彼の声51

2005年

11月30日

 ようやく数日遅れで先月が終わろうとしている。もうやめたらいいのにやめられない。やめられない事情など何もないだろう。何もないのによくここまで来たものだ。君は言わんとしているのはそんなことではないはずだ。まだ君はどこかで生きているようだが、たぶんそこから遠くへは行っていないはずだ。しかし何も期待に応えていないことに変わりはない。相変わらず沈黙したままのようだ。過ぎゆく時間に蹂躙され、まるで虫けらみたいに蹴散らされている。そして無駄に言葉をもてあそびながら、つまらぬ強がりに凝り固まっている。まだ遅くないだろう。やめるには遅すぎることはない。まさか早すぎると思っているのか。少し早すぎないか。もう少しひねりを効かせてからでも遅くはない。墜落の一瞬前に何が思い浮かぶだろう。誰がそこで逆噴射したのか。自分の殻に閉じこもりながら、まるで蟹のように横歩きを繰り返す。事態は今より少しはよくなるのだろうか。君は愛という言葉を知っている。冗談でそんなことを述べているのだろう。君はそれを理解していない。その言葉自体の使用法を忘れている。きっと死ぬ間際に何か思いつくだろう。それが単なる勘違いだとしたらどうだろうか。どうもせずに、ただそこで死んでゆくだけだ。君は理解してくれないだろう。灯油の匂いでも漂っているのだろうか。まるで放火現場のように感じられ、それがフィクションであることを忘れている。火を噴きながら誰かが後ろから迫ってくる。鬼のような角が額から突きだしているらしい。そんな嘘では信じてもらえないだろう。それはどんな問題なのだろうか。誰かの意味不明な冗談には一応警戒しておこう。それはどのような感触なのだろうか。どうやらポケットには穴が開いていたようで、そこからコインと鍵を落としてしまったようだ。別に騒ぐようなことではない。そんな作り話の中では誰かが騒いでいるかも知れないが、地べたに一日中座り込んでいる乞食には騒ぐ気力がない。何か拾い物でもあったのだろうか。みんなそれを見ながらゲラゲラ笑い転げている。何かおかしいのかわからないらしい。新しい傘でも買ったのだろうか。スリが他人の財布を抜いているのを見かけたことがあるだろうか。そんなことに興味があるのではない。踊っているのは誰でもなく、たぶん君でもないのだろう。何かの起爆装置を踏んでしまったらしい。爆発して手足がちぎれ飛び、それが漫画の一場面であることを思い出す。よくできた文章ではなさそうだ。何をもったいぶって話しているのだろうか。無理なことは承知しているはずではなかったか。君はただ闇雲に言葉を連ねるのが好きなようだ。誰かの指先がこの世界の全体を指しているわけではない。それは世界地図でしかないだろう。疲れたら休めばいいだけのことか。地図とにらめっこしてもどこにも行けはしない。それで疲れていることになるのだろうか。群衆を見ていると疲れるらしいが、誰も見ないで壁を見つめているのもかなり疲れるだろう。静寂に包まれていると、どこからともなく沸々と妄想の雲が湧いて出る。誰かの絵の中で、バベルの塔にかかっている黒雲はそんなものかも知れない。資本主義者は何を考えているのだろうか。それはただの金儲けなのだろうか。何かの一環であることは確かなようだが、いつまでも社会の秩序を保つことばかり考えている社会主義者を馬鹿にしているのだろうか。社会の秩序を利用しながら金儲けができるかも知れない。株価が経済の実態を反映していないのは危ういことかも知れないが、それがスリル満点のばくちを打つ必須条件なのかも知れない。君は策を弄しすぎて策に溺れる。それがおもしろいのだから仕方がない。そのうち凍てついた大地から石油でも噴き出すだろう。それがだめなら海岸で塩でも精製しよう。冷えた七面鳥を食べられるだろうか。いったい何に傷ついているのか。そこからでたらめに述べてはいけないのだろうか。何かがぐるぐる回っていて、そこが頭の中だとしたら、君はくるくるパーになったことになるらしい。そんな冗談なら笑ってもらえるだろうか。腐りやすい肉はハイエナにでもくれてやるのが正しい判断なのだろう。まだまだその先に続きがあるようだ。誰が誰と手を組んで、何をやろうとしているかを知りたいようだが、複雑なことは何もない。扉には蝶番が取り付けられていて、そこに誰かが入ると扉が閉まる仕組みになっているだけだ。そこはトイレでしかない。言葉と文字が一致するはずがなく、思いと考えも不一致を構成している。やりたいようにやっているつもりが、他人の思惑に振り回されている。寝て起きて考えて、そのとき何を思っていたのか忘れていることに気づく。どこまでも間が抜けているように思われ、底なしの愚かさを見せつけている。誰も理解してくれない。誰からも無視されている。それが被害妄想でも形成しているのだろうか。ありもしないことを述べている。だからそんなものでは物足りないのだろう。汗がだらだら流れている。それは画面上の俳優だ。死刑台は本当に十三階段なのだろうか。首をつって殺される運命はどこの殺人犯に訪れるのだろう。あまり思わせぶりなことを述べてはいけない。何かのたがが外れているのはわかっているが、誰かはもう壊れてしまったのかも知れない。ではこれから誰かの意識を再建する必要がありそうだ。我慢が利かずには眠ってしまいそうだが、何を聴いても子守歌に聞こえてくるのは仕方がないだろう。まぶたがだんだん重くなり、まるで催眠術にかかったように眠ってしまうらしい。それはそんなに遠くの未来ではなさそうだ。つい最近一日中寝ていたような気がするが、まだかなり眠たいらしい。それがどうしたというのだろう。大したことは何もなさそうだ。こうしてわけのわからない文章に導かれ、意識はますます意味不明に近づいている。それが何のことやらさっぱりわからない。まだそこから続けようというのか。もっと自らの言説に自信を持っていいのではないか。それが大きな勘違いであることは承知しているつもりだが、それでもかまわずひたすら前進し続ければ、何となくそれでうまくいっているような気になるらしい。それは甘くて古くさい展望になっているかも知れない。だが偽りの心に嘘をつくことができるだろうか。それはどういうことなのだろう。まだ自ら設定した水準に達していないのだろう。だが傷つくことを恐れ、何も語ろうとしないよりはマシかも知れない。まだ心の中に沈殿しているわだかまりを解消するには至っていないが、少しずつでもいいから改善の余地を見出せるようなことを述べていきたいようだ。そこからしか語り始められないのだから、そうやって語り続けるより仕方ないのだろう。力任せに言葉と言葉をつなぎ合わせ、強引に文章を形成しているらしいが、それがそのときのやり方なのだ。


11月29日

 スピーカーから不協和音が聞こえてくる。そんなスピーカーは要らないと思うだろうか。雲の切れ目から日が差し込んでくる。要らないのはスピーカーではなく、不協和音の方だろう。間の抜けたことを語っているらしい。誰がつかの間の安らぎをどうしようとしているわけでもなく、何がどうなっているわけでもない。とりあえず思い浮かんでいることを言葉にしているだけだ。そしてそこから逃げても無駄であり、思いつかないことは語れない。別の時間帯において、何かをそこで見かけたらしいが、まだその場の空気をつかめていないようだ。見かけたものなどどうでもいいのかも知れない。たぶん昨日と同じようなことを述べているのだろう。それで疑問が何も湧いてこない。誰かは昨日よりも低い場所から語っているようだ。そこで何かが見出されているかも知れないが、それは言葉には結びつきにくい雰囲気か何かだろう。思いつくことは何もありはしない。なぜそうなってしまうのかわからないが、とりあえずこれから知っていることを述べなければならない。それは知り得ないことになるだろう。君はそれを知る前に消滅してしまう。それを見つけたのは君ではない。誰がそれを見つけたわけでもなく、すでに見出されているものを改めて見つける必要はないのかも知れない。しかし見つけられないものと見つける必要もないだろう。もはや何を述べるのも困難となっている。誰かは自業自得気味に災難を呼び込んでいるのかも知れない。自らの存在が災難そのものだ。そしてそんな状態に苛立ちを覚え、誰かはたまには怒鳴ったりするらしい。そんな誰かについてこれから話をでっち上げようとしているわけだ。またわざとらしい嘘をついている。だが嘘をついているのは君ではない。周りの環境に同化しようとしているのも君ではない。何か精緻な言い方を模索しているわけでもなく、それについて何かいい考えが思いついたわけでもない。そして数日後に降ってきた久しぶりの雨に浮かれているわけでもないらしい。君は誰かに狙われている。その狙いをフィクションの中で明らかにしたいようだが、それを明らかにできる人物がフィクションの中には見当たらない。そこで何を企んでいるのかを知りたいが、君が何を企んでいるわけでもない。君を狙っている誰かがフィクションの中に入り込めるわけでもない。言葉がどこかで暴走しているようだ。だが知っているのはそんなことではない。もうすぐ眠たくなるだろう。そして今日も一日が終わろうとしている。そこで一日が終わり、また別の一日が始まり、またその一日も終わろうとするのだろう。そこで何が繰り返されているのか、それをわかろうとしないらしい。たぶん君は老いているのだ。そこから時間がだいぶ経過している。そこで何もしたがらないのは誰でもない。誰もが何かをしようとして、実際に何かをしている。それは恐ろしいことかも知れない。だが恐ろしいと同時に何でもないことだ。君にはそれの何が恐ろしいのかわからない。そこに何の意味も見当たらないことが恐ろしいことだと思うが、誰がそんなことを思っているのかわからない。下弦の月が地平線の向こう側へ沈もうとしている。君が見ている光景を思い出す。それはいつもの夜だったかも知れない。それ以上の言及は無理のようだ。画面から遠ざかろうとしている。本当に遠ざかっているらしい。言いようのない雰囲気を感じている。それを見ていることは確かなのだが、過去にはそれとは違う光景にも遭遇している。なぜかそれを思い出そうとしているらしいが、意味がよくわからない。本当は何から遠ざかろうとしていたのか。言葉とともに文章から遠ざかっていたようだ。何かが足りないようだ。気力が失せている。何をやる気もしないらしい。たぶん他人からの助言など何も聞こうとしないだろう。それが末期的な症状であることはわかっている。そんなことをやっている意味は何もありはしない。心身のバランスが崩れているのかも知れないが、それが何を述べたいのかわからない理由にはならない。本当にわからないのなら、そこで語るのをやめればいい。たぶん結論はすでに出ているはずだ。その結論に逆らう理由もありはしない。なぜそうやって強情を張ろうとするのだろうか。無理なのだから仕方がないだろう。無理であることはもとから承知していたはずだ。ならばわけのわからないことを述べていないで、さっさとやめてしまえばすっきりするだろう。すっきりしたいのは山々だが、何からそれの作動を阻んでいるようだ。それは今までに述べてきたことから生じている何かだ。それでも続けるのには気力が必要だが、一方でそれをやめるのにも、続けるのとは逆の気力が必要なのかも知れない。君に惰性を止めるだけの意志の力が残っているだろうか。止められるものなら早く止めてほしいが、その結果についてはその先を読んでもらえば一目瞭然かも知れない。そういう突き放し方は無責任だろう。もとから責任の所在などはっきりしていないか。何かが戻ってきているようだ。それはしばらく前に述べていた言葉の連なり方だ。見えてきた光景とはそんなものなのか。また何かが繰り返されている。その何かにのめり込もうとしているらしく、体調が思わしくないのに、そんなことなどお構いなしに時間がどんどん進んで行き、何もない空白を押し広げているような気がする。この宇宙は膨張しているらしいが、それとも何らかの関係があるのだろうか。できることならそんな状況からは逃れたいのだが、言葉がそれを許してくれないようだ。まだ先へ連なるつもりらしく、さかんにわけのわからない連なり方を模索しているらしい。いったい君は何を考えているのか。そんな疑問は予定調和だ。そうではないやり方を模索していたのではなかったか。そんな繰り返しから抜け出ようとして、何か別のことを語ろうとしていたらしいが、気がつけばまたいつものパターンに舞い戻っている。それは誰かの意志の弱さが反映された結果かも知れないが、それがどうしたわけでもない。ただ無理なだけなのだろう。それ以外にはどうにもできない。だからそんなことを述べているわけだ。それがそこでの結論のようだ。空洞が暗闇で満たされている。もうすぐ朝になりそうだが、今はまだ夜だ。夜が明けるまでは何とかけりをつけたい。それは無理だろう。すでにそれから数時間が経過していて、今はもう昼だ。いったいこれまでにどれほどの時間が過ぎ去ってしまったのか。無駄に費やされた時間だけ、あくびの回数が積み重なってゆくのだろう。そんなわけのわからないことでは済まなくなりたいが、今はそれで済んでしまうらしく、もはや言葉のゴミは処理能力の限界を大きく上回っている。本当にそこで終わってしまうかも知れず、終わった後に何をやるべきか真剣に考えなくてはならない。


11月28日

 また何やらつまらないことを述べてしまうかも知れないが、この社会について何をどう述べても、現実に何がどう変わるわけでもないだろうが、とりあえず単純な言説は無効だと思われる。言葉ではどうにもならないことばかりなのかも知れない。実際に何をどうしたいのかを知らず、何事もどうにもならないように思われ、それに関してどう語ったらいいのかわからなくなる。自らが何をやりたいのかわからない。人はただ生きているだけではだめなのかも知れないが、それ以外にどんな生き方があるのかを知りたくなる。なぜそこでそんなことをやっているのか、その理由が信じられない。何となく時間的に追いつめられたままで、一向に埒が明かないようだが、誰かはこの期に及んでまだ陽気に振る舞えるような気がしてくる。現実にはその気もないのに、誰が陽気に振る舞うはずもなく、それは無理なような気もするが、それでもまだ心のどこかに、その状況を許容できる余裕が残っているのかも知れない。ここは何とか冗談でも飛ばしながら、その場を切り抜けるしかやりようがなさそうだが、それでどんな状況を思い浮かべているわけでもない。とりあえずは何も思いつかないので、適当に言葉をつなげているだけなのかも知れない。そしていつまでもそんなことを思っていると、何となくその先を語る気力が失せてくるが、状況的には意地でもその先に言葉を進めなければ気が済まないような雰囲気になっているようで、もう何が何だかわからなくなっているのはもちろんのこと、なぜそんなことを述べているのかわからなくなってきて、その惨状から目を背けたくなり、その辺でそれでも述べ続けている誰かの真意を知りたくなってくるが、どこにも真意などありはしないことは、知りたくなる前からわかっていることだろう。それがつまらない予定調和の言説を形成する原因となっているらしく、いつまで経ってもそんなことしか述べられない現状に苛立つばかりのようだが、そこで誰が苛立っているのかもわからないままに、そんなことを述べていることで、さらに苛立ちが増してくるように感じられ、そんな述べ方自体が、そこでの言説の何もなさを物語っているのかも知れず、そんなどうでもいい内容を飽きもせず繰り返している現状が、あからさまに示されいるだけで、そんなていたらくではもう終わりかも知れないが、終わりたいのに終われない現状に呆れ果て、その理由はただやめるにやめられないということでしかないと思うが、それでもなぜやめられないのかを知りたい。たぶん君は何も知り得ないだろう。次の瞬間それは違うように思われる。生きることや死ぬことにどんな意味があるわけでもない。生き続けることは死を先延ばしにしているだけだが、何もそこですぐに死んでしまう必要もありはしない。そんなことはどうでもいいことなのだろう。そしてどうでもいいから何も述べられなくなる。何かを述べるということは、どうでもよくないことについて述べることになるのかも知れず、それを見出さなければ、その先へは言葉をつなげられないのかも知れない。だから君はそこで行き詰まる。そして苦し紛れにありもしないフィクションをでっち上げようとする。それが君の物語となるのだろう。だが君が欲している言葉はそこにはない。それが気に入らない原因だ。現状はそんなところのようだが、まだ何か気づいていないことがある。君はそれを知ろうとしているようだが、その知ろうとしていることが気づいていないことと一致するはずもなく、知ろうとしていることも気づいていないことも、まだまったく思いついていないのかも知れない。それらの文章はそれを思いつくような言葉の並びではない。だがその代わりに何を述べれば気が済むはずもなく、ただ闇雲に無駄な悪あがきのようなことを述べ続け、そこから物語の断片らしきものを空想する以外は、何もできない状況に追い込まれているのかも知れない。そしてそれで何か述べていることにしたいらしいが、まだそれだけでは足りないようだ。説明が中途半端であるように思われるが、何を説明しているのかは相変わらずわからない。とりあえずそれがわからないふりをしておかないと、その先に言葉がつながらないらしい。何となくそうではないように思われるのだが、やはり一方ではそんなことを述べている現状を認めざるを得ず、それを認めながらも、それでは意味不明だとも感じられ、何とかまともな意味を担うような文章に修正したいらしいが、そこから何を修正したらいいのかがわからない。そして君はまた嘘をついているようだ。逸脱しすぎた文章をもとの軌道に戻さなければ、さらに意味不明となってしまうだろう。それは望むところかも知れないが、強がりもいい加減な水準にとどめておかないと、いつしか本気でそんなことを述べている自らに気づいてしまうだろう。しかしそのとりとめのなさをどのようにも表現できないことがもどかしい。それをわかっているのに言葉で示せない。すでに感性はこちら側からあちら側へ到達してしまったらしく、あちら側から見れば、すべてがどうでもいいことに思えてくるのは当然のこととしても、それがなかなか的確な文章表現に結びつかないようで、この世界で人々がうごめいていることについて、その状況にどのような言葉を当てはめればいいのかがわからない。それは語らなくてもいいことなのかも知れないが、他にどうしたらいいのかもわからず、とりあえずそのことについて何か述べなければならないような気がしてきて、こうして言葉を連ねているわけだが、どうもそれは違うような気がしてきてしまうらしい。言葉を連ねれば連ねるほど、その思いから外れて、何やら言葉自身に言葉の連なりが折りたたまれて、述べようとしていることが虚無にすり替わってしまうように思われ、結局何を述べているのでもないような言葉の連なりを読んでいる自らに気づくことになる。つまらないことにこだわりすぎているのかも知れない。やはりそこで何を述べているのでもないことを認めざるを得ないようだ。そしてそれはどういうことでもなく、単なる意味不明だと斬って捨ててしまえばそれでかまわないような気もしてくるのだが、そんなことを述べながらも、やはり君はわざと嘘をついているようだ。まさかそれでしてやったりなどと、勘違いしているわけでもないだろうが、何となくまだ本心は何も明かされていないような気がする。まるで冗談を述べているつもりになっているのかも知れず、深刻さはみじんもなく、どのような状況になれば深刻な気分に導かれるのか、わざとそうなるように、試行錯誤でも繰り返しているつもりなのかも知れないが、とりあえずは陽気な気分を装い、口笛でも吹きながら、適当に嘘でもついていれば、何となくその場は丸く収まるのかも知れず、現にそうやってその場を切り抜けているつもりなのだろう。だがそんなごまかしはまったく通用していないのかも知れない。


11月27日

 何かわかりやすいことでも述べてみよう。簡単なことなら君にも理解できそうだ。例えば雪山を眺めながら風を感じている。雲の上にも空がある。空の上にも空がありそうだ。何を見上げて何を思っているわけでもない。すべては常に生成され続け、そのすべての中に何が入っているわけでもなく、それらはみな空虚から生み出されている。たぶんそんな勝手な思い込みも、その生成され続けている中の一つなのだろう。君は空集合のことでも述べているのかも知れないが、それは数学的に正しいことではなさそうだ。ただあやふやなことばかり思い浮かんでくるらしい。それで言葉を操って何かを述べているつもりなのかも知れないが、実際に語られている内容はどこにも見当たらない。そこに提示されているそれは内容などではなく、不可視の内容についてあれこれ述べているつもりになっているだけのようだ。そんなことを述べながらも、現実の世界に現れている力を利用して、何かを理解しようとしているのかも知れないが、相変わらず誰が何を述べているわけではなさそうだ。たぶん不在の誰かは何かを悟っているのだろう。君という言葉に内在されている能力を引き出す方法を模索している。そしてなぜ気まぐれにそんな嘘をついてしまうのか理解できないようだ。それが誰の気まぐれなのかもわからないが、本当にわかりやすいことを述べているわけではないらしい。何をどのように述べようと、それは為すべきことではなく、安易な否定調の積み重なりがそこでの文章となっているだけのようだ。依然として語るべきことは何も語られず、当初に抱いていた妄想は、すべては木っ端みじんに砕け散り、灰燼に帰してしまったらしいが、望みが完全に消え去ってしまったわけではない。そこにはまだ残滓が残っているはずだ。それはそのままでは使い物にならないがらくただが、歳月を経て風雨にさらされ、いつか何らかの輝きを放つようになるかも知れない。それは今を生きる君には感知できないことだ。時が流れて一つの時代が過ぎ去り、その間にも様々な出来事が積み重なり、その場を支配する制度が、次第にその重さに耐えきれなくなって、やがてよろめいて倒れる時がやってくるかも知れず、倒れたところがそこらしいが、そこがどこなのか知りたいわけではない。知り得ないことを知ろうとしても仕方がないだろう。そしてなぜそれが仕方ないのかわからないが、とりあえずわからなければ仕方がないので、さらにその先に文章を続けなければならなくなる。もはやそれらの無内容は冗談の域をはるかに超えているのかも知れず、もうすでにそれらの何が冗談だったのか忘れているように思われ、今では何もわからなくなっているのかも知れない。だがそれでも相変わらずまとまりを欠いた文章はさらに続いてしまうようで、何も思いつかないのに文字を記している現状に変わりはなく、それを修正するきっかけがどこにも見当たらない。しかし何を見つけようとしているわけでもないのだから、見当たらなくて当然のような気もするが、それ以外のことをやる時間で一日が埋まっている現状をどうすることもできず、それでもまだまだあきらめきれないようで、未だに先月の時空でフィクションを書き連ねようとしているらしいが、それの何がフィクションなのかわからず、何やら朝方の冷えた空気は、意識を眠りの奥深くへ閉じこめようとしているらしく、闇は言葉がそこから発せられないようにしているのかも知れない。そんなわけでまだ誰かは眠りについている。しかしそれが数時間前のことだろう。その間に様々な出来事があったはずだ。それを文章で示すことができるかも知れないが、君がそれを語れるはずがない。語るのは君ではなく、他の誰かなのであって、君が体験した出来事などにはまったく興味のない誰かだ。そして君がわかろうとしていることは、その誰かとはまったく無関係なことに違いない。たぶんそこに行き違いの原因があるのであり、さっきからちぐはぐなことを述べている理由もそこにある。しかし文章を修正することによって何を解決しようとしているのでもなく、そう簡単に物事を単純化できるわけもなく、ありふれた言説に堕するわけにはいかないようだ。目的はそれらのどこにもありはしない。しかしおまえはすべてを知っているはずだ。いきなりおまえもないが、何となくふざけているようで、本気でそんなことを述べているようでもある。そこから何かを立ち上げたいらしいが、適当な言葉が何も出てこないようだ。何かの片手間にそんなことを述べているだけかも知れない。だが君は知っている。この先につまらない罠が張られていることを知りたいわけではない。そんなことは織り込み済みで、その先に通り抜けたいようだ。雑念を払い除けて悟りの境地に達したいわけではないが、とりあえず今の状態を何とかしたいらしい。たぶん何かを述べなければならないのだろう。適当な言葉をはめ込んでパズルを完成させたいのかも知れない。それができたら苦労はしないだろうが、次第に近づきつつあるようだ。何に近づいているのか不明だが、とりあえずそこへ到達しなければならない。そのためにはもう少し適当なことを述べ続けなければならないようだ。だがそれで虚無から遠ざかれるわけでもなく、何をどう語っても虚無感がつきまとうのは今に始まったことではない。君が逃れようとしているのは、君には認識できないある感覚なのかも知れず、その感覚を言葉で表せずに、その手前で延々と足止めを食っている。それ以降は何も述べられなくなるが、何となくそれでかまわないのかも知れない。今はそんな状況を肯定しなければならないのだろう。たぶんそこが限界に違いない。そこから枝先が枯れ始めるように、心を覆っていた何かが萎れてくる。やる気を失うとはそういうことかも知れない。やる気を失ったその先から虚無感が生じてきて、灰色の影を伴いながら、次第に心を満たし始める。それで君は満足するような錯覚を覚えるらしい。あきらめの思いに満たされているようだが、現実にはまだそこまで到達していないのかも知れない。どこに至ることもできずに、中途半端な精神状態にとどまり続けているようだ。それではふざけることもできはしないだろう。今さらふざけて何になるのかわからない。何とかそこから逸脱しなければ、その先はないだろう。しかしそれがふざけることだとすれば、ふざけられない現状はいかんともしがたいところかも知れず、その先にどのようにも言葉をつなげられなくなってしまう。ではやはりそこであきらめてしまうことになりそうだが、本当にそれで満足はずもなく、フィクション以外では虚無感などどこにもありはしない。だが本気でそんなことを述べているわけではなく、そんな嘘は下らぬ言い逃れでしかないだろう。今となっては何もかもが遅れすぎているように思われる。


11月26日

 誰かが笑っているかも知れないが、ケセラセラは笑いではない。それはスペイン語の一種かも知れない。だが何もそこからなるようになるわけではない。まだ先月の時空で言葉がうごめいている。それが許せないらしいが、なるようにはならないだろう。それがなるようになっていることの証だとしたら、君は絶望しなければならない。だが絶望したからといって、何がどうなるわけでもない。どうにもならないのなら、やはりなるようにしかならないだろう。だから何を述べているのもなさそうに思われる。そして何も述べていないのに、何かを述べているつもりになっているのも、いつものことだろう。状況的にそういう成り行きなのだから仕方がない。もう完全にあきらめてしまったようだ。明日はさらに遅れてしまうだろう。まったく時間に追いつけないまま終わってしまうらしい。何が終わるのか不明確だが、それを話の内容から類推するのは誰の役目でもない。そこからどこへ行くのかを知りたいわけでもなく、何が行くのかも知らないまま、何かがどこかへ行ってしまい、それがおもしろいかどうか知るつもりもないが、たぶん誰かがそれを読んでおもしろいと思うかも知れない。それは奇特なことだ。そんな思い違いや嘘でも、今はありがたいことなのかも知れず、それ以降に言葉をつなげる理由となりうる可能性はあるだろう。それこそが思い違いもいいところかも知れないが、いくら勘違いを重ねても、それで言葉がつながるならそれでかまわないのかも知れない。だがそれで何を述べていることにもならないような気はする。他に何も述べられないから、そんなことばかり述べているのかも知れない。人目を惹くためのレトリックなど何も持ち合わせていないので、中身が無内容なら無内容が示されるだけだ。だがそこでお終いではないのだろう。すべての言葉が出尽くした後から、さらにその場の状況にふさわしい言葉を絞り出さなければならない。だからさらに無内容になる。君が望まない展開にさらに近づいているようだ。そんな風に語りたくないのに、現実にはそう語っている。それは誰かの呪いが作用してそうなっているのかも知れない。他の誰のせいにしても何も始まらないが、それでおもしろと思うならそう思ってもらっても結構だ。だがそれで話が済むわけがないだろう。それでは済まないからそうやってさらにつまらないことを語っているわけであり、それが語り終わらないうちにやる気が失せようと、言葉だけは勝手に連なっていってしまう。それがそこでの宿命なのだろうが、同時にそれは誰の宿命でもなく、誰の宿命について語っているのでもない。君の宿命はすでに明らかになっているはずだ。とりあえずそこであきらめたらお終いのようだ。お終いにならないうちに何か適当なことを思いつかなければならない。要するにそこで何かを語っているふりをするのが君の宿命らしい。だが言葉だけでは物足りない。物足りないならその先を続けなければならない。君がその先を求めているのなら、いつの日にかその先が見えてくることがあるだろう。それは君自身の死かも知れず、君が死んで彼が現れるのが、そこでの筋書に沿った話の展開なのかも知れないが、その日がいつやってくるかは誰の知るところでもなさそうだ。それは何かのたわごとだろう。誰かがどこかでたわごとをほざいているらしい。だがそのたわごとの中身が明らかにならないのが、そこでの話の内容なのだろう。要するにそれらは何もわからず何も明らかにならない話なのかも知れない。そんな話がそこにあることになっている。一応あることにはなっているが、それはあくまでもフィクションの中での話であり、実際にあるかどうかはわからない。誰にそれがわかるわけでもない。わからないからわからないままに無内容を続けていられるのかも知れないが、仮にわずかでも内容があるとすれば、それはどのような内容でもあり得ないだろう。何を肯定して何を否定しているのかわからなくなる。それは深刻なジレンマでも形成しているのかも知れないが、別に進退がそこで窮まっているわけでもない。そんな状況でも君はまだ希望を捨てきれないようだ。一縷の望みが忘れた頃に叶えられるかも知れない。だから今こそすべてを忘れてしまおう。しかしそんな都合よく忘れられるわけもなく、思い通りの展開には程遠いまま、相変わらずそこには虚無がたたずんでいるらしい。表情のない壁に何かが貼り付いているらしく、もしかしたらそこには何かが記されているのかも知れない。虚無も一つの言葉であり、それを記せば文字に過ぎなくなる。だがそれで何かが救われるわけもなく、救いようのない言葉の連なりが沈黙とともに記され続ける。まるで延々と連なるのが使命であるかのようにとどまることを知らず、誰の意も介さず、どこからも排除されているかのように無内容がそれ相応の態度で振る舞っている。おまえの意見は却下する。おまえに何かを述べる機会など与えない。それがこの世界の掟なのだ。だからそうやって何も語らずに無駄な言葉を連ねることに専念するのだ。そして静かに終わりの時が来るのを待っていれば、最後になっても何も起こらないだろう。何も起こらないことがおまえにふさわしい最後なのだから、その最後を受け入れるしかない。おまえの宿命とはそういうものだ。何も悲観する必要はない。黙っていればすぐにそのときは訪れるだろう。だがすぐとは何十年後のことかも知れない。それが今すぐであったなら、それではあまりにも虫がよすぎると思わないか。まだ苦しみが足りなすぎる。もっと苦しまなければつまらないだろう。何もできない煩悶のただ中で絶望の支配を受け入れなければ、真に苦しんだことにはならない。それでも苦しみが足りなければ、他の適当な誰かを呪えば少しは気休めになるかも知れないが、呪詛の対象となる者は憎むべき者でなければならない。だがそれでは話が少々逸脱気味だ。言葉に窮して冗談が続かなくなってきたようだ。まったく馬鹿げたことを述べているようだが、それでも語っている途中では、いくぶん本気になっていたようで、何となく何か述べているような気になれたらしく、それで少しは気晴らしになったのかも知れないが、その後が続かない。君には他人を呪う動機も必然性もありはしない。悪人のふりをすることさえできないらしい。軟弱者なのでそれを貫くことができない。それでは物語の登場人物としては失格だろう。何よりも呪詛の言葉が思い浮かばないのが致命傷となっている。盲目の視線では暗闇にわら人形が溶け込む瞬間を見定めることなどできはしないだろう。それがどういうことを暗示しているのかもわからないが、どこかの物語の中にそんな瞬間が描写されていたかも知れない。そしてそれがどうしたわけでもないが、何となくそんな光景を思い浮かべながら、誰かは不気味に笑っているようだ。それが意味のある文章だとは思わない。


11月25日

 何が嘘なのかわからないが、たぶんそれは嘘なのだろう。そんな的はずれなことを述べながら、君は目標を見失っている。何事も嘘で片づけるのも気がひけるし、もとから目標などありはしないが、たぶんそれも嘘なのだろう。どうやら今回は何を述べても嘘になってしまうようだ。そんなことはあり得ないだろう。あり得ないついでに、それは今から数時間前の出来事だったのかも知れないが、夕焼け空を見たこともない鳥が飛んでいく。まさかそれがコンドルであるわけもなく、背後からBGMにオカリナの音色が聞こえてくるわけもないが、それを眺めながら誰かは過去に聴いた曲でも思い出しているのかも知れない。しかし内容も文章もおかしな具合になっているようだ。別にそれを誰が語っている設定でもないが、それに関して誰かのご都合主義に染まった精神は、それが技術だと主張したいらしく、一方では技術的にそれを述べるのが困難だと言い訳したいらしい。確かに何を述べるにも一応は技術が要るが、実際にそこで述べられているそれは、技術でも何でもなく、言語的なあやふやさに対する無知を利用してわけのわからないことを述べているだけかも知れない。それを明確に述べるにはまだ知らないことが多すぎて、とりあえず何が知らないのかを明らかにしなければならず、それができなければ、明確なことは何も述べることができず、そこで体験した出来事を言葉で表現することは困難であり、それでも何かを述べようとするなら、わからないことを隠蔽するしかないようだ。しかしそれでは結局何を述べているのかわからなくなる。要するに君は無理なことを述べようとしているらしい。それでも誰かには譲れないことがあるらしい。だがいくら維持を這って述べ続けてみても、何もない現状に変化する兆しはないようで、ある時を境にして風向きが変わり、どこからともなくそれがわかるきっかけがやってくるわけもない。焦れて思わず次のように叫びたくなるわけもない。誰かヒントを与えてくれないか。冗談でもかまわないから、誰かは無理な願いを聞き入れてくれる対象を探しているのかも知れないが、その一方で、君は何の返答も期待せずに、静かに無内容を語り続けようとしている。たぶんありふれた意見が誰かには必要なのだろう。だがそこまでたどり着くには、要らないことを山ほど述べなければならない。それは誰かを困らせる試みのようだ。だが本当に困っている節はどこにも見当たらない。どこを探しても何も見つからないのに、なぜそのことで困らないのかわからない。誰かの前提としては、何かを述べるにはそれ相応の言葉を収集してこなければならない。だが言葉がどこからもたらせるのかわからない。そこで君は迷いながら悩んでいるふりをしている。それ以外には何となく何も成さそうに思えるようで、猜疑心に苛まれ、また元の木阿弥に戻ってしまうようだ。何かを強引に変化させようとして、かえって変化できないようにしてしまったらしい。つまらない話には気分が乗ってこないようだ。それが君のペースに巻き込まれている証拠だ。そこで何を見ているのかわからないが、切羽詰まった状況に逆らって、まだやる気だけはあるようだが、たぶん性懲りもなく無駄なことをやっているだけなのだろう。それでは希望を見出せない。世の中の流れに逆らえば逆らうほど、意識がどうにかなってしまうらしいが、何がどうなってしまうのかわからず、現実には何もどうにもなっていないのかも知れず、ただやる気が空回りしているだけのようだ。それで何も思わない状態が長引いているらしい。心はどこかからはじき出されてしまったようで、途方に暮れ、茫然自失の日々を過ごすことになる。そしてそれがそこで語られるフィクションの内容になる。しかしそこから言葉の連なりがまったく前へ進まずに、不自然に曲がりくねりながら、何やらいびつな渦を巻いているように思われる。述べれば述べるほどそうなってしまうらしい。だがそれでどこに回帰しているのかわからない。少なくとも以前と同じ場所へ戻っているわけもない。それが永劫回帰だと思われるのは勘違いだろう。君は永劫回帰の解釈を間違っているのかも知れないが、一方でそれはそんな大げさなことではないような気もする。何に逆らっているのかもわからず、途方に暮れながら、いくら雲一つない空を眺めても、過去の記憶がよみがえってくるわけでもなく、ただ何を述べているのかよくわからないだけであり、それは頭がいかれていることの証拠かも知れないが、いかれているのは頭だけでなく、言葉遣い自体もいかれているらしい。しかし誰に向かって何を語りかけているのでもないのだから、そんなことを述べるのはおかしい。どうやら他の誰かがそれらの文章によくなる兆しを感じ取ったのは、何かの思い過ごしだったのかも知れない。現にそんなことを述べているうちに、また何が何だかわからなくなってきたようだ。気の触れた君は真昼の日差しに浮かれすぎていたのだろう。だがそれは過去の出来事だったはずだ。たぶんその時間帯に君の意識が存在していたわけではなかったようだ。そこでは君とは別人の誰かが何かを述べていたらしく、また誰かはもっともらしく具体的な事物についても言及していたようだ。過去の時間帯の中で、誰かは風の作用について延々と語り続けている。風が砂を運んできて、砂丘を作り上げ、その砂丘が風の作用で移動し続け、やがて人家を飲み込んでしまうらしい。ただそれだけの話にかなりの時間を割いて不必要なほど詳しく説明しようとしているようだが、それ以外にどのような中身があるわけでなく、その退屈きわまりない講演もどきの中に、不定形の思惑とも思えないような意図が、まるでアメーバ状に貼り付いてきて、ついにはその言説空間全体を包み込んでしまう。それはじめじめした長雨の季節だったかも知れない。だが現実の砂漠地帯はそれらの言葉とは無関係で、たまに雨が降れば、砂の大地を水が流れ、砂丘を深く削り取り、雨が止めばまた風が吹き、削り取られて溝となった部分が砂によって埋め戻される。たぶんそれは単なる空想に過ぎない。誰かはそこで火星の表面でも空想しているのかも知れないが、火星に雨が降るわけもない。誰かはそうやって何となくおかしな方向へ話の内容を導いている。だがそこにどんな思惑や意図が介在しているわけでもなく、ただ何とはなしにおかしなことを述べてみたくなっただけなのかも知れず、君にはそれを止める勇気も気力もなく、ただ黙ってそれを聞き流しているだけだったようだ。誰かは感情の制御が利かないようだ。気持ちの整理もできていない。わずかな揺らぎが心に重くのしかかる。そこで何を見ているのかわからないが、それほどそれほど陰惨な光景ではないはずだ。それどころが何となくあほくさく思える部分もあるらしい。


11月24日

 なぜか頭が重くなってくる。重ければ暗いことでも述べられるかも知れないが、それが冗談とは思えない。いつものように何の根拠も理由もありはしない。何かを意識しているらしいが、すでに夜になっている。夜になったからといって何も述べられないわけではないだろう。たぶんそれは無駄だと思われる。また何となくそれは違うような気がする。しかしそれが何だかわからない。砂利道で急に躓いて、前のめりになりながらも、そこから体勢を立て直すつもりらしいが、いくら複雑怪奇に言葉を組み合わせても、またいくら文章をこねくり回したところで、いい加減なことしか述べられない。誰かは体調を崩しているのかも知れない。だからそこでギブアップしていいわけはない。もうそれらのいい加減な話の展開には飽き飽きしているようだが、それでも君は性懲りもなくそこから語り続けるつもりらしい。もう何も語る材料は何もないはずだが、何もないことから生じる虚無感を利用して言葉を連ねようとしている。たぶんそんなことは不可能だろう。そんな何もない状況下では、不可能という言葉を使うしかないようだが、それが虚無感を呼び込んでいるのだから仕方がない。それは嘘でも本当でもなく、ただの虚無感でしかない。それ以外の何ものとも思えないが、だからそこに何もないわけではないらしい。君が思い浮かべている未来の世界像は、虚無以外の何ものでもない。要するにそんな言葉を使えば何か述べているつもりになれるようだが、実体も中身も何もありはしない。それはただの言葉でしかなく、そんな言葉を通してこの世界を眺めると、何もかもが否定的に見えてくるらしい。だから述べていることが次第につまらなくなる。たまには何か愉快なことでも述べてみないか。何か肩すかしを食らったような気になる。ではこの世が廃墟を化す日を思い描く。冗談もほどほどにしておかないと、誰もついてこないだろう。それは嘘かも知れないが、世の中はだんだん軟弱な方向へと推移しているらしい。人々はごり押しを伴う激烈な感情を嫌い、常に優しく癒やされていたいらしい。もはや心身の合法的な激しさは、スポーツや芸能活動の中へと囲い込まれていて、それ以外を求める一般の者たちは、非合法な犯罪行為に手を染めるしかやりようがないらしく、そんな馬鹿げた状況が日々深化してきているようで、それも何かの冗談ではないかと思われるのだが、ある種の見方や考え方を受け入れる人々にとっては、それは冗談などではなく、真摯に受け止めなければならない大問題なのかも知れない。そんな成り行きでは、近い将来人類が滅びることは必然のように感じられるらしいが、フィクションとしてはそれでかまわないのかも知れない。そんな話ならいくらでもありそうだ。大げさに人類が滅亡してしまうからこそ、話の内容がおもしろく感じられるのであって、そんなフィクションを見聞しているだけでは、現実には何の心配も要らないだろう。すべては冗談の範囲内で片がつくことでしかない。確かに肉食獣的な瞬発力を身につけて、それを現実の世界で試してみたいという欲望は危険きわまりないが、スポーツやアクションゲームやそれに類するフィクションに接することによって、それらの欲望を一時的に紛らわしながら、現実の生活では癒しを求めている風を装うことはできる。ご都合主義もいいところだが、それが気に入らない人間は犯罪者になるしかない。もはや金銭欲と支配欲を暴力で満足させる時代ではないことはわかっているはずなのに、浅はかにもそれで自己実現を図ろうとしてしまう。だから今まさに迎えつつある癒しの時代は、非合法の暴力と表裏一体の関係を形成しているのかも知れない。思い通りに癒やされないことから生じる不満のはけ口が、何かのきっかけで暴力となって一気に噴出する。世の中が生き難く息苦しいから、それに反発する激しい感情に連動した暴力的な身体動作が発作的に爆発するわけだ。だがそんなことを述べているうちに、言葉遣いの拙劣さに気づき、自らがあまり本気で述べているわけでないことに気づく。やはり冗談の延長上にそんなどうでもいいような言説が生じているのだろう。幼稚な若者ならそんな内容でも真に受けるかも知れないが、本当は暴力と癒しの関係なんて何もありはしない。嘘でもかまわないから前言を否定したくなる。それ以上は考えるのが面倒になってしまったのかも知れない。何かを説明するのが馬鹿らしくなってくる。本当は癒やされなくてもかまわないし、暴力をふるう機会など永遠にやってこなくてもかまわない。わざと犯罪を犯さなくても、何気なしにそうなってしまう場合もあるだろう。気分が乗らなければ嘘もつかなくてもかまわない。いつも嘘ばかりついていたら疲れてしまうだろう。その場の成り行きに合わせているつもりでも、かなり的はずれなことを述べている時もある。言葉などどこからでも自然に生じてくるのかも知れない。最後に誰が勝利を収めても、そんなことはどうでもいいことでしかない。それは嘘かも知れないが、スポーツ番組ばかり見ていると馬鹿になってしまう。いきり立って怒鳴り合うことが何かの発散になるとすれば、それはそれでかまわないだろう。何を否定しているわけでも、何を肯定しているわけでもない、ということにしておこう。何となくその場の雰囲気に流されている。気分が乗ってこないようだ。やはりそんなことをいくら述べてみても無駄なのか。だがそこは奈落の底ではないようだ。まだ最低線までは下っていないような気がする。ならばそこから上昇してもかまわないようにも感じられるが、本当のところは気分がどうなっているわけでもなく、最高でも最低でもないのかも知れない。そんなことを述べているうちに意識がぼやけてきて、何を述べているのかわからなくなってくる。どうも気乗りしない時は、そんなことはどうでもいい、ということで何もかも片づけてしまいたくなるようだ。冗談もそこまでくれば冗談ではなくなってしまうらしい。しかしどこまでが冗談だったのかもはや判別が困難だ。安易に癒しだとか暴力だとかいう言葉を使ってはいけないのかも知れない。そんな言葉を利用して世の中を語っているような気分でいると、足下を掬われてしまうだろう。それだけでは何も述べていないような気になってくるらしい。世間で何が起ころうと、もはや君には関係のないことだろう。まさか君が山奥で隠棲している仙人か何かになってしまったわけでもないだろうが、今の君にはそんなことをわかろうとしなくても生きていけるのかも知れない。要するに君は社会という機構を構成する歯車の類か。そう受け取ってもらってもかまわない。架空の人物にどう肉付けを施そうと、あとからいくらでも修正可能だ。そんな修正の結果として君が君でなくなってもかまわない。


11月23日

 誰かが大地を暖めている。それが何を意味するわけでもない。相変わらずきっかけが何も見えてこない。きっかけの代わりに見えているのは壁のある風景のようだ。その動物はまるでカメレオンのように左右の目は別々の壁面を見ている。どこかに蠅がとまっているが、蠅の目は複眼だ。たぶん複眼である理由が生物学的には何かしらあるのだろう。蠅自身にはあずかり知らぬところで理由が出現している。それを考えてはいけない。蠅に考える能力はないはずだ。壁には壁面があるらしい。特定の材質でできている。それが人骨でできていない保証はない。おかしな言い草に笑いがこぼれる。当たり前のことを述べないでほしい。そこから何を述べようと、まだ時間内に述べられるような気がしてくる。どこかに何かのきっかけがあるらしく、どうやらそれを探り当てたような気になっている。勘違いも甚だしい。何かの文字が三重にかさなって見える。それは何かの書体なのだろう。やはり考える能力が欠如している。しかし誰の脳みそが蠅並みであるわけでもないだろう。どのような事態を想定して述べているわけでもない。ただ適当に述べているに過ぎないことだ。だから何が何だかわからなくなる。そしてそれをおもしろがっているらしい。だがわざわざ手の内を明らかにする筋合いのことでもないだろう。ここからどこに逃げられるわけもない。逃げ道がふさがれているから開き直れるらしいが、それだけで何がやれるわけでもない。何もやれないからいつまでも言葉を連ねている。いつまで経ってもそんなことの繰り返しだ。だからおかしくて笑いが止まらないのだ。フィクションの中では確かにそうだろう。この期に及んでまだそこからどこかへ逃げられると思っている。君はすでに失敗し続け、同じ過ちを繰り返している。そこで言葉に行き詰まり、苦し紛れに突拍子もないことを述べようとしている。その結果がそれだ。蠅の話などあり得ない。ではモグラの話ならあり得るかも知れない。その安易な発想が過ちの最たるものだ。だがそれで何を反省する気も起こらない。何とかしようと思っているからそうなってしまうのだろう。何ともできないから何とかしようと思う。モグラが地面を掘り進むが、君はそれについて何とも思わない。だからそこには話の接点が何もない。モグラより蠅の方が身近な存在のようだ。モグラと蠅は何の関連もありはしない。だがその無関連が地獄の責め苦となってこの身に降り注いでいるわけでもない。それはウケねらいの馬鹿げた言い草になるかも知れない。能力に欠けているのは君ではなく、彼の方なのかも知れない。ストレスで言語中枢がいかれているようだ。その眼を覆いたくなるような惨状に衝撃を受け、一刻も早くそこから立ち去りたくなる。だが立ち去ろうとしても、勝手に惨状が追いかけてくる。心はいつ何時でも大火事状態のようだ。どうやってもそうなってしまう状況に、次第に苛立ちが募ってきて、ついには感情の大爆発でも起こして、どこかに意識が消し飛んで、向こう側の世界の住人に成り果ててしまうかも知れない。そんな成り行きなら興味を保っていられそうだが、そんなわざとらしくも見え透いた嘘に、かえってその場がしらけてしまうような予感もしてくる。馬鹿げた振る舞いはその場限りの効力しか発揮できず、後は退いてしまう雰囲気が周りの空間から滲み出てくるだけだろう。何をどうやってもそれだけのことでしかないようだ。それはただの発狂に過ぎないのだろう。だがそれで誰が狂ってしまったわけでもなく、フィクションの中で言葉によって気が狂ったように見せかけたいだけだろう。だからそんなことに本気にはなれないようで、そんな文章との関わり合いをすぐに解消したくなってくる。やはり内容が馬鹿げていることに変わりはないようで、そんな発想しか思い浮かんでこないらしい。君はそこでそんなことを夢想しているようだが、そこから何か適当な話の展開を導き出したいらしい。虫のいい話だ。何となく収拾がつかないような予感がする。つけられるわけがない。興味を惹きそうなことは何も語っていないので、次第に虚無感が増してくる。そんな話ではなかったはずだ。どんな話もそんな話ではないのかも知れない。だからそんな話になってしまうのだろう。それがおもしろいと感じるなら、それは強がりだろう。つまらない話をおもしろいと思い込むことで、そんな話しかできない自らを納得させたいだけだ。だからそれがおもしろいと思い込みたい。それがそこでの感情なのだから仕方がない。それより他にそこでの対応はあり得ないだろう。何とかその場を盛り上げたいと願う者たちにとっては、そうするより他に選択肢はあり得ないのだろう。だから世間では多くのつまらないことがまかり通ってしまう。儀式とはそういうものでしかない。何とか滞りなくその場を円滑に切り抜けたいのだ。馬鹿げたことには目をつむり、くだらない振る舞いも大人のふりをしながら受け流す。それで何とかやり過ごせたつもりになるが、その退屈な時間が過ぎ去った後には、とりとめのない疲労感と虚無感が襲ってくるはずだ。そんな状況に耐え続けなければならない必然性を探りたくなってくる。何とかその場を丸く収めるためには、そうするより他はなかった、と自分に言い聞かせている者もいるらしい。それがストレスで頭が禿げるのも無理はない。禿げるのは遺伝以外にも原因があるらしい。しかしそれでも君は誰のことを述べているのでもない、と言い張ることができる。君はそんな抵抗が馬鹿げていると思っているようだ。何に抵抗しているのか不明だが、それでも何かに抵抗していると思い込みたいようだ。それらの現象を容認できない。それで何か適当に述べているつもりなのだろう。それが無駄なことだとはわかっていても、それを語らずにはいられないらしい。そうしないとまた何もできずに一日が終わってしまうような恐怖感に包まれているようだ。それは思い違いもいいところか。まだ朝の段階で何を予想してみても始まらない。すでに一日は始まっているのであり、これからどんな出来事に遭遇するともわからない。その思いがけない出来事について何か述べるつもりらしいが、何となくエンジンがかかってきたような気もしている。不完全燃焼がいつの間にか解消してしまったように思われ、このままの調子で述べ続ければ、何となく間に合ってしまうような予感もしてきたようだが、それは油断の類かも知れず、やはり思わぬ障害物に行く手を遮られて、そこで頓挫してしまう状況もあり得るだろう。やはり朝は今日一日の成り行きを予想する時間のようだ。まったく余裕くれていて、その余裕がいつの間にか焦りに変わり。夜になれば何もできなかったことを悔やむより他はなくなるのかも知れないが、そんなことを述べながらもその場は何とか切り抜けたつもりになる。


