彼の声5

1998年

3月25日

 うっ!CD-ROMドライヴが動かない、分解してみたけど、何がどうなっているのかわけが分からなかったのでまた組み立ててみたものの、やっぱり動かない。やっぱ新しいのを買わなけりゃならないのか…しかしこの本体価格39,500円のPC98に新しいCD-ROMドライヴを買って付ける気にはどうしてもならないんだよなあ…だけどこのままじゃCD-ROMからインストールできないなあ…困ったなあ…Win95がおかしくなったときの再インストールはもちろんのこと、ようやくFreeBSD(98)の本を買ってインストールしようと決心した矢先だったのになあ(去年の7月にDOS/V本の方を間違って買ってしまって苦労して入れたがXの設定がうまく行かずにそのままほったらかしにして以来)。…しかし今までサウンドボードやメモリやハードディスクや…すいぶんいろいろ増設してきたよなあ…たぶんもう合計で二十万は超えているはずだよなあ…確かこの壊れたCD-ROMドライヴは16,000円くらいしたっけ…はぁああぁあぁあぁぁぁ…また買わなけりゃならないのかあ(こういう時にビンボウショウのセコイ性格は困るんだよね)…もういい加減あきらめて安いDOS/Vマシンでも買おうかなあ…そういえば『Hello!PC』4月8日号の「スマートショッピング友の会」では秋葉原のAMULETという店でMMX P-166マシンに10BASE-TのLANカードと「FreeBSD、Caldera Open LinuxBase、Red Hat Linux」のいずれかのOSをインストールして簡易設定済みで128,000円(モニタは別売)で出荷してくれるとか記事になっていたけれど、それってやっぱ安いのかなあ?でもまぁ、DOS/Vマシンを買うかどうかは、このままCD-ROMドライヴが壊れたまま使い続けてどうしようもならなくなった時点で考えようかな、なんて書いておいて、来週あたり、すかさずCD-ROMドライヴを衝動買いしたりしてね(笑)。

 ってなわけで(だからどういうわけなんだ!ぜんぜん前の文章と脈絡ないじゃん!近頃このパターンばっかだよ)、今回も無断引用でお茶を濁してみましょうかね。また例によってこのあいだ『批評空間』II-16を読んでいたら、スロヴェニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクが面白いことを述べていたので、それを紹介しちゃおうと思うんだけれど、それは本文じゃなくて【註】の部分なんだよ。でも【註】だけ紹介しても意味不明かもしれないから、一応まずは本文を紹介するけど、ちょっと本文は難しい文章かもしれないから覚悟して読んでね。

 VR(ヴァーチュアル・リアリティ)が与える衝撃が資本主義の力学に基づくものであるかぎり、当然のことながら、マルクスによる資本主義の分析、欠如と過剰とが相互に依存していることを強調したマルクスの分析は、VRを論じる者には今もって必要不可欠な参照点である。市民社会に関する理論の中でヘーゲルがすでに指摘しているように、近代の貧困は次のようなパラドクスをはらんでいる。すなわち、富の欠如は、社会の生産力に限界があるから生じるのではなく、まさしく生産過剰によって、「あり余った富」によって生みだされる、ということだ。剰余と欠如は相関しているのであり、欠如(下層民の貧困)はまさに、過剰生産の顕れなのである。こうした理由により、欠如と過剰との「バランス」をとろうとするいかなる試みも(ファシズムは、その経済政策、社会的(再)生産のサイクルに再び根源的なバランスをもたらそうとする必死の試みでなくて何であろうか)必ず失敗する運命にあるのだ。より多くの富を生産することによって欠如(貧困)をなくそうとする試みは、貧困の拡大につながってしまうのである。やや異なるレヴェルにおいてであるが、こうした欠如と過剰の相互依存と同型の関係性を、スターリン版の「全体主義」のなかに見いだすことができる。スターリン型の官僚主義の宇宙において、超自我はどのように機能しているだろうか。その機能ぶりを示す究極の事例は、言うまでもなく、スターリンによる粛清である。スターリンの腹心の高官たち―エジョフ、ヤゴダ、アバクーモフ―のたどった運命には、超自我という概念につきまとうダブル・バインドが見事に表されている。この三人は、反社会主義的な陰謀を次々と見つけださねばならず、その責務の重圧を絶えず感じていたわけだが、あますぎる、警戒心が足りない、などとつねに非難されていた。そういうわけで、彼らが〈指導者〉の要求を満たす唯一の手段は、陰謀をでっち上げ、罪のない人を逮捕することであった。しかしながら、こういうやり方は三人の劇的な失脚を準備するものでもあった。というのも、三人が実際は反革命的な帝国主義勢力のスパイであり、善良で献身的な共産党員の命を奪っているということを示す証拠を、すでに活動中であった彼らの後継者が収集していたからである。したがって、犠牲者の無垢はゲームの一部なのであり、この無垢が、「自分の子供を食らう」革命的粛清の自己再生産的なサイクルを循環させるのだ。(反革命勢力との闘いに対する情熱をめぐって)欠如と過剰とが「ほどよい均衡」に達することができないという事態ほど、スターリン型の官僚制における超自我の機能をはっきりと示しているものはない。ここにおいては、いかなる態度も、あますぎる(裏切り者を十分な数だけ見つけなければ、暗黙のうちに反革命勢力を指示していることになってしまう)か、警戒しすぎている(この場合もやはり、献身的な社会主義の闘士を有罪にしたかどで罪に問われてしまう)かのどちらかになってしまうのだ。(「サイバー・スペース、あるいは存在の耐えられない閉塞(承前)」 鈴木英明 訳)
 これを一読して、結構難しいことを述べているように感じちゃうかもかもしれないけど、マルクスとかスターリンとかの名前で脳みそが拒絶反応を起こしちゃう保守反動おじさんおばさん以外の人なら理解できるレベルの内容だとは思うんだけど、どうなんでしょうか。例えば、前半の「より多く富を生産することによって欠如(貧困)をなくそうとする試みは、貧困の拡大につながってしまうのである」ということは、農産物の豊作や漁業の豊漁などの生産過剰で市場価格が暴落して採算が取れなくなり、かえって借金が増えちゃうことでしょうし、近年のパソコン・バブルによる半導体不況も似たようなものでしょ。古い表現を使うのなら、貧乏子沢山、とも言うしねえ。一方、後半の「スターリン型の官僚主義」の説明については、例としては、浅間山荘事件を起こした連合赤軍などの過激派の内ゲバ事件でも思い浮かべれば十分わかることでしょう。ようするに「全体主義」には常に「裏切り者」が必要なんですね。裏切り者をでっち上げて粛清することが彼らの闘争の本質であり、かつまた、それによって自らの破滅を招いているわけなんですね。しかしそうしないと彼らの闘争は持続しないわけですね。そして、これの応用例として、先日のロシアのエリツィン大統領が仕掛けた、「内閣総辞職」があるんだな、これが。チェルノムイルジン首相が中心となって遂行している経済改革が比較的成功しているにもかかわらず、「まだ改革が不十分だ(あますぎる)」という理由で解任しちゃったよね。つまり、自分の腹心の部下が有能(過剰)で力をつけてまうと、自分の影響力が相対的に低下して自分の地位が危なくなってしまうからマズイわけで、かといって無能なイエスマン(欠如)ばかりで周りを固めたら、今度は自分自身が自滅する(チャウシェスク状態になる)可能性があるわけだからこれもマズイわけであり、結局、欠如と過剰が「ほどよい均衡」に達することはできないということだね。これは会社経営者なんかにもいえることじゃないのかな。

 で、肝心の【註】は、

 セクシュアル・ハラスメントをめぐる袋小路に、これと同じ超自我のパラドクスをはっきりと見てとることができる。性に関する「正しい」冗談と「不正な」ハラスメントとを分かつ明確な境界線、すなわち「適切な限度」は存在しない。性行為それ自体が「過剰」であり「攻撃的」なのだから。つまり、性に関する同じ戯事でも、或る視点から見たときにはハラスメントとなり、違った状況において別の視点から見たときにはパートナーを興奮させるものとなりうる、ということだ。ようするに、われわれはルールを破らなければならないのだ(〔女性の〕征服を目指すマッチョたちのルールと同様、PC〔政治的公正さ〕のルールをも)。もしも限度を超えると、ハラスメントになるかうまい具合に冗談となるかのいずれかである。限度を超えなければ、腰抜けと思われるか、またしてもうまい具合に冗談と受け取られるかのいずれかだ―われわれの言動の正しさを保証し、それが冗談であることを保証するメタ-ルールは存在しないのである。別の言い方をすると、主体は、挑発と禁止との間、罪を犯すことと「意気地なしであること」との間で揺れているのだ。あるいは、われわれが口説こうとしている相手は、どっちつかずの態度を示し、われわれが言い寄ってくるように挑発しているとも言える―思いきって口説けば罪を犯すことになり、口説かなければ意気地なしだということになる…。(同上)
ということだ。

 どうですか!これを読んでいる全国のストーカーのみなさん!痴漢のみなさん!(そんな奴らがこんなマイナーなページを読んでいるわけないってば!)スロヴェニアの偉大な哲学者であらせられる大ジジェク先生がみなさんのやむにやまれぬ性衝動を擁護なさっていますよ!どうぞ心置きなくみなさんの純粋な愛のパフォーマンスである「ラヴ・アタック」に励んでくださいませ!そうですね、アメリカのセクハラ大王エロブタ・クリントンにもこれを読ませてあげたいですね!そうだ!男はガッツだ!猪突猛進だぁ!ただひたすらにプッシュあるのみだぁ!君も「腰抜け」にはなりたくないだろう!断じて「意気地なし」とは言わせないぞぉ!そしてここで強力な援軍が到来だぁ!全国のサカリのついたオス犬諸君に更なる励ましの言葉をささげよう!

女なんてサカリのついた雌犬と同じさ。雄が追いかけたら逃げていき、雄があきらめて引き返したら追いかけてくる。(『汚れた英雄』野望篇 大藪春彦 著)
 どうだぁ!参ったかぁ!あのハードボイルドな大藪先生も小説の中の登場人物にこう語らせているぞぉぉぉ!…うーむ、ちょっと下品にトバシ過ぎかな?

