彼の声48

2005年

5月31日

 それは夢の中の話かもしれないが、状況的には夢に逃げるわけにもいかなくなってきたのだろうか。なぜか倒れそうになりつつあるらしい。遠くを眺めると地平線が脈打っているように感じられるのは、身体が小刻みに振動している証か。身体の動きとは別に何が揺れているのだろう。地震ではなさそうだ。まさか死期が近づいているのか。縁起でもないことを述べると怖くなるか。耳が遠くなってくる。通りを行き交う車の音を聞いているらしい。何が復活したのだろう。そこからどんな真理を演繹したいのか。演繹できる材料など何もないだろう。今のところ結論は何も導き出されていないようだ。そこに心があるとすれば、常にどこかへ移動し続けているのかもしれない。しかし何が見いだされているというのか。言葉がまとまりを欠いているように思えるのだが、わざと焦点をぼかして語っているつもりなのだろうか。体の震えはもう直ったのか。それらの時空からは何も得るものがないのか。それなりの言葉が抽出されているのかもしれない。君には関係のない言葉の群れだと思いたいのか。何をどう述べていいのかわからないか。すでにそんな風に述べているではないか。五官で何を感じ取っているわけでもないようだ。ただそれを言葉で表現していないだけだろう。何かしら感じ取っているが、それは言葉とは無関係な感覚なのかもしれない。ただ普通に生きているだけか。その普通という言葉がどのような基準を前提として述べられているのかわからないが、それでも普通は普通でしかないか。とりあえず雨を感じているようだ。午後にはやむだろう。やんでくれないと困るか。困った風を装いたいのだろうか。なぜそんな感性から抜け出ることができないのだろう。今さら何を反省したいのか。惰性の言葉はまだまだ続いてゆきそうだ。いつか倒れてしまうだろう。木の幹が朽ち果ててくる。虫に食い荒らされているのだろうか。だがそれが何のたとえなのかわからない。たとえでないとしたら、現実にどこかで起こりつつある光景なのだろう。しかしそれを誰が見ているわけでもなく、誰かがそんな光景を心の中で思い描いているだけか。現実にはそこに何がうごめいているわけでも生息しているわけでもないか。しかしそれをどうやって忘れられるだろうか。些細な戯れ言は時がたてば忘れてしまうだろう。その反面つまらぬ事はいつまでも覚えている。心のどこかに引っかかっているらしい。何もそれをことあるたびごとに取り出す必要もないか。いやになってしまう。それ以外に何も思い浮かばなくなってしまったらうんざりしてしまう。しかし何かが抜け落ちていないだろうか。君はどんな言葉を探しているのか。言葉を書き記すことに疲れているのではないか。そんな問いかけを誰に向かって述べているわけでもなく、問いかける対象が不在のまま、ただ記しているだけなのだろう。言葉が出現している。それは文字なのか。文字でないとすると何なのだろう。記されているのは文字の連なりでしかない。ではそれらの何を読めばいいのだろうか。何を読めると思っているのか。それは何かの勘違いか。しかし文字を読めないはずもないか。たぶん読んでいるのかもしれないが、読んで理解するまでには至っていないのかもしれない。誰が何を読んでいるのかもわからない。すべては理解できないことなのか。理解しがたいことなのかもしれない。べつに理解しようとしているわけではないのだろう。理解とは無縁の読みもあるようだ。ただ読んでいる。それが普通のことだと思われる。本当は読みたくもないのではないか。読みたくもないのに読んでいるわけか。そんなはずはないと思いたいか。それでも君は読み続けるだろう。はたしてそれらの言葉を書き記しているのは誰なのか。そんな分かり切ったことを問いかけないでほしいか。すべてはそれらのはぐらかしから始まったことなのか。何となく適当に紆余曲折を経て、またいつもの雰囲気に近づきつつあるようだ。それらの回り道には何が見受けられたのか。何か心に残る言葉の連なりでも見つけたのだろうか。何を見つけたわけでもないか。何かしら見つけたような気もしているのだが、それを後で読み返してみれば、それなりの言葉が見つかるかもしれない。しかしまだ限界を超えたわけではない。たぶん限界などどこにもありはしないのだろう。あったところで無視しているのか。回り道の途中からどこへ先回りできるわけもないか。先回りしたつもりが、言葉はとうにそこを通り過ぎている。しかし何を取り逃がしているのでもない。何を捕まえようとしていたのでもない。実際に幻影など見たこともないのではないか。あるのはそんな言葉ばかりのようだ。そこにあるはずのない情景を語りたいのか。まだ何を語っているわけでもないと思いたいのか。すでにもう無意味なことばかりを語りすぎていて、そこから醸し出される情景を取り逃がしている。はたして語ることによって取り逃がしているのは情景なのだろうか。それは語っているのとは別の言葉でしかないか。そこにどのような言葉が導き出される可能性があったのだろう。わかるはずのないことを考えてみても仕方がないか。いつの間にか雨はやんで、曇り空も明るくなってきたようだ。何かを思っているつもりの心にも、何か適当な光明でももたらされたらいいようにも思うが、それで気が晴れたとしても、現状がどうなるわけでもないようにも思える。それが思い違いであったなら、少しはおもしろいとでも感じるだろうか。この世界のどこにおもしろい出来事が生じているのか。それに遭遇したいだろうか。巡り会ったとしてもそれに気づかなければ、何ももたらされないかもしれない。様々な現象を素通りしながら現在に至っているのかもしれない。何を見逃しているのだろう。何も見逃さないわけにもいかないだろう。目は二つしかなく、見えていない方向に何があるかなんてわかりはしないし、目だけですべてを感じ取っているのでもない。


5月30日

 今日もつながらない言葉を無理矢理つなげようとして悪戦苦闘しているようだが、何がそれらのフィクションを構成しているのか。それが言葉ではないとすると何なのだろう。誰かはどこか遠くから声がしているような夢を見たらしいが、そんな作り話に阻まれて、本当の気持ちを心から取り出すことは困難を極めているのだろうか。なぜそれが困難だと思うのか。心はどこを向いているのだろう。視線は何を考えているのか。また何を冗談ではないと思っているのか。君はいつもの嘘をそんなに否定したいのか。その何かを否定したいという気持ちは、逆にその否定を乗り越えて、何か他に顕揚すべき物事でも認識しているのだろうか。それらの心境の実態を素直には認められないようだが、嫌気が差すとはどういうことなのだろうか。嫌気が差してどうしたいのか。それらのどこかに心境の変化を示す兆候でも認められるのか。単に否定の他に何も提示できないから、嫌気が差しているのだろうか。君は何をそんに嫌気が差しているのか。それは何かの勘違いか思い違いではないのか。前の言葉がその後に生成される言葉を浸食しつつあるのかもしれない。だが君は事実はその逆だと思いたいようだ。また誰がそこで何を思っているわけでもないように思えるらしいが、なぜかその辺に否定の感情が漂っているらしく、何を否定したいわけでもないのに、またそれほど大げさに事を荒立てるように、否定しなくてもいいような気もしているのだが、そんな否定に関するフィクションを読んでいるつもりいなって、現状の何も肯定しようとしないのはどうしたことなのか。それは心の病か何かの作用なのだろうか。しかしそれについては何も実感が湧いてこないし、たとえばそこでメロドラマ的に逆上して、何に逆上したのか知らないが、別に物事を肯定するすべての感情を焼き尽くしてしまいたいわけでもないのだろうが、ではそこに生じている何かを否定したい感情は、何の根拠もないでたらめのなせる技なのか。それをでたらめで片づけられたらどんなに楽なことかもしれないが、何かが危険な水域に達しつつあるのかもしれず、今はとりあえずその否定したい感情を断念した方がいいのだろうか。誰が断念した方がいいというのだろう。では断念できないのなら、それらの感情のすべてをいったんは認めざるを得ないか。何を今さら認めようというのだろう。なぜそうやって前言を否定しにかかるのか。それ以外に具体的に何を否定したいのかわからないのだが、誰かは何がわからないのかわかっているつもりなのだろうか。何をわかろうとしているのか。すでにわかっていることをもう一度わかろうとすることに、どんな意味があるのだろうか。少なくともこのままでは、否定したい事物に言葉の連なりがたどり着けないのではないか。なぜそうなってしまうのか意味不明だが、なぜか言葉が連なって行く先には何もないようで、実際にどこにもたどり着けずに、結局はいつもの苦し紛れのはぐらかしに遭遇するしかないだろうか。そしてさらにそんなごまかしに合わせて、意識的にも何が何だかわからなくなったつもりになれば、何となくその場はうまく収まるだろうか。しかしはたしてそれでいいのだろうか。もちろんそれで誰にとっても納得いくはずもなく、それらの不具合を無視し続けるなら、さらなるごまかしと忘却を経由しないと話にならないだろうが、とりあえずそこに生じているらしいそれらの困難は、それも一つの経験として通過していくしかなく、そんな風になってしまうことも、得難い経験として前向きに考えていかないとやっていられないか。しかしそんなことを述べてしまうこと自体が、何かを隠すための言い逃れとしか思えないのは致し方のないところか。そして隠しているつもりが、現実にはまったくの無内容をむき出しにしてしまっているわけか。それがそこのでの行き詰まりの正体なのかもしれず、そんな行き詰まりを眺めながらも誰かは、たとえそこで行き詰まってしまったとしても、それはそういうことでしかなく、どうしても納得がいかないのなら、納得がいかないなりの語り方でも模索していればいいことでしかない、とでも思っているのだろうか。また何もそれらの状況を、うまくいかないことだらけと捉えることもないだろう。ようは気持ちの持ちようなのだろうか。しかし気持ちの持ちようでまた何をごまかそうとしているのか。そんな語り方では、ごまかそうとしている当のものが丸見えではないか。だがそれは目で見えるものではなく、たとえば心で感じ取るような何らかの雰囲気なのだろうか。しかしなぜそれを見え透いた嘘でごまかさなければならないのか。要するにそんな風に語ってしまうことに、嫌気が差しているということか。では別の語り方を模索すればいいということになるが、それが簡単にできればそんなに苦労はしないだろう。だからさらなるごまかしを経由しないと何も述べられないことにも、嫌気が差しているというわけか。しかしそれではごまかし以外に何もわからないだろう。何もわからないから、何かをごまかしているような雰囲気が醸し出されているのではないか。またそうやってさらにわざとわけがわからなくしているような気がするのだが、そんなことではさらに嫌気が差して、その先に何も述べる気がしなくなるのではないのか。もういい加減にその嫌気とごまかしの繰り返しから抜け出た方がいいだろう。その方が身のためであり、心のためなのかもしれない。しかしそこで終わるわけにはいかないか。終わりたくても終わらせられない事情でもあるのだろうか。たぶんもう終わりたいという心境なのかもしれないが、その終わりがどういう終わりなのかわからないので、どう終わっていいのかもわからず、どのようにも終わらせられないということだろうか。それでは終わるはずがないだろうか。そんなわけでどうやらそれなりの困難に直面しているらしいが、誰かはその困難に打ち勝とうとしているのではないのかもしれず、結果的には困難の前に敗れ去ろうとしているようにも思われ、敗れ去ることと引き替えにして、それらの継続を果たしているのではないだろうか。


5月29日

 また性懲りもなく退屈な言葉の連なりが出現してしまうかもしれない。人は何らかの場所を占有しているつもりになりたいようで、君は言葉によってそれを実現しようとしているわけか。いったい君は何を批判したいのか。批判する対象などどこにもなく、唯一自分自身を批判せざるを得なくなってしまっているのではないか。しかし今の君に自らの何を批判できるというのか。どうもそこから言葉が続かなくなってしまったようだが、さっきから何を繰り返し述べているのだろう。それで本当に何かをやっているつもりなのか。そうは思わないが、それでも何かを述べていることになるのだろうか。人はなぜ何かについて述べなければならなくなってしまうのか。それはその人の都合と事情にもよるだろう。君にはどんな都合と事情があって何かを述べようとしているのか。それを述べられないから、いつもの空疎な言葉でその場を埋め尽くそうとしているわけか。それともまだ何も述べないうちから、また何も述べられないことのいいわけを語り始めようとしているのか。そしてひとしきりいいわけを述べた後で、自身でそれはくどいと思うわけか。そんなことははじめからわかっていることだろう。わかっているからそう述べざるを得ないのかもしれない。ではそこからさらに何を述べようとしているのだろう。述べてみないことにはわからないが、身勝手な意識はまだ何も始まっていないうちから、それらの語りを行き詰まらせようとしているわけか。やはりそんな空疎な話では行き詰まって当たり前だろうか。とりあえず何をやるにも、心に余裕がないとできないのかもしれないが、逆に余裕がありすぎても、何かをやる気力が乏しくなってしまうようで、他に何もできないような慌ただしさから逃げてしまっては、やはり何もできなくなってしまうものだろうか。すでにそこから逃げおおせていて、何もやらない単調な日々の中で、精神がだらけてしまっているのかもしれないが、もうそれ以上は何も言葉を繰り出せないとしたら、本当にそれは書くことから派生した問題なのか。それの何が問題なのかわからないが、それを知るきっかけはどこにでもあるはずか。だがそれを解く鍵を書物の中から見つけ出したいというのは、いかにも虫のいい話になってしまうだろうか。では現実に何が書物から見いだされているというのか。単にそれらの書物は君の読解力をまともには受け付けてくれないように思われる。だからいくら読んでも何もわからないわけか。君の方でも意地を張って頑なにわかろうとしていないのかもしれないが、その辺が君の限界なのか。ではそんな君を文章の中に記しているつもりの誰かの方はどうなのか。君と誰かは何によって分離されているのか。分離できるはずもなく、それらは一心同体の別々の側面でしかないのだろうか。そんなことを誰が知りたいわけでもないのだろうが、ではその中で他者とは誰なのだろうか。それともそれらすべては誰かの独白の中にしか存在し得ない幻影でしかないわけか。では何がそれらの独白を形成しているのだろう。それはただの文章を形成しているだけであって、君と誰かがその中で何かを述べ合っている、ということになっているわけか。だがそんな筋書きは聞き飽きたか。誰がそんなことをほざいているのか。それによって何を知りたいのか。それとは何なのか。まさか誰かはそれによって文章の中に存在するかもしれない隠された意図を探ろうとしているわけではないだろうし、何を疑いたいのでもなく、ことさら懐疑主義に染まろうとしているしているわけでもないのだろうが、たぶんそれは真の疑いではなく、その場に張り巡らされた間に合わせの疑いの一つだとは思うが、とりあえず何かを疑っている姿勢を維持継続していないと、そこから先へ文章がつながってゆかないのかもしれない。では君は誰かがそんな風に疑うことの何を批判したいのか。そんな批判ももはや聞き飽きたか。だがまだ何の批判も始まっていないではないか。意識はなぜそんな風に先回りをしようとするのだろう。しかしいったい誰がそれを述べているのか。あるいはただ沈黙の中で虚無が蔓延しているだけか。そんな嘘も聞き飽きたか。ではそれを書く目的とは何だろう。それに対して何か辛辣な意見でも述べておきたいのだろうか。しかし些細な皮肉はいつもグロテスクな情景を提供しようとして、それに呼応する者たちは、様々な利害にとらわれ殺し合う人々ばかりを顕揚したいらしい。そんな受け入れがたいことを述べることだけに精神を集中させる人々は、自らが放出する憤怒の炎によってその身を焼き尽くし、灰となり風に吹かれて大気の中に消え去ってしまうわけか。君は誰のことを述べているのだろう。批判の連続はやがて批判する者の存在すら許さなくなる。批判ばかりの現状に嫌気が差した人々は、批判よりも希望を求め、その異議申し立てを唱え続ける暗い執念を取り除くために、それを嘲笑しながらもやがて無視して忘れ去るための夢を求める。それは本当のことだろうか。そんな風に事が進んでしまえば、絶えず何かを批判し続けているつもりの君の立場はどうなってしまうのか。どうもなりはしないだろう。君にも君なりの夢と希望があるはずか。しかしそれを叶えるために批判を繰り返しているわけでもないのか。だが何がそこでの批判だと思われるのか。何かを述べているうちに、何を批判しているのかわからなくなって、そんな徒労に終わりかけている作業を今さら持ち出してどうするのか。だが心配は無用であり、退屈な日々がそんな記憶を簡単に消し去ってくれるだろうか。いつかつまらない言葉のあやから始まった批判などどこかへ吹き飛んでしまい、もう少しまともなことを述べられるような状況になるのだろうか。そうではないだろう。現状のどこかにこだわらなければ、何も語れなくなってしまうのは自明の理だろうか。しかしこだわるということと批判することはどこで結びつくのか。絶えず何かについて気に入らないわけでもないはずか。ではそのように思ってしまうことの何が気に入らないのか。どこかでその存在が浮いている。話がかみ合わないのは、存在が話から浮いてしまっているからなのか。しかしそこには何が存在しているのだろうか。誰かの息づかいでも文章の中に認められるわけか。


5月28日

 書かれた人が男であったり女であったりするのはおかしなことか。男であれば男であるように書かれ、女であれば女であるように書かれる。そこで何を説明しているのだろう。それではまともな説明になっていないか。まだ説明以前の段階なのではないか。君は自らが語りつつ話の中で、登場人物の性別を明らかにしようとしているのか。しかしそれが男であれ女であれ、それらの動物はすでに死に瀕している。動物とは人間の一種のことか。それともゴキブリの一種なのだろうか。ベッドに横たわったまま、君は何も語らなくなってしまったようだ。語らなくても起きあがるくらいのことはできそうだ。病院のベッドはそれほど退屈なのだろうか。誰かはその動かない人について、何か突拍子もない誤解を抱いているのではないか。現に目撃されつつある他の誰かの死から目をそらすことが、面倒な成り行きでも呼び込んでしまうわけか。いったいそれの何が誤解なのか。いつかそれが解ける日がやってくるのだろうか。しかしそれでも君は依然して動かない。君には呼吸をする機会が永遠に巡ってこないのだろうか。たぶん死から連想される情景は、その場限りのいい加減な冗談では覆い隠すことができないのだろう。しかし誰かはそんな風に思いながらも、それを無視しようとしている。それとは無関係に言葉がどこかで踊っているらしい。それを踊らせているのは君ではなく、君について書こうとしている誰かでもなく、たぶんどこかの書物の中で、それを読むと踊っているように感じられるのだろう。無視しているのは君の生死などではない。それはどのような発明に基づいているのか。君は自らに下された死の運命を迂回しながら、今になってようやく動き始めたようだ。それは誰かの幻想なのだろうか。作り話の中ではたいていの場合、そのような思いがけぬ出来事が到来するものだ。それはどのような誤解に基づいているのだろう。死を免れてやっとの思いでそこから逃げ出したのに、逃げ出した先には何があったのか。死んでもいないし生きてもいないという勘違いの実感だけか。そこで何かが変化しつつあるように感じられ、そんな実感を裏切りながら、何が裏切られたわけでもないようにも思えるのだが、結局はそんなことはどうでもいいことでしかないのだろうか。誰かの思いがそれらの文章によって裏切られていることは確かだろう。では何がそこで変化していたのか。それはその場での心境の変化か何かか。たぶんそのような迂回の過程で別の語句が必要とされていたのだろうが、それを文章として構成するには至っていないのかもしれない。そこで何を思いだしているのでもなく、ただその場でねつ造された空想の意識に従うならば、愛だの夢だのを旅の過程で思い出し、それを書き記せばそれなりの物語に近づき得たのかもしれないが、リアリティがそれらのどこに宿っているのか疑問に思われ、その夢の最中で旅路の果てに思い出すのは誰の姿なのかもわからず、子供はどこまでも無垢ではないことを知りつつも、そのほかに常識を越えて何が作用しているわけでもないことだけは承知せざるを得ないようだ。そのような感覚に至らしめているものは一冊の書物なのか。たぶん何かが違っていると思うが、その違いもわからないのに、わかった風を装うわけにはいかないか。しかし何に抗っているのだろうか。そこにはどのような状況が横たわっているのだろう。人は何に対して抵抗を試みなければならないのか。自らの価値観を押しつけてくる他者に対して、それが不当な要求だと感じたら、どのような行為によって立ち向かわなければならないのだろう。そこにはどのような計算が働いているのだろうか。やはりそのとき誰かは、避けて通ることの不可能な問題にでも直面しているわけか。人がそのような意識を持ち始めて現在に至る過程において、何がそれらを形成する要因となったのか。なぜ現状に抗わなければならないのか。それは先ほど述べたことだろうか。しかしいったんそんな風に述べてしまうと、結果として何に抗っているわけでもないような気がしてくる。ただ君は状況の移り変わる流れに沿って行動しているだけではないのか。それを今ひとつ信じ切れていないだけであって、後から思えばそのときの行動の確かさが理解できてしまうのだろうか。たぶんそれらの困難はまだ序の口で、これから先に何年も悩まされるような現象の前触れでしかないのかもしれず、今はそんな状況に慣れるぐらいしかやりようがないのかもしれない。しかし君には誰かの語っていることがさっぱりわからないだろう。誰かにもわからないのかもしれず、やはりわかるつもりもなく、ただ適当に言葉を連ねているだけなのかもしれない。それらはどこまで行ってもそのようなものにしかならないのだろうか。思いはそれらの言葉の連なりから遠く隔たっており、思い通りにいくいかないは別にして、絶えずそれとは違う言葉の組み合わせを試そうとしている節もあるが、未だ何か叶っているわけでもなく、意識はそんな思いが叶えられない状況の中を淡々と通過しつつあるようだ。そこからどこへ行けるというのか。要するにまだその先があるらしいということでしかないか。そのような言葉を繰り出す形式自体が、どこにでもあるようなマンネリ化を招いているのかもしれないが、それをすべて捨て去るわけにもいかないだろうし、そこで捨て去ったらすべてが台無しになってしまうような小心者の恐怖感とともに、そこからさらなる飛躍を願う心が一つの意識の中で同居することは困難なのかもしれないが、やはり結果的にそれらの相矛盾する願望や感情を同時に息づかせることしかできず、それがそれらの困難をさらに乗り切ることが不可能な障害として形成してしまっているのかもしれず、誰かの精神をそれ以上はどうにもできないような行き詰まりに追い込んでいるのかもしれない。それでもまだそこから抜け出す希望を捨てきれないところが、救いがたい勘違いをもたらしているのだろうか。


5月27日

 なぜ執拗に何かを述べようとするのだろうか。また同時にこれ以上いくら何を述べてみても無駄だと思っているのかもしれないが、まだほとんど何も述べていないうちからそれはないだろうか。それでも現実に何をどう述べてみても、それ以外には何も述べられないことのいいわけとしか見なされないような気がしているのだが、ではそこには他に何が見いだされているというのだろうか。他の話に逃げられるとでも思っているわけか。それは無理な話で、もしかしたらすでに何もない現実を言葉で支えきれなくなってきているのかもしれない。現にさっきから言葉を繰り出すきっかけが何も見えてこない。それを強引に否定して、苦し紛れに強がってみせるなら、それはそんな単純なことではないようにも思えるのだが、何かそこで矛盾していないだろうか。どこかに矛盾があるかもしれないが、それがどうしたわけでもないだろう。矛盾があろうとなかろうと、そんなことはどうでもいいように思われ、またそれによって、何となくいつもの怠惰に流されそうな気配になっているのかもしれないが、何かそこで反省しなければならないことでもあるのだろうか。なぜ唐突に反省なのか。唐突ではないにしても反省とは何だろう。過去の行いの何を顧みて、何を省察しなければならないのか。またそこでどのような修正が施されて、どのような事物や精神が救い出されなければならないのだろうか。そんなものやことがどこにあるというのだろう。何かを救い出そうと考えること自体が大きなお世話か。そんな風に思えば楽な気持ちになれて、現実逃避を継続していられるわけか。それならそれで今のところ何を救うつもりもないことにしておいてもかまわないのだが、それでも現状の何が救われなければならないのだろうか。なぜそうなってしまうのだろう。それを執拗に続けても、それが何らかの話として成立するかどうか疑わしいように思えるのだが、とりあえずそんな何も救われない話はもういい加減にやめてほしいか。誰がやめてほしいと思っているのかも、また誰がそんな話をしてきたのかもわかろうとする気はないようだが、架空の存在でいるつもりの誰かは、それ以外に取り立てて何を語りたいわけでもなく、何も語らなくてもいいのかもしれないが、まったく何も語らなければ心が曇るか。しかし何が君の心だというのか。そこまで空疎なことを執拗に語ってきても、まだ一向に何を語りたいのかわからないようだが、やはりそんな現状から考えれば、そんな風に語りたくもないことを語っているらしく、たぶんそこから何が始まるわけでもないが、すべては何かが始まることへの否認から始まっているわけなのか。要するに君は何も始まらない状況を語っているわけか。そして語る対象を探し得ないと思いこむことが、それらの語りのすべてとなっているように思われる。そこにはないもありはしないという認識が、空疎な言葉を呼び込み、意識は自ら発したそんな言葉に巻き込まれながら、それまでに抱いていたとりとめもない思考から解き放たれたつもりとなって、どこか得体の知れぬ場所へ消え去ろうとしているようだが、思考か消え去ったつもりでいるその跡には、何を述べているのでもない言葉の連なりが残されているだけか。そんなことを飽きもせず続けていると、そのうち何が消え去ったのかもわからなくなるだろうか。時がたつにつれて、これまでに述べてきた何もかもが、どうでもよくなってしまうわけか。だが仮にどうでもよくなったとしても、他に何があるわけでもないらしい現状はそのまま残り、もはや他に何もありはしないのに、思考が消え去った空洞からも、言葉が相変わらず適当に繰り出され、いい加減にどこまでも連なっていくだけか。たぶんそこに救いようない欠陥が露呈していて、修正不可能な弱さがむき出しになっているのかもしれないが、それが生きていく上での障害となるはずもなく、時折思い出されるかもしれない思考の欠如は、無視すべき瑣末な欠陥として、うやむやのままに思い出されるたびに忘れ去られるだけか。ただそれなりに言葉が連なっていればよく、本当にそんなことは些細なことでしかないのか。たぶん以前と同じようなことを述べ、また以前と同じような結果を繰り返しているのは、何も今日に始まったことでもなく、そんなことを繰り返しながらも、それによってしぶとく生き残ることが何になるわけでもないとは思うが、それ以上に何がもたらされているわけではないにしても、やはり結果的には、そんな風にして生き残ってしまっていることは、確かな事実なのかもしれない。しかしいったいそこで誰が生き残っているというのか。そのほかには何も語ろうとしない君は、本当に文章の中で生きているといえるだろうか。また冗談交じりにそんな嘘をつくわけか。誰かはそこで誰が生きているとか死んでいるとか、そんなことを述べたいわけでもないのかもしれないが、現実にはそこで何を生かそうとしているのか。思考を取り去って言葉を生かそう、なんて抽象的なことをやろうとしているわけでもないだろうが、ではそこから何も救い出せないとあきらめてしまうわけか。その辺に救いようのない誤謬があるのではないだろうか。一方ではそんな考え方は最低だと思っているわけか。具体的な事物も問題も何も提示できずに、ただ無駄に言葉を連ねてゆくだけでは、それらの最低水準を抜け出ることなど不可能か。だがなぜそうやって分かり切ったようなことを述べようとするのだろう。本当は何もわかっていないくせに、それが分かり切ったことだと強がってみせているだけか。しかしそんな態度が毎度このことのように文章の中で繰り返されている現状をどうすればいいのだろう。当然のことながら本当は何もわかっていないということか。わかっているのならば、なぜわかっていることを堂々と述べようとしないのか。そうやってまた嘘をつきながら、文章をわけのわからない混乱状態に導いているつもりらしいが、現実には何を語っているのだろうか。


5月26日

 アメリカの夢を宣伝しているのはアメリカ以外の国の人々なのだろうか。アメリカの現状をそういう嫉妬まじりの色眼鏡でしか見られないことから、無用な誤解や勘違いが生まれてくるのかもしれないが、しかしもとホームレスが株で成功して億万長者になる話を聞いてそんなにうらやましいと思うか。街中がホームレスだらけなら、その中の一人ぐらいは宝くじに当たっても何の不思議もないか。どん底からはい上がって、栄光を勝ち取る話もありふれているかもしれないが、多くの人々がどん底の生活を強いられている状況を何とかするのがまずは先決なのではないか。確か当地では行政の積極的な介入やボランティアの活躍などもあって、その方面での改善はかなり進んでいて、一時期よりはだいぶマシな都市環境になったような話も聞いたことがあるが、やはりそういうどん底の生活を送っている人が少しはいないと、庶民を喜ばせるための大どんでん返し的な成功伝説が生まれなくなって寂しいか。他人の不幸を喜び、他人の幸福に嫉妬する、それが大衆社会に暮らす人々に生じているありふれた感情なのだろうか。もちろんそれとは逆の他人を思いやるような肯定すべき感情もあるのかもしれないが、そのような否定あるいは肯定的な感情を大げさに煽り立てるような話はごめん被りたいか。もちろんそれを求めて人々はテレビや映画を見たり本を読んだりするのだろうが、多くの人々が体験しつつある現実の生活の大部分は、それとはほとんど無関係の淡々としたものだろう。ただ普通に生きていることが欲求不満でも生じさせていて、それが何やらわけのわからない祝祭的な熱狂を衝動的に求めさせるのだろうか。お祭り騒ぎ的なイベントが定期的にないと息が詰まるか。あるいはその逆にたまには心がいやされるような雰囲気を味合わないとやっていられないか。日常生活を過ごしていくには非日常がなくてはならないということだろうか。そういうたまに遭遇する非日常をひっくるめたものが人々の日常生活を構成しているのだろうが、そう述べてしまうと何となくどうでもいいようなつまらない話になってしまいそうに思えてくる。ではそんな現状にいつまでも埋もれていないで、いつか訪れるかもしれない成功を夢見て、日々たゆまぬ努力をし続けなければならないのか。しかしそれが本当に成功を目指した努力になるのか。何のための努力なのだろう。それはいつの間にか当初の目標を大きく逸れて、どんな成功も望まぬ、また何者にもならないための努力になってしまっているのではないだろうか。しかしそんな努力があり得るだろうか。あり得ないなからそれらの話はフィクションとして語られてしまうわけか。だがそれがフィクションだというのなら、誰かは何のために語っているのでもないのかもしれない。君はそう思いたいだけなのであって、そのくせ内心ではいつも成功したいという欲望にさいなまれながら、どうしようもなくそんな空疎な内容を語らざるを得ない状況に追い込まれているのではないだろうか。しかしどうしてそうなってしまうのかがわからない。仮に社会的に成功したらどうなるのだろうか。自分のやりたいことをやりたいようにやっているつもりになれて自己満足に浸れるわけか。もちろんそれで満足するはずもなく、さらなる野望を抱きながら日々精進を重ねてゆくわけで、その行き着く先に限りはないか。たぶん死ねばそこで終わるのかもしれないが、その野望は次の世代の後継者にでもゆだねられて、野望達成の努力はさらに継続されるわけなのだろうか。だからそれこそがその手の成功物語の一種にすぎないだろう。そしてその後に待ち受けている、成功して繁栄を誇った一族の衰退と没落の挿話でも、話の結末に向かって語られれば、大河ドラマ的な愛と感動の物語になるしかないか。しかしそんな風にありふれた皮肉を交えながら語るのはいい加減に飽き飽きしていたのではなかったのか。たぶんそんな紋切り型を語らないと間が持たないのだろう。君はおおざっぱなあらすじばかりを述べる一方で、話の細部にはまったく踏み込めずにいるらしい。そして君が述べる内容はいつも大げさな物語のことばかりのようだ。それを皮肉を交えながら馬鹿にするのではなく、馬鹿にできないような何を顕揚できるというのだろう。君は物語を何も読んではないのではないか。何が物語なのかもわからないのに、何を読めばいいというのか。それは嘘で、そんなものにはもとから興味がないだけなのではないか。では君が語る内容は読みもしない物語を馬鹿にすること以外に何があるのというのか。きっと他に何かがあるはずで、いつまでもそれを否認しながらもそう思っていたいのだろう。君はそのような状況が許せないようだが、君の意識はそれへの否認の感情とともにそのような状況の中で息づいている。そしてそれをどうすることもできずに、ただひたすら無駄な悪あがきを繰り返しながらもがき苦しんでいるつもりらしいが、それこそがそこに提示されたフィクションの一部始終なのだろうか。しかしそんなフィクションにどんな魅力が宿っているというのだろう。やはり何かがおかしく何かがずれているだろうか。その中の一部分では真実を述べていて、他の大部分では嘘を述べているのかもしれない。そして真実を述べるための限界はいくらでもあり、そのためには結局嘘をつかなければならなくなるわけか。それも嘘の一部で、他に何も語ることがないという真実を忘れるための方便にすぎないか。君は無駄でどうでもいいような物事に囲まれながら生きているのであって、それについては語りようがなく、語るために必要な言葉を持ち合わせていないと同時に、語る必要も必然性も感じていないらしいが、それ以外に何を語れるのかといえば、やはり皮肉を交えながら大げさな物語を馬鹿にすることだけのようだ。それではつまらなくて当然だろうか。だからそれとは違う言葉を探し回っているわけなのか。しかしそれで本当に探していることになるのだろうか。


5月25日

 たとえば国家とは何だろう。あるいは資本主義とは何か。それらはいつ始まりいつ終わるのか。あるいはいつの間にか始まり、いつまでたっても終わらないようなものなのか。しかしなぜ国家と資本主義について論じる必要があるのだろう。これからそれらの何について語りたいのかわからないか。資本主義が国家を支えている。国が発行する通貨を資本主義が流通させ、その通貨によって労働力や商品などの有形無形の事物が売買され、その事物の売り買いによって人々は生計を立て、それによって生きていくことが可能となっているわけか。そんな説明で納得できるか。今後そのようなシステムが根本的に覆されるような事態が起こりうるだろうか。事物の売り買いに失敗して、それによって生計を立てられなくなった者たちは、死ぬか犯罪に走るかの二者択一を迫られる。それは国による生活保護制度は有効に機能していないということか。その辺から国家と資本主義が崩壊する可能性でもあるわけか。しかしそんな風にして生計を立てられなくなるのは、ほんの一握りの者たちで、大多数の国民がそのような制度のもとに、安定的に暮らしてゆける状況が続いている限り、国家も資本主義も安泰なのだろうか。それでも時がたつにつれて何かが少しずつ変化してゆくのかもしれない。状況の変化に合わせて国家も資本主義も変わってゆかざるを得ないということか。そういう述べ方はおかしいのかもしれず、ただ日々刻々とそれらをひっくるめたすべての事象は変化しているだけで、それは当たり前ことか。ならばそのような状況の中で暮らしている人々は何をしなければならないのだろうか。ただそれらの少しずつ変わりゆく制度に従って生きてゆけばそれでいいわけか。それではあまりにも受動的すぎないか。ではそれらの制度に対してどのような態度をとればいいのだろう。しかしそんなことを考える立場の者がどこに存在しうるのか。誰かがそれらの制度の不具合を指摘しなければ、いつまでたっても改善は見込めないだろう。だが制度を改善し、よりよい制度のもとで暮らしてゆきたい、というその場で作られた願望自体が信じられない。またそこで何か冗談でも述べたいのか。なぜそういうスローガンが信じられないのか。そんなことを指摘する立場にはないと思えるからか。なぜそのような制度が制度として成り立っているのだろうか。それは過去からの歴史的な成り行きと、その時々の偶然からそうなってしまっただけなのだろうか。今ある現状を受動的に解釈すればそうなってしまう。しかしそんな解釈では不満が残るというのなら、そのようにして成り立っている制度に内在していると思われる不具合を一つ一つ指摘し、それらをどう修正すればいいのかについて、自分なりの意見を述べなければならなくなるわけで、それが制度を維持存続させるには是が非でも必要なことなのかもしれない。要するにそのような行為も制度に従って生きてゆく者たちには求められているというわけだ。それは制度を改善しつつも支えてゆくという制度内で暮らしている者に課せられた使命でもある。またそれと制度を打ち壊してしまいたい、という願望とは相容れないことかもしれないが、仮に今ある制度を打ち壊したところで、その後に別の制度を打ち立てなければらなくなり、そうやって新た制度を打ち立てることも、制度内で生きる者に課せられた使命なのかもしれない。つまりいったん制度内に取り込まれてしまった者は、それに従うにしろ抗うにしろ、そのどちらにしても制度から課せられた使命を全うするために生きてゆくことしかできなくなってしまうわけだ。しかし本当にそんな風に思っているのだろうか。何がそこでの制度なのだろう。どんなシステムに従って生きているというのか。たぶんそれらを制度と見なせば制度なのだろうし、それを無視しながら生きていると思えばそうなのだろうが、そんな小難しいことは何も思わずに、ただ何となく生きているのがこの国に暮らす大半の人々に生じている実感なのではないか。そして何かをやってしまった後から、自らが制度の中で生きていることに気づかされる。たとえばその場の成り行きでかっとなって暴力をふるってみたら、それが後から暴行罪に問われてみたり、つきあいで酒を飲んで代行業者を呼ぶのが面倒くさくて、そのまま車を運転して帰る途中で人をはねたら、後から業務上過失致死罪に問われてしまったりするのだろう。とりあえずやりたいようにやってみて、それでまずかったら後から国家や行政が制度に従って適切に処理してくれるだろう、ということなのか。そういえば最近になって建設関連の大企業が公共事業の入札において、長年にわたって談合を繰り返していたことが発覚したが、それも個人か組織かの違いや規模の大小はあれ、やはりそのようなことの延長上でやっていることなのか。だがそれも制度内で生きる者たちに課せられた使命の一種と考えられなくもないか。ルール違反をすることは、かえってそういうルールが制度内にあることを、そのルールを忘れていたり知らなかった者たちに知らしめる効果があり、違反者が取り締まられて罰せられることで、そのルールを犯してはならないことをわからせる、という教訓的あるいは教育的な役割の一端をルール違反者たちは担っているのかもしれない。要するに制度を維持継続させるためには、制度に対する反逆者の存在も欠かせないというわけか。もちろんそれらのルール違反者が制度の構成員の中に占める割合は、ほんの一握りのごく少数でなくてはならず、それを取り締まる側が対応しきれないほどルール違反者の数が増えてしまうと、もはや制度が制度として維持できなくなってしまうわけだが、そうなればなったで、今度はその制度を改善しようとする者が登場しなければならなくなるわけだが、要するに制度を維持継続させようとする者と、それに従って生きてゆく者と、それに逆らおうとする者と、それを改善しようとする者たちの間の、互いの立場の微妙な力関係が釣り合っているうちは、それらの制度は続いてゆくということなのか。


