彼の声57

2006年

11月30日

 なぜ悲観的な意見が大勢を占めているのか。それらの人々は恐怖のシナリオという脅しを好んで使う。特定の個人に何ができるのだろう。何を憂う必要が生じているのか。人々はそれほど馬鹿ではない。政治家の思惑通りに事態が進行するわけがない。何事も簡単にはいかないから、現状のどうしようもなさがある。君に何があるわけでもなく、酒場の喧噪の中に怠惰な気分があるだけか。誰がそこではしゃいでいるのか。それは意味のないはしゃぎ方だが、たぶんそこに何らかの真実が隠されているのだろう。君にはそれが理解できない。理解する以前に身体が破壊されているのではないか。たばこの煙にのどをやられて声が出なくなる。そのついでに肺癌になって死にたいわけでもないだろう。誰を恨んでいるつもりなのか。ただ君の言葉には中身がない。それらの言葉が君の実在を奪い去っている。虚空をにらみながら歯を磨きたいわけか。それを我慢する必要がどこにあるだろう。先月の時空は執拗に残ってくる。早くその先に進みたいか。しかし意味のない会話だけでは限界に違いない。ではそこで一休みしたいのか。なぜ休んで英気を養っているつもりなのか。実態としては眠りたいのに眠れない。安易に眠って翌日に疲れを残すわけにはいかないらしい。そういう話ではないのではないか。まだそこまで至っていないような気がする。気分は最悪からほど遠い。怒りをどこにぶつけたらいいのかわからないが、怒りの感情自体がフィクションの中で生じていることに気づいていないだけか。実態を反映していないわけだ。何を危惧しているわけでもなく、何の問題もないのに状況を恐れている。何かを批判せずにはいられないわけだ。そうしないと文章にならないのだろう。君たちはこの世界から背を向けている。知っているつもりの現実のほとんどは思いこみそのものであり、自らが無意識のうちに作り上げたフィクションに浸食されている。まずはそんな実態を理解しなければ謙虚にはなれないだろう。批判のための批判が横行して、そこに夕刊紙あるいは週刊誌的な批判が成立する土壌が形成される。何か今にも日本が崩壊しそうな雰囲気の中で批判が語られているわけだ。本当にこのままでは日本という国家がどうにかなってしまうわけか。いい加減にどうにかなってほしいような気もするのだが、そんな批判が何十年も続けられているのに、未だにどうにもならない現状があり、そんな現状に業を煮やして誰かがテロに訴えるわけでもなく、相変わらず延々と批判を繰り返している状況が続いているわけだ。要するにこのままでは日本が危ないと語られている限りは、そんな状況が保たれていて、誰もがつかの間の平和をいつまでも享受している実態がある。なぜつかの間の平和がつかの間で終わらずに何十年も続いているのか。それが奇妙な状態だと思ってはいけないのか。君はそれについてどのような答えを持ち合わせているのだろう。平和とはそういうものなのかも知れず、実態として平和からはほど遠いのに、それが平和であると述べることしかできない。まるで絶えず危機感を煽っていないと幻想としての平和を信じられないかのように、このままではこの国が危ないというフレーズが世の中の隅々にまで行き渡っている。それで何を理解したつもりになれるだろう。確実の世の中が悪い方向へ向かっているというのに、そんな状況が何十年も続いてきたにもかかわらず、一向に何の結果にも至らない。それが恐ろしい状況だとは到底思えないのだ。それどころがそれらの危機感を煽るフレーズがまったく信用されていないことに苛立ちさえ覚え、そんなことを何十年も続けている人々がオオカミ少年のようにも思えてきて、世の中に向かって警鐘を鳴らしすぎて気が触れてしまった哀れな人のようにも感じられてしまう。もういいのではないだろうか。それ以上警鐘を鳴らし続けても一部の信者以外は誰も信用しないだろう。そんな状況を保ち続けて何がおもしろいというのか。おもしろいか否かを問う以前にそれがその人の職業となってしまっている現状があるわけか。それは恐ろしくも退屈な職業に違いない。年がら年中警鐘を鳴らしていれば腕の筋肉がつくかも知れないが、その筋肉は警鐘を鳴らすことにしか使われないのだから、それ以外の動作にはまったく役に立たない筋肉なのではないか。要するに彼らはこのままではこの国が危ないと述べること以外は何もできなくなってしまっているということか。実態としてはそんな風に述べている現状をいつまでも持続させようとしているだけで、今こそ現状を改めなければならないと勇ましく宣言し続けているのとは裏腹に、そんなことをいつまでも述べ続けられるような予定調和の状況が続いていないと職を失いかねないという危機感が、一方で彼らをそういう言動に駆り立てているのではないだろうか。そんな風に勘ぐって考えないと説明がつかないような現状なのかも知れず、それについてどのような危機感を抱いているわけでもないが、これからもそんな状況が続いてゆくのだろうか。


11月29日

 明確な目的がないのは当然のことか。君に未来などあるはずがない。あるのは偽りの過去とどうにもならない現在だけか。それだけあれば十分なのではないか。未来こそあてにならない想像上の時間でしかないか。では何に居直っているのだろう。強がるような状況ではないのではないか。何もできないのだから仕方がない。できていないと思っているわけか。何をやろうとしているのかわからない。何をやろうとしているのでもなく、ただ言葉を並べてみようとしているだけか。動機がどこにも見当たらない。探す必要のないものを探しているつもりらしいが、何も見いだせないのは君ではない。たぶん今日は何もできないだろう。なぜそれらの出来事に興味を抱けないのか。疲労が蓄積していて眠たいのだから仕方がない。あわただしい日々から抜け出せずに、他に何をやる気にもならず、かろうじて雑事がひっきりなしに続く日々を切り抜けているだけだ。それで何をもたらせるのか。何もないと思ってはいけないのだろうか。虚無的な趣のジャズを聴きながら、他に何を感じているのだろう。言葉が君から離れてゆく。君も君自身から離れてゆく。意識はどこを経巡って戻ってこようとしているのか。どこへ戻ってくればいいのだろう。あの山の向こう側には誰がいるのだろうか。星空を見つめているのは誰なのか。誰もそこにはいない。不在の時空で何かが奏でられているらしいが、それが音楽である必然性はない。たとえばそれは宝石の一種になる。フィクションだからそんなことを述べても平気なのだろうか。平静を装っているのは君ではない。つまらないことを述べているのも君ではない。無気力な言葉に取り囲まれているのも君ではない。しかし誰が君ではないのだろうか。興味のないことを語っているのかも知れない。それは誰にとっても興味のない話だ。誰が何に敗れ去ろうとしているのだろう。状況は君の目論見通りには変わらない。それどころか誰にとってもそれは思い通りの展開とはなっていないはずだ。だからつまらないと思われてしまうわけか。何をどう思っていようと、意識は絶えずこの世界から離れて行こうとしている。楽しければまだしばらくは生きられる。苦しみをどうやって昇華できようか。何に恐れおののいているのか。終わってしまうことがそんなに恐ろしいのだろうか。何が終わろうとしているのだろう。終われない物事があるはずがない。いくら無理を押し通しても、やがて終わりの時が訪れる。力の行使を持続させることは困難を極める。それは誰の勝利にも至らず、戦いに参加したすべての者たちが敗北感を味わっているはずだ。それこそが負けを悟らせる。それとは様々な勝利かも知れず、実際に所々で勝っているのかも知れない。微細な勝利の積み重ねが全体として完璧な敗北に反転する。いくら勝っても無駄なのか。何が勝利感を抱かせるのか。何を突き詰めて考えれば、それが完全なる勝利につながるのだろう。考えるだけではだめなことはわかりきっている。ならば言葉によって何を伝えればいいのだろう。何を伝えても負けは負けであり、それを勝ちに反転させることは不可能だ。何を言い繕っても見え透いている。すべては嘘なのだろうか。いつの時代も切り捨てられるのは弱者なのか。弱者と弱者が戦っているのかも知れず、それを強者が眺めて楽しんでいる。だから弱者に勝利などあり得ない。だがはたして強者はいつまで傍観者でいられるのか。戦わざるを得ない成り行きに巻き込まれてしまったらそこで終わりか。その時点で強者は強者でなくなってしまい、弱者同士のけんかに巻き込まれてしまった時点で弱者になりはてる。今日も君たちを観客席から無責任に眺め続ける強者がいるわけか。強者とは何なのか。それは幻影の一種かも知れない。実体は何もなくそこには何者もいない。現実と格闘しているとき、背後から冷めた視線を感じているとしたら、それが強者のまなざしなのか。しかし何が強者なのだろうか。ただ単に負ける状況にないから強者であるだけか。戦わないのだから負けようがなく、勝とうとする気もなければ、過ちを犯す心配もなく、ただくだらぬ光景をつまらなそうに眺めている。まったくやる気がないようだ。見上げれば雲が晴れた空を横切っている最中だ。風に流されている。あてどなく彷徨い続けていたのはいつの日のことか。道に迷っていたのはどれほど昔のことだったのか。まだ君は迷っているつもりなのか。それほど時は経っていない。あの場所からそれほど遠ざかっていないような気がする。場所は場所として絶えず君に近づき続け、君は君でその場所からひたすら遠ざかろうとしている。いったい何を忘れてしまいたいのか。それは言葉にできないほどの出来事だったのか。そんな出来事がいつ君の行く手に立ちふさがっていたのか。それを体験した感じは、取り立てて強烈とは言い難いような、あるいは別に印象に残っていたわけでもなく、今となっては思い出せないほど微かな響きを感じ取っていたかも知れず、あるいはその微かな響きにだまされていたのかも知れない。君はそこで何を述べていたのか。


11月28日

 過ちは誰にでもある。発言に対する配慮が欠けていたらしい。そんな状況を思い浮かべて、それが思い違いであることに気づく。もはや何を述べても何もできはしない。何もできないから何かをやろうとしているのかも知れないが、たぶん何をやろうとしているわけでもない。それがわからない。それは違うのではないか。では実際には何がどうなっているのだろうか。ただの矛盾にすぎないか、あるいは使うべき言葉を間違えているのか。要するに最初からわけがわからないということか。何かがこんがらがっているようだ。時間感覚がおかしい。今はすでに翌日の夜か。誰かが迷路の中で彷徨っている。空疎な言葉を用いて何を主張できるだろうか。言葉にできない主張などない。しかし言葉と言葉がまったくつながらず、何も思いつかない状況に業を煮やして、強引に書物を漁り、クライマックスシーンで誰かが言いはなった決め台詞を探し出そうとする。いったいそのとき何を思いだしたのか。眠気を覚えているらしい。ひたすらテレビを見ている自らに気づき、急いでそれを消して、記述しかけの文章に向き合い、またそこから空疎な言葉を繋げようとしている。いったい何を考えていたのか。たぶん久しぶりの感動に巡り会っていたのだろう。そしてまた嘘をついている自らに気づく。それがこのところは日課となっているのだから仕方がない。誰と同じように言葉を連ねようとしていたのか。いい加減な目論見はたちまち破綻して、そこから違うことを述べようとしても、前の文章が邪魔をして、なかなか思い通りにはいかないようだ。だからすかさず嘘をついてみる。気持ちに粘りがなく、気力が萎えて、眠ってしまいたくなり、さらに遅れてしまうことを覚悟する。それ以外に何を悟っているのだろう。いつものように何を述べても無駄だと思っているわけか。無駄でなければ述べる必要がない。無駄だからこそ述べているのではないか。君は心の中の虚無に向かって語りかけているようだが、そういう意味のない自問自答は独り言しか引き出せない。それがどうしたというのか。そんなわかりきっていることを今さら述べないでほしいか。君は無駄だとわかっていながらすぐに嘘をつく。時間稼ぎなのが見え見えだ。だがそんな時間稼ぎ以外に何ができるだろう。なぜそうやって自らを追い詰めようとするのか。どこに追い詰めているつもりなのか。それは何かの袋小路となっているわけか。何かではなく本当の行き止まりなのかも知れない。しかしそんな風に述べても楽しさはどこからも出てこない。何を追い詰めてみても、その場に漂っている虚しさをぬぐい去ることはできない。実際にはその場が袋小路であるわけもなく、ただのだだっ広い空き地にすぎない。崩れかけたコンクリートの壁が残っている。所々にさびた鉄筋が剥き出しになっていて、昔何かの建物があったことを伺わせる光景の中に、見知らぬ誰かが佇んでいるようだ。冬の冷気が足下から忍び寄り、寒さに耐えかねて、いてもたってもいられなくなり、さっさとその場を立ち去りたい衝動に駆られているらしい。君は誰のことを述べようとしているのだろう。真夜中にその場で何をしていたのか思い出せなくなる。苦し紛れにそんな嘘をついてみるが、まったく意味をなさない状況に変わりはなく、そこから話を進めようとする気が失せる。どう述べても嘘っぽくなってしまうようだ。まったく本気になれず、そんな心境のまま文章にのめり込むのが馬鹿らしく思えてくる。だから他のことを語ろうとしてしまう。そんな無駄な試みを誰に咎められるわけでなく、どこかのスピーカーを通して何かをつぶやき続け、そんな状況が醸し出す意味不明な雰囲気に惑わされ、さらに的外れな指摘を続けて、そんなことを述べている自分自身が戸惑うのを楽しんでいるかのように振る舞う。それは場違いな言葉の連なりなのではないか。言葉が状況を捉えられず、それとは別の時空で語られている文章を無理矢理その場に導入して、それで体裁を取り繕うつもりらしいが、うまくいくはずもなく、さらなるわけのわからなさを招いてしまい、どつぼにはまっているように思われてくる。そんなやり方がうまくいくはずがないことははじめからわかりきっていたはずだ。そこから何を語ろうというのか。語れていないことの中に誰かの心情が結びついているかも知れないが、それが文章の内容として記述されることはない。何となくそれではつまらないような気がしてくる。今さら誰の感想を述べてみたところで、それを真に受けるような心理状態ではなく、わざとわけのわからないことを述べている最中に、まともな判断を差し挟むことは不可能か。そんな状況ではうまくいかない。うまくいかないことが君をさらなる記述に導いていることは確かだが、それで何を述べているわけでもないことを確認しつつも、そこから抜け出そうと考えているのは自己矛盾もいいところか。そんなわけにもいかないことも重々承知しているはずなのだが、なぜかそこからさらなる試みを始めてしまうらしい。


11月27日

 さらに雨が降り続いているようだが、本当に明日は止むのだろうか。明日ではなく明後日になるかも知れない。翌日の夜にはすでに雨は止んでいる。そんなことを述べているうちに一日が経ち、何となくまた遅れてきたらしい。時間の流れに言葉が追いつけなくなっている。いつものことなのかも知れないが、無理なことを述べようとして、失敗してしまうのもいつもの成り行きか。別に何を主張したいわけではないと嘘をつく。それが嘘にならない条件を考察してみよう。できるわけがない。ふやけた頭では何も考えられず、そんなことを思っているうちに状況から見放されてしまう。機会を見失い、途方に暮れ、そのとき何を述べるはずだったのかわからなくなり、代わりにどうでもいいようなことを延々と述べ続け、その試みが失敗のうちに終わることを自ら証明してしまう。それで楽しいか。誰が自らの失敗を楽しんでいるのか。だが楽しければさらに失敗を長引かせることができるだろう。失敗を長引かせてどうするのか。何となくそれで事足りてしまうような気がするらしい。いい加減なことを述べている方が気が楽かも知れないが、それ以外に至らないのは欠陥のなせる業か。今さら何を述べているのだろう。はたしてそういう宿命のうちに他の可能性を見いだせるだろうか。何がどうなっているわけでもなく、何をどうしようとしているわけでもない。すべては自らの信念に基づいてやっていることにすぎず、それ以外に理由や動機を見いだすのは困難だ。ならばそこから何を抽出できるだろうか。言葉の連なりは何を語り続けているのか。文章を支配する意味不明は誰かが語る隙を与えない。だからひたすら継続を目指すことができる。何を続けているのでもなく、続けようとしている意志が、結果的に何ももたらさないことを告げている。たぶんそれ以外は何も述べられないのだろう。すでに話の筋を見失ってから久しい。そこから物語ることなどまったく不可能な文章だ。何がそうさせているのではなく、自ずからそうなってしまっている。そうならざるを得ず、そうならなければ文章の継続は困難なのだろう。いったい君はそこで何を忘れているのか。忘れられない思い出など忘れるはずがない。それはいつもの矛盾にすぎず、すぐに元の木阿弥になり、気がつけば出発地点に戻っている。この世がどうなろうと、どうにもならないことがあるらしい。君自身には関係のないことかも知れないが、誰の身に災いの火の粉が降りかかろうと、状況はひたすら意味のない言葉を振りまき続け、それを嫌う誰かはいつまで経っても不平不満を並べ立てる。そんな状況で何を物語れるのか。虚無的な意識の中で強引に物語ったとして、それが紋切り型でない保証はどこにあるのだろう。それらの文章の中で君は何を指摘しているのか。それで何か気の利いたことを語ったつもりになれるだろうか。たぶん語っている内容と考えていることとの間には、修復不可能な亀裂が生じている。それも紋切り型の範囲内か。何がそうさせているのだろう。時間が余白を生じさせ、余白の中で言葉が連なっている。余白とは何か。画面上に余白が生じている。それで答えになっているはずがない。わからないことを突き詰めて考えても、わからないことに変わりはないが、何とかそこから意識を脱出させなければならない。意味不明でないような展開を生じさせなければならないか。具体的なことを述べる必要が生じているのかも知れない。終わりはいつやってくるのか。なぜ終わらせようとしないのか。君が忌み嫌っているのは、具体的にどのような状況なのか。今このときがその状況なのだろうか。ならば具体的にどんな状況のただ中にいるのだろうか。そんな行き詰まりに至ったとき、人は誰でもどんなことを思うのか。そうではないと思う。それは違うと主張したいらしい。つまらない世界の中で、何か生き甲斐のようなものを見つけたつもりになり、それが信じられなくなる。この世界がつまらないわけがないと思うようになる。たぶんそれも違うのだろう。気に入らないのはそんなことではない。あくびとともに何かを忘れて、忘れた何かが君を迷路の中に引き戻す。まだ混迷状況を抜け出てはいけないらしい。今さら何を迷うことがあるだろう。とうに出口をくぐり抜け、今は広々とした空間でくつろいでいるはずだ。なぜそのまま何もしないわけにはいかないのか。いったいこの先で何をどうしたらいいのか。この先があるとは思えない。ならばここで終わってしまうわけか。こことはどこなのだろうか。どこでもなければここではなくなってしまうか。ここにいながらまだここに至っていないとしたら、いったい誰がここに至れるだろう。いくら言葉を弄しても何も得られないことに変わりはない。言葉を連ねることによって、何も述べていないように装っている。そんなことをして何になるのか。本当に何にもならないとすれば、何かをやることが無駄に思われてしまう。無駄で無意味なことを述べ続けることが、そんな状況を継続させる秘訣なのかも知れない。


11月26日

 つまらないことで騒ぐのはくだらないが、それがくだらないことだと気づかないのは誰なのだろう。そんなことを述べている君は誰でもない。何がお気に召さないのか。誰に向かって何を述べているのだろう。その辺に限界があることはわかっている。メディアは常に何かを伝え続けている。そういう特性なのだろう。何かを伝えることしかできない。実効性がまったくない。どうもほとんどの人々はそれを真に受けなくなってしまったのではないか。メディアの限界を見透かされている。そんなわけでいつの間にか世間知らずな子供の相手をすることしかできなくなっている。君は画面を見ながら薄ら笑いを浮かべているだけだ。それで何がわかるわけではない。そういう語り方は好ましくない。語っている対象を特定しなければ何を語ろうと無効だ。それができないのはどういうわけか。胸の痛みが次第に激しくなって行く。いつ死んでもおかしくない。そういう切羽詰まった状況はフィクションに違いない。フィクションの中でしか人は死ねないらしい。それと何がメディアに関係しているのだろう。眠たくてたまらないか。考えてはいけないことを考えているのかも知れない。その内容は何なのか。内容など何もない。何もないから考えている。考えても何も出てこないだろう。そこには何もなく、何ももたらされない。腐ってしまったのだろうか。何かが腐っている。腐りかけているのかも知れない。腐るまでに費やされた時間の経過がもたらされている。重みを感じているのは重力のせいだろうか。見たこともない風景を眺めているわけではない。何が見えているのだろう。落ち葉が雨に濡れている。重みを感じているのは落ち葉のせいか。埃っぽいのは掃除を怠っている証拠だろう。無駄に言葉を弄しすぎて戻ってこれなくなる。それで世間が見えているとは言い難い。どこから戻ってこようとしているのか。ここがどこだかわからない。君はとんでもないところまできてしまったらしい。雨はいつまでも降り続き、誰かの心を憂鬱にさせる。今この世界で何が問題となっているのだろう。雨が降り続いていることの何が問題なのか。それを知りたいとは思わないか。鏡の向こう側から誰が何を問いかけているのか。焦れったい言葉の運びについて行けない。ロゼッタストーンには何が刻まれていたのだろう。君はそこで何を解読したつもりになれるだろう。まだそんな段階ではない。考えがまとまらずに焦りを覚える。そんなことを述べている場合ではない。その先を続けてわけがわからなくのは目に見えている。だがそれが予言に結びつかないのはどういうわけなのか。明白な理由を語れないのはどういうわけか。わけがわからないのだから、わけなどあるはずがないか。君にはまだ余裕があるらしい。誰が誰を教育の対象と見なしているのだろうか。はたして子供たちに教育を施す必要があるのか。なぜそう感じるのか。目先の利益とは何だろう。原子力発電を押し進めることなのか。放射性廃棄物はどこへ捨てたらいいのだろう。国会議事堂の地下深くに最終貯蔵施設でも建造すれば、誰もが納得するかも知れない。核廃棄物の安全性を証明するには、それを押し進めている国家が身をもって範を示さなければ、誰も信用しないだろう。保守主義者は国家主義や資本主義に責任転嫁することばかり考えている。世界情勢を国家単位でしか語り得ない欠陥人間を多数輩出することしかできはしない。誰もが互いに責任のなすり合いに終始し続け、結局戦後教育が悪いというどうしようもない結論で納得したつもりになりたいらしい。いったい戦後とは何なのか。なぜ戦後ばかりがくだらぬ言説の対象となり得るのか。戦前の方がさらにめちゃくちゃなことをやっていた事実を忘れようとしているだけか。今さら第二次世界大戦も太平洋戦争も日中戦争もない。そんな遠い過去からどうやって現状の原因を探り出そうとするのだろうか。ずいぶんまわりくどいやり方には違いないが、ある種の人間にとっては、それで説得力が増すわけだから、それはそれですさまじい論理的展開なのだろう。そんなアクロバティックな言説が横行しすぎているか。君はそれで何か述べている気になれるだろうか。たぶん何かしら述べているのだろう。気休めにすぎないが、それでも言葉がある程度連なっていれば、一応はそれで満足しなければならないか。しかし老人のまなざしには何も映っていないようだ。君がそれを阻んでいるのかも知れない。言葉の不自然な並びによって、何らかの目くらましのような効果を発揮しているのだろうか。とりあえず何事にも本気にはなれない。何となく馬鹿らしく思われてくる。何が馬鹿らしいのかと言えば、それは世の中の在り方か。何か抽象的な内容になりつつある。誰も答えを見つけられないのに、問いかけることばかりがもてはやされているように感じられる。誰が何を主張したところで、それは言葉の範囲内で伝わる現象でしかない。いったい彼らは実際に何をやっているのだろうか。目先の利益に踊らされているだけか。


11月25日

 要するにつまらないと思っているわけか。そんなことで本気になってはいけない。では何から学べばいいのだろう。失敗は失敗でしかなく、そこか学ぶべき事など何もありはしない。そんな嘘をついて虚しさでも醸し出そうとしているのか。話は話でしかなく、いくら煮詰まっていてもそこから別の方向性を探りたくなる。別に争いごとになるのを避けているわけでもない。まだ目覚めていないようだ。たぶん誰も目覚めていないのだろう。そんな言葉では誰も目覚めない。永眠している者が目覚めたらゾンビになってしまうか。どんなに金と労力を費やしても、奇抜さを乗り越えることはできないが、乗り越える必要があるとは思っていない。要は金ではないのかも知れない。では君は何のために働いているのだろう。働いていることのいいわけを求めているわけか。それによって何を妨害しようとしているのか。妨害できるとは思っていないが、それは資本主義そのものなのかも知れない。何かに追い打ちをかけるように立て続けに別の何かが起こり続ける。似たような出来事が果てしなく連なっている。別であるはずがないか。ならばそれをどこへ押し出すつもりなのだろう。そんなことをやって何が楽しいのか。誰が楽しさを追い求めているというのか。バランスを欠いているようだ。だからそこに何を当てはめようとしているわけでもない。何も当てはまらないからこそ、的外れな言葉が行き交っているわけだ。だがそんなことは問題ではない。それで一向にかまわないのではないか。君にはでたらめな内容が似つかわしい。それがでたらめでないはずがない。うまい具合に否定的な言説を連続させているつもりのようだが、それで成功しているとは思えない。かろうじて終わりの時を回避しているだけか。それが何を目指しているのだろうか。それとは何のことなのか。たぶんそれがわからないように述べているだけなのだろう。それだけではないと反論するつもりか。誰に向かって反論するつもりなのか。すべては夜の闇に吸い込まれる。そんな対処の仕方を思いついたらしいが、実質的には何の対処にもなっていないだろう。それが君のねらいなのか。誰にとっても認めがたいような文章にしなければならない。それで生き残れたら奇跡のように見せかけたいわけか。そんな大げさなことではなく、ただそこから何らかの思考が生じているにすぎない。君はこの世界の在り方が気に入らない。しかしこの世界はこの世界でしかなく、他にどの世界もありはしないことは承知しているのだろうか。あるいは別の世界からこの世界をのぞき込んでいるつもりになれるだろうか。意味的に文章がつながっていないのではないか。何をどうすればそんなつもりになれるのか。何も思いつかないのに勝手に話が進行していってしまう。何の話かわからないのに、そんな話があり得るだろうか。何らかの話にはなっているのだろう。それで辻褄を合わせようとは思わないが、話の辻褄がどこにあるのかもわからない。君は辻褄の意味を理解してないのではないか。やはり本気にはなれない。本気になれない理由がわからない。見上げれば天井の蛍光灯がまぶしい。それがやめる理由になるだろうか。何をやめようとしているのか。君がやめても言葉は自然に連なってゆくだろう。具体的に何を語っているのでもないのはいつものことだ。君にはやめる理由が理解できない。何が理由となっているのか。続ける理由とやめる理由がどこかで交差しているらしい。その交差点には何があるのだろう。見晴らしのいい展望台でもあるわけか。いつかその展望台に昇って、周りの風景でも眺めるつもりなのだろうか。そういう横道は意味不明だが、他に何を語りたいわけでもないので、事の重要性は皆無に思われる。つまらないことにこだわっているうちに人生が終わってしまうのかも知れない。本気で娯楽にのめり込んでしまう人々には余裕がない。だが他に何があるというのか。テレビだけが君の語り相手なのか。そんな嘘も時として意表を突いているようにも思われる。誰かはいつ何時でもけんか腰の姿勢を崩さないが、そんな人格はあり得ない。文句ばかり並べていても、本気で怒っているわけではないらしい。たぶんそれも話の断片なのだろう。決して全体として完成することのない文章の一部分に話が断片として偏在している。相変わらず何を語っているのかわからない。何かと何かが複雑に絡み合い、何を形成することもなく、混沌のただ中に言葉を放り込む。誰が何を放り込んでいるわけでもなく、君はそこで文章の生成を否定したいらしい。何もかもが不在だと大げさに騒ぎ立てたいのだ。本当に何もありはしない。すべてが嘘だとしても、そんな嘘さえ文章の中には存在しない。何を述べているのかわからないわけだ。何もかもが判別不能なほど言葉が方々へ分散している。本当に何が存在しているのか。言葉以外にどんな手がかりがあるのか。どうあってもメロドラマ的展開を否定したいらしいが、それで話になっていないのは致命的な欠陥か。それでかまわないのならどうしようもない。


11月24日

 どうもどこかで誤解が生じているらしい。それでもう何も語りたくなってしまったのか。何か原因でもあるのだろうか。語ることが何もないと思っているのは誰なのだろう。それでも誰かが何かを語っている。テレビの中からそんな主張が聞こえてくるが、つまらないのですぐ消して、適当なジャズでも聴きつつ、何となく言葉を連ねているらしい。そこには何が欠けているのか。その程度の水準にとどまるべきなのか。それは誰の時間でもなく、誰の支配も受け入れない時間帯なのかも知れない。しかしどこまで逃げれば気が済むのか。どこから逃げているのだろう。逃げずにとどまる理由があるだろうか。逃げることによって何を導き出そうとしているのか。言葉の連なりは誰の思いを反映しているわけでもない。偶然がそうさせているようだ。君はそれらの文章の形成には関与していないようだが、では誰が文字を記しているのか。記述者が不在の理由を知りたい。そんな風にして逃げているわけか。何から逃げているのか。現実から逃げていると思いたい。逃げ切れるほど柔な現実ではないはずか。冬の日差しは何をもたらしているのか。いくら無理を押し通しても、必ずどこかで息切れしてしまう。何をわかろうとしているのか。ため息だけでは何も進まない。とりあえず現状から距離を取らなければならない。やり直しはききそうもない。すでに逃げるだけ逃げて、後戻りができなくなるほど追い込まれているはずか。それでも希望を捨てようとしないのは、何らかのもくろみを心に抱いているからか。それが浅はかな試みにならなければいいが、わざと失敗しようとしているわけでもないだろう。それの何が失敗なのか。現時点では何もわからないようだ。わかりかけていることすら忘れてしまっている。そしてそんな風に述べているうちに焦れったくなる。いい加減に真実を語ってしまったらどうか。何が事の真相となるのだろうか。さらに言葉を弄すれば、忘れかけていたことが次第に思い出されてくるかも知れない。君には行き先が見えているらしい。誰の末路を知ってしまったのか。近づこうとすると離れていってしまうのは何なのか。君はさらにこの世界から遠ざかろうとしている。何の内容にも至らないのはそのためだ。他人の心から遠ざかり、退屈な政治状況から遠ざかる。どこまでも保守主義にすがりつこうとする輩は醜い。しかしそれしか選択肢がないと思いこんでいるとしたら、それはこの国の現状そのものなのかも知れない。要するに嫌な人々が大勢いるということか。不快で不愉快なことを述べている。それがどうかしたのだろうか。時が経てばそんなつまらないことは忘れてしまうだろう。誰もそこにはいない。何が見当たらないのか。君は何を嫌っているのだろう。何を思い出そうとしていたのか。君がすべてではない。この世界がすべてでもない。誰かは何を述べているのだろう。息を止めて目を閉じて耳をふさいで、後は何をやったら気が済むのだろうか。そういうことを述べていると楽しいか。迷い疲れて眠ってしまう。どこから何が響いているのだろう。空洞の内部で何が反響しているのか。それは心の闇ではない。夜空が天井から落ちてくる。ユーモアになっていない。言いっぱなしの言葉が闇の中へ溶け込んでいく。君は君自身を夜の闇の中へ放り込む。それは嘘の始まりになるだろうか。終わりを見いだせないなら、それは始まりに違いないが、それらのフィクションはどこで生成されているのか。まだ時間が必要らしいが、それは何をやるための時間なのだろう。思いこみを深めるための時間かも知れず、それらの思いこみから遠ざかるための隔たりが求められている。何を取り去ろうとしているわけでもなく、心の中にどんな気持ちが生じているわけでもない。これからどんな嘘をつくにしろ、それが見え透いているとは思いたくない。では何をどう受け止めればいいのだろうか。帳尻あわせやつじつま合わせは無効か。たぶんそうではないと思っているのだろう。現状を否定したいのか。そんなことを思っているわけではない。心入れ替えれば今とは違った風景が見えてくる。君にはそれがわからない。何を述べているのかもわからない。たぶん何も述べていないのだろう。心がそこから遠ざかってしまったからか。興味をなくして文章を構成できなくなる。ひたすら無駄なことを述べ続け、虚しさがこみ上げてくる。それで無限に近づいたといえるだろうか。無限とはどのような概念なのか。余計なことを考えているようだが、気休めにはほど遠いと思われ、そんなことを述べている自らが馬鹿らしく思われてくる。それでも君は本当のことを明かしていない。未だに屈折した感情を捨てきれず、もうとっくに終わってしまった出来事にこだわっている。事の顛末を知ろうとして、何を調べているつもりなのか。まだそこまで到達していない。誰が行き着く先を予想しているわけではない。ではそれらの文章は誰に何を告げようとしているのか。話の内容がでたらめで意味不明である以前に、わけがわからないというわけでもあるまい。そうなってしまったわけを誰かは知っている。


11月23日

 嫌悪感がどこからともなく生じてくる。色彩感覚が狂っている。それは何に対する感想なのか。軽やかに何が動作しているのだろう。誰が軽やかにステップを踏んでいるわけでもなく、機械的な動きに何を期待しているわけでもない。見る目がないとはどういうことなのか。目が少々傷ついているようだが、別に盲目になったわけではない。眺めているのはテレビ画面にすぎず、安易な映像表現ではその場の状況を伝えきれていないようだ。しかしそれを言葉によっても伝えきれているわけでもない。君はいったい何について語っているのだろう。別に三文オペラを堪能しているわけでもなく、無人の舞台において何が演じられているわけでもなく、それほど凝った演出が施されているわけではない。それで誰のやる気が出てくるわけもないか。誰に何をやってほしいわけでもないはずか。ただ一連の動作を順序立てて説明する気になれないだけか。誰が詳しい説明を必要としているのか。それらの話には始まりも終わりもないのに、そこからどんな動作が生まれるというのか。またそれが現実の動作といえるだろうか。実際に何がそこでうごめいているのだろう。痕跡は何も見つからず、影すらもそこにはとどめていないようだ。そんな判断不能な状況の中で、何を述べることができるのか。それでも中身を伴った文章を構成するつもりなのか。だが絵画的な文章などあり得ない。すべての事象は過ぎ去り、言葉もついでに忘れ去られてしまうだろう。この世界では廃墟以外に何も残らない。本当に何も残らなければ、それは誰の本望と結びつくのだろうか。誰もそんなことは望んでいないはずか。それは誰の結末なのだろう。君は誰の行く末を案じているのか。そうではなくこの世界の行く末か何かか。とりあえず終わりよければすべてよしでは、何も報われないはずだ。省かれるような途中ではあまりにも虚無的すぎるだろうか。途中で何が報われようと、結果的にはすべては廃墟と化すわけだ。それでいいはずがないと思うのは誰の意識なのだろう。だから何とかしようとして、無駄な努力を惜しまず、それが無駄にならないと密かに願いつつも、結果的に無駄な努力に終わってしまうことを悟っているらしいが、それがどうしたわけでもない。たぶんそれが神の言葉とはならないだろう。意味が通らないのではないか。なぜそう不自然に語ってしまうのか。ではそこで何を反省すればいいのだろう。何かそこに思い違いが潜んでいないか。思い違い以前におかしいのではないか。それでまともな神経だと言い張るつもりはないが、どんな可能性をそこから導き出せるのか。何をうまくやろうとしているのか。うまくやろうとすればすべてが台無しとなるだろう。昨日は疲れてしまって何もできなかったようだが、今日はなぜやる気が出ているのだろう。そうではないはずだ。すでにあきらめの境地に至っているはずなのに、執拗にその続きを言葉で構成しようとしているらしく、それが無駄であるとか過ちだとか貶す前に、何か積極的な行為であるかのように思いこもうとしているらしく、君にはそれはどうしようもなく鬱陶しく感じられてしまうらしく、何とかそれが思い違いであることを言葉で示そうとしているわけか。そんなことができるわけもないだろう。やっているのはできもしないことのようだ。では今やっているそれらの試みは無駄で無意味なことなのか。そう述べて何を卑下しているのだろう。あるいはそれは嘘に違いないか。何があるいはなのかわからない。嘘でなければ逃げようがなくなってしまい、そこから遠ざかれなくなってしまう。だから今はできうる限りくだらぬ問答を避けて、何かそれとは違う文字列を導き出さなければならない。そうやってさっきからできもしないことを延々と述べているようだ。それが君の悪い癖か。だが悪い癖でも文章には違いない。そんな薄気味悪い状況を払拭するには言葉が足りなすぎる。何が薄気味悪いと感じているのか。そんなこともわからずに言葉を使うのはおかしい。やはり意識は支離滅裂気味にいつもの自己言及へと誘い込まれているようだ。しかし事態を打開する術を思いつかない。要するにそこで行き詰まっているらしく、そこから抜け出そうともがき苦しんでいるようだが、それが予定調和の成り行きだとしたら、それに逆らって何か強引に違うことを述べるべきなのか。君はそこからどう展開すべきを知っているようで、影もうすうす感づいていて、それを行う機会を探っているらしいが、君の意向に逆らっている誰かは、今さらそれを行うつもりはないらしい。何が今さらなのだろう。誰が多重人格なわけもないが、何となく自家中毒に陥っているような気がする。それは尿毒症の一種か。思いもよらぬ言葉を辞書で発見したらしく、さっそくそれを冗談で使ってしまったようで、次いで呆れてものも言えなくなってしまう。だがそんな風に述べてしまえば、言葉の泥沼に沈み込むこともないか。軽薄すぎて逆に浮き上がってしまうのではないか。しかしそれでどこから浮き上がっていることになるのだろうか。見えているのは何の変哲もない地上の風景だ。そこで意識がもうろうとし始めるが、別に風邪気味というわけでもなく、それとこれとは意味的にまったくつながらないことを承知しつつも、たぶんそこで転調したつもりなのだろう。それも冗談のたぐいかも知れない。本当にわけがわからないまま終わってしまうようだ。そのほとんどが蛇足となっている。


