彼の声58

2007年

1月31日

 何かを軽くこなしているようだ。少しくだらぬ問答のしすぎだろうか。人間は機械だろうか。たぶんある種の機械には違いない。人間は人間から作られ、機械も人間から作られるが、機械から人間が作られるだろうか。作られるのだろう。では人間は人間としてどのような発言をすることが可能なのか。人間は発言しないだろう。機械も発言しない。人間も機械も発言するのが面倒くさいのか。君は人間ではなく機械でもない。君はただの言葉だ。わざとらしくまわりくどく述べているように装っている。それは言葉の特性かも知れない。君が述べているのではない。君に何が述べられるだろうか。君はそこから遠ざかりたいらしい。君にはそんなことしかできはしない。文章は君には何も語らせないだろう。当然君について何を述べているのでもない。ただその辺で無駄な言葉が繰り返されるだけか。君は誰かに何を伝えようとしているのだろうか。誰かからどんな応答が返ってくるのを期待しているのか。誰かとは誰なのだろうか。何を予測しているのでもないらしい。どこから返答がもたらされるわけでもなく、機械は何も答えてくれないだろう。人間の見識とはどういうものなのか。機械に何がわかるのか。場合によっては人間以上に高性能かも知れないが、何を心配しているわけでもないだろう。機械に何ができるというのか。機械に雌雄の区別があるだろうか。機械にも動物的な本能があるわけか。馬鹿げた語りはどこまでも続いてゆく。ただ機械的に言葉を繰り出しているようだが、そんな状況を招いているのは誰なのか。君の紋切り型的な台詞にはつきあっていられないか。誰でもないのに機械が何か答えているように思われる。それは誰の代わりに何をやってくれるのか。それとは何のことなのか。そこまでくるのにだいぶ時間を要している。もう待ちくたびれてしまったらしい。疲労の限界を超えている。機械は疲れ知らずか。機械は人間に勝てるだろうか。妄想を抱けるか。面倒くさい仕事はやる気がしないか。目標は別のところにある。君にはそれがわからない。まだ機械について語っていられるだろうか。先が短くなっているかも知れない。テロメアが摩耗しすぎている。はたしてどこまでそれを貫き通せるだろうか。何にこだわっているのだろう。今日中に作業を終わらせたいのか。まあ無理だろう。まだ冗談が足りないようだ。言葉数もかなり足りない。頭の中を整理整頓する必要があるようだ。迷路に慣れすぎているのかも知れない。自らが構成した言葉の迷路に迷ったふりをしている。くだらぬ冗談に過ぎない文章を長引かせている。機械はそれについて何を思うだろう。機械の言い分にも耳を傾けてみた方が良い。何事に対しても公平であるべきだが、そういう嘘はわざとらしすぎるか。また言葉が飛んでいるらしく、成り行きまかせに言いそびれたことを忘れている。君は退屈な文章になるのを嫌っている。しかし眠い。もうその辺であきらめたらどうか。たぶん中には子供を産めない機械もあるのだろう。それはどこの工場に設置されているのか。君に心当たりがあるわけもない。そういう遊びは推奨できない。遊びでは世の中は納得せず、命がけの闘争でなければ、マンガの読者もしらけてしまうだろう。本気にならない争いごとに関心を抱くことはない。心は時代に流され、時の流れに取り残されてしまう。まだそのときのことを覚えているだろうか。君がまだ存在していなかった頃の話だ。だいぶ遠くまで来てしまったらしい。忘れようとしても忘れられない思い出に心を支配されてみたい。その辺で嘘も呆れを通り越している。語るべきことなど探すべきでないのかも知れない。探りを入れているのは誰でもない。つまらない言葉を多用しすぎている。たぶん君ではないのだろう。何を考えているのでもなく、何も考えられないのでもない。どうしてもそこから外へ出られないのだ。そんなわけで挫折している。君をとらえて放さないものから逃れられない。何かが違っているようだが、その違いを認識できず、そこで停滞してしまう。そこから先に言葉を繰り出せなくなる。そして一晩が過ぎ、朝起きてみれば、まだ何も思い浮かばない。気がつけばだいぶくだらぬ内容を続けている。自己嫌悪に陥りながらも、まだそこから続けたいようだが、それでは過ちを継続させるだけだろう。だがそれ以外に方法はない。それが君のやり方なのだろうか。誰のやり方でもなく、誰も何も避けて通れないだけか。もう機械の話には飽きてしまったようだが、機械に何ができるというのか。決められた手順で何かを生産し続ける。そのような動作を人間に応用できないものか。人間がそれを応用して機械を作り、技術革新に繋げているだけか。本末転倒とはこのことか。君はそれをわかろうとしないばかりか、逆に人間の機械的な側面を拡大解釈しようとしている。もう死ぬのではないか。老人なら後先短いのかも知れないが、機械の寿命はメインテナンス次第でいくらでも延ばせそうだ。いったい何を重宝がっているのか。


1月30日

 いくら何を試みてみても、荒れ地には何も生えてこない。ではもう限界に達しているということか。誰がそれを認められるだろう。間違っているのはわかりきっている。今さらその間違いを正しい方向に修正しようとは思わない。しかし目的がないのは致命的な欠陥なのではないだろうか。致命的ならとっくに死んでいるはずか。誰が荒野で餓死しているのか。そんな冗談も冗談として通じないようだ。冗談ではなく、このままでは飢え死にか。誰がそこで死んでしまうのか。そういうフィクションは暗すぎて、晴れた空の下で語ってしまうのは好ましくないので、冗談なら冗談らしく、もっと明るい話題を提供できないものか。それも冗談の続きで述べていることか。未だにそんな水準でいい加減なことを述べ続けるつもりらしいが、今さら弱音を吐いてどうするのか。たぶん無理なんじゃないだろうか。それはおかしな言いぐさだ。無理なのははじめからわかりきっていることではないか。弱音を吐くのも冗談のうちかも知れない。だが何について語っているのかわからない。少なくとも何かについて語っているのかも知れないが、心の中で何らかの葛藤でも生じているのだろうか。それで良いとは到底思えない。だが納得しがたい文章のできなのは毎度のことだ。よくないからよくなるまで続けようとしているのではないか。だがそういうやり方ではよくならないような気がする。ではよくなるためにはどうしたらいいのだろう。それがわかってしまったらたちまちよくなってしまうのではないか。そんなことはあり得ない。それがわからないから試行錯誤を繰り返しているつもりになれるのだろう。実際はどうかわからない。それは惰性で続けていることかも知れず、そう思うたびにやる気を失い、そういうわけで、現状では何となく本気になれないのはわからないでもないが、本音としてよくなろうとしていないのかも知れず、そのままでもかまわないと内心思っているのかも知れない。そうする理由が何も見当たらず、現状に対するどのような解釈も受けつけようとしないようだが、それでも一縷の望み程度の気休めを求めているのかも知れず、それも本気で求めているのでもないところが、救いがたい愚かさを醸し出しているようで、そんな愚かさを利用しながらも、適当に言葉を繰り出している現状がある。それが間に合わせの現状認識となっているのかも知れないが、そんないい加減な解釈で何を述べていることになるのだろう。何を述べていようと、そこまで来てしまったことに変わりない。後戻りはできずに、すでに適当なことを述べ続けている現状のただ中に意識が存在している。その存在を否定しようがなく、逆にそれを否定してどうしようというのか、何の方策も思い浮かばない。その時点でもう手遅れかも知れないが、ならば少しは焦ってみた方がいいのではないか。焦ってどうするのか。焦ろうとする以前に、すでにどうしようもなく焦っているのではないか。この頃はそんなことの繰り返しか。まったく冗談を繰り返し述べている場合ではなく、現状を打開するために少しは本腰を入れて思考を巡らしてみるべきではないか。本気でそう思っているのだろうか。それはいつものようにフィクションの中での話か。そうではなく、現実の世界ではどうなのか。空想や妄想ではもはやどうにもならない段階まで来ている。そして気分転換に気晴らしを多用して、虚無の泥沼にはまりこんでいる。それは嘘だろう。君は何を信じられないのか。現実の世界で暮らしている誰かなら、自ら進んで語り手の役を引き受けるでもなく、虚実の入り交じっている言葉の中にその心身を埋もれさせながら、何らかの枠組みの中でも操られ、そこから先がどうなってしまうのかわかろうとせず、そんなとらえどころのない現状が、わけのわからない文章の中に映し出されていることを信じられず、そういうつもりで言葉を発しているのではないことをひたすら主張し、なかなか自身の行き詰まりを認めようとしないばかりか、どういうつもりでもなく、どのようにもそこから逃れ去る算段をしきりに画策しているつもりのようだが、現状ではますますそれらの状況の中に埋没しつつある自分を認めようとしないらしい。それは現状とは似ても似つかぬフィクションなのかも知れない、と頑なに思い続けているわけだ。要するに君は作り話の中で適当な状況を言葉で構成しているだけか。それこそ冗談でしかないだろう。今やそれほどの心理的余裕はないはずだ。実際には余裕があるとかないとかの話ではなく、ただそういうことを否定したいだけではないのか。しかしそれを否定してどうするのか。何となくわかったようなわからないようなことを述べているうちに終わってしまうだけか。何が終わってしまうのだろう。そのまま間違い続けているうちに終わってしまうということか。終わってしまったらどうするのだろう。それも運命として受け入れなければならないのか。では今から運命を変えるように努力してみようではないか。だがそんな嘘がどこまでも通用するとは思えない。


1月29日

 それについて今さら何を述べても無駄だろう。くだらぬ問答でその場をしのごうと考えるのは浅はか極まりないか。君はその場で唖然とするばかりのようだ。いったい何を問いかけていたのだろう。誰かはその場で述べていることに嫌悪感を抱いているらしい。ならばその続きをやろうとすれば、さらにうんざりさせられることになるだろうか。君はそれを期待しているのかも知れず、行くところまで行かないと気が済まぬ性格かも知れない。しかし言葉の連なりはどこへ向かっているのだろうか。誰かがそれに対して妨害工作でもしているわけか。なぜ急にそういう話の展開へ持って行こうとするのか。話の途中が抜けているのかも知れないが、この際そんなことはどうでもいいことのように思われる。ただ何かを述べていればそれでかまわないのだろうか。もはや答えなど必要ない段階まで来てしまっているわけか。それはどのような段階なのか。何らかの手順を踏んで話を発展させなければならないわけか。発展しているとは到底思えないが、それでもかまわないのだろうか。話の成り行きからすれば、どうでもいいような気がしてきて、どのような話の展開でもかまわないのかも知れない。何を語っていても許容されてしまうわけか。誰がそれを許しているのだろう。それで何を許していることになるのか。いったいその場で何が暴走しているのだろう。君は頭の中で何を暴走させているのか。それは冗談か何かのたぐいか。たぐいではなく冗談そのものかも知れず、それを冗談と見なさなければ君の精神は崩壊してしまうのかも知れない。要するにそれらの話の成り行きは、君にとって許されざる展開となってしまっているのかも知れない。それは許し難い話の無内容か。内容ではなく無内容なのが許し難いのか。何を語っているのでもないことが、誰かの精神を圧迫しているわけか。ならばそれが冗談なら気が済むのだろうか。気が済むどころか、焦りの色を隠しきれない状況なのかも知れず、できるなら急いでその場から立ち去りたいと思っているのかも知れない。誰にとってはそれは精神的に耐え難い苦痛を伴っているわけか。何が苦痛と感じさせるのだろう。苦痛でなければならない理由がどこにあるというのか。そこで何かがずれているようだ。精神的に耐えられなくなって、わざとそうしているのかも知れない。それはどういうことなのか。たとえばそれは指先から腐り始めているような感覚か。まったく文章的につながらない。やはり心はそこから遠ざかろうとしているらしい。くだらぬ問答がわけのわからない迷路を生み、そこで誰かの精神が溺れそうになっている。ならばそれは迷路ではなく海や湖や沼や川のたぐいか。そんなことはこの際どうでもよく、何となくその場の雰囲気に繰り出された言葉が合っていれば、それでかまわないのかも知れない。徐々に本気ではなくなってきているのだろう。まったく冗談も休み休みでないと、間が持たないか。あるいは場がしらけるか。そのどちらも違っているような気もするが、そこは飛ばしてその先へ言葉を進めよう。そうする必然性を感じられないが、その場に止まれば底なし沼にはまったような状況になりそうだ。それも嘘も方便だと自己正当化するための材料かも知れないが、いったい君の心に自我や自己が宿っているのだろうか。そんなどうでもいいことは誰かの判断にまかせるとして、その誰かが君ついてどう思っていようと、それがその場に反映されることはなさそうだ。今はただどうすればいいかがわからないのと同時に、どうにでもなってほしいとも思っているようで、それも嘘かも知れず、その場のでまかせに頼り切っているような気もしてくるが、それが誰の感性を反映しているかは、また誰かの判断にまかせるしかないようだ。たぶんそれは何らかの疾走感を伴っているのだろう。走っている感覚で言葉が勝手に連なり続けている。そうしなければそこでおしまいとなってしまうのかも知れないが、それでもかまわないのに、なぜそんなに急がなければならないのか。まるで誰かは生き急いでいるように思われるが、それもその場に生じたフィクションの中での話に過ぎないのだろうか。他の誰かにとっては何の話が生じているとも思えないようだが、誰にとってもリアリティを伴うとは言い難く、何からの切羽詰まった状況に身を置いている者にとって、時間に追い立てられている感覚が切実に感じられるかも知れない。君はそうやって毎日を過ごしているのだろうか。毎日が時間との格闘であり、過ぎ去ろうとしている時間をかろうじて目の前に引き留めながら、隙を見つけては言葉を繰り出すこと専念しているわけか。いつも時間は待ってくれない。気がつけば明日になっている。そして何も感じないうちに数日が経ってしまう。何もできないのに数ヶ月が経過し、気づいてみれば来年になってしまっているだろうか。そんなことでは何を語るわけにも行かないだろう。もっとそこへ止まることが肝心なのではないか。止まれないからそうなってしまっている原因を今こそ突き止めなければならないか。


1月28日

 何かいい加減なことを思いついたつもりでいるらしく、それについて適当に語っている最中のようだが、それがどんな話に進展するのだろうか。今のところは何の感想も導き出せない。たぶん簡単に結論に至りすぎるのだろう。人は何のために生きているのだろうか。またそれか。生きていることで何かのためになったりならなかったりするのかも知れないが、それは人それぞれで違うのではないか。様々な場合があり、一概に目標設定のようなことは馴染まない。あまり利いた風なことを述べては嘘になるだけか。だが多くの人はそれを望んでいて、さかんにメディアに登場するコメンテーターのたぐいに、何か気の利いた提言をしてほしいのかも知れないが、それで正解なのだろうが、何となくそれは違っているような気がする。そういう成り行きからは遠ざかりたい。他人が何を求めているかではなく、君は何を求めているのだろうか。なぜそれを知り得ないのだろう。誰がそれを知ろうとしているのでもなく、何を知ろうとしているのでもない。ならばそこで行き詰まりだろう。わざと袋小路に迷い込む。そんなことはあり得ないはずか。そこで何を感じ取っているのか。誰が何を感じ取っているのだろう。何を語ろうとしているのか。君はただ答えを期待できない問いかけを発するばかりだ。だから何ももたらせない。言葉の連なりがもたらされているではないか。君がもたらしているのではなく、誰かの心に巣くう虚無がもたらしているのかも知れない。またそんな嘘をついて本筋から逸れていこうとする。さっきまで何を述べていたのか忘れようとする。人は何のために生きているのか。それに対する答えを導き出そうとしていたのではなかったか。君にもたらせるはずのない答えか。君はどのような答えが出てくるのを期待しているのか。君が答えをもたらすのではないとすると、誰が答えをもたらしてくれるのか。いったい君以外の誰に期待しているのか。それ以上何がどうなってほしいのか。何を知りたいのだろうか。答え以外の何を知りたいことがあるだろうか。それはどんな答えだったのか。過去の話ではなく、これから答えが導き出されるかも知れないという状況かも知れない。君は何かをごまかそうとしているらしい。ごまかせるはずのない何かについて語っているのではないか。その何かとは何なのか。それは人が何のために生きているかについての、君自身の答えではないのか。今こそそれについての君自身の見解を披露してもらおうではないか。それがなければ誰も納得しがたいか。はたして人は何のために生きているのだろうか。冗談でならすぐに答えに行き着くかも知れない。人は何かのために生きている場合もあり得る。その何かが人それぞれで違っているのかも知れず、それについて一つの答えを提示しようと思えばすぐに出せるかも知れないが、それが必ずしも正しい答えとは限らない。答えが間違っていては誰が困るのだろう。何をわざと間違える必要があるのか。人は誰でも正しい答えを求めているものか。間違った答えには何の価値もないだろうか。それがおもしろければかまわないか。あるいはその間違いの傾向を統計的に調べれば、何らかの分析材料としてある程度の価値があるかも知れない。しかしそれがどうしたというのか。ただそれを利用しながら言葉を連ねている現実があるらしく、その現実が君を助けているのかも知れない。それが何の助けとなっているのだろう。まだ答えが出ていないのに、それについての答えも導き出さなければならないのか。いったいいくつの答えが必要とされているのか。気分次第でなら、何も答える必要はない。答えなければいつまでも謎として残るだろうか。それの何が謎なのか。突然の謎解き遊びには興味が湧かないが、別に遊んでいるわけでもなく、寡黙に作業に励んでいるだけか。なぜかさっきから黙っているようだ。なぜかではなく当然の成り行きなのではないか。無駄に言葉を連ねているようだが、それも答えに至るためには必要な試みか。そんな嘘をつきながらも答えについて思考している風を装う。いったい何が答えとしてふさわしい言葉になるだろうか。答えは言葉の一種なのか。今さらそんな問いかけはおかしいか。おかしければさっさと答えを提示すれば良いではないか。それができないから文章が長引いているのではないか。ならば否定的に振る舞えばいいことか。人は何のために生きているのでもなく、ただ生きているに過ぎない。そんな答えではつまらないか。つまらなければ、それを否定して、何か気の利いた答えを述べてみれば良いではないか。メディアに登場するコメンテーターのように、利いた風な意見を述べてみれば気が済むだろうか。誰に気が済むのだろう。つまらない問いかけにつきあうほど暇ではないか。暇でなければさっさと答えを出して、それでおしまいにしたらどうか。答えが出ないままでは良心が咎めるだろうか。しかし答えとは何なのか。何が答えなら誰もが納得するのだろう。誰を納得させるために答えを出そうとしているのか。


1月27日

 わけがわからないのは良いことかも知れない。人はわけがわからないままに生まれ、生きて死ぬ。生まれてから死ぬまでの間に、何かわけがわかってしまったりするのだろうか。ふとしたきっかけで、自らがどうでもいいような存在でしかないことに気づいてしまったりするわけか。しかしそれで何がわかったことになるのか。わかることは必要ない。はたしてそんな嘘で一時的に気が紛れるだろうか。あるいは自らがこの世界にとって欠かせない存在だと思いこんでいれば、何となくその気になって積極的に行動できるようになるだろうか。しかしそれで何にこだわっていることになるのか。君はこの世界の中でどんな実感に包まれながら生きていたいのだろう。何を思っても無駄だろう。それで何を否定していることになるのか。無駄に生きていることになるのかも知れない。誰もが無駄に生まれ、無駄に生き、そして無駄に死んでゆく。人生とははかないものか。そんな紋切り型では満足できないだろうか。ならば人の存在にはどんな定義が可能なのだろう。積極的に何を当てはめようとしているわけでもない。それどころか存在自体を疑っているかも知れない。たぶん何かが存在していて、それについて何らかの説明が可能なのだろうが、人は何のために生きているのか。人ぞれぞれで理由が異なる。そういう水準でなら確かにそうだが、それで何を語れるというのか。語る必要のないことを語ろうとしているのかも知れない。たとえば運命とは何だろう。そこで誰かに出会う宿命にあるとは思えない。だがテレビで事足りるとは思えない。誰にも出会っていないというのは嘘だろう。おそらく誰かに出会って妄想を抱かなければらないはずだ。それも嘘の範囲内か。冗談でならそれも可能だろう。ならばそこから何が見えてくるのか。簡単に結論に至ってしまってかまわないのだろうか。結論とは何だろう。人はどのような状態を目指さなければならないのか。そこから先が見えてこない。答えを出そうとしていないようだ。なぜそうなってしまうのだろう。よかれと思ってやったことが裏目に出てしまう。よくあることとはそういうことなのか。人はどのような世の中になることを望んでいるのか。君自身で事態を好転させなければならない。君がやるべきことはそういうことか。だから努力を惜しむべきでない。わかりきったことしか述べられないようだ。言葉はどこに書き込まれているのだろう。地上に溝が刻まれているが、それは文字ではない。誰がそこからナスカの地上絵を連想するだろう。それは溝ではないはずだ。海溝の底に鯨の骨が散らばっている。それは言葉ではない。それとは何だろう。そういう迂回にはうんざりさせられる。嘘のたぐいだろうか。思い出の中の映像は何かを連想させるらしい。君は眠いのか。頭痛がしてくるが、何に気づいているのだろう。頭の芯から痛みが伝わってくる。幻覚の一種かも知れないが、そこから結論を導き出せない。いったい何が結論としてふさわしいのか。上り下りの途中で、何かのきっかけをつかんだかのような錯覚に陥る。今こそ真実を述べなければならない。そういう話ではないだろう。フィクションはその手の宝庫か。その手とはどの手のことを指すのか。それほど多くの手が選択肢としてあるわけではない。語っている内容はいつもと変わらず意味不明に近い。君は焦っているようだ。そのままではやりきれないと感じている。だがやりきれないからこそ結論を先送りできるのではないか。先送りにしてどうするのか。後から気の利いた結論でも提示する気でいるわけか。どうやら無理なことを述べようとしているらしい。それらの社会にはどのような構成物があるのか。人はその中にはいるのだろうか。社会から疎外されているのは誰なのか。なぜそこからスピンアウトしなければならないのだろう。誰かが新天地を求めて流離っている。ならず者とは誰のことを指すのか。そういう話の展開は馴染まない。君は他人と競い合うことを嫌い、どこかの山奥に隠遁してしまったようだ。それはいつのことになるのだろう。将来のことは不確定であり、未定のままか。いつまで経っても結論などではしない。躊躇しているうちに忘れてしまうだろう。だから人は生きてゆける。余裕がない者はすぐに結論に至ろうとしてしまい、何らの達成感に包まれ、目的などあり得ないことを忘れてしまう傾向にある。なぜそうやって偽りをなぞろうとしてしまうのか。そこで何を繰り返しているつもりなのか。話がどこかへ飛んでいるようだ。それに誰もが気づかない。そんな嘘がまかり通っていてかまわないのだろうか。よりよい社会を築くために誰もががんばっているのに、君はそこで何をしているのか。ただ冗談の中にその身を埋めて、辺りを伺うでもなく、何となく気が抜けたように思われ、まるで夢遊病者のようにどこかで漂っている。そういう話でかまわないのだろうか。だがそれの何が筋書き通りなのだろう。別に面目がつぶれているわけでもなく、何の体裁を繕っているわけでもない。


1月26日

 またごちゃごちゃ言葉が入り組んできて、内容を把握できなくなっている。どうあってもそんなことを述べていたようだが、それが君の限界を露呈させる。把握できないどころか、無内容に近づいているようだ。そんなことはないと思いたいが、できれば思い違いの原因を知りたい。そこにどんな試練が待ちかまえているのだろうか。また以前と同じようなことを述べているようだが、それがどんな試練につながるというのか。それは現状では考えられない展開か。君は相変わらずそんなことはないと思いたいらしい。いつものように語っているつもりで、それがいつものようであっては困ると感じている。そんな現状の中で君は何を考えているのか。何を考えているかもわからないほど焦っているわけでも、状況が切羽詰まっているわけでもないが、余裕が感じられず、混乱の極みに達しているのかも知れず、それは映画の中での出来事でも、絵画の表面に塗り込まれた風景でもない。では君は誰について語っているのだろうか。見え透いた嘘をついている場合ではない。そんな話には誰も乗ってこない。そんな話になっていないだろう。そう述べながら、君はどこまでも悲惨な状況に直面しているわけか。そうであったらおもしろいか。つまらなければそうではないのだろう。なかなか本音に行き着かないようだが、それでも何かしら述べているのだから、それはそれでよしとしておこう。成り行き的にそんなことを述べている。それを否定してどうするのか。いついかなる場合でもそんなことはないと思い続けているらしいが、いったい現状は何を示しているのか。君には関係のない現状だと思いこみたい。それが思い違いだと言いたいわけか。ならば誰に向かって何を言い放つ必要があるのだろう。おまえはすでに死んでいると思えるか。誰がそんなことを思っていたいのか。たぶんそういう話ではない。何らかの固定観念に心を支配されている。思考が柔軟性に欠けているようだが、少しは人間的に振る舞ってみたらどうか。人間とは何なのか。人には君の性格がわからない。そういう決めつけがどこから出てくるのだろう。今夜は機会に恵まれているらしい。それも何かの嘘に違いない。何も語らないうちから何を否定しているのか。そして否定している当のものが見えてこないのはどういうわけなのか。何を否定しているわけでもない。語っているすべてが違っているようだ。何を間違えているのだろう。そのままの現状ではいけないのか。何がしゃくに障るのか。冗談であるはずがない。限られた時間の中で何らかの内容に至らなければならず、それを逸してしまったら無内容になってしまう。それの何が気に入らないのだろうか。人はどうのように生きてもかまわないのであり、どのようにも生きられないからこそ、そんな現状の中でくすぶっている。どんな人生を歩んでいるのでもなく、そこで何を選び取ったわけでもない。ただそんなことを述べているうちにも時間が過ぎ去ろうとしている。過ぎ去ってしまってはいけないのだろうか。誰も君の出現を待ち望んでいない。君は鮫男か。わけのわからないことを述べているだけか。理由を見いだせないのはいつものことだろう。述べている途中に何があるのか。言葉が抜けている。意識がどこかに逃げている。そこへ戻ってこれないようだ。もはや立ち直るきっかけさえつかめない。そんな弱音を吐いて同情を誘うつもりなのか。誰が同情してくれるだろう。ただわけがわからないだけではないのか。それはさっきから述べていることだ。では内容とは何なのか。それが無内容であるわけを教えてくれないか。試行錯誤で悪戦苦闘ばかりでは何を述べていることにもならない。まだ内容に至るだけの余力が残されているだろうか。そんな心配をしているうちに、無内容のまま終わってしまうだろう。それで本望なのだから仕方がないが、そんな強がりを言っていられるのも今のうちだけか。それは誰の発言でもなく、文章上のつじつま合わせの説明とも違う。君は毎日欠かさず同じようなことを述べていればそれでかまわないのか。そういう話ではないだろう。それで何を否定しているつもりなのか。それでもすきま風が冷たいのはなぜだろう。なぜではなく、どういうわけでもない。さらに心が退いてしまっている。退き続けているらしい。虚無に支配された心は、もはや冗談にさえ反応しなくなっているのかも知れない。この期に及んでそういう言いぐさはないか。絶望的な状況の中でも微かな光明を見いだしたいようで、一縷の望みというやつをたぐっていって、そのわけのわからない言葉の迷路から抜け出したい。しかしなぜ心はそこにとどまろうとしてしまうのだろう。意味不明な状況はそんなに居心地が良いのだろうか。思い物を持ち上げすぎて背中が痛くなる。そして気がつけばそれとは関係のないことを述べているようだが、それは何となくわざとらしい言葉の響きを伴っているように思われる。君には似つかわしくない言葉の連なりだろうか。ならば分不相応という言葉が当てはまるか。


1月25日

 誰かがどこかで拘束されている。それは映画の中での話か。君は囚われの身というわけではないが、何らかの状況下で身動きがとれないようだ。そこから作り話を構成できるだろうか。必然性を感じない。たぶん考え方が間違っているのだろう。君には何もわからない。それでも国家形態の必要性を痛感せざるを得ないのだろうか。国家側からすれば国民からより多くの税金を搾り取るために、国民を働かせる環境を整備しなければならないことはわかるが、そのための産業振興策に実効性があるとは思えない。また教育改革によって、国家や会社の言うことを聞く従順な国民を養成しようとしているらしいが、何となく焦点がぼやけているような気がする。そこで君は何を説明する必要があるのか。原理とは何だろう。述べていることに説得力がない。やはり本気になってはいけないということか。何を本気になる必要があるのだろう。国家が国民に対して何をやる必要があるのだろう。国家だけでは何もできはしない。国家という言葉自体が抽象的であって、はっきりした実体があるとは思えない。だが国家の存在を否定しても無駄だ。君は何によって生かされているのか。生かされていないのかも知れない。君という言葉の活用法を思いつけないか。誰にそれを思いついてほしいのか。そういう話ではないはずだ。現時点では何も思いついていない。たぶん国家という存在形態があることを否定するわけにはいかないのだろうが、それが形骸化しつつあるとしても、それを立ち直らせて強化しようとする試みは間違っているのだろう。そんなことは誰も求めていないのではないか。国家と国民は一心同体ではないし、行政機関を構成する各省庁や地方自治体も互いに反目し合い、決して一心同体ではない。それは悪いことではなく、かえってそうでなければまずいのではないか。しかしそんな真偽の定かでない憶測を君が述べるのはおかしい。君は間違ったことを述べていなければ気が済まないようだ。そしてそんな君の非常識は何かを暗示させる。まるでそこから遠ざかること促しているように感じられ、終わりの向こう側に光明が見えているような幻想を抱かせる。はたしてそれで何を述べていることになるのだろう。たぶんそれらはどうでもいいような思いこみに過ぎないのだろう。それが君の実在を思いこませる。思いこみ自体が幻想に含まれているらしい。すべては国家という幻想の周りをぐるぐる回っている言説でしかない。そんな宗教じみた幻想に心を支配されていてかまわないのだろうか。いったい君は誰のことを述べているのだろう。誰がそれらの幻想をもたらしているのか。この世界中に住んでいる人々の意識がそうさせているわけでもあるまい。頑なに自らの業績を主張するのは間違っている。それは誰のせいでもなく、君のせいでもない。誰が悪いのでもなく、君が悪いのでもない。話の展開が不連続で気味悪いか。自らを主張するだけの自信がないのかも知れない。集団心理が働いてしまうところから超自我が生じてくるわけか。それの何が間違っているのだろうか。わかっていることとわかっていないことの区別がつかない。ただ単に意味不明であるわけがないだろう。そう語ってしまうのは怠惰のなせる業か。あるいはわけがわからないと思いこもうとしているだけか。さっきまで何について語っていたのか忘れている。それで何に見とれていたわけではなく、書物を読んでいただけか。たぶん官僚機構の目的は、人々を管理することにあるのだろう。マトリックスの幻想の中に究極の目的がある。人間を培養してそこからエネルギーを取り出し、それを糧として自らを維持増殖させることを目的としている。官僚機構による人間の培養こそが教育の目的なのだ。だがそんなに早く結論に至ってしまってかまわないのか。そう述べて誰を脅しているつもりになれるだろう。それとももう少し遊んでいてかまわないのか。そんな結論などあり得ない。いい加減なことを述べないでほしいか。誰に促されてそんな結論に至ってしまうのか。君は誰から悪影響を被っているのだろうか。そこから何らかの精神的な被害を受けているのかも知れないが、それが神の言葉に直結するわけではない。警鐘を鳴らしているわけでもない。たぶん遊び半分で酔っぱらっているだけなのかも知れず、何かのついでに適当に言葉を連ねているだけなのだろうか。しかし何をそんなに心配する必要があるだろう。いくら前言を打ち消そうとしても、そんな嘘はもとから通用していない。君はそれ以前にどこかで躓いているらしく、その躓きの原因を探ろうとせずに、ただ闇雲に前進しようとするから、さらに足下がおぼつかなくなり、足が絡まりよろけながらも、そこから立ち直ろうとしてもがき続け、いくらもがいても必死さが足りないように思いこみ、いつ何時でも反省し続け、そんな嘘がどこで通用するかも考慮せずに、さらなる迷路の中に勝手にはまりこんでいってしまう。それで何を語っていることになるのだろう。嘘も方便ということでも述べたいわけか。


1月24日

 君は孤独なのか。外は寒いのだろうか。画面上で言葉が適当に踊っている。すべては曖昧か。それがすべてではないと思いたいが、現実は何もわかっていない。誰かは無駄に金を使っているらしいが、別の誰かは無駄に金を貯め込んでいる。誰と誰が同一人物なのだろう。思い当たる節は何もない。歌は別の場所で歌われるだろう。そうではないような気がするが、そんなことを述べている現実がある。否定しようのない状況にさいなまれているわけか。だがもう戻り道はない。何に焦点を当てているわけでもなく、何について語っているわけでもない現状は変わらない。君はそこからどこへ向かおうとしているのか。どこへも向かいたくないのではないか。だからそこへとどまり続ける。しかしそれでは理由になっていないだろう。理由を探っているわけではなく、語りを長引かせたいだけなのではないか。たぶんそういうことではない。たまにはそんな嘘をついてみるのも良い。嘘になっていないような気がするが、本音はどこにあるのだろう。そこに抜け落ちている箇所があり、君は何も補えない。補填すべき言葉を知らず、空隙を埋めることができない。それが目下のところわかっていることか。そうではないような気がするが、そんなことしか述べられない現実に屈しているようだ。そしてますます内容のない文章になってゆく。無理に言葉を弄していることは明らかか。案外君はその顛末を知っているのかも知れず、やろうと思えばそれについて語ることさえできるかも知れないが、あえてそれをやろうとしないのはどういうわけなのか。語っているすべてが嘘だからか。またしても理由になっていないような気がしてくる。少し毛色の変わった曲が流れ始める。物事の性質がそれについての述べ方で変わるわけがない。ならば身だしなみを整えているわけを知りたいか。まるで意味不明に思われる。空気の流れを読んでいるわけではない。それは風洞実験のたぐいだろうか。ますますわけがわからなくなり、何かのたがが外れていることを思い知る。それは内容ではない。はたして文章に内容があるのだろうか。君はそこから一歩を踏み出さなければならない。何を躊躇しているのか。どこで何を躊躇したいのだろう。すでにその機会を逃してしまったのかも知れない。何も述べられないままに語り続けている。そんな現状を容認できるだろうか。それは試行錯誤などではなく、怠惰のなせる業に違いない。君はその言葉を待っていたのだろうか。何が出現しているのか定かでなく、それが言葉だとは到底思えない。なぜそうなのか。何らかの逡巡なのかも知れず、それでも語ろうとしている行為を尊重しなければならないのか。わけがわかっているわけではない。それに対する疑念がどこからともなく生じてきて、おぼろげな記憶をたどりながら、真実にたどり着こうとしている意志の存在を感じているらしいが、それでは辻褄が合わないか。ならば何を語りたいのだろう。それでも私は君を覚えているだろうか。どうやら頑ななまま逸れていってしまうらしい。かすりもせず、ねじれの位置を保ちながら、どこまでも遠ざかろうとしている。私の姿が見えなくなるまでそれらの行為は持続されるのか。その先の曲がり角を曲がれば、私も君と同じように誰かの視界から消えてしまうだろう。それで満足してくれるだろうか。お気に召さないのなら、さらに遠くまで言葉とともに歩を進めるべきなのか。意味のない話だ。まったくわけがわからないと思うのは、君が気休めに支配されている証拠だろうか。それこそ意味不明だろう。それで危機から逃れられたわけではない。まだ最後まで言葉を連ねてみなければわからないこともあるはずか。ならばそのとき何に気づくことになるのか。終わらせようとする魂胆の浅はかさが顕在化してしまうわけか。誰がそう思っているのだろう。顕れているのはそんなことではない。君にはそれ以上の取り繕い方が望まれている。そう述べて何を偽装しているのか。醸し出されている雰囲気は、そこに並んでいる言葉とは無関係だ。そう思いたいだけで、実際は頭の中が混乱状態かも知れないが、それでも平静を装いつつ、さらに無駄な試みを続けようとする。文章の中で何と何が結びついているわけでもなく、ただ無関係な言葉と言葉が適当に組み合わされて、所々に配置されている。方々へ意識が飛んでいるように思われる。だからそんな苦笑いで悦に入っているのだろう。そうやってやっと浅はかな表情を作ることができて、誰にとっても申し分のない結果になっているのだろうか。そんな偽装は中途半端か。途中から引き返す余裕は感じられず、必死で何かを訴えかける姿勢も忘れているようで、何のことやらさっぱりわからないとも思えず、とりあえずそんなことを述べている現状をどうしたらいいのだろう。まだ何かの途中なのではないだろうか。確信的な認識は常に君を裏切り続けるようだ。君はいつもそこで取り残されてしまい、置いてきぼりを食って悔しがり、それが君に特有な状況なのではないかと勘違いしてしまう。いつもそうなのだから勘違いして当然か。


