彼の声46

2005年

1月31日

 それは不可思議な状況だろうか。あるいは単に疲れているだけかも知れないが、なぜかここへ来て急ブレーキを踏んでいるみたいになっている。夕暮れ時に少しうとうとして横になって、気がついたら真夜中になっていた。意識はまだかろうじてあるらしいが、やる気の方は心許なく、フィクションの中の君は静かに時の流れを感じている。もうとっくに来月の時空へ入っているというのに、まだ最後の一日が残っていたか。そんなわけで先月の最終日で何日も足踏み状態にあるらしいが、どうやったらそこから抜け出られるのだろうか。別に考えあぐねるようなことでもないだろうが、人のやっていることに他愛はない。他愛がないのではなく、他愛を感じないのはどういうことか。しかしそんなことはどうでもいいことか。そんなどうでもいいことを思いながら、何を躊躇しているのだろうか。そんなことはないと思うなら、代わりに何をやればいいのだろうか。代わりではなく、今やっているそれを継続していけばいいのであって、それができないから行き詰まっているわけか。ではどうしたらいいのだろう。今はそれを考えることが必要か。考えられないのでテレビを見てしまったらしく、それを見ながら何となく眠たくなり、気がつけば翌日の明け方になっている。それはもうすでに述べたことだろう。しかし画面の中の雪はいつまで降り続くのだろうか。地域によってはそれに近い気候の場所もあるだろうか。雪が降り続いているのは、ここから北へ数十キロ行った地点か。だからどうだというのか。そうやって誰かは目指していたところから離れられたのか。何を目指していたわけでもないのに、そうやってとはどうやってなのか。いったいどうやってそこから離脱できたのか。離脱できたわけではなく、ただ横にずれただけかも知れないが、以前と何も変わっていないような気がする。やる気がしないのは何が原因となっているわけでもない。苦しいときには何を思い浮かべればいいのだろう。ところで煩悩から解脱するにはどうしたらいいのだろう。見つめている景色の中に人影が見あたらないのはどうしてなのか。窓を開ければ風が吹きつけ空気が入れ替わる。遠い空では雲が流れているようだ。雲に包まれた山では雪が降り続いているらしい。過去の記憶から語っているのではなく、過去を振り返ろうとしても状況が受けつけないようだ。今までに語ってきたことを新たに語ることで、今までの記憶を忘れ去ろうとしているのかも知れない。述べていることの意味がわからない。語っていることの意味がわからなくなる。なぜ同じことを二度繰り返さなければならないのか。どこかに積み重なっている記憶の内容はそれとは違うのだろうか。見つめるには遠すぎる景色の中に誰かの記憶が残っている。紋切り型の風景の中では時折雲間から陽の光が射してくる。そんな場面を動画として保存したいのか。何かの合間に何を語っているのでもなく、見え透いた停滞を停滞とは思わずに、それらの停滞から脱するきっかけを探しているらしいが、今のところは停滞のただ中で否認を繰り返しているだけか。誰がそれを見ているのだろう。誰かの義眼は何も見ようとせず、テレビドラマの中のうつろな目つきも何も見てはいない。登場人物は物語の終わりを見届けた後からどうすべきなのか。彼らはそれから何をやっているのか。十年経っても同じことをやっている自信はないが、今から一年後と十年後と百年後との間に、どのような差異があるだろうか。人々の営みはあまり変わっていないと思うわけか。目指しているものが同じなら、その結末も同じような境遇になると思っているのか。誰もが束縛から解放されて自由になりたいとでも思っているのか。何を非難しようとしているのかわかりかねる。その場の思いつきには限界と欠陥が共存しているらしい。その他に何が含まれているかを考えるつもりはないのか。戯れに思っていることは他にあり得ないかも知れないが、もっと支離滅裂になりたいのなら、他に何を述べればいいのだろう。何か適当なことを述べれば、何を目指しているわけでも何を追求しているわけでもないわけがなくなるのだろう。しかし何を長々とわけのわからぬことを述べているのか。それはいつものことだろうが、どうやら今回も言葉を連ねることはできたが、実態としては何も述べてはいないようだ。それはよくあるネタ切れなのかも知れないが、最近はそればかりのような気がして、本当に行き詰まり状態が深刻化しているらしく、そこから抜け出ることができないのなら、もういい加減にあきらめたらいいのに、何かそれでも言葉を繰り出している現状があるらしく、それがあきらめきれない原因となっていて、一縷の望みでも形成しているのだろうか。何となく勘違い気味のような気もするのだが。


1月30日

 何となく踏ん切りをつけなければならない雰囲気になりつつあるようだ。君はそこで何を説明したいのか。説明しようにも周囲には何もないと思っているらしいが、では君の思っていることについて説明したらどうか。何もないというのはどのような状況なのだろう。たぶんそれはいつもの嘘かも知れないが、そんなつまらない嘘をついている状況の中に、何もない空白の存在を感じ取ることができる。その空白の中にはまだどんな言葉も生成していないようだが、それは君の意識から生まれた空白ではなく、君が存在する以前から生じている空白なのだろうか。そうだとしたらどうしたというのか。それは寝言の一種か。君自身を見下ろしている誰かのまなざしは、何をどう述べてもつまらないと思っているようだが、どんなに工夫を凝らして語ってみても、現実に何らかの出来事に遭遇しなければ、妄想の域から抜け出ることはできないのか。では何の出来事にも遭遇していないつもりの君は、何もない空白の中でどんな妄想に囚われているのだろうか。思考の及ばない状況の中に日常の暮らしがあるらしく、思考を妨げる出来事が何も感じない日々の中で確実に起こっているにもかかわらず、君はそれを捉えることができずに、無関心のままに、無意識のうちに何かを避けて通っているのかも知れない。何もない空白を避けて通ることが可能だろうか。何もなくても虚空に向かって言葉を繰り出し続ければ、一時的に何もないことを忘れることができるだろうか。何もないことを忘れようとしているのではなく、それを言葉で説明しようとしているのではないか。ただ現状では何もないと述べているだけか。何もなければ何を感じているのだろう。空虚に包まれていると感じていたのはいつのことだったか。そのとき意識は過去の記憶を取り戻そうとしているのではなく、何もない空白を言葉と文章で構成しようとしているのかも知れない。たぶんそこでの説明とはそういうものになってしまうのだろう。しかしそれが説明している内容になるのだろうか。わざと何もないつもりになって、言葉を利用してその場に漂っている虚無感をやり過ごそうとしているだけなのか。もはやその手のごまかしは通用しないか。わざとらしく自らに嘘をついても虚しくなるだけか。出来事ならいくらでも遭遇しているはずで、記そうとしている文章とは相容れない出来事ばかりに遭遇しているのかも知れないが、ではなぜ実際に体験したことを何も述べられないのだろうか。つまらないと思われるからか。厳密には何も述べていないわけでもないか。たぶん君は自らが言葉を連ねつつある現実の体験について、その連ねつつある言葉によって直接述べているのだろう。自分が説明しつつある文章こそが、そこでの出来事を構成している。そこではそれ以外には何も感じ取れない状況なのかも知れない。要するにそこで行き詰まっているわけか。そこが袋小路となっていて、そこから先へは一歩も進めないというわけか。しかし本当にそんな状況なのだろうか。まだ嘘をついていると思われるか。そこで君のまなざしは何を見つめているのだろう。目の前には液晶画面しかないのに、何を見つめているつもりになればいいのか。そこから何を空想するつもりなのか。満天の星空なら数日前に見たはずか。実際に見たのは真昼の曇り空だったかも知れない。カレンダーには真夏の入道雲が貼り付いているかも知れない。試しに八月の頁をめくってみるか。いくら現状に退屈しているとはいえ、まさか一気に夏へ逃げることもないだろう。本来の意識に照らし合わせてみれば、夏は蒸し暑いので嫌いなはずではなかったか。ところでそれは新手のごまかしの一種なのか。しかしどんなにごまかそうとしてもごまかしきれないほど、もはや状況は行くところまで行き着いている気がしているのだが、それ以上に何を述べたら、精神を鎮め、気が触れる寸前の偽りを覆すことができるだろうか。この期に及んでできるはずのないことをやろうとは思わないか。どんなに言葉を弄してみても、まともな内容に至ることはないと思う反面、そこに生じている言葉の連なりを利用して、実際に思っているのとは違うことを思っているつもりになろうとしているらしい。自らが記している文章から自分以外の要素を見出したい、という無茶な妄想を抱いているわけか。自分が述べているのに、あたかも他人が述べているように感じられる状態に至りたいのか。それらの言葉からは確信を得られないだろう。何を信じていいのかわからないが、何も信じられなくてもいいような気になる。そんなことを場当たり的に述べながら、たぶん君は言葉の上では自由を享受しているつもりなのだろうが、それでいったい何を体験したことになるのか。それで君の意識を通り過ぎた出来事の内容を記述できたと思っているわけか。