11月22日

 誰かがいつの間にか追い込まれている。それは君の思い違いだろう。しかし気休めは要らないか。誰の思い違いでもなく、本当に追い込まれているのではないか。時折意味不明な文字列が外の世界から送られてくるが、それが誰からのメッセージでもあり得ないことは承知している。それは数ヶ月前の出来事に関連した仕打ちなのか。なぜどうしたらいいかわからないと述べるのか。どうしてそういうことになってしまうのだろう。間に合わせの知識では何もわからないか。ではわかるには何が必要なのだろう。わかろうとしなければいつまで経ってもわからないままか。わかるのに必要なのは時間だけかも知れないが、いくら時間を要してもわからなかった場合、それは骨折り損のくたびれもうけになってしまいはしないか。何を恐れているわけでもない。それだけでないことは承知しているが、君にはわかり得ないことを誰がわかろうとしているのか。誰にわかってもらいたいのか。それに関して君は過去の経緯を忘れているようだが、どのような手順を踏んで誰がそれを知ろうとしているのか。気がつけば話がそこから一歩も先へ進んでいない。また無駄な延々と言葉が繰り返されている。それも一つの技法かも知れないが、わざとらしくて退屈極まりないという点で、失敗に終わっているのだろう。いくら無限循環にはまっても誰もそこから助け出してくれないか。助けてほしくないのかも知れず、そのまま言葉の無限循環のただ中で自閉していたいのかも知れない。それの何が勘違いだと主張したいのか。誰が何を主張しているというのだろう。君はその主張の中身をまだ知り得ない立場にあるようだ。知りたくもないのかも知れない。そんなことを知ってもつまらないだけか。くだらぬ詮索は自らの卑しさを自覚させる。言葉の使い方が間違っているかも知れない。たとえ間違っているとしてもそれでかまわないのではないか。そのうち何でもかまわなくなってしまうだろう。空疎であっても無意味であってもかまわないか。それはもとからそうなのではないか。不特定多数の人々から注目を浴びたいわけでもないはずか。何によって注目されたいのかわからない。殺人事件でも起こせば一時的に注目を浴びることができるかも知れないが、それで終わってしまうだろう。打ち上げ花火が一発しか上がらなければ寂しい限りだろうか。ところでそれは何でもかまわない範疇の中に入るわけか。入っても入らなくてもかまわないが、そこで何となく嘘をついているようだ。破綻を来しているのかも知れない。追い詰められた後は破綻してしまうわけか。そこで話がつながるとは思わなかったらしい。しかし何の話をしているのだろうか。誰が何を話しているわけでもなく、わけのわからない言葉の連なりが記されているだけか。少しずれているようだ。わざとずらしているらしいが、それを誰も認識できないかも知れない。要するに骨休めの箸休めといったところだろうか。ますますわけがわからなくなってしまうかも知れない。そのとき知り得たことはそんな内容ではなかったはずか。では何を知り得たというのか。水面に何かの影が映っているはずか。その影がわけのわからないことを語っていて、それを他の誰かが記していることにしておこう。それはくだらぬいいわけにすぎないか。それを誰が知っているのだろう。さらに同じような言葉が繰り返されてしまう。それも君の思い過ごしにできるだろうか。それが無理なら何か違うことを述べてみればいい。話が脱線していってしまったところに戻って、何か気の利いた修正を施してみればいい。その気がなければそのままに推移していくしかないだろう。今さら大げさことを語るつもりはなく、世界情勢がどうのこうの語る気がしなくなって久しい。それでもこの世界について何を語れるというのか。すべては限りのない修正の連続になる。どこまで修正しても修正し足りない。どこをどう修正してもなお別の修正が必要となる。しかしすべての修正が無駄というわけでもなく、逆に何をやっても無駄だと感じて、そこで修正を怠ってしまえば、そこで終わってしまうわけだ。何が終わってしまうのかといえば、生きることが終わってしまうのだろう。それ以降は生きていても抜け殻のようになって生きていくことになるらしい。だが生きている気がしなければ死んでいるというわけでもないらしく、何となく生きているというわけでもなく、取り立てて何を考えているのでもないらしい。ただ周りの自然環境と同化しているわけだ。しかし自然の一部として振る舞うことの何がいけないのだろう。それで何をあきらめていることになるのか。理由も根拠もなく、そのように生きている者は、ただそれだけの人として生きているということか。それだけの人となることの何がいけないわけでもない。人としての価値などない方が気楽かも知れず、気楽であれば肩肘張らずに自然と自由に振る舞っているつもりにもなれるだろう。それが自然が仕掛けた罠だとしてもそれを否定する気にはなれない。それでもかまわないのだろうが、君はそうはなりたくないらしい。無論なりたくない理由など何もない。


11月21日

 柿が熟しすぎて根本近くの地面に落ちてくる。それとは何の関わりのない行為とは何か。昼の空に向かって何を叫んでいるわけでもない。ただ何かがおかしい。唐突に突拍子もないことを述べようとしているのか。気が狂っているのはほんの一瞬にすぎない。後はひたすら平静を装い、何食わぬ顔で辺りをうろついている者がどうしたというのか。どうしようもなければ無視するしかない。誰にちょっかいを出そうとしているわけでもない。たとえばそんな風に述べれば挑発的な響きを担えるだろうか。いつまでも自信過剰でいられるわけでもないが、それでもこの世界にもたらされている現象は退屈極まりない。本心からそんなことを述べているとは思えないが、どこから何がもたらされているというのか。思いついた先に何があるのだろう。意味不明な言葉が果てしなく並んでいるようだ。誰が並べたわけでもない言葉の羅列の果てに、何がもたらされるのだろう。予定調和の成り行きをどうやってぶち破るつもりなのか。別にそれで勝負に出ているわけではない。誰かが何かしら述べているようだが、いつも同じことの繰り返しのような印象をぬぐえないだけだ。やはりちまたには馬鹿な人々がうごめいているようだ。今日も画面上の光景は何かに踊らされている。いずれそんな現象も何からの試みと見なされるのだろう。君はどこまで馬鹿になれるのだろう。そこで誰が犠牲となっているともいえないが、言葉だけが一人歩きをしていて、全体的に不自然な印象を与えているようだ。いったいそれはどういうことなのか。どういうことでもなく、少なくともそういうことではなさそうだ。結論とは無縁の試みの中に破滅へのきっかけが潜んでいるらしく、とりあえずそこで支離滅裂をよしとしなければ、その先へは進めないということらしいが、実際にそんな印象はない。誰かは言語中毒に陥っているのだろうが、印象に残らないような衝動がどこから生まれるのだろう。何が創作のプレッシャーになっているとも思われない。ただ中身が伴っていないだけか。たぶんそこには何もありはしないのだろう。質も実もなく、空疎な文章だけがそこに記されている。だが少なくともそこから話が始まるらしく、安易に虚無が語られる一方で、それは血のにじむような努力とはならず、死ぬような苦労とは無縁の試みなのかも知れず、そこで何が生きているわけでもなく、誰がその状況のまま生き長らえようとしているわけでもない。脳死状態ならやがて死が訪れるはずであり、誰もいなくなった満天の星空の下に、寒風でも吹きすさんでいるわけか。低気圧が上空を通過したのかも知れない。寒冷前線の北側に入ったということだろうか。それで天候以外に何が変わるというのか。何を変えようとも思わない。わざわざ変えようとしなくても、それは次第にわざとらしい作り話へ変質しようとしている。それとは何なのか。誰がそれを語っているのだろう。誰がどのように著しているというのか。しかし変化とは何なのか。言葉と無意味の均衡状態が崩れ去ろうとしているわけか。もとから釣り合っていたわけではない。誰かがそれらの文章を添削したがっているようだが、今さらその場に生じている矛盾を改めるつもりはさらさらない。誰が何をしようとしているとも思えないが、ただ考えれば考えるほど言葉が出なくなる。言葉が出なくなれば終わりにしてしまえば済むことだ。それの何が問題なのか。やはりいくら語っても何も語っていないような気になり、そこから何も語り得ない自らに対する自己嫌悪とともに、実際に目を閉じようとしているわけか。目を閉じれば眠ってしまうだけだろう。結局のところそれらはすべて言葉遊びの段階にとどまっている。確かに誰が何を語っているわけでもなく、それらの無内容は何のたとえ話にもならない。要するに君は完成させることを拒否しているわけだ。拒否する以前に終われないのではないか。終わりがなければ誰がそれらの文章を構成しているともいえないか。たぶんそういう話ではないのだろう。この世界がそれを求めていない。妄想とはそういうものだろうか。何が妄想なのだろう。すべては空想の段階にとどまっているらしいが、前置きに力をかけすぎているようにも感じられ、それだけで完結させようとしている感さえ抱かせる。それで完結できるわけがないか。何かが重荷になっているのだろうか。語ろうとする動機がどこにも見当たらない。その理由を明らかにしようとせず、ひたすら前述とは無関係に言葉が無方向に飛び散ろうとしている。虚無の領域へ退きすぎなのか。何が虚無の領域といえるのか。そこでは誰もが重力からの作用を被っているらしい。自らの重みで床にへたり込みそうになる。たまには無重力環境にその身を置いてみる必要があるらしいが、それは限られた者たちにしか可能でない。しかしそれは何のたとえになるのだろうか。比喩の対象がどこにも見当たらないのはどういうわけなのか。単なる嘘でしかないということか。たとえ嘘であろうとなかろうと、重荷から解放されたいと願うのは誰しもが思うところか。それは何の結論にも至らない終わり方になるだろうか。


11月20日

 その決意はどこで明らかにされるのか。いったい何をやめようとしているのだろう。やめられないことをやめられるわけがない。誰かはそれをやめようとしている。しかしすべては架空の話だ。やめられない話だから架空になってしまうわけか。しかし架空の話だからといって何を空想しているわけでもないのだろう。時空を超えて何が襲来しているわけでもなく、そういう無駄な言葉でその場を取り繕う一方で、何かの殻を破って別の何かが出てくるような気配を感じるが、たぶんそれは気のせいだ。その何かはいつまで経っても何かでしかない。そこからどのような展開もあり得ず、それは何か以外ではあり得ないような何かだ。実際にそう述べているのだからそうに違いない。要するに何も述べられないということか。しかしそれで別に意表を突いているとも思えず、それでうまくいくわけもなく、いつものように何を述べているわけでもなさそうだが、その状態から抜け出そうとしていることは確かかも知れないが、結果的には相変わらずわけのわからない話に終始しているようだ。いつまでもそんなことを述べていると虚しい気分にならないか。君はその虚しい気分を利用してさらに遠くまで言葉を連ねようとしている。それで何がわかるというのか。わけがわからないということがわかったのだろうか。そんなのはごまかし以外の何ものでもないだろう。満足からはほど遠い、不快な気分のただ中にとどまっているはずだ。だが一方でそういう文章の取り繕い方を身につけている自らに気づき、恐ろしく思われてくる。なぜ限りなく内容から遠ざかろうとしてしまうのか。それが相対的に無内容に近づいていることになるのかも知れないが、いったい文章を構成することとは何なのか。さらにわけがわからなくなるためにそんな作業を繰り返しているわけか。翌日の空は晴れ渡り、快晴のようだ。天候でごまかそうとしても無駄か。無駄だからこそ天気について述べていて、それが苦し紛れの感を否めないことに腹を立てているわけか。そんな風に思ってしまうこと自体が愉快でたまらない。思っているのではなく記述しているだけだろう。それがさらに虚無感を煽り立てているわけか。なぜこの世界は君に空虚しかもたらさないのか。たぶんそれはこの世界が君のものではないからなのだろう。君が神でない証拠がそこから導き出される。そういう大げさな理由で何もないことの説明になるだろうか。何もないわけではなく、君には空疎な文章があるはずか。君は自らの存在が意味不明であることに戸惑っているのだろうか。しかしそれは思い違いもいいところで、それが存在であるはずもなく、それは紛れもなく君の不在でしかない。しかし不在とは何なのか。存在しない君について誰が語っているのだろう。誰がそこで決意を表明しているわけか。それはどのような決意の表れなのか。途中からわざと論点をずらしてわけのわからなさを醸し出そうとしているようだが、そうすることにどのような意味があるのだろう。意味がないから無意味なのかも知れず、わけのわからなさと同時に意味不明をも文章に反映させようとしているだけか。それこそわけがわからない。そうする理由は何なのだろうか。要するに何を述べているわけでもないことを文章によって示したいのか。何となくそんなことを述べているうちに呆れてきたようで、そうまでして継続させようとするのは本末転倒のような気がしてくる。何が本末転倒なのかといえば、何か述べたいことがあるから文章を構成するのがまともなやり方であることはわかりきったことだが、文章を構成するために何も述べることがないと表明しているわけで、たぶんそんな状況ならさっさとやめた方がいいとは思うのだが、何となくそんな単純な成り行きでそれらの文章が構成されているとは思えなくなっているようだ。そんな無内容の中にも何らかの主張が紛れ込んでいるのかも知れず、何も述べることがないと語りつつも、その実何かを述べているのかも知れない。たまには空疎な文字列の中にも、その場の偶然から語り主の不明確な主張らしきものが紛れ込んでいるようにも思えてくる。たぶん意味不明の中にも何らかの意味を読み取るべきなのだろう。そこであきらめてはならない。あきらめずに根気強く続けるべきなのかも知れず、何を続けているとも思えないが、何かしら続けている現状を認めなければならないのではないか。何ももたらさないからといってこの世界をあきらめてはならない。世界の中で何かを探し出し、何か有形無形の実現を目指すべきなのか。しかしそれらの言葉は何を語っているのか。君に何をやらせようとしているのだろう。すでに待ちくたびれるほど待ち続けているのではないだろうか。何の到来を待っているのかも忘れてしまうほど待ち続けている。本当に何を待ち続けていたのか。何がどうなってほしかったのか。そのために何をどうするべきだったのか。今となっては何も思い出すことができなくなっているようで、どこから遠ざかっているのかもわからないほど遠くまできてしまったような気がする。


11月19日

 もう昨日の時間帯をすぎてしまったらしいが、そこからさらに続けてしまうらしい。たぶん意味を見いだせないだろう。実際に見いだそうとしているのは意味ではなく、無意味な文字列に違いないが、そうすることに何の意味があるというのか。わざと矛盾を形作っているつもりなのだろうか。そんな矛盾が何をもたらすのか。すでに矛盾をもたらしているではないか。何も述べられないのに何かを述べている現実がある。もはや良心の出現を期待する状況にはないらしい。この世界に見いだされている価値観とは無縁の試みが繰り広げられている最中のようだ。そんな大げさなことではないのかも知れないが、何となくそれを肯定することはできない。それでもあとから受け入れざるを得ない成り行きになってしまうだろうか。何を受け入れるつもりなのか。それらのぎこちない言葉の連なりをどうすることもできず、制御不能な駄文へと変貌を遂げているのかも知れない。もはや何をどうの述べていたのか思い出すこともできず、つまらぬ気分で自動的に文字が連なる画面を黙って眺め続けるしかできない。それは君の文章ではない。君とは無関係なただの文章に違いなく、誰の所有物でもありはしない。誰がそれを止められるというのか。誰が何を止めるつもりもなく、誰とも無関係なのだろう。少なくとも君には関係のない文章だ。誰が君に迷惑をかけているわけでもない。外では雨が降り続き、部屋の中には静かな音楽が響き渡っている。そんな状況が誰に関係しているというのか。ただむやみやたらと言葉を繰り出している。誰がそうしているのだろう。誰でもない誰かがそうしているわけでもあるまい。どうしようもなくそうしているのは誰だろう。そんなやり方で気が済むとは思えない。誰がそう思っているのか。誰もそう思っているわけではないだろう。少なくとも誰かがそう思い、どうしようもなくそうしているはずだ。そうでなければ話が成り立たず、そこに架空の登場人物を設定できるはずだ。しかし話の中身が何もないのにフィクションが成り立つだろうか。何を成り立たせようとしているわけでもなく、ただそんな風に述べているだけか。だが誰が述べているのだろう。誰も述べているわけでもなければ、そこに存在する文章そのものが実在しないということになるだろうか。そんなはずがない。それはわざとらしいやり口だ。わかりきっているのにわからない風を装い、そんな嘘が剥き出しになっているのに、あえて嘘をついているわけを知りたくなる。わけなどわかりきっている。そのわけを表明するつもりはないが、わけなど何もないと述べることは容易だ。要するに簡単に嘘をつけるわけで、それで誰に迷惑をかけているわけでもなく、何を述べているわけでもない。嘘が嘘として機能していない。たぶんそれはフィクションでも何でもなく、文章はただの戯れ言の羅列と化しているだけかも知れない。君はそれで気が済むだろうか。気が済んでしまったらそこで終わりか。何となくその先に何を述べていいかわからなくなっている。愛とは何だろう。唐突にそんな意味のない問いかけに逃げたくなってくる。何も突拍子のない答えを期待しているわけではない。自然に振る舞えたらそれでかまわないのではないか。その自然という言葉が理解不能に陥っているのかも知れず、何もかも自然でごまかしてしまえばそれで何か述べているような気になっているのだろうか。誰が何を述べていることになるのだろう。人々はそうやって自然の一部として機能していて、自然に支配されている動物にすぎないのか。唐突に述べていることのわけがわからなくなる。それで自然に通用するとは思えないが、他の何に通用させようとも思わない。確かにどこかに良心を置き忘れてきてしまったらしい。君にはそれが理解できない。たぶんそのようなタイミングなのであり、機会を捉えてそのような意味不明を繰り出しているのだろう。それでその場はうまく機能しているはずだ。要するにそんなことならいくらでも述べられるというわけか。そんなに状況が甘いとは思えないが、何となくそんな認識でかまわないのだろう。ただいくらでも眠ってしまってかまわないのかも知れない。眠れるときに眠ってしまえば、何もかも忘れてしまえるかも知れない。面倒なことは目覚めた後に片付けてしまえばいい。片付けられたらそれでその場はおしまいになる。おしまいになってしまったらまた眠ってしまえばいい。そんなことの繰り返しですべてが片付くだろうか。しかし何を片付けようとしているのか。はたして片付けるものがわかっていないのに片付けられるだろうか。そのときになった片付ける対象が目の前に現れるのかも知れず、たぶんそれを片付ければいいだろう。そうやって物事を簡単に考えようとしていること自体、かなり眠たくなっている証拠かも知れず、もう何もかも投げやりに処理したくなっているのかも知れない。すべてはどうでもいいことなのか。確かにどうでもいいが、それをどうでもいいことのように扱ってはならないのかも知れない。


11月18日

 なぜそんなところでとどまっているのか。何を語ろうとしていたのだろう。何も語れないからとどまっているのではないか。ならばそれで終わりとなってしまう。簡単なことだろう。しかしそれで気が済むはずもない。ならばどうしたらいいのか。どうにもできなければそこで終わりだ。たまにはそんなのもありかも知れない。どうにもできないのだから仕方がない。仕方がないがあきらめることなどできるわけがない。ならば未練がましく言葉を組み合わせて文章を構成する以外にないだろう。やはり前置きが長すぎるだろうか。わざとらしい自己言及に終始している。それだけでは物足りないか。その状況で他に何ができるというのか。何もできないからそんなことを述べているわけだ。いくらでもそんなことを述べ続けている現状がある。その状況とはそんな現状のことだ。現状では何かが踊っている。平然と嘘をついている。やましいことは何もない。現状に逆らうべきではないのだろう。何も思い詰めることはない。絶望が君を助けてくれるだろう。無理にそこからはい上がろうとしてはいけない。偶然に道が開けるはずだ。言葉はそんなごまかしの一部始終を再現してくれる。すべては空虚のただ中に投げ込まれ、意識そのものを無に分解してしまうだろう。そこで忘れていた話を思い出させてくれる。話の中ではすべてが形骸化している。空っぽの動作が話しそのものだからだ。何を操作しているのでもなく、無が言葉を操作している。そこでやりきれない思いが明らかとなり、一連の動作によって辻褄を合わせられなくなる。首をかしげながらも、そんなことを語っている自らに気づいてしまうわけだ。それは無意味なことだろうか。すべての時がそんな風に推移しているとは限らない。偶然がそれらの雰囲気を醸し出しているだけだ。だからそこで止まってしまうわけか。話など何もあるはずがない。芸術なんてくそ食らえか。何が芸術なのかも理解できない。つまらない言葉を用いて、その場の静かな雰囲気をぶちこわしにしている。途中に凶暴な感情が紛れ込んでいる。要するにそういう文字列では飽き足らないのだろう。自意識で偶然を操作できるわけがない。何か高尚な内容に持ち込もうとする意図が感じられてしまい、それを嫌って言葉が勝手に暴走してしまうらしい。だがそんなやり方をいつまでも続けられるわけもなく、次第に行き詰まりの度を深めつつ、苦し紛れに感情の爆発を装い、それをいつまでも持続させようとして、無駄な言葉が執拗に繰り返されるが、それでうまくいった例しがないようだ。だからいつも挫折してしまうわけか。何に挫折しているというのか。挫折している証拠を見せてほしい。心が乱れて卑しい感情が顕わになる瞬間を見逃していいはずがない。すかさずそこに空疎な内容をあてがい、何事もなかったかのように平静を装うとするが、その見え透いた動作は不自然な印象を免れ得ないか。何が君をそうさせているのだろうか。それの何が決め台詞として機能しているのだろう。機能不全に陥った文章を抱え込んでいるわけでもあるまい。何となくそんなことを述べながら、その場はそれで済まそうとしている。後から何を吟味することもないだろう。くだらないことだと思ってしまえばそこで終わりかも知れないが、終わらない話などくだらなすぎるか。それで危機が回避されたなんて思ってはいけないわけか。まだくだらない話には続きがあるのだろうか。いつまでも言葉を連ねていると、やがて終わりを通り越してしまい、何が話の終わりだったのかわからなくなる。その時点で何が話だったのかもわからなくなり、何となく意味のないことを述べ続けている自らを見いだして、そんな自らが虚構の存在であることに気づき、そんな自らの不在にどう対処していいかもわからず、つかの間の虚脱感を味わったつもりになるが、それで何が済むはずもなく、さらに虚無的な内容を続けようと無意識が画策しているようで、そんな得体の知れぬ影におびえながらも、事態はその場で影のなすがままに推移しているらしく、何を語っているわけでもないのに、言葉の連なりが延々と続いてゆく状態が持続されていって、そんなやり方は気にくわないようだが、気分を害しながらもそれを受け入れざるを得ない状況になっている事実に気づいてしまい、絶望の淵に追いやられ、そこで終わろうにも終わりようがないどうしようもなさをどうすることもできず、引きつった薄ら笑いとともに、それらの成り行きに身をまかせ、ただいつまでも眺め続ける。何を眺めているのでもないのに、それで眺めていることになるらしく、何となくあきれかえりながらも、それらの自動作文システムに助けられている現実がある。それはどういうことなのか。それでかまわないのだろうか。かまうわけがないのかも知れないが、君は完全に意識の外にはみ出ているようだ。しかしそこに何があるというのか。夜を覆い尽くす暗闇の中にどんな希望が紛れ込んでいるのだろうか。君はその希望をつかんだつもりになれるだろうか。


11月17日

 どこかで立ち往生しているらしい。渋滞にでも巻き込まれてしまったのか。気がつけば思考の外側で何かがうごめいている。それは感情のたぐいではない。暗めの音楽がラジオから流れてくる。紅茶は香りを楽しまなければならないそうだ。何を述べているわけでもないのはいつもの通りだ。思考は限界に近づいているようだ。精神的に崩壊状態なのだろうか。興味のないことを無理に述べているうちに、何を述べているのかわからなくなってしまったようだ。しかしそれはよくあることでしかない。頭の中では何かを考えているつもりらしいが、現状から何を吸収しているのだろうか。君はこの世界の中で何を目指すべきなのか。彼の地では何度目かの冬を迎えている。それが何の答えになっているわけでもない。謎解きの答えなどどこにもありはしない。その調子では何をやろうとする気力も湧いてこない。疲れているのは毎度のことだが、すぐに眠ってしまうのはどういうことなのか。それで運命の糸に導かれているとでも思っているわけか。ただ疲れているから寝てしまうだけか。やる気にならないのは昔からそうなのであって、それが取り立ててどういうことでもなさそうだ。もうすでに行き先は決定している。今さらそんな成り行きに不満があるわけでもないだろう。毎日のように押し寄せてくる雑音のたぐいにいちいち不平不満を並べていたら体が持たない。たまにはそれとは違う成り行きになることを願って、少しは中身を伴った文章を構成したらどうか。それができたら苦労はしない。何となくその場の雰囲気に踊らされているわけでもなく、しかし空気をつかんでいるわけでもなく、何かいい加減で適当なことを述べているだけのようで、気まぐれに眠気を催し、それでうまくいっているとも思わないが、何もかもうまくいっていないように装いつつも、くだらぬいいわけに明け暮れ、やがて呆れられ、何を述べることにも飽きてしまい、偽りの狂気にかこつけて、唐突に周囲を驚かすようなことを述べているつもりになり、それが不発に終わろうと、それで何かを成し遂げたような気になる。そんな状況なのだからもはやそれに耐えるしかないようだ。この際膿をすべて出し尽くして、初心にかえって、まっとうな主張でも展開してみようではないか。そもそもそれが嘘なのではないか。初心自体がかなりいかがわしい内容を伴っている。もはや書くことが重要な時代ではないのだろう。誰もが適当でいい加減なことを書き散らし、それを不用意に発表できる時代だ。そんなことまで発表する必要もないのに、やはりほとんどの書き手は得体の知れぬ誰かに読んでもらわなければ気が済まぬ性分らしい。要するに見せびらかし中毒となっているわけか。まったくどうしようもなく大人げない。発表するか否かを問う判断基準がない。だから何でもありなのであって、何を発表してもかまわないわけだ。それが誰にでもできてしまうのだから仕方がない。もはやら他人の稚拙な文章を馬鹿にするどころではないのかも知れず、何の選別も選考も経ていない文章をいきなり公にできるわけだ。質が低下していることは否めないか。基準が何もないわけだから質も何もありはしないだろう。文章の質自体があり得ないのではないか。しかしそれ以上の何を望めばいいのだろうか。自由とはそういう状況のことをいうのではないか。何を批評しているのでも批判しているのでもなく、何も述べられないことのいいわけとして、そこにいもしない他人の文章を嘲笑してみせることしかできない。批判の対象となるのはすべて架空の文章だ。無理を承知で言葉を連ねている現状だけが誰かの肩に重くのしかかる。君にはそんな成り行きが愉快に思えて仕方がないようだ。それは浅はかな強がりややせ我慢にしかならないが、それ以外に何ができるかといえば、何も思いつかないのだから、結局それをさらに押し進める以外にやりようがないのだろう。要するにいつのものように行き詰まっているわけだ。予定調和気味に同じような言葉が繰り返され、それを読む者の眠気を誘う。ただ眠たいだけで、何を述べても眠たくなる。そして語っていることの何もかもが馬鹿げているように思えてくる。何が悪いのだろうか。どこに諸悪の根源が潜んでいるのか。誰に批判の矛先を向けようとも思わず、そうかといってその先にどんな言葉を続けられるわけもなく、そんなことしか述べられない自らの愚かさを嘆いても仕方ないような気がしてくる。何を探し出そうとしているわけでもないらしい。どうしようもなく深夜の時間帯になってしまうのだから、そんな成り行きを呪ってみても仕方がないが、さらに誰かは自己嫌悪を催すような意味のないことを述べているのだろうか。君は何を考えているのだろう。何も考えられないのではないか。ごまかしだらけの世界から何を抽出しようとしているのか。どうにもできない問題をどうにかしようとしているわけではない。ごまかしや嘘で塗り固められた大人の世界を見せつけておいて、今さら教育も何もあるわけがない。


11月16日

 どこかで狂いが生じている。それは感覚的なもので、実際に何が狂っているわけでもないはずだ。すべては予定通りに事が運んでいる。それでも何となく迷いが生じている。今さらそんなことを語っても仕方がないのではないか。すでにすべては動き始めている。何となく空気が乾いてのどが渇いている。風邪でも引いているのだろうか。今くじでも引けば何かが当たったりするのだろうか。大当たりを引き当てなければ意味がない。そんな風に語れば何だか胸がわくわくしてくるだろうか。だがさっきまで語っていた内容を思い出せない。いい加減に述べるのはよくない。結果として投げやりな態度を招いている。その癖を直さなければならない。直さなければ命にかかわるようなことなのか。命の代わりに何を落としたら驚くだろうか。誰を驚かせようとしているのか。それは落とし物などではない。いつまでもわけのわからないことを述べるべきではないが、そんなことしか述べられないとすると、その先に何が待ち受けているのか。退屈にやられて死にそうになってしまうか。それですぐに死ぬようなことはない。無駄な問いかけばかり繰り返している頭がおかしくなる。しかしこの世界で起こっている出来事は何に関係しているのか。様々な出来事が関係し合って、それらの雰囲気を醸し出している。空気中に何かが漂っているようだが、まだ狂気の雰囲気にはほど遠い。別に映画の話をしているわけではなく、何をどうしようというわけではないが、それらの雰囲気から何を読み取れるだろうか。だいぶ焦っているようだ。すでに何かしら真実をつかんでいるらしいが、それが解決の決め手にならない。誰を自白に追い込もうとしているわけではない。たぶんこれから君が述べようとしていることはわかりきったことだ。それの何がわかりきったことになるのか。今さら君についてわかりきったことを述べようとは思わないが、君はこの世界の現状を馬鹿にしていないか。しかし馬鹿にしているだけで何ができるわけもない。まったく誰からも相手にされていないのと同じことか。ならば相手にされていないことの気休めに奇妙なことを述べてみたい。何が気休めになるのだろう。できもしないことを試みることなどできはしない。それで冗談になっていないような気がする。君はそこで何を仕掛けているのか。何を仕掛けようとねらい通りにいくはずがない。何もやらないうちからあきらめてどうするのか。また意味のない逡巡が繰り返されている。得体が知れないとは思わないか。君は誰のことを述べているのだろう。過ぎ去った日々は遠すぎて、今さら思い出しても仕方がないように感じられる。そこから言葉が湧いてこない。なぜそこから遠ざからなければ思い出せないのか。利いた風なことを述べているかも知れない。すべては近視眼的な思考に基づいている。その場だけでうまく立ち回ることばかりに気を取られ、未来へ向かう可能性を無視しているような気がする。では何が未来への可能性を秘めているというのか。今のままでは何の可能性もありはしない。そう断言できてしまうこと自体が何を述べているのかをわからなくなしているようだ。わざとそう述べている。本当に何を述べているのだろう。何も述べられないはずがない。意味もなく強がっているだけでは先へ進めない。後ずさりしながら先へ進めるわけがない。彼には君のどんな姿が見えているのだろう。恐怖に駆られているように見せかけたいわけか。誰にどう見られようと、本当の姿からはほど遠いか。なぜそうやって嘘をつくのだろう。それも戯れ言には違いないが、そんなことを述べている余裕がどこにあるのか。実際に述べているすべてはほとんど意味不明に近い。ではどこへ帰ればいいのだろう。帰るところなどどこでもいいのではないか。すでに君は土に帰っている。今見えている姿は君の亡霊に違いない。危険を冒して誰かに会いに出かけたまま、帰ってこなくなった。それが今から数十年前のことか。だから今そこにいる君は得体が知れない。すでに君ではないのかも知れない。では何をそこで語っているのだろう。それで誰かに語りかけているように感じられるわけか。冗談にもならないようなことを語りながら、また以前と同じような展開に持ち込もうとしている。今さら苦渋の表情を浮かべても始まらない。まだ話が始まろうともしていないのではないか。しかし何をそこから始めたらいいのか。なぜ君は怪我をしているのか。かなりの深傷を負っているようだ。もう死の直前まで話が進行しているらしい。それは誰の物語なのだろう。それで誰のメッセージを解読したつもりになれるのか。それ以降は明確なことを何も言えなくなる。明確に語ってしまったら話をその先に引き延ばせないだろう。ならばどこまでだらだらと無意味なことを語り続けるつもりなのか。語らなくていいことまで語っている現状が文章中に露呈している。そんなことを語らなくてもいいはずだが、それ以外は何もないような気がしてくる。それは偶然の出来事などではない。


