彼の声6

1998年

5月27日

 そういえばインドネシアのスハルト大統領が辞任したんですよね。だからといって、直接関係のない自分にとってはそれがどうしたわけでもなく、単なる他人事でしかありませんが、インドネシア国民にとっては、これから国内が民主化される可能性に希望に満ち溢れた明るい未来の到来でも期待しているんでしょうかね。

 でも、一応民主化されていると思われる日本や韓国は今現在不況の真っ只中にあるのですから、その国家における民主主義の成熟度と経済状態は必ずしも平衡関係にあるわけではないようですね。仮にインドネシアが民主化されて公正な選挙で国家の代表者が選ばれるようになったとしても、このまま不況が続くようなら今度はその原因を独裁者に転嫁することができなくなりますね。不況の責任は無能な代表者を選挙で選んだ国民が負うことになるわけですからね。

 そうなると、この程度の国民にしてこの程度の国家である、なんていう無力感やら厭世観やらが蔓延して、当然のことながら、その不満の捌け口を独裁者に求めるわけにもいかなくなるわけだから、今回のような大規模な暴動も発生しづらくなることは確かでしょう。そういう激しい社会変化が起きづらくなるのが民主化の効用ということになるんですかね。それは今の日本の状況に似てくるといえなくもないですね。

 もちろん、今の日本では、誰が代表者になっても同じと考える人々が国民の圧倒的大多数を占めているわけですから、この夏の参議院選挙でも現状維持で自民党の勝利に終わるでしょうし、仮に今の不況の責任を取って橋本首相が辞任したとしても、後任には同じ自民党内から代わり映えのしない人間が選出されることでしょう。つまり、これが成熟した民主主義国家の在り方というやつでしょう。これが19世紀に多大な期待と大いなる幻想を伴って生まれた「国民国家」のなれの果てということですか。

 このクニの将来を憂う哀しいボケ老人の皆さんも、今こそ強力なリーダーシップを発揮できる人物が必要だ!今こそ平成維新を起こすときだぁ!などと勇ましい妄言をわめき散らすかどうかは知りませんが、いざ選挙になったら結局現状維持で自民党に投票するしか選択肢はないのでしょう。やはり“大自然”には逆らえませんか。“自然と人間との融合”ってそういうものなのでしょうかね。

 しかし、国民が選挙で代表者を選ぶのが民主主義だというのなら、そんなものは労働者が選挙で指導者を選ぶ共産主義と大して変わらない概念でしょう。国民=労働者と見立てればそのまんま民主主義=共産主義ってことになっちゃうもんね(笑)。ただ、選ばれた代表者が自分の都合の良いように勝手に法律を作り変えたりしちゃうと(ナポレオン三世やアドルフ・ヒトラーやアルベルト・フジモリのように)それはファシズムと呼ばれるだけですからね。そんな制度や代表者に過大な期待を抱く気にはどうしてもなれないですよ。

 それに市場経済は、「国民国家」に限定される「国民経済」などという虚構の枠組を超えて、一方ではより安い労働力を求めて貧しい地域へ向かって、もう一方ではより高い売り上げを求めて豊かな地域へ向かって、常に貧富の格差の増大する方向に発展するものじゃないですかね。その市場経済を発展させるために「国民国家」は税金を安くしなければならないのはもちろんのこと、その一方で貧しい地域へは公共資金のばらまき支出をしなければならないのだから、慢性的な赤字財政になるのは必然なんだよね。

 ようするに今や「国民国家」は、豊かな市場からの減税要求と貧しい民族主義・原理主義陣営からの福祉要求との狭間でねじれ分裂しようとしているんですかね。人は誰でも“心のふるさと”(郷愁・ノスタルジア)を持っている、なんてロマンチックなことをおっしゃる方もいらっしゃるようですが、近頃はそういう「お国自慢」の「お国」が「国民国家」を通り越して過激な民族主義・原理主義に行き着くらしいですよ。なかなかファンキーな世の中じゃあ〜りませんか。ははははっ。


5月20日

 ついに先週FreeBSD(98)をインストールしました。そして今回は実にあっけなくX Window Systemが起動してしまいました。はははは、起動ディスク(ブートフロッピー)を作ってインストールを始めてから僅か三時間弱でXまで動いてしまいました。今までの苦労は一体なんだったんだぁ!PC98用のXF86Configファイルの中でウインドウアクセラレータの“NEC864”を選択しただけで、あとは何も変更なしでこのPC9821Xs上でXが動いてしまうなんて‥‥。

 どうやら今回の成功要因は、買い求めた『PC98版FreeBSD入門キット』(宮嵜忠臣 著 秀和システム)がXFree86 3.3.1を収録していたことによるらしいです。前回インストしたときはXFree86 3.2で“NEC864”を選択したぐらいではまるでだめで、Configファイルのどこをどういじっても結局起動しなかった苦い記憶があったので、今回の2.2.2R RELEASEも標準ではXFree86 3.2だったのですが、FreeBSD(98)をインストした後にすかさず二枚目のCD-ROMに入っていたXFree86 3.3.1にアップグレードしたら見事にXが起動した次第です。やったー!ボクちゃんカンゲキー!

 しかし、たかがXが動いたぐらいでこれほどさわいでいる自分ていったい何なんでしょうね。PC-UNIXを普段から日常的に使っている人から見れば、そんな当たり前なことでギャーギャーさわぐなよ、って感じかもしれませんね(笑)。ともかく現在のところは、FreeBSDを立ち上げてコマンドでstartxと打ち込んでXが動いて喜んでいるだけで、これからXの環境設定やら日本語エディタの導入やらインターネットへの接続やら、やらなければいけないことが山ほどあるわけですが、まあ、あまり暇もないことだし、少しずつ気長にやっていきたいと思います。

 しかし本当にXが動いてほっとしました。前回買った『FreeBSD徹底入門』(翔泳社)での試行錯誤の経験も大いに役に立ったことは確かですが、今回動かなかったらどうなっていたことやら…。たぶんしばらく立ち直れなかったでしょうね(笑)。思い起こせば『FreeBSD徹底入門』の著者のひとりのあさだたくやさんとのメールのやり取りも遠い過去の記憶になってしまいました。FreeBSD関連のニュースグループの閲覧方法などいろいろ教えてもらい、あの時は本当にありがたかったです。まさかあさださんがこのページを読んでいることはないでしょうが、この場を借りて感謝の意を表しておきます。Thank you very much!

 話は変わって、来月はいよいよサッカーのワールドカップですね。日本が初出場しますか。日本国内では必ずしもそれほど盛り上がっているとはいえないような雰囲気ですが、開催地のフランスやサッカーの盛んな出場国ではさぞかし盛り上がっているのでしょうね。

 何はともあれ、私はフランスまで出かけていくことはできないので、テレビ中継で試合を観戦するしか選択肢はないようですが、すべての試合を見るほど暇があるわけではないし、ビデオで録画するような根気も持ち合わせていないので、アトランタ五輪での準決勝ブラジル対ナイジェリア戦のときのように、偶然にすごい試合を見る機会に恵まれたら嬉しいですね。あれ以来私はナイジェリアのカヌのファンになってしまったので、今回もカヌのすげーゴールを是非見てみたいものです。

 日本チームに関しては正直言ってあまり勝利は期待していません。監督のオカピーは立場上勝利を目指さなくてはならないようですが、はっきり言って今の日本は世界の大舞台に立つことができただけでも素直に喜ぶべきだと思います。巷では日本チームの戦い方についてまことしやかに戦略だとか戦術だとかをもっともらしくのたまう方々がいらっしゃいますが、先日の国際親善試合のパラグアイ戦を見た限り、守備も攻撃もこれまでの日本のレベルの範囲内で可もなく不可もなく普通のサッカーをやっているような印象しか残りませんでした。まあ本戦でもこれまで通りの普通のサッカーをしてくれればそれでいいんじゃないですか。決定力がないのはこれまで優秀なFWを育ててこなかったんだから仕方のないことでしょう。優秀なFWになる可能性のあった柳沢は選ばれませんでしたしね。

 もちろん、本戦で対戦するアルゼンチンもクロアチアもジャマイカも日本よりは個々の選手のテクニックは上だと思われますが、必ずしも勝つことが不可能というわけもないでしょう。実際に戦ってみないとわからない偶然要素がかなりの部分あるでしょうから。でも、なんとなく日本チームの勝敗云々を考える気にはなれませんね。だってどう見てもたいしたことないもんね、今の日本ってさあ。

 まあ自分としては日本が勝てば勝ったで喜ぶのでしょうが、仮に負けたとしてもあまりくやしい気持ちは湧きあがってこないような気がします。何かWカップの出場を決めた対イラン戦を境に急激に熱気が冷めてしまったようです。それがどうしてなのか、日本選手よりすごい奴が世界にはごろごろ掃いて捨てるほどいるような先入観がそうさせるのかもしれませんが、一方で自分自身のスポーツに対する感じ方が変化してきたような気もしています。何やらいつのまにかスポーツに熱狂するような人間ではなくなってきたようなのです。

 そういう自分がかろうじて関心を繋ぎ止めてくれるものは何なのか、日本が対戦する3ヵ国にはなくて日本にはあるもの、それはわれらが中田君の存在でしょうね(爆笑)。これは私の独断であり偏見ですが、中田君はサッカーをナメています。もちろん彼はマスコミもナメているし世間もナメているし監督のオカピーも熱血カズをもナメていますが、彼がサッカーをナメていること、これが彼の一番の長所だと思うし彼を応援したくなる最大の理由です。

 確かダイナスティカップでの対中国戦だったと思いますが、中国に完敗した試合の中で、前半途中、中田君がものすごいドリブル突破で一気にゴール前に切れ込んだ場面がありました。その時私は一瞬、自分でシュートを放つのかゴール前に走り込んでいるカズにスルーパスを出すのかどっちなんだ?と感じたのですが、なんと中田君は斜め後ろから走り込んできた山口にバックパスを出しました。その時山口は自分にパスがくるとは思っていなかったのか意表をつかれたのか、それも単にシュートミスだったのかはわかりませんが、山口の蹴ったボールはゴールを大きくはずれて空しく飛んで行きました。私はそれを見ながらなぜか笑いが止まりませんでした、そして前半を終了した直後、カズが名波に向かって大声で何かわめいている場面を見てさらに大爆笑状態になってしまいました。こりゃあ中田君があの時自分にパスを出さなかったことにプライドを傷つけられたカズが名波に八つ当たりしているんだな、と勝手な推測をとっさに思い浮かべてしまった自分がおかしくてたまらなかったのです。

 たぶん中田君にしてみれば、単にカズが相手ディフェンダーに囲まれていたからパスを出さなかっただけなのでしょうが、カズも関係ないことを名波にわめいていただけなのかもしれませんが、やはり見ているこちらに勝手な推測を許してしまう中田君のプレイは愉快なのです。そして後半の中田君はまるで糸の切れた凧のように味方選手のいないスペースに大ボケパスを出しまくり状態になってしまって、傍から見てもいかにもやる気をなくしている感じが出ていて、これまた大笑いでした。やっぱこれは、自分の思い通りに動いてくれない味方に対する無言の抗議だな(爆笑)。

 やっぱこれですよね。やっぱわれらが中田君はこうでなくちゃいけません。やっぱ中田君には熱血カズは似合いませんよね。やっぱ彼のへなちょこサッカーには“ハズシ屋”城と“パシリ屋”岡野がぴったしです。やっぱ、フランスでもこの地獄の大ボケトリオで敵も味方も大迷惑状態に陥れて、アルゼンチンの優勝への野望とオカピーの勝利への執念を粉々に打ち砕いてほしいものです。がんばれ中田君!君のへなちょこサッカーが日本の唯一の希望の光だぁ!というのは大嘘で、名波・相馬を中心とした堅実な攻めと、井原・秋田を中心とした手堅い守りで、案外まっとうで普通のサッカーを展開するような予感もするのですが、いかがなものでしょうかね。


5月13日

 今回はまず、ドリ・カイミのこの歌詞を紹介します。
吟遊詩人

朝がきた 私は行かなければ
この道は 後戻りできない道
行き交う者のいない道
道にまかせて歩いていく私
吟遊詩人は歌う
心の痛みを
愛のない 途方に暮れた人生の痛みを
吟遊詩人は歌を選ばない
見たとおりの世界を歌う
生きたままの世界に向かって
私が歌うのは 心の痛み
だが この声は
死をも追い払うほど強く響く
遠く離れた人々にも
聞こえるように
愛のない 途方に暮れた人生の痛みが

