彼の声55

2006年

7月31日

 つまらない水準で感動するのと、くだらない冗談に感動するのとでは、どちらが愚かしいだろうか。誰かはどちらでもかまわないと思う。感動したところで何がどうなるわけでもない。そんなどうでもいいことに感動しながらも、これから何について述べようとしているのか。ファンタジーとは何を隠すための覆いなのか。とりあえず何も考えていないことを隠さなければならない。それを見聞したからといってどうなるわけでもなく、見せ物を発表することによって、何をどうしたいわけでもない。たぶん幻想の中に真実が隠されているのかもしれないが、制作者の思い通りに事が運んでいるわけでもなく、得体の知れぬ誰かの思惑に虚構全体が支配されているわけでもない。要するに現実の世界には乏しいものをもたらしたいわけか。それが現実ならどれほど感動することか。言葉や映像ではなく、紛れもない現実を見せてほしい。しかし現実とは何なのか。人々が追い求めている幻影は現実には存在し得ないのだろうか。それがわかるときがいつか訪れるだろうか。誰がそれを待っているのだろうか。そんな問いかけに誰が答えてくれるというのか。誰も答えなど求めてはいない。誰もが知らないことを知りたいのだ。自分しか知り得ない秘密を知りたい。そんなつもりにさせるのがフィクションのねらいだ。実体としては大勢の人が同じ秘密を共有することになり、それを知り得たときの驚きと感動を共有することとなる。それが人々の願望となるのだろうか。同じ夢を見ているつもりになれるなら、進んで幻想の虜となることをいとわない。だがそんな実態を知ったところで何がどうなるわけでもない。人々は同じ時間と場所を共有しながら群れていたいだけなのかもしれない。そんな幻想を全世界に拡大させれば、この世界に恒久的な平和が訪れるだろうか。人々はそこで何を支持しているのか。幻想と戯れながら心を浄化したいわけか。安易な目くらましにいかれて、日常の現実を一時的に忘れたいのかもしれない。そこにとどまるとはそういうことだ。そこにとどまり続ける限り、同じ感動を他のみんなと共有しているつもりになれるだろう。それによってこの世界の矛盾が解消されるわけでもないが、物語の中では何かが解決しているように思われてしまう。解決しなければ物語は終わらない。話に終わりがあるということ自体が何かの救いとなっている。終わりがなければ終身禁固刑に処せられたような状況になってしまうだろう。そこから出てこられなくなる。出られなければそのまま物語の登場人物と化せばいい。コスプレキャラになってしまうわけか。しかし物語の終わりはどこにあるのだろう。世紀末にはあと百年近くある。前世紀末には結局何が起こっていたのか。騒ぐだけ騒いでいたら、いつの間にか通り過ぎていた。それがどうしたわけでもなかったようだ。それ以上を期待していた者たちにとってはまったく拍子抜けだったらしい。君はそんな世紀末の物語に裏切られて、少しは正気に戻ったのだろうか。昔のことは忘れてしまった。あれからそれほど時が経ったとは思えないのに、もうすでに過ぎ去った昔でしかない。それに関して何の感慨も湧いてこない。今世紀に入って数年が経過したのに、相変わらずの日常が続いているだけで、何の代わり映えもしない現実のただ中で、普通に生きていると思っている。ファンタジックな現象はいつも画面の中でうごめいているだけか。それを大勢の人が見聞しながら、その中で息づいている何かをさらに生き延びさせようとしている。君にはそれが見苦しく感じられるようだ。ところでその何かとは何のことなのか。ファンタジーの中で誰かはいつもあり得ない冒険の最中だが、なぜそれに無関心ではいられないのだろう。なぜそれらの行為に注目しなければならないのか。なぜか冒険につきあっている人々が滑稽に思われる。そう思っている君は幻想を共有しようとせず、感動に至ることを拒絶してしまう。感動するのが面倒くさいのか。そんな嘘では人々には通用しないだろう。君は自分が人々であることに無頓着のようだ。そして何となくそこから遠ざかりたくなる。感動の光景から離脱したくなる。感動するのは幼稚だとさえ思っている。そう述べることによって誰の反発を期待しているのか。要するにひねくれているのだろう。どうしてもいつ何時でも正気でいたいらしい。ところで君が定義する正気の精神状態とはどんな具合なのだろうか。あてどなく遠くを見つめているときは正気なのか。果たして本気になるのはいついかなる状況になった時なのか。それに対する明快な回答は持ち合わせていないが、たぶん正気な精神状態で本気になることはないだろう。あらすじ通りに事が運んでしまったら、それではつまらぬファンタジー以外の何ものでもないではないか。自由とはそういうものではない。


7月30日

 理由はいい加減だが、何となくこの世界がつまらなく思えてくる。ただ人々やそれらが構成する国家やテロ組織が戦争ごっこをやっているだけではないか。そんな最近のニュースを真に受けても仕方がないだろうが、そういえばスポーツも戦争ごっこのたぐいなのかもしれない。人々が騒ぐほど戦争ごっこがおもしろいものだとは思えない。別に人々が騒いでいるわけではなく、メディア関係者が騒いでいるだけではないのか。それはどういうことなのか。どういうことでもなく、ただの出来事を伝えているだけなのだろう。そんな風に思われるとしたら、自らの感性が衰えている証なのかもしれず、そんな状態で何をわかろうとしても、思い違いか勘違いを招くだけではないのか。それでもかまわないだろうか。君が何をわかろうとしようと、わからないことはわからないままに無視され、わからない思いはどこでもないどこかに放置され続け、君にはどうすることもできず、現実に何もできはしない。何もできないから空模様を気にしながら、どこかへ出かけるのをためらっているわけか。確か誰かのフィクションの中では、呪術師が嵐を呼んでいるらしいが、そんな話から何かのきっかけが生じるはずもなく、かといって他に何が生じるわけもなく、嵐が画面から飛び出てくることもない。だからそこで何を語ろうと、現状では何をする気にもならず、そこからの脱出は無理なのではないか。嵐は地球上のどこにでもやってくるが、誰かの心の中では何の効力も発揮されない。面倒くさいのでわざと短絡的に物事を考えているのか。とりあえず夏は苦手だ。そこいら中から虫が湧いて出る。それの何が最悪なのか。にわかには最悪の状況を定義できない。どうでもいいことではないか。何を想定しながら行動しているわけでもない。その必要はない。何かを思い出そうとしているのだが、なかなかお目当ての固有名が出てこない。誰のことを思い出そうとしているのか。人は人と争う。自然から収奪して、人からも収奪する。その何もかもを金に換えれば、後には何も残らない。それでも交換の可能性があるはずだ。金と物を交換しながら生き続ける。人はなぜそうするのだろう。生き残るためには必要なのか。生き残れなければどうするのか。交換の可能性がなくなる。せっかく貯めた金も君のものではなくなるだろう。君は交換の可能性を見いだせない。梅雨明けの真夏なのに冷めている。目が覚めているわけではない。目が覚めればまたいつもの夜だ。たぶん疲れているのだろう。心が貧しい。それは誰の心とも思えないが、そういう言葉は似合わない。君たちはだまされている。誰にだまされているのかわからないが、いい加減に目を覚ましたらどうか。そして首を傾けながら何を見ているのでもない。人の浅知恵に惑わされて虚しいとは思わないか。他に何があるというのか。付け焼きの知識に付随している思考力は君を裏切る。誰の思考も裏切られるだろう。なぜそうなってしまうのか。何がもたらされているとも思わない。救いとは何だろうか。それがあると思ってはいけない。それでも君は真実を把握できると思っている。考えることは必要だが、それが有効に機能するとは思わない。何を考えているのかわからないし、何を述べているのかもわからない。何かが破綻しているのだろうか。つまらない争いごとに疲れているだけか。そんな現状をどうすることもできはしない。何を述べても無駄だろう。しかし理由がわからない。愚かな人々は愚かな行為に耽っているだけではない。そこには何も見当たらない。それは誰にもできないような行為かもしれない。空想することで満足すべきなのか。空想と妄想はどこで重なっているのだろう。できもしないことを空想するのは妄想なのか。考えていることは浅はか極まりない。それ以上の継続は無理なのかもしれない。たぶんなるようにしかならないだろう。それはわかっていることだ。わかっているが信じられない。信じられないからわからないふりをして、わかっていることを忘れようとする。だがそれでは死ぬことも生きることも叶わない。どちらでもないのなら、君はどのような状態で存在しているのか。不死であり不生であり、言葉だけの存在でしかないのに、どんな行動がとれるというのか。いったいいつになったら君の物語が始まるのだろう。誰がそれを語るのか。何もないのに語れるはずがない。何も語れないのに何があるというのか。何があるとしてもそれが空虚だとは思いたくはないか。なぜそこから目を背けるのだろう。そこには何もないからか。どんなに言葉弄しても、何もないことを認めざるを得なくなる。だから何を語ろうとも無駄だ。それ以上は何も言葉を導き出せない。だから苦し紛れにおもしろおかしくふざけようとするわけか。


7月29日

 取り立てて何を述べているわけでもないが、何をどう述べても何もおかしくはない。別にこの世のおかしさを表現しているわけではなく、ただの言葉を文章の中に配置しているに過ぎず、それをおかしいと感じられる意識自体がおかしいのではないか。そんな風に考えようとする頭はかなりおかしい。しかしそれは誰の頭なのか。特定の誰の頭がおかしいわけではないが、それらをどう読んでも、つまらぬ矛盾をはらんだ言葉の連なりでしかないはずだ。そんな言葉が連なっている文章でしかなく、それ以上でも以下でもなく、それを超えることも、超えられずにどこかへとどまることもない。不安定で壊れやすく、放っておけば記憶の外へ押し出されて、どこかへ消え去るように運命づけられた文章だ。君はそれについて正しいことを述べるべきではない。しかしそうする理由がわからない。そのように語ることの何が間違っているのか。深夜に起きて言葉を連ねること自体が間違っている。だがこの際そんな些細な過ちは無視されるしかないだろう。君はそう述べながらも何から遠ざかろうとしているのか。なぜ自意識にはそれがわからないのだろうか。何を述べても無駄なことはわかっている。ではわかろうとしていないことが他にあるだろうか。そういう話ではない。たぶんそれ以外を求めてはだめなのかもしれない。では何を求めるべきなのか。現状では何も求められないわけでもないはずか。現に今は適当な言葉を求めている。それだけでは満たされないような言葉だ。だがそれではわけがわからないだろう。そんな言葉などもとからあるはずもなく、何もないから満たされないだけではないのか。それが満たされない本当の理由なのだろうか。そんな言葉では満たされないか。もし満たされたとしても、何がそこから生えてくるわけもないだろう。君は植物のことを述べているのか。それは樹木か草かどちらなのか。たぶんどちらでもなく、言葉が連ねられている平面は空虚で満たされている。それで何がわかるわけもなく、何もわからないわけでもない。それは意志の力ではどうにもならないことだ。たぶん言葉が何かを示してくれるだろう。適当な状況の到来を告げてくれる。君はそれを知っているはずだ。架空の存在が何を知っているというのだろう。それは空虚ではない。空虚だと思うなら、他に何を示せるのか。何らかの状況を示している。事物が通り過ぎた後に残る空気の乱れを感知したとすれば、それは何かの痕跡かもしれない。言葉ではない。君の影はそこから生まれてきた。どこから生まれてきたわけでもない。要するにすべてを否定する気なのだろう。世の中に否定できないものなどないが、それらの否定には中身が伴わない。何をどう否定しても説得力を得られない。誰を説得するつもりもなく、他人にどうしてほしいわけでもない。ただそこから遠ざかれないだけか。たぶん何がどうなっているわけでもないのだろう。だがどうにもできないからどうしようもないわけではない。少なくともそこには何らかの答えがある。君はそこで何かを見いだしている。たとえそれが言葉でないとしても落胆することはない。まだ始まったばかりではないか。何が始まっているのだろう。始まりようがないのは誰の物語なのか。ターゲットはどこにも見当たらない。それが目標とはならない。何かを見いだすことが誰の使命ともならない。おかしなことを述べているようだ。君はそこで何を裏切っているのか。あるいは何をわかりかけているのだろうか。そのどちらでもなく、あるいはどちらでもあるようなどうでもよさの範囲内に答えはあるのかもしれない。あるいはそんなのは答えではなく、問いも答えも不在の混沌の中に誰かの意識が隠されているのだろうか。誰によって隠されているのか。そしてそれらの誰は誰を指すわけでもなく、ただ便宜的にそんな言葉を使ってみただけかもしれず、そこからどんな人格を伴った誰も導き出されはしない。誰について述べているのでもなく、誰かについて語っているのでもない、どこにも出口などあるはずがない。もはや幻想の答えを追い求めていることにもならない。ただそんな言葉がどこまでも連なっている。それ以外は何も語れないだろう。もしかしたらそれさえも語っていないのかもしれない。何も語れないような状況の中にそれらの言葉は連なっている。だからそんな語りには意味がない。要するに無駄なのか。無駄でなければ何なのだろう。無駄と見なす以前に何か見落としていないか。それは考える必要のない事柄だろうか。そこからどう言葉を繰り出すべきなのか。さらにわからないことを述べている。君にはわかるはずのない内容になっている。それが幻想の正体なのか。何について述べているのか。たぶんそのまま強引に無内容を続けるつもりなのだろう。君にはそれがわかっているはずだ。わかっていながらそれを放置している。


7月28日

 少し冷房が効き過ぎていないか。それは昼の話だろう。それから半日が経って、夜になっても冷房が効いている。今し方戻ってきたところで、その間は冷房など入っていなかったはずだ。しかしここで冷房がどうのこうの述べていることに意味などありはしない。たぶん君たちには進むべき道がないのだ。君たちではなく、君自身はどうなのか。架空の人物に対するつまらない語りかけもマンネリ気味となってきた。そんなことははじめからわかりきっていたことではなかったか。空には雲が低くたれ込めている。すぐにも雨が降ってきそうだ。雨とともに適当な言葉の連なりも到来してほしいか。到来するのではなく君が構成するのだろう。だが君にそれができるとは思わない。できなくてもかまわないか。誰にかまってもらおうとも思わない。そういう話でないことはわかっている。君に大局的な見地に立てる余裕などありはしない。戦争とは何なのか。他に解決すべき事柄があるのではないか。たとえあるとしてもそれをわかる手だてはない。何を訴えかけても誰も耳を傾けはしないだろう。人はそんな状況で生きている。ただそういうことを肯定しなければならない。そこには何もないのと同時に何でもありの世界なのだ。どんな出来事が起こっても、何があってもかまわないのはもちろんのこと、それが何もないと変わらないあり方を示しているわけだ。そんな状況は退屈だろうか。要するにそんなことはどうでもいいということか。そこからさらに言葉を連ねるのは苦痛を伴う。君にはそれができない。できないからそこで眠ってしまい、目がさめたら翌朝に戻っている。気がつけばそんな状況が繰り返されていて、そこには言葉を連ねることによって破滅させられてしまった誰かの意識が漂っている。だがそこから先が君の出番なのだ。君にはそこから語ってもらわなければならず、いつも何もないところから言葉を連ねてもらわなければならない。そのような行為が架空の君自身を形成している。君にはそれが我慢ができない状況となっているのだろう。我慢ができないのに、なぜそれをやろうとしているのだろう。ではそれの何が嘘なのか。嘘であろうとなかろうと、状況には何の影響ももたらさないだろう。そこには何もない状況があり、何もなければ言葉も連ならないはずだが、その辺がフィクションの便利なところで、何もなくとも何もない話が続いてしまうわけだ。そんな嘘は聞き飽きたか。君はそれを誰に聞かされ続けているのか。誰もそんな嘘は聞いていないか。それが本当に嘘であるなら、そんな嘘が聞かれようと聞かれまいと、そんな嘘はどうでもいいことではないのか。どうでもいいからこそ、そこで嘘の話が進行中なのかもしれない。酔っぱらいにはそんな嘘がお似合いか。どこの誰が酔っぱらいのふりをしているのだろう。要するに誰かが酔っぱらいのふりをしていることも、嘘の範疇にはいるのだろう。フィクションとはどこまで行ってもそのような嘘の積み重ねにしかならない。それが気に入らないなら、どうか真実を語ってほしい。誰に向かってそんなことを呼びかけているのか。そんな呼びかけも嘘の延長上に続く言葉となっている。フィクションの言葉はそうやって延々と続いてゆくらしく、そんな風に述べれば述べるほど話にきりがなくなる。そんな嘘の無限循環には嫌気がさしているのではないか。嫌気がさしているからこそ、さらに深く嘘の罠にはまってしまう。柔な精神状態ではそこから抜け出ることはできない。精神そのものがそのような状態に安住してしまっていて、そのような状態から精神が構成されているのではないか。だがそれこそ嘘の無限循環の一部なのかもしれない。そのような状態では何を述べても嘘となってしまい、嘘以外の何もない状況が延々と続いてゆくしかない。それでもそれを続けてゆかなければならないのか。それも嘘のたぐいだろう。そこでどんな話が続いているわけもなく、ただ何もないという嘘が言葉によって提示されているに過ぎず、そんなのは話でも何でもありはしない。要するに内容がないということなのか。しかし内容がなければどうするのか。何がどうしているわけでもなく、どうすればよいということもない。ただ同じような言葉が延々と連なっている。それらの文章は必要から見放されていて、読む者の存在を想定できない。誰も読まなくてもかまわないような文章となっている。実際に読む者を必要としない、読者からの自由を確保している無内容に違いないが、そんなものは文章ではないのかもしれない。文章であるとしても、用をなさない文章に違いない。そこには何もないのと同じような不在が存在しているわけだ。それはどういうことなのだろう。どういうことでもなく、そういうことでもない。君はそれが虚無のたぐいだと勘違いしているわけか。それの何が勘違いなのだろう。それも嘘の一種か。


7月27日

 この世のどこかで想像を絶する出来事が起きているとは思われない。なぜ思い通りにゆかないのだろう。高邁な理念を嘲笑するのは悪いことなのか。誰が何を言おうと、そういう言葉の用法は間違っている。この期に及んでの理論的な模索は受け入れがたい。君にはそれとは違う状況が見えているはずか。曇り空は君に何も語りかけてこない。それを言葉にできないのかもしれない。意思疎通の難儀さは今に始まったことではないが、何をあきらめているわけでもない。ただ無駄にそんなことを述べているだけかもしれない。そのわけのわからなさが言葉を繰り出すきっかけを作り出す。文章の中には言葉以外に何があるのだろう。空隙を言葉で埋め尽くすわけにはいかないか。わかりきったことを尋ねないでほしい。空虚の他に何もないのはいつもの通りか。君には思い当たる節などない。現実には何もないわけではないが、ただの現実は言葉にかすりもせず、それどころかたった今並べた言葉を置き去りにして、何の痕跡にも残さずに、さっさと意識から遠ざかってしまう。記憶には何も残らない。それについて言葉を繰り出す隙を与えない。すでに忘れ去った後から言葉を弄していては、何について述べているのかわからない。いったい君は何を述べているつもりなのだろう。そんな台詞は聞き飽きたか。では誰に向かって何を述べているのか。どんなにこの世界に対して反発しようと、そこから遠ざかることはできない。世界の内部で息づいている自らのみすぼらしさを再認識するだけか。君の言葉はそこで限界に達している。要するに現実をつかみ損ねているのだ。今日の話題は明日には忘れられ、明日の話題もそんなに長続きはしない。そこからどんな現実を取り出そうとしているのか知らないが、したり顔で何を取り出そうと、そんなものはことごとく本質から外れている。いくら飾り立てようと、そんなものは言葉の綾に過ぎず、現実とは何ら関係ないフィクションのたぐいになってしまう。だからといってそこで挫けているだけでは物足りない。しかし君は何について述べているのか。闇雲に空を見上げてみても、どこから何が降ってくるわけもなく、明日は雨が降るかもしれないが、雨空の下に神が降臨するはずもない。そういう処理の仕方は欺瞞だろうか。何となく欺瞞の意味を感じ取れない。君は言葉を弄することによって何をごまかしているのか。そこには何もないという事実を認めがたいわけか。依然としてそんな状況から抜け出ていないようだ。さっきから何を述べているのか。たぶん何かが執拗に繰り返されているのだろう。言葉があてもなく循環している。誰もそれを止めることはできない。だから君しかいないわけだ。今こそ無駄な語りとはおさらばして、本当の沈黙を実現しようではないか。またわけのわからない妄想にとらわれている。しかしなぜそれをすぐに打ち消そうとするのか。もう少し妄想をふくらませないと話にならないのではないか。話にならないからこそ今がある。だが今があるということは何もないということだ。その逆説をいかに乗り越えてどんな話を展開できるのか。まだわけのわからない話にこだわっているのだろうか。まだ意味にとらわれるわけにはいかないが、話に中身がないことを誇っている場合ではない。君のこだわりはそんなところで停滞することなのか。なぜそこで終わらせる必要があるのだろう。文章の意味を理解できない。たぶん何を主語に持ってきても、誰が何をやっていることにもならない。それは誰の文章ともならないだろう。単純化された説明では納得しがたいか。短絡的に物事を考えても、つまらない答えしか導き出せないか。そこからの飛翔はあり得ないのだろうか。何を飛び立たせるつもりなのか。マジシャンの袖から白い鳩が飛び出す。何か驚くに値するような出来事を体験したいか。あるいは月並みな文章表現から逸脱するような文章に出会ってみたいか。本気でそんなことを思っているわけではない。たぶんそれも無駄な思いこみになってしまうのだろう。妄想はとどまることを知らず、絶えず君の感性をむしばみ続けている。要するに単純化された人間にしたいわけか。人も機械も将来は似たようなものになるのだろうか。安価な天然資源がなければ、それについて語ることもできず、資本主義も成り立たなくなるそうだ。何のことはない、人間はそれによって自らの社会構造を維持発展させてきた。だからつまらない国家同士のいがみ合いに巻き込まれたくはない。国民などという言葉には吐き気がするが、国家単位で物事を考えなければならない不自由さから比べれば、そんなことはどうでもいいことか。たぶん意思疎通など強引に成り立たせるようなものではないのだろう。今どき戦争など時代遅れもいいところか。だがそれは君が判断することではない。何とかそれとは違う成り行きを導き出して、もう少し現実的に振る舞えないものか。


7月26日

 言葉が何かにかぶれて鬱陶しい内容になる。物語とはそういうものだろうか。何がそこでの物語なのか。暗闇の中で不在の何かがうごめいているようだが、それは遊技のたぐいだろうか。それらの言葉の連なりは何に関係しているのだろう。少なくとも文学とは無関係だ。それでも言葉を適当に繰り出していくうちに、自然と迷路が組み上がり、その場限りの意味不明とともに、精神のバランスを著しく欠いているのかもしれない。何がバランス感覚を奪っているのか。文字が小さすぎて何が記されているのか判別不能に陥っている。それは一過性の現象に過ぎない。要するに文章が無駄な言葉によって水増しされているのだろう。このところの大雨で海までながされてしまったのか、海の中に誰かの死体が漂っているらしいが、その海の藻屑は腐っているのだろうか。なぜか誰かの腐臭をかいだつもりになり、わざとらしく顔をしかめてみる。君は緑茶の苦みで目が覚めた気でいるらしいが、どうもまだカフェインが不足気味のようだ。この世界に足りないものは何なのか。少なくともそれはカフェインではないはずか。現実にはそれとは無関係に言葉が過剰に湧き出でる。湧き出でるのは清水のたぐいかもしれない。誰かの腐敗と山奥の清流は無関係だ。そんなどうでもいいことを語りつつ、それで気分を害しているつもりになれるだろうか。そう述べる意図がわからない。どさくさ紛れにそこから逃げだそうとしているのか。果たしてそこから精神の自由が生じるだろうか。わけがわからないふりをしながら、精神の混乱を装い、それを何かのいいわけにしたいらしい。どうもそうではないような気もしてくる。自らが何を考えているのかよくわからないのはよくあることだ。そんな幻想にさらされながらも、まだ心は正気を保っているつもりらしい。水なら海へ行けばいくらでもありそうだが、塩水は飲めない。だが汗まみれの君には塩分が不足している。猫背のまま木陰にしゃがみ込み、誰かが暑さに耐えている。意識が次第に定かでなくなり、行き先を見失い、また言語的な行き詰まりを解消できなくなる。そのような状況で何を語れば本気になれるのか不明だが、空中を浮遊するには何が必要なのか。できることなら宗教とは無縁でいたい。本気でそれをしたいわけではなく、何となくそんなことを述べてみたかっただけか。気晴らしに遠くを見渡せば、崩れかけの岩山から誰かが降りてくる。君は仙人の話を聞いたことがあるだろうか。たぶんその話はまだ始まっていないはずだ。始まらないから死んでしまうわけか。それはどういうわけなのだろう。別にいずれ到来する死の始まりを見極めたいのではない。霧が濃く立ちこめていて、その先がまったく見えなくなる。このまま車を走らせてゆけば事故を起こしてしまうかもしれない。もしその先で事故死すれば、いったいそれは誰の死にふさわしいのか。誰が車を運転しているのだろう。誰か助けてくれないか。冗談でそんなことを述べているのだろう。そこでごまかそうとしているようだ。まったく軽薄きわまりない話になってしまうようだが、仙人はどこで何をやっているのか。仙人は不老不死のはずだが、その容貌からすると老人が多いようだ。そんな話ではない。事故現場では誰が死にかけているのだろう。別に誰の事故死を予言しているわけでもない。君の死因は事故死ではなく病死の可能性もある。では何が完治していなかったのだろうか。まだ君は病名を知らされていないのではなかったか。ところで君はいつ死ぬことになっているのか。死ぬなら早いほうがいいのだろうか。そんな話でもなかったはずか。それは話以前の話だろう。君に付随する話はどこかでとぎれていて、その先が見当たらないとき、すでに君はこの世の存在ではないのかもしれないが、それは誰かが話したい内容とはまったく無関係になっているはずだ。仮にそうだとしたらどうだというのか。それらの言語的用法は誰の発想に基づいているのか。それではいきなり話の内容が飛んでいる。たぶんそう述べて話の不連続を示しているのだろう。もちろん誰が何を示しているのでもなく、いつの間にかまた主語を示す単語の存在が疑わしくなってきたが、語られている話がどこから盗んできた内容とも思えない。少なくともそこで語っているのは君ではあり得ない。君に語らせるのが面倒くさいのか。誰が何を語っているのでもないが、君にはそれらの言葉の断片から意味の通った文章を構成する義務が生じている。そんなのは嘘だろう。そんな断言がどこから生じてくるのかもわからない。また未知の言語に接しているのかもしれない。いつ生じたのかもわからないような言葉の連なりにどんな責務が生じているというのか。何となくそれらの文章を読みたくなくなってくる。架空の物語の中から誰かが何かを仕掛けてくる。そんな被害妄想もまったく信じられなくなってきた。もうこの世には誰もいないのではないか。他の人々は誰かの範疇に入らない動物のたぐいか。


7月25日

 夕暮れ時はどこへ行っても渋滞に巻き込まれる。どこから車が湧いて出るのか。それだけ多くの人が暮らしているということだろう。しかし少し飛ばし過ぎか。近頃は度を超して冗談を述べすぎている。だが今さらそれが緊急に修正を施さなければならない事態ではないはずか。軌道修正には多少の時間を必要とする。しかし誰がそれによって窒息しているわけではなく、別にガイガーカウンターが異常な値を示しているわけでもない。誰かが無意識のうちにチェルノブイリまで行ってきたわけでもない。そんな意味のない話に終始しているうちに明日になってしまうだろう。またできもしないことをやろうとしているのだろうか。何がそれらの文章から導き出されるというのか。それはわけのわからない妄想かもしれないが、そこから何を語り始めることもないだろう。現実に何も語れないような状況に直面している。たぶんそこからは何も出てこない。そして他に何を語り出そうとしているわけでもない。もはやその必要はないのかもしれない。心は何に対しても興味を示さない。それはいつもの嘘に違いないが、いったい誰に嫌われようとしてそんなことを述べているのか。そんな理由であるはずがない。では君は誰に対して牙をむいているのだろう。君は猫科の動物の幻影だろうか。フィクションの中ではそんな存在でも気が利いていると思われるだろうか。しかし冗談でそんなことを述べているにしても、少しむきになりすぎていないか。誰が何に対してむきになっているというのか。どこかで誰かの攻撃的な性格が顕在化しているのだろうか。妄想の中では顔の表面から磁力線が放射されている。それは気のせいだろうが、それのどこが妄想の続きなのだろう。目が覚めたふりをしながら、夢の中で身体が飛翔している。そして誰も知らぬうちに、誰かの額から角が突き出てくる。それはどこかのファンタジーから盗んできた言葉だろうか。現実には何かの間違いに違いないが、どうも最近は剥き出しの虚無を使いすぎているようだ。何もないのにそこから糧を得ているような気がする。現実の生活は何でもないのに、何かいい加減なことを空想し続けていて、そこからどこへ向かっているわけでもなく、知らぬうちに偏見が頭に植え付けられているようだ。夢の中で出てきた額の角は、何かの偏見の象徴なのだろうか。そこで何が見いだされているのだろう。言葉に尾ひれがついている。オタマジャクシから足が生えてきて、水槽の中を熱帯魚とともに泳ぎ回る。意味もなくそんな状況を空想して、何もない現実から逃避しようとしているらしいが、そんなつながらない文章を無視して、崖の上から下をのぞき込んでみると、森の樹木が天に向かって枝葉を茂らせている。なぜ唐突に場面転換してしまうのだろう。竜脚類の化石がそんなに珍しいか。どこかの展示場で恐竜の化石が見せ物となっているようだ。そして誰かがどこかで伝説上の動物について熱く語り続けている。君はそこで何か勘違いしていないか。意味不明な言葉が方々へ飛んでいないか。あらぬ方角からいらぬ情報がもたらされるが、それらのどこに戦略が隠されているというのか。君にはどんな戦略が必要なのだろう。ただ行き当たりばったりで言葉を繰り出しているだけのような気がするのだが、それで虚無から遠ざかれたとは思えない。何から遠ざかっているわけでもなく、目の前の虚無にいっそう近づいているだけか。近い将来そこへ飲み込まれてしまうだろう。それでもかまわないのだろうか。そこに誰の意志があるわけもなく、それらの文章はさらに大きく常識からはみ出てしまったらしい。そこで誰かの本性が剥き出しになっている。なぜ地方自治体が続々と破産しそうな気配なのか。採算度外視でいい加減な事業を展開しすぎたわけか。それは夕張市特有の事情なのかもしれない。だが君は北海道に住んでいるわけではない。それは斜陽傾向の観光産業と同じく、いい加減な寄り道に過ぎない。いったい翌日の深夜に何を述べているのだろう。たぶん邪魔が入ってしまったのだろう。一応やる気にはなっていたようだが、様々な事情からそこで挫けてしまう。自らの意志を全うできないようだ。翌朝に目が覚めたら疲れがとれていたのだろうか。今はいつなのか。時間的には昨日からだいぶ経ってしまったようだ。様々な出来事が錯綜して、何をやる暇もなく、画面上に文字を記す機会がなかなか巡ってこない。翌朝は久しぶりに晴れていることに気づく。これからまた仕事に気をとられることになりそうだ。それの何がおかしいのか。誰かは当たり前の日常に飲み込まれることがおかしくてたまらないようで、気がつけば笑いが止まらなくなっている。確かにフィクションの中ではそうなのだろう。なぜ人々は無駄なことを延々とやり続けているのだろう。それを無駄と思っていないからやっているわけだ。ではなぜ君にはそれが無駄に思われてしまうのか。それの何が無駄なのだろうか。


