彼の声47

2005年

3月31日

 君の思考回路はあまりにも単純すぎるようで、その単純さ故にどこかで失笑を買っているのかも知れないが、そのままいけばたぶんいつか君は君であることをやめてしまうだろう。なぜ思考回路が単純だと君は君ではなくなってしまうのか。それに関する理由らしい理由は今のところ何も思いつかないようだが、現実に君でなくなってしまったときに、何か思い当たる理由が出現したりするのだろうか。そんなわけでどんなわけでもないが、とりあえず君が君でなくなってしまうとき、烏の鳴き声を聞きながら君の意識は散漫に推移しているようで、特に何を考えているのでもないようなのだが、また気晴らしに君を装う誰かはどんな話を構築しようとしているのか。しかしそれで気晴らしになっているだろうか。やはり虚構的には誰かは何を求めているのでもないようだが、現実にはどうなのか。現実の意識は何を欲しているのだろう。例えば君は誰かの意識に巣くう欲望の内容でも知りたいのか。知りたければ何をどうやれば知ることができるのだろう。とりあえず迷惑メールでも送りつけて、それに対する反応でも伺えば、それである程度は気が済むだろうか。ところでそれらの何が迷惑メールなのだろう。君が発信しているメールを迷惑がっている人がどこにいるのか。例えば迷惑メールの送り先にはどんな人々が暮らしているのだろう。それらの百数十通ものメールはどこに送られていることになっているのか。誰かの迷惑メールボックス以外のどこにそれらのメールはたどり着くのだろうか。それらの宛先ははたして実在しているのだろうか。それを確かめるのは根気のいる仕事なのだろうか。またそれらの作業を介して君は誰かの何を知りたいのか。また作業を継続させることによって、君は何者になろうとしているのだろう。日頃から意味不明なことを述べている誰かが、これから引き起こすだろうどんな反応を、君は期待しているのだろうか。たぶんどうでもいいような紋切り型のリアクションを期待している君は、その時点でもはや誰でもないのかも知れず、すでに君ではなくなっているのかも知れず、それ以上に何をどう継続させても、もはや特定の誰かにはなり得ないのではないか。要するに君はそれらの作業によって君でなくなるどころか、誰でもないただの群集心理の断片と成り果ててしまうわけか。その時点で誰かが述べている意味がまったくわからなくなってきたようで、それに対してどう返答したらいいものかわからず、困り果てて何もできなくなってしまうだろうか。もちろんそれは見え透いた嘘で、こうして何からの文章を構成しようとする意思が虚空のどこかに存在しているらしく、その意思が何気なしに見出そうとしている風景の中で、その誰でもない誰かはどこに存在していることになるのだろう。あるいは君は誰かと集団自殺でもして、すでにあの世の住人となっているのか。しかし誰かはそんな荒唐無稽でわけのわからないことを述べながら何を楽しんでいるのか。やはりそれに対する君の馬鹿の一つ覚え的な反応を期待しているわけか。君は何を恐れているのだろう。何とか薄ら笑いを取り繕うとしているらしいが、いったい何がそんなに怖いのか。たぶんその愚かな反応の内容は、誰かがこれから記そうとしている宣伝文句の中にでも現れるのかも知れず、その反応は気まぐれに出現するのではなく、何か特定の目的を担って現れ出でるのかも知れない。どうすれば出会い系サイトの会員を増やせるだろうか。例えばそこで何を買ってほしいのか。それは何かのオークションサイトなのか。君に必要なのはどんな商品なのだろう。知識とは無縁の架空の君がそれを知るはずもないか。たぶん君は知ろうとしていることは君には知り得ないことであり、何かの偶然から君の知らないところで誰かの気が変わって、今度はそれとは別のことをやろうとするのだろう。もしそうなったとき、それに対応していつかの誰かは何を考えるだろうか。それはでまかせに自らの将来の夢についてになってしまうか。あるいはそれ以外の何を考えていればその場の雰囲気に合うかを考えているのか。そこではどんな雰囲気を醸し出せば気が済むのかわからなくなり、それとは無関係に昼の曇り空にはどのような思考が必要なのだろう。なぜ唐突にそんなことを述べてしまうのかわからないが、それはいつもの冗談のつもりだろうか。そんなことを考えながら誰かはひたすら沈黙し続けているのだろうか。はたしてそれで考えていることになるのか。それでも考えているふりをしたいのなら、もう少しマシなことを考えたらどうなのか。何を考えているわけでもないようなことを考え続けて、それ以上の何がわかるというのだろう。たぶんそれも毎度おなじみの冗談の一種で片づけようとしているのか。しかしそれでどのような冗談を述べているつもりなのだろう。思わないようなことを思い、考えられないようなことを考え、結局はそれで何を思考していることにもならずに、要するに君はどんなことをわかろうとしているのでもないらしい。


3月30日

 たぶん人は人と出会わなければならないのだろう。人類は一人ではないのだから、それはすべての人の宿命かも知れないが、わざと人と人を出会わせて何をやろうというのか。例えばネット上に会員制の出会い系サイトでも設ければ商売になるわけか。だが別に商売で強引に出会わせなくてもいいだろう。そこには何か偶然の作用を狭めようとする意図が働いているように思われ、その辺の作為的な部分が何となく誰かには納得できないようだが、中にはそうでもしなければ誰にも出会えない人とかもいるのだろうか。そうではなく要するに満足のいく出会いがしたいのであって、出会いたい双方が納得済みの出会いにならなければならず、そのための便利なシステムが望まれていて、そこにその手の商売のつけいる隙が生じているというわけか。しかしそんな商売が繁盛しているからといって、不特定多数の人々に向かって強引にそのシステムの利用を宣伝しまくるのも迷惑な話で、何が何でもその手の商売の客にしようとする魂胆が見え透いていて、洪水的に何度も案内を送りつければ、まともな神経の持ち主なら何となく意識的に退いてしまい、かえってそれらのメールを使った過剰な宣伝が逆効果となっているのかも知れず、結果として常識的な感覚の麻痺した頭の程度の劣悪な人しかその手の商売には引っかからなくなっているのではないか、と迷惑メールの配信者に余計な心配を寄せているわけでもないが、無論本気でそんなことを述べているわけではなく、日頃から思っていることをそのまま言葉で表現するにも限界があり、本当はそんなことはさらさら思っていないようで、ことさら気にかけているようなことでもないようで、それでも一応は冗談がてらに何か適当なことを述べているつもりなのだろうが、それ以上に何か気の利いたことを述べられるはずもなく、その代わりに何を述べようとしているのかもわからずに、そんなことを誰が知っているわけでもなく、そして誰もが知っていることも、また逆に誰も知り得ないことも知ろうとしているわけでもなく、誰かが知り得ないことは他にもたくさんあるようで、実際に知り得ないのだから、それらの一つ一つを数え上げることは不可能なのはもちろんのこと、途中から何を述べているのかわからなくなり、述べた後からそんなことを語ろうとしていたのではなかったことに気づくのだろうか。しかしそんなごまかしがどこで通用するだろうか。そうやって何をごまかしているのかわからないが、確か以前にもそんなことを述べていたことがあったはずか。つまり何も述べられなくなって切羽詰まった誰かは、無意識のうちに過去にやったことを思い出して、性懲りもなくそれをまた繰り返しているわけか。たぶん何を繰り返しているのかも誰かの意識は忘れているのかも知れないが、繰り返しているのはさっきまで述べていたそれではなかったのか。それさえもわざとしらばっくれて、それを知っていながら知らないふりをしているだけか。たぶんそれはそれほど知り得ないことではないはずか。また君が誰かの代わりに知り得ないことを語っているはずもないか。ただ誰かは迷惑メールに助けられてそこまで文章を記してきたのだろうが、そこから先が何もないようで、何もないから何か適当なフィクションを構成しようとしているわけか。君は抽象的には窓がなく入口も出口もないらしいが、それで君が孤立しながら存在していることになるのだろうか。だからそれ以外に知り得ないことは存在し得ないのだろうか。何を述べているのか意味がつかめないようだが、誰かには君の何が知り得ないのだろう。その存在は誰かが記した文章の中に構成されているに過ぎないようだが、では君の意識は誰が設定しているのか。君はどんな性格を纏っているのだろうか。しかしなぜそれを文章の構成者が考えなければならないのか。そこに何か致命的な欠陥でもあるのか。誰かの意識の中にはそれに関するどんな構想が埋もれているのだろうか。どんな物語を構想しているわけでもないか。ただその場で即興的に文章をつなごうとしているだけで、用意周到で綿密な計画など何もないのかも知れず、その場限りの間に合わせの言葉しか持ち合わせていないようだ。だからいつまでも困惑し苦悩し迷うことしかできないのであり、そんなわけで苦し紛れに付け足された言葉の羅列を繰り返し提示せざるを得なくなり、そして後からそんな文章を読み返しているうちに眠たくなり、それらの失敗の連続から何も学ばないまま、寝て起きればそんなことはきれいさっぱり忘れ去っていて、そこから何かを記述しようとすれば、またいつもの過ちの繰り返しになってしまうわけか。そんなことを繰り返して何になるのだろうか。何か誰かには計り知れない効用でももたらされているわけか。いったいそれがどこの誰にもたらされているのだろうか。それに関してどこかに誰か心当たりの者でもいるのか。冗談でならそんな効用を信じることができるかも知れないか。


3月29日

 君はそれらの文章を読んで何を理解したつもりなのか。別に理解を無理強いしているわけではなく、そんな無理を承伏できかねることは承知しているつもりだが、またそれ以外に何を承知しているわけでもないが、またそこから生じているつもりの、無理を承知で期待されるどんな効用も信じられないが、それでも誰かの意識は性懲りもなく、無理に思いついたそれらの言葉を記そうとしているらしく、たぶんそれ以上の文章の継続は無理なのかも知れないが、苦し紛れに何かを述べているつもりでも、やはり何を述べているようにも感じられず、意識はそれ以上に何を述べようとしているのでもなく、何も述べられないことを素直に認めざるを得ないようだが、その辺がそれらの記述の限界なのだろうか。しかしその時点ですでに限界を超えているような気がするのだが、そんなことは君の関知しないことなのか。少なくともそれらの文章の内容に関しては、少しは君に関わり合いのあることではないのか。関わり合いがあろうとなかろうと、またたとえ誰がそれに関わっていようと、そんなことは君の知ったことではないと言い切れるだろうか。だがなぜいつもそうやってそこから逃れ去ろうとするのか。では逃れ去ろうとする以外にどんな対応が可能なのだろう。そこでありふれたことを述べるなら、もっと目の前の現実に目を向けるべきか。では君はそこで冗談とともにどんな現実を受け止めるべきなのか。状況的に誰かの意識はそこで風が強い以外は何を感知しているわけでもないらしく、ただ強風が吹きつけるだけの現実に逆らうつもりもなく、身体から滲み出た意識は、それ以外に何か適当な現象を感知しようとしているわけでもなく、ただ風に乗ってどこか遠くへ飛ばされていってしまいたくなるのは、君とは別のロマンチックな妄想を抱いているつもりの冗談半分な意識だろうか。何が冗談半分のつもりでそんなことを述べているのかよくわからないが、ついでに関知と感知では意味が異なっていることは承知しているつもりだが、それ以外にどこの誰が何を感知しようと、とりあえずそれらはすべて君の関知しないことだと思いたいようで、誰かの意識はさっきから何をわけのわからないことを繰り返しているのだろうと思いつつも、もちろんさっきのそれと今のこれとは無関係な話なのだろうが、とりあえず話を元に戻したいようで、戻せるわけもないのかも知れないが、夜になっても誰かは何を思うこともなく、それらの冗談半分の文章の中に何を見出したわけでも感じ取ったわけでもないらしく、ただそこから先にさらなる空虚な時間と無駄な言葉が続いてゆくように感じられ、たとえ結果として生じつつあるその場が、雰囲気的に空虚でしかないように思われようと、それでも意識はそこから何かしら微細な感覚を生じさせていることは確かなようで、その意識が感じ取っている何かしらが言葉で表現されていると思いたいようだが、それは何かの思い違いなのだろうか。だがたとえそれがつまらない思い違いであったり勘違いであったりしたとしても、それによって何らかの文章が構成できれば、それはそれで満足すべきなのだろうか。なぜそこで誰が満足したいのかわからないが、それでも誰かはそこに何らかの文字が記されている状況に満足したいわけか。満足したとしてどうなるわけでもなく、それらの文字の連なりを誰が読む気になるだろうか。誰か得体の知れない意識の持ち主がどこかに存在していて、その誰かがそれらの文章を楽しそうに読んでいる姿でも妄想したいわけか。だが誰がそんな妄想を抱いていることにしたいのか。それは誰かでないとすると誰なのか。そこで何を循環させたいのだろう。たとえば架空の物語の中でわざとらしくそんな登場人物でも出現させて、そこで何か利いた風なことを独白させたいわけか。しかしさらにそんな独白もどきの物語を誰に読ませたいのだろう。別に誰かはそんなことを考えているわけでもなく、ただそれらの文章の成り行きからそんな架空の意思が生じているだけなのだろうが、何となくその辺でそれらの空疎な言葉の連なりから降りたくなってくるのだが、それがはたして空疎だといえるだろうか。何がはたしてなのだろう。そこでは何が果たされているのだろうか。君はそこでどんな責任を果たしているつもりなのか。なぜそうやって飽くことなく、あるいは飽きているのに、延々と目の前に横たわる空虚と戯れているのか。それはただの文字列に過ぎず、それらの文字列に新たな文字を付け足し続けることによって時間を浪費しているに過ぎないのではないか。それでも何らかの達成感でも得られて君は満足してしまうのだろうか。別に架空の君が満足しているのではなく、実際に文字を記している誰かが満足しているだけか。そしてそうやってつかの間の満足感を味わいつつ、重大な何かを忘れているのだろうか。それ以前に何が重大なのかわからないか。


3月28日

 まだ何か言い足りないことでもあったのか、あるいは本音が出てくるまでにはどれほど無駄な言葉を弄さなければならないのか知らないが、また誰かは安易なことばかり述べているようで、それらまともな内容に代わるきっかけをつかめずにいるらしい。まったくいつまで経っても思考に見合う記述には到達できないようだが、また何を述べるのも面倒臭くなってきたので、ちなみに昨日のことを覚えているだろうか。それについては何のことやら知らぬ存ぜぬを貫き通したいらしいが、別に何をとぼけているわけでもないか。本当に知らないことは思い出しようがないか。昨日のことは昨日のことで、今日のことは今日のことなのだが、そんな当たり前のことについて何を述べたいわけでもないが、そこからどれほど遠くへ行けるわけもなく、やはり日付的には昨日のことでも思い出さなければいけないのかも知れない。しかしいい加減な想像力にはつまらない飛躍が潜んでいるらしく、馬鹿げたことはどこまでも馬鹿げたことでしかないと思いつつも、そんな風に語りながら何を否定したいのかわからず、何もわからないのに何を否定できるとも思っていないが、逆に何を肯定できるわけもないか。だがそんな風にして何かを述べながらも、それ以上は何を述べようとも思わないのはどうしてなのか。やはりできないことはどうにもやりようがないのだろうか。何を思ってみても、その思い通りに文章を構成できるわけではないということか。そしてその思い通りにはいかない文章の中ではまだ何も述べられていないらしく、その中身が何もないことへの苛立ちから、誰かは発作的にやめてしまいたくなるようだが、それでもまだ終わりはしないと思われる。意識や思いだけでそれを終わらせることはできない。終わるときは簡単に終わってしまうのかも知れず、終わらせようとすれば終わりようがなくなるものなのかも知れない。そうなる理由や根拠は何も示せないが、日々の体験がそんな思いを誘発するらしく、何かをやろうとしてやれた例しがないのはいつものことなのだが、もう何もやるまいと決心すると、すぐにその決心を裏切るように何かをやっている自らに気づいてしまうようだ。それは死ぬ前に苦悶しなければ死んだ甲斐がないと思うようなものか。それとこれとはどこで意味がつながっているのかさっぱりわからないが、たぶん死ぬ間際には誰かは苦悶しているのだろう。それは何かの演技なのだろうか。本当に苦悶したいわけでもないのに、苦悶を演じるのは嫌ではないのか。偽りの映像が導き出す演技では腹部を撃たれて苦悶していることになっているらしいが、なぜかいつまで経っても苦悶するばかりで、一向に死ぬ気配がないのはどういうことだろうか。それがありふれたフィクションであり、物語の最後までいって死ななければ様にならないからか。あるいは無様な死に方は主人公にはふさわしくないのだろうか。しかしそれは何の物語なのか。誰がそれを想像しながら思いだしているのだろう。また誰かは想像にまかせていい加減なことを述べている最中のようだが、それらの話の筋書きが一向に見えてこないのはどうしたわけだろう。まだ思い出し足りないのか、あるいは空想が足りないのか、それともまたいつもと同じパターンなのかも知れず、面倒臭いから内容については何も語らないまま終わってしまうようで、君は当然のことながらそんなことに興味があるわけではないらしく、さっきからどこか遠くを見つめ続けているようだ。しかしそれも見え透いた演技のうちで、その姿をよく見れば目の焦点が合っていないことに気づいてしまう。やはり本気にはなれないのだろうか。それらの状況についてまともに語ることはできないのかも知れず、それ以外に何もできないわけでもないが、例えばそこから君はどこへ行こうとしているのか。馬鹿らしくて何も語ろうとしないのなら、その馬鹿らしさの最中にどんな言葉が見受けられるのかを知ろうとすればいいだろう。それを知ってどうなるというのか。どうなるわけでもなく、何もない場所から何が問いかけられているかがわかるかも知れないが、それ以上に何を述べようと責任の所在がはっきりしなくなる。だがつまらないからといって誰がそこで責任を感じる必要があるのだろう。しかし誰もそれらの状況について危機感を抱いているわけでもないらしく、相変わらず言いたい放題でやりたい放題な言動を貫き通したい人が大勢そこに群がっているだけか。放送は彼らにつまらないことを述べさせるために大金を注ぎ込み、商品の宣伝と引き替えにのさばらせておきたいらしい。だがそれで特定の誰の言動を批判しているわけでもなく、ただ何となくそんな雰囲気と状況に慣れ親しんでいる意識が鬱陶しくてたまらないようだ。ところで君は昨晩において何を見聞していたのだろうか。確か君が見ていた映像はそんなものではなかったはずだ。それは映像ではなく現実の光景ではなかったか。


3月27日

 何が想定済みなのか。そんな台詞は間に合わせの付け足しに過ぎないが、確かに夜の時間帯は退屈しのぎを必要としているらしく、テレビを見ながら頭の中を空っぽにしようとしている。いったい誰が何を必要としていて、なぜそんなことを思うのか。また暇つぶしに何を述べようとしているのだろう。そんなことはないか。君はそうではないと思いたいようだが、画面上にはまるでガン細胞のように何かが増殖している。それは言葉以前の言葉か。あるいはそんな言葉は存在し得ないか。要するにそこに記された文字は言葉にはなり得ないということだろうか。現実にはそんなことはあり得ないが、誰がそれ以外の言葉を必要としているのだろう。気まぐれな誰かは君が何を思っているのかわからない。気まぐれでなくてもわからないのかも知れないが、また何をわかろうとしているわけでもないだろう。何か他にやるべきことがあるのだろうか。そこで何を果たそうとしているのかもわからないのに、その偽りの果たせぬ思いをいつまでも引きずりながら、さっきから誰がどうかしているわけでもないが、それでも気が触れる一歩手前に至ることもなく、いつまでも冗談を述べている場合ではないだろうとも思うが、引きずっているのはそんな冗談ではないはずだが、意識が思いつく内容は冗談以外に何があるのだろう。誰かはそれが冗談だとは思えないのかも知れないが、冗談でないとすると何なのか。君にとっては何でもないのか。だが何でもなければ語る必要がなくなるかも知れないが、とりあえず何でもなくても雨が降る。そしてたまには晴れる場合もありそうだ。でも晴れたからといって何を述べられるわけでもないか。今年も六月になれば雨が降り続く季節になるのだろうか。君はそんなことを知りたいわけでもないのだろう。それは知りたいことではなく、知っていることなのではないか。だが別にそんなことを知っていようと、天気が雨だろうが晴れだろうが曇りだろうが、冗談で矢が降ろうがミサイルが降ろうが、そんなわけはないと思うが、述べている途中からつまらなくなってしまったらしく、その調子でさらにつまらないことを述べようとしているわけでもないが、冗談でさらに何を述べられるだろうか。適当に何かしら述べられないこともないのだろうが、結果的にはただ述べたくもないことを延々と述べているだけになってしまいそうだ。そんな悪循環をどこかで断ち切らなければならないか。そう思っている誰かはその代わりに何を述べようとしているのだろうか。代わりに述べることなど何もないか。では代わりではなく、それと同じようなことを述べることしかできないのかも知れないが、それがどうかしたのだろうか。それでは悪循環を断ち切れないだろう。そう思えばそうなのかも知れないが、何となくそれでもかまわないように思えてきて、戯れにそれを繰り返してみたくなったらしいが、なぜ簡単に挫折してしまうのか。誰かの想像力にも限界があるということか。それは想像力などではなく、何なのだろうか。何も思いつかないので少なくとも想像力ではないらしい。何を想像したいのだろうか。これから何を述べるか想像できるだろうか。すでにそんなことを述べているではないか。そんなことを述べながら空虚を循環させている。やはりそれは想像力ではなく、無意味な構成力だろうか。他に何を構成しているわけでもなく、わけのわからない文章を構成しているつもりのようだが、わけなどすでにわかっているつもりになりたいらしく、何とかそれらの文章がいわんとしていることをわかろうとしているようだが、わかろうとしているそばからさらに無意味な言葉が追加されて、わかろうと心がける意識を無効にしようとする。虚無は何もわからないでほしいようだが、それは虚無の意識などではなく、理解不能にとどまろうとする誰かの意思かも知れない。そんな風に述べてはいけないのか。軽はずみに物事を理解しようとしてはいけないらしい。それでも理解しようとすれば、それは勘違いになってしまうだろう。そんなわけで思わぬことを思っているらしい。君はそれらの文章の真意をわかろうとしてはいけない。真意などあるはずがないか。たぶん真意はそれとは別の文章の中で述べられているのだろう。今は面倒なのでそんな風に思っていたいらしい。何を時間稼ぎをしているのか。時間ならもう嫌というほど経過してしまったのではないか。君はいったいいつになったら何かを思うようになるのだろう。なぜ意識が言葉を生み出さないのか。思うより先に文章が構成されてしまう現実をどうしたらいいのかわからない。どうにもできないからそのままの文章がむき出しのままに存在してしまうらしい。そしてそんな文章を読みながら何を思うでもなく、さらに同じような文章を構成してしまうようだ。要するにそれが悪循環そのものなのだろう。


3月26日

 水がない。水曜日になれば水を得られるだろうか。人はなぜ情報を求めるのだろうか。君は終わろうとしている。あるいは急いで終わりを否定して、今度は始まろうとしているのかも知れない。終わりがそんなに怖いのか。なぜ終わることを恐れているのだろう。それは何らかの技術だろうか。何かを述べるにはそれなりの技術が必要とされるわけか。そんな風に述べれば納得したつもりになれるか。だが精神の集中は長続きせず、気がつけば何を述べているのかよくわからなくなっていることが多い。話の途中が抜けているのかも知れない。君はそれ以外には何も作り出せないのか。それらの視線は漫画やアニメとは違う方角を向いているわけか。しかし小説などではあり得ない。フィクションには違いないが、君以外に誰が話の中に登場しているのか。またあるとき君は音楽に興味があると述べたらしいが、それらの音楽は君が興味を惹いていた音楽とはどのように違うのだろうか。無駄話の中にカーラジオから聞こえてくる会話が加わっているようだ。終わろうとして終わらせられるわけもない。それ以前に何を述べているわけでもなく、無意識のうちに終わりから遠ざかろうとしているようだが、それはどの段階での終わりなのだろうか。終わりに段階があるのか。終わりとは完全に終わることとは違うのだろうか。不完全な終わりが真の終わりといえるだろうか。しかしなぜそんなことを述べているのだろうか。終わる気もないのに終わりについて言及して、終わりという言葉と戯れているだけか。水分を補給したのは昨日のことで、おかげで植物が枯れずに済んだようだが、別に自ら枯れようとしていたわけでもない。枯れた老人は近い将来即神仏となり、要するにミイラになるだろう。人の寿命は誰が知っているわけでもない。しかし君に寿命があるわけでもなく、誰かの気分次第で登場したりしなかったりするだけの存在でしかない。本気になれないことはわかっている。架空の存在が本気になれるわけがないか。しかしそれらのどこに物語があるのだろうか。物語もないのに登場人物が出現できるわけがないか。なぜ君が物語の中に出現する登場人物なのだろうか。だが誰かはそんなことを知りたいわけでもなく、ただ気晴らしに適当な言葉を繰り出しているだけか。そしていつまで経っても本気になれないので、昨日の時間帯にとどまり続けているわけか。意識はそれ以外に何を考えているのだろう。考えるのが面倒なので今日を通り越して明日に存在したくなるが、それを実現させるためにはさらに言葉を弄して日付を進めなければならないだろうか。わかりきったことを誰に向かって問いかけているのだろう。何を恐れているのか。技術的な小説を恐れる必要はないのか。今さらそんなものを読みたいとは思わないか。誰の興味とも関係のないことが記されていると思っているらしい。ではなぜ興味を惹くようなことを述べられないのだろうか。誰の興味を惹きたいのかはっきりしない。誰も想定できないか。君が妄想している内容はそんなことではない。要するに話をまとめるつもりがないのか。のどの渇きをいやすためには水を飲めばいいことでしかないか。君はそれとは無関係なことを述べている。そしてそこから抜け出ることは不可能だ。しかし何と戦っているわけではない。たぶん誰かの身体は動き続けているのだろう。それが生きている証なら、君は生きているわけでも死んでいるわけでもなく、ただそれらの光景を眺めているつもりらしい。この世界はこの世界であり、誰もがそれ以外を求めているわけでもなく、そこから抜け出ようとしているわけでもない。それはかなり馬鹿げたことだと思われるようだ。誰にとってもそうなのかも知れず、そこから消えゆく人々もただ消えゆくだけでしかなく、それらの行為に肯定的な意味を封じ込める作業は、いつも徒労に終わろうとしているらしい。くだらぬ勢力争いにうつつを抜かす人々ばかりがもてはやされ、要するにそれらの人々が自己言及に終始しているだけでしかないことに気づかない。絶えず自分たちの立場の正当性を主張し続けているだけでしかないのに、そんな現象を同業者がこぞって騒ぎ立てているのは滑稽だろうか。なぜそんなくだらぬことが無視し得ぬ問題なのだろうか。そこに株や大金が絡んでいるから問題なのか。たぶんそういうことの蓄積が文化と呼ばれるものなのかも知れないが、そんなものをことさら守り抜こうとする精神がおかしいのではないか。確かにそこに生活がかかっているのだとすれば、誰もが感情的にならざるを得ないところかも知れないが、現実にやっているそれはすでに生活からはかけ離れたゲーム感覚の様相を呈しているのにもかかわらず、それでもまだそこに義理人情を持ち込もうとする姿勢がわざとらしくも愚かしいところか。とりあえずそれで気が済むのならそれでもかまわないのかも知れないが、近い将来においてそんなことはどうでもいいような過去の出来事になることは目に見えているか。


3月25日

 何かを忘れていないだろうか。例えば昨日見た光景を忘れ去り、その場に漂う空気の流れを読むこともできず、いつものように意味不明なことを述べながら、また架空の君にとってはどうでもいいような一日が過ぎようとしているらしく、それに関して何を思うわけもないのだろうが、いつまでも得体の知れぬ文章の中にとどまり続けている君は、まだそれらの空虚な文字の連なりから抜け出せないようで、あるいは抜け出そうと思えばいつでも抜け出すことが可能なのに、わざと抜け出そうとしないのかも知れず、いずれにせよ誰がどこで勝ったり負けたりしようと、そんなことにはまったく興味がないように見せかけながら、他人のやっていることに興味がないわけでもないのに、それに関して必要以上に何を思っているわけでもないと思いたいらしく、また本当にそんな風に思うことができるとは思っていないようなのだが、今はあえてそんなわけのわからない嘘をついてみたいらしい。それ以上に何を思うことが可能だろうか。いったいそれらの現象について、君はどんな風に思っているのだろう。何がどうなろうと君には関係のないことか。もし関係があるとすれば、それについてどう思えばいいのか。この世の中の至る所に興味を惹く現象が生じていると思いたいのか。君が体験しつつある状況は、それらの現象に関係があるのかも知れないが、あえてそれを無視することにどんな効用を期待しているのだろうか。具体的にそこで何が生じているのだろう。そして君はなぜそれを知ろうとしないのか。知る前に知っていることで済ませようとしているわけか。しかしすでに知っていることだけで、それらのわけのわからない現象を説明できるだろうか。説明できないからわけがわからないのではないか。だからそれらの現象を言葉で説明できないのだろう。いったいそれらの現象とは何なのか。何なのかわからないから何も述べられないのに、それでも何かしら述べていることはおかしいか。はたしてそんな話の内容でいいのだろうか。別にいいとは思わないが、実際に述べている内容はそういうことなのだろう。そういうことでなければどういうことなのか。具体的に何を述べているのかわからないまま、それでも何かしら述べていることのどこがおかしいのだろうか。おかしいのではなく、それではつまらないのではないか。誰がつまらないと思っているのだろうか。それもわからないのか。しかし何もわからないのに何を述べているのだろう。できればもっとわかるようなことを述べてほしいか。それでも君は話の内容をわかっているつもりなのか。ではいったい何をわかっているというのだろう。架空の君では何もいえないから、はたしてわかっているのかわかっていないのかわからないか。たぶん糖分を過剰にとりすぎているのかも知れない。それは嘘だとしても。それ以外に何を吸収しているわけでもないのに、否定的な結果が出ている。そうではないと思いたいのに、そうなってしまっている現状が突きつけられているようで、そんな結果では不愉快きわまりないだろうか。だが何がきわまっているわけでもなく、別に感極まって涙を流しているわけでもないが、それ以上に何を期待していたのだろうか。それらの現象に何も期待していないはずがないか。では期待を込めてさらに文章を構成し続けていけばいいのではないか。何事も継続していれば、いつか何かがわかってくるかも知れない。わかる前に言葉が尽きてしまうかも知れないが、尽きてしまえばそれ以上はやる必要がなくなるから、かえってそれで気が済むかも知れない。そこまでやればそれらの現象の正体がわかるだろうか。まだわけがわからない段階でそんなことを予想しても虚しいだけか。君は現状が虚しいからそんなことを述べているのではないか。だが空疎なことをいくら述べても無駄か。はたして無駄なことを述べているという意識があるのだろうか。無灘なのになぜ執拗に述べ続けるのか。それがそこで感じている現状だからか。そんな答えになっていない答えがありなのか。それらの現象に始まりも終わりもない。ただそこで漂い続けている雰囲気がそれらの現象を構成しているのか。それ以上でも以下でもなく、そんなこととは無関係に何を思っているのだろう。しかし何がそこで腐っているわけでもないらしい。確かにそれらの文章は腐敗とは無関係か。だが別に架空の意識が構成されているわけでもないか。何も思わなければ意識とはいえないのではないか。何も思わずに文章を記せるはずがないか。では何かしら思っているが、その思っていることを意識できないだけなのか。それらの意識が何を思うことがあるのだろうか。何かを思う前に何を述べているのだろうか。そんなことが架空の君にわかるはずがないか。たぶんそこでは何かが繰り返されているだけなのだろう。ただの言葉が循環しているに過ぎないのだろうか。