対訳:国安真奈

トゥーツ・シールマンス「ブラジル・プロジェクト」より

 これを読む限りにおいて、「吟遊詩人」は別に「愛」を歌うわけではなく、「愛のない 途方に暮れた人生の痛みを」歌うらしいですね。しかも、自分勝手に空想した夢物語などではなく、「見たとおりの世界を」「生きたままの世界に向かって」歌うのだそうです。恐ろしいことですね、何の救いもない現実そのものである「心の痛み」を歌うとはね。しかし、実際の曲を聴けば、きっと誰もが感動することでしょう。

 そして、どうやら以上に述べたことは小説についてもいえるらしいです。小説も「見たとおりの世界を」「生きたままの世界に向かって」書かれるものなのではないでしょうか。案外、空想的な夢物語だと思われるSF小説なども、その作品を詳細に分析してみれば、それが書かれた当時の社会情勢や人間関係が導き出されるのかもしれませんね。

 そこで、今回は「批評空間」II-17の中から渡部直己の「不敬文学論序説 2 大逆事件と小説」を取り上げて、小説家がどのように「見たとおりの世界を」「生きたままの世界に向かって」書いているのかを紹介してみましょう。

 そこでは夏目漱石の『こゝろ』を取り上げている部分があるのですが、その小説の主人公の若者の「父」が、明治天皇と同じ腎臓病で死のうとしている箇所について、渡部は当時の新聞発表を紹介しながら次のように述べています。

 このとき、「勿体ない話だが、天子さまの御病気も、お父さんのとまあ似たものだらうな」と口にする病身の人物が、天皇「御不例」を伝える日々の「新聞」を待ち受け、家中の誰よりも早く読みふける光景を指摘するだけでは、十分ではない。問題は、その紙面に実際に何と書かれていたかにある。

(略)二十八日午前九時、岡、青山、三浦拝診、昨夜は御睡眠少なく、午前二時頃より御安静にあらせられず。昨午後十時、御体温三十八度七分、御脈百八至、御呼吸三十二回。今午前六時、御体温三十八度三分、御脈百四至、御呼吸三十四回。同九時、御体温三十八度、御脈百五至、御呼吸三十二回。御脈の性質は前日と御同様、御呼吸不規則の状態は午前二時頃より再び著明なれども、しかし一昨二十六日のごとくはなはだしからず。御舌の御模様は昨日御同様、御食量は牛乳、スープ、重湯、肉汁、その他合わせて千六百九十五瓦(グラム)御摂取遊ばさる。御尿量は二十七日午前六時より二十八日午前六時までに千二百二十五瓦、糖分は少しく増加し、蛋白は少しく減少す。御大便は少量ずつ数回あらせらる。御総体の御模様は昨日と大差なきも、御疲労は少しく加わらせらる。(『時事新報』明治四五年七月二九日・傍点渡部( 註(小池)傍点は表示不可能なので太字で示した))

 右( 註(小池)原文は縦書なのでここでは上を指す、以下同様)は、七月二〇日の「御不例」発表以来、一日三回(二三日よりは五回)の「宮内省公示」による記事の一部である。慢性腎臓炎から尿毒症を引き起こして病臥した七月一四日から三〇日の死去にいたるまで、こうした病状報道が、朝野を挙げて回復を願う者たちの動勢記述とともに新聞紙面に猖獗をきわめ、この先例が大正・昭和の終焉報道に踏襲されたことは周知の事実に属するが、ここで肝要なのは、右のごとき文言それじたいが、「至尊」の聖性を冒涜してきわめて「不敬」なものであることだ。」…「漱石もまた、対象への過度の接近と切断とを本質とする描写を<天皇>に差し向けることは厳として慎まねばならぬ言説空間の支配にある。それに反し、同紙別記事には「御精神恍惚の状態にて、御脳症あらせらる」といった言葉も現れるこの病状描写は、ひとり平然と、その排泄物にまで触れる近さからまざまざと<天皇>の身体を切断記述するのである。」…「かりに何かの伝を得て、「宮内省公示」によらずに同じ記事を掲載する新聞があったなら、その記者も新聞社も、間違いなく「不敬罪」の最高刑罰を受けるだろう。

 とすれば、ここに二つの事実が明瞭となる。すなわち、当時にあっては(現代も?)、<天皇>の身体をこのような克明な描写の対象となしうる点において、国家の権力は、小説家のみならず、みずからの不可侵の淵源と定めた当の皇室そのものにたいしても、時あらば露骨な優越を行使するものであること。そして、その一瞬、世上にあらあらと刻印されたこの優越は同時に、ほかならぬ「大逆」犯たちへの決定的な勝利を告げ知らせたのである。なぜなら、宮下や菅野たちが一命を賭して世人に証明しようとして叶わなかったのは、「天子モ吾々ト同ジク血ノ出ル人間デアルコトヲ知ラシメ」ることであったからだ。一方ではその聖なる神格を暴力的に創出・保護しながら数々の「不敬」犯に次いで右の「大逆」犯をも裁いた当の力が、ここでは逆に、明治天皇爆殺を夢見た民間人の無力を嘲笑するかのように、彼らに成り代わり、その存在が「血」はおろか「御尿」も「御大便」も出ることをみずから明示している。この転倒的一瞬の意義を強く銘記したい。するとここでまず、その一瞬をテクストの中枢に導入する点こそ、『こゝろ』の卓越した選択を(先にいうもうひとつの「黙劇」の端緒として)看取することが出来る。(「不敬文学論序説 2 大逆事件と小説」より)

 ここで渡部が指摘する「『こゝろ』の卓越した選択」とは、次のような「父」に対する描写です。
 父は医者から安臥を命ぜられて以来、両便とも寝たまゝ他の手で始末して貰つてゐた。潔癖な父は、最初の間こそ甚しくそれを忌み嫌つたが、身体が利かないので、己を得ずいやいや床の上で用を足した。それが病気の加減で頭がだんだん鈍くなるのか何だか、日を経るに従つて、無精な排泄を意としないやうになつた。たまには蒲団や敷布を汚して、傍のものが眉を寄せるのに、当人は却つて平気でゐたりした。尤も尿の量は病気の性質として、極めて少なくなつた。医者はそれを苦にした。食慾も次第に衰へた。たまに何か欲しがつても、舌が欲しがる丈で、咽喉から下へは極僅かしか通らなかつた。好な新聞も手に取る気力がなくなつた。(「中」・「十三」)
 この件について渡部は次のように述べています。
 すなわち、先の意味で国家権力の比類ない発言として披露された「宮内省公示」文書の延長として、いっそう「不敬」な細叙を試みること。事実、ここに読まれるのは、同じ病気で同じように死のうとする者の、「御大便」や「御尿」や「御精神恍惚の御状態」のさらに具体的な描写ではないか。その具体性にかけて、例外的転倒として世の小説家に差し向けられた権力の優越にたいし、漱石はここで、当の小説家としての叛意を、しかも、上方から下された優越線そのものに密着して逆に、下から上へ鋭く投げ返すのだといってよい。とすれば、同じ鋭さが「宮内省公示」のいまひとつの側面、「大逆」犯への勝利宣告としてきわだったその一点にも無縁であるはずはない。少なくともここではそう読める。(「不敬文学論序説」より)
 つまり、ここで渡部の読みに従うなら、「不敬罪」を暗黙の脅しとして利用した権力による国民の天皇に対する自粛ムードの強制に対して、夏目漱石は小説の中で天皇を「父」に見立てることによって、「宮内省公示」から推測される、実際の、重病の寝たきり老人であり、糞尿まみれのボケ老人である天皇の姿を描き出すことに成功したわけですが、まさにこのような行為こそが、先に述べた「見たとおりの世界を」「生きたままの世界に向かって」書くことなのではないでしょうか。ここでいう「見たとおり」とは「宮内省公示」が客観的に示している天皇の病状そのものですし、当時の検察当局がでっち上げた「大逆事件」での大量処刑や、「不敬罪」での検挙や、天皇の危篤状態での自粛ムードの強制等による重苦しく閉塞した社会状況に当てはまるでしょう。

 渡部直己は最後の部分でこのように述べています。

 もとより、明治の生活者・知識人としての漱石が、みずから「天子」と慣称するその存在への愛着を示しつづけたことは、諸家の指摘するとおりである。当時としては卓越したその「個人主義」が、あくまでも「一君万民」の枠内に収まっていたことも、たしかな事実である。だが特筆すべきは、そうした人間が、ほかならぬ小説家として世に立ちつづけるとき、いわば生きること書くこととを同時に貫く力に対し、不意の応接を余儀なくされる姿である。鴎外についても漱石についても、すべてが意図的なものであったと強弁するつもりはないし、また、その必要も感じない。必要なのは、たとえそれがなかば以上無意識のものであったにせよ、こうした応接じたいのなまなましい歴史性から目を離さぬことである。(同上)
 ここで渡部が述べている「生きること書くこととを同時に貫く力」が「見たとおりの世界を」「生きたままの世界に向かって」書くことではないかと思うわけです。

 最後に、意外に感じるかもしれませんが、あの佐野元春にも「見たとおりの世界を」「生きたままの世界に向かって」歌った曲があることに最近思い当たったので、その曲の歌詞を紹介しておきましょう。

誰かが君のドアを叩いている

街角から街角に神がいる
清らかな瞳が燃えている
光のなかに
闇のなかに
誰かが君のドアを叩いている

賑やかな街路に手を広げて
みせかけのワルツをすり抜ける
光のなかに
闇のなかに
誰かが君のドアを叩いている

何かやりきれない気持ち 溢れて
君を悲しませるために
生まれてきたわけじゃない

賑やかな街路に手を広げて
でたらめな言葉を並べてる
光のなかに
闇のなかに
誰かが君のドアを叩いている

何かやるせない気持ち こぼれて
君を戸惑わせるために
生まれてきたわけじゃない

壊れた夢にせつなく抱かれて
地下鉄の出口をかけぬける
光のなかに
闇のなかに
誰かが君のドアを叩いている

太陽 溶けた空に高く
何もかもすべて焦がしておくれ
Sha la la la la…
Sha la la la la…

何かやりきれない気持ち こぼれて
君をさまよわせるために
生まれてきたわけじゃない

街角から街角に神がいる
清らかな瞳が燃えている
光のなかに
闇のなかに
誰かが君のドアを叩いている
誰かが君のドアを叩いている
誰かが君のドアを叩いている

Words&Music:佐野元春

 これを読んでいる皆さんは身に覚えはありませんか。街角で宗教の勧誘活動をやっている、「清らかな瞳が燃えている」方々に呼び止められた経験はありませんか。そんな時「何かやりきれない気持ち」が「溢れて」きませんでしたか。そんな時、心優しい佐野元春は「君を悲しませるために生まれてきたわけじゃない」などとキザなセリフ(心の痛み)を吐いてしまうのでしょうか(笑)。

 そういえば、オウム真理教の皆さんは、「賑やかな街路に手を広げてでたらめな言葉を並べて」いたわけですね。そして、地下鉄サリン事件の実行犯の方々は事件当日、「壊れた夢にせつなく抱かれて地下鉄の出口をかけぬけ」たわけでしょう。

 別にこの曲が世に出た1992年当時、佐野元春が一連のオウム事件を予言したとまではいいませんが、佐野は当時の宗教ブームを無意識の内にものにして明るいポップなサウンドに乗せて歌ってしまったのかもしれませんね。

 佐野元春のデビュー曲は「アンジェリーナ」という曲で、ブルース・スプリングスティーンの「Born To Run」を思いっきりパクったやつで、ほんと、そのパクリ方がクサくて思わず赤面しちゃうような曲なんですけど、しかしその後佐野元春はさまざまな試行錯誤を経て(そういえばスタイル・カウンシルのパクリでそのビデオ・クリップまでパクった曲もありましたね)現在に至っているわけなんですけど、そのポップなセンスは決して嫌いではありません。

 しかし世の中には佐野元春よりさらにしょうがねー奴がいまして、ブルース・スプリングスティーンをパクった佐野元春をさらにパクってデビューして、やがてそいつは「若者の教祖」としてマスコミに祭り上げられるわけなんですが、そいつの名は尾崎豊と申します。そして、佐野元春が苦労してブルース・スプリングスティーンのパクリから脱却したのに対して、尾崎豊は「Born To Run」のままで死にました。ようするに、やってる音楽はたいしたことないけど、ちょっとルックスがカッコよくて若くして死んじゃうと、世間(マスコミ)は「悲劇のヒーロー伝説」をでっち上げて屍を啄ばむ「ハゲタカ商売」に精を出しちゃうわけですね。悲惨ですね。