11月22日

 そのときのことをもう忘れてしまったらしい。どうも次第に追いつめられているような気がするが、何となくそこにむき出しになっている欠陥が、何かを語る材料となっている。そんなことはわかっているつもりだが、何をわかっていても、そこから先には何もありはしない。そこにあるのは同じことに繰り返しに過ぎず、その悪循環を打ち破れずにいるようだ。だから焦っているようだが、それ以上いくら述べても焦りが解消するはずがないこともわかっている。たぶんそれで何を述べていることにもならないだろう。それでもあきらめきれずに何かしら述べている現状に嫌気が差している。君の頭の中にある思考回路では、それらの現象を解析することは困難であり、それについて述べているつもりの文章も、それを理解する上では何の役にも立たないだろう。とりあえずそれは何やらおかしな現象に思えるが、具体的にそこで何がどうなってそうなっているかについては、何もわかり得ないようだ。理解しがたいからそれについて言及しようとする。無理だとわかっているのにチャレンジしなければ気が済まない。だがそれは嘘かも知れない。無理だと思わないから、何かを述べようとしているのだ。無意識のうちに無理ではないことを証明したい衝動に駆られているのだろう。だから執拗にできもしないことをやろうとしている。できもしないとは思っていないから、それをやろうとするのだろう。ことここにいたってまだそれが可能だと思い込みたいようだ。しかしそんなやり方では誰の同意も得られないだろう。何も語ることがないのに、それでも語り続けていれば、内容のなさがあからさまに示されるだけで、もはや呆れを通り越して、まったく相手にされなくなってしまうかも知れない。しかしそれでも何かしら述べているらしい。何となく言葉を連ねているようだ。どこの誰が何を求めているのか知らないが、完全にあきらめてしまって、そこから何も述べようとはせず、他に何も語らないとすれば、何も表現してないことになってしまう。そんな風にして君から言葉が遠ざかってしまえば、それはそれで幸福なことなのかも知れないが、だからそれをやめようとは思わない。たぶん理由は何も明かされないだろう。君はそのことについては何も語れない。だからその代わりに意味不明な言葉を連ねている。馬鹿げたことなのだろうが、そんな状況は無視して、ただ闇雲に気が狂ったように語り続ける。無理であり不可能であることは承知している。何もないのだからそれは当然のことかも知れないが、語る前提として何らかの語る対象が不可欠であり、それが現状ではあり得ない前提となっているのかも知れない。そこで何が語られているのかが、いつまで経っても不明確のままで、そのはっきりしない状態を利用して、わけのわからないことを述べている。それではだめだと思っているらしいが、そんなあきらめの言葉が頭の中で行き交っているうちに、それとは別次元の意識の中で、何か適当な出来事が通り過ぎ、今日も一日が過ぎ去ってしまったらしいことを悟る。時間がすさまじい速さで駆け抜けていくことを知って感動する。このままではあっという間に明日になってしまうだろう。一日が短すぎて意識が何を感じているのかわからなくなる。それでもなぜか季節は巡っているようだ。今は秋と冬が混在しているらしく、もうすぐ完全な冬になるのだろうが、冬になったからといって、この閉塞感が解消するわけもないだろう。何もできない状況が変化する兆しはない。できることなら季節など巡らせたくないが、君は全能の神などではないので、自然の摂理を動かすことはできない。だから確実に季節が巡っている実感を否定しがたく、そんな季節の移り変わりに影響されて、何かそれ相応の言葉を発しなければならなくなる。しかしそんなことをことさら述べている意図がまったくわからない。何を否定してみせたところで何がどうなるわけでもない。どう述べてもそれらの言葉には実感が伴わない。たぶん否定する対象が間違っているのだろう。そんなわけで相変わらずわけのわからないことを述べているらしく、そのついでにある晴れた日に道路沿いの紅葉に気づいてみる。街路樹の葉が赤く色づいているのを見つけて、それにつられてそんなことを述べてみたくなったようだ。ただその場の成り行きで興味のないことを述べているだけらしいが、そんな言葉を連ねれば連ねるほど、それ以外の出来事を記述できなくなる。心に残っていた余白が意味不明で埋め尽くされるだけで、まともな意識がどこかへ押し出されてしまう。誰かは嘘を述べているようだ。紅葉についてそれ以上は何を述べる気も起こらないが、そんな些細なことに無駄な言葉と時間を費やしていることに呆れ、他に何かを述べる気力が失せてくる。たぶん確実に後退しているようだが、いったい何が確かなのか、それをわかろうとしていないらしい。まさかこの世界に確からしいことは何もない、と断言するつもりはないが、何が確かなのか判断がつかない場合もあるだろう。確かなことは何も述べられなくなっているようだ。とりあえずそれでも何かしら述べているようだが、それがどういうことなのか何も見当がつかず、それに対応する言葉を見出せずにいるらしい。たぶんそれは予定調和の成り行きに違いない。はじめからわからないことを述べていることがはっきりしていて、それをわかるように説明しようとしているらしいが、はたしてそれを明確に説明することができるのか皆目見当がつかない。要するに君はいつものように意味不明なことを述べ続けているらしい。それは潔さからは程遠い行為に思われる。どう述べてもわけがわからないのなら、やめてしまえばいいのかも知れないが、それができないからわけがわからないままなのだろうが、たぶん語るのをやめてもわけがわからないままだろう。そこで何を語っているのかについて、できる限りわかりやすく説明することが必要かも知れないが、そもそも語っている内容がわからないので、自らの語っていることについて、何一つ明確に説明できずにいるらしい。まったく子供だましもいい加減にやめてほしくなる。そんなことを述べている場合ではないだろう。だがどんなことを述べている場合でもなく、何をやっている場合でもない。何もやらなくてもいいのに、それでも何かをやろうとして、さらに何かを述べようとするが、結果的には何を述べているのでもないように思われてしまうらしい。たぶんそこでは何かが繰り返されているのだろう。とりあえずうんざりするほど言葉を連ねている。そしてそれが意味のない無駄な行為に思われて仕方がない。そこから先にどんな言葉を連ねていいのかわからなくなるが、まだ何か足りないことがあるのかも知れない。足りないことが多すぎて、その一つ一つをいちいち数え上げる気も起きない。


11月21日

 何かのはずみでかろうじて制度のほころびがあらわになる。そんなことはよくあることかも知れないが、それにわざとらしく驚いてみせるのは、誰かに割り当てられた演技のようだ。アナウンサーくずれが画面上で驚いてみせる。新聞記者くずれも横で相づちを打っている。なるほど演劇的番組進行とはそういうものなのだろう。それは歌舞伎などに見られる大げさな感情表現に似ていなくもないが、そんなところに感応して言葉を連ねている君が情けなく思える。他に述べることが思いつかないようだ。どうやら今回もまともな内容から程遠い。目指すべき境地がないのだからそれは仕方のないことだ。相変わらず何を探しているわけでもなく、つまらない言葉のあやにいきり立つようでは、この先の内容も大したことはないはずだ。だが何も大げさなことを述べることが目的ではないのだから、たとえそれが些細なことであったとしても、それはそれで普通に受け止める必要があるはずだ。賽は振られ、ルーレットは回され、カードは手元に配られ、コインも積まれている。しかし何のゲームに参加しているわけでもない。要するにいつまで経っても君は傍観者のふりをしている。架空の話の中では、君の煮え切らない態度にたまりかねた誰かが、君に抗議するつもりのようだ。そんなやり方は卑怯であり、何かのゲームに参加しなければ、発言の機会など与えられないのがこの世界の掟だが、君の存在を無視して、ゲームに参加させようとしないのだから、卑怯なのはお互い様だろう。君には参加資格がないのだから、傍観者でいるより仕方がない。だから君はいつまでも意味不明で無責任なことを述べていられるのだ。それは何かのパラドックスなどではなく、極めて当然の成り行きに従った事実なのかも知れないが、作り話の中に事実など潜んでいるはずもなく、フィクションの中での事実は、嘘で塗り固められた言葉の塊に過ぎず、影だけで実体は何もない。要するにそこにはありもしない幻影が文章として構成されている。それがいかに本当らしく見せかけられようとしても、何となく嘘をついていることの後ろめたさが透けて見えるかも知れない。だが架空の君がそこで見ているものは、ただの言葉の羅列に過ぎないはずだ。意味を成さないものを意味があるように見せかけるために振る舞っている幻影の演技に魅了されているのかも知れない。君にはそれらの言葉の羅列が魅力的に見えるらしく、今やそれに囚われながらも、さらに目の前に映っている文字を組み合わせて、何か途方もないものを構築しようとしているのかも知れないが、今のところその試みが成功しているとは言い難いようで、何とか間に合わせの装飾を施して、みすぼらしさをごまかそうと必死なのかも知れない。誰かにはその試みがうまくいくとは到底思えないようで、何となく退き気味の姿勢で興味なさそうにそれらの文字列を眺めている。他人のことは他人のことでしかないが、自分のことも自分のことでしかない。共感できるような話ではないだろう。気に入らないのは他人の行いと自分の行いのと落差を感じ取っていることのようだが、そこで誰が何を恥じているわけでもなく、ただこの先何十年も同じ思いでいられるはずがないとも思っている。無理を承知で述べているのだから、それを可能としている精神状態を今さら放棄しても仕方がないだろう。何の見返りも得られないことをやっているに過ぎない。そこからはどんな展開も望めないだろう。今の君は根拠のない悲観主義に凝り固まっている。すがりついているのはそんなくだらないことだ。それを見かねた誰が助け船を出すこともないだろう。誘惑の正体が明かされることはない。そこから何かを得ようとする魂胆が浅はかなのだ。誰かは手持ちぶさたでまたあくびをしているようだ。何に飽きているのかわからないが、何となくその場の雰囲気からずれているらしい。そんな思いとともにどこかへ逸脱しようとしているようだ。ふと後ろを振り返れば何かに驚いたふりをしている。誰かが鬼の形相になっているわけではない。そこから適当に枝葉を延ばして、何か樹木のように言葉を構成できないものか。だがその内容を思いつかない。あまり無理なことはやりたくないが、それでも頭を使っているつもりのようだ。何を否定しているわけでも何を考えているわけではない。たぶんそんな前言を否定したいのかも知れない。個人の思考には限界があり、その行動にも言動にも限りがあるのだろうが、それでも何もないのに何かを断言したいようだ。結局君はどこにもたどり着けないだろう。またそんなことを述べている。時間に乗り遅れて危うく何もやらない状態になりそうになる。感性を野放しにしてとりとめのないことを考えている。使用する言葉を間違っているらしい。美しく思われることに心を奪われているのは勘違いかも知れない。誰かは心を病んでいる。誰かもわからないのに誰かもないだろう。何もわかってくれないらしいが、気づいたことはそんなことではない。些末な用事に気を取られている間に、何も思わなくなり、気がつけば夜になっている。それで何かをやっているつもりになれるらしいが、自らのふがいなさを反省してみたところでどうしようもないだろう。いつ何時でも心の琴線に触れているわけにもいかない。そこからどう話の辻褄を合わせるのか悩んでいるようだ。くだらない話をさらにくだらなく修正しようとは思いたくないが、わざと話を込み入らせて、わけのわからなさを醸し出そうとしている現状には嫌気が差している。何かそこから抜け出る方法を見出したい。やめればいいことは一目瞭然だろうが、やめるきっかけをつかみたくないことも、正直な思いであることもわかっている。しかしそれで何をもたらそうとしているわけでもないように思える。それなりに言葉の連なりがもたらされている以外に、何らかの実感がもたらされているのかも知れない。馬鹿げたことを述べているようだ。それで自己嫌悪でも表現しているつもりになれるはずだが、何となくそれだけでは物足りなさを感じてしまうらしく、結局そこからさらに無駄な言葉を付け足してしまうのだろう。君の焦りはよくわかっているつもりだ。何もないところから焦りを催す原因をねつ造したいようだが、何もないことが焦る第一の原因であることはわかっているはずだ。何もなければ何も述べられないから焦っているのだろう。だがそんなことで焦ることはない。そこで焦らなければそこで終わりだからだ。それはそこで終わらせないための方便に他ならない。だがいくら焦りを覚えたからといって何が導き出されるわけではない。そこから何を見定めているつもりになっているわけでもなく、ただ気晴らしに音楽を聴いているようだ。意識を失っているのかも知れない。時期的にはもう冬なのだろう。


11月20日

 君は君自身が仕掛けた罠にはまっている。そんな妄想に取り憑かれたふりをしているらしいが、そこに何もないことに変わりはないだろう。振り返れば遠くから誰かの影が迫ってくるのが見える。見知らぬ人に声をかけてみようかどうか一瞬悩むが、結局機会を逃して、何もなかったかのように振る舞っている自分に気づく。次の瞬間には何か妙案でも浮かんでいたかも知れないが、その瞬間は永遠に訪れないだろう。もうその時空は闇の彼方へ遠ざかってしまったはずだ。今はあきらめて別のことを思案している最中のようだが、未練がましくすでに過ぎ去ってしまった時空のことがいつまでも気になっているようだ。過去を意図的に遠ざけているのは君の方だと思うが、遠ざけながらも過去にあれこれ自身が抱いている妄想を重ね合わせているのも君の方だ。そしてそんな矛盾を利用しながら意味不明な文章を記しているのも君の方だ。それを無視して誰かがそれに対する付け足しを述べようとしている。そこからまともな意味を導きたいようだ。何の足しにもなりそうもないことがまともな内容なのかも知れない。この世界を見渡せば、人が行いつつあるすべてが利益追求型思考に支配されているような気がするのだが、それが当たり前のことであると思うたびに、言葉に窮してそれとは違う思考を導き出そうとして、無駄な努力を延々とやり続ける羽目に陥りそうになる。しかしそういう嘘を述べつつも、暗闇の中で誰かが別の何かをつぶやいている。君は利益のまったく出ないことをやっている。事実それらの文章からは何の利益ももたらされない。だがそれが偉いことだとは思わない。それとは別の仕事で利益を出しているのだろう。今の社会構造において利益を出さない者は生きてはいけないだろう。人間がそういう人間である原因はそんなところから来ている。人は生きている限り利益を求める動物のようだが、社会学者の類は利益の種類や性質を無害なものにしたいらしい。万人にとって人畜無害な欲望を人々の意識に植えつけようとしている。現実にはそれがフィクションにならない決まりはないが、人畜無害なフィクションでは面白味に欠けるだろう。しかし有害なフィクションでは個人にも社会にも深刻なダメージをもたらす。だが欲望とは何かの犠牲と引き替えにしかもたらされないものだ。他人の悲惨な境遇を通してでしか欲望が充足することはない。要するにおまえは誰かを支配したいのだ。合法的にしろ非合法的にしろ、自らの自由を得るために他人を不自由に陥れなければならない。あわよくば殺してもいいらしい。自らの存在を光り輝かせるために、他人の輝きを弱めなければならなくなる。時と場合によって命の炎を吹き消してもかまわない。自らを富ませるためには手段を選んでいる暇はない。冗談でそんなことを述べていれば楽しいだろう。君はそこから遠ざかるための手段を得たいらしい。言葉を用いてそれを示そうとしている。無駄な妄想を相変わらず抱いているようだ。結果的に人畜無害なことを述べている状況に持ち込めれば、その願いを成就したことになるのかも知れない。それが冗談で述べようとしている正体だと思えば、何となく馬鹿らしい気分を得ることができるだろう。本当にそれが馬鹿げた考えかどうかは、君が判断することではない。誰の判断をも受けつけないかも知れないが、それは誰からも無視されているのと同じ状況だろう。たぶんそれが冗談の至るまっとうな成り行きかも知れない。本気ではもはや何も述べられなくなっているようだ。いつもそんな嘘をついてその場をやり過ごしたいらしく、次いでわざと意味不明を装うには、そんなことを述べていなければならないだろう。正気を保つには厄介な世の中だ。そんな世の中からは精神的に遠ざかるしかまともにものを述べる術はない。だがそれで遠ざかっているわけではない。心身共に未だにこの世界の中でもがいている。それが君の現状に違いない。どうでもいいことの連鎖状況の中で疲労だけが蓄積して行き、もう何を述べても無駄だと思われるような心境に達した時、それが冗談だと嘘をついているつもりになる。そしてまた最後の言葉を忘れてしまったらしい。この世の最後に言葉など発せられるわけがない。最後の言葉はそれ以前にすでに発せられていて、しかもとうに忘れ去られている。ついさっきまで君は何かいい加減なことを述べていたらしいが、いつそれらの文章は結末を迎えたわけではない。すべてが終わればまた新たなる始まりの時を迎えるわけだが、それでも君は今を生きている。君に終末はあり得ないだろう。だから君に始まりはあり得ない。終わりも始まりのないフィクションの中に誰かが登場しているらしく、それが君でない証拠がどこにあるわけでもなく、君がいなければ彼には自分の居場所がないそうだ。しかし誰がそんなことを述べている証拠がどこにあるわけでもない。証拠があろうとなかろうと、そんなことを述べている現状の中に、君という言葉が記されているらしく、彼はそれについて何を述べようとも思わず、それ以外のことにも相変わらず無関心を装っているらしい。だからそこで悪霊が何を訴えているわけでもない。誰かはそんな他人事について何か述べているようだ。そこでは何らかの作用があってそういう成り行きになっているのだろう。だから意味もなく君は何かを見ている。何も見ていないように思えるが、何も見えていなくてもかまわないのであり、とりあえず何かを見ていると思っていれば、それで気が済むのだろう。君は風景を眺めている。何かに押し戻されようとしているのかも知れない。また以前と同じようなことを述べようとしている。占い師の言うことをどこまで信じようと、その人の勝手かも知れない。予言者の予言など無視されるのが当然の成り行きになっているらしい。人には人それぞれに違う運命が待ち受けている。そんなことはわかっているつもりだが、それでもそこから適当な見解が導き出される。その内容を今は知り得ない。なぜそんな成り行きなってしまうのかを知りたいわけではない。何となく話の本筋からは外れようとしている。本筋などもとからないのかも知れない。枝葉末節にこだわるのがそこでの話に違いない。それには妙な違和感を覚えるが、そんな話で何かを導き出そうというのではない。ただそういう話をしていたいだけなのかも知れないが、君にはそれが理解できない。話をしている方も、自らがしている話を理解しながら話しているのではないのかも知れない。ただ何となく話しているのだ。たぶんそれがおかしいと思われるのだろう。なぜそんな風に話をする必要があるのか意味を見出せない。意味など何もないのかも知れないが、とりあえずそうやって話をしていたいのかも知れないが、それが君には気色悪く思われてしまうのだろう。


11月19日

 架空の物語の中では、何となく面倒な事態に陥っているようだ。みっともない振る舞いは避けなければならないが、君はまだ自らの所業を知りたくないらしい。何かにつられてさっきまでの話があらぬ方向へずれ込んでしまう。言葉の断片がどこかへ飛び散り、北側の窓から誰かの顔がのぞき込む。それは無理だろう。文章がつながりにくいようだ。そんなわけで君は自らの無能さをさらけ出す。言葉に窮して皮肉を述べているらしいが、それの何が皮肉なのかを知りたいわけではない。ブラインドカーテンが何かの衝撃でバラバラになっているが、そんな光景を誰が空想しているわけでもない。できることならそれで不毛な対決はお終いにしたい。その場の成り行き的にはすでに終わっているはずだが、架空の登場人物はまだそこに居続けようとしている。さっさとその場から退場してほしいのだが、なかなかしぶとく場を占有し続けている。そこからはじき出されている君の方はといえば、かろうじて死の淵からよみがえり、何とかいつも通りの言葉を連ねたいようだが、またそこへはたどり着いていないらしい。それで何を説明しているわけではない。大げさな出来事をドラマチックに語りたいわけでもないが、まだ争いごとに首をつっこみたいようだ。水面に顔を出して、やっとのことで深呼吸ができたらしい。それではだめなことはわかっているようだが、とりあえず冗談の連続からは抜け出たつもりになる。しかし抜け出た先には別の冗談がある。それは冗談ではないと思いたいが、状況がそんな風には思わせてくれない。相変わらず狭い範囲で同じようなことを述べ続け、内容が何と同じなのか忘れていること以外はわからない。それは誰の話でもなく、おそらくそれは誤りでさえないだろう。何となく以前との内容の違いに気づいているらしい。無駄に言葉を弄しながらも、何らかのきっかけをつかみ、少しはまともなことを述べようと努力しているらしく、少し前から君は疑似対話形式を用いて語ることを放棄しているようだ。そんなことに今頃気づいても手遅れだが、何が手遅れなのか説明はしないつもりだ。説明できるような理由など何もないのだろう。ただ何となく今さら手遅れのように思われる。局面はだいぶ先に進んでしまっているらしい。だが別に重大な局面を迎えているわけではない。それが何のことなのかわからない。無理にわかろうとするほどのことでもないのかも知れない。わかっていることはたかが知れている。誰かは一度悪意に押しつぶされてみたいようだ。どこかに悪意が渦巻いているのかも知れないが、わざとそういうことを述べてみたいわけではないのだろう。とりあえずそこに再生のきっかけがあるらしい。冗談と悪意を混同してはまずい。誰かは椅子に座って微かに微笑んでいる。やり直せるものならとっくにやり直しているはずだ。やり直せないからそこで立ち往生している。わかりきったことを述べないでほしい。それを聞いている者は誰もいないが、何かが遠くから聞こえてくる。文章の中ではそういう述べ方になってしまうらしい。背景の色にこだわっているわけではない。ただわけのわからないことを述べているわけではないらしい。周囲に蔓延っている雑草が枯れてくれないから、その全体を見渡すことはできないが、何となく部分的に誰かの意図を把握しつつある。それは君の時間ではない。たぶん誰の時間でもないのだろう。それは当たり前のことかも知れないが、誰も時間を所有することなどできはしない。そこで何をやっているかが重要なのではない。何もできない状況にどれほど耐えられるのか。耐えている感覚がないが、自由を満喫しているわけでもない。それはどんな状況とも比較しようがない状況なのかも知れない。要するにわけがわからない。たぶん何もないからわけがわからないのだが、それで何とかなっている。音信不通なのかも知れない。音沙汰があればそれに気づくはずだ。君は気づいている。そこから自らの意識が離れていることに気づいている。興味を抱けないらしい。君にはそれがわからない。わからないからその先を述べようとしているが、その先には何もありはしない。すでに悪意を通り越して意味不明に至るしかないようだ。たぶん君がわかろうとしていたのはそういうことだろう。それは何かの罠なのではなく、誰も入り込めない領域に入り込むための試練かも知れないが、そういう試練なら避けて通るより他はあり得ないようだ。面倒なのでそこから先へは行かないことにしておこう。いってもわけがわからないでは仕方がないだろう。何が意味や意義を見出せるようなことを述べていたいような気になるらしい。それが何かの勘違いであることも一応は承知しているつもりだが、やはりふざけてばかりもいられなくなる。何となく普通のことを述べておいた方が無難な気がしてくる。だからそこから先へは行きたくなるのだろう。行けば必ず意味不明になってしまうだろうし、わけのわからないことを延々と述べる羽目に陥ってしまうだろう。それで気が済むのならそれでもいいのかも知れないが、そればかりではうんざりしてしまう。だからそれ以外のことを述べようとしているらしいが、結果的には元の木阿弥になっているようだ。放っておけば君の述べていることはそればかりになるだろう。今の君にはまともなことを述べるのは無理のようだ。架空の人物には荷が重いような気がする。そしてそれがそこでのフィクションらしいが、やはりそれではわけがわからないだろう。わけのわかるような説明からはどんどん遠ざかっているように思われる。たぶんそれをどこまで推し進めても、わけのわからない状態のままになってしまうだろう。最初から間違っているのかも知れない。ボタンの掛け違いをそのまま放置しているようなものだが、その間違いを利用してここまで述べてきたことも確かだ。正しいことは何も語れない状態から語り始めている。たぶんそれは君のやり方なのだろう。わざと間違っているつもりが、本当に間違ったやり方を呼び込んでいる。しかし何が正しいやり方でもない。今やっているやり方がとりあえずのやり方なのだ。それ以外はどんなやり方もないだろう。そこから遠くへ離れることはできない。何かしら語っているその状態がそこでの真実だ。そこから何を想像してみても、それは想像の域を出ない想像でしかない。現実に何ができるわけもなく、そこでやっているそれが、君ができることなのだろう。君のできることはそんな風にして限られる。その限界の外側には何もありはしない。空想を働かせているのも限界の内側だ。むやみやたらとその空想によって話を膨らませても、実際には何を語っているのでもないらしく、ただそれによって記された文字量が増えるだけだろう。増えた文字数だけ話が長引くかも知れないが、内容はそれほど変わらないようだ。


11月18日

 陰と陽を表す記号の存在に気づいてみる。それが画面上に現れている。君はそこで生きていると思っているらしい。何か深遠なことでも述べているつもりになれるだろうか。彼の地では平穏な日々が続いているようだ。戦争を知らないことは幸いかも知れない。君はまだそんなところで言葉を連ねている。そんなところとはこんなところなのかも知れない。それはどこでもない場所のようだが、その場所を探しているわけではない。意識はひたすらにそこから遠ざかろうとする。まともな言葉は何も導けないので、それが悔しくてたまらないらしい。架空の存在が何を思うわけもないが、戯れにそんなことを思っていることにしておこうか。君は相変わらずの不在を託っている。使用している漢字が間違っているかも知れない。暇で仕方がないので、何かもめ事でも探して、そこに介入するつもりのようだが、それは架空の話の中でのことだろう。君は状況をうんざりするような成り行きに持っていきたいらしい。そんな悪意に充ち満ちている。確かに現時点では過去の諍いは感情的な対立をもたらしている。それを解消しようとする者たちによって、静かに幕引きが図られているのかも知れないが、悪意の塊はまだ何かをやる気があるらしく、そんな意図とは裏腹に、相変わらず作り話の中でもがき苦しんでいる。誰もいるわけがないのに、そこに君がいるらしいことはわかっているはずだ。不在を装う君の存在をどこかで確認して、誰かがそれについて何かを語りたいらしい。君はそこから遠くへ行きたいと思う。物語からの現実離れした要求にはうんざりしている。それでも身体の再生が可能なら、何かそれとは違う曲を聴きたくなる。意味がないだろう。意図して何か違うことを述べようとしているらしい。それによってこれまでとは異なる言葉の響きをもたらしたいらしい。浅はかな願いは誰かによって却下されそうだ。では今こそ決断を下す必要に迫られてみるか。そこから何か意味のないことを述べたいらしい。しかし今は夜で何も見えない。何も見えなくても述べることはできるだろう。夜の寒さで指先が凍えている。嘘はそういうタイミングでつくものではない。そんなルールを勝手に押しつけられる。文字の組み合わせと言葉の連なり方が気に入らないらしい。だからそこから違うことを述べようとしているようだ。冷えた空気中に何かの音が響いているかも知れない。それは数日前に思っていたことだろう。ここで作り出している文章中にはない何かの到来を期待している。それを単純な無い物ねだりに終わらせたくはない。だから絶えず試行錯誤を続けているつもりのようだ。理由になっていないような気がしてくる。もうすぐ言葉が飽和状態になろうとしているようだ。それ以降は何も述べられなくなりそうだ。そこで何かを把握しているつもりらしいが、君にはそれが何だかわかっているはずだ。わかっているからそんなことを述べている。そしてそれが文章に変化をもたらしている。さらにそれは同時に何かを禁じているのかも知れない。無意味な問いかけをやめてしまったらしい。もうひたすら虚空に向かうのは飽きてしまったようだ。だがそんなありふれたやり方にも、少しは気休めが含まれていて、その気休めを利用して、それによって今までとは違ったことを述べられるのかもしれないが、一方ではそれをその場しのぎの語りに見せかけたいらしい。あまり本気には受け取られたくない。今は戯れ言であってもかまわないだろう。かまわないからそんなことを述べている。誰が君を非難しているわけでもない。非難に値しない存在でしかない。何となく意図的に論点を微妙にずらしている感が否めないが、誰か特定の標的が定まっているわけでもない。誰のことを非難しているわけでもないらしく、それは何の事件性もなく、そこからつまらない問題設定をしようというのでもない。また他に何を説明しようというのでもなく、それが何の説明になっているのか不明のままで、当然語り手の感知するところではないようだ。やはり君は何も語らずに、ただ言葉を適当に並べているつもりらしいが、そこから先へさらに何かを語りたいような気でいるようだ。語る対象もないのに、ただ何も語っていないように語りたいらしい。たぶん君は不可能を文章に要求しているのだろう。だから文章から得るものは何もないだろう。それはどういうことでもありはしない。それと同時にそういう語りが裏切られてほしいとも思っている。そしてさらに無駄に無意味に言葉を連ねようとしている。そんなていたらくから何とかまともな内容にたどり着かなければならないようだが、とりあえずどこか適当な境地にたどり着かなければならない。述べることが何もなくても、君は何かを述べなければならないらしいが、そんな思い込みは勘違い以外の何ものでもないだろう。しかしその思い込みの中で君は息づいている。君にもそれがわかっているはずで、その思い込みの中に躓きの原因もあるらしい。だから何かを述べることはおもしろいように思われる。たぶんそれは理由になっていないだろう。理由ではなく原因なのかも知れない。この世界がつまらない原因を知っていて、知ってはいるがそれを言葉で伝えようとしない。それはあたかも知っていることがわからないかのように語られている。君は何も語りたくないようだ。語れないのかも知れない。この世界がつまらないわけがないだろう。少なくともすべてがつまらないわけではない。おもしろそうな出来事に巡り会えないのかも知れない。あるいはそれをおもしろいようには感じないのだろう。そしてつまらなくないわけではない。それについてどう述べても違うような気がする。言葉が状況にマッチしていないのかも知れない。それ以前に何について述べているわけでもないが、それでも何かを述べているらしい。たぶんそういう感覚が勘違いなのだろう。そこから遠くへ離れたくなる。何かきっかけがほしくなる。飛翔するきっかけを求めているのかも知れない。地上から飛び立つための翼がほしいようだが、誰がそれを求めているのかわからない。要するに毎度おなじみで思いが矛盾しているらしい。君は何を求めているわけでもなく、ただ何か適当なことを述べているのだ。その述べている文章の中で、誰かがこの地上から飛び立つための翼を欲している。それはおかしいと思うが、たぶんその辺でわけがわからなくなっているのだろう。わざとそうしている節もある。そうしないと話が先へ進まないのかも知れない。そして君はそういう話が気に入らない。もっと違う話を構築しなければならないと思っているようだが、たぶんそれは無理だろう。君には可能性がない。何をやるにも才能が必要であり、その才能が不足しているようだ。だが本気でそんなことを思っているわけではない。話の内容としては、そういう述べ方もありなのだろう。才能というあやふやな概念を使えば、一応は何かを述べている風を装えるらしい。


11月17日

 何を考えているのかわからない。考えがまとまらないうちに眠気を覚える。何を眠たくなっているのだろう。本当に眠いのだからそれは仕方がない。眠気をこらえて懸命に言葉を操ろうとしている。夢の中では思い通りに身動きが取れないようだ。たぶん嘘かも知れないが、意味のない問いかけを無視することで何かを見出したらしい。そして今はその見出された何かについて語っている最中のようだ。語るきっかけがそこにあったらしく、そこから延々と同じようなことを語り続けている。そんな話がどこかにありそうだ。何かをひたすら読み続けていて、その書物を介して得られた妄想が、それらの話の内容なのかも知れない。だがそれについて語っている意識は内面から除外されている。何かが気に入らないらしく、そんな感情が誰かの心の内側にあるらしい。そういう設定を話の中に持ち込もうとしているようで、それでうまくいくと思っているらしい。心に余裕がないと考えが浅はかになる。それは何かの勘違いであってほしい。そう思いながらも、何となく彼について語るのが面倒になってくる。君は彼ではないから、誰のことを述べているわけでもなさそうだ。そんな嘘はここでは通用しないだろう。何も語らないわけなど何もありはしないだろう。何かを語るのに理由など要らない。そしてもう語ることには飽きているはずだ。興味が失せたそこから一刻も早く逃れたいのだ。もう時間的な余裕がない。それでもまだ時間がどこかに残されているかも知れないが、それは何をするための時間でもない。時間内には何も完成させられないから、こうして時間に追われているわけだ。だがそこで終わらせる気配はないように思われる。君はいつまでも強情を張っているらしい。そして強情を張りながらも肝心なことを忘れている。強情を張っている時間さえなくなりつつある状況に気づかない。明日と昨日の狭間に今日があるとは思えないが、何も考えずに何もできないことを呪っている暇はないだろう。しかしだらしなくうなだれている現状をどうすることもできない。それはまるで死ぬ間際に将来のことを考えているような間抜けさだ。だがなぜ自分が間抜けなのかその理由がわからない。とりあえず明日になれば何かを断言しなければならない。何か決めかねていることを決断したいらしいが、たぶん君に選ぶ道などありはしないだろう。選んでいる暇がないわけではないのに、現実には何もできない。いつものように安易な問いかけが無駄な回り道を招くらしい。その回り道の途中でやる気を失い、気がつけば何となく灰色の壁を眺めている。言葉がどこにも見当たらない。正気を取り戻すには至らないようだが、頭の中で何かの感覚が狂っているのかも知れない。しかし今さらそんなことを述べても無駄だろう。述べているそれは言葉ではなく文字かも知れない。空白に文字を適当に記しているだけか。そうすることによって、別にそれほど強力な達成感を求めているわけではないが、感覚的に何かをやり遂げないと気が済まないらしく、文字の分量がある一定量を超えないとやめられないらしい。だがそれをやり続けることに意味を見出せずにいるようだ。そこからどのような問いかけが見出されるわけでもない。何かをやり続けているのに、何もできないと思っている。たぶんそんなことをいくら述べても無駄だろう。時間が足りないようだ。できることならもっとゆっくり時間が進まないものか。時間を遅らせて何をやろうというわけでもないが、自らの生きるペースに時間も歩調を合わせてくれないだろうか。このままでは理由を見出している暇がない。ただ体験する何もかもが通り過ぎてしまう。そしていくら過ぎゆく時間を感じていても、何が得られたようにも思えない。確実に精神が老いているのかも知れないが、何かの季節が巡ってきたわけではない。移りゆく時の流れをやり過ごし、偶然に巡ってきた時機を逸しているのかも知れない。そして今日もそんなことを述べている。これからまた虚空に向かって意味のないことを問いかけるつもりらしい。いつも君は答えのでない問いかけを発しているようだが、よく考えてみればそれはおかしな成り行きだ。何か馬鹿げているようにも思われるが、何も考えなくてもそれは滑稽に思われる。だがそれで何を否定しているのでもない。ただ辺り一帯の空間に、何も感じ取れないような無味乾燥を推し進めているようにも思われる。それで何に至っているわけでもない。どこにも至りようがないのだろう。冷めたコーヒーをすすりながら、どのような状況も虚無で包み込もうとしているようだ。作り話の中では誰がそうしようとしているのでもないが、現時点で架空の君に可能なことは文字を記すことだけかも知れない。他にやっていることはどうでもいいようなことかも知れないが、そのどうでもいいようなことによって生かされていることも確かだろう。その状況をどうすることもできずに、ただ闇雲に言葉を並べ立て、それで何を主張するわけでもなく、文章の内容と君の伝えたいことは別の次元にあると思っている。たぶんどこまでもいつまでもその食い違いを保ち続けるつもりなのだろう。だから文章として記された内容は君には関係のないことだ。君が延々とそんなことを述べ続けているのは驚くべきことだが、君以外の意識にとってそれはどうでもいいことでしかなく、何に驚いているわけでも怖がっているわけでもないらしい。それでも話のどこかに興味を覚える部分があるかも知れないが、いくら窓の外をのぞき込んでも、夜の暗闇から何が這い出てくるわけもない。暗闇の恐怖は画面上でうごめいているだけだ。君は用意周到に話をずらして、それを知るきっかけをつかみ、同時にそれを無視しようとする。根拠のない強がりはそんなところから生じてくる。確かにそれでは意味がないだろう。意味など何もありはしないが、それで話がつながったと思い込んでいる。さっきまで何かしら語っていたはずだ。そして君は前もってその話の結末を知っていたはずだ。だからそんなに冷静でいられるのか。君がそこから逃げるわけがない。君は話の曖昧さの中に息づいている幻影そのものだ。他に内容らしき内容は何もなく、己の不在を利用してそれらの話の中に入り込んでいるのだ。実体を持たず、言葉として文章にも反映されないことを思っている。そういう設定なので、君はこの世界から疎外されているのだろう。それでもかまわない。実際にそれ以外の存在形態はあり得ないのだから、かまうかまわないの問題ではないのかも知れないが、それで何かを述べているつもりらしい。何も述べていなくても何かしら述べていることにしたいようだ。誰かの意識がそういう幻影のあり方を支持している。そういうわけで幻影は文章の中で無言を貫いているらしい。それがそこでの君の役割なのだろう。


11月16日

 どうもすっきりしないようだ。ここに至ってついに遅れを取り戻せなくなってしまったらしい。しかしなぜ焦らないのか。本当に無理を承知しているのだろうか。無理なのになぜ続けようとするのか。無理だと感じていること自体が勘違いなのではないか。それは嘘に違いない。しかしいくらそんな逡巡を繰り返しても無駄だろう。だめなものはだめに決まっている。だが何をそんなにためらっているのか。やめたいのならさっさとやめればいいではないか。やめたくてもやめられるはずがないか。それでもやめようとしないのはなぜだろう。やめられなければまたいつものように、わざとわけのわからないことでも述べていればいいだろう。とりあえず芸術は欺瞞だ。悲惨な境遇の一般人を食い物にしている。物語が許せない側面はそういうところにあるのだろうか。だがそれで何を否定しているわけでもない。またそうすることによって誰を助けようとしているのでもない。困っている人々は見殺しにされるのが通常の成り行きだろう。世界とはそういう場所なのではないか。問題は解決されるために生じているわけではない。では君を困らせるために存在しているのだろうか。見当はずれなことを述べているかも知れない。しかしそれで誰が困っているのか。そこで立ち止まって何に見とれているのか。目に映る光景を無視していてかまわないのだろうか。そこに何が映っているのか。まったく感知できていないのかも知れない。いつの時代でもそこに君の視点があるわけではない。誰の視点をも拒絶するようなわだかまりを感じている。それは誰の時代なのでもなく、書物の中に展開されている虚構の類だろう。だから君が読んでいる内容は無効なのか。そこから何も読み取っていないのかも知れない。だいぶ以前から君は読書を放棄している。そこに連なっている文字を読めないのかも知れない。それどころか読んでも理解できないのではないか。理解しようとする善意を意識が拒絶しているのだろうか。書く側が理解させようとしていないのかも知れない。文章がそれを読んで理解する事態を想定していないのではないか。そんな文章があるだろうか。それらの文章を誰が記しているのか。それは君が記さなくても続くようなものなのか。では君は架空の文章について何を述べているのだろうか。あるいは君は自らの悲惨な境遇を文章にしようとしているのか。だがそれがフィクションだとしたら、悲惨な境遇自体が嘘になってしまうのではないか。だから冗談でそれを述べているわけか。しかし冗談が悲惨であるわけがないだろう。それもネタ切れをごまかす一環なのだろうか。そこで何をわかろうとしているのではなく、無知を装っているだけで、本当はわかることを放棄しているのではないか。それとももうあきらめてしまったのか。何をあきらめていることになるのだろう。ただ想定外の事態の到来に困惑しているのかも知れない。なぜそう思うのか。事態を大げさに捉えたくないのか。体験しつつあるそれは、ただの深夜でしかないだろう。寝て起きてたまたま目覚めた時間帯が深夜に属しているだけなのかも知れない。ではそこからどう話を展開させることもないか。ただ何もなく、これから先も何もあり得ない。君はそこで自らの嘘を育てているつもりのようだが、そこが静かだと思いたいのだろうか。耐えられない騒音に包まれながらも、そんな状況をどう述べたらいいのかわからないか。精神の集中はどこへ行ってしまったのか。たぶんその時間帯にはお目見えできないのだろう。その代わりにどうでもいいように思われているだけか。何がどうでもいいのかわかりかねるが、何もわかろうとしていないのだから、それは至極当然のことだろう。何となく時間に敗れ去っているような気分でいたいようだ。だから何もやろうとしないのか。ではそこからどうすればいいのか。また寝て朝にでも目が覚めればそれでかまわないのだろうか。そんなことが繰り返されて現在に至っているのではないか。そこでは寝て起きるという反復が執拗に繰り返されているらしいが、それで何に反発を覚えているわけでもない。たぶん誰かはずるいことをやっているのだろう。そのずるさを誰も指摘できないのかも知れない。君には何がわかるというのか。架空に存在しているつもりの君は、何で商売をやっているのだろうか。誰かにはそれが何のことやらわからないのかも知れないが、メディアはそこから糧を得ていて、それらは莫大な収益を上げているらしい。この世界の中にある悲惨な出来事を映像に収めてきて、それを売りさばいて食っている。しかもそれは食っているというような水準の話ではないのかも知れず、人々の生を無駄に浪費し続けているだけなのかも知れない。そんな職業を顕揚する人々が許せないか。たぶんそういう人々は特権階級に属しているのだろう。文字であれ映像であれ、そんな情報を商売道具にしていること自体が、悲惨な事態を招いているのではないか。それらの情報の支配を受け入れる者たちにとっては無駄ではないと思うかも知れないが、現実に多大な予算を投じて作られたそれらのソフトもハードも、出現すると同時に片っ端から忘れ去られる宿命であり、残るものはほんのひとにぎりでしなく、それが途方もない無駄を実感させ、とりとめのない虚無感を蔓延らせている。勘違いの主な原因はその辺にあるのかも知れない。君はそれの何を知りたいのか。知っていることは何だと思っているわけなのか。そこに何があると思い込みたいのか。それが悲惨な現実だと勘違いしたいわけか。しかし記憶とは何なのか。廃墟の中にかろうじて見出される残骸が記憶なのだろうか。見聞した出来事のすべてが記憶に残るわけがないだろう。それでも君はそこで何かを体験しなければならないのだろうか。だがそれを体験して何がわかるというのか。何かをわかるために体験しているわけではない。それはどうにもならなくなった状況でしかなく、まさに何をどうしたらいいのかわからなくなってしまった状況を体験しているらしい。本当にそこからどうするつもりなのか。すべてがマイナスになっている事態をどう覆そうとしているのか。覆せるわけがないか。そんなあきらめの心境など無視しながら、外には冷たい風が吹いている。無意味な言葉の束を風の中に投げ出すことはできない。風は風であり言葉は言葉でしかなく、意識は風からどんな言葉を受け取っているわけでもないらしい。人々はみんな同じものをほしがっているわけではない。中には何もほしがっていない者もいるだろうか。それとも何かを欲しなければ人とはいえないだろうか。人でなければ神か悪魔か、はたまた何者でもない者なのか。とりあえず君はそこまでやってきた。何かの助けを借りながらも窮地を脱しようとして、必死にもがいているようだ。そしてその有様を誰かが黙って眺めている。