1月29日

 何となく唐突に正気に戻っているらしい。君は夢の中で誰の名を叫んでいたのだろう。声がかれているようだが、それはまたいつものフィクションなのか。そんな作り話を構成しながら、もはや意識はやる気をなくしているのだろうか。やる気をなくて何もやらないのではそこで終わってしまうので、まだ多少はやる気が残っているように感じらる振りをしながら、そのやる気らしき思い込みを頼りとして、自然と言葉が連なっているようだが、何が自然な成り行きなのか疑念を抱き、そんな文章からはすぐに遠ざかろうとして、それとは無関係なことを述べようとする。どうも今日は久しぶりに昼寝をしていたらしく、あれからどれくらい時間が経過したのか、正確にはわからないが、別にそんなことをそれほど知りたいわけでもないが、意識はまだ夜の時間帯を彷徨っているのだろうか。おそらくさっきから何も考えていないよいうだが、別に何を話すべきか迷っているわけではない。画面の中に広がっている光景は君が伝えたい内容とは無関係か。劇の中の偽りの森で彷徨っている振りをしているのは、方向感覚の鈍い人か。君は迷っているのではなく、つまらないことを述べているようだが、それは誰かがどこかで迷っている振りをしているのとは無関係なのだろうか。別につまらないことをおもしろく見せかけようというのではなく、君にはそれがおもしろいかつまらないかなどに興味はないが、誰かには君の述べていることがつまらないと感じられるらしく、それについて君がどう思っているわけでもないが、そんな状況にいたってなお考える方向が定まらないようだ。意識は何を考えようとしているわけでもないか。そんな状況の中で躊躇や逡巡を繰り返すばかりで、何も見出せずに嫌になり、そこから一歩も踏み出せないと感じたのはいつだったのか。過去を思い出すのも面倒か。しかしやる気がしないのはそんなことではないだろう。それが否定の連続だからどうしたというのか。文章的は都合が悪いのかも知れない。要は気持ちの持ちようなのか。しかし何を述べているのかわからない。意味がつながらないのはいつものことか。文章の前後のつながりを無視して、強引に言葉を繰り出しているだけなのか。そんなことを述べたいわけでもないのに、とりあえず何かしら述べている状態には満足しているわけか。しかしそれで満足しているといえるのだろうか。無理に繰り出されたそれらの言葉からは、何の感動も導き出せないのではないか。また述べている前後でまるで意味がつながらないようにも思われるか。それでも季節は移り変わろうとしているらしく、外界では時節柄の言葉をわざとらしく誰かが繰り出そうとしているらしいが、季節と君が述べようとしていることとは何の関係があるのだろうか。それでも何か無関係な言葉を継ぎ足さなければ気が済まないのか。気が済まないことは他にもありそうだが、たぶんそこから話の中身がずれていきそうな気配を感じ取ったらしく、別にそれを阻止しようというのでもないが、唐突に今までとは違うことを述べることで、それまでの成り行きを変更しようとしているわけか。確かに何かしら述べている行為そのものは、そのようにして継続させることが可能かも知れないが、そうすることによって話がつまらなくなろうとおもしろくなろうと、それはすべて語っている者の力量次第だと思いたいわけか。しかし現実に行使されているそれらの何が力量なのか。架空の君にどんな力や技術があるというのか。語り進むうちに余計な嘘を語っているような気がして、本当はそうではないような気がしてくる。すでに何を語ろうとしていたのか忘れてしまったようだが、まだ工夫を凝らす余地もありそうな気もしている。だからまた始まりに戻ってやり直そうとするわけか。なぜそうやっていつまでもつまらないことを語り続けているのだろうか。君はそれについてどう思っているのか。本当につまらないと感じているのだろうか。しかしではおもしろい内容とはどんなものなのか。もしかしたら何もかもがつまらないと感じようとしているだけなのではないか。心の中からおもしろさを排除しようとしているわけか。そんなことをおもしろいと感じるのは、そう感じてしまう心が稚拙に思われるからなのか。しかしおもしろさを排除することのどこがおもしろいのだろう。そうやってつまらないことを思っている心を卑下したいのか。それで卑下しているといえるか。いったい何をへりくだっているのだろうか。何となく言葉の用法的にも、現実に感じていることかも遠ざかっているような気がしてならないのは、どうしたわけだろう。無意識のうちに不必要な技巧を凝らして、何か語っているように見せかけているだけなのか。


1月28日

 何となく本心では呆れているのかも知れない。たぶん今さら何を思っているのでもないのだろうが、何が今さらなのかわからない。それでもいつか何かに出くわすときもくるのだろうか。どんなに待っても君には何も到来しないようなので、つまらなくなった誰かは気まぐれに小説でも読んでいるらしいが、小説の中に登場している架空の人物は、物語の中のクライマックスに達した部分で何に感動しているのだろう。誰かはしばらくそれらの光景を眺めていたようだが、何を思ったか突然外へ飛び出して、満天の星空を仰ぎ見て、そのまま動かなくなる。何か天の声でも聞いたのか。天の声とは何だろう。新聞のコラムか何かの名称だろうか。それは天声人語とかいうものだったような気がするが、その場合は聞いたのではなく読んだことになるだろう。だが声を聞かずに読んでどうするのか。どうもしないが、ついでに彼の声も聞かずに読むつもりのか。読む前に書かなければならないだろう。とりあえずその場にはいない君がそんなことをできるわけがないか。中には文章を読むことしかできない立場の人もいるのかも知れないが、書きながら読んでその文章に感動できるか。読者を感動させようとして書いた文章に感動できるだろうか。それを書いた者は感動しないが、読んだ者が感動できるような文章を書くことが可能か。君とは別人の誰かなら可能かも知れないが、その誰かが架空の人物であればそれは嘘になるだろう。要するに君はその架空の人物を、物語の中に登場させることができないわけか。そんな結末に誰が打ちのめされるわけでもないだろうが、今のところそれ以上は何も言葉が出てこないようだ。そのとき誰かはどこで何をやっているのだろう。何をやっていようと君の知ったことではないのかも知れないが、その誰かがやっていることとは関係なく、別の誰かも相変わらず何もできずに翌日の夜になり、これから何をやっていいのかわからなくなる。だがそれではいつもの物語に逆戻りではないか。いや、あらかじめ誰かがやることは決まっていて、それは画面の余白に言葉を連ねることか。それを余白とは呼ばないのかも知れないが、正確でなくともおおよその意味がわかれば、それでかまわないのかも知れないが、言葉を適当に連ねながらも、それを誰に伝えたいのかわかっていないようだ。やっていることはただ言葉を連ねることだけで、別にそれを誰に伝えようというわけでもないらしい。たぶん伝えるべきことはそんな内容ではないのかも知れない。ではどうすればいいのか。そんな夢にうなされているうちに、夢の中で眠りを覚まそうとする声に起こされ、意識は明け方に目を覚ました自らに気づく。自らが感動した内容がそういうことだとしたらどうだというのか。それも伝えるべきことだとは思わないわけか。では一時的に君ではない誰かは、そこで何を述べているのだろうか。誰に何を伝えたいのか知らないが、夢の中から目を覚ますことができた事実を誰に伝えたいのか。別に誰に伝えたいのでもなく、ただそんなややこしい思い込みを記述して、そうすることによって自己満足に浸りたいだけか。そんなものにうつつを抜かしているうちに季節は過ぎ去り、春になって気が触れて、またそれとは別の事柄を記述したくなるのかも知れないが、もしかしたら誰かに何かを伝えたいというのも、君とは無関係な第三者の勝手な思い込みかも知れない。しかしなぜそこで第三者などという言葉が出てくるのか。そんな意味不明な者の意見など聞きたくもないのに、見知らぬ誰かから、一方的にとどめを刺されるような意見を聞かされてしまう場合もあるだろうか。だが聞きたいのか聞きたくもないのかは、いったんそれを聞いてみてからでないとわからないか。要するに結局誰かは、いつか天の声を聞いてしまうことになるのだろうか。それが天の声だと感じるなら、聞いた後からそう思ってしまうのだろう。では実際に天の声を聞いた感想はどんなものなのだろうか。まだそこまで小説を読み進んでいないのかも知れないが、途中がつまらないので強引にとばし読みをして、物語のクライマックスまであと少しの部分まで到達できたのか。いったい誰が何を読んでいるのだろう。もしかしたらそんな小説など存在していないのかも知れず、それが架空の物語の中で誰かが小説を読んでいる設定であったとしても、なおのことを天の声を聞いた人物の感想を知りたくなるだろうか。だが別に君がそれを知りたいわけでもないはずか。君にとってそれは天の声でも何でもよかったのであり、ただ話がつながればそれでかまわないということでしかなかったのかも知れない。しかしそうやって何を続けているつもりなのか。その辺がよくわからないところであり、わざとぼやけているように装っているのだろうか。


