彼の声59

2007年

3月31日

 誰かはやっと先月の終わりまでたどり着いたようだが、まったく作り話にもならない話を継続させるのは難儀なことだ。その心労を察して同情する気にもなれないか。馬鹿げた言葉の連なりに呆れかえるわけにも行かないらしい。それは誰の言動でもありはしない。君には何が憑いているのか。まさか幸運が到来する兆しでもあるまい。何について述べようとしているのかわからないが、冗談も休み休みに述べてほしいか。そういうことではないだろう。たぶん誰かは何も述べられなくなっているのだ。もはやお手上げ状態かも知れない。それで笑うことしかできなくなってしまったわけか。状況はかなり馬鹿げている。力が抜けて歩行も困難になっている。歩き出そうとしないのだから、そこへとどまるしかないだろう。雨が上がった曇り空の下で何を思うだろう。定型の文章を構成しているだけか。定型とは何なのか。それに関して君は何を思っているのだろうか。つまらぬところで躓いている。何を思い浮かべているのか。それは話にならないような意味不明だろうか。誰に対抗して言葉を連ねているわけでもなく、そこから何を導き出そうとしているのでもない。それはいつもの話の展開に違いないが、そこにはどんな幻想が絡まっているのだろうか。意味不明や無内容や虚無だけではないはずか。それらすべては唾棄すべき対象となるだろうか。強烈な言葉は似合わない。誰に反感を持たれていようと、そんな感情は無視するしかないのだろうか。誰がどんな感情を抱いているというのか。いったい何が気に入らないのだろうか。君には何もわかっていないらしい。どうやらその辺で終わりにすべきなのだろうが、どんな事情があるわけでもないのに、それが嘘かも知れないのに、まだ文章を継続してしまうようだ。たぶん後戻りできようのない状況のただ中にいるのだろう。誰がそこに存在しているのか。何を生じさせようとしているのか。それがどこに突き抜けようとしているのだろう。何が突き抜けようとしているのか。なんのことやらさっぱりわからないか。誰かは満たされた思いに至りたいのだろうか。なぜ人々は歩いているのだろう。歩いているのにそこへとどまろうともしている。時の流れがそれを許さないのに、執拗にその場を保持しようとしている。自らが築き上げたつもりの縄張りを死守するつもりなのか。そのとき君は骸骨の笑いに遭遇している。見知らぬ誰かに取り憑いて死ぬまでそこを離れようとしない。そんなはずがないと思いたいのだろうか。思っていることとやっていることが真逆の関係にあるらしい。言動が行動を裏切っている。それで何を述べているつもりなのか。君に何ができるというのか。できるか否かに関わらず、それは何かのカモフラージュなのかも知れないが、真の姿が一向に見えてこないようで、偽装された会話の中に虚無の幻影が不在の対象を想像させているだけなのかも知れず、さらに誰かがわけのわからないことを述べているだけなのだろうが、そこから語るべき内容を顕在化させることなどできはしないだろう。誰にとってもそれは不快な現状か。ごまかし以外の何ものでもない。君にはそんなことしか述べられないらしい。だから何に対して反抗的な態度を取る必要もなく、何を批判の対象とすることもない。それらはくだらぬ言説の中に住まう紋切り型の感情に違いない。要するに君には何も述べられないわけだ。ただ君とは無関係に言葉だけが執拗に連なっている。架空の存在におとしめられた君は正気ではないのかも知れない。だが何も批判できない立場とはいかなる状況から生じてしまうのか。みっともない姿をさらせないとすれば、それは誰の羞恥心から生じているのだろう。ワルツとは何だろう。また脈絡を無視した問いかけによって何もないことから目を逸らそうとしている。そこで言説のまともさを断念しなければならない。意識はそんな言葉の連なりを否定したいらしい。自らが言説から無視されていることが気に入らないのか。すべての現象から蚊帳の外に置かれている。そんなことがあり得るだろうか。心がそこにないということか。ではどこにあるというのか。君はそこで何を示しているのだろうか。単なる虚無だけではないはずか。ただどうでもいいような状況の中に佇んでいるだけか。何を誰にわからせたいのか。別に死ぬような思いをしているわけではない。経験的にはぬるま湯の連続かも知れない。厳しい生存競争に打ち勝った末につかの間の成功を手にしているわけでもなく、だらだらと同じような日々を過ごしているだけで、その先に何を期待する状況にもなく、下手をすると死ぬまでそこにとどまり続ける可能性さえあるのかも知れない。しかしそれが絶望だと思えないところが、感覚が麻痺している証拠かも知れず、その麻痺した感覚によってかろうじて気が狂う事態を回避しているのかも知れない。はたしてそんなことがあり得るだろうか。あり得なければそこは夢の中なのか。それこそあり得ないことだと思われるが、それが真実がどうかわからない。


3月30日

 まったくお話にならない。怠惰に流されてまともに文章を構築できないようだ。とりあえず偉そうなことを述べるべきではないらしい。知ったかぶりなことを述べるのは恥ずかしい。誰かが海岸でゴミを拾い続けている。それらの文章がゴミではない証拠がどこにあるのか。こちらではさらに話がつまらなくなる。君はそれを無視しているようだ。どこかで空気が舞い上がっている。高血圧なのだろうか。高気圧なのではないか。意味がわからないか。なぜそれを冗談として利用できないのか。君はまだ老人ではない。しかし言葉があまりにも遠すぎるようだ。近頃では度を超している。それでも記憶がどこかに集積されている。頭が重い。首が疲れているようだ。指先がしびれている。だから正気の沙汰でないわけでもないか。たぶんそれは紋切り型だ。影はなぜそこからはい上がってこないのか。泥沼のようで足下から沈み込んでいる。影の実体が見当たらない。実際はそんな状況でない。では何を空想しているのだろう。フィクションに至ろうとしているわけではない。ただ作り話を構成できないようだ。想像力が貧困なのだろうか。言葉の扱い方が拙劣なのかも知れない。出来事に巡り会えないのか。それに関して君は何か思い違いをしているらしいが、なぜそれで勝ち誇った気になれるだろうか。君はいったい誰と勝負しているつもりなのか。目下のところ誰とも何とも勝負しているわけではない。そう願っているのではないか。それに関して知っていることは限られている。もたらされるべき情報が欠乏しているようだ。それは映画の中での話だったかも知れない。なぜそうやって現実から逃げようとするのか。現実でないとするとそれらの光景は何なのか。ただ雨が降っているだけの風景か、あるいは君の妄想が描き出す情景か。たとえばそれはマヤ文明といかなる関連性があるのだろう。意味不明に違いない。いったいスクリーン上ではどんな儀式が執り行われているのか。古代文明と儀式が連想の中でつながっているだけか。たぶん人類など今すぐ滅び去ってもかまわないのだろうが、それがフィクションの中での話となると、俄然おもしろさが増すか。誰が人類の話を持ち出してくるのか。それに反比例して深刻さが減じられてしまうかも知れない。本気で述べているはずがない。なぜ本気になれないのだろうか。実感がまったく湧いてこない。それは冗談で述べていることだからか。まったく話になっていない。いったい何と何を関連づければ奇想天外な話に持っていけるのか。奇想天外を目指しているわけではなく、それを本気で考えているわけでもないのだろう。気がつけば外では雨がさらに降り続いている。外とは心の外のことだろうか。それが心外なのか。それとこれとは意味が違うのではないか。ならば外の思考とはどこからもたらされるのだろう。さらに違うことを述べているような気がする。ついでに指の傷口からバイ菌が侵入しつつある。単なるあかぎれであり、絆創膏を貼れば痛みが徐々に薄らいでいく。だから意味が見いだせなくなる。もはや許容できない言葉の連なりになっている。それの何が気に入らないのか。ならば君に何を示せば納得してくれるだろうか。納得しがたい真実とはどこから出てくるものなのか。それが文章になるわけがない。誰かが納得できないので語りかけの文章を削除したいらしいが、何がそんなに気に入らないのだろう。まだ先月が終わっていない現状がある。現状では心が満たされていないようで、誰かが言葉の出現を拒否しているらしい。そのついでに背骨が痛むようだ。長い間腰掛けていたらしい。君は話の脈絡を無視して何を述べているのか。そこには話自体があり得ないようだが、支離滅裂を気取るなら、何でもありでもかまわないのか。頭がついていかないようだ。意識がそれを拒絶する。それが内容に結びついてないようだが、何を語ろうとしているのか理解できないのは毎度のことだろう。ならばどうすればいいのだろう。どうにもできないからそうなってしまうのか。この期に及んで失敗を成功に結びつける気になれるか。本当にどうにもできないのなら、それは失敗そのものだろう。納得しがたい結果を招いているだけだ。そしてそれはそれで受け止めるべき結果ではないのか。それしかもたらせないのだから仕方がない。しかしそれであきらめてどうするのか。どうにもできないのだからあきらめるしかないか。意識はその結果を拒否しているようだが、ならばこの期に及んで何をどうしようとしているのか。そんなことをいくら述べてもつまらないだけか。それは間違った言葉の探求かも知れず、普通の精神の持ち主なら、つまらなければおもしろくしたくなるだろうか。場合によってはつまらないままでもかまわないのではないか。そのときの気分次第で感じ方も違ってくるだろう。おもしろいと思われるときもあるのかも知れない。そのときが到来するまで待ち続けていれば、いつか何か適当な妥協点を見いだすことにもなるのかも知れないが、それで君が納得できるだろうか。


3月29日

 つまらない日常に流され、どこまでもつながらない言葉を無理矢理繋げて、そこからどんな文章を構築しようとしているのか。そこには何が見当たらないのだろう。いつまでも空疎なことを述べているつもりなのか。君の心はどこにあるのだろうか。どこにもなければそこにあるわけがない。何もなければ言葉が出てくるはずがないか。そこには何かがあるはずだ。たぶん何かあるのだろう。ただその何かが言葉と結びつかないだけか。行けども行けども空疎な言葉ばかりに突き当たる。それは何かの闇だろうか。そこに至った経緯を知りたいところか。そう述べたところで何を知り得るわけもないか。誰もが一つの場所を占有したいと願っているのだろうか。自分だけの世界を構築したいわけか。それはくだらぬ思い上がりだろうか。どこから何が来ているわけでもないらしい。何もかもを放り出してどこかへ旅立ちたくなるわけか。それを実行してどうするのか。ただわけがわからなくなるだけだろうか。その精神状態から何を知りたいのか。いったいどんな精神状態なのだろう。常に変動している。鬱と躁の間を行ったり来たりしているわけか。それは太極でいう陰と陽だろうか。詳しく述べるには知識が足りないらしい。しかしなぜそんな精神状態になってしまうのだろうか。それだけでは何も説明したことにならない。君の意識は言葉に結びつけられないようだ。それでは小難しい議論をこねくり回すにも至らないだろう。意識してそれをやりたいとは思わないか。ではそこからさらなる遠回りをしたいわけか。それで何が得られるのか。得るものが何もなければ途方に暮れるだけか。それで虚無以外の何を得たことになるのだろう。まだそこまで行っていないだろう。どこへも行けずに立ち往生しているくせに、大げさに事態を捉えすぎているような気がする。虚無以外の何を捉えていることになるのか。そんな風に意味のない話を押し進めるのは気が退けるだろうか。退いているのは誰の意識でもない。君はどこへ行ってしまったのだろう。まだ遠回りの最中か。そこへ戻ってくるまでにはまだだいぶ時間がかかりそうだ。だがそれで何を答えたことにもならないだろう。誰に意見しているわけでもない。他人の忠告などにいちいち耳を貸していれば、それはさらなる遠回りに導かれるだけで、それこそ君の思惑通りなのではないか。ならば君はどうすればいいのだろう。思惑通りで何が悪いのだろう。何を述べようと、それらは先月の時空で述べられていることでしかないが、それがどうかしたのだろうか。何をとぼけているのだろう。何を述べてもただ焦れったいだけのようだ。そこから何か気の利いたことわざでも思い浮かぶだろうか。そんなものを誰が求めているのだろう。君はそこからさらに終わりのない逡巡を導こうとしているだけのようだ。何がそれを途切れさせるのか。それは将来に向けた課題となるだろうか。君は冗談でそんなことを述べているのか。そうではないと誰が反論できるだろう。そういうことには誰も興味がないのではないか。興味がないことを試みる輩がどこにいるのだろうか。要するにそれはくだらぬ言葉の循環なのだろう。それとは違うことを述べたいが、何かを述べようとすると、自然とそうなってしまうようで、それも心身症のなせる業か。誰が心身症なのだろう。なぜ君は心の病であることを否定したいのか。いったいそこで誰にからかわれているのだろうか。からかわれているのではなく、買いかぶられているのではないか。誰かは君が繰り出す虚無の何を評価したいのか。それがまともな文章だと思っているわけか。君はそこで墓穴を掘っている。それは何かを語り始める前から織り込み済みのはずか。自らを犠牲の供物として虚無へ差し出すことにより、何らかの言葉の連なりを生じさせているらしいが、それが嘘でない証拠がどこにあるのだろう。唐突におかしなことを述べている。無意識のうちに文章のつながりを無視しているようだ。なぜかそれが冗談になっていないような気がするのだが、君は本当に気が狂ってしまったのだろうか。そういう冗談も真に受けるとおもしろくなるか。しかし無理に言葉を繰り出しているような気がして、何となくそこで気まずい雰囲気を感じ取ってしまうか。何をそんなに恐れているのだろう。誰が恐れていることにすれば納得がいくだろうか。結局それは何の話でもありはしない。何も話さずに黙り込んだまま、そこから感情にまかせて呪詛の言葉でも繰り出し続けるか。それこそ冗談に違いないが、いったいどこの誰を呪い殺したいのだろう。他人を殺そうとする前に自殺するのがオチか。そんな人が多すぎるのは統計的な嘘かも知れない。それもその場のしのぎの冗談になるだろうか。そんなことを述べているうちに、だんだん荒んだ気持ちに心が覆われてくる。もう少し前向きに世間を捉えてみたらどうなのか。君はそこで何を敏感に察知しているのか。猫の首に鈴をつける役目を相談している鼠の集まりであるはずがない。それこそ文脈からはみ出ている意味不明か。


3月28日

 何をどうしたらいいのだろう。暇にまかせて考えていた日々から遠ざかっている。今は暇がないので何について考えているわけでもないか。だいいちものを考える気が起こらない。誰を馬鹿にしているわけでもないが、誰かは何を馬鹿にされているのか。つまらない日々の中で動物のようにうごめいている。まるでバケツの中で身動きがとれない鼠の心境か。そんなたとえに他意はない。それは金属アレルギーの一種だろうか。単なるあかぎれとは思えない。そんなわけで誰かがどこかで疲れている。昼はせわしなく動き回り、あわただしい時間がようやく過ぎ去り、少しくつろいだ気になっているうちに、もう夜になってしまったようだ。どうせ明日になってしまうのだろう。明日にならなければ時間が意味をなさないか。雨音を聞きながら、誰が何を空想しようとしているのだろう。何も思いつかないと気持ちがそこから逸れてきて、外れたことを述べてみたくなる。よく見れば蛇がとぐろを巻いているようだ。それは蛇の話ではない。まだそんな段階ではないだろう。ではどのような手順を踏んで語らなければならないのか。そんなはずがないと思いながらも、いつものようにわけのわからない成り行きに巡り会う。記しているつもりの言葉の連なりが自然と君から離れていってしまう。たぶん何を語ろうとしているのでもなく、話の辻褄が合わないのはいつものことだが、こだわっているのはそんなことではない。たぶん気分を害しているのだろう。軽はずみな言動は控えなければならないが、何もない現状では、そんなことにこだわれないのかも知れない。こだわっている暇がないのだろうか。何にこだわろうとしているのかまったく理解できない。そんな意味のないことを語っているうちに、一瞬つかみかけた雰囲気を取り逃がしてしまったらしいが、まとまりに欠ける思考は支離滅裂を目指しているのかも知れない。それはいつものことだろう。だが唐突にそんな結論が出てくる理由を見いだせない。やる気になったときにはもう遅い。何が遅いのかわかりかねるが、わからないまま手遅れとなってしまった現状に気づく。すぐに何をやろうとしていたのか思い出せなくなる。それでも君は覚えているはずだが、いったい何を覚えていることになっているのか。架空の台本でも読み直す必要に迫られているわけか。どうやら逃げ道はその辺にありそうだが、何がそれの逃げ道なのだろう。それとは何なのか。知らず知らずのうちにまたおかしな成り行きになってきたようだ。わざとわけのわからないことを述べているようだが、いったい君はこれから何を述べようとしているのか。そんな問いかけを誰に対して発しているのか。君とは誰なのか。それは何か霊的な存在なのだろうか。しかし問いかけているうちに終わってしまいそうだ。内容に至らないうちに文章が終わってしまうらしい。そんなやり方はいただけない。ではそれの何を批判すればいいのだろう。誰が批判する立場を占めているのか。君自身が批判を受ける立場になりつつある。何もしないうちからそれはないか。何もしていないことに対する批判なら甘んじて受けるべきだろう。だが依然として君が何を考えているのかわからない。誰がわからないのかもわからない。そんなことを記しているうちにも、時計の針はどこまでも回っている。いつまで経ってもらちがあかない状況に業を煮やして、やはりそれとは違うことを述べたくなってくる。それとは何だろう。またしてもそこへ戻ってきてしまい、そういうことを述べている誰かは、もはや正気とは思えない。気が違っているとすれば、正常な気というものを言葉で示してほしいか。それが何に対する反論の体をなしているのか君はわかるだろうか。そんなことを述べるためにそこまで進んできたわけではないが、他に述べるべきことがあるとすれば、それはどのような状況から生じてくるのだろうか。現段階ではそれ以外はあり得ないか。そこからどうやって盛り返そうとしているのか。雨音がうるさいほどに聞こえてくる。馬鹿げたやり方を踏襲しないでほしいが、そうならざる得ない状況を迎えつつあるようだ。なぜか不快さを維持しつつ、その不快さを継続していくつもりになっているようだが、なぜそうなってしまうのか、その原因を突き止めようとする気になれないのは、誰かが怠惰である証拠だろうか。ただうんざりしている。それだけではだめなのか。どう考えても不快さをぬぐい去ることは不可能のようだ。だが不快なままで一生を送る覚悟ができているとは思えない。できることなら不快な状況から一刻も早く脱出したいと思うのが、正常な神経の持ち主だと思われるが、現実はそうではないらしい。それは恐ろしい意地の張り合いに発展していってしまう予感がしてくる。些細な行き違いから対決を余儀なくされてしまうらしい。もうもとへは戻らないだろう。不快さを醸し出している者が取り除かれない限り、そんな状況が延々と続いていってしまうのだろう。それは必然性を伴った不快さなのかも知れない。


3月27日

 それは知り得た話ではなく、空想から生じているのかも知れない。自由とは何だろう。意味不明ならいつでもねつ造できる。それをねつ造とはいわないのではないか。ならば君は何を馬鹿にしているのか。あり得ないことを信じているわけではない。ならばそこで何が話し合われているのだろうか。誰かは被害妄想で心労が重なっているようだ。それはまたしても君には関係のない話か。心の片隅で何かが目覚めているようだが、それは君のことではない。それとは何かの噂話か。影に心があるわけがない。話が飛んでいるようだ。ではその代わりに何か不可能なことにでも挑戦してみたらどうか。理由になっていない。文章的に意味不明か。大げさなことを述べているわけではない。何をやろうとそれほど大それたことではないはずか。君は何を示そうとしているのだろう。誰かが地図を眺めている。何を眺めたところで何の解決にもなりはしないが、いったい何を解決しようとしているのだろう。この世に解決できない問題などあり得ないか。誰かがそう信じていたらしいが、それは過去の話だったかも知れず、今では何も信じられなくなってしまったようだ。いったい誰の仕業なのだろうか。答えが見つからず、途方に暮れている現状がある。君はそれでも強がっているつもりなのか。それが誰の態度と見なされるのかわからない。それでも君は何を信じ込もうとしているのか。信じるには障害がありすぎる。だから何も信じられなくなるらしいが、信じられない理由が未だにはっきりしない。この世の中の何を信じればいいのだろうか。冗談でそんなことを述べているのだろうか。さらに意味不明気味にわからなくなってくる。君にはなんのことやらさっぱりわからない。何について述べているのかさえわからないが、わからないのは君ではないはずか。何かが苦すぎるようだ。口の中で何かがこみ上げてくる。誰かがしびれを切らしているようだ。次なる手を打ちたいらしいが、今は相手の出方をうかがっている最中のようだ。君にはそれがわからない。気づいていないらしい。どうやらまた嘘をついている。知っていてしらばっくれているらしい。それはどういうゲームなのか。ゲームではなく本気なのかも知れない。遊び半分でやっているわけではないらしい。誰かは狂気にとらわれている。精神が徐々に腐り始めている。やがて無機物にまで分解してしまうだろう。そこまで行くのにどれほどの歳月を必要とするのだろう。しかしそれを否定してどうするのか。世の中に蔓延している価値観を共有できない。ポンコツ人間たちがどこかで群れ集う。お互いに何を共有しているつもりなのか。日が暮れて夜になり北風が止み、それでも闇夜にとけ込めずに蛍光灯の明かりの下に集まってくる。蛾の一種かも知れない。そんな光景を空想して何になるのか。君は君自身の姿を見失っている。君は君にしかできないことをやろうとしていない。要するにすべてを否定しようとしているわけか。それで何もしてやったりと思っているわけでもないだろう。悦に入るようなことは何もやっていないのではないか。この世の何が恐ろしいかといえば、人の心以外の何を思い浮かぶだろうか。君はそこで何を妄想しているのか。どこまで行けばぶち切れるのだろう。よそよそしさの合間に憩いのひとときでも過ごしたいわけか。何か述べていることが矛盾していないか。さらに意味不明を奏でようとしているだけか。楽器もないのに何で奏でるつもりなのか。言葉はとうの昔にそっぽを向いている。何事も君の自由にはならず、君を無視しながら痛めつけようとしている。そんなことができるとは思えない。誰がそれをやろうとしているのだろう。すべては闘争のたまものだと思い違いしてもらっては困るか。馬鹿げたことに神経をすり減らし、そんなどうでもいいことに関わり合っているうちに老いて廃人に近づく。すべては近視眼的な感情を行使した結果かも知れない。周りが見えていない。それでも生き残りたいのなら、どこか遠い場所へ旅立つしか道はないだろう。それは道ではないかも知れず、ゴミ捨て場で廃人たちがうごめいているだけかも知れない。まさか老人ホームがゴミ捨て場に直結しているとは思えないか。一度入ったら骨壺に収まって出てくるしかないか。そこまで残酷な結果を期待しているわけではない。人間はどこまでも攻撃的だ。何とか敵をやりこめたいらしい。ざまあみろと心の中で叫びたいのか。誰がそれを期待しているのだろう。君は誰の行為を笑いたいのか。文章には誤謬がつきものだ。今さら間違いを改めるわけにはいかないか。ならばそこから何を導き出せるだろう。くだらぬ感情ならどこかへ置き忘れてきたはずだ。わざとそうしているのかも知れない。君は見たこともない光景の中で、それが夢の中だとは思えず、自らが置かれた立場を乗り越えて、未来の世界へ影響力を行使したいらしいが、語ることでそれが可能だと信じているのか。くだらぬ妄信を捨て去ることができないようだ。そのままでは何ももたらされはしないだろう。


3月26日

 そこは窮屈な気分で支配されている。意味がわからないか。重苦しい空気によどんでいる部屋を飛び出し、あてのない方角へ歩き出す。そちらに行ってはだめだと誰かから忠告されているはずだが、話の展開上、そちらに行かないわけにはいかないだろう。神はこの世の中の何がおもしろいと思っているのだろう。君は誰に向かってどんな言葉を投げかけているのか。わけがわからなければ、世の中の外へ放り出されてしまえば済むことか。外は真空地帯だろうか。そうでなければどんな気分を醸し出せるのか。冬のマッキンリーで行方知れずとなった著名な冒険家のように、夢に殉ずる覚悟ができているのだろうか。君は彼を軽蔑していたはずだ。すべてはくだらぬ出来事の繰り返しだと思ってはいけないらしいが、勇気ある行動は独りよがりに陥りやすい。本当はそういうことではないのだろう。それはどういうことでもなく、誰もそんな話に興味はないらしく、いつものように君とは関係のない内容となってしまう。それがこれから話す内容だとは限らないか。まだ道化の登場を望んでいるのだろうか。破滅の種はすでにまかれている。君はそこで何を語っていたのだろう。過去のことは忘れてしまったらしい。だから君に投げかけられた言葉の意味を理解している暇はない。そんなご都合主義にだまされてはならない。誰が君をだまそうとしているのか。そんな嘘に動じてどうするのだろう。動揺しているのは誰の心でもない。この期に及んで何に一喜一憂しても仕方がないだろう。ならばそれはどんな結果なのだろうか。結果に何を期待できるのか。どこかで誰かが歓喜の渦に巻き込まれているらしいが、死ぬほどの苦労を味わってきたわけでもないのに、苦労話に花を咲かせようとする気にはなれない。それは誰の話でもありはせず、当然のことながら君の話でもない。興味を惹くような話などどこにもないのかも知れず、もとからそんな話はあり得ないのかも知れない。では誰が何の話をしようとしていたのか。それは誰のことでもない。君に何がわかるだろう。わかり得ないからそこで苦しんでいるのではないか。君に何をわからせるつもりはない。誰に隷属しているわけでもなく、誰の精神に狂気が宿っているわけでもない。まだそんなところには至っていないはずか。ではなぜそんな言葉の繰り返しから抜け出ることができないのか。興味を抱けないようだが、それは天気の話だろうか。君は雨の話に興味がある。しかしそんな嘘では間が持たない。ではもう少しまじめに事を運ばなければならないか。まじめではなくまともなのではないか。まともそうに語ろうとしているのに、それがおかしい。乾いた笑いが遠くから響いてくる。耳にこびりつくような嫌らしさがある。誰もそんな言葉は知らないらしい。では人々はそこから何を知ろうとしているのか。たぶんそうではないのだろう。苦し紛れに言葉を連ねて、苦い記憶を見失う。君が何を知ろうとしているのはない。他人の世話にはなりたくないのか。個人的な関心事に堕するのが許せない。ではその他の人々は誰のまねをしようともくろんでいるのだろう。さらにわけがわからなくなる。まるで文章の連続性を無視するように、誰かの会話に雑音が割り込んでくる。君には許せない状況が到来している。だがそれで神の逆鱗に触れているわけではなく、そんな風に述べていること自体が意味不明か。それでもどこかに落とし穴があるらしい。いつか本気になるときがくるのだろう。それは滝が流れ落ちる風景だったが、唐突に何を見ていることになるのか。癒しの空間がどこにあるわけでもなく、誰が何を見せつけようとしているのでもない。さらに投げやり的におかしい。それで窮地を脱した気になれるだろうか。はじめからそんな気はなく、君が求めている状況でないことは承知している。そして足下に散らばっている小石を踏みしめて、狂人がどこまでも歩いてゆく。意味不明を連発して、いったい何を醸し出そうというのか。センスを疑われるようなおかしさか。絶対山頂に立ちたいと強く願っていたのだろう。それは何かの断片だろうか。わざとそうしているのかも知れず、誘惑を拒否できないような状況なのかも知れない。どうなってしまいたいのか。そんな風に述べてみても、肝心の内容がなければ意味をなさないのであり、わけがわからなければ何を述べていることにもなりはしないだろう。君は神ではない。人でもないと述べたところで、それはどんな結果にも結びつかない。それとは何なのか。そこから先には何もなく、それという言葉にも興味を抱けない。ならばその先はどうなってほしいのか。何をためらっているのか。まだそこまで語っていないのではないか。画面を見続けていると目が疲れてくる。たぶんそれではだめなのだろう。それでも誰かの目がその有様をのぞき込んでいる。つまらない話ならしない方がマシか。まだ何を述べているわけでもない。いつまでその前段階にとどまろうとするのか。誰かと誰かがどこかで出会う。君に求められているのはそんな話ではない。


3月25日

 なぜかそこから進まない。話が進まないのは毎度のことだろう。それがおかしな展開だとは思わないが、何をそんなに気にしているのだろう。馬鹿げた話にはつきあいきれないか。困った話になってきたようだが、君は守るべきものを持たない。何がおかしいのか。なぜそれほどまでに感情を嫌うのか。言葉が出てこないようだ。無理に何かを述べようとしているのかも知れない。簡単にその場を放棄してしまう。どこから退いているのだろう。まだ始まったばかりだろう。他に何を嫌っているのだろう。その場の雰囲気が誰かの感性に合っていないようだ。意味がわからない。意味を解せない。どこかで躊躇している。やっていることが不快極まりない。何かだんだん否定的な気分になってきたようだ。そして夜になる。なぜそんなところで躓いているのだろう。今さら話の辻褄を合わせようとしているらしいが、それは無理だろう。すでに時間が経ちすぎている。何がそこでの理由となっているのか。理由とは何だろう。それは何をやるために必要な時間だったのか。今語っているそれが足りない時間の埋め合わせだとは思えない。たぶんどうにもならないのだろう。どうにもならないからそんなことを語り続けている。出来事は過去の時間の中にその姿を消してしまったらしい。まだ遠ざかれない。それはこの世界ではないのかも知れないが、たとえ誰かの妄想の中に架空の意識が生じていようと、それで何を述べているわけでもないはずか。まだそんなところでうろついているだけか。それは君の意識ではない。何をそんなに焦っているのか。それらの文章の中に何を生じさせたいのか。何もないのはしゃくに障るか。たぶん誰がくだらぬこだわりについて語っているわけでもない。いつまでも無責任でいられたら、誰も責任を取って死にはしないだろう。そういう話ではないか。この世の中がどうなっているわけでもなく、マスメディアが煽り立てている話題に誰もついてこなくなっただけかも知れない。そんなことはどうでもいいことだと気づいてしまった人の数が確実に増加しつつある。そんなことにいちいち目くじらを立てていられないか。それらの言説は本質を捉えていないのかも知れない。そんなことに本気で憤るべきではないのか。同じ出来事が一日中語られることは異常なのかも知れないが、それ以外にやりようがないのではないか。そこで何が繰り返されているのか。君は何を見ているつもりになれるだろうか。誰かが何かを伝えようとしている。君には関係のないことだろう。明日の天気を知りたいだけか。今は明日よりもさらに未来の時空に属しているのではないか。そんなことを知ってどうするのだろう。どうにもできないからそんな事実にやりこめられているわけか。ただわけがわからないだけではなく、本当に何も語れなくなってしまったらしいが、それを超えて言葉が連なっている現状をどうすることもできず、そんな結果に唖然とするしかないらしい。いったい君は何について述べたかったのか。今となっては何も変わらずじまいであり、とうに忘れてしまった記憶を呼び戻すこともできはしない。君には虚無がある。虚無を頼りとして言葉を連ねることしかできないようだ。それが嫌なら具体的な出来事について語ってみたらいいではないか。だがそんな挑発に乗って無理に何を語ろうとしても、誰に向かって語ろうとしているのかわからないまま、途方に暮れてしまうのがオチだろう。しかし何が至上の愛なのか。それは神にもキリストにも関係のない愛か。いきなり話が飛んでいる現状を否定するわけにはいかないが、その不可解な文章の展開が君を許さない。何かを説明しなければならなくなるが、何も思いつかず、そこから先に言葉を連ねようとしても、君には関係のない内容に終始してしまいそうだ。なぜ目がうつろに見えるのか。いったいそこで何を考えているのか。映画の中の登場人物は死体の見開いた目を眺めながら、君の死に様を想像する。それが誰の妄想であるとしても、そこに入り込んでいるのはどんな邪念をも打ち消そうとする意志か情念か。嘘だと思うなら、その先の映像を見続ければわかることだ。絶えず訴えかけてくる無言の主張は誰を惑わすためにあるのでもなく、そこから遠ざかるために空想されているのかも知れず、それらのわけのわからない言葉の連なりをくぐり抜け、まっとうな主張を展開するようにし向けているのかも知れない。だからそれらの無駄な言説は存在価値を持つわけか。そんなことはあり得ないか。信じられなければそれでもかまわないが、いつか後悔するときがくるだろう。そのとき後悔してもすでに遅すぎる。すべてが君から離れていったあとに後悔の時が訪れるしかけとなっているようだ。それが世の中の構造的な罠なのかどうかはわからないが、とりあえずそのときがきて、君が後悔したとき、何を悔やんでいるのか思い出せるだろうか。君以外の誰が何を覚えているだろうか。君のことなどすでに忘れ去られたあとから、ふいに君自身の意識がよみがえってくるだろう。