 しかし、ジジェクの文章をこんな取り上げかたで紹介しちゃうと、何で題名が「サイバー・スペース、あるいは存在の耐えられない閉塞」なのか、まるで「サイバー、スペース」(電脳空間)とは関係ないみたいに思えちゃうよね(笑)。このままじゃジジェクに申し訳ないから、それに関する部分も少し紹介しておきましょう。

 欠如と過剰の相互依存を示す別の例として、象徴化のプロセスにおける「データ送信が遅い狭帯域(ナロウ・バンド)」(事実、構造的な理由により、〔コンピュータ画面の〕映像はつねに制限されている)の逆説的な役割がある。想像力の過剰な豊かさを引きだすのは、この欠如、限界設定そのものなのだ(これを理解するには、単純な木のおもちゃで遊んでいる子供の方が、複雑な電子機器で遊ぶ子供よりもはるかに豊かな想像力を持っているという、ほとんど誰もが知っている例を想起するだけで十分だろう)。ここに、VRに完全に没入することによってはまりこむ袋小路がある。つまり、VRにおいては、すべてがあらかじめ与えられているので、想像する力が飽和状態に達してしまうのだ。物語の分岐点で、その後の展開(求愛の対象である女性を主人公が手にしたり失ったりする、等々)を読者が自由に選べるという、いわゆる「双方向的物語(インタラクティヴ・ストーリーテリング)」にも、これと同じ事が言える。経験から言えば、物語のこうした進行形態は、読者に以下のような二重の不満を感じさせることになる。(1)ここには「自由がありすぎる」。あまりにも多くが私の肩にかかっており、次から次へと決定を下すように求められるので、物語の流れに身をゆだねるという快楽に浸ることができない。(2)物語内容の現実性(リアリティ)に関する私の素朴な信仰が揺らいでしまう。双方向的物語の公式的イデオロギーを信奉する人にとってはぞっとすることだろうが、私は、主人公に「現実に」何が起きたのか(「現実に」主人公は愛する女性と結ばれたのか、等々)を知るために物語を読むのであって、物語の進路を決めるために読むのではない。こうした欲求不満に潜んでいるのは〈主人〉を求める願望である。私は、物語を読みながら、規則を定めてくれる何者か、一連の出来事に関して責任を取ってくれる何者かを求めているのだ。過剰な自由は極度の欲求不満を生みだすのである。〈ディープ・エコロジー〉は、現在の環境破壊が引き起こす恐れのある破局を防ぐ一つの方策である以上に、「目的」の欠如、つまりわれわれの自由を制限すべく課せられる規則の欠如を埋めようとする試みなのだ。ここで心に留めおくべきは、こうした限界設定とわれわれの「現実感(センス・オブ・リアリティ)」との結びつきである。双方向的な仮想宇宙おける現実性(リアリティ)は、それ自身の限界を欠いているので、実体を奪われ、空気のように希薄なイメージにすぎないものになってしまっているとも言えるだろう。(「サイバー・スペース、あるいは存在の耐えられない閉塞」(承前))
 しかしここで誤解のないように言っておくと、べつにジジェクはVRに基づく「テクノ神秘主義」を批判して、その過剰な自由に限界を設定する「崩れやすい調和を保つ地球の生態系を提示する」〈ディープ・エコロジー〉を擁護しているわけではない。「しかし〈限界〉を設定することに「客観的な」正当性を持たせようとするこうした身振りは、完全にイデオロギー的」であり、「宇宙はそれ自体「関節が外れている(アウト・オブ・ジョイント)」、根本的(ラディカル)にずれていることが宇宙の実際の在り方なのだという、一見すると「ペシミスティック」で「反動的」に見えるシェリングの明察を擁護すべきなのだ」と述べ、さらに、〈ディープ・エコロジー〉と「テクノ神秘主義」の対立は、「人間が自然に対してひれ伏すことによって自然と人間との調和が回復されるという空想と、身体の動きの鈍重さは全面的な仮想化によって蒸発して消えてしまうという空想の対立である。だが、じつはこの二つの空想のいずれも、いわゆる「現実性(リアリティ)」と、空想によって埋められる「現実的なもの(ザ・リアル)」という空虚―「現実性」を支える、捉え難く接触不可能な空白―との分裂から目を背けるための戦略なのである。」(同上)と述べている。つまり、欠如を過剰によって埋め合わせることはできないし、反対に、過剰に対して欠如を持ってきて制限を加えることもできない。ようするに、欠如から過剰が生まれ過剰から欠如が生まれるのであり、欠如と過剰は常に表裏一体の相互依存関係にある、ということかな。しかし、この結論はちょっと単純化し過ぎのきらいがなきにしもあらずだけど、でも、こういう風にまとめると難しい文章も何か分かったような気がするでしょ(笑)。本当は何も分かっていないのかなあ。でも、そもそも一体何が「本当」なんだあ?この際だから、すべてが仮想現実だ、なんていう「テクノ神秘主義」でも信仰してみますか(笑)。


3月18日

 しかし、前々回はブランショの文章をずいぶん長々と引用しちゃったね(あの時は本当に疲れたよ)。だけど、それをあらためて読み直してみて、引用した内容について自分の考えを何も述べていないことに気づいちゃったよ(笑)。そうだよね、他人の文章を引用したらそれについての自分の考えもきちんと表明しないとまともな批評とはいえないよね。でもまあ別に自分はプロの評論家なんかじゃないんだから、あんまり凝ったことを書く義務もないんだろうけど、一応感想程度のことは述べておかないとね…なんちゃって、嘘です、今回も自分の考えなんかぜんぜん語らずに思いっきり引用しちゃいま〜す(馬鹿野郎な私)。

 そういうわけで、この前は、ドストエフスキーの『悪霊』の人物キリーロフについてだったけれど、一方でブランショは、ブロッホの『夢遊の人々』第三部の主人公ユグノオについて次のように述べている。

 これは、ドストエフスキーの主人公ではない。デーモンの時代は過ぎ去ったのだ。われわれは、ユグノオのなかに、或る体系のかげにかくれ体系によって正当化されながら、それと知ることさえもなく罪の役人や暴力の会計係となるあの通常人の最初の例を見出すのである。(『来るべき書物』III 未来なき芸術について 2 ブロッホ)
 そうだね、確かに現代はもはや「悪霊」の時代ではなく、それを罪と認識することさえできない大蔵省や日銀の汚職官僚が主人公の「通常人」の時代なんだろうね。
 『夢遊の人々』において、われわれは、ある新しい運命形態の出現に立会う。つまり、この運命は、論理なのである。もはや、人間たちがたたかうのではなく、出来事がぶつかりあうのでもない。さまざまな価値がたたかい、ぶつかりあうのであって、人物は、それらの価値をそれと気付かずに演じている主役なのである。もはや、現実の顔貌はなく、仮面がある。もはや事実はなく、抽象的な力がある。そして、人々は、夢の中の人物のように、これらの力のかたわらでうごめきさわぐのだ。(同上)
 これもうなずいちゃうよね。まさにオリンピックのジャンプの原田なんて、テレビのスポーツバラエティ番組が要求する安っぽくて涙もろい三枚目的な役柄を無意識に演じているだけだし、サッカーの中田も、『Number』とかいう馬鹿雑誌に洗脳されちゃったのか、「自己中心的なアウトロー」なんていうくだらない紋切型におもいっきりはまっちゃっているようだしね。本当にマスコミは「通常人」を自分達の好み(それが一般大衆の求めているものだと勝手に決めつけている)に合わせたロボットに仕立て上げることしかできないみたいだ。しかし、実際は、原田も中田もそんなことは先刻御承知で、そういういかにもマスコミが喜びそうなキャラクターを意識して戦略的に演じているのだというのなら、そういうみすぼらしい仮面をかぶっていないと、マスコミによる過剰な取材合戦や不毛なインタビュー競争(テレビのニュースショウで行われる、勝手な決めつけやレッテル貼り的な同じような質問の大洪水、それをいちいちそれぞれの番組で繰り返しやらなければインタビュー地獄の拘束からは解放されない)でつぶされちゃうのだというのなら、そういう「通常人」とはかけ離れた紋切型の物語の登場人物を強制的に演じさせられている状況自体が本末転倒なのであり、本当に悲惨で哀しいことだよ。
 ユグノオの罪は論理的な罪だ。彼は、イデオロギー的な動機から殺すのではなく、十分に考えつくされぎりぎりまで検討された冷静な理由にもとづいて殺すのでもない。偶然殺すのであり、暴動期の無秩序によって与えられた機会をとらえて殺すのである。だが、人間たちが騒ぎたち、もっとも狭隘な価値が必然的により広大で複雑な価値に勝利を占めるこの抽象的な砂漠においては、偶然は存在しない。ユグノオは、まさしく彼のものである世界、成功が支配する世界の内部にあって、おのれを阻むものを打ちこわすことしか出来ない。彼は、自分の行為を悔やみもしなければ、覚えてさえいないだろう。彼はいかなる瞬間においても、おのれの行為の異常な性格に気付かない。(同上)
 しかし、この「もっとも狭隘な価値が必然的により広大で複雑な価値に勝利を占めるこの抽象的な砂漠」とは、「暴動期」なんかじゃなくてまさに現在進行形の今の平和な世の中なんじゃないのか。まったく何が哀しくて「涙もろい三枚目」や「自己中心的なアウトロー」なんていう狭隘な価値観を強制されなければいけないのか。そして、バタフライナイフが流行した機会をとらえて馬鹿なガキが偶然に人を殺しちゃうしね。つくづく悲惨な世の中だね、現代は(笑)。では、そういう狭隘な価値観を嬉々として受け入れてしまう「現代人」とはどんな奴なのか?それが、ユグノオに殺されるエッシュなんだろうかね。
 ブロッホは、第二巻の作中人物であるエッシュにはもっと近い。これは、ごく一般的なドイツ人で、最初はしがない会計係であったが、正義についてのさまざまな抽象的な観念や、秩序への欲求や、心やましさなどの微妙な混合が、革命的な時勢の流れが示すさらに深い動きのかたわらで追い求められるくだらぬ取り引きやいかがわしい恋愛や安っぽい陰謀などのじぐざぐな動きを通して、彼を、ルクセンブルクの或る企業での、会計課長の地位にまで導いてゆく。(同上)
 まあこれは新井将敬みたいな奴だと思えばいいでしょう。最初は大蔵官僚であったが、「正義についてのさまざまな抽象的な観念や、秩序への欲求や、心やましさなどの微妙な混合が、」「時勢の流れが示すさらに深い動きのかたわらで追い求められるくだらぬ取り引き」(株取り引き)「やいかがわしい恋愛や安っぽい陰謀などのじぐざぐな動きを通して、彼を、」日本の或る政党での、改革の旗頭である期待の若手国会議員の地位にまで導いていったわけですね、これが。なんでも自分のことを「平成の坂本竜馬」と言ったとか言わなかったとか…なんだか悲惨だなあ…こればっか(笑)。