5月24日

 別に長いトンネルを通り抜けつつあるわけでもないのだろうが、その先に何か可能性はないものか。しかしそれほど救われようとしているのでもないらしい。目下のところ救われるような要素など何もないだろう。文章としては相変わらずの無内容で、さらに行き詰まってきたような感もあり、ただ闇雲にトンネルを掘り進めているわけでもないのだろうが、とりあえず普通に述べていればいいような気がするのだが、なぜ唐突にそんなことを述べるのか。誰かはそんな冗談のような状況を受け入れようとしているのだろうか。受け入れられるような人格を文章の中で提示できるだろうか。しかし誰がそうしなければならないのか。何がそこでの冗談を形成しているのだろう。本当にトンネルを掘っているつもりになっているわけでもないだろう。ではやはり君は何を受け入れようとしているのでもないのか。それどころかそんな状況を頑なに拒否し続けたいのかもしれない。しかし拒否したところで無駄かもしれず、虚無は相変わらず到来し続け、一向にやむ気配すらないようだ。そして虚無の他に何を提示できるわけもなく、偶然にその場の成り行きでそれとは違う言葉を導き出せたとしても、それがすぐに文章の中に反映されるわけも役立つわけでもなく、それを何のために役立てようとしているのかもわからないうちに忘れてしまうのかもしれず、すでに多くの言葉を忘れ去っているのだろうか。それらの言葉のどこに救済が潜んでいたというのか。今となっては知りようのないことかもしれないが、意識が形の定まった対象を捉えていないのは確かなようで、それはいつもながらも漠然とした虚無感を形成しているわけなのだろうが、人はなぜそれについて思考しなければならないのか。そんなしなければならないような決まり事などどこにもありはしないか。それでもどこかでしなければならないことを探し求めているのだろうか。誰かは自らに課せられた使命というやつを知りたいわけか。いったい誰がそんな使命を課すのか。職場の上司か何かか。またたとえば教会の司祭ならキリストが課し、寺の僧侶なら仏陀が課し、回教徒ならアッラーの神が課すわけか。ではいったい君はそれらの何に帰依しているのか。何に帰依しているとも思えないようだが、まさか周りを取り巻いている虚無に帰依したところでどんな使命が課されるわけでもないか。虚無に救いを求めているわけでもないのだろう。救いがないからこそ虚無が出現しているのではないか。しかも出現しているというのは作り話の上でのことで、取り立てて何が立ち現れているわけでもないように思えるから、そこに虚無感が漂っているように感じられるだけの話だろう。ではそれがわかっているのなら、もう何もそれについては述べる必要はないのではないか。しかし安易に虚無という言葉を使いすぎている。虚無が何なのかはっきりした実体は何もないように思えるから、やはりそれを虚無という言葉で表現せざる得ないのかもしれないが、実際にところはそんな言葉では状況を正確に言い表せているとはいえないような気もしてくるのだが、君にはそれ以外で言い表すべき言葉そのものが欠けているのではないか。しかしそれはどんな言葉なのだろうか。それがわからないから欠けているように思えるだけか。ではわからないなりにも無理に言い表そうとすれば、それらの状況はどんな言葉で表現されるだろうか。たとえば救いの言葉とか気休めの言葉とかで文章を構成できるか。それでは嘘になってしまうだろうか。そんな言葉を安易に記すべきではなく、誰が必要としているわけでもないのに、それをねつ造するは倫理的ではないだろうか。しかし虚無も嘘なのではないか。では他にどんな言葉あるというのか。たとえばそれは欲望を煽り立ててそれを成就するための行動に駆り立てる言葉とか、読む者の精神に混乱をもたらし、その混乱状態に乗じて不意にその精神にとどめを刺すような言葉もあるだろうか。要するにそれでおまえは破滅か。なぜそれで破滅なのか。誰かの意識はそんな風に語りながら、言葉の否定的な側面ばかりに惹かれていくわけなのか。ではそれが破滅でなくて何なのか。たぶんおまえは破滅によって救われるだろう。それはノアの箱船の話の二番煎じにでもなるだろうか。いつの間にか強引に別の話へと意識の対象を移そうとしているらしい。気休めとはそういうやり方を通して出てくるものなのか。では君もいつか神のお告げでも聞いて、それに基づいて努力でも重ねれば、最終的に救われてしまったりするわけか。本気でそんなことを思っているわけでもないのだろう。それは話のあらすじ的な成り行きをなぞっているだけでしかなく、それらの話の正確な内容ついてはほとんど知らないし、知るつもりもないのだが、本当はそこにあらすじから逸脱するような驚くべき結末が用意されているのかもしれないが、想像力がそこまで至るほどの気力に乏しく、いったんそれらの戯れ言から意識が離れれば、そこには相変わらず何もありはしないのであり、いつもの虚無とともに、意識とは無関係なとらえどころのない物事が、外部に向かって無限に連なっているだけなのかもしれず、それがこの世界を構成しているわけか。そしてこの世界のそんなとりとめのなさを言葉で強引に表現しようとすれば、その場で偶然に導き出されたいい加減な言葉の配置から、意味不明を導き出すのはたやすいことだが、それが何らかのまとまった言説となりうるほどに、言葉を再配置しながら文章として構成するのは容易なことではないのかもしれない。そんなことは分かり切ったことなのだろうが、要するにこの世界は意味不明であると述べてしまうような怠惰な意識は、何かを述べるときに細心の注意を怠った結果から生じているわけだが、その一方でやはり怠惰に流されるしかないような状況に浸されている意識を、その外へ引き出してまともなことを述べられるようにするには、まだ相当長い年月が必要なようにも思える。


5月23日

 何となく受け入れられないようなことを述べている。それはつまらないということか。つまらなければつまらないなりにも、何かその状況に見合った言葉でも並べていればいいのだろうか。しかしそこに何があるというのだろう。空気があり水があり風景がある。大地も海もあるのではないか。しかしそこから先で理解不能に陥っているのかもしれない。何が理解不能なのだろうか。ただの自然に取り囲まれて生きているだけではないか。ではその中で意識はどこにあるのか。精神の断片がそれらのどこに存在しているのだろうか。精神などどこにもありはしないか。すべてが言葉のがらくたの中に埋もれてしまったのか。しかしそんな風に語りながらも、いったい何を見いだそうとしているのか。精神以外の何かか。だが存在する事物は数限りない。それらすべてについて語ることは不可能か。また語ろうともしていないことについて語るわけにはいかないか。しかしそれではその場の状況に何の変化ももたらせないではないか。変化させようとすることにどんな意義があるのか。具体的に何をどうしようというのだろう。それらの常套句や紋切り型を何とかしたいわけか。それは無理というもので、それらを文章の中から取り去ったら、後には何も残らなくなってしまうか。それが君の目指している虚無なのかもしれない。しかし毎度のことながら君とは誰のことなのだろう。その場でのいいわけを担わせるために君という言葉が使われているのか。分かり切ったことを語らないでほしいか。それはいいわけでもあり、真実でもあるだろう。君以外にそれらの文章が対象とする仮想の人格はあり得ないのかもしれない。しかし何がそれらのいいわけを構成しているのか。理解不能に対する答えがいいわけなのか。どうやらその辺で意味がつながらなくなってきているらしい。現実に生じている事物の何をつかめているわけでもないようだ。言葉は思考を通り抜け、ただ他愛のない文章として記されるのみか。何を考えているわけでもないことがそんなに気に入らないのか。では何を考えたらいいのだろうか。何を考えたらいいのかと考えているわけか。しかしそれ以外に何を考えられるのか。要するに何を考えているわけでもない状況を受け入れなければならないということか。誰が受け入れる必要があるのか。架空の君では無理なのだろうか。そんな風に述べながらも何かを避けていないか。それは避けられるはずもない現実だろうか。そこにはどんな現実が生じているというのか。無視されてしまうような、あるいは誰からも気づかれないような他愛のない現実でしかないか。しかしその他愛のない現実によって誰かは苦労を強いられているのではないか。つまらないことに時間と労力をとられてうんざりしているわけか。だがそうやって何もかも否定的にとらえても疲れるだけだろう。もう少し現実をいいように解釈しないと精神が持たないような気がするのだが、その辺で何か適当な気晴らしでも必要なのだろうか。どうも話があらぬ方向へと逸脱していきそうな気配がしてきたが、はじめから話の方向など定まっていないのではないか。たぶんそうやって否定を繰り返すことによって文章を生成させていることは間違いないか。それはどうでもいいような内容を呼び込んでいるらしく、そんな内容に何かを考えようとする意思が押しつぶされようとしているのだろうか。しかしそんな風に思うことも自己言及の悪循環を招いているだけか。そうやって次第に何も語れなくなってくるわけか。それでいいのだろうか。いいわけはないがそれでもそうなってしまうのなら、それはそれで仕方のないことなのだろうか。空は晴れ日差しも暖かく、何を考えているわけでもない意識は、そのまま眠りにつこうとでもしているわけか。そして誰もが思うようなことを思いながら、その思っている内容は一向に示されず、それではつまらないと感じながらも、それを改めようとする気も起こらずに、そのままの無内容に浸り続けるのか。たぶんそれではいけないのだろう。いけないからこそもがき苦しんでいるつもりで試行錯誤を繰り返しているのではないか。しかし現実に示されているそれが試行錯誤の成果だといえるのか。成果といえるようなものは何もあがっていないか。そんなことを述べるほど徐々に袋小路に追いつめられているような気もするのだが、それはどういうことなのか。何かそこから修正を施さなければそのままで終わってしまうのか。はたして終わってしまえるだろうか。君はそんなことを無駄に語りながらも、それとはまったく別のことでも考えているわけか。人はどこまでも人でしかなく、言葉はどこまでも言葉でしかないが、人と言葉はどこで結びついているのだろうか。そこで何かを語っているのははたして人なのか。なぜそんな疑問を抱くのかわからないが、何かを語ることがどこへも行き着かないように思えるのはどういうわけなのか。そして語ることの過剰さが空疎な文章として実現されている現状についてはどう思っているのだろうか。人はどう思っているのか。人でない君はどうも思わないのか。それらの文章はわざとわけのわからない謎を提供しているだけのように思える。それ以外には存在し得ないような文章なのかもしれない。役に立つはずのない、無駄で無意味なことが語られているわけか。そして簡単には受け入れがたい虚無を伴っている。それが危険だと思えるのか。何が危険なのだろう。何も危険を伴っていないように感じられるから危険なのか。戯れ言の集積だから、前向きな意見が何もないから危険なのだろうか。そしてそれらのすべてが冗談に思えるから危険なのか。だがそれでは何も危険が顕在化していないということではないのか。では危険は虚構であり嘘だったのか。それでも危険だと思うのなら、それらの文章を読まなければいいだけだろう。やはりそれらは他愛のない文章なのか。他愛がなければ一安心か。安心してどうするのか。


5月22日

 君は何かを知るのが怖いのか。だがそれで何を知ることができたというのか。それとはどのような試みだったのか。それでもう何も知りたくはないか。何も知りたくないのなら、虚空に向かって問いかけなければいいだろう。問いかけたところで何がわかるわけでもなく、自問自答の繰り返しが待っているだけか。それとは自問自答の繰り返しだったのか。ではその自問自答で何がわかったというのだろう。世の中に蔓延するありふれた構造か何かか。そして他の誰でも述べられることを君は述べているわけか。では何を述べているというのか。それが君独自の作り話とでも思いこみたいのだろうか。言葉の回りくどい言い回しならそうかもしれないが、その話の内容はありふれたことか。人間の欲望がどうのこうのとか、他の誰もがいくらでも述べられるようなことを、鸚鵡返しにただ繰り返し述べているだけなのではないのか。しかしそれ以外に何もないのなら、それを述べるしかないのではないか。それ以外に何があるというのだろう。たとえば何らかの修練によって、それを述べている者が見いだした独自の視点に基づいて述べる、などという幻想は信じられないのだろうか。なぜそれが幻想だと思われるのか。単に独創性という概念が疎ましく思われるだけか。ではいったい何がそこでの独創性なのか。そういう問いかけは避けて通りたいところか。それについては何も答えられないのか。そんな風には思いたくないか。ではその地点からは退いて、それとは別の方向で別の道を探すとしよう。君はそれ以上述べるのがいやになったらしく、さっさとそこから逃げだそうとしている。すでに逃げている最中かもしれない。はたして逃げおおせることができるだろうか。それができたとして逃げた先には何があるというのか。また言葉が先回りし始めているようだ。逃げた先のことまで考えていないのではないか。要するにただそこから逃げたい一心で行動しているだけで、それはその場限りの感情に基づいた刹那的な行動でしかないのだろう。ではそういう愚かな行動について、君は何を述べる立場にもないのだろうか。なぜ唐突にそう考えるのか。またなぜそれが愚かな行動だといえるのか。その根拠も理由も今のところ何も示されていないように思われる。ならばそれらは文章としてどこか欠陥を抱えているのではないだろうか。しかしそれを指摘してどうするのか。それらの欠陥こそがその文章の個性であり、それが語っている者の独創性だとでも言いくるめて、その場を都合よく取り繕いたいわけか。やはり冗談もいい加減にしてもらいたいか。それではわざとらしすぎるだろうか。しかしそれらのわざとらしさから脱却することがはたして可能なのだろうか。可能だとするのなら、どうしたら可能となるのだろう。他のことにでも関心を向ければそれが可能となるだろうか。たとえばそれは病気だとか災害だとか女優の恋だとかに一喜一憂していればいいわけか。そう述べれば何か皮肉でも発したつもりになれて、少しは気が済んだつもりになれるのか。それとも虚しさがよりいっそうましてゆくだけだろうか。たぶん君はその辺で限界にぶち当たっているのかもしれない。それがどういう限界なのか知るつもりもないようだが、とりあえずそれ以上は何も述べられない状態なのだろうか。そこから先は当人も理解不能なことを述べているのかもしれないが、そこで何と戦っているのでもなく、別に虚無と戦っているわけでもないのだろう。ただ自らに覆い被さろうとする沈黙の圧力に抗いながら、何か述べているつもりなのかもしれないが、現実はそんな格好のいいものではなく、要するに述べることが何もないだけか。そして述べることが何もなくてもさらに述べようとする、常軌を逸脱した行為に及んでいるのかもしれず、そこで待つことを知らぬ衝動を抑えきれずに、何をそんなにいらだち焦っているのか。語ることが何もない現状を悟り、それを認めざるを得なくなることが、そんなに受け入れがたいことなのか。そんな現状を否認しつつ何をどう述べてみても、そこから先はことごとく苦し紛れの感をぬぐえないのではないか。たぶんそれはそれでそういうことにしか結びつかないのだろうし、それをどこまでも推し進めてみても、ただ無駄に言葉を弄んでいるにすぎないのかもしれないが、この辺でやめるかまだ続けるか、いずれにしてもこれまでに何か印象に残るような画期的的なことを述べてきたとは到底思えず、たぶん今後どんなに努力してもそういう領域には到達できないような気もするのだが、その一方でそれが見え透いた嘘で、本当はかなりのうぬぼれ状態なのかしれないとも思われるのだが、そんな相矛盾する感情を内面で相互に戯れさせながらも、何となくそのままでもかまわないようにも思われてくるらしく、それが惰性や慣性と呼ばれるものなのかもしれない。そしていつの間にか意識は次第に収拾がつかない混乱状態を経ながら、それが一段落した後にとりとめもなく漠然とした思いに包まれ、これまでに何を述べてきたのか、またこれから何を述べたらいいのかわからなくなり、ついでそんな状態から逃れようとして、身の周りに広がる光景を眺めながら、日の光が見せる事物の色や輪郭について、利いた風な文章を用いながら述べようとするわけか。言葉に詰まった意識はそんな風にして、いつ何時でも自らを取り巻いている風景の中に逃れたいのだろうか。今の誰かにはそれ以外に逃れる場所が見あたらないのかもしれないが、いつかはそれでは済まないときがやってくるのだろうか。なぜそれでは済まなくなるのだろう。すでにそれらの言葉はそれとは違う内容を求めているわけなのか。あるいはそれを求めているのは、言葉を通り越して、それらの言葉から一時的に構成された架空の意識が文章の中で求めているのだろうか。そしてそんな風に思いこみたい欲望が同時に出現しているわけか。しかしそんな言説がいつ成就するというのか。やはり格好のつけすぎだろうか。


5月21日

 君はそこで何を知ろうとしているのか。それはいつもながらの問いかけであり疑問なのだろうが、誰に問いかけているのでもなく、何を疑っているのでもないような気がする。またそんな言葉を発しながら、この世の中がどうなっているかについて何か思いでも巡らせてみたいのか。すでにそれはわかっていることなのではないか。誰が何を求めているのでもなく、多くの人々がそのすべてを我がものとしたいわけでもないのだろう。そのすべてとはこの世の中のすべての富とでも考えているわけか。しかし富がどこにあるというのか。金の延べ棒や札束がどこかの銀行の地下金庫にでも眠っていて、それを盗人が虎視眈々とねらっているわけなのか。そういう話をしたいわけでもないか。だが富の不均衡などの世の中に蔓延している不具合を批判したいわけでもないのだろう。たぶんそのような不具合はこれからも放置されるがままなのだろうし、当たり前のことだが、相対的に富の多くを所有している者や組織にとっては、それは不具合などでは到底あり得ず、それらの者や組織にとっての長所であり利点であり武器でもあるだろう。有り余る富を活用して自分たちの思い通りに世の中を変えてゆきたいのだろうし、あわよくば世の中自体を自分たちで運営したいのではないか。だがそんな野望を抱いているのだとすれば、それは誇大妄想もいいところかもしれないが、またそんな風に述べてしまうのは簡単だが、現実にそれをやるとなると、うまくいかなくなるのは当然だとしても、それを映画や漫画の中のフィクションとして提示することなら可能だろう。その手の大げさな内容の作品は今までにも結構作られてきたのだろうし、それなりに人々の関心を集めてきたのかもしれないが、それを今さらどうこう批判する気にはなれないか。ではそこから何を導き出したいのか。人々の抱いている欲望が自らの思い通りになることでしかないのは分かり切っている。そして人々は絶えず自らが妥協を強いられている現状に抗っている。そこに戦いが生じていて、その戦いに勝つために膨大な労力が費やされているわけか。生存競争とはそんなものでしかないか。だがやはりそんな風に述べるのはやさしいが、現実にそんな状況の中で生きてゆくのは大変なことなのだろう。君はそれが馬鹿らしいとでも思っているのか。まあ自らの思いを押し通そうとして失敗してしまうところがおもしろいとでも思っているのだろうが、そんな欲望と妥協の狭間で揺れ動く人間模様でもテレビドラマにすれば、これまた世間の関心を集めるのだろうし、そんなテレビドラマに感動してしまう人々も世の中には大勢いるのだろう。ドラマの内でも外でも、思いをなかなか遂げられない自らの情けなさや滑稽さに、逆に救いを求めているということなのか。そしてどうせ世の中こんなものなどという陳腐な結論に達するほどに愚かではないにしても、そのような思いこみの中で抗いながらもそこにとどまることに居心地の良さを感じてしまうかもしれない。とりあえずすべてを手に入れられないにしても、その程度の心境ならその手のテレビドラマでも見ていれば容易に手にはいるということか。しかし君はそれで満足してしまうわけか。一時的にはそうかもしれないし、断続的にもそれを忘れたり思い出したりしながらそうなのかもしれない。しかし君がつかみ取ったつもりの現実とはそんなものなのか。それでは不満か。では他に何があるというのだろう。それ以外には何もない漠然としたとりとめのなさだろうか。そして何を知ろうとしているのでもない意識を抱えたまま、退屈な日々をただ時間通りにこなしていくだけか。そしてさらにそんな風に暮らしていながらも、決してそうではないと思い続けたいのだろう。また徒労であるかもしれないのに実り多い年月だとも思いこみたいのかもしれない。決して骨折り損のくたびれもうけだとは認めたくないのだが、仮にそれを悟ったとしても、そんな現状を茶化しながら、その滑稽さや情けなさを自ら笑い飛ばすことで、努めて正気であることを装っている。要するにそんな救いのない愚かさがやはり救いであるわけで、日々崩壊寸前に追い込まれそうになる精神を、持ち前の愚かさによってかろうじて持ちこたえさせているということなのか。しかしそんな風に思えるのだとしたら、そんな精神状態からは脱却した方がいいのだろうか。しかしもし脱却できたとして、そこから先にはどんな精神状態が待ちかまえているのだろうか。いったいそれ以上のどんな精神状態を想像できるのか。まさか自分が遭遇するどんな出来事も自分の都合のいいように解釈してしまう、いわゆる超ポジティブ型の根アカ(根暗の逆)人間でもなってしまうわけか。そんな物事の極端な単純化がどこまで通用するというのだろう。死ぬまで馬鹿でいられる根性のある人なら本当にそれで押し通してしまえるのかもしれないが、そんな人を端から見ていると哀しい気分になってしまうのはどうしてなのだろう。ただそういう人格を無理して演じているだけではないのか。そういう人は何か過去に耐えられないようなつらい出来事でも経験していて、それを忘れるためにひたすら明るく振る舞おうとしているだけのように見えてしまうところが、その場での哀しい雰囲気を醸し出しているのかもしれないが、たとえそれを察したところで何になるわけでもなく、そういう人は周りからそのままの精神状態で死ぬまで放置され続けてしまうのかもしれない。その辺に世の中の残酷さでもあるのだろうか。しかしそれをどう変えようとしてもさらに悲惨な状態になるより他はないのではないか。もちろんその超ポジティブな精神状態を持ち合わせている当人にとっては、それが悲惨な状態ではまったくあり得ないのだろうから、それを周囲の人々が変えようとすること自体が大きなお世話で、やる必要のないことなのだろうが、そんな風になってしまうなら、やはり情けなくも愚かしい現状にとどまっていた方がマシに思えてしまうか。


5月20日

 もういい加減に冗談にもほどがあるだろうか。そんな冗談を繰り返しているうちに、いつの間にか冗談が冗談でなくなり、正気ではないと思われるようになってしまうだろう。すでに正気ではないのかもしれない。とりあえず誰の精神が正気であろうとなかろうと、すでに生じているそれらの現象をどうすることもできはしないか。たとえそれが空虚な現実であろうとなかろうと、それをどう感じようと、どう解釈しようと、ただそのような言葉が連なっている現状をどうすることもできはしない。それでも誰かは状況を変えるべくどうにかしようとしているのだろうか。変えようとしているのではなく、終わらせようとしているのではないか。それについて君は危惧の念でも抱いているわけか。誰かが無理に終わらせようとしなくても、いつ終わるかわからないが、いつかは終わるだろう。しかしその現象を何と呼べばいいのだろうか。どのようにも呼ぶ必要などあり得ないか。また何と呼んでもかまわないし、呼び方についてどのような制限が加わっているわけでもないだろう。しかし何をどう呼ぶことについて語っているのだろうか。その現象とはどんな現象なのだろう。だがそんなことを述べてしまったら、また話が振り出しに戻ってしまうのではないか。だから冗談にもほどがあると述べていたわけか。では誰がそんなことを述べていたのか。そんな分かり切ったことを問いかけること自体がおかしいのではないか。わざとおかしなことを問いかけているのだろう。それに対してそんなことはないと誰かは応えるのか。そしてそんなどうでもいいような反応を繰り返すのが誰かの望みなのだろうか。だがそれが誰かの戦略だとか戦術だとか勘ぐるのは深読みのしすぎか。しかし誰が何を読んでいるわけでもないか。どうもそれらの文章は邪推に邪推を重ねているように感じられるのだが、誰かは何をひがんでいるのだろうか。たぶん何かをひがんでいるのだろうし、そのひがんでいる何かを知るつもりもないのだろう。何もかもが面倒くさくなってしまったのかもしれない。しかしそんな方向へ話を持って行ってその先が続けられるのだろうか。わからないがわからないからこそ継続が可能となるのかもしれない。もうあまり小さな不具合にこだわっていても仕方がないのではないか。それは意識してこだわっていたのではなく、状況によってこだわるようにし向けられていたのではないだろうか。そんなことはないと反論を繰り返すことで、逆にこだわらざるを得ない状況に追い込まれていたのかもしれない。反論にしろ肯定にしろ、それを強調することがそれへのこだわりを深めていくことになってしまう。そしてそんなことを繰り返していくうちに、おおよそ世の中に一件落着するようなことは何もなく、苦し紛れにそう思ってしまうときでも、そんな思いこみを裏切る形で、それから延々と形を変え場所を変えながら続いてしまっていることに気づいてしまう瞬間が、いつかは否応なく到来してしまうのだろうし、それに耐えかねてうんざりするような嫌気とともに、そこから逃げ出したつもりになっても、その逃げ出した先でもまた新たに同じような状況が待っているのかもしれず、そこからまたうんざりするような継続が延々と繰り返されてしまうのかもしれない。そんな風に考えると何か絶望的な気分になってくるだろうか。だからそんな状況に半ば呆れながら、冗談にもほどがあると思いたくなるわけか。それでもいつか終わりが到来することになるのだろうか。しかし君は何に決着をつけたいわけでもないのだろう。決着をつけられるはずがないとも思っているはずか。君は決着をつけるべく最後の言葉を探しているわけでもないのだろう。言葉で決着などつけられるわけもないとも思っているはずか。ではやはりいつまでも冗談ではないと思い続けながら、その場を放置し続けるしかないわけか。君に放置し続けられるはずもないだろう。君にそんな権限などありはしないし、権限という語句自体が架空の君には無関係な言葉だ。しかし誰かは何を当たり前のように述べているのか。なぜそこに見え透いた齟齬を差し込むのだろう。わざと食い違わせていることは一目瞭然ではないのか。それではまったく誰をだましたことにもならないだろう。だから冗談にもほどがあるといいたいわけなのか。それでそんな現実が揺らぐと思っているのか。別に現実が揺らぐようなことを述べようとしているわけでもないか。ただ当たり前で分かり切ったことを、それを語る上での文章表現的な欠陥を露呈させながら、わざと込み入らせてわかりにくく語っているだけなのだろうか。要するにそこには何も内容が見あたらないが、その代わりに空疎でわかりにくい文章が提示されているわけか。そんな風に思えばその通りなのかもしれないが、だからといってそれを終わらせることができるわけもなく、それはそれでそんな無内容に寄りかかりながら語ってゆくしか術がないのだろうか。それとは別の意識ならそうは思わないと思いたいところか。内心でそんな風に思わないことが、それらの継続を支えているのではないか。しかしそんな心理的な葛藤のような戯れをいくら提示してみたところで、それがまともな内容の形成に至るわけでもないだろう。しかしそこでまともな内容という概念の意味合いがよくわかっていないのかもしれず、よくわかっていないからこそ、今示されている現状の文章をしきりに空疎だと断じてしまうのだろうか。それはそれらの文章の内容に自信がないことの表れか。そうだとしてもそれを自信たっぷりに顕揚できるような機会が今後やってくるとはとうてい思えず、やはり現状では相変わらずわけのわからないことを語っているとしか思えないのかもしれない。それは誰が思っているのでもなく、君が思っているのでもなく、文章の中にそんな風に思っていると記されている現状が提示されているだけのことかもしれないが、それがそのような状況の中に存在していることは確かなようだ。


5月19日

 君はそこで何を空想しているのか。夢の中で誰かは宙に高く舞い上がり、夢から覚めたら地面にたたきつけられて墜落死体と化しているわけでもないが、そんな脈絡のないどうでもいいことを思い描いているうちに、再び記憶の中でいい加減な光景が再構成されて、死んだ誰かを悼んで、あの世での救いについて別の誰かが静かに語っている映像を思い出す。思い出しているのではなく、それも今回の作り話の一部に違いないが、それとは別にたぶんこの世での救いについては、また別の誰かがどこかで語っていることになっているのだろう。なぜ救われたいのか架空の君には理解しがたいか。しかしそれが物語の始まりではないようだ。そこに登場する誰もが同じ状況を共有しているわけではないので、まったくその先に話が続いてゆかないようだが、とりあえず何がこの世で救いを形成しうるのだろう。また誰がどこで救われたいのか知らないが、誰も知らない未知の領域で、また違う誰かが何か適当な研鑽を重ねれば、救われることの意味がわかったりするのかもしれないが、君はそれが気休めの宗教だと思いたいわけか。そう思うのなら宗教の中の何を信じれば人は救われるのだろう。その宗教の内容にもふれずに、そんなことが一概にわかるわけもないだろうが、どうも無神論者の君はそれらの救いとは無縁のようで、物語的にはこれまでに何をどうやってもうまくいった例しはなく、何かをやればすぐに話の内容が四方に飛び散り、まとまりを欠いて何を述べているのかわけがわからなくなり、そこに際限なく空虚が降り注ぐようなわけのわからない状況を引き寄せてしまうらしく、いったんそんな事態を前にしてしまうとその後が何も続かなくなり、ただ唖然としているしかやりようがなくなって、仕方がないのでそこから時が過ぎゆくままに、事態の推移をじっと眺めているだけになってしまうようで、誰かはそれが気に入らないようだが、強引に話を進めようとするとさらに事態は悪化して、そこから先はいつもの自己言及が繰り返されるのみとなってしまうらしく、やはりそればかりではつまらないと思われるようだ。実際につまらないから、そこでいったん意識がとぎれて、そこから現実の記憶はどこか別の時空に飛んでいるらしく、そんなわざとらしくもわかりにくい曖昧な展開をくぐり抜けて、意識は今までにに語ってきたそれらのすべてがいつ始まったのか覚えていないようで、しかもそれがすべてではないと思いたいのかもしれないが、客観的にはすでにわけのわからない話が始まっているらしく、そこに登場人物の君が出現しているようだ。とりあえず君はそこで何を顕揚したいのか。何もはっきりしていないのに顕揚も何もないかもしれないが、少なくとも意味のない話を持続させたいことは確かなようで、君の意識を含む誰かは、いつまでもそんな風にしながら言葉を連ねていたいらのかもしれないが、まるで意地になってやり続けているようにも思えるのだが、それを執拗に続けながらも、何かおかしいとは思わないのか。そこからどのような現実を疑えばいいのだろうか。現実ではなくそれらの言葉が生み出す虚構そのものの存在を疑ってみる必要があるのではないか。そしてそのような状況からいつかあり得ない出来事を起こすことを望みながら、今もそこに構成されている文章とともに、誰かが存在していることの意味も問いたいのではないだろうか。ただそんな風に言葉がこねくり回されている現実にも嫌気が差しているのかもしれないが、まさか君はそんな文章に嫌気が差して、文章の中からそれを破綻させると同時に、あらゆるものからその身を引いてしまいたいとでも思っているのだろうか。それは冗談だろう。そんなに深刻ぶる必然性も何もありはしないだろうし、今の君にそれらの文章から消え去る勇気などありはしないだろう。勇気があるなしの問題ではなく、文章は君の思惑を超えて記され続けている。では文章の中にいる君にできることは何もないのだろうか。できるできないの問題ではなく、何かができるように装うこと自体が見え透いた嘘か。そして文章は君に何を語りかけているわけでもない。では君を素通りして他の誰に語りかけているというのだろう。そんなことが文章にわかるわけもないだろう。だが誰がそんなことを文章に語りかけているのだろうか。それこそわざとらしい嘘に違いないが、それらの文章には実際に生じている状況が何も示されていないように思われ、ただ状況がこんがらがっているだけか。やはり誰かがわざと話を込み入らせているだけなのか。またそれではまずいとも思っているわけか。ではなぜ誰かはそこで現実に生じている疑いを晴らそうとしないのだろう。しかし何が疑われているのだろうか。何もないのに何かあるように語られている状況自体が疑わしいか。ではどうしていつまでも黙ったままでいるのか。黙っていては何もわからないではないか。黙っていることで生じるかもしれない気休めの意味でも欲しているのか。しかしそこから何が導き出されようとしているのか。それとも状況から何も導き出されないことを祈っているのだろうか。そうやって誰かを迷宮から誘い出そうと試みることが、かえってその迷宮の内部をいっそう複雑にしているのかもしれず、その中で誰かが存在している位置をつかみづらくしているのかもしれない。しかし君の方はそれとは無関係に、また別の何かを探り当てようとしているわけでもないらしく、そんなことには無頓着な風を装いながら、その場に何がもたらされているようにも思いたくはないのかもしれないが、たぶんそれでもすでに何かがもたらされているはずで、それは予定調和の空虚か何かか、空虚でないとするとあるいは風か何かか。しかし意識はそんな陳腐なものに逃げたくはないのではないか。外は相変わらず晴れ渡り、何を述べているのか定かでない意識も、窓の外を眺めていれば少しは気が晴れるかもしれないが、とりあえず迷宮は別の書物の中にもあるらしく、何か読者の興味をそそるような謎とともにそれらの文章の中に記されているようで、謎とはその書物のウリであり、読み進むうちにどこかで突然その謎が解き明かされて、読む者に生じていた好奇心を満足させてくれたりするらしい。


5月18日

 そんなやり方では君はうまく困難を切り抜けることはできないだろう。また誰かが何かいい加減なことをつぶやいているらしい。でも実際にはどうなるのだろう。たぶんいつかそれがわかるときがやってくるのだろうが、そのときがいつくるかは今の段階ではわからないということか。それは今から数時間後かもしれないし、数日後あるいは数年後さらにあるいは数十年後かもしれない。だがそのときになって何がわかるというのか。何もわからなければ嘘になってしまうか。嘘になってしまったら困難を切り抜けられないとでも思うわけか。そんなことを述べながらまた何か不快な言葉に回帰しつつあることを感じ取る。それがどうしようもない不安感でももたらしているのだろうか。この先がどうなるかわからないのはいつものことだろう。君はその困難を切り抜けたいとは思っていないのかもしれない。誰かはそんな言いぐさを待ち望んでいたのか。誰もがそのうちに欠陥を抱え込んでいるわけか。それは何の揚げ足取りでもなく、事実としてこの現状を構成しているのかもしれず、そこから何ら明瞭な結論を導き出せないことも、そのことに由来しているのだろうか。そんなことを述べた後ではそれらの文章をどう読んでいいのかわからなくなるか。そこで何かが突然はじけて、その衝撃でこんな場所までとばされてきたとでも思えば、誰かは納得せざるを得なくなるだろうか。目の前にある状況を把握できないのは何に原因があるわけでもなく、それでいいのであって、それをそのまま受け止めるしか手だてはないのかもしれないが、しかしそれは手だてとはいえないような精神作用だろう。君はそこで誰に刃向かっているわけでもなく、どんな運命に逆らっているのでもない。ただそのような状況の中でもがきながらうごめき、そこで思考しながら行動しているにすぎないようだ。そこから何らかの答えが導き出されるとしたら、それはやはり嘘になるだろうか。そこで君は真実を見落としているというわけか。何が真実かもわからないのにそんなことを述べることこそ嘘偽りではないのか。それともただ何となくそんな風に思えるだけか。たぶんそれが嘘であることがそこでの真実なのかもしれず、要するに君は何を見落としているわけでもないということなのか。もちろんそれが底の浅い気休めにすぎないことは承知しているつもりなのだろうが、そんな気休め以外に何を述べることができようか。何もできはしないと思うわけか。ではいったい何にうんざりしているのだろうか。それでは誰が何を求めているのかわかりようがない。それがそこでの欠陥となっているわけか。君は絶えずそこから逃げているが、そういうまでも逃げているわけにもいかなくなるだろう。ではそのときが来るまでは逃げていればいいということか。そんなわけにもいかなくなって時にどうするかが問題なのかもしれないが、どうするかはそのときになってみれば、実際にどうにかしている自身に気づくかもしれない。そしてどうにかなっているかあるいはどうにもなっていないかの、どちらかの結果を受け入れざるを得なくなっている自身にも気づくのだろうか。しかし何を先回りしながら述べているのだろう。将来に起こる出来事について何を述べてみても現状がどうなるわけでもないか。どうにもならなければ自らが行動に打って出なければどうにもならないのは分かり切っていることなのだろうが、それでどうにかなる保証は何もないことも分かり切っていることであり、それでもどうにかしたければ、そこで何の保証も求めない命がけの飛躍でも試みる必要でもあるのだろう。現状に安住しないためにはそんなことばかりが求められているのだろうか。ちょっとそれは馬鹿げているか。馬鹿げているからこそ、それが命がけの飛躍になってしまうのかもしれず、一か八か伸るか反るかの賭けとはおおよそそんなものなのだろうか。利口なばくち打ちならそんなことはやらないか。事前に勝算が見込まれていなければ、まかり間違えば身を滅ぼすような賭けはしないのだろう。しかし君はそこでどんな計算をしているわけか。まさか行き当たりばったりでなんとななるわけはないだろう。君が何を望んでいるのか、またどんなことをやりたいのか、そのためにどんな算段をしているのか、君自身の意識にはわからないらしく、わかろうとしていないのかもしれない。それで何かやっているつもりなのか。たぶんなにやらやっているつもりなのだろうが、その何やらが言葉では言い表せず、文章では表現できないようだ。しかしそれでは現実に述べているそれは何なのか。やはり何かの冗談のつもりなのだろうか。少なくともそれらの自己言及の文章が何でもないということではないのだろう。何でもないのならそれを続けるべきなのか否か、いつかわかる日でもやってくるのだろうか。その日がやってくるまでは続けられるということなのか。そんなことが今の時点でわかるわけもなく、わかろうとすること自体が意味のない無駄な試みなのではないか。要するに現時点でわかっていることは、それらの困難はまだ執拗に続いているのであり、まだそれを乗り切るには至っていないということなのか。きっかけが何も見いだせていないように感じられ、ただ黙って時が過ぎゆくにまかせているようにも思われ、何もしていないようでいて、誰かの意識が何かしら言葉を連ねている現状を眺めているだけなのかもしれず、そこに記された文章を読み返しながら、将来へ向けて空想を思い描いているように装い、そんな行為を肯定することができずに、その受け入れがたい現実を困難や試練だと思いこんでいるだけなのか。しかしそうだとしたらどうだというか。それを現実に生じている欠陥だと見なせばそれで気が済むのだろうか。そんなことで気が済むわけがないか。それでは気が済まないからこそ、そうやって君は長々と、他人にとってはどうでもいいと同時に、当人にとってはどうでもよくないことを、性懲りもなく述べ続けているのではないだろうか。


