彼の声54

2006年

5月31日

 君は何か気の利いたことを述べているのだろうか。それともまったく的を射ていないか。現在進行形のことは未来へ託される。未来は未定であり、未来のことを予想する気にはならない。心はいつも今この時につなぎ止められている。そんな風には思わないか。誰を想定してそんなことを語っているのか。何か他に話題がほしいのか。未来は君に覆い被さるだろう。当てのない推量は何ももたらさない。そこで何が立ちふさがっているのか。不吉な予感をぬぐえない。君はどこへも行きはしない。ただそこにとどまり、とどまりながらゆっくり沈下して行く。あくびとともに何かを忘れてしまうが、それが肝心な内容だとは到底思えない。予言の内容をどうしても思い出せないようだ。占い師気取りはとっくの昔に視界から消え去っている。それは聞いたことのない曲調だったかも知れない。思い出しているのはそれとは無関係なことだ。聴いている曲はなじみ深い。疎外感に苛まれることもないだろう。だが安心には油断がつきものだ。結果として新たな危険をもたらす。しかしそんな言葉の処理の仕方で悦に入る必要があるだろうか。君はまだ老いぼれるには若すぎるか。そこで何を見ているのか。それは誰の頭蓋骨に見えるか。指輪の表面に刻まれた装飾でしかない。何かを入り組ませているのだろう。わざと粗雑なことを述べている。冗談では物足りないのか。冗談になっていないのかも知れない。ただわけがわからないだけだ。劇的な内容を楽しめなくなった。たぶん何もしていないのだろう。気分次第でどこへでも行ってしまうわけにはいかないらしい。場所はいつまで経ってもここだけだ。どこへ行ってもそこにとどまり続けるだろう。そこは呪いの場所なのか。そことこことはどう違うのか。呪い以外に何か肯定できる行動をとれないか。他の誰を呪えばいいのだろう。格好がいいとは思えない。誰かは頭の形について語っているのか。伸びすぎた頭髪を整えなければならず、頭蓋骨の形状を矯正することはできない。音のでないピアノが酔っぱらっているらしい。音がしているのは靴の踵の部分だ。貧乏揺すりをしているのは向かいの席の白髪頭か。誰がそこで死んでいるのだろう。ニュースで伝えられている訃報を真に受けることができない。今でも信じられないと誰かが述べていた。死んだ後まで時間稼ぎをする必要はない。それでも君は生き続けなければならないのだろうか。やる気もないのに何かをやっているつもりのようだが、それで楽しくないのはもちろんのこと、他に何をやればいいかなんて、すぐに思いつくわけがない。まだ心は遠ざかりの風景の中にとどまっているようだ。いったいどこから遠ざかろうとしていたのか。遠ざかりの始まりを思い出すことなどできはしない。意識の中で何かが弾けているようだが、それは手榴弾の一種だろうか。目の前で何かが炸裂して意識を失う。夢の中ではそんなこともありだろう。考えていることがそれとは無関係であり続けたい。そんな無理な願いを誰が聞き入れてくれるだろう。結果的に楽しければ理解したことになるのだろうか。でたらめなことを述べている暇なら大歓迎か。もたらされる時間の意味を理解できかねる。何かをやり遂げなければならないことはわかっているようだが、それに関しては誰も何も教えてくれないだろう。誰にとってもわかり得ないことをやろうとしているのだろうか。理解の範疇からは逸脱しているのかも知れない。そこから逸脱していないと気が済まないのであって、述べている内容からはみ出ているような言説でないと、何かを述べている気がしてこない。状況に逆らいたいだけのようだが、その状況の中からそんな行為が導き出されてしまうのだから、それがまったく恣意的というわけでもないらしい。そのほとんどが君の思考とは関係ないのだろうか。それは思考から導き出された語りではないのかも知れない。では闇雲に言葉を連ねることに生き甲斐でも感じているのか。それをも肯定したらどうだというのか。もたらされているのはいつもの虚無感とわけのわからない文章とある種の達成感と何なのか。他に何か思いつくことでもあるのだろうか。君は自身の未来に向かって何を述べたいのか。ただ言葉を繰り出すことの楽しさに埋もれているだけでは、何を述べていることにもならないことは承知しているつもりだが、それでも誰かの心に無関心をもたらしたつもりになって、何となく満足してしまうらしい。


5月30日

 つまらない批判にはうんざりしてしまうか。君に批判する資格はない。何を批判するつもりだったのか。夕立の後は泥道がぬかるんでいる。何も批判できなくなってから久しいようだ。何をどこに置いてきてしまったのか。新聞には何が書かれているのか。世界はいつまでもそのままなんだろうか。そのままに推移するはずがない。君はこの世界の成り行きを信じられない。だがすべてが馬鹿げているわけではないはずだ。正気でないのは一部の不満分子だけではない。すでに誰もがありふれたことを述べている。複数の出来事が複雑に絡み合い、気に入らない成り行きについて、それを真正面から批判できなくしている。批判が無効になるような出来事の組み合わせを容易に構成できてしまい、批判し続けている者の愚かさが露呈する仕組みになっているらしい。そのような批判の無効性が君を謙虚な気持ちにさせてしまうのか。そんなことを批判すべきでないという思いが心を支配しているようだ。たぶんつまらないことにこだわっている者たちがそんなことをしてしまうのだろうが、組織の中で身動きがとれない者たちにそれ以外の何ができるだろう。そんなことをやらざるを得ない状況に追い込まれている。組織の中ではどうしてもその場しのぎのごまかしが通用してしまうようで、それがいったん組織外に漏れてしまうと、その組織に向かって各方面から一斉に非難が集中することになる。しかしそんな一般論では物足りないか。たとえばその組織に社会保険庁という名称がつけば、何となく何かを述べているような気にさせるだろうか。そんなことを述べても何が変わるわけでもない。これからもいくらでもそんなことをやってしまう組織が出てくるのだろう。この国ではそういうごまかしが通用してしまう組織ばかりなのではないか。この国に限らず、世界中でそんなことばかりが行われているのかも知れない。組織に対して無理な目標が設定されれば、目標を達成しているように見せかけるための見え透いたごまかしをやらざるを得なくなる。だがそれは君が知っていることではない。君はそんなことを知ろうとは思わない。そしてつまらないことはすぐに忘れたくなり、実際に時が経てば忘れているのだろう。そんなことはどうでもいいと思う。君は矛盾だらけの世界に嫌気が差しているわけではない。人間の弱さは組織内の結束に結びつく。そこで何を制御しようとしているのだろう。ギャンブルにでものめり込めば我を忘れることができる。そうなれば金がなくなって身も心も貧しくなるだろう。万が一大金持ちになったりしたら、どのような精神状態になれるのか。そんな荒唐無稽な夢を実現させようとは思わないか。ギャンブラーも人間の本質を体現している。実際この世界は誘惑の宝庫なのだ。そして誘惑に負けてしまうことが人が人である証となる。思いっきり痛い目に遭ってみないと目が覚めない。目が覚めたからといって、救われるわけでもないし、何の報いももたらされないかも知れない。将来起こりうるかも知れない救いの時は、君をその救いに縛り付けようとする。依存症に導かれたいのか。それを説明しようとする浅はかな言説などどこにもありはしない。君は説明できないことについて語ろうとしているわけか。すでに何かを語りながら説明しているではないか。だが実感は何もなく、そんな説明では満足できないのかも知れない。自らが思いもしなかった言葉の並びになってほしいか。文章が自らを超えて語り続けてほしいか。それはわけのわからないことだ。確かにおかしな言葉の並びによって、文章を意味不明に陥れようとしているのかも知れないが、いかんせん語彙が少なすぎる。語っていることのすべてが過去の語りの繰り返しになってしまっている。そんなことは過去にも語った内容なのかも知れない。君はそれによって何を示したいのか。馬鹿げたことの繰り返しによって、この世界が救いがたい愚かさに覆われていることを証明したいわけか。しかしそれの何が馬鹿げているのだろう。なぜそれを馬鹿げていると見なさなければ気が済まないのか。何を照れているのだろうか。そうやってすぐに冗談の言説の中に逃げ込もうとする傾向にあるが、そんなはぐらかしも見え透いていて、飽きが来てしまっているのかも知れない。そんなこともすでに分かり切っていることでしかなく、それはくだらぬいいわけに終始しているように思わせる。それでいいわけがないだろう。


5月29日

 昼の空気は生暖かい。誰かが風邪を引いている。腐った頭の持ち主は今さら何を探しているのか。宝の山はおとぎ話の中にあるらしい。誰かは壊れかけの頭脳に未練が残っている。腐っていればすでに死んでいるはずだ。翌日は快晴だが、相変わらず何を目指しているわけでもない。脳みそがいかれているわけではなく、社会が君を必要としていないのではないか。何だか無性に腹が立ってくる。本気になってはいけない。文章で述べられていることを真に受けてはいけない。それで何がもたらされるわけでもない。心が止まっていて、思考が静止しているようだが、そんな言葉には動じない。内容がないことは分かり切っている。では意味もないのだろうか。意味があれば楽しいか。楽しくなければ無意味のままでもかまわないか。実際に無意味なことを述べているかも知れない。本気になれないのなら、何を述べても意味がないだろう。自家撞着に陥っているかも知れない。当たり前のことを当たり前のように述べているようだが、それの何が矛盾しているのか。すべてが嘘なのかも知れない。嘘でなければ何も述べられない。しかし何が嘘なのだろう。誰もそんなことは述べていないのではないか。君は何も述べられない。しかしそれが嘘というものだ。嘘ならそれで終わりだろうか。終わりたくても終われないだろう。終われるはずがない。しかし終われなければ続けるしかない。いつまで経ってもそんなことを述べ続けるわけだ。ではそのとき君は何を述べていたのか。過去の話ではない。意味などどこにでも転がっているだろう。何を思いだしているのだろうか。思い出は何も語らない。君は何に語りかけているのでもないらしい。結局誰もそこにはいないらしい。人はいるが誰もない。それらの人々は誰でもないのだろうか。誰が人として認められるのか。何をもって人と見なせばいいのだろうか。少なくとも君は人でない。人が人である時、どのような行動に出れば人として認められるのだろうか。君は人とは見なされないようなことをやっているのだろうか。誰がそんなことをやっているのか。どうも自らがやっている行為を否定したいらしいが、いったい君はそこで何をやっているのか。何もやっていないとは言わせない。何も言わないが、その代わりに適当な文章をいい加減に記している。要するに君は愚かなことをやっている。それで何かの気晴らしにでもなるのだろうか。気晴らしでそんなことをやっているわけでもないはずだ。努力を怠ってはならない。どんなことがあってもそこから逃げてはいけない。だがなぜ自ら進んで不幸になろうとしているのか。それの何が不幸なのだろう。そうやってまたいつものはぐらかしに逃げてしまうらしいが、実際にどんな状況に陥っているのか把握していないようだ。それについて述べることなど何もなく、それで状況の説明になっているとは思えないが、いったいそれの何を説明すればいいのだろう。腕が肩から上へ上がらなくなっている。君は何について述べようとしているのか。感覚が麻痺しているようだ。たぶんふざけているのだろう。そこから何がもたらされようとしているのか。阿漕なことをやろうとしているわけではない。神は慈悲深いだろうか。神に逆らっているつもりの君はどうなのだ。君がやることは他の誰に評価されているのだろう。評価に値しないことを述べているのかも知れない。それで君は満足しているのか。もうすでに見捨てられている。世界は君を置き去りにしている。もはや呪詛の言葉すら要らないほど落ちぶれている。呪いは着実に効果を上げ、君の心を灰で埋め尽くす。不完全燃焼どころではなく、情念は完全に燃え尽きているのかも知れない。炭化して原形すらとどめていない。だからそこには何もないと感じられるのか。他に眠気を感じてやる気をなくす。しかしまだ無駄話が続いてしまうのだろうか。延々と何を語っているのだろう。次第に夜の静寂に押しつぶされそうになる。君はそこへ至っても本気になれないわけか。なぜ本気になる必要があるのか。いったい何もない夜はいつまで続くのか。何もないわけではなく、そこには言葉が連なっていて、必死になってその連なりを先へ延ばそうとする意図が働いている。君はそこから抜け出せるだろうか。何を苦しんでいるのか。それが地獄のような苦しみであるわけがない。君は地獄そのものの存在を信じていない。ただそれとは無関係に音楽を聴き続けているだけか。


5月28日

 何か得体の知れぬ気配を感じ取っている。久しぶりに君の影がよく見えるようになる。それは不吉な前兆か。なぜか岐路に立たされているような気がするのだが、君の運命はすでに決定済みだ。誰かがどこかでそんなことをつぶやいている。いつものように何を述べているのかわからないが、これからどうなってしまうのか。本当に死んでしまうのだろうか。誰が死ねば気が済むのだろう。何を意図的に逸らしているのか。それは君の身に起こりうる不幸なのではないか。冗談ではないと思いたいが、曇り空と雨空を見上げて空の明るさを空想する。今は朝だろうか。文章ができあがる頃には夜になっているかも知れない。たぶんすでに翌朝だろう。まったく効率的でなく、できるはずがないと思われる。何ができるはずがないのか。つまらない思いばかりに気をとられ、また未完成のまま文章が提示されてしまうのだろうか。心なしか風景が斜めに傾いて見える。それで何がわかるのか。誰かの心は痛んでいるらしいが、今さら何をアピールしたいのか。何か決め台詞でも表明しなければいけないのか。文章は君自身に興味を抱けない。それは飽きが来ている証拠だろうか。どうやらいつまでもそこにとどまるわけにはいかないらしい。何を見ているのか。どんなことを考えているのだろう。この世界はおかしいと思う。それはこの世界に対する見方や考え方がおかしいからだ。君たちは何を主張しているのか。どのような主張が顕在化しているのか。主張の正しさを信じていいのだろうか。正しいことを信じているからといって、それで何がもたらされるというのだろう。もたらされているものや状況を活用することができるのだろうか。なぜ活用しなければならないのか。状況を把握しているとは言い難い。もたらされているそれは君には関係のないことやものなのではないか。それらの意味を理解できない。正しいと思うことを述べれば反発を買うだろう。屋根にとまった雀がこちらを見ているような気がする。それは一瞬の出来事だ。他に何が見えているわけでもない。そういうことではないのだろうか。枯れかけた雑草は窓際で執拗に生き続ける。またそこから逃げようとしている。逃げられないのに逃げようとする。そんな思いでいるうちは何も成し遂げられないだろう。それでかまわないのだろうか。他人にとってはかまわないようだ。君には自分という意識がない。君自身が君にとっては他者なのか。それともわけのわからないことを述べて自己満足に浸っているだけなのか。浅はかな夢を抱くべきではない。本気になってはいけないのだろうか。今こそ決着をつけたいわけか。できもしないことをやろうとしているわけではない。何の兆しを感じ取っているわけでもない。それでも何とかしなければと感じているらしく、実際に何か中身のありそうなことを語ろうと努力している最中のようだ。君は嘘をついているのか。なぜそう思うのだろう。流れは変わったのだろうか。それはどのような流れなのだろう。では今から反転攻勢を仕掛けなければならない。それが嘘なのか。君は何をどう思っているのか。驚きが何もない。驚く必要を感じない。その辺を何か割り切って考えているのかも知れない。終わりが見ているのだろうか。それは誰の終わりなのか。君は間違ったことをやり続けながらも、結果的にはうまく立ち回っているように思われる。間違い過ちを犯すことが君にとっての有効なやり方なのかも知れない。しかしそこからどこへ行けばいいのだろう。どこへも行かずにそこへいつまでもとどまり続けるつもりなのか。他人の気持ちなどわからなくても生きてゆけるだろう。そんな人間なら掃いて捨てるほどいるらしいが、実際に掃いて捨てられてしまう人々には、どのような基準もありはしない。掃いて捨てられる基準があったらたまったものではないか。誰がそうなってしまうかは、そのときの状況次第だ。信心深い者にとっては神の気分次第なのだろう。そんな風に考えてしまう心が鬱陶しい。しかし鬱陶しくてたまらないことは他にもありそうだ。どんなことを述べてもかまわないのだろう。どんなことをやってもかまわないか。やりたければやってみればいいし、いつまでも勝手なことを述べていればいいだろう。それができればの話だが、人生は有限であるべきなのか。君は有限の時間の中で何を浪費しているのか。かけがえのない体験をどぶに捨てるようなまねはいただけない。


5月27日

 誰かが語り続けているフィクションの中では、何となく面倒な事態に直面しているようだ。そこで何を思いついたのか。親しみやすさとは何だろう。老人は枯れた風情を愛でている。現状に同化しようとして、知性をどこかに忘れている。しかし知性とは何だろう。何をもって知性と呼んでいるのか。それはつまらない言葉の連なりになる。君にはそれが我慢がならないようだ。具体的な話に持って行こうとすると、すぐにわけのわからない抽象性の殻に閉じこもろうとする。現状が気に入らないことはわかるが、それについてどう思っているのか明らかにできない。自分でも何を述べているのか理解できないらしい。近頃はそんな話ばかりのようだ。昼に窓の外を見やると風が止んでいる。雨も止み薄雲を通して日が射してくる。午後にはまた通り雨が降ってくるだろう。それはいつの日の話でもないらしい。何の話とも無縁な文章が形成されようとしている。どんな妄想を抱いているのだろう。なぜそこから逃げているのか。逃げたくても逃げ出せない状況なのではないか。その場所にとどまりながらも心は逃げている。何をやるのも無理なのだろうか。何かしらやっているのに無理はないだろう。無理なことをやろうとは思わないだけか。つまらないことに労力を割きたくはないか。人々が争っているのは当然の成り行きだ。他人と話題を共有したければ、他人と同じようなことをしなければならず、同じようなことを大勢でやっていれば、自然と競い合いになるしかなく、競い合えば自ずから優劣がついてしまい、劣勢になった者はおもしろくない。他人との競い合いの中で自分が優位を占めていないとおもしろくはない。そんなことをいくら述べてみても仕方のないことかも知れない。だから気晴らしが必要なのだろうか。息抜きで娯楽にうつつを抜かしている。つまらないこだわりはすぐに忘れてしまいたい。馬鹿げたことをいつまでも考えているべきではない。そんな分かり切ったことを実行に移せない。もう少し多様な価値観を提示できないものか。生きて行くのに目標など要らない世の中にしなければならないが、それが目標になってしまったらお笑いぐさだ。それが嫌なら生きて行かなければいいだけだ。生きて行かなければ死んでしまうのだろうか。自らの死を願っているわけでもない。生きるも死ぬも、どちらの状態も自らが主体的に決めることなどできないのではないか。どちらでもかまわないのであり、生きているなら生きようとするし、死んでしまえば死んだままなのだろう。くだらぬ謎解きにつきあっている暇はない。それは謎を超える試練か。それの何が試練なのか。それとは何なのか。明日になれば結果が出る。しかしその結果を真に受けることはない。結果は途中経過にすぎず、何となく一区切りつけたいということでしかないはずだ。そこにどんな哲学があるわけでもなく、どのような思考を伴っているわけでもない。やはりそんなことはどうでもいいことなのだろうか。では何を切羽詰まっているのか。用意はすでにできているが、何のことやらさっぱりわからない。それらの状況から何を抽出しようとしているのか。フィクションの中ではただ君が生きている理由を知りたいらしい。だからわけがわからなくなる。ちんぷんかんぷんなことばかり述べているようだ。少なくともそれは死ぬ用意ができているということではないのだろう。自らの死を恐れている。それでは迫力不足のようだ。自ら死んだぐらいでは物足りないか。死ぬ理由を求めているわけでもなく、死という言葉を利用して文章を記しているだけなのかも知れず、そこから何を導き出そうとしているわけでもないのだろう。そこから消え去りたくないことは確かなのだが、そのためにはどうしたらいいのかわからず、ただ闇雲に言葉を連ねながら、どこかへ逃げようとしている。現状に耐えられず、現状から逃げようとして果たせず、その場で立ち往生している自分に嫌気が差してくる。しかし迷っているわけではないようだ。いい加減な文章でその場を取り繕うとしている。できもしないことをやりたいらしい。急ぎながら焦り、せわしなく指先を動かして、何やら述べているつもりらしいが、それではいつもの無内容にしかならない。右往左往しているようで、それが予定調和の範囲内であることも承知していて、何となく自らの行動が面白味に欠けるのが気に入らないらしく、それ以外の選択肢を模索しているようだ。


5月26日

 理由を求めたい。飾り気のない音を聞いている。願いが聞き届けられていることを確かめようとしている。バロック的な建築は何を示しているのだろうか。理由とは何だろうか。雰囲気に流されている。曇り空なら楽しいか。風はどちらへ吹いているのだろう。枝葉はそよ風を受けて揺れている。言葉はいくらでも分散する。何を示しているわけでもないらしい。ただ不可思議な響きを誰かの心の中に残しているようだ。見えている景色は仮のものでしかない。まるで暗号を解いている気分になるだろうか。何を期待しているわけでもないらしい。到来しているのはそれとは別の雰囲気だ。感じている雰囲気を確かめたい。あくびとため息は何の邪魔をしているのだろう。さらにそこから遠ざかれるだろうか。それは以前と同じ言葉か。隠されていた真実を発見したつもりになる。それはどんな言葉なのだろうか。君はそれを求めていたのか。さらに状況は停滞しているようだ。不意にそれとは違うことを思い出す。もう飽きてきた頃だろう。すべてがぶちこわしにされている。凄惨な光景が目に浮かぶ。それはありふれた言葉なのかも知れない。できないこととできることを分けて考えることができず、いつの間にかそれを忘れようとしている自らに気づく。すべてを水に流すことができるだろうか。説明を要しない文章を読んでいるようだ。何かが続かないようで、言葉を連ねるのが面倒になってくる。翌日の昼は雨が降り続いているらしい。おかしな癖を煩っているのだろうか。それによって文章がおかしくなるのは大したことではないが、何もないという前提が崩れてしまうのは嫌か。どこまでが本気なのかわかりかねる。すべてが冗談というわけではないだろう。限界を知らないことは愚かさの比率を上げることになるのだろうか。迷い悩み、結局過ちを犯し続ける宿命を呪うわけにはいかない。心を揺さぶる表現が楽しいわけではない。そこにはつまらぬこだわりが満載されているようだが、こだわる理由が見あたらない。何も見えていないはずなのに、何かを嗅ぎ取っている。宝のありかでも探し当てたのかも知れない。フィクションの内容は安易な方がいい。それとは違うことを考えられないのだろう。何が違っているのか。問題は何もない。英会話ができなくても何の支障も来さない。誰かはそんな地域で暮らしているそうだ。どこかで何かがいかれている。君には文章が理解できない。まだ立ち直れていないようだ。だが心臓に穴が開いているわけではない。穴から何をのぞき込んでいるのだろう。どちらにしろ君に勝ち目はない。勝負を避けているだけか。それは何かの実験なのだろうか。外ではまだ雨が降り続いているらしい。そんな風に言葉を並べていて楽しいか。でたらめなことを述べている理由を知りたい。峠を越している。腕の痛みも和らいで、何を背負っていたのか忘れるほどの余裕が生まれている。たぶん創作ではない。現実には生きていないのかも知れず、誰かの生死を確認することさえできない。しかし安否を気遣うほどのことでもないだろう。無事で生きているわけもないか。瓦礫の下敷きにでもなった気分でいたいらしい。どこかで地震が発生している。何を述べているふりをしているのだろう。今日も切羽詰まって苦し紛れなのか。気が抜けて空気が抜けている。何も思いつけないので自信喪失か。ため息交じりに夜空を見上げ、一息ついている風を装う。卑屈に振る舞っているのかも知れない。狂言の一種を思い出す。大声を張り上げるのは気晴らしのたぐいか。映像の中から誰かの振る舞いを抜き出している。何かのコラージュに見せかけている。おそらく意味を知ろうとしていないのだろう。腐っているのかも知れない。何かが途絶えようとしている。途切れているのは誰との交信なのか。それは通信ではない。メディアはすぐにペテンを賞賛したがる。その浅はかさは何に似ているのだろうか。すぐに終わらせたいのだろう。恐ろしく退屈な年月を経て、なおそれを押し通そうとしている。誰にとっても早く死んでほしい人などいくらでもいるはずだ。未だに戦国時代が続いてるらしい。それは数千年前の出来事になるだろうか。約束はとうに反故にされ、雲散霧消の中で何を語ることができるというのか。いつもの誇大妄想で片づけてしまいたくなる。そこから逃げ出すのは簡単だ。今を通り過ぎてどこへ向かいたいわけでもなく、ただ眠りにつきたいのかも知れない。


5月25日

 君はつまらない言葉が好きのようだ。どんな言葉を好んで使っているのだろう。快適な世界では悩み事が取り除かれている。絶えず気に入らないことを減らす努力が続けられている。そんな幻想を誰が抱いているのか。君は何を信じているのだろう。新たな悩み事が次から次へと出てくる。何かしら気に入らないことが生じてくる。いくら努力しても、努力した分だけさらなる努力が必要となってくる。何をいくらやっても足りなくなる。そうやって人は常に移動し続け、行き先には何かが待ち受けている。時には何も待ち受けていない場合もある。たとえ何もなくても、それが何かを物語っている。では具体的に何を語りたいのか。そこから先には何もないが、何もなくても楽しくなってくる。だが何もないから言葉が続かない。言葉が続かなくても楽しくなる。放っておいてもやがて何かを語り始めるだろう。だが語り始めれば眠くなる。気がつけば同じことを繰り返し語り続けている。本当に語ることが何もないのだろうか。何か強烈な感情をねつ造してみたくなるか。誰かがくだらぬ台詞を吐き捨てる。この世は反吐のでるような社会だ。その醜い台詞には何が宿っているのだろう。何に押し流されているのか。それが怨念とか情念とかだったらわざとらしいか。わざとらしいのも楽しさのうちに入る。すべてがありふれている。何もかもが存在し続けている。この世がすべてなのかも知れない。この世界にはすべてがある。それ以外に何が存在しているのか。知り得ないことも多すぎる。知りたくもないことまで知っているつもりになれるか。何か矛盾していないか。何が矛盾していようとそれは驚くべき内容ではない。どのような内容にもなり得ない。他に何を知っているつもりになれるのか。どんな言葉を付け足さなければならないのだろう。そして何に気づくべきなのだろう。不細工な言葉の進行を無視して、幸運をつかんだつもりになる。もうこれ以上は嘘をつかないでほしいか。それでも文章が意味不明になる。わからないことを述べているらしいが、そんなことは分かり切っている。誰が何を知っているわけでもなさそうだ。君に知り得ないことがあるのは当然だとしても、それを知りたいと思わないのはどういうことなのか。どういうことでもなく、わからないことを知ろうとしても仕方がない。ようは忍耐をどこまで続けられるかだ。肝心なことを忘れていては仕方がない。それでも何を知ろうとしているのかわからない。今はそういうことを述べたいわけではない。それでもこの世には何があるのだろう。人々は自らが関係することを広めようとしている。こととは具体的になんなのか。それが君たちの仕事なのだろうか。仕事とは何だろう。誰が仕事をしたいと思っているのか。それは何かの精霊だろうか。誰かの思念が空を漂っている。何かが脳裏をよぎり、薄い布きれが風に舞う。工事現場では土埃が舞っている。誰がそこで暮らしているのだろう。言葉は誰の心の中につなぎ止められているのか。郷愁の思いに近づいているわけではない。何も考えられず、何ももたらされないことも承知している。目の前の風景が透き通って見える。そこにあるのはある種の空気であり、何らかの雰囲気なのだろう。俄然やる気が出てきたわけもなく、さっきまで人形の首がぐるぐる回っていた。さりげない一言が何を招くわけでもない。危機はとうの昔に去っているようだ。何もできないわけではなかったらしい。すでに何かをやり遂げたつもりになっているようだ。意識はどこまでも曖昧なままに作用し続け、精神の存在を感じさせない。君はどこから降りているのだろう。今は何を語っているわけでもない。どんな意識にも欠陥はつきものだ。完璧でないことが完璧さを求めさせるわけでもない。誰かのありふれた人生に感動しているわけでもない。はたして聖徳太子に人生があったのだろうか。それは何もないことに対するいいわけか。見失われた時空から何を取り戻そうとしているのか。ただいい加減に言葉を組み合わせているとしか感じられない。ではなぜそこでやめてしまうのだろう。何にいたたまれなくなってしまうのか。すべてを手に入れるという野望が叶うことはない。ただすべてを手に入れたいと願っているだけだ。そんなフィクションはありふれている。馬鹿で間抜けな人物像が浮かび上がってくる。それらの話はどこへ向かって語られているのか。まったく本気になれない。


5月24日

 なぜか翌朝は快晴だ。天気予報を見ていなかったのだろうか。それは二日前の翌朝のことだ。知っていたのにわざとしらばっくれてみる。鳥がさえずり猫が鳴く。完全に一日遅れの記述が定着してしまったようだが、今後さらに遅れることもあり得るだろうか。人は争う生き物であり、生物は常に弱肉強食の掟に従って生きているのだから、人も生物の一種としてそれを免れ得ないのかも知れない。物語の中で強調される争いごとも生存競争と見なせば納得できるだろうか。なぜそういう次元で考えようとするのか。もう少し人間的な水準で考えたらどうなのか。人と人の関係に不具合が生じているから争いごとが絶えないのではないか。不具合の内容は千差万別であり、無関係な者がいちいち口を挟むべきではないが、それでは争いを放置しているにすぎない。君は何を解決したいのかわからない。そこから先に何も言葉が思い浮かばない。それはどうでもいいような話だとは思えないのだが、具体的に何が問題なのかわからない。内容を掘り下げて考えようとしても、肝心の内容がどこにも見あたらない。娯楽として争いごとを見聞してはいけないのか。世の中はそればかりなのではないか。それを必要以上におもしろおかしく演出してもわざとらしいだけか。常に怠惰な雰囲気に心が押し流されている。それは形而上学的な問題だろうか。高邁な理念はどこへ消え去ってしまったのか。今ではそれをまったく信じられない。信じ込んでいた頃の思考が稚拙だったのかも知れない。わざと批判の矛先をかわしきれなくなった風を装い、そこで立ち往生してしまうのか。話が飛んで何を述べているのかわからなくなる。何に従って言葉を連ねたらいいのか。今こそ簡単な結論に至らなければならないのか。今まさにドラマの中ではつまらない争いごとの最中なのではないか。毎度おなじみの勢力争いや権力争いに明け暮れている。だがそう述べて何を批判しているつもりなのか。それもつまらない言説のたぐいになるだろう。そう見なさなければ言葉が続かないか。続かないことを続けるべきではないが、続いてしまうなら、結果としてそれは続かない話とはならない。まさに続けようとして続けているわけだ。ただ続けようとしているだけであり。続けようとする意志があるらしいが、何を続けるのかわからない。意味もなく惰性で続けている。人はそれでも生きてゆけるだろうか。人ではないのでわからないか。なぜ人は生きているのだろう。何のために生きているのか。それでについて何か意見があるのだろうか。それは幻想の一種かも知れない。中には何かのために生きていると思いこめる人もいるらしい。何のためでもないが、そこに納得のいく理由を構成できる人は幸いである。誰かの意識はあやふやさに浸食されている。やはり漠然とそんな思いを抱いている。何に関してもとりとめがないのだ。ただ無性に眠たいのか。目で見ている光景に興味を持てない。誰かの目は節穴なのか。それでも見えているのだから、その見えているものについて語る必要を感じている。外界ではさらに一日が経過している。言葉を記し始めてから一日経てば曇り空に遭遇する。その間に何が起きたのか。やる気を失わせる出来事とは何だろう。そんなものは何もなく、ただ他の用事で疲れているだけか。しばしば中断して、何も思いつかないような成り行きを強いられている。つまらないニュースに心奪われるわけもなく、殺人事件の被害者に同情することもなく、画面に映っている何もかもが娯楽と思いこんでいるわけもなく、そこから何が伝わっているのかを理解しようとしているわけでもない。しかし何も理解できないわけでもない。あくびとともに退屈な文章表現を推し進めている。要するにそんな現状には否定的なのだ。見えているのはそれだけでないと思いたいわけか。何か忘れていないか。何かを述べたかったはずだ。言葉の源泉が枯れかかっている。なぜそのように述べられないのか。いったいどのように述べようとしているのか。そんなに述べることなどありはしない。枯れかかっているのではなく、源泉からくみ上げすぎているのではないか。過剰に述べようとしている。述べる必要のないことまで述べている。無理に無理を重ねているように思える。だからどうだというのか。他人は他人であり、君が何を述べようと誰かには関係のないことだ。関係を持ちたければ自らが何かを述べなければならない。