 そうそう、悲惨といえば、蓮實重彦が谷崎潤一郎の『痴人の愛』の悲劇性について、夏目漱石の『こゝろ』と比較して対談で次のように述べている。

 『こゝろ』は実は近代の恋愛であるかのように見えて、どこかでギリシア悲劇みたいな普遍的な形式だと思うんです。男が二人いて、一方が奪うということですね。明治を舞台にして、乃木将軍を傍系的な人物として語らなくても語り得たような古典的な三角関係であった。それに対して『痴人の愛』の場合には明らかにちゃちな風俗を背景にしている。漱石の場合は出てくる人間も罪の意識を背負った男までがどこかでノーブルなんですよね。そうした人物を高貴なものとして描かざるを得ないという一種の強迫観念がその背後にあるような気がする。谷崎の場合のように、社会の片隅に生きるしかない駄目な人物、道で会ったらほとんどその特性を識別できないような人物として描いていない。漱石ではどこかで英雄化が行われている。それに対して穣治にしてもナオミにしても、あの作品の主人公でない限りはとても鮮明な輪郭には収まり得ないような人間として出てきていて、まるで英雄化されていない。その意味で現代的だと思うのです。漱石の『こゝろ』の厳しさというか苦しさというものは、ほとんど神話に近いものをなんとかして小説にしなければいけないという無理から来ており、作品としての厳しさではない。「先生の手紙」には、どうも一つの無理があったと思う。

 そこへいくとナオミたちは明らかに同時代風俗を踏まえて、ちゃちであり、あの小説に描かれない限りあのような人物に好んで近づいたりしないといったようなフィクションとしての、あるいは小説的な出鱈目さみたいなものを踏まえて、その責任を取ろうとしている。実は先ほど言ったように、小説としては十分に取り得ていないような気がするんですが、英雄化ではなく凡庸化をめざしているという点においては、あそこで生まれた悲劇のほうが実は近代的な、われわれにとっての悲劇じゃないかという気がするわけです。それは一つには、漱石の場合はどこかで普遍性を狙っている、真に自分の問題だと思いつつ普遍的な何かを考えているのに対して、谷崎にはそのような普遍性に対する意志がない。その普遍性の意志の不在の分だけより大きな近代の悲劇になり得たのではないか。(『魂の唯物論的な擁護のために』II 谷崎礼讃)

 そうだよね、現代は、ドストエフスキーや夏目漱石が「悲劇」として描き出す「英雄」の時代ではなく、ブロッホや谷崎潤一郎が「悲惨」として描き出す「通常人」の時代なのかもしれないね。マスコミがいくら懸命になって原田や中田を「英雄」として礼讃しているつもりでも、結局それは凡庸な物語の紋切型をなぞっているだけなんだよね。それは、新井将敬が司馬遼太郎あたりが描き出した実際には存在しない架空の物語の登場人物である坂本竜馬の姿を必死になって追い求めていたのと同じ事じゃないのかな。やっぱそれって救いようのない悲惨だよ。


3月11日

 自分は別に教育関係者ではないのであまり関心はないのだけれど、このところ中学生がナイフを振り回して話題になっていますね。いいんじゃないですか、元気があって実に頼もしいかぎりじゃないですか。そういう活発なお子様達が増えればこの国の未来も捨てたもんじゃないですよ。次の時代をになう刃物を振り回す元気モリモリな子供達に勇気づけられて、自然と日本経済も持ち直すんじゃないですかねえ。子供達が元気なのは、活気や活力に満ちた明るい未来の到来を予感させますよねえ。実に明るいニュースです。それにひきかえ大人達は元気がないですねえ。会社の倒産やらリストラやらで絶望して自殺する人も多いらしいですね。だめだなあ、せっかく長野五輪で日本の選手達が活躍してあれほど国民を勇気づけたのにねえ(笑)。選手達の努力を無駄にしないためにもみんなで励まし合って元気になろうじゃないですか。そこで、ここはひとつ勇気百倍元気二百倍になるための雄叫びが必要でしょう。いきますよ、みんなで一緒に叫びましょう!ゆくぞ〜!ファイト〜!いっぱぁ〜つ!ユンケル一本!どうですか、元気出ましたか?え?この程度じゃ元気出ないって?じゃあ新井将敬の真似でもしてくださいね。それとも友達同士で集団首吊りなんて結構ファンキーですぜ。首吊り用に一本のロープを買ってきてそれを自殺する人数分に切り分けるなんていかにも凝ったやり方じゃないですか。同じロープを使って一緒に首をくくるなんて泣かせてくれるじゃないですか。まさしくこれは友情の絆(ロープ)で結ばれた首吊り美談になるでしょう。もしかしたらこれは歴史(自殺史)に名を残す快挙かもしれないですよ。これがアメリカなら映画化されますよ(嘘?)。

 しかし、少年のナイフ殺傷事件の方は、また例によって人の命の大切さを訴えたり、持ち物検査をやったりして、現実から目を逸らして隠蔽しようとするワンパターンの逃避願望的な主張ばかりなんだよね。つくづく進歩がないよね、文部省や教育関係者って。確か大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」だったよね(爆笑)。今ある現実から学ぶのが教育の基本中の基本でしょう。今ある状況を変えて進歩するには、実際に起こった事件から学ばなくちゃ、いつまで経っても同じ事の繰り返しになっちゃうでしょ。それには、なぜ先生が刺されて死んじゃったのか、その時の状況をよく分析してみることが大事ですよ。そこでこれから勝手にその事件について考察してみましょうね。まず考えられることは、生徒に必要以上に二度も注意して生徒を怒らせてしまったことが第一の原因でしょう。それからさらに、怒った生徒がナイフを出してもひるまなかったことが火に油を注ぐ結果となったわけでしょう。ここから導き出される教訓は、まず些細な(授業に遅れた)ことで必要以上に生徒をあまり注意するのは危険であるということでしょう。それに生徒がナイフを出した時点で護身術によほどの自信でもない限り逃げるべきだったんじゃないですか。ともかく死んだ先生の場合、刃物に対してあまりにも無防備であったことがあのような結果を招いた最大の原因だと思いますがねえ。少なくとも今後は、先生や生徒達に、刃物で向かって来る相手に対する護身術程度は学ばせるべきなんじゃないですか。それと同時に、人を殺すと後が大変なのは誰もがわかっていることでしょうから、人体のどの部分をどの程度刺したら死んじゃうのかや、刃物の扱い方などを、専門家でも招いて講義してもらった方がいいかもしれませんね。それから、生徒同士のいさかいがエスカレートして相手を刺しちゃった場合でも、些細な口論が発端なわけでしょう。そこから導き出される教訓は、けんか相手を必要以上に攻撃して追いつめちゃうと、窮鼠猫を噛むじゃないけれど、思わぬ反撃を食らう可能性があるということでしょう。つまり、つまらない物事に白黒つけようとするこだわりから無理が生じて暴走が起こっちゃうわけでしょう。その辺の他者に対するバランス感覚やさじ加減を体得するのが少年少女時代なんじゃないですか。それを学ぶのが社会であり学校でしょう。先生はそれを生徒達に教えなくちゃね。と、以上に述べたことは何も高尚なことでも難しいことでもないんだから、この程度のことは先生が生徒に十分話して聞かせられることでしょう。そしてこの程度のことを聞かせるだけでいいんじゃないですか。何も少年の殺傷事件を完全になくそうだなんて、むきになって無駄な努力はしない方がいいですよ。いつに時代でもなんらかの凶悪事件はあったわけだし、これからも絶対に起こらないなんて可能性はゼロなのだから。ようするに今までがぬるま湯につかっていたに過ぎないのでしょう。それにこれから、いつ刺されるかもしれない緊張感の中で生活していた方が、かえって精神の鍛練になるし、真剣に(いのちがけで)他人との駆け引きを学べるし、その経験から他人の痛みが分かる人間に成長するかもしれませんしね。そしてさらに、この際だから生徒と先生のお互いが分かり合い理解し合うなんていう嘘っぱちもなしにした方がいいですよ。先生と生徒も先生と保護者も先生同士も生徒同士も保護者同士も(そして本当は生徒と保護者の関係も)お互いが他人同士でしかないということを皆がお互いに認識すべきじゃないですか。今までの甘ったるいもたれあいが刃物が凶器になりうることに無自覚で無防備な環境を生み出してしまったのだと思いますけどね。


3月4日

 そういえば「外部からの声」に、モーリス・ブランショの『来るべき書物』(粟津則雄訳 現代思潮社)から勝手に文章を転載しちゃってるけど、これってもしかして著作権の侵害なのかなあ。でも、『来るべき書物』が面白い本だからできるだけ多くの人に読んで欲しいと思って紹介しているわけだし、仮に著作権の侵害であったとしても、自分の良心には反しない行為だと勝手に思っているから、それはそれで納得ずくなんだけどね。しかし、『来るべき書物』自体は世の中にあまり出回っていないようだから、いざ読もうと思っても探すのが大変かもしれないね。たぶん、比較的規模の大きな図書館とかのフランス文学のコーナーなどにおいてありそうな気がするのだけれど、どうなんだろうか。自分は偶然に古本屋で見つけて買いました。

 ついでだから『来るべき書物』に関して簡単に紹介すると、ブランショは一九五三年以降『N・R・F』誌に「探求」というタイトルで自由な形式の書評を発表しはじめて、その一連の小論の中から選んでまとめられたものがこの『来るべき書物』なんだそうで、その他にも「探求」から選んでまとめられた評論集が数篇あって、それを古い順に列挙すると、『文学空間』『来るべき書物』『終わりなき対話』『友愛』と続くらしいんだけれど、自分はこの「探求」四部作のうち『文学空間』と『来るべき書物』は持っているけど、『終わりなき対話』と『友愛』には今のところ出会ってない。どうなんだろうか、『終わりなき対話』と『友愛』の日本語訳は出ているのだろうか。直接現代思潮社に問い合わせれば分かることかもしれないけど、なんとなく億劫で、古本屋や書店で出会わない限りこのまま読まずに一生を終わっちゃうかもしれないなあ。それでもなんとか読む機会が偶然に巡ってくれば幸運なんだけどね。

 それでずいぶん前置きが長くなってしまいましたが、このあいだ『批評空間』II-16を読んでいたら、なんとなく、柄谷行人とブランショとのつながりを指摘したくなったので、それを紹介してみようと思います(自分の読んだ限りでは、柄谷の代表作『探求TU』とブランショの「探求」とは交わる部分がかなりあると感じました。そういえば、ブランショが『文学空間』なのに対して柄谷は『批評空間』だし、『終わりなき対話』に対しては『終わりなき世界』なんていう対談集を出しているんだよな。しかし、自分の読んだ限りでは、柄谷は自分の著作の中でブランショについて一言も述べていません)。