1月27日

 かなり遅れてしまったようだが、また性懲りもなく適当でいい加減な言葉を連ねようとしているらしい。それらの文章は何を述べているのだろうか。何か述べているのだろう。何を述べているかについては無関心になりつつあるのかも知れない。別に文章の中の文字が何を語っているわけでもないか。では君は何を語らされているのだろうか。何によって語らされているのだろう。迫り来てすぐに去ってしまう時間によって語らされているのか。それにしては時間的にだいぶずれているようだが、これから何を語ろうとしているのか。すでに語っているのではないか。ではそんなことなどわかるわけがないと思っているのは誰なのか。少なくとも語るべきことなど何もなさそうだ。そしてそういう状況なので、たぶんどのように工夫を凝らそうと、また以前と同じような言葉の連なりになってしまうだろう。それがいつの頃からそうなのか考えるのも面倒だが、最近はそんなことしか述べていないような気がする。そんなことしか述べられない状況のただ中で暮らしているようだ。意識の周りを取り巻いているのはいつも夜の暗闇で、夜はまだ当分の間は続くように思われ、仮に夜明けが来ても、瞬く間に朝と昼と晩を通過して、またすぐに何もない夜になってしまうらしく、昼の記憶など何も思い出せないようになっているのかも知れない。いったいそれはどうしたことなのか。そんなものを思い出す必要はないのか。しかし誰かが思い出すべきなのはそんなことではない。なぜそう断言できるのか。何かの拍子で断言口調を言葉にしてみただけか。そんなことを述べているから、そこでわけがわからなくなってしまうのだろう。本当はわけはわかっているのではないか。薄々気づいていることもあるはずだ。ただ便宜上気づいていないふりをしているだけか。もしそれに気づいていることになってしまえば、もうその先に話を進められなくなって、そこで話が終わりとなってしまうか。そんなことはないと思うが、さらに面倒な事態に直面するかも知れない。それはどのような事態なのだろう。要するにそんなことがわかるわけがないということか。しかしそれでは気づいていないことになってしまうだろう。語っている途中から気づいているなんて嘘であることが判明してしまったのか。いや、それでも気づいていないふりをしているから語り続けられているのか。それとも何となく気づいている内容を語るのが面倒になってしまったのか。あるいはそんなことは語るべきでないと思っているわけか。しかし実際に語るべきでないことを語っている実態が現状なのかも知れないのだが、ではいったい君は何を語っているのか。気の迷いをそのまま文章にしているだけではないのか。そしてまたいつものように同じような内容が循環しているような気もするのだが、それでいいとは思っていないのに、現実にそうなってしまうのはどうしたことだろう。別にどうしたわけでもなく、今はそれしかできないということなのかもしれないが、はたしてそれでいいのだろうか。よくないからそんなことを述べているのではないか。しかしそんなことを述べれば述べるほど、そんな内容が繰り返されてしまう状況をどうすることもできないようだ。もう他に何を語っていいのかわからなくなってしまったのだろうか。そんなことははじめからわかっていないことであり、今さらそんな弱音を吐いたところでどうなるわけでもないか。たぶん君にはまともな作品を構成する力がないのであり、作品以前のたわごとならいくらでも述べることはできるようだが、それが作品として結実するはずもなく、いつまでもたわごとのままにとどまり、それを精進によって克服して、そうでない状況へ飛躍することができないでいるわけだ。しかし何を利いた風なことを述べているのだろうか。苦しくなるといつもそんなことを述べてしまうようだが、はたしてまともな作品とはどういうものなのか。なぜそれらをたわごと作品にまで高めなければならないのか。またいったいどのような内容になればまともな作品と定義されるのだろう。何か架空の登場人物が多数出てきて、それらの人々が文章の中で右往左往すればいいわけか。そうなれば小説になるのかもしれないが、別に小説を書きたいわけでもないだろう。何を書きたいわけでもなく、何を書けるとも思わず、それでも何かしら書いているつもりになっているだけか。しかしそれではどんな内容になるわけでもなく、ただそんな内容になるだけか。要するにそこには何もないわけか。正確にいえば何もないわけでもなく、何かしら適当な文章が存在しているのかも知れず、そんな文章を書きながら読みながら落胆することしかできないようだ。