5月17日

 車が激しく行き交う通りを不意に猫が横切る。何がそれらの夢なのだろう。誰かが夢遊病者のように歩みを進めている間に、そこにはどのような幻影が現れているのか。暗闇は去り夜が明け、近所で始まった工事の騒音も次第に大きく激しくなる。現実とはどのような状態をいうのか。なぜそれほどまでに不愉快を装うのか。多くの人は仕事をしなければ生きてはゆけない。生きてゆけないのなら、死んでもかまわないわけでもないらしく、とりあえず少々の不愉快は我慢して仕事を続けるべきなのだろう。だがそんな現状をどうすることもできなければその先はどうなってしまうのか。どうなろうと君の知ったことではないか。たぶん誰かはたまったものではないと感じているのかもしれない。君の方はそんなことを述べながら、昨日よりも少しは遠くへゆくことができたと思いこんでいるのかもしれない。それはほんの少しの前進のように感じられ、しかしそのほんの少しが、同時にさらなる虚しさを呼び込んでいるようにも思われてきて、それが前進したという達成感を打ち消してしまうようにも思われてしまう。だから絶えず生じてくる虚しさを振り払うために、さらなる前進を試みなければならないのか。冗談ではないか。冗談であったならそれも救いとなるだろうか。何もありはしないのに、なぜ歩みを前方に進める必要があるのだろう。ではそこで機転を利かせて後方に退いてみるか。それでは過去の思い出に浸って自己満足を得ることになるだけか。しかし自己満足に浸れるほどの過去があるわけでもないだろう。ではその代わりに都合のいいフィクションでもねつ造して、そこから生じる幻影にうつつを抜かしていればいいわけか。そのどれもこれもがつまらないと思うのはどういうことなのか。どういうことでもなくそういうことにすぎないということか。何かを語ればそれが虚であっても実であっても、語るほどに虚しさが増してゆくのは当たり前のことかもしれず、虚しさを振り払うためには語るのではなく、実際に身体を動かしながら行動しなければならないということか。しかしその行動が労働だとしたらどうだろう。労働すれば金が入り、その金で余暇を楽しめば普通の人間になれるだろう。そういう次元の問題ではないのか。また本質から遠ざかりつつ技巧を弄して、うやむやのうちにそこから退散してしまうのだろうか。そして退散することが君にとっての前進になるのなら、それは偽りの前進だといいたいわけか。それはつまらないこじつけに属する述べ方か。退散を前進と結びつけるのには無理があるだろうか。ならばそれらの行動をどう言い表せばうまく述べたことになるのか。何がそこには実在しているといえるのか。それらの話の中に何を実在させたいのか。虚構の話の中に何が実在できるはずもなく、その実在させようとする魂胆自体も嘘であって、そんな見え透いた嘘から生じるものとしては、やはりそれは虚しさになってしまうのだろうか。しかしそんな堂々巡りのようなことを述べて何がおもしろいのだろう。たぶん途中で話が横道に逸れていってしまいそうになったかもしれないが、なぜかその場を支配しているらしい虚しさがそれを阻み、執拗に虚しさについて繰り返し述べるように強いているのかもしれず、意識はその力に逆らうことができず、さらにそこから先も同じようなことを述べていってしまうのだろうか。述べてみればいいではないか。述べれば述べるほど虚しさが増してゆくのなら虚しさの思うつぼであり、虚しさにとってはその方が好都合なのではないか。つまり君の正体とは虚しさそのものだったのか。そんな作り話だったらおもしろいか。しかしそんなことは君の関知するようなことではないだろう。君はただその場に虚しさが漂っていればそれで満足なのかもしれないが、虚しさにどんな満足感が生じるというのか。虚しいことと満足することとは意味的につながらないのではないか。ではつまらなければ虚しくなるのだろうか。それは当たり前のことで、つまらないから虚しいのではないか。しかし何をつまらないことを述べているのだろう。それではますます虚しさが増してゆき、結果として君の思うつぼではないか。だからさっき虚しさの思うつぼだと述べたばかりではないか。しかしそれは誰が誰に向かって投げかけている言葉なのか。何をそんなにいらだっているのだろう。どうやらまたいつものように同じような言葉の循環が始まってしまったらしく、何となくそんな現象に意識がついて行けなくなりつつあるように思われてきて、弱音を吐いて挫折してしまいそうになるらしい。それはどういうことなのだろう。今誰かは笑ってしまうような事態に直面しているのだろうか。どうも何かが足りないらしい。それは現実の出来事か何かか。それを体験しなければその先へ進むことはできないのだろうか。だがその出来事が何かもわからないのに、なぜそうやって話を先に進めようとしてしまうのだろう。これから体験するかもしれない未知の出来事に期待しながら、それを織り込み済みにしてその先を語ることにどんな意味があるというのか。さっきから君はそんな風に虚空に向かって問いかけることばかりに終始しているらしく、そんな偽りの行為がその架空の身に絶え間なく虚しさを呼び込んでいるように思われるのだが、やはりそればかりでは虚しくないか。だからさっきからそれを述べているのではないか。しかしなぜわざとらしくもそんな風に虚しい語りばかりを繰り返しているのだろうか。何かの冗談のつもりなのか。しかしすべてが変わってしまったわけではない。君はそれをやめてほしいのだろうか。君はいつ目を覚ましたと思っているのか。そこで何を思い、何を述べているつもりなのだろう。そして何を欲しているのだろう。誰かが思っていることは君には通用しないようだ。君はさらに先の時空へとその影を延ばしてゆき、その先でもまた同じようなことを語っているのかもしれない。


5月16日

 何か胸騒ぎがしているような気がするのだが、君は他にやらなければならないことでもあるのだろうか。あるとしたらそれは何なのか。昼に表を歩いたら、日差しの強さにめまいがしたわけでもないのだろうが、一瞬立ちくらみのようになり、何が何だかわからなくなってきたみたいだったが、しばらくして我に返り、そこは何とか持ちこたえて、かろうじてその場では立ち直ることができたようだが、さらに追い打ちをかけるようにどんなことが起こるのだろうか。何かこの身に災いが降りかかるような周期に突入しているのかもしれないが、それを止めることは無理のようで、次から次へと得体の知れない出来事が起こり、それによってわけのわからない状況に投げ込まれているのかもしれず、それが思い過ごしであればいいと思っているのだが、どうもそんなわけにはいかない予感がしている。すでに周りの状況も誰かの精神も崩壊しているのかもしれない。そんな作り話なら誰かの興味を引きそうか。それは何かの錯覚かもしれないが、錯覚であってもかまうことはないのだろうか。情けない人々が画面上に姿を現し、情けない即興芸で見ている者の笑いを誘っているが、それも何かの錯覚なのか。それとこれとは無関係であり、まだそれについては何も語っていないような気がするのだが、崩壊しかけた精神を持ち合わせているつもりの誰かは、頭の中でどんな光景を再構成しているのか。何を再構成しようと、それらすべては過ぎゆき、また性懲りもなく持続し続けるだけだろう。そんな光景はいくらでも繰り返され、もういい加減に飽きられてもまだ続けられる。要するに同じようなことが執拗に繰り返され、それが何度も繰り返されるので、過去に繰り返された同じようなことは次々に忘れ去られて、その繰り返しの光景に慣れ親しんだ人々は、いつの間にか目の前に展開されているそれが、以前と同じようなことだとは決して思わなくなるのだろうか。なぜそうなるのだろう。また途中で話を省いていないか。なぜそうなるのではなく、それを見ている者たちそのものが入れ替わってしまうわけか。それは世代交代か何かの自然現象というところか。人々は次々に消え去り、またどこからともなく次々に湧いてくるわけか。そのような現象は誰かが唱えている神秘主義とはどう関係するのか。何が気に入らないのだろうか。文章の内容そのものが受け入れがたいか。そこで崩壊しつつあるのは状況や精神ではなく、他に何があるというのか。何がわからないのだろう。ところで神秘主義はどこへ行ってしまったのだろうか。次第に何の話をしていたのかつかめなくなるような予感がしている。精神の崩壊とはどのような過程を辿ってそこへと至るのだろう。そこで誰が話しているのか。あるとき私は私に向かって私は嘘つきだと嘘をついてみた。それが神秘主義の内容になるだろうか。そこには何もないような気がするのだが、要するに誰かの精神の崩壊は君の幻想でしかなかったのか。そんなことを語っているうちに、もう何がそれらを語る上での障害となっていたのか忘れてしまったらしく、わけのわからないことを語りながらも、それでいいのではないかと思い始めているようだ。いったいこの世の中で人々は何をやっているのだろう。仕事で苦労した分を気休めの快楽で紛らしているだけなのか。なぜそんなつまらないことが飽きもせず繰り返されているのか。それをつまらないとは思わないから繰り返しているだけなのか。そうだとすればそこからどうなるわけでもそれがどのような状態に至るわけでもないのだろうか。いつかは自らの死に至るのかもしれないが、それ以外にどのような状態に至りたいのか。別にどこかに至ろうとしているわけでもなく、絶えずその場で自己満足に浸っていたいだけなのかもしれず、要するにそれは格闘家が、身をすり減らすような精進を重ねた末に試合に臨み、運良く相手を倒して恍惚の表情を浮かべる瞬間に至りたいのと、程度の差こそあれ同じようなことか。それは馬鹿な話かもしれない。ではそれを馬鹿ではない話にするにはどうしたらいいのだろうか。結果としての自己満足ではなく、そこへ至る過程に生じている努力を重ねた歩みに注意を向けるべきなのだろうか。しかしそんなことをやって何になる。勇気ある誰かの成功と挫折の物語でも語ろうとしているのか。そしてその物語が感動的であったりおもしろかったりしたら、他の人々が気晴らしに楽しむ読み物として有効に機能するわけか。そんな単純なことを語ろうとしているのではないとするなら、どんな複雑なことを語り得るのか。なぜ人々はそれらの物語に励まされたいのだろう。それらのフィクションを通して、現実に日々努力していることが無駄ではないと思いこみたいのだろうか。そしてそれが無駄ではなかったことの証として結果を求めたいわけなのか。またそれが自己満足に浸り得る結果であることも望んでいるわけか。そんなところに人々の目指している未来があるのだろうか。そうだとすればどうだというのか。そんなちんけなことを述べてみても仕方がないだろうか。結果を求めない努力などあろうはずがなく、目的のない行為や行動があるわけもないか。だからいくら何を目指しているでもないことをやっていると言い張ってみても、そのような言動自体がフィクションでしかあり得ず、現実にそれをやっているつもりだと思っているのなら、それは単なる思いこみであって、無意識のうちに何かを目指していることに気づかないだけなのかもしれず、あるいは意図的に目指していることを隠しているだけなのだろう。しかしそんな風に述べれば気が済むのか。フィクション的にはそういう述べ方もありなのか。途中でわけがわからなくなってしまったようだが、結局いつもの単純な図式にすがりつくことで、かろうじて正気を保っているだけではないのか。それで持ちこたえたといえるのか。だがそんな風にして我に返っても、それでは同じことに繰り返しにしかなっていないのではないか。


5月15日

 そこに何があると思われるのか。何もないと思うならそれで終わってしまうのかもしれないが、何もないのに何かあるように装いたいのなら、そこから先はフィクションの世界になってしまうわけか。そんな風に思いたければ思ってみればいいだろう。それ以上に何があるというのか。何もなければこれまで通りにフィクションでも語っていればいいのかもしれない。もうすでに夜が明けているはずで、どうということはないただの一日が始まっているらしい。遠くでカラスが鳴いている。たぶん勝手に鳴いているのだろうが、それにつられて勝手に文章も繰り延べられるらしい。まさにそれは全自動文章生成機構となりはてているのかもしれず、それについて意識が何を思ってみても、そんな思いは後回しにされて、さらに文章は遠くへと続いていってしまうわけか。しかしその行き着く先がどこにあるのだろうか。そうやってあたりをさまよっているうちに、あるとき不意に永遠の中断が到来して、それっきりの尻切れトンボに終わってしまうような予感がしているのだが、なぜか現実にそうなってしまった時を想定しながら、今から無意識はそのときに繰り出すいいわけでも考えているのかもしれず、そんな空想上の無意識に呆れながらも、誰が呆れているのかわからなくなっているのだろうか。やはり何を述べているのかわからない。たぶんそれは君ではないのだろう。君が何を思っているわけではなく、ただそんな言葉が記されているのか。そしてさらにそれについて君が何を思っているわけでもない。そしてまたそんなことの繰り返しによってそれらの文章が長引いていくようだ。カラスの鳴き声はいつの間にかやんでいて、その代わりに犬の鳴き声がこだまする。注意深く耳を澄ませば鳥のさえずりや道を行き交う車の音も聞こえてくるだろう。しかしそれはそれだけのことであり、それだけのことでしかない。それだけのことに何を思うでもなく、ただそれだけのことだと思うだけか。そんな思いからどんな思いへ至るわけでもなく、どこへも至らないとすると、後は虚しさがこみ上げてくるだけなのだろうか。だが虚しくなったからといってどうなるわけでないか。それでは何か不満が残るわけか。不満だからといってその不満を解消する術をすぐに思いつくわけでもなく、不満が募り続けるがままに時が過ぎゆくだけか。君はそれに耐えられるのか。耐えられないとすればどうにかなってしまうわけか。どうにかなったらなったで、そのどうにかなった状態を経験するだけではないのか。経験とはそのどうにかなってしまった状態が積み重なることでしかないのだろうか。ではそんな経験を通して何がいえるというのか。たぶんその時々の気分次第で何らかのことを述べているのだろうし、その述べている最中にも何かを述べているという経験をしている。そして後から過ぎ去った時間の中になにがしかの経験があったことを思い出すわけか。そんな風に思えば君は満足するわけか。何を満足しているのだろうか。ただ何か語っているような気がしているだけか。何かを語っているのではなく、君でも誰でもない何かが語っているような気もするのだが、そんなことをいくら述べてみても事態がはっきりするわけもなく、相変わらずそんな言葉が連なっていくだけなのかもしれない。そうやってそこに生じているつもりの空虚に合うような無内容の文章が生じるしかないのだろうか。それでは気に入らないと思うわけか。気に入らないのなら何とかしてみればいいだろう。それ以外に何も述べられないのなら、何か勘違いのことでも述べてみるか。それは嘘だろう。君は一向に何を思うつもりもなさそうだし、他の誰が助け船を出すような気配もない。だからそれらの文章はそのままのうちに継続されようとしているらしい。要するに誰かの意識はそんな状況に慣れきっているわけか。そこから外へ出ようとしないのは、そこが安住の地だからなのか。ではその安住の地とやらで何をやっているつもりなのか。つもりなのではなく、実際に何をやっているのだろう。そんなことが架空の意識にわかるはずもないとは思わないが、とりあえず何かをわかった風を装えば、その場を取り繕うことができるのかもしれず、それが何らかの心境の変化でも呼び寄せることになるのかもしれない。それは事件でも事故でもなく、ただの出来事でしかないのだろう。いつの間にか空は晴れ渡り、暇つぶしの散歩には最適な季節にでもなっているわけか。老人が川沿いの道を歩いているようだ。心は何を求めているわけでも何がもたらされているわけでもない。それが誰の心なのか知る気にはならないようだが、勝手に繰り出された言葉からは、どのような状況にも対応しようとする意志のような雰囲気が伺える。まだ執拗に述べていこうとしているのだろうか。それらの言葉は無限を目指しているようにも思われ、すでに無限を体現しているのかもしれず、無限に移り変わろうとしているのかもしれない。だが誰に頼ることもなくそんな風になれるのだろうか。なぜそこには文章を記す立場を担っている意識が不在なのか。文章は自立していて、誰がそこで踊っているわけでもないというのだろうか。しかしそれはまるでとってつけたような内容になっていないか。いったいそれは誰に影響を受けて構成された文章なのか。それは数年前の出来事だろうか。どこかで誰かの魂が消散しつつあるのかもしれない。誰がそれを受け継ごうとしているのでもなく、逆に何とか忘れ去ろうと必死なのかもしれないが、その必死さが消散しつつあった魂を一点にまとめ上げてしまい、そこから何か得体の知れぬ意識が形成されようとしているらしく、そして今やそれはおぼろげにその輪郭が浮かび上がるまでになり、そこから何かを語りかけようとしている気がするのだが、今のところ何を語りかけているのか、それを受け取る立場の意識が理解できていないらしく、そのせいで何とかかろうじて正気を保っているようだ。


5月14日

 ニュースを見れば相変わらずの事件や事故しかないようだ。何を想像しているのだろう。自らの思い通りにいくことがそんなに大事なことなのだろうか。たぶん危機感だけで何かを語るのは間違っているのだろう。それは危機ではないと思いたいわけか。危機感を抱いて語っている者はそれらの事態を危機だと見なしているのだろうが、語ることでなにがしかの利益を得ているのだとすれば、その者にとって危機ではあり得ない。またその者がそういうことだけに専従している者なら、危機感を抱けない状況が続いてしまう方が商売あがったりで、むしろ危機的な事態に陥っているのかもしれない。しかし物事の順序的にはそういうことではないのかもしれない。その手のメディアで危機感をあおることが恒常化した状況の中から、そういうことを生業とする者が出現してきたわけで、そのような状況が続いてゆく限り、そういう者たちは手を変え品を変えながら絶えず生じてくるのだろう。それはそれでそういうことが繰り返されてきた経緯があり、これからも大がかりであったり衝撃的であったりする事件や事故が発生すれば、ニュースで誰かが危機感をあおるようなコメントをせざるを得ないのかもしれない。それはある種の条件反射のようなものか。だがそこに真の危機感というものがあるのだろうか。真の危機感とはどのような危機感なのだろう。何かそれは人類が滅亡するような事態にでもなれば発生するものなのか。危機感に真も偽もありはせず、たまたまそのような状況で発せられたある種のコメントの内容を、危機感という語句で表現すれば、意味的に合っているような気がするだけか。だからそのような事件や事故が何を語りかけているわけではなく、ただその事件や事故について語る立場の者たちがニュースに登場しているだけなのだろう。もしかしたらシステム的にはそれで一件落着なのかもしれず、ひとたび事件や事故が起これば、まず警察関係者や消防関係者がそれの処理に当たり、怪我人が出れば医療関係者が、また死人が出れば葬祭業者が対応に当たり、それらの様子を報道関係者が伝え、それを起こした責任を問われるような者や組織が出てくれば、その件については司法関係者が対処する。またその過程で金銭的な補償問題が出てくれば損害保険関係者でも登場するわけなのだろう。多くの場合はそのように処理されて表面上は一件落着ということになるのかもしれない。そのようなシステムに何か問題でもあるのだろうか。別にそれはそれでかまわないのではないか。またそのようなシステムの中で何か不具合が発生しているようなら、ジャーナリストとか呼ばれる人たちがメディアを通してその不具合を告発するシステムも確立されているのだろう。そしてそのような告発が不具合を是正すべきだとする世論となって、それをメディアが大々的に報じるような事態にでもなれば、今度は政治家が不具合を是正すべく、関係する法律を整備したり改正したりすることに至るのだろう。一応そのような過程も慣習的に確立されたシステムには違いない。それで何か不都合でもあるのだろうか。それはそれとしてだからどうだというわけでもないか。たぶんそれらのシステムを維持継続するのがこの社会に暮らす者たちの役目だといえばそうに違いない。では君はそれらのシステムに対して何か異議でも唱えたいわけか。飽きもせずそんなことばかりが繰り返されるのはおかしいとは思わないか。そのようなシステムが必要とされる社会とはどんな社会なのだろうか。それはこんな社会でしかないか。では何か馬鹿げているとは思わないか。いったいそこで人々は何を夢見ているのか。何をやってもたかがしれているようなことに関わり合いながら生きていることが馬鹿げているとでもいうのか。それとこれとは違うことか。では犯罪者だとかその被害者だとか、そんな役割分担があること自体愚かしいとは思わないのか。それでは何となく予定調和でしかないような気がするのだが、ではそういうシステムとはなるべく関わりたくないと思うわけか。そんなことを思っていてもいったん事件や事故に巻き込まれてしまえば、否応なくそのようなシステムに引きずり込まれて、その手順に従って流れ作業のように適切により分けられて処理されてしまうのだろう。そして処理が終了すれば一件落着となって、どうというわけでもないことになってしまうのかもしれない。君はそういう処理物質になってしまってもいいわけか。ではそこに何が欠けているというのか。そんなこともどうでもいいことなのだろうか。ものは言い様で、それで当事者もその周囲も納得して丸く収まるのならそれでいいのではないか。それでいいに超したことはないのだろうが、何か違うように思われるのはどうしたことなのか。それは心情的なものではないとすると何なのだろうか。何か幻想でも抱いているのか。たぶんそれは今のところ幻想にすぎないのかもしれない。これらの社会にそれ以上の可能性はないのだろう。それはたとえば人口密度の問題で、人口が今の半分にでもなれば、欲望やら闘争心やらが和らげられて、もっとゆったり生きられるような世の中になるのだろうか。それも幻想の一つには違いなく、それでも役割分担的に劣悪な環境に生きなければならない者たちが必ず出てきてしまうのかもしれず、そんな貶まれた者たちの日頃の不満が爆発して、相も変わらぬ事件や事故が起こり続けてしまうのかもしれない。システムには不具合がつきものだし、皆が平等にその恩恵に授かれるわけでもない。そういう状況の中で過度に救われようとしても無理なのだろうし、自らの思いを強引に押し通そうとすれば、結局は事件や事故の加害者となってしまうしかないのかもしれず、しかしそこで我慢し続ければ何も報われないこともあり得るわけで、危険を覚悟で状況にぶち当たってゆかなければ何も得られないような仕組みになっているのかもしれない。要するにそこでは誰もが絶えずのるかそるかの賭けに直面しているわけか。


5月13日

 どうも言葉は表現に役立つものではなくなりつつあるようだ。何かを考える上での障害物となり始めているのか。だがそれによってどのようなやり方を遠くまで推し進めているわけでもない。表現は表現であり言葉は言葉としてあり続け、文章表現の中から言葉を引きはがすことなどで気はしないが、そこに埋め込まれた言葉にどのような働きがあるとしても、それらの言葉から何が形成されているわけでもないように思えてくる。それらは文章であること以外に何を表現しているのか。何も示しはしないと思いたいのか。それ以外に何を示しているというのだろう。そこには何かその文章の生成に介在した人格が醸し出した感情などが反映されているのだろうか。されているのだとしたら、読む者はそれをどう解釈したつもりになっているのだろう。そこには何もないのではないか。それは読む者の思い上がりなのだろうか。何か謎が隠されているという浅はかな魂胆が醸し出す幻想なのかもしれず、急いで自分の都合のいいように解釈してそこから身を引きはがしたい衝動に駆られているのかもしれない。しかしなぜ文章には言葉が必要とされているのだろう。それらの言葉によって何か伝えたいことでもあるのだろうか。伝えたいのではなく、伝えられないからその代わりに意味のない言葉を連ね続けているのではないか。そんなわけで君は自らの思いこみ以外に、何を見ているのでも読んでいるのでもないことになるのだろうか。たぶんそんな風には思いたくないのだろうが、それで少しは真実に近づいたことになるわけか。はたしてそれらの文章の中に真実など存在する余地があるのだろうか。ではそのすべてが虚構であるならば、真実が皆無だといいたいわけか。皆無ではなく虚構であることこそが真実を告げている場合もあるだろうか。だがそんな戯れ言の集積のどこに価値があるのだろう。それは何か現世利益のような効用でもあると思っているのだろうか。そんなやり方によって何を把握しようとしているのか。この世の中のとりとめのなさでもうかがい知って絶望でもしてみせれば、それで納得がいったりするのだろうか。なぜそこまで述べる必要があるのだろう。何を述べているわけでもないと思っているのに、なぜかそんなことを述べている者の気が知れないが、それでうまく物事が運んでいるとしたら、それはとんでもない大失敗をしている現実に気づかないだけか。しかしそんな逆接こそが読む者を物語の中に引き入れようとするための見え透いた嘘なのではないか。どうやら君は劇的な展開を好まない傾向にあるらしく、その辺に君の稚拙な感情が介在しているのかもしれない。わからないが君の口癖なのか。考えることを拒むとき、君はわからないというつぶやきを連発し始める。感情の発現を疎ましく思い、それを打ち消すようにわからないとつぶやき続けているようにも思われる。だからますます何を述べているのかわからなくなってくるようだが、どうもそうなってしまう展開を止めることは不可能なのかもしれず、ただ時が過ぎ去り、それを忘れ去るまで君のわからないはやむことを知らないようだ。やはり何を述べているのでもないらしいが、そんな風に述べながらも、何とかその場に醸し出されている現状を語っているつもりなのか。しかしそれを語ってどうするのだろう。今まさに現状を語っているのではないだろうか。どうするわけでもなくひたすら現状を語り続けているのではないか。だがそれがどうしていることになるのだろうか。どうもしてないことにでもなるわけか。ただ現状のありのままがそれらの文章として存在しているとでも思いたいのだろうか。何を思いたいわけでもなく、そんな風に思いもしないようなことを記して文章を構成しているだけか。たぶんそこから逃れる道は無限にあり、実際に様々な言葉を繰り出しながら逃れ去ろうとしているようだが、そんな行為が現状の文章を構成し続けていることは確からしく、それらの文章は絶えず現状から逃れ去ろうとする軌跡として示されているのかもしれない。そんな風にしてさらに文章は続いてゆくのか。それが現状だとして、いったいそこに存在しているつもりの意識は何から逃れ去ろうとしているのか。現状から逃れ去るつもりでやっていることが逆に現状を構成していることについて、現状の意識は何をどうしようとしているのか。やはり相変わらずの言葉を繰り出しながら現状のままにとどまっているだけか。それではつまらなくなってきたように思えるのだが、そのつまらないままをさらに推し進めようとでも思っているのだろうか。やはりその辺がわからない。わかりようがないことをわかるはずもないのだが、どうしていいのかわからない現状の中で、やはりわからないとつぶやく以外にないのだろうか。要するに現状はつまらなくてわからない状態なのかもしれず、そのほかには何が文章として示されているわけではないのかもしれない。そしてそのような現状に対して君はただ沈黙するしか術を知らぬようだ。もう何もいえはしまい、と思うことが沈黙すると同時に思いもしないような言葉を記すという行為を生んでいるのだろうか。しかしなぜそんな誰にも何の関心も抱かせないような狭い範囲でひたすらつまらないことを述べているのか。ならば他に何か述べるべきことがあると思うか。何に興味を抱いているわけでもない現状では、述べるべきことなど何もないわけか。たぶんそれは嘘なのかもしれず、何も興味を抱いていることが文章になるわけでもなく、それ以外のどうでもいいことを文章として記しながら、何とか思いの確信し至るような詮索を避けようとしているのかもしれず、あたかも何も思わないように装いながらも、その密かな思いが心の外部へ流出するのを阻止しているのかもしれない。しかしならばそれらの意味のない文章はそこに存在する必要があるのだろうか。密かに抱いている思いをおおっぴらに公開するのが本来の文章としての役割なのではないか。なぜそれをやらずに別のことで間に合わせようとしているのだろう。その辺もわけのわからないところだろうか。


5月12日

 何をどう思えばいいのだろうか。やはりわからないのか。わかるはずもないだろう。終わりようがないことをやり続け、精神的に耐えられなくなってから、さらに終わりようがないことを思い知る。終わらせようとしているわけではないのだから、終わりようがないのは当たり前のことだろう。またそこから何をどうしようというのでもなく、どうにもできずにさらに終わりようがない状況が深まるだけだろうか。そこに何か救いを見いだそうとしているわけでもなく、何の救いも見いだせない状況をそのままに放置し続けるだけなのかもしれず、そこから先に何を見いだそうとしているわけでもないらしい。もうすでに終わってしまったのだろうか。しかし終わってしまったのに何をやっているのか。何もやっていないような気はするのだが、自然と何かしら意味のないことを述べているらしい。だが何を述べていいのかわからない。何が完結したわけでもないだろう。ただ無駄に言葉を費やしながら終わりの前で足踏みをしているだけなのか。しかし終わらせられないということが何をもたらしているのだろうか。何となく暇をもたらしているのかもしれない。そしてもたらされた暇を利用して、さらに意味のない言葉を連ねているわけか。しかしそこには何が存在しているというのか。暇以外に何を見いだせるのだろう。それは暇ではなくしてなんなのか。どう言葉を連ねてみても暇以外では言い表しようのない状況なのかもしれない。それ以外のどんな状況の中に存在しているわけでもなさそうに思える。ではそこでどんな幻想に包み込まれているというのか。言葉を記す以外に何もやってはいけないのか。だがそれだけでは終わりを見いだせなくなってしまうのではないか。終わり得ないことについていくら言葉を費やしてみても、さらなる無意味な文章が継続されてゆくだけか。要するにそれは不毛な作業の連続かもしれない。しかしそんな作業によって言葉の連なりはどこへ引きずられていってしまうのだろう。どこへも行かずにこの空虚な場へとどまり続けるのか。あるいはとどまり続けているつもりが徐々にあらぬ方向へと移動しているのだろうか。たとえばそれは劇的に思わぬ結末でも用意しているわけか。仮にそうだとして、それについてどう思えばいいのだろう。それは今のところはどう思うでもないことなのか。どう思ってみても勘違いなような気がするのだが、思うこと以外になすべき事は何もないような気もするのであり、ならば勘違いを思い続けていればそれでいいのかというと、意識はそれでは気に入らないのかもしれず、気に入らないなりにしきりと別のことについて思いを巡らそうとしているらしいが、たぶんわかっていないのだろう。何をしようにも何を思うわけでもなく、わずかに後から反省気味に過ぎ去ったことを思うだけなのかもしれない。なぜその出来事を簡単に通り過ぎてしまうのか。まだ通り過ぎたわけではないと思いたいのか。そんな判断ができるような状態ではないか。ただ単につまらない日々が繰り返されているにすぎないわけか。そんな日々の中で何をするでもなく、淡々と時間が経過するのを感じているだけなのだろうか。たぶんそんな日々をどう思っているわけでもなく、つまらないと感じているのは単なる照れ隠しの一種であり、それの何が照れ隠しになっているのか意味不明だが、何となくそんな感じがするわけで、それについてさらに深く考えてみるつもりはないらしく、どうも自らが何を考えているのか言葉では正確に示せない状態が続いているのかもしれない。何を思っているのかはっきりしないし、何を述べているのかもわからなくなっているのだろうか。そんな風には思いたくないようだが、現状ではそんなつもりになりながらも、はっきりしないことをいつまでも述べ続けているような気がするのだが、実際に何を述べているのだろうか。それは見たまま読んだままの内容でしかないだろう。それをどう見てどう読むかによって感じる印象も違ってくるのかもしれないが、その見たり読んだりしている対象そのものは、その見ての通りの読んでの通りのものでしかない。それ以上でもそれ以下でもなく、ただそれだけのことなのか。それだけのことにどれほどの労力と神経を費やしたのか。それは大したことではなく、それほど長い歳月でもなかったのだろうか。歳月や時間は問題ではなく、何をどう述べてきたかが問題となっているのかもしれないが、どうも過去を振り返る気にはならないし、今思っていることを言葉にする気にもならないし、今後の展望が開けているわけでもないような気がする。では何をどう思ってみても仕方がないのだろうか。もしかしたら思わないようなことを述べているのかもしれない。そんな嘘が通じるとは思わないが、何となくそんな嘘でも述べていないと間を持たせることはできないのかもしれず、なぜ間を持たせる必要があるのかわからないが、それは不必要ではあっても、どうしようもなく生じてしまうようなものなのかもしれない。要するに無理なことをいつまでもやっていても仕方がないのであって、いつかは破綻を来して無理は無に帰す定めなのだろう。そしてその無に帰した状況の中から、また新たな試みが開始される場合もあるのかもしれないが、それも無理ならいずれはまた無に帰してしまい、結局は無駄なことをいつまでも繰り返して、何をやっているのか意識が把握できなくなり、それが行為としての紋切り型となり、無意識の領域でそれをひたすら守り抜くことに終始しながら、そのようなことをやっている人々にとって日常的な習慣として定着してゆくのだろうか。そしてそんな習慣が足かせとなって、それ以外のことが考えられなくなり、そんなことばかりに情熱を傾ける盲目の衆が形成されてゆくのかもしれず、それとは無関係な外部との隔たりがよりいっそう顕著になり、外部から見れば何をやっているのかわからない集団に思われてくるのかもしれない。


5月11日

 君はしばらく前から何を考えているのか。はっきりしないことを語り始めてどれほどの年月が経過したのだろうか。いつの間にか時事的なことは何も語れなくなっているようで、もはや大事故や大災害が発生して多くの人が死んでも何とも思わなくなってしまったのだろうか。今はそうだとしても、それ以前の過去においてはどう思っていたのか忘れてしまっている。昔からそんな具合だったのかもしれず、何を語っていたわけでもなかったのかもしれない。また元の木阿弥になってしまったのだろうか。それはどういうことなのだろう。言葉の意味もわからずに使っていることに気づくが、それがどうしたのか。どうかしているのかもしれないが、実感がわいてこない。疲れているのかもしれないし、疲れていないのかもしれない。先が見えていないことは確かで、先を見通す能力に欠けていることも確かなのだろう。先とはいつまで先のことをいうのか。先が見通せないのだから、そんなことがわかるわけもないか。ではわかっていることは何なのか。先が見通せないということだけなのか。日は沈み日はまた昇り、時がたてば明日になり、さらにたてば来年にでもなるのだろうか。ところで何を軌道修正をしているのだろう。先のことはわからないのに、何かでたらめな予言でもして気を紛らすつもりなのか。そんなことで気が紛れるわけもないか。しかしその物音の源は何なのか。なぜ予言とは無関係に物音が聞こえてくるのだろうか。君はそれによってどのような出来事から逃れ去るつもりなのか。何やらまたわけのわからないことを述べているらしく、それがどうというわけでもないのだろうが、そこから何をどうしようというのだろう。何もどうにもできないのかもしれず、いつまでたってもそのままの状況の中に閉じこめられているのだろうか。そんな状況をどうやって切り抜けるつもりなのか。切り抜けられるわけがないか。切り抜けられなければどうするのか。どうもしないでそのままでいられるのだろうか。たぶんどうにもできなければ自然にどうにかなってしまうのだろう。そのどうにかなってしまう状況に耐えられるのだろうか。そのときになってみなければわからないかもしれないが、転がる石を止めようもなく、転がっていった先で何か適当に振る舞うしかないのかもしれない。そのときの状況に応じて何かやっているようだが、今できることといえばそれが勘違いの空回りに終わってしまわないように祈ることだけかもしれない。そんなことを述べている時点ですでに勘違いの空回りの最中なのかもしれないが、それをどうしろというのか、誰に何を指示されているわけでもないので、何とも述べようがないだろうか。そんな風に思いながらも言葉は適当に繰り出され、当人はそれなりに当たり障りのないことでも述べているつもりなのか。その辺は客観的には判断できないのでよくはわからないが、その通りなのかもしれず、あるいはその通りではないのかもしれない。なぜそんな風に思ってしまうのかよくはわからずに、他に何を思うでもなく、別にどんなことを述べようとしているのでもなく、何をどう述べていいのかわからないながらも、何かしら述べている現状をどうすることもできないようで、その現状に浸りながらも、それが変化する予兆でも感じ取ろうとでもしているのだろうか。その辺で無意識がどう感じているのかわかりかねるが、何となくそれを信じていてもいいような気がしているし、他に何を信じているわけでもないので、何か一つでも信じられることがあれば幸いなのか、または何も信じられなくなって絶望にでも浸っていた方がその場の雰囲気に精神状態が合っているのか定かではないが、どちらにしてもそれでどうということはあり得ないような気がしてきて、そんなことを述べているうちに、やはりこの際そんなこともどうでもいいような気がしてきているのかもしれない。何にしろこの世界が退屈な状況を醸し出しているような気がしていることは確かなようで、それを自らの力では変えようがないと実感していることも確かなようだ。ではこれから何をどうすればいいのだろうか。気がついてみればまたそんな現実に突き当たってしまうらしく、何やらさっきから同じような思索と言葉を繰り返しているだけで、そんな状況から何の進展も見られないように感じられ、それ以外には何もあり得ないような気がしてくるのだが、はたしてそれでいいのだろうか。それについて事の善悪を判断する基準は何もないように思われて、それ以上に何をどうしようにも仕方がないようにも思われる。たぶんどうにもならないのかもしれず、そこでそのような言葉が循環するばかりのように感じられるだけなのかもしれない。それ以前にもそれ以降にもそれしかないのではないか。だから何かを述べようとするとそんな風になってしまうのかもしれない。考えれば考えるほど、そのことごとくがそんな言葉にとらえられて、それ以外に考える術を見失わせているのかもしれないのだが、そこからどうすれば抜け出られるのか、それを考えるとそうなってしまうのだから、やはりそれ以外には何もないように思われ、まだしばらくはそれを繰り返してゆかないといけないような気分になってくるのだが、では意識はそれを繰り返そうとしているのかというと、逆にそこから逃れようとして、結果的に意に反してそうなってしまうらしく、その辺が何とも歯がゆいように思われて、ならば意識してそれを繰り返した方がいいようにも思われるのだが、どうもそんなことの繰り返しには耐えられそうもなく思われて、やはりそこから抜け出ようとしてしまうわけだが、それがそれらの悪循環の原因になっているようにも思われ、やはりそれはそれとして最終的には受け入れざるを得ないような気にもなってくるらしく、ともかくそんなことで逡巡を繰り返しながらも、そんな風に語っている状況があるらしい。