5月23日

 怒りの感情はやがて静まり、喜びの表現を育む。何かに役立つような言葉は嫌いだ。何よりも底が浅い。ひねくれ者の考えることはわかっている。いったいそれは誰の台詞なのか。今さら分かり切ったことを述べないでほしい。まだそんなところで道草を食っているのか。君は草食動物のたぐいか。わざとらしい言葉に鼻白む。言葉の使い方を間違っているかも知れない。しかし何をそんなに驚いているのだろう。どんな言葉を反芻しているのだろう。何もわからないふりをしながらも、自然と笑いがこみ上げてくる。それがなぜおかしいのだろう。自然に笑えない状況を経験したことでもあるのか。確かに君の笑いはぎこちない。笑いながら顔の片側が引きつっているような印象を受ける。まだ立ち直るきっかけがつかめないのだろうか。苦し紛れに冗談ではないと思いたいのか。それは毎度おなじみの台詞に違いない。そこから遠ざかれないのもいつものことだ。出口が遙か遠くに見えている。それが迷路の出口だと思いこんでいるらしいが、そこまで行ってみないことには確かめようがない。だからいつまでもとどまっているわけにはいないと思うが、なかなかその先へ進めない。そんな話には興味を持てないか。作り話には違いないが、それにしては内容がなさすぎるような気がする。迷路の中で彷徨っていると思いこんでいるだけでは話にならない。まったくいつまでそんな話にこだわっているのか。なぜそれほどまでふざけたいのか。どうやらふざけていると勘違いしているようだが、誰が勘違いしているのだろう。ふざけているのは誰なのか。そういうふざけ方はいただけない。少しおふざけがすぎるらしい。君は同じ言葉を飽きるまで繰り返したいのか。今はそれしかできないのだから仕方がない。だからそこから先へ進めないのだろう。ただそれだけではだめなような気がするらしく、必死になって違う言葉を探している最中なのだろうか。言葉を使うことばかりに夢中になっていると内容を忘れてしまうだろう。だからそんなことばかり述べ続けている現状から抜け出せずにいるらしい。そんなわけで曇り空はいつまでも続き、上空を見上げながら憂鬱な気分になっているようだ。まったく理由になっていないようで、それらの言葉によってどのような気分を醸し出したいわけではなく、話の中にどんな心境が紛れ込んでいるかを知りたいわけでもない。ただうんざりしてくるか。うんざりしたついでに指先がしびれてくる。それとこれとは関係ないだろう。関係なくても感じていることは確かなようだ。親しみやすさはわかりやすい。わかりにくさは混乱を招く。知らず知らずのうちに招いているのは行き詰まりか。では態度のふてぶてしさは何を想像させるだろうか。そんな人物が出てくる漫画なら掃いて捨てるほどあるだろう。そしてそのような性格の単純化は暴力の行使によって支えられている。すぐに対決に至ってしまうわけだ。神秘的な力を身につけることがいいわけのように作用している。力を身につけたら当然それを行使しなければならなくなる。それが破壊的な暴力の連鎖となって読者の視覚を刺激し続ける。はたして身体表現は暴力にしか帰結しないのだろうか。では他にどんな力を働かせなければならないのか。それは話にならないような力かも知れず、少なくとも話をおもしろくするためには取り除かれるべき力なのだろう。とりあえず君たちは考えなければならない。対決を回避したら話がつまらなくなってしまうことに気づくべきだ。人と人が争う話にしなければ物語は成り立たない。そして争いには暴力がつきものとなる。人々は話のつまらなさを受け入れがたい。戦うことなく話が終わってしまうような物語には興味がないばかりか、そんな物語などあり得ないのかも知れない。ではそれらの物語の何を正当化しなければならないのか。戦いの中から友情が育まれるといういいわけに終始していることの何がおかしいのだろう。最終的にそうしなければ救いがない。救いがなければ感動がない。感動がなければつまらない話になってしまうだろう。それで戦いを正当化できるだろうか。相手をたたきのめそうとすることの何が友情に結びつくのだろうか。友情とは互いの雌雄を決した後から生まれるものなのか。本当にそんな結末に至ってしまったら君は感動してしまうだろうか。君とは誰のことなのか。君は何を否定して何を肯定しているのだろう。冗談でなければつまらない。


5月22日

 さらに楽しい気分から遠ざかる。何をためらっているのか。別に死ぬ気でいるわけがない。言葉の連なりにセンスが感じられない。思い過ごしにも意味を付与したいところだが、それをどのように述べれば納得するだろうか。どう述べても気が済むわけもなく、ただ淡々と事実について感じたことを語るしかないだろうが、何も急に怒りをあらわにすることはないだろう。とりあえずそこには使われていない言葉がある。何もかもが意味不明というわけではないらしい。だが説明を糾弾する理由が見あたらない。君はそこで何を説明しているのか。そしてそれの何を批判すればいいのか。そんな現状に逆らっていたいらしい。相変わらず述べている内容がよくわからない。この地球も人がいなくなれば楽しくなるかも知れない。ネズミとゴキブリの天国になるだろうか。知性はどこにあるのだろう。楽な気分で適当に生きている人がうらやましいか。殴り合いからリラックスが生まれるだろうか。君はボクシング・ハイ状態を信用できるか。いつから何を考えているのだろう。そんな造語がどこから出てくるのか。フィクションの中では誰かに脅されていることになっている。何をひらめいたのか思い出せない。わけのわからないことを述べていると楽しいか。翌日の曇り空はやがて雨空に推移するそうだ。何が不適切な表現なのか。つまらないことが明らかになる。忘れていたことを適当に思いだし、それがつまらないことだと悟る。この世に力強いいいわけというものがあるだろうか。何をそんなに力説しているのか。誰かがどこかでごり押しの最中だ。自らの思いを他人に押しつけたいらしい。誰もがそんなことを思っているのだろうか。是が非でも他人の心を支配したいらしく、そんな願望を抱いている者は愚かだろうか。他にも愚かな者はいくらでもいるだろう。少しでも心を許せばすぐにつけ込まれるわけか。何か高い商品でも買わされるのだろうか。だから勘違いしている場合ではない。まだわけのわからない物語を語っている最中のような気がしてくる。過去においてそんなことがあっただろうか。はたしてそれで何がもたらされるのか。それらの言葉の連なりに何らかの変化を感じ取れるかも知れない。吹っ切れているような気がする。もはやその程度でかまわないと思い始めているようだ。そのとき何かをあきらめている。何も見いだせないわけだ。次にくる波を待たなければ何も到来しないだろう。だが言葉は相変わらず連なっているではないか。君は君のセンスを疑っているようだ。開き直るにはまだ早い。そうならずにそこへしがみ続けるのもみっともないか。神に救いを求めるほどばつの悪い状況はない。それをやらずにすませてきた結果が今ある現状を構成しているはずだ。そんな現状は救いがたいか。誰が救われたいと思っているのか。君は救われることの意味を理解していないのかも知れない。仮に救われたとしてもまた次なる苦難が待ちかまえていることだろう。苦難を経験しなければ救いの時もやってこない。苦難と救いとは表裏一体の関係にある。だから救いをもたらすのが神だとすれば、苦難をもたらすのも神になるわけだ。そのすべてが神の仕業だとすれば、神は人をただ弄んでいるだけということになるだろうか。しかしそんな簡単なことを述べるのは気が引けるだろう。ならば言説に何か適当な装飾を施さなければならないだろうか。それはリハビリ過程にある文章かも知れないが、必死さが足りないようだ。本気でそんなことを述べているわけではないということか。まだ善と悪の二項対立的な物語を信じているのだろうか。何が善で何が悪かを判断するのは誰のつとめなのか。この世界にやってはいけないことなどあるのか。誰もがそれを知りたいところか。誰もそれを知り得る立場にはない。多くの人はそれを知るのではなく、信じ込もうとしているだけだ。そんなことはやってはいけないと信じ込もうとしている。本当は簡単にできることかも知れないのに、いったい何に邪魔されているのか。その邪魔をしている当のものを君は知っているはずだ。知っているのにそれを言葉で明らかにするのをためらっている。簡単なことは述べたくないのだろうか。あるいはそれが簡単なことだと信じ込もうとしているだけか。ただ何かを述べるのが面倒くさいらしい。それでは今まで述べてきたこれは何なのだろう。何となく白々しいことを述べているようで、たぶん虚無とは無関係だ。


5月21日

 たぶんそれも冗談の一種に違いない。だいぶ投げやりなことを述べているようで、やる気がないのはもちろんのこと、それを理由にしてやめるわけにはいかないことが、さらに君を追いつめる。だいぶ本心に近づいてきたようだ。少しは自らをさらけ出す覚悟でもできたのだろうか。その一方でわからないことが多すぎて、真昼に汗だくになる。生身の肉体を所有しているつもりの誰かは、今日もそこであくせく働いているようだが、それが肉体労働の範疇に入るとは思わない。何を労働と見なせばいいのかわからなくなる。働かなければならない理由を見いだせずに、自分の殻の中に閉じこもり、そして今頃になって過去の過ちに気づく。なぜそのとき働かなかったのか。それに関して何を根に持っているわけでもないが、誰かが根に持っているのは、そんなくだらないことではないはずだ。浅はかな恨み辛みでは心が動かない。誰かはもっと無責任な立場になりたいようだ。相変わらずの曇り空の下で、誰かはあくせく働いている気がしている。本当にそうなのだろうか。何が本当なのかわからないが、とりあえず全人類のほとんどは働かなければならない状況にあるらしく、行政機構によって労働が奨励されている状況にあるらしい。なぜニートではだめなのだろう。どうしてモラトリアムが許されないのか。労働から解き放たれてこそ人は自由になれる。自由になれば何もしなくてもいいのだろうか。ただ呼吸しているだけで衣食住が満たされるはずがない。はたしてそれで救われているのだろうか。神はどこで何をやっているのか。他人を見下すようなまなざしには嫌悪感を抱く。荒ぶる神は理性を受けつけない性格のようだ。心には感情とは違う何かが宿っている。しかしそれは興味の対象とはなりがたく、その存在に対する疑問がどこからともなく生じてくる。君は理性の必要性を感じないらしいが、感情がないのかも知れない。感情がなければそれを理性で抑え込む必要もない。たぶん君には人の心が宿っていないのだろう。そんな決めつけでは物足りないか。簡単に説明できてしまうようなことはつまらないか。それは根拠のない偏見なのだろうが、何やら複雑なことを語って悦に入りたいようだ。それは実現可能だろうか。今語っているそれがそうなのだろうか。それは何かの暗号かも知れない。文章の中に解読不能な暗号が潜んでいる。ただ実態としては、以前に述べたことが延々と繰り返されているだけだが、それについてわからないことをわかった風には語れない。神はどうしてもそこにとどまりたいようだ。そこは地の底だ。地獄と呼ばれる仮想空間か。そこにとどまっても何がもたらされるわけでもなく、何の報いを受けるわけでもない。ただ淡々と無駄で無意味なことを語り続けるだけか。誰かはそうなることを願っているようだ。目指しているのはどのような高みなのか。高みではなく地の底であり、そこまで登っていくつもりはなく、降りて行く気も起こらない。ただどん底から頂上を見上げているばかりのようだが、それでどんな感慨がもたらされるのだろう。何ももたらされはしない。何もないことの他に何を望んでいるわけでもない。何もなければそれでかまわないだろうが、それでかまわないのに、さらに言葉を連ねようとしているのはどういうことなのか。本当はそれでは気が済まないのではないか。ではなぜ嘘をついているのだろう。君にそれが嘘でないことを証明できるだろうか。本気でそういう展開に持ち込もうとしているはずがない。現状では無駄に言葉を連ねているにすぎないことが気に入らないらしく、ついでにそれでかまわないと嘘をついている誰かの姿勢も気に入らない。だから必死になって何か他のことを語ろうとしているのだろうが、それが悪あがきなのであり、まったく様になっていない。そんなわけで今日も馬鹿らしいことを思い続けているようだが、それでもいつか救われることを願っているわけか。何もないのに宗教はないだろう。宗教でなくても救われる方法はあるのだろうか。そんな話をしたいわけではない。そのとき神に救いを求めていたのは誰なのか。君は誰のことを述べているつもりなのだろう。踵に痛みが走る。少し歩きすぎたようだ。歩くことが不健康だなんて誰が思うだろう。足があれば歩きざるを得ないが、なければ不便きわまりない。ではそんな語りを何につなげようとしているのか。そこから何を幻想できるだろう。


5月20日

 獣も何らかの思考を持ち合わせているらしい。藪の中でうずくまっていて、身動きがとれないようだ。そしてなぜか自分の右足がすり減っている。夢の中でもそんな経験はない。そんな嘘を誰かが信じたつもりになるらしい。まだ説明の途中だろう。堪え性がないようだ。先を急ぎすぎている。わだかまりはまだしばらく解けそうもない。ただわからない。なぜそんなことをしなければならないのか。それを知りたいわけではない。今日も大地の上で人がうごめいている。何をしているのかを知りたいとは思わない。それでも虫けらとは違うと思っているのだろう。虫けらが何を思うのだろう。君は何を思いたいのか。矛盾していることはわかっているが、それを切り捨てるわけにはいかないようだ。いつまでも無駄なことをやり続けている。それは思いにはつながらず、誰が何を思っているわけでもない。無駄なことはいくらでも語れるが、それが無駄でないはずがない。もう少し要点を絞って効率的に語れないものか。いったい効率性とは何なのか。誰もが限られた範囲内で生きながらえたいと思っている。浅はかな人も健康に注意しながら生きながらえたいのだろう。何とか生き残りたい。そのついでにまっとうな神経の持ち主が死んでしまったらどうするのか。意味がわからない。とりあえずそこを離れたくないのだろう。大地にへばりついて自らの生をまっとうしたいらしい。そう述べて何を皮肉っているわけでもない。しかし印象的にはどうなのだろうか。攻撃的な口調は未だに健在か。現状を何とかしなければならない。自らの力で何とかできるとは思わないが、時にはやらなければならないことを悟ったつもりになる。何もできないことはわかっている。何もやらないことと引き替えにして、言葉は君を裏切らない。そうであってほしいようだ。だがタイミングを外している。述べている内容が状況に合っていないのだ。わざと機会を逸しているつもりのようだ。また以前と同じような言葉が連なっている。心を蝕んでいる幻想を振り払うことができず、遠ざかる機会を必死にたぐり寄せようとしているらしいが、もはや手遅れだ。時計の針を元に戻せても、過ぎ去った時間が戻ることはない。数年前と比べても、遙か遠くまで歩んできと思っているのに、まだそんなことを述べている現状が腹立たしいか。どうやらこのゲームはリセットが利かないらしい。迷えば迷うほどさらに迷い続ける。どこまでもそんな案配なのだろう。何が案配なのか。失敗の連続から新たな失敗が生まれる。そんな失敗で満足できるだろうか。満足できるはずもないが、そこであきらめなければならなくなる。歩みを止めて何もかもやめてしまえるだろうか。冗談でそんなことを述べているらしい。謎は謎のままでかまわないのであり、いつか解かれることを期待してはいけないようだ。それでもまだ余計なことを述べていたいらしい。君はとっくの昔にその歩みを止めている。何の進歩も感じられないようなことを延々と述べ続けているのではないか。そう述べながらも何を誇張しているのだろうか。まだ何も述べていないと思いたいわけか。そう述べる理由がわからない。君には君自身を君の意識につなぎ止める理由が見あたらない。要するにわけのわからないことを述べていたいだけか。絶えずそれとは違う言葉を繰り出そうと画策しているようだ。そんなフィクションでもおもしろく思われる時期があったのかも知れない。今はどうなのだろう。もう飽きたか。何に飽きているのか意図的に語ろうとしないらしい。それは誰の言葉でもありはしない。意識は君が述べていることをすべて否定したいようだ。そんなことを述べたいわけではない。君はいつまでもどこまでも孤独に語り続けるつもりなのか。それらの言葉は何を表現しているのか。誰もが君の死を願って止まない。被害妄想はいつまでも君をつかんで離さない。そのとき独裁者は何を支配したと思いこんでいたのか。歴史は何も語らない。誰が復讐を遂げたわけではない。もはや血塗られた大地は人を必要としない。君は自らが何を語っているのかわかっているのか。亡霊の話など信用できない。ではこの際亡霊を退けるべきなのか。誰が亡霊なのだろう。君は誰のことを述べているのだろうか。策略など何もありはしない。疑う者は皆粛正されたらしい。君は楽しいことを語っているつもりのようだ。ただわけがわからない。亡霊は何を述べているのだろうか。


5月19日

 気がつけば再び翌日になっていて、今朝は屋根を叩く雨音で目を覚ます。過ぎ去ったのはただの数日でしかない。だが述べていることは昨日と変わらず、文章は型にはまった手法を未だに継承しているようだ。何がどうなっているかを知りたいらしいが、すでに気づいている。それは欠陥を構成していて、その欠陥を利用して何かしら述べようとしている。雲間から日差しを感じる。中身は何もない。誰が何を述べているわけでもない。たぶんそこから遠ざかるわけにはいかないのだろう。遠ざかれないから遠ざかろうとしている。いったん遠ざかってしまったら遠ざかる必要はない。そこから君を導き出す。言葉で構成しているつもりなのだろう。ニュース番組的な事件の伝え方が殺人願望を刺激する。そんな嘘は通用しないだろう。根拠は何もない。安易な心はフィクションを現実に近づけたい。遠ざかろうとしているのにその逆をもたらしたい。生きようとしている者は死に、死のうとしている者はいつまでも生き残る。それはあり得ない状況に違いない。まだ語りが足りないのだろうか。だが知りたいのはそんなことではない。疑問が多すぎるのだろう。今後それをひとつひとつ明らかにしていかなければならない。冗談ばかりで逃げていては何もわからない。何をわかろうとしているのかもわからない。だから言葉が続かなくなる。気がつけば意味のないことを述べ続けている。思考が働かず、意味を求められない。わかろうとしていないのだろう。それをわかるつもりはない。しかし何を拒絶しているのだろうか。伝えることは何もない。それでも何かを語りかける。正気でないのは君ではない。勘違いにもほどがある。風が吹き雨が降り、蒸し暑い空気を運び去る。すべては忘却の彼方へ退いて行く。そこから何を見いだせるだろう。何を考察してるわけではない。考えている内容は他にありそうだ。妄想はすでにどこかに流れ着いている。感覚の漂流は終わりに近づいている。たどり着いた地で芽を出し根を張って成長していく。それは植物の一種かも知れない。周囲の植物と生存競争を繰り広げている。そこで特徴を捉えて姿を描き出さなければならない。言葉がテレビ画面からの影響を受けている。それではつまらない。感性の独自性が滅却されてしまう。すべては意味のない話のようだ。視野がさらに狭まり、思考が単調になる。それは同じことの繰り返しだ。よくないことはわかっている。早く次の話題に到達しなければ文章が立ち枯れ状態となってしまいそうだ。そう述べる意味がわからない。話題となるのは君とは無関係な殺人事件のたぐいだ。無神経な心は他人の死に興味を抱いている。君はそこで年老いるしかないようだ。歳月の重みで押しつぶされそうだ。もはや痛みを感じられない。思い出すのは楽しいことばかりで、話すほどに無神経さに拍車がかかる。言葉を無視して文章を嫌っている。ついでに色彩感覚が狂ったような風景を妄想している。ゴッホは何かを愛でていたはずだ。ひまわりの黄色は狂気の色だ。そして目の前の赤信号を無視できなくなる。そのまま突っ込んでいったら死んでいるところだ。煩わしさに嫌気が差す。面倒なので一休みすることにしたらしい。誰かはそのとき車を運転していた。有名人の逸話など聞きたくはない。人はそれでも仕事を続けている。誰のことを語っているわけでもない。どこまで行っても単調な風景に気が狂ってくる。そんなはずはないだろう。今は部屋の中で文章を記し続けている。もう嘘をつくのはやめた方がいいのではないか。まださりげないことを述べていない。なぜそれを述べる必要があるのかわからないが、とりあえず話の方向を変えてみたい。ブラインドの隙間から夜の闇が見える。蛍光灯に照らされているだけの現状だ。まだ語らなければならないのだろうか。無駄に言葉を連ねて悦に入る。喜悦の表情を見たことがあるだろうか。要するにそこへ踏みとどまることができないのだ。意味のない怠惰に疲れ、首が斜めに傾き、床が目の前に迫りくる時、どうやって持ちこたえることができようか。わからないならわかった風を装わないでほしい。何をわかろうとしているのでもなく、何がわかりたいのでもない。ただ無表情のまま画面を眺め続けているつもりなのだ。耳を澄ませば遠くから音楽が聞こえてくる。それは画面の中からではない。君は黄泉の世界の話をしているのか。わかっているのはそんなことではない。


5月18日

 なぜか粘っている。一日遅れで適当にありもしないことを語り続けているようだ。だがすでに昨日は過ぎ去り、今日もまた過ぎ去ろうとしている。この調子では明日などやってくるわけがない。意味のない義務感に駆られているとすれば、それが真実であることを証明して見せなければならない。相変わらず地表では何かがうごめいている。雨が降り、言葉が循環している。人々は自らを取り巻く虚無を退けたいようだ。だがいくら振り払っても無駄だろう。いつも見ている画面上に虚無がへばりついている。そしてそれでは意味を伴った文章になっていないだろう。虚無の代わりに内容をもたらしたい。それが本心だとしたら驚くべきことだ。それほど驚くことはない。少しわざとらしい動作を伴っている。もはや疑念を抱くことには疲れてしまった。たまには違った内容を獲得したいらしい。そんな風に述べながらも、誰かは誰かの出現を避け続けている。そこで起こった出来事の内容を知りたい。何かが妙に気にかかるようだ。そして妙な気分になる。いつの間にか歩みが止まっている。今さら何かに気づいたらしい。まだしばらく雨が降り続くらしい。明日もまた雨が降るのだろう。ふと立ち止まって翌朝の雨空を想像する。どこかにカビが生えてるのかも知れない。君には何かが見えているようだ。目に映る光景には人影がない。印象だけでは何も語れまい。また無理矢理語ろうとしているらしい。何か予感がしている。当てにならない予感を気にしている。確実な兆しを把握したい。何かが変化する兆候を感じ取ったつもりになりたいらしい。そうでないと機が熟したのが嘘になりかねない。いつになっても意味不明なままではつまらない。だが事件はいつまでも起こり続ける。起こそうとする者がいる限り、試みが途絶えることはない。それはおかしいと思っているらしい。知らないうちにそこに意味がもたらされている。今はそれを知りたいようだ。だがしばらくしたらそれも嘘になってしまうだろう。面倒くさいので語っていることのすべてが嘘でもかまわない。誰かと誰かが会話している。それを盗み聞きしているわけではない。それらはすべて架空の登場人物を連想させる。言葉と言葉の間に言葉が抜けているようだ。それで間に合わせの言葉を差し入れようとしている。人は人を殺す生き物なのだろう。時と場合によってはそんなこともあり得るのだろう。だから今日もどこかで右往左往している。人を殺さずに済んでいることを誰かに感謝しなければならなくなる。君の身代わりに今日もどこかで殺人犯が誕生するわけだ。たぶん明日もそうなるのだろう。どちらにしろ君には関係のないことだ。文章がかなりおかしくなっている。わざとそうしているのかも知れない。あるいはそのようにしか語れないのかも知れない。それで何となく楽しくなってくる。開き直っているわけだ。下手な解説が煩わしい。ついでに呼吸が止まりそうだ。関係のないことを述べているが、それも君には関係のないことだろう。たぶん曇り空の上では星が瞬いているのだろう。そこまで視点を上昇させてみよう。気まぐれに述べているのはできもしないことだ。空想上の視点はどこまでも上昇する。君はそう述べることによって暗号化される。そして嘘はどこまでも嘘に違いないが、それでも文章として機能している。それは虚無としての機能だ。心はそこであきれ果てて、それとは違う内容を模索し続け、さらに無駄なことを述べる。不意にきてれつという言葉を思い出す。その場の雰囲気にマッチしているようだ。逃れられないのに逃れようとする仕草が痛ましい。しかしゴキブリを踏みにじる気にはならない。後始末が大変だからだ。世にも奇妙な話にはなりそうもない。ただ間違っている。どこまでも間違い続けている。だから楽しくなってしまうらしい。それで気分は最高になれる。同時にそれは嘘のたぐいになるだろう。愚かさの極みに意識が登りつめようとしている。愚かさはエベレストよりもさらに高い。その調子なら夜の静けさに到達できるかも知れない。君には屋根を叩く雨音は聞こえない。聞こえないふりをしているのだろう。あえてその状況を肯定してみよう。そこから遠ざかるにはそれを肯定しなければならない。他人はそれとは違う意見を持っている。理由がなければ肯定できない。ではもっともらしい理由を導き出してみよう。今ならそれが可能に思われる。そんな印象を持っている。


5月17日

 何か伝えたいことがあるのなら、普通に語りかければいい。誰もあからさまな対決などを求めたりはしない。センセーショナリズムの追求であってはならない。常時おもしろさを追い求めるのもおかしい。君は何について語っているのだろうか。それは誰かの想像にまかせるとして、何となくそれとは違うことを述べてみたくなる。あまり多くの望まないのは当然だとしても、何を望んでいるかもわからないのも考え物か。いったいそれらの状況がどうなってほしいのだろう。そこから何を導き出せるのか。世の中の多数派に媚びるのはよくない。多数派に中身など何もない。それに対峙しているつもりの少数派気取りの連中にも同様に中身がない。しかし中身とは何なのか。何がそれらの中身を構成しているのか。それはすべて否定すべきことなのだろうか。何を否定したらいいのだろう。何も否定すべきではない。そんなことはできっこないと思う。すぐさま言葉が肯定を否定に変えてしまう。ひずみがどこかにあるのではなく、ひずんでいてもかまわないと思う。何もかもがひずんでいる。君自身の身体もひずんでいる。ひずんでいれば楽しいだろう。だが他に何も述べられない。ひずんでいるのは身体ではなく、足下の床の形状なのではないか。物体は己自身の重力によって空間にひずみを形成する。そういう話をしたかったのではないか。しかしそれが何と関係があるのだろうか。そんなことはもう忘れてしまったか。すでに夜が明けている。鳥のさえずりを聞きながら何も思わない日々が戻ってくる。昨晩は何を考えていたのか。いつもながらの紋切り型のやりとりがないと誰かは満足しないらしい。しかし誰の気を引くために何を述べているのでもない。そんなのは通用しないと思われる。何をどこで通用させたいのか。何も導き出せないことにいらだち、それがつまらない感情であることを忘れて、我を見失い、他者の存在を意識できなくなる。それはどのような現象をもたらすのか。そこで何を体験しているのだろう。たぶんさらに眠っていたいのかも知れない。眠りながら夢でも見ていたいのか。夢の中で何を思うだろう。君は何も見いだせないだろう。何となくそんな思いに囚われる。何に反感を抱いているのか。さらにつまらないことを説明しなければならないのが腹立たしいか。いったい何を説明しなければならないのか。いくら考えても何も捉えられない。内容に具体性を感じ取れない。世の中から逃げているのだろうか。世間に対する関心を削ぎ落としている。それは不自然な意志を構成している。問題の核心について語りたくないのかも知れず、何が核心なのか考察するのが面倒くさいのだろうか。そこまで考えが至らないのだろう。自らが何を考えているのか把握できていない。まるで意識が君自身の外にあるかのように感じられる。意識は周りの風景に溶け込んでいるのかも知れない。そんな表現は意味不明だろう。しかしそんな風に述べていると楽しくなってくる。根が幼稚なのだろうか。馬鹿げたことならいくらでも述べられるか。たぶん常に奇をてらっているのだろう。そうせざるを得ない心理状態にある。そうしなければつまらなくなるだろうか。ゆがんだ心はどこかがちぎれて分裂を繰り返し、そのひとつひとつがさらにひねくれまくる。不自然な曲がりを目にしているらしい。何が曲がっているのだろうか。世界が曲がり、人生も曲がり、ついでに腰も曲がり、誰かが年老いて死を迎えるわけか。君と誰かがねじれの位置にあることをいぶかしく思う。文と文がつながっていないようだが、そんな曲は聴いたことがない。誰かの曲がいくら曲がっていようと、それは当たり前のことか。曲と曲の曲がりにはどのような関係があるのだろうか。ただ楽譜にでたらめな音符が記されているだけか。どうやらそれらの苦しみには際限がないようだ。曲の中で誰かが苦しんでいるようだが、曲がりくねった長い道を歩んでいるつもりなのだろうか。そんな曲を聴いた覚えがある。今から何を思い出そうとしているのか。怠惰と無関心の間から何が生じているのだろう。苦しみはできるだけ長引かせたいようだ。誰かが苦しんでいるを眺めながら、君はどんな感慨を抱いているのだろう。それはどんな文章となって示されるのか。すべては冗談だと思いたい。君には君の人生があり、誰かはそんな人生には無関心だ。ただ闇雲に言葉を繰り出して無駄なことを述べ続けているだけか。