5月4日

 一般的にいって、人は悲しいときに泣く(ごくまれにうれし泣きをする人もいるが)。「「死」はそれだけで人の涙を誘う」わけではない。その「死」に対して悲しく感じた場合に涙を流す人がいるだけだ。それは小説の中の架空の死の場合でも同じである。それから、「「生」は「死」の始まりであ」るわけがないし、「「死」は「再生」への序章」であるわけでもない。「生」は「生」であり、「死」は「死」であるだけだ。生物には「生」と「死」の二種類の状態がある、それだけだ。「「死」を単に涙を誘う道具立てとして利用」しないならば、以上のように述べればいい。

 しかし、こう述べてしまうと感動がない。まあ「死」を「お涙商売」として成り立たせようとするのなら、悲しみの涙を感動の涙に転化させないといけないわけですね。では、人は何に感動して涙を流すのか、波瀾万丈の人生である。ようするに、小説家浅田次郎は「鉄道員(ぽっぽや)」のなかで波瀾万丈の人生を描き出すことによって「生」と「死」を結び付け、多くの人に感動の涙を流させ、結果、「お涙商売」として成功したわけですね。しかし、私は感動の涙なんか流したくないので(はずかしー!)、「鉄道員(ぽっぽや)」など読みたくもないし読まないだろう(ひでー!)。

 そうなのである、私は「浅田次郎の短編を、その巧みさ故に「お涙商売」と斬って捨てるスレっからしの本読み」なのである。いや、実際に本も読まずにこんなことを書いているわけだから、「スレっからしの本読み」よりもさらに悪質かもしれない(しょーがねー奴)。では何を読んだかといえば、これを読んでなんとなくこんなことを書いてみたまでです。今回は書くネタがないので、リンクしている N.TONOSAKI's Personal Station のここからリンクをたどって件の文章に行き当った次第です。うーむ、こうやってリンクなんかしちゃうと、いかにもインターネットって感じが出ますよね(笑)。やったー!これでボクちゃんも「ウェブ・マスター」だぁ(爆笑)!

 これでよしと、ここまで書けばじゅうぶんでしょう、おふざけはこの辺で終わりにして本題に入りましょう。これでモーリス・ブランショのこの文章を紹介することができます。

 批評とは、いかにも面倒な仕事である、批評家という人種は、ほとんど読まない。これは必ずしも時間がないからではなく、書くことばかり考えているから読むことが出来ないのである。批評家は、時としては込み入らせながらも結局は単純化し、あるいは称讃し、あるいは非難し、あるいはまた、何らかの評価判断の公正さや、おのれの豊かな理解力による好意あふれた断言を、書物の持つ単純さに置きかえることによって、そういう単純さからいそいで身を引きはなすのだが、これは、焦慮の念が、彼をつき動かすからなのである。また、一冊の書物を読みえぬ場合、当然彼にはすでにそれまでに二十冊、三十冊、さらにもっと多くの書物を読みえなかったという経験があるにちがいないからである。一方では彼の注意を奪い去るものでありながら他方彼を無視するものでもあるような、この無数の読みえなかった経験が、彼を、あらゆる書物のなかのどれひとつ読まなかったがゆえにおそらくはおのれ自身に衝突することとなるあの瞬間へ到りつかせるために、或る書物から別の書物へ、ほとんど読んでいない或る書物からすでに読んだと思っている別の書物へ、つねにいや増す速さをもって移行させるからである。このような、彼の彼自身との衝突は、或る無為の状態において起るのだが、この無為こそ、彼自身がずっと以前から作者になっていない場合には、ついに彼に、読み始めることを許してくれるものだろう。(『来るべき書物』 III 未来なき芸術について 5 対話の苦悩 モーリス・ブランショ著 粟津則雄訳 現代思潮社)
 私は別に「批評家」などという大袈裟な「人種」ではありませんが、これを読む度に冷や汗が出ます。なぜかといえば、上の文章の内容がすべて自分に当てはまるのではないかという「焦慮の念が」、私を「つき動かすからなの」です。その「焦慮の念」に「つき動か」されて、いままでこのような場でいいかげんな文章を適当に書き散らかしてきたのかもしれません。まあ、このような私の私自身との衝突が、ついに私に、「読み始めることを許してくれるもの」かどうかはわかりませんが、ここでは自分のことは棚に上げて、件の文章の作者さんについて上の文章を当てはめてみましょうね(ひでー!)。

 まず第一に、彼は「書くことばかり考えているから読むことが出来ない」。彼は世間では深刻な問題だと思われているらしい「死」についての自分の意見を書こうと必死であるようだ。批評する書物とは直接関係のない、荒木経惟の死んだ妻の写真集をめぐる荒木と篠山紀信との対立のエピソードを持ち出し、「「死」はそれだけで人の涙を誘う。ましてや親友の妻であり自分にとっても親友だった女性の「死」だ。涙という表層的な現象以上の衝撃を、きっと篠山に与えたことだろう」と、彼自身の考え(願望)でしかない希望的観測をあたかも篠山の心境のごとく書く一方で、実際の篠山と荒木の発言を「読むことが出来ない」。篠山は、「親友だった女性の「死」」に対してではなく、その写真に対して「お涙ちょうだいだよ」と非難したのであり、対する荒木も、その写真について「商売って言われて頭にきた」のだ。つまり二人の対立は彼らの仕事でもある写真をめぐっての対立なのであり、この場合、彼の意見とは裏腹に「死」だとか「涙」は写真の素材としての「表層的な現象以上」のなにものでもない。そしてその写真集についても、またしても「「生」は「死」の始まりであり、「死」は「再生」への序章であることを示す重要なパートとして、まさしく「生きて」来るのである」と、自分の意見を書いてしまうのだが、ここでは、彼は写真自体の特徴を「読むことが出来ない」。写真そのものは静止画像であり、そのなかでは時間は永遠に止まっている。その静止物に時間とともに変動する「生」を当てはめること自体に無理がある。比喩として「生きて」いるというのなら、せめてビデオや映画などの動画に限らないと説明に説得力が出ないだろう。

 それから、「「死」はあらゆる創作者にとって取り扱い要注意のテーマだ」などと、さらに彼自身の勝手な意見を書き続けるのだが、これには感動の涙などとは無縁の、無造作に人がバタバタ死んでゆく小説(探偵小説など)が存在する事実に容易に気付くし、小説自体に特権的な「取り扱い要注意のテーマ」など存在するはずもなく、「死」を含む世の中のありとあらゆる現象がこれまで小説の題材となってきたし、これからもなりうることを彼が知らないとすると、「当然彼にはすでにそれまでに二十冊、三十冊、さらにもっと多くの書物を読みえなかったという経験があるにちがいない」のである。ようするに彼は、最初に意表を突いて荒木の妻の「死」にまつわる挿話を導入して「時としては込み入らせながらも結局は」「死」という「取り扱い要注意のテーマ」に「単純化し」、この小説を「「死」を対比としての「生」を感じさせ、「新生」への道筋を指し示す要素の1つとして描」いていると「称讃し」、逆に「「死」を単に涙を誘うだけの道具立てとして利用する」ことは「非難し」ているわけだが、これは結局、自分の想像力を使って「生」への感動を飾り付けることによって、「死」というなんの想像的飛躍もない無表情な現実から逃避しているだけではないのか。まさか彼は「輪廻転生」を夢見ているとでもいうのか。思わず、ここでの彼の小説の評価判断の基準は「悲しみの涙はだめだが歓喜の涙なら良い」などと「単純化」してしまいたくなってきたが、「お前こそ書物を読めない」などと批判されそうだが、つまり、「彼をつき動か」している「焦慮の念」とは、自分が読んで感動した小説が「お涙商売」とけなされることへの漠然とした不安であり、被害妄想なのである。それを糧として彼はこの文章を書いているようにしか思えない。しかし、その小説からいくら彼のように「与えられ、押しつけられる「死」と「憎」によってではなく、内部から沸き起こる「生」と「愛」への喜び」を受け取ろうと、否定される悲しみの涙を流そうが肯定される歓喜の涙を流そうが、そんなお節介な「人間讃歌」の感情論とは関係なく、人は必ず死ぬのである。私はそんな「死」にいちいち悲しんだり感動したりするのがいやなのだ。だから私は浅田次郎の「鉄道員(ぽっぽや)」がそこに書かれてある内容通りなら、読みたくもないし実際読まないだろう。


4月29日

 唐突ですが、私は新聞を定期購読していません。ここ十数年間、購読の勧誘はすべて断ってきました。なぜか?それは、新聞の紙面上に書かれてある内容と、それを実際に売りさばく勧誘員の横柄で押し売り的な言動との間に、受け入れ難いギャップを感じてしまうからです。新聞を読まないと社会から孤立してしまう、などと説教されてまであんなものを購読したくはありません。さらに唐突ですが、私はNHKに受信料を払っていません。これは、約十年前、前の天皇のヒロヒト氏が死亡したときに、連日連夜の天皇翼賛報道に怒り爆発してしまって、その年の4月に受信料の口座引き落とし契約を解約してそのまま現在に至っている次第です。それ以来、受信料の徴収人とは毎回のように口げんかとなってしまい、はっきり言ってこんな自分にはうんざりしています。ようするに、私は、単なる青臭い正義漢なのでしょうか、それとも、世間のシキタリ(新聞を毎日読んだりNHKに受信料を払ったりすること)に逆らうヒネクレモノなのでしょうか。

 で、この間、日本経済新聞を読んでいたら、第一面のコラム「春秋」で、一見もっともらしく、その実胡散臭いことが述べられていたので、今回はそれを取り上げてみます。まずはその全文を勝手に紹介。

 橋本竜太郎首相はハーバート・フーバー米大統領か。米国のマスコミなどでよくこう言われる。いやフランクリン・ルーズベルト大統領だという説もある。日本経済が深刻な複合デフレに陥るなかで、一九二九年の大恐慌時になぞらえて最近、あちこちで聞く話題である。

 橋本・フーバー説はこうだ。フーバー大統領は大恐慌時にも財政均衡にこだわって経済政策を大きく間違えた。おかげで米国経済を大不況に突入させ、世界大不況を招いた。不況の進行でさすがに減税などの手を打ちはしたが、小出しで渋々だったようだ。その証拠に交代の際のルーズベルト次期大統領への書簡でも、ご丁寧に財政均衡こそ重要だとし、間違っても公債に依存することのないよう念を押している。

 橋本・ルーズベルト説はこうなる。ルーズベルト大統領もフーバー大統領と同様、もともとは財政均衡論者だった。大統領選では財政均衡を踏み外したとフーバー大統領をなじったこともある。しかし、不況が深刻化するなかでニューディール政策を掲げて大胆な政策転換を実行する。経済通ではなかったが、当時の有力メディアであるラジオの「炉辺談話」を通じて米国民にじゅんじゅんと説き、信頼感を与えた。

 さて、橋本首相はフーバー大統領か、それともルーズベルト大統領か。どちらに似ているかはこれからの首相の行動しだいの面もある。その答えは、いずれはっきりしてくる。(日本経済新聞 「春秋」 4月23日)

 まあ、毎日のように日経新聞を読んでいた高校時代の自分だったら(私の実家では日経新聞と地元のローカル紙(上毛新聞)をとっていた)、この程度の内容でも感動してすっかり洗脳されちゃって、橋本首相よ、日本のルーズベルトになれぇ!(はずかしー!)なんてマジで思っちゃったりするんでしょうね(爆笑)。

 でもさあ、よくよく考えてみると、ちょっとおかしくないかあ?だいいちこの作者は「米国のマスコミではよくこう言われる」なんて述べて、この説自体が自分ひとりがそう思っているのではなく、いわゆる「世論」であることを周到に説いているつもりみたいなんだけど、さらに「最近、あちこちで聞く話題である」とか述べて、これでもかこれでもかと念を押しているんだけど、そんなに話題になっているのなら、いったいアメリカのどこの誰が話題としているのか、具体的に人名やらメディア名やらを誰か教えてくれませんかねえ。自分にはこの説は初耳だったんですけど、やはり新聞を毎日読んでいないから世情に疎いのかなあ。新聞を読まないと社会から孤立しちゃうのでしょうか(笑)。

 それで、書かれてある内容にいちいちイチャモンをつけていくと、次は、「日本経済が深刻な複合デフレに陥るなかで、一九二九年の大恐慌になぞらえて」しまうそうだけど、あのー、「一九二九年の大恐慌」って、いわゆる「世界大恐慌」のことでしょう?今現在の状況は「世界大恐慌」状態なんでしょうか?アメリカは現時点では好景気ですよ。「世界大恐慌」が起こるとすればこれから起こるんじゃないですか?じゃあ、どんなにがんばっても橋本首相は現時点では「日本のルーズベルト」にはなれないですね。それもそのはず、ルーズベルトが「ニューディール政策を掲げて大胆な政策転換を実行」したのは「世界大恐慌」が起こってから数年後のことだもんね。じゃあ橋本首相が「日本のルーズベルト」になるにはどうしたらいいのか、それにはまず日本が率先して「世界大恐慌」のきっかけとなることが必要でしょう(爆笑)。がんばれニッポン!橋本竜太郎が「日本版ニューディール政策」を大胆に実行して偉大な政治家として歴史に名を残すためには「世界大恐慌」が必要不可欠だぁ!そうだぁ!そのためには挙国一致内閣が必要だぁ!国民の力を総結集させて日本が「世界大恐慌」の牽引車となるべきだぁ!火の玉ニッポン!一億総火だるまになってこの偉大なる聖戦を戦いぬこうじゃあ〜りませんかぁ!これが唱えられるべき橋本首相の「炉辺談話」だぁ!すいませ〜ん、なんとなく脱線しちゃいましたぁ!

