのか。そうではないような気分になるが、冗談で何を述べているのか。わからないだろうか。そういうやり方が好かないようだ。何が好ましくないのだろうか。世間の話題について語ろうとしないからか。それ以前に述べていることが空疎だ。それだけのことに時間を浪費している。まったく無駄なことだろうか。何日か後の夕日を眺めながら漠然と将来に思いを巡らせたりしているのだろうか。君に将来があったりするわけか。心がどこに引っかかっているわけでもない。ただ今とは違う言葉の連なりを構成したいようだ。誰かの心がそんな思いにとらわれているうちに、他の誰かがさっきと同じような言葉を連ねて、マンネリを助長しているようだ。たぶんそれが何のためにしているわけでもないことが気に入らないようで、何となくその辺で文章の構成を放棄したくなってきて、何を語る気も起こらなくなり、失敗に終わった過去の試みが脳裏をよぎったりするわけか。君に何がわかるというのか。それは誰の口癖なのだろう。何かの制御が利かなくなっている。もうすぐ夜の闇に覆われ、すべてが黒く塗りつぶされるような世界に移り変わることがどうしたというのか。まったく意味を知らないようだ。とりとめのないことばかりだ。何を思っているわけでもなく、それがどうしたわけでもないらしいが、この世から遠ざかろうとしているわけでもない。ただまったく意味を解さない。それは本当につまらない試みなのだろうか。君はそこで何を語っているのか。たぶんそこで振り出しに戻ろうとしているのだろう。何もかもがはじめからやり直されるわけではないが、何となくはじめから記述を再開したくなっているようだ。その辺でわけがわからなくなるのだろう。それでかまわないのか。いつか真実を語る日が来るのかもしれないが、今のところはでたらめが先行してしまっているようだ。君はそれらのでたらめの中で息をひそめ、隠れ続けるつもりなのか。できるならその隠遁の真実を知りたくなってくるが、それもでたらめの続きになってしまうだろうか。わかっているのはそんなことでしかない。それがそこでの成り行きを構成しているのだから、君はそれらの成り行きまかせの状況を受け入れるしかないようだ。さらに夜が近づいている。心の背後に誰かの意識が迫ってくるようだが、それが何を表現しようとしているのかわからず、ただの複雑怪奇を醸し出すような案配に状況は推移しつつあり、たぶん間違いだらけの言語表現を記述しているのだろうが、それでかまわないと思ってしまうらしく、君はそんな風にして現実から飛躍して、妄想の力を獲得するつもりらしいが、それはあり得ないやり方か。何でもないことだ。言葉だけならいくらでも飛躍できるだろう。そして結果的には常軌を逸してしまう。やはりそれだけのことなのか。そんなやり方ではつまらないと思わないか。何がつまらないのかわからないが、その時の気分次第で同じことを語っていても、つまらなかったりおもしろかったりするらしい。そんな風に語るのは怠惰に流されている証しとなり、それで何かを語っているつもりなら、それでもかまわないのだろうが、それはそういう水準で語っていることに過ぎず、相変わらず何について語っているのか定かでなくなり、ただの自己言及の繰り返しのようにも思えてくるが、その場合の自己とは空っぽの文章そのものになるだろう。要するに空疎な文章に対する印象を言葉にしているわけか。虚無の言葉だ。無駄で無意味ですばらしい言葉の連なりに違いない。何を強弁しようとしているのではなく、すでに夜になっていることを誰に気づかせようとしているのでもなく、見たまま聞いたままの言葉からはかけ離れて、意味から遠ざかるための試行錯誤の軌跡となるだろうか。まったくのでたらめか。わかっているのはどういうことではないような気がするが、何となくそんなことを述べていると安堵してしまうのだろう。今はそれだけの文章しか導きだせない。それでよしとしなければ先へ進めないだろう。だが先には何があるというのか。先にはその先があるだけだ。先に進むことに意味はないが、何らかの達成感がもたらされ、つまらない自己満足に浸れる。今はそれを肯定しなければならない。夜の闇にまぎれて猫が姿を消す。そんな思いついた出来事にも意味を見出せず、そこからどんな物語が始まるわけもなく、自己嫌悪を経由するほどの自己もなく、それは真の回り道ではないのだろうが、回り道に真も偽もないような気がして、ただ回り道をしているだけの現状を肯定も否定もできなくなる。何も認められないのかもしれず、何を認めようとしているのでもなく、どうしようもなく言葉を連ねている現実に突き当たり、それで何を主張するわけもないことに呆れ返るでもなく、そのままの現実を誰かの意識が受け流していることに他の誰かが気づき、それがその時点での認識となるのだろう。
5月3日
今は夜ではないが、夜が今になることもある。何を知っているとも思えない。すでに夜になってしまったようだ。遠くを見る目に何の興味があるだろう。時間を気にしている。時が経ち、何かが腐ってどうなるのだろう。相変わらず意味がわからない。疲れた目つきに見える。誰かの思い過ごしだろう。君が何を知っているとも思えない。なんとかしようとしているらしい。柑橘類の香りを嗅いでいる。何を知っているわけではない。では何を悩んでいるのだろう。わからないことを語る気にはなれない。文章になっていないような気がするが、意味のつながりを考えていないのかもしれない。世間の話題に興味が向かない。何がどうなってそうなったのだろうか。君は何に見放されているというのか。被害妄想も甚だしいか。何かが確実に終わっているようだ。それでどうしたわけでもなく、誰かはひたすら言葉を記し続け、何かに行き詰まってどうにかなってしまったようだが、やはりそれでどうしたわけでもないと思っている。もう深夜になってしまった。相変わらず何をどうしたいのかわからず、言葉が意識をどこへ導こうとしているのかを知りたくなるが、ついてゆけないようだ。何となく取り残された気分になっている。早くそこから抜け出たいのだが、そう思うたびにそこで眠ってしまい、さらなる遅延の深みにはまっていってしまう。それでも前進しているのだろうか。何かを述べていることは確からしい。強風が吹き荒れているようだ。わからないことはそれだけか。君が知り得ないことを知りたくなってくる。聴いているのは同じような種類の音楽か。そのとき何を夢見ていたのだろう。どんなところで何をやっていたつもりなのか。なぜ疲れているのか。膝の痛みに加えて足先も痛くなる。それで何がどうしたわけでもないだろう。強がっても痛みが消えるはずもなく、そのまま痛みを放置しつつ、何をどうしようというのでもないらしい。そこから遠ざかろうとしていたのではなかったのか。そんなことも思い出したようだが、あまりにも唐突すぎないか。あくびが出る。何をひたすら述べているのか。そこから何らかのこだわりが滲み出して、誰かの行く末を不安視している意識を押しとどめる。それはどういうことなのか。そのままの意味だろう。どこの周波数帯でもそれほど代わり映えはしない。今は何について語っているのだろうか。しっくりくるような時間帯ではなかったということだ。今はどうなのか。ただ何となく語っているようだ。たぶん失うべくして失われた場所と時間と機会なのだろう。それがなければ先へ進めなかった。今はこうしてあるのもあの時の散財が利いている。君はそこで何をなくしてしまったのか。そんなことにこだわるべきではないのかもしれない。すでに結果が出ている。君は時間に追われているつもりだが、すでに追い越されてしまっていて、実際にさらなる遅れが生じている。また眠たくなってしまったのだろうか。現状で把握しているのはそういうことか。たぶんやる気が失せているのだろう。それだけのことでここまでやってきた。何をつかみかけているとも思えない。すべてを台無しにしているのかもしれない。誰かはそれでかまわないと思っている。何に明け暮れているわけでもない。状況の変化に精神がついてゆけない。それはあり得ないことだが、何を否定しても事実は事実だろう。ひたすら語り続けることなど不可能なのだ。そうに決まっていると思い込みたいらしいが、何かがそんな思いを裏切ろうとしているようだ。そう願いたいものだ。君が何を知っているとも思えない。もはや自問自答の世界から逃れられないのだろうか。残骸なのかもしれない。そこで何かを思い出している。たぶんひたすら思い出そうとしているのだろう。何を思い出しているのか。それは思い違いのたぐいだ。何を断言しているのか。自らの勘違いを改めようとしていて、それが思い違いなのかもしれない。言葉が先回りして、思考の邪魔をする。考えあぐねている。抜け出す方法があるというのか。まだ終わったわけではない。とりあえず考えているようだ。迷っているのだろう。さらに迷い続け、結論に達する手前で立ち止まり続ける。何かのきしみが直ったのだろうか。そこに病気があったわけではなく、他に治療箇所があるとも思えない。何も述べられないのだろうか。すでに述べているそれらは何なのか。無駄に言葉を弄しているに過ぎないのだろうか。そうだとしたらどうなのだろう。少なくともそれ以上の結果を求めている。虚無に寄りかかって言葉を繰り出すような作業はおかしい。ではそれ以上に何を付け加えたいのか。ついてゆけない。正気の沙汰でない。それだけではないと思っているようだが、散らばっていた言葉が一つにまとまろうとしていているのだろうか。それは気晴らしのたぐいだ。消えかかっていた何かを再び灯そうとしているだけか。何かとは何なのか。いくら問いかけても答えは出てこない。そういうやり方なのだからそれに従うしかない。誰の命令を受けているわけでもない。それはいい質問だ。それは誰の台詞なのか。何かの順序が逆なのかもしれない。しかしそれで間違っているだろうか。
5月2日
また言葉がバラバラに散らばっているらしい。心臓の鼓動が聞こえてこない。心がこもっていないと言いたげだ。虚無がそうさせているわけでもないだろうが、夢の中で言葉の残骸から遠ざかろうとしている。自意識は完全に何かを見失っているようだ。ひたすら見失い続けている。記述の中でそんな馬鹿げたことを述べているうちに、何やら目が覚めてきたようだ。理由はわからない。文章は相変わらず何の主張にも至らない。たぶん何を知っているわけでもないのだろう。とりとめのない思いにとらわれているようで、そうでもないのだろうが、ただ時が過ぎ行く。何が心の中から消え去ろうとしているのか。この世界から君がいなくなる理由などありはしない。覚悟はできているのか。どこからいなくなるわけでもないだろう。必死になって誰かの不在を打ち消そうとしているようだが、それはどういうことなのか。誰かにとっては君という言葉がまだ必要なのだろう。では何を静観しているのか。意識が消え去るままにまかせているようで、相変わらずそうなる理由が見当たらない。いったいそこからどうすればいいのだろうか。誰も彼もが死にものぐるいというわけにはいかないようで、がんばりたい人だけそうやっていればいいだけだ。取り立てて君が何を語る必要も感じられず、どうやらその辺で必要以上に言葉を並べすぎてしまったようだ。それで飽きてしまったのだろうか。そんな風にして空疎なことばかり述べている現状があるが、そこから何を批判しようとしても、そうする義務を放棄したくなる。わけがわからないが、それはどういうことか。しらけているだけかもしれず、どこかで何かをやる義務が生じてしまうのを避けているような気がしてならない。誰かの意識が胡散臭い予言か何かに惑わされているのだろうか。そんな気がしているだけで、確信があるわけでもなく、合理的な理由など何もない。テレビを見ていたら無駄に時間が経ってしまったらしく、そこで何かが滅びようとしている。冗談に違いない。あり得ないことだろう。君は滅びたくても滅びようがなく、他に滅びる対象を見つけられず、その代わりに無駄に言葉を連ねていたら、何かから少し遠ざかれたような気がする。何かとは何なのか。誰かが何かという言葉を発する暇を探していたのかもしれず、それは誰の発言に近づくこともなく、単なる記述の水準にとどまりつつも、何を述べているのでもない君について、何かを付け加えようとしているようだが、意識が薄れつつある君に何ができるというのか。何を指せようとしているのでもなく、それはいつもの無駄な問いかけになるだけか。それに対する答えが返ってくることはないだろうが、誰が返答を期待しているわけでもなく、それでもあるとしたら、それはあり得ない返答であり、何かがそれを物語っているかも知れないが、要するに誰かが安易なことを述べているとしか見なされず、それ自身に魅力を感じられない。どのように述べても、それらの記述が具体的な話題に結びつかず、なぜそうなってしまうのかわからないが、ひたすら無意味なことを述べているとしか思えず、そんな言葉が誰かを狂わせているのかもしれない。それは静かなる狂気ということか。言葉で格好を付けてみても虚しいだけだ。だがそれで問題が解決したつもりになれる。それが何の問題なのか知らないが、何について述べているとも思えず、君は雑音まじりの音楽を聴いているらしい。何がいいとも思えない。しかしなぜできないのだろう。いつまでたってもそのままだ。まったく作業がはかどらず、半ば焼け気味にいい加減な言葉を並べまくり、それで終わらせようとしている。がらくたに囲まれ、言葉もがらくたのように並んで、意味がわからなくなるが、それでも文章だといえるだろうか。そこで同じようなことを述べているのはわかっている。気に入らないことが山積しているようで、めちゃくちゃな気分になっているのかもしれない。取り返しがつかなくなっている。たぶんそれでも終わらせなければならないのだろう。悩ましくも馬鹿らしい言葉の並びに唖然として、北欧の沈まぬ太陽のような気分になる。でたらめなことを述べているのだろう。今は白夜の季節ではない。冗談ではないが、笑えない冗談を求めているわけでもない。具体的な話題を求めているわけだ。話の題材を探しているわけか。ならば無理に述べる必要はないだろう。君には無理なのだから他をあたってほしい。徹夜などするには及ばない。そんな状況ではないことはわかっていて、今にも眠ってしまいそうなのに、何に義理立てして眠らないつもりなのか。そのつもりのないのだからそういう話ではなく、たぶんどういう話でもない。話になっていないようで、そんなことを話している場合ではないのかもしれない。会話になっていない。君が求めているのは会話ではなく、ただの沈黙か。それがその場での格好付けを示している。いくらあり得ないことだと思っても、実際に格好付けを狙った言説を繰り出しているはずか。そうする理由がわからない。ところで今は誰がどのへんで何を語っている最中なのか。君のことを述べているわけではなく、語っている内容はいつもの空疎だと思われる。
5月1日
何をそんなに慌てているのか。どう考えても無理のようだ。相変わらず無駄に言葉を並べている。とりあえず翌朝は曇っていたようだが、それがどうしたわけではない。たぶん何も考えられないだろう。どうやら自ら記した文章を理解できなくなってしまったらしい。それはあり得ないことか。冗談でそんなことを述べているようだが、誰の意識がそこに介在しているのだろう。介在とは何か。この世界には何が介在してこうなっているのだろうか。たぶんすべてが介在しているはずだ。それはわかりきったことで、現状ではそうやってくだらない問答を繰り返していることになる。だがすべて以外に何があるというのか。誰かはそれがすべてではないと思いたいのだろう。だがそこに記された言葉がすべてに違いない。そこにはこの世のすべてが記されている。嘘だろう。誰かが冗談でそんなことを述べているようだが、それがどうしたのか。それは何かの間違いだろう。空いている時間を見つけては、ひたすら言葉を並べ、それで何かを述べているつもりになっている。君はそれについてどう思っているのか。どうも思っていないようで、何も思いつかないらしいが、それでも君はどこまでも君であり続け、君以外の何者にもなれはしない。それでかまわないのだろうか。人がこの世界に暮らしていることに意味など求めない方が賢明かもしれない。意味とは何だろう。確実な存在というものが意味によって規定できるだろうか。そこから何が求まるとも思えない。それは誰かの能力を超えた答えを求めている。要するに答えるのは無理ということか。そこで行き詰まってまた遅れてしまう。何ももたらせず、やはり何者にもなれはしない。意味がわからないのか。ならばそこで終わりだろうか。君はそこで何を終わらせようとしているのだろう。たぶん負担が重すぎるのだ。重荷に耐えきれずに何かがきしみ、悲鳴を上げているのかもしれない。君には理解できないことだ。馬鹿げているのかもしれない。雨はやんだのか。今は二日後だろうか。依然として何を求めているとも思えない。ただわからないのか。誰かは東へ向かっているようだが、それは日の出の方向なのか。空が白んできたようだ。心はありふれたことを考えたいが何も思いつかない。他に何があるのでもないが、夜明け前で鳥の鳴き声がうるさいぐらいで、誰の手にも負えないような問題に直面していると思い込んでいるのか。わけがわからず、そんな風にして人は老いていくのかもしれないが、なぜそんな風に感じられてしまうのだろう。老いとそれは無関係なのではないか。ならば何かの追憶に浸っている暇はない。やめる前に君にはまだやらなければならないことがありそうだが、それ以前にそこから抜け出る必要があるのかもしれない。不具合の連鎖を断ち切ることなど不可能だ。制度的にも仕組み的にも複雑になりすぎていて、収拾がつかなくなってきているのだろう。わけがわからないのは当たり前のことだ。わかろうとする気力さえ削がれていて、どうにも逃げ出したい気分になってくるが、それでもまだ画面に前に憔悴しきった顔が映っているようだ。何かの冗談に違いない。冗談で済むような問題ではないが、いくら深刻になっているつもりでも、それが冗談だと思われる。そう述べて何を否定しているのか。君は無理を承知でさらなる遠ざかりを体験しているつもりなのか。ますます述べていることがわからなくなり、理解し難い作り話の展開を見せているようにも思われ、何のことやらさっぱりわからなくなっているらしい。それがどうしたわけでもないが、言葉が思考の働きを阻害しているような気になる。さらに無理な状況に直面しているような気になる。できるわけがない。あり得ないことだ。そんな言葉が繰り返され、虚しさが募ってくる。君の思うつぼだろう。誰がそれを信じているとも思えない。この世界が終わるなんて信じ難いか。唐突に終わってしまえば気分も爽快になるだろう。しかしなぜそんな風に思ってしまうのか。誰がそれほど爽快な気分を求めているとも思えない。何となく言葉に行き詰まり、文章を構成できなくなり、継続をあきらめかけているというのに、まだ何か気になることでもあるのか。それの何が本心から生じているのかわからない。そういう記述がおかしいのかもしれない。だがそんなことしか述べられないのだから、それを記してみるしかないだろう。もうあれからどれくらい時が経ってしまったのか定かではなくなったが、あれという言葉が指す出来事を思いつかない。やはり何を述べても何について述べているのでもないようだ。ただ言葉を当てもなく並べているだけか。しかしそれが自己批判にはならない。自己がどこにも見当たらない。そんなのはあり得ないだろうが、作り話的にはそういうことにしておこう。そんな逃げ方がいつまで通用するのか。君は何から逃げているのだろうか。自らに問いかけてみても、自己がないから何ともいえない。それも冗談のたぐいだろうか。君は真剣になるような出来事に遭遇していないようだが、現実はどこまでも追ってくる。今まさに虚無が襲いかかろうとしているところか。それも作り話のたぐいであってほしいが、相変わらず何を忘れているのか思い出せないようだ。
4月30日