1月26日

 何となく空気が希薄に感じられ、頭がぼけているのかも知れないが、たぶん今は昨日の時間帯に属しているのだろう。それはあり得ない今かも知れないが、フィクションの中の今はそういう成り行きの中で生成していることが多い。だがすでに過去の時間になってしまった今から何を話そうというのか。いつも始まりで躓いてしまい、そこから先に話を進めるのに多大な時間を要してしまうらしいが、昨日の出来事について何を語ればいいのだろうか。昨日はただ寒かっただけか。それだけならそれで話は終わりだろう。やはりそこから先には何もないわけか。何もなければどうすればいいのだろう。何もなければ嘘を語ればいいのだろうか。しかしそれでは昨日の出来事にはならないではないか。別に昨日の出来事にこだわる必要はないのだろうか。何か適当なことを記述して、それが昨日思ったことだとしておけば、とりあえずそれでごまかしが利くのかも知れないが、それでは気に入らないわけか。そんな簡単にごまかすのは倫理的には受け入れがたいか。だがそこでの倫理とは何なのか。何か産みの苦しみのような苦悩と煩悶を経てからでないと、誰もが納得するようなまともな内容にはならないとでも思っているわけか。誰がそんなことを思っているのか知らないが、そのためにはまずは困難に直面していなければならないだろうか。様々な試行錯誤を経てもなお納得のいく文章とはなりがたく、容易には突破できそうにない行き詰まりのただ中で、途方に暮れ、茫然自失となり、しかしそれでも絶望の果てに光明を見出して、それに向かって身を削るような努力をした果てに、やっとのことでかろうじてたどり着いた地点から、ようやく珠玉のような文章が展開されることになるわけか。たぶんそんな過程を語ったような内容の文章なら、それを読んだ誰もが感動するのかも知れないが、そんな風に語っておきながら、現実にそんなことをやるのはわざとらしいと感じるのはなぜだろう。君などがどんなにがんばってみても、そんなことはできるはずもないのであり、それができないことによる腹立ち紛れに、そういった内容の文章を否定したいのではないか。何となくいかにもそんな文章を皮肉っているような内容になっているのかも知れない。たぶんそれも一つの冗談には違いないが、それを冗談とは思わない人が多すぎるか。なぜ正当な努力を冗談で片づけてしまうのか。それが冗談だと思われるからか。それでは理由になっていないか。君は世の中の制度を馬鹿にしているのか。できないことをやろうとは思わないか。やりもしないうちからなぜできないと決めつけてしまうのか。できないという前提の方が話が長引くとで思っているわけか。しかしそんなつまらない話を長引かせて、いったい何をねらっているのだろう。ねらいはただ一つだけで、それはすでに述べたことであり、話を長引かせることか。しかしそれでは何となく話のつじつまが合わないような気がするのだが、それはただ言葉と文章が循環させているだけのことか。そんなやり方はくだらなすぎるだろうか。要するにその辺で話が煮詰まって、そこから先へ語る糸口が見つからないのか。見つからなくてもつまらなくても、言葉は勝手に連なっていくらしい。別にそれは君自身が語っている話でもないか。君はただ言葉のつながりを眺めているだけで、そのつながり具合をその場の雰囲気や気分次第で、おもしろいと思ったり、つまらないと思ったりしているだけか。しかし君はそれで何をやっていることになるのだろう。ただの傍観者でしかない君に、それらの文章は何を思わせたらいいのか。とりあえず君はそんな風には思わないようだ。それどころかどんな風にも思わずにその場から立ち去る危険性もあるだろう。だがなぜそれが危険なのか。君が立ち去ってしまっては君について語れなくなってしまうだろうか。しかしこれまでに文章は君についてどんなことを語ってきたというのか。何も具体的なことは語られていないと思われる。だいいち君は架空の存在であったはずだ。だから君について語ることはすべて虚構になってしまうのであり、虚構の中の具体性自体が虚構でしかなく、君についてどのように語ろうと、それは現実の世界に生じている真の具体性とはなり得ないか。しかしそんないいわけじみた説明では、君自身について語っていることにはならないだろう。だから君については語り得ないのであり、それは面倒だからいいわけだと思ってもらって正解かも知れないが、ではなぜ君という言葉を使用しているのかといえば、単にそれ以外に思いつかないから使っているだけなのかも知れない。しかしそれでは何となくそれらの文章は、どうでもいいような言葉とともに、どうでもいいような成り行きの中に埋もれてしまっているのかも知れない。そして拭いがたい脱力感が意識を覆っているようだ。


1月25日

 毎度のことだがどうかしているのかも知れない。何を迷っているわけでもないと思いつつも、迷うことなどあり得ないとは思わず、現実の迷いに対して本気になれないのかも知れず、そんなことはどうでもいいわけでもなく、やはりどうかしているのかも知れない。誰かはそこで何をやっているのだろう。暗中模索の日々でも過ごしているつもりなのか。何を模索しているのかわからないが、それで模索しているといえるのか。ただあれこれ考えを巡らして、使用可能と思われる言葉を試しているだけか。そんな説明には何の説得力もなさそうだ。別に誰も説得力など求めてはいないだろう。ただ何を説明しようとしているのかわからないか。君に何がわかるというのか。少なくとも君に説明など求めてはいないだろう。では黙って意味のない文章を構成していればいいのか。誰と誰が言い争っているわけではなく、不完全な対話を装っているわけでもない。気力が減退しているのかも知れない。やる気がないのは毎度のことだろう。それでどうかしているわけか。それは少し前に記述した言葉だ。言葉であり台詞にもなり得るだろうか。今さら何を述べようとしているのか。すでに何かしら述べているではないか。虚栄心とはそんなことかも知れない。何か間違ったことを述べているだろうか。別にそれほど見栄を張っているわけでもないか。気力とは何か。みんな同じように聞こえてしまう。声を出して述べているわけでもないだろう。では何もかもが皆同じように見えてしまうのだろうか。見えているのはブラインドの隙間に折りたたまれている闇だけか。そんな表現がおもしろいと思うか。おもしろいことを述べる必要があるだろうか。現実に述べようとしているのではないのか。述べているのはそんなことではなく、どんなことを述べているのだろうか。酔った振りをしているのか。酒なら近所のコンビニで買ってくればいいだろう。別に酒を飲みたいわけでもなく、その述べ方が酔っぱらっているように思われるのか。繰り出された言葉の連なりは蛇行を繰り返しているようにも思われ、別にそんな感想を述べたいわけでもないのに、なぜかそんな風に言葉が連なってしまうらしく、誰かは意味もなくそんな無意味なことを述べているようだ。何か表現が間違っているだろうか。語るべきことを見失っているわけか。やはりそれもいつものことかも知れないが、いつもと同じようなことを述べつつある状況をどうすることもできない。きっと他の誰かがどうにかしてくれるだろう。それはあまり実現性のない気休めか。しかしそれらの何が間違っているのだろう。そんなことなど考えたくもないか。背景に深みが欠けている。そんなものはもとからないのかも知れない。ありふれた風景が背景なのか。それは至極もっともなことか。だが背景を引きはがすことなど不可能だ。そこから変わる要素は何もないだろう。変わろうとして変われるはずがないのだろうか。そのとき誇大妄想狂なら変わってみせるとつぶやくのか。どうやって変わるのだろう。その方法を模索したいわけか。いったい何を変えようというのだろう。変われるものなら変わってみせろといいたいのか。どうもその辺で行き詰まっているのかも知れず、誰かは何をどう変えたらいいのかわかろうとしていないのかも知れない。ただわかろうとしていないと述べたいだけか。わかりたくないのかも知れず、わかってしまったらその先に述べることが何もなくなってしまうのかも知れない。迷い悩んでいるうちしか言葉は出てこないものなのか。しかしそれでも具体的な内容には至っていないだろう。無内容のままに空疎な言葉を連ねている。たぶん誰かは話の内容が空疎であることが好きなのだろう。そんな話しかできないのかも知れない。それ以外に何があるというのか。何を開き直っているのか。開き直れる状況ではないか。ではどんな状況なのか。空虚で空疎なことを述べている状況なのだろうか。しかしそこにどんな気休めが潜んでいるのだろう。気休めではなく絶望なのではないか。何かをあきらめているのかも知れない。どうにもならない状況を遠くから眺めているだけか。ただ無表情で眺めているつもりになって、それらの状況からは距離を取っていると思い込んでいるのだろう。そんなものには関わり合いたくはないのか。すでに関わっているつもりなのではないか。なぜそれを文学と呼ばなければならないのか。嘲笑とともにそんなことはないと言い張るのか。端から見ればそれは余裕のない笑いと映るだろう。別に笑っているわけではなく、もしかしたら怒っているのかも知れず、笑い顔の下に静かな怒りを潜ませているのかも知れない。君はなぜ文学を馬鹿にするのか。無用の長物だからか。もはや長物でさえないか。では文学とは何なのか。空疎で空虚なものの総称か。たぶんそんな述べ方ではいけないのかも知れず、そんな風に述べれば述べるほど文学的な罠にはまってしまうのだろう。