 気を取り直して、次は、「フーバー大統領は大恐慌時にも財政均衡にこだわって経済政策を大きく間違えた。おかげで米国経済を大不況に突入させ、世界大不況を招いた」そうだけど、これも時間の順序を意図的に捻じ曲げているよね。「フーバー大統領は大恐慌時にも財政均衡にこだわっ」たおかげで「米国経済を大不況に突入させ」たんじゃなくて、「大恐慌時」その時点で「米国経済」は「大不況」なわけでしょう。まったく、ほとんど同じ意味の「大恐慌」と「大不況」という言葉を意図的に使い分けて、不況になった原因をフーバー大統領の失政に単純化してしまうところが悪質だよね。まあこれは暗に現在の日本政府の「財政均衡」政策を批判するためのレトリックなのでしょうけど。

 そして、最後の「橋本首相はフーバー大統領か、それともルーズベルト大統領か」、だけど、そもそもルーズベルトとフーバーを「善」と「悪」、「有能」と「無能」の二項対立に分けて論ずることなんて無意味だよ。歴史の因果関係からいえば、フーバーが粘り強く「財政均衡」政策を続けて、それが行き詰まったからこそルーズベルトが「大胆な政策転換を実行」できたわけでしょう。「ルーズベルト大統領もフーバー大統領と同様、もともとは財政均衡論者だった」そうなのだから、フーバーがいなけりゃルーズベルトがフーバーの代わりに「財政均衡」政策を続けていたところでしょうよ。それがいったん行き詰まって、袋小路のどん底状態にならなけりゃ「大胆な政策転換」なんて実行できるわけがないよ。今の日本の中途半端な不況(完全失業率3.9%のどこが「大不況」なんですかね)では中途半端な政策転換しかできないのは当然でしょう。それをルーズベルトの再来なんかを期待しているんだから無い物ねだりもいいところだよ。

 そしてさらに、このコラムは重大な事実を見落としている(意図的に触れようとしないのか)。それは、ルーズベルトは別に「世界大恐慌」を未然に防いだわけではないということだ。さらにいえば、ルーズベルトは「第二次世界大戦」を未然に防いだわけでもないし、ナチスドイツの「ユダヤ人大虐殺」を未然に防いだわけでもない。それはリンカーンが「南北戦争」未然に防いだわけではないのと同じことだし、またそれは、戦後日本の名宰相といわれる吉田茂が太平洋戦争で日本の国土が焦土と化したのを未然に防いだわけではないことにもいえるし、今マスコミにもてはやされてる弁護士の中坊公平が住専の経営破綻や豊島の産業廃棄物の不法投棄を未然に防いだわけではないことにもいえる。つまり、これらすべての人々にいえることは、すでにこれ以上事態が悪化しようのない、とり返しのつかない最悪の状況に陥っているからこそ、大胆な提言や行動が可能な状況が生まれるわけだ。

 たとえば中村正三郎氏のコラム動かないコンピュータ(On The Move #42)によれば、大規模なコンピュータ・ネットワーク・システムの構築を請け負う会社では、システムの構築が破綻をきたした時のために「各社とも、火消しのエースを抱えている」そうだ。

 それから各社とも、火消しのエースを抱えていること(もちろん火消し部隊も抱えている)。なんだかプロ野球みたいだね。最後は、あいつに頼るしかない、となって夜8:30に登場するわけです。でも火消しといっても役割は大きく違う。プロ野球のリリーフエースは、勝っている試合を逃げ切るために投入されるけれど、システム開発のリリーフエースは、大負けしている試合を勝つために投入されるわけ。

 どうやってそういうことが可能となるのか。これは先達の言葉でもそうだし、ぼくらの経験則でもそうなんだけど、一度全部捨ててからやり直す。破綻プロジェクトを成功にもっていくには、これしかない。

 建て直した事例はいずれも、それまでの時間と金と成果物を捨てている。そして最上流にまで戻って、分析・設計・要件定義からやり直している。野球の比喩でいえば、なんと8回までに10対0で負けている試合で、突然「これじゃ勝てないから、こんな試合なしにして、もう1回やり直そうぜ」とリリーフエースは言い出すわけ。野球でこんなこと言ったら、相手チームもファンも怒り出すに決まっている。だがシステム開発ではこれをやらないと建て直せないの。もちろん、相手会社もそれまでプロジェクトをやってきた連中も、「いままでやってきたことを無駄にするのか。金をドブに捨てるのか」などと、すごく反対する。そのときに「最初からエラーばかりやって失点してきた奴が偉そうにいうな。いままでやってきたことを無駄にするのかだと。初手から間違っていたから、お前らがやってきたことはずっと無駄だったんだよ。それに気づかなかったお前らが馬鹿。だから捨てて当然。金も最初からドブに捨てていたんだから、いまさら驚くには値しない」とまあ、ほんとにこういう啖呵を切るかどうかは別にしても、これをやれる奴がリリーフエースなんだね。もちろんユーザ企業の経営判断がないとだめ。何億という金と何年という時間を捨てることになるから、経営トップでないと決断できない。大変なことですよ、これは。(PC WEEK ONLINE JAPAN On The Moveより)

 この場合は「金をドブに捨て」て開発予算が大幅超過の大赤字になることが必至の状況なのだから、リリーフエースであると同時に、試合を壊さないための敗戦処理ピッチャーの側面も持っているかもしれない。まさにこのことは、世界大恐慌時のルーズベルトや住専管理機構での中坊公平に当てはまるし、吉田茂にいたっては文字通り「敗戦処理」が仕事だったのである。しかしこれらが実際に機能し始めるのは、これまでやっていたことがいったん破綻してどうにもならなくなった後でのことなのだ。それなのに、日本政府の財政再建策の見直しと総合経済対策が決定した後に、それを日経新聞の第一面のコラム「春秋」では次のように揶揄している。
 水戸黄門でも遠山の金さんでも、マンネリにもかかわらず人気があるのは、予定調和の安心感があるからだろう。黄門様と助さん、格さんが悪代官を懲らしめに乗り込む。代官一味の抵抗にあうが、一通りの立ち回りの後、「静まれ、静まれ」と印ろうを取り出して、一件落着。

 一時間のテレビ番組で四五分ほどたったころ。そろそろ印ろうがでるぞと視聴者が期待するところで、「このお方を誰と心得る」が始まる。このタイミングが大事なのだ。遅れれば代官一味につけ入るすきを与えかねない。まして、遅れたうえに自信なげにチラッと見せても、相手は恐れ入らない。そんな黄門様は安心してみていられない。

 御存じ、橋本竜太郎首相演じる永田町の黄門様。ご本人にタイミングがわからないのか、助さん、格さんがいうことをきかないのか、遅れに遅れて、ようやく出した総額十六兆円の総合景気対策。「静まれ、静まれ」と見えを切りたいところだが、悪代官ならぬ景気の低迷を放置しすぎて、黄門様も頼りにならないとの声まで聞こえてくる。

 「景気がいいっていわれても、多くの人は自分は関係ないと思うじゃない。それが不景気だと、自分も同じだと思えるものね」(永六助著「商人」)。そんな消費者心理に、出し遅れの印ろうの効果のほどは。今日から十一連休という人もいるゴールデンウイーク。特別減税の積み増しをあてに、せいぜい行楽地で消費回復に協力しますか。(日本経済新聞 「春秋」 4月25日)

 まったく、予定調和のテレビ時代劇のように台本通りにことが運んでいれば不景気なんか起きっこないぜ(笑)。こんな稚拙なコラムを堂々と第一面に載せているようじゃヤバいんじゃないの、日経新聞。でも、余裕こいて「せいぜい行楽地で消費回復に協力しますか」なんていっているところを見ると、きっと、これを書いている奴は不景気からは程遠い、「高学歴高収入」の特権階級の人間なんだろうね。まあ、こんなアホな新聞社が倒産して、こういう馬鹿野郎が失業して路頭に迷うようになった時が、真の意味で「日本版ニューディール政策」を実施する絶妙なタイミングなんじゃないですか(爆笑)。確か本家のニューディール政策では、街頭にあふれかえった失業者たちを大規模土木工事であるダム建設の土方として駆り集めたそうですね。じゃあ、たとえば「日本版ニューディール政策」では、失業者を原発建設にでも使えばいいじゃないですか。通産省によると地球温暖化防止のためには原発を最低でもあと20基造らなければならないそうですからね。そうですよ、それに危険はみなが平等に分かちあわなくちゃいけませんから、各都道府県ごとに原発を最低1基は造らなければいけないような法律を作ればいいんですよ(笑)。さしずめ沖縄県なんかは、名護市沖合いに世界初の海上原発でも造ればいいし、東京都は当然ごみ捨て場の日の出町に造ることになるよね(これは非道なことか?)。

 そういうわけで、今回もいろいろ嫌みなことを述べちゃったけど、最後に、ルーズベルト待望論者の皆さんへ、実際のルーズベルトが生きた時代がどのような時代であったのか、蓮實重彦と柄谷行人の対談の中から、蓮實重彦の言葉を紹介しておきましょう。

 僕も柄谷さんとほぼ同じ実感を持っています。戦後五十年という数字には非常に居心地の悪い思いを抱いていて、そうした精神風土の蔓延にさからうには、ほとんど第二次世界大戦というものは存在しなかったと主張しなければならないほどだとさえ思っています。それは、もちろん、侵略戦争としての過去をなかったこととして葬り去りたいという視点に同調するのではなく、むしろ、それをより鮮明なものにする視点を持たねばならないという意識からくるものです。つまり、一九四五年八月十五日という敗戦の日付が作る文脈ではなく、そうした文脈をも包み込むより大きな文脈を作らねば、あの戦争は我々にとって具体的に存在することがなくなってしまうし、何かが持ち越されただけだという印象だけが強くなってしまうと思うわけです。

 今、柄谷さんが三四年くらいまでさかのぼるべきだといわれたけれど、僕もその説にはまったく賛成です。四五年を起点として戦後を考えることは、それ以前にあったすべての矛盾を終戦というイデオロギーで解消してしまうことになりかねないからです。事実、今いわれたように、日本の戦後文学を支えていたのは紛れもなく一九三〇年代の世代だし、外国の事情を見れば、サルトルだって、実は戦前派の生き残りなのです。僕個人としては、合衆国とソ連の映画史を考えているうちに、一九三五年ごろを境に到底否定しがたい並行関係が存在していることに気づき、それが世界的なものだと改めて認識せざるをえなくなった。

 そのときに何が起こっていたかというと、代表制が危機に瀕したわけです。ごく端的には、合衆国の大統領制の危機だといってもよい。それにつれて、さまざまな意味での代表制が世界的な危機に瀕した時代が一九三四年から三五年にかけてだと思うのですね。そして、それが明らかに今日まで持ち越されている。こうした視点は、戦後五十年というスローガンからは出てきません。

