彼の声65

2008年

3月31日

 それは気まぐれから生じていることではない。悩んでいる場合なのだろうか。壁のひび割れが拡大している。今さら遅いが、そうではないと思いたい。間に合わないことについて何かいいわけでもあるだろうか。何が間に合わないのだろうか。たぶん何かが間に合わないのだろう。君はその地平から飛び立つことができずにいるらしい。何となくそこで帳尻合わせをしてしまう。それがつまらない動作であることがわかっていながら、あえてそんなことを述べてしまうのも、予定調和のうちだろうか。何をだましているわけではない。誰に急かされているわけでもなく、誰が急いでいるわけでもないが、誰かがせわしなく動き回っているらしい。そんな状況から何を想像できるだろうか。この世界に魅力を感じられない。何もかもが君からはなれていってしまう。たぶん何かが狂っているのだろうが、その狂いが致命的な崩壊をもたらすとも思えず、たぶん狂ったままにしておいても何がどうなるわけでもないだろう。どこかの山のてっぺんから誰かが意味不明な叫び声を発している。そういうことにしておこう。それが不都合な真実だとは思えないだけか。どうやら歩きすぎて膝がいかれてしまったようだ。疲労がたまっているのだろう。これ以上歩けないとも思えないが、いずれは痛みに耐えきれなくなってしまうだろう。そうなったら医者通いの日々が待っているわけか。それで何が報われるというのか。それとは無関係に誰かと誰かの視線がどこかで交わっているらしいが、それで歩くことから解放されるとは思えない。なぜ無関係なことを挿入したがるのか。たぶんそこで切羽詰まっているのかもしれない。苦し紛れはいつものことか。だが当てもなくさまよっているわけではない。誰かはそこに何らかの覚悟を読み取れる。さらにわけがわからなくなることを承知の上で、わざと常識から逸脱しているのかもしれない。まだ意識は今月に入ったばかりのようだ。堕落とはどういうことなのか。何かにかこつけて他の何かを引き寄せようとしている。やはりわけがわからない。それでも亀裂が広がっているとは思えない。無様だとも思わない。その辺が見解の相違に違いないが、何を述べてもそうなってしまうのだから、それは自然の成り行きだろう。ならばもうだめか。だめだと思えばだめに決まっているが、何がだめなのかわからないか。そういう手法は倫理的によくないということだろうか。発作のたぐいだろう。喘息なのかもしれない。まだ外は寒く、強風が吹き荒れている。気候的に未知の状況に遭遇しているわけか。それで何がわかるだろう。仕事を怠けたくなっているのかもしれない。確かにいつもとは少し雰囲気が異なるようだ。誰もそれをやめようとしない。君が思っているのとは感覚がだいぶ違うようだ。なぜそうなってしまうのか誰にも理解できない。君はそこからさらに逸脱しようとしているらしく、不意に襲ってくる眠気と闘いながら、必死で何かにしがみつこうとしているようだが、貧乏揺すりも次第に激しくなり、何となく正気を保てなくなってきているみたいだ。まったく嫌気がさしているどころではないか。何をそんなに苦労しているのだろうか。何かを述べることがそんなに苦痛なのか。たぶん君にはわからないはずだ。たぶん何も苦痛とは思わないのだろう。実際に心身ともに痛みきっているのに、そういう痛みには鈍感を装い、内面の荒廃も隠そうとせず、いついかなる時も強がってみせる。それでは通用しない。何に通用させようとしているのか知らないが、とりあえず通用しないらしい。どこの誰にも世間体という圧力がかかっている。それで何を観念させたいのかわからないが、とりあえず世間体を取り繕いたいらしく、他の皆と同じ動作を完了させたいようだ。それはまったく常識的な判断なのだろう。しかし今さらそれに誰が屈しようというのか。たぶん何もわからない。どこかで変化する糸口をつかみかけたこともあったかもしれない。果たして今はどうなのだろう。今がその機会だとは到底思えない。たぶん判断がつかない状況なのだ。どうしようもないのかもしれない。取り返しのつかない事態を招いているようで、そんな大げさなことでもないようにも思えてきて、冗談のようなこの世界の中に存在しているとも不在だとも思えてくる。要するにいつまでたっても曖昧なままなのであり、それが君の意識ではないことはわかっているが、何を意図してそんなことを述べているとも思えず、君にどんな思惑があるとも思えない。ただ言葉が組み合わさって文章が構成されているに過ぎず、それ以上の真実がどこに隠されているわけでもない。そういう意味で君の試みが何を超えることもないように思える。ではこのまま低水準の言説にとどまってしまうのか。水準がどうのこうのいえるようなものでもなく、何を持って基準としているわけでもないだろう。すべてがその場の思いつきで述べていることであり、それが思いつきだと見なせるほどの確信さえなく、ただ何となく文章が記されていて、それがどのような効用を狙っているとも思えず、惰性としかいえないような無内容を延々と記しているに過ぎないのかもしれないが、それで自己言及に至っているかも怪しいところか。とりあえず何を目指しているのでもないらしい。


3月30日

 別に誰が宝探しをやっているとも思えない。彼がどこで何を語っているのかは知らない。何を探しているわけでもなく、誰かは骨折り損のくたびれ儲けというわけでもないだろうが、結果として無駄骨を折ってしまったわけか。それほどでもないだろうが、たぶんそうなのだろう。本当にその場所には何もないようだ。たぶんそれは違うと思う。何もなければさらにつまらなくなってしまい、そんな終わりのない言葉の繰り返しに嫌気がさしてくる。君は何を考えているのか。何も考えずに無駄に言葉を連ねている現状に変わりはなく、遅れを解消できないまま来月に入ってしまったようだが、それはいつものことでしかないだろう。無理なのだから仕方がない。君に責任はない。誰の責任でもなく、君以外の誰が責任を取ろうとしているわけでもない。そういう問題ではないだろう。ただ現状に行き詰まっているだけか。その辺がよくわからないが、君がそこで何をやっているのかも問うつもりもない。ではどうしたら何か気の利いた言説を導きだせるのか。現状はそういうことでもないのかもしれない。どういうことでもなく、たぶん惰性で何かを語ろうとしているようだ。しかしそれだけでは気が休まらないのではないか。別に何かを述べることによって気を休めようとしているのでもないか。その辺で微妙なことを述べているつもりらしい。何を述べているかは知らない。取り立てて思うところもない。では本当にこの世界は行き詰まってしまったのだろうか。拙速に結論に到ろうとすべきではない。そこから言説を導きだすのは無理なのかもしれない。無理でもかまわないから遠回りしてみるべきか。いったいどこへ向かうつもりなのか。向かう先がわからなければ遠回りしようがないか。実際にこの世界はどこへ向かっているのでもないように思われ、向かう先など何もありはしない。誰がそう思っているのでもない。その辺に無理が生じている。眠いなら寝てしまえばいい。誰も起こさなければ永眠してしまうか。しかし死が間近に迫っているとは思えない。それは何でもないような雰囲気だ。実際に何でもないのだろう。本当に何でもなく、何でもないからこそ、この世界が退屈に感じられてしまうわけだ。それでも人に生きる術が備わっている。人間たちが作り上げた社会が人間を生かしているらしい。それはどうしようもなく馬鹿げたことだ。信じられないような愚かさのただ中にいるらしい。だが君はそれで何を見いだしたつもりになれるのか。君自身が愚かなのか。何に導かれているとも思えない。そんな言葉の積み重なりが君を裏切り続ける。言葉を連ねた結果として、何も述べていないことに気づかされる。ただそれだけのことに時間を浪費している。それで何がわかるというのか。何もわからないとすれば、それは何かをわかろうとする行為とは無縁なのだろうか。何を思っているのでも探っているのでもなく、ただ言葉を並べているとしか思えない。それだけのことに無限の時間と労力が必要なのか。やはりそれは冗談では済まされないことのように思われ、それだけでも誰かを途方に暮れさせるには十分な状況か。それで何がわかるのだろう。わからないからそんなことを述べながら自問自答を繰り返しているのではないか。まったく意味も意義も見いだせない行為だが、それで君が気が利いているとは到底考えられない。しかしなぜ気が利いていることと無駄な行為が関係するのだろうか。いったい何と何を関連させれば、まともな文章が構成できるのか。記された言葉と言葉との間に何の関係も見いだせないということがあり得るだろうか。そうやってさらに無駄に言葉を弄して、何か述べているように装っているようだが、やはりそれは冗談ではないらしい。冗談ではないがまともとも思えず、本気で何を語ろうとする気概が欠けているのかもしれない。それはどういうことなのか。誰かがどこかで人間不信に陥っている。唐突にわけがわからなくなる。君には関係のないことだろう。ならば他に何が関係していると思われるのか。君が君自身から遠ざからなければ人間不信を解消できないだろう。気がつけば貧乏揺すりが激しくなってくる。寒いのか。突然のみぞれにうたれ、身も心も冷えきってしまったのだろうか。今は晴れているようだ。ところで何が人間不信を構成していたのか。君に何がわかるというのか。何もわからないわけではないが、わかっていることとそれとの間には何の関係もなさそうだ。だからそこでくじけてしまい、言説的な挫折を味わう。たぶんそれが君のすべてなのだ。語っている無内容のすべてが君の心に突き刺さり、二度と立ち直れないような挫折感をもたらしているようだが、一方でそれがそこでの作り話を構成していることも確かであり、君は自らに嘘をつきながら、そこでの継続の糧としているように感じられ、結果として得られた虚無の言葉に頼り切って、それらの文章を作り上げているように思われる。しかしそれで何がわかるというのか。何もわからないことから生じる焦りからそんなことを述べてしまうのかもしれない。それでも文章に変わりはない。何も変わっていないようで、その変わっていないと感じることから、それらの文章の継続がはかられているようで、その場の成り行きと偶然の巡り合わせを利用して、そんな風に述べているらしい。それはどういうことなのか。


3月29日

 どうやら最後の言葉を述べてしまったらしい。本当にもう終わりなのかもしれない。しかしそれはいつものことだ。誰かの文章は年がら年中言説の終わりを迎えているらしい。だが今回は何も状況を把握していないようだ。それどころか積極的に何も知ろうとしない。言葉がまるでバラバラだ。君には冗談が通じないようだが、何を説明しようとしているのか。さっきから述べている意味がわからない。しばらく我を忘れてどうしていたのだろう。昨日はひたすら自らに嘘をついていた。今日の誰かはひたすら笑っているのではないか。わけもなく笑っているようだが、明日の自分は構造的に世の中の仕組みを知ろうとしているわけではない。さらにわけがわからなくなる。それは病気のたぐいかもしれない。心の病に違いない。簡単に気が狂っているのかもしれない。冗談でならそんなのもありだろう。だがそれらの言葉の並びに強烈な個性を感じるのはなぜだろう。言葉を並べながら何を行き詰まっているのか。そこから飛翔できないことがそれほどの落胆を呼び込めるだろうか。人によって感じ方に相違があるようだ。文字が小さすぎてよく見えないだけか。他に何を読もうとしているのだろう。膝の痛みが日増しに増してくる。糖分を取りすぎているようだ。それとこれとは関係ないだろうが、ただ漠然と言葉を並べて、そんな画面を眺めている。それらの状況が改善に向かうことはなく、ただひたすら悪くなる。そこで誰が何を述べようとしているのかわからない。だいいち言葉がない。どこに言葉が並んでいるのだろう。それが画面上で述べられていることだとは思えない。たぶん興味がないのだろう。何に対しても興味がわいてこないようだ、せわしなく言葉を連ねているようだが、今がそれほど忙しいとは思えない。確かに余裕はないが、何に忙殺されているわけでもない。よそ見ばかりしていると事故を起こしてしまう。だがそれで何を恐れているのでもない。ではいったい何がままならないのか。ただひたすら努力しているようだが、現状では無駄に言葉が費やされ、途中から何を述べているのかわからなくなり、あきらめて開き直ってみても虚しいだけか。君はそうやって偽りの敗北を認めようとしているわけだ。しかしなぜ敗北が偽りなのか。何に対して敗れ去っていることが嘘なのか。この期に至って何が認められないわけでもなく、やはり二日遅れの日付になっているようで、別にそんな些細なことに誰の共感を求めているとも思えない。他の誰が共感を得られるように語ろうとしているわけでもなく、なぜそうなってしまうのか、なんて現時点ではわかりようがない。それに関して君が何を考えているのか知らないが、すでに答えは出ているはずで、それ以上いくら考えても、他には何も出てこないのではないか。ならばそのすでに出ているはずの答えとは何だろう。何がそこでの答えなのか。それは使い古しのおもちゃでしかなく、それを使って何が求まるとも、何がわかるとも思えず、だからすでに答えは出ていると述べているではないか。そう述べて、わざとらしく振り出しに戻ったつもりになり、一安心したいらしいが、二日後の雨空の下で何が救われているとも思えない。また誰かが冗談でそんなことを述べているだけのようだ。昼になれば晴れてくるだろう。今はもう夜になっている。夜になったからといって、何を述べているわけでもない。それが嘘であることは承知しているようだ。偽りの言説にとらわれている。どうしてそうなってしまうのかわからないが、それがその時の成り行きなのだから、その状況を真摯に受け止めるべきか。いったい何を間違えているのだろうか。勘違いも程々にしてほしい。君には君のやり方があり、それを忠実になぞっていけば、自ずから出口に至るはずか。すでにそこが出口だ。どこをどうやってそこに至ったのか知らないが、とりあえずそれが出口なのだろう。確かにそれが出口という言葉であり、それを記せばそれが出口なのだろう。そんなごまかしでかまわないのだろうか。今は他に何も思いつかないからかまわないのだろう。久しぶりの意味不明で心が和んでいるようだ。冗談ではないだろう。たぶん何も述べられない。だから言葉を連ねているのか。わけがわからないことはいいことか。夢を見ていたのかもしれない。誰かは今も夢を見続けている。それは魔法ではない。気がつけば画面上で言葉が組み合わさって文章が形成されているではないか。それが夢の続きだったらどうなってしまうのか。誰かが歌い続け、それを聞きながら虚しさを振り払おうとするが、それができないことを知る。しかしもたらされたのは絶望ではない。少しでも前向きにこの世界をとらえ直さなければならない。たぶん何かを肯定すべきなのだろう。その何かが間近に迫っていることを感じ取るべきなのか。それが君の勘違いでないことを祈りたいが、そこから言葉が解き放たれているとは思えない。もう少し具体的なことを述べてみたらどうか。不自然でぎくしゃくした言葉の並びを超えて、自然な成り行きに身をまかせ、得体の知れぬ雰囲気を醸し出そうとしているのかもしれず、それが不可能だとは思わないだけのようだ。


3月28日

 すべては後からわかることだが、たとえわかったとしても、さらにわからないことが出てくる。たぶん予測不可能なのだろう。やはり昨日の時間帯から前進できないようで、それどころか状況はさらに悪化して、無駄に一日が費やされる。その時君は何について述べていたのだろうか。まったく思い出せないのは何も述べていなかったからか。何もかもが現実から離れている。心が現世から隔離されている。しかしなぜ冗談でそんなことを述べているのか。それは何かの間違いに違いない。それでも君は何かを知っている。それに関して何を述べているのでもない。では他に何が関係しているというのか。ここはもう少しおちゃらけたことを述べるべきだ。例えば芸能人がテレビの中に隔離されている。そう見えるだけだろう。ならば金持ちが高級住宅街に隔離されている。その区域から外に出られないわけではない。では野球選手が球場の中に隔離されている。何がではなのだろう。すべてが君から遠ざかり、ただ眺めるための存在と成り果てている。だからどうだというのか。今後この世界には何も残らないかも知れないが、別に疎外感が増しているわけでもなく、逆に誰もが現世とのつながりを求めている。しかしメディアが一般人とそうでない人たちを引き離す。それが犯罪者であれ俳優であれ、彼らが作り出す話題の中心に、何か特別な人間がいないと困るわけだ。話題にならなければ伝える価値などありはしない。そんなわけで例えば大金を持て余し、マネーゲームに興じている人たちは、一般人でもその他大勢の人々でもない。とりあえず金持ちは羨望の対象であり、その意味で伝える価値のある人種なのだろう。要するにメディアは現代における究極の司祭だ。情報を操ることによって、資本主義という宗教を全面的に支えているわけだ。彼らが取り上げるものは常に何か特別な物であり、伝える価値のある存在なのであり、そこに聖域が築かれ、彼らがその価値を認めたものは聖なるものとなり、彼らが流す情報に洗脳された浅はかな一般大衆が、その特別な存在の周りに群がり、それを崇め奉り、それが存在すること自体をありがたがってしまう。そこで君たちは何を追い求めているのだろう。それは言葉ではない。言葉でなければ何なのか。君は冗談でそんなことを述べているのかもしれない。この世に宗教に染まらないものなどありはしない。何もかもが商品として分離され、人々は金を払ってそれを買わなければ手に入れることができない。それは幻想ではなく事実なのだ。メディアに欲望を植え付けられたものたちは、手に入れる必要のないものまで手に入れなければ気が済まなくなる。君はどうなのか。どのような欲望に苛まれているのだろうか。ただ眺めるだけなら金を払わなくても済みそうだが、実際に君は何を眺めているのか。それは言葉の連なりであり文字列だろう。そして今はそれさえも読もうとしない。真実を知るのが面倒くさいのだ。そしてつまらないことを述べているようだが、君は何かに影響を受けているらしく、そんな付け焼きの知識によって、かろうじて文章の継続をはかろうとしているようだが、さっき再開したばかりで、もう行き詰まってしまったようだ。たぶんそれらの言説には息切れがつきものなのだろう。何かを述べている途中から何も述べられなくなる。自らが述べていることがくだらぬ妄想から生じているような気になり、自己嫌悪に陥って、それ以降は何も述べられなくなってしまい、しばらくは立ち直れそうもない。そんな嘘がどこでまかり通るのだろうか。たぶん何を通したいわけでもなく、誰にも認められないようなことを述べていたいのかもしれない。それが言語的な巡り合わせから生じている文章なのだから、それを認めないわけにはいかないようだ。そんなわけで何もできないうちに二日が経過してしまったらしい。日付的にはそうなのだろうが、実際にはあの時からいくらも経っていないはずか。まったくどんな時でもない時があの時なのだから、それは任意の時間であり、もしかしたらほんの一瞬の間だったのかもしれない。君はたまらずうなだれて、自らの至らなさを詫びるしかないか。理由がわからないのはいつものことだ。たぶん苦し紛れにそんなことを述べているのだろうし、そのうちに終わってしまうはずだ。その時の君が何を強調しようと、それらすべては聞き流されて、無視されているうちに忘れ去られ、すぐに何を語っていたのか思い出せなくなる。そのとき人間は君以外の何者でもなくなってしまう。それはどういうことなのか。単なる付け足しにしては苦し紛れではないような気がする。君が君から分離する日がいつやってくるのか。それはどういうことでもなく、何の使用価値もないがらくた的な物言いが再現されている。わざとわけがわからなくなるようなことを述べているだけか。ことは簡単には運ばず、様々な紆余曲折を経てなお曲がり続け、その奇妙なねじれ方に疑念を抱いているわけだが、誰かの意識はそれとは別の箇所に興味を抱いているようだ。君の方はまだそこまで至らない。途中でくじけて一休みの最中を装い、そのままあてもなくさまよい続けたいのかもしれず、これまで述べてきたすべてをひっくり返したい衝動に駆られているのだろう。


3月27日

 つまらないことにこだわりながら、退屈な日々を送り、空を見上げて何を思うこともなく、その漫然とした暮らしから抜け出ようとする気も起こらず、つまらないと思えばいくらでもつまらなくなるような世界に嫌気がさしているようだが、何か気晴らしでも探す気もしないらしい。心は鬱状態なのだろうか。君は新しい何かを求めているのかもしれないが、遭遇するどのような事物にも魅力を感じられないのはどうしたわけか。ただ状況が面白くない。そんな気持ちを覆すことができずにいる。だが行き詰まっているのは君だけではないはずだ。誰も何ももたらせない。何がどうしたわけではなく、それだけではないからだ。他に何があるというのか。世の中には追いつめられる人がいる。追いつめられて無理心中などをしてしまうらしい。そんなニュースに接して何を思うわけでもない。それは明日のことだ。そしてどうも昨日でもなくなったらしい。さらに遅れて一昨日のこととなってしまったようだ。他人事ではなく自分が追いつめられているようだ。たぶん気が狂っているわけではないのだろう。なんとかしようともがいているのかもしれない。疲れがたまっている。だがそんなことは言っていられないようだ。この時間帯を逃したら後がない。内容など何でもかまわないのか。たぶんそういうことなのだ。そういうことでしかなく、どういうことでもない。誰もが死にものぐるいでがんばらなければならないのだろうか。本気で生きてゆきたい者はどうしようもなくそういう成り行きになっていくのだろう。そこに人間の動物としての宿命でもあるのだろうか。おかしいと思えば思ってもらって結構なのだろうか。ならば自殺する者たちにはどんな本能が働いているわけか。答えは過去の行為の中にあるらしい。君はそこで行き詰まってしまうだろう。どこまでも行き詰まってしまい、ついには絶望的な気分になる。要するに精神的に追いつめられて。生き続けるのが面倒になってしまうわけだ。そんなわけで自殺が頭をよぎるのだろうか。どうだとしたらどうだというのか。動物的な本能とは何の関係もありはしない。説明がそこで行き詰まり絶望的な気分になる。ならばそこで自殺したくなるわけか。君は何に追いつめられているのだろう。ただの時間的な余裕から見放されているわけだ。やはりそれで何がどうしたとも思えないが、冗談の範囲内なら、作り話の中で誰かが自殺したくなるのも無理はない。実際の誰かはそんな心境からはほど遠いはずだ。一晩眠ったら嘘のような気分になる。昨日のトラブルが嘘のように爽快な気がしてきて、そんな嘘をついても何も動じないようだ。そうやって誰もが老いてゆくのだろうか。どうだとしたらどうだというのか。そこにどんな救いを見いだしたいのだろうか。くだらぬメンツやこだわりを押し通したい者が自殺してしまうわけだ。生き延びて苦痛を味わうことがいやなのか。破滅して自己崩壊を起こす以前に自らが主導で破滅したいのかもしれない。自然の成り行きに逆らって自らが決断を下したいのだろう。自らの死を先取りして、それによって自然に打ち勝ったように感じたいのかもしれない。ならばそれは文明的な病であり、人間として工夫を凝らして、自然を克服したつもりになる方法のたぐいなのではないか。無理心中した者にとっての家族とは自分の所有物なのだろう。事業に行き詰まって一家離散する前に、家族が自分の手を離れて自然の成り行きにゆだねられる前に、自己のコントロール下で決着をつけてしまいたいわけだ。やはりそれはエゴイズムのなせる業に違いない。確かにそういう説明ならそういうことになるが、メドロラマ風に解釈するならば、家族を愛するがあまり、家族の行く末を案じて、不幸な末路に至る前に終わりにしてしまいたいということになるのか。だからそれがどうしたということか。君にとっては何でもないことか。まったく深刻な気分とはなり難い。たぶんそれは人間の行動パターンの一つに数えられる反応に過ぎないか。人には動物として様々な習性があり、その中の一つが一家心中と呼ばれる行動だ。こうなればこうなるという選択肢の中の一つなのだろう。では君はそこからどんな結論を導きだしたつもりになれるのだろうか。そんな文章を後から読み返してみれば、そこに何らかの結論と読み取れる箇所を見つけられるかもしれないが、それがどうしたというのか。たぶん君にとってはどういうことでもなく、そんなことを述べても虚しいだけなのかもしれない。もはや人という言葉から連想される意味や概念自体がくだらなすぎるように思われ、そこに積極的な肯定性を見いだすことは不可能になりつつある。すべてが否定的な意味や概念で構成されている言葉が人間というわけか。冗談で述べているのだろうか。そう思いたければそれでもかまわないが、何となく早朝から何を述べている気にもなれない現状の中で、そこからどうやってやる気になるかが問題となっているような気もしてきて、なんとかその辺で踏みとどまって、その先に希望やら可能性やらを見いだしたいらしく、その後の誰かを乞うご期待ということになれば、自殺などする気にもなれないはずか。


3月26日

 眠気の到来とともに言葉が意識からはなれていく。順序が逆のような気がするが、間違っていてもかまわない。今がその時なのだから、多少の誤りは大目に見てもらいたいか。誰に向かって述べているのでもない。その時とはどんな時なのか。それは過ちを犯す時なのかもしれず、春になるとおかしな行動に出る者が多くなるようだ。何かのきっかけで連鎖的に複数の者がそういう行動に及ぶらしい。冬眠状態の狂気が一気に目覚めたわけか。それは個々の事例における特殊性を無視した見解だ。そういう捉え方はくだらなすぎるか。別に面白ければそれでいいのではないか。面白くなくてもかまわない。また翌日にずれ込んでいるようだ。何をやってもそうなってしまうのだから、それは仕方のないことだ。たぶんここから先は何もない。君は何も語れなくなる。今がそういう状態なのか。実際にはどういう状態でもないが、気まぐれにそういう状態だと思い込んでおこう。そう思うしかないらしく、出口はそんなところから開けてくるのかもしれないが、依然としてそれがどうしたわけでもない。何もおかしくないように思われるだけで、そこからどんな文章につながっていくとも思えない。ただひたすら眠いのであり、それが春特有の季節的な現象なのかもしれないが、やはりそれがどうしたわけでもない。短絡的にどんな結論に至れるはずもなく、現状では何について述べているのでもないらしい。それはいつものことだ。何をどう述べても何が変わるとも思えない。言葉が続かない。それらの文章に何を期待しているわけでもない。現実に何が生成されるわけでもない。要するに君が述べることができるのはそんなことなのだ。その辺で期待はずれになるらしい。だからあきらめて何もない現状を受け入れざるを得なくなる。それではつまらなすぎるか。ならば適当に悪あがきでもすればいい。いったい何が君の目標となるべきなのか。悪あがきとはそういうことなのか。何となくそれは違うような気がする。無駄に言葉を連ねるだけではだめらしい。何も思いつかなくても自然に出てくるものがある。それが文章なのではないか。君にとってはそうなのだろう。それで満足できるならそういうことになるだろう。満足できなければ技巧を凝らしてみるしかないか。それが気に入らなかったらやめればいいのだろうが、一番気に入らないのがやめてしまうことなのではないか。その辺がおかしいのであり、自己矛盾を起こしているのだろう。そこから出口に向かっているはずが、いつの間にか入り口に出てしまう。その道筋を君が記憶しているわけだが、やはりそれがどうしたわけでもない。記憶が君自身を構成している。それらの文章が君なのか。焦点が定まらない、まとめようとする気がないようだ。それでも君は君自身であり続けようとするだろう。君は空疎そのものなのではないか。どんな疑念も虚無に吸い込まれ、答えなど何も返ってこない。応答がない。君はそこで何をねつ造しているのか。ねつ造しているのは君ではなく、誰かがねつ造という言葉を使いたくなっただけのようだ。気まぐれのたぐいだろう。君はいつまで経っても本気になれない。何をやっているふうも装えない。何のつもりもなく、実際に無気力に近づいている。現実を前にして何をイメージすることもできはしない。季節が春であることと無関係とは思えないが、なぜかどうしようもなく大人げない。それが嘘だと思うなら思っていてもかまわないが、そこで何を認めることができないのか。ただ遠回りがしたくなる。まともなことを述べるのが苦手になっている。正論を述べられない。そんなのは昔からそうだろう。言葉が無駄に費やされるのが正常な状態なのだ。そこから抜け出るわけにはいかないらしい。今がそんな流れの最中で言葉を連ねている。今とはいつのことなのか。それが無駄でなければもっともらしい結論に導かれるはずか。そうでないとすると今はいつなのか。少なくとも過去ではない。日付的には昨日だが、今は今でしかなく、冗談の範囲内でも今だ。そんなことを述べているうちに、わざとらしくもわけがわからなくなり、立ち直れなくなってしまうのか。誰の話でもない。笑っている場合でもないらしい。ではなぜそんなに余裕があるのか。君が語ろうとしている未来の今には誰もいない。それがあり得ない時間帯だからか。君には今しかなく、未来などありはしない。そこに言葉が存在しない。意味がないのだから仕方がない。今を語ることに意味を見いだせないようだ。今が特別な時だとは思えず、重要な時だとも思えない。すべてはうやむやに終わってしまうだろうし、そうなって当然のような成り行きになってきているのだろうが、無理なものは無理なのだろう。たぶん犠牲がなければ前進はない。富を得るためには犠牲がつきものだ。その犠牲が得られた富に見合っているかどうかはその時の気分次第か。基準などあってないようなものだ。ならばどうしたらいいかなどという対案はあり得ず、その先には破滅以外はあり得ないのだろうか。君にそれを知る手だてがあるとは思えない。たぶん知らなくてもかまわないのであり、知り得ないことを知る必要はないのだろう。ならばどうしたらいいのだろうか。


3月25日

 今回は何の紆余曲折もなく翌日になってしまう。何かトラブルにでもなったら気晴らしになっただろうか。それで何がわかるわけでもない。空は晴れていて、聴いている曲もいつもの通りだ。だから何について語るはずもなく、今日も至って無内容だ。きっと君とは無関係のどこかで誰かと誰かが闘争を繰り広げているのだろう。それについて何を語ればいいのかわからない。たぶんそれは漫画の中の話に違いない。実際には誰もない。それはこの世界から隔絶した時空間のように感じられ、そこで何が行われているわけではない。その代わりに何かが聞こえてくる。それは歌声のようでもあり、そよ風が梢を揺らしている音のようにも聞こえ、何となく心地よく感じられるようだ。しかしそれで誰が癒されるのか。言葉がひたすら連なっているのを眺めているだけで、それを読んだつもりになれるだろうか。文章はどんな内容に至りたいのか。誰がそれを後押ししているとも感じられない。それが何を意味するとも思えないが、そんな言葉の連なりを利用しながら、誰かがこの社会と闘っているらしい。そんなつもりで何かを述べている。誰かにとってはそれが幻想だとは思えない。君はそこから何を導きだすつもりなのだろう。突然眠気が覚めた理由でも知りたいのか。そんなつまらない理由などいらないか。ならばそこから何を語りかけようとするつもりなのか。状況を見誤っているのかもしれない。この世界の中で貧困が拡大しつつあるとは思えない。投機に使用する目的で無駄な資金が大量に流通しているだけではないのか。目的はマネーゲームをすることでしかなく、それが一時的に石油や穀物相場に流れ込もうと、物価が上がり、一般市民の商品購買意欲が減退するだけだ。それの何が貧困に結びつくのか。君は実際に貧しさに苦しんでいる人の痛みを知ろうとしない。知らなくてもかまわないのかもしれない。たとえ貧富の格差が取り返しのつかぬほど広がろうと、そこにどんな不都合が生じているとも思えないだろう。金持ちは贅沢品を買って、貧乏人は生活必需品を買えばいい。生活必需品すら買えなくなったら飢えて死ぬだけか。死ぬのがいやなら自給自足で食っていくしかないだろう。そうやって貧乏人は自然淘汰の対象になってしまうわけか。たぶん人間が他の野生動物と同じ扱いを受けるようでは、世の中が成り立たなくなってしまうと考えているようだが、野生動物でさえ、絶滅間近になると保護の対象となるように、役所にでも出向いて生活保護申請でもすればいいのだろうが、それさえもなかなか手続きが難しいようで、浮浪者が巷にあふれかえるようにでもなれば、行政が何とかなるように思案するようになるかもしれないが、現状はどのようになっているのだろうか。たぶん現状は現状のままであり、君が見聞した範囲内で見た通り聞いた通りの現状でしかなく、そこから何が導きだされることもないだろう。将来的には金品を介した交換形態が成り立たなくても人が生きてゆけるようになれば、貧困問題は解消されるだろう。たぶんそこで人が何のために生きているのでもないことがわかるわけだ。資本主義が消滅した時点で目的がなくなってしまう。そんな風に思われるのは何かの勘違いに起因しているのかもしれない。ならば芸術とは何なのか。人が自らを自らの作品として作り上げようとすることは何なのか。それが目的なら、それは自意識過剰のなせる業か。現時点での人間は金を得ることが目的であり、金を得るために仕事をして、金を得たら、その金で物や夢を買い、物心ともに豊かな生活を送ることが目的となっているようだが、そんな幻想を支えているのが資本主義なのだろう。冷静になればそれは馬鹿げた制度のように感じられないか。制度内からそんな制度を疑ってみても、制度を変える原動力とはなり難い。ではどうすればいいのだろう。どうもしなくてもかまわない。あきらめて制度を受け入れるべきなのだ。そんな戯言を誰が受け入れると思っているのか。受け入れなければどうなるというのだろう。やはりどうにもならないか。どうやら無駄に言葉を弄するばかりで、君は何を実行する気もないらしい。何をやったらいいのかわからないか。こうして文章を記しているではないか。そういうやり方がすべてを台無しにしている。今さら何を試みても無駄か。何をでっち上げる気にもなれず、結論を下したくないのかもしれない。それはどんな結論になるのだろう。現状とはどうにもならなくなってしまった現状なのか。何の言葉も出てこない。それは現状ではないだろう。いつまでも無駄なことを語っているわけではない。とりあえず誰が豊かになろうと貧しくなろうと、君にとってはどうでもいいことのように思われ、貧富の格差が広がろうと狭まろうと、君には無関係なことだろう。深刻な気分になれないような現実の中で暮らしていて、例えば資産運用やらマネーゲームやらをしている連中がうらやましいとはまったく思わない。意味的には間違っているだろうが、それは虚業のたぐいのように思われ、単なるばくちの一種としか感じられない。彼らは大掛かりなパチプロみたいなものだろう。