3月24日

 なぜか小刻みなふるえが止まらなくなる。そのまま誰かは凍え死んでしまうのだろうか。まさかシベリア抑留の苦い思い出でもないだろう。何かの広告は意識に何か不気味な出来事のように入り込む。それはいつもの意味不明な展開か。軽く作業をこなして何の思い入れも残さず、空疎な心を伴いながら、曇り空に向かって歩み出す。物語の始まりが読めてこない。いつ何が始まったのだろうか。どこをどう切り取っても中身が見当たらない。自尊心とは何だろう。それは従軍慰安婦の存在を否定したいらしい。少なくとも国家が関わっていたわけではないと言い訳したくなる。それは新聞のコラムか何かだったかも知れず、いかめしい面構えの人物が、保守派の論客気取りで、事を荒立てようとしている人々を手厳しく非難しているようだ。君はそこで何を思ったのか。未だにそんな地平で亡霊たちが跋扈しているらしい。その中の誰かが思い出したくない過去を暴き立てようとする行為に及んで、くだらぬ論壇が活性化する気がするのだろうか。誰がそれを望んでいるのか。そこでどんな利益を絞りだそうとしているのか。刺激的な表現を用いて世間の関心を自らが述べていることの中に引き寄せたいのだろうか。そういう虚無を商売道具に使うやり方にはうんざりさせられるが、そうまでして彼らは前へ進みたいようだ。それが何に向かっての前進なのかわかっていない。だが君はそこからどこまで遠ざかったのだろう。まだ未練がましく言葉を弄して何か主張したいようだが、それがまったく様になっていない。下手な格好つけに終始しているようで、何を述べたいのかさっぱりわからず、必死で自説を展開しているつもりなのとは裏腹に、こちら側には何も伝わってこない。肝心の内容が何も見当たらず、そんな空疎な印象とともに、稚拙な文章構成力が透けて見えてくる。冗談でそんなくだらぬことを述べているのだろうか。君にはそこから先の展開が読めていないようだ。それはそれだけのことなのではないか。そこから先など何もありはせず、ただ時流に押し流されて、数年後には跡形もなく忘れ去られてしまう運命なのではないか。しかしそんな風に思っているつもりに君にはその先があるのだろうか。何もなければどうするのだろう。今とは違う道でも探し当てられるだろうか。それは歩むべき道ではないかも知れず、整備された道を歩んではつまらないだけかも知れない。だがそんなたとえにリアリティは感じられない。では何をどうすれば納得がいくのか。とりあえずそうではないだろう。何でもないのかも知れず、いくら将来の行く末を憂う動作を繰り返そうと、未来の君には関係のないことだ。未来は未来でそこに生きているならば、君は名も知れぬ誰かとして生きているだけかも知れない。君は君でしかなく、君でさえなく、誰でもない誰かであるとすれば、そこでそれなりの生き様を示してくれるのかも知れず、それを示せないとすれば、それは言説の外に息づいていることの証かも知れない。言説の中に住まう者たちはたいてい自意識過剰なのだ。そういう魑魅魍魎たちはさかんに言葉で自らを飾り立てようとして、虚無の罠にはまって虚栄心に絡め取られる。人は絶えず自らを飾り立てなければ生きてゆけず、そのバリエーションの一つが言葉であるわけか。それが禅僧ならば、虚無そのもので自らを誇ってみせるところか。何もないことで逆説的に自己満足の境地に至りたいわけか。ならば茶道とは何なのか。礼儀作法の奴隷となって無の境地に至りたい輩の習い事か。そういう否定的な見解ではすべてを述べたことにはならないだろう。そこに肯定的な側面が見え隠れするからこそ、進んで窮屈な物置小屋で茶を嗜もうとするのではないか。だから言葉では何を述べたことにもならず、言葉にできないニュアンスを言葉で伝えることなどできはしない。そんな見え透いた嘘をついても意味不明か。それで何を述べたことにもならない。だが今の君にそれ以外の何を述べることができるのか。君は君ではないだろう。どうやら君には君以外の言説が割り振られているようだが、はたしてそんなことがあり得るだろうか。そう述べていること自体が無駄な付け足しに過ぎないのではないか。要するに今述べているつもりの君は君ではないということか。そんなことはわかりきっていて、それはさらなる蛇足に過ぎなくなり、それだけで君にとっては興味の対象外の言説に近づいてしまう。なぜそういう成り行きから逃れられないのか。それはいつものように本気になりがたい言説の対象なのだろうか。馬鹿げたことを飽きもせず繰り返している現状があるらしく、そこから知らず知らずのうちに虚しさがこみ上げてきて、何となくしらけた気分でくだらぬ言説の後始末に追われているらしい。何が求まるわけでもなく、他の誰かによって求められた答えは、誰にもそぐわないような無内容に終始しているようだが、何もそこまで卑屈になることはないだろう。少しはそれらの文章の存在を前向きに受け止めたらどうか。いったい何を述べているのか。


3月23日

 いつまでも空疎なことを述べている。そこで何を思い描けばいいのか。現実は君をまっとうな人生へと送り込みたいらしい。何となくそれでまともな成り行きに近づきつつあるようだが、今ひとつ気分が晴れないのはどういうわけだろうか。正気ではない方が気楽だと思われるか。普通であることは何かを想起させる。それが平常心なのだろうか。しかし気持ちが安らぐことはない。そういうやり方が君を追い詰める。何を問い詰めようとしているのだろう。彼らはそれでも何かを批判している。自分たちの非をいつまで経っても認めようとしないばかりか、常識をねじ曲げてまで何かに執着しているようだ。それは動物的な習性なのだろうか。しかし文と文との間に関係を構築できない。もとからそれぞれが関係ないらしい。君には主張がないのか。この世界がどうなってほしいのか。君の思惑とは無関係にどうにかなってしまうのだろうが、君は世界のことを語りたいわけではなく、他の何について語りたいわけでもない。ただ疲れているのだろう。人々はそれに気づいていないだけか。気づくべき時に気づかなければ、いつまで経っても気づきようがない。人々は自らが行いつつあることに責任が持てないのかも知れず、ただ本能の赴くままに振る舞いたいのだろう。そこから遠ざかるわけにはいかないらしい。生きている限りそこから離れようとしない。現実にしがみつくことしかできはせず、時として自分の居場所を確保するためには手段を選ばない。それが人間にもたらされた業の深さなのか。人によっては罪深いと思うだろう。どんな汚い手を使っても生き延びなければならない。目的の先には空虚しかなくても、それに向かってまっしぐらに進んでいく。そんな現状を省みて、何を述べようとしているのか。何か省察すべきことでもあるのだろうか。君には何もできはしない。誰の欲望を止めることもできない。だから君は他の誰かに道を譲って、本道から外れていってしまうらしい。欲望のままに行動するのが不快なのだから仕方がない。何となく冷めているようだ。人がどのように行動しようと、何を述べようと、たぶんそれは相対的な多様性の中に埋もれてしまうだけではないのか。本質的に目指すべきものなど何もありはしない。人は人でしかなく、人以外の何者でもなく、時には人以下の存在にもなれるが、人であることを超えることはできない。そんな述べ方では何を述べているのか意味不明に思われてしまうだろうが、そこに君が抱いている疑念があるらしい。きっかけを見いだせない。現実とまともに対峙することができないのかも知れない。何かを正視できないようだ。真正面から攻撃を仕掛けてくる現実に対処できずに、簡単に打ちのめされて行き先を取り替えられてしまう。それは行くべき道ではなく、それに気づいたときにはすでに迂回路の途中で、後戻りができなくなっている。出発点はすでに忘れ去られて、終着点もどこにあるのかわからず、自らが何をやっているのか把握できずに、何を述べているのかも定かではなくなってしまう。まっすぐな道で迷っている。それはあり得ないことだろうか。なぜそこで止まってしまうのか。袋小路でもないのに行き先を見いだせない。どちらへ進もうとしても、その先は行き止まりのような気がしてくる。だが何が怖くて前進を躊躇しているのか。そんなのは嘘に決まっているだろう。それは苦し紛れの薄ら笑いでももたらしているのか。それの何が不快なのか。君はそこからどこへ進もうとしているのか。そこへ赴くことでどんな代償を払わなければならないのか。結果としてもたらされるそれの何が報いなのだろうか。無駄に言葉を連ねようとすることで、どんな報いを受けていることになるのだろう。何にこだわっているのだろうか。そのこだわりを放棄できないことで、どのような不具合を受け入れなければならないのか。それを改める余地があるだろうか。何を悔い改めればいいのだろう。本当に悔やんでいるとすれば、どうして落ち着き払って過ちを繰り返し続けるのか。それが過ちでないと思っているのだろうか。何となく心が傾いているような気がするが、それはどこへ向かって傾斜しているのか。その傾斜を滑り降りてゆくと、その先には何が待ち受けているのだろうか。誰かはそれが自らの破滅であり、死であると思いたいらしいが、それは思い違いかも知れない。たぶん君はそのような結果に至らないのではないか。結果を見ずに消え去る運命かも知れず、いつの間にか様々なこだわりや軋轢が忘れ去られて、現実を構成している様々な要素が別の要素と入れ替わってしまい、思いがけない展開を経て、驚きの結末でも迎えられるかも知れない。そんなのは嘘かも知れないが、嘘でもかまわないからそんなありもしない成り行きを夢想しながら、そこに漂う重苦しい雰囲気をやり過ごそうとしているのだろうか。そんなやり方が現実に通用するのだろうか。通用しなくてもかまわないか。そんなことはどうでもいいことでしかないようだ。自らがどうなってもかまわないか。


3月22日

 良くも悪くも途中から何に感動していたのかわからなくなる。そんな述べ方ではわけがわからない。たぶん単純な印象を受けているのだろう。過去を忘れてしまったらしい。皮肉で述べているわけではないが、それは何かのパロディなのかも知れない。誰かは意味不明気味に荒れ地に野バラを見かけたつもりになる。そこで何がバラバラになってしまったのだろう。馬鹿げたことを語っている理由を知りたいわけではない。ならばいい加減に違うことを述べてみないか。何が違ってしまったのか。誰が何を抱いているのでもなく、弦楽器の音に浮かれているわけではない。さっきから目が死んでいるようだが、それは何かの幻覚か。言葉が分解してしまったのかも知れない。語るべき内容を知らず、たぶん答えは風の中にはないのだろう。美しい言葉は要らないか。どこかで何かが違っているようだ。まだ幻想を抱いている時間に到達していないようだが、何かを聴いているうちに目の中に紫の煙が入ってくる。誰かはまるで亡霊のような目つきをしている。操り人形のようにピアノを弾く。映像の中の瞳は何を訴えかけているのか。死人はどこと目指しているのでもない。では虚無は誰の心を強く捉えているのか。君は何を馬鹿にしているのだろうか。今日もそこで何かが繰り広げられているようだが、馬鹿げたことを述べないでほしい。まだそれを述べていない。死んで伝説になるほど世間では活躍していなかったはずだ。そこで何が燃えているというのか。それは困難ではない。打開できるものならとっくに打開しているはずか。では君はそこで何を知りたがっているのか。わけのわからない言葉の連なりに感動するはずもないが、まだそれが見えているわけではない。ただそれらの動作がおかしく、誰が何を語ろうとしているのでもないらしい。ならば後悔とはどこから生まれてくるものなのか。心の底から何かがせり上がってくる。それが奥底だとは思えないが、空疎な文章は何らかの転機を迎えているのかも知れない。誰に対して敬語を使うべき場面でもない。いったい誰と対話しているのだろう。そして何を見破られているのだろうか。意識は嘘でちりばめられた文章を遠ざけようとしている。それは自然に生じていることか。では敬うとはどういうことなのか。神は誰を敬えばいいのだろう。唐突な言葉の出現に見知らぬ誰かが戸惑う。神はそこで何を断言できるだろう。誰があの世に旅立ってしまったのか。誰がいなくなろうと、それは誰が決めつけるべきことではない。では何を驚いているのだろう。奏でられているのは、まるでがらくたのような文章だ。君は詩心がわかっていない。誰に死が差し迫っているわけでもないようだ。常に死に損なっているのかも知れない。冗談を用いて混乱の極みに至りたいようだが、誰がそんなことをやろうとしているのか。夕闇が迫ってくる頃、どこかで誰かが立ちつくしているようだが、そこで呆然としている理由がわからない。君はこれから何をやったらいいのだろうか。笑いすぎて立ち直れない。ならばそのまま不完全燃焼のままでもかまわないのか。誰が一酸化炭素中毒になってしまったわけでもなく、練炭を車の中で炊いているわけでもない。ならばそこで誰が何を思っているのか。言葉と意識の間で関連性が薄れてゆく。神とは何だろう。まだそんな愚問につきあっていられるほど意識がはっきりしている。くだらぬ成り行きに踊らされて、安易に言葉を連ねてしまったことを悔やんでいるらしい。誰かの文章を批判する前に、相手の人格を尊重しなければならない。それは誰の人格なのだろうか。傷口では血が固まっている。陽の光に透かして、塩の結晶を眺めている。それは歌ではない。文章の方は難しい局面を迎えているらしい。ごまかしではなく、まともなことを述べてみたらどうか。その中で何が見え透いた嘘になるのだろうか。何でもないと思いたい。ならばそこで誰が傷ついたふりをしているのか。そことはどこなのか。何かの雰囲気に流されて、他の何かが消え去ろうとしている。具体性を見いだせない。言葉が具体的な多少を見失っている。それは何かの流れなのだろうが、それがすべてではない。君のくだらなさが透けて見える。何もそこまでくることもないだろう。そこで何が極まっているのだろうか。映像と歌との間に関連性を感じられないということか。君はそこで何を見ているのだろう。腐ってカビに覆われたミカンを食べられるわけもなく、湿気った畳の上で蒸し暑さに耐えているだけか。それは今から何年後の映像になるのだろうか。何を空想しているのだろう。それが何を示しているのかわからないが、そんな言葉の並びに不満を抱く理由が見当たらない。それは誰の未来なのだろう。ただおかしいことばかり述べている。それがおかしくないと思うのは、冗談になっていないからか。まだその続きがあるのだろうか。君に何がわかるのか。誰にもわかり得ないとしたら、それはいつもの意味不明に違いないが、今さらそんなことを述べる必然性はどこにも見当たらない。


3月21日

 何かおかしいと思わないか。君は何をあきらめてしまったのだろうか。人間の根源的な苦悩とは何か。志の低い者に苦悩など似合わない。では売名行為とは何だろう。何もないのに誰に何を認めてもらいたいのか。君に関してわからないことはいくらでもありそうだ。ただ苦いだけの何なのか。それに関して何を思えば済むことか。密かにちりばめられた何かを認識したいらしい。紙の表面に色彩が舞う。うごめいているのは虫ではない。輝いているのは氷の粒だとは思えない。夜の闇の中に誰の心情が織り込められているのだろう。それが美意識であるはずがない。要するに何かを否定したいようだ。誰の心をつかもうとしているのか。つかんでいるのはどのような空気なのだろうか。君は何をつかみ損なっているのだろう。他人に対して不快感を煽っているのは誰なのか。まだ何も語り始めていないようだ。助走が長すぎる。飛翔する前に前のめりになって墜落してしまう。それはあり得ない話ではない。少なくとも改善の余地はありそうだ。状況を見極めなければならない。君はこれから何をやろうとしているのか。何を知ろうとしているのだろうか。なぜそれが状況を打開する糸口になりうるのか。それで何を知っていることになるのだろう。とりあえず何らかの対処法がありそうで、思いついたそれを実行しなければならない。心に期するものでもあるのだろうか。何とかしなければならない状況にあるらしい。何とかなるものならとっくにやっているかも知れないが、それでも何とかしなければ気が済まないようだ。無理を強いられているのかも知れない。そして結局思いついたそれは自然の流れにまかせるしかないということだろうか。いったい何をやらせようとされているのか。試行錯誤が極まっているとは思えない。使える言葉にも限りがあり、それをいかに効果的に使うかが目下のやらなければならないことか。よくそんな利いた風なことがいえたものだ。君はまだその内容を知らないはずだ。知ることができないから、そこで煮詰まっている。思考の限界を感じているはずだ。誰がそれを超えて述べているというのか。君はそれに関する具体的な事件を知っているはずだ。その出来事が君を突き動かしている。思考形態には収まりきらない偶然の一撃が君を動揺させる。だから慎重に事を運ばなければならない。そこから遠ざかれたと思うのは時期尚早だ。今も空疎な文章の範囲内で君は思考し続けている。そこまでたどり着けないから、そこで考える羽目に陥っているのか。いったいどこへたどり着こうとしているのだろうか。暗黒の大地は夜に包まれている。君を手招きしているわけではなく、誰の到来をも拒絶しているのかも知れない。野火をどこかで見た記憶があるらしい。煙に巻かれて行き場を見失ってしまうだろう。それは未来に遭遇する出来事になるのだろうか。何をうぬぼれているのか。そこに誰の顔を見いだすことができるだろう。わかっているのはそんなことではない。わかり得ないことを思い出そうとしても無駄だ。記憶はどこへ向かって検索しようとしているのでもない。言葉はその先へ踏み込めはしない。君もそれをわかっているはずだ。未知の記憶はすべてありもしないフィクションから生じているのだろうか。何かがそこで空中分解しているのかも知れない。しかしそれは以前に記した文章だろう。策を弄して何かと何かを分断することには成功したようだが、今度はその策に溺れて自らが前任者と同じ轍を踏んでいることに気づいたときにはもう手遅れであり、取り返しのつかない苦境に追い込まれている自らに気づき、焦りの色を隠せなくなるどころか、もはや必死で生き残りの手段を講じるしか残された選択肢はなく、要するに醜態をさらけ出しているわけだ。そんな具合に作り話を構成できるだろうか。しかしドラマチックな展開にはうんざりしているはずか。人間はどこまでも愚かな存在であることを自覚して何になるのか。少しは謙虚に振る舞えると思いこんで、それに裏切られたらどうするのだろう。さらに生きづらくなるだけか。自業自得なのかも知れず、何に追い詰められているわけでもないと高をくくっていた頃が、それらの意識の全盛時だったようだ。栄枯盛衰とはそんな状況に当てはまる紋切り型だろうか。誰がそんな状況をもたらしているのでもなく、作り話の中では簡単にそうなってしまうのだから、それは造作もない話の展開になってしまいそうだ。君の意識はそれに対応できず、怒ったような顔で体裁を取り繕うのがやっとのようだが、それでも平静を保っているように見せかけて、やっとのことで絞るような声を吐き出している。たぶん君には無理なのだろう。何が無理かといえばすべてが無理なのであり、その無理をおして何かをやろうとするが、やっとのことで成し遂げたつもりの何かは、周りの誰からも見向きもされず、それは自己満足にも至り得ない何かでしかなく、浅はかな自尊心をいたく傷つけられた君は、さらに卑屈な人間へと変貌を遂げるだろう。今ではもはや廃人同然か。


3月20日

 そんな表現はおかしいだろう。たぶんそんな風に述べるべきではないのかも知れない。金は無駄なことに使うのに適している。貧窮の時は永遠に続くだろう。必要としている人には絶望がもたらされる。何を必要としていたのか思い出せないほどの絶望感に包まれて、誰かはそこから立ち去る。季節が過ぎ去ろうとしているわけか。冗談で何が導き出されるわけでもなく、まるでろうそくのように燃えさかっていた意志が溶け去り、心の中で何かが形骸化している。言葉の組み合わせに必然性はなく、何らまともな意味をまとわない。ただそこから消え去ろうとしているだけか。それは何かの情念から生じた物語だ。若者に夢を与えたいというお節介がそもそも破綻を来しているようだ。誰かの空想の中で動き回っているその登場人物には、まだはっきりした姿形が備わっていない。作り話の中で誰が何を書いているわけでもなく、君には相変わらず書く動機が見当たらない。何を書こうとしていたのか忘れてしまったのだろうか。それは何をやる動機でもなく、どのようなきっかけでもない。まだ何も語り得ていないのか。作り話の中で誰かの身体はどこへ向かおうとしているのでもない。ただそこへとどまろうとしているだけか。岩のように動かない。岩が岩のように動かないのは当たり前のことか。当たり前のことのように人が生きている。廃屋の中はもぬけの殻だ。何を満たしていたのだろうか。そこに意識が生じる条件を知りたいのか。誰かは扉を開く鍵がほしいそうだ。誰がどこに閉じこめられているわけでもない。ならば君は何を勘違いしているのか。誰が勘違いの原因を探りたいのではない。夜はこの世に暗闇をもたらしたいらしいが、夜になればその願いは成就するだろう。夜と夜の間に何があるかは誰もが知っている。そんな戯れ言のたぐいには迫力が感じられない。それほどやる気が残っているわけではない。ひたすら言葉を求めているわけではない。連続的に言葉が連なっているとは感じられず、言葉も映像も途切れ途切れにしか伝わってこない。意識は画面から背を向けているようで、退屈しのぎに何をもたらそうとしているのだろう。それが苦し紛れだとは思わないが、何かのスクリーンに映し出された幻影には時間的な制約がありそうだ。持続時間が限られている。終わりがあれば始まりもあるらしい。だが矢継ぎ早に場面転換していては、幻想を抱く暇も幻影に浸っている暇もないか。真昼に見た幻影の姿を思い出そうとしているのではないが、気がつけばチャンネルがひっきりなしに切り替わっている。見たいものはそれではないと思いたいらしい。ではそれ以外に何を求めているのだろうか。それがわからない。何をわかろうとしているのでもない。心は何に満たされているのでもない。それで幻影から逃れたつもりか。いつまでも誰に物申しているつもりでいられるのか。語りかける相手が窓際の植物だとしたら、君はとうとう気が狂ってしまったのか。それともとりあえず意味不明を醸し出そうとしているわけか。しかしそれで危機から逃れられたわけではない。その証拠に相変わらず文章は支離滅裂のままだ。頭の中で何かが錯綜していて、複数の意志が入り乱れている。近頃はそれぞれに自己主張が激しすぎるようだ。春は終わりの季節なのだろうか。誰かのつぶやきが微かに聞こえてくるが、それを無視して前進する。いくらぼやいても無駄か。この世界ではまともな主張が無視されているようだが、君は未だかつてまともな主張を発したことがないので、それは君には関係のないことか。どうやらまだ時間がありそうだ。何をするための時間でもないが、とりあえず時間が余っているらしい。その大岩には何が封じ込められているのだろう。しかしその目は何を見ているわけでもない。誰のまなざしが何を見ているというのか。その人影には動きが感じられない。まっすぐ西を向いている。その指さしている方角には何があるのだろう。夕日が沈みかけている。数時間前の光景を誰かが思い出そうとしているようだ。なぜそんな風に語ろうとするのだろうか。まだどこへたどり着いた実感も湧いてこないが、何がそれを知らせているわけでもない。すべては嘘なのか。前にも同じような疑念を抱いていたはずだ。いい加減に失われた時間を取り戻した方がいいかもしれない。そこで何を躊躇しているのか。感覚がまだずれている。何も思い出せないふりをしている。わけがわからない風を装っている。結局は何も思いつけず、時間も失われたまま、言葉だけが勝手に連なろうとしているようだ。そんなはずがないと誰に思わせたいのか。君に何を思わせたいのだろう。何も思わないとすれば、それらの文章は無駄だったのだろうか。どこかで語らう相手を探し回っている誰かは、自らの心の中に何を秘めているのか。相手に向かって何を見せびらかしたいのだろうか。どうせつまらない自己主張が噴出してしまうのがオチか。だがそれで誰かを否定するつもりはない。他人を幻滅させるのは誰の役割でもなく、それは相手次第なのだろう。


3月19日

 たぶんそんな話ではなかったはずだ。その手招きを見たことがあるだろうか。闇の向こうから誰かが呼んでいるらしいが、呼ばれて返事をすることもなく、夢遊病者の足取りで二階から飛び降りる。誰かが足を骨折したらしい。落ちてゆく途中で、何も探していないのに、何かを見つけたつもりになれるだろうか。偶然に見いだされた空間の中には誰もない。そこには何もないのに、なぜか疑念を抱いている。何かあるのではないか。誰に呼ばれたわけでもない。それをいくら否定しても、根も葉もない噂にはならない。妄想とは何だろう。想像とはどう違うのか。何かがそれを完成させようとしているらしいが、君がそれを阻んでいる。あきらめの境地に惑わされ、意識は何かを見失っている。それでも何かをやり遂げようとしているらしいが、それとは何だろう。なぜそこから離れていってしまったのだろう。そことはどこなのか。誰がそれを知るわけもない。気がつけば床に紙切れが散らばっている。身体から心が抜け落ちて、痛みを感じなくなる。悲惨な光景を眺めながらも何とも思わない。かつてはそこから遠ざかろうとしていたはずだ。君は未だに返答を求めているのだろうか。それは何に対する返答なのだろう。君が無視してきた状況の中に、見落としている問題点でも埋もれているわけか。疲れているようだ。他に何かが抜けているような気がするが、何に気づくべきなのか。何がそんなに気に入らないのか。魂とは何だろう。それは違うと思われる。そこで君は何を述べたかったのか。話の筋書きがどこにも見当たらない。その中身を把握していないのだから、それは当たり前のことだ。何をやっているわけでもないのに、何が無理なのだろうか。どうやらさらに無駄なことを述べ続けているようだ。いい加減に脈絡のない文章が連なる。思念とは何か。何もわからないが、そのわからない状況を覆したいと思っているようだが、それは残念だ。何を述べても何を果たしたことにもならない。そんな中身のない作り話にはうんざりしている。誰がうんざりしているのか。何を聞き返しているのでもない。気がつけば夢の中で言葉の断片が浮遊している。そこで何を忘れているのか。何を忘れようとしているのか。霞の向こうに何が見えるだろう。誰が視力の限界に挑戦しているわけではないが、少なくとも誰かはまたつまらないことを述べている。いつまでもくだらない言説に終始していないで、少しは気を休めたらどうか。何を呆れているのだろう。何に呆れたつもりになっているのか。いくら言葉を弄ぼうと、そこから本音は出てこない。どこかに隠されているつもりのそれは、誰の本音でもありはしないが、現実にどこかで言葉が連なっていて、そこに誰かの意識が形成されようとしている。そんな嘘にもうんざりか。誰がうんざりしているのだろう。それ以外に何ができるというのか。君という不在から何を導き出そうとしているのだろう。誰もそこから意味を引き出そうとする意図を感じられないようだが、たぶんそれでも誰かは文章を構成しようとしているのだろう。言葉の連なりの中に自意識の破片でも見つけて、貴重な何かを探し出したつもりになってどうしようというのだろう。価値など何もありはしない。それらの価値観が理解できない。滅びの前に何を顕現させようというのか、印象だけが言葉を催す。美の周りに群がっている人々も言葉に頼りきりだ。馬鹿げた演技を賞賛する人々も同様に狂喜する。何がわかっているというのか。知り得たすべてを開示させられるだろうか。やはりだめなのかも知れない。安易に不可能に直面しすぎている。目に映る何もかもが不快に思われるのもそのためだ。しかしなぜそこから抜け出られないのだろうか。それに関しては何の理由も思いつかない。その原因を探る気も起こらない。まだ先は長いらしい。どうやらさらなる試練が待ち受けているようだが、自らのいい加減さにまだ気づかないのか。気づきようのないいい加減さというものがあり得るだろうか。そんなことを述べているようでは先が思いやられる。ならば先がなければ安心できるだろうか。その先には何が待ちかまえているのか。それを知ってどうするのか。ただうんざりさせられるだけかも知れない。投げやりな気持ちを振り払うことができない。だがそんなところで力尽きてしまってどうするのだろう。わけがわからないままに文章を終わらせてかまわないのか。何も考えられないのだから仕方がないか。だから他人の言動を馬鹿にするには及ばない。自らの惨状を目の当たりにして何を思うだろう。目的が違っているのかも知れない。当初からそんなことではなかったのか。それでも弱音を吐いているつもりにはなれないか。まだそこまで演技が煮詰まっているわけではなく、演技以前の段階で、自意識は何を演じている自覚とも無縁かも知れない。だからそれが虚構になることはないだろう。まったく話にならないのだから、それは物語以前の無内容に過ぎず、ただ言葉を組み合わせて意味のない文章を構成しているだけか。


3月18日

 この世界は暴力的だ。暴力的である理由などありはしない。ただ理由もなく暴力的なのか。他人をやりこめるために人は生きているのだろうか。その究極のやりこめ方が殺すことであり、死人に口なしなのだろうか。そんな野蛮さの中に無神経が絡んでいるようだ。鈍感力などというものを肯定すべきではない。とりあえず繊細でかつ敏感でいた方が良心的だろう。それでは勝てないというのなら、負け続けていた方がよさそうだ。倫理的には鈍感力などというものを行使する輩に勝つ必要はないだろう。現状にしがみつき、ひたすら現状のただ中で生き残ろうとする者を相手にすべきではない。そんな現状に嫌気がさしているとすれば、ただそこで押し黙る他はない。救いなどという気休めを求めてはいけない。ひたすら耐え続けているしかやりようがないようだ。たぶんいつか何らかの転機が訪れるかも知れないが、それを待ち望もうとは思わない。不快なままでどうしようもない現状をやり過ごせるわけもなく、とりあえず目の前の作業を一つ一つこなしていくしかやりようがないらしい。だから甘い考えはすぐに改めなければならない。そこにご都合主義にまみれたフィクションを構築しようとしても虚しいだけか。作り話には飽きているはずだ。君にはどうにもならない現実があるはずだ。現実には筋書きがなく、終わりも始まりもない。たぶんそれは物語ではないのだろう。物語を遙かに凌駕している。リアリティそのものを直に体験しているのだから、それをわざわざフィクションで置き換える必要などありはしないし、架空の登場人物など適当に配置するのは馬鹿馬鹿しいか。しかし誰が何を知っているというのか。現実のただ中から何を伝えたいのだろうか。その内容はとりとめがなく、言葉では再現不可能かも知れない。少なくともそれを再現しようとしているとは思えない。それは見たまま聞いたままの出来事ではない。君は何を見せられているのか。それは予期せぬ出来事に違いない。思いがけず誰かの行動が何かをぶちこわしにしている。やる気がしないようだから、去り際に罠を仕掛けておくが、それは誰の行為でもありはしない。要するに意識が投げかけた言葉の意味を意識が理解できないのだ。ただ悩んでいるふりをしているだけか。少なくとも悲劇が起こることを期待するのは無責任だ。君はまだ懲りていないようだ。かなり痛い目に遭っているというのに、反省の気配はみじんも感じられない。本当に何も感じていないのだろうか。何を強がっている風も感じられないが、まさか涅槃の境地に達しているわけもないだろう。それではいつもの意味不明だろうか。それの何が作り話なのか。たとえそれがフィクションの域を出ていなくても、それらの言葉の連なりは誰の創作活動が招いた結果でもない。現実には何も起こりはしないだろう。ただ淡々と時間が流れていくだけのようだ。神は嘘で塗り固めた劇的な展開に嫌気がさしているのか。誰が神の降臨を望んでいるわけでもない。正気であれば人は日々の日常の中で生きているだけの存在か。それにしては現実の誰かはだいぶ心が狭まっているようだが、それは狭心症の一種か。冗談で死ねるわけがないか。死ぬ前にやり残したことはないか。それは誰に割り当てられた台詞なのだろう。いったい他に何を知りたいのか。カフェインの力では眠気を振り払うことはできない。現状では何もありはしない。しかし何もないから言葉が連なっているというのは嘘かも知れない。それで何もできないわけではない。文法的に否定が連続すると何か困ることでもあるのか。君はそこから何をわかろうとしているのだろう。君が存在し得ない世界を夢想しているだけか。実感が何も伴っていない。何かを語る上で、語る価値を見つけにくい状況にあるようだ。いったん語り出しても、助走がつきにくく、語り終わるまでにかなりの時間を要する。だが安易なやり方に手を染めるわけにはいかないか。他人の不幸に目を輝かせるべきではない。ならば空中分解とはどのような状況の時に使われるべき言葉なのか。なぜ面倒な手続きを経なければそこへたどり着けないのか。それは誰の事情でもありはしない。とりあえず誰かが他人を見ている。他人の出方をうかがっているようだが、そこで何が意味不明だと思われるのだろう。ただ言葉がつながらないだけのようだが、いったい誰の間合いに意味不明な台詞が飛び込んできたのか。それらの脈絡の感じられない言葉の連なりは君に何を理解させたいのだろうか。何かが待っているようだが、それは誰の運命なのだろう。いつまでも運命から目を背けていては前へ進めないかもしれないが、現実にそうなったらどうするのだろう。前進することをあきらめなければならなくなるだけか。何も考えなければ何も思いつかず、逆に考えれば考えるほど意識は言葉から遠ざかる。そのうち誰かは妄想にとらわれて身動きがとれなくなる。そんな誰かに何を伝えようとしているのだろう。君には秘密がある。誰がその秘密を知ろうとしているのか。冗談ではないか。


3月17日

 見渡す限り装飾美の世界だ。剥き出しのコンクリートの壁に頭を打ちつける。なぜそんな夢を見ているのだろう。額から血でも流れ出しているのだろうか。何となく血の匂いと生暖かい感触を覚えながら、天気の話をしたいわけではないが、数日後の空は晴れている。夢の光景がどこかへ吹き飛んでしまったらしい。自分が何に気づいているのかわからない。時にはそんな嘘をついてみたいか。建設現場で人が埃まみれになってうごめいている。誰かがどこかで歌っている。たぶん歌いすぎて声がかれかかっているのだろう。無理矢理歌い続けるとJBのような歌い方になるのだろうか。無理だと思うがせめてボビー・ウーマックのように歌ってほしいか。空を見上げながら誰かが雲の動きを目で追いかけている。それが超能力だとは誰も思わないだろう。そんなことを述べて何をこじつけようとしているのか。マッチ箱のような家並みに感動したつもりになる。車窓からの眺めはせわしない。駐輪場で監視員の老人が見回っている光景に目がとまる。老人も歌いたいのだろうか。フィクションの中では最近死んだJBに哀悼の意でも捧げたいのか。それで何が報われるのだろう。会話のテンポが次第に遅くなるが、誰と会話しているとも思えない。誰かが独り言をつぶやいているらしい。それはまじないや呪文のたぐいだろうか。君は魔法の意味を知りたいらしい。それは言葉の力なのか。言語能力に長けていないと信用されない世の中だ。詐欺師やペテン師のたぐいなら信用されるのだろう。埼玉県は何のためにあるのか。ベッドタウンという言葉を使いたくなる。郊外から人々が通ってくるらしい。それが仕事のためだと思いこみたいのだろうか。若者がゲームセンターで誰かと同じような動作を繰り返す。それらの頭脳はゲーム用の頭脳なのだろう。ゲーム用の頭脳が一般社会にどの程度通用するのだろう。何を心配しているのでもないらしい。馬鹿げた妄想を抱いていると、空から隕石でも降ってくるだろうか。ギャグマンガならそんなこともあり得るか。社会は君たちに何を期待しているわけでもない。何がどうなってほしいとも思わないような輩なら、喫茶店で毎日暇つぶしをしているだけか。それでこの世界の終末を迎えることができるだろうか。それはどんな妄想なのだろう。妄想の内容が文章に反映されているわけではない。まだ君にはやらなければならないことがあるらしい。どこかの雪原で人気タレントが自殺したふりをしていて、それに呼応した嘘泣きがテレビドラマで繰り返されている。そんな映像をどこの画面で見かけたのか。画面自体はどれでも同じというわけではなく、画面の表示面積によって受像器の価格に違いがあるのだろう。その価格は人々の心理をどうしたいのだろうか。何を操れば多くの人が大画面テレビを買う気になるのか。相対的に値段が下がってくれればいいだけか。製造コストを下げて低価格帯でも利益が出るようにしたいのだろう。それの何が詐欺やペテンに結びつくだろうか。無理なことを述べないでほしいか。君は相当疲れているようだ。見えているものが見えていない。君はそんな心境に至ろうとしている。どんな心境なのか、それを言葉で説明する気にはなれない。そういうことでしかない。意識もそれ付随して存在する身体もどこまでも移動しようとしている。現状がくだらないような気がしてならないか。それらの何がコンクリートジャングルなのか。見えている光景とは何なのか。わけのわからない問いかけが繰り返されているようだ。君はそれらの言説が不完全であることに気づいている。だから物足りないと感じているのだろう。わけがわからないだけではつまらない。何やらうつむき加減で思考しているように見えて、居眠りの最中のようだ。見ているのは田園地帯を横切る電信柱の列か。高圧鉄塔の下に住宅が何軒も建っている。電磁波の影響から癌になる人も出てくるだろうか。そんな心配が誰の役に立つのか。何を考えようと気のせいに過ぎないのかも知れず、心のざわめきを消し止める気にはなれない。それを冗談で済ますのは不謹慎極まりないか。見えている光景には誰も存在しない。それが未来の光景だとは思えず、たぶん過去でもなく、今現在のまなざしが追い求めようとしている光景なのかも知れず、どうもそこに映っている通行人が邪魔だと思ってしまうらしい。なぜそんな風に語ろうとするのか。おそらく君には何も理解できないだろう。そこでやめる勇気もありはしないのに、何を続けようとしているのか。意味不明ならまだマシか。有害だとは思えない。何を妄想しているのか。つれづれなるままに、そんなことを思っているだけで、それらの光景とは縁を切ったつもりになれるが、心の中で縁を切っているだけで、いついかなる時でもそれを思い出さない保証などありはしない。できることならもう少し手加減してほしいか。妄想はいくらでも盛り返してくるのだろうし、それに支配された心は自らの不自由さを嘆くことしかできはしないか。それ以外に何をもたらそうとしているのか。