7月24日

 まだ夜明け前だろうか。一仕事した後も雨が降り続いている。雨降る景色は退屈だとは思わないか。そのまま黙っていても夜になり、明日になれば雨がやむかもしれない。雨空を見上げながら、何の到来を待ち続けているのか。誰の心がどこへ出現するとも思えない。そんなことを記しているうちにもう夜になってしまったようだ。言葉と言葉の間に数時間のブランクがあるようだが、それは労働にいそしんでいる証拠となるだろうか。ところで君はマルクスのことをどう思っているのか。遠い過去において分厚い書物を著した者だ。その本は出版から数十年を経てもまったく売れず、はじめから忘れ去られた存在だったのだろうか。しかし次の世紀において『資本論』は有名になった。その内容をほとんど理解していなくとも、それについて述べる者が次から次へとまるでウジ虫のように湧いて出たはずだ。社会主義者とはそういう輩のことをいうらしい。だからどうしたわけでもない。たぶん君がそれを読むことはないだろう。盲目の君には何も読めはしない。盲目だったら点字の書物を手で触った感触から読み取ればいい。たぶん盲目というのは嘘だろう。そんな嘘以外に何も思いつかないのか。確かにフィクションの中ではそうだ。しかしそのフィクションがどこにあるのかわからない。いったい君は何について述べているのだろう。フィクションの中では何も述べていないのではないか。だがその沈黙に意味はない。誰が押し黙っているかもわからない。そんなことを述べるためにこの世界に出現したわけではない。たぶん何が到来しているのでもないのだろう。それはフィクションでさえなく、虚構の中に収まりきらないような何かだ。現実からもはみ出ている。言葉の性質とはそういうものなのだろう。そこに何が現前しているわけでもなく、架空の意識が何を述べようとしているわけでもない。しかしマルクスはそこからどこへ向かったのだろう。寿命が尽きて黄泉の世界へ旅立っただけか。それについて君は何を保持しているのか。持ち合わせは何もない。手持ちの札は使い切ってしまったようだ。マスメディアの論調からすると、世の中は勝ち組と負け組の二極分化の様相を呈しているそうだが、はたして君は勝ち組なのか負け組なのか。たぶん負け組に属している路上生活者は使い物にならないだろう。彼らを雇うのはよほどの奇特さを身につけている強者に違いない。それより少しマシそうなフリーターも使い物にならない。定年退職した元サラリーマンも使い物にならない。使い物になりそうな人材はすでに官公庁や大手企業が確保している。それより優秀な逸材は他人に使われるより、他人を使う方を選ぶだろう。その一方で使い物にならない人材を時間給で使い捨てにしながら、かろうじて自転車操業的に事業を継続させている会社などいくらでもありそうだ。学校教育は一握りの使い物になりそうな人材と、その他大勢の使い物にならないポンコツを絶え間なく排出し続けている。考えてみれば知らぬうちにものすごい社会になったものだ。社会全体の雰囲気が正気でない。本当に正気でないならどうすればいいのだろう。そんなのは嘘に決まっていると思いこんでいればいい。本気になるのが面倒なのか。君に本気という精神状態はない。すべてが冗談で片付けられる。本当にそれがすべてなのだろうか。とりあえず誰もが衣食住ぐらいはただの世の中にならないものか。世の中の人間がすべて遊んで暮らせるようになったらどうするのだろう。労働する者がいなくなり、国家が滅びるか。それは願ったり叶ったりの展開か。現状ではそんな風になるわけがないが、それでもいいような気がする。とりあえず必要最低限の衣食住は配給制にして、人々はそれ以外の贅沢品や旅行費用などを得るために働くような時代になったらおもしろいような気がする。そうなるためにはどうしたらいいのだろうか。何らかの画期的な技術革命が必要か。頼みの綱は科学技術の革新か。それも何かの冗談を述べていることになるのだろうか。君はつまらない冗談の他に何も思いつかない。そして自らの無力さを思い知るだろう。動物的な弱肉強食の論理が人間社会をいつまでも覆い尽くすだろう。とてもそんな状況が真実とは思えないか。それは言葉の問題であって、もう少し柔らかく現状を肯定しなければならない。そこに顕在化している剥き出しの野生は無視して、それとは違う現象に目を向けなければならない。だから音楽がそれに対するいいわけとして到来するわけか。君はスポーツが嫌いなのか。何がそれのいいわけとして機能できるのだろう。適当に音楽を聴きながら、空想から抽出された現実を忘れようとしている。もはやそれらの言説は使い物にならず、他に何も持ち合わせていないとすれば、そこにはいつもの空虚がにじみ出てくるしかないようだ。


7月23日

 なぜそこにいられないのだろう。誰がどこかに存在しているわけではなく、誰も何も自らの存在を証明できないだけだ。それで何か気の利いたことを思いついたのか。そういうことではないだろう。とりあえずそんな台詞には魅力を感じない。それはただの言葉の連なりに過ぎない。そして言葉はすぐに裏切られる。別の言葉によって裏切られる。だからそこで何を思い出しているわけではない。ただ思い出すべきことを思い出せない。そのとき何を思い出そうとしているのか。それを誰が知っているわけではない。言葉はどこまでも的を射ていない。どこへ届こうとしているのか。何を届けようとしているのか。君の想像力はあてにならない。それで何を説明しているつもりなのか。説明する対象を見いだせない。君は耳が遠くなったのだろうか。それは難聴のたぐいか。いったい何を聞き逃してしまったのか。なぜそこから遠ざかろうとしているのだろう。そしてなぜ遠ざかれないのか。もういやになってしまったのかもしれない。だからそれ以上は何もできない。まだ何もやっていないのにそれはないだろう。だから何を述べても意味不明になってしまうのだ。それでは誰が何をやろうとしているのかわからない。わかりようのないことをわかろうとしているわけではない。たぶんそれは無駄な文章だろう。無駄に語り続け、無駄に言葉を弄している。それは無意味なことだろうか。まともな内容に至れなければ無意味と見なされる。そこに至る正しい道筋を知らない。どこかにわだかまりがあるようだ。ところでそことはどこなのか。どこで君は迷っているのだろう。そこは迷路などではないはずだ。どこで道順を間違えたわけでもない。もはやくるべきところまできてしまったのか。荒れ地が延々と続いている。明日はまた雨が降るそうだ。見渡す限り何もないのは、それが空想の世界だからか。言葉は何を示しているわけでもない。何もないのに何かを語ることは可能だろうか。たぶんそう述べることが可能なのだろう。要するにそれはごまかしのたぐいか。そこで誰が何をやっているわけでもない。空想の世界では誰も何もできはしない。しかし何かかすかに聞こえてこないか。さっきからしきりに言葉を弄しているのは誰なのだろう。それは何のための努力なのか。君は誰に何を問いかけているのだろうか。誰に何をしてほしいのか。まだそんなところで迷っているらしい。迷い疲れて一歩も足を進められない。軍事力とはどのようなときに有効に機能するのだろうか。つい今し方雨が降り出してきたようだ。屍の数と憎しみを増大させるために軍事力はある。それを行使した場合はそうなるだろう。その結果世界の兵器産業が潤うことになる。世界各国は高い買い物をするために税金を湯水のごとく使っている。それを誰が承認しているのだろうか。民主主義国では国民が殺傷兵器を買うことを承認していることになっているらしい。他国の軍事力が驚異だから自分たちの国も軍備増強を図らなければならない。それが税金の無駄遣いだとは思わないのか。誰もが思っているかもしれないが、誰もそれをやめさせることはできない。そして欠陥はいつまでも放置され続ける。だが破綻や破滅はいつまでたってもやってこないだろう。そういう形で国家が滅びることはない。たぶん無理に滅ぼさなくてもかまわないのだろう。軍事力に頼って国家を滅ぼそうとすれば、さらに国家は強大となる。世界が一つの国家によって統一されるまで戦争は続くだろう。だがそれはいつの日となるのだろうか。統一などあり得ないから永遠に戦争は続くわけか。本気でそんなことを述べているわけではない。たぶんそんなことはどうでもいいことなのだ。目的は別のところにある。目的がないのが君の目的ではない。目的を明かせないのが君の泣き所か。たぶんそれが目的ではないのだろう。君はこの世界が統一されることを望んでいないのか。君には関係のないことだ。今は何も思いつかないが、現実はまったく違っている。アメリカもイスラエルも国家意志の水準では勘違いなことをやっている。あれらの戦争は別に問題を解決させるためにやっていることではなく、何も解決をもたらさないような現状を肯定させるために行われている。そしてそこで誰が何を行っているわけでもなく、結果的にはなんでもないことを延々と繰り返しているに過ぎない。いくら人が死のうとゲリラの組織が壊滅しようと、それは何でもないことなのだ。涼しい顔して自爆する輩はいくらでもやってくる。戦争が恐怖心を麻痺させているのだろう。宗教が暴力の手助けを行っている。それに対していくら異議申し立てをしようと、そんなことはお構いなしに短絡的な行為は繰り返される。たぶん暴力は考えることを必要としないのだろう。そこには思考が省かれている。では科学技術が事態を解決してくれるだろうか。無人のロボット兵器でも投入すれば、味方は死なずにすむかもしれない。だがそれはそれだけのことだ。殺される側にしてみれば無慈悲な殺戮がエスカレートしているように感じられるだけか。たとえ敵をすべて皆殺しにしても、今度は味方から敵が生じてしまうのだろう。いくら殺しても殺したりなくなるだけのような気がする。だから戦争はおもしろいと思うか。そんなことを思っている暇はなく、ひたすら裏切り者の影におびえているだけかもしれない。


7月22日

 何を深刻に受け止めているわけではない。ただ何も述べられなくなっただけか。だがそんな喧伝は通用しない。はやし立てるような話題は何もない。いったいそれの何が喧伝なのだろう。あまりにも簡単すぎる。簡単に結論に達しすぎている。何が結論なのか。どこかで結論に達してしまったらしいが、それらの文章の中では未だ顕在化していない。だがそこになくとも君にはすでにわかっているはずだ。わかっていながらとぼけている。何をわかっているというのか。それを言葉で示さなくてはわかっていることにはならないだろう。本当は何もわかっていないのではないか。それにしては時間の進み具合が遅すぎる。何の理由にもなっていないだろう。どこに思考を要する問題が転がっているのか。理由を要するような言説になっていないのではないか。それが負け惜しみになっていないことを祈ろう。何に負けているつもりでいられるのだろうか。別に負けられない状況になっているわけでもない。君は旅人になって世界中を無責任にさまよい歩きたいのか。金持ちで暇をもてあましていればそれも可能だろう。何らかの仕事に携わっている者なら、目的の大地に縛り付けられていて、軌道から外れることは許されない。行動パターンが定常化してしまう。要するに退屈にやられて煮詰まってしまうわけだ。たぶん目的は人間をだめにしてしまうのだろう。また背中がかゆくなる。目の前の画面がかすんで見える。どうやら今日も限界に近づいているようだ。何が限界に近づいているのか明らかにはできないので、それは誰かの想像に任せるとして、おそらく君はそこでつまらない雰囲気を感じているのだろう。何をはぐらかす理由があるのか。それらの何が注目に値する現象なのか。それは理論家のいいわけに近いかもしれない。何を探求しているかわからず、自らがやっていることの根拠を見いだせずにいる。なぜ唐突に理論家が登場しなければならないのか。あまりにも論理的に飛躍がありすぎるだろうか。何も論理的には述べていない状況で、なぜそんな嘘をつく必要があるのだろう。ただ時の流れに流されているような気がする。見失っているのは目的でも根拠でもなく、では他に見失っているものがあるだろうか。それは何かのバリエーションに違いない。何かに躓いた拍子に、これからどこへ出かける必要があるのか、と自らに問うてみる。それで意味不明を脱することはできない。背後で大きな黒い影が成長し続けているようだ。それは何かの曲の題名か。君自身でそれらのとりとめのなさを終わらせることはできない。何かが分裂しているようで、たぶん言葉と言葉の間が離れすぎていることに気づいていないのだろう。いったい誰が気づいていないのか。君にはそれが気づいているのだろうか。現状がそうでないことぐらいはわかっているつもりか。それが勘違いだとしたらどうなのか。どうなのかと尋ねられている対象が曖昧か。何もかもがはっきりしないのは今に始まったことではない。そこから遠ざかるつもりが、ますます近づいている現状に驚いているようだ。誰がそこに近づき、誰がそれに驚いているのか。すべての誰かが君に収斂するわけではない。君の内面では何が起こっているのか。心がどこにあるというのだろう。それは文章的なテクニックにしかならない。そこから文章が生じている事実に驚くべきか。誰も驚かないだろうし、誰もが雰囲気に流されている。何を見ようとしているわけでもないし、何も見えていないわけでもない。ただ現状が見えているだけだろう。しかし見えている現状とは何なのか。それはどのような虚構と密接に関係しているのか。君たちは誰の物語の中に見いだされているのか。何が抽象されているわけでもなく、導き出されているそれは何でもない日常の一コマに過ぎない。たとえばマンガの平面上に誰かの顔が描き出されている。鳥獣戯画の中では何がデフォルメされていたのか。つまらないたとえ話には飽き飽きしているところか。だが誰に向かって何を述べているわけでもない。そこから遠ざかるために誰かは必死で言葉を記しているのかもしれないが、今までにそれに成功した例しはない。醜い話を大げさに繰り返すわけにはいかない。国際情勢など無視できると勘違いしている君は、その勘違いを推し進め、さらに現実から遠ざかろうとしている。そして無理が祟って気分を害しているようだ。今や周りを取り巻く状況が気に入らないことだらけか。それほど現状にマッチしていないことを気にしているわけではない。ひたすら過去を振り返っていればそんなことにまで気が回らないだろう。そうやって何を忘れようとしているのか。過去を振り返りながら過去の出来事を忘れることができるだろうか。そういうその場しのぎの嘘はやめてほしいか。やはり現状では何を述べているのでもないらしい。


7月21日

 たぶん状況はそのままに推移してしまうのだろう。君は雨空の下でいったい何を勘違いしていたのか。その日に誰が生まれるわけでもないが、クリスマスまであと何日なのだろうか。その場の思いつきにはまるで連続性がない。話の辻褄が合わないのはいつものことだろう。とりあえず状況は今のままでもかまわないが、それ以外には何も思いつかないのではないか。別に話のおもしろさを追求しているわけではなく、他人の顔色をうかがいながら、誰にこびているわけでもなく、新種のコーラを飲んで体調を崩している場合ではない。まだ正気を取り戻していないのかもしれず、炭酸飲料は体が受けつけなくなってしまったようだ。しかしそれらのフィクションはどこでとぎれるのだろう。まともな感性では何も捉えられない。つぎはぎだらけの文章の中で、誰かの精神はつまらないこだわりにつなぎ止められている。それは文字の集合体に過ぎず、その中では軽薄な争いごとの顛末以外に何が述べられているわけでもない。なぜ文学が社会的な影響力を持たなければならないのか。小説や物語などは読んでおもしろければそれでかまわないのではないか。ハリーポッターでも読めばそれなりの高揚感は得られそうだ。しかしそれならマンガであってもかまわない。少年時代に経験するマンガやアニメに覆われた暮らしから何が生まれるのだろう。それは中高年になってから享受するオタク文化のたぐいか。今はそれらの何を馬鹿にする気も起こらない。音楽を聴いていればそのような状況にならずにすむのだろうか。そういう問題ではなく、どういう問題ともなり得ない状況の中で、人々は何をおそれているのだろう。気がつけばまたもやそこに空虚が到来している。言いしれぬ虚無感は君の心をむしばみ、出来損ないの人間として何もない空間へ放り出す。何となく不完全のようだ。川は流れてその水は海に注ぎ、途中の橋の上から何を眺めていることにもならず、独裁に対する恐怖感など誰も抱いていない。まったくの意味不明に違いない。混乱した意識が覚えているのは昨日の出来事に過ぎず、過ぎ去った時空で誰が何をやっていたわけでもない。どこかで誰かが何かをつぶやく。もうその辺でおしまいにしたらどうか。誰かの意図や思惑を無視しながら、何かがゆっくりと変化している。もはや激しい口調で訴えかける輩などどこにも存在せず、重機が騒々しく動き回っている建設工事の中に、ありふれた目的があるだけで、その状況にはどんな疎外感も当てはまらない。皮肉がまったく通用しなくなって久しい。そしてそれは誰の感慨ともなり得ず、誰の意識にも言葉がはい込む余地はない。それでも君は何かを述べ続ける。それに対する下らぬ否定作用が君の心からやる気を奪い去ることもない。そこでは誰の感情を受けつける余白も用意されていない。文字と文字の間にある余白は、何に埋め尽くされるために存在しているわけでもなく、誰かの感情移入はいつも空振りに終わってしまうだろう。もう終わってしまった人に何を質問しようとしているのか。あのときの心境はどうだったのだろう。それを語ることにどんな意義があるというのか。語ることに意味や意義があるわけではない。その模様を伝えることによって利益を得ようとしているわけだ。誰かの興味は他人の興味であり、そこに有名人の語りが差し挟まれる。物語は君の心に何をもたらすのか。出来損ないの頭脳では何ももたらせない。機械との相性が悪いのかもしれない。しかし神に何が捧げられているわけもなく、それが君の精神であるはずもない。アニメの中に魔法使いが登場した時点で君の興味は失われる。制作者がそこで怠けているのだろう。生身の人間ができないことを画面上で実現しているように見せかける。それがフィクションとしての怠慢なのかもしれない。出現しているのは魔法使いではなく、誰でもないただの雰囲気に包まれた色彩の消失点だ。君はどこでそれらの映像を見ているのだろう。そこからなぜか昔話のオンパレードとなってしまうらしい。まるで話の本質をとらえていない。それ以前に意味不明がさらに深まっている。取り返しがつかないほどの混乱ぶりか。やるながら気が済むまでやっていればいい。人々の苦しみや悲しみが制度を作っているわけではない。制度は君たちの境遇などまったく顧みず、ただ自らを守る組織の永続化をはかるのみだ。なくなってしまっては困るものは、人の命などではなく、誰かが発言する権利だけか。だから君に発言する機会を与えてほしいのか。そのとき君は何を空想しているのでもない。君にはまだ言葉を記す余白があるだろうか。そこで何を述べられるのか。気の利いたことは何も述べられない。ただ漸進的に終わりに近づいている。たぶんまたわけのわからないことを述べているのだろう。


7月20日

 見いだされている状況を持続させようとしている。時はどこへ向かって流れているのか。誰が話をしているとも思えないが、誰かは空から止めどなく落ちてくる雨粒の数を知りたい。何が社会的な影響力を保持しているのか。マンガがすべてでないことはわかっている。ジャズがすべてでもないだろう。空虚が何かを覆い隠そうとしている。そこには巧妙な仕掛けが隠されている。とりあえず何がすべてでもないのだろう。では何を知ろうとしているのか。それらの文字列から何らかの影響を受けている。ここではまるで時間が止まっているようだ。何かが終わってしまったらしい。君にとっては興味のない出来事だ。すべては音楽から始まるらしい。だがそれは物語ではない。物語から遠く離れているわけでもない。感性が立ち直りかけている。次第に気力も充実してくる。たぶん冗談ではないのだろう。だいたいの目見当で距離を測っている。まだそこからどれほど離れているわけでもない。貨幣で商品を買う形式はさらに長続きしそうだ。この社会を変えるような認識を示すのは容易ではない。君は何が変わってほしいのだろう。ただ自らの嗜好で好き嫌いを述べているだけか。その辺ではっきりしたことは何も述べられなくなる。ごり押し気味に言葉を繰り出しても、すぐに話の内容が意味不明に陥ってしまう。今がその状態なのだろうか。別に誰と文章の明晰さを競っているわけではない。言葉の断片は地球の切れ端につなぎ止められて、決してその限界を超えることはない。しかし美的な言葉の構成は逃げ口上に過ぎない。たぶんわけのわからない内容を述べてしまうことについての言い訳なのだろう。しかしそれで誰に影響を及ぼしていることになるのか。それのどこによくなる可能性を内包しているのか。それが誰の主観性から生じた言葉なのか。相変わらず内容がどこにも見あたらない。いったい今の君には何ができるのか。それについて何通りもの解釈が可能かもしれないが、それらのすべては君特有の嘘に基づく言説に過ぎない。嫌悪感を催しながらも呆れ果て、何となくため息が出るらしい。そんな風に述べてしまうことに負い目を感じているのかもしれない。何とかそこから遠ざかり、言葉の迷路を抜け出て明快なことを述べてみたい。それは誰が目指しているゴールなのか。だがすべては恣意的な言いがかりに過ぎない。君はどこから離れようとしているつもりなのか。つまらない目的をねつ造してどこへ向かうつもりなのだろう。いったいそれの何が革命なのか。社会的な影響力を云々する前に、社会とはどこに存在するものなのか。ネット上にはどんな社会がはびこっているのだろう。たぶん誰かは何について述べているわけでもないのだろう。君はそこから逸脱する術を知らない。言葉が限界に達しようとしている。君は言葉を信用できない。言葉とはどんな言葉を指しているのか。興味は他の言葉の方へ向いている。だからそれについては何も述べられない。そんなわけで何も述べられないことについて何を述べたらいいのか。高邁な理念を示してそれで終わりなのか。それではあまりにも単純過ぎはしないか。だがそこから派生した予想はすぐに外れてしまうだろう。この世界はどこへ向かっているわけでもなく、神は何をもたらそうとしているわけでもない。人々は何を受け入れようとも思わない。それはあるがままの世界でしかない。矛盾だらけで不具合だらけの世界だ。君の頭の中ではそんなネガティブな思考がはびこっている。では言葉によって何を伝えようとしているのだろう。何をやっても無駄のようだが、それでも何かしらやってみるしかないか。すでにだいぶ無駄に言葉を連ねているのではないか。君はさらにそこから遠ざかろうとしているのか。しかし遠ざかるとはどういうことなのか。何から遠ざかろうとしているのか。歴史的事実は受け入れがたい。そこに生じている真実を遠ざけ、代わりに独りよがりのフィクションを導入する。日本語で語ることは難しい。ただわけがわからないだけだろう。甘ったれた状態のままでいたいのだろうか。物事を単純化して考えるのはよくないが、外の世界に何があるというのか。そんなことはどうでもいいか。しかしそれでは動物と人間の違いを説明できない。感性の牢獄から抜け出ようとしているわけか。わざと見当違いのことを述べているのかもしれない。だがとてもそれが美的には見えない。今となってはシュールレアリズムなどは単なるがらくたに過ぎないか。そういう偏見を何の根拠も示さずに述べることのどこに説得力が宿るのか。たぶんいつものでたらめなのだろう。運命共同体とはいかなるルールに基づいて成り立つものなのか。そこでは何が利用され、他の何が犠牲となっているのだろう。今の君には何も示せない。示すべきは理由や根拠とは異質の言葉なのかもしれない。


7月19日

 何も映っていない画面と向き合いながら、架空の出来事について考えを巡らす。何かが終わりを迎えているらしい。すでに話が終わっている。言葉が出現するきっかけをつかめない。なぜそれを認めようとしないのか。またつまらないことを述べてしまったようだが、どうもそれは違うような気がする。しかしなぜ今ある現状を肯定しなければならないのか。できることなら肯定したくはないが、現状では肯定するより他に選択肢はない。肯定する理由など何でもかまわないのであり、たとえば考えるのが面倒だから、それらの現状を肯定してみると、そんなフィクションではつまらないことに気づく。だからそれらの現状があるらしい。まったくそれが理由になっていないような気がするが、それ以外のどんな言葉を選ぼうとも思わない。いったい選択肢にはどんな内容が入っているのか。選べる状況ではないのかもしれない。ここにはただ一つの現状しかない。それを肯定するにしろ否定するにしろ、そんなことで現状が変わるわけもなく、それについて考えることをやめれば、いつまでもそんな現状が続いてゆくだけだ。だがいくら考え続けても、何の結論に至る保証もない。実際に何を考え続けているのかもわからず、意識はどんな結論にも至りたくないのかもしれないが、そこから意表を突いて言葉がずれてゆく。そして気がつけば、何か外れたことを述べているような気がする。たぶんそれは部分的な差異だろう。どこかに見込み違いでもあるのだろうか。君はそこで何を述べようとしていたのか。そのままどこまでも意味不明を貫き通すつもりなのか。今の君は何も得ていない。物事を否定的に解釈しすぎているのかもしれない。なぜそれほどまでに苛烈な批判が必要なのだろうか。それらの現象はすべて君には無関係なのではないか。仮にエイズや環境破壊によってアフリカが死の大地と化そうと、君自身がこの地上から消滅してしまおうと、そこから何が出現するというのか。この先人類がどうなろうと、人類ではない君には関係のないことではないか。人類とは何なのか。類人猿の一種だろうか。誰かは不幸を身にまとって地上に舞い降りたらしいが、そこから誰に災禍を及ぼそうとしているわけではなく、勝手に地上が変化していくだけだろう。どのような種を繁栄させるために変化しているのではない。その身に希望を携えているのは人間ではなく、ゴキブリのたぐいだろう。昆虫ならいつまでも生きながらえるかもしれない。そんな現状を肯定しようと思えばいくらでも肯定できる。現状のただ中で右往左往しているだけの者にとって、現状とは空気のようなものだ。それが変化しようとどうなろうと、ただそれに順応しながら生きてゆくことしかできない。これからどんな世の中がこようと、ただそこで生き延びようとするだけだ。受動的なリアリズムとはそういうことではないのか。そんな君にどんな希望がもたらされるわけもない。今の君に現状を変える力などありはしない。だからそこでささやかな仕事をこなしながらひっそりと生きているのではないか。君たちはなぜそれを嘲笑するのだろうか。見捨てておきながらそれを笑い飛ばすことはないだろう。もはや虫けらのような扱いを受けているに過ぎないのに、そこからどうしろというのか。しかし誰が君なのか。誰かがそこで嘘をついているのだろうか。誰も君にはなれず、君も誰でもない誰かでさえない現状の中で、そこからどうやってフィクションを構成するつもりなのか。君には眼がないので何も見えないはずだ。誰かがその顔に眼をつけ忘れたのか。世界に何の影響も及ぼせないようなちっぽけの存在でしかない君に、誰が人格を与える気になれるだろうか。ではもはや造物主にまで見放されているのだろうか。造物主とは創造主のことか。君には二つの言葉の違いがわからない。そんなことはどうでもよく、それを神と呼べば誰もが納得するようなことでしかない。そして誰もが神に関する作り話をでっち上げることに疲れている。だが君が神でないとすると、君はどのような存在なのだろうか。やはりゴキブリのたぐいだろうか。しかしゴキブリでは数が多すぎる。もう少し希少な存在として扱ってもらえないだろうか。できれば何らかの天然記念物のような名を授けてほしい。誰が何を望んでいるのかわからない。わざとわからないように述べているのだろう。そしてそれはフィクションにさえ至れずに、単なる言葉の連なりとして忘れ去られる運命なのかもしれず、誰の心にも届かない文章としてその存在さえ黙殺され続けているはずだ。しかし誰に何をこびているのでもないのだから、それは当然の成り行きに違いない。君の認識ではこの世界には何もないことになっているはずだ。何もなければ何も起こらないだろうから、それについて述べている文章など存在し得ない。


7月18日

 この世界に何か不都合があるとすれば、それは国家が存在することか。国家を背負って戦うと、たまにはジダンのような結果が生じたりしてしまうのだろうか。または自国が負けたことに腹を立てて、選手に罵声を浴びせるブラジル人たちのように、醜い光景が展開されるわけか。人々はくだらぬ幻想にとらわれている。それほどまでして他国に勝つことに執着しても仕方がないだろう。なぜそんなどうでもいいような目的に殉じる必要が生じてしまうのか。他国に勝って歓声を上げるという一過性の快楽にだまされているわけか。どうも無責任な傍観者気取りの君には、それらの現象のすべてが馬鹿げだ行為に見えてしまうらしい。それは自国の官僚機構や軍隊組織を維持するために突っ張り続けている北朝鮮にもいえることか。さっさと韓国に妥協して朝鮮半島を統一して、力を合わせて日本を追い越すためにがんばった方が遙かに有益だと思われるが、国家意志として身についた自己正当化本能を捨てられずに、このまま自己崩壊を迎えるまで自らの首を絞め続けるのが関の山か。なぜそうまでして国家に殉じようとしてしまうのだろうか。それは程度の差こそあれ、日本人と呼ばれる架空の人々にもいえることか。たとえばロシアに対して北方領土の領有権をかたくなに主張し続けるのも、国家意志とかいうフィクションが介在していることになるわけか。そういう無益な主張は棚上げにして、ロシアの沿海州と北海道で自由貿易圏でも構成し、圏内での人や資本の行き来を自由にして、土地の取得や居住も自由にすれば、何となく実質的に問題解決になってしまうような気がするのだが、それを実行に移そうとすれば、互いの国の官僚機構や軍隊が抵抗してしまうのだろうか。たぶん折り合いをつけるのは相当難しそうだ。またそれと同じような自由貿易圏を九州と沖縄と韓国と台湾と香港や広州あたりを含めてやれば、それらの地域の風通しもだいぶ改善されるような気がするが、もちろん国家に邪魔されてそんな具合になるわけがないだろう。すべては君の妄想の段階にとどまるしかないようなプランに過ぎない。そしていくら国家を悪者扱いしようと、それを解消することはできそうもない。たぶんフィクションの中に登場する架空の国民たちには、国家という精神的なよりどころが是が非でも必要なのだろう。それは宗教のようなものか。実質的に国民主権をいいわけにして支配されているのだから、それは逃れようのない強制力なのかもしれない。しかし本当にそれをやめさせる手だてはないのだろうか。国家と国家の間にどっちつかずの自由な地域を挿入させて、徐々にそれを拡大させてゆけば、自然と国家が無力化してゆく、というのは絵に描いた餅以上の計画にならないものだろうか。何よりも支配装置としての官僚機構と暴力装置としての軍隊組織をどうやって無力化させればいいのだろう。その辺で説得力のある案を考え出さなければ、いつまでたっても誇大妄想の域にとどまるしかないか。しかしそれで何か困っているわけでもないだろうから、別に誇大妄想でもかまわないのではないか。君一人が何を考え出したところで、それに賛同してくれる者がいなければ机上の空論のままだろうし、たとえ多くの者が賛同したところで、昔のマルクス主義のように大した成果も上げられずに、それどころか時がたつにつれて次第に矛盾があらわになってきて、結局下火になってしまうだけかもしれない。一見正しいと思っても、実際に試してみれば不具合だらけで失敗の連続ということもあり得る。しかしだからといって考えることをやめるわけにはいかないか。どのような方向へ考えるにしろ、そこから何らかの可能性を見いだせるかもしれず、それを信じてさらに考察を深めなければ、まともな言説には至らないのではないか。しかしそこからどう考えればいいのだろうか。何を考えようとどうなるわけでもなく、実際にこの世界に深刻な危機が訪れなければ現状は変わらないか。君はまた戦争の到来を期待しているのか。戦争によって国家の矛盾が明らかにならなければ、誰も国家の成員であることをやめようとはしないだろう。だがたとえ矛盾が明らかになったところで、国家による支配から逃れることはできないか。そういう成り行き頼みの消極論では説得力を持たない。では問題はどこにあるのだろうか。人々の生活の基盤と国家はどのように結びついているのか。それを根本的に見つめ直さなければ、妙案を導き出すには至らないだろう。しかし本気でそんなことを考えているわけではない。現実に国家があるならそれを利用しない手はない。国家を通して自己実現でも図りたいなら政治家にでもなればいいだろう。それが現実的な選択肢になり、国民を幸福に導くなどとナイーブなことを主張し続ける政治家など掃いて捨てるほどいるのではないか。


7月17日

 気分は昨日とさほど変わらず、述べている内容も似たようなものか。そしていつものように、何を見ているわけでもないと嘘をつきつつ、本当に何も見えていないような気がしてくる。それは気づく必要のない光景なのではないか。よく見れば土砂降りの雨の中を、ずぶ濡れになりながら猫が歩いている。どうやら昼に見た光景を思い出そうとしているらしいが、そんなことは今の気持ちには関係ない。それどころか何もかもが無関係なのだ。君が存在しているよりどころとなっている言葉さえ君から遠ざかる。結果的に君とはまったく無関係な文章が構成されつつある。たとえば宗教とは何だろう。あるいは国家とは何なのか。なぜ意識の中でそれらがリアリティを持ち得ないのだろうか。とりあえずここでは何も顕在化していない。こことはどこなのか。平和な地域ではそんなことはどうでもいいことでしかない。だがひとたび紛争地域で宗教と国家が連携すると、簡単に有無をいわさぬ殺戮が行われる。イスラエルの軍隊が隣国で空爆を行い、たちまち数百人もの人々が命を落としてしまう。目には目を歯には歯をというわけなのだろうが、やはり現地のイスラエル人たちはそれについて何とも思っていないのだろうか。異教徒には空爆などやって当然の仕打ちであり、そのような地域ではそれが日常において普通に感じていることなのかもしれない。それは自然災害とそれほど変わらぬ感覚なのだろうか。そういえば別の地域では豪雨で人が何百人も死んでいる。梅雨時の東アジアではよくあることか。インドやバングラデシュなどの南アジアでもよくあることかもしれない。だがそこにいない君にとっては、そんなこともどうでもいいことなのか。架空の土地に暮らしているのだから、悲惨な目に遭っている人の気持ちなど推し量れるわけがないか。この世界では人などちょっとした拍子でいくらでもすぐに死ぬ。それが自らの生活に直接関係なければ気にするほどのことでもないわけか。他人にそんなことはわからない。君にさえわからない。この世に存在しない君の気持ちなど誰にわかるわけもないだろう。要するにすべてはフィクションの中での話なのだ。そしてそのときの誰かの気まぐれで、どのようにでも話の内容が違う方面に逸れていってしまう。それはフィクションにさえならない話なのかもしれず、それどころか考えようによっては話でさえないのかもしれない。そこでの語り手にとって、面倒なこだわりは避けて通りたい障害物なのか。だが避けてばかりではわけがわからなくなる。いったい君はそこで誰のことを述べているのだろう。そことはどこなのか。大して危険が顕在化していないように感じられる地域に暮らしていると、国際情勢など対岸の火事であって、何とも思わないのかもしれない。別にジャーナリストではないので、それについて何かを考えたり思ったりしている暇がない。それは嘘で暇はいくらでもあるので、暇な時間を利用して他のことを思っている。もちろん思っている内容はどうでもいいことだ。だから実際にこの先何が起ころうと、それは娯楽の対象に過ぎない。娯楽以外はすべて仕事か。他にどんなことを思う時間が残されているのか。そしていつも考えているのはそんなことでしかなく、それらの虚無以外は何ももたらされない状況から、その精神をどのように遠ざけるかについて、ほとんど考えあぐねながらも、まるで言い訳のように繰り返される適当な試行錯誤を経て、徐々に一定の答えに近づきつつある。とりあえずその件については、珍しく本気で考えていることだけは確かなようで、答えとなるべき事柄について、なにやら特定の対象を思考によって見いだそうとしている。それは以前ではあり得ない状況だろうか。しかしそれは具体的に何なのか。何でもないわけがないだろう。それについて誰かは将来起こるであろう出来事を漠然と思い描いている。しかもどうやら言葉を弄してそれについて語ろうとしている。だがいったん語り始めると、たぶんその誰かが消えていなくなってしまうのだろう。その誰かは君にとって取るに足らない存在でしかないが、ある種の人々にとっては失いたくない貴重な存在なのかもしれないが、それは具体的に誰なのか。誰でもない誰かでは納得できないような話の展開になってきているだろうか。そんなことはないか。人間とはどのような存在としてこの世界にあり続けるのだろうか。誰がこの世界の主役なのか。物語の主役を演じたがる者なら掃いて捨てるほどいるだろうが、君は自らがフィクションの中でうごめいているような存在では物足りないと感じている。できならそれを乗り越えて存在し続けたいらしい。要するに何らかのリアリティを伴った存在としてこの世界に登場したいわけなのか。誰かにとってそれはできない相談か。