11月15日

 思いと想いはどう違うのか。感じと漢字が違うだけか。何か馬鹿げたことを述べてみたい衝動に駆られているようだ。それは誰の感覚から導き出されている風景なのか。君が見つめている風景は壁紙の一部に過ぎないが、そこから何か崇高な思いに囚われてみたいか。どうやら気分は未だに最低の領域を脱していないらしい。それは喜ばしいことかも知れない。何か気まぐれに強がっている。それでもやはり意味不明に変わりはないようだが、また誰かは切羽詰まって意味のないことを述べているのだろうか。どうせ結末はわけがわからなくなるだけだろうが、誰がそうなることを期待しているのか。要するにそれは期待外れに終わるということか。何を期待しているのかわからず、それが誰の期待なのかも知らない。それらの精神状態をどう表現したらいいのだろうか。気持ちから心が外れている。そんなわけで相変わらず焦点が定まらないようだ。何を語っているのかわからないままで、もはや言葉だけではどうにもならないだろう。しかし何を述べるにも言葉が必要なことに変わりはない。それは確かに当たり前のことだが、そういう方向で話を展開していっても意味がないか。できないことをやろうとしても途中で行き詰まるだけか。そんなわけのわからない話の内容にどのような意味を求めているわけでもないが、意味のない話をいくらしても仕方がないだろう。そうやってますます違った方向へと話がずれていってしまうらしいが、そこから軌道修正する気が起こらない。振り向けばテレビではまた政治家がつまらないことを述べているようだ。太鼓持ちのような司会者におだてられていい気になっている。だがそんなことはどうでもいいことだろう。誰がそこで何をやっているわけでもない。述べたいことは何もない。話したいことなど何もありはしない。それが今の率直な気持ちなのだろうか。素直になれないからそんなことを述べているのだろう。そんなわけでわけのわからないことを延々と述べつつ、どこかで根性がねじ曲がっているのかも知れないが、いったい人にどんな可能性があるのだろうか。無用なことばかり考えている使えない人間に、何らかの可能性があるのだろうか。たぶんそれは滅びない可能性だろう。しかしなぜ状況に適応できないのに滅びないのか。もう十分すぎるほどいい加減な状況に適応した文章を記しているではないか。たぶんそこには状況の変化に左右されない確固たる意志でも宿っているのだろうか。安易に利いた風なことを語るわけにはいかない。そういうことではなく、何となくだめな人間には、通常の意識では計り知れない魅力があるのかも知れない。そういうことでもないだろうか。どうもその辺で日本語になっていないような気がしてくるが、君は気分次第で間違ったことでも述べているのか。とりあえず状況に適応しながら、そんな状態に安住していては先がないらしい。では君は冗談でそんなことを述べているのだろうか。わざと間違ったことを述べているわけでもないか。だがそれで何を述べているわけでもない。何となく語り進んでいくうちに、そんなことはどうでもよくなってしまったのかも知れないが、何がどうでもよくなってしまったのかについては、誰かの想像にまかせておくとして、君はその先に何を述べればいいのかわからなくなる。わからないついでに、わかっていることはわからないこととはどう違うのか。確かにそこで誰が何を述べているわけでもないが、わからないことはそんなところから出てこないか。わかっていることはわからないことを目指して語り続けていることだ。誰がそうしているのだろう。面倒なのでそこからいきなり話が飛んで、そこで何かのついでに死んでしまったのは誰なのだろうか。また現実逃避してニュースでも見ているわけか。そうする意味と意図がわからないが、何かのついでに人が死ぬだろうか。それは交通事故の類か。君にとっては事故で死んだ人は忘れ去られる宿命だ。そんな決めつめはでたらめか。いったい誰によって死者が忘れ去られるのだろうか。面倒臭いので彼は死んでしまったことにしておこう。理由は何もなく、強いて上げれば目が死んでいる。では彼の声は永遠にどこにも届かなくなるわけか。そういうこじつけ気味の物言いは感心しないか。それは誰の台詞なのか。またごちゃごちゃわざと話を込み入らせて、語りを長引かせようとしているらしい。でもそれ以上述べても意味がないだろう。始めから意味がないのはわかっているはずだから、意味のないついでに、そこから先へ言葉を連ねなければならなくなる。そんなこじつけは理由になっていないから、そこから先にまともで意味のある言葉を付け足す必要に迫られているわけか。別にそういうわけでもないだろう。もはや言葉遊びにすらなっていないようだ。見聞する何もかもに興味を持てず、完全にたがが外れてしまって、それ以降は何を述べてもいいような気になっているのかも知れない。馬鹿なことでもくらぬことでも何でもかまわないのだろうか。正気を失ったふりをしながら、常識から遠ざかり、ありきたりの非常識には目もくれず、結局何に反発しているのかわからなくなる。たぶん何も思いつかないだけなのだろう。それ以上に見失っているものがあるのかも知れない。何をそんなにひねくれているのか。素直に喜んでもいいのではないか。それを明かそうとはしないようだが、何となくうまくいっているのではないだろうか。君はそれを忘れている。わざと忘れているのかも知れない。もしあなたがそこから飛び去りたいのであれば、あなたは鳥になるのだろうか。それはどのような状況で発せられた誰の台詞なのか。ただわざとわけのわからないことを述べているだけか。たぶんそれでは気が触れていることにはならないだろう。冗談でそんなことを述べているわけではない。飛び去りたいのではなく、忘れ去りたいのではないか。事件の背後に何があるわけではない。忘れ去りたいのはどんな体験なのか。たぶんそんな体験はとうに忘れ去ってしまったのだろう。そうやってわざと話を矛盾させて、忘れ去りたい体験を言葉で覆い隠そうとしている。それは嘘かも知れない。たぶんいつものように本気で述べているのではないのだろう。どこかの書物から言葉を借りてきているのかも知れない。だから語調がぎくしゃくしているのか。無知を書物から得た知識で埋め合わせても虚しいだけか。どこかへ飛び去ってしまったのは、今では失われてしまった初期の感性だろうか。だが架空の君に初期も晩期もありはしない。君の希薄な物語では彼を殺すことなど不可能か。誰を殺そうとしているわけでもないのに、誰かに対する殺意を感じるのは、どこかの台本から寸借してきた、話の前後の脈絡が不明な感情でしかないか。どうもそんなことを述べているうちに、自らの述べていることがさらに馬鹿らしく思われるようになってきた。なぜそんな風に語ってしまうのだろうか。


11月14日

 相変わらず何もありはしないが、誰かの内部には少なくとも言葉を排出している機構があるようだ。そこでは何が起こりつつあるのだろうか。何が起こっているわけでもない。ただ何も起こり得ない現状に苛立っているだけか。そうではないと思いたいようだが、現実にはいつもの夜に何をしているわけでもないらしい。ではそこから何か空想でもしなければ間が持たないだろうか。誰かがもたらそうとしている物語の中では、架空の出来事に疲れた感覚が鈍く反応しているようだ。だが君は出来事の内容を知り得ない。またそれとは別の時空では、安らぎを追い求めていた意識が、探し求めていたものにようやく巡り会えたような気がする。たぶんそれは嘘だろう。そこから見出された時は不穏な雰囲気を伴っているようだ。コーヒーを飲みながら、苦い記憶が脳裏によみがえったような気になる。窓ガラスが割れている。道路上が割れたガラスできらきら光っている。だいぶ以前にそれと似たような光景を目にしたことがあるらしい。しかしそれがどうしたというのか。ただそんな光景を眺めているだけでは物足りないか。満たされないとはどういうことなのか。空白の時を何で埋めればいいのだろう。それを言葉で埋めているつもりなのか。だがそれは君の言葉ではない。何かが違っているようだが、今こそ昔の記憶を呼び戻そう。たぶんそれで問題ないのだろう。ところで君はどんな文章を求めているのか。それは求めてはいないものかも知れない。まっとうな意見は何もなさそうだ。面倒なので精神のどこかが壊れているらしいが、そういう逃げ台詞にはうんざりしている。まだやる気が出ないらしい。虚ろな目つきはよりいっそう焦点を見出せなくなる。ピントが合っていないのかも知れない。そんなことを述べている間に、さっきまで眺めていたつもりの風景が、どこかへ消え去ってしまったらしい。それで何を見つけ出したつもりになれるのだろう。それらの風景から君の思いが滲み出てくるか。だが何かの抜け殻のようになってしまった今の君に、何を求めても仕方ないだろう。過剰な期待は禁物か。いったい君の実体はどこへ行ってしまったのだろう。君は誰かの捨て石だったのか。何を今さら未練がましいことを述べているのだろう。とりあえずそんなくだらぬ思いからは速やかに立ち去らなければならない。冷めたコーヒーを無理矢理口に流し込んで、それから君はどうなったのか。どこへ行ってしまったのか。まだそこには誰も現れていないようだ。誰もいない空白の時間帯で、たぶんまだわけのわからないことを述べているのだろう。しかしそこからさらに月日が経ってしまったらしい。もうそんなことは忘却の彼方の出来事になってしまったのか。それを忘れたついでに何か適当なことでも思いついたか。君はまだ自分が生きていると思っている。物語の中ではとうの昔に死んでしまったのかも知れないが、無理を承知で生き続けているらしい。ここは物語の中ではない。しかし現実の世界では何も起こらない。君は想像力が枯渇しているようだ。何も思い浮かばないだろう。なぜその身体は不自由なのだろうか。どうして無理が利かないのか。そこにはどのような思惑が渦巻いているのか。誰かを煙に巻いているつもりなのだろうか。このままではやがてどこへも行けなくなってしまうだろう。そういう言葉の使い方はあまり感心しないか。そういうことを述べているのではなく、他に勝手なことを述べているわけでもないが、なぜそこで話が立ち往生してしまうのか。面倒臭くなってわざとそこで立ち止まってしまう。それより先に進みたくなくなってしまうらしい。それは現実逃避の類だろうか。頭の中は空虚で埋め尽くされていたいようだ。それは何かの意識なのだろうか。しかし空っぽの意識が意識といえるだろうか。その実体は何もない。意識が誰に宿っているのでもない。やはりそこには誰もないらしく、たぶん意識はそこからどこにも至れないのかも知れない。だがそんな語り方では何を述べているのかわからないだろう。それで誰に迷惑をかけているのだろうか。語り進むうちに話の筋を見失っているようだが、話のどこで折り合いをつけるのかを知りたい。途中が何も見当たらないだろう。そしてどんな解決を望んでいるわけでもないようだ。それは事件ではない。すべてが君とは無関係な話なのかも知れない。しかし話の内容が明かされることはないだろう。誰に明かさなければならないのかを知らない。何を明かす必要があるのか。その他にどこに何が見出されているわけでもないらしいが、それでも君は言葉をその先に連ねたいのだろう。話にならない話を続けたいらしい。しかし何をどのように語ろうとも、そこから先は何も始まらないようだ。ではそこであきらめてしまうのか。何をあきらめたつもりになれるのだろうか。彼は自らの命と引き替えにして何を手に入れたかったのだろうか。それはどこかのサスペンスドラマの台詞か。わざとらしくどうでもいいような過ちを繰り返しているようだ。遠くを眺めれば夕焼け色が目にしみるか。それは何を示しているのでもなく、ただの風景について語っているだけか。ただの風景でさえなく、ただの言葉の連なりに過ぎない。君にはそれがわかっているはずだ。無駄に言葉が続いている。それがそこでの現状になるだろうか。途中で急停止して、わざと道に迷い、途中下車を試みつつ、何が何だかわからないふりをしている。それで何か冗談でも述べているつもりか。なぜわからなくなってしまったのか、その原因はわかりすぎるくらいにわかっているつもりか。だがそのわかっていることを文章で示せないらしい。何を恐れているのだろう。終わってしまうことについて、そんなことにいつまでも興味を抱いているわけでもない。それとは違うことを語る気でいるわけか。だが終わりについて語らずに、他の何について語ることができるだろうか。何をもったいぶっているのか。そんな余裕などどこにもないはずか。わざと隙を作っておいて、その隙を突いてくる者に敗れ去ろうとしているわけか。それはどこかの漫画の常套手段だろう。そうしないと話が進まないのかも知れない。敗れ去る者がいないと、その先を語れなくなってしまうらしい。だが対決の構図にはゆがみが生じていて、特定の人物を生き延びさせるように話を展開させていかなければならない。はたして君にそんな芸当が可能だろうか。君が語りつつ話には何が欠けているのだろうか。特定の音楽を想像しなければ、話の内容を理解できない。本当にそういうことを君が語っているのだろうか。君自身は何も語っていないような気になるのだが、そこに話の内容が存在するのだろうか。いったいそこで何を語っているのだろうか。結局は何が何だかわからないことしか述べていないのであり、そんなことしか語れないらしい。


11月13日

 なぜか逃げ道がふさがれているみたいだが、努力とは誰のために発動する行為なのだろう。誰が努力することを望んでいるのか。誰の言動に理解を示しているわけではない。誰がそれを成し遂げるのか。それが君の望みなのだろうか。眠たくなったら寝ればいい。それは君とは別の声なのか。過去において誰かがそんなことを述べていた。人生は楽しまなければならない。それが人生だと思い込んでいる限りで、それは誰かの人生なのだろう。誰の人生でもかまわないが、寝る間も惜しんで何をやろうとしているのか。目の前の画面を眺めているだけの自分が許せなくなったのか。映像の中で何かが起ころうとしているが、冗談ではなくそれはいつの出来事なのだろうか。誰かが毎日のように微笑みかけて、何かの悲劇を未然に防ごうとでもしているのか。だが何かは起こるべくして起こるだろう。別にそこで誰かの腕がちぎれそうになっているわけではない。なぜそんなことが起こるのだろう。要するに腕が筋肉痛なのかも知れない。何となくだるそうに装っているようだ。自信を喪失しているようで、そこから何を述べていいのかわからなくなり、偶然に耳から入ってきたけだるそうな音楽に心が染まっているらしい。それでは文章になっていないのではないか。繰り出された言葉が何かに煽られているみたいだが、そのとき何かが強風に煽られている光景でも思い浮かべているのか。目にしているのは派手な音響装置ではない。いったい何を述べているのか。それは別の日の午後の出来事なのか。気がつけばもう夜になっている。風の強い日に夜空を見上げると、何か得体の知れぬ感覚を取り戻すことができるだろうか。まったく前後の文章がつながっていないようだ。それでも今さら何の話をしているわけでもないが、話が飛んでいるのは気のせいか。気のせいでそれらの誤謬を片づけられるだろうか。それが叶わぬとしたら、いったい批評とは何だろう。言葉によって君は何を批評しているつもりになれるだろうか。夢の中で泥船に乗って川を下っている。そんな夢があったらおもしろいだろうか。どこかの宣伝文句によれば、夢は見るものではなく叶えるものだそうだ。そんな気の利いたことを述べようとすると、吐き気を催してこないのだろうか。何となく馬鹿らしくなってくると同時に、背中に火がついたような感触を得る。それはたぶん嘘だろう。ただの嘘ではつまらないのなら、それは幻だと嘘でもついておけば気が済むか。それもかなりおかしな述べ方だ。君はそんな馬鹿げた嘘をつきながら、それによって何を克服しようとしているのか。夜空を見上げながら何を探しているのでもないが、何も探していないのだから、何も見つからないと思いたいようだ。思いがけない発見と遭遇にはうんざりしているところか。でははたしてそれ以降に言葉を連ねられるだろうか。歴史は逆戻りしないか。そんな大げさな言葉は似合わない。何かが逆さになっているのかも知れないが、それを無視しながら引き潮に乗って何かが遠ざかる。君はそこで何を見出したのか。それは探そうとしていなかったものか。晴れた空から何が降ってくるのだろうか。雹でも降ってきて、ついでに雷の音でも聞いてみたいか。無理が祟って文章が疲弊しているように感じられるが、それは雑音か何かか。君以外の誰が雑音を発しているのか。画面上では誰かの顔が恐怖で歪んでいる。それにつられて言葉が方々へ分散してしまっているらしい。ふと見た光景をいつまでも眺めているわけにもいかないだろう。では心の中には何があるのだろうか。誰かの思いをどこに届かせようとしているのか。まったく意味が通じていないようだ。話になっていないのかも知れない。文章にほころびがありすぎて、どこから修正を施せばいいのかわからず、ただ途方に暮れるばかりか。しかしそれはわざとらしい言い訳に過ぎず、本気でそんなことを述べているわけではなさそうだ。どうにもならないことを述べているのはいつものことだろう。どうにもならないのにどうにかしようとして、さらにどうにもならなくなるのもいつものことに違いない。だから素直にどうにもならない現状を認める必要に迫られているわけか。だが君にはそれは認めがたいことに思えるようで、さかんに無駄な言葉を並べ立て、どうにかしようと今も虚しい試みをやり続けている。今こそを過去を思い出さなければならないか。いったい君はどこから来て何をやろうとしていたのか。しかしいったい君は誰にそれを問いかけているのか。そこには誰もいないのではないか。では風もないのに梢が揺れているのはなぜだろう。枝から鳥が飛び立って、視線の目標が一時的に喪失しているだけか。その他にそれらの文章は何を思わせるわけでもなく、他の何に惹かれているのでもないらしい。それで気が済まないのなら、それとは違う光景でも思い浮かべてみよう。芦原に木枯らしが吹いている。そんな光景を思い浮かべながら何をするわけでもないらしいが、誰がそれを望んでいるのか。それとは何のことなのか。例えば冬になれば心も凍りつくだろうか。だがそうなることで誰が得をするのか。ただわけがわからなくなり、他に何を述べようとしているのでもなく、これからどうなってしまうのかを知りたいわけでもないらしい。要するにでたらめなことを述べているだけか。しかし何がどうなればうまくいったことになるのか。そんなことはもう忘れてしまったはずか。だがなぜそこで文章をまとめようとしないのか。虚空に向かって何を問いかけても無駄だろう。ただそんなことは忘れてしまっただけなのか。そこからわけのわからぬことを問いかけている意識には、どんな言葉も届かない。意識には反省がないらしく、それが返答と見なされてもかまわないようだが、何かしら述べているそれは、誰の思いを反映しているのだろうか。そこからどうやって文章を仕上げるつもりなのか。気の利いた言葉は何も思いつかぬまま、そこから逃げ出したくなるか。実際に逃げているのではないだろうか。ただそんなことを述べているうちに、ますますわけがわからなくなる。実際に何もわかっていないのかも知れない。どうしたらその状況から抜け出られるのか。君自身がこの世界から遠ざかれば、すべてをやり過ごすことが可能となるだろうか。だからそれらの文章を読んでわかったつもりにならないでほしいか。そんなことはどうでもいい。早急に結論を出さなければならない状況なのだろうか。事の深刻さをわかっていないのかも知れない。君はそこで何に反発しているのか。忘れっぽいので過去の文章を読み返さなければならなくなる。それを読み返して何かわかったつもりになれるだろうか。ただ悩みごとが一つ増えただけか。それ以外にいったい何を悩んでいるのか。そんな現状を肯定する気になれるだろうか。


11月12日

 またわからなくなってしまったらしい。誰かが以前と同じようなことを述べていて、それを述べている当人はそのことに気づいていないようだが、何となくそれは違うような気がしてくる。なぜ君は誰かと出会って情報交換をしなければならないのだろうか。当たり前のことを訊かないで欲しいか。それが何らかの利益に結びつくのだろうか。君は何を糧にして生きているのか。君とは誰でもない誰かのことかも知れないが、それはさっき聴いた曲だろう。また以前と同じような言葉の並びになっているような気がするが、それらの文章が成り立つ可能性はどこにあるのだろう。それはどのようになる可能性なのか。まだそこに何か述べたい内容があるのだろうか。そこで何を探しているつもりなのか。何を見つけたいわけでもなく、ただ早朝の暗闇の中であくびをしているだけか。もう冬の寒さに震えている頃かも知れないが、他に何を感じているわけでもないらしい。それはいつの話なのだろうか。だれがそこまで知っているわけではないようだ。この先あまりつまらぬことにこだわっていると、そこで話が終わってしまうだろう。しかしなぜ話を終わらせようとしないのか。そこで途切れたらお終いか。何がお終いになってしまうのだろう。まだそんな時期ではないと思っているわけか。なぜかそこからさらに続ける必要があるらしい。君には続ける理由が一向に見えてこないのだが、とりあえず続けておかないと。そこでお終いとなってしまうらしく、理由は知らないが、お終いとなってはまずいようだ。しかしそれではわけがわからないだろう。やはり何を語っているのでもないように思われてしまうだろう。しかしそれで何か不都合なことでもあるのだろうか。そういうことを述べたいわけではないのか。ではどのようなことを述べる必要があるのか。それがわからないからそこから逃げ出したくなっているわけか。もういい加減にやめてほしいか。だが何をやめたらいいのかわからない、と嘘をつきたくなってくる。なぜそうなってしまうのだろう。まったくでたらめに言葉が連なっているように思われる。何かの限界を超えているのかも知れない。事物はどこへ行ってしまったのだろうか。具体的な事物について語れば、少しはまともな内容に近づくだろうか。ではいったい何について語ればいいのだろうか。これから何を否定するつもりなのか。なぜ事物の具体性を否定しなければならないのか。そういう話ではないだろう。またどこかへ逃げようとしている。だがもはや嘘も尽きかけてきたのではないか。これ以上は何を述べても嘘になってしまうかも知れないが、それでも嘘が見当たらなくなる。どのような嘘をついていいのかわからなくなる。だがそれも嘘には違いないだろう。要するに何も述べられなくなってしまうということか。時代に取り残されているのかも知れない。なぜそんなことを唐突に述べるのか不可思議だが、寝て起きれば何か適当な理由でも思いつくだろうか。昨晩はそこから何を述べるつもりだったのか。疲れてきたのでそんなことはどうでもよくなってしまったのか。それでも何か述べているつもりなのか。意味のない言葉の連なりはどこまで続いているのだろう。別にそれを見極めたいわけでもないのだろう。何を見ているのでもなく、どんな光景を眺めているのでもない。ただそこから遠ざかりたいだけか。一刻も早くそこから逃げなければ破滅してしまうか。誰が破滅することになるのだろう。それは素朴な歌かも知れない。なぜそう思うのか。誰がそれを歌っているわけでもない。そこにはただ文字が記されているだけだろう。そして歌詞の内容を把握しているわけでもない。馬鹿げた内容になっているかも知れないが、その代わりに何を示すことができるのか。何がそこで歌われているわけでもない。それが事物を否定することにつながるのだろうか。まったく根拠が希薄で、何が示されているわけでもないような気がしてくる。たぶん文章になっていないのかも知れない。つながりのおかしい言葉の並びをそのままにして、何らかの雰囲気が醸し出されることでも期待しているのか。それが何の可能性を示しているのだろうか。何のことやらさっぱりわからないか。わけがわからないままに次の曲を聴いているだけか。空気の振動を音と感じているらしい。それが馬鹿らしさの一端でも示しているだろうか。だがそれでも事足りるような成り行きになっているのかも知れない。何を開き直っているのだろう。だがそこからどうやって戻ってくるつもりなのか。もはや正気に戻れないようなことを述べているのか。誰がそんなことを述べているのだろうか。やはりそこには誰も存在しない。何を問いかけてみても何の返答も返ってこない状況が信じられないのか。君はどんな幻想を抱いていたのだろうか。わけがわからぬ問いかけには誰も答えようがないだろう。だからそこからどうやって戻れるのだろうか。戻る先がこの世界のどこにあるのか。別にこの世界のことを述べているわけではないか。聴きたい曲が偶然に選ばれたようだ。君はそんな解答を期待していたわけではなかったはずか。ではそこで息切れなのか。何を中断しているつもりなのか。そこからどこへ突き抜けたいのか。果てしない野望を抱いているわけではないだろう。誰かは若者のふりをしているだけか。まるで漫画のような人生か。誰がその漫画の主人公なのだろう。そこで誰が何を読んでいるつもりなのか。何かその他に指摘したいことでもあるのだろうか。なぜかそこで一目散に走って逃げる。何とか虚無から逃れることができただろうか。しかしそんな嘘はお見通しなのかも知れない。それらの結果を誰が見通していたのだろうか。君がどんな嘘を並べ立てようと、そこから先に述べることは無効となってしまう。常に無駄なのかも知れず、無駄だからこそ何かを述べる余地が生じているのかも知れない。要するにそういう成り行きが気にくわないわけか。ではそこからさらに検討を加える必要があるのだろうか。何を検討しようとしているのか。文章の内容がそれ以上複雑になるわけもないだろう。それは複雑なのではなく、ただ単にでたらめなだけかも知れない。自らの頭のおかしさに文章の内容が追従してしまっているのか。そんな風に思いたいのなら、それで何か気の利いたことを述べたつもりになれるだろうか。別にそんな思いに至りたいわけでもなく、何も思わずに言葉を連ねている状況を維持しているつもりになりたいだけか。それはどういうつもりなのか。やはりでたらめでしかないのだろうか。それ以外に何を感じ取れば気が済むのか。感動とは無縁の鬱陶しいだけの文章でしかないだろう。いつまでもそんな徒労気味の暗中模索を続けていられるだろうか。続けているうちはそれを続けていることになるだけか。だがそれで何を述べていることになるのか。


11月11日

 数日後の空は青く晴れ渡っている。ただそれだけのことを誰に伝えればいいのか。誰にそんなことを伝えようとは思わないか。では伝えたいことは何もないのだろうか。それ以外に伝えたいことをねつ造してみないか。何もねつ造しなくても、何か伝えたいことがあるような気もするが、思い当たる節は何もなさそうだ。面倒なので何も思いたくないのかも知れない。何も思わずに言葉を並べたいのか。はたしてそんなことが可能なのだろうか。言葉の組み合わせ次第ではそんな文章ができあがる可能性もあるのかも知れないが、そういう文章が構成されたとしても、それがどうしたわけでもないだろう。ただそんな文章ができあがるに過ぎないか。相変わらず誰が何を述べているのでもないらしい。君は何も述べていないのだろうか。どうも物事を正確には語っていないような気がする。そこには何か誤りでもあるのだろうか。あるとしてそれについてどう述べればいいのだろう。面倒なのでそんなことまで語りたくはないか。しかし他に何を語ろうとしているのだろう。語ろうとしていることを語っているわけではなさそうに思われる。それどころか何を語ろうとしているのかわからないのかも知れない。だから何について語っているわけでもないと思われるのだろうか。それらの語りの何が間違っているのか。誰がその間違いを指摘することもないだろう。君には何も期待されていない。ただ言葉を並べて文章を構成していればそれでかまわないのだろう。それ以外に何ができるというのだろう。何もできないからそんな状態になってしまったのではないか。だが君の言葉遊びもそこで行き詰まりだろう。中身のあることは何も語れないのだから、何を語ろうとそれは皆同じ無内容になるだけか。それが気にくわないらしく、君はしきりにそれとは違うことを語ろうと試みるが、虚無に囚われた君の意識が何を語れるはずもなく、結局いつものように苦し紛れの自己言及を繰り返すだけなのかも知れず、そんな結果に嫌気が差して、君はますますやる気を失ってしまうわけか。そんな成り行きが今ここで提示できる唯一の物語になるだろうか。君はそれを否定して見せたいようだ。何かを語ることでそれを打ち破ろうとしているらしい。しかしなぜそんなに必死になってそれ以外を語ろうとしているのか。内容の皆無な物語ではどうしてだめなのだろうか。わかりきったことを訊かないで欲しいか。誰に訊いているのかわからないだろうか。そんなことを述べたいわけではないが、君はそれ以外に何を望んでいるのか。それらの物語の内容がどうなってほしいのだろう。それがわからなければどうにもならないのではないか。ではそれを今から知らなければならないか。だがそれをどうやって知ることができるのか。何かそれを知るあてでもあるのだろうか。他の誰かが都合良く登場して、君に何かを教えてくれたりする展開などがあり得るか。そんな粗雑な話がどこにあるのだろう。それをやったらどこにでも転がっているような話になってしまうだろうか。案外そうなることが君の望みなのかも知れない。一度でかまわないからありふれた話を語ってみたい心境にでもなったのだろうか。しかしそこで君の心境について述べている語り手はいったい誰なのだろう。さっきまでは君が語っていたような気がするのだが、今はどこの誰が君のことを語っているのか。その辺が曖昧なような気がするのだが、わざと曖昧なことを述べているのかも知れず、それを述べている語り手自身が不明確な存在なのかも知れない。別に誰かが語っていようと誰も気にしないだろう。そこに誰が存在するはずもなく、ただ言葉が適当に連なっているに過ぎず、誰かそれを制御しているわけでもないらしい。あえてそれらの構成者を特定しようとするなら、例えばそれは誰かの無意識が言葉を構成していることにでもしておけば、それで何となく納得してくれるだろうか。誰が納得するというのか。別に誰に納得してもらおうとも思っていないのではないか。たまたまそんな文章になっているだけで、その文章のいわんとしていることを、誰にわかってもらおうとも、誰も思っていないのではないか。ではそれは無が語っていることにでもなるのだろうか。無とは何だろう。何もないことが無なら、それで何かを語れるはずもないか。だがそれがフィクションだと見なせば、何でもありなのかも知れず、無が何かを語ろうと、そういう話だと思えばそれでかまわないのではないだろうか。何となくそんな話にしておきたいような気がしてくる。何を語っているわけでもないのだから、それを何が語っていようと、そんなことはどうでもいいことだろう。そんな風に言葉が続いているのだから、それはそれでそういう話なのだろう。要するに語っているうちにだんだん投げやりに語っていることに気づいてくるらしい。そんな話もありなのだろうか。ここはそういうことでそのまま押し通すより仕方がないようだ。それ以外に何を語れるというのだろう。成り行き的にはそんな話しかあり得ない状況なのかも知れず、何となくそれでは虚しくなってしまうが、それ以外にやりようがないようだ。そこから君は言葉を構成している。そして君は自らの存在を言葉によって主張しようとでもしているのか。しかしそれで存在を主張していることになるのだろうか。そこには言葉以外に何が存在しているのか。はたして意識の存在を感知できるだろうか。仮に意識の存在を確認できれば、そこにその意識の所有者が存在している証にでもなるのか。だがなぜ文章にその所有者が必要なのだろう。そこから何か利益を期待できるような文章なら、当然その所有を宣言したくなる気になるのかも知れないが、何の利益も期待できないような無内容だとしたら、そんな文章など誰のものでもあってもかまわないような無価値なものでしかないのではないか。文章のあり方としてはそんなのもありか。例えばありふれた物語の作者としてメディアに露出するのよりは、誰のものでもない文章の生成に関わっている方が気楽かも知れない。まったくの無価値だと思われている方が、より自由なのだろうか。しかし自由であることは虚無的である。要するに中身が空っぽなのかも知れない。ただ言葉が適当にいい加減に連なっている状態を受け入れなければならず、自らが文章を支配しようとする欲望を捨てなければ、そういう具合にはいかないだろう。つまりそこに特定の話の筋を作り上げてはならないということか。だが実際にそんなことができるわけもないだろうか。何もないように思えても、そこには何かしら話の中身があるはずで、その中身に頼りながら文章を構成している現実は動かしようがないだろうか。たぶん実際にはそうであってもかまわないのだろう。そうであったとしてもそれを無視していればそれでかまわないのかも知れない。


11月10日

 相変わらず眠たくて言葉がつながらない。早朝に何をやろうとする気も起こらずに、このところの寒さでベッドから離れられなくなっているのかも知れない。そんなはずはないだろうか。それの何が見当違いなのか。しかし何をやろうとしているのでもないようだ。どこか得体の知れぬ作用によってもたらされた虚無に、周りを取り囲まれて、何もできなくなってしまったのだろうか。そういう話ではないはずか。意識には何もできないように思われても、それでも現実には何かしらやっているはずか。しかしそのやっていることが文章には結びつかない。何をやってみても、語るに至るような何が見出されるわけでもないらしく、何も得られない空っぽの心は、何かを探そうとしているのかも知れないが、自らが何を探しているのかわからないようだ。文章を構成する言葉でも探しているのだろうか。言葉はどこから湧いて出るのか。それで何を述べているつもりなのだろう。いつものように何を述べているわけでもなく、そんなことしか述べられない状況に埋もれてしまっている。だがそんな事態に落胆してどうするのか。そんなことはそんなことでしかなく、それについてどう思ってみても仕方がないのではないか。いくらそれについて言葉を重ねても、どんなことを述べているわけでもないことに変わりはないが、それでも何かしら述べていることも確からしい。だがそれがどうしたというわけでもない。それ以上は何を述べるのも無理なのかも知れないが、それ以下でも無理なのかも知れない。なぜ無理だと思われるのだろうか。何かを語るのが無理だとすれば、今語っているそれは何なのか。何でもないわけがないか。たぶんそれを延々と続ける状況になってしまうことを恐れているのかも知れない。少なくともそれではだめだということはわかっているらしい。それ以上は続けられないと感じていることを、続けてしまうことによって、何かそこからおかしくなってしまうような気がするわけか。だが別におかしくなってもかまわないのではないか。すでにかなりおかしくなっているのに、そこからさらにおかしくなってもどうということはないだろう。おかしくなりすぎて、もう元に戻ることもないかも知れないが、もともとどこかおかしかったような気がするのだから、今さらどのようなおかしさを醸し出していようと、それは想定の範囲内なのではないか。おかしくなる以前にあったかも知れない本来の姿がどうなっていようと、それを取り戻そうとは思わないはずか。しかしそれは何の姿だったのか。過去においてどんな姿が浮かび上がっていたのだろうか。それに関しては何も見えていないような気がしているが、そのとき何を見ていたわけでもないだろう。だがそのときとはどんなときだったのか。そのとき君は迷っていたのかも知れず、迷わずにはいられない状況だったのかも知れないが、そこが何かの分岐点だったのだろうか。すでにそれは違うと思われてしまう。目下の状況はどういうことでもなく、そういうことではないようだ。ではどういうことなのだろうか。そうなることは納得ずくでそれを続けてしまったのだから、今さら過去を振り返っても手遅れもいいところか。そしてもはや手遅れだからこそ、手遅れではなかったのかも知れないそのときの判断を、今さらながら後悔しているのだろう。それは冗談ではないか。何となくそんなことを述べているうちに馬鹿らしくなってきて、それの何が馬鹿らしいのかも確かめないうちに、無駄に言葉を弄してわけがわからなくなり、さらに無駄に無駄を重ねて、何もかもが無駄であるように振る舞っているだけなのかも知れないが、本当にそういう話なのだろうか。それではおかしいままにしかならないのではないか。そんな現状のどこかにつけいる隙があるだろうか。つけいる隙があればどうなるようなことでもないのではないか。ではどうしたらいいのだろう。良くなる兆候がどこにも見当たらないからそういう話になってしまうだけの話か。そしてそんな風に何も見出せない現状がいつまでも続いているらしく、それでも何かしら言葉が思い浮かんでくるのに、それがまったく文章に反映されず、その代わりにどうでもいいような言葉がいくらでも並んでしまうらしい。しかしそれで何を説明していることになるのか。やはりそれは違うのではないか。そんな表現は間違っているのかも知れないが、その間違いを修正できずに、現状がここに至っているらしく、そこから先に何をどう述べればいいのかわからないようだ。そこから先はまだ闇の中か。闇とは何を表しているのだろうか。心の闇は果てしなく続き、現実の暗闇は朝になれば消えてしまうので、闇には行き場がないのかも知れない。確かにそれはよくわからない状況になっている。しかし闇とは何だろう。闇が何のかをまったく説明できていないような気がするのだが、なぜ唐突に闇が出現してしまうのか。それはその場の思いつきでしかなく、そんな言葉で現状を説明しようとして、またいつものようにそれに失敗しているだけのことか。しかしどうやってその辺で釣り合いを求めているのだろうか。何と何が釣り合っているのかといえば、それがよくわからないようだ。その説明もわけがわからないか。心に巣くう闇と早朝の闇を比較して、闇と闇の間に何か釣り合いでも保とうとしているのだろうか。だが心の中に闇などあるわけがないか。闇がないのになぜ人は動き回っているのだろうか。まさか闇が行動の原動力となっているわけでもないだろう。君はそれに関して何か良からぬことでも考えているのだろうか。それはまたもや冗談の類なのか。とりあえず健康を保たなければならないようだ。わけもわからず健康になりたいらしい。だがシェイプアップに意味などありはしない。何らかの動作を繰り返すことで、何を磨き上げているわけでもなく、それは空虚のなせる業か。贅肉の何が気に入らないのだろう。肥満体質ではない者にとって、それは実感することのできない悩みだろうか。実際には何を悩んでいるのでもなく、何をそぎ落としているわけでもないのか。無駄な言葉が散らばり続けているだけだろうか。まだ誰かの精神は快方に向かっていないらしい。しかしそれは何かの病なのだろうか。何も思いつかずに困り果てているだけか。そんな風には見えないだろう。そんなことを述べようとしているのではない。その辺が思考の限界なのかも知れず、言葉はひたすら飽和状態に近づいているようだ。だがそれがどういうことなのか説明できずにいるらしい。やはりそれ以上はあり得ないのか。まだ何かが足りないだろうか。すべてが足りないと思いたいのか。物事を大げさに考えすぎなのではないか。そんな風に考える必要がどこにあるのだろう。必要もないことを考えることで何か得るものがあるだろうか。あやふやな達成感でももたらしたいのか。


11月9日

 まともにやろうとすると意識が分散してしまう。言葉はどこで怠けているのか。何がそんなにつまらないわけでもないだろう。いつものように時間的に余裕がないらしい。残り少ない時間の中で、簡単に述べられないことでも述べようとしているのか。それは少し違うような気がする。それほど造作もないことをやろうとしているわけではないが、やはりそれを難しいと述べてしまうと、そこから先に言葉を連ねるのが困難になってしまうようだ。それがおかしいと思われるのかも知れず、おかしいからといって別に死ぬほど笑いたいわけでもないが、何かを述べてしまったわけなどもとから何もなく、そんなどうでもいいような話の展開に笑っているのは、少なくとも君ではなさそうだ。君とは別の人格が意味のない場所にでも出現しているわけか。そんなわけなどあろうはずもないか。わけもないのに妄想が出現するはずもないが、誰かの文章上では、遠くからけたたましい笑い声が聞こえてくるように感じられるのは、どういうわけなのだろうか。君はそんな笑いを無視しつつも、無視できないことに語りの照準でも合わせようとしているのかも知れない。いったい何が無視できないのか。まだ文章の整理整頓が不十分なのだろうか。別にどこかの部屋を掃除しようとしているわけでもないだろう。とりあえず寝て起きれば辺りはまだ暗い。心の中では闇がどこからともなく忍び寄ってくる。そんな心がどこにあるわけでもなく、架空の心は暗闇の中で何を聴いているのか。内容のない物語の中では、誰かの足音が遠ざかってゆくよう感じられ、不安に駆られて足早にそこを通り過ぎ、実体の希薄な人影がいずこともなく消え去る。それらの言葉に実体が宿るわけもないだろう。たぶんそこで誰かが踊らされているのだろうか。言葉に踊らされて墓穴でも掘るのか。墓穴の中には誰の棺が横たわっているのだろうか。それは映画の中の一シーンでしかない。欧米の映画ではそんなシーンを度々見かける。だがそこから話を膨らまそうとしているわけでもなく、別に語り手が調子に乗っているわけでもないのだろうが、君は何かまずいことでも述べているのか。考えがかなり歪んでいるのかも知れない。その考え方自体に誤りでもあるのだろうか。そこで誰が何を考えているのか。すでに何かを見失っているのはわかっているつもりか。事物の具体性を捉えきれていないのはわかりきっていることだろう。しかしそこから降りてしまえるのか。ただわかりもしないことをわかろうとしているわけではない。自分が何がわからないかを見極めようとしているのかも知れず、少なくともそれをわかりたいのだろう。だがそんなことをわかろうとしなくても、すでにわかっていることがあるはずか。それを十分わかっているのに何をとぼけているのだろう。いったい何をわかっているのだろうか。それを言葉で伝えようとしないのはどういう了見なのか。別に了見が狭いとも思わないか。今はそういうことを述べているのではない。ではどういうことを述べているのか。何もできないことはないが、時間の経過が早すぎるのかも知れない。何のきっかけもつかめないまま、ただ何もかもが過ぎ去ってしまうように感じられ、はたしてそこで本当に時の流れを感じているのか疑問に思うところか。誰がそれを感じ取っているように思われるのか。誰もいないのに誰が何を感じ取れるのか。そういう前提が嘘なのではないか。不明確な感覚を基にして言葉を適当に並べるだけで、自分で自分を迷わせているだけだろうか。それが自分ではないと思いたいだけか。時々君はそんなことを感じているらしいが、ただ無理を承知で無理なことをやっているだけか。それでもそれは自らの計算の内でやっていることなのか。何をそこで計算しているのか。それは何かの時間配分になるだろうか。そうやってできもしないことをやってきたつもりになりたいのかも知れないが、それでは何も終わらないだろう。夢の中でそれを仕上げることができた瞬間を想像しながら、その時間の中で怠惰と戯れているのかも知れない。しかしそれはどういうことなのだろうか。それがわからないと感じられるのは冗談の範疇か。意識は何がわからないと感じられるのかをわかろうとしていないのかも知れない。その場の気まぐれでそんな文章を記してみるが、戯れに何を述べているのでもなく、それが戯れになっていないのかも知れず、ただ本気でわけのわからないことを述べているだけかも知れないが、その状態から立ち直るきっかけをつかめないようだ。そんな精神状態では立ち直るということがどういうことなのかわかるはずもないか。ついでに何が精神状態なのかもわからない。ただいい加減なことを述べている精神状態がどこかにあるらしく、それが誰のことを述べている文章なのかもわからず、それらの文章の中では誰が何をやっているかもわからない。言葉で示されているすべてが不明確なのかも知れず、やはり何が述べられているのかわけがわからない。誰がそんな文章を読むのか。読んでくれなければ読ませてみせるか。できるはずもないことを宣言してどうするのか。まだ君は妄想の中ではしゃいでいるのだろうか。そこからどうやってやり遂げられるのだろう。何をやり遂げようとしているのか。それでもまだ希望を捨てていないように感じられる。そんな状態で具体的な事物について何か述べられるだろうか。そこから何を述べるつもりなのだろう。まだそんなできもしないことをやろうとしているわけか。何ができもしないことなのだろうか。自分が何をやろうとしているのかもわからないのに、できもしないも何もあるわけがないか。今後それがわかるときがはたしてやってくるだろうか。そういう話の展開はつまらないか。しかしつまらないならどうしようというのだろうか。どうもしないでどうにもならない状況を端から眺めているだけか。誰がそれを眺めているのか。誰もいないのに自分以外の誰が眺められるのか。しかし自分が陥っている状況を自分で眺めることが可能だろうか。そういう言葉の込み入らせ方にも飽きが来ているか。ではそこからどうしたらいいのだろうか。どうにもできないのかも知れず、さらにそこから時間が経過して、時間的な隔たりがますます顕著になり、もはや過去の時間帯から抜け出ることが不可能なほど、現在から遠ざかってしまったのかも知れないが、それでも言葉の連なりが完結する気配は感じられない。そこで終わりにすることができないらしく、さらに無駄な悪あがきを繰り返そうとしているようだ。しかしもはやすべてが尽きかけているのかも知れず、いくら言葉を並べても、そこからは何も感じられない。いよいよ終わりの時が近づいているのだろうか。本当にそうであったなら少しは気が楽になるだろうか。もうすぐ言葉から解放されるときが訪れるのか。


11月8日

 どうにもならないとはどういうことだろう。気休めに何を説明しようとしているのか。だがなぜそれが説明になってしまうのか。説明では気休めにならないだろうか。そもそもなぜ気休めが必要なのかわからない。わからないのはそれだけではないだろう。要するにいつものように言葉につまっているだけでしかない。その状態から何を始めようとしているのか。ふと気がつくと、意味もなくわけのわからないことでも述べているのだろうか。たぶんそこでは何が始まっているわけでもなく、始めようとする思いが空回りしているだけで、そんな状況にうんざりしながらも、時を経るに従って音が分散して行き、それにつられて言葉も散り散りになる。そのときどんな音楽を聴いていたのか思い出せないが、そこからどのように言葉をつないでいくつもりなのかを、音の内部で知ろうとしている。やはりそれでは何を述べているのか意味不明か。君はそこで何と格闘しているつもりなのか。それらの思いがどのような文章を構成しようとしているのかを知りたいような気がするが、それがわからないからそこで行き詰まっているのではないか。ただ闇雲に言葉を繰り出す前に、少し頭の中を整理した方がいいのではないか。今さら何を述べているのだろう。もう手遅れなのか。何が手遅れだと思っているのだろう。半狂乱とはどういう精神状態のことをいうのだろう。誰が半狂乱になっているのだろうか。何におびえているわけでもないのに、何がそんなに怖いのか。誰かの眼は画面以外の何を見ているのだろう。それらの光景は何となく意味不明に思えてくるが、それは何かの感想なのだろうか。面倒なので何も考える気もなく、気分はがらくたのような有様になっているのかも知れないが、それが何の理由になっているかも意味不明だろうか。誰かが何かをほのめかす。気休めに何か挑発的なことを述べてみないか。君が狂っているわけではなく、君以外の誰かが狂っているのかも知れないが、それは君の感知しないところで起こっていることだろうか。誰が狂いたいわけでもないだろうが、それの何が挑発的なのか。もう屁理屈を述べるにも疲れてきた頃か。しかしそれの何が屁理屈なのだろうか。屁理屈にすらなっていないと思われるが、それは以前に述べたことだろうか。それ以前に何を述べているのかわからなくなる。話がまとまらないらしく、意識は方々へ分散しているように感じられ、特定の考えが利用されることもないだろう。それらの経験は何も語らない。経験ではないのかもしない。それの何がわからないのかわからないのだが、それは当たり前のことだろうか。もしかしたらまだ何も述べていないのではないか。何も述べられずに、それでも何かしら述べていることにしたいらしいが、それではただ矛盾しているだけだろうか。だからそれが意味不明なのではないか。それらの惨状を目にして、君は意味もなく笑い出すかも知れないが、それの何がおかしいのだろうか。惨状は惨状で笑いに逃げることなく、そのまま真正面から受け止めなければならないだろうか。客観的には無内容であるにしろ、それでも何かしら述べていると思いたいのなら、その内容を言葉で示さなければならなくなるだろうか。しかし肝心の言葉がどこにも見当たらないのだが、いったいこの世のどこに言葉があるのだろう。通常の意識なら、どこにでもいくらでもあるように思われるだろうが、なぜ君はそれを見出そうとしていないのか。それが出来るとは思わないのか。実際にやっているそれは、言葉を連ねることではないのか。そうではないと嘘でもつきたいわけか。そうだとすればさらに意味不明になるだけだろう。それをやるのが嫌ならば、では他に何をやろうとしているのだろうか。そういう方向に話を進めようとするのが、そもそも間違いなのではないか。何をやろうとしているのではなく、何かを語ろうとしているのだろう。だが少なくともそんなことを語りたいわけではないようだ。語りたくないことを語っている状況らしいが、なぜそんなことをやっているのだろうか。それをやりざるを得ない状況だとしたら、なぜそんな状況になってしまうのか。たぶんどこかが外れているのかも知れない。無理矢理何かを語るという行為自体が間違ったいることはわかっているつもりだが、語りたい対象がどこにも見当たらないのは、今に始まったことでもなく、だいぶ以前からそんな成り行きになっているのに、何か意地で語っているように見えてしまい、そういうやり方は見苦しいように思われてしまうのだが、それでもそれをやめられないのはどういうことなのか。何とかそれを継続させたいらしい。焦りながらも、まだ何も始まっていない、という実感を何とか覆したいのかも知れず、これから何が始まるのかもわからない状態のままではいたくないのかも知れない。無理なことを述べているのかも知れない。だがそれがわからないのは君ではないはずだが、では君には何がわかっているのだろうか。たぶんこれから何かを語れば、その語っている内容がわかることになるのではないか。しかしそんなのは当たり前のことだろう。では当たり前のこと以外は何もわからないのか。何もわからないわけでもなく、少なくとも当たり前のことはわかっているはずか。だがそれはすでに述べたことではないのか。すでに何を述べたことになるのだろう。何か気の利いた内容でも提示できただろうか。どうにもならないことをどうしようというのでもないらしい。川は流れ海に注ぎ、そこからとりとめのない浸食作用を被り、あやふやなことを述べている。たぶん間違っているのだろう。間違っていることがどうかしたのか。どうかしているのかも知れない。ただわけがわからなくなっただけか。わけがわからないまま、さらに時間が経過してしまう。嫌気が差して寝て起きれば、それは数日後の早朝になっている。気分はどの辺を彷徨っているのだろうか。そんな気分になりたいとは思わないか。どんな気分を求めているのか。君はそれに関して何を知っているのか。近くの暗がりから微かに聞こえてくるそれは、ゴキブリの羽音か。何か季節はずれなのかも知れないが、そこにどんな疑問を差し挟もうとしているのか。わからないことをわかろうとしているわけではない。では何がわかりたいのか。そんな問答の行き着く先でも見定めたいのか。それは虚無的な試みだろうか。少しの間でも対話の体裁でも繕いたいのか。それを構成して何になるのだろう。無駄に無駄を積み重ねているだけか。それでも少しは前進しているような気になっているのかも知れず、それで気休めでも得ているつもりなのか。あまり建設的なやり方とは思えないが、やらないよりはやった方がマシだろうか。そう思うならさっさと続きをやればいい。何を続けようとしているのか。またおかしなことを述べているらしいが、それで何を述べていることになるのか。