3月16日

 意識は方々へ分散しているようだが、それで何か不都合があるのだろうか。嘘だと思うならそう思っていればいいだろう。それ以外に何が気に入らないのか。なぜかすがすがしい気分になっているようだが、それも嘘かも知れない。少しは語っていることに真実味を持たせられないものか。何となく切羽詰まっている。時間的に追い詰められているようだが、それはいつものことではないか。文章の中で感じているのは誰の感覚でもない。実感とは何だろう。常に何か物足りないと感じているようだ。外が寒すぎるのだろうか。それとこれとは関係ない。誰に君の心境が理解できるはずもない。誰かが君に向かって禁句でも並べているのか。タブーとは何だろう。ふれてはならないこととは具体的にどんなことなのか。たとえばそれは君が代日の丸のたぐいか。それに関して誰かがどこかで勇ましいことを述べているようだ。子供たちを戦場に送らせないためには、学校の卒業式や入学式で国旗を掲げたり国歌を斉唱したりすることに、教師や生徒の保護者が反対しなければならないらしい。現実の戦場と卒業式や入学式での国歌斉唱や国旗掲揚の場はかけ離れていると思うが、それらの間にどんな関連があるのだろうか。そんなことにこだわっていては人生を棒に振りかねないか。本来の意味不明とはそういうものだろうか。そこに至る脈絡を理解していなければ、なんのことやらさっぱりわからないが、軍国主義の全盛時からどれほどの月日が流れたのか。彼らが暮らしている世界では、一方に国歌斉唱や国旗掲揚を強制する人々がいれば、他方にそれを断固拒否する人々がいるらしいが、たぶんそれは妄想の世界ではないのだろう。端から見れば本質から外れた枝葉末節的な争いごとでしかないが、現実にそれらを争点として大まじめに闘争を繰り広げている人々がいるようで、確か裁判沙汰になっている場合もあるらしいが、それはわけのわからない抽象性を巡る争いでしかないか。具体的には起立して国歌を歌わなかったり、伴奏しなかったり、国旗を掲揚しなかったりすると罰せされるそうだが、それの何が抽象的なのか。確かに一つ一つの動作は具体的かも知れないが、それはまるでお笑い芸人が演じるコントなどと同じようなレベルでの具体性だ。大の大人がこれ見よがしに歌を歌わなかったり、旗に向かってお辞儀をしなかったりすること自体が大人げないが、またそれを罰する側も罰する側で大人げない。それが国家の本質だとしたら、本当にお笑いぐさとしかいいようがなく、幼稚極まりない。君には関係のないことかも知れないが、あと百年経っても同じような争いごとが継続されているとしたら、それは天然記念物的な争いになるだろうか。なぜそんなものを無視できないのだろう。国歌斉唱や国旗掲揚を推進する側も反対する側も、お互いに無視し合っていれば丸く収まるようなことでしかないのではないか。どうでもいいような形式的な儀式を他人に強要しようとすること自体に無理がある。いったい儀式の必要性とはいかなるところから生じてくるのだろう。それをしなければ何かが立ちゆかなくなるのだろうか。それを推進する側はそこから何らかの価値を導き出したいのだろうか。価値とは何なのか。世の中には金銭的な価値以外にどのような価値があるのか。たとえば人間国宝とは何か。ノーベル賞とは何か。文化勲章とは何か。芥川賞とか直木賞といったたぐいのものにどんな価値があるのだろうか。金で買える価値も買えない価値もすべての価値はくだらないものか。そう思える立場になってみたいものか。しかしすべては流れ去ろうとしている。それらは馬鹿げたこだわりから生じた虚栄の価値か。いったい価値とは何なのか。何を信じたら救われるのか。信じられるものにどんな価値があるというのか。富をもたらし幸福感に浸れるような価値なら信じるべきなのか。嘘をつくと胃が痛くなってくる。そんな嘘はこの世界には通じないか。では何を通用させるべきなのだろうか。今の君に何ができるのか。やるべきことはそういうことではないのかも知れず、何を信仰しようと、そんなものに価値を見いだしてはならないのかも知れない。誰が安住の地を求めて彷徨っているわけではない。安住できないからこそ生きているのではないか。安住の地とは永眠する場であり、要するに墓場のことだ。墓場に価値を見いだしたければ、金をかけて豪勢な墳墓でも築くべきか。それが勘違いだとするなら、では君のやりたいこととは何だろう。冒険者のように山登りや極地探検にでも行きたいわけか。夢とは何なのか。何かの分野で世界一になって、そうなった自らを誇りたいのか。ならば虚栄心とは何だろう。自らの行いを誇ることは虚栄心のなせる業か。自らを誇って何が悪いのか。悪いのでも冗談でもないだろうか。ならば人はなぜ旅をするのだろう。現状に嫌気がさしているからか。それこそ冗談半分で旅を続けているのかも知れず、いくら道に迷っても、まったく本気になれない現状がある。そんな君は虚栄心とは無縁の存在か。


3月15日

 何かが切れかかっている。誰かはしびれを切らしているようだ。何を待ち続けているのだろう。なぜ待ちくたびれているのか。そんな話はつまらない。そう思うからつまらなく思えてくる。決まり文句的には意味不明だろう。つまらない理由を知りたいのだろうか。さっきまでとは状況が変化しているようだが、違った見方や考え方が可能となっているのだろうか。選び取ったつもりの選択肢の中に思い違いの種がある。そこで何を考えているのだろうか。首をかしげているだけでは何を思いついたことにもなりはしない。しかし意思表示ができないとなると、何らかの病にかかっている証拠になるだろうか。そんなものを求めているわけではない。何かを避けていることだけは確かようだ。結論に至ることはないだろう。その場に戻って来られない。理解できない事情に苛まれている。何を阻まれているのだろう。障害物をよけているはずが、とんでもない方向からぶつかってくるものがある。直撃を食らうのは何とか避けたようだが、相当のダメージを受けてしまったらしい。君は言葉遊びの限界に直面している。終末は突然にやってくる。持ち越された結論が復讐を開始する。わざと言葉を間違えているようだ。文章を意味不明に仕立て上げようとしている。それでは何を避けているのかわからない。見えている結論から目を背け、別の方角に幻影を見ようとしているだけか。それはあり得ない光景になる。納得しがたいし、断じて認めることはできない。それは避けがたい結果を伴って現れる。幻影などではないらしい。事実そのものになる。人は何のために生きているのだろうか。そういう問いかけ自体が何もないことから意識を逸らすための気休めになる。君にはそれが信じられない。別にふざけたことを述べているわけではないが、まじめになれない理由を探すつもりにはなれない。それでふざけていること証となるだろうか。そういうことではないような気がするが、何について述べようとしていたのだろう。明確な目的を導き出したいのか。語っているうちにそんなことは忘れてしまうだろう。では藪から何が出てくるのか。藪の話をしていたわけではない。今の君に何がわかるだろう。過去の時空に住まう君に今があるとは思えない。何とか追いついてみせる。だが気持ちに余裕が感じられない。それが君の言葉ではないからか。誰がそれらの文章を所有しているのか。誰の所有物でもなく、言葉の連なりはすでに誰の気持ちからも離れている。そうやって嘘をついているつもりなのに、それが真実となってしまう。何を述べても意味がないような気がする。不可避的に虚無に近づいているようだ。忍び寄る冷気は君に何を考えさせようとしているのか。そんなことを述べていてはだめだと諭したいのだろうか。実際に誰が何を述べているわけではない。何もかもが見え透いている。その何もかもの適応範囲が狭いからそんな風に思えてしまうのだろう。だからそこから遠ざからなければならない。老人はやがてあの世に旅立つ。君には関係のないことか。この世のものではないらしい。それは魂などではない。誰がそんな未来を求めているわけでもない。何もない未来には人もいないだろう。それは君の運命ではない。芸術などではないらしい。意識は美的な感性を拒絶している。死すべき宿命は万人に当てはまる必然だ。それらの死は君には関係のないことだ。死がなければ本気になれないのだろうか。そういう話の展開は予想外かも知れない。そこで何を思いついてしまったのか。それでも危険が間近に迫っているとは思えない。それは死の危険などではない。では他に何を拒否しているのか。生きることから目を背けるべきなのか。意識がだんだん心の中で退き始めている。もうわけのわからない戯言にはつきあいきれないか。何が意識に絡まっているのか。何を取り除かなければ真実が見えてこないのか。いつの頃からそんな風に思うようになったのだろう。何を目指しているのでもなさそうだ。言葉は意味をなさないように組み合わさることを願っている。そんな思いこみの中に誰かの意識が滞留している。そういう語り方ではだめだと思っている。見えない意図が顕在化することはない。何も隠されてはいないのだろう。どこまで行ってもそんなことばかりのようだ。それは行けるはずのない道なのかも知れない。道ではなく、語っているすべては藪の中であり、迷路ですらない。要するに述べていることが支離滅裂なのだ。何を述べているのか理解できず、わかり得ないような言葉の組み合わせにたどり着いて、悦に入っているのかも知れない。そんな嘘もつまらないか。何を拒否する理由があるだろう。でたらめを受け入れている限り、それらの文章は否定すべき無内容に覆われている。だがわかりやすさとは何だろう。それは馬鹿になることか。しかし聡明さからはほど遠い現状にある。あり得ない言葉の連なりに頭を抱えているわけでもないが、何かの出現を感じ取っているわけでもない。何でもないのだからそれが何かであるはずがない。


3月14日

 何か修正すべき箇所があるだろうか。誰かが道に迷っている。迷いすぎて出発地点まで戻ってしまったようだ。たぶんそれは見え透いた嘘だろう。そんなことはあり得ないか。それの何が作り話なのだろう。誰かはとうとう最果ての地までやってきたようだが、それは架空の大地に違いない。そこで誰かはつまらない光景に感動したふりをする。どこまでもつまらない話に終始しているらしい。話の終着点が見当たらない。どこから大地を見渡しているわけでもないが、人影を確認できない。煙突が無人の荒野にそびえ立つ。誰のまねをしているのか。創作とは何なのか。その程度でやめておくべきではないか。嗚咽とは何だろう。唐突に思い浮かんだ言葉に感動しているわけではない。そんな状況はあり得ないだろう。どうやら思い通りに文章を構築できずにいるらしい。あり得ない状況とはどこからもたらされるのか。緊張感に包まれて頭の中が真っ白か。もう少し簡単に物事を語れないものか。常にできないことをやろうとしているわけではない。それで何を否定しているのか。否定したいことを否定しているわけではない。頭の中で考えていることでもない。何かの断片が空白に散らばろうとしている。君は何を見ているのか。画面が見えている。画面上に鏡が見えている。真剣に考えるようなことではない。ここに何かがある。空気の中に空虚がある。何を見ているわけでもない。それが言葉になるらしい。何も導き出せずに煩悶している。何となく状況が違うような気がする。何を煩っているのだろう。考えていることが逆さまだ。それはどういうことなのか。今さら何を否定したいのか。いつもの状況ではない。心が動揺しているのだろうか。気持ちの中で何かが変動しているようだが、それほど困惑していないはずだ。何がわからないのかわからないというわけではない。そんな嘘をついてその先はどうするのか。それをそのままにしておくことはできないはずだ。だからそこからいつもの語り口に近づいていってしまうのだろう。さっきから首をかしげているようだ。夜が押し寄せてきているわけではない。闇が迫ってくるのは気のせいだ。何に妥協しているつもりなのか。妥協なくしては成り立たないような言葉の連なりになりつつある。やはり何が見えているわけではないらしい。見慣れた風景を見失っている。君は何に向かって言葉を投げかけているのか。偶然に見かけてしまったのだから仕方がない。だが君はまだ犯罪者にはなりきれていないようだ。そういう話の成り行きに乗り切れない。そこから何を盗もうとしているのか。視覚に頼りすぎているのだろう。何かを感じることができない。それで何を見失っているつもりになれるだろう。まだその続きがあったのか。何もないのに何かがあるようだが、そこにねつ造されつつある事実に呆れかえる必要はない。まだ何を述べようとしているわけでもない。知っていることを話すべきか。何があり得ないのだろう。心と気持ちの間に何があるのだろう。現実と事実はどう違うのか。そんな風に語るべきではないのかも知れない。少なくとも苦し紛れの感を免れ得ない。それは誰の感想なのだろう。いかに語ろうと、君の感想が文章に反映することはない。もうやめてほしいと思っている。まったく土産話にもなりはしない。そこは人と人とが語らう場ではない。孤独のただ中でどんな言葉を漏らそうと、それがそれらの文章を読んだ感想とはならない。何かがずれているのか。それで何を思いつけるだろうか。それらの言葉から何を連想したいのか。必死になれないようだ。努力している風を装いたくはない。要するにその程度のことでしかない。他にどんな内容をもたらしたいのか。何を思いつこうとしているのか。何か勘違いしていないか。そのどれにも当てはまらないような状況があり得るだろうか。現状に降参すべきか否か誰に判断してもらいたいのか。それでもささやかな抵抗を繰り返している現状がある。この期に及んで何ができるというのか。君がそれを知っているとは思えない。たぶん何かを捨て去らなければそこへはたどり着けないのだろう。その捨て去るべきものとは何なのか。君はどのようなこだわりに殉じようとしているのか。まだ何もわかっていないようだ。もうそこまで死期が迫っていると思いこみたいわけか。勘違いの原因はどの辺にあるのだろう。そうではない。そんなことを述べている場合ではないはずだ。そんなのは嘘に決まっている。しかしそれ以外は何も述べられないのではないか。そしてようやくそこまでたどり着く。またいつもの無駄足だったのだろう。現状以外の何ももたらせはしない。それが嘘だとは思えない。そんな現状のただ中にいることが信じられないのか。それは無理もない話になるだろうか。どこにもたどり着けなかったのに、結果的にはそれでかまわないのかも知れず、とりあえずそれが結果だと思いたくないが、何ももたらせないという結果が出ていることを認めざるを得なくなる。そこから先に何を述べたいのかわからない。


3月13日

 また何かの迷路に迷い込んでしまったらしい。本当にそれが実態を反映しているのか。実態とは何なのか。実際に君は何をやろうとしているのか。何をやっているわけでもないとすれば、君は何をやめようとしているのだろう。何をやめられないわけでもないが、やめたいことなら他にいくらでもあるのではないか。それをやめずにがんばっているつもりなら、そんなことはさっさとやめたらいいと思うが、それでも相変わらず誰が何を思っているわけでもないらしい。要するにわけがわからないということだろうか。何を笑っているのだろう。また虚しい冗談に心が染まっているのかも知れないが、これから何をやめるにしても、本気になれないのかも知れない。本気でやめたいわけではないということか。なぜいつまで経っても本気になれないのだろうか。眠たいのか。他人のペースに巻き込まれて疲れているわけか。そんな状態で何を語りたいのか。眠たいから何も語りたくはないか。いくら言葉を弄しても、未だ語るべき内容に至れないようだ。そこに至る必要はないのかも知れない。言葉を弄している時点で何かしら語っていることになるのだろうか。だが無理に無内容を語る必要はないはずだ。それは君に課せられた使命ではない。では今の君に何ができるだろうか。何も語らずにどんな文章を構成できるだろう。それは文章ではないかも知れない。文章でなければ何なのか。君に何ができるわけもない。何もできなければどうなるというのか。だからもうこれ以上はどうにもならないと思われる。君はそこで語るのをやめなければならない。やめなければならないが、やめるわけにはいかないらしい。だから無理なことを語っていることになる。そんな状況から抜け出すことができないようだが、どうすれば無駄に言葉を連ねている状況を解消することはできるだろう。それの何が無駄と思われるのか。いくらそんなことを述べてみてもらちがあかないからか。無理に語っていることから生じる嫌悪感を解消できず、それでもすでに何かを語り出している現状をどうすることもできはしない。だから君に何ができるのか。それに対するまともな返答など期待しない方がいい。相変わらず誰かは返答に窮している。何もないのだから仕方がないのかも知れない。そして君はさらに疲れているように見える。疲労困憊しているようだ。それが嘘だと誰が信じようか。それでは疲れているのかいないのかわからないか。どちらでもかまわないのかも知れない。なぜ作業の邪魔をするのだろうか。睡魔が何をしているわけでもない。何もないのに語ろうとしているだけか。無理なのだろう。何が無理かはわかっているが、それと同時に無理ではないのかも知れない。何を思いこんでいるのか。不快なことを述べていると思われる。たぶんそれは気のせいだろう。嘘でもかまわないから愉快に振る舞いたいのか。たぶんそこから先が正念場なのだろう。とりあえずどうにかしなければならない。本気になれないのに本気のふりでもするつもりなのか。それは君の言葉ではない。そこに何が省略されているのだろうか。君の本心をどこにねつ造すればいいのだろう。それはどのような本心なのか。誰が死んでほしいのだろう。それは君自身なのだろうか。そこで死んだふりをしているのは誰なのか。誰を殺したいわけでもなく、誰と出会いたいわけでもない。放っておけば自然に不穏当な発言が積み重なり、それを眺めながら君は何を考えているのか。そこから他人の興味を惹こうとしているわけか。それでも失敗を積み重ねていることに変わりはない。それの何が失敗なのか。言葉の並びを読んでいる暇がない。それと本気になれないこととの間にどんな関係があるのだろう。現状では何も答えてくれない。押し黙ったまま、繰り出すべき言葉を思いつかず、苦し紛れというごり押しすら、そこでの選択肢にはないらしい。何も語れず、何も思いつかない。そんな現状が君の実態を反映した結果なのだろうか。いくら他人を馬鹿にしようと、自分が馬鹿にされる立場は変わらず、馬鹿にすればするだけ邪悪な感情によって愚かさがましてゆく。それの何が愚かなのか。要するに君は何も状況を把握していないということか。それは嘘なのかも知れず、本当はわかっているはずだ。愚かでも邪悪でもなく、ただ何も思わないだけか。自らが記した文字の連なりに自意識が反応しない。それが支離滅裂であったなら、どんなに愉快に思われることか。君のねらいはそんなところにあるらしい。何を告発するでもなく、何が悪いとも思わず、すべての成り行きが誰かの思いのままであろうとなかろうと、そこから文章を構成すること自体が無駄なのかも知れず、あえてそんな風に語ること自体が無意味なのだろうか。何を述べていることにもならないか。君はそれを知っているはずだ。君がやっていることは、君にしかできないことではないが、それをあえてやる必要性を感じていないのは、君以外のすべての人たちなのかも知れず、それでも無理に語ろうとしているのは愚かさの極みか。


3月12日

 暗闇の中で何を見ているのか。何か気に障ることでも述べているのだろうか。失語症に陥っているわけではない。誰かが生き残っているようだ。フィクションの中では安易に人が死ぬ。人が死ねば話がおもしろくなるかも知れない。そういう方向で語るべきではないか。だが他に何も語れないのだとしたら、そんな風に語るしかないだろう。疲れているのではないか。そうだとしたらどうなのだろう。つまらないことでうんざりさせられているだけか。それで何がわかるのだろう。何もわからなければそこで終わりか。なぜ終わってしまうのか。まだ何も語られていないではないか。やはり疲れているのだろうか。他に何も思いつかないが、何か心当たりはないか。いったい何を思いつきたいのか。心当たりがなければそういうことだろう。何を恐れているのだろう。やめてしまうことがそんなに恐ろしいのか。それがわからない。それほど大げさなことではないような気がする。挫折を味わうだけではないか。それで何がわかるのか。何もわからないままに終わってしまうことの何が恐ろしいのだろう。はたして何もわからないことが語りの終わりに結びつくだろうか。ではわからないままに語りを継続させたいのか。そういうことを語りたいのではない。心の病とともにそれらの語りは続いてゆくだろう。君はそれが嘘だとは思わないのか。わけのわからない成り行きに困惑しているようだが、それが季節の変わり目だとは思わない。では何をどう思えば話の辻褄が合うだろう。安易な心理状態で絶望を感じてしまうのは勘違いのもとか。ではそこにもたらされている挫折感や絶望感は根拠の定かでない幻想に過ぎないのだろうか。人は何故に挫折したり絶望したりするのだろう。理由が何も説明されていない。いつも不完全でつぎはぎだらけの話に終始している。それで何を語っているつもりになれるのか。たぶん君はそれを知ろうとしているわけではないのだろう。ただごちゃごちゃわけのわからない語りを継続させたいだけなのか。そしてそこで挫折して絶望したつもりになる。だがそれで話が完結したわけではなく、終わりはいつまで経ってもやってこないようだが、君のねらいはどこにあるのか。君はそこで何をやろうとしているのか。孤独のただ中で何やら修行しているつもりなのだろうか。修行とは何なのか。それは冗談のたぐいだろうか。おかしな方向へ話が進んでいきそうになる。それの何が気に入らないのだろう。ならば魅力とは何だろう。おもしろおかしいことの何が話の魅力なのか。つまらないと思うことのどこが魅力なのか。要するにわけがわからないと思わせたいのか。何がわかっているわけではない。さらに馬鹿らしいことを語っているだけのようだ。それの何が馬鹿げているのだろうか。君は何を知っているつもりになれるだろうか。はたして自らの馬鹿さ加減を知り得るのか。それ以上は何を語ろうと、さらにわけがわからなくなるだけか。だからそれが魅力だと勘違いしたくなるわけだ。放っておけばどんどん安易な語りに終始してしまうようだ。それが君の限界であることは承知している。だからそこでやめたくなってくるわけだ。そしてやめたくてもやめられないことに気づく。何かがそこで逡巡を繰り返している。その何かについて語ることができるだろうか。君は自らの愚かさとともに何に気づいているのだろう。そんなことを語っていること自体が何をしめているのか。そこからどのような徴候を感じ取れるのか。たぶん気が狂っているわけではなさそうだ。至って冷静でいるつもりらしいが、何をわかっているとも思えないのはどういうわけだろう。それらの話の成り行きに特定のわけがあるとは思えない。それでもわけがあると思いたいのなら、それは何もないことから生じているのかも知れず、何も具体的な事象に言及できないから、そうなってしまうのだろう。しかしそれでいいのだろうか。よくないと思うなら、そこから先に何を語ればいいのか。何も語らずにそこで終わってしまえばいいのだろうか。終われないならどうすればいいのだろう。また以前と同じような言葉が組み合わされて、それに応じた文章が再構成されるだけか。しかしそれで愉快な気分になれるだろうか。そんなことは君の眼中にはないのかも知れない。君に眼中があるとは思えない。それは君ではない。君は自身が君であることが面倒くさいのだ。それはどういうことなのだろう。ただそんなことを述べてわけがわからなくなっているように装っているだけか。時にはそういうやり方も致し方ないか。誰に許しを請うているわけでもない。そんな風に語ってしまうこと自体がある種の罪悪感を生じさせているようだ。もっとまともな内容にしなければいけないと思うようになるのだろうが、それができないからそうなってしまっていることを忘れている。その辺に誰かのご都合主義が見え隠れしているか。ならばそこからどうしたらいいのだろう。どうにもできないからそうなってしまうのだろう。そんなことを語っていること自体が話の無理を感じさせる。


3月11日

 乾いた気候があかぎれを悪化させる。何に気づいたのか。目の前に広がる光景に感動できるだろうか。観光地を歩いているわけではない。見よう見まねで他人と同じ動作を取り入れているわけでもない。それではロボットかも知れないが、そこで何かが食い違っている。わかったつもりでわかっていないことがあるだろうか。それを感知したいわけか。気持ちはさらに冷めているようだ。それでも目が覚めていることだけは確かか。無駄な言葉が多すぎる。人々は生きるために仕事をやっている。他にどんな理由があるのだろう。それは求めている理由ではないか。生きる理由も死ぬ理由も求めてはいない。それに関して哲学的な意見を期待しているわけでもない。風に吹かれて唇がかさかさになる。それが文学的な表現につながるとは思えない。やはり求めているのはそんな言葉ではないか。では何を知り得たつもりになりたいのか。何に対してそれを行使したいのか。言葉を使用して何を表現したいのだろう。芸術とは何だろう。何でもなければそれはどのような価値を持つのだろうか。何も知りたいとは思わないか。すべては幻想なのだろうか。何を早合点しているのだろう。間違ったことを鵜呑みにしたいわけではないが、何が間違っているのかわからない。考え方が幼稚なのかも知れない。その辺が君の限界なのだろうか。何を気にしているのだろう。わかったようなわかっていないようなことを述べていてはらちがあかないだろう。そんなことを述べているうちに、次第に焦りの色を隠せなくなる。そこで何を見透かされているのか。なぜ退いてしまうのか。何を述べても無駄だということをわからせたいのか。もうすでに行き詰まっているのではないか。それはいつものことだろう。そうなってしまうのは前もってわかっていたことだ。気がつけば闇の中から誰かが君を呼んでいる。その怪しげな手招きに応えるべきなのか。今さら自らの幻影と戯れてどうするのか。何を知り得ることになるのだろう。そんなことは結果を見てみないと何ともいえない。それらの状況にどう対応すればいいのだろう。何か匂いをかぎ取っているわけか。可能性とは何なのか。それはどうなる可能性なのか。そこから何をどうしたいのだろう。さらにわけがわからなくなるだけだろうか。たぶんそれを知りたいわけではないのだろうが、それとは何なのか。この世界にどのような可能性があるのだろう。そういう大げさなことではない。何となく気分が乗ってきたのかも知れないが、ただ無駄に言葉を連ねているだけかも知れず、述べている内容を知り得ない意識にとってそれは苦悩の表れなのだろうか。何かがおかしいと思われる。理由を見いだせなければ、おかしいと思って当然だろうか。それならそれでそれを肯定すべきではないか。何も否定する理由を見いだせないのだから、それで現状を肯定していることになるのか。それでも何かがおかしいようだ。いったい何を述べていることになるのか。晴れ渡った寒空は何も答えてくれない。別に空に向かって何を問いかけているわけでもないだろう。知らず知らずのうちに何かを口走っているとすれば、それは気が狂っている証拠になるだろうか。その瞬間を意識することができるか。自らが大声で叫んでいるのにそれを聞き取れないとすれば、完全に正気を失っていることになるか。現状はそうではないような気がする。ただ押し黙っているのかも知れない。そこに並んだ言葉は何も語り出さない。ただ誰かが読むにまかせて、読んでいる者が抱く妄想に語りかけているようで、そこから意味不明な意味をもたらそうとしている。そんなことがあり得るだろうか。何が大事なのだろう。それほど風邪を悪化させているわけではないらしい。肺炎の一歩手前のはずがない。何を過信しているわけでもなく、仮にその先に死が待ち受けていようと、そうなったらなったで、待ち受けている死を払いのける力などありはしないし、死の直前まで冗談交じりに鼻歌でも歌っているつもりなのか。そんな話をどこかでした覚えがあるだろうか。何を笑っているのだろう。ありもしない状況を空想するのはいい加減にやめたらどうか。死は誰に何を課しているわけではない。死自体が課されているのだから、あとは死ぬまで生きているより他はあり得ないだろう。誰もがそうせざるを得ない日々を送っているはずだ。そのこと自体に意味などありはせず、意味は人々が抱く想像の中にその姿を見せようとしているだけか。そこから何らかの目的を導き出したいわけだ。そしてその目的に向かって努力したいのか。たまにはそんな精神作用に従ってみてはどうか。いつまでごねていても何ももたらせないだろう。何ももたらそうとしない態度ばかりでは本当に何もなくなってしまう。とりあえず何もなくても何かあるように見せかけなければ、誰からも信用されないのではないか。それでかまわないのならそれを続ければいいのだろうが、それに飽きてきたら、少しは前向きな行動に訴えかけて、状況を改善していけなければつまらないままか。


3月10日

 それは違うかも知れない。時が経てばそんなことはどうでもよくなってしまうのだろう。何に対して怒っているわけではないが、政治家は何をしているのか。少なくとも何かをやっているはずか。君は彼らに対して何を期待しているわけでもないらしいが、昔は何かを引きずっていたようだ。だが今はそんな話をしたいわけではない。たぶん何も見えていないのだろう。一時的なものなのか。それは何かのヒステリーだったに違いないが、その頃の君は何もわかっていなかった。わかろうとしていなかったのか。わかりたがらなかったのかも知れない。今はどうなのだろう。相変わらずわかるつもりはないのかも知れず、そこにはくだらぬ感情が渦巻いているのだろう。確かにそれを認めなければならないが、認めたところで何がどうなるわけでもない。相変わらず君はその件に関しては何も述べていない。その件とは何のことなのだろう。何も述べられないのだろうか。そんなことを述べて何になるのか。何にもならなければ何も述べる必要はないのか。ならば君とは別人の誰かは、そこに醸し出されている雰囲気から何を読み取る必要があるのだろうか。興味がないといったら嘘になるだろう。だが今は嘘でもいいから興味がないと述べるべきなのだろう。それで君と妥協を図るべきなのか。冗談ではないか。君は何を無視しているのか。状況を把握していない。現実には現実感が欠けている。この世界からリアリティを感じられないようだ。君はそこで何をやるべきなのか。何もできないはずがない。それは嘘だろう。何もできないからそんな現実を受け入れなければならないのだ。そんな現実とはどんな現実なのか。それは誰に対して発せられた断言なのか。その辺でようやく目が覚める。居眠り運転は事故のもとか。さっきまで何か考え事をしていたらしい。それはヒステリーとは別の感情なのではないか。何やら冷静さを取り戻しているように感じられるが、君にはなんの実感も湧いてこない。世間に対する関心からだいぶ遠ざかってしまったようだ。世間は何を騒いでいるのだろうか。君はそこからどのようにして逃げてきたのか。何か世間が注目する関心事について述べるとすれば、たとえばスポーツに関して何を思えばいいのか。何を思っても皮肉になってしまうかも知れない。松井がヤンキースに入ったらヤンキースのファンになり、松坂がレッドソックスに入ったら、今度はレッドソックスのファンになることはおかしいか。何となく軽薄な感じがしないでもないが、それでもかまわないと思った方が無難か。世間が騒いでいる球団のファンになることは自然な成り行きなのだろう。くだらぬことを述べていると腹が減ってくる。ならば他にまともそうに思われる関心事はないか。昔は教育問題についていじめがどうのこうの述べていた時期があったのではないか。今はそのことについてどう思っているのか。何も感じないか。たとえば人の命に関しては否定的な考えを述べていたはずだ。いじめのないよりよい社会を築いていくためには、そこに暮らす人々はどう行動すればいいのだろうか。いじめの元凶となっている学校教育をなくせばいいか。学校教育をなくして通信教育にでも移行すればいいのだろうか。そんなことは無理か。人間関係を養うには集団生活が必要不可欠なのではないか。現実に集団生活があればそう思われて当然かも知れない。学校という制度も今ある現実を反映して構築されているのであり、同時にそういう制度が今ある現実を作り上げているのかも知れない。つまり集団に同じ内容を教えるという教育そのものが、今ある社会を実現させているのだとすれば、それをなくしてしまえば、今とは違う社会が生まれるかも知れない。何となくそれでもかまわないと思ってしまうのはどういうことなのか。義務教育などなくしてしまって、子供に何か学ばせたければ、金を払って民間の塾にでも通わせればそれで済んでしまうような制度にしたらどうか。現状では実現性は皆無だろうが、もしそうなったらこの社会はどうなってしまうのだろうか。平等ではなくなってしまうか。平等そのものが幻想なのではないか。それでは国家が成り立たなくなってしまうか。それならそれで何か不都合でも感じるだろうか。いろいろな不都合が出てくるだろう。それと同時にある種の人々にとっては好都合であり、願ってもないチャンスに巡り会う機会でも出てくるだろうか。そうなったらなったでおもしろいだろう。どうも本気でそうなったらいいと思っているのか疑わしく感じられるが、何となく愉快な状況になることを願っているのだろうか。このままでは世の中があまりに単調に思われてしまい、硬直した制度でがんじがらめのように感じられる。それについて意見を述べる人々も決まり切ったことしか述べられないようで、いつも同じような言説が繰り返されているだけで、要するに世の中がつまらなく思えてしまうわけだ。何となく松坂の練習試合につきあっている人々が、大馬鹿野郎の集まりのように感じられてしまうのはおかしいか。