11月15日

 さらにあれから数日が経過してしまったようだ。そこから時間を遡れないものか。何を思い出そうとしているのか。あれは何かの事件だったのだろうか。あれについて考えすぎているようだが、あれとは何なのか。改めて考えるようなことではないだろう。とりあえずさっきまでは睡眠中だったようで、昨日は昨日で何もしていなかったわけではない。何やらわけのわからないことを述べている。ところで昨晩は何をやっていたのだろうか。下界では何かが立て続けに起こっているようで、文章の中に使い慣れない言葉が多数出現している。それをどのように組み入れようか。無理なことはやらない方が身のためか。やってみなければ無理かどうかわからない。翌日の昼に何を考えているのか。結局何も言い出さないうちに夜が閉じられる。朝がきて昼を通り過ぎ、時間はまた夜に出会う。時間外では意識が対応しきれないようだが、そこで君は何について語ったらいいのだろう。実際は何も語れなくなっているようだが、では何をあきらめなければならないのか。しばらく文章の継続をあきらめていた。それをやる気にならない。何もないのだから、語るのは無理なのかも知れない。だが君が無理と思っても、影はどこまでも空疎な言葉の連なりを構成したがっている。疲れているのに疲れを感じられないようだ。それが当たり前のことだとしたら、なぜ文章の内容が否定の連続にならないのか。文章中ではまるで癌細胞のように空疎な言葉が増殖し続ける。すでにそれから三分が経過していて、誰かがカップ麺を食べようとしているらしい。君はそれを無視して強引に言葉を連ねているらしいが、まだ予定した時間が経過していないようだ。いったい何を催促されているのか。君の耳には何が聞こえているのだろうか。聞こえていない音に導かれて、仮想空間では誰かが空高く昇ってゆく。自らの死と引き替えにして、この世の何を否定していたのか。なぜ事件が起こらなければ話が先に進まないのだろうか。それで何が進展していることになるのか。夢の中で何を思い出したつもりになり、どんな音を聞き逃した風を装えるのだろう。それではまったく文章になっていないようだ。途中で音が途絶えて何も聞こえなくなる。迷ってばかりではらちがあかない。理性も知性も何の役にも立たない。何をいらついているのだろうか。何もなければ平静を装っていれば済むことだ。何と戦っているとも思えない代わりに、進むべき道を知らず、ひたすら眠ることを願う。たぶんその代わりとなる気休めをもたらせないのだろう。無意識の影は何をもたらしたいわけでもない。ただ君が君自身から遠ざかりたいようだ。できもしないことを述べようとして、相変わらず無理なことをやろうとしているらしい。実際には何もやりたくないのに、架空の場所で何をやろうとしているのか。物語の登場人物たちに何をやらせたいのだろうか。誰が何をやりたいわけでもない。それを強引に物語ろうとしても、語っている内容はことごとく的外れになってしまうだろう。君は言葉を記す以外に何もできはしない。ただ粗雑なことを述べているだけのようだ。そこから何が見えているのだろうか。地平線の向こう側に水平線が見えてくるだけか。もう少し車で走れば海が見えてくる。狭い島国の中で人々はどこへ避難し続けているのだろう。天変地異というほどのことではないが、災害は毎日のように起こっている。そんなことにいちいち驚いていても仕方がない。つまらない映像に見とれている場合ではない。君はそれに気づかない。終わりが近づいているわけではなさそうだ。いつまでもどこまでも眠っていたい。その気力が萎えないうちに眠ってしまおう。しかし永眠するほどの理由がない。体がだるいのは何かの病気にかかっている徴候か。本当にそうであったなら気休め程度の安心感でも得られるだろうか。何だか目の前で何かがぐるぐる回転し始めている。そう感じているうちにも床が斜め手前に傾いてきたようだ。もはや何かの前触れどころではなく、いきなりこの世の終わりがやってきたようだ。君はそこで息絶えてしまうのか。心変わりしている途中の過程を省いてはいけないか。何を見せようとしているわけでもなく、そんな風に現状を感じながらも、やっと折り返し地点が見えてきた。まだ醜態をさらすほど衰えてはいないようだが、周囲が薄ぼんやりしていて、屋根の上から烏がこちらの様子をうかがっている。そんな光景では満足できないか。ではそこから何を推し進めるべきなのか。眠るのが面倒くさいのならば、眠りながらも目を覚ましている風を装えばいい。誰もそんなことをやろうとは思わないだろうが、その退屈な人生は誰のものなのか。なぜ日頃の不満を爆発させないのだろう。猫背がさらに前のめりになる。たぶん述べているのは無意味なことなのだ。虚しい気分でどこまでもつまらないことを思う。やはりそれでは意味がないだろう。意味がなければ無意味になるのだろうか。わかりきったことを繰り返さないでほしいが、安易に妄想へ逃げてはならない。


11月14日

 何が至上の愛なのだろう。そんな曲がどこかで響いている。交響曲は大げさだろうか。せせこましい感性が雄大な音楽について行けないだけか。ならばニール・ヤングあたりで満足しなければならない。それが嫌ならパルティータあたりで妥協しようか。虎の毛皮の表面上に何を記しているのだろうか。液晶画面に壁紙も何もあったものではない。それは瞬く間にヒョウ柄へと変化する。文字的に統一がとれていないようだ。どうせまたわけがわからなくなるように語っているのだろう。常套手段も使いすぎると鬱陶しい。そういう水準で自足してしまえば、やがて紋切り型を何とも思わなくなる。不用意に言葉を繰り出しすぎているのか。もう少し取捨選択の基準を狭めなければ、そこで終わってしまいそうだ。どこかでコヨーテが遠吠えを繰り返している。昔大草原のただ中に小さな家があったらしい。それは恐ろしい映像のたぐいか。開拓民にも夢があったのだろう。バッハにも夢があったのだろうか。将来に対する漠然とした不安が頭をよぎる頃、密かにそのときが近づいてくることを祈っている。しかしどのようにして危機を脱するつもりなのか。それは大げさなアクション映画の話ではない。筋書き通りに事が運ぶわけがないが、誰がその筋書きを構成しているつもりなのだろう。誰もが君を愛している。そう思っているうちは勘違いに助けられてしまうのだろう。では勘違いに気づいて絶望してしまったらどうするのか。その先に何が待ちかまえているのだろうか。誰が待ちかまえているわけでもなく、死に神に無視されているわけでもない。そのとき君は虚無に取り憑かれていて、たぶんこの世界からも無視されていることだろう。それでは意味的に不連続なのではないか。根拠を示すことはできないが、とりあえずそんなことはない。意味など端から無視されている。そこにとどまってしまったら、その先はあり得ないのだろう。そこに根付いて枯れるまで生き続ける。君は占い師を退け、そこから予言を裏切ろうとするだろう。それが神の思うつぼなのか。予言者の末路は悲劇となる他ない。視線が絶えず揺れ続け、焦点が定まらず、言葉がいつまでも拡散し続け、まとまった文章となることを拒否してしまう。だから何を語っているのかわからなくなり、次第に焦りを覚えはじめ、ついには苦し紛れに奇声を発するようになってしまうのか。突拍子もない驚きを求めてしまうらしい。そうなるもはや奇をてらいすぎていることになるらしく、正常な感覚からかけ離れ、頭から言葉を排除して、絵画の抽象性へと逃げ去ろうとする。要するに芸術が爆発してしまうわけか。彼はそこで何をにらみつけていたのだろうか。何もない白塗りの壁に何かの染みを発見して驚喜する。それこそが至上の芸術なのか。そう述べて何を馬鹿にしているのだろう。おそらく馬鹿にしながらも真の芸術の出現を恐れているのだろう。そんなものなどあるわけがないと言葉で主張しながらも、密かに自らでそれを作り出そうと模索しているわけか。そういう行為がいずれ偽金作りに発展して、ありもしないフィクションのねつ造癖が身の破滅でも招いてしまうのか。そんな安易にはこの世界から降りさせてもらえないか。実際に降りるときには身ぐるみすべてはがされて、一文無しで荒野へ置き去りにされてしまうのかも知れず、そうなることを恐れているからこそ、芸術家は既存の権威にすがりつこうして、絶えず保身に汲汲としているわけか。しかしなぜそれが芸術家に限られるのか。芸術家は政治家とどこが違うのだろうか。人々を魅了したいがためだけの言葉は貧相だ。そんなもので感動する者は幼稚な知性しか持ち合わせていない。そういう決めつけ自体が危険な兆候か。独我論的に世の中から浮き上がってしまうかも知れない。言葉が的を射ていないのだろう。矢を放った先に的が存在しないのかも知れず、まるで見当違いの方向へ批判の矛先を向けているだけなのかも知れない。おそらく君はそこで文章を構成することを断念しているのだろう。当初に述べようとしていたことからはだいぶ遠ざかってしまったらしい。そのとき聴いていた音楽はすでに止み、今はそれとはかけ離れたジャンルの音楽が流れている。北欧のジャズは何を目指しているのか。音楽は何も語らない。何か語っているように感じられるのは、君の勝手な思いこみに違いない。音楽はそんな君を置き去りにして、さっさとその場から消え失せ、今度はまた別の音楽が何もない空間に響き渡るのだろう。音楽が何を主張しているわけでもなく、君の存在を認識しているわけでもなさそうだ、軟弱なやり方では太刀打ちできそうもない。肯定的な意見をはねのけ、否定的な意見はゴミ箱に投げ捨て、とりあえず空気を振動させ続け、壁で適当な方向へ反射して、君の耳に到達しているようだが、それで君の存在を認めたわけではない。君がその音楽に好意を抱いているのは勘違いのなせる業だ。しかしなぜ音楽は聴衆に媚びないのだろうか。名もなき聴衆には特定の固有名があてがわれていないからか。


11月13日

 何かを眺めているうちに視野が狭まってきた。いつの間にか眠ってしまったらしく、目覚めてそのとき何を眺めていたのかを思い出そうとしているようだが、それは誰の言葉でもなく、世界はそれについて何も語らせないようだ。そんなわけで架空の言葉はどこまでも不明確だ。やはり何を語りたいわけでもないのに、何かしら語っているらしいが、そこに醸し出されている自由な雰囲気にはとりとめがない。次第に何もやる気がしなくなる。間が持たないとはどういうことなのか。何かを物語るには、ある程度言葉の範疇を区切らなければならなくなる。そうしないと何を述べているのかわからなくなる。幼稚な作文には嫌気がさしているらしい。今までに何を述べてきたというのか。不意に見上げてみれば、木漏れ日がまぶしく差し込んでくる。森の中で誰かがさまよっているようだが、そんな話の設定では終わりまで持たないだろう。途中から脱線してしまうに決まっている。だから早々と意味不明の展開に突入してしまうのか。そんな風に述べて、わざとふざけたふりをしているらしい。またいつものいいわけが始まっている。そして何となくそれ以外は何も語れずに苦しんでいるようだが、これから何が起ころうと、何も驚くにはあたらない。実際に何も起こらないのだから、そんなことはあり得ない。あり得ないから世界のすべてはフィクションと化す。君は作り話の中の登場人物とは無関係だ。架空の世の中には生きるに値しない人間が大勢いるらしい。現に暮らしている世の中の何が架空なのだろう。実際には架空でないのに架空だと思わせるのはどういうことなのか。別に納得できる理由を求めているわけではなく、理由も必然性もないことを証明したいだけか。それで納得できるわけがない。いったい現実の世界では誰が生きているのだろう。そこは価値のない世界だ。空っぽの世界には何ももたらされない。意識すべき心がどこにもない。だから別に動揺しているわけでも強がっているわけでもない。しかし語るべき言葉が何もなければ、哀しくなってしまうだろうか。哀しみをこらえようにも、空疎な言葉しか思いつかない。いくら試行錯誤を経ようと、依然として哀しむ対象が不在だ。どうも語るべき言葉が見当たらないようだ。どこを探しているのか知らないが、別に探し物が見つからないわけではない。要するに何を探しているのかわからない。語るべき言葉を探して見つかるとは思えない。そこに言葉が到来していないだけだ。では何に躓いているのだろうか。いくら考えてみても何が導き出されるわけもないのに、現状の何を受け入れられるだろうか。いずれ時が勝手に動き出して、状況は何らかの変化を被るだろう。確かにそこでいつまでも時間が止まっているとは思えないが、どんな主張にも欠陥があり、それが気休めの言葉なら要らないような気がする。では言葉以外に何を必要としているのか。とにかく早く言葉の藪から抜け出さなければならない。別に抜け出そうとしているわけではないはずか。そうやっていくら現状を否定しても、それだけ苦しみが長引くだけか。そこで誰かが誰かに訊ねる。まだ言い残したことはないか。話にその先があるとは思えないが、それで言葉が出尽くしたとも思えないのはどういうわけなのだろう。たぶんそれは君の疑問ではない。言葉の代わりにあくびが出てきて、それで話になるとは思えないが、眠気の次にくるのは睡眠の時間のようだ。ひたすら惰眠をむさぼり、そんな言語表現に惹かれつつ、意味や言葉のつながりを無視して、強引に意識を記された文章になじませようとするが、愚かな行為に際限があるとは思えない。とりあえず高みの見物とはなりがたいようだ。それに関してどんなに言葉を弄しても、軽はずみな言動に対する責任を免れることはできない。無責任に何を述べてもかまわないというわけではないらしい。自由という言葉はそのような言動には当てはまらない。文章の内容を導き出せないのは君のせいではない。もうわかったということかも知れない。それ以上何を述べても無駄だということか。できないことをやろうとしても挫折するだけか。だがそれで何を否定しているつもりなのか。執拗に繰り返されるまわりくどい問いかけに答えるつもりはないらしく、お節介な誰かが答えてくれることを望んでいるわけでもないのだろう。それでもやっと言葉の藪から抜け出したような気になり、爽快な気分とは言い難いが、少しはすっきりしたようだ。いくら言葉を弄しても何を述べている気にもなれないのは、そこで具体的なことは何もやっていないからか。すでに感性のテロメアが摩耗しているようだ。何もやらずに何をやっているのだろう。睡眠の時間が近づいているらしいが、言葉を弄する以前にやるべきことがあったようだが、どうしてもそれを思い出せない。たぶん明日になったら思い出しているかも知れないが、たとえばそれは寝る前に歯を磨く程度のことだったかも知れない。何かを物語ろうとする試みとは無関係の動作なのだ。そう思いこまなければ眠れないか。


11月12日

 ひとたび事件が起これば、人はメロドラマ的対応しかとれなくなる。それがそこでの限界のようだ。だが今さらそんなことを述べても仕方がないだろう。この世界にはわかっていないことが多すぎるが、つまらぬ事件でことさら感情的になることもないだろう。見いだされた時において、誰が何をする必要性を感じていようと、別の誰かにとってそれは取るに足らないことでしかない。目下のところ行動の必然性などどこにも見当たらず、そこから言葉がどこへ向かっているかは、そのときの気分と外部からの作用次第か。しかしどんな偶然がそこに作用しているというのか。案外何かが意味不明気味に推移しているだけかも知れない。では架空のまなざしはどこで何を眺めているのだろう。窓枠に風景が収まりきらないようだが、誰かはさっきから何をやっているのか。他の誰かなら何かをやっているらしい。携帯電話を操作する者たちに囲まれて、自らもそんな動作の最中のような気分になる。偽りの動作から解き放たれて、気分だけではなく、本当にそんなことをやっているのかも知れず、他の誰かはあわただしく指を動かしながら小さな画面に見入っているようだが、そんな風にして何を知り得るのか。わけがわからないのは誰でもなく、意識は機械の虜となっているようだ。しかしそれの何が見え透いた嘘なのか。嘘でなければ何が現実なのか。それらの現実が嘘と渾然一体となり、身勝手な思考を暴走させているようで、連ねられた言葉の取りようによっては、自らにこれは妄想ではないと言い聞かせているようにも感じられてしまうが、やはりそこから誰が嵐を呼んでいるわけでもなく、何を引きちぎって自由になりとも思わず、数日前の雨空を思い出しながら、打ちのめされた思いとは無縁の偽装された敗北感を醸し出そうとしているようだ。そんな意味不明なことを述べて何になるのだろうか。誰を惑わそうとしているのでもないように思われ、見え透いたごまかしにすぎないのかも知れないが、いったい雨はどこから吹き込んでくるのか。唐突に雨の話をしているわけでもないが、仮想の風が精神に何らかの作用を及ぼして、それらの無駄な思考を洗い流してしまうだろう。何をどう考えても無駄に思われてしまい、電車の中吊り広告に記されている内容が、時代遅れの思考に基づいているように感じられる。誰が何を批判しているのか知らないが、実際に見えている風景はそれとは異なっていて、人の群れが道を埋め尽くし、週末の街中を活気づかせているようだ。それが得体の知れぬ動物の群れだと認識するのは気が狂っている証拠だろうか。だがそういうずれ方はその先につながらない。何を逸脱させようとしているのでもなく、君自身の思考が文章から外れていて、その結果として積極的な内容は何ももたらさず、絶えず付け足し的にその場のつじつま合わせに終始するだろう。それがそのとき導き出された文章なのだから、それはそれで仕方がないというわけか。誰がそんな内容に納得するだろうか。だが君の力ではどのようにも修正することは叶わず、その先に不連続な内容を付け足す他はやりようがなくなり、そんなことをいつまでもやり続けていると、あきらめの境地に至ってしまうのかも知れず、それも一つの結果として受け止めなければならないようだが、それで自己満足を得ることはなく、そこから肯定的な内容を導き出すこともできない。それは君自身の問題ではないように思われてしまう。そしてそこから導き出された世界観は他の誰とも共有できない。だからそこであきらめてしまうのか。そんな理由では理由になっていないだろう。いいわけに終始しているのは他の誰でもなく、つまらぬ事件を毎日のように伝え続け、そのような行為が社会にもたらす影響を憂慮している訳知り顔の解説者たちか。一般人が興味本位でのぞき込んでいるテレビ画面上では、他に誰が動き回っているのか。なぜそこから言葉が飛んでしまうのだろう。君は文章が一定の意味を担う必要性を感じない。携帯電話の話はそこからどこへ進展しようとしているのだろう。いったい正義はどこにあるのか。それは新規参入した携帯電話会社の社長の名前に違いないが、それが予想外の展開だとは到底思えない。わざとわけのわからぬことを述べているようだが、話の内容がまったくの的外れに至ってしまっているらしい。要するに暇つぶしの冗談が生じているわけか。幾分苦し紛れの気配に近づいている雰囲気もある。たぶんそこで誰かは刹那的な気分になっているのだろう。もう気持ちを立て直す気にもならないようだ。ではそこで終わってしまうわけか。何を終わらせようとしているのだろうか。それに関して誰かの感情を推し量ることはできないようだが、何となくおもしろくないのかも知れない。それでつまらぬテレビ画面を飽きもせず眺め続けているわけか。それで何かの気晴らしになるのだろうか。今のところは想像の域を超えない話かも知れないが、何となくそれで話の無内容を食い止めているような幻想を抱いているのかも知れない。


11月11日

 外部からもたらされる様々な作用に対応しきれずに、気が散っているのだろうか。大変だと思っているのかも知れないが、実際はそれほどのことではない。いつものようにそこから逃げているのかも知れない。逃げようとしているが逃げられない状況にあるわけか。誰がすべてから逃げているのだろうか。逃げているのが誰かなんて、その固有名をいちいち特定するつもりはない。意識は怠惰に流されているのだろう。そう受け取ってもらってもかまわない。遠くを見つめても焦点が合わないようだ。人間は個人としては無用の存在だ。死のうが生きようが、他者との関係がなければどうということはない。周囲の人間に迷惑をかけたければ自殺すればいいが、誰に向かって述べているのでもなく、生き続けても迷惑がかかる場合もあるわけだから、個人としてはそんなことはどうでもいいに違いない。そういう意味で個人主義者は孤独を受け入れなければならない。誰も相手をしてくれなければそれでかまわないのかも知れない。たとえ気が狂っていると思われようと、我が道を行けばいいことでしかない。それはもはや批評の対象ではなく、他者から見向きもされないような存在になりはてているだけだ。それで楽しければかまわないのかも知れないが、そこから何を主張しようと無効に決まっている。しかしそんな水準で何を述べてみてもつまらないだけだろう。だから逸脱してしまうのだろうか。外は数日後の闇に包まれている。夜なのだろう。青白い炎がどこかで点り、誰かがガスコンロの上で料理の最中なのか。なぜそこから逃げてしまうのか。無駄な言葉を連ねて逃避してしまうのだろう。誰かがどこかで首つり自殺をしたそうだ。それで何かを遂げたことになるわけか。死んだ当人の思いなどすぐに忘れ去られるだろう。生きることがうまくいかなかったのだろう。人間は人間にとってそれほど重要な存在ではないのかも知れない。そこに何らかの固有名がつけられて、他の誰かと関係がなければどうでもいい存在に違いない。ならばその辺の世の中で繰り返されている人間の生と死にはどのような意味があてがわれているのか。誰かは死んでもらっては困る人の存在を認識できるだろうか。なぜそこからかけがえのない存在が導き出されるのか。たぶん物事の本質から遠ざかっているのだろう。どこかに利用価値が生じている。働かせるにしろ学ばせるにしろ、そこから利益を生み出せなければ無用な人間と見なされてしまうだろう。時には他人に向かって何らかの感動を求めている場合もある。思い通りに生きたいだろうし、他人を利用して思い通りの展開に持って行きたい。そんな自らの傲慢さを悟られないように、様々なやり方が生み出される。何とか他人を騙し出し抜き喜ばせ、時には力ずくで従わせ、何とか自己実現を図り、何らかの結果を伴った達成感をもたらしたい。世の中にそんな思惑が渦巻いていることは誰もが知っているはずだ。もちろんあからさまにそんな当たり前のことを告げる者などいはしない。いきなり他人に向かって、これからおまえを利用して、そこから利益を出そうと思っている、なんて宣言するはずがない。利用する側も利用される側も、そんなことは暗黙の了解事項として承知しており、その上で自分がいかに利益を得るか、その方法を絶えず模索し合っている。だがまっとうに生きるためにはそんな現実に気づいていてはいけないのかも知れない。気づいていても積極的にそれを忘れる必要さえあるのだろう。あからさまに利益ばかり追求してしまうと、人間関係がうまくいかなくなってしまう。効率最優先を改め、無駄な迂回や停滞を楽しむ余裕が必要か。それもわかりきったことでしかないか。少なくともこちらの欲望を相手に悟られないようにしておく必要がある。だから簡単に目的を設定するのは間違いなのだろう。目的を設定して、それを達成するために努力している姿を、他人に見せびらかしてしまうのは危険すぎる。そういうやり方は攻撃の標的となってしまう場合さえある。とりあえず偽の目的を掲げて、それに向かって努力しているように装うことぐらいは、最低限必要なことなのではないか。真の目的などありはしない方がいくらかマシに生きてゆけるのではないか。ありふれている思考を模倣してはいけない。ありきたりの夢を本気で抱いてはいけない。では何をどうすればまっとうに生きてゆけるのか。まっとうに生きようとしてはいけないのだろうか。そんな生き方がまかり通るとは思えないが、悲壮感を漂わせて不可能に挑戦するのも馬鹿らしいだろう。そんなことを考えている場合ではないのかも知れず、他の何を適当に考えている場合でもないのかも知れず、では何をどう考える場合なのかといえば、そんなものなどどこにもありはしないのかも知れない。すべてはどうでもいいことなのか。そう思ってしまっては間違いなのだろうが、間違いをいつまでも放置し続けるつもりはなく、たぶん放置しておけないのであり、また生き延びるための何らかの方法を模索している自らに気づくわけか。


11月10日

 さらに現実から遠ざかることができるだろうか。今は何かの途中に違いないが、まだいいわけにはほど遠い内容だ。それで意味の通った文章になっているのだろうか。君はそれらの言葉の連なりに意味をもたらそうとしているのではなく、すかすかな気分で知らんぷりを継続させて、そんな見え透いた気分とは逆に何かを知ろうする姿勢をとり続ける。そんなのは嘘に決まっているだろう。そのままでは調子に乗ってさらにどうしようもないことを述べてしまいそうだ。誰かは過去の時空で何を語っているのか。散漫な気分でとりとめがないようだが、なぜ疲れているのだろう。それで楽しんでいるとは到底思えず、まるで苦行層のようなことを必死でやり続けているようだ。君は苦行層の姿を見たことがあるのか。とりあえずそこから何をどうやろうと、修業や修行ではあり得ないようだが、外部からの視線が語るところによれば、相当疲れているように見える。しかしそこでなぜ視線が語ってしまうのか。誰の死を期待しているわけでもないだろうが、まさかこれから死んでしまうわけでもないか。疲れているだけで死を意識するのは大げさすぎる。またそれで気が触れているわけでもないらしく、心身の疲れを意識しつつも、何とか正気を保っているように見せかけ、それによってまともなことを語ろうとしているのかも知れないが、それでも何となく疲れを理由にしてしまうとまとまりがつかないようだ。そのついでに君は大げさな交響曲を聴きたくなる。はたしてそれが気晴らしになるだろうか。気晴らしになるどころではなく、さっきから空疎な言葉が意識にまとわりついて離れない。やはりこれから君は死んでしまうのか。要するに君は意味不明に生き、意味不明に死ぬ運命なのかも知れないが、確かに疲れている。その時空で認識しているのはそれだけか。それだけのためのための文章でもないはずだ。ならば他にどう語ったら納得するだろうか。人は何のために生きているのか。そんな決まり切った問いかけに答える者などいるわけもない。奇特な君なら答えてくれるかも知れない。しかしそれが奇特な振る舞いとなるだろうか。そういう話ではないだろう。何のためにでも生きているのかも知れず、誰のためにでも人は生きられる。だがそれではますます生きている意味がわからなくなる。はじめから意味など知ろうとしていないのではないか。人は誰でも漠然とした疑問や疑念を抱くものかも知れない。しかしそこからどう文章を展開させるつもりなのか。目的が見当たらないのはいつものことだ。まともな内容を容易には導き出せないのかも知れない。努力するのも容易ではないが、人は酒を飲み続けると老いる傾向があるらしい。誰が居酒屋で酒を飲んでいるのだろうか。それのどこに目的が潜んでいるというのか。そういう話は意味不明に近い。結論など何もありはしないようだが、ならば何の話でもないか。話でなければ何かの中毒症状を起こしているわけか。誰の予言か知らないが、数日後には冬になっているそうだ。誰もそんなことを述べているわけではない。何を笑っているのだろう。そういう話ではなかったはずか。素朴な疑問がどこからともなく湧いて出る。それに何の意味があるのか。しかし無意味なことを述べてはいけないのか。それとは何なのか。頭の中で何かが暴走しているわけでもあるまい。ふくれあがった妄想が突然破裂して、意識の外部にまで損傷を及ぼす。まだ夢から覚めているわけではないが、夢の中で何を述べているのでもないらしい。ならばいつまで眠気に逆らっているのだ。もう何日も眠っていないわけではないが、真昼に眠くなり、夕方頃に眠くなり、深夜にも眠くなる。いったいいつになったら眠らせてくれるのか。今は朝ではない。それどころか今は今ではない。そこで誰が眠気を催しているわけでもないだろう。ならばさっきまでの眠気は嘘なのだろうか。嘘ではないが、結果として眠りにつかないのだから、眠気を阻む何らかの要因があるらしい。要因とは何だろう。たとえばそこで眠ってしまっては死んでしまうわけか。別に冬山で遭難しているわけでもない。ただわけがわからないことを述べている。現状はどうなっているのか。この世界に不満を抱いている誰かによると、次第に息苦しい世の中になっているそうだ。密室の中で空気が抜かれていく。そうやって真空状態を維持したいらしいが、何もなければ何も述べられないだろうか。なぜか外的要因でどうしようもなくなる。何かあるとすぐに遅れてしまうらしく、やはり立て続けのイベントには対応しきれない。しかしそれですっきりしたのではないか。すっきりできるような立場なのか。それは誰の立場なのだろう。誰が何を述べる立場にもなっていないように思われるが、そこから何もない状況についてどう述べたらいいものか。状況を理解していないのではないか。解決の糸口などどこにもありはしない。ただ相当疲れている。それだけのことに不可能が立ちはだかっている。無理なのだろう。何が無理だかわかっているようだが、その無理を跳ね返すことは不可能のようだ。


11月9日

 たぶん語っている内容があやふやだ。それらの何もかもが作り話だったのだろうか。彼は他に何も思い浮かばないようだ。それは彼ではなく君ではないのか。そこで何か矛盾していないか。この期に及んで何をやり直そうとしているのか。それはわけのわからない矛盾に違いない。何もないのに言葉を記しているのはいつものことだろう。生きる上で無駄なことを考えすぎているわけか。最後の夏が過ぎ去ったのは何年前だったのか。その時が彼の姿を見た最後だった。そういうフィクションは好ましくないが、誰のことを述べているのでもないらしい。しかしなぜ彼はしきりに危機感を煽っていたのだろう。何かよくない状況の到来でも察知していたのだろうか。そこから話が展開するはずもない。よい方向に転がっていきそうもない。聞こえているのは何かが崩壊する音にすぎない。そこではありとあらゆる可能性が試されていた。その中の一つが今ある現状になっているらしい。過去は現在につながっている。それを導き出そうとしていたのだから、何となく当たり前の結論へと導かれてしまうのだろう。取捨選択の過程であり得ないことは除外されてしまう。だから話がつまらなくなってしまうのか。しかしそのつまらない話を執拗に繰り返してしまうのは誰なのだろうか。それが架空の登場人物だとしたら、事実そのもの実態が希薄になってしまうだろう。希薄どころではなく、それはまったくの作り話にすぎなくなってしまう。今回はそれでかまわないとは思っているのだろうか。注意深く耳を傾けてみれば、もっともらしく語っていることのほとんどがどこかで聞いたような内容であることに気づくはずだ。そういう語り方は好ましくないのだろうか。ではどう語れば納得するのだろう。いっそのこと何も語らない方が真実みを帯びるかも知れない。すべての事実がそれについて語るために存在しているわけではない。中には語ることができないような事実もあるはずか。しかしそう述べて何がわかったことになるのだろうか。少なくともそれについて語らなければ何もわからないままではないか。わからなければなかったことになってしまうか。誰も知らないことを語りようがないだろう。誰かが知っていて、そのことについて語らなければ、他の誰も知り得ないということか。中には知り得ないことを語りたがる者もいるはずだろう。意味不明なことをしきりに語りたがるのがその誰かとなってしまう。そんなわけで今日も誰かが何かを語り続けている現状があり、その誰かの存在を無視しているのが君のようだ。しかしそういう話のまとまり方はおかしい。何を語ろうとしていたのか意味不明だ。語っている途中から状況を把握できなくなっている。そんな文章を読んでも仕方ないか。仕方がないからさらに語り続け、結果としてわけがわからなくなってしまうのではないか。そういう逃げ方もあったはずか。どこかで気づかないうちに脱線してしまったのだろう。内容を導き出せぬまま、空疎な言葉だけが先行して連なってしまい、意識がそれについて行けなくなるらしい。それはまるで把握できない現状を文章にしているようだ。そんな行き詰まりを突き抜けられるだろうか。それの何が行き詰まりに思われるのだろう。そこからさらにわけがわからなくなる。それは君の思うつぼだろう。予想内の成り行きでは誰も驚かない。誰も驚かなければ退屈な言葉の連なり以外に何ももたらされないか。たぶんそれが日常の現実なのだろう。予想外の出来事に気づく感性が欠如しているのかも知れず、その感覚の鈍さが退屈な日々を滞りなくこなす上で有利に働いている。何よりも気が狂わないように生きていくためには、ある程度鈍感な感性が必要とされているのだろう。ちょっとしたすれ違いが行き違いを気にしているようでは、神経がすり切れてしまうか。そこで問題とされているのはそういうことではないのか。また途中から思い違いが生じているように感じられる。何となく当初において述べたかったことが出てこなくなって、その代わりに当たり前の紋切り型的な教訓話に行き着いてしまったようだ。たぶんそういう結論に至りたかったのではないはずだが、述べたかったことを述べられないのもいつものことだろう。君には予想外の意味が理解できない。何もかもが予定調和となってしまったら、それは予想外と見なしてかまわないのだろうか。そう語っていることの意味もわからなくなる。なぜ今さらそんなことを語っているのだろう。文章が破綻してしまうことははじめからわかっていたはずだ。わかっていたからこそ、でたらめな内容でも平然としていられるのだろう。やはりそんなことを述べるのも予想の範囲内なのだろうか。しかしそれでは驚きが欠如している。真実も欠けているかも知れず、思っていることを素直に述べていないような気がする。だが何らかのごまかしを介在させなければ、そこには至らないのではないか。それは君のいつものやり方に違いない。そうやって矛盾だらけの文章が構成されてしまうわけだ。


11月8日

 闇雲に言葉を連ねて文章が意味不明に陥る。心には一点の曇りもないと思っているが、それと何が関係しているのだろうか。なぜ不機嫌なふりをしているのか。それを信じて何になるのか。いったい何を信じているのだろう。何も信じられないよりは、少しでも信じられる対象がほしいところか。しかし今は何もない。意味のない利便性に惑わされる。立て続けの挫折はやる気を失わせる。そんなことを思って何になるのか。何にもならないなら、それはただのいいわけにすぎないのだろうか。誰がそんなことを思っているのか。その話の内容は特定の個人から生じているのだろうか。仮にそうだとしても何の問題もありはしない。問題について語っているわけではないはずだ。明らかに言わんとしていることからずれている。わざと論点をずらして意味不明へ逃げているのではないか。君は状況の変化を望まないようだ。わけのわからない状況に陥っているように装い、いつまでも言い逃れに終始していて、何ももたらせないことを嘆いているようだが、それが見え透いたでたらめなのかも知れず、何かを知ろうとしている意識をはぐらかし、知るに至る一歩手前で感性に急激にブレーキがかかって、気がついたらどこかに止まっていたように思わせるが、何がそうさせているのだろうか。いつまでもそこにとどまりたいのか。そんな問いかけに誰が応じるのだろう。誰ではなく君はどうなのか。どうにでもなってほしいが、どうにもならないことはわかりきっている。そしてまるで予定調和のような成り行きに末に、どこかで道案内人に出会うが、それが物語に移行するきっかけとはならないだろう。別に文章を物語化させる必要性を感じない。それこそが唐突な意味不明の出現に違いないが、誰かが無言で指し示している先には何が待ちかまえているのだろう。事前の予定ではそういう話ではなかったはずか。話がまとまらなくなるのはいつものことだろう。そこから崩れ去ろうとする。無駄に言葉を投じて、馬鹿らしくなるように語りかける。話の中で誰が何をやろうとしているのでもないが、そこで誰が何をやろうとしているのか。わざと間違っているだけのように感じられる。本当にそれを願っているのだろうか。君が願っているのはそういうことではないのかも知れないが、それでも誰かがどこかで滅びようとしている。語り損ねているらしいが、さらにわけがわからなくなり、何も語る気がなくなって、ふてくされて寝てしまったようだ。まるで遠い昔に戻ったみたいだ。くだらぬ論理に染まっていた頃が懐かしい。今はもう何も思わない。この世界からは何も感じられないが、死が間近に迫っているとは思えない。誰かは何かを強硬に否定し否認しているのかも知れず、それによってかろうじて自らの存在意義を見いだそうとしている。だがそんな在り方は疲れるだけだろう。疲れるだけ疲れれば、もう少し違った方向に話が動いてゆくだろうか。気がつけば自己言及ばかりでは退屈極まりない。そういうやり方では不満なのか。不満だから現状を否定しがちになるのではないか。まったくイベントが立て込んでしまうとやる気が失せる。言葉を記す気力がなくなってしまう。投げやりな気分になり、どうにでもなってくれと思いたいのだが、なぜかそこで踏みとどまるように頭の中で何らかの機構が働いてしまうらしい。やはりあきらめきれないのだろうか。心をかき乱され、とても平常心には戻れそうもないが、それでも表面的には平静を装い、何とか継続の方向で努力しようとしてしまい、何やら意味のない試みを繰り返してしまうらしく、それがいつもの自己言及だと知りつつも、それをやめるわけにはいかないようだ。そしてそんな調子で満足からはほど遠い状況に甘んじながらも、必死に耐えているのだろうか。そんな風に思ってしまうこと自体が終わりの兆しなのかも知れないが、何かそれとは違うことを述べられないものか。今さらそれはないだろう。誰がそんなことを述べてしまうのか。君の他に誰がいるというのか。とりあえず紋切り型なら間に合っている。過去の時空でそれにまつわる適当な話がなされていたはずだ。確かにそんな話をどこかで聞いたことがあるが、それを蒸し返そうとは思わない。今はそんな話をしている場合ではない。これから何が始まるのかを知りたい。始まるのではなく終わるのではないか。では話の終わりに際して、もはや同じような言葉の繰り返しでは済まなくなってきているのだろうか。しかしそれで誰が納得するはずもないだろう。ならばどこまで現状から逃げ続ければ気が済むのか。そうやって何を避け続けているのだろう。とっくに危機は到来している。思い過ごしでなければ、すでに君の身に不幸が降りかかっているはずだ。いくら振り払っても執拗にくっついてきて離れないハエのように、不快で鬱陶しい成り行きに弄ばれている。だがそれでいったい何について語っているのか。今はいつの時間帯なのか。実際はそうではなく、ほんの少し希望が残っているはずだ。たぶんそれだけの希望なのだろう。