 というわけで、まずは『批評空間』II-16に載っている柄谷の評論「死とナショナリズム」から。

 カントの考えでは、形而上学的欲動の核心は、自由であること(主体であること)である。フロイト的にいえば、それは死の欲動である。つまり、死の欲動は、無機物への回帰衝動ではなく、メタフィジカルな欲動だというべきである。たとえば、後期のドストエフスキーは、カントの『純粋理性批判』に対抗してさまざまな試みをしているが、その一つとして、自殺することによって人-神たらんとする『悪霊』の人物キリーロフを例にとってもよい。カントの考えでは、自由とは自己原因たること、いいかえれば、一切の自然的原因を超えることである。もし人が真に自由であれば、一方で自然原因によって決定されているとしても、人-神であることになる。スタヴローギンはキリーロフに次のように問う。
「君、子供は好きですか?」
「好きです」とキリーロフは答えたが、それはかなり気のない調子だった。
「じゃ、君は生活も愛してますね?」
「ええ、生活も愛してます、それがどうしたのです?」
「でも、自殺を決心しているとすれば」
「それがどうしたんです?なぜそれを一緒にするんです?生活は生活、あれはまたあれです。生活はあります。しかし、死というものはまるでありゃしない」
「君は未来の永世を信じるようになったんですか?」
「いや、未来の永世じゃない、この世の永世です、一つの瞬間がある、その瞬間へ到達すると、時は忽然と止まってしまう、それでもう永世になってしまうのです」(『悪霊』第二篇第一章)
 自由(自己原因)であるとき、時間性はないから、永遠である。だが、なぜそれが自殺によって達成されるのか?自殺が自由意志を証すということにはならない。意識的であれ、無意識的であれ、自殺には原因がある。したがって、ドストエフスキーは、注意深く、キリーロフが経験的な領域ではなんら自由でないことを示している。自殺の決行さえ、彼の自由意志によって決まるのではない。スタヴローギンが「いつ?」と聞いたとき、彼は「それはご承知のとおり、僕の意志で決まるわけじゃない。人が決めてくれます」と答える(第二篇第一章)。実際、彼は彼の自殺が政治的犯罪に利用されることを知っていても関知しない。それゆえに、人-神たること、つまり自由であることは、自殺によってもたらされるとはいえ、それは自殺が自由意志によるからではない。むしろ、キリーロフが示すのは、自由であろうとする欲動が死の欲動にほかならないということである。
 一方、ブランショの『文学空間』(粟津則雄・出口裕弘訳 現代思潮社)のIV「作品と死の空間」の中のI「可能的な死」から。
 このような態度から惹きおこされるもっとも差しせまった結果は、我々が、死のあらゆる形態のなかでより死的な形態はないかどうか、また自由意志による死こそ何にも増してそのような死ではないかどうか、自問することを強いられる点だ。おのれに死を与えることは、人間から人間自身への、動物から人間への、またキリーロフならこう附け加えるだろうが、人間から神への、最短の道ではないだろうか?「私は、君たちに、私の死を、自由意志による死をすすめよう、それは私が欲するがゆえに、私に到来するのだ」(「ツアラツーストラ」第一部「自由意志的死」)。「おのれを抹殺するという事実は、何にも増して尊敬すべき行為だ、それによって生きる権利が獲得されるくらいだ」(「偶像の薄明」三十六章)。自然死とは、「もっとも侮蔑すべき条件のもとでの死、非自由の死、時を誤った死、卑劣なる死だ。生への愛によって、人は、全くちがった死を、自由な意識的な死を、何の偶然も不意打ちもない死を、望まねばなるまい」(同上)。これらのニーチェの言葉は、自由のこだまのようにひびきわたる。人は、自殺するのではなく、自殺し得るのだ。すばらしい手段である。手のとどくところに、このような酸素瓶がなければ、息がつまって、もはや生きてはゆけないだろう。自分のそばにある従順で確実な死、これが生を可能にするのだ。なぜなら、このような死こそ、まさしく、空気と、空間と、楽しげな軽やかな動きとを与えるものだからだ。つまり、これが、可能性なのである。

 自由意志による死は、ひとつの精神的問題を提起しているようだ。それは、告発し、宣告し、最後の審判をくだす。あるいはまた、それは、ある挑戦、外部のある全能者に対する挑戦という姿をとる。「僕は自分の独立不羈と、新しい恐るべき自由を示すために、自殺する」(「悪霊」三篇六章)。キリーロフの企てにある新しい点は、彼が、自殺することによって、神に反抗するのみならず、おのれの死によって神の非実在性を証明しようとする点だ、そのことを自分に証明し、他の人々にも示そうとする点だ。自殺せぬかぎり、彼には、自分がどこまで進んで来ているかがわからない。おそらく、彼は信仰しているのだろう、ドストエフスキーは、彼を、相矛盾する感情の錯迷に委ねるために、彼が、「坊さんよりずっと信仰している」(同上)とほのめかしている。だが、これは、言行不一致な態度ではないのだ。それどころか、彼の、神に対する関心が、―彼のとらえられている必然性が、つまり、神の虚無性が確かになってゆくという必然性が、彼を、自殺へと誘うのである。なぜ自殺するのか?もし、彼が、自由に死ぬならば、また、死における自己の自由と、おのれの死の自由とを、体験し自証するならば、彼は、早晩絶対に到達するだろう、そのような意味での絶対者に、つまり絶対的に人間であるものに、なるだろう。そして、彼の外にはもはや絶対は存在しないだろう。事実、ここで問題となっているのは、なんらかの証明を超えたものだ。つまり、神の実在性に関するキリーロフの認識のみならず、この実在性そのものが賭けられた、人知れぬ勝負なのだ。神は、その実在性を、一人の決意せる人間がおのれに課したこの自由な死に賭ける。誰かが、死に至るまでおのれを支配し、死を貫いておのれを支配し続けるようになってみたまえ、そうすれば、彼は、死によってわれわれに到来するあの全能者をも支配し、それを、一個の死せる全能者に縮少してしまうだろう。だから、キリーロフの自殺は、神の死となる。この目標が、新しい時代の始まりとなり、人類の歴史の分割線となり、まさしく、彼以後においては、人々はもはや自殺する必要はないだろうという、彼の異様な信念も、ここから発しているのだ、なぜなら、彼の死が、死を可能的なものにすることによって、生を解放するからだ、生を、十分に人間的なものとするからだ。

 キリーロフが口にする言葉には、不確かだが心惹くある動きがある。彼は、終始、さまざまの明白な理由の間を、迷い動いている。はっきり聞きとれないが絶えず耳にひびいてくるある暗く不分明な理由の介入と呼びかけのために、明白な諸理由をどれひとつ最後まで押し進めることが出来ないのだ。見たところ、彼の企ては、冷静で首尾一貫した合理主義者の企てだ。人々が自殺しないのは死を恐れているからだ、死の恐怖が神の起源だ、もし僕がこの恐怖にさからって死ぬことが出来れば、僕は死を恐怖から解放し神をくつがえすことになる、そう彼は考える。このような計画は、狭隘な理性に縛られた人間の持つ冷静さを要求するのであって、聖像の前で燃える燈明や、キリーロフが打ち明ける神についての苦悩や、彼が最後に押しひしがれてよろめく恐怖などは、いかにもちぐはぐなものに見える。だが錯乱したひとつの思想があのように行きつ戻りつする姿、その思想を蔽うかに思われるあの物狂おしさ、さらには、恐怖に対する羞恥心という仮面のかげにかくれた眼くるめくばかりの恐怖、まさしくこういうものが、彼の企てに、その幻惑的な興味を与えている。キリーロフは、死について語るとき、神について語っているのだ。言わば、彼は、この死という出来事を理解し評価するためには、また、至上のかたちでこの出来事に立ち向かうためには、神という至上の名前を必要とする。彼にとって、神とは、おのれの死の相貌である。だが、まさしく、神が問題となっているのだろうか?あの全能の力のかげを、彼は、或る時は、時を停止させるような幸福にとらえられ、また或る時は、恐怖から子供っぽい理屈で身を守りながらも恐怖に身をゆだねて、彷徨するのだが、この力は、全くのところ、何の名前も持たぬものではないか、またそれは、彼を、名前も能力も持たぬ、本質的に弛緩した、錯乱にゆだねられた存在とするのではないか?この力は、死そのものなのである、そして、彼の企ての背後にかくされている賭金は、可能的な死という賭金だ。私は、自分に死を与えることが出来るか?私は、死ぬ能力を持っているか?私は、おのれの自由を十分に支配しつつ、いかなる地点まで、自由に、おのれの死の中に進み入ることが出来るか?私が、おのれの観念によって雄々しく決心を固め、死におもむこうと決した場合でも、やはり、死の方が、私に到来するのではないか?私が、死を捕らえたと思いこむ時でも、死の方が、私をとらえ、私を解き放ち、私を、とらえ得ぬものに委ねるのではないだろうか?私は、ひとりの人間の死であるような死によって、また、私が人間としての一切の自由と指向性とを浸みこませているような死によって、人間として死ぬのだろうか?私は、私自身として死ぬのか、或いは私は、常に他者として死ぬのではないだろうか?だから、正しくは、私は死なないと言うべきではないだろうか?私は死ぬことが出来るか?私は死ぬ能力を持っているか?

 キリーロフを悩ます劇的な問題は、彼がその存在を信じたがっている或る神というかたちをとっているが、それは、おのれの自殺の可能性という問題なのだ。「でも、たくさんの人が自殺しますよ」などと言われても、彼には、こんな返答は何のことやらわかりもしない。彼にとっては、未だ、誰ひとりとして、自殺してはいないのだ。つまり、誰ひとり正真正銘の賦与としておのれに死を与えはしなかった、惜しみなく有り余るほどに心を用いてこそかかる行為は本来的な行動となるのだが、誰ひとりとして、そのような態度でおのれに死を与えはしなかった、―あるいはまた、誰ひとりとして、死に際して、死を受けとるかわりに我と我が身に死を与えることが出来ようとは、また、彼流にいえば「観念のために」、つまり、純粋に観念的な死にかたで死ぬことが出来ようとは、思い及ばなかったのだ。確かに、もし彼が、死を、彼自身の可能性であり充分人間的な可能性であるようなひとつの可能性となし得れば、彼は、絶対的な自由に到達するだろう、それも、人間として到達するだろう、他の人々にもそれを与えるだろう、言いかえてみれば、彼は、消滅してゆく意識ではなく、消滅することについての意識になるだろう、おのれの意識に、その意識自体の消滅ということをも、余すところなく、併せ意識させるだろう、そのようにして、彼は、実現された全体性、全体の実現、絶対、となるのだ。確かにこれは、不死などという特権よりはるかに優れた特権だ。不死性とは、私が本質上そういう性質をそなえているとしても、それは私のものではなく、私の限界であり、束縛なのだ。だから、このような地平における私の一切の人間的使命は、私に押しつけられているこの不死性を、地獄だろうが天国だろうがとにかく私が手に入れたり失ったり出来る何ものかにすることにあるのだ、だが、それ自体としては、私が何の力もふるい得ぬ不死性など私にとって何ものでもないのである。またたとえば、将来科学が不死性を手に入れるようになるかも知れぬ、だがその時は、それが都合のいいことか悪いことか知らないがとにかく病気に対する薬のような価値を持つだろう、いずれにしろそれは何の結果も引きおこさぬということはあるまい。だがそれは、キリーロフの如き人間にとっては全くとるに足らぬことであろう、この人物は、問題が異様になればなるほどいや増す情熱をもって、常に、自問し続けるだろう、私は死ぬ能力を保持しているか、と。不死性が科学によって保証されても、それが死の不可能性を意味する場合にはじめて、彼の運命に対する重荷となるのだ、だがその瞬間、不死性とは、まさしく、彼が体現している間の、象徴的表象と化すのである。異常なまでに、不死となることに専心している或る種の人間にとって、自殺は、おそらく、人間のままに留まるための唯一の機会となろう、或る人間的未来への唯一の突破口となろう。