3月24日

 たぶんこの先に何が起ころうと、思い知ることは何もないだろう。思い知らされることなどもたかが知れているはずで、それについて何の感慨も抱けないはずだ。何を述べようと、それはただの言葉だ。それから何を連想することもなく、外ではカラスが鳴いている。たぶん今は明け方なのだ。そして時は過ぎ行き、すぐに昼になってしまい、さらに時が経てば夜になる。夜になれば明日に近づくだけか。何もない心理状態を言葉にすればそんなところだ。たぶんその先には何もない。だからそこで終わってしまうわけか。何もなければ何も終わらない。終わらなければ勝手に終われないだろう。そんな居心地の悪さに嫌気がさしてしまう。原因も理由もないのに気が散って、君は何も述べられなくなる。意識はこの世界から飛躍したいのか。たぶんそういう話ではない。日常の出来事はどうということはなく、どこかでありふれた事件が起こっているのもいつもの通りだ。そんな状況から誰も飛躍することなどできはしない。それが世の中なのだから仕方がないか。現実は果てしなく、感知できることはありふれている。そこで何を認識しようとしているのでもなく、何も認識できないわけでもなく、ただそんなことを認識している。それが現状なのだろうか。それの何が現状なのか。何も現状とはいえないのではないか。ならば語っているすべては作り話のたぐいか。そうであったとしてもそれが現状なのだろう。それは大したことではなく、誰かの心が虚無にとらわれているに過ぎないのではないか。そんなのはあり得ない話だろうか。意識がどこかへ逃げているのではないか。語るべきことは何もない。語ろうとしているのはそんなことではないだろうが、実際に誰かが語っている内容は何もない。そして立ち直ることができなくなり、そんな雰囲気に流され、その場を覆っている虚無に飲み込まれ、気がつけば自己嫌悪的な自己言及が果てしなく続いている。君はそんな現状を感知しているらしいが、そこから抜け出ようとして、いつものように君なりの試行錯誤を繰り返して、そんな文章を構成している現状を変えようとしているわけだ。しかし本気ではない。揺るぎようのない信念が君の前に立ちはだかっている。人は何のために生きているのでもなく、誰のために何をしようとしているのでもない。そうは思わないとすれば、そこにはどのようないいわけが現れているのか。君がいいわけをするために何を用意しているとも思えないが、誰かによって用意されているそれは、いいわけをするには何の用もなさないような言葉の連なりだ。誰に向かって何を述べているのでもなく、自らに何を問いかけているのでもない。言い聞かせるべき自己がどこかへ消失している。それについて何とも思わないなら、そこで終わりにすべきなのに、未だにやめようとしない。いったい君はその先に何があると思っているのか。何がどうなることを期待しているのだろう。この世界は変わりようがないとは思わないのか。たぶん変わっていくのだろう。そう思っているうちは変化を感じ取ることができる。君の思惑とは無関係に変化するのだ。たぶんどうにもならないわけはない。いつ何時でも常にどうにかなっているのだ。どうにかなっているから今がある。だから短気を起こして精神的に暴発する必要はない。事件の容疑者になる必要はない。夢をあきらめたら幸せになるだけだ。幸せになればそこで止まってしまう。たぶんどこにも出口はないのだろう。夢など抱いているわけではないと嘘をついておこう。嘘でなくてもかまわない。どんな認識に至りたいのでもなく、何を知ろうとしているわけでもない。何も知り得なくてもかまわない。ただ移動を繰り返していて、そこから見える光景が定まらない。認識や見解が定まりようがなく、考えていることにとりとめがない。誰が何を考えているのかわからないようだ。そんなことを誰が知る必要もないか。それは君に課せられた動作ではない。そこで誰が何を語ろうとしているのでもなく、他に何が語られているのでもない。では何が語られているというのか。それは果てしない問いかけの連続であり、執拗に繰り返される自己言及だ。自己がないのに自己について語ろうとしている。わざと矛盾をもたらそうとしているかのように思えてくるが、それが自然の成り行きなのだとしたら、この世界はどうなっているのだろうか。どうにかなっていると同時にどうにもなっていないのかもしれず、そこには様々な思惑が渦巻いていて、常に誰かが何かをどうにかしようとしていて、そこに感情が作用してうんざりさせるような結果がもたらされる。意地の張り合いという消耗戦が至る所で行われているわけだ。まったく馬鹿げているとしか思えないが、それが人間社会という構造がもたらす宿命のようにも感じられ、どうやらそれをさけて通ることはできないようだ。そしてそんなくだらぬ闘争に明け暮れているうちに年老いて、誰かの一生はその幕が閉じられてしまうのだろう。そんなことが延々と繰り返されているのが人類の歴史そのものなのだろうか。いったいそこから何を学ばなければならないのか。仮に何かを学んだとしても、それが戦略だの戦術だのに応用されて、相対的に他者より戦上手になるだけのような気がするだけか。


3月23日

 なぜか何かが重くなる。再起動したら解消してしまったようだが、さっきまでの重さは何だったのだろうか。何でもないことであってほしいが、とりあえず忘れることにしよう。すでにそれから半日が経っている。翌日は雨が降っているようだ。相変わらず君は仕事に追われている。休日がないのだから仕方がない。曇った空を鳥が横切り、君をとりとめのない気分にさせる。君が君でないとしたら、この世界について何を思うだろう。何も感じないなら、自らが存在する意味がないか。意味がないのは望むところか。勘違いにもほどがある。誰かが宗教を利用して覚醒しようとしているらしい。彼によればこの世界は終わろうとしているそうだ。君はその末法思想に踊らされ、自暴自棄になったふりをしながら、何でもできるような錯覚を抱き、気晴らしのために人でも殺めてしまうわけか。そういう理由ではない。作り話的にはもっとわかりやすい理由が推奨される。人を殺すための理由など何でもかまわないのだろう。理由をあれこれ思案しているうちに、そんなことはどうでもよくなってしまうだろう。今の君は眠らなければならず、気がつけば目の焦点が合っていない。たぶん損得勘定だけで世界を説明しようとすれば、わかりやすく単純な構図が浮かび上がってくるのかもしれないが、他に何を考慮すればいいのかわからないところが、それらの説明を多用してしまう結果に陥らせているようだ。いったい君にはそれに代わる説明を持ち合わせている雰囲気が感じられるだろうか。何を回りくどいことを述べているのか。そこに無意識の介在でも導入したいのか。何となく説明できない何かに操られている可能性があるのかもしれないが、それが何なのかわかろうとしてかまわないのだろうか。かまうもかまわないも、それができると思うならやってみたらいいだけの話でしかないはずだ。できなければ他の誰かが君にわからせることでも期待すべきなのか。他に何を望んでいるのだろう。たぶんそれは何もできないことのいいわけになりそうだ。何も語れず、次第に何も述べられなくなる。やる気がそこで萎縮している。ならばそこで終わってしまうわけか。何が終わっているのだろうか。楽しい思い出に囲まれて、やがてどこか遠いところへ旅立ってしまうのか。安易な解決法をとるべきではない。誰が何を悩んでいるのかわからず、それについて何を述べたらいいのかわからないところが悩ましいか。そういうやり方も好ましくないらしい。今こそ真正面から問題に取り組み、誰にも理解可能な回答を提示できるように努力すべきか。冗談でそんなことを述べているだけではらちがあかない。しかしある意味ではそれでかまわないのかもしれない。誰もが気晴らしのための悪戦苦闘を期待しているはずだ。目標に向かってひたむきに努力する姿を見ていると気晴らしになるのかもしれず、そんなテレビ番組が今日もどこかで放送されているはずか。たとえ紋切り型の内容であろうと、そういう内容だからこそ逆に安心できるわけか。しかし今さらそれを馬鹿にしても仕方がない。今や誰もがこの荒んだ世の中を真っ当なあるべき姿に向けて変えようと思っているはずか。もしかしたらそれも冗談に含まれる言説か。皮肉ばかりではうんざりしてしまう。そんなことを述べているうちに最終的な回答期限を過ぎてしまったらしく、あらゆる方向からの一斉攻撃にさらされてしまうわけでもあるまい。何を馬鹿なことを妄想しているのか。まったく自己嫌悪に陥るための自己さえ見当たらず、何もなければ何も考えられないだろう。何もない状況を如何ともし難く、そんな嘘をどうすることもできないようで、そうやって言葉を連ねている現状を変えるわけにはいかないらしい。理由など何もないとすかさず嘘をつく。それ以上の何を求めたらいいのか。求められないから現状があるようだ。たぶん内容的には単純なことを述べているのだろう。ぐだぐだいいわけに終始しているだけのように感じられ、それに対する嫌悪感で不快な思いをしているのかもしれず、何のことはない、そんなことをひたすら連ねているに過ぎないように思われてしまう。まだそこから遠ざかれていないようだ。他にどんな感覚を有しているわけでもないが、そんなところで立ち止まって何をしようとしているのか。もう述べるべきことはすべて述べてしまったのではないか。他に何があるのだろう。何がどうなっているわけでもなく、それは自然な成り行きなのかもしれない。ただ感情の赴くままに行動していると、テレビに映っている容疑者の彼のようになってしまう。たわいないことでしかないが、それで人命が失われると大騒ぎになるわけだ。メディアはそこで何を追求しようとしているのか。犯罪を防げなかった警察の失態を責めているだけか。それだけなら予定調和の範囲内だ。たぶんそんなことの繰り返しが誰かの感覚を麻痺させているのであり、大方その手の殺人ゲームが彼をそのような安易な行動に走らせたという結論にでもたどり着いてしまうのかもしれず、日頃からたまっていた不満が爆発して、そういう行為に及んでしまうハードルを低くしているのが、彼が以前から熱中していたゲームのたぐいにでもなるわけか。


3月22日

 たぶん意識は今日に舞い戻っているのだろう。そしていつものように何もないことに気づき、大して落胆するでもなく、何となく眠くなりながらも、こうして言葉を記している。そしてわかったようなわからないような、本当のことのような、あるいは偽りを述べているような気になり、次第にどうでもよくなってきて、投げやりな気分でいる誰かの存在を無視しつつ、ついでに君の意識もなかったようなつもりになりながらも、結局何を述べているのでもないらしい。どうということはないことだ。そんなことはどうでもいいということか。だが他に何について述べる気もないようで、ひたすら無意味な言葉を無駄に連ねようとする。芸術とは何だろう。誰に向かって何を示そうとしているのか。そこで何を眺めているのか。見るべきものは何もない。単調な成り行きになっている。何かが果てしなく繰り返されているような気がする。感じ取っている現象は君には理解できない。何がどうなっているのかわからず、それについて何をどう述べたらいいのかわからない。そして明日になる。もう一夜明けてしまったらしい。調子を崩している。何かに取り憑かれたように何をやっているわけではないと思いたいが、他にどのような状況に遭遇しているわけでもなく、出来事は至っていつも通りに起こる。たぶんどこへ至っているのでもないのだろう。翌日の空は晴れている。予報では西から雨雲が迫っているらしいが、とりあえず一日晴れているのだろう。出口はない。そんなことしか述べられない状況に変わりはないようだが、つまらないと思ってしまったらそこで終わりか。終わりようがない状況で終われるはずもない。君はそこで何をやっているのだろう。誰かが幻想と戯れている。攻撃的な本能をちらつかせながら、なんとかその場を取り繕うつもりらしいが、何のことやらさっぱりわからない。曲がったことが嫌いらしい。それは人間的な弱さの顕われか。しかし何について語ろうとしているのかわからない。人はどうすれば何か適当なことを語ることができるのだろうか。人のことを語ろうとしているわけではない。何か事件が起きないと語ることができないらしく、人々は絶えず容疑者の出現を待ち望んでいる。そんな風にして物事を単純化してはいけないか。この世は浅はかな人々ともに存在しているわけか。要するに何かしら気に入らないことがあることが、語るための原動力となっているわけか。ではチベットの人たちは何に対して抗議しているのだろうか。彼らは中国の国内で虐げられているわけか。その辺で架空の議論が噛み合なくなる。なぜこの世界では民族単位で虐げられたりしているのだろうか。また宗教や宗派の違いで殺し合いをしたりしているのか。たぶん幻想なのだろう。他にはけ口がないから、文化の違いに目がいったりしているわけだ。心が満たされたないから自己同一性の理由へ向かったりする。要するに君たちは仲間を必要としているわけだ。似た者同士で共同体を構成して、グローバリズムに対抗しようとしているわけだ。それである程度は満たされるのだろう。時と場合によっては命がけになれたりすることができる。それはすばらしいことだろうか。当人たちにとってはすばらしいことに違いない。だがそれ以上にすばらしいことは金儲けに成功することだ。経済的に豊かな暮らしができれば民族的もしくは宗教的な結束など後回しにできるだろうか。そう安易に事が進まないところがややこしいところか。彼らはそれらの結束を利用して金儲けをしようとしているのではないか。自分だけではなく自分たちの仲間も豊かになってほしいと思っているのだろう。そのためにはさらに仲間同士の結束を強めて、異教徒や異民族に立ち向かわなければならなくなる。立ち向かうとは何も殺し合いをするためにそうするだけではないだろう。彼ら相手に商売をして金儲けをしなければならないということか。彼らの命を奪うのではなく、金を奪い富を奪わなければならず、商売によって合法的に事を進める必要があり、それは何も敵対関係になる必要はなく、相手を喜んで金を払ってくれるお客様としてもてなす必要も出てくる。そこから暴力的な収奪ではなく、共存共栄のあり方を模索する必要が出てくるのだろう。相手と物心両面で様々な関係を築くことで、不幸な暴力の応酬から徐々に脱却していかなければならないのだろうが、そういう方向で行くなら、あからさまな差異を強調するのは得策ではない。たぶん人々はたわいないことに執拗なこだわりを持ち、そこから幻想としての差異を際立たせ、自分たちの存在をの特異性を誇示したくなるものだ。そこに個性と呼ばれる愚かな概念が生じてしまうのだろう。そして自己同一性の根拠としての個性にすがりつき、それによって他者に対する優越性を感じていたいのだ。そんな優越感に浸っている間は幸せなのだ。たとえ今は貧しくとも不幸であっても、自分たちは神に選ばれた民族なのだ、などということになるのだろうか。しかしそんな単純な構図を提示して恥ずかしくないのか。いったい誰に対して何を述べているつもりなのか。どうやらその辺が思考力の限界らしい。


3月21日

 何のことやらわからない。たぶんわかっているのだろうがわからない。わからないということにしておきたいのかもしれない。わかってしまうことが気に入らないのだろうか。簡単にわかってしまってはまずいわけか。近頃は終わってしまった後の日々のようだ。簡単に終わりを通り越している。そして今日はなぜか異常に眠い。そこにもっともらしい謎があるわけではないが、理由ぐらいは提示すべきか。もっともらしくなくてもかまわない。そんなことを記しているうちに、何となく指先がしびれているような気がする。何を書いているのでもないのに、心なしか文字が揺れているように見える。君は何に驚いているのだろうか。あるいは呆れているのだろうか。また誰かが意味がわからないようなことを述べているのか。だが笑ってしまうにはまだ早いだろう。まだ何も起こっていない。いったいそれは何を意味するのか。言葉を記せば何が起こるのか。言葉の連なりは何かに影響を受けている。君はそこで何を忘れてしまったのか。忘れているから思い出せない。そんなことを述べているうちに眠ってしまい、どうやら本格的に一日遅れの状況になってしまったらしいが、運命は誰の手にゆだねられているわけでもないようだ。それは誰の運命でもなく、誰がどのような宿命にとらわれているわけでもないだろう。そこで何を試みようと、すべてはなるようにしかならず、そこから脱却すべく変革を試みようとすれば、どうにもならないような抵抗に遭って、やりきれなくなって怠惰に屈するよりほかはないか。そうであるならなおのことを言葉を連ねるべきだ。出口が見えずに心を閉ざしている場合ではない。しかしそれはいつの話なのか。そのとき君はどう振る舞っていたのか。何かから逃げ出そうとしていたのかもしれず、逃げ切れなくなって、あらがうのをやめてしまったのかもしれない。だが今となってはどうでもいいことか。あれから簡単に年月が流れた。そのとき何があったわけでもなく、そんなことは忘れてしまったのかもしれない。忘れようとしても忘れられないことなど何もない。だが何を忘れてしまったのか。空を見上げてあくびをしても何も思い出せない。それがどうしたわけでもないところが、何も考えられない原因となっているのかもしれない。何の危機感も感じられず、そんなわけでもう終わってしまったようだ。いったい何が終わってしまったのか。まともな言葉の連なりを示そうとして、それが果たせなかったことを悔いているとも思えず、さらに何を語ろうとしているのでもなく、その時点で終わっているのだろう。そして呆れている。まだ何か語るべきことがあるのか。批判すべき要素がない。だから退屈なのだ。退屈な世界で何もやらないからさらに退屈になる。文字を記しているではないか。それが退屈な作業の最たるものか。人は人それぞれに退屈な空間を有している。そんなでたらめもくだらない。では他に何がくだらないのだろう。この世もあの世も退屈か。さらなるでたらめに心が沈んでいく。他に何が浮き沈んでいるとも思えないが、まったく気分転換にもなりはしない。そんなわけで今回の行き詰まりの根は相当深いのかもしれず、未だその時間帯を脱していないようだ。抜け出るタイミングがまったくつかめず、気がつけばあくびをしながら画面とにらめっこの最中だ。ひたすらそんな状況なのだからどうしようもない。そんな状態で人はなぜ幸せになれるのか。そういう問い自体がでたらめだ。実際は何もやっていないわけではないはずで、毎日仕事に明け暮れている。そして夜になって、憂鬱な音楽を聴きながら何を述べているわけでもなく、ただ言葉を連ねようとしているわけだ。そういう感覚がわからない。君には何もわかっていないようだ。そんな現状に退屈しているなら、何か危険なかけにでも出てみたらいい。破滅を体験したいのだろうか。すでに破滅していたのではなかったか。破滅していて終わっているのに、なぜそこから何かをやろうとしているのか。すべては冗談なのだから仕方ない。いつものようにまったく本気になれないのだろうか。ひたすら雑なことを述べているようだ。背後でうごめいている何かには目もくれず、延々と言葉を並べてそれを少し離れて眺めている。そうやって現実を感じ取っているつもりのようだ。何もない現実なのだろうか。何もなくても何かがあるはずだ。だがそれを探してどうするのか。探せば何かが出てくる。その何かを記せば文章が出来上がる。それは安易なやり方だろうか。そうだとしたらどうするのか。君は何もないことを楽しんでいる。この期に及んで下手な小細工は通用しない。通用しないからだめになり、何がだめなのかを探ろうとするが、そんなのは見え透いた予定調和のやり方だ。しかしそれが面白い。そんなでたらめなことを述べている誰かが気が狂うでもなく、淡々とした毎日を過ごしているだけで、至って平和な日常に何を感じることもなく、ただひたすら時が過ぎ去っていくだけのように思われ、そんな日々が退屈に感じられ、そこで同じような言葉が循環していることを何とも思わず、そして自らが何かを見いだしていることを文章の中で確かめようとしているわけだ。ひたすらそうなのだから仕方がない。


3月20日

 言葉と言葉の間に空隙がある。あれから五年が経ったそうだ。今も手詰まり状態に変わりはない。無意識がそうさせるのだろうか。何となく衰えているようだ。研ぎすまされた感性とは無縁だ。またいつもの冗談に逃げている。君は何を考えているのだろう。何も考えられないのかもしれない。言葉は何を語っているのだろう。それは言葉ではない。ではなぜ終わってしまったのだろう。何が終わってしまったのか明らかでない。気がつけば天井がぐるぐる回っている。どこかで誰かがうずくまっているらしい。妄想の始まりをつかみ損ねている。誰の悪意を感じているわけではない。でたらめな言葉のつながりは何かの端緒なのだろう。それが終わりの始まりを意味している。うずくまっているだけでは何も始まらない。もう眠気は去ったのだろうか。瞬く間に時間が過ぎ去り、今日の終わりも通り過ぎようとしている。隠された物語などどこにもありはしない。そこはただの墓場だ。骨が転がっている。何もかもがあっけなく過ぎ去ってしまい、いささか拍子抜けの感を免れ得ないが、そんな言葉遣いはおかしいか。それが現実なのだろう。以前とは感じ方が違っているのかもしれない。どんな出来事にも希望を見いだせない。何かがおかしいが、その何かをどう表現したらいいのかわからない。枯葉舞う季節からどれほど遠ざかったのか。そういうことではないだろう。今は秋ではない。この文章が季節のことを述べているとは思えない。今は十三年後の未来なのか。現実が崩れ去ってから久しい。奇をてらっているみたいだ。闇の中から光景を眺めている。あり得ないことだ。外れているのだろう。何が外れているのでもなく、何かが外れているのだろう。単なる矛盾か。話の本筋が見当たらないから、本筋から外れて語っているのでもない。お茶をすすりながら、画面を眺め続け、近眼であると錯覚する。あり得ないつまらなさだ。君の感性は怠惰から解き放たれて、何を述べても退屈に感じられなくなる。そんなことを述べている場合ではない。何を述べても現実から遠ざかり、その先に話を構成できなくなる。それは無駄な試みになるらしい。君にとってはそうなのだろう。たぶん誰にとってもわけがわからない。君は孤独なのか。かつてのそんな台詞を思い出すが、君はその先の言葉を知らない。そこに居合わせていなかった者にはわからない。実際にそれが何を意味するとも思えない。ありふれたことを述べているのだろう。話など何もなかった。その時点で語るきっかけを失っている。そんなに長い期間ではなかったようにも思えるのだが、誰もが過ぎ去っていることは確かだ。くだらぬ感情とこだわりによって過去の人となってしまったわけか。他に何を持ち合わせていたというのか。何をやっているとも思えないのはどういうことか。それは疑念ではない。では何なのだろう。笑うための言葉か。誰のための言葉でもない。さりげなく言葉をずらしているつもりらしいが、魂胆が見え透いている。どんな魂胆なのだろう。何が魂胆なのか示してみたら面白いだろうか。そんなものなどありはしない。ただそう述べてみただけか。それでもかまわないだろう。夜は誰のための時間でもない。理由になっていない気がするが、理由とは無縁なのかもしれず、答えを出すのが面倒くさいのであり、何かを置き忘れたままでは終わりたくないのかもしれない。君は未だに内容を求めている。だが今さらやり直しがきくとは思えない。できることといえば、その先に言葉を連ねるだけか。何をわかろうとしているのではなく、何がわからないのかを知ろうとしているのでもない。知り得ないことを確かめたいのでもない。何を述べても実感が伴わず、誰が語っているのでもないように思われ、まったく本気になれないのはもちろんのこと、それを誰に向かって述べているとも思えない。そういうやり方が積み重なって今の状況がある。それを知り得ただけでも以前より進歩したということか。何が進歩したというのか。たぶん何かが進歩したのだろう。そういうことにしておこう。本当はそうではないのだろうが、何となく気が抜けているようだ。気が抜けてしまって、何を述べようとしていたのか忘れてしまったらしいが、そんなのは嘘に決まっているか。気がつけば意味のない独白だらけになっている。何が気に入らないのだろう。すぐ笑う理由を知りたいのだろうか。せせこましいのは嫌いなのだろうか。当てにならないことを気にしすぎているのかもしれない。何について言葉が示そうとしているのかわからない。無意識がそうさせるのかもしれないが、今日は何もかもが外れているようなので、ついでに意識も無意識も外れて、言葉も文章から外れて、何を示しているのでもないような成り行きを目指しているのだろうか。それがどういうことなのかわかるわけがないような言葉の連なりになっているのかもしれない。だからそれはどういうことなのか。やはりわけがわからないと述べておけばいいのだろうか。ただ笑っているだけでは何もわからない。たぶん何について述べているのでもないのだろう。今日は笑っているだけで終わっている。


3月19日

 どのように述べても納得し難い。空は曇っていて、すぐに雨が降ってくるかもしれない。もう夜になっている。その時から数時間が経過しているが、その時とはどんな時でもない。任意の時なのだろう。何がわからないのかまったくわからなくなるが、とりあえず今は夜なのだろう。何に気づいたわけでもない。屋根をたたく雨音によって我にかえったような気がする。誰が正気を取り戻したわけでもない。そういう語り方なのだから仕方がない。記憶に残っている何かがその場でのこだわりを生じさせる。不可能なことではない。敏感なのだろうか。君はそれに気づいている。頭の中に何かが到来している。そんな気がするだけか。なぜそれを見ようとしないのか。今が今日なのだろう。ゲームのたぐいだ。行き詰まる攻防の果てに電源を切る。機械としての機能が失われ、ただの物質と化す。根回しが足りなかったのだろうか。誰かが言いたかったのはそんなことではない。そこで意識が飛んで辺り一面に言葉が散らばり、部屋の中に埃が舞っているようだ。大事なことを忘れていたのかもしれず、それについて考えることを怠っていたらしい。もう焦る必要はなさそうだ。見えている光景を閉ざすように寝入ってしまう。安心しきっているらしい。たぶん夢の中で飛躍しているのだろう。理由も根拠もありはしない。何かが途切れているのかもしれない。君には関係のないことか。関係の有無にかかわらず、誰にとっても由々しき問題とはならない。人心が離れてしまっているのだろう。人類に未来などなく、ただ右往左往するばかりのようだ。なぜそうなってしまうのかわからないか。君にもわからない。誰にもわからないのだから君にも誰にもわからないだろう。それとは何なのか。それでなければならない理由などありはしない。そういう文章なのだから、そう記している現状がある。それで何がわかるというのか。何かが変容しつつある。それは結果ではなく、感性の賜物でもない。要するにでたらめなのか。何もないと言ったら嘘になるだろうか。誰も何も言わず、一言も発しないだろう。沈黙が辺りを支配する。範囲が定まっていないのだ。それはゲームではない。何を待っているとも思えない。何かが静かに舞い降りているようだ。依然として雨音を聴いている。それが音楽だとは思えない。雨が降り続いているだけか。やむことがあるのだろうか。いつかはやむだろう。延々と降っていたら地上が水没してしまうだろうか。想像の範囲内ならそれもあり得るだろう。今はそんなことを思っているわけではない。ドラマの中の登場人物には役割がある。現実の世界では必ずしもそうとは言い切れないか。役割を当てはめることはできる。それは恣意的な試みになるだろうか。心の中で空想を膨らましているようだ。それが何かの文章に反映することもあるだろう。君がそれを記しているわけではない。君に役割が備わっているのか。それはどんな疑念なのか。一息ついている場合ではないか。でたらめな言葉の中に埋もれている心を引っ張りだすわけにはいかないか。現実感が何もない。君ではないのだろう。誰も君ではない。ただの雰囲気だろう。ただの言葉でしかない。誰にも巡り会えない。映像に誰かの影が埋もれている。それは心ではなかったようだ。では何がそれらの言葉を支えているのか。でたらめな言葉だ。秩序らしきものが崩壊している。誰かがそれを知っているはずだ。理解するための鍵を探している。鍵が必要だと思っているようだ。勘違いも甚だしい。著しく本道を外れている。遠ざかってみても景色はかわらない。どこから遠ざかろうとしているのか。道がどこにあるとも思えない。何に遭遇しているわけでもない。実際には夜のようだ。意味がわからない。いったい何を考えているのか。まだ文章は終わっていない。明日も雨なのだろうか。そこから何を捨て去ろうとしているのだろう。ギミックに浮かれている場合ではない。何かが明日に引き継がれようとしている。誰かは目的を探しているのかもしれない。さらに言葉が遅れて出てくる。つながらない文章に腹を立てているようだ。率直に驚いている。実感としてはそうかもしれず、誰の実感とも思えないが、そうなのだろう。実際には狭い選択範囲の中で何かを選び、それに関連した何かを記しているような気がする。何もかもがあやふやなのかもしれない。君が追い求めているのはそんな現象ではない。嘘をつくのもいい加減にしてほしいか。何が嘘なのだろう。冗談で真実の扉を開く鍵を握っているのだろうか。いつもの苦し紛れか。何がなんだかわからないが、たまにはそういう展開もアリか。片目を瞑ってみればすべてがわかることだ。要するにでたらめなことを述べている。そんなことははじめからわかっていることか。君に知らせるつもりはない。わからないことを知らせようとしている。酔っているのかもしれない。やけくそというわけでもないだろう。まだ明日まで時間はたっぷりある。どうしても続けようというのなら、そのままでたらめなことを語っていてかまわないはずだが、なぜかその辺で一区切りをつけてもかまわないようなタイミングだ。だからどうだと言いたいのか。


3月18日

 翌朝はとりあえず晴れていた。そこにどのような気休めを見いだそうとしているわけではないが、とりあえず空は晴れている。君の気分とは裏腹というわけでもない。ただの風景を眺めながら何を思うこともなく、余裕を持って辺りを見回しながら、とりあえず適当に何かを思ってもかまわないのだが、思わないわけではない。それはいつもの冗談に違いない。近頃は何が冗談なのか判然としないようだ。周りを取り囲む状況に負けているのかもしれないが、それでかまわないと思っているだけか。当分はそんな状況なのだろう。何を説明しているわけではない。それは誰にとっても関係のない状況だ。ただ空が晴れていて、晴れた空の下で気が狂った人々が右往左往しているわけでもなく、人々が普通に暮らしているのだろう。想像力が枯渇しているのかもしれないが、石油の枯渇よりは深刻でない。要するに君には関係がないようだ。そしてくだらぬことを思いつく。そしてが余分だろうか。次いでつまらぬことを心配しているようだ。切羽詰まっていないのでやる気が感じられない。何かを使い果たした気分だろうか。寝不足で疲れているのかもしれないが、君に何がわかるわけでもない。相変わらず空気中に花粉が舞っているようで、目の周りがかゆくなり、よく見れば空は薄曇りの様相を呈しているようだ。季節は春になってしまったのだろう。平和なのだ。それが実感できるほど平和だ。苦境に喘いでいるとは思えないが、荒廃した気分なのかもしれず、他に何ももたらせないことからくる焦りをそのまま放置して、それについては何とも思わないが、とりあえず紛争地域で暮らしているわけではないので、無意識の中ではとりあえず平和らしい。そして今日も仕事に励もうとしている。テロや暴動が相次ぐ地域で暮らす人にとっての平和とはいかなるものなのか。平和すぎてもうろくしてしまったのかもしれないが、そんな贅沢な悩みなどあり得ないか。どこで何をやっていようと、人々は絶えず不幸であり続ける。現状に満足できないというわけだ。何でもありの世界の中で、何もないという苦しみに耐えているのは不幸なことだが、一方でそれでかまわないと思われるのはどういうことなのか。どんな精神状態であろうと、そんな風にして生きている現状に変わりはなく、それと同時にどんな風に生きているとも思われず、ただそこに意識も興味もないと思われてしまう。もしかしたらそれこそがなんでもありの世界の本質なのではないか。何でもありとは何をやっても無駄ということかもしれない。何かがあると同時に何もないのであって、いくらでもあるからそれらに興味を抱けないということだ。たとえ希少価値を伴った物事があろうとなかろうと、希少価値という概念とそれに対する人々の対応や反応がありふれているのであり、物質的も精神的にもそんなのはどうでもいいことやものだ。価格的に高かったり安かったり、それらの入手が容易であったり困難を極めたりするだけのことで、何ら驚嘆すべき要素が見当たらず、また何に驚嘆しようとどうしようと、それらの驚嘆が長続きするはずもなく、メディアによって消費され尽くせば、ただの粗大ゴミと化すだけだ。そうやって何かを否定的にとらえようとする視点そのものがありふれていて、まったく何をどう述べようと、そんな説明が繰り返されているだけで、それを真に受ける気力もなく、怠惰な忘却作用が時の経過とともにすべてを押し流してしまうだろう。何を否定しようと、それらをいくらでも否定できる限りにおいて、それらに対する否定は無効なのだ。そして無効であるとか有効であるとかいう意味的な効力を超えて、何かについて述べざるを得なくなり、無駄で無意味だと思いつつも、それについて語らざるを得なくなり、語っていること自体が現実からもたらされた作用そのもののような気がしてくるのだが、それに逆らってひたすら沈黙を守ろうとしても、今度はそれらの沈黙自体が現実によってもたらされた作用と思われ、どうあがいてもそれらの現実の中に自意識がつなぎ止められている現状をどうすることもできなくなる。そんなわけで誰かがそこで挫折しているのかもしれないが、それがどうしたわけでもなく、同時にどうもしないわけでもなく、ただそんな成り行きの中で言葉が連なって記され、それを読んだ他の者のまぶたを重くさせ、居眠りに導いているのかもしれないが、やはりそれがどうしたわけでもない。君は君で何とかその先に言葉を記さなければならなくなり、それらの文章は居眠りの最中の誰かの肩を揺り動かすこともなく、ひたすら連なってゆくのだろうか。しかし何をそんながんばっているのか。馬鹿らしいと思うならやめてしまえばいいことでしかないが、なぜか未来において交わされる予定の架空の約束を果たさなければならず、それに向かって少しでも先に言葉を連ねなければならず、そんな強迫観念を利用しつつも、心の中では予定調和の響きを思い出し、それに照らし合わせて判断を下したいところだが、今は言葉を弄するのに手一杯で、とても冷静な判断を下せるとは思えず、何かを先延ばしにして、それに寄りかかりつつ言葉を連ねている現状があるらしい。


3月17日

 時間に関する戯れ言にはとりとめがない。そんなことを述べているうちに、たぶん明日になってしまうだろう。今は今日だが、数時間後は明日に違いない。終わる頃には明日になっていて、その時は今日なのだ。それは誰の時間でもなく、誰の言葉を介して時間が進行しているわけでもなく、ただ過ぎ行く時間を感じているうちに、時が経っていることに気づくだけか。何も感じなければ時が経っていることも感じないか。だからどうだというわけでもないが、何となく鬱陶しい状況でも経験すれば、そのとき時間が早く経ってほしいと願っているかもしれない。今は戯れ言のたぐいで時間稼ぎの最中か。いくら時間稼ぎをしたところで何を思いつくこともない。チベットでは暴動が起こり多数の死傷者が出ているそうだ。来月になれば暫定税率の一時的な失効によってガソリンの価格が安くなるのだろうか。君は何に一喜一憂しているわけではない。世界的に政治も経済も行き詰まっているようだが、それが憂うべき事態だとは思えない。どうやらこの世界は魅惑のワンダーランドからはほど遠いようだ。映画の中ではそうかもしれないが、それを見ているだけでは体験したことにはならないのだろう。映画の中に入り込んで役を演じている俳優などは仕事でやっていることでしかない。それによって多額の出演料が入ろうと、何かの賞をもらおうと、それはそれでそういうことでしかないだろう。見ている側も演じている側も、現実の中で何かを得ているだけか。しかしそれ以外に何があるというのか。例えばチベットで殺された者と、ガザで殺された者との間に何があるというのか。君はそこに何を見いだしたいのか。興味がないと言ったら嘘になるだろうか。たぶん興味がないのだろう。他人の反発を買いたいわけではないが、とりあえずは興味がない。興味のある話題を探すのが面倒くさいのかもしれない。チャンネルを切り替えればサッカーの試合が行われている。たぶんそういう話ではないのだろう。音楽を聴きながらテレビを見ているだけでは、人として最低限使うべきまともな言動から逸脱するだけか。本当にそうなってしまえば楽しいだろう。言葉を弄して何かの深淵に行き着くことなどあり得ないか。ならば何のための文章なのか。ただの暇つぶしでやっていることではなさそうか。何かの妄想が君の周りを取り巻いているわけでもない。今は電車の中でキーボードを叩いて、それなりに言葉を記しているはずだが、そこにどんな理由を見いだしたいのか。架空の時空では、君がどこかへ行ってしまっているのかもしれない。おかしな言語表現を多用する気にはなれず、君の機嫌を損ねてしまったわけか。そういう言葉のつなぎ方が不自然でおかしいと思われる。馬鹿げているのはもとからそうなのだから、その辺に自由があるとすれば、心の裏側に何かの荒野が広がっていると見なしても、たとえそれがおかしかろうと、それなりにしっくりくる情景に出会えたような気がするのだが、それらの荒野には人影がない。それは説明を要するようなことか。何が見いだされているとも思えず、言葉以外の何が記されているわけでもない。しかし絵の具の乗りが薄い。ただの意味不明に陥ってもかまわないから、暴動を武力で鎮圧した中国政府でも非難してみたらどうか。心情的に許されないとか述べてみたら、それなりにそれ風の言説が出来上がりそうだが、そんなことをやって何になるというのか。とりあえず人は賢くあるべきではないようだ。ただ携帯端末を眺めつつ、メールチェックかゲームで暇つぶしでもやるべきなのか。しかし何が賢さの尺度や基準となるべきなのか、その辺が判然とせず、何となく時流に押し流されているふりを装いつつも、それが何を意味するとも思えず、意図や思惑を超えて、怠惰で優柔不断でその後にそれ風の言葉をいくら連ねようと、そんなことは問題とはならないようで、その先に何を述べても、誰かの本心からはかけ離れているように思われるが、それでもまだ言葉を連ねようとすれば、それは何を意味することも二ならず、そこからどんな意図が導きだされることもないだろう。それは誰の意識から出てきた文章でもない。何かのきっかけを取り逃がしているようだ。ふとそんなことを思いついて、急いで軌道修正や方向転換の用意をしているのは誰でもなく、何を模索しようと、それは誰の意思の反映だと見なすこともできない。まだ君には余裕があるのだろうか。だいぶ座席が窮屈になってきたようだ。首の曲がった顔を眺めながら、何を思っているわけでもない。あくびが出てくるだけか。夜はまだ長いようだ。明日までには時間がある。そして明日になったからといって何が起こるわけでもない。何も起こらなければ何も思わないだろう。そんなことの繰り返しが日常を構成しいているのであり、そこで何が起ころうと、何ら目新しくも興味深い何かではない。それが何でもないからこそこの世界が持続しているわけで、そこで何かが起こったとしたら、それは作り話の中での出来事となるだろう。そうやって絶えず期待はずれをもたらすのがこの世界の本質なのかもしれない。