1月23日

 そんなことを述べても無駄のようだ。無駄でなければそんなことは述べられないか。それはどういうことなのか。役に立つようなことは述べられない。しかし何が有用なのか。あらゆる文章はもとから無用か。幻想を振りまくだけで何の役にも立たない。しかし役に立つとはどういうことなのか。そこから何らかの利益がもたらされるということか。あるいはそれによって作業がはかどるということだろうか。だがそれで何を思いついたことになるのか。何を思いつこうが君の勝手ではないか。君は何を思いついているのだろう。語り手はこれから君が何を思いついたのか、その内容を語らなければならなくなるだろうか。面倒なことは嫌いだ。たぶん君は何も思いついていないのだろう。そういうことにしておけば、何も語らずに済んで楽かも知れない。しかし何も語らなければ文章にならないだろう。文章にならなければ、それについて語っている文章は無用の存在か。だから何を述べても無駄だと述べているわけか。ただそこでは同じような言葉が循環しているだけのようだ。それで何を述べていることになるのだろう。気がつけば頭の中でも文章上でも何かがぐるぐる回っている。目が回っているのかも知れない。情報がこの世のすべてを握っているのだろうか。何でもかんでもランキングをつけることが必要か。情報開示とは何に役立つのだろう。とりあえずそれを肯定しなければならない。見いだされるべき判断材料が多ければ多いほど、何をやるにも有利に働くかも知れない。しかし君はそこで何を競っているのか。たとえばチルファドとは何か。わざと関係のないことを述べているようだ。何が見え透いた冗談なのだろう。そういう話でもなさそうだ。そこから何を語りたいわけでもなく、語っているそれが何かの役に立つとは思えない。気が散って作業がはかどらなくなるだけか。言葉を弄すれば弄するほど、何を語っているのかよくわからなくなる。何を語りたいのかわけがわからない。そこから意味を導き出せなくなり、それは哀しげな調べとなっている。わざとそう述べているのだろう。そう述べることによって気分がおかしくなるらしい。すでに何を述べていたのか忘れてしまったらしく、そこからどこに突き抜けようとしているのか定かでない。言葉はどこにも向かわない。そこで執拗に停滞し続け、何を述べていることにもならないような文字列を形成しようとする。要するに言葉を記そうとしている者は、述べているのとは無関係な言葉を組み合わせて、文章を構成しようとしているわけだ。そんな曲芸みたいなことがはたして可能なのか。画面上に並んだ文字に見とれている場合ではないだろう。何も思いついていないはずなのに、なぜそこまで語る必要があるのか。君はやめる気でいるのだろうか。何をやっていて、それをいつやめるつもりなのだろう。何を思い詰めているわけでもない。何かに遠く及ばないだけか。どうやら終わりまで持ちこたえられそうもない。それは望んで手に入れられるものではない。必然からはほど遠い。どう考えてもそこへ至りそうもない。考えるべきことではないのかも知れず、いくら思っても思うだけ虚しくなるだけだろうか。しかしわけがわからない。述べていることの意図が不明だ。こだわっていることとは無関係なのか。何をどうしたいわけでもなく、どうにもできないことを誇るような愚かさの中に、誰かの真意が隠されているのかも知れず、無理矢理言葉を組み合わせて文章を構成することの馬鹿らしさを、その身をもって体験しようとしているだけか。だからそう述べていることの意図がわからない。それは君の思惑からだいぶ外れているように思われ、その架空の思惑を構成しづらくしているだけではないのか。なぜそのための文章にならないのだろう。何か気がかりなことでもあるのだろうか。気がつけばまた外れたことを述べている。どうもそこへ戻りたくないらしく、盛んに遠ざかろうとしているようだが、何から遠ざかろうとしているのかわからず、ただ闇雲に言葉を弄して、遠ざかろうとして当のものに絶え間なく近づき続ける。それはどういうことなのか。冗談でそんなことを述べているのだろうか。それとも本当に気が触れてしまったのか。狂喜の世界をどう説明したら説得力を持つことができるだろう。たぶん本気で語っているわけではないのだろう。ブレーキが壊れたまま坂道を転げ落ち続ける。それが何のためのブレーキなのか理解できない。言葉に歯止めなどあり得ない。感情は絶えず暴走し続け、それが感情とは違う何かになれるまで、言葉として機能しようとする。わざとそう述べていることは確かなようだが、未だにそうする理由を見いだせないことも確かで、それらは何のための文章ともなり得ず、永久に意味不明のままにとどまろうとしているらしいが、そこから遠ざかるにはどうしたらいいのか。遠ざかろうとしていないのに、そういう問いかけはわざとらしいか。しかしそれで誰を煙に巻いていることにもならないだろう。ただうんざりさせているだけか。


1月22日

 なぜそんなことを考えているのだろうか。考えていることがあまりにも浅はかか。個人の力ではどうしようもないのに、それでも個人に頼ろうとしてしまうのはどういうわけなのか。知名度とは何なのか。そのだけで何ができるというのか。何となく政治をナメているような気がする。それも妄想のたぐいかも知れない。たぶん無理なことはわかっているはずだ。それでもメディアは野次馬根性丸出しではやし立てるのだろう。そして案の定うまくいかなくなれば、今度は非難の急先鋒に名乗りを上げるわけか。まだこの国には共産主義以外は何も根付いていないようだ。共産主義者たちが自由と民主主義の旗の下に群れ集っているわけだ。そこに宗教政党が組織票を武器として食い込んでいる。君は本気でそんなことを思っているのだろうか。本気であるはずもなく、冗談で述べているだけかも知れない。人々は構造的な欠陥を知りながらも、そこから希望を見いだそうとしているのかも知れない。しかしその希望が浅はかな思いこみから生じていようとは夢にも思わないか。夢はすでに破れていて、破れた夢の隙を突かれているのかも知れない。いついかなる時でも保守主義がついて回る風土なのだから仕方がないか。仕方がないで済んでしまうところが情けない限りかも知れない。ならば君はどうなってほしいのか。たぶん多くの者がそうなることを阻んでいているようで、これからも執拗に邪魔をし続けるのだろう。だからどうなってほしいとも思えないのであって、このままの現状でもかまわないとさえ思ってしまうのだろう。政治の話をするのは気が進まない。はじめから逃げ腰かも知れない。嫌ならやめてしまえばいいだろう。またいつもの意味不明を語っていればそれで良いはずだ。君は自らに不可能な試みを課そうとする。それが心理的な負担となっているのかも知れない。だからそこで言葉が停滞しているわけか。そして気がつけばウケねらいの台詞を発している。そう述べて誰を驚かそうとしているのか。何かのバランスが崩れている。その何かが何なのかわからないところが、さらに愚かさが増大する要因となっている。しかしそれの何が愚かなのか。それとは何だろうか。そんな風に繰り返し述べているその言葉の停滞がそれなのではないか。しかしそれで何がわかったことになるのか。ただそこで言葉が停滞しているだけか。君はそれをどうするつもりなのか。居酒屋チェーンのオーナーが、子供たちを幸せにするために、学校経営に乗り出しているそうだ。そこで何を競争させるつもりなのだろう。誰が競争に参加すべきなのか。たぶんもっともらしい理由をつけさせられて、子供も親も教師も切磋琢磨させられてしまうのだろう。それは恐ろしいことだ。幸せとはそういう恐ろしさの中からもたらされるものなのだろう。彼らは日々向上心がなければ生きられないような境遇の中で暮らしている。君にはそういう前向きさが鬱陶しく思われるらしい。疲れているのならば、少しは休んでもかまわないのではないか。それどころか毎日が日曜日でもかまわない。勤勉さよりもだらけた感覚を尊重したくなる。述べていることとやっていることが違っていてもかまわないか。現実と虚構の間にすさまじい落差があるようだ。それは死ぬほどの苦痛ではないはずか。どのような痛みを伴って、君はそこで生き続けているのか。なぜそこから抜け出そうとしないのだろう。無理を承知で心にもないことを述べている。君はそんな結論が存在することをどうしても信じられない。それは君の試行錯誤がもたらした結果ではなく、単なる偶然の成り行きからそうなってしまうのだから、君の試みは偶然の成り行きによって否定されてしまうわけだ。努力が水の泡になるどころか、努力そのものが結果によって無視されている。だからこの世で誰が幸福を手に入れようが、不幸をつかまされようが、そんなことはどうでもいいことなのだ。どこの誰が子供たちを幸せにするために学校経営に乗り出そうが、そんなことは君が置かれている境遇とは無関係だ。君が不幸だろうと幸福だろうと、結果がそんな状態を無視し続けている。結果は誰にとってもどうでもいいことかも知れない。しかし結果とは何だろう。結果から何が導き出されているのか。偶然の導きによってそこに至ってしまった結果から、そこに至ったわけが導き出されるだろうか。すべてが偶然ではないはずか。何らかの必然性がないと、そんな結論にたどり着くはずがないか。そんな結論とはどんな結論なのだろう。偶然の成り行きでそんなあやふやなことを述べている現実がある。君はそこから抜け出せずに、近頃はあきらめの境地に達しているのかも知れない。もはやそんな認識を覆すような気力は残っていないか。ならば努力することをやめたらいいだろう。いつまでもそんなことを述べているから、袋小路にはまって身動きがとれなくなってしまうのか。そう思いたければ思っていればいいだろう。そしてさらに馬鹿げた言葉の連なりに殉じていれば、いつの間にか老いてこの世からおさらばできるだろう。


1月21日

 何となく時間的に追い込まれているようだが、精神的に追い詰められているとは思わない。何も出てこないのに何を落ち着いているのか。それは妙案などではなく、策に溺れるほど策はない。その場の雰囲気に流されているだけかも知れず、そんな成り行きに従うしかやりようがない。言葉が尽き、アイデアが底をついているのに、落ち着き払っているようだ。何を語ろうとしているのでもなく、何も語らずにそれを利用している。それは虚無そのものだろうか。そんな状況を乗り越える必要があるわけか。乗り越えた末に何を語ろうというのか。無理に乗り越える必要はないのかも知れない。風雨に浸食されて、乗り越える必要がなくなるほど平坦な地形になるのを待てばいい。待っていられるわけがない。何を乗り越えようとしているのかもわからないほど周りが見えていないようだ。周りの景色以外の何を見れば見えていることになるのか。それは思い出したくない過去の情景か何かか。そんな風に語るのはおかしい。まずはその情景について語る必要があるだろう。まさかそれが乗り越えなければならない障害か何かになるのだろうか。そんなことはもう忘れてしまったのではないか。自らが知らぬうちに何かを乗り越えている可能性もある。少し思考を巡らせば、それが何か思い出せるかも知れないが、そんな気にならないのはどういうわけなのか。人には人それぞれに固有の事情があるらしく、その事情を取り払って何を述べてもリアリティが伴わない。何となく嘘っぽく感じられてしまうらしい。それほど現実感を得られなくても、おもしろければそれでいいのではないか。ご都合主義に支配された単純な意識の持ち主なら、素直に感動して、そこから先は思考停止できるかも知れない。しかしそんな具合に他人を小馬鹿にしていてかまわないのか。いったい何について論じようとしているのか。それはどんないいわけになるのだろう。そこから何を感じ取ればいいのか。現実に何が見いだされているわけもなく、ただ適当に言葉が連なっているだけか。それらの言説によって何を助けようとしているのでもなく、他の誰を攻撃しようとしているのでもない。言説が批判の対象を見いだせない。たぶんそれは君を導いている言葉の連なりではなく、ただ迷わせるために自然と迷路を形成しているだけかも知れず、真実に向かわずに、ひたすら迂回しようとしているだけか。そんな言葉の言い回しから、何かを避けているらしいことはうかがい知れるが、はたしてそれが真実なのだろうか。他に何を避けて通らなければならないのだろうか。ひたすら前進しているわけでもなく、延々と停滞しているわけでもなく、経巡り歩いているうちにわかることもありそうだが、そのわかったことが言説に反映しているのだろうか。何をそれほどまでに迷っているのか。何かの岐路に立たされているのだろうか。どこへも向かわないわけにはいかないわけか。前にもそれと似たような状況を経験しているかも知れないが、それが今に生かされているとは思えない。ならば君はそれほどまでに愚かなのだろうか。愚かなふりをしているとも言い難く、実際に愚かではないのかも知れないが、過去の経験を生かすことができようとできまいと、それで失敗してしまったとしても、それも一つの経験であり、何らかの回り道の一つでしかないだろう。そんな回り道はいくらでもありそうだ。要するに君は踏みとどまるべき大地を持たないというわけか。それで何がわかるのか。何をわかろうとしているのだろう。回り道だとか大地だとかいう言葉が、まったく比喩になっていないのかも知れず、それはそれそのものであり、そんなものを利用して何かわかったようなことを述べたくないのかも知れない。しかしそれでは何を語っているのかわからないではないか。たぶん何をわからせようとしているわけでもなく、わからせたい物事が存在しないのかも知れず、取り立てて何もわからなくても、それで何かしらわかっていることになるわけか。後からそんなことに気づくこともあるだろう。そして気づいたときにはすでに忘れかけている。たとえ同じような経験であったとしても、それを何度も経験しようと、そのときの置かれている状況が同じなら、また同じような過ちを犯してしまうのではないか。だが別に同じ過ちを何度繰り返そうと、それでどうなるわけでもなく、そのたびに自らの愚かさを再認識するだけか。それで気が済んでしまうなら、それでかまわないはずか。たとえ気が済まなくとも、進歩がないことはそこで安定している証拠なのだから、気が済むまで同じ過ちを繰り返していればいいのかも知れず、気が済んでも同じ過ちを繰り返してもかまわない。そういうやり方で通用しているうちはそこにとどまるべきのようだ。誰になんといわれようと、進歩がないことは楽なことか。場合によっては停滞していても、それだけ気が楽で良いことらしい。そんなていたらくに我慢できるのだから、それはそれで楽しいのかも知れない。後はぬるま湯に浸かったままでいるだけだ。


1月20日

 機会が巡ってくるのを待っているようだが、何の機会なのかわからない。誰に会うつもりなのか。あるいはそのときが来たら何に遭遇することになるのか。何となく進歩がないような気がしてくるが、それは心境の変化か何かか。あのときと同じような状況が巡ってきているらしいが、あのときとはどのときなのか思い出せない。過去の記憶はいつでもあやふやであり、未来の記憶などあり得ないだろう。これから何を体験しようとしているのだろう。また逃げてしまうのだろうか。何を取り逃がすことになるのだろう。それはどんな機会になるのか。その場で考えても何も思い浮かんでこないが、それは何かの方法なのか。機会を取り逃がさない方法というものあり得るだろうか。勇気を持ってそのときの流れに乗らなければならないわけか。しかし成り行きとは何だろう。その場の空気をつかまなければならないか。空気をつかんでどうするのか。つかめるものなら何でもつかみたいところだが、それが何になるのか。何にもならなければつかみ損ねていることになるわけか。そのとき何を取り逃がしてしまうのか。運に見放され、不幸のどん底にでもたたき落とされるのか。そうなっていることを感じ取れない場合はどうなるのだろうか。どうなっているわけでもなく、そうなっているだけか。要するに何もわかっていないということか。わかっていないからといって、そこで怖じ気づいているわけでもなく、恐れていた自体が到来したわけでもない。恐れを知らないのだから、それが不幸かどうかもわからない。どうやらそこで破綻を来しているらしい。その辺で行き詰まりの徴候が見られる。しかし本気になれない。何を思っているわけでもなく、勝手に時が過ぎゆくばかりで、そんな成り行きに何の関心も抱けない。ではそれ以外の何に関心があるのか。くだらぬ妄想ならいくらでも抱けそうか。君に何ができるというのか。この世界にどんな影響を及ぼそうとしているのか。幻想以外に得るものは何もない。空が晴れているだけで、それが現実だとしたら、そこからどんな妄想を抱けるだろうか。晴れた空の所々に雲が浮かんでいる。それも見たままの現実に違いない。晴れた空の下で人々がうごめいている。通りでは人が行き交い車が行き交い、線路の上を電車が走る。まだそれも現実の一部を構成しているようだ。それは津軽三味線のような節回しと音色だろうか。色は別のところにありそうだ。目が見えないのではなく、音が聞こえないのでもなく、見えている風景以外の何も見えないのであり、聞いている音以外の何も聞いていないということか。ならば音楽はどこで奏でられているのか。それは言説上のレトリックかも知れない。そういう言葉の使い方は好かないだろう。わざと論点をすり抜け、何も論じていないように振る舞う。述べていることの意味が一向に見えてこない。今の君はあくびとともに存在しているらしいが、それは誰が眠いのでもなく、他の誰を眠らせようというのでもない。わざと何かを否定しながら、言説の継続を確認しているだけかも知れない。月が見えていたのは昨晩のことか。そんな風にして言葉数を稼いでいる現実を感じ取る。誰かの見えざる手がどこからともなく忍び寄ってくる。架空の手は何を要求しているのか。つかんでいたものを放そうとしない。放り出すのが惜しいらしい。つかんでいるのは誰かの手かも知れない。手が動き出すのを妨害している。勝手に動き出すわけではなく、何らかの意志に基づいて動いているはずか。君はそれをわかっているはずだ。誰かは何かを成し遂げなければならないようだ。それが何なのか理解しなければならない。理解してどうするのだろう。手助けでもしてほしいか。わかっていないことをわからせようとしている。何をわかっていないのだろうか。これからそれをわからなければならないようだが、何か手がかりがないものか。きっかけさえつかめばそれなりに理解できるかも知れない。理解するには何か犠牲が必要か。何らかの犠牲と引き替えにして何を獲得できるのだろう。それほどの価値があることなのか。価値観が違うかも知れないので、もたらされたものを受け入れがたいか。受け入れてどうするつもりなのか。そこへ至るにはさらなる紆余曲折が必要かも知れない。どうでもいいような成り行きなのかに何らかのヒントが隠されているようだ。君はそれを無視しようとしている。わかり得ないことはそのままにしておいて、さらにそれとは違う新たな経験を求めている。それで何がわかったことになるのだろう。空に浮かんでいる雲に何を語らせるつもりなのか。そういう逸らし方は意味不明だが、何となくそんなことを語らせられているのかも知れない。その場の状況がそうさせているらしい。それで辻褄が合っているだろうか。合わないとすれば、合わせるように努力しなければならないのだろうか。何をどう努力すればいいのだろう。何も見当がつかない。意味深長でもなく、何をほのめかしているのでもない空に向かって、何を問いかければいいのだろう。


1月19日

 なぜこんな時間になってしまうのだろう。まだ弱音を吐く段階ではないか。何に対して弱音を吐かなければらないのだろうか。そういう反応はわざとらしい。ではなぜそんなところ立ち止まってしまうのか。残り時間は後どれくらいあるのだろう。明日の明け方までは相当ありそうだ。できるはずのない時間帯かも知れない。たぶん深夜になってしまうのだろう。何もやる気にならないのに、時間だけが過ぎ去ってしまうが、そんな成り行きは嫌というほど経験してきたはずだ。そういうことを語りたいのではない。では何を語ればいいのだろう。たぶんそういう話でもないはずだ。今は素直に何もできない状況を受け入れるしかない。それが不条理だとは思わない。必然的な成り行きなのだから仕方がない。本当に何も語ることがないわけだ。それが自らに嘘偽りなく従うことから生じる台詞だろうか。では嘘をつくにはどんな台詞が有効なのか。たとえば君はこの世界がどうなってほしいのか。何も思い浮かばない。そういう問いかけの対象となる君が不在だ。君ではない。簡単に君が否定されている。私が君の存在を否定しているらしい。ならば私にはどんな主張だあるのだろう。君には何も主張がないようだが、私はどうなのか。ただそれらの文章の継続を計りたいだけか。無理な話だろう。私の主張も否定されてしまうらしい。それは主張なのではなく、単なるはかない望みでしかない。何がはかないと思われるのか。それが今にも終わってしまいそうだからか。それとは何だろう。何でもないからそれとして記されるべき文章なのではないか。それで何を述べていることになるのか。それはいつもの紋切り型的な問いかけだ。そういう述べ方では誰も満足しないだろう。誰を満足させるために述べているのか。自然とああいえばこういういう的な手法になっている。そしてまるで本気になっていないのもいつものことだろうか。おそらく君には次がないのだろう。その先に何を語ればいいのか思いつかない。それは私にとって必要なことなのか。私は何を思いつけばいいのか。唐突に世界情勢について語らなければならないのだろうか。今さらそれはないだろう。この世界にはこうあるべき理想の状態などあり得ない。そんな世界の中で人々は絶えず自らの夢を叶えようと努力しているらしいが、そういう決めつけではこの世界について語ってことにならない。君にはそれ以外を思いつけないようだ。それが君の限界なのだろうか。君に限界があるはずがない。それが嘘だとしたらどうするのか。どうするわけでもないが、とりあえず嘘ではない証拠を見せなければならなくなる。誰にをそれを見せつけなければならないのだろう。ならばさしあたって私に見せてもらおうではないか。そんな自家中毒的試みが可能なのだろうか。何が自家中毒なのだろう。それは君と私が同一人物だと暗に告げているわけか。誰に告げているのか。たぶんそれは誰でもない誰かなのであって、その誰かにも私や君が含まれてしまうのかも知れない。そう述べている限り君には限界がない。限界を無視していくらでも嘘がつけそうに思われてしまう。しかしそれで何がわかるのだろう。何かをわかろうとして嘘をついているのではなく、何もわからないから、それを隠蔽するために嘘をついているのではないか。だがそれ何もわからないことを隠したことになるだろうか。何もわからないということも嘘の一部なのではないか。ならば嘘のすべては何なのか。君自身の存在が嘘だと思われる。私は嘘をついている。では私は嘘をついていると述べていることも嘘なのか。そんなパラドックスはありふれているだろう。何もそんなことを述べるために執拗に嘘をついているわけでもないだろう。何のために嘘をついているわけでもなく、嘘をつくことによって何のためになるわけでもない。要するに君はそこから論理的に飛躍した結論を導き出したいのか。そんな理由をとってつけたように繋げるのは不自然極まりない。本当はそうではないと思いたいのであって、嘘ではなく本音が出現することを望んでいるのかも知れず、言葉を適当に連ねてゆけば、何らかのきっかけによって、思わず本音を語ってしまうこともあるのではないか。たとえばそれは突発的な事故のようなものか。しかしそれの何が本音なのか。今本音を語っていると思われるのはどういうことだろう。どういうことでもなくそれも嘘かも知れない。別に本音で語ることが重要なのではない。そして適当に語っているそれが重要であってもなくても、そんなことはどうでもいいことだ。何を語ろうとそれはどうでもいいことかも知れない。そして本音であってもなくてもどうでもいいことであり、それが嘘であっても本当であってもどうでもいいことだ。とりあえず言葉が連なっていればそれでいいわけはないが、良くても悪くてもかまわないのかも知れず、どのように述べてもそれが何を示しているわけでもなく、どんな状態になっているわけでもないのかも知れない。それはどういうことなのか。あきらめの境地だろうか。


1月18日

 人の行動は予測不可能だ。君の気まぐれにはついて行けない。足の指の爪が伸びすぎているようだ。誰かはそこで何を推理しているのだろう。推理する前に、まずはその事件について説明しなければならないが、そういうやり方は面倒くさい。そんなのは事件でも何でもないだろう。やはりそこで躓いてしまう。誰かの頭の中は混乱の極みにあるらしいが、とりあえず犯人は君ではなかったようだ。事件でもないのに犯人など登場するわけがない。そのとき君は何をほのめかしていたわけでもなく、遠からずやってくる自らの死について何を語っていたわけでもない。君は死ねない。君が死ぬわけがない。死ぬ以前に君は虚構の存在だ。だがそれで何を断言したつもりになれるだろう。作り話の中で誰が死のうとしているのだろう。死は誰を自由にしようとしているのか。誰が何を語ろうと自由ではないのか。自由の話をしているわけではない。死と自由は無関係か。調子の乗って誰かはさらに無駄なことを述べていて、その語りはいつまで経っても内容に至らない。どこまでもそれは違っているらしい。なぜそうなってしまうのだろうか。違っているそれとは何だろう。それがわかっていなかったら話にならない。君は誰に何を語りかけているのでもなく、それをわかろうとしているのでもない。気づかぬうちに君は誰かを不快な気分にさせているようだ。誰かにとって君はただひたすら不可解なことを述べ続け、いつまでも意味不明を装っているように感じられてしまう。要するに常に出鼻を挫かれている。さっきまで眠っていたらしいが、過ぎ去った時間を惜しんでいるわけではない。ひたすら無駄に時間を過ごしている。それはどういうことなのか。君に何がわかるというのか。虚空に向かって何を問いかけているのでもない。虚無は何も語らず、意識はそこから立ち直るきっかけがつかめないまま、ひたすら言葉を記し続ける。それで何を述べていることになるのだろう。心が微かに動揺している。どんな真実を突きつけられているのか。そんな問いかけには動じないか。それでは動揺を隠せないことにならないではないか。何を否定してはいけないのかわからない。ついさっき起こった自らの死を否定するわけにはいかないか。嘘なのだからそんなことはいくらでもできるだろう。物語の中での死にリアリティを感じられないのは精神的な欠陥かも知れない。何に同調できないのか。そこにはいろいろな色がある。死にもそれ独自の色があるのだろうか。死の色を感じながらも、黒く塗りつぶされた文字の中から真実を導き出そうとしているわけか。意味が通らない。何を伝えようとしているのか。何かを見逃しているらしい。それがわからないのなら、君にとっては好都合かも知れないが、さらに意味不明を装えば、さらにわけがわからなくなるだけか。それで何を語っているつもりになれるのか。少し糖分を控えなければ糖尿病にでもなってしまうだろうか。そんな心配をしている場合ではなく、今はただ普通に語ればいいだけか。今の教師には体罰が似合うそうだ。暴力をふるうことによって教室の秩序を回復させなければならない。そういう述べ方が誤解を生む。教える姿勢と学ぶ姿勢が根本的に間違っているのかも知れないが、具体的に何がいけないのか。教える側も学ぶ側も夢を見すぎているということか。そして夢に向かって目標を設けすぎている。何かといえばすぐに目先の利益を追い求めてしまうことが浅はかなのか。たぶん学校で何を教えても学んでも、そんなことが実生活に役立つはずがない。功利主義者にはそれが理解できないのだろう。だからすぐに役立つことを教えたがり、それが学校をつまらなくしている。要するにお仕着せがましいのだ。人の心をゆがませる。ゆがんでいない者などこの世にいはしないか。とりあえずそんなことに真剣になってはいけないのかも知れず、子供の教育など大人になるための通過儀礼に過ぎないのであって、問題視するような問題ではなく、問題以前の何でもないのかも知れない。しかし何でもないとは何なのか。通過儀礼をくぐり抜けてきた君にとってはどうでもいいことか。そんなどうでもいいことに、馬鹿な大人と馬鹿な子供たちが本気になる必要のない場面で本気になっているわけか。何に対しても真剣に取り組もうとすることによって、そこからすぐに命がけの修羅場をくぐり抜けようとしてしまうわけだ。それは恐ろしいまでの無駄だ。時間と場所と命を無駄にすり減らす。神はそれらの痛ましい光景を眺めながら何を思うだろう。ただ馬鹿なんじゃないかと感じるだけか。君ならそう思ってしまうところのようだが、あいにく君は神ではない。神でも悪魔でもなく、単なる虚構の意識に過ぎないのだが、神も悪魔もそれと同類かも知れない。理由など他の誰かが推測すればいいことでしかないが、君はそれについてどう思っているのか。神も悪魔もどうでもいい存在でしかなく、君自身もどうでもいい存在でしかない。ならばそんな君が教育について語る資格などありはしない。それでいい。


1月17日

 君は私の出現を恐れている。嘘がばれてしまうのだろうか。そのとき何を語っていたのか思い出せない。誰かが悲壮感を漂わせて世の中の不条理や社会の不正義を告発しているようだが、それに同調できる立場にはない。そんなことはどうでもいいことか。すべてがどうでもいいのなら、当然何も感じないだろう。完全に自閉している。そこに意識が向かないようだ。思考の方向性が定まらない。いいわけには事欠かない。心に余裕が感じられない。他に何を否定すれば気が済むのだろう。そういう話の流れではない。彼は今頃何をやっているのか。不条理にやられて立ち直れない。誰がそうなのだろう。何も見えなくなっている。周りの状況が見えていないということか。それはいかさまバクチのたぐいだろうか。軽薄に言葉を連ねている。見損なったのは誰の性根か。少々頭が混乱しているようだ。文章が壊れかかっている。君は何をあきらめてしまったのか。そして何を否定したいのか。なぜ幸福になることを拒否し続けるのだろう。それが嘘に違いないと思っているからか。理由など何もありはしない。何事にも本気になれないということかも知れない。それは価値観の相違という理由になるだろうか。実体としては誰に対して何を述べているのでもなく、ただ言葉を選ばず、自然に頼りすぎているのかも知れない。それで何を述べていることになるのだろう。以前と比べると軽くなったように思われる。軽快な感じがする。かつて誰かが拒否した状況に近づいている。もう取り返しのつかないところまで来てしまったのだろうか。後戻りしようのない局面を迎えているわけか。それも嘘だと思いこみたいらしい。ここに至ってなお本気にはなれない。まだ至っていないような気もしてくる。感極まっているわけではない。もとから感動とは無縁だが、それがいつまで続くか予断を許さないわけでもない。たぶんそうではないと思いたいのだろう。いつものことであり、予定調和の成り行きにうんざりしてくる。いったいいつになったら現在の日時に近づけるのか。運も尽き果て、それで困っているとは感じられず、何も手につかず、何を考えているのかわからない。それでも言葉を連ねられると思っているらしい。どうせつまらない自己言及の最中なのだろう。あきらめているのにその先があるらしい。今は冗談で述べていることになっている。言葉以外は何ももたらせず、それは文章にも結びつかない言葉かも知れない。あらゆることが君から逸れている。君は外れた位置に出現しているらしい。何から外れているのかといえば、それは何だろう。何でもないと思われてしまうのはなぜだろうか。頭が混乱しているようだ。霊界で何が起こっているのか。重苦しい雰囲気に包まれながら、吹っ切れないのは君のせいではない。どうも何かが違っているらしい。どさくさに紛れて言葉を繰り出そうとするのはよくない。もと来た道へいつの間にか戻っている。心は誰に何を呼びかけているわけでもない。そのような告発には余裕が感じられない。なぜ心に余裕が必要なのか。君はそれを知ろうとしている。それは誰にとっても重要なことではない。惑わされているのだろうか。何に惑わされているのか。それは誰かの言説に決まっているだろう。危機感を煽っている。このままではだめになってしまう。しかし危機はいつ到来するのだろう。すでに緊急を要する状況なのか。緊急に何をやろうというのか。それがわからない。いつまで経っても危機感を煽り続けているのだからわけがわからない。危機はすでに去っているのではないだろうか。それは危機の幻影であり、抜け殻だけの幻影におびえているだけか。たぶん君たちには何もできないだろう。おそらくそれは何かの罠なのだ。そんな言いぐさ自体が嘘なのではないか。心の中で言葉に対する不信感が渦巻いている。映像に見とれて冗談ではないような気になる。何らかの技術なのだろう。そこまでたどり着けない。途中で何をやっているのだろう。その気がないのかも知れない。頭から離れられない。何が離れられないのだろう。何も思いつかないのではないか。虚無の姿を見たような気になる。誰にとっても真実とはなり得ないのかも知れない。言説の対象が見えてこない。それは虚無ではないらしく、神の言葉でもない。虚しく響き渡っているのは単なる雑音のたぐいか。雑音にうなされてどうするのか。きっと夢でも見ているのだろう。夢の中で青い鼠を追いかけている。そんな話は聞いたことがない。今は聞かなかったこととしよう。その代わりに耳障りな雑音は辺りに響き渡っている。フィクションとはそういうものなのか。それの何が虚構を構成しているのか。言葉で何かを構築しようとしているらしい。無理な話に含まれてしまうような言葉だ。見えているのはそんな風景ではなく、どんな光景でもなさそうだ。戦わずして勝とうとしているのでもない。悪戦苦闘は何よりも好かないが、汗水垂らして仕事の最中のようで、そんな状況で何を夢見ているわけでもない。ただ働いているだけのようだ。


1月16日

 何もやる気にならないから寝てしまう。それで何を語ろうというのか。この国の未来などどうでもよく、この世界の未来などどうでもいい。結局どうにかなってしまうのだろう。どうにでもなってしまう。そこから何を語ろうとしているのか。ターゲットが見当たらないのもいつものことだ。探そうとしていない。真実はどこに隠れているのか。嘘はどこに巣くっているのか。それは嘘ではなく鳥の巣かも知れない。それで答えが求まったわけではない。解きかけの問題が独りでに解け始める。氷の融点はゼロ度だったかも知れない。一気圧でのことか。それの何が嘘なのだろうか。見損なってもらっては困る。そういう話ではないだろう。影はそこからどこかへ飛び去り、烏は何かを無視している。たぶん疲れ切っているのだろう。飛翔するタイミングをつかみ損ねている。何を見逃しているのか。それらの文字列は誰にとっても解読不能か。はじめから読解力を必要としていない。すでに終わっているのだから読む必要はない。読み返す暇がないのか。どこかで何かが押しつぶされる。感性を失っている。よそ見のしすぎかも知れない。それで何がわかったのか。はじめから届いていないのだから、これから繰り返すだけ無駄だろう。手紙の話をしているのだろうか。さっきから語る主体の存在を感じられない。消極的に言葉が散らばっているようだ。受け身の姿勢から崩れ落ちる。すでに睡眠の最中のようだ。惰眠をむさぼっているうちにこんな時間となってしまった。はじめから出遅れているのだから仕方がない。それでも無駄に言葉を繰り出せるだけマシか。今日はそんな心境ではなかったはずだ。日頃の習慣とは恐ろしいものだ。何を怖がっているわけでもなく、日頃の習慣を恐れているわけでもない。君はまだ死んでいなかったのか。生き延びる要素が見当たらないようだが、君はハエのたぐいか。五月蠅い季節ではないはずだ。影とは異界で何を語り合ったのか。次元が異なっているはずだ。理由になっていないような気がする。幻想とはなりがたい。その姿をまとっているのは誰でもない。まったく無駄な言葉が羅列されているだけか。それでやる気のなさを表現しているつもりか。やるせない気分とはまったく違う。意味を解さない言葉を打ち捨て、ひたすら走り続け、息を切らしてどこかへ倒れ込む。何を見いだそうとしているのでもないらしい。要するに馬鹿げているのだろうか。何を語ろうと無駄に決まっている。それが言葉の魔力であるわけがない。幻惑の対象を間違えているのではないか。誰かの幻術にはまっているわけでもない。誰もいないのだから誰かという言葉が虚しく響く。それは虚無からの誘惑だろうか。少なくとも何かにはまりすぎている。気味悪いほどに予言と一致している。成り行き的にそうならざるを得ないのか。さらにわけがわからなくなる。今こそ理由を見いだしたくなる。そうなってしまう理由を教えてほしいか。誰かは幻想の虜のようだ。苦笑いとともにそんな嘘を認めつつ、自らが嘘をついている姿を遠くから眺めている。その内容があまりにも白々しい。まるで危機感が欠如している。そんなやり方でかまわないのか。成り行きまかせとはそういうことだろうか。ここらで一服している余裕さえ感じられず、ひたすら適当に述べ続け、終わりに向かってまっしぐらというわけか。それで何の理由になるのだろうか。別に生き急いでいるわけではない。それどころか他人からは二十年近く出遅れている感もある。それが冗談の一部始終だとは思わない。たぶんそんな嘘から生じた話なのだろう。何も語らずに何かを記し続ける。黙って沈黙について記す。それが沈黙のすべてだろうか。つまらないウケねらいを見透かされているか。誰に向かって何を語りかけているのか。君に秘密など何もありはしない。君自身が空疎なのだから、そこに虚無が宿っているわけがない。虚無は空疎ではないらしい。虚無には虚無の言い分でもあるのか。それが何なのだろうか。何でもないとしたらそこから何が出現するのか。何かが出現する予定はない。予定ではなく、確実に出現しつつある。予想の範囲内に言葉がまとまっている。今はそれで満足すべきなのか。過去においてはどうだったのだろう。未来においてどんな事件に遭遇することになるのか。何となく何かを語るのが億劫になるだけか。それについて何を説明できるだろう。まだその段階ではないのかも知れず、今はただむやみやたらと言葉をはき出し続け、それで何かを述べたつもりになっていなければならない。何となくそんなやり方で辻褄を合わせようとしているらしく、それが何かの理由付けになっていることを期待しているふしもある。しかしそれで何を予言していることになるのだろう。これからこの世はどうなってしまうのか。何を心配しているのでもなさそうだ。君には偶然が味方してくれるだろう。そんな予感がしているのは勘違いのなせる業か。たとえ勘違いであってもかまわず、それが勘違いだとわかるまでは偶然を信じていればいいだろう。それが信仰なのか。