また気がついたら翌朝になっていたようだ。何かに見放されているのだろうか。社会や国家の仕組みをどうしたいわけでもないか。君の力では無理だろう。冗談としか受け止められない。たぶん本気ではないのだろう。思想家は理念を提示することはできる。誰がそれを真に受けるのか。真に受けたからといって、誰がそれを実現しようとするのか。君ではない。しかし理念とは何だろう。理念の中身が見えてこない。現状の何が問題なのだろう。どこから被害妄想がもたらされるわけか。何をどこに向かって問いかけているのだろうか。なりふり構わないとはどういうことなのか。思考力が減衰しているようだ。彼らは何をやっているのだろう。外では強風が吹いているつもりだ。あり得ないことだろうか。作り話の中ではそれでもかまわない。だから思いもよらぬ事態に遭遇しなければならない。あり得ない話をしたくなる。相変わらず今は夜だ。策略を巡らさなければ何も得られない。そういう思い込みに至らせられる原因を探りたくなってくる。冗談ではないのだろう。制度のわかりにくさや矛盾につけ込んで金儲けを企んでいるのは弁護士ばかりではない。君はどこに敵を見出そうとしているのか。弁護士が悪いことをしているわけではない。それらのわかりにくく矛盾だらけの制度を利用するには弁護士や公認会計士などの助言が必要なのだろう。何か知らないが、とりあえず波長が合わない。感覚が君のものではないらしい。目標がなければ問題もない。現状をどうしたいのだろうか。簡単なことが述べられない。何をどうしたいのでもないらしく、目標も問題もなく、現状を現状として認められないような気もする。それは認識不足ということか。現状の説明が省かれているようだ。君はどのような現状のただ中で何を語ろうとしているのか。今語っているそれがそうではないのか。語っているのは誰でもなく、誰かによって何かが記されている。君はそうではないと思いたいようだ。それが誰かにはわからない。いったい何の意味があるのだろう。それは君に課せられた試練ではない。何を試されているわけでもなく、それらの試行錯誤は誰によって為されているのでもない。君に何ができるというのか。そこでは言葉がわざとらしく分散しているように感じられ、そこにどのような目的があるとも思えない。それでかまわないのだろうか。今は能力を使うべき時ではない。それはどういうことなのか。決断の時が近づいているとは思えない。不意に何かが到来するような予感はしない。それでかまわないのだろうか。君に理解できるようなことではない。だから問いのことごとくが無効であり、的が外れているわけだ。そこに設問など何もない。ではそれらの文章は何を述べているのだろう。この世界はくだらないということだろうか。たぶんそれだけではなく、この世界はすばらしいということだ。要するにくだらないことがすばらしいということか。言葉と言葉を短絡すればそうなるだろう。ただそれらの言葉と言葉の間に世界の本質があり、世界がすばらしくもくだらないと思うだけでは、その本質を見失っていることになるわけだ。誰もが生活必需品だけを買っているわけではない。世の中には無駄で無意味なものをほしがっている人が大勢いるらしい。君もその中の一人ではないのか。どこかの国の政治はそのレベルまで達していないようだ。ガソリン価格の急激な上昇によって国民の生活が脅かされているそうだ。そういわれてみれば中にはそういう人もいるらしい。騒いでいる人が大勢いるのだろう。君はまったく本気になれない。それに対するメディアの主張というものがどこにあるというのか。わざと話をそらしているような気がする。誰かが心配しているような状況ではない。何かに成功した人もいれば、失敗した人もいるらしいが、君はそのどちらでもなく、同時にどちらでもあるのだろう。いったい何に成功して、何に失敗したのだろう。そんなことまで考えるほど暇ではないか。君にとっては失敗でも成功でもどちらでもかまわない。成功と失敗の順序が逆だろう。失敗して成功して失敗すればいいのか。成功して失敗して成功するのもいい。何を述べているのかわからない。そういうやり方がよくわからないようだ。いずれにしても君にとっては何でもないことだ。意識がまだそこまで到達していない。冗談でならそれでもかまわないのだろう。冗談でなければはじめからやり直さなければならなくなる。面倒なことになりそうだ。チック・コリアの演奏ももうすぐ終わりそうだ。では今こそ心を入れ替えなければならないか。今までに何度その機会があったことか。やはり冗談でものを述べているのかもしれない。誰かはこれからも無駄に言葉を記し続ける。そんな予感がしているようだ。君の心配は杞憂に終わってしまう。それはなぜだろう。理由を探しているわけではないからだ。理由ならそこに記されているはずか。君が目を背けている世界が君に向かって襲いかかってくるわけではない。世界の方が君を無視しながら包み込んでいる。君こそが世界であり、世界の一部が世界を物語り、この世界を言葉によって構成している。
4月29日
また試練の時間帯がやってきたらしい。昨日から今日へ移行できずに、いつまでたってもそこで足踏み状態のようだが、今回はどうなのか。今まではそうだったが、何か打開策でもあるわけか。あったとしたらどうなのだろう。どうにもならないだろう。このまま明日になってしまいそうだが、どうしたらいいのだろう。どうもせずに眠ってしまい、明日になってしまったようだ。そして今は翌日の夜だ。誰かは夜に何を考えているのか。そんなことより、これから冗談で何を述べたらいいのだろう。君は国家を支える官僚機構のことをどう思っているのか。国民が国家の中で生活するためにはその存在が欠かせないと思っているわけか。別に荒唐無稽な無政府主義を信じているわけではない。今ある現状の中では確かに官僚機構は欠かせない。それが社会の構成要素となっているのだから当たり前のことか。それを否定するには、現状ではあり得ないような社会の姿を夢想しなければならなくなる。フィクションの中ではそれが可能かもしれないが、それでは意味がない。何の役にも立ちそうにない。ならば安易にいい加減なことを述べても無駄か。無駄ならどうすればいいのだろう。いつものように冗談に逃げてしまうわけか。本当に君は何を考えているのだろう。考えがまとまらないようだが、そもそもこの世界は何のために存在しているのか。何のためになどという目的自体が虚構だ。果たしてそれは目的だろうか。そんなところから語ろうとしても何ももたらせない。ただ無駄に言葉を費やしているだけで、何の結論にも至りそうにない。ではどのようなところから語りださなければならないのか。たぶん無理なのだろう。どのように語っても無理なのだ。どこから語っても行き詰まってしまいそうだ。そこで君は何と対峙しているのでもなく、ただ考えられないようなことを考えようとしているだけで、それはいつもの妄想のたぐいでしかない。だが現状から考えられることにはあまり魅力を感じられない。制度を簡略化してそれに携わる官僚の数を減らすことはできるだろう。簡単にできるのだろうか。隙あらば仕事を大げさにしつつ複雑にして、それだけ人員を増やして自分たちの勢力や権限を増大させようとしている者たちに対して、どのような対抗策を講じなければならないのか。組織というのは自己増殖を遂げようとするのがそれ自体に備わった本能なのだから、それを抑えるのは容易なことではない。だが何を利いた風なことを述べているのか。どうもそれは違うのではないか。何が的外れなのだろう。政治家は何をするために存在しているのか。また的外れなことを述べたいのか。誰かが道路の真ん中で人が仁王立ちだ。中央分離帯をまたいで立っているようだが、そんな光景に何の意味があるのだろう。言葉が何を捉え損ねているとも思えない。たぶん人々には仕事が必要なのだ。それはあり得ない話だろうか。わざと意味不明なことを述べているつもりになる。そこにどんな理想があるわけではない。今ある現実から遠くはなれたい一心で言葉を並べている。やっていることが目的に叶っていないようだ。それも冗談のたぐいだろうか。いつの間にか耳障りな蝉の鳴き声がやんでしまったようだ。そこが言葉を繰り出すチャンスなのだろうか。やはりわからない。何をどうしたいのかわからない。要するに仕事が現実なのだ。誰もが生きるために仕事をやっている。それは当たり前のことなのだろうか。何も疑念を差し挟むようなことではない。そこにどのような理由があるというのか。誰に話しかけられているわけでもなさそうだ。それはただの人形だろう。かかしのたぐいか。畑の中に看板が立っている。何とも思っていないようだ。ひたすら同じようなことを述べていたい。それは現実逃避のための手段なのか。自らがおかれた立場が自らを裏切っているように思われ、沈黙の言葉へと記述を導いているようだ。そんなことを述べてはならない。何を批判するまでもない。人々はこの世界に何を期待しているのか。それらの無理な願いはどこから生じてくるのだろうか。別に見せ物全般に期待しているわけではない。君自身がどうにかしなければらちがあかないだろう。つかみかけていた何かを手放して絶望的な気分をもたらしている。そんなのは嘘に決まっているだろうが、そのとき何を述べたかったのかわからなくなり、気がつけば怠惰な雰囲気に包まれていて、それでかまわないと思っている誰かの意識を改めることはできないらしい。翌日は暑すぎたのかもしれない。人は単純に目的に向かうことを嫌い、途中で何か興味深い挿話を楽しみ、それにかまけているうちに本来の目的を見失い、どうでもよくなってその辺をさまよい続けているようだ。それで君は気が済んだのか。だがやりたい放題というわけにはいかないようで、適当な時期を見計らって現実との間に妥協をはかり、何事もなかったかのようにまた仕事に励んでいる誰かの姿を見かけることになるのだが、それで何がもたらされたことになるのか。つかの間の息抜きにもならず、思考はあやふやに放棄され、事態は混迷の度を深め、他にどんな可能性があったのか想像もつかぬほど意味不明なことが記されている。
4月28日
誰かはまた昨日の時間帯に何かを記そうとしているようだ。相変わらず言葉が今日に届かない。昨日は晴れていただろうか。河口付近の川面は淀んでいるようだが、そんな風景を軽く振り切り、北の内陸方面へ向かっている。意識が何を求めているとも思えず、それが君の意識なのかもしれないが、そんな話の設定でも物語へは移行できないだろう。その気がないのだから仕方がなく、誰が欲していることもでもないように思われ、風景はその時の無関心とともに、さらなる背後へと退いてゆく。君がそれを望んでいるのではない。誰も望まないような未来が到来して、何となくあっけにとられるような驚くべき事件に遭遇したりするのだろうか。そこで何が執り行われようとしているのだろう。それはまたしても君には関係のないこととなってしまうのか。結果としてそうであったとしても、何がどうなって君の出現を食い止めようとしているのでもなく、そこにどのような理由をねつ造しようとしているのでもない。その辺から何となく意味不明気味の無内容に近づいているだけか。そうだとしてもそれをどう修正できるものでもないだろう。何をどうすることもできはしない。たぶん昨日から見れば明日は休日なのだ。明日になってもそれは変わらず、ただの決まり事に過ぎず、それをどうしようというのでもないらしい。今日も世界はニュース的な様相を帯びているように思われ、意識は絶えず現実から遠ざかろうとしている。それで何がどうなったわけでもありはしない。無関心になりたければいくらでも無関心になれるような世界だ。それについて何の罪悪感も覚えない。これからこの世界がどうなるのであれ、それについて何を述べても仕方ないだろうか。何をそんなにあきらめたいのか。誰が何をあきらめようとしても、そんなことにはおかまないなく、ひたすら言葉が記されてゆく。それがその場の執念を示しているわけだ。まったくあり得ない話ではないが、それはただの無駄なのかもしれない。質的にどうなのか。量的には十分か。何について何を述べているのか。何の話をしているのだろう。黙りこくっているだけでは何もわからない。誰かは国家的イベントという大げさな行事を否定したいわけか。そこに向かってスポーツが進化し続けているらしい。まったく馬鹿げたことだとは思わないか。膝の痛みがぶり返してくる。まるでくだらぬ幻想を抱いているわけではない。何か異物が侵入してくるような恐怖が襲ってくるか。それとはまったくの無関係だ。なぜそこで言葉がバラバラに飛散してしまうのか。話が意味をなさなくなる。遊んでいるのかもしれない。気がつけば意識はどこにも反映されていない。何となく抽象的なことを述べているような気がするのだが、思い違いも甚だしいか。それでかまわないと思えば何のことはなく、何でもなければそこから遠ざかれるかもしれない。退屈を持て余しているのだろうか。気まぐれにそん風に感じられれば楽しい気分でももたらせるだろう。君には必然的な結末が用意されているのかもしれず、今はそのための下準備が入念に施されている最中なのだ。何もそれで憂鬱な気分になることもないか。自らについて語るのは容易なことではない。語っているうちに眠たくなってくるが、それは自らについて語っているからではなく、ただ何となくそうなっているだけか。何を卑下しているわけでもなく、自らに何を言い聞かせているとも思えない。誰かは人間が下等な動物に感じられて、他人がみすぼらしく見えている時の自らは、優越感にでも浸っているわけでもないだろうが、そんなに認識を変えるような出来事に遭遇できないことが、何となくこの世界のくだらなさを嘆いている誰かの意識を後押しているようだ。まったく本気ではないような気がするのだが、それの何を否定したいとも思えず、言説的に何を修正する気にもなれない。誰かは君に何を語ろうとしているのか。何も語らずに示すような内容ではなく、肯定できるような内容を何も提示できないことが嫌気がさす原因となっているのだろうか。ただの意味不明に思われてくる。しかしいったいこの世の何を肯定し、何を賞賛すべきなのか。文明や芸術や科学技術のすばらしさや、スポーツにおける人間の驚くべき身体能力や、それらを含むゲーム全般における洗練された戦略や戦術など、あるいはマジックや探偵ドラマにおける人の虚をつく仕掛けの数々を賞賛したりすれば、何となくそれ風の言説を構成することができるかもしれない。だが重要で本質的な何かが欠けていないか。それは哲学とか倫理学とか、人の進むべき道とかいうものを指し示すことを生業としている人々が主張するようなことか。宗教の教義において述べられていることもそれと似たようなことか。だが常にそこから逸脱しようとするが人間の性というものか。そう述べると何か適当な内容に至ったつもりになれるだろうか。何となく虚しくなってくるようだ。そういうやり方では今までにすでに他の誰にかによって提示された内容の域を出ることはない。たぶんそれでかまわないのであって、それでは虚しいと思われるなら、虚しくなっていてかまわないのだろう。いったいそれ以外に何があるのか。君には虚無があり、空疎な冗談としてそんなことを述べているはずだ。
4月27日
場所とは何か。誰かはようやくここまでやってきた。そこから何を導きだそうとしているのか。記しているのは言葉の残骸か。他の何を記しているとも思えないが、作業は明日に持ち越されてしまうらしく、眠れないのに眠ったふりをしている。なぜそうなってしまうのか。眠ってしまったからのようだ。夕方までは確実に意識があったはずだ。疲れていたのだろうか。気づいたら真夜中になっている。君は何を期待していたのか。遅れていた時を元に戻す機会がやってくるとでも思っていたのか。現実には何もできないのだから仕方がない。何もできずに朝になっている。それから君はどうなったのか。君の物語などどこにも記されていない。たぶん誰かはそれを語る気がないのだ。その代わりに述べているのは思わせぶりばかりだ。いったいいつになったらそれらの文章が完成するのか。たぶんいつまでたっても終わらないだろう。君は終わらせる気がないのだろう。そしてようやく何かに取りかかろうとしているようだが、相変わらず目的に巡り会えず、意味がわからない。虚無は君に何を知らせようとしているのか。早くその場から立ち去った方がいいのだろうか。まだその機会に恵まれていないように思われる。何について語ろうとしているとも感じられない。すでに何かを記そうとしてから一日が経過しようとしている。その間に様々な出来事があったはずだが、まったく記憶に残らない。君はその場で何を思っていたのか。ただひたすら作業に追われながらも、その間に何か考えていたのかもしれないが、今は思い出せない。人はなぜ幻想を抱くのだろうか。何が人の意識を構成しているのか。胸に風見鶏の刺繍が施されたジャージを着た老人が本を読んでいる。そんな光景を目の前にして、取り立てて何を思うこともなく、今度は老人と入れ替わりにスーツ姿の中年が座席に腰を下ろす。それが何を意味することもなく、意識が強引に意味を導きだそうとしているわけではないが、何となく興味もない光景を言葉にして記してみると、つまらない文章が出来上がるかもしれず、たぶん後から読む気も起こらないそれらの文章に、どんな記憶が含まれているというのか。君の記憶ではない。誰かがそう記しているだけか。それがなんだかわからないが、たぶん明日も似たような光景に出くわすのだろう。意味のない記述とはそういうことのようだ。それらの何をどう見せかければ気が済むのか。誰かの気が済むか済まないかとは関係なく、文章は文章でしかない。君の意識はそこで砕け散っているのかもしれない。なぜ砕け散ってしまうのか。何をおもしろおかしく述べようとしているのでもない。ならばその辺で妥協してみないか。つまらないままでもかまわないはずだ。例えばどこかの日本庭園の中に老人が佇んでいる。それがどうしたのだろう。何か適当なたとえ話にでもしなければいけないのか。そこから何かいい加減な教訓でも導きだされてしまうわけか。それが何だろう。見せびらかしはよくない。その老人がどこかの歴史学者なら、それらしい庭園を前にしてどんな感慨に至るというのか。君は何も思いつかない。誰かがそう記そうとしているようだが、それを裏切るような言説を導きだせるだろうか。なぜそんなことをやらなければいけないのか。例えばワニのぬいぐるみを抱えた誰かがポスターの表面に印刷されている。それの何がおかしいのだろう。それがワニではなくウニだったらどうなのか。イラストレーターとタレントが深夜番組で木の年輪を探しまわりながら何かしゃべっていたようだ。そんな記憶なら思い出され、肝心の何かが思い出せない。それは肝心ではなかったのかもしれない。どうでもいいことを忘れ、どうでもいいことを思い出す。そこから何がわかるというのか。そんなことを述べていること自体どうでもいいことだ。唐突にそんな認識にいたり、何となく落胆するが、わざとそうしているのだろう。それは嘘でもなんでもなく、偽らざる真実の一つか。そうであったらどうしたというのか。どうもしなければその先に言葉をつなげられなくなるか。それの何がかまわないわけでもないだろう。電車の座席に座っている人はみんな眠そうだ。疲れているのかもしれない。ケータイの画面に見入っている人ばかりだ。周囲に迷惑をかけずに喫煙することが大人のマナーだそうだが、ここは全面禁煙だ。別に喫煙の習慣があるわけでもない。誰かは煙草会社の広告に見とれていたらしい。それは何でもないことなのだろう。そしてここはこの世界の中なのか。人は様々なことを思っている。君はそれらのつまらない話をなんとかしたいらしいが、もうあきらめたらどうか。この世界は何とかなる前に何とかなってしまっているようだ。あくびと同時に涙が出てくるが、悲しんでいるわけではない。悲惨この上ない状況がその身に降りかかってくる前に、なんとかしなければならないのかもしれないが、何も思いつかない現状をどうにも変えられず、その代わりに思い出されてくるのは、昔演じた失態の数々か。何を演じていたわけでもないだろう。その時は必死だったのだ。人は痛い目に遭わないと人間的に成長しないようだが、それがどうしたわけでもないと思い、昔の自分を肯定も否定もできなくなっていることに気づく。
4月26日
何となくくだらない気分だ。それほど精神的に追い込まれているのだろうか。わからないと思う。わかりたくないのかもしれない。つまらない何かに取り囲まれている。それは出来事や現象かもしれない。君はそこで何をやっているのだろうか。ただ仕事をやっているだけか。そうやって生きているのだろう。それだけのことなのではないか。物事を否定的に考えてはいけないが、極度のストレスで頭がおかしくなってしまったのだろうか。何をため込んでいるのだろうか。それは感情的な何かに違いない。感覚的に何がおかしいのだろうか。この世界がくだらないことの集積のように思われてくるのは当然のことで、何もそれに接して感傷的な気分になることはないだろう。すべては当たり前のことなのだ。誰かはひねくれ者なので、苦難を乗り越えようとは思わないが、とりあえず今はそれを体験しなければならない。そして心身ともに疲れてしまうわけか。それでかまわないだろう。それはそういう風になるための体験なのだから、当たり前のように疲れているわけだ。だがそこから立ち直ろうとしているわけではなく、さらに疲れるようなことを述べているのではないか。だからどうしたというのか。まったく気が知れない。そこまでやることはないのではないか。どこまで何をやっているというのか。誰かの気が知れない。何をやる気でもないのに、誰かは何となく言葉を記しているようだ。それでどこへ行き着こうとしているのだろう。行く当てがないのだから行き着く先などどこにもありはせず、ただどこかでさまよっているだけのようだが、それは架空の世界の中でのことで、現実の世界ではひたすら働いているだけらしい。それで他に何ができるというのか。まさか世の中の見聞を広めるために働いているわけでもないだろう。実態としては金と引き換えにして消耗しているだけかもしれない。生身を削ってひたすら消耗している。それだけのことに何の意味があるというのか。やはり馬鹿げているのだろう。冗談でそんなことを述べているとは到底思えないが、それも作り話のうちなのか。その場の気分に言葉が呼応しているのかもしれない。冗談ではないか。心は気まぐれだ。それらの文章が何を形作ることもない。文章ではないのかもしれない。何かに影響を受けているのだろうが、君はそういう言い回しが気に入らないらしい。果たしてそれ以降に続けて言葉を記してかまわないのだろうか。君はそこで何を恐れているのか。心が内部から虚無に浸食されているような気がする。虚無は何を欲しているのか。冗談か笑いなのだろうか。食らう対象を選ばないようで、あらゆる感情を食いあさっているようにも思われ、君は次第に無表情になる。それがどうかしたのか。虚無にとってはどうでもいいことだ。言葉は何をしているのか。何もしていないわけではないが、言葉で解決できるわけがない。虚無に太刀打ちでもそうもなく、他の何を用いても、その抗し難い魅力を払拭できるはずもない。虚無とは暴力そのものだ。誰もがそこへ引きずり込まれ、道を踏み外し、快楽の虜となってしまうだろう。だからそれがどうかしたのか。どうもしなければ何でもないだろう。幻影こそが君の実体だ。君は場所から生じているのだ。それは何もない場所で、ただ力だけが作用して君を生じさせている。浅はかな感情など吹き飛んでしまうような鋼鉄の意志を持ってしても、虚無が張り巡らした罠を突き破ることはできない。冗談はそこまでなのだろう。何が冗談なのかわからないまま、冗談がそこで終わってしまったらしいが、それによって誰が途方に暮れているわけでもなく、何となく君の笑顔は変わらず、決して苦痛に顔を歪ませるような失態など演じはしない。ただの無表情で苦難を体験しているわけだ。そして虚しくなる。何も思いつかないのだ。それでもやる気があるような気がするらしいが、嘘に決まっている。やる気がないのに言葉を並べている。そのような現状から何が導きだされているというのか。無駄に語ろうとしているだけか。中にはそれだけでは説明のつかない現象もある。だが誰かは何を説明する気もないのではないか。どうも雰囲気だけで何かいい加減に語っているようだが、内容は相変わらず意味不明だ。何かが移ろい、君の興味を削ぎ、何の関心もなくなって、何が起ころうと何とも思わなくなる。君は自らの死にも遭遇できない。そこで永遠の時間を獲得したのではなく、時間も場所も同時に失い、物語として構成されることに失敗して、誰でもない誰かとともにその時空から退場させられてしまう。いったいそこで何が起こったというのか。何も起こらず何も生成せず、そんな場所自体がなかったことにされてしまい、それはただの余白に過ぎず、何か意味不明な言葉が延々と記されているだけになる。君はそれを読み返す気も起こらず、自らの記憶がそれらのどこにも記されていないことに気づき、自分には関係のない文章だと悟り、落胆してそれらの文章の存在を忘れようとするが、それが叶うはずもなく、いつまでも意味不明な言葉の連なりから離れることができず、離れられない理由や原因を必死に探り続ける毎日を送り、原因と結果が無関係であることに気づこうとしない。それはどういうことなのか。