3月16日

 久しぶりに昨日の出来事になってしまったようだが、その出来事の中身を語ることができない。忘れてしまったわけでも思い出せないわけでもない。ただ面倒くさいだけなら、言葉を連ねる必要などありはしないだろう。人はなぜ水を必要とするのだろう。水がなければ生きてゆけないが、ありすぎるのも困ったことか。それと同様ではないだろうが、人はなぜ言葉を必要とするのか。語る必要のないことまで語る必要はない。では必要なこととは何なのか。テレビではまた誰かが謎解きゲームの最中だ。それに興じる必要のない君には興味のない話か。映画の中では誰かが逃げ回っているようで、それを追いかける人々とハラハラドキドキのカーチェイスの最中だ。自ら体験したこともないくせに、ありふれた映像に何の感慨も抱けない。だからその後のことは誰にもわからない。たぶん映像の中の誰かはどこかでどうにかなったのだろう。一応はそういう話は時間がくれば完結してくれる。それを見ていた君と映像の中の誰かとの間に何か特別な関係はなく、それについては何の反応も示さないから、君はどうにもならない。君は何も示せない。そこで語る理由がない。それでどうしたわけでもなく、どうもしないからそこには誰も存在しない。実質的には何を語っているわけでもなく、その代わりにどこかの時空で他の誰かが存在しているようだが、他に何が存在しているわけではない。他とは何なのか。それではわけもなく意味不明か。君はそれでかまわないのだろうが、誰かの気持ちの中では何かが薄められている。だがやる気がしないのは今に始まったことではない。どこかで何かが切れているのだろう。誰かの意識がそこでこう着状態になっていて、記しつつある文章の中で何かがひたすら停滞している。そんなことを記しているうちに指先がしびれてきて、それ以降は心が動かなくなる。それは興味がないのとどう違うのか。ならば文章はそんなところで終わってしまうのか。終わってしまうには理由が必要か。この場合理由とはこじつけのたぐいか。何をこじつけようとしているのか。この世界に興味がないから終わってしまうのだろうか。何が終わろうと、それとは別の何かがどこかで起こっている。どうせ君には関係のない事件だろう。少し声がかれているようで、たまらず水分を補給する。そんな嘘を積み重ねているうちに、何か興味を引く話題でも見つかったか。誰かの言葉はどこまでも分散していて、他に何が見つかったわけでもない。誰かが井戸の中を覗き込んだら底に水がなかった。当てが外れたらしく、何も見いだせずにさっさと退散する。井戸には興味がないが、机の上を片付けられなくなる。床にはペットボトルが散乱している。気がつけば音楽が延々と鳴っている。まったく興味がない。誰かのライブ演奏なのだろう。花粉症なのかもしれない。今さらそれはないか。猜疑心と虚栄心のどちらを選ぶべきなのか。冗談でそんなことを述べているのだろう。そこから先へ言葉がつながってゆかないらしい。意識はそこから遥か後ろへ退いている。そこでひたすら待ち続けている。やがて何かがどうにかなる機会が巡ってくるだろう。気休めとしてならそんな希望もありそうだ。君はまだ状況が良くなる可能性を捨てきれない。そんなわけで延々と続く無駄な言葉の連なりを維持しようとしている。継続こそが可能性なのか。そこに意志があるらしい。どうにもならない現実に屈しようとしない。終わりがわからないのなら仕方がない。気分的にはそういうことなのだが、何がそこでの気分を反映しているのだろう。まだ半分までしか言葉を連ねていない。ノルマという概念が重くのしかかり、押しつぶされそうになりながら言葉を記している。そこで何を空想したいわけでもなく、言葉が現実をとらえることを望んでいるらしいが、それが虚無だったらどうするのか。また自己言及の罠にはまっている。できないことをやろうとしているのかもしれず、それが現状だとしたら、君はそれを受け入れられるだろうか。間違っても映画のような結末には至りそうもない。意識が何を必要としているとも思えないから、言葉もいらないのだろうが、それでは文章にならないだろう。ではそこで終わってしまうのだろうか。何が終わるのだろう。何かを終わらせようとする意図が感じられないか。いったい何を終わらせようとしているのか。そんなことを述べているうちに突然耳鳴りがしてくる。確かに何かの終わりには違いない。気がつけば何も考えられなくなっている。君はそこから何を導きだそうとしているのか。虚無の他に何があるのか。何も思いつかないようだ。たぶんそれが言葉によって導きだされた結果なのであり、現状とはそういうことなのだ。そんな行き詰まりを打開する手だても思いつかず、今は何を述べていいのかわからなくなっているようだが、何かの終わりに臨んで、おかしな言語表現を試しているとも思えず、本当にそれが終わりの風景なのかどうか判然としないらしい。いったいそれが本当の終わりなのか。どうもそれは違うようだ。何もないのだから終わりもない。終わりもなければ始まりもなく、それは話になっていないのだろう。話ではなく単なる言葉の連なりだ。


3月15日

 何がつまらないといっても、今日が今日だとつまらないか。明日になれば明日になるだろう。何を語ろうとしているわけではない。ただ笑っている。自らの愚かさに嫌気が差したか。何が愚かだと思うのか。そういう紋切り型の切り返しには飽きている。近頃は物忘れが多い。さっきまで何を考えていたのかすぐに忘れてしまい、それが何を意味するのかもわからず、それとは何だろうと自らに問いかける日々が続いているようだが、作り話の中では確かにそうなのだろう。実際に誰が何を語っているかは不明のままだ。何かごちゃごちゃした雑音のような音が耳の内側から聞こえてきて、そんなことはあり得ないと思いつつも、それが何だかわからないと頭の中で繰り返し暗唱している誰かがいるらしい。ただの意味不明だろう。バスケット・ボールの中継録画ももうすぐ終わる。すべての時間より今が良いとは思わないのは当たり前だとしても、その先にどんな言葉を並べたらいいのか迷うところだ。それは技術的な問題なのか。それだけではないと思いたいが、いつものように話の中身が何もない。何もなければ話にならないはずだ。それで君は満足しているのか。アニメや漫画の中では人が簡単に死ぬが、現実の世界でも事情は変わらないか。人々は何に抗議しているのだろう。特定の文化を共有する者たちは自分たちの国家を持ちたいと願っているようだが、それを共同幻想の一言で片づけるのは酷すぎるか。ごり押しする人々にとってそれは煩わしい障害物にすぎないのだろう。そんなことは眼中にないらしく、とりあえず暴動を鎮圧して治安を回復したらそれでいいのかも知れない。だがそれで何を述べていることになるのか。その不機嫌な気分の理由を言葉で示してほしいか。何もないのかも知れない。それは誰の感覚でもあるらしく、そこでは誰もが不機嫌に振る舞っているようだ。そしてその場で何を述べているのか知りたくなる。遠くからまた雑音が聞こえてくる。何事にも本気になれないのは今に始まった症状ではなく、いつの頃からか知らないが、今では自然と身についた癖のように感じられる。とにかく平静を装うことが最優先されているようだ。そんなことを思っているうちに口の中が苦くなる。それとこれとは関係のないことだろう。そんな精神状態で自らに何を言い聞かせても無駄か。無駄でなければ今後どのような気分を維持すればいいのだろうか。殺伐としていると思われるのはどうしてなのか。この世界が君の心に何をもたらしているとも思えず、それは蛇足にすぎない言葉だ。理由がないのはもとからそうなのだろう。君の存在理由など何もありはしない。そこにはもとから誰もいないのだ。それは誰の意識でもなく、誰も何も語っていないのだ。ただひたすら言葉を繰り出しているのは誰でもない。記された言葉は誰のものでもなく、何となくそんなことが記されているだけで、それが何に対する答えにもなっていない現状があり、そんなどうにもならない現状の中で、誰が言葉を連ねることができるだろう。たぶん冗談でそんなことを述べている場合ではないのだろう。それは過去の記憶だ。何かがそこで繰り返されている。何を構成しているわけでもなく、どんな意図が隠されてるわけでもない。空疎な構築物を提示しているわけでもない。だがそれで何を述べていることになるのか。言葉を記しているつもりの誰かはさらに不機嫌になってくる。それは君の意図するところではない。君にどんな意識が宿っているというのか。すべては作り話の中の出来事であり、そこから誰かが架空の感覚を構成しようとしているだけか。現実の世界では常にどこかで彷徨っているはずだが、何が彷徨っているのだろう。たぶん言葉が散らばって意識が散乱し続け、文章をややこしく飾り立て、そこに醸し出された空疎の中に何らかの雰囲気を漂わせているのだろう。やはりそこで何が述べられているわけでもないらしく、ただ適当に言葉が連なっているだけのように思われ、それで他の誰が満足するはずもないだろうが、君は至って平静を保とうとしているようで、そこに並べられた気まぐれの中から、それ以外の気分を選び取ろうとしているわけではない。それまでに感じ取っていた雰囲気のすべてを否定して、何もない現状を作り話の中から抜き出し、そんなわかりにくい言い回しを好んで使う理由を言葉で示せないことに業を煮やし、ただのわけのわからなさでその場を取り繕っている風を装い、現実に直面している問題から逃げてしまいそうになるのだが、思い直している間もなく、事態は思いもよらぬ方向へずれて行き、君の手の届かないところで何らかの決着が図られようとしているのかも知れない。何が君をそうさせるのか。君がそうしているわけではないとすると、君ではない誰かに君以上の何を期待できるだろか。その辺で文章が破綻しているのだろう。誰かはもとからおかしいと思っていたようだが、それでもそんなところまで言葉を連ねてきたのだから、それはそれでそこで繰り広げられていた無駄な努力も受け入れられなければならないのかも知れない。


3月14日

 予報では雨だったはずだが、なかなか降ってこない。だがそれで何に困っているわけでもなく、ただ何も感じ取れない状況のただ中にいるようだ。夜になってからようやく雨が降ってきて、何となく気が抜けてしまっている。それは誰に求められている結果でもなく、君は自らに降りかかってきた危機を真に受けることができない。冗談のように思われるらしく、まったく深刻に受け止められないようだ。たぶん危うい均衡の上に成り立っていた信頼関係が突然崩れ去ってしまったのだろうが、なるようにしかならない成り行きをどうしようというのか。それは君に課せられた仕事ではないらしい。試合はすでに終わっているようだ。テレビの中ではそうなのだろうか。君には関係のない試合だ。もとから何かの勝負事にのめり込んでいるわけもないか。では何に関係あるのかといえば、それは何もしないことだ。理由にも答えにもなっていない。虚無的な物言いに終始している。それでもうまく事を運ばなければならないようで、事態は慎重にならなければならない局面にさしかかっている。なぜも何もなく、何となくそう思っているだけのようだが、できることなら避けて通りたい気もしているようで、それが何かの思い違いであることを期待しているらしく、明日の朝になって目が覚めたら、それが夢の中の出来事だったということになってほしいか。君は現実から逃げているようだが、無理もない話かも知れない。それほどまでに精神的に追いつめられている。しかしそれがどうしたというのか。どうかしているのだろう。どうかしているから動揺している。うろたえているのか。一気に押し流されてしまうかも知れない。それは泥流か何かのようなものか。何のたとえなのかわからないが、別にわかる必要はない。そんなことを述べているのだから、それはそれで認めざるを得ないことだ。自分でもわからないことを述べているわけで、無意識がそうさせているとしか思えないような雰囲気を感じているのだろうか。たぶんそれは誰の実感でもないだろうが、結果としてうまくいっているのならそれでもかまわないか。ただ言葉がそう記されているにすぎず、それについて誰がどう思っているわけでもないらしく、何となくそんなことを非人称の誰かが述べている。そう見なして間違っていないだろうか。たとえ間違っていようと、そんなのは無視してその先を語らなければならなくなる。何も語らずに語っているわけだ。冗談でそんな矛盾を受け入れようとしている。受け入れられなければそれでもかまわないだろう。どちらでもかまわないと思うのが好きなのか。誰でもない誰かが、ただ何となくそんなことを述べているのが好きなのかも知れない。結果として誰が何を好んでいるわけでもなく、誰の了承を得たいわけでも望んでいるわけでもない。ただ何かを肯定するのが面倒なようだ。この世界そのものの在り方を認められない。あまりにも馬鹿げていないか。何もかもが押し流されてしまってもかまわないと思っているようで、実際にそうなりかけているのかも知れない。すべてが何かに押し流されつつある。そんな実感を抱きながらも、その何かを言葉で言い表すことができない。ではそんな状況は君に有利に働いているのだろうか。有利とか不利とか判断する材料も基準も見あたらないが、ただ何となくそうなってほしいと思う方向へすべてが流されているのかも知れない。わからないと思いながらも、一方ではそんな確信もあるようで、その辺が微妙なところかも知れないが、やはり何となくそれでもかまわないと思いたくなってくる。誰でもない誰かは自然と曖昧なことを述べている現状を肯定したくなってくるらしい。だがそれで何を否定していることになってくるのか。冗談ではないと思いたいのか。冗談でなければ何なのか。たぶんそれが冗談なのだろう。いったい自らが何を述べているのか理解できない。それが冗談そのものなのだ。冗談でなければ何なのか。何でもなければそれも冗談と見なしてかまわないだろう。それはどういうことなのだろうか。やはりそれはどういうことでもなく、ただの冗談なのだろう。そうやって何もないその場を空疎な言葉で取り繕っている。それがそこでの現状となる。たぶん誰かの作り話の中身がそこに反映されて、どうしようもなくそうなってしまうのだろう。そんな君には逆らいようのない流れの中で、ひたすら押し流されてしまっているようだ。それ以外に何を述べたらいいのか。誰に尋ねたらいいのか知りたいとも思わず、ただ言葉がそう記されているわけだ。君が何を記しているとも思えない。首をぐるぐる回しながら、肩こりをほぐす動作もほどほどに、誰かがいつもの音楽を聴いているようだ。わかっている現状の中に、誰の意識の存在を確かめるでもなく、ひたすら言葉を組み合わせて文章を構成しようとしているだが、それがそこでの作業なのだから、それを認めなければならなくなる。何もない現実が嘘に覆われているようだが、それで気が済むはずもない。


3月13日

 今は意識がない時間帯だ。夢の中というわけではなく、話の細部にこだわっているわけでもない。何を語っても報われることはない。はじめから何も期待していない。記憶の断片が文章として記される。誰かは何をやっているのか。言葉を記しているはずだ。どこへも行き着かないだろう。それは言葉ではない。否定すべきものなど何もない。すべてを肯定しなければならないが、そのすべてとは何だろう。たぶんこの世界に肯定すべきものなど何もないのだろう。なぜ認識した事物を否定したり肯定したりしたいのか。メリハリをつけたいのだろうか。笑っているのはなぜだろう。考えがまとまらないらしい。夜の闇が何を意味するとも思えないが、少し静かすぎないか。また遅れてしまうのだろうか。間違っただけだろう。間違ってしまったことに意味などありはしない。ただ間違えたということだ。そこからどんな思い込みに結びつけようと、間違えてしまっていることだけは確かだ。休んでいる暇はない。しかしこれから何をどうしようというのか。まだそこから抜け出る算段を思いつかないわけか。闇は闇でしかないだろう。頭の中が暗闇で覆われている。そういうたとえはわけがわからない。病が進行しているとも思えない。単純なことにこだわりすぎているのか。そういう雰囲気を感じ取っているようだ。何とかそこから抜け出なければならない。それらの行き詰まりを打開しなければならない。できないと思っているのだろうか。たぶんできないだろう。何ができないのかわからないが、たぶんそうなのだろう。目的は何なのか。なぜそのように語ろうとするのか。話せばどのようにも解釈できる。だからそれを推し進めたらいい。無理なことはわかっている。だから執拗に語ろうとしているのだろう。同じようなことを延々と語っているわけだ。人は言葉の無駄な循環を好む。人でない君には理解できないことだ。贅を尽くすという意味を取り違えている。何について語っていようと、そういう語り方は間違っている。昨日と同じような音楽を聴いている。君に何がわかるというのか。わかっているからそんなことを述べているのではないか。わかっていたら教えてくれないか。なぜ紆余曲折を経ないとわからないのか。つまらぬ迂回を省いて直接真実にたどり着きたい。何かが消え去ろうとしているようだが、それは誰が望んでいることでもない。できれば意識をこの世に残して立ち去りたい。その際は謎めいた予言でも必要だろうか。それは誰が考えていることでもない。思い違いをしている場合ではない。トリックはテレビドラマの中だけで通用しているのであって、実際の世界ではそれよりも偶然の巡り合わせの方が圧倒的に多い。君は相変わらず疑心暗鬼に陥っているのだ。霊が誰に語りかけているというのか。そこで繰り広げられている何がまやかしなのだろうか。君はきれいに事を運びすぎる嫌いがある。必要とあらば泥にまみれることをいとわない誰かとは正反対のやり方を貫こうとしている。それが今までに繰り返してきた敗北の原因だろう。きれい事で済まして、無理に勝とうとはしない。そんなやり方に行き詰まっているのではないか。そして行き詰まりを楽しんでいる。何を強がっているのか。誰が強がっているのか。貧乏揺すりばかりの毎日に嫌気が差しているのではないか。いつものようにわけがわからないが、それはどういうことなのか。そういう語り方がおかしいのだろう。何か語っているように装うのもよくない。感情の変遷が言葉をつなげているわけでもないはずだ。喜怒哀楽ばかりでは理性を呼び覚ますことはない。それでも冷静になれるとでも思っているのか。目を覚ませば冷静になれるはずだ。夢を見るのをやめてしまったらいい。そのついでに何も批判できなくなってもかまわないか。なぜそういう成り行きに向かおうとするのだろう。鬱状態から抜け出る必要がありそうだ。立ち直る機会を与えてほしい。無駄に言葉を並べるのは慎まなければならない。わざとそう述べているのだろう。現状は何に踊らされているわけでもない。ひたすらきっかけをつかみ取ろうとしている。そしてそこから抜け出なければならないはずだ。もうすぐ何かの終わりがやってくるはずで、それに向かって呼吸を整え、準備をする必要に迫られている。それは何のための準備なのだろうか。気が狂うための準備などいらないか。他に思いつくことなど何もありはしない。別に腹が据わっているわけではなく、今のところは準備が整っているわけでもない。それは君に課せられた使命ではないはずか。要求がエスカレートしているのかも知れないが、君の知ったことではなさそうだ。誰かがやっていることが幼稚に思えてくる。何も仮想敵など作らなくても話のつじつまなどいくらでも合いそうだが、積極的にどんな話をしたいわけでもない。誰かはそこで寝ころんで何もやろうとはせず、その先に話を続けるつもりもないようだが、ならばそこで終わってしまってもかまわないのか。いったい何が終わろうとしているのか。すでに何かが終わってしまったようだ。


3月12日

 何もそこまでやることはないか。誰が調子に乗ってごり押しに拍車をかけているわけでもないようだが、そう思いこんでいるのは誰なのか。面倒な事態になるのは避けたいと思っているが、そうもいかない状況が近づいているらしい。気のせいだろうか。何を笑っているのだろう。この期に及んでまだ余裕があるらしい。何となく当事者ではないような気がするだけか。しかし何が君をそこに引き留めているのだろう。理由など何もありはしない。やる気になれないのだから仕方がない。たぶん気まぐれなのだろう。それに構成物としての話の外観が一向に見えてこないのはいつもの通りだ。だが心で何を見ようとしているわけでもなく、目で暗闇の光景を眺めているとも思えず、ただの無駄な言葉が邪魔物のように話の進行を妨げる。それがただではないと思いたければ、それなりの理由をねつ造しなければならないだろう。ではそれをやめておいて正解なのか。それとは何なのか。無駄に言葉を弄して語ることの何が気に入らないのか。たぶんそういうことを述べているわけではない。だが何を否定したいわけでもなく、肯定する要素が空疎な話の中に見あたらないだけか。軽薄な印象だけが残っているようだ。調子が狂っている。いつもの展開ではなさそうだが、いつまでそれが続くのか。何かを否定していることは確からしい。思い出そうとして思い出せないことがありそうで、それがどこかにつっかえていて、なかなか表に出てこない。何となく消化不良気味だ。おそらくそれは言葉の意味ではないのだろう。意識は常に現実に引き戻され、やってもいないことをやっているような思い込みを改めさせられ、何もやっていない現状を突きつけられて、誰かがそこでうろたえているらしい。だがそれで何がわかったのか。君の話ではなく、誰の話にもなり得ないか。そういうことではないようだ。少し精神的に疲れているのかもしれない。何について語っているのか。テレビではどこかの俳優が謎解きの最中だ。ドラマの中で事件でも起きたのだろう。それはまたもや君には関係のないことで、わざとらしくそんなことに言及するつもりもなく、目の前を誰かが通り過ぎるように去って行くだけか。そうやって無駄な言葉の積み重なりが徐々に文章へと変貌してゆくらしいが、そこでも何も語られていないような気がするのは、誰かの思い違いだろうか。君は何をやめたいのか。腹の底からわき上がってくるものは何だろう。調子を崩しようがない。だから何を思っても無駄なのだ。心の中で何を投げているわけではないのだろうが、あきらめかけたことを思いとどまるのには骨が折れそうだ。新しい音楽を入手するのにも事欠いている。ただ機械が立て続けに壊れているだけだろう。君の目は節穴か。その台詞の出現理由をねつ造できるだろうか。事欠いているのは理由だけではない。それらの文章はどのような実情を反映しているのだろうか。いつものように語ることが何もないわけか。君がそれを知っているのではない。耳の聞こえが少し悪いようだ。今それに気づいたとして、それをそのまま記述して何になるのだろう。君は正直ではない。何が正直に述べなければならないことでもないだろう。いつもそんな心境ではいられない。どこかの謎解き探偵はつかみかけた真相を暴露する機会に恵まれないか。そこで何か言いかけたようだが、何を察知したのか知らないが、慌てて口をつぐんでしまう。それが演技でない証拠がどこにあるのだろう。天井を見上げても、蛍光灯以外は何も見えてこない。そんな当たり前の現実の前に何かが屈しているようだ。そこに漂っている空気が君を包み込み、どうでもいいような雰囲気を感じさせるが、空気を震わせて伝わってくる音楽を聞き流して、何も思わない心境が深まるでもなく、何が心境なのかわからないが、現状に呆れていることだけは確かなようだ。何か裏切られたような気がする。誰かがトチ狂っているのだろうか。あるいは勘違いも甚だしいか。ここに至ってもまだ何についても語っていないような気がする。無駄な言葉ばかりが堆く積み上がっているような現状だ。しかし無駄でないという概念がわからない。具体的に何について述べたらいいのだろうか。たぶん馬鹿げている。何について述べてもかまわないのだろうが、その気になれないのは当然のことか。現実を直視しているからそうなってしまうようだ。直視できなければどうなってしまうのだろうか。不都合や不合理や不条理を受け入れなければならなくなる。たぶん自らに正直に生きるなら、それらの馬鹿げた風習に逆らわなければならないのだろう。冗談としての恐怖政治もどきには断固として抗議の意を示さなければならない。何とかそういう線での努力が期待されているようで、実際に長いものには巻かれずに、無駄な抵抗を試みているようだ。そんなやり方ではいけないのだろうが、現時点ではそうなるしかない。しかし本当にそうなってしまっているのだろうか。そこで笑っているのはなぜなのか。


3月11日

 何かがおいていかれている。適当な紆余曲折を経て、ようやく今日へ逆戻りだ。何が逆なのかわからないが、何となくそんな表現が合っているような気がする。何がふさわしいとも思わないが、その場には何かが欠けている。今日の空は晴れているだろうか。何が見いだされているとも思えない。いつまで経っても君は答えを導き出そうとしない。結論が出ているのにそれを無視している。あえてそうしているのではなく、それは自然の成り行きなのだろう。つまらない現状をどうすることもできない。何かおもしろそうな話題はないだろうか。言葉で検索しても無駄だ。ありふれた文章に巡り会い、それを読んで落胆するほどのこともないだろうが、つまらないことにこだわっているのは致し方ないとしても、それ以外に何がもたらされているとも思えず、そんな現状の中で何を思っているわけでもない。そんな嘘をつきながらも言葉の組み合わせを模索しつつある。君が現状に何を期待しているとも思えない。標的が君でないのだから仕方がない。そこで何を捉えようとしているわけでもなく、言葉は至って空疎な並びを維持継続しているようだ。他に何を読みたいとも思わない。見聞したことは心の奥底で消滅する。何を知りたいのではなく、知っていることを忘れようとしているのでもない。言葉を繰り出すことに慣れているようだが、それは危険な兆候だろうか。何とも思わなくなったらそこでお終いかも知れない。繰り出された言葉は物事の本質を射抜こうとしない。君の意志でそうしているのではない。すべてはその程度のことなのだ。別に心の醜さを表現しようというのもでもなさそうだが、何となく清廉潔白を装うのもくだらないような気もしていて、それらの感情のすべては大したことはない、と高をくくってしまいたくなる。本気になってはいけないと思うが、本気にならなければ馬鹿にしていることになってしまうのだろう。それでもかまわないといえばかまわないのだろうが、そこで彷徨っている心にしてみれば、やっていられないというのが偽らざる実感なのだろう。そしてそれがややこしい事態というわけでもないのだろうが、世の中はそんなもんだとしか思えない。やはりそれでは結果的にこの社会を馬鹿にしていることになってしまうが、そう感じてしまうのだから仕方のないことだ。人間社会は残念な人たちによって構成されている。それ以外にどんな可能性があるというのか。何を期待したらいいのだろう。どうなってほしいとも思わない。世の中のどんな動きを強調しようと、それは世の中に踊らされている人たちによって動かされている。無自覚に馬鹿踊りをする人がいないと何の話題にもなりはしない。騒ぎ立てる人がその身を削って愚かな行為に走らなければ、出来事は何も起こらない。ただじっと息を潜めている人ばかりだと、何もないのと同じことか。そこで何が行われているわけでもなく、ただ生きて暮らしているだけの日々となってしまうのだろう。それでもかまわないのだろうが、たぶんそういう沈黙の重みに耐えられなくなってしまい、お祭り騒ぎ的に何かを企画演出したくなる人が必ず出てきて、そんな人を中心としてそれなりの出来事が起こって、浅はかな人々の興味を引きつけるようだ。たぶん浅はかでなければお祭り騒ぎにはならず、何が起こったことにもならないのだろう。それが君とどのような関係があるのか。世界の有り様が君の心境を反映しているとは思わない。君には関係のないことなのだろうか。関係がなければどうだというのか。君はまだ傍観者でいられると思っているわけか。あるいは傍観者から当事者に移行しつつあるのだろうか。そんな現状を理解しようとは思っていないはずだ。実務はもっぱら影にまかせきりのようで、本人はどこで何をやっているのかもわからず、たぶん行方知れずと見なされてもかまわないのだろう。そんな放浪者気取りの誰かが作り話の中に登場する。脈絡は何もない。目的など何もありはせず、はじめから話しらしき話はない。実態として誰かは延々と言葉を記しているようだ。それで何か不満でもあるのか。まだ何か言い足りないことでもあって、それが心残りであったりするのだろうか。たぶん自然に涌き出でる感情に惑わされてはならないのだろう。そして不合理で不都合な現実を受け止めなければならない。はじめから公平であることなど期待してはならないということか。人々は皆不平等な境遇にあるらしく、持たざる者は妬みや嫉みによって均衡を取ろうとしているのか。それは何の均衡なのだろうか。はたして感情の暴走によって何の穴埋めが可能なのか。それを許すとして、いったい誰に責任があるのだろう。たぶん転嫁する対象はどこにも見あたらないはずだ。その場の状況がそうさせているのかも知れず、一時的に君に不利な状況がもたらされているようだが、予断は許さない雰囲気に包まれているようだ。何となく攻勢をかけている側が最終的には悲惨な末路を辿るような気がするが、何について述べているかは誰かの想像にまかせるとしよう。


3月10日

 どうやら明日になってしまうらしい。今日は何もできない成り行きになっている。もう今日ではないだろう。君は闇の中に何を発見したのか。これから何が行われようとしているのか。馬鹿げたことが語られている。たぶん君は蚊帳の外にいると思っているのだろうが、本当のところはよくわからない。うまくいくはずのないことをやってきたのだろうか。今までは今までにすぎず、これからどうしようというのか。どうにもできなければ今のままだ。何もなければ何ももたらせないか。そういう語り方も今まで通りだ。ならばどうしたらいいのだろう。気休めでもかまわないから、何か目標でも立てて、それを達成するように努力を続けるべきか。目標とは何だろう。君はこの世界で何をやればいいのだろうか。それはままごと遊びのたぐいになるだろうか。ままごと遊びを何にたとえているつもりなのだろうか。別に調子に乗っているわけではなく、何をやろうとしているわけでもないが、たぶん君は楽しそうに振る舞うつもりなのだろう。確かに作り話の中ではそういう筋書きなのだが、それは筋書きといえるようなものではなく、話など何もありはせず、話がないのだから筋書きもありはしない。要するに現状が気に入らないようで、おもしろくも何ともないというわけか。それで何を語っているとも思えない。君には君特有の空虚が残されている。それは空隙のたぐいかも知れず、何を語っているとも思えないような言葉の連なりだ。はたして幼稚なことでも述べているのだろうか。ただ妙な雰囲気に包まれているらしく、そこから抜け出られないと同時に、どこへも行き着かないような気がしている。魂などどこにもありはしない。あるのはただの戯れ言にすぎず、それはでたらめな言葉の連続となりそうだ。世間では誰もが自己主張にとらわれ、自らのやっていることの浅はかさを理解できないようだ。それは愚かな行為か。今やっているそれもそうなのだろうか。まだ何を語っているつもりにもなれない。すべてが馬鹿げているように感じられ、現状も現世もまったく肯定できない。ではそこで何をあきらめているのか。仕事を辞めたら何がわかるのか。そういう話にはならないだろう。そこから逃げ出せない状況にある。そこで自らの存在が否定されているように思える。それでもこの世界の片隅で暮らしていることになるのだろうか。君が主張すべきことはない。自己主張などくだらぬことだ。君はその先へ進まなければならないのだろう。進んだところでどうなるわけでもなさそうだが、とにかく進まざるを得なくなる。君にはそんなやり方が似合っている。それはどんなやり方なのか。ただ孤独に言葉を記し続けるだけか。それのどこがいけないのか。それらのどこで意識が舞い上がることもなく、ただ息を殺してじっと待ち続ける。何を待っているわけでもないのに、あてもなく待ち続け、ひたすら言葉を記し続け、その行き先ははっきりせず、内容としては何を語ることもない。呪詛ではない。誰に復讐しようとしているのでもない。恨み辛みとは無関係に、ただ言葉を記し続ける。それが非難されるべき行為だとは思えない。なぜ自己主張がないのか。この世では何も主張すべきではないのかも知れない。君はすでに外れているようだ。何も真に受けることはできない。人々はそれらの演劇空間の中で何を演じているつもりなのか。なぜ気づかないのだ。何に気づけばいいのだろうか。何かを見物していることは確かで、それは狂態のたぐいかも知れず、精神に異常を来しているとは思えないが、それでも何となく踊らされている人が多すぎる。自己主張という行為こそが何らかの幻想を生んでいるわけか。踊らされている人々は自己主張に余念がなく、要するにがんばっているわけだ。がんばって何かを達成しようとしている。そこで君たちは何を信じているのか。この世界が存在していることの他に何を信じたらいいのだろうか。それで君は幸せになれるだろうか。具体的に何を求めているのか。君は自らがどうなってほしいのか。自らには興味を持てない。この世界にも興味を持てず、何についても無関心だ。そしてそんな作り話には意味がない。そう思っているだけなのだ。思っていなくても思いたいわけだ。君はそれが嘘であることを承知しているのか。何やらわけがわからなくなる。いつものことには違いないが、それで何がもたらされているわけでもない。自己実現という幻想を捨て去ってしまったらしい。そして何が何だかわからなくなる。少し休まなければならないのだろう。他に説明を要さないからそうなってしまうわけだ。それはある種の必然性を伴っていて、自己顕示欲がなければ人でなくなってしまうようだ。そこで何が矛盾しているのか。いくらでも矛盾しているが、それが何だからわからない。答えを導き出そうという気がない。人が群れ集うのに理由が必要だろうか。それは人としての習性に違いなく、そこから何らかの関係が生じるのだが、中にはそれを嫌って閉じこもる者も出てくるようだ。