5月16日

 なぜか誰かが君を待っている。中には君の出現を待ち望む人もいるらしいが、君は自らの出現を否定したいのか。何を蒸し返そうとしても、そこには何もありはしない。機会がないということだ。なぜそんなことをやっているのだろう。それはただの思い過ごしかも知れないが、機会を得られぬままに無内容を産出し続けている。巡り会うのはいつもの空虚でしかない。本当にそれは空虚なのか。そういうわけではないような気がするが、相変わらず意味の定かでないことを述べようとしている。またそうではないと思いたいのか。疲れているのでもはや軌道修正は期待できない。なぜ何もやらないうちから精神的に疲れてしまうのか。感覚がずれているほかに何をずらせば正常な神経を獲得できるのか。できるはずのないことをやろうとしているわけではないが、何もできないわけでもないはずだ。否定が連続しているそうだが、それは文法的な誤りなのだろうか。君は模倣から逸脱している。あらゆる語りから独立しようとしている。はたしてそんなことができるだろうか。だがそれでマンネリを回避できるはずがない。何を回避しようとも思わない。否定の否定は肯定になるだろうか。では何を肯定すればいいのだろう。何も肯定できないわけではないが、それも否定の連続になるらしい。そう述べてはいけないようだ。何を述べてはいけないのか。つまらない引き延ばしはやめた方がいいだろう。やめられないから今がある。意識が言葉の断片に埋もれている。そこから脱出する術を知らないらしい。どこから抜け出そうともがいているのか。そんな嘘は白々しいか。今さら逃げようとしてももう遅いか。いったい何が遅すぎるのだろう。言葉は何も捉えない。心は何を捉えようとしているのでもない。それが意識であるはずがない。この世界は君に何もできはしない。君という存在を捉え切れていない。君はこの世界の所有物ではないのか。神に何ができるというのか。神がこの世界に君臨していたのは遙か昔のことだ。神をまともに信じている人は少ない。ただ己の利益に結びつけるために祈っている。何を祈っているかといえば自らを利することばかりだ。それでは神も浮かばれないだろうか。浮かばれようとは思わないか。君は虚無の深淵の中でどこまでも沈み続ける。それは底を知らぬ深みになっているらしい。いくらもがいても無駄な労力にしかならないだろう。そこから遠ざかることは叶わない。無理を承知でそんなことを述べているのだから、それは仕方のないことかも知れず、それ以外には何も述べられないようだ。何か他に興味を引く題材はないのか。それがあればそれを記そうとするのではないか。それとも何を記しているのでもないと嘘をつけば気が済むことか。理由など何もなく、理由がなければ何もできないわけではない。しかし言葉を記す理由がどこにあるのだろう。だが何も述べられないわけではない。それを何とかしたいようだ。何もない状況を改善したいらしい。誰がそうしたいのかはっきりしないが、とにかく何らかの内容を導き出したいようだ。無理を承知でどこかの誰かがそう思っていることにしておきたいのか。それこそ無理の最たるものではないのか。ではそれらの無理を解消するにはどうしたらいいのだろう。それがどうしようもない状況だとは思わないことだ。何もないのは楽しいことだ。そして楽しいことは苦しいことだ。苦しさが楽しさを浸食している。楽しいと思いながら、そう思うことが次第に苦しくなる。そして楽しいと思うことが無理になる。それでは楽しくないだろう。楽しくないから苦しくなる。そういうごまかしは通用しないか。その苦しみをごまかしようがない。ごまかしようがないからさらに苦しくなる。そんな煩悶を切り抜ければ、いつかもっとマシなことを述べられるようになるだろうか。そんな嘘は聞いたことがないか。それの何が嘘なのだろう。何が苦しみを構成しているのか。言葉などいくらでも連ねられるはずだ。その気になればそうなのかも知れない。君は何を変えようとしているのか。そして何をあきらめているのだろう。言葉で自らを装飾しているつもりなのか。栄光も何もないのに、飾り立てても仕方がないだろう。君は詩人ではない。詩歌によって何を伝えたいのか。何を讃えなければならないのか。自然が美しいとは思わないし、着飾った人が美しいわけではない。心は自らの貧しさを表現することしかできない。


5月15日

 文章がおかしい。それはいつものことかも知れないが、どういうわけかそこで歩みが止まっている。それ以上の継続は無理なのだろうか。たぶんそれは違うのだろう。何が違うのか。それとは何だろう。違うと判断できる対象を見いだせないが、たぶん何かが違っているはずだ。歩みを止めるには何か理由がありそうだが、別にはっきりした理由がなくてもかまわない。要するにどうでもいいことか。何をあやふやなことを述べているのか。それにしてもわけがわからない。いつもように何がわからないのかわからないが、わからないでは埒があかないだろう。意味不明を避けたければ、少しはわかったようなことを述べてみたらどうか。何について述べたらいいのか、自分では何も決められないようだ。決めようとしていないのかも知れない。そしてすでに語っているそれは無内容に終始している。これからもいつまでもそんなことを述べ続けるのか。そこで言葉が終わっている。言葉が終わり文章も途切れる。だから楽しくなってくる。なぜか楽しいと感じている。嘘でもかまわないから楽しくなりたい。ただ意味もなくそう思いたいだけのようだ。そこが君の限界に違いない。だが限界はとっくの昔に通り過ぎている。単に通り過ぎただけで、それで限界を克服したわけではない。越えられないから避けて通る。限界から目を背けているだけか。しかしそれの何が限界なのか。それについて何をどう感じているのか。なぜそれが違っていると思うのか。別に難しいことを述べようとしているわけではない。ただ何かがずれているような感覚を抱いている。それだけではないと思いたいのだが、それだけなのかも知れない。そんな曖昧さに嫌気が差している。心の内側に湿気がこもっているようだ。どこかに風穴でもあけなければ耐えられないか。そういう話でもないような気もする。なぜそう述べてしまうのか。間違っているのは確かなことのようだ。やはり間違っていると思う。何が間違っているのか。文章を長引かせることが間違っているのだろう。何となく馬鹿げていると思う。他には何もありはしない。ただそれだけなのだ。それだけのことに煩わしさを感じている。大したことではないだろう。大したことでないから何も感じなくなってしまう。何も感じないから何もできなくなる。そんな理由では理由になっていないだろう。では他にどうすればいいのだろう。ただ闇雲に金を使えばいいのか。なぜ唐突に金の話になってしまうのかわかりかねるが、金を使って何かを買えば気が済むことだろうか。しかしそこには抑揚がない。抑揚とは何なのか。強弱を知らぬようで、気持ちにメリハリがなく、いつも平板な印象を受ける。出来事から見放されていて、驚きを知らぬようだ。しかし驚きとは何だろう。何かが上がったり下がったりすることらしい。そんな言葉を用いて何にかけているのか。どうなることを期待しているのだろう。誰にも出会わずに死を迎えることができるだろうか。そんな妄想をいつ抱いたのか。誰かに出会っているのに、それを無視して先を突き進んでいるようだ。他人の存在を気にしていない。唯我独尊とはそうではないが、そんな言葉を尊重する気にはなれない。誰かがそこから遠ざかろうとする気配を感じ取れない。偶然に頼りながら、そこから離れたいようだが、未だに虚無の深淵をのぞき込んでいる。それの何が興味深く感じられるのか。まだそこまで達していないはずだ。効率的になってはいけないようで、絶えず無駄な努力を続けていなければならない。無駄が人を人として成り立たせている。その一方で無駄なことをやり続けているから、効率的な動作にあこがれてしまうのだろう。しかしあこがれているからといって、それを本気で目指してしまったらおかしくなるだろう。効率ばかりを突き詰めたければロボットにでもなればいい。そうなれば人に心などいらなくなる。いらないものを持っているからこそ、人が人でいられるのかも知れない。しかしそれはどのような自己正当化なのだろう。それによって心の存在を正当化しているつもりなのか。そんなことはわかりたくもないし、知るつもりもない。ただそうやって感情を制御しようとしているだけか。それは誰の感情なのか。本当に君はそれを知ろうとしているのだろうか。知り得ないことを知ろうとは思わない。知り得ないわけでもないだろう。知ろうとしないから知り得ないように感じられるにすぎない。


5月14日

 それは偏見に違いない。頭蓋骨の内側で脳が右側に寄っている。何がそれの方便として機能するだろうか。それをどう生かせばまともな認識に至るのか。正気でないのは毎度のことか。そこに何があると思っているのか。不自然な感触を捨て切れていない。それらの文章はすべて奇をてらっていると思いたい。しかし結論とは何だろう。何が結論として作用しているのか。君はそれらの歴史から何を学んだつもりなのか。栄枯盛衰は時の運か。そんな当たり前の言葉ではつまらない。さらに言葉が分散している。もう何を述べているのかさっぱりわからなくなる。なぜそうなってしまうのか。何がどうなっているわけでもなく、また翌朝に目が覚めているだけのようだ。少しは文章を読んでいるのだろうか。何かの文章が繰り返し記されているようだ。それで誰かに圧力を加えているつもりなのか。過ぎ去った出来事は忘れ去られるだけか。どんな文章にしろ、それを以前と同じ言葉で構成してもつまらないだけだ。しかしそれをいくら批判しても仕方がない。そんな批判は無視されるだけで、また性懲りもなく同じ文章が出現してしまうのだろう。おそらくそこで対話が成立することはない。驚きのない日常生活から感受性が削ぎ落とされている。言葉がそれに呼応しないようだ。それでも何が調べられ、そこから何かが想像されているようだが、実際に何が見えているわけでもない。結局君には何もわからないだろう。ただ遠回りしているだけだ。直接そこへ出向くわけにはいかないのだろうか。君には何が見えているのか。何を見ようとしているのか。そこで何が矛盾しているのだろう。ただくだらないことを述べているだけだ。そしていつの間にか文章の全体を把握できなくなる。もう何を述べているのかわからなくなる。弱音を吐いてどうするのか。たぶんそれは何かの冗談なのだろう。今度は意味もなく強がってどうするのだろうか。そんなことはどうでもいいことなのかも知れない。ただ何となくよくわからなくなっているのは毎度のことで、それについてどう述べていいかわからない。そこから何を導き出せるのか。久しぶりに空虚という言葉と遭遇しているのかも知れない。空虚そのものではなく、ただそんな言葉を思いついている。本当にそれが空虚かどうかはどうでもいいことか。君はそこから逃げているのだろう。逃げているのに遠ざかれない。空虚と同居しながらもそれを否認している。必死になってそこから目を背けている。見えているものを認められないのか。目に映った何かの残像を振り払い、まっさらな気持ちでゼロからやり直したいのか。しかしそれで何をやり直せるのか。現状としてはただ意味もなく言葉を弄して、何を述べているのでもない文章を構成することしかできていない。それは嘘偽りのない現状認識なのだろうか。嘘に決まっているだろう。そんな決めつけを楽しげに言い放っているのはどこの誰なのだろう。いったいそれらのフィクションの中には誰が息づいているのだろう。それはただの冗談にすぎないのか。冗談でなければ何なのか。何がもたらされているわけでもなく、それでも必死になって何かをもたらそうとして、誰かがどこかでもがき苦しんでいる。しかしそれも嘘だと思いたい。そんな嘘では踊れない。嘘で踊って何をどうするつもりなのか。ただ踊らされて一生を終えたいだけか。実際には何に踊らされているのでもないだろう。それは何か虚栄心のようなものなのかも知れず、君はそこから先に進みたいのに、そうさせてもらえないのは、そこで満足してしまうようなおごりがあるのかも知れない。そこまでやってしまったのだからもういいのではないか。その程度の語りで満足していれば、それをいくらでも続けていられるだろう。そんな風に語っていれば、そこからいくらでも時間が経過して、限界を見ないようにして語り続ければ、いつか一生が終わるだろう。そのとき君は楽しい人生だったと思うかも知れない。それらの語りに捧げられた人生というわけだ。冗談ではないだろうか。それはくだらぬ妄想にすぎないか。何とか自己満足に至りたいばかりに、無理矢理文章を構成しているにすぎないことは、わかりすぎるくらいわかっているはずか。だがそんな自己卑下もつまらないと思う。要するにいつまでもそうではないと思いたいだけなのかも知れず、何を語ってもそれは違うという思いに支配されているようだが、はたしてそれでいいのだろうか。


5月13日

 この世界はゴキブリと鼠の巣と化している。そこでどんな認識に至ろうと、それほど狂気に囚われているわけではない。ただ真昼の風は強すぎる。風は窓の外で吹いている。そんなはずはないだろう。そう思いたいだけで、意識は野外に滲み出ているのか。屋外で何を空想しているのか。何を空想しようと、それは以前から生じている意味不明にすぎない。要するに語ろうとする何もかもが予定調和の範囲内なのか。だが翌日に獲得する知識を前日に推測するのはおかしい。まだそこに至っていないのではないか。それを今から説明するつもりなのか。何を説明しようと意に介さず、さらに正常な範囲を逸脱してしまうのだろう。そしてそれは過去に説明したことの繰り返しになってしまう。その時点で説明はすでに限界に達している。いくら言葉を弄してみても、ことごとく考えが足りず言葉が足らない。過去には何もかもが過剰だったはずか。そこにどのような郷愁が巣くっているのか。むやみやたらと過去を懐かしんでも無駄か。数日後の真夜中は遠くからやってきて、そこで闇が閉じようとしている。ついでにあやふやな時間も閉じてほしいか。何も思わないのなら思考も閉ざすべきか。閉じた思考は何を生み出すのか。知っているのはそんなことではない。そこはまだ迷路のただ中だ。では迷路を設けているつもりの意識はどこで生じているのか。きっと世界のどこかに意識を構成している文章が記されているのだろう。それは意識ではなく、その代わりに何かが息づいている。それは合理的な考えの範疇には入らない。すべてが無理のなせる業だ。意味もなく彷徨い続けているだけかも知れない。あてどなく彷徨っているのは黄砂に捲かれた小動物のたぐいか。そのように語る必然性を知らぬのもいつもの癖だろう。どこからともなくゴキブリがはい出て来て、その時誰かは未知の頭脳に遭遇している。鶏の夜鳴きとともに何に気づいているのだろう。奇妙な環境下に人が住み、妙な気分はいつまで続くのか。たぶんそれは排気ガスを嫌っているのだろう。いつの間にか冗談が途切れて、言葉をなくして文章の構築をやめたくなってくる。これ以上の機会がどこにあるのだろう。そこで君は何を取り逃がしているのか。眠らないのは夜行性だからか。冴えているような半ばやけくそのような、そんな気分を知っている。人にはそれがよく似合う。すべてがでたらめなのだろうか。正気でない人々はがらくたという言葉を好んで使うようだ。何を謙遜しているのだろう。いやがっているのはそこから羽ばたこうとしている蝙蝠か。虫はいつまでも虫であり続け、海中に暮らしているのは砂を吐き出す生物だ。でたらめの始まりには誰が立っているのだろう。それがでたらめでないと断言することの何が傲慢なのか。強引に言葉を自分のペースに引き込んでいる。そこで語りを打破している。取り立てて何をやることもなく、そこから何をやろうとしているのか。文字の厚みを測るつもりはない。文章を遠くから眺め続ける。さっきから何を述べているのだろう。過去はいつまで続くのか。それが過去でないとすると、未来はいつやってくるのだろう。いつまでも現在であり続けることは可能か。意識はさらにそこから遠ざかり、感性はどこまでも縮退している。ミクロの世界に微生物が住んでいる。まだ生きているらしい。すでに過ぎ去ってしまったらしく、時計の針は今を刻んでいる。過ぎ去った時を懐かしく想っているのは正常な意識が戻ってきた証かも知れない。そして述べていることがつまらなくなってくる。たぶん今日はそこまでなのだろう。そこを超えることは正気を見失うことだ。躓くはずのないタイミングで躓くことでしかない。風景に亀裂が走るのを君は見たことがあるのか。それを冗談で済ましてしまう神経を持っているだろうか。必要以上に大げさな表現を嫌っているのかも知れない。その時君は何を思うだろう。何かが大地から遠ざかっているのかも知れない。それは国家とか民族とか、二十世紀が産み落とした負の遺産だろう。政治家たちはどこかで思い違いをしている。未来はどこからやってくるのか。少なくともそれらの言葉を操っているうちは過去の時空にとどまれる。だがそれは君の言葉ではないらしい。やり残したことはすぐに忘れ去られ、何をやろうとしているのかもわからなくなり、早晩自らのやっていることを正当化できなくなるだろう。そんな言葉を誰が知っているのか。


5月12日

 亡霊とは何だろう。なぜ亡霊は死んでいなければいけないのか。君が生きているとすれば、君は亡霊ではない。そんな当たり前のことを今さら述べる必然性はないだろう。ならばこの際嘘をついて、君はすでに死んでしまったことにして、成仏できぬその魂が、夜な夜な辺りをうろついていることにしておけばおもしろいか。しかしそれで何が徘徊していることになるのか。魂とは何だろう。その実体はどこに現れるのか。徘徊する空間がどこにあるのだろう。言葉や文章で空間を作り出せるわけがない。では何を述べているのだろうか。誰が何を述べているつもりなのか。君はそこから遠ざかれない。言葉につなぎ止められ、文章に支配されている。その状況で何をどう語ればいいのか。すでに語り始めているそれは何なのか。それについてどう述べればいいのだろう。たぶんそんなことを述べる必要はなく、それについて何を語る必然性もないのかも知れない。では他に何を述べればいいのか。そんな成り行きでいつも袋小路に追いつめられてしまう。それは誰の策略に引っかかっていることになるのか。言葉の海で溺死している。そこで死んでも死にきれず、今日も亡霊となって辺りをうろついているらしい。それは誰の魂でもなく、言葉の抜け殻であり、語り損ねた物語なのかも知れない。そして精神的には常に危ない橋を渡り続けているつもりなのか。まさか気が狂う一歩手前だとでも認識しているわけか。それも予定調和のわざとらしさに囚われた思い過ごしに違いない。そう述べること自体が意味不明なのではないか。何がそれもなのか。ただ何となくそう述べてみたいだけなのだろうか。君はそう述べながら何を戯れているのか。それは何でもない状況でしかない。まるで死の一歩手前のごとく深刻ぶりながらも、一方では性懲りもなく間の抜けたことを述べ続けている。君は馬鹿なのかも知れない。だが今さらそんなことに気づいても後の祭りか。すでに馬鹿げたことを平然と繰り返している現状があり、その馬鹿げた文章から遠ざかるきっかけを見失い、さらにそれを深化させようとして努力を怠らない。要するにもう手遅れということか。閉塞感で窒息しそうになっているのかも知れない。それでも続けようとしている。それが無駄な努力だということはわかっているつもりのようだ。わかっているのにやめられないのはどういうわけなのか。たぶん亡霊に取り憑かれているのかも知れない。冗談でそう思っている。今はそんな風にしか述べられない。たぶん未来の時空においてもそうなのだろう。何かに取り憑かれているとしか述べようがない状況に追い込まれているようだ。それでもそんな風に述べていれば少しは気晴らしになるだろうか。何かそれに対して反論でも用意しなければならないのだろうか。常にそうではないと思いたいのではなかったか。そんなことはもう忘れてしまったようだ。何かが立て続けに起こり、それらにかかりきりになっているうちに、心とやる気をどこかに置き忘れてきてしまったようだ。しかしそんないいわけは嘘に決まっている。まだその水準で停滞しているらしい。いい加減にそれとは違うことを述べてみたらどうか。述べられたらこれほどの苦労はしないだろう。簡単にはいかないからそこから遠ざかれずにいるわけか。外では翌日の雨が降っている。雨に打たれて風邪でも引いたのだろうか。だからといって君がすぐに死ぬはずもなく、何でもかんでも君の死に結びつけようという魂胆は病的に感じられる。そんなことを述べていること自体がおかしい。ではそこからどのような兆候を読み取れるだろうか。ただ誰について述べているのでもない文章を構成したいだけか。もういい加減に他のことを述べたい気も一方ではあるのかも知れないが、今はとりあえず述べ続けていることをさらに深化させなければ気が済まず、それの何が深化なのかさっぱりわからないかも知れないが、そう述べておけばそんな気がする程度で納得しておくべきだろうか。しかしそれでおもしろいか。だがおもしろくなければどうするというか。何となくそれでかまわないような気もしてきて、さらに無駄に言葉を弄して、その続きを語り続けるとしよう。たとえそれが嘘であってもかまわない。冗談にさえならないのかも知れない。どこまでもそんなことを述べ続けている。それはまるで何にたとえたら気の利いた文章になるだろうか。述べる気もないことを述べないでほしいか。


5月11日

 なぜ自己主張しなければならないのか。自らがやっていることを正当化しなければならないか。そんな表現があり得るだろうか。何となくそこから降りたくなってくる。実際に何かが錯綜していて、それが原因で言葉の分散に拍車がかかり、離ればなれになってしまった言葉と言葉を、どうつなげたらいいのかわからなくなっている。それでも何となく周囲の状況がわかりかけているのかも知れない。かなり迷っているようだが、まだ心に余裕が感じられる。確かにそれらの言葉には魅力を感じないが、その場はそれ相応の雰囲気を漂わせている。君はそこで何を確保しているのだろうか。ひょっとして忌み嫌われているのかも知れない。誰かの亡霊がそうつぶやいている。そんなのは嘘に決まっているだろうが、なぜそう述べてしまうのかわからない。さらにさっきとは違うことを述べている。そうではないと思いたい。風に吹かれてどこへ飛ばされていくのだろう。何が宙を舞っているのか。見ている風景を空気が通り過ぎ、そのついでによくわからない言葉をつれてくる。君はその意味を知ろうとしている。それが存在するわけを知りたいわけではない。君にはすべてが関係のないことだ。亡霊の役割を知ろうともしない。君こそが亡霊そのものなのではないか。すでに死んでいる。だがそれは以前にも述べたことだろう。言葉は何を表現しているのか。言葉はただそこに記されているだけだ。そこから意味を読み取ろうとは思わない。関心を抱くこともないだろう。意識はすでにそこから離れている。さらに印象が薄くなる。しかし重要なのはそんなことではない。続けることが重要なのか。雲に覆われた空は低く空気が重い。蒸し暑さを感じた翌日は肌寒い。それが何を示しているとも思わない。何となく意味のつながらない文章が構成され続けているということか。もう終わりだろうか。それとも滅びの予感を感じなくなってしまったのだろうか。意識はどちらともとれるような気分でいるらしい。本当にそうなのだろうか。誰に同意を求めているのか。どんな主張に同意したいのか。君はすでに死んでいる。なぜそこで死んでいるのだろう。何かまだやり残したことでもあったのか。そうではなく、死ななければいけない理由がどこにあるのか。どこにあるのかを知りたいわけか。たぶんききたいのはそんなことではない。誰に何を尋ねたいのでもない。ただそうではないと思いたい。気に入らないことはいくらでもある。馬鹿げた意見に同情していてはいけない。そこでやりたいことなど何もない。しかしそれはどうでもいいことだ。やりたくなくてもやらなければならないことなどいくらでもある。そんなことばかりやっていると早死にしてしてしまう。そんな予感がしてくる。どこからともなく死の足音が聞こえてくるが、それがありきたりのフィクションであることも承知している。そしてすぐにそうではないと思いたくなり、自分はまだ当分生き続けると堅く信じ込んでいる風を装う。本当にそうなのだろうか。それで何を述べていることになるのか。何か危険でも感じ取っているのだろうか。だんだん寒気がしてくる。病は気から生じるらしい。何とかそれを打ち破らなければならない。迷信こそ信じてしまいたい。亡霊は頑なに自らの死を否定しにかかる。誰かが君の容態を気にかけている。あくびとともにそれを忘れ去れるだろうか。なぜ忘れる必要があるのだろう。早く自らの死を忘れたいか。そんなことを思っているのは誰なのか。それらの文章から誰の死が導き出されるのだろうか。それが導き出されるとして、文章が示しているフィクションとしての死を信じることができるだろうか。それを信じているのは誰なのか。またそれを知ろうともしなかったのは誰なのだろう。結局何を述べているのでもないらしい。ただそこから遠ざかりたいだけなのかも知れない。自らが溶け込んでいる風景が許せないのだろうか。そういう抽象的な物言いではなく、できるならもう少し具体的に述べられないものか。君はいつまでもそういう無駄な言葉で全身を覆い続けるつもりなのか。何かを述べることによってどのような事実を隠しているのだろう。本当にそこには何もないのだろうか。さらに適当なことを述べようとしている。それはいい加減な内容なのではなく、事実そのものに迫ろうと努力しているらしいが、目指している内容からはまったく無視されているような文章に違いない。


5月10日

 誰がそんなことを思うだろう。少なくとも君は何も思わない。何も思わずに数日が経過している。そしていつものように何を思っているわけではないと述べている。どこで誰が述べているのか。風景の美しさに心を奪われている場合ではない。最近は思考力が著しく低下している。軽度のアルツハイマーのたぐいか。つまらない冗談はその辺にして、それから君はどこへ向かったのだろうか。地平線の向こう側にはどのような大地が広がっているのだろう。単に同じような大地と海が広がっているだけか。なぜか虚しいことのいいわけに終始しているようだ。説明するとはいいわけを述べることなのか。過去に述べたことがすべてリセットされている。本当にそうなってしまうことを恐れているのだろうか。できれば完全な空白を表現してみたい。できもしないことについて何を述べればいいのだろうか。そこでも説明が必要だろう。君はどこまでも完璧な文章表現を目指しているのだろうか。それが嘘ではないと思いたいが、まんざら冗談でもなさそうだ。しかし表現する対象がなければどうするのか。さらにいい加減なことを述べてしまいそうだが、それにしても同じような事件がいつまでも起こり続けるのはどういうわけなのか。同じような環境下では同じような思考形態から同じような行動が生じてしまうわけか。そして似たような境遇の人物が似たような事件を起こし続ける。それについて君はどんな実感を持っているのだろうか。つまらない世の中であることに変わりはないが、それでかまわないのかも知れない。君は世の中のおもしろさを解せないのだろう。具体的に何がおもしろいのだろうか。俄には何も思いつかない。だからそれほどおもしろがらそうとしなくてもいいのかも知れない。それはどういう理由なのか。つまらないことならいくらでも述べられるか。そういうことを述べたいわけでもないはずか。何を述べたいわけでもない。述べたくないことを述べているのかも知れない。どこかにあるはずのない文章が埋もれているかも知れず、それを探し求めている。そんな嘘ではつまらない部類に入ってしまうか。何を述べているのだろうか。たぶんそんな心配は無用だろう。そうでなくともすべてがつまらない。何に対してもまったく関心が持てない。そう思いこんでいるなら、そこから抜け出ることはできない。叶わぬ願いをいつまでも抱き続けているうちに一生を終えてしまうだろうか。そうなったらおもしろいか。おもしろかったら一生を棒に振った甲斐があるというものか。やるはずのないことをやろうとしているわけでもなく、たとえそれが間違っていようと、間違い続けていてもどうということはなく、何に対して言葉を投げかけるわけでもなく、道ばたに生えている雑草のように、誰かに無視され続けている現状を呪うわけもなく、その誰かが誰なのかもわからず、その正体を探ろうとしているわけもなく、誰でもない誰かについて何を述べようとしているわけでもなく、ただ気分次第で適当に言葉を組み合わせて文章を構成しようとしているらしい。それが何になるのか。何にもならなければ楽しいか。楽な気持ちでいられるかも知れない。たぶんそこから抜け出ようとは思わないのだろう。だから何かを爆発させて、どこか遠くへ飛んでいかなければならなくなる。それについて何を述べているわけでもなく、結局何を述べているのかわからなくなり、それでかまわないとさえ思っている現状に嫌気が差して、どこか遠くへ消え去ってしまいたくなるだろうか。それで少しは楽しい気分になるだろうか。いつの間にか楽しくなりたいと思うようになっているようだ。誰がそう思っているのだろうか。そう述べて何を確認しているのか。文章の主語を構成する人格に何の意味があるわけでもなく、そこから思いもしない意味が導き出されてしまうことに嫌悪感すら抱くか。冗談ではないだろう。冗談でないのに冗談だと見なされている。そんなつまらぬ思いに流されて、何が流されているのか気づかないまま、そのままどこか遠くへ流されていってしまいたくなるか。それも気まぐれに繰り出された嘘の言葉か。何でもないことについて延々と言葉を連ねてしまうことに何を思えばいいのだろう。何かを思い出してほしいか。昔はそうでなかったことに気づいてほしいか。しかし今さら遅いだろう。すでにそれをやり遂げてしまったようだ。いったんやり遂げてしまえばしめたものか。


5月9日

 まだ使っていない言葉がある。そんなものはいくらでもあるだろう。それを探し出せるだろうか。探し出そうとしていないようだ。夕闇が迫っていたのは数時間前のことだ。さらにそれから時間が経ち、夜が明け明日になり、いつもの日常のただ中にいることに気づく。どこかで記憶が飛んでいるようだ。何に驚いているのか。そんな決まり文句には驚かない。何が決まり文句なのだろう。何も恐れることはない。そんな文章表現を英語で示せるだろうか、示すことができたとしてもそこから抜け出られたことにはならない。そこから遠ざかるために言葉を弄しているのではないか。今はそうではないと思いたいが、それ以外の動機が見あたらない。しかしそれでは中身がないだろう。中身とは何だろう。冗談で何かを述べているようだ。何か語りたいことがなければ文章にはならないのではないか。相変わらず語る対象を見いだせないのはどういうわけなのか。この世界には何もない。この世界になければどの世界にもありはしない。君には感心がないことばかりのようだ。それでも何か語りたければ、関心がないことを列挙してみればいい。何に関心を持てないのだろうか。政治的な無関心は今に始まったことではない。何が政治的だというのか。つまらないことには驚かない。それはわかりやすい文章表現に違いない。ただ何もわかろうとしていないだけだ。まだそんなことを述べているのは見苦しいだろうか。何を述べてもいいわけにしかならないようだ。本来なら何を述べているべきなのか。他者の言葉を模索していたのではなかったか。唐突に何を思いついているのだろう。何も思いつかないよりはマシか。何を述べても依然として君は他者でしかなく、私という言葉を伴った意識はどこにも見あたらない。それは心ではなく言葉という幻影が文字で示されているだけだ。何がそれの幻影だと見なされるのか。それとは何だろう。語ろうとする内容が間違っているような気がする。君は自らが述べている内容を信じられない。常に心が動揺しているようだ。揺れ動いているのは心だけではなく、身体も揺れている。行く当てがなく、よろめきながらも歩き続け、さらなる迷路に迷い込む。そこは藪の中だろうか。誰かが円盤鎌で篠を刈っているらしいが、心の中に葛藤は何もなく、何と格闘しているわけでもなく、またいつもの意味不明が語られているようだ。言葉と意識の偶然の巡り合わせが最後の頼みの綱か。それでもまともな内容を生み出すにはほど遠いか。何がまともだというのか。明確な基準など何もなく、ただその時の気まぐれで何かを思っているだけか。勘だけが頼りでは進歩がないが、別に学術的な理論を追求しているわけでもなく、そのように述べていくと、やはり何を目指しているのでもないことになってしまいそうだ。焦点がまったく定まっていないようで、何の意図も導き出せず、何をよりどころにして述べているわけでもないように思われる。しかしそれは君に特有な性質でもないような気もしている。何を述べているわけでもないのはどこでも同じようなものか。ただ世の中には流行の言葉や言説が流通していて、それを用いて文章を構成すれば、何か気の利いたことを述べているような印象を纏うようになる。だがそこに根拠のような明確な理由を見いだそうとすれば、とたんにすべてが曖昧となってしまう。そこに何らかの意味があるとは到底思えない。人は何に基づいて行動しているのでも語っているのでもない。他者との相互作用によって何らかの行動が生まれ、何らかの語りが生じてくるわけか。そんな単純な仕組みで行動や語りが生み出されるわけもないか。説明しようとすればするほどそうではないような気がしてくる。自らが発したつもりの言葉に裏切られているような気になってしまうわけだ。そんなことを述べたかったわけでもないように思われてきて、何かが違っているような不安感に苛まれ、絶えず居心地の悪さを覚える。だが何が正しいわけもなく、正しいことを定義できず、正しいことを述べられないのだから、述べていることが違っていて当然なのではないか。それを肯定していてはまずいだろう。わかりやすくなってしまえば、ウケはよくなるだろうが、何となくそれではおかしい。ただおかしなことを肯定しているだけなのではないか。それを真に受けてしまう人々が世の中の多数派を構成しているのは間違いないかも知れないが、それに乗ってしまってはいけないような気がする。