11月7日

 しかし問題の何が無効なのだろうか。誰かはそれがわからずに途方に暮れ、また空でも眺めているのだろうか。そして頭の中には雑草でも繁茂しているのか。それでは意味不明な表現になってしまうだろうか。とりあえず明確なことは何も述べられないようだ。この世に確からしいことは何もないわけか。例えば具体的に何が世間で問題となっているのだろうか。在日米軍問題とかがメディアによってクローズアップされているだろうか。それに対する解決法など簡単に思いつくが、それを実行に移そうとする者など誰も現れないのは、火を見るより明らかか。だがそれはどういうことなのか。要するに日米安保条約の是非を問う国民投票でも実施して、反対票が多ければ安保条約を破棄して、賛成票が多ければ、賛成票の比率が多い都道府県順に、アメリカ軍の施設を受け入れてもらえば、誰からも文句が出ないのではないか。簡単に述べるなら、日米安保に賛成なら米軍の施設を受け入れろ、ということでしかないだろう。それが嫌なら安保条約を破棄して、米軍には出て行ってもらうしかない。日本という国では、こういう簡単な論理が現実には通用しない社会構造になっているのかも知れない。論理的な正しさよりも、その場の成り行きから生じている利害関係に基づいた、慣習やら伝統やら感情やらが優先されて、正しいことを述べる勇気さえ削がれてしまうわけか。要するに論理的な正しさは誤りであり、それを主張するのは間違っていることになるのだろう。ではそういう状況に絶望して、世の中は腐っているとでも述べておけば気が済むのだろうか。気が済むはずもないだろう。腐っているのが当たり前なのであって、腐っていなければそういう状況にはなっていないだろうし、古今東西世の中というものは、腐っていなかった例しはなく、腐っているのが普通の状態なのではないか。世の中が腐っていないとするならば、それは黙示録の最後に登場する神の王国のようになってしまうだろう。現世において腐敗を克服するのは不可能であり、絶えず腐敗の原因を根絶するような法整備が行われているのかも知れないが、その都度法の編み目をすり抜けようとする輩が出現し続け、過去から未来に向かって、法とそれを侵犯しようとする者たちのせめぎ合いが、果てしなく続いてゆくしかないだろう。そんな状況には嫌気が差しているか。うんざりするのももっともなことだが、それは解決しようのない状況なのではないか。人間そのものがこの世から消えてしまえば解消してしまうだろうが、それでは人間の気が済まないか。気が済まなければ、その嫌気が差すような状況のただ中で生きていくしかないか。しかしそんな絶望的な話では嫌か。現状が嫌なら現状を変えるべく、適当に工夫を凝らしたりすればいいだろう。工夫を凝らして事態が好転したように思えたら、それはそれで少しは気分も優れるのではないか。しかしそんな気休めが何の役に立つのだろう。何かしら役に立っているのではないか。だが何かの役に立つことで何がもたらされるのか。それは自己満足か何かのくだらない感情だろうか。だがそれで自己を卑下しているつもりなのか。何となく語っている途中から言葉が続かなくなり、それでも話を続けようとする意思がくだらなく思えてくる。本来ならそういう話ではないのではないか。たぶん心のどこかに投げやりな気分が残っているのかも知れない。やはりそんなことはどうでもいいように思われるのか。すべてを台無しにしてしまいたくなる。だがそれは誰の意思でもなく、そういう文章の成り行きにつき合っていられなくなるようだ。その場での言葉の並びが何らかの自己主張を行っているらしい。そのとき君は継続を放棄したくなる。そこで息切れなのかも知れないが、一方でそういう話ではないような気がするらしく、何となく話を別の方向へ逸らそうとしているのかも知れない。結果としてそれがたわいない内容であってもかまわないのだろう。問題がどうのこうの述べても疲れるだけか。そんな意見はどこからもお呼びではないのかも知れない。騒ぐ対象にはなりがたいのだろうか。自ら何か主張を発するような成り行きにはなっていないわけか。では君は黙らなければならないのだろうか。黙して何も語らずに、ただ言葉が適当に連なるにまかせておけば、それでその場は一応の収まりがつくわけか。だがそんな成り行きに君の精神が耐えられるだろうか。耐えられなくても耐えなければならない状況なのかも知れず、そのまま萎縮しながら、石のように凝り固まっていれば、人畜無害に見なされるのかも知れない。しかしそれでは生きることの意味が失われてしまうのではないか。そこにどんな意味を見出せるのだろうか。ただ地表面でうごめいているだけなのに、それ以上の何を期待すればいいのか。君はそれが勘違いだとは思わないのか。ただ疲れているだけだろう。わけのわからない状況に押しつぶされている。誰がそんなことを述べているのでもなく、ただそれ以上の出来事を求めているに過ぎないのかも知れない。何かを主張することが無用だというのなら、その主張に代わって何を述べればいいのか。何も述べられなければ、テレビでも見ていればいいだろうか。しかしそれが何の気休めになるのか。今の君は何をどうしたいのだろう。言葉の並びを眺めながら、何か思いついたことでもあるのだろうか。何か適当に思い浮かんだ内容を、言葉の連なりに加えなければならないか。それをやってきたところなのではないか。だがそれでは文章のつながりを保てない。つながらない文章が連なっているのかも知れないが、それを読んで違和感を覚えたとしても、どう修正していいのかわからない。それは修復不可能な断絶でも形成しているわけか。そんな大げさなものではなく、ただの文法的な誤りに過ぎないようなことかも知れず、あまり気にとめるようなことではないのかも知れない。しかしそれで何を述べていることになるのか。ただ言葉がありもしない方向へ暴走しているだけか。言葉が走るわけもないか。現実には走っているのではなく、適当に連なっているだけだろう。もっと正確に述べるならば、適当ではなくいい加減に連なっているのかも知れないが、そのいい加減さと正確さが、内容的に矛盾でも形成しているのだろうか。たぶんそういうことを述べたかったのではないのかも知れず、もはやそのとき何を述べたかったのか覚えていないのかも知れない。だが忘れっぽいのは誰の意識なのか。話の成り行き的には、誰の意識であってもかまわないだろうか。やはりそこで誰が何を述べているのでもないということが、それらの話のいわんとするところかも知れず、結局何を述べても、そのすべては無に帰してしまう成り行きなのだろうか。しかしそれで君は満足するのだろうか。それが不満なら、また何か適当なことを述べているつもりになればいいだけでしかないか。適当に言葉を連ねていれば、そんな感覚を得られるのかも知れない。


11月6日

 どうも当然のことかも知れないが、何も語る必要性を感じないらしい。そして一方では何が当たり前の成り行きなのか知らないが、神経が磨り減ると疲れるらしい。何もしないのになぜ疲れているのか。無意識のうちに何かをやっているのかも知れず、それを意識が感知できないのだろうか。とりあえず疲れた頭の中には何かが存在しているらしく、それは何かの精神作用であり、またそれらの作用の行き先には何かの分かれ道があり、一方の道筋を辿ると何らかの結果に導かれ、もう一方は原因へと導かれ、結局何を考えているのかわからなくなる。そんな結論が何の役に立つというのか。すべての結論が役に立つというわけにもいかないのだろうが、それらの作用は具体的に何をもたらしているのか。それがただの虚無感でしかないならば、要するにいつものように白々しい嘘を述べているだけのようだ。たぶんわざとそうしているのかも知れず、一応は偶然や気まぐれを装っているのかも知れないが、そんな見え透いた嘘がはたして有効なのか。それは何に対して有効なのだろうか。この世界に対しては何ら有効な解決策を導き出せないようだ。だが別に現状の中で何か問題が生じていて、それを解決しようとしているのでもないらしく、ただそこで何らかの言葉が連なってしまう状態を、どうにかしようとしているわけでもないようだ。ではいったい何を述べたいのか。面倒なので鼻血でも出しておこうか。そういうことではないだろう。ではどういうことなのか。取り立ててどういうことでもないのかも知れないが、それでは何を述べているのか意味不明になってしまうか。それはもともと意味不明な文章だったはずか。それをどうにかしようとして、試行錯誤と修正を延々とやり続け、その過程でさらなる言葉と文章を入り組ませて、結局予定調和のごとくに、わけがわからなくなってしまっただけではないのか。それで本当に何を述べていることになっているのだろうか。それがわからない限り、やはり何を述べているのでもないことになってしまうだろうか。たぶんそれをわかろうとしているのかも知れないが、さっきから何について語っているつもりなのか。たぶん何かしら語っているつもりなのだろうが、それが何を表すのかわからないまま語っているのかも知れず、それはとりとめのない語りになっているようだが、語っている内容がまったく見当たらないのは、いつものことだろうか。要するに何かについて語らず、ただ語っていることについて語っているのでは、語っている内容が抜けているは、当然のことのような気がするのだが、ではなぜ内容を導き出せないのか。つまりそれは何も語っていないから、何も導き出せないのか。実際はそうではなく、つまらないことを延々と語っているはずだろう。何も語らずとも語ることができるとすれば、それはどんな嘘に結びつくのだろうか。それ自体が嘘なのではないか。確かに嘘をついているのかもしれないが、少なくともそれがフィクションではないはずか。従来のフィクションであるならば、必ず何らかの内容を伴っているはずであり、それがなければフィクションにはなり得ないか。それがフィクションでないとすると、ではそれらの語りは何なのだろうか。ただわざとらしくとぼけているだけなのか。では何をとぼけているのだろうか。何もないことをあからさまに述べてはいけないのだろうか。何もないのに何かがあるように装わなければ、文章とは見なされないだろうか。それでも何かしら語っているのだから、そこには感知できない何かがあるのかも知れない。では君はそれを見出したいのだろうか。少なくともそこには言葉の連なりが見出されているはずであり、その内容のなさとは裏腹に、空疎な文字が延々と連なっているように見えるはずか。それは驚異的なことだろうか。誰がそれを見て驚かなければならないのか。誰が驚くにしても、それをまともに読もうとする輩はいないはずか。まともに読むには内容があまりにも馬鹿げているように思われる。だが読んでみなければそんな風には思わないだろう。では誰が読んでそういう思いに達しているのだろう。それは誰でもない誰かになるだろうか。またそうやってその場から逃げるつもりなのか。誰でもない誰かではなく、それは君自身なのではないか。たぶんそんなことはわかりきっているのかも知れないが、何となくそこから先は面倒なので、そんなことはどうでもいいことにしておくか。やはりそのような結果を招いた責任が君自身に及ぶと、いたたまれなくなって、そこから意識を遠ざけようとする傾向にあるようだ。それがまともな内容を導き出せない原因だろうか。何かそうではないような気がするのだが、見聞したり感知したりする現実に、ある種の物足りなさを感じているのかも知れない。その程度ではしゃいでいる人々がうらやましく思えるのは当然だが、なぜそんなつまらないことではしゃいでいられるのか理解に苦しんでいるのかも知れない。それは本当にはしゃぐような出来事なのだろうか。ただ他人が騒いでいるだけなのに、それを我がことのように一緒になって騒ぐ気にはなれないのは、ごく普通の感覚なのではないか。いったいそこにどんなつながりがあるというのか。騒ぐ対象の他人が同じ国籍であったり、出身地が近かったりするだけの理由で、同胞意識のようなものを抱かなければいけないのだろうか。そういう精神構造はいかにしてできあがったのだろうか。その程度でも幻想を抱いていないとやって行かれないか。同じ言語や民族や宗教で凝り固まっていないと、生きては行けないような状況があるのだろうか。たぶんそこから外に出られるわけもないだろうが、とりあえず数日後の外は晴れ渡っていて、外の上には空があるらしい。空の上には何があるのだろうか。それは天か宇宙か虚空だろうか。何となく発想が貧弱なような気がするが、それの何を肯定すればいいのだろうか。故障や不具合を利用して何かを述べているような気がして、要するにそこには事なかれ主義でも漂っているのか。その辺がよくわからないのだが、一方で何をわかりたいわけでもないような気もしてくる。やはり結局何を述べているのでもないことになるのだろうか。だがそれでも何かしら述べていると思いたいか。何を思ってみても現状は変わらないようだ。ただそんな思いに包まれながら、少しずつ意識が退き続け、気がつけば取り返しのつかない状態になっているかも知れないが、怠惰な気分がそんな脅しに屈すると思うか。誰かは警告を発しながら何を脅しているのだろう。誰かの意識は脅しの具体的な中身を知り得ない。それを知ってどうするのだろうか。自爆テロでもやってみたくなるのか。そういう冗談が現実に起きているところが、世界の不具合でも象徴しているわけなのだろうか。だがそれでも笑ってしまうのはどうしたわけなのか。


11月5日

 どうも時間が足りないようだ。そして暇はあるのにやる気がしない。要するに何となくわかりきったことを述べている。何もやれない原因は分かり切っているのに、それを改善できないでいるらしい。それは怠慢が原因だろうか。それだけならそれを改めて、空いている時間を活用して、さっさと何かをやり始めればいいことでしかない。現にそうしたことをやろうとしているのではないか。ではなぜそれは違うと思われるのか。やっていることがつまらない。つまらなければやめればいい。それをやめたら何もできなくなってしまう。やめられないからまたおかしなことを述べているらしい。どこにきっかけがあるわけでもなさそうだ。良くなるきっかけを避けているのかも知れない。無理はしない方がいいのだろうか。もはや努力は無駄に費やされるだけか。それも計算の内か。君の気づかぬところでどんな計算が働いているというのだろうか。何も感じられないのに、そこから何を感じ取ろうとしているのか。だから無理に感じ取ろうとしても何も得られないということか。それもわかりきっていることの一つに過ぎない。君はそこで何を感じ取ろうとしているのでもない。もはや何も感じ取れないから何も述べられなくなっているのだ。それが今現在の率直な感想か。たぶんそれは嘘に違いない。君がそう思っても、文章が嘘だと述べている。そんなことがあり得るだろうか。君はそこで何が信じられないのか。たぶん何かを信じていて、また一方ではそれを信じられないのだろう。要するに矛盾しているわけなのかも知れないが、心の中で矛盾しているとは思えない。そんな思いが今後劇的に変化することはないだろう。本気になれないのかも知れない。本気になろうとは思わない。君はそこで笑っているらしい。笑いながらも絶望しているのか。そういう文学的な表現には吐き気がするか。では君にも何らかの感情があるのだろうか。でもどうやってそれらの文章から架空の感情を想像できるだろう。想像したければ想像してみればいいことでしかないが、それでは嘘になってしまうか。想像したくなくても想像してしまうのが本当の感情になるだろうか。そんなまわりくどいことを述べて、何をもたらそうとしているのだろう。そこで何かが抜けていないか。何も抜けていなければ、それは何になるのだろうか。たぶん君には感情が抜けているのかも知れない。君が君でないときに架空の感情がどこかで発動しているのかも知れないが、それは君には関係のない感情になるだろう。君には感情が抜けていることにしておいた方が、何となくその場が無難に収まるような気がするのだが、それでは文章の怠慢になってしまうか。何やらわけのわからないことを述べているみたいだが、それで君は何を述べていることになるのか。ついさっきまでは何も述べられないことになっていたはずか。それほど昔ではないのに、昔のことは思い出せない。わざとそういうことになっているのだろう。ご都合主義もここに極まれりか。そんな述べ方は誤りだろうか。たぶん誤っているのだろう。やはりそこで良くなるきっかけをつかみ損ねているらしい。機会を逃して意味不明に逆戻りか。それがそれらの文章の本望だろうか。何がそれを望んでいるわけでもないが、誰がそれを望んでいることにしたいのだろう。何となく何かを見落としているのかも知れないが、わざと見落としているだけなのかも知れず、そこで重要な何かを忘れているふりをしているだけなのかも知れない。では本当に君は何を忘れているのか。たまにはそれを思い出してみないか。何となく無意識のうちに過去の言葉を探し求めているような気がするのだが、今さら過去にすがってどうしようというのか。過去においてはこうではなかったと思い込みたいわけか。それこそつまらない気休めにしかならないような思いか。それでも過去にすがりつきたいのなら、そこから先はどうすればいいのだろう。何も思い浮かばないとすれば、やはり本気でそんなことを思っているわけではないのだろう。わざとその辺で道草を食っているふりをしたいわけか。君のやり方はそんな風にしかならないのかも知れない。結局中身を見出せずに、言葉を右往左往させているだけに終始している。だから文章の継続が図られているのかも知れない。それは中身のなさと引き替えにして成り立っていることだろうか。そうかも知れないが、それではたしてうまくいっていることになるのだろうか。ある意味ではうまくいっていて、別の意味では失敗していることにでもなるわけか。だがその意味とはどんな意味なのか。別にそんな意味など知りたくもないか。それで結果としてどうなっているのか、そんなことも知ろうとする気もしないが、何となく結果は見えているのかも知れない。いつもの通りの言葉が展開されていて、以前と同じような文章が形成されているに過ぎない。そしてそんなこともわかりきっていることの一つに過ぎない。それは何という予定調和なのだろう。それは驚きもせずただ呆れるばかりの結果だろうか。しかしまだそれが結末にはならないのだろう。まだ言葉が足りないらしく、もうしばらく言葉を連ねなければ誰かの気が済まないようだ。まったく馬鹿げたことの繰り返しにうんざりしてくるか。しかしそれに耐えなければそこから先へは進めないらしく、そんな思い込みがどうでもいいような文章を継続させているのだろう。そしてさらにどうでもいいような言葉は続いていってしまうらしい。そんな成り行きに終わりが見出されることはない。言葉は何を迎えるわけでもなく、適当な長さに達したら一区切りがつけられるだけか。とりあえず当分はそこから抜け出るつもりはないらしく、ひたすら何もない迷路の中を行ったり来たりしながら、ただ時間が経過するのを待っているのかも知れない。しかしそれで何がどうなるわけでもないだろう。何もどうにもならないから、そこに迷路が設定されていて、そこで意識も身体もうごめき続ける。そんな環境がこの世界の本質を構成しているわけか。そしてそれを無視したい輩は、さかんに夢だの希望だので迷路の存在を忘れようとしているだけであり、そういう涙ぐましい努力が実際に何らかの成果を上げているわけか。いったいそれで何がどうなっているのだろうか。ただ単に馬鹿になっているだけなのではないか。しかしその馬鹿であることが一方では救いとなっていて、救われたつもりになりたい馬鹿が後を絶たないようだが、それを否定するわけにはいかないだろう。馬鹿であることは肯定されなければならず、馬鹿だからこそ無謀な行動や言動に及ぶことができるのであって、すべての意識が利口であったなら、世の中のどこにもつけいる隙が生じずに、その隙を突いて金儲けを企んでいる人々が全滅してしまうだろう。要するに馬鹿がいなければ世界経済がまともに回って行かなくなってしまうということか。つまり世界は馬鹿を糧にして成り立っているわけか。


11月4日

 いったいそれの何が問題なのだろうか。世の中に氾濫しているように思われる問題は、メディア産業の商売ネタにしかならないものなのか。そうあからさまに敵意をむき出しにして語り始めても仕方ないだろうが、そう述べながら君は何をやろうとしているのか。あるいは何もやらずに言葉を並べるだけで済ますつもりなのか。それで済むような問題なのだろうか。文章の中で解決するような問題がはたして問題といえるだろうか。それでも問題は問題なのだろうか。それともただ冗談でそんなことを述べているだけか。実際にはそうかも知れないし、虚構の中ではそうではないかも知れないが、本当のところはよくわからない。何が問題なのか具体的なところは何も述べていないだろう。そしてそんな風に述べてゆくと、それらの何が問題でもないような気がしてくる。それが問題だと気づかなければ、何の問題もないのだろうか。それは単なる思い過ごしでしかないのか。しかし思い過ごしとはどういうことなのだろうか。たぶんそれに関する余計な思い込みが問題となっているのかも知れない。今この世界で体験しつつある状況について、それではいけないという偽りの切実さが、善意の持ち主たちが乗り越えなければならないような、問題という障害を形成しているのだろうか。ではこの世は何かの障害物競走にでもたとえられるかも知れない。だがこの期に及んでそんな冗談で済ましていていいのだろうか。何がこの期に及んでいるのかわからないが、確かにそれらの現象に接している者にとっては、笑い事では済まないような気もしてくるのだろうか。しかし何が確かだと思わせるのか。ただ根拠も希薄なままに、何気なくそんなことを述べているだけではないのか。だがそれがどうしたのだろう。頭がどうかしているのかも知れないが、問題がないのに何かがあるように装っているわけではないらしく、単に言葉に溺れているだけではないようだ。それでは痙攣的な言い回しになってしまうだろうか。ただそれに関して何をどう述べてみても違うと思われる。そんなやり方は通用しないのだろうか。あるいはそれだけでは平常心を保てないのだろうか。心の中では何と何がせめぎ合いを演じているのだろう。案外そういう話ではないのかも知れない。たぶんそれは乗り越えるべき課題ではないのだろう。何が課されているでもないのに、勝手にありもしない目標を定めようとしている。それは無意識のなせる業であり、ありふれた娯楽の類なのかも知れず、そこで何を楽しんでいるのかも意識できないのに、楽しめるような話ではないと思われてしまう。そして一向に文章の意味が見えてこない。見えてこないのではなく、単にわからないだけではないのだろうか。言葉が状況を的確に捉えていないのかも知れないが、それでもひたすら言葉の連なりを前進させようとしているようで、それがその場で見受けられる現実の有様なのだろうか。だがそれで何がわかったつもりになれるのだろう。そこでわかりかけていることとは、どういうことなのか。しかしそこで迷っていてはいけないらしい。迷いが生じたらそこで止まってしまう。だがこれが迷わずにいられようか。はたしてこのままわけのわからない言葉を積み重ねていってかまわないのか。それで何を述べているつもりになれるのだろう。実際に何を述べているのでもなく、しかも言葉が適当に連なっていることに変わりはなく、その辺で本末転倒のおかしな状況を招いているわけか。それでかまわないわけはないだろうが、そんなことを語ることしか可能でないような状況になってしまっているらしく、何となくそうやって何も見出せない行き詰まりを、可能な限りどこまでも長引かせているような気もしてくる。そしてどうしようもなくそうなってしまっているのに、わざとそうしているつもりになれるだろうか。なぜそのつもりにならなければいけないのか。その辺の話の脈絡がわけのわからない展開になっているかも知れないが、それでもとりあえず言葉をつなげられるだけマシな状況なのだろうか。そして何がどうなってそうなってしまうのか、そんなことはもはやどうでもいいことだろうか。たぶんそれ以外にはやりようのない成り行きになってしまっているのかも知れず、何かを述べているつもりの意識とは無関係に言葉が連なっているのだろう。そしてそんなことがあり得るわけもないかも知れないが、虚構の内容ならそれもありかも知れない。もはや何を述べてもかまわないような、まったく収拾がつかない状況なのだろう。要するに話をまとめることが不可能となってしまっているのかも知れない。しかしそれでも続けるつもりらしく、それを続けることでさらにどうにもならなくなってしまうはわかっているのに、やはり継続にこだわるしかやりようがないらしい。それはすさまじい精神状態でも伴ってやっていることなのか。何がすさまじいのか架空の語り手には今ひとつわかりかねるが、そこから遠く離れているつもりの別の意識には、そんなことはどうでもいいことかも知れず、それは自分事でも他人事でもないような、まるで興味をそそらない出来事でしかないのだろう。しかしその出来事から派生している意識にとっては、事の成り行き次第では死活問題にでも発展しそうな気配が感じられてしまうのだろうか。たぶんそんな思い込みからありもしない作り話が生じてしまうのだろうが、今度はそれを真に受ける立場に誰がなってくれるのか、それを知りたくなるところか。本気でそんなことを期待しているわけでもないが、そこからどうやって言葉をつなげてゆけばいいのかわからない。たぶん無理に語ろうとするからそうなってしまうのだろう。しかしそこには何もありはしない。何もないからそれ以外に何も語ることができないだろうか。では何かがあればそれについて語れるというのか。だがたとえ何があろうとも、何をそんなに語ればいいのかわからない。君は語れる範囲を逸脱して、語れないことまで語ろうとしているのではないか。だからそこで行き詰まってしまうのだろうか。しかしそんなことは始めからわかりきっていることだろう。つまりわかりきっていることしかわからない状況なのかも知れない。そしてそんな言葉の並びを眺めていると、何となく笑いがこみ上げてくる。いったい君は何を述べているのか。たぶん何かしら主張したいことでもあるのかも知れないが、それが述べている内容に反映されていないのだろうか。そんなことがあり得るのか。別に思いもしないことを述べているわけでもないはずか。だが君が何を思っているのか、それを述べている意識には一向にわからない。言葉の連なり自体が、それをわかるような並びになっていないのではないか。しかしそれはどういうことなのだろうか。どういうことでもなく、単にわけのわからないことを述べているに過ぎないのか。


11月3日

 何もわからないのはおかしなことだろうか。何かがわかる人には何がわかるのか。何がわかるにしても、その場の状況によって、そのわかり方も千差万別なのではないか。決してそれは特殊な能力などではなく、ありふれた現象なのかも知れない。例えば意識の中では言葉に色と味がついているらしいが、音には何がついているのだろう。もうそれらの音楽にも聴き飽きたのか。気がつけばまたいつもの夜になっている。毎日夜がやってくるのは当然のことだろうが、誰かはそこで雨音の他に何を聴いているのだろう。なぜかその音色には妙な癖があり、その響き具合に惹かれているらしいが、その場の雰囲気に合っていると思うわけか。そこに何が宿っているのかわからないが、そこ先に適当な言葉をつなげられないので、その話はそこで終わりにしてしまいたいらしく、その後にはまた意味のない話以前の話の続きが待ち受けているようだ。何かを述べている途中で、さっきの終わりたい気持ちはすぐに取り消されてしまったらしい。何もないのになぜ終わる勇気がないのだろうか。このままでは誰かの意に反して、文章は意味不明気味に続いていってしまうだろう。そして誰かはその文章を読みながら、さっきからしきりに時計の針を気にしているようだが、それで時間に追われている風を装いたいのか。何もやることがないので、気休めに何かのふりをしているだけかも知れないが、いったい誰かは何を生き急いでいるのだろう。今まさに体験しつつある状況とは不釣り合いなことを述べているようだ。それは不釣り合いなのではなく、まったくの無関係なのではないか。だがそこで何に頼って言葉を生じさせているのか。頼るべきものが何もないのかも知れず、まだ模倣すべき文章には巡り会えていないようだが、なぜ今さら他の文章を真似る必要があるのだろうか。それはわけのわからない思いつきに過ぎないのだろうか。しかしどうして過去を振り返らないのだろう。だがそれで何がわかるというのか。はたして過去から得るものがあるだろうか。過去の文章の何を真似ればまともになるというのか。何をまともにしたいのかがわからない。まともでないままの方がおもしろいのかも知れないが、別にそれほど内容のおもしろさを求めているわけでもないだろう。しかしそれでは物足りないのではないか。ではこれから何かに挑戦するような成り行きにでもなるのだろうか。現に今は何をやっているのだろう。何に気づいているわけでもないし、何に気づこうとしているのでもないらしい。それは何の兆候に思えるのだろう。何か得体の知れない状況が到来してほしいか。だがそれを感知するのに必要な時間がまだ残っているだろうか。それは何を感知する時間になるのだろう。今から何を予想するつもりなのか。何を予想する気にもならないような状況だろうか。しかし彼らは何を自慢しているのか。それで何か人々が満足するような娯楽でも提供しているつもりなのか。しかしそんなものに感動してどうするのか。だがそれ以外に何があるのだろうか。何もなければ何を求めていることになるのか。いったい何を求めなければならないのだろう。なぜそれを君が考えなければならないのか。いくら考えても何もありはしないか。この世は誰の都合で成り立っているわけでもないらしい。ではそこで見聞しているすべては君には関係のないことか。そう述べて何を切り捨てているのか。何も切り捨てられないから言葉を連ねているのではないか。だが何かが矛盾しているような気がする。そんな風に述べてはいけないのかも知れない。では何をどう述べたらいいのだろうか。何をどう述べてみても、少なくともそれはいつもと変わらない言葉遣いにしかならないだろう。では気に入らないのはそれらの言葉なのだろうか。言葉とは無関係な感覚からそのような思いが生まれるのか。しかしそれらの思いは言葉に直結していないのだろうか。思いに正解も不正解もありはしないだろうが、文字や数字には色がついているらしい。しかしそれがわかったとして、依然としてその目は何を見ているのでもない。頭は何かを考えているらしいが、何を考えつかなければならないのかを知らない。何もわからないことの気休めに、猫の目でも見ているつもりのようだが、それは考える代わりに見ていることなのか。しかしそれで何がわかるというのか。何かそこに気の利いた比喩表現でも潜んでいるわけか。例えば心が石になるということは、心が冷たくなるということか。君はそこでどのようなイメージを抱いているのか。そこにどのような謎があるのだろう。何もシェークスピアのまねごとをやろうというのでもなさそうだ。しかし言葉はどうやって生まれてきたのだろうか。それに関して君は、何か言語の発生に関する仮説でも持っているのか。音と形の結びつきから言語が生まれたりするわけか。しかしいったい君は何について語っているつもりなのか。そこから何が生じていることになるのだろうか。そしてそれを誰が知りたいのか。君自身は知りたくないのだろうか。それを知ってどうするつもりなのか。知る前に別の言葉が先回りをしている。たぶんそんなことはどうでもいいことなのだろう。ただ何か意味のないことを語っていれば、それでかまわないのかも知れない。だからむやみやたらとどうでもいいことを語り始めている。それらの語りには終わりもなければ始まりもない。たぶん文章が語ろうとする者の能力を超えているのだろう。だから語っている当人には何を述べているのかわからないのだろうか。要するに君は何を知ろうとしているのでもないらしい。何も知らないふりをしながら、何かを知っているつもりでもなりたいのだろうか。そこで見聞しているつもりの何もかもが馬鹿らしく思えるのは、君自身が馬鹿らしい存在に他ならないからなのかも知れない。馬鹿らしい意識には馬鹿らしいことしか思いつかないわけか。しかしそれ何を述べていることになるのか。現実には何を述べていることにもならないのか。ではその辺から馬鹿らしくも愚かしい結論でも導き出せるだろうか。それは具体的にどういうことなのだろう。述べるだけ述べておいて何も思いつかないでは示しがつかないか。誰に示しがつかないのか。例えばそれは世の中に存在しているすべての人々に示しがつかないのか。そういう話ではないような気がするのだが、やはりその辺は避けて通るより仕方のない領域なのかも知れず、あまり深入りするととんでもない精神状態に陥ってしまうだろうか。なぜそうまでしてまともな文章を構築したいのか。現実にはそれからほど遠い実態を示しているにもかかわらず、そこから絶えず立ち直ろうとして、もがき苦しんでいるような状況なのだろうか。これ以上無駄な悪あがきはやめた方がいいか。しかしそれも毎度おなじみの予定調和の範囲内でしかないのではないか。


11月2日

 君は誰を覚えているのだろう。このところの彼には奇行が目立つらしい。それらの成り行きは常軌を逸しているような気がする。しかし物語はどこから始まるのだろうか。そこからいくら話に修正を加えてみても、同じような内容にしかならないのではないか。結果は何も変わらないようで、誰かの意識もそれをわかりかけているのかも知れないが、そんなことは知らなくてもいいことなのか。しかしそれは何の話なのだろう。どのような話であっても内容のなさに変わりはなく、そこで誰が何を何を述べているのでもなさそうだ。もはや行き詰まりの極みに達してしまって、ここ数日はそれほど気を抜いていたわけでもないが、また大きく時間がずれてしまったらしい。それではもはや現在の時刻に追いつくことは不可能だろうか。もしそこから追いつけないとしたら、とうとう終わりの時が来てしまったことになるのだろうか。だがそのとき君は何を求めることになるのだろう。それは未来ではなく、すでに今ここに生じている状況なのではないか。だが今さら何を求めても、終わってしまったらそれを手にすることはできないだろう。しかし何を手にすれば気が済むのだろう。そういう話の展開ではないはずか。とりあえずいくら試行錯誤を繰り返しても、結局は何も得られずに、君の言葉はくだらぬ幻影の中で戯れているだけか。要するにそこで手詰まりなのだから、そこから先にどのように話を展開させることもできないということか。ではそこからどうしたらいいのだろうか。どうにもできないからそんなことを思うわけか。そこから立ち直るにはまだかなりの時間が必要か。しかしいったいその状態はいつどのように変容を被るのだろうか。どこで転機が訪れるのか。たぶん何も起こらないだろう。誰がそう思いたいのか。何かひたすら同じようなことを述べているような気がするのだが、それでもわけがわからないのは良い兆しなのか。なぜそれが良い兆しに思えるのか。やはりその辺で状況を把握できないらしく、何が何だかわけがわからないようだが、そこで誰が何を思い込もうとしているのか。そんなことが君にわかるはずもないか。それでもまだ誰かはおかしなことを述べているらしい。そのような行為は何かの末路でも暗示させるものでもあるのか。いったい何を暗示しているというのか。例えばそれから誰かはどうなってゆくのだろうか。たぶん語り続けているのは過去の話になるだろう。そこで誰かの過去を延々と語り続けている。しかしそれは誰の身の上話にもならず、言葉はどこへも響かない。何も伝わらないので、どこに文章があるわけでもない。そしてそこで誰が何をわかろうとしているのでもない。ただそれを理解できそうでできない状態が長引いており、何となくそのままわからずじまいになりそうな雰囲気になりつつある。たぶんそこで何が提示されているのでもないのだろう。ただ何かを暗示させるようなものがあるらしいが、そんな暗示はまったく無視されているようだ。それを見定めることは不可能なのだろうか。実際その眼には何が見えているわけではない。はっきりと見えているのは、目の前にある液晶画面だけか。正確には画面を見ているのではなく、そこに映っているものを見ているのかも知れないが、その文字の配列において、何か不都合を感じるような並びになっているのだろうか。普通に読めば文章の主題が一向に見えてこないか。しかし目はそんなものを見ようとしているわけではない。必ずしも目に見えるものを見ようとしているわけでもないらしい。例えばそれは微細な空気の流れか。たぶんそれは違うだろう。なぜそうやって嘘をつくのか。現実には画面以外の何を見ているのでもなく、それがつまらない原因となっているのだろう。つまらなければ何も述べられなくなるか。意識の中の何かがそれらの文章に拒否反応を起こしているのかも知れない。それをやり過ごすにはどうしたらいいのか。コーヒーばかり飲んでいても埒が明かないだろう。このままではカフェインに胃が耐えられなくなるだけか。胃が荒れないうちにコーヒーを飲むのをやめたらいい。だが体内からカフェインを抜いたら気が変になりそうか。だがそれは誰のことを述べているのだろうか。それも何かの嘘だろうか。実際に誰かがコーヒーを飲んでいることは確かなようで、胃が痛いことも確からしいが、まさか君はその程度で死んでしまうのか。それが直接の原因で死ぬわけはないだろうが、そんな状態を続けていれば、いつかは死んでしまうような気がしてくる。それはたぶん嘘にはならないだろう。だが途中で死んでしまえば、何を語っているのかわからなくなる。それでは困った事態になるか。誰がそれで困るのか。誰も困らないかも知れないが、やはりそんな内容ではだめなのだろうか。だいぶ以前から意識が文章を拒絶しているらしい。その辺でやる気を失い、ことの善し悪しの判断ができなくなっている。何を判断しようとしているのか。簡単に述べるなら、それをやめるべきか否かになるだろうか。だがそれとは何なのか。やめられないことがそれだとしたら、それでは何のことやらわからないだろう。それはいつまで経ってもそれでしかないようだ。そしてそれと同時に、それ以上はそれを続けることができなくなりつつある。それでも君はそれについて語ろうとしているらしく、架空の物語の中で、何かを求め続けている風を装いたいらしい。例えばそこで殺された人は何を求めていたのだろうか。他人はそれが殉職だと思いたいようだが、俳優がそれを演じているだけだろう。この世に演じることのできない人がいるだろうか。君はそれについて何を思っているのだろう。それは何かの冗談だろうか。君は何について語りたいのか。何かそこで騙されてはいないだろうか。そこから話を発展させていくつもりはないらしいが、それはどんな姿勢なのだろうか。その目に映る何もかもを馬鹿にしたいだけか。それ以外に何に興味があるわけでもなさそうだが、それ以外のそれとは何なのか。例えばそこで何を終わらせたいのだろうか。もはや使い古された感のある言葉の連なりは、まだその先へ続いてゆきそうだ。先は長いらしい。いったいいつになったら終わらせてくれるのだろうか。その鬱陶しい文章を止めるにはどうしたらいいのだろう。なぜいつまで経ってもそれをやめようとしないのか。それは誰の意向で続いているのか。誰に向かって何を問いかけ続けているのか。目的などありはしないことはわかっているが、それでも何かしら述べられていることは確かなようで、その述べられている内容について、何をどう判断したらいいのだろう。まるで単なる付け足しが主題を置き去りにしながら、その先に延々と連なっているように思われ、そのどうでもいいような言葉の連なりが、まともな文章の再開を阻止しているかのように感じられる。


11月1日

 君たちは何を競い合っているのか。この世界での競争とはいかなるものなのか。戦いによって誰を蹴落とそうとしているのだろう。そこは奈落の底なのか。君はそこで何を見てきたのだろうか。競争に打ち勝って大金を手にするとはどういうことなのだろう。誰もそんなことを期待しているわけではない。だが勝つことは良いことらしい。少なくとも何らかの価値を持っている。それは破滅の兆しを予感させるものがある。競争の勝者には悲惨な末路が待ち受けている。この世界はひとにぎりの富める者と、その他大勢の貧しき者とに二極分化しているらしい。それが競争によって生じた悲惨な結果なのか。要するに勝者たちは幻想の繁栄を享受しているのだろうか。たぶん何が解決するわけもないだろう。誰かはこの世界から燻り出されている。要するに煙たい人間なのだろうか。その資質がいずれ何かの役に立つこともあるのだろうか。とりあえずまだ先は長そうだ。どこまで行っても何がもたらされるわけでもなさそうだ。何もなければ何も得られない。何かを得るには天に供物でも捧げなければいけないのか。本気でそんな風に思っているわけでもないが、何かしら犠牲がないと得るものが何もないようでは、そういうシステムは昔の宗教の類とあまり変わらないのではないか。結局何も得られない誰かは、何もせずに数日後の曇り空に向かって、意味不明なことでもつぶやいているのだろうか。だがそれで文章を書けないことの言い訳になるのか。はじめから何も書くつもりはないのかも知れない。あるいはそこであきらめてしまっているのだろうか。やる気を失った彼に再生するチャンスは訪れない。そのままではどこまで行っても何もないだろう。それで誰が困っているわけでもなく、つまらない出来事には夢中になれないから、とりあえず何もなくてもかまわないだろう。何の感慨も持ち得ないような状況の中で生きているらしい。空洞の中でただ時間だけが過ぎてゆく。それが人間の最終的な進化形態なのだろうか。そんな大げさなことでもないか。単に心が病んでいるだけかも知れないが、病が簡単に治癒してしまっては何のありがたみも感じないだろう。だからまだしばらくは病んでいるふりをしているわけか。誰がそうしているのかわからない。そしてどんな出来事に関与しているわけでもない。煩わしいからそう思いたいだけなのか。自由でいることとは他人に無関心でいることだろうか。そんなことが誰にできるわけもないか。では何かに関わるとは不自由になることなのか。それも少し違っているような気がするが、そこからどんな結論を得たいのか。ただ何かを述べなければならない。そうしていなければ気が済まないのだろうか。話の内容が不条理であるだけではありふれている。例えば話の中でどんな残酷な行為もまかり通るのは、それが話だからなのか。理由になっていないような気もするが、それが話なのだから仕方ないだろうか。それが嫌ならそこで話を中断してしまえばいい。中断するのも面倒なら、そこで話をお終いにするしかないのだろうか。そういうやり方は納得できないか。だが納得できることしかやらないようではつまらなすぎるか。だが具体的に何をやればおもしろいと思うのか。それがわからないから困ってしまうわけか。どうも君は自らに正直に語ることができないようだ。また嘘をついているのかもしれない。何をどう述べてもそれが嘘になってしまう。たぶんそんなはずがないと思いたいのだろうが、そんなはずがなくてもかまわないだろう。いつものようにそんなことはどうでもいいことなのか。しかしどうでもいいでは、その先が続かなくなってしまうだろう。だからそれ以前の段階で立ち止まらなければならなくなる。君はそんなことを述べながら、誰と競争しているつもりなのか。いったい何を競い合えばいいのだろうか。そういう不毛な競争からは積極的に脱落すべきなのかも知れない。だから何もしないニートな人を、一般社会に引きずり出してはいけないのかも知れない。無理に働く意欲を植えつけようとしてはだめだろう。あくせく働いている人より、ニートな人の方が現状にフィットしている。人は常に無用な人間であるべきなのかも知れない。たぶんそれはまったくの間違った意見になるだろうが、人は常に間違った意見を持つべきなのかも知れない。正しいことを述べている人は、息苦しい雰囲気を漂わせている。自らの正しさに安心しきっているような印象も感じられる。そういう人は世の中を支配している制度の奴隷と化している。まるで国会議員のような物言いになってしまうだろうか。しかし国会議員は正しいことを述べているのだろうか。では正しいことを述べている国会議員も制度の奴隷なのか。なぜ人は間違ったことを主張しなければならないのか。それでは何を主張していることにもならないのではないか。わざと何の主張も持っていないように振る舞っているのだろうか。まったく文章につながりを感じられない。要するにいつものように何を述べているのかわからなくなっているのだろうか。いったい君は何を主張しているのだろうか。あくせく働きながら何を思っているのだろう。働きざるを得ないような成り行きの中で生きているらしい。そんな状況から眺めると、働かなくてもいい人がうらやましく見えるのかも知れない。それは隣の芝が青く見えるのと似たようなものか。そこに何か心撃たれる光景でも醸し出されているわけか。無論そんなわけがないのかも知れないが、たとえそれが嘘だとしても、過去において何か心撃たれるような光景にであっているのかも知れず、それを今から思い出そうとしているわけでもないが、人が働くことにはどのような価値があるのだろうか。しかし価値があるからといって、それは無理にでもやるべきことなのだろうか。何となくその辺から正しい意見が導き出されそうな雰囲気だが、やはりそういう成り行きが気に入らないらしい。それは述べてはいけないことなのか。それをどのように述べても、厚かましくもお節介な意見になってしまうだろう。何もやる気にならなければ、ただ遠くを眺めていればいいだけかも知れない。ただ黙って眺めていれば時が過ぎゆき、やがて季節も移りゆき、ふとしたきっかけでそんな状況を肯定できるような気になるかも知れない。肯定したければ肯定すればいいだろうし、否定したいのなら違うことをやればいいだろう。君は肯定も否定もしたくない。自らの存在を認めがたいのか。誰からも認められようとは思わないか。認めてほしくないのかも知れない。しかしそれで自らの言動の辻褄が合うだろうか。どこかが矛盾しているとすれば、それも致し方のないところか。風流を愛するとはそういうことなのかも知れない。また間違ったことを述べているようだ。わざと間違っているのかも知れない。