3月9日

 また言葉が続かなくなってくる。それの何が許せないのだろう。誰がそれを操っているのだろうか。微妙な力加減を必要としているらしい。誰が何をやっているのか。呪われているのだろうか。何かの存在を感じている。願いとは何なのか。何について調べようとしているのか。視力にかげりが出始めている。さっきまで何をやっていたのか。何を思い出そうとしているのだろう。疲れているようだ。疲れて眠ってしまったらしい。頭上で何かがぐるぐる回っている。意識が途切れてからどれほどの時間が経過してしまったのか。別に交通事故に遭ったわけではない。大破しているように見えるのは何なのか。どんな画像を入手したのだろうか。誰かの視線を感じているようだが、見え透いた嘘とは何なのか。君は何の侵入を許しているのだろう。風邪でも引いたのかも知れない。くじ引きの成果がそんなところに顕れている。それが嘘なのではないか。そこから体勢を立て直すつもりらしいが、未だに文章が意味不明のままだ。何を辿ってそこまでやってきたのだろう。急に視界から文字が消えてなくなる。それは聴いたことのある音楽だ。それをそのまま放置しておいてかまわないのか。まだ何を確かめたわけではない。本意はどこにあるのだろう。何を翻そうとしているのか。まだそこまで行っていないのではないか。では何を語ろうとしているのか。何も語らずに終われるはずがない。見え透いたことを述べないでほしい。それで意表を突いているとは到底思えない。まだ何か隠していることがあるのではないか。それほど倒錯した内容ではない。たまらず口をついて決め台詞が吐き出される。なぜいつもの言葉なのか。たぶんそれが嘘なのだろう。気がつけば横道に逸れている。何の話をしていたのか。まだ余力が残っているだろうか。やっとのことで言葉がつながり出す。かろうじて何かを述べている。そんな精神状態では長くは保たないだろう。花粉症のたぐいか。天井を見つめていると心が落ち着く。命とは何なのか。言葉でしかない。それで何を否定していることになるのか。まだそこまで進行しているわけではない。歯止めがどこかでかけられているようだが、それは何かの病状だろうか。君は神に対して何か供物を差し出したのか。そういう話ではない。誰かがかつて神の死を宣言したはずだ。人間もすでに死に絶えている。それはいつの時代のことだろう。現代ではあり得ないことか。では他に何か気の利いた文字列でも思いついたのか。そんな言葉はあり得ない。これから何を見せびらかそうとしているのだろう。正気ではないのかも知れない。まだ嘘でもかまわないのだろうか。人の死を予言したのは誰でもありはしないが、他の何に興味が湧いているわけでもない。はたして二十世紀は人間の世紀だったのだろうか。他の世紀は何の世紀だったのか。至る所に機械がはびこっている。情報がネット上にあふれている。それはありふれた言葉だろうか。君の興味を惹きそうもない言葉に満たされている。結論は何も出ていない。夜が言葉の断片を頭の中に引き留めている。まだ君は嘘をついているのだろうか。なぜそこまでやってきたのだ。映画鑑賞などをやっている場合ではないか。言葉が限りなく衰退しつつある。それが口からでまかせだとは到底思えない。君はそんな嘘を信じることができるだろうか。丘を越えて誰かが立ち去る。そんな映像をいつか見た記憶があったのだろうか。空想は君に何を語らせるのか。想像力の減退は君を窮地に陥れるだろうか。そんな心配は取り越し苦労か。いったい何が杞憂に終わろうとしているのだろう。まだまともなことは何も述べていない。そんな時間帯ではないのかも知れない。今は冗談を述べるときなのか。それの何が冗談なのだろう。ご都合主義がどこかで極まっているのかも知れないが、それで何を感知したわけでもない。まだそんなところで立ち止まっているだけか。それ以上は何を述べても無理が生じてしまうだろう。だから無難な線でいい加減なことを述べ続けるしかないようだ。君はそんな現状に甘えているらしい。確かにそれ以上は無理なのだろう。何を努力し続けているのかわからなくなってくる。何ももたらせないことにいらついているようで、焦りを感じつつ、それをどうすることもできはしない。何のこともなく、何を弄しているわけでもなく、つながらない言葉を無理矢理繋げて、どうにかこうにかそこまで保ってきたらしいが、それで何を述べているつもりなのか。今さら何を批判しなければならないのか。ただ無理を押し通しているだけではないのか。それが今回の反省点だろうか。いつもながらの同じような反省でしかないだろう。そんなわけで遠からず寄る年波が君を追い詰めていくのだろうが、それでも君は強情を張り続けることができるだろうか。いい加減にあきらめたらどうか。何をあきらめたらいいのかわからなければ、そこからどのような言い逃れが可能となってくるのだろうか。まだそんなところまでは手が回らないのが現状といったところか。現状はただわけがわからない。たぶんそれも嘘なのだろう。


3月8日

 それで難局を切り抜けたことになるのだろうか。局面とは何だろう。何が起こっても不思議ではない。説明になっていないようだ。他人に合わせることができない。自己流のまま済まそうとしてしまう傾向にある。それによって無理が生じている。人によってはそこから進歩ができない。なぜ人はマンガを読むのだろう。たとえばその内容が冒険活劇であったりするのに、それを実際に読んでいる人物は勇気も度胸もない小心者であったりする。無責任で卑屈な人格の持ち主がそれを読んで何になるのだろう。なぜ命がけの冒険を繰り返すマンガの主人公を見習おうとしないのか。そんなみみっちいところでくすぶっていないで、いっそのことマンガの主人公のように大冒険の旅に出発してみたらどうか。それは無理というものか。できない理由は何なのか。やはりそれは火事場の野次馬感覚なのだろうか。他人が命がけで凶悪な敵と死闘を繰り広げているのを、安全な場所から眺めながらおもしろがっている。そんな自らの立場を自覚する必要があるだろうか。そんな風にしてマンガを読んでいる者は、マンガの主人公から軽蔑される存在となっているわけだが、それでも自分には間違ってもできもしないことを、マンガの主人公がやってしまうことに感動したりするのだろうか。主人公に感情移入して、あたかも自分がそれをやっているような妄想に耽っているだけか。ならばやはりそれは安易な娯楽に過ぎないのかも知れない。世の中には腐った人たちが多すぎるような気がする。腐っても人は人であり、周りの人々をうんざりさせながらも執拗に生き残ろうとするのだろう。この世界は恐ろしい。恐ろしいが避けて通れないのがこの世界の必然だ。君もそこで無駄な悪あがきの最中のようだ。できもしないことをやろうとして躓き、そこから先が行き詰まりの連続となっている。難局をかろうじて切り抜けたつもりになっているところへ、また次なる難題が立ちはだかってきて、よりいっそう悩み苦しむ羽目に陥りそうだ。無責任にうんちく話に花を咲かせている者たちを横目で見やりながら、何となく馬鹿らしくなってくる。投げやりになれる立場だったらどんなに気楽になれることか。たぶん本気になってはいけないのだろう。そこで本気になってしまったら犯罪者と変わらないか。何を爆発させる気にもならず、感情のすべては不完全燃焼に終わってしまうらしい。それでかまわないのだろう。立場的にはそんなところでお茶を濁すべきなのか。君にはその辺のさじ加減がよくわからないようだ。そして心の奥底に何かが降り積もっているらしい。次第にそれが重みを増してきて、耐えきれずに底が抜けたときが危険なのだろうか。将来に向けてどんな事態を想定すべきなのか。あまりにも倫理的に自分を追い詰めていると、やがて破滅の時が訪れるのだろう。我慢が利かなくなってしまう。見渡す限り何もかもが冷め切っている。あほくさいことに関わっていかなければならないことに嫌気がさしてくる。いつまでもそんな否定的な気分でいると気が滅入ってくる。まったく肯定的な見解を示せない。積極的に何かに関わろうとする気がしてこない。少し情緒不安定の気がある。気がつけばさっきから同じような言葉の羅列になっている。それに気づいただけでもよしとしておこう。理由など求めるには及ばない。他人を軽蔑しているだけでは進歩がない。そんな他人でも利用価値があるらしい。いったい何に巻き込むつもりなのか。さっきまでとは別の言葉を使用せざるを得なくなってくる。それでいいのか。何でもありならそれでもいいのだろう。今さら話をなしにすることはできない。その段階はクリアしてしまったらしい。まだ何を語りたかったのかを述べていなかったのではないか。はたしてそれを述べられるだろうか。マンガの話はそれからどうなってしまったのか。安易な娯楽ならスポーツもありそうだ。何を見て楽しもうと、それはショウビジネスにはまっているということか。ならば今聴いている音楽が安易ではないといえるだろうか。娯楽を享受して何が悪いのか。そこから論点がずれ始める。もはやその話には飽きてしまったのではないか。だが尻切れトンボ気味なのが気にくわない。最後までその話題で押し通した方が良心的かも知れない。そんなことができるわけもなく、気力が持続しないだろう。本気になる必要性を感じない。始めから話に無理があるのかも知れない。濁した茶が渋すぎる。それは意味不明のたぐいだ。だが実際に鉄観音の烏龍茶を飲んでいる。それは話の内容ではない。何の話をしていたのだろうか。安易な娯楽に染まっているとどうなってしまうのだろうか。どうにもならずに、多くの人は小市民のままでいられるだけか。人と人を比べることなど無意味だ。比較する基準自体が荒唐無稽か。そこに何らかの基準が生じていることは確かなようだが、それを認めるわけにはいかないか。何を認めようとしているのか。他人に志の高さなどを求めてはいけない。建前上は損得勘定で十分か。それ以外に何があるというのか。


3月7日

 歯止めが利かないとはどういうことだろう。無理なこじつけが止めどなく出てくる。そんな状況に嫌気がさして、誰かがそこから飛び去ろうとしている。その誰かは鳥の一種かも知れない。君は何を語ろうとしているのか。綱紀粛正とは何のことなのか。何が総決算なのだろう。頭がおかしいのではないか。君には関係のないことだろう。話がつまらない。それは誰の感想だろう。それはどういうことなのか。誰かはなぜそんなことを語ろうとするのか。まだあきらめきれないようだ。何をあきらめきれないのかわからない。そして誰が何を語りたいのかわからない。それについて何か感想でも述べておきたいところだが、君はそんなことには興味が湧かない。心の中で何かが枯渇している。想像力だけで文章を記しているわけではない。では他に何を利用すればいいのだろう。晴れた空から何かが降ってくる。紫外線でも降り注いでいるのだろうが、それで愉快な気分になれるはずがない。君に何がわかるのだろう。わかりようのないことについて、君はどう対処しているのか。ただそれを無視するだけでは物足りないか。そうなってしまう仕組みを探りたいところか。どんな仕組みで動いているわけではない。心の他に何が揺れ動いているのか。君は何をそこで発見したのか。それを教えてくれないか。いったい誰に教えればいいのだろうか。それで気が済むならいくらでも教えてやることができるのに、未だ教える対象を捉えられない。瞳は何を映し出しているのか。君はそれが間違いだと気づいている。誰にも教えられないことを教えようとしている。君は不可能という言葉を知らないのか。知らないことはそれだけではない。君には何もかもが理解不能なのだ。それに気づいていない。そこから誰に何を教えようとしているのだろう。わからない問いかけに答える必要はない。だが必要もないのに何を問いかけているのか。君は自らが不可能な存在であることに気づいていない。それはどういうことなのか。外では雨が降り続いている。雨は君に何を知らせようとしているのだろう。君はそんな精神状態に耐えられない。そういうことを述べたいのではない。君は現状を否定しようとしているらしい。何もできない現状を否定できるだろうか。その状態から逃れることができるだろうか。障害物に行く手を阻まれているとは思えず、目の前に立ちはだかる壁を乗り越えようとしているのでもない。袋小路に追い込まれたとも思わない。はたして敵はどこから襲ってくるのだろうか。そこは黄金郷などではない。唐突な言葉だ。何の脈絡も感じられない。雨の中で何を思うだろう。寒さに凍えながら何を導き出そうとしているのか。答えが出てこないのはなぜか。そんなはずではなかったらしい。安易な語り口調から抜け出られず、そのまま終わりに向かってしまう。出向いた先に終わりがあるのだろうか。それは何の終わりなのだろうか。まだそれを受け止められずにいるらしい。君に何がわかるのか。何を受け入れようとしているのか。まだそこまで行っていないのではないか。行き着いた先には別の道があり、その道をたどれば、やがて風景の変化に気づくだろう。目で見ているわけではなく、心で想像している。休みたいはずだ。風景の中で一服したいと思う。君はそこで永眠すべきか。罠と知りつつ突き進む。わけがわからないのはお互い様だ。君はそれらの継続をあきらめきれない。断念することができずにいる。だがいくら試行錯誤を繰り返そうと、そこから先へは進めず、繰り出そうとする言葉は皆同じような内容ばかりだ。だからあきらめきれないのではないか。もっと違う内容を求めているから、皆同じ言葉の並びになってしまう。退屈な文章をきらいながらも、それを構成している当人が自分なのだから始末に負えない。もはや無理なことはわかっているはずか。無理でなければそんなことは述べていないはずだ。だから無理なのか。理由を肯定できずに無理を押し通そうとしているようだ。冗談ではないと思っている。具体的に何を述べているのか。見たまま読んだままの内容ではない。それを認めることができない。無理であることはわかっているのに、その無理な文章の中に君がいるような気がしてくる。君は画面の表面から何を見ているのだろうか。何かが倒錯していないか。君という言葉の使い方が間違っているのだろうか。それだけならまだしも、それを述べているつもりの誰かには、画面上に並んでいる言葉のすべてに興味が湧かないわけだ。そんなことを述べてみたところで、何も感じないだろう。そこからどんな認識が導き出されるのか。君が認識しているのではない。君に何を認識させようとしているのでもない。無理な試みを誰かに課さないでほしい。安易な結論に至らないでほしい。今すぐにそこから遠ざかるべきだ。つきあっていられない状況に誰かの心を追い込まないでほしいか。すでに無理な状況に陥っているらしい。そこで何を否定しているのか。否定すべき内容を文章の中に確認できるだろうか。何をどうしようとそこで終わらなければならないはずか。


3月6日

 それは単純な歌だ。誰かはそこからきっかけをつかもうとしている。君が見つめている対象を知りたい。ろうそくの炎の中に何を見ようとしているのか。それが君の空想の産物なのか。当てずっぽうで言葉を探りながら、文章はそこから何を述べようとしているのだろう。それは実際に起こった出来事ではない。目を閉じて思考も閉じて、そこから何を想像できるだろう。無理なことを述べているだけか。ひたすら陳腐な想像にまかせて言葉を繰り出している。またわかり得ないことをわかろうとしているのか。しかしそこから試行錯誤が始まっているのだろう。すべては君には関係のないことだ。私はどこにいるのか。それが私でないとしたら、君はどこに存在しているのか。ひたすら何を求めているのだろう。同じ言葉が延々と並んでいる。そんなていたらくの君に何ができるというのか。何を笑っているのだ。この世界で起こっていることの何が現実なのだろうか。すべてが現実だとして、それらの現実が君にどのような作用を及ぼしているのか。君は不在であり実在もしている。矛盾しているというわけか。それで何を問いただしているつもりになれるだろう。矛盾という言葉を用いて何を説明できるだろうか。すでに君とは別人の誰かがわけのわからない文章を記している最中なのではないか。そうであってほしいか。君が何も思わなくても、他の誰かが君に課せられた仕事をやってほしいか。仕事とは何だろう。君には何が課せられているのだろうか。それが仕事だとは思わない。目標も目的もありはしない。それは誰に課せられた仕事でもない。要するに君はそれを否定したいわけか。いったい何を拒否しているのだろう。今さら拒否できると思っているのか。拒否する以前に何がそれなのかわからない。何だかわからないもの拒否できるわけがないか。ならばそれを受け入れろというのか。何を受け入れなければならないのか。それもわからなければどうなってしまうのか。どうにもならない。どうにもならないからそんなことを述べざるを得なくなる。それで話の辻褄を合わせたつもりか。いったい何について話しているのか。それとは何だろう。それがそれでしかないとしたら、それについてそれ以上の何を述べられるだろうか。何も述べられないからそんなことを述べている。だからそれの何が矛盾しているというのか。何が矛盾していようと一向にかまわない。そんなことはどうでもいいことだろうか。君はそこで何かをあきらめている。語る目的を無視しようとしている。よりうまく語りたいと思わないのか。それが目的でないとすれば、他に何があるのだろう。そんな単純なことではないと思いたいだけか。単純でなければ、そこで何がどうなってほしいのか。単純なことをより複雑に語りたいわけか。そういうことではない。語るのが遅すぎるのか。そういうことでもない。いい加減に語りすぎだろうか。それ以外に何が語れるだろうか。君はそこで何について語っているのだろう。まさかこの世界について語っているつもりなのか。何がまさかなのだろう。世界の存在を拒否したいようだ。何を拒否しようと、拒否している当人が不在なのではないか。この世界に実在できない。君に居場所など与えられていないはずだ。この世界に実在するとはどういうことなのだろう。何をもって実在していると見なされるのか。君はこの世界以外のどこに去来しているつもりなのか。君が実在している証拠を示したい。示せなければどうするのか。そこで誰が消え去ろうとしているのか。結論が見えてこない。話になっていないのではないか。君は退屈な季節に突入しているようだ。心が衰えているのだろう。何を述べても気力が充実してないことを感じさせる。そこから先には何もないだろう。あらかじめ結論が用意されているようだ。君は限界の範囲内でうごめいている。その心はすでに消え去ろうとしていて、くだらぬ思いこみにとらわれている。善意とは何だろう。今こそ良心的に振る舞うべきなのか。登場人物を描き出さなければならない。複数の人格を描き分けなければならず、そうしなければ架空の会話が成立しなくなるか。しかしそこからどんな話を進行させようとしているのか。今のところすべては仮定の領域を出ない話だ。そして気がつけば跡形もなく消え去っている。夢か幻でも見ているのか。単調なことを述べているのだろう。君に何がわかるのか。押しつけがましさの他に、そこからどんな雰囲気を感じ取れるのか。それでも何かが見えていると強弁したいらしいが、なぜ心は遠ざかってしまうのか。興味が湧かない理由を説明できない。無敵の勝利とは何だろう。そこで何を思いついたのか。何にうつつを抜かすこともできはしない。ならば季節は冬に逆戻りだろうか。現状に沿ってものを言うことができず、放っておけばすぐに独りよがりな意見を口走ろうとする。それは自らが思い通りの成り行きになっていないことの証かも知れず、いつ何時でも苦し紛れになってしまっていることを否めないわけだ。そんな宿命のようだ。


3月5日

 まだ時間が足りないらしい。ただそんな気がするだけかも知れないが、それは何をやるための時間なのか。君はそれに気づいてないようだ。何をやるかもわかっていないのに、ひたすら時間的な余裕を求めている。君が必要としているのは何もやらないための時間か。何もやらずに何を想像しているのだろう。想像する以前に、文章の中では意味の希薄な言葉の断片が踊っているようだが、何もやっていない現状から何を想像できるだろう。いくら想像しようと何の収穫もありはしない。まだ想像した結果に至っていないということだ。ならばそれで現状を変えられると思っているのか。現状の何を変えるつもりなのか。何も変えられるわけがない。しかしそんな断言を君は信じられない。だが今の君に何ができるというのか。今の君はどのような精神状態なのだろうか。何をやる時間が残されているのだろう。目に映る光景は君に何を考えさせるのか。誰かの思いこみに足下をすくわれ、肝心な何かを認識できずにいるらしい。君にとってはその日その日が何かと勝負している最中のようだが、虚無との絶え間ない闘争が、疲労以外の何をもたらしているのか。君の心には何が突き刺さっている。はたしてそれは致命傷なのだろうか。架空の傷で生身の肉体が死ぬはずもないが、それは君の身体ではなく、未だ君には実体が伴っていないように思われる。なぜそういう嘘を平気でついているのだろうか。それが嘘であったとしても、時にそれは意表を突いているような気がする。文章のつながりが少しおかしいか。誰がそこで語っているのか。わけのわからない成り行きに惑わされて、人以外の何の意識を感じさせるわけではないが、文章の中から呼び止められているような気がしてくる。無駄に言葉を弄しているはずなのに、時折それが無駄でないような妄想に襲われる。しかしそれで何がわかるのか。それらの文章は君に何を教えようとしているのか。季節は春になってしまったのかも知れない。だが言葉の予感はそれを上回っている。問題となっているのは季節ではないだろう。わかりきったことを述べないでほしいが、わざと関係のないことを述べている理由を知りたくなる。知り得ないことを知ろうとしても無駄か。ただそんなことを述べたいだけかも知れないが、目の前を通り過ぎているのは時間でも場所でもない。わけのわからない成り行きに嫌気がさして、次第にそこから遠ざかりつつある意識は、どこにとどまろうとしているのか。どこか適当な場所へとどまらなければ、さらに遠くへいってしまうかも知れないが、わけがわからないままでいいのだろうか。それらの不完全な言葉の連なりをそのままにしておくことのどこが得策なのだろう。そこに損得勘定が生じる余地はないか。では何が爆発しているのだろうか。感情が爆発しているわけもないか。ならば理性が感情を超えることがあり得るだろうか。そういう対立軸そのものが虚構でしかない。まだ何を述べているのかわからないのではないか。そこに述べている当人が不在なのだから、今さらそんなことを気にしても無意味か。やはりそこでは誰が何を述べているわけではないという嘘を通用させようとしているわけか。いきなりややこしいことを述べないでほしいか。しかしそれ以外に何を述べたらリアリティを実感できるのか。その現状が何かの勘違いであってほしいか。なるべくならもう少しまともな文章を記してほしいと思っているようだが、それができないのなら、そのままの状態で記述を継続させるしかないだろう。もはやそれが虚無との格闘だとは思うまい。格好のいいことを述べて自己陶酔に浸っている余裕はない。自己そのものが希薄なのだから、それ以上何を拒否しても意味がないはずか。やはり何となくその辺が限界のようだが、そこから何を語ればいいのだろう。たぶん君にとってそれらの文章は不必要なのかも知れず、必要もないのにそれを所有すべきではないのだろう。それはわかりきったことか。わかっているが、そこから離れられないのはどういうことなのか。その理由もわかっているはずだ。君はこの世界の現状に関心があるらしい。それについて何をどうすればいいかもわかっている。ただ見聞したことについて考え、考えたことを言葉にして、そこから文章を構成すればそれでいいのではないか。それは簡単なことだろうか。たぶん簡単なのだろうが、その簡単に記した文章に納得できない。納得できないので、そこからわけのわからない回り道をたどって、さらに無駄で無意味で何の必然性も感じられないようなことを述べてしまうのだろう。しかしそれで納得するだろうか。納得できないからそれについて思い悩んでいるのではないか。しかしそれは嘘に違いない。そんな風にして納得できない理由を探っていくと、その理由が嘘に思えてくる。そんな理由はあとからとってつけたようなものか。ならばそこからどう述べるのか。そこから先は何も述べられないのではないか。おそらくそこが思考と文章の終着点なのだろう。それでおしまいのようだ。


3月4日

 何かが執拗に繰り返され、数日後は晴れている。他に述べることはないのか。何をひねくれているのだろうか。心にもないとはどんなことなのだろう。まだそんなことを述べているようだ。何を思いだしたのか。それは誰かの名前かも知れない。それらの固有名は誰の名前になるのだろう。選挙でもないのに何を連呼しているのか。道に迷った場合、どちらへ歩いてゆけばいいのだろう。迷う前に目的地を地図か何かで確認しなければならない。すでにそれらの迷路からは遠ざかっているはずか。そういうことを語りたいのではない。未知の話はどことなくうさんくさい。そこへ至ることが叶わぬらしい。まだ何も見えてこないようだ。この世界はどこまで知られているのだろうか。誰も知らない場所で誰かと誰かが巡り会う。そこで何を話しているのだろう。語らう内容を知らず、語り得ないことはあきらめ、語り足りないことはそのままにしておく。それは馬鹿げたことだろうか。人は誰でもそれを知りたいわけではない。真実とはなんだろう。君は何に敗れ去っているのか。何がそこで執り行われているのだろう。政治とは何か。君には興味のないことだろうか。たぶんそこで何ができるわけでもないのだろう。いったい今の世界で何が問題となっているのか。誰が川の流れをせき止めているわけではない。不都合だと感じているのは気のせいか。考えるたびにあくびが止まらなくなる。すべてが馬鹿らしく思えてくる。すべてにおいて、そんなことはどうでもいいことなのかも知れない。君はこの世界に何をもたらしたいわけではないらしい。何ももたらせないことはわかっている。考えられるすべては技術的な問題に過ぎないのか。すべてにおいて改善の余地があり、怠惰に流されなければ、それを改善していかなければならないのだろうか。では具体的に何を改善していけばいいのだろう。それが言葉の並びだとは思えないか。他には何も思い浮かばない。どうやら君は堕落しているようだ。何かを素通りしているようで、無理に言葉を並べてゆくと、たちまち何もない状況へ至ってしまうらしい。それが何かの徴候を示しているのかも知れないが、それが何なのかわからず、そのままそれをやり過ごして、さらに無内容を継続させようとしてしまい、そこで行き詰まってしまうわけだ。それで何を説明していることになるのだろう。巷では誰かと誰かが選挙に向けて立候補を宣言して、何やら互いの主張を戦わせようとしているらしいが、なぜそれに興味が湧かないのだろう。マンガの中の対決のように暴力的でないからか。漫画的な単純さに毒されているのかも知れない。しかし現実の社会において殴り合いのたぐいで何が解決するだろう。殴り合いでも話し合いでも何も解決しないのが現状なのではないか。戦などやっている場合ではない。人々はただ仕事をやっているに過ぎず、意見ややり方の相違から諍いがあるにしても、闘争することによって何が解決するわけではない。では何も解決できない現状を受け入れるべきなのか。何がそこでの現状となっているのだろう。要するに何が解決するわけではないにしても、とりあえず気休め程度に話し合いを継続すべきなのかも知れない。そうすれば時の経過と成り行きのどうしようもなさが、強情を張っている者たちをあきらめさせるだろう。すべては妥協の産物であり、それ以外に解決といえる結末があるとすれば、それはフィクションの中での解決となるだろう。フィクションは終わりにおいて争いごとに決着をつけなければならないから、そこで何かを解決させなければならない話の構造をもっている。だからおもしろ半分に暴力を多用して、話を終わらせるための安易な解決を用意している。現実の世界のように話し合いばかりが延々と続いて、話がつまらなくなってしまってはまずいわけだ。話し合いの退屈さにフィクション自体が耐えられない。だからフィクションの語り手は話し合いよりは対決を好み、話をおもしろくするために対決の残酷さを描き出して、血なまぐさい暴力による劇的な展開によって、それを享受する者たちを酔わせようとする傾向にある。人類が根本的に攻撃的な気質を有していることを人々に認めさせたいのかも知れない。終わりのない話し合いでは何も解決しないということをわからせたいのだろうか。はたしてそれを否認できるだろうか。人によってはアフガニスタンやイラクでの軍事作戦を思い起こす者たちもいるかも知れない。暴力では何も解決しないと主張したいわけか。それは違うと思う。少なくとも暴力によって何かが解決して、それと同時にまた別の問題も出てきたということか。問題とはなんなのか。果てしない殺し合いが繰り広げられている。それはどうやって解決を図るべきなのだろう。またいつもの果てしない話し合いによって話し合っている双方を疲れさせるだけか。そこにどんな意図が介在しているのだろう。意図ではなく当たり前のことをわからせようとしているだけかも知れない。何かを解決させるにはそれ相応の犠牲が必要か。


3月3日

 今が今日でないことはわかっている。そしてまだ今日にたどり着いていないことも承知している。意識は数日前で立ち往生しているわけか。君が記しているのは、これから述べようとしている内容ではない。今の君に何が述べられるだろうか。今という時が君の存在を拒絶している。君は過去の時空に絡め取られ、そこから未来に向かって歩むことを禁じられているように見える。文章を記しつつある誰かには、君自身の姿が見えていないのかも知れない。無理が利かなくなっているのだろうか。無理をする必要がないのかも知れない。なんの必然性も感じられず、それ以上は何を述べる必要もないのだろうか。本当にそう感じているのなら、そこでおしまいにすればいいのではないか。いったいこの世界はどうなってしまったのか。何をする必要も感じられないのはどういうことなのか。それが嘘だとしたら、誰かは喜ぶだろうか。なぜそんな想像を抱かなければならないのか。すべては目の前から遠ざかる。事物はどこか虚無的な響きを残して、君が思考すべき対象ではなくなってしまう。夜の蛍光灯に照らされて、物思いに耽っている風を装うが、その中身は空っぽだ。世の中は痴呆老人の天国のように思えてくる。君のその中の一人なのだろうか。もはや人それぞれに見合った目的が用意されていた時代ではなくなったらしい。君に何ができるのか。この世界には何が不在なのだろう。気休めに神という言葉を用いるのも馬鹿らしい。馬鹿らしければ何を述べる必要もないだろう。必要もないのに述べていること自体が馬鹿らしいのではないか。なんという馬鹿げた切り返しなのか。気がついてみれば目の前から風景が遠ざかりつつある。君はそれを認めざるを得なくなる。風景の無意味さを捨て去り、事物の虚無的な姿形を愛でることも拒絶して、思考のとりとめのなさを取り逃がしている。そんなものを捉えられるわけがない。要するに君は立ち直れなくなってしまったようだ。本気で述べているのだろうか。それはいつもの嘘だと思いたい。そんな語り口に甘えているようでは、いつまで経っても何もなしえないだろう。それが本望だとうそぶくには及ばないが、何を強がってみても、そうすること自体が現状の虚しさを煽り立てる。嘘でもかまわないから、もう少し前向きに語らなければ、現在の時空にはたどり着けないような気がしてくる。そのまま永久に追いつけなくなってしまうような予感がする。何に追いつこうとしているのか。それは誰の意志なのだろう。君は停滞が嫌いなのか。よどんだ空気には耐えられそうもない。我慢がならずに、あと数分で扉を開け放って、そこから飛び出してしまうのだろう。またわけのわからない展開に持って行こうとしているようだが、そんな試みが受け入れられるわけがない。ならばそのよどんだ空気の中で窒息してしまえばいいだろうか。実際にそうなるとは思えないが、何となくそんなことを述べていること自体が、嘘のような気分を醸し出している。だが気分次第でどうにかなるような現状ではない。それは泣き言か寝言のたぐいかも知れず、現実には何か思うところがあるらしく、何となくそれが最後の希望にでもなっているのかも知れない。そんな話から結論が導き出せるだろうか。君にそれが可能だとは到底思えない。実際に行き詰まりを打開できるはずもなく、行き詰まり状態をいつまでも引き延ばしているだけの内容しか提示されていないではないか。しかし何をいらついているのか。それでかまわないわけがないが、目下のところはそれしかできないのだから、それに専念していればいいではないか。だがそれで何がわかるのだろう。行き詰まり状態が続いていること以外に何がわかるのか。それがわかっているだけでもマシか。何と比べてマシなのか。この世には出会いと別れしかない。それと行き詰まりと何が関係あるのだろう。関係がなければ他に何を述べればいいのだろうか。君は誰と出会って誰と別れたのか。そんなことを語るつもりではなかった。それは嘘だろう。そこから何が導き出されることもなく、導き出されるべきものなど何もありはしない。その曲は聴いたことがある。君には何も見えていない。世の中が何によって回っているのか、それをわかろうとしていない。君の支離滅裂さは君をわけのわからない回り道に導いている。それで何を述べていることになるのか。きっといつの日にかわかるときがやってくるだろう。そのときがくることを信じて、さらに言葉を連ねてゆかなければならない。あくびが出ても眠くなっても、それを怠ることは許されない。無理に決まっているではないか。無理を承知で無駄なことをやり続けている。それの何が無理なのだろうか。まともな文章にするのが無理なのかも知れず、そこからどのように修正を加えようと、そのすべてを破棄しない限りどうにもならないような無理さ加減か。ならば君はそれらの馬鹿馬鹿しさの中で何を評価しようとしているのか。どうでもいいような言語的分散の継続性でも褒め称えるべきなのか。