 キリーロフに課された仕事と呼び得るものは、死の可能性の追究と化した死であって、正確には、自由意志による死や、死と相あらそう意志の行使などの追求ではない、自殺とは、常に、既に意識もうろうとした人間や、病んだ意志の所業であろうか?非自由意志的な所業であろうか?或る種の精神分析学者たちは、そんなことを言うが、そうと知っているわけではない。また、或る種の善意ある神学者たちもそう考えているが、それは、つまづきの石を消し去るためだ。ドストエフスキーにしても、その作中人物に狂気という外見を与えているわけだから、キリーロフが、おのれのかたわらに開いた深渕を前にしてたじろいでいるのだ。だが重要なのは、こんな問題ではないのだ。なぜなら、キリーロフは、真に、死ぬのだろうか?彼は、前もって死から得ていたあの可能性、彼が彼自身であることを、つまり自由に自分自身と結ばれることを許していたあの存在せぬ能力、あの常に自己以外のものである能力、存在することなしに働き語り危険を冒し存在する能力、そういうものをおのれの死によって証明しているだろうか?死の内にあってまで、彼は、死のこうした意味を保持し得るのか?終末を作る能力であり終末から始まる能力であるこの能動的で活動的な死を、死の内にあっても、保持し得るのか?なおも死を、おのれに役立つ否定の力に、決定性の刃になしうるのか、彼自身の不可能性までが或る能力というかたちで彼に到来する至高の可能性の瞬間と、化し得るのであろうか?それとも反対に、この経験は、或る根本的な逆転の経験なのだろうか?その場合、彼は死にはするが、死ぬことが出来ないのであり、死が、彼を、死ぬことの不可能性へと委ねるのである。

 かかる追究こそ、キリーロフの追究なのだが、このような追究においてキリーロフが体験するのは、彼自身の決定性ではなく、決定性としての死だ。おのれの行為の純粋性と完全性が、非決定的なものの無限界性、つまり、死という法外な非決定性に、勝利を収めうるかどうか、また、おのれの課した行為の力によって、死を活動的なものになし得るかどうか、さらにまた、おのれの自由を断言することによって、死の内にあって自己を断言し、死をおのれに固有のものとし、死を真実のものとなし得るかどうか、そういうことを、彼は知ろうと欲するのだ。この世界のなかでは、彼は死すべき存在だ、だが、死のなかにあっては、終末というこの無際限なもののなかにあっては、彼は、無限に死すべきものとなるという危険を冒すのではないか?かかる問こそ、キリーロフに課された仕事なのだ。この問に答えること、それが彼の苦悩であり、この苦悩が彼を死へと引きづってゆく。彼は、この死に対して、「理解された死」という以外のいかなる内容も与えず、おのれの死の持つ範例的価値によって、それを支配しようと欲するのである。

この辺で書き写す能力に限界が近づいてきたので中略
 だから、ドストエフスキーは、奥深い事物に対するその本質的洞察、および、狂気が生み出した夢想を戦闘的無神論というかたちで示そうという理論上の志向が要求する方策のために、キリーロフに、平静な運命や、古人から受ついだ冷静でしっかりとした態度を与えなかった。確実な死を死のうとするこの主人公は、心動かさぬ人間ではなく、おのれを支配してもおらず、確信もない、彼は、浄化された沈着な態度で、蒼ざめた無におもむきはせぬ。彼の最後は異常な混乱だし、彼は自殺することによってあの仲間(シャートフをさす)、かつて陰気くさく黙りこくったままそのかたわらに横たわっていたおのれの分身を殺すことになる。そしてまた、彼の最後の話相手つまり唯一人の敵はあの世にも陰欝な顔(ピョートルをさす)だけなのであり、彼はおのれの全真理のうちにありながら、この顔の中におのれの計画の失敗を見得るかも知れないのだ。このような事情は、彼の、世界内での実存の部分に属するのみならず、深渕の汚穢にみちた内奥から発している。死ぬことによって、神と高貴な戦いを交えていると思いこんでいるが、結局のところ、出くわすのはヴェルホーヴェンスキー(前記ピョートルをさす)なのだ。この人物こそそれと卑しさを競わねばならぬあの何の高さも持たぬ力を体現する、はるかに真実なイマージュである
 と、ずいぶん長々と引用してほとんど意識がもうろうとしているけど、ここで両方の文章を比較してみれば、文章の長短の違いはあるものの、同じ題材(ドストエフスキーの『悪霊』)を使って同じ内容を述べているどころか、柄谷の文章がブランショの文章の要約でしかないことは明白にわかるでしょう。しかし、柄谷がブランショの『文学空間』を読んでいるのは確実だけれど、柄谷はブランショについてはあえて一言もふれないし、この後、フロイトがいう死の欲動がカントがいう理性を駆り立てる「不死」への欲動と一致するという自分の説を展開していくんだ。だが、それもブランショがすでにトルストイの短篇「主人と下男」を用いて約四十年前に説明していることなんだ。
 生涯を通じて常に成功をおさめて来た富裕な商人ブレフーノフは、自分のような男が、ロシヤの雪原で或る夜道に迷ったからといって、突然死んでしまわねばならぬとは、どうしても信じられない。「それはあり得ない。」彼は自分の馬にまたがり、橇と従僕のニキータとを―すでに体の四分の三が凍ってしまったニキータとを見捨てて去る。彼は例によって断固としており、また不敵である。敢然として彼は前進する。しかしその敏捷さも効果的なものではなく、彼は当てもなく歩いているのだ。彼の歩みはどこにも到達しない彷徨であって、ちょうど迷宮のように一歩前進がそのまま一歩後退であるような―さもなければぐるぐる円を描いて歩き、宿命の堂々めぐりに落ちこむような―あの空間へと彼を引きずりこんでゆく。行き当たりばったりに出発した彼は、だから「偶然」橇のところまで戻って来る。そこにはニキータが、大層薄着で、死ぬのにいろいろと手間をかけたりしないニキータが、死の冷気の中に深々と沈んでいる。「ブレフーノフは」とトルストイは語っている、「しばらく黙って立っていた。ついで突然、うまく商談を取りまとめて買方の手をたたくときに見せる例の決然たる態度で、一歩後に退り、毛皮つきのマントの袖をまくりあげ、半ば凍りついてしまったニキータを暖めるという義務に着手したのである。」一見したところ何事も変っていない。彼は相変わらず活動的な商人であり、断固とした不敵な男、常に何事かなすべきことを見付け出し、常に何事によらず首尾よくやってのける男だ。「わしらはこうした具合にやるんだ、わしらはな…」と、この自分に満足した男は言う。そうなのだ、この男はいつでも最上等の人間であり、最上等の人々の階級に属しており、その行状たるや立派なものである。だがこの瞬間に何事かが起るのだ。彼の手が冷たい体の上を行ったり来たりする間に、何ものかが壊れ、彼の行っていることがもろもろの限界を打壊す。それはもはや、ここで只今行われている事柄ではない。彼自身仰天しているのだが、それは彼を無際限の中へと押しやるのだ。「ブレフーノフはまったく仰天してしまった。動作を続けることができないのだ。というのも目は涙で一杯になり、下顎はがくがく震えはじめる始末なのだ。咽喉を締め付けるものを呑みこむのがせいぜいで、彼は喋ることをやめてしまった。」「俺は恐怖したのだ、と彼は考えた、俺はすっかり弱虫になっている、と。しかしこの弱さは不快なものではなかった。それは彼の中に、その時まで絶えて味わったことのない異様な歓びを惹き起こしたのだ。」後に発見されたとき、彼はニキータの上に伏して、しっかりとニキータを抱き締めたまま死んでいた。

 こうした展望の下にあっては、死ぬこととは常にニキータの上に横たわろうと努めることであり、ニキータのような人間たちの世界の上に横たわることであり、すべての他者とすべての時間とを抱き締めることである。高潔な回心や心情の発露や、偉大な友愛の情として更に描出されているものは、実はそうしたものではない。トルストイにとってさえそうではないのだ。死ぬとは、善き主人になることではなく、自分自身の従僕になることですらない、それは道義上の昇進ではないのだ。ブレフーノフの死はわれわれにいかなる善いことをも語りはしないし、彼の動作、彼をして突然凍った体の上に横たわらしめたあの動き、あの動作もまた、何事をも語りはしない。それは単純で自然な動作であり、人間的なものではなくて、しかも不可避なものである。すなわちそれは起こるべくして起こったことであって、ブレフーノフは死ぬことを避けられなかったのと同様に、そのことから逃れる術を持たなかったのだ。ニキータの上に横たわること、これこそ死がわれわれに強いる不可解にして必至の動作なのである。

 夜間の動作だ。それは通常の行為のカテゴリーには属さない。常ならぬ行為ですらそれはない。それによって何事がなされるのでもなく、当初ブレフーノフをして行動せしめた意志は―ニキータを暖め、「善」の太陽で自分を暖めようとさせた意志は―跡方もなく消え去ってしまった。そこには目的もなければ意味もない。現実性が欠けているのだ。「彼は死ぬために横たわる。」ブレフーノフ、この断固たる不敵な男、この男も死ぬためにしか横たわることができない。この頑健な体を突如として撓め、白い夜の中に横たえるのは、死それ自身なのだ、しかもこの夜はブレフーノフに恐怖を与えはしない。ブレフーノフは夜を前にして身を閉ざしはしない、身を縮めはしない、それどころか彼は嬉々として夜との出会に身を投ずるのである。ただ、夜の中に横たわりながら、彼が身を横たえるのはやはりニキータの上になのだ。あたかもこの夜が、なお人間の形をとった希望であり未来ででもあるかのように、またあたかも、われわれはなんぴとか他者に、すべての他者に、未来の凍りついた底部をその他者たちに於いて待ち受けようために、われわれの死を委ねながらでなければ死ぬことができぬとでもいうように。(『文学空間』V「霊感」I「外部 夜」)