10月31日

 そこから何を得ようとしているのか。まだ活き活きした風を装う段階ではなさそうだ。活力はどこからも湧いてこない。それは何をやるための活力なのだろうか。またおかしな言葉遣いになっているかも知れない。自信がないのだろうか。それは何に対する自信になるのだろう。ただのモノローグでしかないだろう。ただひたすらモノローグが繰り返されている。他に何があるわけでもないらしい。そして見せびらかしているのは意味のない言葉だけか。意味を獲得したいのだろうか。求めているのはどんな意味なのか。そこには何があればまともになると思われるのか。うごめいているのはただの動物だけかも知れない。何があるわけでもなくそんな状況があるらしい。まだ周囲に対する気配りが不足しているだろうか。惨めな思いをしていると思われているわけか。つまらないことを蔓延させているのかも知れない。本気にはなれないようだ。本気になるとはどういうことなのだろう。まだそこから言葉を展開させようとしているわけか。あり得ないことではないが、虚しくならないだろうか。いったい何についてどう思っているのだろう。たぶん外は晴れているのだろう。しかし心はどこにあるのだろうか。誰が心を求めているのか。誰もが内に閉じこもろうとしているわけでもないか。閉じこもる場所がどこにあるというのか。そこであきらめたらいけないのか。あきらめられるわけもないか。何をあきらめれば気分が優れるのか。いくら述べて何もわかっていないようだ。何かをわかろうとする気が起きないのかも知れない。たぶんそこからしか言葉が出てこないのだろう。わからないと述べることからしか文章が始まらないのだ。それはおかしなスタイルだろうか。言葉のあやから始まっているのかも知れない。きっかけが何もないのは恐ろしいことかも知れない。探しているのはそんなことではないはずだ。きっかけを求めているわけではないらしい。それがどうなるきっかけなのかがわからない。だが思い悩んでいるのはそんなことではない。きっかけを探す気になれない。状況が好転する兆しはないようだ。新規事業は単なる見せかけにすぎないのか。そこで資金の流れが滞っている。しかしそれでも何がどうなっているのでもなさそうに思える。以前として作り話には冴えがない。それでは何を述べていることにもならないだろう。そこからどうやったらうまくいくのか。何を勘違いしているのだろう。うまくいくはずのないことをやっているのかも知れず、そんなことは始めからわかっていたことだろう。だから何をやっても虚しくなってしまうのではないか。結果がわかりきっていることをいつまでも続けるのはおかしいか。おかしいと思うならすぐにやめるべきなのか。ではそこで何をやめようとしているのだろう。それはやめようのないことなのではないか。どこまでも言葉が連なってしまうらしく、いくらでも言葉をつなげようとしてしまうらしい。いったい誰がそんなことをやっているのだろうか。君はそれを黙って眺めているだけなのか。何となくその辺から頭がおかしくなってしまうようだ。冗談ではないと思っている。冗談なのに冗談ではないと言い張るつもりらしい。架空の心には余裕がないのか。それが架空ではないと思い込んでいるからなのだろうか。しかしそれとは何なのか。いつもそこで言葉に詰まって停滞してしまう。そんな予定調和をいつまでやれば気が済むのだろう。気が済まないからいつまでもやってしまうわけか。なぜそういう同じような反応を繰り返してしまうのだろうか。少しは違うことを述べてみないか。それができればすぐにでもやっているところか。やはりそれができないからそんな言葉が繰り返されてしまうのか。しかしそれで何がわかったことになるのか。本質的な部分は何もわからずじまいだろうか。もしかしたら誰かがその辺をわかっているのかも知れないが、そのわかっていることを誰に知らせる必要があるのか。知らせたところでそれを誰が理解するだろうか。何の理解も得られなければ、それはわかったことにはならないか。単なる思い込みに過ぎなくなってしまうだろうか。それでもかまわないのなら、それを語るべきなのだろうか。しかしなぜそういう方向へ話が進んでしまうのか。その辺がかなりおかしいのかも知れない。何がおかしいのか具体的にわからないのだが、何となく話し全体がおかしいような気がしてくる。だがそれで何を述べているとも思えないのはどういうことなのか。何も述べられずに、やはりその代わりに何かを述べているらしい。それでは述べていることにはならないのだろうか。それでも何かしら述べていると思い込んでいればいいのか。しかし虚しくならないか。虚しいのならそう思っていればいいだろう。誰が何を思うのも自由なはずか。しかしその自由は見せかけの自由でしかない。本当は何が自由であるはずもなく、何もかもが不自由だから、人はその場所に限定された生しか享受できないのだ。そしてその生にはいずれ死がもたらされるだろう。それでも自由を満喫しているといえるか。なぜそこで満喫という言葉が出てくるのか。そういう言葉が出てくるような状況ではないだろう。不自由に束縛されるのが嫌だから、そんな不自然な言葉を繰り出しているのだろうか。単なる偶然の誤りかも知れない。何となく馬鹿げているように思えてくる。語っていることが意識から離れてゆくような気がする。それではだめなのだろうか。何がだめなのかわからないか。だめではないとすると、それはどういうことなのだろう。何をそんなに焦っているのだろうか。気が触れ始めてきたのだろうか。そんな状況にはないはずか。時間感覚が狂っているのかも知れない。何がどうなってそうなってしまうのか。そんなことを述べたいわけではないが、何かそわそわし出して意識がどこかへ飛んでいるのかも知れない。そんなことがあり得るだろうか。今の意識はどこで何をしているのか。その身体から離れて何をやろうとしているのだろう。そんなわけがあるわけないか。またおかしな言葉遣いになっているようだが、それは明確に誤っているのだろうか。それではおかしいと思うのなら、何か適当に修正すればいいような気がするのだが、何となくそのままそこの時間帯を走り去りたいような気分になってくる。なぜそんなに急いで言葉を連ねているのだろう。本当に時間的な余裕がないのだろうか。その辺が今ひとつわかりかねるところなのだが、それでも正気でいるような気がしている。まだまだ狂気には程遠いと思っている。別に狂気に至りたいわけでもないだろう。気が狂うのはありふれているからか。世の中にはそんな人間がごまんといると思いたいのか。そんな思い込み自体がおかしくなっている証拠だろうか。しかしどんなに急いで語っても、わけがわからない内容には違いないようだ。


10月30日

 昔を思い出すがそれは何年前のことなのか。今と昔では世の中はどう変わってしまったのか。世の中がどうなろうと今の君には関係ないことか。寄る年波には勝てず、何もかもがさらに遅くなる。相変わらず遅れ続けているようだが、それでもまだ続けられる可能性はあるのだろうか。無内容を延々と続けてどうするのか。それはどうなる可能性なのだろうか。それでもまだお終いにならないのか。ところでこれから何を語ろうとしているのか。何をぼけたことを述べているのだろう。何かと何かがせめぎ合いを続けているような気がする。誰かの心の中では、互いに相容れない感情と感性が共存しながら戦っているのかも知れない。それでもお終いにしたくないらしい。具体的にそれが何を示しているのかはわからないが、何となくそんな気になっているようだ。それに基づいて何かを語ろうとしているのか。その語っている何かに興味が湧いてくるだろうか。冗談ではないか。何が冗談ではないのだろう。どんな風に語っているのでもなく、ただそんな風に語っている。それの何がおかしいのか。何を語っているのでもない、ということはどういうことなのだろう。どういうことでもなく、そういうことなのだろうか。それでは何が何だかわからないだけだが、わからないからそんなことを述べているようだ。つまらないニュースを飽きもせず見ている。毎日がそればかりなのだろうか。それはどんな話題なのだろう。どこかで誰かが活躍しているらしい。それを見ながら何を思えばいいのだろうか。他人が活躍して、自らはそれを毎日見ているだけか。しかし自爆テロで活躍している人たちはその場限りの活躍かも知れない。そんな冗談でも活躍には違いないか。誰もがその場限りで動き回っているのだろう。それが将来につながると思っている。そこから何がもたらされるのだろう。何かがもたらされるに違いない。だがその何かは君とは関係のないことか。君には未来がない。未来がなければ過去も現在もありはしないか。それはどういう根拠に基づいて述べていることなのか。ただ無根拠にそんな気がするだけだろうか。その辺で感情がうごめいているらしいが、それは間違った言葉の用法かも知れない。だがそんなところで息切れか。やる気がないのだからそれは仕方のないことだろう。機会を生かしていないのではないか。生かしていないのなら死んでいるわけでもないだろう。それはどういう論理なのだろうか。論理も何もありはしないか。ただそんな風に思っているだけかも知れない。まだ急いではいけないのかも知れないが、いつまで経ってもその調子なら、何もなされずに終わってしまうかも知れないか。しかし成すべきことは何なのか。何を為せば何が成されるのか。そんな言葉の使い分けによって何を語っているつもりなのか。それも用法的な誤りなのか。間違いや誤りを恐れて何を成すことができようか。そんな風に思っているわけではなく、話の成り行きがそういう言葉を誘発しているだけか。砂の岬ははるか昔の風景だろうか。そこで何を誘っているのか。心地よい音の調べに流されている。何を考えているわけでもなさそうだ。それは何らかのトラブルかも知れないが、今はそれを利用して前へ進むことしかできない。現にそうしているのだろうか。しかしまだ先は長そうに思われる。なぜそんなところで停滞しているのだろう。何かを顧みなければならない時期に達しているのだろうか。それが何か省察でももたらしてくれるのか。そこでどんな気配を察しているのか。これから何がどうなろうとしているのだろうか。それともどうにもならないからそんなことを述べているのか。そんなことをいくら述べてみたところで、何がどうなるわけでもないだろう。だからひたすら無意味に思われてしまうわけか。意味もなく同じような言葉が繰り返されている。それを見て何を思うのだろう。そこにも何らかの感動があるわけか。それはどのような感情の揺れ動きなのだろうか。何を説明しようとしているわけでもなさそうだ。馬鹿らしい成り行きが積み重なって、それに飽きた頃に何らかの変化が訪れることもありそうか。そんなあやふやな期待はすぐにも打ち砕かれてほしいか。なぜそれが打ち砕かれなければならないのか。打ち砕くほど堅固なものでもないだろう。ただ気持ちが適当にうごめいているだけで、何の実感も伴わない。たぶんそれは誰の心でもないのだろう。何を考え続けることもできはしない。それが作品であるわけでもなく、作品以前の何かにさえ至っていないのかも知れない。心の中に何も響いてこないのだから、それは仕方のないことかも知れない。冗談はその辺にしてもらいたいか。何が冗談なのかわからないが、そのわからない何かが冗談だと思い込まなければ、その先へ言葉を連ねて行けないらしい。それは何かの旅なのだろうか。そうだとすると何を終わりに導きたいのか。何を終わらせようとしているのだろう。終わりようのない言葉の連なりをどうしようとしているのだろう。終わる以前に始まっていないのかも知れない。始まりの言葉を見出せずに、始まり以前の段階でわけのわからない逡巡を繰り返している。それでもそれが何かの経験になっているのか。だがその何かはいつまで経っても何かのままで、具体的な言葉にはまったく結びつかないようだ。それの何がおもしろいのか。おもしろくもつまらなくもないのだとしたら、何か他に述べることでもあるのだろうか。やはりおもしろかったりつまらなかったりしなければ話にはならないか。話にならないから話以前のそんなことばかり述べているのだろう。そしてそこから逃れるわけにはいかないらしい。なぜそうなってしまうのかは知っている。知ってはいるがそれがどういうわけでもありはしない。それはただの気まぐれや偶然でしかないだろう。たまたまそんなことを述べているに過ぎないことか。それで何を述べているのでもなく、しかもそれでも何かしら述べているつもりなのかも知れない。そして誰かが酔狂で明日を思い出そうとしている。要するに不可能を語っているつもりになりたいわけか。だがそんなごまかしがいつまでも続けられるわけもなく、すぐにそんなことはどうでもよくなってしまい、三歩も歩けば忘れてしまうようなことでしかなくなってしまうだろう。それで何を述べていることになるのか。明日の出来事が今日につながっているわけでもなく、ただ昨日と一昨日を思い出せないだけか。いくら思い出そうと試みても、まだそこまで達していないのかも知れず、何がそこまで達していないのかもわからず、その代わりに執拗に無駄な言葉を繰り出しているようだ。君が知っているのはそんなことなのか。そんなこととはどういうことなのだろう。なぜそれを文章にできないのか。要するにそれではつまらないから述べないのだろうか。


10月29日

 今日も本気なっているわけではない。その気もなく文字を記しているようだ。意味もなく外は暗い。暗闇の中で見上げてみれば数日後の星空が広がっている。さらに言葉が連なっていくらしい。それは果てしない連続になるだろうか。そのひらめきは誰のものなのか。唐突に影は何をつかもうとしているのか。君は全体の部分を占めている。それは世界のことだろうか。相変わらずわけがわからないが、何を求めているわけでもなく、何を思っているわけでもない。この期に及んで何を知りたいのだろう。何がこの期に及んでいるかを知りたいか。自らの尾に食らいついている蛇の話でもしたいのか。それは蛇ではなく駱駝の話ではないか。それを表す文字が似ているだけだろう。何となくそれでは安易な話になってしまうような気がする。ではその話の何が馬鹿げているかを知りたくなるだろうか。気分次第で何を語ろうとしているのだろう。意識のどこに気分が現れているのだろうか。そんな精神状態では今後に向けて大きな禍根でも残すことになってしまうか。それほど深刻には思えないのだが、何やら大げさな風を装いたいのだろうか。言葉だけでどんな気分を先行させたいのだろう。ただいつものように無内容でわけのわからないことを述べたいだけなのか。それとも何かわけのわかるようなことを述べる気にでもなったのだろうか。どこに興味を惹くような出来事があるのだろう。いつもそんなことばかり述べている。それは昨日のことだろう。だがその昨日はすでに一昨日になっているかも知れない。それはやはり文章としてどうでもいいような内容になるだろうか。その先に述べることはまた以前と同じになってしまうのか。だがそこに何があるわけでもないだろう。何もなければ何も出てこないか。それでも虚空から言葉を絞り出そうとしているようだ。しかしそれによって不可能が可能となるわけでもない。不可能は常に不可避であり、言葉を連ねることが不可能になってしまうから、もはや何も出てこなくなるのだろうか。それでも言葉が連なってしまうだろう。要するに無理なことを述べている現状があるわけか。そんな現状をこれから打破したいわけか。だがやれもしないことをやろうとしているわけでもないか。何もせずに音楽を聴いているだけか。それは何の真似なのか。別に死ぬ気になっているわけでもない。夜空に向かって架空の魂は何を訴えかけているのだろう。そんなものがあるはずもないか。ただどうでもいいような出来事が立て続けに起きているだけか。そこで誰が何をやろうとしているのだろうか。何かやりたいことがあるわけでもなく、成り行きで何かをやらされているだけかも知れない。そんな成り行きとはおさらばしたいか。できるものならしてみてほしいか。それはたわいないことだろうか。何かが間違っていたのかも知れない。実際には何をやろうとしているのでもないようだ。そこからは誰も動こうとしないわけか。ならばさらに停滞してしまうのだろうか。それでいいわけはないか。ではどうしたらいいのだろう。そんな予定調和の成り行きにはうんざりか。どんな成り行きになっているというのか。現状を何も把握していないのではないか。やはり君はそこから遠ざかろうとしているのだろうか。文字を記す行為を放棄しようとしている。だがそれは矛盾した行いではないのか。何も語りたくないのに何かしら語っている現状を揺るがすことはできない。そんなことをいくら述べても無駄だろう。何を放棄するつもりもないのに、語りの内容を放棄している。すべてが無駄であるにもかかわらず、無駄な行為を執拗に繰り返している。脳の言語中枢が破壊されているのだろうか。実際はその逆で、それらの機能は極めて正常に働いているのかも知れない。人は日々同じことを繰り返すものなのか。飽きているのにそれでもやり続ける。それのどこまでが君の領分なのか、君には知り得ないだろう。しかしそれとは何なのか。それを記述することがそれそのものだとは思えない。何の痛みも感じないのは何もやっていない証拠だろうか。だがそこから何を述べても何ももたらされない原因を知りたいわけでもないか。そのとき君は何から追放されているのだろうか。そこからどのように言葉をつなげるべきか、そんなことを知ってどうするのか。知れば知るほど言葉をつなげることの困難に直面してしまうか。だがそれは君の話ではなく、それどころか誰の話でもありはしない。そこでは誰が物語の主人公でもなく、あるいは何がどこへ突き抜けているのでもない。ただ語っていることが意味不明なだけか。それでは以前と何の変わりもないか。何を述べているのかわからなくなるが、他に述べることがないので、わざとそうしたいのだろうか。それで何を試している気なのか。何も述べられなくなるように述べているつもりか。しかしそれでは辺りに虚無感が漂うだけだろう。それはいつの出来事なのか。出来事がどこにあるわけでもなく、作り話の中にもありはしない。何もないとはそういうことだろうか。それで妙に納得しているつもりになれるか。ただどこかで誰かが叫んでいるつもりなのか。奇声を発してそれで何を訴えかけているのだろう。もはやこの世には何もないということを、自らの奇声によって実証したいわけか。では何もなければこの世はどうなってしまうのか。誰かの声が不気味に響き渡っている状況でも想像すればいいのだろうか。それで何を示しているわけでもない。示されているのは意味不明な文字列でしかないらしい。君はそんな言葉にすがりつくのか。それでは意味がないだろう。意味を求めていないのだからそれは当然か。そんな風にことさらに無意味を装うばかりのようだが、それによって何を避けているつもりなのか。ただ状況が見えていないだけだろうか。そうやって何を見ないようにしているのか。わざとそうしているわけではなく、自然とそういう成り行きになってしまっているのかも知れないが、それがいいとは思えない。そこからどこへ向かえばいいのかわからない。これから向かう先などあるわけがないか。今の君にはこれからがない。これからがなければそれからもないだろう。ではそれからどうなったのか。それは冗談の類か。それからがないということは、そこで話が中断してしまったということかも知れない。その話はそこで立ち消えだろうか。それは君にとって願ってもないチャンスかも知れない。そこで何もかもお終いにできる唯一の機会かもしれない。だが本当にお終いにする勇気があるのだろうか。実際にお終いになったらわかることか。しかし何がお終いになるというのか。そんな話などどこにもありはしないか。どこかにあるような話をしているわけではないのかも知れないが、どこにもない話などどこかにあるわけもないだろう。それでは何のことなのかわからないか。要するにそこまでの話をうやむやにしたいらしい。


10月28日

 何かの流れが滞っているのかも知れない。状況に逆らうことはできない。いくら待っても無駄かも知れず、ただ時が流れてゆくだけなのだろうか。そんな状況ならもうお終いか。何が終わってしまうのだろうか。何となくもたらされた言葉を捨て去りたい気分になってくる。どこもかしこも至る箇所が欠陥だらけのようだが、そこには何が舞い降りているのだろうか。それは綿埃か何かか。つまらぬ台詞ばかりが飛び交い、語り出すきっかけをつかめなくしているのか。どこにも抜け道が見当たらない。同じような文章の連なりから抜けられないのはどうしてなのだろう。それは同じような音楽ばかり聴いているからか。たぶん何かの冗談なのかも知れない。朽ちかけた思考の中で、それ以上の何かを見つけ出せるだろうか。時間と気力が足りないようだ。今から何をやっても、もはやそれは昨日の出来事になってしまうらしい。また翌朝になれば窓から光が差し込んでくるかも知れないが、明日が晴れているとは限らない。仮に晴れていたからといってどうなるわけでもないだろうが、それでは希望の光はどこから差し込んでくるのか。別に気休めの希望を必要としているわけではないが、そうかといって闇の中で彷徨っているわけではない。それはいつもの迷路だろうか。その中でいつものように言葉を繰り出すきっかけがつかめていないだけなのか。そんな言葉と文章で何を述べているつもりなのか。それでもまだ盲目ではないはずか。なまじ目が見えているから何も把握できなくなる。その目はテレビばかり見ていて、何の役にも立ちそうにない。それとは別の時空では君とは別の誰かがかろうじて何かをやる気になっているかも知れないが、導き出されたそれは、ただのつまらない言葉の並びに思えてくる。もちろんそれは誰が思っているのでもなく、そのような言語表現が可能なだけだ。あるいはそれはただの支離滅裂に過ぎないだろう。そしてこれから何をどう述べようと、まともな文章になるのは不可能だと思っている。そこから誰かは何を目指しているのだろうか。さらに続けて何が得られるのか。いったい誰にそれを見せびらかそうとしているのか。見せるものなど何もありはしないではないか。まだそこに何かがあると思っているわけか。あるいは何があるわけでもないと思いたいのか。誰かは架空の時空でいくらでも無駄口を叩いていればいいだろう。遠からずそんなわけにはいかなくなる。それはただのヒステリーに過ぎなくなるのか。どこの誰が感情を抑え切れていないのだろうか。それでも何もなければ何も語れないのが当然で、あるいは当然ではないから、何もありはしないと思いたいわけか。そう思いたければ勝手に思っていればいい。その先に可能性などありはしない。何もなければ何をやることもできはしない。そしてそんな言葉の連なり方ではつまらないと思っているらしい。気が進まないのかも知れない。ではそこからどこへ逃げればいいのか。気持ちは言葉から別の言葉へと逃げているのかも知れない。しかしそれの何が気に入らないのか。また同じようなことを述べてしまうのが我慢ならないか。だが何を我慢しているわけでもないか。たぶん我慢が足りないのだろう。まだそこから待たなければならないのか。何を待っているわけでもないのに、待ち続けなければならないのは不条理に思われる。しかし逃げ道がどこにも見当たらないのはどういうわけなのか。運命は何をもたらそうとしているのか。なぜどうにもならないのだろうか。いつまで経ってもどうにかなるような兆しを感じられないのは、どういうことなのか。ただ意識がそこで焦っているだけなのだろうか。何もできないのがそんなに苦痛なのか。どこかで何が違っているのだろうか。それが勘違いだと思われるのはどうしてなのか。心情的には勘違いなどではなく、状況を把握できていると思いたいか。そしてそれが紛れもない真実であってほしいか。だが何もできないことに変わりはない。思い通りに行くはずがないだろう。至る所で不具合が生じていて、それをいくら修正しても、次から次へと問題が発生してしまう構造になっているのだろうか。それでも結果的にはうまくいっていると思いたい。それは無理な話だろう。ご都合主義もいいところか。文章的にかなり矛盾しまくっているのかも知れないが、実感として湧いてくるのは、そんなことばかりのようだ。まだ工夫が足りないのかも知れない。だがそんなことを述べても無理なことに変わりはない。いくら述べても何を述べているとも思えない。いったいそこには何が足りないのだろうか。それがわかったら苦労はしないだろう。しかしそれがわからないから、そこでうんざりしてやる気がなくなってしまうわけか。精神的に壊れているのかも知れない。たぶん来る日も来る日もそんなことの繰り返しになってしまうので、いよいよ頭がおかしくなってしまったのかも知れない。執拗にそんなことばかり述べているのだから、そうなるより仕方がないのかも知れない。だがそれより他はあり得ないようだ。だから今日も朝からやる気を失っている。それはごまかしようのない実感となっている。なぜ何に対しても興味を持てないのか。何に興味を持たなければならないのだろうか。そんな対象があるわけがないか。それがすぐに見つかるとは思えないが、そんな調子でいつか何かを見出せるのだろうか。それはどういうことなのだろう。おもしろいということはどういうことなのだろうか。それがわからないとしたら、ではつまらないということはどういうことなのか。何がおもしろくて何がつまらないのか。そんな風に述べながら、君はどんな現象に逆らっているのか。なぜそんな嘘をついているのだろうか。他に何もありはしないからか。そして述べるべきことがないと嘘をついているわけか。ではそのままに状況が推移していったらおもしろいだろうか。おもしろくはないがつまらなくもないかも知れない。おもしろくもつまらなくもないのなら、それは至って普通の心理状態なのだろうか。普通とはどういうことなのか。通常では無口にでもなるわけか。それの何が通常なのだろう。だがあり得ない状況でもないか。ではおもしろくもつまらなくもない状況とはどういう状況なのか。ただ二つの言葉を併置させているだけか。それで何がわかるのだろう。現状はどんな現状にも当てはまらない。ただそれに対応する言葉を見出せないだけだろう。ただ何もない状況が現状なのだろうか。そうであったならおもしろいか。誰がそれをおもしろがっているのか。それを否定するのなら、君はそこで苦悶の表情を浮かべているわけか。そういうことでもないだろう。ではどういうことなのだろうか。状況を説明するのが面倒なので、とりあえずは他に何か興味深い現象を探求しているつもりになりたいらしい。そしてわざと当てずっぽうなことを述べているようだ。たぶんこれ以上の継続は無理だろう。無理だとすると終わりも近いのだろうか。しかし終わってどうするのか。終わりは終わりでしかない。終わった後に何が始まるわけもないか。


10月27日

 まだそんなことを述べているのか。この世は情報の大洪水のようだ。その中では何に注目する気も起こらない。まるですべての情報が君とは無関係のように思われる。その中から何を取り出して自らの行動に役立てればいいのだろう。しかし自らが行動しているわけでない。自らの行動も言動もどうでもいいように思われる。それで世の中がどうなるわけでもないだろう。何も思いはしないし、何とも思われたくはないのかも知れない。富や名声とは無縁でありたいわけか。そうなるための努力とも無縁なのかも知れない。仮想の時空ではなぜそんな風にひねくれてしまうのだろうか。富や名声を得ている人々の有り様が馬鹿らしくも滑稽に感じられるからか。実際はそういうことではないような気がする。その辺で本心をはぐらかされているのかも知れない。間違ってもそんな精神状態で本音を述べるべきではないのか。現実は必ずしもそんな成り行きにはならないのかも知れないが、とりあえず毀誉褒貶からは程遠い立場にあるようだ。べつに誰のことを述べているのでもないが、そこから先は何も述べられないのだから、それは当然の成り行きだろうか。できればそんな具合に状況が推移してほしいのかも知れない。もはや恩讐で動いているような世の中ではない。それに関わり合っている人々には何も見えていないだろう。建前的にそんな様相を呈しているようだ。だがそれをやり遂げる自信はない。はじめから意味が不在だからなのか。やり遂げようとしているそれも不在かも知れない。そこには何もありはしない。それは何かの決まり文句なのか。何もないことが決まっているのだろうか。たぶんそんなことを述べたいわけではないのだろう。どこにも何もありはしない。それは元の木阿弥以上の状態かも知れない。何かが途切れかけているようだ。さらにつまらないことを述べようとすると、それが実現するのかも知れない。世の中の情勢に流され、どこまで流されても何とも思わないような精神状態でいるらしい。もはや何がどうなっても何の感慨も抱けなくなってしまったようだ。何も感じなくなりつつあるらしい。それが愚かな振る舞いだとも思わない。しかし君は誰のことを述べているのか。それは実在する人物の立ち振る舞いではないようだ。つまらない世間話にうつつを抜かしているわけではない。遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。それ以外に何を感知できるだろう。何もできないわけがないか。意思が希薄になっているのかも知れない。どこに何が生じているのだろうか。そんなことを誰に問いかけているのか。今のところ返答は何もない。君はだいぶ堕落してしまったらしいが、まだそこから這い上がる術を知らない。君はそんなことを語りたかったのではないはずだ。もはやそこには誰もいないはずか。誰もいない場所で何を語ろうとしているのか。誰も知らない場所を知っているわけもないだろう。不在とはどういうことなのか。とりあえずは留守なのだろうか。ではそこから誰を捜せばいいのか。探し出す対象が定まらない。はっきりしないのは今に始まったことでもないだろう。ではなぜそれほどまでに執拗な追跡が必要なのか。誰が追われているのかわからない。何に沿って進んでいるのかもわからないが、地図を見ながら見知らぬ地域へと迷い込んでいるのかも知れない。誰かはそこで何を思い出せばいいのだろう。何がそこで付け足されているのか。それは何かの有料道路だろうか。何を模索しているつもりなのだろう。いくら何を探してもその行動は誰にも気づかれないだろう。宝の山はそこにはない。あり得ない妄想の中に幻想の宝が埋まっているはずか。そこで君はどんな幻影に接しているのか。何もかもが過ぎ去ってしまうのはなぜなのか。そこには何の説明もありはしない。そんなことなどどうでもいいのか。何となくため息が出るが、そこからどうしたらいいのかわからない。そんな現状がいつまで続いてゆくのだろうか。そんなとりとめもない状況の中で、またもやペルシア人の愛に遭遇してしまうが、そんな曲ばかりでは気が滅入ってしまうだろうか。それとこれとは無関係であってほしいか。ではどんな言葉と状況を結びつければ納得がいくのか。誰が納得したら気が済むのか。そんな結末など誰も期待していないだろう。そこまで行く予定はないらしい。今のところは途中で降りて眠りにつくのがオチのようだ。誰も求めていないような言葉の連なりになっているのかも知れない。霧が深すぎて何も見えてはいないのか。だが視界不良だからといって、その先へ進めないわけもないだろう。その強引なやり方は今に始まったことでもないか。誰かはそこからさらに遠くまで歩いてゆくようだ。そのうち行方知れずとなってしまうだろう。その先にはおおかた悲惨な末路が待ち受けていることを願っているのか。それは誰の願いなのだろう。たぶん彼は見栄の張りすぎなのではないか。それが滑稽に見えてしまう原因なのだろうか。だが姿が滑稽に見えてしまうことは彼の長所なのかも知れない。それを利用して金儲けでもたくらんでいるわけか。それは誰の話なのだろうか。そんなことを語っている間にペルシア人の愛は通り過ぎてしまったようだ。今は別の曲に乗って誰かはどこかへ向かっているらしいが、君には誰がどこまで行くのかわからない。ドライブに行き先などありはしないか。車もないのに高速道路で行けるわけもないか。たぶんそれは何かの嘘なのだろう。嘘でもかまわないから、とりあえずはどこかへ行かなければならないのか。行けばその先に道が開けるとでも思っているわけか。それこそ大きな勘違いなのか。思い込んだら突き進まなければ気が済まないのか。何かを見出すまではやめられない性分なのだろうか。ではすでに見出されたそれはどうするつもりなのか。そんなつまらないものはうち捨ててその先へ向かわなければ、そこで停滞してしまうだろうか。今も停滞しているのではないか。思っていることと現状にはかなりの開きがあるのかも知れない。だからさっきから勘違いばかりを繰り返しているのかも知れない。言葉が連なるその表面を滑らかになぞっているつもりが、方々でつっかえまくって、ぎくしゃくした軌道をさらけ出しているのだろうか。それでも文章は文章だろう。何らかの内容を伴った文章には違いない。今はそれで満足しておくべきなのか。その程度で満足していたら先が知れてしまうか。もう少しスマートな言動を醸し出せないものか。たぶんそれは久しぶりの無い物ねだりかも知れない。実際に語り続けてゆけば、至る所に障害物が待ちかまえていて、そこを通り抜けるのに多大な労力を注ぎ込まなければならない。だから結果的に目を覆うような内容となってしまう。そしてそんな風にしか語れない自らの力不足でも痛感するのだろうか。それでは見え透いた予定調和かも知れない。


10月26日

 どこからそんなアイデアが湧いて出るのか。過去の日付から数日後の晴れた空の下で、何について述べればいいのかわからないが、たぶん今日も誰かは何かを述べている。まだそれを文章によって説明することは叶わぬようだが、それでも何かがわかりかけているのかも知れない。しかしわかりかけているだけでは何のことだかわからない。いったい何がわかりかけているのだろうか。確かに何もわからないよりは、何かがわかりかけている方が、気休め程度の効用は期待できるのかも知れないが、そのわかりかけていることについて、何をどう述べればいいのかわからない。結局何もわかっていないのではないか。例えばそのような心理状態の何を肯定すればいいのだろうか。なぜそこで心理状態という言葉が出てくるのか意味不明のような気がするのだが、唐突に出た言葉にどう対応すればいいのかわからないのはもちろんのこと、何をどう肯定していいのかもわからない。ただまわりくどいことを延々と述べているだけのような気がするのだが、何かがわかるということはそれほど価値のあることなのか。確かにわからないよりはわかった方がいいのかも知れないが、君は価値があったりなかったりすることに興味がないのだろうか。そういうことではなく、具体的に何について語ろうとしているのかがわからない。だがその調子で、誰かの思っていることを言葉でなぞることが可能だろうか。誰が何を思っているのだろうか。それだけでは意味不明だろうか。そこで展開されている話を理解するには、それだけでは不十分かも知れない。とりあえず他人の出し抜くには、何をわかるにも他人より早くそれをわからなければならないか。より早く状況を把握して理解できていれば、機先を制することができるかも知れない。では君はそれを自らの利益に結びつけようというのだろうか。そんな考えが架空の存在である君から生じてくるわけがないが、ではそんな成り行きから生じる競い合いからは何が生まれるのか。たぶん何かしら生じているのだろうが、そもそもそれは何かの競争なのだろうか。それに向かって何を述べても無駄なような気がするのだが、誰かは何をもったいぶって見せびらかそうとしているのだろうか。ただ何となくそれは違うと思われる。そこには何か君に関連するような出来事が生じているのだろうか。そんなことはどうでもいいことで、誰かは相変わらずつまらない箇所にこだわりを見せているようだが、そこでどのような説明が必要とされているのだろうか。ところで彼は何を説明しているのだろうか。その説明によって君は何を理解できたのか。なぜ人は戦っているのだろうか。どこに戦うべき相手がいるのか。人々は自らの無知と戦っているのだろうか。やはり君はそれらの理解から見放されているのだろうか。自らが無知であることを理解する必要がないとすれば、君は理解と同時に必要からも見放されている。その代わりにつまらないことを述べているらしい。ではいったい何を考えていることになるのか。これからどのように語ればいいのか考えあぐねている。少なくとも何も語れない架空の君には問題がない。あるのは何もないという実感だけなのだろうか。実感さえも文章によって構成された架空の思いに違いない。ならばそれで何をわかったつもりになれるのだろう。文章の外ではどのような出来事が生じているのか。何が起こっているわけではないが、とりあえず部屋の中では空気が淀んでいる。ではそんな風に感じてしまうのはなぜなのか。とりあえず他に冗談が口をついて出てきているわけではない。ならばそれの何が冗談に思えるのか。そんなその場限りの即席の疑問を真に受けるわけにはいかないか。では君は誰に問いかけているつもりなのか。どのような状況に向かい合っているのか。たぶんそこには恐ろしい不具合が生じているのかも知れない。すでにその不具合によって誰かは何も述べられなくなっている。その不具合の正体は何なのか。君はその原因を無視しながら述べているらしい。以前のように他人の文章を参考にできなくなっているのかも知れない。知らず知らずのうちに自分の殻に閉じこもってしまっているのだろうか。誰がそんなことを思っているのか。それは何に対する応答なのか。そうではないと思いたいのは誰なのか。できればそうであってほしくないと思っているわけか。しかし素直になれないのはどうしたわけなのか。なぜ謙虚になって過去の文章を読み返す気にならないのだろうか。理性はそこに構造的な不具合を見出したいのだろうか。だが結果として何が見出されているわけではない。では自分で自分を分析することは不可能なのだろうか。何とかそこから乾いた季節に移行しなければ、気分が晴れ晴れしないらしい。そんなでたらめな述べ方はないだろう。では何がそこでは違っているのだろうか。なぜその先を導き出せないのだろう。その先に立ち現れるべき姿とはどんなものを想像すればいいのだろうか。それはどのような妄想を目指しているのだろう。しかしなぜそれが妄想にならなければいけないのか。ではそれに関する真実はどの辺から導き出されなければならないのか。どうもそれは違うような気がする。何かが違っているような気がするのだが、その違いを認識できないらしい。そんなことを述べたいわけでないのはわかっている。だがその先が出てこないのだ。述べたいことがわからないようだ。それは何かの違和感なのだろうか。今ある状況に文章が適合していないのだろうか。どんな言葉を当てはめればそれを表現できるのか。いつまでもそれではだめなことはわかっているのだろうか。その辺に確信が持てないような気がするし、そこから自信がなくなってしまうような気もしている。いったいそこで何を述べればいいのか。出てくるのはそんな疑念ばかりのようだ。何かそれとは違うことを述べられないものか。しかしそう思うのは現実から目を逸らそうとしている証だろうか。目に映っているのは画面上の文字列以外にはあり得ない。それが言語表現の貧困化を体現しているらしく、それと真正面から向き合う気力に欠けている。何をどこまで述べてみても、文章はそんな無内容を示すほかないのだろうか。さっきまで見ていた夢は何だったのか。なぜそれを思い出せないのだろう。なぜそんなことを述べてしまうのだろうか。それは自らが悩んでいることになるのだろうか。だがいくら悩んでもどうなるわけでもないだろう。どうにもならないからそんなことを体験し続けなければならないのか。そして疲れて寝てしまうのだろうか。それはかなりおかしな状況に思えるのだが、そこから導き出された文章は何の変哲もないように感じられて、何がどうなっているわけでもないように思われる。なぜそうなってしまうのだろう。たぶんそのなぜはいつまで経っても解消しないだろう。何もわからないままに、絶えずそんなことを述べ続けているだけのようだ。それでは気に入らないのか。気に入らないからそんなことを述べている。しかしその述べているそれが気に入らない。そしてそれが何かの堂々巡りをする原因となっているのだろうか。それはいったいどのような堂々巡りなのか。なぜそこから抜け出すことができないのか。そんなわけでまたいつもの自己言及にはまっているらしいが、そうなることはわかっていながらなぜそうなってしまうのだろうか。なぜそれを回避できないのか。


10月25日

 一通り逡巡を繰り返した後、またわけがわからなくなってきたようだ。とりとめのない情報に接して何を思えばいいのだろう。そこにはどんな概念が浮遊しているのか。別に遊んでいるわけでもないようだが、他に何をやっても気晴らしになっていないような気がしてくる。言葉はそこから出てこない。いつも別の何かが作用して、意識があらぬ具合に変形しつつあるようだが、そこで何を感じているわけでもない。それとは別方角から力が働いているのかも知れないが、結局それは誰にも理解しがたい言葉の連なりとなっている。誰にとってもそれは不幸な結果を招いているのかも知れないが、そんな風に事物を変形してしまう力の源はどこにあるのだろうか。言葉にはそれ自身では何の力も持ち得ないか。それが誰にとってもどういうわけでようだが、いくらでも述べているのに、相変わらずそこには何ももたらされていないようだ。よく探せば何かしら見つかるのかも知れないが、それが文章として形にならないらしい。今のところ意味のある言葉の連なりは何も形成されないように思われる。たぶんそれはいつもの行き詰まりなのかも知れないが、なぜそれ以外には何ももたらされないのだろう。それは予定調和の展開に思われる。話の内容はいつもと変わらず意味不明なだけか。だがそこで挫折していてはその先に進めない。いったいその先に何をもたらそうとしているのか。そのままではさらなる混沌と混迷の言葉しか繰り出せないような気がしてくる。わかりきったことは述べたくないようだ。そんな簡単なことではないように思われる。ではすべての現実は逆さまに構成されなければならないのか。それが現実ではあり得ないことは承知している。だが妄想も場合によっては現実の一種かも知れない。頭がいかれている原因は妄想のせいなどではない。ただ頭がいかれているように装っているだけなのだろう。では正気に戻れない原因はそんなところにあるのだろうか。正気のふりをしながら頭がいかれているように装っているようだが、ではどちらが本当の状態なのかといえば、たぶんそのどちらも嘘になってしまうかも知れない。そこに実体などあり得ないのであり、それでも何かを述べているとすれば、それは虚構の存在が述べているのだろう。実態としては何も述べていないのに、何かを述べているように装っているに過ぎない。それが言葉の迷路でも形成しているわけか。だがそれとは何なのだろう。それは単にそれであって、同時にそれではないような物や事なのか。それが物や事であるわけがないだろう。しかしそれは誰が誰に対して反論していることになるのだろうか。だからそれが作り話の類だと述べたいわけか。では誰がそんなことを述べたいのか。そういう種類の話なのだから、それはそれでそういうことでしかないか。何となく述べていて馬鹿らしくなってくるようだが、それが嫌ならもっと違う話をしてみてはどうか。できもしないことがすぐにできるようになるわけがないか。どこかの漫画ならページをめくればすぐに登場人物は必殺技を習得して、それを実戦に活用できるようになるわけか。フィクションならそんなこともありだろうか。しかし同じような話が飽きもせずいくら繰り返されれば気が済むのだろうか。読者も時の経過とともに徐々に入れ替わるから、また話自体もだんだん進化してくるから、何となくいつの時代でも飽きが来ない話が存在し続けるのかも知れない。だがそれとこれとは別物だろう。君が語ろうとして物語の方はどうなっているのだろうか。相変わらず何もはじまらないままに、どうでもいいような言葉ばかりが、うんざりするかのように連なっている現状を、今後どうするつもりなのか。どのように体勢を立て直すつもりなのか。無理なことはやらない方がいい。無理なことばかりやっていながらそれはないだろう。しかしそのおかげで無理が無理ではなくなってきているのではないか。そんなごり押し気味のやり方にはうんざりしているはずだろうが、やはりそんなことばかりやらざるを得ない成り行きになっている。まったくため息交じりに絶望感でももたらされているのかも知れないが、その程度の絶望感など当然のごとく無視されて、さらにわけのわからないことを述べている状態が続いてゆくのかも知れない。それ以上は何も述べても無駄なのだろうが、無駄を承知でさらなる先を目指さなければならないらしい。さらなる先がどこにあるのかわからないし、どこにもないのかも知れないが、とりあえず言葉が適当に連なっている現状に変わりはないようだ。その流れがどこかで止まることがあり得るのだろうか。流れを止めたらそこでお終いか。お終いになったらどうなるのか。意識は非日常から逸脱して、通常の日々へ舞い戻ってくるだけだろうか。日常と非日常の違いがわからない。例えば晴れの日が非日常だとすれば、その晴れがましさに精神がどこまで耐えられるだろうか。気が狂うほどの空の青さに出会ったことでもあるのだろうか。いったい陰りがどこにあるというのか。あるいは太陽がどこにあるのだろう。地球が回っているそれが太陽でないとしたら、それは何と名付けたら気が済むのだろうか。誰の気を済ますために何を何と名付けたらいいのだろう。わざと意味不明なことを述べているのかも知れない。君にはそれが何かの冗談であってほしいか。できることなら読まずに済ませたいような代物となっているだろうか。いったいそれを記している誰かは、その代物がどうなってほしいのだろう。何となくわかりやすそうな表現から文章が遠ざかりすぎているような気がしているらしい。ではそこで心が動揺しているのか。動揺の色を隠せないとしたらおもしろいか。何がおもしろいのか意図がわからない。もはや何もかもがあからさまに無内容に近づきつつあるらしく、その内容のなさを言葉では隠しきれなくなってきたようだ。だからそこで困り果てているのか。しかしいくら困ってもそれだけでは何ももたらされないことはわかりきったことが、それもやはり誰かには困り果てることしかできないようで、そこから先に連なる言葉を見出せないらしい。ではもはや冗談もそこまでなのか。そこから先は本気になればいいわけか。本気なったら現状を打開できるとでも思っているわけか。それこそが悪い冗談なのかも知れず、本気になれないからそんなことしか述べられない現状を無視している。いったい何に対して本気になればいいのだろうか。現状はただ馬鹿げたことが繰り返されているだけではないのか。しかしたまにはそれが馬鹿げたことではないような気もするのではないか。気がするだけで思いを改めるわけにはいかないだろう。それでもそこから何かしら述べているらしく、そしてそれが現状に即応した態度であり、そんなあり方をとりあえずは認めなければならないだろうか。


10月24日

 気持ちはどちらを向いているのだろうか。何となく内容を伴わない言葉を記すのが馬鹿らしくなってくる。なぜ唐突にそんなことを述べてしまうのか。それでは意味不明だろうか。自分が何を考えているのかよくわからないのだが、どうもその辺は割り切って考えなければならない段階に来ているのかも知れない。ではいい加減な文章をいい加減なままに提示してもかまわないのだろうか。しかし導き出された文章は割り切れるような簡単な構造からなっているわけではない。勝手に思い浮かべている誇大妄想の方もだいぶ煮詰まってきたようだ。なぜ人類は人類を超えた存在を構想できないのか。君の他に誰がそんなことを考えているわけでもないか。例えば神はその存在に当たるのではないのか。だが想像上の神は人間に関わりすぎているのかも知れない。では望まれるその存在は、人間を無視しながら立ち現れるようなあり方でなければならないだろうか。なぜそうでなければならないのか。人間がやっていることなどに関わり合っているようでは、それは人間並みの存在でしかないからか。しかし君以外の誰がそんなことを思っているのだろう。それでうまく危険を回避したつもりなのか。そこでの危険とはどのようなことなのか。気まぐれは偶然を嫌い、それが必然的な成り行きであることを望む。そこでその気になって本気になったりしたら、その先には自らの破滅が待ち受けているのだろうか。別に人間を超えた存在にまで自らを高めようとしているわけではない。たぶんそれ自体が誇大妄想なのだろう。この世に存在する誰が至高者であるわけがない。身に降りかかる数々の試練をかいくぐり、それに対応した様々な研鑽を積んだ末に、最終的に自らが至高者であるという自覚に達する者は、たぶん狂人の類になるだろう。そこに至るどこかで賢明な状態を通り過ぎてしまったのか。そんな意味で行き過ぎた思索は誇大妄想に発展するわけか。しかし君の考え方はつまらない。また君以外の誰かがつぶやいているらしい。それ以上は何も述べたくはないのなら、そこでお終いにしてしまえばいい。ならばこのまま何もやらないで、一生を終わってしまっていいのだろうか。そこまで深刻な状態でも成り行きでもないか。そして誰がそんなことをつぶやいているわけでもなく、ただそんなことが前節の反応として、どこかの空白に記されているだけらしい。文章がまともな内容になろうとすると、当然のごとくにそれをはぐらかす言葉が出現してしまうようだが、それがその場限りの作り話であるとすると、それはいつもの嘘なのか。誰かの心の内側に狂気が宿っているとすると、それがいつ爆発するにしろ、そこにいたる道筋はいくらでもあるだろう。何も述べていないわけではなく、何もやっていないわけではない。それどころか少々過剰に述べすぎているのであり、述べる必要のないことまで述べようとする傾向にあるようだ。だから何もできないような状況に追い込まれている、という思いは矛盾している。それらのどこにそんな状況があるのだろうか。誰がそれを求めているのか。そうなる必然性がどこにあるのだろうか。なぜそれを誤りだと認めざるを得ないのか。誰かはそんな状況に直面して、そこで行き詰まってしまうようだが、言葉に詰まって何も述べられなくなっているわけではない。それでは何を述べていることになるのか。それについては何も思いつかないだろうか。ではそれとは違うことを述べてみればいい。何も述べられないのに違うことも何もありはしないか。何もありもしないから、それとは何か違うことを述べようとしているわけか。たぶんそれは無理だろう。そこから先は何も述べられはしないか。そこからそんな風になるわけがないだろう。予言や予想がすべて的中するようではおかしいか。それではつまらないからこの世の行く末は現時点では不確定なのかも知れない。だからそれの意味がわからないことは当たり前のことなのかも知れず、はじめから意味などわかるわけはないだろう。君がわかろうとしているのは意味などではない。君はそれに関して勘違いをしているのかも知れず、結果に至るまでの途中にわかろうとしていることがあり、絶えずそれをわかろうとすることが、文章を最後まで書き続ける原動力となっているのかも知れないが、それが文章の最後であるわけもなく、意識は絶えずそのわけのわからない文章の成り立ちを知りたがっているようで、知りたいことがどうでもいいようなことばかりではおかしいと疑いつつ、知りたくもないことを知りたいわけでもないとも思っているらしい。要するにわけがわからなくなって、そこに立ち現れている言葉の迷路で彷徨っているのだ。そしてそれさえもわかっていないのに、それ以外のすべてを知ろうとしているわけだから、いつまで経ってもそれを知り得ないのではないか。たとえどこまでも知ろうとしても、その知る方法がはじめから間違っているので、結局は何も知り得ないだろう。では別にそんなことは知らなくてもいいのだろうか。だがそんなこととはどんなことなのか。そんなことではないようなことがそんなことなのではないか。それでは何を述べているのかわからなくなってしまうだろう。しかしそれでさらにわけがわからなくなるのは、誰かの思惑通りなのではないか。そこから終わりなき文章の継続が生じているのかも知れない。そういう意味で誰かにとっては、わけなどいくらでもわからなくなってもかまわないのではないか。しかしそれでは話の内容が皆無になってしまうかも知れないが、たとえ無内容でも文章は続いていってしまうだろう。無から文章は生じないかも知れないが、無でなければそこで生じているのは何なのだろうか。そこには何があるのだろうか。少なくともそこには何もないという文章が生じており、本当に何もなければ何も知り得ないかも知れないが、それを知り得ないからといって、文章がそこで途切れるわけでもなさそうに思われる。そしてそれは誰の目的でもありはしない。文章の継続は自然の成り行きに過ぎだろう。そこに誰の意志が介在しているわけでもなく、ただそんな成り行きに沿って言葉が連なっているだけなのか。そんな嘘は聞き飽きたか。誰がどこで嘘を聞いたのか。もはやそんなわざとらしい冗談では済まないような水準まで言葉の積み重なりが高まっているのだろうか。その気になれば冗談などいつでも発せられるか。すべてをぶちこわしにしたければ、いくらでも冗談を並べ立てれば済むことか。それで気が済むのなら、そんなつまらないことをいつまでもやり続けていればいいだろう。いつ何時でも君の感性はそんなやり方と地続きなのだから、それはそれで仕方のないことか。何となくそれでかまわないような気になってくるのはどうしたことだろう。ただ君の影はそれは違うと思い続けることしかできないようだ。