1月15日

 昨日のことは今日のことで明日のことも今日のことだ。何を強引にこじつけようとしているのか。それでもまだ今日にならない。気がつけばそこで時間が止まっている。もう少し言説を真実に近づけられないものか。君は自らが述べている内容を把握していない。言説が今日に近づくことを恐れている。そんな嘘は意味不明だ。何に反発しているのでもないが、それを拒絶しているわけを知りたいか。またわけのわからないそれが出現して、意味の通った文章になっていない。昔からそうだったのかも知れない。突然の雨に何を思うだろう。心配事があるにはあるが、それはどうにもならないことだ。君は自らに何を課しているのだろうか。それが日課となっているようだが、それとは何なのか。何が君を苦しめているのだろう。読めるはずのない文章が構成されようとしているが、まさか古代の象形文字で記されているはずもなく、ただそんなことが述べられているだけだ。それを読むのが億劫になる。誰がつまらない文章を記しているのだろう。君はそこから何を知りたいのか。滑らかに移ろうそれをどう評価すればいいのだろうか。それとは何なのか。決まり文句の一種か。何も示すことができない。文章の中で言葉以外は皆幻影に近づく。それは誰の意志なのだろう。わかりようのない状況が到来していて、うかつにも君は物忘れを犯してしまう。それがどうしたのか。その時点ですでに忘れているのだから仕方がない。肝心のそれを思いつけない。まだ間に合うだろうか。だいぶ今日という日付から遠ざかってしまったらしいが、遠くから眺めている過去から未来へと、何が受け渡されようとしているのか。たぶん君とは無関係なのだろう。過去においてそんなことを述べていたらしいが、それを今さら反復してどうするのか。まったくやる気にならない。それでも君は言葉から逃れられない。いくら逃げてもやらざるを得ない宿命なのか。なぜやめてしまえないのだろう。もうそこまで死期が迫っているのではないか。それは誰の死期なのか。架空の死期が物語の中で生成しているわけでもあるまい。そういう話ではなく、嘘や冗談のたぐいかも知れず、それらはまわりくどい言い回しの中で真実味を失いつつある。話の内容が定かでない。まだそこまで行っていないのかも知れず、仮にそこまで行ったとしても、そこから先に何かしら言葉が連なっているのかも知れない。それを君はどう読めばいいのか。立て続けに無意味なことを述べているような気がしてくるが、それで何を述べているのだろうか。乱視気味の人々は少々苛立っているようだ。視力検査で引っかかり色盲の気があることになっている。白黒の画面上で影に隠れてその場を動き回っていた頃が懐かしい。それこそ意味不明の最たるものか。冗談でそんなことを述べているのだから仕方がない。そしてたぶん今は本気なのかも知れないが、そんな風に嘘をつく必要がどこにあるのか。君は周りの状況を把握していない。そしてさらに臆病になり、外に出るのが億劫になる。眠気が徐々に意識を蝕み始め、一日中眠っていたくなるが、状況がそれを許さず、それどころか睡眠時間を削って意味のないことを述べている現状まである。無駄に言葉を費やし、意味不明に見せかけながらも、文章の中に誰かの心情が人知れず発露している。そんなことがあり得るだろうか。気がつけば言葉遣いがおかしい。心の病の一種だろうか。そこまで行ってしまえる気分ではなさそうだが、ではどこまで行っているかといえば、さっきよりは少し虚無から遠ざかれたかも知れない。もう少しで解放されるような予感がしてくる。過去の記憶がよみがえりつつあり、わざと記憶喪失を装っていて誰かのことを批判できなくなる。そのとき君は何をやっていたのか。まだそこまで行っていない。至り得ない地点に誰かの秘密があるとすれば、それを君が知り得るだろうか。いったん知ってしまえばそれは大したことではなく、知り得ない間だけ魅惑を醸し出しているのだろう。何かを知ってしまいたい衝動に駆られて、思いがけない台詞が口をついて出る。まだそんなことを述べるべきではないか。述べようとしている台詞の存在を知らず、それについて何をどう述べたらいいのかわからなくなる。見え透いた嘘でもかまわないのだろうか。苦し紛れのうめき声でもかまわないのか。苦渋の選択とは何だろう。何を選んでそこへ提示しているのか。人々は互いに争いながらも、そこから抜け出ることを拒み続け、さらなる混沌を楽しんでいるかのように感じられてしまうのはなぜなのか。言葉はまわりくどく迂回しながらも、真実を語ることを拒み続け、そこから抜け出られないことをむしろ喜んでいるかのように思われ、そうやって絶えず君を困らせ、真実を隠蔽しながら、誰かが胸一杯の愛を歌い出す。そんな風に述べていると頭痛がしてくるらしい。わざとらしくも執拗な痛みで目が覚めて、自らが何をやるべきかを知り得ないことに戸惑い、さらに今語りつつある文章から意識が遠ざかろうとしているらしい。


1月14日

 心の乱れは文章に反映するらしい。何やら冗談のようなことを述べている。たぶん待ち続けていればいつか誰かに巡り会い、わけのわからぬ状況に身をゆだね、そんな予言が外れていたことを思い知るだろう。しかし肝心の予言の内容が未だに明かされていない。誰かに向かって放たれた予言の言葉が君には届いていないようだ。そのとき彼は何を予言したというのか。それがわからないのだから、要するに予言も何もあったものではないということか。君は誰の立場を踏襲しているわけでも占有しているわけでもない。そこからさらに飛躍する可能性を探っているらしいが、目下のところ飛躍が意味するところの状況が見えてこない。いったいそれらの文章の内容がどうなればいいのかわからず、どんな言説に同調する気配も感じられない。なぜ他者が弄する言説を嫌うのか。今はそれを利用しまくって自らの言説を膨張させる必要があるのではないだろうか。だがそれはその場の思いつきでしかないだろう。本気でそんなことを述べているわけではないらしく、心の中で何かのたがが外れているような気になり、ただ一心不乱に作業を継続させている風を装い、また別の時間帯では何も考えず、自らがやってきたことの反省をふまえ、そこからよりよい行動を起こすための方法を模索しているわけか。しかしすべては同時進行なのであり、一つのことに専念するほど余裕はない。時間的にも状況的にも切羽詰まったところでしか文章を構築できず、それ以外の状況は考えられないのではないか。現状とはそんなものなのだろう。しかしそうでなければ何を語れるというのか。弛緩しきっていればより空疎なことを語れるかも知れないが、それで何を語ったことになるのか。そこから虚無以外の何を抽出できるというのか。現に語っている内容はそれだけでしかない。それでこの世界を肯定できるだろうか。何を肯定するために言葉を弄しているのだろう。たぶんそれはフィクションではない。ならば本心からそう述べているのだろうか。そこから何を把握しようとしているのか。話の筋が一向に見えてこないが、劇的な展開に持ち込むためにはそこで立ち止まらなければならない。登場人物の心に隙を生じさせなければならず、その隙を突いて会話や行動を差し挟まなければ劇的な展開になりがたい。要するに絶えず登場人物の弱点が必要とされているわけだ。些細な感情の行き違いから生じる言い争いも、誰かが論破できる程度の内容にしなければ、物語の進行がそこで滞ってしまう。だから理解不能で意味不明な虚無は極力排除されなければならず、何とか説明可能な範囲内で話が進行しなければ、何を語っているのかわからなくなってしまうだろう。しかしそれだけではつまらない。そのままではあるがままの現実に近づけない。やはり齟齬や軋轢のたぐいが必要なのか。要するに頻繁に言葉に詰まって押し黙ってしまわなければ、それは現実からはほど遠い劇的な物語となってしまう。その程度で満足していてかまわないのか。自らの言動や立場を自らの言葉で説明しなければならないような事態を招いて、それを見聞している第三者に話の内容を理解させなければならなくなる。そういうわかりやすさを追求していてかまわないのだろうか。誰に向かって何を語っているのか。君は物申す相手を間違っているのではないか。気がつけばそこには誰もいない。物語の登場人物はとうにどこかへ退散してしまったらしい。くだらぬわかりやすさに呆れ果て、愛想を尽かしてしまったのだろうか。まったく間違ったことを述べているような気がする。君は誰のことを述べているのか。それが君のやり方なのだから仕方がない。しかしそれ以外に何も思いつかないのか。いったい何を思いついているのか。まだ言葉が足りないのだろうか。また何を述べているのかわからなくなっているのかも知れず、そのわからなさ加減に呆れ果て、なぜ呆れているのかもわからぬまま、その先に言葉を連ねようとしているようだが、明かりを消した部屋の中で何を装っているのだろう。心の病はどこから到来するのか。それは心臓病の一種だろうか。ゴミくずのような人々がそこに群れ集っている。もはや物語の登場人物などにはなり得ず、何かが記された紙切れを握りしめ、ただ押し黙ったまま、薄汚れたその場にうずくまる。それは誰かの悲報なのだろうか。虚構からほど遠いわけのわからなさが、紙切れの片隅に微かに記されているらしい。それで何を醸し出しているつもりなのか。つもりではなく実際に数式のたぐいが数行記されていたはずで、それを解き明かして答えを導き出そうとしていたのではなかったか。しかしとっさの機転が生じるはずもなく、今はゴミ箱の中で他のゴミくずと一緒に無用物となっているその紙切れを、新たに誰が活用しようとしているのか。そういう話ではなかったはずだ。わざと言葉を入れ替えて、話を脱線させたつもりになっているようだが、それらの逸脱した言葉の連なりを読んで、誰もおもしろいとは感じないだろう。それが君のねらいなのか。


1月13日

 なぜか深夜になっている。いつものように取り立ててその状況に意味はない。時間的にはそうなのだろう。誰かは時間をもてあましているのだろうか。それほどの余裕はないはずか。それは自問自答の時間のようだ。しかしそれで何かおもしろいことを述べられるわけもなく、ただ淡々と言葉を連ねる作業を積み重ねている。つまらないことをやっているらしい。なぜ遅れてしまうのか。それは無理だからだ。何が無理かといえば、その作業を積み重ねることが無理なのだ。そんな風にして答えはすでに出ている。それでもまだやる気になっているのだろうか。とりあえず今は深夜ではない。たぶん誰かは何を求めているのでもないようだ。日付的にかなり過去の時間帯に属しているらしいが、そこで何を学ぼうとしているのか。まさか老荘思想からくだらぬ功利主義を導き出せるはずもなく、時間的に数千年もずれている複数の状況から現代に役立つ思考を構成できるわけもない。今さら荘子の原理も何もない。要するに君は思わせぶりなのだ。わかりもしないことに首をつっこもうとしている。大衆化路線を踏襲するとすれば、老荘思想よりもまずは孔子から学ばなければならない。そして学んだつもりになって、何かわかったようなことを述べるのが関の山のはずだ。そうではないとすれば、そこからどんな言説を構成しなければならないのか。そのとき伊藤仁斎は何を述べていたのだろう。他者に対する配慮や思いやりぐらいのことなら、誰にとっても馬耳東風になるだろう。それに関して何もわかっていなくてもどうにかなってしまう。まったく原理からはほど遠い言説に終始しているようだ。君の言説は理論には当てはまらない。誰に対しても配慮を欠いている。過去の記憶をたどっていくと、そのとき何も覚えていなかったことに気づき、そうやって探していてものがやっと見えてくる。君はそのとき何も探していなかったのだ。誰かの妄想は君をどこまで導いて、そこで何を語らせようとしたのか。何が見えていたわけではなく、そこには確かに道がなかった。見渡す限りの荒野に石や岩が転がり、雑草がまばらに生えている。狭い範囲での努力はある程度報われ、何らかの成果を努力し続ける者の身にもたらすだろう。そして君は何も得られないことに不満を抱く。努力している者と君は無関係なのだから仕方がない。時の流れに身をゆだねていると、やがて自らの老いに気づき、何もなしえていないことに焦りを覚える。これから何をやったらいいのだろうか。もう少し現状を肯定してみたらいいのではないか。何もないなりにそれになりに言葉が積み重なっている。それをどう肯定しろというのか。すでに言葉のすべてを出し切ってしまったのかも知れず、これ以上は何もないのかも知れない。何もなくても空疎な思いならいくらでも構成可能だ。弛緩しきった頭脳以前の無意識は、くだらないと思うのと同時に魅惑的な現状の中に何を構築したいのか。空疎な文章ならいくらでも構築可能だ。腕が筋肉痛になるほど言葉を記せる。そんな思い上がりとともにくだらぬ妄想が養われるのかも知れない。彼はそんな風にして生じた妄想の何を嫌っていたのだろうか。社会に蔓延している利潤追求論理から犯罪が導き出されてしまうことの何が不愉快なのだろう。システム自体が犯罪を必要としている。それは呪いの一種だろうか。成功者に対する嫉妬や羨望などの感情が絡むと自ずから呪いが生まれてしまうか。そういう水準で何を述べてもそれだけのことでしかないだろう。自分もその成功にあやかりたいだけか。目的はいつの世でも単純明快か。そこから単純化された誰かの思想でも借りてくれば、自らのやっていることの理由付けが可能となるわけだ。しかしそれで何をわかったことになるのだろう。どん欲に有形無形の資産を獲得しようとする精神に思想など似合わない。それは思想以前の動物的な欲望がそうさせているだけだ。そんなあらゆる物事の獲得競争の中で、他者に対する思いやりを説くとすれば、情けは人のためならず的な紋切り型に落ち着くしかない。その程度のことで言説を展開している自らが恥ずかしいとは思わないのか。まったく老荘思想も儒教も何もありはしないだろう。そんなていたらくの中で何をどう申し開きができるというのか。何を謝る必要があるのか。たぶんそんなことを述べているすべてが冗談から生じているのかも知れず、君は何を述べてもおもしろ半分で述べているのであり、まったく本気からはほど遠い気分に意識を浸食されている。そしてどう述べてもそんな見解しか導き出せないのだとしたら、それは現実から逃げている証に違いない。現実が構成する複雑怪奇な作用から逃れるために、言葉を隠れ蓑に使っているわけか。それでは意味不明だろう。何を語っているのかわけがわからない。要するに嘘も方便ということか。さらに意味不明に思われ、精神が壊れているのかも知れない。それが今述べられるいいわけの限界点に位置しているようだが、もういい加減にやめた方がいいのではないだろうか。


1月12日

 それはシステムではない。あるシステムと別のシステムを関係づける偶然性か。ではそこからさらなる便利さや効率を追求できるだろうか。昔に比べれば世の中が便利で効率的になったように思われる。そんな思い違いはありふれているだろうか。ならば逆説とは何だろう。たとえば事実が間違っていて、その事実を基に構成されたフィクションが真実を体現していたりするだろうか。そこから何を語れるはずがない。心は意味をなさない言葉に埋もれている。どうやら誰かはくだらないことで悩んでいるらしい。やるかやめるかの判断を下せない。やろうと思えばいつでもやれるような気がするが、逆にやめようと思えばいつでもやめられるような気がする。何をやろうとしているのでもなく、何をやめようとしているのでもない。たぶんそのどちらもが間違っているのだろう。どちらでもないのにそれを続けようとしている現状がある。それとは何なのか。語ろうとしているのは現状ではなく、それ以前の状況かも知れない。今となっては過去の出来事にすぎない。では今は何をやっているのか。まるで見込みがなく、何の計算も成り立たないが、誰かはやめる理由を求めているのかも知れず、やめようのない状況なのにやめようとしている。降りられないところで降りるつもりのようだ。要するに愚かなことをしている。それで何を手に入れることができるのか。こだわるべき態度を知らず、読み返すべき文章を読む気がしない。読み返さなくても読んでいるつもりになれる。意味を解せなくても読んでいる事実は揺るぎない。それで何を理解したつもりになれるのか。わかっているつもりのそれは何なのか。何かの偶然が作用して書物の終わりに立ち会っているにすぎない。だがそれは何年前のことなのか。今は終わりのない世界に暮らしているらしく、絶え間なく情報が行き交うだけのネット上に何らかの真実を見いだしているつもりらしい。誰もがそれを望んでいたわけではない。一部のひねくれ者は誰にも理解できないような状況の到来を期待している。今がそれではないのか。誰がそう思いたいのか。誰が何を理解しているというのだろう。いったいこの世界はどうなってしまったのか。相変わらず君は文章がいわんとしている意味を解せず、いつもそこで立ち往生か。別に死んでいるわけではなく、不死身であるわけでもない。便利さや効率性に背を向けている時間もあるにはあるが、回り道をしようと思えば時間が許す限りいくらでも可能である状況において、君があえてそれをやる必要があるだろうか。何に逆らっているとも思えず、何に従っているとも思えない。ただかたくなに現状を否認しているように思われてしまう。何を否認しようと現状は何も変わらず、相変わらず用をなさない言葉に埋もれたまま、そんな風にして言葉を弄しているのにもかかわらず、未だに誰が何を語る気配も感じられない。その辺が君の限界のようだ。限界ならとっくに過ぎているだろう。眠たくてたまらないのではないか。どこかで本道を外れているらしい。そのとき君はこの社会を覆っているかに思われるシステムについて何を述べようとしていたのか。それはどのようなシステムなのか。システムが何を目指しているとも思われないが、たぶんそのシステムに組み込まれながら、君は何かをやらなければならないのだろう。今それをやっている最中なのではないか。無駄に言葉を組み合わせてシステムについて語ろうとしているようだが、そのシステムが何なのかうまく説明できずにいるらしい。君には理解できないのかも知れない。理解する気が起こらないのか。それを見いだしたいようだが、それとは何なのだろう。システムとは何なのか。戦う理由がないのに戦うことの何がシステムなのだろう。それは亡霊のたぐいだろうか。何かよからぬ策略が至る所に張り巡らされていて、いったん誰かが仕掛けた罠にはまってしまうと、自動的に誰かと戦う羽目に陥ってしまう。最悪の場合は殺傷沙汰になり、相手を殺して死体の捨て場に困り果て、バラバラに分解して路上に放置する以外にやりようがなくなってしまうらしい。そこまでやる暇がなく、自分の部屋のクローゼットに仕舞い込んでいた若者は哀れだったが、いずれにしてもそんな状況に陥ってしまうのは何に原因があるのだろうか。被害者も加害者も幻想や妄想に浸りすぎているのか。たぶん現実を遙かに上回るほどそれらは魅力的なのだろう。そこには何らかの目的があり、その目的に向かって努力し励んでいる最中の者たちは、現実の無意味さに耐えられなくなってしまうのかも知れない。そこに暴力が発動するきっかけが潜んでいて、日頃の鬱積していた不満が出口を求めて一斉に押し寄せる。こんなはずではなかったことが許せなくなってしまうわけだ。現実はいつもこんなはずではないことを忘れて、今こそそれを覆したい衝動に駆られ、暴力によって一時的に思い通りになったことに狂喜し、次いで後悔の念が有頂天状態から奈落の底へ突き落とす。暴力はそういうシステムなのだから仕方がない。


1月11日

 それは何かを予知していた証なのか。まだそんなところで迷っているのか。誰が迷っているのだろう。コーヒーでも飲み過ぎて胃が痛くなりたいところか。なぜそんなことをやる必要があろうか。いくら探しても逃げ道が見つからないようだが、何に追われているのだろう。ただ時間に追われているだけか。すでに追い越されているのではないか。どうやらターゲットは君ではなかったらしい。君は何に関心を向ければいいのだろうか。別に砂漠を横断しているわけでもなく、経験もないのにそんなことを述べるのは間違っているかも知れないが、たぶん砂漠にも興味を惹く対象はあるのかも知れない。あるどころではなく、是非とも観光気分で行ってみたいのではないか。君はどこまでも気楽さを追い求めている。達成できない目標を前にして、それを忘れようとしている。何をそんなに忘れたいのか。気が散ってそんなことを思い出すどころではないか。なぜ気が散っているのだろう。何から影響を受けてそんなことを述べているのか。君はそれをわかろうとしていないようだが、他に何をやろうとしているわけでもない。いつものように何もやらずに言葉を導き出そうとしている。そんな言葉など記すに値しないか。ならば何をどう述べたらいいのだろう。余計な言葉を記さなければ文章として成り立たないのではないか。それはどのような文章なのだろうか。今記しつつあるそれとは別の文章なのか。君は今何をやっているつもりになっているのだろう。意味のない問いかけが連発しているようだ。できるならそこから大きく舵を切って、まったく別の方角へ向かいたいところだが、それができないからこそ、わけのわからない成り行きに身をゆだねているのではないか。それをわかってしまいたいと思っているのは誰だろう。君はいつまで経っても私に出会えない。意味のない問いかけばかり繰り出して、終わりを迎えることを拒否し続ける。いつかは終わる宿命なのに、それをかたくなに否認し続ける。そこから何を語ろうとしているのか。煩わしいだけの迷路など取り払って、まっすぐな道を歩んでみたらどうか。そんな心境に至るまでが迷路の連続かも知れず、それが目的ではないのかも知れない。目的など何も思い浮かばない。そんな述べ方では、誰が何をやろうとしているのかわかることはない。だがそんな見解を述べているのは誰なのだろう。そんな問いかけ自体が鬱陶しくて仕方がないと思っているのは誰なのだろう。その辺で終わりにしないか。終われないからこそ、時間に追い越されてなお時間に追われていると感じてしまうのではないか。それが原因でないとすると、いったいどこに原因があるのか。何を述べたいのだろう。君の知らぬ間に言葉が踊り出しているようだが、それは一時の気の迷いに違いない。さらに迷い続けて、正気を失っているのかも知れない。どう述べても因果応報とはいかない成り行きに浮かれているらしい。愉快でたまらないようだが、なぜそうなのかわからない。ただ何となく浮かれている。明日も晴れるだろうか。それは何日前の青空になるのだろう。誰かは誰のためにそんなことを述べているのか。そんな風に述べるべきではないのかも知れない。迷いながらもそこから逃げている。語る対象を見いだせぬまま、さらに言葉を連ねようとしていること自体が間違っている。そしてまたもやわかりきった結論に導かれつつある。そんなことを述べるべきでない。難儀しながら一山越えて、またもや前方に障害が立ちはだかる。それをどう避けて通ろうか。見え透いた嘘でもついてその場をごまかすか。その嘘が思い浮かばないのはどうしたことか。嘘でないからそうなってしまうのか。では何が真実なのだろう。それならその場で記すことが可能か。すでにその場に君はいない。君が記そうとしているわけではないが、その場に誰もいなければ、何が記そうとしているのか。言葉はどこまでも空疎な雰囲気に染まっている。それは言葉ではないのかも知れず、その場では誰が何を語っているのでもないのかも知れない。要するにそれは内容を知らぬ言説になっているようだ。そんな言説がどこにあるのだろうか。その場は架空の場であり、いい加減な言葉が組み合わさって、その場という言葉が文章の中に配置されているだけだ。たぶんそれで何かを述べていることになるのだろう。その何かによって文章が継続され、何かが何なのか明かされぬまま、所有者の定かでない言葉が延々と連なって行く。誰かはそんな妄想を抱いて、それが気晴らしと思いこんでいるようだが、心に余裕が感じられないのはどうしたわけだろう。まだ気を抜く段階ではないということか。時間的に遠く外れて言葉を記している感覚が、何となく気休め的な文章をその場にもたらしているのかも知れない。腰の痛みがぶり返してくる。どうやら長い時間座っているのがつらくなっているようだ。そんな弱音を吐けば、その気になって誰かの同情をもたらし得たつもりになれるだろうか。何となく嘘っぽい状況を言葉が奏でているようだ。


1月10日

 なぜそこから顔を背けているのか。現実から逃げているようだ。心を空っぽにしておかないと何も思い浮かんでこない。そんなわかりきったことを今さら述べるのは焦っている証拠か。いつもわからないが、さらに何を述べていいのかわからなくなる。何となくくつろぎすぎて意識が言葉から外れているようだが、それはどういうことなのか。どうもそうではないらしい。何とかそれを否定したいようだ。それとはその状態を指しているのかも知れず、それに関して何を思っているわけでもないが、それとは何だろう。今それを述べたではないか。それはわざとらしい言葉の循環か。何も思い浮かばずに切羽詰まった状況になると、いつもの自己言及が発動するようだ。それは単なるごまかしにすぎないのか。やはり君は至る所で過ちを犯している。そしてここからがどうにもならないようだ。空を見上げているといくら間違ってもかまわないような気になる。どれほど道を踏み外してもどうなるわけでもない。実際にはどうにかなってしまうのだろうが、言葉の上では何ともないような気になる。空は晴れ冬の日差しを背に受けて烏がしきりに鳴いている。何か烏なりの主張でもあるのだろうか。そうではないだろう。それは間違った思いこみのたぐいかも知れないが、今のところ君には何も主張がない。ところで君は私を覚えているだろうか。そこで君は誰かに出会ったはずだ。そことはどこだったのか。私とは誰なのだろう。君が私でなければ、私は君でないということになるだろうか。君は私を生かさなければならない。そんな義務がどこから生じてくるのだろう。何を述べてもそれは私の言葉ではなく、見知らぬ誰かの域を出ない言説に、誰かはその身をゆだねている。かなり文法的に間違っているのではないか。文章として意味が通らない。そのとき誰かが助け船でも出してくれるのか。まだ困っている段階ではない。にっちもさっちもいかなくなった時のことを思い出してみよう。心が動揺している。なぜ論点や争点をずらそうと試みるのか。どこで何が論じられていたりするのだろう。なぜかどんどん言葉がずれていってしまう。それを述べている誰かが君でも私でもないとすると、それらの文章の所有者は何を主張すべきなのか。誰が何を所有しているのか。それはいつもの紋切り型だ。ひたすらそれを語っている誰かは君とはどんな関係にあるのだろうか。その誰かが誰なのか思い出せずに、君は今日まで無駄な歳月を孤独のうちに過ごしてきたはずか。たぶんその歳月は思い出せない誰かとは無関係な日々だったのだろう。今さらそんなことを述べて何になるのか。それでは話の辻褄が合わないか。わざとそうしているのだから仕方がない。君はそんな言葉を無駄に費やしながらも、じっと待ち続けている。気がつけば何かが動き出しているようだ。いつの間にか最悪の精神状態から抜け出しつつあるらしく、鬱から躁状態へ切り替わる時を見計らって、何か積極的な行動に打って出ようとしている。しかしその何かとは何なのだろう。気休めでもかまわないから、何か具体的な行動の動機や目的でも語ってみたらどうか。下界では様々なことが起こっている。魂がそこへ降りてゆく途中で何を準備すべきなのだろう。なぜか意味不明だ。それが理解可能かどうかわからないが、とりあえずそれについて述べなければならない。だがそれとは何だろう。なぜそうなってしまうのだろう。なぜそれを知ろうとしているのか。この世界がどうなろうと君の知ったことではないはずだ。それが君の捨て台詞だとしたら、そんな台詞を残してどこへ立ち去ろうとしているのか。だが捨て台詞とは何なのか。なぜそこに君が出現してしまうのか。架空の存在ならもう要らないか。無意識の中で何かがリセットしているらしい。記憶はまだ残っていて、執拗に持続しているようだ。それが半端なことだとは思わないが、もうどうにでもなってほしいとさえ感じていることは確かなようで、いったんそうならなければ何も述べられないらしいが、相変わらずきっかけがつかめていない。頭の中に情報が入ってこない。何かが果てしく繰り返されている。それは以前と同じような状況だろうか。何を信じて生きているのか。何を批判する気にもならないか。それがどうしたというのか。ただ単に忙しすぎるだけか。要するに頭が混乱しているように装っているわけか。何も信じられるものがない。特に言葉は信用できない。君は架空の地平に向かって歩んでいこうとしている。それが君の無意識に望んでいることなのか。そんな嘘を平気でついているのは誰なのか。わざとその場に支離滅裂を醸し出そうとしているようだが、虚しい試みに固執しすぎている。それで何を理解できたというのか。理解しようとしているわけではなく、何をわかろうとしているわけでもない。ただひたすら何か適当でいい加減なことを述べ続けている。それ以外に何を述べられるというのか。たぶんそれでも何かしら言葉を連ねているのだろう。そうしていないと現在からさらに遠ざかってしまう。


1月9日

 さっきから何も進展していない。君は話の成り行きから何を推測しているのか。確かなことは何も述べられず、いつまで経っても曖昧な言動に終始しているようだが、とりあえずそこで戦う理由を求めているのは架空の登場人物だ。誰かがマンガの中で何かを語ろうとしているらしいが、それがくだらぬ妄想であることは一目瞭然であり、そんな妄想を導入しなければ物語を持続できないのは、マンガというメディアの構造的な欠陥かも知れない。そういうことを述べてはまずいのかも知れない。たぶん批判すべきでなく、真に受けるべきではないのかも知れない。そんなありふれた構造をまといながらも、たまにはその中に真実が現れることもあるらしく、それについて語るには一筋縄ではいかない複雑さをもっているようだ。物語の中では様々な思惑が渦巻いているように装っていて、そこにリアリティが見いだされ、つかの間の感動を味わう。そこには予定調和の話の展開を忘れさせる何かがあり、それによって感動しているわけだ。後から考えればたわいのない話の筋には違いないが、そこに描き出されている人物と人物の関係や感情の織りなす人間模様に心を奪われ、それを読んでいる間は夢中にさせられてしまうわけだ。それの何を否定できようか。その程度の水準をクリアする必要性を感じないのは、自らの緩さと稚拙な思考形態の表れか。たぶんそういう部分を残していないと現代においては正気を保っていられないのかも知れず、あまりに遠い高みを目指せば、たちまち踏みしめている大地が足下から崩れ始め、自らが立脚している場を失ってしまい、何も述べられなくなってしまうだろうか。信仰を否定して真の現実を認識しようとして、それが現実だと思っている幻想をすべて取り去ってしまったら、その後には何も残らないのではないか。誰もが同じことに感動するわけもないだろうが、やはりその時代に生きる人々やその社会によってもたらされたお仕着せの思考や信仰のすべてを否定すべきではないのかも知れない。幻想を抱くに至る必然性を理解した上で、そのような話の展開をもたらす必然性をも理解しなければいけないだろうか。それをいくら理解したところで、そこで終わりとなるわけでもないだろうが、とりあえずそれはそれとして認めなければならない。何を高みから論じたつもりになっても、論じている自らが高みから見下ろしている気になっていてはまずいのであって、それはただの思いこみでしかなく、そんな高み自体が虚構の高みでしかないことも自覚すべきだ。しかしそれで何がわかるのだろうか。そのすべてが幻想だと思っていてもかまわないが、実際にはすべてが幻想であるわけがない。現実に君はそこで息切れしている。疲れている自覚もないのに昼間から眠気を催している。何も思い浮かばずに無気力なふりをしつつ、それでも何かしら言葉を連ねようとしている。やはり人の心には幻想が必要なのか。それはどんな幻想なのだろうか。人それぞれで抱く幻想の種類も異なるだろうが、とりあえずそれは自分にとって都合のいい状況になってほしいということだろうか。生きていれば誰しもが思い通りに生き続けたいと思うところか。そんな当たり前のことを述べたところで、何を述べたことにもならないだろう。どうやら物語の中の登場人物は他の仲間に嘘をついているらしい。それは物語を終わらせるための布石なのか。君はどうやってそれらの言葉の連なりを終わらせるつもりなのか。君が終わらせるのではなく、言葉が終わらせるのだろう。そのままでは近い将来において必ず行き詰まる。またわかりきったことを述べて時間稼ぎでもやっているわけか。すでに今でも行き詰まっているではないか。その行き詰まりと終わりを迎えることにつながる行き詰まりとではどう違うのか。何が違っているわけでもなく、現時点では何も決まっていないのではないか。終わり方すら決まっていないのに、終わりが見えてくるわけがないだろう。それでも君はその先を推測しようとしている。そこにわずかな望みがあることを信じて疑わないようだ。いったいそこからどう話が展開すると思っているのか。たとえば見えていない風景が不意に目の前に現れたりするわけか。誰がこの世界を終わらせようとしているのだろう。終わりの光景を夢想することで何がもたらされるというのか。誰がそれを命じているわけではない。誰に指図されているわけでもなく、どのような目的があるわけでもない。マンガの中でもったいぶって誰かがつぶやいてみせる世界征服なんていう台詞は単なるこけおどしの方便に違いない。物語の中でもそれが達成される見込みはなく、浅はかな読者や視聴者を一時的に驚かすために、気まぐれで物語の中の登場人物につぶやかせてみせるだけか。しかし誰がそれを真に受ける必要性を感じているのか。君はそういう話の展開にどんな徴候を感じ取らなければ満足しないのか。いつもながらの少年漫画的な事大主義に呆れかえるべきなのか。たぶんそういう台詞に心が反応してはいけないのかも知れない。