5月10日

 誰かを取り巻く状況は何とはなしに落ち着いて物事を考える雰囲気に近づいたのだろうか。そんなはずがないと思っている意識はどんな根拠や理由から生じているのだろうか。わざと弱音を吐きながらも実際にも疲れているのだろうか。何の話でもなさそうに思われる。やはりいつものどうでもいい内容になってしまうのか。そこまでやる必要がどこにあるのだろう。正気の沙汰ではないような気がしているのだが、あまり本気になってもいけないのかも知れず、ほんの冗談程度でその場を取り繕って、さっさとお開きにしたいような気がしてきたのだが、当人は終わろうとはこれっぽっちも思っていないのだろうし、誰がそれを終わらせられるはずもなく、それ以外にできることはといえば、まるで他人事のように高みの見物を決め込むしか方法はなさそうに思われる。しかし君はなぜ他人事でいられるのか。本気になろうとするとあくびが出てきてしまうからか。それらの内容は眠たくなるような言葉の連なりになっているのだろうか。執拗に攻撃を受けているのにどうして眠たくなってしまうのか理解できないか。それは単なる強がりのポーズを文章にするとそうなってしまうだけか。日夜どうでもいいような攻撃にさらされて本当は疲弊してしまっているかも知れないのに、なぜか実感が何も湧いてこないのはどういうことなのか。要するに疲れているふりをしているだけなのに、それを忘れたつもりになっているということなのか。何をまわりくどいことばかり述べているのだろう。それで何か気の利いたことでも述べているつもりなのか。そんな風には思わないが、ここでそんなことをいくら述べても無駄なのかも知れず、そんなどうでもいいことに汲々としている誰かが馬鹿らしく思えるだけか。そんなことを一心不乱にやり続けていて何がおもしろいのだろう。いったんやり始めたら止まらなくなってしまうわけか。そんなことではなく、そうすることに何かこだわりがあって、そこに何らかの幻想を抱かせるような精神作用が生じているわけか。だが君はそんな状況から何を受け取っているのだろうか。そこにはどんな報いがもたらされているのか。何もかもが同じに感じられてしまうのはどうしてなのだろう。そこには様々な違いが露見しているはずなのに、それらをすべて無視して何が分かるというのか。分かっていることはどんなことなのだろう。誰かの思惑も含めてそのすべてが単なる自然現象でしかないということか。人はただ単に自らのやり方を押し通そうとしているだけなのか。しかしそれで何が分かるのだろう。なぜそんなことからさもしい目的が導き出されてしまうのか。君はそうではないと思っているわけか。何となくそれらの状況を受け流しながら、そこに目的などねつ造してはいけないと思っている。自らを状況の中で際立たせようとしてはいけないのではないか。そこが自己顕示欲の発露の場となってはならないような気がするのだろうか。どうも他人の自己顕示欲を利用しながら、自らのやり方では導き出せないことを実現しなければならないと思うようになっているらしい。それはそれでそれをやりたければいつまでもやってもらってかまわないのであり、それに対する対応もそれなりに続けていけばいいだけでしなく、そのことについてはそのままに推移させておけば、それなりにあたかも自然現象であるかのように進行していってしまうのだろう。要するにそんなことはどこまで行ってもそんなことの範疇を逸脱することはないのかも知れず、いつまでもそれをやっていたいのなら、それの範囲内で気が済むまでやってもらえばいいだけのことでしかないのだろう。しかしそんなことははじめから分かりきっていることだろうか。確かに分かりきっていることかも知れないが、それが時としてあらぬ幻想を抱かせて、そうではないような気になってしまうこともあるのかも知れない。それに対して何か有効な打開策があるとでも思ってしまうわけか。競合相手がこちらの意向を汲んで手加減でもしてくれるとでも期待してしまうのだろうか。そんなことはあり得ないからこそそれが幻想に過ぎないと後から気づくわけだが、一時的にせよそんな風に思ってしまうところに精神的な弱さでも隠れているのだろう。だから絶えず現実を感じていなければならないということか。そしてそんな思い通りに行かない現実を受け入れられないのなら、気休めに思い通りにいったときのことでも空想していればいいのか。だがそれは君が空想することではないか。たぶん今まさに自己顕示欲を成就させようと悪戦苦闘している誰かが妄想していればいいことでしかなく、君の方はただ黙ってそれを冷ややかに眺めていればいいのではないか。そうやって君が何を見下ろしているのか定かではないが、とりあえずやれるものならいくらでもやれる範囲内でやってもらえばいいだけのことでしかなく、感情の赴くまま馬鹿踊りを踊ってもらってかまわないのだろう。たぶんそんな仮想空間がネット上に妄想されているつもりなのだから、そのような場を信じられる者たちはいつまでもそれに囚われているより仕方がないのかも知れず、目覚めることなど未来永劫あり得ないのだろう。そこで目覚めてしまってはそのさもしい自己顕示欲を発揮させる場がなくなってしまう。だからこそ昨日と同じようなことを毎日情報発信し続けなければならないのか。だがそんなことばかりでは虚しさがこみ上げてこないだろうか。しかしどこの誰を気遣わなければならないのか。たぶん世界中にそれの虜になっている者たちは大勢いるのだろうし、そしてそれが世界の現状にどのような作用を及ぼしていようと、世界は世界のままで存在し続け、その中でうごめいている者たちの感情をどうするわけでもないように思われる。ただそんな風に漠然と推移しているだけなのか。近頃はため息ばかりの君にはそんな風に感じられるだけのようだ。


5月9日

 また否定の連続のようだが、それでは何となく話になっていないような気がする。それではまずいように思われるので、少しは話らしい話をしようと試みるなら、あるとき誰かに呼ばれているような気がして、なぜか深夜に目が覚めてしまったようだが、辺りを見回しても暗闇の他には何も見えず、それは気のせいなのかもしれないが、そんな出来事に何か深い意味があるわけでもなく、誰かがどこかで救いでも求めているのでもないだろう。たとえば暗闇の中で幽霊にでも出会えば、誰が救われるのだろうか。そういう話ではなのではないか。たぶん寝ぼけて無意識のうちに何を述べているわけでもないだろうが、無意識に思惑などありはしないだろうし、無意識が誰を呼んでいるわけでもないだろう。では架空の世界から君を呼んでいるのは誰なのか。誰も呼んでいないだろうし、そこで見ず知らずの誰かは何を思っているわけでもないだろう。そんな話もあり得ないかもしれないが、翌朝は静けさとともに到来したらしく、そこで何に感動しているわけでもなく、話の中身をつかみ損ねているようで、そこにどんな意向が働いているのかわからないが、とりあえず言葉に窮してしまうと、どこからともなく架空の君が登場してしまうらしいが、君が何を語っているわけでもないこともいつものことだろうか。そして君の意識の中では虚無とともに何が生成されているわけでもなく、ただ君の意思を無視しながら勝手に言葉が記されるようで、そんな機構が君の外部に構築されているのかもしれず、君の存在如何に関わらずそれらの文章が構成されつつあるらしいが、君はそんな君の外部の機構とはどのような関わりを持ちたいのか。あるいはすでに何か関係でも持っているのだろうか。そんなことが文章の中に記された言葉にすぎない君にわかるはずもなく、君は誰かの無意識のうちにそれらの機構と折り合いをつけながら共存しているのかもしれないが、なぜ君はいつまでも文章を記している誰かの存在に気づかないのだろうか。かなりの鈍感なのか、あるいはそこでの君は本来の君とは別人なのか。そんな見え透いた嘘はくだらないか。ではなぜ君はその件に対して本気になれないのか。その件とは何なのか。君を含んでいる誰かの無意識は、その程度では本気になり得ないのか。たぶんそれに関して誰かの無意識は相当暇なのかもしれない。なぜその状態が暇だといえるのか。確かにそれと意識を共有している他の誰かは、現状では相当な忙しさのただ中にいるのかもしれないが、それらの忙しさは個人的な範囲内に限られ、他の誰にもわからないような忙しさであり、部外者を装う暇な誰かの無意識にとっては理解できない忙しさなのだろう。誰かがその忙しさの中でどんな思いを抱いているのかなんて君には知りようもないが、それ以上にどこかでくつろいでいるただの傍観者にとっては、どこかでせわしなく働いている誰かのことなどあまり気にとめる対象とはなり得ないようで、ただ執拗に異議申し立てを繰り返すばかりのように見えるだけで、たぶんそんなことをやりながら人生を無駄に浪費しているとしか思えないのかもしれない。しかし草葉の陰から薄ら笑いを浮かべながら余裕ぶってそれを眺めているのはどこの誰なのか。別に本当に笑っているのではなく、それは仮面に作り笑いの表情を彫り込んでいるだけなのかもしれず、なぜそんな手の込んだことをやるのかよくわからないのだが、そんなことまでやって、仮面の裏で喜悦の感情を爆発させていることは確かなようで、何がそういう薄汚い衝動に駆り立てているのか皆目見当がつかないが、本当はわかりすぎるほどわかっているのかもしれないが、そのうすうす感づいているつもりの理由をここで述べる気にはならず、とりあえず本心を隠しながら別の間に合わせの言葉ではぐらかして、何か他に適当なことでも述べていこうとしているのかもしれないが、とりあえずそれについて誰かは他人の諫言に耳を傾ける気はさらさらないだろうし、どこまでもそんな見え透いた独りよがりを貫いていこうとしているのだろう。だからいつまでたっても進歩がないわけか。それがどういう進歩なのかわからないが、それは望むべき進歩ではあり得ないのだろうか。そんなことを思う以前にに何を望んでいるのかわからないか。そんなわかり得ないことについて何を想像してみても始まらないが、では始まる以前に誰かは何をどう思っているのだろうか。別に何を想像しているのでも空想しているのでも妄想しているのでもないようで、それでも暇つぶしに何か適当な思いを抱いているのだとすれば、それは君には関係のないことなのではないか。しかし君に関係のある思いなど他の誰が抱く必要があるのだろう。必要がなければ誰も何も思わなくてもいいのだろうか。それはいい悪いの問題ではなく、問題以前の問題にさえならないことなのかもしれず、要するに何でもないことでしかないのかもしれない。そこに仮想されている誰かには、ことの善悪の判断はおろか、物事に対する感情そのものが欠如しているのだろう。それではただロボットのようにそれらの行為を機械的に繰り返しているとしか思えないのだが、それについてどう思えばいいのかわからないのだが、何をどう思ってみても無駄であることは確かかもしれず、現実にそれらの行為に直面すると、それについて何とも思わない自分自身の存在に気づくだけか。だが本当にそれ以外には何も思うところはないわけか。やはりそれは嘘なのだろうか。話の途中から何を述べているのかわけがわからなくなってきたように感じられるが、なぜそれほどまでに語ろうとするのか。後から読み返そうにも目が疲れて途中で断念してしまいそうになる。だがそこまで述べても何を語っているのでもないとしたら、それらの言葉の連なりとはいったい何なのだろうか。


5月8日

 そこで調子に乗って語っているのは誰なのか。その手のドラマ上で演出される恐怖心は何を目標としているのか。何かがもたらされるを待ちながら、誰かは何に耳を傾けているのだろう。どこからか読経の声が聞こえてくる。だが言葉を繰り出す以外に何をやっているのでもなく、取り立てて何を思うでもなく、そうやって他人はいつまでも合法的な瞑想に耽っているらしいが、その一方で気に入らない誰かの意識に四六時中圧力を加え続けているようだ。そのとき君の心は何を思い、もはや屍となったその肉体は、どこで何をやっているのだろうか。死ぬまで無言を貫き、そうやって生きている間だけ、言葉の呪縛から一時的に解き放たれて、誰かの意識が正気に戻ってみれば、さらにでたらめな文章に直面している。偽りの死者は死後の世界で何を悩んでいるふりをしているのだろうか。それがフィクションなら何でもありだと思うわけか。神はそんな状況を無視しながら、人々の悪行を放置し続け、ただ黙って自然の風景をいつまでも眺め続けている。信心深い人なら、それは神ではないと思うところか。何も不条理をもたらしているのが神であるとは限らないだろう。何もかも神のせいにするのは誰かの責任逃れか。はじめから話のつじつまが合っていないだけか。神はただの傍観者であって、そこで何かをやっているのは人間の方だろう。もちろん相変わらずの馬鹿騒ぎに興じている人々は、そんな無駄話には興味がないようで、また何かから神の意識が遠ざかり始めているように思われるが、誰が神の話をしているわけでもなく、誰がそれを思っているわけでもない。ありふれた演技にだまされたふりをしつつ、本当にだまされつつ、それでもにわか探偵が語りたがる下らぬ推理話を超えて、忘れた頃に何かに気づいたふりをしつつ、そこで誰が空模様を気にしているわけでも、何が嵐をもたらしているわけでもなく、君ははじめからそれらの困難に打ち勝つつもりはないらしい。嵐はいつか見た画面に映った幻影だったのかもしれず、現実にそれらの意識が嵐の夜を体験したことなどありはしないのだろう。しかし今さらそんな付け足しのような虚構のエピソードではつまらないか。だが他に何が提示されているわけでもなく、脳裏にうごめいているつもりの君がなぜそんなことを思うのか不可思議かもしれないが、それも単なる付け足しでしかないのだろうが、それでもまだ本題となりうる話はどこにも見あたらず、そのすべてがとってつけたような間に合わせの言葉に思われるのは当然のことか。だが実際には日付的に間に合っていないのではないか。それとこれとは無関係かもしれないが、仮に間に合っていたとしても、さらにひどい状況になっていたのかもしれず、実際それらの言葉の連なりにはいつも落胆させられるようで、そんな満たされぬ思いが何をもたらすわけでもないが、そこから先に何をどう述べるべきかわかりかねるようで、わかっていないのにさらに述べるとすれば、それは退屈な世間話にでもなるのだろうか。君はそれで何か不都合でも感じているのだろうか。確かに世の中は不条理で充ち満ちているようだが、それで何か不都合でもあるのだろうか。不都合だからこそ不条理をなくそうとして、人々は日々の行いがうまくいくように試行錯誤を繰り返しているわけか。では何をそんなに焦っているのか。片方ではマスメディアなどが合法的に欲望を煽り立てていて、もう片方ではその欲望にいかれて犯罪に走る者たちを警察が取り締まっている。そんなマスメディアと警察の狭間で、身の程知らずの夢を見させて、その夢におぼれた者たちを地獄へ突き落とす仕組みができあがっているのかもしれない。だがそんなことは生身の肉体と感情を持たない君には関係のないことか。では君が述べているつもりのそれらの文章の中には、君が抱いているつもりのどんな感情が隠されているのだろうか。ところでそれを読んでいる誰かは、それらの文章に何か思い入れでもあるのだろうか。そこに醸し出されているように思われる自己満足とは何だろう。誰かはそれを読みながらどのような思いを抱いているのか。退屈しのぎに抱いているつもりの内容をうかがい知ることはできない。ではなぜ誰かが退屈をもてあましていると思われるのだろう。やりたいことは何もないつもりだが、なぜ他の人にはやりたいことがあって、自分にはないのか。それは誰が抱いた疑問でも疑念でもないだろう。人は大勢いるのだろうから、少なくともその中の誰かはやりたいことがあるのだろう。しかしそれはどういうことなのか。ある日ふとしたきっかけで何かを思いつき、その何かがやる気になっているわけか。風が吹き込んできて部屋の中の空気が入れ替わる。未だに目新しい知識も言葉も何も持ち合わせていないようだが、何を求めているのかわからなくなってきた。たぶんそうではないと思う。はじめから要求など何もないのではないか。それは誰の意見なのだろう。誰の意見でもなくフィクションとしてそんなことを語っているだけなのかもしれないが、やはりそうではないと思うか。ではそのことについて君はどう思っているのだろう。言葉の意味を見失っている。では文章の中には何があるのか。たぶん何か伝えたいことでもあるのかもしれない。しかしそれを伝えようとしていないのではないか。それでもまだ君はその先に語るべきことがあると思っているのか。それは思い違いだろうか。では君が知っているつもりの無駄な知識とはどのようなものなのだろう。話の内容が一向に見えてこない。見えているのは雨に濡れた周囲の景色だけか。それ以外に何もないことを願っているが、なぜそんなことを願っているのか。それらの文章には目的がない。伝えたいことがないのだろうか。伝えたいのではなくただ言葉を記したいだけなのではないか。それが何になるのか。何になるわけでもないが、ただそうしたいのだろうか。どうも言葉を記す理由が見あたらないようだ。


5月7日

 何が何もないように思われるのか。何かに埋もれているようで、言葉はそれとは無関係かもしれないが、どうもその先へ文章がつながらない。なぜ意識は後ろの方を気にしているのだろう。別に背中がかゆいわけでもないのだろうが、夜通し降り続けた雨上がりの昼は蒸し暑い。暑さにやられて疲れ気味の誰かは、木陰で休んで体内に新鮮な酸素でも取り込んでいるのか。そんな動作は使用説明書には載っていなかったかもしれないが、頭の中の記憶回路には呪詛のような言葉がまとわりついて離れないように思われ、それを取り除く手だてもわからず、ただ気の向くままに言葉を連ねながら、気が抜けるように自然とそれらが消え去るのを待つしかないのかもしれないが、どうもせっかちな別の誰かは待つことが苦手のようで、外部から強引に削除しようとして、その弾みに必要な記憶まで消し去ってしまったらしく、今は何を忘れてしまったのか思い出せずに焦っているようで、そんなことを思っている心のがどこにあるのかわからないが、別に心が見つからないことで思い悩んでいるわけでもなく、たぶん身体はそこから遠くへは行っていないだろうから、後で丹念に調べ直して、身体に合ったそれなりの心を言葉で構成してみようと思うが、それは冗談で述べていることかもしれず、意識はそれほど心について語りたいわけではなく、また他のどのような精神作用について語りたいわけでもない。ただ気まぐれで心という言葉を使ってみただけか。現状ではそれ以外にどんなことを語れるのだろうか。毎度のことのように中途半端に嘘を語っているようだが、そんな語りではフィクションとしての強度を保つこともできずに、はっきりした話の内容を構成できないようだが、現状では他に何を語ろうとしているわけでもないか。なぜ語る対象に巡り会えないのだろうか。それが冗談でしかないからか。ではなぜ本気になってまっとうな内容で語ろうとしないのか。本気になって語らなければならないような対象がこの世界のどこにあるというのか。君は世の中をなめきっているのではないだろうか。そんなはずはないと思いたいようだが、そこに連なっている言葉がそれを否定しにかかっているのかもしれない。何かそれについていいわけでも述べたいのだろうか。さらにわけのわからないことでも語りたいのか。気持ちがそこまでついて行けないかもしれない。何事も対処するには遅すぎるように思われ、すでに手遅れになってからあわてふためき、間に合わせの対応でその場をしのごうとしているだけのようで、まったく計画性というものが皆無のような気がしているのだが、そこからさらなる文章を付け加えるとなると、いったいその先はどうなってしまうのだろうか。先のことなど心配している余裕はないのではないか。今この状況を何とかしなければその先はあり得ないだろう。だがその先があり得なければどうするのか。もうやめてもかまわないということなのか。そう簡単にやめさせてくれるのだろうか。誰に向かってそんなことを問いかけているつもりなのか。いつもそうやって返答の期待できない問いかけによってその場を切り抜けようとする悪い癖が出てしまうらしいが、そんなやり口にもそろそろ飽きが出てきた頃だろうか。たぶんそこからまた違うやり方を模索しつつあるのかもしれないが、見たところまだそれが顕在化していないという感じのようだが、それを述べている当人も気づかないところで密かに進行中なのかもしれない。ゆっくりとであるが着実に変化しつつあるのかもしれず、ある日それに気づいたときにはすでに以前とはすっかり様変わりした文章になっていることに気づくのかもしれない。そこから徐々に離れようとしているわけなのか。もはや思いはどこへも届かないのだろうし、ただそんな風に述べているにすぎないのであり、そこには何もないようで、その何もないことが図らずもそれらの文章を生じさせているように思われる。だがそれは意外でも何でもなく、言葉の連なりを止める障害物が何もないということなのかもしれない。しかしそれで何を述べているのでもないのだろう。結局はそういうことでしかないらしい。闇の向こうには別の闇があるわけでもなく、ただの闇がつながっているにすぎず、闇は闇でしかなく、それ以外の何ものでもないのだろうが、それで闇について何を述べているのでもないということか。では闇の向こう側からは何がやってくるのだろうか。光明でも差してくるわけか。それは朝日か何かだろうか。夜が明ければ闇の世界ではなくなるわけか。だがそうやって当たり前のことを述べていると楽しいか。人は当たり前のことでは満足しないのかもしれず、絶えず何か目新しいことを求めているのだろうか。だがつまらないことにも興味を示す場合があるらしく、どうということはない現象や出来事を飽きもせず眺めていることもあるようだ。だからそんなものを見て何が楽しいのかという疑念がわいてくるわけか。それはただの一方的な思いこみにすぎないのだろうか。それは何かのゲームの一種なのだろうか。そしてそれを大勢の人々が金を払って眺めているのはどのような習慣に属する行為なのか。分かり切っているのにわざとそんなことを述べているわけか。そんなことを述べて何が楽しいのだろうか。昔と今とでは何が変わったのだろう。それに興味を持つことの何がおかしいと感じるのか。それはどういうことなのだろう。それと気づかずに見る者たちが演じている演劇の一種なのか。そこに居合わせた誰もがゲームをしている者たちを応援していると思いこみ、その応援自体が演技のような性質を持っているのかもしれない。たぶんゲームの主催者側によって応援する役を割り当てられているのだろう。要するに金を払って観客を演じながら楽しんでいるわけだ。それのどこがおかしいのか。


5月6日

 何となく偶然の巡り合わせから生じる成り行きに合わせて、それなりには対応できているように思われるのだが、さらに臨機応変な対応をするには並大抵の能力では無理らしく、そこに生じた状況に順応しながらも、その場の空気を的確に読んで無理なく行動できれば、とりあえずはうまくいくように思えるのだが、調子に乗ってそれ以上にうまく立ち回ろうとすると、今度は自らの能力を超えてしまって無理が生じ、ぼろが出て思わぬ失態を演じる羽目に陥ってしまうのかもしれない。しかしそんな風にそれを言葉で説明しようとすると、実態とは少し違うような気がしてしまうのはどういうことなのか。要するにうまく説明できていないということであり、まだまだそれらの意識は文章の構成力が稚拙であるのかもしれず、つまり能力がなく臨機応変に対応できていないということか。しかしそれでは先に述べたことと矛盾してしまうのではないか。成り行き的にそう述べてしまったのだから矛盾も何も関係ないのではないか。それについてあまり正確に言葉通りのことを思っているわけでもなく、ただその場の思いつきのようなことを場当たり的に述べているにすぎない場合もあるだろう。それ以上にはっきりしたことは述べられないのかもしれない。しかしそんなことはどうでもいいことか。また何を述べたいのかその内容を見失っているような気がしてきて、その述べている内容を後から読み返しても、それらの文章をどう解釈したらいいのかわからなくなる。やはりそれではいったい何を述べているのだろうか、といういつものフレーズで間をとらなければ、それ以降は何も述べられなくなってしまうだろうか。何を先回りしているのか。思い通りの結末に至る成り行きを求めてはならない。それでは予定調和でつまらなくなってしまうからそう思うのか。たぶん君はこれから語り出そうとする物語の内容を忘れているのかもしれない。それとこれとはどういう関係にあるのか。あるいはまたいつものでたらめなのか。そうやって誰かが君の心をだめにしている。突然そんな風に語り始めたら意表をついていておもしろいだろうか。まだ続けて何も語らないうちからおもしろいも何もないだろう。なぜそうやって茶化しながら逸れていってしまうのだろうか。わざと本筋から外れたことを述べたいようだ。まだ意味不明に耽りたいのか。そうしたいのではなく、思いとは関係なくそうなってしまうだけか。何をどうしようというのではなく、ただ言葉を記しているうちに否応なくそうなっているわけか。そうすることが目的ではないのに、結果としてそうなっているらしく、そんな結果を受け入れざるを得ないことが、精神的な負担とでもなっているのだろうか。別に受け入れているわけではなく、受け入れられないのにそれをどうすることもできないのか。それはどういうことなのだろうか。どういうことでもなくそういうことであるのは確かなのかもしれないが、その確かさを疑いたいのであり、もっとどうにかできないものかと絶えず思い続けているのかもしれないが、それでも現実にはどうにもできないものなのだろうか。ところでさっきから何を繰り返しているのだろう。たぶんその繰り返しの反復が無内容を呼び込んでいるのであって、それが意図的にやっているのか自然にそうなってしまうのかよくわからないのだが、そんなことをやっているうちに何を述べようとしていたのかわからなくなってしまうらしく、それは毎度おなじみの展開なのだが、今のところそれをやめる手だてが見つからないのかもしれず、そんなことは分かり切ったことでもあるのだが、やはりそれを繰り返している現状を打破するには至っていないようだ。やはりそれでいいのだろうか。少なくともそうやって物語的には何も語らずに何かを語っているらしいことは確かなところか。しかしそればかりでは虚しさが募ってくるように思われ、そんな状況に耐えながらも、他に何を語るわけでもなく、一晩中降り続いているらしい雨を感じながらも、その雨をどんな感情にたとえるわけもなく、その場の状況に応じて安易に涙雨だとか述べてしまう無神経を軽蔑している自らに気づいたふりをしながら、そんなわざとらしい紋切り型的な言語表現を誰が真に受けるのか、あるいは状況によってはそれもありなのか。だがそんなつまらないことに執着するのも馬鹿らしく思えてきて、それとは違うことを述べようとして、またさっきと同じような話の展開にしかならないような気もするのだが、やはりまだそれでも継続しようと試みているようで、それが虚しさを呼び込んでいるのではなかったのか。また言葉が一回りしてしまったのではないか。やはりそれでおもしろいとでも感じているのだろうか。そこで君はあり得ないことを述べているのではなく、現実に起こっている現象について語っているのだろうか。言葉の堂々巡りをそのまま表現しているわけか。そしてそれで何かを達成しているとは思えないようだが、何も達成されていない停滞状況から抜けられないことに安住してしまっているのではないか。いつもの言葉がいつまでも巡り続けている画面を眺めながら、挫折感と虚無感が入り交じったような気分に浸っているのだろうか。それがそこでの個性といえなくもないが、それは誰にも受け入れがたい個性なのかもしれず、そうやってただ無駄に言葉を弄しているとしか思われない状況を醸し出しているにすぎないのかもしれないが、いったいいつまでそんなことを続けているつもりなのだろうか。いい加減に踏ん切りをつけて気分転換をしたいと思わないのか。それができないからいつまでも続いてしまっているわけか。気がつけばまたもや無意味な言葉が循環しているようだ。


5月5日

 またどうにもならないような状況に陥っているらしく、いったんそうなってしまっては、何をどう修正しようとうまくいくはずもなく、もはやそれらのわけのわからない言葉の連なりを前にして、ただ呆れつつも途方に暮れるしかないようだが、なぜそ取り返しのつかないような状態になってしまうまでそれらを放置し続けたのか。放置し続けたのではなく試行錯誤を繰り返していたのではなかったか。その結果としてそうなってしまったのだから、もはやあきらめるしかないのかもしれないが、ところでいったい誰に向かってそれを問いかけているのだろうか。君は誰に向かって何を語りかけているのだろう。問いかけているのも語りかけているのも君ではないはずか。その何もない薄暗がりの中に誰がいるわけでもないらしいが、強引に誰かがいると仮定して話を進めていってしまうと、後から何か不都合でも生じるのだろうか。そんなわけでまた始まりにおいて苦労しているようだが、その程度の苦労など苦労のうちに入らないか。だが苦労を苦労とも思わないような人間に、そんな苦労などわかるはずもないのかもしれないが、苦労とはどのようなところから生じるのだろうか。だから文章の始まりにおいて生じているのではないか。何をとぼけているのだろう。その苦労ではなくもっと一般的な苦労全般について述べようとでもしているわけか。それはいつもの悪い癖であり、その悪い癖によってもさらに別の苦労がもたらされるのかもしれないが、しかしいつもの悪い癖とは具体的に何なのか。それを明らかにしないままに、何となくそれについて悩み抜いたつもりになっているようだが、なぜかそれで振り出しに戻ってしまうのはどういうわけなのか。だから悪い癖とはとぼけてみせることではないのか。なぜそれがわかっていながらわざとらしくとぼけてみせるのだろう。何をとぼけているのか分かり切っていながら、それでもよくわからないと述べてしまうのはどうしてなのか。確かさっきも同じようなことを述べていたはずだ。そうやって懲りもせず同じことを繰り返しているのなら、以前とは違うことを述べようとして、様々な試行錯誤を繰り返しながら、悩み抜いた甲斐がないのではないか。ついさっきは何について悩んでいたのだろう。別に甲斐などを求めているわけでもないが、先ほど悩み抜いたと述べたのは嘘なのか。気持ちだけでそんなつもりの雰囲気に浸っていただけなのかもしれず、それがどういうことなのかはっきりしたことは何もわからないが、自らもいつまでもわからないようなことを述べているうちに、まともなことを何も語れなくなって久しいように思われるのだが、また知らず知らずのうちに、何やら具体的な内容を導き出せないままに語り始めているようで、そんなことを何度繰り返せば気が済むのか、それも誰かにはよくわからないのだが、やはりそんなわけでまた意味不明なことを述べざるを得ないようだが、それらの文章の中で度々述べている意味不明な内容とは、具体的にどのようなもののことをいうのかもわからず、そもそもそれらとは何なのかもよくわからないのだが、やはりどうもまたそれらをわかりやすく説明しなければならない作業が残っているようで、誰かはそれらをやり終えるまでなかなか自由の身になれないのかもしれないが、それを説明し終えて自由の身になれば、もう何もやらなくてもよくなるのだろうか。だがもしそうなっても何もやらないわけにはいかないのではないか。ところで君にはやりたいことが何もないのか。なぜ唐突に誰でもない架空の君に向かってそんなことを語りかけるのかもよくわからないか。要するに他に述べることがないので、よくわからないことばかりを述べているのだろうか。誰かはそうではないと思いたいようで、ただ分かり切っていることをよくわからないと嘘をついているだけなのではないか。そんな風に思えるのはどういうわけなのだろう。わけなど何もないように思えてしまうのだが、それではまたいつものパターンを繰り返しているだけなのではないか。あるいは他の誰かがいつもとは違う単なる文字化けメールを迷惑メールとして送ってきただけだろうか。それがあるいはという言葉につながるはずがないか。ならばついでに君は最近金遣いが荒くなってきたようだが、それもさっきの思いとは別の意味で無関係な思いこみの一種なのだろうか。どうも何かのたがが外れてしまったようで、何もかもがどうでもいいように思われるのは以前からかもしれないが、それでも作業は作業として通常通りにこなしているのはどういうわけなのだろう。どういうわけでもなく、まったくつまらないことでも述べているのだろうか。しかしそれでもかまわないように思えてしまうのは何かの嘘なのかもしれないが、嘘でもつかなければやっていられないような精神状態なのだろうか。だがそれは誰の精神状態のことを述べているのかよくわからない。もしかしたら誰もそんなことは思っていないのかもしれず、ただフィクションとしてそう述べているにすぎないのかもしれない。そこにいると思いこんでいる君は何を求めているのでもわかろうとしているのでもなく、ただ文字として記されているにすぎないのであり、だから君に関して誰かは何も語り得ないのだろうか。しかしそれでも何を語っているのでもなさそうに思える。要するに語り得ないことを語ろうとしているだけなのかもしれず、それを語り得ないからその代わりにどうでもいいことを語ってしまうような状況を招いているのかもしれない。


5月4日

 何事にも結末があるわけではないらしく、終わり得ないことにそれほどいらついているわけではないが、外は相変わらず晴れ渡り、いつから晴れているのか忘れるほど、そんなことなどどうでもいいように思われ、そのとき偶然に何を思ったのか知らないが、いつも始まりは唐突で何の必然性もないように思われ、そしてその場の気分次第で言葉を連ねることが何をもたらすわけでもなく、気休めに繰り出されたそれらの言葉にどのような意図も思惑もないようにも思われ、それについて何をどう判断していいのかわからないが、もしかしたら誰かは不思議なことを述べているのかもしれない。なぜそんなことを思うのだろう。そんなこととはどんなことなのか。誰が不思議なことの内容を知りたいのだろうか。だが知りたくもないことを知ってどうするのか。なぜを知りもしないのにそれを知りたくもないことだとわかるのか。そんな風に述べていること自体が不思議なことなのかもしれず、またそこに至る途中の文章で何かが間違っているのかもしれないが、仮に間違っていたとしても、面倒なのでそれを訂正する気にはなれず、そのままに放置しながら、その先を語り続けようとしてしまうらしいが、このままではその先の内容も、相変わらず同じようなことを述べているだけになってしまうように思われ、それが自己嫌悪の原因とでもなっているのだろうか。だが自己嫌悪する自己がどこにあるのだろう。またそうやって見え透いた嘘を述べてしまうつもりなのか。つもりではなくすでに述べているのではないか。そんな風にしてわかっているのにわからないふりをするばかりで、それ以外に何を述べているのでもない状況が延々と継続されてしまうわけか。やはりそれでは予定調和の展開でしかないだろうか。すでにそんな展開を飽きるほど繰り返しているような気がするのだが、やはりそれで何を述べているのでもないが、そんないつもの内容を言葉でなぞっていることに終始しているわけか。だが他の誰かが語っている内容もそれと似たような状況が多いのではないだろうか。いつまでたっても同じことを繰り返して、そんな情報を送りつけられる側を退屈地獄へと送り込む。もはやそんな内容では飽きてしまった人は大勢いるのだろうが、かといってそれとは違うものを提示することは容易にはできないようで、やはり彼らは自らも退屈に感じながらもそんなことを述べてゆくしかないのだろうか。いったい何に甘えているのか。紋切り型の状況に流されながら、そんな状況に応じた言葉の連なりを提示することしかできない自らの意識を突き放すことはできないのだろうか。まさかそれを葬り去るわけにも行かないだろうし、もてあまし気味に無視しても納得がいかず、忘れるために別のことをやるぐらいしか方法は残されていないのかもしれないが、やはりそんなことが簡単にできるわけもなく、気がつけばさっきと同じようなことを繰り返している。そしてそれで満足するわけもなく、何かに憑かれたように悪あがきをやり続け、それでも飽きたらずに、その場の感情にまかせて何を述べているのだろうか。それは何かの冗談か、あるいは意外と本気モードなのか、その辺がはっきりしないようだが、それらの意識は群れることを好まず、それぞれに単独で別々の方向へと向かいたいらしく、意識間の連携のことごとくを断ち切ってしまいように思われ、そんな分裂的な状況をただ黙って眺めている君には、そのすべての行いが馬鹿らしくも滑稽に見えるようで、薄ら笑いを浮かべながら、行間から冷たい視線を放っている。何をどうやっても事態が改善することはなく、そんな状況を無視しながら、誰かはなぜ先を急ごうとするのか、そこにどんな意図が働いているのかよくわからないのだが、とりあえずそんな状況が続いていることは確かなようで、そんな状況を招いている意識たちが、自らの行いや考えを改めることはないらしく、それを継続させることが破滅を導いているのか、あるいは成功の途上にあるのか知らないが、それらの内容に目新しさは何もなく、単なる紋切り型の羅列と切り貼りで文章を構築しているにすぎず、当然のことながらそれが読む気を誘うはずもなく、何となく斜め読みの対象として、読みながら忘れ去られるしかないのだが、それでもそんなことが執拗に継続されてしまうしかないのだろうか。それで何を続けているつもりなのだろう。まさか続けられることを確信して調子に乗っているのだろうか。なぜそんな風に思えてしまうのか。君はどんな文章によって抑圧されていると思いこんでいるのか。ただわけのわからないことを述べているだけだろう。そんな風に思われては心外か。ならばそれらの文章をどのように解釈したら気が済むのだろう。どのように受け取っても気など済むはずもなく、ただそれらの文章によって嫌がらせをしたいだけなのかもしれず、やはりそれを継続し続けることから快楽を得ているのだろうか。しかしそれでは終わりがないのではないか。いつまでたってもやり続けているだけで、それが何になるわけでもなく、何にもならないそれをやり続けることが生きる目的と化しているのか。やはりそんな行状を眺め続けていれば、ただあっけにとられるばかりで、どうもそれを冗談ではなく本気でやっているらしいことが、救いようのない悲惨な状態を醸し出しているのかもしれず、たぶん誰もそれらの人々を救う気はないだろうし、当人たちにとっては余計なお世話でしかないのだろうが、それでも笑いをこらえながらも何とかしなければならないのだろうか。彼らが自らそれをやめない限り何とかなるはずもないか。ならば未来永劫そのままなのだろうか。まあ気が済むということがないのなら、死ぬまでやってもらうしかないだろう。


5月3日

 時は流れ意識を取り巻く環境も時とともに変化していく。時間はどこからどこへ流れているのだろうか。昔のことを忘れたつもりになっているようだが、それはたかだか数十年前の出来事でしかなく、数十億年から百億年単位で刻まれる地球や宇宙の歴史からみれば、ほんの一瞬前の出来事でしかないか。それを比較すること自体が荒唐無稽でしかないだろうが、人類の文明史などたかが数千年の中に収まる程度のものでしかない。大部分の人はその数千年の中のほんの数十年しか生きられないのだから、たとえば一億年という時間がどれほど長いのか、その時間感覚がよくわからないだろう。百年の百倍が一万年で、一万年の一万倍が一億年といったところだろうが、今から一万年前と一億年前ではものすごい開きがあることは確かなのだが、では一億年の一億倍の昔は、今現在わかっている宇宙の成り立ちからすればあり得ない昔だろうか。百年を百回繰り返して一万年になるのだろうが、一億年となると百年を百万回繰り返さないと到達できない。それは人間が生きている時間感覚からすれば、到達不可能な途方もなく長い年月に思えるだろう。たぶん人類にとって今から一万年後はあり得る数字かもしれないが、今から一億年後となると、ちょっと存在していない可能性の方が高いのではないか。たぶん一億年後には人類とは違う別の生物が地球上にはびこっているような気がするのだが、もしかしたらそれは生物ではなく、生物とはまったく異なる存在形態を持つものなのかもしれない。実際にそうなったとしても、それが驚くべきことではありないだろうし、そこに人間が存在してなかければ、驚くという精神作用自体がないのだから、驚くという行為自体が存在し得ないだろう。そしてしばしば人間が他の生物と比較しながら誇ってみせる、人間の脳の内部で構成されている思考形態も、人間が存在しなければ何の意味もないものとなってしまうだろう。たとえば今から一億年後に、人類が築き上げた文明の廃墟が、生物とは別の存在形態を持つものに発見されたとして、それがどのようなものとして受け取られるだろうか。そんなことを想像することに意味があるとは思えないが、それらにとって人類だとか文明だとかは、どうでもいいものとしか受け取られないのではないか。そんな風に考えてしまうと、今やっていることに何の意味も意義も見いだせなくなってしまうか。たぶん今やっていることは、今の前後数十年間の範囲内でしか意味を持たないようなことなのかもしれず、それが百年や千年単位の時間的なサイクルになってしまうと、そのほとんどが忘れ去られてしまうようなことなのかもしれない。たとえば今の時代に古代ローマやギリシアを題材とした映画が話題となることがあるが、今から二千年後に今の世界の何が物語の題材となるだろうか。やはり二十世紀の世界大戦あたりが物語られたりするわけか。だが二千年後にはたして映画やテレビが存在しているだろうか。それらのメディアが商売として成り立つ土壌が二千年後にはあるだろうか。だがなぜ今から二千年後を想像する必要があるのか。そんなことを思うのがおもしろそうだからか。だが今の人間にとって今から二千年後なんて何の意味もないことだろう。では今から二千年前の出来事にはどのような意味があるのだろうか。過去の出来事は歴史的な事実に基づいているから、今の時代と地続きで親近感でもわいてくるのだろうか。それをフィクションとして語れば二千年前も二千年後も同じようなものか。要するに今の時代に顕著となっている社会の構造や人間関係を過去や未来に投影してみせれば、それがフィクションとしておもしろければ多くの人々から感動や共感を呼ぶだろうし、それなりの見せ物や読み物として世間から評価されるのだろう。しかしそんな現象がおもしろいか。それを見聞して感動できる人にとってはおもしろいのだろうが、それに疑念と抱いている誰かにとっては素直におもしろいというよりは、ひねくれ気味に興味深いのかもしれない。それは過去でも未来でもなく現代に生じている現象だということがある意味ではおもしろいか。そこに時間的な距離感が存在していないことがまやかしであるように思われ、そのまやかしがしばしば過去や未来をいいわけとして真実をごまかしているように思われる。現代ではあり得ないようなことが過去や未来を舞台とするとまかり通っていて、そのまかり通り方に過去や未来であるということがだしに使われていることが許し難いか。要するそこで展開されている光景が現代より劣ったものとして提示されてしまうわけだ。その辺で何か違っているような気がしてしまうわけだが、なぜ毎度のことのように同じ言い回しになってしまうのか。それはどういう疑問なのか意味不明に思われるが、はたして今日は明日や昨日より時間が進んでいるのだろうか。君は誰かの目に映っている光景を見ながらそんなことを思っているのか。実際にはそんなものが見えているわけもないか。ではまた嘘をついているわけか。言葉に詰まって具体的に何が見えているのか示せないようだ。詰まっているのではなく忘れているのではないか。頭の中で構成されているイメージには現実には存在しないものが含まれているようだが、そこから何を抽出して言葉で示そうとしているのか。まだ何も定まっていないのではないか。取り立てて何を定めようとしているわけでもないか。