10月23日

 なぜそれが嘘だとわかるのか。自らが偽りの存在であることを好む意識は何に拘束されているのか。何を見ているわけでもない。事物が虚構の存在のままに甘んじているはずがない。この世界のどこかに出現する機会を絶えず狙っているのだろうか。君にどんなねらいがあるわけもないだろう。君とは誰のことなのか。誰がそこにいるわけでもないか。不在の誰かに何を託そうとしているのか。君の代わりに影は何をやればいいのだろう。フィクションの中ではどこに何が存在するはずもなく、何となく言葉だけが認識を可能としているようだ。しかしその何となくとは誰がそう思っているのだろうか。その場の空気に意識が宿っているわけもないか。それでもそこに不在の作者は、それらの言葉の並びから何かを見出そうとしている。ではそこから何が物語れようとしているのだろう。誰かの身の上話でもする気なのだろうか。できるはずのないことを述べてどうしようというのか。どうもしないからそんなことを述べているのだろうか。案外どうにかできると思い込んでいるのかも知れない。それでどうにかしているつもりなのか。現実にどうにかなっているのだろうか。外には光があふれている。晴れているのだからそれは当たり前だろう。晴れていればどうにかなるのだろうか。いったい何がどうになれば気が済むのか。誰かの気が狂えば一応は満足するのかも知れない。しかしそう思っているのは誰の意識なのだろうか。フィクションの中ではそんな意識はあり得ないか。それはどのような作り話を構成するかによって異なるだろう。ではこれから何を語ればいいのだろう。案外何も語らなければおもしろいか。だがそういうわけにはいかないのではないか。そこから何かを導き出したいのだろう。そしてそれが空疎な内容になるとしても、何となく文章の体をなしていれば、それでかまわないのではないか。しかしそこはいつもの迷路となっている。ではただ迷っていればそれでかまわないのか。そのような状況からは何も導き出せない。だから空疎な内容になってしまうのだろう。それでもいいのだろうか。それでよければ苦労はないか。苦労があろうとなかろうと、何となく文章になっていればそれでいいのだろうか。まだ外は晴れているらしく、そのまぶしすぎる明るさに目がくらんでいるのかも知れない。そのついでにおかしな表現になっているかも知れない。真昼の世界に何を求めているのでもないが、真夜中の世界がどうだというわけでもないだろう。そこに何か事件が起こらなければ何の話も生じないだろうか。君は何もない世界で何を顕揚したいのか。そこで何かおもしろそうな文章表現でも見出したのか。いったいそこに何があるというのか。語りたいことはそれだけなのか。あるいは語りたいことなど特にないのだろうか。それで何を問いかけているのか。問いかける対象がどこにあるのだろう。この世界のどこかにあるのかも知れない。何もないようでいて何かがあるのかも知れない。誰かはそれを探し出してみたいのだろうか。何を探しているわけでもないか。向こうからやってこない限り、何も見つからないような気がするのはどういうわけなのか。君はこの世界で起こっているすべての現象や出来事から隔離されているのだろうか。その意識がそれを見出すことはないだろう。それは意識とはいえないような、それ以外の何ものでもない精神作用なのだろうか。しかし精神がどこにあるというのか。どこに何があるわけでもないのかも知れない。そしてたぶんそれは嘘だろう。何がないわけでもないだろう。必ずそこには何かがあるに決まっているか。しかしそこにあるものを認識できないのはどういうわけなのか。なぜそれが言葉を伴わないのか。まだフィクションの中では何も出現していないのではないか。何の兆しも見出せない。それで何かよくなることがあるのだろうか。雲一つない空の下で、何やら適当に人々がうごめいている。テレビをつけてみれば、ありふれた言葉と映像が視覚と聴覚を汚染する。そんな表現はないだろう。もう少しそれらの現象を肯定的に捉えてみないか。何か夢のある話に結びつけられないものか。球打ちの競技で誰かが活躍しているようだ。それがどうしたのだろう。世の中には国会という議論の場があるらしい。君は何を無視しているのだろう。それらは無視されるような話ではないはずか。それを無視できない精神は周囲から馬鹿にされてしまうのか。この国の行く末について誰かが憂いを発している。この世界について誰かが危機感を抱いている。馬鹿らしいとはそういう話の内容だろうか。君は気が狂っているのではないか。冗談にも程があるだろうか。もし程がなければそれは際限がないということか。それらの状況は何を呈しているのでもなさそうだ。きっと何もないから何かがあるのだろう。その何かを探し求めるのは愚かなことか。何もなければそれでかまわないのだろうか。何がかまわないのかがわからないか。たぶん何かしらかまわないような状況になっているのかも知れない。そこに何の歯止めもなければ、誰もが暴走したいのだろうか。暴走すれば何がもたらされるのか。ではどこに満たされるべき欲望が立ち現れているのだろう。現実に何を求めているのか。それを言葉で表現してもかまわないのか。何もないのに何を表現できるのか。きっと何かしら表現しているのだろう。何もなくてもそこには虚無が存在しているはずだ。それが文章を構成する上で欠かせない要素なのだろうか。しかしそれだけでは生きられないだろう。だが虚構の中では何もなくても生きていけるはずか。別に生きていなくても死んでいなくてもかまわないのではないか。そのどちらでもない状態があり得るだろうか。あるとすればそれは無生物の一種か。その辺に転がっている石ころに精神が宿っているわけか。フィクションとしてはそんなのもありだろう。何でもありというわけでもないが、つまらぬ制限ばかりではつまらないだろう。そんなところしか救いを見出せないのだろうか。別に救われなくてもかまわないか。そこで何が救われないのかがわからない。すべての事物は神によって救われるのかも知れないが、ではその神は誰によって救われるのか。君の冗談によって神が救われたりするわけか。何が君の冗談なのだろうか。君はこの世界のどこに存在しているつもりなのか。別にその精神が神に支配されているわけでもないだろう。それを信じていなければそんなことは起こらない。では神を信じなければ救われないのだろうか。神の代わりに救ってくれる存在を定めれば済むことか。何が済むのか不明だが、冗談も休み休みに述べてほしいか。たぶん世界のどこかに君が存在しているのだろう。それがどのようなフィクションなのかわからないが、虚構の中では誰が存在していてもかまわないのではないか。


10月22日

 何となく話がかみ合っていないような気がする。本当にそれは冗談や酔狂で述べていることなのか。しかしなぜ伊達や酔狂と述べないのか。ただ単に言葉の使い方を間違っているだけなのだろうか。いったいその言葉に何を感じているのだろう。そこで感知したり見聞したりするすべての出来事が意味のわからないことだらけに思われるのはなぜだろう。そしてそれらの出来事に意味があるとは思えないことに理由や原因を見出せないようだ。それらに意味があったりなかったりすることが信じられないのかも知れない。あるいは意味そのものの意味がわからなくなってしまったのかも知れない。しかしそうやってわけのわからないことを述べ続けることに何の意味があるのだろうか。君に理解できるような意味があるとは到底思えないか。意味はもとからあるものではなく、誰かの意識が後から付け加えるようなものなのではないか。だが誰がそれらの文章に意味を付け加えるのか。そんなことは無理に決まっているだろう。誰がそんなことを思っているのだろうか。誰がそれらの文章の読者であるわけがないだろう。誰もそんなものを読もうとはしないし、読めるわけがないだろうか。それらは読む必要から見放された文章なのかも知れない。ただ書き記すためだけの文章なのではないか。それを書く者が自己満足を得るためだけに存在する文章なのだろうか。今のところはそんな用途しか思い浮かばない。たぶん今の君にはそんなことしか述べられないのかも知れない。しかしそれで満足するはずがないだろう。何となくそれだけでは馬鹿げているだろうか。どこかの画面の中にやる気を吸い取られているのだろうか。そんな被害妄想はどこにも通じないだろう。何をどこに通じさせようとしているのかわからない。しかし別に誰に何をわからせようとしているわけでもないだろう。誰かの意識はそんな話に取り込まれようとしているのかも知れないが、そんな話がどんな話なのかもわからないか。だからそこには何一つ理解可能なことは示されていないようだ。もとから何もないのだからそこから何が生じるわけもないか。では何を語っても何の理解も得られないのだろうか。そんなことは語ってみなければわからないだろう。しかしすでに語られているそれらの文章は何なのか。そこからどんな理解が生じるというのだろう。何を理解してほしいのかわからない。それに関して誰かは臆病風にでも吹かれたのか。いつの間にか何の主張も見当たらなくなってしまったようだ。誰が何を主張しなければならないのかわからない。しかしいくらそんな嘘をついてみても何がどうなるわけもないだろう。何もどうにもならないからそんなことを述べ続けているのではないか。そんなわけでますますわけがわからなくなってしまう。いったいいつまでそんな馬鹿げたことを述べていなければならないのか。もういい加減にお終いにしたくなるか。それで終われるはずがないだろう。今までの経緯を無視することはできないはずか。無視できないから否応なくそんなことを続けてしまっているのではないか。何を無視しようとしているわけでもないだろう。では何も無視できなくなってしまうのか。そんなことを述べようとしているわけではなく、そんなことしか述べられなくなっているのかも知れないが、だからどうだというわけでもないか。どうでもいいようなことを述べているからおかしくなるらしい。しかし何がおかしいわけがなく、まったくつまらないことを述べているような気もしてくる。おかしくておもしろいのではなく、つまらない内容が頭のおかしさを連想させるのだろうか。だがそれで何を述べているつもりなのか。何がどうなっているわけでもないような気もしてくる。その頭のおかしさは何を装っているのだろうか。言説のくだらなさでも主張したいのか。それの何がくだらないと思われるのだろう。それについて何をどう述べればいいのだろうか。どうも納得のいく説明からは遠ざかっているらしい。かなり遠く離れてしまったように思われる。離れすぎて何を見ているのか判別できなくなるが、それで何を述べているつもりなのか。何も述べていないのではないか。何も述べていないから言葉がそんな風に連なっているのだろうか。ではそこから何がわかるのか。ただ何かが継続されているように思われるだけなのか。空虚と空疎と虚無が続いている。だがそれでは自虐的すぎるだろう。もう少し肯定的な言葉を導き出せないものか。君はそれらの何を肯定したいのか。何も肯定できないからそれを続けようとしているらしいが、なぜそれが矛盾していることをわかろうとしないのだろう。それの何が矛盾しているというのか。矛盾していると思われる箇所を特定できないか。何が矛盾していようとそんなことはどうでもいいことで、いちいちそんなことを説明する気にはならないか。本当はわかっていないのだろう。わかりようのないことを無理にわかる必要はないのかも知れないが、それ以外にやることがなければ、暇にまかせて何かをわかろうと努力する気になるのかも知れない。しかしそれ以外に何をやればいいのだろうか。そこから何をわからなければならないのか。君はその場の空気をつかんでいない。しかしその場がどこにあるのか、君には何を述べる場も残されてはいないのだろうか。空気さえ残されていないのかも知れないが、それでは呼吸すらできないだろうか。だが架空の話の中で誰が呼吸を必要としているのか。それは誰が呼吸を繰り返す話でもないはずか。そんなことを述べているわけではない。また意味から遠ざかってしまうらしい。何を述べているのでもなくなってしまうようだ。いったい何を述べているつもりなのだろう。そこには何が存在しているのか。言葉以外に何があるのだろうか。しかし意味が通じていないはずだ。相変わらずわけのわからないことを述べている。それで何がわかるのだろうか。何も述べていないことがわかるか。やはりただ内容の希薄な言葉が連なっているだけなのか。意味が空っぽのままの文章が形成されつつある。それ以外は何もわからないらしい。そこで述べられるのはそんな内容でしかなく、それ以外は何もわからないようだ。それでも何かがわかりかけていると思えるのか。そこであえて嘘をつく必要があるのだろうか。この期に及んでどんな嘘をつきたいのだろうか。これからどこへ向かおうとしているのか。まさか死出の旅路ではあるまい。もう少し気の利いたことを述べられないものか。安易に死という言葉を使ってはならない。しかしそれが何の戒めなのかわからない。必要以上に必要から見放されているように思えるが、本当にそこでは何が必要とされているのか。それは何らかの意味を伴った文章だろうか。だがそんな期待に応えてくれるような精神状態ではないのかも知れない。思い出されるすべては忘れ去られる運命なのか。何を思い出そうとしているのだろう。


10月21日

 理由も動機も定かでないのに、なぜそんなことをやっているのか。たぶんこれからもつまらないことをやりざるを得ないのかも知れないが、そのつまらないことの内容が今ひとつはっきりしないようだ。いつものように何を述べているのかわからないだろう。それではだめなのだろうか。だめなことはわかりきっているのではないか。それをわかっていながら、そんなことしか述べられないのだから、もはやどうにもならない状況に追い込まれているのではないだろうか。しかしそれでも何とも思わないのはどうしてなのか。もうそんな状況には慣れきってしまったのだろうか。とっくに深刻ぶる態度でいることを通り越してしまったのかも知れない。語る糸口をまったくつかめないままに語り続けているようだ。自らがそこでもがき苦しんでいるとは思えなくなってしまったらしい。到底そんな状況とは思えない。しかしそれで何かが吹っ切れたとは思わないか。何を思っているのでも何を求めているのでも何を目指しているのでもないらしい。本当にそうなのだろうか。またつまらない嘘でもついているのだろうか。気休めにもう少し建設的なことを述べた方がいいのではないか。なぜそんなことを述べてしまうのかわからないのはいつものパターンだろう。何がどうなってそうなってしまうのかもわからない。要するに外はまたいつもの夜なのかも知れない。それではますます意味不明になってしまうだろう。それ以上の継続は困難なのかも知れないが、そんな状況を無視しながらも、相変わらず何も出てこないようだ。それに代わる言葉が見当たらないのだろう。まったくできもしないことをやろうとしていることの典型だろうか。何がどうなってそうなってしまうのだろう。それは違うような気がしてくる。まったくわからなくなってきたように思われる。何がわからないのかわからない。それについて何をどう語ればいいのだろう。すでに語っているそれではだめなのだろうか。確かなことは何も述べられない。そうではないのかも知れない。微かに昔の感覚を思い出す。思い出したついでに、そんな風に語ってみたらどうなのか。戯れにそれ以下の内容にしてみないか。無理を承知で何を述べているのだろうか。まだ何も述べていないのではないか。では何をためらっているのだろう。それはどのような話なのだろうか。なぜそれについて語ろうとしないのか。君はそれを避けて通ろうとしている。誰がどこで何をしていようと君には関係のないことだ。なぜそう断言できるのか。誰が何を断言しているのか。やはり何も述べられていないのだろうか。少し耳が遠くなっているらしい。風景が遠すぎてそれを眺めていることにはならないようだ。だがカフェインの作用で次第に頭がはっきりしてくるように感じられる。そんな場所に心があるわけではない。おそらく何もないのかも知れないが、それではいつもと何ら変わったところはないのではないか。それらの空洞には虚無以外に何が生じているのだろうか。また虚無について語らなければならないのか。それの何が気に入らないのだろうか。そこから何がどうなればまともなことを語れるのか。それらの停滞の何が愛おしいのだろう。何が停滞していると感じられるのか。それ以外に何も述べる必要はなさそうだが、それ以外のそれがわからない。まだ正気に戻るにはだいぶ時間がかかりそうに思われる。たぶん常軌を逸して言葉が連なっているのだろう。まだその辺でうごめいていなければならないようだが、そこでうろついているのは君だけではなさそうに思われる。君以外に存在しているつもりなのは、君の影とそれに誰なのか。誰でもなくてもかまわないだろうか。何かにかまっていられるような余裕がどこにあるのだろうか。それがどこかにあったら何を思うのだろう。どこにもないような事物に出会えるだろうか。たぶんそれは事物ではなく、幻影か何かなのではないか。気まぐれに繰り出された言葉の束からどんな幻影が生じているのだろう。そこから何を生じさせようとしているのか。何もできないくせに、何かをやっているつもりになりたいのか。しかしそう述べているのは誰なのだろう。それは君ではあり得ないような意識の持ち主になるだろうか。フィクションでもない限り、そんな事態はあり得ないか。そう述べているうちに何があり得ないのかわからなくなる。わからないのはそんなことではあり得ないか。しかし執拗にあり得ないことを列挙しても意味不明な状況は変わりようがない。さっきから執拗に無内容を装っているのかも知れない。しかしいくら言葉を弄しても何も思わない状況が変化することはあり得ないか。それらのフィクションの中では確かにそうなのかも知れない。しかしそれがフィクションである根拠がどこにあるのだろう。何をもってフィクションだと見なせば気が済むのか。例えばどこにも存在しないような事物を言葉で示せるだろうか。そしてそれは何かの冗談にでもなるだろうか。なぜそれが冗談にならなければ気が済まないのだろうか。まったく何を述べたいのかわけがわからなくなってしまうようだ。話がどこにも通じていないのかも知れない。いったいどこまでつまらないことを述べ続けるつもりなのか。誰かに見捨てられるまでそんなことをやり続けているのかも知れない。いったいそれらの言葉は何のためにあるのだろうか。それらの文章はなぜ理解を拒絶するかのように装うのだろう。わざとそんな風に述べているわけではないようだが、それがどこまでも他人事に思われるのはなぜなのか。もはや内容がそれを述べているつもりの誰かにはあずかり知らない領域に逸れていってしまっているのか。では君は実質的には何の関与もしていないと言い張れるだろうか。言い張るような立場にはなさそうだ。誰もいないのに君だけその場に存在しているのは不自然だろうか。それではおかしいのなら、何とか工夫を凝らして、それをわかりやすい文章にしなければならないのかも知れないが、それらの言葉をどのように修正すればまともな文章を導き出すことができるのだろう。今のままではどうしようもないのか。少なくともそこからは意味不明以外の何が導き出されるわけもないか。しかしそれで何の不都合があるのだろう。それでいいのならそのまま語り続ければいいだろう。ほつれてこんがらがった言葉の束をより分けることは不可能かも知れない。だからいつまでも無理なことをやろうとしているように思われるのか。どうにもならないことをどうにかしようとして、結果的には予定調和気味に挫折を繰り返しているらしい。そんなどうでもいいような繰り返しからしか文章は生まれないのだろうか。そうではないと誰が反論できるのだろう。そしてそんな反論がどこで通用するのか。案外君の意識以外ではいくらでも通用するのかも知れない。では君の頭がおかしいだけなのか。


10月20日

 何も見出せないのはいつものことだろう。何も思いつかないのもいつものことか。意識がどこにも存在しないのもいつものことだ。そこから逸脱したいのかも知れない。だがもう逃げ隠れもできはしないか。いったい何のことを述べているのか。頭がおかしいのではなく心が病んでいるのかも知れない。たぶんそれは嘘に違いないが、なぜすぐばれるような嘘をつくのか。ただ無駄に時間を浪費したいだけなのか。時間を浪費してどうするのだろう。時間とともに言葉も浪費している。時間と言葉はどこでつながっているのだろうか。それは単なる曲の題名に過ぎないのかも知れない。君は相変わらず何を述べているわけでもない。それを自ら認めているのもいつものことでしかない。以前から何の進歩もありはしない。そんな風に思ってはいけないのだろうか。取り立てて何を思っているわけでもないもいつものことだろうか。たぶんそこには何もありはしないのだろう。何もありはしないが、そこには空疎な言葉が連なっている。すべてが偽りなのかも知れない。すべてとはどれほどまでにすべてなのだろうか。すべてがすべてであるはずがないか。それ以外に何もないのに、それがすべてだとは思いたくないか。そんなすべてはあり得ないか。何がすべてなのか忘れてしまったのかも知れない。そんな見え透いた嘘は安易だろうか。それの何が見え透いていると思うのだろう。たぶん言葉の用法を誤っているのかも知れない。それ以上につまらないことを述べているようだ。述べている趣旨を導き出せずにいる。それが違っていると思われるわけか。何が違っていると思うのだろう。何も思わないから違っているのかも知れない。そして何も違っていないから、それが違っていると感じられるのだろう。だが突然の雷鳴に驚くこともないか。君が驚いているのはそんなことではない。ではなぜそんなことを述べているのか。それは何かの冗談だろうか。それはいつの記憶でもありはしない。いつから君は頭がおかしくなってしまったのだろう。冗談でならまだしも、本気でそんなことを述べているとしたら、それは取り返しのつかないことにでもなるのかも知れない。別に過去を取り返そうとは思わない。だがそれは過去ではないのかも知れない。しかし未来はこれからやってくる時間だろう。過去でも未来でもないとすると、それは時間的にどのような範囲になるのだろうか。そんなことにまで考えを巡らせて何かを述べているわけでもないのではないか。ではそれは単なるその場の思いつきがそれらの文章に反映しているに過ぎないのだろうか。はたしてそれのどこまでが本気で、どこまでが冗談なのだろうか。何が冗談で何が本気なのか、そんな区別などあるわけもないか。そのすべてが馬鹿げているのかも知れないが、やはりすべてがすべてであるはずもなく、そんなことをいくら述べてみても、決してそれらのすべてに到達することはないだろう。しかし別にすべてに到達しようなんて思ってもいないのに、なぜその場の成り行きでそんなことを述べてしまうのか。ただ調子に乗っているだけかも知れない。調子に乗って冗談にもならないようなことまで述べているらしい。そんな調子でいいのだろうか。どうも調子が芳しくないように感じられる。だがそれが何の調子なのかはっきりしない。精神が参っているのかも知れず、同時にそれはいつものことだとも思われる。まったく精神も何もありはしないだろう。そんなことを述べるはずではなかったのか。文章の意味がどこにも見当たらず、そんなことを述べている意味も見出せないようだ。何を述べているのでもなく、どこかで何かがこだましているだけなのかも知れない。しかしそれは何に対する反響なのだろうか。どこで何が響き渡っているのか。どこからか波が打ち寄せているような気がしてくる。それが何の波なのかわからないが、夢の中ではなぜ君は塩田から塩を取りだしているのだろうか。いきなりそんな作り話では唐突すぎるだろうか。何がそれを唐突な内容に引き込んでいるのだろうか。それとは何なのだろうか。何もないのにそれはないだろう。それ以上は何も述べようとしてない。だからわからなくなってしまうのだろうか。何がわからないのかをわかろうとしているらしいが、そこから何かがわかった例しはない。要するにそのふりをしているだけなのかも知れない。ふりをしながらふりをしていると述べることで、それがどうでもいいことであるのをわかってほしいわけか。誰にわからせようとしているのだろうか。そこには誰もいはしない。わからせる対象などまったく想定せずに、ただひたすらわかってほしいと思っている。何もわからないのにわかったふりでもしてほしいわけか。どうせわからないのだから、それでもかまわないのではないか。別に適当にかまってもらってもかまわないが、放っておいてほしいのが本音かも知れず、無視されていたいのに、無視されながらも認めてほしいのかも知れない。そんなことを思っているとすれば、そう思っている人格は分裂していることにでもなるのだろうか。だが分裂しているからといって、その先で何がどうなるわけでもないだろう。何が人格を形成しているわけでもなく、それはただの言葉の連なりに過ぎないだろう。要するにいつまでもつまらないことを述べている現状があるだけだ。そんな現状から誰かの意識や人格が形成されているのかも知れないが、仮にそうだとしてもそれで何がどうなるわけでもない。誰もそこにはいないのだから、それは誰の意識でも人格でもなく、ただの言葉の連なりに過ぎない。それの何が不満なのだろうか。そこでは何がどうなっているのか。目眩がしてきて頭がくらくらしてくるだけか。その辺でもはややっていられなくなってしまうのか。なぜそこで疲れて寝てしまうのか。それが誰かの実態なのだろうか。できないことをやり遂げようとしているだけかも知れない。そんなことができるはずもなく、できもしないからさらにやり遂げようとする思いが強くなる。なぜそうなってしまうのだろうか。君は自らの思いと実際の行為が矛盾していることがおもしろくてたまらないのか。何となくそれは馬鹿げているように思われてくる。それをいつまで続けようとしているのだろう。いつまでも続けられるわけがないか。では適当なところでお終いにしなければならないのだろうか。それではつまらないか。たとえつまらなくてもその辺が潮時なのかも知れず、そのまま続けていたら波にさらわれてすべてを失うことになってしまうか。しかしそれは何の波なのだろうか。別に水面上に漂っているわけでもないだろう。何が漂っているかも認識できないのではないか。要するにこの期にいたってまだ何もわかっていないわけか。何もわかろうとしていないのかも知れず、わからないのにわかるわけもないだろう。


10月19日

 それはどのような成り行きなのだろう。意味不明なストレスに煽られて、何もできずに誰かはふさぎ込んでいるようだが、そこに何か希望の光を見出すことができないのだろうか。そんな話の内容では、確かにわけがわからない。誰かの眠りの中に立ち現れる偽りの夢の中では、見渡す限り何かが広がっているようだが、風に吹かれて何がうごめいているのか。よく見ればそれはただの枯れ草かも知れない。うごめいているのではなくそよいでいるだけか。ところでいったいそこはどこなのだろう。所々に人家も点在しているし、別にそこは無人の荒野などではないはずだろうが、そこで空っぽの意識は何を思っているのだろうか。誰が何を思っているわけでもなく、君もそれらの風景を眺めても何も思わないようだ。ただ黙ってそんな言葉を記しているだけなのか。それで何か不都合でもあるのだろうか。これからどんな出来事が起ころうと、それにどんなわけがあるとも思わないが、そこで誰が何をどう思っても、状況的に何がどうなるわけでもないようだ。いったいこの世の中にどれほどの人間がいるというのか。そこにいるのは人間以下の生物だけか。どのように創意工夫を凝らそうと、人間は人間を超えることはできないのかも知れない。それは人間を超えてしまっては、人間ではなくなってしまうからか。しかしそんな抽象的な物言いでは、何を述べていることにもならないか。君はすでに人間のレベルを超えていて、まともな人間には君が何を述べていることを理解することはできないのだろうか。誇大妄想もときには冗談で済むこともあるだろうか。なぜ唐突にそんなことを述べてしまうのだろうか。それは今までに多くの人間を見てきた経験から生じた感想か何かか。それほどの経験でもないだろう。人一人の経験などたかが知れているかも知れないが、たかが知れていない経験などどこにもありはしないか。君にはその意味が理解できないだろう。君はそんな経験を求めて、どこをほっつき歩いているつもりなのか。やはり意味のないことを述べているらしいが、そこで何を理解すればいいのだろう。どこかに何かを考える場所でも用意されているのだろうか。そんな場所がどこにあるのか。だがいつまで経っても何もありはしないでは済まないのではないか。何が済まないのかがわからない。ではそれで済んでしまうとはどういうことなのか。そこにどんな真実が宿っているのだろうか。苦し紛れに導き出されたそれは真実などではないか。やはり確かなことは何もありはしないのであり、おおよそこの世の中は受け入れがたい事実と幻想によって成り立っているものなのだろうか。そんな穿った見方や考え方が受け入れられるはずがないだろう。ではそうではないような事象はあり得ないのだろうか。いったい君はそこで何を見ているのか。あるいは今までに何を見てきたのだろうか。それらを見聞してどのような認識に至ったのか。例えば言葉でそれを示せたとして、そんな認識ではつまらないのではないか。それをこれから述べることが可能なのか。そんなことは誰の知ったことでもないか。いったい誰がそれを知っているのだろうか。少なくとも君は何も知らないふりをしている。それでは知っていることにはならないらしい。だから何もわかっていないことにしておきたいのか。そんなこんなで今日もまた何かがずれている。言葉がずれ視点もずれている。たぶんそれをネタにしておかしなことを述べているのだろう。そして誰がそれを操作しているのでもなく、誰もが状況に操られているのだろう。言葉を操っているつもりが言葉に操られている。そしてそれによって何を述べているのでもなく、何かを述べているつもりになっているだけのようだ。そこには何かがあるのかも知れないが、何もありはしないのかも知れない。そこから感じられる内容はつまらないことばかりかも知れないが、それは単なる思い過ごしでしかないのかも知れない。何を勘違いしているのでもなく、すべてを勘違いしているのかも知れない。そしてそれで何の問題もないと思い込んでいるのかも知れない。たぶんそこには何もありはしないのだろう。それも勘違いの一種かも知れないが、すぐに誰もがそんな認識を正当化したくなってしまうのかも知れない。たぶんそんな状況が気にくわないのだろう。そして何となくそれは馬鹿げているようにも思われる。そんなことの繰り返しのどこにそこから変化する可能性があるのだろうか。都合の良い変化などいつまで経ってもやってくるわけがないか。そんな現象はあり得ないのではないか。その状態から何を思ってみても、意識の中身は変な風に変遷して行ってしまい、その流転は決して一つの状態にとどまることを知らないだろう。そんな物言いもかなりおかしいか。常に思い通りにはいかないわけか。だがそれで思わしくないわけでもなく、そんな思いは常に無視される傾向にあるのかも知れない。誰から無視されているわけでもなく、それを述べているつもりの意識から無視されているのかも知れず、述べている内容が意味不明なので、どうしても自らが述べていることを無視せざるを得ないような状況に追い込まれてしまい、そうしないとそこから先に進んで行けないのかも知れない。そしてそこから先へいくら歩を進めているつもりでも、どこまで行っても意味不明な状況は変わらないような気もするのだが、なぜそうなってしまうのかわからないのは当然としても、本当のところはよくわかっていないふりをしているだけで、すべてを承知の上でそんな演技をしているだけなのかも知れない。わざとわかるはずのないことを述べているのだろうか。そこでどんな考えを巡らせているわけでもないが、やはりわけのわけのわからないことを述べていることに変わりはないか。常にそうなのだろうか。そうだとすればこれから先はどうなるのだろうか。またいつものようにどうにもならずにどうにかなってしまうわけか。そのどうにかなってしまう成り行きが気に入らないのか。誰がそれを気に入らないのだろう。そしてそんな成り行きから導き出された文章も気に入らないのだろうか。たぶん気に入らないのかも知れないが、そんな風にしか述べられないことも確かなようだが、何をどのように述べようとしても、結局はそんな風にしかならないわけだから、そんな成り行きをどうすることもできずに、それを否応なく認めるしかないのかも知れない。そんなことではだめなのだろうか。だめだがそれ以外にやりようがない。確かにそうなるより他はあり得ないのかも知れないが、たとえいくらそんな水準で逡巡を繰り返してみても、どうにもならないことに変わりはないのかも知れず、どうにもならないからまたそれを繰り返してしまい、要するにそれはいつもの悪循環でしかないということになるだろうか。そんなわけでまたひたすら無駄に言葉を連ねてしまっているらしい。そしていつものようにそれが何を意味するのかはわからないが、やはりたぶんそれではだめなのだろうが、それで何を述べていることになるのか。わかるはずもないことを述べているだけなのかも知れない。


10月18日

 いったいこれから何をやろうとしているのだろうか。何をやろうとしても結局は何もできないのではないか。何かをやるきっかけを奪われているのは相変わらずのことなのか。だが何が相変わらずなのかわからない。たぶん何もできないのというのは、誰かの勝手な思い込み過ぎなのかも知れず、そんな思い込みはすぐに忘れてしまいたくなるが、ではそこからどう述べたら、以前とは違うことを述べていることになるのか。その辺で何やらややこしいことを述べているように思われる。それがややこしいと感じるのは、心に余裕がない証拠だろうか。何を焦っているのだろう。何をそんなに急いでいるのだろうか。何となく誰かはそんなせわしない心理状態でいたいらしいが、それで何を述べられるというのか。何も述べたくはないのかも知れないが、現に何かしら述べているではないか。それでは不満だからそういうことを述べているのではないか。要するにそのような現状では気に入らないのだろう。その状況は何となくいつものように馬鹿げていると思われるが、それ以上に差し迫った事情でもあるのだろうか。何もありはしないだろう。しかし君にはそれをやり遂げる決意などありはしない。だが何かやり遂げなければならないことでもあるのか。何事にもどん欲になれる人は幸福なのだろうか。そういう人が社会的に成功するケースは多いのかも知れない。では成功したければ何事もどん欲に吸収した方がいいのだろうか。たぶんその通りなのかも知れないが、しかし何事とは何なのか。その何事について何か具体的な内容を述べられるわけもないか。君が記している文章においては、そんな内容までは用意されていないのかも知れない。ただそのときの気まぐれで、どん欲という言葉を使ってみたかっただけか。たぶんそんなやり方ではだめなのだろう。それは十分に承知しているが、そんな風になってしまうのだから、それは仕方のないことかも知れない。しかし本当になぜそうなってしまうのか。述べていることが嘘だからそうなってしまうのだろうか。それが本当か嘘か以前に、そこで起こっている事態そのものを把握していないのかも知れない。結局そんなことを述べているうちに、次第に何を述べているのかわからなくなってくる。そこに居座ってわけのわからないことをほざいているのは誰なのか。何をやろうとしようと君にはどだい無理なのだ。君はそれがおかしくてたまらないようだが、それは世の中が狂っているのではなく、被害妄想気味の君自身が狂っているのだとしたら、そんなにわかりやすいことはないか。ただそんな風にしてつまらないことを述べているだけなのだろう。そしてそこからさらにおかしくなってしまうのかも知れない。単にわけがわからないだけでなく、それを誰が述べているのかわからない。まるで変な夢を見ているような気がしてくる。今見えている暗闇の向こう側には何があるのだろうか。そこから意味を見出せないように思われる。感覚が麻痺しているわけか。意識がどこかへ飛んでいるのかも知れない。まったく述べていることがわからず、何がどうなってしまったのかもわからない。何もかもが上の空になってしまったのか。そんな精神状態で何を述べられるのか。いくら画面を見つめても何も出てこないだろう。あるのは画面上に映っている模様が刻々と変化している現実だけか。それ以外の現実を感知できないのか。この世界にはそれ以外の何もかもがあるのに、それをわかっていないだけなのか。わざとわからない風を装っているだけなのかも知れない。あるいはそこに醸し出されている状況が、君の意識を受けつけてくれないのかも知れない。何かしら意味のあることを語らせてもらえないのか。君は何を感じ取ろうとしているのか。意識や感覚はそこからどうなってしまうのだろう。すでにどうにかなっているのだろうか。しかしどうになろうとも何とも思わないのではないか。また何をどう思ってみても、まともな内容を見出せないのだろうか。もはやそれは技術や感性の問題なのではなく、構造的な不具合なのか。何かを転換しなければどうにもならないのだろうか。では文章の構築に取り組む意識の転換以外に、何を転換しなければいけないのか。なぜそんなことにこだわっているのか。そこにいたって、未だに何かを述べようとしているのは、どういうことなのか。それはどういうことでもなく、何をどう述べても無駄なのに、その無駄なことにひたすらこだわっているらしい。執拗に何かを述べようとしているのだが、何を述べているのかはわからない。皆目見当もつかないような状況に突入してしまっているのだろうか。見当などいくらでもついているだろう。なぜそうなってしまうのか。いったい何を語りたいのか。何かが狂っていることは確かだが、その狂いを修正することは不可能なのか。このままではこの世界で起こっていることのすべての出来事が、君から離れていってしまうのかも知れない。それは何かの思い過ごしだろうか。ただそれを感知できなくなっているだけか。あるいはそれを感知しているのに、文章に反映することができなくなっているだけか。だからおまえはいつまで経ってもわけがわからないままになるだろう。しかしそれの何がおもしろいのか。別にそれほどおもしろくはないが、成り行き的にはそうなってしまうのだから、それはそれで仕方がないと思いたいのか。やはりいつものように何を述べているわけではないらしく、それでも自然と言葉は連なっているようだ。何も述べられないのに何かしら述べている現状はおかしいか。おかしいがそれ以外には何もできないのだから、そんな現状を認めざるを得ない。そんな風に意識している感覚が狂っているのかも知れないが、今は感覚が狂ったままでもいいような気もしている。どういうわけかそんな風に思われてしまうらしく、それで当面の危機を乗り切ろうとしているのかも知れない。しかしその状況の何が危機なのかわからない。現に何も困ってはいないではないか。困るどころか何もできずにかえって気楽になってさえいる。だがなぜ何も述べられないような成り行きになってしまったのだろうか。それについて何をどう考えればいいのだろうか。何をどう考えたらいいのかわからないからそんな状況になってしまっているのか。たぶん何かが狂っていることは確かかも知れない。周りの環境が意識に合わないのかも知れないが、そこがどんな環境になっているのか、それさえもよくわかっていないのかも知れない。いったい何を述べているのだろうか。そんなことはいくらでも述べられるのだろうか。そしていくら述べても無駄なのだろうか。たぶん無駄でないように述べるのは無理なのかも知れず、それが無理だと思えているうちは、そんな成り行きを感受している以外には状況はあり得ないのかも知れない。


10月17日

 そんなことをやっても無駄な抵抗に過ぎない。あからさまに負けていることは確かなのだ。たぶん永久に負け続ける宿命なのかも知れない。だからこそ飽きているのに続けていられるのか。そこで勝ってしまったらお終いか。だから勝たないように工夫しながら努力しているつもりなのか。しかしそんないいわけは通じないだろう。負けは負けであり、敗北以外の何ものでもない。ではそれで満足すべきなのか。相手を打ち負かした者なら、勝ち誇って有頂天になれば、それで済んでしまうのかも知れないが、敗者が生き残っていれば、執念深く勝者に再挑戦し続けるだろう。君は死ぬまであきらめきれないらしい。だからそれを執拗に繰り返しているのか。気が済むまでやっていればいいだろう。何となく呆れてしまっているようだ。文章的にはそういう展開になってしまうのだろうが、実際には誰がそんなことを思っているのでもない。それを述べているつもりの意識には関係のないことか。君が思っていることとは無関係な言葉が連なっているのだろうか。では実際には何を思っているのだろう。何も思っていないとすればどうなのか。それでは過去の繰り返しになってしまう。何も思わずに何かを述べているのはいつものことだろう。本当にそんな成り行きになっているのかどうかは知らないが、とりあえずそういうことになっていたはずだ。それ以外には何がどうなっているわけでもない。だから何もないのかも知れない。そんなことはわかりきっているだろうか。しかしそれではつまらないだろう。だから作り話をねつ造しようとしているわけか。しかし何をあきらめてしまったのか。真実を語ろうとする試みを放棄してしまったのか。それを語ってしまえばそこで終わってしまうだろう。話を終わらせたくないから嘘をねつ造しようとしているわけか。嘘も休み休みについてほしいか。しかしそんな言い草は誤りだろう。ただ無駄でどうでもいいことを述べているだけではないのか。だがそんなことを述べているうちに、誰が勝者で誰が敗者なのか忘れてしまったようだ。それは昨晩の話題ではないのか。では昨日のことは水に流して、今日は今日でまた何らかの勝負事が開始されてしまうわけか。それはいかさまばくちか何かの類だろうか。しかしなぜそんないい加減な推測が安易に出てくるのか。所詮勝負など幻想に過ぎず、作り話の中では誰が誰と戦っているわけでもないだろう。ありもしない架空の勝負には何の関心も抱けないか。現実の勝負ですら関心の的とはなりがたい。この世界では何が行われているのだろう。つまらぬ勝負事にうつつを抜かす愚か者がいつまで経っても蔓延り続けるだけか。そんなのは単なる気休めの暇つぶしに過ぎないのかも知れないが、それに気づいている者は皆無なのかも知れない。そう思ってしまうこと自体が誤りとされてしまうのだろう。だから君たちはいつまで経っても飽きもせず過ちを繰り返すしかない。馬鹿なことに真剣になっているうちにそれが当たり前のことのように思われてしまう。要するにフィクションとともに当たり前の現実の方もかなりおかしくなっている。いつまでも馬鹿げたことがまかり通っているのが現代に特有の現象なのかも知れない。人々はそこで自らがうごめいているだけの存在でしかないことに気づかない。しかしなぜそこに正当化できるような行為が存在し得ないのか。いったい何をやったら正しい行為となるのだろうか。正しいと思うようなこと自体が過ちだとすれば、それ以外に何をやればいいのか。わざと間違ったことをしても、それでどうなるわけでもないか。何が正しい行為で何が誤った行為であるかについて、その判断基準となるような指標がもとからあるわけでもないだろう。法律などは後から付け加えられた人為的なルールに過ぎず、状況によっていくらでも変更可能なあやふやなものでしかない。たぶんそんなものを求めること自体がどうでもいいような誤りなのかも知れない。何かに基づいて行動すること自体がおかしいのか。それではどんな行動もおかしくなってしまうだろう。たぶん行動するたびに勝手にそれを正当化する理由をねつ造しているのかも知れず、そのときはそれを意識しなくても、やってしまった後から何とか自らの行動を正当化したくなってしまうのだろう。そして別にそれを過ちだと認めてしまってもかまわない。気に入らなければそれを過ちだと見なして、今度はそれとは違う行為をすれば気が済むわけか。しかしそれで人間の行動のすべてを説明したことになるのだろうか。それともそれは何かの冗談のつもりなのだろうか。本気でそんなことを述べているわけでもなさそうだ。では戯れにいい加減なことを語っていただけか。だがそれで暇つぶしになるのだろうか。何事も冗談では済まないような状況なのだろうか。そこで述べられている何を冗談と見なしてもしっくり来ないような気がしてくる。どうもあやふやで根拠の希薄なことを述べているらしい。なぜそこに価値を見出せないのだろうか。ではいつものようにそこから抜け出そうともがかなければならないか。もがき苦しんでいるふりをするだけか。たぶんそれも何かの冗談に過ぎない。冗談以外には何も語れないらしい。そしてそれは嘘になってしまうだろう。何もかもが馬鹿げていると思い、そこから速やかに逃げ出したくなるが、そんなことばかり繰り返している現状に不満があるのかも知れず、何かもう少し気の利いたことを述べてみたくなるか。だが無理なことはやらない方が身のためか。何を恐れているのだろう。すでにそれらの話は破綻を来しているのではないか。人は破滅したり破綻したりするのが好きなのか。そこに至る過程の中にたまらない快感が潜んでいるわけか。それは自らの死を悟る瞬間なのだろうか。しかしそれで何を述べていることになるのか。快楽と死を結びつける思考などありふれているだろうか。たぶんそれが人々をつまらぬ勝負事に駆り立てる原動力となっているのかも知れない。一か八か生か死か、そんな状況に身を置くことで快感を得たいのだろう。それが擬似的であれ本気であれ、絶えずそれを求めているのかも知れず、そういう構造を常に忘れながら追求したいのだろう。そこに何かがあると勘違いしていたいのだ。しかしそこには何もないといったら嘘になるだろうか。自らがただ地球上でうごめいているだけの存在だということを認めたくないわけか。それは認識の水準が違うのかも知れず、例えば鳥瞰図的な天から見下ろしている水準ではうごめいているだけかも知れないが、地表面に這いつくばって見上げている水準では、何やら崇高で価値のある行動に思えるのだろうか。しかしそのどちらにしろ、そんなことにまで言及するのはおかしいのかも知れず、そこで何かしら思考を巡らせながら動き回っていることしかできないのだから、それはそれでそういうことでしかないのかも知れない。いったいそれ以外に何ができるというのか。


10月16日

 ある日誰かは物語を読んでいた。何がやめられないのだろうか。やめられなければどうなるというのか。それの何がいけないのかわからないが、とりあえず心の隙間をついて、またいつも成り行きが到来しつつあるらしい。ここ数日の容態は小康状態なのかも知れないが、それは何かの病気なのか。文章上にどんな病が蔓延っているというのだろう。君はなぜそれを認識できないのか。意識がはっきりしないのは、それと同じような天候と関係があるだろうか。何でもかんでも天気のせいにしてもはじまらないか。何となくそれらの意識とは隔たりを感じている。そこではどのような成り行きが進行中なのだろうか。場違いな雰囲気の中で、いったい何がもてはやされているのだろうか。誰かはそんなくだらぬ場所へ回帰して何をしようとしているのだろう。何かの人気と病とはどのような関係にあるのだろう。意味がわからないのは毎度のことか。そこで省略された言葉でも見つけられるだろうか。もとから何の意味もありはしない。どうしてそんなことがわかるのか。ではなぜわかってくれないのだろう。それでは文章がつながらないだろう。どうもそんなことを述べたいわけではないらしいが、まだ迷いが残っているのだろうか。いくら迷ってみても何も出てきはしないだろう。つまらぬこだわりに際限はない。その気になればいくらでもそんなことばかりやっていられるらしい。他人の言動を馬鹿にするその態度には何らかの正当性が宿っているのか。そこに何か攻撃的な感情でも生まれているのだろうか。何を攻撃したいのかわからないだろう。何をどう思ってみても、それが文章に反映しないのはなぜなのか。その辺に何らかの法則が隠されているのかも知れないが、それを知ってどうするのか。知ればどうにかなるとでも思っているわけか。それでどうにもならなければどうなるのか。知りたくもないことを知ってしまうことにでもなるのだろうか。君には才能がない。それはありふれた台詞でくだらない。それ以外に何を告白しようと、そんな秘密は秘密ではないか。知っていることを秘密にしてどうするのか。あるいは何も知らないことにしておきたいのか。それでは話がつながらないだろう。しかしそれは何の話なのだろう。相変わらず何を話しているのでもないのか。白々しいことを述べているようだ。それはどういうことなのか。どういうことでもなくそういうことでしかないだろう。もったいぶった文章以外には何もありはしない。よく探せば何かしら見つかるかも知れないが、それは何かの幻影に過ぎないだろう。そう思いたいだけではないのか。幻影の虜となってしまえば、それ以外には何も思いたくなくなるのかも知れない。だがそんな風に見聞しているすべてが幻影だとしたら、それほど好都合なことはないか。なぜそれが好都合なのかわからないが、それは好都合なだけでなく、もしそのような境地に達すれば、物語の終わりが近いのかも知れない。そんないい加減なことを思っているうちに、また言葉が遅れてきたようだ。思考が遅れて言葉も遅れて、それにつられて動作も緩慢になってくる。身体の動きが途切れ途切れになってしまう。君はそのまま動けなくなって、化石のようになってしまうのだろうか。そこには永遠の兆しが宿っている。運がよければ中身が石の抜け殻となって、数億年後に日の目を見るかも知れないが、そのとき誰かは何を思っているのか。冗談で数億年のときを駆け抜けることができるだろうか。そんな荒唐無稽にも限りはないようだ。リアリティを無視すれば何を述べても大丈夫なのか。何がそうさせるのだろう。仮にそうしたとして、そこから何ができるというのか。何をやるためにそうしているわけでもないか。まだ何もきっかけがつかめていないようだ。そして気がつけばまたいつもと同じようなことを述べている。そんなことを繰り返して何になのだろう。くだらぬ言葉が適当に連なるだけか。そんなわけでいつもの病気が発症しているらしいが、それは本当に何らかの病なのだろうか。そんな兆候を感じていることに何か根拠でもあるのか。どこかで診断でも受けてみたらどうか。何もありはしないのに、どうしてそういうことになってしまうのだろう。君にはそれらの状況が見えていないのかも知れない。しかしそんな状況で何かが見えるということがあり得るだろうか。事態を飲み込めていないのは、それについて述べている誰かの方か。しかしそこからどうやって体勢を立て直せるのか。たぶんそのままの精神状態では何もできはしないだろう。そして何もできないからそうやっていつまで経っても立ち直れていないわけか。いったい立ち直るとはどのような状況になることなのだろうか。そうやって延々とわけのわからないことを述べ続けている状況の何が立ち直るきっかけになるというのだろうか。もしかしてそれは危機的な状況ではないのか。たぶん状況の深刻度を見誤っているのは君だけではないはずか。現実には何もできていないのに、何かしらやっていると勘違いしているだけなのかも知れないが、そこで何をどう思ってみても、そんなところからさほど遠ざかってはいないように思われるのは、どういう原因でそうなってしまっているのだろうか。君はいったい何から遠ざかるつもりだったのか。とりあえず現実の時刻からは遠ざかりつつあるようだが、そこからどうやって遅れを取り返そうとしているのか。もはや無理なのではないか。何をどう思案しても何も出てこない。結局その先に待ち受けているのは挫折だけか。そして挫折に関して過去の苦い想い出がよみがえってくるわけか。何となくつまらないことを思い出しているらしい。忘れようとしても忘れられないようだ。過去から遠ざかろうとして過去に絡め取られている現状がある。何をどうすればそこから遠ざかれるというのか。遠ざかれないから虚空に向かってそんなことを繰り返し問いかけているらしい。もう飽きているのかもしれないが、なぜか執拗に続けている。嫌気が差しているのにやめようとしない。いったいその先に何があるというのか。虚無感が漂っているだけだろう。何を見極めようとしているのか。意図せずに盲目になろうとしているだけか。いくら言葉を弄しても何もわからないのではないか。何も変わらないように語っているのではないか。それで経験を積み重ねているつもりなら、それはどのような経験なのだろうか。何を述べても眠たくなってくるだけのようだ。そんなことを述べたかったわけではないが、そんな風にしか述べられない現状があるらしい。そしてさっきからそんなことばかり述べている。それは悪循環の繰り返しになっているのかも知れない。そんな状況からもたらさせるのは苛立たしさと歯がゆさだけか。いったいこの世界はどうなっているのか。それが苦し紛れに導き出した逃げ腰の台詞か。事の真正面を正視できていないらしい。何かそこには抽象的な響きがこだまする。なぜそこであきらめてしまうのか。