3月2日

 彼の地では深い絶望や悲しみが放って置かれる。それが彼の地での習わしなのか。架空の場所に架空の風習が蔓延している。そんなことはあり得ないか。誰が何を述べようとしているのだろう。個人の内面に足を踏み入れているわけではないが、それの何が気に入らないのだろうか。たぶん誰が何を述べているわけではないらしい。ただ現状を認めがたいだけかも知れない。現状の何が気に入らないのか。その理由を知りたいわけではない。画面に目をやれば、劇の中で誰かと誰かが対立している。それはどういう成り行きなのか。何を詮索する気にもなれない。晴れた空は春の到来を予感させる。北風が吹いているのだから冬型の気圧配置のはずだが暖かい。君はあれからどうなってしまったのだろう。運命は君を見捨てない。近づいてくる死を追い払い、そこで何をやるつもりなのか。そこからどこへ進めばいいのだろうか。君は聞き慣れた曲に退屈している。誰が何を記しているとも思えない。記す前に読んで感想を述べようとしているのではないか。唐突な文章の始まりだが、そこから何かを述べようとすると、誰もがそれに気づいてしまうだろう。何かの装置に操られている。誰の視線に射抜かれているわけではない。誰の視線も気にしていないわけでもない。誰がそれを見つめているのだろうか。それとはなんなのか。道ばたに倒れ込んで苦しがっているらしい。何やら心臓発作のたぐいのようだ。君の影もわざとそこへ倒れ込む。作り話のネタとして使えるだろうか。死ぬ間際に何を空想しているのだろう。避けて通ろうとすると向こうから追いかけてくる。まるでゾンビのようだ。そんな話なら興味を惹くだろうか。いったい誰が死にかけているのか。作り話なのだから、そこで死んでしまうわけがないか。だが誰の死でもない死に意味はないだろう。それとは別の時空では、映像の中で俳優が死んだふりをしている。何がそこでの真実になるだろうか。要するに言葉が支離滅裂に配置されているということか。北風に吹かれて、心身ともに冷え込んでいるらしい。そしてしらけているのだろうか。まったく冗談にもならない話だ。どこからか何かが湧いてきそうだが、怒りの矛先に何があるわけでもない。興味の対象にならないような出来事に囲まれ、誰かは窒息してしまいそうになっている。なぜ息苦しいのだろうか。そのわけを知りたいわけではなく、ただ何となくそんな風に言葉を記している。それは何かの中毒症状かも知れない。一酸化炭素中毒か何かか。何となく馬鹿げているような気がしてくる。通常なら君はそこで死んでいるはずだ。通常でなければなんなのだろう。現状はなんでもない。それが現実なのだから仕方がない。そして現実でなくても仕方がないだろう。フィクションの中では確かにそうかも知れない。フィクションの中でなくてもそうかも知れない。何がそうなのか思いつかないが、それで何を認めているわけでもないらしい。何を空想しているのか意味不明か。それはいつものことであり、どうもさっきから言葉の並びに意識が絡んでこないようだが、それはどういうことなのだろう。どういうことでもなく、ただ気がつけば考えるのが億劫になっている。そこで何を考えれば現状に適合するのか。いったい現状に何を合わせようとしているのだろう。それとも今は何も考えない方がいいのだろうか。なぜそう思うのかわからない。現状にとっては何を考えても余計なお世話か。考えること自体が無駄な動作なのか。では無意識のうちに君は何を思っているのか。何を詮索しているわけでもないらしい。そして何が君にできるわけでもない。そう思っていれば気が楽になるのかも知れないが、現実にはそう思っているわけもなく、必死に何かをやっている最中かも知れず、他人にそれを邪魔されたくないのだろうか。君の他に他人がどこにいるのか。君にとっては自分こそが他人なのではないか。またわざとらしいことを述べている。誰かを煙に巻きたいらしいが、それが果たせず、言説の対象となる人物を批判できずにいるらしい。君が批判しようとしている人物の名を知らず、誰かは困り果てている。それも何かの嘘につながる文章となるのか。そんなことが誰かにわかるわけがないだろうが、君がしがみつこうとする言説こそが君自身を批判している当のものなのではないか。それで何を述べていることになるのだろうか。誰かは君自身を要らない自意識として心の中からはじき出す。それはいつもの無表情につながるのかも知れず、風に吹かれて真実を目指す意志には、君の回りくどさが鬱陶しくてたまらないらしい。なぜそうまでして言葉を操ろうと試みるのか。何を見いだしたわけでもないのに、そこから真実に至るのは不可能なのではないか。その場に生じているつもりの真実とはなんなのか。君がそれを言葉で示せるとは思えない。君はどこまでも迷路で彷徨い続け、君の生死と関係なく、真実はいつまでも君の存在を無視し続けるだろう。それで何がわかるのだろう。君は何かをわかったふりを繰り返すだけだ。


3月1日

 何をそんなに焦っているのか。生ぬるいやり方に業を煮やしているわけでもないだろう。少しおふざけが過ぎるかも知れないが、それでも泥縄式に結論を導き出そうとしているようだ。君にそんな芸当ができるわけがない。それがつかの間に導き出された結論か。君はそれをいつまで無視していられるだろう。いつの間にか君は心変わりをしてしまったらしいが、それにいつ気づいたのだろう。自分がやっていることを知りたくないようだ。心なしか語り口調に勢いがない。まだ何かを躊躇しているようだ。心の片隅に言葉が弱々しく並んでいる。なぜそこから遠慮気味に語り始めるのだろう。誰かは遠回しに何をわからせたいのか。目下の目的とはなんだろう。別に不可能に挑戦しようとしているわけではないだろうが、何も見通しが立っていない状況下で何を述べようとしているのか。自らに何を問うているのだろう。問うべき相手を間違えているのではないか。では誰に何を問いかければいいのか。くだらぬ問いかけが執拗に繰り返されているようだ。そんなことが君にわかるわけがなく、君自身に何が課せられているわけでもないらしく、そんなわけでなかなか新展開には至らないようだ。人はなんのために生きているのか。やはりそんな問いかけは不毛だ。だからそんな問いかけの繰り返しを招いている。そうではないことはわかりきっているのに、さかんに的外れな問いかけが繰り返されているようだが、それの何が冗談なのだろうか。冗談ではないから行き詰まっているわけか。何をどう語っても冗談には至れないようだ。だが刹那的に笑いを取ることの何が楽しいのだろう。冗談だけで生きていけるわけもなく、時折見せる真摯な態度が誰かの限界を露呈させる。君に何がわかるというのか。人は常に争いごとの渦中に生きているのだろうか。何かの不具合が不毛な闘争を招いていて、その一方で不具合を一時的に解消させるための努力が果てしなく続けられている。それで何が救われるというのか。それが悲劇だとしたら、悲劇は悲劇のままでは終わらずに、どこまでも闘争が引き延ばされ、それが悲劇だと見なせないほどまでに、薄っぺらな紋切り型として繰り返され、挙げ句の果てに薄ら笑いとともに忘却の彼方へと葬られる。それでも君は何を思い出そうとしているのだろう。そんな話は聞いたことがないか。誰が何について語っているのかわからないのは毎度のことだが、他に何ができるだろう。誰も何もできないからわけがわからないということではないか。それを否定してどうするのだろう。今度は何を否定したいのかわからなくなる。思考がそこで停止しているらしい。実際には別に何をやっているわけでもないはずか。無意識のうちに言葉の流れを無害な方向へ持って行きたいように感じられる。それで文章を立て直したいのかも知れないが、それの何が害になるのだろう。何となく腰砕けの感を免れ得ない。試みははじめから失敗している。それでも君は大げさな問題提起が嫌いなようだが、それらの無意味な問いかけには何が託されているのか。そこで何が述べられていようと、この世界がどうなるとも思えない。ただ思考のねじ曲がり具合によって、世界に対する見方や考え方が変わるだけか。他に何を変えようというのか。他に何か挑戦すべき事柄でも思いついたのか。それでもただ語っているに過ぎない。それ以外は何もないだろう。何もなければそれでおしまいか。おしまいでなければ何か他に語ることがあるだろうか。その辺でいつも言葉が逡巡を繰り返すらしく、無内容の原因はそんなところにあるらしい。はたして君は善意でそんなことを述べているのだろうか。それの何が善意なのだろう。少なくとも悪意があるわけではなさそうだ。しかし悪意とはなんなのか。何が善意で何が悪意なのか判断がつきかねる。判断材料がどこにあるのだろう。そういう語り方ではわからない。善意でも悪意でもどちらでもかまわないのかも知れない。君はなぜそこにとどまろうとするのか。その理由を君は知ろうとは思わず、その代わりに無駄な問いかけを連発している。それで本気になれるはずがない。そんなことを述べていること自体、言葉に詰まっている証拠か。そうであってもかまわないだろう。事実は事実として認めなければならず、それをふまえた上で、なおそこから語り始めなければならない。たとえ不可能であろうとなかろうと、何となく語り続けている事実を言葉によって構成しなければならない。君は何もわかっていないらしい。そこから先に何が待ちかまえているかを知ろうともせずに、ただ闇雲に語ろうとしてしまい、結局無駄に語りを長引かせてしまう。延々と言葉が連なっていることに満足しているわけか。それは虚しい自己満足だ。それでもかまわないのだろうか。やはりそれもかまうかまわないの問題ではないか。たぶんそれが君自身の破滅を形作っているのだろう。そんな破滅なら喜んで受け入れるほど、君は強がっているわけではないはずか。ひたすらそんなことを述べ続けていることに関して何も思わないのか。誰が何を思うのだろう。


2月28日

 またわざとらしいことを述べないでほしい。君はまだそんな場所にとどまるつもりなのか。もういい加減にあきらめたらどうか。そこがどこでもないことは承知している。ならば割り切って行動すべきだ。何が割り切れるのか。それは自らの意志ではないはずだ。その証拠にさっきまでの訳知り顔が醜くゆがんでいる。それで何か適当なことを語っているつもりらしいが、その辺の事情を何も説明できないのはどういうわけなのか。まったく文章になっていないようだ。何を語ろうとしているのか割らないのはいつものことか。そして苦し紛れに語っている内容が相変わらずの意味不明に思われるが、それらの言葉の連なり自体は、別にそのことを非難しているのではないらしい。また自意識は言葉の迷路にはまっておかしくなる。空想の世界で、何かに失敗して落ち込んでいるわけか。意気消沈するほどのことでもないだろう。だがまだあきらめたわけではない。何をあきらめたつもりになれるだろう。何も語らないうちからあきらめられるわけがない。しかしその言説空間で何を述べられるだろう。それ以上は生きられず、死ぬこともできず、誰の生死に関係なく、君は遠からずそこから降りなければならない。数日後の君は明日の出来事を覚えているだろうか。何を辻褄合わせに励んでいるのか。今さら何を予言したいのか。空が割れて神でも降臨するのだろうか。夜空に星はなく、曇り空の下で何を思っているのか不明だ。どうも差し障りのある文章にはなっていないようで、どうでもいいような言葉の並びにあきらめムードが漂っている。だからある出来事と別の出来事との間に、興味深い関連性を妄想するのはやめにしよう。今の君には何も見えていないはずだ。その場所に何があるわけもなく、あるのは誰かの思惑だけで、何もないのに何かがあるように見せかけたいようだ。ならば架空のそこでは何と何が混ざり合っているのだろう。夢と幻が砂漠に溶け込もうとしている。誰かはランボーの真似事でもしたいわけか。砂漠には砂と岩と何がふさわしいのか。何も見えていないのに、何を語り出そうとしているのか。闇の中で何がうごめいているのだろうか。思考力が衰えているようだが、君には関係のない話か。そこで誰が何を考えているわけでもなく、ただ窓際から外を眺めているだけであり、それだけで何を述べていることになるわけか。それでかまわないのなら、実際には意味の希薄な文章の他に何がもたらされているのか。君はそこで何を思考しているのか。未だに先月の時空にとどまっているのはどういうわけか。やはり君に何ができるわけでもないらしい。行き詰まりのただ中で無駄に言葉を積み重ね、さっきからしきりに何かを述べようとしているのは君ではないようだ。では君にできることとはなんなのか。できるなら何気なく夜の闇を眺めているときの感想を聞かせてほしい。それは戯れ言のたぐいかも知れず、その辺で言葉が途切れているようだ。その隙を突いて、テレビの画面は君に問いかけてくる。家族とはなんだろう。映画の「ゴッドファーザー」でも見れば家族の絆というものを理解できるだろうか。無理だと思うなら、安易な着想は忘れてしまえばいいだろう。ついでに何を忘れようとしているのかも忘れてしまえばいい。誰かは死の間際に何を思いついたのだろうか。君はまだ死んでいないのか。コッポラは失敗だらけの人生を歩んできた。失敗が彼を有名人にしたようなものか。伝説的なエピソードとはそういうものだろう。君には関係のない話でしかないが、君はそれらの映像から何を学ばなければならないのか。そういう話ではないと思われる。何となくそれは違うような気がする。そこまで語る必要はないのではないか。どこかに制約があるらしい。至る所に限界が横たわっていて、その限界を限界と思わないのは勘違いのなせる業か。要するにまだまだやれると思ってしまうようだ。人によっては自らに死が訪れる直前までそう思っているかも知れない。誰がそう思っているのか。君はそう思いたいのだろうか。思う以前に、いらつくような話の成り行きに焦っているらしい。まとまりに欠けるのはいつものことだろう。誰にそれを読んでもらいたいのかわからず、結果的に読む必要のない文章を提供しようとしているのかも知れず、必要から見放された文章に気の利いた内容など必要ないのではないか。しかしそれで自己正当化が成り立つだろうか。たぶん君には明日があるのだろう。明日になればまともなことが述べられるような気がする。それは何かの冗談か。実際には明日になればさらに虚無感が深まり、何もできなくなってしまうだろう。それが嘘であることを願っているようだが、それでも君にはやらなければならないことがありそうだ。君はそれ以上の言葉の連なりを導き出さなければならない。それ以上とか以下とか、評価の基準が不明確だが、何をどう判断していいのかもわからないままに、君は言葉の連なりをその先へ延ばしていこうと思っているのだろうが、一方でそれが無駄な試みであることも承知している。


2月27日

 誰が自らの死を免れ得るだろうか。生きていない者ならそれが可能か。そんな言葉を並べるのは簡単だ。君に何ができるというのか。何もできないわけがない。現に言葉を組み合わせて文章を構成しようとしているではないか。君にはそれが腹立たしいように思えてくる。そんな嘘がどこまで通用するのか。誰が誰に嘘をついているのだろう。何が嘘なのか思い出せない。それも嘘の一部に違いない。しかし嘘で何を表現しようとしているのか。そんなのは嘘ではない。その場の成り行きに流されているだけだ。君自身がそれを認めようとしている。語るべきことが何もないことを認めざるを得なくなる。それが君に残された台詞か。それが最後なのだろうか。最後の悪あがきは君をどこに導こうとしているのか。終わりは遠すぎる目標となっている。終われないのに終わりを迎えられるはずもなく、誰が君に終わりを約束しているわけでもない。いつ終わってしまっても誰も困らないのだろう。そこで何が終わろうとしているのか。君は何を終わらせようとしているのだろう。地の果てに至上の時が待っているわけがない。それは終わりではないのか。なぜそこで終わろうとしないのか。それは君の願いではない。誰の願いにもならず、実際に訪れるはずのない時かも知れない。終わる以前に終わってしまっているわけだ。すべての人類が死に絶えても時は終わらないだろう。時に意味などありはしない。興味の外に時が過ぎ去ろうとしている。だから君に時が残されているはずがない。それは何をやる時間でもなく、ただ無為に時を過ごすための時なのか。ならばそのおかしな言葉の組み合わせに感動してかまわないのだろうか。しかし脈絡をまったく感じ取れないのはどういうわけだろう。要するに感動する場面ではないということか。意味のない言葉が出現し続けていることに驚嘆するわけでもなく、その言葉の連なりに意味を感じ取れないのは、思考が怠惰に毒されているだけかも知れないが、そこからどんな感慨も求めようとしないのは、やはり興味がないということだろうか。いったい世の中の何に対して関心を持てばいいのだろうか。誰がそれを教えてくれるのか。そんなことを期待するのもおかしいが、夢や希望に付随してくだらぬ幻想と抱いてみても、それが幻想のままに終わるはずがないか。行動の積極性に価値を見いだす人々なら、絶えず何かに挑戦すべきと主張したいところだろうが、終わってしまった人生をやり直すことが可能だろうか。それは誰の人生でもなく、人でない君に人生があるわけがない。いったいそこで何が終わっているというのか。君に何を述べることが可能なのか。さっきまで述べていたその無内容は、誰について述べていたことなのだろう。どこかに誰かの残骸が転がっていて、それを再生して、まっとうな人格に仕立て上げることなどできはしないか。そういうことを語りたかったわけではないか。とりあえず時の流れが君を堕落させているらしいが、昔はどうだったのか。今より少しはまともなことを述べていたのか。今の君にまともな内容を期待するのはおかしい。君は君ではなく、誰でもなく、人格すら宿していない。そういう嘘を平気でつけるのだから、もはや手の施しようのない愚かさが顕現しているらしい。そう述べると幾分気が楽になるのだろうか。そういうことではないはずだ。たぶん君は絶望のただ中でもがき苦しんでいることになっているはずだ。それが嘘でない証拠はどこにもないが、何となくそう述べると愉快な気分を醸し出せるようだ。まったくわけがわからない。どうも世の中は君の関心の範囲外で動いているようで、君からすればどうでもいいようなこだわりが、世の中の至る所で生じていて、そんなこだわりに殉じることが美徳であるような風潮に染まった者たちが、不快極まりない動作を蔓延させているらしい。君にはそれがふざけているとしか思えないようだ。たとえばそれはどんなことなのだろうか。君はそこで何を思いついているのだろう。君の思い通りに事が運ばないことに苛立っているだけか。それで何を述べられるわけもなく、たぶんそのとき君は何も思いついていないのだろう。君に無内容以外の何を述べられるはずもなく、連ねられた言葉はひたすら空想の世界で虚無と戯れるばかりで、具体的な事象については何も言及できずにいるだけだ。それが君のやり方であり、君自身が架空の存在でしかないことを、それらの無内容が物語っている。はたしてそれでいいのだろうか。冗談でなら許される内容か。内容がないのに冗談も何もありはしないか。しかしそれでも文章は記され、言葉は勝手に連なるだろう。それは君の思いなど何も反映されない文章となり、君自身については何も語られず、誰にとっても興味のない無内容となるだろう。それが君が目指すべき地点なのか。何も目指す必要はないのかも知れず、言葉を連ねてゆけば勝手にたどり着く場所なのだろうか。その辺が今ひとつわからないところだが、何となくそれが正しい認識のように思われてしまうらしい。


2月26日

 君はいつ目が覚めたのだろうか。君は何と決別しようとしているのだろうか。マンガの中で誰かと誰かが対決しているようだが、別にそれを読んでいるわけではない。いつの間にか首をかしげている誰かの存在に気がつく。たぶん興味の対象ではないのだろう。蔓植物に花が咲く。植木鉢が遠くから飛んでくる。この世界には何が絡まっているのだろうか。そこで何に気づいたのか。ふと見上げれば枝先に鳥がとまっている。その先に何があるのだろう。そんなところに目的があるわけがない。誰が何を目指しているのだろう。じり貧状態の先に誰かのこだまが響いているようだ。意識は相変わらず先月の時空間で切羽詰まっている。季節は巡り、やがて十年の歳月が過ぎ去ろうとしているらしい。春が近いのだろうか。季節の推移と言葉の連なり具合がリンクして変動するとは思えない。一時的に世界の株価が変動しているようだが、それは数日後のことか。時間に追いつくまでに至っていない状況で、時事問題について言及しようとすると、たちまち辻褄が合わなくなってくるだろうか。あまり関心のないことに首をつっこんでも仕方がないだろう。別に見たこともない光景が目の前に広がっているわけではない。そのときトランプにうつつを抜かしていた者が何かつぶやいていたらしい。生物が生きていることに理由がないように、人が生きていることに大した理由を見いだせない。誰がそれを否定しようとしているのか。君に何ができるというのか。誰が何をやろうとしているわけではない。だがそこに虚無があるわけもなく、ただ地上の風景が映し出されているだけなのだろう。利益や見返りを期待するには及ばない。では目的とはなんだろう。美術系の人たちはひたすら美を求めるわけか。感覚がおかしいのだろうか。この社会が立ちゆかなくなれば、それはそれで楽しい成り行きなのかも知れない。メディアに踊らされている人たちも心配していることだろう。ベストセラーは忘れ去られるために売られている商品だ。君の記憶には残らない。記憶に残ってしまう事物は役に立たないから残ってしまうわけだ。そこには消費できない部分があるらしい。娯楽の対象としてはふさわしくなく、時にはその存在が人々を不快にさせる。役に立たず消費できないようなものがなぜ必要なのか。事物としてそこに残るためにあるのかも知れない。たぶんそのような事物には、遠からずそれ特有の固有名が割り当てられるのだろう。それは誰にとっても使い道のない事物なのかも知れず、存在そのものがその存在を主張しているようなものか。おまえはここにある。別に感動してもらわなくてもかまわない。美しさに還元する必要もない。現に美しくも醜くもないはずだ。ただあるだけなのか。あるだけでなぜ不快になるのか。その存在を意識せざるを得ないからか。見ている者自身がみすぼらしく思えてくるはずだ。それを見る資格など誰にもありはしない。なぜ見ることさえも許さないのか。見ようとしている者が愚かだからか。君に割り当てられた役などどこにもありはしない。それが演劇空間とは似ても似つかぬ場だ。学芸会的な幼稚さのただ中に投げ込まれるわけにはいかないらしい。勝手な思いこみの中に誰かの欠陥を探し出すには及ばない。むしろ何も思わない方がマシかも知れず、くだらぬ情報に取り囲まれている人々を哀れむことさえ余計なお世話なのだろう。君はその先にたどり着きたいようだが、いったいそこに何があるというのか。もはや虚無という言葉には魅力を感じられなくなってしまったらしい。世の中はすでに新しい時代に突入しているようだ。人々はそこで生きる目的を探しあぐねている。もとからそんなものがあるわけがないか。もっともらしく何をねつ造しようと、それがまがい物であることがすぐにばれてしまうわけだ。人として成長することのわざとらしさを誰が否認できるというのか。認められなくても態度に表れてしまうのだから、それを否認しようがないだろう。君も自らの愚かさやその存在の馬鹿馬鹿しさを嫌というほど知っているはずだ。君にそこから逃れる術はない。まだ力量が不足しているのではないだろうか。そして不足を補うものが不在なのだ。目の前の事物は君のものではない。現実をいかに飾り立てようと、それが君に返ってくるわけではない。当の飾り立てられた現実は君に冷たい視線を送ってくるだけだ。君がやっていることを冷ややかに眺めていて、まるで馬鹿にしたように無関心を装う。理解しようとする気が起こらないわけだ。なぜそんなつまらないことをやっているのだろう。どうしてそんなやり方に満足しているのか。そんなことでは何もやっていないのと同じではないか。君が定めたつもりの目的には、目的を逸脱する部分がある。目的が目的そのものを崩壊させかねない自己矛盾を有している。だから何をやる必要も必然性もないのかも知れず、そんなことをいくらやろうと、それが正しい行いである根拠など一向にもたらされず、やっていること自体が馬鹿げた行いでしかないことに気づかされるだけだ。


2月25日

 まるで狂気の沙汰だ。冗談からはほど遠い。それで昨日よりは少し前進したようだが、まだ笑みをこぼしている段階ではないだろう。そういう表現は間違っているのでであって、本気で何かを語りたいなら、もう少しまともな内容にすべきか。だがそれを真に受ける必要がどこにあるのか。たぶんそれは冗談に違いない。誰が本気であるはずがない。もはや何が間違っていようと、それはそれでかまわないのではないか。何を訂正する気にもなれず、勝手に言葉を記しているがままになっていて、そんな風にしてその場の状況は推移しているようだ。それもおかしいだろうか。おかしければ笑えばいいだろう。笑ってしまえること自体がおかしいか。たぶんそれでもかまわないのだろう。何かが違っているような気もするが、そんなことしか述べられない状況に誰が耐えている最中なのか。耐える必要性を感じないのであれば、さっさとやめてしまえば済むことか。何が済むのかわからないが、最近はまったくこらえ性がない。さっきまでのこだわりはどこへ行ってしまったのか。何にこだわっていたのかを思い出す気にもなれないのはどういうわけだろう。この世界で何をどうしようが、そこには常に限界があるらしく、その限界の範囲内で自らがやっていることを把握し、それを言葉で捉えることが肝心なのかも知れないが、はたして君にそんなことが可能だろうか。何ができるのだろう。それ以外のやり方をにわかには思いつかない。そしてもう二ヶ月が経ってしまう。まだそんなことにこだわっているのだろうか。しかし誰にをそれを伝えたらいいのか。そこでは何か皆目見当がつかないことが行われているわけか。そこで何を想像しているのだろう。それは見当外れの夢か何かか。外からでは何も窺い知れない。心の外で何をやっているのだろうか。そんなことができるはずもないだろうが、何をやろうとしているのでもないと思うなら、それはいつもの矛盾を呼び込むだけのようだ。それ以外に何が可能なのか。いつでも窓の外を眺めている。ブラインド越しにくだらぬ妄想がにじみ出す。それは絵画のたぐいかも知れず、表面から見たこともない絵の具の色がしたたり落ちる。妄想とはその程度のものなのか。そこから何をどう飛躍させたいのか。なぜ誰かは世の中が腐っていると思うのだろう。それは架空の登場人物に違いない。君自身は何とも思っていないはずで、他の誰かに真摯な態度を強要しているだけのようだが、そうやって世の中の何に反抗したいのか。それに対する説明が何もない。やがて忘れ去られることに説明など不要か。現にさっきまで何を語っていたのか覚えていないではないか。そんなことに力を使うべきでなく、もっと他のことに関心を向けたらどうなのか。たとえばそれはなんなのか。空疎な文章の先に何が待ちかまえているのか。それは誰かの破滅だろうか。見え透いた嘘をつかないでほしい。そこに何もないことは明白なはずか。そことはどこなのだろう。誰かの内面に何があるのだろうか。そういう話ではないはずか。依然として君が何を語っているわけでもないらしい。そのパターンは過去の繰り返しとなるだろう。そして誰かの不快な感情を煽り立てる。何を探求しているのでもないことがバレバレなのだ。それでもわけのわからない言語領域にとどまる覚悟ができているのだろうか。なぜそこへとどまらなければいけないのか。何がいけないわけでもなく、それが自然な成り行きだとしたら、それをどうやって変えるべきなのか。そんなのは嘘に決まっている。それにつられて首がぐるぐる回っているのも嘘なのか。どうやら面倒なことになりそうだ。そんなことを述べてどうするのか。ただわざとわけがわからないように語ろうとしているだけではないか。さらに物事の本質から遠ざかる。誰がそれを無視できるだろう。何が心の隙を突いて侵入を試みているわけではないだろうが、とりあえず疲れていることは確かなようだ。無視しようとしてもそれができない状況にある。君はそこで朽ち果ててしまうのだろうか。すでに力が抜けていることに気づき、どうにもならないことを認めざるを得なくなる。要するにできないことをやろうとしているわけだ。状況的に無理なのに、その無理を押し通そうとしている。不可能に直面しながら、そこから目を背けているわけだ。力の限界を感じざるを得ない。だから今こそ無理であることを認めるべきではないか。己に何を言い聞かせようとしているのか。もうやめろということなのか。まだそんなことを述べながら粘ろうとしているのはどういうわけなのか。何か矛盾していないか。矛盾しているとしても、それを改めるつもりがないように思われ、矛盾を抱え込んだまま、そこからさらなる前進を試みるのは、ごり押し以外の何ものでもないか。それが今の君のやり方なのだとすれば、もはや先細りは免れないか。そこから先に何が見えているのだろう。先に進むにつれて視界がだんだん狭まってくるとしたら、近い将来終わりが見えてくるかも知れないが、君はそれでかまわないのか。


2月24日

 何やら出来事が多すぎるのだろうか。意識がそこへ追いついてゆけなくなっているようだ。そこで右往左往しているのは君ではない。見知らぬ誰かがかけずり回って動き回る。たぶん君ではないのだろう。君自身は君の意識から剥離してしまったように思える。だからもはや君は君ではないのだろう。窮屈な空間に閉じこめられている。何も感じないのは君ではないからか。それでもどこかで動き回っている。水中をミジンコが動き回っている。何を思いだしているわけでもない。思い出されるのはフィクションの内容か。それは創作しているのかも知れない。その先へ言葉がついて行かなくなっている。言葉ではないのだろう。何かの欠片があくびとともに転がり出る。床をはいずり回っているようだ。君は季節を知らない。季節は君を知らない。こらえることができずに誰かが寄りかかってくるが、満員電車の中で気が狂っているわけではない。君は失敗し続ける。まるで失敗作だ。あのときの感性はどこへ消え去ったのか。君はそれを知っている。知っているからわざと隠しているのではないか。浅はかな見解に包まれる。いつものことだろう。誰が何を見ているのでもなく、誰かがそれらの光景を凝視している風を装う。そのように言葉を記しているわけだ。きっとありふれた思いにふれているのだろう。それが君の感性なのか。もはや感性ではないだろう。ただ眠たいだけなのかも知れない。それ以外にそこから逃れる術はない。そもそもやろうとしていることがまるで中途半端なのだ。そしてどこまでもおかしい。だからいつまで経ってもそこから遠ざかることができない。そんなことがあり得るだろうか。なければないで何も困らない。君はいつまでもそれにこだわり続けるだけだ。しかしそこから先が見えてこないのはどういうわけか。君はそこで用無しになってしまったのか。要するに無用な存在なのだろうか。たぶんそうであってほしいのかも知れず、いつまでもその時空へ登場し続けるのは無理があるのだろう。無理を承知でそこまで語り続けてきたはずだ。だから行き詰まってしまったのではないか。それがおもしろいとは思えない。無理にそう思う必要性を感じられない。君にはそれが理解できない。それは君の感性ではない。とっくに君は無用な存在になりはてている。だから何も感じないのだろう。それは簡単すぎる結論か。かなりおかしな成り行きに違いない。だからそこから遠ざかろうとしているのだろう。それは無理だ。不在の誰かが君をその場に引き留めている。そんな力が誰に宿っているのか。やはり誰が何を語っているわけでもないらしい。真実味が何も感じられないか。内容がないのだからそれは当然のことか。まだ眠りから覚めていないのかも知れず、そんな感覚を引きずりながら、君はまだその場で何かを語ろうとする。だからそれは無理な話となってしまい、その無理をいつまでも押し通すつもりなのだから、いつまで経っても救われないわけだ。救われたくないのだから仕方がない。はたしてそれで楽しいのだろうか。誰のことを述べているのでもない状況に甘んじていること自体がおかしいと思われる。君はそこで何を成し遂げようとしているのだろう。何も成し遂げられないわけがないか。そんなことはないと思いたいようだ。だがそれではさらにおかしくなるだけだろう。何がおかしいと思っているわけか。何もおかしいことはないと思いたいだけか。それが無理というものか。無駄に言葉を弄しているだけか。ではそれをどうすればいいのだろう。どうにもできなければどうしようもない。影が君をその場に引き留めている。そんな結論が唐突にもたらされたら、君は驚くだろうか。別に驚嘆すべき内容ではない。心の中で何かがはじけ飛んでいるように思えてくるが、そんな幻想をもたらしているのも君の影の仕業か。無駄な思考形態が発動しているらしいが、そんなことまで詮索するつもりにはなれない。それがまんざらでもないと感じてしまうのは、何かの罠にはまっている証拠か。たぶんそれでいいのかも知れず、何かの障害が自然に取り除かれてしまったようだ。要するに以前よりは少し前進していることになるのだろうか。それの何が不満なのか。不満でなければ何を欲しているのか。満足しているというわけでもなさそうだが、そんな心理状態ではないはずだ。そのいずれでもなく、どんな心理状態でもないような気がしてくる。少しいい加減に言葉を弄しすぎているのかも知れない。それ以外に弄ぶべきものを知らないかのように、いつまでも言葉にこだわり続けているようだが、そんなこだわり自体が足下から崩れ始めているようにも感じられ、気がつけば文章の体をなしていないわけか。何を述べようとしているのでもなく、何を考えついているわけでもない。ただどうしようもなく大人げないだけか。そんな台詞をどこから借りてきたのか。わかりきったことを繰り返さないでほしいか。しかしそんなやり方でもけっこう引き延ばしが利いてしまう。そこに引き留められているということだろうか。


2月23日

 冗談でならそんなことも述べられる。それは冗談ではないのだろう。他には何も考えられない。考えようとすると、それが間違っているように思えてくる。それが何なのかわからなくなる。考え方が間違っているらしい。君はその雰囲気が苦手のようだが、そこに漂っている雰囲気とはなんなのか。誰かが言いしれぬプレッシャーで押しつぶされそうになっている。作り話の中では誰もが冷や汗をかいているようだが、それの何が作り話なのか。君はまだ何も語っていないのではないか。誰がそれを語ろうとしているのだろう。なぜそれを何を語り損ねているのか。やはり結局は何も語っていないのではないか。何が結局なのか。それでもいつものように何かしら語っているのかも知れないが、それを誰がどうしようとしているわけでもなく、誰もどうしようもできないのかも知れず、そんな語りでは誰も満足していないだろう。いったい誰を満足させたいのか。それが何の挑発に結びつくのか。誰に何を競わせようとしているのか。競い合う対象を見いだせないのは、その気がないからか。狭い範囲内で争うわけにはいかないらしい。現に何を争っているわけではない。ただどうしようもなく大人げない。それが誰の台詞だったのか思い出せない。君は何を覚えているのか。何か思い出すことでもあるのだろうか。格好でもつけたいのだろうか。それに関して君は何を知りたいのか。知り得ることはみんな明らかになっているはずか。知り得ないことを知りたいのなら、他を当たってほしいが、他とはどこなのか。この世界の他にどんな世界があるというのか。君はどんな世界を求めているのだろう。この世界がどうなってほしいのか。君の力ではどうにもならないだろうが、別に君の力を必要としているわけではない。では他に何が必要とされているのだろう。人類はこの世界をどうしようとしているのか。君は人類ではない。君はただの言葉だ。君のことを聞いているのではなく、文章は誰のことを聞いているのだろうか。誰に何を尋ねようとしているのか。知りたいことは何もないのかも知れず、誰が何を知ろうとしているのでもないのだろうが、それでは文章にならないだろう。ではそれらの文章はなんなのか。文章の中にくだらぬ屁理屈が構成されているのだろうか。そこで誰かの思考が止まっている。君にはそれが理解できないらしい。それでは文章としての体をなしていないか。それらの何が文章なのか。君はどんな文章を読んでいるのか。それは文章ではない。ただの言葉の連なりが文章であるわけがない。そして本気でそんなことを思っているわけもなく、それは戯れ言のたぐいかも知れない。そこで見えている光景は君とは無関係か。何が見えているのだろう。何をせき止めなければいけないのか。言葉をせき止めれば、さらにおかしな状況がもたらされるだろう。見えている光景とはどんな言葉の連なりなのか。君はわざとおかしな動作を奏でる。気まぐれに記された言葉は何をなぞっているのだろう。どうやら君は言葉の意味を知りたいようだが、そこに意味などありはしない。だいぶ気が抜けているらしい。気が抜けすぎているのかも知れない。それの何が君に関係しているのか。それとこれとは無関係なのだろうか。それではまたいつものパターンか。どうもやむを得ないことをやっているらしい。それで何を考えているのか。たぶん君は見えていないものを見ようとしているのだろう。そんな見解は聞き飽きたか。どのように語ろうと、それが無内容になることから逃れられない。本当にそれが真実なのだろうか。どこの誰が真実を語ろうとしているのか。何もないことの何が真実なのだろう。それが紛れもない真実だとしても、何もないとはどういうことなのか。そのまま本当に何もないのだろうか。その辺が君の述べていることが理解できない。何もないのに何を述べているのか。やはりそれは冗談の一種なのだろうか。たとえ冗談だとしても、それはかなり深刻な何もなさなのかも知れず、そこから抜け出して、何かある状態に戻れないような何もなさなのだろうか。たぶん君はそこから抜け出られないだろう。そこから抜け出られたら、それは君が君でなくなるときかも知れず、君が君でなくなったら、そこから本当の私でも出現するのだろうか。今こそそうしなければ話がそこから先へ進まないということか。どういうことでもなく、そういうことでもないような気がしてくる。ならば君はいつまでも君でありたいわけか。君が君である限り、そこには何もないだろう。本当にそうなのだろうか。なぜそんなことがいえるのか。できることならその根拠を説明してくれないか。誰に説明を求めているのかわからないか。君しかいない時空において、君以外の誰が説明可能になるのだろう。君が説明できなければそこでおしまいか。できることならおしまいになってほしいような気もしてくるが、誰かがそれを許してくれないようだ。たぶん誰かがそこに不在なのだろう。それが私であってほしいと誰が願っているのか。また何かがおかしい。