4月25日
何をそんなに心配しているのか。昔そういう歌詞の曲を聴いたことがあった。今の心境からそんな過去の出来事が思い出され、一難去ってまた一難状態の誰かは憂鬱な気分になっているようだ。まったく何をやるにも手順のややこしさに煩わされ、一度くじけると何もやる気がしなくなるが、それで何がどうなったというのか。そんな些細でくだらぬ心配事が杞憂に終わる前に、気がつけば言葉が方々へ散らばっている。そんな幻想を抱いている誰かの頭はおかしいか。おかしければどうしたというのか。とりあえず大胆不敵でわけのわからぬ行動に出ているわけではないようだ。そんな述べる必要のないことを述べている一方で、どこかで誰かの心身症を空想している。それは誰かではなく自らなのではないか。ならばさらに気が狂ってほしいわけか。それは嘘だろう。現状では狂っているのではなく、単に気が散っているだけかもしれない。至って正気であるようで、何がどうなろうと、どういうことでもなさそうだ。実際の心理状態はそういうことではないはずだ。だが君がそれを否定する意味がない。意味がなければどうすればいいのか。言葉を用いて誰を攻撃したいのか。それも違うと思われる。たぶん君自身が心の病ではないのだろうが、そんなことを述べているうちに、文章はまた昨日の時間帯で足踏み状態だ。そうなってしまうことと誰かの心理状態との間には、何の関連性もないのかもしれないが、嘘でもかまわないから、何か関連性を見つけたつもりになれば、そこにどんな状況が生まれるというのか。目にしている文字列はまるでパズルのような言葉の組み合わせだ。現世での心理状態が、作り話の中での出来事に影響を及ぼしているようで、それを読み進むうちに、他人事とは思えなくなってしまうらしい。それらの何を他人事と認識すればいいのだろう。何もないのに馬鹿げている。しかしそれらの文章は何を語っているのか。無駄に言葉を並べて悦に入っているとも思えず、何かしら主張したいこともあるのかもしれないが、文章の中で何を主張するにしても、結果的にはまったく要領を得ていないように思われ、ただひたすらその時の心境を、延々と述べているだけのような気がして、そういうやり方を架空の誰かが批判しているつもりになりたいらしいが、それでも何を述べているわけでもないといえるだろうか。とりあえずそこから言葉を記そうとするが、何も思い浮かばない。翌日は曇っていて寒い。午後からは雨が降り出している。それからどれほどの時間が経過したというのか。昼の暗い空を見上げているのは誰でもなく、虚無は心の隙を見つけたらしいが、誰かがどこかで笑っている現状をどうすることもできず、冗談を述べているわけではない、と自らに言い聞かせているつもりで、そのくせ言葉に行き詰まったら、今度はなりふり構わず冗談に逃げようとしている。いったいそれの何がおかしいのか。別に開き直っているわけでもない。そんな風に思っているつもりの誰かには、何を批判しても馬耳東風なのだ。それに対する君の言い草がどれほど滑稽であろうと、まったく気にしているふうも見せず、それどころか誰の考えも及ばないところで何かをやるつもりでいるらしく、誰かはいつも自らの誇大妄想を実現させようと必死なのだ。まったくご苦労なことだ。ただ冗談でそんなことを述べていること自体が馬鹿げているのかもしれない。文章の中では何か適当なことを述べているようでいて、実際は誰も何も述べていないらしい。そしてその代わりにありふれた言葉がどこかに記されていて、それを読んでいるありふれた誰かがどこかにいるわけか。それは毎度おなじみの空疎な作り話だが、たぶん現実においてもそうなのかもしれない。誰かはそういう言い草が気に食わないのだろうが、では何をそんなに焦っているのか。明日にでも死んでしまうような兆候は感じられない。そして誰がいつ死のうと、君には関係のない事情によって、それらの文章には度重なる変更が加えられてしまうのだろう。それとこれとが関係ないわけがない。それは何かの逃げ口上か。実際に言葉を記している誰かは、君という言葉を安易に使いすぎている。君が関係しているのは、それらの文章の内容そのものであり、それはそうなのだが、文章の中での君の位置づけが今ひとつはっきりしない。作り話的に君が何をしようとしているのかわからない。いつもそこで話がはぐらかされているような気がするのだが、そんな風にして横道に逸れることにどんな事情があるとも思えず、ただ何もないでは済まされないのだろうが、何もないから何も述べられない、という理由で正解のような気もするのだが、だからどうだというのだろう。そんなことはもとから承知で、何もないことにかこつけて、わざとそういういい加減なことを述べているに過ぎないか。ならば誰かはまるで空疎な文章を提示していることになる。正確に述べるなら、提示しようとしているのではなく、ひねり出そうとしてそれが果たせずに終わっているのかもしれず、それが気に入らないことの主な原因なのであり、それ以外は無視してもかまわないような、その場その場での感情の変遷が記されているのだろう。
4月24日
何となく出ばなをくじかれている。実質的には誰と何を競い合っているわけではない。そう感じられてしまうこと自体が、意識が何らかの論理の影響下にある証拠か。しかし論理とは何だろう。我々は何に対して危機感を抱いているのか。そこでどのような現象に遭遇しているのか。我々とは誰なのか。我々は人間ではない。別に人間不信に陥っているわけではない。ただ相変わらず述べている内容が空疎だ。翌日の空は晴れ渡り、誰かの思いも消えてなくなるほど日差しがまぶしいか。この世は言葉や映像や音楽で洪水状態だ。その洪水を乗り切るためのノアの方舟などどこにもありはせず、人々は言葉に溺れ映像に溺れ音楽に溺れている。だがそれだけで何が不都合なのか。溺れていれば幸せになれるかもしれない。そう思っている君は言葉に酔っているのではないか。状況がそれを促している。季節は春だ。君がそこから抜け出るには時間が必要だ。時間は何を解決しようとしているのでもなく、ただひたすら過ぎ去るだけで、それ以外に何も用をなさない。過ぎ去るだけでは何か無責任な感じがしてくる。人はなぜ他人を殺めようとしているのか。過ぎ去る時と何の関係があるのだろう。そうではないと思いたいのだろう。それらの思考は制度に縛られているようだ。それは軽はずみに否定されるべきものではない。何もなければ意識が現世から退いてゆく。考える力が弱まっているのかもしれない。君にとっては身に降り掛かる災難でさえ他人事か。それについては何も考えなくてもいいのだろうか。実際に出来事に遭遇していると感じたら、その時は自然と思考作用が作動するのだろう。今は何に直面しているわけでもないので、何も考えようとしないらしい。本当に考えるべきことなど何もないのだろうか。すべての現象から突き放されているような感覚があり、そんなわけで誰かはもはや用済みの人間になりつつある。君はそんな認識で気が済んだのか。誰に向かってものを述べているつもりだ。それらの意識が存在しようとしている時空には何もありはせず、そこで語っているつもりの内容は自然と空疎になるらしいが、それはあり得ないことだろうか。現状がそうなのだから、それこそが真実なのだろう。ならば作り話としてはどうなのか。この期に及んでどんな嘘をつけというのだろう。それは神のお告げか何かか。そうだとしたらこれからどうするつもりなのか。今の心境を何かたとえ話のようなもので表現したいわけか。まったくわからない。いつものように本気になれないようだ。君がそうなのではなく、誰がそうなのでもない。では本気になれないというのが嘘なのか。何かの努力が水泡に帰す時、何となく笑いのきっかけのような雰囲気が形作られ、君を愉快な気分にさせるのかもしれない。では実際に何を笑っているのか。暫定税率が復活してガソリン価格がまた値上げされたら愉快だろうか。気がついたら尺取り虫が腕の上を這っていた。何が愉快かはその時の成り行き次第か。暫定税率が復活しなかったら、道路工事が減って少しは渋滞がなくなるかもしれないが、渋滞解消のための道路の拡張やバイパス工事もできなくなってしまうだろうか。どちらが渋滞解消の効果があるのかわからないが、それはガソリン価格が上がってガソリンの使用量が減り、それだけ大気中の二酸化炭素濃度の上がりが鈍っていいのか、あるいは暫定税率が廃止されて、その差額分だけ他の商品の購買意欲が刺激され、その結果個人消費が上向き、または軽油の価格が下がって運送業界の業績が上がり、その分景気が良くなっていいのか、どちらがいいかは判断する者の立場上の違いになるだろうか。暫定税率がなくなって道路工事が減って、土木業者が倒産するか、あるいは暫定税率が復活して、軽油価格の上昇で運送業者が倒産するか、そのどちらが切実な問題なのだろうか。どちらにしても君には関係ないことのように思われるが、言葉を記している誰かは車を運転するので、ガソリン価格は安いに越したことはない。そのために地方自治体の税収が減って困るというなら、そのぶん仕事を減らして職員をリストラすればいいだろう。簡単に述べているが、実際にリストラ対象となった人は悲惨だろうか。そうなったらその人にとっては深刻な事態になるのだろうが、推測の範囲内でいい加減に述べている誰かにとってはどうでもいいことか。確かにそんなことをいくら述べても何がどうなるものでもない。そんなことは問題でもなんでもなく、世の中の制度が少し変わっただけで損する人もいれば得する人もいるということでしかないが、その制度自体にどのような正当性があるのかといえば、暫定税率はあくまでも暫定的なものであり、それを恒久的に維持しようとしているのだから、それに無理があると考えるのは、きわめて当然の認識になるだろう。簡単に考えればそういうことでしかない。そこに後からいろいろな事情や理屈を付け加えて、何十年も前の暫定的な措置の継続を正当化しているわけで、まともな思考力を携えた人で、それが廃止されたら損害を被る人以外は、そういうやり方には反対すべきではないか。とりあえず今のご時世ではそんな正論はまかり通らないのかもしれない。
4月23日
そこでなんとかしようと思ったのかもしれないが、邪魔な出来事に行く手を阻まれる。苦し紛れに思いついたのはそんないいわけか。言葉を記している誰かには関係のないことかもしれず、それがなんだか知らないが、実際に知っている出来事はそれとは違うようで、言葉として導きだされた何かが、つまらない現実を無視して記され、そこで見たつもりの派手なクラッシュが、映像なのか現実なのか知り得ない。少なくとも幻影ではないらしい。作り話の中では確かにそうだったが、そこまで述べて具体的な日時を思い出せない。たぶんニュースの中に何かを記すきっかけを見つけたのだろう。ありふれた行為が誰かの興味を失わせ、要するに万物は流転する。人は誰かを道連れにして死にたがるが、何が未遂に終わったのか。我が子を殺して自殺未遂に終わったらしく、とりあえずノイローゼの原因となった育児からは解放されたらしい。別に述べてはならないことではない。問題の解決には誰かの犠牲がつきものか。そこで誰が何を述べているとも思えない。いつものように君には関係のないことか。何かに幻惑されているのかもしれない。思いつくことがありふれている。それでそんな言葉の連なりを奏でているわけか。気が晴れることはない。記したかったのはそういう話ではないだろう。どういう話でもなく、話の内容をこれから思いつこうとしていただけか。少なくともその時はそうだった。だが後から何を思ってみてももう手遅れだ。まったく興味がわいてこない。だからどうしようもなくそこに虚無が居座り続け、決して退くつもりはないらしい。意志が薄弱なのか。君が自発的に周りを取り囲む虚無を操作しているつもりなのだ。だから意固地に振る舞い続けるだけでは何も示せない。そのときやめる意志を持っていたのは誰だったのか。誰かが無理心中を思いとどまったわけか。そう述べる意図がわからない。とっさに思いついた何かを述べていることに不連続なつながりを感じるようだが、思いついたその前後で何が起こったのか。簡単に述べるなら、偶然の巡り合わせだろう。行く手を虚無に遮られた意識は無意識のうちにどう対処したのか。導きだされた言葉の連なりはどこからどこへ回り込もうとしているのか。君の予想は当てにならない。まったく本気ではないようだ。何を当てにしていたわけでもないだろう。音楽を聴いているうちに眠ってしまったのかもしれず、そこから夢遊病者のようにどこへ歩んでいくつもりもなく、どこかで立ち止まったまま動かなくなり、しばらくして心臓の鼓動が止まっていることにでも気づくわけか。そんな嘘で作り話を構成できるだろうか。そこで誰が死んでいるというのか。ニュースの中で人が死んでいて、誰かが記そうとしていた作り話の中では、すべてが嘘だったに違いないが、それがどうしたわけでもなく、架空の登場人物も出てこない。何もかもが冗談なのだから仕方がないか。その何かもかもには何が含まれていたのか。すべてに決まっているだろう。すべての中にすべてがある。すべてはすべてから構成されていて、それがそれらの文章なのかもしれない。ではその辺に散らばった言葉の配置のうちで何が生成しようとしているのか。君の感情はどのように作用しているのだろう。誰かの文章は無駄な問いかけがすべてなのか。たぶんそうなのだろう。それに対する答えが返ってこないのはわかっているのに、わからないふりをしている。そしてまた無駄なことを述べているようだ。嫌気がさしてその辺でくじけてしまうか。足をくじいているわけではなく、膝が痛いだけだ。それは作り話ではなく、誰かの身に降り掛かっている現実だろう。それほど気が狂っているわけではない。何を告白しているわけでもなく、そんなことを尋ねているわけでもなく、尋ねられているわけでもない。それらは尋問とは無縁の独我論的な言語空間か。そしてその辺で一休みしたいらしく、気がつくと目と目が寄っているようだ。それ以前に何となく気が散っているようにも思えるが、それは君が君のことを考えている最中だからか。たぶんそれは嘘に違いない。何をどう述べてもつまらないのだから仕方がないか。そんな心境でまだ記述を続けるつもりのようだ。どうやら懲りていないようで、他にやることがないらしく、一心不乱に何かに打ち込んでいるふりをしているようだが、文と文の間に意味的なつながりが感じられないようだ。文章が一つの話題でまとまっていない。話題も何もないのだろうが、それで何を批判したいわけではない。老人が医療費を払えないそうだが、君は老人ではない。架空の存在なので年齢がはっきりしない。まだ作り話の体裁を整えていないようだ。なのになぜそんなことを述べようとしているのか。わからないのだろうが、何がわからないのだろうか。何もないのに何を問いかけているのだろう。それ以上の継続は無理なのではないか。誰かはひたすら空疎なことを述べているみたいだ。それがなんだかおかしくてたまらない。言葉に行く当てなどない。どこかで迷っているようだが、そこに誰かの意志が感じられるわけか。おそらく誰かは何かをどうにかしようとしているのだろう。それがわけのわからない作り話もどきを記すきっかけとなっているのかもしれない。たぶん冗談でそんなことを述べている。
4月22日
たぶんそれでも昨日のことなのだろう。また遅れてしまう雰囲気もあるようだが、空は相変わらず晴れていて暑い。数日後にはまた雨が降って寒気が降りてくるらしいが、また蒸し暑い季節がやってくるのだろう。そして君は何も思わない。他人は何を思っているのか。何を思っていようと他人の勝手か。君には関係のないことかもしれない。しかしそれでは話が終わってしまうだろう。終わってしまってもかまわないようだ。次は何に盛り上がるつもりなのか。その次などあるわけがなく、何に期待しているわけでもなく、もとから何に興味を抱いていたわけでもない。ならば何も述べなければいいではないか。それが気に入らないようだが、ではどうすればいいのだろうか。神のお告げや天啓にでも期待してみるか。そういう発想が貧困なる精神でも呼び込んでいるわけか。何がそうさせているのだろう。他人のせいにしてはいけないのではないか。堪え性がないか。わけがわからないが、要するに我慢が足りないということか。何に耐え続けなければならないのか。ますますわけがわからなくなる。君には君の流儀があるはずで、それに沿うような言説を構成したらいい。誰に復讐する権利があるわけでもなく、成り行き次第でそうなってしまう場合もあるのだろうが、この世界の中で作用反作用の均衡がとれているとは思えず、自然と力が加わっている方向へ意識も身体も情報も導かれていく。たぶんミャンマーでもチベットでも僧侶の数が多すぎるのだろう。それが国家主義のつけ込む隙を与えているわけか。それとこれとは無関係か。たぶん中国政府がチベット人を日本のアイヌ民族やアメリカの先住民やオーストラリアのアボリジニのように徹底的に弾圧して根絶やしなるまでに押さえ込むには時代が進みすぎてしまったのだろう。大量に虐殺すれば世界中から非難される時代にそれをやってしまったらヤバいということか。強引なやり方以外にでも策はいろいろありそうだ。簡単だが中国にはできないやり方としては、選挙でもやって議会を作らせて、現地の人々にある程度は権限を持たせて自治をやらせればいいのだろうが、それをやってしまうと他の民族地区でも同じようなことをやらなければならなくなってしまい、統一国家としての収拾がつかなくなってしまうだろうか。将来的には緩い連邦制でも採用すれば楽にはなるだろうが、そうなるとソ連の二の舞で、中国そのものが崩壊して、小国分裂状態になってしまうかも知れないが、そうなったらヨーロッパのようになればいいだけか。とりあえずそうなることを誰かは祈っているのかもしれないが、君には関係のないことだろうが、とりあえずここぞとばかりに感情的になって、人権弾圧を非難するのも一過性の流行現象になるだけのような気はする。たぶんオリンピックが終われば熱も冷めて事態は収束へ向かうのだろうが、それで何が変わるとも思えない。中国がチベットの地下に埋蔵されている鉱物資源をくすね取っているというのなら、オーストラリアでもアメリカでも同じように先住民が住んでいた土地から地下資源をくすね取ってきたのであり、日本も北海道で同じようなことをやってきた経緯がある。そこに未開発の広大な大地があれば、やることはどこでも同じであり、武力に勝っている征服者側が、先住民を追い出して富を独り占めにしようとする。とにかくそういうことがこの地上で一回りしないとそういう惨劇はなくならないような気はする。地上のすべてが開拓され尽くして、そんな魅惑のフロンティアが地上からなくなった時、そういう悲劇はなくなるのだろう。そうなれば人類は宇宙にでも活路を見出そうとするわけか。そんな事態になるまでに人類そのものが滅んで、この地上から消え去ってしまえばおもしろそうだが、人類がどこまでしぶとさを発揮するかは今後の成り行き次第ということか、案外ゴキブリ並みの生命力を身につけて、宇宙全体にはびこってしまったらかなり鬱陶しいか。そうなるまでいったいどれほどの時間を要するというのか。途中から単なる荒唐無稽で空想の域を出ない話になってしまったが、この地上でいつまでたっても武力紛争がなくならない現状について、何をどうやれば解決するということはなく、今やっていることの延長で、有効であれ無効であれ、発言できる者は粘り強く人権抑圧を非難し続けていかなければならないらしく、そんなことの繰り返しが延々と続いてゆく状況にあるようだが、それ以外にどんなやり方があるというのか。何となくその辺で思考と言葉が循環していて、解決法など何も思いつかないようだが、それは人が考えられる次元を超えて、何らかの作用がもたらされ、気づいてみれば解決していたというより、不具合が解消されるように世の中の流れが変わるのを待たなければならないのだろう。抑圧とそれに対する反抗という関係が永遠に続くことはなく、辛抱強く双方が話し合っているうちに、相手側に対する偏見やこだわりを改められれば、ひとまずは成功を収められるかも知れず、そういう意味でも日頃から快く思っていない相手との対話が欠かせないということになるだろうか。それともそれでうまくいくようならとっくにうまくいっているはずか。