3月24日

 できることならそんな風には思いたくないところだが、君は何を馬鹿らしく思っているのか。彼らが生きる拠り所としている文化とは何なのか。唐突に君は何をわかろうとしているのだろうか。放送文化とは何なのか。地球環境とロボットとはどのような関係にあるのだろう。冷凍マンモスの存在価値とは見せ物以外で何があるのか。人類はいつ滅亡するのだろうか。いい加減な文章の羅列では、何となく意味が通らないように思えるので、誰かは自らが記した文章の始まりの部分を修正しようとしているらしく、さらに言葉を付け加えて、それらの文章の中で何か適当なことが述べられているように装いたいらしいが、やはりいつものように何も述べていないように思えてくる。後から読み返してみればわかることか。実際に後から読み返してみてどうだったのだろうか。それに対する感想など何もなく、そうやって何も思わずに何も述べないつもりのようだが、それでは誰が何をどうやっているのか不明か。そんなことを述べようとしていたわけではないだろう。そしてそんな戯れ言とは無関係に、君は電波に乗って伝わってくるそれらの情報についてどう思っているのだろう。とりあえずそれと敵対しているわけでもないらしいのだが、それを見たり聞いたりすること以外に、やるべきことは何もなさそうに思われ、そこで判断停止状態に陥り、情報の享受者たちはそれ以上何も述べようとせず、現実に多くの人々はそれとは無関係なことをやり続けている。では君はそんな状況について何を述べようとしているのだろう。文章に記されたそれは、決まり切った文章の出だしから逸脱して、冗談としか思われないような代物になっているかも知れないが、それでもいつもの荒唐無稽な妄想とは少しばかり異なるような気がして、誰かに見出された架空の意識は妄想に代わる何らかの具体性を獲得したように妄想しているらしいが、たぶんそれが妄想以外ではないことを証明するのは無理だろう。要するにそんな君が何を述べようと、他の誰かはそれをいつまでも無視しているわけだ。ではそれらの無視を打ち破るためには何が必要なのか。誰かが日頃から求めているらしい真実が、それらの妄想から派生するようにできるだろうか。なぜそんな結論に至るのかわからない。そうなるべき理由がよくわからないのだが、それとは無関係に君は明日のことを覚えているだろうか。今このときから逃げて、明日に抱く妄想の内容でも予言してみたくなったのか。いくら架空の君でも未来の出来事など思い出すことは不可能か。ではそれはその場限りのつまらない嘘なのか。あるいはその場限りの俄予言者は本当に明日に起こる出来事をわかりかけているのだろうか。なぜそこで君が予言者にならなければならないのか。そんなことはどうでもよくて、仮に君が毎日決まり切った日常を送っていれば、たぶん明日も同じようなことをやるだろうから、ある程度予想はつくかもしれないが、ではそんなわけのわからない架空の君について述べている誰かが、いつまでも昨日の時間帯に引き留められている現実には、どのような原因と理由と必然性があるのだろうか。それはわからないでは済まないようなことなのか。それで済まなければどうなってしまうのか。たぶんどうにかなるのかも知れないが、別にそんなことを述べたいわけではなく、ただどんどんもとの話から遠ざかっているような気がしてならないのだが、とりあえず唐突に元に戻したつもりになると、なぜそれらの文化を担っている人々やそれらが属している組織は、自分たちが行っている事業を通じて社会の役に立とうとしているのか、あるいはそんなポーズでいられるのか。何か社会に貢献しているように装えば、それによって自分たちのやっていることを正当化できるわけか。あるいはそんな社会を維持していないと、自分たちの存在基盤が消失してしまうような危機感でも抱いているのか。だがそんな社会がどこにあるのか。彼らが感じている社会と君が感じている社会の姿には、多少なりともずれが生じているのだろうか。しかしそんな感覚などで見解の相違が埋まるはずがないだろう。君は彼らとは違って、どのようにも正当化できないようなことを語っているつもりらしい。君は放送文化などとは無関係なのだろうか。情報の享受者であるにもかかわらず、それを無視している風を装えるのか。そうするためにはどのような理論武装が必要なのか。少なくとも武装しようとは思わない。ただ何となく何もかも冗談として受け流したくなってくるのだが、何も見出せずに何ももたらされない現象などあり得るのか。仮にあり得たとして、そんなものは何の役にも立たないのではないか。しかしはじめから何の役にも立たないことを語っていたのではなかったのか。それほどあり得ないことを述べているわけでもないのだろうが、どうやっても妄想から抜け出ることはできないようで、たぶん遠からず退廃することは目に見えているのかも知れないが、どんなに考えてみてもそれ以上は何も見出せないだろう。君は何もできないわけではないが、何かをやろうとすることが、別の何かをやらずに済むことになるらしい。だがそれらの状況からかけ離れたことなど誰にもできはしないだろう。


3月23日

 もはや終わりかけているのに、この期に及んで何を疑っているのだろう。いったいそれはどういうことなのか。例えばわかりやすい疑問とはどのようなものなのか。はたして自分にはまだやるべきことがあるのだろうか。仮にやるべきことが見つかってしまったら、これから君はどうなるというのか。そのやるべきことをやればいいだけか。本当にそうしなければならないのならば、そうなるように努力しなければならないわけか。何も努力しなくてもそうしてしまうだろう。現に今この時間帯において、そうしているではないか。努力もしないで簡単にそうしてしまっては、何か不都合なことでもあるのか。別に不都合なわけでもなく、ただ馬鹿げていると思われるかも知れない。なぜか君にはそれが冗談だと思われてしまうらしいが、では誰が冗談を述べているのだろうか。誰がそんなことを語っているわけでもなく、ただ文章的にそれが冗談であればいいと思っているだけなのかも知れないが、その辺が今ひとつわかりかねるところだが、たぶんわざとわからないように述べているのだろう。そしてそれではつまらないと思っている。それでその先に文章がつながると思うか。思わないとすればどうすればいいのか。たぶんどうもしはしないだろう。ただ気分的にそれをやり続けたいのかも知れない。では気分的に現状はどのように思われるのか。何でもないのに何なのかわからないが、何かを述べる前からすでに意識は挫折しているようだ。現実にそんなことはあり得ないかも知れないが、たぶん精神の内部には空洞が穿たれているのだろう。その中を無意識はどこをどう掘り進んでいるのか知らないが、それでもさらに無意味なことを語りたいのなら、いっそのこと何か適当な言葉が出てくるのを待っていた方がいいか。だが誰がそれを待っているのでもなく、そこで誰が何を努力しているわけでもなく、努力できないから無気力になってしまうだけのようで、誰かはそんな言葉の出現を望んでいたわけでもないのだろうが、それで待った甲斐があったのか。真昼の意識は遠くに犬の遠吠えを微かに感じながら、そのさらに遠くから何かが到来する気配を感じているわけでもなく、今はそんな風には思いたくはないし、それ以外は何も述べたくないと思い続けているのかも知れない。しかしなぜそう思うのか、またなぜそんなことを述べているのか、その理由が何もないように思われる。ただそんな風に思い続けながらも、またそんな風に述べている現状があり、今さらそれをやめるわけにはいかないらしく、仕事の合間に他に何をするでもなく、その代わりに適当な言葉をいい加減に繰り出しながら、そんなわざとらしくも愚かしい嘘をついているうちにも、昼に吹く風は次第に強くなり、遠くから嵐の到来を予感させるほどでもないが、気まぐれな天候の変化について、何か思っているだけで事足りてしまうような状況ではないのだろうか。それについて君はどう思っているのか。気まぐれな言葉の代わりに、何か世の中に痛快無比の絶対的な不動の価値観でも確立したいわけか。しかしその妄想の具体的な内容にまで踏み込めないのはいつものことか。そんなわけのわからない言葉遊びで悦に入っている前に、とりあえず今ある制度をどのように修正すべきなのか。そんなことは修正できる立場の人間が考えればいいことなのか。そんな権限がありそうなどこかの誰かは、今さら何を提言するつもりなのだろう。提言しても誰も聞いてくれなければ、提言する意味がないのではないか。そのことについて何か問題や不都合でもあるわけか。どうも今も君は受け入れがたい状況の中に生きているらしいが、そんなとりとめもない世界からどんなことを述べるつもりなのか。とりあえず言葉も意味も文章の内容も、どこへ伝わるわけでもないのだろうが、ただ一応そこには文字の連なりが記されているわけで、それを読むつもりのない者たちがただ眺めているだけでは物足りないことは承知しているつもりだが、それ以上の興味を誰が示すというのだろう。いつものようにそれに関して何も述べていないようで、またこれから何を述べるつもりも、述べる予定もないのかも知れないが、本当にそんな無内容のままで世間に通用するのだろうか。まったく通用しないのかも知れないし、場合によっては希望的観測的にそうではないのかも知れない。それはどのような願望なのだろう。しかしそこにはもとから何の意味も内容もありはしないのだから、やはりどんなに言葉を連ねても、読んで理解する必要のない文章なのだろうか。それをどう解釈したら気が済むのかわからない。解釈などしようがないのかも知れず、解釈する以前に他人に読まれることを拒絶しているのかも知れない。またそうやって君はどこまでも無内容を語り続けるつもりなのか。だが必ずしもそれでよしとは思わないのだろう。それらの無内容の中に絶えずまともになるきっかけを差し挟もうとしているわけか。だがたぶんそれ以上にどう述べようと、そこから結論が出るわけもないか。


3月22日

 またいいわけの連続なのか。何をいつまでも行き詰まっているのだろう。どうもまた構成された文章の意味がよくわからなくなってきたようで、誰かは別に何を強がっているわけでもなく、何とか意味不明になってしまうのを回避すべく、あれこれ工夫を凝らしているらしいのだが、またいつものように工夫を凝らせば凝らすほどわけがわからなくなってしまうようで、そんな予定調和の状況にあきれ果てているつもりらしいのだが、やはり本気でそんなことを思っているわけではないのだろう。そんなことはどうでもいいことなのかも知れないが、一応それはどういうことなのか。唐突に冗談を述べているのかも知れないが、いったい君は何のために生きているのか。たぶん何かのために生きていると思うときもあるのかも知れないが、今は生きていないような気がしている。生きるための目的は、そのときの気分次第で、ないよりはあった方がマシだと思うようになるかも知れないが、現実の意識はいちいちそんなことに気を遣っている暇などありはしないようで、もちろん現実の意識が文章のどこに作用しているのか不明だが、どこにも作用していないわけでもないが、生きていく上で欠かせないものがなくなってしまえば、人間そのものが存在し得なくなるだろうか。述べている意味がわかりかねるが、衣食住以外で生きていく上で何が欠かせないのか。何を白々しくとぼけたことを述べているのだろう。そしてさらにわざとらしく青臭いことを述べるなら、君には夢というものがないのか。そうやって誰かは自ら述べた内容を打ち消そうとしているわけか。それともそれについてもう少し深く考えてみる必要性でも感じているわけか。必要なことも不必要なことも誰かの言説にはありはしない。すべてがどちらでもかまわないのであり、本当にどちらでもかまわないのなら、さらにその先にどんな言葉を付け加えれば気が済むだろうか。どんな言葉を付け加えようと気が済むわけもなく、気が済まないから新たな言葉を執拗に付け加え続けているのであって、さらにそれでも気が済まないから、それらのつまらない文章はいつまでも続いてしまうわけか。ではどうしても何か他の気が済むようなことを述べたければどうすればいいのだろう。例えば冗談でなら、そこから先へ適当に言葉をつなげることができるだろうか。また仮にそれが不可能ならば、そこに思考と使用する語彙の限界が横たわっていると思われるわけか。しかしその先に何を思い浮かべようと空想にはきりがなく、その空想から生じた文章の中に、さらなる言葉の空疎化と意味の混沌が構成されてしまい、それらの作用がもとから記されている言葉の配置を狂わせ、当初に述べられていた内容とはまったく異なった趣旨が述べられている現状に意識は驚愕し、架空の誰かはそれを読みながら、精神の均衡が崩れてしまったように振る舞うかも知れないが、それでも本当に気が狂うようなことはないらしく、それらのすべては未だ出現し得ない物語の中で語られる挿話に過ぎないと思いたいのだろう。いつまで経ってもその物語について君は何も説明しようとしないのだが、たぶんそれも冗談の一種に過ぎないのだろう。もはや何でもかんでも冗談で片づけて、きりのいいところで語るのを切り上げないと、いつまでもそんな文章が続いてしまう危険性がある。ところで今はいつなのか。時間的にはよくかわからないのだが、架空の物語の中では夜になったつもりになり、次いで何も起こらないまま夜が更けて、さらにしばらくして夜が立ち去ろうとしているように思いたいらしいが。そんな文章表現はおかしいだろうか。おかしいのはそれを語っているつもりの誰かの頭か。別に誰かは夜の到来とともに何を述べているのでもないようだが、とりあえずそれらの夜は一時的に過ぎ去り、また翌日の夜になってしまうということにしておきたいのだが、例えば夜が待ち遠しい誰かは、無性に苦いコーヒーが飲みたくなったらしく、同時に今はそんなことを述べるような機会ではないだろうとも思うことにしておこう。そんな話では間が持たないか。それではその先に文章がつながらなくなってしまうか。だが実際にはすでにそれから半日ほど時が流れ、今は翌日の昼になっているのではないか。しかしそのわけのわからない文章が完成する頃には、またどうしようもなく夜になっていることだろう。それでもまだ気力も体力も消耗していないように感じられるだろうか。だがその一方で、誰かの言動に反発している別の誰かは、そんな風には思いたくないところか。早くやめてしまえと心の中で叫んでいるのか。それとももう少し冷静になって、何かそれらの語りの中に規則性でも発見したのだろうか。君が求めているのはそんなものではないらしい。疲労が解消して、気力が戻ってくる時を待っていたら朝になってしまうか。しかしいったい君は何を述べているつもりなのか。何か適当なことを述べているのだろう。それはあり得ない妄想の類かも知れないが、はたしてそれで君の思い通りになっているのだろうか。


3月21日

 その心境から何が見えるのか。見えるのではなく思っているのだろうか。なぜ何をやるのも面倒臭くなってしまうのか。やる気がしないのだから仕方がないだろう。どうも意識は怠惰の中で自足しているようだ。そうではないと思いたいのだろう。ただ眠りたいだけか。それらの文字列が心理的な圧迫感をもたらすのだろうか。今は一息ついているようだ。内面から滲み出てくる何かの正体をつかみ損ねているように思われ、それが言葉や文章に結びつかないようだが、かろうじてそれらが通り過ぎた後に見えた残像のようなものに刺激されて、その感覚が寄り集まって意味のない文章を構成しているらしく、いつものように何を述べているのかわからないが、とりあえずそれで言葉を繰り出そうする気をつなぎ止めているように思われる。しかしそんなことをことさらに語らなくてもいいだろう。君には外へ抜け出ようとする気力がなく、抜け出すための出口もなさそうだ。だが出口とは何だろう。出口の先には何があるというのか。何もなければわざわざ出口を設ける必要がないのではないか。なぜ人々は未来へ設けられた様々なイベントへ向けて努力し続けるのだろう。仮にそのイベントが目標であり出口だとすると、イベントが終わった後はどうするのだろうか。やはり性懲りもなくその先にイベントを設けて、それが新たな目標であり出口となるわけか。しかしそれでは何となく同じことの繰り返しのような気がするのだが、それで少しは死ぬまでの暇つぶしになるのだろうか。では君はそれ以外にどんな生き方を知っているというのだろう。人生の目標だの目的だの青臭いことを抜かしている人々を馬鹿にしている割には、それに代わる価値観を何も示していないような気がするのだが、なぜそれを明確に示せないのか。例えば虚無的な人間に人生も価値観も何もありはしないと主張してもいいのではないか。そのように主張しない理由は何かあるのか。とりあえず人には人生も生きる価値も、設けようと思えば設けられるのだろう。そしてそれが目指すべき目標や目的であってもかまわないのかも知れない。単純に生きたければそれでもそれなりに生きられるのだろう。また何らかの達成感を得るためには、未来にいくつもの向かうべきイベント設けて、たゆまぬ精進と努力によってそれを一つ一つクリアしていけば、ゲーム感覚的にも楽しい人生を送ることができるだろう。だが君はなぜそれをやろうとしないのか。楽しそうな人生を送るのが嫌なのか。それとも目標を達成できずに挫折感を味わうのが怖いのか。あるいはただ単にそんな風に決められた手順に従って生きるのが息苦しいのか。要するに何をやるのも面倒臭いということか。すべてが馬鹿げているように思われてしまうのはどうしてなのか。なぜ人々はそんなに真剣に生きられるのだろう。真剣になれるような世界なのか。自らの怠惰の原因を世界のせいにしても何も始まらないだろう。君はこの世界の中で何を見てきたのか。それはめまぐるしく変わる風景でしかないのだろうか。しかし見る対象のすべてを風景と見なして突き放してしまうのは愚かな行為ではないのか。だがそれらの風景の中に入っていく気になれないのはどういうわけなのだろうか。やはりそれらの風景が馬鹿げているようにも滑稽であるように見えてしまうわけか。だがそれらがおかしいと思われるのなら、自らが積極的にコミットして、それらの風景のおかしな部分を修正すべく、正していかなければならないのではないか。しかし誰かはそんなことが君にできると思っているわけか。それではおかしいと思われる部分を正して行くことが君の達成すべき目標となってしまうのではないか。要するにこの世界に対して積極的にコミットしようとすること自体が、紋切り型の生き方をしてしまう要因となっているわけか。ではどうすればいいのだろう。簡単にどうすればいいと問いかけること自体も、それに対する答えとしては目標を立ててそれに向かった努力し続けることしか導き出されないのかも知れない。要するにどうすればいいかという問いかけ自体が、この世界を覆っている紋切り型から抜け出ることを阻んでいるのかも知れない。ではそれに対してどうすればいいのだろうか。冗談で君はそう問いかけているわけか。どうもその手の設問に対して本気になることはできないようだ。ではただいい加減にあやふやなことを述べながら、それらの決まり切った結論に至るのを絶えずはぐらかし続けるしか可能ではないのだろうか。たぶん現状ではそんな風に思われるのかも知れないが、必ずしもそれがすべてというわけでもないらしい。別にことさら迷路の出口を見つけようとしているわけでもないはずか。偶然に見つかったらそれはそれでいいのかも知れないが、たとえ永遠に見つけられなくても、それはそれで仕方のないことであり、それでもそれほど困らないのではないか。身の回りの風景がめまぐるしく変わろうと、それを気が向いたときにでも眺めていればそれなりに暇つぶしにはなるだろうが、別にいつまでも眺め続けている必要もなく、眺めるのに疲れたら目を閉じて眠りにつけばいいだけのことでしかない。


3月20日

 今日も誰かは気休めに言葉を並べているようだが、君が語る物語の中の登場人物は、いったいそこで何を思いついたのだろう。いつものように物語りそのものが不在のようだが、ちなみに今はどのような時空のただ中にいることになっているのか。それに関して何もフィクションを構築できぬまま、もう翌日の夕方から夜になろうとしているのに、相変わらず意識は停滞したまま先へ進もうとしないようだ。文章の内容は常に以前に述べたことから逃れ去ろうとするが、新たに述べている内容はといえば、やはりどうしようもなく以前と同じような内容なってしまうらしい。述べていることと記している内容と思っていることが食い違っているのだろうか。確か数時間前の真昼の外は快晴だったようだが、窓から日差しが降り注ぎ埃が舞う部屋の中で、心に思い描いたそれらの光景は現実とどう違うのだろう。そんなことを述べていたのではなかったか。では何によってそれらの妄想はもたらされているのか。退屈そうな意識は、それらのフィクションについて何か意見を述べたいらしいのだが、肝心の話の内容が食い違い続けているようで、やはりいつものように文章は意味不明になろうとしていて、時折それとは無関係な話が割り込んでくる。例えばいつか見たテレビ番組の中では、雲の下に広大な大地が広がり、見渡す限りの草原を羊の群れとともに遊牧民が馬に乗って移動していて、誰かはそれについても何かを述べようとしているらしい。実際にはそれを撮っているカメラマン以外の誰がその光景を眺めているとも思われないのだが、その視線の存在を忘れさせる雰囲気が画面の中に醸し出されているようで、その放送を受信しているテレビ画面には、自分だけがそれを見ているように思われてしまう力があるらしいが、実際には数多くの人たちがそれぞれ別々の時空において、同じ光景を見ているわけで、そのときテレビカメラを通してカメラマンが見ていた光景は、はたして後に受像器のテレビ画面に映し出された光景と同一のものなのか。誰かはなぜそれが同一でない可能性について言及したいのだろうか。だが君にとってそんなことはどうでもいいことだろうか。君が見ている光景はそれとはまったく異なった時空に存在しているわけか。そんなわけでどんなわけでもないが、今日も別の液晶画面には何か影のような染みが映っているらしいが、例えばそれは差し込んでくる光の加減で、誰かの顔に見えたりするときもあるだろうか。とりあえず心霊写真の類ではなさそうだが、画面上の誰かは何を浮かない顔をしているのか。そのとき君は何を思い、その思いを無視しながら何を読んでいるのだろう。たぶん読んでいるそれらの文章につながりを感じられないのかも知れないが、さらにまた別の文章を書物の中に見出して、それを読みながら、それから影響を受けながら、何を画面の余白に記そうとしているのだろうか。そんなこととは無関係に、確か翌日の昼は風が強く、三月も下旬なのにまだ寒いらしく、寒さに凍えるほどでないにしても、何となく誰かの心は沈んでいるのかも知れない。だが君は春に何を求めているのでもない。誰かの心をどうしたいわけでもなく、どうにもできない状況の中で、さらなる停滞がもたらされようと、何食わぬ顔で文章を記そうとしているだけか。それの何が停滞なのかわかろうとせず、なぜそこからテレビ画面上に映し出された光景について、さっきの続きを述べようとしないのか、不思議に思ってしまう。無理矢理話を戻そうとすると何が立ち現れるだろうか。例えばユーラシア大陸の中央部には草原と砂漠と他に何があるというのだろう。過去に栄えて滅びた文明の痕跡を求めて、誰がどんな行動に及んでいるのだろう。彼らはそこで何を調べているのか。そしてそれがどのような知識の獲得につながるのだろうか。君はそれらの何を批判したいのだろうか。批判したいのではなく、非難したいのでもなく、ただそれらの画面に映し出された風景を愛でたいのではないか。そこには何らかの痕跡が残っているかも知れないが、そしてときにはそれが歴史上の謎を解明する手がかりとなるかも知れないが、それによっていくら失われた歴史に光を当てようと、たぶんそれは過去の出来事でしかないのだろう。はたしてそれが未来を変えるための糧となるだろうか。しかしなぜ過去の歴史によって未来を変えようとするのか。君はどんな未来を望んでいるのか。なぜ未来に希望があると思っているのか。思っているのはそんなことではないはずか。君は過去についても未来についても今についても、それを肯定的に捉えようとはしないだろう。ただ心は偶然に推移する意味の定まらない成り行きの中にうごめいている。それは特定の時空ではなく、常に変化する流動的な状況の最中にいるらしい。そこでは何が過去なのか未来なのか今なのか不明確なのであり、何も定まらない中で定まった言葉を暫定的に繰り出すが、それが偽りになってしまうことを絶えず確認しつつ、さらに無駄に言葉を積み重ねて、構成された文章は虚構の度を深めながら、それでも別の時空ではそれが意味を伴った文章となることを期待しているようだが、それは現実ではない可能性の話の中で、架空の人物によって述べられているに過ぎないことであり、それ以上何を述べても、話の内容が本当ではないように思えてくるのだが、たぶんそんな思いをどこかに放置しながら、さらに意味もなく文章をつなげようとしてしまうのだろう。


3月19日

 どこかにいるらしい若者たちは、携帯のメールで恥ずかしい似非文学的な文句を交感させながら、心和ませているようだが、別にそれを恥ずかしいとは思わないようで、それらの紋切り型の文句を紋切り型だとも思わずに、感動さえしてしまう者が多いらしいが、君はそんな現象を馬鹿にしているわけか。君にはそれらの現象がわからないのだ。それらの若者たちは、君とは相容れない感覚の持ち主なのかも知れない。若者たちにしてみれば、言葉はわかりやすくなければ互い通じ合えないのであって、それが世の中に広く行き渡っている紋切り型だからこそ理解できるわけで、君が日頃から述べているような意味不明な表現では、何を述べているのかわからず、それをいくら読んでみてもちんぷんかんぷんでしかなく、それらのまったくコミュニケーションの手段として使えない言葉を、意識して使う必然性を感じないだろう。なぜ相手に理解できないようなことをメールで送る必要があるのか。まさか暗号を解読させようとしているのでもないだろうに、とりあえずメールの相手と意思の疎通を図ろうとするのなら、できるだけわかりやすく、お互いが分かり合えるような文章表現にしようとするのは、当然のことかも知れない。つまり君はそれらの若者たちを馬鹿にするどころか、逆に若者たちから馬鹿にされるようなことを述べているのではないか。しかし本気でそんなことを心配しているわけでもないのだろう。君はメールの相手から理解されようとは思っていないのではないか。他人からわかったような同意を得られることを極端に嫌っているのかも知れない。おまえらにわかるわけがなく、わかってたまるか、と内心で思っているのかも知れない。何と傲岸で思い上がった心なのか。自分を何様だと思っているのか。君は何様でもなく君でしかなく、君以外の君でもない。また本気で思い上がっているのでなく、思い上がったふりをしているのでもなく、逆にできるだけ謙虚に振る舞おうとしているのでもない。ただそんなことを語っているに過ぎず、あわよくばそれ以外の意味に受け取られることも、密かに期待しているのかも知れない。要するに君は苦し紛れに冗談を述べているだけなのか。それがたわごとだとすれば、たぶんそれはたわごとの類なのかも知れず、気分次第でそれとは違うと主張したいときもあるのだろう。あるいはそれは君自身の思いではないのかも知れず、それを簡単にわかりやすくは述べたくないのかも知れない。たぶんたまにそんなことはどうでもいいことだと思ってしまうときもあるのだろうが、すぐにそんな投げやりな気持ちのままではいられなくなり、また紆余曲折の迷路を提示したくなって、さらに入り組んだことを語りたくなってしまうらしいが、それが実現しているかどうかは、それを読んでいる人の判断にまかされてしまう現実を、受け入れがたいと思っているようだ。それの何が間違っているのか、述べている当人がわかろうとしないのに、読んでいる者などがわかってほしくないのだろう。それはどこまでもわかり得ないままに推移してほしいとも一方では思っているのかも知れず、他の誰が何を思っているのかを知ろうとしないで、その代わりに勝手な推測をフィクションとして文章上に定着させることで、何となくそれらの思いを裏切ろうとしているようだが、それは単なる思い違いだろうか。そしてそんな風にして、わけのわからない文章を構築しつつある現実に満足したいのだろうか。満足したいのではなく、不満のままでいたいのかも知れず、不満のままでいることがそれらの継続につながるとでも思っているのか。それはあまりにも安易なやり方に思えるのだが、もちろんそんなやり方を本気で続けているとは思っていないらしく、その場の成り行きでたまたまそれらの現状が、そんなやり方で成り立っていると思われただけかも知れず、それとは別の時空においては、また別のやり方で文章を構成しつつあると思うときもあるのだろう。それらのバリエーションの一つとして、気分次第で意味不明に語ろうとしている場合もあるだろうか。しかしそれがどうしたのか。やはりいつものようにどうもしないのだろうが、それで何となく話のつじつまが合わなくても、それはそのまま放置して、意識はその先へ進もうとしてしまうらしい。そしてたぶん一方ではそういう精神のいい加減さに嫌気が差しているのかも知れず、一向にまともなことを述べられない原因がそこにあると思い込もうとしているのかも知れない。はたしてそのままでいいのだろうか。いいわけがないのかも知れないが、それでもそれなりに何かしら述べているつもりにはなれるらしく、それはそれで結局そのような結果を認めざるを得なくなってしまうようだ。そして認めた先から、それを否定するようなことも述べたくなってしまうのだが、それが本当に否定されているかどうかは、それを述べている当人にとってはどうでもいいことのようだ。とりあえず何かを適当に述べていればそれでかまわないのか。それでは気に入らないときもあるし、それで妥協してしまうときもあるのだろう。


3月18日

 気がつけば気がついていないことに気づいてしまうか。誰かはかなり幼稚なことを述べているのかも知れない。何を述べているのでもない。そして眺めているのはいつもの夜空か。晴れているらしく空から何が降ってきたわけでもないか。カレンダーの中の雪景色を見たのは数ヶ月前のことだが、なぜ最近見た本物の雪景色について語らないのか。それがつまらないからか。つまらないものなら他に何があるだろうか。そう述べて何を思い浮かべているわけでもなく、つまらない話をさらに先へと進めるつもりなのだろうか。そんなわけにはいかないか。意識の中の何がそれを拒んでいるのだろう。拒んでも拒みきれるものでもないか。そんな風には思いたくないようだ。人はあるシステムの中で動作していて、そのシステムがもたらす利益によって幸福になったり、時折発生するシステムの不具合によって不幸になったりするのだろうか。それは安易で軽率な考えか。何がそれらのシステムを動かしているのか。それは直接にはシステムの中で動作している人であり、そのような人たちを操っているのはシステムそのものになるわけか。だがそれでは何を説明していることにもならないだろう。それではどこまで行っても人とシステムの相互依存を説明するばかりで、システムから外れた人やそういう人の周りを取り巻いている環境については、何一つ語り得ないのではないか。そんな人も環境も、システムやそれに属している人にとっては、何の意味もない存在なのだろうか。システムの外部があるからこそ、システムの存在を肯定できるのではないか。他と比較する対象がなければ、それらのシステムの利点や欠点を説明することは不可能か。ではシステムの一部として存在する自らの何を肯定したいのか。システムの外部で勝手気ままに生きている人と、システムに束縛されて生き続けざる得ない自らを比較して、何が優れているのだろうか。自らが取り込まれているシステムは自らにどんな利益をもたらしているのか。例えばシステムと一体化することで、より効率的に生きているとでも実感できるわけか。面倒なことはすべてシステムにまかせておけば、システムが自動的に処理してくれるだろうか。だがそれらのシステムは、そこに取り込まれた人たちを、単なる道具として扱っているに過ぎないのではないか。システムが機構的に増大し複雑化していくには、より多くの人々がシステムに取り込まれる必要があるのではないか。その場合人はシステムが自己増殖するために必要な糧でしかないのではないか。しかしなぜそんなもの属していなければ人は生きて行けないのだろうか。人が単独で生きていくのは困難で、絶えず群れをなして、その群れの一員として生きて行くことしかできないのか。その群れを効率的に動かすためにシステムの導入が必要なわけか。だがそれらの群れにはどんな目的があるのだろう。それは群れを維持継続させるということでしかないのではないか。そのためにシステムが存在し、そのシステムを存在させるために群れが存在するわけか。しかしそんな簡単に述べていいのか。何か他に幻想を差し挟んだ方がより説得力が出るか。例えば他人を愛するにはその他人が自分と同じ群れに属している必要があるだろうか。他人が同じ群れに属していれば、たとえ気の小さい人でも安心できるだろうか。同じ群れの中で同じ話題を共有していれば、それなりに幸せになれるだろうか。たぶんそんな効用を否定することはできないだろう。そこに同じシステムの中に多くの人が取り込まれていることによって生じる利点があるわけか。だから群れの規模をできるだけ大きくする必要が生じるのだろうか。そんな風にして自分たちが属している群れの繁栄を他の群れに向かって誇示したいわけか。そんなわけで多くの人々が同じシステムに取り込まれて、その中でシステムと一体化しながら同じ目的のために働く必要があるわけか。だがそんな言説で何かを説明しているように思われるか。思われなかったらどうすればいいのだろう。そんな言説は幼稚な戯れ言だと受け取ってもらってかまわないか。おそらく何を説明しているのでもないのだろう。要するにつまらないことを述べているわけか。人間の本質はそんなところにはないか。人は特定の群れに属しながら、特定のシステムに取り込まれながらも、絶えずその群れからはみ出そうとし、絶えずそのシステムの動作を狂わそうとする。それは群れの中にいるのが退屈なのであり、システムの一部として機能することに息苦しさを覚える。だから群れに属しシステムに取り込まれながらも、その現実を忘れるために幻想にすがりつこうとする。自分の思い通りに勝手気ままに生きていると思い込もうとするときもある。そんな願望がフィクションを生じさせるのかも知れないが、自らの思い描いたフィクションの中でしか生きられない者は不幸だろうか。それはその者の置かれた状況や感じ方にもよるのだろう。だが架空の君がそんな風に語ったところで何がどうなるわけでもないか。


3月17日

 何も思い浮かばない期間が長引いてしまい、気がつけばまた数日遅れになってしまったようで、何も語っていないうちからそんなことを述べるのはおかしいかも知れないが、それでもまともなことは何も述べられないように感じられ、君にしてみれば何かを語ることがそれほど苦痛ではないようなのだが、実際に述べているつもりの内容は、やはり何が述べられているわけでもないらしく、気晴らしに数日後の空を見上げながら、ただ意味不明で漠然とした思いに囚われているだけのようだ。だが何が意味不明で漠然としているのだろう。そんな思いとはどんな思いなのだろうか。それはどういう思いでもなく、単に何も思っていないということでしかないのか。要するに君はいつまで経ってもいつものように何も述べられないことに気づいたのか。そういつもいつもそういうわけでもないだろうが、なぜそうなってしまうのか。何か適当なことを思い、それについて言葉を弄するようになるには、さらなる試行錯誤が必要なのだろうか。確かに必要かも知れないが、必要だからといってそう易々と手に入るわけでもないだろう。必要だと思いそれを求めても無理な場合などいくらでもあるだろうか。ちなみに昨晩の疲れた意識は睡魔に襲われながら何を求めていたのか。文章の中に存在しているつもりの君は、それを知っていたのだろうか。もしかしたら昨晩は知っていたかも知れないが、今は忘れているか。またたとえ何を知っていたとしても、それは君には関係のないことか。そして何を知っていたかなんて今さら記すまでもなく、そのときは何も知らなかったことにしておいた方が、君にとっては好都合なのかも知れない。しかしそんなことをいくら推測しても、それによって君がどうなるわけでもなく、今さら何かを知っていると述べてみても、架空の君が知っていることを誰がわかるのだろうか。たぶんそれについて本当に何も知らないわけではないのだろうが、どこかに用意されているかも知れない君の知っていることを、これからどうやって引き出せばいいのだろうか。やはり誰かがそれをねつ造しなければいつまで経っても君の物語は始まりようがないか。だが誰かは本気で君の物語を語る気があるのだろうか。はじめからそんな気などさらさらなく、ただそれをほのめかすことによって、他の誰かの興味をつなぎ止めておきたいだけなのではないか。そんなくだらない魂胆ならさっさと何かを述べるのを終わりにしてしまえばいいのではないか。終わりにできればとっくの昔に終わっているだろう。終われないから執拗に続いているのであって、君の力が及ばない領域に存在しているつもりの誰かの意識は、わざとらしく終わりの言葉を忘れたつもりになって、すでに終わっていることを知りながら、それでもまだ終わっていないと述べたいらしく、それ以外にどんな言葉が記されれば気が済むのか、その言葉が出現する可能性を模索しつつ、他に何を知ろうとしているわけでもないが、やはりそれを君が意識して繰り出そうとするように仕向けているのだろうか。はたしてそれが誰かの用意した言葉の範疇に入るのだろうか。べつにそれが範疇に入ることを求めてはいないのかも知れないが、その一方で誰かはまた性懲りもなくでたらめな言葉をどこかにまき散らしているようで、それらの言葉が寄り集まって生じつつある、文章の体をなさないそれらの文章の中で、どんな意味をねつ造したいのか。別にねつ造できればそんな意味でもかまわないのだろうが、とりあえずそれで翌日の今日も言葉が連なるのだろうか。風に煽られながら空を移動する雲を目で追いながら、やはりいつものように何を思うでもなく、ここ数日は春の暖かさに誘われて杉花粉が大量に飛散しているようで、目が痒くなり鼻水が止まらなくなっているらしいが、そんなことはお構いなしに、いつものように何かを述べているつもりのようだが、さっきまで何を述べようとしていたのか。たぶん以前と同じような言葉が繰り返されているのだろう。そしてさらに止めどなく記されようとしているそれらの言葉は、相変わらず何を語っているのかよくわからないのだが、どうもむやみやたらと内省的になりすぎている嫌いがあり、それらの言葉で表されている意識は、常にそこから導き出された根拠を著しく欠いた偽りの思い込みと戯れることに終始しているように思われ、それが正当な評価や判断と結びつくとは思えないのだが、それでも何となくごちゃごちゃとわけのわからないことを述べていると、少しは気が休まるのだろうか。気を休めるために述べているわけではないが、そんな風に文章を記せば、文章から伺える意味としては、そういうことになるのかも知れないが、それを外から見つめている無表情な顔は、どんな感情も表には出そうとせず、それらのどこに読むことが可能な文章が出現しているのかわからなくなる。要するに面倒なので意味不明に語りたいということか。別にそれをことさら求めているわけではないが、何とかそこから意味を得ようとすると、思考力の浪費と多大な疲労感を伴うのかも知れず、すぐにそうすることをやめてしまいそうになり、それ以上は精神の集中が持続しないらしく、やる気を失いこれから画面上に記されるであろう文字を見失う。要するにそれ以降は何も述べられなくなるということか。そして結局は何かを述べることが不可能に思われてしまうわけか。やはりそこであきらめなければならないのか。