1月24日

 どうも誰かは風邪で体調を崩しているらしく、やる気が出ないのはいつものことだが、音楽を聴かずに静かな雰囲気に浸っているのは珍しいことか。だが思ったほど作業がはかどっていないようで、調子が出ずに何を述べているのかよくわからなくなるのはいつものことか。心が淀んでいるのだろうか。心はどこにあるのだろうか。たぶん客観的には言葉の連なりの中に心という言葉が埋もれているのだろうが、そうやってはぐらかしたつもりになるのはわざとらしいか。どうやら何も述べたくないようだが、どうしてそれ以外に何もわからないのか。そう焦らずとも、わかっていることも多少はありそうな気がしてくるが、ただ漠然としすぎている。君はこの世界には必要のない人間なのか。それでもこの世界はこの世界なのであり、何をどのように思ってみても、君は世界の中で暮らしている。そこにどのような言葉を並べてみても、始まりのきっかけは見えてこない。世界は未だ始まりもしていないのだろうか。それは誰の世界でもなく、何が始まろうと終わろうと、そこからは適当な意味が導き出されるだけか。それで何を述べているわけでもないが、何を悪戦苦闘しているのだろう。そこからどう話を進めていいのかわかりかねるか。ではなぜそこで挫折するのか。停滞した思考の向こう側から虚無による浸食が始まっている。だが何を馬鹿げたことを述べているのだろう。何を述べてもはじめに結論ありきなのか。その場合の結論とはまだ何も述べていないということか。それでは気に入らないか。すでに終わったことをとやかく述べても始まらないが、ではそこで構成されつつある文章は、なぜそれらの要求に応えられないのか。意識は何かを述べている状態に持っていきたいのに、繰り出された言葉からは何も感じられないようで、そしてそんなことを繰り返しているうちに、求めているものからはかなり遠ざかってしまったらしい。そんないつもながらの雰囲気にやる気をなくしているのかも知れないが、たぶんそれらの言葉の連なりが退屈に思われるのは当然だとしても、あやふやなことを述べれば述べるほど、意味もなく文章が長くなっていくのだろうか。なぜそれらの状況をどうにもできないのだろう。しかし本当にどうにかしようとしているのだろうか。それ以前に誰が何をやっているのかわからないか。たぶんとき思い描いた風景の中では、虚空に向かって何か得体の知れぬ意識がぶつぶつつぶやいているのかも知れないが、どうもすっきりしたことを述べられないらしく、いつも途中で口ごもってしまうのか、そんな風にして誰かの影はいつまで経ってもいじいじしたことを述べているようだが、どこかで何かいいわけじみた言動を繰り返しているだけか。しかし影とは何なのか。なぜ文章の中に影を登場させて、それについて語っているのか。確かそんなことも過去に述べていたようで、以前にも述べたことの繰り返しになってしまうかも知れないが、なぜ切羽詰まって困り果てたときに限って影という言葉が使用されるのだろうか。そこで影が何について語っているのかわからないが、そのとき自分はどこでどうしているのだろうか。はたして影について語っているのは自分なのか。もしかしたら影こそが自分自身ではないのか。要するに影とは自分の内面のことなのか。そんな風に考えれば何やらそれでいいような気もしてくるが、影にしてみればそういう利いた風な考えが気に入らないらしい。しかしそんな思いを抱いている影の意識も、言葉で作り上げられた虚構の一種だろうか。それはそうなのかも知れないが、そこから何を述べればいいのかわからない。何かを述べようとすると必ず邪魔が入り、そこからわけのわからない成り行きが延々と続き、気がついてみればここ一週間はトラブルの連続だったような気がするのだが、それが何とか収拾に向かっていた矢先に風邪でとどめを刺されたように思われる。この先何がどうにかなるわけでもないが、そんな経験をしているうちに時が経ち、何とか状況が好転してゆくのだろうか。何かのきっかけでそんなことをやらなくても生きて行けるようになればいいのだが、まだ当分は慌ただしさの中に埋もれる生活が続いてゆくだけかも知れず、そこからは何ももたらされないのかも知れないが、そんなことを思っている君の意識を無視しながら、それとは別の場所で君とは無関係な文章が生成し続けているような気がしてならないのだが、それらの文章の内容もフィクションでしかないわけか。やはりどうも何を述べているわけでもないような気がしてきて、現実の世界をかすめもしないで、どこかくだらない空想の中に自足してしまっているのかも知れない。


1月23日

 それは何かの報いなのか。誰かは何もないことをいいことに、空虚な気分を装いながら少し調子に乗りすぎていたようだ。だが何を語るにしても、具体的な内容が出てこなければ話にならないのではないか。そんなことは承知していながら、あえてそれをやらずに、言葉だけ意味不明なことを並べ立てて、それだけでは不思議な気持ちになれないような気がするのだが、なぜ不思議な言語空間を構成しようとしているのか、意識はそんなことをやりたいわけでもなく、また現実の時空で何をやらされているわけでもないらしく、そのことがそれ以外には何もできない原因となっているのだろうか。何をはぐらかしているのだろう。はぐらかしているつもりが虚無によってはぐらかされているのか。なぜ虚無にそんなことができると思うのか。しかし今日は具体的に何を語り、何をやっていたのか。架空の君にはそんなことを知り得るはずもなく、君は虚無とは無関係に存在し得るだろうか。君がその日の言動からしか言葉を繰り出せないのだとしたら、その意識が想像していることを公表していることにはならないのだろうか。またわけのわからないことを述べているのか。いったい君は何を思い浮かべているのだろうか。それはありふれた成功願望のように思われ、それに囚われている心から身を引きはがして自由になりたい、というのは嘘になりそうな気配を感じているが、たぶんそれが作り話の内容にはなり得ないことを述べているつもりなのだろう。それらの話の中で何が重要なのでもない。単純にすべてが馬鹿らしいと思われるのかも知れないが、そこで誰かの意識が途切れるのも仕方がないことか。さっきから一向に話の筋が見えてこないようだが、見えざる話の筋について何を語ろうとしているのだろうか。そこで何が喚起されているのか。尋常なことを述べていたのでは話にならないか。いや、尋常ではないから何を述べているのかわからなくなっているのかも知れない。だがそこで迷ってばかりでは何もできなくなってしまうだろう。そのうち何とかなるだろうと思っても、一向に話が進まないのはどういうことだろう。繰り出された言葉のとりとめのなさに耐えられなくなって、逃げ出してしまうのだろうか。忍耐の限界を超えて我慢のしすぎかも知れないが、その先にはさらなる空虚が待ちかまえているのかも知れない。しかしその状態が到来しても何もないことには変わりないだろう。達成されつつあるのは、それ以降は何もできなくなる状態になることか。それでもそれ以降に何をやろうとしているのだろう。意識を分裂させ、矛盾したことを同時に行いたいのだろうか。それを終わらせることが始まらせることにつながるのかも知れない。それ以降に何が始まるのだろう。イメージしている始まりとはどのようなものになるのか。実感としてはつまらないことに暇と労力をつぎ込んでいるように思われるが、それ以外はあり得ないのかも知れない。次第にどのようにもやりようがないことが明らかになりつつあり、それでも何を繰り返しているのかわかろうとしていないらしい。だがそれはどのような言葉でどんな文章の中に織り込まれているのか。なぜその文章が見あたらないのだろう。そんな嘘をつきながら、そこから逃げられないのにまだ逃げようとしているらしいが、実際に逃げているつもりなのだろう。考えられないことを考えているつもりになって、袋小路を突き破ってわけのわからない展開に持ち込もうとしている。君が考えているのはそんなことでしかないのだろうか。確かにそれは君以外の誰が考えていることでもないが、その程度でこの世のとりとめのなさを表現しているつもりなのか。だが他にどんなことを述べられるだろうか。他に何を述べようとしているのか。しかしそれは改めて言葉で述べる必要のないことではないのか。それでは何も語れなくなってしまうだろう。それ以上に具体的に何をどうしたいのか、それをはっきりした形で示せないことが、それらの文章の欠陥を構成しているわけか。その辺があまりにも漠然としすぎているのかも知れない。そんな有様を容認している限り、他人の行いを批判する立場にはなれないようだ。では何もないので途方に暮れているだけでは話の内容からは程遠いだろうか。すでにその時点で挫折しているのかも知れない。鳥が空を飛ぶように何をやりたいわけでもなく、そんな例えの内容しか思いつかずに、それが何の例えなのかわからないまま、ただ想像力が萎縮していくだけか。そこで休んでいては先に進めないのかも知れないが、それをやり通すだけの気力がまだ残っているとは思えない。では強引に言葉を連ねてその場を取り繕うことしかできないのか。だがいちいちそんなことを否定していたらきりがない。