4月21日
それは昨日のことなのだろう。明日は誰が死刑を宣告されるのか。復讐とは何だろう。ところで君は誰に仕返しをしたいのか。君の代わりに裁判所が復讐を代行してくれるわけか。それは今から何年前の出来事だったのか。君はそのとき誰に復讐を誓ったのだろう。今ではそんなくだらないことは覚えていないか。今の君はどうなってしまったのか。あのとき以来どんな変貌を遂げてしまったのか。人々は争いごとの中で生きている。いつ身を滅ぼされるかわからないスリルと恐怖の中で快楽を求めている。誰が君の命を狙っているのだろう。作り話の中の犯罪者はおとなしい。何に対しても興味を抱いていないようなそぶりで街中を歩いている。そう見えるだけで、本当はどうなのだろう。何でもないのかもしれない。彼は今のところ犯罪者ではない。たぶんこれからふとしたきっかけで犯罪者になるわけだ。だからどうだというのだろう。そんな作り話には興味がないか。興味がなければそんな話はなかったことにしよう。まだ何も話していないではないか。肝心の内容がここではまったく出てこない。誰かは何かを語るのが面倒なのか。それで言葉を連ねている理由など見つかるはずもない。では何に対して興味を抱いているのだろう。少なくとも君のことを述べているわけではない。それは誰のことでもなく、他の誰かのことでもありはせず、冗談でそんなことを述べているわけでもない。ならば死刑の話はどこへ行ってしまったのか。誰が死刑になってしまったのだろう。陰気な気分になっているのかもしれない。陽気な音楽を聴きながら、すべてをなかったことにしたい気分なのだろうか。それが気に入らないことの一部始終なのか。まだ何も語っていないのではないか。架空の話の中に語る必然性を見出せない。本当に何でもないならば、たぶんどうにもならないだろう。そこで苦悩しているとも思えず、思い悩んでいる以上に何もありはしないか。その状態をどうしようというのでもない。誰かが四面楚歌の中で何をやろうとしているのか。未来を切り開く者が人々に理解されることはない。ただ他人とは違うことをやりたがる者は鬱陶しがられる。そんなことをやって何になるというのか。何にもなりそうもないから理解し難い。無駄なことをひたすらやっているだけかもしれない。誰からも認められないことは堪え難いか。それは何かの勘違いだろうか。そうだとしたらどうなのだろう。もうやめてしまえばいいということか。何をやめるべきなのか。世の中には球を投げたり打ったりして金を稼いでいる者もいる。どこかで誰かが球蹴りゲームを見て興奮しているはずだ。それが何になるとはいうまい。そう述べただけで批判していることになるのかもしれず、本当はそれらのゲームを馬鹿にしているのではないか。君はスポーツに逃げるつもりはない。それらの何がスポーツとして成り立っているのか。それは素朴な疑問ではなく、わざとらしく素朴さを装っているのでもない。普通はそうはならないはずだ。そこからどんな言説が始まるはずもない。奏でられているのは何かの楽器に違いないが、それで何を応援しているわけでもなく、君はただ音楽を聴いている。暇つぶしの一環だろう。たぶんそれだけのことなのだ。何も語ろうとはしない。まさか勉強しているわけではないはずだ。電車の中で目のやり場に困っているわけでもない。わかりやすさを置き去りにするのには理由があるわけか。それはどんな理由なのだろう。まだそこまでいっていないということか。理由になっていないようで、それらの文章は何か意味深な暗示でも含んでいるのだろうか。たぶんそのとき誰かはジャズを聴いていたのだろう。自らが死と隣り合わせにあるなんて夢にも思わない。死んでしまった者に投げかける疑問などではない。では間違っているのだろうか。もとから間違っていることは承知している。許容の範囲内か。おもしろかったらそれでいい。つまらなくてもかまわない。そんなことはどうでもいいわけではないが、とりあえず何か述べていればいいのかもしれない。それで気が済むはずもないが、まともな内容を示すことができず、それで途方に暮れているわけでもないが、何となくそれ以上の状況へ至りたいらしく、そうなるための努力を惜しんでいるふうもないようだ。その願いはいつ叶うのだろうか。誰が何を願っているとも思えない。ただそんな言葉が連なっている。ひたすら何を述べているのだろう。もう飽きてきたからその辺で終わりにしないか。できることとできないことがあるのはわかったつもりだ。果たしてそれでわかったことになるのだろうか。それ以上に何を知りたいのか。知り得ないこととはどんなことだろう。そういう無駄な問いかけにはどのような効用があるわけか。わけなど知りようがない。では知り得たことは何なのか。誰かの心は虚無に包まれている。作り話の中ではそのようだが、誰がそれを覆そうとしているわけでもなく、他に登場人物などいるはずもなく、そこには誰もいないのかもしれない。実質的には無人の広野で話が展開されているわけだ。矛盾を承知で何を述べているとも思えないが、君はどんな話が作られているのかもわからなくなっているのかもしれない。
4月20日
誰かは疲れて明かりをつけたまま眠ってしまったらしい。いったい数日前に何が起こったのだろうか。様々な出来事がその時間帯に連続して起こったらしく、君はそれらの出来事から生じた不具合に行動を押さえ込まれ、焦ってわけがわからなくなっているようだ。少し落ち着かなければまともな文章を構築できない。別に均質空間の中で生きているわけではない。不均衡のただ中で様々な物事が流動的に移り変わる現状の中で何を強調したいのだろう。思い違いの可能性を探っているようだが、それこそが思い違いから生じている。ことあるたびに何かが蒸し返されて、それが紋切り型の思考作用であることはわかっている。なんとか現状を頭の中で自らにわかりやすく説明しようとしているわけだが、でたらめに言葉をつなげて何を語ろうとしているのか。それが苦し紛れの作り話であることはわかっているようだが、それを改めるために何ができるというのか。たぶん前向きな対応などあり得ない。空は曇っている。それが何に影響を及ぼしているとも思えない。なぜ君は同じようなことしか語れないのか。君が何を語ろうとしているわけではない。誰かはまだそんなことを述べている。それはどんなことでもなく、そんなことでもない。では何を述べているのか。何も述べずに言葉を記している。それはどのような表現形態なのだろうか。今ここにある文章が何を物語っているというのか。君は何も語れないと思っている。それでも誰かは何かを語ろうとする。美学とは何なのか。誰かの周りを取り巻く風景に美学が必要だろうか。誰かの会話は美的な雰囲気をつかみ損ねている。そこから話が続かない。意識の中にくだらぬ偏見が紛れ込んでいるようだ。それで何について述べているつもりなのか。誰かは架空の会話から生じている話し言葉によって何かから逃れようとしている。まったく意味がわからないが、込み入った事情をねつ造しているようにも思われ、それがどうしたわけでもなく、やはり何を述べているとも思えない。数日後の空は晴れ渡り、この時期にしては暑すぎるくらいに暑くなるようだ。まったく関係ないだろう。前後の文につながりが感じられず、それでかまわないとは思えないようだが、現状ではどうしようもない。しかし現状とは何なのか。そんな言葉が繰り返し記されているのが現状らしいが、他に何があるわけでもない。では何が問題なのだろうか。ただ無理に語ろうとしている。それでおしまいか。人間は世界中で無駄に存在している。何を笑っているのだろう。意味のない人々が多すぎるのかもしれない。君もその中の一人だろうか。架空の存在なのだから存在ではなく不在に違いなく、それをネタにして無駄に言葉を連ねていて、それがわからない。何の意味があるのだろうか。目的という概念が当てはまらないのだ。人は何のために生きているのでもないらしい。何をどう考えても意味不明だ。答えがどこにもないような気がするのだが、あえて答えを求める必要があるのだろうか。それは何のために必要な答えなのか。たぶん馬鹿らしい。気がつけばさらに無駄な問いが循環しているようで、何となくそれはいつものパターンのような気がして、何もない時にそうなってしまうのだろう。それでも馬鹿げたことの続きだろうか。馬鹿げたことを述べること以外に、人にはどんな可能性があるのだろう。短絡的なことを述べている者にはどんな可能性もないか。それの何が短絡的に思えるのか。またずいぶんと回りくどいことを述べているつもりだが、実質的には何も述べていないような気がする。何か世の中の役に立つようなことを述べられないものか。冗談でそんなことを述べているようでは何の役にも立ちそうにない。誰かは短絡的な言葉と行動に魅力を感じているのだろう。うば捨て山とはどこにあるのだろうか。七十五歳以上の老人は何のために生きているのか。人は何のために生きているのだろう。答えを求めているのではないらしい。人は社会の中で何らかの役目を割り振られているわけか。何も感じられない。そんなことを述べている場合ではないらしい。何か他に可能性を見出せないか。君は他人を利用して何を語るつもりなのか。そこで何を急かされているのだろう。すでに数日後の夜になっている。誰かはまだ粘っている。何も語ることは叶わないのに、絶えずそれ以上の内容を求めている。何もないだけでは気に入らない。外界にはすべてがあるはずだ。そのすべてを手に入れられるとは思わないが、その中の何かについて語ることはできそうだ。ならばそれを試してみればいい。君にはどんな思考が備わっているというのか。それを今こそひけらかしてみるがいい。何もなければ我々に詫びてほしい。それは誰の台詞なのだろう。わかっていることを言葉にしてみればいい。今はぜひそれを知りたいところだ。知りたくなければどうなってしまうのか。何もなかったことにしよう。誰かが冗談でそんなことを述べている現状を呪っているみたいだ。それ以上の神秘主義に染まりたいか。そういえば共産主義はどこへ行ってしまったのだろう。どういっているわけでもないが、そこで誰が何を呪っているわけでもないらしい。
4月19日
何に気づいたわけでもない。どうも昼休みは何もできない時間帯のようだ。翌日は曇り空の下で働いている。そして夜になる。結局何もありはしない。事件に遭遇するはずもないだろう。夕方のニュースを眺めている。頭の中がぼやけているようだ。別のチャンネルで公開討論番組のようなものをやっていて、老人が日本の風景がどうのこうの述べていた。詳細な内容までは覚えていないが、同じような風景ばかりでつまらないそうだ。そのことについて何を思っているわけでもない。君は何も思わないだろう。日本は世界に誇れるような国ではないが、それほどひどい国でもないのだろう。どうでもいい国のような気がする。決して国家が前面に押し出されていくようなことはなく、本気になれない人が大勢暮らしている。そしてやっていることは何事も中途半端だが、それでかまわないのかもしれない。このような国に暮らしていれば、人間がなんでもない存在だということを理解できる。いつ滅んでしまってもかまわないのだ。それでも世界はあり続け、地球は回っている。どうでもいいのだから、見栄を張るような心境にはなれそうもない。自意識過剰気味に自らを見せびらかしている人々があわれに思えてくる。人々は絶えずうまく立ち回ろうとしている。やはりそれでもかまわないのだろうか。テレビなど見ている場合ではないか。袋小路の突き当たりに何があるのか。何もありはせず、無表情を何かが構成している。それは絶望ではない。絵画でもない。しかし言葉が散らばりすぎているようだ。冗談で何を述べても無意味だ。別に意味を求めていないのだから、それでかまわないだろう。それで気分が晴れるだろうか。そうではない。お前は何を考えているのか。考えられない状況に遭遇しているわけではない。いつもの行き詰まりだろう。深刻な問題ではない。眠ってしまえばいいのだ。寝て起きればまた何か言葉を記している誰かが部屋の中にいるはずだ。それが君でないはずがないだろうか。そこで何を述べているのだろう。何がわからないのか。人はどこまでも人であり、神でも悪魔でもなく、そういう存在を妄想する生き物だ。それは架空の存在だろうか。人こそが架空のあり得ない存在なのではないか。君は人ではなく言葉だ。人だと思うならそれでもかまわない。何かが間違っていたのだろう。ひたすらあり得ないことを述べようとしている。それ以上のどのような心境を望むだろう。それで誰が満足しているのか。まとまりのある文章にはなりそうもなく、それでかまわないとはいわせない状況に陥っている。それは何かの思い違いから生じている状況か。何を驚いているのか。今回は具体的な話題へと向かう成り行きから外れているようだ。君はなぜそれをそのままにしておこうとしているのだろうか。実際に行き詰まっているからか。たぶんまた余分なことを述べ続けているのだろう。君の意識は何もとらえられず、まともなことは何も述べられないようだが、それでも言葉を記そうとしている。毎度のことだが、まったく馬鹿げている。それを知っていながら同じ過ちを繰り返そうとしているらしい。破滅への道をまっしぐらに進むつもりなのか。そんな大げさなことではない。ただの戯れ言の延長だろう。誰が破滅しなければ気が済まないと思うだろう。そうなる前に道を外れてしまい、どうでもいいような成り行きになってしまうのがオチか。結局何を述べているのでもないことになってしまうわけか。人はいつの時代でも限りなく働いていて、それが生きている証しとなっているようだが、君の作業は仕事にはならない。それについて悩んでおり、ひたすら悩ましく思い、どうにもならないから、後は笑うしかない。誰に興味を抱いてほしいとも思わない。何か気の利いた内容にたどり着いたとも思えない。虚無を継続させることの困難さを身にしみて感じているようだ。そんなことはない。何かしら語っている事実を認め難く、そういうやり方が破綻していることも認め難い。誰かが何かを記していることを否認したいらしい。認められないようなことを述べているわけではない。無視されて当然のことを記しているのかもしれず、そんな状況をどうするつもりもなく、ただ言葉を記し続け、そこで何か考えているつもりになりたいのかもしれず、その中に誰かの本音が紛れ込んでいるような気になっている。それで何をどう感じているわけではない。しかし何かおかしいとは思わないか。君は何について語っているのか。そのすべてが作り話だとは思えないが、誰がそう思っているとも思えない。考えるための材料がどこにも見当たらない。何を考えればいいのだろうか。国家も世界も何の統一感も感じられない。何もかもがバラバラなのではないか。全体としてどうということはないことばかりが起こりつつあり、真剣に取り組むべき問題など何もなくなっているのかもしれず、その代わりにいつまでたってもつまらない不具合にこだわり続ける宿命にあるようで、そんなことに掛かりきりにになっているうちに、物事の本質が見えなくなってしまうのだろうか。すべてがどうでもいいように思われ、この世の何が重要だとも感じられなくなっていて、それが危険な兆候だとも感じられない。
4月18日
何かの癖だろうか。目の焦点が合わない。どうもそれは違うような気がする。幸か不幸か相変わらず心は昨日の時間帯に佇んでいる。かなり抽象的な気分のようだが、それも作り話的な嘘だろうか。関係ないが糖分の取り過ぎかもしれない。だがそこから何かをとらえ直さなければならない。それはあり得ない話だろう。今の君には何が必要なのか。言葉でないことだけは確かなようだが、今も余分な言葉に行く手を遮られている。何のたとえでもなく、一息ついているわけでもない。ますます意味不明か。なんとかしなければならないのだろうか。気に入らないのはそれだけではない。なぜかでたらめな言葉の中で落ち着いている。そこから何をどうしようとしているのだろう。いつものようにどうもしない。黙って自然の成り行きにかませていれば、言葉が自動的に連なってくれるはずだ。君はそれを信じている。馬鹿げた話で話にならない。何も話になっていないのかもしれないが、努力を重ねた末にたどり着いた結果がそれなのか。また冗談でそんなことを述べているのだろうか。なぜそんなことを述べているのだろう。たぶん誰もわからない。君に何がわかるというのか。わからないから問いかけているようだが、どこに向かって問いかけているのだろう。虚空に何があるというのか。誰が何を述べているわけではない。誰も何も述べていないのだろう。同じような言葉が延々と続いているようで、まったく和めない。それを記しているのは君ではないのか。君でなければ誰がそこにいるというのか。そういう問いが無駄に連なっている。この世界に君の存在理由などありはしない。だから無駄に言葉が連なっていて、架空の存在でしかない君を困らせているというわけか。ため息が出る。そうではないと思いたい。誰か理由を知らないか。苦し紛れに何を述べているのか。そんなやり方で窮地を脱することはできない。では誰がそれに気づかないのか。わけがわからないふりをしているだけだ。冗談で述べているにしては妙に深刻ぶっている。自ら招いた窮地に酔いしれている。それは間違った解釈だろう。誰が解釈しているのかわからない。さっきまでは音楽を聴いていたはずだった。それが何かの間違いなのか。そうではない。語っているつもりの内容がでたらめなのか。そう思わせておけば事足りるはずだ。君は現世に興味を失い、過去にも未来にも希望を持てない。冗談でそんなことを述べているようだが、現世の何が気に入らないのかわからず、途方に暮れているわけでもないが、何となく困っていることだけは確かなようだ。それは浅はかな行為か。何が行為と見なされるのだろう。オリンピックの聖火ランナーの行く手を遮ることが有効な宣伝活動になると思っているらしい。国家に反対することが別の国家を求めることにつながり、結果として国家という存在形態を生き長らえさせようとしている。それの何が問題なのか。民族国家という幻想を温存させている。民族とは何だろう。なぜ民族という集団の一員になりたいのか。それは迫害という苦難を経験した者でないと実感できないことかもしれない。しかし世界各地の紛争地域には必ず民族という集団が存在していて、隣接する他の民族といがみ合っている現状があり、戦争による殺戮の危機を回避するには、同じ民族で一つの国家を築こう、という考えに行き着き、そのために他の民族と戦ってしまうわけで、結局平和を実現するために戦争をしなければならない、という悪循環に陥って、そんな終わりなき闘争状態の人々が、自業自得気味に苦難の歴史を作り上げているわけだ。彼らに向かって自らの宗教や文化を捨てろ、と告げるのはお門違いも甚だしいか。お門違いであろうと勘違いであろうと、今こそ幻想を捨て去らなければならず、その地域に根ざした固有の文化や宗教や言語から遠ざからなければ未来はない。しかし遠ざかるとはどういうことなのか。それらを自己正当化や自己主張のためのいいわけに使うべきではないということだ。国家という存在を実体のあるものと認識すべきではないのかもしれず、そこには政府と呼ばれる官僚機構があるだけだ。政府に対する抗議活動に民族や宗教を持ち出しても無駄だ。それは政府が人々を統治するために活用する道具のひとつでしかなく、現にチベット民族の抗議活動を押さえ込むために中国政府が活用しているのは、数では圧倒的に勝り、華僑として世界各地にコミュニティーを作り上げている中華民族の団結だ。結局は人権問題も民族同士のいがみ合いという次元で語られることになれば、どこまでいっても平行線をたどるだけだろう。それはパレスチナ人とユダヤ人とかトルコ人とクルド人とか、ダルフール紛争におけるアラブ系とアフリカ系の民族とか、イラクにおけるスンニ派とシーア派とか、いくらでも変奏可能なありふれた民族宗派間の対立になってしまう。たぶん暴動を起こした時点でチベット人の敗北は決定的なのだろうが、他に何かやりようがあったかといえば何もありはしない。チベット人がチベット人として救われることは未来永劫なさそうだ。今後仮にソ連から独立した中央アジアの国々のように、中国からの独立を勝ち得ても、そこには統治機構としての政府が存在することとなり、運が悪ければわけのわからない独裁者の強権政治に苦しめられることになる。ではどうしたらいいのだろうか。民族として救われようとしてはいけないということだ。
4月17日