3月16日

 なぜか作業が長引いているようだ。仕事とはそういうものだろうか。それなりに努力しているのに、いつもその努力をあざ笑うかのような行き詰まった状況に陥ってしまうらしく、そこからさらにわけのわからない紆余曲折が待ちかまえていて、気がつけばどうにもこうにも身動きがとれなくなっていたりする。そこから身体を引きはがすことができなくなってしまい、その場に視覚と視線を固定され、見つめざるを得ないその訳のわからない対象と格闘する羽目になってしまうわけだ。そんなわけで何となくまたたわごとのようなことを述べてしまうかも知れないが、どうもそんな始まりがしっくりこないようで、これから何をどう述べていいのかよくわからなくなっているのに、そこから意味不明なことを述べ始めてしまうらしく、このままではやはりまたいつもの無内容の自己言及を繰り返してしまうわけか。もういい加減に嫌気が差しているので、それは何としても避けたいところだが、どうやってもそれをやらなくては影の気が済まないのだろうか。なぜまた影が出現してしまうのか。影とは何なのか。そんなことがわかるはずもないが、やはり困ったときには久しぶりに影を登場させるに限るか。とりあえず誰が登場させているのかは知っているはずだが、知っていてもそれを防ぐことはできないようで、忘れた頃に意味もなく登場して、何かを主張したいらしいのだが、何を主張しているのかさっぱりわからず、また性懲りもなく誰かの内面の深層から意味不明な動作とともにわき上がってきたわけか。たぶんそんな説明では意味不明に思われるだろうが、影はまだ何も説明していないのに、君は影について何をどう説明するつもりなのか、そんなことは影の知ったことではなく、もちろん誰がそれを知りたいわけでもなく、ついでにそれ以外のことも知りたいわけでもない。しかし本当にそんなことは知らなくてもいいようなことなのか。それは知らなくてもいいことではなく、知ろうとしても知り得ないことなのではないか。だいいち君は何を知ろうとしているのか。この社会はどのように成長してゆくのだろう。社会の中で誰が何について語っているのか。あるいは何を見つめているのか。はたして誰かは必要なことをやろうとしているのだろうか。それについて君は何も思わないつもりか。あるいは何も思えないのか。思えないのではなく、考えられないのかも知れないが、何もやろうとしないその姿を誰に見られているわけでもないらしい。また何に頼ろうとしているわけでもない。たぶん君は一人ではないが、他の誰もが一人で何をやろうとしているわけでもないのだろう。そこに暮らしている人々は何に興味があるのか知らないが、たぶんそんなことを知りたいわけでもないのだろう。誰かは相変わらず何も思いつかないようだ。何を思いつこうとしているのかもわからない。そしてどうも今回もまともな内容からは程遠いらしく、できあがったそれらの文章を読み返す気にはなれないのかもしれない。だが君はそこでまだ何も述べていないはずか。なぜ述べる気が起こらないのだろうか。どんな風に述べればいいのかわからないのかも知れない。では何かを述べるためには何が必要なのか。述べるための何かが必要なのだろう。その何かがそこにはないのかも知れず、君はその何かを求めて外部の世界でさすらう必要でもあるだろうか。だがそれでは安易な定型としての宝探しの物語に含まれてしまうことになるか。別にそれでもかまわないのなら、では君がこれから求めようとする宝はどんなものにすればいいのか。それに関して何か適当な要望があるだろうか。何を求めればしっくりくるのかよくわからないか。君についての情報が少なすぎるだろうか。誰かは君の性格さえ何も設定していないのではないか。もしかしたら君は性格のない人物なのかも知れないが、何かしらその人なりの特性がないと、物語の中の登場人物とはなりがたいか。例えば君は今までに何を語ってきたのだろうか。その語ってきた内容を検討してみれば、そこから何らかの性格なり特性なりが導き出されてくるかも知れないが、今さらそれらの文章を読み返す気にはならないか。ならばそれ以外ではどうすればいいのだろう。どうすればいいかなんて思わないことが肝要か。今まで通りただ何も思わずに言葉を連ねていけば、それで何かしら述べているのことになるだろうか。しかし誰かはなぜそうやって怠惰なやり方を選んでしまうのか。そんな風にして内容が何もないことが気に入らないのではなかったか。そういつまでも気に入らないことばかり続けていると頭がどうかしてしまうのではないか。もうすでにどうかしてしまったのか。どうかしてしまっているのだとすれば、その状況下ではどうすればいいのだろうか。例えばそんな現状を放置しながら笑い続けていれば、それで気が済むだろうか。では気が済んだら何をやればいいのだろう。今さら何もやる気がしないか。やる気がしないのなら、また今まで通り適当に言葉を連ねていけばいいのではないか。


3月15日

 いつものようにわざとらしく行き詰まりながら、とりあえず何かしら述べているようで、その状況が気に入らないらしく、さらに何かを述べてみるが、さらに気に入らない状況に陥ってしまうようだ。それもいつもの予定調和的な展開あり、ここではありふれた結果に過ぎないか。そんなわけで深夜に寝て起きて、しかし何も思い浮かばずに、ついに言葉通り何もできなくなってしまったらしいが、要するに誰かの願いが叶ったということか。いったい誰の願いが叶ったのか、その誰かを特定できずに、いつもながら誰が何もできなくなったのか不明のまま、何やら自己言及的な言葉を繰り出している現状は変わらず、誰かはそんな風にして相も変わらぬ文章を構成しているようだ。また君の方は架空の物語の中でただ何となく存在し続けているつもりらしいが、やはりどこにその架空の物語があるかも不明のまま、そんな経緯もなし崩し的に放っておかれているようで、誰かは以前から度々そんなことばかり述べているようだが、未だかつてその物語の内容が明らかになった例しがないのはわかりきったことで、なぜその物語を語ろうとしないのかもわかりきったことだろうが、やはりそんなものはもとから存在しないのかも知れないが、そんな調子でまた以前と同じような状態を保っていることにかわりはなく、結局は何もできなくなったと述べたことが嘘になってしまったようで、話者はやはり予定調和的に自ら述べたことを自ら裏切る結果を招いているらしいが、それで言葉がつながり文章が構成されるのだから、それはそれで意図していた結果なのなのだろうが、それでは内容に不満が残るのではないか。もう少しまともな内容に至らないものか。たぶん性懲りもなく自己言及的な内容になるのを避けるべきではないのか。しかし避けようにも現実にそうなってしまうのだから仕方がないだろう。だがいつも仕方がないでは済まないのではないか。しかしまたしてもそう自己言及的に述べながら何を放棄しているつもりなのか。それは考えることだろうか。しかしその状況において何を思えばいいか考えることなど不可能か。思いながら述べなければならず、また述べるだけでなく文章を構成しなければならない。しかしそう述べることは自己言及的な文章表現になってしまうことになる。だからどうしようもなくなり、そのような結果を認めざるを得なくなって、そんな成り行きの中で、それとは違うことを述べるのを断念しなければなくなるか。それはたぶん嘘であり冗談だろうが、一方では真実であり事実でもあるだろうか。そう思わなければ先へ進めないか。しかしその先へ進んでどうするのか。どうなるわけでもなく、その先においてもただ同じようなことを述べているだけか。ただ述べているだけではなく、述べることが嫌になってくるか。嫌になってきたらそこで工夫を凝らさなければならなくなるだろうか。嫌になってしまった意識を騙しながら、さらに文章を続けようとしているらしいが、そんなことが可能なのだろうか。別に不可能であってもかまわないか。それができなければやめればいいだけで、単にやれる範囲内でやればいいことでしかないようだ。しかしそれでいいのか。よくてもよくなくても、そんなことをわかろうとしているわけでもなく、現実にわからないがそうする以外にやりようがないのだから、それを実行し続けるしかないのだろう。まったく長々といいわけばかり繰り返しているような気がしくるのだが、そんなことを述べながらも無内容の文章が続いてゆくらしく、それについて何をどう思うでもないと虚勢を張りながら、さらに何かしら述べようとしているらしく、何となくそれ以外のことを述べることに関してはあきらめの境地に達しつつあるようだ。しかし誰かはなぜそんなどうでもいいような文章を記しつつあるのだろうか。それは惰性で続けているのことだから仕方のないことなのか。そうだとすればそれをどうやったら断ち切ることができるだろうか。断ち切れないから現状があるわけで、どうやったら断ち切ることができるか、なんて記述すること自体が現状維持につながっているのであり、仮にそう思ったとしても、それとは違うことを述べなければならないだろうか。ではどう述べればいいのか、と述べてしまうことも現状維持になってしまうのであって、要するにそれは不可能なのかも知れず、結局は何かを述べ続ける限り、自らが気に入らないことを、自ら述べ続けなければならない現状に甘んじているしかないのか。だが誰かは本当にそう思っているのだろうか。そんな風に述べていることについて、そう思っているような内容の文章になっているだけなのかも知れず、それはそのときの文章の内容であるだけで、実際には誰がそう思っているわけでもないのかも知れない。要するに誰かはそのときの成り行きで、たまたまそんな文章を記したに過ぎないということだろうか。しかし本当にそれで納得しているわけではないのかも知れず、またさらなる試行錯誤を繰り返しながら、それとは違う内容を記そうとしているのかも知れない。


3月14日

 誰かは何をそんなに焦っているのだろうか。何とか言葉をつなげようとして、闇雲にいい加減なことを述べようとしているらしいが、なぜそんなことをやっているのか、その理由を知りたいか。いったいそれらの物語は誰の登場を待ち望んでいるわけか。たぶん誰がどこに登場するわけでもなく、それとは無関係に君いつも蛍光灯の下に出現するらしい。そこは誰かの部屋の中に置いてある液晶モニターの画面上に映し出された文字列の中かも知れず、君はそこで何を述べているつもりなのか。いつものように空疎なことを述べながら、そこで何を繰り返しているのかわかっているつもりだが、白々しく何もわかっていないようなふりをして、わざとらしくそれを何度も繰り返したあげくに、さらに同じことを何度もやる羽目に陥っている自らの動作に満足しているわけか。そして性懲りもなく暗闇の向こう側にあるはずの事物を空想しながら、またさらにつまらないことを述べようとしているらしく、何か得体の知れない予感を感じたつもりになって、それを言葉で表現しようと試みるが、表現されたそれが予感ではないような気がしてくるらしく、どうしてそんな気がするのか不思議に思う。それが嘘だからそんな気がするだけか。嘘ではないのなら、何か予感を述べてみたらどうか。それはどんな予感なのか。君はこの先どうなってしまうのだろう。そこで君は何を無視しているのか。自らの境遇か行く末か。別に無視しているのではなく、それらの言語表現に含まれている何かを、故意に見落としているのではないか。意識してそのようにしているのではなく、わざとわからないように述べているのではないか。しかし述べているのは君ではないはずか。君はそれらの言語表現の場から逃れたいと思っている。そしてできることならもう何も述べたくないとも思っている。しかしその願いが簡単に無視されてしまうのはどういうことなのか。誰がそれを無視しているのだろう。そんな風に述べてしまうのはおかしいか。そうやってまたそこで予定調和のごとく行き詰まろうとしているようにも思われ、そこからどんなに言葉を弄しても、予定調和の展開から逃れ去ることは不可能なのだろうか。ではそれができないとすれば、その先に向かって何をどうすればいいのだろうか。それを誰に向かって問いかけているのか。天は何も教えてはくれないだろうし、天でなくとも誰も何も教えてくれるはずがないか。別に教えてほしいとは思わないし、他人の教えを無視してしまう傾向にあるかも知れず、結局自分勝手なことをやり続けているだけのような気がする。しかし同時にそれが自分勝手なことだとは到底思えないときもある。気がつけば自らの意思とはまったく関係のないことを述べているわけだ。記された文章が記している当人から乖離してきているように思われ、あるとき不意に思いもよらぬ内容と展開を伴ってきて、そうなると自らが記した文章を何度読んでも理解不能に陥ってしまい、あたかも自分とは別人が記した文章を読んでいるような感覚になる。いったい誰がその文章を記したのだろうか。そんな風に思えるのはどうしてなのか。またわざとらしいことを述べているようだ。どうしてもこうしてもなく、ただそんな風に語りながら、それがフィクションであるかのように装いたいだけなのかも知れない。どうも君はそこで本当のことを語っていないような気がする。わざと見え透いた嘘をついて、そこに顕在化している真実を隠しているような気がしてならない。たぶんそんなことをやりながら君は君自身から遠ざかり続け、君が属している物語空間から外へ抜け出そうと試みているのか。だがその外に何があるというのか。誰かは君の外には何もないと主張したいわけか。何もないのではなく、何かが存在しているようには感じられないだけなのかも知れず、本当は何か適当な事物が存在していて、それらの存在に誰かが気づいていないだけなのかも知れない。しかしそれらの存在とは何なのか。その存在に気づかないのだから、それらの正体などわかるわけがないか。たぶん君はそんな誰かを馬鹿にしているのだろう。君以外の誰が何を知っているというのか。少なくとも君以上に何かを知っている者は、君が知っている以上にたくさんいるのだろうが、君にそれを知ろうとする余裕はない。だから君はいつまで経ってもそのことに気づかないのか。もうすでに知っていることの限界を超えているのだろうか。それはどういうことなのか。知っていること以上に知ることはできないということか。いったい君は何を知っているというのだろう。彼が吹いたハーモニカの音色を覚えているだろうか。別にそんなことを忘れているわけではない。では何を知っていながら忘れてしまったのか。記憶力がそれほど衰えたとは思えないか。そのとき誰に何を教えたかを覚えていないのではないか。


3月13日

 なぜか翌日の夕方近くに疑問を抱く。君はどうやってそこからはい上がってきたのか。嘘はどのようなときにつけばいいのだろう。誰かは生きているわけでも死んでいるわけでもないらしいので、何が起こっても深刻な気分にはなれないようだ。それは何も起こっていないからなのではないか。別に未曾有の大災害のただ中にいるわけでもなく、またテロリストから攻撃されているわけでもなく、さらに悪質な詐欺に引っかかったわけでもなく、そして不治の病に罹っているわけでもない。ただ淡々と普通の精神状態と健康状態を保ちながら、日々を適当に過ごしているのだから、そこから深刻な気分には至りようがないだろう。しかしなぜそんなに真剣なまなざしで遠くを見つめているのだろう。何かに対して真剣になりざるを得ない事情でもあるのか。切羽詰まった状況にでも直面しているわけか。直面しているのは君ではなく、何やら意味不明なことを述べようとしている他の誰かだろう。ではただ漠然と暮らしているようにしか見えない君の場合、そこからどのような気分が導き出されるのだろうか。文章的には相変わらず何を思うでもなく、君は仕事以外に何をやっているわけでもないらしく、その何をやっているわけではないの中に、それらの文章が含まれているのだが、それらの文章の中で、誰かはそんなに深刻ぶる必要があるのだろうか。深刻ぶって何を述べようとしているのだろう。誰かは何か気の利いた主張でも持ち合わせているだろうか。例えばそれ以外に何か生き甲斐を感じるようなことをやりたいのか。だが物語が停滞している現状では、何もやらせてはもらえないだろう。そこには君がやれるようなことは何もありはしない。だから今の君には夢も希望もありはしない。あるのはごく普通の暮らしだけだ。実際それ以外に何もすることはないだろう。わざと深刻ぶって真剣に文章を書くことに取り組んでみても、その大げさな振る舞いを受け止める対象が君の周りには存在しない。ではそれらの動作はどのようなときに有効に機能するのだろうか。何やら難しい書物を読みあさった末に、世界の一部分を構成する事物をわかったようなつもりになり、それに関して利いた風な意見を開陳する気にでもなりたいのか。別に君がそんな素振りを見せているわけでもないが、架空の物語の中では、慌ただしい日々の中で何をやっているわけでもなく、いつまでも勘違いや意味不明では済まされないような雰囲気を感じつつも、かなり手間取ってしまうかも知れないが、もう少しそれらの文章を読み続けていたいらしい。ところでそれらの文章の中では、誰が何を思っていることになっているのだろうか。誰かにはなぜ君がそう思うのか理解できないようだが、この世界がつまらないと日頃から感じているのは、君の勝手な思い込みなのだろうか。あるいはただつまらないことをやっているから、つまらないと感じられるだけなのか。誰かは思い込みが激しい性格のようだが、何を被害妄想に陥っているのか。そして妄想によってどんな被害を被っているのだろう。話のつじつまが合わず、内容が馬鹿げているのは、以前からそうなのだから、それはそれで仕方がないか。とりあえず話の中で誰が馬鹿げた行為に及んでいるのでもなく、何となくそれらの光景が馬鹿げているように思われるだけか。しかしそれでも何について述べているのでもないらしい。それ以上に君が何を述べたいのかがわからない。何も述べたくないのかも知れず、ならば何も述べなければいいだろうが、それでも何か述べている理由などがどこにあるわけもないか。ただ本能の赴くまま気分次第で適当なことを述べているようだが、本当にそんな風に述べているのだろうか。誰がそう思っているのかわからないが、誰もそんな風には思っていないだろうか。思っているのではなく、何かを適当に述べているつもりなのか。あるいはそこに言葉が記されているだけか。そういう述べ方はおかしいのではないか。要するに君は暇つぶしにおかしなことを述べているのだろうか。あるいは君ではなく他の誰かが述べているつもりなのか。しかし誰かはいったい何を述べているのだろう。何やら気が動転しているようだ。よく考えてみれば別に今夜は嵐の前夜などでなく、ちなみに昨夜も嵐の前夜ではなかったはずか。たぶんわざとそれとは無関係なことを述べているつもりなのだろうが、外が静かに感じられるのは嵐の前の静けさとは無関係か。ただ単に無風状態であるだけか。だがそれで何を述べていることになるのだろう。少なくとも何かしら述べていることにはなるらしいが、それではつまらないことの部類に入るのかも知れず、やはりそれでは不満が残るか。ではそれが不満ならどうすればいいのだろうか。どうしようとどうにもできないのではないか。それ以上どうにもできないから、相変わらず行き詰まっているわけか。


3月12日

 くだらない光景を見ながら笑いが止まらなくなる。そのうち誰かに息の根を止められて、笑い死にしたことにされてしまうかも知れない。それが冗談だとは思えないが、たぶん君が思っているのはそんなことではないのだろう。ではその場しのぎに何を思いついたのか。安易な思いつきに巡り会うつもりはないか。だが安易に思いつくことを拒否してしまえば、きっかけをつかめずに何も思いつけなくなってしまうだろう。なぜそんな風に思うのか。何を思ってもそれがすべて文章になるわけでもないだろう。文章には思いもしなかったことが記されている必要があるか。だがそこに言葉以外の何が記されているというのか。それがどんな内容であるかについて、誰も興味を抱けないような文章になっている可能性もある。そして何が差し迫っているのでもなく、危機感を煽り立てることに慣れ親しむうちに、それを危機だと感じなくなっているのかも知れず、何を述べているのかわからないような文章を、辺り一面に蔓延させている可能性もある。わざとそうして何を意図しているのか不明か。先日ヤフーから迷惑メールが来ると述べたら、今度はインフォシークやニフティから来るようになった。まったくご苦労なことだが、何がそんなに気に入らないのか、正々堂々と気に入らないところを指摘してもらえれば、こちらもそれについて答えることも可能なのだが、とりあえずここで述べている内容については一切無視しているようで、それとは無関係な卑猥な内容を執拗に送りつけてくるつもりらしい。たぶんここで述べていることなどに関心はないのだろうし、それらの文章を読んでいるわけでもないのだろう。だがこちらも特に何を述べているわけでもないし、まともなことは何も述べられない状況が延々と続いているように感じられる。要するに迷惑メールを送りつけてくる者も、ここで意味不明なことを述べている誰かにしても、どちらのやっている行為もどうということはない、どうでもいいような行為でしかないのかも知れず、それらの行為について何をどう述べてみても、それらはすべて無駄で無意味なことにしかならなのかも知れない。そんなわけで何もやる気がしなくなったのは、とりあえず執拗に送られてくる迷惑メールのおかげであることにしておこう。またそれとは無関係に翌日の昼は冬の気候に逆戻りのような寒さだ。またテレビのお笑い番組もつまらなくなってきたようだ。またニュースでは相変わらず人殺しの話題ばかりのようだ。またドラマではわざとらしい演技とクサい展開の大洪水のようだ。また漫画やアニメやスポーツでは相も変わらず安易な対決のオンパレードのようだ。それらのすべてに本気になれないのは当然のことだろう。人々は何をそんなにはしゃいでいられるのか。アホくさいものに関わっていて頭がおかしくならないのだろうか。それでも生きている人もいるのだろうから、それはそれでそういうことでしかないのだろう。風は吹き雲は流れ、昼の日差しに照らされて、特に何を思うでもなく、また時が過ぎゆくだけで、過ぎた分だけ着実に老いて行くのみか。老いたからといってその人の特性がどうなるまでもなく、どうにもならないからこそ、いつまで経っても過ちを犯し続けるのであって、それらの犯罪行為に対してどんなに刑罰を重くしようと、ひどい人は相変わらずひどいままに生きて行くことしかできないのであり、そのようなひどい人をこれからも社会や学校教育が執拗に生み出し続けて行くのことになるのだろう。それについて君が何を述べても、ただ無視されるだけなのだ。この世界は心の腐った人たちのものなのか。それともそれは何かの冗談のつもりなのだろうか。人には人それぞれに領分というものがあり、迷惑メールを執拗に送りつけることしかできない悲惨な人にも、生きて死ぬ権利ぐらいは残されているのだろうが、架空の君には何も残されていないような気がする。君には生きることも死ぬことさえもできないのか。ではいったい君には何をやることが残されているのだろうか。よくわからないが、とりあえず適当に言葉を連ねているのは君ではなく、君はそれらの文章の中に架空の存在として記されているに過ぎず、他の誰かによって語られているに過ぎない。しかもその状態が君にとってどう感じられるわけでもなく、ただ君は君という言葉でしかない存在だ。そしてそれは君についての説明であって、君自身が自ら何を説明しているのでもなく、そこには文章が記されているに過ぎない。つまり君にとってそれらの文章は、意味不明でどうでもいいようなものなのかも知れず、同時に君にはどうすることもできない生息環境なのだ。やはり君が何を思ってみても無駄なのか。君が思っているのではなく、君が何かを思っていると述べられているわけだ。しかしそれはわざとらしいごまかしに過ぎず、そのように述べないと文章にならないのかも知れない。


3月11日

 これといって話したいこともなく、それでも何かしら述べているとき、君はどんなことを述べているのか。それが思いもよらぬ展開をみせたとき、まだ冷静な精神状態でいられるだろうか。それらの文章はどこから始まりどこで終わっているわけでもないらしい。何がそこでの決まり文句なのか。それはそれとしてそういうことでしかないだろう。相変わらず何を述べているのでもなく、思わぬことを述べようとしている。聞こえてくる音の中に何が混ざっているのか。夢の中に逃げ込み、そんなことを思っているわけではないと思いたくなる。そこに現れた誰かは何を思うでもなく、見慣れた風景の中に些細な現象を見出したつもりになる。倒木の近くで松が立ち枯れようとしている。曇り空は日差しを薄く遮り、つかの間に出現した薄暗い昼を演出しているわけか。意識はそんな風に思っているわけでもなく、ただそれらの状態を文章にするとそのように表現されてしまうらしい。ところで他に何を述べようとしていたのか。例えばこの世界を覆う制度について何を感じているのだろう。制度がひとにぎりの成功者を生み出すために、その他大勢の敗残者を必要としていることについて、それの何を批判したいのだろうか。何も君が改まって批判するような筋合いのものでもないか。すでに君自身は制度からはみ出てしまっているのではないか。制度にとって君は箸にも棒にもつかないような利用価値のない代物と化しているのかも知れず、ただ単に無視されるべき存在でしかないのだろうか。成功とも失敗とも無縁な人間は、存在しないと見なされなければならないか。それでも君は待ち続けているはずだ。制度が制度として機能しなくなるときを待ち続けているわけか。それはたぶん冗談なのだろう。自然体で何を呼び込もうとしているわけでもなく、それがどんな制度なのかもわかろうとせず、ただ漠然としているだけのようだ。何が漠然としているかもわからずに、やはり漠然としているとしか感じられない。君は君のやれる範囲内のことをやるしかないだろう。それが君にとっての領分なのだから、そこで君にふさわしいことをやってもらうしかない。そこで何をやるかは君自身がわかっているはずだ。君は他人のやっていることを絶対に認めようとしない。だから気に入らないことをやっている者に対しては、嫌がらせをやるしか能のない人間になってしまったのだろうか。だが君にしてみれば、能がないという否定的な表現ではなく、嫌がらせをする能力を身につけている、と肯定的に言い換えたいのかも知れないが、それにしてもそれはそれほど画期的な能力ではないのではないか。ただ感情的になって何かをやっているだけだろう。そしてそれを冷めた目で眺めているのは誰なのか。そこに誰もいるわけがないか。君は他人の目を必要としていない。要するに独りよがりの自己中心的な人格をもっているようだ。それはどこにでもいるようなありふれた人々と同じ性格の持ち主ということか。そんな君の存在が他と比べて際立っているわけもなく、いつまで経ってもその他大勢の中に息づいているのだろう。ひとにぎりの成功者の後ろで、その他大勢の中の一人として、誰からも注目されることなく、ただうごめいているわけだ。そんな役回りでは気に入らないか。それは役回りでさえなく、役もなく名もなく、その辺をうろつき回る通行人でさえない。誰からもその姿が見えていないのかも知れず、君という存在そのものが消失している可能性もあるだろう。あと百年も経てば現実にそうなってしまうのかも知れない。君は今という瞬間にしか存在し得ないのだろうか。君は誰のことを述べているのだろう。それは君以外の存在にしかならないのではないか。君にも何か願望があるのだろうか。将来においてどのようになりたいと思っているのか。どうもそんな風には思いたくないのかも知れない。言葉によって何となくそれらしい感情を構築してみせたのかも知れないが、どうも後からそれは違うと思われてしまうらしい。君は君の感情に関する文章を構成することに失敗し続けている。それはいつも君ではない誰かのフィクションとなってしまうだろう。そこにいるはずのない、あり得ないことを思っている誰かの姿が、君の代わりに文章の中から浮かび上がってくるように思われる。君自身はそのような内容には抵抗感があり、いつもそうではないだろうと思いたいらしい。そんなことを自らが思っているわけがなく、それはそのときの言葉の連ね具合によって生じた嘘の姿だと見なしたいようだが、もちろん真の姿が別のどこかに想定されているわけでもなく、言葉の意味するところの真の姿など嘘に他ならず、本当の自分こそが偽装され感情によってねつ造された自分に他ならないことは承知している。そしてそんな風に承知していること自体も、何の根拠もない嘘の一部に過ぎないことも承知しているつもりのようだ。どうやら君が述べていることに確からしいことは何もないように思われる。だから君は何を述べているのでもないわけか。そうやってただ雑なことを述べているだけなのか。


3月10日

 誰かは何を支配したいのか。この世界は何に支配されているわけでもないらしいが、それでも何か得体の知れないものに支配されていると思い込みたいか。本気でそんな風に感じているわけでもないか。では誰かは支配とは無縁の自由を求めているのだろうか。なぜ安易にそんなことを述べてしまうのか。言葉に踊らされ、本当に踊っているとも思われず、何を述べているのかわからなくなる。そしてそれが自由だとは思えない。それらの何を自由だと感じられるだろうか。過去に気休めと気晴らしから発せられた台詞を思い出す。それはどんな台詞だったのか。思い出したのにそれを述べることはできないか。曇り空の下では気分が優れないようだが、そこに何が存在しているわけでもないのだろう。この地上のどこをどう探しても、君が何を探しているのかわからないか。誰かが何を探すことはできないだろう。はたしてそれで探していることになるのだろうか。無難なことを述べようとして、状況に適合する言葉を探しているつもりのようだが、それらの言葉がどのように適合しているのかが不明のままか。たぶん本気でそんなことを述べているのではないのかも知れない。そこからどんな言葉が導き出されようと、それがそのときの状況に適合しているとは限らないか。また言葉をうまく選んで、一般受けするような内容にしようとは思わないのか。内容をどのようにしたらおもしろくなるのだろう。それはそのときの偶然に左右されてしまうだろうか。何をどう語ろうと迷惑に思われてしまうのはどういうことだろう。なぜそれが迷惑メールに該当するのか。アットマークの後にヤフーの文字が記されているメールは必ず迷惑メールだと判断されてしまうのかも知れない。実際それらの内容はウィルスが添付されているか、アダルトサイトへの勧誘か、卑猥なことが記されているか、そんなものばかりなのだから、ソフトの側で自動的にそう判断してしまうのも仕方のないことか。要するにヤフーが迷惑メールの発信源となっているわけか。それはある意味では愉快なことだろうか。インターネットを推進している企業が、同時に一方ではそれの信用をなくし、利用している人々を嫌な気分にさせ、それはまさに作用反作用の法則のごとく、諸刃の剣のようなことになっているわけだから、そうなりざるを得ないのだとしたら、それは自然の摂理が働いているとでも思えば納得するだろうか。納得したからといってどうなるわけでもないが、人間のやることは常に他の人間を不快にさせ、不快にさせるものを他人に押しつけることで、自らの内に快楽を呼び込もうとする傾向にあるらしく、その不快さによって他人を支配しようともくろんでいるわけか。北朝鮮の金正日氏にしろ西武グループの堤氏にしろ、そのような人物に代表される権力によって一定の動作を強制されている人々は、常に不快さのただ中で生きて行かねばならないということだろうが、それは極端な例としても、大なり小なり他人が嫌がるようなものを押しつけてくる人々は、それをやり続けることによって爽快な気分でいられるのかも知れない。他人を苦しめることで自分にはそういう力があると実感できるのだろうか。簡単に暴力をふるってしまう人などはその典型か。他人を自らの意向に従わせたいと思うのは、群れとして社会的な生活をしている人間の本能なのかも知れないが、自らの立場を階層構造の上位に位置づけ、下位の者たちに命令を下し、それを支配していると思い込んでいれば気分がいいのだろう。だから迷惑メールであれ暴力であれ、それがどのような形式であったとしても、何らかの手段でそのような行為をやり続けていたいのかも知れない。そういうことに生き甲斐を感じているのだろう。他人に迷惑をかけ続け、それができる自らの力を誇示したいわけか。それが自己主張の形態の一つとなっているわけか。そんな自己顕示欲の支配から逃れることは不可能なのだろうか。いったんそれの虜ととなってしまった人を、それ以外のやり方へ向かわせることはできないのだろうか。そんなことにしか生き甲斐を感じないとしたら、それはそれで悲惨なことかも知れないが、それをやっている当人はそうは思わないのであり、それによって日頃の憂さを晴らしているのかも知れず、その人はその人で、それとは別のところから嫌がらせを受けていて、そこから生じるストレスを解消させるために、そんなことをやり続けていたりするのだろうか。そうだとしたらそんな負の連鎖を断ち切ることは容易ではないのかも知れない。そしてそんな行為への依存によって人間社会が成り立っているとしたら、それは必要悪の一種ということになるのだろうか。人はそれらの迷惑行為によって常に緊張感を維持できるのだとしたら、それは救いようのない愚かさのただ中に生きているということか。冗談としてならそんな社会もありかも知れないが、それが冗談ではなく現実の社会の紛れもない真の姿だとしたら、それについて君はどう思っているのだろうか。別にどうも思いはしないか。やはりそんなことはどうでもいいような些細なことでしかないか。