1月8日

 そんなことを述べてどうするのか。またいつもの昼の中に意識が戻ってくる。何を述べているわけでないと思いたいところだが、何かを述べずにはいられないのだろう。それで気が休まるのなら切羽詰まった雰囲気もまんざらではないか。君はわざと矛盾したことを述べて誰かの意識を刺激したいのだろうか。それで何になるのか。見渡す限りの晴天には何を期待しているのか。晴れた空には雲を探すことを拒絶するような意志が感じられ、そんな思い過ごしを記すことをはばかられる雰囲気を遮る羞恥心を遠ざける。そんな言葉の連なりをまともだとは思えず、急いで何らかの修正を施したくなり、何やらまとまりの欠ける思念をつかみ損ねて、あきらめの境地に至ることもできず、何をあきらめた方がいいのか判断がつきかねる。誰かの心の中で何らかの策略が渦巻いている。それも思い過ごしの一種に違いないが、誰かは何が勘違いなのかわかろうとしていないようだ。そこからどんな言葉の連なりが導き出されるのか。たぶんそうではないと思いたいのだろうが、つかみ損ねている現状がいつの間にかわかりかけてきているようで、意識はそれについて何か述べてみたいらしい。もう後戻りはできないのだろうか。何をそこで躊躇しているのか。眺めている風景は時の経過とともに移り変わり、今やそこから懐かしさすら感じ取っているようだが、それがかつて見慣れていたものとは微かに異なった趣を醸し出していることに気づき、そこから新鮮な印象を得ているのかも知れないが、それによって何を語ることができようか。今語っているそれとはどう違うのか。いびつな感情から遠ざかり、すでにそれを忘却の彼方に追いやろうとしているのに、現実にはなかなかそこから離れることができず、気がつけば不意によみがえってくる記憶を反芻する毎日に嫌気がさしているのかも知れない。それで何に気づいているつもりなのか。立ち直りかけた心をすぐに傷つけるには及ばない。少しは休息が必要なのだろうが、いったん休んでしまえば限りなく怠けてしまうような気がして、何とかそこで踏みとどまり、その先を続けなければならないと思い、よどみなく言葉を連ねている最中のようだが、それで何を語っていることになるのか。またいつもと同じようなことを述べているわけか。だからそうではないと思いたいらしい。そうでなければ何を語ることができようか。相変わらず空はどこまでも晴れ渡っている。まるで自らに妥協しようとしないかたくなな意識をあざ笑っているかのように無関係だ。またその場しのぎの矛盾した言説に終始しようとしているらしい。時に追いつけないことのどこがおかしいのだろう。現実と意識のずれを幻想で補えないのはどういうわけなのか。そこまで幻想という言葉は考慮されていないのかも知れず、この世に君の期待に添えるような言葉が存在するわけがない。そういう思い上がりがどこから出てくるのか詮索する気にはなれないが、どこから怒りの感情がわき出てくるのか、そういうことなら君の代わりはいくらでもありそうだ。この世界に何が存在しようと、そこから何を導き出そうと、どんなに言葉を費やしても、簡単に批判できるような人格を有している者に未来はないだろう。それを避けるにはどうしたらいいのだろう。まるで腫れ物に触るような対応に怒りを覚える者に何ができるのか。なぜ仕返しに向かってしまうのか。怒りの感情がそうさせていることは確かなようだが、それを何らかの建設的な意志に結びつけられないものか。ぬるま湯に浸かりながらも煮詰まっているのはわかっている。そんな矛盾に直面しながらも、なおも己を押し通そうとする愚かさに他の誰が同情してくれるというのか。たとえ他人の同情を誘うつもりで仕掛けてみても、すでにそんな魂胆はバレバレで、かえって己の愚かさが増大するばかりか。君はそういう作り話をいつ創作することができるだろうか。その気もないのにそんなことを述べている君の方が愚かかも知れない。だが何が冗談なのだろう。繰り出した言葉が君の意志を裏切って、勝手な作り話に移行しようとする傾向があることを、君はどう食い止めるつもりなのか。たとえ食い止めたところで他に何を導き出せるわけもなく、空疎感や疎外感がさらに増すばかりではないのか。しかしそんな作り話に疎外されながらも、さらにいい加減な言葉の連なりを求めているのは、君の中の何が反映されている表れなのか。何を反映しているわけもなく、言葉を連ねている意識は君のものではなく、他の誰かの所有物なのかも知れず、その誰かによって君という言葉が記されているだけか。だがそれで何がわかったのか。誰かとは君でないという嘘をついている誰かがこの世に存在しているだけか。まさかそんなことを述べてしてやったりとは思わないだろうが、たぶんそれらの馬鹿げた言葉の連なりを眺めている誰かの視線を意識しながら、執拗に無駄な言葉の循環を繰り返している誰かにしてみれば、何とかそうやって現在の日付に追いつこうとしているわけか。


1月7日

 いったい君は何を知りたいのか。わからないことはわからないままに放置され、夜は闇の中で自らの様相を認識しようともがいている。もがいているのは君ではない。夜がもがき苦しむわけがないだろう。君が夜でないのも当たり前のことだ。誰に死がもたらされるわけでもなく、誰かが死ねば他の誰が喜ぶわけでもなく、因果が巡って喜ぶ人間にも死がもたらされるわけでもないか。それで何を否定したことになるのだろう。皮肉屋の皮肉は底が浅いか。誰が皮肉に底の深さを求めているのか。他に何を知りたいとも思わないが、たぶん他ではないのは真実に違いない。はたしてそれが真実になるだろうか。それは誰の思いこみになるのだろう。だらしのないことを述べているわけではないと思い、何とか真実に近づこうとしているようだが、それの何が真実だろうか。是が非でもその真実の中身を知りたいところか。君の望みが叶うことはないだろう。なぜそう断言できるのだろう。それは神の言葉なのか。すべて人間が誰かの人生を眺めている。それが自分自身である必要があるだろうか。神に何を期待しているわけでもなく、他人に何を成し遂げてほしいとも思わず、ただ自分だけの殻に閉じこもることもできず、たぶん誰もが世の中の流れに逆らうことができずに、何を知りたいかもわからずに途方に暮れているのかも知れず、そこに神という概念の存在理由があるのだろう。何でもお見通しな存在がいないと心配でたまらないとでも思っているわけか。そういう浅はかな罠に引っかかる輩はそれほど多くないか。しかしそれの何が罠なのか。全能者がいないと何か困ることでもあるわけか。神がすべての人々の願いを叶えてくれるには、神そのものが全能の存在であらねばならないということか。しかし神の恩恵に授かるにはそれなりの供物を差し出さなければならず、それと引き替えにしか願いを叶えてくれないとすれば、それは神が全能でない証拠となるだろうか。要するに神は自らの力を出し惜しみしていて、限られた人にしかその全能の力を貸さないのだから、それは神が不完全な人格を持っていることになる。そんなわけでたぶんすべての人が救われるわけではないのだろう。人は誰でも同じ立場を占有しているわけではない。救われる者がいれば一方に救われない者もいて、神は救われない理由を説明しなければならなくなり、そこから導き出された理由が神の不完全性を証明してしまうだろう。この世界には神にも救えない境遇の者がいるらしく、それは神から見捨てられた者たちとして、他の人々から貶まされ、そうした時代の要請からえたひにんのたぐいが導き出されてしまうか。それは過去の話だろう。今は違うとでも思っているのだろうか。何が違うと思いたいのか。たぶん無関心でありたいのかも知れない。何かを避けて通ろうとしている。それが誰の処世術かも知れず、そうやって何も感じないことを正当化したいのだろうか。何に対して何も感じないのか。何も感じなければ何を述べてもかまわないのか。そう述べているわけではない。ついでに何を述べているわけでもなく、どこへ至りたいわけでもない。言説の方向性を修正しただけかも知れず、何となく虚無へと進みたいのかも知れない。それが虚無だと何でわかるのか。虚無でなければ何なのか。君はそこで神という言葉を使いたくないらしい。たぶんそれは何かの冗談だろう。この世界は征服ためにあるのではない。ただの大地と海が横たわっているだけだ。その名前は人がつけるが、人以外では通用しない名前だ。人は何を名付けているわけでもなく、名付ける対象を間違っているのかも知れず、さらに名付けること自体が間違っているのかも知れないが、固有名がなければこの世界は成り立たない。事物に名前がなくてもこの世界は存在するだろうが、この世界をこの世界として認識できない。固有名は世界をこの世界と認識するための指標なのだろう。この世界の存在する様々な事物にそれぞれ異なった名前がつけられていることが、それぞれの事物に異なった特性が備わっているように幻想させ、別々の役割があるかのように錯覚させ、それによって何かを理解したかのように思わせる。たとえば君と彼とでは容姿が異なり個性も異なり役割も異なる。存在形態の違った事物には違う名前をつけざるを得ない。たまたま同姓同名であった場合には、説明を用いて両者の違いを対比して際だたせなければならない。果ては星や星雲から原子やクォークの種類に至るまで、存在する場所や性質の違いによって分類しつつ、それぞれに名前をつけてそれぞれの違いを認識して、そうした名付ける行為によって、そうした事物が存在するこの世界を理解したと思いこみたいわけだ。実際に思いこむことによって理解しているのだろう。理解とはそういうことなのかも知れず、何かがわかったということは、その事物に名前がつけられたということなのかも知れない。そんなわけで君は名付けられていないので、君が誰なのかよくわからず、君とは別人の誰かもよくわからない。


1月6日

 君は今ある状況を的確に捉えていない。それらの言説のどこかに思い違いや勘違いが含まれていることは明白か。では何を見誤っているのだろう。それを今から考えようとしている。嘘をついた後からいいわけを思案している。どこから何を導き出せば事足りるのか。何を述べても事足りるわけがない。語る以前にあきらめしまってはまずいだろうか。その先に何を語ればいいのかわからなくなる。そこで立ち止まって思考を巡らそうとするが、何も思いつかない状況に変わりはなく、そこから何を語ることもできはしない。それが誰のねらいなのだろう。行き詰まると意味不明になってしまうのはいつものことか。それで何を語っているというのか。何も語らずに言葉だけが前に進んでしまう。それは語る主体が見当たらない文章となってしまうだろう。確かにそれで何を語っているわけではないが、何も語らずに文章を構成していると嘘をつくのも心苦しいだろうか。ならば少しは利いた風なことでも述べてみたらいい。やはりそこで言葉に詰まってしまうらしい。君は馬鹿なんじゃないだろうか。そんなことは述べる必要のない状況にありながら、なおもそれを追い求めているとすれば、それは勘違いもいいところか。だが勘違いがなければ言葉など連ねることはできはしない。思い違いや勘違いによってあらぬ幻想をつかんだつもりになり、それが自分勝手な思いこみであることを忘れたまま、何やら利いた風な意見を言葉によって構成しようとしているわけだ。それでどのような達成感を得たいのか。どのようでもなく単なる達成感に違いない。それはどんなわけでもなく、そんなわけで今回ははじめから簡単に結論が導き出されてしまうらしいが、君はそれでかまわないのか。かまうかまわないの問題ではなく、そんな成り行きからそんな結論が導き出されてしまうのだから、それは君の力ではどうにもならないことだ。君は黙ってそれを受け入れなければならない。たぶんそれで何を述べていることにもならないのだろうが、今はその程度で満足しなければならない。それが君の本分になるだろうか。守らなければならないことは他にもあるのではないか。他にあるとしたら何がそれなのだろう。まずはそれをやり遂げなければならない。それとは何だろう。何でもなければ嘘になるだろうか。それが嘘になってしまったら誰が困るのか。誰も困りはしないと思いこみたいのは誰なのだろう。誰が何を思っているわけでもないとしたら、君はいくらか失望してしまうだろうか。では誰かは何を思えばいいのだろう。その程度の水準で居直っている君は愚かだ。だから見え透いた嘘以外は何も語れないのだろう。しかし君が知りたかったのはそんなことだろうか。他にそこから何を知り得るというのか。そこに至るまでに数限りない困難を乗り越えてきたはずだが、その経験をまったく生かしていないのかも知れない。そんな事実をどうやって否定できるだろうか。それらの文章には何も生かされていないと思われてしまうのは、誰かの勘違いだと見なすことができようか。たぶんそうではないのだろう。そうではないからこそ、そこまで言葉を連ねることが可能となったのかも知れない。しかしそれが意味のない行為ではないと言い切れるだろうか。他に何を否定したいのだろう。君には勘があるらしい。そういう成り行きの中で何かを成し遂げようとして、実際にどこか見知らぬ場所へ至ろうとしている。それらの言葉は意味を失いつつも何かを予感させるらしい。勘違いや思い違いとともにどこかに至ってしまう成り行きなのかも知れない。そうなることを執拗に待ち望んでいるわけでもないのに、時の流れに運ばれて、気がつけばそこ場所に立ちつくしている。どこをどうやって経巡り歩いてきたわけでもないのに、うまく障害物を避けながら、ぶち当たった試練も無化しつつ、理由もわからず必然性とは無縁に進み、何となくそこへ至っているらしい。それは信仰のたぐいではない。信じていれば必ず道が開ける、とかいう紋切り型を否定しながらも、それに巻き込まれているようにも感じられ、何となくそんなことを述べている現状を認めざるを得なくなり、否認しながらも否認している当のもののおかげで、君は何とか文章の継続を保っているようだ。そのことについて忸怩たる思いでも抱いているのだろうか。それはどういう意味なのだろう。無意味と決別できるわけもないのに、一方では意味を求め、そんな自らの矛盾を認めつつも、そこに何らかの説明が展開されることを望んでいるらしいが、自分では何を説明しているのかわからず、誰にそれを理解させたいわけでもないようだ。それがその場の成り行きを構成して、君はその成り行きに乗っかって、わけもわからずただ何かを述べ続けることしかできはしない。それで何を示したいのか。それ以上のどんな状況が可能なのか。どうすれば事態が改善するのだろうか。誰にそれがわかるというのか。何がわからないのかがわからない。それは誰の言説でもありはせず、何を否定しているわけでもない。


1月5日

 このところは何かに引きずられているようで、何もできなくなっているらしいが、人は何のために生きているのだろうか。またいつもの愚問で言葉を連ねようとしているわけか。国民を作るための教育が機能しなくなって久しい。今やその必要がなくなりつつあるのではないだろうか。なぜそう簡単に結論が導き出されてしまうのか。国民は働いてその所得に応じた税金を払っていればそれでかまわないのではないか。他に何をしなければならないのだろう。選挙になったらとりあえず投票に行かなければならないわけか。そして現状をよりよい方向へ持って行くために、少しは政治に対して幻想でも抱いていなければいけないわけか。ならば抽象的な理念を掲げて何やら利いた風な意見を述べる必要でもあるだろうか。現状がどうなってほしいのか。現状を肯定したいのなら、何を述べる必要もない。批判すべき現象を知らず、他に何も思いつかないことに気づく。なぜそこで立ち止まってしまうのだろう。いったい何がどうなってほしいのか。誰が何のためにそんなことを述べる必要があるのだろうか。そんなこととはどんなことなのか。それに関して何を説明しなければならないのだろう。君の文章にはその他の説明が省かれている。他ではなくその説明を見失う。人は何のために生きているのか。次の世代に知識や情報を引き渡すために人は生きているのだろうか。場合によっては有形無形の資産も引き渡さなければならないか。それで何が達成されるのだろう。あまりにも抽象的すぎる。答えを導き出そうとしてはいけないのかも知れない。ならば君はそこで何を見ているのか。寒さに凍えながら、暗闇の中では何も見えず、気づかぬうちに他人のペースに巻き込まれている。また迷いが生じているわけか。それで何を語ることができるのか。そんな理由ではないはずだ。理由もなくただそこで黙り込んでしまい、否定的な気分に心を支配されてしまう。自分では何も判断できないようだ。何を述べてもすべては戯れ言にすぎない。戯れ言と決めつけて何かを語ることから逃げている。君は人間の歴史に興味がないのだろうか。一般に語られている歴史には、特定の固有名以外は何も残らないのはどういうわけなのか。それは君の歴史ではない。語っているすべてが浅はかだと思う。だがそれの何がすべてなのだろう。ではそれは違うと思う。おそらくそれがすべてではない。おそらく語られている歴史が今の時代に合っていないのだろう。徳川家康や豊臣秀吉や織田信長では、今の時代は語れないのではないか。語っている当人が独りよがりに走りすぎて、時代の雰囲気にその言説を合わせようとしていないのかも知れない。それでいいのだろうか。多くの人が興味を抱いている現象がそういうことなのかも知れず、それは過去の出来事ではない。過去は過去であり、あえて間違ったことを述べるなら、この世界は過去から何を引きずっているわけでもない。そこで何が語られていようと、今の時代には関係のないことだ。そんな語り方で何を示せるというのか。特定の固有名に幻想を抱かせようとしているだけか。幻想を抱いている当人がそれらの固有名とは無関係な存在であることを忘れさせる。それを用いて現代を語れる固有名などもはやどこにも見当たらないのではないか。すべてがどうでもいいのであって、誰が何をやろうと知ったことではない現状から、目を背けるために、その手の人々は盛んに歴史上の固有名を持ち出してくる。そういう語り方はいつものようにわけがわからないと思う。それでいいわけがない。では誰にわけをわからせればいいのか。わけなど何もありはしない。人類が道を誤ってしまったのは遙か昔のことか。それは人類などとは呼ばれない集団に違いない。現代では誰がそんな境遇にあるのだろうか。そこに誰がいるわけではない。語られつつあるつまらない話に中身はない。中身があるとすればそれは何だろう。にわかには何も思いつかず、何もかも忘れたつもりとなって、そのとき何を語っていたのか思い出せなくなる。たぶん君は何も語っていなかったのだろう。誰かを煙に巻きたいだけか。君はそのとき何も語らずにふさぎ込んでいたのかも知れない。そんな君の精神状態を見かねて、誰かが大きく迂回して出入り口付近へ戻ってくるが、すでにそこには人影が見当たらない。それで何が変わるわけでもない。君はこの世界の何を変えようとしているわけでもなく、何が変わろうとしているわけでもない。誰にもそんな力などありはしない。それでも生き続けているすれば、そこに目的は何もなく、そこから先に何が広がっているわけでもない。誰がどんな光景を眺めているわけでもない。君はこの世界の何をいくら否定するれば気が済むのか。何をどれほど否定できるというのか。何もなければ言葉もないはずか。言葉がなければ文章を構成できず、言葉を連ねることによって虚無に近づくことすらできない。それでも架空のそこへ近づこうとすれば、君はフィクションの中で生息しているただの登場人物になるだけだ。


1月4日

 君たちは間接的にそれらの出来事を目撃している。確かに誰かがそれを見ている。何かやましいことでもしたのだろうか。たとえば若者が安易に人を殺し、それをマスコミがセンセーショナルに取り上げる。君はどこまでも傍観者の立場に固執している。語っている言葉が君をその場に引きとめている。君は自らが繰り出した言葉に引きずられ、我を失い命乞いをしている。それは数年前の出来事に違いない。著名な自然写真家がヒグマに襲われ絶命したのはさらに昔の出来事だ。それらの出来事の間には何の関連もありはしない。ただ何となく出来事を並べて遊んでいるだけか。それで遊んでいることになるわけがない。人にはいつ死が巡ってくるのだろう。誰かはもう二度と引き返せないような場所まで到達してしまったのかも知れない。それは具体的にどんな場所なのか。どこかの山の高みだろうか。たぶん今は自らの死について考えるような状況ではないのかも知れない。テレビを見ているだけではこちら側に何も伝わってこない。何らかの緊張感をまとって誰かがこちらへ歩いてくる。そんな画面を見ている君は何を感じ取っているのだろう。君は作り話の限界を考慮できなくなり、思わず画面に向かって何か叫び声でも発したつもりなるが、それが見え透いた演技であることを承知しながらも、見ず知らずの誰かにどんな言葉を投げかけていいのかわからなくなり、何となくその場で黙り込んでしまう。それで何を語っていることになるのか。何も語らずにその場を後にして、今はもうとっくに夢から覚めて現実に戻り、いつもの部屋の中で適当な音楽でも聴いているつもりらしい。やはりそれでは何を語っていることにもならないだろう。いつも君はそうやって言葉で構築した防護壁を使って現実からの作用を遮断しているつもりでいるらしいが、それが君を無内容にしている。心身ともに中身を伴っていない。いくらそんなことを思ってみたところで、現実の心身がどうなるわけでもないが、そこで話が破綻を来しているのは当然で、いつもそうなのだから何も驚くにはあたらない。ただ誰かは無理を承知でそんなことを述べているだけなのであり、具体的に何がどうなってほしいわけでも、何を求めているのでもない。それがどうしたというのか。今の君にそれが理解できるわけがない。生き残るための処世術をいくら心得ていようと、それで何がわかるわけではない。そういう話ではなかったはずだが、いったい生身の心身は現実のどの時間帯に戻らなければならないのか。もうそこから二日が経過しているはずだ。過去の一時期へ戻って何を見極めたいのか。誰がそうしたいのだろう。誰かはどこかで未だかつて体験したことのない現象に遭遇しているのだろうか。それを思い出してどうするのか。誰がそれを知りたいのだろうか。そこから導き出される言葉はこの世界に何を投げかけているのか。たとえば人を憎んでどうするのか。戦争を憎んでどうするのか。平和を憎んでどうするのか。たぶん何を憎んでもそれはすべてフィクションの中で抱いている幻想となってしまうだろう。憎しみは架空の登場人物が台本に沿って抱いているつもりのくだらぬ感情すぎず、たぶんそれを用いて何をどうするわけでもないのだろう。言葉には目標がない。それはどのような言葉なのだろう。何でもないような無内容を奏でているわけではない。それは音楽ではなく、ただの屋根を叩く雨音にすぎない。言葉は何も示さない。それは言葉ではなく暗闇なのではないか。そういう逃げ方は不自然に思われる。述べていることの意味がわからないの当然であり、ただのでたらめなのだろう。なぜそれがわからないのか。勝手に何かが暴走している。そんな風に見せかけようとしているだけだ。その場には似つかわしくない言葉が、君の真意を汲み損なっているようだ。本心に忠実な者ならそこから降りたいところか。降りてどこへ向かおうとしているのか。たぶん何をどうしようとする意図はなく、取り立てて何を語る気にもならないようだ。それは終わりの予感に起因して生じている雰囲気によるわけか。何がそんな雰囲気を感じさせるのか。君は何も感じ取っていない。誰かの自意識は言葉の並びに逆らうつもりのようだが、それが君の心にどんな影響を及ぼそうと誰かの知ったことではない。ところで今の君は誰について語っているつもりなのだろうか。君自身が君自身をいくら批判したところで予定調和の感を免れ得ない。君が君の罠から抜け出られるわけがない。君という言葉自体が罠なのかも知れず、それを繰り返し使えば使うほど空疎な気分に近づき、いつまでもそんな風に語ることで、自意識をすり減らして心が空っぽになる。そして虚無感にとらわれることによって、よりいっそう何を述べていいのかわからなくなり、言葉に行き詰まってしまうわけだ。それで君はどうするつもりなのか。どうにもできないことはわかりきっている。そこから先に話を続けられないわけだ。君はそこで困っているのだろうか。誰かの助けを期待しているわけか。もしかしたらそうではないのかも知れない。本気で何を思っているわけでもないのだろうか。すべては言葉の上だけの話か。


1月3日

 ふと気がつけば口数が少なくなっている。さっきまで何を話していたのか覚えていない。それがどうしたわけではないが、どうも最近はノイローゼ気味のような気がする。何がいけないのだろうか。現状からすれば当然の成り行きなのではないか。身も心も引きこもっているらしく、愉快な気分からはほど遠い心理状態のようだ。心が狭いのは致し方ないが、何をわかっているわけではない。知りたいことが何もないのはどういうわけなのか。精神的には何らかの境地に達しているかも知れないが、何を語る必然性も感じない。本当にを知ろうとしているのではなく、そういう問いに意味がないことはわかっているつもりらしい。そして相変わらずそう語ってしまう理由や目的を知り得ない。いったい何のために語る必要があるのだろう。誰のために語らなければいけないのか。それとは違うことをどのように語ろうと、そう語ってしまうことに価値を見いだせない。語るべき内容を知らず、語る上での指針を見つけられないようだ。いくら文化やそれを担う人間を類型的に分析しながら語ろうと、それで何を理解したことになるのか。どのような理解を欲しているのか。たとえば他人の何をうらやましく思えば、積極的に生きていけるだろうか。自分もああなりたいと思うようになるわけか。ああなってどうするのだろう。ただ漠然と幸せになりたいとでも思っていれば、自然とそんな目標に向かって努力するようになるかも知れないが、今ひとつ本気になれない。過ぎ去る時間に乗って意識はどこまでも遠ざかろうとする。何やら真夜中に気が散っているようで、誰かの影はどこか遠くへ退散してしまったようだ。意識は何をあきらめかけているのか。それが自意識だとは思えない。あやふやな言葉の連なりは影の出現を求めているわけではないだろうが、そこから言葉が安定して出力してこないので、途切れ途切れの継続しかもたらさないようだが、その夢の続きはどこで見ることができるのだろうか。そんなわけでいつも機会を逃しているような気がする。それは何をやり遂げる機会なのか、あるいは何に巡り会う機会なのかわからないが、とりあえず思い違いや勘違いとともに、その場で何らかの思考を働かせているらしい。それで何を理解したことになるのか。自意識はそれらの状況から何を感じ取っているのか。なぜそこで目覚めてしまったのだろう。それは過去ではなく今起こりつつある現象かも知れない。そしてまだ何を述べているわけでもないことに気づく。いったい何が近づいているのだろうか。君が嵐を呼び寄せているわけではない。傷ついているのはお互い様か。手の甲のあかぎれが微かに痛む。見定めようとしている現状から、それとは無関係な言葉とともに遠ざかろうとしている。必要もないのに何を語ろうとしているのだろう。それが不必要であるわけがない。一連の過程の中に見落としている出来事があるらしい。君はその途中で何かを語らなければいけない。それを語らなければ先へ進めない。実際に何が見えていないのか。君には何もかも見えているはずだ。もはや盲目を装う必要はなく、無知を装う必要も感じられない。しかしそれで何を理解できるのか。無理に理解しようとしてはいけないのかも知れない。現状の何を理解しようとしてはいけないのだろうか。特定の国家や政党やその指導者を批判してどうするのか。ウケねらいになってしまうかも知れない。その辺から何を述べたらいいのかわからなくなる。また遠回りしてしまうのだろうか。言葉の行くあてがなく、言説の行き先を見失っている。だがそんな否定的なことばかり述べていると気が滅入ってこないか。要するに目下のところは情緒不安定ということか。他に何を述べたいわけでもないらしい。他がないのだから別に何があるわけでもない。気がつけばそんな意味のないことばかり述べている。そこから何を批判できるというのか。眠たくなっているのはお互い様か。誰かは何を目指しているのだろうか。とりあえず恨み辛みの次元で何を述べているわけでもないらしいが、その先にまだ他に述べるべきことがあるわけか。何もなければ継続を企てる意味がないか。そんなわけで自意識は誰かの企図を理解できずにいるようだ。たぶんそういう言葉の使用法は間違っているのだろう。どんな言葉を組み合わせて文章を構成しようとしているわけではなく、誰がそうさせているのでもなく、君がそうなることを選択しているとは思えない。それで何を理解したというのか。訳知り顔は昔の自分に違いない。過去の自分がやっていることの意味や意義を理解できない。今やそれを求める必然性を感じ取れない。立て続けて何かが挫けそうになっている。実際に挫けている。我慢ができなくなっているようで、持ちこたえられそうもない。なぜか辛抱が利かないらしい。だから意識は早く遠くへ行ってしまいたくなる。そうまでして終わりの時に立ち会いたいのか。そこまで逃げおおせることができるだろうか。他にどんな願いを叶えたいのか。やはり意味を見いだせずに困り果てているようだが、自意識はそれをわかっていない。


1月2日

 思考が硬直している。柔軟性を欠いているというわけか。そんなのは嘘に決まっている。黄昏時に何を語るつもりなのか。意識はたちまちそれとは違う時間帯に移行してしまう。その間が途切れているらしい。それほど時間的に切迫しているわけではないのに、なぜか言葉が遅れてくる。間に合わなくなってしまう。そのとき何を考えていたのか思い出せなくなる。過去において語っていたのが君である必要がない。何かをやることの価値がどこにあるのか。たぶんそれはやった後から考えることだろう。何もやらないうちから何を考えているのか。言葉は何も語らない。それは言葉ではない。誰かのうめき声だろうか。何を耳にしたのか。それは苦し紛れの声に違いない。そんな決めつけが何を物語るわけもなく、無言のまま誰かが夜道を歩いている。沈黙を守っている意図がわからない。それは誰の沈黙なのか。そういう言葉の回し方が気に入らない。何を説明している場合でもなく、何も語れない事実を素直に認めるべきだ。それで何がわかるというのか。君には目的も目標もありはしない。そして何よりも語る理由が見当たらない。遠くで何が話し合われているのだろう。誰かを陥れる算段でも話し合っているのか。そんな現状を説明すべきか。現状の何を感じ取っているわけでもないらしい。しかしそれでは何も語れないだろう。頭が回らなくなっている。首の骨が折れるだろうか。まだそこまでいっていないはずだ。いくわけがないだろう。首の骨が折れるほど頭を回す必要も必然性もありはせず、少しその場の雰囲気を変えるだけで何か思いつくかも知れず、それを実行してみればいいことでしかない。そういう小手先のごまかしは却下すべきだ。誰が反対しているというのか。それ以上ふざけるのは何かを外している。何が君を操作しようとしているわけではない。君は神の操り人形ではない。なぜそこに神という言葉が突然出現しているのか。君はそれほどまでに神を否定したいわけか。もういい加減にそれを認めてみたらどうか。信じていない存在を信じざるを得ない状況に追い込まれていることを認めるべきか。なぜそこに追い込まれていると見なされるのか。誰がそれを認めざるを得ないのか。君は何に屈するつもりもなく、ひたすら自己主張といういいわけを述べ続ける。自己とか自我とかがどこにも存在しない現状を否認し続ける。そして認めたくないのに認めざるを得なくなり、自己崩壊に直面しているらしい。そんな作り話を本当に信じていいのだろうか。信じるも何も、君自身がそこから逃れられないのだから、そんなことをいくら否認しても仕方がないのではないか。そして君は何かに取り憑かれている。いくら言葉の組み合わせに工夫を凝らしても、述べている内容は依然と変わらず無内容に近い。それで神に打ち勝つことができようか。何に打ち勝とうとしているつもりなのか。この世界に何が降臨しようとしているのだろうか。何を述べてもきりがない。それらのすべてがでたらめに思えてくる。行き詰まりとはそういうものなのか。いつまでぼろぞうきんから泥水を絞り出そうとしているのか。あることとないことの区別がつかないようだ。だがすべてが幻想ではないはずだ。だが一握りの真実にたどり着くために、どれほど多くの言葉を繰り出せばいいのか。その言葉もとうとう尽きかけている現状について、何をどう説明すれば気が済むのだろう。安心するのはまだ早い。誰が何をもって安心しようとしているのか。何を見て見ぬふりをするつもりなのか。驚くのはまだ早い。言葉はなくとも他人の文章がある。君は誰かとは他人であり、その見ず知らずの他人について何を語ることができるだろうか。誰が何を語ろうとしているのか。この世界がどうなろうと君には関係のないことだ。そんな捨て台詞を述べるタイミングを逸している。今は何を述べるべきでもなく、実際に何を述べられるわけもない。述べられない理由を思いつかず、そんな思いつかない理由から、あてのない推量を導き出そうとしている。それはどういうことなのか。どういうことでもなく、ただ間違っているだけかも知れない。そんな間違いを利用しながら何もない状況から遠ざかれるだろうか。いったい君は何を画策しているのか。君には自らの無意識の意図を理解できないのだろう。そこから先が奈落の底なのか。たぶん意味不明だが、それで安心したつもりになれる。理由もわからず意味も理解できず、そんな文章を記している誰かは心苦しくなる。それでノルマを果たそうとする意図が見え見えとなるが、後味の悪い結果に口の中が苦くなる。胃酸でもこみ上げてきているのだろうか。嘘で何を極められるはずもなく、嘘か誠かどっちつかずの中途半端さが、誰かの誠意を感じさせるとしたら、それは文章を読んでいる自らが嘘偽りに傾いている証拠だろうか。だがそれの何がフィクションなのだろう。一向に話の筋が見えてこないのはどういうわけなのか。そしてわけもなく笑いがこみ上げてくるのはいかなる理由から生じているのか。意味不明か。


1月1日

 たぶん君には何も理解できないだろう。そのタイミングで言葉を繰り出すべきではない。なぜか意識の立ち上がりが遅くなり、反応が鈍くなる。それで何のことを語っているわけではなく、何かについて語っている風を装っているだけのようだ。それが本意でないのはもちろんのこと、もとから何を望んでいるわけでもない。それから自らがどうなってしまったのか、君が知るよしもないだろう。知りたくもないのに知る方法を教えてほしいのか。自分とそれらの文章とは無関係だ。ある時期において何に明け暮れていたわけではない。それが仕事なのだから仕方がないだろう。眠気はもう退いただろうか。鬼が退散するのは二月になってからだ。のどが渇いている。相変わらず何をどう語ったらいいのかわからない。何を迷っているのだろうか。何かに引き込まれているのかも知れないが、それをどう表現したらいいのかわからない。なぜか言葉にならないような体験をしたらしい。そしてさらにわけがわからなくなり、それについてどう述べても嘘になってしまうような気がしてくる。やはり君には何も見えていないようだ。真実を見つけられない。それらの言葉の中に真実が含まれているはずがない。ならば他に何を見つけようとしているのか。君は何を語ったらいいのかわからず、悩み続けているうちに、心の中で次第に投げやりな気分が増してくる。とりあえず疲れているのではないだろうか。語ろうとする以前に疲れている。そこから何も出てこない。頭の中が真っ白になっているのかも知れない。何が炸裂しようとしているのか。気まぐれに思い描いた山の上から何を眺めているのか。風景が遠くに見えている。空想の中でごり押しがまかり通り、何か適当なことを語っているような気になる。どうやら破滅する運命を変えるわけにはいかないらしい。今さらじたばた悪あがきを繰り返しても無駄だ。君は運命から逃れることが叶わぬ成り行きの中にその身を投じている。それはどんな運命なのか。破滅する以外に何が起こるのだろう。たぶん破滅しながら成功するのかも知れない。だからやるべきことは今のうちにやっておかなければならない。しかし身の程知らずとは誰のことをいうのか。自ら何らかの達成をたぐり寄せなければならない。彼は何を述べているのか。彼の声が唐突によみがえり、心の中から何らかの真実をえぐり出そうとしている。そんなはずがないと思いたいか。なぜ彼は自分に対して素直になれないのだろう。つまらない枠組みの中で成功を夢見ている者もいる。では何から遠ざかろうとしているのだろう。心の中で何が炸裂しそうになっているのか。見て見ぬふりはないか。悩んでいることの原因を知っているのは誰なのか。雪の大地に広がる彼の思いは、どこまでも寒い。なぜそんなことを述べているのだろう。心のバランスが崩れている。もはや話の体をなしていないようだ。さっきまでは何を語っていたのだろうか。まだ引き返す場所ではないはずだが、しきりにそれを読み返してみたくなり、実際に何かを読んでいる最中のようだ。君はそれを止めることができない。誰かは彼とも君とも無関係に何かを語り始めようとしている。何を知りたいとも思わず、知っていることを語ろうとしているわけでもなく、ただ唐突に出現する言葉の連なりを待ち続けているらしいが、どこから出てくるわけでもなく、何を語っているのでもない内容を、ひたすら待ち続ける。それが君に託された可能性なのか。その可能性をこの世界で押し広げるのは不可能に近い。心が砕け散り、もはや正気ではない。誰かはそんな風にしてうごめき続け、無駄に辺りをはいずり回りながら、その姿はトカゲを連想させる。いったいそこで何を見いだしたのか。何を見ているのか。闇の奥底から事の顛末を語り出す。それを思いつかないのだからどうしようもない。成り行き的には無理に決まっているが、今さらそこから語り出す。何を語ればいいのだろうか。それを今から考えようとしている。もはや不可能の手前で立ち止まることしかできない。気分が最悪の状況でも呈しているのだろうか。君には何のことやらわからない。一向に何も出てこない。たぶんおまえはそれだけの人間なのだろう。おまえとは君のことを指しているのか。君であるはずがない。なぜかおまえにも人間にも興味を持てない。君がおまえでないのだからわけがわからない。おまえが誰を名乗ろうと、それはおまえの勝手だろう。君には何も語り出せないことがわかっているらしい。君が君でないのだからそれは当然のことだ。君でなければ何も思いつけないわけか。そうだとしたらどうなのか。どうにでもなれとやけくそになっているのかも知れず、それをその場で実行しているのだろうか。そうだとしたらそこからどうなってしまうのか。誰かは予定調和的にスランプに陥っているのだろう。言葉の連なりは内容的に不振を極めている。それで何がわかるだろうか。もはや末期的様相でも呈しているわけか。それならそれで仕方がない。それ以上の何を語れというのか。