5月8日

 言葉が沈黙の持続を妨げる。光は闇の到来を妨げるだろうか。なぜか否定的な気分が持続しているようだ。何を探しているわけでもない。何か語りたいことがあるわけでもない。君はその時が到来するのを待ち望んでいた。本当に何も思わない。一瞬の間では確かにそうだろう。何を批判するにしても、批判して何が変わるとも思えない。何が変わってほしいと思っているのか。誰かは批判し続ける姿勢を維持しようとしている。たとえそれが紋切り型であろうと、ごり押し気味にひたすらそれを繰り返す。年がら年中そんなことをやっていれば、楽しい人生が送れるかも知れない。それもひとつの生き方には違いない。時代に埋もれ、社会に埋もれ、一過性の流行に引きずられ、そんな語り方ではだめだと思うか。そうではないと思いたいのだろう。何もしないのは効率的かも知れない。何もできないから何もしないのだろうか。それが自らに課せられた定めだと思っている。宿命とはそういうものだろうか。いい加減な嘘にも飽き飽きしている。雨音を聞きながら、それとは違う音を聞きたいようだ。無理なことはわかっているが、それを空想することぐらいはできそうだ。そこから離れたいのは誰の願望なのだろうか。できることなら何もしたくない。できもしないことを夢想している。何事とも関係のない人間でいたい。それも嘘のたぐいなのだろうか。嘘でないとするとどうなのか。どうでもいいことでしかない。それらの言葉は現状を裏切っている。君は退屈をもてあましているのかも知れない。もう何もしなくてもいいのかも知れない。たぶんそれは真実なのだろう。そんな思い込みを信じてかまわないのか。真実はどこにもありはしない。相変わらず続いている雨音にいらだっているのだろうか。風景のどこに自意識が隠れているわけでもなく、頭の中に何が宿っているわけでもない。何をひらめきたいのか。何か適当な過去を思い出したか。それは君の過去ではないだろう。そんな人物を知っているわけがない。記憶にないことを思い出すことはできないが。文中に作り話を構成することはできるだろう。だがそのすべては君には関係のないことだ。要するにそう思いこんで責任逃れがしたいわけか。誰の責任で文章が構成されているわけではない。ただひたすら労働に励んでいる。それが君の自由なのか。意味がわからない。もはや取り繕うことは不可能だ。何を困っているのか。そうではないような気がする。何をどう思ってみても仕方がないのかも知れない。ただ生きているだけではだめなのだろうか。つまらない結論を導き出すつもりはない。現状ではただ生きているだけだ。ただ意味不明なことを述べている。だがそこに意味を見いだすことは容易だ。すでに意味について述べている。それをわかろうとしていない。君はそれをわかりたいのか。知りたいことは他に山ほどある。だが具体的に何が知りたいのかわからない。君は何を知ろうとしているのか。何も知りたくない。知りたくないが知ってしまうだろう。この世界には何もないことを知ってしまう。ただ情報が行き交っている。幻想が伝播している。物質が変化している。それだけでは言葉にならないだろう。具体的な現象に興味を持たなければ何も語れない。それは間違った認識だろうか。間違っていることを認められないか。さらに意識から遠ざかる。それは自意識ではない。もはや末期的な様相を呈している。どのような兆候を意識しているのだろう。頭が重くなり、起きあがれなくなり、それが夢の中だということを忘れさせる。なぜ蒸し暑いのに寒いのか。それも夢の中の感覚に違いない。別々の場所と時間で体験した感覚を混同している。だがそれほど深刻な状況だとは思わない。何も見えていないのにそれを知りたくなる。時間的には余裕があり、それを知るにはまだかなりの時間をかけなければならないだろう。さらに言葉を無駄に弄さなければならない。それを適当に組み合わせて文章を構成しなければならない。勘違いであることは承知している。勘違いでなければ何を知ることができるだろうか。少なくとも意味のあることを提示したい。この世界では誰もが愚かなことを繰り返していて、愚かだとわかっていながら、それがやめられないことを正当化しなければならない。そうしなければ生きてはゆけないのだろうか。生きて行く過程においてこだわりが生じてしまい、それをいつまでも捨てきれないのかも知れない。


5月7日

 誰かは反応を期待しているようだ。何らかの反論の出現を待ち望んでいるのだろうか。だが誰かの反論が救世主のはずもない。ただの意味不明に違いない。言葉はさらに入り組んでいく。それは単なる予測にすぎない。君は遠からず破滅するだろう。君とは誰なのか。君は誰にとっての誰なのだろうか。誰でもないのにそんなことを述べるべきではない。誰もそんなことは述べていない。そんなこととはどんなことなのか。まだ睡眠が足りない。もうそこで行き詰まってしまうわけか。現状をどうすることもできはしない。言葉はどこまでも言葉以外の何ものでもあり得ない。危険な香りとはどんな匂いなのか。線路に置き石でもすれば気が晴れるだろうか。現実にはそれもフィクションの一部なのだろう。意味がわからない。意味をわかろうとしているのでもない。何を試みているのか判然としない。たぶん文章を構成しようとしているのだろう。雨が降り続いているらしい。微細な範囲で何かを述べようとしている。それだけでは気に入らないか。空調がおかしい。そこは部屋の中ではない。地面が傾いて見える。坂道の途中で何を眺めているのだろう。まだ何を語り始めているのでもないらしい。わざとそうしているのか。融通が利かないのは誰のことでもない。混乱しているのもいつものことだろう。それ以外に何を思えばいいのか。君はどこから遠ざかろうとしているのか。知ったかぶりなことを述べるのは禁物だ。誰かの本性がそこから明らかになるだろうか。つまらない意見と同じように、誰もが知っていることをわざと述べてみる。自己主張にも愚かさがつきものだろうか。愚かになれることは幸いである。利口ぶってみせることは愚かになっている証拠だろうか。その時点でどうにかなっているのかも知れない。頭の中では普通に振る舞っているつもりのようだ。しかしそれでも誰のことを述べているわけではない。すべては断片でしかないのだろうか。言葉は何かの断片でしかない。それ以外にどんな意味が宿っているのか。それぞれに違う意味があるのではないか。その意味をどう組み合わせて何を述べようとしているのか。たぶん現状では何も述べられないだろう。誰のことを述べているのでもない。観光だけでは世界を語れない。君の愛想笑いは何を示しているのでもない。指し示すべき対象を知らない君は、現実から疎外されている。それで何を述べているのでもないからか。雨はまだ降り続いているだろうか。半分枯れかけた雑草も雨水を浴びているはずか。言葉は何を示しているのだろうか。画面に映っている映像美に見とれている場合ではない。人々は画面の前に座って何に見とれているのか。人それぞれで違う映像に見とれているわけか。それらすべてが同じ事物だとしたらどうだろう。それらすべては映し出された事物にすぎない。誰が見ても都合のいい事物が映し出されている。見えてしまってはまずいものは映し出されない。人々が見たくないものとは何だろう。そこには何もない。画面は何も映し出さない。電源が切れているのか。スイッチが入っていない画面を見つめ続ける。そうやって君は何に逆らっているのだろう。そこからどんな物語が生まれようとしているのか。君が背を向けている当のものを言葉によって示すことができるだろうか。その気もないのにそう語ることによって何がもたらされているのだろう。映像の映らない画面は何をもたらしているのだろう。それが虚無だとは思わないか。虚無とは安易な言葉だ。何でもかんでも虚無と述べれば、それで片が付くと思っている。そんなものに気をとられていると言葉が前に進まない。そんな画面を遠くから見つめている。さっきまでは背を向けていたはずだ。何に惑わされているのか。何に従おうとも思わないが、何かに従わされているのかも知れない。時にはそこから糧を得ている。それで神は満足するのだろうか。いったいそれで何に対して負けを認めることになるのか。たぶんそれでも何を語っているのでもないことになるのだろう。君はそこでつまらない夢を見ている。すべては幻想だと思いたくなる。それでも満足からはほど遠いが、その辺で妥協しなければ、倒錯にきりがなくなり、自らがどこで何をやっているのかわからなくなるだろう。それはどうでもいいことでしかなく、そのどうでもいいような成り行きを求めていたのかも知れないが、実際にそれを体験してみると、何だか拍子抜けの感をぬぐえない。


5月6日

 事件が起こった場所を特定できない。思考が崩れ去っている。日本刀には刃こぼれがつきものだろうか。その刀で誰を斬ったのか。誰が他の誰を斬ろうと、君には関係のないことだ。身体は現世に囚われているが、言葉はそこからいくらでも離れられる。だが精神の集中はそれほど長続きしないだろう。面倒くさい語りはごめんだが、今さらそんなことを述べても無駄だ。結局興味を引くには至らない。いったい何を説明しているのか。言葉が足りないようだ。そのほとんどが的はずれに思われる。それでは文章に帰結しない。すべての断片が分散し始める。言葉を何に帰結させようとしているわけでもない。心が離れているつもりでも、そこから遠ざかるには至らない。どれほど離れたのだろう。あるいは離れられないのに離れたつもりになっているだけか。逆に近づきすぎているのかも知れない。まるで遠近感が狂っている。狂っているのはそれだけか。ついでに頭も狂いたいのか。そして倒錯した思いにとらわれる。行き詰まりを打開するには、苦し紛れの回想場面でも挿入した方がいいのだろうか。それで何かを説明していることになるのだろうか。説明とは何だろう。説明する以前に説明する対象が欠けている。一向に意味が見えてこないが、それを見いだすために何を活用しているわけでもない。そんなことは誰にもわからないだろう。そんなこととはどんなことなのか。接点が皆無だ。何をわかりたいのだ。それはわからないことだろう。たぶん何もわからないかも知れないが、それでもどこかに何かが存在しているはずだ。たとえば蒼穹とは何か。色のたぐいかも知れない。青空を漢字で表現している。空は相変わらず青い。一億年後も青いはずか。それも君には関係のないことだ。唐突に何を思っているのだろうか。言葉がつながらない。相変わらず言葉は具体的な事象を無視している。その代わりに文章は何を取り込んでいるのだろう。いつもの虚無だけでは物足りないか。もはやそれを虚無とは呼べない。いつもとは違う言葉で表現しなければならなくなる。気まぐれにそんなことを思っているらしい。意味のない話だ。これから何をするにしろ、それでは何もしていないのと同じことだろう。たぶん実際には何もしていない。そこには誰もいないのだから何もできない。ただ粗雑なことを述べている。油断しているとどうにかなってしまうだろうか。文章は何かの寄せ集めには違いない。所々で破綻している。ほころびは拡大解釈され、さらに亀裂が増大しそうな気配だ。わざと意味不明を装っているのはもちろんのこと、その先に待ちかまえている破綻を予感させるものがある。人々は常に崩壊を待ち望んでいる。それは何の崩壊でもかまわないのであって、自らに害が及ばない範囲なら何でもよく、それを目にして興奮したいようだ。数年前の大津波の時はさぞや心が躍ったのではないか。だがそんなありふれた言いぐさはつまらない。それも君には関係のないことでしかないが、他にどんな事件を思い起こさせるのだろうか。わからないままの方が気楽に振る舞える。意識してわかろうとしていない。はしゃぐような状況ではない。誰のことを述べているのか。些細な感情の行き違いから殺されてしまった人々を哀れに思う。それは別々の時空で起こってしまった複数の出来事でしかない。ただ話を複雑にしてみたいだけか。誰かは今から何を語ろうとしているのか。語るにはタイミングが遅すぎるだろうか。君は何を考えているのだ。この世界には何がもたらされているのか。事件はどこで起こっているのだろう。なぜいつまで経っても話が始まらないのか。それは君に関する話ではない。そうやってはぐらかされるだけのようだが、思い出したのはそんなことではない。わざと思い出さないように心がけていた。ただそれを思い出せないだけか。事件はいつも画面の向こう側で起こっている。それらのすべてが君には関係のないことなのか。そしてまったく興味のない話になっている。君は誰と話しているのだろう。そういう話ではなく、どういう話にもならず、言葉は誰に媚びを売っているわけでもない。ではもう意味不明はうんざりだろうか。それらの文章は誰をうんざりさせているのか。だが不完全だからこそ改善の余地が残されている。そしておかしないいわけを述べている場合ではなく、何も述べられないことを無視しているわけでもない。自らの至らなさはどこへ至るための方便なのか。


5月5日

 物事を正確に把握しなければならない。言葉はそれを反映していないようだ。いい加減なことならいくらでも述べることができるかも知れない。だがそれで何を述べているつもりなのか。君にはまだ知り得ないことがありそうだ。誰もがすべてを知っているわけではない。誰もそんなことを知るはずがない。そんなこと自体が明らかになっていない。これからそれを述べるところだろうか。何も語ることがない。君はそれを容認できるだろうか。誰が何を思っているわけでもない。ただ馬鹿げていると思う。架空の意識がそう思っていることにしておこう。君はそれを理解できない。その代わりに何を述べることも可能なのか。そんなはずはない。何も見えてこない。それは何かのなれの果てだろうか。もうごまかしはきかない。何かが揺れ動いている。心が動揺している。無駄な物言いから脱却できないのだろうか。そこから遠ざかるのは困難を極める。遠ざかれないのだからどうしようもない。どうしようもないが、それが楽しいのかも知れない。何やら辺りが騒がしい。つまらないことで誰かと誰かが言い争っている。そんな画面から目を背け、ついでにスイッチを切って、目が覚めたつもりになる。そんなことで気持ちは揺るがない。心のどこかに不動の意志を空想しているのだろう。あり得ない思いを文章上に構成したいらしい。それは見えているはずの世界ではない。何も見えなくても何かが見えていると思いこんでいる。君はそれを語りたいのだろう。そんなのは無理に決まっているかも知れないが、それでも何かを語っているように思いこんでいれば、少しは気晴らしになるかも知れない。だがそれでは相変わらずそこから遠ざかることは不可能だ。具体的な事物はどこで見いだされるのだろう。それを把握することは可能なのか。現時点では何を述べているわけでもないが、遠からずそうではないような成り行きに状況が変化していくかも知れず、それを期待しながら現状の無内容に耐えているわけか。そんな嘘では現状を打破することは叶わない。なぜそう決めつけてしまうのか。のぞき趣味には好奇心が欠かせない。だがそんなことを知りたいわけではない。そのつまらない身の上話にはどんな言葉が似合うだろうか。誰の話をしているわけでもなく、それらはすべて架空の作り話にすぎないのだろうか。君はそれらの話の何を信じればいいのだろう。何がそれらの話を構成しているのか。未知のエピソードがあるわけでもない。そこに繰り広げられる何もかもが、どこかで見聞したような話でしかない。繰り出された言葉はそんな不具合を内包している。だからそれを明らかにできないのか。それとは何なのだろう。何かが嘘で塗り固められていて、それが話を構成しているだけなのだろうか。しかし嘘とは何なのか。何がそこで謎めいているのだろう。わざとつじつまの合わない話をしているだけか。いい加減に背後で鳴り響いている物音に気づいてくれないだろうか。何かが崩れ去ろうとしている。君は五差路のどこから出現しようとしているのか。そういう話ではない。安易に意味不明を装うのは配慮の足りない証拠だ。実際にはまだその続きがある。君は強引にそれを省略して、どうでもいいようなことをいつまでも述べ続けようとしている。さっきまで何を語っていたのか思い出せなくなることを期待しているようだ。たぶんその浅はかさがそこでの命取りとなっている。それ以外に何を思い出せばいいのだろう。そういう話でもないはずか。それでも何かの束縛から解き放たれたような気分に近づいているらしく、いくぶん自信を取り戻しつつある。過去の話はすべて水に流して、今こそ新たに何かを語り始めなければならないか。しかしそれは君に課せられた使命や義務とは異質の水準でなされなければならず、誰かの期待とは無縁の内容を目指さなければならないようだ。それで何が変わるのだろう。すでに変わり始めていることに気づかないだけか。まだそこまで至っていないのかも知れず、ある時何かのきっかけで急にそれを意識する瞬間が訪れるかも知れない。誰かはその時を待ち続けている。たぶん忘れた頃に思い出すだろう。思い出していることすら意識できずに、その瞬間を通り過ぎてから、身の回りに生じている異変に気づく。そして今さら気づいても遅いことにも気づき、また機会を取り逃がしてしまったことを悔しがるだけで、いつ巡ってくるかも知れぬそれをさらに待ち続ける羽目になるわけだ。もはや二度と巡ってこないそれをいつまでも待ち続けるのだろう。


5月4日

 ザムザラとは何なのか。淀んだ心は渇ききっている。何に飢えているのかを知るつもりはない。あえて知ろうとしないところに人の醜さが巣くっている。だがいつまでもそれを無視していることはできない。不用意に生成されたそんな言葉の連なりに、君は不快感をあらわにしてしまう。ただ気に入らない状況がいつまでも続いている。猫が虫の死骸に気づく。がらくたに埋もれ、あり得ない真実を見いだそうとしている。死ぬ気になれば何でもできるわけもなく、常軌を逸してしまえば、本当に死んでしまうだけかも知れない。死ぬ気にはなれない理由はそういうことか。今は曖昧さの中であえいでいるらしい。わからない内容が果てしなく続いてしまう気配だ。この先にどんな言葉をつなげて行けばいいのだろう。カフェインの効果で頭が冴えてきた感じするが、それで何が見いだされるわけでもないらしい。なぜ現状を肯定することができないのか。相変わらず語りようのないことを語ろうとしている。語るきっかけがつかめないのもいつものことだ。なぜこの身に危機が訪れなければならないのか。それの何が危機なのだろう。言葉だけでは何もわからない。言葉以外に何が必要なのだろう。わざとらしい疑問に答える気が起こらない。それは疑問でさえなく、分かり切ったことしか問われていないのではないか。だがそんな切り返しが有効だとは思えないのはなぜだろう。そんなことを語るべきではないのかも知れない。猫が草をかんでいる。見ているうちに頭が変になる。そんな演技は底が浅い。演じているのは狂言の一種だろうか。何が狂っているわけでもなく、何かが狂っていると思いたいだけなのだろう。誰かはそれが嘘ではないと思いたい。人がなすべきことは何もない。ただ何かと戯れて一生を送っていれば、それで満足するかも知れない。難しいたとえ話など一切不要になるだろう。君には疑う余地が残されていない。ある水準を超えてしまうと、それは何でもないことになってしまうらしい。何も感じなくなってしまうわけか。現実に他人の痛みをわかろうとしていない。人はそこから出て行かなければならない。常に退場し続けなければ、あとから何も出てこない。君がそれをわかることはないだろう。わからなくてもかまわないのだから、無理にわかろうとしても、それは勘違いに終わってしまうだろう。今日が今日ではあり得ず、明日になってしまうかも知れない時に、何を占っているのだろうか。それは君の知っていることではない。吉兆以外の何がもたらされるのか。知り得ない思いに満たされている。どこかに油断があったかも知れない。誰に見つめられているのか。映像の中に誰かの視点が釘付けとなっている。相変わらず理由が定かでない。理由にはならないいいわけがあとから付け足される。そんなことは初耳か。聞く耳を持たないのに何が聞こえてくるのか。しらばっくれるのもいい加減にしてほしいか。限りのない言葉の中からおかしな響きを選んで並べているようだ。その恣意的な言葉の配置に困惑を覚える。偶然が排除されているように感じられ、そこから疎外感が生じているのだろうか。死ぬにも生きるにもいい天気になることが望ましい。何を述べているのだろうか。それはいつもの意味不明かも知れないが、だから曇り空になるのを望んでいるのだろうか。まったくこじつけにもならないでたらめだ。だがそのでたらめがおもしろおかしく、楽しい気分を呼び込んでほしいのか。それが何に至るはずもなく、何のきっかけになることもないだろう。愚行が繰り返されているような気がするだけか。それでも君は遠くから画面を眺めながら、でたらめな言葉の並びを美しいと思うようになる。そんなのは嘘だ。なぜ言葉の美を信じられないのだろうか。何をごまかしているのかが明らかになっていない。では答えはどこにあるのだろうか。無理に答えなど探していない。自ずから出てくるのが答えなのではないか。そんな神秘主義を信じたつもりになっているわけではないが、言葉では示せないことを言葉で示そうとしていることは確かかも知れない。そんな不可能に挑戦するのは馬鹿げている。そんなものがあるはずがない。本当に国家は遠からず滅びるのだろうか。誰がそんなことを述べているのか。誰も述べていないようなことを語っているつもりなのだろうか。誰がそれを語っているつもりなのだろう。わからないことをいくらわかろうとしても無駄か。叶わぬ願いには不幸がつきまとう。本当にそれが君の望みなのだろうか。


5月3日

 誰かの気を引くような文章表現はないだろうか。心が腐っている。意味のない文章だ。何か心に迷いでもあるのだろうか。別にそれほど道に迷っているわけではないが、どこかで立ち往生していたのかも知れない。それはいつのことだろうか。何をどう述べればいいのかわからなくなる。それは毎度のことだ。そんな中でも君はまだ自らが生きていると思っている。ただ思考力が衰えている。そんなはずはないだろう。誰が反論しているのか。回り道はくどすぎる。しかし同じ道をいつまでも歩んでいるわけではない。決して軽やかではない足取りも、いつしか堂々巡りを繰り返しつつ、まったく前に進まなくなって久しい。もはや前に進む必要がないのかも知れない。まったく馬鹿げているだろうか。それでも絶望するほど救いようがないわけではないが、もし救いがあるとすればそれは何だろう。君はどう救われたいのか。何を信じているわけではない。ただいつまでも冗談ではないと思い続けている。それは冗談で済むことなのだろうか。誰かは運に見放されているのかも知れない。今は何も述べられないが、言葉は何を演じればいいのだろう。言葉について何を述べればいいのか。矛盾したことを述べないでほしいか。それが無理なら、とりあえず真実はどこかに記されるべきなのだろうが、その真実とは何なのかを、まずは記すべきなのではないか。そして唯一の真実を無限の嘘で囲み、何が真実なのか容易にはわからないようにしなければならない。それは即興で思いついた意味のない行為だ。そう述べる意味がまったくわからない。できるはずのないことをやろうとして、できあがった架空の文章はまるで不協和音のような言葉の並びになる。そのような文章を記してみたい。ただの意味不明だろう。なぜそれを空想するのか。意味もなく奇をてらっているだけだろう。くだらぬ物言いはやめてほしいか。まだ物言いの段階まで達していないのではないか。いったい何を物申しているのか。わざとらしい語り方はやめてほしいか。それは君のなすべきことではないのかも知れない。しかしなすべきを知らないとすれば、何をなせばいいのだろう。とりあえずそういう述べ方はやめてほしいか。それ以外を知らないのだから仕方ないだろう。そんなわけで不必要なことを延々とやり続けている。おまけに寝不足気味で今にも睡魔に引き込まれそうになっている。そんな嘘もやめてほしいか。ではどんなことを語ればいいのだろう。安易な矛盾口調に毒されてる。それは口述筆記ではあり得ない。かなり遠くから言葉が舞い降りてきているようだが、それをどう組み立てれば自然な感じが醸し出せるだろうか。述べている意味がわからない。具体的な内容が欠けている。何について語りたいのだろうか。世界は何を待っているのだろう。君はどんな状況が到来してほしいと思っているのか。率直には何も語れないようだ。それどころか何も語る気がしてこない。この世界で起きている出来事について何をどう述べればいいのだろう。今さらそれはないだろうか。そう思わないなら、その代わりにどう思えばいいのか。たぶんそんなことはわからない。わからないからさらにわかろうとする。そしてさらにわからなくなる。何もわからないと楽しいか。だがなまじわかってしまうと面倒なことになる。それについて説明しなければならなくなる。それは余分な説明かも知れない。説明しなくてもいいことまで説明しているわりには、肝心なことが何一つ説明されていない。そんな文章を読むと楽しくなる。読ませて理解させるという文章本来の目的が放棄されているからだ。そんな堅苦しい目的に沿った文章は味も素っ気もないか。そういう述べ方も違うだろう。わかったようなことを述べるのが面倒くさいのか。何となくそう述べてはいけないような気になってしまう。何もないのに何かを述べているように思われ、それは違うと感じられてしまうらしい。では他にどう述べればいいのだろう。たぶん翌日の空は晴れているのだろう。それは日付の上での昨日も同じだ。だが晴れているからといって、無理に気が狂うわけでもない。それの何が無理なのか。気が狂っているのではなく、語り方がおかしいのではないか。現状についてどのように語ろうと、現状がどうなるわけでもなく、気が晴れるわけでもない。また曇り空が到来するのが待ち遠しいか。理由など何もないが、それで気が晴れるわけでもなく、何がどうなるわけでもない。


5月2日

 雨に濡れて不快な気分になっているわけではない。雨に濡れていたことは確かだが、そう述べる必然性を見いだせない。それはどのような必然性なのだろうか。何の必然性を見いだしたいわけでもない。ただそれを語っている現実の中にいる。それがどうかしたのだろうか。心の病なのかも知れないが、それは危険すぎる言葉か。今はそう述べてはいけないような気がしてくる。戯れに繰り出した言葉にとらわれて、本当にそうなってしまうかも知れない。だが今さらそこへは戻れない。そことはどこなのか。なぜそれを明らかにしたくないのだろうか。そんなことはどうでもよく、そこがどこだかわからないだけかも知れない。わからないからどうでもいいことなのか。何がどうでもいいのだろう。それはどうでもいいようなことではないのかも知れないが、それがわからないのだからどうしようもない。どうやら考え直さなければならないようだ。もう少し中身のあることを語らなければならない。たとえばそこは君には知りようのない場所だ。知りたくないことは知らなくてもかまわないか。ならば君は遠からず滅びるだろう。おかしな言葉が連続している。それも危険な兆候になるだろうか。何が危険きわまりないわけではなく、そう述べて何に反論しているわけでもない。またそれによって何を予言しているわけではなく、無理に予言したいわけでもない。何かを予言しているつもりになれば、さらにおかしくなってしまうだろう。頭がおかしいのはいつものことだ。だが明確なおかしさの基準がどこにあるわけでもなく、それは単なる気のせいかも知れない。そんな成り行きに嫌気が差してきたか。いつものように何を述べているのかわからないが、それでも君は語り続けるだろう。だが何を語りたいのかわからないが、とりあえず語り続ける。だが使える言葉が限られている。それ以外のことを語れなくなっている。君には語りたくないことがあるらしい。それについては語りたくないようだ。それとは何だろう。どうしても語りたくないことについて、どう語ればいいのだろう。たぶん語るのは無理だろう。君には語る必然性がないのであり、それでも語りたければ、必要がないのに意味不明に語るだけになるだろうが、それで楽しいのか。語ることによって楽しさを求めているわけではない。翌朝は寒く、空は雲ひとつなく晴れ渡っている。テレビ画面上では相変わらず何かが語られている。一般人ならそれに興味を示す必要があるのかも知れない。正気でなければそれを無視してもかまわないか。そのような前提はあり得ないだろう。正気でなくても興味を引くようなことが語られていて、テレビを見る者はテレビによって洗脳されているのだから、それに逆らうことはできない。そこから身体を遠ざけるのは容易ではない。仮に身体を遠ざけても心は何かを思っている。安易に情報を取得したいようだ。世間の話題について行きたいか。誰かはそういう安易な欲望にはなびかないだろう。ただ画面に映っている人々が正気だとは思えない。それも見当違いの認識か。ではそこから何を理解したらいいのだろうか。何が正気であって何が正気でないのか、それを見分けることは難しい。それは一目でわかるようなことではなく、一目でわかるようなことは語る必要がない。君が語らなくても他の誰かが語るだろう。だから何も語れなくなっているのか。それは君のいいわけであって、その場のご都合主義に違いない。何のことやら述べていることがさっぱりわからないか。それは嘘のたぐいだろうか。本当は何も語れないわけでもなく、現にこうして意味不明の成り行きについて、詳細に語っているではないか。間違ったことを述べているのかも知れないが、それはいつものことだろう。それでも何かを伝えたいのか。だが何かとは何なのか。何も伝わっていないような気がするが、それでいいのだろうか。ただ無駄に言葉を弄して自己満足を得たいのか。それだけならまだ人畜無害だろう。それらは世の中に害毒をまき散らすような言葉ではないか。何よりも人々の欲望をくすぐるような文章ではない。それを読んでも何も得られないような言葉の並びになっていて、そこには何も語られていないから楽しいと思う。楽しいのではなく、ただ楽なだけなのではないか。楽なことと楽しいことはどう違うのか。楽なら楽しいと感じるだろうか。楽でも楽しくてもどちらでもかまわないような気になってくる。