 たとえば、三三年から三四年にかけて、アメリカではルーズベルトが大統領になって新たな経済政策を遂行している。これは柄谷さんもしばしばいっていることだけれど、そこには一種の大政翼賛会的な風土があるわけで、ルーズベルトは、右翼的な集団から共産党シンパまで、あらゆるものを代表してしまった。それまでは共和党的な体質にあったハリウッドのメジャー系の大会社ワーナーまでが、ルーズベルトの大きな顔写真をミュージカル映画に登場させて、その当選を祝っているんです。つまり、緩やかなスターリニズムともいえるような、広い意味での社会主義的な一党独裁という形になってしまっていて、これはドイツでもソ連でもそうだし、日本の大政翼賛会もそれに非常に似た形であって、それが成立した時代から我々がどれだけ隔たっているかということを問題にしなければいけない。数字でいえば六十年だけれども、その六十年という隔たりにもかかわらず、細川政権の樹立いらい、にわかには承服しがたい奇妙な反復が今の日本にはあるし、世界史の中にもあるわけです。

 一九三五年から始まるのは、結局、だれが何の権利で何を代表しているのかということが非常に問いにくくなってきた時代である。同時に、代表しているはずの人間も、代表しつつある自分のステイタスを深く問い詰めることなく、代表というシステムの上に座っているだけの時代だということですね。今日の状況を分析する場合でも、米ソの冷戦が終わったということにとどまらず、代表制の危機という形でとらえなおさないと、奇妙な反復を増幅させるばかりだろう。そうした状況と文学の問題とをからめてみると、先ほどの区別でいう政治と美学の対立のなかで、美学につく人たちは、あらかじめ代表制というものを捨象しちゃっている。

 美学とは何か、詩(ポエジー)とは何かというと、それは、ある雰囲気なり何なりを総体的にとらえて表現するということであって、その総体性が、当然その中に代表制を成立させるための前提としての矛盾なり差異なりというものをすべてなかったことにしてしまう姿勢のことでしょう。差異を無視してすべてを総体的にひっくるめてしまうという姿勢は、日本の大政翼賛会もそうであるし、アメリカのニューディール政策もそうであるし、ソ連のスターリン主義もそうである。いずれにしても代表制をあいまいに否定する動きだということですね。この状況がいつまで続いたのか。

 ついこの間、理由があって、川端康成がノーベル文学賞を受賞したときのストックホルムでの講演を読み直してみたわけです。すると、これがすごいものなんですね。つまり、人間と自然との葛藤というのがなくなり、両者が矛盾なく融合しあっている形が「もののあはれ」であり、それこそが日本の美だという話であって、これはほとんど日本浪漫派と同じことをいっている。しかも、それがどの時期にいわれたかというと、一九六八年なんです。まさしく、六八年というときにそれをいっているわけですね。(『群像』 1995年1月号(講談社) 特集 戦後50年の時空間から 対談 「文学と思想」より)




4月22日

 しかし、なんだかんだ言ってもよくここまで続けてきたもんですね、ほんとに。しかし、なんなんですかね、これは。これらの文章は一体どのようなカテゴリーに属するものなのでしょうかね。わかりませんね。でも、例えば、今まで書いてきた中で一番面白かったものは?と聞かれれば、やはり去年の9月28日の回(彼の声2)なんか結構気に入っているんですよ(笑)。自分としては、最後の「ボクちゃんのガラスの心を傷つけないでくれよ」のところで読者の皆さんの大爆笑を期待してたんですけど、どうですか?笑っていただけたのでしょうか?しかし、実を言いますと、あの文章には元ネタがあったんですよ。あの文章は、イアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズのアルバム「ドゥ・イット・ユアセルフ」の中のこの曲をパクったものなんです、はい。
ダンス・オブ・ザ・スクリーマーズ

誰かがお前のために叫んでる
Whaaaaa!
列の最後から聞こえる
Wah!Wah!Wah!
せめて半分のチャンスをくれたらと思う
それがないなら俺が
踊らせてやろう

器量の悪い奴に、小さいだけの奴
役に立たない奴らは行く場所がないと言う
俺達は最終を逃した
バスに間に合わなかった
俺達は心を打ち明けない
話し合う事もない

器量のいい奴もいる
要は現実を直視することから始まる
ヘルメットが割れちゃヒーローにはなれない
食いぶちさえ見つけりゃしめたもの
そんな情熱を俺達は持ってない

だから俺は君に向かって叫ぶのさ
Whaaaaa!
おかしな季節だ、空は青い
Wah!Wah!Wah!
俺が嵐を後押ししてるとは思わない
俺は夢中になって
踊らせてやろう

踊れ!

間抜けな奴もいれば、内気な奴もいる
目を見るだけで震え上がる奴もいる
哀れなものさ、努力しているのに
俺達がこんな生い立ちなのに
庭つきの家に生まれる奴もいる

だから俺はお前のために叫ぶ
Whaaaaa!
手がかりがないから
Wah!
せめて半分のチャンスをくれたらと思う
それがないなら俺が
踊らせてやろう

Whaaaaa!

イアン・デューリー/チャズ・ジャンケル作
歌詞対訳:Kuni Takeuchi

 曲そのものはイカしたロックン・ロールで、曲の中でイアン・デューリーがほんとにギャーギャー叫んでいるわけなんだけど(笑)、これが一体何を歌ったものなのかわかるかな?これは身体障害者を歌ったものらしいんだ。実はイアン・デューリー自身が身体障害者なんですよ。幼少時に小児麻痺にかかって左足と左手が不具になっているそうだ。写真を見ると彼の左手はいびつにねじくれている。そして歌詞の内容といえばこの通り、実に荒涼としたものだ。救いは何もない。パラリンピックなんかからはかけ離れた厳しい現実を彼は歌っている。そして、そこからこんな風に障害者差別の言葉が導き出されるわけだ(笑)。

 彼の左手がいびつにねじくれているように彼の歌詞もねじくれている、彼の心もねじくれている。彼の性根が邪悪であることは、他ならぬ彼の歌が証明している。

 彼にはこんな曲まである。

セックス&ドラッグ&ロックン・ロール

セックスとドラッグとロックン・ロールは
俺の頭脳と肉体が必要とするもの
セックスとドラッグとロックン・ロール
イカレた生き方を貫きな
じゃなきゃ窓から放り出すことだ
人生の知恵ってものさ
俺は知っている
それ以外のいろんな生き方も
なんて素敵なショウなんだ
アンタが仕事以外のことを知らない男なら
きっと嫌いだろうけどね

セックスとドラッグとロックン・ロール
セックスとドラッグとロックン・ロールは
本当に最高さ
一部の空きもないようにめかしこめ
古い服は切り裂くんだ
残念だけど
俺はウォルター・ミティ氏の服を着る
この燕尾服を見ろよ、彼はサイモンと呼ばれていた
きっと似合うさ

ちょっと助言しておこう
君なら歓迎だ、まあ楽しんでくれ
値切ったりするなよ
お里が知れるぜ
奴らは巧妙な策略を練って
何食わぬ顔で君を陥れるだろう
自由という名のケーキに食らいつけ
セックスとドラッグとロックン・ロール

イアン・デューリー/チャズ・ジャンケル作
歌詞対訳:Kuni Takeuchi

 これが邪悪ですか?この程度で邪悪ですか?「ネチケット」を推進するインターネット風紀委員の皆さんは怒り爆発ですか(笑)?日本著作権協会に歌詞の無断掲載を訴えますか?え、何?セックスとロックン・ロールはいいがドラッグはだめだってぇ?歌詞の内容にも問題があるわけですね(笑)。クスリの使用を肯定するような表現で健全な青少年を非行に導くような言動は削除すべきだぁ!そうだ!インターネットにも国家による検閲が必要だぁ!不埒な言動をもてあそぶ亡国の民は即ネット上から締め出すべきだぁ!

 と、まあ以上に述べたようなことは単なるギャグでしかないし、別にイアン・デューリーの歌詞が邪悪であるわけでもないよね(笑)。どのようなものが邪悪であるのかを定義することは出来ないけれど(人の感じ方なんて千差万別でしょ)、ま、「ブラック・ユーモア」とでもいうんですか?結局こういうノリが好きなんですよ、ほんとに。

 でもしかし、イアン・デューリーに反感を抱く人でも、例えば、スティービー・ワンダーの歌には感動しちゃうでしょ、よほどのひねくれ者でない限り。だけど、世間では、彼は「盲目の天才ミュージシャン」と形容されることが多いんだけど、やっぱその、彼が盲目であることと、彼の音楽に感動することとを結び付けるような言説にはある種のいかがわしさを感じちゃうよね。盲目であることの障害を乗り越えて音楽という一つの目標に向かって努力することの素晴らしさ云々、という「イデオロギー」(紋切型のメロドラマ)にすぐ回収しようとするでしょ、世間(マスコミ)ってさあ。まったくパラリンピックじゃあるまいし、身体障害者用の音楽なんてポップ・ミュージックには存在しないのにさあ、放っておくとすぐに「音楽から遠く離れて」勝手に空想の物語をでっち上げちゃうんだよね。まあ当り前のことしか言わないけど、障害があったりなかったりすることとは別次元の基準で、音楽家ならその音楽を評価すればいいじゃんかよ、だね。でもスティービー・ワンダー自身は請われればパラリンピックにも賛同の意を示すだろうね。結構パラリンピックのテーマ・ソングなんかを喜んで無報酬で引き受けちゃうかもしれないね。彼はそういう人だろう。何しろ彼は公民権運動の指導者だったキング牧師を崇拝しているようだからね。しかしそうだとしてもなおのこと、そういう彼の「政治信条」と彼の音楽とは別次元のものなんだ。一部に存在するかもしれない彼の熱狂的な崇拝者とは無関係な大多数の音楽ファンは、ただ単に彼の音楽に感動したから彼のレコード(CD)を買っているだけだよ。そのような一般の音楽愛好家にしてみれば、彼が盲目であることはそれほど重要なファクターではない。もっとも、彼の「盲目の天才ミュージシャン」神話も一つの付加価値として世間に話題を提供して、彼のレコード売り上げに少なからず貢献してきたのだろうけどね。でも重ね重ねくどいこと言うと、あくまでも、彼の音楽自体がよくなければ神話も生まれてこないわけだからね。

 で、まさか以上に述べた程度の内容に「難解だ」なんてケチをつける人はいないだろうねぇ(笑)。まあ、これまで「彼の声」は、無理やりふざけてきたから(その方が面白く感じちゃうんだ)、その辺で読みにくい部分があったかもしれないけれど、よく訳知り顔のにやけた面のおじさんなんがが、「難しいことを難しく述べることなんて誰にでもできる」なんていう難しい文章が読めないことの負け惜しみを披露しちゃうけど(笑)、そんな風に自らの文章読解力の無さに居直っていないで、少しは難しい文章を読む努力をする謙虚さも必要だと思うけどね。世界は自分を中心にして回っているわけじゃないんだから、自分とはまったく違った環境で生活している人なんて無数にいるわけだしね。そういう自分とは違う価値観を持った人々の文章は当然読みにくくて難しい文章だと感じちゃうんじゃないの。

 でも、世の中には、いわゆる「ベストセラー」というものがあって、その、より多くの人が好感を持って読む「ベストセラー」本の文章こそが「難しいことを難しく述べる」のとは違った、難しいことをやさしく述べている文章だ(やさしいことをやさしく述べているのは児童書かな)、といえなくもないけど、しかし、そういう本で述べていることって、ただ単にその社会で流通している支配的イデオロギーに忠実な内容だから読みやすく感じるだけじゃないのか。それが「モード」とか「ブーム」とか呼ばれるものではないのか。

 そういうわけで、今回は『批評空間』II-17での柄谷行人の文章を紹介することで難しいことをやさしく述べることの限界を露呈させてみましょう。で、今回柄谷が餌食にしているのは、一昔前日本でベストセラーとなって「軽薄短小」なんていう流行語まで生み出した『「縮み」思考の日本人』です。