11月7日

 まだ余裕があるらしい。それが何の余裕だか不明だが、とりあえず心に余裕があるということだろうか。そのように受け取ってもらってかまわないのか。誰に何を確かめているのだろう。今いくら余裕があろうと、今後の成り行き次第ではすぐに使い果たしてしまうだろう。今までにわけのわからない成り行きをいやというほど経験している。単に君がそれをわかろうとしないだけだろう。嫌な成り行きを理解するつもりはないか。嫌と思うならその辺の原因を探ってみたらどうか。なぜいやがっているのだろうか。それがいつもの自己言及を招いているからなのか。自己について語っていないのに、自己言及も何もないだろう。ではそれらの文章は誰について語っているのだろうか。簡単に述べるなら、それは君について語っている文章に違いない。君とは誰なのか。もしそれが特定の固有名を保たない君だとすると、君のことではないのではないか。誰でもない君について語っているのなら、君は君以外の誰でもなく、誰でもない君という言葉それ自体について語っていることになる。そんな君など実体としてはあり得ないか。実体がないのだとすれば、それは言葉でしかなくなる。言葉でしかないとすると、君とは誰のことになるのか。何となく途中から冗談を述べているような気がしてくる。だがそんなことを語って何がおもしろいのか。おもしろくなければつまらないということか。つまらなければどうだというのか。そんな風にして無駄に言葉を弄しながらも、それを語っている誰かは少し焦れてきたように感じられる。今さら焦ってみても仕方がないだろう。そこから他人を攻撃する理由は見当たらない。他人を怒らせて何がおもしろいのだろう。意識してやるにしろ無意識でそうするにしろ、他人を怒らせようとして怒らせたら、それは怒らせた方の勝ちである。それは思い通りの展開になるわけだ。ではそれに対して怒らせようとされている側にはどのような反撃が可能なのか。そこで怒ってしまっては相手の思うつぼだから、ここはじっと思いとどまって、怒るのをこらえるべきなのか。しかしそこで黙ってしまっても怒らせようとした側の勝ちである。相手を攻撃によって黙らせたわけだから、それもある意味では思い通りであり、怒らせようとした側の勝ちである。要するにその時点で怒らせようとした側は無敵となるわけだ。しかし無敵のままでいられるのか。無敵となったのと引き替えにして、そんなことをいつまでもやり続ければ、そのうち誰からも相手にされなくなる。それで気が済むなら、そのまま無敵の王者として孤独の大地で死ぬまで威張っていればいい。そんなことが可能だとはとても思えない。安易なやり方に手を染めると何もかも失ってしまう。失うものが何もなくなれば後は死ぬだけだ。要するに周囲の人々に迷惑をかけるだけかけて、結局誰からも相手にされなくなり、後は死ぬまで孤独な余生を送っていればいいということか。そんな話が現実にあり得るのか。どこかの馬鹿がそんな試みをやっている最中だとすれば、それはそれでがんばってもらってかまわないのかも知れないが、君にはそれがわからないようだ。別にこれ見よがしの態度に興味を抱いているわけでもなく、それほど本気になる必要はないのではないか。攻撃を仕掛けてくる者はその時点で危険を冒している。リスクを冒してまで他人を攻撃する必要があるとは思えない。そうやって何を得るのだろうか。少しは得るものと失うものとのバランスを考慮に入れているわけか。そんな計算がどこで成り立っているのだろう。もしかしたらすべては攻撃している側の思いこみにすぎないのではないか。どのような勝算があるとも思えない。しかしそれでも攻撃されている側が何とも思っていないわけがないはずか。彼はその時点で君が弱音を吐いていると思いこむが、そんなことで誰が救われるはずもないだろう。まさかそこから不快なオーラをまとって救世主が現れるわけもないし、それで何を救っているとも思えない。いったい彼はその場に居合わせた者たちに何を知らせたかったのか。未曾有の危機が間近に迫っているとでも告げたかったのだろうか。やはり何のことやらさっぱりわからない。そこからどのように話をまとめるつもりなのだろう。まとめるつもりのない話なら、はじめから思わせぶりなどしないでほしいか。期待した分さらに落胆が大きくなる。そういう展開は精神衛生上よくはないだろう。しかし今さら何を気にしているのだろう。自らがしでかしてしまった罪の重さに対して自覚がまるでない。反省の色はまったくなく、いいわけらしいいいわけも皆無で、平然とそこから先へ突き進もうとしている。だが突き進んだその先に何があるというのか。何が待ち受けているわけでもないような気がする。しかし本当に何もないだとすれば、それはどういうことなのか。ただ単に誰からも無視されているだけなのか。そんな受け取り方にも勘違いが潜んでいるのだろうか。しかし思い違いや勘違いだけでそこから生きていけると思うか。


11月6日

 順序が逆かも知れないが、とりあえず夜と昼が入れ替わるわけがない。そんなことはあり得ないだろう。あり得ないからこそフィクションになる。君はそれで楽しいのか。君には何もできはしない。それで本望なのか。それらの文章は誰に向かって問いかけているのか。どんな疑念を抱いているのだろうか。君のペースには乗ってこない。君の領域には踏み込んでこない。だから安全でいられるわけか。だが臆病者の論理ではつまらないだろう。つまらないからこそそうやって生きていられる。危険な領域に踏み込まなければ、つまらない日常とともに生き長らえることができる。しかしそれでは何も導き出せないのではないか。別に彼に対して嫌がらせをやっているわけではないが、向こうにそう取られてしまったらどうするのか。そのときはそのときだろう。どうなるかは君次第だ。だが君がどうしようと知ったことではないのかも知れない。今の君は隙だらけであり、どこからでも攻撃可能か。攻撃されたらそれでかまわない。かまわないから隙だらけというわけでもないが、何となくそれでかまわないような気がするらしい。君には言葉がある。いつも空疎な言葉の連なりを記している。それで満足しているのだろうか。少なくとも不満を抱いているとは思えないか。誰がそう思っているのか。何を根拠にそんなことが言えるのだろう。君に関して誰がどこで発言しているとも思えないか。誰がそう思っているのだろうか。さっきからそんな問いかけが執拗に繰り返されているようだが、誰が誰に向かって問いかけているのか。粗雑な文章なのでその辺は曖昧のようだ。そういう結論に至ってしまう理由がわからない。君がわかろうとしなくても、他の誰かが理解すればそれでかまわないだろう。何事も投げやりな方向で推移していれば、それで言葉を連ねやすくなるのかも知れない。しかしそれは偽りの自由ではないのか。それらの何が自由なのか。その場の成り行きに拘束されているのでは自由とはいえないのではないか。何に対して自由なのか、その対象が曖昧か。自由を声高に叫んでいる人たちは、自由という言葉から自由になれない。そんな逆説は屁理屈のたぐいなのではないか。今は自由な雰囲気に包まれているつもりなので、屁理屈などいくら述べても許されるのではないか。そう述べているうちに屁理屈なんて忘れてしまえばいいだろう。過ぎ去ったことは忘却の対象でしかない。本当は後で思い出そうとしているのではないか。では何を思いだしたら気が済むのか。思い出す対象なども忘れてしまえばいい。何もかも忘れて過去の記憶から自由になれるだろうか。それが実現したらどうなるのか。それでは単に自由になれたつもりになっているだけか。それでもかまわない。誰がかまわないのかわからないが、わかった風を装っていれば自由な気分でいられるかも知れない。ならば自由はまやかしのたぐいか。いったいいつまでくだらぬ架空の問答を繰り返すつもりなのだろう。気分次第でいつ終わるかが決まるかも知れない。何となく予定調和の結論は嫌いだ、それは何となくではなく、本当に嫌いなのではないか。ではなぜ何となくという言葉をわざわざ付け加えようとするのか。明確な目的を持っているのよりは、何となくの方が自由に感じられる。自由は怠惰を誘発するわけか。怠け者は自由だと見なされるわけか。そんな風に思いたければそれでもかまわない。今の君には関係のないことだ。何となく何が自由なのかわからなくなる。どうやら君は嘘をつきたくないようだ。何となく正直者のふりをしたいらしい。何が何となくなのかますますわからなくなるが、それでかまわないのだろうか。何となくならそれでかまわないのだろう。誰がそう思いたいわけでもなく、誰もそんなことは思っていないのかも知れないが、何となくそれで万事がうまくいっているような気になる。意識が疲れていると論理的な展開を好まなくなる傾向があるらしい。だから再三再四何となくという言葉が記されてしまう。しかしそれで君は何を述べているつもりなのか。空疎なだけでは文章にならない。そう思いたいのなら勝手に思っていてかまわないだろう。君はそう思っていてもかまわないような状況の中にいるようだ。それは嘘かも知れないが、嘘なら嘘でいくらでも嘘をついてもかまわないのではないか。フィクションとはそういうものかも知れない。たとえばおろおろしてうろたえたつもりになっているのなら、それもそれで嘘のたぐいだろう。もし本気でそう思いたいのなら、危険な領域に踏み込んだあげくに敗れ去れば済むことだ。現状ではそんなことはあり得ないか。あり得ないからこそそれがフィクションになるのだろう。だから劣悪なフィクションの中では突飛な現象が頻発してしまう。ではあり得ないことをすべて取り去れば、フィクションは現実になってしまうだろうか。そうなってしまったらおもしろいか。何を強がっているのだろう。おもしろいどころの騒ぎではなく、感動して涙を流してしまうのではないか。確かにそうなったらおもしろいだろう。


11月5日

 誰かが誰もいない空間で叫んでいるようだが、別にそれほど気が触れているわけではない。何やら不揃いな石を数十個河原から拾ってきて、それを石器に加工しているようだが、それはテレビ画面上で展開されている光景だ。それを見ている部屋の中では埃が宙を舞っている。何かのアレルギー症状だろうか。背中がかゆいのはそれとは無関係だろう。シックハウス症候群を疑っているようだが、くだらぬ作り話にも限界があり、話を進めていくほどに虚しさが増してゆく。ならばそんな話はなかったことにしておこう。だがそこで何を理解したらいいのか。理解できない現実に何を思うこともないが、そんな儀式の強要でストレスがたまる一方か。ならばもうやめた方がいいのではないか。やめられるものならとっくにやめているところか。それの何が儀式なのか理解できない。ただ日頃の鬱憤を書くことではらそうとしているだけではないのか。たぶん冗談でそんな思いもしないことを述べられるのだろう。それで現実に抗っているつもりなのか。抗っているのではなく、それが現実そのものなのかも知れない。しかしそこから何が出てくるのだろう。現状では何について考えているのでもなく、何を記しているのでもなさそうだ。目の前に広がる光景から目を背け、代わりに空想する虚構をすぐに否定して、結局そこで行き詰まってしまう。それ以上は何を試みても無駄か。さらに何かが長引いているらしいが、それが何なのかわからない。冗談でそんなことを述べているわけではない。しかし真剣になっているのでもない。真剣になりようのない状況なのだろうか。まだ何について述べているのもない。ではなぜそんなところで考え込んでしまうのか。考えれば考えるほど文章の内容が空疎になる。しかし考えなければ何も述べられない。だからさらに考え込んでしまうわけか。なぜそうやって安易に出口を探してしまうのか。迷路の中では精神的に耐えられないからか。それでは理由になっていないのではないか。そう述べてしまうこと自体が安易だ。信じられないくらいの安易さに心を支配されている。そして気がつけばどうにもならない状況になっていて、そのついでに頭の悪さも顕わになっているらしい。そんな現状に我慢がならないようだ。こらえることができないらしい。それはヒステリーのたぐいだろうか。冗談でしかないのかも知れないが、そう書けばそれで気が済んでしまうのだから、安易なヒステリーかも知れない。しかしその先はどうしたらいいのだろう。別に何もない空間に放り出されているわけでもあるまい。少しは冗談を述べる余裕でもあるわけか。冗談ならすでに嫌と言うほど述べているつもりか。そんな唐突の嘘では継続は無理だろう。それでも無理に無理を重ね、どうやってもそれが無理でない状況になるわけもなく、しかしどうしてもそれが無理だと悟ることもできず、そのままではあきらめきれぬままにあきらめさせられてしまうように感じられ、どうにもやるせない状況に近づいているようだ。はじめから無理なことをわかっていたはずなのに、やはりそれでも結果的にそんな成り行きに巻き込まれてしまい、予想通りの無理な結末に直面している。いったい何がどうなってしまったのか。すべては予定調和ということだろうか。ならばそこからどう話を展開させていくつもりなのか。そんなことを述べようとしているわけではない。何も述べられないことを承知で何かを述べようとしているだけか。いったい現状の何を批判すればいいのだろうか。何を忘れて何を思いだしているのだろう。気まぐれで何かを述べているらしいが、未だに内容が定まらない。それでも何となくわざとらしい話の展開にはなりつつあるようだ。要するにそれ以上は何を述べるのも馬鹿らしくなってきたということか。やはり無理は無理でしかないだろう。この世界は無理なことばかりのようだが、その無理を無理として認めず、強引に現状突破を試みるのが人間の性というものか。今イラクあたりで行われていることもそんな状況の一例なのか。道理にかなっていないことをごり押ししながら突き進むことばかりにかまけていて、結果として泥沼状況に陥る。これまでもこれからもそんなことばかりの世の中なのだろうか。現状ではそんなこと以外にやりようがないのかも知れず、それが正しかろうと間違っていようと、やるしか生きる道がないような切羽詰まったところからしか行動を起こせないような成り行きになっている。できれば四方八方丸収まるような展開に持って行きたいところだろうが、利害関係で調整がつかないのは当たり前のことで、そこで誰かが力まかせのごり押しをしたら、そこから先は際限のない争いごとの連続となってしまい、容易には事態が収まることはない。そして人々は疲弊し荒んだ気持ちになり、弱い者たちが安易な犯罪に手を染めてしまうわけか。そんなことは世界中のどの地域でも見られる光景に違いないが、その悪循環から抜け出すのは容易なことではないのかも知れない。やはり結局のところ無理は無理でしかないのだろうか。


11月4日

 言葉が圧縮されて出てくる。堅すぎて話にならない。それの何がわからないのだろう。わけがわからないのは毎度のことだが、それほど常軌を逸しているわけではない。またそこから遠ざかろうとしているわけか。現実から逃げ出しても行き着く先が見あたらない。誰の霊が舞い降りているのか。場所がない。空白を除いて文字を記す場所がない。誰かが山に登ろうとしている。峠を越えたところで大きな岩が行く手をふさいでいる。他に待ち受けていた物事を思い出せないか。誰かはそこで何を仕留めようとしていたのか。そこで待ち受けていた運命はどんな結末をもたらしたのか。見えているものに気づいていない。性急に言葉を並べようとしているようだが、それは過ちのもとだろう。時間の経過に意識が追いついていない。気がつけばいつもの夜になっている。夜は同じ闇を伴っているらしい。それはただの暗闇だろうか。暗闇にどんな種類があるのだろう。そこに好き嫌いが生まれるとは思えないが、それのどこが魅力的なのか。いったいどんな期待が込められているのか。君の知ったことではない。荒唐無稽さを味わいたければマンガを読んで済ますべきか。文字の連なりに何を期待しているわけでもない。適切な内容ではない。同じことを何十年も主張し続けるのにも何らかの理由があるのだろう。しかし誰のために何を述べている状況に変わりはない。書くことに目的を見いだすのは間違っている。書こうとすれば書けなくなるだけだ。だからさらに遠くまで書こうとしてしまう。しかし今週は何もなさそうに思えてくる。材料が何もない。語るための材料でも探しているわけか。ある意味でご苦労なことだが、それならすでに間に合っている。すでに何かしら語っている最中だろう。自らが語っていることについて語ろうとしている。虚しいとは思わないか。哀しい出来事にでも遭遇しているのだろうか。空白を文字で埋める作業が哀しい出来事になるのか。思い違いとはどのような状況の時に発生するのか。そこに何らかの思い違いが含まれていたらおもしろいか。のどの調子が思わしくない。ならばこれから地獄でも見ようとしているわけか。文章のつながりがわからない。わざと言葉を分散させようとしているのかも知れない。しかしそれでは疾走感を醸し出せないだろう。言葉を繰り出す以外に何をやろうとしているのでもないが、何だか時間が止まっているような錯覚を感じているらしい。そんなのは嘘に決まっているだろうが、それによって何をごまかしているのでもないらしい。少なくとも現状はそんな気分で推移している。それが過ちを誘い出しているわけか。間違っているのならいつまでも間違っていたい。今は正しい内容を導き出せない。それでかまわないのだろうか。そうなるより仕方のない状況がもたらされているようだ。もはや誰を悪く言うこともできない。しかしそれでは何を褒め称えていることにもならない。君はこの世界がどんな状況になってほしいのか。今だってかなりの確率で平和になってきているはずだ。暴力を用いて平和に抗うのはナンセンスだ。暴力的に平和をもたらそうとするのも愚かしいか。誰が何を用いて脅しをかけているのか定かでない。恐喝的な言動を行使するのは楽しいだろうか。何を怒っているのだろう。口調がそんな雰囲気を醸し出す。化けの皮がはがれたのはかなり以前のことであり、それ以降は笑いの領域で話が展開している。そんな風に思いたいのは誰なのだろう。まだ微かな頭痛が続いているらしい。人をさんざんな目に遭わせても、何とも思っていないのは明白のようだ。当人は至ってマイペースで事を進めているつもりらしい。勘違いとはそういうところから生じてくるのだろうか。それについて何を語ろうとも思わない。いったん嫌になってしまったら、あとはそれについて言及するのも億劫になる。たまらなく不快なのはわかっているようだが、それをどうすることもできずに今日に至ってしまっている。だからうんざりしつつも、それについては何も語れなくなってしまったのか。それは一つの禁止事項となっているらしいが、それでは何も語れなくなってしまうのではないか。君はそこで立ち往生していて、そこから先へ進めずに困り果てている。君とはいったい誰なのだろう。そういう話ではない。なぜそこで方向転換しないのか。迂回路ならいくらでもあるはずか。そうしない理由がわからない。できることをやろうとせず、できないことを無理にやろうとして、当然のことながらそこで挫折している。それで何がわかるのだろうか。君はわかっていることを語ろうとしない。そして無駄に言葉を費やして、虚無の中に落ち込もうとしている。それで何がわかるはずもない。何もわからなければそこで終わりだろうか。終わらないからわからないままに文章を放置しようとしているわけか。そういうごまかしはいただけないが、現状ではそんな風にしか語りようがないだろう。そんな状況の中でも、君には暗闇の彼方に光明が見ているのか。それはどのような幻想に基づいているのだろうか。


11月3日

 今日も無駄に何を語っているのだろう。はじめからやり直しても同じことか。仮に結果を恐れていなくとも、同じ結果を見てしまうだろう。何を見ても同じ風景に見えてしまう。君の記憶はいかれている。そんなわけでまた遅れてしまう成り行きになりそうだ。もはや成り行きでさえない。何をそこに重ねているのか。過去とも未来とも何の関連もありはしない。ストレスで気を病んでいるのだろうか。それしきことで病気とは見なされないか。すでに半年後には死ぬ運命なのだろうか。唐突に何を述べているのだろう。本当は誰のことを述べているのか。君はすでに死んでいるし、私はもういない。彼なら行方不明中だ。今は語り手がいない状態なのだろうか。そういう嘘はつまらないか。その場には誰もいないのに、半年後には誰が死ぬのだろうか。誰が死のうと、すでに死んでしまった君には関係のないことか。そういうフィクションは意味不明だ。意味不明なら適当な意味を付け加えればいい。別に意味に関して疑念を抱いているわけでない。では無駄な言葉の連なりに呆れてしまうか。それで少しは気晴らしになっただろうか。それは無理というものだ。気を病んでいるのではなく、肺を病んでいるのかも知れない。咳が止まらなくなる以前に頭痛がしてくる。そして実態としては不必要なことを延々と語っているにすぎない。どうやらしばらく前から意識がもうろうとしているようだ。そして気がつけば何も手につかなくなっている。好き勝手にやりたい放題の君はそうすぐ消えてなくなるらしい。どこかへ去ってしまうわけか。だがそれで何を語っているのでもない。すでに語りすぎるくらい意味不明な奇声を発している。それで語っていることになるのか。そうやって言葉の矛盾を楽しんでいるわけか。誰がそこで楽しんでいるのだろう。誰もいないのに誰かの声が響いてくる。ラジオでもつけっぱなしになっているのかも知れない。たぶん常軌を逸しているのだろう。ではどこで脱線しているのか。はじめからそうなのかも知れないが、そうだとしたら、まったく軌道修正も何もないだろう。何を目指して語っているのか定かでない。目指す対象を見つけられないのはいつものことだろう。画面上では何が宣伝されているのか。娯楽に金をかけて何をしたいのか。目的を見失っているようだが、何が目的だったのか思い出せない。君の欠陥は忘れっぽいことなのか。それを欠陥とはいわない。どこからともなく預金残高が発生している。そんなことはあり得ないが、話がどこかへ飛んでしまったらしい。語り方がおかしいだろうか。それともわかりきったことを問いかけないでほしいか。もう何も語れないことになっているわけか。怠惰と疲労困憊が同時に押し寄せている。本当に疲れているのだろう。確証は何もない。わかっていることは、この世界はつまらぬ出来事で構成されているということか。なぜそれがつまらないと思われるのだろう。生きるということは何かの犠牲を伴っているらしい。なぜそうまでして生き残ろうとするのか理解できない。テレビをつければまた思い出したように拉致被害者キャンペーンが繰り広げられている。ここしばらくは音沙汰がなかったのに、今頃になって過去を蒸し返して、どういう風の吹き回しなのか。そこにどんな意図が隠されているのだろう。忘れてほしくないというメッセージか。何となくテレビを消して音楽を聴いている。何を思っているのでもないらしい。他人のことは忘れてしまった。自分の過去も思い出せない。政治ショーにどんな関心を抱けばいいのか。どこかで絶え間なく会議が開かれているらしいが、お呼びでない人には当然のことながらお呼びがかからない。つかの間のイベントにどんな実質が伴っているのだろう。はたして誰がスパイだったのか。戦争ごっこにスパイごっこに、あとはどんな遊びが有効なのか。官製談合やら必修科目の履修漏れなど、ごまかしだらけの大人が子供から信用されていないことは誰しもが思うことか。しかし暴力で従わせようとすればすぐに死んでしまうだろう。そんなわけで誰もが衰弱しつつあるらしい。どこかのアンケート調査によると、この世界を暴力で支配しようとしている代表的な人物は、ビンラディンとブッシュと金正日だそうだが、そんな名前にはもう何の感慨も抱けなくなっている。何となく新鮮味を欠く言葉の響きだ。メディアの中から語ろうとする者はもう少し違うことを述べられないものだろうか。できることなら末期的状況の中でもがき苦しんでいる君に、もう少し生きる勇気を送り届けてもらえないか。夢や目標や娯楽などといった幻想とは関係のない、直接現実を感じ取れるような言葉の到来を期待している。つまらない言説に思考を縛られるのはごめんか。可能性を感じ取れないような状況に導かないでほしい。しかしどうなる可能性を求めているのだろう。どうにもなりたくないのにそれはないだろうか。それ以前にどうかしているのではないか。頭がどうかしているようだが、そこからどんな可能性を感じ取っているのだろう。


11月2日

 また話が煮詰まってきている。もう少し楽しそうに述べてみたらどうか。そんな心境にはほど遠いか。それもフィクションの一部なのだろうか。何をフィクションと見なしているのだろう。なぜそれが現実の出来事だと認められないのだろう。認められない事実を必死に否認し続けたいらしいが、君にはそれが事実だということがわかっている。自らに嘘をついているわけだ。だが他人について何をどう考えても、勝手な思いこみの域を出ない。そして今日も何について語っているのか定かではない。誰を悪者に仕立て上げても意味がない。別に正気でない者たちが権力を握っているわけでもない。仮に突拍子もないことを考えていようと、そこに至る何らかの過程があるのかも知れない。他人を否定的な紋切り型の枠内で捉えてみても、それで何がわかるというのか。その人なりのこだわりとは何なのか。なぜ言葉が通じないのだろうか。要らぬお節介はごめんのようだ。彼には立ち直るきっかけなど必要ないのかも知れない。そして彼という言葉は架空の人格を示している。そういう述べ方では意味不明だろうか。まるで腫れ物をさわるような対応しか導き出せないのはどういうわけなのか。何をそこから抽出すべきなのだろう。空虚だけで文章は成り立たない。そんなことはわかりきっているが、無意識のうちにそれを推し進めようとしてしまうらしく、そこに欠陥が構成されて、その欠陥を覆う言葉が文章となるらしい。しかし誰かはそんなことを語りながらも笑いが止まらない。何がしかしなのだ。接続詞が間違っているようだが、そうしないと文章がつながらないらしい。そんな文章はゴミか。ゴミ以前に意味不明だろう。意味不明だからゴミではないのか。そういうわざとらしい論理を真に受けるわけにはいかないか。君には反省という態度があり得ないようだ。いつまでも狭い範囲で言葉を循環させている。だから何に反対しようと、それはうわべだけの反対だ。そもそもそういう話ではないだろう。ただわけがわからない。そこに顕在化している欠陥を放置している。なぜ欠陥を直せないのだろうか。欠陥こそが文章の構成には欠かせない。欠陥を取り去ったら何も残らない。だから何の利益ももたらさないような言動は控えてほしいか。では欠陥がどんな利益をもたらしているのだろう。欠陥が継続を支えていて、文章を終わらせないために欠陥がある。だから君は言葉の奇形性を尊重しなければならない。ならば虚無や空虚で言葉を結びつけていることを認めようではないか。文章は絶えずそれに言及しているはずだ。しかしそれとは何なのか。それが誰かの名前であったらおもしろいか。たとえばアブドゥル・イブラヒムとは誰なのか。なぜ唐突にそんな人名を持ち出してくるのか。要するに音楽を聴いているらしい。それでは答えになっていないだろう。言葉につまれば必ず人名が出てくる。だがそれで危機を乗り切れるわけがなく、不用意なことを述べていることを自覚せざるを得なくなり、その結果ますますわけがわからなくなる。自己嫌悪に陥る前に何かそれとは違うことを述べなければならなくなる。影は何か述べたいことでもあるのか。君はもう使い物にならない。使い物にならないから架空の君として文章中に登場する。それはどんなゲームなのだろう。ゲームとなるには他者が必要だ。複数の人物が競わなければゲームとはいえない。架空のゲームを展開させるには複数の登場人物が必要か。当たり前のことを述べないでほしいか。今さらゲームも何もありはしない。君はクイズの解答権さえ奪われている。要するに選挙権を放棄しているわけだ。ここ数年は無関心を装っているはずだ。生身の誰かにとって、もはや政治は関心事ではないらしい。君は議会制民主主義を無視している。君の前には無関心にさせるメディアが立ちふさがっているわけか。真に受けるような状況ではないのかも知れない。何が危機なのだろうか。安倍氏に何ができるというのか。教育改革とは何だろう。家族を思い国を思う心を養うことの何が危険なのだろう。そんなことを子供たちに教えて何になるのだろうか。あるいは高校生に世界史を教えてどうするのか。はたして学校で教えることの何が重要なのか。どうでもいいことだが、とりあえず形だけでも教えたことにしておかないと、世間が納得しないか。世間とは何なのか。すべては大人になるための通過儀礼でしかないのだろうか。とりあえず芸能人がクイズに答えるために世界史は必要なのだろう。実態としてはそこで何が学ばれているわけでもない。人は学校を通して学ぶことができない。学校は集団生活によってストレスを加えるための機関なのだ。試験によってまともそうな者を選別したいだけなのかも知れない。たぶんそこも生存競争の場なのだろう。学校はくだらない人間を多数輩出しようとかまわない。それが学校の役割なのだから、それはそれで正常に機能しているわけだ。人は教育によってどのような人を作ることもできない。ただ人はどのようにも作られてしまうだけだ。


11月1日

 そういう出だしは好ましくない。時が流れ風景も流れ去り、何かが移り変わっているようだ。それは間違っているのではないだろうか。誰かが方々へ出歩いているつもりになっているが、それが孤独な歩みだとも思わない。時代感覚を失っているようだが、それは誰かの思い過ごしだろう。そうやってまたつまらないことを考えている。君には君の考えがあるのだろう。しかしわかりやすい思想のようなものを提示する気にはならないらしい。何らかの法則を捉えたつもりになっていることが、そもそもの勘違いなのか。安易に結論を導き出そうとしてしまうのも、何となく違っているような気がする。物事の道理を単純な法則で解き明かしたつもりになってしまうのも、たぶんそれである程度は正解なのかも知れないが、かすかな抵抗感を覚える。すべてを知ることはできない。すべてを知ったつもりになることもできない。それでも何らかの法則に従って動いていることになるのだろうか。後からそれを分析すれば法則らしきものを導き出せるかも知れないが、それをこれからの動きに当てはめてみても、やはりそれである程度は正解かも知れないが、何らかの不確定性要因が残ることはわかりきっている。絶えず法則に修正を迫るような動作が至るところで発生しているのかも知れない。いつまでもその法則が有効であるわけがない。それでは予定調和となってしまうか。ではそのような現象は何を示しているのだろうか。君はそこで何を感じ取っているのか。今さらそんなわかりきったことを述べて何になるのだろう。たぶんそこから一歩も前進できない。そこで行き詰まりのようだ。では後は迂回に迂回を重ねながら、虚無の周りを言葉で埋める作業が残されているだけか。冗談ではないか。それでも真実を語っていると思いこんでいるらしい。では何が嘘なのか。どこまで嘘をつけるだろう。相変わらず風景が流れ去っている。それを車窓の窓から眺めているわけか。時折興味深い光景に出くわしたつもりになり、それをネタにして道草を食っている輩もいるらしい。画面上はそんな言葉によって荒廃している。空疎な言葉は荒野をもたらす。そうすることによって出口に至りたいわけではなく、そこに何の目的があるわけでもない。出口とは何だろう。なぜそこから引き返そうとしているのか。心は言葉の混沌の中で自足しているようだ。何が出口だとも思わない。夜空を見上げながら何が見えているわけでもなく、真昼の空に星座を見ようとしているわけでもない。それは誰かの体質なのだろう。怠惰を利用していいわけを述べ続ける。たぶんそこに弱点でも見いだそうとしているのだろう。他人の欠点をあげつらい、そのどさくさに紛れて自らの欠点をうやむやにしたいらしいが、それでごり押しが通るわけもなく、つかの間の挫折感を味わうが、そんなことはすぐに忘れて、また性懲りもなく強引に自己実現を図ろうとする。それは思いもよらぬ脱線だろうか。言っていることとやっていることの間に予期せぬ落差を感じざるを得ない。君は好き嫌いの次元で状況を判断してしまっているらしい。それが思考的な混乱の原因であり、それに気づかぬまま、さらなる過ちを繰り返し、ついには誰からも相手にされなくなる。それはごまかしようのない現実かも知れない。そこにいたってなお強気で独りよがりなことを述べ続ける気らしく、周りの状況が見えていないことを周りの人々に悟られてしまい、馬鹿にされ陰口をたたかれながら、そこからさらに思考的に前進しているように思いこむ。そんな作り話を述べていると楽しいか。時には気晴らしになるだろうが、もっと前向きなことを述べるべきではないか。もっとまともな文章になるように努力すべきではないか。まったくいいわけには事欠かないようだが、今さらながらフィクションの偽善性にはうんざりさせられる。偽りの話なのにそれが本当であるかのように工夫を凝らそうとしている。嘘に嘘を重ねるための工夫など詐欺そのものではないのか。それで文章が成り立っているのだとすれば、そんな文章など読む気がしないか。そんな嘘もわざとらしいか。過ぎ去った言葉の連なりについて何を批判しても無効か。それで反省しているつもりになれるだろうか。過去の文章を顧みて、気に入らないところを修正しつつ、そこに何かを付け足そうとしているようだ。今はそんな風に述べてしまう理由を知りたい。外では風が強く吹いているようだが、それは一時的な気の迷いだろうか。真昼の光景に見とれているわけではないが、何となくそれでかまわないような気がしてくる。また何を述べているのでもない状況に近づきつつあるようだ。君にはそうなる原因がわかっているらしい。まだ本気になっていない。遊び半分で照れ隠しを繰り返す。どうやら他人から誤解されたいようだ。いつまでも謎の人であり続けたいのか。それでも冗談の延長上にある文章なのかも知れない。そこから言葉はさらに循環し続け、いつも同じようなことを述べているような気分を保ちつつ、空疎な気分を醸し出している。


10月31日

 電車の中吊り広告の表面上でライオンキングが叫んでいるようだ。新聞の紙面には今日も無駄な言葉が並んでいる。君には役に立たない言葉だろうか。何を批判しているのでもない。誰が窓の外を眺めている。辺りが暗くなり、やがて何も見なくなってしまう。そこで誰が物思いに耽っているわけでもないだろうが、それ以外の何を見定めるつもりはなく、夜になっても相変わらず何も始まらず、用意した言葉は勝手に去ってしまう。そんなはずはないだろう。もう少しちゃんと文章を読んでみたらどうか。たぶん何らかの内容を含んでいるはずだ。何か少しは内容のあることを述べてみたらどうか。たとえばひげ面のポニーテールはやがて禿げるだろう。頭皮を四六時中一定方向に引っぱっていることになるらしい。それは無駄な内容だろうか。誰にとってもそうではないような気もしてくる。中には興味深く読んでくれている人もいるらしい。だからなんだというのか。何をそんなに開き直っているのだろう。君は誰のおかげで生かされていると思っているのか。そんな言葉を真に受けるわけにはいかないらしい。心情的に反発せずにはいられない性格なのだろう。だがそこから何が立ち去っているわけでもない。言葉は相変わらず意味不明をまとって君の側にある。君はそこから適当に選んで空白に連ねてみればいいだけだ。それで何が構成されるのだろう。それらの連なりが何らかの主張を帯びることがあるだろうか。誰もそんな風には思っていないはずだ。実質的は気晴らし以外の何ものでもないだろう。表面的には平静を装ってはいるが、心の中で何かが砕け散っていて、砕け散った破片で切り傷を負い、その内部はすでに血の海か。そういうマンガチックな展開は好まないか。何も感じないことの理由など求める気にはなれない。誰のせいでもなく、本気でそんなことを思っているのでもない。しかし今さらほおづえをついて何を考えているのか。たぶんそこに欠陥を見いだせるのだろう。何かが欠落している。それを思い出そうとしても、過去に気づいた欠落ではあるまい。すべては嘘なのだ。嘘でなければ本当だと思いたいが、真実を述べるのが面倒なので、だから適当に嘘をついているわけか。それでも間に合わせの嘘に決まっている。他意はなく、窓の外に広がる暗闇の風景を眺めながら、何か思いついたような気になりたいだけなのではないか。それで実際に何を思いついたのだろう。この世界についてどんな認識を得ているのだろうか。そういう大げさなことではなく、ほんの些細な思いつきに文章の内容を重ね合わせようとしているのか。何を思いついたのか知らないが、さっさとそれについて語り始めたらどうか。それも嘘なら今まで通りに沈黙を守っていればいい。黙っていれば勝手に言葉が連なってくれる。それはあり得ないことかも知れないが、いい加減な自己言及が架空の時空でそれを許してくれることだろう。しかし意味がわからない。そうすることによって何がもたらされるのか。意味不明がもたらされ、空疎な文章がそこに構成される。わかりきったことを述べないでほしい。だがわからないことを述べるわけにはいかない。しかしそれが意味不明なのではないか。わからないから意味不明なのであって、それがわかってしまったら意味不明にはならないだろう。何となくそれは屁理屈のような気がするが、そんな風に述べる必然性がそこにはあるのかも知れない。そうやって言葉を連ねている現状があるらしい。今はそんな現状を何とかしなければならない。何らかの意味を担い、その意味を感じられる文章を構成しなければならない。目的とはそういうものだろうか。あまりにも漠然とした目的だ。内容がなければ目的にも至らないだろう。いったい何をどうしたいのか。何かをごまかさなければ出来事を起こすには至らないだろうか。教師ならば何をごまかしているところか。生徒たちに向かって、何をしろと命令しているのか。偽りの仮面をかぶり、自らができなかったことを生徒たちに強要しているのかも知れない。それが教育が直面する矛盾だろうか。教師の教えによれば、誰もが自らの成功を目指して努力しなければならないことになっているようだが、努力が無に帰したとき、その先に待ち受けているのはどんな状況なのだろうか。なぜ努力は必然的に無に帰さなければならないのか。そんなはずはないと思いたいところだが、何となくその方がおもしろいような気がする。だが努力が報われて何らかの達成感を得てしまった方が、気分がいいだろう。普通の神経の持ち主なら、たとえ試みが失敗に終わろうと、心情的に少しでも報われたつもりになりたいものだ。なぜそう思ってはいけないのか。誰もが納得できる理由などあるわけがない。ただすべてが無に帰してしまったときのことを想うと、何となく愉快な気分になる。これまで積み重ねてきた努力が水の泡と消えてしまったとき、君は何をやっているつもりになれるだろうか。そこでどのような演技をしなければならないのか。照れ隠し程度では誰も納得しないか。