5月1日

 遠くからパトカーと救急車のサイレンが聞こえてくる。殺人鬼は物語に毒されている。そんなに人を殺めるのは楽しいか。それの何が痛ましいと思われるのだろう。心がフィクションに浸食されているらしい。君は鳥のように空を飛んでみたい。子供じみた嘘はやめてもらいたい。かなりわざとらしく感じられる。今さら何を述べても無駄だろうが、何が今さらなのか。無駄だと思うならやめたらいい。やめられないから何かを述べようとしているのだろう。思い直してまた利いた風な意見でも述べてみようか。それは違うはずだ。君はさらに違うことを述べようとしているだけだ。その違いがわからないか。何が見いだされているわけではないし、何を見いだそうとしているわけでもない。噴飯ものの文章が提示され続ける。それで満足できるはずもなく、ただ何を述べているのかわからなくなる。なぜそうなってしまうのか。そんな疑問はわざとらしい。いったい何に焦点を当てたらいいのだろうか。それが文章の構成に役立つとは限らない。みるみるうちにすべてが見当違いの内容に近づいている。そこで何かに気づかなければならない。どこから逸脱してしまったのか。はたして何に気づかされようとしているのか。この世界が終わりに近づいていることか。数百年前の人々もそう思っていたはずだ。終わりが近いと思われてから、さらに数百年が経過したわけだ。それで何がどうなったのか。どうにもならずに、期待はずれに終わっている。人が考えているほど簡単には終わらないということか。そんなことは分かり切っている。しかしいったい何が終わってほしいのか。世界という言葉は何を意味するのだろう。ただ漠然と日々をやり過ごしている限り、世界を意識することなどあり得ない。通常の意識に世界が入り込む余地はない。思っているのはそんなことではなく、考えているのもそんなことではない。それは意味の定かでないことだ。とりとめのない思いに意味など宿らないし、それはあり得ない意味などではない。意味的に文章がつながらなくなっているだけか。何を述べているつもりなのか。とりたてて何を述べているとも思えないようだ。何となく判然としないことを述べているらしい。どうも利いた風な意見を述べるところまで至らないのかも知れない。それ以前にわけのわからない逡巡のうちに終わってしまうだろう。どこをどうやって経巡っているのかもわからない。結局は元の木阿弥に戻ってしまう。言葉の使用法が間違っているのだろうか。終わらない世界の中で何を終わらせようとしているのか。何も終わらせることができずに、昨日の思いをいつまでも引きずりながら、無理な文章を記そうとしている。無理なことはやらない方がいいが、無理だとわかってやっているわけではない。何となく無理そうな気がするだけか。しかしそれだけでは何を述べているのかわからない。できるだけ正しいことを述べようと努力しなければならない。だから世間に逆らっているふりをするわけか。世間が何を意味するか知らないが、結果的にそうなっているだけだろう。仕方ないからそんな風に振る舞っているだけだろう。いったい何が仕方ないのだろう。焦点がまったく定まらない。たぶんそれは物語ではない。事実は何も物語っておらず、事の成り行きが文章として示されているだけだ。それが物語なのではないか。君は何か勘違いしているようだ。だからそこから抜け出られない。そうなってしまう理由がわからないのだ。理由などいくらでも導き出せて、それを知りたければ、それらの理由の中からどれかひとつを選ばなければならなくなり、いったん選んでしまえば、今度はそれが嘘になってしまう。要するにフィクションをねつ造していることに気づいてしまうわけだ。それが物語となって君の思考を拘束しにかかり、固定観念に塗り固めてしまう。思考の自由を奪われた頭脳には幻想すること以外の動作は用意されておらず、現実を把握することができなくなり、物語の内部に意識が組み込まれて、その中で活動することしかできない登場人物のひとりと化してしまうらしい。たとえばヒーローやヒロイン、あるいはそれに敵対する悪役になろうとすることが奇異に感じられなくなってしまうわけだ。何かおかしいと思えなくなり、話の筋に従って自らの行動の自由が制限されていることを、不快に感じるどころか、その通りに歩むことが自らに課せられた使命だとさえ思うようになる。


4月30日

 どうもマンネリから逃れられないようだ。それについて何か説明が足りないような気がするので、さらに詳細な説明を求められているわけでもないだろうが、何となく続けて説明しなければならないと思っている。誰がそんなことを思っているのだろうか。何を求められているわけでもないように思われるので、君は何に対しても無関心を装いたいようだ。金輪際本気になるつもりはないらしい。金輪際とはどういう意味なのだろう。無関心でいることと本気になることがつながらず、おまけにかなり回りくどいことを述べているような気がしてくる。それは駄文のたぐいだろう。本気でそう思いたいところだが、今は本気になれないことになっているので、その代わりにさらにいい加減なことを述べなければならなくなる。君がそう述べているわけではない。そこから逃げてはいけないのだろうか。いい加減なことを述べながらも、それをさらに発展させなければならないのか。何とかそこから起死回生の大逆転をねらっているのかも知れないが、それこそが意味不明な誇大妄想から生じた勘違いのなせる業だ。そこから先は何を述べているのかわからなくなる。だから即興的にそこから離れたくなる。しかしそこから離れたら何も述べられなくなり、何も語らない言葉の連なりに押しつぶされてしまうだろう。本気でそんなことを思っているのだろうか。何を思っても具体的な事象は雲散霧消してしまう。対象が何もないのだから、何も語れないことに変わりはない。そこで予定調和のごとく行き詰まり、何も述べられないことを嘆き、悲嘆に暮れているふりをしている。自らが何を語っているのかを知ろうとしないことがおもしろいらしい。君は言葉遊びの度が過ぎているようだ。しかし何を読み解こうとしているのかがわからない。趣味の試みは戯れの水準にとどまるしかない。何に身をまかせているのか。またいつものように虚無を求めているのだろうか。無意識の意図を知りようがないが、何かの雰囲気を感じ取っているらしい。勘違いかも知れないが、今はそう思うより仕方がないのかも知れない。完全に逸脱しているようだ。どこから逸脱しているのかもわからない。何をそんなに語ろうとするのか。何を語っているのかわからない。具体的なことは何も語りたくないのかも知れない。君はそれを知りたくない。何も語れないことを認めたくない。だからさらに意味のない言葉を連ねようとしている。それが思い違いであることもわかっている。あえて嘘をついているのかも知れないが、そんなことは誰の知ったことでもない。ただそんな風に述べているだけだ。今はただそう述べている。またいつかそれとは違うことを述べる機会も訪れるだろう。はっきりしたことは何も語れなくなる。どこかで一区切りつけなくてはいつまでもそれが続いてしまうだろう。だんだん投げやりに語り始めている。気がつけばまだわけのわからないことを語っているようだ。まるで何かのうわごとのように語っている。たぶんそれは戯言のたぐいに決まっている。何を断言しているのか。そこで何をどう解釈すればいいのか。少なくとも何もわからないわけではない。しかし言葉だけでは何も伝わらないだろう。何を伝えようとしているのでもないが、何も伝わらないことに腹を立てているわけでもない。何も伝えられないのかも知れない。思い違いからそれらの文章が生じているらしい。すべては虚しい努力でしかない。努力していることすら思い違いに違いない。何かをやっていなければ気が済まないのだ。何もやらなければすべてが丸く収まるかも知れないが、それで何の不都合があるのだろうか。まだ試していないことがありそうだ。それをやればさらに虚しくなるだろう。偶然に遭遇してしまう。何に出会っているわけではなく、誰に巡り会っているわけでもない。それは虚無でさえない。何でもないようで、ただそれだけのことかも知れない。すでにどこかに突き抜けてしまったのだろうか。何もないわけではない。言葉がどこかに引っかかっている。つながりを保とうとしているのかも知れない。ついさっきまで雨が降っていたようだ。雨音が聞こえたような気がする。誰かはそこで何をやっているのだろう。君はまだ誰でもないと思いたい。はたしてそれが自由なのだろうか。自由でなければ不自由なのだろうか。そんな簡単な成り行きにはいかないようだ。自由と不自由の間に適当な言葉が差し挟まれなければならない。


4月29日

 いつも君は何を述べているのだろう。いつもの無内容でしかないが、本当にそのすべてが意味不明に思われるだろうか。できることならもう少し簡単なことを述べてみたら楽しいか。別に楽しさを求めているわけではないが、この世界の中で何が起きているのだろう。それについてどんな認識を提示すればおもしろいのか。おもしろいことを述べようとしているわけでもない。ならば気休めに毎度おなじみの浅はかな構図でも示してみようか。たとえば世界の中では、北朝鮮が地方の弱小ヤクザだとすれば、アメリカは全世界規模で展開している広域暴力団といったたぐいの存在だろう。自分の娘を北朝鮮に連れて行かれた母親が、暴力団の大ボスのところへ助けを求めに行ったらしい。何か変だとは思わないか。それが正気の沙汰でないと思ってはいけないのだろうか。北朝鮮による拉致がどうのこういう前に、ここ数年のアメリカによる対テロ戦争において、何が行われてきたのか。多くの者たちがテロリストの嫌疑をかけられて拉致され、一部では拷問まで行われていたというのに、そういうことをやっている国家に助けを求めにいくのは、倫理的におかしいのではないか。アメリカによる軍事攻撃によって、何の罪もない一般人がどれほど巻き添えを食って命を落としたことか。少なく見積もっても数万人が殺戮されているはずだ。おまけに彼らは日本国内には軍隊を常駐させ、その軍人が時折犯罪に走り、女性を強姦したり殴り殺して金を奪ったりしているにもかかわらず、思いやり予算とかいう年間数千億の上納金を出させた上に、部分的に出て行くならさらに三兆円を出せと脅しをかけている。そしてついでにBSEがらみでは、まったく聞く耳を持たず、自分たちの論理をひたすら押し通し、さっさと牛肉の輸入を再開しろ、とこれまた脅しをかけている。そんなことをやっている国家でも、現時点では世界唯一の超大国なのだから、わらにもすがる思いで助けを求めにいくのは、当然の帰結なのかも知れないが、異例の面会を許した大統領のブッシュ氏にしてみれば、ただ政治的に利用したいだけのような気がする。そして韓国の拉致被害者と連携しようとすれば、とたんに竹島問題で頓挫したりして、結局各国の政治的利害の中で翻弄され、意味もなく右往左往しているだけで、何の進展にも至らずに、そうこうしているうちに年月が経過していって、あと数十年もすれば、忘却の彼方へと忘れ去られてしまうような話でしかないのかも知れないが、たとえそうなったとしても、それはそれで自然の成り行きとしか思えないだろう。すべては国家という偏狭な共同幻想から生まれた不幸なのかも知れない。もちろん国家主義者にしてみれば、自らが依って立つ国家という基盤上でしか、思考を巡らすことができないのだろうが、この愚かしくも間抜けな時代がいつまで続くのか。現状では国家間の経済的な不均衡を改善するきっかけすら見いだせないが、とりあえず将来的には、世界のどの地域に暮らしていようと、それほど支障を来さないような世の中になれば、自然と国家主義的な観念も下火となっていくのだろう。しかしそうなるまでにあとどれほどの月日を要するのだろう。たとえば中東などで行われている、宗派や民族間の不毛な殺し合いをやめさせることが可能だろうか。とりあえずアメリカが試みているような、軍事力で強制的にやめさせる試みは失敗に終わっているような気がするが、では他にどんなやり方があるのだろうか。数十年をかけてそれらの攻撃的な情念の熱が冷めるのを待つしかないのか。それをやめさせることはできないが、自然にやめるのを待つことはできる。待ってどうなるわけでもないだろうとは思うが、忍耐強く待つべきだと感じている。もはや消極的かつ受動的に待つことしかできないのかも知れない。それは間違ったやり方だと思うが、部外者にはそうする以外に手だてはないような気がする。我慢がならない者の中にはジャーナリスト的に現地に飛んで、そこで行われている不正義を暴き出して、それを全世界に向けて訴えかける者も出てくるだろう。あるいはユニセフのように募金活動を通じて、虐げられた弱者を救う試みを地道に行う者もいるだろう。それが何になるとはいわないが、やりたい者は積極的にやってもらったらいいのかも知れないが、たぶんそれとは違うやり方があるのだろう。別に神秘主義にかぶれているわけでもなく、何となくそう思っている。


4月28日

 何の根拠も示せないが、物語ることは馬鹿らしい。それは幼稚な精神作用の結実だ。何に勇気づけられてそう述べているのだろうか。とりあえず何かを説明しなければならない。きっと後悔するだろう。この期に及んで何か打ち明けたいことでもあるのか。戯れ事にもほどがある。秘密など何もない。その時間帯の外には何があるのだろう。気分的には黄昏れているようだ。何も見えていないのかも知れない。何となくお呼びでないような気がする。何のリアクションも期待できない。意識してそのようなことを述べているのかも知れない。だがいつまでも遠くを見つめているだけでは何の進展も期待できない。何を進展させようとしているわけでもない。ではすべてが期待はずれなのだろうか。何を期待していたのか。何を忘れているのか。気がついたら何も語れなくなっている。そんなやり方ではだめなことは分かり切っているはずだ。ではどんなやり方が可能なのか。君は何を呼びかけているのか。すでに目が死んでいる。まったく立ち直れていないようだ。気分は最悪だろうか。たぶん何の気分も導き出せないだろう。気分などどうでもいいのではないか。自意識などどうなってもかまわない。何を強がっているのか。君にはそれとは別の面がある。それとは違うことを述べてみたいが、それが何だかわからない。誰かはなぜ行動するのだろう。行動に至る理由など知らぬ。つまらない遊びにこだわっている。誰かはこの世がどうなろうと、ただ生きていくだけのようだ。流されている。さらに遠くまで流されて行く。どんどんそこから遠ざかって行く。そこには何があったのか。それをことさら思い出す必要があるのだろうか。もはや何を見いだすこともできない。この世界を馬鹿にすることなど簡単だ。造作もなくそれに対応する言葉を繰り出せる。それが思い上がりであることは承知している。いいわけには限りがない。無性にいいわけがしたくなる。たぶんそう述べてしまうことが気に入らないのだろう。何もかもが馬鹿げているように思われてしまう。それでやる気が失せているわけか。やる気が失せているように装っている。それが冗談の始まりかも知れない。意味のない冗談を連発して、自業自得気味に自滅する。政治的な意味を求める気にはなれない。何に賛成すればいいのだろう。何に対して反対の意思表示を明らかにすればいいのだろう。ついてくるのは愚かな意識だけか。まるでサーカスのような演技を期待しているわけか。それが物語のだめなところかも知れない。何とか主人公を助けてしまいたい。幻影の罠にはまっている。その助け方にうぬぼれが介在している。いったんそれを許してしまえば、それ以降はいくらでも愚かになれる。もはや歯止めが利かぬようだ。そしてついには誰もいなくなるわけか。そんな末路がどこにあるのだろう。何も物語らないうちから終わってしまったようだ。何を終わらせようとしているわけでもない。まだそこまで行っていないのだろう。中途半端に物語っている。君にはそれがわからない。誰も気づかぬところで何かが進行中のようだ。崩壊直前のきしみでも聞こえてくるか。無理を重ねすぎている。冗談にもほどがあることは先刻承知だ。意味不明を装っていることも認めよう。それが君のやり方なのだから仕方ない。それで済むことでもない。知らぬ間にどこから逸脱してしまったのだろうか。白々しい嘘をついてみても始まらないか。後退しながら退廃し続けているのかも知れない。見るべきものは何もない。君はそこで消滅できるだろうか。意識を消し去っても生身の身体が残っている。そこでようやく本音でも漏らすつもりなのか。何を述べているのかわからない。何も語らないうちから終わってしまってかまわないのだろうか。そこから何を読み取ろうと君の勝手だが、読み取ったつもりのすべては勘違いかも知れない。だがそれが君に課せられた試練であってはならないはずだ。何を述べてもすべては戯れ言のはずだろう。それを考慮に入れてもわけがわからなすぎかも知れない。そんなことを述べている場合ではないか。他に何をやっている場合でもなく、何を述べている場合でもない。ただ言葉が連なっているだけだ。それですべてを語ったつもりになれる。たとえそれが勘違いであろうとかまわない。勘違いさえ気休め程度の効用はありそうだ。今の君には安らぎが必要なのだろうか。それも何かの勘違いなのだろう。


4月27日

 どこからどこまでが本気なのだろう。決してまじめになることはできない。何に対してまじめになってほしいのだろう。現状ではその代わりに意識して倒錯を装っているのだろうか。心がどうかしているのかも知れない。しかし何がどうなってどうかしているのか。またつまらないことにこだわっているようだ。病気か何かで身体の自由が利かぬ者は何か生きている証がほしいそうだ。絵を描いている人々の中にはそんな境遇の者もいるらしい。誰もが何かしら報われたいのだろうか。生きていくためにはそんな目標が欠かせない。君は何のために生きているのか。結果的には何のために生きていることになるのだろう。ひねくれているのかも知れないが、それは違うと思いたい。たぶん報われたくないのだろう。報酬を得るために汲々としているのは虚しいことだ。目標がなければあくせく働けない。あくせく働く必要がなければ人はどうなるのだろう。怠惰に流されて何もする気がなくなるのだろうか。それでもかまわないと思う。生きる目的がなくてもかまわない。ならばいっそのこと死んでしまえばいい。安易に死ぬわけにはいかないか。死ぬのが怖いのか。しかし強がってばかりはいられない。死んでしまったら何もできなくなってしまう。では何かをやろうとしているのか。だがその何かが目的となってしまったら困るだろう。目的とは何だろう。何かをやろうとするとそれが目的となってしまうのだろうか。ならば生きている限り目的がなくなることはないわけか。しかし目的とは何だろう。そんなものは目的ではないと思えばそれで済むようなものなのか。目的とは別の言葉を当てはめてみればいいのではないか。生き甲斐というやつか。人々は生き甲斐を求めて右往左往しているわけか。生き甲斐がなくても生きていくことは可能だろうか。目的も生き甲斐も否定したくなる。それが確かな言葉として示されたとたん、それではないような気がしてくる。君は何のために生きているのでもないと思いたいらしい。自らが何らかの言葉とともに語られるのが我慢ならない。そのような決めつけには必ず反発が生まれるのだろう。だから君は君自身について語るのが嫌いだ。絶えず君とは無関係な何かについて語ろうと試みているようだ。その何かが何なのかを明らかにするのも好まない。たぶんそれは何でもない何かなのだろうが、そう述べてしまうと、やはりそれは違うように思われてくる。そんなことまで語る必要がないのかも知れない。何か心のどこかでまじめに生きようとする人々を馬鹿にしているような雰囲気があり、ふざけてそんなことを述べているように思われる。君にも自己顕示欲というものがあるのだろうか。だが誰も振り向きはしないだろう。誰を振り向かそうとしているわけではない。それらの文章のどこに魅力があるのか。何を目指しているわけでもなく、何から見放されているわけでもない。運から見放されていると思うだろうか。だが君は何を求めているのか。何かしら求めているのではないか。虚無からも見放されてしまうのがそんなに怖いか。そんな風に思いたくはない。少なくともそこには何かしらあるはずだ。もっと単純に述べられたらどれほど幸せになれるだろうか。もっと単純に生きられたらどれほど幸せになれるだろうか。そうなる気もないのにあえて心にもないことを述べているらしい。いつもそんなことはどうでもいいと思いたい。前向きなことを述べるのが気恥ずかしいのかも知れない。しかしそれでいいはずがないだろう。だが驕り高ぶるほど絶好調になれるはずもない。なぜ人々は単純になれるのだろう。なぜかそれがおかしいと思われるのかも知れないが、わけがわからないのは毎度のことだ。君はまだ生きているのでも死んでいるのでもないはずだ。どちらの状態も気に入らない。積極的に馬鹿らしいとさえ思っている。それらの何が馬鹿らしいのだろう。君は誰を馬鹿にしているのか。心の中で何かが渦を巻いている。どこかに穴が開いていて、そこにすべてが吸い込まれていってしまうような感覚を覚える。そんな意味不明なことを思っているうちにさらにわけがわからなくなる。そんなことではいけないのかも知れないが、そうする以外に何も思いつかないので、他に何をどう思っていいのかわからない。言葉ではうまく説明できないのに、それでも言葉を適当に繰り出して文章を構成しようとしている現状がある。本当に現状はそれだけなのか。


4月26日

 妄想の中では誰かに邪魔されている。誰かはまたつまらないことを思い出しているようだ。何かそう述べてしまう癖がついているらしい。思考回路がいかれている。そう思いたいだけで、本当はきわめて正常に機能しているのだろう。先のことを見越して今があるわけか。今は遠大な計画の途上にあると思いたいか。いかれた頭脳には何がお似合いなのだろう。君には別の道がある。それとは違うこともできるはずだ。さらにつまらないことも述べられる。思考停止も甚だしい。切羽詰まらないと本心を明らかにできない性分のようだ。それが本心だとは思わない。どこかで誰かが笑っている。曇り空の下で雨が降るのを心待ちにしている。何かが狂っているらしいが、社会の仕組みは正常に機能しているようだ。今日もくだらぬ事件の幕引きがはかられようとしている。誰かが損害を被っているのだろう。おまけに命まで取られたら楽しいか。キャラメルのおまけには何が入っているのだろう。この世の中では何をやってもいいのだろう。同じやるなら楽しいことをやってみたいか。そこから遠くないところで殺人や詐欺事件が起こるのだろう。そんなことをやりながら、何かもっともらしいことを主張したい人もいるらしい。ザルカウイ氏は案外愉快な人物なのかも知れない。サラ金業者のチワワは今も元気なのか。そんなはずではなかったと思いたいのか。君にはどんな台詞も似合わない。平和とは何だろう。平和な状態は楽しいか。いつも危険と隣り合わせなのだろうか。行動はどこで制限を受けているのだろう。何をやるのも自由なら何もできなくなる。自由は人を狂わせ、不自由なら欲求不満を募らせるだろう。そんな単純な解釈がどこで可能となるだろう。君は稚拙な文章表現によって何を見定めているつもりなのか。やはりそこから遠ざからなければならないのだろうか。遠ざかってどこへ向かうつもりなのか。向かう場所はどこにも存在しない。そのとき何を語りかけているのか。暗闇の中で目の前を幽霊が横切ったように見えたが、それが何を意味するのか。そういう話ではない。君自身が幽霊のたぐいなのかも知れない。君はそこでお終いなのか。待ち受けている運命が気に入らない。それが運命でないとすると、フィクションの中身にはどのような変更が加えられるだろうか。そこから君の本心が導き出されるはずもない。君はそこから逃げ続けている。窓に映っているのは誰の影でもありはしない。影ならとっくに退散しているはずだ。文章の意味不明さに嫌気が差したのだろう。心は誰の怨念も受けつけない。いちいち憤っていたら疲れてしまう。空疎なことをいつまでも述べ続けていれば、何となく満たされた気分になるらしい。だからそこへいつまでも出現し続けているのだろうか。しかし君以外に誰が立ち現れなければならないのか。誰かが遠くから呼んでいるような気がするのだが、微かな声は聞こえづらく、周囲の雑音にしばしばかき消されて、何を言っているのかよくわからないが、よく見れば川岸で誰かが釣りをしているようだ。その誰かが声の主であるはずもないか。それ以上の何かを見いださなければ、何も述べられなくなってしまうだろう。だがそんな強迫観念は無効だ。つまらない事件しか起こっていないのに、誰かは何をそんなに興奮しているのだろう。何かそれとは違う見解を示せるだろうか。その声の主は人であることを放棄している。人であろうとなかろうと、自らが発した声が誰に届いているかもわからない状況を無視していいのだろうか。無視すべきことは他にいくらでもあるだろう。君はそれを知りたいわけではなく、ことさらに何かを述べていたいわけでもない。そこでは誰もが矮小な存在なのかも知れない。現実に小さなことにこだわりすぎて、大局を見失っているようだが、それでもそれがそこに存在する者たちの役割なのだから、それについてああだこうだと批判する必要はない。そんなことはどうでもいいことだ。何に対しても本気になる必要はないのだろう。知ったかぶりの意見も時には有効に機能する場合もある。それでかまわないと思いながらも、そうではないと心の中でつぶやくのは卑屈かも知れない。戦術だの戦略だのが有効だと思っているのは、結果論的な勘違いだろうが、結果的にうまくいったと思っていれば、そんな説明でも納得してしまうのかも知れない。それでかまわないのならそれに越したことはないのであって、そこに付け加えるべき言葉は何もない。


4月25日

 曇り空を眺めていると清々しい気分になる。晴れ渡った空を眺めていると憂鬱な気分にでもなるのだろうか。そんなはずがないと思うと楽しいか。たぶん冗談で述べているのだろう。相変わらず中身がない。それが何の中身なのかもわからない。いつものごまかしなのだろうか。人と関わり合いになるのを避けている。それが中身のない原因だろうか。無理に原因を探ろうとはしない。それを知るつもりがないようだ。知りたくなくても気づいてしまう時がいずれ訪れるだろう。そんな予感がするのは何かの勘違いかも知れないが、それでもかまわないだろうか。いつまでもつまらないことばかり述べているわけにはいかなくなる。そんなことは分かり切ったことなのにそれを続けようとする。そういう心境になるのがおもしろいだろうか。そうやって何を探っているつもりなのか。限界がどこにあるのかを知りたいか。何がそれの限界なのだろうか。心が絶えず揺れ動いているようだが、それに関して何をどう語りたいのか。そんなことがわかるはずもなく、それが結果的にどう感じるかにかかっている。そんな風に感じれば、それがそういう語り方を示しているだけだ。それに関して何をどう語ろうと、それを理解することはないだろう。そう語る意味がわからない。はっきりした意味を求めていないのかも知れない。言葉と言葉のつながりが不明確だ。そこからわけのわからない文章が構成されている。もはやふざけているとしか思えないか。そういうことではなく、どういうことでもない。ただまともなことは何も述べられなくなるということだ。そう断言してかまわないのだろうか。他に何を述べればいいのか。困った状況が続いている。困り果てていると楽しいか。雲の切れ間から一時的に日が射してくる。また曇り雨が降ってくる。つかの間の心境とは何か。少しの間何を思い感じていたのか。君には関係のないことだ。誰に何を求めているのでもない。すべてを許してしまったら何もできなくなる。しかし倫理的にはすべてを許したくなってくる。それは怠惰のなせる業なのか。神はそれを許しているのだろうか。神の話をしたいわけではない。探求を放棄したご都合主義が神を想像させる。すべてを神のせいだと思えば楽しいか。そんな風に思われてしまうほど状況が切迫しているわけでない。ただそこから遠ざかりたいのだ。そして何も思わない心境に近づきたい。わざとそんな嘘をついてそこから先へ言葉を連ねたい。その時々で何を思うかは、その場の気まぐれにまかせておこう。いつもそこまでやる必要はないと思っている。語ることに疲れているのかもしれない。本当は意味を知りたい。そう思っていることにしておきたい。君は誰かに利用されている。屁理屈ならどうにでもつけられる。何もできないと思えば思うほど、無意識のうちに何かをやっている途上にあることを忘れている。君にはそれが理解できない。何も乗り越えられないのに困難を乗り越えようとしている。映像には効果音がつきものだ。障害などいくらでも転がっている。それを乗り越えようとは思わない。何もできないのだから乗り越えられるはずもない。心が病気であることは楽しいことなのだろう。誰のことを述べているわけでもない。誰にも述べられないことを述べているわけでもない。実質的には何も述べていないのかも知れない。誰の意志にも従わず、言葉が勝手に連なり続けているだけか。そんなフィクションを信じることができるだろうか。まだ何も物語られていない。それは何かに気づいていないことからくる思い違いか。何に気づいていないのか。この世の終わりに気づいていない。物語の中ではこの世が終わるらしい。ならばもうすぐ最後の審判とかいうイベントが到来するわけか。キリスト教徒でない君にとっては関係のないことだ。ついでに関係のないことを述べるなら、このごろは日が長くなってきたようで、まだ外は明るい。もうすぐ日が暮れて昼が終わり夜になる。この世の終わりとはどの世の終わりなのか。昨日はすでに終わり、今日もあと数時間で終わるだろう。何とかそれで終わりをごまかせるだろうか。何が終わっているわけでもないか。何も終わっていないのに何を終わらせることができるだろう。君はもう終わりだ。虚飾に彩られた君の人生も消滅してしまうだろう。しかし君とは誰なのか。それに対するつまらぬいいわけはいつなされるのか。君は自らについて何を述べようといているのだろう。何を述べてもすべては無駄話だ。


4月24日

 いい加減に言葉を並べてみる。それで少しは気休めになるだろうか。今さら気休めもないか。精神の至る所で裂け目がのぞいている。そんな視覚的な光景を空想してみても始まらないか。では目の前の壁の表面に亀裂が走る。地震か何かか。いつの出来事を思い出しているのか。思い出しているのではなく、想像しているのだろう。そこから何かがこぼれ落ちる。漆喰の粉が辺りの床に散らばっている。それも作り事の中で生じた幻影だろうか。嘘には違いないが、つまらない嘘かも知れない。そして実際には何も起こらない。精神のほころびを突いてそれを見つけ出そうとしているわけではない。それとは何だろう。それとは違うものを見つけ出し、それについて適当に語りたいのかも知れない。君には無理だ。到底たどり着けない場所を目指している。それを知り得ないことが君を停滞に導いている。そこから抜け出せない。抜け出そうとしていない。誰かは叩けば埃の出る身のようだが、疑惑の人物についてあれこれ推測するのはニュース番組のたぐいだろうか。そんなことを画面上の誰かが述べている。君はそれとは無関係に何か適当なことを述べていたいらしい。だが相変わらず何を語りたいのかはわからない。それでも語りたいらしく、ただ語り続けている。できることならそこから虚無を取り除きたい。それが無理なことはわかっている。あともう少しの辛抱だ。そう思いたいのかも知れないが、そんなのは勘違いに決まっている。さらに語り続けなければならない。まだ死ぬわけではない。生き残ろうとする思いが誰かをそこへ導いてしまうだろう。言葉の海の中でおぼれているつもりになりたいか。まだおぼれるほど述べているわけではない。何を述べているかもわからないのに、そこでおぼれてどうするのだ。しかし誰に向かって言葉を発しているのだ。むやみやたらと意味不明になろうとする。無性に背中がかゆくなる。心の中で何かが壊れているのかも知れない。だがそれだけでは迷路から抜け出せない。考えれば考えるほど罠にはまっているのかも知れないが、その罠を打ち破るつもりはない。罠にはまっているのとは違う認識を得たいようだ。すでに何もないそこから遠ざかっている。何もないと感じていても、そこには何かしら存在している。ただそれを言葉で表現できないだけだ。分かり切っていることはそういうことだ。それで何がわかるのか。何もわからなければ楽しいか。誰かが困っているのを無責任に眺めていると、何だか楽しくなってくるか。自分の無根拠な優位性を誇示したくなる。少なくとも俺は悩んでいない。俺とはおまえのことなのか。俺とおまえが同一人物だったらおかしいだろうか。いくら矛盾していてもかまわない。楽しければそれでかまわないか。君はそんな言葉の並びに呆れている。もう少しまじめなふりをしてみたらいかがなものか。誰の信用を勝ち得たいのか。誰と何を巡って競っているのだろう。少なくともそれらの時空間は商売とは無関係だったのではないか。だから何を答えればいいのか。だからという言葉では意味がつながらない。微妙に言葉の方向をずらして、何かをごまかそうとしているらしい。君は現実に敗れ去ろうとしている。いい加減なことを述べないでほしい。敗れ去る対象もわからないのに、なぜ敗れ去るような気がするのか。それはどんな予感なのだろうか。本当にそれが実現しないでほしいか。では何を実現させようと思っているのか。まともな文章に至りたい。結果的に文章を読んで感動したいわけか。だがそこに至るには様々な紆余曲折を経験しなければならないだろう。冗談でそんなことを述べているようでは、まだ先が遠いままだ。終わりに近づきたくないのだろうか。いったん話が終わらなくては、その次に進めないか。進もうとしていないのではないか。君は馬鹿げた話のままに終わりたいのではないか。何の感動ももたらさないような文章を記している。それが現実だと思いたい。誰がそう思いたいのだ。何がそこでひねくれているのか。事実をねじ曲げようとする輩は信用できないのはもちろんのこと、それが君でないことを祈っているわけではない。ただ何を述べているのかが問題となっている。そこでは内容が期待されている。感動とはどのような精神作用なのか。君はどうやって自らの負けを認めさせたいのか。誰に認めさせたいのだろう。少なくともそれが君自身ではないと思いたいようだ。だからさらに無責任になれるのか。いったい何に対して無責任なのだろうか。