 と、こんな風にしてブランショは理性への欲動が死への欲動につながってしまうことを説明している。しかしだからといって、柄谷行人に対して、ブランショの真似をしていてそれを隠蔽している、なんて批判するつもりはないよ。自分も柄谷やブランショの文章を勝手にパクッてこの場でしばしば書いてきたつもりだし、特定の個人のオリジナリティなんてたかが知れていると思っているからね。だいいち自分の個性なんて主張する奴ほど世間の紋切型にはまっているものでしょ。しかし、今回はなんでこんなに長々と徹夜までして他人の文章を紹介しなけりゃならないのかよくわからないなぁ。これも柄谷のいう理性への欲動なんでしょうか?そうするとこの後、死への欲動で自分は死んじゃうのかぁ(笑)。ありゃ、また例によってふざけてますね、やはりこんな風に茶化して書いていること自体、文章読解力がない証拠かなぁ。また、お前は何も分かっていない、なんて言われちゃうのかなぁ。そういえば、柄谷は、理性と感情は分割することはできなくて、理性から感情が生まれる、なんて述べていたようだけど、前回の長野五輪批判は、まさに、感動と涙の垂れ流し状態に、自分の中で理性を求める欲動が働いて、それに対する反発という感情が生まれて、あのようなユーモアの欠けた感情的な文章になっちゃったのかもしれないね。なんてね、そういうことで今回は「彼の声」で暴走してしまったので「Mandel Finder」の更新ができませんでした。残念です、でも仕方ありませんね、では、さようなら。

 その後なんとか「Mandel Finder」の方も無事に更新できました、よかったよかった。


2月24日

 ふぅ、やっと白々しくてわざとらしくて欺瞞に満ちた鬱陶しい長野五輪も終わったね。夢をありがとう、希望をありがとう、感動をありがとう、勇気をありがとう。選手達のひたむきにがんばる姿が、次の時代をになう子供達に、一つの目標に向かって努力することの素晴らしさを伝えてくれたんだそうで。恐ろしい偽善だね。同一種目でもらえるメダルの数は金銀銅の三つしかないのに、そのわずか三つの目標に向かって一体どれほどの数の選手達が挑んだというのかな。つまり、五輪に出場すらできなかった無名の無数の数の選手達や、期待されて出場して結局メダルを一つも取れなかった大多数の選手達は、希望をかなえることができなくて夢が破れて挫折して絶望したわけでしょう(もちろん参加することに意義があるなんて勘違いしている人もいるかもしれませんが)。同じ一つの目標に向かって大勢の人間が競争すれば、一握りの勝利者と圧倒的大多数の敗者が生まれるのは当然の帰結だよね。それが素晴らしいことなんですかねぇ。それとも、メダルを取れなかったスピードスケートの堀井選手やノルディック複合の荻原兄弟が競技している映像に、甘ったるいBGMをつけて悲劇のヒーロー(爆笑)に慰めやら激励の言葉を投げかけることが素晴らしいことなのかい?違うでしょう、どうでもいいような同一の基準(より短い時間でゴールしたり、より遠くまで飛んだり、より多く得点を挙げたりする)で勝者と敗者に分かれてしまう馬鹿馬鹿しさや残酷さに感動したり素晴らしいと感じるんじゃないですか。それは努力や夢や勇気や希望なんかとは別次元の問題だと思うけどねぇ。夢や希望を抱いて勇気を持って努力する大勢の選手達の中のたった一人にしか勝利の女神は微笑まないわけでしょう。例えば、コンマ百分の一秒差で勝負が決まったとして、そこにどのような努力が介在したというのか、そこに何の夢があるのか、どのような勇気でそのわずかな差を克服できるというのか、そのわずかな差で勝敗が分かれてしまうことにどのような希望が見出されるのか。それとも、そんな些細なことを指摘するのはやぼで、メダルを取った選手も取らなかった選手も同じようにその健闘を称えようじゃないか、というのなら、はじめから勝者なんか選ばずに参加した選手すべてに金メダルでも贈ればいいことだよ。と、こんなひねくれたことを述べちゃうと、また、お前はスポーツの素晴らしさが何もわかっていない、俺にはわかっている、なんて言われちゃいそうだね(笑)。でもそんなに競技スポーツが素晴らしいものだというのなら、例えばそれと同じ構造の受験も素晴らしいことになると思うけどね。受験だって、同じ一つの目標(合格)に向かって大勢の受験生が競争して、同じ一つの基準(点数)で勝者(合格者)と敗者(不合格者)に分かれるのだから、それを「受験戦争」「受験地獄」なんていう表現を使って否定的に語るのは間違っているよ。そうだよ、受験生のひたむきにがんばる姿が、次の時代をになう子供達(受験生予備軍)に、一つの目標に向かって努力することの素晴らしさを伝えてくれているはずさ(まるでどこかの予備校のCMみたい)。それを点数一辺倒の画一的な選考基準は良くない、なんて批判するのなら、例えばスピードスケートにも小論文やら面接試験を導入すべきだよね。まあ冗談はさておき、オリンピックなんてしょうもないものは早く終わりにして欲しいけど、少しはほっとさせる場面もあったよ。日本選手に対するマスコミの型にはまった高校野球的なインタビューにはうんざりだったけれど、クロスカントリーで三つの金メダル(通算八つ目)を獲得したノルウェーのダーリ選手は、今後は静かな生活に戻りたい、金メダルは良い思い出になるだろう、とか言っていたね。あくまでもスポーツはスポーツでしかないことをわきまえた良識あるまともな発言をする人間がスポーツマンにもいるんだね。世界は広いよ。それに比べて日本の荻原や原田はいかにもマスコミの喜びそうなキャラクターを軽薄に演じて、今後はスポーツキャスターやらクイズ番組の解答者なんかに引っ張り出されて、完全に芸能人化しちゃうような予感がするんだけれど、どうなっちゃうのかな。まぁそれはそれでどうでもいい他人事でしかないけど、それにしても、ニュースを見る度に連日連夜、強引に好きでもないオリンピック翼賛キャンペーンにつきあわされた自分には、この二週間はまさに地獄の日々だったね(大袈裟な表現)。


2月17日

 そういえばこのところ小説を読んでいないなあ。今日電車で帰ってくる時、隣に座った人が何やら小説らしきものを読んでいるのを横目でちらちら見ていて、近頃何も読んでいないことに気づいたんだ。でも今とりたてて読みたいものもないし、読もうとも思わないし読みたくもないのに無理矢理何か読むわけにもいかないしなあ。じゃあなんで今ここで小説を読んでいないことをことさら書かなけりゃいけないんだあ?わからないなあ、こういう出だしなのでしょう、としかいえないなあ。つまり、小説自体に興味がなくなってきたのかなあ?何やら紙面上で複数の登場人物がくっついたり別れたりけんかしたり愛し合ったりしちゃうことにリアリティを感じなくなってきたのかもしれませんね。ありゃりゃ、またもやむちゃくちゃな単純化ですねぇ。読みもしないのに勝手な偏見で小説を貶めているだけみたいですねぇ。こんな風に書いちゃえばどんなに面白いものでもつまらなく思えちゃいますねぇ。だめだなあ、近頃すっかりやる気か失せてまるで廃人状態ですねぇ。まったく困ったものです。でもいいや、いじけたままでいいや。

 そういえば大藪春彦が死んで何年になるのだろうか。せっかく自分の小説のパロディやら意味不明の展開を多用したりして面白くなってきたのに、これからという時に死んじゃうんだもんなぁ。特にウェポン・ハンター・シリーズ(光文社文庫)は今までの大藪春彦のパターンから著しく逸脱していて本当に面白かったのに…通常のパターンならシリーズ第一作目の『戦場の狩人』で、主人公の星島弘が恋人のかたきを討って復讐を果たしたところで終わりのはずなのに、その後『謀略の滑走路』『地獄からの生還』『香港破壊作戦』『オメガ・ワン破壊指令』『アウトバーン0号作戦』『砂漠の狩人』と、次から次へと星島は世界中をさ迷い歩いて敵と戦っちゃうんだ。しかもその戦いは回を追うにしたがって次第にリアリティを失って意味不明で焦点がぼやけたものになっていってしまうんだ。もちろん御多分に漏れず、このウェポン・ハンター・シリーズの物語構造も2月1日で述べた『小説から遠く離れて』で論じられている「素人探偵の宝探し」や「双子の宝探し」にそっくりそのままはまってしまっているのだけれど、中上健次の『枯木灘』と大江健三郎の『同時代ゲーム』がそうした物語の紋切型にはまりつつもかろうじて小説として読むに耐える作品となっているのとは違う意味で、ウェポン・ハンター・シリーズ(特に『アウトバーン0号作戦』と『砂漠の狩人』の二部作)は面白いんだ。そういうわけで(だからどういうわけなんだよう!)『アウトバーン0号作戦』と『砂漠の狩人』で「小説から遠く離れて」みましょう。

 そういうわけで、まず星島弘は「素人探偵」となって「宝探し」に出発しなければならないんだけれど、はじめから依頼の段階で躓いちゃうんだこれが。「素人探偵」に対する依頼自体が意味不明なんだ。それが依頼なのかどうかもわからない。多数のカラー・スライドが旧友のドイツ人カメラマンから送られてきたが、それが何なのか星島にはその真意がよくわからない。そうこうしているうちに星島自身にも問題が発生する。星島が裏でオーナーをやっている国際的な武器商社の武器取り引きでトラブル(取り引きしている武器が行方不明になる)が発生したり、その会社のデュッセルドルフ支社が何者かによって爆破されたりして、それを星島自身が調査しなければならなくなる。さらにカラースライドを送ってきた旧友のカメラマンが死体で発見されて、その元妻も殺されて、その旧友の弟が、兄はある国際的な陰謀グループを調査していてそのグループによって殺されて、兄を殺した国際的な陰謀グループのたくらみを全世界に暴露して欲しいと依頼してくる。もちろんここで読者には、カメラマンを殺した国際的な陰謀グループが星島の武器商社の武器を奪ったり支社を爆破したりしていることが容易に推測できるが(実際その先を読んでいくとそういう筋書きになる)、星島は依頼の手紙を送ってきた旧友の弟に対して「それにしても、国際的陰謀グループとは古めかしいじゃないか。この男はどちらかというと被害妄想の気があるのと違うのかい。それとも、時代遅れのスパイ小説の愛読者なのかな」なんて間抜けな感想を漏らしてしまう。てなことがあって星島は自分の件のついでに旧友の弟に会いにヨーロッパまでのこのこ出かけていっちゃうわけだ。しかもその途中のファースト・クラスで高慢なおねーちゃん(後で国際的な陰謀グループの大幹部(ドクトル・ノイマン)の孫娘と判明する)と意味不明なセックスをしちゃうし(なぜそういう展開になるのかよくわからない)、しちゃった後に「高度一万メーターのセックスをエンジョイするのには、ファースト・クラスのシートでも問題が多いな。カイパー=レカロ社に体験レポートを送って、改良すべき点を指摘してやるか」なんて間抜けなセリフをはいてしまう。もしかしてこれはギャグなのか?ぜんぜん笑えないけど、ハードボイルドな大藪春彦の小説に登場する主人公がギャグをかますことがあるのだろうか?本当にこれは意味不明だよ。