5月2日

 そんな風に語り続けるつもりはなかったのだが、何を説明しているのだろうか。またいつものように疲れていたらしく、夕方から翌朝にかけての記憶が飛んでいるようで、それを思い出すのが面倒なので、いきなり内容のなさとともに目覚めたようだが、苦し紛れに何をそんなに否定したいのか。たぶん自らのどこに精神があるわけでもなく、何を分析しようとしているわけでもないのだろうが、さっきから心が立ち止まったままになっている。それは心ではなく、心以外の何らかの精神作用かもしれないが、そんな表現はおかしいか。今の君にそんな気の利いた機能が備わっているわけもないだろう。しかし気が利いているかなんてわかるわけがないか。それでもきっかけをつかんだつもりになり、それなりに言葉を繰り出しているらしいが、それはちょっと違うように感じられ、その微かな違和感からそれ以上続けるのをためらい、そんな躊躇を意識し始めると、何もできなくなってしまい、だから昨晩から数時間も継続が止まったままになってしまったのかもしれず、そんな状況の中で何かが増大していくような感覚がもたらされているらしく、それがみるみるうちに雪だるま式に増えてゆき、もはや支えきれなくなって、そこから先はどうなってしまったのだろう。そこに意識がとぎれてしまったのか、あるいは夢から覚めて正気に戻ってしまったのか。翌朝の光景が何を語っているわけでもないか。ただ周りの状況が見えていないのは確かなようで、それをわかっていないのにわかったふりをしながら、わかっていない状況を改善しようとしないらしく、その場の感情に操られながら、行き当たりばったりでなにやら適当に考えを巡らせているらしいが、それでもさらに言葉を連ねようとしているらしく、無理だと思うならやめた方が良さそうだが、無理を承知でやるとなると、寿命を縮めることにでもなるのだろうか。それは結果からしかわからないことで、早死にしたら無理をしすぎたことにでもなるのかもしれないが、今はただ眠いだけで、この先どうなろうと知ったことではなく、なるがままになすがままに、何らかの精神作用が働いているだけのように思われ、そこでどのような機構が作動しているのか知らないが、そのシステムに目に見える効果を期待するのは欲張りすぎだろうか。目にも見えず意識もされない効果では効果とはいえないのかもしれないが、具体的にどんな効果があるというのだろう。それを言葉で説明できなければ、その効果は否定されてしまうのだろうか。どんな効果もわからないのに誰がそれを否定するというのか。しかしなぜそこから効果などという言葉が出てきてしまったのか。その辺がよくわからないのだが、たぶんそれをよくわかるように言葉で説明することは困難かもしれないが、ではそれについて何を改善すれば説明できるようになるのだろうか。それがわからないからそれほどまでに同じようなことを述べ続けているのではないか。やはりどんなに言葉を弄しても無駄なようで、それが何なのか一向に見えてこない。どうもはじめから何も期待していなかったのかもしれず、ただその場の気まぐれで何かを適当に述べてみただけなのかもしれない。その気もないのに何を期待していたのかよくわからないが、そこに繰り広げられたそれらの現象の中の何が効果なのかもわからず、要するにあやふやなことを述べているにすぎないのかもしれず、どのような効果によってそんな言説を展開しているわけでもなく、ただむやみやたらと雪だるま式に無駄な言葉が積み重なった結果としての文章でしかなく、今のところ結果として導かれたそれらの文章が何なのか言葉で説明することは無理のようで、とりあえずそんな状況に絡め取られながら言葉を繰り出しているらしく、今もそれらの文章は続いている最中なのだろうか。そんな風に述べている意図がわからないか。無駄に言葉を弄して何になるというのだろう。その先に何か光明でも見えてくるのだろうか。見えてこなければ絶望でもしてしまうわけか。だが絶望して何になるのか。何になるわけでもなくそんな結果が提示されているだけか。そしてその結果からさらに遠くまで語り続けられるとでも思っているわけか。それは大きな勘違いだろうか。では何を勘違いしていると思われるのだろう。それは遠くまでではなく、そこで足踏み状態でいることに気づかないということか。だがそうやって意味不明のままにとどまり続けることに何の意図や思惑があるわけでもなく、結果としてそんな風にしかなり得なかったのだから、それはそれで仕方のないことか。しかし以前もそんなことを述べていた気がするのだが、だからこそそれがそこで停滞している証であり、いつまでもそんなところにとどまり続け、そこから先へ一歩も前進できていないということだろうか。現状とはそんなつまらない状態なのだろうか。つまらなければどうするのか。どうもしなければつまらないままだろうか。だがどうにかしようとして、その結果としてどうにもならなかったのだとすれば、そこからさらにどうすればいいのか。やはりどうにもできなければ絶望するだけか。あるいはどうにかしようとして、さらに無駄な努力を繰り返すわけか。ではそれが無駄ではなかったと思いこめるにはさらにどれほどの努力が必要なのか。それは努力してみなければわからないことかもしれないが、仮に努力したとしても結局わからずじまいのままなのかもしれない。


5月1日

 別に酔っているわけではないようだが、夜になり雨が降っている。ところで彼はさっきまで何を思っていたのか。それらの文章の始まりはどこにあるのだろうか。彼の思いはそんなところにはないのか。しばらく前から何もやっていないことに気づき、何かをやろうとする意識に操られて、強引に昼間の続きを再開させようとするが、その先に何をどう続ければいいのかわからず、そんな言葉が何も思い浮かばない状況に耐えかねて、ごり押し気味に無理矢理言葉を繰り出してみるが、やはりひねり出されたそれは意味不明に思われ、結局何を語っているのかよくわからない状況から抜け出ることはできずに、彼はそこからもたらされるうんざりするような無内容に囲まれて何を思っているのだろうか。何を思っていようとそれはどうせいつもの幻想だろうが、幻想を抱くのは彼の勝手であり、君にはそれらの妄想を止めることなどできはしない。ただ黙って生きているように振る舞うことしかできないのか。別に息を潜めてどこかに隠れ住んでいるわけでもないだろう。この先世の中がどうなろうと、何を危機に感じることもないだろうし、実際に事態がそれほど悪化しているようには思えないのだが、他の誰かは今日も深刻そうな顔つきで慌ただしく動き回っているのだろうか。中にはそんな人もいるかもしれないが、人には分相応の役回りが割り当てられていて、それに沿って行動していれば、それなりに順調な人生を歩んでいけるのかもしれないが、そこから外れて高望みしたり低回趣味に走ったりすれば、とたんに周囲の人々との間に摩擦や軋轢が生じて、常識を重んじる意識の持ち主との衝突に明け暮れる日々が待っているらしく、そんな者は結果として疲れる生き方を貫いてゆかなければならなくなるのだろうか。だがそれがどうしたというのか。事情はどうあれ文章の出来が悪いとは思わないか。出来が悪かろうが良かろうが、どこまでもそれらのうんざりするような作業をやり抜くつもりなのか。そして愚かにもそうすることが本望だとでも思いこんでいるわけか。君にはそんなことをやり続けている者の意図がよくわからないのだが、それについて何を想像してみても憶測の域を出ないだろうから、それは無駄で無意味なことかもしれないが、それでもそれを眺め続けていれば、暇つぶしぐらいにはなるだろうか。だが何をどう考えてみても、そんなことを眺め続ける理由や根拠に乏しいことは否めず、そればかりでは文章の内容として魅力に欠け、話の内容としても無理があるだろう。ではそこで話をお終いにできるのか。お終いにしたいのにできないのは、それを話している誰かのせいではないのだろうか。だが君の意識の中では誰が何を話しているわけでもなく、話している内容すらどこにも見あたらないのに、そんな話があるはずがないとも思いこんでいるようで、そこでそれらの話に関する話は何度目かの振り出しに戻ってしまうのか。だがそのとき君が何を否定したいのか定かではない。話の存在を否定したいのなら、それに関する話などしなければいいのに、どうして内容もないのに意味不明に語ろうとするのか、その辺が他の誰かには理解しがたいところかもしれないが、それでも君は君で君なりに何か内容のあることを語っているつもりなのだろうか。だがそんなことを思っている誰かの精神はそこで何を読んでいるつもりなのか。そこで誰が何を語っているように思われるのか。君はそれについて何かわかりやすい見解でも持ち合わせているのだろうか。どうも自らが何を話しているのか把握できていないような気がするのだが、そんな気がしているのが誰なのかも把握できていないような気もしているようで、たぶんそれが君ではないような気がするのは誰かの思い違いか。誰かの意識そんな風にして出口の定かでない迷路に迷い込んでいるらしく、そんな状況を仮構しても別にうろたえているわけではないが、さっきから真相や真実のたぐいを話そうとしているわけではないことは確かなようだ。具体的に何を述べているわけでもなさそうで、そんな風に思っている主体が話の内にも外にも存在していないような気がしている。それはどういうことなのだろうか。どういうことでもなく、またどういうことでもあるのかもしれないが、それがどうしたというのか。話の途中からおかしな具合になりつつあるようで、それをまっとうな方向へ軌道修正することはもはや不可能なのか。たぶん語りすぎているのだろうし、同時に何も語っていないのだろうが、それで話は間に合っているのかもしれず、愚かなふりを装うためにはそれでかまわないのかもしれない。そこから遠くへゆきたいわけでもなく、その辺で落ち着きたいようなのだが、その程度では一件落着とも一段落ともつかないような気がして、さらに無内容を継続させようとするが、だんだんそのやり方が飽きられてきているように思われ、それ以降に言葉を連ねづらくなってきているように感じられて、そんな躊躇とともに眠気も催してきたようで、そろそろやめる潮時なのではないかと思いながらも、それが誰に向けられたメッセージなのかわかろうとせず、それについて何かしら警告が発せられる状況を招いているとも思えず、自らがそれを制御できるという思いこみにだまされながら、また底なし沼の深みに沈み込んでゆくような不快感を抱きながらも、おまえはすでに破滅している、という虚空から降ってきた言葉を真に受けようとはせずに、その先の状態を目指して無駄に前進し続けているつもりなのか。そして君にはそれが何のための前進なのかよくわからないか。他の誰かにはそれが前進とも後退とも受け取られず、ただそこにとどまり続けているとしか映らないような言葉の連なりを形成しているように思われるだけなのかもしれない。


4月30日

 心の中にある空虚に頼って何かを批評するとなれば、それはありふれた勘違いを誘発してしまうかもしれないが、どうもそれらのやり方が徐々に効果を発揮してきたように思われ、何かをやっているつもりの誰かは、少々当てが外れて困惑気味のようだが、ここで調子に乗って真実を語ってしまってはまずいような気がするので、とりあえずその場は嘘で取り繕って、それでも戯れに述べているような自らの言動を真に受けるわけにはいかないのだろうが、それはそれとして、そのような言動に対してそれなりに対応しなければならない状況にでもなっているわけか。しかし未だに何を述べているのかもわからない段階で、それ以上に何をどう述べてみても仕方がないように思われるのだが、またそんな他愛のないゲームに深入りする必要を感じないし、それ以外に誰かの身の上について、余計なことを詮索してみても何も始まらないような気がするので、そのことについては何も始まらないままにしておいた方が良さそうに思われ、実際どこの誰がそこから何を始めようとしているわけでもないらしく、ただそんな防御策もあったということでしかないのかもしれず、たまたまそれを別の意識が別の時空で利用しているにすぎないのだろう。そしてそれにはまって、そんな行為を繰り返せば繰り返すほど、そのシステムにおける効果の発揮具合が高まるというようなものなのだろうが、そんなわけで誰かが焦りながらもさらにそれらの行為を継続してくれれば、こちらは助かるというものか。要するに簡単に述べるなら、そのシステムは他力本願の防御策のようだ。いつまでたってもらちがあかないようなら、気休めにそんなやり方を試してみるのもいいのではないだろうか。一見消極的なやり方のようだが、それもそれで一つの方法なのだろう。どうも先はまだ長いらしいので、とりあえずここはそれで間を持たせていればいいような気がするのだが、そのやり方で良いか悪いかは、そのうち忘れた頃にでもはっきりするかもしれないが、それと同時に何もわざわざそんなことをはっきりさせる必要もないようにも思われるので、もしはっきりさせられなければ、はっきりさせられないままにその先へだらだらと行かせてもらうとしようか。かえってその方が気楽なように思われ、誰かの性に合っているのかもしれない。しかしそれは誰の独白なのだろうか。この期に及んで白々しいことを述べるべきではないか。だがそれ以外にどんなことを述べればいいのかわからないか。ただなるがままにまかせる一方で、またそれと同時に、なせると思われるようなことは、やらないよりはやった方がマシなのかもしれず、そんな思いこみに導かれながらも、その辺で適当に回り道を回っている最中のようだが、それで何を述べているのか理解できるわけもなく、別に何を理解しようとしているわけでもないのだが、ただそれらの言葉の連なりを読んでいるだけで、それらの言葉の連なりを読んで理解するのではなく、読んでさらに読み続けながら、そのついでに別の文章も読み続け、そんなことを繰り返すうちに、読むことは読むことによって読むことでしかなくなるだろうか。それで何を述べているわけでもないのだろうが、それは毎度おなじみの言葉遊びのたぐいになるだろうか。たぶんそれに対する返答や言動も突飛なものになるだろう。どうしてもそれらの行為に対して本気になれないようだが、それを利用しない手はないとも思われ、その中で何を利用するつもりなのか知らないが、そうやって周りから絶えず押し寄せてくるストレスをかわしながらも利用しつつ、それの副産物として出てくる言葉を、文章に再構築してそれらの画面上に紡ぎ出しているつもりなのか。それにしても誰かの意識はなんと浅はかなことを思っているのだろう。彼らは感情的に何が許せないのか。自分たちの目標を達成できないことがそんなに不愉快なのだろうか。しかしそれで誰の思いを想像しているわけでもないのだろう。そうやっていつまでたっても煮え切らない態度でいるらしく、もちろんわざとそんな風に振る舞っているのだろうが、それが何らかの嫌がらせとして作用することもあり得るのかもしれず、それらの何もかもというわけでもないのだろうが、それらの振る舞いや態度の何を許せばいいのかわからないことだけは確かなようだが、それで許容限度などを確かめているわけでもないらしく、やはり誰かはこれまでにやってきたことの応用が利かないらしく、それ以上はわからないが、またその想像力にも限界があるのかもしれないが、そういうこともあり得るのかもしれず、誰かはそれを確かめるためにそんな行為をいつまでもやり続けているのかもしれず、だからまだ彼らにはがんばってもらわなければならないのか。だがそれで誰かは何をがんばっているつもりなのか。どうもそれらの嫌がらせのことごとくが中途半端なような気がするのだが、それは君の思い違いだろうか。それにしても彼はいつまでたっても彼のままでいられるらしく、そのことについて否定も否認もしたくはないようだが、それが何の救いになっているのだろう。彼が彼でなくなるとき、いったい彼は何者になるというのか。現時点での彼が何者かもわからないのに、そんなことが君にわかるはずがないか。


4月29日

 それらの何がおかしいのだろう。言いたいことを言っているわけでもなく、思いたいことを思っているわけでもなく、自らの意に反したことを言い、思ってもみなかったことを思っている現実に気づいたとき、自らの意思の存在を疑いたくなるか。間違うことをおそれてはいけない。何となく笑いがこみ上げてきそうだが、何か勘違いをしていないか。何に惑わされているのか。それらの状況をどうしようというのでもなく、それについてどのように思っているわけでもない。ただ何だか笑ってしまいたくなる。その笑いが何だかわからないのだが、何でもなければそんなことを述べたりしないか。とりあえず話の中の君は何者でもなく、何者になろうとしているのでもない。ただ中身がないだけなのかもしれないが、それが何の中身なのかよくわからない。ここで述べていることはすべて嘘なのか。それがフィクションであるとすれば嘘なのだろう。ならばそれらの作り話の中で君は何を述べているのか。以前と同じようなことか。君は他者に対してゴキブリに対するように対応している。それはどのような対応なのだろうか。他者に何を言い聞かせようとしているのだろう。そこから先に進んではいけないのか。他者が何を求めているのかを知ろうとしていないようだ。それを知る機会がないのかもしれない。しかし知り得ないことまで知ろうとしているわけではないはずか。また知りたくもないことを知りたいわけでもない。何か矛盾していないか。何が矛盾していようとそんなことは知りたくもないか。だから知りたくもないことなどを知ろうとしてはならないのか。だからというわけでもないが、どうもそこから先へどんな言葉をつなげていったらいいのかわからなくなる。要するにそこでいつものように行き詰まってしまったわけか。だがたぶんそれも偽りの行き詰まりなのであって、本当に行き詰まって本気に迷い苦悩しているわけでもないのだろう。君にはそれの何が行き詰まりなのかわからない。君にとってそれらの心理状態は皆他人事のように感じられるのかもしれず、どんな困難も直接君に降りかかってきているわけではなく、誰かの気まぐれでもたらされたそれらの困難を、君はただそれを眺める立場にしかなりようがなく、その狂態とまではいかないが、それでも滑稽としか思えないような数々の行為を、ただ黙って眺め続けることしかできず、そこに割って入って関わる気にはなれないらしく、そんなことができるとも思っていないようだ。なぜそんな風になってしまうのか。あほくさいからだろうか。実際に何をやっているのか判然としない。他に何ができるのかわからない。そしてその場に呆然と立ちつくすのみか。そうやって意味不明なことを述べて、その場の窮地を切り抜けたつもりになり、さらに言葉を続けようとするらしい。誰かの意識としてはそれでもいいのか。わざとらしく君ではなく誰かに逃げたつもりのようだが、外を眺めてみれば風がないことに気づき、焦りながら風を呼び込もうとして、一心不乱に蘇生術を試みながら、その場の雰囲気が好転するように文章を構成しようとしている。どうも外に見える梢が止まって見えたのは、ほんの一瞬の間だったようで、今は微風によってほんのわずかだが揺れているように見えるが、それと君の心理状態との間にはいかなる相関関係があるというのだろう。梢が風に揺れればどうだというのか。時の流れを感じることができて自らの生存でも実感できたりするわけか。そんな理由ではさらにわけがわからなくなり、意味不明にいっそう拍車がかかってしまうだろうか。それではまったく窮地を切り抜けたことにはならないか。何となくそこには空白の時間が到来しているような気がするのだが、その雰囲気を誰が感じ取っているわけでもなく、ただそれを言葉で記述しようとすれば何もなくなってしまう。あたかも時が止まっているような感じになってしまうらしい。そこからどう述べたらいいのだろうか。もはやすべては済んで終わってしまったことになっているわけか。それ以降には何も到来しないのか。何を見いだそうと試みても、そのことごとくが裏切られてしまうのか。そんな状況をどんな気分で乗り切ればいいのかわからず、やはりただ漠然とした思いで虚無に包まれながら過ごしているらしく、時が止まっているように感じられる原因もその辺の事情にあるのかもしれない。何もしなくてもあくびぐらいは出てきてほしいか。それがどういう意味なのかわかりかねるが、とりあえず誰かの実体は寝て起きて、すでにいつもの日常へと戻っているらしく、それらの時間帯においては君のことなどすっかり忘れて、ただいつもの作業をいつものように行い、ただそうやりながら時間が経過するに任せているようで、それによって今日も昨日や明日と同じような心境でいられるらしい。たぶんそれが日常の日々を形成しているのだろう。そしてそれらの日々に浸りながら、そのとき何を忘れているかなんて思い出すはずもなく、ただそうやって何をやっているのでもないような言葉の連なりに不安を抱き、その不安がどこから生じているのかわかろうとしないのはもちろんのこと、それと同時にそんなことは先刻承知で分かり切っていることだとも思っている。要するに君がそんな心理状態でいることを求めているのだ。ただひたすら安心することを拒否し続け、せわしなく思いを巡らしながら、自らが何を思っているのかを確かめようとしている。


4月28日

 なぜ文章を読めないのだろうか。そんなことはないと心の内で反論しながら焦りながらも、また何かを見失っているような気がしてくる。何かが足に絡まっていて自由がきかない。それは夢の中の出来事だろうか。昼間の暑さで疲れているのか。何にうんざりしているの知らないが、それでも意識はだいぶ遠くまでやってきたようだ。その場所はどこなのだろうか。見知らぬ場所のどこにフィクションが潜んでいるわけか。そんな場所へ行ったこともないのに、その場所から何を語ろうとしているのか。それこそが恣意的にねつ造された虚構の文章に違いない。まだ目が覚めていないとき、君は今までに一度でも目を覚ましたことがあるのか。誰かが言わんとしていることの真意がわからないのだが、たとえば死人が目を覚ますわけがないと思うことの何が虚構なのだろう。では呼吸もできない君は誰に何を媚びているのか。そのときは他人に媚びへつらうような状況でもなかったはずだ。そこまで執拗に痛めつけられて、それでも自らの負けを認めたくないのだろうか。それは何のための猶予期間なのか。いったいそこで誰が誰に負けているというのか。それらのどうしようもない状況に意識は関与できないようだ。そしてそこから時間が経過するにつれ、言葉がさらに方々へ分散してしまうらしい。それらの散逸した言葉を誰かの意識の中に再結集させて、もう少しありふれた使い方で文章上に定着させなければ、やはり意味不明から抜け出ることは不可能か。その時点ではつながりを何も見いだせない。それらを使用している者たちはそんな風には思わないのか。誰がそこで何をやっているのかよくわからないが、意識して何を述べているのかわからないように述べているようだ。たぶんいつものように何を述べているのでもないのだろうが、他者に対する配慮を著しく欠きながら、君には他者が存在しないと思えるようで、そんな思いを利用することばかり心がけているらしい。それでも何を思っているわけでもないとしらを切るつもりなのか。もちろん他人こと以外に何を考えているわけでもなく、要するに競合する他者を出し抜こうと四六時中考えている。それ以外に何を思えばいいのだろうか。面倒なので本当は何を思いたくないところか。ではなぜそれらの文章を意味がわかるようにつなげようとしないのか。その機会はいつでも訪れているはずか。そんな風に逆境を逆境と思わず、いつでも前向きに物事を考えてゆかなければならないのか。そしてさらに遠くまで歩み出そうとしているらしい。さらなる飛躍の機会を求めているわけか。だがそれは君自身がどうなる機会ではなく、他の誰かに巡り会う機会でもないだろう。機会が訪れてみないことには何ともいえないが、今がそのときなのであり、それは単なる独白の時だと思われ、現に孤独を装いながら言葉を連ねつつ、なぜそれで機会を取り逃がしているのかわかろうとしないらしく、やはりそれとは別の意識はそんな風には思わないようだが、その辺で何か思い違いをしているのかもしれない。そこまで述べてもまだ何を述べているのでもないらしい。ただ何も述べられないから言葉が連なっているにすぎないのか。ではやはりそれでも何を述べているのだろう。そんな風に述べることがおもしろいとでも思っているわけか。つまらないことを述べているわけではないが、それについて何を思っているわけではなく、何をそんなに急いで結論を導き出す必要はなく、そんな思いでどれほど遠くまで来たとも思えず、遠くてそれらの文字がかすんで見えないわけでもなく、それが何のためにやっていることなのかもわからず、疲れて寝て起きて翌朝の風景を眺めながら、自らが何に導かれているわけでもないと思いながらも、それを知り得ない立場にあるような気がしてくる。意識はいつまでも現実の中にあり、そこから虚構をねつ造しようとして、無理な文章をひねり出すつもりらしいが、そんなことをやって何になるというのだろうか。ただ疲れるだけなのか、あるいは何か画期的なやり方でもひらめいて、そのやり方に基づいて今までに見たこともない光景を文章上に構成できるとでも思っているのだろうか。しかしそんな見え透いた魂胆には裏切られた方が、かえって謙虚な気持ちになれるのではないか。しかし謙虚になったからといって何がどうなるわけでもないだろう。たとえば何かの集まりで他愛のないことをしゃべりながら虚しさに浸っているとき、そこにそれらを取り巻いている社会の本質でも発見したとして、なぜそんなものが本質なのか疑念を抱かないわけがないか。自らが何をどうしたいかもわからず、ただひたすらに言葉を連ねるばかりでは、やはり何を述べているのでもないことになってしまうのではないか。だがそれで何を反省しているわけでもなく、そのようにしかできないことを確認しているにすぎないわけで、それとは違うことをやろうとしているわけでもないらしい。誰かはそこからしか言葉を紡ぎ出すことができないようで、いつまでもそんなことをやり続け、もはやそれは誰の意思とも無関係にそれが行われているような状況になりつつあるみたいだ。やはりそんなどうでもいいようなことを恣意的に止めようとするのはおかしいだろうか。でも中にはその止められない行為を止めようとする奇特な人々もいるらしく、そこに何らかの働きかけが行われる余地があるらしい。やはりそれを繰り返している人々に向かって、まったくご苦労なことだといわざるを得ないか。そんなことをやって何になるというのか。


4月27日

 またはじめからやり直しのようだ。見上げれば空は青く、雲を探そうとする意識はどこかの線路上を移動し続け、身体は目的地へと近づいている。それは昼間の記憶になるのだろうか。そしてそこに至るまでに経験した様々な出来事を省略して、やっと何もない夜に別の意識が目覚めたらしく、そうやって行き着いた場所で、なにやら意味のないことを語り始めるに及んでいるようだが、他に何をやろうとしているのでもなく、取り立てて何を説明しようとしているのでもないらしいが、それは何かの幻影なのだろうか。そんなことを思う以前にそれとは何なのか、それについてどのような思考を巡らせて、それをそれらの文章上に示そうとしているわけなのか。わかっていることには限りのない歪みが生じていて、知りすぎた意識はわかり得ないことなど無視して話を進めたいらしいが、歪みに限りがないように思えるのはどうしてなのか。ただ限りがないように思いこみたいだけか。そんなことは重要ではないのかもしれないが、最近は重要でないことばかり述べているような気がする。そしてそれがどういうことなのかさっぱりわからず、それでも何かを述べていることは確かなようで、その述べていることについて、意識には何か文句でもあるのかもしれず、そんな風に述べながらも絶えずそこから逸脱する機会をうかがっているらしく、そんな成り行きになるように何か方策を巡らせているのかもしれないが、今のところそれがどんな方策なのかはっきりとは定まっていないようだ。状況があまりにも漠然としていて、何をどうやっていいのかわからず、実際にはもう疲れてしまって、何もやる気がしないのか。さっきまであくびをしながら挫折しそうになっていたようだが、それ以上はあまり無理をしたくないらしく、少し継続を断念したくなっているようだが、それでも無意識が何かを語らせようとしているかのような虚構をねつ造したいのかもしれず、そんなのは嘘であることは明白なのだが、それでも嘘を承知でそんなことを述べている現状がある。だがそれでは結局何を述べているのかよくわからない内容を伴うしかなく、それが気にくわないらしく、盛んにそれとは別のことを語ろうと試みるのだが、そのことごとくがうまくいっていないようで、そんな風に挫折し続けながら、いつもと同じ内容を語っているらしいが、それでは不満なのだろうか。いったい何を語っているのだろうか。それは何かの冗談なのだろうか。冗談でないのなら何を述べればいいのだろう。何か述べられると思っているわけか。そんな風に述べてはいけないのかもしれず、しかし現時点ではそんな風にしか述べられないのかもしれない。それらの言葉はどこにも響かずに、空疎な内容として内部に穿たれた闇の空間にこもっているだけで、他の誰に理解されることもないが、それでもそれなりに何らかの心情を反映して形成されているのであり、そんな風にしか述べざるを得ない心情をどう受け取ればいいのかわからないのだが、それはそれとしてそういうものとして、ありのままに提示しなければならないのだろうか。だがはたしてそれがありのままの文章なのか疑念を抱きざるを得ないのかもしれないが、そう思われる理由が何なのか今ひとつわからない部分がある。ありのままであることとありのままではないことの間にどのような差異があるというのか。技巧を弄して何らかの演出が加えられれている部分があるとすれば、それはありのままではないということなのか。しかし演出が加わらなければ文章にはならず、演出のない文章などあり得ないのであり、要するにありのままの文章という概念自体が、誰かの願望が反映された虚構でしかないのではないか。ではそのときの心情をありのまま文章にすることは不可能なのか。というか文章にすること自体が演出そのものであり、ある意味で心情を文章によって美化している部分があるのかもしれず、場合によってはそれを読む者を感動させたいという意図が混ざっていることもあるだろう。その最たるものが詩歌や俳句のたぐいか。しかし心情とは何なのか。そのときの心情そのものが文章から構成されている虚構なのではないか。文章を書くことで心情と呼ばれる概念が形成されている場合もあるだろう。そして書かれた文章から読み取れる心情は、それを書いた者の心情というよりは、それを読んだ者が文章からくみ取った心情に近いのかもしれず、書いた者が抱いている心情と読んだ者がくみ取った心情にはずれが生じているかもしれない。しかしそのずれを認識する客観的な立場というものはあり得ず、それを書くか読むか、そして書いた文章を自ら読むか、それぞれの場合によって抱く心情は不妙に異なるのかもしれず、やはりその場合心情というものは、それを含んでいると思われる文章から生まれているのであり、たとえ巧妙な演出によって美化されていようと、また素朴な言語表現によって簡潔に示されていようと、それがその文章から生じたそのときの心情なのだろう。そして文章からそんな心情を読み取った者たちは、その文章を書いた者が文章が生じる以前に抱いた心情を、そのまま文章で示したと思いこんでいるのであり、それによって人には心情を抱くという精神作用があるように思われるのだろうか。


4月26日

 さっきまで述べようとしたことが思い出せない。何を語り始めようとしていたのか。誰かは何を導き出そうとしていたのだろう。それは言葉以外の何なのだろうか。状況的には何かを見ている最中なのかもしれない。実際には画面上に示された文字列を眺めている。たぶん何を考えていたのでもなかったのかもしれない。それを忘れているのと考えていなかったのではどう違うのか。考えていたことは他でもなく、他でないわけでもない。君とって何かを考える上での障害となっているものは何なのか。考える前にそれとは無関係な言葉が文字によって示されてしまうことか。それが心的な外傷でも生じさせているわけか。内面に外傷が穿たれるわけがないか。生身の体のどこかが悪いのだろうか。君はなぜそんなところに住んでいて無傷でいられるのか。では何が君の心身を傷つけているというのだろう。それは周りの環境からもたらされる様々なストレスだろうか。何をそんなに心配しているのか。そんな状態でまだ生きられると思っているわけか。生きられなければどうだというのか。ただその場の成り行きに従って生き続けたり死んでしまったりするだけだろう。それの何が不都合を形成しているのか。眠気に逆らうわけにはいかない。なぜ眠くなってしまうのか。まだ生きられることを信じ切っていて、そんな思いこみで安心を得ているからか。何が心安らかでいられるのか。何も述べられないことについてはどう思っているのか。そうではないと思っているらしく、絶えずひっきりなしに述べているとも思っているようだが、その述べている内容を捨て去ろうとも思っているらしい。では今すぐにでも捨て去ることができるだろうか。何を捨て去ろうとしているのか。それは空虚か何かか。何を空虚だと思っているのか。それが述べている内容であるはずがないか。述べている内容などどこにもありはしない。どこにもありはしないが、それが述べている内容だとしたら、はたしてそれを捨て去るべきなのか。空疎な言葉の無限循環を体験しつつあり、そのただ中で誰かが何かを述べているはずか。そんな風には思わないだろうか。誰かが生きられる余地はそんな場所にあるわけか。それはどんな場所なのだろう。はたしてそこに場所が存在しているのか。存在していなければどうするのか。どうもしないのかもしれず、誰かはもとからそんなものの存在など信じていないのかもしれない。いったいさっきまで何の存在を語っていたのか。その場所には空虚が寄り集まっていて、何もない状況を出現させようとしている。だから何も存在し得ないわけか。それではあまりにも話が安易すぎるか。ならばどんな内容にすれば納得してくれるだろうか。どのような言葉を連ねれば何もないことを説明できるのだろう。今まで何を説明してきたつもりなのか。夜の闇について考えていたわけでもあるまい。そうやってまったく関係のないことを述べてしまうことにどんな意味があるのか。意味など何も考慮されていないのかもしれず、ただなぜそんな風に語るのかわからないだけなのかもしれない。君は語るべき言葉を有していないのか。何も語ろうとしていないのに、勝手に意味不明な文章が連なっているわけか。それは文章とはいえない代物かもしれず、それについてどう思ってみても、どのような考えを巡らせてみても、納得のいく説明には行き着かないだろう。それはただの文章なのだ。ただの文章をどう読んでみても、それはただの文章以外にはならないだろう。たとえばそれはどのようなジレンマを生じさせているのか。そこにどんなたとえが潜んでいるのか。別に比喩について述べているのではないはずか。ならば何かの時間稼ぎのつもりなのか。何をわかろうとしているのでもなく、わからないことを悟っているだけか。それが何なのかわかりたいとは思わないのか。嘘だと思うならどうしろというのか。どうもしないで文章を読んでみれば何もわからないことに気づくだけか。それで気づいていることになるのだろうか。気づいているとすればどうしたというのか。それが勘違いだといいたいわけか。そんなことをいわせておけば、それでそれらの文章から遠ざかることができるだろうか。なぜ遠ざかりたいのかわからないか。たぶん理由など何もないのだろう。理由がなければ何か不都合だと思われるだろうか。思ったとしても何が変わるわけでもなさそうにも思われるかもしれない。そんなことを思いたければいくらでも思えばいいだろう。そう思っていればそれで何となくいいような気もしてくる。何がいいのかわからないのだが、それでもかまわずそのままの心境でいたいらしい。それがどんな心境なのか説明できないが、とりあえずそんな風に語っていればそれらの継続が可能となるらしく、それについてどう思ってみても、それはそういうこと以外ではないようだ。言葉を連ねつつある誰かにはどうすることもできはしない。いったんそうなり始めたら誰にも止めようがないわけか。だいいち何を止めようとしているのかわからないだろう。それは何かの雰囲気なのだろうか。白々しく間違ったことを述べているらしいが、そんなわざとらしい間違いにも何かしら雰囲気が漂っている。その雰囲気が醸し出す意味不明な文章が君をとらえているわけか。文章が醸し出されているわけではなく、雰囲気が醸し出されているのではないか。だからわざと間違ったことを述べているわけか。確かにそんな風に思えばそれでもいいような気がしてくるが、はたしてそれでいいのだろうか。


4月25日

 何を反省しているのか。躓きの原因を探ろうとしているようだが、今のところそれがわからずに、体勢をどう立て直していいのかわからず、少なくとも現時点では確実に修正すべき箇所は何も見つからず、気に入らないが消極的な現状維持を続けていく以外にやりようがないようだ。そんなわけでどんなわけでもないが、なぜかまた話の途中から意味のないことを語り始めているようだが、何がそれらの疑念を生じさせているのだろうか。何でもないので何がでもないだろうが、さっきから思い始めている疑念とは何のか。たとえば君が日頃から提示している作り話の中では、話し手が不在であるのに進行中の対話の中で、何と何の間でどのようなかけひきが進行中なのか。何が何であるかもわからないのに、それが何のかけひきなのかわかりかねるが、はたしてそれは誰と誰の対話として話の中に設定されれば、まともな対話として話を成り立たせることができるのだろう。そんな基本的なことさえはっきりしているとは言い難いが、その中ではどうも相手に対してこちらが感情的になっているように思われてしまうと、向こうの思うつぼになっているように思われ、逆に話にのめり込まずに、至って冷静に振る舞っているように思われると、今度はそれが気に入らなくて、向こうの意識は激昂してしまうらしく、それが対話にすれ違いを生じさせ、さらなる平行線と互いに対する不寛容を招いているように思われる。そんなわけでまた話し合いは不調に終わり、対話の継続が不可能になりつつあるようだが、君はそんな風になる前に何か述べておきたかったことでもあるのか。今となっては次第に手遅れになりつつあるようだが、未だ経験し続けているそれらの退屈な日々がもたらすありふれた思いの中に、君の意識が反応するに値するどんな意味が宿っているのだろうか。本当に意味など何もないとすると、すべてを語り尽くしたつもりになって、もう何も語ることなどありはしないとでも思っているわけか。そして架空の対話相手はそんな君の思い上がりに逆らって、まだ対話を再開させる余地は残されていて、それを試みようとする自らの意識が、まだ完全には空虚で満たされているとは思いたくないようだが、ではなぜそんな風になってしまったのか、その理由を知ろうとしているわけでもなく、それについて何か心当たりがあるわけでもなく、またそれ以外にどんな思いを抱いているわけでもなく、それでも何もないのに何をねつ造しようとしているのかわからないが、わかるわけもないことを言葉で示すことは不可能なのかもしれず、その辺で自分自身が心の中で思い描いている虚構の内容をぜひ知りたいところだが、それらの現実にはあり得ないようなフィクションの中では、どんな偽りの気分が醸し出されているのだろうか。そしてなぜそれに対して君は、そうやってあることないこと組み合わせて、いい加減に話を込み入らせようとするのか。そんな風にして内部からあふれ出てきたわけのわからない言葉を、どうやって文章にまとめ上げればいいのだろうか。その一方で誰かは、そんな現象を無視しつつかわしながら、話の中で話者が自らのやっていることを自己言及的に述べているだけではつまらないと思っているわけだが、それ以外に何ができるというのだろう。とりあえずありふれた言葉から遠ざかりつつ、何か目新しい別の言葉を見いだそうとしているらしいが、現状では何もないように思われ、実際に何が見いだされたわけでもなく、そんなことを繰り返しているうちに、何を語りたいのかわからなくなってきたらしく、架空の意識にはその辺が限界のようだが、現実の文章にはどんな言葉が含まれているのだろうか。それは見たとおり読んだとおりのものでしかないだろうが、そこにうごめいている意識は、いつものように言葉を繰り出す以外には何もやる気がしないらしく、それらの虚構の中で誰が何を語っているわけでもないようだが、そんな中身のない文章の中には何があるのか、それを知りたいわけでもないようで、ただ同じような無内容が繰り返し循環しているだけのように思われて、そういえば確か以前にも同じようなことを述べていた記憶があるのだが、過去の時空で誰かが述べていたつもりの内容とはどのようなものだったのか。内容など何もありはしないとするなら、記憶とは何だろう。たとえそれが架空であろうと空疎であろうと、記憶は記憶でしかないか。では何がそれらの記憶を構成しているのか。別にそんなことを問いたいわけでもないのに、なぜそうやって思いもしないことが述べられてしまうのか。別に答えになっていない答えを求めているわけではないし、探し出そうとしているわけでもないものを探し出せなくてもかまわないが、またそれで何がどうということはないだろうが、なぜそんなあり得ない事態に遭遇しているようなふりを繰り返すのか。結果的にそうなってしまうのだから仕方がないか。しかしそれでもわざとわけのわからないことを述べているような気がするのだが、誰がそれを楽しんでいるとも思えないが、たぶんそれでいいわけはないのだろうが、そんな事態になってしまったことについて、それがあらかじめ想定済みだったというわけでもないが、別の意識には何となくこうなることが事前にわかっていたような気がする。しかしそれと列車の脱線事故は無関係だろう。