意味がわからないが、魂が不在か。抽象的で何について述べているのかわからない。それほど怠けているとも思えないが、何もやらないというわけにもいかないようで、何もする気がなくても何かしらやっていないと、この世界からはじき出されてしまうだろうか。そこから何かつまらないこだわりでも生じてしまっている可能性もあるようだが、やはり君には似合っていない積極性を前面に押し出すわけにはいかないらしい。君はそこで何を知ろうとしているのか。自らの終わりが近づいているのだろうか。それほど深刻な状況ではないと思うが、何となく難しい局面を迎えつつあるようだ。なぜそれができないのだろう。それとは何なのか。いつもの逡巡を繰り返す。言葉だけではどうにもならない。そこから遠ざかるには何が必要なのか。どこから遠ざかろうとしているのだろう。パリの夜景から遠ざかろうとしているわけか。わけがわからない。夜の闇の中に何が見えているわけでもない。では何をそんなに気にしているのか。あきらめなければならないのかもしれない。それらの表情は見飽きているはずだ。ただの闇だろう。それが理解できないはずがない。他に何をもたらそうとしているのか。闇の他に何があるというのか。今は夜に違いない。別に時間を気にしているわけではない。内容が思い通りにならないらしい。何を修正しているのか。君は何かを忘れている。だがそれが文章に致命的な欠陥をもたらしているとも思えない。まったく気が遠くなるような行程の途中にいるようだが、それらの作業が何をもたらすとも思えず、君はそれらの場所から遠ざかっている。そんなことに今まで気づかなかったのか。そして心が何を求めているのかを知りたくなってくる。何に飢えていたり、渇きを覚えていたりするのだろう。そういうたとえは現実的な欲望を反映していないようだ。あくまでも作り話の中で語られていることか。ではいったいそこに何が見出されているのだろう。仕事以外に何が必要とされているのか。膝の痛みがぶり返してくる。その痛みによって思い出されるのは何だろう。ただ歩いていただけだろう。ひたすら歩いて膝が痛くなるまで歩いていただけか。他に何かいいわけらしき理由は思い当たらない。要するに疲れているわけだ。ならば他に何が見出されるはずもないか。何について述べているのでもなく、そんないいわけが何かの役に立つはずもなく、君はつまらないことを延々を述べ続け、それで何か達成感のようなものを感じたいのかもしれないが、本当に感じているのは虚しさだけか。何を断言するつもりもなく、何が虚しいのかよくわからないが、いつも聴いている音楽は無味乾燥しているようだ。本当にわからない。何を述べてもそれは違うような気がする。画面の奥には何が潜んでいるのだろうか。それは人間ではない。誰の意識でもなく、誰が何を操っているとも思えず、君は機械によって操作されているように感じられ、その機械は誰が作ったものでもなく、君の作り話の中で語られている機械だ。ところで全自動作文システムは完成したのだろうか。それは過去に抱いていた妄想のたぐいだろう。今はたがが外れていて、何を述べてもその通りだと思ってしまい、まったく現実感が希薄で、作り話の中で何かが述べられていることは確かなようだが、それを当てにしているつもりはなく、文章は行き詰まりの中で構成されつつあるらしい。君に見えているのはそういうもので、考えていることもそれに近いはずだ。何を考えているのだろう。もう忘れてしまったはずがなく、確かにそれについて考えていたはずだが、それについてはまだ何も語っていないことも確からしく、これから語ろうとしていたようだが、今はそれとは違ったことを述べている現状はあるらしい。見ているのは花の絵だろうか。さっきとは別の心境の中に意識は迷い込んでいる。忘れかけているのではなく、思い出せないのでもない。たぶんわかりかけているのだろうが、未だ言葉に結びつかない。いったい何をどう述べたら納得できるのか。この世界はどうなっているのだろう。たまに何かひらめいたような気がするのだが、それが文章にまでたどり着かないようだ。要するに今は忘れているのだろう。今はその時でない。一瞬のひらめきからだいぶ経っている。それがひらめきであったかどうかも定かでなくなっているのかもしれない。そのとき何をひらめいたのか思い出そうとするが、必死さが足りない。必死になれないのかもしれない。必死になる理由を見出せず、そのときひらめいた何かを思い出すことに価値を見出せないようだ。どうでもいいことなのか。思い出したとしてもまた忘れてしまうだろう。では何をそんなにあきらめたつもりになれるのか。やはりわからない。それどころかわかるつもりなどもとからなかったのかもしれず、わかりようのないことをわかるはずがないとあきらめていたのではなかったか。ならば今までの試行錯誤は無駄だったのか。無駄であろうとなかろうと、君には関係のない領域で何かがまとまろうとしていて、それがここに記されている文章そのものなのではないか。そんな予定調和を認めることは困難かもしれないが、とりあえずそんなことを述べている誰かの存在を確認できる。
4月16日
やる気がしないのはわかっている。現実には何から遠ざかっているわけではない。たぶん真実を伝えていないのではないか。何ももたらされていないようだ。今日はこれから眠ってしまうかもしれない。夜なのだから仕方がない。しかし何が君には関係のないことなのか。この世界から何かが除外されている。そんなはずはないだろう。ちなみにそれはどんな妄想なのか。とりあえず人は必ず死ぬらしい。死んだらどうなるのだろう。たぶん誰かが思いついたのはそんな話ではない。気がついたら二日後だ。また雨が降っているようだ。心を何かにやられている。風邪気味の誰かに風邪をうつされそうになって、あわてて眠ってしまったわけか。意味がわからない。気分がどうにかなってしまったらしく、何も語れなくなってしまったのだろうか。それが誰かが抱いている妄想の内容になっているわけか。何もわからない。何が違っているわけでもないだろう。君は何もわかっていないらしい。それらの妄想は君には関係のないことか。そうだとしたらどうなのか。心の中に何が見えているとも思えない。ならばそこから先に何が見えているとも思えないか。何を思っても冗談の範囲内か。それでも何がどうなっていることもない。何とも思わないだけのようで、それが夜の思考を形成しているわけでもなさそうだ。しかし何が夜の思考なのだろう。唐突に何を思い出しているのか。また内容にたどり着けなくなる。あり得ない話だろう。また疲れてしまったのかも知れず、これまでに経験してきたことが虚しいことばかりのように思えてくる。唐突に意味不明に包まれている。それがなんだかわからないが、雨音にまぎれて何かの歌声が聞こえてきて、そこから先に何がどうなったのか思い出せず、それが誰の記憶でもないような気がしてくる。誰が何を確かめようとしているわけでもないらしい。君とは誰なのか。それは苦し紛れに繰り出された結論か。それの何が結論なのかわからない。さっきの曲とは微妙に異なっているようだが、同じ曲であることに変わりはないだろう。たぶん何を聴いていたわけでもなく、それはただの音楽だ。それがそこでの結論となるわけか。どのような理由でそうなったのかわからない。まったくとりとめがないように思えてくる。何を考えているわけでもなく、雨が上がってしまう前に何を思いつくべきなのかもわからない。そういうことをわかる必要あるとも思えない。気持ちが持続しないようだ。ただ何とも思わない日々が続いているわけか。何もないより何とも思わない方が救いがありそうだが、どちらにしても満たされることはないだろう。それの何を批判しようとも思わない。君はそれらの文章に幻想を抱けないようになる。次第にそうなったのだから、それ以前は何かしら期待感でもあったわけだろうが、今となってはそれも思い出せない。いくら現状を否定的にとらえてみても仕方がないような気がしている。無駄なことにエネルギーを注ぎ込み、何か適当な思い込みにこだわり、何となくそれで満たされたような気になり、それがさめたら虚しさが残るだけか。それだけではないような気がするのは勘違いなのだろうか。何も主張することがなければ何を語ればいいのだろう。感性がどこに行き着いているとも思えない。ただ真夜中に画面を見つめている。そこで行き詰まってしまったらしい。今は何日後の昼なのか。相変わらず雨が降り続き、暗い雨空を見上げながら何を思うこともなく、ひたすら日常の仕事をこなしているわけか。何も記すことがなければやめればいいのに、それでも何かを記しているとすれば、それは無駄以外の何ものでもないか。わからないがここまで来てしまったからには、終わりまでやり遂げる必要性が生じているらしいが、それのどこが終わりと規定されているのか。そんなものなどありはしないと嘘でもついて、それの何を反省するつもりもなく、何かの暴走に発展することもないようなことを述べ続け、そんなやり方に嫌気がさしつつも、誰に読んでもらう気もしないようなことを記しているようだ。まったく希望も絶望も感じられない。ここはただの世の中であり、単なる世界なのだろう。同じようなことが毎日のように繰り広げられ、飽きもせずひたすら終わりなき時間が途絶えることなく続いているらしい。だがそれで何を述べていることになるのか。別に夢から覚めているとも思えず、仮にここが夢の中だとしても、こことは別に現世があるようには思えず、ここにあるように思われるそれらのどこからどこまでが真実を内包しているのかを探る気はしない。それはどういうことなのだろうか。ただ寒いということだ。現実に気温が低いのと同時に、誰かがお寒いことを述べている可能性もあり、さらに他の誰かが冗談でもないような寒いことを記してるのかもしれない。君はそれで楽しいのだろうか。何もわからないということか。たぶんそうだとしても何でもないことなのだろう。それ以上にこの世界がどうなっているわけでもなく、現状を気に入らない人たちが世界中で騒ぎ暴れまくっているのだろう。彼らは何を求め何を主張したいのか。見た通り聞いた通りのことなのだろうか。たぶんそれらすべてはつまらないことだ。
4月15日
言葉のつながりを欠いたまま、紆余曲折という言葉に心がとらわれている。わけがわからないだろうか。たぶんそういうことなのであり、どんなわけでもなく、そんなわけでまた適当な状況に陥っているようだ。それは心理的にはどういうことだろう。この時期にしては珍しく二日連続で空は晴れ渡り、空疎な思いにとらわれた心を、さらにとりとめのない状態にとどめおいている。何となくそんな気がしているだけで、他に何をどう感じているわけでもなく、冗長気味にいい加減なことを述べている現状に変わりはないようだ。本当に他に何も思わないのだろうか。人は人に幻想を抱いている。単なるはったり男でしかない小泉氏に再登板してもらって、日本の未来を切り開いてほしいと思っている人もいるらしいが、相変わらずの雑誌の中吊り広告がそんな雰囲気を漂わせ、毎度おなじみの論客が何か適当な主張でも闘わせているのだろう。そういう人たちはまず織田信長に幻想を抱き、ついで幕末の志士たちにも幻想を抱くのだろう。大河ドラマ的な文脈に心をとらわれているわけだ。彼らの未来は過去にあるらしい。では君の未来はどこにあるのか。未来に幻想を抱けなければ希望を持てないか。そうだとしたらどうなのだろう。それは心理的に鬱状態へ移行する危険性でもはらんでいるわけか。そうなったらなったでどうにかなるのだろうが、どうにもならなくても結果的にはどうにかなったことになるのだろう。たぶん未来を託されているのは小泉氏ではなく、誰でもない誰かだ。誰であってもかまわない。その辺に歩いている猫や犬であってもかまわない。何がどうなってもかまわないのだろうが、中には自殺するのは痛いから他人を何人か殺して死刑になろうと努力してしまった人もいるらしく、彼は希望通りに死刑になるのかもしれないが、やはりそれで何がどうなるわけでもないようだ。しかし彼の追従者が何人も出てきたらヤバいか。絞首刑も痛そうだ。君はそこからどんな感想を導きだそうとしているのか。要するに面倒くさいことを進んでやろうとするのは奇特なことかもしれない。たぶんそれでもこの世界には未来がある。どんな未来かわからないが、そこから何を予想するつもりもなく、今の時間帯を適当に過ごしている。それは過ごし方としては適当でないかもしれない。君も人殺しの彼のように何かしら努力すべきなのだろうか。冗談でそんなことを述べてしまうと、彼に殺傷された人やその近親者にお詫びしなければならなくなってしまいそうだが、例えばよくなるきっかけはどういうところから出てくるわけか。絶望的なことならいくらでも述べられるかもしれない。この世界の何がよくなってほしいのだろう。問題の解決が無理なところからあげるとすれば、まずは貧困の解消か。飢餓に苦しむ人々が現代文明を底辺から支えている。どん底から這い上がってきた人々の成功話をみんなで共有して盛り上がるわけだ。どうすれば他人より豊かな暮らしができるか、そのためのヒントが成功話のどこかに隠されていて、それを多くの人々が参考にしたいわけか。冗談でそんなことを述べるのは倫理的に許し難いことか。そんな風に語れば語るほど論理的な飛躍を行使したい誘惑に駆られ、ヘビメタ的に爆発的な笑いへと誰かの心を導きたいが、いったいこの世界では何がどうなっているのだろうか。平穏に暮らすには多くを望まないことが求められている。狂気に走れば一瞬の快楽を享受することができるかもしれないが、そのぶん心も生活も荒んでしまうだろう。どんな未来を選び取ろうと、ただそれはそういうことだ。選び取った結果としてもたらされたそれが現状を構成するだけだ。何もなければないなりにそれが現状なのだから仕方がない。君は現状を見つめ直して、そこから言葉を組み合わせて文章を構成しなければならない。それはどんな気分なのだろう。冗談に逃げるわけにはいかないのだろうか。何をどう思い直してみても無駄か。何も必要とされていない。そう思い込んでいるだけで、実際にはやはり紆余曲折の最中でもがいている。何をつかみ取ろうとしているわけでもないが、なんとかしようと努力していることに変わりはない。気分が優れない時も、それをそのまま受け止めて、なんとか改善のための努力をおしまないようだ。それが何に結びつくとも思えないが、とりあえずなんとかしようとしている。それだけのことなのだ。それだけのために誰かは生きている。結果的になんとかできたからといって、それで何がどうなるわけでもなく、さらに何かをどうにかしようとしている未来の誰かに遭遇するだけだ。そんなことの繰り返しがこの先延々と続いてゆくのかもしれず、そこであきらめてしまったらおしまいになるだけか。それでもかまわないのだろうが、あきらめるまでは努力し続けなければならず、それはそういうことでしかない。あまり幻想を抱く気にはなれない。未来に何か適当な期待を抱いていれば、それで気休め程度の効用が得られるのかもしれない。君はそれで満足すべきか。満足していれば幸せになれるだろう。しかし幸せとはどんな状態なのかといえば、あきらめてしまった後に到来する癒しの時なのかもしれない。
4月14日
やはり昨日も何もなかったようだ。様々な出来事があり、実際には不具合だらけの毎日のようだが、それらのトラブルがつまらない事態を呼び込み、年がら年中どうでもいいようなことに振り回され、行動を著しく制限されているような気がしてくる。それで何かあると思われるとしたら、それは何もなかったと嘘をつきざるを得ないような気にさせる何かに心をとらわれているのだろう。それで何がつまらないのか。たぶんもう忘れてしまっている。たぶんそういうことではないのだろう。何でもなければどこへも到達できないか。無駄に言葉が連なるだけのようで、それを読んでいると眠気を催す。そしてあくびをしながら音楽を聴き、何も思いつかない現状を嘆いてみせるわけか。それでどうしたわけではないはずだが、虚しさばかりが募ってくるわけだ。だが何を悲観してもはじまらないだろう。悲嘆にくれている現状が何でもないのだから、その時点で思いは裏切られているわけだ。現状の何に不満を抱いているとも思えず、そこからどうやって抜け出ようと思案しているわけではない。しかし意識は何から遠ざかろうとしているのだろう。別に現状が気に入らないから遠ざかろうとしているわけではなく、何も思いつかない現状をどうすることもできず、何を説明する気にもなれないのだが、いったい君は何から遠ざかろうとしているのか。何か矛盾していないか。それは他人とは違う自分独自の世界を言葉によって作り上げようとする試みではない。少なくともその点で失敗していることは確からしく、近頃は何を述べている気もしないらしく、無意識のうちに虚無を呼び込んでいて、心のすべてを虚無で満たそうとしているような気がするのだが、それはどういうことなのか。ただそう述べている現実がある。誰に何を伝えたいわけでもないのだから、そういう風に語り始めれば、そうなるのが当然の帰結なのかもしれない。たぶん冗談ではない。冗談でないから本気になれない。わざとそんなことを述べているだけだ。本質的な文章の内容を導きだせない。人間の本質とは何だろう。そんなありふれた問いに必然性を見出そうとする行為が、人間の本質を物語っているか。答えとしては外れている。本質から外れ、自己言及に罠に進んではまろうとしている。それの何がわらをもつかむ思いなのか。困っているのではなく、貧窮のただ中にいるのでもない。虚無がありすぎて困っているのかもしれない。困ったついでにうとうとしてしまったらしく、意識が途切れた時間がだいぶ続いていたようだ。誰かはまだそんなことを述べているわけか。君はすでに終わっているはずだ。なぜそれがつまらないと思われるのだろう。現状を分析しているのはそれらの文章ではない。すべては作り話の一部を構成しているに過ぎない。それの何が現状なのだろう。君はその時間帯においてどんなことを思っていたのか。気に入らないがそれが現状だ。ひたすら問いかけている現状があるらしいが、何に向かって問いかけているのでもなく、そこには君の思いを無視した言葉の連なりが生じていて、そんな無内容が君を苦しめているのかもしれないが、それは良心の呵責といった次元からどれほど隔たっているのか。そういうやり方にマンネリ感が張りついている。いつまでもそんなことを述べていてもつまらないだけか。つまらなければどうなってしまうのだろう。わからないからつまらないのであり、理解できないからおもしろくないのだろう。誰かはそれが嘘だとは思えず、そんな現状をまったく理解できない。それが現状なのだから仕方がないか。少なくとも作り話の中ではそういうことだ。何かがひたすら循環し続け、そこから言葉の連なりが形成されようとしているが、気に入らない状況が一向に変わる兆しが感じられないように、それを記している自らに返ってくる虚無の言葉が、その身体に突き刺さることもなくすり抜けてしまうのが現状なのだろうか。何も感じないらしい。感動に結びつくような文章ではない。そして何を確認するまでもなく、今は夜なのか。君は昼から遠ざかっている。夜に近づいているのではなく、夜のただ中から昼の記憶を辿ろうとしている。それが誰かの無理を呼び込んでいるのかもしれず、無理に虚無を心の中に閉じ込めようとする試みが無理なのか。何に言及しているとも思えない。君が知ろうとしているは虚無の中身などではない。そこにすべてが収斂するはずもなく、すべての外に別のすべてがあるわけでもない。ではいったい何がすべてなのだろう。それらのどこにすべてがあるというのか。冗談で述べているなら、そんな結果で満足すべきだが、結果とは何なのか。何が結果で何が結果に至る過程なのか。たぶん結果として何らかの文章が提示されるはずで、それを読んで感想らしき思いが形成されて、何となくわかったような理解できたような気になり、そこから遠ざかれたように思われる。それでは理由がまったくわからない。どのような理由からそんなことを述べている現状があるのだろう。それはあるのではなく想像され空想されるようなものでしかないのかもしれない。正確にはものでさえなく、何でもないようなことなのかもしれないが、やはりことではないらしい。
4月13日