 ってな具合でヨーロッパに着いてからはいきなり敵の本拠地に偶然近づいて撃たれちゃうし(心臓を撃たれたと思ったら内ポケットに入れておいたジッポーのライターに当たって助かるんだけれど、そこから例によってジッポー・ライターにまつわるうんちく話に突入しちゃう)、旧友の弟は会う前に殺されちゃうし、もう踏んだり蹴ったりなんだけれど、肝心の依頼なんかもうどうでもよくなっちゃって、敵の正体もネオナチだとわかって、いよいよ全面戦争に突入するんだけれど、ここで「双子の宝探し」の慣例に倣って一緒に戦うパートナーを探さなけりゃならないわけですね、これが。井上ひさしの『吉里吉里人』が三文小説家の古橋とストリッパーで女殺し屋のベルゴ・セブンティーンで、村上春樹の『羊をめぐる冒険』が「僕」と鼠、丸谷才一の『裏声で歌え君が代』が画商の梨田と日本国籍の台湾人の洪であるように、星島は元第九国境警備隊のペーター・ビュルガーという根暗なおじさんを探し出して、似た者同士で意気投合してお互いの友情を誓い合うんだ。もちろん後で二人は宝探し(ロンメル将軍の隠し財宝)に出発しちゃうんだけれど(『砂漠の狩人』)、ここでは二人で敵の本拠地を襲撃する場面で『アウトバーン0号作戦』は唐突に終わっちゃうんだ。なぜだ?普通のアクション小説や映画ではその戦闘場面が一番の見せ場なのに大藪春彦にとってはどうでもいいことみたいだ。それよりジッポー・ライターや軍用犬やロンメル将軍に関するうんちく話に重きを置いているように見えるところが変な感じだよ。肝心の戦闘場面は次の『砂漠の狩人』で回想としてちょっと触れられる程度なんだよね。結果(星島とビュルガーの勝利)がわかっている場面は退屈だからあえて触れないということなのかな。

 次は『砂漠の狩人』についてだけれど、これも変な感じで、敵の方がなんだか困っているみたいでおかしい。敵のネオナチからみれば、自分達に甚大な損害を与えた組織の黒幕が星島なのだから立場が逆になってしまっている。そしてちょっとだけ敵の首領である黒幕的存在も登場するが、事態が把握できないで困っているだけだ。一方、星島も星島で自分の過去に思いを巡らしたりして困っている。「俺は、何を成し遂げたというのだろうか。本当は、いったい何をしたいのだろうか?」そうだ、星島には戦う目的がない。シリーズ第一作目の『戦場の狩人』において復讐を成し遂げた後は、行き当たりばったりで世界中をさ迷い歩いて殺し合いをしているだけだ。そしてこの『砂漠の狩人』でもヨーロッパ観光巡りをしながら敵と不毛な殺し合いをするばかりだ。しかも星島も敵もあまり戦いに乗り気ではない。まるで、すべての登場人物が別々の方向を向いて別々の思惑で動いているみたいだし、すべての出来事が分散していて決して一つの目的に収束することはない。例えば、敵に追われて窮地におちった星島を敵の大幹部のドクトル・ノイマンの孫娘が車で通りかかってそれに乗って追手を逃れるんだけれど、それはたまたま偶然にそこを通りかかっただけで、べつに孫娘は星島を助けようとしたわけでもないし、追いかけてくる敵に対してはいたって無関心だ。「うっとうしいったら、ありゃしない」「まったくもう、しつこい奴ね」「つきまとってきたのは、誰だったんだ。知り合いかい?」と、とぼける星島に「知らないわ。ずんぐりした体つきの、小柄な中年男が運転していたけれど。きっと、あなたの命を狙っていたのじゃないの。私には覚えがないもの」、この程度である。その後はドクトル・ノイマンが留守にしている屋敷で孫娘の友達と星島も加わって乱交パーティーになってしまう。追手の方も、星島を追ってきてタイヤを弾丸で撃ちぬかれて事故を起こして炎上して仲間が逃げ後れて黒焦げになっているのに、「まいったなあ。どうしたものだろう」としばらく考え込んでいる。まったく何かの感覚が抜け落ちているようで、これが「ゲーム感覚」というやつかもしれない。そして、最後にいよいよ「宝探し」に出発するが、親友のビュルガーは乗り気ではない。しかもその「宝探し」も敵のネオナチによって計画されているものであり、それを横から掠め取る作戦だったが、結局宝はチュニジアの塩湖に沈んでパーになってしまう。ほとんどそれはどうでもいい付け足しでしかなく、後に残るのは徒労感だけだ。最後の星島とビュルガーの会話がそれを象徴している。「ペーター、くたびれもうけになってしまったけれど、これからどうしようか」「なあに、これくらいでメゲやしないよ。鍛えられれば鍛えられるほど、人間はたくましくなるもんだ。ドイツの国だって、今はごたごた続きだけれど、これだけ徹底的に鍛えられたら、また一回りたくましくなって再生するよ。だから、俺はちっとも絶望していないんだ」…これが殺し合いをやった後のセリフか。それに二人とも年齢は五十歳前後と推測されるんだよね。変なの。


2月10日

 なんだか長野五輪も国営放送局のNHKが中心となって無理矢理盛り上げているみたいで、おかげで開会式の視聴率も札幌五輪やアトランタ五輪の時を上回ったみたいだね。よかったね、面目を保つことができて。これでNHKの翼賛報道にもますます磨きがかかっちゃうね。そして、今日、スピードスケートで清水選手が金メダルを取ったし、本当におめでたいことの連続だね。これで強引な誘致活動やなし崩し的な自然破壊や莫大な借金を背負ってまで開催した甲斐があったというものだよね。本当によかったよかった、がんばれニッポン!だね。しかしありゃありゃだよ、久々に書いたのに相変わらずこういうイヤミな事を書いちゃってるからなぁ。そういえば開会式ではおすもうさんはまわし姿ではなくて紋付袴で行進したみたいだねぇ。やっぱり世界各国の選手団にお尻を見せながら歩くのはちょっと失礼だろうし恥ずかしかったのかなぁ。でも横綱の曙の土俵入の時は全員がまわし姿でやっていたみたいだね。案の定、それを見ていた選手達に笑われていたようだけど、いいんじゃないの、相撲は元々見世物興行的なものなのだから。何しろ江戸時代末期の黒船来航時にも外国人があまりにも大男なのに驚いて、それに対抗して自分の国にも大男がいることを見せびらかすためにおすもうさんが駆り出されたそうだし、ま、そういう見栄や虚勢をはるやり方が昔と変わらないのが哀しいところだけどね。しかし、どうせなら曙がしこを踏んでいる横でハワイのフラダンスでも踊らせればさらに大受けだったのにね。フラダンスだって元々神への奉納踊りだったのだから土俵入と同じようなものでしょう。ギリシアから来た聖火を卑弥呼みたいな格好をした伊藤みどりが狼煙台のような聖火台に点火しちゃうんだからそういうクロスオーバーな表現もありだったよね。だけど、そういうちゃちな日本的演出も最後の第九の合唱の迫力の前に吹き飛ばされちゃったね。やはり荘厳さや崇高さなどの大袈裟な表現をやらせたらヨーロッパ起源の世界文明には勝てないね。実際あの第九には感動したよ。べつに曲そのものは単純だし暑苦しいしぜんぜん美しいとも思わないけれど、ただただその迫力に圧倒されるしかなかったよ。あれがここ二百年間続いている過剰な物質文明を象徴する曲かもしれないね。しかしああいうのは感動するけど嫌いなんだ。でもまぁ、そういうわけのわからない支離滅裂な開会式によって、日本が知性のない土人国家であることがわかって欧米人も一安心したんじゃないのかな。彼らにとっては日本人はいつまでも馬鹿な原住民でありつづけて欲しいだろうからねぇ。しかしそうかといって必ずしも欧米に知性があるともいえないんだよね。例えば、ガキと一緒に走ってきた片手片足の聖火ランナーなんて偽善としか思えないもんね。少なくともあれに知性はないよ。でもああいう見苦しい行為を肯定しちゃうのが現代の世界の良識なのかな。ようするに、地雷によって傷ついた自分の痛々しい身体を見せつけることで世界に向けて地雷の全廃を訴えているわけだけど、何だか無意味な儀式に強引に意味や意義や根拠を捏造しようとしているみたいでいやな感じがしちゃうんだよ。っていうことで、こんなひねくれたことを書いている自分にも知性があるとはいえないかな。しかし知性って何だ?わからないね。


2月3日

 ありゃりゃ、ついにこの二日に一度のペースでやってきた書き込み作業も今日で終わりだよ。もう今使っているこのPCのある場所には、うまくいっても一週間に一度戻ってくるのがやっとの状態になってしまいそうなんだ。こんな状態になってしまってうれしいのやら悲しいのやらよくわからないんだけど、ともかく、この不毛で無意味で何の実りもなかった、ただひたすらに書く作業からはしばらく解放されそうだ。しかしこの後どうなっちゃうのだろう?なんだか一週間後に再びこの場所に戻ってきても、はたして書く気が起きるのかどうかよくわからないなぁ。それより本当に一週間後に戻ってこれるのか不安だよ。早くお金を貯めてノートPCとPHSでも手に入れればふたたびこれを再開できるのだろうか。でもいつのことになるのやらだね。でももういいのかな、もう書かなくてもいいのだろうか?その時になってみないとわからないね。何の目的も書く根拠もないのに書き続けるのはやはり困難なことなのか?でも書くための目的なんか今更捏造できないよ。なぜ今まで書いてきたのだろう?知らないなぁ、わからないなぁ。でも今更弱音を吐いても言い訳をグダグダ述べても、実際に書くことが不可能になりつつあるのだから、本当に今更何を言っても後の祭りだよ、って今更グダグダ意味不明なことを書いているなぁ。

 そうだよね、Show's Hot Cornerで述べているように、ZDNetやCNETでアメリカのコンピュータ関連のニュースが日本語で読めるようになったのは良いことなんだよね。少なくとも日本の初心者向けのパソコン雑誌を読むのよりははるかにマシなのだろうね。でも他人事だなぁ。自分はいつになったら新しいPCを買うのだろうか?そうだ、去年は今年Macを買う予定にしていたんだっけ。早く買わないとアップル社がどこかの会社に買収されちゃうよ。でも買収されてもどうせMacは残るだろうな。じゃあ今年買う計画は来年に先延ばしか?MacよりノートPCが先か?いっそのことパワーブックを買うとか?でもパワーブックは高そうだ。やっぱり買う金もないのに妄想ばかり膨らんでしまうなぁ。なんだか今年も妄想のまま終わっちゃうのかな?しかしあと二三年後には64ビット機が全盛になっちゃうかもしれないから今買うと損かなぁ?だから金がないんだろ!金を貯めてから悩めよ!しかしマイクロソフトは64ビット版のNT(ウインドウズNT)を出せるかな?まさかマイクロソフトが64ビット版NT出すまで64ビット時代は到来しないとか?じゃあこれから永遠に32ビットのままか?でも他人事だなぁ。