7月16日

 すべては相対的な差異でしかない。いったい何がこの世の主役なのだろうか。労働者とは何を指す言葉なのか。たぶん必要最低限の生活必需品しか買わなければ、ある程度は金持ちになれるのかもしれない。しかしそういう水準で小金が貯まったとして、それでなんになるのか。金があろうとなかろうと、それは相対的なことでしかない。ただ普通に生活していけばそれでかまわないのではないか。それだけのことにどんな差異を見つけ出そうとしているのだろうか。何を述べているのかわからない。何も述べてはいないのかもしれない。発言者がどこにいるわけでもなく、少なくとも君が何を述べているわけでもないのだろう。数日前にアシナガバチに刺された腕がかゆくなる。いちいちそんなことに関わっていられない気分なのか。知らないうちに何かを追い越してしまったような気がしてくる。気がつけばそんな状況になっているらしい。しかしそこから何を想像しなければいけないのか。何事も仕事と割り切ってビジネスライクな対応が期待されているというのに、今さら感情はないだろう。何を想像的に回復させたところで、それらの共同体が心のよりどころとなっているようでは、先が思いやられるだろうか。先頃終わったサッカーのワールドカップから得られた教訓とは何だったのか。あれらの何が娯楽として機能したのだろう。引退した中田のヒデは何を勘違いしているのか。あれらのパフォーマンスは何かの集大成だったのだろうか。今ひとつ考えがまとまらないようだが、見聞を広めているつもりになるのは楽しいことかもしれない。とりあえず世界のどこへ行ってもただの人がいるだけだ。それをただの人と見なしてしまうことが気にくわないのかもしれないが、おそらくそれらの大半は労働者なのだろう。年がら年中子供の相手ばかりはしていられないはずだ。そして何かのイベントにかこつけて騒ぎたいやつはいくらでもいて、そこからメディアが利益を搾り取るのだろう。それらのどこに救いがあるわけではない。単なる競争に巻き込まれて何かをすり減らしている。誰かはそこで寿命が縮むような体験をした気でいるのだろうか。しかしなぜ他人を応援しなければならないのか。ならば自分を応援してどうするのか。誰かがひたむきに走り回っている光景に勇気づけられたりするのだろうか。それらを楽しむには何らかのいいわけが必要なのかもしれない。誰かが真剣に仕事をしている姿を見ながら、それを笑い飛ばしてはいけないのだろう。スポーツとは神聖なものなのか。ジャズを聴きながら片手間で見てはいけないものなのか。文字を記している手が震えているわけではないが、勘違いや思い違いに彩られた文章はさらに続いてゆくらしい。先に行けばいくほど継続が困難となるだろうが、そんなわかりきったことで苦悩しないでほしい。さらに手間をかけなければ意味が通らなくなるだろう。意味不明のままでかまわないのなら、そのまま適当なことを述べていればいい。それで気が済まないわけでもないはずだ。そして何も起こらない静かな夜が果てしなく続くわけでもない。君は何も持ち合わせてはいない。それらの言葉は君のものではなく、誰のものでもなく、何を媒介しているわけでもない。感情は感情であり、それを表現しているつもりの言葉はただの言葉でしかない。そして聴いている音楽は音楽以外の何ものでもあり得ない。それらのどこに気休めの救いが見いだされるわけでもない。別に救いを見いだそうとしているわけではないのだから、それはそれで当然の成り行きか。この世界は誰のものでもなく、誰がそこで生きているわけでもない。現実の世界の中では生きられないから、人々は幻想を抱くわけだ。幻想の中でその勝手な思いを実現したつもりになって、それで気が済んだふりをする。だがそれで何が成し遂げられたわけではない。何も成し遂げられていないから、さらに空想の世界へとその心をのめり込ませる。だからこの世界に人間などは存在しない。存在しているのは何かの幻影だけか。なぜ君はそれを人間とは見なさないのだろうか。人間という言葉より幻影という言葉の方が人間という存在には似合っているということか。何をわざと回りくどく述べているのだろう。人間という言葉に実体はない。実体があるとすればそれは神となってしまうだろう。しかしそう述べて、何を冗談ですまそうとしているのか。そんな冗談を述べている間は確かに楽しいが、それを述べ終われば虚しさがこみ上げてくる。実際に何もないのだから、虚しくて当たり前だろう。そう述べている意識は何にかぶれているわけでもなく、フィクションの中に存在しているつもりの君が人間の範疇に入っているわけでもない。たぶんまた何も語らずに雰囲気だけは文章を記しているつもりになりたいだけのようだ。


7月15日

 君は金を払ってそれらの環境を手にした。居心地はどうなのだ。快適な生活環境なのだろうか。夕暮れ時になって何かを忘れていることに気づく。本を読んでいる時間が惜しくなって、すぐさま言葉を連ね始める。まだそれを続けようとしているらしい。動機など何もありはしない。それを続けることによってどのような可能性がもたらされるのか。まだ死にたくはない。この世にやり残したことでもあるのだろうか。やり残したことをやろうとしているわけではなく、やりたくもないことをやらされている感もあるが、それはその場の成り行きだから仕方がないだろう。そんなわけでさらなる行き詰まりを抱えながらも、強引にそこからの継続を目指しているようだ。君にはまだそれをやり遂げるだけの時間が残されている。それは何かの思い違いかもしれないが、とりあえずはそれをやり続けようとしているらしく、それによって何がもたらされようと、君には関係のないことだ。君自身の死でさえ無関係に思われる。そんな言葉の組み合わせを模索している。それらの文章には作者の立場が存在しない。作者の意向や感情などはすべて無視され、文章が作者を廃棄物として放逐してしまうだろう。言葉以外は何ももたらさないとはそういうことなのか。それで誰が報われるのか。たぶんそれを読むことによって誰がどうなるわけでもないのだろう。ただ目で文字を追ってゆき、文字列のすべてを読み終わればすぐに忘れてしまうだけか。今となってはどんな文章を読んだのかも思い出せない。いったい君はそのとき何を読んでいたのか。まだそこには読むべき文章がもたらされていなかったのかもしれない。文章を読むにはまだ機が熟していなかったのだろうか。読んで理解できるような文章ではなかったのか。そんな思いを巡らしているうちにまだ何も読んでいないことに気づく。そんな嘘は通用しないか。だがいったんそんなどうでもいい嘘をついてしまうと、その後に文章が続かなくなり、それに関して言葉を繰り出すのが面倒くさくなる。そして本当に何を読んでいたのか忘れてしまったらしい。どうやら嘘が本当になってしまったようだ。他人の言葉に頼ってみても、すぐに裏切られるのが関の山か。何が君を裏切っているといえるのか。安易に嘘をついてしまったことを後悔しているとは思えない。まだ迷路を抜け出す気でいるらしい。いつまでもそこにとどまろうとは思わない。実際にとどまっているのは君自身ではなく、君から生じた虚無の文章か。そんなはずはないだろう。とどまろうとしている迷路がどこにあるのかわからない。どうも君の意識はありきたりのフィクションを受けつけないようだが、言葉は君をどう変容させているのか。そんなことを考えたことはない。何を考えても今さら何がどうなるわけでもない。当たり前のことを述べてどうするつもりなのか。なぜそんなことを思うのか。結局何もわからなくなってしまう。状況的には言葉以外の何がもたらされているわけでもないが、雨はもうやんだのだろうか。あれからかなりの年月が経過しているようだが、あれとはどんな出来事だったのか。君には何ももたらされないだろう。それは君が架空の存在だからか。君が架空の存在になってからどれほどの年月が経過したのだろう。今述べている君が本来の君でないことはわかっている。それは何かの謎解きを連想させる言葉だ。しかし彼はどうなってしまったのか。架空の君の登場とともに彼が姿を消してしまったようだが、その存在を示す手がかりはどこに隠されているのだろうか。君が何を見つけ出すはずもない。しかし彼はなぜ全力で走り回らなければならないのか。感性の衰えを隠すことはできない。そこで何をやりたいのか目的がはっきりしていないようだ。さっきから惰性の言葉が連なり続けている。迷いがあるらしく、その迷いを断ち切れずに、何を述べていいのかわからなくなり、それが言葉の迷路を形成しつつあるようだ。だからそこから遠くへ行けるわけがない。どこへも行けないだろう。そこで道が閉ざされている。どうやらそこで少し眠ってしまったらしく、何かを見逃して、今日から明日へと意識が後退していく。何を見逃したわけでもないか。君にはどんな道も残されていない。理由もなくそこから遠ざかるわけにはいかないようだ。君は何に目を光らせているのか。どこかで心が氷解している。ではもう何も言い残すことはないか。そこからどこへ行けるわけもなく、そこは相変わらずの地表面だ。現につまらない成り行きにうんざりしているのではないか。気の弛みからそんな台詞が湧いて出る。何となく拍子抜けの成り行きになってしまっている。昨日と同じような言葉に囲まれて、その言葉の並びに違う意味はあり得ないか。君はその後に付け加えるべき言葉を知らないようだ。


7月14日

 理念とは何なのか。理念が言葉で示す状態を目指す理由がどこにあるのだろう。なぜ理念に殉じる必要があるのだろう。君は理念とともに死ぬことになるのか。そんなはずがないと思いたいが、疲弊した頭脳は今度は何に頼ろうとしているのか。彼は何を構想しているのだろうか。彼の本を読めばわかるかもしれない。読みたければ読んでみればいい。読んで納得するとは思えないか。誰が納得しがたいのか。相変わらず君は納得を拒絶する。だがそんなことを述べ続けても文章の引き延ばしにしかならないだろう。確かに結果的にはそうなのだが、そこには何か判断を躊躇するような気分が醸し出されているのかもしれない。たぶん流行の言説からはほど遠い。しかしなぜ彼らは北朝鮮について考えなければならないのだろうか。君たちは彼の地から誰を救い出さなければならないのか。そんなことを考えているわけではなく、何となくニュースを見ながら、漠然と不必要なことを考える。それは誰に課せられた使命であるわけもなく、たぶん今や誰にとっても関係のないニュースかもしれない。君はすでにそこから遠ざかっているつもりで、無視しながらも執拗に同じ言葉を繰り返す。冗談ではないか。しかし国家とは何だろう。程度の差こそあれ人々を支配する装置が国家として存在しているらしく、国家を抜きにして世界情勢は語れない。それがそもそもの間違いなのか。別にここで世界情勢について語る必要などありはしないが、国家が人々を支配することのいいわけとして、国民を幸せにするために国家は存在していることになっている。国家の中で支配することと幸せにすることは両立するらしい。だがひとくちに支配といっても、その国内の状況によっては、それは耐えられない息苦しさをもたらしているとは限らない。誰も国家に幻想を抱くような時代でないことぐらいは認識しているのではないか。それはイスラエルや北朝鮮の現状を鑑みてみれば明らかになることか。一方は今まさに暴力による脅しを実行している最中で、もう一方は何を考えているのかわからないような行動に訴えかけている。一方は世界帝国であるアメリカの同盟国で、もう一方は敵対を装っている。だがそんな状況から何がわかるというのか。人々の意識は国家の存在を前提として構成されている。そうであったとして、そこから何か不都合が生じているわけでもなく、そのような意識に取り返しのつかないような欠陥が生じているわけでもない。要するに君がいかに国家を否定しても、国家があり続ける現状を変えるには至らないだろう。官僚組織としての行政機構が存在する限り、それを国家と見なすことに何の違和感も生じはしない。国家を否定的に批判してはいけないのだろうか。そこには資本主義という宗教が渦巻いているが、それを信じるか否かにかかわらず、人々はその渦に巻き込まれていて、いかに金を稼ぎ出すかにその生涯をかけているようだ。しかし彼らはなぜ宗教にこだわるのか。どうして宗教を心のよりどころとしているのだろうか。その辺から何となく思考がでたらめに分散しようとしている。そんなことを述べるつもりではなかったはずだ。人間に目的などありはしない。幸せになることが目的であるはずがない。ただ生きて死ぬだけの人生に何の目的があるというのか。たぶんそれは嘘に違いない。だがたとえ嘘であろうと、君たちは常に幻想を追い求める宿命に支配されていて、それに逆らうわけにはいかない事情もあるらしい。要するに仕事をしなければならない日々に嫌気がさしているわけだ。そして一攫千金を夢見て大勝負に出て、結局は敗れ去る運命か。自ら抱いている夢を実現させるためにはどんな犠牲が必要なのだろう。そういう話をするために思考を巡らしているわけではないが、そこには気に入らない現実が横たわっているらしく、必死にそれを無視する動作を続けながら、何とか別の出口を目指して言葉を連ねているようだ。迷路には出口がつきものか。その出口が夢であり幻想であり、はたまた自らの死だとしたらどうなのか。死ぬということは消えてなくなることだ。自然に還るということかもしれない。無限循環の一地点が死だとしたら、そこから何が生じるのだろうか。それはただの死でしかなく、夢でも幻想でもなく、現実の死でしかない。だから金を稼ぐのはむなしい行為でしかなく、そこにどんな目的があるわけでもない。なにやらわかったようなわからないようなことを述べながらも、どこかでごまかしがあったかもしれないが、それが致命的な欠陥になるとは思っていないらしく、さらに無駄なことを述べるためにも、そのような逡巡は必要な一過程なのだろうか。しかしそこから何がもたらされるのだろうか。ただのつまらない言葉の連なりにはどんな幻想が宿っているのだろう。


7月13日

 どうも自制が利かないらしい。何かが暴走しているつもりになる。それは虚構の動作か。しかし壊れかけた文章をどうやって復元するつもりなのか。君はそこで何を語っていることになるのだろう。何か現状について否定すべき理由でも思いついたのだろうか。君は何かの罠にはまっているのかも知れない。だがそれは気晴らしの娯楽でしかない。息抜きで罠にはまっているわけか。何のことやらさっぱりわからない。誰かの悪意を無視しているつもりで、今日も何かが生成し続けている。それはいつの時間帯での出来事なのだろう。何を訴えかけたいわけではない。逃げ水が浮き出るアスファルトの上は灼熱地獄だ。真昼の日差しと湿気は耐えられない蒸し暑さを生み出し、屋外で仕事をしていると体中から汗が噴き出してくる。そんな状況のただ中で、意味の定かでない言葉の連なりを模索している場合ではないか。たぶんエアコンが効いている室内では何でもないことなのだろう。だから夕暮れ時を通過して夜になってしまう。君はそれでも継続をやめようとしない。恐ろしい勘違いに突き動かされ、誰も読んだこともないでたらめな文章を構成しようとしている。それが恐ろしい勘違いであるわけがない。それの何が恐ろしいのか。今さら誰かの暴力行為を正当化してみても仕方がない。それはいつもの過剰反応に違いない。いつまでもそんなことが繰り返されるのだろうか。有無をいわさぬ攻撃にはそれなりの理由があるらしい。だが何のことを述べているわけでもなく、それらの言葉から類推できそうなどのような出来事に当てはめてみても、何かが少しずつずれている。特定の固有名をあげて非難する気にはなれない。そんな印象を抱くに至る背景を知りたいとは思わないか。そのとき君は何を知りたいわけでもなく、何でも知っているわけでもなく、要するに知りたいことが文章の中からは出てこないようだ。文章上に構成された意識が知ることを拒否しているらしい。その時々で起こる意見の食い違いを修正できずに、結局は支離滅裂な言葉のつながりを肯定せざるを得ない。そしてそんな説明は不要に違いない。それがなければ何が実現可能なのか。それとは違う展開を期待しているのは誰なのか。間違ってもそこからたたみかけるような言葉の噴出がもたらされるはずもなく、ただ何かについて述べることから遠ざかろうとしている。もはや君には時間がないが、そんな嘘をついている余裕はあるらしい。唐突に不可解な動作をもたらしたい。誰がそこで動き回っているのか。しかしどんな思惑があるわけでもなく、理由もなく言葉と言葉をつなげようとしている。面倒なので誰かの幻影が辺りをうろついていることにしておこう。まったく正気を保てない。時折奇声を発しているのは獣のたぐいか。密林の中を進んでいるのは宝探しのたぐいか。そんな物語も過去に存在したはずか。どんな期待を抱かせようとしているのか。おそらくクライマックスシーンで想像を絶するお宝が出現する手はずなのだろう。そこで喜怒哀楽の感情が頂点を迎えるわけか。だが知り得ないことはそこから遠く隔たった地点に隠されている。君はそこで何を見いだそうとしているのか。それは期待はずれの展開なのだろうか。何が見いだされるはずもないから期待はずれなのか。たぶんそこから遠ざかれないのだろう。何もない現状から意識を隔てるわけにはいかないらしい。そんな結果を招くために言葉を弄しているわけではない。本心をあらわにできるような文章ではない。それは這い上がるべく想定された落差ではない。まったくとどきそうにない高みを見上げて首をいためている。上を向いて歩いていたら何かに躓いて転げ落ちる。飽きてしまったのはそういう事情からではないのだろう。少しでたらめがすぎているのかも知れない。しかしそれでかまわない。誰かがそう思っているのだろう。君ではない誰かが君の心を操っている。そんな嘘を信じているわけではないが、何となくそれでかまわないような気がする。本気になれないのだから仕方ない。もう昼間の体験を忘れてしまったようだ。暑さにやられて無気力になる。何も見いだせずに無関心を装う。それはいつものことだろう。それで何になるのだろうか。まるで実感が湧いてこない。何をやっているのかも明らかにできないようだ。では何を落ち込んでいるのか。誰と競い合うつもりもなく、言葉が意味不明になってしまうのもかまわず、唯我独尊というつもりにもなれず、中途半端に虚無と戯れている。そんなことを語るべきではなかったようだ。そんなことをやって何になるのだろうか。何にもならないから続けようとしているのか。そういう逆説はつまらない。何もなくても何かがあるように装わなければ文章として嘘になってしまうか。嘘でもかまわないだろう。


7月12日

 そんな当たり前のことを述べてどうするのか。とりあえず今日は昨日ではない。時間的には今日と昨日の狭間で何をやっているわけでもない。昨日は何をやっていたのか。何かしら語っていたらしいが、架空の昨日はすでに誰かの物語の中へ埋め込まれていて、それを今さら君の文章に移植することは難しい。そんなわけで目下のところ君の文章の中では、理由のない苦悩がのたうち回っていて、意味不明な言葉の羅列からも伺えるように、内容のあることは何も語れないことからくる焦りによって、苦し紛れの言葉が複雑に入り組んでいるように感じられるが、たぶんそれは何かの屁理屈に違いない。おそらくこれからする話の内容はそれとは異なるのだろう。異なっているように装うだけか。さっきから何を黙り込んでいるのか。黙り続けている理由など何もなく、ただひたすら黙りこくっているだけのように見える。それではつまらないと思うなら、その沈黙の時間について、何かそのきっかけとなる出来事を思い出せないだろうか。過去に遡ってそれに関する心当たりでも探してみようか。だが本気で探すつもりはないのだろう。仮に探しても何も見つからず、また苦し紛れに偽りの出来事でもねつ造するのが関の山か。そしてそこからさほど遠くないところに、それとはまったく関係のない逸話でも用意されているのだろうか。それではいつもの意味不明とさほど変わらないではないか。君がその場の雰囲気に流されながら何を述べようとしているかは、実際にそのときになってみないことには何もわからない。とりあえずその場に生じた知ったかぶりの精神は、もっともらしいことを述べて、その場を適当に取り繕うとしているようだ。例えば人間の行いによってこの地球上から何が絶滅しようとしているのだろうか。どこかのテレビ番組の中でそんなことが述べられていたが、神のふりをしているつもりの君はそう思わない。絶滅させるのが面倒くさいのか。今の君にそんな力はないだろう。そういうことでないのは当然だが、特定の誰が何を絶滅させようとしているのではなく、それは誰の意図するところでもなく、政治経済的な利害関係から生じた自然破壊によって、ある特定の種が遠からず絶滅するらしい。だがそれの何がおもしろいのか。それでつまらないのなら、地球上に存在するほとんどの種が絶滅してしまったらおもしろいか。仮にそうなったとしても、誰がおもしろがるわけでもないだろう。ならばもう少しひねりの利いた内容が望まれているわけか。誰が生物の絶滅を望んでいるわけでもない。そうでないとしたら他にどんな状況が考えられるのか。おそらく生物が絶滅した後に機械が繁栄する時代が到来するだろう。そうなるためには一刻も早く自己増殖型の機械を創造する必要がある。だが本気でそんなことを考えているわけではない。そういうSFじみた話は今どき流行らないか。あるいはそんな冗談ではつまらないのか。冗談にさえならないだろうか。しかし話がつまらなければどうしたらいいのか。どのような基準でおもしろか否かの判断が可能なのか。いかにおもしろい話を提供するかについて、誰に過剰な期待がかけられているとも思えない。そうやって話を横道に逸らしてしまうのはいつものパターンだ。たぶん誰かの空想は別の方角へ向かっているのだろう。連日の雨で水かさを増した濁流を眺めている。それとは別の場所で君はどんな風景を見つめているのか。そんな君の存在を無視しながら、流れる水の光景を誰かが眺めている。なぜそんな話にこだわるのか。それは今の君とはまったく無関係だろう。川の上流がどうなっているか、それを知りたいとは思わないか。石ころを拾い上げて川面に向かって投げようとしているわけでもなく、堆積と摩耗からもたらされたその模様を黙って見つめ続ける。雲は次第に分厚く空を覆い始め、今にも雨が降り出しそうな気配だが、しばらくそこにとどまって、何を見いだそうとも思わないだろう。辺りを浮遊しているのは誰の心でもない。ではそこに立ち現れているのは何の幻影なのか。幻想の未来には行き先がない。この先何がどうなろうと誰も心配するには及ばない。君はすでに土の下で永眠中か。誰かがドラキュラのように復活する夢を見ているそうだ。どうも話があらぬ方向へ飛んでいるようだが、それでも君はまだいいわけじみた言説の出力を期待しているわけか。そこから何を生じさせようとしているのか。言葉以外に空虚を表現する方法があるのだろうか。なぜその内容が空虚であると決めつけようとするのか。本題が何もない。何も思いつかないうちに咳が止まらなくなり、息苦しさに耐えかねて、咳き込んだついでに意識が夜の闇の中へ飛び出しそうになる。そんな嘘とさっきまでの嘘との間に何の関連性も見いだせない。誰かが川を眺めていたのは空想上の話か。だがある特定の種の絶滅は現実の話なのだろう。しかしそれらの何がおもしろいわけではない。何となく意識がどこかへ逃げかけているようだ。今の君は何も述べる気にはなれない。


7月11日

 対話の対象でさえない相手を小馬鹿にしてどうするのだろう。久しぶりにその手の言説に接して隔世の感を抱く。この世界の情勢について、中には相変わらず皮肉を述べている者もいるらしい。まだそのような言説が有効だと思っているのか、はたまた半ばあきらめ気味にぼやいているだけなのか、君も過去にはそんな言説を操りながら、無駄でくだらぬことを述べていたのではなかったか。ではなぜ心変わりがしてしまったのか。本当にそういう語り方は無効なのだろうか。ではそれが無効だと気づいたのはいつの頃だったのだろう。いつの頃からなのか俄には思い出せないが、気がついたら言説がかわっていた。誰の意志を挫くような事態に遭遇したわけではないが、気がつけばまた途中から横道に逸れている。それは何の軌跡になるのだろうか。君は何の軌道を外れているのか。その程度の迂回で人の道を外れているとは思えない。そして今やその手の他人を小馬鹿にした言説の弱点もわかっているはずだ。訳知り口調で述べる以前に自らの精神状態を無視している。にやけた動作を言葉で表現することによって自らの小心さがあらわになってしまう。外国や自国の政治的指導者の言動が浅はかだと主張することが浅はかなのであり、そう述べることが結果的に状況を見誤らせている。彼らが浅はかならそれを小馬鹿にする者たちはさらに浅はかなのであり、そのように皮肉な苦笑いを取ろうとする行為が、現状を変える方向に力を働かせるはずもなく、そんな馬鹿な政治家を指導者として頂いている自分たちの立場を自虐的に否定することにしかならない。それは何よりも言説が述べているくだらない現実の中で自分たちが生きていられることが、危機感を煽る言葉とは裏腹に、こんな世の中でも普通に暮らしていけている、という逆説的な自信につながってしまうわけだ。そしていったんそれを自覚してしまえば、それらの危機感を煽る言説などは単なる息抜きの娯楽としか受け取られないだろう。日々起こっている凶悪な事件にリアリティを感じられないどころの騒ぎではなく、リアリティそのものが映画を見ながら味わうスリルやサスペンスと同じとなってしまうだろう。そんな者たちは結局日々体験する現実を否定的にとらえながらも、精神的にそれに依存しながら生きていくことしかできない。くだらぬ世の中だと思いつつも、それなしで生きてゆくことなどあり得ない。そういうメンタリティを共有している者たちにしてみれば、自国の総理大臣やその後がまを狙う者たちは、どうしようもない愚か者で、自分たちのメンツを保つために国を滅ぼしかねない無能者ということになってしまうわけだ。そして自分たちは毎日のように彼らを小馬鹿にしながらも暇つぶしに余念のない、高みの見物を決め込む酔狂な世捨て人気取りの言説を操っているつもりなのか。それこそ出来の悪いフィクションそのものだ。そしてそんな言動を繰り返しながらも内心焦っていることが見え見えなのだ。要するに強がりややせ我慢のたぐいで、意外と議会制民主主義による自浄作用を信じていたりする。まさかいつか諸葛亮のような賢人が出現して、自分たちが密かに抱いている高邁な政治理念を実現してくれるとでも願っているいるのだろうか。どうもそこから話が脱線してしまうらしい。精神の集中が長続きしないようだ。意識の中で何が変化しているのだろう。普段の精神状態と何も変わらないと思っているのだろうか。要するにいくら言葉を弄しても、実際には何も述べられないわけか。それへの返答として辺りを覆う沈黙に対して何も反論しようがない。君はそんな状況を肯定しなければならない。そしてわざと意味不明なことを述べている。それも冗談の一種かも知れないが、冗談だけではまともなことは何も述べられない。しかしなぜ雨が降っているのだろうか。別にその理由を知りたいわけではなく、それで冗談以外のことを述べたつもりになっている。しかしなぜそんな意味のない冗談を述べているのか。何を打ち消しているわけでもなく、すべてがその通りなのかも知れない。いくらそれを否定しても無駄なのであり、さらに言葉の真空状態へと文章の質は移行し続ける。気休めの言葉など何もいらない。それでも何もないよりはマシだと思ってはならない。何があるわけでもなく、それでもあり続けるのは空虚そのものか。そんな考え自体がこの上もなくみすぼらしい。では今こそ世界の物質的な過剰性を肯定しなければならないか。この世界が隙間だらけであることを無視して何が得られるのか。何も得ようとしていないのならば、空腹に耐えかねて気が狂うだけだろうか。ならばそんな見え透いた嘘は通用しないか。何が嘘だと見なし得るのか。それほど執拗に言葉を弄さなくても死ぬわけではない。


7月10日

 そういう話ではなく、何となく目が死んでいるようだ。それとは違う質問の到来が待ち遠しい。疲れているのに疲れている風を装わず、相変わらずの風景を横に見ながら、取り立てて急いでいるわけもなく、一見落ち着き払っているようにも見えて、そんな言葉に寄りかかりながらくつろいでいる。そんな文章表現は間違いだろう。ではもはやすべては手遅れなのか。何が手遅れであろうと、継続を中断する理由にはならない。手遅れだからこそ無駄に言葉を弄しているわけだ。批判する対象を見いだせないのに、何を批判しているのだろう。君はそれに対して何の反論も許さないのか。誰かは君に反論したいわけではなく、君を介して構成された文章にケチを付けたいようだ。だがそれによって君はどうなるわけもなく、痛くも痒くもないが、では何が痛し痒しなのだろう。誰が諸刃の剣を振り回しているわけではない。たぶん何にケチを付けようとしているわけでもないのだろう。何か主張したいことがあるなら、それを言葉にしてみればいいのだろうが、何の主張も持ち合わせていない場合、そこから何を述べたらいいのだろう。主張を組み立てるには時間が足りない。足りない時間をどこで補うこともできない。放っておけば時間はどんどん流れ去ってしまい、やがて砂時計の砂はすべて落ち、そこで時間切れとなってしまうらしい。時間を保管しておくことなど不可能か。そんな無駄なことを考えながらも、そこでどうやら時間がないらしいことに気づく。何となくいいわけとしてはわざとらしすぎるような気がする。だがそれがくだらない事態だとは思わない。とりあえずはそういうことでしかなく、そこから何をどうやっても間に合わないのだろう。間に合わせようとしていないのだから、焦っても無駄に違いない。どんなに言葉を連ねてみても、空虚以外は何ももたらされないだろう。そうやってあきらめた風を装いながらも、さらに無駄な文章を記し続ける。そしてもはや冗談では済まなくなるような長さになることを望んでいるようだ。いくら文章を長くしても無内容では何の評価も得られないだろうが、別にどのような評価を期待しているわけでもなく、それを否定されても肯定されても、一向に文章の無内容は変わらない。はたしてそれでいいのだろうか。いいわけはないだろうが、いったいそこで何がどうなっているのか。君はその辺の事情をまったく把握できない。君が述べているのではないのだから、それは当然の成り行きに違いない。そして誰がそんなことを述べる理由も意味もわからないが、わけがわからないのに何をどこまで述べるつもりなのか。いったい誰がそれを述べているのだろう。それもわざとらしい作り話のたぐいか。無理に述べようとしても何がもたらされるわけもない。何ももたらされないからくだらぬ疑念が生じてしまう。そこで君は何をしているのか。そしてそれを知り得ないのはどういうわけなのか。知りたいことは何もないのに、それを知ろうとしているのはおかしい。ではそんな嘘をついて何を回避しようとしているのか。それもおかしな成り行きだろうか。あるいはそんなことを述べてしまうのも当然の成り行きか。意味を担うことを拒否しながらも、文章を構成し続ける意識は意味を求めているのかも知れない。だが文章の無内容がそれを拒絶している。しかしそれで誰をけむに巻いているのだろうか。それらの言葉の連なりが誰を悩ませているとも思えない。確かに誰にも読めないような文章でもないが、いったいそれを誰に読ませようとしているのか。無駄な言葉を延々と連ねて精神的に疲れているらしい。気休めに耳を澄ませば何か聞こえてこないか。雨音とともに虫の鳴き声もやかましく聞こえてくる。虫ではなく蛙が鳴いているのかも知れない。だが闇の中では視線は何の役にも立ちはしない。見ている画面にはいつもの文字列が並んでいるだけで、そこから何が進展するとも思えない。どうも最近は否定的な愚痴ばかり述べているようだが、それがかろうじて文章を構成する糧となっているらしい。情けないとは思わないのか。いったい何について述べればいいのだろう。とりあえず言葉を連ねているようだが、それで終わりなのか。何が終わりなのだろうか。ではなぜ終わろうとしないのだろうか。終わらせるつもりがないような文章自体が君の終わりを予感させる。君の思考には理由も意味もありはしない。あるのはただそれらの言葉の連なりを継続させることだけだ。それが思考から導きだされた結論なのだろうか。それでは思考といえないのではないか。いったい現実の意識は何を考えているのだろうか。この世界ではどんな現象が起こっているのだろう。誰と誰がどこで会っているのか。そこからどのようなコラボレーションが生まれようとしているのか。