4月24日

 空白の時に何がもたらされているわけでもなく、何もやっていなかったのはほんの一瞬の間だったかもしれず、今は何かをやっているようだ。しかしそれをやっていること自体はどうでもいいことか。それが何かの試練でないとしたら、それは何のための訓練なのか。それを行うに当たって誰の助けを借りているわけでもない、と思っているのは思い上がりだろうか。精神がどうしたというのか。それが思うつぼだと思っているのだろうか。何を述べているのかよくわからなくなる。そのすべてがいつもの成り行きをなぞっているのか。それは自然の成り行きというものか。嫉妬に駆られて嫌がらせをしているわけではないと思いたい。その程度のことなら失望してしまうか。もっと複雑で込み入った原因が提示されるのを期待しているわけか。だがそれは考えすぎというもので、案外どうということはない単純な理由に基づいてそれらの行為を継続しているのかもしれず、あまりよけいな想像力を働かせてうがった見方や考え方に見合った理由を導き出そうとしても、骨折り損のくたびれもうけになってしまうかもしれない。しかしなぜそんな見え透いた言葉を安易に使いたがるののだろうか。それでは思っていることをそのまま文章にしているわけではないことがバレバレになってしまうのではないか。もちろん何を語っているわけでもないのだからそれでもかまわないのかもしれないが、そこからさらなる紆余曲折を経ながら話を長引かせることができるだろうか。なぜそんなことをやろうとしているかは分かり切っていることで、その分かり切っていること以外に理由らしい理由はどこにも見つかりそうもないが、誰かが他の誰にも出会わない理由もそんなところにあるのかもしれず、そんなわけでその分かり切った理由を明かすわけにはいかないようだ。たぶんそんな理由を求めているわけではないのだろう。文章上では誰が何を求めているわけでもなく、それらの文章を読んでいる者たちに何かを求める資格などありはしない。腐った社会には腐った心がよく似合うのだろうか。似合っているのではなくそうしないと順応できないのかもしれない。あるいは似合っているように見せかけているだけで、本気で順応する気はないのかもしれない。本気になれない原因はどこにあるのだろうか。君は心の腐った人々が嫌いなのか。そんな人々も日々を必死に生きているのではないか。君はその必死さが気にくわないのだろうか。要するに馬鹿にしたいわけか。だが他人を馬鹿にできる立場ではないだろう。そんな立場になれるものなど誰もいはしないか。欲望に踊らされてわけのわからないことをやっている人々がすべてではないと思いたいが、それらを煽り立てるシステムに同調しない者は攻撃の対象となるようだ。誰もが一緒に馬鹿踊りをやっていないと気が済まない者たちが、権力を行使する立場にあるらしい。それはどのような暴力と結びついているのだろう。みすぼらしいファシズムを世の中の隅々にまで行き渡らせるために、日々迷惑行為と嫌がらせを繰り返しているわけか。それらの即物的な欲望にとらわれた悲惨きわまりない人々は、自らの感情の醜い面を強調しつつ、それを用いながら勝ち誇ったような行為を見せびらかそうと必死のようだが、たぶんその辺が勘違いのもととなっているのかもしれない。要するに愚かな人々にしか相手にされていないのであり、それらの人々が醸し出している愚かさが世の中のすべてだと勘違いしているのかもしれず、たとえばそんな勘違いを真に受けた愚かな少年が、なにやら無差別殺人願望を募らせて、最近突飛な行動に出たこともあったようだが、マスメディアが騒ぎ立てるほどそれがどうしたわけでもないように思われ、それはそれらの社会が繰り出した冗談の一種なのではないかとさえ感じられてしまうのは、今や世の中が悲惨さを通り越して、呆れとあきらめの境地に達しようとしている証拠かもしれない。そんな愚かな人々のやりたい放題を許している原因はどこにあるのだろうか。いったいそれを何のせいにしたら気が済むのだろう。そこには何か複合的に入り組んだ成り行きがあって、そんな成り行きでそれらの行為が日常茶飯事の出来事として報道されているわけか。君はそれがすべてではないと思いつつも、現実に直面している様々な作用に対して何ができると思っているのか。できることはいくらでもあるだろうし、現にそれをやっている最中なのではないか。そして日々それを実行しつつ、いつか状況が変化することを期待しているわけか。もちろん楽観的に考えているわけではなく、たぶんそれらの大半は無駄だと思われてしまうのだろうが、たとえ無駄であったとしても、やらないよりはやった方が気が楽になるのではないだろうか。そうやって無駄で無意味な行為をやり続けていく過程で、何か適当なことに気づいたら幸いに思っているのかもしれず、その適当に気づいたことに基づいて、やっている行為を徐々に修正していけば、以前とは違う感覚を体験できるかもしれないし、少なくとも同じことの繰り返しから脱却して、少しは以前とは違う言葉の組み合わせを思いつくかもしれない。そうやりながらそれらの行為を今後も継続させていくつもりなのだろうか。


4月23日

 誰かを傷つけないために当たり障りのないことを述べようとすると、結局意味不明になってしまうらしいが、そのことがどんな過ちを誘発しているというのか。あれらの人々は何だか意味のないことをやっているみたいだが、それについて何をどう思ってみても仕方がないのだろうか。現状を改善しようとする試みは幻想しか生み出さず、それらの幻想をどこまで追求しても、所詮幻想は幻想以外の何ものも生み出さないようで、そこに真実が差し挟まれることはあり得ないのだろうか。風が次第に強くなってきたようで、それはまた天候が急変する前触れなのかもしれず、時折そんなどうでもいいことを思いつつ、昼の時間が短く過ぎ去ろうとしている。足早に流れ去る雲を目で追いながら意識は何を思っているのだろう。心の奥底に住まう虚無は、みすぼらしい感情に流されて生成されるどのような要求も突っぱねて、それを継続すること以外は何も聞き入れてくれない。もとから願いなど何もなかったのではないか。そこにどんな陰謀が渦巻いているわけでもなく、仮想空間上に生息しているつもりの意識たちは、きわめて単純化された動作しか選択できないようだ。ただ機械的に今までやってきたことをやり続けることしかできない。それらの機械に対して何を憤ればいいのか。どんなに罵声を浴びせてみても虚無の精神は何も反応しないらしい。君たちは何に絶望しているのか。なぜ絶望のただ中に向かって必死に言葉を投げかけようとしないのか。君たちには友情というものが欠けているのだろうか。だがはたして君たちそれぞれに独自の人格が宿っているのか。もしかしたら君たちは君たちではなく、君一人で君たちを演じているにすぎないのではないか。君の心には音が消えている。では音の代わりに聞こえてくるのは何なのか。文字が聞こえることがあるだろうか。そんなわけのわかない嘘はフィクション以外では通用しないか。ならばどうすればいいのだろう。君と誰かでは生活している環境が違いすぎるのかもしれない。君にとっては重大なことでも、誰かにとっては些細なこととしか感じないのだとしたら、君が懸命に行っている必死の努力も、どんなにやり続けてもまったく報われるには至らないのではないか。そしてそれが君にはわかっていないようだ。だから君がそれらの無意味な努力を続ければ続けるほど、ただ滑稽な結果をもたらすだけなのかもしれない。それが今ある現状そのものなのか。そんな風に思えば少しは気休めになるだろうか。しかし思っている現状と実際の現状は違うのではないか。だが実際にどうなっているのかなんて知るよしもないのではないか。要するにそれが勘違いであるかどうかわからないが、やはりそんな風に思っていることしかできないということか。たとえそう思っていても何がどうなるわけもないようだが、そう思うことによって何らかの精神状態に至っていることは確からしく、それがそれらの文章に何らかの結論をもたらすかもしれず、その結論こそが滑稽な結果そのものであり、その結果が今ある現状を物語っているのではないか。しかしそんな風に述べて何を循環させているのか。要するにフィクションとはそういうものなのか。具体的には何を述べることもなく今ある現状を語っているような雰囲気だけが醸し出されているように思われ、その実態はただ空疎な言葉が循環しているだけで、やはり何を物語っているわけでもない現状が言葉によって示されているような気がする。そしてそんな堂々巡りを繰り返しながら、螺旋状に現実の時空を突き進んでいるのかもしれない。要するに誰かの意識には現状がそんな風に思われるわけか。そしてそれによって何かを述べているつもりになれるというわけか。実際に何かしら述べていることは確かなようだが、やはり後からそれを読み返してみれば、言葉が連なっているが何を述べているわけでもないことがわかるだろうか。それはいつもながらの自己言及の罠にはまっている証拠だろう。ではそこからどんな風に言葉をつなげられるのか。もはや現実の時間的には翌朝になっているらしく、わずかに揺れる梢を遠くから眺めながら、唐突にそれまでとは違うことを述べようとしているらしく、意識はまだそんな差し障りのない文章表現を目指しているように思われ、実際に被っている作用を避けて平静を取り戻そうとしているのかもしれず、それが強がりややせ我慢などで表現される感情だということは分かり切っているのだが、それ以外に何をどう感じればいいのかわからず、そんな素直な感情の吐露を押さえ切れていないようで、フィクションから離れた本心では情けなく思っているのだろうか。その辺が現実と虚構が入り交じっているようで、何を思っているのかよくわからないのだが、たぶんそんな風に言葉を記しながら次第に平静を取り戻しつつあるつもりなのだろうが、それについてそれが本当の精神状態なのかどうか、誰かには確かめる術がないのかもしれず、そんなわけでそれらの者たちはやはり必死になって嫌がらせでも仕掛けてきているのだろうが、はたしてそれらの嫌がらせが有効に機能しているのだろうか。それについて君たちの実感はどうなのか。それを知るよしもない立場の者としては、それらの嫌がらせをどう受け取っていいのかわからず、ただ困惑するばかりのようだ。そしてそれが現時点での素直な思いなのかもしれない。


4月22日

 誰かが死に誰かが生きている。君はその場の雰囲気に操られている。空気が君を操って意味のない行動に駆り立てている。意識は何を守っているのか。君に自らが守ろうとしているのものがわかるのか。高い場所から低い場所へと水は流れ、よどんだ空気は洞窟の中にたまっている。晴れた空へ向かって暇つぶしの叫び声がこだまする。守りたいものはそこにはなく、他のどこにあるわけでもない。君は無意識のうちに何を守ろうとしているのか。それは無意識ではなく意識して守っているのであり、今もそれを続けようとしているのではないか。現にそこで何かを続けているはずだ。そこから抜け出ることなどできはしない。抜け出ようとは思わないのではないか。そうやっていつまでも虚しいことをやり続け、やがて年老いて死んでゆくのだろう。今は死ななくてもいつかは死ぬだろう。それが君の望みなのか。君の望みではなく君を陥れようとする誰かの望みなのではないか。遠い夕日は近い朝日に酷似しようとしている。しかし誰かが君の何をまねようとしているのかわからない。そんな風に語っても誰かの思考は文章の意味をつかみ損ねている。しかしそれが思考のすべてではなく、その一部では何か得体の知れぬ忘却作用からそれをつかんだつもりになっている。肝心なことを忘れることでどうでもいいことを思い出すわけだ。そしてそのどうでもいいことが肝心なことだと思えてくる。だから続けていかなくてはならなくなる。どうでもいいことについてどうでもいいことを思い、機会を見つけてはそれについて語りたくなってくるわけか。しかしそんなつまらない行為でもそれをやるときは緊張して手が震え、そこにかかってくる意味不明な重圧に押しつぶされそうになるらしい。誰かその場から逃げ出したくなる衝動に駆られ続け、必死に何かに耐えている風を装っているつもりで、それが本気であることを苦し紛れの愛想笑いでごまかそうとする。引きつった顔で何をごまかせるわけもないだろう。たぶんそんな状況こそがフィクションなのだろう。どこかのドラマの中にそんな人物が登場するわけか。君はそれを見ながら何を思うのか。気晴らしの感動を味わい、意識は無味乾燥しているが荒廃しているとは思っていない日常の暮らしから一時的に離れ、何かを疑似体験しているつもりになれるわけか。しかしそれでどうしたというのだろう。寝て起きて目が覚めてみれば、またいつもの日常が続いている現実に気づき、あくびとともに軽い絶望感にでもさいなまれるわけか。それは絶望感と呼べるほどの深刻なものではなく、単なる倦怠感でしかないか。しかし世の中には軽い倦怠感から自殺してしまう人もいるらしいが、その場合自殺自体が当人にとっては絶望的なものでも深刻なものでもなく、ただのちょっとした出来心で軽はずみにやってしまった行為でしかないのではないか。もしかしたら多くの人がそんな気分で簡単に自殺し続けているのかもしれない。そして自分だけでなく他人をあやめる行為も、そんな気分とにたようなたぐいでやってしまうものなのかもしれない。今はちょっとした出来心で気まぐれと気休めで気軽に人を殺してしまうような世の中なのか。ならばそれほど状況が深刻だとはとうてい思えないか。それらはあまりにもありふれていて日常茶飯事であり、自殺も人殺しももはやことの深刻さや重大さを体現できなくなってしまったのではないか。要するにそんなことでさえどうでもいいことになってしまったのだろう。その程度のことなど馬鹿らしいとさえ思えないような世の中になりつつあるのかもしれない。とりあえず君はそんな状況の到来に満足しているのか。本当はそんな風に語ろうとしているわけではないが、内容がフィクションなのだから何の問題もないか。言葉尻を捉えて何を言い返そうとしているのか。それはどんな嘘なのだろう。現状を無視して、今さらどこへ逃げようというのか。それでもまだ君は生き残りたいのか。はたしてそれで生きていることになるのだろうか。死ぬにはまだ早すぎる年頃か。虚構の中で何が演じられているのか。そこで誰が死にそうになっているわけでもないが、ただ以前そんな話を聞いたことがあるだけか。それはつまらない内容だったかもしれないが、なぜか惹かれる部分もあったかもしれない。意識がどこにあるのか知らないが、そこには何の比喩でもありはしないか。ただ道はどこにでもあるものだ。その道を辿ってゆけばどこに通じているのだろうか。またもし分岐点にたどり着いたら、分かれ道のどちらを選んでゆけばいいのか。道の上を歩んでいくのがつまらないのなら、そこから外れて荒野にたどり着けるだろうか。意識は道に関して何を思っているわけでもないが、ただそこに道があることを否定できず、意識からはみ出たとりとめのない空想は、道の先に何らかの終着点があることを求めているようで、その場所において精神がどのような状態であることが望ましいのか、それについて何をどう思えばいいのかわからずにいるらしいが、そんな迷いから抜け出るには何をどうすればいいのだろう。迷いから抜け出れば到達し得る静かな日々とはいかなるものか。季節の中で流れ去る感覚を押しとどめることはできないが、その場所でその時間帯において何を感じ取っているのか、それを言葉で表そうとしている。そこに立ち現れているそれらの意味とは何だろう。


4月21日

 意識の中で誰かの気配が滅却されているようだ。たぶんそんなのは嘘だろうが、君がそれ以降に何を述べようとしているのかわからない。ではその代わりに闇の向こう側から何が聞こえてくるのだろうか。それが何の代わりであるわけでもないだろう。そんな思いとは裏腹に君は何と戦っているつもりなのか。何が裏腹なのか意味不明か。そこで誰が何をやっているのかわからないが、なぜ得体の知れない誰かは、この期に及んで時間稼ぎをしているのだろう。だがそれらの何が時間稼ぎだと思われるのか。そもそもそれらとは何なのか。それらに関して何か気の利いたことを思いつくには、まだしばらく時間を要するのだろうか。しかし時間がないのに時間稼ぎをやってどうするのだろう。そしてなぜ唐突に時間稼ぎの話になってしまったのか。だがそれらの何が時間稼ぎの話なのだろう。まだ誰がどんな時間稼ぎをやっているのか何も述べていないではないか。肝心の話の内容を何も述べないで、何が時間稼ぎだといえるのか。どうもさっきから話がかみ合っていないようだが、誰と誰が話をしているわけでもなく、わざとそんなことを述べているだけで、何となくそれは違うような気がするのだが、何が違うのかよくわからない。たぶんそんなやり方でうまくいくはずがないだろうが、はじめから何を語ろうとしているわけでもないのだから、うまくいくもいかないもどうでもいいように思われ、現実にそんな心理状態であったとしても、誰の腹も痛くもかゆくもないのだろうから、今はそんな無内容の話でもかまわないのだろうか。誰がかまわないのか知らないが、面倒くさいからそんなことまで考えるつもりはないようで、それ以上いくら無駄に言葉を弄して時間稼ぎをしようと、何か気の利いた話の内容などを思いつくわけもないだろう。本当にそう思っているのだとすれば、要するに先ほどのそれらとは無駄に言葉を弄することなのか。では言葉を無駄に弄して至ったそこでの暫定的な結論とは、そんなことをいくらやっても無意味だということなのか。しかし無駄であっても無意味であってもかまわないだろう。無駄で無意味だから勝手気ままに意味不明なことを述べることが可能なのではないか。そうやって文章の中でいい加減に振る舞っているように装いながらも、そんな目くらましによって表現の自由を実感しているつもりになれるのか。しかしそんな自由は中身が何もない虚しいだけの自由になってしまうのではないか。しかし中身のないことこそが自由であることの証なのではないか。確かに具体的な事象にとらわれずに文章を構成することが、そこでの言葉の自由を保証しているのかもしれないが、そこでの自由と引き替えにして、空虚な無意識に従属しているだけの君の意識は、ただひたすら何を念じているのだろうか。力を求めるのは虚しいことか。何が力なのかわからない。自分が無力だと思うことがどんな力を発揮するのだろう。そしてそんなまやかしの力を用いてどうなりたいのか。世の中がどうなってほしいのか。どうにもならないから念じているだけなのか。そんなわけでどうにもなりそうにないから、今日も誰かは負け惜しみ気味に何か適当でいい加減なことをごちゃごちゃ述べようとしているらしいが。すでにだいぶ無駄で無意味なことを延々と述べてきたのではないか。それではまだ物足りないわけか。たぶんそんなことはないだろうが、誰かは今日は何もないので退屈をもてあましているようで、さらに誰でもない誰かは偽りの退屈を言葉に変形しながら、理性から遠く離れてつまらぬ感情を増長させて、それを爆発させることで何かとんでもない出来事をもたらそうとしているわけか。それはどんな誇大妄想から導き出された現象なのだろう。そんな現象が現実にあるはずもないか。それは現象ではなく虚構なのではないか。そんなことは分かり切ったことかもしれないが、その先に何を述べていいのかわからない。わからないから今日は何も思わないのかもしれないが、ところで昨日は何を思っていたのか。昨日のことなど思い出すまでもなく、別に誰がどんなことを思っているわけでもないだろうが、それとは別の誰かは何かしら思っているらしく、またそんな風にわけのわからないことを述べつつ、いつもながら前置きが長すぎるようで、最近の内容はそれしかないような気がするのだが、他に何もないのだからそれはそれで当然の結果かもしれないが、何もないのに何か述べることが日常化してしまっている現状に慣れてしまって、それが普通の状態に思えるの誰かの言動には笑ってしまうだろうか。しかしいくら笑っても現状がどうなるわけでもなく、そこから先にどんな展開に持って行くこともできないのだろうか。そうではないだろう。そうではないと思いたいだけか。だがそんなことを思ってどうするのか。どうするわけでもないが、ただひたすらそうではないと思いたいようだ。では他に思うことは何もないのか。何もないのではなく、そんな風にして何もないことを否定したいらしい。なぜそうやってつまらない冗談でその場を切り抜けようとするのだろう。別に切り抜けられるとは思っていないが、切り抜けられないなりに、その状態を維持しながら、それで何かを続けているようなつもりになりたいらしいが、それは虚しいことだろうか。


4月20日

 そんな話がどこにあるのだろう。どこの誰がそんなことを述べているわけでもないのか。ただ君以外の誰がそんなことを知りたいわけでもないようだが、君は自身が何をやりたいのかよくわかっていないらしい。そしてその時点で自分が何を思っているのでも何を述べているのでもない現状に戸惑い、結局何もできずに寝てしまう。そして夢の中でその戸惑いを無視している風を装いながら、そんなことができるわけがないと誰かの文章は述べているようだが、しかし気まぐれと気休めに構成されたそれらの文章の中で、その登場人物の君はそこで何を探しているのだろうか。忘れかけていた過去の思い出か何かか。そんなありふれたものではなく、そんな紋切り型の文章表現に逆らうような何かを探しているつもりなのか。だから文章を記しつつある誰かは、そんなものなどどこにもありはしないと主張したいようだが、ではこれからそれを文章の中に書き込めばいいと君は思っているのだろうか。君ではなく誰かの戸惑いはそんなところから生じるのかもしれないが、端から見ればそこに戸惑いの原因など何もありはしないか。外部の観察者には何を戸惑っているのかわからないか。唐突に出現した観察者は何を眺めているのだろうか。どこの誰が君のペースに巻き込まれているのだろう。そんな君は現実の世界にどのような影響を及ぼしているのだろうか。だがこの世界には君を実体として存在させておくだけの余地がないのかもしれない。それはどんな余地なのだろう。君はそんな現状にどんな感慨を抱いているのか。何を気にしているのだろう。さっきから気になって仕方がないのは誰の意識なのか。それがなぜ君ではあり得ないのだろうか。そこで誰かは何を把握しているのでもなさそうだ。ではその先へどのように語れば君が存在し得るのだろうか。君を存在させるためには何が必要で何が欠けているのか。しかしまだそれについて具体的なことは何も述べていないのではないか。それは当初に抱いていた展望からすれば想定外の事態なのだろうか。君にとってはそのような話の内容の何が想定外だったのか。そしてその想定外の話の内容の何に驚いているのか。ただそうやって誰かはまたいつもの嘘を語っているわけなのか。嘘ではないというのなら、事前に想定していたのはどのような成り行きだったのか。そして想定していた成り行きと現実との間でどのような差異が確認されたのだろう。しかしはたしてその程度のことに驚いていていいのだろうか。何もかも想定の範囲内だと強弁するつもりはないが、別に君以外の誰が驚いているわけでもなく、そんなことに関心があるのは誰なのか、まったく見当がつかない状況の何に驚嘆する要素があるのか、それがわからないから具体的に何も述べられない状況が続いているのではないか。ただ曇り空の下に苦悩があるようで。やがてその苦悩は雨となってどこかへ降り注いでいるらしく、その雨を浴びた人たちが驚いて何を叫んでいるわけでもないのだが、雨が降っていることに気づかない人がいるわけでもない。雨はただの雨であり、雨と苦悩を結びつけて語るのは突飛な言語表現だと思われる意識とともに、雨上がりに何をもたらすわけでもなく、誰かが苦悩する原因や理由が不明なのはいつものことで、君はそんな言葉の響きに興味を感じただけかもしれないが、そんな思いとは無関係に雨は降り続け、語っているそれはまともな物言いから外れて、誰かの脳裏に何か新鮮な感覚をもたらしたのかもしれず、それをきっかけとして、そこから何らかの風景を見いだしたいらしいが、現実の時空に流れているどこかの時間帯において、車窓から流れる景色を眺めながら、それを意識の隅に追いやって出てくるその場限りの妄想を振り払い、誰かは他にどんな言葉を見いだそうとしているのか。言葉以前に一瞬脳裏をかすめた妄想の内容にも興味があるか。何となく言葉とともに立ち現れた数々の疑問には何も答えず、夜の到来と入れ替わりに車窓から消え去ろうとしている風景とともに、途中で立ち止まるのが面倒なので、一度振り払われた妄想は忘却作用のなすがままにしておかれ、意識から完全に忘れ去られるまでそれにふれようとはせず、いったん忘れ去られたら、それについて言及することもなくなるだろうし、その時点での思いこみも失われてしまうだろう。現に今となってはそのとき何を思っていたのか思い出せない。誰かがアリ地獄のような状況の中でもがいているらしいが、それを眺めているつもりの誰かは、自分もそんな状況の中でもがいていることに気づかない。なぜ人はかたくなに破滅へ向かって生き急ぐのだろう。そんな風になるまで努力し続けなくとも、いつかは命が尽き果て、忘却の彼方へと消え去ってしまうのに、今を必死になって生き続け、自らの思い通りになっているように思いこみたいがために、必要以上に無理を重ねてしまうのか。君はそれが馬鹿らしいとは思わないのか。そこまでやる必然性がどこにあるというのか。別に必然性といえるようなものなどどこにもありはしないのだろうが、やはり自らの気が済むまでやってしまわないと、後から心残りを感じてしまうのかもしれず、そうならないために今やるべきことをやれる範囲内でやってしまいたいのだろう。そんな風にして人は生きながら、自らの死に一歩一歩近づいていくわけなのか。


4月19日

 また何となく行き詰まっているような気もするが、そこから性懲りもなく強引に言葉を繰り出そうとして、結果的にさらなる行き詰まりを誘発しているのかもしれず、もちろんそれが深刻な状況だとはこれっぽっちも思っていないようだが、それはいつものことであり、そんな予定調和の展開に嫌気がさしてやる気がなくなり、そこから先はどうしたらいいのかわからず、とりあえず毎度おなじみの途方に暮れたふりでもわざとらしくすればいいのか、あるいはそんなごまかしでは気が済まずに、そこまで記してきた文章のすべて破棄して、またはじめからやり直せばいいのか、などとできもしないことをほのめかすのも気にくわないようで、そうは思っても簡単に踏ん切りがつくはずもなく、結局は未練がましくだらだらと中途半端に述べ続けている現状があるらしく、今度はそんな状況にあきれ果ててため息が出るが、ため息交じりのついでに何を思うわけでもなく、その代わりに出てくるのは眠気を催すあくびばかりで、まったく昼間から眠たくなるほど暇でもないのだが、それはただ単に疲れているだけなのかもしれず、そうでなければあるいは、単に春の暖かさが眠気を誘っているだけなのかもしれないが、いずれにしても昼の時間帯では、何かの合間を見つけては、眠気に逆らいながらも何かしら言葉を繰り出しているつもりのようだが、導き出されたそれらの言説には、これといって興味を引く内容があるわけでもなく、それらの文章の中では、特に何を述べているのでもないらしく、なぜそうなってしまうのかといえば、それは春だから仕方のないことなのか。なぜそれを季節のせいにしてしまうのかよくわからないが、そんな理由では意味不明になってしまうのは当然のことかもしれないが、やる気がしないときはおおかたそんなものなのだろう。そしてやる気がしないまま夜になり、気まぐれに他の事象に目を転じれば、意識の外部では君も含めてつまらないことに憤っている人ばかりのようで、そんなことに興味のない誰かにとってそれは、何となく馬鹿らしく思えるのか、興味がないのだからそれは仕方のないことかもしれないが、他の何に興味を持っているわけでもなく、たぶんそれは嘘なのだろうが、嘘でもつかなければ無気力なふりをしながら言葉を連ねるわけにもいかないのかもしれないが、そんな嘘の内容を続けて述べるとすると、相変わらずの世の中にどんな感慨を抱くにも至らずに、メディアが一時的にもてはやすような誰が何をやろうと、現状がどうなるようにも思えないのは致し方のないことなのかもしれず、ただそれとは無関係になるようになるしかないのは当然だとしても、何の偶然でそうなるのか知らないが、そのどうでもいいようななりように対して、以前よりもいっそうあきらめムードが増しつつあるのかもしれず、もういい加減その程度でいいのではないかと思うようになったらおしまいか。しかしそれの何がおしまいなのか誰かにはわからないようだが、別にそんなことを気にしている風もなく、その状況が本当のおしまいであってもかまわないと思っているのかもしれず、ではこれからいったい何をおしまいにさせるつもりなのかといえば、また性懲りもなく嘘をつこうとして、それを別人の意識と置き換えて言葉にすれば、白々しく思い当たるものは何もなさそうに思いこみたいようで、それは無意識のうちに自らの意識には何も思い当たらせまいとしているらしいが、フィクション以外でそんなことができるはずもなく、結局それはただのしらばっくれでしかないということなのか、そしてそれ以外に思い当たる節は何もないということなのか。しかし何もないからといって安心できるわけもなく、それどころか何もないことが逆に言い知れぬ不安を招いているのかもしれず、現に何もないのに何か述べている現状が誰かの精神にかなりの無理を生じさせているような気もするのだが、そんなことは以前からわかっていたことで、そんな風に感じてしまうたびに、その都度それがいやならやめてしまえばいいと思ってしまうらしいが、実際にはそれでもやめようとしないのは不思議なことかもしれないが、そんなやり方しかできないのは今に始まったことではなく、いつもそんな風にしか言葉を繰り出せないことが受け入れがたいのだろうが、実際にやっていることはといえばそればかりなのであって、受け入れがたいがそれをやってしまっている現状をどうすることもできずにいるらしい。要するに無理なのにその無理をやり続けているということなのか。だがそれがどうしたというのだろう。それが原因でどうかしてしまっているのだろうか。どうかしているからこそそんなことを述べているわけか。ではどうかしているついでにもっと気の利いたことを述べてみないか。誰かはいったい誰に語りかけているのだろうか。とりあえず画面の向こう側には君以外の誰もいなくなってしまったような気がするのだが、ではそれで君に何を語りかけているつもりなのだろう。もっとマシな内容とは具体的にどのような内容なのか。何か胸のすくような話を期待しているのだろうか。君は誰に攻撃を仕掛けてきているのだろうか。それが誰もない誰かだとしたら、君は虚無と対峙していることにでもなるのかもしれない。


4月18日

 なぜ人は特定の役割を担うために選ばれなければならないのだろうか。別にすべての行為がその種類ごとに詳細に役割分担され、その一つ一つについてそれを行う者が人選され、そうやって選ばれた者だけがそんなことをやっているとは限らないだろうが、所詮は適材適所などというのは幻想にすぎず、やはり結果的にはその場の成り行きによって、何らかの役割を強引に割り振られてしまうこともあるようで、たまたまそんな役割を演じる羽目に陥ってしまったとき、そこでそうなってしまったことを後悔している暇があるだろうか。何をやるにしてもそれをやる上での客観的な適性などというものを事前に推し量れるわけもなく、すでにやってしまった後からそれで良かったのか悪かったのか判断することしかできないのであり、その辺でこれからやろうとすることが自分に合っているか否か、というようなことを探ろうとする試みは、多大な幻想と気休めを伴って流行しているようだが、一方でそんな似非科学的な占いもどきを真に受ける人々に大きな勘違いをもたらしているのではないだろうか。たぶんそれは適性などという生やさしいものではなく、やはりそれまでの経緯に縛られながら実際にそこで何かをやっている者がその場を占有しているのであって、仮にその行為が成功しているといえるならば、それはその仕事がその者に合っているというよりは、その者自身が自らに合うようにその仕事の性質を改変している部分もあるのではないか。そんな風にして自分を取り巻いている事象のことごとくを自らのペースに巻き込んでいくようなタイプの人は何をやってもそれなりにこなせてしまうのかもしれない。もちろんそれと同時にその場の空気を的確につかみ取り、臨機応変に都合の良いときだけ周りに合わせられるような柔軟性も兼ね備えていれば怖いものなしか。しかしはたして現実にその二つのやり方を両立させることなどできるのだろうか。その場その場で違う対応ができればいいだけのことか。そう述べるのはやさしいかもしれないが、本当にそれを実践できると思うか。さあ実際のところはどうなのか、面倒なのでそんなことはわかりたくないのかもしれず、意識してそんな風に振る舞おうとしているときもあるかもしれないが、大半の場合はそんなところまで気を回しながら何かをやっているわけではないだろう。現実の世界ではそんな何かを説明するように状況が推移するわけもなく、無意識のうちに行動しながら、時折気まぐれに立ち止まって、これまでの経緯を思い出そうとし、またこれからどうすべきか思案することもあるにはあるが、それらの思考があまり首尾一貫した行動には結びつかないようで、行き当たりばったりに何かをやりつつ、その一方で計画通りに事が運んでほしいとも思いつつ、まさに相容れない思いが意識の中で雑居しているような具合になってしまうらしいが、そんな中でもなぜか行動と思考を結びつけようとしている。それはやはり自らが自らを制御しているような感覚を得たいのかもしれず、そうしながら自らにまとまりのある一つの人格が宿っているように装っているのだろう。それが誰かが抱いている幻想の正体なのか。要するにそんな幻想を抱きながら安心したいわけか。自らの行動や思考が矛盾していることを忘れて、そんな不都合な側面を排除しつつ、物事を単純に考え、それに基づいて行動したいのだろうか。たぶんそれでは嘘になってしまうだろうが、それで安心したいのなら、そうやって自らに嘘をつき続けていればいいのであって、たぶんいつかそんな嘘が自らの精神に無理を生じさせ、無理がゆがみやひずみを生じさせて、生きてゆく限りそれを拡大させ続けることになるだろう。本当にそうなるのだろうか。にわかには信じがたいが、それを真に受けるつもりはないらしく、確かに説明としてはおもしろいかもしれないが、それこそが話をおもしろくさせるために用いられた嘘かもしれず、やはり本気でそんなことを思っているわけではなさそうだ。そんなことを述べていること自体が矛盾しているのかもしれないが、何が矛盾しているのか、その根拠を述べる気がないのもいい加減なところか。しかしそれ以外に何がいい加減だったのか、それも示すことはあり得ず、その辺が文章的に不親切なのかもしれないが、どうもそれ以上はまともに対応することができないようで、今ひとつ考えがまとまらずに、そこからわざとらしく逃げるための口実として、唐突に世の中の情勢を見極めることが困難に思われ、それについて考えることを放棄しているのかもしれないが、たぶんそこでの転調の真意は別のところにあるのだろう。とりあえずわざとわけのわからないことを語っているらしく、何となく影がそこからありふれた結論に至るのを阻止しているように思えてきて、それまでに語ってきた内容を簡単に否定してしまいたくなり、やはりそんな成り行きに強引に持ち込んで、そうではないと思いこもうとしているらしい。君はそんなわけのわからない尻切れトンボ状態を好んで表現したいらしく、話の状態を利いた風な内容から混沌とした状態へと引き戻したいようだ。しかしそうすることにどんな理由があるわけでもなく、何となくその方がいいような気がしているだけのようだ。


4月17日

 それが取り返しのつかないことだとは思わないが、些細な行き違いは全く解消せずに、そんな挫折から完全には立ち直れぬままに、しかしそれが挫折だなんてこれっぽっちも思っていないくせに、わざと深刻そうな顔をしているわけでもなく、それでも少しは応えたのか、心身に変調を来しているのかもしれないが、そんなことはないと強情を張りつつ、それよりもまだ何も気の利いたフレーズを思い浮かべられないことに少々いらだちながら、やはりそこから先に何を述べていいのかわからないようで、迷いながらも虚勢を張って途方に暮れた風を装い、言葉など何ももたらされないように思われる夜の暗闇を眺めながら、闇に向かって何を問いかけるわけもなく、そんな何の変哲もないいつもの夜に何を思えばいいのか。本気でそんなことを思っているわけもないか。それよりも無駄に言葉を配置しすぎて文章がぎくしゃくしているかもしれないが、環境が変わったらそれにつられて何か適当なことでも述べられるようになるだろうか、あるいはさらに何も述べられなくなってしまうか。そのどちらでもよくて、たぶんそれでも何かしら述べている自らの姿勢をくだらなく思っているのかもしれない。そこで状況判断を誤っているのかもしれないが、そのとき一時的に抱いたつもりのそれはどんな幻想だったのか。どこの誰が遠い歌声に感動していたわけでもなく、そこから時空を隔てたどこかでほかの誰が何を聴いているわけでもなく、それが幻想だなんて誰も思いたくないようだが、いつの日かどんな問題が解決するというのだろう。現状で問題が何もないわけはないだろうが、その問題からは誰も相手にされていないらしく、問題があることを知りながら、それには誰もふれてはならないような暗黙の了解ができあがっているようで、いったんそれが話題に上ってしまえば、それに対して誰もそんなことはないと主張したいのかもしれないが、それらの物語に付随している登場人物の間では、今のところその主張が表面化することはないようで、問題などないに越したことはないのかもしれないが、それにしてもそこには何かがあると思われるのはどういうことなのか。本当に何があるのだろうか。現に何も見いだせていないのに、君にそんなことがわかるわけがないが、それでもそれらの状況の中に何かを見いだしたいらしく、そんな心境になるたびに、無性にそれについて言葉を労したくなるようだが、そこではほとんど虚無的な響きしか聞こえてこないようで、もしかしたら度々そんな幻聴を覚える君の頭はおかしいのかもしれないが、ではいったいどの時点から精神の均衡が崩れてしまったのだろうか。たぶんそんな嘘がそれらの物語の中に出現する謎の端緒となっているのだろう。何もないところから何かが生成されてしまうことが、そこに何らかの利益を得る機会を与えられているような幻想が生じるらしく、実際に資金が流入すれば商売が成り立ち、いち早くその新たな金の流れに群がった人々が利益を得ることになるのだろう。だがその偽りのゴールドラッシュの恩恵を受ける人はほんの一握りにすぎず、出遅れた大部分の人々の記憶には、そこで大儲けした他人の伝説だけが残るわけだ。そしてその成功伝説が人から人へと語り継がれていく課程で大げさな装飾が施されながら、次第に物語としての体裁が整えられてゆくらしく、そしてそんな物語を共有する人々に、それらの人々とは関わり合いのない幻想を抱かせる。物語は彼らを儲け損ねた間抜け野郎として見下しているのに、一握りの成功者に羨望のまなざしを注いでいる間抜け野郎たちにはそれがわからず、中にはあろうことかそれらの成功を自分のことのように喜んでいる救いようのない愚か者まで出現する始末だ。要するにそんな精神状態のままで幻想の虜となっている自らに全く気づかないということか。しかし彼らにしてみればそれがどうしたわけでもなく、そこから快楽を得られるのだから、それはそれで良いことなのかもしれない。つまりそんな救いようのない状態が救われた状態なのだろう。だから彼らは誰かが真夜中に何を述べているのかわからない。自らが無意識のうちに思っていることを言葉で捉え切れていないのかもしれない。そして現実に感じている物語の結末を間違って解釈してしまっている。その中に自らの姿を見いだせないことをわかろうとしない。彼らは別に見えやすいものを見ているわけではなく、しかし見えにくいというよりは、全く見えていないものについて語ろうとしているのかもしれず、それは喜怒哀楽を通り過ぎてしまった感情とはいえない感情のようなものから導き出されているように思われ、そう述べてしまうと何だかわからなくなってしまうのだが、そんな風に述べている意識が何となくおかしいようで、だが意識の方はおかしいと思われてしまうことが気に入らないような気がしてくるのだが、それを推し進めていくうちに、結局は何を述べているのかわからなくなり、しかしそれについてどう思っているのでもなく、やはりそのまま言葉を続けたくなってくるらしいのだが、それはどういうことなのか。別にどういうことでもないだろうが、そんな風にしかフィクションについて語れないことが、誰かのいらだちの原因となっているのかもしれない。