 だめだぁ、今日が最後かもしれないのにこんなゴミみたいな文章しか書けない。これを定期的に読んでくださっていると推測される数人の方(カウンターの増え具合から判断)に申し訳ない。はぁ〜、頭がウニだぁ〜。憂うつだぁ、鬱状態だぁ、うっひゃ〜、難しい漢字がいきなり出現した!これを読んでいる君は「鬱」を読めたかい?スティーリー・ダンの曲じゃないよ。文章の前後の意味からそれを読める人は多いと思うけどそれを書ける人は少ないよね。実際に「薔薇」とかなかなか書けないもんね(それが書けることを自慢する奴は多いかな)。自慢じゃないがボクちゃんなんか「所謂」を「いわゆる」と読めるようになったのは二十歳過ぎだぜ!田中康夫の『ファディッシュ考現学』を読んでいて読めるようになったんだ。だって高校までの国語の時間に「所謂」という漢字が出てきた記憶がまるでないんだよ。そして「件の」を「くだんの」と読めるようになったのはさらにそれから四五年経ってからさ(笑)、っていうことで、あ〜、何も思い浮かばないから漢字を読めなかったことを自慢してしまいました。なんだかこの先もだめそうですね。もういっか、この辺で終わりにしましょう。ではさようなら。


2月1日

 そうだよ、MacWEEKのボムちゃんを読んでいて思い出したよ。自分もあのSF映画をテレビで見ていたんだ。へー、題名は「JM」というのか、バイク事故で顔が歪んでしまう前のタケシがヤクザ役で出ていたんだよね。原作はウィリアム・ギブソンの「記憶屋ジョニー」というのか、ふーん。映画のストーリー展開はありがちなパターンだったけど、原作はどんな内容なのかな?もしかしてシリーズ物でその中の一話が映画化されたとか?と、そういうわけで(どういうわけなんだ!)今回はそれをネタに適当に嘘八百の出鱈目を織り交ぜながら書いちゃうのさ、へっへっへ。

 そうなんだよ、思い出したんだよ、あのSF映画を見ていて蓮實重彦の『小説から遠く離れて』を思い出したんだよ。それは今の東大の学長さんが約十年前に「世紀末的な恍惚に導かれて」書いちゃったバカヤロウな評論集だ。その『小説から遠く離れて』を読んだ自分には、その中で論じられている村上春樹の『羊をめぐる冒険』や井上ひさしの『吉里吉里人』とこのあいだ見たSF映画「JM」の物語の構造がそっくり同じに思えちゃうんだよね。もちろん、おそらく実際に村上と井上のそれらの小説の両方を読んだことのある人には(自分は両方とも読んだことがない)、『羊をめぐる冒険』と『吉里吉里人』自体まったく違う小説だと主張するかもしれないんだけど、「小説から遠く離れ」ちゃうと同じになっちゃうんだよ、これが。

 井上ひさしの長編小説『吉里吉里人』を難儀して読みおえたときなど、決して創意を欠いているわけではないこの作家が、当時はまだ新人にすぎなかった村上春樹の『羊をめぐる冒険』をそっくり模倣したのではないかと思ってしまったほどだ。・・・・・・ところが驚くべき類似はこの二篇に限られたものではなく、『吉里吉里人』が村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』や丸谷才一の『裏声で歌へ君が代』の剽窃であるといってもおかしくない細部の符号ぶりに気づいたとき、時代にふさわしくあろうとする小説家たちの善意が、作品から個性という名の文学的な貴重品を奪ってしまうような一時期にさしかかっているという事実を改めて重視せねばならぬと考えるにいたったのである。文字通り同じ物語を語っているとしか思えぬ作品群が、時代の先端部分で誇らしげに類似を競いあっているなら、その類似の形式的特質こそが読まれねばなるまい。(『小説から遠く離れて』P11〜P12)
とまあ、現在の東大の学長さんは当時、とんでもなくまわりくどい語り口でもったいぶって書いていたわけだけど、本当はただ井上ひさしと村上春樹と村上龍と丸谷才一をまとめて馬鹿にしたいだけとしか思えないんだけど、実は「JM」も同じやり口で馬鹿にされちゃう可能性があると思うんだ。

 というわけで『小説から遠く離れて』の目次通りに行くと次は「素人探偵の宝探し」だね。もちろん素人探偵は映画でキアヌ・リーブスが演じているところのジョニーだ。ただジョニーの場合は宝自体が自分の頭の中に注入された記憶なんだけど、その記憶を取り出すための「鍵」を探しに街中を追手から逃げ回りながら探さなくちゃならない運命さ。

 素朴な反復によって『羊をめぐる冒険』と『吉里吉里人』とを結び合わせているのは、「宝探し」という物語的な類型である。どこかに何やら貴重なものが、人目を避けたかたちで隠匿されており、主人公が、難儀しながらも、その隠された対象を探しあてるという物語が、村上春樹と井上ひさしの長編小説で反復されることは、この長編を読みくらべてみたものの目には、あまりに明らかだろう。(同P18)
 次は「依頼と代行」だ。これはジョニーの職業そのものだね。正体の知れない誰かさんからの依頼で、報酬と引き換えに「記憶」を運んでくれるように頼まれて、その通りにジョニーは「記憶」の運搬を代行する筋書きだったわけだ。しかしその「記憶」が予定外の代物で、自分の記憶容量をはるかに上回っており、このままだとあと一日以内に依頼主を探し出して「記憶」を取り出さないとジョニーは死ぬ運命にある。それは決定的にジョニーの行動の自由を奪う仕掛けになってきちゃうのさ。
 その時「依頼と代行」という主題が視界に浮上し、『羊をめぐる冒険』と『吉里吉里人』の主人公の行動を、同じ一つの振舞いとして物語に介入させることになる。しかも依頼は、ほとんど脅迫めいた取り引きとして、主人公の自由を奪う。依頼者の意志を代行しつつ「宝探し」に出発する素人探偵は、自分自身の欲望を充足させるためではなく、他人の利害に従って旅を続けねばならない。だから、たんなる遊戯としての「宝探し」とはいささかわけが違い、請け負わされた仕事として演じられねばならないというのが二人に共通した行動様式なのだ。(同P19〜P20)

 この受動性を見落とさずにおこう。つまり、隠された貴重品の発見にあくまで固執しているのは操作するものとしての依頼者であり、代行者は、どこまでも消極的に振舞い続けるほかないのである。・・・・・・その根拠を持たぬ消極的な冒険というそれなりに刺激的な説話論的な主題に、村上も井上もあれこれ正当な根拠を捏造してしまう。(同P21〜P22)

そうだよね、ジョニーの頭の中に入っている「記憶」というのは、未来の人類のあいだで蔓延している不治の病を治す薬の製造法なんだよね。これが正当な根拠だね。

 次は「継承の儀式」だ。

 村上春樹と井上ひさしとは、その特殊な事態の発生とともに物語を語り始める。『羊をめぐる冒険』にとって、それは、「強大な地下の王国」の王たる「右翼の大物」の身に死が訪れつつあるという事実だし、『吉里吉里人』にとっては、東北地方の僻村が吉里吉里国として独立するという意想外の事件がそれにあたる。王権がいかにして継承されるのが前者だとすれば、後者のそれは、国民の意志がいかにしてにして代表され、どのように次代に継承されるかという問題になるだろう。(同P27)
「JM」では、不治の病を治す薬を開発した製薬会社の創業者が死んではいるものの意識だけは残っていて、その創業者の意識が薬の製造法を公表させようとして、その役割をジョニーとヤクザのタカハシ(タケシが演じている)に継承させようとするんだけど、今まさに、その薬の製造法が公表されてしまうと困る会社の首脳陣によって、創業者の意識と薬の製造法の「記憶」が消されようとしているわけだ。つまり、創業者の意志がいかにして継承されるかがここで問題となっているわけだ。これが特殊な事情の発生だね。

 次は「架空の少数者」だ。ここで丸谷才一の登場だよ。

 丸谷才一の『裏声で歌へ君が代』が、あからさまに架空の小国の独立運動を題材としているという点で、『吉里吉里人』とある種の類似を示しているということは誰の目にも明らかだろう。後者が、東北の僻村の独立という現実には起こりそうもない筋書きを持ち、前者が台湾人の大陸系支配層に対する独立という、事と次第によっては嘘とも思えぬ題材をあつかっているという違いはあるにせよ、そこで、影の権力の委譲を通して国家なるものの意味が問われようとしている共通点が二人の作家を結びつけていることは否定しがたい。(同P35)
「JM」でもその手の少数者たちが出てきたよね、彼らは廃屋となっている吊り橋の裏側に住んでいて、地下放送局を開設していて、ジョニーの「宝探し」(「記憶」の引き出し)を助けて、製薬会社が差し向けた追手のヤクザ達と戦ったんだよね。まさに権力に反抗する架空の少数者(パルチザン)だ。

 ところで今回はだいぶ書いたね、もう疲れてきたよ、他人の文章を写すのも一苦労だ。『小説から遠く離れて』の方はまだまだ三百ページにもわたって続いていて、ここからが面白くなるんだけれど、もう挫折だ。これ以上書くと発狂しちゃうよ。興味のある方は日本文芸社から定価1300円で出ているから、買うか図書館で取り寄せるかして読んでください。自分は古本屋で買いました。この先は大分はしょって説明すると、もうしばらく読み進めていくと、この本の主要な主題である「双子の宝探し」が、「潜在的な双生児の物語から、顕在的な双生児の誕生へという経過をたどりつつ、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』のハシとキクが、大江健三郎の『同時代ゲーム』の「僕」と「妹」が、中上健次の『枯木灘』の秋幸とさと子が、これまでに垣間見られた物語を活性化するヴァリアントとして登場」(同P86)しつつ顕在化してくるのだけど、映画「JM」では、ジョニーとタカハシが潜在的な双生児として物語を活性化するわけだ。特に面白いのは、大江健三郎の件で『同時代ゲーム』の「僕」はなぜか、死んだとされている「妹」の「恥毛のカラー・スライド」に激励されて「仕事」に着手するのに対して、タカハシは不治の病で死んだ子供(娘)の三次元映像に「激励」されて「仕事」に着手しちゃって、ジョニーは力持ちのおねーさんの助けを借りながら「仕事」をやり遂げるんだ。これは女は男を補助する役目しか与えられていないという共通点だね。そしてタカハシ(高橋)は高い橋で死んじゃうんだ、ってことで、もう書くのはやだ!頭がおかしくなりそうだからこの辺でやめます。