3月9日

 どうも意識が現状を捉えていないようだ。耳を澄ませば何かが微かに聞こえてくるような気がするが、辺り一面は静寂に包まれている。きっと気のせいだろう。その状況にふさわしい言葉を思いつかず、またいつもの時間帯へと逆戻りだ。虚無が君を呼んでいる。そこでは何かが繰り返されていて、執拗に同じ夢を見ているような気分になる。君は何を笑っているのだろう。君ではない誰かも笑っているようだが、何を嘲笑しているとも思えない。ではなぜそれほどまでに誰かの没落が期待されていたのか。他に誰が何を期待していたのだろうか。今度は君がどうなってほしいのか。なぜそれほどまでに言葉を連ねる必要があるのだろう。それは君に課せられた作業ではない。では何が同床異夢なのか。誰がそんなことを思っているわけではない。理不尽な扱いにも怒りを覚えない。たぶんそこには何もないだけで、感情のはけ口などどこにもありはしない。取り立てて醜い心をあらわにする必要もないだろう。他に何が求められているわけでもない。ただ水分を補給しているだけか。話とは何の関係もない動作だ。君はロボットではないので、自らの過ちをいとおしむ傾向にある。影や闇は君の一部を構成していて、さかんに意味不明な言葉を操作しながら君を間違った方へと導いているようだ。そして君は語り得ないことを語っているつもりなのか。わかっているのはそういうことではないと思っておこう。誰がそう思っているのでもなく、君はそれを何とも思っていないようだ。実際に何がどうなっているわけではない。誰かがくだらない計画を構想しているのかも知れないが、それを全力で阻止しようとは思わない。なるようになるだけだろう。結果がどうなろうと、それは誰かの思ったとおりではないはずだ。だからやりたければやってみたらいい。君はいつものように傍観者を超える立場を占めることはない。逸脱するには論理的飛躍が必要か。何から外れる必要があるのか。正気を外れてどこへ行こうとしているわけでもなく、どこへも行かず、そこでうずくまる。気分が優れない。思ったように作業が進まず、言葉から見放されているような気がする。誰が酒とバラの日々に埋もれているのだろう。またそんな曲が巡ってくる。コーラを飲みながら春になってしまったらしき夜を送っている。花粉症で気分が優れないのだろう。今はまだ日曜日の時間帯に入っている。独白が進む雰囲気にはほど遠い。ではどこで立ち往生したらしっくり来るのか。それほど乾燥しているとは思わない。今さら言葉をずらして意味不明を記してもつまらないだけか。その気になれないのだから、そのままに状況が推移するしかない。コーラは酸っぱい炭酸水だ。わざとそんなことを述べている理由を探して、さらに迷宮の奥深くに足を踏み入れようとしているとは思えないが、君と何が関係ないのかわからないだけか。興味が続かない。ただ音楽を聴いている時間が過ぎて行き、気がつけば目の前から言葉が消えている。今までに何をどれほど我慢してきたと思っているのか。そんな風に誰かがほざいている不満の言葉も君の記憶にはない。水分は十二分に補給したはずだ。失速しているのはテレビ画面の中のマラソン走者か。誰も助けてはくれないだろう。はじめからそういう話の筋書きだったのか。わかっているのは他でもない。罠にはまって苦笑いが顔にへばりつく。遠くから壁に掛かった絵を眺めている。暗い色調とありふれた構図に心が曇り、その批判の対象を無視しようとする。実際には何を眺めているのでもない。興味深そうに装うのはおかしい。意味深な仕草も映画の中に押し込まれる。思い通りに事が運ぶように祈っているわけか。そして期待はずれの明日を予想する。鼻づまりを解消することもできず、楽しそうな言葉の並びに呆れている自らを滑稽に思う。カフェインが効いているようだ。健康を損なっているのだろうか。コーラを飲み終わるとゲップの連続になる。炭酸水がそんな結果をもたらす。それがどういう影響をもたらしているのか理解できない。この世界がどうなるわけでもないことぐらいはわかっているはずか。君にはまた機械が壊れることがわかっていたはずだ。だからこうして古い機種を残していたのだろう。意識とそれに付随して生じている経験は、いつまで経ってもそこから抜け出られずにいるようだ。それは誰の意志とも交わらず、何がやりたいのかわからないままに、そんな現状を言葉でなぞっているようだ。それで何がわかったのか。とりとめのない世界が漠然とあるらしい。それに関して君の見解を待っている者は誰もいない。それでも前進させなければならず、そんなことをやっているうちに、自然と事件に遭遇する時がやってくることを想像する。だがそれ以外の時間帯においては何をやればいいのだろう。わかっているのはもうすぐ文章が終わるということぐらいか。たぶんそれでかまわない。はじめから期待はずれなのだから、今はその内容のつまらなさを楽しまなければならない。どう楽しんでいるのかわからないが、何も苦渋に満ちた顔でいることもないか。少しは息抜きも必要なのだろうが、そればかりではつまらなくなる。


3月8日

 目を凝らして何を覗き込んでいるのか。明け方の地上に何かが舞い降りる。君は嘘をついているのではないか。話の中に神が降臨する。おとぎ話の中では北風が強い。朝になれが日が昇り、夕方になれば日がまた沈む。それは毎日繰り返されていることだ。そうやって一日が過ぎ去り、また明日になってしまうのだろう。そこでひらめいたことは忘れてしまってもかまわない。すでに忘れているのかもしれない。記憶に連続性が欠けている。君が求めているのとは異なる状況が到来しているようだ。ここは漫画の世界でもアニメの世界でも映画の世界でもなく、ただの世界だ。だからそんな断りはいらないだろう。ただの世界で何をやっているのか。何もやっていなければ言葉も連ならない。君にはそれが似合っている。たぶんそれは何の意味もないことだ。この世界で何かが違っていることは了解済みのはずで、その何かについて語ってきたのではなかったか。だが今さらそれを思い出してみても何も始まらないだろう。過去のことは過去のことだ。未来に何が持ち越されているわけでもない。たぶん面白くも何ともないことでも思い出しているのだろう。その思い出がどこで語られているわけでもなく、それとは何の関係もないことが文章として記されているわけだ。君にとっての娯楽とは何なのか。安らぎのひとときには何をやっていることになるのか。眠っているだけではつまらないだろう。誰にとってもそれは何でもないことだが、君は疑心暗鬼に陥っている。だが疑り深いわけではない。被害妄想というわけでもないだろう。心が凍り付いているわけでもない。では何なのか。他に何も思いつけないだけか。他がないのかもしれず、今このときに何か述べているということ自体が場違いなのだろう。何かに押しつぶされそうになっているのかもしれない。たぶんそれでも何かを知ろうとしているのだろう。それが気に入らないわけか。現状では何の希望も見いだされぬまま、不快な状況が長続きしてしまう。どうやらそれは暗く長いトンネルの中での出来事になっているらしいが、はたしてそれを考え直す必要があるのか。それは誰の思い込みなのだろう。君は黙っていればいい。沈黙を守っていれば、やがてそれがわかる時がやってくる。だがわかってからではもう遅いはずだ。すべてが過ぎ去った後からわかる時が訪れ、もう手遅れだと悟ってしまう。それでかまわないのだろうか。かまわないはずだ。思い出とはそういうものだろう。いずれそれがわかる時がやってくる。君はその時まで正気を保っていられるだろうか。冗談でならそういうことになる。そういうこととはどういうことでもなく、ただそういうことなのだ。あちらも必死のようだ。それはどちらでもなくあちらなのか。たぶんそれは馬鹿げた試みに違いない。まかり間違えば嫌がらせのたぐいとなってしまう。常識が通用しない世界になる。絶えず目の前に障害物が立ちふさがっているわけだ。何をやろうとしても邪魔が入る。心が腐るような成り行きになってしまい、やる気をなくして投げやりな気分を呼び込んでいるようだ。それでもなんとかしなければならないのか。やはり馬鹿げた成り行きになっているらしい。それは自ら招いた不幸にでもなるわけか。そうなった原因など知りたくもない。誰が何をやろうとしようと、そんなことに関心はないが、それらの試みにどんな結果がついてこようと、それを受け止めるべきなのか。他に何ができるというのか。それは現実の世界ではなく、誰も感知し得ない虚無の世界だ。それを知ろうとしているわけか。そんなことはないと思いたいが、君はどこへ向かっているつもりなのか。そこに意識はなく、誰がそれを操作しようとしているのでもなく、ただそこに立ちふさがっていて、そこから先へは一歩たりとも踏み込めないようになっている。君はそんな何もない場所で何を探しているのだろう。どこに希望が潜んでいるのか。ただ音楽を聴いているだけで救われてしまう。それはどんな救いなのだろうか。君はどうやってそこまでたどり着いたのか。何を知ろうとしていたわけではないし、何を試みていたわけでもない。心が満たされることはないだろう。それでかまわないのだ。何となく悲惨な光景を眺めていればそれでかまわない。誰かと誰かが意地の張り合いをしている。そんな話も書物のどこかにこびりついてはずだ。君はまだ黙っている。何を思い出そうとしているのか。たぶんそれらが醸し出す曖昧さのただ中に誰かの本音らしき思いが漂っているのだろう。それらの文章に言葉以外の何がつまっているとも思えないが、そこから何を導きだす気にもなれない。ならば君はどこで通用していないのか。誰かは沈黙に押しつぶされそうになっている。君の言葉を押しつぶそうとしているのではない。むしろどこか広い言語空間へ解放しようとしているのではないか。今でも自由という偽りの不可能性が可能となるように言葉を組み合わせて文章を構成しようとしているはずだ。今のところはそれが失敗に終わるような予感はしていないようで、一時的に行き詰まっていると感じるなら、とりあえず言葉の配置を換えてみよう。


3月7日

 何かがぶちこわしになっているかもしれない。唐突に何を思っているのか。君はなぜかそんなことを考えている。どんなことを考えているのか言葉では示せない。たぶんそんなのは嘘だろう。また冗談でそんなことを述べているわけか。それらの空疎な内容を知りたくなってくる。誰かはありもしない話を続けようとしている。それで何を語っているつもりになれるだろう。なろうと思えば何にでもなれるわけもないか。作り話の中ではそうかもしれないが、その辺で何となく節度を保とうとしているのかもしれない。それは何のための節度なのだろう。気が狂うためには他に何が必要なのだろうか。そういうことではない。たぶんそれは成り行きまかせに何か別のことを言い放とうとしている動作だが、それと同時にどこか拍子抜けしているのかもしれず、その先に話が進まないようだ。それで何がどうなるわけでもないようだが、何となくそこから逸脱させようとしている。何についてつまらないコメントを連発したいわけでもないだろう。君はすでに言葉を使い果たしている。だから沈黙せざるを得ない。それではつまらない事件に首を突っ込むこともできはしないか。はじめからそんなことをやろうとしていたわけではない。だがそれではため息以外に何が出てくるというのか。言葉は相変わらず空疎な文字列に含まれている。意識はどこにあるのだろう。そんなことに興味があるわけではないが、それで現状維持になっているとは思わない。ではむしろ後退しているわけか。少なくとも前進しているとは思えないだろう。他に何が見いだされているとも思えない。何かがあらぬ方角を向いている。世の中で起こっていることはつまらない。そういう決めつけを裏付ける根拠というものを誰が提示できるだろうか。誰が何を示したがっているわけでもないか。言葉の使い方が間違っているようだ。他に不安感をかき立てるものでもあるだろうか。それはものではなくことか。問題なのは人を取り巻く状況でない。何でもなければ困ってしまう。何もないということはないだろう。他の誰を馬鹿にしようというのでもない。ただ何もないだけでしかない。それで間を持たせようというのが無理なのか。まだその先があるのだろうか。それは話ではない。実際に話すことは何もない。それでかまわないのではないか。何もあきらめていないが、最終的にはあきらめた形となっている。それを認められないだけだろう。要するにだだをこねているのだろう。自らの運勢を変えることはできない。それは占い師の言葉か。そこでは何が機能していないのか。機能していないのは何でもない。結局何も分からないのではないか。誰もが苦労しているようだが、まあ本当に無理なのだろう。では他の誰に期待したらいいのか。人にも物にも事にも期待すべきではない。何に対しても期待すべきではない。悪い意味での他力本願ではなく、自らが積極的に何かをやるべきなのだろう。しかしそれで何を批判していることになるのか。そういうことではないのだろう。さっきから無駄に言葉を連ねるばかりで、本質的には何も語っていないのではないか。どこにも出口がないのかもしれない。悪あがきのたぐいに終始しているわけか。そうだとしたらどうだというのか。他に何もなければそれをやり続ける以外にあり得ないだろう。だから困ってしまうのではないか。人はそれらの空虚の意味を知ろうとしない。知らなくてもいいことまで知る必要はないだろう。だめなときは無意味な言説に終始すべきなのか。そういう話の展開なら何もなくても致し方ない。そんなときの雰囲気を誰かが体現しているらしいが、そこからどんな成り行きが展開されるわけもなく、そんな空白地帯で断末魔の叫びを発することもなく、淡々と空疎な内容を言葉がなぞっていくだけだろう。それでその場は丸く収まってしまう。そら見たことかと後から誰に批判されることもなく、夜の闇に誰かの意識は溶け込もうとして、ひたすら沈黙を守っているらしい。それで何が分かるのか。何かを分かろうとして言葉を連ねているわけではなさそうだが、何かしら語っているそれを誰が理解しようとしているとも思えず、ただ空白の時が着実に過ぎていくだけのようだ。そこに記された言葉の並びが誰かの沈黙を表しているらしいが、他の誰かはそれについてどう思っているのだろうか。いったい何に耳を傾けなければならないのだろう。意識はまだ真摯に受け止めるべき意見に出会っていないようで、それに対する反論も用意されていない。このままでは記された何もかもが架空の出来事となってしまい、他に何を記すべきか思いつけなくなり、その代わりに無理という言葉で出来事の不可能性が示されるわけか。たぶんいつもの冗談に違いない。そしてそれ以外にあり得ないことが、そこでのどうしようもなさを示しているのだろう。もはや何をどう語ろうと取り返しのつかない過ちになっているようで、それは何も語らないのと同じことなのかもしれず、そこに記されたすべてが君のやる気を削ぎ、何かを裏切っているような気配さえ漂ってくる。


3月6日

 君は何に魅せられているのか。それはただの言葉の連なりにすぎない。意味不明なのは技術的な不手際か。まだ準備が足りないのだろうか。今のところは何をやるつもりもない。何もできないようだ。ならばくだらないことでも述べていれば事足りるはずだ。事足りないから困っているのではないか。いったいどうなってしまったのか。何がどうなったのか分からない。どうにもならなくても分からない。とりあえずそんな言葉は嫌いなようだ。君が必要としているのは水だ。なぜそうなのか理由はない。嘘をついているようだ。それ以外は演劇的な成り行きに見とれていた時間帯もあったらしい。何がそれ以外なのか。それ以外を拒否している現実がある。君以外の誰が呪いの言葉を求めているのだろう。認識力に劣っている。人と人との関係が稀薄になっているそうだ。いつの時代もそんなことが言われている。何となく社会に蔓延している不安がそういう言説を理由として求めているのだろう。人々はこの世界で何を守っているのだろうか。この世界は悪意で満ちているそうだ。その悪意を取り除くのと同時に、何かを取り戻さなければならないそうだ。ちなみに君は失われた過去を取り戻そうとしている。本当にそういう筋書きならば、そこから感動的な物語でも奏でられるのだろうか。何によって奏でるつもりなのか。ここには何一つ楽器などありはしない。あるのはただの言葉のつらなりだけで、画面の背後から音楽が聞こえてくるが、それはスピーカーのたぐいだ。たぐいではなく本物のスピーカーかもしれない。要するにそうやって無駄に言葉を連ねているわけだ。しかしそんなことを述べて気が済むはずもなく、自虐的に何を語れるわけでもないらしい。何となく状況が馬鹿げているのだろうか。そう感じられるのなら、その原因でも探ってみたらいい。くだらぬ対抗意識のかけらもなく、誰と何を競い合っているのでもないらしい。無理なことをやればそれだけ危険が近づいてくるだろう。それでもごり押しすれば後で悲惨な結果が待っていることだろう。それを承知で勝負にでているのかもしれないが、少し浅はかすぎないか。今はそれに対抗するのではなく、ただ必要最低限のやるべきことをやっておけばそれでいいのかもしれない。人には人それぞれに割り当てられた領分があるとでも思っていればそれでかまわないはずだ。本当のところはわからない。わからないからあまり真に受けるわけにもいかないだろうが、君は他人に道を譲ることができるだろうか。いきなり何の脈絡もなく何を思いついたのか。それは戯れ言のたぐいかもしれない。本気になれないのは毎度のことで、何一つここには示されていないように思えてくるが、それは本当のことではない。事の真相を知ろうとしていないのだろう。どんなときでも自分は自分であり、他人は他人なのだろうが、そんな認識が何に役立つとも思えず、ただそう思っているにすぎないことだ。それでも誰かは君であり続け、理由など知る必要はない。それのどこに真実が含まれているのか。理由を探ろうとしてはいけない。そう思われる根拠を示す必要もない。人は本質的に何のために生きているのでも努力しているのでもない。ただそう思っているだけにすぎず、そこから理由を求めようとすれば、間違った結論が導かれてしまうだろう。無理なことをやれば自滅するに決まっている。君はただそれを待っていればいいということか。とりあえずできうる限り最善を尽くして結果を待つべきだ。それ以外にやりようはないだろう。もうすでに滅びへの道を歩みだしている者もいるようだ。何も勘に頼り切って神秘主義に染まることもないか。現実はここにある。そこにもなくどこにもありはしない。ここにあるのが現状のすべてだ。誰かの掌の上で踊らされている者は悲惨だ。自らの哀しい境遇に気づいていないようだ。自分が主導権を握っていると思い込んでいるようだが、それは取り返しのつかない勘違いだ。君はそうなってしまった者の雰囲気を感じ取っているらしい。あるときは戦略を練っているつもりなのだろうが、そして今それを実行しているつもりなのだろうが、それに巻き込まれた者たちは嫌々彼に従っているだけのような雰囲気を漂わせている。そんな彼は次第に裸の王様に近づくだろう。チンケなおとぎ話の主人公を演じさせられている自らに気づかないのだ。周りの者たちは皆心を痛めているのかもしれない。誰も王様が裸だと言い出せずに困っているわけだ。果たして君はどうなのか。君はただ眺めているだけで心が痛まないのか。君がその裸の王様の標的となっているとしたらどうだろう。彼が君に勝つために有形無形の様々な圧力を加えてきているとしたら、君はそれに対抗して何らかの策を講じなければならないのではないか。冗談ではないか。君はそれを冗談だと思っている。なぜ危険にさらされているのに無防備のままなのか。君には関係のないことだからか。たぶん彼が標的としている君は、君とは別人の君なのだろう。彼の幻想の中に君とは別人の君がいるわけだ。とりあえず今はそんな別人の君に君の身代わりとしてがんばってもらうしかない。しかしなぜそこで君は笑っているのか。理由は薮の中だと嘘でもついておこう。


3月5日

 どうも頭が重い。何も考えられず、思うように体も動かない。それでどうしたわけでもないが、何となくそんなことを述べているうちに終わってしまうような予感もしている。たぶん言葉がもたらされていないのだろう。気に入らない状況になっている。頭の中で虚無の領域が拡大しているのかもしれない。過去のことは何も思い出せない。それは君の言葉ではない。きっかけを求めているとも思えず、それが何を招くきっかけなのか不明のまま、ただきっかけを求めている。それがなければ何もでてこない。しかしそれの何が不安なのか。何もなくてもかまわないはずだ。確かに何がどうなっているわけでもない。日々変わらぬ状況なのだ。そういう述べ方が変わらない状況を呼び込んでいる。何が違っているというのか。勘違いにもほどがあるだろうか。皮肉の一つも繰り出してみたらどうか。仕草に余裕が感じられないが、それが誰の仕草なのか定かでない。そんな風にしてかろうじて言葉をつなげている印象だ。今はそんな風にしか述べられない。この世界の中で生じている何について述べたらいいのかわからない。例えば無駄なおしゃべりがどこかで繰り広げられているようだが、それについて何を批判する必要もないような気がしているだけか。それを何か別の言動に結びつけることができるだろうか。そこから前向きな意見が生じるとは思えない。では影は後ろ向きに何を考えているのだろうか。目一杯自分から退いているつもりか。わけの分からないことを述べているだけのようだ。それで何がかまわないとも思えないが、何を感じているわけでもない。感じられるのはそんなことではなく、すべてが終わりに向かっていることであり、そのすべてとはどのすべてなのだろうか。唐突に何が終わってしまったのか。まだそのときを迎えていない。それは今から何年後のことだろう。別に何を予測しているわけではないが、たぶんそのときまでには何かが確実に血肉と化していることだろう。またわけの分からないことを述べているようだ。冗談でそんなことを述べているのだろう。なんとかしなければならないと感じて、焦っているのかもしれない。事を急ぐべきではなく、今はじっと辛抱のときなのか。利いた風なことを述べるべきではないか。それらは何に対して向けられた疑念なのか。そうやって無駄に言葉を連ねていることに良心の呵責でも覚えているわけか。君のどこに良心が宿っているのだろう。とりあえず今は水を飲まなければならず、それとはまるで関係のないことを述べなければならないようだ。水を飲まなければどこかに倒れ込んでしまう。それは思い過ごしではなく、誰かが実際にそうなってしまうだろう。急速に老いてくる。無理な話に持っていこうとしているようだ。そこであきらめきれないのだろう。何かを見届けなければならない。勝手な思い込みの正体を見極める必要がある。君は誰に追われているわけでもなく、君自身が犯人である必然性も感じられない。また妙な方向へ話が逸脱しているようだが、いったい誰のことを述べているつもりなのか。具体的に何を語りたいのだろう。わざとそんな風に語ろうとしているわけでもないはずか。たぶん君にとってはそういう回り道が必要なのだろうが、まだるっこい印象を拭えないことも確かだ。何について述べているとは到底思えないわけか。そういうもどかしさの中から、たまには本音でも漏れてくることを期待したい。今はまだ何もでてこないが、いずれは何か適当なことを語っているときが訪れるのだろう。それがいつになるかは偶然の巡り合わせが決めることか。そこへ至る成り行きを誰が呼び込もうとしているわけではない。まったく付け入る隙を見いだせずにいる。虚無の防御が完璧に近づいているのかもしれない。もはや手も足もでない。そんな嘘をつきながら隙が生じるのを待つとしよう。無駄な悪あがきだと思ってはいけない。実際に誰かはそう思っているのではないか。分かっているならそれでもかまわないだろう。ふぬけの心が目の前で揺らめいているように感じられ、そんな幻影を空想している自らは頭がおかしいと思われる。今でも時々過去を思い出そうとしているらしいが、それと現状とのつながりが見えてこない。やるべきことをやっていないような気がするだけか。たぶんきっかけとは過去において巡り会っていたはずだ。それをそのまま受け流し、さっさと通り過ぎて今に至っている。そのときはそれでかまわなかったのだろうが、今になって何かに響いているようだ。いったいそれはどんなきっかけだったのか。それを取り逃がさなかったら、今頃どうなっていたのだろう。何を想像してみても、今となってはどうなるはずもなく、後悔が先に立つわけもないが、何となくそこでの素通り状態が、現在においての誰かの人格形成をもたらしているのだろう。何を粘って言葉を弄しているとも思えない。何を悔やんでみても何も始まらず、実際に言葉が連なっている先には、何が待ち受けていることもないような気もしているのだが、それは誰の終わりでもなく、君の終わりとも違うのか。


3月4日

 空がぼんやりと雲っているのは大陸から飛んできた黄砂のせいだろうか。そんな情報に惑わされているだけか。別にそれでもかまわない。スポーツ紙の表面では相変わらず大げさな言葉が踊っている。そういう表現はおかしいか。意識がどこへ向かっているとも思えない。相変わらずメディアが期待するようには興味を示さない。欲望の対象があからさますぎるか。何を浅はかに夢想できるだろう。とりあえず商品が売れなければ困るということか。そこに矛盾が生じているらしい。君に何ができるわけもない。そこには夢想と幻想があるだけか。実体が何もない。現状の何がよくなっているとも思えない。そんな否定的な感慨に浸っていると楽しくなってしまうか。それは違うと思うが、そんなことを述べていると正気を保っていられる。それも幻想のたぐいかもしれない。幻想を抱いていないと現世のみすぼらしい姿を見てしまう。誰が何をやっているわけもなく、ただひたすら動き回っているにすぎず、そこに微細な差異を見いだそうとして、どうでもいいようなこだわりによって、社会に悲惨な差別化を定着させようとしている。勝ってもいないのに勝ち組になり、負けてもいないのに負け組に入れられ、それをおもしろおかしく言い立てられ、何となくそういうことだと思い込んでしまうわけだ。実態としては誰もが普通に暮らしているだけだろう。古代の王侯貴族が巨大な墓や神殿を造って自らの虚栄心を満足させたのよりはマシになってきたのかもしれないが、やはりそういうことをやりたがるのが文明に毒された者たちがやることだ。それらの廃墟がお国自慢的に世界遺産として賞賛されるのは滑稽きわまりないか。例えばガウディによるいびつな建造物を見て感動してしまうのも、同じ文明中毒者として波長が合うことの証だろうか。芸術家のたぐいが作り上げる作品という事物は、それらの虚栄心の賜物とどう違うのか。自らの存在を作品という手段によって世界に認識させようとする試みととらえればは同じようなものか。自分が成し遂げつつある偉大な業績をこの世界に残したいわけだ。彼らはそれ以外に何を欲しているのだろう。やがて自らの存在やその作品が消え去り、世の中から忘れ去られてしまっては困るだろうか。倒錯としてなら消滅を目的として強がってみせることも可能か。自分は忘れ去られるために存在しているというわけだ。何となくその浅はかな魂胆が透けて見えてしまうかもしれないが、そんなやり方ももてはやそうとすればそれなりに支持する人がでてくるのだろう。人それぞれで価値観が異なり、そこに多様性の調和というありふれた観念が介在しているように思わせてしまうのかもしれない。それらの何を賞賛しようと、幻想で済ませてしまえば、それで何か気が利いたことを述べているような気にさせる。何となくそんなことを考えているとむなしくなる。例えば風雨によって浸食された奇岩の風景と人間の作品の間にはどんな類似点があるのだろうか。作品が人間の所有物である必要はないと思わせる。誰が何を作り上げようと、何らかの形で利用されている限りにおいて、それは石器や土器と同じように道具の一種でしかない。もちろん道具を用いて作品を作り上げるのだろうが、作り上げたそれが無用なものでしかないと思われても、どこかのギャラリーにでも展示されれば、それは人を呼び集めるための道具と化す。何かを見て感動したい者たちが群れ集う場所にはそういう作品の存在が欠かせない。そして感動するための道具は何も作品でなければならないわけではなく、それは自然の風景で事足りる。野山や海にでも出かけていって、日常とは違う環境に身を置けば気晴らしになるのだろう。ただ眺めるだけではなく、そこで体を動かせば日頃の憂さを忘れてしまうわけだ。君はそれをくだらないと思うわけか。くだらなくても必要不可欠なことのかもしれない。文明は人々を疲弊させるのであり、自然は疲弊した人々に憩いや安らぎをもたらすのだろう。誰かはそういうありふれた見解に異を唱えたくなってくるが、一方でありふれたことを述べていると安心する。久しぶりに常識的な結論を導きだしたような気になって、内心ほっとしているわけか。冗談ならそれでもかまわないのだろう。だから人による造形も自然による造形も大したことはない。何かを見聞して感動するというこれまたありふれた心理的な作用を誘発させるだけだ。たぶんそれは驚くべきことなのだろう。そしてそんな驚くべきこともありふれたことで、真に驚くべきことではない。この世界はどこまでもありふれた事物によって覆われていて、それに感動したり驚いたりしている人間の心理作用もありふれている。それらはどうでもいい物事なのだろうが、それがないと生きてゆけない人たちもどうでもいいような存在なのだろう。しかし生きてゆけなければどうなってしまうのだろうか。退屈にやられて気が狂ってしまうわけか。そんな単純な成り行きにはなり難い。たぶん人は退屈にやられて芸術家にでもなろうとするのだろう。自分が驚嘆するような作品を作り上げようとする。


3月3日

 いつまでも心を閉ざしていても仕方ないだろう。そこで何を試されているのか知らないが、誰かの忍耐にも限界がありそうだ。今のところは何を語っているのかもわからず、意味も気分もあやふやなまま、時間的にはやっと今日になるが、もう夜だ。すぐに明日になってしまうだろう。誰かが携帯電話で話している。小声で何をしゃべっているのか知りたいわけではなく、他の誰がそれを聞き取ろうとしているわけでもない。そんなことを思っているうちにも、もうそこまで何かが迫っているようだ。それは自らが終わってしまうときかもしれないが、別に大した出来事ではないだろう。この国について誰かが何かを語っているようだが、厭世観の塊の君には何の関係もないことだ。だが今さらそれが冗談だとも思えないか。ではそれらの何を真に受けるべきなのか。ただそれは馬鹿げた構造を有している。ロシアや中国の内情について何を述べたらいいのか。それらはみんなニュースで知っていることだ。取り立てて君が述べるような内容ではない。そんなことを記しているうちにまた眠たくなってくる。薄れゆく意識の中で不意に誰かの台詞がよみがえってくる。人生のやり直しはきかないが、作り話の中では何でもできそうだ。だが何でもできるといっても所詮は作り話の範疇でのことだ。そこで誰が何をやり直そうとしているのでもないらしい。君ははじめからあきらめているようだが、どういう経緯であきらめてしまったのだろうか。過去において何かになろうとしていた時期でもあったわけか。そういう方向での考え方が行動を不自由にする。しかし自由とは何だろう。そこで声高に何を主張しているわけでもなく、この世界がどうなってほしいのでもない。だがそうでなければ何なのか。またしばらくうとうととしていたらしい。気がつけば何かがどうにかなっているようだ。ただ時間が経っている。たわいないことにとらわれているようだが、なぜ電車で座っていると眠くなるのだろう。この際でもどの際でも、そんなことはどうでもいいことだ。ならば他に何があるというのか。今は何かの思い過ごしに似た心境だ。まったく何がなんだか分からないが、それでかまわないのだろう。自分に何かを言い聞かせているつもりらしく、それ以上の何を求めているわけでもない。何となくそこから考え込んでいるようだが、しばらく経っても何を考えているのか分からないままだ。いったいどこにきっかけがあるのだろう。今さら体勢を立て直そうとは思わない。そういう話ではないはずだ。とりあえずきっかけはどこにもないらしく、今は何も考えなくてもかまわないようだ。そんな無駄話ならいくらでも構成できる。そういう姿勢がよくないのだろうか。分かりきったことを問わないでほしい。よくなければ改善しなければならない。改善できなければそのままだ。それで話になっているだろうか。誰かは何の話をしているのか。誰が何を謙遜しているわけでもなさそうだ。述べていることの意味が分からない。それは毎度のことだろう。いつもそうなのだからもうそれが当たり前のような気がする。電車の外は寒すぎる。そんな思い込みで電車に乗っているわけではないだろう。ただそこに目的があるはずだが、それが目的ではないと思い込もうとしている。それで何が分かったことになるのか。少なくとも怠惰のただ中で何を考えているわけではない。述べていることのほとんどが自問自答であることは確かだ。だからつまらない。しかしつまらないから楽しくなってしまう。それはわざとらしい矛盾であり、見え透いた嘘には違いないが、何となくそれでかまわないと思ってしまう。本当に冗談ではないのだろうか。冗談でなければ何なのか。冗談以外の何かを想像できるだろうか。仮に想像できるとして、その空疎な妄想の中身を知りたいところだが、その先に作り話の内容を構成できず、その辺が想像力の限界であることを悟ったふりをしつつ、何を想像しているわけでもないことを隠す気にもなれず、それでも何かについて語っているとすれば、それは自己言及もどきの作り話になるのだろうか。そういう結論では何となく拍子抜けか。納得のいく結論にはなかなか巡り会えないようだが、何に納得したらいいのか分かりかねる。納得するとは何かをあきらめることではないのか。それで何をあきらめたことになるのだろう。例えば誰かがそこで人間不信に陥り、ありふれた感慨を抱くとしても、そこからどんな話が生じるわけでもなく、誰かはひたすら自らが記している内容について語ろうとしているようで、実際には具体的に何を語っているのでもなく、ただ言葉を記しつつある自らの心境について語っているにすぎず、それを超える内容を導きだせないことに落胆しつつも、そんな自らの能力の限界を知っていることに安心して、そこにひたすら安住しようとしている。だからいつまでも同じようなことを語っていられるのだろう。それがある意味では狂気の沙汰を招いているような幻想を生じさせているらしく、何となくそれらの空疎感に興味を抱く者もいるらしい。だがそれで何を語っているとも思えない。


3月2日

 今日は何か適当な話題について言及できるだろうか。誰がそれを期待しているのか。たぶんこれから語ってしまうのはそういう話ではない。いつもの空疎な語りが始まろうとしている。冗談ならそんな話でかまわないはずだ。冗談でなければもっと切実な内容を構成したらいいが、結局何について語っているのでもないらしい。まだ結論に至るのは時期尚早か。今日の君には何かがひらめいていて、それで何がおかしいわけではなく、笑っているわけでもない。弱音を吐くとはどのような状況において発せられるのだろうか。気休めでも気晴らしでもかまわないから、何か夢物語のような現実でももたらされないものか。誰がそんなことを思っているわけではない。何に対して反論したいのかわからない。たぶんそれが君の文体なのだろう。何を意図しているわけでもなく、ただひたすら意味不明を装っている。それらのどこに君がいるのだろうか。言葉としてならいくらでも君という言葉が記されているが、それが何を意味するのかわからない。君は君でしかないだろう。それだけのことにどのような言葉を弄ぶつもりなのか。何が気に入らなくてそんなことを述べているのか。君はその場から退き、そして誰もいなくなってしまったのだろうか。そうだとしたらどうなのか。電車の車内に風が吹き込む。駅に着いてドアが開いただけのことだ。ところで何か息苦しくないか。誰かが練炭でも不完全燃焼させているのだろうか。一酸化炭素中毒に特有な症状か。この際ありふれた自殺願望などなかったことにしよう。文章の意味が分からない。何やらやけくその気配もしてくるが、何となくそういう話でもないような気がする。この世の中には何が必要なのだろうか。人と人の間に生じる信頼関係か。ではいったいどこの誰を信用すべきなのか。誰かは唐突に抽象的なことを考えようとしているらしい。そこに至る具体的な経緯が見えてこない。ただ無駄に言葉を弄しているだけでは信頼関係など生まれようがないか。君はこの地上に何を回復させようとしているのか。冗談でそんなことを述べているようだ。さっきからひたすら考えようとしているが、何も思いつかないわけではないと思い込もうともしているようで、その結果がそれなのだ。それとは何だろう。何でもなければ安心できる。たぶんそこで何がおかしいとも思わないのだろう。どうやら冗談でそんなことを述べているわけではないようだ。そこで突然咳き込んでいるにも理由がありそうだが、とりあえず結核ではない。君は君自身を信頼していないようだ。いつも疑念のまなざしを自らに向けている。君はくだらぬ妄想しかもたらせないのではないか。なぜ妄想がくだらないと決めつけるのか。まだ膿を出し切っていないようだ。何かの傷口が化膿していたらしい。それは過去の出来事だろう。今さらペレストロイカの意味を知ろうとしているのはどこのどいつでもないらしい。確かにわけが分からない。言葉が散らかっている。そこで何を瞑想しようとしているのか。釈迦の涅槃像の姿でも想像しているわけか。誰かはそんな風にして空疎な内容に徹しているわけで、それ以上は何を語ろうとも思わないが、決してそれは何かの決意表明ではない。決すること自体が不自然な印象を含む。そして君はさらに馬鹿げていると思う。状況とはそういうものだろう。眠たいのなら眠ってしまえばいい。他の誰からも何も期待されていないのだから、その程度で結構だ。ドアが開いて車内に冷気が入り、さっきまでの眠気が一気に覚める。だがそれで覚醒したわけではないだろう。だらけているのだろうか。それで悟りの境地にでも至ったつもりなのか。またなるわけもない心境を記している。やはり君は冗談でそんなことを述べているようだ。だから今は以前とは違う状況に入ったらしい。モードが違うわけか。何が流行って何が廃れているかも分からないのに、モードがどうこう言うのは馬鹿げているが、何となくそんな言葉を記すと気持ち的にしっくりくる。冗談ではないだろう。冗談であると同時に冗談ではないのか。それはいつもの記述パターンに相違ない。なぜ言葉を散らして空疎感を演出しようとするのか。そういう自問自答には嫌気がさしているが、とりあえず今はそうではないと述べておこう。何やら真っ当な話になるのを拒否して、ひたすらそこから逸脱しようとしている。話の本筋から外れて、話自体を忘れ去ろうとしている。しかし思い違いとはどういうことなのか。何が違っていると思われるのだろう。まったく勘違いにもほどがある。話にすらなっていないのに、話自体がこんがらがっているように思わせようとして、結局それに失敗している。それらの文章の中では、言葉のつながり具合のすべてがまともではない。たぶん何かについて言及しているのだろうが、それが君と特定の出来事を関係づけるには至らないようだ。君はいつもこの世界から拒絶されていて、誰も振り向かず、振り返ったところで誰がそこにいるのかも分からない。今さらこの世界について何を語っても無駄なのか。あるいはそう思っているうちは無駄なのか。では今からどうしろというのか。誰に向かって何を語っているのだろうか。