1月22日

 風邪に罹ってうつろな気分が醸し出されているかも知れないが、何となくぼやけていた焦点がはっきりしてきたような気もする。虚空には埃が漂っているだけだろうか。しかし何もない空間はどこにあるのだろう。君は架空の物語の中に何を忘れてきたのかも知れないが、そこで誰かが流す涙は何のためにあるのか。たぶん君はまた冗談でつまらないことを述べているのだろう。しかしそれ以外に何を述べることができるだろう。なぜそれをやめられないのか。理由はないが、意味不明でもあるが、やめることができないからやめられないのかも知れない。だがそれがつまらない冗談だといえるか。言うべきことを言っていないような気がするが、それを冗談でごまかしているわけか。それではいくら言葉を並べても何を述べているのでもないことになってしまうか。君にはものを考える能力がない。なぜそんな風に思われるのかわからないが、それ以上はもう何も述べたくはないのかも知れない。そうすることで気力を使い果たしてはいけないのだろうか。まだこれから一悶着ありそうな予感でもしていて、それを乗り切るために、少しでも気力を取っておかなければないとでも思っているわけか。それで言葉がつながらないのだろうか。はじめから言葉をつなげるつもりはなく、ただ言葉がつながっているように見せかけたいだけなのかも知れないが、そこから思いがけない意味が生じて欲しいとでも思っているのか。だがそれを誰が思っているかはどうでもいいことで、要するにそんな風に言葉をつなげたいというわけか。しかしそれが馬鹿らしいとは思わないか。述べたいことが何もないのに、それでも何か述べているように見せかけたいだけで、そんなことをやって何になるのか。現実には何にもならないかも知れないが、そこに何か生じているような気になるだけか。もちろん誰がそんな気になっているわけでもなく、ただ文章の中でそう述べられているだけかも知れない。そう述べたいわけでもないのに、そんな文章が形成されようとしている。それは思いもしないような現象なのだろうか。だがそのときそれらの文章を記述しつつある意識はどこにあるのだろう。なぜ文章の中で何も述べようとしないのか。誰の意識がそれを拒否しているのか。たぶんそれらの現状を誰のせいにするわけにもいかないのかも知れないが、君には自分という概念が存在しないようだ。要するに意識を持ち得ない状況の中に君という言葉が記述されているわけか。しかしそれの何が要するになのか。まるで要していないことが述べられているような気がしてくる。はじめから理解されることを否定したいようなことが述べられているのかも知れない。それは倫理的にも戦略的にも誤ったやり方か。だが誤っていようとどうしようと、それを途中でやめるわけにはいかないのかも知れない。たぶんいったんやりだしたら最後までやり遂げたいのだろうが、最後がないという事態が到来したらどうするのか。何がそれらの最後なのだろう。中断を最後だと思い込めばその気になるか。だがその気になって終わらせて、そこから先は何をやればいいのか。健康を害さない程度に睡眠を取ればいいのかも知れない。誰が何のためにやっているわけでもないことにことさら異議を唱えても、無駄で無意味なことをやっていることにしかならないか。そんな思いに至ってしまうのは弱気になっている証拠か。それが証拠ならどうだというわけでもないが、いつも抱いている虚しい気分がよりいっそう深まり、ついには本当にやめてしまう事態が到来することを、他の誰かは密かに願っているのかも知れないが、それではたして何かが達成されたことになるのか。そうなればどのような反応を見せるのだろうか。それはたぶん喜ぶべきことかも知れず、言葉の呪縛から解放された気になって、意識は本来の使命を思い出すかも知れない。しかし使命とは何なのか。いったい誰から使命が下されているのだろうか。それは使命にはなり得ないもので、それをどのように実行しようと、単なる戯れ事にしかならないのではないか。だがなぜ使命の内容も知らずにそんなことがいえるのか。君ははじめからそれを拒否している。何もわからないのにただ拒否し続けている。それではどうにもならないだろう。それでいいのか。誰もそれでいいとは思わないか。その状況がわかっていないのだから、それでいいのかと問われても何も答えようがないか。要するに何もかもが不明確な状況で、何を述べているわけでもないのだから、その内容が意味不明なのは当然のことだろう。まさに何を述べているのでもない状況を現前させているつもりなのか。しかしそんな嘘がどこで通用するのだろうか。別にどこで通用させようとも思っていないか。つまりそれはそれでそういうことでしかないのだろう。


1月21日

 NHKはなぜ問題となっている従軍慰安婦に関する番組を再放送しないのか。政治的圧力など受けていないと主張するのなら、正々堂々と土日の夜九時台のNHK特集などで、問題の番組を再放送すればいいではないか。そしてその番組を制作したチーフプロデューサーが、不当に番組を短縮させられた、と主張するのなら、どうだといわんばかりに、短縮せずにそのまま放送すればいいではないか。なぜその程度の度量がないのだろうか。朝日新聞あたりに公開質問状など出している暇があるのなら、疑惑を真正面から打ち消すような行動に出た方が、すっきりしているような気がするのだが、まあ今のNHKがそんなことができるはずがないか。というか、ああいうやり方が日本では常識的な対応となっているのかも知れない。朝日新聞を攻撃することが功利的には正解なのだろう。しかしNHKも一応は報道機関の端くれなら、チーフプロデューサーが勇気をふるって記者会見を開いて内部告発した一部始終を放送した方が良かったのではないだろうか。報道の公正さを期するためには、まずは記者会見まで開いて内部告発した相手の言い分を、できうる限り放送すべきで、まずはそれをやってから反論があるなら反論すべきだと思うが、やはり了見が狭いということか。しかしその程度のこともできないような放送局が、現実に教育テレビというチャンネルをもっていて、偉そうに視聴者を教育する立場になっていいのだろうか。たぶんそれでもいいのだろう。それが世の中の常識というやつなのだろう。そんな世の中が良くなるはずがないとも思うが、朝日新聞の取材手法がNHKの主張するとおりなら、朝日新聞など読まない方がいいということになってしまうのだろうが、現実に読んでいないのでそんなことはどうでもいいことか。どちらの報道機関にも肩入れしたくはないが、なぜその番組のチーフプロデューサーがあのような行動に出たのか、それの真相を明らかにするのがまともな報道機関の役目だといえば役目なのだろうが、やはり今のところNHKはそれをやるつもりはないらしい。例えばクローズアップ現代などでそれを扱えば、かなりの話題となるような気がするのだが、やはりくさいものにはふたをしろということか?もとからNHK信奉者でもないので、別に見損なったとは思わないが、何やら嫌な思いが募るばかりで、どこかのサスペンスドラマのようにすっきりした決着とはなりがたいだろうことが、それらのフィクションが幻想に過ぎないことを再認識させられる。たぶんNHKでもこれまでもこれからも、その手の内容のドラマを放送し続けるのだろうが、フィクションの登場人物なら、度量のあるいかにも正義の味方のような言動を実行することができるのに、現実の報道機関としては何やら論点のすり替えのようなことをやるばかりで、まるでフィクションの中で正義の主人公に立ちふさがる悪役のような対応しかできないのは、何とも滑稽としかいいようがないか(笑)。まあそんなこんなで、NHKと自民党の政治家が朝日新聞を仮想敵として、くだらない泥仕合などを繰り広げているうちに、肝心の従軍慰安婦に関する番組の内容など忘れ去れるだけだろうし、内部告発したチーフプロデューサーの言動など無視されるがままになってしまうのだろう。そしてそんなことがまかり通るような世の中なのだから、悪質な犯罪や凶悪な事件が蔓延るのも無理はないか。もちろん彼らはそれが自分たちが招いた状況だなんて夢にも思わないだろうし、そんな批判を誰か有名な人がしようものなら、まったく根拠のない言いがかりだとして、名誉毀損で訴えるかも知れないか。そこまで大人げなくはないとは思うが、何となくそういう嫌な人々がよってたかって、うんざりするような状況を作り上げている気がしてならない。そして実際にそれらの人々の行動を、大勢の一般市民が支持しているのではないかと思うと、まったく悲惨な世の中だと思うしかないのだろうか。それでもかまわないと思うならそれでもいいのかも知れないが、とりあえずそんな世の中に生きているのだから、それはそれでそういうこととして受け止めるより仕方がないのだろう。そこに住んでいる人間にはそんなことしかできないのかも知れず、それを超えるような行動を求めてはいけないのかも知れない。そんなわけであまり良識だとか良心だとか、そういう建前的なものを求めるのは間違っているのだろう。とりあえず従軍慰安婦なんて過去の忘却すべき問題でしかないのだろう。今ではそういう類の問題としては、北朝鮮による拉致事件だけ一方的に報道していればいいのであって、北朝鮮憎しという世論によって、国民の意識を一つにまとめ上げなくてはならないのだろう。もちろん本気でそんな世論に同調する気はないが。