4月16日

 何となく黄昏れているようだが、何に挫折してしまったのだろう。誰かの気分的には今さら何を求めているのだろうか。どんな現象が起こることを望んでいるのか。それは天変地異か何かか。地震ならもうすでに起こってしまったのではなかったか。これからさらに大規模な地震が起こることなどあり得ないか。では静けさはどこから来るのか。地震と静けさは関係ないだろう。ならばそれらの何が騒音を発しているのか。うるさすぎて誰が何を聴いているのかわからないか。聴いているのではなく、聞き返しているのではないか。そんな音楽を聴いているらしいが、何を述べているのか分からない。君の思い通りに行くはずがないだろう。何が行くのかさえ分かっていないらしい。そこで過ぎ去っているのはどんな時間なのか。無意識のうちに過ぎ去りつつある時を感じているはずか。だがそれについてどうも思いはしないのはなぜなのだろう。何も思わないのは今に始まったことではないが、誰がそんなことを思うわけもないか。君は自身が何について語っているのかも分からず、ただ闇雲に言葉をつなげようとしているようだが、それによって自らに何を言い聞かせているわけでもなく、別に誰を叱咤激励しているわけでもない。それとこれとは無関係か。だが少なくともそこで繰り出された言葉は、絶えず意識の外部に向かって漂い出ながら、しばらくの間その残響を響かせた後、いつの間にか辺りの虚空に吸収されて意味不明になってしまうらしい。だからなかなか具体的な意味に出会えないのか。しかし理由になっていないか。やはり誰かは何を述べているのでもないのか。見渡す限りの世界のどこに虚空があるわけもないか。虚空とか空虚とか、そんなありふれた言葉とフレーズに逃げてはならないのだろうか。逃げているつもりではなく、逃げようがない状況に追い込まれているのではないか。それらのあやふやな概念をどう言葉で表現すればいいのか分からず、途方に暮れかける意識を必死に押さえ込み、それについてどう思っているわけでもないのに、そんなことを無理矢理考えても、何ももたらされはしないだろう、とは思っているつもりなのだが、そんな風に考えるのは少し浅はかか。だが考えすぎて浅はかになるとはどういうことなのか。本当に考えすぎているといえるだろうか。そんな風にしていくら思考を巡らせても、そこからどんな答えが導き出されることを期待しているわけでもなく、現にどんな幻想を抱いているわけでもなさそうで、そこで誰かの意識を取り巻いているのは現実の空間でしかない。そしてそこには物語などどこにもありはしない。では実際には誰かは何を想像しているのか。この世界はこれからどうなっていくのだろう。どうにかなってしまうのか。そんなありふれたことを述べてはならないか。たぶん誰かが世界のどこかで何かをやっていて、それが何らかの現象を生じさせているのかも知れないが、闇雲に言葉を弄することによっては、そこから先へは一歩も踏み込めないような気がする。それが本気だとは到底思えないか。踏み込むつもりなどもとからないのだろうか。たとえそこにどのような言動が展開されていようと、何となくそれらの内容には興味が持てないらしい。そこに何がもたらされているのか分からない。もたらされているのは言葉の他に何もないのだろうか。ではなぜそこには空間と時間があるように思われるのか。意識が過ぎ去る時間に対応しているようには思えないのに、空間内の状況はそんな意識と無関係に刻々と変化し続けている。意識はそうやって現実の時空から取り残されてしまうわけで、それは間違った感覚から導き出された言葉の連なりなのかも知れないが、そんな語りによって何を説明しているつもりなのだろう。誰かは狭い思考の範囲内で小難しいことを述べているだけなのか。そう思えば誰の気が済むのだろうか。しかし他に述べるべき対象が見つからないのか。実際には何を意識しているのだろうか。人格が意識の中で完全に消失しているとは思わないが、その人格が誰に宿っているとも思えない。意識はひたすら生身の肉体から遠ざかろうとしているようで、そんな誤謬の中では何も考えたくはないらしいが、それでも現実に何を見たいのだろう。まだ行き着くところまで行き着いているわけでもないようだが、実際のところは何を見ているわけでも何を見たいわけでもないか。だが見たいものが何もないのに何かを見ている自分がいる。その一方でそこに自分がいるわけがないとも思いたいか。では画面に映っているのは何なのか。それはただの文章でしかないだろうか。ではそこで理性を欠き感情を廃して何を述べようとしているのだろう。誰かは何を迷っているのか。何をどうすべきか思いつかないのか。またそんなことをやっていいものやらどうか判断がつかないのか。だが判断する前にやってしまっているではないか。


4月15日

 誰かは今日も何かをやっているらしく、それは当然のことで、何もやっていなければ生きていないことになってしまうかも知れないが、君はそのやっていることが気に入らないらしく、何かしら文句をつけたくなってしまう性分らしい。しかし君にそれをやめさせることはできないだろう。誰かがやり続けていることが文章を記述することだとすれば、君はその文章の中に言葉として存在しているに過ぎないからだ。そんなのは嘘だろう。誰かは君について語りたいわけでもないのに、結果的にそれを語っている現状を快く思っていないらしく、できうる限りいつでもそこから離脱しようとしているのかも知れないが、なぜか君という言葉から離れられずに、今日も君を用いてあやふやなことを語っているらしい。それで何を述べていることになるのだろう。なぜそれをやめられないのか。それはやめようとしないからやめられないのであって、他に理由らしい理由などあるわけもなく、何か明確な理由があってやっていることではないのかも知れないが、それは呆れたことか。誰に呆れられているわけでもないか。君にとってはそれらの記述はどうでもいいことかも知れない。確かに君が含まれている文章なのだろうが、君自身が関わっているわけではないので、君がそれについてどう思うこともないのだろうか。しかしそれは突然の返事だったかも知れない。誰が返事を出したわけでもなく、何に対して返事を出したわけでもないのに、どういうわけか返事が来てしまう状況をどのように考えたらいいのか分かるわけがない。君ならそれらの返事にどう答えるだろう。ただ放置するがままにしておけば、次から次へと意味のない返事が大量に送られてくる現状に対処できるか。いったいそれは何について語っていることになるのだろう。意味不明とはそういうことなのだろうか。ただ何が意味不明なのかも分からない意味不明な状況に困惑しているだけかも知れない。だがそんな風に状況は推移していってしまうようで、君はそれらの状況からおいていかれてしまい、君には関係のないところで事態はどんどん進行していってしまうらしい。それについて君はどう思っているのだろう。誰に君の思いが分かるわけもないか。君はただの傍観者なのか。しかし傍観者は何を眺めているのか。そこではどんな光景が展開されているのだろうか。見ることもできないそれらの光景について、どんな想像を巡らせれば気が済むのか。やはり何を述べても無駄なのかも知れず、別に見ることもできない光景など見る必要もないのかも知れないが、それでもそんな光景に興味があるとすれば、まだ見ぬそれらになぜ惹かれているのだろう。それを導き出すのは無理というものか。気がつけばまただいぶおかしなことを述べているらしい。そしてさらに言葉をつなげようとしているようで、何かまとまりのない文章全体に不可思議な雰囲気が漂い始めている。決まり文句はもう出尽くしただろうか。まだ何か述べるとすればどんなことを述べればいいのか。もはや自然と湧き上がってくる感情などありはしないし、この期に及んでどのような結論に行き着こうとも思わないか。だがもうすでに結論などとっくに出ているのではないか。ただその結論を言葉で提示できないだけであって、わざとそのことについては触れないようにしながら、文章を執拗に長引かせようとしているだけではないのか。結論を述べたくないのならば、ではその代わりに何を述べればいいのだろう。それは何らかの言い訳になるだろうか。結論が出せないわけをねつ造したいわけか。たぶんどこかに話の真相があるのかも知れないが、その話の意味を理解しようとするならば、何かそれについての具体的なエピソードを語らなければなくなり、それを語るのが面倒臭くて、なかなか意味不明な語りから脱却できずにいるらしく、それを語らずに避けようとするあまり、さらにわけのわからない言葉の付け足しを積み重ねて、それを基にしてそれらの文章を構成しようとしているようで、そういうやり方に無理があることは承知しながらも、具体性を抜きにすればやはりそんな風に語らざるを得ないのか。それは難儀なことかも知れないが、その困難に挑戦していなければ、それ以上は何を語っていいのかわからなくなってしまうか。だがすでに以前から分からなくなっているのではないか。分からなくなりながらもそんな風に語っている現状があり、そんな現状を保ったままさらに強引に語り続けてきたのではないか。しかしそんなことをやり続けて何になるというのか。いつものようにただ無内容であるだけか。実際のところは分からないが、それでも何らかの内容を伴っているといえるか。もしかしたら君は惰性について語り続けているのかも知れない。君ではなく他の誰かはそれについてどう思っているのか。どうも思いはしないのかも知れないが、少なくとも実際に語っているのは、君ではなく他の誰かではなかったのか。誰かが語っている文章の中で、君が語っていることにでもなっていたのだろうか。しかしそんな文章がどこにあるのか。それらの言葉の連なりに君が語っている箇所が一度でも出てきたか。


4月14日

 なぜそうなってしまうのだろう。誰に向かって問いかけているのか分からないか。いつものようにそこには誰もいないのではないか。問いかけるべき対象などありはしないのに、気まぐれと気休めが入り混じった思いから虚空に向かって問いかけてしまうのかも知れない。しかし誰が問いかけているのだろう。それはいつものフレーズだろう。それ以外に何か気の利いたフレーズはないものか。何を述べるべきか方向が定まらずにいるようだが、それらの語りにどんな方向性があるというのか。ところでそれは前述の反論なのか。そんなところで言葉を循環させているのはおかしいか。おかしいのはそんな風に思い込んでいる風を装うことの方か。しかしなぜそれが分法的に誤りとはいえないのだろうか。誰がそんなことを判断しているわけでもなく、そこでどんな文章が成り立っているわけでもない。君にはまだ述べていないことがありそうだ。それは誰の認識でもない。誰がそこに存在しているつもりなのだろう。誰が紙面上に印字された文字を読んでいるわけでもない。君は本当にそこで画面をのぞき込んでいるのだろうか。それは君の意識が理解している状況ではないのか。君は何を知り得る立場でいられるのか。知っていると思い込んでいることはすべて嘘なのではないか。なぜそうどこまでも疑り深いのだろう。常に疑念を抱かざるを得ない状況の中で暮らしていると思い込んでいるわけか。だがそんな思いが君の技法を支えていることも確かなところか。それはどのような技法なのだろう。だがひたすら言葉を繰り出すことなどできはしないだろう。いつもそうなるように考えを巡らしているわけでもないか。怠惰を振り払って何をやろうとしているわけでもない。誰をそんな風に思わせているわけでもない。ただつまらないことを述べているような感覚はあるのかも知れず、その感覚がさらなる内容の改善を促しているのだろうか。そのままではいけないとでも思っているわけか。だが君にとってそれらの状況は他人事でしかないだろう。君にはまったく無関係なところで、君を巻き込まない形で事態は進行中のようだが、それに対して君が何か言葉を差し挟むことは憚られるような雰囲気になりつつあるようだ。状況がどのような成り行きで推移していこうと、何となく君には何ももたらされないような気がしてくる。別に君にどんな思惑があったわけでもなく、ただその場の状況に応じた対処をしたつもりでいるだけで、誰を陥れようとしていたわけでも、どんな感情を抱いていたわけでもないようで、ただそれらの存在が鬱陶しかっただけなのかも知れず、それ以外においては機械的に反応して流れ作業のように処理していたに過ぎない。それが意図していたとおりの反応だったかどうかは分からないが、そのように事が進んでいき、結果としてそんな状況がもたらされたわけか。しかしそれはどんな状況でもなくいつもの何もやる気のでない空疎な状況でしかない。毎度おなじみの何の驚きももたらされない状況なのか。ただ普通の世界に普通の人々が暮らし、そこでは魔法も超能力も漫画やアニメや映画の中に押し込められているだけで、それらが見せびらかすだけ見せびらかされて、それらの欠如した時空に満ちあふれていて、それが現実にはあり得ないことで満たされぬ欲望が、他人に対する嫌がらせに転化される荒んだ状況が当たり前のように発現しているわけか。しかし本当にそうなのだろうか。強引なこじつけでしかないのか。それで何を説明したことにもならないか。目で見えるものはそんな光景ばかりではないと思いたいか。耳から聞こえてくるものは鳥のさえずりの他に何があるのだろう。何でもあるのかも知れないが、それらに興味を惹かれるわけもなく、ただの雑音として受け流されているに過ぎないのだが、目にする光景にも雑音と似たようなものがあるのだろうか。あるとしてそれが何なのだろうか。それから何の刺激も得られないようなものが精神にどのよう作用を及ぼしているということか。あまり興味を惹くような問題ではないか。だがそのような光景に囲まれて暮らしていれば、目にする何に対しても鈍感になれるかも知れない。また何か暇つぶしに荒唐無稽な妄想を抱いているわけか。では何がそれらの妄想を形成しているのか。確かに気分的には何に対しても鈍感になっていた方がストレスは少なくて済むのかも知れないが、いつまで経ってもそのような状況から抜けることができずに停滞するばかりなのではないか。しかしそれらの状況の中でいくら感性を研ぎ澄まそうとも、何の機会も巡ってこなければ宝の持ち腐れのような気がするのだが、それがはたして宝なのかどうか疑問かも知れず、ただ余計なことに気を回していて、無駄に神経や労力を使っているに過ぎないのかも知れない。


4月13日

 久しぶりに静かな夜になったらしい。だが昨日も風のない静かな夜だったかも知れない。誰かは静かな夜に何をおびえているのだろうか。おびえないためには様々な手順を踏んで想定される危険に対する備えに万全を期すことが肝要か。しかし本気でそんな風に思っているわけではなく、誰がおびえているわけでもなく、また君の到来を待っているわけでもない。なぜ誰かがおびえることと君が到来することを関係づけようとするのか。そこへ君がたどり着くはずがないと思っているわけか。だいいち君はどこへも行こうとしていないのではないか。君には足がないのか。免許証をもっているのなら自動車で行けばいい。いったいどこへ行けばいいのか。それは外国か何かか。日本は他の国と地続きでないから自動車では行けないだろう。別に自動車の話をしたいわけもないか。そんな風に述べていることが分からないか。ではいったい誰かは何におびえていたのか。君の到来がそんなに怖いのか。君は未だかつて一度も現れたことがないのに、そんなことが分かるわけがないか。現れたのは君の影だけだろう。影は言葉を伴って現れたわけか。しかし付随して送られてきた言葉の束は何も語らない。なぜそれを読まずに捨ててしまうのか。少なくとも文字を読まなければ内容がおもしろいかつまらないか分からないだろう。読んでいる暇がなく、また読み通すだけの精神の集中を欠いているのかも知れない。そんなわけでどうやら書物を読めなくなってしまったようだ。しかしそれが何の言い訳になるのか。別に言い訳をしているわけでもなく、言い訳をしなければならない相手がどこにいるのか分からないか。君はその対象ではないらしい。君が求めているのは言い訳ではなく、誰かの本音だろうか。本当に誰かはおびえていたのだろうか。冗談でならおびえた風を装えるかも知れないが、それが冗談でなくなると、とたんに無口になり、そこから先は黙り込んだまま、何を呼びかけても応えようとしなくなるわけか。君は誰のことを想定して言葉を弄しているのだろう。それが特定の誰でもないとしたら、それらの話は虚構となってしまうわけか。しかしその虚構の中に君は登場しようとしているらしく、君が語ろうとしている内容はそれらの虚構に含まれているわけで、それは君が語っているのではなく、誰かが君が語っているように文章を記述しているだけなのかも知れない。だが何か矛盾していることを述べていないか。わざと辻褄が合わぬように言葉を連ねているような気がするか。辻褄が合うように語るのが面倒なのかも知れない。またそのついでに自らが語りつつある内容に興味がないのかも知れず、誰かはそれを投げやりに語っているのかも知れない。何に言及しているのか分からないか。分かろうとしないのだからそれは当然のことか。積極的に何を述べているのでもないわけか。だが消極的なら何も述べなければいいのではないか。ではまたそこで行き詰まってしまうのだろうか。行き詰まらないためには、前もってそのような危機に対する備えが必要か。要するに同じような言葉を循環させて、それを繰り返すことによって、そこで終わってしまわないようにするわけか。それはこそくなやり口だろうか。それでは何も解決しないだろうが、解決してしまったらそこで終わりとなってしまうので、終わらないためにはそれが最善の策なのかも知れず、そんな冗談を長引かせて誰かのやる気をそぎながら、結果として文章の継続を維持しようとしているわけなのか。しかしそれが何について述べているのか分からない。確かに分からないのかも知れないが、それで無理をしているわけではない。では無理して分かろうとすれば、どうなるというのだろう。あくびが出るか。そして何となく眠くなり寝てしまうわけか。寝て起きれば翌日になっているのだろうか。そこにどんな欠陥が潜んでいるのだろう。なぜそれが欠陥だと思われるのだろう。やはり何を述べているのか分からないからか。君は幻想を抱いている。いつか誰かが君の述べていることを分かる日が来ると思っている。しかしそれは誰の願いになるのだろう。君が幻想を抱いているのは、そう記している誰かの文章によってであり、それ以外に根拠は何もなく、それはフィクションであって、本当に君が幻想を抱いているかどうかは誰にも分からないのだから、実際には何も述べていない君の述べていることなど、誰に分かるはずもないだろう。しかしそう述べてしまっていいのだろうか。その君が君ではなく、どこかに実在している本当に君だとしたら、その別の君の述べていることは他の誰かにとっては容易に分かる内容かも知れないだろう。しかしなぜ唐突にそんな屁理屈じみたことを述べてしまうのか。もう誰かの気まぐれにはまともにつき合っていられないか。たぶん時期が来たら、それとは違うまともなことも述べられるようになるのかも知れないが、なぜか今はそんなことしか述べられないのかも知れず、その場に漂っている何らかの雰囲気に流されているようで、それに即した文章がその場から生じているらしいが、そこに誰の意識が絡んでいるわけでもないのかも知れない。何となく意識はそんなぼやけた感覚に包まれているらしい。


4月12日

 成り行き的にはそのようやり方でかまわないのかも知れないが、そのときになったらその場で判断することになるだろうか。仮にそんな風にやろうと、君にはそれを利用する権利があるのかも知れない。一応は税金を払っているのだから、それなりに働いてもらわないと困るか。それらの現状がこれまで避けてきた事態に近づきつつあるのだとしたら、やはり最終的にはそういうことになってしまうのだろうが、まあそうなってしまっても、それはそれで一つの体験に過ぎないのだから、それを体験することで何かしら分かることもあるのだろう。そしてそれでも分からなければ、また別のやり方を模索すればいいことか。作用を及ぼしてくる対象が、どのようにやってもかまわないというのなら、こちらもできる範囲内でそのようにやってみるしかないだろう。それでよければそれいいのだし、悪ければ改めればいいことでしかない。それ以外のやり方があるとしても、今は何かしら結果が出るまではそれをやり続けることしかできないようだが、それではたして君が認識可能な結果がもたらされるのだろうか。待っていれば何かしら反応が返ってくるはずか。返ってこなければそれも一つの返答であり、それで降参したことになるのかも知れない。これまでの経緯からすれば、まかり間違ってもそんなことはあり得ないのかも知れないが、そのときになってみれば、とりあえずそれらの行為がどんな結果をもたらすのか分かるだろう。またその程度で誰かが挫折してしまったならば、誰かの意識は今後ひたすら夜の闇をくぐり抜けて突き進むばかりになってしまうのだろうか。しかしそんな文章表現ではそれらの対象から逃げていることになってしまうか。当人は一応そんな風には思っていないのだろうが、そう受け取られても仕方のない状況に追い込まれてしまうのかも知れず、そんな事態は何としても避けたいところかも知れないが、やはり問題を避けて、結論を先送りにしているだけでは、当然のことながら何の解決にも至らないだろう。もちろんそんなことは分かりきっていることで、しかし分かってはいてもなかなか抜け出せない行動形態なのかも知れないが、実際にそこで誰かが何をやっているのかは、誰が確かめるまでもないことか。だがこの地上で人間が何をやろうと、天から見下ろしてみれば、ただせまい範囲でうごめいているようにしか見えないか。結局どこで誰が何をやっていようと、それで人間以外の何に注目されることもなく、それがすべての行動や言動の本質だとしたら、そこからどんなことがいえるのだろうか。別に何がいえるわけもなく、それ以上に誰が何を述べようとしているわけでもないらしく、ただ人には様々な行動と言動があり、それらの一つ一つを検証する気にはなれないのはもちろんのこと、それらの行動や言動を見聞しながら人間以外の誰が何を思うわけでもないが、それですべてがまかり通ってしまえば、何でもありになってしまうだろうか。確かにやろうと思えば何でもありなのかも知れないが、そこに競合関係が生じて、同じようなことをやっている者同士で争いごとが勃発するわけで、中には他人のやっていることが気に入らなくて、嫌がらせをしてそれを止めようとする者も出てくるのだろうか。だがそれがどうしたというのか。どうもしはしないのであり、それでも人々は地表面でうごめき続けているのだろう。そんな現象について何を述べてみても無駄なのであり、無駄でないときもたまにはあるのかも知れないが、それはそれで他の誰かに利用され、そこから利益を得ようとする者が群がってくるだけなのだろう。そのようなレベルで語ればすべてはそのようなことにしかならず、人間が人間として誇りたい精神作用など、どうでもいいような他愛のない現象と成り果てるだろう。それらの現象の中に魅力を感じるとすれば、それが意識が思い込む身勝手な幻想を伴わなければ、どんなに行動や言動を飾り立てようと、何でもないものでしかなくなってしまう。所詮はそれらの過剰な期待を伴って提示される夢から覚めれば、人も日頃から見下しているその他の生命と同じく、ただの動物の一種でしかないということになるのだろう。だからあまり本気になって人であることを誇ってはいけないのかも知れず、自らが日頃から行っていることに過剰な期待や幻想を抱いてはならないのだろう。人がやっていることはそれほど多種多様ではなく、未だその他の動物のやっていることの延長上にしかないのではないか。結局は同種や異種の生命と争いながら、自らと自らの属する群れの繁栄と、その勢力範囲を広げるために、あれこれ行動しているに過ぎないのだろう。それ以外に人は何をやっているのか。自らと自らを取り巻く世界の存在理由でも問い続けているわけか。だがそんなことやものに理由などあるのだろうか。たとえ理由があったとしても、それは人の側で導き出した理由であって、他からもたらされたわけでもなく、要するに人が自らと自らを取り巻く世界の存在を正当化するために、言葉や場合によっては記号や数式を用いて示される、自らと自らの同族を納得させるためのものでしかないか。どうやってもそれ以外の存在を納得させることなどできはしないのであって、納得するという精神作用自体が、今のところは人の間でしか通用しないものでしかないだろう。


4月11日

 季節は当たり前のごとく春のようで、どこかの場所では桜の花が咲き乱れ、たぶんそこで花曇りの空を見上げながら、誰かはこれからどんな嘘をつこうとしているのか。誰が雨空を呼んでいるのだろう。呼んでいるのではなく、気候変動的にそういう成り行きなのだから仕方がないだろう。気がつけば俄に風が強くなり、別にそれで嵐の予感がしているわけでもないが、それでも乾いた土には湿り気が必要だといわんばかりに、これから土砂降りの雨になるはずもないが、翌日は霧雨が降り続けている。誰かは窓から吹き込む風を感じながら、またその音を聞きながら、いつものように取り立てて何を思うつもりもなく、とりあえず天候が急変しないうちに、作業に一区切りをつけたいようで、そんな事情に押されぎみになり、そのあおりを食って言葉を弄する時間も自ずから限られてしまうらしく、また例によって現実の日付から遅れ気味になってしまうようで、それでも深夜になれば何か適当なことでも思いつくかも知れないと期待しつつも、実際には別の用事がはいってしまい、それらをやっている暇がなくなり、そのような成り行きに逆らうこともできず、疲れて寝て起きれば翌朝になっているようだ。そんなわけで君は何か適当なことを述べられずに、また何が適当なのかも分かる余裕もなしに、それ以降の時間帯に何を述べようとしているのか。たぶん何を述べるわけでもなく、それでもそのときになったら、何かしら述べているのだろうが、現に今がそのときだとしたら、やはり内容が皆無になってしまっているのかも知れず、そんなわけでまたもや予定調和のごとく行き詰まり状態となってしまうわけか。そうやってまた君はそれらの現実から逃げようとしているのか。しかしそれはどんな現実なのだろうか。例えばそれは中国や韓国で起きている反日デモの類か。マスメディア以外の誰がそんな出来事に興味を抱いているのだろう。またそれらに参加している人たちは、どのような国家主義に影響されているだろうか。国家主義に種類などあるのか。とりあえず彼らは自国の誇りが傷つけられたとでも思っていて、過去の歴史や領土問題で暴動を起こすほど感情的になっているというわけか。君にはそれが何だかよく分からないのかも知れないが、また分かろうとも思っていないのかも知れないが、要するに日本の政治家や官僚の言動が気に入らないということだろうが、君にとってそれがどうしたわけでもなく、そんなものに積極的に関わりたくないのは当然としても、関わりようにも関われない成り行きの中で生きていることも確かなようだ。そしてそのような現象を利用して、自民党の保守主義に凝り固まった政治家たちに、そらみたことか、などと叫ぶ気にはなれないし、靖国神社に参拝し、従軍慰安婦や強制連行を忘れようとし、尖閣諸島や竹島を日本の領土だと主張している人たちに、何を述べるつもりもないし、現実に彼らに対して何か述べるような機会が巡ってくるわけもないだろう。またそれらは誰が何を述べても仕方のないことかも知れない。君はそれに対して何の主張も持ち合わせてはいないのだろう。そして君とは別の誰かの意識が、より客観的と思われる視点から述べるならば、中国や韓国との経済的な結びつきが強まれば強まるほど、それが良い悪いは別問題として、相手を刺激するような言動は慎まなければならなくなるのだろうし、また国連の常任理事国になりたいとかいう国としての自己主張も、あまり積極的に推し進めるべきではないのかも知れない。国際貢献に見返りなど期待しない方がいいし、国の財政状況が逼迫しているのなら、国連に対する分担金なども削減してしまえばいいだろうし、他国から都合の良いように尊敬されようとする意図が見え見えの援助などやらない方がいいだろう。低開発国に金を恵んで常任理事国になるための支持を取り付けようなどという浅はかな魂胆は、中国や韓国からすれば、ふざけるなと思われて当然のやり方なのではないか。また仮にそんなことをやって常任理事国になれたとしても、現状で日本ができることといえば、ひたすらアメリカの子分や腰巾着として卑しく振る舞い続けて、他の常任理事国から軽蔑される役回りしかないのだから、わざわざ自国のそんな情けない現状を世界中に見せつけることもないだろう。では日本はこれからどうしたらいいのかといえば、どうもしなければいいのかも知れないし、それでもどうにかしたければ、どうにかできる立場の者たちがどうにかしようとすればいいだけか。今まで通りでもかまわないし、今までとは違うことをやってみたければやればいいだろう。国家として日本が何をやろうと君の知ったことではないのかも知れず、そんな君の言い分がどこの誰に聞き入れられるわけもない。君は君で心の片隅でそんなことを思いつつも、それとはまるで無関係な作業に追われる毎日を過ごすのみか。それが君が暮らしている世界の普遍的な特性なのかも知れない。たぶん君はそんなことから遠ざかっていてもかまわない、無関心でいられる立場なのだろう。


4月10日

 昨晩の意識はいつもよりさらにわけのわからないことを述べていたようだが、どうもそれをまともに読み返す気にはならず、昨日のことは昨日のこととして、そのまま放置してしまいそうになる。君は反省とは無縁の人間なのか。何を反省していいのかわからないのかも知れない。もしかしたら真に反省すべきは君とは別人の方か。もちろん当人は反省する気などさらさらないのかも知れないが、何とか彼を反省させるように仕向けるべきなのか。だがそんな力が君にないことは誰かには分かりきっていることであり、では何の力も持ち合わせていないことに、もっと自覚的であらねばならないかというと、そんなことはないようで、無力であることに無自覚であるどころか、その上になぜかわけのわからない無気力を装う君は、表情の皆無な顔を画面から背けながら、これから何を馬鹿にしたいのだろうか。馬鹿にしたいのではなく、そんなわけのわからない君自身が馬鹿にされているのではないか。しかしいったい誰に馬鹿にされているのだろう。そんなことが無気力な君に分かるわけがないか。本当に分かるわけがないというなら、昔の君を思い出してみればいいだろう。狭い範囲に限定されたフィクションに心を奪われていた当時の君は、それらの物語の中で展開されていた偽りの争いごとの何に感動していたのか。だがつまらない殺し合いの中から真の友情が生まれ、真の英雄が生まれる、とか云う馬鹿げた話の展開を心の底から信じていたわけでもないだろう。なぜそこで戦っている者同士の間に感情のぶつかり合いが起こるのかも不思議に思っていたはずだ。それらのご都合主義的な展開に呆れながらも、それをどう批判していいものやら分かりかねていたのではなかったか。また所詮それらの話は子供だましのように思えたのだが、とりあえず話の主人公は殺し合いの中で生き残らなければならず、主人公を生き残らせるために、戦っている相手がわざとらしく油断して、その油断から生まれた隙をついて、激戦の末にかろうじて生き残る手はずに話の筋書きができていることに、何か大げさに驚いてみせたり、それを予定調和の展開だと馬鹿にしてみても、実際にそのような話に感動している人たちに、こちらの述べていることがまともに伝わるのか疑問を感じていたはずだ。はたしてそんな意見を真に受け取ってくれる人がいるのだろうか。そしてそこから得るものが何かあるとすれば、それはどのような教訓の類になるのだろうか。触らぬ神に祟りなしか。しかしそれが神だといえるのか。では触らぬ馬鹿に祟りなしだとか述べれば気が済むのか。君も馬鹿の一種かも知れないのだから、そんな皮肉などいくら述べても気が済むはずがないか。ではそんな低次元のレベルでの語りからはさっさと離れるべきなのだろうか。しかしそれ以外に何があるというのか。その他の娯楽はお笑いとスポーツとニュースだけか。しかしそれもさっきまで述べていた予定調和のフィクションから比べれば、例えばニュースの中で人殺しを実行している一般人や、迷惑メールを執拗に送りつけるアダルト業者などの方が、よほど世の中の真の姿を伝えているだろうか。しかしそんな方法で世の中の真の姿を伝えてどうするのだろう。要するにすべての人々は欲望の虜にならなければならず、そしてそれをひたすら推し進めて、行き着くところまで行かなければならず、結局は犯罪者にならなければいけないということか。ではその道を究めるには犯罪者にならなければいけないわけか。しかしそんな冗談で誰が笑えるのか。なぜわざとそんな結論にもっていこうとするのか。そのような文章は君のどんな感情が作用して記されるのか。実際には誰もが進んで犯罪者なんかにはなりたくないのではないか。ではどうして犯罪者になってしまう人が必ず生じてしまうのだろう。なぜ過ちを犯さなければ思いを遂げられない人が出てきてしまうのか。それはそうしなければならない状況に追い込まれてしまうからか。しかしそんなことを述べてみても何の解決にも至らないのではないか。何かを解決に導くためにそんなことを述べているわけではないだろう。君に物事を解決する力などありはしないか。君だけの力では何をどうすることもできはしないか。だから誰か他の人たちに協力を仰がなければいけなくなるわけか。つまり君は一つの問題を解決するために多くの人々が一致協力しなければならない、と当たり前のことを述べているに過ぎないわけか。そんなことを述べるためにどれほどの遠回りと迂回を繰り返してきたのか。別にそんな結論に至ることを目標として論を進めてきたわけでもなく、君にとってそんなことはまったく重要なことではなくて、もちろん何らかの文章を記すこともそれほど重要なことではないのだが、ただその場で思考を巡らすためには、何かしら言葉で述べてみないと、すぐに何を考えているのか忘れてしまうので、とりあえず今考えていることが何かを確かめるためには、それらの記述は欠かせないのかも知れず、それらの文章はいわばメモ書き程度のものにすぎないのかも知れないが、それでも何も記さないのよりはいくらかマシなことをやっているといえるだろうか。


4月9日

 今にも解けそうな問題を解けずに日が暮れて、もうすぐ明日になってしまうような時間帯に近づいているらしいが、なぜいつも君は話の途中から語り始めるのだろう。それは単なる思い込みに過ぎないのかも知れないが、分からないことはどうしても分かりそうもないようで、いくら考えても無駄だろう。それについて気休めは何も出てこないようだが、それでも君は誰かに守られている。そして守られていながらもそのことに気づかないのは、予定調和的な話の展開か。そんな話はテレビでも見ていればいくらでも見受けられるような話かも知れないが、別に今からそんな話をしたいわけではなく、またそれについて何を述べたいわけでもないのだろうが、ではそれ以外に何を述べようとしているのだろう。君は自身が誰に守られているとも思わないだけのことに、なぜそれほどまでに多量の言葉を費やさなければならないのか。そんなことが君に分かるはずもないのかも知れないが、いったい君は何から守られているというのだろう。例えばそれは沈黙することからか。君は何か沈黙を強いるような圧力を、どこからか加えられているのだろうか。別にそれについて何か心当たりがあるわけでもないのだろうが、なぜそれらの圧力に屈して、君は沈黙しなければならないのか。しかしどうして君が沈黙しなければならないとそれらの文章は勝手に決めつけてしまうのだろう。いったい君以外の誰がそれらの文章を記述しつつあるのだろう。少し前の意識は何らかの精神的な圧迫を感じていたようで、その誤解らしき感情を取り除くのに多大な労力を払っていたようだ。そして君一人では何もできなかったはずで、それに関して様々な人たちと言葉を交わすことによって、その過程で徐々に分かってきたこともあり、誤解を解くきっかけも巡ってきて、何とか以前とは違う心理状態に至ることができたのかも知れない。それで危機を脱したと思い込みたいわけでもないのだが、ところでさっきから何も語らずに何を考えているのか。もはやこれ以上いい加減なことを述べるのにも疲れたのか。別にわざといい加減に述べようとしているわけではないのだが、やはりそれは何かの癖や性質なのかも知れないが、今はそんな風にしか述べられない現状をいかんともしがたいようで、そんな現状に困り果てている風を装いながらも、そんなふりをすることしかできないことを、容易には認めたがらないようだ。そしてそんな意識も、実際はそうではないだろう、とすぐさま何の根拠もない反論を繰り返すのが精一杯か。別に実際の状況をそれらのフィクションの中に反映させながら語っているわけでもないか。ただいつもそんな話の設定ではつまらないだろう。だがそれ以外に何ができるというのか。何もできないからそんなことばかり述べているのではないか。ではそれが嫌なら、他に何か適当な内容でもねつ造してみせたらどうなのか。しかし今頃になって何を大げさに語り始めなければならないのかわからないが、ならば現実には何が終わろうとしているわけでもないのだが、どこかのフィクションの中では、今まさに一つの時代が終わろうとしているとき、君はそれとは気づかずに過去の思い出を語り始めているようで、過去の一時期において、そんな時代がそこに暮らす者たちのすべてを支配していたわけではないことは承知しているはずだが、それ以上に何よりも現状を尊び、現状以外のどんな状況も認めるわけにはいかず、そのような状態の世の中にしがみつこうとして、必死の形相で周囲に愛想を振りまいている者たちのことを思うと、何となく虚しさがこみ上げてこないか。それらの行為の何が気に入らないのだろう。それらのどこが矛盾しているというのか。何が矛盾しているわけでもないのだろうが、仮に彼らの振る舞いの何が矛盾していようと、誰もそこで行き詰まるつもりはなく、世間に受け入れられて調子に乗っている者たちは、さらにいっそうそれらの馬鹿騒ぎを拡大させようとするのだが、とりあえずそんなあり得ない矛盾は無視ししながらも、そう言われてみれば何となく自分たちの言動の何が矛盾しているのかが気にかかるらしく、機会を見つけてはそれらの何が問題なのか自問自答を繰り返しているようだが、日頃からそんな行為に疑念を抱いている君が、はたしてそれらの予定調和的な社会に同化できるだろうか。しかし社会の何が予定調和だといえるのか。今さら何を述べているのだろう。それも根拠の皆無の作り話の一種かも知れないが、まさかそこから冗談で逃げるわけにも行かず、よりいっそうそれよりもまっとうそうな意見を続けて述べなければいけないような雰囲気に押されて、さらに利いた風なことを述べようとしているらしいが、文章の方は君の意気込みに反して、もっともらしい内容を装うつもりはさらさらないようで、どうやらその辺で挫折してしまったらしい。そんなわけで君は矛盾や予定調和の意味を分かろうとしていない。