4月23日

 少し情緒不安定なのだろうか。そんなことはないと思う。誰かは思いもしないことを思っているふりをしている。何もかもつまらないと思えば楽しい気分になれるだろうか。矛盾したことを簡単に述べないでほしいか。君はありふれた日常の中で何かを見つけたつもりになっている。なぜか心が透き通って見える。そんなのは嘘に決まっているだろうが、そこには何があるのだろうか。そんな言葉では物足りないか。判断基準が曖昧なのかも知れない。何をどう判断すればいいのか。そんなことがわかるはずがない。もう意味のない言葉遊びはやめた方がいい。少しは中身のあることを語らなければならない。できもしないことを述べないでほしいか。だがそれでは何も述べられなくなってしまう。内容のあることは何も述べられないなら、それはそれで楽しいだろうか。そういう強がりやせ我慢的な述べ方は好かないか。たぶん何を求めているのでもないのだろう。どのような述べ方であろうとかまわないが、可能な述べ方は限られている。君はそうではないと思いたい。いつもそれは違っていると感じている。間違ったことを述べている。そこから一歩も外へ出られない。間違いを改めることができないのか。正しいことを述べるには何が必要なのだろうか。そんなことは分かり切っていて、正しいことを述べるにはまともな内容が必要なのだろう。だがその認識が勘違いでないという保証がどこにあるのだろう。そういう話ではないだろう。そういうことを述べたいのではないとすると、どういうことを述べたいのだろうか。何か他のことについて語らなければならない。自己言及の繰り返しから遠ざからなければならない。ならば述べるべきこととはどんなことなのか。そこで何を見いだしたのだろう。ただ言葉が循環しているだけか。黙っていても人々はただ生きて死んで行くだけだ。生物とはそういう宿命に拘束された存在なのだろう。他に肯定できることは何もない。それを否認したければ何か他に都合のいい価値観をねつ造するしかない。美的な夢想に耽っていたいのか。それが何を意味するのだろう。神秘主義の奥義でもかいま見たいか。大げさなものが人の精神を狂わせる。不老不死の仙人にでもなりたいのだろうか。あるいは神にでもなってみたいか。妄想には節度というものが欠けている。身の程をわきまえたことを述べていた方がいいのではないか。誰に身の程という判断基準が当てはまるのか。何をどう判断したらいいのだろう。君に語るべきことなどありはしない。あるのは気の迷いと迷うための迷路だけか。どこをどう歩んでいるのかわからない。行き先が一向に見えてこない。どこまで行っても同じような景色が続いている。そんな風景の中に意味のない人々が溶け込んでいるようだ。馬鹿なことはやめた方がいいのかもしれないが、何が馬鹿なことなのだろうか。争いごとが起こらないと物語にはならないのかも知れない。愚かで無益な争いから物語の登場人物たちが生じてくる。闘争本能が欠けている性格には不向きだろうか。そこで誰と何を争えばいいのか。ボクシングの試合で猿がわめいているではないか。相手を殴り倒した時の快感を追い求めて身を滅ぼしかけている。対戦相手も同じような思いでいるのだろうか。程度の差こそあれすべてはゲームでしかない。虚しい行いによって金銭を享受しているだけだ。そんなものを見ながら何を興奮しているのか。誰がそこで興奮しているのだろう。君はそれらのゲームの何を否定したいのだろうか。興味がないのなら言及を避けるべきか。それでは何も述べられなくなってしまうだろう。否定すべき内容を見いだせない。それの何を批判していいのかわからない。それどころかそれらの浅はかさを楽しんでいる節もある。何がそんなに楽しいのだろう。それを見ている者たちが愚かだと思うわけか。愚かであって一向にかまわない。君はそれ以上の愚か者なのかも知れない。周りを娯楽に囲い込まれ、何一つ考えることができていないのではないか。もはや君には考える必要がないのだろう。単純に楽しめばいいだけなのかもしれない。過度の享楽に耽るわけでもなく、ただ適当に流されているだけで楽しい。それが時流に流されていることになるだろうか。ひたすら軽さを追い求めているわけでもないだろう。それは何の軽さなのだろうか。またそれとは反対の重さとは何だろう。何が重ければ人々から尊敬されるのか。別にそれをねらっているわけでもあるまい。


4月22日

 何かが破綻を来しているのだろうか。誰かは何を謙遜しているのだろう。傲慢な態度でいると楽しいか。相変わらず何も思いつかない。そうではないのかも知れない。どうでもいい話はその後どうでもよくはなくなったのかも知れない。まだそこから抜け出る方法を見いだせないようなら、さらにとどまるべきだ。とどまりたくてとどまっているのではない。では何をどうすればいいのだろう。ただ語り続けていればいい。何もないのにそうしていたいのなら、そうしていればいいだろう。そのようなやり方を肯定していればいい。だが自問自答にはきりがない。それを自問自答とはいわないだろう。きりがないのは押し寄せてくる波の音か。海辺に住んでいるわけではない。現実からかけ離れたことを述べているだけのようだが、それで何を説明しているわけではない。何も説明できないからそのような言葉の並びになってしまうのかも知れない。しかし感覚は昨日と同じだ。昨日と同じなら何ができるというのか。何もできないからそんなことを述べているのだろう。年老いて行く過程において、一時的な錯乱はつきものなのか。誰の精神が錯乱しているというのか。予定では君が錯乱していることになるわけか。予定は未定であり、そのときになってみなければ確かなことは何もわからない。何かしら予想ぐらいはつくだろう。君は予定調和的にそのようなことを述べている。それが気に入らないのだろうか。気に入らなくてもそんなことを述べざるを得ない状況なのかも知れない。では君が強いられているそのような状況は何によってもたらされているのか。それはそのときの気まぐれな気分がそんなことを語るきっかけを作っているだけか。そんないい加減な思いつきで君は満足するのか。そんなことしか思いつかないのなら、それはそれで仕方のないことだ。今の君には何も課せられてはいないのかも知れない。すでに使命を果たしてしまったのだろうか。知らないうちにそんなことを述べているようだが、それは誰の知らないうちなのだろうか。確か数年前までは奇をてらった表現ばかりの文章だったような気がするのだが、このごろはなぜ何も語ろうとしないのか。つまらぬ技巧でその気になっていた自らの浅はかさに気づいてしまったわけか。そのわけを知りたいか。他にわけがあるわけがないか。気がつけばまたおかしなことを述べている。それをどうやって説明したらいいのか。それは何かの心境だろうか。君は何に裏切られていると思っているのか。唐突に裏切りはないだろう。そんな言葉は好まないし、突然何の脈絡もなく裏切りを知ってしまったら意味不明に思われる。何が意味不明なのだ。裏切りの意味を知らないわけでもないだろう。たとえば君は自らが発した言葉に裏切られている。あるいは自分で自分を裏切っているのかも知れない。そういうニュアンスでその言葉を使っているのではない。とりあえずそのとき何を話すつもりだったのか。もうそんなことさえ覚えていないらしい。では今度はそれが嘘であることを願いたいか。たぶんふざけているのではないのだろう。何を語りたいわけでもない。実際には何を語っているのか。いつものように言葉の迷路にはまっている。いったん迷い込むとなかなか抜け出られないようだ。そして無駄な時間を過ごすことになる。いつまでもそんなことを語っているわけだ。君にはそれが理解できない。なぜそうまでして意味のないことを語りたいのだろう。そこからどうやって意味に至るのか。それを意味だと思えばいいのではないか。それとは何だろう。それがわからなければ意味もわからないか。またそこから逃げようとしている。目の前の障害を避けて通ろうとしている。目の前には画面があるだけだ。画面の何が障害となっているのか。君は本心から語っていない。偽りの言葉を弄して、そこには何もないように見せかけている。では実際に君は何を見ているのだろうか。それを知りたいとは思わないか。すでに知っているのではないか。見るべきものなど何もない。画面上には何も映らない。目は自然と遠くの景色を眺めている。しかしそこにも何もありはしない。景色には興味がないのだろうか。この世界には興味がないのだろうか。どの世界にも興味がないのではないか。たぶんそれは世界にはないのだろう。それでも君の目の前には画面がある。画面上に言葉が連なっている。そんな表層を眺めながら何を思うだろう。


4月21日

 そんなことはあり得ない。何が劇的な幕切れになるのか。人々を感動に導くにはそんな紋切り型が必要だ。何も語れなくなった後に、晴れ晴れとした気分を満喫したら、何をやる気になるだろう。言葉と言葉を組み合わせて文章を構成しているようだが、まだ何を話しているわけでもない。美的な感性を追い求めても、それはつまらない話になるだろう。だがなぜそこで運命を知ることになるのか。君はどんな話を馬鹿にしようとしているのか。別に誰かの才能について語ろうとしているわけではない。この世界に何をもたらそうとしているのだろう。それによってこの世界はどうなるのだろうか。それは誰の運命になるのか。もはや空白は空白ではない。無駄な言葉で埋め尽くされている。予言の続きを知りたいか。ただ無駄に言葉を弄しているだけだ。それが積み重なってわけのわからない文章が構成される。虚しい夢を追い続けてるような気もする。心が痛むのは誰のせいでもなく、それらの不幸と関わり合いになるのはごめんだと思っている。ただ何も見いだせない。誰かは死相に興味があるらしい。特定の能面には死相が浮き出ている。亡霊なのだから死んでいて当たり前だろう。不吉なことを述べるのは楽しいか。猫は自らが死ぬ運命を悟っているらしい。自己満足にもほどがある。君は何を知っているのか。それが運命ではないとしたら、他に何を勘違いしているのだろうか。偶然の成り行きの中に必然性を見いだそうとして、くだらぬ思い込みに基づいて強引に紋切り型を当てはめてみる。はたしてそれで何がわかるのか。知りようのないことを知ったつもりになれるだろう。ただそれが何を意味するのかわからない。そんな昔のことはもう忘れてしまった。狭い世界で自らのみすぼらしさに気づかないのはよくあることか。自分が何者なのかを知りたいとは思わない。何者でもないことを認めようとしない。そこから逃げてはいけない。絶えず自らの存在を否認し続けている。それが無理なのだろう。何も認められないなら何もできなくなる。何を否定しようと、それで何が明らかになるわけでもない。自らに厳しくあろうとしても、それでは何の意味もない。もうすでに否定する対象さえ見あたらないか。内容が一向に見えてこない。だがそれは誰の言葉なのか。誰の言葉でもなく君の言葉でもない。言葉を持たない君は何者でもない。それはただの文章でしかない。文章の中に君という言葉が記されている。空の青さと、見上げている君の瞳と、心の中の空虚に関係はない。それを無理矢理関係づけて、ありもしない内容を醸し出そうとしているだけか。現実を無視しようとしているらしい。だがそれは無視できるような妄想ではないはずか。現実が妄想の産物だと見なしたいらしく、そこで眺めている風景を自らが支配しているつもりになりたいのだろうか。そういう話ではないだろう。絶えずそこから目を背けて逃げ出そうとしているのだ。しかしどこに逃げ込む場があるのだ。それは風景ではなく情景でもない。何の郷愁も抱いていない。戻るべき場所などどこにもありはしない。だから行き着く先には空虚がある。まだ世界に対する理解が足りないのだろう。理解する術を知らないのかも知れない。今さら何を反省しても始まらず、他に何をやる気も起こらない。誰がそうなってしまったのか。またそうなってしまったのは誰の責任だろうか。そういうことではないだろう。それは考えれば考えるほどわからなくなるような現象なのだろうか。意識はどのような現象を捉えたつもりになっているのか。ただとりとめのないことばかり語っても何もわからない。そればかりでは何を語っていることにもならない。無駄で無理なことばかりが主張されているようだ。そんなことの積み重なりが現状を形作っている。そればかりではないと思いたいが、何かを突き詰めようとすれば必ずそれが出てきてしまうらしい。それを乗り越える方法を探らなければならないか。常に探り続けているのであって、その結果がそれらの文章に反映されているのではないか。しかし結果とは何だろう。空虚以外に何ももたらされていないことが結果なのか。そうは思いたくないが、なぜそのような文章を肯定できないのだろう。肯定できないからそのような内容となっている。そしてそのような内容を肯定できずにいる。そんなのはまやかしのごまかしであることは承知している。承知しているがそれを認められないか。


4月20日

 君は世界を知らない。争いごとがどこで生じているのかを知りたいようだが、誰がそれを教えてくれるのか。君に教えてどうするのだろう。自己満足の世界に浸りたいのだろうか。趣味の境地ならいくらかは知っているだろう。現代人には趣味以外にやるべきことがない。それに対してどんな反論を期待しているのか。用意された言葉は君に似つかわしい。要するに中身が空っぽなのだ。それが君の決め台詞なのか。相変わらず薄っぺらいことを述べている。だが何を語っているのかわからない。それを明らかにしないのはどういうわけなのか。そのままの姿がむき出しになっているだけだ。それが中身のない文章を表している。しかし何のことやらさっぱりわからない。いったい何について語っているのか。もはやそんなことはどうでもいいのだろうか。わかりたくなければそれでもかまわない。そこから何がわかるのだろう。ただ同じような言葉が繰り返されている。まるで呪文を唱えているようにも感じられる。そうなってしまう元凶は何なのか。根源を突き詰めれば虚無に突き当たるだけか。それでは何も述べたことにはならないだろう。まだ何か中身のあることを述べたいと願っているのだろうか。無理な願いを押し通しても何も得られない。何もないのに何を見ているつもりなのか。たぶんそれは実体ではない。想像力が何かの幻影を形作る。空想の産物が物語なのだ。何も物語らない空疎な物語がそこに生じている。窓際の雑草はいつになったら枯れるのか。人は人を殺さなければ気が済まず、決して攻撃の手をゆるめない。絶えず自分以外の存在を抹殺しようとしている。それは国家という行政単位においても同じことだろうか。何事も経験してみないことにはわからないことが多いはずだが、経験がすべてではない。のめり込めばのめり込むほど現実が見えなくなってくる。各種の依存症はそんなところから芽生えてくるのかも知れない。君は何に依存しながら暮らしているのだろう。それが無意味な言葉であるはずがないか。無意味でなければならない理由がどこにあるのだろう。軽い冗談の一種かも知れない。何事にも本気になれない。不具合は不具合のまま放置され続けるのが世の中の道理なのだ。そんな不具合に依存しながら金儲けが行われている。そんな金儲けの追求は何をもたらすのだろう。よりいっそう殺伐とした社会になってしまうわけか。しかし勝ち残るとはそういうことなのではないか。成功を手にするのがほんの一握りの者たちだとすれば、やはり競争は必要なのであり、弱肉強食が人に課せられた掟となるだろう。隣人同士が互いにいがみ合っていれば、国家そのものは安泰なのかも知れない。ある時は協調させつつも、またある時は対立をあおっている。君はそんな人々を馬鹿にしたいのか。何とか楽しい思いをするために、生活を向上させるための努力をやり続け、つまらぬ幻想にすがりつき、そんな幻想を共有する者たち同士で連帯している。だがそれの何を批判したいわけではない。それは批判すべきことではないのだろう。君は何を批判しようと思っていたのか。君は何を排除したいのだろう。この世界の中に排除すべき事柄を見いだせるだろうか。まずは排除する権利を主張しなければならないか。君自身が現世から排除されているみたいだ。君は現世においては死人なのかも知れない。死人に口なしで、何も語る権利はない。そしてそんな嘘にはうんざりしている。君以外の誰がうんざりしているのか。何もかも曖昧なままにとどまろうとしている。それでは何を語っていることにもならないが、それを回避することはできない。君には無理なのだ。何が無理かというとすべてが無理なのかも知れない。しかしそのすべてが何なのかがわからない。そこから何を見いだそうとしているのだろう。それは虚無ではない何かかも知れないが、それを君がわかることはないだろう。わからせまいとしている節もある。そんな風には語りたくないか。とりあえず自らが何を語っているのかを明らかにしたいのかも知れない。やはり君も問題を解決したいらしいが、まずはそれの何が問題なのかを知りたいような気もする。そもそも問題とは何なのか。誰もが叩けば埃の出る身なのか。ここはごまかしがすべての世界らしい。絶えず何かをごまかしていないと、矛盾ばかりが顕在化してしまう。矛盾しているのにしていないように装うのが世の習わしなのか。それで何が解決するのだろう。


4月19日

 君が流されていく先には何も待ち受けていないだろう。だが悲壮感などみじんも感じられない。ただこの世界の中を彷徨っているだけで満足しているらしい。たぶん美的に高水準でありたいのかも知れないが、くだらぬうぬぼれに終わってしまうのがオチなのだろうか。そうなる根拠は何もないように思われ、またそれに関して何を述べたいわけでもない。要するにすべてを否定したいだけか。それで何を否定しているつもりなのか。すでに外界は新緑の季節なのかも知れない。君は季節に関して何を知っているのか。季節は繰り返し移り変わり、その時々で君にどんな感慨をもたらしているわけでもないが、それについて何を述べようと、君には何も実感が湧かないだろう。君はどこで暮らしているのだ。それを誰に問いかけているのか。誰でもない君はただの言葉でしかない。翌朝の天候は荒れているようだが、ところで今日は何か興味深い現象にでも巡り会えただろうか。君に今日という日はない。君を構成している誰かの意識は、この世界で起こっている現象の何を理解しているわけでもないらしい。夢の中でいくら考え事をしても無駄だろう。ただ不協和音のような言葉の連なりが導き出されるだけか。夢の中に戻ってみれば、闇の向こうから誰かが呼んでいるようだ。誰かは誰の名を連呼しているのか。どこかで選挙運動でもしている輩がいるわけか。くだらぬ自問自答に限りはない。しかし目が覚めるとはどういうことなのか。夢の中で目覚めているわけもないだろう。確かにどこを探しても実体が何も見あたらない。君はこの世の者ではない。それでも実際に目が覚めているのではないのか。見えているそれは君の目ではないのかも知れない。たぶんその架空の目で何を探しているのでもないのだろう。誰かのまなざしはどこまでも突き抜け、何も見る気が起きないし、実際に何も見ようとはしない。それは義眼の一種だろうか。そんな嘘ではつまらないか。だが無理にそんな内容で語り続けようとしているわけでもない。ただ何か得体の知れないことについて物語ろうとしているだけか。それでも物語には違いない。何が物語なのかはっきりした定義があるわけでもないだろうが、それにしても言葉が分散している。何のまとまりもない内容が提示されているらしい。言葉が文章としてまとまるのを邪魔しているのは、どんな意図を持った意識なのだろうか。何かがそこに居座っていて、言葉を繰り出すのを阻んでいるようだが、君にはそれが理解できない。とりあえず朝はあくびとともに目が覚める。すでに目が覚めてから数時間が経過しているらしい。君は何を求めているのか。出てくる言葉がいったんそこへ連なってしまえば、それを取り除くのは容易なことではなくなるようだ。今日も気持ちの迷いを断ち切ることはできないだろう。そんなことを述べている場合ではないが、常に何かを修正しなければならない。他人は何を思っているのだろう。言葉の並びはつまらない傾向を示している。だが語っているそれは自分ではない。記された文章が語っているのか。では結果的に何を語っているのだろう。誰かの心の迷いを語っている。いつものように同じようなことを思っている。これから何を語ればいいのだろう。それは迷いではなく怠惰にとらわれているのだ。それは意味のないことだ。意味はこれからねつ造すればいいことか。それは意味ではなく無意味なのではないか。どちらにとろうとかまわない。読んで何かしら思うことができればそれでかまわないのだ。たとえば違和感でも覚えれば済むことなのか。できるならもう少し高度なことを述べられないものか。程度の差はいくらでもある。それを乗り越えようと思っても、結果的にそうなってしまうのだから仕方のないことか。それに関して心の中で葛藤でも生じているのかも知れず、何とか出てくる言葉を制御しようとしているのかも知れない。そんなことを述べたいわけではないのに、自然とそんなことを述べてしまうわけだ。だから今こそそんな悪弊を絶ちきらねばならないのか。たぶん今もモノローグの罠にはまっている最中なのだろう。知らず知らずのうちにそういう状態に導かれてしまい、そこから抜け出ようとしてもがき苦しんでいる。本当に述べたいことはそうではないはずなのに、気がつけばそういうことを述べている現状がある。そんな現状に埋もれて、それに付随して醸し出されている怠惰に流され、結局何らかの結論に至るのを避けているのかも知れない。


4月18日

 別に自分が破滅することを期待しているわけではない。導き出されたつもりの言葉は幻影の一種かも知れないが、幻影とは何か。それは蜃気楼のようなものだろうか。君は幽霊でも見ているのか。実体のない事物について何を語れるだろう。何が君に幻想をもたらしているのか。そこに醸し出されている雰囲気に嫌悪感を抱いているわけではないが、他人の生き様など君の知ったことではないだろう。できることならそれらの文章の起源を知りたい。なぜひたすらそんな言葉を記しているのか。意味を伴うように言葉を連ねていくと、いつの間にか文章が当初に期待していた意味を纏うことができず、言葉とともにどこかへが消え去ってしまう。そんな話がどこにあるのか。素朴な疑問など君には要らないようだ。人として生きられないなら何として生きればいいのだろうか。後から何か適当なことを思うかも知れないが、唐突に意味の定かでないことを述べても誰も動じないだろう。そこに醸し出されている意識は誰のものでもなく、君に特定の意識が宿っているはずもない。君は入れ物にすぎず、そこに何を入れようと、出てくるものはわけのわからない言葉の連なりだけだ。しかし今さら何を断言しても無駄だろう。まともなことは何も述べられるわけがない。そう思っていれば気が楽になるか。そんな言葉を吐き出しながら、君はそこから逃げている最中のようだが、逃げ込む先などどこにも見あたらない。行く当てもなく漠然とした気分になる。これから何をやればいいのだろうか。そこで行き詰まってしまうのはいつものパターンに違いないが、なぜそこからさらに言葉を続けようとしているのか。たぶんそれが逃げの姿勢そのものなのだろう。言葉から逃げることが言葉に行き当たる。その結果としてさらにつまらない言葉を繰り出すことになってしまうわけか。それをつまらないと思うなら、君の頭はおかしいことになるだろうか。そういうことを述べたいわけではない。頭がおかしいのではなく、文章がおかしいのではないか。だから何を語っているのかわからなくなり、内容が皆無となってしまう。ただそう思われるだけか。君が何を思っているわけではなく、君とは無関係な誰かがそう思うのだろうか。誰が何を思っても君には関係のないことだ。なぜ他人の思うことには無関心でいられるのか。知りようのないことを無理に知ろうとは思わないだけか。しかしそう述べているすべてが冗談にすぎないとしたら、君はそれについてどう思うだろうか。何かしら思うかも知れないが、それをことさら述べようとは思わない。言葉など要らない。要らないからいい加減に繰り出されているのではないか。必要もないのにひたすら必要のないことを述べ続けているらしい。だから楽しい気分でいられるわけか。この世界がどうなろうと君の知ったことではないが、君が何をやろうとこの世界がどうなるわけでもない。しかしそれを認めてしまっては何もできなくなってしまうのではないか。何もできないからこそ言葉を繰り出して文章を構成しているのではないか。まさか言葉を繰り出すことによってこの世界と変えようなどという誇大妄想を抱いているわけでもないだろう。個人の力でどうにかなるような世界ではない。だがそれを全面的に認めているわけでもないらしく、内心では何かとてつもないことをやってやろうと思っていたりするわけか。そのために盛んに思考を巡らせて、この世界を変える方法を思いつこうとしているのではないか。変えられるはずもないことを変えようとしている。要するに心はまだ妄想にとらわれているようだ。しかし今のところ何も思いついていないのではないか。それどころかそれが無駄な悪あがきであることは百も承知のはずだろう。いったいこの世界の何を変えようというのか。そんなこともわからずにいったい何を語るつもりなのか。すでに語っているその内容に何の意味があるとも思われず、またこれから何を語ろうとも思わず、ただ適当に言葉が繰り出され、そこからどうでもいいような文章が構成されようとしている。もたらされるものは自己嫌悪以外に何があるのだろう。それでも楽しいのだろうか。自由とは何なのか。いつまで経っても同じことしか述べられていない不自由な文章の中に自由があるのだろうか。ただ冗談ではないと思い続けているだけのようで、そこから何の進展もあり得ず、相変わらずこの世界はこの世界のままであり続けているようだ。


4月17日

 君に未来はない。だからもうあきらめてしまうらしい。それをどう捉えればいいのかわからない。誰かは金銭を得るための努力が気に入らないようだが、この地上に暮らしているほとんどの人間は、皆そんな風にして生きる糧を得ているのではないか。それを否定しても意味がないだろう。たぶんそれは考えの及ばない水準で行われていることなのだ。それとは違う生き方を模索しようとしても、実現性のない空理空論に堕するしかないのかも知れない。たとえばそれは将来の科学技術が解決する問題だろうか。しかしそのときが来たらどんな生き方が可能となるのか。やはりそんなことは君の知ったことではない。君は今を生きている。生き方が気に入らないからといって、今さらそれを変えることはできない。今はそれとは違う水準で異質のことを考えるしかないようだ。それとは別の生き方を空想することは無意味なのだろうか。無意味なことを思うのは楽しいか。それは絶望的な状況なのだろうか。何に絶望しているのだろう。うろたえている暇も暇をつぶしている暇もない。あるいは暇がありすぎて何をする気も起こらないか。今さらのそんな嘘は間違っているだろうか。嘘の使い方がおかしいようだ。君が何を感じているわけではない。平和な日々の中で感性が鈍く衰える。いったい娯楽とは何なのか。それは誰にとって必要なものなのか。たぶんそれも違うのだろう。何かが違っている。導き出された文字列をどう扱うか考えあぐねている。考える糸口がつかめない。いつものように何をわかろうとしているのかわからない。それの何が欠陥なのだろう。分かり切ったことを再考することができるだろうか。間違っていることは確かなようだが、何が間違っているのかを提示できない。たぶんそれが文章の欠陥なのだろうが、それをどうすればいいのだろうか。わかっていながらどうにもできないのか。もっと簡単に語るわけにはいかないのだろうか。わかりやすいことを述べればいいのではないか。では具体的に何を語れば文章がわかりやすくなるのか。それを知りたいと思うだろうか。君は何を知りたいのだろうか。わざとわかりにくく述べているらしい。他人に知られたくないように述べているのかも知れない。しかも自らも何を述べているのかわからなくなるように述べているようだ。フィクションとはそういうものだろうか。そんな逃げ方には納得しがたいか。自らに納得させることなどできはしない。現状は気に入らないことばかりか。では気に入るように心を入れ替えればいいだろう。それとともに現状を変えなければならない。それができなければいつまでも心の中で不満がくすぶっているだけだ。だからそのままの精神状態にとどまることが楽しいのか。不満だらけで愉快な気分を維持できる。そんなわけはないだろう。だが間違ったことを述べるのは楽しい。いつまでも間違っていたいのかも知れず、正しいことを行わないようにしていたいのかも知れないが、そんな風にひねくれるのは大人げないのではないか。少しは正しいことを述べようとするそぶりを見せないと、さらにわけがわからなくなってしまう。しかしそぶりとは何なのか。何を恐れているのだろう。以前からわけのわからないことを述べてきたではないか。今後ともそれを続けていれば楽しいのではないか。楽しければいつまでもそれを続けていられるだろう。そうでないとすれば、その理由を提示できるだろうか。楽しくないことを言葉で説明できるだろうか。他の何によって証明できるのか。読んで楽しくなければ文章ではないか。そんなくだらぬキャッチフレーズがどこから出てくるのだろう。間違っても読むことによって苦痛がもたらされるような文章であってはならないか。だが楽しいことが苦痛だったらどうなのか。喜びと悲しみが同時にもたらされたらどうするのだろう。そうなったらなおさらおもしろいか。そんなことはいつ何時でも起こりうる現象だろうか。精神作用は矛盾を理解できないが、それが精神作用そのものに起因する現象だとしたらどうだろう。それで楽しみがもたらされたことになるのだろうか。わからないがわかった風を装うことは可能だ。本当はそうでないと思いながらも、それを信じているふりをすることは倫理的に許し難いか。許せないのならどうすればいいのだろう。とりあえず娯楽はどこまでも娯楽の水準にとどまり、それについていくら真剣に議論を重ねても本質には至らない。


4月16日

 誰かは何を探しているのだろう。プレッシャーを受けて少々焦り気味か。見つかるはずのないものを探しているのかも知れない。実際そんなものはどこにも見あたらないだろう。しかしそんなものとはどんなものなのか。それがわからないから見あたらないのではないか。だがわかるはずのないものを探すことなど不可能だ。要するに見つかるはずのないものがわかるはずもないということか。そうやって無駄に言葉を弄している。それが君のやり口なのか。だがそこで行き詰まっては先へ進めない。馬鹿げたことを述べている場合ではないか。どんな場合でもなく、そんな場合でもないのだろう。語る糸口を見いだせないのかも知れない。現状を打開できないのだ。見えているものが見えていない。それを見ようとしていないのだろうか。見つめている先には何があるのだろう。気晴らしは気休めとどう違うのか。気休めに言葉を弄してそれが気晴らしになるだろうか。それをどう捉えるのかが問題か。それの何が問題なのか。問題など何もなく、あるのはいい加減な言葉の連なりだけか。それをそのまま放置している。いい加減でない場合などあり得ない。しかしかつてはそうでなかったはずだ。何かしら述べていたような気がする。では何を述べていたのだろうか。いくら忘れっぽいとはいえ、少なくともその程度のことは知り得るかも知れない。だがそれを知ってどうするのか。今さらそれをまねることなどできないのではないか。無理なことを語ろうとしているわけではないはずか。では何がそれを無理だと思わせるのだろう。今さらそれはないだろうと思う。今の何も語れない状況の中で満ち足りているのかも知れない。この世界に何もないわけでないが、ただあるものが君の興味を引かないだけのようだ。いったいこの世界の何に興味を持てばいいのだろう。文章にする題材が何もない。だがそれが楽しいらしい。何もないことは楽しいようだ。もう馬鹿げた出来事に腹を立てることもないだろう。何が馬鹿げているのかも忘れてしまった。しかしそんな嘘がどこまで通用するだろうか。そこで何を通用させなければならないのか。それは嘘ではなく、紛うことなき真実に違いないか。だから紛らわしい嘘を述べないでほしい。そこで誰が何をしていようと、またたとえそれが嘘であろうと、とりあえずはそれについて述べなければならないのだろうか。だがそれは無意味な試みかも知れない。無意味であれば楽しいか。少なくとも気楽に語ることができる。同時にそれは無責任な語りとなるだろう。そしてそこには言葉以外の何もありはしない。何の出来事も語られないだろう。ではその語りの内容はフィクションなのか。内容がないのだからフィクションでさえないか。そうやって相変わらず無駄に言葉を弄している現実がある。その結果としてつまらないことをつまらないように語っている。それで君は楽しいのか。自虐的な気分になれるだろうか。通りを行き交う人々はどこに向かっているのだろう。様々な方向へと移動している最中か。目的が違えば行き先も異なる。目的がなければただ彷徨うだけだ。それだけで楽しいとは思わない。しかしそれ外に何を求めているのか。あてどなく彷徨うこと以外に何があるのだろう。何もありはしないのだろうか。それも嘘の一種だろうか。嘘でなければ何か見つかるはずか。現状では何も探す気が起こらないのかも知れない。探し出されようとしているものが君とは無関係なのだろうか。ではそれは誰によって探し出されなければならないのか。君はそこで何を見ているのだろう。画面上に映し出された言葉の連なり以外に何を見ることができようか。振り返れば昨日の夜が過去の出来事となっている。それは当たり前だろう。では当たり前のことしか述べられないようだ。しかしそれの何が当たり前のことなのか。何がしかしなのか。それで何が導き出されたのか。焦らずとも文章が後からついてくる。言葉が適当に連なってくれる。だがそれが君の文章だと思うだろうか。無内容であることに恥じているのか。あらぬ葛藤で悩みが増幅されて、嫌気が差してくるか。たぶん冗談ではないと思っているのだろう。まだあきらめたわけではないと思いたいのだろう。それが無駄な悪あがきとなっているわけか。ではもういい加減に何もない現状を認めるべきなのか。さっきからそれを認めているだろう。認めているから君はそんな現状のただ中にいるわけだ。