3月9日

 ただ漠然と言葉を連ねながら、自らのやっている行為について、何一つ疑念を感じていないわけでもないらしいが、それは未来へと続くような行為なのか。君はどのような未来がお望みなのだろう。影は君に未来があると思っているのだろうか。それはどんな未来なのだろう。影に君の未来を予測できると思うか。予測ではなく予想ぐらいなら、それが必ずしも当たっていなくてもできるのではないか。ではどんな風になると予想しているのか。たぶん今から百年後には生きていないのではないか。それは何かのごまかしか。君は将来において破滅したいのだろうか。生身の肉体が活動を停止することが破滅といえるだろうか。それは破滅を通り過ぎた後にやってくる死だろう。君が将来においてどんな風に破滅するかは、実際に破滅したときになってみないことには何ともいえないか。影は君についてそんなことを述べたいのではない。影には何も述べられないのだ。影はただ君の代わりに時間稼ぎをするばかりだ。それが何のための時間稼ぎかは不明だが、ひたすらそこにとどまり続けている。うんざりするほどそこにとどまっている。君が影の存在を忘れるまで、影は君にまとわりついて離れようとしない。君の精神に巣くっている妄想を取り除くことは不可能なのか。何がそれらの被害妄想を形成しているのだろう。執拗な迷惑メールには降参した方が身のためか。嫌がらせをいつまでも続けようとするのが嫌がらせをやっている者の習わしなのだろう。それがそういう者たちの商売なのだろうから、それは仕方のないことであり、ただ彼らがやっていることはそれなりに認めてあげなければならないのだろう。うんざりするがそれもメールアドレスが知れている者の宿命なのかも知れない。こちらはそれを書くための題材とする以外に利用することができないので、こうしてそれについて記しているわけなのか。そういう人々にはそれを執拗に継続させている点で、何となく親近感を感じてしまうわけだが、例えばそれを後十年続けられるだろうか。君の方は少なくとも後十年は継続させるつもりなのだろうか。迷惑メールを送り続ける人たちも君もそんなに続けられるはずがないか。逆に十年も同じことをやり続けたら大したものだろうか。その道何十年の人たちの仲間入りができるだろうか。たぶんそうなったらそれだけのことでしかないのだろう。それは破滅とは何の関係もないただの惰性に過ぎないのかも知れない。やめるよりは続けている方が楽な場合もあるだろう。要するに君にはそれをやめる勇気がないわけか。ではやめられないのなら、この先も続けていくしか他に選択肢はないのだろうか。例えば君以外の意識に継続をお願いしてみたらどうか。たぶんそれは冗談で述べている範疇なのだろうが、君以外にそれらの物語の中には誰が存在しているというのか。彼ならとうの昔に蒸発してしまったはずだが、君や彼以外ではやはり影しか存在し得ないか。影に何ができるというのか。嘘をつくこともできはしないか。なぜ影に嘘をつかせる必要があるのか。そんなことは君などにわかりもしないか。君も影もその存在が鬱陶しいように感じられるか。なぜそんな架空の存在を設定しておく必要があるのだろう。話を込み入らせ長続きされるためには必要なのだろうか。しかし今さらそんなことを述べても何も始まらないような気がしてくる。誰かはまだ何も始まらないうちに何を始めているのか。はたして風の強い日に何を思うだろう。少なくとも君はそんな風には思わないだろう。繰り出された言葉の意味がわからず、そこから続けて語るのをためらっているわけか。自分一人だけで何ができるわけでもないが、それは一人でやっていることでしかない。ではそれらの行為の何が不条理なのだろう。不条理だと感じられる行為について、君はいかなる答えを持ち合わせているのか。自らに何を問いかけているのか、その意味がわかるまでは安心できないらしいが、思わぬところでそれに対応する言葉を持ち合わせていないことに気づかされる。状況の変化に対処できずに、それを否定的に捉えるのが精一杯のようで、あからさまに提示されている矛盾を見て見ぬふりをしている。すでにできあがってしまった秩序を乱す行為は受け入れがたいのだろう。自分たちが築き上げてきたと思い込んでいる階層構造からもたらされる既得権益を、そう易々と手放すつもりがないのは当然のことか。とりあえずそれに対して抵抗する権利を持ち合わせていると思っているのだろう。そしてそのような行為を力尽きるまでやり続けることが、それらの人々の使命となっているのかも知れない。自分たちがやっていることを正当化できなければ、生きている意味がないか。しかしなぜ人は仕事をやらなければならないのか。どうして自らのやっていることをできる限り継続させる必要があるのだろう。そしてそれはいったい何のためにやっていることなのか。それはまともな答えが出てこないことを予感させる問いかも知れない。少なくともそれらの行為が生きるためにやっていることだとすると、なぜ生きていかなければならないのか、という疑問が次いで湧いてくるかも知れない。とりあえず今は死んでいるわけでもなく、生きているようだから、生きている間は何かをやり続けることになってしまい、その何かがそれらの行為なのだろうか。


3月8日

 本当にそんな気がしているとは思えないのだが、なぜか生きることから取り残されているような気がしてくる。確かに死んではいないようなのだが、それほど生きているわけでもないように思える。それはまたいつもの嘘か。嘘だとしたらこれからどうなるのだろうか。どうにもなりはしないかも知れないが、面倒なのでいつものように適当にどうにかなっているつもりになり、すぐさまそれを忘れてしまうわけか。また何を忘れてしまったのか気づかないままなのだろうか。今日も一応は日付的に追いついているらしく、気分的には追い込まれていないように思われるのだが、やはりまた箸にも棒にもつかないようなことを述べているのかも知れない。依然としてここで取り扱うべき内容に巡り会えないようで、いつまでも無い物ねだりを繰り返し、それについて君は唐突に何を思っているのか。唐突ではなく以前から苦々しく思っているだけのようだ。しかしそれが嫌ならやめればいいだろう。ではもうおもしろくないからやめるか。まだ何も述べていない段階で、それはないかも知れないが、まだいくらか継続への未練があるらしく、それは雰囲気的にこれから述べようとする内容のどうしようもなさを、予感させるものでもあるのかも知れないが、それらの内容の何がどうしようもなくなるのか。例えばそこには何かけだるい雰囲気ややるせなさでも漂っているのだろうか。それらの何がけだるかったりやるせなかったりするのか。それらのその場しのぎのいい加減な言葉にはまったく本気になれないか。たぶん実際には何もないのかも知れず、わずかに何かがあったとして、それはそれについて何も述べる気が起こらないような何かかも知れないが、例えば雲の合間からつかの間に射す日差しについて何を述べればいいのだろうか。それは付け焼き的で意味不明な文章か。だが現実の空には雲一つ見あたらない状況下で、過去に体験したかも知れないその天候について、そのときの印象でも思い出しながら、他に何を述べようとしているのだろうか。その段階では他など何もあり得ず、そもそも取り立てて何を述べようとしているのでもないはずか。それでも時期的にはもう春なのだろう。日差しが暖かいと感じたら春なのかも知れないが、別に意識はことさらに春を感じたいわけでもなく、文章の成り行き上たまたま春という言葉が連続して出現するようになってしまっただけなのかも知れないが、それは単なる偶然のなせる業でしかないか。つまらないことを述べるには春という言葉がうってつけなのか。そんな風に解釈すれば偶然の成り行きに理由を当てはめることができるだろうか。その理由とは何なのか。はたしてそれはその言葉の意味するとおりの理由になっているのだろうか。だが誰がそれを判断すればいいのだろう。なぜそれを述べている者が判断できないのか。それが春だと判断しているだろう。だがどうしてそれが理由ではないような気がしてしまうのだろう。そんなどうでもいいようなことについて、わざとらしく突き詰めて考えているふりを装うのは馬鹿らしいか。確かに馬鹿らしいかも知れないが、それがそこでの言葉の連なりとなっていることからそれらの現実が構成されているらしく、君は否応なくそんなどうでもいいような現実に直面し続けているようだ。そして何もないと述べているそこには何もないわけではなく、気に入らない何らかの状況下にあることを認めたくない意識が、そこに何かあることを否認するためにあえて何もないと述べているだけなのかも知れないが、一方でそう述べ続けることによって、何もないという言葉を循環させながら、文章の中で何か述べているように装っているわけであり、それはかなりおかしな事態なのではないか。今の君にはそんなやり方しかできないのか。しかしそんなやり方が何に対して有効だと思い込んでいるのか。いったい君はそのような文章によって何と対峙しているつもりになっているか。誰かはそれが虚無だと思いたいのだろうか。そんな結論なら満足するわけか。満足すると同時に馬鹿らしいとも思うかも知れない。そこでは虚無という言葉を使えば何でも説明できるような気がして、またそれがでたらめな説明だとも感じられ、そんな風に感じる理由など何もないと同時に、それとは別の次元で、そのように感じざるを得ないような事情が何かあるようにも思われ、その事情を探ろうとは思わないが、やはりそれは文章のつながりを保つ上で欠かせない何かなのだろうか。そして今日もわざとらしく理由やわけという言葉で文章をつなげていって、結論として虚無をもってくれば、それで何も述べずに何かを述べているような気になってしまうのであり、そんな文章を執拗に繰り返しながら、それらの継続を図っているわけか。しかしそれで何を述べていることになるのだろうか。何かしら述べているつもりになれると思い込んでいるわけか。そしてそう述べながらまたそんな文章を繰り返している現実に直面しているわけか。


3月7日

 薄暗い小道を抜けて行くと、そこには何があるだろうか。実際に行ってみればいいではないか。だが行けるはずもなく、それはポスターの表面に貼り付いている画像に過ぎないだろう。電車の中で見上げれば嫌でもポスターが目に入ってくる。それは安易な観光案内の類かも知れない。ただ単にそれだけのことだろう。しかしそこで終わってどうするのか。終わりたくなければそこから話をふくらませばいいだろう。おおかた小道の向こうには有名な寺院でも建っているのかも知れない。観光客向けの京都とはそういうところなのか。京都は歴史の街なのだろうが、そこで喧伝されている歴史とは何だろう。それはNHKでやっている大河ドラマ向けのあらすじに過ぎないようなものだろうか。そんな風に歴史を捉えるなら、それでもそれなりに興味を惹くだろうか。別にそれを批判しようというわけでもないが、それらの何が歴史なのだろう。何もかもが歴史だと強弁すればそれで通るような話か。だがそんな話で誰が満足するというのだろう。例えば平安時代に何があったというのか。くだらぬ権力争いの類か。なぜ権力争いをくだらないと感じるのだろう。それは過ぎ去った出来事で、すでに結果がわかっているからくだらないと思うのだろうか。権力争い自体も呆れた出来事かも知れない。だが歴史の変わり目とはそんな争いごとが勃発したときにやってくるのかも知れず、そこに人間の本質が見え隠れしていて、そこから何か人間の習性とか本能とかがわかったような気になるのかも知れない。要するに誰もが利いた風な話の内容に安心して感動できるということか。しかしそれと諸行無常とは何の関係があるのだろう。それこそがそれらの出来事に関わった人々が生み出した状態なのだろうか。しかしそれを現代に再現してみて何がわかるのか。少なくとも多くの人々が過去に起こった一連の出来事に興味を持っていることがわかるか。だが過去の歴史を蒸し返して何を楽しもうとしているのだろう。そこで紋切り型の人間ドラマなどが演じられていて、俳優が演じている登場人物の動作や仕草が人々の共感を呼ぶわけか。たぶんそれを見ればそれなりにおもしろいし、少しは日頃の憂さを晴らせるのかも知れないが、なぜ映像を見て憂さを晴らす必要があるのだろう。何も憂さを晴らさなくとも、見て楽しければそれでいいのだろうか。しかしなぜそこに宣伝文句を介在させる必要があるのだろう。多くの人たちに見てもらうためには番組の宣伝をしなければならないわけか。たぶんそれらすべてをひっくるめた出来事が諸行無常を体現しているのかも知れず、遠く過ぎ去った歴史をテレビ画面上で再現してみせる行為の中に、人々の興味を継ぎ止めるための数々の仕掛けが凝らされており、できるだけ多くの人々がその画面に見入ることで、高視聴率という価値が生み出されて、制作者が自己満足に浸ることができるというわけか。だがなぜそれが諸行無常につながるのかわからないか。そのような行いが常に成功するとは限らず、常にある程度の変動を被り続けるということか。しかしそれで君は冗談を述べているつもりなのか。相変わらず何を述べるわけでもなく、何となく子供だましでその場を取り繕っているのかも知れないが、お手上げ状態とはそういうことなのか。おまえはもはや何もできはしないだろう。一度そんな啓示を受けてみたいか。たぶん受けたとしても真に受けるわけもなく、いつか誰かは雲一つない空を眺めている夢を見た。文章の前後のつながりがおかしいか。それが何を暗示しているのかわからないが、早朝に目覚めても何も思いつかないことに気づく。それがどうかしたのか。頭がどうかしているのかも知れない。気づいたのはそんなことではないか。他に何に気づこうとしたのでもなく、また誰かは暇つぶしに何を述べているのでもないらしい。はたしてそれで何かに気づいたことになるのだろうか。もしかしたら気づいているのはそれだけではなく、たぶんまだ他に気づいていないこともあるのかも知れないが、それに気づいていながら、意識は他のことを述べようとしていて、何に気づいたのかを述べることは後回しになっているのかも知れない。たぶんそれは嘘だろう。戯れに思いつかないのに思いつこうとして、それでも思いついたふりをしたいらしい。苦し紛れに思いついたのはそんな見え透いた嘘だけで、それが戯れであるほど余裕があるわけもないか。意識の外で勝手に言葉が連なり、何か適当なことが語られているように見せかけたいのだろうか。しかし依然として意識は何も思いつかない。ただ時が過ぎゆくうちに、わずかずつ文章が出現していくように感じられる。だがそんな成り行きを期待していたわけでもないだろう。しかし他に何を期待していたわけでもないか。やることが何もないわけでもなく、すでにやっているそれをやり続けているだけでしかなく、それが気に入らないのかも知れない。君はそれでもいいと思っているのだろうか。


3月6日

 人間の欲望の矛先は快楽を求める方角を向いているそうだが、いったい結末はどこにあるのだろう。どうすれば結末にたどり着けるのか。しかし結末とは何なのか。別に趣向を凝らしているわけでもないのだろうが、さらに何を述べているのかわからなくなってしまうようで、ついでに以前と比べて何が変わったのかもわからないが、意識は何も変わりようがないのかも知れず、例によって言葉がつながらないのもいつものことか。それらの中の何が例なのかわからないが、誰かは何を述べているのだろうか。何について語りたいのだろう。どんなに努力してもそこから遠くへ行けるはずもないが、どんな意見をどこへ届かせようとしているのか。今さら意見など何もないか。それは意見ではないのかも知れない。ではまったく意見を主張しようとしない意識は、どこで休息を取ろうとしているのだろう。目を閉じて心も閉じて、他に何を閉じれば気が済むのか。それほど感覚のすべてを閉ざしているわけでもないか。君はなぜ思考する対象を必要としているのだろう。それについて語ることで、すべての感覚を閉ざしているわけではないことを実証したいからか。それについて何かしら言葉を連ねたいからか。しかしその反面において、世の中で流行している話題から遠ざかろうとしている。何がその反面なのかあやふやに感じられるが、主要なメディアが今騒ぎ立てている問題とは何なのだろう。なぜそこでそうではないと思われるのだろうか。気がついたら問題の内容をまったくつかみきれていない、ということはよくあることか。現にそれらの文章の中には何も見出されていないようだ。そのままでは時流に逆らうことも付き従うこともできないのではないか。いったいそれらの文章は何を無視し、何から無視されているのだろうか。君はいつものようにそんなことはどうでもいいことだとは思わないのか。意識は誰にあるいは何にそそのかされているのだろう。その気になって何を述べてきたつもりなのか。君の意識を罠にはめようとしている仮想空間では、他の誰の意思が働いて何が作動しているのだろうか。いったい何が意識を被害妄想に陥れようとしているのか。そんなわけでもはや冗談以外では君の意識にはついて行けない状態になりつつあるのか。今日も物語の登場人物たちは人々の意識を吸収し続け、それが異常な光景であることを隠し続ける。そして必要以上に歪められた意識の存在を当たり前のように感じさせる。何の奇跡も起こっていないことを気づかせないようにさせるために、外部からの視線を拒絶しながら、なぜそれに対して疑念を抱かないのか理解できなくしているらしい。どうして暇つぶしの娯楽が非日常的な物語を鑑賞することに置き換わってしまうのか。そしてそれらの物語の中では、いとも簡単に驚異的な事件が次々と起こり続け、効果音的な目くらましによって、それが鑑賞者の退屈を紛らすための仕掛けに過ぎないことを隠そうとする。実体としてそれは事件以前の段階で事件ですらなく、単なるごまかしの積み重ねによって、あたかも事件が起こったかのように見せかけているだけなのだが、なぜそのような嘘の構成物に感情移入しようとするのだろう。そうすることが気晴らしや暇つぶしになり、それが娯楽だと思われるからか。しかしはたしてそれらの呪縛を心地よく感じている精神がまともだといえるだろうか。まともでないから娯楽が必要なのだろうか。ではなぜ君もそれを見て楽しめるのか。君もまともでないからか。ではまともでないというのはどういうことなのだろうか。何がまともで何がまともでないのか。まともでない君にそんなことがわかるはずもなく、君はそれを見ながら意味もなくげらげら笑い続けている。そんなわけで見ているそれらは単なる馬鹿騒ぎ以外の何でもなく、まともでない人は馬鹿騒ぎを見ながら、それを娯楽だと思い込んでいるわけか。人々はそれらの何にリアリティを感じているのだろうか。たぶん何を批判しているのでもないのだろうが、そのような思い込みがまともでないとは感じないのだろうか。だがそれらに価値や意義を見出せないとしたら、それらについて述べつつある文章は、何のために存在しているのか。読むためではなく眺めるための文章があり得るだろうか。ことさらに演劇的な見せ物を拒絶する理由がわからないか。物語に感情移入しようとしないのはどうしたわけなのだろう。不必要なことを考えているのかも知れない。ただそこへ無理矢理留め置かれると、意識が腐ってくるように思われる。別に常軌を逸しているとは思わないが、少なくともそれらの意識は嘘をついているわけではないらしく、実際に嫌気が差しているのは本当のようだ。飽き飽きしながらもそれにつき合わされて、世間話的なそれらの語りにうんざりしているわけか。


3月5日

 相変わらず何を語ろうとしても何も見出せないのだが、別にそれを気にしているわけでもなく、ただ考えれば考えるほど何もできなくなってくるようで、その状態を改善したいとは思っているようだが、方法を何も見出せないので、今のところそれを改善できずにいるらしい。意識にはさっきまでテレビを見ていたように思われるのだが、昨晩のことはあまり覚えていないらしく、もしかしたらそこで何か重要なことをやっていたのかも知れないが、いったん寝て起きたらそんなことはきれいさっぱり忘れているみたいだ。そんなことを述べているうちにまた眠たくなってきたようだ。今は翌日の昼ぐらいの時間帯だろうか。数日前の雪もようやく溶け始めたようで、これから徐々に暖かくなっていくのだろうが、もう春になりかけているのだから、そんなことは当たり前のことだろう。要するに無駄なことを述べているわけか。べつにそれらの言葉を否定するつもりはないが、ことさらそんなことを述べている意味はどこにあるのか。どこかにあるのかも知れないが、別にその意味を探しているわけでも、探したいとも思わないが、他に何か探しているものでもあるのだろうか。ただ対象が定まらない何かを探しているだけかも知れないが、偶然にその何かが見出されればどうにかなるのだろうか。どうにかなるような気もするが、どうにもならないような気もしてくる。またそれを探し疲れているわけでもないのだが、ただ疲れているように見えるだけか。本当は疲れているらしく、あるいは嘘で疲れたふりをしながら何かを吸収しているのかも知れない。その何かが何なのかわからない。だがそれでは何を述べているでもないことになりはしないか。翌日の空は曇っている。その薄曇りの空の下で今日も人々はうごめいている。たぶん人々はそれぞれに何かをしているのだろう。しかし人々はその何かに満足しているのだろうか。満足していたら悩んだりしないだろう。不満だからこそその不満を解消させるために何かをやっているのではないか。そして絶えず満足するようなやり方を模索しているのだろうが、はたしてそんなやり方を続けていていいのだろうか。良いか悪いかはその時々で違ってくるかも知れないが、とりあえずそんなことをやりながら、誰もがその人なりの日常を過ごしているのだろう。君はそんな生活に耐えられるだろうか。それを退屈に感じているのか。退屈ならどうだというのか。精神的に耐えられないか。ではそんな状況に精神が耐えられなくなった者たちには、どんな結末が用意されているのだろう。なぜ何の変哲もない通常の日常生活が耐えられないものとなってくるのか。どうしてそれらの日常が馬鹿らしいものだと思えてくるのか。そこに違和感を覚えた者たちはどうすればいいのだろうか。放っておけばどうにかなってしまうのか。どうにかなってしまったら、それはそれでおもしろかったりつまらなかったりするのだろうか。それはいったんどうにかなってみないことにはわからないか。ではそれでもどうにもならなかったらどうすればいいのか。どうにもならなければどうにもならないということでしかないか。どうにもならなければ、そこで精神的に追いつめられて行き詰まってしまうだけだろうか。行き詰まったからといって、それでどうにかなるわけでもないか。ではそんな行き詰まりの中で生きている者はどうすればいいのか。今さら安易に救いを求めるわけにも行かないようで、例えば簡単に占いなどにはまって、それに依存して生きて行ける人をうらやましく思っているのかも知れない。その程度で気分転換ができたら行き詰まることもないか。だが別に行き詰まることが大したことでもないだろう。君はいつまで行き詰まっているつもりなのか。なぜ画面を見ながら何も思わないのか。だが何も思わなければそれでどうなるわけでもないようだが、何か他に思考の働きを促進するような栄養を補給しなければならないだろうか。補給できないから行き詰まっているのではないか。しかしなぜそんな風に述べるのか。取り立てて理由など何もなさそうだが、そこで何を考えているのだろうか。あるいは考えあぐねて何を支離滅裂に述べているのだろうか。二度と同じことを述べたくなくなったのか。夜にガソリンでも給油に行ってきたのだろう。そのついでに呼吸をしている。だがそれでフィクションになっているのだろうか。何をそんなに驚いているのか。また他に何を答えればいいのだろう。しかしそれで別に困り果てているわけでもないか。ではなぜうまくいかないのだろう。今日は何曜日なのか。まだ言葉が定まっていないようだが、そのことを知ろうとしているのではない。では悲惨なことを知りたいのか。時間の進む速度が緩くなっているように感じられ、意識はそれを求めているらしく、他に何も知らないわけでもなく、少なくとも知っていることを話そうとしているらしい。


3月4日

 まだ雨が降り続いているのだろうか。雨ではなく雪か何かか。また日付的に届かなくなりつつあるようだが、それは昨日の思いから派生した何かの感想か。調子が悪くて文章が長すぎる。なぜそうなのかわからず、それは何かの間違いかも知れないが、終わりが遠すぎるようだ。しかし漂っているそれらの空気は誰のものでもなく、それらの雰囲気も誰が醸し出しているのでもない。たぶん約束は果たされないのだろう。はたしてまともなことを述べようとしていたのだろうか。そんな思いを意図的にねじ曲げて、それがどのような意図だったのか思い出せないようにしたらしく、とりあえずそれに関しては何も思わないつもりだが、何かいつもとは違うような気がするらしく、今の意識とは別の水準では、ひたすら同じことを思っているつもりのようだ。だが何が同じなのかわからない。純粋に混じりけのない状態の中にいるわけでもないが、何を意味不明なことを述べているのだろうか。その他に今日は何を述べるつもりなのか。雪はすでにやみ寒空に烏が飛んでいる。それは昼に見た光景だろうか。別に烏が飛んでいたわけでもないだろう。何を思い出せないのだろうか。何も思い出せないわけでもないか。だがそれを語っているのはどうしたわけなのか。思い出せないことを語ろうとしている。しかしすぐさまそんなはずがないと思いたいようだ。他に何を思いだしているのだろう。嘘を述べるならば、感動するために音楽を聴いているわけではない。のどに渇きを覚えて水を求めている。それが本能だとは思わないが、そこから何を学ぼうとしているのだろうか。それらの出来事からそんな思いを導き出そうとしている。何も導き出されはしないだろう。見慣れない影が枯れ葉に紛れてその場から立ち去ろうとしている。苦しいのだろうか。見苦しく感じるのかも知れない。だからその姿に見とれているわけではない。本当にそこで立ち止まったつもりなのか。表現の限界を感じている。言葉と文章が近すぎて遠い関係になっているわけでもないが、言葉によって何を表現しているわけでもなく、そこにはただの文章が存在しているらしいが、それをわざと間違えているのだろうか。述べていることが意識から遠すぎるだろう。それは見果てぬ夢などではなく、馬鹿らしいことを述べようとしているのかも知れない。しかしそれはたぶん無理だろう。無理だと思いたいだけか。あるいはそうは思わないか。それは妄想などではないと思いたい。どうやら思わぬことを述べているのかも知れない。基本的に法律で守られている人権とは何だろう。誰でも最低限の衣食住を確保できる権利か。そんな権利などあるわけがないか。ではどこが間違っているのか。何が正しくて何が間違っているのだろう。未だに機会は巡ってこない。その退屈な空間を放棄することができない。勝てそうもない。何に負け続けているのだろう。この社会では何が許されているのか。過ちを犯すことの他に何ができるのか。今日は疲れて寝てしまうわけにはいかないのか。では眠らずに何をやろうとしているのだろう。やろうとしてやれるなら困ったりしないか。それ以上に何もできないから困惑してしまう。いきなり本題に入ろうとしているわけか。すでに本題を通り越して終わろうとしているのかも知れない。本題など何もなく、ただ無理に述べているだけか。無理に語ろうとしても語る内容に巡り会えないのは当然のことか。だが当然のごとくに思っているわけでもないらしく、何かしらその状態を引き延ばす算段を考えているようだ。なぜそんなことをやるのか理解できないか。自らを納得させようとしているのかも知れない。どれほど努力してもその程度のことしかできないのか。それが努力といえるだろうか。その状態からさらに何をやろうというのか。何もできずに煩悶するばかりか。無理を承知で文章を長引かせることに疲れている。思いを素直に述べられない苛立ちに敗れつつあるのかも知れない。このままではまた以前と同じようなことを繰り返すだけだろうか。しかし他に何をやれるのか。やれないことをやろうとしているだけか。それをやろうとすることで虚しくなるのだろう。そしてさらに空虚を心の内に呼び込むことになる。虚無感に充たされ、何もやる気がなくなってしまう。翌朝のあくびとともに意識はそこにとどまり続けたいようだが、そんなことができるわけもなく、他に何もできるわけもなく、ただいつもの作業をやり続けることしかできないだろう。それが課せられた試練だと思い込もうとしても、それを課す対象がどこに存在するのか不明か。自らを自ら圧迫し続けているのだろうか。なぜそこからの逃げ道が見あたらないのか。やはりそれを自ら閉ざしているのかも知れず、そこから逃げたら終わりだと勘違いしているらしいが、何が終わってしまうかは実際に逃げてみなければわからないだろう。案外大したことではないのかも知れず、後からどうでもいいことにこだわっていたと思われるだけか。


3月3日

 春めいた夜に雨が降っている。明日は春の雪になるらしい。雨音に心が躍るわけもなく、ただひたすら音楽を聴いている。生ぬるいコーヒーを一気に飲み干して、いつもの作り話の領域へ入っていけないことに気づく。今までに述べてきた何が作り話だったのか。それについて君は何か心当たりでもあるのだろうか。相変わらず外では雨が降り続いているらしく、雨水の香りが窓を閉じた部屋の中まで漂ってきたように感じる。何か心当たりがあるらしい君は、話を当たり障りのない方向へ逸らそうとしているのだろうか。ところでまだ話の続きがあるのか。そこから君はどこを眺めているのか。眺めている方角には壁があるらしく、壁にはわずかにいつかの地震による亀裂が走っている。無性に茶が飲みたくなってくる。君は繰り出されたそれらの言葉から逃げようとしている。それは何かの騒音だろうか。道を行き交う車の音か。たががゆるんで何かが滲み出てくる。そこへ導かれるには遠すぎるだろうか。どこに導かれているのか。何に導かれているのか。まだ何も求めてはいないはずだ。遅れてきて何を述べているのか。遅れすぎているわけでもないだろう。心は動かず身体も動かない。身も心も空洞となりつつあるのかも知れず、その空っぽの中で何かの音が共鳴現象を起こしているらしい。君はそんな風には思わないか。それの何が作り話なのだろうか。うわべだけ平静を装っても、自然と外部へ滲み出る不安の色を隠せない。そこから君は生成しているのか。他に何を心がけているのだろう。むやみやたらに話を長引かせないことか。では約束はいつも反故にされてしまうのか。約束自体が無駄でいらないものなら、なぜその約束を守ろうとしてしまうのか。そこで立ち直らなければならなくなる。地に足をつけて妄想の翼をへし折って、そこから何をしたらいいのかわからなくなる。彼らはそんなことを述べているわけではない。それらの何が危険なのかわからない。いったいこの世界のどこに足を踏み入れているのか。なぜそれらの半分も理解できないのか。眠たくなったら眠ればいいだろう。そんなことをやらなければ人々は納得しないのだろうか。勝手なことを述べ続けている。それは君とは関係のないことだろうか。大地に横たわっているの人ではなく、誰かのブロンズ像だろう。どこかの公園でそれを見かけたのか。それでも人々は一時の安らぎを求め、手軽な娯楽の周りに群がろうとする。しかし何に手を出しているわけでもない。そこで何かを探しているふりを装う。それらの見せ物のすべてが安易なのか。別にそれをわかろうとしているわけではない。情景描写とは何だろう。例えば写真でそれを再現することが可能なのか。精神の集中が途切れるとき、思い浮かぶものといえばそれは何だろう。画面上に展開される暴力を見飽きたら、あとに残る感情をどのように処理したらいいのだろうか。そこから君は逃れ去ろうとしている。やはり言葉を文章が遠すぎるようだ。何かを形成する一歩手前で粉々に砕け散ってしまうらしい。何がそうさせているわけでもなく、自然とそうなってしまうのかも知れず、そこまで気力が持続しないのかも知れない。言葉の断片をかき集めてそれを提示しても、意味不明に思われるのがオチだろうか。何がオチなのかも意味不明か。別に漫才をやっているわけでもないか。では何を考えているのだろう。別にそれを知りたいとは思わないか。気候の変動は遠くから到来するらしい。思考の変遷をどのように理解しているのだろう。以前と比べて何がどのように変わってしまったのだろうか。それをやり遂げたいとは思わなくなったのか。機会を捉えて言葉以外の何を繰り出そうとしているのか。なぜそれでも適当な文章として生成してしまうのか。その場の雰囲気を反映しているとは言い難いような表現を用いようとするのだろう。感性に逆らってわざとそうしているのか。たぶん君はそんな風には思わないのだろう。それでもそれらのフィクションを完成させるつもりらしい。何もないのに何がフィクションなのか。それらのどこからどこまでが作り話なのだろう。なぜ君は時間や日付ばかりを気にしているのか。そうやって何を守っているつもりなのか。君自身がとっくの昔に無用な存在と化しているかも知れないのに、いつまでも亡霊のごとくつきまとうつもりなのだろうか。要するにこの世界から離れられないということか。だがその弱々しい主張のごとき無内容の何を肯定できるだろう。何も見出せない日々の何を糧として生きて行けばいいのだろうか。誰が生きているのかわからないか。君は生きていないのだろうか。君の何が架空の部分を形成しているのか。到底それが生きている証とは思えないが、生身の人間として取り扱われているのは他の誰なのだろう。それに対する結論など何もなさそうに思われる。感じ取ることができるそれらは人の思考などではなく、ただ偶然に発生した言葉の連なりでしかないのだろうか。それこそがフィクションそのものか。