2006年

12月31日

 人間とは何か。誰の言葉に耳を傾けたらいいのだろう。これからの時代において何が実現可能なのか。終わりの季節はとっくの昔に過ぎ去っている。それは本当の終わりではなかった。誰かは世紀末を経験したことを誇りに思っているようだが、そんな嘘で現実に対処しようとしていることが、ある種の過ちをもたらしている。たとえばテクノロジーの進化が人類を破滅に導き、そんな成り行きを描き出した物語が感動を呼ぶ。何か不合理だと思わないか。そこで誰が警鐘を鳴らしているのか。技術革新によって快適な生活が送れるなら、それで良いではないか。テクノロジーは諸刃の剣であり、それに頼りすぎる思わぬ落とし穴が待ち受けている。そういう言いぐさは紋切り型の思考から導き出される。何がそう思わせるのだろうか。何に心を奪われているのか。君が遠ざかってしまった領域に何が立ち現れているのか。何を問いかけているのだろうか。たぶんくだらぬ内容だと思っているのだろう。これから何が起こることを期待しようと、将来に対する幻想だけでは生きてゆけない。地に足がついていなければ、宙に浮いていることになるのだろうか。空中に浮遊しているように思われるのは夢の中だからか。夢の中でそうではないと主張したいが、言葉が口をついて出てこない。別に悪夢にうなされているわけではないはずだが、さっきから口ごもっている原因は何なのか。何が心理的な負荷となっているのだろうか。いくら歳月が流れても、何も変わっていないように感じられて、誰かの思考は自らが確実に老いていることを念頭に置いていないようだ。そういえば白髪の老人は今頃何をやっているのだろうか。日々の出来事の中から語るべき事柄を取捨選択して、そこから何をどう述べてみても、何となくしっくりこない。寄る年波には勝てないか。暖房でのどをやられて冷たい水が飲みたくなる。どうもそこから話がふくらんでこない。そんなどうでもいいことを思っているうちに、もうこんな時間になってしまったようだ。それから一日が経過しようとしているが、去年と今年で本質的に何が変わったのだろうか。日付的にはまだ去年のままのはずだが、中途半端な空き時間を利用しつつ、妄想の中で架空の風景が大きく変貌を遂げている。もはや目の前に見えているものを認識できない。そうなる理由がわからない。別に盲目になってしまったわけではない。冗談でそんな嘘を述べているだけか。そんな言葉の連なりを読み返してみると、何となく自己嫌悪気味な言葉が並んでいることに気づく。見えていないのは言葉だけでなく、周りの空気を読めていないことにも気づく。何を勘違いしているのか気づかないまま、そこから何を伝えようとしているのだろう。なぜ自ら語っている内容が何も理解できないのか。他人の心の中をのぞき込んでいるわけでもないのに、何となく君の意図や思惑を見透かした気になり、得意の台詞が口をついて出る。君はそこで何を語っているのだろうか。画面に映っているそれは見せ物にすぎない。単なる興味本位の討論会だ。他に何が伴っているわけではない。何を見ようとしているのか。どうなることを心がけているのか。見えている対象について語りたいわけか。だまされたと思っている。君はいつものように嘘をついている。そういう語り方は、今に始まったわけではない。いつの頃からそうなってしまったのか覚えていないが、そんな言葉が連なっているだけとなってしまったらしい。それで何を伝えることができるというのか。何もないと思われたいのか。ただ何も語っていない。語り得ないのだから仕方がない。それが何かについて語ろうとすることから生じる弊害だろうか。君は何を待っているのか。いくら待っても何もやってこない。それがわからない。いったい君は何の到来を待っているのか。なぜそこから言葉を連ねようとしているのか。それに関しては何も見えてこない。何を見ようとしているかもわからない。要するにそれが見えてこないということか。そんなことを考えているうちにもう年が明けてしまった。しかしそれで何を悩まなければならないのだろうか。無理なことはわかっている。その無理を押し通そうとは思わない。何かの合間に何かを述べようとしているだけか。死ぬ前に何を成し遂げようとしているのか。まだ死ぬと決まったわけではないはずだ。誰がそんなことを決めつけているのか。人の生死に関係なく、何が続いてゆくのだろうか。それでも地球は回っている。それとこれとは無関係だろう。世界のどこで争いごとが起ころうと、それで何がどうなるわけではなく、何をどうしようというわけでもない。君には何もできない。ただそれらの光景を眺めているだけだ。しかしそれで何がわかるのか。何がわかったつもりになれるのだろう。たぶんそこから先を語らなければならないのだろうが、何も思いつかず、曇り空の下でいつまでも停滞している。やはり何も見えていないらしい。そして見るべきものが何もないように思えてしまい、そんな状況の中で君は何を語れるというのか。


12月30日

 何を焦る必要があるのか。なぜ切迫していないと思うのだろう。どのような事態を迎えつつあるのか。何かの中毒症状かも知れない。何を超えようとしているのだろうか。何も見えてこない。救急車のサイレンの音がやかましい。何を伝えようとしているのでもない。我々には神がついている。神が君に裁きを下すだろう。それは有罪の言葉だ。それでも神は偉大か。述べている意図がわからない。今さらそんなことを述べて何になるのか。何かのいいわけに違いない。今が良い時代だとは思わない。それは未来に対する幻想に結びつく。何を期待しているのだろう。何を焦ることがあるだろう。同じ言葉を繰り返している。それは見いだされるべきことではない。何かがまかり通っているようだ。環境の変化に適応しようとしただけだ。そのおかげで今があるらしい。川の民と海の民が出会う場所に幻想が生まれるらしいが、それはどんな音楽となって誰かの耳に届くのだろう。いい加減な作り話の体をなさないうちに、いいわけ話へと移行してしまいそうだ。その形式がいただけないのだろう。森に誰が潜んでいるわけもなく、山狩りをしても無駄骨を折るだけだ。本当はそういう表現ではない。裁判で意味不明気味に神は偉大なりとつぶやいていたフセイン氏は絞首刑に処せられたらしい。はたしてそれが非業の死といえるだろうか。やりたい放題の人生を送った者は、その末路において帳尻あわせが行われるわけか。彼の死ぐらいで帳尻が合っているとは言い難いか。そのついでにブッシュも死んでほしいと願っているのは誰なのか。何がついでなのだろう。簡単に死んでもらっては困ると思っているかも知れない。今死なれてしまってはフセイン氏と同様に帳尻が合わなくなり、彼のために無駄死にしたアメリカ兵も浮かばれないか。誰の死が浮かばれることもないだろう。帳尻あわせも幻想でしかなく、まったく釣り合いのとれない不均衡のただ中で、多くの人々が生き抜こうとしている。誰に自らの命を託しているわけではない。勝手な思いこみは通用せず、たちまち幻想は打ち砕かれて、いつもの平凡な日常へとそれらの魂は誘われる。人はただ生きて死ぬだけだ。だがそれで誰を突き放しているといえるだろうか。何に困っているわけではない。君は君ではなく君でさえない。それが君の苦悩の表現とはいえないだろう。君たちの死はいつも無視され続けている。テレビ映像が戦争の悲惨を訴えるための材料でしかない。それの何が不条理だと言えるのか。焼けこげて辺り一面に散らばった残骸の中に誰の痕跡を見いだしたいのか。それの何が残酷さを醸し出しているのだろう。見いだそうとしているのはフィクションの中の光景だ。ヒーローが壮絶な銃撃戦のさなかを生き延びて、犯罪組織を壊滅に導き、その首領と最後の決闘に臨んでいる。それがありふれた映像のクライマックスなのだろう。それがつまらないとは思わない。それどころか多くの人の求めに応じているのかも知れない。そこから何かを味わいたいのだ。しかし君は何を批判するつもりにもなれない。それの何が残虐な光景なのか。わざとらしく嘘をついてはいけないのだろうか。誰が何を標的としているわけではない。標的とされて死んでゆく人々は一般市民が大多数なのだろう。それでどんな満足感を得られるのか。言葉では表現できないようなものなのだろうか。音楽は何かを無視している。それは感情のたぐいかも知れない。敵を打ち負かそうとしているのではない。誰がどこから攻めてくるわけでもなく、心を支配しようと戦いを挑んでくるわけでもない。誰かは争いごとを好まないようだ。何を競い合えば気が済むのだろう。何も相手にしないとはどういうことなのか。そこに誰かの魂が息づいているわけか。しかし幻想とはどういうことなのだろう。なぜそこで後戻りし始めているのだろうか。子供のしつけレベルで教育について語る保守主義者が脚光を浴びているようだ。要するに子供は大人のおもちゃなのだろう。自己顕示欲の付属物として子供という存在がある。語る材料として存在するような子供たちにどのような関心を抱けばいいのだろう。侍魂というものは映像や文学によって作られたまがい物にすぎない。何らかの状況の中で武士という存在が成立する余地があった時代の中で、何らかの役割を果たしていた者たちが、現代においてどんな意味を帯びることができようか。刀は実用として用いられず、それはもっぱら鑑賞の対象となっている。芸術は鑑賞の対象であり、それは眺めるために存在している。そこから何を学ばなければならないのか。他人に何かを教えるという行為とはどんな関係があるのか。学ぶことはできるが教えることはできない。いくら教えようと努力しても、教える相手が学ばない限り、結果として教えたことにはならない。それは学ぶ側の問題なのではないだろうか。いくら教える側が工夫を凝らそうと、それが一時的に成功したように思われて、その結果が美談として語られるようになってしまったら、そこでおしまいなのではないか。


12月29日

 そこまでやってもまだ続きがあるらしい。誰にも無関係な歴史があるだろうか。システムについて何を述べたらいいのだろう。もういい加減に国民国家的な概念からは決別すべきか。人々は惑わされている。誰の言葉に惑わされているのか。何をいつまでも待っているのだろう。崩壊の時は幻想の中で成就される。それに関するマンガでも読んでいれば事足りる。現実には何が迫っているのか。それが崩壊の時ではないとすると、いったい何が起ころうとしているのか。人々は何から解放されなければならないのだろう。君はこの世界がどうなることを望んでいるのだろう。ただ漠然とした思いとらわれている。何が見いだされているわけでもなく、はっきりしたことは何もわからないが、神について語る者は非業の最期を遂げる。ナザレのイエスは磔になり、マーヴィン・ゲイは牧師の父親に射殺された。無神論者の君には関係のないことか。歴史的な隔たりを恣意的に縮めて、何もかもを一緒くたに考えているのかも知れない。結果だけを言葉が簡単に結びつけてしまう。そんな仕打ちに挫けないか。誰が何について語っているのだろう。現状から逃げることはできない。それが現状なのだから仕方ない。では簡単にあきらめてしまうのだろうか。現状の何をあきらめたら道が開けるのだろう。行き詰まりを打開する方法を知りたいか。そこにつけいる隙が生じて、振り込み詐欺や悪徳商法にだまされてしまうわけか。見たい風景を見てしまうのは気が引ける。昔の記憶にそれほど価値があるわけではない。それでも思い出をたぐり寄せ、何か適当に語ってみたくなるようだ。それでいいのなら何でもありになってしまうか。しかしそこからすべてが始まると思っている奴もいるらしい。君には君の生き方があると思っている輩は、何からの幻想を抱いているに違いない。そんな君には面白味に欠けるところがあり、それが気に入らないと思いつつも、きっと何かが転機となるのだろう。現状から何がどう変わるというのか。変えるためには何をやったらいいのだろう。今から見果てぬ世界のすべてを踏破しようというわけではない。何が正解となることもないだろう。それは誰に託された夢でもなく、誰が見ている夢を現実と同一視したいわけでもない。それで何を否定していることになるのか。昔ながらの方法をとらざるを得ないのは誰なのだろう。何に追い詰められているのか。言葉はさらに遠くへ離れていってしまう。君に与えられた言葉ではなく、誰の言葉でもないのかも知れない。言葉はそれ自体として自己主張しているようだ。君から遠ざかれるだろうか。実際にそうなっているのだから、それは真実に違いない。だがそこで何を見定めようというのではなく、何に注目しているのでもない。何者にのとらわれぬ心というものがあるだろうか。ただそこでうずくまっているだけか。それは生身の体ではないはずだ。画面上に人影が映っていて、そこで何かがうごめいている。見てはいけないものを見てしまったのだろうか。誰が君を呪っているのか、心当たりがないとはいえないか。実際に寒いのだから仕方がない。寒波の到来で凍え死んでしまいそうか。別に君は路上生活者ではないはずだ。時間に追い立てられ、どこでもない場所で途方に暮れているのは誰でもない。言葉はそんな風にして君から遠ざかり、他の誰かにまとわりつく。理由を知りたいところか。それがすべてではなく、ただわけがわからない部分に意識が浸りきっているようだ。何らかの色に染まっているはずだ。ある一定の温度と湿度を保ち、そこで何かを継続させなければならず、いつまでも継続させると気が狂う仕組みとなっている。ではどうしたらいいのか。正気を保ちたいなら直ちにやめなければならず、それをやめたら何もなくなってしまう。だからそこから引き下がるわけにはいかないのか。それで何かと戦っているつもりになれるだろうか。負け戦かも知れない。気を抜けばすぐに眠ってしまいそうだ。投げやりになってはいけない。まだ気力がわずかながらも残っているはずだ。たぶん現状を肯定的に捉えなければならないのだろう。何を否定しても無駄なのか。何もないように思えても、そこには何かしらあるはずだ。風邪気味で気持ち的にも最悪かも知れないが、まだやらなければならないことが残っている。それは涙ぐましい努力と受け取られかねないが、実際にそこから展望が開けてしまうのかも知れない。何も思いつかずに投げやりになりながらも、まだそこから何かしら言葉を連ねる可能性を探らなければならない。結局それが君の自己主張になってしまうのだから仕方がない。だがそれで何を述べているのか。確かに何も述べていないのに、中身のあることは何も述べていないように何かを述べている傾向がある。その何かとは何なのか。それは見ての通り読んでみての通りの何かでしかない。現状では疲れ切っているのに、まだその後に山場が控えているように思われてしまう。そこまでやる必要はないのかも知れないが、そういう成り行きに捕まっている。


12月28日

 過ぎ去ったのは季節ではなく時間だ。何が目当てなのだろう。なぜ困らせようとするのか。どうかしているような気がする。今さらそれはないだろう。何をあきらめなければいけないのか。目が何かを物語る。またおかしな成り行きになってしまったようだ。何をしたいかはわかっている。だからそんなところまでお出ましになったのだ。君の目は死んでいる。まだ心臓は動いているようだが、脳死状態にあるらしい。そんなフィクションを読んだことがあるだろうか。もっと詳しく話してくれないか。今ひとつ乗り気でないようで、そこから先を思いつけないことにしておこう。何に嫌気がさしているのだろう。そういう物言いが気にくわないのか。そうではないことを願いたい。面倒なので先へ話を進めてみよう。その先があることを期待している。何もなければ張り合いがない。軽いノリでさっさと終わらせたい。今なら君に向かって語っていたことをそのまま文章にできる気がする。本心から述べているのではない。心の中に迷いが生じている。君はそれを克服することができるだろうか。いつまで経っても話が前へ進まない現状をどう思っているのか。眠気が完全に去ったとは思えない。まだ危機的な状態かも知れない。何について述べているとも思えず、何をどう述べたらいいのかわからない。どこかで妥協しなければならない。何が君をそうさせているわけでもない。行動に駆り立てる理由を知らない。脈動する変光星のごとく、終わり際の輝きを放ちたい。そんな風には思わないか。乗り気でないのはわかっている。乗ってしまったら終わりが近づく。絵画にまつわる挿話を聞く機会が巡ってきたわけではない。何に感動したいわけでもなく、そんな強がりとともに言葉と戯れていたいわけでもない。ただ今は深夜の時間帯なのだろう。終わりのない時の流れを感じ取る。深夜の通りでは絶え間ない車の流れを見ることができる。他に何をわかろうとしているのだろうか。音で何かを感じ取っているようだ。静かだと思っているわけか。退屈を紛らわすために無理に音楽を聴こうとしてはいけない。まだ何を語るべきではないのかも知れないが、海辺でもないのに波の音を聞いてしまうのは不都合極まりないか。音が自然から切り離されて、見慣れた画像とともに襲来する。雲が空を駆け抜け、太陽が黄道から外れずに半円を描くとき、天体の規則性でも時間するだろう。それで何を妥協していると思っているのか。言葉を信じられないのは君に限ったことではないらしい。すべてが過ぎ去ろうとしているのだから仕方がない。それほど時の流れが急であるわけがないか。それは川の上流のような感覚だろうか。岩がごつごつせり出してきて、何かをせき止めようとしている。君はどこかで停滞している。週末の道路のように渋滞が繰り返されている。帰省ラッシュという言葉を聞き飽きる季節が近づく。何かの一歩手前でかろうじて踏みとどまることには慣れすぎている。それがそうでなくなって時が終わりの時なのだろう。早くそうなってほしいか。誰がそうなりたいと思っているのだろう。それがその場の決まり文句だということは承知している。続けることができずに息切れしているようだ。徘徊の季節は年がら年中やってくる。とっくに忘年会は終わったはずだろう。そこで何を見定めようとしているわけでもない。行動に限界がないように思えるのは何の季節でもないからか。たわいのない言葉が連続しているように思われるのは、それが宿命だからか。定められた手順に沿って言動と繰り返すと、自然とそうなってしまうらしい。君はそこから離れられない。そこから離れてしまうと道に迷って、出発地点に戻ってこられなくなってしまい、どこかの袋小路で途方に暮れている自身の姿を想像してしまうか。それはまだ想像の段階で、実際に迷路の中で彷徨っているわけではないらしく、ついでにどこかの高所から事の成り行きを俯瞰できる立場を想像してみる余裕もあるようだ。意識は画面上から離れ、興味を失いつつある。それで何を述べられるだろう。知らない世界を知ってみたいと思うのは誰の心のなのか。突然の訃報に驚きを隠せないのは紋切り型の表現になってしまうだろうか。そんな風に事態が進展するとは思えないのは、日常にはまりすぎている証拠だろう。理由になっていないような気がしてくる。というより何を述べているのかわからなくなっているらしい。それはいつものことに違いないが、冬の寒さは体に応えているのだろうか。それもおかしな表現だと思われるのは気のせいか。なぜ自らを追い込もうとしているのだろう。何かが追いついてこないようだ。車は目の前をとうに通りすぎたはずだ。頻繁に通り過ぎる。自殺者は飛び込むタイミングを失っているらしいが、そういう突然の言葉も不吉な響きがするかも知れず、たとえ嘘であろうと、何かの結末を想像させるような気がしてくる。それは誰のお家芸でもなく、一回きりのライブ・パフォーマンスかも知れない。たぶん今の君とは無縁の行動なのだろう。眠りたいか。


12月27日

 一難去ってまた一難ということになりそうだ。なぜというわけではない。成り行き的にきつくなってしまうのだから仕方がない。日付に追いつけない宿命なのか。そんな些細なことはどうでもいいか。無理なのだから仕方がない。だが無理を承知でそんなことをやり続けていることも確かだ。まったく難儀なことの連続になってしまい、少しは気晴らしになるような出来事に巡り会えないものか、と思っていたら、雨上がりの空に虹を見た。数年ぶりのことだろうか。それで気晴らしになったかどうかは、数時間が経過した今となっては定かでないが、なぜか吉兆に思えたことは確かだ。それで本当にうまくいくと思っているのだろうか。うまくいかなかったらうなだれてしまうわけか。それはそれでありがちなことではあるが、それでも何もないよりはマシか。別に無表情がよく似合うわけでもあるまい。遠くへ旅立ったことになっていた君は、いつの間にか誰かの影となって戻ってきている。何か言い分でもあるわけか。それとも発言するのが面倒くさいのか。以前より無口になっているかも知れないが、以前からうるさかったわけではない。実際には何も語っていなかったかも知れず、誰かの思い違いだったかも知れない。そんなことはどうでもいいことか。どうでもよければそんなことを述べる必要はない。それは限りのない迂回路の一部となっている。限りがなければ戻ってこれないではないか。君は出発地点に戻ってこようとしているのだろうか。それは虫のいい話か。なぜそう思うのだろう。出て行ったきり帰ってこなければ放浪者となってしまう。それは君の優柔不断さ招いた結果か。理由になっているわけがない。フィクションの中の登場人物に何を求めても仕方がない。そんなことは作者に要求してほしいか。話がないのに話の作者が存在するわけがないだろう。君は話の中の登場人物になれても、その話の作者にはなれない。わかりきったことを誰に向かってほざいているのか。まだほざき足りないと思っている。それは誰かなのではなく、君でさえない。そんな言葉が並べられているだけか。誰かは意味のないことを述べているのだろう。それはいつものことでしかないか。まだ回り道の途中なのだ。なかなか目的地に至れずに苦労している。さっきから見覚えのある風景ばかりに出くわしているのだが、まさか一回りしてもときた道へ戻ってきてしまったのか。何かの偶然で行き先を思い出せなくなっているらしい。もういい加減に前進をあきらめて、いつもの語りを繰り返しているだけでかまわないのではないか。だがそれで何を述べていることになるのだろう。たぶん適当に言葉を並べているにすぎない。それで君は満足しているのか。君には何のことやら理解できないらしい。理解するための手がかりさえつかめていない。いったい何を理解したらいいのか。この期に及んでそれはないだろう。散々意味のないことを述べながら、今さら理解できないでは困ってしまうか。責任の所在は誰にあるのか。いったい誰が責任を持ってそれらの言葉の連なりを理解しなければならないのか。誰かはすでに理解しているかも知れない。君の夢の所在を感じ取っている。それはどこにあるのだろう。明かせないようなところにあるわけか。それは誰の都合なのか。誰の都合でもなく、君の都合でもない。たぶん君は夢を知らず、誰かは現実を知っている。では夢を見ているのは誰なのか。君は作り話の中で恐ろしい夢を見ているようだが、なぜそれが文章とならないのか。夢の話など嘘に決まっているからか。しかし誰のほら話でもない。何はなくても夢だけはあるというのなら、半ばやけくそ気味に言葉を弄して、その恐ろしい夢について語ってみないか。何も語れないなら、何を語りたいのかわからなくなってくる。誰がそんな現状を肯定できるというのか。君はそれが不可能だということを知っているはずだ。張りつめていた糸が突然切れてしまったときのような感覚に襲われている。緊張感は皆無で、仕事をやっていたときの集中力は失せて、そのままそこに放っておいたら、たちまちどこかへ流されていってしまうだろう。かろうじて持ちこたえているとすれば、わざわざそんな疲れることなどやらない方がいいのではないか。就寝時間が近づいている。そこまでやる必要などまったく感じていないが、やってしまってもやめてしまっても、何の変化も感じられないような気がする。実際に何をやっているのだろうか。ただ何かを語っているらしい。言葉が適当に連なっている。君はそれを読み返さなければならない。今は夜だ。まだ夜が明けるには間があるはずだ。そんなわけで時間を有効利用しなければならない。時間があればその時間を眠るか言葉を連ねるかのどちらかに当てる必要がある。何もわざと切羽詰まった状況になることもないだろう。何とか内容をその程度にとどめておくべきだが、それでは気に入らないか。それで君のノルマが果たされるわけもない。襲ってくる睡魔と戦いながら、地獄の時間帯を通り抜け、他に何が必要なのか。


12月26日

 その気もないのに何を乗り気になっているのか。まだそんな時期ではないだろう。期待はすぐに忘れ去られ、忘却によって希望が生まれる。やはりそういう話ではなさそうだ。ならば何を了解したつもりになっているのだろう。語ろうとしていることはどんな話でもない。たとえば君は遠くへ旅立とうとしている。そこで何を否定すればいいのだろう。旅立ちの時を迎えるのは誰でもなく、相変わらず君は何にありつけるはずもない。たぶん戯れにそんなことを述べてみたくなっただけかも知れない。誰かは現実と理想の間に生じているわずかなずれが許せないようだが、そんなことを述べて何になるのか。今さら何を語ろうと、そのすべてが賞味期限切れなのだから仕方がない。素直に迷いが生じていると述べてみたらどうか。君に何を見透かされているわけでもないか。そんな風に述べながらも、心の迷路を踏破したつもりになる。何もないのに強がっていることだけは確かなようだ。さっきまでは居眠りの最中だったらしいが、何かの気まぐれではっと目を覚ます。それは一瞬のことだ。別に我に帰ったわけではない。本当に眠いのではないか。眠いがその状態を保っていたくなる。まどろみの中に幻影でも探しているのだろうか。それとも早く楽にさせてもらいたい表れか。相変わらず意味がないことを述べている。どこを向いているのか。その方角を知ろうとしているわけではない。知らなくてもいいことまで知りたくはない。いずれ勝手に知ってしまうのだろう。すでにそこには何もないことは知っている。だが別に宝探しをやっているわけではない。捜すべき獲物の存在を知り得ないのではないか。すでに知り得ない何かを仕留めてしまったのだろうか。無意識のうちに何を求めていたのか。離れるべき大地を持たない魂は何を欲しているのだろう。それは意味のない言葉の並びになる。君はそこで何を知ってしまったのか。それは未来の出来事となる。未知の時間帯に何が待ち受けているとも思えない。それは君が巡り会えない時間帯なのだろう。その時間帯の中で誰かはそこから遠ざかるばかりのように感じられ、今やその断片さえ識別不可能なほど遠ざかっている。それが報われない努力の結果なのかわからないが、その遠ざかろうとする意志は、遙か遠くの地平で粉々に砕け散っているかも知れない。君にとってそれは受け入れがたい状況に違いない。しかし想定されるそんな状況の中でも、何も認められないわけでもないはずか。中にはこちらを向いて微笑んでいる断片もあるはずだ。誰かがそれを探し出そうとしている。戯れに砂利の中から宝石の破片でも拾い上げてみようか。そんないい加減なことを述べているうちに、危うい綱渡り的な成り行きに引き込まれそうにならないか。君は何を恐れているのか。いったい出口はどこにあるのだろう。それは夢の出口ということか。ならば眠っている感覚を呼び起こして、このまま何かを探し続けなければならないのか。当分夢が終わることはなさそうだ。夢から覚めたときが待ち遠しくなる。それは誰の願いでもない。何を疎んじられているのか。この世界から疎んじられているようだが、それでも記憶は絶えず蘇り続ける。いつまでも時流に流されているだけでは何もつかめない。どこまで歩んでいっても何に巡り会う当てもない。君はそこで何をやっていたのか。過去の時空で手をかざして日差しを遮っているようだが、それだけのことに全力を注いでいるわけではないだろう。では他に何かやるべきことがあるのか。誰に何を問うているのか。君には約束の時間が待っている。それは何かの冗談に違いない。終わりのない負の連鎖を今こそ断ち切らなければならないようだが、誰にその役割が託されているわけでもない。そういう決まり文句を真に受けても仕方がない。たぶんそこで文章の修正が終わっているのだろう。それで約束が果たされたと思いこみたいようだが、まだその続きがあることに気づき、さらに無駄な試みを継続させようとする。そんな風にして君の人生は終わりを迎えるのだろう。いつ終わるかは誰にもわからない。表現形態が違っているのかも知れない。見ている風景にずれが生じている。だから見る必要のないものまで見えてしまい、それについて無駄な言及を繰り返している現状があるらしいが、そこから君の言説が生じているわけだ。それはまやかしのたぐいだろうか。何が不安なのだろう。君に向かって不安感を煽り立てているものは何なのか。時の経過が状況の変化をもたらす。風化し摩耗して、砕け散ってしまった記憶も、いつか思い出されることもあるだろう。どうも何かによって無化されているようだ。毒が抜かれ日干しされている。乾燥して塩とうまみ成分が吹き出して、白く結晶化している。君はそんな言葉の連なりから何を想像しているのか。嘘偽りだけの文章なのだろうか。フィクションの中にどんな真実が宿っているのだろう。そんな付け足しに興味を抱けないか。どうでもいいことは確かだが、そこから言葉が生じてしまうのだから仕方がない。


12月25日

 誰かは何を期待しているのだろう。師走は前のめりになりながら時が進んでいく。何が冗談なのか理解できないようだ。満ち足りた気分からはほど遠い。君の破滅を期待してもそれはないか。だが何に安心しているわけではない。安心するにはまだ言葉が足りないか。しかし何を目指しているつもりなのか。言葉は目指しているものに届きそうもない。そこで気力が失せる。この世界について考えること自体が無理なのだろうか。君の能力を逸脱している。いかれているらしい。感性がついて行かない。心の準備ができていない。それは心でさえない。では何なのか。何かの抜け殻か何かだろうか。他に思い当たる節はない。まだまともなことを述べるわけにはいかないようだ。理由など何もないのに、どこかで誰かがふざけている。他に何も思いつかないのだろうか。君はその感覚を捨てるべきでない。何かを忘れているらしい。何を期待しているわけではなく、何の結果もついてこないだろう。いかに強がってみようと、中身が空っぽなのだから、愚かさが剥き出しになるだけだ。それでかまわないのなら、それをさらに続けてしまえばいい。冷めた気持ちが熱くなることはない。ただ目が覚めている状態を保っているだけか。うたた寝の時間帯が長すぎたのだろうか。それが何に影響を及ぼしているわけでもないだろう。しかし今さら必死でいられるはずがない。すでに山を越えてしまったのであり、何かに忙殺されていた時間を通り過ぎてしまったのかも知れない。自意識過剰の状態で何かを語る必要もなくなり、誰に対して攻撃の言葉を投げかけているわけでもない。何かの雰囲気に飲み込まれてしまったのかも知れない。立場が移動してしまったのか。無責任に誰かを攻撃していた場から離れてしまったのだろうか。それはだいぶ以前の立場なのではないか。今頃になってそれを思い出してみても、何のことやら事情が飲み込めないだろう。では今は誰にそんな役割が巡ってきているのだろうか。なぜ君はそんなところで座り込んでしまったのか。疲れている自覚はあるようだが、それ以前に自らの言葉をどこかに置き忘れてきてしまったのではないか。もう君にそれ以上を求めても無理なのかも知れない。その程度の水準で満足すべきなのか。そこでは何も見いだせないだろう。現に何も思いつかないはずだ。君は考えることを放棄している。ただ音楽を聴いているだけの状態にとどまり、そこから抜け出ようとしない。それは怠惰のなせる業なのか。まだそんなことを述べている。だがこれ以上自らを責めるのは得策ではない。だからその辺で虚無と戯れて暇つぶしにいそしんでいなければならず、そうやって現世の憂さを晴らしているつもりのようだ。そんなはずがないと思いたいところか。何を思ってみても、それが君の言動と一致するわけがない。しっくりこないのは君が君自身に対して嘘をついているからか。そんな風に思いたければ思っていてもかまわない。そこに連ねられている言葉は誰に対しても公平に開かれていて、そこからどんな意味をくみ取ってこようと意に介さず、ただ言葉は言葉としてあり続け、言葉以外の何もの提示しない。君はそれについてどう思っているのか。見え透いた嘘だと思っているのなら、それも一つの解釈として受け取っておこう。誰が受け取るわけでもなく、君の無関心を揺り動かすこともない。そういうことを語っていておもしろいと思うだろうか。誰にそう思われたいのか。君なら至って無関心だろう。無責任の上に無関心でありたいのは誰なのか。わざと論点をねじ曲げている。たぶんそういう話ではない。どういう話でもなく、どんなことを語りたいのでもない。そういう成り行きはいやというほど経験してきたはずだが、気がつけばまたそんな言葉の並びに戻っているのだからあきれてしまう。他に語るべきことがないのか。それは白々しい問いかけになりそうだ。そう問いかけて誰かの同意を取りたいわけか。望むべきことが他に見当たらないなら、それが正解かも知れない。別に不正解であってもかまわないが、正解か否かの判断自体があやふやだと思われる。しかしそんなことはどうでもいいことだ。また誰かは無駄に言葉を弄しているらしい。君にとってはあり得ない行為だろうか。誰がそんな行為を助長していると思っているのか。しかしそれは死ぬほどの苦しみをもたらしているわけではない。それらの言葉はこの世界に何ももたらさない。そんな嘘は見え透いているだろうか。君は何を見透かしているのか、そんな言葉の言い換えに驚きはない。誰を驚かそうとしているのでもないはずだ。ならば前言を否定する理由を導き出せるだろうか。ただ気まぐれだったら、それこそどうでもいいことだろう。どうでもよければさらにわけのわからない成り行きを期待できるだろうか。それらの何が成り行きを構成しているのか。成り行きという言葉を理解できないのかも知れない。そこで足踏み状態にあるらしい。やはりどこかおかしいのだろう。それらの言葉の響きに意味をかぶせられずにいるようだ。


12月24日

 別に夜景が目にしみるわけではない。結局そこで行き詰まりか。できればそこから抜け出したい。そういう話ではないだろう。またいつもの繰り返しに陥りそうになる。雨が待ち遠しい。そんな嘘をついて天気予報でもチェックしてみよう。それはいつのことなのか。記憶がどこで途切れているのだろう。見覚えのある顔を思い出す。誰に励まされているわけでもない。それも嘘に違いない。嘘には違いないが、そんな風にしか述べられない。この世界は何から成り立っているのか。君はそこで何を構成しているつもりになっているのだろう。見えている景色を言葉によって変容させている。そんな思いこみが本当であるわけがない。具体的に何が見えているのか。何も見ようとしていないのに、何が見えているのか。そんな問いかけでは不十分かも知れない。意識から言葉がずれ始める。何から逸脱しようとしているのだろう。真摯な気持ちからはほど遠い。人はそれでも生きているらしい。何に対して怒ることもなく、批判の矛先をどこに向けているわけでもなく、何から逃れようとしているわけでもない。ただそこで生きているようだ。地上でうごめいている。いつまで生き続けようとしているのか。あてのない問いかけをやめるまでは生きているのかも知れない。まだそこまではいっていないはずだ。問いかけに対する答えも受け取っていない。どうやら何が見えているわけではないらしい。たまに本気になるようだが、気分次第でそんなことはなかったことにしておこう。目の前が真っ暗になる。君は夢でも見ているのか。それでもこの世界を肯定しなければならない。では何を批判すればいいのだろう。戯れに世界の破滅でも予言してみればいい。君は問いに答えていない。虚無は誰に向かって問いかけているのでもない。この世には夢と現実の他に何があるのだろう。虚無がそんなことを問いかけているわけではない。君は虚無中に住んでいるわけでもない。人には人それぞれに何らかの場が与えられているらしい。誰から与えられているのでもないその場で何かをやり続けている。誰かはそれが無駄であってはならないと思っているようだ。やっているそれが無駄にならないためには何をどうすればいいのか。人それぞれでやり方も異なるだろう。その場から立ち去ってはならないのか。なぜ立ち去ろうとしているのか。感性が眠りについているうちに作業がだいぶ進んでいるようだ。何かをやるためには崇高な理念が必要だろうか。なぜそこから逃れようとするのか。物事を真正面から見ることができない。正視できずにいつも斜め後方に視線がずれている。そこからあらぬ方角に突き抜けていってしまう。どこかで彷徨っているらしい。誰が君の命運を握っているわけでもない。君は勝手に立ち去ってしまうのだろう。そこに興味を惹く出来事は起こらない。どこに立ち直るきっかけが潜んでいるとも限らないが、今はそのままでいいのかも知れない。何かを見据えてそれについて述べるような雰囲気ではない。人の世がいつまで続いてゆこうと、それが究極の状態ではないはずだ。何をどこから説明しようと、絶えず説明が足りないのかも知れない。わけがわからないのはそのせいなのか。だがわかっていることだけを述べるのはつまらない。内容のあやふやさは言説の危うさとともに、文章として読むに耐えないような状態を目指しているわけではない。言葉は誰かに何かをわからせようとして、勝手に連なってくるわけか。君の指図など受け入れられるわけがない。誰のことを語りたいわけでもない。たとえ重苦しい空気に押しつぶされそうになろうと、そこから適当に押し流されている必要がありそうだ。本気になってはいけないということか。立ち止まる必要もないし、とどまる理由もありはしない。ただその辺でうごめいているらしい。目下のところ確認できるのはそんなことでしかない。成り行きの不安定さに合わせて言葉も方々へ飛び散り、決して利いた風な内容にまとまることはない。誰のまねをするつもりもなく、誰かと同じようなことを述べているとすれば、それは偶然の結果にすぎない。たぶん立ち去り方が不完全なのだろう。どうやら今頃になって目が覚めてきたようだ。まだそんなところで何かを述べているらしい。もういい加減に足がしびれてきた。寒気も足下から忍び寄ってくる。冬という季節が誰かをどこかに誘っている。空疎な気分は鬱が原因であるらしい。誰に見つめられているわけでもない。何を探しているのだろう。闇夜は誰を包み隠しているのか。夢の中で窓から何かが飛び込んでくる。しかし君は何を悔しがっているのか。なぜそんなことを述べているのだろうか。また誰かはアブドゥル・イブラヒムを聴いている。それは何かの付け足しかも知れない。偶然の過ちでも利用しているつもりになっているのか。先のことはわからないが、今は誰かを追い越そうとしている。今という時間は君には不必要なのか。遠い過去から怨嗟の叫び声がこだましてくる。まだそんな些細なことにとらわれているらしい。