7月9日

 なぜか必要から見放されて、誰かの意識は心の中に閉じ込められようとしている。だが心が牢獄であるはずがない。フィクションの中で君が悩む必要はない。そこから何を見いだそうとしているのか。どこかに争いごとを引き起こす必然性があるのだろうか。そこにどんな思惑が渦巻いていようと、そんなものを真に受けるわけにはいかないか。探求するとはどんなことなのか。他人の作品をどう評価したらいいのだろう。たぶんけなすにはそれなりの理由が必要だが、けなす必要はないのかも知れない。けなす理由などありはしない。評価するつもりもない。いったい作品がどこにあるのだろうか。評価に値する作品がないというわけではなく、作品の存在を知る気がしないらしい。要するに作品がなくても間に合ってしまうわけだ。生きるためには何ら不都合を感じない。だから君はそこから遠ざかる。なぜさっさと退散してしまうのか。評価するのが怖いのか。何を評価しなければならないのか。遠くでがらくたが崩れるような騒々しい物音がしている。そんな言葉などいらないと思うなら、他にどんな言葉を持ってくれば文章が間に合うのだろうか。間に合わせの言葉が導きだされるとは思えない。状況的には何もない。それはいつものことだろう。また雨が降ってきそうな気配だ。それが仕事でなければやる必然性を見いだせないようなら、仕事以外は何もできなくなってしまうだろう。どんな作品に接する機会もなく、何のインスピレーションも得ることはない。それをやるきっかけを失い、夕暮れ時でもないのに画面が赤く染まっている。しかし何も語れなくなった時が言葉を連ねるチャンスとなっている。自然と意味も定かでない文章が生じてくる。それは神秘主義に染まっている証か。何を思っているのでもなく、何を述べているのでもない。そんなことが許されるだろうか。誰に許しを請うわけもなく、誰に許してもらおうとも思わない。なぜ今ごろになって本音で語っているのか。それが本音だとは到底思えない。君は何から遠ざかっているつもりなのか。それが空虚でないとすると、近づいているものの正体は何なのだろうか。あやふやな幻想を断ち切りながら現実の世界が急速に近づいてくる。今はいつの夜なのか。今日であるはずがない。そのとき偶然に思い浮かんだ言葉の断片は、君の意向に逆らい、意味を担うことを拒絶しながら複数の文章に分散しようとしている。やはり何を述べているのでもないあやふやな雰囲気の中にとどまりたいのか。誰がそこにとどまっていることになるのか。特定の意味を文章に封じ込めたいわけではない。たぶんそう考えること自体が虚構のたぐいなのだろう。もはや完全にわけがわからなくなっているようだ。君はなぜそうまでして継続に執着しているのか。その辺が君の限界なのだろうか。今や君が作り上げようとしている架空の言語空間は最大の危機に瀕している。そんな嘘をついても誰も真に受けないだろう。つまらない世間話ならいくらでも続けられそうだが、なぜそれをやってはおしまいだと思うのか。それ以外に何を語ることができようか。君がいくらそこから遠ざかろうとしても、それ以外に何もないのに、他の内容を語れるはずがない。世界は君を無視しながら君とは無関係に動いている。それは世界ではないのかも知れない。世間の大多数の人々が思い描いている世界はマスメディアによる洗脳によって植え付けられたものに違いない。たぶんそれがこの世界そのものなのだろう。マスメディアがこの世界を情報によって構成している。君はそれ以外の世界を言葉によって提示できるだろうか。だがこの世界に真の姿などありはしない。メディアはひとつではなく、様々な種類のおびただしい数が存在していて、それらの相互作用によってそこに暮らす人々の意識の中に様々な世界像を映し出す。そしてそれを受け止める人々も決して一様な意識や精神構造を持っているわけでもなく、立場や行動様式によって物事に接している度合いもそれぞれ異なり、そこから固定観念のようなものを導きだすのは間違っており、世界に対する見方や考え方も人それぞれで多少の差異はあるのかも知れない。まさかその差異をコミュニケーションによって埋めようとは思わないが、世界に対する何らかの共通認識を得ようとする試みも、マスメディアによって盛んに行われていることも確かだ。世論調査という粗雑なやり方で人々の思いを収斂したつもりになっているどこかの報道機関のように、なんとか最大公約数的な世界像を提示しようとする者たちはこれからも後を立たないのだろう。だが擬似的に世界をひとつにまとめてどうするつもりなのか。人それぞれで感じている世界が違っていてはまずいのだろうか。違っていて当然であり、違っているからこそ、世界に対する意見をひとつに集約させる必要が生じてしまうのだろう。たぶんより多くの人が幸福をつかむために妥協してほしいのだろう。今のところそれはできない相談のようだが、指導者面した輩は絶えずをそれを追い求めている。


7月8日

 早朝の薄暗がりの中で考える。何かがおかしい。それは嘘かも知れないが、どうも体調が思わしくないようだ。もしかしたらそれも嘘かも知れない。なぜそんなことを述べてしまうのか。理由など何もありはしない。数日前には埃を吸い込んで咳が止まらなくなる。しかしそれは架空の出来事だろう。相変わらずの無内容に嫌気がさしているようだが、話の内容がまったく見えてこないのも相変わらずだ。それを言葉にできないのだから仕方がないのではないか。たぶん何を見ているわけでもないのだろう。ブラインド越しに雨が降り続いている庭を眺めている。君は世界によって何を見せつけられているのか。君という存在が無視され続けている現状の他に、何か興味深い現象でも発見したつもりになれるだろうか。どうでもいいことばかりで、何も真に受けるわけにはいかないらしいが、ほとんど冗談にもならないような出来事に取り囲まれ、それらの何について語ったらいいのかわからず、途方に暮れる日々が続いているようで、何に対して本気になったらいいのかわからないままだ。まったくどこかの国会議員のように、青臭い青年の主張でも述べていれば事足りるような状況ではないが、そんな君は目下のところ誰からも必要とされていない。この世界は誰を必要としているわけでもなく、神さえも世界にとっては邪魔な存在でしかないだろう。もはや救世主など冗談以外では出現不可能な時代なのかも知れない。むろん君が救世主であるわけがないだろうが、誰が何を救うために現れなければならないのか。そんな風に語ること自体、頭がおかしくなっている証拠か。おかしいのは頭ではなく文章そのものだ。そしてそのおかしさに笑うこともできない。それはまったく笑えないおかしさのようだ。体験するすべてがどうでもいいことのように思われてくるのだが、何がすべてなのかまったくわからない。すべてを体験できるわけがないので、わかりようがないのだろうか。わかろうとしていないのはもちろんのこと、わかるという精神作用自体を理解できない。はたして理解することがわかることになるのだろうか。あるいはそういう語り方自体が根本的に間違っているのか。間違っている以前に言葉の並びがおかしい。何となくそういう話ではないような気がする。しかし唐突にそんな疑念を抱くのもおかしいのではないか。要するにそこで文章が行き詰まっているのだろうか。苦し紛れに嘘をつくなら、たぶん音程が外れているのだろう。そして話が脱臼している。あり得ないことを語るには現実感が希薄だ。しかし言葉を繰り出すのに気を狂わせる必要はない。やっていることのすべては正気の沙汰の範囲内にある。正気でなければそんなことを述べる必要は感じられない。正気であるからこそ気が狂っているふりをするわけだ。そしてまだ何も述べていないことに気づくだろう。やはりすべては冗談で述べていることかも知れず、本気になれないのは冗談の範囲から一歩も外へ踏み出せないからだろう。言葉がそこで萎縮してしまっている。なぜ彼らは馬鹿げたことについて飽きもせず討論しているのか。馬鹿げたこととは何なのか。そこで自説を主張し合うのが彼らの仕事なのだ。しかし騒ぎ立てるようなことは何もしていないのが現状だ。たぶん騒ぐ対象と騒ぎ立てる側の仕事がかち合っているのだろう。だから騒ぐ対象にしてみればやって当たり前のことをやっているだけなのに、何を騒いでいるのか不思議でたまらないのかも知れない。そして君にはそれが理解できない。やっていることのすべてが意味不明に思われてならない。誰かにしてみれば君が何について語っているのか理解できない。たぶんすべては嘘であり、語っている内容はどこにもありもしないフィクションに違いない。具体的な固有名を出すのがそんなに怖いのか。それらの文章にはどれほどのリアリティがあるのだろう。何らかの力が干渉を及ぼしているらしい。間違ってもそれについて語らせないようにしている。そして俄に迷路の出口が閉ざされて、わざとそこへ迷い込み、何となく気晴らしになるような幻想を追い求めようとするだろう。そしてそれは偽りの演技に違いない。誰が何を演じているわけもなく、特定の人格を担うような意識は迷路の中に存在せず、要するに外部から興味深そうなふりをしながら迷路の中を覗き込んでいる視線があるだけだ。それで何を理解できるというのか。理解したくないのだからそれでもかまわないのか。何を理解しなければならないのだろうか。この世界の現状について何をどう考えればいいのか。少しは真摯に何もない現状を受け止めるべきなのか。それとも何もないと嘘をついているだけの現状を真に受けるわけにはいかないか。そんなことでいくら言葉を弄しても何もわからない。だからこの世界は興味深いのではないか。それは強引なこじつけにすぎない。


7月7日

 そんなことにこだわるべきではない。いくら批判してもそのすべては無視されてしまうだろう。その証拠に球けり遊びはもうすぐ終わってしまうらしく、今は興味がないので、それが名残惜しいとは思わないが、いったいそこで誰と誰が出会ったのか。出会いは偶然に訪れ、何らかの意味を結実させる前に別れてしまうだろう。要するに言葉が足りないのだ。身体の躍動に言葉は似合わない。言葉に何らかの力があるとすれば、それは無力を装うことで得られる力か。言葉を弄すればすべての事実が嘘になってしまうだろう。そしてそこから逃れようのないごまかしが生じてしまう。まだ完全には燃え尽きていないようだが、もうそこで終わりなのか。胸の痛みはとっくの昔に去ってしまったのか。君の発作はまだ終わりそうもない。どこかで何かの燃焼試験が行われているようだが、それを終わらせることなど誰にもできはしない。終わりたくてもでたらめな言葉が終わらせてくれない。そしてそれらの言葉の並びには精神的に耐えられないものがある。そこから君はどうすればいいのだろう。何か気を紛らわすための出来事でも必要か。それらの何が出来事へと変貌するのか。いったいそこで何を思いついたのか。たとえば気休めとは何だろう。少し前の出来事を思い出すまでもなく、唐突に誰かが叫び声をあげたらしい。別に発狂してしまったわけではなく、騒いでもかまわない場所なら誰もが騒いでいるということだ。叫び声が何を語っているわけでもないが、どこかの球場なら誰もが野球を見ながら騒いでいる。例えば甲子園球場はそんな幻想の宝庫だ。スポーツには空疎な欲求がつまっている。誰もが偽りの戦いを体験したいのだろう。実際に誰と誰が敵対しているのだろう。そしてそんな光景を黙って眺めながら、君は何を悟ったのか。君は誰かの行く末を知っている。近いうちに誰かが死んでしまうだろう。もう手遅れなのか。何が手遅れなのかわからないが、とりあえず手遅れなのだ。だがそれで何を知っていることになるだろうか。一応は何かを知っていると見なしてもかまわないが、それについて何を知っていようと君は救われない。他人の生死など巷にはありふれている。それを知っていることで救われたいわけではない。それは誰もが知っていることなのかも知れない。彼がもうだめなことはわかっていて、それとなく知っている者同士でその事実を確認し合っている。ならばそれを知っていることがどうしたというのか。誰かの終わりを予想するのは簡単であり、予想できてしまうことに何の価値もありはしない。そんなことは誰かが死ぬ前からわかりきったことでしかない。ではそこから何を導きだせば価値があるのだろうか。死は価値とは無関係だ。だがそれは誰が決めることなのか。いい加減な誰かは彼の終わりを予言した後から、すぐさま彼の復活も予言してしまう。いつか彼は死者として公衆の面前に復活するだろう。その遺影の写り具合が芸術的だ。何をもって芸術的と評されるのかわからないが、故人はとりあえずそういう冗談は好かなかったようだ。しかしそれらのどこまでが現実の出来事に基づいていて、どこからがフィクションなのか、そんなことを知ってどうするのか。それをどうやって知ることができるだろうか。本当に知りたいのはそんなことではないらしい。いったい何を知りたいのか理解に苦しむが、それだけでは話としてつまらないのだろう。だが何をおもしろがっているわけでもない。作り話の中では複数の人間を介してそんな噂が広まっているようだが、君はそれに対して興味が湧かない。だからそこから離れようとしているが、過去に離れられたためしはない。離れようにも離れられない事情でもあるらしい。実際に架空の話から何も見つけられないから興味が湧いてこないのだろうが、何を見つけようとしているのか。言葉の断片を拾い集め、それを文章として構成したいらしい。何かが散らばっていることは確かなようだが、それが言葉の断片だとは思えない。辺りには砕石が転がっている。どこかの工事現場かも知れない。確かに興味はそんなところにはない。なぜそんな文章に耐えているのだろう。我慢がならないのはそういうことではないはずか。だから君は現状を把握できないのだ。君の言動は理解しがたい。何を述べているのかわからない。現状を把握するのが面倒くさいのか。体のどこかに癌でもできているのだろうか。なぜそうまでして健康を維持しなければならないのか。あらぬ方向へ言葉が逸脱している。足下の石を拾って遠くへ投げてみる。何を試しているわけでもない。では何がそこで試されているのか。今は生死の境を彷徨っているわけでもないが、いつかは死んでしまうかも知れない。君はそこから言葉を繰り出そうとしている。それが心の叫びだとは思わないが、少しは本音で語ってみたらどうか。


7月6日

 空耳とはそういうことなのか。誰かはどうしようもなく大人げないようだ。それでも何かに守られているらしい。偶然に何かの力が作用して君の行き先を変更してしまう。君は理由もわからぬままにそれに従わざるを得なくなり、その通りに進んでゆくと、やがて視界が開け、何となく事がうまく運んでしまう。信じていないにも関わらず、それを否定することもなく、そのままに成り行きは放置される。すべては自然が解決してくれるだろうし、解決しなければ解決しないままに放置されるだろう。それでも君は自然の成り行きを信じていないのか。何か神秘的な力に支配されているのだろうか。たぶんそこには誰にも解決できない問題もあるのかも知れないが、解決されなくても一向にかまわず、解決できないものを無理に解決しようとは思わないが、そんな思いとは無関係に、たぶん誰もが忘れた頃に人知れず解決してしまっている場合もあり得るだろう。そんなことはどうでもよくはないが、結果的にどうでもよくなってしまっているかも知れない。それがどうでもよくないと思う人々はマスメディアを利用して、どうにかしなければならない、と他の人々に向かって訴えかけようとするだけだ。やはりそれでどうにかなるとは思えないが、何となくうやむやのうちにどうにかなってしまったことにして、強引に幕引きを狙っている場合もあるだろうか。解決するのが面倒な場合はそういうこともあるだろう。しかし君はそんなことを述べながらも何について語っているのか。何か解決してほしい問題でもあるのだろうか。解決不可能だからそんなことを述べ続けているのではないのか。要するに文章をもう少しまともな内容にしてほしい。たぶんそれができないから苦労しているのだろう。結果としてそんな文章になってしまう事態を止められずにいる。それに対する解決方法を思いつかない。思いつかないふりをしているだけで、実際にはわかっているはずだ。一番簡単な方法はやめてしまえばいいのだ。では一番難しい方法は何なのか。それが思いつかないから苦労しているわけか。だがそんないいわけが通用するはずもなく、君の思いなどまったく無視されて、ただ言葉は適当に連なり、誰かによって記されてしまうのだろう。誰かとは君のことではないのか。君が誰かについて語る資格はない。そんな決めつけがどこから生じてくるのかわからない。いったい何を説明しているのだろう。少なくとも説明できないようなことではない。君はそこから何かを語り続けなければならず、なぜそうなのかがわからぬままに、何かを適当に語り続け、その内容が気に入らないらしい。それはどういうことなのか。君は自らが語り続けているそれらの文章から一刻も早く別れを告げなければならないということだ。なぜ唐突にそんな結論が導きだされるのか。単にそれらの文章がつまらないということか。ならばどうすればいいのだろう。別れを告げたからといって別れられるわけもない。別れられないのに別れたいとはどういうことなのか。どういうことでもなく、他にどういう意味でもありはしないだろう。君はそこからどんな意味も求めない。ただ何か適当な出来事が起こっているだけだ。それが起こる理由が知りたければ、それについて考えればいい。考えてもわからなければわからないままでもかまわない。何の解決ももたらされなければそれでもかまわない。かまわなければどうするのだろう。お気に入りのジャズでも聴きながら悦に入っていればいい。そういう成り行きが気に入らないのではないか。そしてどのように言葉を弄しても気に入らないのだろう。とりあえずそういう気に入らない思いも文章に利用しなければならない。誰が何をどう述べてもかまわないのがそこでのルールなのかも知れず、それについてどんな反応を示そうと、それらの言葉の連なりは続いていってしまう。その継続を止める手だてなど考えない方がよさそうだ。止まる時は自然と止まってしまうのではないか。実際に止めようとしていないのだから、そんなのはどうでもいいことだろう。問題はそれをどうやって止めるかではなく、止めようのない言葉の連なりの内容をどう変えてゆくかだ。それをどうしようとしているのか。どうにもできないものをどうにかしようとしているらしい。やはりそこから遠ざかろうとしている。遠ざかろうとして中途半端にしか遠ざかれないことが気に入らないようだ。そこで思考が止まっている。どうやら限界を感じているようだ。そしてそこからどうしようもなく大人げないことをやろうとしているのかも知れない。それは具体的にどのようなことなのだろうか。しかし具体的には何も決まっていないのではないか。何を語るかが決まっていないらしい。たぶん自己言及以外のすべてがその選択肢に入っているのだろうが、そこから先はまったくの未定だ。だからそれが気に入らないのであり、気に入らないからつまらないのではないか。そしてそれが無限循環の始まりであって、そこから同じような文章が果てしなく続いてしまうのだろう。


7月5日

 誰かのつぶやきを真に受けるつもりはない。ただそのように述べてしまう理由がわからない。何の怒りも湧いてこないのは、怒る理由がないからか。それによって誰が困っているのか。何かしら不都合が生じているのかも知れないが、実際に何をやっているわけでもない。あまり軽はずみなことを述べてはいけないが、ここに至ってなお事態が切迫しているとはいえない。ただのお遊びにすぎないのかも知れない。朝から雨が降り続いている。まだ危険な言葉遊びの領域に意識はないようだ。遊びが危険であるわけがないだろう。知識はそれが危険ではないと教えてくれるが、それを信じていいのかどうか俄には判断がつかない。本当に述べるべきことが何もないのだろうか。それが真実である可能性はどれほどのものなのか。それらの中で何を真実だと見なせば納得を得られるのだろう。いったい誰に何を納得してほしいのか。君が嘘をついていると思い込んでほしいのか。だがその嘘の内容を知り得ないのはどういうわけなのか。わけなど何もなく、ただ嘘によって今より高次元の思考へとたどり着きたい。それこそ意味不明に違いないが、なぜそんなことを述べてしまうのかよくわからない。君には語ることなど何もないのではなかったか。そこから言葉を並べなければならない。たぶんそれは語っているのではなく記しているのだろう。語ることと記すことを区別しなければ、それらの行為の本質を理解できないか。それはどんな機能を示しているのだろうか。何かを行うことが自己満足に直結するわけか。実際には語ることと記すことをその機能に応じて使い分けているわけではなく、ただその場の気分次第で語っていると述べてみたり、記していると語ってみたりしているだけか。だからどうだというのか。君は言葉を記すことによって何に満足しているのか。そこから逃げられなくなる。そこから遠ざかれなくなるだろう。だから逃げも隠れもできなくなってしまうわけか。そういう意味で述べているわけではない。どこできっかけを見いだそうとしているのか。あやふやに文章の内容が推移することを狙っているのかも知れない。君にはそれがごまかしであることがわかっているはずだ。わかっていながらあえてニュアンスをずらそうとしている。要するにごまかしを取り繕うことができないらしい。ごまかしはごまかしのまま放置され、それを無視して話を続けようとしている。それがそこでのルールなのだから仕方ない。本当にそんな嘘をついてもかまわないと思っているのだろうか。何となく夕方から眠ってしまって、気がついたら日付を越えてしまう事態を許してしまうようだ。言葉の連なりを今日の日付内でおさめることは難しい。継続するには是が非でも明日が必要なのか。そういう意味で述べているわけでもないだろう。君にはそれが理解できない。理解しようとするつもりがないらしい。それどころが理解という言葉の意味すら知ろうとしない。はじめから現状を理解する気がしないのだろう。それらの馬鹿らしくも愚かしい成り行きにどんな感慨を当てはめればいいのかわからない。他に何を当てはめたら正解なのか。そういう話ではないだろう。わざと話すべき内容とは別のことを述べている。それが内容の意味不明さを招いているのだろうか。言葉を連ねることを介して、さらに理解不能になろうとしているみたいだ。そんなことをやっていて楽しいか。楽しくなければ作業を続けるわけにはいかないか。そういう理由を行為に当てはめるのは間違いもいいところだろう。わざと間違ってみせたいのかも知れない。だがそこから突破口が開けるとは到底思えず、さらに意味不明な言葉の迷宮に深く迷い込んでしまうだけだろう。いったい君は何を述べているのか。その場の不可思議な雰囲気に流されながら、思考することをやめてしまっているだけか。そして愚かさの深みにはまっている。そのままの状態で突っ走ろうとしているらしい。走りながら軌道修正ができるわけがなく、いったん立ち止まってそれらの行為を省みる余裕が必要か。それは余裕ではなく必須の条件か。なぜ立ち止まって顧みようとしないのか。ただ面倒くさいからだけでは説明にならないのではないか。君に現状を説明する義務はない。誰に何を課せられているわけでもなく、自らに課していることといえば、その場をいいわけの言葉で取り繕うことだけか。そんな風に考えてしまうのは虚しすぎる。だがその場はそんなやり方で切り抜ける以外に方法を思いつかず、実際にそんな愚かしい作業を続けながら、同時にそれではいけないと思いつつも、なんとかその場をやり過ごそうと必死なのかも知れない。要するに引きつった笑いを浮かべながらお互いに皮肉の応酬に終始しているわけだ。それが人間社会の実態なのか。


7月4日

 何となく恐れていた事態が実際に起こってしまったのだろうか。だが深刻ぶるつもりはなく、新鮮な体験だったかも知れない。それどころかまったく本気にはなれない。たまにはそういうことも起こってしまうのが世の中だ。言葉を連ねていくうちに、ほんの些細なことでしかないような気がしてくる。何かに吸い込まれるように向かった先で、偶然の罠にはまり込み、少し傷ついてしまっただけか。そんな言葉が君の気持ちを裏切り続ける。面倒になってきたので、そこから早く退散したいようだ。だんだんどうでもいいような気になってくる。傷ついた部分はまた買えば済むことか。買わなくても修復でも試みてみれば気が済むのではないか。そんな風にして次第に興味を失ってゆくのだろうか。まだそこまでいってないだろう。そこまでいく必要も感じられない。適当に現実と戯れていればそれでかまわないのだろうか。かまうかまわないの問題ではなく、そうならざるを得ないような状況になってしまうわけだ。たぶん誰もが似たような状況を経験するのだろう。そしてそんな気休めの言葉を記してしまう。それが人間的な弱さかも知れない。そういう水準で強くなる必要はない。いい加減に偏狭なこだわりを捨てるべきだが、それがなければ誰かの人格が崩壊してしまうか。何を述べようとそんな場所へは到達できないだろう。そんな場所とはどんな場所なのだろう。それはどこにも存在しない架空の場所か。涅槃の境地というやつか。そうなるとたぶん予定調和の展開に違いない。君にはそうなってほしくない。君とは自分のことなのだろうか。それは何かの方便か。それ以外にどんな使い道があるのだろうか。言葉以外に何を使うつもりなのか。どんな雰囲気に包まれながら言葉を連ねているのか。それは苦し紛れの言説だ。それらの年老いた顔には何が似合うだろう。誰について述べているつもりなのか。すべてが変わってしまったわけではない。まさかまだ他人の興味をつなぎ止めようと努力しているのか。それにしては必死さが足りない。四六時中見栄を張り続けるのも楽じゃない。そんな人物がどこにいるのか。もう君にはついてゆけないはずか。それらは興味を持たれそうな文章からかけ離れている。だからさようならを告げなければならない。そううまくいくことばかりではない。架空の君を作り上げるためにどれほどの歳月を費やしたのか。だが結果として導きだされたそれは、君のことを述べた文章ではあり得ない。君自身が君について語る必要はない。それが君自身が陥っている逆境なのか。では何を跳ね返そうとしているのだろう。自由に振る舞おうとするたびに自由が逃れてゆく。そんな虚構の振る舞いからそれらの文章が生じている。だから君はいつまでたっても君自身にはなれず、それどころかどんどん君から遠ざかっていってしまう。要するに真実を話すのが面倒くさいのだ。その面倒くささが君の人格を構成している。しかし時間とは何だろう。時間の経過が人格を変形する。摩耗しながら折れ曲がり、不必要な部分が削り取られ、やがて消滅するだろう。滅却してしまうわけか。では滅び去る前に何か言い残すことはないか。今さら何を言っても消え去るだけか。そういう後ろ向きな発言はいただけないか。誰が発言しているわけでもなく、ただそこに記されている。では他に何を説明しようとしているのか。それほど身を削っているわけではない。だが痩せようにも痩せられない体型に近づいているわけでもない。そこに何が見いだされているわけでもなく、誰が何を説明しようとしているわけでもない。状況を説明するのが面倒なのか。今さらそれはないだろう。しかし依然としてポケットの中身は空っぽのままだ。空っぽの心は何を求めているのか。それは心ではない。君に心などあるはずがない。そう断言してしまっていいのだろうか。いい加減だからかまわないのか。かまわないがかまわないままではどうしようもない。どうにもできないからかまわないわけか。それでもどうにかしようとしているのだろうか。それはつまらない行為でしかない。もはや君には何もできはしない。だからひたすら言葉を記している。まだそれは違うと訴えたいのか。たぶんその状況では無理だろう。ではそこには何が回帰しているのか。言葉的なでたらめさでごまかすことができるのだろうか。今さらごまかしがきくとは思えない。だからといってつまらない哲学に回帰するつもりはなく、言葉遣いの難しさに救いと求めることなど不可能だ。だがかなり言説的に後退していることは確かだ。何を述べているのか意味不明なところが最大の欠陥か。何に流されているのかもわからずに、それでも何かに流されている感は否めず、結果として提示されてしまう何のまとまりもない文章の中でもがき苦しんでいるのがそこでの実情か。だがそれで何を説明していることになるのだろう。


7月3日

 別にそれがわけのわからない成り行きであるわけがない。ただ白く濁った水が目にしみる。目を水で洗ってどうしようというのか。君はそこで何をやっているのか。羽蟻が目に飛び込んできて、しばらく目を開けていられないほどの痛みを覚える。なぜ虫までが行動の邪魔をするのか。そういうことではないだろうが、それがどうしたのだろう。思いがけず痛い思いをすると急に腹立たしくなるらしい。それは数時間前の出来事だ。君はそこからどうやって立ち直ったのか。なんとか虫を指で掻きだし、気を取り直してまっすぐな道を進み、目的の場所にたどり着き、作業を再開しようとしているらしいが、何となく今は無理のような気がしてくる。何が無理なのか。何でもないのにそれは無理に決まっている。それが何だかわからない。意志を挫くような作用が外部から働いている。やってはいけないことでをやっているわけでもあるまい。実際にはそればかりではないのだろうが、たぶんそれをごり押しすれば、ほとんどはくだらない結末に導かれるはずだ。感覚的にそういう感じがしてくる。それでも語り進むうちに、何が無理なのかが次第に明らかになってくるかも知れないが、そこで安心して気を抜けば、感性はそこで眠ってしまうだろう。風邪が治らず眠気が襲ってくる。しかしそれが無理な理由ではないはずだ。はじめからそんな話は聞いたことがない。なぜそうやってつまらないことを述べているのか。わざとそうしているのだろうか。それ以外に何も思い浮かばないからそんなことを述べているのか。たぶん意識がそこまで到達していないのだろう。あきらめて通常の精神状態へ戻り、相変わらずの無内容にあきれかえり、それ以降の言葉の継続が困難となる。要するに自らを卑下しながら、そんなことをやっている場合でないと悟ってしまうわけだ。だから無理にやろうとしても無駄なのか。別に喉が渇いているわけではない。必要もないのに水分のとり過ぎか。それほど汗だくになっているわけではないだろう。久しぶりに空が晴れ渡り、日差しがまぶしい午後に通常の意識がある。そして数時間後のにわか雨の中で何を考えているのだろうか。たぶん瞬く間に夜になってしまうだろう。それほど忙しいとは感じないが、めまぐるしく動き回り、心身ともに疲れ果て、それをやる時間がないことに気づく。ただやる気がしないだけか。ではなぜそういう成り行きになってしまうのか。必然的な成り行きにはすべての偶然が作用している。偶然にそれらの言葉に出会ったわけではない。巡り会いには何らかの物語が絡まっているらしく、あるフィクションの中で誰かの宿命を知ってしまう。君はそれをやらざるを得ない。時間は有り余るほど残っているはずだが、それは君のための時間ではないようだ。そこには誰のための時間が設定されているのか。それは何かの設問だろうか。そこから答えを導きだそうとは思わないが、何か気がかりなことでもあるのだろうか。できもしないことをやろうとしているわけではない。誰がそれをもたらしているのか。怠惰な気分とともに何をやろうとしているのか。やる気がしないのならやらなければいいだろう。どこまで述べてもまともな結論には至らない。そして完全に枯れてしまったらしい。誰の心が枯淡の境地に至っているのか。そういうことではない。ただの嘘が繰り返されているだけか。心の中では延々と枯れ野が広がっている。今は秋ではないだろう。ここは黄金色の麦畑ではない。わざと無関係な空想をありもしない時空へ連結させているだけか。どこかの絵画平面へ紛れ込んでいるふりをしている。だがそれが何を意味するわけでもなく、ただの言葉遊びにすぎないのかも知れず、そこから思想や思考が導きだされることはない。疲れているうちに翌朝になってしまったようだ。様々なやらなければならないことのひとつがやれていない。実際に無理なのだから仕方ない。できないものはできないだろう。未だに道に迷っている気分のようだが、いい加減に偽りの迷路を取っ払ってしまえないものか。まったくそんな気がしないわけだから、それはすでに迷路とは見なせないはずだ。まっすぐにのびる迷路など存在しない。曲がりくねるのが面倒くさいのか。なぜ曲がりくねる必要があるのか。曲がりくねる理由を見いだせない。曲がったことが嫌いなのか。そういう意味で言葉を弄しているわけではない。どこかに空白の時がある。時間のない空間がある。それでも状況が見えないとは思わない。できないことはできない。できそうもないことをやろうとは思わない。そして何もかもがわからなくなる。それは君が探し求めていた状況ではない。では何を求めていたのだろう。何も思い浮かばないようだ。理由もなく動揺しているが、理由がないわけではない。


7月2日

 それは不吉な響きだ。僕は君たちがそれほど窮地に陥っているとは思わないが、集団の構成員でいることは何の助けにもならず、そこから救いがもたらされることはない。山中で雨にぬれているうちに雷が鳴らないことに気づく。道に迷って途方に暮れ、立ち止まったまま何もやる気がしなくなる。何を考えているのか。雷と君との間にどんな関係があるのか。何となくそんなことを述べてみただけか。戯れ言はその辺で切り上げて、とりあえず生き延びなければならない。それ以外のことは何も思いつかないようだ。それは君の経験ではない。たぶん過去にそんな文章を読んだことがあるはずだ。自らが体験した出来事は文章とはならずに、かつて読んだつもりの物語から適当な言葉の連なりが到来し続けている。それを文章の中にどう埋め込むつもりなのか。君は誰に必要とされているのか。やるべきことが他にあるわけではないが、それで知っていることを語っていることになるのだろうか。何をわかろうとしているのだろう。君は何を聞き逃しているのか。なんだか次第に眠くなり、いつの間にか明日になってしまうだろう。なぜか耳が聞こえないふりをしていたようだ。理由など何もないのかも知れず、誰かの話をわざと聞き逃していただけかも知れない。宮殿のような邸宅の住み心地はいかがなものか。使用人でも雇わなければ掃除が行き届かないだろう。またどこかで話が飛んでいる。それは何から得られた知識なのだろう。どこかでそんな画像を眺めているようだが、それで心が癒されるわけではない。要するに話をわかりにくくして、何らかのごまかしを導入しようとしているらしいが、気分が乗ってこない。君はそこで何を示そうとしているのだろう。たぶん意識はいつもの空虚に近づいてゆく。それで何の問題にもなりはしない。それをさらに続けるべきなのだ。君たちは今でも国家の中で暮らしている。そこに何らかのアイデンティティを確立したいらしい。自分たちの存在意義を言葉と行動で示したい。みすぼらしい考えに凝り固まっている。本当にそう思うなら、それとは違う価値観を提示してもらいたいか。それによって君たちを納得させることは困難か。自らの存在を肯定できないのはどういうわけなのだろう。存在自体が理由を必要としていないからだ。それは肯定する必要のない存在なのだろうか。無理に肯定しなくても存在しているものを改めて肯定するには及ばない。つまり君は君自身の存在を肯定する必要はなく、ただそこに存在している事実をどうすることもできはしない。その存在は君の思念の及ぶ領域にはない。そしてそんな状況が危機を構成するはずもなく、それはただの定常状態でしかないだろう。要するにそこに現れている現象は紋切り型の無限循環でしかなく、それが君たちの自己同一性を支えている。そこからどんな思想が導き出されるのか。何かが生じているかも知れないが、それは予想の範囲内で振動する感情の上り下がりだ。別に驚くに値しない現象だが、それに大げさに驚いてみせるのがそこでのしきたりとなっているかも知れない。君はそんな予定調和の反応には我慢ができないらしく、しきりに貧乏揺すりを繰り返し、早くその場を立ち去ろうとして、少々焦り気味の言動に染まっているようだ。それがどこから生じている言葉のつらなりであるかを明らかにするつもりはない。しかし何をわざとらしく宣言しているのだろう。別の時空は蒸し暑さとけだるさに覆われている。あれから数時間が経過して、何となくそのとき話したことが理解できたように思われるが、同時にそんなことは早く忘れてしまいたくなる。どうでもいいような戯れ言の繰り返しに我慢ができなかっただけか。だがそれにいらついていたのはほんの一瞬で、そんな心境にならざるを得ないような状況だったのだから、それはそれでそのときだけの感情でしかないのだろう。今はそこから遥か遠くで息づいている。もはや君には状況を説明する義務すら生じていない。いつの間にかまったく無関係な人間に成り下がってしまったらしい。たぶんそこで浮き足立つ必然性はないのだろう。そんなわけで誰も君たちを助けてくれないだろう。君たちはすでに状況に敗れ去っている。そこからいくら考えても何ももたらされはしない。国家の力を過信しすぎていたのだ。いったい国が君たちに何をしてくれたというのか。メディアを利用しながら何を訴えかけていたのだろう。そんな場所でいつまでも踊らされて惨めだとは思わないのか。利用しているつもりが、利用されるだけ利用され続け、気がついてみれば手許には何も残っていないのではないか。ただ白髪が増えただけか。それは君たちが老人になってしまった証拠だろう。そして何のことを述べているわけでもありはしない。