10月15日

 何がおかしいかはわかっているつもりだが、そのおかしさに精神が耐えられないのだろうか。別に息がつまるような感じではないが、また言葉がつながらなくなってきたようだ。何かの歯車が狂いかけているのか。君のどこに歯車が存在しているのか。それは何のたとえなのだろう。他に何もないわけではないが、そんな嘘はありふれているだろうか。嘘の内容を知らず、そしてそこで何を知ろうとしているのかわからない。知らなくてもいい出来事まで知ってしまえる世の中だ。知らないことは良いことなのかも知れないが、そもそも何を知らないのかがわからないか。では知っていることは何なのか。そこでは何かが黄昏れているのだろうか。しかしなぜそんな言葉遣いなのだろうか。黄昏の意味を理解していないのではないか。焦点が定まらないようで、いつものように自らが何を考えているのかわからない。ただわかろうとしていないだけか。思考がそこで停止しているようだが、心の中では時が止まっているのだろうか。文章の中ではそうなのかも知れない。しかし誰がそんなことを思っているわけでもない。誰が何を思っているのかを知ろうとすれば、さらにわけがわからなくなるだろう。おそらく出口はどこにもありはしないだろう。また何を述べているつもりなのか。そんなところで足踏みしていては、足の先から腐ってくるかも知れない。足先に傷口でもあって、そこから化膿してくるわけか。ただ足先のしびれが解消していないだけだろう。またそんな白々しい嘘をつきながらも、君はまだそんなところで立ち往生しているらしい。だがそんな場所でそんなことを述べているのは誰なのか。述べているのが誰でもなければどうなるのだろう。それでは意味がないことは言うまでもないが、ではその状態からどう変化すれば意味を獲得できるのか。意味などなくてもかまわないだろうか。意味のあるなしがそこでの問題なのではない。では何がそこでの問題となっているのだろうか。わざとらしく何の問題もないことが問題だとか述べれば、何となくそれで何か述べているような気になるか。なぜそうやってふざけたことを述べてしまうのだろう。何の問題もありもしないことが気に入らないのか。だが問題とは何なのか。語ることのすべてが問題なような気もするのだが、何かを述べるには、それが問題でなければならないような制約でもあるのだろうか。その辺がよくわからない。別に文章を記すことによって、自らの考えの正しさを主張したいわけでもなく、はじめからそんなことを問いたいわけでもないだろう。ではいったい何を主張したいのだろうか。そこにどんな主張が展開されていようと、他に誰が何を語っていようと、それらのことごとくが君には関係のないことかも知れない。しかしなぜ君には無関係なのだろう。どこかでつまらない言動がまかり通っているようだが、それで何がどうしたわけでもないのは当然のことか。しかしそれでも何が当たり前のことなのかわからない。何となくこの世界全体が馬鹿げているように思われるだけなのかも知れないが、それで何がどうしたわけでもなさそうだ。要するにまともに問題となるような事柄は何もないというわけか。しかしはたしてそれでいいのだろうか。例えばそこでは誰が崇拝の対象となっているわけでもない。なぜ宗教は何かを崇拝しなければならなくなるのだろう。何かしら心の拠り所がないと、集団としての秩序が保てないのだろうか。別に宗教の話をしたかったわけではないが、人間の集団には常にその中心となる人格が必要不可欠であるらしい。その集団を代表する人間が必要なわけか。だが別にそのことについて何を述べたいわけでもない。はたしてこの世界に指導者的存在が必要だろうか。そんな大げさな存在ある必要はなく、例えば話のまとめ役程度の存在がいれば便利かも知れない。しかし民主主義とはどのような制度なのだろうか。選挙で議員を選ばないと誰もが納得しないのだろうか。理性的にそれを覆すわけにはいかないのだろう。それについて何ら説得力のある反論は用意されていない。何をどう述べてもつまらなくなる。君には選ぶべき道がない。だからどこへも行けないのだろうか。別にどこへ行こうとしているわけでもないだろう。どこへも行けないからといって、それほど困っているわけでもない。なまじ困っていないから、なおのことやりようがないのではないか。要するに何とも思わないから、何もやる気が起こらないというわけか。反抗したり抵抗したりする対象が見つからないということか。それではその先においてはどうしたらいいのだろうか。どうしたらいいのかわからないので、何もどうにもできないということになるだろうか。そこには数奇な運命に翻弄される個人などどこにも見当たらないが、なぜ劇的でなければ話にならないのだろうか。そんな話には食傷気味だから、何もなければないで、それに越したことはないのかも知れない。だからそれらの文章は話にならないのだろう。そこからどんな展開が待ち受けているわけでもないらしく、ただ普通に何も起こらないような状況が続いてゆくだけのようだ。実際にそれらの地域では大げさなことは何も起こらない。胸躍るような事件からは見放されてしまっているのだろうか。それでもスクリーン上ではたくさんの人影がうごめいている。それを眺めながら何を思うでもないが、そこには見落とされがちな興味深いエピソードでも紛れ込んでいるのだろうか。そんなもの探り当てようと試みるほど暇でもないか。オタク的な細部を気にするほどの根気は持ち合わせていないのだろうか。たぶん虚空以外の何を見ているわけでもないのだろう。何もない時空に意識は存在しているらしい。その辺で例えば世の中に蔓延っている不具合に立ち向かっている人たちなどとは、世界に対する認識に落差があるかも知れない。たぶんそういう人たちは、何もないから何も思わない、では気が済まないような精神状態なのだろう。それらの人々にとっては、そこには必ず何らかの問題が存在しているはずなのだろうか。それらの問題とは具体的にどんなことなのだろうか。例えばそれは地球表面の温暖化の問題であったり、少子高齢化の問題であったり、それに絡んで年金の問題であったりするわけか。そんな風に思っている人たちはご苦労なことだろうか。そう述べて何を思っているわけでもないが、何となくそんなことを述べている現状があるらしい。そこから何らかの見解を導き出そうとは思わない。少なくともそんなことはどうでもいいとは思わないのだろうが、君が何をどう思ってもどうなるわけでもないとは思っているはずか。何事についても思っているだけではどうなるわけでもないだろう。ではそこからどうにかしたければ、実際にどうすればいいのだろうか。積極的にどうにかしようとはしていないのではないか。


10月14日

 まだ歯切れの悪いことを述べているのだろうか。性懲りもなくできないことをやろうとしているわけか。それは感情問題などではない。何も明確にはならないのかも知れない。なぜそれを信じられないのだろう。今さらそれを信じる理由などどこにもありはしないか。いったい何を信じなければならないのだろうか。信じられないようなことをどうして信じればいいのだろう。たぶんまたおかしなことを述べているのだろう。本当に何もありはしない。それは語るべきことではないのかも知れない。時間が少し進んでいるようだが、言葉はそれだけ遅れている。そして何を述べているわけでもない状況は変わらない。何もないのだからそうなって当然だろう。結局そうなるしかないのに何を信じられるというのか。何について語っているのかわからない。腕時計に何の価値があるのか。高級なものはアクセサリーの一種なのだろうか。時間はさらに進んでいるらしい。何も感じないのに時間だけが進んでいく。たぶんそこには意識が存在しないのだろう。言葉の中に何があるわけでもなく、あるのは何もない空洞だけか。そんな風に思うとおもしろいか。しかしそれの何が危険な思想になるのだろう。案外それはメカニカルな動作を反映しているのかも知れない。誰かは機械的に動き回っているようだが、それらの神経はどこへ行き届いているのだろうか。何が無神経に思われるのだろう。そんな状況に神経が耐えられるだろうか。何かを経験するたびに、無表情はさらに無表情になる。そんなものはどこにも存在しないだろう。それらの文章からどんな情報を読み取ったつもりなのか。そこにはどんな虚無が実体化しているのだろうか。見聞しているつもりの世界は実態からかけ離れているのかも知れない。何かを感じ取る立場にはないのかも知れない。何を見ても現実は何も変わらないだろう。変わっているのは繰り出された言葉の種類と、そこから醸し出される雰囲気だけか。それが現実なのではないだろうか。さっきから何も進んでいないようだ。言葉がどこにも見当たらない。何も見ていないのかも知れない。そこからどうやって先へ進めばいいのだろう。何か君にとって都合の良いアイデアが思いつかないものか。例えば心象風景とは何なのか。それが君の都合に合致しているのか。何となく本心からは遠いような気がする。微かな感情の揺れ動きも感知できない。そんなところに実体などありはしないか。何を探しているつもりなのか。さっきから同じようなことばかり述べているような気がしてくる。それはいつものことなのだろうか。だがそれで何を楽しんでいるわけでもない。ただ迷い続けているだけか。言葉の選択を迷っているのだろうか。つまらない出来事が多すぎるのだろうか。外では雨が降り続いている。相変わらずの天候に心も曇りがちなのか。しかしそんな文章でありきたりすぎるだろう。いくら言葉を重ねても、なかなか本音が出てこない。心を動かされるような状況には遭遇していないのかも知れない。それでも世の中は着実に移り変わっているようだ。そんな世の中の情勢に乗り遅れまいとしているわけでもなく、君はただ放っておかれているだけなのかも知れない。君には何の使命もありはしないのか。そこで何を受け渡されているわけでもない。受け継がれるようなものも何もありはしない。それは誰の旅でもありはしないだろう。どこの誰が旅をしているのか。なぜ放浪しているのだろう。それは何かの巡礼者なのか。目的のない巡礼者などいるわけがないか。旅を続けることが目的と化している。そんなのはまやかしに決まっているだろうか。行き着く先がなければ、それは何もしていない証拠になるかも知れない。その足はどこへも向かっていないのではないか。迷い続けているのも嘘かも知れない。迷うあてがないのかも知れない。迷うことすらできずに途方に暮れている。それが何もないことの実態なのだろうか。だがまたそこから遠ざかりたくなってくる。そんな実態など要らないのかも知れない。要らなくてもそこにあるかも知れないのだから、それを無理にどける必要はないのかも知れない。そんなことを思っているうちに、そんなことは忘却の彼方へ消えて行き、それと入れ替わりに次第に時間が加速されて、あっという間に翌日になってしまうだろう。何も述べられないうちに、置いてきぼりになってしまうわけか。そこで何を感じているのだろうか。それらの文章には主語が消えている。しかしそれで何に言及しているわけでもない。ただそんな風に思うだけか。何を思っているかはわかっているが、それでも何も思わないと思っている。君はそんなくだらぬ矛盾が好きなのか。だがそれで何に逆らっているつもりなのだろう。今時反体制派活動家などは流行らないだろう。そうやってわざと冗談で思い違いをしているわけか。思い違いなどではなく単なる嘘でしかないか。しかし本気で嘘をついているわけではない。ではどこまでも冗談の範囲内で何かを述べているつもりなのか。そんなことばかりでは疲れるだけだろう。神経を磨り減らしてつまらぬ言葉を積み重ねてどうするのか。それでも何らかの文章が構成されているのだろうか。だが先はまだ長い。その長さに耐えきれなくなっているのではないか。心がついて行っていないようだ。しかし何を読んでいるわけでもない。ただ何気なく映像を眺めているだけか。そんな言葉遣いはおかしいか。唐突にそれとは違うことを述べたくなってくるが、今は何も述べられそうもない。そんな雰囲気ではないらしい。少し太りすぎなのかも知れない。何が太りすぎなのかはっきりしないようだ。太りすぎだろうがやせすぎだろうが、その対象がはっきりしないことには、何を述べているのかわからないままだろう。人々は美を好む傾向にある。見た目の美しさに惹かれて、何か大きな思い違いでもしているのだろうか。何かを怠けているらしい。わざと思わないように心がけている。何を思わないつもりなのか。何も思わないつもりでも、何か適当なことを思っているかも知れない。そうやって言葉の振り出しにでも戻りたいのだろう。確かしばらく前には賽が振られていたらしい。骰子ばくちはそんなにおもしろいか。そこで一振りしなければならなくなる。そうやって何を求めているつもりなのだろう。何かを終わらせたいのかも知れない。たぶん中途半端なまま終わりとなってしまうが、今回はそれでいいような気もする。まだそんなことをやっているらしい。未だにそんな稚拙な段階でもがいているわけだ。何が上達する必要があるのだろうか。いったいどんな風に上達させたいのか。それに関して言葉は何も示さない。誰が何を求めているわけでもないからか。その場の思いつきは毎度おなじみの無内容なのか。刹那的に何をそんなに示したいのか。それは誰かの醜態にでもなるわけか。


10月13日

 心はどんな幻想に支配されているのだろうか。それはどういうことなのだろう。何かの兆しなのだろうか。だがなぜそこでやる気を失ってしまうのか。何も感じられないまま、何となく言葉を繰り出す動作が遅れてきてたようだ。またいつものパターンに陥りつつあるのだろうか。たぶん内容はろくな話になっていないのだろう。わざと話をこじらせようとしているのか。わざとしなくても自然とそうなってしまうのではないか。そんなことをやっているうちに、やがてきっかけがつかめなくなるだろう。君にはそれがわからない。常に何かが違っているような気がするようだが、抱いているのは幻想だけか。そこに状況など存在しないだろう。もはや何がどうなろうと何も導かれないか。これ以上何を述べても傷口が広がるだけだろうか。そんな当初においては予想だにしなかった状況に直面しているわけか。いったいどうなることを予想していたのか。もはやそれは終わっているとでも思っていたわけか。ではなぜそれを許してしまうのだろう。このままではさらに無駄な言葉が連なってしまうだろう。そんなことは今さら指摘されるまでもなく承知していることだが、それについて何を語りたいわけでもない。そうする以外には何もできはしないのだから、黙ってそれをやるしかないのではないか。たぶん誰かはそれに対してくだらないことでも述べているのだろう。しかしそんなことを述べる理由がどこにあるのだろうか。君の斜め後ろにはどんな人格が存在しているのか。感覚が横滑りしてどこかへ抜け落ちているかも知れない。それはどこかにいる禁欲主義者の言い分になるだろうか。誰かはそこで何を禁じているのだろう。それはやめることか何かか。それをやめさせたいのだろうか。やめられないものをやめたらどうなるのだろう。禁煙者の心境でも実感できるだろうか。本当は何を実感したつもりになれるのか。嘘をついていることでも実感できるだろうか。君に本当の主張などありはしない。それが嘘だと思うなら、その後にどんな台詞をつなげるべきなのか。言葉をつなげられなければ、それが真実とでもなってしまうのか。誰が何を述べているのかわからない。何かの迷宮にでも迷い込んでしまったわけでもないか。自らが何をやっているわけでもない。ただ他人がやっていることを見せつけられているだけか。それについてあれこれ批評しているつもりの者もいるらしいが、実際に何をやっているわけでもないことに変わりはない。そこには様々な言葉が飛び交っているだけなのかも知れない。人々の実体はどこにあるのだろう。席に座って何かを見ているだけなのか。中には興奮した立ち上がる者もいるかも知れないが、それがどのような表現になっているというのか。何かの自己実現を望んでいるのだろうか。その辺からわからなくなってくる。もしかしたら何らかの書物を読んで、その内容に影響を受けているのかも知れない。だがそんなことはどうでもいいことだろう。なぜそこに目的がないのか。今さらながら何を語るべきかはっきりしていないようだ。しかし何かそれで不都合なことでもあるのだろうか。何もなければ何もありはしないか。それでもそこには何かがあるはずか。何かがあると思いたいだけなのか。その何かを探し出せないのだから、結局は何もないのと同じことなのではないか。それでも何かを語っているつもりらしい。要するにそんなことばかりが繰り返されているわけか。完全に何かを見失っている状態なのかも知れないが、何かを語らなければ気が済まないらしい。やはりそれは無理なのだろうか。またいつものように何が無理なのかわからないか。いったいこの世の中はどうなっているのだろう。どうにかなっていると思われるのか。考えていることとは別次元の世界なのかも知れない。いくら行動に訴えてもそれが文章となることはない。行動は行動で文章は文章でしかない。別にそれが病に罹っている兆しを表しているわけでもなく、故人の疲労を表現しているわけでもない。誰がそこで死んでいるわけでもないのに、何かが死んでいることにしなければ、そこから先に何も語りようがなくなってしまうのだろうか。何を述べているのだろうか。またわざと意味が通じないように語っているわけか。意味が通るように語るのが難しくなっているのだろうか。次第に言葉が積み重なっているいるようで、さらに何かが錯綜しつつ、結局わけがわからなくなってしまうのだろうか。そして気がつけば時間の遅れを挽回できなくなっている。過ぎゆくばかりでどんどん追いつけなくなってしまう。なぜ待ってはくれないのだろうか。待つ必要を感じないからむやみやたらと過ぎ去ってしまうわけか。ただそんな風に感じているだけなのかも知れない。それを言葉で言い表せばそうではなくなってしまい、それらの言葉は過去の時間に固定され、置いてきぼりになってしまうらしい。だから焦る意識は無理矢理にでも前へ進みたくなるのか。そしてそれはいつの間にか不幸の物語にでも結集してしまうわけか。それは薄っぺらなテレビドラマの見すぎというものか。現実にはそうはならないように言葉を構成しているはずだ。だから内容がわかりづらくなる。わかりづらいのではなく、本当にわからないのではないか。つまり自らがわからないことを述べていることになるのだろうか。そこには何があるのだろうか。そこから何か手堅いことを述べてみたい衝動に駆られないか。いつまでもわけがわからないでは通用しないだろう。しかしそのときの意識は何をなだめようとしているのか。それが無理なことはわかっている。何をどのように述べてもわけがわからなくなってしまうらしい。何かの残骸が文章を構成しているのだろうか。それを考えさせるのはどのような状況でもなく、ありふれた思索作用でしかないようだ。ただそこから前進したいと望むことだけで、そのような継続を実現させているらしいが、何もない原因はそんなところにあるのだろうか。何かしら述べているだけでも、何も述べないよりはマシなのか。それはまるで蛇のような考えか。なぜ蛇がそんなことを考えるのか。ただそこでありもしないことを述べているだけだろう。そしてたまにそんなことを述べられるから、その先があると勘違いしてしまうわけか。実際その先には何があるのだろうか。それが破滅だと思われるのだろうか。いったい誰の身が破滅するのか。架空の人格を所有している者は誰なのだろうか。それが誰もないわけがないだろう。何かを述べることによって誰も傷つかないはずがないか。だが今はそんな話をしているわけでもないだろう。積極的には何も述べようとしていないのかも知れず、誰も何も述べられないのかも知れない。その件についてはそれで終わりにしたいのかも知れない。だからそこではいつも沈黙が支配しているわけか。


10月12日

 そんな場面がいつ訪れるのか。突然視界が開けて何もかもが明らかになる。そんな結末はあり得ないだろう。天啓を受けた者は気が狂うのが古今東西の習わしなのか。しかしそれにつられて誰かが奇声を発しているからといって、別に気が変になっているわけではない。わざと気が狂ったふりをしているだけか。塩の歌は名曲なのだろうか。そんなことを問いたいわけではないだろう。何かを語っているうちにわけがわからなくなるのは、いつものことだろうか。どこかの橋から誰かの生首が垂れ下がっているらしい。そんな橋梁が実在したらおもしろいか。誰か殺人鬼にでも頼んでみるか。たぶんそれは冗談なのかも知れないが、それらの地域では至る所で何かの感染症が広がっているようだ。それは思想的な問題だろうか。決め手を欠いて言葉の構成がおろそかになる。なぜかそこで腐ったみかんは何かを暗示させるらしい。みかんを食べながら何を思い出そうとしているのか。過去にそんな話があったかも知れないが、それはいつのことだったのだろう。今さらそこへ行くには道が狭すぎるだろう。たぶん君がこれからそんなことを思い出す必要はない。それどころか何も思い出す必要もないのかも知れない。これから死にゆく者に想い出など要らないか。誰が死にゆく者なのか。それは人類のすべてに当てはまることかも知れないが、各人において死ぬまでの時間がまちまちだ。だが本気でそんなことを考えているわけでもないだろう。ではまたそこから逃げ出そうとしてしまうのか。しかしどこまで逃げても言葉が後から追いかけてくる。言葉による追跡をかわしきれなくなって、言葉による囚われの身となった君は、それからどうなる予定となっているのか。どこからともなく死刑判決でも下されるのだろうか。それでは荒唐無稽の意味不明か。まともに語るきっかけがつかめないのはいつものことだが、そんなことばかり模索していても、何も得るものはなさそうに感じられる。世間ではつまらないこだわりから身を滅ぼす人もいるようだ。この期に及んで誰かの二の舞にはなりたくないか。だが気まぐれに出現する言葉は、絶えず君の注意を逸らし続ける。それらの無駄な言葉を用いて、君はこれからどのような妄想を構築するつもりなのか。そこで妄想を抱くのは誰の役目なのか。フィクションの中の登場人物に、どのような性格を授けるつもりなのだろう。そもそも君はこれから何を語り出そうとしているのか。少なくともそれは奇想天外なことではないはずだ。例えば断崖絶壁の上には何があるのだろう。どこからそれを見上げているつもりなのか。そこには映像以外の何もありはしない。それは何かのアニメーションか。空想していると思い込んでいるのは、できすぎた風景にしかならないだろうか。しかしそれらの何を完璧だと見なしているのだろう。それは何かの構成美のつもりなのか。変な言葉遣いになっているかも知れないが、そんな無理なことを述べて、何を焦っているのだろうか。焦っていたのは昨晩のことで、今は焦りを通り越して、どうでもいいような投げやりな気分になっているのかも知れない。焦る原因を考える気にはならないが、そうなってしまうことについて、何か思い当たる節でもあるのだろうか。まさか焦りの理由を自らの死に結びつけるつもりはなさそうだ。しかしそれらのフィクションの中では、誰がどうなろうとしているのだろう。まさかそろそろ誰かの寿命でも尽きてしまうのだろうか。しかしそんな状況からどうやって生き残れるのだろう。誰は生き残り、他の誰かは死んでしまうのかも知れないが、そんなことに考えを巡らす暇があったら、さっさと言葉を連ねていればいいことでしかないか。もうすでに賽は投げられてしまった後らしいが、では出た目の数だけ何をすればいいのか。そんなことをやりたいのではない。賽の目とやりたいことの内容は何の関係もないだろう。言葉をいい加減に繰り出しているうちに、やりたいことなどすでに忘れてしまっているのかも知れない。そして誰が何を忘却しているつもりなのか。またそれを誰が探ろうとしているのか。そうやってまた君は愚かなことを述べているらしい。本当はそんな話などどこにもありはしない。要するにあり得ないことをあるかのように述べているわけか。それはそうではなく、またそうでしかないというわけか。それではわけがわからないままではないか。いったい何を述べたいのだろう。そう述べることによって何が明らかになるというのか。ただそれを読む者を戸惑わせようとしているだけで、何も明らかにするつもりはないのだろうか。君の都合はそんなところにありはしない。それどころか絶えずその手のご都合主義からは遠ざかろうとしている。わかりやすい文章表現なんてクソ食らえか。そんな台詞を記すのは本望ではない、と付け加えておかなければならない。要するに君は愚かさのただ中で馬鹿になりたいわけなのか。そんなまわりくどい言い回しは好かないはずだ。それでもその状況の中にいることを認めざるを得ないのであり、今日もどこかで何かが生成されていることを否定できずにいるらしい。しかし今の君に見えているのは文章だけなのかも知れず、それを読むことでしか頭を働かせることはできない。しかしそれ以外の光景は何なのだろうか。それらはただの付け足しに過ぎないのか。例えば事件はテレビの中で起きるものなのか。いったい誰が誰の弁護を買って出ているのか。彼はどんな言葉で何を擁護したいのか。ただ俳優が何かの役割を演じているだけではないのか。あるいは複数のタレントがクイズ番組の出題者と回答者に割り振られているだけだろう。いったいそれらのどこにあり得ないことがあるのだろう。君はそこで何を探しているつもりなのだろうか。それらの光景からそんなことを見出したいわけでもないだろう。見出されたそれは、君にとっては不都合な代物でしかないのか。何を邪魔者扱いしながら鬱陶しいと思っているのだろう。そしてそこから何を見つめることができるのか。たぶんいつものように何を述べているわけでもないのだろう。できることならそんなことなど上の空になるような状況にならないものか。それらの言葉を他のどうでもいい事象から区別する気にはなれない。繰り出された言葉は、すべてどうでもいいようなことを述べているように思えてくる。心情的にはそうではないと思いたいところだが、本当にそうであったならかえっておもしろいかも知れない。何か他におもしろいことでもあるのだろうか。君にはそういう言い草が我慢ならないらしいが、誰かは意外なことを述べているのかも知れない。それに述べている自らが驚くのはわざとらしいか。いったい何がそこで生成されているのだろう。それは本当に同じ言葉の繰り返しなのだろうか。君は嘘でもいいから何を信じれば救われると感じるのか。


10月11日

 突然何を思い出したのか。いったい真夜中の画面には何が映っているのだろう。そこで誰が何を興奮しながら喋っているのか。そして君はそれの何がおかしいと感じているのか。なぜか画面上の誰かは目をぎょろつかせて興奮気味に喋っている。なぜ彼は湧き上がる感情を抑えきれないのだろう。たぶんそれは何かの勘違いに違いない。本当は嘘なのだろう。それらの出来事を眺めながら、あまり本気になれないのはいつものことか。それでもそこから言葉を適当に連ねようとしている。取り立てて何も述べるつもりはないのに、ただことさらにそうやってそれらの文章の継続を長引かせているようだ。そしてさらに何を続けようとしているのだろうか。意識はそんな状況に逆らってはならないのか。例えば何か思索に耽っているふりをしながら、それ以外の時を過ごすわけにはいかないのだろうか。意識にはそれとは別の時間は用意されていないのだろうか。たまにはそんな時間を無視して、それとは無関係などこか適当な場所へたどり着いてみたいか。でもそれを望むには頭がぼけているようで、どうも今ひとつ話のピントが合っていないらしい。たぶん何に焦点を合わせているわけでもないのだろう。だがそれは夢の中ではないはずだ。確かに夢ではなさそうだが、そこはあるか昔の時空なのではないか。なぜ今が昔になってしまうのだろう。誰が過去において何を語っていようと、存在し得ない場所で君が何に巡り会ったわけでもなかったはずか。それはどういうことなのか。それについて理由も根拠も提示することはできないが、ただ今はあるか昔に過ぎ去っているような気がしている。少なくとも現在の時刻は、今から一日以上が経過しているらしい。それはつまらない嘘になるだろうか。そんなどうでもいいような嘘によって何を飾り立てているのだろう。そんな語り方が気に入らないのなら、虚飾を排するとはどういうことなのか。その後から何をどう述べても、それでは何も説明がつかないような気がする。確かにそれは昨日の出来事だったはずで、どうも意識にはそれがわかっていないようなのだが、実際にそこで何を探していたわけでもない。何も探さずに何かを見出そうとしているのかも知れない。それははったりか何かの類か。何もわからずに何もわかろうとしていないらしいが、それは理由もなくそういうことでしかないだろう。しかしなぜそんな状況で、晴れ晴れとした気分になれるだろうか。実感している愉快な気分とは逆に、その身が窮地に陥っていると思わないのだろうか。別にそんなことでそれほど驚くには至らないが、そこで誰がわざと驚いた顔をしているのか。それらはすべてゲーム上で起こった出来事だろう。涼しい顔して平然と他人の邪魔をする。ゲーム上では誰もが偽善者にならなければいけないのだろうか。いくらあこぎなことをやっていようと、ルールに従っている限りは偽善者でいられるはずだ。だがそんな状況に君は耐えられるのか。もとからそこには何もありはしない。遠ざかる風景とともに人も人影もどこかへ消えてしまう。そこへ取り残された形で、忘れ去られた過去の映像の中に、ゲームの残骸がまるで蜃気楼のように出現している。そんな風にして人々の営みは、いずれすべては廃墟に飲み込まれてしまうだろう。しかしそんなことが誰にわかるのか。誰もわかってくれなくとも君は知っているはずか。少なくとも君にそんなことがわかるはずもない。知り得ないことをどうやって知ろうとしているのだろうか。まさか頭の後ろに目がついているわけでもないか。だが目でわかることなど大して多くもないか。それでも何かをわかったつもりになれるだろうか。何もわかっていないわけでもないか。何をわかっていようと今の君には関係のないことだろう。そんな自己言及問答をいつまでも繰り返しているうちは、何をわかっているうちにも入らないか。別にそれをわかろうとしているわけでもないか。たとえ何もわかっていなくても、それでも何かを語っていることに違いはない。ではもはや決まり文句と化している次の、何を語っているわけでもないというのは嘘なのか。また何が嘘なのかわからないというのも嘘か。いったいそれで何か述べているつもりなのだろうか。何も述べていないのが嘘だとすれば、少なくとも何かしら述べていることになるのだろうか。だが本当にそれで何かのゲームになっているのだろうか。誰がゲームを楽しんでいるのか不明だ。それは何のつもりなのだろう。いずれはそれが行き着いて、破綻すると指摘している者もいるようだが、その状況で生き延びられる人は、本当に限られた人々なのかも知れない。しかし今さら安易に人の死を予言するのは、もはや流行遅れも甚だしいのかも知れない。人が生き延びられたり死滅したりすることなどは、もはや世の中の価値判断からは除外されているように思われる。そんなことはゲーム上では些細な出来事でしかなく、全体としてシステムが円滑に作動していればそれでかまわないのだろう。しかしそれをゲームと見なせるのだろうか。もしそれがゲームでないとすると何なのか。あらかじめ定められたルールの範囲内で、論理的に正しいと思われる行動を目指すのは、ゲーム以外の何ものでもないだろう。もちろんそのルールは、常に流動的に変化していく傾向にあるが、ルールが目指している状況に至るように努力することによって、その目的に沿った形での人の営みとは、常にそういうものなのだろうか。では実際に何がそこに立ち現れているのか。それぞれの目的に合った形で錯綜する人々の思惑か。もしそうであるならば、人々の類に属している君の思惑には、どのような目的が潜んでいるのだろうか。ただできうる限りその無内容を続けていたいだけなのか。しかしそんな目的は目的とはいえないだろう。たぶんまだ言葉が足りないのかも知れない。それ以上に文章の長さが求められているのだろうか。必要から見放された言葉の連なりには、もはや目的が抜け落ちている。誰が何のために言葉を執拗に記しているわけでもない。ただひたすら言葉自体がその先へ連なろうとしているだけか。そんな意志がそれらの文章のどこに宿っているのか。それは誰の意志でもなく、誰も所有不可能な意志かも知れない。自ら言葉を記し続けているつもりの者にもそんな意志などありはしない。それどころかもういい加減にやめたいとすら思っているのかも知れず、やめたくてもやめられない状況からいかにして抜け出ようか、そこから抜け出るための試みを画策している最中かも知れない。要するに君は無駄で無益な試みをやっている最中なのだ。そしてそれをやればやるほど疲れ果ててしまう。そして疲れ果てて寝静まった頃に、それらの作業は性懲りもなく自然に再開していることに気づかされる。翌朝に目が覚めてみれば、自らがいつ寝てしまったのか覚えがない。


10月10日

 人々は休日に何を探し回っているのか。高速道路は事故で渋滞中だった。だがそれは過ぎ去った事実でしかなく、今はそこから遠く離れた部屋の中で、その出来事を思い出しているところか。思い出しているかのように語っているだけだろう。君が求めている言葉はそんなものではない。言葉は現実の不在を表しているのだろうか。例えば俳句は言葉遊びの典型だろう。人によってはそれが美しく見えるかも知れないが、たぶんその中身は何もない。それを誰が求めていたのだろうか。何かそこに創意工夫が見受けられるのかも知れないが、それは印象に残るような言葉の連なりなのか。それが一連の謎解きと関係があるわけではない。いつどこで謎解きが行われたのか覚えがない。なぜ唐突にわけのわからないことを述べてしまうのか。もはや何もかもが破れかぶれなのだろうか。そんな言葉を連ねようとしているわけもなく、だがやはりそんな風に語っている現状があるらしく、それがおかしくてたまらないのだろうか。何をおもしろがっているわけでもない。それとは反対につまらないことを述べているだけか。それがおもしろくてもつまらなくても、いつものように君には関係のないことか。できもしないことをやろうとしている君にとって、おもしろかったりつまらなかったりするのは二の次らしい。ともかくそれをやり遂げなければ話にならない。とりあえず不可能な状態を可能な段階にまで高めなければならないようだ。要するにまた無理なことを述べようとしているわけか。知らず知らずのうちにまた自己言及的な文章を記しているらしい。しかし君はそこにわずかなごまかしとずれを紛れ込ませているのかも知れない。君は私と述べずに君と述べることによって、かろうじて自己について語ることから逃れているつもりなのか。そんなごまかしがいつまで通用していると思い込んでいられるのだろう。そんな根拠の希薄な思い込みだけで語るのは愚かなことか。君は自己に対する愛が感じられないか。そうやってさらにおかしなことを述べようとしている。少なくともそれらの文章には、何かを述べようとする意図が感じられない。だから何を述べているのかわからなくなってしまうのだろうか。わからなくてもかまわないだろう。今はわからなくても結果的にはどうにかなるのではないか。そんな楽観的な気分を装っていないとやりきれないか。何がやりきれないのだろうか。まったく見当違いなことを述べているのかも知れない。しかし何を心配してみても始まらないだろう。やっていることはそんなことでしかない。そんなこと以外の内容にはなり得ないのだから、それを続けるしかないのかも知れない。だからこそ述べていることが気に入らなくなるのか。そんな風に思いながらも、当初に抱いていたこととはまるで違うことを述べているらしい。そしてそこからどこへも向かわずに、その場でとりとめもない逡巡をひたすら繰り返す日々なのか。よくそんなつまらない状況に耐えているものだ。そんなことばかりでは早晩気が滅入って病を患ってしまうのではないか。だがそんなのは気の病であり、それ罹ろうとどうしようとあまり気にしないのではないか。病に罹ったまま生き続ければそれでかまわないか。それで何の不都合もありはしないか。病に罹ろうとそれがもとで命を落とそうと、それが運命なのだからそれを受け入れなければならなくなるだろうか。別に受け入れたくなければ受け入れなければいい。どんな運命に遭遇しようと、そんなものは無視していればそれで済むことなのか。ただ転がる石のように超然としていればそれでかまわないのだろうか。なぜ転がる石が超然としているのかわからないが、石はそう滅多に転がらないだろう。地球の引力に捉えられて動かないことの方が多いだろうか。そして風雨にさらされ摩耗していってしまうのだろうか。いつかは砂になり塵となって地層の中に堆積するだけだろうか。それは何のたとえなのだろうか。地層がそのまま人類の歴史となったりしてしまうわけか。それは安易で粗雑な考えだろう。たぶん君はそこからどこへも動かない。動くとしたらそれは君が君でなくなるときだ。そこから君が動くとき、君は君以外の誰かにでもなるのだろうか。しかし君が他の誰かになって何をやるのだろう。何かやりたいことでもあるのだろうか。誰かにならなくてもすでにそこで試行錯誤を繰り返しているではないか。現実に絶えず何かをやり続けている。今はそれが無駄かどうかはわからないが、後になってかつて何かしらやっていたことを思い出すときが来るかも知れない。そのとき君は過去の行いについてどう思うのだろう。そんなことを今から想像してみても仕方がないか。時が過ぎゆき適当に忘れて適当に思い出すだけか。そんなことを繰り返しているうちにやがて何もわからなくなってしまうだろう。今でさえわからないことが多すぎる。とりあえず何を述べているのかわからない。述べたくもないことを執拗に述べている気さえしてくる。はたしてそれでいいのだろうか。よくないからそんなことを述べているのではないか。ではこのままよくないままにさらに述べ続けるのだろうか。それはその先に述べてみなければわからないことか。だがそうやって述べてみなければわからないから述べ続けているのではないか。そこでまた話が振り出しに戻ってきてしまったらしい。結局何を述べているのでもないことになっているのかも知れない。最近の君が述べていることは、そればかりのような気もするのだが、なぜ話がそれ以外の方へ向かないのだろうか。それは語り方が間違っているからか、あるいは本当にそんな風にしか語れないかのどちらかだろう。だがなぜそう簡単に理由がわかってしまうのか。別にわかっているわけではなく、ただ適当にいい加減に推測しているだけか。とりあえずそんなことを繰り返していることに変わりはないようだ。それ以上には何も述べられず、何も述べられないからそんなことを述べている。ただそんな言葉が循環するばかりのように感じられる。だからさらに言葉を循環させようとしているらしく、誰がそんなことをやろうとしているのか知らないが、君はそれを黙って眺め続けているようだ。それはどんな光景に見えるのか。空白に無限に言葉が記されているような感覚なのだろうか、あるいは空洞に意味のない言葉が絶えず鳴り響いているような光景を想像しているわけか。どちらにしろ虚無的な雰囲気を醸し出しているように思われ、世の中に流通する言葉の群れからは遠く隔たっているのだろうか。そうだとしたらどうだというのか。他人による前衛的な見解でも期待しているのか。芸術とかいう手あかにまみれた価値が宿ることでも望んでいるわけか。勘違いも甚だしいか。そんな愚かな言葉でしか肯定できないような文章なのだろうか。


10月9日

 どんよりした曇り空の下に人々のうごめく大地が広がっている。そんな光景を思い浮かべてどうするのか。空を飛ぶ烏はそこから何を眺めているのだろう。心にきしみが生じているらしいが、その理由を明らかにするつもりはないようだ。たぶんそんなのは嘘なのだろう。それらの出来事は何だったのだろう。いつの間にか戦争や災害が起こり、いつの間にか過ぎ去っている。それらが未曾有の出来事となることはないようだ。そんなものに感情移入している暇はないらしい。それらの出来事に巻き込まれている他人は死んだり怪我を負ったりしているらしいが、それで何がどうなったわけでもない。そんなことが世界のあちこちで起こっているだけだ。君には関係のないことでしかない。しかしそんなことはわかりきったことだろう。君はただそれらの出来事を報じるニュースを眺めているだけだ。テレビを見ているだけでは何も生じないか。何かを生み出したければ、テレビを消して部屋から飛び出して、そこからどこかへ行かなければならないだろう。どこへ行く当てもないのに、いったいどこへ行こうとしているのか。そんなことまで考えが及ばないか。頭が足らないからそこで停滞しているのだろうか。そうだとしたらそこからどうすればいいのだろう。これから行く当てを探す必要があるかも知れない。だが必要があろうとなかろうと、たぶん積極的に探すことはないだろう。探す必要があっても探す気がないのだから仕方がない。なぜ必要があるのにそれをやろうとしないのか。やろうとしないのではなく、やりたくてもできない事情があるのではないか。本当にそうかどうかは、それらの語りから明らかにはならないだろう。明らかにする気がないらしい。そのつもりもないのにそんなことは語れない。はじめから語るつもりはなかったようだ。では何を語ろうとしていたのか。それはまたいつもの迷路の中で迷っているつもりの心境か何かか。君はそこで何を迷っているのだろう。少なくとも血迷っているわけではないらしいが、至って冷静であるはずもない。これが冷静でいられるだろうか。これがのこれとは何のことなのか。何でもなくて、ただそんな台詞を記してみたかっただけか。それ以外には何も思いつかず、そんな嘘にも飽きが来ているような気配もするが、ではいったい何をどうしたらよかったのだろうか。そこで何を語れば適切な文章表現を確立できたのか。しかしそれはどういうことなのか。なぜそうやっていい加減なことを述べてしまうのだろう。それが君のやるべき事なのか。なぜそうなってしまうのかわからない。そのつもりもないのにそんなことを述べている。それがそこでの現実なのだろうか。それでも君は何かに守られているとでも感じているわけか。なぜそんな無根拠なことを感じることができるのか。もう十分些細なトラブルに巻き込まれているのではないだろうか。そしてそれをことごとく切り抜けているつもりになっている。何かに守られているからそんな風に思えるのだろうか。それはおかしな話になるだろう。何かに導かれているような気もするのだが、やはり何でそういう成り行きになってしまうのかわからなくなる。君はそれらの道行きのどこで迷っているつもりなのだろう。そこで使われている言葉が間違っているのかも知れない。自らが述べていることに自信が持てないようだ。何かに耐えているのかも知れない。それでもそれをやり続けている。しかし必死さが足りないようで、いつも途中からわけがわからなくなってしまうらしい。それほどそれにのめり込むわけにはいかない事情でもあるのか。たぶん本気になってはいけないのだろう。しかし本気にならずに何を語ろうとしているのか。本気にならなければ、何を語ってもどこへも届かないのではないか。届きようのないことを語っているから、いつまでもその水準にとどまり続けているのかも知れない。しかし何もなければ何も語りようがないか。何もなければ本気にもなれないか。だからそんなことを述べているわけか。そんなこととはどんなことなのだろう。だからそれはそういうことなのかも知れない。要するにそれに関しては何も述べられないということか。君は自らの意志で言葉を操っているわけではない。それは致命的な欠陥なのか。その機械の心は何を思うのだろう。機械のどこに心が宿っているのか。君が纏っているつもりの架空の身体は機械でできているのだろうか。そんな作り話を真に受けるわけにはいかないか。君はそこで何を語っているつもりなのか。誰かはそれについてどんな感想を抱いているのだろう。事実をねじ曲げているように思えるか。それらの何が事実なのかわからない。何だかわからないような事実をあてにして話を進めて、そこから何がわかるというのだろう。わかっているのは何もわからないということだけか。しかしそれでは話が前へ進まないだろう。いつまで経ってもわからないだけでは、話にならないのではないか。だからそこで困り果てているのだろうか。困ってばかりでは困ってしまうか。困ったついでに何か繰り出すべき言葉はないのだろうか。君はそこからどうなる可能性を夢見ているのか。何を期待しているわけでもない。何が到来するわけもないだろう。何も到来しないとしたらどうなるのだろうか。そこには何もないままとなってしまうだけか。君はそれでかまわないのか。いったい誰に向かって何を問いただしているのか。そんな意味のないことを語っていて虚しくならないか。君は君が君自身でないことを知っているはずだ。君という存在はいつまでも架空の存在にとどまるしかないだろう。君はその状態を超えた君をまだ知らない。それらの文章からの依存状態を抜け切れていないわけだ。そこから抜けられるはずもないだろう。別にどこから抜けようとしているわけでもないか。架空の存在であることからどうやって抜けられるというのか。どうもそれははじめから不可能なことではないのか。いくらできもしないことを語り続けようと、それでそれが可能となるわけではない。そんなことはわかりきったことで、だからいつまで経ってもそんな言葉の繰り返しとなってしまうわけか。しかしそれで君は何を述べているつもりになれるのか。そもそも君が何を述べているのでもないはずだ。それは君が述べているのではなく、君について述べられている文章なのではないか。またそんなわかりきったことを述べないでほしいか。そして同じような内容が飽きもせず繰り返されるのはどういうことなのか。やはりそんなことに理由などあろうはずがないか。ただその場の成り行きでそうなっているだけなのか。またもやそんなこともわかりきったことかも知れないが、それでも執拗にそんなことを繰り返している現状があるらしく、そんな繰り返しの中に架空の君が存在する余地があるのだろう。