10月30日

 何を悩んでいるのか。悩み事を述べて何になるのだろう。昼の暑さに何か文句でもあるわけか。もうそろそろ寒いままであってほしいか。誰が天候を選んでいるわけでもない。そんな話を誰がしているのだろう。きっとどこかに何かが記されている。それを読んで誰かが感動するわけか。皮肉とは何か。皮相的なところで受け答えを繰り返している。よく見れば誰かの目尻にはしわが深く刻まれている。いったい何を考えているのか。誰かが誰かに悩み事を打ち明けているのはテレビドラマの中の一コマだ。そんな単純にいくはずがない。何を悩んでいるのかわからない。世界史とは何だろう。日本史も世界史の中に含まれるわけか。時間の経過とともに何かが拡大し続けている。古代オリエントの周縁部でギリシアが生まれ、さらなる周縁部でローマが生まれ、そのさらに周縁部でヨーロッパ諸国が生まれ、そして大西洋を渡った辺境の地でアメリカ合衆国が誕生した。また北の凍てついた大地にはロシアも生まれた。古代中国の春秋戦国時代には、西の辺境で生まれた秦が全中国を統一して、それとは別の時代ではモンゴル帝国も辺境の草原地帯からユーラシアのほとんどを征服しようとした。日本も中国から見れば東の辺境地域から生まれた国だ。世界の中心は辺境にある。それを中心とは呼ばないだろう。絶えず移動し続ける中心であり、辺境が中心を目指して戦いを挑んでくる。そんな営みがまだ続いているのだろうか。国家同士の争いごとなどに興味はないか。別に今が戦国時代だとは思えないが、人々はそういう偏狭でみみっちい枠組みにとらわれているのだろうか。国ごとに言語が違うではないか。それがどうしたのか。おおざっぱなことを述べても、そこから何がわかるわけでもない。何をわかろうとしているわけでもないのかも知れない。ただ何かを適当に述べているだけか。今さら歴史などに興味はないと思っているらしい。それでも地方の人間は都会にあこがれているというのが、紋切り型的な感性から導かれた観念だろうか。周縁部から中心を目指す人々にとって、そこに何が見えているのか。どんな幻想に心を奪われているのだろう。どこかで誰かが華やかな生活をしているかも知れない。大都市の中心部には村がある。村落共同体が存在しているらしい。たぶん地方の人々のターゲットとして、メディアの中でうごめいている人々が念頭にあるのだろう。だが村落共同体としてのメディアに普遍性があるだろうか。誰が普遍性を求めているのか。そもそも普遍性という言葉自体が不要なのではないか。それらの文章に伝えたいことなどあるわけがなく、文章を記す目的が欠如している。興味深い現象は文章の外にあるらしい。それを文章で伝えることができるだろうか。それともはじめから無理であることを自覚しているわけか。何が無理なのかわからないが、それほど無理を押し通すつもりはないらしい。そうやってまともに語る動作を封じているようだ。それで何を語っているのかわからなくなる。田舎者は目をぎらつかせながら何に挑んでいるのだろう。馬鹿にしている当のものに変身することができるだろうか。そこにも美が潜んでいる。気がつけば美しい国作りに邁進しているのは、どこかの国の首相だろう。だがそこには意味を担うべき言葉が見当たらない。ヘゲモニーとは一昔前の流行語だったかも知れない。格差社会とはどんな実情を備えているのか。言葉はさらなる一人歩きの様相を呈している。道案内人が道を間違えているのに、それで迷い人が増加しているとは思えない。人などどこにも見当たらないだろう。あれらは動物の群れなのではないか。それは古い言語様式に基づいていて、わざとはぐらかしているつもりが、はぐらかしている当のものからはぐらかされている。それは陰湿な嫉妬ゲームなのだろうか。あれらの何をうらやむ必要があるのだろう。あれらとは何なのか。他人の成功を羨望のまなざしで見つめている当の人物に、はたして他人からうらやましがられる機会が巡ってくるだろうか。虚栄心とは何だろう。ただインスタントコーヒーを飲んでいるだけなのに、他にどんな体験を望んでいるのか。それで意味を巧みにずらしているとは言い難い。それでも枯葉舞う季節が近づいているらしく、どこかの山の中腹では紅葉が見頃だそうだ。部屋の中でそんな映像に見とれている場合ではないか。流行り廃りのただ中で急速に老いてゆく人々に同情の余地などありはしない。浮かれ騒ぎ死んでゆくのが本望なのだから、それ以外に何を求められるわけもなく、とりあえず短い人生を楽しまなければならないのだろう。それが人本来の姿なのかも知れず、せこく長生きしようという魂胆が根暗の原因となっているわけか。しかしそれでもねたみそねみは欠かせない。それがなければ他人を馬鹿にできなくなってしまうか。馬鹿にする対象となる者を自分より低いランクに属する人間と見なさなければ、世間話が長続きしないようだ。たぶんその場は悩みなどを打ち明ける雰囲気ではないのだろう。


10月29日

 人知れず焦っているのではないか。それは違うと思われる。否定が役に立たない。では何を強がっているのだろう。もはや我慢の限界か。語っていることに異議を唱えることもないが、それ以上いくら述べても予定調和の範囲内だ。唐突にひねくれている。鬱陶しい季節でもないのに、何となくやけくそ気味に言葉を連ねている。伝わらない思いを誰向かって伝えようとしているのでもないが、それでも状況は確実に移り変わっている。それは季節の話だ。まただいぶ無駄なことを述べているようで、それについて誰が何を思っているわけでもないが、どうも歯切れが悪い。様々な思惑とともに何かが成り立っているらしいが、人に目的を持たせて何をやらせようというのか。くだらぬ演説に耳を傾ける聴衆などいるわけもなく、さらに無内容に拍車がかかりそうだ。だがおおよそこの世の中に有用というものがあろうか。そんな問いかけはすぐに却下か。それ自体が無用の長物と化している。だからさらに眠っていなければならない。自意識を目覚めさせるような隙を作ってはならない。それ以前に語り始めなければならず、意味のない語りを延々と続け、その先に何かを語ろうとする気力を萎えさせる。いつもそうやって言葉を浪費しているらしい。そんなことを述べているうちに、蛍光灯の光に照らされて、目の奥から何かが目覚めようとしている。気休めに言葉を弄して、眠気に抗ってつまらない文章を構成する。そんなのは嘘に決まっている。では真実とは何だろう。世の中に行き渡っている音楽のすべてがジャズというわけでもないらしい。それが誰かの捨て台詞になる。何のことやらさっぱりわからないか。今日はだいぶ立ち上がりが遅い。だいぶ待たされている。何かをやるにはそれ相応の準備がいる。いきなり語り始めても意味不明のまま終わってしまうだけか。意識をそこに集中させなければならないようだが、それで何がはかどっているわけもなく、相変わらず話がまとまらない。そんな状況では何について述べる気もしない。だから嘘でその場をごまかそうとしてしまうわけか。本当にそんなことができるだろうか。やってみなければわからないのなら、試しに嘘をついてみたらどうか。何かが布地の表面に貼りついているようで、そんな些細なことに気がつき、さらにどうでもいいような気分になる。綿埃のようなものがなかなかとれない。くだらぬこだわりから抜けきれず、誰かは少々いらついている。何がそれを可能としているのか。感情をはがすためのガムテープでも必要か。ますます意図がわからなくなる。冗談でそこまで述べられるだろうか。借景の存在を疑ってみても仕方ないが、絵の中の部屋で炎が激しく燃え上がる。そんな転調も白々しい。気がつけば鏡の向こう側に絵画が透けて見える。だが光の反射具合が不自然極まりない。誰かの創作だろうか。だいぶ不明確なことを述べているようだ。わざと間違っているのだろう。それでかまわないのだろうか。そんな些細な行き違いでやる気が失せることもない。いったん動き出したら最期まで見届ける必要が生じてくる。言葉が誰の思いを形作っているわけでもないだろう。結果的にはそれで何の問題もないのに、うまくやっている感じがしない。何かを探して視線が宙を舞う。まだ行き着く先を知り得ないようだ。そして無駄に言葉を扱い、ありふれた文字を躊躇なく記す。無造作な粗雑さに身をまかせて、さらに無駄な文章が追加され、もはやそれは妄想の域を超えているように思われ、わかりきった欠点をあげつらうこともなく、構造的な欠陥を無視して、勝手気ままに言葉を連ねようとしている。しかしそれで宝を探し当てられるだろうか。宝探しはどこかの冒険者にまかせるべきではないか。誰かが現実にまとっている姿形と、実際に記された文章から読み取れる意味との間に、取り立てて問題となるような相関関係はない。言葉の連なりが現実の自然を映し出しているわけではない。では表面に塗られた絵の具は何に由来しているのだろう。それらの文字が君によって記されようとしているのは幻想か。言葉は誰が発しているのか。精神は誰に見いだされたのか。通常なら経験や想像力から物語が形成されるのだろうが、そんな造形は退屈極まりない。そう述べて何を強がっているのだろう。誰もいない部屋の中に虚無の記憶がつまっている。世界に背を向け、誰に向き合うこともなく、ただひたすら言葉を連ねているつもりのようだが、それで自分自身を知ろうとしているわけでもない。何を探し出そうとするまでもなく、そこにはあからさまな不具合が見いだされているだけで、そんな古びた思考に誰もが関心を寄せている。だいぶ装飾的な文章となってきたようだ。誰がそうしたいのだろう。誰の思惑がどこに隠されているのか。君はそこで何を予感しているのか。破綻ならとっくの昔に経験済みか。少し冷静になって過去を顧みなければ、すぐに同じ轍を踏んで行き詰まるだけか。なぜ現状がそんな風に見えてしまうのだろうか。何を見せびらかされても無関心を装う。


10月28日

 些細ないいわけが拡大解釈されてしまい、君はやる気をなくしてしまう。そして時間がなくなってしまう。たぶんからかわれているのでも買いかぶられているのでもなさそうだが、そこから表象について何か適当なことを語れるだろうか。語る目的がはっきりせず、実際に述べていることはたわいない。そして心はすでに分かれ道にさしかかっているようだ。黙っていれば誰かの視線が目の前を通り過ぎる。視線をやり過ごしても、その影がいつまでもつきまとう。そんな姿に注視ししていなければならないらしい。何について語ろうとしていたのか。できないことを無理にやろうとしていたわけではない。当初は簡単に述べるつもりだったらしいが、言葉を凝らすことに四苦八苦しているうちに、内容が一向に見えてこないことに気づく。その時点で挫折しているのだ。無理に内容を求めすぎている。だが今さら心を入れ替えてどうしろというのか。途中で立ち止まってしまったら、また最初からやり直しになってしまう。たぶん行く手を阻もうとする妄想に打ち勝たねばならないのだろう。しかし抱いている妄想の中に君の本音が隠されているとしたら、それをはっきりさせるべきなのか。これ以上当たり前のことを述べるべきではない。では何をわかりきっていると思いたいのか。それの何が当たり前なのだろう。それらの何がお祭り騒ぎのきっかけを形作っているのか。どこかの地方都市で人々が騒ぎまくっているようで、そんな風な印象を得ているだけかも知れないが、なぜそれを素直に喜べないのだろう。突然無視している当のものから話しかけてくる。別に気の利いた返答を依頼しているわけではない。思いがけぬことを述べているようだ。文章としては奇形のたぐいだろう。話しかけている当のものが石像なのだからおかしい。対象が無言なら会話が成り立たない。返答に窮してそこから先はさらに沈黙が深まる。よく見れば所々にひびが入っている。だがそんな嘘を真に受ける者などこの世にいるはずがなく、そのわざとらしい嘘をどう処理したらいいのだろう。始めからやり直せるものならそうしているところか。今はそこから抜け出ることができない。昼の日差しはとうの昔に退いて、今は夜の時間帯だが、それでも空は青い。確かに晴れた昼の空は青い。しかし曇り空にその青さを知らしめようとしているわけではない。どうやら唐突に無駄な迂回を余儀なくされているようだ。確かに空は青い。砂利道にほこりが舞い、どこからともなく猫が歩いてくる。君には関係のない光景が思い出される。発つ鳥は獲物ではない。不思議なことを述べているようだが、それほどおかしいとは思わない。内容があるとは思えないが、それは誰の感想なのだろう。言葉は勝手気ままに連なる傾向があるらしい。そして放っておけば自己言及に逢着する。それ以外の結果を得られないようだが、それは予定調和の成り行きだろうか。何をどう判断しているのでも、それらのどこを評価しているのでもない。結局いつもの言葉を呼び込んでいるようだ。またうんざりするようなことが繰り返されている。虚無と気心が知れているというわけか。心が渇いている。わかっているのはそれだけだと思う。屈折した自己表現を打ち破ることができない。期待されていないのだろうか。君はそこから抜け出ようとしている。遊びのつもりが本気になっているらしい。案外はじめから本気だったのかも知れないが、まだどこにも到達していない。いくら即興で言葉を連ねても肝心の内容には行き着かない。言葉だけが当てもなく辺りをさまよっているだけだ。気持ちなどは関係ない。夜空には星が瞬いているだろうか。北斗七星を探してみたいか。眺めている光景を部屋の中で想像してどうするのか。その通りの光景が目の前に出現したら驚いてみればいい。そんなのは演技でしかない。演劇的な展開には夢があるが、それのどこが気に入らないのか。見え透いた嘘をつくべきではないのかも知れない。急に語り方が変わってしまったようだ。うろたえている場合ではないだろう。見れば人相が激変している。何か気に障る言葉でも発したのだろうか。何を思い出そうとしているのか。そのときの情景を思い浮かべてみる。愚か者は試しに奇声を発してみる。言葉が並置されていて、そのどちらかを実行しなければならない。それは何のゲームなのか。見えているものが見えていないようだ。暗い曲調に惹かれているわけではない。またそれとは違うことを述べようとしているようだが、それとは何なのか。何でもなければ話にならないだろう。心は行き詰まりの状況から逃避している。意識はそれを忘れようとしている。忘れられない現実がどこにあるのだろう。今ここにある現実のどこが忘れられない思い出になるだろうか。それはどこでもないここでしかない。意味不明な文章表現に逃げている。感情がどこからも出てこない。それは生身の肉体ではないが、人形に魂が宿っていたら気持ち悪いだろう。何か他におもしろそうな言語表現に巡り会えないだろうか。君はこの世界を馬鹿にしているように見える。愚かなのだからそれも仕方のないことか。


10月27日

 雲は何を望んでいるのか。そんなことを思っているうちに妙な気分になる。心に余裕を感じているらしいが、言葉はすでに終わりを告げている。水面に何かが映っている。流れる雲には行くあてがない。行き過ぎてひんしゅくを買ってしまうか。この世界は絶えず終わり続けている。そして絶えず現時点であり続ける。現状では済んでしまったことだらけだ。そこから結論を求めているわけではないが、何もかもが性急に終わりすぎだ。話が始まっていないうちから何をそんなに急いでいるのか。誰かの失敗談で笑いと取ろうというのではない。空疎な気分に満たされながら、いつの間にか獲得されるのは沈黙だ。影は何も語らないことによって、そこから適当な印象を得ている。しかしなぜそれが言葉に結びつかないのだろう。いつ物語が始まったのだろうか。いつか誰かは遠くへ旅立ち、しばらくして遠くから死者の魂が還ってくる。ふるさとには廃屋しかない。いつ滅んでしまったのだろう。いつでもそれを望んでいたはずだ。心はいつまでもここにとどまり続ける。こことはどこだろう。誰が死者の魂をよみがえらせたのか。何と引き替えにしてそれをもたらしているのだろう。それを永遠に固定したいのなら、誰かが心変わりしないうちに、誓約書でも交わす必要があるのか。だが君の変節は日常茶飯事だ。次の瞬間には何を望んでいるのかわからない。奈落の底でつかんでいた手を離す。亡霊が誰かを守っている。わからないのは誰の心理でもない。相変わらず粗雑に言葉が錯綜している。離れているのは心だろう。そこで何を述べたいわけでもなく、そこから遊離したいのでもない。始まったばかりなのに文章が限界に近づいている。始めからそんなことを述べても始まらないだろう。始まらないから何を始めようとしているのでもない。では何を休んでいるのだろうか。そういう話でないのはわかっている。攻撃的な性格には疲れがつきものだ。絵画は止まって見える。壁に絵が突き刺さっている。まだ妙な気分が持続しているようで、珍しいこともあるものだ。壁に貼りついた自意識を無理に引きはがしてしまうと、そこから壁紙が見えてくる。何の変哲もない光景に見える。眺めているのは窓の外だろう。その方が自然に感じられる。自然は虚構を構成するために必要なのだ。ブラインド越しに夜空を眺める。それも嘘に違いない。面倒なことはやめてほしい。そこにとどまっていたいのに時間が待ってくれない。文章の内容が混乱している。破綻していたいのだろう。つじつま合わせが間に合わなくなったようだ。そこにあるのは眠気と言葉だけか。怠惰な気分を醸し出すにはうってつけの材料だ。しかし度が過ぎると袋小路で身動きがとれなくなる。口承が曲になるのは三味線のたぐいか。まるでとってつけたような成り行きとはならない。限りある資源を大切に使わなければならなかったのは数十年前の人々だ。さらに意味不明に文章が展開している。要するにずらそうと思えば簡単にできるわけだ。すぐに何を述べていたのか思い出せなくなり、それも意味不明の一言で済まそうとしてしまう。それは冒涜とも冒険とも無関係だ。ただ面倒くさいだけか。説明する気力が失せる。説明できないのだからそれはいいわけにもならない。天は立ち直るきっかけを与えてくれない。旧約聖書でも読んでみたらどうか。今さら馬鹿になっては仕方がない。だからさらに違うことを述べようとしている。馬鹿になるための近道などありはしない。近づこうとすれば遠ざかる。空気はさらに読めなくなり、天井と床の間に何があるかを知ろうとしてしまう。君には間が足りないのだろう。問うべき内容を問われるべき問題に入れ替えて、当たり前のことをいつまでも疑問に感じている。知っているのはそんなことではない。知り得る内容を無視してその先へ進もうとするのは無謀か。結局何も知り得なくなる。だが知ろうとしているのはそんなことではない。どんなことでもなく、間に合わせの台詞の中に何が潜んでいるわけでもない。まだそれを知り得ていないわけか。間が持たないのだろう。天と地の間には言葉が連ねられていて、それがいつしか書物となり、人々から忘れ去られた時点から何らかの効力を発揮するようだ。またそこへ引き戻されてしまうのか。さらに意味不明だろう。どんな幻想が君の救いとなるのか。つまらぬ言葉遊び程度では話にならないが、そうかといって物語には興味がない。大げさすぎる話には幼稚さが内在していて、現実の卑小さが省略されており、単純な話にはそこに至る紆余曲折が省かれている。だからわかりきったことを述べないでほしい。間違っているわけでもないが、的外れなことを述べ続けていると、誰かの心をつかむ機会を逸してしまうではないか。誰でもない誰かに心などあろうはずがない。そう述べて何を否定しているのでもなく、石垣の上からこちらをにらみつけている老人が狂人なのではない。老人ホームでは何らかの遊技が行われ、痴呆防止に役立っているらしい。しかしそこにいる君はいったい誰なのか。


10月26日

 音楽は言葉を飾り立てる。思い出したように同じメロディを奏でる。なぜこの世界には始まりがあるのだろうか。たぶん文章の始まりにおいて世界が始まるのだろう。嘘をつくならもう少しマシな嘘をつくべきか。何が嘘なのかわからない。すぐに答えを導き出そうとする前に、何か他に考えるべきことがありそうだ。閉塞状況を何とかしたいが、考えを巡らしているうちに、当たり前のように時間は過ぎ去り、思いがけない誘いはあっさり断られる。大地は闇夜の世界で無と化した。何の話なのかさっぱりわからず、とりあえず平静を装わなければならない。わかろうとしてはいけないのだろうか。別に宣伝するような内容ではないだろう。駄文を用いて何をアピールしたいのか。そういう謙遜はわざとらしい。それらの成り行きを真実であるかのように見せかけるためには、何かそれとは違う展開を導き出さなければならない。そもそも考え方が間違っている。何を考えているのか。そこで文章が破綻している。破綻したらそこで一休みだろう。そことはどこなのか。走って追いかけても無駄だ。即興でいい加減な試みを展開中のようだが、それによって自らの立場をどうにかしようとしているわけか。だがそんなことをやってみても、それによって何かが変化する兆しを感じ取っているわけではなく、それどころか何を主張しようと何の感慨も得られない。話を先に進めようとする気が起こらない。ならばそこから停滞が始まってしまうだろう。現状ではそれでかまわないと思う。それ以上はどうすることもできないのだから仕方がない。確かに君では役不足なのであり、何もない状況を変えることはできない。かろうじて言葉を連ねている。その薄ら笑いには何の意味があるのだろう。まだ余裕があると思っているのか。意識は文章のつながりを無視したい衝動に駆られている。面倒なことは嫌いのようだ。語っていることのすべてがフィクションであるわけがない。何か行動すべき理由でも見つかったのだろうか。空を飛ぶ夢を見た。大地は君の勘違いには動じない。呆れを通り越して何の反応も示さなくなってきた。では何か興味深い内容を導き出してみよう。無から何を生成させようとしているのか。何を無視し続けようとするのか。勝負はすでに決している。戦う意志のない者はそこから立ち去らなければならない。要するに誰もが紋切り型の口調を利用しているわけだ。だからもっと見聞を深めて、視野を広げなければならない。何を述べているのかわかりかねるが、わかりきったことは今さらのように無視される。前後の出来事を把握していない。空から誰かが降ってくる。そんなことを述べたいとは思わないか。わかっているわけではない。すでに述べてしまっているではないか。そんなところで迷って無駄に言葉を重ねてどうするのだろう。他に何も思いつかないのだから仕方がない。何かから遠ざかる話はその後どういう成り行きをみせているのか。大地から遠ざかった者は宙に浮いているのだろうか。意味不明であり続けるためには、他にどのような工夫が必要なのだろう。転調に転調を繰り返すだけでは不満か。最悪の展開だ。不満の矛先はそれを記している自分自身へと向かうだろう。聴いている曲が長すぎる。それは別の不満へと転嫁されるらしい。だがそういう言葉の使い方は好ましくない。さらに笑いが長引いている。何かが別の方向へと走り去る。もうその辺であきらめてくれたかも知れない。ならば期待はずれに終わって申し訳ないか。まだ何も述べていない。重圧に押しつぶされそうになっているとしたら、本当に押しつぶされてみたらいい。何がストレスの原因となっているとも思わない。見とれていると引き込まれそうになってくる。誰かが暗闇の中から手招きしている。強引な展開も意味不明か。水をほしがっているのかも知れない。のどの渇きをいやして、架空の誰かはまたどこかへ出かけようとしているが、行き先も定かでないのにそれは無謀というものだ。だが椅子に座りっぱなしでは何も思いつかない。それは誰かではなく自分自身に違いない。やっと正気に戻ったようだ。誰が目を覚ましたことになるのだろう。今ここで何をやろうとしていたのか。過去の話ではなさそうだ。君にはわからないのかも知れない。そんなことをやれるはずがない。どんなこともやれるはずがない。語る以外に何ができるだろう。しかし何も語っていない。未来の君が見つめている。過去が無視されているのだ。過去の姿を忘れている。君はその世界で何をやっていたのだろう。パズルを組み合わせて答えを導き出そうとしている。答えのない問題だ。導き出そうとする姿勢が間違っている。仮の話では真実にたどり着けない。弱っているのではなく、死んでしまったのかも知れない。すでに衰弱を通り越してしまったらしい。主語が抜けている。そこからさらに進めば林が森になり、道が途切れ通り抜けるのが無理になる。そこまで至れない。たどり着くことが叶わない。立ち止まって遠くを眺めることしかできないようだ。風景とはそういうものであり、近づきがたい理由を強引に押しつけてくる。それが嘘だと思っているだけではだめなのか。


10月25日

 雨が止んで空気が入れ替わったようだ。外は快晴のようだが、寝起き直後で視線の先にある対象が定まらず、無理矢理語っても内容が抜け落ちて、それを記そうとしても、言葉が自ずから逸れていって、外れた軌道に意識がついて行かずに、身体がどこかに行方知れずに陥っているようで、そこへ突然砂利道が交差する。誰かは唐突に何を述べているのか。本気にはほど遠いはずだが、いったいどこまで気力が保つだろうか。やる気が失せる一方で、今さら何をあてにしているわけでもなく、知っているのはそんなことではないと思いこみたい。数ヶ月後の寒風に吹きさらされようと、寒気に凍えているわけではない。さらに意味を見失い、そこから一夜明けてもまだ何かを述べ続けているようだが、それはテレビの音声だ。何に気づいていないのか。次第に意識が遠のき、いかれた文章にはつきあっていられなくなり、意識は遠くの空に消え去ろうとする。かすれた声で誰かが呼び止められているようだが、まるで子供のような論理的展開に嫌気がさす。それは十数年前の曲だ。晴れた空に雲が浮いていて、勝手に場所を移動する。そんなやり方ではだめだと思っているが、粗雑な文章の中に適当な内容を見いだして、それで何かを読んだつもりになる。またいつもの勘違いだろう。君はその内容を知り得ない。それらの風景に欠落しているのは誰かの感性に違いない。ごり押し気味に語り始めて、場違いな印象に気づく。今さら何をあてにしているのか。その場の雰囲気をつかめていない。思わせぶりに言葉を並べたものの、何を意図しているのかよくわからなくなる。まだ眠気が覚めていないのだろうか。現在の時空において何を思うだろう。特定の誰について述べているわけではない。切羽詰まらないとやる気が出ないようだが、それでいいのだろうか。では何に負けているのか。勝ったり負けたりして結果を導き出すことにこだわっているわけではない。怠惰にまかせて努力を怠っている。それが何も導き出せないことのいいわけとなっているようだ。だが思考する理由が定かでない。できなければいつまで経ってもできないだろう。我慢が足りない。何をやろうとしているのか。言葉が飛んでいる。理由を見いだせないままに無駄に何かを述べている。あらぬ方角に宝でも埋まっているのか。ますます意味不明になってくる。何かないか辺りをよく見渡してみれば、部屋の奥まった物陰に君の影がうごめいている。カーテン越しの薄暗がりを利用してどこからともなく違和感が生じてしまったらしい。暇なら暇でかまわないのではないか。本当に暇ではないが、そんな風に思っていたいのだろう。できることならこのまま眠ってしまいたい。誰かはうとうとしながらこれまでの人生に思いを巡らす。そこからどのような波瀾万丈をねつ造しようとしているのか。君には待ち続ける定めがあり、いつまで経っても待ち続け、時間と生をひたすら浪費しなければならない。それらの時空は誰に残されているのでもなく、ただ過ぎ去るためだけにあるらしい。この世界は誰に託されているわけでもない。つまらぬ冗談なら聞き飽きた。意識はそれ以外を求めているのに一向にらちがあかないようだ。たぶん無計画に無駄なことを述べすぎているのであり、戦略が欠如しているのだろうが、それが君の戦術なのだろうか。誰が何と戦っているのか明らかではないが、忘れた頃に思い出したように利いた風なことを述べたがる。それは戦術ではなく芸術だと主張したら、さらに言葉の並びが鬱陶しくなるだろう。しかしそれで自己満足に浸れるわけか。満足するのはそのときだけの気まぐれにすぎず、そんな気まぐれを利用して偶然を呼び込み、思いもしない言葉に遭遇しようとしているのではないか。だが実際はそんな予定調和のごとく言葉が導き出されるわけではない。それは無駄で無意味な言葉の連なりになる。そしてそう述べているうちにも、また何を述べようとしていたのか忘れてしまい、思い出そうとするには何もかもが遅すぎるように思われてしまう。それは意味不明ないいわけにすぎず、現実には思い出す時間も場所もここにあるらしい。別に絶えず忘却を促されているわけでもなく、そんな虚無と戦っているわけでもないだろう。君はそれが人生には欠かせないことに気づいているはずだ。そんな今さらの言葉は嫌いか。今さらのように人生を知っているかのごとく振る舞うのはわざとらしい。そこで驚異的な粘りを見せているのは誰でもなく、誰もいないからこそ、空疎な言葉で空白を埋められるのではないか。言葉を弄することでこの世界に役立とうと思うのはとんだ勘違いに他ならない。役に立たないようなことを述べている現状を受け入れ、その上にさらなる言葉を導き出し、それらのどうしようもない言葉とともに、言葉の折り重なりの中に、どのような真実を見つけようとするのでもなく、何の結論も出ないことを認めざるを得なくなる。何を述べているのかもよくわからないか。どうやら文章の内容が破綻しているようだ。それ以前に文章になっていないのかも知れない。いったい何を語っているのだろう。今日は失敗の連続かも知れない。


10月24日

 誰に向かって話しかけているのだろう。そこで何かに気づいたようだ。誰もいないことに気づく。別に変則的な気づき方をしているわけではない。時間差を考慮に入れていないだけか。他者に対する配慮に欠けているのだろう。見えている風景をやり過ごし、見えていない光景を夢想して、別に眠りについているわけでもなく、他に何をやろうとしているのでもなく、何もやりたくないと思っているわけでもなく、ただ適当に言葉を弄することに夢中になっているとはいえないだろう。要するに適当ではないわけだ。文章の中で何を適切に配置しようとしているわけでもない。夜の闇に紛れて何が近づいてくるのか。破滅の足音など聞こえはしない。それは足音ではなく、車が走り去る音ではないか。電車の中で音楽を聴いている君には関係のないことか。ならば君に関係がある事象とは何なのか。冗談で何もないとうそぶく前に、君の前を通り過ぎようとしている人の群れについて何か感想でも述べてみたらどうか。そんな提案はつまらない。では試しに何か適当に思い浮かべたらいいだろう。それでは元の木阿弥か。何もないから何かを想像してしまうのだろう。つまらぬ空想などやめて、適当に行動してみたらどうか。そして何かあったらそれに興味を抱くべきだ。しかしそれは誰のすすめでもなく、文章の中にそう記されているだけのことだ。現実はそんなつまらないことでしかなく、そこから抜け出るためには、そんな文章を記したり読んだりするのをやめなければならない。やめられるものならどうぞご自由にしたらいい。しかしそう述べて誰が誰を突き放しているのだろう。それはフィクションではなさそうだ。現実に文章の中でそう述べられている。そんなわけでまったく自己言及には限りがない。言葉の無限循環に陥っている。理由もなく根拠もなく必然性もなく、そんな嘘をついてどうするのか。どうすることもできない。誰かが嘘ではないと言い張っても、それはフィクションの中で言い張っていることにしかならないだろう。誰かはそこに提示されているつもりの、架空のフィクションの中に登場する虚構の存在でしかない。要するに架空の妄想の中に誰かが存在していて、そこで語られる内容を否定し続けているわけだ。そんな嘘も適当な試行錯誤を経て、君の文章に記されれば、それなりに読む気になるだろうか。それを誰に読ませようとしているのか。読ませるあてなどどこにもありはしないだろう。君は誰に向かって何を語っているのか。それは呼んだとおりの内容でしかなく、それ以外はすべて誰かの妄想の中に言葉以前の代物として渦巻いている。だが言葉以前に何があるというのか。誰かの叫び声やうなり声でも想像してみたらおもしろいか。おもしろいとかつまらないとかいう基準には当てはまらない。すべては仮定の域を出ないことでしかないか。そうだとしたらどうなのだろうか。どういうわけでもなく、たとえ話にも引っかからないことか。お話にならないとはそういうことなのか。だからどうだというのか。話にならなければ言葉を記してはいけないのか。そんな屁理屈なら気分転換になるだろうか。それとこれとは関係ないだろう。関係なければ何を述べてもかまわないのか。そういう話も的外れだろう。わざと外れたことを述べているのかも知れない。そこで行き詰まっているわけだ。そして何となく空疎な気分となり、吐き気を催すほどではないが、だらけたことを述べている自らに嫌悪感を抱く。しかし他に何を述べたらいいのだろうか。このままつまらぬ道草を食いながら終わってしまうわけか。終わってしまえば何も記さなくてもよくなる。案外そんな成り行きをねらっているのかも知れない。もはや怠惰に抗えなくなっているのかも知れないが、たぶんそこにも何らかの意図が隠されているのだろう。誰の意図かはわからないが、それに従うつもりはなくとも結果的に従っているように思われてしまうような成り行きに戸惑いながらも、無意識のうちに何か他の成り行きになるように思い続けているのかも知れないが、誰が思い続けているのではなく、文章にそう記されているだけであり、そこに語り手として誰を設定しようと、それはすべてフィクションとなってしまうだろう。だがそれで誰が不満を抱いているというわけでもなく、文章の外ではそうではないかも知れないが、そんなことは文章の中では無視されて、さらにどうでもいいような言葉が繰り返し記されてしまうかも知れず、そんな現状に嫌気がさしているのだとすれば、そうならないようにするにはどうしたらいいのだろうか。君はそこで何をわかろうとしているのか。つまらないいいわけなら嫌というほど記していたはずだ。ならばそれ以外に何が記されていただろうか。架空の文章には何も記されていない。それについて述べているのだとすれば、それはまったくの思い違いだろう。ここで述べている対象はここに記されている文章についてであり、それに続けて何をどのように述べようと、それは自己言及以外の何ものにもならない。