3月2日

 いつものように何を述べているのかはっきりしないまま、なぜ途中から始まりの瞬間に立ち戻ろうとしているのだろう。無意識に言葉を記しているつもりでも、どこかに作為を感じるような文章になっているだろうか。ふと立ち止まって過去にやってきたことを振り返る必要性を感じつつも、別に改まってそんな風に述べなくてもいいのかも知れないが、それらの言動にわざとらしく疑問を呈するわけにもいかず、どうもいつまで経っても何を語っているのでもない状況が続いてゆくらしく、それを歯がゆく感じながら、それに対して本気になれないのはいつものことかも知れないが、この世の中で起こっている出来事を真に受け取れないのはどうしたわけか。わけなど何もありはしないか。なぜ人々はそんなことに関わり合いながら右往左往しているのだろう。それがないと何を困ることでもあるのだろうか。思い通りにいかなければ誰でも困るはずかも知れないが、別に思い通りにいかなくても、それで困っていてもかまわないのではないか。そう述べてしまうと言葉のつながり的におかしいのかも知れないが、なぜそんな風に思ってしまうのだろう。理由などいくらでもあり、そのいくらでもあることが理由ではないのかも知れないが、そんな風に述べてしまうなら、文章的には何とでも言えるか。そこには事の深刻さが欠けているように思われ、たぶん本当はそんなことを述べたいはずではないのだろうが、それでも君は君なりに、何か適当なことを述べているつもりのようだが、近頃の君はいつもとは少し違って、かなりおかしなことを語っていはしないか。だがいつも語っている内容も通常の基準に照らし合わせれば、かなりおかしな内容の部類に入るような気もするが、近頃はそれよりもさらにおかしな事を語っているのだろうか。ではいったい君は何を語っているのだろう。例えばそこにはどのような言葉が並んでいるのか。そしてなぜそんな言葉の連なりでは満足できないのか。そしてそんな風に述べながらも、さらに何を語ろうとしているのだろう。何かをやり過ごしているのだろうか。まともなことは何も述べずに、それでおもしろいと思うか。自然と自らの内にわき上がってくる感情を無視しながら、適当に勘違いの思考と戯れながらも、それ以上に誰が何を考えているのかなんてわかるわけがないか。どうもまた誰かは何も述べられなくなりつつあるように感じられるが、心理的には誰が窮地に陥っているわけでもないだろうし、それについて君が誰の心を知っているわけでもなく、それらの文章のどこに対人関係を良好に保つための処方箋が載っているわけでもないらしい。やる気が出ないのはいつものことなのだろう。やる気を出す必要がないのかも知れない。いらぬところでがんばってみても仕方がないか。この世界に暮らす人々は今日もその人なりに行動するしかないのだろう。だが別にそんな当たり前のことを述べる必要もないか。しかし今は日付的には何日なのだろうか。何がしかしなのかその辺の言葉のつながりがよくわからないのだが、これから意識は何を語ろうとしているのか。何となく何かを語るべき時間帯を通り過ぎようとしているのかも知れず、語るべき内容もないのになぜそんなに急いで無内容を語ろうとしているのか、その辺もよくわからないのだが、だからといって、別にそれをわかろうとしているわけでもなく、ことさらわかりたいわけでもないらしく、そこで嫌気が差して外を眺めているのは誰なのか知らないが、とりあえず昼の空は晴れ渡り、大気は未だに冬の寒気に包まれているようだが、別に誰がそんなことを述べたいわけではなく、他に何を述べたいわけでもなく、それ以外に何を否定したいわけでもないのだが、いったい他に何を述べればいいのだろうか。何も述べようがないのにさらに何か述べようとしているらしいが、やはりその辺も意味不明なところだろうか。文章的にはそれでもかまわないのかも知れないが、気分的にはどうなのだろう。内容的におもしろければ、それでもいくらか救われるだろうが、何となく救いようのないことを語っているように思われ、そうする理由も必然もないことを飽きもせず繰り返しているだけの文章に、どんな感想を抱いたらいいのか、やはりただ漠然とした気分になるばかりなのだろうか。何を語っているのかよくわからずに、しかもそれを語っている状況のただ中に意識が巻き込まれていることは、もしかしたら驚異的なことかも知れない。いったいこれからどうしたらいいのだろう。どうもしはしないし、それらの語りはどうにかしようとしてどうにかなるようなものでもないだろう。要するにどうでもいいようなことをどうでもいいように語っているだけなのか。しかしなぜそう語りながら虚無感に包まれてしまうのだろう。少なくとも何かやっているはずなのに、結果としてそれなりに言葉を連ねながらも、それが何もやっていないことと同等に思われてしまうのはどうしたことなのか。そういう語りでいつまでもどこまでも語ろうと、結局は何もやっていないことになってしまうということか。君は本当にそれでもかまわないと思っているのだろうか。


3月1日

 そんなことは知ったことではないとは思うが、また早朝に画面をのぞき込んでいる誰かがいるようだ。蛍光灯をつけなければ暗いのではないか。放っておいてももうすぐ朝だから関係ないか。時は簡単に経過して、また昼を通り過ぎて夜になってしまうのかも知れないが、夜になるまでにややこしい行動と言動を繰り返さなければならないのだろう。人間社会とはそういうものなのだろうか。そういうものでなくなる気配は今のところはなさそうだ。例えば便利になればなるほど一方では不便になるという矛盾を抱えているらしく、それらの中のどこかを改善したように思えば、すぐさま予期せぬ不具合が顕在化してくる。絶対に安心できない構造を有しているようで、それでも無理に安心したつもりを装えば足下を掬われ、運が悪ければ奈落の底へ真っ逆さまか。常に警戒と注意を怠らぬようにしておかなければならないが、それでも思わぬところからほころびが出てきてしまい、それを放置すればどうにもならない状況に追い込まれ、結果的に嫌な思いをする羽目に陥ってしまう。しかし常にそうならないように努力し続ければ、今度は神経をすり減らして疲労困憊してしまい、自滅する前に息抜きする必要に迫られるわけだが、息を抜いたらすぐに思わぬ罠にはまってしまう危険性が出てくる。要するに何をどうやっても思い通りにはいかないようになっているわけだ。そしてそんなことを経験しながらも、着実に自らの死に近づいているらしく、寿命が来て死ねば、また元の木阿弥になってしまうのだろうか。そこに気休め的な救いを見出そうとすれば、故人が生前に悪戦苦闘して獲得した成果は、次の世代に引き継がれて報われることになるのかも知れないが、次の世代も前の世代とは違う困難に直面し続けることになり、やはり悪戦苦闘しながら生きていかなければならない羽目に陥ってしまうのかも知れず、そんなことが世代から世代へと受け継がれて、今ある現状を構成していることになるのだろうか。しかし現状にどんな救いがあるというのだろうか。前の世代が悪戦苦闘した歴史などは簡単に忘れ去られてしまうだろうし、そんな歴史的な成果が今の時代には何の役にも立っていない場合もあり得るだろう。仮に過去の経験が役に立っているとしても、人々はそれとは別の面で相変わらず苦しみ続けている。だがそれでも人類は着実に前進し続け、豊かになり続けている、とこれまでの歴史的な経緯と、それの成果としての現状と、これから到来するだろう未来の日々を肯定することができるだろうか。肯定したとしてそれがどうだというのか。またそれを否定したとしてそれがどうだというのか。そんな思い込みがどうだというのか。それらをどう思ってみても、それは気休めや気晴らしや、その逆の気が滅入るための要因にしかならないのではないか。それらの現象に何らかの目的や理由を設定しようとすればそれなりのものが導かれるし、逆にそんなものなどあり得ないと思えば、そんな風にも思いこめるだけではないのだろうか。何かを肯定したり否定したり、あるいは無視したりすることについて、あまりそのような精神現象を真に受けるわけにはいかないような気がする。要するにそれはそのときの利害関係を含む立場や知識的な偏りや気分次第で、その人の都合によってどのようにも判断されてしまうようなものでしかないだろう。そんなわけでその手の他人や自分の判断を信じ切ってはいけないのかも知れず、それはそれでそのときの状況に照らし合わせて、またそんな風に判断してしまう人の立場を考慮した上で、なぜそんな判断を下してしまうのかを一応は理解しておく程度にとどめて、それはそれとして受け流していればいいのかも知れない。そしてそれらの現象について、自らも肯定したり否定したり無視したりする立場に追い込まれても、とりあえずそのときの気分次第やその他の諸々の条件や基準に照らし合わせて、一応は暫定的な判断を下しておけばいいのであって、もちろんその判断を頑なに信じ込まないように心がけていれば、それなりに気楽な人生を歩めるかも知れないが、逆に自らの信念を曲げずに、ひたすら正しいと思ったことを貫き通せば、またそれも実直な人間としてそれなりの人生を歩んでいけるのかも知れないが、だからそれがどうだというわけでもなく、それに対する判断は人それぞれであるだけなのかも知れず、やはりそんなことはどうでもいいことであると同時に、時と場合によってはどうでもよくないことにもなるのだろう。要するに人はどのようにも生きられるの同時に、どのようにも生きられない場合もあり得るということか。しかしそれがどうしたというのか。別にどうもしないとは思うが、場合によってはどうにかなってしまうのかも知れない。とりあえずそれでどうにかなってしまったときにどうするかが問題なのか。それを問題と思えばそう思えばいいだけかも知れないが。


2月28日

 誰が何を求めてどこを彷徨っているのか知らないが、なぜ放浪しなければならないのか、そんな理由を誰に求めているわけでもなく、たぶん君はどこへも行かないのだろう。言葉だけの存在では言葉で示された場所にしか現れないのかも知れないし、君という言葉が文章の中のどの位置にあろうと、それはどこへ行ったことにもならないのだろう。なぜ君はひたすらそんなつまらない存在であり続けるのか。それは君に問いかけるようなことではないか。だがなぜそんなことを述べなければならないのだろう。他に述べることがないからそう述べるより仕方がないのだろうか。意識は何を記そうとしているのか。それは意識ではなく、指先が自然にキーボード叩いているに過ぎないことか。しかしその指先には意識がつながっているはずか。だがつながっているとしても、結果として出力される文章を意識が捉えきれていないような気がするのだが、それを読み返してみて、それらの文章を理解できないとすれば、それは意識が意図した文章ではないのではないか。なぜそうなってしまうのかわからないようなのだが、それをわかるようにするためにはどうしたらいいのだろうか。もっとわかりやすい文章を構成するように心がけるべきか。だが本当に意識はそんな風に思っているのだろうか。仮に思っていたとして、ではなぜ結果的にいつもいつも思いからはかけ離れた文章となってしまうのか。そんなことをわかるわけがないか。そう述べている意識と思っている意識はつながっていないのかも知れない。何とかその辺で妥協しなければならなくなる。これ以上深く思考を巡らそうとすると、いつものようにわけがわからなくなってしまうか。すでにわけのわからないことを述べているのではないか。そんな状態でそれをわけがわかるように説明するのは無理というものか。何かを思えば思うほど、そんな思いとは違う結果を呼び込んでしまうのは、当たり前のことなのだろうか。今のところそれに対する別の意見に巡り会えないので、何とも述べようがないのだが、それより先へはどう考えたらいいのかまったく見当がつかない精神状態にあるらしいが、それが誰の精神状態なのか不明であって、やはりそのような精神状態の人物が何を述べようとしているのかよくわからないが、実際に君は何を述べているのだろうか。述べているのは君ではないのかも知れないが、それを君が述べているように装っているのは誰なのか。何が誰なのかと問うているのだろう。要するに文章にはそれを記している意識がどのような人格から派生したものかを知る権利がないということか。しかし何をややこしいことを述べているのか。文章が知ろうとしているのではなく、文章を記しつつある意識が知ろうというのでもなく、それを読みつつある意識が知ろうとしているのであって、しかし文章を記しつつある意識にとっては、それを誰が読んでいるのか知りようがないので、それについて憶測や推測以外の何も確かなことは述べられないのではないか。しかし述べつつある文章は、まさにその述べられないことについて述べようとしているのではないか。そんなのは嘘に決まっているだろうか。別に嘘ではないと反論するつもりはないようだが、では嘘であったとしたらどうだというのか。別に嘘を述べて悪いわけでもなく、また文章を記しつつある意識はそれが嘘なのか本当なのかわかろうとしてないのかも知れない。だからそれが嘘であろうと本当であろうと、意識にとってはどうでもいいことになってしまうわけか。そしてそんな風に述べ続けていると、やはり何を述べているのかよくわからなくなり、文章を読んで理解しようとする行為が馬鹿らしく思えてくるのだが、ではそうすること以外に文章の存在価値はないのかと問うてみれば、ただ述べるためのみの文章であっても、それを記すことによって少しは昇華作用や気晴らしの効果があるのではないだろうか。それによってそれらの文章を肯定しているわけではないのだが、結局はそういう文章が出現しつつある現状がある以上、それをことさら否定してみてもあまり生産的な行為だとは思えないようだ。つまりそれはそれとして、そうなることを前提として、そんな風に言葉で表現している文章の内容を理解することはないが、とりあえずそこに連ねられている言葉を目で追って、それを読んでいるふりを装うことはできるのかも知れない。要するにそれらは読むふりを装うために文章なのだろうか。何のためにそんなことをするのか理解しかねるかも知れないが、世の中には不可解なことなどいくらでもあるのだから、その不可解な行為の一つとして、読むふりを装うための文章が存在していてもかまわないだろうか。かまうかまわないのどちらでもかまわないのかも知れないが、そんな言葉の連なりを吐き出した先にしかさらなる言葉の連なりを生じさせることは不可能なのかも知れない。


2月27日

 生物的に人を他の生き物と比較しても無駄かも知れないが、現状では人はいくらでも生まれて死ぬようになっているのだろうか。統計学的にはそうであって、世界全体では何秒かに一人は生まれて死んでいるのだろうが、実感としては人の生死に関わることはまれであるように思われる。しかしニュースでも見れば毎日のように殺人事件が報じられ、どんどん人が死んでいっている現状を知ることになるだろうか。何かいとも簡単に殺されてしまう人が多すぎるような気もしてくるのだが、とりあえず普通の人でも人を簡単に殺せるらしいことは確かなようだ。何を基準に普通と判断するのかはっきりしないが、普通の人でも切羽詰まった状況に追い込まれれば、何をしでかすかわかったものではない。実際に普通の人が自分の親族を五人も殺してしまったわけだから、そこから話をふくらませて、何か利いた風な内容になるように、文章を構成して行かなければならないのだろうか。しかし何かが頭の中で弾けそうになったとき、君は何をためらっているのだろう。たぶん疲労困憊した中でも、意識は何かをつかんだのかも知れないが、無駄な悪あがきがかえって無駄には作用しないらしく、それを無駄だとは思いたくないように思われ、それが自分のためになっていると思い込もうとしているらしい。別に自らの姿を遠くから眺めているわけでもなく、それを見失いつつあるわけでもないと思っているようだが、そこで眼球のファインダーが誰の姿を捉えているわけでもなく、誰かが語っている物語がどこから始まっているのでもないが、とりあえず人は匿名のままではいられないようだ。いつかその正体がばれてしまうのか。誰かの意識の中では、正気とそれを失ったときで、何の違いも見出せないのだが、妄想から生じている紫の煙には、いつか感じたわずかな思い入れが含まれているらしい。だがその思い入れの内容を明らかにしたくないのか。君は救世主の到来を待ちわびているわけでもないはずか。ではその静まりかえった部屋の中に誰がいるのか。君の意識は救世主の姿を百科事典の中で見つけて何を思ったのだろう。何が窮地に陥ったときの救世主となるのか。別にそんなものを利用したいとは思わないか。しかしまともに語れなくなってからの意識は至って冷静だろうか。それから君はどうなったのだろう。精神がどうにかなってしまったのか、あるいはまっとうな人生を歩んでているのか知らないが、誰がそんなことに興味を持っているわけでもなく、誰かが君の何を知っているわけでもないようだ。映画のターミネーターはまた戻ってくるのだろうか。戻ってきたら年齢的に老人になっているかも知れないが、誰がそれを見て笑うわけでもないだろう。現状では笑えない状況にあるわけでもないが、ことさらに特定の人物に焦点を当てて語るのはわざとらしいだろうか。そんなことは語り手の自由な裁量に任されているのかも知れないが、どうも数日前の意識は相当に疲れているらしく、いつものように自分でも何を述べているのかよくわからなくなっているらしい。どうも月末になると疲れがピークに達するのかも知れないが、夕方から翌朝にかけて意識が飛んでいるようで、まだ数日前から文章の進展がないらしい。そういえばここ二日間は寒さと疲労で仕事以外は何もできなかったのかも知れないが、別にそれほど過酷な環境に暮らしているわけでもないのだが、様々な偶然の巡り合わせからそうなってしまうらしく、複数の出来事が同時に起こってしまい、個人ではそれらのすべてに対処できなくなってしまうことが多くなり、そしてそんな出来事の連続に嫌気が差して、何かがあらぬ方向に気持ちが動いてしまっているらしく、完全に自らの力が及ぶ範囲を逸脱した行動に及んでいるのかも知れない。そんなわけで君は君自身を制御できなくなり、幾分暴走気味の言動を止めることもできずに、それの何が暴走気味なのか、そこで何をどう説明したらいいのかわからずに、わざとらしく途方に暮れたふりをすることぐらいしかできないのだろうか。その辺を言葉で説明できないところが君の限界らしいが、すぐさまそれがはたして限界なのかどうか疑問に感じてしまうところも、君自身の精神的な欠陥を構成しているのかも知れず、もちろんそれもすぐさま否定したくなってしまうところだが、いったいどの辺で妥協すれば気が済むのかにわかにはわかりかねるようで、別に意識ではそんなことを知りたいともわかりたいとも思わないが、文章的にはそのような文章になってしまい、その辺が意識と意識に基づいて構成された文章との食い違いが浮き彫りになるところか。しかし別に思っていることと記していることが食い違ってもかまわないか。思ったことを言葉で表現していると思い込んでしまうこと自体が、幼稚な勘違いかも知れず、思いは思いでしかなく、それを文章として記せば、そのときの思いとは微妙にずれてくるのは当たり前のことだろう。


2月26日

 それは何かの逃げ口上だろうか。誰かの意識は今でも何を述べているのかよくわからない状況なのだろうか。君はそれらの状況下で何を思えばいいのか。なぜ多くの人々と同じようなことをしなければならないのだろう。まだ何を述べても世の中の本質からは遠いような気がする。人々が抱いている目的とは何なのか。はたして目的ではないことをやることができるのだろうか。なぜ紆余曲折を経ないとそこにはたどり着けないのか。どうしてそんなことをやらなければならないのだろう。そんなことを述べながらも、相変わらず何を語っているのかよくわからないらしく、君はそんな風にしか述べられない自身に苛ついているのだろうか。しかしそこから始めなければ何も始まらないだろう。またいつものでまかせか。そこから何を始めようというのか。始めようとしても何も始まらないか。本当に何も始められないだろうか。いったい君は何を求めているのか。ただそれらの文章が形成されてほしいだけか。しかしそれは以前にも述べたことかも知れない。まだ何かを述べる手前に意識はとどまっているらしい。どこへも行かずに部屋の中で何をやっているのか。じっとしていると次第に何も述べられなくなってくる。意識は頭の中に存在しないらしく、夜の闇に紛れて、猫とともにどこかを徘徊しているのかも知れず、そんな言葉には無関心な意識を無視して、勝手に言葉は文章を構成すべく適当に連なっていく。それが作り話の内容だとしたら、文章の語り手は何を期待しているのか。誰にそれを読んでほしいのだろう。そんな内容では読む気がしないか。それがまともな内容だと誰が思っているのか。他の誰かの興味を惹くにはあまりにも遠すぎる内容かも知れない。何が遠すぎるというのだろうか。たぶん何かが遠すぎるのだろう。またいつものようにその何かが何なのかわからないのか。それがわからないのなら、どこから始めてもどこへも行き着かないだろう。ではたどり着いたと思うのは何かの勘違いなのか。ならばそれらの何が紆余曲折なのだろう。ただ何も語らないようにしているだけではないのか。何も語らせないようにしているのかも知れない。どうしてそんなことをやっているのかわからないが、とりあえず意識がどこにも存在しないうちに、文章を打ち立てなければならない。そんなことが可能だとは誰も思っていないだろうが、それ以外には述べようがないので、嘘でもかまわないから、そう述べるしかないようで、実際にそんな風に述べているのかも知れないが、それで安心してはならない。まだその続きがあるのかも知れず、何を続けようとしているのかもわからないまま、何を続けようとしているのだろうか。それをわからないままに続けているうちに、気が抜けてしまって、それ以外には何もできなくなってしまい、そうなってからそのような語りから抜け出られないことに気づいても、後の祭りか。だが何が後の祭りなのか。別に難しいことは何も述べていないつもりだが、他にどのようにも述べようがないし、実際に何も述べられないのか。そんなことを述べているうちに、何となく馬鹿らしくなってこないか。それらの何に感動しているわけでも、そんなことをやっているうちに感極まってしまったわけでもないだろう。ただそれは違うと思うだけか。しかしまだそんなことをやり続けているのか。だがそれをやり続けているの誰なのか。思考する術を失ってしまったらしい。何がこの世界の文化なのだろう。この世界には過去からのどんな遺産が残っているというのか。エジプトのピラミッドなどが人類の遺産なのだろうか。なぜそれを否定しなければならないのか。砂に埋もれて廃墟と化した遺物にどんなロマンを抱いたところで、それで暇つぶしになるだろうか。そんな死者の場所へ逃げたくはないか。しかし生きている時間はほんの数十年であり、それらの文明の痕跡も数千年前のものでしかない。人々はそこから何を導き出そうとしているのだろう。暇つぶし以外の何があるというのか。とりあえずそれを簡単に否定してはならないようで、何かややこしい論理的展開を用いて、それについて疑問を抱いている人たちを煙に巻かなければならないのかも知れない。君にそれができると思うか。その気もないのにそれ以降に何を続けられるだろうか。何をそんなにもてあそぼうとしているのか。もうそんなことには興味がないはずではなかったか。ではそこで何がめまぐるしく変化しているのだろうか。それは何かの流行現象なのか。ならば何が流行り、何が廃れようとしているのだろう。誰も何を流行らせようとも思っていないだろう。いったん流行ったらあとは廃れるだけであることを誰もが知っていて、流行の渦中で踊らされている虚しさに気づいているのかも知れない。


2月25日

 今頃君はどこで何を述べているのだろう。気が抜けた拍子に文章からはみ出て、どこか見知らぬ土地へ出かけていってしまったらしく、君が消失した跡には影が残され、無言のまま本体の帰りを待ちわびているように見えるが、影に何ができるわけでもなく、そこに存在もしないで、あたかも存在しているかのように振る舞うこともないが、昼の日差しに照らされて、実体のない姿を物陰に潜ませているように見えるらしく、それはたぶん嘘なのだろうが、実体の方はそれほどいい加減なことを述べているわけでもないのだろうが、はたしてそれらの文章から君の存在を読み取れるだろうか。実在しない君に何を問いかけても無駄か。世の中には暇な人が多すぎるようで、暇でもないのに暇なふりをしている君は、遙か彼方にあるらしい虚空に向かって、何を述べようというわけでもなく、それとは別の場所と時間帯において、何か適当なことを述べようとしている意識は、それらのどうでもいいような言葉の連なりによって、何を示そうとしているのだろうか。少し前から心はここにあらずか。だが文章にはどんな思いが組み込まれているのだろう。今日もどこかの空間ではくだらぬ情報が飛び交い、誰かがのぞき込んでいる画面上には、適当な文字や画像や映像が満ちあふれている。それでも心が充たされずに、どん欲に情報を求め続け、目的を達成するための手段となると思い込んでいる情報で、妄想に取り憑かれた頭の中をいっぱいにして、機会を捉えてそこから狙った獲物に飛びかかろうという魂胆なのか。目的や目標が定まっている人間はどう猛な肉食獣のようなものか。何をやるべきか迷い悩み、結局は何もできずに途方に暮れているうちは、まだ人としての優しい心を持っているのかも知れないが、何かあるきっかけでそういうものが吹っ切れて、今から何をやるべきかわかったように思い込んだ瞬間から、もはや人間ではなくなってしまうのかも知れず、突然野獣のような習性が顕在化してきて、容赦のない行動に出てしまうわけか。しかしそれはどんな出来事から導き出された見解なのか。そうなったままの人には暴力に訴える権利でもあるのだろうか。いったんそうなってしまうと、自らの思いを遂げるために全知全霊を賭けて戦い、そこに生じていると思い込んでいるはずの勝負に是が非でも勝とうとするのだろうか。やはり目的の成就は戦って勝ち取るものか。自らの成功は自らの力で手繰り寄せなければならないか。しかしどこの誰が本気でそんなことを思っているのだろうか。たぶんそれらすべては冗談には違いないのかも知れないが、君はそれらの行為の何を馬鹿にしたいのか。なぜ世の中の至る所に張り巡らされている常識を否定するのか。それらの文章を読んでいるうちにむかついてきて、もう架空の君の言動にはつき合いきれないと思うようになれるだろうか。君には影が何を述べたいのか一向に見えてこないように思われ、影が君の意識を操作しながら記している文章の真意をわかりかねるらしい。だからはっきりしない空模様をどう思うわけでもなく、別に空模様について述べたいわけでもないのに、またそれ以外にどんな言葉を連ねようとしているのでもないように思われ、それとは別に真昼の時間帯に昨晩のことを思い出そうとしているらしいが、時間的には真夜中が近づいているのだろうか。それはいつの真夜中なのか。今から何時間経てば翌日の真夜中になるのだろう。それまでに君は何をしていればいいのか。影にはそれが今日であったなら好都合なのか。今日であったならどうだというのだろう。もし今が今日でなければ、時刻を合わせて言葉を弄して、今日の日付の文章を構成すればいいだろう。しかしそれでくだらないことを述べずに済むわけでもない。そんなことは述べてみなければわからないだろう。だが言葉を弄することが、はたして何かそれとは違うことを述べることにつながるのだろうか。くだらないことを述べる以前に、それさえも述べていない状況もあり得るか。そんな状況はいつでもあり得るし、そうでない状況もあり得るだろうが、別に今はそんな状況について語りたいわけではないだろう。だが取り立てて何について語りたいわけでもなく、眠たいからもうしばらく寝たいだけなのかもしれない。ところで今日は今までに何をやってきたのだろう。何かそれについての成功談や失敗談を並べ立てて、それなりにおもしろおかしく述べてみれば、それなりの文章にはなるのかも知れないが、それについてのそれが何なのか思いつかないようだが、何でもかんでも言葉にすればいいというものでもなさそうに思われ、やっていることのすべてが無駄で他愛のないことだと思うように仕向けられているのかも知れない。しかしどこの誰に仕向けられているのでもなく、この世界自体が無駄で他愛のないことの集積物だと感じられてしまうだけか。


2月24日

 別に嫌気が差したわけでもないだろうが、もはや誰かが彼について語ることは何もなさそうだ。君はその件についてはどう思っているのか。はたして何も思っていないのは君の方なのだろうか。ゲームはすでに終わっているのか。それがどんなゲームかもわからずに、いったい何をやっているつもりだったのか。またしても何を述べているのかわからなくなる。今はそれを考えているわけではないが、逃げられなくなってしまったらしく、逃げる術を学ぶことができなくなってしまったようだ。なぜゲームから降りてそこから退散する必要があるのだろう。それがゲームではなかったからか。ゲームに対する参加意識が欠けている。ゲームなどゲームセンターでやっていればいいか。そしてゲームなど必要ないか。君はゲームの結果如何に関わらず不必要なことを述べ続けている。もう後戻りはできないのに、どこか意味のない場所に意識が退いている。しかしそれはどんなゲームだったのだろうか。君はゲームの内容を何も思いつかないのか。それがゲームだとは気づかなかったのかも知れない。ルールも知らないのにどうやってゲームに参加していたのだろう。知らず知らずのうちに参加させられていたのか。もしかしたら今も参加していることになっているのかも知れないが、参加していることになっているからといって、特に何をやっている気もしないのはどういうわけなのか。何をやっているわけでもないのに、何かやっていることになってしまうわけか。たぶん君は何かを知る機会を逃しているのだろう。それは取り立てて重要なことだとは思っていないかも知れないが、それを知っているのと知らないでは、かなりの差が生じてしまうかも知れないようなことか。それはどのようなことなのだろうか。君はそれを知らないから語ることができないのか。語ることができないのなら、なぜそんなことを述べているのだろう。いつまで経ってもゲームの内容には触れないつもりか。それを知らなければ触れようがないだろうか。そんなことを述べているうちに、心地よい脱力感に充たされているようだが、何も述べないことがそんなに気持ちいいか。話の核心に触れぬまま、それでも何かしら言葉を繰り出していることが、奇妙に思われるのと同時に、それをいつまでも続けていたい気になってしまうらしい。それをやり続ける理由は定かでないが、怠惰な気分に流されている意識を救い出そうとは思わないのは、他の誰の意識なのだろうか。君以外の誰がそこでいい加減なことを述べているのだろう。それをいい加減ではないと反論したいのは誰なのか。しかしいい加減でない理由を思いつかないのはどうしたことか。それではまるで話にならないのではないか。きちんと話の順を追って説明してほしいか。出来事の起こった時刻が古い順に並べて、それがどのような出来事だったのかそれぞれについて話してほしいか。しかしそれらの何が出来事なのだろう。そうやってまた話をはじめからやり直すつもりか。まだ何も話していないのではないか。まともに話すつもりもないのに、執拗に言葉を弄して話しているように装うのはおかしいのではないか。だがおかしいからといってそれを止める理由にはならないか。おかしいのならおかしいなりの話にすればいいだけのことか。しかし現実におかしな話になっているだろうか。それらのどこがおかしいと思われるのだろう。誰が何を思っているかを現時点では知りようがないか。現時点でなくても知りようがない場合もあるだろう。ゲームの話はそれからどうなったのだろうか。それは暇つぶしにやるようなものではなく、暇つぶしそのものがゲーム内でのイベントの一つなのかも知れない。ゲームのルールとしてある時点では暇つぶしをしておく必要があり、暇つぶしに何をやったかが後の勝敗の分かれ目となる場合もありそうか。それはでまかせ何かに思われるが、ルールも知らずにルールを空想したところでどうなるものでもないか。とりあえずそこでは鳥瞰図的にゲーム版を上から見下ろしているような立場はあり得ないか。別に囲碁や将棋をやっているわけではなく、モニターを見ながらコントローラーを手早く操作しているわけでもなく、ただそこで生きて暮らして死んでゆくに過ぎないことなのかも知れない。ルールも知り得ないし、他の参加者も特定できはしないし、いつ始まったのかも、いつ終わるかも、すでに終わってしまったのかもわからず、ただどうしようもなく歳月が流れて、老いて行く現状を自分以外の誰かが黙って眺めているのかも知れず、その誰かに対して何の感情も持ち得ない自らが、歯がゆく感じることもなく、そんな誰かとは無関係であることが、通常の隔たりとして誰かと自らの間に横たわっているだけか。しかしそれがどうしたというのか。どうもしないと思えばどうもしないことでしかないが、それをどうにかしようとしたときに、対話を成立させるための絶望的な努力が試みられるわけか。


2月23日

 たぶんそれは何かの冗談なのだろう。それでも私は君を覚えているだろうか。たぶん君は私を覚えていないだろう。しかしまったく笑いが止まらないのはどういうわけなのか。それらの殺伐とした世界にはどんな人が暮らしているのだろう。それで何かおもしろいことでもあったのか。架空の話の中では、誰かが眠気をこらえて何をやっているわけでもなく、筋力が低下して身動きがとれなくなったわけでもないらしい。だがなぜ唐突にそんなことを述べなければならないのか。別に述べなければならないわけでもなく、ただ何の理由もなく君以外の誰かが何かを述べているだけか。どうもそれ以上に考えるのが面倒になってしまったのかも知れない。たぶん誰かはさっきから何について考えているわけでもないのだろうが、どこかに棘が刺さっているのかも知れず、背中の真ん中が痛がゆいような気もするが、文字で記されたフィクションの中では痛みさえ感じないのだろうか。そして明日にはなれば何もかも忘れてしまうことになるのかも知れない。だが君の意識には忘れてしまうほどの記憶が残っているだろうか。そのわずかな残滓の中から何を選りすぐっているのか。実際には何を選別しているのでもないのだろうが、気まぐれに適当な言葉を用いて、そんな表現でその場を取り繕いたいらしく、そのいびつで意味のよくわからない文章によって、何かしら述べているような雰囲気を醸し出したいようだが、どうもそれに対して今ひとつ本気になれないらしい。さっきから何を述べているのか定かでない。君には命がけの飛躍の意味が理解できない。対話しているつもりの相手が何者であれ、その対話を成り立たせるためには何が必要なのだろうか。誠意が必要だとは思わないか。偽りの内容ではどんなに工夫を凝らして引き込もうとしても、必ずぼろが出てしまうのではないか。話せば話すほど説明に無理やほころびが見受けられるようになる。そして別にそんなことを述べるまでもなく、普通の人の中にはそれらの異常な現象に気づかない人が多すぎるのかも知れない。どう考えてもおかしいだろう。話の筋がどうしようもなく紋切り型なのかも知れず、そこで破綻しているのにもかかわらず、ごり押ししてしまう人の感覚は異常だろう。やはり彼らの常識は意思の薄弱な人々にしか通用しない代物なのだろうか。なぜそんなものに引っかかるほど困っている人たちがいるのだろうか。もしそれが世の中の常識だとしたら、そんな常識を共有している人たちは、よほど幼稚な精神を持ち合わせているのか。だから常識から外れた感覚を持ち合わせているらしい君には、そんな現象が起こってしまうことが不思議でならないようだ。しかし今さらわざとらしく驚いてみせるのも虚しいか。君はいったい何について語っているのだろうか。それを語っている君の常識とはいかなるものなのか。何について語っているのかよくわからないことが、君の常識とどのような関係にあるのだろう。どうもそこからは他人を傷つけたくないような気配が感じられるようだが、その他人が君の心を傷つけようとしているのに、なぜそんな嫌がらせのような言葉まで受け入れてしまうのだろう。今の君にどれほどの心理的な余裕があるというのか。はじめから自らが優位に立つことを断念しているのではないか。状況を言葉で執拗に攻撃されるがまま放置しているようで、そこから反撃しようとは思わないらしい。たとえ反撃を試みても勝ち目はないことを悟っているのかも知れず、だからそんなくだらぬ枝葉末節的なことに関わっていられないと思うのか。それでもやりたいのならいくらでも執拗にやってもらってけっこうなのか。そのうちに何を述べたらいいのかわからなくなるだろう。いくら攻撃を加えても、意識の内部に巣くう虚無にいくらでも吸収され、人畜無害なわけのわからぬ文章として出力されるだけか。そしてそんな文章をいくら連ねても君の神経がどうなるわけでもなく、連ねられた文章は相変わらず架空の君とは無関係な内容となってしまうらしく、言葉の入力と出力がねじれの位置にあり、両者が交わることはまったくないようだ。だから誰かが君について何を述べているのか意味不明になってしまうのか。しかしそれは本当に意味不明なのだろうか。解釈するのが面倒なので意味不明と述べているだけであって、本気になって理解しようとすれば、何かしら説得力のある意味に出会えるのかも知れず、それをやろうとしない誰かが単に怠慢なだけなのか。だが実際にそれをやる気がしないのだから仕方がないだろう。何となくやっても無駄であり、そのような行為が他の誰かに理解されることはないような気もする。そんなことには誰も関心を持ち得ないのではないか。人々は関心を持っていることといえば、プロスポーツ選手や芸能人の最近の動向であり、内外の経済や政治情勢であり、また娯楽や健康に関する情報ぐらいなものか。だが君はそれがおもしろいと思うか。