4月15日

 自意識はまだ終わりを認めようとしないらしい。何か遅れを挽回するための秘策でも探しているのだろうか。いったい終わりの何が問題なのだろう。人は人と争い、この世界と争っている。何をやるにも抵抗がつきものだ。他者と争うことが生きている証になるらしい。日夜画面上に満ちあふれている暴力的な映像表現について君は何を述べようとしているのか。人々はそれを見ながら何を思うだろう。それを想像してみようとは思わないか。この世界はいつ終わるのだろう。君の力で終わらせることなどできはしない。終わっているのはフィクションの中での話だろう。意味のない暴力がはびこっているのもフィクションの中でのことか。それらのどこからどこまでがフィクションなのか。君はそこで何を思い出さなければならないのだろうか。また話の筋が消え去っている。分かり切ったことを述べないでほしい。それでも生きているのだから仕方がないだろう。いったい何がそこで終わっているのか。君には何も感じ取れないようだ。すべての言葉が分散しながら連なっているのは今に始まったことではない。それは何も述べられないようにするためのシステムなのかも知れず、それを操っているのが君の内部に巣くっている無意識なのだろうか。君のどこに内部があるのか。君とは誰のことを指しているのか。言葉に因果律を課そうとしても無駄だ。負担に耐えられるような力などあるはずがない。あるのはどこまでも意味不明を装いたい文章だけか。はたしてそれが文章に内包されている意志なのだろうか。気持ちの悪いことを述べないでほしいか。それ以外に何もありはしないのだから、それを提示する以外にやりようがない。少なくともそれは試行錯誤のたまものなどではない。成り行きまかせの無計画から生じた塵芥のたぐいかも知れず、それをまともに読む気が起こらないのも当然の成り行きだろう。意味不明を理解する手だてを知らない。まともなことを述べるには、少しは頭を冷やすべきなのか。しかしそれは誰の頭なのだろう。冗談ではないと思っているだけでは前へは進めない。前に進んでどうしようというのか。無目的に汚染されながら前へ進んでも、ただ進んでいるだけで、何の意味ももたらされないのではないか。意味を求めているわけでもなく、何を求めているわけではないと反論しようと、それが何の反論になっているのかわからない。反論するための論がどこにあるというのか。どこにもない批判に反論することが可能だろうか。ただそうやっていつまでも意味をなさないことを述べ続けている。それも言葉遊びのバリエーションでしかないだろう。君にはそれ以外にやりようがないし、他に何も述べられないのだ。だからひたすら無意味なことを述べ続けている。そんな語りを否定することができず、それ以外の語りを知らない。もはやすべての可能性が消え去り、すべての機会が過ぎ去り、残された残滓の中に誰かの意識が漂い続け、偽りの漂泊を形作っているのだろうか。なぜそれが偽りだと断言できるのか。誰が断言しているのだろうか。断言という言葉そのものが文章の中で無効になっているのではないか。では何がそれらの文章を構成しているのだろう。それが誰かの意識であるといえるのか。ただわけのわからないことを述べ続けているだけではないのか。何かが間違っていることは確かかも知れない。その間違いを利用しながらここまで続けてきた。正しいことなど語る気がしない。この世界ではつまらない論理がまかり通っている。弾けることを極力避けているのかも知れない。このままでは何が弾けてしまうのか。炸裂する力の種類を特定できるだろうか。暴力の他にどのような力が実在しているのだろう。なぜ秩序を保つために暴力が必要なのか。あるいはなぜ秩序を崩壊させるために暴力が必要なのか。それは何のための暴力なのか。この世界をおもしろおかしく見せるために必要なのだろうか。暴力にもいろいろな暴力があるだろう。君は言葉による暴力を避けることができるだろうか。今日も無意識が作動して、あらぬ結論に文章を導こうとしているらしい。自意識はその結論を拒否しているのかも知れないが、同時に魅入られていることも確かだ。言葉は支配のための道具などではなく、わけがわからなくなるための必須のアイテムだと思う。考えが雲散霧消して、思想としてまとまらないようにするためにそれらの文章が存在しているわけか。


4月14日

 君はまだそれに気づいていない。もうお終いが近いのかも知れない。だから盛んに無駄な悪あがきを繰り返しているようだが、まだ切羽詰まった状況を本気に受け止められないらしい。今はその話はやめておこう。思い出すたびに気が滅入ってしまうか。しかしいつまで待たせるのだろう。かなり焦れているようで、たまには苛つきを隠せないこともあるらしい。待ちくたびれて何を待っていたのか忘れてしまいそうか。そんなのは嘘だろう。実際にはそこで誰が待たされているわけでもなく、これから何が行われようとしているわけでもない。君に残された時間などありはしない。いくら待っても無駄なのであり、何を待っているのかさえわからないのに、何を待つ必要も理由もあるわけもない。それはすでに終わってしまった文章なのだ。君の試みは完全に頓挫したはずだ。だからそんな話ではないはずだろう。やはりのっけからまったく話がつながらないようだが、それは誰のペースで行われていることなのか。なぜまともに話そうとしないのか。それについて何を思い出そうとも思わない。暇つぶしにそれとは違うことを思いたくなるが、その代わりに何を思えば気が済むのか。要するにできるだけ回りくどく無内容を語りながら、時間稼ぎをしようという魂胆なのかも知れない。思うことと想うことは違うのだろうか。たとえば比喩表現とは何だろう。何かのたとえ話でもしてみたくなったのだろうか。なぜ唐突にそうなるのかわからないが、それを何にたとえているのだろうか。俄には比べる対象を思い浮かべられないが、話の途中で何かが暗礁に乗り上げているように感じられる。疑り深いのは今に始まったことではない。近頃は常にそうなのではないか。だから本題に入る前の段階で座礁し続けているように思われる。自らを取り巻いている様々な現象にひたすら疑念を抱き続け、つまらない思い込みに拍車がかかり、気がつけば何を述べているのかわからなくなる。そんな君を君自身が見つめている。くだらぬ思い過ごしを味わってみたいか。君にはそれがわからない。まだ悪戦苦闘の最中なのか。誰かは安っぽいドラマに見とれているようだが、それは劇的な体験からはほど遠いはずだ。そこで何をしたいのだろうか。意味のない話には何が含まれているのだろう。この世界には何かが備わっている。しきりに何かを体験させようとしている。力がどこかに働いているのかも知れない。力とは何なのか。力にはある種の幻想が伴っているのかも知れない。そこで何を操作したいのか。誰かの思惑が何を操っているのだろう。人の思惑が力の源泉なのだろうか。人為的に生成された思考には不自然な形式が生じている。そこからさらに大げさな驚きでももたらしたいのか。世間ではわざとらしい盛り上げ方が横行しているのだろうか。それが何らかの流行現象を生じさせているのか。できればそれについて詳しく説明しなければならないのかも知れないが、それをことさら見つけ出そうとしているわけではない。君には常に偶然の巡り合わせが必要なのだ。だが何に巡り会うかはそのときの成り行き次第だ。しかしそれで何を得られるのか。何も得られなければどうするのか。実際にそうなってみなければ何もわからない。だがそうなってからどう思うかはそのときの気分次第かも知れない。そしてそんな思いなどどうということはないのだろう。そう思うことに何の問題もありはしない。しかしそのときになってどう思うのだろう。それは説明を要するようなことではないのかも知れない。ただそのときになったらわかるかも知れないということか。だがそのときになってもわからなかったらどうするのか。わからなかったらわからないままだろう。ただそれだけのことでしかない。無理にわかろうとは思わず、わからないままでもかまわないと思うのではないか。ところで君たちは何を語り合っているのか。君に複数の人格が宿っているわけではない。なぜ君がそこにいると思っているのか。誰がそこにいるのだろうか。誰もそこにはいないのではないか。ただ自らが繰り出した言葉に踊らされているだけかも知れない。いったいそこで何を語っているのだろう。やはり内容は何もないのだろうか。少なくとも何かを語っていることは確かか。それはどのような現象なのだろう。言葉の連なりはどんな現象を引き起こしているのだろうか。何かが抜け落ちているような気がする。まだ説明が足りないのか。


4月13日

 まだ読み返しが足りないようだ。しかし春は何があきらめられているのか。その言葉はよくわからない。意味の定かでない言葉ばかりが先行して、現時点では何の進展もない。何を進展させようとしているのだろう。体調が優れないまま、相変わらず頭がどうかしているのかも知れない。確かに印象だけでは何も語れない。何の印象について語っているのかさえわからず、ただ言葉を闇雲につなげているだけのような気がする。だから行き詰まってしまうのだろうが、そんな行き詰まりも想定内のひとつか。ではそこから何を批判すべきなのか。社会と折り合いをつけるのは容易なことではない。それでも生きてゆけるのだから、そのまま逆らい続けるべきなのかも知れないが、逆らうとは具体的にどういうことなのか。常にそういう認識を維持できるだろうか。具体的に何に逆らっているのか。生きることに逆らい続けながら生きているらしい。要するにそんな嘘をついている。生き続けることに逆らうには死んでしまった方がいいのだろうか。人は誰でも一度は死を経験するのだろう。死んだ後には何が残るのだろう。そうではないような気がする。何を残そうとする気も起こらない。積極的に生きているわけでもなく、自ら進んで死のうとも思わないが、とりあえず他に何も語れないことを認めなければならない。安易に死など口にすべきではないが、オオカミ少年の再来を期待するのは愚かなことだ。少年は何を騒ぎ立てているのだろう。そして何を驚いているのか。愚かであり続けるのもおもしろいかも知れないが、それについて何を述べようと、文章が言葉遊びの範囲内にあることに変わりはない。そしてそれをいくら続けても、何ももたらされないかも知れないが、続いている状況はそのまま放置すべきなのかも知れない。何に基づいてそう判断しているのだろう。判断材料は継続している以外に何があるのだろう。とりとめのないことを述べているらしい。曇り空を眺めながらそんな思いにとらわれるが、曇り空と思いは関係ないだろう。抱いている思いは他にもあるはずだ。冗談ではないと思っているのではないか。何が冗談で何が冗談ではないのか。具体的に文章の内容を導き出さなければならない。何もないところからあるものを生成しようとしているわけか。そんな無理な試みにこだわっているようで、無難な成り行きになるのを拒否している。しかしそこでは何が冗談なのか。文章としておもしろい内容に見せかけることに、何の意味も感じられないということか。たぶん積極的には意味を求めていないのだろう。具体的な意味に至らないようなことを述べているのではないか。しかしそれがどういうことでもないようで、それを記しつつある者は、それについて何とも思っていないらしい。だから何を述べているのかわからなくなり、後から読み返す気にもならないわけか。思考する対象が見つからないのだから、それも仕方ないことか。この世界の何について考えればいいのか、なんて思っているうちは何も見つからないのかも知れない。見つからないうちに見切り発車的にそんなことを述べ続けているのだから、文章に内容を求めるなんて無い物ねだりもいいところか。だがそんなことははじめからわかっていたことだ。意味不明に陥るのがわかっていながら、それをやめられないのだから、それに何の意味があるかなんてどうでもいいことだろう。そしてどうでもいいことのついでに、それとは無関係なのだろうが、久しぶりに寝汗をかき、何を夢見たのか覚えていないが、翌朝のまどろみの中でもあまりいい気がしない。とりあえず翌朝の天候は心の曇りとは裏腹に晴れているようだ。晴れているのに心とは何の関係もなく、何と関係がないのかわかろうとせず、ただただ時間が過ぎて行くだけのようだ。何のトラブルも経験しないですべてがうまくいくはずがないことはわかっているが、そこから何か生じているのかさえわかろうとする気が起こらない。おおかたの人々は娯楽を提供する英雄の出現を求めているのかも知れないが、なぜフィクションの中ではありふれた困難に立ち向かいつつ、それを乗り越えるためのドラマが生み出されつつあるのか。そうしないと話にならないのだろうか。飽くことなくそんな話が提供され続けているこの世界とは何なのか。ただ話をでっち上げてカタルシスを得たいだけなのだろうか。しかしカタルシスとは何だろう。精神的に何を浄化したいのか。


4月12日

 誰が何を思い出しているのだろう。理論値と実測値が合わないのはよくあることだ。なぜか誰かの引きつった顔が心によみがえる。つまらない言葉の並びに嫌気が差している。薄ら笑いにも許容限度があるらしい。孤独を好む者は心に傷を負っている。人嫌いは小難しい顔をしているわけか。つまらない性格設定に明け暮れるのもつまらないか。人物評価にかまけている人間は浅はかだ。そんなことを知りたいわけではない。知りたいことは容易には知り得ないことだ。今日は雨が上がった後に気温が上昇するらしい。すでに春が過ぎようとしているらしい。桜はもう散ってしまったのだろうか。そんな月並みな言葉を並べて、誰を味方に引き込みたいのか。もっと本気で語ってほしい。知っていることを包み隠さず話してほしい。しかしそれは誰のために発せられた言葉なのか。語る対象を探しているのかも知れない。語りづらいことを語ろうとしている。くたびれているのにまだ語ろうとしている。架空のまなざしは気が遠くなるような未来を見つめている。何をどうやろうとうまくいくはずがないと思われる。それらの試みはすべて水泡に帰すのだろうか。いったいそこで何を試みているのだろう。知らない世界に行ってみたい。前人未踏の境地に達してみたい。そんな浅はかな願いとともに幻想と戯れていたいだけだ。君にはできることとできないことの区別がつかないようだ。きらびやかな衣装をまとって何をしているのだろう。それを誰に見せたいのか。幻想のただ中に誰かの意識が迷い込んでいる。そこで誰かの幻影が見え隠れしながら意識から逃げ回っているようだ。もう何もやりたくないと思っているのだろうか。それを知りたいとは思わないか。行く当てのない旅はどこまでもいつまでも続く。いつかは命が尽き果てて、そこで活動を休止せざるを得なくなるのだろうが、誰かの死に様など無視していれば済むことだ。他人の死によって何を感じ取ることができるのだろう。そこから何がわかるのだろう。ただごちゃごちゃわけのわからないことを述べているだけのようだ。眠気に耐えかねて退散したくなる。さっさとどこかへ行ってしまえばいいと思っているが、それができないところがもどかしい。何をどう試みても一向に語っている対象が見えてこない。これ以上はいくら述べても無駄なような気がする。それは昼間の記憶が反映した結果だろう。今は夜で、すっかりリラックスしたつもりでいるらしく、何も見えてこないのは相変わらずだが、しばらくぶりに何かしら語っている気になる。そんな嘘をついて現状を肯定する気にでもなったらしい。誰がその意識の主体をなしているのか。意味不明なことを述べて、そこに生じている不条理をごまかしたいのかも知れない。どのように述べても内容のなさは一目瞭然だ。それを隠しおおせることなどできはしない。そんなことを述べているそばからすでに行き詰まっているではないか。今頃それに気づいても無駄だ。何かを成し遂げようとしているのに、それとはまったく無関係なことを延々と述べている現状がある。そんな矛盾をどうしたらいいのだろう。どうもしなければこの先も延々とそのままの事態が続いて行くだけだ。興味の外にこの世界があり続けるだろう。世界が君を無視し続け、君が世界を無視し続けるが、君の無視などまったくの無効だ。君の存在などどうでもいいことにも値しないようなものでしかない。君は何も語ることができずに途方に暮れるばかりだ。いったい何を語ったらいいのだろうか。君には何もない他にも何もない。それはどういうことなのだろう。ついには虚無にも見捨てられてしまったのか。感動的に何もなく、劇的に何もない。そんな表現が有効に機能するはずもなく、何を述べてもこの世界に対しては無効なのかも知れない。それについてどう述べても無駄なのだ。まったく何を述べていることにもなりはしない。だから楽しいわけでもつまらないわけでもなく、ただそういう状況の中に自意識があるようだ。それはまったくの自業自得で自家中毒状態なのかも知れず、そこから抜け出せないのは誰のせいでもなく、ただそんなことを述べ続けている自らに原因があるのかも知れないが、そこからどう変わればいいのだろうか。もはや変わりようがない段階まで追いつめられてしまっているのか。そうだとしたらどうなのか。どうでもなくそうでもないのだろうか。ただ何を述べているのか不明なだけか。


4月11日

 今のところほほえみは誰のものでもない。まだつまらないままのようだ。いくら語っても語りにはほど遠いだろうか。何を語っているのか定かでない。定かなことは何も語れないわけか。そういう話には飽き飽きしている。内容のあることを語れない。それがそこでの不具合を形成しているのだろう。そしてそんな推測もわざとらしく感じられるらしい。そういうことを語りたいわけでもないのに語っている現状に嫌気が差しているわけか。気がつけばまた同じようなことを語っている。そこから遠ざかりたいと思っているのにそれができない。なぜそれができないのか。それは何もないのに語り続けているからか。そんな風にして延々と内容のない独白が続いているようだ。いつまでもそんなことをやって何になるのだろうと思うが、それをやめられないわけを知り得ない。それが君に課せられた使命なのか。誰にいつまでも語り続けるように促されているのだろう。そういう方向で述べていくと不毛な気分に近づくか。とりとめがないのは今に始まったことではない。理由を見いだせないのも相変わらずの実感に違いない。何かそこに希望を見いだすことができないのだろうか。同じ無内容で延々と語り続けることにどんな希望を付加することができるだろう。無理なことを語らないでほしいか。文章の継続を保ち続けることに何も意義を見いだせないか。だからそこから早く離れたいと思うわけか。そんなことを語っている自身から離れて、外の世界について語りたくなってくるのだろうか。君の外に何があるのだろうか。ありふれた日常の風景に溶け込んでいる限り、外には何も見いだせないだろう。それが心象風景であり続ける限り、それはいつまでも心の内側にとどまり続ける。それとは何なのか。そこにはどのような人物が存在しているのか。人の気配をまったく感じられない。それではフィクションになってしまうだろう。だがそれがフィクションではいけないのか。現実に起こっていることについて語っていたいわけか。そうなるとわけがわからなくなる。特定の事象について語れば、語っている理由がわかるようになるだろうか。要するにそれを批判したり褒め称えたりするために語っているわけだろう。そのように語る理由を限定されてしまうのが我慢ならないのではないか。何を批判したり褒め称えるために語っているわけではないと反論したくなるのだろうか。それでは何のために語っているのかと問われれば、理由など何もないということになってしまうだろう。それでは元の木阿弥なのではないか。つまりそこに渦巻いている虚無感から遠ざかることができずに、何を語っても虚しさばかり積み重なってしまい、結局うんざりして語るのをやめたくなってしまい、本当にやめようとするのだが、それができずに途方に暮れて、気がつけばまた以前と同じようなことを語っている現状の中に埋没してしまうらしい。だからこそそれを続けていればこの先も無限に語れるような幻想を抱いてしまうわけか。それが幻想でなく本当だったらどうしようか。どうしようもなくただいつまでも語っているだけだろうか。何となくそれを試してみたくなるようだ。この先いつまでそんなことを語っているのだろうか。未来の君は何を思うだろう。相変わらずうんざりしながらも語っている自分を発見するわけか。そうなったらおもしろいだろうか。そのときになってみなければわからない。たぶんそれは何かの呪文なのだろう。わけのわからない呪文をいつまでも唱え続けていると気が触れてしまうだろう。気が触れてしまったらおもしろいだろうか。おもしろいかどうかはそのときになってみてもわからないだろう。もしかしたらいつまでもつまらないと思い続けているかも知れない。以前と同じようなことを語り続けながら、以前と同じように感慨に浸り続けるのだろう。しかし今から何を予想しても虚しいだけだ。そんなことを予想しながらも、本心では絶えず予想が裏切られることを願っているのではないか。何のことはない結局そこから逃れたいだけなのか。それは弱い意志を形成している。他力本願の消極的な意志に違いない。積極的に何かをやろうとする意志を持たなければ何も実現できないことは分かり切っていることだが、それでもそうはなりたくないようだ。仮にそうなってしまえば、それは夢に向かってどうのこうのというくだらぬスローガンに堕することだ。なぜそれを避けようとするのか。


4月10日

 どこで何をやっているのか。心は今さら何を思うだろう。また何を考えているのでもない。あるいはそれをやめられるのか。考えることから外れて言葉が連なる。ついには文章がそれを記している者を無視している。なぜそこから抜け出られないのか。つまらないことを述べるにも飽きてきたらしいが、そんな思いを無視してさらに内容がつまらなくなってくる。君の心は何に支配されているのか。きっかけをつかめないのはいつものことだ。いくら考えても文章をまとめるには至らない。誰かは言葉と言葉を組み合わせて意味を導き出すのに四苦八苦しているようだ。それは誰かではなく君ではないのか。そんな語り方では誰かと君を使い分けていることにはならない。何をそんなに逃げているのか。いったいそこから何を感じ取ればいいのだろう。このとりとめのない世界では何と何がせめぎ合いを繰り広げているのか。そういうことではないだろう。では陰と陽のせめぎ合いの中から何が出てくるのか。太極の思想など知るはずもない。君には理解できないことばかりだ。誰と誰がそこで闘っているとも思えない。それは単なる金目当ての見せ物だろう。なぜそんな言葉でショービジネスを否定しにかかるのか。君もそれを見て楽しんでいるではないか。争いごとを好まない風を装いながらも、それを見て楽しんでいる現実を否定しても無駄だ。だからそんな問いかけに本気になれるはずもない。君は誰に何を問いかけられているわけでもない。ただ気がつけばまた否定の言葉が連続していて、それ以外には相変わらず何もないように思えるだけか。しかし現実には何を思っているわけでもないはずだ。要するに語るべき内容を導き出せない。心が貧しいのかも知れないが、その心がどこにあるのだろう。誰の肉体に貧しい心が宿っているのか。なぜそんなことを述べなければならないのか。理由など何もありはしない。ただ現状がつまらないだけだろうか。つまらないのではなく、現状を把握することができず、現状に対する認識にずれが生じているのではないか。だが何をどう認識しているのか。そこにはどんな不具合が生じているのだろう。たとえば思考が世界情勢に反応していないらしい。興味の外に世界情勢がある。それについて何を伝える気も起こらないのはどうしてなのか。何が悪いわけでもない。しかし何かが悪いのかも知れない。では悪い箇所を探り当てようとは思わないのか。この世界のどこが悪いのだろうか。それの何が悪いと思っているのか。なぜそれを肯定しようとは思わないのだろう。ならば何を否定したいのか。争い競い合うのは良くないことなのか。それが人類の構成する社会の本質だろう。たとえそれが無様な敗北を演出しようと、とりあえず結果は結果として認めなければならない。争いごとの中にもフェアな争い方があり、そういう争い方なら認めざるを得ないわけか。ならば争う相手にダメージが残らないような、比較的無害な争い方や競争の仕方を模索しなければならないのかも知れないが、それについて何か有効な手だてを思いつけるのか。思考を巡らせて具体的に何を提示しようとしているのか。たぶん文章には結びつかないだろう。それらの言葉は思考を必要としない。それが思考ではないからだ。それとは何だろう。それは思考ではない何かなのだろうが、それではわけがわからない。それを知る有効な手だてなどないかも知れない。そういう話ではないのだろう。すべては幻想なのか。すべてではなく幻想なのでもない。何をどうやればそうなるといったたぐいの話ではないのだろう。それは思考や思想などでは対処できないものだ。完全に外れている。すべてが外れているようだ。何が外れているのかわからないが、とにかく外れているつもりになっているようだ。今こそ何かに束縛されなければ、そのままどこかへ行ってしまうだろう。君はどこへ行ってしまったのか。君の行き先を教えてくれないか。誰が君に自らの行き先を教えられるだろうか。自らとは君自身のことではないのか。それでつまらない思いから抜け出ることができたのだろうか。たぶん行き先はどこでもない。ここには何もなく、そこはここではない。指先は何を指し示すはずもなく、何かが宙に舞い、宙に舞っている何かをつかもうとする手は常に空振りを繰り返す。何をつかむこともできないだろう。言葉は君を無視し続け、君とは関係のない文章を君は記し続ける。そんなことがあり得るのか。


4月9日

 何を描いているのか定かではないが、何も考えられないのかも知れない。まだ描き込みが足りないらしい。未来の予言など何の役にも立たない。何を予言したわけでもないだろう。まだ日差しが足りないようだ。日が昇り真昼の日差しに照らされて、このままでは君に将来はないと思う。何のつながりもありはしない。でもなぜか今日も生きている。生きるために生きている。そういうことではないのか。何のために生きているわけでもない。誰のために何のために生きたいわけでもないはずか。それが自由といえるだろうか。そういう話ではなかったのか。それは君の将来ではない。きっと誰かの将来なのだろう。文章が意味を生み出すことを嫌っているようだ。それは何という勘違いだろう。何が勘違いなのか。どうして君が勘違いしなければいけないのか。そういう言葉の並びは好かないか。別に腹が空いているわけではない。ぽっかり空いているのは南米だとか中国とかにある陥没した地形だろう。大地の裂け目なら火星に有名な峡谷があるらしい。誰かはグランドキャニオンに行ってみたいと思っているわけか。意識がどこかへ飛んでいた。それが幽体離脱であるわけもないが、意識はあり得ない時間帯に帰還を果たすだろう。どこに帰ってくるわけでもない。帰ってくる場所などありはしない。きっとどこまでも浮遊し続けるのだろう。壊れた心は元に戻らない。そこに残された希望が宿っていようと、いつまでも壊れたままだ。他に何が壊れているわけでもない。たぶんそれでかまわないのだろう。君は何を納得しているのか。どうなることを受け入れているのだろうか。どうにもならないだろう。どうにかなろうとしているわけではない。そこから遠ざかりたくないのかも知れない。まだこの世に未練があるらしく、生きて行くにはこの世以外に何もない、と頑なに現世の実在を信じている。もはや頭も心臓も使い物にならないのに、それで人間であることを維持できるだろうか。君の何が人間としての特徴を備えているのか。そう述べて何を否定しているわけでもない。そんなことを述べているわけでもない。誰が人間であろうとなかろうと、そんなこととはどんなことなのか。ただ文章が破綻しているだけか。納得のいく説明を導き出せないようだ。そのとき君は何を考えていたのか。どのときでもないそのときについて何か具体的な時間を覚えていないか。たぶんまだ目覚めているのだろう。眠らずに働いているわけでもない。だがそこから逃げ出したくなってくる。意識はまだこの世に生じたばかりではないか。何の楽しみもありはしない。革命とは何か。すでに前世紀の遺物と化している。手には五本の指がついているはずだ。意識は何を感知しているのだろう。ファンタジックな映像に見とれているわけか。今はそんなものに見とれている場合ではないだろう。それが考えるきっかけになるわけではない。考えようとしていることはそれとは違う。大げさな物語が君の心を支配しようとしている。何もないのに何かがあるように装うのは、虚無に包まれた心を救い出したいということか。現実に暮らしている世界にはなぜ何もないと思われるのか。どうしてこの世の中がつまらないと思うのだろう。何が報われるような出来事が起こってほしいのか。ただ生きているだけでは不満が残るわけか。この世に誰が生きているのかを知りたい。生きているということはどういうことなのだろう。君はこの世を支えている仕組みの何に反発を覚えるのか。誰が何を提供しているのだろう。享楽や快楽ばかり求めようとする心は病んでいるのだろうか。なぜそこに目的が介在しているのか。何を指折り数えているのか。数合わせが何らかの結論を期待している。誤差のないすっきりした数字になってほしいか。意味のない文章が連続しているようだが、それで何を測っているつもりなのか。散漫な気持ちを何かに集中させようとしている。そんな風に語っている意味を知りたい。何かを総合的な判断に導きかなければならない。何かとは何だろう。まったく関連性のない話題がニュースの語りの中で並べられているだけだ。それらの何に興味を持てばいいのだろう。昔から新聞を読んでいるような意識は、そういう疑念を抱く成り行きには至らないのか。君たちは何に反対して何に賛成しているのか。ただ闇雲に情報を求めているだけなのだろうか。そんな情報の羅列を見聞しながら安心したいのか。