2月22日

 なんの前ぶれもなく誰かが出現する。何となく責任逃れ気味に今まで虚無を活用していたようだが、それはどういうことなのか。どういうことでもなく、そういうことなのだろう。君は何かから除け者にされているようだ。虚無からも愛想を尽かされてしまったらしい。もう頼みの綱は残っていないようだ。そんな話を誰が信じてくれるだろうか。何を信じれば救われるのだろうか。君は君の運を信じているようだ。努力すれば何とかなると思っている。だから努力しているつもりなのだろう。いったい何を努力しているのだろうか。何かを語ろうとしているようだ。君はその何かを知りたい。無理な願いだろうか。何が無理だと感じているのだろうか。何もないのに何かはないだろう。何かということがないわけか。なんでもないのに何かがあるわけがないか。それはどういうことなのか。どういうことでもないということか。それについては何とも思っていないのだろうか。それとはなんなのか。どうもそういう言葉のまやかしからいつまで経っても抜け出ることができないらしい。今の君にはそれしかないのだろうか。それ以外に語ることがあるだろうか。何も語れないとすれば、そこで終わってしまうわけか。何が終わってしまうのか。言葉はさらに遠くまで連なろうとしている。虚無以外は何ももたらせないのに、それ以上語る必要があるのだろうか。それでおもしろいわけがない。おもしろくなければどうなるのだろう。そんなことにまで気を回す必要があるのか。誰がそれを判断するのだろうか。たぶん君は気を病んでいるのだろう。くだらぬ思いこみにとらわれている。それがくだらないと誰が判断するのか。何をどう判断すれば気が済むのか。またわけのわからない迂回路へ入っていこうとする。それではごまかしとなってしまうが、それしか道がないとすれば、それを続けるしかないわけか。しかし道とはなんなのか。それの何が道になるのだろうか。君は今どこを歩いているつもりなのか。今は今ではなく、数日前の過去ではないか。意識はまだ迷路の中で右往左往しているようだ。まったく進歩がないような気がする。いくら語ろうとしてもそうなってしまうのだから笑ってしまうか。何を笑う必要があるのか。では笑い事ではないと思いたいのか。何を思ってみてもリアリティを感じられない。しかし現実感とはなんだろう。そこに誰が存在しているのか。そことはどこだろう。そこがどこでもなければ、そこはそこではなくなるかも知れない。それもごまかしの一種だろうか。何をごまかしているというのか。それは嘘偽りではなく現実そのものだ。君は現実の世界に直面している。現実の世界では何をやっているのか。それを言葉にしてどうするのか。どうもその辺で壁にぶつかってしまうらしく、そこから先へ進むことができなくなるらしい。近頃はそんなことしか述べられなくなっているのではないか。そもそもの間違いはそんなところにあるらしい。そして間違ったまま言葉を弄すればそんな無内容になってしまう。それでいいわけがないだろう。たぶん自然の成り行きに逆らっているのかも知れず、くだらぬこだわりに凝り固まっているのかも知れない。それがそれらの間違いを形作っているわけか。それらの間違いとはなんなのか。今語っていることがそれらなのではないか。要するに今このときも語り方を間違い続けているということか。それを改めることができないようだ。言葉の連なりが軌道修正を許さない。そんなことがあり得るだろうか。いったい君は何を語り続けているのか。そのように述べているそれ自体を語り続けているらしい。たぶんそれも間違っているのだろう。語っている内容が間違っているのか。それについて何をどう述べたらいいのだろう。すでに述べているそれがそれそのものなのではないか。それだけではわけがわからないか。自分で自分の語っている無内容を把握できなくなっているのかも知れない。そこから続けて何をどう語ろうとそんな無内容になってしまうらしいが、なぜそれ以外のことを語り得ないのか。たぶん何かが間違っているのだろう。そしてまた同じようなことを述べ続けている。いったいいつまでそれが続くのか。いつまでも続けられると思うか。そうは思わないが、現実にそう述べ続けているのだから、その時点では述べ続けていることになるのだろう。そんなわけで相変わらずの無内容を述べ続けている現状があるらしいが、それで何がどうなるわけがない。そんなどうにもならないような現状のただ中に意識があるようだ。それに関して君の心の中で何らかの葛藤があるのかも知れないが、そんな煩悶は無視して、言葉は勝手に無内容をなぞり続け、そこからさらに連なろうとしているらしく、その先には何もないのに、それを無視するかのように、何もない無人の荒野を邁進し続けている。そんなことがあり得るだろうか。現実に起こっているそれらの現状は何を示しているのか。何も示していないということがあり得るだろうか。そんなことが誰にわかるのだろう。


2月21日

 心は虚無に支配されているというのに、そこから何を求めているつもりになれるだろう。現状を変えられるとは思わない。容易に変えられないからこそ、現状が現状としてこの世界に構成されているのではないか。変わるときは簡単に変わってしまうかも知れないが、そのときはそのときで、何が変わったのか知りたくなるだけか。君にとっては、現状がどう変わろうと、それはどうでもいいことかも知れない。君はいつでも現状を無視している。そして無視したついでに、現状を知ろうとしている。何か矛盾していないか。はたして君に現状を知ることができるだろうか。今ある現状とはなんなのか。今が今でないとすれば、今を知ることなど不可能か。今を知りたいのではなく、現状を知りたかったのではないか。今とはなんだろう。言葉の使い方が間違っているのかも知れない。ならばもはや正気ではない。誰のことを述べているのだろう。何かが急展開しているようだが、わざとそうしているのかも知れない。バランスを失い、何を述べようとどうでもいいような気がしてくる。それが今ある現状だろうか。今さらながらの現状に嫌気でも差しているのか。だがまだ終わったわけではない。未だにそんな現状のただ中で生きているはずだ。君は本当に生きているのだろうか。君という言葉は文章の中で死んでいるのではないか。そこから何が導き出されているわけではない。君に生きる糧を得ることなどできはしない。言葉以外に何が必要だとも思わないようだが、それは間違っている。そんなことは百も承知か。ではなぜそれを改めようとしないのか。それも怠惰のなせる業か。業とはなんだろう。君は何を生業として生きているつもりなのか。生きている実感が希薄だ。生きている証など必要ないような気がする。何を必要としているわけでもなく、生きている気がしないのだから、もはや死など与えられる必要もないのかも知れない。しかしそれが話になっていない。どんな話なのか不明のまま、勝手に話とは無関係な言葉が連なっていってしまう。君はそれに耐えられるだろうか。どんな困難に耐え続けようとしているのか。それの何が困難なのか。君が知らぬ間にその先に言葉を連ねるのが困難になりつつある。君にはそれが許されないのか。何が許されるのだろうか。もはや話の許容範囲を超えているのではないだろうか。現にそれの何が話なのかわからない。それとはなんだろう。なんでもなければ話ではないはずか。君にそれがわかるだろうか。わかり得ない話ではない。ただわかろうとしないだけか。何をわかろうとしていないのか。そんなことはどうでもいいことか。要するにそれは話にもならないような言葉の連なりなのかも知れないが、それでも話になるように言葉を組み合わせてみるべきなのか。だが何を語っているのかわからない。まるで煙に巻かれて途方に暮れているような案配か。それは間違った言葉の使い方なのではないか。何もかもがお粗末すぎる。それは本気になっていない証拠かも知れない。言葉遊び程度で本気になれるわけがないだろう。だがそれは誰の思いなのだろうか。依然として誰が何を語りかけているわけではない。今は迷路のただ中にいるようだ。何をそんなに迷っているのだろうか。またいつものやるべきかやめるべきかということか。それならもうやめた方がいいのではないか。やめられるものならやめてほしいか。そこで思考が止まっているようだ。なぜ止まってしまうのか。それはもうやめるべきだからか。しかしそんなわかりやすい結論でかまわないのか。いったい何をやめればいいのだろう。そこからわけがわからなくなる。やはり何かのバランスを失っていることは確かなようだ。歩むべき道ではないのかも知れない。何がそうなのだろうか。それは道ではないはずだ。草原や荒野のたぐいか。画面上に何が見えているのか。何となくそれは違うような気がしてくる。ならば気分は最悪なのだろうか。何を最悪と見なせば気が済むだろう。だからそれは気分ではないというわけなら、他に何があるというのか。ますます何を語っているのかわからなくなる。どうやら誰かの怠け病が君にも取り憑いたらしい。もはや勤勉さとはおさらばするしかないようだ。今までに勤勉であった例しがあっただろうか。自らの無知に開き直っていてはいけない。誰がそれを求めているのだろう。何を見いだしたいのか。どんな光景を見てしまったのだろう。精神が病むとはどういうことなのか。ただ怠けているとしか思えないのはどういうわけなのか。なぜそんなことに理由があるのだろうか。もうそのような言動に及ぶ理由を求めるのはやめにしないか。だが理由なき反抗という古めかしい映画のタイトルに心が動いているわけでもないだろう。それで何を語っていることになるのかを知りたい。眠りから覚めて何かのスイッチが入ってしまったかも知れないが、それが周りの人たちを不快にする原因なのか。たぶんなるようになるではいけないのだろう。一応はそうなるように努力しなければいけないらしい。


2月20日

 どうも継続が困難になりつつあるようだ。言葉は君を逸れて、どこかへ消え去ってしまう。君に言葉を使う権利はないのか。それは冗談で述べていることだろうか。その道を行けば遠回りになるだろう。それどころか目指している地点にたどり着けないかも知れない。また退屈な紆余曲折が待ちかまえているのか。画面は何をも教えてくれない。君はそこから遠ざかるためにそこまでやってきたのか。何を根拠にそんなことを述べているのか。些細ないざこざの最中に別の言葉が差し挟まれる。そんな筋書きがどこの台本に記されているのか。語っているすべてが虚構なら、どこに何があるわけでもない。そんな語り方で大丈夫なのだろうか。なぜそんな心配をしなければならないのか。何を心配しているつもりになっているのか。そんなごまかしではつまらないか。さらに無駄なことを述べなければならない。要らぬことを述べすぎだ。何が見えているのだろう。興味がないとはどういうことなのか。それを伝えることが間違っているのではないだろうか。動揺の色を隠せない。なぜそこから離れなければならないのか。気がつけば遠ざかっているらしい。視界がどんどん減退してくる。それはどういうことなのか。何かが狭まっているらしいが、視野狭窄という言葉は馴染まない。何も思いつかないこととそれはどう連関するのか。また間違ったことを述べているのだろうか。君は何を知り得る立場にあるのか。何となくわけがわからないことを述べているだけか。それだけなら他の機会でも述べられるはずではないか。さらにおかしなことを述べようとしているらしい。そんなことを述べられるはずがないと思うなら、もう少し内容のある文章にしてみればいいだろう。それは誰に対する挑発になるのだろうか。文章の内容とはなんなのか。君に内容は似合わないか。似合う似合わないの問題でないとしたら、そう述べることの何が問題なのか。君はそう述べることによって何を遠ざけようとしているのか。遠ざけるべきなのは甘ったれた根性に違いないが、それだけで何を述べられるわけでもない。その時点で言葉は終わっている。なぜ終わってしまうのだろうか。何も思い浮かばないとき、他に何が言葉を繰り出す方法を教えてくれるのだろう。惰性で文字を記し続けていてかまわないのか。それは前回と同じような場所だろう。遠回りしながらも、結局同じ場所に戻ってきてしまうらしい。まったく前進している気がしないのはなぜだろう。誰かの問いかけに満足に答えていないからか。君はどんな問いかけに答える義務があるのだろう。できることならその辺の事情を省略してくれないか。何事にも本気になれないのだから仕方がない。わざとわけのわからないことを述べて、何とかその場をしのいでいるのに、今までについてきたすべての嘘が白日の下にさらされてしまったら、そこでどうなってしまうのだろう。どこの誰が精神を病むことになるというのか。そういう逃げ方はみっともないか。怠惰に浸りながら、退屈をもてあまし、それが嘘だと気づかないふりをしつつ、何とかその場を丸く収めようとして、それが無理だとわかるやいなや、自尊心も勇気もかなぐり捨てて、どこかへ向かって逃げ出している自らに気づくだろうか。そして向かった先に出発点が待ちかまえているわけだ。どこをどう逃げてきたのか思い出せないが、とりあえず走るのに疲れて、立ち止まった場所が出発点なのだ。君はまたそこから逃げ出さなければならない。それは君のためでもなく、誰のためでもない。逃げ出すことが君に課せられた使命なのかも知れず、君は死ぬまで逃げていなければならないだろう。つまり君にとっては生き続けることが逃げ続けることになるわけだ。人生とは逃げ続けることかも知れない。たぶん冗談で逃げているわけではないのだろう。君の逃げ足が速いか、追いかけてくる死に神の足がそれを上回るかの問題なのだ。そういう問題ならわかりやすいだろう。だが物事をあまりにも単純化しすぎているかも知れない。逃げようにも逃げられない袋小路に追い詰められたらどうするのだろう。死が刻々と君を追い詰めている現状があるのではないか。そんな現状など無視できるほど君は肝の据わった人格を持ち合わせているわけではないはずか。しかし君そこから何を語ろうとしているのだろう。それは冗談では済まぬほど切実なことなのか。たぶんそこから何をわかろうとしているわけではないのかも知れず、誰が死のうとそれは君の死ではなく、君が死んでも誰が死んだわけではないのかも知れない。そういうごまかしで死をかわしきれると思っているなら、それはそれでかまわないのではないか。たとえ現実にかわしきれなくても、そうなったらなったで、もはや君はこの世にいないわけだから、そんなことはどうでもいいことかも知れない。君はそれについて考えるのが面倒くさいのか。しかしそれで何がわかるのだろう。それに対してどのような見解を持ち合わせているわけか。何もなければそれもそれでかまわないということか。


2月19日

 またわけがわからなくなる。昔の記憶が固定観念を構成している。君は何かの因縁に躓いてしまったらしい。それは興味深い出来事だろうか。何が誰の役に立っているというのか。気がつけば朝になっているようだが、それは数日後の朝か。だが気分は相変わらずの数日前か。世の中の役に立つとはどういうことなのだろう。そこで誰が何を考えているのか。世のため人のために何をやろうとしているのか。何を邪推しようとしているのか知らないが、過去のことは忘れてしまったらしい。過去に何があったのだろう。何に焦点を当てようとしているのか。たぶんそういう試みが間違っているのだろう。それでも誰かは何か考えているようだが、その内容はよくわからないということか。何をわかろうとしているのだろう。見えているものが見えていないのかも知れない。それはどういうことだろう。何かの比喩かも知れないが、それが何を示すのだろう。やはりなんのことやらさっぱりわからない。君はそこで考え込む。何を考えているのかわからぬままに考え込む。おそらく文法的な間違いだろう。言葉を記していることは確かなようだが、その内容がよくわからないままだ。そう述べながら何を考えているのか。たぶんそれはおかしなことだ。辻褄がまったく合っていない。おもしろくないのかも知れない。ただおもしろいことを述べようとするのはおもしろくない。何がつまらないのか何か具体的な根拠を示してくれないか。誰に説明を求めているのか。架空の対話ではその辺に限界があるようだ。わざと本当らしく述べていないだけか。何をどう述べてもくだらない。そんなことはわかりきっているはずだ。君はこの世界に興味がないのだろうか。しかし言葉はさらに連なって行くらしい。君にはそれらの状況が見えていないのか。状況の何が悪化しているというのか。また真実を述べずに、誰かをはぐらかそうとしているようだ。今さらいくら努力しても無駄だろう。努力の仕方が間違っているのではないか。無意識のうちにそう考えてしまっているらしい。物事の本質が見えていない。それを認めたくないようだ。認められないうちに危機が間近に迫っている。普段から馬鹿にしていることが君を危機に陥れる。深夜に目覚めてしまったらしいが、そこで何を見聞して楽しまなければならないのだろう。娯楽とはどういうことなのか。行楽とはなんなのだろう。本気にはなれず、真に受けることもできない。何にとらわれているのだろう。過去の記憶はどこへ行ってしまったのか。どこへ行くはずもなく、どこかでとどまっているはずか。そこから何をたぐり寄せようとしているのか。わかっているのはそんなことではない。たぶんそこまでたどり着けないのだろう。文章がやせ細っているようだが、それはなんのためでもなく誰のためでもない。役に立たなければお払い箱だというのなら、すでに終わっているはずだ。なんの役にも誰の役にも立たない。甘ったれた開き直りには嫌気がさしている。だからそこから遠ざかろうとしているようだが、まだ十分には遠ざかっていないように感じられ、よりいっそう遠ざかるためにはさらなる努力を要するのかも知れず、何から遠ざかろうとしているのかわからないままに、何かの遠心力によって加速されているような気がしてくる。それでいいのだろうか。それはどのような力なのか。なぜ意固地になっているのだろう。どうやらまたそこに限界が見えてきたらしい。見えてきたものがそこにないことはわかっている。ありもしない幻影を求めているわけではないが、それなりに躓きの原因を探っているのかも知れず、それについて理解しようとしているのかも知れない。それで何がわかるというのか。そこまで行ってはまずいのかも知れない。わかることが何かの理解の妨げになってしまうのだろうか。何について述べているのかわからない。何を語り直そうと、そんな語りは以前の繰り返しにしかならないだろう。困っている人を助けることがなんのためになるのか。他人のためになるのかも知れない。しかしそれは自らの可能性ではない。ただ寒さに凍えているだけか。たぶん翌朝の状況はそんなところだろう。そこにどんな可能性があるというのか。たぶん何らかの可能性を探らなければならないのだろうが、そこに暮らしている地域や状況によって、やれることは限られているのかも知れず、一概に何をやれるということでもなく、人それぞれでやるべきことも違ってきて、またやらなければならないと思っていることも、それを本当にやる必要はないのかも知れず、はっきりしたことはわからないのだろう。しかしなぜそんな嘘をつく必要があるのか。やるべきことはわかっていて、今まさにそれをやっている最中なのではないか。何をやっているというのか。何もないのにそこへ近づくべきではない。近づきすぎると帰って来れなくなる。しかし遠ざかろうとしているのに遠ざかれないのはどういうわけなのか。わけなど何もないのかも知れず、何をどう述べようとそれは無内容に近づき、君を落胆させる。


2月18日

 何を語れば安心できるだろうか。言いしれぬ不安を隠すために語りたいのか。そんな理由は嘘に違いない。語る必然性を見いだしたいのか。何を探し求めているのだろう。そんな問いかけには応じられないか。君という言葉は無色透明だ。そう思いこみたいだけだ。君が思いこみたいのではなく、他の誰かが思いこみたいのでもない。ただそんなことが記されている。それが文章の本質なのだろうか。何が文章なのだろう。探し求めているのはそんな文章ではない。わかりきったことを述べないでほしい。では他に何を知りたいのか。その問いも的外れだと思いたいのか。そう文章に記さなければ継続がはかれないわけか。何を継続しようとしているのだろう。自暴自棄になっては困るかも知れないが、誰が困ったふりをしなければいけないのか。君は誰を困らせているのか。それは実在しない誰かだろうか。そうだとしたらそれは人畜無害かも知れない。そこには存在し得ない君があらぬ妄想を抱いている。そういう語りにはもう飽きてきたので、その辺で軌道修正してみないか。できるものならやってみればいい。何もできもしないくせに大言壮語は似合わないだろう。そこで力を使い切るべきではない。何を温存しておこうとも思わないが、何となく手を抜きたくなるらしい。たぶんそれで済むはずがない。何を済まそうとしているわけでもなく、何かを錯綜させようとしているとも思えない。何事も実行しようとすれば面倒くさくなるらしい。すぐに見え透いた嘘をつかなければならなくなるようだ。その理由を知りたいか。誰が理由を教えてくれるのだろう。理由もないのに教えるわけがないか。教える理由がないのに教えることができるのだろうか。君は誰に何を教えようとしているのか。そういう成り行きこそがおかしいのかも知れない。それはどのような成り行きなのか。それを誰かに教えてくれないか。そんな問いかけはわざとらしい。何事も君の思い通りにはいかないらしい。君に何ができるのか。何もできないとしたら君の存在価値がないか。この世界に存在していないすれば、君とは何者なのだろう。なぜそこから価値が見いだされないのか。不在としての価値とはなんだろう。ただもったいぶっているだけか。何をもったいぶって出し惜しみしているのだろう。それは何かの大売り出し直前の時期なのだろうか。さらに話の方向が不明になり、意味も不明になるだけだろう。たぶん何らかの技術的な行き詰まりを反映しているのかも知れず、それを打開しない限り、そこから先へは進めないのかも知れない。そういうことがこれまでも繰り返されてきた。やる気をなくしているのは君だけでない。君はいつでもやる気がないようだが、やる気とは何をやる気のことだろう。そこで何を貶んでいるのか。労働の何が退屈なのか。労働でなければ他に何があるのだろう。なぜ君は不在なのに働かなければならないのか。すべては架空の話だからか、そんなやり方に説得力が宿るはずがない。他に何を宿らせようとしているのでもなく、文章にどんな意味を持たせようとしているのでもない。そんな風に語るのは間違っているはずだ。間違いながらも継続を計ろうとするのなら、後で手痛いしっぺ返しを食らうかも知れないが、君はそれでもかまわないのだろうか。かまうもかまわないも、そういう宿命の下に生じているのだから仕方がないか。それではいったい何を見いだそうとしているのか。たぶん他には何もないのだろうが、他以外も何もないのかも知れない。何も実在せず、すべては妄想が作り出した幻覚なのだろうか。いったいそれで何を述べているつもりになれるのか。つもりではなく、実際に何を述べているのだろう。見たまま読んだままの文章とはなんだろう。それの何が文章として成り立っているのか。それ以上追求すれば、よりいっそうわけがわからなくなるだけか。何を追求しているのかわからない。ただ言葉が繰り返されている。これ見よがしというわけではないが、ひっそりとしたたたずまいを装いながらも、そこに誰かの影の部分を見いだすことができるかも知れず、その暗がりのように見える地帯に、何らかの感情が渦巻いているのかも知れない。世間に認められたいのか。それが冗談でないとしたらなんなのか。なんでもないといえるかも知れないが、そこに誰かの本音が構成されようとしているのかも知れない。しかし世間とはなんだろう。今までそれはマスメディアが作り出した幻想の産物だったはずだが、それがわざとらしい嘘で塗り固められた張りぼてのようなものであることが明らかになるにつれ、それらの幻想が失望を伴うようになってきたのかも知れず、世間などというものがなんの実体もないことが白日の下にさらされるにつれ、そこに暮らす人々に対するマインドコントロールが利かなくなってきたのかも知れない。いったいどこにスポーツの練習風景を見て盛り上がる者たちがいるのか。信じられない光景には違いないが、そこに何らかの演出がなされていることは確かなようで、それが見え透いているように感じられてしまうのかも知れない。


2月17日

 曲はまたいつものアブドゥル・イブラヒムか。何者なのだろうか。何を決めかねているわけではない。ただつまらない状況に包まれているだけか。そこに見えている光景には見覚えがある。さらに遠ざかる。遠ざかろうとしていないのに遠ざかる。第三の男の名前を知りたいわけではない。遠ざかっているのは七番目に現れた何者かだ。たぶん意味がないのだろう。また嘘をついているらしい。言葉と言葉の狭間に空疎な余白がある。自らの仕事に誇りを持っている者なら、何に迷うことがあるだろう。意味的につながらないようだ。断片的に何を述べても意味不明だ。それらの文字列に意味的なつながりはない。こだわりが欠けている。昔は何にこだわっていたのか。昔の話をしたいとは思わない。八番目に訪れた者には殺意を感じた。嘘に違いない。なんの変哲もない光景に包まれている。眺めている風景に違和感を感じないのは、そこが内面の世界だからか。夢の中で誰かが死んでいる。死んだ目が君を凝視する。背後の藪から何かが襲いかかる。もう眠いから勘弁してくれないか。体がゆがんでいるらしい。背骨が曲がっている。何かがはじき出される。それは興味深い現象だろうか。わけのわからない地平に誰かの影が見え隠れしている。足の甲が痛い。歩き過ぎかも知れない。この世界には貧困と因習にとらわれて、受けたくても教育を受けられない人々がいるらしいが、それがどうしたわけでもない。夢を抱くのは誰の勝手なのか。なぜそこから前向きな回答を引き出そうとするのだろう。くだらないことで騒ぐのはなぜだろう。感覚が鈍っている。人が人として人並みの生活を送るためには何が必要なのだろう。人は人でしかない。人が人でなかったら人でなしになるだけか。それの何が間違っているのだろう。間違っていないとすれば、そんなやり方がどこで通用するのだろうか。他に人間の条件があるだろうか。なぜそれが他なのか。他がなければ何があるのだろう。何もなければそれは好都合ということか。それの何が好都合なのだろう。そこに変化の兆しを感じ取るのは容易だ。人々が通りに群れている。鳥がどぶ川でえさをとっている。鳥も人も群れるのが好きなようだ。それは習性と呼ばれる概念か。概念ではない。言葉に概念が付属している。無駄なことを述べている。頭の痛みは君を悩ませる。夜の街頭に蛾が群れる。君は夏を思い出しているらしい。氷に閉ざされたミイラの話を思い出す。氷山が目の前を通り過ぎる。テレビ画面を食い入るように見つめる。音楽は君を君自身から遠ざける。そんな言葉の並びに感動してみたいか。それはただの水だ。輝いているように見えるのは光の加減か。乱反射して虹を見いだせるだろうか。波長によって屈折率が違うようだ。思いついた言葉の羅列から意味を見いだそうとしている。そこに誰の意識が介在しているのか。気がつけばあくびが出てくる。何に気づいたのかわからないが、退屈紛れに何を見ているのか。まだそんなところでうろついているのか。誰がそこでうろついているのだろう。それが誰なのか見分ける能力が君にあるのだろうか。君はどんな人間を認めたいのか。人のどんな態度を否定したいのか。そんなことは君には関係のないことだろう。関係がなくてもそんな状況に巻き込まれていることは認めざるを得ない。それは馬鹿げた話に思えるが、何となくこの世界ではそんなことばかり起きている。何となくではなく、何らかの必然性がなければ説明がつかないような状況なのかも知れず、そこに誰が関与していようとどうにもならないような不幸にさいなまれているわけか。誰に何ができるのだろう。おそらく誰も助けてくれないだろう。君に助けられるわけがない。そんな話ではないはずか。誰を助けようとしているわけでもなく、むしろ突き放そうとしているのかも知れない、誰が攻撃してこようと、君には草木が味方するだろう。なぜそうなのかわからないが、植物が君を頼りとしているらしい。それが君の重荷になっているとは思わないが、誰がそう思わないのかが不明なのかも知れず、特定の人間を介して君が形作られているわけではないことを思い起こしてみよう。君という言葉はそれを使う人それぞれで意味合いが違ってくる。君はただ文章や会話の中で違った対象に当てはめられて、何となくその場の辻褄が合うように使われているに過ぎないのか。だから君が君でないはずがないか。君は君であるはずもなく、君でないはずもなく、たぶん君は君以外の誰かなのだろう。いつも特定の固有名に絡め取られていて、君が純粋に君であることなどできはしない。だがさっきまで話されていたのはそういう話ではなかったはずだ。なんの話なのか覚えていないわけがないだろうが、改めてそれを文章に記す必要もないのかも知れず、なんのことやらわからないままにそれらの文章は終わってしまうのだろうか。それらが文章でなかったとしたらなんなのか。そういう仮定はおかしいだろう。おかしいがそれでもかまわないのなら、それはそれでかまわないのではないか。


2月16日

 何に気づいているわけでもない。刻々と時が迫っていて、気がつけば過ぎ去っている。部屋の中を掃除しているつもりになる。たぶん明日になれば掃除するのだろう。どうやら心の中にゴミがたまっているようだ。がらくたを取り除けば何も残らないだろう。ゴミにさえなれない。誰がそれに感動したがっているのか。そんな冗談に感動するのはつまらない思念に取り憑かれている証拠か。それらの何に焦点を当てて語ればいいのかわからない。たぶんそう語ることがおかしいのだろう。ついでに頭もおかしくなってほしいか。それでも何かを探求しなければならないようだが、何かとはなんなのか。ちりも積もれば山となり、山となろうとそれがどうしたわけでもない。ゴミの山の中で何を探し当てたわけでもなく、景観的に炭坑のぼた山のような様相を呈しているとは思えないが、ゴミが詰まっているのは誰の頭になるのだろうか。そこから何を創作する気にもなれない。そこに何を見ようとしているわけでもなく、周りの景色が見えていないようだが、それで何か問題でもあるのだろうか。君は何を自称しているのか。君が君であるはずがない。何がわからなくなっているのだろう。障害を取り除くことは容易ではないが、とりあえず差し障りのない範囲内で話を進めていこう。何かを語らされているようだが、それは誰の意志なのか。単線的な話ではない。鳥のさえずりと屋根を叩く雨音で目が覚める。本当にそう思っているのなら、目が覚めている自分はいったい何者なのだ。自分に関して何に気づくことができるだろうか。気づかぬうちにそこから退散するとしよう。なぜ退散する必要があるのだろう。どのような判断を下そうとも、判断材料は何もない。何をやる必要もないのかも知れず、それについては何も述べるべきではないのだろうか。そこで何がどうなっているのか。君はそれを知ろうとしていない。何かを語るにはあまりにも疲れている。関係ないだろう。心が破れているわけがない。何に取り憑かれていたのだろうか。手の甲の傷口が痛がゆいだけか。言葉に詰まって沈黙に助けられる。ごまかしは何度でも使い回しが利くらしい。ゴミの話はそれからどうなったのか。産廃業者に引き取ってもらったのかも知れない。粗大ゴミの中に誰かの死体が紛れ込んでいるようだが、それはマネキンに違いない。人はいつでも猟奇的になれるそうだ。下手に格好をつけるべきではないのかも知れず、感情にまかせて暴走するのが愚かさを醸し出すには最適のようだ。格好の的となり、誰かに射抜かれて無惨な醜態をさらけ出し、それで笑いをとれたと勘違いするのもいいだろう。意地悪な者たちには際限がない。それはなんの際限でもなく、際限そのものなのかも知れず、何でも極めつきを見ないと気が済まない性格たちがどこかで群れ集っている。それがこの世界のありのままの様相を呈していて、些細なことで気が狂ったように騒ぐ者たちがもてはやされるだろう。そこにも何らかの法則が成り立っているのだろうか。君はそれを導き出そうとするが、自らの資質と思考力に限界を感じている昨今のようだ。意味は君を突き抜け、何も捉えられぬままに拡散して、背景に溶け込みつつ雲散霧消してしまうだろうか。すぐに何を考えているのかわからなくなってしまうだろう。さっきまで何を考えていたのか。実際に語っている内容の中に、何か答えのようなものが含まれていないだろうか。それは生ぬるい感覚のままだと取り逃がしてしまうような何かか。それで何を語っていることにもならない。君はどこまでもつまらない人間になってしまう。だがそれを恐れているわけではなく、かえって好都合だと確信している。確かに何かをやるにはつまらない人間でなければならない。それはどういう理屈なのだろうか。理屈も理由もありはしないのはいつもの通りで、誰かはただ何となくつまらない人間でありたいと思っているだけかも知れず、その誰かが君である保証はないが、君が語っている誰かが君であったらつまらないと思っているらしい。気がつけば文章が引き延ばされているようだが、簡潔に述べられないような何かが誰かの関心事となっているのだろうか。わかり得ない結末に向かって誰かが賽を振り、出た目の数だけ進めるはずもなく、わけのわからないそれらの付け足しに意味をつける気にもなれず、それは意味ではなく惰性のたぐいなのか。意味も惰性も言語的な並びの中で不自然な印象を与えている。要するにそんなところまでたどり着いてしまったということか。さらに意味不明なのかも知れない。たぶんその内容から受ける印象は奇想天外ではない。そしてまだその続きがあるようだ。意味と解さないということは。文章の自由度を上げる効果でもあるのだろうか。自由度とはなんなのか。話の筋にとらわれないことが自由だとは思えないか。筋がなければ話にならないだろう。話とその筋とは不可分のつながりで結ばれていたりするのだろうか。だが今さらそんなことを述べても始まらず、意味不明な話はもう終わろうとしている。