7月1日

 駱駝が歩き出す。そこから走り出せるわけもない。限界が見えている。目に見えているわけではないだろう。それは誰の目でもない。歩ける範囲が限られているということか。無限に歩ける者などいるわけがない。君は誰にもの尋ねているのか。電線にとまっているカラスに話しかけているわけではない。ではなぜ猫は上空を見上げているのか。いつものように感覚がずれているようだ。夢見る季節ではない。年齢的に夢という単語を使うわけにはいかないか。いったい誰が老人なのか。架空の感覚はどんな言葉に反応しているのか。放っておけば空想が壁からにじみ出てくる。板張りの廊下はどこまでも続いている。窓際の雑草がついに枯れ始める。窓から猫が覗き込んでいる。君がいつか死ぬことはわかっていた。誰が助けを求めているわけではない。誰も君を助けられないだろう。誰が助けようとしているわけでもなく、それらの現象はすべて画面上で起こっていることにすぎない。今さら時計の針を元に戻してももう遅い。生きられる時間はとっくに過ぎ去り、今が誰かの亡霊と対話しているだけか。なぜ死ぬと身体が腐り始めるのだろう。君はそこから誰の身を案じているのか。覚えきれない曲を聴き続けている。渦巻きの螺旋に興味を持っているようだ。それがこの世の現象だと思いたい。君が生き返ることはないが、すでに死人ではない。誰かは君の存在を忘れてしまった。やはりそこから遠ざかろうとしているのか。性懲りもなく力の及ばない領域へ逃げ込もうとしているようだ。砕け散った何かの破片を拾い続けている。だいぶ以前にそうなってしまったのだろう。君の思考は浅はかきわまりない。どこから何が飛び出してくるのか。それらのすれ違いは誰が仕組んだことなのか。誰がそれを知っているのだろう。自分をさらけ出すことのどこが愚かなのか。他人に笑われることが楽しいか。他人を笑っているうちは楽しかろう。変な言葉遣いになっているようだ。だが気に入らないのはそんなことではないらしい。珍しく腹を立てているのは誰なのだろう。やはりその雰囲気を敬遠している。それは悪臭のたぐいだろうか。すべてが問答無用らしい。関心を抱けないのは致し方ない。誰かは当然のことをやったまでなのだろう。少なくともいらぬお節介ではなかったはずだ。その精神状態のまま立ち回らなければならない者の立場を考えたことがあるのか。見え透いた嘘をつかざるを得なくなる。それが誰かに課せられた試練なのだろう。君がその使命を全うすることはない。誰に頼まれたわけでもなく、どんな命令に従う義務もない。誰かは自分が自衛隊員ではないと思っているようだ。別に迷彩服を着ているわけではない。君がそれをどう取り扱おうと誰も邪魔することはない。言葉は誰でも自由に使うことが可能か。自由に使えたらの話だが、とりあえずそれを実証しなければならないらしい。君は間違ったことを述べている。何が正しいことなのだろう。今こそそれを遂行しなければならない。嘘に決まっている。嘘でなければ何なのか。それは桃の缶詰を食べたときの感触に似ている。別の時空ではさらに違うことを述べているようだ。聞こえてくるのは誰のつぶやきでもない。それは今までの何度も聴いた曲だろう。だが何に勇気づけられているわけではない。どうやら君はそこから遠ざかる術を知ってしまったらしい。だから逃げ出すことはいつでも可能だ。実際に逃げ出してきたのではないか。はたしてそれは正しい行いなのだろうか。誰がそれを食い止めることができようか。見たくもない光景には目をつむるべきか。できればやってみればいい。それらの呪いが誰に襲いかかっているのか。誰かは何を呪っているのだろう。災いはどこからもたらされているのか。すべては自然現象だと解釈すべきなのか。誰がそれに答えられるわけもない。答えようのない問いが辺りに散らばっている。それは逃れる術を知らぬ言葉の群れか。発せられるそばから地面に落ちる。君の耳に届く以前に地中にしみ込んでしまい、聞き取ろうとする気にもさせてくれない。それに対してどう答えたらいいのだろうか。さらに悪戦苦闘を装うつもりなのか。どこかに何かがばらまかれる。空を切り闇を切り裂き、どこに救世主が出現するわけもなく、すべては期待はずれに終わるだろう。人々の夢は裏切られるためにある。それが夢でないとすればただの現実でしかない。結局約束は果たされず、空手形をつかまされた人々は裏切られたことを悟り、自らの愚かさを認めようとしないばかりか、責任転嫁する対象を必死で探しまくり、さらなる窮地に追い込まれてしまうのだろうか。借金が雪だるま式に増えてゆくのを黙って眺めることしかできない。そうなりたくないならどうすればいいのだろう。


6月30日

 誰かが遠くで念仏を唱えている。まさかそれで誰かの怨霊が退散するとでも思っているのか。たぶんそういう話ではないのだろう。ではそれらの現象のどこに焦点を絞ればいいのか。現象とは何だろう。君はすでにそんなところにはいない。そして誰がそんなことを主張したいわけでもないが、この世界は君のものではない。君は神なのか。冗談でならそうかも知れない。だが君はこの世界では何も信じない。だからこの世界では君は君でさえない。君でさえないとすると、君に当てはまる人物を他に設定する必要に迫られているわけか。それはどういうことなのか。何も君が君でないことを他の誰が証明しようとしているわけではない。証明する以前にその状況を説明しなければならない。たぶん君はそれを説明できないだろう。君が君でないのなら、自身について説明できないのは当然のことか。それらの状況は君自身によってもたらされているわけか。そういう話でもないだろう。ではただ混乱を煽っているにすぎないのか。それしきのことで誰が混乱するだろう。まだ心に余裕があるらしい。ついでにわざと焦っている風を装っている。なぜそうするのか理由がわからない。この世界では何かが違っているのかも知れないが、この世界以外にどんな世界の存在を認識できるわけもなく、少なくともこの世界で起こっている現象について説明しなければならず、それを怠れば、述べている内容が何のことやらさっぱりわからなくなる。いったいさっきまで何について述べていたのだろう。それから半日が経過した段階では、何もわからなくなってしまったということか。それでは焦る理由にもなりはしない。焦りたいのに焦れないか。たぶん本気で焦りたいわけではないのだろう。その証拠に心は至って冷静のようだ。だからそれについて何を反論しても無駄だろう。誰が反論したいわけでもなく、そもそも反論する対象がもとから存在しない。誰かがわざとらしくねつ造してみせる作り話の中では、そういう場合わざとひどいことを述べてしまう輩を登場させて、それに対してわかりやすい反論が用意されているものだ。要するに反論しやすい状況がそれらの場面に生じているわけだ。しかしそれはどんなドラマなのだろう。またずいぶん回りくどく述べているようで、さらに根気よくまた無駄に言葉を連ねてきたものだ。そんな安易なことを述べるために意味不明に陥ることはないだろう。それらの作り話の中ではいくらでも議論を白熱させることができて、またそれをわかりやすくも単純な結論に導くことも可能だ。要するに誰もが安心できる答えが話の終わりに設定されているわけか。少なくとも君が構成しようとしているフィクションはそんな単純な話ではありえない。本当にそうであったなら、どれほど溜飲を下げられるだろうか。やはり本気で述べているわけではないらしい。その証拠に誰かと誰かが話の中で出会う必然性を打ち立てられない。出会うはずのない人物が出会ってしまうわけにはいかないだろう。それをやってしまえば漫画になってしまう。そういう場合くだらぬ物語の中では、必然的に偶然が作用して、あたかも偶然に出会ったように見せかけるのが必然的な成り行きになるだろう。君は無意識のうちに紋切り型について述べているらしいが、そんな話の成り行きではつまらないか。つまらなければ偶然の出会いをどう演出するつもりなのか。言葉で何を飾り立てようとしているのだろう。誰かがどこかで半狂乱になっている。そういう話でもないはずだ。では見上げれてみれば天井についた蛍光灯がまぶしい。月並みな文章表現でも追求してみるか。またそうやって嘘をつく。誰が尊敬に値する人柄を有しているのだろう。言葉遊びの範疇ではそういうのもありだろうが、まともな文章でないことは確かなようだ。どうやら君は普通の成り行きで言葉を連ねてみたいようだが、それもまた無い物ねだりになってしまうだろう。言葉を連ねること自体が狂気の営みなのか。そんなことはないと心の中でにやつく輩も多いかも知れない。知ったかぶりなら誰にでも可能なようだが、中身が伴わないのは多くの人にありがちなパターンだ。しかし知っていながら知らないふりをするのは質が悪そうだ。君はそれを解決したいわけではなく、適当にそこから文章を展開させたいだけなのかも知れない。何を述べているのでもなく、そうかといって何も述べられないわけでもなく、何となく言葉によって現実逃避を試みながらも、そのような営みがかえって自らを何もない現実に直面させてしまうらしい。偽りの解決に組するわけにはいかないが、そこからそれなりに変化を被りたいらしい。何もないままではつまらないか。


6月29日

 橋のたもとには何があるのか。まさか芥子の花が咲いているわけでもあるまい。視線がそこから飛んでいる。目を覚ませば金魚鉢の中は空っぽだ。架空のまなざしは奈落の底から空を見上げている。現実の空から雨が降ってくる。他に何を見ているのだろうか。画面上の景色が移り変わる。それは車窓からの眺めになるだろう。作り話ではそういうことになっているらしい。誰が空を飛んでいるわけでもない。間違いは誰にでもあることだし、災禍が誰に降り掛かってくるともわからない。偶然の成り行きは君を助けてはくれない。ときにはそんな状況に出くわしてしまい、誰かは動揺の色を隠せない。だが死んでしまえと怒鳴られても、まだ死ぬには早すぎる。それどころかどこかで老人は執拗に生き延びようとしている。君はまだ老人ではない。だが君に魂が宿っている形跡はない。死人に口なしか。時々顔色が変わるが、それで喜怒哀楽を示していることにはならない。無関心を装いながらも何にこだわっているのか。早くその文章を終わらせたいようだが、その執着心は半端ではない。何に執着しているのか理解できないほどに執着しているようだ。ただわけがわからない。そんな風にしてまた無駄な言葉を繰り出しているようだが、それが命がけの飛躍でないことは明らかだ。はじめからそんなことは思ってないはずだ。とりあえず架空の人物には命がない。なぜそんなに早く疑念を打ち消してしまうのか。そこで何を打ち消しているのだろうか。ときにはそんな成り行きでもかまわないか。だがそこまで持っていくだけの根気に欠けている。たぶん話にならないうちにあきらめてしまうのだろう。いったい何について語ればいいのか。架空の対話を利用しながら誰かと誰かがどこかで騒いでいる。作り話の中では誰と誰が対話していることになっているのだろうか。そんなことではない。何の魅力も感じないのでその話はなしにしよう。だんだん語るのは阿呆らしくなってくるらしい。わけのわからないことを語っているうちに焦りが生じてくる。頻繁に冷房を切ったり入れたりしているうちに、暑くなったり寒くなったりして、偽りの世界では気候変動が激しくなる。だがそれが地球が温暖化している証しとなるはずもなく、はじめからそんなことを述べようとしていたわけではないことに気づく。とりあえず今は蒸し暑いので地球が寒冷化してほしいと願っているようだが、その場の都合で地球全体の気温がどうなるわけもなく、そんなわかりきったことに異議を唱えるつもりもなく、では他に何を述べたいのかといえば、そんなことはくそくらえか。だいぶ投げやりな気分に近づいているようだ。たぶん意味がまったく通じていないのだろう。君は意味などもとからありはしないと思っているようだが、それは間違った見解だ。君自身も自らの見解が間違っていることに気づきながらも、一向にそれを改めようとしない。それが正しかろうと間違っていようと、そんなことはどうでもいいことだとも思っている。ただそこに何かしら言葉が記されていればそれで満足してしまう。そんな君を君自身は嫌悪している。そしてそれに対する反動で、常にそうではない君の存在を追い求めているのかも知れない。だがそれは架空の存在だ。ではそこから何を理解しなければいけないのか。できれば卑劣な手段を講じたくはない。たぶんそれは嘘だろうが、冗談でならそうするところか。そして苦し紛れに言葉と言葉の間に、君とは無関係な言葉を挿入しなければならなくなる。それで何がどうなるわけでもないが、それは見たこともない映像になるだろうか。映像ではなく文章ではないのか。それについてことの顛末を語らなければ気が済まなくなるか。そういうことではなく、誰のことを述べているのだろう。気がつけばさっきからひっきりなしに大型車が行き交っている。騒音にかき消されて肝心の会話内容を聞き取れない。誰がどこで何を盗み聞きしているのか。まだ風邪が治っていないようだ。君はそうまでして勝ちたいのか。空虚を用いて勝利することが何になるのか。たぶん結果的にそこで勝ち誇っているのは狂人のたぐいになる。誰も気に留めはしない。では本当に勝利しているのは誰なのか。誰も存在できないのだから、勝利も何もあったものではない。語る主体を欠いた言葉がどこまでも連なっていく。それは昨日と同じような文章になるだろう。そしてすでに日付は昨日になっている。つまらない内容はつまらないままに推移し、そこからまともな主張が出てくることはない。どこかに仮想敵がいないと結束を保てないのだろうか。そこに格好の標的が出現していることは確かだが、今はそれに言及する機会がない。どうしてもその気になれないようだ。そんなことを述べても無駄だと思ってしまうわけか。それ以前に何も述べる気がしない。


6月28日

 もうやめておいた方がいいだろう。最近はおかしな気分に拍車がかかっているようで、何か言葉と言葉の間隔がどんどん広がっているように思われる。要するに文章の中で話がつながらなくなっているわけだ。もともと話など何もありはしないが、ただ何かが極端に分裂しているような気がする。その何かとは何のか。架空の話の中ではそんな文章ばかりが繰り返されている。ひたすらその何かを知ろうとしているのだが、それに対する明確な答えが何一つ出てこない。それに対して君はどう答えればいいのだろう。何も答えられないのがこれまでの経緯だったはずだ。今日は珍しく朝から心の調子が良かったようだが、昼の蒸し暑さに頭をやられたとたんに最悪な状況に陥り、夕方頃になって何かが揺らいでいるような感覚を経験する。それは具体的にどういうことなのか。現実の時空では相変わらず曖昧な文章表現に終始しているようで、一方作り話の中では目の前で揺らいでいる時空間に入り込み、状況が好転するきっかけをつかみかけていると思っているらしいが、いったいそれはどういうことなのか。どういうことでもなく、依然として君には何を述べているとも感じられないようだが、そうしている間にも刻々と時間が過ぎてゆき、誰かはすでに待ちくたびれてあきらめの境地に至っているようで、そんな気配を察知してか、とにかく何でもかまわないから言葉を弄しているふりをして、そこから適当に文章を構成している風を装いたいが、それはくだらぬご都合主義の顕れか。君は自らが記したそんな文章にうんざりしてしまう。ただ闇雲に言葉を並べてしまうのは堪え難いようで、読めば何か適当な内容になっているように装いたい意図が見え透いていて、決定的に良心が欠落している。ではそこで信念や決意などという言葉を使いたいわけか。それらを使ってどのような文章をねつ造したいのだろう。そんなどうでもいいようなことを述べながらも、だんだん状況的に追いつめられているのだろうか。それはどのような状況なのか。そんな言葉に振り回され、そこから振り返れば、気休めの映像にだまされる。毎日テレビ画面上で繰り返されているくだらぬ謎解きのおかげで、人生が台無しか。嫌なら見なければいいだろう。そうやって突き放され、奈落の底へ真っ逆さまか。誰が君をそこへ突き落としているのか。被害妄想にもならない戯れ言のたぐいか。では画面の前で薄ら笑いを浮かべている人物は誰なのか。たぶん君とは別人なのかも知れない。誰もそこまでの深刻さは感じていないようだ。凶悪であったり悲惨であったりする事件が発生するのは誰のせいでもありはしない。犯人以外の誰のせいしてもいけないのかも知れない。しかし君が述べていることは、まったくの作り話というわけでもないはずだ。そこまで述べる必要はないが、それでも無駄に時間を費やしてさっきまで何を見ていたのか。やっていることはどこでも同じようで、興味を抱かせておいて、見ている間に時間を奪い去る。もっと簡単に平穏な日々を過ごせないものか。その気になればそうなるだろうし、そうなりたくなければ今まで通りだ。そして怠惰な気分がすべてを押し流す。心はどこへ押し流されて行ってしまったのか。消え去った先を探すつもりはない。心は入れ替えが利くらしく、そこにはすでに別人の心が宿っている。おそらくそれも作り話のたぐいなのだろう。つまらぬ空想からつまらぬ文章が構成される。しかもそれは君には関係のない内容だ。誰が空想して誰が文章を記しているのかわからない。しかし誰にもわからないわけではなく、君自身がすべてを知っているかも知れない。知っていながら知らないふりをし続ける。それはなんという時間の浪費だろう。やはりまだ何も語っていないような気がする。そして君にはまだ名がないことに気づく。自身の影に何という名を付けようか。だがそのついでに名付ける主体が存在しないことにも気づく。そんなことはあり得ないだろうか。そうだとすればそれはいつもの嘘だと思えばいいわけか。そう思いたければ気が済むまで思っていればいい。本来はそういう話ではなかったはずだ。今は本来ではないのでそういう話でもかまわないか。なんだか話の入り口で行き詰まっているようだ。過去にそんな人物は存在しなかったのかも知れない。どちらにしろ君にはまったく関係のない話らしい。それはどういうことなのか。執拗に同じ問いが繰り返されている。君はそれらの内容をまったく把握できない。印刷物には誰かの頭を混乱させる意図が刷り込まれているのだろうか。それでも君は何も読んでいないと主張するつもりのようだ。そしてその決意は頑すぎる。ごり押し的な感性に心を支配されている。たぶんそれも話にならないのだろう。伝えたいことは何もなく、何もないのに言葉は続いてゆく。


6月27日

 どうもまただめらしい。何がだめなのかわからないのではなく、そう述べてしまうことがだめなのだ。別に油断しているわけではないが、何となく隙だらけのような気がしてくる。危険を回避するにはどうしたらいいのだろう。注意力が散漫なのか。意識がそこまで行き届いていないのかも知れない。そことはどこの場所を指すのだろう。この世界にどんな場所があるというのか。そんなことがわかるはずもなく、さらに精神の集中が持続しなくなる。無意識は精神のどこまでを支配しているのだろうか。それは誰の無意識なのか。誰の精神を誰の無意識が支配しているのだろうか。不毛なことを述べているようだが、そんなことではないだろう。どうもまだ立ち直るきっかけをつかめていないらしい。何を語りたいのかわからないまま、見切り発車的に無駄なことを述べ続けている。同じことを何度も語るのは退屈だ。そろそろ緊張の糸が切れかけてきた頃か。はじめから弛緩しきっているのに緊張も何もあったものではない。くだらぬ言葉の連なりに対して無理に感動することはない。つまらないならつまらないままに終始していればいい。今のところそれを修正するつもりはないらしい。なぜ世の中のすべてが効率的に物事を運ぼうとしているのか。そうでなければ誰もが納得しない。表向きはそういう振りをしていないと怠け者扱いをされてしまうか。本当にそう思っているわけではなく、とりあえず周囲を納得させるために擬態を装っている。そんなごまかしがどこまで通用するだろうか。君は自らに嘘をついていることに気づいていないのではないか。心の底まで潜って何を探っているのか。少なくともそれはどぶさらいとは違う行為なのだろう。やるつもりもないことをやっているふりをしたいのか。それをどう説明したらいいのだろう。精神衛生上きわめて悪いか。心身に深刻なダメージを与えるだろうか。そんなことはないだろう。ただ何も語れなくなってしまうだけか。中途半端な気分を言葉にすれば何か適当に語れることはできるが、それをやめてしまったら何も語れない。結局君には無理なのだ。まともなことは何も語れない。しかしそこから語ろうとしてしまうところが救いようのない愚かさを醸し出している。要するに切羽詰まって自己言及に至るわけか。自らが何を語ろうとしているかについて語ってしまう。それの何が試行錯誤になるのだろう。怠惰にまかせて無駄な言葉を垂れ流しているだけではないか。そんな自己嫌悪も文章となる。それが気に入らないのならやめればいいが、やめられないのなら他のことを語ればいい。外界ではいくらでも事件が起こっているはずだ。確かに暴力を用いた事件ならいくらでも起こっている。この世界は何に支配されているのか。別に暴力に支配されていたり理性に支配されていたりするとは思えない。起こりうるすべての出来事が偶然の成り行きに支配されているとすれば、それでは何に支配されていることにもならないだろう。偶然は支配という意思を持たない。偶然に意識が宿っているわけではない。何よりも支配しようとする意志は、それが必然であることを望む。自らがこの世界を支配することの必然性を主張したい。たとえその始まりにおいては偶然に誕生したとしても、それをこの世界になくてはならない存在にまで高めたいのだ。それは虚しい勘違いだろうか。支配したいのならその勘違いを堅く信じ込まなければならない。それ自体が恐ろしいフィクションなのだ。自分を信じていればそんなことも可能となるのだろうか。そのようにして出来上がった信念とともに何に立ち向かわなければならないのか。支配の邪魔をする輩がどこからともなく登場して、正義の味方気取りで戦いを挑んでくるわけか。君はそういう単純な図式的二項対立には満足せず、すぐに第三勢力的などっちつかずの集団を設定しようとするだろう。話を盛り上げるにはそんなキャラクター設定が欠かせない。しかしそこからどうするつもりなのか。誰が何を支配しようとしているわけではなく、そんな話がどこから湧いて出てくるはずもない。どこから逃げてきたわけでもないが、君は相変わらず何の話も構成しようとせず、虚無以外には何ももたらそうとしていないようだ。現実に何もないのだから、それは当然の成り行きだろう。それでも犯罪者は自分を信じて行動に及んだわけか。結果的に何がどうなったわけでもなく、他の誰かと同じような行為をしただけなのに、何をそんなに騒ぎ立てているのだろう。君とは無関係にその場にもたらされている光景には、どうでもいいような人々が多数登場して、何か適当な出来事に関心を持っているようだ。


6月26日

 気がふれた誰かの雰囲気に誘われて、また誰かの亡霊が今日の日付に舞い戻ってくる。君はさっきからしきりに時間を気にしているようだが、まだ今日は今日でいられるのだろうか。すでに今日が今日でなくなったとしたら、昨日か明日になるよりほかないだろう。そのどちらでもかまわないと思われる。そんなわけで今日もどうでもいいことを述べ続けている。そんな現状に飽き足らなければ、さらに退屈な内容を提示して、それをごり押ししてみればいい。間違っていることなどはじめから承知している。ではそれ以外にどんな間違いを思いつくだろうか。そういう話の展開は退屈かも知れない。では他に何を問いかけたいのか。そういう話でもないだろう。たぶん文章の中では問いかけ過ぎなのだ。無駄な問いかけが果てしなく続いている。それも現状のひとつの側面か。そのすべてが本当の問いかけでないこともわかっている。ではさっきから何を間違って問いかけているのか。そういう話ならおもしろそうか。ただ面倒くさいからおもしろそうだと思い込もうとしているだけか。それ以外に何を継続させるつもりもありはしない。それは必要だが求めている成り行きではない。君はそこからすぐに遠ざからなければならない。それは退屈だからか。そこへとどまりすぎているのだ。君は君以外の誰かを求めているはずだ。そこへ海を越えて誰かがやってきて、呪文のような言語を駆使して妄想を辺り一帯に広めるだろう。それでは唐突すぎる話の展開だ。しかしそんな意味不明な文章にはへこたれず、面倒な呪文には何もない空虚で対抗するわけか。それで対抗していることにはならないか。何を体験していることにもならないだろう。ただ言葉が適当に連なっているだけだ。それは求めていた状況ではないが、それでも退屈しのぎぐらいの役割は果たせるだろうか。誰がそれを求めているのだろう。まったく光明を見いだせない。実際には暗い夜道で街灯の明かりくらいは見えているはずだ。過去にそんな光景を見たことがあるかも知れないが、今は夜道を歩いているわけではなく、部屋の中で言葉を記している。誰のことを述べているわけではない。そこから話が進展することはないだろう。言葉をつなげるには前もって準備しておくことが肝心だ。ただ闇雲に言葉をつなげても話にはなりがたい。話を構成する目的は何なのか。読む者を楽しませたいわけか。いびつな思いが誰かを驚かせたい。だがわけがわからなければ驚きたくても驚きようがない。そこにどんなジレンマが生じているわけでもないが、それらの食い違いが拡大するように言葉を配置しなければならず、そこからさらに違う文章を生じさせなければならない。たぶんそれは君が抱いている妄想と見なされる。誰によって見なされるわけでもなく、実際にそう記されてしまうらしい。誰かがそう思われたいようだ。安易に奇天烈な印象を得たいわけか。確かにそれらは奇妙な文章だ。誰が何を述べたいのかわからない。それがわかってしまえばつまらないのかも知れない。つまらない話なら理解できるだろうか。何を理解したいのでもない。では理解不可能なことを述べていたいわけか。君ではない誰かは不可能だと思っていないのかも知れない。ならばそれを君に語ってくれないか。誰かにできることは君にはできないことなのだろうか。また話をずらそうとしている。その方角には何もありはしない。探索する方向が間違っているのではないか。誰を捜しているのかわからないが、取り立てて何を探しているわけでもないような気がする。そしてことさらに意味不明な状況を維持しようとしているわけか。そのこだわりを取り払うことは不可能なのだろうか。できるならもう少しマシな内容にしてほしい。過去の記憶から何を取り除きたいのか。それはそこに生じている無意味なこだわりとどのような関係にあるのだろう。そこに何を置き忘れてきたのだろう。それは粗大ゴミのたぐいかも知れないが、それを今更のように再利用したいわけではなく、とりあえずわだかまりを解消して、新たな言葉の組み合わせを模索したいらしい。どう述べても何も伝わらないようでは、何を述べていることにもならないか。だから心の中を整理整頓して、少しは理解可能な思考形態を確立する必要に迫られているわけか。まったく本気になれない。整理整頓しなければならないのは心の中ではなく、そこに記されているごちゃごちゃ言葉の連なりの方か。それらの廃棄物は心の中から生じているわけではなく、外界からもたらされていると考えるべきだろうか。外界の状況が個人の精神作用を通して言葉のつらなりとして抽出されている。


6月25日

 それほど時間が余っているわけではないが、それなりに余っている。いったいどちらなのだろう。微妙なところか。微妙に時間が余っている。ではそれについてどこまで述べたらいいのだろうか。それは何を述べるための時間なのか。救いがたいジレンマに直面している。またいつもの意味不明が到来している。別にそれを恐れていたわけではないが、そこまで述べるわけにはいかないらしい。このままではどこまでも意味不明しなってしまいそうだ。言葉が迷路の壁をぶち破りながら直進している。それでは何を述べていることにもならないだろう。現実に何も述べていない。すべてが駆け足で遠ざかっている。感じていることをとらえきれないような速さだ。だから何について述べているのかわからなくなる。矛盾しているのはいつものことだ。矛盾していなければ言葉が続かない。今や自己矛盾こそが文章を構成する唯一の方法なのか。別にそれのやり方が誤っているとは思わない。ただ気に入らないようだ。自己矛盾とは自己言及のことだろうか。自己について述べようとすればそれは必然的に自己矛盾を引き起こす。述べているそれは自己のことではなく、いつの間にか他人のフィクションにすり替わってしまうわけだ。要するに自己について述べようとすればするほど嘘になる。やはりそれでは気に入らないのだろう。では真実を告白したいか。そう述べればそれも嘘になってしまうだろう。告白しているそれは真実ではなく誰かのフィクションに違いない。真実だと思っているそれが真実であるはずがなく、言葉を弄した時点で嘘になる。言葉は常に君の思いを裏切り、決して真実にたどり着くことはない。そう考えれば今までの経緯も納得がいくか。仮に納得したところでそれは嘘であり思い違いなのだから、それによって自らの誤りを正したことにはならない。さらにわけのわからないことを述べているにすぎず、述べているそれは納得しがたい内容になっている。言葉が自らに納得を呼び込むのを阻止しているように思われる。しかしそんな自己矛盾した言葉を繰り返していれば、次第に文章が衰弱していってしまうだろう。そもそも真実を述べようとすることが間違っている。いい加減に腹をくくって、嘘でもいいから虚構の領域へとその一歩を大胆に踏み出してみればいいではないか。見当違いなことを堂々と述べてみればいい。馬鹿にされて恥じ入っているようではこのまま尻すぼみになるだけだ。やはりそういう言葉も気に入らないか。馬鹿なことを述べるには理性が邪魔をしていると思っているようだが、それこそが勘違いの最たるものだ。だから君はそこから遠ざからなければならないし、真実の地平から離陸しなければならない。くだらぬことを述べているという思いを捨て去り、さらにもう一段の愚かさを発動させなければならない。今までの愚かさでは中途半端な感を拭えないか。しかしそれで何になるのだろうか。何になるとも思えないが、それはやってみなければわからないことだ。そこから遠ざかるにはとりあえずそれを試みなければならない。今の君はそれを躊躇しているわけか。結論に至るのを避け続け、曖昧な領域へとどまろうとしている。それでは何を述べていることにもならないだろう。実際に何について述べているわけでもないような気がしてくる。しかしそれでは今まで述べてきたことは何だったのか。単なる戯れ言のたぐいか。そう思えば気が済んでしまうらしいが、それではいつまでたっても戯れ言しか述べられないだろう。述べている内容に自信を持てない。それらの文章を信じられない。自らが何を述べているのか理解できず、それが不安たまらないようだ。疑念を払拭できず、その疑念に寄りかかりながら、さらに曖昧なことを述べようとしている。まるで自らによって生成されつつある言葉の連なりを怖がっているように思われる。おっかなびっくり事を運びながらも、それが文章になっていることが信じられない。そんな心の内側を暴露しているような文章自体がフィクションだと思われる。本当に本心を語ってしまい、そんな内容に動揺しているわけではない。要するに文章の内容が心の動揺を装っているのだ。思いもしなかったような展開に驚いている振りをしているわけだ。そしてそんな文章のままに終わるのを必死で食い止めようとさえしている。そうなってしまうのを恐れているのだろうか。何か真実を告白しているような気になってしまうのがそんなに恐ろしいか。臆病風に吹かれている。やはりそういう成り行きに持っていくのは納得しがたいか。しかし誰が持っていっているのだろう。まさかそれが君の意志だとは思えない。