4月8日

 君は何者なのか。言葉に埋もれて本心を見失う。意識にも歴史があるらしい。たかだか数十年の歳月から意識が構成されている。その社会的な構成物を自己と呼んでいいのだろうか。そんな風に述べている意図を知ろうとは思わない。またつまらないことを思い出してしまったらしいが、それについては何も述べられないことに気づく。ただ何も思いつかないだけだろう。正直になれないようだ。君は荒野を見たことがない。それは映画の中の風景でしかない。不毛の大地は映像によって弱められてしまう。実際に行ったこともない風景を目で盗んでわかったつもりになれる。そんな言語表現はいかさまもいいところだ。感動する対象を間違っているのかも知れない。君が求めているのは狂気でも正気でもなく、いったい何を求めているのか。誰に問うているわけでもない。問いかける当てのない問いかけが宙に舞い、風に流されどこかへ飛んで行く。それは何かの紙切れだろうか。そこに何が記されているのかわからないが、誰がそんな文章を読むはずもないだろう。誰かがそれを目で追っているかも知れない。紙吹雪が見知らぬ場所で舞い降りる。嘘でもいいからそんな言葉のつながりを保ちたいか。組み合わせがおかしいと思われ、後から適当な修正を加えられるかも知れない。君が何を記しているわけではない。それを記しているのが誰なのか知らないが、つまらないことに腹を立てても仕方がないだろう。辺り一面には雑草が生えている。所々に転がっている石ころを誰かが蹴飛ばしながら歩いているようだが、何のためにそうしているかなんて誰の知ったことでもないだろう。理由なき行動なんてどこにでもいくらでも転がっているものだろうか。そのたとえがよくわからない。君には何が見えているのだろうか。具体的に語る対象を見つけ出したのだろうか。試行錯誤は永遠に続いて行くだろう。どこに至ることもできはしない。その目は何を見ているわけでもなく、盲目であるわけでもないが、大したものを探し出したわけでもなさそうだ。今どき探検や冒険などありふれているだろう。見ている先には夜の闇が広がっているだけか。だがそれで何を思いつけるのだろう。虚しい歌詞でも思い出されるだろうか。今こそ立ち上がらなければならないが、立ち上がる理由を知らない。要するに何かをしなければならないという言葉は無根拠な行為を求めている。そういう曲を聴いているだけのようだ。すぐにそんな曲など終わってしまうだろう。まったく行為に結びつかず、次から次へと聴く者を挑発するような言葉が投げかけられているだけらしい。何をすればいいかなんて誰にわかるものでもない。それ以前にそんな言葉とは無関係に何かをやっている現実がある。現実に存在している誰を批判しようと、その批判が有効に機能することはない。批判している自らが批判している当の者とそれほど違いはないのだから、違っているのは批判している側とされている側という立場の違いだけで、それはいつでも反転可能な範囲に位置している。だから批判によって何が変わることもない。それが世間というものか。そんな予定調和を変えるにはどうしたらいいのだろう。しかしその問いが誰に投げかけられているわけでもなく、誰にそんな予定調和を打ち破る役割が与えられているわけでもなく、たぶんすべてが批判する側とされる側のどちらかになるだけのような気がする。予定調和から逃れることは不可能なのだろうか。君には傍観者という立場が割り振られているではないか。冗談にもほどがあるか。誰によって割り振られているのか。そこに神が存在することを証明したいわけでもないはずか。しかし君は何を傍観しているのだろう。傍観するのに飽きたら何をやるべきなのか。周りを取り巻いている風景を批判してどうするのだろう。なぜそれが風景としか見なされないのか。人に意識がどこで何を思っているのだろう。思っているはずのそれは人ではないのかも知れず、ただの風景に溶け込んだ人影にすぎないのかも知れない。ただの風景とはどのような風景なのだろう。それらの何が風景を構成しているのだろうか。誰の思惑が風景のどこに影響を及ぼしていようと、それが風景である限りにおいて人畜無害でしかない。いつまでもそんな画面を眺め続けていると痴呆に近づくか。それでも人畜無害だといえるわけか。誰が痴呆老人になろうと、そんなことは君の知ったことではないのだろうか。


4月7日

 意味不明な言葉の羅列によって文章が壊れているようで、何となくあきらめの境地に近づいている。心は何を述べてみても無駄であることがわかったらしい。古い文学的な表現に従えば、深い闇の中に死がある。画家には描く対象がある。画家でなくとも何かを描きたくなることもあるのだろうか。空想の中で風景が揺れている。そこで何を否定しようとしているのだろう。何を否定しようとしているわけではない。君のあずかり知らぬところで君が消え去ろうとしている。君に関与できる事柄などどこにもあり得ない。そうやって否定を繰り返すことしかできないらしい。まったくいたずらにもほどがあるだろう。それの何がいたずらだと思うのか。脱力感とともに厭世観が到来しているようだ。何をあきらめているつもりなのか。生きることも死ぬこともかなわない。誰のことを述べているのだろう。君にそれがわかるはずもない。君に詩心などあるはずもなく、そんな大げさな表現を使わなくとも、無知であることは一目瞭然か。しかし君には無知の意味もわからない。なぜ無知が肯定的な意味を持つのか。記憶喪失でもない限り何も知らないはずがなく、自らが無知であると主張するのは嘘ではないのか。あえて無知であるかのように見せかけるどこかの哲学者ようなやり口は姑息か。そう述べておかなければその先に文章がつながらないのではないか。だから君が何も知らないはずがないと見なすのは当然か。ではそこから何を導き出さなければならないのだろう。なぜそういう文章の流れになるのか。相変わらず理由は何もない。何もないのではなく、それを思いつかないのかも知れない。思いつこうとして思考を巡らすのが面倒くさいのか。そうやってただ延々と無駄で無意味なことを述べ続けているような気がするのだが、いつからそんな言葉の循環状態になってしまったのだろうか。いい加減に言葉を連ねすぎているのかも知れない。もはや文章のつながりなどあまり気にしていないように感じられる。それが読めるような文章だとは思えず、読む価値のない文章なのかも知れない。だからさらにわけがわからなくなってしまう。そういう成り行きを経過しないとまともな文章には行き着かないのか。そうなるのはいつになるのだろう。いつまでもわけがわからないままならどうなってしまうのか。気が狂うだろうか。すでに気が狂っているかも知れない。しかし誰の気が狂っているというのか。なぜそこで逃げてしまうのか。気が狂っていることを認めたくないからか。しかし本当に誰の気が狂っているというのだろうか。またそこで逃げてしまっている。そうやっていつまで経っても一線を越えられない状態が続いてゆくらしい。その一線を越えてしまっては本当に気が狂ってしまうのだろうか。そんなことは実際に一線を越えてみないことにはわからないか。すでに一線を越えている可能性もなきにしもあらずだ。しかし本当に正気と狂気の境目をまたいでいるとすれば、なぜそれがわからないのか。気が狂ってしまった者にそんなことがわかるわけがないだろう。ではそれがわからないのならすでに気が狂っているのだろうか。狂っていなくてもいても、どちらにしろそんなことに気づくわけもないのではないか。そうだとするとそんなことをわかろうとすること自体が無駄で無意味な試みになってしまうではないか。本当にそれを試みているのかもわからない。だが何もわからないというのが嘘だとすると、それ以外には何がわかっているのだろうか。わかっていることはいくらでもありそうだ。わかっているつもりのこともいくらでもあり、勘違いを犯している場合もいくらでもありそうだ。そんなことばかり述べていると、ほとんどとりとめのないことばかり語っているような気がしてくる。やはりいったい君は何を述べているのかと問いたださなければならなくなる。しかしいくら問いただしてもまともな返答が返ってくることはない。それは根本的に自問自答のたぐいであり、要するに問いもそれに対する返答も他者を介在させない自家中毒の偽りでしかないわけだ。それでも何かを語っていることになるのだろうか。何を述べているつもりになれるのか。何やら独白の形態をとっているのかも知れないが、それで何が明らかになっているわけでもないような気がする。告白の内容が告白することを拒否しているのだ。そんなことがあり得るだろうか。では君はあり得ないことを告白しているわけか。


4月6日

 何となく誰かは疲れている。君はその誰かに取り憑いている。君に何がわかるのか。君が困惑しているのならさらに解けない問題を出そう。何を信じていいのかわからず、考えがまとまらないようだ。言葉をまとめるには時間がかかる。何かに見とれている場合ではないが、見えているものが一向に見えてこない。だからいくら努力しても悪癖を正すまでには至らないようだ。気がつけばいつものやぶにらみになっている。君は努力という言葉の用法を間違っているのかも知れない。それを努力とは言わないのではないか。では悪あがきのたぐいだろうか。だがたとえ悪あがきだとしても、それをやらないわけにはいかない気質なのだから、それをやめられるはずがない。しかし気質とは何だろう。それが悪あがきを続けている理由になるだろうか。仮に理由になったとして、それで何がわかるのか。君の気質がどうであろうと、それによって文章の内容が悪影響を被っていようと、だからどうしたといわれれば、それに対して何をどう答えたらいいのかわからない。ただ漠然とした思いにとらわれていて、何も思い浮かばない日々の中に暮らしているだけで、それについて何を思ってみても仕方がないのかも知れない。そんな述べ方では気が済まないのだろうか。気が済まないならどうしたらいいのだろう。なぜかそこで言葉が途切れて、いきなり別の時空に意識が転移してしまい、誰かは君の夢の中に迷い込む。誰かとは誰だろう。誰かに出会った時の印象が薄いので、君は誰かの顔を思い出せずにいるようだ。記憶はどこで途切れているのだろう。言葉はどこから始まっているのか。君は文章の中で何を考えているのだろう。それ以前に考え方が根本的に間違っているのかも知れず、懸命に解けないパズルを解こうとしている。命がけであるはずがないが、別に何が解けるはずもなく、他にどうするわけもなく、もたらされた謎を解明するには至らない。解こうとする気にならないようだ。君の力量では解き明かすことは困難か。だがそれが謎などでないとしたら何なのだろうか。何でもないから謎なのなのかも知れない。そうやってカウンターを当てながらも、とりあえず誰かがそこで生きているようだ。そして日常の生活の中からは、一向に謎が出現する気配もなく、謎とはまったく関係のないことを述べている。君には誰かが述べている内容を理解できない。それの何が謎なのかさえわからず、ただ単にちんぷんかんぷんに感じられるだけのようだ。君はそこで絶望して死にたいのか。それほど大げさな精神状態ではないだろう。死が身近にあったのは過去のことだ。今ならたぶん死の意味を知ることができるだろう。意味を知ってどうするのか。それを知れば安心して死ねるだろうか。死ぬために死の意味を知ろうとしているのではない。簡単には死ねないから、意味でも知って安心したいのか。安心してどうするのか。あるいは安心して死ねるのか。何があるいはなのだろう。では君の身には死の代わりに何が間近に迫っているのだろうか。何も迫っていないのかも知れない。ただ述べている内容はいつもと変わらず、意味をなさないように言葉を組み合わせて文章を構成しようとしている。そしてそんな徒労の最中に何かを考えている。それを無駄だと思ってはいけないのだろうか。わけのわからない紆余曲折をくぐり抜けている。それが巡ってきた機会だとは到底思えないが、みすみす逃すわけにはいかないか。つまらない思想に染まってまっとうな人生を歩むにはひねくれすぎている。だから今さら何を語っても無駄だと思われ、世の中に起こっている具体的な現象について何も述べられなくなってしまう。しかしそれで何が見えていることになるのか。生ゴミのにおいでもかいでいるつもりなのか。いくら暗闇の中で目をこらしてみても、光を感じ取れなくては、何が見えてくるわけもないか。さらにわけがわからなくなるだけだろうか。無理なことはわかっているが、無理な時間帯で無理なことしか語る気にならない。それでは何を語っても無駄になって当然かも知れない。内容が何もない。それがそれらの文章にまつわる謎なのだろうか。空も心も分厚い雲に覆われて、日差しを知らぬ大地の上でつまらぬ現象が起こり続ける。それがいつもの日常に違いないが、君はそこで何を知り得るのか。何もわからないくせにわかったように思われるのはなぜだろう。内容がないこと以外に何をわかったのだろうか。


4月5日

 何かの音が気になって仕方がないようだ。静かになればなるほど、ちょっとした物音が気になり出す。いくら無感動を標榜していようと、何も感じないというわけではないはずか。感動と騒音に関連性はないだろう。無理に言葉を分散させては文章としての意味が通らなくなる。そんなことばかり語りながらも、何を呆れているのか。浅はかな戦略の構想は願い下げにしてもらいたいか。君のねらいはそんなところにあるのだろうか。だがはかりごとにも賞味期限がある。知っているのはそんなことではない。こちらが知ってほしいことを何一つ知ろうとせず、ああいえばこういう的な態度をいつまでも貫き通していると、終いには誰からも相手にされなくなってしまうだろう。他者の無意識のうちに加えられているそれが暴力であるとは限らない。虚無の力ではどんな攻撃にも対応できるわけではないが、君は至って無反応だ。感じている痛みに対して興味が湧かないのかもしれない。だが無痛症は自己崩壊の兆候を示している。もはや死の一歩手前まで追いつめられているのだろうか。いったい誰がそういう状況にあるのだろう。どこの誰から攻撃を加えられているわけでもない。君が誰であることもない。意識はどこからやってくるのか。それはすべての方向からやってくる。では意識とともに何が到来し続けているのか。それが君の言葉であるわけがないか。君は自分が発した言葉を自分のものとすることができずにいるようだが、それに対して何も感じていないわけではないはずだ。すべてはフィクションとして片づけられてしまうわけでもないだろう。暇つぶし気味の画面は何を語り続けているのだろう。気まぐれに物語の中から誰かのうめき声が聞こえてくる。それは誰の苦しみなのだろう。君がそれを語り始めるなら、それは物語とは関係のない声になるだろう。ではニュースの後に誰かの独り言が聞こえてくる。いくら殺してもこの世は人だらけだ。それは神の台詞に違いない。殺人鬼にはハッピーな世の中だろうか。普通の人にも簡単に人が殺せてしまうのだから、殺人鬼の存在意義も薄れてきてしまうか。だがいったい誰が殺人鬼なのか。人は雨が降っても外にいる。それが生きていることの証なのだろうか。意味がよくわからない。部屋の中には死人しかいないわけではなく、火事場には焼死体とともに消防士もいるはずか。誰がそこで生きているのだろう。誰も何も生かされていないような気がしてくる。それで何を安心しているのか。安堵のため息を漏らすにはまだ早い。安心すれば怠けてしまう。怠けてしまえばまた何もできなくなってしまう。だからどうすればいいのだろう。本来ならそういう話ではなかったはずだ。ことさら醜い感情をあらわにしたいわけではない。誰と何を争っているわけでもなく、闘いはいつも画面の向こう側で繰り広げられている。しかしそれで何を否定したいのか。何を語ろうとしても話にならないのだから仕方がない。どうも言葉がまともな文章としてまとまらないようだが、君はそこで何を語っているのか。語っているのではなく、語ろうとしてうまく語れていないだけか。だが今さら君に関して何を語っても無駄か。何が今さらなのかわからないが、それでもまともなことは何も語っていないと述べたら嘘になるだろうか。少しは世間に通用するようなことも語らなければならない、と思っているのかもしれないが、誰がそう思っているのか明らかにはならない。要するに君はそこから逃げているのだ。それを君自身が語っていることにはしたくないようだが、それは君が語る必然性を感じないからか。理由が定かではないのは今に始まったことではなく、たぶん積極的に理由を思いつこうとしていないのだろう。ではそれを理由なき行為に見せかけようとしているわけか。本当に理由がわからないのかもしれない。ならば理由や動機を知ろうとする者が勝手に導き出すものが理由や動機になるだろうか。さしあたってはそれでもかまわないと思われるが、それが誰にとってかまわないのかが不明だ。それでは結果的にかまわないわけがないのではないか。何となくかまわないと思った後からそうではないような気がしてくる。実際にそんな風に言葉を記すと、今度はそうでもないような気がしてくる。本当はどちらでもかまわないのかもしれず、そんな風に感じられてしまう原因を探ろうとは思わない。仮に探っても無駄なような気がする。やはりそんなことはどうでもいいことのようだが、それでは意味不明になってしまう。


4月4日

 それはかなりおもしろいことかも知れない。誰もが幻想を抱く。本当に必要なものなど何もないか。必要だと思っているものならいくらでもあるだろう。では必要という言葉の意味が間違っているのだろうか。たぶん君には気晴らしの娯楽が必要なのだろう。理解することが困難と思われるような難しい知識など必要ないと思われる。しかしなぜその手の知識が存在しているのだろうか。それを導き出した者がいるということか。導き出されたそれが知識として確立されて、学者や学生たちが苦労してそれを学ばなければならなくなり、中にはそれを発展させて、さらに難しい知識を確立する者まで出てきて、またそれを苦労しながら学ばなければならない立場の者が出てきてしまい、学問のより一層の秘教化に拍車がかかってしまうわけか。そうなるともはや専門外の人々には何もわからなくなってしまうのだろうか。そんな学問につき合わされる者たちは、いつまでも学び続けながらも、あわよくば自らも新たな知識を確立する立場になろうとして、それに関する研究や探求に精進し続けることになるらしい。だがそれを理解することをあきらめた大多数の人々にとって、それは無関心の対象でしかないだろうか。あるいはそれらの知識からもたらされた現象や製品の恩恵に与っていればいいのだろうか。それによって生活が豊かになったと思うなら、原理は知らなくとも研究者や探求者に感謝しなければならないわけか。そんな風にして全体としての人類はどこへ向かおうとしているのだろう。そのような方向での限りのない発展があるとは思えない。しかしその行き着いた先にはどのような限界が待ちかまえているのか。今の段階でそれを予想することなど不可能か。どこかの作家が今から数千万年後とか数億年後とかに存在するであろう地球上の生物を予想した書物やそれに類する文章や図の類を見ることがあるが、そこには決まって人類や人類の子孫たちは出てこない。それによると数百万年後までには人類は滅亡して、他の生物たちが人類が消滅した後に生物的な進化を遂げるという筋書きが多い。なぜ彼らは人類の進化形態をあえて予想せずに、他の生物たちに進化の可能性を見出そうとするのだろう。人類のこれ以上の身体的な進化は生物学的にはあり得ないと思っているのかも知れない。人類には生物学的な進化ではなく、科学技術的な発展という別の進化があり、周りの環境を人工的に変えることによって、進化の止まった身体をそのままに維持しつつ、そのような状態を永続させようとする意志が働いているのだろうか。医療技術の発展により寿命は昔より確実に延びているらしいが、そのような現実と数百万年後までに訪れると予想される人類の滅亡とは、どのような因果関係があるのか。それらの書物や文章の著者たちには現状がどのように捉えられているのだろうか。医療技術の進歩では人類の滅亡は食い止められないのだろうか。そのような科学技術が今ある現状を作り上げていることは確かだと思われる。科学技術の進歩とは裏腹に人類の身体は生物学的には退化していって、世の中が便利で暮らしやすくなればなるほど、心身共に病んでいってしまうわけか。すでに社会的には少子高齢化によって行き詰まっているのかも知れず、このままでは未来はないのだろうか。しかし急に何を述べているのだろう。そんな傾向などに憂いの言葉を投げかけるほど暇ではないか。そういう言説は現状の君とは関係のないことのように思われる。人類がこの先どうなろうと君の知ったことではないか。たぶんつまらない話の一つには違いないだろう。君が何を思ってみても、君がそこに存在する余地はない。確かに数百万年後に存在しているはずがない。しかしなぜそんなことを思ってしまうのか。今ある現状が君にはどのように思われるのか。文明とは何だろう。なぜ人類がどうのこうのなってしまうような話をしなければならないのか。何がそう語らせているのだろうか。人類の滅亡後の世界を描き出そうとする者たちは、どのような思想や思考に影響を受けてそのようなことを述べているのだろう。なぜ彼らがする話には人類の滅亡が不可欠なのだろう。今から数百万年後までには滅亡してもらわないと困るような事情でもあるのか。その辺の事情を知りたいところか。彼らが人類の未来像を描き出せない理由は何なのか。


4月3日

 何を焦っているのか。なぜか空が晴れ渡っている。はぐれ雲が遠くに見える。何にこだわっているわけでもなく、何を皮肉るつもりもない。そんな気持ちはすぐに翻されるはずか。何を破壊したいわけでもなく、ただ適当に文章を構成したいだけか。怠惰な気分を払拭するには至らないようだが、そういう語り方ではまずいのか。この世界の何に魅せられているわけでもない。では過去の語りは何を拠り所としていたのか。何に影響を受けてそんな風に語っていたのだろう。何を見出したわけでもない。外では夕闇が迫り来る時間帯となっているらしい。風の強い日だった。わざとぎこちないように語っている。そんな風に思わなければその先へ進めないようだ。しかしまだどこにも至らず、ごちゃごちゃ無駄な言葉を連ねている段階でしかない。いったいいつまで待たせるのか。もはや何を待っているのか思い出せなくなるまで待つしかないようだ。記憶はすべて忘却の彼方へ捨て去りたいか。何を感じているのだろう。誰かの浅はかな思惑を打ち砕きたいか。具体的にそれはどういうことなのか。人並みの暮らしの何が気に入らないのだろう。見出された時に何をやったらいいのだろうか。誰かはどこで何を見出したのか。君の行為は何に流された結果として発動しているか。それらの行為の中には正当性を見出せない。ただ無駄なことを語っているだけだろう。それは語り得ない内容に違いない。だからそれを避けて、代わりにどうということはないつまらない内容に終始しているわけか。文章としてまとめる気がないのかも知れず、つながらない言葉の断片が散らばったまま放置されている。それでも外部から到来した何かに触発されて文章を構成しようとしているのだろうか。だが君にはやる気が欠けている。覇気がまるで感じられない。しかしこれから誰と対決しようとしているわけでもあるまい。そこで誰と何を争えばいいのか。それぞれに向いている方角が違う。君はそこから逃げ出そうとしているらしい。理由は定かでないが、何となく逃げ腰で事態に対処しているようだ。本気になれないのはいつものことだろう。その必要を感じないのだから、そのままの姿勢でいればいいことでしかない。どこかの公園で石像が同じ姿勢で固まっている。石像には意識がないのだから、その姿勢で固まっている理由を知らない。それと同じことだろうか。誰に意識の存在を感じられないのか。歌は何を訴えかけようとしているのか。そこには何か切実な思いでも内包されているわけか。何が含まれていようと、外国語の意味を知ろうとは思わない。すでに外は夜か。何を理解するつもりもない。他人は他人にすぎないのだろうか。実現するはずのない夢を抱き、現実の生活を顧みることなく、何を反省することもなく、過ちは過ちのままに維持され、それで何を変えようとしているのか。それでも何かしら変化しているようだ。思惑通りの変化ではないかも知れないが、そんな思いを超えて何かが作用しているらしく、すべてが君を無視しながら揺れ動いている。そんな話は信じがたいか。今さら心を入れ替えるわけにはいかないようだ。感情の赴くままに、ただその場限りの浅知恵を駆使して、何とか切り抜けようとしている。それで何を切り抜けたことになるのだろう。君は君自身の力を信じていない。自らには何の能力もないように感じている。だから他人の力を利用しなければならなくなる。それで正解なのだろうが、本気になってはいけない。過ちは何度も繰り返されなければならず、それでこそ人が人でいられるわけだ。無理に正しい行いをしてはならない。結果的に間違っているべきなのかも知れない。間違いながらもその間違いに気づき続け、さらに間違いを積み重ねて、無限に間違うことを厭わないようにならなければならない。何となくうんざりするようなことが連続しているように感じられるが、それとは違う状況はあり得ないのかも知れず、逆に思い通りにいってしまうのは危険きわまりないように思われてくる。そこから何を学んでいるつもりもなく、積極的に誤りから学んではいけないのかも知れない。そうではないような気がする。正しいことを述べるのは性に合わないのだろう。正解を提示したくない。単刀直入に目的に基づいた意見を述べる気がしない。まわりくどく曖昧なことを述べ続けているらしく、ただわけがわからないように思われたいのだろう。だから君はいつまでもどこまでも間違っている。


4月2日

 見飽きた画面から目をそらし、他に何を見る気もなく、揺れ動く心の内側をのぞき込んでいるつもりになる。誰かの死体が何を物語るのか。そんな物語ではなく、過去の物語は現代の出来事に対応していない。すべては過去の話になってしまうかも知れないが、それでも今認識しつつある現実を見失っているわけではない。ただそう思いたいだけなのだろうか。他にどんな予感を感じているのか。時の流れはどこへ向かっているのだろう。誰が何を感じているつもりなのか。これから述べる内容はありふれている。ただ苦いだけだ。耐えられない苦みだろうか。なぜコーヒーを一気に飲み干してしまうのか。つまらぬ疑問に答えようとは思わないか。つまらない脱線の仕方に呆れ返っている。そんなことを述べるつもりではなかったはずか。では何に逆らっているのだろう。君にはわからないことばかりだ。わかろうとしていないのだから仕方がない。それでも何か語るあてがあるのか。今度は何を飲み干そうとしているのだろうか。海の水は塩辛い。できれば物語を否定するのはやめてほしいか。どんな物語があるわけでもない。ヨーロッパのサッカー場で観客が騒いでいる。誰かの音楽がかき消されている。君は絵画の中に閉じこもろうとしているのか。詩的な表現には程遠い。言葉がそうなるのを拒否しているらしく、積極的に何も語ろうとしないのに、他の誰かによって何かが語り始められるのを期待して、すかさず発せられた言説を否定する準備に怠りはない。そんなのは嘘に決まっているか。だが君はそれで何かを発見した気になっているようだ。意味がつながらない言葉の連なりを文章だと思っている。それも誇大妄想の一種だろうか。だが具体的な内容が見当たらない。自らの都合を優先させるべきではないのかも知れない。昔あるところに誰かが住んでいたらしい。自らの美意識を貫き通すつもりはなさそうだ。人々は何を考えているのだろう。バラバラの断片をつなぎ合わせて文章を構築したいのだろうか。君は妙な気分の正体を見破れるか。無意味の中に意味を見出したい。自らの記憶の正しさを誇るつもりはない。ではそこで何が消え去ろうとしているのか。君はわかりやすい言葉を知らないのか。海辺から程遠い内陸地方に何かがあるらしい。干からびたミイラは肌の乾燥を好んでいる。意味のない話の最中だ。久しぶりに老人が登場して、何かつまらないことにこだわりながら、自らが後生大事に持ち続けている知識についての自慢話に花を咲かせている。世界のどこに宝が隠されているのだろう。何を助けてほしいのか。文章に意味を見出したいらしい。わけのわからないことを述べるのはやめてほしい。枯れ葉の堆積層の下に何があるというのか。水の香りを感じ取っている。空気と共に水も循環している。しかし同じような言葉の循環を阻止しなければ話にならないだろう。思考はどこを巡っているのか。そこから何を導き出したいのか。何を導き出せると思っているのか。対象となる事物を探している。それは言葉では表現できないものなのだろうか。君が言葉から成り立っているというのは嘘だろう。いつか述べた台詞を思い出したようだ。だがそれで自信を取り戻すわけもなく、いつも不安のただ中から何かを語ろうとしているようだが、君はそれを誰の言葉とも思わない。依然として何がもたらされているはずもなく、空虚で空疎な文章の中に何が記されているわけもない。では君は君自身の存在を否定できるだろうか。そうではなくそのつもりもない。何をやろうとしているのでもなく、何をやりたいとも思わない。だからそこには何もないわけだ。何を語ろうと何も得られないと思っている。ただそれを否定したいだけなのかも知れない。無駄に言葉を弄しているうちに結論が見えてきたのだろうか。それらの何を結論だと見なせばいいのだろう。説明には限りがなく、説明のための説明が繰り返されているだけか。それ以外に何を説明したらいいのか。何もわからないままに時が流れて、見出そうとする現象に追いつけないと思う。すでに通り過ぎてしまったのではないか。とりあえず意識は時間の経過を感じているらしく、時が経てば今とは違う状況になると信じているようだ。いくら期待外れを経験しようと、それでもまだ変化することを期待しているらしい。他人をやりこめようとする感情が打ち砕かれて、つまらない世界が一掃されてほしいか。しかし誰がそれをやろうとしているのか。それらのやる気のなさは何をもたらしているのか。


4月1日

 何をやるにも動機がわからないだろう。背後から視線を感じるが、あえて振り向くこともなく、ただ淡々と歩いてゆく。何があっさりしているのかわからない。追及すべき問題を知らない。だがそれが不具合だとは思わない。何の問題もないからか。問題もないのに問題を追及することはできない。誰かは子供の教育について何か意見でもあるわけか。冗談でなら適当なことを述べることができる。見知らぬ誰かに何を指摘してもらいたいのか。それらのどこに問題点があるのだろう。嫌な思いを抱いているわけではない。感じているのはそんなことではない。それでも何かを述べなければならなくなる。君は君の意識に内包されている欠陥についてどんな見解を持っているのか。人はどこまで人でいられるのだろう。獣の病に罹っているわけではない。正しい行いはいつか破綻する。その時点では正しいからこそ、別の時空では正しくなくなってしまうわけだ。だからその時点での判断の正しさを誇ってみせるほど愚かな行為はない。そんなわけで君には皮肉な台詞が似合っている。無理を承知で意識をさらなる事態に対応させなければならない。いったい何が破綻しているのか。小さなほころびをことさら強調するには及ばないか。そこからかいま見ているつもりの現実はフィクションに違いない。いつまでもどこまでも本気になれず、そこから遠ざかることもできずに、ただ笑うしかないのだろうか。おもしろいから笑っているわけではなく、たぶんそれはあきらめの笑いなのだろう。あきらめきれなければ、笑いを押し殺しながら、真剣に努力を継続するはずか。だがそれは何のための努力なのか。目的もないのに努力し続けていること自体が矛盾しているが、そんな矛盾を気遣うはずもなく、ただ笑いながら言葉をいつまでも連ねているようだ。そんな現状を真に受けるつもりはなく、何を述べているのかわからないまま、さらにわけのわからないことを述べ続けているらしい。君はそんな風に述べながらも、それによって何をあきらめているのだろうか。その後に続けて何を述べるべきか。まっとうな言説にしたくなってくる。たぶん意識が自ら記している文章のおかしさに慣れてしまって、何がおかしいのか理解できなくなってしまっているのかも知れない。君はおかしさの限界を知らず、見聞する何もかもがおかしいと感じてしまうようだ。対象がおかしいのではなく、おかしいと感じる心がおかしいのだろう。だから何も考える気が起こらなくなる。それについて考えること自体がおかしいのではないか。しかしそんな疑問はどこから生じているのか。それとは何だろう。それを知りたいとは思わないか。巷にあふれている暴力の源泉を知りたいとは思わないか。暴力に付随している快楽はどこからやってくるのだろうか。それは誰の意識を反映している文章なのだろう。言葉を操ることが暴力につながっているのかも知れない。何を述べているのかわからないことが、何か得体の知れぬ現象の存在を暗示させ、それについて知ろうとする試みは、迷宮を探検しているような幻想を生み出すらしい。フィクションに酔うことは、人に計り知れない遠回りを体験させるのだろう。そのつもりはなくても無意識のうちに現実から目を逸らせ、ご都合主義の神髄を経験することになるらしい。だが君がそれで満足するはずもなく、今度はフィクションを現実と混同させることによって、さらにたちの悪い幻想を生み出そうとしているらしく、単純化された対決の物語に現実を押し込めようとしている。あたかもこの世界では毎日限りのない戦いが繰り広げられているように感じられてしまい、見聞している何もかもがスペクタクルに思えて、常時実況の大げさなナレーションが背後から聞こえてきてしまい、まるでプロレス中継のまっただ中で暮らしているような気分になるだろう。そんな状況の中でどうやって正気を保つことができるだろう。正気でなくてもかまわないか。常にハイな気分でいられるなら、それと引き替えにして愚かさのどん底に突き落とされてもかまわないと思うようになるのだろうか。実感としてはそうではないのだろうが、単純な欲求を満足させるために、さらに自らの精神構造を単純化させるような試みには、まるで麻薬を吸引しているような気分を伴うのかも知れず、それに囚われてしまった者に何を諌言しようと無駄なのだろう。