今日はまったくとりとめがない。気持ち的に何かが不足しているようだ。すべてが不足しているように思える。空に稲妻が走っている。そういう風景が描かれる。物語は一向に始まらず、神が降臨することもない。誰もが風景に興味を抱いているとは限らない。それはいつもの冗談かもしれないが、何も卑屈になる必要はない。自らの感覚を疑いたくなる時も、そこから逃れるわけにはいかないようだ。それが金魚鉢の中の光景か。そうではない。いつの時代も何も変わらない。それの何が疑わしいのだろう。誰かがひたすら画面を覗き込んでいる。水槽の中で熱帯魚が揺らめいている。嘘だろう。心和む時を過ごしているとは思わない。何を思っているわけでもなく、誰かが構成していた空疎な言説の中に、何を発見したとも思えない。正気を保っているとつまらなく思えてくるが、どうやっても無理なのだろう。不可能なのかもしれない。何が無理で不可能なのか。移動を繰り返していると物忘れがひどくなる。それは何かの思い違いだろうか。何をやろうとしていたのか。君の勘違いがその辺で何かに変わる。見慣れた風景の中で空が久しぶりに晴れ渡る。心は何も感じない。それが君とは関係ないからか。他人の見え透いた意見に腹が立つ。手回しがいい。何となく空疎な雰囲気を感じている。まやかしとはこの世のすべてだ。そういう断言が気に入らないか。言葉の他に何が示されているとも思えない。その言葉がどんな文章を構成しているのか問えば、それはその通りの文章に相違ない。要するに意味不明か。意味などいくらでも与えられている。だがその必要もないのに何かを主張するのはよくない。君はその主張の中身を理解できないようだ。なかなかまともなことを述べられない。何を探っているのだろう。言葉をつなげようとしている。それで文章に近づけようとしているらしいが、現状は変わらない。昨日のことは何も覚えていないのだから仕方がない。たぶんその時点で失敗なのだろう。わかっているのはそんなことではない。では何がわかりきっているというのか。君には何が聞こえているのだろうか。誰かの断末魔の叫び声ではない。ならばまだ出口が残されているのだろうか。この世界のどこから出たいのか。君が住んでいる地域から外へ出ることなど簡単か。そこで何を示そうとしているわけでもない。暗闇の中で言葉を奏でる。平然とわけのわからないことを述べ続け、それ以外に何ももたらそうとしない。その時点で話が終わっているのだ。終わってしまったらやることがない。だから何かを記しているわけか。興味のあることではない。誰にとっても無関心なのか。不幸になりたい。君がそうなのではなく、誰かがそうなっているのでもない。では何なのか。ただわからないと思っている。何をひらめいているのだろう。君にもたらされた時間ではない。この世界から排除されているのだろうか。闇が何かを知らせようとしているが、もう手遅れのようだ。誰かはすでに残された時間を使いきってしまった。もう何に感動している暇もない。ニュースなど見ている場合ではない。君に何を知らせようとも思わない。いったい君はこの世界からどれほど遠ざかれるというのか。あり得ない状況について何をどう述べられるのか。人間の認識を超えて、どんな知がもたらされようとしているのか。そんな風に考えてはならないのかもしれない。とりあえずどこからも何も降りてこない。だが継続こそが力を生じさせる。作り話の中では君を悩ませる現象に遭遇するらしい。どうすべきか。何をあきらめたわけでもない。そこから遠ざかっていたのはどれほどの時間でもない。鳥肌が立つような経験を楽しんでいるとも思えない。何でもないのだから、それがどういうことでもないだろう。ならばそれでもまだ良くなる可能性を信じているわけか。誰を死刑にしても始まらないだろう。話は終わらないようだ。君はいつまでもうつむいている。勘違いも甚だしいか。心が鬱状態から抜けきれていない。そこから難しいことを述べるような成り行きには持っていけないだろう。要するに何かをあきらめているわけか。文章を完成させられないようだ。眠気に負けてくじけてしまう。時間が終わったのに、まだ何かを述べているのは反則か。ルールなどもとからありはしない。ただ君がそこへ導かれようとさせないだけか。残されたわずかな時間内で嘘をついている。他に何も残されていないようだ。誰かはまったくつじつまの合わない話を語りたいようだが、それを語る余白が残されていない。しかし本当にあきらめきれないのか。さっきまでの眠気はどこへ行ってしまったのか。何を語りかけているのでもない。そこで無駄に言葉を並べて、何かにとどめを刺されているようだ。君はどこへ行ってしまったのか。冗談でなければ画面の前に誰かの気配が漂っているようだ。今はそれが君でないことを祈ろう。まだ何をつかんでいるとも思えない。話はこれから佳境にさしかかるはずか。誰かがそんな風に思っているのなら、その続きは明日にでも語られるだろう。語ることがかなわなければ、いつか気が向いた時にでも語るとしようではないか。それがいつになるかは神のみぞ知ることもなく、誰も知らないうちに忘れ去られてしまうだろう。
4月12日
気のせいかもしれないが、まだ言葉が足りないようだ。昨日ことは思い出せない。何もなかったのだから記憶に残らなかったのだろう。そんな嘘をついても虚しいだけか。何が嘘なのだろう。また雨が降っている。人間の本質とは何だろう。人間の苦悩とは何だろう。何もかもが馬鹿らしい。言葉が現実の何かを切り取ってくるわけではない。他人の所業を批判すべきではないか。その内容にもよるだろう。取り立てて何をやっているわけでもない。何を傷つけられているわけでもなく、どこから転げ落ちているわけでもない。気がついたら時計が止まっていた。気分はそれと関係がないわけではない。雨がやまないので外へ出る気がしないようだ。外で休まず仕事をしていたのは誰だろう。それは昼間のことではないのか。しかし今は夜だ。具体的に何を語ればいいのだろう。チベットで何があったわけではない。なぜそういう嘘をつくのだろうか。人はそれでも生きているらしい。何が起ころうと、それはそういう成り行きなのだろう。それについて何を判断したいとも思わず、誰かが水槽の中で揺れ動いているクラゲを眺めている。理由などありはしない。君はどこから遠ざかっているのでもなく、この世界の中で苦悩しているとも思えない。要するになんでもないことなのだ。君はそこでなんでもないことを語ればいい。そして苦悩のさなかにわけのわからぬことを叫んでみればいい。意味がわからない。いったい何がわかるというのだろう。徐々に慣れてくる。非日常的なことが当たり前のことのように思えてくる。何を思いついたわけでもない。ラマ教は宗教法人でも運営しているのか。ダライ・ラマについて何を考えたらいいのだろう。たぶん何を知ろうとしているのでもない。チベットの特殊性と中国の特殊性について何を語ろうとも思わない。そういう地域でしかない。詩的感情が芽生えない。ユーラシアの中央に不毛の大地がある。不毛だとは思わないか。そこにも人がまばらに暮らしている。文化とは何だろう。なぜ彼らは虐げられているのか。世界のどこにいても事情は変わらない。絶えず無理なことに取り囲まれていて、その無理を押し通さないと生きてゆけないのだ。生きていくこと自体が不可能への挑戦なのかもしれない。人はくだらぬ制度にしがみつき、そこから不都合な出来事が生じてしまう。くだらぬ制度を守ってゆかないと政治的な秩序が立ち行かなくなり、そこで暮らしている人々が不幸になるわけか。君はなぜそれでかまわないと思うのだろう。君は昔からオリンピックという馬鹿騒ぎを嫌っていたはずだ。なぜそれらの映像に感動したくない心境になってしまう。どうでもいいことだが、さっきから述べていることが支離滅裂だ。心の中で何かが停滞している。まったく出口が見えてこない。何かが混乱のただ中で立ち往生しているようだ。たぶん誰かは苦悩からの離脱を望んでいないのだ。宗教による救済も、経済的な成功も、そんなのは悲惨な現実を覆い隠すためにもたらされた幻想だ。だがそれで何を否定しているつもりになれるだろう。人は次々にいなくなり、新たに生まれてくる人と入れ替わり、世代交代が繰り返される。それの何が馬鹿げた話なのか。君はもうその役割を終えているのではないか。それで何を危惧することになるのだろう。自分が終わっていることに気づかない。すでに死んでいるのかもしれない。この世から消滅してしまったのか。冗談でそんなことを述べているのかもしれない。今さら何をあきらめなければならないのか。君は君だけのことを考えている。それでは君の外へ関心が向いてゆかないだろう。人々はオリンピックの何に感動するのだろう。ただのイベントでしかない。スポーツとは何なのか。そこに参加する者たちは何を見せびらかそうとしているのか。何も思いつかないようだが、その時点ですでに君は負けているのではないか。何に負けているのだろう。これまでの退屈な日々に嫌気がさしているわけでもあるまい。君たちは体も頭も鍛えている。何に勝つためでもなく、自分に勝つためでもない。そんな成り行きを信じていいのだろうか。何をどうするために行動しているとは思わない。たださまよっているのだ。地上のどのへんをさまよっているわけでもなく、作り話の中で示される架空の大地でさまよっている。そんな嘘が君を本気にさせる。それも冗談には違いない。真っ暗闇の世界で視界が徐々に開けてきて、不意に気に食わない状況の中に意識が舞い戻っていることに気づく。さっきまで見ていたのは夢だろうか。支離滅裂に拍車がかかっているようだ。何も本気に受け取れなくなってくる。別にそこから遠ざかっていたわけではなかったようだ。目の前の現実から目を背けていただけか。ただ何もない。そう思い込もうとしている。必死の形相で何に逆らっているつもりなのか。まだ夜明けには数時間を要するだろうが、その間に何を語れると思っているのか。それで何を示していることになるのか。まだそんな状況にはなっていないようだ。目的はそこにはない。何か適当なことを語るのが目的ではなく、嘘をつくのもその場の気まぐれでやっていることだ。彼は本当に何も思い出せないようだ。
4月11日
どこかで何か外れている。そんなことはどうでもいいが、何を語っているとも思えない。目が覚めたらまたいつもの翌朝になっている。つまらない言語表現に嫌悪感でも抱いているのか。たぶん大人げないのかもしれない。誰かはまた同じようなことを述べている。他人に対する接し方に欠陥があるようだ。意味がつながらない。わざとそんなことを述べているのでもなさそうだ。少し眠ってしまったらしい。何をやっていたわけでもないのに疲れている。だがすべては他人事のような気がする。そこで何が起こっているとも思えない。出来事と別の出来事との間に何かが挟まっているようだが、それが言葉だとは思わない。君は音楽を聴いているだけだ。それが苦し紛れの行動に結びつくはずがない。まだ何も語っていない。何に懐かしさを覚えているのだろう。それに関して何を知っているわけでもない。おかしな感覚のただ中で何かを語ろうとしているが、言葉だけが先行して記されている。たわいない意見だろうか。それを妨げている。すべては相対的な差異であり、絶対的な優位さを獲得することはなく、やがて滅び去ってしまうのだろうが、その先に何が仕掛けられているというのか。君には何も見えていないのだろう。わかるはずのないことだ。それらのどこかでとどめを刺されているのかもしれない。どこへも届きはしない。何が届けられるというのか。ただわけがわからないでは済まされないわけか。何かを成し遂げようとして、四苦八苦しているだけか。そんな意識をゴミ箱へ投げ捨てたい気分になる。そうやって当たり前のように嘘をついている。何となく違うように思われてくるが、さらに意味不明なことを述べているような気がしてくる。突然川の流れのただ中に出る。過去に同じような表現を見かけたかもしれない。災いが到来する前兆だろうか。誰かはめまいを覚える。空中庭園での記憶がよみがえってくるか。ますます意識が混乱を来すが、作り話の中ではありふれたことか。見えている光景が違っているのかもしれない。目の焦点を必死に合わせようとしているのだろう。それで何が見えてくるというのか。眠気と退屈にやられているようだが、余分な言葉に目がくらんでいるらしい。他に何に気づいたわけではない。それぞれの時点での気持ちがバラバラであり、そんな風に感じ取っている誰かの内面から離脱しなければ、何ももたらせないだろう。それが望むところなのか。それでいったい何に挑戦していることになるのか。人々に幻想を抱かせることによって何がもたらされるのか。何に救いを求めているとも思えないが、わかりきったことを今さら述べないでほしいか。やはりすべての試みが幻想から生じているのだろうか。行き詰まりの原因がその辺にあるのかもしれない。それは使えない言葉だ。わかっているならそんなことを述べるわけもないか。君が目指しているのはそんなところではないはずか。何を目指しているのでもないと嘘をつくこともできるはずだ。必要に応じて本音と偽りの気分を使い分けているようだが、君にそんな芸当ができるとは思えない。誰のことを述べているのだろう。何かがどこかでつながっている。それは言葉ではないだろう。まだ音を上げる段階ではない。それで弱音を吐いていることになるのか。時間的にはまだ余裕があるはずか。しかし記しているそれは、何かの可能性を感じさせるような内容ではない。人はただ電磁波の狭い範囲を可視光として感じ取れるだけか。それとこれとは無関係に思われるが、それもこれもなんだかわからない。テレビドラマではないのだから、誰かが奇妙な犯罪計画を立てているわけでもない。他人を出し抜くことが話の筋なら、そこから遠ざかるのが無気力のなせる業であり、気休めに生じているそれを無視するような度量は持ち合わせていないはずか。やはり述べているそれは意味不明に陥っている。まとまりが皆無であり、話をまとめる気になれないのかもしれない。だから話になっていないのだろう。言葉が誰かの気分とは無関係にどこまでも連なり、君はどこでもないどこかに置いてきぼりになっているようだ。冗談が寒いのか。何が孤独なのか。たぶん苦し紛れの言葉だ。明日はもっときつくなるはずだ。陽の光を拝むのは当分先のことか。意識が何にとらわれているとも思えない。だらけているだけかもしれず、何のいいわけにもなっていないのだろうが、何が傷ついているわけではない。なんとか終わりまで導きたいだけか。意識の中で何かがずれていることに変わりはなく、そう思っている途中からわけのわからない実感が出てくるのだろう。それで何を述べていることになるのか。そうやって絶えず自らに問いただそうとしているようだが、答えが出てくることはないだろう。はなから期待していない。なんとか終焉の地までたどり着けたら、言葉の連なりはまた明日に持ち越されるだけか。それは何のための作業なのか。わからないと思うなら、その続きが明日に持ち越されることだろう。それで君は納得しなければならないか。あるいは冗談ではないと拒否するわけか。どちらにしてもそんなことを述べている事実を受け入れる必要がある。まったくとりとめがない。
4月10日
たぶん世の中はわからないことばかりだ。なぜ君がそんなことを述べているのかもわからない。いったいそれ以降に何があったのだろうか。別に気が動転していたわけではない。それは昨日のことでしかなく、少なくとも明日のことではない。だからもう君は何も尋ねない。もう昨日のことを忘れてしまったらしい。相変わらず理由が不明だ。そのとき彼らは何を主張していたのか。何を知りたいのでもない。誰がそれらのわけのわからないパフォーマンスを支持するとも思えない。不満のはけ口がそんなところから吹き出している。だが外は雨だ。当たり前のことだが、空から雨が降っている。まったく近頃は雨ばかりだ。雨は憂鬱な気分を呼び込む。ただそれだけのことか。それで何がどうなったわけではない。また余分な言葉が連なるだけだ。誰がそこから遠ざかろうとしているのか。イメージだけでは何を述べていることにもならない。ちなみにそれはどんなイメージなのか。君はそこでどんな嘘をつこうとしているのか。君には何ももたらせないだろう。誰かが無駄に言葉を連ねるばかりのようだが、君には関係のない話だろう。だから今さら語るべきことなど何もない。君はこの世界から遠ざかるばかりだ。しかしなぜそこで死んでしまわないのか。この世には何の未練もないはずか。その辺がよくわからないようで、何を語っているのかよくわからない。何かのついでに言葉を並べているだけか。夜になって雨がやんでいるようだが、それは一時的なことか。また雨が降ってきたようだが、それも一時的なことか。何でもかまわないのではないか。とにかく雨が降ったりやんだりしているようで、それがジャズ的な雰囲気を醸し出しているわけでもなく、そんな雰囲気の中で自己中心的になれるわけもない。いったい何を述べているのだろう。急に気楽になってしまったのだろうか。そして翌朝に目を覚ます。まだ雨が降っている。すぐにやむらしいが、何を語ろうとしているわけでもない。心が病んでいるのだろうか。意味がわからない。誰がそう思っているのでもない。他の誰かがそう思っているのだろう。君は何を述べているのか。意味がわからず、何を思っているのかもわからないが、そんなことをいくら述べても無駄だろう。ならばどうすればいいのか。無駄な言葉をひたすら連ねるだけか。ちなみに翌日の昼は晴れていた。すでに夜になってしまったらしい。時間の経過を文章がとらえきれていないようだ。それで何を述べているつもりになれるのか。君にはわからない。誰が何を記しているのかわからない。いったい何をどうしたらいいのだろう。君は夢を抱いている。それはどういうことなのか。昨日とは打って変わって静かな夜だ。明日のことだろう。すべては君から遠ざかるが、そこで何を理解したいのでもない。誰の理解も受けつけない文章だ。何を強がって何をはねのけようとしているのか。それがわからない。君は気づいていないだけかもしれない。誰の思惑を気づけというのだろう。わからなければわからないままでいいではないか。それの何を知って得するというのか。得になろうとなるまいと、君はまだそれを知らない。知り得ないのが気に入らなければ、知ろうとすればいい。知ろうとして知り得ないのであれば、あきらめてみるか。あきらめきれなければどうなってしまうのだろう。森の中に天使がいるそうだ。意味がわからない。わざとそんなことを述べているつもりなのだろう。自らの至らなさに脱力感を覚える。それで見解の相違を招くとも思えない。まだ終わったわけではない。やはりわからないのか。まったく手間のかかる思考形態の持ち主だ。誰がそうなのではなく、誰も君ではないということか。君には一般人が持ち合わせている生活感が欠如している。そういう話ではないか。では何が問題なのだろうか。たぶん問題ではない。ならば情けない話でも他の誰かがしたがっているわけか。虚しいだけの返答を期待しているのかもしれない。それが正式な返答だと思われるが、何に対する返答なのか理解できない。要するに偶然の巡り合わせというやつか。それほど気が狂っているとも思えず、正気の範囲内で何かを述べているつもりらしいが、なぜが何を述べているわけでもないような気がする。意味を導きだせないのは毎度のことだ。そんな風にしか語れないのもいつもの通りだ。それで何がまずいのか。すばらしいというわけでもない。君の思い通りにはいかないのだから、それは当たり前のことだろう。よほどのことがない限り、これからのそのままの状況に変わりない。そう思われる原因を探ろうとしているのではなく、ただそんなことを述べているだけのだから、そこからどう変わりようがあるというのか。君はそこから何を求めているのだろうか。飛翔したいのでも上昇したいのでもなく、墜落したいのでも堕落したいのでもない。それ以上は何もわからない。それ以下もわからないのだろうか。それとは何だろう。何をとぼけてみても言葉の無駄か。無駄でなければどうなるというのか。すばらしい未来でも待ち受けているのだろうか。そんなありそうもないことを期待しながら、できないことを必死になってやっている最中の誰かが、君の仮の姿をどこかで眺めているのかもしれない。だから何だというのだろう。
4月9日
何となく志が低すぎるように思われる。商品の宣伝以外に何を記しているのだろう。ある意味で悲惨なことかもしれない。人として何らかの倫理観を持つべきのようだが、そういう考え自体が古いのだろうか。何と何がどんな風に結びついてそうなっているのか知らないが、わからなくなる。金儲けのためなら手段を選ばないという発想自体が原始的な感性のような気もするが、本当のところはよくわからない。やむにやまれぬ理由でもあるわけか。要するに何でもありの一環なのかもしれない。その辺が恐ろしい世の中になっているのだろう。価値観の相違を超えて無惨な実態に遭遇した感じだ。行き過ぎた目的主義が商品宣伝以外に何の中身もない場を構成させる。それを目の当たりにして、あっけにとられ、さらにやる気をなくしてしまうらしい。まったく殺伐とした世相を反映したやり方だ。だがはじめから主張することなど何もないのだろうから、そうならざるを得ないのかもしれず、メールマガジンだろうがブログだろうが、そこで商品を宣伝しまくって、あわよくば金を稼ぐことができれば、それで願ったりかなったりということなのだろう。それで成り立つような商売なのだから、それはそれでそういうことでしかない。そんなことにいちいちいちゃもんをつけてみても虚しいだけか。虚無が世界を覆い尽くしているようだ。人はそれ以外のどのような可能性も受けつけない。実際にやっていることがそういう方角へ向かっているのだから、そうなるよりほかはあり得ないだろう。だがそういう悲観的なことを述べていると、何となく何か気の利いたことを述べているような気がするが、本当は冗談なのかもしれない。実質的に何を述べているのでもないだろう。君も彼らと同じ穴の狢か。今はそうではないと述べておこう。そういう成り行きにはならないらしい。自由と平等との間に何かがある。君は力の何かを信じている。意味不明だろうか。感動してはならない。自由も平等も流行語のたぐいだ。昔流行っていた時期があったのかもしれないが、そこに本質的な意味は何もない。人を殺すのは自由であり、殺す人間は誰でもよく、人殺しは誰でも平等に行使できる権利だ。冗談でそんなことを述べてみるが、今ひとつ気乗りがしない。無理矢理自由や平等を人殺しと結びつけている。馬鹿げた試みに違いないが、どうでもいいことだろう。君は何か勘違いしていないか。そこで言葉に躓いているのだろうか。誰かが感動するために何をやっているとも思えない。大衆の心をつかもうというのは古い発想だ。大衆に心などありはしない。それは言葉として大衆という概念があるだけなのだろう。また仮に心をつかんだとしても、それは一時的であり、すぐに飽きられてしまうのがオチか。作り話の中ではそういうことになるのであって、実際には何がどうなったわけでもない。放っておけば人は自分独自の趣味に走り、世の中の流行り廃りに興味をなくしてしまうだろう。別に離れ小島で暮らしているわけではないのに、どんどん共有しているつもりの話題から脱落していく。要するにそんなことはどうでもいいのだ。音楽も絵画も演劇もそうなるしかない。どんな書物がベストセラーになろうと、すぐに誰もそれを読んでいない状況が生まれてしまうだろう。何を読んでいたのか思い出せなくなり、やはりそんなことはどうでもよくなってしまう。人々の関心事は移ろい、昔興味を抱いていた物事がどうなろうと、つかの間それが思い出される時が来ようと、それはそういうことでしかなく、何ら不愉快な状況とは思えない。そのとき君が託そうとしていたものは何だったのか。ただの雰囲気であり、吹けば飛んでいってしまうような埃のたぐいか。わかっていながらそんな状況から抜け出せずにいる。そのとき誰かは自らの死期を予感していたのかもしれない。時流に乗ると同時に、自分で流行現象を作り上げたモーツアルトは、そのさなかに死んでしまったらしい。流行は反復するものなのだろう。大衆ウケがするような音楽だ。君はオペラの大げさな表現形態を批判する立場にはない。ルターはラテン語ではなくドイツ語で聖書を出版して、モーツアルトはイタリア語ではなくドイツ語のオペラを上演した。そのどちらもが大衆ウケを狙ってなされたことだ。その地域の住民が理解できる言葉で自らの主張を発するべきなのだろう。君にはそれが理解できない。それは時代が異なるからではなく、面倒くさいからか。記している文章が大衆に理解されるのが面倒くさいのだろう。要するに才能がないということか。そう受け取られてもかまわないが、それ以外に原因を思いつかなくてもどうということはないようだ。その時点で君は大衆を馬鹿にしていたのかもしれず、その力を侮っていたのだろう。だがそれでどうなったわけでもない。結果的にそれは正解だったように思われる。何を語ろうとそれは何でもないことだ。日本語で書かれた聖書など滅多に読まないし、日本語のオペラなどを鑑賞する趣味はない。君は孤独なのかもしれないが、それが原因で言葉が止むことはあり得ない。文章はいつの時代でも虚無そのものだ。書物を読んで何がわかるというのか。何もわからなければ書物を読んだことにはならないか。