1月20日

 どうも今回は真面目な内容からは程遠くなってしまうらしい。別に性急にものを述べる必要はないのに、何をそんなに焦っているのか。それ以外に何もできないから焦っているのか。では何を勘違いしているのか。勘違いする理由など些細なことか。ではそこでの経験とは何なのか。他人を馬鹿にすることがどのような経験につながるのか。いったい誰が誰を馬鹿にしているのか。君はそれらの何がおかしいと思われるのか。たぶん本気で述べているわけではないのかも知れないが、はたしてどこかの誰かは無謀なことを述べているのだろうか。それはどのような内容なのか。誰かの頭が重くなっているらしい。床屋に行っていないので伸びすぎた髪の毛で頭が重くなっているのだろうか。それはどういう冗談なのか。それとこれとは無関係だと思うが、とりあえず意識の内面に巣くう空虚を無視するなら、何となく近頃は平穏無事に過ごしているようで、ある意味でそれは平和な状況なのかも知れないが、これからの世界はさらに平和になろうとしているのだろうか。別に世界に意思があるわけでもないだろうが、では神は何を考えているのか。そんなことを知り得ると本気で思っているわけでもないが、その存在を信じているわけでもないのに、神の考えを推測してどうするのか。それは神ではなく推測している者の考えなのではないか。では神はどこに存在しているのだろうか。ことさらそんなことを知りたいわけでもないが、どこかに存在しているとすれば、何が神の試練なのだろう。なぜそれらの状況が試練だと思われるのか。それが受験勉強の一種だからか。たぶん世の中の受験生は試練と呼べるような経験をしているのだろう。だがそんなことを述べたかったわけでもないだろう。どうやら何を述べているかわからなくなっているようだが、君はさっきまで人類と世界の平和について考えていたのではないか。でまかせとしてはたいそう大げさでおおざっぱなことを考えていたようだが、では平和とは何だろう。確かこの国には平和という名のパチンコメーカーがあったかも知れないが、世界中の人々がパチンコをやれば平和になるだろうか。ただパチンコメーカーとパチンコ屋が儲かるだけか。どうも真面目にもまともにも述べられないらしいが、そんな馬鹿らしいことを考えて何がおもしろいのか。それらの何がおもしろいのでもなく、単にそんな意味不明なことを述べている者は頭がおかしいのではないか。もしかしたら頭がおかしければおもしろいと思うのかも知れない。一応この国では言論の自由は憲法で保障されているわけだから、誰がどこで何を述べても自由かも知れないが、それにしても冗談にもほどがあるか。それに笑えない冗談ほどつまらないものがあるだろうか。冗談でなければどうなってしまうのか。別にどうにもならずに、夜が明けて翌日の昼になってしまうだけか。また性懲りもなく関係のないことを述べているようだが、ちなみに冬の夜は長いのかそれとも短いのか、そんなことを誰が知ろうとしているわけでもないだろうが、とりあえず何が平和で何が夜なのだろう。別にろれつが回らなくなるほど泥酔しているわけでもなく、酒など一滴も飲まずにそれほど夜更かしをしているわけでもないが、意識はいつものように述べていることの意味をわかろうとしていない。たぶんそこで展開されているのは、意味がわからなくてもかまわないような文章なのかも知れず、それを承知しているわけでもないようだが、そこには本当に誰にも理解できないような言葉が連なっているのだろうか。だが理解できないのになぜそれをおかしいと思うのか、あるいは理解できないからおかしいと思うのか、そしてそんな風に思われるのはどうしてなのか。どこの誰がそう思っているのか。別に誰がそう思っているのでもなく、なぜそうやってわざとらしくそれらの状況から逃げているのか、あるいは逃げようとして逃げられない状況に陥ってしまっているわけか、またはわざとそうしているのだろうか。たぶん誰かは不思議なことを述べているつもりなのかも知れないが、君がわかっていることはそれだけだろうか。できればそんな風には思いたくないのかも知れず、そこで思考が止まっていることを認めたくないのかも知れない。ではやはり君の頭はおかしいのか。それが正解だとしら、そう思えば納得しやすくなるということか。しかしそんなでたらめな文章で誰を納得させようとしているのだろう。そしてそれで虚無や空虚から逃げていることになるのだろうか。また逃げられるものなら逃げた方がいいのだろうか。しかし逃げ切れる時間がまだ残されているのだろうか。逃げたければ逃げればいいだろう。実際に行動を起こしてみれば何から逃げているのかわかるかも知れないか。だがそれを知ってどうするのか。どうもしないが、知りようのないことを知り得たつもりにでもなれるだろうか。あるいはそれによって頭がどうかしていることを裏付けることにでもなるのか。それでは本当に頭がどうかしていることになってしまうのではないか。だがここまで語ってきてどうもしていないということはないだろう。それではすべてが嘘になってしまうか。


1月19日

 闇雲に何を述べても無駄か。なぜ通用しないのだろう。苦し紛れに何をやろうとしても、どうやら生半可な努力など受けつけないようで、そんなものは簡単に跳ね返されてしまう。それらの状況とはそういうものなのか。そこで生きている誰もがそんな風には思わないだろうか。しかし依然として誰かは文章を構成する以外に何もできはしない。そんな何もできない状況の中で何を思っているのか。何かのついでに思うことなどあるだろうか。人間に種類などない。すべての人間は単一の性質しか持っていないのではないか。なぜわざと間違ったことを述べようとするのか。誰もそんな風には思わないか。そこにいる誰もが何も思っていないわけでもないだろう。肌の色が黒いか白いか黄色いかで、種類分けでもしてみれば、誰もが納得するだろうか。そんな種類分けのやり方があったことを思い出す。君は他に何を思いだしているのだろう。忘れた頃にそれらの文章はできあがるかも知れない。思い出している間は何もはかどらないわけか。思い出しているのはそんなことではないはずか。カレイドスコープに魅せられているわけではないはずか。何を覗いているのでもない。そういう物言いでは途中が省略されて意味不明になるばかりか。だが何が足りないわけでもなく、何が省略されているわけでもなさそうだ。述べている本人にはわかり得ない内容がそこに差し挟まれる可能性を空想してみても仕方がないか。ただそんなことを述べたいわけではないようだ。万華鏡的な世界は閉鎖的に見える。なぜ人々はそこで美を求めているのだろう。美だけではなく、醜も求めているのかも知れない。ただ美しいだけでは比較の対象が見あたらない。そこで何を比べたいのか。それらの感性には美に対するどのような基準が組み込まれているのか。彼らが踏襲すべき伝統とは何だろう。依然として何を述べているわけではないのか。そこでの沈黙はどのような効果を発揮するのか。何を好きこのんで黙っているわけでもあるまい。それは趣味の範囲内での行為なのか。なぜ君は仕事を忌み嫌うのか。仕事をすることによって生かされていることに我慢がならないのか。おそらくほとんどの人間はそんな境遇を経験しているはずか。幼児や学生や隠居した老人でない限り、食べていくためにほとんどの人間は仕事をやらなければならないわけか。いつまでそんな恐ろしい制度が続いてゆくのだろうか。それが恐ろしいのなら、恐ろしくないことなどどこにもありはしないか。また生きていること自体が恐ろしいのなら、死ぬことも恐ろしいはずか。どちらにしてもそれは恐ろしいことなのか。たぶんそれとこれとは関係ないのかも知れないが、それとこれとは具体的に何のことなのか。なぜそういうことが省かれてしまうのか。少し頭を整理してみないことにはわかりやすい文章表現を見出せないのかも知れないが、そこは物語の世界などではない。理路整然とした論文的な世界でもない。物語にも論文にもそれ以外の要素が省かれている。ではそれ以外とは何なのか。それは遠い世界に住んでいる人々のことか。いったいどこに遠い世界が存在しているのか。人間はこの世界に住んでいるだけだろう。君はそこで何を複写しているのだろう。コピーされるのは何かの文章か。遠い世界の話はそれからどうなったのか。何としても今日中にそれを終わらせなければならないか。まだこんな時間か。時間的な余裕があるわけでもないだろう。すでに呼吸が途切れてからかなり経っているだろうか。それは誰の呼吸なのか。火葬場の火の中に呼吸があるわけもないか。その煙はどこへ向かって昇っていくのか。風になびいているのは煙ではなく、誰かの魂だと思いたいか。だがあの世が遠い世界にあるとは限らないか。それらの文章の中に人間が生きているわけではなさそうだ。それは誰の息づかいでもなく、どこかで文章を見下ろしている猫のものかも知れない。しかし動物は他にもいるだろう。それら猿の一種だろうか。この世のどこにかけがえのない命があるのか。猿はいつから人だと認識したのか。生命とは生命でないものの中の何なのか。なぜそれが間違っていると思われるのだろうか。たぶんそんなことを考える必要はないのかも知れないが、考えられないことが言葉の連なりとして現前している場合、それに対してどのような返答が可能だろうか。答えを求めていない問題というものが存在し得るだろうか。なぜそんなことを思うのか。人は群れながら群れの中に目的を見出すものかも知れないが、その目的とは何だろう。なぜそれを知りたいと思うのだろう。思いがけない答えを期待しているのだろうが、その答えはどこから出てくるのか。すでに答えていながら、それが答えだと気づいていないのかも知れない。