12月23日

 君は何から遠ざかっているのだろう。まだ完全に視界から消えたわけではない。影はいつでも君と触れ合えるような近くに潜んでいるはずだ。それでは遠ざかっていることにならないか。遠ざかろうとしても離れられない関係にあるのかも知れない。君にはそれが理解できない。そうではないだろう。何に反論したいのか。何に反論してどうするのか。問いかけばかりが先行している。それは意味のない成り行きに違いない。すべての試みは無効に終わりそうだ。それについて君はどう思っているのか。気に入らないのはそんなことではない。いくら否定が連続しようとそれを否定し続けることが気に入らない。何を否定しているのかわからない。何を否定したいのかもわからない。また無理になってきたようだ。たぶん無理なのだろう。調子を狂わせている。それは否定すべき状況なのか。たぶんそうなのだろう。疲れがどっと出る。どう考えても無理なことは確かだ。無理だからこそそんな状態になってしまっているのだ。何かをやり続ければ必ず無理な状況に陥ってしまう。それが誰かの定めなのだから仕方がない。運命とはそういうものなのだ。そのような宿命のもとに生まれてきたわけか。冗談ではない。冗談で述べているのに冗談ではないか。何が冗談ではないのだろう。そんなことを問うてみても何も応答がない。返ってくるのはため息ばかりだ。そうではないのだろう。そこまで行かずに適当なところで妥協してみたらどうか。無駄な言葉の並びを削って文章を短くまとめてみたらいい。それで何を述べられるのだろう。君はそこで何を見いだしたのか。夜の闇の中に誰がうずくまっているというのか。そういう話ではないか。話がそこから崩れ去ろうとしている。すでに崩壊状態か。そのままの精神状態で何かを達成するのは不可能に近いが、何かとは何なのか。もう少し割り切ってみたらどうか。さっきからしきりに妥協の誘惑に屈しようとしている。何がそれを可能としているのか。妥協せずに終わらせる方法を模索しているようだが、君はそれをわかっているのだろうか。わからないままだとすれば、それで何を述べられるわけでもない。中途半端なまま終わりの時が刻々と迫ってくる。そんな成り行きは受け入れがたい。だからそこから続けようとしている。何を続けているのだろうか。何を知っているわけでもない。では何を知ろうとしているのか。知ろうとしている対象を思いつかない。知識が邪魔をして知ろうとしていることがわからなくなっているのかも知れない。何かを知っているつもりになっているようだが、それは中途半端な知識に寄りかかっているだけのことだ。ただ見聞を広めようとしている。それだけでは何を知っていることにもならない。しかしまるっきり無知というわけでもない。その中途半端さが調子を狂わせている原因かも知れない。そこから先はどうにもならない状況だ。何もできなければ眠るしかない。無理な話を無理なままに終わらせようとしている。そんな風にしか語れないのだろう。だがそれは誰のことでもありはしない。何を語っているのでもなく、何を語ろうとしているのでもない。しかしそれでは虚しさがこみ上げてこないか。強引にこみ上げてくる虚しさを振り払う。それだけではないと思いたいのだろう。それで振り払ったつもりなのか。そのつもりでまた無駄に言葉を費やし、さらに続けようとしている。もはや何を語っても無駄らしい。それらの試みを止めることはできない。では黙ってそこから退散することができるだろうか。まだ想像することはできる。誰の行く末を心配しているのか。君は誰にもなれないだろう。その先を知らぬまま終わってしまうわけか。無理を重ねると寿命を縮める。だから眠ってしまいたくなる。眠たくなったら眠ればいい。それが叶わぬ願いなら死んでしまえばいい。そんな安易に事が運ぶとは思えない。まだそこまで追い詰められているわけではない。いくら追い詰められても必ず出口が見つかってしまうのだから仕方がない。そうやって君は生き残ってきたはずだ。終わりを迎えずに済んできた。だがこれからはどうだろう。現状ではこれからがあるとは思えない。何が現状かも把握していないのに、現状も何もあったものではないか。ただ反論すべき内容を見失っていることは確かなようだ。そこには何もありはしない。何をもたらすこともできはしない。それで何を述べられるだろう。そうこうしているうちにまたそんなところまで到達してしまったらしい。あり得ないことか。あり得ないのに現にある。それこそあり得ない状況か。何を語ることもなく、何を語ることもできず、何も思いつかず、何を思うつもりもない。そんな嘘は通用しない。だから困っているわけか。何をそんなに困っているのか。何も語らずにそこまで来てしまったことが許せないか。許せなくとも現にそうなってしまったのだから仕方がない。もはや君に残された領域はない。そこで終わりなのか。終わってしまったら何を語ればいいのか。終わってしまったのだから語る必要はない。


12月22日

 なぜか誰かはいい加減なことを述べている。暇にまかせて何を述べているのか。暇がないのに暇にまかせられるわけもないだろう。安い資源を買って高い加工品を売りつけるだけではそれほど儲からないだろう。何も商品は物とは限らず、発明品の特許料や映像や音楽やソフトウエアなどの情報を売ることで利益を得るやり方もある。そちらの方が利益率は高いかも知れない。当たり前のことだが、買い手さえいればどんなものでも商品になり、たとえば株や通貨だってそれ専用の市場があるのだから、ひとつの商品には違いない。そうした物や情報を売ったり買ったりしなければ立ちゆかない世界の中で、人々は何をやっているのだろう。何かをやっているのだろうが、それがどうしたのだろうか。そのような行為を当然のこととして、それを何とも思わなければ何も理解できないか。では何をどう理解すればいいのだろうか。何がいいというわけでもないような気がする。何を理解しようとどうなるわけでもないのかも知れない。しかし物や情報を売ったり買ったりすることができなくなった人々は生きては行かれないのだろうか。たぶんそういうことなのかも知れない。自給自足できるような環境でもない限り生きてゆくことは無理なのだろう。あるいは売り買いとは別の交換が可能なら生きてゆけるだろうか。金銭を介さない物々交換によって生活必需品を手に入れることができるか。それは誰もができるような方法ではなさそうだ。現状ではそういうやり方が一般化することはないだろう。それがどうしても気に入らないのなら、何かそれらとは違ったやり方を思いつけないものか。そういう方向ではいくら思考を巡らしても何も思いつけないか。では他にどんな方向があるというのか。君は思考に方向性があることを理解していないのかも知れない。しかしそれを理解してどうするのか。それで何を理解したことになるのだろう。何も思いつかないのはそれを理解していない証拠だろうか。それとは何だろう。それがわからなければ理解することはできない。それについて神は何を知っているのか。神が何を知っていようと、それを君が知ることはないか。どうやら君と神とは別人のようだが、神が人間であるはずがなく、ましてや無神論者の君が神について語る必然性はない。だがそんなことを述べて何になるのだろう。何にもならないならすべては無駄な試みなのか。それについて何をどう述べていいのかわからない。今はいったい誰が何を述べていることになっているのだろう。どうやらその辺で言葉が尽きている。君は言葉に不自由しているらしい。思い通りに行かないのは神も君もお互い様か。神に限ってそんなことはあり得ないか。この世界は誰の思い通りに動いているのでもなく、様々な思いが複雑に交錯し合った結果としてあるわけか。そういう外観的なことは誰にでもわかるかも知れないが、様々な思いの一つ一つを理解するのは難しい。そのすべてがご都合主義であるとは言えないにしても、それらのすべてが同時に叶うことはなく、互いに矛盾し合って行き違っていることは確かだ。それが思い通りに行かない原因であることも知っているつもりのようだが、そのとき君自身が何を思っていたのかを知ることはできない。たぶんそういう話の展開はつまらないと思っているはずだ。君にはそれがわからない。何がわからないのかを知りたいところだ。君には何が託されているのだろう。言葉以外の何を操りたいのか。他に何を探ってみても何も出てこない。ただそこに君の影がある。冬の日差しを受けて薄ぼんやりしているが、空模様は曇っている。他に何の幻想も抱けないが、それが幻想であるわけがない。君には何らかの行動が伴っているようだ。ただ仕事にいそしんでいるだけだろう。そこからどこへ目を向ければ君について語れなくなってしまうのだろう。視界から影を遠ざけておきたいらしいが、それはただの幻影にすぎず、その目には何も映っていないのではないか。君はそこで何に気づいたのか。辺り一帯を見回して、いくら目を凝らして見ても、そこに影の姿を捉えることはできない。夢の中では光景がひっきりなしに変わり続け、そのめまぐるしく変化する万華鏡のような有様に、意識がついて行けなくなってしまう。君はいつ目を覚ましたのか。真夜中に微かな物音がしたらしく、それで目を覚ましてしまったようで、夢の続きを見損なって、何だか中途半端な気分になっている。それは明け方のことだろう。君はまだそれを覚えている自らをいぶかしく思い、何だか君が君でないような気がしてきて、心のどこかに君とは別の人格が宿っているような幻想を抱いているのかも知れず、さらにその思いを強めて、神秘主義の領域へと足を踏み入れたい誘惑に駆られ、そんな自らを信じられなくなり、もとから信じていない自らの存在を、さらに虚構化したくなっているのかも知れない。要するにくだらぬ話の中に架空の自分が存在していると思いたいようで、現実の時空では不在でありたいと願っているらしい。


12月21日

 なぜか今日になっている。時が流れているのを実感している。それは君の感覚ではない。誰かは民族や宗教や国家とは関係なく生きているつもりのようだが、それはそれらにまつわる問題が顕在化していない地域で暮らしているだけのことだ。問題が生じている原因はすべて世界を覆う資本主義のせいなのだろうか。そこに何らかのごまかしと短絡があるようだ。どこかで話がショートしている。自分たちの生活が立ちゆかなくなったとき、問題を解決するための手段として民族や宗教や国家を利用しようとすると、たちまちおかしくなってくるのかも知れない。幻想で問題が解決するわけがなく、経済的な問題は経済的な手段で解決しなければならない。そんなことは誰もがわかっていることだ。それの何が疑わしいのだろう。政治制度がそれを許さないからか。民族や宗教や国家的な枠組みの中で政治が執り行われている現実があり、政治そのものがそれらの枠組みを取り払うことができない。政治こそがそれらの幻想の虜となっているのかも知れない。しかし国民から税金を徴収して、その金で政府や地方自治体が抱えている官僚機構を維持運営していくだけのことに、はたして幻想を抱くような要素があるのだろうか。官僚機構を支えている政治家や公務員が税金を利用して私腹を肥やしてしまうのは言語道断なのだろうが、彼らには何か他にやることがあるのか。彼らの仕事は何を目的としているのだろう。要するに自分たちが生きる糧としている官僚機構を維持継続させるために働いているわけか。そのためには何をどうしなければならないのだろう。自分たちが繁栄するにはできるだけ多くの税金を払ってくれる国民を増やしていかなければならないか。国民に仕事をさせて稼がせなければ、稼いだ金から上前をはねることはできない。そのために自国内の産業を保護育成する必要が生じてくる。しかし国民が稼いでいるつもりの金はどこから生じるのだろうか。国内だけで物や金を売買させながら流通させても決して稼ぎは増えない。単に金だけ増やせばそれはインフレであり、以前より高い金を出さなければ物を買えなくなるだけだ。やはりとどのつまりは外国から安く資源を買ってきて、それを加工して付加価値の高い商品にして、外国に売って儲けるわけだ。そういう貿易という商品の流通経路がない限り、国家が富むことはないだろう。しかしそのようなやり方がうまくいって国家が富めば、相対的に別の国家は貧しくなる。自国の資源を安く買いたたかれて、外国の高い加工品ばかり輸入していれば、そうなって当然だろう。国家単位で経済競争をしてしまえば、国家間の貧富の格差が生じて、貧しい国が豊かになるためには、搾取するためにさらに貧しい国を必要としてしまい、さらなる貧富の拡大を招くしかない。そしてそのような国家間の貧富の格差が、軍事紛争などの不安定要因を生み、世界の恒久的な平和の実現を阻害している。そんなわけで官僚機構が税収を増やそうとしている意図は、増やした税収で自分たちの仕事を増やして、官僚機構を強化したいということであり、それが官僚機構によって搾取されている国民のためにそうしようとしているわけではない。税収が減ったら仕事を減らして官僚機構を縮小させればいいだけだったのに、自分たちの規模はそのままにしておいて、国債などを大量発行して、借金まみれの財政にしてしまったわけだから、その時点で取り返しのつかない状態なのだろう。今さら国民の福祉を目的として増税しようというのだから、ごまかしもここに極まった感がしないでもないが、肝心の国民が官僚機構とそれに癒着している政党に政治をまかせているのだから、それはそれで仕方のないことかも知れない。それでも国家間の経済競争においては、まだ富める国の一つとしてそれなりの国際的な地位を占めているわけだから、国家としての形態を維持継続できる状態にあり、そのような国家形態が間違っているなどとは誰も思っていないはずだ。たぶんそれが相対的には正しい判断であり、アフリカ辺りで貧しい国々が内戦の泥沼状態にあるのを、高みの見物でも決め込んでいてもかまわない立場にあるらしい。もちろん申し訳程度は援助をしなければならず、それで国家間の貧富の格差など解消できるわけもないことを知りつつも、建前的には世界に貢献している姿をアピールしているわけだ。しかしそんなことでいいのだろうか。よくはないだろうが現状はそういう世の中なのだろう。この世界は不条理に満ちている。しかしそう述べても何が変わるわけではない。何も変わらないかも知れないが、そんな風にしか述べざるを得ない世界なのだ。それは恐ろしいことかも知れないが、その恐ろしさを実感できない立場にあるらしい。ならば君は何をしたらいいのだろうか。今はそんなことを述べることしかできないということか。たぶんこれから先もそんなことしか述べられないのかも知れず、昔からそんなことしか述べてこなかったのかも知れない。そして今述べられることはそんなことでしかない。


12月20日

 そんな嘘はおかしいか。誰かがどこかで経を唱えている。馬の耳に念仏というわけでもないだろうが、何だかさらにわけがわからなくなってきたようだ。君にそんなことを言われる筋合いはない。では誰にそんなことを言われているのだろう。馬耳東風か。そういう話の展開はおかしいか。わざとおかしくなるように述べている。それでは意味がないだろう。話の途中から言葉を記し始めているのだから、おかしいに決まっている。それがそこでの現実のようだ。しかしそんなこととはどんなことなのか。そんなことの内容を思いつかないからそうなってしまう。実際に何がどうなっているのだろうか。どうもなっていないようだ。ただ無駄に言葉を連ねているだけだ。それ以外に何をやっているというのだろう。のっけからそんなことでは先が思いやられるが、先に何があるとも思えない。そう述べながら誰のことを思いやっているわけではない。たとえ思いやりに欠けていようと、思いやる対象がいないのだからかまわないか。実際にはそういうことではない。ではどういうことなのだろう。確かにそうではないかも知れないが、それに対する何の反論も思いつかない。そういう話の展開が気に入らなければ、またはじめからやり直せばいいだろう。もはややり直すような段階ではないか。もうどうでもいいような話の内容になりつつあり、今さら投げやりな気持ちに歯止めをかけようとは思わない。状況は崩れ去る一歩手前まで来てしまったのだろうか。何が崩壊しようとしているのだろう。築き上げようとするそばから崩れ去っていて、何も成し遂げられないことに変わりはない。君はそうは思わない。そう思いたくないだけで、そこで誰かの気が狂っているとすれば、その兆しを見いだせないのはどういうわけなのか。それが君ではないからだ。ならばすべては嘘なのだろうか。嘘で片付けられるほど楽観できない状況下も知れないが、嘘だと見なしたいすべてとは何のことなのか。何がすべてを形成しているのだろうか。それを明らかにしようとしていないようだが、はたして明らかにできるものなのか。たぶん君はその何かについて語ることができない。それについて君はどんな見解を持ち合わせているわけでもなく、何も知らないのに何を語ればいいのだろう。たとえばすべてとはこの世界のことか。しかし世界とは何だろう。はたして世界について何を語ればいいのか。気がつけば何も語れなくなっているようだ。近頃は無理をしすぎている。不可能に近いノルマを自らに課しているように思われる。ならばさっさとその場から退散すればいいのに、曲がり角から誰かがこちらを見ていると思いこみ、誰かの視線を気にしながらつまらぬ言動に終始している。どうやら本当に曲がり角にさしかかっているらしい。それは冗談ではなく、冗談にさえならないのでもなく、冗談とは無関係な言葉が続いてしまっている。本当にただそう思いこんでいるだけだろうか。可能の時空で試しに曲がり角を曲がると、たとえば赤信号で車が止まっている。そんな何の変哲もない光景の中に何を見いだしたのか。まったく意味がわからない。それは誰のまなざしでもない。ただ鏡をのぞき込んでいるだけか。またあるとき君は階段を踏み外して転び、かすり傷と打撲程度の怪我を負う。それはいつのことだったのか。目が覚めたのはいつのことだったのか。気がつけは昼の街中で曇り空を見上げている。雨が降るのは明日になりそうだ。しかし明日になったら何をすればいいのだろう。君には明日がない。仕事をしているのは君ではなく、言葉を記している誰かだ。だが投げやりな気持ちで言葉を記して何になるのか。そこに何にもならないから意味不明を装えるのか。何もないはずがない。確か始まりにおいてはそういう話ではなかったはずだ。君はそこで誰かの言動を批判していた。あるいは他の誰かのどのような行為を批判していたのか。今はそれを思い出せない。今の君はそれを眺めている。成り行きは悪い方向にしか進まないようだ。それは何の成り行きなのだろうか。言葉が何か不吉な並びにでもなっているわけか。うまくいかなければそれだけ痛みを伴う。中途半端な語り方では、疚しさと心の痛みが増すばかりか。そんなはずはない。結果的にうまくいかないのだから、今度はそれを助長していればいいのではないか。時として内容が意味不明になだれ込んでしまうのは、状況に対する甘え以外の何ものでもない。それを知っていながら何もない事実を隠す必要があるだろうか。事実とは何なのか。右往左往しているだけか。同じ道を行ったり来たりしているだけのことにどんな価値を見いだせるのか。君はそこでまた行き詰まっている。いったいいつまで同じことを繰り返しているのか。それが同じ行為だと思えなくなるまで繰り返す必要があるかも知れないが、なぜそうするのか意味も理由もわからなくなる。たぶん時の経過が解決してくれるだろう。今はそう思うより仕方がない。あまりにも律儀に問題に対処しようとしすぎているのかも知れない。


12月19日

 意識の中で何かと何かが組み合わさっている。もう無駄な問いかけは要らないのではないか。できることならそう願いたいものだが、そうも行かない事情が誰かの心の内にあるのだろうか。相変わらず何も見えてこないようだが、いくら工夫を凝らしてみても、そんなことでは何も語れない。やはり何が見えているわけでもないらしい。気が散っているのは君ではない。見てくれは新鮮だが、時が経てば何のことやらわからなくなってしまう。常に忘却作用にさらされていて、心にとどめておくような記憶ではない。見えているのはそんな光景ではないらしい。勘違いにもほどがある。曇り空は何も語ってくれない。そういう成り行きにはなってくれないようだ。思い通りに行かないのはいつものことだ。何事も成し遂げるには苦労が伴う。すんなりいってほしいのに必ずそこで邪魔が入る。それが君のためになっているのだろうか。いったい何のために生きているのだろう。それがわかったら苦労はしない。しかし何が無理なのか。何をやろうとしているわけでもないだろう。ただ言葉を連ねているだけか。ことさら何を歪めたいわけではないが、現実を歪曲して表現してしまう癖がついているのかも知れない。だがありのままの現実がどこに記されているのか。そういう水準で語りたいのではない。それどころかもはや何も語りたくないのかも知れない。その辺で君の真意を確かめたいところか。何事にも潮時というものがあるだろう。やめたがっているのは君ではない。当然努力を惜しまないのも君ではないが、何のために努力しているわけでもないのに、努力を惜しまないのは自己矛盾だ。ただ続けるために続けているだけのような気がしてくる。それで少しは事情を理解してくれただろうか。それでも理解できないとしたら、誰かは単なる分からず屋ということになるだろうか。それで何を納得すればいいのだろうか。いくら納得しようと君には理解しがたい。それらの回りくどさが理解の妨げになっている。何を語っているのでもないのに、それを理解させようとすること自体に無理がある。誰かは無理を承知で語り続けているのではないか。告白すべき内容がないから、何が真実なのかを示すことができない。思惑はそれとは別のところにあり、そこから誰をはめようと画策しているわけでもなく、すべては自然の成り行きだと思っているのだから、それは無意識のなせる業かも知れないが、それでもいったい何を語っているのだろう。つまらぬこだわりがまともな言葉の並びになるのを阻んでいるわけか。どうやらその辺でわけがわからなくなってしまうようだ。はじめから読み返してみないと、無意識が何を伝えようとしているのかわからなくなる。だが無意識とは想像上の意識でしかない。それは思い違いや勘違いから生じている意識なのではないか。たとえそうだとしてもでたらめな言葉の連なりの中で何かを述べているように思えてくる。読み返してみると確かに何かを君に伝えようとしているように感じられ、その何かを誰かの意識が勝手に解釈して、それに対する返答として意味の定かでない言葉の連なりを形成してしまうわけか。しかしそれで何がわかるというのか。そう答えを急いではさらに理解しがたい内容となってしまうだろう。短絡的に感情にまつわる言葉を思いついた順に並べれて行けば、何か述べているような文章になるのかも知れないが、そんなもので君が満足するとは思えない。やはりもう少し工夫を凝らして述べ続けるべきなのか。しかしそう述べることにどのような意図があるのだろう。やはり何を述べたいのか理解しがたい。それは人が理解するような内容ではなく、ただのでたらめな無内容だと見なせば、そういう水準では納得できるのではないか。誰が納得したいのか理解できない。それはどのような水準なのだろう。普通に読むにしろ言葉の意味を一つ一つ確かめながら読むにしろ、何らかの理解を目指して読んでいることは確かだ。とりあえず理解して納得したいのだろう。なぜそれを妨げようとするのか。いつまでも謎のままにとどまり、誰かの興味を持続させようとしているだけか。しかし解けない謎にはやがて興味を失う。そのときまで謎のままでいようとすることに何の意味があるのか。はじめから無意味な試みなのだとすれは、そこに意味や目的を設定することは困難だ。しかしそれは嘘かも知れない。たぶん君は本当の意味や目的や意図を知っていながら、それを読んでいる間は忘れさせるために、無駄で無意味でわけのわからない言葉の迂回路をいつまでも執拗に構成し続ける。だが何を忘れているつもりになれるだろう。今の君には続けるために続けているという君自身の思惑が丸見えなのではないか。だから文章の無内容が白々しくも見え透いた嘘のように感じられてしまう。何を語っているのでもないのに何かを語り続ける試みには限界がある。やはり普通に何らかの意図や目的や思惑を抱いて何かを語らなければまともな文章とはなりがたい。小手先の技術だけで何を成し遂げることもできはしない。


12月18日

 死人がどこか遠くを見ている。彼が生きていた期間は数百年前の数十年間だけか。それは彼ではない。絵画の表面に塗り込められたまなざしに見つめられて、何をそんなに怖がっているのか。天を指さして何を見つけたのだろう。雨が降っているのかも知れない。降り続く雨に根負けしてしまったのは今の季節ではない。君はそこから何を語ろうとしているのか。そこにどんなたとえ話が入り込む余地があるのだろう。君とは無関係な誰かが、夜の闇の中で何かを思いつこうとしている。フィクションとはそういう成り行きを好む。今はそんな嘘に動揺する成り行きではない。何を思いついたとして、それが妙案であるとは限らないが、その先に向かってどんな工夫が必要なのだろうか。まだそんなところで何かを語ろうとしている。相変わらずまわりくどい言い回しに終始しているようだが、それで何を述べていることになるのだろうか。そろそろいつものパターンに嫌気がさす頃かも知れないが、何をどう述べようと、結局同じようなことを述べていることに変わりはない。今の君はでたらめ以外に語る術を知らない。かつてはそれ以外の語り方を身につけていた時期があったかも知れないが、今ではそれらのほとんどを打ち捨ててしまったらしく、忘却の彼方から何を呼び寄せるつもりにもなれない。どうせ何もないのだから、この際つもりではなく本当に呼び寄せてみたらどうか。現に無意識のうちに過去の語り方を呼び寄せようとしているのではないか。だがそれは君とは無関係の振る舞いから来ていることだ。たとえば君ではなく君の影が昔を恋しがっているとしよう。どう述べながら君は心にもないことを語ろうとする。だが間違っても自らの死を呼び寄せるわけにはいかない。なぜ死という言葉が唐突に出現してしまうのか。理由を知ろうとは思わないが、君は君の影が自らの死とつながっていると思うわけか。しかし即興でそういう理由をねつ造してしまうのは誰なのだろう。返答に窮して、誰かはわざとそんなどうでもいい思いこみを語ってみせる。そんな語り方ではまた行き詰まってしまうだろう。先のことを考えても仕方がなく、過去を振り返ってみても、何も出てこない。特に何を導き出そうともしていないのだから、それは当然の帰結に違いない。君はそんな結果を真摯に受け止めて、そこで反省しなければならないのだろうか。そんな大げさなことではないだろう。要するに真摯に受け止めるような結果ではないということか。何が結果なのかすでに忘れてしまっている。都合の悪いことはすぐに忘れてしまう癖がついているようだ。しかしそのついでに何について語っていたのかも覚えていないのではどうしようもないか。どうしようもないからそんなことを語っているのだろう。他に何も語りようがなく、外に目を向けても何も見いだせずに、自らについて何を語ろうと、それはすべて嘘になる。またこの世界の中に何か批判すべき現象や出来事があるとも思えない。君は世の中がそんな具合に動いていてかまわないと思っているのか。そんな具合とはどんな具合なのだろう。そのうち生活が成り立たなくなり、自らの愚かさと世の中の非情さを思い知ることにでもなるのだろうか。たぶんどこかの誰かは君がそうなってほしいとでも思っているのだろう。時にはそのような想像が君についてのできの悪いフィクションでも生み出すことがあるかも知れないが、今は何もありはしない。生じているのはつまらぬ言葉の連なりだけか。たまにはそれだけではないと反論したい衝動に駆られるかも知れないが、やはり今は何もありはしない。何もないからこうして何かいい加減なことを延々と述べているわけか。たぶん誰かは笑いをこらえるのに苦労していることだろう。読みたくもない文章を読まされて腹立たしくも思われ、それは本当の笑いではなく、苦痛の中から生じてくる苦笑いのたぐいかも知れない。いったいどこまで本音をごまかせば気が済むのか。何があっても文章の中では笑わずにはいられないようだ。誰かは自らが自らの行為に腹を立てていると思いこみたいらしい。それ以外に何を思っているのでもない。君はそれらの停滞を利用して結果を覆そうとしている。しかし結果とは何だろう。不合理な結果に至るにはそれなりの理由がありそうだが、そこから何を導き出せばいいのだろう。そのような行為の何が批判の対象となっているのだろう。詩は何も語らない。現状の何を批判しているのでもなく、ありのままの現状をそのまま言葉に置き換えているのでもなく、ただ詩とは無関係な領域で何かを語っているのだろう。詩そのものは何も語らない。要するにここではないどこかに誰かが語っている架空の場があるわけだ。今度はそれについて何かを述べなければならない。失敗続きの中でもだんだん言説の内容が整理整頓されてきて、その結果において何かを語っている現状がもたらされる。でたらめな文章の中でそんな根拠のない思いこみを語るのはおかしいだろうか。おかしければそこで笑ってしまえば済むことか。


12月17日

 またいつものパターンに逆戻りだ。どこからともなく邪魔が入り、言葉を連ねるのを妨げている。現実にそんなことが起こってしまうのだから仕方がない。トラブルが発生して夜になっても何もできはしない。どうあってもそれを続けてほしくないのだろうか。それは誰の意志なのか。君はそんなことにかかりきりとなってしまい、なかなか言葉を連ねる成り行きにもっていけないようだ。その気もないのによくそんなことが述べられたものだ。本当はそういう成り行きではないはずか。気が気でないような状況に追い込まれているのは誰なのか。どうやら神に見捨てられて運に見放されてしまったようだ。誰の身にそんなことが起きているのだろう。君はただの傍観者にすぎない。そのわけのわからない成り行きに振り回されている当事者ではない。そう断言して何がわかるというのか。さっきから嘘をついていないか。困った状況に追い込まれている誰かは、解決の糸口を探り当てようとして、右往左往しながら焦りを覚えつつも、必死になって考えを巡らし続けているようだ。そんな文章表現では物足りないか。君が記しつつある文章のことを述べているのではなく、誰かの境遇について考えている。行く末を案じているのは君ではなく、それは誰の行く末でもあり得ない。すでに誰かは終わっているのかも知れず、その終わり方に不満を抱きつつも、終わりに抗うこともできずに、ただ終わりが醸し出す光景に見とれているらしい。そんな解釈がどこで成り立つのか。解釈しているつもりの対象がはっきりしない。いったい君は何について述べているのか。夜道を歩きながら後ろを振り返ることができない。それで何を反省していることになるのか。顧みるような過去はない。顧みるのではなく、省みるのではないか。それらは微妙に意味が異なっているのかも知れず、文脈によって使い分けなければならないのだろう。しかしそこへ到達しないうちに眠くなってしまう。どうも今日は何も見えていないようだ。しかし何をそんなに焦っているのか。この頃は予期せぬ出来事の連続で、気の休まる暇がないことは確かなようだが、それがどうしたというのか。困り果てていて、途方に暮れているだけだろうか。何とか事態が平穏無事な結果の範囲内に収まってほしいか。その見込みがないから焦っているのではないか。何とか工夫を凝らしてその場しのぎで切り抜けようとしているらしいが、それが必ずしもうまくいっていないから焦っているのだろう。しかしそれ以外に何ができるというのか。何もできないからそんなことの繰り返しに甘んじているわけだ。それどころかそこから抜け出そうとする気力がない。しかし何がそれどころなのだろう。それでもやるべきことはきっちりやっているはずだ。やっているからこそそこから不具合が続出してしまう。何もやらなければ何も起こらないはずか。何かが絶えず起こっているということは、何かしらやった結果が出ているということか。ならばたまにはうまくいってほしいか。うまくいかないことばかりやっているとストレスがたまってくる。うまくいくように工夫を凝らしているはずなのに、いつもそれが裏目に出てしまうのはどういうことなのか。確率的にももうそろそろうまくいくはずか。なぜそうなってしまうのか、原因をつかめていないようで、ただ闇雲に探りを入れても、そこから出てくるものはゴミくずばかりのようだ。それがうまくいっていないことの証となっているらしい。君はそこで自らの失敗を自覚する。しかし失敗してなお何とかしようと努力しているわけだから、虚しい試みにもそれだけ愛着でも湧いてくるだろうか。それで本当に何とかなっているのか。誰に問いかけているのかわからなくなる。君は絶えずそれ以上を求めているのだろう。それ以上とはそれ以下ではないということか。わかりきったことを問いかけて、それ以上を求めることにつながるはずがない。何を述べても中途半端では困る。困っているからそこから先に語ろうとしているわけだ。しかしそれで何を語っているつもりになれるのか。予定調和の自問自答だけでは情けない。なぜそれでそれ以上を求めていることになるのだろう。まだそれでも際限のない言葉の連なりを延長させる気か。誰に対して何を語っているとも思えない。君は無意味に支配されている。そんな支配があり得るだろうか。何かの勘違いに違いないが、それでもそんな風にしか述べられない成り行きの中で試行錯誤を繰り返し、そんなでたらめの中から眠気が漂ってくる。眠たくなっらさっさと眠ってしまえばいいのに、まだ粘り続けるつもりか。いくら粘ってみても、同じような言葉の連なりしか出てこない。その辺であきらめてしまえばいいのに、あきらめきれずに墓穴を掘り続け、地乳の奥底へ永眠の場所を求めている無意識に気がつき、ぞっとするはずもなく、それは冗談の範囲内だと自らに言い聞かせ、何とかその場から退散したい衝動に駆られるが、たぶんその程度の逃走は逃走のうちに入らないのだろう。気持ちで負けているようだ。


12月16日

 事件が起こる気配はない。誰かは至って平穏無事に暮らしているつもりになっている。だがそこに未来はない。過去の時空の中で書物ができあがる。書物は言葉の堆積物だ。君はまだそれを読んでいる。書物を読みすぎることはないだろう。読めない文章に直面しているようだ。書物が君を跳ね返す。読もうとする心を打ち砕く。おまえに読まれる筋合いはない。開かれたページはやがて閉じられ、書棚の中にしまい込まれる。もう書物を読むことはないだろう。嘘でもかまわないから、もう少しまともなことを述べてみたらどうか。文章が君を受けつけない。誰かによって書かれた文章が君の心を苦しめる。試行錯誤を経てなお何者にも出会えない。不吉な印象を抱きながら、それが勘違いであったことに気づく。何かに感動している。君は自己実現から遠ざかる。実現すべき何かを覚えていない。その代わりにもたらされたものが感動かも知れない。絶えずこの世界の中で誰が何かをしようとしていて、実際に何かをやっている。それが現状だとしたら、そこにある状況から個人の意識を引きはがすことはできない。個人は個人でしかなく国家は国家でしかない。それらに何らかの役割があろうと、それを全うすることはできない。役割は日々刻々と微妙に変化し続けていて、その変化に意識がついて行けないからだ。ついて行けない意識が過去の書物の中に閉じこめられている。忘れ去られることに抗った結果が、書物となって書架に並べられることになりそうだ。それを音楽のように再生しようとする輩もいるらしいが、いったいこの世界の中で人々は何を成し遂げなければならないのか。そう述べる意図がわからない。ならばそれらの何が気に入らないのか。また言葉の選択に誤りがあるらしい。誰かは調子に乗ってまるで曲芸のようなことを述べている。要するにでたらめなのだろう。そこからどう修正すればまともな内容になるのだろうか。それを誰に訊ねているのでもないが、何を改めなければいけないのか理解できていないようだ。どう述べても納得からはほど遠い結果を招いている。要するに現時点では正解があり得ないのではないか。しかし何を探っているのだろうか。正解がないのに問いかけ続けている。まだ必死さが足りないようだ。勘違いしてはいけない。しかし勘違いしつつも何かを理解している気配も伺える。君には自由がある。それは何も受け入れない自由だ。自己のうちに閉じこもったままそこから出てこない自由だ。それで身体の不自由さに対抗しているつもりらしい。だが想像力はそこから去ろうとしている。力が君を見捨てようとしている。力が抜けて、君は無力な存在になりつつある。そんな脱力感がどこからともなく押し寄せてきて、それと入れ替わりに自由を実感できるようになる。無力なのに自由なわけか。どこまでそれを求め続けることができるだろうか。やがて廃人になってしまうだろう。それで一件落着だと思われてしまうが、たぶんわからないことが他にもありそうだ。まだ昼間の眠気が残っている。虚無を感じることと地続きの感覚が自由を捉えている。何とかそこまでたどり着いたようだ。試行錯誤の時はどこかへ消え去り、今はただの夜に見慣れた風景を空想している。君はそれを受け入れて、空虚とともに意識がその中に溶け込んでいる。あり得ないことを思いついたつもりになり、その場にわざとらしい驚きをもたらし、しらけた印象を醸し出す。今までの苦労が水の泡と消える光景を眺めながら、諸行無常の響きにでも耳を傾けてみようか。それが祇園精舎の鐘の音なのだろうか。文章が途中から冗談と化している感を免れ得ない。まだその続きがあるのかも知れない。続けられなければそこで終わりに違いないが、思い通りに事が運ぶはずもなく、君の思いとは無関係に言葉が連なってしまうのもいつものことだろう。君はそれを制御できないのか。そのつもりがないのかも知れず、すべては自然の成り行きに身をまかせる以外はあり得ない。それでも君は文章の中に息づいているつもりのようだ。しかし目的とは何なのか。それは誰の役割なのか。目的を達成するために誰かがどこかで悪戦苦闘しているわけか。君はそこで何を感じているのだろう。無駄な悪あがきを鼻で笑いながら高みの見物を決め込むつもりか。眺めている光景の中で、誰かが状況に飲み込まれて粉々に砕け散ることを期待しているらしい。だが挫折する要因が見当たらないのはどういうことか。目的を見誤っていたのかも知れない。君にその結果を覆す力はない。言葉の波に飲み込まれて息ができなくなっている。どこかで間違っていないか。現状分析そのものが誤っているらしい。くたばりそうでなかなかくたばらないのはそのせいか。誰のことを述べているのだろうか。誰のことでもなく世間一般に嫌われている人のことかも知れないが、それを特定するのは面倒なことだ。まだお悔やみを述べる段階でないことははっきりしているらしく、これからも意味不明なことを延々と述べ続け、人格の欠如したその存在は健在のようだ。