 一九七〇年代以後、日本人・日本文化論のブームがあり、日本人によってであれ、西洋人によってであれ、無数の本が出版された。しかし、その中で、私の感心を惹いた唯一の本は、韓国の批評家李御寧(イ・オリヨン)の『「縮み」思考の日本人』であった。日本の文化の特徴は「縮み」への思考にあると、彼は言う。彼はそれを、文学における和歌や俳句、庭園における借景や縮景、枯山水、さらに茶室、生け花、人形といった「伝統文化」にそれを見出すだけでなく、現代日本のハイテクにおける小型化にそれを見出している。
 人と動物を主語として考えれば、その間には大きな隔たりがありますが、かりに「走る」と述語を中心に見れば、人が走っても、馬が走っても、または自動車が走っても、「走る」という力学的現象においては同じものになりうるのです。これと同様に、俳句であれ、職人であれ、みんな異なった文化を作るように見えますが、「縮める」という視角から見ると、十七文字に圧縮された俳句と数個の石で作られた石庭は、同じ共通性を持つものです。主体を入れ換えたように、今度はその対象(目的語)を変えても同じことです。縮める対象が、花のような自然になれば生け花になり、それが何か人工的な物になれば、トランジスタになるのです。こういった方法論でいけば、古代の伝統文化と現代の物質文化を同じ視座から観察できますし、可視的な物質文化を不可視的な精神文化と同じコンテクストに置いて、分析することが可能になるのです。(李御寧『「縮み」思考の日本人』 講談社文庫、一二二−二三頁)
 李御寧の考察は細部にわたり首尾一貫している。しかし、彼の「方法論」は、他の多くの「日本人論」と同様に、非歴史的な文化本質論である。たとえば、日本人がテクノロジーにおいて小さなものを目指したのは、敗戦後の非軍事化の体制のなかでそうするほかなかったからである。その結果、巨大なものを志向していたアメリカやソ連のテクノロジーが後れをとった。とはいえ、戦前の日本では巨大化が志向されていたし、また、その過程で蓄積されていた技術や生産関係なしに、戦後日本の経済成長もありえない。こうした歴史的な結果を、エッセンシャルな民族性によって説明することは無意味である。たとえば、日本はなぜ東アジアにおいて、というより非西洋において唯一、近代産業資本主義的発展に成功したのかという問いがあり、それに関して様々な説が立てられている。それをすべて「縮み志向」から説明するのは無理である。(「借景に関する考察」より)
 つまり、『「縮み」志向の日本人』がなぜベストセラーになったのか、それは「すべてを「縮み志向」から説明」しているからだね。柄谷のような「知識人」にとってはそれが無理であることは容易に分かっても、知識のない一般人にとっては、すべてを単一な尺度である「縮み」から説明できてしまうことに感動してしまって、それが無理であることに気づかないばかりか、そういう物事の単純化によって、なんとなく難しそうな「日本文化」が容易に理解できたような気にさせてしまうわけだね。そしてここからこの本に対する、「難しいことをやさしく述べた」大変良い本である、という評価とともに、「軽薄短小」という流行語までが生み出され、その当時の支配的イデオロギーであった「日本的会社経営」などの「肯定的な日本特殊論」を強化していったわけだ。

 それで、今回の柄谷は結構面白いので全文掲載したいぐらいなんだけど、とてもそんな時間的余裕も書き移す根気もないので、もう一個所だけ紹介するにとどめておくけど、興味のある方は是非『批評空間』II−17(太田出版、定価2,200円+税)を買って読んでくださいね。

 李御寧の指摘のなかで、私が最も興味を持ったのは、特に彼が日本の庭園について述べた事柄である。借景・縮景・枯山水のような日本の庭園に特徴的なのは、それがきわめて作為的・人工的であることだ、と彼はいう。韓国において、庭園は「自然のように」見えることが大切で、枯山水のようないかにも人工的なものはなじまない。韓国人から見ると、日本の庭園には、西洋人とは別の意味で自然を支配する意志が露骨にうかがわれる。この指摘は通念を否定するものである。たとえば、日本で最古の庭園論である、平安時代に藤原頼通の子、橘俊綱(一〇二八−一〇九四年)が書いたとされる『作庭記』にかんして、田中正大はつぎのように記している。これは平凡社の百科事典のために書かれた文であるから、典型的な見方であるといってよい。
『作庭記』には自然の風景からモチーフを得るという主張が貫かれている。また自然と作者との対応のしかたが〈乞はんに従う〉という言葉で表現されているのは重要である。すなわち、自然の地形や岩石が、人間に要求してくるというのである。自然が人間に要求するという感じ方に、日本人独特の自然観が見られる。自然が人間と対立し克服すべき対象となるのではなく、自然の中にとけこみ、自然に従いながら、作庭しようとする。
 しかし、このような自然観や作庭論は「日本人独特」ではなく、李御寧がいうように、中国・韓国など東アジアに共通のものである。実際には、日本庭園として特徴的なものはそれから逸脱したところに成立したのだ。しかも、それは一六世紀以後である。田中は、起源を溯って中国的なものを「日本人独特」とみなす誤謬を犯している。逆に、李御寧は、十六世紀以後に見られる特異な現象を一般化し、それを「日本的伝統」と見なす誤謬を犯している。さらにいえば、両者とも、西洋の庭園は人工的で、東アジアの庭園は自然的だという誤った通念を受け入れている。

 しかし、庭園は自然的に見えようと人工的に見えようと、根本的に「人工的」であり、それは西洋的であろうとアジア的であろうと関係がないといわねばならない。中国・韓国などの庭園は、「自然のように」見えるとしても、それはそのように「人工的」に制作されただけなのである。それはあとで述べるように、西洋において、幾何学的に設計された古典主義的庭園に対して「自然のように」見える英国式庭園が、意図的に設計されたものであるのと同じことである。十六世紀以後に発展した日本庭園が開示するのはそのことである。

 李御寧は、日本の借景において、庭園は、そのものとしてあるよりも、それを通して自然を見る装置であったという。しかし、庭園はどこでも一般にそうである。人類史において、自然風景がそのものとして享受されるようになったのは、それを「縮めた」庭園を通してであるといってもよい。すると、われわれは、起源が中国にあるにせよ、日本で異様に発展した縮景や借景を例外的なものだという必要はなく、むしろその極端さが、「自然らしさ」の中に隠されている庭園の本質を露出するものだと考えた方がよい。それは日本人がそのことを自覚していることを意味するのではない。その逆に、日本人もまた、縮景や借景を、自然への融合と見なしており、またそれを「伝統的なもの」と見なしているのである。そのような考えが支配的になるのは、明治以後のナショナリズムにおいてであるが、さしあたって、私は、借景がもちうるラディカルな意味について語りたいと思う。(同上)

 これについては新たに説明を加える必要はないね。その通りだとうなずくしかないよ(笑)。しかし、百科事典に書かれてあることが、公平中立で客観的な見方考え方などではなく(そんなものは幻想でしかないということか)、それが編纂された当時の「典型的な見方」でしかないというところが、その手の書物の権威の脆弱さを物語っていて面白いよ。


4月14日

 昨晩(4月13日)、久しぶりにニュース・ステーションを見たら、相変わらず馬鹿やっていますね、東大の入学式で。まずは蓮實学長の退屈で長ったらしい訓示に居眠りする新入生というシチュエーションを映し出してから、また例によって今関心を持っていることや今後の抱負などを新入生にインタビューしちゃうんですね。もちろんインタビューに応じる新入生はこの手の企画の意味をよく心得ているらしく、現在の社会情勢や学生生活や将来の夢や進路先などをもっともらしく語ってみせたり、中にはお約束の受けねらいで突飛なことを口走る学生もいたりして、まさにテレビ局の期待通りにそつのない無難な受け答えに終始しちゃうんですね、これが。そして、それを一通り流した後、ついにこれまたお約束のあれが出ちゃうんですよ、毎度おなじみの「今時の若いもんは」的なセリフが(笑)。あーあ、これじゃあ、東大の入学式で退屈な訓示を長々と垂れる学長やその訓示に居眠りする新入生を馬鹿にするどころじゃないですよ、まったく。久米宏や横に座っている変なおじさんの退屈な「今時の若いもんは」的コメントに思わずテレビの前で居眠りしたくなっちゃいました。つまり、東大の入学式や卒業式では、学長の退屈な訓示や居眠りする学生と、それに追い討ちをかけるテレビ局の退屈な「今後の抱負」インタビューとがワンセットとなっていて、その催眠効果によって誰もが安心する一つの年中行事の風物詩として機能しているわけですね。ようするにこれは桜の花見中継と一緒だね(笑)。こうしてマスコミの皆さんは日々の退屈な日常の風景を捏造して国民の白痴化に少なからず貢献しているわけだけど、やっぱこれも救いようのない悲惨なのかな?でもまぁ、中途半端に明晰であるのよりは完璧に白痴であった方が幸せな一生を送れるのかもね(根拠なし!)。

 で、肝心の蓮實学長が訓示で長々と(40分も)何を喋ったのか、その内容をテレビ局はまともに伝えようとしないようだから(たぶん何を言っているのかわけがわからないのでしょう(笑))、ここで蓮實重彦の昔の文章でも紹介しておきましょう。

 たとえば、これはあくまでたとえばの話だが、江藤淳と大江健三郎とは対立関係にあると思わせておけば、視界がより鮮明に澄みわたるといった印象を誰もがいだきうるといった具合に、局部的な小波瀾が、いつでも全体へと注ぐ視線を鍛えあげるがごとき錯覚によって、「制度」はますます堅固なものとなってゆく。「制度」は、そのかりそめの葛藤のありかをあえて問題という名で特権化し、いたるところに対立を指摘してまわる。だからわれわれの周辺には、いま、おそろしい数の問題が、いかにも現代を真摯に生きる人間が思考するにふさわしい課題として、ひしめきあっているわけだ。天皇制の問題。在日朝鮮人の問題。差別の問題。学歴社会の問題。受験地獄の問題。公害の問題。日本語の問題。分子生物学の問題。周縁性の問題。エネルギー資源の問題。南北問題。文化の再活性化の問題。道化の問題。文芸批評の方法の問題。本塁打の問題。セックスの問題。物価の問題。大地震の問題。試験にでるかも知れない問題。何だか忘れてしまった問題、等々。そうしたものすべてが、しかるべき解決を待ちつつ揺れ動いている。もちろん、そのいっさいが虚構の葛藤としてのみ視界を騒がせているといいつのるつもりはないし、中には切実に思考され行動に移さるべきものもかなりの数にのぼりはするが、ここでいかにもいかがわしいのは、それを問題と呼ばねば気がすまぬという風潮の蔓延である。これはいかにも重要な問題だと誰もが思う。それこそ思考するに値いする特権的な現代の課題だ。その解決は困難であろうが、まさにその困難と戯れることこそが、われわれを今日の思想状況にふさわしく鍛え上げてくれる高価なる試練であるに違いない。そこで人びとは、率先して、あるいはまた誰かの言葉に刺激されて困難を自分の問題として引き受け、その解決を求めて主体的に思考し行動してみようと思う。絶えず思考し行動し続けるのではないにしても、というのはだいいちそんなことは不可能だからだが、暇があるとか、機会に恵まれさえすれば、そうすることが科学的倫理性もしくは倫理的科学性にかなったやり方だと信じ込む。ところが、この問題解決へと向けて姿勢を整えんとする薄められた善意の共有こそが、無意識に張りめぐらされた「制度」の罠なのだ。問題とは、「制度」の捏造する具体性を装った抽象にすぎず、生きられつつある現実ではいささかもないからである。現実とは、それが生きられつつある瞬間には、方向を欠いた多様なる意味がわれがちにたち騒ぐ無表情なる表層にほかならない。生きるとは、距離もなく中心もなく、ひたすらのっぺらぼうな意味作用の磁場に身を置き、その白痴の表情と向かいあう残酷なる体験を不断に更新することだ。そして問題とは、その無表情な残酷さをいかにもそれらしいイメージに置きかえ、それが欠いている方向と意味を捏造し、ありもしない輪郭をことさらきわだたせ、世界を構成するあまたの事物や存在とがそこへと向けて秩序だった配置ぶりを示す偽の中心を捏造しようとする現実回避の格好の口実なのだ。それは、世界の無表情をそれらしい表情にすり換え、そのすり換えによって自分自身の顔と名前とを確信しようとする、白痴の残酷さの放棄なのだ。(『表層批評宣言』 健康という名の幻想 II 全体性と同一性の神話 筑摩書房)
 例えば、何故今ことさらに、どうでもいいような無意味な儀式でしかない東大の入学式や卒業式がニュースネタとなるのか。これは、これまた今話題の大蔵官僚の出身大学が東大が多いということでしょう。しかし、実際に汚職をやったのは大蔵官僚であって現役の東大生は無関係なのに(東大生全員が将来官僚になるわけではない)、自らが記者クラブを通して大蔵官僚と癒着談合している事実などは一切報道せずに、「いかにもそれらしいイメージに置きかえ、それが欠いている方向と意味を捏造し、ありもしない輪郭をことさらきわだたせ、世界を構成するあまたの事物や存在とがそこへと向けて秩序だった配置ぶりを示す偽の中心を捏造しようとする現実回避の格好の口実」として東大の入学式や卒業式を利用しているわけだね。もちろん、かつてのナチスドイツのように不況の原因を直接ユダヤ人のせいにするようなあからさまな表現は避けているけど、大蔵官僚の汚職の原因を、東大をその頂点とする学歴社会のせいにしたりして、いわゆるイメージとしての「教育問題」に論点をすり換えちゃうわけだ。しかも、東大の入学式や卒業式を特権的に取り上げることで「学歴社会」というイメージを捏造(助長)しているのが他ならぬマスコミ自身なんだよね。だって、全国紙やNHKや民放各局の社員はいわゆる「高学歴高収入」という特権階級なのだから、それも当然だけど。ようするに大蔵官僚も大手マスコミ関係者も結局同じ穴のむじななんだね。しかし、そんな不況知らずの彼らが、今の日本経済の不振を憂慮するような発言をしているのを見たり読んだすると無性に腹が立つよ。彼らにとっては不況なんて他人事なのに、それをあたかも「自分の問題として引き受け、その解決を求めて主体的に思考し行動」しようとすること自体、自己欺瞞でしかないでしょう。本当は久米宏や筑紫哲也なんかが「憂国の士」を気取る資格なんか何もないはずなのに、彼らの仕事自体が「問題解決へと向けて姿勢を整えんとする薄められた善意の共有」を煽り立てて演じることなんだからね。なんかいやな世の中だね。やはりここでスラヴォイ・ジジェクの次の言葉が思い出されるね。
 ファシズムのイデオロギーが「操作」しようとするのは、激しい競争や搾取を嫌悪して、真の共同体や社会的連帯を求める大衆の切実な願いである。もちろんファシズムは、社会の支配・搾取を合法的に永続するために、こういった大衆の願望を「歪曲」して表現する。(『批評空間』 II-17 「多文化主義、あるいは多国籍資本主義の文化の論理」)
 しかし、こうして話を進めてくると、久米宏や筑紫哲也があたかも、政治家官僚マスコミ経済界による「支配・搾取を合法的に永続するために」大衆の不満をガス抜きするためのスポークスマンロボットのように思えてくるね。でも実際、自分はあまり状況を深刻に考えているわけじゃないんだ。ま、この状況がファシズムだというのならこれでもいいけどね(強がりやせ我慢)。