2月22日

 夜の闇はどこまで続いているのだろう。気まぐれに真昼の天候を夜に空想してみると、風が吹き雲は流れ、それが誰の思いを反映しているのか定かではないが、気晴らしに思い浮かぶことがただの自然現象でしかないことが気にくわないのは、どこかにいるかも知れない自称詩人の類だろうか。そんな人物の姿を思い描いているわけでもなく、油絵で表現されているのは種をまく人か。たぶん彼は現実の光景が見えないのだろう。では彼が想像する盲目の意識は、気休めに何を空想しているのか。今回はそんな話の設定ではないはずか。そんなわけでだんだん語るのが面倒になってきて、何気なく雑木林の中を彷徨っていると、風に吹かれて枯れ枝が折れて地面に転がり、中から虫が這い出てくる。春が近いのだろうか。時期的にはそんな季節かも知れないが、誰かは今年も杉花粉を全身に浴びて不快な思いをするのだろうか。その誰かとは関係のない君にとっては、そんなことはいつものようにどうでもいいことなのだろうか。君は花粉症ではないのか。しかし花粉症と盲目はどんな関係にあるのだろう。君は盲目ではなく、見えるものは一応は見えているようで、それが見たいものではないとしても、とりあえず目を背けずに見ることはできるらしい。ではいったい君は何を見ているのだろう。迷惑メールの類か。見ているのではなく、誰かの声を聴いているはずか。どこからか聞こえてくる九つの声は、九人の人間に対応しているわけではなく、その中のいくつかはこだまの類なのかも知れず、試しに声のする方へ近づいていくと、薄暗い林を抜け出て、どこか見渡しの良い開けた場所に出たようで、例えばそこは崖の上だったりするのだろうか。それが夢の中なら、君は崖の上から飛び降りて、夢の世界を突き抜け、どこか見知らぬ現実の時空へ滲み出たつもりになって、しばらくその光景の中に溶け込んだ後に、それに飽きたらくだらぬ空想を止めて、またいつものながらのせわしない現実の世界に舞い戻ってくるのだろうか。ひねくれ者にとってはそんな話ではつまらないと思うか。だが別に君自身が語っているわけでもないのだから、君以外の誰がどんな話をしようと、それは誰かの勝手だろうか。しかし君の存在は無視されていてかまわないのか。ではその場で君は何を主張すべきなのか。君は話をしている誰かから何を求められているのだろうか。金か命か労働力か、それとも他に何か重要なアイテムでも所有しているわけか。誰かとは誰なのだろう。この世界の中に君の他に誰がいるというのか。これまでに世界は君に対して何を与えてきたのだろう。それに対して何か見返りでも期待されているのだろうか。現時点では君は世界から何を求められているわけでもなく、世界は君に対して何を求めているわけではないだろうが、君の方でも世界を無視しながら勝手なことをやり遂げたいように思われ、だが君という博愛主義者は何を愛しているのかわかっていないようで、君とは違う架空のエゴイストは幸福を求め、君ではないピアニストはただピアノを弾いているだけであり、それを不幸なことだとは思わないだろう。現実にそこで何が行われているのか、決してそれをわかろうとはしない意識があるらしく、君にはわかるわけがないと高をくくっているらしいが、誰が高をくくっているのか君にはわからないので、やはりそんなことは君にとってはどうでもいいことのように思われ、君の他に誰が何をどう語ろうと、そこから何が理解されるわけでもないだろう。理解することを拒否しているのかも知れず、自ら思考することを放棄している。だから無意識に頼るだけの誰かは、また翌日の午後に空を見上げながら、何を思うでもなく、風に揺れる梢の振動を五感のどこかで感じているらしい。それらの感覚は至って正常に機能しているようだが、いつの間にか到来した夕方に何を考えていたのか忘れてしまったらしく、今は別にそんなことを考えているわけではないと思いつつも、誰かが思い描いている架空の物語の中に見出された何が君の目的なのでもなく、はじめから目的などあるはずがないと思いたいらしいが、吹きすさぶ風の中から他の誰かの声を聞き分けようとして、その声の中に君の興味を惹くものがあれば、それが君の目的になるだろう。しかしそんなのはでまかせに過ぎないと誰かは思っている。誰かはそこで何をやっているのか。意図的に何かから注意を逸らす目的で、ただそこでおどけている風を装っているだけか。それが当初の目的ではないのだろうか。それは誰の目的でもないように映る動作でしかなく、その意味不明な動作を端から眺めようとしていることが、とりあえずそこで生じている第二の目的と見なされてもかまわないが、別に本気でそう思われようとしているわけでもなく、演技でもないのに演じているふりをしているのかも知れない。しかしそれを誰が何を演じているつもりになっているのだろうか。またそのような動作から何が求められるのだろう。


2月21日

 送られてくるメッセージを読むと、彼らの発想は貧困であるように思われるが、たぶん君もそうなのだろう。そんな風に人は考えるのだろうか。面倒なのであまり深く考えることはないのかも知れない。だが別に面倒臭くないように考えようともしないらしく、あまり実際の効果は上がっていないようだ。しかし彼らと君とはどのような関係にあるのだろう。実効が上がる見込みもないのに、矢継ぎ早に対策を打ち出しても、それはいいわけと目くらましにしかならないだろう。躓きの原因はいくらでもあるのかも知れないが、それをそのままにしておけない理由が見あたらないようだ。結局は放置されたままに店ざらし状態で風化を待つしかない。君はそんなやり方を理解できない。なぜそういう成り行きでうまくいっているつもりに思われるのかわからない。何でも金で買えるわけではないらしいが、とりあえず売っているものは買えるのだろうが、売り手が気に入らない人や会社には自らが売りに出している商品を買わせたくないと主張しているようで、建前的に述べるならそれもありかも知れないが、現実にそれがまかり通るようになってしまうと、ではいったい商品は何のために売っているものなのか、自らが気に入った人や会社にだけ売るというのであれば、自由な市場をないがしろにしていることになるのかも知れないが、それでもそんなことをやっている国が資本主義を礼賛しているといえるだろうか。日本はやはり共産主義国家なのか。自由民主党という名の実質的な共産党が行政を支配していることになるのだろうか。そして党の宣伝機関がNHKというわけか。冗談も休み休みに述べてほしいか。それは冗談には違いないが、そんな感覚の自民党関係者もけっこう多いのではないだろうか。たぶんそんなことを述べれば少しは溜飲の下がる浅はかな人々には受け入れられるかも知れないが、それでもその程度では満足しない意識がどこかに存在していると思いたいようで、そんな意識を想定しながら文章を構成する必要に迫られているように思われるが、それがまったくの勘違いである可能性がなきにしもあらずであることも承知しているらしく、現実にそれを述べている意識はそんな矛盾を抱えたまま、これからさらに何を述べようとしているのだろう。メディアを買収してどんな主張をそこから発信したいのか、何を主張しようと、今ある現状の範囲内だろう。そこにどんな野望があるのだろう。野望に支配された意識はどんな結末を求めているのだろう。そこで破滅したらメディアの消費物となるだけか。成り行き的にそれは予期せぬ出来事ではないのだろう。野望の囚われた人の失言的な言葉尻を捉えてそれを揶揄することもないか。君には放送局というメディアに魅力が感じられないのかも知れない。そこには何が表象されているのだろう。考えるべきことはそんなこととは違うか。君はそこに何か興味を惹く対象があると思えるか。どこの誰がそれを経営しようとそんなもの以上にはならないような気がする。まさか今後それが廃れてゆくとは今のところ誰も思っていないだろうが、実際に彼らは何をやっているのだろう。要するに文化や芸術で、あるいは報道で、商品の宣伝に見合った報酬を受け取っているということか。NHKの場合は受信料を半強制的に取り立てながら、自民党のご機嫌伺いをしつつ、何かを好き勝手に放送しているらしい。しかしそんなことをやっている根拠はどこにあるのだろう。すでにそれが前提となっていて、そこから商売を成り立たせているわけなのだろうが、なぜそんなものに想像を絶するほどの巨額な大金が投ぜられているのかよくわからなくなりつつある。確かにあらゆる商品は宣伝しなければ売れないものなのかも知れないが、それによって多くの人たちが話題を共有している現状がみすぼらしいとは思わないか。なぜそう思うのかよくわからないのかも知れないが、そのような宣伝に一時的にしても心を奪われている意識が滑稽に思われ、そんな宣伝に誘導されて商品を買っている自らに自主性があるとは思われない。それらのすべてを否定することはできないが、一度できあがってしまったそれらの構造を改革することは困難なのかも知れないが、変わりようのないものは容易には変わらないわけだから、とりあえず意識の中でそれに対する依存度を徐々に下げていくぐらいしか、個人としてはやりようがないのかも知れず、実際にかなり以前から、その手の宣伝文句に踊らされてベストセラー商品をわざわざ買うことはなくなってしまったように思われるが、では何を買っているのかといえば、たまたま目についたものを買っているだけで、そこにあまりはっきりした理由はないように思われるが、それこそが無意識のうちに宣伝に洗脳されている証だろうか。つまりあまり気にとめるようなことでもないのかも知れず、あってもなくてもかまわないように思われているところが、その手の放送局の存在意義なのかも知れない。何気なしに見られて気にもとめられないようなことを伝えるのがそれらの役割なのだろう。やはりそんなものに野望を抱く人はちょっと変わっているのかも知れない。


2月20日

 意識は無の境地にあるわけではなさそうだが、そこから言葉はどのようにまとまろうとしているのだろう。一つの思いは二つの思いではない。思いはないので何を思っているのかわからないようだ。それはいつもの意味不明の新しい形式だろうか。誰かの内面にはどんな幻影が現れているのだろうか。昼に遠くを眺めると、山の頂には雪が積もっているのが見える。空は青く雲を見ながら何も思うことはなさそうだが、他に思うことは何もないのだろうか。気まぐれでそこから見える景色の何に興味を覚えるのか。既知の風景との遭遇に何を感じているのだろう。それを遭遇とはいわないか。遭遇という言葉を使いたいのなら、未知の光景や出来事と遭遇しなければならないか。では遭遇するきっかけはどこにあるのだろう。たぶん君はそのきっかけを取り逃がしているかも知れない。君の意識は未知の光景や出来事を感じ取れないのだろうか。それらの事象に遭遇しても無視してしまい、驚くことを拒んでいるのかも知れない。端からそんなことはどうでもいいことだと思い込もうとしている節がある。ではなぜ世界はこんなに狭いのだろう。同じような場所と場所の間を行ったり来たりしているだけだからか。そこから遠く離れてみれば、何か今までとは違う心境になれるだろうか。ヒマラヤにでも行って大自然の雄大な景色を眺めてみたいか。そんなところへ行ってまでして、誰の真似をしようというのか。今やヒマラヤもただの観光地でしかなく、一般人には観光地以外の場所へ行くことは難しいだろうか。例えば世界のどこかに秘境のような場所があるとしても、そこへ行けば普通の人が暮らしているだけかも知れない。行かないうちからそんなことを述べてしまって大丈夫なのか。要するにどこへも行きたくはないのか。それでも何かのきっかけでどこかへ行ってしまうことになるだろうか。しかし今所有している何もかもを捨てることは難しいか。必要のない行動はとれないが、必要に応じて行動していては何ものにも遭遇できないだろう。だから人は何の目的もなく旅に出るのだろうか。それはくだらぬロマン主義にいかれた意識が述べていることか。そんな気持ちでどこへ行こうと何ものにも出会えないだろう。しかし別の意識はそんな風には思わない。ただの逃避願望かも知れないが、毎日同じことばかりやっていると頭の中が煮詰まってくる。だがそんなことを述べている誰かは結局どこへも行かずに、また煮詰まりながらも同じような言動を繰り返しているらしい。それが君の定めなのか。そんな風に思いたければ思っていればいいのではないか。思っているだけで時は流れ暇つぶしになりそうか。それはつまらない暇つぶしだろうが、つまらないなりにつまらない思いを体験できるだけでもマシか。何かのきっかけでそこから状況が変われば心が動揺する。動揺したら我を見失い、何か自分以外の意識になったりしてしまうことになるのだろうか。フィクションの中ではそれもありだろうが、現実の世界では相変わらずの風景の中に存在しているらしく、どのように考えを巡らそうと、そこから一歩も外へ出ることは叶わぬようだ。だからわざとらしく行き詰まってしまうのか。本当に行き詰まっているのではなく、行き詰まる一歩手前で立ち止まり、その先で行き詰まってしまったらどうなるかを予測して、そこで行き詰まったふりをしながら、周りから同情を引こうとして深刻ぶってみせるのだが、その深刻ぶりようを真に受け取る者は今のところ誰もいないようで、それらの言動のすべては空振りに終わっているのかも知れない。だから虚無の他には何ものにも遭遇できないのだろうか。では今さら意識を覆う空虚を言葉で埋めようとしても無駄か。無駄かも知れないが、今はその無駄なことしかできない状況にあるらしい。そんなわけで周りの景色を眺めている余裕もなく、必死になって無駄なことをやっているようだが、虚無から滲み出てくる虚しさに抗いながらも、なぜそこまでやるのかよくわからないか。しかしよくわからないから続けることができるのかも知れず、続けているから何を続けているのかよくわからないのかも知れない。もしそれをいったん終わりにしてしまえば、これまでいかに無駄でくだらないことをやってきたのかがわかりすぎるほどわかってしまい、それまでの自分の行いを悔いることしかできなくなるだろう。だからそれをやめられない状況を維持しようとしているわけか。確かにそんな風に述べれば、それらの作業はそんなことのように思えてきて、何となく不安になってくるかも知れないが、その一方でわざとそんな嘘をつきながら、その嘘によって何かを成し遂げようとしているような実感を得られているのかも知れない。しかしそれは本当に嘘なのだろうか。あるいは紛れもない真実を語っているのだろうか。今の君はそのどちらにもとれるような心境でいられるように思われ、またどちらでもないような気にもなれるらしい。やはりそんなことはどうでもいいことなのか。確かにどうでもいいかも知れないが、それがないとそれらの文章を構成できないのかも知れない。


2月19日

 君にはそれがわからない。なぜそんなことを語ろうとするのだろう。何も語らないうちからそれはないのかも知れないが、どうもまだ君ははっきりした内容に巡り会えないようだ。では今日もありもしない物語の中から誰が語ろうとしているのだろう。君が記しているそれらの文章の中に誰がいるわけでもないが、君とは別の誰かは別の時空で適当に文章を記しているらしく、君はその文章の中から興味深いと思われる言葉を抜き出して、それを別の文章の中に当てはめてみて、その言葉に合うように文章に修正していく作業が行われているらしく、今日とは別の日のどこかでもそれはいつまでも続いていくのだろうか。そんなことなど今の君にとってはどうでもいいことか。いつものように誰が何を述べているのかわからないが、別に君自身がそんな夢想を抱いているわけではなく、それらの作業は他の誰かが何かのきっかけでやっていることかも知れない。また別の時間帯では意識は夢の中で何か適当なことを述べようとしていたようだが、現実の時空ではまだ何を述べているのでもないらしく、この世界には至る所にとりとめのない闇があり、その闇から闇へと乗り移りながら、君はどこかに近づきつつあるようで、それはただの暗闇に過ぎないのだろうが、何も見えないのに闇の中にうごめく何かを眺めているつもりのようだ。実際に夜になれば辺りは暗くなり、闇に包まれているような気になるらしいが、そこで君はうまく言葉と言葉が結びつく機会をうかがっているようだが、どうやってそこにたどり着いたのかわかろうとしていない。たぶん君には何もわからないだろうし、物語の中では他の誰とも話さないだろう。そんな物語がどこにあるはずもなく、闇のどこに架空の物語が生成されるきっかけが潜んでいるわけでもなく、きっかけとはそうなるきっかけではなく、それは何がどうなるきっかけにもならないだろう。それではきっかけではなくなってしまうではないか。だから至ってそのままなのか、あるいは至るはずもなくそのままなのか、またはそのどちらでもないのか、たぶんそんなことはどうでもいいことなのだろう。また何の変哲もない一日が過ぎ去り、昨日と同じような状況の中で何か適当なことを考えようとしているらしいが、その状況では何も出てくるわけもないだろうが、確か昨日は何か利いた風なことを述べていたのではないか。だからそれがどうかしたというのだろうか。別にどうもしないが、今日は何か気の抜けた意識のままに推移しているらしく、何を思うでもなく、それでも何か思わなくてはいけないと思っているようにも思われる。何も思わなければ文章にはなりがたいが、どうやってその事態を切り抜けたら気が済むだろうか。別に気が済まなくても切り抜けることは可能かも知れない。しかしそれでは不満なのかも知れず、他の誰かの意識を満足させるために、あれこれ工夫を凝らさなくてはならなくなっているのだろうか。しかしそれはどういうことなのか。そんなことを述べているうちに眠たくなってくるが、いったいいつになったら語るにふさわしいまともな主題に巡り会えるのか。そんなことなど誰にわかるわけでもないだろうが、そこで問われていることは何なのか。何が問われているわけでもなく、たぶんそこには何もなく、何を語ろうとしているわけでもないようだが、それでも言葉を繰り出すとすれば、何について語ればいいのだろうか。やはりそこで誰が何を問いかけているわけでもないらしく、たぶん頭の中では何かわけのわからない思いが循環しているのかも知れないが、それが容易に言葉に結びつかずに苦悩しているのだろうか。だがそれは誰の頭の中でもないだろう。ただ文章の中で気休め的に頭の中という言葉が出現しただけか。そんな風に述べながら、君は自意識から逸脱しようとしているのかも知れないが、それで自分自身の感情から逃れ去ったことになるのだろうか。しかしなぜそんなことをやらなければならないのか。誰かは語り続けることで空っぽになりつつあるのだろうか。だが別に結果として架空の君が空っぽの身体を所有するようになるわけでもなく、それはただの言葉として誰かの頭の中で響いているに過ぎないのだろうから、とりあえず君にははじめから実体が欠けているように思われ、そんなことはわかりきっていることなのだが、それでも君自身が何かを語っているように文章を構成したいらしく、そこから不可思議な雰囲気でも醸し出したいのか、あるいはそれとは別の何かおもしろそうな意図でもあるのだろうか。そうやって何と何を結びつけようとしているわけでもないのだろうが、何も結びつかなければ、文章の体をなさなくなるか。たぶんそれで何を語っていることにもならないのだろうが、言葉だけは無表情のままに連なっているのかも知れない。


2月18日

 弱音とはどんなときに出てくるものなのか。何も見出せないのに、まだ何かをやらなければならないのだろうか。どうもやる気が出ないまま夜になったしまったらしい。暇つぶしに見るテレビもそれなりにおもしろいが、それを見ていたら何もできなくなってしまう。それらの何が馬鹿げたことだと思うのだろう。それらの状況の何がそんなに不満なのか。どうしてそんな現状が気に入らないのだろう。そんなわけで気分が優れないから、誰かは暇もないのにまたつまらないことを述べているわけか。君にとって知性とは何だろう。どこから知性が出てくるのだろう。他に何もありはしない。誰かの心の外では誰が何を思っているのだろうか。それでも何かしら思っているはずの、その誰でもない君は、思っていること以外の何を記述したいのか。それが不可能だとは思わないのか。だが君はそれを述べているのではない。そんなまわりくどいことはせずに、思ったままを述べればいいのではないか。述べられないからそこで立ち往生している。そんな思いの外に、何か抽象的なことでも考えているのだろうか。それらの出来事の何が心外なのだろう。別に何を予想していたわけでもないだろうに、雨に濡れながらそんなはずがないと思っている。見ていたニュースによると、また人が殺されたり自殺していたりするらしい。しかしそれがどうしたのだろうか。たぶん凶悪な犯罪が増加していると思われるのは、犯罪を起こす者たちが死刑制度を恐れていないからなのではないか。日本人の大半は馬鹿だから、それでも死刑制度を容認しようとするらしい。それは明日の出来事なのではないか。別に今の君はそんなことを述べたいわけではないだろう。何も述べられずに、ただコーヒーが苦いと思っているだけか。何が許されて、他の何が許されないことなのだろうか。それはあくまでも途中の段階に違いない。そこで新しい歌を口ずさんでいるのは誰なのか。馬鹿な人々は亀裂を押し広げて何を見つけ出そうとしているのか。だが馬鹿の基準は何もなく、何をやっても何も見出されはしないだろう。心の狭い人は他の誰かを許せないと思っているらしく、その許せないと思う心が、何かのきっかけで殺人へと向かうこともあるのだろう。人殺しは許せないと思う心が死刑を容認する。要するに自業自得なのか。ひどいことをやった他人を許そうとする心が死刑制度を終わらせ、他人を殺めようとする行為を思いとどまらせる。何も他人を殺してまで自己満足に浸る必要もなくなるだろう。たぶんそんな甘っちょろい言動が何よりも許せないと思う人もいるのだろう。では許せなければどうするのか。やはり嫌がらせのひとつもしなければ気が済まないか。とりあえず迷惑メールを執拗に送り続けることにでもなるのだろうか。この世界では最終的に馬鹿が勝利しなければならない制度にでもなっているのだろうか。たぶんそれでいいのかも知れない。いつの時代でも制度とはそういうものなのだ。考えることを放棄して、制度に盲従していれば幸せになったつもりでいられる。たぶん一向に悪びれない凶悪事件の犯罪者たちは、そんな人々に訴えかけているのだろう。絶対に自らが起こした過ちを反省するものかと固く誓い、犯罪被害者やその遺族が自分に憎しみの感情を抱いていることを知って狂喜する。公判中にふざけた言動を連発して、もっと自分を憎めと訴えかける。それは何かの映画の一場面のようか。そして憎しみを抱いている人々に向かって、結局おまえらも俺と同じじゃねえか!と叫びたいのだろう。俺が何の罪もない奴らを無差別に殺したのは、そいつらが許せなかったからだ、俺さまが世間からのけ者にされて悲惨な境遇にあるというのに、あいつらはのうのうと平和に暮らしてやがる、そんなのは不公平だろう、あいつらにも俺と同じ苦しみを味わわせてやる!俺がおまえらを憎んでいるのと同じように、おまえらも俺を憎んでみせろ、俺がおまえらの仲間をくびり殺したように、おまえらも俺を絞首刑台の上に立たせてみろ!俺が殺したように俺を殺すことによって、おまえらも俺と同じ醜くて薄汚い本性丸出しの人間だということを、おまえら自身が証明することになるわけだ。そんなわけで凶悪事件の死刑囚はその波瀾万丈の一生を閉じることになるわけか(笑)。そんなことをおもしろ半分に述べている君は、その手の小説の類の読み過ぎではないのか。何となくそんな馬鹿な話を真に受ける人々とは関わりたくないか。述べているうちにどうもそれは違うような気がしてくる。犯罪も犯罪者も憎んではならないのだろう。憎しみは新たな犯罪の要因になる。君は曾我兄弟の話を知っているだろうか。仇討ちを果たした曾我兄弟も結局は殺されてしまうわけだ。忠臣蔵の四十七士も浅野内匠頭に下された死刑に抗議して、集団で人殺しを行って、自分たちも死刑になってしまったわけだろう。そんなものは因果応報のバリエーションの一つに過ぎないか。人殺しには良い人殺しと悪い人殺しというものがあるのだろうか。今のところ君にとっては、そんなことはどうでもいいことでしかないのかも知れないが、そんなことを真に受けるような人々にまともな未来があるとは思えないか。


2月17日

 別に天変地異を予言したいわけでもないが、たぶんこれから何が起ころうと、誰もどこへも行かないだろう。ほとんどの人間はこの地上でうごめき続けるだけか。だがそれの何がおかしいのか。他に何がうごめいているというのだろう。それは何か動物の類か。その類の生物学者によると、近い将来ほ乳類は滅びるらしいが、君がそんなことを心配したところでどうなるわけでもなく、ただ個人が生きている間の数十年間をどう過ごすかが、一般市民の問題となっているようで、誰かにとってはそんなことなどどうでもいいように思われてしまうのかも知れないが、そんな虚しさに抗いながらも、これからどこへ進むべきが迷うところだが、とりあえず適当に行き着いたそこでは、いつものように言葉がつながらないようで、誰かは仕事以外には何もできぬまま、時間的には翌日の午後を過ぎようとしている状況に、わざとらしく苛立ちを隠せず、苦し紛れにいい加減な語りを強引に再開させているようだが、またもやそこから先に言葉がつながらない状態になってしまい、その状態を君の力ではいかんともしがたいように思われ、それでもそんなことを無視しながら時の流れに身をまかせる度胸もないらしく、現状を打破しようともがき苦しみ、焦りを覚えながらも必死に試行錯誤を繰り返しつつ、現状では意味不明な文章に修正を加えているつもりが、かえってさらによくわからなくなってしまい、それを読み返す度に目眩を覚えて、自らがいわんとしていることから、言葉がどんどん逸脱していってしまうように感じられ、泥沼にはまっているように困惑の度を深めるばかりのようだ。そこからどうやって抜け出られようか。影はもはやあきらめていつもの戯れ言を繰り返すつもりなのかも知れないが、そんな状況を強引に無視し続けている架空の君は、改めてこれから何を述べればいいのか模索しているらしく。別にそんな模索から偶然に見出された言葉を用いて何をやるまでもなく、すでにどこかで誰かが何か別のことをやっているのかも知れないが、誰かが読んでいるそれらの文章の中では、言葉で示された誰がそれをやろうとしているのでもなく、絶えず他の誰かが何かをやろうとしている状況を、端から眺め続けている視点が存在しているだけのようだ。そんな文章の中では、語り手の視線はいつも特権的な立場を取るらしく、物語の中で適当な登場人物が、焦りながら苦し紛れの行動に出ているときでも、ただ冷ややかにそれらの愚行を眺めながらも、それについて嘲笑的におもしろくおかしく語ってみせる余裕も感じられるが、それは語っている者が登場人物を馬鹿げた虚構の中に押し込めて、あたかも神がしもべの人間に対するようにもてあそんでいるに過ぎず、そうやって自作自演気味に勝手なことを勝手に語っているだけで、その語り方にどんなに工夫を凝らしても、不可能が可能になるとは思えないが、今日も昨日も明日も、自らが何を語っているのかわからないのだろうか。そしていったいいつまで語っているのかといえば、それは語れる限り半永久的に語ろうとしているのであり、特定の誰が語っているわけでもないのだが、そしてそんなことは不可能には違いないのだろうが、とりあえず語ることが何もなくなってしまえば、わけのわからないことを語って、その場をごまかすしかなくなってしまうらしく、そんなことをやっているうちに、肝心の語らなければならないことを語り忘れている現実があるようだ。なぜやろうとすることをやれなくなってしまうのか、そんなことはわかりきっていることなのかもしれないが、そこにはどんな経緯があるわけでもなく、たぶん波紋が波紋を呼ぶように人から人へ情報は伝達してゆくのかも知れないが、それの何が波紋なのか誰にもわからないだろう。自らが波紋を呼んでいる原因もわからずに、いくら冗談を述べているつもりになっても、それらの何が冗談なのかわかりようがなく、何をどう述べているかもわからないし、誰もそれをわかりようがないのかも知れない。いったい何をわかろうとしているのかわからないのが、君はそんな風に語りながらも、それ以外には何もわからないふりを繰り返している。それとは何なのか。しかしそれで何か適当なことを語っているつもりになれるだろうか。つもりではなく実際に何かしら語っていなければ気が済まないわけか。だがすでにいい加減なことをいい加減に語っているではないか。そしてそんなことの繰り返しが、他にまともなことは何も語れない今の状況を招いているのであり、実際にはそんなことを語る必要がないのだから、それは仕方がないとは思うが、その必要もないのに無理に語っている現状の方が危ういと思われるか。なぜ何も語れないのに語っているつもりになれるのだろう。ただ単に矛盾したことを述べているだけか。しかしそれは矛盾ではなく、誤りそのものなのではないか。では誤ったことを述べているだけなのか。だが誤っているからどうだというのか。ただそんな風に語りたかったわけではないということか。


2月16日

 誰かは何かに追いつめられているのだろうか。何かとは何なのか。ただ時間的に追いつめられているだけか。そんなわけで意識はいつも当日の日付に追い越されてしまうらしいが、述べたいことはいつもそれだけなのか。それ以外には述べるべきことが何もないのだろうか。なぜその先に言葉が続かないのだろう。また続けようとすると邪魔が入るのはどうしてなのか。眠気が邪魔なのか。眠らなければ死んでしまうだろう。たぶんそれでも別に精神的に追いつめられているわけでもないのだろう。いくら時間的に追いつめられていようと、寝て起きて翌朝になれば忘れている。無理なものは無理で仕方がないのではないか。あまり強引に無理を押し通しても疲れるだけか。端から見ても無理を押し通そうとする人は大変そうに感じる。自分が何をどうやろうと、メディアに踊らされて自分が大人物にでもなったかのように錯覚しているIT企業の社長のようにはなれないだろうが、いくら事業に成功して金持ちになったところで、そういうレベルで同じようなことをやっている者などいくらでもいるだろうし、それはそれでそういう風に生きているに過ぎないのであって、金があろうとなかろうと、その人なりに苦労が絶えないのは当たり前のことなのではないか。生身の人間のやることはたかが知れていて、ただ動き回って右往左往しているだけでしかない。時に人間が超人的な力を発揮しているように見えたりするのは、何かの勘違いであったり思い込みであったりするのかも知れないが、それがファンタジックな小説や映画やアニメや漫画やテレビゲームの中でなら、嘘ではあるがそれが実現しているかのように感じる人もいるだろうが、もちろんそれは人間の願望から派生したフィクションであって、それらを制作している人たちは、それらの虚構を見たり読んだりする者たちが、物語の中の非現実を現実として実感できるように、金と労力を注ぎ込んであれこれ工夫を凝らしているわけなのだろうが、人々はそうまでして幻想に浸りたいのだろうか。やはりそれを楽しんでいるつもりになっている人々も、メディアの宣伝文句に踊らされて、そんな気になっているだけではないのか。要するにこの社会には手軽に幻影と戯れる環境が整っていることになるのだろうが、本当にそれらの幻影を見たり読んだりして楽しむことは必要なのだろうか。それで何の足しになるのだろう。それはただの暇つぶしということで納得できるか。しかしそれで納得してどうするのだろう。いつものようにどうもしないだろうが、では音楽を聴くことは何の足しになるのか。それもただの暇つぶしの気晴らしなのか。ならば何かを見たり読んだり聴いたりして感動することが何の足しになるのだろうか。例えば芸術の効用とはどんなものなのか。そんなものになぜ感動しなければならないのか。たぶん感動しなくてもいいのかも知れず、理解できなければ感動する必要はないのだろう。では意味不明なものには感動する必要はないのだろうか。さっきから問いに対する解答がなおざりにされているようだ。君にまともな解答を期待したところで無駄か。ただ世の中にはくだらないものが多すぎるか。しかしそのくだらないものに感動してどうするのか。たぶん君はその手の感動から逃げていたいのかも知れない。だがそれらの何をくだらなく感じてしまうのか。その辺のところがよくわからないのに、なぜそれらをくだらないと思ってしまうのだろう。例えば過去の恨み辛みの感情から他人を殺傷してしまう人のどこがくだらないと思うのか。その場の成り行きでそんな行動に出てしまうのは仕方がないことか。若者が分別がつかないままに犯罪者になってしまうのは悲しむべきことだろうか。誰もそんな風には思わないか。犯罪者になってみなければ犯罪者の気持ちなどわかるわけがないか。いったい君はどれほどの苦悩を背負っているというのだろう。そのような環境の中で生きていれば、誰もがそんな人間になってしまうのかも知れない。だから良質の本を読んだり映像を見たり音楽を聴いたりして、それとは違う価値観でも身につけなければならないわけか。しかしそんなまやかしで誰を納得させられるだろうか。犯罪者になるにしろ平凡な一般人になるにしろ強引で横柄な金持ちになるにしろ、そんなことはどうでもいいことだろうか。どんな人間になってもそれなりに生きて死ぬだけだろう。しかしそれでは救いがないか。別に救いなどなくてもかまわないだろうか。何を求めているのでもなければそれでもかまわないのかも知れないが、人が何者かになろうとするのなら、そこに何らかの存在理由や目的や救いが必要になるのかも知れない。とりあえず何者でもない架空の君には関係のないことかも知れないが、現実にこの世界の中で生きている人々にとっては、自分が生きて暮らしていることの証のようなものを絶えず求めていて、それが必要とされているのかも知れない。だがそんなことを考えていると何となく虚しくなり、それこそが幻想に過ぎないような気がしてくる。