12月15日

 たわいない目的のために人々が右往左往している。遊ぶことがそれほど重要だとは思わないが、重要だと思うことばかりやっていられないことも確かだ。眠っているときの君は自らの行動を理解できない。目が覚めているときでもわけがわからず、自らが何を欲したいのかわからない。ただ仕事をしているだけだろうか。いったい君の目的は何なのか。語りたいことは何もなく、語っていることの中に目的となるような言葉が見当たらない。では何のために語っているのだろうか。答えとなるべき言葉を知らず、そこにはどんな理由も当てはまらない。そんな風にして文章が停滞していることは確かだが、他に何も思いつかないのだから仕方がない。仕方がないがそれでも言葉が続いてしまうのも仕方がないことか。要するに惰性で言葉を弄しているだけのようだ。それで何に拍車をかけているのだろう。君は疲れているのだろうか。架空の存在である君まで疲れてしまっては、何かを語っている誰かはさらに疲れていることだろう。ため息混じれに夜空を見上げ、そこに暗闇以外は何もないことに気づき、空が曇っていることにも気づく。部屋の中から何を空想しているのか。暖房で暑くなりすぎか。頭に血が上っているとすれば、そこで立ち止まるべきだろう。何を反省すればいいのか。忙しいのは君に限ったことではない。何かに忙殺されながらも、そこから言葉を組み合わせて文章を構成すべきなのか。君に別の時間帯などありはしない。間違ってもそれは余暇などではない。そんな風に思いながらも、徐々に傷口を埋めていくべきのようだ。そんな結論に至るのはおかしいか。理由が定かでないが、何となくそれで納得したつもりになり、そこから先に話を進めていく気になっている。しかしそれが何の話なのか君にわかるはずもない。わかり得ない立場なのだろうか。話とは無関係に君は架空の物語の中に影として存在しているだけか。そういうややこしい設定こそがフィクションなのかも知れない。それは誰にとってのフィクションなのだろう。誰も何も語っていないのではないか。何かを語る場がフィクションの中には存在していないのではないか。さらにややこしいことを語っているようだが、たぶんそれで何を語っていることにもならないのだろう。君からすればそんな風に思われてしまうのかも知れない。君は君の人格を理解できない。国内の政治情勢や世界情勢と同じようにそんなことはどうでもいいことなのか。しかし誰にとってもそういうわけでもないはずか。その辺で君は返答に窮してしまうらしく、そこから先は沈黙がしばらく続き、あまりにも静かなので、影の存在を忘れてしまったようだ。君は今どこで何をやっているのだろうか。それが誰に対して発せられた問いかけでもないことは承知しているらしいが、誰がそれを承知しているのか見当がつかない、と述べてしまうのは白々しいだろうか。気がつけば誰かが何かを述べている。ブラジル人が塩の歌を口ずさんでいる。自分の子供に自分と同じような過酷な仕事に就かせないために働き続けるのはやりきれないことだろうか。人々はそんなことが歌われていることに感動するのかも知れない。いったいそこで何が鑑賞の対象となっているわけか。君はそこでおとぎ話の世界に紛れ込んでいるわけか。何が架空の世界の話となっているのか。何を馬鹿にして何を賞賛しなければならないのだろう。判断すべき対象を知らないのは幸いなことか。何を語れば納得がいくのだろうか。誰を納得させるために語らなければならないのか。たぶん語り続けることに飽きているのだろう。もはや君は誰もない誰かなどではなく、そこに存在しないただの誰かでしかない。言葉に踊らされて文章の外へはじき出されている誰かが君なのか。なぜ君は文章から疎外されてしまうのか。何を語っているのでもないことが、君を君として認めることを困難にさせているのかも知れない。しかしそんな君の不在を糧として文章の継続が計られているのかも知れず、何もないことからそれらの文章の存在を空想するのは愚かな行為だろうか。要するにそれはどういうことなのか。さらにわけがわからなくなっているということか。闇雲にまわりくどく語りすぎている。そうする理由を誰かに聞かせてくれないか。本気でそう願っているのだろうか。この期に及んで何を望んでいるのか。わかりやすく順序だって説明できるはずもなく、はじめから話の筋などありはしないことはわかりきっているようで、ただ気まぐれに言葉を弄して、何となく意味不明な雰囲気を醸し出そうとしているだけかも知れず、それについてどう思ってみても、何らはっきりした結論に至るはずもなく、すでに逸脱に逸脱を重ねながら、どこまでずれていってもきりがないような混乱のただ中で、それらの文章はかろうじて成り立っているのだろうか。そればかりなのだからかろうじてなどではなく、確信犯的にそれらの無駄で無意味な言葉の連なりを構成し続けている誰かが存在しているのかも知れないが、それこそがフィクションそのものなのかも知れない。


12月14日

 夜中に爪が伸びていることに気づく。爪を切っていると、闇の奥から誰かの声が響く。そこに何かが封印されているらしいが、誰かは何を思い詰めているのだろうか。そこに決心のたぐいを想像したいらしいが、どのような決心なのかわかりかねる。何か言葉のようなものを感じ取っているのかも知れないが、実態が何もない。たとえば心に詰め込まれているのが虚無であるわけがないか。話の内容を語らずに何を述べているのか。唐突にそんなことを述べても意味不明ではないか。ならば何か前ぶれのようなものを付け加えてみたらどうか。君はそれらの文章にどんな前ぶれを感じ取っているのだろう。そこで何が流行っているわけでもなく、ただ言葉を記す以前の前置きが長すぎるようで、それだけで終わっている印象がある。それ自体が実体の定かでない文章の序章なのではないか。要するに近頃は序章ばかりが執拗に繰り返されていて、なかなか本題が見えてこないような文章になっている。いつも序章で終わっているのだから、本質的には何を述べているのでもなさそうだ。そんなフィクションがあり得るだろうか。それが現実なのだから、それはフィクションではあり得ない。はじめからフィクションを語っているわけではなさそうに思われる。しかし内容がどこにも見当たらない。何もないのだから内容まで考えることはないだろう。考えれば考えるほど不合理な嘘を思いつく。嘘とは何だろう。ところで今君は何を考えているのか。そんなことを記したいわけではない。何も考えていないのかも知れず、意識は空疎な内容に押し切られ、状況に適合する言葉に巡り会えず、思いついたことをすぐに忘れてしまい、そして忘却の彼方から不意に嫌な記憶がよみがえってくる。それをすぐに打ち捨てることができるだろうか。そのついでに大切な何かも捨ててしまっている。文章をくだらない記憶に適合させたいらしい。そんなことを述べている君は何を目指しているのだろうか。もはや苦し紛れといういいわけは通用しない。言葉の出てこない袋小路に追い詰められ、次第に焦りの色を濃くしている。もう君のことは放っておいてほしいか。それは誰の願いなのだろう。それでもまだ続けようとしている。だが話の結末が思いつかない。考えがまとまらず、途中で思考を打ち切って、またなし崩し的に何か空疎な内容を語り始めようとしている。それで誰かが気分を害しているらしい。なぜそうなってしまうのだろう。誰かの考えが浅はかだからか。何もないのだから浅はかでもかまわないのではないか。愚かな意識はその愚かさゆえに、言葉の迷路から抜け出ようとする気がないらしい。もはや破綻の時が近づいている。雨空を見上げながら何を嘆いているのでもなく、自身が冬の到来を喜んでいるとは思えず、それの何が皮肉なのか理解できず、皮相なことをそのまま述べ続けていることに腹を立てているようだが、誰かの語りはそのままどこへ行き着こうとしているのか。行き着く前に終わっているかも知れない。その終わりのただ中に誰かの本音でも見え隠れしているかも知れない。誰かは強引に言葉を弄してまた取り返しのつかない過ちを犯しているわけだ。何もできないのに何かをやっているふりをしていて、誰が何をやっているのかを探ろうとしている。それで何をやっているつもりになれるだろう。確かに架空の存在である君には何もできないが、やっているふりをすることは可能だ。だがそれは妄想のたぐいかも知れない。もとからそういう話なのだから仕方がないが、それではあまりにも話がつまらなすぎるだろうか。そこで誰が何の話をしているわけでもなく、そうかといって他の誰の話をしたいわけでもないが、たぶんそれは見え透いた嘘に決まっている。だがそんな決めつけはすぐに効力を失い、さっさと忘れ去られるのと入れ替えにして、君は今日もわざとらしくもまわりくどいことを述べようとしているらしい。しかしそこに何が見いだされているわけではなく、今さら何を語ろうとしているわけでもない。とりあえず状態を元に戻さないと何も思いつかないだろう。状態とは何なのか。それらの文章は誰の精神状態を述べているのだろう。そこで何かが放置されたままになっている。やはり言葉と言葉の間に関連性を見いだせない。なぜ具体的なことを何も述べられなくなってしまったのだろう。そんなことを述べてみても意味不明であり、何が意味不明なのかわからないのもいつものことだ。意味などわからなくてもかまわないわけか。そんなことはどうでもいいのだろうか。だからいくら言葉を連ねてみても、それだけ何を述べているのかわからなくなるだけか。たぶんそうではないのだろう。他の誰かにとってはそうではない。ならばそこから何を導き出せるというのか。その混乱状態を収拾することができるだろうか。できるはずのないことをやろうとしている。君の真意はどこにあるのか。静かな日々の中で何を考えているのだろう。それは君ではない。それらの状況は君に何ももたらさないようだ。君はどんな状況の中で暮らしているのか。それはあまりにも哀しすぎる結末だったはずだ。君は何について述べているのか。


12月13日

 時間の後に別の時間がやってくる。それは何の時間なのだろう。何かを述べる以前に、言葉とともに急速に何かが失われつつある。画像の出現とともに生身の体も見失われ、それが生物だった頃の記憶を消し去る。何が消し去っているのだろうか。共通性と多様性の中に何らかの法則が見いだされ、その法則を状況に当てはめると何かがわかったような気になるが、今やその何かが失われつつある。君は冗談で意味不明なことを述べているようだ。雰囲気だけの言葉では何もわからない。今の君に失われているのは良識や常識のたぐいか。今さらそんな簡単なことを述べても始まらない。何が始まらないのか。なぜそんなことを述べてしまうのか。他に述べることがないからなのだろうか。そんなことを誰に尋ねているわけでもない。君は少々お節介のようだ。それで身を持ち崩してしまうわけか。そこにどんな言葉を当てはめるべきなのだろう。今さらそれはないか。何が今さらなのかわからないのはいつものことだ。今日はだらけたことを述べているだけか。そんなことを述べなければならない理由などどこにもありはしないが、理由がすべてではないだろう。今は理由を述べられない時間帯らしい。というか理由が定かでない。何となくため息が出る。おかしな行き詰まりに直面している。しかし何をそんなに笑っているのか。雨が降り出してきたことがそんなにおかしいか。おかしいのではなくおもしろがっているのではないか。そしておもしろがっているのは君ではない。しかし誰がずぶ濡れになっているわけでもない。ただどこまでも話は平行線のままだ。ああいえばこういうの繰り返しで虚しさが募ってくる。はじめからまとめるつもりのない話ほど投げやりに推移するものはないか。そういうことを述べたいわけでもないのはわかりきったことか。要するに力が抜けて間が抜けて、頭が軽くなり気持ちも軽くなっているわけか。たぶん馬鹿になってしまったのだろう。誰がそうなってしまったのか。どういう成り行きでそんな言葉の連なりが出てくるのか。未だにやる気がしない理由を見いだせない。何を探し出そうとしているわけでもない。それでも何となく軽快な言葉の運びを目指しているような気がする。だがそれで何を述べていることになるのだろう。雨が止んだ後に虹の出現でも期待しているのか。きっと虹の根本に宝でも埋まっていると思っているのだろう。そんな話を聞いたことがあるような気がする。真偽のほどは定かではないが、君には多重人格を有している徴候がありそうだ。そこからどんなフィクションを構成しようとしているのか。やる気もしないような話を構成できるわけがない。どうやら頭から腐ってきているらしい。それは誰の頭なのだろう。君はそこでどんな妄想を抱いているのか。何となく気分を害しているようだ。思いがけぬ出来事に遭遇してしまったらしい。だが思い通りに行かないのはいつものことだろう。そんなことはどうでもいいから、少しは休ませてくれないか。やっとのことでここまでたどり着いたのに、すぐに何をやらなければならないのか。まったく疲れを取る暇もありはしない。しかしまだ精神的に余裕がありそうだ。許容限度を超えているわけではない。では何を怖がっているのか。そんなことを述べても何も始まりはしないが、それで何を終わらせられるわけでもない。終わりはとうに見えているのに、そこになかなか到達できずにいるらしく、いつまで経っても終わらないことにしびれを切らして、誰かはすべては終わったと高らかに宣言したい衝動に駆られる。そこから怠け心が芽生えてくるわけか。何をたわけたことを述べているのだろう。現実にはまだそんなところまでいっていないようだ。行く気がしないのかも知れず、途中でだいぶ道草を食っていて、かなりの回り道を余儀なくされているらしい。わざとそうしているふしもある。要するにだらけているのだろう。いったい何について語れば気が済むのか。あきれかえってしまって何も述べようがない。気がつけば次第に雨音が遠のいているらしい。耳がおかしくなってしまったのか。頭はまだ正常に働いているのだろうか。それは誰の頭なのか。別にそれを知りたいわけではない。では誰がそんなことを述べているのか。誰が述べているわけでもなく、ただ文章にそう記されている。そうではないだろう。そう述べて何を否定しているわけでもなく、否定したい言葉を探しているわけでもない。ただ虚しいだけのようだ。それが正直な実感となるだろうか。実感など何もあるはずがなく、たぶん何かが違っているのではなく、述べているすべてが間違っているのだろう。それでは自己満足には浸れないか。求めているのは自己満足ではなく、自己否定でもない。ならばどうなってほしいのか。どうにもならない現状をどう変えてほしいのか。どうにもならないからそれを述べている現状がある。本当にどうにもなりはしない。空疎な内容を捨てきれないのではなく、自然とそうなってしまうのだから、それが限界を表しているのかも知れない。


12月12日

 何がそんなにつまらないのだろう。別に何に怒っているわけではない。何かが目の前を通り過ぎ、やがて忘却の彼方へと消え去り、次いで何を考えていたのかも忘れてしまう。やる気がしないのはいつものことだが、語っているうちに何が何だかわからなくなる。そんなことはあり得ないか。わざとそんなことをやっているのだろう。白々しく中途半端な嘘をついてみる。それで気が済むならそれでもかまわない。しかし今さら何を語りたいのか。なぜ多くの人々は長く生き続けたいと願っているのだろうか。なぜそんなわかりきったことを問うのか。別に何を考えているわけではない。ただ何となくそんな問いを発してみたくなっただけか。案外苦し紛れかも知れない。案外ではなくいつもそうなのではないか。ではいつも君は何を考えているのか。人々は何を考えているのだろう。人も様々だし考えも様々だろう。では人々とは具体的に誰のことを述べているのか。そこにどんな種類の人間を当てはめようとしているのか。人種も性別も様々だろう。取り立てて特定のターゲットはなく、それは誰のことでもなく、誰でもない誰かでもない。要するに何を述べようとしているわけでもない。ならば何をどう述べたら、嘘をつく必要のない答えをもたらすだろうか。問う前に答えが用意されているわけではない。前もって何を語るつもりだったか忘れてしまったようだが、ことさらそれにこだわっているわけではない。すでにいくつも嘘をついているのではないか。今さら嘘をついてどうなるというのか。退屈な問いかけの連続に飽きているだけかも知れず、それ以外に何も述べられない状況を呪っているわけか。それは自業自得に違いない。今まで怠けてきたことが一気に不具合となって吹き出しているのかも知れない。それで何がわかるだろう。とりあえず今は何を述べているつもりになっているのだろう。生きることにも死ぬことにも意味はない。そんな断言には意味も理由も根拠もなく、それでも意味を付け足すとすれば、それは人々の思いこみから生じているのだろう。そんなわけで君は意味から逃げている。たぶん長生きできなければ適当なところで死ぬだけだ。しかし生きている時間など相対的なものだろう。生きている期間に何をやったかが問題となってくるのではないか。ならば生き急ぐ者たちは何を求めているのか。自殺する者たちには何がもたらされたら気が済むのか。誰の気が済むのだろうか。近親者の自殺に悲しむ人々は何を求めているわけか。過ぎ去った時間の中でやり直そうと思っている。叶わぬ願いとはそういうものだろう。しかし彼らにもたらされるのは死あるのみなのだろうか。とりあえずすべての人々には死がもたらされ、死んでしまえば他に何がもたらされているのかを知ることができなくなる。だがなぜ君は他を求めるのか。他に何があるのだろう。はたして結果とは何なのか。君はそんなところで何かと戦っている。誰もいない地平で虚無との戦いに臨んでいるわけか。実際には何と対峙しているわけでもない。ならば現状のとりとめのなさが結果そのものなのか。君はそんな結果を求めていたのか。やはりわけがわからない。わかろうとしていないのだからそれは仕方のないことだろう。現状では何をどうしたいわけでもなく、何がどうなっているわけでもない。ただ夕暮れ時に音楽を聴いている。仕事が終わって一息ついているところか。まだ言葉を連ねる作業が残っているではないか。だがそれは仕事ではない。趣味でもなく仕事でもない。そんなことを述べて何を強がっているのだろう。ならばそれをなんと定義したらいいのだろうか。定義する必要のない作業に違いない。意味もなくただひたすらに言葉を連ねているだけか。この期に及んでそんな嘘は通用しないか。通用しなくてもただそう述べることしかできない。作り話の中で誰かは気が散っているようで、何もやれなくなる。誰が何をやろうとしていたわけではない。では誰が何を説明しているのだろうか。君が説明しているのではない。それでは話が違うはずだ。そんなどうでもいいことを語っている君には何が欠けているのだろう。君が語っているのではない。それに関しては何もわかろうとしないようだが、それでも何かをわかっているつもりらしい。そこで何を思いついたのか。おぼろげながら何かが見えてくる。それらの状況は君に何を物語ろうとしているのか。君には言葉がない。何かを語るために必要な言葉を持ち合わせていない。それがどうしたのか。それについて何を理解しているわけでもなく、何を理解したいわけでもない。君には理解できない状況になりつつある。だが何を理解できないのかを語っていない。ならば昨晩は何を考えていたのか。何となく事態が改善しつつあるようだが、それは誰のせいでもありはしない。何を肯定したいのか。心境の変化とは何だろう。心に余裕が生じている。気のせいなどではなく、本当にそう感じている。ならば少しは肯定的なことを述べてみたらどうか。どうやら運は君を見放していなかったようだが、そこから先は何について述べようとしているのだろう。何を信じているのか。信仰ということに関しては、何となく否定的なことを述べそうになってくる。なぜ肯定できないのだろうか。ある特定の宗教を受け入れることはできない。それは宗教ではない。では君は宗教なしで何をやろうとしているのだろう。どうもそれをやることができないようだ。


12月11日

 別に胸が張り裂けるような思いではない。何か適当なテレビドラマでも見ていたわけか。あるいは冗談でそんなことを述べているだけか。何となく苦痛が長引いているようだが、どうもそこから奥には踏み込めないようだ。小康状態といったところか。そこで君は何をわかってしまったのだろうか。自らの行く末を誰が案じているのだろう。わけのわからない成り行きに唖然としているわけではない。所詮どうでもいいことはどうでもいいことでしかないが、何がどうでもいいことなのだろう。何か落ち着いて物事について考えてみたいが、時間と状況がそれを許さない。そしてそれは何もできないことのくだらぬいいわけとなっている。それでも何かしらやっているつもりなのだろう。人には人それぞれに言い分があるらしいが、君にはそれがわからない。それをわかろうとしていないのはいつものことか。それでも何かの役に立っているのかも知れない。役立たずでは困ることでもあるのか。それはそのときの状況にもよるだろう。そんな文章はくだらなすぎるか。だがたとえ意味不明であろうと一応は読めることは確かだ。書物から遠ざかり、何を読んでいるのか定かでなくなる。メールか何かのたぐいだろうか。たわいのない話に相づちでも打っていれば時が勝手に過ぎ去る。ならば他に何か主張することでもあるわけか。今でも青年の主張という番組はあるのだろうか。テレビの話をしたいわけではない。社会に対して何か大それたことを提言したいわけでもないか。気が触れていても物笑いの種にはなりたくないようだ。そんな言葉遣いがかつて存在しただろうか。誰の文章を読んでいるのか。そこでは誰の発言が不在となっているのか。何を述べているわけでもないのに、瞬く間にいい加減な言葉が連なってくる。どうも本気になれないようだが、それでもいつもの調子で語っている内容に近づきつつある。しかし誰がそんな文章を嘆いているのか。何がそれらの文章を構成しているのだろう。自己言及と愚痴のたぐいならくだらなすぎるが、君はいつまでもそれらの光景を眺めづけている。光景とは何だろう。文字の連なりを眺めながら、何か思うところがあるらしいが、人の領分を踏み越えて言葉を連ねているわけではない。昨日は深夜に何を聴いていたのだろう。何かの物音だったかも知れない。あるいは単なる回り道か。それらの迂回路にはどんな音がちりばめられていたのだろう。そこから意味がわからなくなる。それは誰のための音楽なのか。音楽を聴いていたのは電車の中でのことだ。君は自らが何を思い出そうとしているのかわからなくなっているようだが、何を冗談で済まそうとしているのだろう。誰かはなぜ焦っているふりをしているのか。思い出す以外にどんな目的を思い出さなければならないのか。目的が絶対であるわけがないが、多くの人は目的のために殉じようとしているらしい。しかし目的とは何だろう。生き残ることが目的であるはずがない。結果が目的に結びつかない場合だってあり得るはずだ。そんな結果の中で目的が見失われているらしい。しかし結果とは何なのか。生き残ってしまったことが何からの結果をもたらしているわけか。それ自体が一つの結果なのではないか。たぶん君はさらに生き残ってしまうのだろう。もう当分死ぬことはない。そんな嘘を本気で信じているわけではないが、気休め程度に頭の隅にとどめておきたいような気になっている。だから偶然の死が君に襲いかかってくる前に、何とかそれらの無駄な行為を試しておかなければならず、そんなことの繰り返しによってそこから何らかの結論を導き出しておかなければならない。もちろん本気でそんなことを述べているわけではない。本気になれない理由などいくらでもありそうだが、今はそれを忘れている。まだ幻想のただ中でもがき苦しんでいるわけか。もがき疲れて何となくその辺で小休止している。そして差し障りのない範囲内で言葉を繰り出している。たぶんそれ以外は何もありはしないのだろう。そんな状況ではたして君に何ができるというのか。何もできないから何かを適当に語っているのだろう。今はそれでもかまわないと思われてしまう。憤怒の感情はとうに退いていて、そこで何が炸裂しているわけではない。すべては作り話の中の出来事にすぎず、架空の出来事について架空の思考を巡らし、それに対応して適当な言葉を連ね、文章を構成しようとする。そんな結果に殉じてどうしようというのだろう。何の利益ももたらされない。君はそこからさらに冗談を続けようというのか。なぜか外は曇り空のようで雨が近づいているようだ。そんな天気ではまた憂鬱な気分に拍車がかかってしまうか。ならば作り話の中での空模様は快晴にしておこう。それで何が変わるというのか。まだその続きを語らなければならないのだろうか。無内容以外の何がそこで続いているというのか。もはやまったく冗談では済まされないような文章になりつつあるのかも知れないが、それも一つの結果にすぎないのだろう。だから結論はすでに出ている。


12月10日

 何かおもしろいことでも述べなければならないタイミングかも知れないが、今はただ眠い。眠いだけでその先に言葉を繋げられない。それでうまく立ち回っているとは言い難いか。そんなことをわざわざ述べようとしているわけではない。不自然な動作の中に君の真意が隠されているようだが、それをことさら誰に伝えようとしているわけでもなさそうに思われる。本当は誰にわかってほしいのか。それ以前に何をわかってほしいのだろう。少なくともそこに何もないことは承知しているはずだ。だがわかっていても君がそこから一歩も先へ踏み出せないことも知っている。誰が知っているのでもなく、君自身がそれをわかっているはずだ。しかし国家の堕落とは何だろう。何だかかなり的外れのような気がする。誰もそれに気づいていないということか。そんなわけはないとは思うが、何となく天下国家について何か物申さずにはいられない人種というものが存在しているらしい。しかしものとは何か。過去に言葉と物について誰かが何かを述べていたような気がするが、人間という言葉はどこから生まれてきたのか。人間は国家をはみ出て行動することができるだろうか。それは具体的にどういうことなのか。ただ外国へ行っても、そこも一つの国家に違いない。無国籍テロ集団などに身を投じればはみ出たことになるのだろうか。どうもそういうことではないような気がする。それについて具体的なことは何も述べられないのだろうか。とりあえず君は国内に存在しているつもりのようだが、そこから何がわかるのか。生身の誰かは税金もきちんと払っているらしい。たぶん国家の実在を認めなければならなくなる。今さらそれはないだろう。何も論じていないうちから性急に結論へ至りすぎだろうか。それともそういう話ではないのか。君は自らがこの世界に存在する余地を見いだしていないらしい。いったい架空の場所以外のどこへ存在すべきなのか。自らが主体的に存在できるはずがない。それ以前に別人が存在してしまっているのではないだろうか。君とは違う誰かがそんなことを述べている現状がある。君にはそれが信じられず、場合によっては許し難いとさえ感じることもあるらしい。はたして現実にそんなことがあり得るだろうか。君はこの世界の中で何を感じ取っているのか。ただ街中を多くの人々がうごめいている光景を眺めているだけか。ではそれらの人々は何をやっているのだろうか。たぶん様々なことをやっているのだろう。だがそんなおおざっぱな捉え方でいいのか。何となくすべてが馬鹿げて見えてくる。本当は何を眺めているのでもなく、ただ部屋の中で当たり障りのないことを想像しているだけなのではないか。しかしそれ以外に何が考えられるというのか。他に何を考えているのでもなく、本当は何も考えていないのかも知れず、ただ勝手気ままにいい加減に言葉を連ねているだけにすぎないのかも知れない。それで何がわかるというのか。誰かが騒いでいるらしい。それを見て誰かが悲しんでいる。他に何を哀れに思う必要があるだろう。君には感情がない。それは怒りの感情でもあきらめの感情でもない。ただ何かを語っているのだ。意味のない何かが語られている。それが無内容といわれるものだろうか。それでも未来を目指して努力しているつもりか。未来に何があるというのか。時間と場所なら過去にも現在にもある。それらの場所と時間は未来のそれとはどう違うのか。何を空想しているのだろう。どんな未来が君にとって望ましいのか。それでも人々はあくせく働いているのかも知れない。君も現実の時空ではそうしているはずだ。架空の物語の中では何もしていない。たぶん現実の時空で暮らしているつもりの君は君ではないのだろう。では架空の時空では君は何を求めているのか。それがただの安らぎだとしたら、君はそこで堕落していることになるのだろうか。気まぐれで聴いている音楽が心地良い。久しぶりに心の中で何かが砕け散っているようだ。誰かが自分の殻に閉じこもっているようだが、君にはそれが見えていないようだ。何も気にせず次の段階へと向かっているらしい。君はそこで何を置き忘れてきたのだろう。また性急に事を運ぼうと焦っているわけか。誰がそうしているのだろう。そんなことはお構いなしに無駄な言葉がさらにその先へ続いていく。いったい何を論じたらいいのだろう。架空の物語の中で何かを論じるという行為自体が、それらの文章には馴染まないのではないか。君はそんなことでさえ無視しようとしているようだ。それの何が不満なのか。なぜ利いた風なことを述べようとしなければならないのだろう。人々には人それぞれに役割があることを理解したい気持ちがあるようだ。何という愚かな思考形態なのか。では君はなぜそれを否定しているのか。ただ何となくその役割というものが煩わしいと思っているだけかも知れない。何かそれを達成するために努力を強要されているようで、心情的にそういう成り行きには逆らいたくなってくるのだろう。しかし自由とは何なのか。


12月9日

 現実はどこまで厳しいのか。誰かは何をやりたいのだろうか。いったい何を欲しているのだろう。なぜそんなものに金を払うのか。君はなぜ働いているのだろう。要するにやりたいことが仕事ではないということか。やりたくないのに仕事をしている現状は甘ったれていると思われるだろう。しかしそれは仕事ではない。寂れた街の通りに猫が佇む。とりとめがないのはいつものことだが、それは誰の見た夢なのか。作り話の中では口調が変わっている。そしてなぜか冷や汗が足下にしたたり落ちている。苦し紛れの申し開きは見苦しい。何が見え透いているのだろう。まだわかっていないらしい。また考えがまとまらずに焦点がぼやけている。そこから何を思いつこうとしているのだろう。何を思いついたとしてもすでに時間切れか。なぜか最近は忙しい。それは明日の晩のことだろう。忙しいの明日の晩だけではない。暇にまかせて君はまだそんなことを述べている。言葉を記しながらあくびが出てくる。さっきまでは気乗りしない作業に追われていたのではなかったか。そんな理由で本題に入る気がしなくなるか。序論にもならない文章で済ましてしまいそうだ。君には何かが取り憑いているのかも知れない。君自身が誰かに取り憑いているのではないか。霊媒師が何を語り始めようと、それは君の言葉ではない。誰を毛嫌いしているのだろうか。理由がないのはいつものことか。ではどこまで真実を語る気になっているのか。何が真実なのかわからない。別に真実を語っているわけではない。誰と誰が対話していることになるのか。名も知れぬ誰かがそこから遠ざかり、架空の対話さえ成り立たなくなる。君に何を期待しているわけでもないが、何に失望しているわけでもない。君に何ができるのだろう。誰の欲望も限りがない。なぜ国家単位で競争しなければならないのだろうか。そういう問いに意味はない。現状はそうではない。たぶんそれは国家主義者の幻想にすぎず、実際には競争も何もありはしない。見えているものが見えていないわけだ。だから国家も国民も滅び去ってしまえばいいのかも知れない。そう簡単に滅びるわけもないか。しかし労働とは何なのか。目下のところ自由とは貧困になる自由でしかない。自由を求める者はそれを勘違いしているらしい。君はそれを知っていたのだろうか。君は何を語っているつもりなのか。ごまかしがきかないのは心に余裕がない証拠かも知れない。それでも人には創意工夫が欠かせないようだ。それが足りなければどうなってしまうのか。ただ働いているだけでは先細りの行く末を免れない。それは死を意味しているのかも知れず、死を避けることはできない。ただ死ぬまでに何かを成し遂げておかなければならないと思うのはなぜなのか。なぜそうやって自己満足に浸ろうとするのか。それでは生きていることにも死ぬことにも意味を見いだせないのは当然の成り行きか。そんなわけで誰もが身勝手な幻想にすがりつこうとしている。君は安らぎを求めているのかも知れない。永遠に安らぎたければ永眠すればいいことかも知れないが、どうもそこに至る勇気が欠けているらしく、とりあえず面倒な事態に巻き込まれるのは嫌なようで、死に至る病を避けて、ひたすら言葉を連ねようとしている。生きていることや死んでしまうことは、君自身がやり続けている行為とは無関係だと思いたいようだ。何らかのつながりはあるのかも知れないが、今はそんなことは忘れて、自然に出てしまうあくびをかみ殺しながらも、延々と言葉を連ね続ける。それが君のやり方なのか。やり方とは何なのか。実際には何をやっているわけでもなく、何を語っているのでもなく、ただ自然に湧いて出る言葉の連なりを読み返しているだけなのではないか。そんなことばかりでは死ぬほど退屈か。何も死ぬことはないだろう。死ぬほどの苦痛を伴っているわけではない。君にはそれらの試みが失敗に終わっていることがわかっている。その結果を真摯に受け止めながらも、なおさらに何かを述べようとしているわけだ。そんなことの繰り返しでは、さらにまた一段と眠たくなってくるか。だが寝ても覚めても言葉を繰り出しているわけでもないはずだ。ではすべては戯れ言として突き放してしまった方がいいのだろうか。この期に及んで何を放棄しようとしているのだろう。そこで何を読み切れていないのか。見えているのは何なのか。何を述べていいのかわからなくなっているようだ。しかしその先に言葉が待ちかまえている。それは決め台詞というやつか。まだそこから退散するわけにはいかないようだ。意識が粘って何らかの見解を絞りだそうとしている。手を変え品を変え、もはや打つ手なしとなるまでに粘らなければ、どんな言葉も導き出せはしないだろう。末期的な状況のただ中にも、何らかのきっかけが隠れているはずだ。はたしてそれはよくなるきっかけなのだろうか。何をそれ以上良くしようと心がけているのか。それとも良くなるわけがないとは思いたくないだけか。たぶんそう述べて何を批判しているわけでもなさそうだ。