4月8日
やる気がなければそこで終わればいい。それでもやる気を装うつもりか。誰に選択権があるわけでもなく、何を選んでいるとも思えない。選んだ先に何があるわけでもなく、どんな制度に束縛されているとも思えず、それが何かの勘違いだと思われるような状況のただ中にいるわけでもないか。ただそこで指先にためらいが生じているようだ。そこから何を記そうとしているのだろう。光が何かに反射しているようにも見える。曇り空の下で強風が吹き荒れる。嵐の予感がしていたわけではない。空気が何を引っ張っているとも思えない。それがそこでの制度なのだから仕方がないか。そんなことを感じていたわけではなかったはずか。今日が昨日で明日が今日になる。ごちゃごちゃした雰囲気の中で君が何かを述べようとしている。その内容を誰が知ろうと試みているとも思えないか。ただの無内容だ。そんな風に言葉を記しているらしい。真実を語ってはいけないのだろうか。気持ちが退いてしまうか。どこへ退こうとしているのかは知らない。地上に雲から陽の光が差し込んでくる。そういう表現をわざと多用している。何でもないことに違いない。君は翌日の時空で起こる出来事を想像している。なぜそうやって今を削ろうとするのか。今の何が削除の対象になっているのだろう。また以前と変わらぬ環境を取り戻したいのかもしれない。今はすべてが余分だ。気持ちも考えもおかしな方向へ作用している。それが何を助けているとも思えず、無意識のうちに何を示そうとしているのでもないらしく、気持ちは緩やかに変わり続けているようだ。そこから何かを思いつくだろう。いつか適当な回答を得るのかもしれない。この世界には灰汁の抜けた人々が生まれつつある。要するに簡単な人間なのだ。簡単に生まれ、簡単に死んで、簡単に忘れ去られ、何の痕跡も残さない。世の中に人が多すぎるのかもしれない。記憶など必要のない人々だ。それが誰の幻想なのかわからないが、邪推する必要などないことかもしれない。次第に意味がわからなくなる。もうその辺が限界なのだろう。他があり得ず、何を語っても気に入らないらしい。余分な世界に余分な人々が暮らしている。絶えず未来を先取りしようとして、時にはローンが払えなくなり、転落の人生を味わうこともあるようだが、たぶんそんなのは冗談の範囲内なのだろう。気がつけばロシアンルーレットをやっている最中で、額や首筋を冷や汗が流れ落ちてくる。そういう用法を知らないか。気まぐれに何について述べているのか。知らず知らずのうちに間違ってくるらしい。たぶん気に入らないことの続きが、さらに嫌な気分にさせるようだが、それがおもしろい成り行きのように感じられてしまう。君が見つけ出した真実には悪意が感じられる。そこで何を見つけてしまったのか。それは感動的なフナーレにふさわしい何かか。冗談でまたありもしないことをお述べているようだ。心が腐ってくる。思いつきで否定的な見解を示しているだけか。ならば他に何を思いつけるのだろう。可能性は無限かもしれないが、それは可能性の段階にとどまり続け、実行に移されることはない。遠大な計画やら壮大な実験やらがこけおどし的に作り話の中で練られているに過ぎない。そこからどんな結論が導きだされるのか。君には知る必要のないことか。誰も知らないことを述べることができるとは思えない。たぶんそれを知りたいとは思わないのだろう。無理に知ろうとしているのでもなく、知っていながら知らないふりをしているのでもないだろうが、人は知っている範囲内で自らの行き先を見据えようとしているのだろう。そこに何か目的を見出したい。目的に向かって努力していると思い込みたいわけだ。だがそれは違うと思うこともないだろう。実際にそうなのだから、その通りに行えば何の問題もないはずだ。いちいち何を語っているのでもないと前置きするまでもなく、実際に何を語っているのでもないらしい。当たり前のことが当たり前のように行われ、そこから当たり前のような結論が導きだされ、それで一件落着したような気になりたいのだろう。一時的にはそれでかまわない。それ以外に何があるというのか。そこで何を見落としていようと、そんなことは後から気づけばいいはずではないか。それが人としての生きる術なのだから、それを否定しても意味のないことだ。どうやら目新しい結論にたどり着くにはさらなる妄想が必要のようだ。遠く野山が雲に隠れている。文章がそこで破綻している。ベランダで布団を干しているらしい。そういうやり方は好ましくない。たぶん君は無駄なことを述べようとしているのだろう。誰が何を知っているというのか。地上での無意味な営みに気づいてしまったわけではなく、天上の世界で何を空想しているとも思えない。生きることの意味を知りたくて、ネット上で検索を繰り返している人もいるらしい。それも冗談の範囲内でやっていることだろうか。本気になればそこで愚かな振る舞いに及んでしまうか。中には不愉快なメールを送りつけることを生業としている人々もいるらしいが、救われないのはそういうことではなく、そんなやり方でも何らかの達成感を得られることかも知れない。
4月7日
誰かは雨に打たれて風邪でも引いてしまうのだろうか。夕方にはやんでしまうのだろう。日付的には明日のことだろう。昨日の夢はそこで終わってしまったわけか。何も覚えていない。たぶんそれは気に入らないことだ。そんな心境の君に何ができるとも思えない。明日になれば何か思いつくだろうか。そのとき誰かは夢を見ていた。世界を見渡して何を思うわけでもないが、たぶんそれは世界ではないのだろう。世の中が世界のすべてではない。ではそれ以外の世界をどうやって知ることになるわけか。それが誰の物語となるのだろうか。君には知ることのできない人物がそこに存在しているのかもしれない。意識の中で何を思っているのだろう。ただ眠っていたはずだ。狙いは何もなく、気づいた先に誰かの目標がある。偶然が作用しているのかもしれない。今や完全に憑き物が落ちたようだ。誰かはただの人だ。そして疲れているようだ。相当な鬱状態だ。そう思っているのならそれでもかまわない。駐車場で何を思うだろう。そこで何を眺めているのか。何もやる気がしない。虚しいと感じていればそれで気が済んでしまい、その先にどんな言葉も連ねられない。そんな嘘を尻目に彫刻家が絵を描いている。それはいつの話なのか。眼球の表面に何かの染みが残っているようだが、染め物の話をしているのではない。調子が出ないだけだ。調子云々で済むような話ではない。君は何かの高みから何を見物しているのだろう。冗談で済むような話ではない。ただの支離滅裂か。人は生きるために仕事をしている。無意識のうちにそんなことを述べているようだ。くだらぬ戯れ言ではない。それの何が余分なことなのだろう。人には何が必要なのか。安らぎや休息が必要らしいが、今は憩いのひとときではない。誰かに揺り動かされて眠りから覚める。それの何が興醒めなのか。語る理由が見当たらないのは毎度のことらしい。君は礼儀をわきまえない。今にも死んでしまいそうな予感がする。ただあくびまじりに眠いだけだ。一方ではそれだけではないと思いたい。神経をすり減らしているようだ。それで何を述べていることになるのだろう。誰かが何かを述べているのかもしれないが、少なくとも自分については何も述べていないようだ。ただなんとかそこまでたどり着いた。それは奇跡的だろうか。冗談で思うならそれでもかまわない。まだ死ぬはずがないか。どんな事件が目の前で起こっているとも思えない。それらの出来事は本質的に何でもない。空気が流れて風を感じさせる。雨はどこへ行ってしまったのか。日付的には明日のことだ。どうやら完全に眠気が吹き飛んでしまったらしい。原因も理由もなく、それは何かの巡り合わせというやつか。こだわりを捨て去れば何もなくなってしまう。文章はそういうことを述べているのかもしれないが、そこで立ち止まるべきではない。ひたすら通り過ぎようとしている。何を語ろうとしても無駄になる。努力はいつも水の泡か。そこで何が水泡に帰しているのだろう。そういう漢字であっているのか。面倒くさくなっているのかもしれない。正しい行いが見えてこない。まだそんなところで迷っているらしく、何を語っても無駄なような気がする。どこかで何かが砕け散っているようにも思われるが、それは何なのか。真実がどこからも現れてこないようで、そこから何かが遠ざかろうとしているのだろう。それは事実ではない。今は夜なのだ。日付的には翌日の夜だ。そこに記された言葉の連なりに感動するわけもなく、ジャズ的なセンスを見いだそうとしているのでもない。感性はどこまでも意味不明に感じられ、取り立てて何を述べているのでもないように思われ、そんな風に記せば堕落から逃れられるとでも思っているわけか。何をどんな風に記しているとも思われない。言葉ではない。聴いている音楽の中に共感できる部分があるらしく、割れた鍋のような声に昔の名残りがあるようにも感じられる。もうそこまで来ているのかもしれない。線路の上を誰かが歩いている。テレビドラマ的な風景を否定したいのではない。ただ言葉がつながらない。わざとそうしているのだろう。その次はどうすればいいのか。どうもしなければどうにもならない。どうにもならなければそこで終わってしまう。だからどうにかしようとしているわけか。だがそれが必死のいいわけだとは思えない。なんとかそんなことを述べているわけだ。何でもないからそんなことを述べている。それがわからないと思うなら、それも風情のあることのように思えてくるが、そこで言葉の使い方が間違っているのだろう。わかっているならわざとするはずもないか。誰かが何かを述べているようで、不意に耳鳴りがしてくる。皮肉まじりというわけにはいかないようだが、何となくそういうことを述べている。物語とはそういうものではないのか。それの何が物語なのか。たぶん君は本気になれない。いつまでたってもそういうことを述べているのが何よりの証拠か。だがそこにどのような紋切り型が含まれていて、それを誰が反復しているというのか。言葉を反芻しているとも思えない。そんなことを述べて、わかっていながらわかっていないふりをしつつも、何かが出てこないことに気づいている。その何かとは何だろう。
4月6日
原因はわかっているが、わからないふりをしている。どうあがいても一日おくれになってしまう。心は鬱状態なのだろうか。理由はそんなところだ。理解できない。すでに翌日だ。夕方からは雨が降るらしい。それらの文章には利用価値がないように思われる。何に利用したいのかわからない。人はなぜフィクションを構成しようとするのか。それで何を思いついたわけではない。君には必要のない作り話か。それでも創意工夫が必要らしい。あからさまな損得勘定は嫌らしい。ならば停滞した現状に風穴でも開けるつもりか。意味がわからない。そういうことは述べたくないのだろう。それとは関係ないかもしれないが、どうも公務員は汚れ仕事をしたくない傾向にあるらしい。例えば公園や公共施設の清掃やゴミ収集などは民間業者に委託して、競争入札によって経費を削減しようという魂胆で、実際に低価格で仕事を請け負っている業者の従業員が、低賃金やリストラで苦しんでいるのだそうだが、何となくそれは弱い者いじめの典型のような気がしてくる。その地域の住民に対する行政サービスを担っているのが公務員なのだから、もしかして公共施設の清掃や住民が出すゴミを収集して回るのが、公務員としての本来の仕事なのではないだろうか。なぜ彼らはそういう肉体労働は民間に押し付けて、自分たちは役所の中で事務作業ばかりやっているのだろう。本当にそれらの事務作業は必要なのか。役所にしろ大企業にしろ、そういう組織が大規模になればなるほど、汚れ仕事は下請け企業に低価格で押し付けて、自分たちはこぎれいなオフィスの中で、企画会議だのプレゼンテーションだのに明け暮れているわけか。それがこの時代のカースト制度なのかもしれない。現代文明の限界がそういうところから垣間見えてくる。いったい何が自由競争なのだろうか。主導権を握っている側が王侯貴族気取りなのであって、おいしいところは自分たちで独り占めしておいて、弱い立場の者たちに低賃金の汚れ仕事を押し付けてくる。これが笑わずにいられようか。たぶん当人たちは無自覚なのであり、それが当然だと思い込んでいるのだろう。しかしそれをどう改善したらいいのだろうか。勝ち組の人たちはそういう実態からやましさでも感じるのかもしれないが、彼らに社会を変革するための主導権があるのだろうから、彼らが率先して行動を起こさなければ何も変わらないだろうが、まさか自分たちの既得権益を捨て去ることなどできはしないか。彼らにとっては現状で十分なのだろう。しかしそうだとすると変革の担い手は、低賃金で汚れ仕事を押し付けられている側なのだろうが、何の権限もない彼らに何ができるというのか。昔ならプロレタリアートによる暴力革命という幻想を共有することになるわけだが、たぶん冗談以外では社会主義革命などあり得そうもない。そこから先はまるで漫画のような話になってしまいそうで、何となく本気になれなくなっているのは、君が傍観者の立場を占めているからか。現実に働いている誰かにとっては冗談では済まされないことだ。たぶん世の中には役割分担というのがあり、人気のない職業は低賃金の汚れ仕事であり、人気のある職業はきれいごとばかりで押し通せるような夢のある仕事なのだろう。薄っぺらな心の大衆から羨望や尊敬の眼差しで見られているのは、その手のきれいごと的な職業に就いている人たちで、そういう職業に就くにはそれなりの競争があり、それに勝ち残った者でないとありつけない仕事なのかもしれないが、それは低賃金の汚れ仕事を押し付けられている者たちなしには成り立たない職業であり、立場なのではないか。要するに華やかなステージの真ん真ん中で自分を見せびらかす者と、そのステージを建造するためにかり出される土木作業員や、メンテナンス用の清掃業者がいるというわけだ。そういう下請け業者なしには成り立たない社会とはいかなるものなのか。果たしてそういう構造を維持継続させてゆく必要があるのだろうか。ならばそうではない社会とはいかなる構造だと想像できるのか。今ある社会の一部でしかない者にそんなものを空想する能力などありはしないか。だが強引に、どんな職業に就いていようと今働いている自分が主人公なんだ、などと強弁させるような幻想を抱くわけにはいかないだろう。どう思い込んでも、そういう視点には立てない職業というのが存在していることは確かなところだ。またそういう成り行きにおいて、世の中には卑屈になるべくしてなっている人たちもいるような気がしてくる。どのような境遇にあっても胸を張って生きてゆくべきだ、などと今さら誰を励まそうとしているのだろうか。それは建て前であり社交辞令の範囲内なのだろうか。たぶん気持ちや意識の問題で解決できる部分もあるのだろうが、そういうのを突き抜けた先に待っているものがあるとすれば、それは何なのか。どのような職業に就いていようと、どんな立場であろうと、それは現代文明からあてがわれた仮の役割に過ぎないのかもしれない。勝ち組に属していようと負け組に属していようと、何となく馬鹿らしく思われてくる。たぶん人間は愚かさのただ中で生きてゆくしかないのだろう。
4月5日
また今日も今日になってしまったようだ。すぐに明日にならないのだろうか。眠ってしまえば明日になっているはずだ。結局そんな成り行きになるのかもしれない。明日は何も思いつかないだろう。別のところで力を使ってしまったらしい。そんな都合のいい成り行きにはならない。すでに明日になっている。気がつけば言葉を連ねている現状がありそうだが、誰も思いもつかないことを述べているのかもしれない。それが誰かの幻想だろうか。内容がつまらなすぎて呆れるようなことだろう。今はそうではないと思いたい。それが気に入らないのだから、思いたくないのには理由がありそうだが、君はそれを知っているはずで、ただ気に入らないでは気が済まないのだろう。ただ単純につまらないことを述べている現状が気に入らない。それでかまわないとは思わないか。作り話の中では暴力が横行しているらしい。現実の世界でもそれは変わらないだろうか。ある部分ではそうなのだろう。暴力で物事を解決できる見込みがあればそうすることもあるのかも知れない。必ずしもすべてがそうだとはいえないだろうが、やはり人々は暴力に飢えている。そんな作り話を見聞したり、その手のゲームをするだけでは物足りないのだろう。気分がむしゃくしゃしている時は、誰でもかまわないから人を殺してみたいか。もし自暴自棄になるような状況に追い込まれたら、そういう誘惑が選択肢の一つして現実味を帯びてくるだろうか。人生を棒に振ってもかまわないから、そんな心躍る魅惑の時間を体験してみたいか。誰もが一度は破滅願望に取り憑かれ、一瞬でも凶悪な気分にその身をまかせようとしていたりするのだろうか。たぶんそれが枝葉末節な感情の一部を構成していて、時には作り話の題材として重宝されているのかもしれない。しかしそれがすべてではない。すべてではないが、誰かがありふれた想像を膨らましているのだろう。君はそれの何に期待しているのか。今は何もわからないと述べておこう。その気もなしに何を述べるつもりもなく、いつものように音楽を聴いている。ふと見ればドラマのクライマックスはもうすぐのようだ。何を見下しているとも思えないが、それが暴力の面白いところか。一瞬にして状況の転換を図れるか。それが劇的な瞬間であり、その手の漫画やドラマでは何度も見受けられる場面に違いない。それが死ぬほど面白いか。しかしなぜそこで死んでしまうのか。たぶんそういうことではないのだろう。つまらないからそんなことを述べているのか。何を述べてもすべてが予定調和のような気がする。つまらぬいいわけにしかならない。誰かが忘れている何かを思い出そうとしている。何を述べているのかわからない。都合の悪いことは忘れる主義か。そんなのは主義のうちに入らない。ではそのとき何を述べたかったのか。暴力を用いて革命を夢見ている輩は物語的にありふれている。それが誰に対する批判にもなっていないようだ。誰もそんな場面に遭遇できるわけもなく、真実が現状の退屈さの中にあることから目を背けているだけだ。自らを押し通すために、いたずらに暴動をあおっても、無駄に死傷者が増えるだけか。そこから何がわかるというのか。人々が未だに国家に幻想を抱いているという事実か。そして君はくだらぬ現実を見つめすぎているわけか。君は木を見て森を見ようとしない。ならば実際にはどこから遠ざかろうとしているのか。今の君に黒幕の役目などありはしない。それではまったく展望が開けないではないか。他に何を語れば気が済むのだろうか。妄想とは何だろう。誰もが喜びそうな大掛かりな陰謀という物語的な餌がどこにまかれている。それは物語の中だ。どうもわけがわからない。そんなありふれた現象に裏があるとも思えず、どのような罠が張り巡らされているとも思えない。たぶん君はそれらの現象の中で何を嗅ぎつけたわけでもなく、どこにどんな落とし穴が仕掛けられているとしても、そんなことに関心があるとは思えない。嘘をついているだけかもしれないが、人類に何ができるというのか。同じ種族同士でだまし合いや殺し合いを繰り返しているだけではないか。君は人間ではないので、それ以外のやり方に精通しているつもりらしい。時には冗談でそんな嘘をついてみる。腐っているのは特定の組織や団体ではなく、何が腐っていようと、そんなことはどうでもいいことだ。誰かが記しているのは意味的につながらない文章かもしれない。そんなわけで今日は完成の時に間に合いそうもない。暴力に訴えかけるようなテレビドラマにどんな真実が宿っているとも思えず、それらの見慣れた光景に違和感を感じてしまうのは毎度のことのようだが、現実に何を考えているわけでもなく、自意識はのめり込む対象を見いだせないようだ。それは幸いなことだ。こだわることができないようで、言葉がつながらず、作業がそこで中断してしまう。話のすべては妄想のただ中で構成されようとしている。登場人物の中で誰が優れているとも思えず、別にスポーツの話をしているわけではないが、その辺が話の限界か。言葉の羅列に終始するばかりで、話にすらなっていないようだ。それで何を記述しているつもりなのか。