2月15日

 またいつものように夜が明けて、いつもの朝が来て、何も思わずに窓の外を眺めている。たぶんまた適当に時間が経過して夕方になり、夜に何を思うでもなく、眠たくなって寝てしまうのだろう。朝からそんな予想をしていると虚しくなる。だが別に何がそうさせているわけでもなく、それが自然の成り行きなのだから仕方がないか。どこに変わるきっかけが潜んでいるわけでもない。そんな状況が気に入らないか。虚しさに逆らって虚勢を張るなら、過去からどれほど前進したわけでもなく、また後退したわけでもない、と無理にそう思っているように振る舞いたいか。だが君はいつもそこから語り出す。最低の水準からどうやって言葉を連ねようというのか。なぜそれが最低の水準だと思うのだろう。それよりもさらに低いレベルというものもありそうに思われないか。何もしない状態がそれなのだろうか。何もしなくていいと思われるなら、それはそれで気楽なものだ。しかし実態はそうではなく、何かしなければいけないという強迫観念に囚われながらも、現実には何もできていないことが精神を圧迫し続ける。そんな状況に苛まれ続けていると、いつかは気でも触れてどうにかなってしまうだろうか。いったんそうなってしまえば肩の荷が下りて気が楽になるのかも知れないが、現実にはそうならないように必死に耐え続けている実情があるようだ。だから息苦しい毎日を過ごさなければならなくなる。しかし君はそんな物語設定で満足してくれるだろうか。誰がその物語の中で息づいているわけでもなく、ただの言葉の連なりが読みようによっては何かしら人格めいた精神作用を感じさせるだけか。どうやらさっきまで述べていた内容を打ち消したいようで、気まぐれで他に何か語るべき内容を探しているのかも知れず、しかし今のところはそれを見出せずに、そんなことはどうでもいいような気分になりつつある。結局はその場の怠惰な気分を変奏しているようだ。何かおもしろいことはないものか。つまらないからそう思うのだろう。しかしそのつまらない状態が否応なく続いていくのかも知れず、さらによりいっそうつまらなくなっていってしまうのだろう。そんな状況を端から眺めていれば、何となく滑稽に思えてきて、それがおもしろいと勘違いしているつもりになれるだろうか。それは実感ではなく文章的なレトリックかも知れない。実感としては本気でつまらないともおもしろいとも思えない。ただ何も思わないままに時が過ぎ去るだけのようだ。時間の経過がそれをつまらなくもおもしろくも思わせないようにしているのか。そうではなくただそんな状況の中に生きているだけか。そのような方向では何もできないように誘導されているのかも知れない。だが何によって誘導されているのでもなく、ただ何かに導かれているように思えるだけか。そんな雰囲気に乗って何かを語れば、そのような内容になってしまうのだろう。他人はそれを馬鹿らしいと思うだろうか。そう思う以前に何も述べていないと感じるのかも知れない。しかしそれでも言葉が連なっている状況にあるらしく、意味もなく饒舌が何かしら語っているわけでもないのだが、そこで言葉が生成されていることは事実のようだ。そしてそれは恐ろしいことではなく、恐るべきことでもなく、意外に安易で簡単な動作かも知れない。頭の中で自動筆記システムが動作しているのだろうか。そんな機構が働いているとすれば、それは何かを思うことや考えることとどのような関係にあるのだろう。なぜ簡単に記述されてしまうのか。やはりそれを馬鹿らしいと思っているのだろうか。たとえ馬鹿らしくてもその機構を利用しなければ言葉は容易には連ならないだろう。改めてそれについて考える必要はないのかも知れず、もうそれについては半ばあきらめの境地に達しつつあるのかも知れない。それ以外に何もできないのなら、とりあえずはそれをやるしかなく、そればかりやっていればそれしかできなくなってしまうのだろう。だからそれでは気に入らないというわけか。気に入らないから何か他のことをやろうとして、年がら年中無駄で意味不明な試行錯誤を繰り返していることになるのだろう。そうやって何とかバリエーションを拡張しつつ、やり方に洗練を施さなければならないと考えているらしいが、それが必ずしも成功しているとは言い難いようだ。たぶん考えていることは実現しがたく、何気なく無意識のうちにやっていることがいつも優先されてしまうのかも知れない。そのようにしか頭が動作しないのだろう。要するに改めて何かを考えなくても何かしらやっている状況にあるのだろうか。何か計画を立てて、目標を定めて、それに向かって努力する、というわかりやすさからは遠く離れて、そのすべてが渾然一体となって、同時進行的に作動しているのかも知れない。それが無意識のうちにやっているような気にさせるのか。それがある種の勘といえるかどうかわからないが、それが勘だとすれば、勘を頼りにやろうとすると、必ずわけのわからない行き詰まりを呼び込んでしまうようで、その行き詰まりの中で、やはりそこからどうすればいいのか思考していることに気づくわけか。


2月14日

 何もしなければやはり何も思いつかないらしい。寝て起きればいつのものように翌日の朝になっている。結局はそんな具合に状況は推移してしまうようだ。夢の中で何が見出されたわけでもなく、思考を経ない思いはその場の雰囲気に流されて、決して言葉や文章には結びつかない。そしてどうも疲れているらしく、疲れていることを理由として、怠惰に甘んじている意識を肯定しようとする。それで何ができるわけもないだろう。また風邪を引いてしまったのか。そんなことを思っているうちに日が暮れて、辺りは真っ暗になり、何もしないうちに夜になっているらしく、無論何もしないというのは嘘で、昼の時間帯は言葉を繰り出すこと以外の作業に明け暮れていたようだ。それについて語る内容は何もなく、またそれ以外のことについても語ることは困難を極めているのだろうか。それでは結局いつものように何も語らずに、それでも何かしら述べている、という矛盾した状況になってしまうだろう。また自己言及の袋小路にはまってしまうわけか。しかし本当にそれが袋小路だと思っているのか。なぜそうやって今ある状況を悲観的に捉えてしまうのだろうか。君はわざとそう述べていたいのではないか。いつまでもそう述べている態度でいることが心地良いのかも知れない。袋小路にはまって困ったと思いながら、またいつもの状況に巡り会えたことで安心しているのか。またそのような状況に遭遇するような言葉を繰り出して、わざとそういう文章を構成しているのではないか。ではなぜそれ以外の文章にならないのだろうか。簡単にいえばそれしかできないのではないか。どのように語ろうとしてもそんな内容にしか至らないということか。そのように述べていること自体が自己言及的な語りそのものだろう。今の状態こそが袋小路のまっただ中なのか。しかしそれも同じような言葉は途絶えることなく循環し続け、以前と似たような文章が構成される。そんなことを語りたいわけではないのに、いったん語り出せばそんな内容になってしまう。それが悩ましいところだろうか。しかし何を悩んでいるわけでもなく、苦しんでいるわけでもなく、ただ適当な冗談を述べているだけのように思われる。たぶんそれは嘘であり、意識は本当のことを語っているわけではないと思い込もうとしている。そんなどうでもいいことで本気にはなれないと思いたいようだ。だからそんな状況が馬鹿らしく思われるのか。なぜ君はそんな無駄で意味のないことを語っているのか。簡単に語れてしまうから語っているだけなのかも知れず、それ以外の内容を語ることが無理だから、その代わりに語っているのかも知れず、要するに語っている自らの限界を感じているわけか。だがそれも自己言及の一種でしかないだろう。たぶんそれ以外はあり得ない状況のただ中で言葉が繰り出されているのかも知れない。ではなぜそれ以外がないのだろうか。それ以外の出来事について語らないから、それ以外の文章に至らないのではないか。しかしなぜそうやってさっきから当たり前のことばかり述べているのだろう。気がつけばそれらの記述はかなりの分量になろうとしているのではないか。はたしてそれでいいのだろうか。いいわけはないとは思うが、どうしようもなくそうなってしまう現実をなかなか打ち破れずにいるらしい。その場で機転を利かせて、それらの無限循環から抜け出せないものか。できることならそうしたいところだが、現実にそれができないのだから仕方がない。そこに何もないということはないのだろうが、気休めにあり得ない妄想を抱くことにも飽きてしまったか。しかし何もないというのなら虚無があるはずか。だが虚無もないというのなら、他に何かあるはずか。たぶんそれが言葉であり文章なのだろうが、その文章の内容がないように思えるのはどうしたことか。しかしまったくないわけでもなく、わずかにそこには時間の経過が記されているのではないか。それだけではつまらないか。つまらなくても文章は存在しているはずで、気が向いたらそれを読むことが可能だ。そんな気まぐれと暇つぶしのためにそれらの文章は存在しているわけか。実感としては何のためでもなく、ただそこにあるだけのように思われる。そこにどうでもいいような内容の文章があるらしい。しかしそれがどうかしたのだろうか。どうもしないように思えるが、それでも何かしらそれなりに適当な言葉が連なっているらしい。確かにそれがどうしたわけでもないが、それでもそれらの文章は存在していて、そこから適当に続いてゆくような雲行きらしい。そしてそんな雲行きを察知してどこかの誰かがこうつぶやいてみせるかも知れない。それは何と無駄で意味のない試みだろうか。そんなことはわかりきっているだろうか。わかりきっていることをなぜ今さら述べなければならないのか。それはただそんな風にしか述べられないから述べているに過ぎないということか。しかしそれでいいのか。良いか悪いかなんて述べている意識には判断がつかないか。意識はただ何でもないことを述べ続けるだけのようだ。それがそこでの継続を形作っている。


2月13日

 カフェインの力を借りなければ何もできないのか。人を煙に巻いている。それは大したことではなさそうに思える。利害関係のない人のつながりなどすぐに断ち切れるだろうか。なぜそんな無駄な関係を求めているのか。意識は影とともに不完全なことをやりたくなってくる。誰かが愛でているのは微妙な関係から逸脱する感情だろうか。自らの領分をわかっていないのかも知れない。わざとそんなことを述べているわけか。まともに意味が通るように語れないのだろうか。その状態からどうやって話を進めるつもりなのか。またいつものように自己言及的になってくるだけか。思考を経ずに思いつくのはそんなつまらないことばかりなのだろうか。なぜそれをつまらないと感じるのか。そんな風に語ることが嫌いなのか。たとえそれが好きでなくても、否応なくそうなってしまう自然の成り行きに逆らうことは難しいようだ。誰がそうなることを求めているわけでもないのに、結果的にはそうなってしまう状況をどうすることもできない。最初から目指している方向が間違っているのかも知れないが、今さら方向転換することは不可能か。不満を探せばいくらでも見つかるだろう。積み重なっているのはそうした些細な誤謬の経験でしかない。そのような現象が積もりに積もって大きな勘違いを形作り、またそれがそんな風に思っている意識の個性だと見なされたりするらしいが、それ自体が大きな勘違いなのだろうか。何を繰り返して同じことを述べているのか。たぶん君は勘違いの具体的な内容が思い浮かばないのだろう。要するに君は自らが大きな勘違いをしていることに気づいていないのだ。しかし本当に何を勘違いしているのだろう。簡単に述べるなら、勘違いについて語っていること自体が勘違いなのかも知れないが、そんなつまらないオチではあまりにもお粗末だろうか。ではもっとおもしろくなるように、はじめからやり直すべきか。今さらやり直しが利くとは思えないが、ではその続きを語らなければならないのだろうか。どうやら何をどう語っても結局は自己言及的になってしまうらしい。他に何もないのだから、そんなことははじめからわかりきっていることだろう。それでもまだ何か述べることができるだろうか。自己言及の袋小路からどうやって脱出できるのか。何か印象に残る出来事でも思い出すべきか。過去の心の中には何が表象されていたのか。まだ先は長そうに思える。なぜテレビはいつ何時でも見せびらかそうとしているのだろう。その画面は君の視覚を奪い去ろうとしている。視覚を奪い去ったついでに、それについて思考することも許さない。しかし気休めの情報収集にはそのメディアは欠かせない存在となっている。だがそれが現実の見聞と思われるのはどうしてなのか。そこで意識は何を勘違いしているのだろうか。まだ勘違いという言葉を持ち出すのは早すぎるか。君はそこで言葉を用いるタイミングを間違えているのかも知れない。君はそこで何を勘違いしているのだろうか。それで勘違いを変奏しているつもりなのか。それはさっきとは別の勘違いなのだろうか。何かが操作されて結論に至らないように語られているわけか。それは単に言葉を使用する上での技法的な誤謬に過ぎないのだろうか。映像も間違った使い方をされている場合が多いはずか。しかし誰もが絡め取られているメディア的なスローガンに否を唱えることも勘違いなのだろうか。何よりも設問の立て方が間違っている。何を思わせぶりなことを述べているのか。ところでそれらの何がスローガンなのだろう。なぜ人々は自ら抱いたつもりの夢に向かって努力しなければいけないのか。メディアの情報操作的なプロパガンダに踊らされていることを誇りに思うのはどのような人たちなのだろう。プロ野球の清原選手などはその典型かも知れないが、そのような人たちの姿を目にする度に虚しさを感じるのは、その手の先入観に毒されている証拠だろうか。何だかそれらの光景を見ているこちら側が馬鹿にされているような気になってしまう。たぶん現代人に思考する行為は不要なのだろう。ただ見ていればそれでかまわないのかも知れず、日頃から騙されていることに鈍感になってしまっているのだから、日本は詐欺師たちにとっては天国のような地域なのかも知れない。しかしそれは現状分析ではなくただそんな風に思われるだけか。別に誰が騙されているわけもなく、それは本当に心から騙されているのではなく、わざと騙された気分に浸りたいだけなのではないか。要するに本気ではないということか。世の中に悪質な冗談が蔓延っている程度の問題なのかも知れず、誰もがそんな冗談に引っかかったつもりになりたいだけなのかも知れない。電話で多額の金を振り込めといわれて、本気になって振り込む馬鹿がどこにいるのか。本当に振り込んだ人たちは冗談に脳みそを冒されているだけなのだろう。


2月12日

 誰が風に吹かれて何を感じることもないだろうが、どうも心に余裕が感じられないようで、何となくせわしない状態のただ中に押し込められて、身動きがとれずにうんざりしているようだが、それでも間を見ては性懲りもなくいい加減なことを述べ続けているらしく、それでいいとは思っていないのだろうが、そんなことばかり述べている意識は、精神のどこかに歪みが生じているかも知れず、まっとうな心から暗黒側に近づきつつあるのだろうか。だが何が暗黒側なのか。暗黒側という言葉の意味がよくわからない。そんな風には誰も思わないだろう。それはくだらぬ冗談かも知れないが、唐突にそんなことを述べること自体、少し頭がおかしくないか。頭がおかしいというより、その言葉遣いに何か重大な欠陥でもあるのかも知れないが、なぜそんなことに疑問を呈しなければならないのか。冗談で述べているのならそれでかまわないのではないか。それらの何に疑念を抱いているわけでもなく、通常の意識は常にその存在を疑いつつ存在しているつもりのようで、何らかの意識が今から数時間前の早朝にそんなことを思っていたらしいが、しかしその今も、またしばらくしたら数時間前になってしまい、さらにそんなことを思っている意識も、あと数日も経てば、あやふやな過去の記憶とともに、忘却の彼方へと退いてしまうだろう。しかしそれがどうかしたのだろうか。そんなことは何とも思っていないのかも知れないが、その代わりに相変わらずいい加減なことばかりを述べているらしく、本心に忠実な意識としては、できることならそこから逸脱したいが、いつも怠惰な気分に押し切られて、何ともやりようのない精神状態に囚われているらしく、別にそれが夢の中の出来事というわけでもないが、気まぐれでたまに別の意識が目が覚めると、ため息混じりに何を思う暇もなく、どうしようもなく暗澹とした一日の成り行きを思い浮かべることしかできないようだ。しかしそんな毎日の中に何があるのだろうか。そんな中でも何も救いを求める気にはならないのはどうしたわけなのか。ただ救いを求めることに希望を見出せないだけか。いったい何に、あるいは誰に救ってもらえばいいのだろうか。状況的には行き詰まりのままに推移しているようで、これ以上悪化することはあっても、よくなる可能性を見出せないらしいのだが、そんな精神状態での唯一の救いは何だろう。救いのないことが救いとなっていたりするわけか。あとは中身がほとんどないなりにも、継続して言葉を繰り出していることぐらいか。だがそれが行き詰まりの原因となっていることは百も承知しているつもりのようだが、それ以外にどうすればいいのか、方策は何も思い浮かばない。それでもこれからどうすればいいかは、すでに無意識に知っているはずかも知れないが、知っていながらあえてそれを実行に移さないのはどういうことなのか。それを実行に移すためにはどうしたらいいのだろうか。わざとらしくそんなことを述べなくてもいいはずか。ではこれから何を実行しようとしているのだろうか。安易に集団自殺の呼びかけにでも応じてみるか。しかしそれでは何かの冗談になってしまうだろう。要するに冗談を述べることで、そのどうにもできない行き詰まりを忘れようとしているわけか。打開できないから忘れようとするのではあまりにも安易すぎないか。だがそれを忘れようと忘れまいと、行き詰まりの状態は変わらないのではないか。たぶん変わらないことも承知していて、何をやっても無駄なことも承知しているはずか。もしかしたら架空の君は何もやらずに何かをやっているように振る舞いたいだけなのかも知れない。実際に物語の中では誰もがそんな役回りを演じているはずか。しかしそれの何がおもしろいのだろう。おもしろいのではなく、おかしいのではないだろうか。あるいはおもしろくもありおかしくもあるということか。それは冗談でやっていることなどではなく、かなりの程度で本気になりかけながら言葉を繰り出していることなのかも知れず、案外それに全知全霊を注ぎ込んでいるつもりなのかも知れない。そこまでやる必要はないと思いながらも、それを継続させることに心血を注いでいることにでもなるのだろうか。結果的にそんな風に見なされるかも知れないが、それはあくまでも勘違いに基づいてやっている可能性も捨てきれない。だいいち内容が何もないのではないか。ただ述べているだけでは真剣に取り組んでいることにはならないか。しかしそれは今のところどうにもならない状態にある。何をどうやってもそれ以上は述べられない。ではまた一から出直すこと以外に方法はあり得ないのだろうか。だが今までやってきた積み重ねを、そう簡単に捨て去ることも不可能か。要するにその辺で行き詰まっているのだろうか。


2月11日

 また休まなければならないのだろうか。何のために休むのか。果てしなく休みたくなる。だが永遠の休息は死を意味するだろうか。そんな大げさなことではなく、ただ単に疲れたので休みたくなり、ついでに眠気を催しているだけだろう。しかしそれでも継続させなければならないのだろうか。何のために続けているのだろう。それも愚問というものか。現実には別に何に追い立てられているわけでもなく、何が目前に迫っているとも思えないが、ただそうしているだけなのではないか。それは単なる演習であり、そうしなければどうなるわけでもないが、そこに大した価値を認めているわけでもないが、とりあえずそうなれば荒んだ気分ではいられなくなるか。何かをやっていなければ気が晴れないからやっているだけか。しかし誰がそんな心境に至ったわけでもないだろう。君は別の人格を有しているわけではない。少なくとも人格と呼べるようなまとまりを持った意識が存在していることを信じるか否かの問題であり、その意識が何か適当なことを思っているように感じられるだけか。そんなわけで気温が下がってきたらしく、暖を取りたくなってきたようで、そう思っている意識は別の人格とは無関係だろう。しかし誰がどこで震えているのか。別に君が震えているわけではなく、ただ画面上では何十年も前のスターリングラードでドイツ兵が寒さに震えている。何度そんな光景をテレビで見ただろう。過去を何度繰り返せば気が済むのか。彼らは馬鹿なのだろうか。馬鹿なのではなく、ただそんなことしかできはしないということか。たぶん君はそんなことについて語りたいわけではない。そしてそんな目くらまし的な画面を消して、別にそれらの真実について語りたいわけでもない。それどころかもう何も語りたくないのかも知れない。意のままにならない心理的な作用には嫌気が差しているようだ。またそれらのどこに結節点を設定したいわけでもない。しかし結節点とは何なのか。また知らず知らずのうちに意味不明を求めてしまうようだ。そうやって安易に精神的な弱さを露呈させているのだろうか。それ以降に同じような展開が思い浮かんでくる。しかしそんなことは君には関係のないことだろう。何でもかんでも皮肉を述べればいいというものでもないか。それらのどこに皮肉があるのか。そんなことは知ったことではないが、それとは無関係に文章を展開させたいらしい。しかしそれは生身の君とは関係のない内容になるだろうが、誰もが無視していることについて、それ以上に何か述べる余地があるだろうか。できもしないのに無理に述べれば、それは責任逃れの内容に近づくだろうか。君はそこで何を放棄しているのだろうか。暴力の応酬については昔から人々は愚かだったのではないか。それは今に始まったことではないような気がするが、そういう欲望とどう折り合いをつけていくかが技術的な問題となっているのだろう。とりあえず単純な人々はその手のスポーツで妥協していればいいのだろうが、それ以外を求めるなら犯罪に走るしかないのだろうか。面倒なので今さらそれを考える必要は感じないが、考えたところで何がどうなるわけでもないだろうか。飛び交っている情報とはそういうものか。欲望の妥協点はいつもくだらぬ感情の中にあるようだ。そんなわけでどんなわけでもないが、それについて誰もがある特定の成功者を顕揚せざるを得ないのは、昔も今も同じことか。ただそれがすべてではない。そういうことをやっている人たちが馬鹿らしいように思えてくる。うざったいことを平気でやるしか脳のない人たちのように思われ、その他に何をどう述べていいのかわからないが、それでも何となく生きているらしい。文章的にはそんなことを記すことしかできないが、別にそんなことを本気で思っているわけではない。ただすべての価値観が闇の彼方へ退いているような気がするだけか。何をやってもかまわないし、何もやらなくてもかまわない。そのどちらを選択しようと、結果的にはなるようになってしまうのだろう。たとえそれをやる理由や目的を見出せなくても、ただやっているのならそれはそれで仕方のないことだろう。そんな風にして普通の人は生きているに過ぎない。別に普通でなくてもかまわないのに、成り行き的に普通に生きているだけだ。それ以外に何をどう述べればいいのだろうか。それのどこに不合理が潜んでいるのだろう。何も強迫神経症的に振る舞う必要はなく、くだらぬこだわりを人前で得意になってひけらかすことはないだろう。そんなことは確かにどうでもいいことなのだが、やはりそのどうでもいいことをやりながら生きている事実は疑いようがない。そこに何かもっともらしい理由や目的を設定するのは不自然きわまりない。何か特定の事象や現象を煽り立てていること自体が詐欺以外の何ものでもないだろう。なぜそんなものに注目しなければならないのか。そこでもてはやされている好奇心の正体とは何だろう。それは伝えたい者の都合を反映した精神作用でしかない。しかしなぜそう冷めたものの見方を多用して文章を構成しようとしているのだろう。それがこの世界に対する正直な実感だからか。何を見かけても、何をそんなに騒いでいるのか疑念を抱かぬ日はない。どうも日頃から見聞していることがくだらなすぎるのだろうか。


2月10日

 神は何を考えているのか。なぜ言葉を繰り出すこと以外は何もやらせてくれないのだろう。いったい誰がやらせてくれないのか。それは誰の台詞なのか。暗中模索の中で誰かは何を学ぼうとしているのか。そんな風にしてただひたすら問いかけることしかできないのか。その状態から抜け出たいと願っている。神の存在など信じていないはずだろう。誰も何も信じていないように振る舞いたいのかも知れない。しかしどう振る舞っても、それを誰が見ているわけでもない。すべては言葉の上での戯れ言から派生しているに過ぎないのだろうか。それがたまたま文章となり、その文章の中に不確かな意味が宿っていると感じられる。そんな風に思えば納得するだろうか。だが誰を納得させたいわけでもなく、ただそんな文章が生成することで妥協を図りたいのかも知れない。生じてしまったものはしょうがないだろう。それがそのときの結果なのだから、その結果を受け入れざるを得ないか。だがその結果とは具体的にどのような結果なのか。意味がわからないことは、ある意味では救いをもたらしているのかも知れない。積極的に特定の意味が生じないようにしているのだろうか。あるいは結果的に意味を無視せざるを得ない雰囲気に覆われているのか。またはそのほとんどが謎に思えるように仕向けているのか。何かを述べている意識が、自らが何を述べているのかわからなければ、気楽な気分になれるのだろうか。そんな仮定は意味不明か。本題から逸れ続けているようで、何が本題なのかよくわからない。そんな現実を直視できるだろうか。斜めから何を見ているのか。または何かを間接的に見ることができるだろうか。目はただ文字を追っているだけか。何かを見続けることで正気を維持しているつもりらしい。何の変哲もない風景を眺めることで、君はそこに記された文章の意味を見失っている。それらの文章は目の前に広がっている風景とは無関係なのか。誰がテレビ画面の中の風景を眺めているつもりになれるのだろう。ではなぜ画面から目を背けて音楽を聴いているのか。そんなことはどうでもいいことだろう。述べている内容が馬鹿らしく思えてきたのだろうか。それは文章として記されていることに過ぎず、本当は何とも思っていないのかも知れない。何とも思っていないのに、馬鹿らしく思えてきたと述べているだけか。そんなことを述べているうちに、少しは馬鹿らしく思えてきたのではないか。述べている意識が何を思っているのかよくわからなくなってくる。そんなことはどうでもいいと述べる度に、逆にそうではないと思うようになるようだ。ではなぜそうではないのだろう。そんなことなどわかりようがないのに、なぜそんなことを問うのか。要するに自問自答を繰り返すことで暇つぶしをやっているわけか。そういう述べ方は予定調和に思える。それでもかまわないだろうか。架空の君には意識がない。あるのは言葉とそれを表す文字だけか。それの何が不満なのだろう。それだけでは他の何もできないだろう。他があるとは思わない。音のない世界で音楽を聴けるか。ではなぜ意識の中で音が鳴り響いているのか。それが冗談だからか。音と文字と言葉はどう関係しているのか。それはただの文章に過ぎない。昔の志を見失いつつも、それはただの文章として機能しているらしい。それ以外は何ももたらされてはいないようだ。そしてそのこと自体は何の効用があるわけでもなく、そこに記された文章を惰性で読んでいるだけでしかない。それ以上を求めるのは無理だろう。だが無理を承知で空白に言葉を記しているのではなかったか。はじめから無理を押し通しているのではなかったか。そんな風に語ること自体が無理強いをしているような気がしてくる。いったいそこで何に言及しているつもりなのだろう。どこで何を取り違えているのか。たぶん君はそんな風には思ってもいないのだろう。思ってもいないことを記しているつもりなのか。そう述べれば嘘をついているような気になってくる。確かに嘘をついているのだろう。しかし嘘をついているのは君ではなく、他の誰かかも知れない。しかしそれも見え透いた嘘か。だがこの際嘘であろうとなかろうと、そんなことはどうでもいいことのようにも思えてくる。ただ本気で述べているわけではなさそうだ。くだらぬ妄想の取り憑かれているのよりは嘘をついている方がマシだろうが、それが比較の対象として成り立たないような気がするのも当然のことか。だが何が当然なのかそのニュアンスがよくわからない。どうも文章をまとめようとする気にならないらしい。何もかもがどうでもいいように思えてきたから、そうなってしまうのだろうか。何をどの程度の水準で述べたらいいのか、その基準らしきものがどこにも見あたらないようだ。しかしそれが言い訳にしか過ぎないことは百も承知している。いったん閉じた心を開くのは面倒臭いか。


2月9日

 そうではないと思いたいのかも知れないが、それはただの馬鹿騒ぎなのか、あるいは空騒ぎなのか。何かとってつけたような話の展開に嫌気が差して、誰かはそれとは違う物語を空想しようとしている。それは物語などではないだろう。彼らはそれらの光景の何を認めさせたいのか。彼らとはどのような者たちなのだろう。その対象となる意識を想定できないだろうか。その中ではいったい誰が他人なのか。みんな同じようなことに夢中になっているらしく、その渦中の中で生きている人にとっては、それらの出来事に興味を示さない者の存在など認めがたいところか。人々はなぜスポーツに熱狂しなければならないのだろうか。そんなことはわかりきっていることで、それは愚問というものか。しかしなぜそんな否定的な印象を過去の出来事に当てはめようとするのか。それは過去というほど昔の出来事ではなく、ついさっきまで熱狂の渦のただ中にとどまっていた多数の意識たちにとっては、今現在進行中の出来事であり現象なのかも知れないが、やはりそこには入り込めない抵抗感が働いている。そこには勝利するという以外に何の理由も目的も見出せない。例えば宗教的な人々はそれについて何を思っているのか。目の前に広がる人工の風景には神のどんな意図が込められているのか。たぶんそんな風には思わない。それについて何を述べるつもりもなく、それでもまたいつもと同じようなことを述べてしまうようで、それがなぜだろうとは思わないが、そんな述べ方では何を述べているのかわからないか。それがどんなわけでもないが、そんなわけで相変わらずの行き詰まり状態のようだが、今さら何をどこまでやっても気が済むわけもなく、何が今さらなのかその理由もわからず、それ以前に何をやっているのかもわからないし、それどころかわかりかけていることを、意識して忘れようとしているのかも知れず、要するに何もわかっていない風を装っていたいのか。それは言葉だけの問題だろうか。そこには誰の意識の介入も許さない情熱があるといえるか。そのようなわけのわからない言葉の連なりを用いて、いったい何をどこまでやろうというのだろう。たぶん彼らは何を忘れてしまったわけでもない。その何かさえわからないのに、いったいどうやって忘れられようか。意識して意図的に何を忘れようというのだろう。なぜいつまでも忘れることにこだわるのか。本当に何を忘れてしまったのだろうか。何をどこまで忘れても気が済むわけでもないだろうが、それらの虚空には忘れるべき対象が何も見あたらない。そしてどうもさっきから忘れることについて何を述べようとしているのでもなく、ただ単に何を述べようとしていたのかを忘れてしまっているらしい。そして今でもそれが何なのか思い出せないようだ。それは文章上のレトリックの一種だろうか。そんなことを述べているうちに、何となくそれ以上述べるのが嫌になってきた。君は試行錯誤の末にようやく何も述べられないことに気づいたのだろうか。たぶんそれらの言葉の連なりは想定外の展開になりつつあるのだろうか。意識を覆っている空虚によって、単純に単刀直入には何も述べられないように誘導されているのかも知れない。空疎で空虚な心にもある種の感情というものが含まれていて、それがまともに語ることを拒んでいるようだ。しかしその思惑は案外見え透いていて、要するに何も述べられずにしかもそれでも言葉を繰り出している状態を、できうる限り長引かせたいということらしく、そうやって空白を無駄な文章で埋め尽くしたい、という欲望に基づいてやっていることなのかも知れない。それが即席でねつ造された理由なのだろうか。自らを存在させるためにはどれほどの言葉を費やせば気が済むのか。そんな風には誰も思わないか。架空の誰かが思っているほど意識には正直ではないのかも知れないが、それでも技巧を弄して何かを語っている現実を認めさせたいらしく、その現実が紛れもない真実であるかのように言葉によって見せかけたいようだ。だが他の誰に向かって見せかけたいのでもなく、そこには誰もいないただの空間に向かって何らかの文章を提示しているに過ぎないのかも知れない。ではそのような行為のどこに矛盾が潜んでいるのだろう。何が潜んでいるわけでもなく、行為自体が矛盾そのものなのではないか。それはもはや何の価値観も認められないような行為となっているかも知れず、それを続けることには何の意味も必然性もないのであって、それでも続けるというのなら、それは虚無そのものを表現していることにでもなるだろうか。あるいは虚無という言葉では表現できないような代物と化しているのか。代物でさえないのかも知れず、それ以前のただの言葉の連なりでしかないか。とりあえず意味のないことをやっていることは確かか。