 じゃっ、最後に「今日的思想状況にふさわしく」「経済問題」(爆)について語っちゃおう(もちろん他人事だよ〜ん)。だいたいさぁ、日本に財政再建をあきらめて所得税減税や公共事業で内需拡大を求めてきている欧米各国ってちょっと虫が好すぎないかい?例えばEU各国なんか、通貨統合を控えて各国とも福祉予算の大幅カットや膨大な失業者を生み出してまで、財政赤字の縮小に励んでいるじゃん。そしてアメリカなんか今や財政黒字だよ!日本に偉そうに言えた義理かよ。野党やマスコミ関係者も欧米各国の尻馬に乗って減税要求ばかり繰り返しているとあとがヤバイよ。だいたい欧米にとっては日本なんて中国を押え込むための単なる捨て駒でしかないじゃん。彼らにとっては日本からの輸出が増えるのがいやだから内需拡大を求めてきているだけじゃん。今さえよけりゃそれでよくて日本の将来なんて何とも思ってないよ。今やらなけりゃならないのは、景気対策じゃなくてまともな経済運営だよ。だいたい公定歩合が0.5パーセントなんておかしいよ、異常だよ。まずはそれをまともな水準(3パーセント)まで引き上げるべきだな。そして、この際だから金利を引き上げたら倒産するような体力のない企業は見捨てるべきだよ。そうすれば、金利で食べて行ける金持ち連中の購買意欲が回復するだろ。金持ちの購買意欲が回復すれば、それにつられて金持ちにあこがれている見栄っ張りの一般大衆も負けじとローンで高い物を買うんじゃないの(笑)。ま、景気対策なんてこの程度でいいんじゃないの?あとは不況になろうがどうしようが行革による財政再建をしなくちゃヤバイと思うよ。一応日本も資本主義市場経済なんだから、赤字財政はとにかく是正して行かないといつかは破滅するんじゃない?情報公開もそうだけど、長い目で見れがそっちの方が得だと思うけどね。ま、こんなもんかな、でも、あんまり本気じゃないよ。だって日本なんてどうなってもいいもんね。国家なんて滅んじゃえ!もうたくさんだよ、うんざりだ。


4月8日

 例えばリンクしているShow's Hot Cornerや「がんばれ!!ゲイツ君」でビル・ゲイツが取り上げられるのは日常茶飯事だけど(それが目的のページだろうから当り前なんだけど)、先週、『批評空間』U-17(太田出版[本体価格2,200円+税])を買って読んでいたら、何とあのスラヴォイ・ジジェクまでがビル・ゲイツのことを書いているじゃあ〜りませんか(笑)。こりゃ愉快ですね。そこで、ここはひとつ、その心温まる(?)ムズカシイ文章を紹介してShow's Hot Cornerと「がんばれ!!ゲイツ君」の作者さんを激励しちゃいましょう(何でそれが激励になるのかよくわかりませんが)。
 やや異なるレヴェルの話ではあるが、サイバースペースの与える影響力についても、根底にあるのは同じ論理だといえるだろう。その影響力は、社会関係のネットワークに由来するものであって、テクノロジーそのものから派生するのではない。つまり、デジタル化がわれわれの経験に影響を及ぼすことができるのは、それが、後期資本主義の世界化した市場経済の枠組によって、媒介されているからなのだ。最近のインタヴューで、ビル・ゲイツは、「摩擦なき資本主義」の展望を開くのは、サイバースペースの他ならないと述べて、その重要性をさかんに持ち上げる。このようなゲイツの言葉は、サイバースペース資本主義のイデオロギーを支えている社会的幻想を、みごとなまでに表現している。交換が行われる場は、サイバースペースという完全に透明で実体をもたない媒体であり、そのような幻想の中では、不活性な残り滓などあとかたもなく消尽してしまう。「摩擦なき資本主義」という幻想の中で、われわれは「摩擦」から開放されたつもりになっているものの、見落としてはいけない重要なポイントがある。ここで都合よく一掃されてしまった「摩擦」とは、あらゆる交換プロセスを支えている、現実上の物質的な障害物を指すのではなく、むしろ、社会における交換の場に病理的な捻りを加えるような、諸々のトラウマ的な敵対関係や権力関係の〈現実界〉を意味しているのだ。『経済学批判要綱』(草稿)でマルクスが指摘したことは、一九世紀の産業生産の場の物質的装置そのものが、資本主義的な支配関係を物質化している(労働者は、資本家が所有する機械に隷属する単なる付属品として扱われる)ということであった。必要な変更を加えれば、同じことはサイバースペースにも当てはまる。後期資本主義の社会状況下では、サイバースペースの物質性そのものが、「摩擦なき」交換の場という観念的な空想を自動的に生みだし、それに携わる者たちが各自所有しているはずの、社会的ポジションの個別性が抹消されてしまうのである。

 「サイバースペースの自然発生的イデオロギー」としてよく知られているのは、サイバースペース(またはWWW―ワールド・ワイド・ウェブ)を、自己進化する「自然な」有機体とみなす考え方であり、それはサイバーレヴォリューショニズムと呼ばれる。ここで重要なのは、「文化」と「自然」との区別が曖昧にされていることだ。「文化の自然化」(生きた有機体としての市場、社会など)の反対が、「自然の文明化」(生命そのものが、自己増殖する情報の連なりとみなされる―「遺伝子はミーム(自己複製子)である」という考え方)である。この新しい生命概念は、自然過程を、文化または「人為的」過程から明確に区別するような立場はとらない。世界市場も地球(ガイアとしての)も両方ともに、自己統御を行う巨大な生きたシステムとして現われ、その基本構造は、暗号化と解読のプロセス、行き交う情報のプロセスなどによって定義される。このように、WWWを生きた有機体とみなす考え方は、しばしば、国家がインターネットを検閲することへの反対運動といったかたちをとって、一見すると解放的なコンテクストで引き合いに出されることが多い。しかし、このように国家を悪玉にしたてあげたところで、疑問はついてまわる。なぜならば、こうした考え方は、右翼のポピュリニズム的言説そして/あるいは市場自由主義によって、都合よく利用されているからだ。最小限の社会のバランスや安全を守ろうと、国家が介入するたびに、決まって攻撃がしかけられる。マイケル・ロスチャイルドの著作のタイトル(『バイオエコノミクス―資本主義の不可避性』)が、ここでは何とも示唆的である。一方では、サイバースペースのイデオロギー論者たちが、進化の次なるステップを夢想している。機械的に作用しあう「デカルト的」個体から解放されて、「人」は肉体との実体的なつながりを断ち切り、新しい全体論的な〈精神〉の一部として、自己の境界を越えた生を享受する……。しかし、このようにWWWや市場をみさかいなく「自然化」することによって、権力関係の実体―政治的決定のプロセスや制度をめぐる状況―が、曖昧にぼかされてしまうのだ。結局のところ、インターネット(または市場や資本主義)という「有機体」は、既存の権力関係の内部で繁栄しているにすぎないのである。(「多文化主義、あるいは多国籍資本主義の文化の論理」 和田唯 訳)

 とまあ、インターネットを「マルクス経済学」で説明してしまう(できてしまう)ところがジジェクのユニークなところだけど、前半の「サイバースペース資本主義のイデオロギーを支えている社会的幻想」については別の箇所でこんなふうに説明している。
 支配的イデオロギーがうまく作動するためには、搾取され支配されている大多数の者たちが、その中に自分たちの真の願いを見いだすことができるような一連の特徴を、イデオロギーは必ず内包していなければならない。別の言い方をすれば、ヘゲモニックな普遍性はどんなものであれ、真に大衆的な内容と、それを支配と搾取の関係によって歪曲した内容という、少なくとも二種類の個別的な内容を包含していなければならないのだ。ファシズムのイデオロギーが「操作」しようとするのは、激しい競争や搾取を嫌悪して、真の共同体や社会的連帯を求める大衆の切実な願いである。もちろんファシズムは、社会の支配・搾取関係を合法的に永続させるために、こういった大衆の願望を「歪曲」して表現する。しかし、願望をねじまげて都合よく利用するにせよ、まず最初に、その願望を組み込んでおくことが必要であろう。エチエンヌ・バリバールが、古典的なマルクスの定式を転回させたのは、決定的に正しい。すなわち、支配観念とは、必ずしも支配者の観念とは一致しないのである。いかにしてキリスト教は、支配的イデオロギーとなったのか。被支配者たちが抱いている一連の決定的な確信と願望(苦しみ虐げられたる者の側に真理はあり、権力は滅ぶものだ云々)を内包し、そうした願望を、既存の支配関係と両立できるような方法で、再分節化したからではなかったか。

 非イデオロギー(もっとも凶悪なイデオロギーの中にも内在しているユートピア的契機とフレドリック・ジェイムソンが呼ぶもの)の存在は、今まで見てきたように、絶対不可欠なものなのだ。イデオロギーとはある意味で、非イデオロギーの見せかけの形式、形式的歪曲/置換にほかならない。想像しうる最悪のケースにもどると、ナチスの反ユダヤ主義というものは、そもそも非合理的な資本主義の搾取を否定して(それ自体もっともなことだ)、真の共同生活を実現しようというユートピア願望に根ざしていたのではなかったか。もう一度ここでの論点を繰り返そう。この種の願望を「全体主義的幻想」として弾劾すること、すなわち、願望の内部にファシズムの「根源」を探し回ること(ファシズムを批判する際に、リベラルな個人主義者たちが犯す一般的な誤り)は、理論的ににも政治的にも誤謬をまぬがれえない。この願望がイデオロギー的性格を帯びるのは、それが分節化される次元においてである。資本主義的搾取の実態についての極めて特殊な概念(ユダヤ人の影響のためだとか、労働者と調和の取れた「協力関係」を結ぶ「生産」資本よりも、「金融」資本を優先させたためだとか)や、われわれがそれを克服する方法についての極めて特殊な概念(ユダヤ人を追い払え等々)を正当化するために、ユートピア的願望がいかに使用され活性化されるか、その手続きこそが問題となるべきなのだ。(同上)