10月8日

 何となく不可思議な気分になっているのかも知れない。雨が降ると何を思い出すのか、またそれの何が物憂げな表情なのか、ただいい加減に言葉を繰り出しているのだけなのか。コーヒーはさっきインスタントを飲んだはずか。翌日の昼には缶コーヒーを飲んでいた。では今はいつなのだろう。君が求めていたのはそんな状況ではない。常にそこから逸脱しているようだ。何を求めていたわけでもないが、そのままでは何も求まらないだろう。だから意味のないことを述べ続けているわけか。一応は記された文章を読めるのだから、まんざら意味がないわけでもないだろう。一向に何も求まらないことに苛立ち、切羽詰まって強引に意味不明なことを述べているのだろうか。それでも誰かがそこに意味を見出している。君には何を見出したのかわからないか。いきなり話が飛んでいるのではないか。あらぬ方角から思いがけない言葉が飛んでくるか。しかしそれが創意工夫だといえるか。そこは相変わらずの迷路なのだろうか。曲がりくねった長い道を歩んでいるのは誰なのか。四人組の内の一人だろうか。誰かはそんな歌を知っているらしい。しかしそれについて君は、いつものように意味のないことを述べている。意味の通じない文章となっているのだろうか。暗闇の中に木陰が浮かび上がる。それは明け方の風景だろうか。そんなことがあり得るのだろうか。自らの目を疑ってどうするのか。目ではなく記憶を疑っているのかも知れない。そんなことを述べているようではもう限界なのだろうか。精神的に崩壊寸前か。崩壊寸前ならさっさと崩壊してしまえばいい。だがそれが君の望みなら状況に裏切られるだろう。成り行きはそれとはまったく別の方へと向かう。要するに思いがけない事態に陥って、どうしていいのかわからずに、途方に暮れてしまうわけか。そこではあり得ないことが実現されるのだろうか。その光景を眺めている君自身は、まるで亡霊のような姿になっているかも知れない。そして言葉は誰かを欺き続ける。唐突に発せられたそれが、誰の言葉かわからなくなる。それは不特定多数の人々が発したざわめきのようなものか。様々な紆余曲折と試行錯誤を経ても、結局は誰が何を述べているのでもないような状況となってしまうようだ。それは違うのだろうか。違うとすればどこがどう違うのか。何が違っていると思えるのか。すべてが違っていると述べればそれが真実となるだろうか。あるいは何が違っていようと、そんなことはどうでもいいことになってしまうわけか。だがすべてがどうでもいいことならば、世の中にはどんな歪みが生じているのだろうか。いったい何がどうでもいいと思わせているのか。なぜそれらの事象のすべてが馬鹿らしいと思われてしまうのだろう。人々が右往左往しながらやっていることは、それなり機能しているのではないか。昔は恐ろしい不具合が生じていたのであり、それを人々のたゆまぬ努力によって克服した、というような物語でも流布されているのだろうか。そういうフォーマットに当てはめれば、すべての物語がそういう話と見なされてしまうか。今も不具合が至るところで生じているのだろうか。しかし人々はどんな問題に立ち向かっているのか。人々ではなく君はどうなのか。何の問題もありはしないのか。問題などいくらも生じてくるのかも知れない。またそれが問題でなくてもかまわない。問題という言葉自体が不要なのではないか。何の根拠も持ち合わせていないのに、なぜそう思うのか。仮にそうであったらおもしろいと感じるだけか。たぶんそれは問題ではないのだろう。そんなことを思いながらも、どこかで聞いたことのあるようなフレーズに惹かれているらしい。それは誰の曲だったのか。誰かは何を勘違いしているのだろうか。勘違いではなく思い違いかも知れない。背後からオーケストラの音が迫ってくる。その思い違いを修正できるわけもないか。それは何かの映画だったかも知れない。映像の中では誰もがつまらないことに命がけなのだろうか。戦争映画ならすべてがそうなのかも知れない。刑事ドラマでも安易に人が死んでしまうわけか。それらは現実といかなる落差を有しているのだろうか。なぜ君の意識はそこから遠ざかろうとしているのか。退屈な光景に耐えられないのだろうか。だがどこまでも無人の荒野が広がっているわけではない。確かにそこには多くの人々が暮らしているようだが、それが無人の荒野に見えてしまうのはなぜなのだろう。そこから遠ざかっているのは本当に意識なのか。意識でないとすると何が遠ざかっているのだろう。世の中の出来事に関心を持てないのは君の意識ではないのか。その辺でわけがわからなくなってしまうらしい。ではそこから遠ざかってどこへ向かおうとしているのか。物事の始原にでも向かいたいのか。それが何だかわからなくなるようだ。あくびとともにそんなことを考えるのが面倒臭くなる。たとえ思考によって始原にたどり着いたとしても、そこには何もありはしないだろう。考えもしないうちからあきらめてしまったように装うのが好きらしい。せっかく現実から遠ざかろうとしていたのに、それではそれまでの努力が台無しなのではないか。しかしそんな妄想に誰が満足できるだろうか。妄想について具体的には何も記していないので、何がそこでの妄想なのかわからない。ただそんな妄想はあり得ないと思うが、妄想自体が荒唐無稽であり得ない代物のだから、それは当たり前のことだとも思う。要するに何を述べているのでもないことになってしまいそうで、それはいつものことでしかなくなってしまうだろう。そんなわけで君は何を考えているわけでもなさそうだ。この世界では何も起こらない。君がそう思っているのならその通りかも知れない。それでも何らかの出来事が起こり続けているとすれば、それらはすべて幻影でしかない。君は何を考えているのだろうか。そんな嘘が通用するとは思っていないはずだ。しかしそれらの出来事に興味を持てないことに変わりはない。無関心に毒されて頭の中が空っぽのようだが、わざとそんなふりをしているだけなのだろうか。本当に何もないからそうなってしまうのだろう。だが何が何もないのかわからない。何もないという状況自体もないのではないか。そこにあるのはただの文字列でしかない。ではそこには何が記されているのだろうか。何が記されているわけでもなく、何も記されていないわけでもない。何を記しているのかわからない。そのような状態になってからすでに一日が経過してしまったようだが、どういうわけかまだ何も述べられずにいるらしい。何となく限界が近づいていることは承知しているつもりだが、そんな限界を打ち破るつもりはなく、それが限界だとすれば、誰かの実体は限界の前で黙ってたたずんでいるだけかも知れない。


10月7日

 何もない状況では飽きたらずに、誰かはそこに何かがあるように振る舞おうとしている。それは演技の類だろうか。本当に何か気になることでもあるのだろうか。例えば国会中継の何に興味があるのだろう。なぜそこに集う人々はまつりごとにうつつを抜かしているのか。それはおもしろいからだろうか。それについて真剣に語る気にはなれないか。しかし雰囲気だけの映像はつまらない。馬鹿な若者が国会議員になったからといって、なぜそれほどまでにおもしろおかしく騒ぎ立てるのか。選んだ有権者もそれをおもしろおかしく騒ぎ立てているメディア関係者も、彼と同じ程度に馬鹿なのだろうから、それで釣り合いが取れているのではないか。それはまつりごととは関係のない現象だろうか。誰かはまたつまらぬ幻想を抱いているらしい。たぶん誰かには夢があるのだろう。その夢を抱いたままどこかに突き抜けられるだろうか。なぜ突き抜けなければならないのか。世界のどこを突き抜けようとしているのだろう。どこかを突き抜けて行方不明にでもなりたいのか。そのためには何をどうすればいいのだろう。すでにどうしようもなくなっているのではないか。不明確な言葉で上塗りされた意識の表層上で、それ以上は何を述べても無駄で、そんなことはわかりきったことになってしまうか。いったい何をわかっているつもりなのか。何もわからずに途方に暮れているのが実情ではないのか。わからないのにわかっているつもりになるのはおかしなことか。おかしいのはもとからなのではないか。それは何かの冗談だろうか。そんな風に述べていれば、また振り出しに戻ってしまうだろう。何を語っても元の木阿弥なのか。何を意図してそんな風に述べているのだろうか。わざと間違っているだけなのかも知れない。これまでに間違ったことばかり述べてきたような気がする。しかもその間違いを何一つ修正せずに、ここまで来てしまったのではないか。ここに至った経緯すら間違っているのかも知れない。いったいそうなってしまった事のいきさつは何だったのか。行き当たりばったりでしかないか。そのとき君は選曲を間違っている。そんな言葉とともにいきなりわけがわからなくなる。そうやって話をはぐらかそうとしているだけのようだ。転んでもただでは起きないらしい。転んだふりをしているだけか。そこで何に躓いたわけでもなく、その場の空気をつかめていないだけなのかも知れない。そんなことばかりやっている一方で、意識は何も把握していない。把握したつもりのそれが間違いだということがすぐわかってしまうのだろうか。何を把握したつもりになれるだろうか。たぶんそれは嘘だろう。だが自らが嘘をついていることを認識できるだろうか。それはそれらの文章を読み返してみて初めてわかることだろう。しかしそれは誰が記した文章になるのだろうか。なぜ自らが記した文章を読み返さなければ自らの意図したことがわからないのか。それは文章によって後天的に自らの意図が構成されているだけであって、本当にそれが自らが意図したことになるのだろうか。それでは構成された自らの意図自体がフィクションになってしまうか。やはりその自らは嘘をついているわけか。そういう次元の話ではないか。わざとわけをわからなくしているだけなのか。迷いながらも強引に話を展開させているらしく、意識してかなり粗雑なことを述べているようだ。また時間がなくなってきているのだろうか。何となく嫌気が差しているような気がして、そこからは言葉を繰り出すのが遅れてきたようだが、心はそれらの作業に魅力を感じなくなってきているのかも知れない。それらの作業とは何なのか。言葉を配置して文章を構成することがそれらの作業なのだろうか。その内容自体がつまらなく思えてしまうわけか。それらの文章の中では何が述べられているのだろうか。自らが記している文章の内容を把握できていないようだ。言葉がごちゃごちゃ入り組んでいるように思えて読み返す気にならないのかも知れない。いったいどうすればそれらの文章を理解できるのか。そこにはどんな結論が用意されているのか。また話があらぬ方向へ飛んでいるのかも知れない。どうも試行錯誤を経ないと結論へはたどり着けない定めらしいが、そんなことは当たり前のことだろう。だからといって別に結論へたどり着きたいわけではないか。何を性急にわかろうとしているわけでもないらしい。そこからわざと振り出しに戻ってみれば、何もないのに結論などはじめからあり得ないだろうか。だが本当に何もないのだとしたら、何も語れないのではないか。なぜそれでも何かしら語っているつもりになれるのか。語っている現状を認識できるのか。あるいは語っている内容のすべてが嘘なのだろうか。そんな状況に何を語ることが可能なのか。はたしてそれが語ることができる理由になるだろうか。それとは何なのか。それがそれでない理由がどこにあるのだろうか。それについて別に不可能に挑戦しているわけではないのだから、とりあえずそれが理由になっていなくても、そんな風に述べていればそれでかまわないのではないか。しかしそれが君の述べたかったことではないはずだ。だが何もないのに何を述べたいのだろうか。そうやって不毛な問答を繰り返しているうちにまたわけがわからなくなってしまうのか。できることならそんな予定調和の展開は避けたいところか。避けられないから毎度のことのようにそうなってしまっているのだろう。たぶんそれに関してはそれが真実なのではないか。しかしそれとは別の側面については何も語られていない。別の側面で何を語ることができるのだろう。別の側面なんてどこにもありはしないか。なぜそれがないといえるのか。またいい加減な言葉が循環しているらしい。そんな風に語りながら何かを取り違えようとでもしているのか。まったくわざとそうしたい気が知れないか。たぶん語り方が間違っていることは確かなのだろう。しかしそれ以外に何をどんな風に語ればいいのかわからない。そんなことを述べているうちに、何を述べたいのかがまったくわからなくなってしまったようだ。もともと何も述べたくなかったような気もするのだが、それでも何かを述べようとしているらしく、何でもかまわないから何かしら述べていれば、それで気が済んでしまうのかも知れず、そんな気分が反映されて、意味のないことを延々と述べている状況が醸し出されているのかも知れない。それが気に入らないわけか。誰が気に入らなくても続いてしまうの現状なのだろうか。いつものように何もないのに文章を記し続けている。そんな状態のままでさらに何かを記そうとしている。何もそこまでやる必要はないだろう。それが冗談でなければ、本当に気が触れてどこかへ突き抜けてしまうところか。はたしてまだ正気を保っているのだろうか。


10月6日

 何もせずにぐずぐずしているうちに、またこんな時間になってしまったようだ。いったいこれから何を述べたらいいのか。それがわかったら苦労はしないか。たぶん他の文章を読んでいないから何も思いつかないのだろう。だが安易にそんなことを述べていていいのだろうか。そうではないような気もするのだが、本当のところは、それを確かめる手段を見出せていないように思われる。何もないのだから何もあり得ないのではないか。それの何がおもしろいわけではない。おもしろがらせようとして語られる内容にはいずれ飽きが来るが、刹那的にそのとき聞いている限りでは確かにおもしろいと思われる。君はそんな話には興味がないのだろうか。それにしてはテレビのバラエティ番組をよく見ているような気がするのだが、そのとき芸人の話やパフォーマンスを見聞しながら笑っているのは、君とは別人なのだろうか。もしそれが君だとしたら、述べていることと矛盾しているだろうか。矛盾していて何が悪いのだろう。別にその手の矛盾を隠しているわけでもない。ではそこで何を隠しているのでもなさそうに見えるのはどうしてなのか。それはおかしな言い草か。いったい何を述べているつもりのだろう。また何を述べているのかわからなくなってしまうのか。やはり何かがずれているようだ。何がやはりなのかわからないのもいつものことか。要するにまたつまらないことを述べているわけか。何の根拠があってそれがつまらないことになってしまうのか。何がおもしろいのかわからないから、とりあえずそれはつまらないと見なしてもかまわないのではないか。それでかまわなければ他に何を述べたらいいのだろう。なぜ何も感じようとしないのか。その辺の積極性が皆無なような気もしてくるが、やはりそこには何もないのだから、それは仕方のないことかも知れない。またそういう話になっているのだから、それとは違う成り行きに持っていくのは至難の業か。だがそういう話ばかりではつまらない。つまらなければ何もできないか。要するに今回はそんなところで躓いているらしい。まったく何も見えなくなってしまったようだ。確かに比喩としてなら全盲に近いのだろうか。だが実際には見えているものを判別できないといった方が現状に近いか。いったいそこには何があるのだろうか。たぶんこの世界のすべてがあるのかも知れない。すべてがありながらもそれを感知することができないわけか。あるいはすべてが見えているのに、それを言葉で言い表せないといった方が正解なのか。何が正解であったりするわけもないだろう。それらは幻影でしかないというわけでもなく、幻影でさえ現実になってしまっているのだろう。しかしそれはどういうことなのか。それがどういうことでもないとしたら、それはいったいどういうわけなのか。要するにどういうことでもどういうわけでもないと同時に、どういうことでもどういうわけでもあるといった方が、より現状に適合しているのだろうか。しかしそれではさらに何を述べているのかわからなくなってしまうのではないか。この世界で何をどう考えたところで、それが何になるわけでもなく、それでも何かしら考えるならば、いくら考えても考え足りないのではないか。たぶんそこでは誰も何に参加しているのか理解できていないのかも知れない。人々はざわめきの中でそのざわめきと一体化しているだけなのか。しかし誰がざわめいているのか判別することはできない。ただそこにはざわめきと人が存在しているだけなのか。なぜそんなところに存在しているのか理解できないし、そんなことを考えようともしないだろう。ただ誰もがそこに存在しているだけなのかも知れない。存在しながらうごめいている。そしてそれに付随する幻影も、そこには存在せずに心の中でうごめいている。しかし幻影と本体の区別などつくはずもなく、それらは常に一体化しながら、互いに互いを威嚇しつつ影響を及ぼし合っているだけなのか。いったい君たちは何におびえているのか。自らの影に脅威を感じているわけか。たぶんそれは被害妄想そのものなのかも知れない。誰かが得意になって暴き立てているつもりの正体とはそんなものでしかないのだろうか。そんな簡単な見解では気に入らないのか。ではもっと大げさなことを思いついてみればいいだろうか。君は思いつけるはずのないことを妄想しようとしているのか。そんなことができるはずもないだろう。だからそこで迷い続け、そこで停滞しているのではないか、要するにそんな状況に我慢ができないということになるだろうか。だが何となくそれは馬鹿げていないだろうか。さっきからくだらぬことを述べているような気がするのだが、それ以外に何を述べたらいいのかわからず、また実際に何を述べているのかもわからなくなる。自らが述べている内容を理解できなくなっているのかも知れない。なぜどういうわけでそんなことを述べているのか。わけなどありはしないだろうか。あるとすればそれは偶然の成り行きでしかないか、雨降る翌朝に行き詰まっているらしい。言葉は要らぬ雰囲気を醸し出す。やはり馬鹿なのではないか。そんなことをやって何になるというのか。そこにもたらされている状況からどんな言葉が導き出されているのか。また自己言及の迷路にはまりこんでいるのだろうか。そうならざるを得ない状況なのだろうか。わざとそうしているのではないか、わざとらしくそんなことを述べている。同じような言葉を繰り返しているだけのようだ。それでネタ切れのつもりなのか。翌日の曇り空の下で誰かが困っているらしい。たぶんそんな風にしか思えないのだろう。烏の鳴き声が時折聞こえてくる以外に何を感じ取っているのか。何も感じられないわけがないだろうか。感じていることが言葉に結びつかない状況はよくあることなのか。だがそれが無の境地であるわけもない。なぜ何もないように感じられてしまうのだろう。この世界に存在する人々はただ動作しているだけなのだろうか。どこかでうごめいている物体は人以外にもありそうだが、それが生物である必要はないだろう。別にすべては物質から成り立っていることを否定するわけでもないが、それらの物質に魂や意識が宿っていれば人間になれるわけでもないような気もする。たぶん世間が認めるところの人間らしい動作をしていれば、人間はそれを人間と認識できるのではないか。しかしそれ以外の人間がはたして存在するだろうか。君は君自身を無能だと思っているのか。無能な人間が無の境地に到達できるだろうか。どこかで何かが省略されているような気がする。今はその省略された言葉を再現する余裕はないらしく、ただがむしゃらに意味のないことを述べながら前へ進みたくて仕方がないようだ。だがそんな意識が誰に宿っているのか。君は自らの述べていることをそんな風には思わないのか。


10月5日

 誰かは何かにつきまとわれているのだろうか。それは空気のようなものか。だが空気が無内容であるわけはないだろう。つまらないものに囚われていることに変わりはない。そんなことをいくら知っても無駄だろう。しかし何を知ろうとしていたのか。突然何かひらめいているのかも知れない。君はそんな風に感じていたいらしい、やはりそれもいつものことだろうか。どこかの国の大統領が何か演説しているようだが、その内容にまで踏み込むほどのこともないだろう。何となくそんなことはどうでもいいのだろうか。そんなテレビ画面に背を向けて、適当な音楽を聴いている。それがその場の雰囲気に合っているかどうかは、それを体験しているそれぞれの意識よって判断が分かれるところか。そこではどのようなことをやれば適切な動作となるのだろうか。そんなことまで考えて行動しているわけではないが、それ以上に何かを考えようとすると、虚しさがこみ上げてくるようだ。しかし何かとは何なのだろう。それは誕生初期の記憶だろうか。何がそこで生まれたのか。それは単なる妄想の類だろうか。何を思い出そうとしているのか。過去の記憶の中に何か思考を進める上での手がかりでもあるのだろうか。思考を進めてどうするのか。それらの何を推し進めようとしているのだろう。はたして考えることは無駄なのだろうか。誰が無駄だと思っているのか。そんなことを述べながらも、何かが着実に進化しているのだろうか。何を進化させたいのだろう。それはつまらぬ語り口の類か。またわざと思いとは違うことを述べているようだが、依然として誰が何を思っているのか明らかにはならない。そんなのは嘘だろう。それが嘘であることは承知しているつもりだが、嘘でない真実が明らかになることはないだろう。事の真相を探るつもりはなさそうだ。誰がそれを求めているわけでもないらしいが、そんなことを述べ続けるのはおかしいだろうか。何となくまた頭がおかしくなりそうな気配がしている。そんなことばかり述べていてはまずいのだろうか。だが他に何があるというのか。たぶん何もありはしないだろう。おかしいのは頭の中身だけではなさそうだ。考え方が根本的に間違っているのだろうか。どんな考え方をしているのか明らかではない。君はそこで何を考えているのだろうか。何も考えてはいないのかも知れないが、それでは何が間違っているのかわからなくなってしまうだろう。世の中はつまらないことに支配されているわけではない。たぶん何を求めているわけでもないのだろう。誰の気分が最悪であるはずもないか。それで何を述べていることになるのかわからない。虚しいとはどういうことなのだろうか。虚しさはどこから漂っているのか。何も明らかにはならないと感じている。そこから何をどう述べても虚しさを払拭することはできない。それは何か予言なのか。なぜ予言だと思うのだろう。すべては予言通りに進行しているのだろうか。物事のすべてを把握することはできない。把握しようとしていないのかも知れない。しかしなぜそれほどまでの集中力を持続できるのか。話があらぬ方向へ飛んでいないか。何かを把握しようとして、その何かに近づこうとしているにもかかわらず、そこには精神の集中が皆無なのだ。何がそこで持続されているのか不明になる。言葉の用法的に間違っているのだろうか。それをそのままにしておいていいのだろうか。さっきまでの虚しさはどこへ行ってしまったのだろうか。わざとわけがわからなくしているのでもなさそうだ。自然とそうなってしまっているようだ。それでも何か述べるべき内容があるのだろうか。真夜中に何を述べようとしているのだろうか。何も述べられないのではなかったのか。このままではさらにわけがわからなくなってしまう。それでかまわないのだろうか。何となくそれでは予定調和のような気がしてくる。久しぶりにそんな台詞が出てきたような気がする。そんな風に述べるのは卑怯だろうか。それで正々堂々と物事に立ち向かっているのだろうか。それなりに立ち向かっているつもりなのか。それでもかまわないと思ってしまう。自然とそうなってしまうのだから仕方がないだろう。それを否定してはならないような気がしてくる。それでいいと思っている。そんな風にしか述べられないのだから、それでかまわないのかも知れない。わけのわからないことを述べていれば、少しが気が晴れるのかも知れない。馬鹿なことをやっていれば、少しは自らの馬鹿さ加減に気づくだろうか。何が馬鹿なことなのかわからないか。そんな風に述べていること自体が馬鹿なことなのかも知れない。気分的にどこか抜けているらしい。その抜けたところから嫌な気分が抜けて行ってしまっているのか。それは何か解毒作用のようなものか。いったい今までどんな毒が回っていたのか。何に苦しんでいたのだろう。なぜそれがわからなかったのか。今もわかっていないのではないか。いつものようにそれをわかろうとしていないのだろう。そんなことがわかってしまえば、他にわかるようなことは何もなくなってしまうだろうか。それはどういうことなのだろう。たぶんどういうことでもなく、そういうことでしかないのだろう。何がそこで明らかになっているわけでもない。それより先に思考が巡らされているわけでもなく、考えの及ばないところで事態が進行しているのだ。君はそれを黙って眺めていることしかできはしないのか。そんな風には思わないか。そんな事態が進行するにつれて、次第に何にこだわっているのかわからなくなる。何かの風化作用にさらされているのかも知れない。それでも馬鹿なことをやっていることには違いないか。いったい何をやっているつもりなのか。そんなことがわかってしまえば、他に何も述べることがなくなってしまうだろうか。いつの間にか言葉が連なってしまうのは、君が馬鹿だからなのか。そんな理由は理由になっていないだろう。根拠など何もありはしない。しかしそれでもそんな風に感じてしまうのはなぜだろう。やはりすべては冗談で述べていることなのか。そんな風に思えてしまうのも君が馬鹿だからか。君の何が馬鹿なのかわからない。そういう切り返しには飽きているのかもしれないが、成り行き的にはそう述べるしかないのかも知れない。だがそれで何かを述べているつもりになれるだろうか。真夜中にあくびとともにくだらない気分になってくる。いったい何をやっているのだろうか。わざとらしくそんなことを述べるのにも飽きてきたようだ。だからつまらなくなってきたのだろうか。たぶんまだ毒が抜け切れていないのだろう。しかし何でもかんでも毒のせいにすることはできない。要するに都合の良いときに毒を持ち出しているだけか。だがそんな風に思ってしまえば、他に何どう思えばいいのかわからなくなる。


10月4日

 また性懲りもなくこれからつまらないことを述べようとしている。そう思うのならやらなければいいだろう。何かの義務感がそうさせるのか。なぜそんなことを思うのだろう。それは慣性の法則のようなものか。物体が動き出したら抵抗力が生じない限り動き続ける。しかしそれを動かしている力の源泉を知らない。いったいどこから力が湧いて出るのか。それは虚無の空洞にある真空状態から発生しているのだろうか。空間を膨張させる力が働いているわけか。だが虚無をひたすら押し広げて何がおもしろいのか。それはおもしろいとかつまらないとか、そういう水準で働いている力ではないか。そんな力に逆らうこと自体無理であり、馬鹿げているのだろうか。そう述べると闇の向こう側から、何に逆らっているわけではない、という返答が必ず帰ってくる。その台詞は作用反作用の法則に対応しているのか。闇の向こう側にはどんな意識が渦巻いているのか。それは何らかの感情を伴っているのだろうか。そんな感情にいちいちつき合っていたら、触れるだけで気疲れしてしまい、他に何もできなくなってしまう。だからそれをひたすら無視しようと試みているわけか。だがそんなことなどできるはずもなく、四六時中感情的に追い立てられまくっているのかも知れない。それは何かの復讐を形成しているのだろうか。君は何に復讐しているつもりなのか。そのくだらぬルサンチマンによる攻撃は何を破壊しようとしているのか。その攻撃の矛先はどこを向いているのだろうか。はたして攻撃する対象があると思い込んでいるのだろうか。何もかもが空振りに終わっているのかも知れない。そんなものなどもとからありはしない。何もない場所に空虚な雰囲気が漂っているだけか。例えばそこにはありふれた音楽がランダムに鳴り響いている。その種類は様々なジャンルに及んでいるかも知れないが、そこで鳴り響いているどれ一つを取ってみても、何の興味も湧いてこない。なぜそんなものを聞いているのか理解に苦しむが、それでもささやかな気晴らし程度にはなっているのかも知れない。しかし本当にいつまでもそんな投げやりな気分でいられるのだろうか。ふと気がつくと足の甲に痛みを感じている。それとともに他の状況にも気づいてみないか。頭がおかしいのではないか。頭ではなくこの世界が狂っているのか。だがそんな逃げ方では満足し得ないだろう。いくら逃げてもすぐに時間が追いついてくる。意識的に時間に追いつめられているのか。精神的に追いつめられて、または架空の袋小路に追いつめられて、そこで自滅を選んでしまうわけか。その仮想空間では自滅以外に何も選べないのかも知れない。だから彼らは常に玉砕を覚悟してしまうわけだ。そうならざるを得ないような成り行きに囚われているのだろう。君はそこから逃げようとしている。必死の形相で走って逃げているつもりのようだが、なかなか思ったほどには遠ざかれないのはどうしたわけだろう。逃げた分だけ向こうから近づいてくるわけか。そんなことがあり得るだろうか。その場で思いついた妄想だけで述べているのであれば、仮にそんな状況があっても許されるかも知れない。ではすべてはフィクションになってしまうのか。少しは実情も反映されているのではないか。だが本当にそんな状況のただ中にいるわけではない。そんな妄想の世界が逃げ続けているだけなのかも知れない。ただ言葉で示されている内容は大げさすぎるか。誰かはそこから何を連想するのだろうか。そんなことばかり思っていると、そこからさらに妄想が膨らんでしまうのではないか。そしてそんなことをやり続けることによって、それらの文章が執拗に構成され続けるのだろう。だからそんな内容になってしまう。君はそんな状況をただ容認し続けているようだ。仮想空間ではそれ以外に何もできはしないだろう。だからそれは虚無にとって好都合なのかも知れない。自らの増殖には好都合の環境になっているのだろうか。しかし闇の向こう側では、何が好都合なのだろうという弱い反発が生じているらしい。要するに意味がないのかも知れない。それらのどこに意味が生じる兆候があるのか。それらの何から虚無を感じ取っているのだろう。無意味を目指すことは意味のないことだろうか。なぜそんな風にしてわざと話をわからなくなせようとするのか。そのままではつまらないと感じるわけか。つまらないと気に入らないということか。しかしなぜ同じ台詞を二度繰り返さないと気が済まないのか。それらの何がつまらないのかわからない。それがおもしろかったりつまらなかったりすることがあるとは思えない。それはただの言葉の連なりでしかないのあって、そこにおもしろかったりつまらなかったりする判断は当てはまらないか。しかしそうだとするとそこでは何を読んだらいいのか。どう読めばそれ以外の何かを感じることができるのか。それ以外に何があるというのだろう。空虚や虚無にそれ以外も何もないだろうか。ではそうならばどうすればいいのか。それでもどうにかしていることは確かだが、それでどうにもできない現状を変えているつもりなのか。変えようとして変えているのではなく、自然に少しずつ変わっているのだろうか。もう何も思っていないつもりなのに、そんなこととは無関係に言葉が連なっている現状に変わりはないだろう。そして何をどうしたらいいのかわからずに、途方に暮れているようだが、それが白々しい嘘だということもわかっている。だからそれ以外にどうしたらいいのかわからなくなってしまうらしい。そこでは同じような言葉が繰り返し循環し続けているわけだ。君はそれを止める気はないのだろうか。止めようとしても止まらないわけか。本当は簡単に止めることができるが、それが嘘だから止まらないのかも知れない。何となく理由になっていないような気がしてくる。述べようとしていることとは違うのではないか。ではそこには述べたくても述べられないことがあるわけか。なぜそうやって嘘をつくのだろう。それが冗談の一種だから嘘をついてしまうのか。だが今ではそんなごまかしは通用しなくなっているのかも知れない。絶えずそこから抜け出なければならないと思いながらも、そんな思いはすぐに打ち砕かれて、何によって打ち砕かれているかもわからずに、ただいつものペースに引き込まれてしまい、何を述べているかもわからずに言葉だけが連なってしまう。思いよりも繰り出される言葉が先行してしまい、思いは先行して繰り出された言葉に対するものだけになってしまうらしい。要するに思いは絶えず意味不明な言葉に囚われていることになる。そしてそんな不自由な状態を抜け出られずに、心の中で何かがもがき苦しんでいるというわけか。しかしそんな説明のどこがおもしろいのだろうか。だからすでにそれらの文章はおもしろかったりつまらなかったりすることとは無関係だと述べているではないか。


10月3日

 なぜか目の前の現実が信じられない。なんでそうなってしまうのだろう。君は何を述べているのか。トラブルに悩まされているようだ。それは些細なことだろうか。事を性急に考えてはならないようだ。そして何もやらずに寝てしまう。それはすごいことだろうか。何がすごいのか皆目見当がつかないが、たぶんすごいことなのだろう。何も起こらないよりはすごいことなのかも知れない。そのままでは何も起こりはしなかったのか。だからそのままではなくなってしまったのか。それが理由になっていないことはわかるが、そんな風にしか述べられないようなことでしかないのかも知れない。また何について述べているのでもないような気がしてくる。たぶんいつものように疲れているのだろう。疲れ以外に何も感じないうちに寝てしまったのかも知れない。そして危うく風邪を引いてしまうところだった。なぜそこから立ち直れてしまうのかわからないが、何となく翌朝に目覚めてみると、そんな風に思っている自らがそこに存在しているようだ。はたしてそれでいいのだろうか。それでいいわけがないと思うなら、その後にどんな台詞を導き出せばいいのか。自らの思いに叶うような言葉がすぐに求まるわけもなく、しばし煩悶しているつもりになって、見せる相手もいないのに苦悩の表情を浮かべてみる。なぜそんなわざとらしいことを演じる必要があるのか。ただわけがわからないだけだろうか。そんな状況を招いているのは自らの過失だろうか。故意にわけがわからなくしているのかも知れない。それを一つの考えにまとめるのが面倒なのか。考えがまとまらないのはいつものことだろうが、それをいつものこととして放置していていいものかどうか、その辺で判断がつかなくなっているのかもしれない。そこから先に何を述べていいかわからなくなり、思考が立ち往生しているらしい。迷うには迷うための材料が不足しているようだ。いい加減に何を述べているのだろうか。すらすらと無駄でどうでもいいことならいくらでも述べられるか。だが切羽詰まっている感は否めないようで、ちょっと焦りを感じながらも、無人の空洞を思い浮かべながら、それが虚無の正体だと思い込もうとして、そこにどうでもいいような言葉を詰め込んでいるつもりになる。そんなことをやって何になるのだろう。悩みから解放されるとは思わないが、その虜になっているとは思いたくない。いつでもそこから抜け出せると思いながらも、いつまでもそんなことをやり続けている現状を忘れたくなる。だが何かためになるようなことを述べたくはない。述べていることが無駄であり続けているようなことを述べていたいのか。たぶんそれは嘘だろう。ただ現状を肯定しているつもりになりたいだけか。そして危うく眠ってしまうような状況に出くわしているところか。さっきまで何を述べていたのか忘れてしまいたくなるか。そうやって無駄に言葉を連ねていることが、精神的な重荷になっているのだろうか。そのような状況から何がわかるのか。何をそこで考え込んでいるのだろう。言葉に詰まって嫌気が差しているのか。だがそんな風に思えてきたらしめたものか。そこがやめるチャンスなのだろうか。自らがその機会を捉えていると思っているわけか。なぜそうやって自らが思いもしないことを述べられるのか。そうではないからこうして言葉が続いてしまっている現状があるのではないか。それは思いもしなかった展開になるだろうか。いったいそれらの無駄な語りはどこまで進行してしまうのか。誰の深層心理を探ろうとしているわけでもない。そんなものがあるはずもないだろう。どこに何があると思っているのか。あるのはただこの世界のみか。それで何を述べようとしているのでもない。それはただの浅はかな思いつきの一端に過ぎないのだろう。そこから何かができると思い込んでいるだけか。そしてそんなことは君の知ったことではない。いったい何かを思う権限は誰に備わっているのだろう。なぜ唐突にそんなことを考えるのか。自らが多重人格のふりをしているだけではないのか。誰かはそれが浅はかだといいたいわけか。それの何が浅はかなのだろうか。いつまでもそんな問いかけを蒸し返していても、何の進展もありはしない。どこまで述べてもそんなことの繰り返しになるだけか。ただあくびとともに朝がやってくるだけだろうか。それが無駄なことだと思わないはずがないか。やはりそこでわからなくなる。君の本心はどこにあるのだろうか。それらの文章の中にはないのか。今さらそんなことを考えてみても仕方がないだろう。それで何がわかるわけでもないか。何かしらわかってきているのかも知れないが、そのわかってきたことと君の本心とは無関係かも知れず、そこで何かがリセットされているのかも知れない。そんな風に感じられてしまうのはどういうわけでもなく、ただそんな文章の成り行きになっているだけなのだろう。意識はそれでそこを切り抜けたつもりになっているが、それは君が感じていることではない。その時点で君は何もわかっていないのかも知れない。たぶんそんなことを述べているのは君ではないのだろう。わざとわけがわからなく思わせるような意図が、意識とは別のどこからか働いているのかも知れない。書かれた文章がそうさせているのか。しかしそれではさらにわけがわからなくなるだろうか。ただそれをわかろうとしない意識がそんな風に思い込みたいだけか。そこから何かの構造を明らかに出来るとは思わないか。要するに君はそんな状況から逃れたいと思っているのか。そう述べることによって逃れられたらおめでたいか。何がおめでたいのだろう。おめでとうという言葉は使いようによっては、馬鹿にされているような気がしてくるだろうか。その反面そこから愉快な気分も導き出されるかも知れない。だがそこにいたってそんなことはもうどうでもよくなっている。まだそんなことを述べている状況をいかんともしがたいようだ。どこまで述べてもそうなってしまう現状をどうすることもできずにいるらしい。しかしそこからしか文章を展開することができないのだから、それはそれでそういう成り行きなのであり、意識はそれを肯定できないが認めざるを得ない。それはやろうと思えば誰でもできるようなことなのか。あるいは誰も試したこともないことをやっているのだろうか。知らず知らずのうちに言葉が未知の領域にでも踏み込んでいるわけなのか。そうであったらどうなるのだろう。なぜ別にどうもしないように思えてきてしまうのか。何となくそれは予定調和の範囲内になっているわけか。そしてそんなことは誰の知ったことでもないか。誰に頼まれたわけでもないのに、そんなことをやっているだけなのだろうか。だからどうしたわけでもないが、どうもしないということは、少なくともどうにかなっていることの証となるだろう。


10月2日

 もし明日になってしまったら、昨日ことを思い出せるだろうか。そこで何を述べていることになるのだろう。いつもながら疲れているのだろうか。何も思いつかないので、だんだん語るのが面倒になってくる。冗談になっていないような気がするのだが、それでやる気を煙に巻いているつもりなのか。寝て起きて疲れたら、そこで一休みかも知れないが、今は休むはずのないタイミングだろうか。何かが遠くに見えたり近くに見えたりしているようだが、ピンぼけしていて、その事物が何なのかわからない。君の頭脳にはその性能に限界があるらしい。無理な姿勢で何かを述べすぎなのかも知れない。あくびとともにやる気が失せてくる。そんな状態でいくら探しても、何も見つからないだろう。そこは何かを探すような場所ではないのかも知れず、立ち直るきっかけなどどこにもありはしない。意味が通じていないような気がする。何をやるためにきっかけが必要だったのか。それはきっかけなどなくてもやっていることではないか。君が今何を考えているかなんて知ったことではないが、過去において誰がそんなことを考えていたわけではない。そんなこととはどんなことなのだろう。何を考えていたのか忘れてしまったらしい。忘れる以前に思いつかなかったのかも知れない。それでも君はそこから始めなければならない。想像力が失われた場所から何を叫んでいるのか。実体が欠如した何かの抜け殻の中に空洞が穿たれていて、その内部で何かが響き渡っているように感じられる。何もないのに何を開き直っているのか。なぜか根拠のない自信に支えられているようで、たとえ意味不明に陥ろうと、そこから先に何も述べられないわけでもないらしい。何を述べているのかしどろもどろのうちに、気がつくと現実の世界に戻ってきているように感じられ、誰かはしきりに腕時計をのぞき込みながら時間を気にしているようだが、そこでの時間の進み具合はどうなっているのだろう。現時点ではとりあえずまだ時間はありそうだが、はたしてその余裕をいつまで感じていられるのか、時が経つにつれてだんだん不安が増しゆき、何もないことに焦りを感じながらも、その世界での自らの存在理由でも知りたくなってくるだろうか。だが君はそれで自らが罠にはまったと思えるのか。しかし罠にはまっている兆候も根拠も、何もありはしないのではないか。それで気が済まないのなら、辺りをもっとくまなく探索する必要があるだろうか。はたしてそこにいつまでも存在していていいのだろうか。工夫を凝らずタイミングを逸しているように思われ、今から何を説明しなければならないのかわからなくなる。そんなことを述べて何を説明しているわけでもないが、すべての水準ですべての事物が混じり合い、それらが互いに関連し合いながら、併置され共存しつつ存在していて、全体としてこの世界を形成しているらしい。それで何を述べているつもりになれるのか。何がこの世界を形成しているのだろう。そんな解釈は嘘であり無効だと思うわけか。君はまた間違ったことを述べているらしい。そして間違いながらもそれでいいと思っている。それしかできないのだから、それ以上に何を求めてみても仕方がないのだろうか。だが思わぬところからほころびが生じてしまうこともあるようで、後から思えば、それらの攻撃の何が完璧だったのか、皆目見当がつかないような状況になっているのかも知れない。君はそのときどのような攻撃にさらされていたのだろうか。なぜ今はそれを覚えていないのか。わざと覚えていないふりをしているだけで、案外そのときは死にものぐるいで抵抗しなながら、攻撃をかわしているつもりだったのかも知れない。しかし今となってはそれが何だったのかうまく表現できずにいるらしい。それは言葉では言い表せないような苛烈な攻撃だったのか。だがなぜ薄ら笑いを浮かべているのだろう。要するに本気でそんなことを思っているわけでもないということか。そんな風に語っている自らがどこに存在しているのか理解できていないようだ。もしかして君はフィクションの中で語っているのではないか。しかしそれが君の決め台詞になるだろうか。そう述べて現実から逃避しようとしている。だがそれもいつものことだろう。そしてそんな風に述べながらも、誰かはどこへ帰ればいいのかわからない。本当にこの世界には帰る場所がないのだろうか。すでにそこに帰っているではないか。さっきからだいぶ騒音が気になっているのか。何とかその騒音に対処するまでにはまだ時間を要するだろう。君はやり方をすでに考えついているはずか。何通りかの対処法が提示されているらしいが、今はそんな話をしようとしているわけではない。君はどうやってその攻撃をかわしたのか。なぜいつまで経ってもそれが明かされないのか。もとからそんな話は聞いたことがないか。誰が聞いたことがないのかがわからないか。その話はうやむやのままにしておきたいのかも知れない。たぶん何かが容易に解決されては困るのだろう。問題はいつまで経っても解決されないままに放置され、風化や摩耗作用によって忘れ去られるべきなのかも知れない。問題自体が解決を必要としていないのだろうか。そんなことを考えているうちに耳鳴りがしてくる。なぜそんなことを思っているのだろう。それらの何が反映されて君の意識を形成しているのか。それはただわけがわからないでは済まない問題なのだろうか。君はそれについて何を知っているのか。それとは何なのだろう。それもわからずに話を進めてもいいのだろうか。何を蒸し返しているのかわからなくなるが、そんなことを述べている君を世界は愛しているのだろうか。愛などという言葉が誰に向かって放たれているわけでもなく、それは普通に意味のわからない問いかけになっているだろう。それに対する返答として特定の言葉は使いたくないが、はじめからわけがわからないのに、そんな言葉など特定できるわけもないか。それでもそこであえて嘘をつくとするなら、まだ何も述べていないということになるだろうか。そこから推測可能なことは、それとはまったく違うのだろうか。まだ頭の中で思考が整理できていない段階で、見切り発車的に語り始めてしまったようで、不意に自らが思わぬことを述べていることに気づき、そこで驚いて、語りが止まってしまっているのだろうか。だがはたしてそれがそこでの状況説明になっているのか。そもそも誰に説明を求められているわけでもないだろう。ただ無理に語って、挙げ句の果てに何を語っているのかわからなくなっているだけか。やっていることはそればかりなのかも知れず、そんなことを繰り返すだけ繰り返し、しかもそれをまだ執拗に続けようとしているわけか。まったく呆れを通り越して、通り越した先で何を述べているのかよくわかっていないらしい。


10月1日

 なぜ疑問に答えようとしないのか。そのような態度に疑念を抱かざるを得ないか。君はいつものように嘘をついているのではないか。そのとき君は何を考えていたのだろう。そんなことを思い出す必要もないだろうが、夕暮れ時に見た光景を思い出せない。それはいつのことだろう。理由は何もわからないのだが、眺めている風景が徐々に遠ざかっているように感じられる。心がこの地上から離れていっているのかも知れない。何を心にもないことを述べているのだろう。そこで何に気づいたのか。冗談で何を述べているのでもないらしいが、別に何も考えていないのに、そしてたぶん何も考えられないような気がするのに、それでも強引に何かを考えようとしている。しかし何を考えようとしているのかわからない。そんなことはあり得ないだろう。そんな気がしているだけで、本当は考えを明らかにしようとしているのかも知れない。はたしてそれが自らの考えなのだろうか。まさか誰の考えでもないと述べるつもりなのか。そうだとしたらどうなのだろうか。取り立ててどうもしないか。ただつまらないことを述べているだけか。それではまだ自らの考えを述べていないことになるのだろうか。たぶん何を述べているわけでもないのだろう。そうやってまた逃げてしまっているのかも知れない。何から逃げていることになるのだろう。それがわからないと思い込んでいるわけか。そんなことを思ってみても仕方がないか。何をどう思ってみても、どこから何が出てくるわけでもないが、何かを考えているふりをしてみたところで、何がどうなるわけでもないか。まだそんなことしか述べていないのだ。やはりそんなことばかりでは気に入らないだろうか。いつまで経っても無理なことをやっている。無理を承知でそこからさらに時をさかのぼらなければならないか。別に過去の話をしているわけではない。ただ馬鹿なことを述べている。そう思われるのはどうしてなのか。どうしてというわけでもなく、ただ現状についてそんな風に述べていないと気が済まないのだろうか。その辺をはっきりと認識してるわけではないのだが、何となくそれとは違うように思えるときもあるらしい。依然として何を述べているのか不明のままかも知れない。別に現状から遠ざかろうして遠ざかっているわけではなく、向こうからどんどん離れていってしまうように感じられ、そんな現状について、そんなことはどうでもいい、としか思えないのはどういうことなのだろう。なぜさらに遠ざかってしまうような成り行きになってしまうのか。もしかしたら君はどこからも何からも必要とされていないのではないか。そんな風に思っていられたら、気が楽になるだろうか。またいつでも笑っていられたら、気が変になるだろうか。壁の表面に誰かの微笑が貼り付いている。そんな絵を見てもそんな風には思わないか。まだ始まりのきっかけをつかめないうちに、勝手に言葉が連なっているらしいが、それとは関係なく誰かが遠くへ連れて行かれているようだ。そんな述べ方はおかしいだろう。たぶんそこでは物語が始まっているわけだ。だから際限なく執拗に言葉が繰り出されている。映像によってどんな話が再現されているのだろうか。はがれた指の爪が徐々に再生されてゆく。はがれたときはさぞかし痛かったことだろう。君はそこにいないのか。君を誰が捜しているわけでもないらしい。くだらぬ暴力の連鎖はごめん被りたい。だからどこかへ雲隠れしてしまったのか。君はすべてがうまくいくことを知っている。話のあらすじを理解しているようだ。またそこで誰が死ぬかも前もってわかっている。そしてそこから先に困難が待ち受けているのだろう。君はそこから何を物語るつもりなのか。それができないうちは、いつまで経っても意味不明なだけか。何をどう語ろうと、問題はその辺にあるのだろうか。それは現時点では解決不可能な問題なのかも知れない。君にできることといえば、ありきたりの物語を馬鹿にしながら批判することだけか。そんなことをやっていて虚しくならないか。しかしそれでかまわないことを君は知っている。それしか求めていないのではないか。目的はそんなせこい範囲内にあるのだろうか。そんなものを求めて自らの理解可能なものに接して、安心したいのだろうか。しかしそれで何を批判しているわけでもない。まだその先があるはずか。その先に思わぬ落とし穴でも開いているのか。そんなつまらない成り行きでは感動からは程遠いか。どのような結末に至りたいわけでもない。そんな成り行きからもたらされるどんな結果も受け入れがたいか。君はそんな紋切り型の展開から遠ざかりたかったのではなかったか。そんな作り話を思い出したつもりにでもなりたいわけか。それは嘘なのかも知れない。何となく嘘をついて、そこから逃げ出したくなってきたように思われる。いつまでもそんな話にはつき合っていられないか。はじめからそれらの何に興味があるわけでもないので、それとは何の関連もないことを述べてみたくなる。そこかが何かの分かれ道なのだろうか。だが君には行く当てがない。分かれ道の手前でもと来た道を引き返したくなってくる。どちらにも進みたくないわけか。では暇つぶしに立ち往生でもしていようか。何を強がっているのか。そんな場所で孤独に耐えられるわけがないだろう。だからそこからずれなければならなくなるわけだ。ずれて道なき道を進むでもなく、そこから引き返すふりをしながら、前に進んでいるつもりになる。結局何をやっているのか曖昧なままに、何もやらずに言葉が連なるままに自己を放置しておく。そんな芸当ができるわけもないか。いったい何を思い描いているつもりなのか。ただ眠たくなってきたらしく、面倒なので投げやりになって、言葉を虚空に向かって投げかけているだけなのか。そしてため息交じりにそれらの惨状を黙って眺めている。そこにもたらされているのはそんなことなのだろうか。それではあまりにもいい加減すぎるか。君は事件の目撃者などではなく、ただの作り話を読んでいるだけの存在だ。ではそれは何かの小説なのだろうか。どんな類の何が小説と定義されるのか。そんなことまでわからないふりをするつもりか。そんなことを述べているうちに馬鹿らしくなってこないか。くだらないことを述べているような気がしてくるか。しかしそれでも何を述べているわけではない、と嘘をつきたいのか。本当に何も語る対象がないのなら、なぜ自らを語らないのだろうか。そこに自己顕示欲などあるわけもなく、自己そのものを文章の中に導入することが嫌いなのだろうか。だが嫌いだからといって、何もやらずに済んでしまうわけもないだろう。実際には何もやっていないわけではなく、所々で適当にごまかしながらも、何かを微かに語っているつもりなのかも知れない。