2月8日

 何もやる余裕がないときはひたすら暇が生じるまで待たなければならない。確かにそれはそうだが、よく見れば何がどこまでも続いているわけでもなさそうだ。それ以外は何もやらせまいとする継続が途切れたときが、隙をついて言葉を繰り出す機会となっている。しかしそれでは隙間を言葉で埋める作業しか残されていない。要するに内容を吟味している暇がないというわけか。だがそこで続いているのは少なくとも君の文章ではないらしい。どんなに努力しても君には何ももたらされない。空を見上げても雲以外に何があるわけでもないか。相変わらず北西から強風が吹き突きつけているようだが、昨日と状況が何も変わらないか。別に心変わりがしたわけでもないし、言葉を繰り出すやり方が変わったわけでもない。誰が何を思っているのか知らないが、それらの意識はそれぞれに経験の積み重なりの中から形成されているのだろうか。そこに生じている個性とはどんなものなのか。ただ特定の個人を顕揚するときに個性という言葉が必要とされているだけなのだろうか。ではこれまでに君は何を経験してきたのだろう。何かを語ることによってどのような心境に至ったのか。だがそれを言葉で示して何になるのか。なぜそれを語ろうとしないのか。まだ何も語っていないのはどういうわけなのか。では君はさっきから何を語っているのだろうか。ただ漠然と君の意識とは無関係な言葉を並べているだけか。機会を捉えて適切に言葉を繰り出しているつもりには到底なれないか。では適切に語る上で何が障害となっているのか。しかし何が適切な文章表現なのだろう。適切であろうとなかろうと、とりあえず具体的な内容がなければ、何を語っていることにもならないのではないか。ではそうすれば障害を乗り越えたことになるだろうか。そもそもそれができないなから困っているのではないか。具体的な事象に言及すれば、君はそれについて批判することしかできなくなってしまうか。彼らはそれらの批判の何を適切だと感じているのか。彼らの意識はそれらの文章の何を読んでいるわけでもなく、そしてその先に構成される未知の文章を読めないことが、理解することを困難にさせているわけでもないだろう。それでも別に誰が手心を加えているわけでもないのだろうが、彼らはそれらの状況の何に負い目を感じているのだろう。すでに誰も何も読んでいないのかも知れないし、それらの文章があってもなくても困らないような環境に囲まれながら暮らしているのかも知れず、自らの存在さえあってもなくてもかまわないような気になっている人々は、自殺する以外に手だてはないのかも知れない。冷静になって考える余裕がないらしいが、そんな状況の中で何をそんなに騒いでいるのか。彼らは何に踊らされているのだろうか。踊らされているのはどちら側だろうか。どちら側かを区別する境界などとうに取り払われてしまったのかも知れず、支配しているつもりの側と支配されている側のつもりの意識が渾然一体となって、何やらとりとめのない逡巡と循環を繰り返しているに過ぎないのであり、何か妙に積極的な気分になっているつもりの人々でさえ、自分たちが何を思考して行動しているのかわかっていないのではないか。たぶんそれらの思考や行動の何かが間違っているのだろうが、では正しい思考や行動がどこかにあるのかと問うならば、そんなものはどこにもありはしないと述べることしかできないのかも知れず、そんな状況が果てしなく続くように思われている間は、それらの勘違いも有効に機能しているかも知れないが、放っておけばいつか最悪の将来がやってくるのかも知れず、それを避けることは今のところ不可能であり、それが到来しなければ勘違い状態が続いてゆくしかないようだが、そんなわけで誰かはいつまで経っても安易なことしか述べられないらしい。しかしそれはどういういいわけなのか。だだ意識のこちら側では相変わらず意味不明な状態のようで、それはいつものことでしかないのだが、別にことさら不可能に挑戦しているわけでもないが、少なくともその場で語れることはそんなことぐらいしかないらしく、ただ自然の成り行きに従って何も考えずに言葉を繰り出しているだけの状態が続いているようだ。現実にはそうやって文章を連ねているつもりらしい。しかしそれで何もかも終わりなのか。そんな中途半端な状態では終われるはずがないか。だがそのまま続けられるはずもないように思われ、それでも続けようとする意志は持っているらしく、どうやれば続けられるのか、空虚からかかってくる圧力に耐えながらも、何やらよくわからない試行錯誤を繰り返しているようで、その結果として意味不明な文章が生じているらしいのだが、とりあえずやれるときがくるまで待つしかないのだろうか。しかし待てば待っただけ時が過ぎ去り、さらにどうにもならなくなってしまうのだろうか。


2月7日

 なぜ始まりにおいて躓いているのだろう。おそらくそれは物語ではないだろう。そんなことを語りたいわけではないが、今までに何を書き留めてきたのか。その曲は聴いたことがある。誰かの耳には何が聞こえているのだろう。それは何かの雑音だろうか。一応は音楽の一種かも知れないが、君には今ひとつ馴染めないように思われる。たぶんそのことについて何を述べるつもりもなく、それ以上は何も述べられないかも知れないが、今から何を述べようとしているのだろう。いつも始まりがよくつかめないようで、架空の意識はまだ何も話していないような気がするのだが、他に何をしているのでもなく、何もしていないわけでもなく、あやふやな状況を招いているのでもなく、結局は何も見出せずに、何を述べたいのかわからなくなる。とりあえず長い間放置され続けている言葉の連なりは、自己増殖を繰り返しながら、つい最近まで未来へ向かって果てしなく延び続けていたらしい。たぶんそれは過去の話ではない。君が何か別の出来事を思い出すとき、それらの意識は何に充たされているのだろう。ため息をつきながら長い時間のただ中で何を見ているのか。何を述べているのかわからない。君は落ち着いた雰囲気の中でくつろいでいたいようだが、せわしない日々に追い立てられて、どこへも行く当てのない状況を強いられているらしい。ところで部屋の中で宙を舞っているのは何だろう。暗闇の中を移動しながら信号待ちの車内で意識が目覚める。支離滅裂なことならいつでも述べられるだろうか。記憶を過去にさかのぼっている余裕はないのだろうか。たまたま街で見かけた君は何者でもなさそうだ。どうして今日の日付に追いつけないのだろうか。それは誰の意識なのだろう。架空の誰かは何に追いつこうとしているのだろう。またいつもの夕暮れ時に見出したつもりの内容は、あまり気乗りしないような語りを誘発しそうな雰囲気を醸し出しているようだ。言葉を繰り出すきっかけはどこからやってくるのだろうか。不安定な情緒を放置したまま、ドラマの中の登場人物は何をやろうとしているのだろう。これから何かの事件に巻き込まれる設定となっているのだろうか。テレビから目をそらして外を眺めている誰かにとって、そんなことはどうでもいいことかも知れないが、ところで君はこれから何をやりたいのか。君以外の誰かの意識から適当に言葉を連ねているつもりになりたいか。そんなまわりくどい言い回しは嫌いか。ではどんなことを語ってほしいのだろう。また途中から何かいい加減なことを思いついたのだろうか。正気を失っているわけではないと思いつつも、狂気に囚われた自意識をもてあそんでみたいと思っているのかも知れず、物語的にそんな妄想に充たされていたいのだろうか。誰もそんなことを思っているわけではなく、ただそんなことを空白に記してみたかっただけなのかも知れないが、誰かは予告通りに支離滅裂なことを語っているのだろうか。それを眺めている君にしてみれば何となく物足りないような気がしているらしく、何とか別の方向へ話の内容をもっていきたいようだが、何も語っていない君に何ができるわけでもなく、何もできないとは思っていないようだが、できることといえば、ただ画面を眺め続けることだけのようだ。君はそれらの言葉の連なりとはまったく無関係になりつつあるらしい。君の感知しないところで何かが進行中のようだ。君が感知していることといえば、君が眺めている画面には文字が適当に並んでいることだけか。それを読む気がしないのはどういうことなのか。君は文字が読めないのだろうか。ではさっきから読んでいる文章はどこに記されているのだろう。画面ではなく頭の中に存在しているのだろうか。そんな風に思えば楽しいか。何をおかしいと思っているのか。おかしいことを記しているのは誰なのか。なぜそれが君ではないと思い込みたいのだろう。そこに文章を記している架空の誰かを想定する理由は何なのか。ただ面倒臭いからか。しかしそれの方が面倒臭いのではないか。ただ君には架空の誰かが何に言及したいのか計り知れない。何を推し量ろうとしているのでもない。それらの文字列の内容にはまったく興味がないのだろうか。たぶん何となく馬鹿らしく思われるのかも知れないが、その馬鹿らしさが君のすべてだとしたら、君は馬鹿げた存在だということになるだろうか。だからどうだというのか。どうもしないが、さらに何をどう述べようと、どうもしない状況は言葉では救いようがないだろうか。とりあえずどうにもならないなりに、文章的にはどうにかなっていると思われるか。


2月6日

 いったいどこからそんな発想が出てくるのか。いくら無理を押し通そうとしても、所詮無理なものは無理なのだから仕方ないだろう。つながらない言葉をつなげようとして、うまくつながらずに意識がどこかで切れかかっているようだが、それでも何かの途中から、不意にそれとは違うことを述べようとしているらしい。ところでそれらの言説の何が教訓を形成しているのか。人は誰でも犯罪者予備軍に入っている。この社会では普通の人が普通に生活していても、きっかけさえあればいつでも犯罪者になってしまう危険性を孕んでいる。例えば免停中に車を運転してしまう羽目になった人などいくらでもいるはずで、それがたまたま飲酒運転で、運悪くひき逃げ事故を起こしてしまった類の事件なら、年に何回かニュースで見かけることがあるだろう。また金がなくて消費者金融からの借金が雪だるま式に増えれば、ごく普通の人でも追いつめられて強盗を働いてしまう可能性が出てくるはずで、強盗に入った先で人を殺してしまった人なども、やはり年に何回かはニュースで見かけているはずか。そんな人々を非難しても仕方がないような気がするのだが、やはりそんな事件についてコメントする立場の人なら非難せざるを得ないのだろう。制度とはそういうものなのだろうか。そういう仕組みになっているということか。しかしそれは架空の君にとっては他愛のないことなのかも知れず、確か以前にも誰かが同じようなことを述べていたような気がするのだが、いよいよ何も述べられなくなると、無意識のうちに過去に述べたことを繰り返すようになるのだろうか。しかし繰り返しているその内容がつまらなかったらどうするのか。そこで繰り返すのをやめてしまえるか。やめられなければつまらないままになってしまうのだろうか。すでにそんなことを述べていること自体がつまらないと思われるだろうか。述べたいことは他にあるかも知れないのに、なぜそうやって飽きもせずつまらない内容を述べ続けるのだろうか。飽きているがそれ以外にやりようがないのか。いったい誰がそれらの言説に飽きているのだろう。もしそれ以外のことを述べようとすればどうなってしまうのか。そのときの気分は最悪になるか。犯罪者はその後どうなってしまうのだろうか。どうにかなったりどうにもならなかったりするわけか。どうやってどこに至るのだろうか。君はそのときどんな精神状態に至りたかったのか。麻薬の力を借りるまでもなく、何をやろうとしているのでもないらしい。ここはガムでも噛んで気持ちを落ち着けたいところか。この世界は何を求めているのでもない。人が求めているのは適度の安らぎと適度の刺激だけだろうか。君の意識には倫理というものがないのだろうか。それ以外には何が欠けているのだろう。歩んでいくその先には何か適当な出来事が待ち受けている。たぶんそこでどうにかなってしまうのだろう。外見的には平静を装っているが、心中は穏やかでないのかも知れない。しかし何がもたらされているわけではない。言葉以外の何をもたらせるだろうか。意味のない停滞だけか。では停滞状態にはどんな意味を宿らせることができるだろう。それらの何が停滞だといえるのか。君はそれらにまとわりついている外見的な雰囲気に騙されている。しかし言葉はどこにあるのだろう。そこに言葉が存在するのだとしたら、君の意識は魂の表層へ浮かび上がることができるだろうか。だが何がそれらの魂なのか。いつものように述べている内容が不明に思われるか。しかし実際に思っているのはそんなことではない。明日の天気はどんな具合になるだろうか。たぶんそんなことでもないのだろう。世の中の出来事のすべてを知ろうとは思わないか。知ってどうなるわけでもないか。知ればどうにかなると思ってしまうのは、何かの勘違いか幻想に過ぎないだろうか。人はただ行動している。その行動がどんな結果をもたらそうと意に介せず、ただせわしなく動き回っている。君は自分が無駄なことをやっているとは思わないのか。そこにはどのような意味がもたらされているのか。本当にそれが無駄だと思っているわけか。何かを語ることは無用な意識を呼び覚まし、無用な人々が有用であるかのように錯覚させる。はたしてそれを知ることが有用だろうか。役に立たない知識が有用だといえるか。では誰からも求められていない内容をあえて述べることは無用な行為なのか。少なくとも役に立とうとはしていないのだろう。誰の役にも立ちそうにないことを述べるのが誰かの役目なのだろうか。そうかも知れないしそうでないかも知れない。そのどちらでもかまわないとすれば、それは無用な語りになるだろうか。積極的にそうは思わないが、仮にそうであってもかまわないのかも知れない。たぶんそのような語りに内容などなきに等しいのであり、あったところでそれはただの付け足しに過ぎないのだろう。


2月5日

 やっと昨日になりそうな予感がするのだが、気がつけば明日になっているかも知れない。では今日のことはいつ記せばいいのか。しかし今日も昨日も明日もやっていることは同じようなものか。人間は誰でも似たようなことをやっているものか。眠っていたり目を覚ましていたりしている。今が夜なのか昼なのか、そのときの時刻で状態が異なるだろう。またそのときの気分次第で躁鬱状態を交互に繰り返していたりするだろうか。だがそのとき何かを見失っていて、その見失った何かに気づこうとして、必死になって思考を巡らせている場合もあるだろうか。しかし何も死を覚悟しているわけでもないだろう。その程度のことを知ろうとするために、全知全霊を賭けているわけでもないか。いったいそのとき何を知ろうとしていたのか。さっきから目の焦点が合っていないようだ。それは話のまとまりに欠けているということではないのか。たぶんそれらの文章には述べるべき対象の存在が希薄なのだろう。だからいつの間にか自己言及的な内容になってしまうわけで、それが歯がゆいように思われ、何とかそんな状態から脱すべく試行錯誤を繰り返すほど、もがけばもがくほどかえって蟻地獄へはまるように、さらなる自己言及の深みの奥底へと沈み込んでいくように感じられるのだが、そんな風に述べていること自体がすでにどうしようもなく自己言及的に思われ、もはやそこから逃れることは不可能になりつつあるようだ。もしかしてわざとそのように述べているのではないか。述べている途中からは意識してそう述べているかも知れないが、それで何もないことを覆い隠すことはできないだろう。だが厳密には何もないわけではなく、少なくとも空虚そのものの存在を感じているのかも知れず、それが何もないことと同義かどうかは不問にしつつも、まわりくどく述べることで、そこに何かあるように見せかけようとしているだけかも知れない。意識して見せかけようとしているわけでもないかも知れないが、結果的にはそんな文章となってしまうのだろう。たぶんそれ以外にやりようがないのかも知れない。この世界に何もないことは集団自殺する人々が一番よくわかっているか。自殺する人の気持ちなどわかりたくもないが、人の生死などには何の価値も見出せない。それは価値の問題ではなく、ただ生きるか死ぬかの問題でしかないだろうか。しかしなぜ生きなぜ死ぬのか、そのわけを知ろうとは思わないが、そこにどんな目的や目標を設定できるのか。何か具体的な事情がなければ、目的も目標も何もあり得ないか。架空の時空には死ぬ人も生きる人もいないので、具体的な事情が出てこないような気がするのだが、そこに何か適当なフィクションをねつ造して、偽りの具体的なことを語った方がリアリティが増すだろうか。しかしそれでは偽りのリアリティとなってしまい、話が矛盾してしまうのではないか。フィクションとはそういうものだろうか。しかしフィクションについて語ることはできても、フィクションそのものを語ることができないのはどういうわけか。その才能がないとか述べてフィクションの構築から逃げていればいいのだろうか。その気もないのにフィクションなど語る必要はないのかも知れない。それを語れないから馬鹿にしているのか。フィクションが馬鹿らしいと思われるのは本心なのだろうか。なぜそこから感動を導き出さないのだろう。フィクションを見聞して感動したとか述べれば、それを読んだ人々から共感を得られるのではないか。なぜ批判ばかり繰り返す一方で、頑なにそうしないのか。君はフィクションに感動する人々が嫌いなのだろうか。しかしこの世界のどこでフィクションではない真実の出来事が起こっているのだろう。それが言葉や映像で伝えられる限りにおいて、伝える者の恣意的な感情が入り込みざるを得ないのであり、それらの情報にはフィクション的な要素が付加されているだろう。そしてそれを直接見聞したとしても、見聞している者の思い込みが影響して、その出来事は日頃テレビ等で親しんでいるフィクション的な話と似てきてしまうかも知れない。要するにこの世界で起こっている現象を人が感じると、その人特有の物語に取り込まれて、その意識を通過して出てきた出来事は、どんなにリアリティを伴っていても、ある程度はフィクションになりざるを得ないということか。そんなわけで人はこの世界をあるがままに感じることはできない。おそらくこの世界のあるがままの姿は、言葉や映像では表現できないものなのかも知れず、それをある特定の意識が表現できたと思ったとたん、それはその意識が構成したフィクション以外の何ものでもないのだろう。


2月4日

 この世界は何となく漠然としていて、そこに意味を感じられない。人は何のために生きているのでもなく、ただ欲望の赴くままにうごめいているだけのように思われる。このところは心の内で何かが頑強に抵抗しているらしく、まったく言葉を繰り出せなくなっているようだが、どうやらこの辺が限界なのだろうか。どのように思考を巡らせても、夜の闇の中には何も見出せないらしい。それでも意識はそんな風には思いたくないようだ。もはやそれらの日常についてどんな風にも述べられないのだろうか。文章の日付的には、この二日間は何も述べられない状態が続いているらしいが、いったい言葉を繰り出す上で何が障害となっているのか。もういい加減にやめたらどうか。いつも思うことはそんなことばかりなのだろうか。では本当にこれからどうするのか。まだ開き直れていないようだ。過去の記憶は未来の意識に問いかける。何もできなくなってからどれほどの月日が経ったのか。二日遅れで思うことは何もないが、どこにも存在ない物語の中では、架空の誰かがいい加減なことをつぶやいてみたくなる。すべては灰燼に帰すだろう。それは誰の予言なのか。そんなことをつぶやいてみたくなる老人は、どこかの映画の中に登場していたかも知れない。厭世的な意識は言葉を繰り出すことによって何を目指すのか。つまらない過去はとうに過ぎ去り、さらにつまらない未来が到来する。できることならそんな風に思わないようにしたいところか。別にそんな風に思っているわけでもなく、文章的な気まぐれで適当な言葉が連なっただけだろう。君は言葉を繰り出すことによって、何もできなくなるために必要な日々を過ごしているのだろうか。経験しつつある毎日がつまらないと思うことは、意識にどんな効用をもたらしているのか。それは効用ではなく障害ではないのか。しかしそれはいつの記憶なのだろう。夕暮れ時からすでに数時間が経ち、相変わらず何も思いつかないようで、それでも何か思っている振りぐらいはした方がいいと思われるらしく、その思っているつもりのことについて、何か述べなければならないと思うようになるかも知れないが、その何かが具体的に思いつかないようだ。そんなことを思うのは無理か。そんなわけで何事も思い通りには行かないようだが、別にそれが腹立たしいわけでもなく、とりあえず馬鹿らしいことを述べているような気がするだけか。しかしもうそんな風に思っていること自体が、何もかもあきらめてしまった証拠だろうか。だがそれではうんざりしてしまうので、何をあきらめたかはわからないことにしておこう。君はそうやって嘘をついている振りをしている。なぜそう思うのかわからないが、何を思っているのでもないのに、なぜそう思っているのだろうか。いったい何を述べているのだろうか。さっきから意味不明かも知れないが、何やら言葉を記している者は薄ら笑いを浮かべているのかも知れない。もうそんなことはどうでもいいことなのだろうか。どうでもよくはないが、どうしようもないのかも知れない。しかしどうしようもないとは、どのようにどうしようもないのか。少なくともこの世があの世ではないほどにはどうしようもないのだろうか。述べている意味がわからないか。何を述べているのか意味不明なのはいつものことだろう。それが極めて正常な状態なのかも知れない。明日になれば陽はまた昇り、いつものようにこの世界は存在し続けるだろう。今も存在しているのではないか。確かに今感じている世界がそうなのだろう。しかし闇の中には何もありはしない。蛍光灯の下には部屋があるだろう。それ以外にあるのは無駄でわけのわからない言葉の連なりだけか。だが本心ではわけがわからないとは思っていないのではないか。それは文法的に否定の連続になるらしい。まだ退屈に感じているわけか。テンションが低そうだ。夜は更けて、何もないのにさらに何もなくなろうとしているらしく、闇の彼方に言葉が届かなくなろうとしているようだ。君はそれからどうしたのだろう。まだ逃げおおせることばかり考えているのか。それは見え透いた行動であり、成し遂げようとしているのは逃げることではないはずで、逃げながらも何か適当な言葉を繰り出し続けることか。過去においては確かにそうだったかも知れない。もう逃げられないと思っていながら、それでも何かしら述べていたような気もするのだが、しかし何から逃げようとしていたのだろうか。逃げるべき対象さえ思いつかないのか。もうすでに夜が明けて明日を通り過ぎて、さらに一昼夜が経過しようとしている段階で、それでも何も思いつかないのはどうしたことだろう。何もやることがないわけでもないが、ただ言葉が出てこないようだ。同じような言葉ばかり使い回している一方で、新たな内容に巡り会えないと思い込み、わざとらしく途方に暮れた振りをしているらしい。しかしそれが思うつぼの展開なのかも知れない。


2月3日

 人が人でなくなるとき、君はその人について何を思うのだろう。人が死ねば土に還ることもあるだろうか。そういう意味で人でなくなるわけではないか。今の君は人ではなく言葉としての君という文字で文章の中に示されている。たぶんそういう意味で人でなくなるわけでもないのだろう。では世間の常識に照らし合わせて、人にあるまじき行為をしたわけか。それはニュースに出てくる凶悪事件の容疑者のことか。人などというありふれた概念でいったい何を語りたいのだろう。人として人は何ができるというのか。一般人なら昼は仕事をして夜は寝ることぐらいはできそうか。それに退屈な意見を追加できるかも知れない。しかしそれらすべてはつまらないことだと思われる。もうおもしろいことを語る努力はしないつもりなのか。また君は感動的な話を忌み嫌っている。それらの話がおもしろかったり感動的であったりすることが信じられない。文章の中で誰かが何かを述べていること自体が嘘だと思っている。それがフィクションなら確かに嘘なのだろう。だがそんなことはどうでもいいことなのではないか。嘘であろうとなかろうと、そこにそれなりの文章が構成されていれば、それでかまわないのではないか。たとえそこに君の主張が反映されてなくても、君も君以外の人々も一向にかまわないのではないか。何となくそんな文章は読む気がしないのだ。そして読む気がしないようなつまらない文章を記す気がしないのも当然のことか。だがそこに記されている文章の内容はどうなのか。それは紛れもなくつまらない内容だろうか。画面を蝕んでいる言葉の群れをどうすることもできはしない。どうすることもできないのにどうすればいいのだろう。実際にはただ何もできずにテレビに逃げているようだが、テレビを見て暇をつぶしていれば、瞬く間に深夜になってしまうだろうか。深夜になったら後は寝て翌朝を待つだけか。そうやって逃げる毎日を繰り返しているのか。なぜ逃げているのだろう。そこから逃げる理由などわかりすぎるぐらいにわかっているつもりのようだが、今さら理由など述べたくもないか。いくら考えを巡らせてみても、何も述べられないように思われ、そんなわけで行き詰まりのただ中で途方に暮れているらしく、一向に述べることが何もない。だがそれにしては延々といいわけじみた文章を連ねているらしく、それをどうにもやめられない状況のただ中で、それらの困難を打開するめどがまったく立っていないようだが、まだやめる決心はつかないのか。やめられないから決心などに至るわけがなく、決心をつけてからやめようとは思わないが、いったい何をやめようとしているのだろうか。やめようとしていないからやめられないのではないか。別に何をやめようとしている雰囲気でもないのだが、何をやめるかもわからないのに、無理にやめる必要はないのだろうか。しかしそれは見え透いた嘘だろう。やめる理由などとうにわかっていながら、それでもわざとわからない振りをしているだけか。やめようとほのめかすこと自体をやめることが可能だろうか。それもさっきとは別の嘘になっているのかも知れず、そんなことを語りたかったわけではないが、語りたいことなどあるわけでもなく、ただ昼の時間帯では昨日も強風が吹き荒れていた。それは三陸沖の海上での状況だろうか。そんなことを推測して何になるというのか。それはその場の思いつきであり、昨日の出来事ではあり得ないか。話のつながりに無理がありすぎるか。しかし現実にそんなことを述べている者は、なぜそれが無理ではないと思うのだろう。別にそんなことを思っているわけもなく、ただ思ってもいないことを文章にしようとしているだけか。そんなことができるわけがないか。本当に無理なのだろうか。少なくともやってみなければわからないと思いたいか。おそらくやってみてもわからないだろう。ではそれは冗談の一種か。たぶんそれが無理ではないことを、実際にやってみることで証明しようとしているのかも知れないが、実際に何をやろうとしているのかわからない。意識は思ってもいないことをできるわけがないと思い込みたいようだが、そんな勝手な思い込みは無視され、他に何をやるでもなく、やるべきことは何もないように思われ、何も思わなければ何もやってはいけないわけでもなく、しかしなぜそうやって執拗に何かをやろうとしているのか、そこに理由などあるわけでもないような気がしくる。そんなわけでどうやらまだ何かをやる気になっているらしいが、それは昨夜のやる気なのではないか。日付的には確かにそうなのだろうが、それから一夜明けた昼の段階では何もやる気がしないようで、いったいこれから何を述べるつもりなのかわからないのに、つもりではなく実際に自己言及的なことを述べている現実があり、それではつまらないように思われるのだが、実際にさっきからつまらないことを述べているわけか。しかしなぜそれがつまらないことだと思うのか、そんなことを知りたいとは思わないか。知る前に知っていることを疑問に思う振りを装うのはわざとらしいか。


2月2日

 何を述べていたのか忘れてしまったらしい。もしかしたら何も述べてはいなかったのかも知れない。風が強い日は翌日のことか。耳を澄ませば川のせせらぎが聞こえてくるだろうか。それはいつの記憶なのだろう。過去の想いは簡単に忘れ去られ、同じような毎日に飽きているようだが、別に動乱の時代に身を投じたいわけでもないだろう。アフリカや中東の紛争地域へ行けば、生きるか死ぬかの日々を体験できるかも知れないが、そこへ行く気力も根性も必然性もなさそうなので、とりあえずは退屈な毎日を生きていくしか選択肢はなく、たとえそれが少々不満であったとしても、甘んじてその不満のままに生きていくのが無難な暮らし方なのだろう。それが分相応の生き方なのか。それに飽きたら他愛のない娯楽にうつつを抜かしていれば、そのれなりの高揚感を味わうこともできるだろう。そして誰がどのような娯楽で暇つぶしをしようと、それが合法的なものなら何の文句も言われずに楽しむことができ、その人の勝手な欲求を満足させて、それでその場は丸く収まるのだろう。しかしそんな現状を肯定する気にはなれないか。メディアが顕揚するような価値観など受け入れがたいか。だがあからさまにそんなことを述べるのは野暮というものか。今さら野暮ったい抵抗の言葉を連ねる気にもなれないか。しかしそれらの何が風流だといえるのか。そんなものを無理に解さなくてもやっていけると思われるか。この世界には物も妄想も過剰に満ちあふれているような気がするのだが、それでも興味を惹く物事がほとんどないのはどういうわけだろう。どういうわけでもなくそういうわけでしなく、そんな現状に不満を持っている者たちは、結局は自分のできる範囲内で、何かを自分好みの事象を構築しなければならなくなるのだろうか。しかし何が自分好みなのかわかるか。どうもそこから先が漠然としていて、とりとめがないような気がする。そんな案配では、結局は何をやったらいいのかわからなくなってしまうわけか。または現状では何もやりようがないと思われてしまうか。しかしこの期に及んでいったい何をやればいいのだろう。だがこの期に及んでいる状況とはいかなるものか。もしかしたらそれを思いつかないのなら、何もやらなくてもいいのではないか。何もやらなくても生きていけたら、それでかまわないのではないか。何事もあきらめが肝心だろうか。ただ食べていける程度の仕事は確保して、その仕事が終わったら余暇を適当にやり過ごせば、それで人生を全うできるような気はする。そんな毎日に埋もれながら暮らしていれば、やはり退屈な日々だと思われるかも知れないが、それ以外にどんな生き方を模索する必要もなくなるだろうか。別に荒んだ暮らしを求めているのでもないが、他に何も求めていないとすると、退屈に生きていくしかないのだろうか。それを退屈だと思わないようにすればいいわけか。何か適当な趣味を見つけて、それに没頭しているように振る舞えば、それで充実した生活が送れていると思い込むことが可能だろうか。そんな風に思い込むのはたやすいことかも知れないが、何となくそれでは見え透いているような気がするのだが、そこで退屈さの代わりに浮上してくる、わざとらしさを避けることが可能だろうか。だがそんなつまらないものをすべて振り払うには、何をどうやろうと現状の生活基盤を捨て去らない限り、そうはならないと思うが、そうしなければそれが本気だとは受け止められないのではないか。だがそうなってしまえば後戻りはできなくなり、取り返しがつかなくなってしまうだろう。要するにのるかそるかのそういう危険な賭けを冒さない限り、安全地帯でいくらまっとうなことをやろうと、それは予定調和のままごと遊びの範疇でやっていることにしかないのだろう。しかし破滅したくないのなら、ままごと遊びで一向にかまわないのであり、それはそれでそういうものにしかなり得ないのかも知れないが、たとえそういう退屈な水準で何をやろうと、誰から非難されるような筋合いのものでもなさそうだ。では君はそれを目指しているのか。別にことさらそんなものを目指す必要も必然性もないのだろうが、現時点でやっていることはといえば、そういうくだらないものと受け取られても仕方のない内容なのかも知れず、その水準を超えて何かを述べることは現状では不可能なのかも知れない。とりあえずここで継続可能な内容は、そういうものでしかなくなってしまうのだろうか。それはそれで仕方のないことかも知れないが、まだ執拗に続けようというのなら、その程度の水準の語りを受け入れざるを得ないのかも知れない。もっともそれ以外に何があるわけでもないか。


2月1日

 どうも余裕に欠けているらしく、いつも切羽詰まっているような感覚に囚われ、間違っても暇にまかせて何かをやっているような状況ではないが、君は何を述べているのだろう。何か思いついた言葉の断片を寄せ集めて、意味の通る文章を構成しようとしているらしいが、そんなやり方ではうまくいくはずがないと思いつつも、何となく言葉を連ねているようだが、君は文章の中で主張したいことは何もないのか。それでも何か利いた風なことを語っている風を装っているつもりなのか。たぶんそのほとんどが意味不明に思われても、よく読めば君ではなく文章が何かしら主張しているのかも知れないが、できることならその主張の内容をわかりやすく説明してほしいか。いったい誰がそれを説明できるのだろう。説明できないから意味不明になり、それでも何かしら述べていればそれでかまわないと開き直っているようだが、それを毎度のことのように繰り返されたらたまらないか。ならばそんなことはすぐに忘れてしまえばいいだろう。忘れる前にもはや思い出せないか。それで何を述べているつもりなのか。さっきまで見ていた映像を忘れることはたやすいが、それとこれとは忘れる内容も質も異なるか。気がつけば雪がやんで、言葉の連なりが途切れているようだ。毎度のことながら意味がつながらない。それ以上に何を述べたいのかはっきりしないが、そこでは何が反復されているのだろう。それは執拗な文章の継続に他ならないか。そうやってまたとりとめのないことを述べようとしているのだろうか。そんな意識は今どのような時間帯に属しているのだろう。昨日の今日において、文章の中では誰かに見せかけている君の意識は何を批判したいのか。それらの物語には残酷さが欠けている。主人公が途中で主人公でなくなるわけもなく、何とか主人公を物語の主流から外さないような作為が働いている。何かドラマチックな展開を経由しなければ話が一段落つかない。起承転結の成り行きに守られているわけか。安易な対決シーンでは常に極めつきを醸し出さなければならないのだろうが、それが見ている者の興味をつなぎ止めるための時間稼ぎに他ならないことに気づかない人間でない限り、そこに倦怠感が生じていることを感じ取るだろう。結局強烈な戦いばかりで興味を惹こうとすること自体が間違っているのかも知れず、それをわざとらしくエスカレートさせすぎることが飽きや呆れにつながっているのかも知れない。だがそのような話の方向性を変更することは不可能だ。未だにそれを求めている人は大勢いるらしく、強敵を苦難の末にかろうじて紙一重で倒すときの暴力的な快感を、その手の大げさな映像を通して疑似体験したいわけだ。彼らが暇つぶしに求めていることの本質はそのような内容でしかないのだろうか。それだけではそれらの映像を見る大義名分が立たず、そこでは友情だとか愛だといういいわけがやむを得ず敵を倒そうとする味方の暴力を正当化している。そしてそういう部分がないと単なる殺戮劇となって、公衆の面前でその手の作品を公表する機会を失ってしまうから、とりあえずの約束事として、敵の強大な暴力に立ち向かうべく、味方同士が固い友情や愛で結ばれていなければならず、その強固な結束が、時として敵の圧倒的な力に打ち勝つきっかけを提供する、という形式になっているようで、多くの場合物語はそれに沿った形で進行してゆくようだ。しかしそういう建前が残虐な暴力を見せびらかす口実を形成していることは疑いようのない事実か。しかしそれがどうしたというのか。そんな風に述べることで、まだ少しはやる気になっているらしいが、そのやる気はすぐに空回り状態になってしまうかも知れない。今さらそこから何を始めようとしているわけでもないが、状況的に始めなければならなくなっているらしく、たゆまぬ努力によって、何とかかんとか現在の日付へ近づきつつあるようだが、そこからさらなる徒労の日々が始まろうとしているわけか。しかし君はそれを徒労だなんて思っていないのかも知れない。少なくともそういう述べ方は違うと思っているらしいが、それ以外の述べ方を思いつかないのに、それでも内心では何からの希望を抱いているようだ。自らのあずかり知らないところで思わぬ効力が発揮されているのかも知れない。そんな無根拠な思いでも抱いていないよりはマシだろうか。何もないよりは何かしらあった方が励みになるか。しかしそこに何があるというのか。誰かは思い浮かんだ文字を適当に並べていれば、いつかそれがまともな文章になるとでも思っているわけか。そうなったらどうなるというのか。まともな文章を構成するための方法を考える必要がなくなるわけか。現実にはそうはなっていないのだろう。