3月1日

 何かの用意ができているようだ。誰かがその場を立ち去ろうとしている。もう虫の息だろうか。思わせぶりに何を述べているわけでもなく、どこへ誰が消え去ったとも思えない。君が死ぬはずがない。誰の死に立ち会っているわけでもなく、唐突にそんなことを述べている。そんなやり方があったらしいが、しばらくそれを忘れていた。とりあえず何を述べてもでたらめの域を出ない。暗闇で考え込んでいるうちに、いつの間にか今日になっていて、そして何かが終わろうとしている。抽象的なことを述べているはずもないが、君の気づかないところで、案外何かがそうなのかもしれない。いつ気が変わったのだろうか。いくら試行錯誤を重ねても、結局は何も見いだされなかったらしい。君はそんなことを述べながらも、あやふやに事態は推移していく。そこで何を語るつもりだったのか。何かに見とれていたらしい。今は夜だ。ただそれだけのことだろう。夜明けが近い時間帯で、すでに翌朝になっている。そして空白に夜と記すと、そのまま眠ってしまう。言葉の記述が何を意図するわけでもない。ただ意識はどこにも到達できないようだ。淡々と時が経っていく。それを君はどう受け取るべきなのか。状況が君に有利に働いているとは思えない。だが悩んでいる場合ではないらしい。やるべきことがわからないまま、やるべきことをやるだけか。わざと矛盾している。気分が乗ってこないのはどういうわけなのか。その理由を探るつもりはないらしく、何を語るような状況でもないような気もするが、何か注意を怠っているのだろうか。それが何の理由になり得るのか。語ろうとしているのは理由ではない。では何を語ろうとしているのか。それは語り得ないことかもしれず、他に何を語ることもできない。今語っているそれがすべてなのか。そうだとすれば相変わらず空疎な内容に終始しているようだ。語ることに嫌気がさしてからだいぶ経つ。君はなぜそれを邪魔するのか。やめようとすると必ず目の前に立ちふさがり、誰にかに沈黙を強要するわけか。話が分からない。何をどう理解していいのかわからず、困ってしまうらしい。しかし何を語っているのだろうか。すでに終わっているはずだが、そこから延々と言葉が続いているようだ。そして相変わらず無内容に終始していて、何について語っているわけでもないのに、ひたすら言葉を連ねようとしている。具体的なことを語ろうとすればいくらでも題材がありそうだが、なぜそれをやろうとしないのか。例えば身の回りで起こっていることに言及しないのはどういうわけか。言葉を真に受けることもなく、映像を真に受けることもない。何が問われているわけでもなく、何を知ろうとしているわけでもない。何を見聞しようと、それらの中に真実が含まれていようと、それを真に受けるわけにはいかないようだ。君はそこで何を疑っているのか。何に頼ることもできず、何を利用する気も起こらない。絶えず何かを予感している。無意識が誰かの行動を決定する。行き先を決めるのはその場の成り行きだが、それを感知することができず、いつも結果からそのときの動機を推測するしかないらしい。虚無は君に何をさせるつもりなのか。君の意志が君の行動に介入できない。君は何かに操られ、取り返しのつかない過ちを犯し続け、君自身が消滅するきっかけを絶えず生み出し続けるが、作り話的には、否定の作用によって難を逃れることになっている。それはどういうごまかしなのか。外れているだけかもしれず、意識の外れた先に、誰かの意図が隠されているのかもしれない。それはどういうことなのか。今のところはどういうことでもないのだろう。ただの苦し紛れで述べていることだ。それでこの世界がどう変容するわけでもなく、誰かのありのままの姿が視界から遠ざかるだけだ。そしてそれの何が名残惜しいとも思えない。過去は過ぎ去るだけで、顧みられることはない。君は湾岸戦争の頃の気分を覚えているだろうか。例えば映像に映し出された油まみれの海鳥にどんな感情移入をしていたのか。簡単に戦争が起こり、簡単に建物が破壊され、簡単に大勢の人々が死んだだけだ。その後のアフガニスタンでもイラクでも同じようなことが起きたのだろうか。何事も誰の思い通りにもいかないようだ。誰もが無駄に何をやっているのだろうか。この世をどうしたいのか。たぶんどうにもできないのと同時に、どうにかしたつもりになれるのだろう。この世界は未だに戦争に明け暮れていて、そんな印象がメディアによってまき散らされている。そう思い込みたいのは誰でもない。宗教が暮らしに直結しない地域に住んでいる者にとって、パレスチナ紛争を理解し難いと思いたい気持ちも分からないことはないか。あれはもはや宗教ではないのだろう。かの地の人々は遊び半分で生きていることのむなしさを知ることはないだろう。なぜ必死にならなければならないのかを忘れてしまったらしい。おそらくわけなど何もなくなってしまった地域に暮らしているはずだ。ここは壊れた人々が浮浪者になるしかない地域なのだろうか。


2月29日

 誰かはごまかしの文体に惑わされる。誰が何を記しているのか。何につきあう必要も感じない。怠惰な心はそのままにしておこう。やる必要のないことまでやらなければならないのだろうか。何かが違っているような気がするだけか。誰かはどんな結果を望んでいるのか。現状には何も感じるところがない。ただ淡々と日々を過ごしている。プロスポーツには当たり前の目的がある。それは勝つことだ。幼少期からの英才教育によって作られたプレーヤーには勝つためのプレーが求められる。そこで何を工夫すべきなのか。君はなぜそういう構造がおかしいと思うのか。そんな当たり前のことのように思われていることが気に入らない。人は人に対して優れていなければならない。ということは人より劣った人が必要となる。人と人の間には差異があるらしい。そんな当たり前のような前提が気に入らない。人より劣っていることは致命的な欠点だろうか。ある面では劣っていても、別の面で優れていればいい、という気休めにすがるしかないらしい。冗談ではないだろうか。冗談ですまそうとするならば、人は人に対して勝とうとしてはいけないのかもしれない。だが心理的にも経済的にも余裕がなければそんな思いには至らないだろう。そういう考えが気に入らないのだろうか。冗談に逃げるわけにはいかないのだろうか。君は勝負から逃げている。いったい誰に勝てばいいのか。何が分からないふりをしているのか。どうやら文章からも逃げているようだ。それはいつもの意味不明だ。君は何かに負けているらしい。いつも負け続けている。たぶん勝つ気がないのだろう。何に負けているのか分かっていないようだ。分からなくてもかまわないとも思っている。他人に勝つのが鬱陶しく感じる。それが何かもめ事に巻き込まれたような嫌な気分をもたらす。これまでに一度たりとも勝ったことがないのに、なぜそんなことを思うのか。そこから先は空想の世界に入っているのだろう。作り話的にはそういうことらしい。冗談だとも思える。センスの問題でしかないのかもしれない。君は絶対にその場所を離れないだろう。それはありがちな結果だ。他人に譲るところがない。何について語っているのか分からない。そういう成り行きなのだからそれに従うしかないだろう。どうにもならない。後は誰かの感性にまかせるだけか。しかし分からない。感性が受け入れないようだ。何もないのだから無理もないが、何かが心の中で飽和状態のようだ。それでも何かをどうにかしようとしているらしい。それが無理と思うならやらなければいいのに、無理だからこそやるというのがおかしな事態を招くのだろう。行き詰まったまま前へ進もうとしている。あり得ない展開だろう。くだらぬへりくつの一つも思いつかない。その時点で終わっていないだろうか。何が終わっていると感じるのか。君自身の存在が終わっている。もはや賞味期限切れか。誰のことを述べているつもりなのか。またそれは架空の人物になってしまうわけか。君に終わりなどありはしない。言葉を記しているのは使い捨て用の人格だ。その誰かが力つきれば、また別の人格をねつ造すれば済むことだ。それによって何を乗り越えようとするのでもなく、困難は相変わらず目の前にある。行く手を塞ぎ、その先を見えないようにしている。その先にはどんな光景が広がっているのか。どのような出来事が起ころうと、そんなことはどうでもいいことだ。それらの出来事の間に差異を感じられない。何にこだわっているわけでもなく、世の中はつまらない出来事で覆われている。何か閉塞感を覚えているらしい。どこに向かっていいのか分からなくなる。平常心を保てなくなり、現状を放棄して、そこから遠ざかりたくなる。それが誰の実感となるのだろうか。頭の中で神経回路が切れているようだが、そうだとしたらこれからどうなるのだろうか。たぶんどうにもならないだろう。そうやって君は同じ言葉をひたすら循環させている。どこへ行き着くわけもなく、延々と堂々巡りを繰り返しているわけだ。まさしく冗談ではないのだろう。それは現状から逸脱していない証拠だろうか。いったい何に耐えているのか。心の中の何かを押さえ込んでいる。それがなんだか分からない。誰の心に探りをかけているのか。たぶん君ではないのだろう。君にやる気はなく、ただ眠たくなってくるだけか。それ以上のがんばりが利かないらしい。何と戦っているのでもなく、どんな軋轢に遭遇しているのでもなく、ただ何もないのだ。そんなことを述べているうちに月が変わってしまったらしい。また遅れてしまったわけだ。相変わらず本気になれないし、何もない現状を真に受けることができない。嫌な世の中であることに変わりはないが、それをどうすることもできない現状に埋もれていることも確かだ。人が変わらなければ世の中はかわらないし、世の中がかわらなければ人も変わらないのだろうが、そんなところからは何の解決方法も見いだせないことも確かなところだ。なぜそうなってしまうのだろうか。それは何に対する疑念にもならない。


2月28日

 夜になり辺り一帯は静寂に包まれている。それにつられて君も陳腐な言語表現を用いて暇つぶしの最中のようだ。いつかそこから飛躍する機会も巡ってくるはずだ。そのチャンスを逃して後悔する日々の到来も近い。今から何を想像しても遅すぎる。すでに作業は前へ進み続けている。後は破滅を残すのみか。冗談ではないだろうか。将来のことなど誰に訊いてもわからない。たぶん今後が予断を許さない展開になることはない。話など何もありはせず、何も語れない状況に変わりはない。頭は冴えているとは言い難い。冗談でそんなことを述べているだけだろう。君に何がわかるわけではないが、誰かはそこで何かをつかんだ気になっている。それがきっかけだとは思わないか。ただ馬鹿げたことを述べているだけか。今さら何を述べても話は始まらない。要するに巡ってきた機会を逃しているわけだ。それで落胆して後悔してしまうわけか。それは誰のことでもありはしない。君のことではない。君はいつでも何も語り得ないし、ひたすら沈黙を守っている。誰かは寝過ごして昨日の時空から出る機会を失う。それでどんな感慨を抱くだろう。そこに何があるというのか。無駄で無意味な言葉なのだろうか。この世界は広かったり狭かったりするらしいが、どこまでいっても事物に巡り会えない。そんな状況をフィクションの中で作り上げているようだ。現実の世界でも何かに束縛されている。そして君は何も考えられなくなるわけか。そこで何をやっているのか。どうしてそんなことを述べられるのだろう。それが君に課せられた使命だからか。まったくの見当外れだろうか。何が間違っているわけでもなく、何かが違っているのだろう。だが誰を煙に巻いているわけでもない。周りにチヤホヤされているわけでもない。どうにもならないようなことをどうにもならないように語っているだけか。ただそこから逃れたいだけかもしれない。何も考えられないことを利用して、怠惰に過ごしたいのだろうか。そうであったら楽しいだろう。そうでなくとも楽しい。どちらにしろ機会を失うのは楽しいことだ。たぶんそれは何の機会でもありはしない。機会でさえないのかもしれず、もとから何もなかったのかもしれない。本当に何も見当たらないようだ。そして君は黙り続ける。あり得ない状況について何を述べることができるだろうか。そういう話ではなかったはずか。君はそこから遠ざかる。理由など何もなく、ひたすらそこで眠り続ける。そのまま続けてかまわないのだろうか。空疎な内容だ。具体的なことを何も述べられない。翌日の空は晴れていて、誰の気持ちも言葉から遠ざかる。それは心の中身を反映しているわけではない。それとは何だろう。言葉は何を指し示そうとしているのか。それはごまかしようのない空虚だ。何もないから何も述べられない。だからどうしたというのか。どこまでも続けられるはずがない。だがそれを続けられないからといって、君がどうなるわけでもない。もとから存在していないのだから、それらの文章から君という言葉が消えるだけか。文章が続かないのだから、そこで終わりとなるのであって、過去の文章の中に君という言葉が残り続ける。それは誰の意志が反映した結果でもなく、君を文章による束縛から解き放つ契機となるわけでもない。誰もそこから遠ざかれない。それはどういうことなのか。誰にとってもそれは不幸なことか。それでもかまわないのだろうか。誰もかまわないとは思っていない。すべては作り話なのだから、何を記そうとそれは作者の勝手になるかもしれない。誰がそれを記しているのか。まだ作り話にもなっていないように思われるが、それはどんな話なのだろうか。国家とは何か。人間とは何か。冗談でそんなことを述べている。そういう言葉では何も語れない。他に何を用いるべきなのか。人には衣食住が必要だ。国家には人が必要だ。それがどうしたのだろうか。君には文章が必要だ。それとこれとは無関係だろう。話の内容はそういうことではない。君は何を守らなければならないのだろうか。国家を守らなければならないのは人ではない。国家は人を守る義務などない。君たちは何から自らを守らなければならないのか。君は自らの自由を守るべきなのだろうか。枯れ葉の下に微生物が生きている。君はそこで何を語っているのだろうか。なぜそんなことを語らなければならないのか。やりたいことは何もない。誰かはそこで眠っているようだ。これ以上馬鹿げた問答もどきを続けるべきではないのかもしれない。それははじめから分かっていたことだ。続けるべきでないことを続け、続けるべきことを途中で終わらせている。それのどこが矛盾しているのか理解できないが、とにかく話を逸脱させて、何も語らない状況を保たなければならない。君はそこでひたすら沈黙を守るべきなのだ。具体的な事件や現象に言及するのはおかしいか。何を受け流しているのだろうか。現実を真に受けない理由を示すべきなのか。何がそこでの作り話なのか。何も語らないことの何がおかしいのだろうか。それらはすべて君に向けられた問いかけではないということか。


2月27日

 相変わらず君は何について考えているわけでもない。ただ誰かはわけもなく言葉を連ね続けているらしい。たぶん何もわかろうとしていないのであり、それで何が活性化するはずもなく、ただひたすら無駄に言葉を弄するばかりのようだが、そこからどんな結論が導きだされるわけでもない。それが目下のところの結論といえなくもないが、誰かはそこで嘘をついているはずだ。本当は言葉にならない何かを理解しつつある。そんな風に語ること自体が何かを隠している証拠となるかもしれず、それによって思わせぶりな期待感を喚起したいらしい。冗談に決まっている。そんなのは口からでまかせならぬ、キーボードを叩く指先からでまかせなのだろう。たぶんそれで気の利いたことを述べているつもりになれるはずだ。嘘をつくのはそれほどまでに楽しいことか。何がどれほどなのか基準などどこにもありはしない。心の中で何かが氷解しているのかもしれない。つまらぬこだわりが抜けて、何となく自然で自由な発想を得たつもりになれるが、それが勘違いか否かは、結果が自ずから示すところとなるだろう。しかし結果とは何だろう。とりあえず結果らしき文章を導きだす必要がありそうだが、それは求めているところのものではない。文章は文章でしかなく、それが誰の思惑や意思を反映しているとも思えないようで、それが思い違いだとしても、それを記しつつある誰かには関係のないことのように思われる。明確な答えを導きだそうとする試みではない。何を知るために言葉を操っているのもでなく、ただ言葉を組み合わせて何かを述べているような気分でいたいだけかもしれない。それだけなら誰かの思い通りの範囲内に収まるような結果がもたらされているはずだ。だが思い通りでは気に入らないらしく、絶えずそこから逸脱するような気に入らない展開が期待されている。要するに矛盾しているのであり、一方では思い通りになるように作業を進めていて、もう一方ではそれが気に入らないような展開を求めているわけだ。その背反する要請を一つにまとめることなど不可能というものか。おそらくそれでかまわないのだろう。たぶんどこへも行き着かないように意図的に言葉を操作しているのかもしれず、そういう操作も気に入らないことの原因となっている。いったい何を冗談として述べているのか。冗談ではないから冗談だと思い込みたいのか。まだその状態を継続する必要がありそうだ。ただそんな気がしているだけで、たとえそれが間違っていようと、勘違いであろうと、それをやり続けるかやめるかは誰が決めることでもなさそうだ。心の中では誰も決められないのかもしれない。ただそんな架空の多重人格的な言い回しも嘘の一部なのだろう。すべてはフィクションなのであって、それと対をなす現実にもフィクションが紛れ込んでいて、現実こそが作り話そのものの源泉なのかもしれない。君はそこからどれほど遠ざかれるというのか。まだどこへ向かおうとしているわけでもない。特定の向かう先が見当たらず、どこでも向かわないわけではないが、絶えずどこかへ向かっているようで、必ずその途中で方向転換していて、さらにずれ続けているようだ。ただ当てもなくさまよっているというのが正解に近いかもしれないが、そんな正解はすぐに拒絶されてしまうのだろう。それが正解でなければ何なのか。正解に違いないが、受け入れがたい正解だ。君はその正解の内容を理解できないらしい。いったい何が正解なのか。それは振り出しに戻るためのごり押し的な迂回だろう。では何をそんなに笑っているのか。誰かが世界各地の民謡を聴いている。意味のない話に飽きてしまったのだろうか。まったく理解しがたい言葉の組み合わせにたじろいでいるようだ。しかし誰が何を読んでいるとも思えない。わけが分からなくなった原因は何なのか。ひたすら言葉を並べていた意識が不意に心の中で消え去ってしまったらしいが、今のところそういう嘘に説得力はない。単に行き詰まってしまっただけだろう。そこから先は闇が控えている。ただ夜になるだろう。時間の進行に伴う感情の変遷を省略したいらしい。あれからどれほどの歳月が経過したのだろう。あれとは何だったのか。あれはあれでしかなく、あれ以外の何ものでもないということはわかっているようだが、わかっているとしても、それを言葉にして記すことはないだろう。たとえわかっていなくてもかまわない。わかろうとしなくてもかまわない。君はさらに遠ざかろうとしているようだ。感性をすり減らして無感覚に近づいている。生身の人間ではない上に架空の存在すら虚無に奪われようとしている。そんな作り話も今ひとつリアリティを担う出来事に巡り会えず、当分は店晒しとなってしまうらしい。もちろんここには店などありはしない。言葉だけで君という言葉すら君から離れていってしまう。それも嘘の一部だろうか。そうだとしてもなおフィクションからはほど遠く、話にすらなっていないようで、まともな語り方からどんどん離れていってしまうようだ。それでも君はかまわないわけか。


2月26日

 何かの途中から作業をせかされているように感じられ、そして昨日にたどり着く。まだ何か不都合な点でもあるのだろうか。いったい何が気に入らないのか。誰に向かって尋ねているのかわからない。そんな状況がどこにあるのだろうか。まだこの世界について疑問を感じられるだろうか。言葉からもたらされる作用を軽視しているわけではない。そこにどんな油断が生じていようと、それですべては丸く収まるだろう。何がどうなろうとかまわないのかもしれない。言葉の連なりは投げやりな印象を与えているようだが、それで何がどうなるわけでもないだろう。すでにどうにかなっているのであり、それに邁進していればやがて道が開けるだろう。確か過去において余命幾ばくもない人がそんな感慨を抱いていたはずだが、それでも勘違いとはいえないような気がする。そう思っているうちに死んでしまったのだろうから、その人にとっては死への道が開けたわけだ。だからそれがどんな道であろうと、それの善し悪しは関係なく、とりあえず何らかの道が開けるということだ。そんなわけで君には何らかの未来があるらしい。その未来に向かって誰かが言葉を連ねているはずだ。それを別の誰かがじっと眺めている。要するに文章的には多重人格のふりをしつつ、それで何か適当なことを述べているつもりになっている。ところで何か忘れていないか。なぜ君は段落を作らないのか。君にはどうにもできないことだろうか。こまぎれの文章では面倒くさい。たぶんそれは間違った考えだ。晴れた空が昨日の雨の記憶を消し去るように、絶えず前述とは違うことを述べていたい。意味がつながらなくてもかまわない。誰かは意味になっていないようなことを述べていたいようだ。雑にいい加減なことを述べているつもりのようだ。それで何を示したいのだろうか。それを読む人を惑わしたいだけか。何をどう考えてもつまらない理由になってしまう。たぶん無理なことを述べているつもりなのだろう。無理とは不可能ということだ。何を述べているのかわけが分からなくように振る舞っていたいが、そんなのは無理に決まっている。要するにそれは不可能というわけだ。だからわけが分からなくなる。何もわかろうとしていないようだ。君の思考力ではついてゆけない。いったいこの世界はどうなっているのか。それは誰が感じていることでもない。なんとかそこからまともな話題に到達したいらしいが、この世界では何が話題となっているのか。人間の活動が地球の温暖化を招いているそうだが、それで君は何をやろうとしているのか。何事も短絡的に考えるべきではないようで、直接何らかの行動につながるような成り行きにはならず、ただそんな警告を受け流すばかりのようだ。君が考えるべきことではない。メディアからそれらしい意見が伝わってくるだけで、結果として君が何を考えているわけではない。そして誰かの反発を招いている。無責任にもほどがあるようだ。たぶん君の意識とは関係なく、他の誰かが徐々に何かをやり始めているのかもしれない。誰かの深層心理に働きかけているのかもしれず、無意識を介在して何らかの行動に駆り立てられているのだろうか。焼け石に水的な節約生活を続けているつもりにはなれるだろう。その証拠に新製品は極力買わず、中古品ばかりに囲まれて暮らしているはずだ。機械を捨てずに修理しながら使っているようだ。コストはかかるがゴミは出さないようにしているわけか。だがそれで何になるというのか。何にもならなくてもかまわないだろうか。そこに何か目的があるわけではない。何となく本能としてそういう成り行きを受け入れているだけではないのか。それは何かの気質に関係しているのかもしれない。それ以外に何をどう考えても答えにはたどり着きそうにない。それ以外にかなり馬鹿げた成り行きとしては、投機的な資金が物価の値上がりを利用して世界的に利益をせしめようとしているわけで、だから自然と節約せざるを得なくなり、買い控え現象に拍車をかけているようで、無駄遣いを控えさせることで結果的に地球に優しい生活を強いられているわけだ。冗談のような話かもしれないが、何となくつじつまが合いそうだ。しかしそうやって集められた利益はどこで消費されるのか。ごく限られた者たちの贅沢な暮らしを支えているわけで、資産運用ができる者たちだけに利益がもたらされる構造となっている。そんな風に考えていくと、人間社会は資産の有無によって区別された格差社会であり、次第に階級社会に近づいている、と短絡的に結論づけられそうだが、一概にそうともいえないような気もしている。どうも資金の量ばかり増えていて、それとは逆にその資金を用いて売り買いする物の量がだんだん減ってきているのではないか。要するに資金で資金を売り買いする空売り買いばかりが盛んに行われているうちに、将来的には生活物資が不足してきて、人口が減少に転じて、資本主義自体が形骸化して、その手の心理的宗教的な幻想が崩れ去っていくような気がしている。その結果がどうなるかは今のところは分からない。


2月25日

 何やら調子に乗って軽はずみなことを述べているようだ。軽いことはいいことか。重苦しい雰囲気には耐えられないか。何が君をそうさせているのだろう。何かの制度に絡めとられているのかもしれず、そこから抜け出るつもりがないのかもしれない。世の中の流れに逆らって愚かな言動に終始する。それの何が愚かに感じられてしまうのか。たぶんどうということはないことにこだわっているのだろう。何に感動しているわけではなく、何に行き詰まっているわけでもない。ただその辺で漂いさまよっているのだろう。何について述べているとも思えない。この世界に興味を失っていることだけは確かなようだ。何かのたがが外れているのかもしれない。ならば自由を謳歌しているかというと、必ずしもそうではなく、常に何かに束縛されているようで、何かしら圧迫感を覚えるらしい。そして気がついたら眠っているわけだ。目が覚めてから眠っていたことに気づき、あわてて周囲を見回すが、そこには以前と変わらぬ光景が広がっていて、それは君を安堵させると同時に落胆させるらしい。なぜこの世界に意識が存在しているように思えるのだろう。ありふれたことを思っているようだが、それ以上に何に困惑したいのか。何かに驚いたり感動したりしたいのか。喜怒哀楽の感情をどこかで押さえ込んでいるのかもしれない。絶えず無表情でいることを心がけ、いついかなるときでも平常心を保とうとしている。それが誰かの強がりを構成しているわけか。まったくみすぼらしくも馬鹿げているか。そう思いたいのなら思っていればいい。それ以外にどう思っても冗談で片付けられ、すべては本気からはほど遠い。何を思ってもそれ以外を求め、それ以外にはあり得ない言葉の連なりを追求して、それは自らのうちに虚無を呼び込んでいる現実に気づきながらも、それでもかまわないと強がってみせるが、誰に対して強がっているのかよくわからないことに心かき乱され、そんな不安感から平常心が崩されていって、なんでもないような結果を生じさせているようだ。それはどのような結果なのか。ただそこには何もないといういつもながらの空疎な現状だろうか。そうであったら何が楽しいのか。それが難しい局面だとは到底思えないだけか。ただくだらないことを執拗に述べている。だが誰がそんな風に思っているのでもない。何とも思っていないのは君ではない。誰かはただ言葉を記しているだけのようで、それについていかなる感想もあり得ず、ただ黙々と自ら課した作業をこなしているつもりなのだろう。それで何が導きだされているわけでもない。それが誰の意思を反映しているとも思えない。記された言葉は内容の如何に関わらず、ひたすら受け流されるにまかされている。決して真に受けるわけにはいかないらしい。そこで何を考えても無駄なのだ。君に意志などあるはずがない。何を焦っているとも思えず、やるべきことは何もないように思われ、それでも記された言葉の連なりに不満を抱いているようだが、それをどうしようとしているわけでもなく、ただひたすら成り行きまかせの状況に埋もれているつもりなのだ。君に何ができるだろう。もはやそんな感慨しかもたらせないが、決してあきらめないつもりらしい。この期に及んで何をあきらめたらすっきりするというのか。心のもやもやが晴れるという状況とはまったくの無関係の成り行きを呈している。誰が君に何を求めているとも思えない。ただありふれたことを述べていれば、それが驚くべきことなのかもしれず、何に驚いているのでもないようだが、淡々と意味のないことを無駄に述べている状況が驚くべきことなのか。誰もそんな風には思わないだろう。くだらないとも思わず、あきれているとも思えず、要するに何とも思わないのであり、その上に何が課せられているわけでもない。だがやりたいようにやっているわけではない。やりたくてもやれないことを空想するばかりか。それだけならまだしも、やりようのない状況を自らに呼び込んでいるような気がしてくるのは、何となくそれが必然に思われてしまい、そうなって当然のような状況へと自らを自らによって導いているのかもしれない。ならばそこが破滅の一歩手前なのか。実際にそうなってみなければ分からない。現にそうなりそうな気配を感じているようだが、なぜか当人は楽しくてしょうがないらしい。どきどきわくわくというわけでもないのだろうが、何となく破滅の後の静寂を体験したいのかもしれず、それに向かって邁進し続けているわけでもないだろうが、それも誰かが抱いている妄想の一部なのかもしれず、そんな物語もどきの登場人物の一人が君であるかのように思われ、他に誰が登場しているのか定かでないが、誰かが紡ぎだす話の内容はいつもいい加減な語りに終始しているようで、その中で誰がどうなって他の誰と関係するのか、まったくのでたらめで、一つとして明確な相関関係を構築できずに終わってしまうようだ。それで何を述べていることになるのか。それでも君は空想の世界に住まうことができるのか。君とは誰なのか。


2月24日

 朝から少し感覚がおかしい。寒気がするのは寒いからか。数日後には雨が降るらしいが、それがどうしたわけでもない。まだ日付的には数日前だ。そして夜になる。何でもないことの積み重なりが誰かの頭をどうにかしてしまうらしい。人の意識はどこまでも生き続けようとして、志半ばで死んでしまうとしても、次の世代に何を受け渡そうとしているのか。何か目的があるわけでもない。そこには君には関係のない問題ばかりが提示されているようだ。しかしメディアは何を伝えているのだろうか。中には生きる目的を見いだしたい人もいるらしい。誰かが何かを演じているらしい。なぜそれが気に障るのか。誰かにとってそれは邪魔な思惑でも含まれているのだろうか。君は相変わらずそこから遠ざかれない。時代は君に何を見せようとしているのでもなく、ただ過ぎ去る時間に含まれる。君の意識はそこで何らかの事物をとらえている。それについてどう思っているのだろう。何か記すべき言葉でも見つかったのか。それが君にとっての目的となるはずか。何を知ろうとしているのか。何も知らなければ幸せになれる。猜疑心の塊の誰かのことなどさっさと忘れてしまえばいい。君には進むべき別の道でも用意されているわけか。だが誰のことを述べているのでもない。言葉が君をこの世界から遠ざけ、何もない内面に閉じ込めようとしている。なぜ興味を抱けないのだろう。なぜすべてがくだらないと思うのか。何に感動することもなく、すべての事物を否定的にとらえ、その存在を疑ってやまないのはどうしてなのか。君に何がわかるというのか。何をどう反論すればいいのだろう。何に対して反論を用意したらいいのか。あるミュージカルの広告に、本物だけがくれる感動がある、と記されているようだが、それらの何が本物なのだろう。感動すればそれは本物なのだろうか。君はまがい物に感動するだけの度量を持ち合わせているだろうか。なぜ感動しなければいけないのか。時には本物がつまらないと思うこともあるはずか。つまらないと思っていても、同時に感動することもできるだろうか。それらのつまらなさに感動してしまう。偽物に感動して、本物にはありふれた紋切り型を見いだしてしまう。それで何を連想していることにもなりはしない。たぶん想像するだけ無駄なのかもしれず、何について語る気にもなれない場合、そこからどのように感動を導きだすべきなのか。ただひねくれているだけか。ただのへりくつをこね回し、そこからどんな結論が導きだされることも期待しないが、それで何を述べていることになるのか。やはり君には関係のないことか。それらの言葉と言葉の間には異なる位相が見受けられ、それらの差異を正確に測定するのは困難を極め、そんなことを述べているうちにわざとわけが分からなくなるのだが、何かその辺でむなしくならないか。誰かは言葉を記しながらそんな心境をもたらしたいのだろう。本気で何もかもが馬鹿げていると思いたいわけだ。それが正気を保つための最善策か。だがそれでも本気になってはいけないようだ。あくまでも冗談の範囲内で言葉を弄びながら、何かいい加減なことを述べているつもりになりたいのだろう。君に内面などありはせず、あるのは事物を彩る表面ばかりだ。誰もがそれを見て、あるときはその奇抜な造形に驚き、またあるときはそれが醸し出す雰囲気と自らの波長と合うような気がして、心地よい気分になれるというものか。それとは何なのか。この世界のすべてがそれを指しているのかもしれない。たぶんそんな風にしてくだらないこだわりが形成されてしまうのだろう。そこに作り出された価値観に適合しないものはいっさい受け付けなくなり、頭の硬い老人が出来上がる。だがそれでも変化を望んでいる場合もありそうだ。誰かは大げさに気候変動をとらえ、このままでは地球がどうにかなってしまい、人類が滅亡の危機に直面するだろうことを予言し、今こそ人々の生活を改めなければならない、と警鐘を鳴らしているようだ。何となくそういうもっともらしい主張は受け入れがたい。なぜ滅んではいけないのだろうか。たぶん滅んでもかまわないのであり、その方がごく自然な成り行きなのではないか。終わりが見えている方が謙虚な気持ちになれるというものか。もちろん自暴自棄に走ってもかまわない。そんなのは他人の勝手だろう。そこから倫理的な動作は生じない。人はどんな風に生きてもかまわないのだろうか。正解などありはしないが、それが正解だと思っていてもかまわないのだろう。何を思っていようと、なるようにしかならないだろう。たぶん単なる言葉の連なりを真に受ける必要はないのだ。その内容に逆らうべきなのであって、それについて何を考えても無駄なのだ。君は常にそこから遠ざかる。現状は現状でしかない。そういう現状をふまえつつ、その上に何ができるだろうか。今やっていることがそれか。またずいぶんと回りくどいことを述べている。そこに何が導きだされているというのか。何となく何かに従って生きているような気になっていて、その何かとは何だろうと思っても無駄なのだろう。答えなど期待していない。どうせありふれたことが提示されるだけか。