2月15日

 それはいつもの光景に違いない。何を見ているのだろうか。いつもの光景の中で眠っている。不揃いな言葉が並んでいるようだ。なんのことやらわからないか。過去の資産を食い尽くし、気がつけば何も残っていない。どうやらいつも気づくのが遅すぎるらしい。そういう話なのだろうか。どういう話でもなく、それは君とは無関係な話だ。君にふさわしくない話なのか。冗談なのかも知れず、あるいはそれは嘘だと思いこみたいのか。どのような形で参加するにしろ、そこで倫理的に何を守るべきなのか。守るべきものなど何も思いつかない。話の内部で何に参加しているのだろう。何に飽きたのだろうか。これから何かやるべきことを知り得たりするのだろうか。無駄な問いかけばかりが先行して、話の内容が示されるのを阻害している。語り手が示されるべき内容を知らないのだから仕方がない。それでもそこで何かが語られているらしい。何もなくても語ろうとしている。語れないことまで語ろうとしているようだ。だからそれは無謀な試みとなってしまう。君にはそれが理解できない。すべては移ろいゆく。できることはそれだけか。何ができるというのか。飛翔するきっかけがつかめない。君は鳥ではない。君は君でもなかったはずだ。君でなければ誰だったのだろう。そんな風に語るのは何もないことの証か。それはおかしな話だが、それでも語っている現状がある。やはりそれは無理なのだろうか。何が無理なのか。なぜそこで停滞しているのか。数日後の日差しを浴びて、何か思うところがあるらしいが、見えているは曇り空だけか。他に何があるのだろう。カラスの鳴き声が聞こえてくる。話の内容とは無関係だが、話自体が不在であるかのような文章となっている。それらの文章はどんな言葉から成り立っているのか。そういうのは興味の対象外か。言葉は自ずから組み合わさり、ありもしない疑念を次から次へと生じさせているようだが、それによって何が費やされているのか。そこで誰かが何かを加工して消費しているのか。たぶんそれは商品ではないのだろう。話がずれているようだ。身体から心が外れている。心外とはどういう意味なのだろう。ついでに言葉も外れ気味のように思える。いくら語ろうと、なんの台詞も形成し得ない。だが不在の君にはそれが似合っているのだろう。なぜ君はそこに実在しないのか。それがつまらぬ疑念であることはわかっているが、何かを語っている誰かは不在という言葉を好んで使い、それで何を語っているつもりになれるのだろう。君に何がわかるというのか。何もわからなくてもなるようになるしかない。それでも君は何かを知っている。この世界がどうなってしまうかもお見通しのようだ。ではなぜそれを語ろうとしないのか。あまりにも凄惨な光景が見えているから、語るのもはばかられるのか。何をそんなに遠慮しているのか。それは他人にとってはどうでもいいことに違いないが、君にとってもどうでもいいことなのかも知れない。君がそこに存在しているはずがない。時代が違っているし、今は日が照っている時間帯ではなく、時期的にも真冬の日差しではない。感じ取ろうとしている対象が違っている。わざとめちゃくちゃなことを述べているようだが、そうする理由が見当たらない。いったい君はどこに存在しているのか。それでもその場の成り行きに逆らっているわけではない。まだ心に余裕があるらしい。今や神が取り戻すべき大地などどこにもありはしない。エルサレムに神の国など建国できるわけがない。それは悪魔の台詞になるだろうか。台本が違っているようだ。唐突に意味不明な言葉が紛れ込むのにも意味はない。もはや君には何もできないわけだ。思考力が著しく減退して、挙動が緩慢になり、まるで廃人のような有様だ。なぜ今さら不在の神について語る必要性が生じているのか。やはりそういう話ではないはずか。語りかけのまま数日が経過している現状についてどう思っているのだろう。何かそうする理由でもあるのだろうか。それは架空の出来事だったのだろう。大海原に何かが沈み込もうとしているようだが、夕暮れ時に水平線を眺めていたことがあっただろうか。そんな話でもなかったはずだ。日がな一日路上に立ちつくしている。それでいくら稼いだのか。数千円の日給を得るために命を張ることもないだろう。頭上から何かが落ちてくる。白い鳩が飛んでゆく。なぜ平和な時代に生まれたのか。誰がそこで生きているわけでもなく、誰もいないわけでもなく、何をやっているわけでもない。それらの言葉の連なりに意味はない。苦し紛れにそんなことを述べているわけでもないが、みんな嘘をついているのだろうか。それでも何を知り得たのか。何もないことの他に何か語ることがあるのか。それをこれから探らなければならなくなる。それは短い曲になる。何が歌われているわけでもなく、ただの演奏が素っ気なく続いているだけだ。それももうすぐ終わるだろう。君にはそれがわかっているらしい。残り時間が画面上に表示されているからか。


2月14日

 あるべき姿がどこにも見当たらない。何も思いつかない。ではなぜそこから逃げないのか。逃げる理由がどこにあるのだろう。もう語るのが飽きてきたのではないか。やはり間違っていたのだろうか。馬鹿げたやり方でどこへたどり着いたのか。何となく語るのが馬鹿らしい。つまらないことにこだわりすぎているのか。いったい何にこだわっているというのか。確かに現実の世界ではひどい目に遭っているのかも知れない。どの世界でも同じことだ。心は相変わらずくだらぬ状況に絡め取られているようだが、何を怠けているのだろう。そこで何をやらなければならないのか。そこがそこではないような気がする。考えるべき内容が違っているのだろうか。何について考えたらいいのかわからない。他人は何を考えているのか。他人は関係ないだろう。君は良識にとらわれて、現状をどこまでも理解しようとする。理解できないようなことまで理解しようとして、それで何を肯定できるのだろう。何とかそれを知りたいところか。物事の本質を捉えようとしているのだろうか。それはありふれた思いだ。何かをわかりたいようだが、風に煽られて、意識がどこかへ飛んでゆく。戯れに何を考えているのだろう。現状では何かを考えられる状況ではない。何かが何だかわからないのだから、そこから先には何もありはしない。そんな状況の中で何を期待しているのか。それは誰の台詞でもなく、何を聞いているわけでもないが、何かしら耳に響いてきて、それについて語ろうとするのだろうが、唐突に思いついた言葉にリアリティはない。意識はすでにありもしない空想の中で何かを追い求めている。何かとはなんだろう。神の台詞とは何か。なぜ彼が神の子なのか。格闘技はまるで冗談のような見せ物だ。人々は何を求めているのだろうか。そこに現前しようとしているのは、人々のための神ではないのかも知れない。君に何ができると思っているのか。誰でもないのだから、何をやっているのでもない。ただ言葉が分散していて、意味をなさないように感じられ、そこから現前している文章に対する不満が生じるが、それでも何も思いつかないことからくる焦りを誘発して、苦し紛れに別の成り行きを連想させる。そこから先はどうなるのか。誰が何を思い浮かべるのだろう。意味をなさないのだから何もありはしない。考えがまとまらないようだ。そこに誰がいるのだろう。意味をなさない問いかけばかりが繰り返される。それでいいはずがない。まとまりのない文章を破棄しなければならないだろうか。できるはずのないことを述べないでほしいか。それでもそこから逃げるわけにはいかないらしい。何かが違っているような気がするが、それでいいのだろうか。たぶんそうではないのだろう。そうはならないからそうなってしまうわけだ。だがそれではどうなっているのかわからない。現状はどうなっているのだろうか。なぜ物事の本質を見極められないのか。何を見ようとしていないのか。なぜそれを見ようとしないのだろうか。木を見て森を見ないわけではないはずだ。実際には木も森も見えている。そういうたとえが間違っているのだろうか。現状とはなんの関連もありはしない。いったい何が現状なのだろう。それを言葉にできなければどうしようもないだろう。しかしターゲットが何も見当たらない。なぜそれをおかしいと思うのか。何もないことの何がおかしいのだろう。そこは真空地帯ではなく、人も物も巷にあふれかえっているはずだ。抵抗することに疲れてしまったのだろうか。何に抵抗していたのか思い出せない。この世界に何が必要だとも思わない。それで何か不都合でもあるわけか。平等主義に則れば、貧富の格差を縮小させなければならないか。努力した者が報われなければならないとしたら、怠け者は貧乏にならなければならず、貧乏が嫌なら働かなければならない。働いても貧乏のままならどうすればいいのか。別の職業を探さなければならないか。しかし職業選択の自由とはなんだろう。職種を選ぶのは自由だが、それで成功するとは限らないということか。選んでも働かせてもらえないかも知れない。限られた人数しかなれない職業もあるだろう。たぶんすべての人を満足させるような具合には絶対にならない。実際はどうなのだろう。富める者はさらに富み、貧しい者はなかなか貧乏から抜け出られなくなる。それは社会が安定している証拠なのか。比較的富める者が多く住んでいる地域は安定していて、貧しい地域は貧しさゆえに常に不安定だ。そのような現状から何が導き出されるのか。地域的な格差をなくすためには何をどうしたらいいのだろうか。はたして富める者が痛みを伴うような社会改革が可能なのか。当然権力を握っているのは富める側であり、貧しい側は抑圧された存在である。富める者たちの存在価値は、自分たちが相対的に物心両面で豊かであるということであり、それは自分たちが優越感に浸れる対象として、比較的貧しい人々を必要としている。一方に貧しい人々がいるから、もう一方に富める人々がいる。


2月13日

 君は何かに取り憑かれている。表面的には平静を装っているようだが、内心は穏やかでない。その物語には様々な文脈が入り組んでいる。その中では複数の話が進行中のようだ。そこで何をどうしたらいいのか。そんなことはわからない。それでも何らかの計画は遂行中なのだろうか。君はそこで何を立案したのか。やはりそういう話ではないわけか。昨日ことは何も覚えていない。すでに時間的には昨日ではなく明日になっている。どうやらいつまで経っても現状に追いつけないようだが、現状とはなんだろう。身の振り方でも考えた方がよさそうだ。考えていることはそれだけか。またわけのわからないことを述べている。そしてさじを投げている。なぜそんなことを述べなければならないのか。君に何がわかるというのか。何かしらわかっているのかも知れないが、それを言葉にすることができないわけか。それも何かの冗談だろうか。その辺で足踏み状態か。君にはそれがわからない、わかるためにはどうすればいいのだろう。そこで何か興味深い事件が起きてほしいのか。そんな話ではないだろう。もう少し現実を見据えなければならないか。語られているのは君の話ではない。それどころは何も語られていないのかも知れず、話の内容は自然といつもの空虚に近づいているらしいが、それがいつもの現実のはずだ。すでに外は数日後の深夜になっている。君に何がわかるだろうか。現状はどうなっているのだろう。それは誰の現状でもなく、そこからどんな物語が生まれることもない。自然の成り行きに従うなら、人は黙って退散するしかないだろう。君に残されている選択肢もそういうことでしかない。不屈の闘志などそこにはない。では何が君をそこまで追い詰めているのだろう。何に駆り立てられているのか。まさか狂気の衝動ではあるまい。宝くじにでも当たってほしいのか。あるいは交通事故でも起こしほしいのか。夢の中で出会い頭に何かにぶつかってしまったのだろうか。何を述べているのだろうか。具体的にどうなってしまったのか。そんなことがわかるはずもなく、どんな重荷を背負っているのでもなく、どのような頸木に引きずられているわけでもない。ただつまらないこだわりに支配されているのだろう。人はいつでも不快な人間になることを目指している。それが夢を見ることなのかも知れない。普通に生きることなど馬鹿らしくてやっていられないわけだ。それは酔っぱらいの妄想だろうか。妄想を抱いている者の目を覚まさせることなどできはしない。しかしそこで誰が試練に遭遇しているのか。それはどのような試練なのだろう。少なくともそれをやり遂げなければならないわけか。現実には何も課されていないのに、何かの課題に挑戦しているかのように装っているだけか。誰が明日に向かって努力しなければならないのだろう。そこで語られなければならない内容など何もないはずか。では何を黙っているのだろう。その沈黙には驚異的な攻撃力が宿っているはずだ。他人を不快にさせるために沈黙しているわけだ。それは卑怯者の嫌がらせなのか。要するに自らは何もやらなくても争いごとを誘発しようというわけか。そんな戦略も見え透いているだろうか。君にはそれがわからない。わかりたくもないのかも知れず、そんないじけたやり方に我慢がならないのだろう。現実に抵抗する気にはならない。どうにかしようとしていないのかも知れない。その気がなくてもどうにでもなってしまうのではないか。そしてそのどうにかなってしまったことについての、どのような申し開きも空疎に聞こえてしまうだろう。いいわけはどのような機会に発せられても、その時点で負けているのだ。いいわけを述べるような状況に陥ってしまった時点で敗れ去っている。何に敗れてしまったのだろう。すでに現状は君を置いてきぼりにしているのだろう。生きようとする時空から外れて、惨めな穴蔵で縮こまっているわけだ。そこでじっと災禍が通り過ぎるのを待つ魂胆なのだろうが、そうは問屋が卸さないわけか。お節介な誰かがその穴蔵に棒をつっこんで、臆病者を突っつき出そうとしている。それが冗談だと気づかないようだ。冗談にしては過酷な試練を伴っているだろうか。結局はそれも何かの勘違いになってしまうわけか。つまらないこだわりに絡め取られ、気がついてみれば何も得られず、一生を棒に振ることになるのだろうか。それでもかまわないと強がってみせるのも大人げないだろう。だから適当なところで妥協して、後は余生を悠々自適に暮らせるように算段するのが賢明な選択になるらしいが、それで何がわかるのだろうか。何をわかろうとしているのかわからないか。君は馬鹿なんじゃないだろうか。それが何の申し開きになるのかわからず、何となくおかしくて笑みも漏れてくるようだが、実際のところはわけがわかっていないだけで、顔がだんだん引きつってきて、心に余裕がないことが一目瞭然のような事態に陥っているらしいが、それでもそこから離れられないらしく、ただ一途にしがみつこうとしているようだ。


2月12日

 そんな情景の存在を信じられるわけがない。冗談ではないと思う心がおかしいのか。なぜ過ぎ去ろうとする時間に追いつこうとしているのか。置き去りにされたままでは気に入らないわけか。誰がそれを欲しているのだろう。間に合うはずがない。冷めているのは心のどの部分なのか。目が覚めていることは確かなようだが、別に退屈紛れに言葉を繰り出しているわけではない。それが何かの使命であるはずもない。君には君のやり方があるらしい。そのやり方に同調できないこともわかっている。ならばそこから何を語ればいいのだろう。わけのわからない成り行きに身をゆだねているだけではらちがあかないか。らちをあけようとは思っていないのではないか。言葉の使用法を間違えているだろうか。何を語ろうとしているのか。次第にいらついてこないか。それでかまわない。たぶんかまわないのだろう。無駄に言葉を連ねている現状を受け入れてみようではないか。現実に妥協を繰り返している。妥協に妥協を繰り返しながら、今ある現状があるらしい。それで不満が募っているのは当たり前のことか。当たり前が気に入らないのなら、当たり前でないことを語ってみたらどうなのか。どうでもよければそれでかまわないだろう。外は晴れている。部屋の中は埃っぽいだろう。それが誰の孤独を表現しているというのか。あるいは何を語っているつもりになれるのか。さらにわけがわからなくなる。人は何を求めているのだろう。人でない君は何を求めているのか。くだらぬ感情は何を起因として生じてしまうのか。なぜ感情がくだらないのだろうか。感情の他に何があるのか。人が行動する動機とはなんだろう。なぜ何かを語りたくなるのだろう。たぶん人は行動したくなるのだろうし、それについて語りたくなってしまうのだろう。それが何を示すかはわからない。何かを示しているのだろうが、それをわかろうとしていないのかも知れない。何もかもがくだらなく思えてしまうとき、人はそれを払いのけるために行動に出る。くだらなさに我慢ができなくなってしまうらしい。ふざけてるんじゃねえ!と叫びたくなってしまうわけか。それは誰かの心の叫びなのか。まったく冗談ではないか。不快さを通り越して、そこから先は筆舌に尽くしがたい惨状を招いてしまうわけか。すべては嘘なのだろうか。しかし筆舌の幻影をどこに見ることができるのか。指先には筆も万年筆もボールペンも鉛筆もありはしない。そういう話の展開は馬鹿らしいか。君に何がわかるというのか。産みの苦しみなど知るはずがない。誰にわかってもらう必要も感じていないのかも知れない。それが誰かの孤独を表現しているわけか。それとはなんだろう。すぐに切り返さなければその先に続いていかないか。そういうごまかしがいつまで続くと思っているのか。何をごまかしているのでもなく、ありのままのていたらくが表されているだけか。君はそれでは不満らしい。不満だからこそその先へ進まなければならず、過ぎ去った時空から遠ざからなければならなくなる。何もかもが過ぎ去るだけで、言葉でとどめることも叶わないような状況の中にその身を置いて、そこで何を考えることができるだろうか。実際に何を考えているのだろう。そこから先の展開ばかりを予想するのは愚かなことか。愚かでかまわなければそうしていればいいだろう。しかし謎とはなんなのか。そこから先に起こる出来事の何が謎なのか。時間的に先の出来事に過ぎない。そのすべてが予定調和だとは思わないが、何も成功の手前に罠が張り巡らされているわけでもなく、そういう話がありふれているに過ぎないのではないか。そこから先に何を語ろうと、それが未来に結びつくわけでもないらしく、もう済んでしまったことの集積でしかないような気がしてくる。すべてはすでに語られたことに過ぎないのか。いくらでも語られていて、すぐに忘れ去られてしまうことしか表面化しないというわけか。それでは歴史とはなんなのか。それの何が歴史なのか。気がつけば戦国時代の武勇伝ばかりが表面化してしまうらしい。それも冗談のたぐいなのだろうか。人は誰でもそういった保守主義にしがみつこうとしてしまう傾向にあるようだ。しかしそれで何がわかったことになるのだろう。人々の娯楽ばかりが重んじられる時代は愚かさの極みかも知れない。だが他に何もないのだから救いようがない。働いて遊んでそれで一生が終わるだけなのだろう。それ以外に何があるというのか。勉強とは何か。学ぶ喜びとはなんだろう。それも娯楽のたぐいなのだろうか。教育も受験ごっこの予行演習なのかも知れない。ならば生涯学習とは何か。そんなことまで面倒を見きれないか。それは誰のための学習なのか。人々が力を合わせてよりよい社会を築いてゆくためには、是非とも必要な試みとなるわけか。それでこの世界を肯定できるようになるのだろうか。そんなことはやってみなければわからないだろう。やる気もないのにそんなことを述べるべきではないのかも知れず、本気でないことが見え見えの内容になっているようだ。


2月11日

 何が吹っ切れているわけではない。ため込んだものが自然とはき出されているだけか。ものとはなんだろう。ものでないとしたらなんなのか。そういう仮定の話はおかしいか。それでもそこから先を見据えて、明日につながるような言葉を導き出したいのか。何が明日につながるのだろうか。誰が英気を養っているそぶりを見せているわけではない。君に残された時間があるとは思えない。それは時間ではないのかも知れず、何らかの場所かも知れない。死に場所のたぐいか。縁起でもないことを述べるべきではないが、冗談に聞こえてこないのはどういうわけか。本当にやばいのだろうか。何とかそこから遠ざかりたい。何をやり過ごすべきなのかわからないが、避けて通れないような運命だとしたら、それを素直に受け入れなければならないのか。それとはなんだろう。それが自らの死でないことでも祈りたいわけか。冗談ではないだろう。まだそこまで行っていないのではないか。どこまで行けば気が済むのか。気が済まないからそこまで行ってしまうわけか。毎年三万人もの人が自殺するそうだ。それが悲惨だと思わないのはなぜだろう。人には自由意志があることを自殺する人間が教えているのか。それこそ冗談ではないか。冗談でなければ、もうその辺であきらめたらどうか。何をあきらめるべきなのか。語るのをやめるべきなのだろうか。わかっているくせにそれはないだろう。自分でそれがわかっているのなら、さっさとやめてしまえばいい。何をさっさとやめられるのか。やめられないからいつまでもそんなことを述べているのだろう。そんなやり方で気が済むわけがない。やめるとしてもそんなやめ方で気が済むわけがない。何をどうしようと気が済むわけがないだろう。気がつけば怠け心がその首をもたげ、ターゲットに襲いかかろうとしている、それは的外れの意見の出現を期待している。それぞれの人格から生じている意見だけでなく、それらの相互作用から導き出される意見も的外れ気味に出力されている。何が破綻しているのか。たぶんいいわけとはそういうものなのだろう。そうでなければ正しい答えが導き出されてしまうか。君はそこから間違った答えを導き出そうとしている。要するにそれが失敗のいいわけとなっているわけか。だからそれ以降に何を語ろうと、それが正しい答えに向かうことはない。君は安心して幻想と戯れていられるわけだ。虚構の世界に安住していることができる。それは生ぬるいやり方に違いない。彼らは神について喧伝しすぎている。それが彼らの特性であり弱点である。君は唐突に何について述べているのか。そんなことは君にとってはどうでもいいことだ。そんなことを述べている場合ではないか。それも嘘のたぐいなのだろうか。たぶんそれは神ではない。神でなければなんなのか。簡単に語ってしまえるものとはなんだろう。ものではなく者なのではないか。では君はこれから誰について語らなければならないのか、君が語るわけではなく、誰でもない君について誰かが語るのではないか。そういうごまかしによってそれらの文章は成り立っているのだろう。それが気に入らないなら、さっさとやめてしまえばいいだろう。それはできない相談か。やめようと思えばやめられないはずがない。ならばついに黒い鳥よさようならか。影が鳥であるはずがない。心の影の部分から言葉が連なっているようだが、それを断ち切るにはどうすればいいのか。そういう認識こそが幻想なのかも知れないが、幻想を捨てきれないのはどういうわけなのか。まさかそこから継続の足がかりを築き上げようというのか。まったくやっていることがおかしい。それはやっていることではなく、語っていることではないのか。では何を語っているのか。わけのわからないことならもうごめんか。どうも何かが執拗にまとわりついてくるらしい。それを払いのけようとして、逆に罠にはまってしまい、そこから逃れられなくなっている。そんな物語ならありふれているだろうか。それは物語ではなく、単なる話に過ぎないことだろう。話と物語とはどう違うのか。厳密には違うのだろうが、どちらも似たような概念に過ぎない。だから何を語っているのかわからなくなる。それも嘘のたぐいか。嘘でなければどうなってしまうのだろう。命がけとはどういうことなのか。それが命がけの試みであるはずがない。君は何かを取り違えている。何と何を取り違えているのか。それは遊びと仕事か。遊び半分で仕事をやっているのだろうか。わけがわからないはずがないだろう。君は遊びと仕事を区別していて、そのどちらでもないこともやっているのではないか。それはなんなのか。さらにわけがわからなくなってしまうだけか。それで何がわかるのだろう。何もなければ何もないということだ。その逆に何かがあればそこから言葉が連なってしまうということか。それでいいのだろうか。何を迷っているのか。迷っていることが肝心なのかも知れず、迷い続けているからこそ、それらの文章が成り立っているのかも知れない。


2月10日

 何を否定しているのだろうか。つまらぬことを述べている。ただそれだけのことのようだ。それで何を述べているわけではない。話はそれだけではないのだろう。では何を推測できるだろうか。話のネタには事欠かない。それは誰の話なのだろう。テレビでは中東情勢が話し合われている。事をこじらせている当事者には言い分があるらしいが、それで何が解決するわけではない。解決不可能な問題について議論したいらしい。答えはすでに出ているのにそれを認めようとしないだけか。民族的・宗教的な利害関係を追求している限り何も解決しないだろうが、そんなことははじめからわかっていることか。だからそれはつまらない意地の張り合いになるしかない。要するに殺し合いだ。現状ではどうしようもないだろう。冗談でなら解決手段はいくらでもある。それをこれから述べようとしているわけか。何を述べていいのかわからない。何も思いつかないか。地道な努力が実を結ぶだろうか。みんな死んでしまえばいい。それが冗談の断片かも知れない。人がいなくなれば問題も解決するだろう。しかし地道な努力とは何なのか。君にその努力が可能なのか。地域の産業振興はいずれ行き詰まる。話し合いには意味があるだろうか。少なくとも時間稼ぎにはなりそうだ。ならば未来永劫話し合っていればいいだろう。それがもっとも現実的な解決手段になるだろうか。話し合うことは分かり合おうとする努力に他ならない。要するに生ぬるいやり方なのかも知れないが、それしかないだろう。しかしそれも冗談のたぐいかも知れない。君は他人を笑わせなければならないのか。そんな内容で誰が笑うのか。笑いたければ笑うがいい。他人を笑う者は自分が笑われるだろうか。そうでなければ釣り合いがとれないか。その辺で気分がおかしくなるようだ。車酔いのたぐいか。さっきまで何を考えていたのか。ついさっきの記憶がないわけがないだろう。ひたすら眠気をやり過ごす。とりあえず誰かが何かを述べなければならないのだろうが、何を述べても無駄だと思いこんでいるふしもありそうだ。そういう言葉遣いはわざとらしいか。良心を宿している人は誰でも争いごとをやめさせようとするだろうか。そうありたいと願うのは誰なのか。君にはなんのことやらわからない。争っている当事者が双方とも武装解除すれば死傷者が出ずに済むことは確かだが、現状ではそんなことができるはずもなく、それを実行させる見通しは立っていない。何らかの見返りが必要なのだろう。そしてその見返りがもたらされることを当事者に信じさせなければならない。そんなことは無理に決まっているか。たとえば非暴力無抵抗運動でも起こせば、それに同調する者たちが出てくるだろうか。誰がそんなことをやらなければならないのか。当事者でもないのに、部外者にそんなことをやらせる権限などありはしないだろう。この世界にはくだらぬ争いごとは充ち満ちている。それがこの世界の現状なのだから仕方がないでは済まぬほどくだらない。功利主義がそれを助長しているきらいもあるが、それをなくすことはできない。人は絶えず自らが挑みかかる対象を欲している。他人を挑発したいのであり、何かに挑戦することが目標となってしまうわけだ。たぶん幸福を追い求めれば、赤の他人を不幸にしてしまい、不幸になってしまった者はそこからはい上がらなければならなくなり、自らを不幸にしている障害を取り除くべく、それに挑みかからなければならない。要するにそれはくだらぬ生存競争のたぐいなのだろう。それに気づかぬ者が多すぎるか。馬鹿なことをやりすぎているのだろう。しかしその馬鹿なことをやめてしまったら生き甲斐がなくなってしまうのではないか。だからそんな風にして動物的な生存競争が繰り広げられるしかないだろう。何かを追求するとはそういうことでしかない。その追求の一つが民族的・宗教的な殺し合いなのだから呆れてしまうか。自爆している当人たちはそれで本望なのだろうから救いようがない。他者に対する憎しみとはそういうものなのか。程度の差こそあれ、そこに何かを補ってやらなければならないようだ。君には無関心が必要なのだろうか。それが間違っていることは明らかだが、愛することと憎むことは表裏一体であり、両者とも感情の対象を傷つけようと挑みかかってくることは確かなようだ。時としてそれは無謀な試みになるらしく、他人を罵ったり殺傷したり、殺傷した者が死刑なることを望んだりして、感情の行き場は予定調和の出口を求めて突き進むしかないようだ。それはやられたらやり返せという古来から連綿と受け継がれている暴力の応酬なのだろう。君はそんな成り行きに満足しなければならないのか。そんなはずがないと反論したければ、何か他の出口を提示してみればいいではないか。それができなければ、傍観者としてそれらの醜い光景を黙って眺めていればいいか。君にそれができるはずがない。君の架空の身体には無関心という間違った態度がこびりついているはずだ。それを否定することはできない。


2月9日

 心は誰かの閉塞感を読み取っているらしい。何かやるべきことがあるのだろうか。今の君に何ができるというのか。過去は変えられず、未来を見通すこともできず、現在は過ぎ去るばかりだ。そんなのは嘘に決まっている。何を信じられないのだろうか。君が語っていることは間違っている。君とは誰だろう。あやふやな回答を期待しているのか。それを信じられるはずがない。それはやっつけ仕事のたぐいか。仕事ではない。遊びでもないはずか。では趣味とは何なのか。趣味でもないとしたらそれは何なのか。胃が痛くなってくるだろうか。なぜそう思うのか。いつものようにまともなことを述べるのが面倒くさいからか。たぶんそれは宿命なのだろう。そうならざるを得ない状況を自ら招いているわけだ。では何をわかりきったことを述べているのだろうか。それが間違いであることを証明したいわけか。君に何ができるのだろう。語ること以外に何をやろうとしているのか。やっているではないか。今日の気分は誰の気分なのだろうか。そういう気分ではない。どういう気分なのかわからない。何やら開き直っているのかも知れず、その開き直り方が独りよがりなのかも知れない。要するにどうでもいいということか。数日後の外は晴れ渡り、何を考えているのかわからない君の気に障るようなことは何もない。君はそこで死んでしまったのだろうか。何も思い浮かばなければすぐに死んだことになってしまってはたまらないか。それも冗談のたぐいかも知れないが、心に余裕などありはしない。心そのものが幻影に覆われていて、他に思考を働かせる余地がない。そんなはずがないか。ではどうなってほしいのか。君に何がわかるというのか。たぶんこの世界の現状に異を唱える立場にないのかも知れず、他人ことまで気にするような心理的な余裕が失われているのかも知れない。君が何を考えなくても世の中は適当に回っている。くだらぬ反感を招くのが煩わしいのなら、もう何も述べなければいいではないか。それができないから苦労が絶えないのではないか。ところでそれも冗談のたぐいか。無駄に言葉を並べている現状がある。君は何をあきらめてしまったのだろうか。あきらめきれないから今があるのではないか。今とは何だろう。そういう自問自答気味の問いかけが意味不明を招いている。何を答えようとしているのか。気分は最低なのだろうか。またそういう気分ではないと述べるつもりか。どんなことにも興味が持てないということは鬱病の徴候らしい。もうだめだと思ってしまうのは重症のようだが、それも冗談のたぐいかも知れず、そんな嘘ばかりついているだけで気分が上向きになってくるわけか。それはちょっと調子がよすぎないか。ならばさらに馬鹿げたことを述べるだけの勇気が君にあるだろうか。君の精神は鬱ではなく躁状態なのではないか。現状を覆っている虚無感の原因を心の病のせいにしても虚しいだけか。精神的なストレスなど精神力で克服できる程度のものか。いくら克服しようと何もないことに変わりはないか。何もなければ何かを買ってくればいいではないか。この世に金で買えない物などありはしない、と述べることで、また誰かの反感でも買って、それをおもしろがっているのはどこの誰なのか。それほどの金持ちでもないはずか。誰が金持ちだと自負できるほどの金持ちなのか。そういう人を探し出して強盗事件でも起こすつもりか。面倒なことは嫌いだ。もちろん本気で述べているわけでもなく、相変わらずくだらぬことを述べ続けている自らに嫌悪感を抱いている。君が本気になればもっとマシなことを述べられるとでも思っているのか。現状ではわからない。何もないのだからその程度のことしか述べられないのではないか。まだ工夫が足りないということか。いきなり工夫が足りないから何も述べられないとなってしまうのはおかしいか。さらに現状のくだらなさに嫌気がさしてくる。もう少しまともなことを述べられないものか。心のどこかに障害が生じているのかも知れない。なぜ心のせいにしてしまうのか。ならば世界がくだらないから君が述べていることもくだらないと主張したいのか。そのどちらでもないような気がしている。また工夫が足りないのでもない。何もかもが馬鹿げているというのも間違っている。たぶんそこから遠ざからなければならないのだろう。この世界にどんな問題が山積しているのではなく、それが問題だと思ってしまう意識の方に問題があるのではないか。それでも不具合を是正しなければらない。ただそれだけでいいのだろうか。それだけのことすらできない場合の方が多いかも知れない。ならばそのまま不具合を放置し続けようとする怠け心を改めなければならない。いつ何時でもそれをやり続けていなければ、この世界から置き去りにされてしまうか。置き去りにされてしまうとは具体的にどんな状況を射すのか。熱帯のジャングルの奥地で生活している人たちのことでも想定しているわけか。ならば普通に暮らしているなら置き去りにさせてくれないのではないか。


2月8日

 気がつけばまた性懲りもなく同じような言葉が並んでいる。たぶん君はやる気がしないのだろう。この世界にはくだらぬことが多すぎるのかも知れない。それとやる気と関係があるのか。何もかもが馬鹿らしいか。そういう投げやりな態度では、いつまで経っても何も成し遂げられない。何を成し遂げようとしているのだろうか。言葉は風に乗ってどこへ届いているのだろう。今は無風状態だ。いつか風が吹くだろう。だからそこから遠ざかる。理由になっていないだろう。なるようになるしかないか。結局はそうならなければならない。そしてそれは違うらしい。無意識のうちにそこで何かを保っている。それを維持しなければならない。要するに気まぐれに気まぐれを利用している。そしてそこから魂が抜け出ている。それは精神ではない。長い道のりだ。もう戻ってこないだろう。戻りたくても戻れない。分解されて散り散りになる。本当に分散している。そういうことだ。誰かがそれを断定している。目指すべき場所は遠いのではなく短いのだ。近いのではない。それはまるで暗号のような言葉の並びになる。誰かが言葉の配置を知っているはずだ。そしてさらなる空隙が予感される。今や誰もがそれを見いだしている。それは見え透いた嘘だろうか。そしてそれを知ろうとする者の邪魔をしている。君はそんなことは興味がない。君は誰になりすましているのか。いったい何を演じているつもりなのだろう。本気になれないのは今に始まったことではない。それを無視しているようだが、それとは何だろう。世界史的課題から遠く離れた場所で何を考えているのだろうか。弊害とは何か。誰が何を達成したいのか。目標もないのにそれを達成できるような気がしてくる。それとは何だろう。それとはこれから達成すべき何かだ。手間がかかりそうだが、これからそれを探さなければならないだろうか。それは冗談に違いない。冗談とは何だろう。冗談でなければ何について言及可能なのだろうか。何について語りたいのだろう。巷で流行っている教育論などというものに言及できるだろうか。くだらないか。では北朝鮮問題についてはどうだろう。それもくだらないか。なぜそれらがくだらないと思われるのか。いつものように理由を見つけられずに、何がくだらないのかわからずじまいとなってしまいそうだが、そんなことをわかる必要はないのかも知れない。君には関係のないことか。しかし君に関係のあることとは何なのか。何も関係がなければ語る意味がないだろう。要するに目指すべき場所とは無の場所か。そんな簡単に結論が導き出されては何も語れなくなってしまうか。何も語れなくなってしまえばいいだろう。誰がどこで何をしようと、それに文句をつける立場にはないらしいが、それでも何か語るとすれば、それは何についての言説になってしまうのか。そこから先がわからない。なぜそんな風に語ってしまうのかわからなくなってきたようだ。別に物事の終わりに導かれているわけでもないはずか。しかし終わらなければ延々と語っている羽目に陥ってしまうだろう。君にそんなことが可能なのか。君が語り続けているのではない。そこで矛盾が生じてしまうようだ。今はいったいいつなのか。もう数日前から何も語っていないはずだが、それらの文字列は何を語っているのか。読んでみればいい。読んでみればそこで何が語られているのかわかるだろう。それをわかってどうするのか。無駄に言葉が費やされていることに憤ってみればいい。それらの文章は君に何をそそのかしているのだろう。それは何らかの悪事になるのだろうか。君はどんな悪巧みを抱いているのか。銀行強盗でもやるつもりか。銀行に預金はしているはずだ。強盗に行くのが面倒くさかったら、自分の口座から金を引き出せばいいだろう。その方がややこしい手間がかからない安全確実な方法か。そんな冗談にはしらけてしまうだろう。たぶん強盗はその手の映画の中で生きているのかも知れない。月明かりに淡い影が佇む。影は何も語らずに消え去ろうとしている。行き先を知らないのか。月は同じ軌道上で動いているだけだ。それは誰の行き先になるのだろう。君に何がわかるだろうか。君にわからないことなどあるのか。君なら何でもお見通しだろうか。だが過大な期待はすぐに裏切られるだけだ。空間的な狭まりと時間的な遅れの狭間に、誰かの影が差し挟まれようとしているらしく、その影について君はいつまでも語ろうとするが、それはありもしない幻影を追い求めているに過ぎず、いつまで経っても君はそれに気づこうとしない。それでもだいぶまともなことを述べているではないか。調子に乗ってきた証拠か。調子づいて階段を踏み外し、怪我を負ったのはいつのことになるのやら、これから話す物語について何か知っていることを述べられないか。たぶんそういう話ではないのだろう。何も語らずに言葉だけを先行させ、結局はわけのわからない無駄話の内容になってしまうことについて、怪訝な顔つきを絶やさないだけか。今回はそれでおしまいなのだろうか。