4月8日

 人がこの世から消え去るとき、君は何を思うわけでもなく、君以外の誰がこの世に存在しているわけでもなく、人ではない誰に意識が宿るわけでもないだろう。あなたに何ができるというのか。では誰がこの世の神なのか。秋はまだ数ヶ月先のことだが、今のところ秋に何をする予定もない。あなたは日本人ではないのですか。それは英語の例文の日本語訳か。英語は君の頭脳に何をもたらしているのだろうか。日常英会話が使えるわけでもない。別に英会話を習おうとは思わないか。日本語さえまともに話せないのに英会話どころではないか。それは半分冗談としても、特定の言語を話す能力が身についているとは言い難い状態のようだ。日本では人々はどこへ向かっているのだろう。まさか誰もが燃える朝焼けに向かって走っているわけでもあるまい。君は突然の隠し球に驚いている。しかし今は夜で何も見えはしないだろう。薄明かりでもほしいところか。その薄明かりの下でこれからどんな出来事が起こることを期待しているのだろうか。薄明かりが何をもたらしてくれるというのだろう。それらの何が薄明かりだといえるのか。それはただの蛍光灯の照明でしかないか。そんな文章によって何を否定しようとしているのか分からない。それは君自身の語り口かも知れず、もうそんなやり方では飽きてしまったのだろうか。君はそうでなくともいつもくだらない現実に飽き飽きしているのではないか。もうやっていられないか。だがやっていられなくなったらどうすればいいのだろう。他に何もやりようがないか。たぶんそれもいつものことであり、そんな現状にあきらめてしまわないように、今でも何かしら言葉を弄しているのではないか。しかしそれでどうなるわけでもないらしい。どうにもならないから何かしら語らざるを得なくなってしまったのではないか。だがそれで何を語っているといえるのか。壁に掛かっている油絵の表面では、誰かが沈む夕日に向かって走っているようだが、今は夕暮れ時ではなさそうだ。そんな苦し紛れの作り話はうんざりか。あまりにも馬鹿げていて、感想も何もありはしないか。そのとき君の意識は語りの中身を求めていないようだ。意思に基づいて発せられた言葉が、まっとうな言動からはじき出されようとしているらしいが、たぶんそれも作り話であり、それは首の消失した人形が道路際の側溝に半分身投げしているようなものか。しかしそれは何のたとえでもなく、ただのでたらめでしかないだろう。それで文章の体をなしているのか。誰かには分からないようだが、やる気がしないとこうもだらけてしまうものだろうか。でもやる気がしないのはいつもそうではなかったのか。また何やら否定が連続しているらしい。さらに何を述べていいのかわからなくなる。夜に風の音を聞きながら、ついでに音楽を聴きながら、さらにそのついでに文章を構築しようとしているわけだから、そんなことは二の次の次でしかないわけか。とりあえずこれ以上は誠実になれそうもなく、街灯の隣で揺れ動く街路樹のように、両者の間に意思の疎通はなさそうだ。その両者とは誰と誰のことなのか。それは君と君の意識との関係を言い表しているのだろうか。沈黙の中で誰が何を言い表しているわけでもないか。君には君の意識が理解できない。なぜすべてをぶちこわしにするようなことを平然と行ってしまうのか。行っているのではなく、何もやらずに何も思わず眠っているだけか。怠惰な雰囲気に浸かって何もやろうとはしないらしいが、それで何をやっていることになるのだろう。少なくとも椅子に座って机に向かって何ごとか試行錯誤を繰り返している最中か。そう見えているうちはそういうことにしておこう。だが誰が見ているわけでもないか。とりあえず眠っているわけでもなさそうに見えるが、眠っていたのは昨日のことか。今日もこれから眠ってしまうのだろう。ではなぜそれがすべてをぶちこわしにするような行為なのだろう。その場しのぎのいい加減な言説では気に入らないのか。誰が何を述べているのか分からないか。それらの文章における責任の所在がはっきりしないか。どうもそれらのすべてが嘘のように思えてくるのだが、君はそれでも何を求めているのでもないと言い切れるのか。君はすべての事象に先立って言葉を求めている。画面上に文字を記そうとしているらしく、実際に記しているつもりなのだろう。そんな文章を新たに構築することによって、それまでの文章をぶちこわしにしようとしている。それが現実にできているかどうかは、後からそれらの文章を読んでみれば分かることか。読んでも分からないかも知れない。読む前に読む気がしなかったらどうするのか。たぶん読まなければいいのだろう。そんなわけで読む気がしなくなったので、眠ってしまうかも知れず、眠ってしまったらここまでやってきたすべてがぶちこわしになってしまうか。そんな大げさに思うほどの文章でもないか。それらは気休めと気晴らしのための文章なのかも知れないが、読むことによって気休めや気晴らしになるかどうかは、実際に読んでみないことには何ともいえないだろう。


4月7日

 たまにはこんなことも起こるのか。だがこんなこととはどんなことなのだろう。たぶん蠅やゴキブリや鼠や蚊と戦ってはいけないのだろう。戦っているつもりになること自体が大きな勘違いなのか。それらはいくら退治したつもりになっても、一時的には数が減るが、こちらの気が抜けた頃には性懲りもなくまた増殖し始め、やがて以前より抵抗力が増した状態で蔓延ってくる。それから比べれば漫画やアニメに出てくる悪のモンスターなどは子供だましもいいところであり、フィクションの中でどんなに強大な力を持っているとしても、現実の世界では画面や紙面上だけでうごめく矮小な存在であり、それを見聞する人々の意識に、どれほどの心理的な影響を及ぼそうと、大したものではないのだろう。それと比較すること自体が荒唐無稽かも知れないが、それらの物語の中で予定調和的な対決を成り立たせているコミュニケーションを含めたやりとりなどは、現実の害虫や害獣にはいっさい通用しないのであり、物語の中で戦っている双方が戦い続けながら意思疎通を図るようなわけにはいかず、またそれらの動物は異星人の類のように、人類を支配する意思も、滅亡に追い込む力も持ち合わせていないのにもかかわらず、何かと目障りな存在として忌み嫌われながらも、執拗に人間の生活空間の周囲で生息し続け、いくら殺しても自然と湧いて出てくるのだから、当たり前のことだが、それらは人類と対等以上の立場で戦い、結果的に勝ち負けを伴うような雌雄を決する存在にはまったくなり得ないのであって、人々が幻想を抱いている漫画やアニメやスポーツに見られるような物語的展開とはほとんど無縁である。しかしだからどうしたというのだろう。君はそれらの害虫や害獣が迷惑メールやコンピュータ・ウィルスと同じだと見なしたいのか。だがそんな単純化によって気が晴れたりするのだろうか。気が晴れても現状は何も変わらないか。あるいは変わりつつある途上の状況に気づかないだけなのか。または面倒なので気づかないふりをしながら、まだ気づいていないという前提を利用しながら、それに基づいて何か利いた風なことを述べているわけか。だがたとえ本当に変わりつつあるとしても、それは世界全体から見れば些細などうでもいいような変化でしかなく、それ以前と以降とで何らかの差異が顕在化しようと、それは微細な領域を対象としている評論家や学者が論じ合うための材料にしかならないのではないか。たぶんそれらの作用に害虫を滅ぼす力などありはしないのだろうし、何かのきっかけで滅んだとしても、彼ら以外にとってはどうというわけでもなく、ただそれはそれでそういうことでしかない。それを彼が大げさに騒ぎたてるのは欺瞞のなせる業か。それとどのような関係があるのか分からないが、なぜ彼の物語は一つの文明が滅んだ以降から語り始められるのだろうか。それはその文明に対してあまりにも無責任な態度ではないのか。なぜ彼は文明が滅んで行く過程を語り得ないのだろう。彼は彼には語り得ない状況から逃げているわけか。なぜ逃げているのだろうか。それはそれについて語り得ないからか。しかし唐突に何を君は循環させているのか。そうやって君が意味不明へ逃げたついでに、彼の存在を嫌っている誰かが、心にもないことを述べようとしているわけでもないが、何となく出口が見あたらずに君は迷い続けているらしく、そんなこともどうでもいいことかも知れないが、どうも春の気候は暑いか寒いかのどちらかしかないようで、たまたまここ二日間は連続して暑い日が続いていて、いつまで経ってもちょうどよい快適な気温の日が巡ってこないような気がしてくるが、案の定その翌日は強風が吹き荒れる荒れ模様の天候になってしまったらしく、夜になると次第に冷え込んでくるらしいが、またもやそれがどうしたのだろう。なぜ前述を否定するように、わざとらしく逃げたついでに心にもないことを述べているのか不可思議だが、やはりそんなこともこの際どうでもいいようなことなのではないか。では何について思い考えればどうでもよくなくなるのだろう。さっきまで述べていたそれはどうでもいいことだったのか。君は日頃から見聞しているそれらの何に関わっているわけでもないのに、絶えずそこから除け者にされたと思い込み、そこから根拠の希薄な被害妄想を募らせながらも、どういうわけかそれ以外の感知する何に対しても本気になれずに、そんな状況に困り果てた自業自得の君は、それ以上は何も語らずに、徐々に結論をのべることから遠ざかろうとしている。現実には何から遠ざかっているのだろう。日頃から批判の材料を提供してくれるテレビとかマスメディアからか。たぶんそれは嘘だろう。要するに何かを述べようとすれば、絶えず結論の提示が不可避の展開になり、それを拒否して結論に近づこうとしないのは怠慢だと思われるようになるのだが、そこからどこへ行けば結論にたどり着けるのか分からず、行くのではなく思考するのではないかとも思うが、それでは意味不明なことで迷っているように感じられるので、君のやるべきことはそんなことではない、と自らに都合よく言い聞かせながらも、いったい誰にそんなことが分かるのか、分かるはずがないと決めつけたくなる一方で、結果など分かり切っていることだろうとも逆に思い、さらにわけがわからなくなってしまうらしい。しかしそこから導かれるのはどんな物語なのか。それが何らかの物語だとすると、はたして固定された物語の主人公は話の最後まで存在し続けることができるだろうか。それらの登場人物の誰が主人公なのか。なぜその人物が主人公に設定されているのだろう。だがなぜ君はそれについて考えようとしないのか。なぜかそれらの文章に向き合うことを拒否しているようで、やはりそれでは意味が分からないか。


4月6日

 話の設定が不毛になりつつあるようだが、それらの器官内には何が張り巡らされているのだろうか。たぶんそれは嘘かも知れないが、何となく面倒臭くなって、緊張の糸が切れてどうでもよくなり、そこから先には際限なくでたらめなことを述べたくなることがあるらしく、それでもこれ以上はもう何も述べられないと感じてしまうときが来るとしたら、そのとき誰かの代わりに架空の君が何をどう思うように仕向けたら気が済むのだろうか。そんな言い回しではあまり気が利いているとはいえないかも知れないが、無論別に気の利いたことを述べようとしているわけでもないが、例えば何も思わなくともそんな風に思っている君は、やはり何も思っていないと思っているわけか。君は本当に何も思っていないのだろうか。では何がそのとき生じているらしい君の意識を構成しているのだろう。それはありふれた虚無という言葉以外に、どんな言語表現によって言い表せるだろうか。どこをどう探してみても、そんなものはどこにもないかも知れないが、そう思いながらも思い浮かぶ何に抗っているわけでもなく、そしていつものようにそんなことを考えるのが面倒臭くなり、そんな思いをどこかにうっちゃって、唐突にわけのわからない場面転換を図ろうとして、当然のようにそれに失敗しながらも、適当な場面をねつ造して、まかり間違ってもゲームセンターではないそこでは、誰がどんなゲームに夢中になっているのだろうか。画面上に立ち現れているのは本当にゲームなのか。誰かの目の前ではどんな幻影と現実の光景とが混ざり合って、それらの現象を生じさせているのだろうか。しかしそれらの何がゲームなのだろう。それはまったくゲームにはなり得ない代物かも知れず、またそんな代物が現実に存在しているわけでもないらしく、それらのすべては誰かの想像力が意識内に構成している影の一種かも知れず、またそんな説明では何を語っているのかはっきりせず、そんな意味不明な話の内容では、誰かの気分が優れるはずもないようだが、そんな言葉を連ねること以外に何をやっているわけでもない現状から逸脱して、何か他の夢中になれる出来事に遭遇しているわけもなく、もちろん言葉を連ねることにそれほど夢中になっているわけでもないのだが、とりあえず何かの渦中にどっぷり浸かりたいとは思わないらしく、またそれらの渦を外から眺めている立場にもなりたくないようだが、たぶん架空の君はそんな風には思わないのかも知れないが、はたして君はそれらのゲームでさえないゲームをやっているような感覚を持ち合わせているのだろうか。そんなことはどうでもいいことか。それでもそうやって気晴らしに繰り出された言葉の束が何を語っているのかを知りたいようだが、君とは違ってそんなことを知りたいわけでもない誰かは、それらの文章を構成しながらも何に不快感を抱いているのか。自ら構成しつつある文章そのものが不快なのだろうか。ではそれが嫌になったついでに何を思い出そうとしているのか。例えば蠅は何を求めているのだろう。なぜ唐突に蠅の姿が思い浮かぶのか不思議だが、架空のその場所で無益な殺生を好んでいる者は、ひたすら蠅に向かって殺虫剤を噴霧し続けているのだろうか。なぜそうなってしまうのかは理由などあり得ないが、では蠅が飛び去った後に蜂がやってきたらどうするのだろう。蜂に向かっても執拗に殺虫剤を吹きかけるわけか。それが何のたとえ話なのか理解できないかも知れないが、虫はいくら殺しても自然に湧いて出てくる。虫だけでなく鼠も絶えず増殖し続けている。人間は虫や鼠には勝てないのかも知れないが、世の中には虫や鼠のような習性を持つ人間もいるらしい。そんな人間のやり口にいちいち腹を立てても仕方がないのかも知れず、それに耐えたり耐えきれずに弱音を吐いたりしながらも、それでも執拗に生き延びれば、やがて時は流れ季節は過ぎ去り、いつかすべてを清算するときが訪れるわけもないだろうが、ゆがんだ感情はゆがんだままに固定化されてしまう場合もあるだろうし、そんな感情の持ち主がどうなるわけもなく、あるいは偶然にどうにかなってしまう場合もあるのかも知れないが、どちらにしても結果的にはただ生まれて生きて死にゆくのみか。誰かはそれ以上に何がどうなってほしいのか。それ以上の望みは幻想に過ぎないだろうか。だがなぜ幻想を抱いてはいけないのか。別にいけなくはないが、たぶんそれ以上はどうにもならないままの方が、自然な状態に近いのかも知れない。またそれを他人がとやかく批判してみても、何が改まることがあるだろうか。その気がない者はそのままで生きて行くより仕方がないのであり、たぶん変わろうとして変われる者は運が良いのであって、中には変わりたくないのに変わってしまう者もいるだろうし、変わったつもりでも中身はそのままの者もいるのだろう。それはそれでそういうことでしかあり得ない、と思うより仕方がないのではないか。


4月5日

 たぶん誰がそんなことを思っているわけではないのだろうが、誰もが束になってかかってきているわけではないらしい。ほんのひとにぎりの人々が何やら情報を発信しているらしく、それらの情報から想像される世の中が、あたかも世界のすべてであるような気にさせるのはどういうわけなのか。紋切り型の情報に嫌気が差して、また気まぐれに飛び交う五月蠅い蠅に耐えかねて、誰かは機会を捉えてその気になったらしいが、それらの兆候は何かのフィナーレに近づいている証拠なのだろうか。しかしそんな心境に至って何をそんなに喜んでいるのか。誰が君を喜ばせようとして、あるいは君は誰を喜ばせようとしているのだろう。何の当てもなくまともな対応を期待することが、どうしてそんなに喜ばしいことなのか。だがそれも一時的な感情のようで、時が経つにつれて次第に猜疑心が頭をもたげ始め、その後にいったどうなってしまうのかは、誰かの想像にまかせることで、その話題について語ることは避けなければならないか。だが避けようにも避けられない状況に陥ってしまうこともあるか。意識的には何を避けているわけでもなく、これからどんな話題をねつ造しようか考えあぐねているのかも知れず、それを望んでいる誰かの期待を裏切るまいと必死なのかも知れないが、そんな期待そのものがねつ造されたものかも知れず、なぜそれらのすべてがかも知れないという推測の域を出ないのか疑わしく思い、案外誰かは何もないところからそれらの言葉を適当に発しているだけなのかも知れない。誰も期待していないし、何を望んでいるわけでもなく、どんな話題をねつ造しようとしているわけでもないのか。しかしそれで振り出しに戻ってしまうではないか。ではまたはじめから話をやり直すわけか。君がどのような話を望んでいるのか知らないが、誰かが君の望みを叶える義務などありはしないか。だがそんなことを語りたわけではないのだろう。しかし本当に語りことなどありはしないか。ではそれらの語りは何かの間に合わせに語られているだけなのか。たぶん君は何かを語ることによって生き残ろうとは思わないのかも知れない。生き残ろうとしているのではなく、何気なしに生き残ってしまった後から語り始めているのかも知れない。生き残る術もないのに、また生き残る必要もなかったのに、何かの偶然からたまたま生き残ってしまい、それについてどんな感慨も抱けずに、ただ途方に暮れるばかりで、ふと気がつけば自身が何かを語っている現実に直面している。そしてそんな現状にどう対処すればいいのかわからずに、ただ語り続けるままに、そのような状況を放置しているだけなのかも知れない。つまり誰かにそのような状態を放置させているつもりなのだ。そんな風にして相手が油断するタイミングを見極めようとしているわけか。しかし架空の相手が油断したら、その隙を突いて誰が何をしようというのだろう。苦労して努力した末に導き出されたそれらの文章の内容が相当ショックだったのか。いったい誰がどんな文章を読んでいるつもりになっているのか。その辺の具合が今ひとつわからないところだが、そこからどのような推測を語ればいいのかもわからない。とりあえず何かを語るにはあまりにも材料が乏しすぎるか。ではもう少し巧妙な罠を仕掛けておいて、誰かのさらなる油断を引き出せるだろうか。しかしそれらの情報が誰かの勇み足だと断定するには、確信に至るような決定的な証拠が必要なところか。だがそんな証拠をどうやってつかみ取ることができるというのか。はたしてそれらの行為が罠として機能するのだろうか。どうも今のところ期待薄のような気がするのだが、やらないよりはやった方が気分が晴れるかも知れないし、だめだったとしてもあきらめがつくというものか。しかし君はさっきから何について語っているつもりなのだろう。何かあやふやなことをほのめかしているようにも思われるし、また決定的な事実を隠しているようにも感じられ、結局のところ肝心な箇所については一切触れていないような気がする。そんなことで何かを語っていることになるのだろうか。それでも一応は何かしら言葉を弄しているだけでも、何も語らないのよりは少しは気が利いているとでも主張したいのか。もちろん誰が何を主張しているわけでもなく、そんな風に語ると何らかの主張を誰かが想像できるような気がするだけで、本気で真正面から正論などをかますつもりはないのかも知れないが、それでも何かしら述べていることは確かなように思われる。それでも一応は誰かが記している文章の範疇にはいるのだろうが、何やら執拗にまわりくどいことを述べているような気がして、今ひとつ煮え切らない思いをそれらの文章は反映しているのだろうか。そんなわけでまったく晴れ晴れした気分とは言い難いところだが、それも誰かの意識が何らかの精神状態のだだ中にいることになっているであって、それを君は少しは尊重すべきではないのか。


4月4日

 それは何かの合図だったかも知れないが、どうやらそれを見落としていたらしく、今さらそんなことについて何を述べようとも思わないが、それでもやめるにやめられないと感じてしまうのは、たぶん君の勘違いなのだろう。そんなわけで誰が誰に忠告しているわけでもなく、ただもう少し冷静の物事を考えてみたらどうかと思われるようだが、それでは遅すぎるらしく、後から絶好の機会を逃して悔やんでいるだけになってしまい、すでに数時間前に通り過ぎた思考の状態に、それほど未練があるわけではないのに、時間的に夕闇が迫り来る頃、誰かはようやく一息ついて、思索に耽る時間が到来したと思ったりするのだろうか。だがそのときいつものように何を考えているわけでもなく、ただ適当にいい加減に言葉を連ねていただけの現状を忘れ、所詮後から思い出せばいい加減な記憶しか残らないのだろうが、それに対して何を批判したいわけでもなく、またそんなくだらない言説を擁して、どこの誰と戦いたいわけでもなく、それどころか何をどう述べていいかもわからずに、ただ気休めに過去に誰かが奏でた音楽の残響を聴きながら、苦し紛れに何か適当なことを思っている風を装っているだけで、そんな言葉遣いはおかしいと思いながらも、今はそれでもかまわないと思うなら、戯れに誰かのぼやけた記憶を辿って、またはじめから記述をやり直せば気が済むだろうか。しかしそんな君を無視している別の君の意識は、偶然に見かけた夕日に照らされてオレンジ色に染まった光景に感動するでもなく、また誰も君自身さえもそんな絵はがき的な風景の中にはいないと思いつつ、そんな虚無に蝕まれた意識だけが、自らが不在の光景の中に、物質化された自らの影を投影できるとでも思い込んでいる風を装い、それが何を意味するのか検討を欠いた文章の内容に耽りながら、呆れるようなロマンの虜となってしまうのだろう。君はそこから身を翻して、すぐさま呆れたふりをしながら、そんなフィクションでは意味不明だろうとも思い、あるいはそれは虚構の枠内にさえ収まりきらない、誰かが戯れに発したみすぼらしい現実の言葉だとも考え、またそんな文章を記しつつある誰かは、案外本気なのではないかとも感じられ、さらにそんな感じ方自体が滑稽だとも思われ、なぜ画面上に立ち現れる言葉はみすぼらしく映るのかいぶかしく思いつつ、それはたぶん虚実の意図によって、ごまかし混じりに文章が構成されているからだとかいう誰かの見解に、面倒臭いから一応は納得しようとは思うのだが、よく考えてみれば、それらの光景の中に何が欠けているかは一目瞭然だと気がつく。誰がそれを眺めているつもりなのか。いったい誰の視点でそれらの光景が虚空に映し出されているのだろう。またそこにはどのような嗜好が反映されているのだろうか。誰の好き嫌いで風景を取捨選択しているのか。なぜそこから魅力的な言葉が生まれないのだろう。どうして言い古され使い古された言葉で、それらの風景が説明されなければならないのか。そして本当に君はそんなことを考えているわけか。考えているのが君ではないとすると、それについて考えさせられていたのは誰なのか。たぶんそれに対する答えなどあるはずもなく、例えばクレヨンで画用紙に塗り込められた稚拙な絵を見ながら、どこの誰がそんな感想を抱くだろうか。なぜ幼稚な風景画がそれらの答えの代わりになるのだろう。代わりなどではなく、それは視線を逸らすための障害物に過ぎず、そうでもしなければ収拾がつかずに、それらのわけのわからない言葉の無限循環からは逃れられなのかも知れず、それ以上に考えられないことを考えようとすると、気まぐれに自らの記述とは異質な言葉に出くわしたりするわけか。それはどんな言葉なのか。君はそれらの言葉から発せられているように思われる真正面からの視線を避けるわけにはいかなくなり、その視線に対して何らかの答えを提示さざるを得なくなって、自らの言葉が何とか答えの体をなすように努力し続けているようなのだが、今のところは一向にまともな記述に至らずに、それらの結果以前の結果に困惑しながらも、さらなる試行錯誤の迷路に迷い入っているようだ。なぜ唐突にそんな風に思われるのか理解に苦しむが、例えばそれらの言葉は誰かの鏡像にすぎないのだろうか。もし誰かと誰かが見つめ合い、その向かい合っている者たちが影と自らの実体だとすると、それらの文章の何が矛盾してしまうのか。それらとは何だろう。遠くから迫り来る自分自身の虚像に恐怖しているわけでもないらしいが、それが挫折感と集中力の欠如をもたらしているわけでもないだろう。自らが自らについて語り得ないのは当然のことで、無理に語ろうとすれば作り話になってしまうことに気づかないわけでもないだろうが、それが本当の自らの物語だと思い込めば気が狂うしかない。そんなわけで自らの話を自らに信じさせるのは困難であり、それに対する一種の妥協策としてフィクションが存在することになるのだろうが、作り話の中で本心を打ち明けるのなら、いくらかは自己言及の負荷が軽減され、無責任にあることないこと語っている自らの不実さを許せるとでも思っているわけか。


4月3日

 夜に雨が降っている。明日はまた寒くなるそうだが、もう四月だろう。四月になったからといって、寒い日はいくらでもあるのかも知れないが、寒いからといって何がどうなるわけでもないか。寒さで体調でも崩して風邪でも引いたら、少しは深刻そうな気分になれるだろうか。それ以上にどうも心の中で何かが砕けているようだ。何が砕け散っているのだろうか。どこかで交通事故でも起これば砕け散った窓ガラスの破片でも見ることができるだろうか。だが誰かの心象風景の中に交通事故はあり得ないか。そんな連想に何の意味があるのかわからないが、君は他に何を思い浮かべているのだろう。時の経過を感じつつ、過ぎ去った時間の中に生起したどんな現象を知りたいのか。つかの間のまどろみの中で意識はぼやけているようで、取り立てて何も感知する気がないのだろうか。感知し得ないものを知ることはできないのか。またたとえ感知したとしても、その感知した現象をどうしたいのだろうか。ただそれについてああだこうだ述べるだけで満足するわけか。別に満足したくてわけのわからないことを述べているわけでもないか。何かを述べることで現実の世界に何らかの作用を及ぼしたい、とかいう虚しい思いでも抱いているわけか。なぜそれが虚しいと思われるのだろう。述べていることが理解できないような内容ならばどうなるわけでもないだろうし、それ以前に読まれなければどうしようもないような気がするのだが、しかし仮に読まれたからといって、それが世の中の主流を形成している意識と重なるような内容ならば、ただその場限りの共感を呼ぶだけで、どのような影響も及ぼし得ない人畜無害な代物になるだけか。では要するに何をどう述べてみても、それが述べている者の思い通りに効果を発揮するわけではないということか。確かにそれはそうかも知れないが、やはり何をどう述べてみても無駄なのか。しかし何かを述べることがはたして無駄であったりなかったりすることにつながるのだろうか。現実にはそういう意図で述べているわけではないのかも知れず、ただ適当に述べているに過ぎないか。ならばその場で思いついたことを述べるだけ述べているに過ぎないということか。いったいそれが何になるのだろうか。何かを述べることが何かになったりならなかったりすることがそれほど重要なことなのか。君は何にもならないようなことを述べているつもりではないはずか。ならば君は何かを述べ続けることによって、この世界で何がどうなってほしいのか。いったい世の中がどうなることを望んでいるのか。あるいはそうでなく、すでにどうにかなっていると思いたいわけか。確かに世界の一部分であるそれらの文章の中ではどうにかなっているのかも知れない。文章の外ではどうなのか。外ではただ雨が降り続いているらしいが、それは昨晩のことで、翌日の昼には空が晴れ渡り、春なのに寒風が吹きすさぶ大地の上を人々が今日も何やらうごめいているだけのようだ。またそんな動向とは無関係な誰かは、昨晩の雨音にかき消されたざわめきをどこかで再生させたいようだが、ラジオは車の中でしか聞かないので、今はそんな思いからは遠ざかっているように思えるのだが、必要もないのにそれ以上言葉を連ねるわけにもいかないらしく、それらのありふれたざわめきの中で、何が行われていたのか知ることを断念しようとしているらしいが、それは誰かのライブ演奏だったかも知れない。だがそれは昨日ことではない。わざととぼけるのもいい加減にしてほしいか。そこから何を説明しようとしていたのか。また何に影響を受けながらそんなことを語っているつもりなのだろう。しかしまだ自己言及には早すぎるだろうか。システム的にそんな展開なのだから仕方ないか。昨日の意識はさっきまで見ていた画面の向こう側で演じられている馬鹿騒ぎから意識的に遠ざかろうとして、遠ざからなければ何もできはしないと思いつつも、眠気を催しながら、神経の結び目が自然にほどけて、気休めに考えようとしていたことを思い出せなくしようとしている。なぜ君の意識は思考の邪魔をしようとするのだろう。なぜ彼は緑色に髪を染めているのか。なぜ断片的に無関係なことを述べているのか。そして思い出せなくなるたびに文章が長くなり、結果として生じているそれらの惨状を他の誰かが冷ややかに眺めている。君はそれらのゲームを軽蔑しているのか。軽蔑しているとすれば、意識はそれらの成り行きの何が気に入らないのか。運命を変えようとは思わないが、それが宿命であるはずがない。作為的に述べていることは確かかも知れないが、思い通りに述べているとは思っていない。別に何かに導かれながら語っているわけでもないが、そこで何を拒否しているのか。どうなってしまってはいけないのか。とりあえずどうにもならないように語らなければならないらしいが、それがどういうことかはよくわからない。


4月2日

 世界がこの先どうなっていこうと、また他の何がどうなろうとも今ひとつ深刻にはなれないようで、今日も冗談交じりに誰かが何かをつぶやき続けているらしいが、いったいそれらの嫌がらせの矛先はどこへ向かっているのか。だがそれを嫌がらせだと早合点して良いものかどうか迷うところか。たぶんそれも言説を要する一形態だと判断できなくもないが、どうも君は文章の内容を理解できないようで、それを述べている誰かにとっては哀しいことなのかも知れないが、他の誰かにとってはくだらないことに思われるらしく、とりあえずそれらの文章については何の感想も述べられないようだ。感想を述べる能力に欠けているのかも知れない。だがいったいそのような言動はどのような要因を基にして構成されているのだろうか。それらの文章の何が気に入らないのかについては、やはり何も述べられないようなのだが、なぜ直接に批判できないのだろう。なぜそれらの文章の内容については頑なに語ろうとしないのだろうか。いい加減に何が気に入らないのか返答してみたらすっきりするような気がするのだが、それだけは絶対に語りたくないらしく、執拗にそれ以外の内容を送り続けて、嫌がらせもどきを繰り返しているらしいのだが、はたしてそんなことで自己満足に浸れるのだろうか。別に自己満足など求めていないのかも知れないが、むしろそんな行為をやればやるほど欲求不満が募るばかりで、それが高じて精神が病んでしまい、そんな自らに気づかないのかも知れないが、そんなことは赤の他人の知ったことではないのだろうか。あるいはそれほど大げさな状況ではなく、そこまで気が回るほど神経質ではなくて、それはそれらの内容が紋切り型で幼稚な気がすることからも明らかだろうか。そんなわけで君は他人が述べている内容に自分の言動を合わせることができず、たぶんいつものように何を述べているわけでもないのだろうが、少なくともそれらの人々にできることは、ただわけのわからないメールを送り続けることだけか。やはりそれはそれで仕方のないことかも知れないが、とりあえず送りつけられたそれらは何かを述べる材料を提供してくれる貴重な存在なのだろうが、それはあくまでも仮想空間の中だけの話で、現実の時空で展開されている困難と客観的に比較すれば、それらの内容と行為はどうということはないほんの些細な不具合でしかないのかも知れない。君がまともな神経の持ち主ならば、なぜその程度のことで音を上げる必要があるのだろうか。音を上げるどころの騒ぎではなく、むしろ一時の間現実を忘れさせてくれる清涼剤のようなものか。何もそこまで強がらなくてもいいのかも知れないが、架空の君からすれば現実の世界はあまりにも荒涼としすぎているように感じられ、それらのどこにも君の居場所などありはしないと思われるのであって、そしてそれが君にとっては不満らしく、何とか君の住まう仮想空間から現実に存在する人々を操ろうとして、あの手この手のアプローチを仕掛けてきているようなのだが、どうやらそれらのことごとくがゴミ箱へ直行してしまうシステムになっていることに気づいているのか気づいていないのか、普通は気づきそうなものなのだが、どうも気づかないらしく、その証拠に無駄な試みを今日も必死になって行っているようだが、はたしていつまでそれが続くのだろうか。誰かはいつまでも続けられるはずがないと高をくくっているらしいのだが、もし君がそれらの行為を後百年以上も続けられるとしたら、架空の君は飽きることや忘れることや老いることを知らないわけか。たとえそこまで執念深く何かを行ったとして、それがいったい何になるのだろうか。それは単なるゴミ箱へゴミを捨てるだけの行為にしかならないのではないか。まあそれで気が済むのならいくらでも続けてもらって一向にかまわないのかも知れないが、そんな君を誰がそれらの仮想空間の中に存在させているのだろう。君も好きこのんでそれらのありふれた世界に束縛されているわけでもないわけか。君は自らの不自由な境遇に気づいているのだろうか。ただひたすらゴミ箱へ情報を投げ込んでいる自らの行為を虚しく感じないのだろうか。架空の君がそんなことを感じるわけがなく、今さら何に気づこうと誰の知ったことでもないか。たぶんそれらの行為は情報の種類もそれを発信する者も入れ替わり立ち替わりしながら未来永劫続いてゆくのかも知れないが、結果としてすぐに忘れ去られてしまうような行為でしかなく、もちろん忘れ去られても一向にかまわないようなこととして繰り返し行われてゆくのだろう。そしてそんな繰り返しの上に馬鹿らしくも愚かしい文明社会が続いてゆくのかも知れず、またそれについてああだこうだ言ってみても、何も始まらないような社会の仕組みができあがっているのかも知れない。そんなことをやれる者たちはそればかりに関わり合っていくしか生きる術がないのかも知れず、それは精神的に病んでいるどころか、逆にそのような状況下ではそれがごく普通な対応だと見なされていて、むしろそれに対して疑問を感じてしまうような者こそが、異常な精神の持ち主だと見なされてしまうのかも知れない。


4月1日

 何を逃げているのだろう。確かに意識的には逃げの体勢に入っているようなのだが、はたしてそれで逃げていることになるのだろうか。そこから逃げられたらどんなに楽なことだろう。目の前の現実から目を逸らせて空想の世界で自閉していたいか。しかしそれでも逃げようがないのではないか。逃げられないからこうして何かしら述べ続けている。このまま終われるわけがないか。だがなぜそうやっていつまでも意地を張り通しているのだろうか。現実に時間がないのだからやりようがないだろう。そんなことを自らに言い聞かせてみても無駄か。誰かは自分自身の言うことを聞かない体質のようだ。そんな矛盾した体質があり得るだろうか。やはりそれはご都合主義的なフィクションなのか。現実の誰かはそんな体質であるはずがなく、本心から何かを述べ続けようとしているのかも知れない。要するに誰かは語り続けるのが好きなのだろうか。好きなら好きで文句など垂れずにそのまま語り続けていればいいのではないか。なぜか昨日の意識は真夜中に目が覚めたらしい。偽りの天上界では至って平穏そのものらしいが、下界の慌ただしさは半端ではない。架空の悪魔はローマ法王が死ぬのがそんなに待ち遠しいか。どうやって昨日の窮地を脱して、明日に達しようとしているのだろう。君は誰か以外に誰の魂を必要としているのか。なぜ本気で思っていることを明かそうとしたいのか。いったいどこまで本心を隠し通すつもりなのだろう。それらの精神作用がどのようないきさつでそんな状態になってしまったのか知らないが、またどこをどう辿ってそんな場所へ行き着いてしまったのか覚えていないが、とりあえず適度の睡眠時間を確保している状態が続いているようで、まだ不健康とはいえない暮らしをしているらしく、それで正気を保っているかどうかは不確かだが、改めて生身の体にはある程度の休息が必要であることを知ったらしい。ついでに月並みなことを述べれば、花粉の飛散もどうやら峠を越したようで、いくらかは目や鼻が楽になりつつあるが、ここへ来てぶり返してきた寒さで風邪が流行っているらしく、調子に乗っての無理は禁物のようで、体調の管理に気をつけなければならないようだが、そんなわけで寝て起きて無意識が適当なことを述べさせているらしく、やはりこのまま終わってはいけないと危機感でも募らせているのだろうか。しかしそれほど焦るような状況なのか。君はそれらの心配性的な精神作用の何が馬鹿らしいと思われるのか。何となくまたわざと精神的にねじれてしまいたくなるようだが、正気を保つためには、それ以上にどんなつまらないことを述べなければならないのか。そんなことなど誰にわかるはずもないと思いたいところだが、すでにそんな風に思っているのではないか。しかしそんな風とはどんな風に思っていることになるのだろうか。やはりそんなことなど誰にわかるはずもないか。そんなわかるはずもないことなど放っておいて、少しは誰にもわかるようなことを述べた方がいいのではないか。例えば君は誰かの物語の中で永遠に生きようとしているらしいが、単独ではどうすることもできないのは確かで、誰かが君に関する物語を永遠に語り継がなくてはならないようで、そんなわけで誰かの助けが必要らしいのだが、絶体絶命のピンチの時に都合良く助っ人が現れるのは漫画やアニメや映画での話で、そのような物語は外から見聞するためのものでしかなく、現実にその中で生きることはできないだろう。そしてそれらを眺めれば眺めるほど、それらを覆っているご都合主義に嫌気が差してくるはずで、またそれを真に受けて毒された人々の存在や言動にもうんざりさせられるのではないか。それらの人々はあろうことか世の中が物語のようにはならないことに不満を抱き、自らの振る舞いでそうなるように強引に装おうとして、そんなわざとらしい振る舞いから無理が生じていることに気づかず、現実にはそんな風にいかないことがわかった時点から、見当はずれの不満を増大させ、それらの情念の行き着く先が犯罪行為に結びついてしまうわけだ。要するにそうやって取り返しがつかなくなった時点で自らの愚かさと勘違いに気づくわけだが、なぜ人々は自ら進んで馬鹿になろうとするのだろう。なぜ愚かな行為をしている途中で、それらの物語の欠陥に気づかないのか。現実にはただその場の成り行きや偶然の作用が介在してそうなっているのにもかかわらず、それが自らの努力や情熱や創意工夫だけで成り立っているように勘違いしてしまうことが、それらの救いがたい愚かさを形成しているように思われるのだが、その手の勘違いから生じる自己満足を得るためには、例えば絶えず自らが主体的に生きていると思い込んでいなければならないようで、そんな思い込みから覚めないようにそれらの物語が必要とされているのかも知れない。たぶんそれも一種の洗脳なのだろう。しかしそんな洗脳によって人々はどこへ行こうとしているのだろうか。その突き進んでいく先には何が待ちかまえているのか。やはりそれは予定調和的な破滅でしかないのだろうか。