2月23日

 雪が降り雨が降りみぞれが降ってくる。そして今は昼の曇り空を眺めているようだ。時間的な順序など気にしていないようで、それは昨日かもしれないし明日かもしれない。いったい何をあきらめてしまったのだろうか。今でも現実を理解する努力を怠っていない。しかし現実とは何だろう。何を迷う必要があるのだろうか。常に迷っていないと困るわけでもないだろう。だが迷わない必然性もない。何を迷っているのかわからない。ただ満ち足りているとは到底思えない。要するに今日も何について語っているのでもないということか。回りくどいことを延々と述べているつもりが、ただの意味不明であることに気づいたわけだ。それはいつの話になるのだろう。君は何を嫌っているのだろうか。やれそうなことから片付けていけばいい。まさに言うは易しだ。腕時計とパソコンは用途が違う。がらくたのような腕時計は七本全部動くようになったが、パソコンはすべてまともに動くようにしなくてもかまわないだろう。古いのは使わないのだから修理に出しても金の無駄遣いだ。MacとWindowsとLinuxとFreeBSDがそれぞれ一台ずつで動いていればそれでかまわないはずだ。問題はFreeBSDか。二台あるWindowsマシンのうちの一台を使うか、あるいは二台あるLinuxマシンのうちの一台を使うか、どちらもかなり古いマシンだ。何の用途にも使っていないのに、なぜそんなことをしなければならないのだろうか。理由など何もなく、無駄で無意味な趣味なのだろう。無駄な機械を捨てられない。目的が何も見当たらない。なぜ機械を捨てなければならないのか。無駄だからか。今使っているMacが一台あればそれで十分なはずだ。1990年代の最後の年に買ったPowerBookもそれから数年後に買ったiBookも壊れているのだから捨ててしまえばいいのに、未だに捨てられない。修理に出して直せばまだ使えることは分かっているが、たぶんそれらの修理代とメモリ増設とハードディスクを交換したくらいの値段で、中古のもっと新しい機種が買えるくらいのこともわかっている。Windowsマシンなら新品が買えるかもしれない。MacだってMac miniぐらいなら買えるだろう。しかし何を買っても無駄なだけだ。今使っているMacBookで十分だからだ。しかしそのMacBookも買ってから数ヶ月でバッテリーが壊れて交換して、一年後にメモリを増設して、つい最近はハードディスクが壊れて交換した。修理に出している間はIBM時代の中古のThinkPadにTurboLinuxを入れていたのを使っていた。そんな古いマシンだって一応は使えるわけだ。JDKが入っているからJavaでプログラミングだってできる。Gimpが入っているからホームページの表紙の画像を修正したりした。しかしそんなことをいくらやっても無駄か。無駄で無意味なことばかりいやっているわけか。そんなことをやって何になるというのか。何にもならないのでもないのだろうが、それを利用して何か商売のようなことをやっているわけではない。しかし商売をして金を稼いで何になるというのか。生きるためにそうしている人は大勢いるはずだ。他にどんな理由がもっともらしいのか。たぶんそんなことを思っている人間はその存在自体が無駄なのだ。無駄であることはすばらしい。そういう言葉の逆接自体がくだらないが、くだらないこともすばらしい。否定的な意味を担う言葉のすべてがすばらしい。それがなければこの世界の有り様を肯定できなくなってしまう。現状の何を卑下しているわけでもない。この世のすべてが馬鹿らしいと感じていても、それはすばらしいことなのだ。何を強弁しているとも思わない。何が矛盾しているのだろうか。それらのすべてを投げやりにして、それがすべてではないにしても、そんなことを思っていること自体が感動的だ。頭がいかれているのかもしれないが、それが何の救いになるのだろう。些末なことにこだわりすぎているわけか。ただ馬鹿げていると思われる。そして感動していて、すばらしいと感じている。そんなことの繰り返しに嫌気がさしてこないだろうか。何を心配しているとも思わない。ニュースの中で語られる人物像がありふれているのと同じようなことだ。何が同じなのかにわかには見当がつかない。その自らの思い通りにいくように努力する姿はむなしく映る。心のうちにぽっかりあいた虚無の深淵から目を背けているだけだ。そんなところに目的などありはしない。君はそれがわかっていながらわざと無視し続け、何もなかったかのように振る舞い、心の動揺を押し隠そうとして、他人のその小心な様を見透かされていることにも気づき、攻撃的な感情がその身体からにじみ出てくる。悪意に満ちた復讐心が君の内面を覆い尽くし、仮想的に見立てた薄っぺらい正義の心を踏みにじろうとして、当人としては大胆な行動に打って出たつもりのようだが、それが自らを狭い範囲に閉じ込めるための罠であることに気づくはずもなく、まんまとありふれた人生に絡めとられてしまっているわけだ。たぶんそれが幸せという状態なのだろう。


2月22日

 確実に何かに導かれている。では何を信じたらいいのか。自らではない。自分以外に何を信じたらいいのか。信じられるものが何もない。だから何を述べる気もしないというのはおかしい。常に疑念を抱いている。空想のただ中に何かをつなぎ止めているものがあり、それを信じられないから、そこでつまずいてしまうわけだ。乾いた笑いだけでは言い訳にはならないような何かを信じようとしている。だが現実に信じているのはそれだけではない。君は自らが何を信じているのか分からないまま、何か得体の知れないものを信じていると思い込んでいる。そんな言葉の連なりはごまかし以外の何ものでもないが、とりあえずそこから何かしら述べているつもりになれるようだ。テレビを批判するのはよくない。何を批判しても無駄だからだ。テレビの内容は多種多様であり、視覚が要求するすべてを網羅しているかもしれない。そういう偏った思い込みを誰が信じているのか。人はそれらの空間で何かを作り上げようとしている。それをどう評価したらいいのだろうか。対象を捉える感覚が狂っているのかもしれない。説明は不要だ。それをどう思っているとも思えない。説明を要する風景の中に誰かが佇んでいる。それを否定するわけにはいかないらしい。わけが分からないのはこの世界のどの部分なのか。君は何について無駄な言葉を弄んで文章を構成しようとしているのか。気がつけば手のひらが傷だらけになっている。誰かの手のひらの上で踊らされているわけか。文と文の間につながりを感じられず、まともな文章になっていないような気がするが、今はそんなことを気にしている場合ではない。世の中のすべてが気に入らないと思えるとき、そんな被害妄想のただ中で君は他の誰かを嫉妬のまなざしで眺めていることに気づく。作り話の内容としてマシな方だろうが、まだ話になっていない段階に違いない。そこから何を語り続けようとしているのか。焦れば焦るほどすべての歯車が噛み合わなくなってくる。誰かがどこかでそんな機械を動かしている。何かが静かに崩れ去ろうとしているわけだ。印象だけでは何も語れない。君に目的があるはずもない。何を述べようとしているのでもないらしい。だから疑心暗鬼になるのも無理はない。いつも不吉な予感が頭から離れないようだ。うまくいっていると必ずそれを妨害する出来事が起こる。何やら解せないと思われる事態に直面してしまい、そこから心配事が雪だるま式に増えていく。危うい場所を一つ一つ確かめたくなってくる。何事も完璧とはなりがたい。映画の中では事件ばかり起こり、それを見ていると気疲れがしてしまう。そんな映画ばかりではないだろう。君は映像を選べない。そして映像に何を期待しているわけでもない。それは周りを取り囲む風景の一部だ。なぜうまくいかないのだろうか。期待が高すぎるというわけではない。理想の状態というのがよくわからないのだが、その辺をよく考えてみるべきか。何をどう考えてもわからないことはわからないままのようだ。何を真剣に考えるべき状況でもないらしい。積極的にわかろうとしていない。何にこだわるべきでもないのかもしれず、そこから何が導きだされることもないだろう。しかし何をあきらめているのか。何となく嫌な感じがしているのなら、それを改善させるためにはどうしたらいいのだろうか。気分はいつでも気分次第であり、その場の成り行きに沿った気分でいればいいのであって、たとえそれが嫌な気分であったとしても仕方のないことだ。君なりになんとかしようとしているのは分かっている。それをそのまま続けていればいい。未来をいくら予想してみても、気休めと暇つぶしを逸脱するようなことにはならない。それ以上のどんな心境に至りたいのか。何を高望みしているのだろう。意識が何を超えようとしているとも思えない。集まってくるのはがらくたばかりで、そのほとんどは使い物にならない。そんな状況をどうしようとしているのでもなく、ただ眺めているだけでは何も改善しないのはわかりきったことで、それをやめられないからそんなことが延々と繰り返されているわけだ。わかっているのはそういうことでしかなく、そんなことをいくら語っても言葉の無駄に違いない。だがそれでも語っている現状に突き当たり、唖然とするわけでも呆然とするわけでもなく、それが当然の成り行きだと思う一方で、そこから抜け出そうとするそぶりも見せないのは、誰を欺くためにそうしているのでもないこともわかりきったことだ。心の中で確実に何かが重荷となっているようだ。その何かを言い表すことができない。それは感情を構成する様々な要素の混合体のようなものかもしれないが、それが君をどこへ導こうとしているわけでもないようで、ただそこで立ち止まって執拗に考え込んでいるそぶりを見せつつも、決して思考が理解可能な結論には至らず、結局は曖昧で中途半端なところでやめざるを得ず、時間的な制約の中で己の思考の限界を悟り、気がつけばまた前回と同じ地点で考え込んでいるわけだ。そこから一歩も前へ進まない。


2月21日

 なぜか感性の行き先が曲がっている。確かにいつもと少し感覚が違っているようだが、それ以外は何も思い出せない。思い出せないのは過去の出来事ではないのだろう。そこで記憶が飛んでいる。何について語っているかは不明だが、それが嘘だとは思えない。彼はそこで何を見つけてしまったのか。人が作り上げようとする事物はいつも廃墟のたぐいだ。たぶん何を思い出そうとしているのではなく、ありふれたフィクションの中で誰かが語りかけているようで、誰かがその内容を知りたいらしいが、君には関係のない話だろう。ではそんなたわいない話の中で何を削除したいのか。そこで誰が居眠りをしているわけでもない。それこそ誰にとっても関係のないことだ。彼は話の中で何を拒絶しているのか。たとえ意味を導きだせなくても、別にそこから退こうとしているのではない。君たちは絶えず何かを探している。何かが複数の人格をまとっているようで、君はすでにそこから遠ざかってしまったらしい。君には虚無が必要だ。現実の問題を探し出せないようだが、それは何でもないことでしかない。何を求めているのでもなく、言葉を実体化しようと努力しているわけでもない。とりあえず君は書物の作者ではない。それが嘘のすべてなのか。今は嘘ではないと述べておこう。将来の成り行きなど予想するまでもないことだ。語っているすべては冗談のたぐいだろう。それは誰の夢物語でもない。誰かは古い民話の本を探しているそうだ。君は何を忘れているのか。呪いの言葉ならもういらない。すり切れた感情には何も引っかからない。求めているそれが言葉ではないからか。その辺で何を述べているのかわからなくなるが、まだ君には何ももたらされていないようだ。変化の兆しを感じられない。唐突に誰が気が狂っているとも思えないのだが、何がそこでの出来事なのだろうか。何も思い浮かばないことの何が興味深い動作なのか。動作ではない。君は機械ではない。気分次第でやる気をなくしたりする。文章の出来などどうでもいいことだ。何を仕上げようとしているのでもない。まだ虚構の領域を脱していないようで、現世に戻れない。だがそこに君の意思が介在しているとは思えない。何の思惑もありはしない。誰かの笑みに行く手を阻まれ、その先に言葉が続かなくなり、そんな雰囲気の中で何となく意識が落ち着いているようだ。相変わらず述べている意味が分からない。それも何かの技術的な欠陥なのだろうか。言葉を操る術に不毛な傾向があるようだ。それもどういうことなのかわかりづらい。とにかく酒とバラの日々とは無関係な毎日にどんな感慨も当てはめるわけにもいかないようだ。さらに意味不明なことを述べている。それが気に入らないのか。だがわけが分からないのは毎度のことで、誰かは自らが記す文章について、あまり結果を気にしていないらしい。何に対して言及しているのでもなく、ただ自分で記した言葉に次に繰り出す言葉が影響を受けている。ただそれだけのことに感動するはずもなく、誰の感動を期待しているわけでもない。まったくいい加減な成り行きに呆れを通り越してやる気を失っているようだ。いくら言葉を繰り出しても何も出てこない。そんな現状にどう対応していいのかわからなくなり、そこで頭の中が真っ白になっている。そんなことがあり得るだろうか。現実なのだから信じられなくても仕方がない。人は誰でもその場所に絡めとられ、身も心も身動きが取れなくなる。心動かされるような出来事ではなく、君はそこで何を確認したいわけでもない。何が本物かはすでにわかっているはずだ。感覚が勝手に気づいてしまう。誰もが自らが世界から見捨てられていることに気づかない。原因はその場所にとどまろうとしているからか。人は人に魅力を感じなくなっているようで、その必要がなくなっているのだろう。例えばゲーム感覚のそれが人を人として形式化している。愛とは何だろう。人の名前の以外の何なのか。そんなことはどうでもいいことなのだ。ことでさえなく、それは幻想を伴った言葉でしかない。要するに影の一部なのだ。影が実体を伴っていない状況が続いている。言葉が連なって構成される文章の中身が現実を反映していない。それは誰かが抱いている無力感と関係があるのだろうか。幻想を抱くのは自由だ。それが幻想である限り、安心して夢想の世界で遊泳していられるからだ。虚無は誰を現実に引き戻そうとしているのでもなく、誰を破滅に導こうとしているのでもない。ただ誰もがそこへ引き止められている。そこから動こうとしなくなってしまうようだ。固定観念の虜となってしまうわけか。だからどうだというのか。ただそれだけのことで、そんなことをいちいち気にするのは頭のおかしい証拠となる。今はそれでかまわない。気にしているだけでも目覚めている証拠か。決して眠っているわけではない。感覚がおかしいのはいつからでもなく、最初から何を感じていたのでもなかったのかもしれない。たぶん誰かにはそこから先に言葉を並べる義務でもあるのだろう。まったくの無責任にか。


2月20日

 意識は今日も虚無に引きつけられている。それはどういうことなのだろう。気分次第で何を述べているとも思えない。不祥事続きの何かと君とは無関係だろう。まるで他人事だ。誰が何に対して怒っているのでもない。そういうのはニュースの中で語られていることだ。君には興味のないことだろうか。何が不安なのか。もう既に終わったことではないのか。今さら話をしたいわけではない。何とも関わりを持てないようだ。それがそこでの真実なのだろうか。真実とは何なのか。部分的には否定したい気持ちでいるようだ。何を考えているのだろう。どうやら世の中には二種類の映画があるらしい。一方はつまらない内容で、もう一方は大衆受けを狙って作られたものだ。商売だと割り切るならば後者の側に正統性があるのだろう。それはどのような正統性なのだろうか。見せ物としてはそうなのかもしれない。変に色気を出して芸術的な勘違いを導入すれば、それはつまらない方の映画のたぐいに属するものとなるだろう。芸術とは何なのか。君はそこで小難しいことを述べていたいようだ。作家主義に染まった人たちはつまらない方の映画に正統性を見いだす。たぶん君はそのどちらの映画も見ないだろう。映画などに興味はない。それどころか何に対しても興味を持てない。ではなぜ誰かは思わせぶりにそんなことを述べてしまうのか。何か力説するようなことでも思いついたのだろうか。誰に向かって何を述べようとしているのでもない。たぶん眠ってしまえばそこで忘れてしまうようなことだ。何を語ろうとしても途中で気が変わってしまうらしい。語っている途中で、それは違うと思ってしまうわけだ。そんなわけで今や君の味方は虚無のみとなってしまったようだ。そんな嘘もむなしさを増長させるための糧となっている。何について述べたいのかもわからないのに、ただひたすら言葉を連ねて時間を浪費しているようだが、それで何を理解することができるのか。この世界には何も興味がないというのは嘘なのだろうか。理解したいのだから何かしら興味を持ちたいのだろう。無意識のうちに何か面白い現象を探しているのかもしれないが、今のところは何も感じられず、興味を引く出来事に巡り会えない。それは何も語れないことのいいわけになっている。君は何について語ることができるのだろう。ただ現状を否定しているだけではだめなのだろうか。だめだから行き詰まっているのではないか。それは見解の相違というものだ。誰と誰の見解が違っているというのか。君と彼の間にはどんな差異があるのか。ただ言葉が違っているだけか。それらの文章は誰について語っているのだろう。映画の話はそれからどういう展開を見せる予定だったのか。興味がないから途中で語る気がなくなってしまったのだろう。その中で俳優が何かを演じている。君が何を想像しているわけではない。君は画面から目を背けているようだ。だが耳を塞いでいるわけではない。呪いの言葉が鼓膜を振動させている。彼は神ではない。神であったとしても神に力があるとは思えない。すでに人を動かす力を失っている。それは古い神に備わっていた言葉だ。君は聞いたことがない。何を忘れているというのか。いったん忘れてしまえば二度と記憶を取り戻すことはないだろう。そんな言葉を誰が記そうとしているのか。映画の中には影しか映っていない。誰かがそれを後押ししているようだが、理由はわからない。君にとってはすべてが過ぎ去った出来事だ。だから何なのか。そこで何を忘れようとしているのか。何を思い出してほしいとも思わない。誰かは強運に恵まれている。それは才能などではなく、その場に生じた偶然の巡り合わせなのだ。そう思っているのならそれでもかまわない。誰かは決して己を知ることはないだろう。自らの行動についての説明を放棄している。君はそのことを気にしているそぶりも見せず、自らの影に従って行動しているようだ。それはどういうことなのか。君はそこで何を求めているのだろうか。戯れに静寂を求めているのかもしれないが、ただそれだけのことに膨大な数の言葉を要するのにはかなり不自然な印象を持っている。ただの静寂ならば言葉などいらない。そこにどんな意味も必要ないのではないか。たぶんそれらのこだわりと、そこからもたらされる静寂という言葉の間には、何の関係もないのだろう。そんなわけで誰かが記しているのは偽りの言葉だが、それ以外の言葉がどこに記されているわけでもない。偽りでなければ記しようのない文章だ。決して真実を語っていると思ってはならない。だが誰に向けて何を喚起しているのか。そこには誰もいないのではないか。君が記しているつもりの文章はでたらめで覆われている。本当に記しているのは誰でもない誰かだ。しかしそれによって何を強調しているとも思えない。何でもないのだから記しているそれが文章である必要さえなく、適当に文字が散らばりながら並んでいればそれでかまわないのかもしれない。たぶんそれで何を述べているわけでもなく、語ろうとしているそれは何でもないことだ。


2月19日

 たぶんまた違っているのだろう。瞬く間に何が起こっているのだろうか。浅はかきわまりない。不意に頭をよぎるのは何なのか。それは何かの繰り返しのように思えてくる。君は誰の都合で文章の中に生じているのだろうか。無駄に言葉を弄しているうちに過ちの予感がしてくる。いつものことだろう。何も述べられないままに、無為の時が過ぎ去っているようだ。誰かの妄想の中ではいくらでも言葉を並べることができるらしいが、現実はそうでない。そしてさらにおかしな文字列の出現に感動するわけもなく、どこかに閉じこもろうとする。いつもの風景の他に何が見えているわけでもない。手元には何もありはしない。誰かは今から何を物語るつもりなのか。架空の存在でしかない君には何が見えているのか。とりあえず君も誰かも私ではないようだ。私であることを拒否しているらしい。そんな嘘がどこで通用するのか。そういう君だけの決まり文句にも否定的な気分になる。どこでも通用していないのではないか。実際にそうなのだろう。述べていることはすべて冗談でしかないようだ。場合によっては冗談でさえない。誰かはそんなことの繰り返しに嫌気が差してくる。自らがそれを招いているわけだ。馬鹿げていると思うなら、やめてしまえば済むことではないのか。やめられないのにやめてしまえはないだろう。誰から命令が下されているのか。そんな予定調和の自問自答にも嫌気が差してくるか。君に何を期待しているわけもない。理由など何もなく、ただ言葉を記しているにすぎない。その内容が問題なのだ。だが一方では問題でさえない。しかし何が一方なのか。いつまでもそういう無内容ではおかしいと思わないのか。おかしいから行き詰まっているのではないか。そんな風に述べていること自体が自問自答の繰り返しとなっている。予定調和なのだろう。いつまで経ってもそこから抜け出ることができないらしい。君はそこで何に困っているのか。まともなことが述べられない。そして他に誰が困っているわけでもない。それの何を否定したいのか。たぶんやめてしまえばいいのだろう。本当にやめてしまえばいい。だがやめられない。それの何が逡巡なのか。誰が誰に反発しているのだろうか。わざとらしく自らに問いかけないでほしい。影が薄ら笑いの最中だ。それ以降に言葉が出てこない。そして誰からともなく笑っている。おかしな表現だ。これではだめだと思うが、これとは何なのか。だからもう遅いだろう。もうそんなことしか述べられない。すでにいっぱいいっぱいだ。それが嘘だと思うなら、何か他のことでも述べてみたらどうか。そうではないと思う。誰がそこで批判されているのか。人は簡単に死ぬし簡単に生まれる。結果から見ればそうだが、その過程でどうでもいいような紆余曲折がある。君はまだその過程にあるらしい。生きているのではなく、生かされているのだろう。虚構の意識として、間接的に文字で示されている。それが文章なのだろうか。そうではないと思うが、他に都合のいい答えを導き出せない。そして何について語っているのかわからなくなる。現状について何をどう判断すればいいのか。何か将来の展望でも述べてみるべきなのか。これからこの世界はどうなっていくのだろうか。どうなっていってもかまわないような気がするのだが、そう述べてしまえばそれでお終いになってしまい、他に何を述べたらいいのかわからなくなる。それはそういうことでしかないのだろうか。何か利害関係の渦中にでも巻き込まれない限り、何を述べても現実感が薄くなる。述べていることに切実さが感じられない。たぶんそれだけのことなのだ。他には何もない。感覚の目新しさを求めていた時代は過ぎ去った。本当にそうなのだろうか。地上では何が行われているのか。誰がどこを駆け抜けているわけでもなく、世の中では何が話題となっているわけでもない。それはどこかの世捨て人の台詞なのかも知れない。君が何を思いついたわけでもないが、誰が何を思いつけるとも限らない。発明や発見から驚きがもたらされ、そこから富が生じてしまう時代でもない。それも何かも間違いだ。君はそれらの間違った意見をわざと表明したいらしいが、理由がわからない。自分が自分の発言に責任を持てない。自分の意見を述べる前に、そこで延々と立ち止まり、何をためらっているのでもなく、すべての前に躊躇が立ちふさがっているようだ。それはどういうことなのか。ただ何も述べられない状態が長引いている。何を述べようとしても、空疎な自問自答の繰り返しとなってしまい、そこから外へ出られなくなっている。外部がなかなか見えてこない。君がこの世界の何について語りたいというのか。間違ってもそういう話ではないはずだ。ただひたすら言葉を並べようと、それが誰の言説とも意見ともならない現状において、君が何を述べているつもりになっても、それで何がどうなるわけもなく、ただ漠然と余白に言葉が並んでいるだけで、それを誰がどうしようというのでもない。


2月18日

 さっきまで何を考えていたのだろうか。それを忘れて別のことを考えている。人はなぜ目標に向かって努力しようとしているのだろう。単純な思考形態を纏いたい。それはファッションのたぐいと似ていないか。勘違いにもほどがあるだろう。そして俄には判断がつかなくなる。何も思いつかぬまま何をどうしようというのか。意識はまた昨日の時間帯に逆戻りのようだ。またそんなところで無意味な言動を繰り広げようとしているわけだが、君はそれの何を分析するつもりなのか。何もなければ何も述べられないというわけでもないはずだ。それで何を否定しているのでもないらしい。そんなところで居直っているのは虚しいだけだろう。その虚しさの中に肯定的な何かを探し出すのは至難の業か。何となく馬鹿げているように感じられる。君にはそれがわからないのか。わかっているのにやめられないのはどうしようもない事実であり、そう思いこみたい誰かの意識も愚かさの極限にあるわけだ。しかし冗談で何を卑下しているのだろう。ただ君がそう思いたいだけのようだ。そういうやり方が意味不明なのか。何かから逃げているのかも知れない。誰かは自らの終わりから目を背けている。君にはそう感じられてしまうらしい。そこで誰かが固まっている。固まりながら画面の前で動かない。君に何ができるというのか。偽りの自問自答だけでは何を述べていることにもなりはしない。わからないがわかるはずがない。自らが記している内容が理解できないようだ。とりあえず何を述べているのかわからない。何らかの疑似問答になっているのかも知れないが、それがマンネリ以外の何を意味するわけでもない。近頃はただそれだけのことを延々と述べている。それがどうしたわけでもないと述べているだけか。それだけではつまらない。つまらないだけでは収まらない。たぶん君は何も考えられなくなっているはずだ。それ以外の何を確かめようとしているのだろう。不思議なことは何もない。不思議でないから何もないわけだ。君はこの世界に興味を示せない。その必要がないからだろう。ではもう何も述べることがないわけか。そうかも知れないが、そうであったとしても、そんな風に無意味なことを述べている現実がある。誰かの目の前にあるのはただのありふれた現実であり、それに対して興味を失っていて、そのために意識が外の世界へ向かって言葉を構成できないでいる。そんなわけでそこで述べられているのはそういう説明だけになってしまう。まったく他人事ではないらしい。他人のやり方に付き従うことができるかも知れない。人は他にいくらでもいるわけだ。ひとりひとりが何を考えていようと、君の関知するところではないらしい。そんな案配で本当に済んでしまうわけか。なぜ君の知ったことではないのか。君以外の誰もそんなことは知らない。それは誰も知りようのない秘密となってしまうのだろうか。それの何が秘密だというのか。確かに物語の中には読者の興味を引くための秘密や謎がつきものだが、それによって君に何がもたらされるというのか。秘密について話の中で何も語られていないことについて、誰がその責任を負っているのだろう。秘密は秘密であり隠されているから秘密なのだ。成り行き的にはそこにどんな秘密もないように装わなければならない。それは誰のためにそうやっているわけでもなく、ましてや自らのためでもない。ただ何かに見捨てられているようだ。わざとわけのわからないことを述べているのはいつもの通りだろう。言葉を記している誰かはへそが曲がっているようだ。何をそんなにひねくれているのか。虫の居所が悪いように装っているだけか。何をどう言い換えても納得しがたい。たぶん世の中では誰もが当たり前のように生きているのだろう。それが取り立てて不思議なことではなく、そこには何の秘密もありはしないように思える。何か秘密があるとすればそれはたわいない些細なことやものだ。この世界で暮らすひとりひとりはどうでもいい人間なのかも知れず、それ以外の人間が他のどこに存在するはずもなく、それらの人々が魅力的に感じることあるとすれば、それは何かの勘違いなのだろう。いつもつまらないことで右往左往している。時には本能の赴くままに行動し、何らかのトラブルを巻き起こし、周りに迷惑をかけ、そんなことを繰り返しているうちに年老いて死ぬだけだ。そんな風に考えてしまうと虚しくなってしまうが、他に何あるというのか。人間やそれが寄り集まって構成する組織や機構に幻想を抱けなくなってから久しい。ただ特定の種類の人々やあるいは人類全体の利益を考えて行動しているだけだ。君はそれについて何とも思わないわけか。それは相変わらずの機械的な動作に違いない。それで何がもたらされているわけでもない。誰かが幸福になれば他の誰かが不幸になるのだろうか。現実にもたらされているのはそんな単純な結果ではないだろう。本当は目的自体が幻想にすぎないのだ。そんなことをまじめに考えるべきではない。


2月17日

 誰かが記しつつある物語の中では、何かが爆発寸前というわけではない。その手の感情はどこにも顕れない。他に何を顕在化させようとしているわけでもない。では誰が何を我慢しているというのか。誰に何を吹き込まれているわけでもなく、つまらない成り行きに他の誰が激怒しているとも思われないが、何となく不満が残っているようだ。特定の人格がそう感じているのではなく、ただ漠然とそんな雰囲気の中に複数の存在が漂っている。まだ自覚が足りないのだろう。何を自覚すればいいというのか。どうでもいいといえばどうでもいいことかも知れないが、他に何が気に入らないというわけでもない。言葉の寄せ集めにすぎない内容になっている。そして他の時間帯では、夢の中でふてくされている気になり、誰かはそんな作り話にも嫌気が差しているようだ。だがいつまでも無い物ねだりをしていても気にくわないだけだろう。それでも何か述べようとしているとすれば、それはどういうことでもない。一夜明けたら何とか気を取り直している。昨日のことは昨日のことであり、何があったか知らないが、他に何を知ろうとも思わない。そして相変わらず誰のことを述べているのでもない。たぶんまだやる気がしないのだろう。時間がどんどん過ぎていく。気に入らないままに、文章は数日前の時間帯で行き詰まっているようだ。しかしなぜそれほど粘るのか。もうやめてしまえばいいのに、そこまで律儀に虚無につきあうこともないだろう。ひたすらそんなことを述べているだけで、何も現状を把握できていないようで、それとはまったく関係のないことを述べているつもりらしいが、それが勘違いであることに気づかない。なぜそう思ってしまうのだろう。さっさと別の話題を探して、それについて利いた風なことを述べて、安堵のため息でも漏らしてしまえば済むことだろう。それができないから、いつまでも虚無的な言説に終始しているのではないか。たぶんそれはやろうと思えばできるようなことではない。ではその先に何が待ちかまえているのだろう。すでに破滅は通り越していると思っているようだが、それは嘘だろう。今が破滅のただ中であり、そんな風に感じられるのも誰かの思い違いに決まっているはずか。では何を断言しているのか。わざと矛盾しているだけではないのか。ならばこれからどうなるのだろう。破滅のあとには別の破滅が待ちかまえていて、その破滅をこれから経験するに決まっているはずか。それでもかまわないがいくら破滅してもそこにとどまり続けられるのはどういうことなのか。どういうことでもなく、そんなことをいくら述べてみてもわけがわからなくなるだけだ。虚無はそれをねらっているのだろう。ならばそうやっていい加減な内容を言葉で示して何になるのか。そこから行き詰まりを打開して、感動のフィナーレを迎えたい気持ちもわかるような気がするが、拙速なやり方は君の本分ではない。あんな見せびらかしも違うと思われ、自らがやろうとしていることを語るのも違うと思われる。ではどうしようというのか。どうにもできないからそんなことを述べていて、そんな無駄話の崩壊を期待しつつ、まだ具体的なことは何も語っていない状況に気づく。何も思いつかないのだからそれも当然の結果だ。言葉がそれ以外の何を説明しているのでもない。それとは何だろう。くだらない疑念以外の何ものでもない。君はそこから遠ざかれるだろうか。現時点では何も期待していない。そういう語り方自体が馬鹿げているのだろう。そして相変わらずに何も思いつかない。ただ画面の前で誰かが笑っている。君には見覚えのない顔だ。そして君は軽薄にうそぶいてみせる。この世界に何も興味がなく、どんな妄想も抱けない。すでに誰かは悟りの境地に達しているのかも知れない。もう何も考えなくてもいいというわけか。君ではない誰かはそう思っているのだろう。君にはすべての虚無が覆い被さっている。もはや人の心としての体裁をなしていないのだ。ならばそれはどのような形でこの世に存在しているのか。心に形があるとは思えないか。君は心ではない。誰の心も占有していない。何なのだろう。ただの言葉か。そんな結論に幾度となく達してしまうわけだが、そこから先へ進めない。言葉が到達できない場所に誰かがいるらしく、その誰かが私という言葉によって指し示される実体なのだろうか。そんな作り話に感動するわけがない。文章は誰を感動させるために構成されているのか。それは間違っても君ではないはずだ。君でなければ誰なのか。誰も感動させたくない。誰かがそんなひねくれたことを述べたくなる。それは大人げない意味不明か。たぶん意味になりそうもない言葉の連なりだ。それを読んで何を思っているのか。君が読んでいるのではない。誰も読めはしないだろう。読んでほしくないと思われる。ただ笑うこともできず、考えることもできない。そんなことを述べても意味不明だ。そして頭がどうにかなってしまうらしい。わからないことを述べているようだ。それで何を粋がっているわけでもない。


2月16日

 何を見失っているとも思えないが、自分を見失ってから久しいようだ。それは自分ではないのだろう。自らが思っているつもりの自分らしさが冗談のもととなっている。それの何が冗談なのか。君が自分という言葉から見放させていることはわかっているが、もはや個人の力など何にもならない。そう思わせるほど無力感を抱いているわけでもあるまい。ただの雑文に命がけというわけでもない。だが何でもなければその先に言葉がつながるはずか。もういい加減にあきらめたらどうか。稚拙な語りかけが技巧の水準に達しているとは思えない。すべてが過剰に生じているとも思えない。何がそこでのすべてなのか。すべてではないからすべてという言葉を使って嘘をつこうしているだけか。それはどんな嘘なのだろう。誰も嘘だとは思わないような嘘を想像してみるがいい。誰かの呪いはそこまで届かない。呪詛の言葉は君を通り過ぎている。それはどういうことなのか。どういうことでもなければ、そういうことでもなく、そんなことは思いもつかなかっただけか。気がつけばさっきから空白の時が流れ去っている。そういう嘘は見え透いているかも知れないが、その理由を思いつけないようだ。それで何を語っていることにもなりはしないのだろうが、いつもの展開ならそれでもかまわないと思ってしまうわけか。それの何が独白とも思えない。嘘をついているわけもないようだが、理由もなく真実を話すような成り行きとも思えない。誰かは誰に向かって告白しているつもりなのか。何を語ろうと、どうせすべてが消え去る運命なのだろうが、くだらないことばかり述べていてもくだらないだけだ。分かり切ったことを述べていても仕方がない。いつもの方向で無駄な語りが続いているようだ。それでは当分報われないだろう。何の報いを期待しているわけでもなく、なるべくなら永久にそうなったままであってほしいか。そう思っている時点で過去の出来事について語っている。心はそこにはない。心身症のたぐいかも知れず、人は絶えず争いごとのただ中にいるらしい。君の存在に理由はあり得ない。存在する理由を模索している場合ではない。何ももたらされていないと思うなら、それは怠惰の証か。手も足も出ない。何に対してではなく、すべてに対してそうなのだ。何を語っているのかさえわからなくなっているみたいだ。君が思い描いているのはそんなことではない。ただの支離滅裂に陥っている。精神的にそうなのかも知れないが、それは何かの演技なのだろうか。頭の中から何かが絞り出されているようだが、それは少し過剰すぎる。なぜそんなに矛盾したことを述べているのだろうか。少し冷静になって冷や汗でもぬぐった方がいい。今はまだ冬だ。熱くなっても寒い。寒いだけならまだ耐えようがあるかも知れないが、他に何が加わっているのだろうか。誰かに弱みでも握られているわけか。そうなら話的におもしろくなりそうだ。砂糖の甘みを強烈に感じている。今こそ正気を取り戻さなければならない。今日はどうかしている。一種の錯乱状態だ。その笑いは何なのだろう。そこで笑っているのは誰なのか。君が笑っているのではない。疲れているのはお互い様か。誰に向かって誰が語りかけているのか。何を問いただしているわけでもない。ただ無駄に言葉を連ねているのはいつもの通りだ。何をまねているとも思えない。君は君自身から抜け出られない。それは他人の思考形態だろう。漫画の中では誰と誰が戦っているのだろう。君は君の瞳の存在を知らない。それと何が同じことなのだろうか。何をそんなに焦っているのか。そんなことを記しているうちにも、時計の針は勝手に動いて、気がつけば明日の時間帯に近づいている。まだ何も思いつかない。誰かは首をぐるぐる回して肩こりでもほぐしているらしい。しんどいと思っているのだろう。誰の実感だとも思わない。今さらそれをやりたくはないが、以前と同じような言葉を繰り出しているのだから、その先にはかつての決まり文句でも付け加えた方がいいのではないか。そんな余裕がどこにあるのか。どこに何があるとしても君の知ったことではないはずだが、空気が乾きすぎていて、苦し紛れという言葉は使いたくない。そこに意味も理由も見いだせない。だからそんなわけでもどんなわけでもなく、唐突に意味のつながらない言葉の連なりが記されているらしい。まったくいくら読み返しても意味不明のようだ。だから笑いが止まらないのではないか。では君は誰の笑いを止めようとしているのだろう。誰もいないのに誰が笑っているはずもない。それが君の言説だとは思えないが、そんなことの繰り返しに飽きていることは確かなようだ。君は君でないのだから誰の存在も感じられないのは当然のことだろう。そんなことにいちいち驚いている場合ではない。それよりも本来の調子を取り戻すことに専念すべきだ。本来は何を語っているべきなのか。それについて何か思い当たる節があるはずだ。そのとき君はどこで何をやっていたのか。