10月23日

 奇妙な顔が並んでいるが、まさか人の生首ではあるまい。幻想的な光景を夢想しているのではない。では何を否定しているのだろう。できすぎた話になるわけがない。だがそれを否定して何になるのか。意味不明では話にならないか。見えているのはそんな風景ではない。外は雨で、内は蛍光灯に照らされている。昨晩取り替えたばかりか。まったく冗談もほどほどにしてほしい。こだわりがないのが誰かの取り柄だったはずだ。何でもかんでもジャズ的に語るつもりはない。時としてうぬぼれが出過ぎて、くだらぬ災いを招いてしまう。妙なこだわりがつまずきのもととなる。なぜ漢字に変換してくれないのか。まるで苦行層のように文字を石版に刻み込み、それについて何か適当なことを述べている場合ではない。そんな嘘ははじめから通用しない。目の前で核爆弾でも爆発した気でいるようだが、そのたとえは意味不明だろう。だからできすぎた話にはならないわけか。そんなことは想定外だ。文章を構成して、何を主張しているわけでもなさそうだが、とりあえず言葉によって何らかの意味を示したい。たとえそれが嘘であっても、そこに何らかの概念をもたらしたい。だが概念とは何か。口からでまかせではだめなのだろうか。まだ頭が本調子ではないようだ。考えるより先に言葉が出てくる。思考自体が無駄に作用している。どこに作用を及ぼしているのかわからない。なぜそれがこぼれ出す一歩手前でせき止めているのか。そんなことをやっている覚えはない。それとは違うことを述べてみたい。何となくやればできると思いこんでいるようでは進歩がない。だが何を進歩させたいわけでもないだろう。まるで禁断の果実をもぎ取ったときのような疚しさを覚えている。それは本当だろうか。それらの言葉あまりにも唐突に、そして何の脈絡もなく出現しすぎている。要するに何を述べているのか意味不明なのだが、それがいつものことだとすると、今までに述べてきたそれらの言葉はいったい何なのか。とりあえずそれらの言葉には興味がない。今日もどこかでそんな逡巡か繰り返されているだけだ。だからなんだというわけではないが、気がつけば雨が小やみになっている。流れている音楽には相変わらずの思考を想像させるものがある。そこまできて、まだ述べることがあるのだろうか。何がどこまで来たの変わらない。もはや自分というものがないような気がする。馬鹿なことを述べているのかも知れないが、それで馬鹿になったような気もしない。むしろ馬鹿だとか利口だとかいう基準では語り得ないことを語ろうとしているのかも知れず、それがどうしたわけでもないが、何となくそんなことを述べてしまっているようだ。考えている暇があったら、他に何をやればいいのか。そうではないと思いたいなら、そこで行き詰まってしまうだろう。もったいないとは思わないのか。では行き詰まる前に何を述べたらいいのだろう。すでに述べているそれはくだらなすぎるか。あまりにも空疎だと思うが、他にどうしたらいいのかわからない。要するにすでにその時点で罠にはまっていることか。自我の周りは空虚が取り巻いていて、他に何も思いつかない状況に陥って、ただ焦りを覚えながらも、必死で何かに食らいついているようだが、その食らいついている当のものが君を悩まし続けている空虚そのものなのだ。いつの間にかその周りを一回りしてきているようで、どこから見ても同じような景色に見えてしまうが、できることならそれを言葉で表現したいか。すでにできているそれは何なのか。君には関係のない文章だろうか。素性を知らぬ人格が誰かを陥れようとしている。やはりそんなのは嘘か。無性にリンゴをかじりたいが、それも本心とは無関係か。では何をやりたいのか。テレビを見たいわけでも、雨降る中を駆け回りたいわけでもない。何もやりたくないといったら嘘になるだろうか。嘘でもかまわないから何もやりたくないと思いこみたいようだ。やはりそんなのも嘘か。沈黙の中に花が咲く。花は花でしかなく、君に何を語りかける風もなく、ただ時の経過を感じながら、やがて萎れていく。君はすべての出来事について語っているわけではない。虚構の中で起こりうる現象は限られている。虚無の何が美しいわけでもなく、言葉が誰かの本心を表しているわけでもない。では文章は何を語っているのか。何も語らないといったら嘘になる。誰が語っているのでもなく、文章が記されていること自体が事実に基づいているらしい。言葉は人知れず虚構の内容を構成したいのか。そんな風に語りたいのではない。どんな風に語りたいのでもなく、そんな風に語ってしまうことを拒否しているだけか。しかし現実にはそんな風に語っている。自己矛盾の自家撞着とはそういうことか。どういうことでもなく、そこに記されている言葉の連なりには感動が含まれていない。では何が感動を呼ぶのだろう。それは誰が求めているものでもなく、意味を求めていないのと同じように、他の誰かがその有無を判断することでしかない。


10月22日

 何を忘れてしまったのか。思い出すきっかけがつかめない。つかもうとしていないのではないか。自分勝手な努力などいくらやろうと、自己満足以外の何ももたらされはしない。だが誰がそれを試しているのか。君がそれを実行しているわけではない。まだ読みが甘いのだろうか。何を読んでいるつもりなのか。今は何も読んでいないのかも知れない。インスタントコーヒーを飲みながら物思いに耽っている。まだそんな水準で右往左往している。両手がしびれてきた。筋肉痛か、はたまた通風なのか。そのどちらでもなければ何なのだろうか。ただ冗談を述べているだけかも知れない。何を目指しているのでもなく、言葉を連ねている。側溝に車輪がはまってしまう。真昼にどんな夢を見ていたのだろうか。まだその続きを夢見ていたいらしい。何にそそのかされてそんなことを述べているのか。手間暇をかけるのが億劫になっているのかも知れない。だから簡単に流されてしまう。風に流され、雲に乗って、風船のような案配に言葉が浮遊しているようだ。何を述べているのでも、何も述べていないのでもなく、そのような文章が否定されている。そんな風に述べながら何をあきらめているのだろう。もう何にこだわっているのでもないらしい。ただむやみやたらといい加減に言葉を繰り出している。頭がいかれ、非常識なことを平気でやり、そんな若者をしかるでもなく、ただそれらの光景を眺めている。誰のことを述べているのだろう。架空の人物が文章中に構成されているわけか。何を予言しているのか。これからどんな出来事が起こるのだろう。何が繰り返されているのか。誰もそんなことに注目しているわけでもなく、メディアから繰り出される宣伝文句を無視しつつ、結果的に何をやっているわけでもない。何をつかめていないとも思わない。真実はそこにありそうだ。しかしそんな作文はごめん被りたいか。嘘であっても仕方がないか。虚々実々の駆け引きなどありはしない。騙し合いの化かし合いではフィクションになってしまうだろう。君は自らが裏切られていると思っている。世界は君を騙し続けてきたわけか。そんなはずはないだろう。何を笑っているのか。誰かが楽しそうに近づいてきて、歌うようにつぶやく。さて、これでおまえは破滅だ。それはブランショの台詞だろう。そんなのは嘘に決まっている。何を信じていないのかわからない。誰かが破滅する日のことを思うと、無性に笑いたくなる。現実はそんな具合にはいかないだろう。きざな台詞はすぐに忘れ去られ、無理矢理違うことを述べようとする。本当は忘れられるはずもなく、逆にあのときの醜態を思い出そうとしているのではないか。何を反芻したいのか。わけのわからない思い出に逆ギレしてどうするのか。知ったかぶりなのはどちらの方か。それは素早く述べなければ消え去ってしまうような感情なのかも知れない。ではそのとき君は何を述べていたのだろう。もうそんなことを思い出す手間などかけたくはない。内容のない文章ならいつでも記述可能か。本心からそんなことを述べているわけでもないのだろうが、それが実現してしまったら、本当に君は破滅してしまうわけか。何でもいいような気がしてくる。破滅しようが死のうが、生きようが成功しようが、そんなことはどうでもいいことでしかないか。誰そこで何をやっているのでもなく、何を体験しているのでもない。忘れた頃にそんな紋切り型が繰り返されるだけか。かつて繰り返された自らの破滅を忘れているわけではない。しかし破滅から立ち直ったことが自身につがっていて、心のゆがみをそのまま放置しておいても、やがてそれを修整する機会が訪れることを信じている。だが何が自信につながっていようと、そんな自信は偶然の衝撃が打ち砕いてしまうだろう。それもありなのだから楽しいわけだ。心の傷口をふさぐために言葉が自然に湧いて出る。それは冗談に他ならないだろう。できることなら静かに退きたい。この世界から降りたいのか。何かの競技場から退場したい。彼は他の誰かと競い合うのには飽きてしまったようだが、自らと戦っているわけでもない。まだ良心のかけらぐらいはあるのなら、少しはまじめに言葉を繰り出したらどうか。未だかつてそんな状況は経験したことがない。しかしそれも嘘の一部のようだ。見たこともない光景に巡り会いたいとは思わないか。それが目の前に広がっている光景だとは思いたくない。信じられないスピードで場面転換が繰り返されている。もはやそんなことを思っている暇さえない。だからそこから消え去りたくなる。自らの感性を疑い、もっと違った展開があったはずだと思いこみ、無い物ねだりの言説をもたらそうとして、それに失敗して元の木阿弥に帰してしまうことを恐れている。だからさらに無駄なことを述べ続け、意味のない問いかけを繰り返し、それで文章を構成している気になっているようだが、何となくそこに醸し出されているみすぼらしい雰囲気に感づいて、急いでそれを否定しているだけかも知れない。それの繰り返しがそれらの文章の本質なのだろう。


10月21日

 なぜ言葉の並びを延長して文章を継続させようとするのか。理由があるのかも知れないが、それにあまり説得力を持たせることはできない。何を述べても嘘になってしまうような気がする。たぶん惰性という運動がそうさせているのだろう。慣性の法則に従いながらも、時には加速や減速に見舞われることもあるらしく、そこに何らかの出来事が絡んでくるのかも知れない。数日後の夜は久しぶりの雨模様だ。たぶん言葉が抜けているのだろう。引き下がるには基準を満たしていないか。説明する手間をかけたくない。説明できないのかも知れない。よどみがないとはいえない。また否定が連続している。君のことではない。紫の光景を理解しようというのではない。何を理解しようとそれらのセンスからはほど遠い。今回はわざと意味不明を醸し出しているようだが、前回は何を述べていたのだろうか。気に入らない展開ではなく、そこには適当な言葉が並んでいる。適切ではなく適当なのだ。現状はわけのわからない弾け具合か。何を述べてもそれは違うと思う。心はさらにおかしな成り行きに気づきつつある。土に帰るとはどういうことだろう。不吉な予感が頭から離れない。過去に存在した事物のことをどこかに書き留めていたらしい。最後の言葉はまだ現れない。まだその途中につっかえているようだ。切羽詰まれば誰もが死にも狂いで攻撃してくる。それでも失われたタイミングを再現することは難しい。それに対する配慮が滞っている。世の中がおかしいことを理解しようとしない。誰に対して何を訴えかけているつもりなのか。いったい何を仕掛けてきているのか。無理に無理を重ねてそのような現状にかろうじてついて行っている。たぶんそれがさらなる不具合を生じさせているのだろう。君はいつまでも置いてきぼりなのであり、もはや何を待っているのかさえ定かでないが、それでもいつまでもどこまでも待ち続けるのか。くだらぬことを述べているようだが、それでは論理的な展開は期待できない。まるで文章になっていない。すべては相対的に推移していて、何か決定的な転機を見いだすのは無理だろう。状況はなし崩し的に変化し続ける。やっていることが違っているのだろう。何について正しさを求めているのか。適切な配慮を欠いているようだ。目の前の現実に向き合えない。心はどこかで違うことを思っているのだろう。君にはふぬけた空疎感がお似合いか。差し障りのない範囲で言葉を配置しているのだろう。だがそれは精神に差し障りがあるらしい。どこまでも何かを続けていると、たまには違うことをやりたくなってくるのだが、それが失敗のきっかけとなっているのかも知れない。だからいつまでも何らかの状態を保持し続けようとして、そこからより無難な紋切り型を求めてしまうらしいが、今のところ君にその気配は感じられない。目下のところ失敗続きで意気消沈しているわけか。何がそれを可能としているのか。失敗しても何とも思わないのは、それが本当の失敗ではないということなのか。そうであったならどうなのだろう。取り立ててどうもせず、何でもないということか。何も感じるものがない。切迫感が感じられない。何かが弛緩しきっているようだ。何でもありなのだから何をやってもどうなるわけでもないか。何をどうしようとしているわけでもない。人々は現状をなめきっているのだろう。そこにはそれなりに説得力を持った論理が働いているのかも知れないが、本気でそれに抗うほど深刻に受け止めているわけではない。間違いなくそんな状況を作り出しているのは、その地域に暮らしている人々なのだ。突発的な悲劇と引き換えにして社会の安定を作り出している。メディアが伝え続けるような事件が絶え間なく起こり、その一方で大多数の者たちの感性は催眠術にかかったように眠り続ける。くだらぬ娯楽に彼らの人生は費やされ、何がくだらないかも知らず、その意識は知っている経験をいつまでもなぞり続け、絶えず同じ精神であろうと心がける。その結果都市の中心部で空虚が増大する。歓楽街では欲望が幅をきかせ、いったんそこに入ったらそれに従わなければならず、何か居心地の悪さを感じつつも、心はここにあらず状態のうちに隙を作り、どうでもいいことに時間と金をとられ、それでもその程度であきらめなければならず、遊び半分で遊び半分なことをやり続け、どうでもいいような言葉の連なりを、どうでもいいことのように思い、何となくその程度の気分転換にいそしんでいる自らを認めざるを得なくなる。誰もがその程度で気晴らしを享受したと感じるしかない。実際それは何でもないことだからだ。何でもないように装いながら空疎な思いを受け入れ、満たされぬことも受け入れ、その程度のことでやけくそになるわけにもいかず、やり場のない思いが暴走することもなく、ただ中途半端に理性を保ちつつ、何となくそれで済んでしまうような世の中であったことに安心して、またいつもの日常に戻っていく。同じような毎日に無感動であることを受け入れざるを得ない。


10月20日

 やっと現実の時空に戻ってきたようだ。そこから何をどう感じ取ろうと、それがこの世界の現実に違いない。誰がこの世界を動かしているのでもなく、どんな国がこの世界を支配しているのでもない。見えているのはそんなことではない。ただの風景の中に何が存在していようと、それは絵画の一部にすぎず、そこからどんな感動がもたらされるわけでもなく、君が生身の人間として君の影を追い越すこともなく、何を述べようとしているわけでもなく、ただ適当に文章が構成されるだけのようだ。それらの現象から救いを導き出すのは無理かも知れず、ことさらに無理なことをやろうとしているわけでもない。無理であるからこそやりがいがあると思いこみたいのなら、それは不可能への挑戦というロマンティシズムに堕落してしまうだろう。だがなぜそれが英雄的な行為でなく堕落なのか。理由など考えるには及ばず、たとえば英雄的な行為も堕落そのものには違いない。要するにはそれらはすべて空疎な見せびらかしのたぐいだろう。何かをやろうとする以前にどうしようもなく自意識が過剰な状態に至ってしまっている。自己顕示欲を前面に押し立てて、それとともに一時の猶予もできないような性急さが醸し出され、そんな自我をどこまでもこの世界に向かって押し広げ、そのような運動のただ中で自己実現を図ろうとする。それはどうしようもなく鬱陶しい行為である。あり得ない努力の一形態なのだろうか。では他に何があると思っているのか。それは君に関する文章だろうか。落とし穴にはまっているとは思わない。すれすれのところで回避できたつもりらしいが、それがどうしたというのか。その先にどんな罠が張り巡らされているのだろうか。何が待ち受けているわけでもないだろうが、それでも罠にはまってしまうのは、自らの思いこみによる被害妄想が主な原因だろうか。それが罠だと思えば本当にそうなってしまい、何も思わなければ何ともないわけか。君の心は虚無に依存していて、架空の身体は文章の中に刷り込まれている。わけのわからないことを述べて、それを信じているつもりになり、次いで何を信じているのかわからなくなり、どこへ到達しているのでもないことに気づく。やはりそんなことを述べてもますますわけがわからなくなるだけだ。しかしそれで偽りの達成感を得たいのだから呆れてしまうか。そんな信じられない気晴らしと暇つぶしが現実の世界を蝕み、病んだ心をさらに衰弱させる。今頃になって蛍光灯が点いたようだが、なぜそんなことを信じられるのか。この世で信じられるものはすべて思いこみの宗教でしかないからか。それらはどのような疑念を晴らしてくれるのか。それ自体が疑念を構成する言葉かも知れず、何かを信じることに重きを置く危険性を理解していないようだ。信仰には実体がないと同時に、実体こそが信じられないというわけか。架空の世界ですべてが成就してしまうことの虚構性をどう思っているのか。それで満足するわけがない。不満なら実体を求めて現実の世界でさまよえばいい。さまよって時には死にかけ、さらに放浪を続けて、それで何を成就させようとしているのか。できないことをできないと思って何が悪いのか。自らに嘘をつくのは精神衛生上よくないことのようだが、そこからさらなるいいわけとごまかしを経て、どこか適当な方向へずれていってしまい、結局気がつけば何を述べているのかわからなくなり、おかしな成り行きに身をまかせている。何がおかしいわけでもないだろう。それが当然の成り行きなのだから逃れようがない。何ができるわけもなく、君はそれで十分なのだろう。他に何を証明する気も起こらない。そこに立ち現れているそれが結果なのだ。しかし結果とは何なのか。君は他人の思想をまったく消化しきれていない。なぜ短い文章の中に完璧さを実現させようとするのだろう。最初から無理なことはわかりきっているではないか。資本主義にルールはない。あるのは資本主義を市場や国家の内につなぎ止めておくための法律だ。そしてルールの代わりにあるのが信仰だろう。資本主義は世界最強の宗教だ。誰もが物を金にあるいは金を物に交換できると信じ込んでいる。交換することによって利益を生み出そうとしている。利益が出ることを信じて人々は交換しようとするが、利益という概念の意味が曖昧だ。ひとたび資本主義経済に組み込まれてしまえば、自給自足や狩猟採集生活では生きてゆけなくなる。とりあえず手持ちの何かを金に換えて、それで商品を買わなければ生活が成り立たなくなる。必ず金を商品と交換できると信じ込んでいる者なら、なるべく交換可能性を有している金を貯め込んで、自分がほしい物を何でも金で手に入れようとするだろう。手持ちの金がなければ、金融業者から借りてでも商品を買おうとする者が現れるだろうが、借りた金は将来利息を付けて返さなければならない。借りた金を返せなくなれば借り手か貸し手かのどちらかが破滅する可能性がある。破滅してはじめて借りた金を返すのはルールではなく、金を返せると信じて、金を借りたり貸したりしていただけのことに気づくわけか。


10月19日

 そうまでして平常心を保っていたいのか。どんなことをやっているのだろうか。まだ何かつまらないことにこだわっているらしい。どのように考えても、そこから元の木阿弥になるような成り行きを模索してしまう。現状を打破したいのに行動が伴わず、いつまでも逡巡を繰り返している。そしてそうやりながら得体の知れぬ影につきまとわれている。妄想から生じた幻影を捨て去れずに、さらに自らを追い詰める。無意識のうちに自業自得の成り行きを求めているのかも知れないが、それでも妄想の世界を脱却して、現実に存在するありのままの世界へ、自意識が成立する足がかりを移行させようとしている。そのような流れを阻止する理由があるだろうか。何か心の奥底に現実の世界に対するおびえの原因が潜んでいるのかも知れないが、それを捨て去ることはできないだろう。要するに自意識過剰なのかも知れない。しかしそんな簡単に結論を導き出してかまわないのだろうか。それが自然の成り行きとなってしまうわけか。そういう言葉の並びではない。たぶんそれは違うと思う。そこから何が導き出されることはない。だからそれとは違う言葉の並びを模索している。それは意味のない試みだ。いったい何を述べていることになるのか。意味をもたらさなければ何を述べているのでもないことになるだろう。誰かはそれでかまわないと思っている。頭がいかれているのだろう。なぜそんな結論に至ってしまうのか。君は文章が意味をまとうことから逃げている。しかしそれでは文章にならないのではないか。しかし意味不明な文章に何の意味をもたらしたいのか。何か矛盾したことでも述べているだろうか。それが意味不明であるわけがない。そして意味不明である以外にどんな意味をもたらしたいわけでもない。たぶんそれらの文章の中で誰かは嘘をついている。わかりきったことを述べないでほしいか。誰がそう思っているのだろう。また以前と同じ成り行きで何かが語られているらしい。もういい加減にそういう話はやめにしないか。誰に問いかけているのか。それらの言葉は虚空に吸い込まれ、こだまとなって架空の時空に反響している。何を述べても君の元には何も返ってこないだろう。だがそれでかまわないのなら仕方ない。さらにそんな言葉を連ねていればいいだろう。やはり何を述べているのかわけがわからなくなるだけか。もはやその場には脱力感しか残されていないようだ。誰がそんな嘘を信じられるだろうか。なぜそれが嘘だと見なすのか。君は嘘という言葉でその場を丸く収めようとしているだけだ。それで何の解決にもなっていない。解決しようとする気がないのではないか。しかし何を解決すればいいのかわからない。それでは何も解決できないのではないか。どうやら嘘という言葉に続いて解決という言葉も無効になりつつあるようだ。明確な意図がそれらの文章からは導き出されないようだ。何をしたいのかわからず、何を思っているのかもわからず、何を感じているのかもわからない。もう何もしたくないのかも知れず、何も思いたくないのかも知れず、何も感じたくないのかも知れない。しかしそうしたくなくても結局そうせざるを得ないのかも知れない。何もできないと思っていても、少なくともそんな嘘を述べることはできる。言葉は絶えず君の思惑を超えて文章をもたらし、君の饒舌を黙らせる。君が何を述べようと、その内容が矛盾していることを文章が知らしめる。それが君にもたらされた報いのすべてなのか。この世界は誰の思い通りにもならず、思い通りにしたい者を落胆させるわけか。君は本気でそんなことを述べているのか。そんな簡単な成り行きでこの世界が成り立っているわけでもないか。それは成り行きなのではなく、言葉の構造が文章に反映しているだけかかも知れない。しかしそれで何を述べていることになるのだろう。そんな問いかけ自体が意味不明だろう。だが文章によって意味をもたらしたいわけでもなく、意味不明になってしまうことは最初から織り込み済みに違いない。意味不明になってしまうことを承知で、そんなわけのわからないことを述べ続けている。そんな風にしか述べられないのだからそれは仕方のないことか。誰かの意識は何の実りももたらさない言葉の牢獄につながれている。それでもなお嘘をつくつもりらしく、もはやつきあいきれない状態を呈しているのかも知れない。君はだいぶ疲れているようだ。冗談も尽き、言葉も尽き果て、さらなる言葉のリサイクルにも行き詰まり、その先に何がもたらされることもない状況が近づいている。たぶんそれも嘘だろうが、本当にそれが実現してしまったらどうしようか。腹の底から笑いがこみ上げてくるか。君はそれによって何に勝利したつもりになれるのか。まさか実現された沈黙が虚無に対する勝利を示しているわけもないか。沈黙こそが虚無そのものであり、その乾いた笑いこそが君の狂気を象徴している。そんなわけでもはや嘘を述べることによってしか、それらの文章の継続は不可能となりつつある。それも嘘か。


10月18日

 誰かの顔が恐怖で引きつっている。なぜそんな細かいことにこだわっているのだろう。そんな状況になってしまうことを恐れていて、結果として訪れる何らかの成り行きを拒絶しているようだが、そんな状況とは何なのか。今現にあるこの状況のことだろうか。何もないことには慣れきっているようだ。そこから取り立てて何が生じるわけでもなく、君は以前とはまったく別人となってしまったらしい。その精神はすでに崩壊過程に入っているらしいが、君はその代わりに何を求めているのだろうか。これから自らにどのような人格が宿ってほしいのか。単に気が狂っているだけではつまらないか。それだけでは君の人格とはいえないだろう。そこには誰の人格が生じているわけでもなく、誰の気が狂っているわけでもない。誰が自らの意志に従っているわけでもないらしく、その代わりに文章から誰かの意志が生じているようだ。話の筋としてはそうとしか思えないような展開になりつつある。だが意志と人格の違いを説明できない。そしていつものように君自身は何を述べているわけでもないが、他の誰かがそれらの文章を構成しようとしている。それで話の筋が通っているとは思えない。たぶん君の述べている内容はわけがわからないだろう。そんな風にしてどんな風に語っているかもわからないのだが、とりあえず人々はなぜ簡単に自らの欲望をあらわにしてしまうのか。それではあまりにも無防備なのではないか。奥ゆかしさが皆無か。そんなことを述べているのではない。ただ言葉を錯綜させているだけだろう。誰かはそう簡単に罠にはまるわけにはいかないらしい。それは誰が仕掛けた罠でもなく、他ならぬ自らがこだわっている無理な願いから生じているのではないか。しかし抵抗することに意味があるのだろうか。なぜ報われようとするのだろう。どうして感情に流されないのか。そこで安易な成り行きを拒否しているのは誰なのか。どうやら自らを利することに抵抗感があるようだが、食わず嫌いとはそういうことか。そこに何らかの原因があるとして、それを知ってどうするのだろう。自らのかたくなさがどんな結果をまねているのか。それを理解する気がないらしい。しかしいったいそれらの文章は誰のことを述べているのか。わざとらしくしらばっくれている君は情けを知らぬ人間らしい。また冗談でそんなことを述べている。おそらくそれは嘘なのだろう。そして単なる気のせいかも知れないが、そんなことを述べているうちに、それらの凍てついた大地に、どこからかかすかな光が差し込んできているような気がする。影にとってはそれが気のせいであってほしいのだろう。なぜか思案に暮れているようで、その光を目指して進んでいいものかどうか、迷っているのかも知れない。それらの文章のどこに誰が構成されようとしているのか。新たな文章は何を目指して形成されようとしているのだろう。君は何を求めて生き続けているのか。この世界はどこへ向かって変化し続けているのだろうか。世界の変遷を文章に記せば、それは歴史となるわけか。だが哲学的な意味などどこにもありはしない。仮にそれらが何を意味しようと、それはすべて文章を読んだ者が抱く思い過ごしかも知れず、それとは別の時空で別の環境に生きている者が読めば、先の彼とは別の認識に到達してしまうかも知れない。それらの文章は必ずしも世界の真の姿を媒介しているとは限らず、それどころか往々にして誰かの偏見や思い過ごしの集大成である場合が多い。だがそうだとしたらどうなのだろうか。そんな見解も何かの勘違いなのではないか。言葉によって文中に投影しているつもりの現実が、思いがけない成り行きとともに、思わぬ方向から幻影となって跳ね返ってきて、時と場合によっては誰かの神経を逆なでしまくり、それまでに抱いているつもりでいた平常心を吹き飛ばし、ドミノ倒し的に別の誰かにも妄想を抱かせ、結果として広範囲にわけのわからぬ展開をもたらしてしまうかも知れない。それが新たなる現状を構成して、その現状に順応できない者たちを苦しめる。時には彼らに身の程知らずの夢を見させ、場合によっては誰かを破滅に導いてしまうのだろう。そしてそこから先に別の進路が開かれているかのような錯覚を抱かせる。それは錯覚ではなく真実なのではないか。そう思わせてしまうところがそもそもの勘違いなのだろうか。では何がそれらの勘違いを構成しているのか。つまらないこだわりが足かせとなって、誰かをそこにつなぎ止めているだけか。そこでいつまでも同じような夢を見させ、同じような目標に向かって同じような行動に駆り立てるわけか。だがそこには思いこみ以外に何もないのだろうか。この世界の現状はそれらの人々に何を思いこませているのか。それは人それぞれで異なるのだろうし、何らかの傾向があり、結局のところ何を思いこもうと大同小異でしかないかも知れない。では君はそれらの思いこみに対して何を提示できるのだろう。真実など提示できるわけもなく、夢から覚めて現実を直視させるような具合にいくとはとても思えないが、それはどうしてなのだろうか。今のところその理由を知り得るとは思えない。


10月17日

 またさらにおかしくなってしまったようだ。何やら否定的なことばかり述べているようだが、それで心が荒んでいるわけではない。何もないのだから、当然のごとくそこで何らかの現象が起こっていることを否定せざるを得ないだけなのではないか。しかしそれで結果的に文章をつまらなくしている。今の現状ではそんなことはお構いなしか。ただ何かを述べていて、それが文章になってしまえばしめたものなのだろうか。そんなごまかしは通用しないだろうが、ごり押し的にそれをやらざるを得ない状況に陥っているようだ。どうも内容が自己言及から抜け出られない。何を焦っているのだろうか。焦らざるを得ない状況なのだから仕方がない。すでに利いた風な内容でさえ導き出せない。いったい君はどこで何をやっているのだろうか。普段生息している地域からだいぶ離れている。遠く離れすぎていて、彼の声が聞き取れない状態が続いている。そんないいわけがどこでなされているのか。遠くから何かが迫ってくるような幻想に誰かがうなされているようだ。それが君にどんな関係があるのだろうか。現実が君の意識を抑圧している。なぜ押さえ込もうとしているのか。何かを無に帰すためにはそれが必要なのだろうか。なぜそんなことをやりたがるのだろう。わけのわからない妄想を用いて、強引に自己言及の言説から離脱しようとしているが、それでも自己言及に変わりはないようだ。何を述べてもそれは自己言及になってしまうのかも知れないが、肝心の自己がどこにあるのかわからない。語っているそれが本当の自己だとは限らないのであり、自己の影が語っている可能性がある。そんなことはあり得ないと思われるが、それが嘘であろうと間違いであろうと、君には関係のないことだ。君は君が誰だか理解する必要がない。そんな話の設定自体がどうでもいいことなのかも知れない。しかし話の内容などもとから存在しないのではないか。では何を話しているのか。話しているのではなく語っているのではないか。それを否定してどうするのだろう。何を否定しているわけではなく、否定したものをさらに否定したいだけではないか。すべてを否定した後からさらにそれを否定したいらしい。だから結果的に否定している当の対象が空虚そのものとなってしまう。だから何を否定しているわけでもないようだ。そして君は否定している当の対象から逃げようとしていて、気がつけばそこから遠ざかりつつある自らに気づいてしまう。しかしその自らが誰でもない誰かなのであり、君は誰かの影として何か意味不明な内容を語り続けているらしい。それがそこに出現しているフィクションなのか。語ってしまえば他愛のないことであり、それがどうしたということでしかないが、何をどう語ろうとそれ以外には至らないのであり、そのような言葉の範囲内で文章が構成されているにすぎず、それらの文章の何を否定しても、否定するだけさらなる否定が必要となり、いくら否定を繰り返しても肯定にはつながらないのであり、それはいつまで経っても否定の無限循環にしかならないのだろう。今の君にはそんなことしか可能でないらしい。だから果てしなく言葉を連ねようとしているのか。それはどのような営みなのだろう。決まり切った状況から逃れられないということか。何から逃れようとしているのでもなく、どこから離れようとしているのでもない。たぶん君はそれらの大地から離れられないのだろう。そのような状況でなければ存在できないのかも知れない。過去の自らと未来の自らは現在において交錯している。そんな現在が今ある状況なのだ。そしてそんな状況の中で君は何かを語ろうとしているのだが、今のところ何を語れたわけでもなく、どのように語ろうとしているわけでもない。ただ同じような言葉が繰り返されているにすぎず、それが意味不明な文章を構成しているにすぎない。おそらくその時間帯の君にはそんなことしか語れないのだろう。要するに何を語っているわけでもなく、どのように語っているわけでもない。夜の闇は君に対して何を期待しているのか。君は君自身を裏切り続け、世界は君を誰でもない人間として構成しようとする。何者にもなれないような成り行きを絶えずもたらし続け、そんな状況の中に君を縛り付けようとする。それが君に課せられた試練のごとくに思わせ、その試練をくぐり抜けた先に光明が見えているように感じさせるが、はたしてそれが真実かどうかは未だにはっきりしていない。試練をくぐり抜けようとしている最中に、それが試練とは思えなくなってしまうわけだ。自らの行いの正しさを信じられなくなってしまい、そこで立ち往生して、前に進むことも後に退くこともできなくなってしまうらしい。そしてそのどうにもならない袋小路と化しているのが現状そのものなのか。そんなことはあり得ないだろうか。君は何か勘違いをしているのではないか。だがそれが勘違いだとして、他にどのような状況のとらえ方があるのか。それがあり得ないとらえ方だとしたら、他もあり得ないのではないか。


10月16日

 そんなことはわかりきっている。何が見えているわけでもなく、何について考えているわけでもない。そこに何があるわけでもなく、ただいつもの紋切り型的な文章が記されているだけだ。地方都市には電信柱が林立し、所々に川が流れ、田園が広がっている。高みからそれらの風景を眺めているほど暇ではない。暇つぶしに何をやっているわけでもなく、人々がうごめく姿を目で追いながら、その中の誰に照準を定めて狙撃したいわけでもない。ライフル銃を所持しているわけでもなく、人殺しがしたいわけでもない。何を空想しているのか。何に関心を持っているのだろうか。何かおもしろい事件でも起こったのか。君には関係のないことだろう。だが世の中のすべてを見聞し尽くして、もう何も見たくないというわけではない。君にはまだやるべきことが残っているのではないか。それはこの世界を冗談で征服することか。意味不明だろう。やりもしないことを執拗に述べているような気がする。そんなことしか述べられない境遇にあるのかも知れない。しかし他に何があるというのか。人々はこの世界のどこに暮らしているのだろう。文明の及ぶ範囲ならどこに行っても人に出会うだろう。では人に出会って何をしたいのか。目的にもよるだろうが、会って話でもすればそれで大半の人は気が済むだろうか。そんな風に思ってしまう理由は何だろう。理由などその時々で違ってくるだろうし、取り立てて理由などなくとも自然と会話に至ってしまう場合もあるだろう。しかしそんな会話に何の意味があるのか。意味などなくとも会話は会話でしかなく、それらの会話に興味があるわけでもない。問題は会話ではなく、その攻撃的本能か。ではなぜ唐突に見ず知らずの他人を攻撃するのか。誰を攻撃したのでもなく、誰でもいい誰かを攻撃したいわけか。攻撃本能を満足させるなら、それが誰であろうとかまわないのではないだろうか。攻撃しやすい他人を攻撃すればいいだけか。老人や子供などの社会的弱者を攻撃すれば満足できるわけか。しかしそれで何をやったことになるのか。ただ会話するだけではなく、他に何をやっていたのか。攻撃とは具体的にどのような行為を指すのだろうか。何かを暴力的な行動に及んでしまったのだろうか。それとも脅して金を巻き上げたとかあったのだろうか。その辺の内容はすべて作り話の内容になってしまうらしい。偶然におかしなことを述べているだけか。君は見ず知らずの人の世間話につきあわされているのか。具体的に誰が何のことを言っているのかわからない。たぶんそれも君には関係のないことなのだろう。君は誰かの影となってどこかをさまよっているらしく、文章を記している誰かにとっては所在不明としか思えないようだ。言霊は君から遠く離れてしまっていて、君が思っていることをかすかにしか聞き取れない。語っている者とそれを記している者が離れすぎている。それで何が構成されようとしているのか。その両者を無視しながら、文章はただいい加減なことを述べているだけだろうか。文章が述べているのではなく、君が述べているのではないか。そして君ではなく、他の誰かがわけのわからないことを口走っているわけだ。どうやら言葉が錯綜して、その場は混乱状況に陥っているようだが、この際そんなことはどうでもよく、余白に適当な言葉が並べばそれでかまわないのかも知れず、そんなことを述べながら、誰かは自らのノルマを達成したような気になるらしい。やはりそこでは誰が何を述べているのでもないのだろう。何を述べようと、どこから苦情がくるわけではない。要するに誰かは完全に無責任な立場を占有していると思いこんでいる。それは許されないことか。誰にとって許されないのか。君はそのことについてどう思っているのだろうか。何とも思っていなければその先にさらなるいい加減さを導入してもかまわないのか。しかし実際には何を述べているのだろうか。そしてそのような文章が構成されている事実を誰が許しているのか。言葉を弄すればさらにわけがわからなくなってしまうだろう。何を述べているのかわからないのはもちろんのこと、誰がそれを述べているのかもわからない。たとえそのすべてが冗談であろうと、他者に対してそれがまったく通じていないのかも知れない。要するに何について語っているのでもない状況なのか。それで君はどうしたいのか。そのままそれを続けてしまうつもりなのか。いくら続けても何がもたらされるわけでもない。それらは紋切り型の無限循環を構成するだけだ。やはりそれは冗談ではないのだろうか。冗談では収まりきらずに、もはや狂気の領域にまで踏み込んでしまったのだろうか。そんな大げさなことでもないだろう。それらは至って平静が装われている。静かなる狂気といったたぐいのものでもなく、内容に何の変哲もなく、ただのつまらない内容になっているだけか。そうだとすればそこから何がわかるのだろうか。つまらないこと以外に何を知れば気が済むのだろう。たぶん何かが狂っているのかも知れない。