2月7日

 まだわからないようだ。それは人間の心ではない。心の話をしているわけでもない。どうやら君には冗談が通じないらしい。それの何が冗談なのか理解できないようだ。冗談の話をしているわけでもないのだろう。では何の話をしているつもりなのか。またいつもの回り道を経巡りながら、それが何かの迷路だと勘違いしている。たぶんそれはいいわけか何かのたぐいなのだろう。何かとは何なのか。それがわかればややこしくなくなるだろうか。まったく冗談では済まなくなってしまうかも知れないが、さらに遅れてしまうことが確定的となったからには、この際わかっていることとわかっていないことをより分けて、文章の内容を少し整理整頓してみないか。述べていることのわけがわからない。だからそんなわけのわからない提案はすぐに却下されてしまうだろう。誰が提案しているのかわからないが、それを誰が却下するというのか。述べていることが安易すぎないか。安易すぎるからわけがわからなくなってしまうのか。それで悩んでいるのかも知れない。また誰が悩んでいるのかわからなくなる。そんなわけでもはや間に合わせの君という言葉さえ使うのが億劫になってしまったのだろうか。架空の君の他に誰がいるのか。何を知りたいわけでもないのに、他に何もないことを誰が呪っているのか。呪いという言葉が出現する理由がわからないか。他に何もないわけではないが、まあそれを理解するのは無理だろう。理解できないから行き詰まっている。何もなければ何も語れないか。そういう仮定は間違っている。それでも何かあるはずか。それが間違っているとしても、君は何を呪っているのか。何を呪いたいのか。たぶんそれが冗談のたぐいなのかも知れないが、自らの置かれた境遇がどうかしたのか。心の中の何がそれを求めているのだろう。それはどんな立場なのか。君は誰の立場を代弁しているのか。架空の演劇空間から何かが導き出されて、ドラマチックな話の展開でも導き出したいのだろうか。理想とは何だろう。ただの言葉の羅列では叶わぬ状態かも知れないが、それの何が空間なのだろう。何もなければそれは真空かも知れない。虚無とは真空の力を担った存在かも知れない。だがそれを承知してみたところで、そこから何が導き出されるのか。意味のない話だ。意識がただの文字列に過剰反応しているだけか。誰の神経が過敏なのだろうか。過敏なのではなく、神経がすり減っていて、鈍感になってしまったのではないか。それがどうしたのか。どうもしなければ鈍感になってしまったということかも知れない。それで何がどうなってしまったのだろうか。今回はくだらぬ問いかけのオンパレードのようだが、感情はどこへ向かって何を訴えかけているのか。誰かは何がわかっていないのだろう。わかっていないのは君の方だ。それはいつでもそうだろう。何を問いかけようと、そこで何が導き出されているわけでもない。導き出されるのはくだらぬ文字列だけか。しかし言葉以外に何があるのだろうか。言葉を記しているのだから、くだらぬ感情も言葉に宿っているはずか。そう願いたいものだ。何がどうなることを願っているのだろう。この世にはすべてがあるが、そのすべてを超えるものがどこにあるのか。なぜそんなものをほしがるのか。くだらぬ妄想に心を支配されている。何もないのに妄想はないだろう。そういう前提が間違っているのではないか。君はそこですでに過ちを犯している。現にまだ何も語っていないではないか。虚無の存在を過小評価している。何もないことはそれだけで空疎な虚無の支配を受け入れている証拠か。何もないことがそれを物語っている。そんなことを信じられるはずがない。そこで何が支配されているというのか。空間は何の支配も受けつけないはずか。その代わりに心は何の支配も受け入れる。面倒くさいから誰かの心は自らを取り巻く虚無に支配されていることにしておこう。それもわけがわからないことの一つでしかないが、それでうまく文章がまとまる保証でも得たいのだろうか。それでもわけがわからないという思いは残るはずか。そうなる理由を知りたいところだが、どうもそれはいつもの口からでまかせに違いない。それは誰の口なのか。架空の口でしかなく、それは口という言葉であり、口という文字に過ぎない。まさか口という言葉から何もないことを打開する突破口を見いだそうとしているわけでもあるまい。それでは何を述べていることにもならないか。それでかまわないのなら仕方がない。何かが崩れている。思考が時間に追いつけなくなっている。その必要性を感じないのだから、それでかまわないのではないか。君に何ができるというのか。言葉を連ねているのは誰なのか。眠気に負けて明日に持ち越しのようだ。確かに何もないのだから何も述べられない。それが君のすべてのようだ。君にすべてが宿っているわけがないか。この世界の存在ではない君が、この世界について何を述べても無駄か。そういう話ではないはずだ。それも面倒なことでしかないのだろう。


2月6日

 まだそんなところでうろついているのか。君は野良猫のたぐいか。野良犬だってカラスだって生ゴミを漁るはずか。そういう話ではないだろう。どこで誰がうろついているわけではなく、ただそんなことを述べてみたかっただけか。では誰がそんなことを述べてみたかったのか。誰が述べてみたかったわけではなく、ただそんなことを述べてみたかっただけか。要するに誰もそんなことを述べてみたかったわけではなく、そんな文章が自然に生じてしまったらしい。そんな嘘をついてどうするのか。どうもしはしない。少なくともどうかしているだろう。そういう話ではない。今は本気になる必要性を感じない。愚かなままでもかまわないのかも知れず、賢くなる必要性を感じない。誰かがそんなことを述べていたようだが、今述べているのは誰なのか。なぜ誰が述べているかにこだわる必要があるのか。そんな必要性を感じないか。今は自然に言葉が積み重なるのを待つしかない。事の善し悪しは関係なく、今はそれを認めなければならない。自らが抱いた認識を肯定してみよう。しかしどんな認識を抱いているのだろうか。この世界は終わりに近づいている。少なくとも世界の始まりに近づいているわけではない。始原の記憶はすでに忘れ去られたはずだ。誰がそれを覚えているのか。神は今でも自らが始まったときのことを覚えているだろうか。そこから何を導き出したいのか。記憶はどこまで遡れるものなのか。それは誰の記憶なのか。なぜ誰かの記憶にこだわらなければならないのか。君は自分がいかなる存在なのかを知りたいようで、さっきからしきりにそれを知ろうとしている。何を試みるのも君の自由だが、君は自由に嫌われているのかも知れない。それは君が不自由な存在だからか。君の何が不自由なのだろう。誰がそれを知ることができるのか。少なくともそれは君ではないようだ。君はそれを知ることができない。そうではどうしてなのか。君その理由を思いつけない。それは思いつこうとしているのが君ではないからか。君とは別の意識がそれを思いつこうとしているようだが、それは誰なのだろうか。君には私という言葉が思い浮かばないのか。私はどこへ行ってしまったのだろう。なし崩し的にそんな結論に近づこうとしているようだが、そんな結論とはどんな結論なのか。結論を言葉で示すことが君に課せられた使命なのか。そういう話ではないだろう。どういう話でもなく、そういう話でもなければ、それはどんな話なのだろう。やはりどんな話でもないということか。馬鹿げているように思えるが、それは話ではなく言葉の連なりなのかも知れない。ならばそれがそこで求められている結論なのか。結論はそれとは別のところにあり、それは永遠に明かされぬ秘密のたぐいかも知れず、君はその秘密を知ろうとしてはいけないのかも知れない。それはまるでとってつけたようなでたらめ話だ。だがその不自然さがそれらの文章の魅力なのではないか。唐突に何を述べているのだろう。勘違いも甚だしいか。君はわかっていることを述べていない。それはわざとそうしているに違いないが、なぜそうしているのか。はたしてそれの何が気に入らないのか。それに反して何がどうなってほしいのか。何となく話す順序が逆なような気がする。必要なのは語る上での理由付けではなく、動機がないのに語っているそのでたらめな感覚に忠実であらねばならないということか。それこそがでたらめそのものだ。なぜそう述べてしまうのだろう。取り立てて何を主張したいわけでもないからか。しかしそれの何もかもが馬鹿げているとは思えない。少しは肯定すべき内容もあるはずか。君はそれの何を肯定したいのか。それが文章として構成できていることでも肯定しておけば、事足りるだろうか。それは嘘偽りのたぐいかも知れない。本気でそう思っているわけではなく、いくら間違っていようと、勘違いを犯していようとかまわない、とさえ思っているのではないか。だから簡単に自らの存在を否定できる。君はこの世に存在できぬ存在だ。その存在は不在としてしか認識され得ない。生身の肉体に宿らずに、言葉として示されるだけの君は、現実の世界には存在し得ない幻影のたぐいか。それがまともな認識だと思っているのだろうか。誰がそう思っているのだろう。なぜこの世に存在し得ない君が、世界の終わりが近づいていると感じられてしまうのか。終わりが近づいているのは世界ではなく、君という言葉の有効期限の方ではないか。君はすでに賞味期限切れも甚だしい存在か。存在ではなく不在としてしか示されない。しかし不在とは何だろう。単にそこにはいないということだろうか。すでにそこには存在していないのに、ひたすら君という言葉を使って文章が構成されようとしている。それは欺瞞も甚だしい。早くそんな嘘はやめにしないか。やめられないから君の幻影がつきまとう。いったい私はどこへ行ってしまったのだろう。なぜ私は自らの存在を主張しようとしないのか。不在の君をひたすら記し続けるのはなぜなのか。


2月5日

 そんなはずがあるわけがない。風の強い日に何を思うでもなく、深呼吸の合間に、わけのわからない文字列に突き当たる。気まぐれに何を述べているのか。それに気づいたときにはもう遅いだろう。何かの機会を逸してしまったらしいが、そこで何をやるべきだったのか。それについて何か適当なことを述べる必要があったらしい。そこからどんな文章を構成するにしても、その出来映えが問題だ。しかし肝心なのは文章の出来映えではなく、そこで何が述べられているかだ。冗談だけで事足りるはずもなく、彼は何に満足しているのか。誰かは偶然の成り行きに振り回されている。結果をもたらせないことに焦りを感じている。結果とは何だろう。そこから何かが押し出されようとしている。過去において力ずくで封じ込められていたものが、押さえつけている力の衰えに気づき始めているようだ。それらの感情は何をひがんでいるのだろうか。それは君の邪推ではないか。またあてのない推量が思考の邪魔をする。誰もが目先の利益を追い求めて、くだらぬ誘惑に踊らされている。君もそうなのではないか。自らがやっていることを成功へ導きたいのではないか。成功の鍵とは何だろう。誰かの成功にあやかったハウツー本でも読んでみればわかるだろう。そこには他人を押しのけようとする力が誰にみなぎっているのか。そこから逃げてはいけないらしい。変に格好をつけようとしたり、スマートなやり方に固執してはいけないか。時には泥臭くねちっこく根気強く執拗にそれを繰り返すしか道はないのだろうか。そんな根性がどこから生じてくるのだろう。まったく本気になれないのは致命的か。現実が誇張されてフィクションになるらしいが、それをどう解釈すればいいのか。できるものなら適当にいい加減な解釈でも披露してほしい。君は本気で語っているのでないことはわかっている。そのとき外部から声が聞こえてくる。己を貫き通す者は愚かだ。あらゆる主張には必ず妥協が伴う。それは理論や原理ではない。今こそなぜそれを求めないのか。脈絡をまったく感じられない文字列に思われる。だがそれをやらなければ、そこから一歩も外へ踏み出せない。また外部から声が聞こえてくる。もうやめた方がいいだろう。それは山びこの一種か。心の内部で何が響いているのか。君自身が語っているのではなく、他の誰が語っているのでもない。語るのが面倒なのか。嫌気と眠気でやる気を失うが、それは昨晩のことだ。そこにはあらゆる出来事があり、ありとあらゆる嘘もある。それらの嘘は誰を脅かすのだろう。それとは無関係に君は適当に嘘をついている。無意識のうちにそんなことを述べている。それで何を語れるはずもないと思うが、一方で何も語れなくてもかまわないと思っている。そんな嘘が本当の嘘としてどこで流通しているのだろうか。そういうわけのわからない述べ方が気に入らないらしい。本気でないのだから仕方のないことか。そういういいわけはみっともないか。どこの誰が恥知らずな行為に出ているのか。また話を逸らそうとしている。偽りの中に誰の真意が宿っているわけもなく、形式的な言い回しの中に、表面的な外交辞令の痕跡を見いだせる。それはお世辞のたぐいかも知れない。君はいつから新進気鋭の論客となったのだろう。ニュースキャスターの隣に座っている一言おじさんとどこが違うのか。そういう非難が誰に当てはまるのかわからないが、何となく思い当たる節がありそうな者は山ほどいそうな気はする。誰かが監視塔から辺り一面の光景を眺めているらしいが、どうやってそこから抜け出すことができるのだろうか。この世界の外側にたどり着くことは不可能なのか。何をどうしようと監視の目から逃れることはできないようだが、実際に誰が監視されているかを明らかにしないのはなぜだろう。誰がそれを明らかにする必要があるのか。そういう言葉の運びはお手の物か。何を得意がろうとそれは紋切り型に違いない。どうしてそんなやり方で調子に乗ってしまうのか。どこの誰がお調子者カテゴリーに入るのか。君でなくて誰が想定されているのだろう。君は想定外ではなく予想外だと強弁したいらしい。それで何がわかるのだろうか。何をわかろうとしてそんなことを述べてしまうのか。そういう話ではないだろう。君は過去を忘れたいのか。それも違うと思う。しかしそれでへりくだって何かを述べているつもりなのか。自分を卑下する一方で、どこの誰を敬っているのだろうか。誰に対してそれらの言葉を発しているのだろう。君は何を求めているのかと問うことは、話を振り出しに戻すことになるだろうか。それでもかまわないと思うなら、さらに同じような問いを繰り返すしかない。それで気が済むはずもないが、何も問いかけないのよりはいくらかマシだと思っているのかも知れないが、やはりそこには虚しさの他に見いだされるものはないはずか。なおもそれでもかまわないと述べることしかできない。この頃は毎日が切羽詰まっているのかも知れない。それも嘘だと強弁するつもりか。


2月4日

 いつでも苦難を経験し続けているように思われ、知らず知らずのうちに生物的な生存競争に巻き込まれているような気がする。だからどうでもいいような気休めが必要となってくるわけか。時には夢を追い求め、幻想にすがりつき、そんな情けない側面がないと生き延びられないのだろうか。だが生きることだけではなく、死ぬことも幻想のたぐいなのではないか。そんな反論は荒唐無稽か。常識の水準を逸脱しているか。意識は世間的な見解から外れようとしているらしいが、それでは安らぎに至れないだろう。安らぎとは何だろう。取り立てて何を求めているのでもないと嘘をつきながらも、最終的には涅槃の境地にでもたどり着きたいわけか。別にそれを否定する理由は見当たらない。しかし過去から連綿と続く成り行きが、君をそれとは違う境地に至らそうとしているように思わせる。本当のところはどうかわからない。過去に何があったのだろうか。過去の何を思い出そうとしているわけではなく、実際に何も思い浮かばずに首をかしげている現状がある。それではおかしいか。さっきから何をそんなに否定しているのか。何をそんなに否定しているわけではない。そんなという言葉が指し示す対象が不在なのではないか。ならばそれを肯定してどうするのか。肯定するに足る理由を見つけられない。何を肯定しようとしているのかわからないだろう。わからなければどうするのだろう。くだらぬ状況に陥ってしまったことの申し開きが必要となってくるわけか。では眠気覚ましに何かくだらぬいいわけでも述べてみないか。誰にそれを提案しているのだろう。それで目が覚めるとは思えない。すでに君は永眠しているのではないか。そんな現状を死人の君はどう評価すればいいのかわからない。わざと話を矛盾させている。そしてそんな語り方に嫌悪感を抱いているのかも知れないが、実際にはそこまでたどり着かないうちに、そこで何を語っていたのか忘れてしまう。何を忘れてしまったのか。君は忘れてしまってから何を忘れたのかを確認しようとしているわけか。それでは見え透いた嘘になってしまうだろう。過去に思い出されたそれは妄想のたぐいだったかも知れないが、ついに何が起こってしまったのだろうか。それは何らかの事件だったのだろうか。それ以上語ることは不可能で、思考力の限界を超えているだろうか。それほど大それたことではなく、限界を超えているとは思えない。他に何を思っているわけでもなく、そんな風に述べていること自体を否定したいだけか。それは誰の言動になるのだろう。言動ではなく、ただの文字列に過ぎない。君に作り話はもたらせない。そこまで本気になれるわけにはいかないのだろうか。ならばそこで何を説明しなければならないのか。取り立てて何を表明しているとも思えない。たぶん些細で単純なことなのだろう。誰かが何かを通して命の大切さを教えたいそうだが、この世に大切でない物事があるだろうか。大切でないものはないがしろにしてかまわないのだろうか。大切さには優先順位があって、一番大切なものが他の何に対しても最優先されるべきなのだろうか。そういう考え方にはついて行けないものがある。たぶん君は物事の本質を見極めたいのだろうが、それは虚しい試みとなるだろう。まるで物事は枝葉末節からなっているように思われてしまう。しかもその枝葉末節は大切なものではない。どうでもいいような物事であり、単なる偶然の産物に過ぎないわけだ。だがそんなものが君の行く末を決定してしまう。君はくだらぬ物事にかかわることによって生かされ、そしていつか死んでしまうわけか。大切なものはいつでもなおざりにされ、誰からも見向きもされないだろう。だからいくら命の大切さを訴えかけようと、そんなものはどうでもいいような成り行きによって押し流され、いつの間にか忘れ去られてしまうわけだ。そして気がつけばごく普通の人間がどうでもいいようなことにこだわりを捨てきれずに、場合によっては凄惨な事件の犯人に仕立て上げられてしまう。運転中に音楽プレーヤーを操作しているうちに、幼稚園児を四人もひき殺してしまうような事態に陥ってしまうわけか。偶然の巡り合わせが違っていたとしたら、どこかの家の外壁をこすって修理代が数十万円かかった程度の、笑い話のたぐいにもなり得たことだったかも知れないが、たまたま子供をひき殺してしまったことで、恐ろしいほどの罪悪感にさいなまれ、一生を棒に振ってしまうわけだ。しかしそんな事件からどんな教訓を導き出せるのだろう。そしてその教訓が生かされてしまったりするときもあるのだろうか。たぶんそんなことはどうでもいい些細なことでしかないのではないか。そして些細なことはすぐに忘れられてしまい、またいつか同じような事件が起こったときに、思い出されることもあるだろうが、それがどうしたわけでもなく、やはりその時点においてもそんなことはどうでもいいような物事でしかない。そしてそんなどうでもいいことが人々の行く末を左右してしまう。


2月3日

 テレビが映し出す光景に見とれているうちに、言葉を連ねるきっかけを逃してしまう。取り立てて何に腹を立てているわけでもなく、面倒くさいので目先の利害を無視しながらも、他に何を見過ごしているのかわからなくなる。意識は何を考えているわけでもなく、無意識を感じ取れなくなっているようだ。夜になってから数時間が経過していることは確かなようだが、まだ夜明けに近い時間帯ではない。あれから君は何をしていたのだろう。他人の行いを馬鹿にしていたわけでもあるまい。他に批判したいのでもない。他が何もないのかも知れず、批判すべき事柄に巡り会えない。それは特定の事象に遭遇していないからか。どんな体験を望んでいるのか。何について語りたいのか。そんなことを述べて何になるのだろう。それでどこから逃げているつもりになれるだろうか。なぜそこから逃げようとするのか。現実から目を背けているように感じられる。逃げおおせられるわけがない。どこまで行ってもそれは違うと思う。行き先が定かでない。しかしまだ数歩しか進んでいない段階で何がわかるというのか。歩幅と歩数で行き先を特定できるだろうか。それは誰の行き先でもない。結局君はどこへも行けないだろう。生きていること自体が不思議だ。しかしそんな状況の中で誰が哀れみを求めているのだろう。何を懇願しているわけでもない。いくら逃げても、現実から逃げられるはずがないが、それはさっき述べたことか。もう済んでしまったことだ。何が済んだことになっているのか。君は逃げるのをあきらめてしまったのだろうか。何に失敗し続けているのだろう。その失敗について反省すべき点が何も見当たらないのはどういうことなのか。今さら何を省みても無駄か。無駄ではないと思っているから、そうやって何かしら語っているのではないか。だが語っている内容が興味の対象外だ。興味とは何だろう。少なくとも今は血湧き肉躍るような状況ではない。何と対峙しているわけでもなく、マンガやゲームのように、そう都合よく倒すべき敵が目の前に現れるわけがないだろう。批判の矛先には何もない。君の心はその手の娯楽に毒されている。だが話はそう単純ではない。昔は何かしら批判の対象を探していたはずだが、今は何を批判しても無駄だと悟ってしまったようだ。だから何も述べられなくなってしまったのか。何について述べたらいいのかわからなくなってしまっている。いったいこの世界はどうなってしまったのか。どうにかなってしまったのはこの世界ではなく、それについて語ろうとしている誰かの意識の方かも知れず、どうにかなってしまったついでに、無駄なことをひたすら述べ続けている現実がある。それがどうにかなってしまったことの主な内容なのだろうか。そこまで述べてしまうと、もはや冗談に逃げるわけにもいかないか。そんな曲に感動しても意味がない。曲の話をしているわけではない。気がつけば目の前の空間が湾曲している。それはどういうことだろう。どういうことでもなく、視界がどうにかなってしまっただけか。本気になれないのはいつものことだ。それでも現実から遠ざかるわけにはいかないらしく、ひたすら現実のただ中で現実の光景を眺め続けている。それはすでにフィクションを超えているかも知れない。君が語ろうとしていたのはどんなフィクションなのか。何か適当な作り話でも思いついたのだろうか。とりあえずそんな状況から抜け出たい。抜け出られなければ、そこにとどまっていてもかまわないが、なぜとどまろうとしているのか理解できないような状況であることは確かなようだ。それを空虚だとか虚無だとか述べても、何を語っていることにもならないが、今はいつの夜になるのだろうか。まだ時間切れには間があるのだろうか。そういうことを心配しているのではないが、何が杞憂に終わろうとしているのか。何も話していないのに、なぜ唐突に話の内容が飛んでしまうのか。語っていることがつまらないからか。その方がさらにつまらないのではないか。つまらないからおもしろくしようとしてしまい、それが取り返しのつかない過ちを誘発してしまう。要するにくだらないことを語っていることに気づかなくなってしまうわけだ。そしてそんなことを述べている自らを正当化したくなり、現に君は自らがやってきたことの辻褄合わせをしようとしている。辻褄が合うわけがないだろう。さらにわけがわからなくなるのがオチか。今までに何をどのように述べていようと、その言動のことごとくは意味不明だったが、行動には一貫性を見いだせずにはいられない。何とか自らを言葉によって救いたいのか。そして何らかの報いを期待しているのかも知れず、要するに何苦労することなく、それらの苦難を切り抜けたいわけだが、それでは苦難にならないだろう。それがうまくいったとして、何を切り抜けたことになるのだろうか。何を述べても苦し紛れの感をぬぐえず、それを今から思いつかなければならなくなる。それはどういうことなのか。何かの悪い冗談か。何でもかんでも冗談になるわけもなく、現状では何も冗談だとは見なせない。しかし冗談を否定してどうするのか。どうもしはしないか。


2月2日

 なぜそこで架空の会話が途切れてしまうのか。意味深な文字列の途中から何かが割り込んでくる。そういう話ではない。何かが遮られているらしいが、それでも正気を保っているつもりらしい。力を使い果たしてしまったのかも知れない。もうすぐ夜が明ける。風の強い日が始まろうとしている。昼に砂混じりの強風に煽られ、夕闇が迫る頃には手がかじかんでくる。また空白の時を過ごしてしまったらしい。その時間帯においては物思いに耽っていたようだが、あてのない推論に何を託しているのだろう。たぶんそれは違う。面倒くさいので誰かの予想が覆される。どうということはない予想だったのだろうが、何がどうなることを予想していたのか。そんなことまで考えていなかったのではないか。君の予想が覆されることを予想していた。それが苦し紛れの申し開きだった。見込み違いとはそういうことか。そういう中身のない言葉遊びには飽きている。では心の病にはそれ相応の治療が必要か。誰が病を患っているのか。治療して直る見込みがあるのだろうか。気が狂った君をどこへ入院させようとしているのか。それは遙か過去か遙か未来の話になるだろう。意識はまだ正気の範囲内に存在していると思っている。そして誰かはまた嘘をついているようだ。それで窮地を脱したとは到底思えない。さらに意味の希薄な言葉の連なりになろうとしている。さっきからうるさいようだが、窓辺で誰が叫んでいるのか。犬の遠吠えが聞こえてくる。耳を澄ませば通りを行き交う車の音も聞こえてくるだろう。そういう話ではなかったはずだが、話の成り行きに目的などありはしない。どうしてそれを否定できるだろう。君はどうなることを避けているのか。それは避けようのない成り行きなのか。たぶんいついかなる時でも困難に立ち向かわなければならないのだろう。たとえ潮目が変わって、楽な成り行きになったとしても、きつくなったときのことを思い起こさなければなない。ぬるい気持ちでいると、いざというときに対処できなくなる。しかしそんな心配を誰がしているのか。杞憂に終わればそれでかまわない。ところで君は何を予想していたのか。そして予想が外れてどうなったのか。君は前もって自らの死を予言していたはずだ。その時期はいつだったのか。そんな話は未だかつて聞いたことがない。どうせまた嘘をついているのだろう。君には感情が欠けている。外では人々が誰かの暴力に酔いしれている。君は何に見とれているのか。何かに見とれている間に時間が去ってゆく。そして君は困った状況に追い込まれる。何もかたり得ないままに明日になってしまうだろう。それが君の能力だ。自分を追い込んで絶望を引き出す。その絶望から何を生じさせようとしているのか。それはおかしいと思う。終わりはいつも決まって心落ち着かせる。たぶんそれが安心させるのだろう。物事に終わりがあること実感させる。なぜそこで終わらないのだろう。終わり得ない状況にあるらしい。言葉の連なりが終わりまでたどり着けないのだ。だからいつまでも続いてしまうわけか。そんないいわけが通用するだろうか。通用しなければどうするのだろう。そのまま続けるしかないというわけか。まったくさらにわけのわからない無内容になりつつある。言葉遣いがおかしいことはわかっている。何を興奮しているのか。誰のことを述べているのだろうか。何も思いつかない君にわかるはずがない。わかろうとしていないのだから仕方がない。君にわからせる必要性を感じられないか。何をわからせなければならないのだろう。そんなことをわかる必要もないか。ならば何をどうすればいいのだろうか。何をどうする必要もないのかも知れない。それについてどのように語ろうと意味不明か。意味不明なのではなく、君はそれについて何も語っていないのではないか。この期に及んで何を語れるというのか。完全に常軌を逸しているような気がする。それでも人々には何らかの闘争が必要なのだろうか。何かを競い合わなければ生きていけないようだ。それが生きるための目的と化している場合が多い。多くの人が集まれば、その中で競い合いが生じ、互いに切磋琢磨することがそこに参加する者たちの目的となる。要するにそれは生存競争の一種なのだろうが、そんなことをやり続けながらも、表向きは共存共栄を望んでいるわけだ。君は誰が傷つくことを望んでいるのだろう。何がどうなれば気が済むのだろう。その辺に理解不能な感情が潜んでいる。何がどうなってほしくもないのかも知れない。今のままでもかまわないということか。そういうことではなく、今のままになるはずがなく、今は常に過去に過ぎ去ろうとしている時間でしかない。では過ぎ去った今について何か気がかりなことでもあるわけか。何か過去の話でも思い出したのだろうか。いったい何を思いだしたことにすればいいのだろうか。実感としては何も思い出していない。今さら何をためらっているのだろう。何を語るつもりだったのか。何も語り得ないことを思い出してしまったのかも知れない。


2月1日

 人は山に登る。君は何を望んでいるのだろう。なぜその場で否定しなかったのか。何を否定しなかったのだろうか。否定すべき状況ではない。では何を肯定したのか。自らが死にゆく存在であることか。それが冗談だとは思えないが、案外冗談ではないのかも知れない。しかし君は自らについて何も語っていないではないか。自らとは誰にとっての自らなのか。そんなとぼけたことを述べても無駄だ。何とか自らに覆い被さっている死を払いのけたいのだろうが、それは無理というものだ。その手のフィクションの中では誰もが簡単に死の影に染まってしまう。全身を黒く塗りつぶされ、心臓を摘出される運命におびえ続ける。わけがわからないだろうか。わざとそうしているのだから、それは当然の成り行きか。たぶんそれで奇をてらっているつもりなのだ。君はそれで何を招いているのだろうか。空疎な言葉の連なりは何も答えてくれない。意識はまるで反応を示さない。それは君の言葉ではない。過去に君が繰り出した言葉は、すでに廃棄済みだ。誰からそれを求められているわけでもなく、それは自発的な行為なのかも知れないが、あまりそれを真に受けて過剰反応してもらっても困る。それに対するどのような反応も期待していない。ところで山に登った人は、それからどうなったのだろうか。降りてこられずに下山途中で死んでしまったのか。誰もがK2に登ろうとしているわけでもないか。登れない山がK2で、下山途中で死んでしまうのはエベレストだろう。そんな話を聞いたことがある。それがどうしたのか。今の君には関係のないことだろう。もちろん以前の君にも関係のないことかも知れないが、将来の君には何か関係があるのだろうか。そのときになってみればわかることだが、そのときがこないかも知れない。なぜ未来が見えてこないのか。何を見ようとしているのでもないからか。言葉は君をすり抜ける。目の前を通り過ぎ、振り返れば自分の影の他は何もない。誰がそこで振り向いているのか。そのとき君は何を目指していたのか。目的は何だったのか。少なくとも山登りが目的ではなかったはずだ。誰が冬山で遭難していたのだろう。過去のニュースは忘れている。それらの出来事は君とは無関係か。闇雲に辺りをうろついているわけではなく、何か目的があってその場所へ出向いたはずだった。君はそこで何をしていたのだろう。死にゆく人々の列に君の姿を確認できないのはどういうことか。それは君が見た夢ではなかったからか。降りしきる雹に打たれ、傘に穴が開き、頭から血を流し、そんな妄想を打ち砕くような自然現象に遭遇してみたくなるが、それは君が望んでいることではない。君には霊が取り憑いている。誰かの抱いた妄想の中に君の実体が潜んでいるらしい。それで何の説明になるのか。否定している当のものが、それらの文章なのだから仕方がない。それでも君は死んでしまうのだろうか。虚無からの司令を待って、君は行動に移る。さい先の良い幸運が君の心を和ませるはずだ。相変わらず何を語っているのでもなく、何について述べているのでもないと思いこみたいようだが、空想の世界では君が死に直面している状況に変わりがない。そこから逃れられないのに逃れようとするのは無意味な行為になるだろうか。なぜ話者は逃れられないと決めつけるのか。では死から逃れられる方法を教えてくれないか。自らの死を弄ぶのはよくない傾向か。自らではなく、死は君に託されているのではないか。君と自らでは何が異なるのだろう。言葉の違い以外にどんな違いを見いだせるのだろう。何を見いだせるわけでもなく、どのようにごまかせるわけでもない。では何をごまかすつもりだったのか。そういう問いかけが不毛であり、それ自体が何らかのごまかしそのものか。何をどう述べてみても、そんな無内容しか導き出せないが、それでいいわけがなく、そんなていたらくではだめだからこそ、そこから苦悩が始まるのではないか。では何を苦悩しているのか。懲りずに同じ手法が繰り返されている。まったく呆れてものもいえないか。それでも何かしら物申している現状があるのではないか。そうやってひたすら単調な言葉が繰り返され、そんな卑劣なやり口の裏側から、投げやりな態度が見え隠れしているようだが、その無気力を利用しながら文章の継続を計っているのも現状そのものであり、そういう現状に対する説明自体が苦し紛れの感を否めないはずだ。背後から虚無の高笑いが聞こえてきそうだが、君はそれによって何に屈していることになるのか。それは屈辱的な心理状態でも醸し出しているわけか。そんな風に感じられる一方で、何か平然と言葉を連ねている意識があるらしく、君がどう思おうが関係ないと主張しているように感じられ、そんな一見強がりに思われる態度が、かろうじてやせ我慢にはつながらないような語調を生み出しているのかも知れず、何をどう思われようと誰の勝手でもなく、どんな先入観をも拒絶するでたらめで意味不明などうでもよさを求めているのかも知れない。ただわけがわからないだけか。