2月15日

 君は時代に追いついていない。冗談ならそれは許せることだろうか。時代などという概念は過去の遺物だ。それで何を言い放っているつもりなのか。なぜそんな風に語ってしまうのだろう。何も掘り下げられなくなり、何か得体の知れない事物の表面で、必死になって言葉を書き散らかしているように思われ、現実には何を書いているのでもないことに気づかない。それでも否定の連続になるらしく、そんな表示に画面の前で顔を曇らせているのは誰なのか。少なくとも君ではない。君は何を求めているのだろう。何かの内にこもっているつもりでもないようだが、その実態を突き止められずにいるらしい。冗談で述べていることではない。そう思っているのなら、具体的な話の中身を言葉で提示してみたらどうか。話すことは何もない。誰に向かって語りかけているのでもない。そんな自問自答ばかりでは虚しすぎるだろう。誰からも相手にされないだろうが、誰もいないのだから、もとから相手にされていないのではないか。そんな風に思うのは冗談の続きかも知れない。人間的な弱さは君とは無縁の概念だ。どこに何の痕跡が見つかるはずもなく、すべては虚無に吸収されてしまったようだ。無言の時が果てしなく続いているように感じられ、心の中の誰もそこから抜け出そうとするそぶりも見せず、ただひたすら黙り込んでいる。それで何をもたらせると思っているのか。もはや自分など関係ないらしい。自分が何を思っているのでもない。誰もそのことを気にしたりしないだろう。君は誰でもなく、君でさえない。はたしてそれが驚くべきことだろうか。そんな分かり切ったことを述べているのも誰でもない。君には何を語る資格もない。資格の有無が問題ではないはずだ。果てしなく無意味で無駄なことを語ろうとする試み自体が愚かな行為なのだろうか。なぜそんな成り行きに追い込まれているのか。そこから先に抜け道はない。あとは終わるだけの成り行きに違いない。君はどこまで耐えられるだろうか。誰と我慢比べをしているわけでもなく、そこには虚無しかないはずだ。それが恐ろしいことだとは思えないが、虚しさばかりで生き続けることが可能なのだろうか。いったい自分以外の誰が生きているのだろう。後戻りがしたいわけではない。絶えず前進しているとも思えない。だが行き当たりばったりというのは嘘だろう。たぶん何らかの思惑が働いているのだろう。誰かはわざと行き詰まっているのかも知れない。相変わらず冗談でそんなことを思っているようだ。その時点では打つ手はすべて打っているはずだが、何か物足りない。何について述べようとしているのかわからないのもいつものことだ。だからそれで打つ手がなくなってしまったのではないか。それは単純な理由になるだろうか。そういう理由ではない。君は理由をもたらせない。それは君ではないからだ。話が通じていないようだ。そこで何を試しているのか。寒いのだろう。寒いから目が覚めてくる。それとは逆に気持ちは冷めている。それ以上何を述べても無駄だろう。醒めているとはどのような状態なのか。何も見あたらないこととどんな関係にあるのだろう。やる気がないならそこから退くべきだ。やる気もないのにやっていることとは何だろう。何でもないからやっているだけか。ただ文字を記しているようだが、それが作業といえるだろうか。自らがやっている行為をそのまま記しているらしい。それだけのことに驚く必要があるだろうか。何に驚いてるのか。気がつけば同じような言葉が延々と記されている。君にそれが受け入れられることはない。そんな情況は想定外か。何を想定していたわけでもなく、それらの空想の外に誰かの意識がはみ出ている。そんな嘘に根拠を貼り付けるのは困難だ。そんな行為を誰がやろうとしているのか。もとからそういう話ではない。わざと意味が通じないように語っているのではないか。それが苦し紛れに編み出されたその場しのぎの打開策になるだろうか。そういう意味合いのねつ造に誰が感動しているわけでもない。ただそんな成り行きに画面の前で驚いてみせる。そういうやり方は好きではないらしく、誰かはそれとはまったく関係のないことを語りたくなってきたようだ。夕日を見たのは昨日のことだった。実際には疲れ果てて眠っていたころだ。そこから何を語り出すこともできないだろう。誰が語ろうとしているのか知らないが、ただ同じような言葉が循環している。それはさっき述べたことだろうか。何を目指しているのかわからず、とりあえず終わりに近づいていることを悟る。本当に終わってもかまわないのだろうか。そこで何が終わろうとしているのか。君に妄想はあり得ない。何を空想しているのでもない。それらの言葉は君を通り過ぎているだけだ。君には何のことやらわからない。何を読み取ろうしているのか。虚無以外の何を表現しているのか。特定の思いを言い表しているのではなさそうだ。何も君に染みこんでいかない。君にはどんな言葉もなじまない。君という言葉が君自身の実体のなさを示している。


2月14日

 君は何を信じているのか。神の存在ではないらしい。安易な思い込みを退けるために、この世は虚無に満たされている。だがそんな嘘にも現実感がない。どうもつまらない無内容なので、文章の修正を試みているようだ。誰かがおかしなことを述べているだけで、何かが違っていることは確かなようだが、気まずい雰囲気のただ中に誰がいるとは思わない。言葉がつながらないらしく、それによって何をねらっているわけでもなく、機会が巡ってくるのをじっと待っている。それはどんな機会なのか。まもなく悪魔でも復活するのだろうか。そんな漫画を読んでいたこともあったようだ。だがそれは君の記憶ではない。結果的に何も修正できていないようで、それ以上に何を試みようとしているのでもないが、どうもそこから話が進まないらしく、またしても行き詰まってしまい、気がついたら翌朝になっていた。寝込んでしまったらしく、かなり疲れているように感じられ、自分の気持ちがわからなくなる。またしても意味不明に思われる。たぶんやる気がしないのだろう。実際にはそれが嘘だとしても、とりあえずやる気がしないことにしておこう。やる気満々という心の状態を嫌っている。今はどんな状態なのだろう。数日後の空は曇っている。君に関することは何も述べられない。文章がつながらないわけか。言葉を記していることを肯定できない。冗談ではなく、それらの行為に意味を見いだせない。行為ではなく、意味でもないはずだ。その雰囲気を受け入れられない。遠くを眺めていると雲が流れていることに気づく。考えさせられる風景ではないようだ。現に何も考えていない。言葉の連なりは誰のことを述べているのでもない。誰にも何も述べられないと思われるが、中身のない言葉ならいくらでも連ねることはできる。それがそこでの無意味の始まりとなる。虚無に向かって問うているのではない。君はどこから生まれてきたのか。君が君でないことはわかっているつもりだが、誰もそれをわかろうとしない。それは誰かの言いがかりに違いない。何も語っていないのだから、誰にわかるような話ではない。君は何をわかろうとしているのだろう。さっきから話になっていないようだ。しばらく前から何かの分かれ目に達してるのだろうか。山を登っていくと分水嶺にさしかかる。意味を考えてほしい。何も感じないようなら何もまとまらない。言葉が分散して散漫な気持ちだ。それらの何も複雑ではない。ただ単に何も思いつかないということだ。今日はそのまま終わってしまうのかも知れないが、誰かは何とか一矢でも報いたい心境に駆られている。そこでやる気をなくしてもつまらないだけだろう。誰がおもしろがりたいのか。それは虚しい試みに違いない。何となくそんなことを述べているうちにくだらなくなる。それがそこでの実感だろうか。わざとらしくそんなことを述べているようだが、もう夜になってしまったらしい。未だに迷いが晴れない。いつまで経っても迷っている。それをやるべきかやめるべきか、答えはすでに出ているのではないか。やめた方がいいだろう。夜は休む時間帯に属している。それを削って何をやっているのだろう。今の君に何ができるというのか。そんな決まり文句を記すのにも飽きているはずだ。部屋の中が寒すぎるのだろうか。もうすぐ暖かくなる。春になるということだ。だから何がどうなるわけでもないだろう。春になるまで待っていたらどうなってしまうのだろうか。その時点ですでに終わっている。どの時点でもなく、冗談ならそこで終わりだろう。何が終わっているのではなく、すべてが終わっているのではないか。それでも何が終わっているとも思えない。何か具体的なことを思いつくまで無意味な文字の連なりは途切れない。だが今回はそこまで記すのにだいぶ苦労しているのではないか。もういい加減に観念したらどうか。何をあきらめたらいいのだろう。くだらない問答に終始していることを何とも思わないのか。誰かがこのままでは終われないと思っているのかも知れないが、そんな成り行きに嫌気が差しているとしても、そこから抜け出るのは至難の業のように思われ、今までに何を語ってきたのか理解できなくなる。たぶん何も語っていないのだろう。実質的にはそうだろうが、それでも文字が記されている。君の意志とは無関係に文章らしき文字列が目の前に並んでいる。それを読んでみればさらに虚しさが増すはずだ。君は今までに何を述べてきたのか。何も述べていないと言い張るなら、どうかそれらの意味不明な文章もどきを読み返してほしい。今さら心変わりなどあり得ないはずだ。そこに誰の意思が反映していると思っているのか。誰が何を批判しているわけでもなく、君自身による自問自答だとも思えない。それで何かを述べているつもりなら、それで間違いないのだろう。君は今までに君自身が述べてきたことに自信を持つべきか。その一部始終が冗談だとしても、今を生きていることに変わりはない。たとえ今が今でないとしてもそうなのだろう。


2月13日

 早朝は寒い。そして何ももたらせない情況に変わりない。それは無駄で無意味な行為だ。すべてが馬鹿げている。そんな否定的な見解の理由が不明だ。気まぐれにそんなことを述べてみたかっただけか。それで楽しくなるわけがない。誰かはまたつまらないことを述べているようだ。だが君には関係のないことだろう。そういう話ではない。いつの間にか夜になっている。いったい何を基準にしてすべての現象を説明できるのか。君は説明しなければならない。嘘だと思うなら説明してみせれば納得するだろう。だから何について説明しようとしているのか。それは納得する以前の問題だ。何が問題なのかわかるはずもなく、説明の対象を見いだせず、それでも何か述べているつもりになれるのはおかしなことだが、それは気に入らないことを気に入らないように述べていることだろうか。何を推測しようとしているわけでもない。今が変革の時だろう。誰かがそんなことを述べていた。竹藪から何かが出てくる。そこには何があるのか。暗闇では何も見えない。明かりが必要だ。蛍光灯に照らされて、そこに誰かがいるつもりになる。なぜか意識が遠ざかっている。君の意識ではないらしく、そこから先は常識が通じない。誰かの悲痛な叫びが聞こえてくる。選挙運動中のようだ。勝ったり負けたりして、大変な思いをしているらしい。そんなことをしなければ有権者は納得しないのだろう。まつりごとは本物の祭りと同質の構造を有している。ここぞとばかりに騒ぎ立てなければならない。勝てば行政の長となれるのか。だが誰かの主張によれば、世の中がどうなってほしいわけでもなさそうだ。君は政治とは別の問題に直面している。何に対しても無関心なのだ。誰がどうなってもかまわない。たとえアフリカのどこかで何十万人の人々が悲惨な最期を遂げようと、そんなことは何でもないことか。多くの人々がオリンピックで盛り上がろうとしている。それとこれとは無関係だろう。いったい君に何ができるというのか。ユニセフにはした金でも寄付するのが関の山か。その金がマラリアのワクチン接種にでも使われて、何人かの子供たちが助かったりするわけか。君がそんなことに関心を持っているわけではない。壊れた機械は修理されて戻ってきたが使う気にならない。それとは別の中古品を操りながらそんなことを記している。今夜は何やら具体的な事象について言及しているのかも知れない。しかし本気ではない。冗談でそんなことを述べているのだろう。音楽が途切れているようだ。コミカルな音楽に失望する。そんなのは嘘だろう。人々は絶えず出来事の更新を求めている。期待はやがて失望に変わるだろう。失望したらまた新たな希望の星を探せばいい。それが英雄だろうと大統領だろうと、メディアによって簡単に消費されてしまうのかも知れない。消費され消耗し、磨り減りながら髪の毛が白くなって過ぎ去った者たちは、やがて思い出の中で生き続けるだろう。たまにはその中の誰かが復活してほしいか。誰かの再登板を熱望する人たちもいるようだが、お気の毒な人たちだ。声をかけているのはそんな人たちではない。これから活躍を望んでいる者は若者たちを取り込もうとしている。そしてありふれた成り行きになってしまう。馬鹿げていると思ってはいけないらしい。誰もが熱意にあふれた情況をもたらしたい。自らの夢を熱く語り、それを実現するために努力していたいのだ。戦いを楽しんでいるように見せかけることが肝心だそうだ。大衆の心をつかまなければならない。その中のひとりひとりはまじめな意見を持っていると思わせなければならない。自らの主張を臆することなく述べてみようではないか。それが善良な市民としての必要最低限のマナーだ。君は本当に冗談でそんなことを述べているのだろうか。何を熱っぽく語りかけているわけではない。自らの思いを託す相手を間違えていないか。口の中が苦くなる。人は神経を磨り減らして白髪になるか禿げるのだろうか。もとからそういう体質ということもあり得るだろう。巨額の資金を投じて人々の心を捉えようとしている。主張の内容に魅力を感じなければだめなのだろうが、実際にやっていることが大げさすぎないか。人としての魅力がそのまま何かに直結するらしい。何かとは何なのだろう。たぶんそれだけで何かをやっていることになるのだろう。一応は主張の中身も聞いてみようではないか。君たちは何を主張しているのか。退屈な現状を打破したいわけか。それだけでも大したものだ。マーカス・ミラーのベースの音がやけに大きい。それだけでしかないようだが、それでも主張するだけでも大したものだ。見くびってもらっては困るか。彼が途中で暗殺されずに大統領になって、軍隊を世界中から引き揚げてほしいとでも思っているわけか。実際には中途半端な事態になりそうだが、それでも夢を抱いているだけでも前向きな姿勢だとほめておこう。浅はかきわまりなければどうにかなってしまってもかまわないが、そうはならないと思っている。


2月12日

 粗雑なことを述べていると気持ちが和むようだ。何となくそれでかまわないと思うようになった時点で終わりなのだろうか。では今は終わりの後で言葉を記している情況か。そう考えておいてかまわないのだろう。それが間違った認識であろうとなかろうと、君は何とも思わない。何とも思わないからそれでかまわないと思っているわけだ。たぶん間違っているのだろう。しかし何について述べたらいいのか。正しいこととは何だろう。この世の中について何か利いた風な意見でも述べられないものか。今は無理だろう。また冗談でそんなことを述べているつもりだろうか。それは何も述べていないに等しいことか。そうであってもかまわない。ただ言葉を記しているだけで満足すべきか。それさえできなくなってしまったら、何の動作もなくなってしまうだろう。そうなる可能性でもあるのだろうか。そんなことまではわからない。何を思いついているわけでもなく、何も思ってないわけでもない。ただ簡単に考えている。言葉を記しているならそれで満足すべきだ。誰にとってもそれは喜ばしいことだろう。何を批判しているわけでもないし、何に対して憤っているわけでもない。ただ言葉におぼれているのかも知れない。それらの文章が洗練しているとは言い難いが、そんなことを述べていてはまずいような気がするが、それでもそんなことしか記せない。中身が何もないのではないか。中身がないものは何もない。それはものではないはずだ。何を否定しているとも思えないが、冗談で述べているとすればまだ救われるかも知れない。本気だったらお寒い限りだろうか。突然朗らかになることはない。意味がわからないが、決して本気にはなれないのかも知れず、それをどう表現していいのかわからなくなる。そこで何となく甘いものがほしくなり、誰かはコーヒーに角砂糖を入れて飲んでみる。それでも言葉を記しているつもりらしい。何となく虚しくならないか。君には音楽が必要なのだ。音楽のない人生なんて何だったのだろうか。何かの宣伝だったかも知れない。周囲の環境に打ちのめされる。何となく気が弱くなっているのかも知れない。そんな嘘をつく必然性を感じられない。そんなことはどうでもいいことか。どうでもいいが、どうにもならないことだ。君はもう終わっている。誰もそこにはいない。そんな風に考えると気が楽になる。何も考えられないよりはマシだろう。今までに怠ってきたことは数限りなく、まったく気づいてないのかも知れない。どうやら君の最期を見届ける必要がありそうだが、それで耳が聞こえるようになったのだろうか。何の脈絡もありはせず、まったく話になっていないようだ。電力が不足しているらしい。そこで状況の変化に対応できずにいる。何か関係のないことを述べているようだが、無関係なこと以外に語りようがないのかも知れない。その辺で行き詰まってしまっているようだが、それでかまわないのだろうか。もちろん君の意見などを当てにしているわけではなく、ただそんなことを記しているにすぎず、まったくの身勝手な成り行きに言葉の連なりをまかせようとしているだけだ。無理に語るべきではないのかも知れないが、何となく調子に乗ってやり遂げてしまうつもりになっている。たぶんこの世界はどうなっているわけでもない。ごり押し気味に言葉を繰り出して、虚しい気分を増幅させるつもりらしい。愚かな行いにはまっているようだ。なぜそれを続けなければいけないのか。それでどのような気分になりたいのか。自分が存在しないのに何を思うつもりだろう。思っているのは誰のことでもありはしない。空腹を紛らしているとも思えない。出てくるのはため息ばかりのようだが、それと入れ替わりに何を空想しているのだろう。君の代わりに誰が救われるわけでもなく、言葉を記している当人には関係のないことだ。君には意識の代わりに何かが宿っている。いつまでも空疎なことを述べているのはそのせいだ。虚無と戯れているわけか。なし崩し的にそんなことをやっているつもりになり、それが嘘でないことを証明したくなってくるが、まだ言葉が足りないようだ。たぶん何かが違っているのは当然だとしても、その違っている何かが何なのかを突き止めなければ、その先には進めないだろう。そんなことを述べて何になるのだろう。やる気もないことを述べているのは嘘だからか。理由になっていないのはわざとらしい。そんな言葉遊びだけでは気が狂いそうか。それも冗談のたぐいなのだろう。中身のない冗談で空白が埋め尽くされている光景が目に浮かぶようだが、それがそれらの文章を構成しているすべてなのだから、君はそこから逃れられないだろう。終わっているのにその終わりのただ中で立ちつくすことしかできはしない。それ以外を知るつもりはない。今はそれだけで十分なのではないか。それ以上を求めるのは身の丈を超えた行為になるだろう。君はそうやってその場に立ちすくみ、可能性のすべてを失っていることを悟る。


2月11日

 なぜ破滅の一歩手前で言葉を記そうとしているのか。そんな話がどこかに記されていたかも知れないが、君に何がもたらされているわけでもない。感覚が現実とは少しずれているはずだ。君から言葉が外れている。記された言葉が君を除外しようとしている。たぶんそれは文章にはならないだろう。世界が君に何を仕掛けているとも思えない。もうそれらの構造は壊れてしまったのだろうか。まったくいいわけが通用しないようだ。それ以上無理をすると頭の中の何かがおかしくなってしまうだろう。だからそこから先に言葉を連ねるのは無理らしいが、まだ誰かはその気になっている。客観的に頭がおかしいことはわかっている。どう考えてもそれは違っている。誰かは君に何をやらせようとしているのか。以前とは状況がかなり違っているようだが、何を黙っているのか。何が君を黙らせているのだろうか。黙っているのは君ではないはずだ。誰かが語っているそれは、君の話ではない。君を黙らせようとしているんではない。無理して何かを強要しているわけでもない。君が語っているわけではないらしい。ただ状況がおかしいのだろう。当初の目論見から外れている。どんどん外れていってわけがわからなくなるのはいつものことだが、何がおかしいわけでもないのにおかしい。語っている内容がひたすら矛盾しているようだ。君はそこから何を語り出そうとしているのか。語っているのは君ではないと述べている。述べているのは誰でもない。語り出そうとしているのは誰でもない誰かか。まともな内容に行き当たらない。つまらなくなってきたようだ。ひたすらつまらない。それで誰を黙らせたことになるのだろうか。いったい誰が黙っているのだろう。少なくとも君ではないらしい。君の他に誰もいないとしても、黙っているのは君ではない。誰かが黙っているのだ。何かが誰かを黙らせようとしている。そしてそれは不毛な語りとなっている。君に残された道があると思うか。誰に問うているのでもない。どうやら眠ってしまった方がいいらしい。眠ってしまった後の君は真昼に生じているようだ。彼は君が何だかわからなくなっている。たぶん君ではないのだろう。何も語らずにそこから退散したい気になってくる。だが怨霊が退散してどうなるのか。彼の地では悪魔払いの儀式でもやっているのだろうか。わざと話をずらしているようだ。それで何を期待しているとも思えない。ただの独り言に終始しているのだろう。誰に何を差し向けているとも思えない。音楽が君を慰めていたのかも知れない。ある時は確かにそうだろう。そこから遠ざかることで虚無を得たような気がする。数日後の空は晴れ渡っている。まだ冬なのだろう。君は何も導き出せず、何の感慨も抱けず、ひたすら黙っている。なぜ困難な道を選ぶのか。君は何かを悟ってしまったらしい。人は幸せになってしまったらそこでお終いだ。人ではないので何ともいえないが、その辺で内容を得るわけにはいかないらしい。くだらない言葉に自らを託しているのだろうか。それでみすぼらしい現状を維持しているようだ。冬の寒さに凍えながら何を思うこともない。君は何を語ろうとしているのか。すでに語っているそれとはどう違うのか。違うはずもなく、毎日同じようなことを語るしかないらしい。昨日は昨日ではなく、今日も今日ではなく、明日も明日ではない。君は時間から見放されているようだ。どのように考えてもそこから抜け出られない。その必要がないからそうなのかも知れず、必要なことを知り得ない状況にある。何が導き出せるはずもない。気持ちがどこかで迷走を繰り返しているようで、それにつられて言葉も意味を得られなくなる。何のためにそんなことを述べているとも思えないが、この世界は何のために存在しているのでもなく、人は自分たちが増殖するためにこの世に生まれてきた。だが今さらそんなことを述べても虚しいだけだ。君に目的があるとは思えない。神にも悪魔にも目的などありはしない。ただ人の心の中に巣くっていて、そこに意味もなく漂っているだけだ。そこから何を空想できるだろう。どこかとどこかの間を行ったり来たりしている。彷徨っているのではないらしい。そこに目的があるから存在しているのではなく、何もないから存在し得ないのでもなく、ただ何となくいるようで、生じているのだから生じ続けたいのだろう。それは恐ろしいことだ。ある意味で馬鹿げているのかも知れない。どんな意味も当てはまりはしないだろう。要するに何でもないのだ。何ももたらされない原因はその辺でありそうだが、それをどうしようというのでもなく、何ももたらされない現状を変えることはできない。君は自分が何を述べていると思っているのか。何も述べられないと思うなら、それは君の文章ではない。誰の文章でもなく、文章でさえないのかも知れず、そこからどのように述べても何にもならないのかも知れない。それで君は満足しなければならない。時間は有り余るほどあるようだが、それが君の時間ではないのだろう。少なくとも言葉を記すために残された時間ではない。


2月10日

 今は夜に違いない。そんなどうでもいいことを記しながら、何か考えを巡らせようとして、たぶん失敗しているのだろう。よくわからないという実感をどうすることもできない。何を語ろうとしても、何を記していることにもならない。君に課せられた目標を逸脱している。しかし目標とは何なのか。何を問いかけていることにもならない。言葉を記しているだけでは内容をもたらせない。わかっていることは違う意味を生じさせるらしい。記された言葉に対応できずにいる。それは心でない。そうでなければ何なのか。自由に語っているつもりなのだろう。それらのどこかに捨て台詞が介在しているようだ。その時何を断ってしまったのか。わかりもしないことをわかったように述べるのはよくない。地に足がついているだろうか。夢遊の人々のような立場ではないはずだ。ただ仕事だけの毎日のようだ。君に責任を押しつけるのはお門違いか。その機会が巡ってきたら話すことにしよう。誰もそれを予感していない。成り行きまかせの人生なのだろうか。人生ではないかも知れない。ただ誰かがそこで暮らしている。誰でもいいのだろう。どうせ話にはならないようだ。誰かがどうでもいいことを語りつつある。そんな風に感じるのは何が原因なのか。何事も投げやりになっているのかも知れない。今からそれを改めることができるだろうか。なぜ今からなのかわからない。今でなくてもかまわないような気がして、結局惰性に引きずられて何も改まらないのだろう。君はそれについては何とも思っていないらしい。何を思うのも思った者の勝手だ。それを操り制御できるはずがない。誰かに逆らって何かを思うのが馬鹿らしいのだろう。抵抗の意志が欠落している。君はそこで何もやらず、たぶん何も思わないだろう。だからそこから遠ざかれないのか。荒涼とした大地にとどまり続け、それが空想の世界であることに気づこうとしない。思っているすべては記されていることだ。それは嘘だとは思わない。嘘でないから今がある。嘘だと思うなら何を試してみればいいのか。何も思わないので何も試すつもりもないらしい。それらの無駄話が君のすべてなのだ。それは虚しい現実だろうか。他に何があるというのか。何もなければ話を続ける以外にあり得ないだろう。何かがあればそれをやめることができるかも知れない。何もないからやめられないわけだ。何もない状態を保ちたいのかも知れない。わざと何もないように装っているのだろう。それが改めなければならない現状というわけか。そんな風に語るのは間違っている。少なくとも君はそこから抜け出なければならないようだ。何もない現状を打破する必要に迫られている。それは本当なのだろうか。何が真実を表現しているのか。無駄な悪あがきだと見なせる。たぶん今は夜なのだろう。夜だからそんなことを述べられるのか。そうではないと思いたい。夜とそれは無関係か。苦し紛れにわけのわからないことを述べているのだろうか。やはりそうではないと思いたいらしい。たぶん闇夜に飛翔するつもりなのだろう。ますますわけがわからなくなってくる。彼はどこへ行ってしまったのか。まったく歯止めが利かなくなる。乱雑さのただ中で意味不明なつぶやきだけが聞こえてくる。どこに誘われているとも思えない。何を導き出そうとしているとも思えない。死が間近に迫っているわけか。それは誰の死か。生きていない君が死ぬはずがない。文章の収まりがつかなくなる。それ以前に大事なことを忘れていないか。今はいつなのだろう。そうではないだろう。それがどういうことだとも思えない。何かが違っていると思われるのは、それ以前から指摘されていたことだ。それ以前とはどの以前なのか。どうなる機会を逃しているか。君はわかり得ないことをわかろうとしている。その試みが失敗に終わり、何を悟っているとも思えず、安易なやり方に嫌気が差しているわけでもないらしい。すべては打算から生じているわけで、くだらぬこだわりが誰かを生かしているのだろう。君は何も割り切れない。妥協している場合ではないらしい。少し誠実すぎるのではないか。それが君の欠点なのだろう。だが今さら分かり切ったことを述べても無駄なのだ。だいいち正直に語っていないではないか。ありのままの現実を語るわけにはいかないらしい。言葉が邪魔をしてあり得ないことを語らせてしまう傾向にある。しかし言葉がなければ文章にはならない。だから文章はすべて虚構の産物になるらしい。妥協と打算から文章が記され、君を限りなく悩ませるわけだ。そんなことを述べたかったわけではないと叫びたくなり、そんな自らの狂気に恐れをなして、慌てて正気を保とうとするが、すでに遅すぎる。心の中で誰かが意味もなく叫び続けているようだ。その時点では完全に気が狂っているのかも知れない。ところでそんな夢を見たら何を思うだろう。またいつもの作り話であり、その内容のなさに呆れ、さっきから言葉を発せられずにいるのは、君でないような気になる。


2月9日

 その気もないのにまた何かを記そうとしている。いつもの癖なのだから仕方がないだろう。君はそこから遠ざかれない。まだやる気を失っていないようだ。なぜそんなに言葉を並べようとするのだろう。やる気がしないようだ。それはどういうことでもない。何に魅入られているのだろう。闇の何が魅力的に感じられるのか。そういう話ではないだろう。誰もそんなことに注目していない。きっかけに出会えない。それは単純なことだ。何を語ろうとしているわけでもない。君はそこで何を見つけたのか。それは暗闇ではない。蛍光灯に照らされて、部屋の中が見えてくる。またそんなところで言葉を記している。冗談でなければ何か他に述べられるはずだ。いつまでも同じようなことを述べていると頭がおかしくなる。誰に何を語っているわけではない。気が動転しているとも思えない。何もない状況から遠ざかれない。無理に述べてはだめなのだろうか。言葉を記していること自体が間違っている。それは得体の知れぬ闇だ。心の中がどうにかなっているのだろう。そんなことでは持ちこたえられない。すでに精神に異常を来している。本当にそうであったなら楽しいだろうが、至って正気であることが逆に君を追いつめている。もうどこにも逃げ隠れができなくなっているわけだ。大切なことは何もない。たったひとつだけのこだわりがどうにかなってしまうらしいが、そう思っているならいっそのことやめてしまえばいいのに、それができない理由もないのにやめられない。そんな風に言葉をつなぐのは虚しいことか。まだ始まったばかりだろう。君は神ではない。それが理由ではないはずだ。何を語ろうとしているとも思えないだけか。正気でないのは君だけではなく、気が狂っているのは君に限ったことではないが、そういう語り方もおかしいと思われる。何となく誰かがそんなことを述べているようだ。唐突に何を見定めようとしているわけでもなく、何か余計なことを考えているわけでもない。そうやって自滅への道を歩んでいるのだろうか。そうかも知れないが、あえて強がりを述べるならば、今は大変清々しい気分だ。嘘をついているのだろう。確かに何がもたらされているわけでもなく、破滅の時はとうに過ぎ去ってしまったのかも知れない。何も大げさなことではない。自らの死さえも些細な出来事でしかないのだろう。すでに精神的に朽ち果てているのではないか。依然として何も見いだせない。いったいこの世界では何が起こっているのだろうか。それらの何に驚くこともないだろう。すべてはなるがままになっている。そこからどうやって戻ってきたのか。それを誰が知りたがっているのか。一気に踏み出さなければならないようだ。何を述べているのか。まだ躊躇があるらしく、でたらめな言葉の並びに感動することはできない。だがそんなことを気にするわけもなく、言葉の意味を知るつもりはない。君はどこから逃れ去っているのだろう。ひといきついている場合ではないか。軽い気持ちで始めたことだった。仕事を引き受けようとは思わなかった。いつまでも無責任な立場でいられるはずもなく、いずれ破綻してしまうことを予感しつつも、何とかここまでやってきたはずだ。今さらそれはない。だが誰が落胆しているとも思えない。それは必然的な成り行きだと思われる。そこに内容を求めてはいけない。はじめから矛盾していることは百も承知のはずだ。だから今さらそんな感慨に至ってしまうのだろう。それをどうこうしたいわけではない。まだ時間があるらしいが、世の中は当時と何も変わっていないようだ。今さら君に何を問いただしたいのでもないらしい。どんな非難にも当たらないことを述べているはずだ。悲劇的な未来を予感するまでもないだろう。そこで何を待ち望んでも期待はずれに終わるだけか。待つための時間はいくらでもあるらしい。物事を客観的に感じ取っている。その言いぐさは何だろう。人は人でしかなく、世界は世界でしかない。それのどこが驚くべきことなのか。君は人にも世界にも興味を抱けない。それは君の言葉にはなじまない概念だ。失った時間が惜しいとは思わない。君は心を置き去りにしながらさらに遠ざかるだろう。もう何も考えられなくなる。決して救いの手を見いだすことはない。救われない宿命だからこそ、それらの言葉の連なりは無内容に終始しているわけだ。何も感じられない。喜怒哀楽を見失っている。それを誰が認めようとしているのか。たわいない世界だ。それは以前の世界と同じ外観を見せている。君はどんな相貌があらわになるのを期待していたのか。それ以上の何を望んでいたのか。それらの何が虚栄心から生じているというのか。ただ冗談ではないと思いたいだけのようだ。そこで終わってしまってはまずいらしい。やるせないとは思わない。頭が混乱しているわけでもない。何も思わないと思っているだけか。それこそ冗談のたぐいだろう。社会のしきたりに従うつもりもないらしく、君はことごとく外れてしまうようだ。