10月15日

 少しは冷静になって考えてみよう。目の前には架空の風景と架空の時間が横たわっている。ここはフィクションの中か。今さら作り話を構成できるとは思わない。今さらなのではなくかつてもこれからもそれは無理だろう。そして無理だからこそをそれを試みたくなる。結果などはもとからわかっていることだ。どうせ何もできはしない。誰がどのような結果をもたらそうとしても、結局何ももたらせない。そして今こそ間違ったことを主張しなければならない。そうすることで機会がもたらされ、そこが現状を打破する突破口となる。君はそれほどまでに妄想から脱却したいわけか。何が妄想なのだろうか。国際情勢についてわざとわけのわからない見解を述べることのどこに欠陥があるのか。そのすべてが欠陥であることはわかりきっている。では今はいったいいつなのだろう。そんなことを問いたいわけではない。どうやらさらにわけのわからないことを述べようとしているらしく、その一歩手前で躊躇している風もあるが、どうせまたくだらぬ現状に染まっている者たちを馬鹿にしたいだけなのだろう。なぜまじめに述べられないのか。何をまじめに述べればいいのかわからない。それらのすべては君とは無関係なのではないか。そうだとすれば今さら何を述べているのか。そこから何が見いだされるわけもなく、何も語ることもないのに言葉を連ねているのはいつもの通りだ。ただ目の前を人が通り過ぎ、時間も場所も流れ去り、やがて誰もいなくなり、何もなくなってしまうだけだろう。そこで自らが何をやるべきかを問うているわけでもない。やるべきことは何もなく、生きることも死ぬこともできず、そんな言葉の連なりに酔いしれているほど愚かにもなれない。そうではないのだろう。君はそれらの言葉とは無関係の状況のただ中で暮らしている。何も見いだせないのはそんなことと無関係ではない。多くの人々はただ働き続ける。仕事にあぶれた者たちの何人かは犯罪行為に手を染めるが、それで何が解決するわけでもなく。誰が何を解決させようとしているわけでもない。この世の中はそんな風にしか動いてゆかないのだろう。その中である者は富み、またある者は貧しい。結果としてそうなってしまうのはわかりきったことだが、建前としては絶えずその貧富の格差を縮めてゆかないと、多くの者が不幸に感じられてしまうのだろう。多くの人々が同じような経済状況の中で暮らしていないと不公平に思われてしまう。贅沢な暮らしをしている者たちに対する風当たりが強くなってしまうわけか。君たちは金持ちをねたんでいるわけか。そんな簡単な構造ではないだろう。正当な手段で金儲けに成功したと思っている者たちはそれが当然だと思っているが、たぶんそれに成功するのはほんの一握りにすぎず、多くの者たちは普通に暮らしているのかも知れず、その普通さに不満を持っているのかも知れない。大したことのない人生に気づいているわけか。要するに夢を求めながらもその夢から覚めているのだろう。自らがささやかな人間であることに不満を持ちながらも、そのささやかの中にいいわけを探し続けている。そんな自らを正当化しなくては生きていれられないか。そんな風にして成功への期待と現状への不満が渦巻き続けているのが現状なのだろうか。人は自らについて客観的な評価を下すのを怖がっている。それを忘れるためにあるのが気晴らしの娯楽だろう。何もしないときは何も考えようとしない。むやみやたらと立ち止まって考え込んでしまったら、自己嫌悪の泥沼に引きずり込まれてしまうだろうか。それを忘れるためには娯楽と仕事以外に何があるのか。冗談にもほどがある。図式的に何を述べても無駄だろう。たぶんそう述べている君はそれ以外の多く事象を見落としているのだろう。そうでなければ人は皆狂ってしまうか。世の中にはそれ以外に見聞し体験することが無限にありそうだ。それらのどれ一つとして同じようなことはない。人それぞれに違った感覚で様々な出来事に遭遇し続け、その中でいちいち気にとめるようなことはあまりない。何について考えようと、それが自分に返ってくることもあまりないような気がする。自分が直接関わり合いになるようなことも限られてくる。たぶんそのほとんどか間接的にしか自らの近辺には及んでこないのだろう。自分が直接体験することと間接的に見聞することとの間には、その質においても量においても著しい隔たりがあるのかも知れない。そのような点で自らに入ってくる情報があまりにも多すぎて、いちいち気にとめている暇がないといったところが偽らざる実感なのではないか。それに自らに無関係と思われるような情報を真に受けて、それについて何からの見解に至ったところで、いくら意見を述べようと、情報発信している当事者たちには無視されるだけだろう。しかし当事者たちとは誰なのか。どこの誰が情報発信していようと、そんなことを気にとめてどうするのか。そこから何が導き出されるというのだろう。やはりそこには空虚しかないのだろうか。


10月14日

 休み休みに冗談を述べて何になるのか。これから三日間も休む羽目に陥りそうだが、その間に体調が元に戻ることがあるだろうか。君は誰の体調を心配しているのか。すぐに死ぬとは限らない。徐々に衰えていって、最後の方は精神が崩壊状態となってしまうかも知れない。しかしそうなるのは今から何年後のことだろう。数年後か数十年後か、あるいは数百年後か数千年後か、後者はあり得ないか。すでに旧石器時代人の平均寿命はとっくの昔に超えているはずか。だがこれからいくら生き延びようと、何がどうなるわけでもなく、死んでしまっても同様だろう。君はいつまでも逃げ続ける。何から逃げているかもわからないまま逃げ続けている。そんなのは嘘だろうが、それでも何かから逃げているつもりになっているらしい。たぶんそれは冗談のたぐいだ。君は現実から逃避したいのだ。だがそんなわかりきった結論には魅力がない。逃げることが許されないのに、逃げているつもりになっている。誰がそれを許してくれないのかといえば、それは君自身に違いない。逃げているつもりになっているのも、それを許さないのも、そう語っている君自身なのか。そんなはずがないと思いたいのか。しかし誰がそう思いたいのか。それも君自身が思っていることなのか。何か自家中毒に陥っているような印象を持っている。すべてが嘘だと思いたい。そして何となく馬鹿げているような気もしてくる。何が馬鹿げているのだろうか。まだ何も述べていないのではないか。人は人として生きていけないようだ。ただ生きているだけだ。それにどのような意味を付け加えたいのだろう。夢を追い求めてはいけないのか。夢と現実には開きがありすぎる。まったく重なる要素がない。夢もなく現実もないのかも知れない。何が夢で何が現実なのかわからない。それはただの言葉でしかない。さらに言葉を連ねているだけか。そこから何がわかるのか。やはり君には何もないというわけか。何もないし、何をやっているのかわからない。要するに何もわからないということだろうか。何をわかろうとしているのか。何について語ればいいのかわからない。現状はただ何かから逃げているにすぎない。だが逃げ切れるとは思っていない。逃げている何かに追いつかれてしまったらそこで終わりとなってしまう。その何かとは何なのか。昔誰かの夢の中では、奈良の大仏殿のような建物の中で、巨大な大仏のようなものが動き出して、それに追い回されていることがあったらしいが、それが君だとは思わない。その頃の誰かの意識の中には君など存在しなかったはずか。君は誰かの影でしかないはずか。何がそこに存在するわけでもなく、何も存在しないわけでもない。君には実体がない。君自身が夢の中の存在なのではないか。そんなとらえ方をしたことはかつて一度もなかったはずだ。君を捉えることはできない。それは君が君でないからか。だがそれで自問自答をしているわけでなく、ただ無駄に言葉を並べているにすぎない。誰かの意識に君という現象を捉えることなど不可能だ。そんなことをいくら述べてみても、何がわかるわけでもない。しかし他に何ができるだろうか。何もできないからそんなことを述べ続けているだけか。それで気が済むとは思えない。誰の気が済むような内容を求めているのだろう。それらの文章は何を求めているのか。どのような内容になろうとしているのか。だがそこにとどまることはできない。無内容を果てしなく続けることはできない。何かを述べていれば必ず内容がついてくるはずか。ついてこなければどうするのか。今がその状態なのではないか。それでも何かを述べている。誰が何を述べているのかわからないが、それを君が眺めているらしい。君の心にはまだ余裕が残っているようだ。薄ら笑いを浮かべながら画面を横目で覗いている。何かそこに障害でもあるのだろうか。言葉を繰り出す上で障害となっているものは何なのか。この世界がつまらないと思うのは、誰の実感に結びついているのだろうか。ではそこから何を探し出さなければならないのか。何か興味のある現状に遭遇する必要があるのかも知れないが、それは偶然に出会わなければならないことか。ではそれを待っていなければならないのだろうか。君はいつまで待ち続けることができるのか。出会う前に誰の寿命が尽きてしまってはそこで終わりか。たぶん偶然を待っていたらそうなってしまうだろう。ならば君はこの世界から消えてしまう運命にあるわけか。なぜそう結論づける必要があるのか。まだ偶然の可能性が残っているはずだ。要するに君は終わりから逃げ続けながら、ひたすら偶然の到来を待っているわけか。だがそのいつか到来すべき出来事を知ることはできない。今は知らなくてもかまわない。事前に知ってしまったらつまらなくなるが、案外君はすでにそれを知っているのかも知れない。それはたった今思い浮かんだことだ。君は自らの終わりから逃げながら、ひたすら自らの終わりを待ち続けている。それらの文章が偶然に終わってしまうことを願っているのかも知れない。


10月13日

 誰がそんなことを述べているわけでもないが、誰もいない部屋の中で誰かが独り言をつぶやいている。この意味のない苦難を乗り切らなければいけないのか。人々はつまらぬ思いこみに踊らされている。北朝鮮の背後についているのは中国ではなく、非難の急先鋒である、他ならぬアメリカだ。おそらく北朝鮮の軍部はアメリカのコントロール下にあるのだろう。北朝鮮に一騒ぎさせては東アジア諸国の不安感を煽り、今にも軍事紛争が起こるかのように騒ぎ立て、その地域でのアメリカの軍事的勢力圏を維持しようとしているわけだ。そうでなければ朝鮮民主主義人民共和国とかいう、どうでもいい国家が存在する意義がない。単なる無駄で無意味な国でしかない。今どき独裁国家など嘲笑の対象でしかない。さっさと民主化して普通の国になってしまえば、何不自由なく暮らしていけるのに、その狭い国土で貧窮の生活を強いられている人民たちを支配することに何の意味があるのだろうか。独裁国家は世界征服に乗り出さなければ、単なる貧しい田舎でしかない。その貧乏国が核兵器を開発してどうするのか。核兵器が自衛の手段となるはずがない。本気で戦争すれば、すでに核保有国のロシアにも中国にもアメリカにも勝てないのはわかりきっている。それでもその国の支配層はくだらぬ誇大妄想を抱きながらも自己満足に浸っていられるのだろうか。とりあえずそんな国でも周辺諸国にとっては何らかの利用価値があるわけだ。アメリカにとっては東アジアの軍事力を維持するための口実であり、韓国にとっては南北統一まで民族の団結を維持するための目的となり、中国にとっては民主化を遅らせるためのいいわけとして多少の存在意義があり、日本国内に目を転じれば、安倍政権の目下の生命線は北朝鮮にありそうだ。北朝鮮が元気に騒いでくれているうちは、それに対抗姿勢をあらわにしている安倍政権も安泰というわけだ。何かといえば北朝鮮を非難していれば、他のことはおろそかであろうと、それで丸く収まってしまうような気がする。いつまでもそんな態度を貫いていれば、馬鹿な日本国民の大半も支持してくれることだろう。要するに朝鮮人民の悲惨な境遇は同情の対象ではなく、今やそれにかこつけて自国の立場を正当化するために、是が非でも利用しなければならない対象となっているわけだ。他国の不幸を利用して自国の繁栄に結びつけなければ、他国の存在意義がない。そんな国家主義の餌食として北朝鮮は格好の存在なのではないだろうか。とりあえずアフガニスタンもイラクも、もう利用するだけ利用しまくってしまい、後はどうにでもなってくれてかまわないようだが、どうも国家主義による次の標的はイランか北朝鮮らしく、その二国が後数年で片がつけば、その次の標的はどこになるのだろうか。アフリカのスーダンあたりかも知れないが、はたしてスーダンにどのような利用価値があるのか。何の利用価値も見いだせなければ、他の内戦が続くアフリカ諸国と同様に無視されるだけか。たとえばナイジェリアあたりなら石油が出るし、現に欧米の大手石油会社の食い物になっているそうだが、一部のメディア以外その惨状に誰が関心を持っているとも思えない。アフリカ自体が地下資源を先進諸国に供給し続ければ、そこに暮らしている人々のことなど、どうでもいいような地域になりつつあるのではないか。要するにアフリカ人は勝手にエイズなどの伝染病で死んでくれればそれでかまわないということか。もちろん国連やユニセフなどがいいわけ程度の援助活動を細々と継続していくのだろうが、それで事態が好転するとはとても思えない。援助すればするほど援助されている側は援助に頼り切るようになってしまい、それだけ自立への道が閉ざされてしまうのかも知れず、そうかといって援助を打ち切れば、それでは飢餓でのたれ死にとなってしまうだけで、どちらにしろそのような悪循環を断ち切ることはますます不可能に近づいてしまう。たぶん解決法が存在しないのだろう。人が手を加えれば加えるほど衰弱してしまい、手を加えなければ枯れてしまう植物のごとく、現状はどうにも出口の見つからない袋小路にさしかかっているのではないか。しかしそれでもその地域に暮らしている人々は生き続けようとする。外側から見るのと内側から見るのとではまったく見方が異なり、そこで暮らしている人々にとってはそれが日常なのであり、どうということはない普通の暮らしなのかも知れない。それと同じように北朝鮮で暮らしている人々にとっても、それが普通の日常なのだろう。たとえば太平洋戦争当時の日本人も同じように暮らしていたわけか。当時の日本と今の北朝鮮とではどちらが悲惨なのだろうか。とりあえずかつての大日本帝国のように、これから末期的な状況が訪れるのか否かは知らないが、周辺国との国力の差を考えてみれば、かつての大日本帝国の方が今の北朝鮮より強かったのではないか。少なくとも大日本帝国は外国へ軍事侵攻をしていたはずだ。しかし君は無駄に言葉を並べて、何を語っているつもりになれるだろうか。そんなことはどうでもいいと思っているのか。やはり継続は無理なのかも知れない。そうやってわざと弱音を吐く理由を知りたい。


10月12日

 いくら粘ってもそこから先へは進めない。彼に対する批判は無効だ。しかし否定的な印象を抱いていることは間違いない。それは何かの予言だろうか。無意識のうちに何を伝えようとしているのだろう。床が傾いている。それ以外に気づいたことはないだろうか。君にはわかっていないことがあるらしい。いったいいつまでこの世の中は続いていくのだろう。そんなことは誰が知っているわけでもない。唐突に不協和音が鳴り響く。そんなことを知ってどうするのか。何を知ってしまったのだろう。もう時間がないということか。中途半端な継続はそれなりに息苦しく感じられ、先が見えてこないことから生じる焦りをどうすることもできない。このままでは明日になってしまうのだろう。そして明日になればなったで、またいつもの仕事が待っている。精神的に参っているのだろうか。どうも何かを語ろうとしてはいけないのかも知れない。我慢すればいつまでも我慢してしまいそうだ。しかしそれでいつまで生きられるのだろう。君は誰のことを語っているのだろうか。何をそれほどまでにして続けたいのか。なぜ追い詰められていってしまうのか。広い荒野のどこが狭いのか。何か矛盾していないか。それはわけのわからない成り行きだ。自分で自分の首を絞めているようなものか。しかしそれで断末魔の悲鳴を聞いている気分になれるだろうか。何を聞いていたいのでもなく、ただ音楽を聴いているだけか。それで何が解決するわけでもない。すでに病気は快方に向かっているらしい。本当にそうならそれでまた退屈をもてあますことにでもなるのだろうか。そういう展開には飽き飽きしている。自分を信じることの愚かさと相通じるものがある。それはどういうことなのか。なぜあきらめきれないのか。何をあきらめたら精神的に楽になるのだろう。それをこれから探らなければならないことの方が苦しいかも知れない。つらいことばかりで嫌になってしまったらどうすればいいのだろう。それは誰に生じている成り行きなのか。考えてはいけないのだろう。あまり深く考えずに、そのままの状態で推移していく成り行きに身をまかせていればいいのだろうか。そのままではあり得ない。絶えず変化していなければおかしいと思われるが、何がおかしいのかわからない。実感が何も湧いてこないのだから仕方がない。それでうまく困難を乗り切っていることになるのだろうか。結果としてそんな気分に近づいていってしまうようだ。たぶんそれがおかしいのだろう。そして気分的にはそれでかまわない。そこから軌道修正できないわけではないが、それをやる気がしないのはどういうわけなのか。そのままでもかまわないなら、そこで終わってしまうような気がするのだが、終わってしまったらそれで終わったままにしておいてもかまわないだろう。そこから先には何もない。何もないから文章を構成しようとする。そんな理由は嘘に決まっているが、そんな風にしか表現しようがない。君にはそれ以外の結論が見えているはずもなく、そんな終わりの状況の中で何やら言葉を弄している。それがおかしいことの原因となっているのかも知れず、そのおかしさに笑うこともできず、妙に眠くなり、今が深夜だということに気づく。文章になっていないような気がする。意味が通らないのではないか。そう述べている自らがわからなくなり、何を述べようとそれらはすべて意味のないことのように思えてくる。そんな話でかまわないのだろうか。今はそれしか導き出せないのだからそれはそれでその時点での真実なのだろう。それはつまらない真実に違いない。だがそれ以外を求めるには時間がなさすぎる。そんないいわけを述べつつも、それで結構調子に乗っているようだ。何がそこでの行き詰まりなのだろう。そんな行き詰まりならいつでも体験できるか。今体験しているそれが行き詰まりだとしたら、それ以外の行き詰まりを想像できるだろうか。何を想像したらおもしろいのか。誰に問うているわけでもなく、自らに何を問いかけているわけでもなく、そんな問いかけが無効であることも承知しているようだが、そこから何がわかるわけでもないらしい。君はすでに知っているはずだ。そんなやり方ではだめなことを知りながらも、それしかやりようのない馬鹿げた状況の中で、今さら何を考えても無駄かも知れない。しかしそこから言葉が湧いて出る。それは嘘だろう。そんな嘘がどこで成り立つのか。それはあり得ないことだろうか。それでも強引に言葉を連ねようとして、そこに継続に関するヒントが隠されていると思い、それをさらに推し進めようとして、その先のどこかでまた躓いてしまうのだろうが、そんな成り行きになろうと、またそれを繰り返して、それで何かを語った気になれるのかも知れず、たとえそれがごまかしだろうと、そんなごまかししか導き出せないことを恥じ入るでもなく、平然とそれを繰り返している現状があるらしい。まったく面の皮が厚いというか、いったいいつまでそんなことをやり続けるのか、その先の展望をまったく見いだせないようだ。


10月11日

 さっきから首をかしげながら斜めに傾いた画面を眺め続けている。いつまでそんなことをやっているのか。わけのわからない話だ。始まりはいつも始まりにすぎず、終わりはおしまいと混同され続ける。それでもしぶとく生き残りたいらしいが、話に無理があるらしく、そのままでは話になっていないようだ。そんなわけで静かに終わりの時が訪れる。何について語っているのでもない。いつもそんなことしか述べていないようだ。そのときの記憶は何かを示しているようだが、それがどんな意味を担っているのか、誰かの頭ではわかりかねる。ただそんな風に語りたいだけのように思われるが、文章の読解力に欠けているのだろうか。しかし何を読んでいるわけもなく、昼も夜もそんな具合に時が流れ、いつの間にか明日になっている。その間に何をしていたのか記憶がない。たぶん仕事に追われていたのだろう。過去も未来もそんな風に時が流れているわけか。野山を駆け回っていたのは遙か昔に違いない。そんな昔に君が存在していたとは思えない。では保守性とはどこから生じてくるのだろう。誰がそれらの制度を守りたいのか。誰がそれを望んでいるのか。そういう話の流れではない。他に何が流れているわけでもなく、ただ時が流れている。君もその言葉とともに忘れ去られる運命か。それは幸いなことだろうか。そんな話をしたいわけではない。ありのままの状況をねじ曲げて語り続けている。そこには何もないが、少なくとも言葉を記す画面が存在しているようだ。つまらないことを述べているうちに折り返し点を通過してしまったらしい。かなり馬鹿げているだろうか。それは何についての感想でもない。もはやそれらの文章を読み返す気がしない。面倒になってきたのでその場から消え去りたくなる。影の本体は何かを探しに遠くへ出かけてしまったらしい。だから死ぬのは君ではない。理由にも原因にもなっていない出来事に遭遇する。山道で迷っているのは動物か。動物が迷うわけがないだろう。利いた風な言葉に取り囲まれているだけだ。それらを語りつつある者たちは、この期に及んでどうしようもなく大人げない。しゃれになっていない。だからいつまでも逃げているわけにもいかなくなる。現状では何がどうなっているのか。それを誰が知りたいのか。苦し紛れに発せられた誰かの台詞が宙に浮いている。何をどう説明すればわかってもらえるだろう。同じようなことをいつまでも述べていて、そんなやり方に我慢がならないようだ。しかしそれで君がどうなるというのか。現状はまるで気が触れたような精神状態か。この世界はひどい状況になっている。それは君の思い過ごしだろう。君の目には何が映っているのだろうか。地表面はどこまでも平坦だ。そんなのは錯覚に違いないが、境目がまったく見えてこない。何の境界線を探し出そうとしているのか。霧が晴れても何も見えてこない。何をわかってほしいわけでもなく、人は人を避けながら生きている。他人と衝突したくないようだ。そんな臆病者が何を理解してもらいたいのか。現状はそんなことではないらしい。何かの競争に身をさらしている者たちには風景が見えてこない。夢遊病者の君は海辺で波の音でも聞いているのか。それがしゃれた雰囲気とは思えない。選曲が間違っているのだろう。さっきまでどんな音楽を聴いていたのか。人は何をやるために生まれてきたのか。それは嘘に違いない。無駄な問いかけが虚空に吸い込まれる。窮地に陥りながらも、まだそんなことを述べている。それの何が悪いのか。無意識のうちに何を知ろうとしているのか。かつて闘争に明け暮れていた時代があったらしい。今でも動物たちは弱肉強食の人生を送っている。気持ちに余裕がない者は命がけの成り行きに巻き込まれる。たぶん逃げ道をふさがれているのだろう。引くに引けない立場に追い込まれてしまうわけか。やはりそれは無駄な悪あがきになってしまうわけか。かなり話に無理がありそうだ。人は誰でもそんな生活にあこがれている。それも何かの嘘に違いないが、そんな生活とはどんな生活なのだろう。夜明けまでにはまだ時間がありそうだ。これから最後の望みを聞くとしようか。いったい何をどうしてほしいのか。とりあえず茶を飲みたい。まだ生きているのが不思議のようだ。何か不都合でもあるのだろうか。他人に聞かれてはまずい内容でも述べるつもりか。思わせぶりはすべて嘘だろう。何となくそれは違うと思われる。無茶な行動に訴えかけようとは思わない。そんなことをやっている暇はなさそうだ。言葉が続かないような語り方を試しているのか。わざとわからないようなことを述べている。それが限界には違いない。もう何も思いつかないか。それでも何か妙案がないだろうか。どうやってそれを続けようというのだろう。明らかに現状では無理がある。もはや文章として読めないのではないか。では何がそれを可能としているのだろうか。何が可能となっているのだろう。とりあえず何もかもが不可能だと嘘をつくことは可能のようだ。


10月10日

 人間が大量に死ぬ。それは日常茶飯事だ。まだ言葉の迷路から出られないようだ。今から数ヶ月前には何が起こったのか。夏に雷の音を聞く。政治に無関心でいられるはずがない。何を思いこんでいるのだろう。黙っていたら時代から取り残されていってしまう。しかし意味のない話だ。暗闇の中に魂が吸い込まれてゆく。そんなはずがない。毎日が同じような日々ではつまらない。神は世界の現状を哀れんでいる。それはつまらない思いこみだと思うが、誰がそんなことを思いこんでいるわけでもなく、どのような状況が否定されているわけでもない。君はまだ何も述べていない。何も思い浮かばないわけか。それが言葉となって文章を構成している。この世界には何もない。この時代は空虚で満たされている。また嘘をついているらしい。そうではないだろう。何を求めているわけでもない。また音楽を聴かなければならない。誰かが何かをやっている。崩れ去る意識の中でかろうじていくつかの言葉の断片を取り出したつもりになり、それらを寄せ集めて文章を構成しようとしている。そんな説明は要らないだろう。インスタントでは気に入らないか。形骸化している。真昼に沈む太陽があるだろうか。脈絡を欠いた挿入文だ。人工衛星からカメラが眺めている。この世界に人間など要らないようだ。誰が何を記し、それがどんな意味をもたらしているのだろうか。誰もそこにはいない。認めようのない意味不明だ。朝日を浴びて岩がほほえむ。気がつけば時間が止まっている。腕時計が壊れてしまったようだ。日を浴びたらまた動き始めるだろう。トンネルの中は生暖かい。ひどいことが立て続けに起こる。何を否定的に語っているのだろう。何を認めたくないのか。言葉の牢獄から外へ出られない。なぜか心が衰弱している。そんなはずがない。たぶんまたつまらなくなってしまったのだろう。首が傾いている。次第に呼吸が荒くなり、喘息の発作が止まらなくなり、やがて気を失ってしまう。鏡の中の自分に向かって何かを叫んでいるようだ。この世のものとは思えないほどのおぞましさにたじろぐ。またそんなはずがないを繰り返してしまいそうだ。繰り出された言葉と現実との間の背離が著しくなる。何でもないような音楽を聴いているだけだろう。気の迷いがそのまま意味不明になだれ込んでいるにすぎない。何が影響を与えているのか。それで現状と捉えているのだろうか。放っておくといつまでもそのままかも知れない。放っておかないはずがないだろう。気まぐれに重苦しい空気を取り払ってみよう。気まぐれではできそうもなく、少し真剣に取り組まないと、空疎な内容に文章を持って行かれてしまう。君の頭は空っぽだ。何も考えることができない。それが嘘になるだろうか。何も嘘をつくためにそんなことを述べているわけではない。空っぽの頭から角が生えてきて、顔は鬼の形相に近づく。能面のような無表情から眼球が消失する。君は誰の似顔絵を描いているのか。それの嘘の一部だろうか。言葉を記す一方で絵など描けるはずがないか。その両方が同時進行で続けられているわけか。だがさらなる嘘はつまらない。それが嘘だと思うならなおのことつまらなくなる。実際には何をやっているのだろうか。今は夜だろう。テレビでも見ているのかも知れない。何のために仕事をやっているわけでもない。つまらない夢など見ない方がマシか。では可能性はどこにあるのだろう。良くなる可能性をまったく見いだせない。真夏はとっくの昔に過ぎ去り、蒸し暑さとも無縁の季節だ。しかし君には関係のないことか。運命は変わらず、君をどこまでも引きずっていくつもりらしい。言葉はそれ自身を顕在化させたいだけだ。記されるために言葉があり、使われるために言葉はある。ただそれを見ているだけでは何も思い浮かばない。なぜそんなものに妄想をふくらませる力があるのか。勝手な思いこみを許し、意味をまとわなくても連なることができる。何かの中毒状態なのだろうか。もうそれは時代遅れなのではないか。用いている言葉が古すぎる。冗談でなくそんなことを思っているらしい。嘘だとは思わない。嘘でなければ述べてはいけないことなのか。そんな決まりがどこにあるのだろう。わかったふりをしながら、他人のわがままをおもしろがっている。それは君たちには知る権利のない嘘だろうか。そんな嘘がどこにあるというのか。ここにもそこにも嘘が転がっている。わかった風を装いながら相手の本心を探り当てようと必死だ。本心などどこにもありはせず、そのすべてがその場で取り繕われた冗談にすぎないこともご存じのようだ。冗談で何を述べているわけでもなく、述べているすべてが冗談だとしたら、そんなに愉快なこともないか。おもしろがりながらもどこかで道を踏み外し、それ以降は何もかもがつまらなく思えてくる。記憶が別の記憶と重なり合っていて、どちらに重きを置くべきか迷っているようだが、それで何を述べているわけでもないらしい。そのどちらもがどうということはないつまらない記憶に違いない。


10月9日

 やめることは危険ではない。ではこの先には何が待ち受けているのか。今は夜だろうか。今から数時間後は真夜中だろうか。今日も言葉が分散している。わかっているのはそんなことではない。何を今さら考えているのか。少なくとも知り得たことを語らなければならない。そうではないだろう。いつも何を述べていいのかわからないが、それでも何かしら述べているだけか。たとえば曇り空の下に赤茶けた大地が広がっている。川には濁流が流れ、次第に勢いと水かさが増してゆく。足下に散らばる雑草を踏み分けながら、誰かは土手を上ってゆく。上流で雨が降っているようだ。いつかどこかで土石流でも起こるだろう。何かが欠けている。くぼみの中に水たまりができる。泥水の中でボウフラでも湧いているのか。君たちは何を願っているのか。北朝鮮がどうなってほしいのか。格好の獲物を捕まえたつもりか。だが他人の立場を占有することはできない。早く氷が張る季節になってほしい。考えてみればただ遊んでいるだけではないか。おもしろければそれでかまわないのか。人は何をやるために生まれてきたのだろう。冗談ではないか。冗談で何を述べているのでもない。たぶん何かが違っているのだろう。読みが間違っている。神聖な窪地で何を願っているのでもない。そして何を述べているのでもないのはいつものことだ。夕暮れ時に東の空を眺め見れば、巨大な積乱雲が山脈のように連なっている。雲は心に何を語りかけているのでもない。そう思っていること自体が間違いなのだろう。そこから何かの兆しを感じ取ってほしいのか。真夜中に亡霊が窓辺に佇み、こちらをじっと見つめている。何を遊んでいるのか。いったい何をどうしてほしいのか。どの時空に出現する機会をうかがっているのだろうか。君には何も見えていない。状況を把握していない。それでもうまく立ち回らなければならないのだろうか。占い師の老婆が調子に乗っているようだ。狭い範囲で何を当てようとしているのだろう。これからどんな出来事が起こるというのか。なぜそれが君には関係のないことなのか。君とは誰だろう。使い古された台詞には魅力を感じない。心を閉ざす傾向にあるらしい。説明が足りなすぎる。それは誰のために為された配慮なのか。そんな言葉で何を説明しようとしているのか。そんなことを述べているわけではない。誰かはこの時代に目新しい出来事をもたらしたいようだ。だがそれが目的となっているわけでなく、それは別のところにあるらしい。いにしえの昔から連綿と連なる愚かさの系譜に君の名を刻みたいのか。意味がつながらない。身体が心を拒絶している。まだそこまで到達していないのではないか。君には未来も過去もない。今もないのだろうか。ついでに何を述べようとしているのか。良くなる可能性を事前に握りつぶしている。だから楽しい気分に近づける。だが言葉の使い方を間違っているのではないか。何が批評的な内容になっているのか。それこそ冗談でしかない。君の文章には批評性の欠片もありはしない。では良心はどこからやってくるのだろう。君のやり方がそれらの惨状をもたらした。誰にもまねできないやり方で、君は完全にいかれてしまったようだ。今では深夜に動物のうなり声のような奇声を発している。それを奇声と呼べるわけがない。本当に君は動物なのであり、狼男の真似事でもやっているのか。実際の光景を見たわけではないが、それらの狂態をどう解釈したらおもしろいだろうか。誰がそれを演じているわけでもなく、何が誰を演じているわけでもない。本当は誰もそこにはいないらしい。影が長く伸びている。今こそ冷静に考えてみる必要があるかも知れない。このまま続けて何になるのか。何を続けようとしているのでもなく、君はただ君とは関係のないことを語り続けたいだけのようだ。まるで文章になっていないような気がしてくる。わかっているのはそんなことではない。まだそこから遠ざかりきれていない。決まり文句が今頃になって出てくる。知っているのはそんなことではない。時間が迫っているようだ。額のしわを押し広げながら、老人は何を血迷っているのか。それは何をやる時間なのだろう。言葉ならとっくの昔に行き着いている。眼球の後ろ側に違和感がある。まだ死にたくはないらしい。いったい誰のことを述べているのだろう。これからどのような惨事が起ころうと、どうということはないようだ。すべての出来事から遠ざかろうとしている。もう眠りにつく頃だろう。その曲にこだわりがあるようだ。ここ一週間は休養の期間に当てられている。まだリハビリが終わっていない。何もできないのに何を述べようとしているのか。君は老人ではないらしい。君が語っているわけではない。では誰の行く末を案じているのだろう。心にもないことを頻繁に述べるべきではないか。それは君の台詞ではない。今の君には試行錯誤が欠けている。もうどうでもいいと思うなら、この先にどんな言葉を連ねればいいのだろう。そんな問いかけはいつもながらの無駄な悪あがきだ。