6月24日

 何となくその辺が限界のようだ。ことさら知り得ないことを知ろうとしているのではない。路上で足がもつれ、そのまま崩れ落ちるようにうずくまる。気分は最悪に近づいているのだろうか。誰かは死ぬ間際にやり残した仕事があるらしいが、他の誰かはそれを無視して他のことをやっている。つまらない仕事はやる気がしないか。気に入らないのはそんなことではない。作り話の中ではどぶ川で溺れ、泥水が肺に流れ込む。そんな人間はすでに死んでいるのかも知れない。また道ばたで行き倒れになっている者は、どこかで運を使い果たした気になっている。もとから運などありはしない。君の運命はどうなのだろう。風邪を引いて何を反省しているのか。いつかはどうにかなってしまうだろう。つまらぬ成り行きに嫌気がさしているようだが、それの何に不満を抱いているのだろう。思い出そうと試みているようだが、誰の顔も思い浮かばない。それらの出来事はそれぞれにまったく別の時空で起こっていることだ。なぜそれを強引につなぎ合わせて一つの文章の中に押し込めようとするのか。たぶん気に入らないのはそんなことではない。今はことさらそれを取り上げるべきではなく、そんな風に考えるべきでない。何をどんな風に考えているのか。まだ何かを考えているのかを表明していないだろう。ただそこから逃れたい。そのような状況から遠ざかりたい。君にそれらの状況が理解できるわけがない。誰かは終わりのない試行錯誤の果てに更なる困難に突き当たっているのだろうか。そんなのはよくあることでしかないか。具体的な困難の内容についてはまったく言及できないのだから、それはどうでもいいようなことなのかも知れない。どこまで述べてもそれ以上のことは何も述べられない。面倒くさがり屋の誰かはそんなことはないと反論したいところか。しかし反論する理由がどこにも見当たらない。おそらくその時点では意味が通じていないだろう。それは誰が誰に向かって反論していることになるのか。状況判断する余裕を逸している。そんなことでは瞬く間に明日になってしまうだろう。どうも一夜明けても無自覚に言葉を垂れ流している。それが死ぬような騒ぎでないことは確かだが、つまらぬ意地を張り通すにもそれなりの労力がいる。無理がたたって心身共にぼろぼろの状態か。ただそんな風に感じているだけで、実際にはまだかなりの余力が残っているのかも知れない。それをここで浪費するわけにはいかないか。何か心に響くようなことを述べられないものか。今さらそんな幻想を抱く必要はないだろう。だからこの際つまらないいいわけはなしにしよう。しかしそれで意味が通じているだろうか。わけのわからない文章を構成するのが君の取り柄か。取り柄であると同時に欠陥なのではないか。だからといって冷や汗など出てこないし、何をどう改めるつもりもなく、似たようなことを延々と述べ続けるだろう。また例によってどこかでお祭り騒ぎ状態なのかも知れないが、それらのざわめきに耳を傾けるつもりはない。当分の間は静寂に包まれていたいのだろう。そして新しい音楽を求め続ける姿勢はそのままか。意味もないし利益ももたらされないようなことばかりやっている。そこから何が生じるわけもなく、何も生じないわけでもないが、それを誰が見いだすこともないだろう。見つけられないものを見つけたつもりになってはいけないか。それは君の判断に任せるとして、誰がどんな判断を下そうと、君の知ったことではないのだろうか。おそらく君の知らないところで適当な判断が日々下されているのだろうが、それをいちいち気に留めている暇はない。ある意味では暇が有り余るほどあるかも知れないのに、なぜその暇を活用できないのか。それは君の暇ではなく、他の誰かが持て余している暇なのかも知れず、今の君に暇がもたらさせることはない。朝から晩まであくせく働き続けている現状に虐げられているつもりになる。冗談でならそう思っても差し支えない。たぶん何を考えるのも面倒な時期にさしかかっているのかも知れない。それも更年期障害の一種だろうか。誰が更年期にさしかかっているのだろう。何をとぼけるのも誰の許可が必要なわけでもないだろう。しかしそれはどういう成り行きなのか。まさか今さら気分がのってきたわけでもあるまい。ただわけがわからないといういいわけに甘えて、文章に工夫を施すのをさぼっているようだ。風邪を引いているのだからそれもありだろう。それもいいわけのたぐいには違いないが、もう無理に言葉と言葉を錯綜させるのには嫌気がさしている。しかし錯綜とはどのような状況のことをさすのか。


6月23日

 なぜかさっきから堂々巡りの最中だ。いくら考えてもどこへも行き着かない。何も思いつかないのだから、そこから何を探そうとしても、そこには何もありはしない。何を探しているわけでもないのだから、それは当然の成り行きか。ではこのまま消え去ってしまうのか。気まぐれにこの世界でも消え去ってくれるだろうか。それは誰の気まぐれなのだろう。実際には何が消え去るわけもなく、それらの記憶はいつまでも残っていて、たとえ忘れようとしても忘れた頃に思い出されるだけだろう。では何を思い出してしまうのか。気を失えば眠っていることになるらしいが、たとえ意識がなくともまだ継続をあきらめてしまったわけではない。実際に既知の時空では無駄な試行錯誤が延々と繰り返されている。だが無駄であることの何が試行錯誤なのか。できれば無駄にならないような試行錯誤をすべきだろう。無駄であるかないかは結果であって、試行錯誤をやったあとからでないとそれはわからない。ではなぜ君はそれを無駄だと見なしてしまうのか。結果が気に入らないからか。気に入らないのなら、気に入らないとわかっただけでも無駄でなかったのではないか。何もわからないのよりはまだマシか。しかし無駄でない理由がそんなことだとすれば、それではつまらないだけか。つまらなければどうするのか。そこで君は何を想像しようとしているのか。いい加減な空想ならやめた方がいいだろう。くだらぬ憶測を増長させるだけだ。しかし憶測とは何だろう。そんな言葉に興味を抱いてどうするのか。では他に何を空想すれば気が済むのだ。そこで君は過去を振り返り、そうすることに何の理由もありはしないことに落胆し、わざとらしくほおづえをつきながら、気休めに何か感慨に耽っているように装い、たぶんそこから自然とため息が出るのだろう。そんなことをいくらやっても無駄であることに変わりはない。しかし本当に何をやっても無駄なのだろうか。少なくとも何もやっていないわけでもなく、たとえそれが無駄な試行錯誤であったとしても、少しはその内容がわかり始めてきたのかも知れない。はたしてそれらの試みはすべて無に帰してしまったのだろうか。試みとは何だろう。それも無駄な試行錯誤のたぐいなのだろうか。何をそこで繰り返しているのか。何となく何を述べているわけでもないように思われてくる。本当に無駄であったならどうだというのか。急に開き直ってしまうわけか。何となく誰かはふてくされて、昨日の時間帯では適当な音楽を聴いていたらしいが、それからどうなったのだろう。今は何もやっていないようだ。ではさっきまでのこだわりはどこへ行ってしまったのか。実際に何がどこへ行ったわけでもなく、仮想空間の中で意識は相変わらず立ち止まっている。もうつまらない意地を張り通すことに疲れてしまったわけか。それらの空間から醸し出される無言の時間の中で、砂時計の砂がガラスの中でゆっくりと落ち続けている。ひらめきとは何だろう。なぜ唐突に砂時計が出現するのか。ありもしない情景を思い浮かべることがそれなのだろうか。それは何でもないことかも知れないが、いったん虚構の情景がたち現れると、そこから何かが無理矢理に感動を強要してくる。妄想の淵から紫の煙が立ち上がり、誰かの姿が現れる。それの何が妄想なのかわからないが、さっきまで聞こえているのはただの音ではないような気がする。それは何の音なのか。かすかに雑音が聞こえている状況で、なぜ君は黙っているのか。それらの雑音に聞き惚れているのか。沈黙が思いのほか長引いているらしいが、黙っていても季節は着実に夏へ近づいていて、別に今とは違う季節の話をしたいわけではないが、他に何を話したらいいのかわからない。それとはまったく無関係な話だ。昼の蒸し暑さで頭をやられてしまったらしい。そんな嘘も聞き飽きたか。そういう話ならいつもの話だろう。いつもの話なら予定調和のオチが透けて見える。それはどういう話なのだろうか。そういうしらばっくれ方もいつも通りか。ではそこで何を嘆いているのか。何も悲しむような状況ではない。誰が他の誰を悲しませているのでもないはずだ。ただ気に入らない文章になっているらしい。決して思惑通りには事が運ばない。ならばはたして期待はずれは悲しみを誘うだろうか。何となく悲しみよりも滑稽さが先行しているような気がする。おかしくてしまいにはげらげら笑い出してしまうような気配さえ漂ってくる。そんな話がどこにあるというのか。雰囲気だけの虚構はいただけないか。まだそこまで行っていないのかも知れないが、たとえそこまで行ったとしても、実際に何がどうなっているわけでもない。そこにあるのは無駄な言葉の連なりだけだ。しかしなぜそれが無駄だと思うのだろう。


6月22日

 誰かは面倒な事態になることを嫌い、さらに沈黙を守ろうとする。いつかどこかで何かを主張する機会に恵まれるかも知れないが、いったいそこで何を訴えかけるつもりなのか。とりあえずはそれらのつまらない言葉の並びに修正を加えたい。気がつけば怠惰な気分がいっそう深まり、時が経つにつれて次第に語るのが面倒になっている。そうなってしまったらおしまいか。おしまいになったらまたそこから始めればいい。そんなことの繰り返しで心身ともに疲弊しきっている。そしてそれに対するいいわけは何もない。誰が悪いわけでもない。事の善し悪しを判断する材料がないように思われ、そういう水準では理解できないような状況に陥っているわけか。では何を深刻ぶっているのだろうか。誰もそんなことは気にしていないだろう。誰も気にしてないようなことにこだわっているわけか。そのこだわりは何なのか。君はどういうことにこだわっているのか。君がこだわっているわけではなく、他の誰かがつまらないことにこだわっている。だがそういう嘘に意味はない。君は誰でもない誰かであり、君以外の誰かも同様に誰でもありはしない。文章の中にそんな言葉が記されているだけか。では君や誰かという言葉を使うことにこだわりはないのだろうか。なぜしきりにそんな意味のない言葉を文章の中にちりばめようとしているのか。他に記すべき言葉が見つからないからか。無理にそれを見つけようとしているわけでない。それどころか君はもはや何も見つけたくないのかも知れず、興味を惹くものが何も見当たらないこの世界に嫌気がさしているのかも知れない。そんな嘘なら少しは気が利いているだろうか。別にわざと嘘をつこうしているわけではないはずだ。この世界に暮らす人々はただ生き続け、生きるのを終えたら死んでしまうだけだ。それがどうしたのか。そう述べてしまうとどうということはないように思えてくるか。たぶんどうということはなく、そう思い続けていて正解なのだろう。しかしそんな正解ではつまらない。つまらないからこの世界に嫌気がさしているのではないか。そんな風に解釈するとつじつまが合うように感じられるが、やはりそれではつまらないだろう。何か他にすがりつけるような幻想はないものか。どのような幻影の出現を期待しているのか。何か神がかり的な出来事が起こることを望んでいるわけか。それはどこかの国のサッカーファンが望んでいることだろう。そんなことは今の君には無関係であってほしいか。何をそんなにひねくれているのか。もっと素直に現実と向き合わなければならない。誰がそう思っているのだろう。ただそう記すと何か述べているような気がしてくる。いったい何が現実だと理解しているわけか。ここに言葉を連ねること以外に何もできない現実がある。今はそれだけで十分なのではないか。他に何もやる気がないのならそれで十分すぎるくらい十分だろう。そうやって無駄に言葉を繰り出していれば満足なのか。誰が満足しているわけでもなく、君も満足していない。つまらない言葉遊びに陥っていることが我慢がならないのではないか。確かに我慢がならないが、言葉を繰り出しているうちに自然とそうなってしまうのだから、それは仕方のないことかも知れない。今の君できるのはそんなことでしかないことを認めなければならない。認められないなら、何かそれとは違うことを述べてみればいい。述べられたらの話だが、そこで何か興味を惹くような幻影に出会えるだろうか。なぜそこから幻影を導きださなければならないのか。何か強引なこじつけによって事態を打開しようとしているのだろうか。よくわからないが、それでも何かを説明し続けているような気はする。必死さや切実さが足りないようだが、なんとか文章の継続をはかろうとする意図は感じられる。そういうやり方が君には理解できないらしい。それでも何かしら語っていることは確かだが、それが君の望んでいる文章なのか。望みもしないことを述べていることになっているとすれば、それはどういうわけなのだろう。そこから先には何も述べられない。それがそこでの成り行きだとすれば、それに逆らって何になるのか。結果として逆らえるはずがないことをそれらの文章の無内容が実証しているだけか。要するに君はそのような現実に絶えず敗れ去っているわけだ。いつもそういう展開に持ち込まれてしまい、どこかで誰かが地団駄を踏んで悔しがっているのではないか。しかしその誰かとは誰のことなのだろう。それが君でない保証はない。あるいはそこで君と誰かが同一人物であることが証明されたらおもしろいだろうか。誰がそれを証明するのだろう。


6月21日

 君は何か勘違いしていないか。この世に誰が存在しているわけでもない。どんなに悪あがきを続けたところで、人は人を超える概念を打ち立てられないだろう。かつてこの世に存在した誰を神格化しようと、それでその者の偉大さが増大することはない。その者の偉大さを褒め讃えるということは、すでにその者の存在と残した業績が滅び去っている証だ。なぜそこから疑念が湧き上がってこないのか。涸れ井戸は使い物にならないということか。だがそこで引き下がるわけにはいかないらしい。それは昨晩のことだろうか。老人が何かを主張していた。彼は画面の向こう側から何を訴えかけていたのだろう。すぐにチャンネルを切り替えてしまったので、その拙劣な内容の詳細を知るまでは至らなかったが、どうも堪え性がないようだ。それらの言動からはそんな印象を受ける。それでその話は終わりなのだろうか。そんなわけで今日はまたいつもの状況に取り囲まれている。君たちはこの世界で何を守り抜きたいのか。何もないことに変わりはないようだが、どうやら重大な事実を見落としているらしい。なぜそうやっていつも嘘をつくのか。何が重大であるはずがない。ではそこに至るには何が必要なのか。どこへ至ろうとしているのだろう。その途中で何を構築しようとしているのか。それらの文章には欠陥がいくつもある。目下のところ何の制約も受けていない。それが重大な欠陥を生じさせている原因か。だがそれがわかったとしても何ができるわけでもなく、何もできないわけではない。少なくとも呼吸していることは確かだ。だが意識を宿している個体が生物であることに何の救いもありはしない。さっきから猫は横目で何を見ているのだろうか。君はそこで何を述べているつもりなのか。そこは過去の時空に属していて、現時点では何の手出しもできはしない。そして事態を説明する能力に欠けている。だからそこからわけがわからなくなり、それについて述べるのが面倒になる。だからそれとは別のことを述べているらしい。何を教えなければいけないのだろうか。今さら子供たちに命の尊さを訴えかけてもわざとらしいだけか。それは大人の勝手な都合なのかも知れず、くだらぬ言説で子供たちを言いくるめて、なんとか現世の繁栄を長続きさせたいだけなのかも知れない。それで繁栄が長続きするとは思えないか。何を長続きさせたいわけでもないのかも知れない。何となく今この世で起こっている出来事が気に入らないのだろう。そのお気に召さない出来事とは何だろう。それはここでは割愛せざるを得ないほど退屈な事件だろうか。そういう言語表現は間違っている。何が惜しいわけでもなく、ただ説明するのが面倒くさいだけではないか。何を説明せざるを得ないわけではない。ただそれは逡巡の繰り返しにすぎない。まったく無関係な複数の出来事を一つの文章の中にちりばめているだけかも知れない。やはりそれで何を説明していることにもなりはしない。説明したくないのだろう。それができない相談であることは承知している。命の尊さを訴えるには死刑制度を廃止すればいいだけなのに、それはできない相談なのだ。卑劣な手段で他人の命を奪い去った者には、死の報いをもたらさなければならず、死刑を実行することによって、その者に命の尊さを思い知らせなければならないらしい。要するに何が何でも罰を与えなければ気が収まらないのだろう。失われた命は二度と戻ってこないそうだ。何となくくだらぬいいわけに終始しているような気がする。なぜそれがくだらないと思うのだろう。そこから何かを導きださなければならないようだ。君はそれを知っているはずだ。ではなぜそれを文章で示さないのか。示せないわけか。言葉にしたら嘘になってしまうだろうか。言葉にできないのではないか。知っているというのは嘘なのではないか。そうだとしたら拍子抜けか。誰かはそれが嘘であってほしいと願っている。真実を知り得た者はあえて嘘をつく。それこそが見え透いた欺瞞だろう。いくらそんな言葉を連ねても無効に違いない。君は死刑を望んでいる輩に勝とうとは思わない。言葉で勝てるわけがない。ならばそれはフィクションに違いない。単なるごまかしにすぎない。しかしごまかし以外に何ができるだろうか。嫌な世の中だと思いたいわけか。少し正義の味方気取りが多すぎはしないか。多すぎるわりには一向に正義が果たされていないのはどういうわけか。君が定義する正義とはどのような概念なのか。死刑という国家による殺人の正当性をどのように説明できるだろうか。たぶん君にそういう話は似合わない。


6月20日

 誰かはどこからやってきたのだろう。何となく静かな環境の中に意識があるらしい。なぜ寝て起きても何も思いつかないか。そんなはずがないと思いたい。何をやるにも思いつきがなければその先へ進めない。別に先を急がなくてもいいのではないか。面倒ならそこでやめてしまえばいい。やめられないから今がある。たぶんそれで不満ながらも楽しいと感じているのだろう。それの何が不満なのか。それがわからないところが不満なのだろう。わかるはずのないようなことをわかろうとしている。未だに不可能と折り合いをつけていないらしい。やろうとしているのはできないことだ。すでに夜になっている。かなり疲れがたまっているらしい。他に君は何を認めたくないのか。感じ取っていることを直接文章にするわけにはいかないようだ。そこから逃れたい。逃れられない宿命ではないはずだ。何がジャズで何がジャズでないのだろう。コーヒーの味を忘れているかも知れない。あらかじめ決められた動作から逸脱しつつあるようだ。ひらめきは何をどこへ誘うのだろう。それはこの世の物質ではない。誰かの空想をかき消しながら、つまらない事実が押しつけられる。誰かはそれが我慢ならないのだろうか。文章上に提示された現実は苦すぎる。だがそれも不意に襲ってきた眠気を吹き飛ばすにはいたらずに、数時間の眠りを通して、君を切羽詰まった気分にさせている。焦りを覚えながらもそれで誰かは気が済んだかも知れないが、不意をつかれた君はそこから逸脱し続け、意味のない言葉と言葉の狭間で、どんな醜態をさらせば気分も乗ってくるだろうか。さらに意味がわからなくなるだけだ。才能はそういうところには宿らない。しかしそれは場所の概念には当てはまらないだろう。意識はどんな場に支配されているのか。いったい誰の支配から逃れたいのか。そこではどのような概念が通用しているのだろう。首を傾げながらもそこに理由を当てはめたくなってくる。どのような理由が妥当なのか。何がふさわしいとも思えず、どのような言葉を使っても違うような気がしてくる。そして足と背中のかゆみに耐えられないようだ。文章がまともにつながらなくなるが、そこに誰かの思念を感じ取っているらしい。そのような状況をなんとかしたいのだろう。味が濃すぎるのだろうか。それは何の味なのか。何の味でもなく、ただそこに適当でいい加減な言葉が連なっているにすぎない。そう考えれば誰もが納得するはずか。さらに聴いたことのない曲が続いてゆく。曲と曲の合間に言葉をつなげてみる。気晴らしになっているだろうか。だいぶ面倒くさくなっているのかも知れない。だから積極的に手の内を明らかにしているのか。何を隠してもすぐにばれてしまうか。そうは思わないが、一発逆転を狙っているわけでもない。そんなことはどうでもいいことだ。そこから生じるどんな結果も受け入れよう。一見隙だらけの対応を装っている。君には相手が見えていないのだろう。そこに誰の姿が隠れているわけでもない。誰もいないからおもしろいのか。いるはずのない場所に架空の誰かの存在を想定してみたところで、そこからどんなフィクションが醸し出されるわけもないか。しかし単なる空虚ばかりでは何の話にもならないだろう。もとから何の話をしているわけでもない。ではそこで何を肯定して他の何を否定したらいいのか。それほど受け入れられないような状況にはないようだ。気休めにそんなことを思ってみるが、事態に何の進展も見られないようだ。だから焦りを覚えているわけか。いくら焦ってもそこから逃れる術を見いだせるはずもなく、ただひたすらそこで沈黙を強いられている。そしてやっと聴いたことのある曲が巡ってくる。何かのサイクルがひと回りしてきたらしい。ありふれた言葉の循環を感じている。なんだかめまいがしているような気もする。気分としてはそれでかまわないのだろうが、一方で相変わらず話の内容を見いだせない。そんな状況を招いているのは自業自得か。ならば調子に乗ってもうひとひねり試みるべきなのか。それではわけがわからないだけか。無理なことはやめた方がいい。ここは無理せず着実な進展を期待したいところだ。だから今は無内容であってもかまわない。それは方便のたぐいだろうか。そうしたくないことをやっている気がする。そのついでに君はこの世界について新たな認識を得ているような気もしている。無意識がそんなことを感じ取っているらしいが、まだそれが文章の内容に反映されていないのだろうか。たぶん忘れた頃に気がつけばそんなことを述べているかも知れない。だが期待はいつも裏切られるものだ。先のことはわからない。


6月19日

 君はまだそこから逃げ出していないようだ。では唐突に何を述べようか。いつもいつも唐突ではつまらない。たまには前もって準備をしておくべきだろう。だが準備万端整える暇がない。そんな嘘は通用しないか。はじめからあきらめてはならない。何もあきらめるような状況ではなく、少しは他人の言うことにも耳を傾けるべきか。どこからそんなことが導きだされるのか。誰かがどこかで香を焚いている。誰もそんなことには関心がない。それは何の呪いなのだろうか。それも唐突な展開だが、呪術がすべて呪いではないだろう。呪術でさえなく、ただのまじないかも知れない。たとえまじないだとしても、現状ではそういう展開は意味不明に変わりないか。まともに反論する気も起こらない。なぜ反論しなければいけないのか。ところで同じようなことを限りなく述べるのも呪術の一種だろうか。経のたぐいではないか。君は悪い意味でそんなことを述べている。悪い意味とはどういう意味なのか。誰がそんなことを聞き返しているのだろう。そんなわけで悪循環にはまっているらしい。それでもそれを楽しんでいるとうそぶくつもりのようだが、その浅はかさは救いようのない惨状を招いている。耳を澄ませば遠くから微かにつぶやき声が聞こえてくる。誰がその内容を知りたいのか。君は耳が悪いのか。何を聴いているわけでもない。それは難聴のたぐいだろうか。今さら嘘をつくのはわざとらしい。どうやら聞き取ろうとしているものが聞き取れていないらしい。周りの景色は次第に誰かが思い描いていた風景に近づきつつあるようだが、心の空白は空隙に穿たれた言葉に影響を及ぼし、いつもの文章を予感させる。それが文章であるはずがない。君の精神は誰の反論も受けつけない頑さを持っているようだ。たぶんそれは君ではないのだろう。まだ戯れ言は続いているらしいが、望みを捨てきれないのは未練がましさの顕れか。隙間を見つけられずに過去の世界から誰かが戻ってくる。意味を見いだせずに結末のない話はまだ続く。たぶん空は晴れているのだろう。誰かは架空の地下牢にでも閉じ込められているのか。だがそこから話が続かない。文章がどうかしているようだ。乾いているのか湿気っているのかわからない。それらの言葉が何に結びつくわけでもない。気がつけばすでに蒸し暑い夜が到来している。昔の曲はほとんど覚えていない。すでに捨ててしまったのだろうか。何を捨て去るべきなのか俄には判断できない。いくら我慢しても思い出されてしまうだろう。何を思い出そうとしているのか。そんな動作はありふれている。もう少し気の利いた精神作用を実行できないものか。ならばさらに思い出さなければならない。記憶にない過去まで思い出せるだろうか。それは誰の過去なのか。誰の過去でもなく、今から作り話でも語り始める気なのだろう。そんな成り行きはあり得ない。それは何の成り行きではなく、ただのでまかせに違いない。君の言葉はフィクションとは無関係だ。関係なくともそれはまぎれもないフィクションだ。その存在が虚構であることがそんなに気に入らないのか。そういうことではないはずか。現実に見える光景に飽き足らず、人はいつまでも架空の場面を思い描いている。何やら小説家にでもなった気分を味わいたいのだろうか。ついでに言葉をひねり出せない苦しみでも体験したら面白いか。はたしてそれは苦しみなるのだろうか。そこから何を述べたいのだろう。君は誰を想定してそんな風に述べているのか。特定の人物など何も思い浮かばないのではないか。ではすべては架空の存在なのか。そういうわけではないが、どういうわけでもないわけでもない。そう述べて何から解放されたいのか。同じ過ちを何度も繰り返しているうちに、いつかはそれが過ちでなくなることを期待しているわけか。それはどのような期待なのか。そんな風に述べても過ちは過ち以外の何ものでもありはしない。過ちは過ちだからこそ、そこから真実に近づけるのだ。では真実とは何だろう。何でもない事実が真実なのだろうか。何でもなければ誰も真実に気づかないのではないか。誰も気づかないようなものこそ真実に違いないか。そんな真実もありそうだが、それとは別の真実もあるだろう。君は別の真実には興味がないのだろうか。まだそこまでたどり着いていないのかも知れない。では真実たどり着いたら何を感じ取ることができるだろうか。実際にたどり着いてみなければわからないだろう。しかし今ここで実際に真実にたどり着いているような気がするのだが、今君は何を感じ取っているのだろうか。そんなことは誰にもわかりはしない。そう述べてしまうと気が楽になる。要するにわかるのが面倒くさいのかも知れない。


6月18日

 どこをどうやってくぐり抜けてきたのか。もう息が続かない。人ごみに紛れ込んで姿をくらましたらしい。死ぬ気でやっても及ばない。そんなところで何をやっているのだろう。終わる見込みのない話につきあわされている意識は不幸だろうか。それでも何かに助けられている。何かの助けを借りてさらに話を続けようとしている。見切りをつけられる前にそこから遠ざからなければならない。闇から遠ざかり、光を目指して歩き続ける。足もないのに歩いているつもりのようだ。それは幽霊のたぐいか。まだそんなところでさまよっているらしい。さまよう場所などどこにもありはしない。いつかの君は正気ではなかったのかも知れない。今はどうなのだろう。頭の調子は定かでない。狂うことがそれほど危険だとは思わないが、まだそこまで達していないのかも知れない。今のところ狂うきっかけがどこにも見当たらない。言葉は自然と組み合わさり、適当な文章を構成しようとしているらしいが、誰かの空想は常に君を裏切り続け、そこから疑念が限りなく生じてくる。それは聴いたこともないような音楽だ。その状況で何を信じればいいのだろうか。何も信じられなければ、最後の最後は神頼みか。神社に詣でて何を祈願しているのか。そんな作り話はつまらないが、誰かが願っていることはたぶん勝つことなのだろう。それは真実かも知れない。しかし今日は昨日とは違う。結果としての勝敗は君には関係のないことだ。昼に雨が降っている。まともでない神経は、すでに蒸し暑さを乗り越えたのだろうか。そうだとしたらどうだというのか。当たり前のことを述べているのは昨日と同じか。単に日付が違うだけだ。それだけで驚くには及ばない。何をやり遂げようとしているわけでもなく、中途半端に言葉を組み合わせ、無駄なことを述べているらしい。目下のところそれをやり終える予定はない。今さらわかりきったことを述べないでほしいか。まだ未完成を払拭するにはほど遠いが、未完成であることは何の烙印を押されていることにもならない。もはや用済みだろうか。完成させようとしていないのかも知れない。気がつけば雨がやんでいる。気がつく前からやんでいたのだろう。だが雨がやんでも鬱な気分はかわらない。それは君の言葉ではない。ではそれらの病んだ心は誰のものなのか。誰が病み上がりであるはずもなく、雨上がりの風景には何も感じられない。そこにはどんな言葉が省略されているのか。中にはすでに死が間近に迫っている者もいるらしい。できることなら死人と一緒にされたくない。誰かは何に腹を立てているのか。自らの死を受け入れがたいようだが、誰が死ななければならないのだろう。生き残った君はなんとかその場を切り抜けようとしていて、その一方で君の近くに潜んでいた誰かは、間近に迫った自らの死を是が非でも回避したいらしい。状況が一向に見えてこないが、もはや君の姿は画面の中にない。考えている暇などありはせず、考えているうちに身体が消失してしまう。どこへ消え去ってしまったのだろう。目には映らないし、暗闇でその存在を感じないのだから、それは昨日とは別の画面かも知れないが、ひとまず安心していいのかも知れない。今まで何におびえていたのか。はたして君の影がそれを思い出させてくれるだろうか。ところで君はいつ画面上へ戻ってくるのか。誰かは幻影が戻ってきてもらいたいらしいが、それが戻ってきたらまたいつもの発作が始まってしまうのではないか。そうなったら楽しいか。誰がそれを楽しみにしているのかわからない。君は自身が不在の時空で何を導きだそうとしているのか。できるはずもない効果を発動させようとしている。幻影の不在におびえているのは誰だろう。言葉の組み合わせに狂いが生じている。文章のどこに幻影を配置したら効果的なのか。そんなことを考えているわけではない。ではそれによってどのような効果を期待しているのか。同じ問いをすぐに蒸し返している。話を脱線させるにはそれが必要となるらしいが、ただ話の内容をつまらなくしているだけのように思える。それが君の狙いなのか。何を狙っているのでもないらしく、いつものように途中から冗談になってしまっているだけだ。言葉を連ねるにつれてつまらない思いが募ってくる。そうなってしまったらおしまいだが、まだおしまいにはほど遠い。おしまいに至れないから、何かの禁断症状が治まらず、誰かの気が変わるのをひたすら待ち続けている。踏ん切りはすでについているはずだ。それは話を終わらせる決心なのだろうか。答えがすぐに出ることはない。何が答えなら納得がいくだろうか。それは何に対する答えにもなっていないだろう。


6月17日

 誰かはそれらの美的センスを疑っている。それは何年前の出来事なのか。やがてすべてが明らかになるかも知れないが、今の時期には蝉の鳴き声を聞いたことがない。蝉の話ではないだろう。君にはまったく無関係な文章だ。抜け殻のようになってしまった今の君に何かを語る資格があるのだろうか。ふぬけになっていることと、何かを語っていることに関係があるのか。余白に記した言葉を思い出せずに、歯がゆい思いをしているらしいが、誰かはそんな戯言の連続に嫌気がさしている。過去を思い出して言葉に対する興味をつなぎ止めようと必死のようだ。例えば真冬の時期には何をいやがっていたのか。真夏の日差しを思い出して、いつかの天候を呼び戻したいようだ。今どき寒さに震えるわけにもいかないだろう。しかし太陽を呪うわけにはいかない。ではなぜそんな状況なのだろう。もう雨には飽きてしまったようだが、どうして飽きてしまったのか。誰に何かを語りかけている。おかげでやりかけの作業はやりかけのまま放置されている。そこからどこへも進みようがないらしい。思考が満足に働かず、いつものいいわけさえまともに繰り出せずにいる。それらを関連づけることなどできはしない。ここは見たままの世界かも知れない。めまぐるしく風景が移り変わっているが、別に視覚に働きかけているわけではない。それはまるで視野狭窄に陥っているようか。その理由が不明確に感じられるが、狭いところで押し合いへし合い、やっとのことで目的の場所へとたどり着く。たどり着いて意識が閉じられる。君は永眠してしまったのだろうか。誰かの死体が画面に映し出されているようだ。画面を見下ろしているのは神のまなざしか。どこかで監視カメラが作動している。だがそこに映っているのは君の姿ではない。たとえ映っていても見過ごさせれてしまうだろう。他に何が作動しているわけでもない。まだそこまでの水準に達していないのだから仕方ないが、何となく文章がおかしいように思われる。君は透明人間なのだろうか。言葉はもとから味も香りもありはしない。そんな風に感じてしまうのは、何かの症候群にかかっているだけではないのか。病の名前を忘れてしまっている。誰が何を語っているにしろ、それらのどこに神髄があるのか。無理に使い慣れていない言葉を使うべきでない。それは大げさな漫画の中で使用される奥義と呼ばれる言葉だ。それもあからさまに回りくどい述べ方か。誰かは物語の中で何かを極めなければならない状況に直面しているようだが、実際に見えている風景は想像からかけ離れて存在するらしい。旅人は想像の風景を追い求めて世界中を歩き回る。そのような行動が誰かに何らかの物語を構成させるかも知れない。言葉は誰の心に働きかけているのか。そういうたぐいの言葉を繰り出しているとは思えない。何を喚起させるようなことも述べていないようだ。そんな言葉の使い方もおかしいような気もする。何を述べてもしっくりこないか。引き出しがないようで、机の上が散らかり放題のようだ。それはまったく関係のないことで、何のたとえにもならない文章に導かれているが、それでも世界は君に何かを述べさせるつもりなのか。誰かの気分次第で適当な言葉が連なる。文明は人間を滅ぼすかも知れないが、それ以前に別の要因で滅んでいるかも知れない。宇宙の歴史からすると、いつかは違った存在形態に出会うだろう。それが進化というものだ。何が進化なのかわかるはずもなく、人間の思考では理解できない存在が出現するかも知れない。すでにそれは生活環境の身近に出現している。ありもしない話をすべきではないか。それらの書物は廃れ、紙から何に言葉は移植されるのか。電子回路の中に計り知れない可能性があるかも知れないが、君はそれが嘘だと思いたい。そこで何が生じているわけでもない。蜃気楼のようなものか。そこへ到達することは永遠にかなわない。見えているのに近づけないわけだ。見えているものは感じているものと異なる。言葉は常に斜め横へ通り過ぎ、それらの言葉で構成された文章を読む暇を与えてくれない。いつか読もうとしていた書物はどこへ隠れてしまったのか。それは何かの幻影だったのだろうか。当時は幻影ではすまされぬ質感を感じ取っていたはずだが、今となってはすべては忘却の彼方へと消え去ってしまったのか。そんな単純な成り行きではなかったはずか。まだ出会わなければならぬ言葉の集積物があるはずだ。きっと近い将来において巡り会うような気がしている。期待は忘却に打ち勝たねばならないのだろうか。期待と忘却はそんな関係にはなかったはずか。