4月4日
かなり眠いような気がする。順序がおかしい。何がおかしいのかわかりづらい。いつも以上に言葉がバラバラだ。予感がしていたのはこんな事態だったのか。やる気がしないだけか。不調にかこつけて誰かは頭が壊れたふりでもしているのか。他にどんな口実があるというのか。自然と本気になっているのかもしれない。何に影響されているのでもないだろうが、感情の高ぶりでも感じているのだろうか。たぶん冗談ではない。ならばいきなり何を言い出すこともないだろう。そこにいるのは誰でもなく、他の誰に何を問いかけているのでもない。どこへ向こうつもりもなく、心の準備ができていない。まだ精神の均衡がとれていないようだ。今何が問題となっているとも思えない。どんな話題について語りたいとも思わない。ならば文章にならないのではないか。内なる声と外から響く声のどちらを優先すべきか迷っているところか。君は自らの運命を変えようとする気力に乏しい。それは誰の運命でもありはしない。そういうわけのわからない成り行きを好んで記そうとする。それの何が成り行きなのだろう。それとはどういうことなのか。誰かの叫び声がどこからともなく聞こえてくる。きっと何かの冗談だろう。そんな嘘を口実にして何をあきらめているのか。何も思いつかないような気がするが、それが楽しいひとときを形成させるらしい。これからの残り少ない時間について思いを巡らすつもりなのか。どこに到っているとも思えず、到るべき目標を想像できない。考えられない経緯を想像してみたい。わけがわからないのは今に始まったことではない。さっきまで何を述べていたのだろう。何かを見つめていたことは確かだ。何も見つめられないほど強烈な光を浴びていたわけではない。花粉症は春にはつきものの現象か。腰を痛め膝を痛め、今度は花粉症の直撃を食らっているわけか。そんな境遇の誰かを哀れむ気にもなれない。不調の原因を探るまでもなく、君はいついかなる時でも絶不調ではなかったのか。それが当たり前のように感じられていたはずだ。今さら他人を驚かせる気にもなれない。そういう述べ方からしてよくわからない。何の整理もできないままに、またいつもの夜になってしまったらしい。言葉がまったくまとまらず、何を述べているのかもわからないのもいつものことで、そんなことを述べているうちに終わってしまう成り行きのようだ。はじめからそれを期待していたわけか。要するにつまらない内容になっている。それでかまわないのだろう。納得し難いが納得しているようだ。誰かがひどいことを述べている現状が文章として構成されているわけだ。それだけならまだしも、その先を思いつけない。誰かが変えようとしていた運命とはいかなるものだったのか。唐突に何を思い出しているのだろう。人々は何を挑発されているのか。まさかこの国の政府が無気力に対してどんな挑戦をしているわけでもないだろう。ピアノの音が突然壁の向こう側から響いてくる。騒音公害というやつか。関連を何も見いだせないようだ。わけがわからなくなったら末期的症状なのだろうが、君の場合はいつもそうなのだから始末に負えない。いくら言葉を連ねてみても、まったくエンジンがかかってこない。それは感動的な無気力を招いているみたいだ。そこで何に感動しているわけでもなく、ただ無気力そのものを文章が体現しているように思えてくる。やる気がないだけではなく、やる気がないのにやってしまっているのであり、もうどうしようもないほどそれが続いてしまっているわけだ。運命とはそういうものなのか。そんなことを述べているうちに目が覚めてくる。目覚めた後は何をするつもりだったのか。それは朝のことで、後は仕事に出かけるだけの状況の中に誰かの意識があったらしい。今はどうなのだろう。夜になって文章を記しているだけか。音楽を聴いているはずだが、何をやっていることにもならないように思えてくるのはどういうわけなのだろう。そう思い込みたいだけのような気がする。そしてそんなやり方を押し通そうとしている。まともなことを述べる気にならないのだから仕方がない。ちなみに他の人々はどんな音楽を聴きたいのか。何に盛り上がっているとも思えず、それは音楽ではないような気がしてくる。ただの雑音のたぐいか。それで何を述べていることになるのだろう。心を怠惰に支配されているようだ。何を気遣っているわけでもない。君が誰にもの申したいとも感じられず、何を批判する気力もないらしい。だが何も悲観することはない。もうすぐ怠惰な時も終わりを告げようとしている。言葉を記す作業が終われば君も終わりだ。君という言葉を記す必要もなくなるわけだ。それで何が終わったとも思えないだろうが、その時点ですべては終わっているのであり、そしてすぐにすべては再開されるのだろう。何も終わっていないように思われる。まだやり残したことでもあるのだろうか。そういう話ではなく、どういう話でもなく、話など何もなかったのかもしれず、積極的に何を述べていたわけでもなかったのだろう。ただそんな風に語るのが日課なのか。そうだとしたらどうだというのか。つまらないことを延々と語っているつもりなのか。
4月3日
近頃はなぜか大げさなことを述べてしまう状況にあるらしい。聴いているのは静かな音楽だ。これまでのところ、この地上ではどのような成り行きで何が行われてきたのか。文明の進化とはより複雑な機構を作り上げることにあるようだ。それは当たり前のことのように思えるが、今さらより簡単な構造を目指すことは無理なのだろうか。簡単さを受け入れることは、進化とは逆の退化を受けれることになるのかもしれない。相変わらず誰かは冗談でそんなことを述べようとしているようだが、そのような複雑化の反動として、例えば社会の制度からこぼれ落ちた者たちによる感情の爆発があるのだろう。彼らは凶悪な犯罪者となり、そしてメディアの餌食となる。しかしそれで何を説明していることにもならない。君にも感情の爆発が待っているのだろうか。そうなる前にこの世界から退いてしまうのだろう。たぶんまたそこから遠ざかろうとしているのだ。そうやってすぐにわけがわからなくなりたいらしく、何を述べているのでもない心境に至ろうとする。頭の中に霧が立ちこめているようだが、もう少しわかりやすくなれないものか。何もそこで挫折する必要はない。今はまともなことを述べようとすることが大事だ。現状が続いている原因を犯罪に求めるべきではない。世の中には犯罪に結びつかぬ複雑さもあるはずだ。君はこの世界の何が複雑だと考えているのか。本気になれない原因はどこにあるのだろう。何を探しているとも思えないが、どこで何が待ち受けているとも思えない。誰かはひたすら曖昧な言動に終始したいらしく、焦点を合わせようとしない。言説の対象を積極的には求めていないようだ。気持ちがそこからずれている。ならば今日はその辺で終わりにしたらいい。終わりにできなければ本当に終わってしまうだろう。いったいこれから何が終わるというのか。調子づいている場合ではない。ただわからなくなる。なぜこの世界について語ることがつまらないのか。どこに迷いが潜んでいるのだろう。今日はそれほど行き詰まっているとも思えない。笑っているだけのようだ。本気で語る気がしない。間が空いてしまったようだ。腹の底から怒りがわいてこない。誰が何を目指しているのだろう。気を取り直す気にもならない。何かを思いついてもすべては机上の空論か。つまらないことにこだわりすぎている。そんなことを述べているうちにも砂時計の中で砂が落ち続け、時間切れが間近に迫っていることに気づかされる。実際にその時が来たらどうなってしまうのだろう。君は何を恐れているのだ。知りたいのはそんなことではない。社会の制度から逃れようとする者には神の声が聞こえてくる。人を殺せと命令されたらしい。そこに魅惑される一瞬がやってくる。それは何をする機会なのだろう。そこで何をすべきだったのか。君に問うているのではない。何を語っても空想の域を出ない話になりそうだ。誰かが幻影として立ち現れているようで、さかんに何かを語りかけているようだが、存在しているのは生身の身体ではない。現実に何を語っているのだろうか。いつか必ず報われる時が訪れるだろう。それほど機会を逃しているわけでもない。誰が何を探っているのか知らないが、無駄なことを述べ続けるにはまだたっぷり時間がありそうだ。それでも視線は違う方角を向いている。カーネギーホールで誰かが演奏しているようだ。いつの間にか夜になってしまうらしい。君はそれらの何に対して魅力を感じないのか。どこかで人だかりができている。ミツバチの巣の中に蜜がつまっている。誰かがビルの屋上から身投げする。そんなありふれた光景を前にして魔が差してしまったらしい。悪魔に魅せられた者は何をするのだろう。殺人衝動にでも駆られるわけか。漢字が間違っていないだろうか。そんな風にして退屈な音楽を聴き終わる。まだその続きがあるらしい。何かに輪をかけたような嘘だ。気乗りがしないらしい。ならば後は付け足しのようなものか。そこで何を怠っているのだろう。すべての行為に優先して怠惰が勝利を収める瞬間でも到来したわけか。誰がそれを阻もうと画策しているのか。結果として何を阻んでいることにもなりはしない。まだそこまで到達していないらしいが、たぶんたどり着くべきところへたどり着いているような気もしてくる。ではもうそこで終わってしまうのだろうか。何が終わっているというのか。言葉はまだ連なっているようだ。つまらない話も終わっていない。ただ夜の庭が静かになっている。それは関係のないことだろう。苦し紛れに何を述べているとも思えない。もうそこまで来てしまったようだ。何かが来ている。目の前に誰かの幻影が立っている。それが君だとは思えない。あくびまじりに何を思うだろう。積極的に思いつこうとしない。何も思わなければ幻影も立ち去ってしまうだろう。君にとっては好都合か。ひたすら静かになる。外は無風状態なのか。しかし何も見えていないはずがない。嘘偽りを述べている最中に何が起こったわけでもなく、何もしなければ何も考えつかず、ただそこに誰かが佇んでいる。雨が降るのは今から数日後のことか。天気がどうしたわけでもないが、それがつまらないとは思わない。
4月2日
君はとうとうこんな場所まできてしまったようだ。それはどんな場所でもなくただの電車の中だ。ならば何がとうとうなのか。別に気まぐれでそんなことを述べているだけか。たぶんそうに違いない。間もなく君はこの世界から退場させられる運命だ。冗談でそんなことを告げているのは誰なのか。神ではないはずか。しかし君とは誰なのだろう。少なくとも君ではないと思われる。君は退場したくないのだろうか。その不吉な啓示が嘘であることを願っているわけか。君にとってそれは不吉なのではなく、吉兆に思われるところが勘違いも甚だしいか。なぜそこから退きたいのか。この世界から退くということは即死につながってしまうのではないか。冗談でならそんな成り行きでもかまわないだろう。本気でそんな風に思っているわけではなく、何かの気晴らしの一環だと思い込もうとするが、それの何が気晴らしになるのだろう。ただ無駄に言葉を連ねているのはいつもの通りだ。君は繰り出された言葉によってどこへ導かれようとしているのか。誰に問うているのでもないらしい。ただの記述だろう。そんなことはわかっているようだが、他に何を思い浮かべているわけでもなく、何となく馬鹿げた印象を抱かせるような成り行きの中に誰かの意識があるらしい。今日は晴れて無風状態のような気がしている。これからどうなるかわからないが、何となくそんな気配の中に君の姿が架空の存在として浮かび上がってくるような気がしているらしく、それも無駄に増長気味の自意識のなせる業なのか。本気でそんなことを思っているわけではなく、面倒なのでそんなことを記しているに違いない。他に気の利いたことを記述できないようだ。そんなことはこれまでに何度も経験済みのはずだ。いったい何が怖くて躊躇しているのだ。君に何を尋ねても返答はない。別にどんな答えが返ってくることを期待しているわけでもないはずで、ただ無駄に言葉を連ねている現状をなぞっているだけだ。そういうのはどこまでいっても自問自答の平行線状態ではないのか。それがどうしたのだろう。どうもしないようだが、実際には心が虚しさに包まれている。そして相変わらず空は晴れているようだ。空以外に何を見上げられるだろう。都心に高層ビルがそびえている。発想が貧困だろうか。そういう想像力を理解できないか。たぶん無駄な妄想力に頼らなければ何も思いつかないだろうが、何も思いつかなければ何を妄想することもないか。そこに不可逆性を適用して、何を覆してみせるつもりなのだろう。そう述べている意味がわからない。何が行き詰まっているとも思えないが、経済的にも政治的にも行き詰まっているとすれば、それは世界的な現象に違いないが、やはり君には関係のないことか。どこかの国の総理大臣がテレビから何を訴えようと、それは我田引水的な論を出ることはなく、結果的に自分の思い通りにゆかぬ現状を憂いているだけか。彼にそれ以外の何を主張する能力が備わっているというのか。自らに断を下すにはまだ早すぎるとでも思っているのかもしれないが、どうあがいても退きようのない立場に追い込まれている。たぶん彼はこれからも無駄な悪あがきを繰り返さなければならなくなるのだろう。くだらぬ消耗戦を繰り広げて白髪の数が増してゆくわけだ。それ以外のどんな成り行きもあり得ず、だから閉塞感が蔓延しているわけだ。それでも国家には無駄金を湯水のように使う官僚機構が必要であり、彼らの圧政によってそこで暮らす人々を地べたに押し付けておかないと、人心が国家からはなれていってしまうだろう。現状では国家の何に魅力を感じられるはずもなく、それは人々から税金を巻き上げる機械でしかない。そしてその税金を使って多種多様で複雑きわまりない許認可のための諸手続きをもうけて、官僚や公務員は自分たちの仕事を確保しようしているわけで、またそれらの内容が一般の人々には難しすぎたり、量が膨大でそのすべてをいちいち理解することが困難であることにかこつけて、その内容を把握していることを売りにしている弁護士やら公認会計士やらが、金儲けを目的に暗躍しているわけで、たぶんその手の人たちが生息するための環境を支えているだけでも、一般人は相当なコスト負担を強いられているだろう。そうまでして人々はどんな暮らしを受け入れているのだろうか。現状がそれというわけか。誰もそんないきさつの上に築かれた生息環境を変えられるはずもないか。国家だけでもその手のバロック的で複雑怪奇な仕組みを有しているのに、それ輪をかけて経済活動の場である市場の仕組みも複雑きわまりない。単に物を生産してそれを売るという行為から派生して、まるで砂上の楼閣の上にさらにわけのわからない商品を継ぎ足しているような、情報や雰囲気や果ては影も形もないものを売り買いすることで、莫大な利益を得るための方法が大々的に模索されていて、もはや詐欺的なやり方がもてはやされているような気配すら感じられるまでになり、それは例えば昔のヨーロッパの教会が免罪符を売って利益を得ていたのと同じようなことなのではないか。債券や証券などは価値が暴落して換金できなくなればそういうものになるだろう。
4月1日
今日も慌ただしい一日だったかもしれないが、もう夕暮れ時のようだ。何を考えている間もなく夜になり、さっさと明日になってしまう気配だが、それで何か不都合を感じているわけではない。それが巡り合わせであり、自然の成り行きなのだから、今はそれに従うまでか。たぶんそこからしか道は開けないのだ。しかし道とはどんな道なのか。冗談でそんなことを述べているとしたら、すでに道から外れて、どこかの薮の中で方向感覚を失い、何を述べたらいいのかわからなくなっているはずか。それの何が冗談なのか。自分で述べておいてそれはないだろう。強いてあげればそういうところが冗談なのだろう。そんなわけで今日も何かずれたようなことを述べている。誰かにはそれが馬鹿げていると思われるようだ。誰かとは誰なのか。いちいちそんな疑問を差し挟んで何を探ろうとしているのか。誰かとは誰かではなく、人間とは何なのか。何でもないから人間なのだろう。ちなみに君は人間ではない。また冗談でそんなことを述べている。無駄な言葉が無駄に積み重なり、それで何を述べているとも思えないが、人間という言葉がいかに使い物にならないかを示そうとしているかのように連なっている。そんなのはでまかせに決まっている。要するにそんな決めつけを偏見とともに多用しているわけだ。だがそこでわからなくなる。いったい君は何を語りたいのか。わからないなら、そのままわけのわからないことを語り続けるしかないだろう。それで何がかまわないのか。これから述べようとしていることの先回りをしたいのかもしれず、何がかまわないとも思えず、何も思わない代わりに、そんな風に語ってしまってかまわないわけではない。ではそこから何を語ればいいのか。そういう問いかけ以外のことを語るべきだが、いつの間にか自己言及の罠にはまっていることに気づき、何について述べているわけでもなく、それ自身に言葉が返ってくることにいらだちを覚え、なんとかそれとは別の話の展開に持っていこうとして、焦っている自意識をどうにかしたいのかもしれないが、それではいけないような気がしてくる。その辺で堂々巡り状態に陥っているようだ。それ以外の何を求めているのかわからなくなり、そういう成り行きに違和感を覚え、何となく行き詰まり、打つ手がなくなってしまうようだ。だがそれでどうかしてしまったわけではなく、何をどうにかしようとしているわけでもない。まだ余裕があるようにも思え、そこからさらに言葉を連ねようとしているらしい。まったく正気の沙汰ではないか。いったい君は何をどうしようとしているのか。あるいは何をどうもしないでいられようか。それで窮地を脱したつもりになりたい。どうやらそれが本音の一部を構成しているらしい。自分に対して正直になる以前に、誰に向かって真実を述べようとしているのだろう。まったく冗談以外に偽りの自意識を引っ張りだす手段はないものか。今はすでに夜だ。当たり前のことを述べた後に何かが待ち受けているような気がするが、それで何を述べているつもりになれるだろう。何のつもりにもなれなくても、なんとか工夫を凝らして文章の継続をはかるべきか。すでにそうやっているのではないか。そんな風に述べていること自体が工夫を凝らしているつもりなのか。ならばそれを続けてゆけばいいことでしかないようだが、今度はそれが気に入らなくなる。もう少しマシなことを述べたくなってくるのだが、どのように述べればマシになるのかがわからない。この期に及んで何について語ればいいのかわからない。すでに語っているそれは、少なくとも何かについて語っているはずだが、やはりその内容が気に入らない。そういうのではなくて、無い物ねだり的に別のことを語りたくなる。それが無理を求めていることになるわけか。確かに無理なのだろう。逆に無理だからこそそれを求めてしまうわけだ。そして求める内容に至らずに挫折感を味わう。落胆して嫌な気持ちになってしまい、やめたくなってしまうわけだが、それがやめられない。今のところはやめられないのだろう。そんな事実をそれらの文章は示している。だからどうだというわけではないが、ひたすら報われない努力を繰り返しているのはなぜなのか。何か最後の最後で大どんでん返しなどが起こり、ついには栄光を手にするとでも期待しているのだろうか。半信半疑だが、そういう成り行きもありだろうか。それこそが冗談以外の何ものでもない。しかし栄光とは何だろう。馬鹿げた思い込みが成就することが栄光なのか。そうだとしたら何なのか。何の意味もないことだ。いくらやせ我慢して強がってみても、世間に認められることを夢見てしまうのが人間的な弱さなのだろうが、それらの文章の中に登場する誰が人間なのだろうか。少なくとも文章を記している者が人間であることは確からしい。君は人間ではなく言葉だ。それがどうかしたわけではないが、人間とは何なのだろう。そうやってまた意味のない問いかけに舞い戻ってしまう。たぶん馬鹿げたことだろう。唐突にそんなことを思ってしまうわけで、それらの文章はどうにもなりようがない段階まできているのかもしれない。たぶんどうにもならなくてもかまわないのだろう。それは強がりとかやせ我慢とは別の次元でそうなのだ。
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