2月8日

 誰かはそこで立ち止まっているらしい。それがいけないことのようだ。前へ進まなければならない。今度は冗談ではないらしい。だが何も見えていない。また否定が連続しては困るらしい。たぶんあきらめてはいけないのだろう。しかし誰がそれを知りたいとも思えない。それは何のための辛抱でもない。何に耐えているとも思わない。自然の成り行きに身をまかせているだけのようだ。だから立ち止まるわけにはいかないらしい。何かを見極めようとしているのかも知れないが、今のところはわからない。引き出しがまだありそうに思える。知識をひけらかそうとしているわけではない。そんな調子でうまくいくはずもない。機構のどこかに不具合が生じているのだろう。心なしか首が曲がっているようだ。だんだん排他的な気分になってくる。何が気に入らないとも感じられない。何もかもが思い通りにいくとは思っていないようだが、少なくとも努力を怠ったことはないらしい。だがいくら努力しても、現実に追い越されてしまっているのだから、今となってはそれは無駄な努力だったのかも知れない。気に入らないのにそれをやり続けていると老いてくる。だからあきらめが肝心なのだろうか。そういう状況に追い込まれて、あきらめてしまった者などいくらでもいるのだろう。あきらめれば幸せになれる。君はそれが気に入らないらしい。人はいくらでもあきらめられる。執着心を放棄するには痛みが伴うらしい。目の前がちかちかしてきたようだが、何が見えているわけでもなく、ただひたすら言葉を記しているつもりになっている。それを終わりまで持たせようとしている。維持できないことはわかっている。いつもの行き詰まり状態のようだ。君が感じている現実はそんなものだ。何を実感させられているわけでもない。まだそこまで到達していない。虚しさのただ中で絶望を打ち消す仕草が痛々しい。そんな表現は思い違いもいいところだ。醒めた言い表しが似合っていない。わざとそう思っているのだろう。何かを間違えて述べている。今ならまだ間に合う。何が不幸せを呼び込んでいるとも思えない。そんなことは問題ではないのだろう。たぶんまだやる気があるのだろう。それが茨の道だとは思わない。何も感じられない。ただそんなことを述べている。なぜそんなことを述べているのではない。それはどういうことでもない。記憶がそこから遠ざかり、何となく忘れている。誰のせいにもできないようだ。誰かには良心が欠けている。疑り深いだけのようだ。それを反省しなければならない。どうあがいてもそこから抜け出ることはできないようだ。何か肝心なことを忘れているはずだ。君はまだそれを試していない。さらに行き詰まってしまう前にやるべきことがありそうだ。誰かがそれをやろうとしている。君ではないらしい。たぶん言葉の迷宮ではないのだろう。はまっているのはもっと単純な構造であり、何かをすればどうにかなってしまうようなことなのだ。すでにどうにかなっているはずだ。まだ粘れると思っている。それが勘違いのもとなのだろう。それでもかまわないと思わせる構造がある。それらの背景に何かが隠されているようだ。そう思われてしまうわけだ。罠のような気もしてくる。いつもの戯れ言の延長だろう。心は静かな雰囲気を求めているらしい。じっとしていると過去に犯した過ちが思い出される。無口であり、無言でいることが多い。なかなか心境の変化に至らないようだ。そこから何かを見極めようとしている。世の中の移り変わりを感じ取っている。それだけだとは思えないが、現実にはそれだけなのだろう。何とも思えないようで、本気なのか冗談なのかわからない。どうしてもそんな気分から抜け出せないようだ。何も思いつけない。要するに正気な状態から離れている。正常だとは思えないが、たぶん正常なのだろう。正気ではないが、それで正気なのだ。いつものようにつまらないことを述べている。何かをあきらめきれないでいる。思いが現実からかけ離れている。それで何をしたいのでもないらしい。ただ昼間は仕事をやっているにすぎず、夜になったら言葉を記している。そんなことの繰り返しなのだ。それがどんな心境をもたらしているのかわからない。君が語っているのではない。何らかのこだわりにとらわれているのだろう。それをやめるわけにはいかないらしい。やめられるものならとっくの昔にやめている。いいわけにもなっていないようだ。そう述べながらも君は虚無の本質を見極めたつもりになっている。勘違いだとは言わせない。たぶんそれが真実なのだろう。仕事によって心がねじくれてしまうわけにはいかないらしい。そうならないために言葉を記しているつもりなのだろう。だがそこで誰が何を貫き通そうとしているのかわからない。悲惨な境遇の人々は今日も夢を追い求め、身勝手な欲望を満たしてくれる出来事にありつこうとしている。君は相変わらず乗ってこないようだ。それらの何が罠なのかわからないらしいが、わかったところでどうなるわけでもない。


2月7日

 たぶん余裕が必要なのだ。心を安らげるために必要だとは思わない。理由もなくいい加減に言葉を並べる。世迷い言のたぐいだろうか。まともになるのを頑なに拒否しているようだ。何かを認めるわけにはいかない。何ももたらされない。それでも何らかのきっかけを探している。心の状態がよくなるように心がけている。心の中で何かをより分けているのだろう。理解できない言葉の連なりだ。何が違っていると思われるのか。君たちは何をやっているのか。誰に向かって呼びかけているのだろう。荒涼とした大地に山羊の群れが現れる。廃墟の中でくだらぬことを考えている。人は何を作り上げようとしているのか。何が事件だったのか。それは発作の一種だ。突然言葉が飛び出てくる。意味がまったくわからない。何か夢でも見ているのかも知れない。なぜ信用できないのだろう。何を信用したらいいのか。君は運から見放されている。勘違いのもとがそこから生じているらしい。奇異に感じているのはどのようなことだろう。受け入れがたい状況を受け入れようとしているのではない。そこでつまずいているわけだ。階段から転げ落ちそうになっている。いったい何を無視しているのか。その場しのぎの言葉に頼りすぎている。そこで何を知ろうとしているのか。地上のどこかで雪が降り続いているようだ。たぶんそこに不幸が転がっているのだろう。しかし何を言いたいのかわからない。誰がどうなろうと誰の知ったことでもないのだろう。限られた人々に富が集中していることに変わりはなく、それについて何を思っているわけでもない。いったい君は何を知ってしまったのだろうか。誰がどうなろうと、この世界ではありふれたことにすぎないということか。それらの現象のどこに違いがあるのだろう。君は君で何を思わない。ただ虚しいだけのように思われ、何をどうしようとする気も起こらない。君たちがどうなろうと君たちの勝手なのか。身勝手に振る舞える立場を占有したいらしい。たぶんそこで単純な言葉に人々の行動を還元したいのだろう。だがそんなことを述べて何になるのか。君はまだわかっていないらしい。その時点でどうにかなってしまったのだろう。物語とはそういうものだ。誰のことを語っているのでもなく、他に誰を登場させようとしているのでもなく、ただそこで行き詰まってしまう。そして君に残された時間などありはしない。切羽詰まって苦し紛れの言葉を繰り出しているのがそこでの状況だ。それが気に入らないなら、前もって何かの準備をしておくべきだが、それは何のための準備なのか。うろたえているのは君ではない。視線は常に君を通り抜けている。自由とはそういうことだろう。なぜそんなに自由なのだろう。君を必要としている意識がどこにもないからか。誰かの心に巣くっていた虚無はそれからどうなってしまったのか。唐突に雪が降る庭に飛び出している。犬か猫のたぐいだろうか。何かの癖があるらしい。いったい誰を罠にはめようとしているのだろう。話になっていないことは承知している。ただ言葉を連ねたいだけのようだ。だがそこに誰かの意志が介在している。新しい音楽が入ってこない。何も感じられないようだ。他の意識を感じられない。骨の折れる作業に嫌気でも差したのか。それほどのことでもないだろう。まだその先に過ちのきっかけが控えているような気がする。本気になってはいけないようだ。それぞれの立場というものあって、それに見合った発言というものもあるらしい。それをいちいち真に受けるべきではない。君には君のやり方というものもあるようだ。たとえそれを踏み外して暴走してみても、得るものは何もない。それどころが失うものが多すぎて、場合によっては致命傷となりかねない。しかしそれの何が話なのか。さっきから何について語っているわけでもないだろう。ただ心が乱されている。出てくるのはあくびだけのようだ。誰のためにやっていることでもない。それがわかっていながら、その先を期待してしまい、何もないことを忘れている。今こそ延々とそんなことを述べている現状を認めざるを得ない。そして認めた後に何が出てくるわけでもなく、その先も何もない。それで何を述べていることになるのか。それの何が洗練された文章なのだろう。冗談もほどほどにしてほしいか。それができないからそうなってしまうわけだ。それは言葉の牢獄のようなものか。そうだとしたらどうだというのか。どうでもないから逃れられなくなる。まだ外へ出られないようだ。そうであっても何の不都合も感じない。つまらぬ自己言及に終始しているとしても、安易にそこから遠ざかるわけにはいかないらしい。そこで文章のつまらなさを究めるつもりなのか。それが究極の目的だと嘘をつきたくなってくるが、案外それで正解なのかも知れず、そんなことを述べている自らをどうにかしようとしているとも思えず、それは自らではないとも主張したくなってくるようで、そんな嘘もこの際記しておきたくなっているのだろう。


2月6日

 何かを語ろうとして、そこで挫けている。故意に何を退けようとしていたわけでもない。季節はまだ冬だ。数日後の空は晴れている。君はこれからどこへ行こうとしているのだろう。いい加減に作り話はやめにしないか。人は何をやるべきでもない。人ではなく君はどうなのか。この世界では何でもかんでも産業化している。金銭を介在させないと誰も信用できないようだ。だからどうだというのか。ただそんなことを述べてみただけか。金は信用できるが、人を信用するわけにはいかないのだろう。ならば君は誰をだまそうとしているのか。いかなる時でも真実を述べようとしている。冗談ではないのだろう。何を語っても冗談だとは思えない。もうそんなことには興味を失ってしまったらしい。何か語っても上の空だ。ではなぜそんなことを述べているのか。何も語っていないというのは嘘ではないか。他人の心配をしている場合ではない。心ここにあらずの状況がどこまでも続いている。そこで時間が止まっている。そんなことを続けているうちにここまで来てしまったらしいが、君は誰のことを述べているのか。そこで何を確認したいのだろう。何をそんなに遠慮しているのか。そんなつまらぬことにこだわってどうするのか。誰がそこから遠ざかっているのだろう。それはいつもの意味不明な言葉だ。そこから脱してまともな言葉の連なりを記す状況には至らない。では何をそんなに焦っているのか。君はそこから遠ざかりたい。何を批判したいわけでもなく、気に入らないことは何もない。それが嘘だとは思わない。たぶん現実に敗れ去っているのだろう。何も成し遂げられずに茫然自失なわけか。まったく自信を失っている。そんな結論にたどり着く必然性を感じられず、どこにも至れない自らを見捨てているわけでもない。何とかしようとしているのだろう。執拗に食い下がろうとしている。別に余裕をくれているわけではない。自分なりに努力しているつもりのようだ。だから誰もお呼びではない。真実を知りたいなら他を当たってほしい。君の出番ではないはずだ。軽薄な人々が脚光を浴びている現状が変わるはずもない。君は君でそれをどうしようというのでもなく、何となくテレビを眺めているだけだろう。無駄に議論に議論を重ねるわけにもいかない。今語りたいのはそんなことではない。何に対しても興味が湧いてこないなら、何も語る必要もありはせず、無理して語ればつまらない内容になるだけだ。なぜそれほどまでに無感動なのか。何をそんなにがんばらなければならないのか。精神を集中させて、それ以外のことを考えようとしている。ニュース的な話題ではだめらしい。人は絶えずこの地上で増殖し続ける。それだけのことが不思議とは思わないだろう。人と人の間に格差があることも承知している。感覚も違いすぎる。些細なことにこだわりすぎるのも万国共通の現象か。なぜ経済が立ちゆかなくなるのか。感情の問題だろうか。そんなところで立ち止まって何を考えようとしているのか。誰かは借金によって未来を食いつぶしている。君は暮らしの豊かさに関して幻想を抱けない。本気になるのが嫌いなのだ。がめつさから解き放たれているらしい。めいっぱいの生き方から遠ざかっている。人はなぜそれほどまでに生きようとしているのか。この世で手に入るものなど限られている。そのすべてが大同小異のものにすぎない。その中の何かにこだわればすぐに飽きが来る。馬鹿げた物事にこだわっていた自らがみすぼらしく見えてくる。どうも執着心に欠けているようだ。何をやってもたかが知れていると思うようになる。先が見えてしまっているということか。それが先を見通す力なのだろうか。何となく違っているような気がしている。では何を言いくるめようとしているのか。狭い範囲でこぢんまりとまとまっていることが何になるのだろうか。今がそんな現状だとは思えない。だから何とかしなければならないのだろう。何かを爆発させなければならない。まったく冗談ではないらしい。だが仕事とは何なのか。なぜそんなものに本腰を入れなければならないのか。それこそ冗談ではないということか。いったい何をあきらめきれずにいるのだろう。全知全霊をかけるわけにはいかないらしく、何に向かって全力投球というわけでもない。君はいつもそこで立ち止まる。人はなぜそんなことにこだわるのか。君はなぜそこを通り抜けてしまうのだろう。せっかく立ち止まったのに何かを取り逃がしている。まったくこだわりが生じない。何もかもが馬鹿げているように感じられてしまうわけだ。なぜそんなことに夢中でいられるのか。人は何かにこだわらなければ生きてゆけないらしい。安易にそこから解き放たれるわけにはいかないようだ。そこで立ち止まってその場にのめり込まなければならないわけだ。そこに根を下ろし、自らが作品となって成長しなければならない。それは恐ろしいことだ。その他の可能性をあきらめて、それだけに専念する必要がある。君にそんなことをやる勇気が備わっているとは思えない。


2月5日

 なぜ拙速に事を運ぼうとしているのか。先行きがどうなるのか予測がつかない。何を予測しようとしているのか。それは君の言葉ではなさそうだ。まだ頭の整理がついていないらしく、そんなわけで今日も誰かがわけのわからないことを述べているようで、それが誰のつぶやきなのかわからない。幻聴かも知れないが、どういうことなのだろう。誰が君に何をさせようとしているのか。誰も何も思いつかないだろう。たぶん君はそこから逃げているのだ。その証拠に何も語ることができない。そんな結果を前にして、君は何を思うだろう。何となく馬鹿げているような気がする。意味がわからない。また現実から逃避しようとしているのだろうか。意識がそうであったとしても、絶えず現実に引き戻されているから正気を保っているのだろう。言葉を記している誰かにしてみれば、仕事があるのだからそれを優先させなければならない。仕事の合間に言葉を記している現実を無視することはできない。そんなつまらない現実を前にして、君は至って正気にならざるを得ない。この世の誰が正気なのだろうか。君が正気なのだ。このところまったくコーヒーを飲まなくなった。どうも紅茶や緑茶では満足できないらしいが、これからどうすべきなのか。無駄な問いかけに答える気がしない。それは即興演奏とは違い、あらかじめ綿密に計算し尽くされた結果として提示されている。いったい何が提示されてるというのか。それが君の記した文章だとは思わない。ただの作り話だ。気に入らないならそこから立ち去ってほしいか。誰に向かって物申しているのか。どこかになれ合いの関係があるらしい。もう少しいい加減なことを述べてもかまわないのだろうか。何も語っていないのにそれはないだろう。ならば君は誰を批判しようとしているのか。ただつながらない言葉と格闘している。悪戦苦闘の最中だ。それは無駄な批判に違いない。批判になっていない。だから誰が何に対峙しているわけでもないだろう。脅威的な危機が迫っているとも思えない。そして言葉がどこかへ飛んでいる。今や危機感をあおっているのは誰でもない。なぜ破滅への前兆を感じ取れないのか。ただの意味不明にうろたえている。では何をそんなに笑っているのか。すでに君は破滅している。だから何も述べられないのだろう。ひたすら無駄に言葉を連ね、沈黙を守り続ける。何か矛盾していないか。試しに何か述べてみればわかることだ。君の背後には逆さまの光景が広がっている。そんな風に見えているのは精神に異常を来している証拠だろうか。すぐにそちらの方向へ言葉が曲がってしまうのが安易な過ちなのだ。心の中はいつでも平和なのであり、退屈で死にそうなほど平和なのだ。それが君にもたらされた状況なのだろう。そういう嘘が君を破滅に導いている。だからこの世は楽しいのだろう。もはや感情的にどうのこうの言っている場合ではない。要するに述べていることが支離滅裂なのであり、それは毎度のことなのだ。そんなことを述べていると朗らかな気分となるらしいが、はたしてそれでいいのだろうか。いいわけがないからそういうことを述べているのだ。やはり矛盾したことを述べているようだが、君は何を期待していて、同時に何に絶望しているのか。それでも何かが違っていると思いたいのだろうか。それは君に課せられた仕事ではない。誰に何が課せられているのでもなく、何もしなくてもいいのかも知れない。誰かが言葉を記していること自体が無駄で不要なことなのだ。しかしそんなことに絶望してどうするのか。君は何もやらなくてもかまわないのだ。ただ沈黙を守っていればそれでうまくいくはずだ。それはどういうことなのだろう。他の誰かがやってくれる。何をやるわけでもなく、何となくそんなことを述べているだけのようだが、それでかまわない。誰が何を述べているのでもないのは毎度のことのように思われるが、何となくそんな気がしているだけかも知れない。それが誰かの独創性なのだろう。意味のないことを述べるのがそこでやるべきことなのだ。無駄で余分な言葉の連なりを創造しなければならない。つまらないことを延々と語り続けるべきなのだ。冗談でなければそれでかまわない。どこへも至りようのないことを語る必要がある。何も問題とはならず、何も解決せず、何を期待させるわけでも予感させるわけでもない。何でもないことを何でもないように語らなければならない。それが冗談ではないのだろうか。まだわからないようだ。わかろうとしないのであり、わかってもらっては困るのかも知れず、理解できる範疇から外れているべきなのだ。それは本当に何でもないことのようだ。君に何を期待していたわけでもなく、誰の言説を批判していたわけでもない。ただそこに連なっている文章を肯定も否定もできなくなっているらしい。いったい君は何を述べているのだろう。そんな問いにも飽きているが、そう問わざるを得ない状況が生じているらしい。本当に君は何を述べているのだろうか。


2月4日

 それはすばらしいことかも知れない。すばらしすぎてわけがわからない。くだらぬ強がりに決まっている。つまらぬ嘘をついているようだが、まともに言葉を記そうとすると何も思いつかなくなる。そうでなくても何も思いつかない。それらは相変わらずの余分な記述だろう。今までに記した言葉のすべてが余分なのではないか。そんな状態では何を語ろうとしても無駄だ。記された言葉のすべてが余分な印象を与えている。だがそれもひとつの自己実現と見なせるだろうか。自己とは何なのか。自己に逃げてどうするのだろう。それはややこしいことを述べるための前触れか何かか。いったい自己でない自己があるだろうか。自己でなければ何なのか。そういう問い自体が余分であり、わざとらしい蛇足にすぎず、無駄な思考を呼び込むもととなる。今でさえ意識は蛇足のただ中にいるはずだ。だがそれ以外にどんな思考が可能なのか。思考すること自体が余分な行為ではないのか。自己などというまやかしの言葉に逃げていないで、君はただ黙って作業を進めていればいい。それが行き詰まっているからそんなことを述べているのではないか。では何をどうしろというのか。何もかもが余分なら、人間という存在自体が余分なのではないか。そうやってすぐに何もかもという短絡的な言葉を使って、その対象を絞り込むことを怠っている。どうやら頭を冷やして再考する必要がありそうだが、現時点では他に何も考えることもできない。述べていることが矛盾しているのだ。文章は本来余分な言葉で構成されてるものだ。余分な言葉がなければ俳句のたぐいになってしまうだろう。俳句でさえそれ自体が余分かも知れない。それを必要としない人間にとっては、ただの余分な言葉の連なりにすぎない。では人にとって余分でない文章とはどのようなものになるのだろうか。たとえば読んですばらしいと思うような文章は余分ではないのか。ただ必要なだけの文章というと、人から人へ情報を伝達するためだけの説明書や命令書のようなものとなってしまうだろう。人を何らかの行為に仕向けされるための文章ということになる。それは読んで感動するようなものではなさそうだが、人に息抜きや娯楽が必要というのなら、感動させるための文章も必要となるだろうか。それの何が余分だというのか。たぶんそれとも違う文章というものが存在するのかも知れず、何のために存在するのでもなく、読まれるためにすらない文章というのもあってもいいのではないか。確かにそういう文章があれば、それは余分な文章といえるかも知れない。しかし余分であることにどんな効用があるのだろう。それは書くためだけの文章か。誰かが書かなくてもかまわないような文章を書いているとしたらどうだろう。書くためでも読むためでもない文章とはいかなるものか。誰かはまさにそういう文章を目指して、必死に言葉を記し続けているわけか。冗談でなければ意味不明でよくわからないが、それらのどの辺がわからないところなのか。どこもかしこもわからないところだらけか。だからどこもかしこもという言及が論点をはぐらかしているのではないか。論点とは何が余分で何が余分でないかを議論するところにあるだろうか。だがなぜそこで議論が交わされなければならないのか。いったいそこに誰がいるというのか。さらに横道に逸れているらしい。わざと使用する言葉を間違えているのではないか。たぶん余分な言葉の使用について、どれを使ってどれを削るべきか検討してみなければならないのだろうが、とりあえず何が余分でないかを見極める必要がありそうだ。それがわかればそれ以外は余分で不要な言葉となるだろうが、どうも君はそんなことを冗談で述べているようだ。とても本気で述べているとは思えず、本気でないのに無理にわかろうとしてはいけないのかも知れず、この際そういう苦し紛れのごまかしは通用しないだろう。今さら何をごまかそうとしても言葉の無駄だ。何をやるにもそこに障害が生じてしまう。真正面から対応できずに、障害物を避けながら、迂回路を模索することが多い。そして道に迷ってわけがわからなくなり、結果として意味不明な文章ができあがる。そんなことの繰り返しで嫌気が差しているようだが、気がつけば何も考えられなくなっている。考えようとする理由がわからない。それが冗談に逃げている原因となっているらしい。要するに言葉でごまかしているわけだ。だからわけがわからないというのは嘘に違いない。わかっていてわざと冗談を述べている。それでは行き詰まりを打開していることにならない。だからおもしろいのだろう。それは悪魔のささやきか何かか。また冗談のたぐいを記しているつもりらしいが、今ひとつ乗り気がしないようだ。冗談では済まないのか。ではそれ以外に何で済ますつもりなのか。今回はそれとは違うらしい。では何について考えているのか。頼みの綱は何だろう。何でもないのだろうか。そんなものなどありはしない。頭が悪いのだろうか。誰のせいにしているとも思えない。もしかしたらすばらしいとはそういうことかも知れず、そんな勘違いからそれらの余分な文章が生じているのだろう。


2月3日

 こんなところで道草を食っているのはおかしなことだ。この世界はどうなってしまったのか。そんな大げさなことでもないのだろうが、何かが狂っているような気もする。しかしそれはありふれた実感だろう。いつの時代でもそう思ってしまう者が必ず出てくるのではないか。思い通りにいっていなかったり、何か勘違いをしているような者に限って、そんな実感を抱くものか。だがそれをどうしようというのでもないらしい。君に何ができるというのか。君に何を期待しているわけでもないだろう。誰が君に何をやらせようとしているのか。どうもひたすら言葉を連ねる以外に何もやりようがないようだが、それについて実際に言葉を記している誰かはどう思っているのか。誰かはいつも無言であり、ひたすら沈黙を守っている。彼には仕事があるのだろう。毎日休みなく仕事をしていて、他に何をやっているわけでもない。だから君に何を期待する暇もありはしない。だいいち君はいつでもこの世界では不在なのではないか。存在しない君に何をやらせようとしているのか。そう述べていること自体がつまらぬ言葉遊びに終始しているような気がする。それでこの世界を変えようとしているとしたら、それは勘違い以前の意味不明にすぎないことか。たぶん変えようとしているのは自らの意識であって、間違ってもこの世界ではないのだろう。この世界に対する見方や考え方を変えようとしているわけで、そうすることによってあたかも世界が変わったかのように思い違いをしようとしている。わざと勘違いをするつもりらしい。そしてそれは君なりの冗談ですませようとしている。あり得ない話だろうか。意味不明な妄想が心のどこかできわまっているわけか。どう述べても作り話の域を出ない。奇をてらっているとしか思えない。それで何が変わったというのだろう。何も変わらなかったらどうだというのか。どうなるわけでもなく、今まで通りの毎日が続いて行くだけだろう。それは一時の気分転換のたぐいとなりそうだ。それで窓の外を眺めているわけか。埼玉あたりではまだ数日前の雪が残っているようだが、日付的にも数日前なのだから、今は数日後の今なのだろう。なぜかそこで電車が立ち往生している。どうやら目的地にたどり着くまでにさらに時間がかかりそうな気配で、それも君には気分転換の一環と思われる。他に何を思うこともなく、誰かは言葉を記し続けているようだ。災い転じて福となすようなあざとさを好んでいるわけではない。たぶん変わるためには何かのきっかけが必要なのだろう。現状では何も変わりようがないのだから、それについて何をどうしようというのでもないらしい。君はいつまで経ってもそんなことを述べている。それが君が感じ取った世界なのだから、それについて述べている現状を変えることはできない。見たまま感じたままの世界が目の前に広がっているわけだ。ただそれだけのことに感動しているほどの純真さは持ち合わせていない。君はいつでも回りくどい。執拗に迂回を繰り返していて、そんなことをしているうちに目的を見失い、何をやろうとしていたのか忘れてしまうらしい。だがそういうわかりにくさの段階にとどまるべきではないのだろう。ひたすら言葉を連ねることが目的とするならば、現状で満足すべきだが、それは仮の目的であり、真の目的がそれらの文章の中に潜んでいる可能性もあり、それを探り証すのが君に課せられた使命ではないのか。そんな目的を一時的にねつ造して何になのだろう。なぜそんなことをしなければならないのか。どうも自らがやっていることに魅力を感じられない。ひたすら馬鹿げた行為を繰り返しているような気がする。そこから遠ざかろうとした心はどこへ行ってしまったのか。すでにどこか遠くへ旅立ってしまったのか。君には関係のないことだろう。今現在誰かが所有しているつもりの心には取り立てて何を語る気もないらしい。ただ漠然とした思いにとらわれる。何をどうすべきかということではないらしい。誰かは誰かでぬるま湯的な窮地ではない窮地でも脱して、ひと息つく間もなく次の作業が控えている場へと急いでいる風を装い、どこかへ移動している最中なのだろう。そしてそれが馬鹿げたことだとは思えないが、この世界において君に課せられた使命とは何だろう。そんなふざけた作り話はこの世界では通用しないということか。だが通用しないとしても、それで君がどうなるわけでもないだろう。どこかで何かを考え続けているのは君ではなく、何か適当な言葉を連ねているのも君ではない。君はひたすら何も思わず、何もやろうとしない。それは怠けているというのではなく、何もできないということだ。どんな作用も及ぼせないということなのかも知れない。君には力がないらしい。それは君のやることではないのだろう。他の誰かが努力して目標を達成したらいい。そんなわけで何となく無関心を装いたくなるこのごろだ。たぶんやがて冗談では済まなくなるのだろうが、その時が来たら考えるしかない。


2月2日

 わざとらしくておかしいが、戯れにそんなことを述べてみる。君はそれをやめなければならないのか。それは死人の台詞だが、それとは何か。何もかもが朽ち果てて、もうすでに十分破滅しているはずだが、まだ何も語られていない。文章の内容はいつまで経ってもくだらないことのように思われる。まだ嵐が過ぎ去っていないからだろう。何も終わっていないことを自覚すべきか。しかしいったん終わらせないうちは何も見えてこない。実際に誰かが夜の闇に紛れてくだらないことを述べている。くだらない内容と夜の闇は関係ないだろう。君はまだ批判する対象に巡り会えないようだ。やはりそれとこれとは関係ないのだろか。それとこれは何なのか。まったくのでたらめで述べていることなのか。そういうことならもはや何を述べても苦し紛れの即興か。文章がそれに収まるはずがない。画面が暗すぎて目が悪くなりそうだ。そんな気がしているだけで、実際に目が悪くなってみなければわからないだろう。だがそんなことはどうでもいいことかも知れない。他に気づいたことなど何もありはしないが、今さら日付を気にしてどうするのか。とりあえず今は二日前かも知れない。今ではないのだから、それは嘘だろう。嘘でなければ偽りに違いない。どちらも同じような意味の言葉だ。誰かがそんな風に述べているのは心苦しいか。誰でもないのだからそんなことはない。そうでなければ誰に示しがつくのか。それでは意味が通じないだろう。わけのわからないことを述べるのはお手の物か。だんだん虚しくなってくるようだ。誰が誰に向かって述べているのでもなく、誰もいないのだから、誰も何も述べていないのかも知れない。放っておけばそのままになってしまう。それをどうにかこうにか形あるものにしてきたつもりだが、今ひとつ自信が持てない。自らが不在なのに何を信じればいいのだろうか。自分を信じるという行為はありふれている。ありふれていること自体が否定の対象とはならないだろう。だがそこに何が見いだされようとしているわけでもない。君はいついかなる時でも自分に対する疑念を抱いている。自分が自分でないような気がしているだけか。それもありふれた精神状態なのではないか。しかしいつまでもそんなことを述べていてかまわないのだろうか。はじめに言葉ありきではないはずだ。それ以前に言葉を記そうとする意志がなければ話にならないのではないか。それもありふれた意見だろう。そこで誰が文章を構成しようとしているわけか。誰かが言葉を組み合わせて文章を構成しようとしているらしい。それは当たり前のことだ。そういう水準で何かいい加減なことを述べないでほしいか。誰が述べているのだろう。人は誰でも自らを欺くものだ。ではなぜそうやっていつまでも嘘をついているのか。正気とは思えない。それがいつものことなのだから仕方がない。心に余裕が感じられず、日々の所々で記憶が飛んでいるようだが、また眠ってしまったのだろうか。いったいいつになったら眠気を振り払うことができるのか。翌朝になったらすっきりしているのかも知れず、少しは冷静な判断力が身に付いているだろうか。だがその時にはもう遅すぎるだろう。また日付的に遅れているわけか。いちいちそんなことにこだわっていては何もできないのではないか。それでかまわないのかも知れない。それは君が担うべき重荷ではない。いつまでも耐えられるはずがないだろう。気がつけば足下で何かがちぎれているようだ。そこで時間が途切れている。つまらないのだから仕方がないだろう。まだその気になっているのだろうか。何もない状況に変わりはなく、どのような気持ちでいられるわけもなく、たぶんそこで行き詰まっているのだろう。それもいつものことに違いないが、何かを浪費しつつ神経をすり減らしながらも、やっとのことでここまでやってきた。視界は相変わらずの五里霧中だ。それほど迷っているわけではないのに、わざと迷い続けているような気になってくる。水分が足りないのだろうか。そういうのがわざとらしいのだ。漫画ではないので、大冒険の旅の途中というわけでもなく、何やら驚異的な能力を持った敵と戦っているわけでもないらしい。どこに謎解き探偵が登場してくるのか。まったく話になっていないわけだ。そんなわけでおもしろくも何ともないので、さらに虚無を蔓延させなければならない。もう立ち直れなくなるまで無内容を貫き通すべきなのか。そんな嘘が何に対する方便として機能するのだろう。君はいつどこでくじけてしまったのか。今さら君の話にもっていけるわけがない。鏡をのぞき込めばうつろな目をしている。無音のスピーカーから何が聞こえてくるはずもなく、耳と済まして何を求めているとも言い難い状況に包まれ、君が君でないことを祈っているは誰でもない誰かでもないらしい。ただ言葉が言葉に折り重なっているだけのようで、そこに誰の真意が隠されているとも思えず、ただ戯れ言として片づけられる運命のようだ。


2月1日

 何かが抜けている。何を試しているとも思えない。機械に信頼性がない。やっと今月に入ったというのに、それはどういうことなのか。知らないうちに言葉が出てくる。誰も君の出現を待っていないようだ。もっと他人の文章から影響を受けた方がいい。馬鹿にするのもほどほどにしておこう。冗談で述べているのなら、その辺で反転攻勢でも仕掛けるべきか。それで何ができるというのか。くだらぬ言葉が延々と連なるしかない。何となくそれでも気を取り直して作業を続けるとしよう。君にはわずかに残された時間があるらしい。それを利用して何を述べようと言うのでもないようだが、何かの時間稼ぎには使えそうな間だ。屋根を叩く雨はいつの間にか雪に変わってしまうだろうか。誰かの心がけ次第か。明日のことはよくわからない。昨日ことを覚えているとも思えない。誰を恨んでいるのもなさそうだ。あまり印象に残らない。わざとそういうことを述べているのだろう。文章の目的とする機能を省いているように思われる。誰が生き残りのための戦略を実行しているとも思えない。みんな早く死にたいのだろうか。何も信用できなくなる。疑心暗鬼で頭の中がいっぱいか。たぶん金儲けを否定してはいけないのだろう。それに代わる生き方などあり得ないか。そういう単純なことを述べてはまずいような気がする。それがすべてではないが、それなしでは生きてゆけない。そこから様々な不条理が生じることも承知している。競争には勝者と敗者が生まれ、敗者は悲惨な境遇を経験して、ゆがんだ心を持つようになる。それも単純すぎる成り行きだろうか。現実にはもう少しややこしい紆余曲折が差し挟まれなければならない。要するに常に勝ち続けたり負け続けたりするわけではなく、適当に勝ったり負けたりして、公正な競争においては、そこに参加している者たちに勝敗が平等に分配されることとなる。そんな絵空事を信じていいのか。常に勝ち続けなければ成功できないだろう。中にはそういう者も出てくるだろうが、全体としてはほんのひとにぎりの者たちだ。しかしそれだけでは現状を正確に説明していることにはならないか。たとえば勝ち負けの判断を曖昧にしてごまかすやり方もありそうだ。価値観の多様性を生み出せばいいわけか。生み出すというより、それは方便のたぐいだろう。ある面においては勝っていても、別の基準を適用すれば負けていることになったり、また勝っているのか負けているのかわからない状況を作り出してみせるとかありそうで、さらに誰も競争していないように見せかけて、それを参加者全員に信じ込ませるやり方もありそうだ。何となく競争とは無縁の生き方を選んでいるようにし向けるわけだ。そんな風にしてだますやり方はいくらでもありそうだが、具体的にどんな風にすればいいのだろうか。仕事や暮らし方や生き方を多様化させることが重要で、そこに生きている人それぞれが自分独自で他人とは違うことをやっているような気にさせなければならない。また他人の生き方が自分の生き方と比較して優劣をつけられないように思わせなければならないだろう。他人をうらやんだり馬鹿にしたりするような気にさせないような社会にしなければならない。他人は他人であり、自分は自分であり、他人の生き方も自分の生き方も認めざるを得ないような気にさせることが可能なら、誰もが平穏に暮らしていけることができる。たぶんこれから人々が目指すべきなのはそういう方向なのではないか。だがそれでは世の中がおもしろくも何ともなくなってしまうかも知れない。やはり現状では他人の不幸は蜜の味であり、他人の愚かな行為を馬鹿にして、それが娯楽の本道となっている面もありそうだ。また他人に対する嫉妬心を燃え上がらせ、それを糧として自らの復讐心の成就を目標としている者も大勢いるだろう。他人をけ落とすことを生き甲斐としている者もたくさんいるはずだ。他人を踏み台として成り上がりたいわけだ。たぶんそういうのが物語の世界であり、物語の中の人々は他者との闘争によって自らの存在を輝かせようとしている。その中では他者との競い合いが基本であり、食うか食われるかの弱肉強食を常としていて、その中で人々の栄枯盛衰が人間模様として浮かび上がってくる。大半の人々はそういうものに魅力を感じているのだろう。もちろんそれも単純化のそしりを免れ得ないだろうが、それも物語をおもしろくさせている要因の一部には違いない。誰もが喜怒哀楽の極めつけを期待している。要するに極限状態の中で登場人物たちと感動を分かち合いたいのだ。時には反目して、生き死にをかけた戦いに至ったりして、それでもお互いを許し合い、つかの間の和解の時が訪れたりして、ハラハラドキドキの展開を見聞したいわけだ。