6月16日

 いったい君はそこで何をやっているのか。またいつもの台詞から始まってしまうのか。この世界にはくだらないことが多すぎる。そんなことも過去に述べたような気がする。それは君の偏見であって、本当にそんなことを思っているのだとすれば、それが君自身がくだらない人間である証しとなるだろう。もちろん本気でそんなことを思っているのでも述べているのでもない。では本気で思っていることや述べたいことは何なのか。そんなものなどありはしない。何もなければそこで終わりだ。そして君は何も述べられなくなり、また何を述べてもそれがくだらないことのように思えてしまい、切羽詰まって苦し紛れに今日も気に入らないことを述べてしまうのだろうか。この世界には気に入らないことが多すぎるか。何かが反復しているようだが、そこで終わってしまったらどうするのか。今からそんな心配をしている余裕などないはずで、何となく今日はやりたくないことが多すぎるような気がするのだが、その一方でやりきれないことだらけのような気もしてくる。とりあえずまだ技法的に未熟のようだ。知ることも技法の一種か。では知り得ないことはどうなのだろう。それも何かの技法なのだろうか。では君は未だに何を知り得ていないのか。そういう設問は無効のような気がするが、現実にはそんなことならいくらでもありそうだ。確かにいくらでもあるかも知れないが、それを言葉として顕在化させて、もっともらしい文章を構成するには至らないだろう。やはりまだまだ未熟のようだ。もちろん本気でそんなことを述べているわけではない。しかしつまらないことを述べているような気はする。そうやってつまらない思いが募りつつも、朝目が覚めれば相変わらず雨が降っている。今はもう夜だから、それはもう過去の出来事だろう。だがそれの何が技法なのか。ただその間の時間的な経過を省略しているだけではないか。要するに昼は何も思わないので文章にはならない。何も思わないわけはなく、それを文章にする気がないだけか。そんなくだらぬいいわけに終始しつつも、文章の継続はそのいいわけに支えられているようだが、その場面で知り得ることはそれだけで、他に何を知ろうとも思わない。いったい無意識はどこで何を思っているのだろう。相変わらず内容のない虚構をなぞりながら、無意味な言語環境の中にいるらしい。それは君が構成しつつある文章に違いない。そういう現実も気に入らないことの一つか。ならば君ではない誰かは、誰にも出会わずに退屈なゲームに明け暮れているようだが、そんな現状にあきれつつも、君はその先を知りたいと思うようになるだろう。誰にそうさせられているのか。それは何かの恣意的な操作に違いないが、それについて誰かはどのような見解を持っているのか。誰かは君の存在を知り得ないし、君は誰の将来を知りたいわけでもない。それは誰の物語でもなく、その先には何のエピソードもあり得ないような時空で、誰かは架空の物語を現実の文章上に定着させようとしているのかも知れず、それについて君は勝手な空想を巡らしているのだろう。そんなことができるだろうか。たぶんそういう話ではないだろう。どこかで話の方向がずれてしまったらしいが、そんなことはよくあることで、それらの話の成り行きは誰の思い通りにいくはずもない。ならば君はそこであきらめてしまうのか。それについて知りうることが無理なら、他にどのような成り行きを期待しているのか。空想上の結末に文章がたどり着くことはない。たどり着けぬなら意識は過去へ逆戻りか。逆戻りしてどうするのか。そうすることが不満なのか。例えば過去に忘れてしまったことを今思い出せるなら、はたして君は満足するだろうか。何を忘れてしまったのかを思い出せないのに、今すぐにそれを知り得るはずがない。だがそれを想像しなければならなくなる。その先に文章が続かないなら、何を述べているのか話の筋をつかめなくなってしまう。今はそれでかまわないだろう。何がそうさせているのでもなく、ただ何もする気が起こらない。ではそこで終わってしまうわけか。雨が降り続いている。それは朝のことだ。どうせ言葉を記し終わるまでには止んでいるだろうが、そんな言葉の並びに君は納得できない。納得できないからさらに言葉を連ねてしまい、気がつけばわけのわからない内容になっていて、収拾がつかなくなり、結局何を述べているわけでもないことになる。それらの言葉の断片を文章にまとめる気が起こらない。それが現状なのだろうか。


6月15日

 あやふやな思念から生じた言葉がどこかに漂っている。どこかに知られていない領域があるらしいが、そこに至る術を知らず、未だに空無から遠ざかれない。そことはどこなのか。そして空無とは何なのか。知り得るはずのない領域についてどう語ればいいのか。意味のない言葉を使ってどんな意味を獲得したいのだろう。別に強烈な意味を求めているわけではなく、その辺で君は何か思い違いをしていないか。それほど感覚がずれているとは思えないが、ただ何も思い浮かばないのに、そこから何を述べる気なのだろうか。それは数時間前の状況だろう。今はすでにそのときとは違う状況になっているらしく、何か適当なことを語っている気になっているようだが、それはすでに述べてしまったことの蒸し返しなのではないか。そんな疑念を誰が抱いているのか。今さら誰でもない誰かではつまらないだろうか。そんないいわけや弱音のたぐいはつまらない。また雨が降ろうとしている。だいぶ前から降り続いているはずだ。しかしいつまで空を眺めていても、雨以外は何も降ってこない。意識が何をとらえられるわけもなく、依然として何を語ろうとしているわけでもないらしい。たぶんわからないままだろう。結局君は何をわかろうとしているのだろうか。何かをわかりたいのかもしれれないが、その何かはいつまでたっても何かのままだ。風が強く吹いている。虚構の中で風は身体を吹き飛ばして心を助けようとしているのかも知れないが、風にどんな意思が宿っているわけではない。誰かがそう思いたいだけなのか。フィクションの内容としては相変わらずの意味不明か。どうもそんなことを思い浮かべているわけではないような気がする。語っている内容がフィクションなのだからそれは当然だろう。だが何を語る必然性も感じられないのはどういうことなのか。もう語ることに飽きてしまったのだろうか。そんなことは今までに何度も述べてきたはずではなかったか。雨がさらに勢いを増してきて、屋根を激しく叩いているようだ。その自然現象は君に何を感じ取らせたいのか。何かをわかってほしいなら、直接言葉で教えてくれないだろうか。虚しいだけでは言葉になるはずもない。それを強引に言葉に結びつけようとすれば、無意味という表現が当てはまるか。もはや使いすぎてすり切れた言葉だ。そこから何を空想できるだろう。空想するためにそんな言葉を使っているわけではない。では君は何を拒否しているのか。意味に至る過程を拒絶しているのかも知れない。それはどういう成り行きなのだろう。成り行きも何もなく、ただそんな無意味で無駄なことを語っている現状があるらしい。そう思えば納得するわけか。何に納得しようとしているわけでもなく、納得することを拒否しているわけか。要するに何もかもを否定するそぶりを見せている。本当にそうなら君は何らかの病にかかっているはずだ。ついでにそんな決めつけも拒否しなければならなくなる。それは負の無限連鎖になるようだ。そんなことを語り続けていて、ためになることは何もないだろう。またいつものように自己嫌悪の罠に落ち込んでゆくわけか。はたしてそれでいいのだろうか。それでもかまわないとうそぶけば、それで気が済むわけか。やはり実態としては何を述べているわけでもない。そのままではどこかで聞いたことのある台詞を記さなければならない。それがいやなら忘れてしまえばいい。何を忘れようとしているのだろう。すでにそんな台詞など思い出せない状況になっているようだ。何となく腹の底から笑いがこみ上げてくるか。何を勝ち誇ったつもりでいるのか。文章の内容がないことがそれほど誇らしいのだろうか。またそうやって嘘をつく。明らかにどこかが狂っている。自らが狂っていることを認めたくないらしい。それも嘘のたぐいだと思いたい。気がつけば幾分雨脚が弱まっている気がする。どうやら長雨も峠を越したようだが、これから本降りなったらどうするのか。誰に対して何を述べているつもりなのか。それは自問自答の一種かも知れない。そんな文章には魅力を感じないのは当然のこと、それ以外に何ももたらされないことにいらつきを隠せない。それも途中経過にすぎないのだろう。まだそれを続けようとしているわけだから、その次に期待しなければならないだろうか。あとから知ってしまうことはよくあることで、知るまでの時間に助けられている場合も多いようだが、それは知らぬが仏という意味ではない。知らなくてもいいことまで知ってしまうわけにはいかない。


6月14日

 たぶんそれは間違っているのだろう。今どき辛口コンティターというたぐいの者はどこへ行ってしまったのか。その結果を冷静に受け止めなければならないわけではない。何かについて熱く語る輩がチンドン屋的にウケているわけか。相変わらずこの世界では、どこかとどこかが戦って、勝ったり負けたりしているようだが、何をそんなに粘っているのか。負けた側を応援していた者たちは悔しがり、勝った側を応援していた者たちは驚喜して騒ぎまくる。そこから利いた風な言葉を導きだす気にはなれない。それについて語ろうとすれば、見つけられるはずもないものを見つけたつもりになれるだろうか。そういう話ではないだろう。見つけようとしているそれは、誰かの宝物なのか。そういうものでもないような気もしてくる。ではいったい君は何を見つけようとしているのか。何も見つかってないので、見つけようとしているものを知らない。要するに見つけようとしていないわけか。そして誰にそんなことをわからせようとしているわけでもない。いくら説明しようとしても、結局誰にもわかりはしないだろう。それは誰もがわかるような説明ではない。説明でさえないのかもしれない。気まぐれで闇夜に明かりを灯すようなものか。それ自体が意味不明だ。それは昨日のことだろうか。昨日のことは一昨日のことでもあり、ついでに数ヶ月前のことでもある。要するにいつも同じ現象が起きているわけか。では何を大げさな語り口調になっているのか。明かりとはいつもの蛍光灯でしかない。蛍光灯に照らされて、疲れた双眸が画面に映し出される。身体はどこかに浮き上がっているらしい。苦し紛れにあり得ないことを述べているわけか。試しにそれを続けてみようか。できるはずかがない。ところで今はいつの夜なのか。いつでも同じことか。とりあえずまだ明日を通り過ぎていないらしい。あと数十分ぐらいで通り過ぎてしまうか。気がついたら明日になっているのだろう。ではなぜ今はせわしなく言葉を記し続けているのか。別にそんな理由を知りたいわけではない。ただ眠気とは無縁の夜になっている。適当に流れている軽い音楽が何を癒しているのだろう。興味の薄い音の響きに空気が振動しているだけのようだが、いつもの気分からはほど遠い。音楽が空虚な気分を退けることができてよかったわけか。しかしそのついでに何がもたらされているのだろうか。他に何を知り得るだろうか。虫の鳴き声には興味がないのか。そうやって言葉を繰り出すのに利用しているだけか。本棚でほこりをかぶっている書物の中では、山の中で大型の獣がうろついているらしい。君は他に何を空想できるだろうか。そんな物語など読んだこともないくせに、さらにいい加減なフィクションを構成できるだろうか。わけのわからないことばかり述べていては気晴らしにならないか。誰かが構成する偽りの事件は他人の生き様を物語り、むなしい思いを募らせるが、そうなってしまったことについて後から何を考えても興味本位の好奇心を満足させるだけだ。君たちはそれを現実の世界に当てはめてみる、というひどい間違いを犯してしまっている。そういうことを平気でやっている輩は悲惨この上ないか。それらのほとんどが軽薄なおしゃべりの標的となっている。その場で困ったような顔つきをしていても、何の結論にも達しないはずだ。ただ困りながら、困っている自らの立場を正当化しようとするが、それを超えることは永久にできはしない。しかしなぜそれほどまでに悲観的なのだろうか。愚か者には将来がないとは限らない。この世界では本質的にそこで誰が何をしているわけでもない。何もできないから無駄なおしゃべりを続けているだけなのだが、それで誰が満足するのだろう。満足しないから犯罪に走る者が後を絶たないわけだ。軽薄なおしゃべりだけでは気晴らしにさえならないか。それでもしゃべり続けなければならないとしたら、それは誰の意思に基づいてしゃべっているのか。誰が何を命じているわけでもないだろう。そんなことを知り得るはずもない。誰が知ろうしているのかも知らない。たぶん今日は何もできないだろう。また明日になってしまう。しかしそこから外へ出られる当てもない。外とはこの世界の外なのか。それは違うと思うだろうか。何を感じているわけでもない。焦って言葉をつなげようとしているのかもしれないが、それができない理由はないはずだ。誰が何に夢中になっているのだろう。狭い認識の範囲内で多くの人々の意識が右往左往していることは確かだが、それに対してどんな警鐘を打ち鳴らす気にもならない。


6月13日

 慌ただしい日々の中でも、すでに君は何かに気づいている。大したことではないのかもしれないが、言葉を記す環境が新しくなったらしい。そこから遠くはなれていないところで適当な事件も起きている。だが何かがずれているのはいつもの通りだ。居心地が悪いこともわかっている。では気分は最悪なのか。そんなはずがない。まだ空きスペースがかなりあるようだが、そこで何をやっていいのかわからなくなる。馬鹿げた事件もすぐに過ぎ去るだろう。今の君には何よりも余裕があるらしい。ゆっくり構えていればやがてすべてが解決してしまうだろう。君はそうなるのをただ待っていればいい。別に誰かと我慢比べをやっているわけではない。時間の経過が君にとっては優位に働いているのかもしれない。いくら攻撃を仕掛けてきたところで後数ヶ月で終わってしまうのだから仕方がない。しかしそれはどんな攻撃なのだろうか。君は何も感じないわけか。それは嘘かもしれないが、今はいい加減に嘘をついてもかまわない状況にあるようだ。君には時間がある。忙しいのに、それは嘘かもしれないのに、なぜか時間があるようだ。そして彼らには時間がない。また君には機会がある。誰に出会っているわけでもないのに、それをする機会に恵まれている。それとは何なのか。まさか自らを見つめ直す機会ではあるまい。たぶん特別に何をしているわけでもないのだろう。何もしていないのに言葉が自然に連なってゆく。それも嘘には違いないが、何となくそんな嘘をついてみたくなるような気分らしい。たぶん冗談なのだろう。何が愉快なわけでもなく、逆に気に入らないことばかりなのかもしれないが、それでかまわないのかもしれない。気に入らないなりにそんな精神状態を維持している。要するにそんな状況にとらわれている。それでかまわないのならそのままだ。世界は貧困に覆われているそうだ。君はそう感じているわけではない。比較的豊かな地域で暮らしていることになるのだろうか。それではつまらないと感じている者なら、自ら進んで冒険の旅へ出かけてみればいい。彼らは彼の地で何を感じることになるのだろうか。様々な体験を通して視野が広がったりするわけか。そうなったどうなるのか。何か使い物になるような人間になって帰ってくるわけか。あるいは現地で行き倒れになって、棺の中で横たわったまま、使用済みの状態で帰ってくるわけか。死んでしまったら賞味期限切れだろうか。どちらにしろそれをどう処理するか困ってしまうだろう。困ったついでにどさくさにまぎれて適当な詩でも詠んでみよう。しかし今どき亡国の詩など流行らないだろう。そういう話の展開に持っていくのはわざとらしい。だがそれで誰が困っているわけでもなさそうだ。詩など創作できるわけもなく、亡国の詩などどこにもありはしない。サルマン・ラシュディは今ごろ何をやっているのか。そんな名前ではなかったのかもしれない。どこに暗殺者が潜んでいるわけもなく、間抜けな輩が殺害されてしまったのかもしれないが、今の君とはまったく無関係に違いない。この世界の中に行く当てなどありはしない。それがあるとすれば、そこへは君ではない人間となって向かうのかもしれない。今でも君ではない誰かが旅をしている。君はそれが自分でないことに腹を立てたりしないし、それどころか旅を続けている者たちを哀れんでさえいる。どこへ行ってもこの世界の中にいるだけなのに、そこで新たに何かを発見したつもりになるのは馬鹿げているだろうか。知らないことを知ったつもりなるのにも何らかの効用があるはずか。気晴らしには旅はもってこいの娯楽に違いない。いくら真剣になろうと、それは所詮よそ者の好奇心でしかなく、現地で暮らす人々の立場を共有することなどできはしない。だが旅人はそんな体験を求めているわけではなく、もっと浅はかで無責任な独りよがりの産物だ。それは例えばエベレストの山頂にたどり着いた者が誇示しているものと似たようなものか。自らには旅をする自由があることを誇ってみせている。誰に見せているのだろう。それは不特定多数の誰かかもしれない。君はそんな薄汚い優越感を許せないのか。別に薄汚いわけでもないだろう。何を否定してもいいわけではない。ただそれを否定しているだけでは旅人の気持ちなどわかるはずがなく、それではそのような行為をうらやましがっていると見なされてしまい、逆に卑屈な精神の持ち主とされてしまうか。それでも楽しければそれでかまわないか。このごろはそれが決まり文句と化しているようだ。


6月12日

 今は夜のようだ。寝ていたわけではなく、どこかを移動していたらしい。しかしそれから寝てしまって翌朝になっている。何を語ろうとしているわけでもないようだ。それらの言葉は何と関連があるわけでもない。また無駄なことを述べようとしているわけか。それらの結果について述べるつもりはない。何と勝負しているわけでもなさそうだ。なぜ勝ち負けにこだわっているのか。それがわかりやすい結果だからか。結果に一喜一憂してみたいか。密かにそうなることを願っている。そして君はわざといじけてみせる。歯のかみ合わせが悪いらしい。心の底まで意志が届かない。何を見透かされているのか。歯で直接かんで感じ取らなければだめらしい。流動食のようなものでは人間としての形状を保てないか。誰かはそうなってしまった結果を見てほしいそうだ。たぶんわけがわからないだけだろう。苦し紛れに目やにを出している。松ヤニの使い道を知りたいところか。柿渋なら塗料として使い道がありそうだ。しかし苦言を呈するほどではない。まったく状況と言葉がかみ合っていないようだ。それでいいのだろう。わざとおかしなことを述べているだけだろう。絶え間なく状況は変化していて、いちいちそれに言葉を合わせることはない。現実はいつもトンネルの向こう側にある風景でしかない。そう述べる理由を知り得ないだろうが、ただそんな言葉の組み合わせがおもしろいだけだろうか。誰が何を知ろうとしているのか。夕闇が迫ってくるころ、君はいくらか正気を取り戻すだろう。正気では感じられないことを感じ取ろうとしている。メディアはいつものようにつまらない盛り上げ方に終始しているようだが、結果がそれを裏切ってしまったら元も子もありはしない。君たちは何で商売しているのか。君は相変わらず使い道のない言葉を連ねている。そんな言葉によって息苦しくなるらしい。息苦しくなればまた眠ってしまえばいい。寝て起きればまたいつもの朝になっている。何の変哲もない一日がそこから始まるはずだ。結局君は何も見いだせない。それ以上の進展はあり得ないだろう。そんな状況をどのようにかわす気にもなれない。どんな風にして今までの経緯を説明してきたのか。どこで折り返し点を通過したのだろうか。具体的に事物に対して言葉が対応できていない。それでも何かの片鱗でも感じてもらえるか。空から竜が降ってくる。それは竜巻の一種だろう。雹で降ってくるのだろうか。別にそれは竜の鱗ではない。その感触は別の事物の存在を連想させる。もう何もないとは云わせないか。それは何かの間違いなのではないか。まだ夕暮れ時にはほど遠い。時間的にはいつのころを想定しているのか。無駄に言葉を重ねているとは云わせない。実際に無駄な時間を過ごしているのかも知れない。確かに今までとは何かが違っているのだろう。結果とはそういうものなのかも知れない。何もそこから真実に迫ろうとは思わない。そして何を語っているとも思われない。急激な変化は誰も望まないが、使い道のない言葉は廃れる一方のようだ。見えているものを見ないようにして、感じている認識から遠ざかろうとしているらしい。それが人間の弱さなのだろうか。誰もがそんなことは知っているはずだ。ただ何もかも忘れて浮かれていたいのだろう。娯楽によってそれが可能だろうか。君がまだ考えることを放棄していないのか。ねばり強く考えているのだとすれば、そこから何かが導き出されるだろう。それも無駄な思考形態のたぐいか。まだ不具合を感じ取れないのか。この世界を覆っている不条理を正そうとしているわけか。無理なことを述べないでほしい。糾弾するようなことは何もありはしない。急降下しているのは墜落間近のジェット機か。そういう話ではない。そこで利益を確定させようとは思わない。金は流れ、どうでもいいようなつまらない欲望を充足させるために費やされる。無駄遣いに善し悪しはない。あぶく銭で何を買っても無駄遣いになるだろう。それがこの世界の掟なのか。そんなつまらぬ掟に振り回されて、あれこれ買いあさっている輩は楽しくてたまらないようだ。そこに浪費の快楽があるらしい。中には借金してまで浪費を楽しんでいる者もいる。そんな馬鹿な話に終わりがあろうはずがない。終わらなければ話の主人公を交代させれば済むことか。また餌食となる輩をどこからか持ってこなければ話が続かないか。それでも終わらないとすればその先はどうしたらいいのか。


6月11日

 まだ君は悩み苦しんでいるつもりなのか。いつまでそんな嘘を突き通せるだろうか。苦しみ抜いた末にたどり着いた先には何があるのだろう。何もありはしない。すべては嘘なのだから仕方がない。嘘をついてまでくだらぬ試みを続けようとしているわけか。だがそれで何が見いだされるわけもなく、いつもの言葉が繰り返されるだけだ。それによって君が死ぬことはないだろう。しかし死ぬとか生きるとかいう深刻な状況にはないはずだ。だから適当に言葉がつながってしまうわけで、延々と無駄なことを述べ続けているらしい。それであくびが出てきたらお終いか。眠たいのだろうか。飽きてしまったのかも知れない。君は何で商売しているのか。何のことやらさっぱりわからない。とぼけても無駄だろう。とぼけようのないことをやっている。あからさまに誰かは金を稼いでいる。資本主義社会なのだからそれは当然だろう。実態としては仕事に追いまくられているわけだ。だから少し自制をしたらどうか。それで何を知ることができるだろう。何かを探しているらしい。何もないのに何かを探している。それは何かの幻影だろう。できることなら幻影のありかを教えてほしい。このままでは何に興味を抱いているのかわからない。だからさらに言葉を弄さなければならないのか。しかし何を述べても虚しいだけだ。虚しいだけでなく、つまらないのではないか。これ以上分かり切ったことを述べないでほしい。遠くに終末の風景が見えてくる。見えているがそこまでたどり着けない。たどり着く前に命がつきてしまうだろう。別に誰かが描いた風景ではない。誰が何を予言しているわけでもない。だから自らにルールを設けようとは思わない。規律には目的がある。なぜそうやって生き延びようとするのか。遠ざかる風景を画面に定着させようとしているのか。言葉で何を表現できるだろう。君は求めている幻影が言葉であることに気づかないのではないか。すでに幻影のただ中に迷い込んでいて、それを鑑賞の対象としつつあるのではないか。無理に決まっているだろう。なぜ読まずに鑑賞しようとするのか。理解から遠ざかりたいのか。文章を読んで理解しようとせず、ただ遠くから眺め続ける。そんなおかしな状況を手元にたぐり寄せたい。だから無理になってしまう。見えているものをそのまま見ようとしないで、何を知ることができるだろう。そこに無駄な思考が入り込んでいる。矛盾とともに亀裂でも生じているのだろうか。亀裂の溝に沿って進み、幻影の起源を求めているのかも知れない。結果的にそこにたどり着けば、何かを得たことになるのか。空虚の他に何を得たつもりになれるだろうか。空や無だけでこの世界が構成されているわけではない。すべてが波動の一種なのだろうか。そこまで微細な領域へ話の内容を移すことはない。そのとき見えている現実は実感から遠ざかっている。それをどのように表現したらいいのか。フィクションの中での現実感を語らなければならなくなる。苦し紛れにそんなことを述べているようだ。焦っていくら言葉を連ねても何も出てこないだろう。すべては無駄に感じられる。そうやっていつまでも無意味なことを述べ続けなければならなくなる。なぜそうなるのかを知ろうとしないので、これからもそのままなのかも知れない。嫌気が差したら旅にでも出ればいいだろう。ならず者には放浪がお似合いか。しかし荒野などどこにもありはしない。風景が似合っていないのかも知れない。その土地にとけ込めずに、すぐにその場を去らなければならなくなる。そんな話はありふれているだろうか。生き延びるためにはありふれた話に染まらなければならず、他の誰かと似たような状況に陥らなければ、人として認めてもらえないだろう。そんなわけで人間の活動範囲は自ずから限られてくる。辺境の土地にも村があり、そこではつまらぬ掟に支配された人々が似た者同士で暮らしている。いくら旅を続けても得られるものは否定的な感慨だけか。まだ嘘をつくには状況証拠が足りないか。そこから何を演繹したいのか。くだらぬ理論の確立に執着している。絶えず変動し続ける世の中からも、それを支配する一定の法則が導き出せるはずか。科学や数学的に答えを導き出したいようだ。そんな無理な試みを延々と続けていくつもりなのか。誰かはそうではないと思いたいところか。そうではないとするとどういうことなのか。どうでもよくはないと思いたいようだが、そこから先がわからない。


6月10日

 まだそこまでたどり着けない。小雨が降る中どこまで歩いて行くつもりなのか。どこかの山道で遭難してしまうかも知れない。ぬかるみに足を取られて泥だらけになる。どこから想像力が作用しているわけでもない。次第に雨足が激しくなってきたが、雨に打たれながら何を思いつくわけもなく、ただひたすら歩を進めていく。行く当てなどはじめからありはしない。そのとき君は何を考えていたのか。君は何に逆らっているつもりなのか。それらの成り行きは君の存在を無視している。無視しながら君を抹殺しようとしている。そんな話の内容なら興味を引くだろうか。誰に何を尋ねているのか。そういう成り行きは退屈きわまりない。君にはそれがわからないのだ。君は常にそれ以上の効果を作り出そうとしていたはずだ。誰かに驚きをもたらしたかったのではなかったか。誰が驚いてくれるだろうか。過去のことはもう忘れてしまった。今の君には何もない。持ち合わせがないわけではないが、それらはすべて無効だろう。今の君には何もできはしない。もとから何もやる気がなかったのではないか。確かに今ここでは何もやる気がしないが、別の時空ではどうだったのだろう。そこで何をやろうとしていたのだろう。つまらない戦いにうつつを抜かしているわけではない。心を奪われている対象を見つけ出せるわけもなく、誰のことを述べようとしているのでもない。では何を述べているつもりなのか。すでに雨は止んでいるはずだ。梅雨の季節に鬱陶しい思いを書き綴ることもない。どうすれば爽快な気分になれるだろうか。爽快な気分になりたいとは思わないのか。なぜ君はそれらの思考から遠ざかってしまったのか。どうして精神の集中が長続きしないのだろう。どこに意志があるのかわからず、自分が何を考えているのかさっぱりわからなくなってしまったようだ。退屈な言葉の連なりに毒されてしまったのだろうか。あるいは自らの至らなさに嫌気が差しているのか。このままではさらにどうでもいいようなことを述べてしまいそうだ。なぜこの世界はそれほどまでに退屈なのか。それほどまでとはどれほどまでなのか。そういうことは述べるべきでない。この際わからないことはわからないままでかまわないだろう。いつまでもそれをわかろうとするふりをしているべきではない。わからないことを認めるべきではないか。実際君には何もわかっていない。その追いつめられた状況を認識できないのだ。何に追いつめられているのだろう。時間に追われ、ついには追い越され、すでに置いてきぼりにされている。もはや考えを巡らす余裕も感じられない。本当にそれほど切羽詰まっているわけか。君にそれがわかるはずがない。何もかもが馬鹿げているように思われる。やる気が感じられないのはそんな風に思っているからか。そんな状況では小手先のごまかしなど通用しないだろう。君は苦し紛れの冗談しか述べられないのか。それがおもしろいと思うか。おもしろくなくても文章は続いて行くだろう。それとは違う観念に行き当たるまではそれを続けていかなければならない。いつか必ずそれとは違うことを述べられるようになるだろうか。いつになったら自己言及から逃れられるのか。それは違うと思う。実際にはそうではなく、いつまで自己言及を続けられるのか、ということになるのかも知れない。それをやめたら何も語ることがなくなってしまう。何も語れなくなったら当然文章もそこで終わりとなってしまうだろう。君はそうなることを密かに期待しているのかも知れず、それが実現するように、いつまでも自己言及を続けようとしているのかも知れない。だから文章がつまらなくなり、もうやめてしまいたくなる。そうなればしめたものか。苦悩から解放されて、心は爽快な気分に包まれることだろう。それの何が冗談なのだろう。なぜそこで薄ら笑いを浮かべているのか。心にもないことを述べているつもりか。冗談でないとすれば本気でそんなことを述べていることになるわけか。本気だろうと冗談だろうと、君には無関係であり、そんなことはどうでもいいことでしかない。君にとってそれはすべて文章の継続のためにやっていることではないのか。そんな結論が導き出させる状況にも本気になれない。やはりそんなこともどうでもいいことでしかなく、そこからどんな気休めがもたらされるわけもなく、逆にそれ以上に苦悩が積み重なるわけでもない。そんな状況はすでに織り込み済みなのか。


6月9日

 何とか苦難を乗り切り、破綻を避けているように思われる。そうであってほしいのか。実感としてはどうなのだろう。無駄なことをやりすぎた感があるか。それらの言葉遣いに自信を持てない。とりあえず誰かの自慢話にはきりがない。それは他人を馬鹿にしている口調だ。そこから何を導き出そうとしているのか。すべては君には興味のない話だ。そう始めから切り捨てるわけにはいかないか。まだ何を語っているわけでもない。少なくともそこから何かを語らなければならない立場にあるようだ。では何か適当なことでもやってほしい。試しに悪夢でも見てみたいか。そういう方向は心外か。何かを少しずつずらして不協和音でも構成しているつもりなのか。寝て起きて昨日とは違うことを考えているつもりになるが、ただ無駄に言葉を弄していることに変わりはない。そんな見解は嘘に決まっている。どこかでブレーキがかかっているようだ。無理矢理何かを達成しようとしていたわけか。そのためにはもう少し世間的な話題に近づいたらどうか。それに興味がないと嘘をつくのは息苦しい。人はそこからいくらも生きられない。では窒息死に近づいているのだろうか。つまらないことにかかりきりで我を失っているのか。はっきりしたことは何も語れないようだ。それが悪戦苦闘している原因かも知れないが、何と戦っているのか俄には理解できていない。仮にそれが何もない空虚だとしても、はたして空虚と戦うことができるのだろうか。そんな風に考えてしまうこと自体が勘違いなのか。勘違いであったなら少しは救われるか。ではそこで何に救われているかといえば、やはりそれは何もない空虚になるだろうか。君は空虚と戦いながら空虚に救われていると思っているようだが、そんなことがあり得るだろうか。それらの言葉の連なりが空虚から生じていて、言葉を連ねることが救われることだとすれば、やはりそういうことになるのかも知れない。そんな馬鹿げた成り行きを信じているわけではない。実感としてはそこで聴いている音楽にいやされ、それによって救われたつもりになっている。だがそれでは普通すぎてつまらないし、救いという言葉はもっと大げさな原因を求めているのかも知れない。だから空虚とか虚無という言葉を使いたいわけか。しかし自らが戦っているものに救われてしまったら、それは予定調和の無駄な逡巡に終わってしまうのではないか。それで満足を得られることができるだろうか。何に満足したいのだろう。ただ言葉を無駄に弄してそれで満足なのか。そういう話ではないはずか。もう少し何か利いた風な結論を得たいのではないか。何かのためになるようなことを述べてみたいか。そんなことを述べて何になるのだろう。自己満足を得るためにはそんな内容が必要なのかも知れない。できることならそれは避けて通りたい。そういう考え方はおかしいだろうか。おかしかったら他に何を述べればいいのだろう。たぶん君は自らに嘘をついているのだろう。そうしなければ何も述べられないのだ。何も述べられなければ何の進展もあり得ない。そう思って過ちを犯し続けている。だがそれの何が過ちなのだろう。なぜそれが過ちだと思いこみたいのか。そう思っていれば楽しいか。そういう話でもないはずか。だがどういう話をしたいわけでもない。どうでもいいことかも知れないが、現実にはそういう話をしてしまっているようだ。もちろんそれが気に入らないらしく、そこであわてて軌道修正を試みているようだが、もはや手遅れであることも明白になってくる。もうその話は一区切りがついてしまいそうになっている。何かが終わろうとしているように感じられ、それによって何かを失いかけている。我を失って久しいが、他に何を失えば気が済むのか。どうあがいてもそれを知ることはできない。知ってしまったらそこで終わりとなってしまう。終わってしまえばそこから先を知り得なくなってしまい、知るのをあきらめてしまえばそれ以上は文章を持続できなくなる。だからそこで終わってしまうわけだろう。何を循環させているつもりなのか。それによって意味もなく文章を長引かせているだけではないのか。仮にそこから先があるというなら、その先において何を見いだしたいのだろう。いったい何の到来を期待しているのか。やはり無意識に何らかの救いや報いを求めているわけか。それは人の意識にとっては避けられない動作なのかも知れない。