12月8日

 時間に追い立てられて、気持ちに余裕が生まれない。なぜそうやって嘘をつくのだろう。雨空を眺めることもなく、気持ちはどこか遠くへ行ってしまっているようだが、そこから先に言葉が出てこない。意識はただ何となく雨音を聞いている。別にそれで死んでしまうわけでもない。いきなりそれはないだろう。死ぬ以前に生き続けなければならない。たぶん人は死ぬまでは生きているのだろう。架空の存在には実感が湧かないか。誰のことを述べているわけでもなく、それが君であるはずがないだろう。君は端から存在を否定された存在だ。だから自虐的なことを述べるべきではない。君の不在にかこつけて誰かが君のことを悪く言っている。そんな被害妄想を真に受けるでもなく、何も語ることができない現状を嘆くこともなく、ただひたすら雨音を聞いている。君が聞いているわけではないはずだ。君は雨音の代わりに音楽を聴いているのではないか。架空の世界では音楽を聴いている方が気が楽か。そんな想像は意味がない。それで何をどう解釈できるのか。心理学者気取りで夢判断でもしているつもりになっているわけか。さらに言葉がおかしな方角へ向かっているようだ。まだ危機を脱しきっていない。似非文学とは何なのか。何が文学と定義されるのだろうか。そういう話からはかなり遠ざかっている。あの山の向こうには何があるのだろう。視界を遮るものが見えてこないが、何に遮られてほしいのか。退屈な言葉の連なりに飽きてくる。読みたい書物が見当たらない。落ち葉を踏みしめながら誰かがこちらへ歩いてくる。なぜそこから遠ざかろうとしているのだろう。不意を突かれて気が動転しているわけではない。それは誰の顔でもなく、見覚えのある顔を思い出そうとしているだけか。たぶんそれは違うのだろう。意表を突くような言葉を並べようとしているわけではない。またわざとわけがわからなくなるように語っているわけでもない。偶然の巡り合わせで何かと何かが出会い、そんな成り行きからそれらの言葉が導き出される。それは何の説明になっているのか。何を期待しているのか。どんな仕打ちを受けているのだろう。君は誰に似ているのか。昔死んだ誰かに似ているとしたらどうなのか。どうでもいいことを述べているのだろうか。過去の話はなかったことにしておこう。何も約祖などしていない。たぶんまだ迷路を抜け出ていないつもりになっているのだろう。だが視界には何も映らない。目が鈍感になっているのかも知れない。まさか盲目というわけでもないはずだ。知らないうちに白内障を患っていたわけでもない。目が乾いてくる。寒さに凍えながら皮膚の割れ目から血がにじんでいるのに気づく。今さらの啓蒙活動にはうんざりさせられる。ちゃんとわかりやすく述べるべきではないのか。起承転結からはほど遠い。では何がそれらの文章を構成しているのか。君の戯れ言にはつきあっていられない。まだ言葉が必要であったとは驚きだ。そんなことを述べている余裕はないはずか。君はそこで何を考えているのか。誰にそんなことを述べる権利があるのか。ろくでもないような何かをつかんだつもりになり、主張すべき言葉を誰かが探している。これから何をやったらいいのだろう。気が済むとはどういう状況なのか。手の甲が急にかゆくなる。そんなところでうろついているのは危険ではないか。外では雨が止んだらしい。心の中では明日の天気を占っている。言葉がさらに遠ざかりつつあるらしい。君はどこまで遠ざかれば気が済むのか。君とは何なのか。ただの言葉でしかないことはわかりきっているようだが、それ以外に何か気の利いた説明を導き出せないものか。それでも君は何かを語ろうと努力する。さらにそれとは違う何かを語りたがる。行くあてのない言葉が何かの吹きだまりに蓄積しているようで、それが文章以前の文章として、自らを形成しているつもりになっているようだ。それは誰の肉体なのだろうか。なぜそれが死体でないといえるのか。そう述べて何を否定しようとしているのだろう。それらの行き着く先には何が待ち受けているわけか。すべては君には関係のない話に違いない。無関係だからそこから容易に遠ざかれる。そして君は言葉を失う。何に感動しているわけでもなく、感動しようとする気持ちを無理矢理押さえ込んでいる。そんな重圧から解放されたいと願っているわけではない。何にとらわれているのだろう。何かに拘束されていることは確かなようだが、その何かを特定するには至らずに、ひたすら謎のままであろうとする何かに心を支配されているのだろうか。それは誰の心になるのだろう。フィクションの中ではその心の持ち主を簡単にねつ造することができるだろうが、それをあえてやろうとしない理由がわからない。そのつもりもないのにひたすら言葉を連ねていること自体がおかしいが、そんなことをやりながらも、心はそこから離れている。確かにすべては君とは無関係なのだ。それらの無内容を所有すべき当事者など誰もいはしない。だから君はいつまでも不在でいられるのだろう。


12月7日

 また何かが始まってしまう。あげつらうべき行為を探しているわけではない。なぜそれを認めてくれないのだろう。だがそれが最後ではないはずだ。至りようのない最後を遠くに見ながら、くだらぬ言葉を弄して、疲れている感覚を反芻したいのか。何がくだらないのだろう。疲労とともにまた空疎な夜がやってくる。何をひねくれているのか。不幸のただ中で何かいいことがあったのだろうか。見てはいけないものを見てしまったのかも知れないが、過敏に反応すべき事柄ではない。では宗教とは何なのか。宗教と事柄は無関係だと思いたい。青空の下で何を笑っているのだろう。誰かに取り憑いていたものが落ちたようだ。誰かが一時的な錯乱状態が解けて、しばらく落ち着いているようだ。どこへ落ちていったのか。防風林の向こうに荒れ狂う海がある。いつ冬になったのだろう。君は曇り空の下で何を探していたのだろう。誰から何を伝授されたわけではない。何を得意としているわけでもない。それでも何かを主張しなければならないのだろうか。無駄に言葉を弄している。それでも生きてゆけるのだろう。そこから何を肯定しなければならないのか。簡単に批判すべきことではない。目的が大げさすぎるだろうか。見えている風景はそれとは違う。またそんなところで道草を食っている。誰に向かって嘘をついているのか。誰の言葉でもなく、何を引き寄せようとしているわけでもない。いつしか忘れ去られる運命を変えようとしている。さっきから見ている画面上から何かが浮き出てくる。そこに誰の情念が顕在化しているのか。どんな報いを受けているのだろう。君には関係のない話だ。何を語っているわけでもない。そこから別の答えを導き出そうとしている。何が答えとなっているのだろう。君は何が知りたいのか。何も知ろうとしていない。無理に知ろうとしなくても、自然にわかってしまうらしい。破滅の予感はどこから出てきたのか。それが嘘であってほしいようだ。世迷い言である根拠を示してほしい。そこで誰が何を述べているのだろう。何を認められないのか。まだそこまで行っていない。自らが何を知っていると思うのだろう。かすり傷を負いながら大げさに騒ぎ立てるでもなく、それが偶然の巡り合わせに違いないと思いながら、もうあのときのことを忘れてしまったらしいが、それでも何とか語り続けているらしい。今はそれでかまわないのではないか。何を強引に押し進める気にもならない。ただそこで行き詰まっているのはいつものことだろう。食生活を改善しなければならないだろうか。それは唐突な的外れになっている。できればそこから逃げ出したい。勘違いでもかまわないから、何か心温まるような挿話でも導き出せないものか。すぐにそうではないことに気づく。現状では何を語っても無駄だろう。それが勘違いを醸し出しているわけか。どんな結論が出ているわけもなく、何に導かれているわけでもない。それらの言葉が誰を導くこともない。君は気まぐれなのかも知れず、語っている内容を顧みることができない。文字を目で追っているうちに、すぐに眠くなってくる。まぶたがだんだん重くなってくる。もうすぐ夢の中で誰に出会うのか。すぐにそれを認めるわけにはいかなそうだ。誰かにはプライドという無用物があるのだろう。言葉は物ではない。物は物という言葉だ。その足は大地を踏みつけている。それは誰の足なのだろう。はたして物に足が生えているだろうか。どういう了見でそんな無駄なことを述べているのか。それだけでは迫力不足か。何に迫力を持たせようとしているのかわからない。テレビでも見ていれば、いつまでも無駄な時間を過ごすことができそうだ。それで強引に場面転換を図っているつもりになれるのだから、それはそれでおめでたいことか。まだ身にしみて空虚を味わっていないようだ。どうしてもそこで一休みしたくなる。いったい何がそんなに不満なのか。思い出されるのは遙か昔の挿話ばかりのようだが、君はそのとき何を体験していたのだろう。そのまま突っ走るわけにはいかないだろうか。何も思い浮かばずに何も考えていないことを悔やむでもない。眠気に逆らうことのメリットでも説明してほしくなる。誰に説明を要請しているのか。それでも空白は着実に狭まりつつあり、さっきまでの空白が文字で埋め尽くされている光景に感動しているつもりになる。空っぽの心にゴミくずでも詰め込もうとしているわけか。そうすることにどのような意図が潜んでいるのか。潜ませるべき言葉を間違っているのではないか。どこへも至らずに、いつまで経っても終わらない文章の中に、君はどんな姿で描き込まれているのか。何も知らずにそれらの虚構のただ中に登場しているわけでもあるまい。まだ多少なりとも中身を伴っていた頃の文章が懐かしいか。今となっては遠い過去の物語だ。そんなエピソードはあくびとともに消え去ってくれるとありがたいが、君は何もありがたがる必要はなく、ただそこで何かを述べているつもりになっていれば、それでかまわないのかも知れない。


12月6日

 拒否反応とは何か。見知らぬ誰かが何かをつぶやく。見て見ぬふりをしているわけではない。何を見ているのでもなく、ただ何となくそんな場所に顔を出している。それは誰の顔なのだろう。特定の登場人物を際だたせるために、これ見よがしにくだらぬ人物が配置されているわけか。たぶんそれが物語のご都合主義なのだろう。ある登場人物が優れているように見せかけるには、その周りに愚かな人物を配置すれば事足りる。ついでにその程度の物語に感動している君自身も愚かだといわざるを得なくなる。それだけのことに感動しているわけではないはずだ。君にはそれが理解できない。物語に登場する様々な人物の間の優劣関係は相対的なものなのか。とりあえずその時点で愚かな人物は、物語の進行とともに成長させなければならなくなる。使い捨てのやられキャラに見せかけておいて、そこから偶然の巡り合わせをきっかけとして、どんどん賢くさせていかなければならないのかも知れないが、それで意表を突いているつもりになれるだろうか。君は何について述べているつもりになっているのか。それも作者が物語を制御しようとするご都合主義の表れか。それともそこに架空の作者が存在する余地はなく、もう君の世迷い言にはつきあっていられないか。何が世迷い言なのだろうか。何となくうんざりさせられるが、屁理屈をこねるには少々言葉が足りなすぎるか。それをご都合主義と解釈すること自体が間違っているのだ。もとからそんな物語に興味を抱いていたわけではない。君は何も理解していないようだ。理解の埒外にそれらの物語は根を張っていて、君の想像力がもたらそうとする背景とは別の水脈から養分を吸い上げているような気がする。だからそんなことを君が理解する必要はないのではないか。しかしなぜそこで頓挫してしまうのか。何を理解していないのかわからないだろう。どうも本気で物語と向き合うのが煩わしいように見受けられる。そこから誰の言葉を借りてくればいいのだろうか。それとも誰の助け船を待っているのか。そんなことを想像するだけで幻想に浸れるのはなぜだろう。何となく緩い心でその場を立ち去りたくなる。君には反省の色がまったくない。功利主義的な文章からすでにおさらばしているはずだ。誰の生き方をまねる必要もなく、自分の生き方を貫く必要もない。そんなものはもとからありはせず、ただ生きているだけなのかも知れない。自らが生きていると思いたいわけか。現実には数百年前に死んでしまったかも知れないのに、その死者が自分でない証拠を探そうとするわけでもなく、誰が死んでいようと誰も生きていなかろうと、すべてが不在であろうはずがないと思ってみても、そんなことはどうでもいいことなのだろうか。なぜ言葉がそんな風にずれていってしまうのだろう。君の言葉ではない。誰の言葉でもなく、何を持ち合わせているわけでもない。何かがそこで響いていることは確からしいが、それが音楽でないと誰が否定できるだろうか。どうもその辺からわけがわからなくなってしまうようだ。心はすでにそこにない。それらの文章は何かの残骸なのかも知れず、その残骸について何を述べようとも、残骸が宝の山に変わるはずもなく、残骸は残骸でしかないだろう。そんな風に語ることを誰が否定できるだろうか。気がつけば何かが辺り一面に飛び散っている。もはや何を真に受けるわけにもいかなくなる。美的に醜かろうと、いかに美しくなるための努力を惜しまなくとも、そんなことで何が報われるわけでもない。社会の表層から汚れを取り除くわけにはいかない。そこからしか人々は生まれてこない。他人の物語では物足りないが、自分の物語では自業自得か。何が自業自得の結末に導かれているのか。それは誰の魂でもなく、社会の表層で揺れ動いている葦のような人々でもない。では他に何を否定できるというのか。この世に存在するすべてを否定したとしても、それはただそんなことを述べているにすぎず、何の実効性もありはしない。そう述べながらまたどこかへ出かけていってしまったらしく、言葉を記す主体が不在のまま、適当に言葉が連なっていく状況が続いている。それで何がわかるというのか。それは誰の問いかけと解釈したらいいのか。君はそこで何を問われているのだろう。もう少しわかりやすく事態を説明すべきなのか。どのような事態に陥っているわけでもなく、それについて何も語れないわけでもない。何かと何かが混じり合い、得体の知れぬ存在を予感させる色調を生み出す。たぶんすべては戯れ言なのだろう。そうでなければ説明しようのない内容が表層から沈み込んでくる。何が見いだされているわけもなく、相変わらず理解の範疇を逸脱するような文章に見せかけようとしているらしいが、なぜそんな馬鹿げたことを語り出さなければいけないのか。もう少し語調を変化させたいようだが、それが成功しているとは言い難く、さらにどうでもいい状態になるように言葉がいい加減に絡み合いながらも、まだ紋切り型を脱しきれていないように思われる。


12月5日

 誰かは君がそうなることをはじめからわかっていたのではなかったか。君はどうなってしまったのか。どうにもならずに深夜に音楽を聴いているのが君だというわけか。それでどこから生還したつもりになれるだろう。まだ夢の中でもがき苦しんでいるふりでもしておいた方が無難なところか。とりあえず無難な意見をとりまとめておけば、日常へ帰還したつもりになれるかも知れない。だがわかっていることはそんなことではなく、理解したいのは君には知り得ないことだ。そして君が知りたいのはそんなことではない。何も知り得なくてもかまわないが、何かを知ってしまうのが世の常というものか。しかしそんなことを述べて何になるだろう。それで気晴らしでもその場に醸し出したいのだろうか。気晴らしになっているとは言い難いか。そう述べているうちにも闇はどんどん深くなり、何を語りたいのかわからなくなり、そのついでに何のついでかわからなくなり、前述を否定するように言葉が作用してくる。言葉は君に何を語らせたいのだろうか。そこで君は自らが馬鹿げたことを述べていると自覚する。それらのどこに躊躇すべききっかけがあるのか。何をためらっているのだろう。流れるように時が経ち、奪い去られた過去は忘却の彼方へと消えてゆき、未知の時間が既知の時間へと移り変わり、そこからつまらない日常が見いだされ、心はご都合主義が支配するフィクションの中へと沈み込んでいってしまう。それがテレビ画面だろうがマンガの誌面だろうが、何らかの物語に心を支配されている状態が心地良いらしい。だがそんなわかりきったことを今さら述べてみても仕方がないだろう。人は誰でも幻想に浸って過酷な現実から逃げているのではないか。しかし現実の方が虚構よりも心地良い場合だってあるだろう。要するに現実がつまらなかったりやっていられなかったりすると、人は心地良いフィクションを求めるのではないか。そして心地良いだけでは物足りなければ、現実よりさらに過酷な悲劇など鑑賞して、現実の方がマシだと思いこませるわけか。悲惨な境遇の中でも果敢に生き続けようとする架空の登場人物たちに勇気づけられたりするのだろうか。あるいはそれが架空でなくても、ノンフィクションやドキュメンタリーなどの中で見られる過酷な現実の中でもけなげに生きている他人の暮らしに勇気づけられる場合もあるだろう。要するに君たちはそんな世界の有り様を知らせてくれるメディアの存在に頼り切っているわけだ。だがそれで何がわかるというのか。いったい君は何に腹を立てているのか。なぜ冗談ではないと思ってしまうのか。たぶんわかりすぎるくらいにわかりきっていると思いこんでいるのだろう。そんな世界を知ってしまうことがそんなに腹立たしいのか。ただそれは違うと思われてしまうようだ。何を知りたいわけでもないのに知ってしまった虚構や現実に心を支配されているように感じられてしまう。だから急いでそこから遠ざかり、自らが現に接しつつそこで生き続けている現実に目を向けなければ気が済まなくなる。そこには何があるというのか。何もないでは嘘になってしまうか。嘘でなくとも何もないわけではないことはわかっているつもりだが、やはり言葉にできるものは何もない。言葉が現実を毛嫌いしていて、絶えずそれとは違うことを述べようとしているようで、そんなわけで放っておけば人畜無害なメディア批判に終始してしまう傾向にあるようだ。だからそこから心を引きはがして、それとは違うことを語りたくなってしまう。安易な展開から遠ざかりたくなる。しかし遠ざかろうとすればするほど行き詰まってくるわけだ。言葉がどこにも見当たらないような空疎な領域へと歩を進めてしまうわけか。自然とそこへ吸い寄せられていってしまうのだろう。まさか真空状態の中から引力が働いているわけでもないだろうが、何もないと好んで述べている現状がそれを裏付けているのかも知れない。だがそれで気が済むはずもなく、そんな虚無のただ中で耐えられなくなり、時折思い出したようにメディア批判へと言葉の連なりが戻っていこうとするわけだが、たぶんそこで思いとどまらなければ未来を引き寄せることはできないのかも知れない。しかし引き寄せようとしている未来には何の当てもなく、やはりそこで持ちこたえるにはかなりの無理がありそうだが、無理だからこそあえてそこへ向かわなければならないのかも知れず、そうすることで何らかの可能性を見いだそうとしているのだろうか。しかし可能性とは何だろう。君はそのあやふやな可能性をあてにして言葉を連ねているわけか。だがいくら試行錯誤を行っても、結局は裏切られてしまうのではないだろうか。そうなってしまったらそれではそれで仕方のないことか。仕方がなければまた新たなやり方を模索して、そんなことを試みていればやがて時が経ち、気がつけば何もかも忘却の彼方へと流し去ってしまうかも知れないが、やはりそれはそれで仕方のないことだろうか。それで気が済むはずもないが、そういう成り行きに身をまかせる以外にやりようがないと感じているらしい。


12月4日

 それらの場ではどんな言葉がふさわしいのか。言葉を連ねることによって何を達成したいのか。なぜそんなものに心を奪われてしまうのか。君にはそれが理解できないようだ。君が何をやっているわけではない。何らかの外的な要因がそこに作用しているわけか。いったい君はどうなってしまったのか。何も考えられず、何も思い出せなくなる。どこから何がもたらされているのか。別に誰かのうめき声が聞こえているわけではない。誰が末期癌患者なのだろう。人はそこから快楽を得られるだろうか。無理な話には尾ひれでもついているわけか。探求するほどの話ではない。賢く振る舞うには何かが過剰だ。いつまでも何かにこだわりすぎている。何かを見失っていることは確かなようだが、その見失ってしまった何かを知り得ない。なぜそれを知ろうとしなければならないのだろうか。誰がそれを強要しているわけでもなく、自ら知ろうとしているわけでもないが、まだ知り得ていないことが気にかかるようだ。他に明かすべき何かを知らない。まだ屁理屈をこねている段階ではないらしく、考えがまとまらずに悩み苦しんでいる。肺から空気が抜けているような気がする。目の焦点が合っていないようだ。見えているものが見えていない。興味の範囲外に知りたい何かがあるのかも知れず、それは別に知らなくてもかまわない何かのように感じられるが、すぐに眠ってしまってかまわないのだろうか。眠ってしまったら夢の中で何を語ろうというのか。夢など見なければ翌朝へ直行か。それでは時間が足りないか。そういう話の内容にはならないような気がする。まだ翌朝になっていないのだろうか。君はまだ話の内容を構成できていないらしい。今の君には荷が重すぎるようだ。日々を通り過ぎることができずに、すぐにそこで立ち止まってしまい。そこで時間に置いてきぼりを食らってしまう。言葉を捉えることができずに、空疎な文章へと流されてしまうが、そこで何が漂流していることになるのか。心はどこへ埋もれてしまったのだろうか。それは誰の心なのだろう。何をやる気になっているわけでもなく、他に何を探しているわけでもない。それで韻を踏んでいるつもりか。まったく詩の要領を得ていない。探しているのは何ものでもなく、見えているのは夜の闇だけか。そんな風に語ってはいけないのかも知れず、空疎な言葉を弄んではいけないのだろうか。それに関して夜空は何を示しているのだろう。君に何をわからせようとしているのか。何も見いだせない時から抜け出すことができるだろうか。しかし真夜中に見いだされた時は空虚そのものだ。そうだとしたら他に何を語ればいいのか。あるいは他ではなく空虚そのものを語ればいいわけか。それで何を知り得るのか。すでに何もないことを知ってしまっているのではないだろうか。それ以外に何を知り得るだろう。君はそこでわからなくなり、それ以外は何もわからなくなる。そんな風にしてそこから抜け出たつもりになり、何もない場所から何もない時へと移行する。場所も時も空虚そのものか。君はそこに存在している何ものかを言葉で捉えなければならないようだ。焦りを覚えるだろうか。何も捉えられなければ、音楽でも聴いて気を紛らす以外にはあり得ない。焦っているのは君ではないのかも知れない。君は誰かの焦りについて語りたいのではないか。それはどういうことなのか。どういうことでもなければそこで行き詰まってしまうだけのようだ。不在の心では何も感じないのだろうか。実在しなければフィクションとなってしまうだろう。少し急ぎすぎている。そんな風に語ってしまっては現実を取り逃がしてしまうのかも知れない。わかっているのはそんなことではない。わかっていることを語っているわけではない。煩悶のただ中でそんな言葉遣いではだめだということを悟っているようだが、それは誰の文章でもありはしない。わざとわかりづらくしてしまっているわけか。君はそういうやり方を熟知しているのではないか。さっきからそんなことばかり語っているのは誰なのか。それについてわからないことをわからないままにしておきたいのは誰の都合なのだろうか。そこで何が考慮されているのか。少なくとも途中で終わってしまってはつまらない。しかしそうならないための配慮を欠いているらしい。だからさらに何を講じなければならないのか。やり方はいくらでもあるような気がするのだが、そこから先に連ねるべき言葉はわかりきっている。要するに何もわからないと述べて、わざとらしく煙に巻いているつもりになるわけか。それで誰を煙に巻いていることになるのだろうか。煙が螺旋状に巻き上がれば竜巻にでもなるかも知れないが、そんなわけのわからないことを述べても虚しさがこみ上げてくるだけか。しかしそうならない話の展開を思いつく余地がないだろう。だからそこに君という虚構の存在が生じる余地があるわけか。だがそれこそが君の不在そのものではないだろうか。自らが不在の時空で誰かが語っている様子を眺めているだけのようだ。


12月3日

 誰かはおかしな心理ゲームにはまっている。そんな風に思うのは間違っているだろうか。相当ストレスがたまっているのかも知れない。そんなことを想像してみても、何の気晴らしももたらされない。それでもこみ上げてくる泣き言を無視して気丈にに振る舞うべきなのか。どんな感情の表出を選んでいるわけもなく、たぶん自然の成り行きにまかせているのかも知れないが、理由もなくそれは違うと思われる。そういう述べ方が気にくわないようだが、この期に及んで何を期待できるだろう。君の望みは何のなのか。何もかも放り投げて目的のない旅に出ることか。少し心が文学的な紋切り型に汚染されている。そのついでに普段とは違うことを述べてしまって調子が狂っている。それの何が孤独なのだろう。なぜ旅人となって孤独なふりをしたいのか。やりたい放題なことをやりたいようだが、それで誰に向かって何をアピールしているわけか。あるいは昨日は誰が何をやろうとしていたのか。昨日は真夜中に自転車で遠出をした以外は何もしなかったはずか。それもその場で思いついた作り話のたぐいだろうか。どうも今朝は明らかに精神のバランスが悪い。本当に誰かは真夜中に支離滅裂な行動に及んでいたわけか。それは夢の中の話かも知れない。それにしてはあまりにも言葉の均衡を外れて述べている。ならばそこからさらに違うことを述べられるだろうか。今さらそんなことを述べる気力はなりはしない。ではこれからどうすればいいのだろう。そのまま適当に言葉を並べていけば、いつもと同じような無内容に行き着くはずで、それで一応は満足すべきである。しかしそれは何なのか。神の言葉が突然天から降ってきたわけか。そんなどうでもいい思いつきがあるだろうか。神の言葉にしては内容がない。要するにひたすら自問自答を繰り返して、そんな自らに腹を立てているわけだ。自業自得もそんなところで極まっているようだ。まだ極まるような水準ではないだろう。ではそこからさらに何を述べれば気が済むのか。何となくいつもと違うことを述べるのは無理なような気がしてくる。その証拠に相変わらず述べていることが意味不明であり、やはりそれはいつもの言説に違いない。たぶん君の言説はある領域へ踏み込むのを躊躇しているのだろう。それはなぜなのか。理由を探る前にある領域とはどこなのか。そんな領域などあるはずがなく、ただ理路整然と述べることができずに、そのとき思いついた言葉を空白に記しているだけで、思いついた経緯を無視して、強引に文章として構成しているだけか。理由も探らずに、気まぐれにいい加減なことを述べすぎている。それでは意味不明となって当然だろう。つまりそういう自己言及については理路整然とよどみなく語ることができるわけだ。そんな内容ではだめなことはわかりきっているようだが、それ以上のことは述べられない。それでもそこから何らかの意味を汲み出せるだろうか。無意味だと思われている文章から意味を求めるのはおかしい。実際におかしかったらおもしろいか。おかしさとおもしろは意味的に近いかも知れない。しかしそんなことを述べていること自体はつまらなく思われる。それをつまらないと思うなら、普通の精神状態に戻った証拠なのではないか。要するにおかしくておもしろくてつまらなくて普通に戻ってしまったようだ。そんなフィクションは馬鹿げていると思うか。それの何が作り話なのだろうか。確かに普段とは趣が異なるように感じられる。ただいつもと語調が醸し出す雰囲気が違うだけか。何が違うのかわからないが、やはりあまりにも中身がないので呆れ果て、少しは賢明なことを述べなければならないと思うが、やはりそれが無理だろう。そして理由はわからないが、どうも賢明にはなれそうもないことに気づく。そんな風に語ってしまうこと自体が投げやりに述べている証拠なのだろうか。馬鹿にもなれず賢くもなれない。無理を承知でそんなことばかり述べている。そしてやはり何が無理なのかわからない。何かを述べるにはまず何かを読まなければならず、読んで感想を述べなければならない。別そんなことをやらなくても適当に述べることは可能だが、なぜそんな述べ方に驚いているのか。誰が驚いているのだろう。書物を読んで何も理解できないことに気づく。それは昔のことではないのか。物語の登場人物は何に自らの存在を認識させようとしているのか。そういう問いかけに意味はない。少なくとも実践に役立つような言葉ではない。役に立つためには目的がなければならず、それを実現する上で役に立つ言葉が出現すべきだ。なぜか誰かはまわりくどいことを述べている。意味がない上にまわりくどい。だがいくらまわりくどくても理解できる文章でならなければならない。誰かはそのよう方向へ文章を構築できないようだ。いくら言葉を積み上げても意味不明に思われてしまう。それは賽の河原ではないだろう。恐山などへ行ったことはない。その辺が意味不明なのではないか。わざとらしい意味不明に違いない。


12月2日

 またわけのわからないことを述べている。そんな風に述べながらも、誰に媚びているわけでもなく、何を主張したいわけでもない。君には何もわからない。何もわかろうとしない。わかる術を知らず、それを知るための努力を怠っている。今日も夜空を見上げているだけか。それの何が気休めとなっているのか。何となく常道から外れて、草むらの中に迷い込み、それが夢であることに気づき、目覚めてから街中で方向感覚を惑わされる。何に惑わされているのかわからないが、さっき通った道を何往復もしている誰かの姿を目で追いながら、気がつけば宅配業者の車と鉢合わせをしている。そんなフィクションの中で何を訴えかけているのか。この世界は迷うには狭すぎるということか。嘘でもかまわないから、何からの主張を文章の中に定着させたいのだろうか。気休めに夜空を見上げているつもりになっているようだが、冬の星座は何を示しているのか。そこからどんな主張を構成できるのだろう。何を考えているわけでもなく、ただ夜空を眺め続ける。何かが果てしないとは思わないか。何が果てしないのだろうか。つまらないことでもおもしろいことでも、それらのすべては果てしない。そのついでに空は果てしない。何がおもしろいわけでもつまらないわけでもなく、それらのすべては果てしなく続いてゆく。それで何がわかるのだろうか。眺めているのはそんな夜空ではない。確かにすべてはフィクションに違いない。作り話の中で誰かがもがいているようだが、まだ死後硬直には至っていないのだろう。派手なアクション場面には結びつきそうにない話の内容だ。音楽が静かすぎないか。君は耳をつんざくような騒音を求めているのだろうか。他に何が到来しているというのか。もうそんなところまで来てしまっているようだが、それは具体的に何なのだろうか。思いつきそうな言葉には当てはまりそうもない。何が来ているわけでもないのかも知れず、たぶん気のせいなのだろう。ではそれで何を否定していることになるのだろうか。まだ何も否定していないのではないか。少なくとも無理なことを述べようとしているわけではない。何かを否定する以前に否定しなければならない成り行きがありそうに思われる。そんな話をしている場合ではないのだろう。話の内容はすべて形而上学的になるだろうか。何に順応できないのか。他に何を語れるというのか。誰が何を語っているのでもないはずだ。ただ言葉が適当に並んでいる。それだけでは満足しがたいが、とりあえず今はそんな成り行きの中で語っているつもりのようで、そこから外れていってしまっては、何を語っているのかわからなくなって、結果として目論見通りの意味不明に落ち着くはずだ。そんな成り行きが何よりも気に入らないが、そんなにひどいことを述べているわけではない。何を述べようとしているわけでもなく、何かを述べられるだけの内容が欠けている。誰がそう判断しているのか。いつまでも判断停止状態にとどまっているわけにも行かず、それらの文章に対して何らかの判断を下さなければならない。それ以上の何を求めているわけでもなく、それ以下の内容も知り得ない。退屈な音楽がそこで終わっているかのように思われ、偽りの終わりに逆らって新たなる言葉が並べられ、何となくそれで納得しているような気になる。真夜中の闇の中に光明が見えてくる。たぶんそれも嘘だろう。君はそういう構造的な不具合を改める気にはならないのか。歯車としてそれらの構造を支えている者なら、不具合を改めて構造を崩壊させるわけにはいかない。まずは自らがその一部として機能している構造を維持継続させていかなければならず、その上で不具合を改めようというのだから、それは無理な話なのかも知れない。そんなわけで不具合を指摘することは容易にできるかも知れないが、それを改めることは難しい。結局それらの不具合によって人が多数死んだり、多額の経済的な損害を被ったりして、それについてマスコミが騒ぎ立てたりしない限り、何も変わらないということか。もちろんそういう一連の成り行きも一つの構造なのかも知れず、そのような手順を踏まなければ構造的な不具合が明るみに出ることはないのかも知れない。それをあまり本気で批判する気にはならないが、何となくそんなことの繰り返しに飽きていることは確かなようだ。そんなことをやり続けなければ人は生きていけないのだろうか。それで世の中が成り立っていると思えばいいわけか。何がいいわけなのだろう。とりあえず無理なことを押し通さなければ何も動いて行かないということであり、何らかのごり押しがなければそこから利益を生み出せない構造なのかも知れず、それをやりすぎると周囲からひんしゅくを買い、さらにやりすぎると不具合が発生して、それでもやり続ければ、やがて検察当局でも水面下で動き始め、その動きをかぎつけたマスコミが騒ぎ始め、やっとそれが不正な行為として世間に明るみに出て、そこからまわりくどい様々な手続きを経て事態の沈静化が図られるわけか。


12月1日

 何を述べていいのかわからなくなる。くだらぬ水準でならいくらでも述べることができるかも知れない。そういう述べ方が気に入らないか。しかし他に何を述べられるだろう。何に打ち勝とうとしているのか。それを知ろうとしているわけではない。ただそんなことを述べている。調子が狂っているのかも知れない。何に慰められているのでもなさそうだが、それで何を信じているつもりになれるだろうか。それは驚異的な何かなのだろうか。いったい何に驚いているのか。得体の知れぬものの存在など信じられない。いつまで経っても何かでしかなく、何かでなくなることなどあり得ないか。わけがわからないのは昔からそうだろう。アブドゥル・イブラヒムとは誰なのか。それらの音楽から誰の姿が浮かび上がるのか。そんな風に述べて何を知ろうとしているのだろう。すぐに終わってしまうことは確かなようだが、何が終わるかはわからない。文章は何も示さない。その気がないのかも知れない。なぜ寒いのか。冬だから当たり前かも知れない。では何を問いかけているのか。問いかける意味がどこにあるのだろう。そこで行き詰まってしまう。それが驚異的な問いかけだとは思わない。言葉はただの意味不明をなぞっているだけか。それでも君は何かを指し示しているつもりになっている。思い違いに違いない。わざとそうしているのかも知れない。地獄の沙汰も金次第か。どこからそんな言葉が出現する余地があるのか。それもただの意味不明だと思われる。確かに寒くなってきているのかも知れないが、身にしみているわけではなさそうだ。さっきからくだらぬ話に終始しているようで、話がまったくまとまらない。何を続けているのかわからなくなる。そんなことをやっていてはまずいのかも知れないが、そこにも何らかの計算が働いているのかも知れない。語彙が貧相だが、精神的な豊かさにあこがれているわけでもないだろう。抽象的で何ら具体的なことは述べていない。それ以上の言葉を導き出せないのだからそれは仕方のないことか。しかしそこから話を展開させなければならず、言語的な貧困のただ中でやりくりしなければ何も導き出せはしない。しかし何を導き出そうとしているのか。何かが修復過程にあるのかも知れないが、黙ってそれを眺めているわけにも行かず、それを無理に探り出そうとして、かえってうまくいかなくなり、すべてを台無しにしてしまう危険性もはらんでいる。ただの成り行きまかせでは物足りないか。それでは気に入らないのだろうか。手持ちぶさたというわけでもないのだろうが、それにしてもまだそんなところでうろついているわけか。あまりにも進歩がない。少しは学習したらどうか。予習復習は欠かせないか。学生ではないのだから、そんなことをやるわけもなく、その場限りの刹那的な言動に終始してしまっているようだが、それで何を述べていることになるのか。何かしら述べていることに違いはない。適当に言葉が並び、何かが不完全であることは、そこから完全な状態に至るように努力しなければならないということか。それが無理だと思うなら、その先にどのような言葉を連ねたらいいのだろうか。さらにあきらめの言葉でも付け足して、それで満足しなければならないわけか。君は冗談でそんなことを述べているのかも知れないが、それが冗談になっていないような気がするのはなぜだろう。はじめから冗談など述べているつもりはないからか。それでも君はその次に連なるべき言葉を知っているつもりのようだが。それは使用が禁止されている言葉なのではないか。だから何も述べられなくなる。秘密を明かそうとして、その秘密がないことに気がつく。たぶん明かすべき秘密など何もないのだろう。だからさっさとそこから離れて行ってしまい、そんなことはすぐに忘れてしまうような精神状態に持って行きたいらしいが、なかなかうまくいかずにさらに無意識の探求に身をまかせようとしているようだ。やはり何を述べているのかわからなくなる。それが間違っていることはわかっている。わかっているがそこから抜け出せないこともわかっているはずだ。心が単純な思考に支配されていると思いたいが、現実にはそれは違うようで、何とかそこから離れたくないのだろう。無理を承知でそんなことを述べてしまうこと自体、その辺の限界を克服していない証拠だろうか。さらにわからなくなるが、わかることが無理なことはわかっているつもりのようだ。要するに無駄に言葉を浪費しているわけだ。いくら費やしても無駄に決まっているのに、それでも語らざるを得ないと思っているらしい。なぜそんなことを続けているのだろう。理由などありはしないと言い放つことは簡単だが、もはやそれでは済まぬ状況に至っているのではないか。それで済まないからこそ、無駄に言葉を積み重ねているのだろう。そうやって述べれば述べるほど、言葉は同じところをぐるぐる回っているように感じられてしまい、何かと何かの間を行ったり来たりしながら、ひたすら循環し続けているのかも知れない。