10月8日

 つまらない帳尻あわせにはだんだん嫌気がさしてきた。そろそろ適当に日付を調整した方がいいかも知れない。しかし何のことやらさっぱりわからない。今頃になって何がどうしたというのか。何を改めようとしても、もう遅すぎるのではないか。誰かの気まぐれにはつきあいきれない。年がら年中心変わりしているみたいだ。すべては徒労に終わるだろう。万能の力を備えているわけではない。君たちは状況に踊らされている。君も君たちもできすぎた話に疑問を感じない。ただ目立ちたいだけなのだろうか。君はかつてそれを知っていたはずだ。それは何かの秘密なのか。誰の秘密なのだろう。君自身の秘密ではないか。出生の秘密を知りたいのはテレビドラマの視聴者のたぐいだ。まずいコーヒーとおさらばしたいのは誰だろう。言葉の連なりが物語に発展するのを阻止しているのは誰の意識なのか。非業の死を遂げた者にはある能力が備わるらしい。それは前世なのではない。瞑想状態の誰かが非業の死を遂げた者から生じた電磁波を時空を超えてキャッチしているだけだ。君は恐ろしい夢を見て寝汗をかいている。その電磁波には彼の全生涯が情報として含まれているわけか。君はそんな作り話を信じている。冗談として信じているのかも知れないが、そんないいわけがどこで通用するはずもなく、何らかの妄想となって、どこかで物語の形態をなしているのだろう。今という時代以上の時代はあり得ない。言葉によって誰かの存在を封じようとしているわけか。それでも物足りないのだろうか。何をそれほどまでに見せびらかしたいのだろうか。言葉はすでに尽きているはずだ。他に何が尽きているのだろう。運が尽きている。いくら賽を振っても思い通りの目が出ない。君は賭に負けて斬り殺される。それはいつか見た映画のたぐいだろう。君の前世は必ず非業の死を遂げるはずだ。それが前世だと思いこまされる。多くの人々が信じ込んでいる前世には非業の死を遂げるという共通点があるらしい。非業の死を遂げた者だけが生まれ変われるのだろうか。不幸な人生を送った者だけが生まれ変われるのか。輪廻転生を信じる者には確信があるようだ。何を暴き立てたいわけではない。本気でそんなことを述べているのでもないらしい。ほんの気まぐれで心が揺らいでしまったのだろう。また誰かを助けなければならないのだろうか。そんな使命が誰にあるわけでもない。君にはそれなりの人生があるようだ。別に非業の死を遂げるわけもなく、生きもしないし死にもしない。君には魂がない。ただの影にすぎない。誰の影でもなく、他の誰の影でもある。影に人格が宿っているわけもない。徐々に誰かの体を内部から蝕んでいる。君は赤さびの一種かも知れない。ある時は確かにそうなのだろう。十数年前の工事現場では鉄骨が腐食していた。なぜ精神の異常を来しているのか。誰がそうなのか。君はそこで何を見たのだろう。それを述べるには勇気が要る。書家の顔真卿は逆さにつるされて死んだそうだ。君が見たのはそんな光景ではない。何を体験したのでもなく、ただ文章を読んだだけではないのか。では君を悩ませている原因は何なのか。まともな文章を記せないことがそんなにつらいのか。それでも嘘に違いない。人も動物も君のもとを去ってゆくだろう。それでも君は生き続け、どうでもいいような風景を日がな一日眺めている。それでも孤独に耐えているつもりなのか。人の死は捉えようによってはすべて非業の死となるのかも知れない。すべてはそこでの言葉の使い方にかかわってくる。誰かはどんな話をドラマ仕立てにして語ろうとしているのか。できあがった映像にはどんな真実が隠されているのだろう。影はさっきから何を見ているのでもないらしい。誰かがどこかで修行を重ねていると思いこんでいるらしい。そうやって獲得された力を使ってどこへ向かうつもりなのか。この世には人がいすぎるのかも知れない。生まれすぎの死にすぎなのだ。それで誰が困っているのだろう。鬼門の方角に植木をおいている。それで育つとは思えないが、それでやってはいけないことでもやっているつもりになれるだろうか。そんな風に思っているつもりはない。同じ曲を別の奏者が演じているだけか。華やかな舞台で何を演じたいのか。この際恨み辛みは封印しておいてほしい。他にしゃべることがなければ無言でいてもかまわない。その方がどんなに気楽でいられるだろうか。当人にその自覚がなくとも、底の浅さは誰にでも感じ取れるかも知れない。君は絶えずそれ以上の状況を想定しているのか。狭い範囲で誰かと何かを競うのも気晴らしにはなるだろうが、それがすべてでないことぐらいはわかってほしいか。どこの誰が警鐘を鳴らしているのでもなく、それが絵画になって画家が身を滅ぼすだけだ。何かを描いたと勘違いしてしまうわけだ。真っ白な布地を眺めながらできあがった絵を夢想し続ける。それだけで何がもたらされるというのか。それで危機が去ったと思いこんでどうするのか。感知しうる何もかもが嘘をついている。


10月7日

 小雨降る中何かしら思うところがあるらしい。秋が深まっているのだろうか。何が滑稽なのか。石垣に苔が生えている。誰かは山を登ることで何らかの達成感を得たいようだ。頂上にたどり着けば感動するだろう。箱庭の中にも山があるのだろうか。庭には芝生が植えられている。たぶんどこかに気配りが行き届いているのだろう。だが想像力が衰えている。手元に何もないことに気づく。動揺している。心がよどんでいる。見透かされた思いを取り消そうとしている。結論に修正を加えるつもりらしい。何かが違っている。答えることのできない問題に直面している。また首が曲がっているのか。心が奇形を受け入れる。何かがそれと似ているような気がする。突飛な発想では乗り切れない。つまらなければそこで終わりだ。どこまで続けられるのか。どこに決まり文句を挿入するのか。君は何も覚えていない。まだ焦点が定まっていない。目つきがおかしい。笑っているのは誰なのか。風景を選べない。それは新しい試みだろうか。気が狂っているのかも知れない。そんなに風に思いたいだけだろう。まだその先に虚無が潜んでいるようだ。だからこうして道を歩いているのか。話の中ではそのつもりのようだ。だがまったく歩調が早まらない。それどころがどんどんゆっくりとしてくる。ここらで一休みといきたいところだ。まったくやる気がしない。何をやっているのかわからない。たぶん文章でも記しているのだろう。それが重荷となっている。本当にそう思っているのならやめてしまえばいい。誰がやめろと言っているのか。ただ文章にそう記されているだけだ。どうなら何かが封印されているようだ。誰かがそれを暴いてほしいと思っている。どこに何が埋もれているのだろう。まだそんなところでうろうろしているのか。見えているものが目的となる光景ではない。標的は心の中にあるらしい。そこから先に何が待ち受けているわけでもない。何かの深みにはまっているのか。泥沼の中で身動きがとれない。それはいつかの映像だろう。君は視線を突き放して、頭の中で幻想を眺めている。壮大な眺めだ。そんなはずがない。今見ているのは文字が適当に並んでいる画面にすぎない。そこにどのような幻想が見いだされているというのか。風景から何が飛び出してくることもない。それはただの絵画だろう。なぜそんな嘘をついているのだろう。他人の心が読めない。何をためらっているのか。一つの方向性を確立できない。はじめからやろうとは思っていないのではないか。批判することは忘れてしまったようだ。それは変わった試みだ。何が一風変わっているのだろう。風は何を変えようとしているのか。自然の成り行きにすぎないことか。風に流されている。濁流を眺めている。映像の中から行いを咎められる。そんなことをやってはならないそうだ。しかしはい上がるべき大地が見当たらない。くだらぬこだわりに躓いているらしい。なぜその程度のものが障害物となっているのだろう。その状態を維持できないのは、君が老いている証拠か。なぜ馬鹿なことを述べているのだろう。本当に愚かだからそんなことを述べているのだろうか。だいぶリラックスしてきたようだ。何かと引き替えにして精神的な安定を求めているのだろうか。一定のクオリティから遠ざかる。量と質を両立させることは困難のようだ。何をやってもうまくいかないのはいつものことかも知れないが、そんなことを述べているうちにさらに眠くなってくるのはどうしてなのか。誰に何を問うているわけでもない。問いかけの対象を知らず、誰の存在も感じることはできない。それでも知らない間にだいぶ言葉が増殖しているようだ。それをさらに続けようとしているわけか。いつまでも続けても高みにたどり着くことはないだろう。高低の差を知らない。何をどう述べても同じことのように思われる。すべてが無駄なのだろうか。そう思いたければいつまでも思っているがいい。しかしそれは誰の台詞でもない。何を感知しているわけでもなく、何を知っているわけでもない。君は終わりの時には存在していないだろう。そんな風に語るのはおかしい。君が語っているわけでもないのに、誰かは盛んに君という言葉を使いつつ、あたかも君が君のことを述べているようにみせたいらしいが、それが無駄というものか。実際はそうではないのだろう。実際などという状況は文章から外れている。過去の話題にこだわり続けるのは状況から外れた行為だ。そこから何がもたらされるのだろうか。新たな文章を続いてもたらされるだろうか。まだ何を述べているわけでもなく、語っている内容は依然として意味をもたらせず、そんな現状をいつまでも維持し続けている。それで何を説明していることになるのか。また風邪を引いたらしい。外ればかりのくじを引いている。場合によってはそれでもかまわないのだろうか。言い出せないことばかりが述べられている。いつ何を述べているつもりになれるのか。このままではそのままだろう。意味のない内容が続いているらしい。


10月6日

 今さら何を説明する必要があるだろうか。このところ静かな日々が続いている。少し静かすぎて物足りないか。そう思っているのならそれでもかまわない。実際に心を揺り動かすような出来事は何も起こっていないのだから、それはそれで自然の成り行きには違いないが、そのまま何も述べずに意識が消滅してしまうわけにもいかないようで、誰かは何でもいいから少しは文章を構成する気になっているようだ。要するにこれからつまらないことを述べようとしているわけだ。まったくご苦労なことである。それも誰かの意志なのだろうか。それ以外に目的が感じられない。文章を記してどうするのか。ただ文章を記しているだけか。そんなどうでもいいような現象に感情移入しても仕方がないが、そう述べてまた現状から逃げてしまうのか。逃げているわけではなく、果敢に立ち向かっている最中なのではないか。そのような見方も一方にはあるらしいが、何について述べているわけでもないことは一目瞭然だ。言葉を記す動機がないままに適当な文章が構成され、それを記している意識を無視するような形で、いつもの無内容が出現している。そしてそれがどこまでも執拗に続けられ、神経をすり減らす方向へ作用し続け、さらなる無内容を文章の中に呼び込もうとしているようだが、それでも自意識は平静を保てるだろうか。たぶん無理なのだろう。何を述べようと無理なものは無理に相違ない。では無理なら気が狂うだけなのか。そんなはずはなく、それでも至って平静を保ち続けるのだろう。無理なのにどうしてそれが可能なのか。そんなのははじめから嘘に決まっているからか。それに対する反論はどこからも湧いてこない。そんなわけで言葉はどこからも出てこないようだが、それでも心は平静そのものだろうか。それも嘘なのだから平静なのだろう。わざと述べていることを矛盾させて、文章を長引かせているようだ。その他に何か余計なことをやろうとすれば、たちまち心の均衡が崩れて、感情的に激高してしまうのだろうか。できればそんな精神状態にはなりたくないか。争いごとを好む人々ならそれも楽しいだろう。格闘系のスポーツでわめいている者たちにはそういう特徴がありそうだ。人はそんな風にして何かを発散させて、爽快な気分に至りたいのだろうか。しかし何かとは何なのか。精神的なストレスのことを念頭に置いて、そんなことを語っているわけか。誰が語っているのだろう。彼らは肉体的なストレスを加えるのと引き替えにして、精神的なストレスを取り去ろうとしているわけか。いきなり説明もないが、そんな簡単には説明できないかも知れない。特に何を説明しようとしているのではないようだが、ただいい加減に言葉を弄したところで、何を説明していることにもならない。そんなことはわかっているつもりのようだが、何となくそんなことを述べている内に、興味のないことを説明する気がなくなってきた。さっきから何か気になっているのだろうか。それがつまらない思いこみだとしたら、それはどういうことでもなくなってしまうかも知れない。ただ気休めに言葉を記しているだけだが、ここに至って気休めとは何なのか。その場だけで何を取り繕っているのだろう。いつものようにその場の雰囲気に流されて、やるべきことを見失っているわけか。そういうわけでもないような気がするが、至って平穏に日々を過ごしているのはどういうわけなのか。見いだすべき現象を見いだしていない。死ぬような思いで何かを述べているわけではない。岩にもかじりつく思いで石版に文字を刻んでいるわけでもない。それは何かの冗談だろう。なぜ世界はそれほどまでに平和なのか。別のどこかの地域では死にものぐるいだから、それとバランスをとるために君は余裕で生きていけるのか。そんなはずがないだろう。君はそうやって何を断念しているのだろうか。ある意味では生きることをあきらめているのかも知れない。激動の地域に突入することをためらっている。そして今は何のリアリティも得られないような時空で暮らしているのかも知れない。人は怠惰な暮らしの中で身も心も肥満体になり、考えることも活動することも断念する。そしてちまたにあふれかえっている利いた風な意見に染まりつつ、本当はそうではないような気になり、さらに無駄なことを語り続け、ますます現実から遠ざかるのだろう。何かを述べているつもりが、結果として何も述べていないことになり、そんな成り行きをも認識できなくなり、どうしようもなく何かを述べようとして、空疎な内容をさらに推し進めることになる。そこまで状況が進展しても何も気づかず、自らの心の内を愚かさが覆い尽くしている現状を認めようとしない。そんなことがあり得るだろうか。さっきまで君は何を述べていたのだろう。自らを卑下するのもいい加減にやめてほしいか。だがそれも一つの成り行きであり、その状況に即した紋切り型の内容を構成しているようだが、はたして君は本気でそんなことを述べている自覚があるのだろうか。確かに切羽詰まった状況なのかも知れないが、どうもそれは違うような気がする。まだこの期に及んで君は嘘をついているわけか。


10月5日

 成り行きまかせで言葉を連ねて、それで何を述べているのでもないことになるだろうか。たぶんそれは嘘になる。いつもの問いかけが発せられ、それに対するつまらない回答の出現を期待して、さらにそんな成り行きになったことに落胆し、それが予定調和の展開であることを認識する。今回はそんなわけにはいかないだろう。いつもいつも同じようなことを述べていてはたまらないか。今は何を思っているのだろうか。今は数日前の今だ。まだ遅れを解消できていないらしい。いつ夜になったのか。駅まで車を運転してきたはずだ。何に気づいていないわけでもない。ただ唐突に何かを述べているようだ。昨日は何について語ろうとしていたのか。家に帰ったら何をやるべきなのか。他人の思考から何を借りてきたのだろう。それは書物となって著されている。いつまで経ってもそこから遠ざかれない。夜道で興味深い出来事に出くわすだろうか。期待しているのはそんな成り行きではないが、誰かはそこから言葉を抽出したいらしい。今さら何に飢えているのだろう。のどの渇きなら何かを飲んで鎮めることができる。さっき清涼飲料でも飲んでいたのではなかったか。君はそれとは違う展開を期待していたはずだ。誰が何をやろうと、それに対して興味を示さないのは、それを感知できないということか。いったい何に感動すれば憂さを晴らすことができるのか。憂さ晴らしに言葉を連ねているわけか。何かがその脇を走り抜ける。あくびとともに力を使い果たす。いつ気休めの到来を望んでいたのか。いつまでもどこまでも空白の領域にとどまり続ける。何がそれを続けているのだろうか。たぶん感傷的になっているのだろう。秋は滅びの季節か。そんな風には思わない。何も思わないのかも知れないが、そう思っている本人は至って無自覚だ。自らが何をやっていようと、そんなことに関心はなく、何気なく遠くを見つめているだけのようだ。見つめているのは当人ではないらしく、それは自らの影と認識しているようだ。だから君は何を思っているわけでもない。そんな理屈は通用しないだろうか。理屈になっていないような気がするが、それでもその場は通り過ぎてしまう。誰かの意識は時間の経過について行けない。だから数日前の時間帯で無駄に言葉を弄している。そんな風に思ってみても無駄だろう。何を述べられるわけでもなく、何を語る気にもならない。すでに皮肉な台詞は出尽くした感がある。いったい何について述べているのか。語っているのは君ではないと思われるが、それは責任逃れの言説になるだろうか。状況は誰に味方しているのでもないらしい。君は完全に君自身から分離されてしまった。君は君以外の人格を担いたかったのか。このままでは君の物語を入り込ませる隙を見いだせない。物語など今の君からは出てこないだろう。君は人に出会えない宿命にあるのだろうか。しかし人とは誰のことを指すのか。毎日のように会っている人は人ではないのだろうか。それらは同じ動作を繰り返すロボットのたぐいか。本当にそんな風に思われてきたら、それは気が狂っている兆候だろうか。それともそれは冗談のたぐいなのか。冗談ならすでに出尽くしたはずか。ならばそれらの言葉は何を語っているのだろうか。やっとここまでたどり着いたのに、ここがどこだかわからない。そしてそんな嘘がいつまでも通用するとは思われない。しかしその嘘の内容を君は知り得ない立場にある。文章はただ話を込み入らせるために存在しているらしい。おそらくそんな無内容も君には関係のないことなのだろう。関係ないのになぜそんなことを述べているのか。述べているのが君でないとしたら、誰かは実に難儀なやり方を駆使して文章を構成しているようだ。言葉と言葉の間から苦痛や苦悩の感情がにじみ出てくる。放っておけば痛さに耐えかねて気が狂い、しまいには体のあちこちから血が噴き出して死んでしまうだろうか。そうなったらそれはフィクションの中で語られている内容になるだけか。言葉はその場の状況次第でどこへでも逃げてゆき、あらぬ話をいい加減にでっち上げようとする。それが嘘としての言葉の動作となるだろう。君にはそんなやり方が似合っている。場合によっては似合いすぎていて、それ自身が君そのものと化しているかのように見える。時折そんなことを思いつくのだから、愚かさの極北に誰かの意識があるのかも知れない。そんな風に語ってしまうこと自体が心が虚無に浸されている証だろうか。そうであったなら少しは気休めになるかも知れない。理由など知り得なくてもかまわない。そうなっているだけで十分なのであって、今さらそこから抜け出ようとすることがいらぬ行為にすぎないのかも知れない。何を求めているのでなく、それを求めているのでもない。そうなってしまっていること自体がフィクションなのだから、誰がそこで語り続けているわけでもない。ただ言葉が自ずから並んでいるのであって、そんな嘘を誰が信じようと、それが君の意見となることはないだろう。君にはまだ生きようとする意志があるらしい。


10月4日

 この世界には何が見いだされているのだろう。そこには何があるのだろうか。この世界は何に支配されているのか。そんな問いは無効だ。誰が何を問いかけているのでもない。何を問いかけようと、答えが返ってくることはない。すべては冗談の範疇に入ってしまうような問いかけになっている。何を問いかけようと、本気で問いかけていることにはならない。答えが返ってくることを想定していない問いかけになっている。それを打ち破る問いかけをもたらせない。ではすべては馬鹿げた戯れ言にすぎないのだろうか。それがすべてであるはずもなく、何がすべてであるわけがない。すべてがすべてではなく、すべての一部分をとなっている。言葉や物ですべてを占有することは不可能だ。その存在自体が不完全である。別にそうしようと思っているわけではなく、それを試みているわけでもないが、なぜか安易に問いかけるとすれば、すべてに対してそう問いかけてしまうのかも知れない。要するにすべては無駄で無効で意味のない問いかけとなってしまうわけだ。それがその場での限界となっている。そしていつまでもそんな問いかけが繰り返されてしまう。なぜそんな状況となってしまうのか。考えていることと思っていることと記していることとの間に関連性を見いだせなくなる。やはりそんなのは嘘だろうか。何がやはりなのか。この世界の中で君は何を知り得たのか。何を糧として生きているのだろう。努力を怠り、怠惰の内に見いだされる空虚をうち捨てることができない。それでも努力しているつもりになれるのはどうしてなのか。つまらないこだわりが生じていて、そこに虚無が入り込む隙が生じている。そんなのはあり得ないことか。現に何も思いつかないのはそういう原因があるからか。正しいことを述べているわけではなく、たぶん思い違いや勘違いに基づいているのだろう。それ以外に何が見いだされているのでもないらしい。見いだそうとすればいくらでも見いだせるのかも知れないが、その気がしないのはどういうわけなのか。思いもらぬ結論に至りたいのか。では何に突き当たっているのだろう。数日後の天気は快晴のようだが、数日前の雨空の下でことさら空模様を気にしていたわけでもない。それとこれとは関係ないかも知れないが、それにもこれにも興味が湧かないのはどういうわけなのか。要するにすべてが君とは無関係というわけか。何を見いだそうとしているのでもなく、夜が明けてまた日が沈んで夜が来る。昼の間は何をやっているのだろう。雲は流れ雨が降り風が吹き、ようやく妙案を思いつき、それを実行して、ややこしい嫌がらせをすべて仮想のゴミ箱へ捨ててしまった。これでいいのだろうか。とりあえず気分は爽快だ。文章表現としてはわけがわからないが、何となく雰囲気だけでも感じ取れるかも知れない。そこに真実が見いだされている。結果的には何がどうなったわけでもなく、それがどうしたわけでもないが、多少の言葉を記す時間ができたらしく、今はそれをやっている最中のようだ。しかしそのままでは先が見えている。いくら文章を構成したところで、それは君の思考とは無関係だ。空では雲が風に流されている。君はその先を見越して新たな試みを準備中なのだろうか。まったくそんな風には見えないのはどうしてなのか。その理由を誰が知りたがっているのだろう。そういう方向に話が進むはずがない。わかっているのはそんなことでしかない。それがそこでの限界だろう。それ以降に言葉を連ねるのが困難となってしまう。ではどうしたらいいのだろうか。気分転換でもすればいいわけか。それを言葉で示すのは簡単だが、実際にやるのは難しいか。何をやっているのでもないのに、気分転換はないだろう。寝て起きてまた寝て起きて、いったいいつになったら気分転換に至るのだろうか。強引な話の展開について行けなくなり、読むことに挫折して、そこでやめてしまう。もうおしまいなわけか。これまでにもそんな成り行きを経験しているはずだ。今回はそれとはどう違うのだろう。君は状況を甘く見すぎていたわけか。見積もりがまったく合っていないではないか。それは何の見積もりなのだろう。そう述べている理由がわからない。何かを述べる季節が終わっているのかも知れない。季節ならすでに秋だろう。そこには何かが凝縮されている。喜怒哀楽をどう表現すべきなのか。それらのすべてが紋切り型であるはずがないが、すべてを取り去った後に何が残るのだろうか。人は文章から何を読み取っているのだろう。勝手な思いこみに支配されているわけでもないはずか。少しはそこから影響を受けているのではないか。それは自分の意見ではない。誰が何を主張しているのか。とっくに中身のなさに感づいている。今さら述べるまでもないことを述べているだけのようだ。あのときの主張も意見ももう忘れてしまったのだろうか。君は何を批判していたのか。なぜそれを思い出そうとしないのか。何も思い出せないのに何を述べようとしているのか。そういう具合に何かを思い出すべきではないのかも知れない。


10月3日

 それらの試みは何を目指しているのだろうか。君は他人からの嫌がらせを口実にして金銭を節約するつもりかも知れないが、そんなにうまくいくはずがないだろう。思惑通りにはいかないはずだ。世の中にそれほど気前のいい人などいるわけがない。それでもそれを実行に移すとすれば、それは愚かな失敗に終わるのか。何かの弾みで階段を踏み外している。それで奈落の底へ真っ逆さまというわけにもいかないらしいが、真夜中に突然目が覚めて、ふと気づいたら数日後の夜だった。そんなのは嘘に決まっている。嘘をつきながらも何を否定しているのだろう。ただ無駄に言葉を並べているだけか。そんなのは気休めにすぎない。それの何が気休めなのだろうか。君は何から逃れようとしているのか。嘘をつくことが気休めになるはずがないが、現状ではそんなところか。それ以外に思いつかないのだから、実際にそれをやってみるしかない。すでにタイムリミットも設定されている。どうやら冗談で述べてきたことが現実となってしまったらしい。また自然に笑みがこぼれているようだが、それは苦笑いのたぐいだろうか。それをくぐり抜けたら、誰かはまたいつもの否定口調になってしまうらしい。それは誰かではなく君なのではないか。君でも誰かでも語っている内容は変わらないだろう。結局誰が何を語っているわけでもなく、他に何を主張しているわけでもなく、何について説明しているわけでもない。ただ無駄に言葉が記されているだけか。それでもいいわけになっているのだろうか。いったいそれは何に対するいいわけなのか。何も述べられないことに対するいいわけか。それはあまりにも図星で、そんないいわけには誰も反論できないか。反論できなければどうすればいいのだろう、反論する気がないように装えばそれでおしまいだ。現にその気もないのにここまで無駄に言葉を連ねてきたはずだ。気まぐれに思いついたそれらの言葉をどのように並べたらいいものか。すでに適当に並んでいるではないか。しかしそれでは意味不明だろう。意味が通らないのは仕方がないが、それでも一応は文章になっているはずだ。そうやって誰かは自分のペースに状況を引き込んでいる。それがごり押しであろうと偶然であろうと、結果的に前進しているように感じられたらそれでかまわないのかも知れない。成り行きまかせのいい加減なやり方だ。そう述べている君は君でなく、それについて語っている誰かは誰かでない。それも嘘と冗談の混合物にすぎず、心の中で分裂しているそれぞれの人格がバラバラなことを述べているだけか。君は架空の人格に何を語らせているつもりなのか。述べているとおりのことが文章となっている。それで何か不満でもあるのか。たぶん前置きが長すぎるのだろう。明け方はかなり寒い。それでもやっと秋らしくなってきたのだろうか。このままでは季節感を失ったまま冬になってしまいそうだ。現実の君がそんなことを心配しているとは思えない。昨日の昼は雲間から日が差し込み、誰かの顔を照らしていた。現状に不満があるとすればそれは何だろう。思い当たることは何もない。過ちを犯しているのかも知れないが、それを改める気がないらしい。改める必要を感じない。何が過ちなのかわかっていないのではないか。たぶんそうなのだろう。何もわかっていないのに適当に言葉を並べて文章を構成しているつもりらしい。何となくまだ踏ん切りがついていないようだ。そこから遠ざかろうとしているのに、別の時間帯では近づこうとしているのかも知れない。虚無に近づいて破滅しようとしているのか。そういう話ではないだろう。現実に暮らしている日常の中では、虚無とか破滅とかいう言葉とは無縁なのではないか。生活そのものが言葉とはまったく無関係なのかも知れない。過去に保持しているように思えた知性は、時の経過とともにすり減り続け、今ではもはや何も感じない水準まで低下している。そんな風に思えてしまうのはどういうわけなのか。過去にどんな知性を持ち合わせていたというのか。今の君にそんなことが思い出せるはずもなく、それはせいぜいのところ作り話のたぐいと思われるだけかも知れない。だが誰がそんなことを思っているわけでもなく、それらのだらだらした文章の中に何があるというのか。真昼の道を蛇が横切る。人はなぜ虚無に染まりきらないのか。それほどの技量を持ち合わせていないのだろうか。道の向こうから誰がやってくるわけでもない。やってきたのは誰かの影でしかないが、本体の方はどこで何をやっているのか。誰もやってこないことを認めたくないのだろうか。本体は山奥で熊にでも襲われてしまったのかも知れない。そんな嘘に説得力があるわけでもなく、それに対して何をどう切り返していいのか悩むところか。今さら何を悩んでみても惨状が消えてなくなるはずもない。そんな言葉につられて一気に眠気が増してくる。君はその状況が理解できないだけでなく、まったく信じられないようだ。神を信じるのとはわけが違う。


10月2日

 その曲を最後に聴いたのはいつのことか。やっとそこまでたどり着いたらしいが、そこから先が難所続きのようだ。考えていることはそれとは違う。だが今さら修正しても遅すぎる。急いで取り消しても無駄だ。そんなやり方ではだめなのだろうか。怠惰な雰囲気の曲を聴きながら、それを聴いている数分間は満たされた気がして、ほうじ茶を飲みながら、雨音を聞きながら、そんな文章ではだめだと思ってしまう。途中でやめて画面の見つめている。そこには何もありはしない。それは嘘なのだろうが、浮き世の出来事には興味がないらしい。そんな言葉ではおかしすぎる。どんな言葉もその状況には当てはまらない。何を錯覚しているのでもないが、正気ではないのかもしれない。過ちを二度と繰り返さないと誓っても無理だ。そんな話は意味不明だろう。話自体が存在しない。話が始まっていないうちからそれを否定してどうするのか。違和感や圧迫感を感じてしまうのは自然な成り行きではないらしい。それでも言葉の対象を見いだせないのはどういうわけだろう。何の目的も目標もなく、ただ言葉を連ねればいいわけではないようだ。何を基準にそれが成り立つのだろう。少し奇をてらっていないか。そんな約束をした覚えはない。決まり文句とはそういうものだ。それらの話の内容を受け入れがたいのは、それを読んでいる君に原因がありそうだ。やっと折り返し点を越したというのに、また始まりに逆戻りしそうな気配にうろたえる。そんな話に興味はないか。興味がなければそれ以上は詮索しない方がいい。誰に宛てて手紙を書いているのか。本当に何もないのなら、もう終わりにしてもいいのではないか。わからないことはまだあるらしい。本当はわからないことだらけなのに、途中で思考を停止してもかまわないのだろうか。何に対して興味があるのだろう。何もあてにならない。いくら考えてもそれが言葉となって記されるわけではない。気がつけばそれとは別の文章となっている。君もだいぶ遠回りしてきたらしい。彼らは何を批判しているのだろう。話の主導権を握ろうとしていたのは誰なのか。それが君による工夫の成果なのだろうか。ただの意味不明としか感じられないのは、思考力が衰えている証か。結局何の話をしているわけでもなく、誰に向かって何を語ろうとしているのでもない。紆余曲折を繰り返している風を装っているに過ぎない。なぜ彼らは特定の政治家を批判するのだろう。批判を繰り返す人々はいつも決まっていて、それは十年前と同じ顔ぶれかもしれない。君たちはありもしないフィクションの存在を信じ込まされようとしている。倒れかけた道しるべを起こして何を確かめているのだろう。雨が小やみになってきたようだ。数日後の明日は晴れるらしい。霧に行く手を遮られて、みんな消えてなくなってしまえばいいそうだ。誰かが不快な感情をあらわにしている。曇り空の下で神が待っている。荒れた大地がどこまでも広がり、人の気配がまったく感じられず、そんな風景を美しいと思っている。美とは何だろう。何を美しいと思いたいのか。なぜどうでもいいような人々が物申しているのか。醜悪な感情をうち捨てることなどできはしない。人が人である限り、人は何かを巡って他の人と争っている。その間に割って入ろうとするのは美ではなくて何なのか。人が依って立つ基盤はいつも不安定だ。言葉ではそれを支えきれない。特定の個人を説得することすらままならない。絶望の果てに歌が誰かの心を包み込もうとするが、そこから生じる安らぎは敗北宣言の中にあるらしい。まだ何に敗れ去っているとも思わないが、すでに勝敗が決してしまったらしい。そのようなとらえ方を無効とするために言葉がある。ごまかしに過ぎないだろうが、それでも言葉を連ねざるを得ず、たとえ見苦しい弁明と思われようと、その先に何らかの希望を見いださなければ気が済まないようだ。彼らは絶えず敗れ続けるために言説を構成して批判を繰り返す。批判者の宿命とはそういうものだ。目先の利益などたかが知れているのか。たぶんこれからも何もできはしないだろう。まだ負けると決まったわけではない。それが誰かの口癖だった。負け続けても挑戦をやめないのが誰かの信条だったはずだ。必死になってそうではないと主張し続ける。自らが主導権をとれないのが悔しくてたまらないようだ。所詮は誰の掌で踊らされているだけなのに、そういう馬鹿にしたような言いぐさに腹を立てているらしい。からかわれるとキーキー吠える。なぜそんな言葉を真に受けてしまうのだろう。こしゃくなまねをして、仕返ししたつもりになり、ぬか喜びをあらわにしてしまうが、それらはすべて周りの訳知り顔たちに見られている。この馬鹿が、と思われていることに気づかないらしい。虚構の中ではそんな成り行きが通用してしまう。誰かを小馬鹿にしている一方で、本当にそれでしてやったりの表情を見せてしまっては、間抜けもいいところだろう。きっとその先には思いもよらぬ落とし穴が口を開けて待ち受けていることだろう。


10月1日

 言葉はそんな内容を望んでいない。馬鹿げた話にはうんざりしている。だがはじめから修正を加えてどうするのか。何となくそれは違うような気がするが、とりあえずどこかに秘密が隠されているらしい。しかし誰が何を探っているわけでもなく、何を突き止めたわけではない。では子供だましの謎解きはそこで終わりか。謎も秘密もありはしない。それで気が済むはずがない。何からのシステムが必要なのか。本気でのめり込めるようなゲームでないと、何をやっている気もしないか。君は何かの中毒なのか。暗闇の中で誰かの双眸が光っている。真っ暗闇なのに、光がどこから差し込んでいるのか。自ずから光っているとすると、それは人ではないだろう。懐中電灯か何かのたぐいかもしれない。少なくともそれをやっているのは自分ではないらしい。自分とは誰のことなのか。君でない自分がどこに存在しているのだろう。それについて述べる気がしないようだが、分裂症気味に何かを語りたいらしく、誰かは多重人格を装いたいようだ。そんなことを述べているうちに、つまらないゲームをやっている気分になる。文章には何らかの装飾が施されているのだろう。読者はそういう文章に耐えられない。もはや忍耐の限界に近づいている。空疎な内容がもたらされているらしい。そんな文章とともに何を公開したいのだろう。自らの至らなさを知り得るだろうか。そんな風に冗談半分で言葉を連ねていることを後悔して、さらにつまらなく思えてきて、急いで自らを閉ざす。知り得ないのはそんなことではないはずか。では何を知り得ないのだろう。秘密はどこあるのだろうか。何もないというのは嘘かもしれない。誰かの経歴をねつ造してみたい衝動に駆られ、何となく大げさな気分になって、自らが大人物になったような気がしてくる。本当にそう思われたら天にも昇る気分だろうか。誰がそう思ってくれるのか。相変わらず聴いているのは以前と同じような音楽だ。何らの行事に参加しているようだが、それは何かのゲームなのだろうか。わけ知り顔で嘘をつくことの何が気に入らないのか。たぶんそれは嘘ではないのだろう。君は自らを信じていて、他に何を馬鹿にしているわけでもない。なぜそう語ってしまうのか。前方に視界が開けている。まだ何を語っているのでもない。風邪で体温が上昇しているのだろうか。なぜこの季節に寝汗をかくのか。そんな嘘を噛ましながらも、少々奇をてらっているのかもしれない。つまらぬ現状からもたらされた支離滅裂さは、やけくそ気味に方々へ散らばっている。何をどう語っても意味不明に違いない。ならば今さら何を謝っているのだろう。弁解の言葉は弱々しく、下方から徐々に上がってくる。何をそんなに卑下しているのか。否定すべき対象は自らの外にあるらしい。外の思考は君から抜け去っている。要するに解毒作用が発動しているらしい。もはや霊魂の存在など信じられない。そんなものはもとから信じていないはずだ。肉体が言霊に操られているとは思えない。操っているのは言葉の方か。誰かはさらに無駄なことを述べているようだ。何をそんなに驚いているのか。なぜ君は驚かなければならないのだろうか。それは何かの気分転換か、はたまた何かのまじないなのか。何に驚いたのかを思い出せないことに驚いている。そんなはずはない。また嘘をついているらしい。それにしてもなぜわからないことを認めているのだろう。何もわかりようのない状況に終止符でも打ちたいのか。それでは文章の意味がつながらない。わからないことに不利益を感じているわけでもなく、それどころか君は何もわかっていないことを喜んでさえいる。自らの終わりを知りたくないかのように、くだらぬ思いのまま、さらに言葉を連ねようとしている。くだらぬ思いとはどのようなものなのか。なぜかそこで言葉が自ずから逸れていってしまう。そんなことなどどうでもいいことだ。どうでもいいからこそそんなことを述べている。まだ自らの浅はかさに気がつかないようだ。そんなどうでもいいことに気づかないうちに、ようやく眠くなってきたらしいが、外ではまた雨が降っている。雨は誰かを憂鬱にさせるらしい。つまらない記憶が呼び戻されて、嫌な気分にさせる。そんなことを今さら述べても無駄か。すでに誰かは夜を徘徊しているらしい。眠る機会を逃してしまう。たぶん雨がそうさせるのだろう。何のせいにして何をやっているのか。宴会の席でしゃべりたかったことを忘れてしまったらしい。それは去年の話か。外から戻って内にこもり、意識を失ったまま、適当に言葉を繰り出している。そんな具合にいかないだろうか。何を期待しているわけではない。それどころか何も出てこないだろう。何もないから何も出てこない。そんないいわけを利用して言葉を連ねているようだが、現状は厳しく、放っておけば支離滅裂に拍車がかかり、一つの文章として成り立っていないかもしれない。次第に根気も尽きてきたらしいが、どうしたらいいのだろうか。すでにどうにかしているではないか。頭がどうかしているらしい。たぶんそれも嘘の一部を構成しているらしい。