6月8日

 何をそんなにもたついているのか。いろいろと用事ができて忙しいのだろう。誰かは思い込みが激しいのかも知れない。何となくそんな連想を催すような文章だ。だがこれから何が起ころうと、所詮それは文章上の言語表現にすぎない。実際に何を起こそうとしているのか。仮想空間の中でどうでもいいような文章が行き交っているだけで、そこから生身の実体が飛び出てくるわけもない。そう考えると内容にいくら工夫が凝らされていようと、現実にはどうということはないのかも知れない。ただ大げさなことを述べているように思われてしまい、実際にそこで何がどうなっているわけでもないだろう。とりあえず君は永久にそこから出られないわけだ。仮想空間からもたらされる心理的なストレスは相当なものだろう。くだらぬストレスにさらされながらも、そこから何を取り出そうとしているのか。何をどうあがこうと、空虚な風景以外は何も取り出せないだろう。しかし誰に彼らを非難する資格があるのか。誰にでもあるのかも知れない。ではいくら非難してもかまわないのか。調子に乗ってそうしている輩はいくらでもいるはずか。それらは世間話のネタとなるらしく、そんなわけで誰もが評論家のようなことを述べている。そうなってしまう原因は何なのか。要するに世間はこの時代に特有なメディア社会を形成しているわけか。誰もがそれを利用しながら言葉を繰り出していて、猫も杓子も利いた風なことを述べようとしている。たぶんそれが現代の宗教なのだろう。それを信じるか信じられないかで、世界に対する見方や考え方が違ってくる。君はそれを信じられなくなったから何も述べられなくなった。なぜか翌朝は雨が強く降っている。風も強く吹き荒れる。それは何かの前兆だろうか。たぶんまた君は嘘をついているのだろう。それから数時間が経過して、今は夜になっている。やがて夜も明けて朝になってしまうだろう。時間経過に意識がまったくついて行っていない。ブラインド越しに月を眺めながら、適当に音楽を聴いている。本当にそれが適当かどうかはわからないが、何となくそんなことを述べざるを得なくなる。だがそれが期待はずれだとは思わない。それは当然の帰結であり、始めから何も語る必要などなかったのかも知れず、何が始めなのかわからないが、たぶん何かが始まっていて、その始まりにおいて何かの到来を期待していたのかも知れない。そしてたぶんそれは期待はずれに終わってしまったのだろうが、君はそれを期待はずれだとは認めたくないのだろう。そういうごまかしの言葉が気に入らないのか。期待はずれをごまかしようがないか。だが何を期待していたのかは明かせないらしい。何もないのだから明かしたくても明かしようがないだろう。それも嘘のたぐいか。すでに二日目の夜も明けて、空は雲ひとつなく晴れ渡っている。どうも世界は何もさせてもらえそうにないようだ。放っておけばさらに時間が経過してしまい、その間に思考も文章も何もまとまらず、気がつけば何もやる必要もないような雰囲気に覆われている。本当に何もないのだろうか。言葉で示すようなことは何もない。君はそこで何を思うだろう。意識はこの世界からさらに遠ざかり、依然として何ももたらされないことに憤るだろうか。だが君はそこで何をやっているのか。ただ風景を眺めているだけで、それ以外は何もやろうとしていない。それは嘘に決まっている。君には毎日のようにやることがある。それは仕事に違いない。言葉を弄することが仕事ではないようだ。それは労働とは違った趣があるのだろうか。確かにそんな風に語っている時は、他に何もやっていないが、それが何を意味するかはわからない。何かの合間に文章を構成している。なぜそれを続ける必要があるのだろうか。天井のひび割れを見上げながら、他の亀裂を修復しようとしている。亀裂とは何だろう。いったいどこに亀裂が走っているのか。それは亀裂ではないのかも知れない。だがそれではなぜ亀裂に言及したがるのかわからない。天井から目を転じて、どこか別の時空に視線を移そうとしている。無理なのかも知れない。意味のない言葉の連なりになる。意味を求めているわけでもない。もはや枯れる必要も感じられないほど乾いている。喉の渇きなら水を飲めばいやされるだろう。確かにそんな言葉を求めていたわけではない。それは君には必要のない言葉だ。誰からも必要とされない言葉の連なりかも知れない。


6月7日

 それをひとつの文章にまとめるのは無理だ。自然現象に数学は通用しないか。別に数学について述べているわけではないが、奇岩の風景はフラクタルより魅力的に見える。画面上では雲がわき上がりコンドルが舞う。何となく眠気が吹き飛んでしまう。それはいつの記憶だろうか。その話の内容は誰の悪だくみなのだろう。童話でも読んでいるつもりなのか。老人がひなたぼっこをしている。夜道を歩けば愉快な気分になるだろう。何がそれらの強迫観念を形成しているのか。何が強迫観念なのか。さらに何かを語らなければならない。近頃は精神的に参っているのだろうか。それは何かの依存症なのだろうか。カフェインに依存していることは確かだ。カフェインがなければ錯乱してしまうか。そこまではいかないだろう。よく考えたらどうということはないのかも知れないが、どう考えてもやせ我慢と強がりを否定できない。しかし何を我慢しているのか。君は何に耐えているのだろう。それに耐えられないとすればどうなってしまうのか。それとは何なのか。それがわからなければどうにもならないのではないか。何についてどう語ればいいのだろうか。少し奇をてらいすぎか。では君は何に束縛されているのか。仮にこの世界に束縛されているとして、その状態をどうしたいのか。そういうのを束縛とはいわないのではないか。君はすでにどうにかしているつもりのようで、誰かがそれを解説しているらしい。君はテレビの見過ぎかも知れない。何に影響を受けているわけでもないが、それでもどこかで事件が起きている。だが今の君は何を見ても何も感じない。すでに深夜になってしまっている。いったいそれは何日遅れの夜なのか。数日前のそれは誰の葬儀だったのだろう。君は人が死んでも何とも思わない。他人の死などありふれているからか。それともおもしろくないからか。人の死がおもしろいか。君にはそのすべてが無関係に思われる。その件について誰が何を徹底追求しようとしているのか。他人のプライバシーでも探ってみたいか。相手が犯罪者ならいくらでも可能だろう。それがマスコミの特権だ。君はマスメディアには興味がないのか。興味がないとすれば、まだ犯罪者になっていないからだろうか。そうまでして有名人にはなりたくないか。それが目的ではないはずだ。目的ならすでに果たされている。それは過去の目的だろう。忘れ去られた目的を今さら蒸し返してみてもつまらないだけだ。ならばもう少し正攻法なやり方で対処できないものか。何に対処しようとしているのかわからない。目の前には何もない。それはいつも見ている風景に違いない。何もない風景がどこにあるだろう。そんな風に述べるのは楽しいだろうか。またそうやって無駄なことを述べ続けているようだ。寝て起きればさらに同じようなことを述べているだろう。今の君には睡眠が必要なのだろう。そしてそれは時間の問題のようだ。すべては時間が解決してくれると思っている。そのうち誰もが死んでしまうだろう。確かに死んでしまうが、またろくでもない輩が生まれてくるはずだ。そこに戦術や戦略は通用しない。いくら計算しても誤差が必ず生じてくる。それが気に入らないならでたらめに振る舞えばいい。心の中で賽を振りながら生きて行けばいいだろう。どうやっても君に勝ち目はなく、勝とうとする気持ちが相手につけいる隙を与えてしまうようだ。だが相手とは何だろう。相手に勝たせることで苦労させているつもりなのか。勝ち続けることは困難だ。誰に勝ち続けようとしているのだろう。それは誰でもない誰かなのだろうか。これから生まれてくるであろう誰かに勝とうとしているわけだ。それは意味のない欲望のたぐいか。たぶんそんなことをやっていれば楽しいのだろう。年がら年中勝負しているつもりなっていれば、たとえそれが独りよがりの勘違いであろうと、充実感を味わっていることになるのだろう。その辺に悪知恵が介在しているらしい。もはや倫理も何もあったものではないのかも知れない。しかし仁義なき戦いではどこかのヤクザ映画みたいではないか。それほどまでにこだわるようなことではないはずか。そんなことを考えているうちにどうでもよくなってきてしまうのがいつものパターンだろう。まったく何をどこまでやったらいいかなんて、誰が教えてくれるわけもなく、君自身が判断することでしかないが、どうもその判断が間違い続けているのかも知れず、それが楽しい状況を生み出しているように感じられてしまうらしい。確かに愉快な気分になっている。


6月6日

 相変わらず不可能に直面しているのかも知れないが、それはただの言葉だ。そんな大げさな言葉では表現できないことかも知れない。しかしややこしいことは嫌いだ。嫌いだからといってそれを避けることはできない。現状では何も選べない。苦渋に満ちた選択とは何だろう。選択肢などというものはもとから存在しなかったのではないか。ではなぜ君はその件については何も思いつかないのか。その件とはどの件なのだろう。自問自答の日々に終わりはない。何を終わらせようとしているのではない。それを終わらせることなど不可能だ。気がつけば雨が降っている。そういう季節なのだろう。翌朝は寒いだろうか。フィクションの中では誰かが身も心も凍るほど冷え切っている。それは嘘に違いない。虚構の話だから嘘だというのか。雨が外出を妨げているようだ。さらに気がつけば翌朝になっている。その間に虚構の中では信じられないことが何度も起こっている。君はファンタジックな映画のような夢でも見ているのか。それらのすべてが信じられない。疑心暗鬼に陥っている。確かにすごい成り行きといえばそうなのだろう。だがそのすべては冗談でしかないのかも知れない。語り手にとっては冗談のつもりなのだろう。そんな思い込みはすぐに打ち砕かれてしまうだろうか。それはどういうことなのか。いつものように具体的なことは何も語れない。語っている内容はそれとは違うらしい。内容など何もありはしないだろう。まだその程度のことで苦しんでいるわけだ。どんなに苦しんだところで、君がこの世で見聞している何もかもがおもしろいことに変わりはないだろう。だがおもしろいからといって話の種になるとは限らず、そんなものをいくら見聞したところで、それについて何を語れるわけでもない。それどころか何も語りたくないのかも知れない。おもしろいのにその内容が気に入らないということか。それの何が気に入らないのか。それについて何も語れないところが気に入らない。昔はいくらでも語っていたような気がするのだが、なぜか今はまったく語る気がしないのであり、なぜ語る気がしないのかがわからないのだが、わからなくてもいいような気がしてしまうところが、さらに気に入らないのかも知れない。それでは何も語れなくなってしまうだろう。それでもいいのだろうか。よくないから気に入らないのではないか。君はこの世から邪魔者扱いをされていると感じているのか。しかし架空の存在でしかない君に何ができるというのだろう。出会いには別れがつきものだ。君も誰かと同じように遠からずこの世から消え去る運命なのではないか。それを知っていながらこの世で何をやろうとしているのか。あの世があるとは思えないらしい。では輪廻転生でも信じてみればいいだろう。生まれ変わったらまた好き勝手なことをやればいいではないか。しかし何が好き勝手なことなのだろう。今の君はどこかにつなぎ止められていて、自由に身動きがとれないようだ。自由になれないのはお互い様か。別に誰かは自由になろうとしているわけではない。誰かは自由という言葉の意味を信じられない。自由とは不可能という意味だ。言葉に忠実に振る舞うことなど不可能だろう。自由という言葉を、それを使用する者の身に当てはめるのは間違いだ。だから君も君と対峙しているつもりの誰かも、真の意味で自由など享受できない。常にこの世界に束縛されていて、そこから解き放たれる時は、この世界から心身共に消え去る時だ。そして死が君たちを自由にしてくれるが、それは同時に別の不自由を纏う時だ。自由になった先には何もない。心も身体もあり得ない。あると思うことはできる。自由を想像し空想することはできる。だがそのとき目の前に何が顕現しているわけでもなく、ただ独りよがりな空想に耽っているだけだ。何かを思い描くとはそういうことなのか。それに対する異論や反論はいくらでも可能か。それが可能だと思うなら、いくらでもしてみればいい。それがただの空想にとどまるなら、やがてやりきれない思いがこみ上げてくるだろう。できもしないことをいくら空想してみても、虚しさしか残らない。だから君は現実に敗れ続けているわけだ。どうしようもない敗北感に苛まれている。たぶんフィクションとはそういうものなのだろう。言葉を駆使して自らの意のままに物語を構成しようと、それは君自身とは無関係だ。できあがった物語は君の手を離れ、君を無視し続ける。


6月5日

 それの何がいけないのか。ただ何となくいけていないような気がするだけか。様々なキャラクターを効果的に配置して、それぞれを戦わせる。君はテレビゲームでもやっているのか。その中のある者は連携させて、またある者は対立させる。それは人間社会の縮図に見えるだろうか。縮図ではなく物語そのものだ。作為的に楽しませるような話となっている。他には何も見えていないのかも知れない。自由とは何なのだろう。なぜそんなことをやらなければならないのか。君たちは何を見せたいのか。それは何らかの幻影だろうか。誰がそんなものを探しているわけではない。では君はそこに何を付け足そうとしているのか。そこには何か興味深い争いごとでもあるわけか。そんなことではないと思う。心はすでにそこから遠ざかっているらしい。実感としてはそうなのだろう。今はそう考えている。ではそんな現状をなぜ肯定しなければならないのか。できることならそんな話はなしにしてもらいたいか。そんなことができるわけもなく、うんざりするような対決が果てしなく続いている。なぜそこから遠ざかるわけにはいかないのか。君はそこからどこまで遠ざかれば気が済むのか。遠くからその地点を眺めているだけで満足できるだろうか。そんな場所からいくら見ても、物語の細かい構造など何も見えはしない。本心からそんな状況を求めているわけでないはずか。画面にはどのような映像が映し出されているのだろうか。きみは何を塗りつぶすための表面を探しているのか。この世界の表層には必要としない現象が到来しているようだ。状況は刻一刻と変化して、放っておくとさらに切迫してくる。もはや一刻の猶予もないか。だが依然として自らが何をやろうとしているのかわからないままだ。ただそんな言葉の並びに感動している。それは嘘だろう。嘘でもなければ言葉が続かないか。では何を継続させようとしているのか。自然と深呼吸を繰り返している。そんなことをやって誰を弄んでいるつもりなのか。たぶん世間的には馬鹿なことをやっていると思われているのだろう。見方によっては正気の沙汰でないか。それは誰かの口癖となっているようだ。とりあえずブラジルの貧民街にダイヤの原石が埋もれているらしく、それを探し出してヨーロッパのクラブチームの下部組織に持って行くと、その中の何人かは磨きがかかり、将来高額で取引されるようになるらしい。ロナウドとかロナウジーニョとかはそうやって作り出されたそうだ。それは恐ろしい不幸の産物だろうか。現地で暮らしている人々にとってそれは当たり前の日常でしかない。若くしてギャング団にはいるか、万が一でもプロのサッカー選手になるか、そうでなければ普通の一般住民としてその土地で一生を終えるか、そこから冒険にでたい者は後を絶たないようだ。選択肢はいくらでもあるだろう。たとえば格闘技を習えば、その中の何人かは脚光を浴びるかも知れない。成功して多額の金を稼ぎ出せば、将来引退した後に自分の道場でも持つことができるだろう。人種のるつぼの中では人材はいくらでもいる。そこから原石を掘り当てて、トレーニングによって磨きをかければ、将来は金のなる木に成長するかも知れない。それは恐ろしくも悲惨なシステムとなっている。日本では自分の三人の息子を猿回しの猿のように操りながら、夢を追い求めている輩もいるらしい。もちろん三匹の猿にも世界チャンピオンになる夢がある。殴り合いで世界の頂点を極めようとしているそうだ。そんな話に興味を持っている人々も大勢いるらしく、それがマスコミ商売の対象なのだろう。君はそんな世界の一側面に光を当てて何を批判したいのか。どこかの錬金術師は逮捕前に金儲けをして何が悪いのかと述べていた。金儲けが悪いはずがないと思いたいのだろう。たぶんそれで正解なのだ。正しい行いをすることは悪いことではない。だが正しいことをやってしまうのはそんなに楽しいか。実際楽しいかも知れない。ではどうしてそんな風に話をはぐらかそうとするのか。君はこの世界がどうなってもかまわないと思っている。すでにどうにかなっていたのだろうし、これからもどうにかなり続けるだろう。結論など何もありはしない。それを言葉にすればそういうことでしかないような気がする。君はそこから何を眺めているのだろう。それが馬鹿げたことだとは思うまい。やりたければ勝手にやってほしいような気もするし、君の意志や思惑に関係なく、誰もが好き勝手に振る舞いたいのだし、実際に勝手なことをやっているのだろう。


6月4日

 内容など何もないのに、自らが思っていることを探ろうとしている。誰が探ろうとしているのか。そんな風に述べる意味がわからない。何を述べてもかまわないのだろうか。それを何か簡単な文章にできないものか。空っぽなのに文章にする必要があるのか。何もないのだからできるはずがないだろう。何をやろうとしているわけでもなく、何もないわけはないだろう。すでに誰かは死んでいるのかも知れないが、実感が何も湧いてこない。誰かの何が死んでいると思われるのか。どこかの細胞でも壊疽しているのかも知れない。だがそんなことを述べて何になる。とても工夫を凝らしているとは言い難い。内容のないことをいくら語っても、感覚のずれは直せない。興味のないものはほとんど無視される。だが実際ににはどこの誰が無視しているわけでもなく、少なくともそれについて何かしら述べようとしているのだから、興味がないとはいえないのではないか。確かに無視できないはずがないが、なぜそれをことさら無視しようとしているのだろう。何をそんなに迷っているのか。人並みにありふれたことを述べてみたいか。ならばニュースでも見ながら、そこで伝えられている適当な出来事について、そのときの気分次第でそれを肯定してみたり否定してみたり、そんな文章を記してみればいい。今さらそれは無理というものだ。明らかに君はできないことをやろうとしている。やる気がないのにできるわけがない。それでもやろうとしているのなら、いったい君以外の誰がそれをやろうとしているのだろう。君はそれらの何に期待していたのか。人は誰でも人であり続けるよりやりようがない。そこから思考と行動の破綻が始まる。現に生じている不一致の原因を探りたいようだが、何と何が一致していないと気が済まないのか。夕暮れ時に何を考えているのだろう。頭の中ではもやがかかっているようだ。気がつけばあくびばかりしている。他人の行動を嗤っても仕方がない。それが浅はかだと思うなら、馬鹿にしている君自身の浅はかきわまりない。カフェインの量が足りないだろうか。電車から飛び降りるわけにはいかないだろう。ビルの谷間には街路樹が生い茂っている。癒しや安らぎはどんな幻想をもたらすのか。四六時中それを求めているわけではない。ただそれらの言葉の連なりから離れられないだけだ。離れようとすれば追いかけてくるわけではないが、何となくその場から逃れようとする気が起こらない。何に束縛されているのだろう。わかりすぎるくらいにわかっていることを述べたくなるが、実際に述べていることはそれとはまったく異なっているらしい。本気でそんなことを述べているのだろうか。君はそれを知っているはずだ。逃れられない理由も承知している。有能ではない人間はいつまでも無駄に生き続ける。長生きすることがその人の特性なのだ。だからといって何を呪っているわけでもない。君はこの状況を呪っているのだろうか。この世界にはもとから君など存在し得ないのではないか。そういうことを語りたいわけではないはずだ。ただ重荷を取り除きたい。どこの誰が十字架を背負っているのだろう。それは展示されている絵画に違いない。その表面に目が釘付けになっているわけでもなく、その代わりにどんな映像を求めているわけでもない。何を見ているわけでもなく、どんな言葉を記しているわけでもなく、車窓の外に興味があるふりをしているだけだ。こだわりはそこにはない。人はつまらない成り行きで生まれ、そして状況次第では簡単に死ぬ。そこにもっともらしい理由を当てはめることは可能だが、愚かな行為に歯止めをかけることなど不可能だ。この世の何を肯定しても愚かになってしまうだろう。誰もが馬鹿げたこだわりを後生大事に抱え込んでいて、それによって盲目に近づく。どうしても現実から目を背けずにはいられなくなり、つまらないことを必死になって否定し続け、結果的に自ら墓穴を掘っているのかも知れない。腕が痛いか。指先がしびれているようだ。利いた風なことを語った後には何が残るだろう。依然としてそれが内容だとは思えない。居酒屋の赤提灯の下に人がひしめいているのを眺めながら、誰が何を思っているのでもない。酒はそんなにうまいか。飲んでみればわかる。スポーツ新聞に目を走らせながら何を思っているのだろう。何に安心したいのか。この世界がこの世界でしかないことがそんなにおもしろいだろうか。


6月3日

 それらの情報は脳が処理できる容量をはるかに超えている。そんな文章ではつまらないか。やはりそれは違うと思われる。それでも誰かには未来がある。たぶん誰が犯罪に巻き込まれるとも限らないのだろうが、そんなことはどうでもいいことかも知れない。何となく心の中にしこりが残っているような感覚だ。何を述べているのかわからないのはいつものことだ。君は気に入らないことの連続でいらだっているのだろうか。気がつけば一日が過ぎている。どうも何かを語っている状況ではないらしい。つまらない内容にこだわっているのは毎度のことだが、何を想定してそんなことを語っているのか。そこは何を語る場になっているのだろう。場の力とは何なのか。電場と磁場が存在しているらしい。それと同時に重力場もあるわけか。それが何になるのだろう。意味のないことを語っているだけらしい。それについて君は判断力を持たない。人々は何を判断できないのか。人は宇宙空間に飛び出さなければならない。どこからそんな言葉を借りてきたのか。この世界は本当にひどい状況だろうか。実際にひどいとしても、なぜそれに興味を持てないのだろう。良心の呵責を感じるなら、そんなことを述べるべきではない。数時間前から言葉が途切れている。夢の中で気がつくと、何かが回転しているようだ。地球が自転している。ついでに自転車のタイヤも回転している。曇り空の下で何を述べているのだろう。内容がフィクションなら何を述べてもかまわないのか。いくら言葉を連ねても所詮そんな文章でしかない。つまらないことに変わりはない。単独の意識では語彙に限界があるようだ。何となく苦し紛れにそんなことを思いつく。君にそんなことを思いつけるはずがない。また状況を見誤っているのだろうか。何か間違っていないか。わざと判断ミスをしているわけか。そんなことはあり得ない。それがそもそもの思い違いなのだろうか。何かをやった後からそれは違っていると思うのはよくあることだ。だが今はそんなことを述べている場合ではない。たとえ間違っていようと、それらの文章の記述を継続していかなければならない。君はそんな自己言及もどきが気に入らないのだろう。そうなってはいけないのだろうか。そうならないように努力していかなければならず、そのためには間違い続けなければならない。わざと矛盾したことを述べていないか。そうだとしたらどうなのだろう。何となく何かいい加減なことを述べているだけでは物足りないか。そこから君の思考は破綻してしまうのか。やっていることと述べていることが違っている。そんなことはないと思いたいが、実際にはそんなことをやっているらしい。そういう動作がありふれているのか。それではまた始めからはやり直しではないか。同じことを何度もやっていると飽きが来る。飽きがこなければいつまでも同じことの繰り返しになってしまうだろう。人々はそんなことをやっている真っ最中のようだ。なぜ君はモーツアルトが好きではないのだろう。それらの親しみやすい音楽を好まないのはひねくれ者である証か。君の頭の中身は論理的ではなく、利害関係をあまり重視せず、どこまでも離散的だ。たとえ反発を招こうとも仕方のないことかも知れない。やはりそんなことはどうでもいいことなのか。何に見とれているわけでもなく、どんな音楽を聴いているわけでもない。つまらないことにこだわっているのも相変わらずだ。だが見え透いた嘘をついているわけではない。まだ嘘をつく前段階にとどまっているようだが、そこで何を準備しているのか。忘れているのなら思い出させてほしいか。いったいあのときの約束とは何だったのだろう。ありふれたことをいつまでも述べていると、それがありふれた思考となって自らに返ってくる。世の中に順応しているということか。そんなことを語ってしまってもかまわないのか。そこで何かが途切れているらしいが、認識できないことを言葉にできるわけがない。わざと意味が生じるのを避けながら、何かをずらしてどこかへ行こうとしているらしい。君にはそれがフィクションだとは思えない。まだ作り話とはいえない内容に終始しているようだが、そこから話の内容はどうなってしまうのだろうか。何をとぼけているのか。今さらのように文章を読み返して、当たり障りのない感想を構成しようとして、実際にわけのわからないことを述べ続けている。期待はすぐに裏切られる運命だ。


6月2日

 またつまらぬいいわけに終始しているようだ。何をどこまでやっても何が残るわけでもない。君には疲れが残っている。それ以外に何も言えぬことのどこが疲れを誘うのか。世の中にはせこく立ち回ることの危険性を考慮していない輩が多すぎる。自らが信用されない理由を知らなすぎるのだろうか。それでも結果として何の報いも受けはしないだろう。実際に何がどうなるわけでもない。君は何を試されているのではなく、世界から無視されているのであり、それは幸いなことかも知れない。話題の表層で揺れ動いている人影にだまされてはいけない。誰に恩を売るつもりもない。うまく立ち回ろうとすれば足下をすくわれる。安心してしまったらそこで終わりとなる。終わってしまったら幸せになってしまうのだろうか。君は誰を安心させたいのか。依然として何を述べているわけでもない。何か適当なことを述べていないと安心できないか。四六時中言葉を記していたい。そんな嘘は通用しないだろう。どこで何を通用させようとも思わない。もはや何もできはしない。そんな窮地に陥ったらおもしろいか。何が楽しくてそんなことを述べているのだろう。わけのわからないのは毎度のことのように思われる。もっと感性を研ぎ澄まさなければ、何も見えてこないだろう。それは利いた風な意見のたぐいだろう。さらに抽象的なことを述べているつもりなのか。何のつもりもありはしない。そんな風に述べてしまう状況が気に入らない。だが何が見えているわけでもない。センスが違っているのかも知れない。それは感覚的な相違なのか。何かが違っているような気がしてくる。何をしようとしているのか。構想がまったく見えてこない。与えられた条件からは逃れようがない。何も見あたらないのがそこでの前提となっている。今さら取引もないだろう。持ち合わせは何もない。だから困っているのではないか。見ているだけでは何も生じない。だがそれが欲望を取り去るためには必要なのかも知れない。では何を見ているのだろう。それは何かの文字列に違いない。何やら言葉が連なっているらしいが、その内容を理解しようとしていないようだ。何はともあれ、好き嫌いは別として交渉してみるべきか。少なくともそこから光明が見えてくるかも知れない。まだ何を語りたいのかわからない。語り進むうちに何かしら目的らしきものが見えてくるだろうか。だが君は目的が嫌いだ。何を語っているのかわからないままの方が語りやすい。知りうる限り制約など何もないが、それが何も知らないことの証となるだろうか。つまらないことにこだわっているのは承知している。だがそれをやめてしまえば何も語れなくなってしまうだろう。何も語れなくなってしまえばそこで終わってしまうのだろうか。楽しい終わり方は君の望むところか。君は何を過小評価しているのか。君と彼とは考え方が異なるのか。これから生じるであろう混乱を防ごうとは思わない。あり得ない話を語るのがフィクションなのだろうか。あり得そうなことを語らなければ人々の興味を引かないだろう。ではそこからどんな警鐘を鳴らせばいいのか。君は人類に迫っているどんな危険を訴えかけようとしているのか。そういうのがフィクションの導入部になるだろうか。そんなつまらない話の成り行きに感動してしまうか。しかし実際にはそこから先がつながらない。話をつなげようとしてないらしい。だからもう少し待たなければらなくなる。待てば何か思いつくのだろうか。何を思いついて誰を安心させたいのか。何を思いついても安心できないだろう。そんな文章では気に入らない。君に理解できるような内容ではない。誰に理解してもらいたいのでもない。そこから逃げ出したくなる。それは君の思いを捉えていない言葉の並びだ。精神的に追いつめられているのだろう。そんなはずがないと思いたい。だからそこから逃れたいと思っているわけだ。何かを台無しにしているような気がしてくる。ではそれ以上続けることが困難なのか。まだ何もわかっていない段階で継続を断念せざるを得なくなるわけか。何を継続させようとしているのだろう。それは意味のない継続に違いない。さらに述べればさらに窮屈になってくる。身動きがとれなくなってくる。もうその息苦しさに耐えられなくなってくる。欠陥だらけの世界に辟易している。なぜそれほどまでに不完全なのだろうか。そう思うからそうなっているように感じられるだけか。


6月1日

 昼の日差しの中で何を感じているのか。急に暑くなってきたようで、暑さにやられて何もやる気にならない。相変わらずできもしないことをやる気にはならないようだ。そんな当たり前のことを述べているうちに、日が暮れて夜になる。明日は雲が広がって気温も下がるだろう。別に明日の話をしたいわけではないが、明日になればだるさもとれて、少しはまともなことを述べられるようになるだろう。それはいい加減な思い込みに発展するだろうか。何に反論したいのか。反論とは何だろう。唐突に気が触れているかも知れないが、そんな的はずれな感慨を真に受けるわけにはいかない。わざと的をはずしているのではないか。ついでに言葉は感情を表現している。君はそれらの文字を知らない。それは君の知っている文字ではない。だがそれはいにしえの象形文字などではないはずだ。ではわざと意味のつながらないことを述べているのだろうか。意味ではなく文字なのか。そんなこだわりに何の意味があるのだろう。死者の意志を無駄にはできないか。君はまだ死者ではない。ではこれから死んでもらうわけか。何のことやらさっぱりわからなくなる。それが君のねらいなのだろう。まだカフェインの量が足りないらしい。想像力はどこへ消え去ってしまったのか。想像力がどこに宿っているわけでもなく、ただ足の爪が伸びすぎている。それとこれとは無関係だろう。だからどうだというわけではない。馬鹿らしいと思うなら、さらに遠くへ行きたくなるか。だがそれは見果てぬ夢とは無関係だ。どんな夢もありはしない。では文章と文章の間にどんな文章を挿入したらいいのだろう。間に合わせの言葉など差し挟むべきではない。やろうとしてもそんなことはできない相談か。誰と何を相談しているつもりなのか。それらのすべてが間に合わせの言葉でしかない。どうやら呆れられているらしい。結局はさらなる遠回りを強いられるらしく、そんな成り行きはいつものことだろう。それでも希望を捨てられず、いずれ君はそれらの行き詰まりに敬意を表さなければならなくなるはずだ。そんな思い込みとともに、そのときになったら君は君自身をリスペクトできるようになるだろうか。別に謎かけに挑んでいるわけではないが、それでも君はいつまで経っても君自身であり続けるだろう。それ以外には何も述べようがない。疑問の数を数え間違えている。そして有無を言わさぬ反論を待っている。しかしそれでは意味不明だ。わざとそうしているのではないか。どこまでも違うと思っているらしい。頭を混乱させたいのではない。何に導かれようとしているのか。まだその先を述べていないはずだ。必死になって考えを巡らせても、まともな言葉には行き着かない。魂が入っていないのかも知れず、そんな安っぽい言い回しでも受け入れない限り、何も述べられなくなってしまうだろう。何がそう思わせるのか。言葉から見放されている。もう何も述べられない。そんなのは嘘に決まっていて、何となくそんなことを述べたい気分になっているだけだ。夢はどこまでも広がり、現実と夢の区別がつかなくなり、意識は架空の大地で彷徨っている。誰がどこで玉ころ遊びをやっているのか。ドイツに行けばそんな連中がたくさん集っている。見物人も多数が集結しているらしい。サッカーには宗教的な特性がある。特性のない男には理解しがたいことかも知れない。君はどこで彷徨っているのか。そこは君が生きるべき土地ではない。砂漠にあこがれるのは危険な兆候か。やっとまともそうなことを述べ始めたようだが、今さら遅すぎるだろうか。そこでわざとらしくはぐらかされて、何を述べているのでもないことにしておきたいようだ。娯楽的な話題に一喜一憂しているのは恥ずかしい。つまらないことに金をかけるのにも気が引ける。なるべくなら何もしないで眠っていたい。そこにつけいる隙が生じるのだろう。どうやら地に足がついていないようだ。そんな文章を終わらせてはならない。ただふざけているだけでは話にならないが、何もやらないのは体に毒だ。人は絶えず何かをやり続けていなければならず、考え続けていなければならない。それはまったくの思い違いだろうか。何を考えているのかわからない。それも間に合わせの言葉に違いないが、別の言葉が間に合わなくなっている。別の言葉とは何なのか。何を選んでいるつもりなのか。だいいち選曲そのものが間違っている。そんな話をしたいわけではない。