 つまり、コンピュータにあまり詳しくないごく一般的な「シャブ漬け」のMSユーザーにしてみれば、マイクロソフト社製のOSやブラウザ、電子メール管理ソフト、表計算ソフト、ワープロソフトなどの操作法さえマスターしておけば、どの会社のパソコンでも操作できるし応用がきく、という一種の「ユートピア願望」(MS社の宣伝文句でしかないが)を信仰するしか選択肢がないわけですね(笑)。しかしそれはMS社の市場の独占と緩慢な(広くて浅い)搾取が永続する限りでの話ですが。それが「激しい競争や搾取を嫌悪して、真の共同体や社会的連帯を求める大衆の切実な願い」なのでしょう。まっ、それは、選挙で何十年も自民党に投票し続けているおじさんやおばさんの願いと同じようなものだね。言い方を変えるなら、世の中には逆に搾取されることに喜びを感じちゃう人が大勢いるのかもしれない、ということですね。例えばネット上にもよくいるじゃないですか、自分の個人ページで掲示板を開設して、そこで「ネチケット」(これってもう死語?)なんていう勝手な私的ルールを強要するミニ独裁者の元に嬉々として群れ集う、「真の共同体や社会的連帯を求める大衆」の方々が大勢いらっしゃるんじゃないですか。もちろん彼らが求めるのは「摩擦なき交換の場」という観念的な空想なのでしょうけど、それは「ネチケット」であらかじめ他者を排除した上に成り立つ、甘ったるいもたれあいの「仲良しクラブ」みたいなものですね。そこに「それに携わる者たちが各自所有しているはずの、社会的ポジションの個別性が抹消され」た場がフィクションとして存在しているわけですね。しかしそれは、その掲示板の管理者が勝手に参加者の言動を削除できるという検閲(ファシズム)を前提とする、「既存の権力関係の内部で繁栄しているにすぎない」のでしょう。まぁ、こうした「大自然の驚異」(爆笑)に逆らって理性的に振る舞うのは大変なことなのでしょうが、しかし、こんなんで「激励」になったかな?


4月1日

 はははは……、やはりCD-ROMドライヴを買ってしまいました(笑)。24倍速のやつで値段は約9,000円でした。二年前に買ったのが4倍速で約16,000円だったから、この何倍速というのが何を基準にした速度なのかよくわかりませんが、この二年間で技術が進歩して価格が下がったということなんですかね。しかし、付属のフロッピーに入っていたRead meファイルも読まずに勝手にマシンに接続して、いきなりMS-DOSプロンプトでフロッピーの中のSetup.exe起動させていろいろやっちゃったので、バッチ・ファイルを書き換えちゃったし、変な風になっちゃったかもしれません(笑)。ちゃんとはじめにRead meを読んでいたら、Win95だとCD-ROMを自動認識してくれるから何もやる必要なしだと分かったのにぃ。今週の教訓(標語)は「やる前に必ず読もうRead me」ですね(笑)。まったく今さらながら自分のアバウトな性格にはあきれてしまうし嫌気がさしちゃうなあ。で、一応このCD-ROMドライヴは今のところ正常に動いているようですが、CDを入れるとかなり大きなモーター音がするのはなぜだろう?ソフトが作動しはじめると静かになるのだけれど、これって大丈夫なのかなあ?まあいいや、とりあえず動いているうちはそれでいいや(しょーがねー奴)。というわけで、今このCD-ROMドライヴでアイズレー・ブラザーズの「グルーヴィー・アイズレーズ」を聴きながらこれを書いているところです、と書いた時点で、もうすぐ「グルーヴィー・アイズレーズ」も終わりそうだ。今聴いているのは13曲目の「BABY HOLD ON」、これがかの有名な山下達郎の「クリスマス・イブ」の原曲なんだよね。おっと、知ったかぶりの知識のひけらかしだ(やな奴)!

 「グルーヴィー・アイズレーズ」が終わったので、次は「メロウ・アイズレーズ」を聴きながら書きましょう。それで先週の続きですが、FreeBSD(98)の本の方は今回は買いませんでした。本屋で立ち読みした感じでは、どうもまたもやX Window Systemの設定でつまずきそうな予感が脳裏をかすめちゃったので、値段はたかだか3,800円程度なのですが買うのをためらってしまいました。しかしすでにハードディスクに800Mバイトの空領域を確保しているんだよね(笑)。やっぱり来週あたりお約束の展開でFreeBSDの悪魔に魅入られて(FreeBSDのマスコットは「で〜もん君」)、“悪魔本”を買っちゃうはめに陥っちゃうのかなあ(しょーがねーなー)。そしてまたもや一年前と同じように“OSインストール・アドベンチャー・ゲーム”にはまってしまうのだろうか(思い浮かべただけで疲れちゃうよ)。でも、所詮遊びでパソコンいじっているだけだから仮にはまってもそれほど深刻じゃないことは確かだけどね。そうだ、OSといえば昨日BeOSのインテル版が発売されたはずなんだよね。うーむ、これからはDOS/VでBeOSが流行りますか。どこかがさっそくBeOSがインストール済みのDOS/V機でも出すかな。なんて冗談をかましながら(すでに実現していたりして)、そろそろ「メロウ・アイズレーズ」も終わりに近づいています。

 次は、なんとなく久しぶりにグレン・グールドのピアノでバッハのゴールドベルク変奏曲(1955年録音)を聞いています。グールドには同じ曲で死ぬ間際の1981年録音のもあるけど、やはり、モノラルで音は悪いけど(マスター・テープにノイズがあるらしい)1955年版の方を聴いてしまうんだなあ。ま、パソコン本体の音がうるさいし、サウンド・カードもスピーカーもちゃちだし、音そのものの良い悪いは別問題だけど、1950年代当時のグールド演奏には、微妙なバランスの上に構築されていてそれ以降徐々に失われていった、ある種の煌きのようなものがあるような気がする。それはバッハの「パルティータ(全曲)」を聴けばよく分かる。それは第1番から第6番まで'57年から'62年までの間に飛び飛びに録音されたものを二枚組のCDにまとめたものなんだけど、確かに年代の新しいものに比べて古いモノラルの録音('59年以降はステレオ録音)はたどたどしくてぎこちない演奏に感じられてしまうが、そこには、世の中に流通しているクラシック的なピアノ演奏に沿って表現力が豊かになり磨かれていく過程で抜け落ちていった鋭角なセンス、非クラシック的な「驚き」や「意外性」がある、なんて書いてみても、実際にグールドのピアノ演奏を聴いてみないことには何のことやらちんぷんかんぷんかもしれないね。グールドのピアノ演奏をまだ聴いたことのない方で、この文章を読んで興味を持った方は是非取り寄せて聴いてみてくださいね。たぶんピアニストとしてグールドはメジャーな存在だから、どこのレコード・ショップでもおいてあるとは思います。ともかくグールドの演奏法に対して好き嫌いはあるかもしれませんが(奇をてらっているとかジャズ的だとか批判があるらしい)1955年録音のゴールドベルク変奏曲は一聴の価値があると思います。ジャズといえば山下洋輔の肘打ち演奏なんかが有名だけど、グールドは自分の好みの感触をだすためにピアノそのものを改造する(鍵盤の表面をざらざらにし、キーの沈みを浅くし、ハンマーを弦に近づけたりする)ヤバイ人です。それから、グールド抜きでのバッハの曲自体に関しては、若い頃の元祖ハードロック・ヘビメタみたいな「トッカータとフーガニ短調」なんかよりは、晩年のクールでソリッドな感覚の「音楽の捧げもの」や「フーガの技法」なんかが好みです。もちろん中年から壮年にかけての元祖モーツアルト・元祖ヴェートーベン的ないかにもクラシックらしいクサイ曲も演奏家によっては聴けますが、例えば「ピアノ(クラヴィーア)協奏曲集」とかはグールドの演奏なら聴けるけど(もちろん一般的なクラシック・ファンならこういう曲を喜んで聴いて感動するのだろうけど)、ちょっと他人(例えばクールなジャズ・ファン)にはあまり積極的に薦める気にはなれないなあ。あれっ!またこんなこと書いているぅ、イヤミな性格全開だぁ!人に嫌われるようなことを書くんじゃないっ(自己嫌悪)!

 しかし、今回は気まぐれな成り行きで音楽について書いちゃってますが、最近結構カッコイイ曲を発見しちゃったんですよ、これが。それが何とNHKの日曜夜八時からやっているかの有名な大番組(爆笑?)大河ドラマ「徳川慶喜」のテーマ曲なんです。これなら誰でも簡単に聴けるでしょう、聴いたことのない人は是非一度聴いてみてください(笑?)。日曜夜八時ちょうどにチャンネルを三分間だけNHKにあわせればいいだけですから。何しろ曲の導入部は現代音楽みたいだし、それから曲の最後まで延々とフーガが拡大しながら連なるセンスが結構クールですぜ!それをはじめて聴いたとき、思わずバッハの「平均率クラヴィーア曲集」第二巻の第九番のフーガを思い浮かべてしまいましたよ。でも、せっかくカッコイイテーマ曲なのにそれに反して哀しいかな肝心のドラマの内容は相変わらずなんだよね(笑)。まるで「どうするニッポン!」「どうなるニッポン!」の「朝まで生テレビ」のパネラーみたいな「憂国の士」のキャラクターが大量出演していて実に鬱陶しい展開なんだ。主人公の慶喜さんも一見そういう馬鹿どもとは距離を置いているように描かれてはいるんだけれど、「日ごろは軽薄に無関心なふりをしているが本当は俺だってこの国の行く末を誰よりも深く憂いているのよ」的な性格設定みたいでいやな感じがしちゃうよ。まったく、どうせなら、そういうこの手のドラマでは毎度おなじみの幕末維新の志士たちなんか一切登場させないで、慶喜さんが明治の世になってから「趣味の人」となって悠々自適に晩年を過ごした時期だけを取り上げればさぞかし画期的だしファンキーだったのにね。でもそうなると、明治維新のヒーロー目当ての一般大衆(そんな人々が実際に存在するのかどうかわからないけど)が見なくなって視聴率ががた落ちになっちゃうかな?なんちゃって、ともかく大河ドラマ(なんでこう呼ばれているんだぁ?)なんてどうでもいいけど、テーマ曲はカッコ良かったです。で、ちなみに今聴いているのは先ほど述べたクサイ「ピアノ協奏曲集」です。クサイけど結局こういうメロディアスな展開が好きなんですね、これが(笑)。やはり第五番のULargoは通俗的に美しいメロディだよ。

 で、最後に爆笑的な話題を一つ。あの自殺した新井将敬の後釜に、何とあの、だいぶ前からもはやギャグや物笑いの対象でしかない「青春バカ」の森田健作が選ばれたじゃないですか!まったく、新井将敬は文字通り「いのちがけ」で政治活動をやっているつもりだったのにぃ(笑)、それが単なる勘違いであったことを他ならぬ自民党と選挙で投票した有権者が見事に証明してみせたよ。しかし、今巷で話題の「中小企業問題」や「荒れる子供の教育問題」なんていう誰にでも口にできるような流行語を声が嗄れるまで選挙期間中に叫び続けていただけの文字通り「単なるバカ」が国会議員に選ばれてしまうことに誰も驚かないんだよね。この間も述べたけど、やっぱそれって救いようのない悲惨だよ。最後に聴いているのはブラジルの吟遊詩人、ジャヴァンの「ルース(光)」です。口直しにジャヴァンの詩でも紹介しておきましょう。

シーナ

父と母
埋もれた黄金
こころ
希望と宿命
その他はすべて
型どおりの習慣にすぎない
ジャズ……
あなたの名前をそれにのせて
愛の話が
できるように
アール・ヌーヴォー
自然の新芸術
その他はすべて
ただの美しさにすぎない
ジャズ……
大きな快楽の光には
もう手のほどこしようがない
ネオン
快楽の叫びが
空気をむち打つとき
ハイライト……
月光
海の星(ひとで)
太陽と天分
たぶんいつの日か
怒りが
あの前線から
やってくるだろう
夢を磨くために
ひびきを生み出すために
すでに今ある良いものを
どうしてそんなに
カエターノ風にしたがるんだい?

(註)ジャヴァンが先輩歌手カエターノ・ヴェローゾに捧げた曲。カエターノが先に録音したレコードでは最後のところを「ジャヴァン風にしたがるんだい?」と変えている。この歌詞の前衛的スタイルはカエターノが創始した流れをとっている。

(訳詞:高場将美)