1月18日

 これから何をやらなければならないのだろうか。その辺で何となくわからなくなってきているのかも知れない。それらの問いかけにどう答えていいのかわからない。とりあえず文章の中に検討すべきことは何もない。誰がそんなことを述べているのか知らないが、なぜ見え透いた嘘をつくのだろう。嘘に対して正直になる理由がないような気がする。たぶん人は誰も正直になるには嘘をつかなければいけないのだろう。正直者はすぐに嘘をつくのか。だが自らついている嘘に対して正直になれるだろうか。しかし人は簡単に騙されるものだろうか。いったい何を述べているのか。たぶんそんなことを述べたいわけでもないのだろうが、いかにしてそこから対話が可能となるのだろう。我々にはまだそれをやり遂げるだけの時間が残されているのだろうか。そのとき誰かは何を思い浮かべて何を話そうとしていたのか。別にそんな話をしたかったわけではないのだろうが、なぜ人々は生きているのか。なぜという疑問自体が無効だろう。おそらく探しているものは君自身の中にある。人々ではなく我々はどうなのか。それに対する答えもどこかにあるかも知れないが、それを見出そうとするには及ばない。中には死んでいる人々もいるらしいが、我々の方はまだ生きているのかも知れない。別にわけのわからない問いに対して利いた風な答えを生じさせようとしているわけではないらしい。何となく嫌な気分が醸し出されているのかも知れないが、どこかで誰かがひどいことを述べているのだろうか。別の誰かは何となくそう思っているのかも知れないが、君はどんな情報に踊らされているのか。そしてこれからその情報に基づいて何をどうすればいいのか。そこから何をやればいいのだろう。あるいはこれから何を述べようというのだろう。そんなことは君の知ったことではないか。別に君が述べているわけではないか。ならばそこで沈黙を守っているの誰なのか。いったい誰が何を述べているのだろう。それは白々しい物言いだろう。しかし君はこれから何かを述べるところなのか。まともなことは何も述べられないか。それでも言葉は適当に連なろうとしているらしいが、それはいつものことであり、実際に述べることと記述することには多少の違いがあるのかも知れない。別に何も述べなくても言葉を記述することは可能だ。君とは無関係な言葉を記述することによって、あたかも他の誰かが何かを述べているように装うわけか。別にそんなまわりくどいことをしなくても文章を構成することは可能か。しかしそんなやり方ではつまらないだろう。確かにつまらなくてもつまらないなりの文章になっていたりするが、いったい何のために文章を記述しているのかわからなくなってしまうか。要するにまた内容のない文章になっているということだが、何のために文章を記述し続けているのか。誰かは何を迷っているのだろう。何もないから迷いようがないか。架空の君は何も思わず、その頭の中は脳死状態のようだ。しかしその脳死状態も嘘であり、架空の誰かが語っているつもりのすべては嘘に含まれるだろう。だがそれはどういうことなのか。話の中で誰が何をやっているつもりなのか。語っているつもりであったり述べているつもりであったり話しているつもりであったり、その何もかもがつもりであるならば、そこにはどのよう話が展開されているつもりなのか。話自体が存在しないのではないか。やはり何を述べているのでもないらしいが、それでも相変わらず何やら適当にいい加減に言葉を繰り出そうとしているようで、実際に繰り出された言葉の連なりに失望しながらも、そんな試みを継続させようとしている。たぶん矛盾しているのだろうが、矛盾していないと自らに正直にはなれないのかもしれず、その自らが誰の自らなのかわかろうとしていないようで、感じたり意識したりする何もかもが、誰の所有物でもないような気になり、誰がどんな思いを占有しているわけでもなく、どのような精神状態になっているのでもなく、ただ文章の中に連なっている言葉の連なり具合から、何か適当な思いが構成されているように感じられるだけか。しかしそこに形作られているはずの意識は、その時点ですでに何を思っていたのか忘れているようで、思っていたことが記述された文章の中には存在していないように思われ、どのような思惑に基づいてそれらの文章が構成されたのか、それを知りようのない自らの存在に困惑せざるを得なくなり、なぜ自らはそんな意識とともに存在しているつもりになれるのか、その存在に疑念を抱いているのかも知れない。しかしそれは誰が述べていることなのだろうか。どうもそこでは誰も何も述べていないような気がしてくるのだが、ではいったいなぜそれらの文章は存在しているのだろうか。やはり何を述べているのでもないらしい。たぶんそんなことを思わなくてもいいのだろうし、誰がどこに向かってそんなことを問いかけているのかよくわからない。


1月17日

 君には良識というものがないのか。たぶんそれで良心も欠如していることになってしまうのかも知れないが、どうもくだらない儀式にはつき合いきれないと思うらしい。儀式に参加している当事者たちにとってはくだらないわけがなく、感情移入すべき重要なイベントなのだろうが、だからどうしたというのか。個人的にはどうもしはしないが、そんなものを見る気にはなれない。だからテレビ画面を消して音楽を聴いている。過ぎ去った日々が二度と戻ってこないことは誰もが承知しているはずだ。では彼らは何を追悼しているつもりなのか。過去に起こった何かに巻き込まれて死んだ人々でも追悼しているのだろう。君はそういう現実から目を背けたいわけか。しかし現実から目を背けているのは君ではなく、イベントに参加している人たちの方なのではないか。なぜそう思うのか。彼らが目を背けている現実とは何なのか。そのイベントを演出している者たちの商売に、自分たちが利用されているということか。要するに冠婚葬祭業者の餌食となっているわけか。そんなことなら別にそれほど許されないことでもないだろう。ではそこでは何が許されているのか。お涙ちょうだい的演出か。それ以外に何があるのか。ならば逆に許されないこととはどんなことだろう。そういうイベントを非難することがあらかじめ禁じられている。非難すれば数千人にも上る死者を冒涜することにでもなるのだろうか。なぜそんなものを非難しなければならないのか。見せ物として退屈だからか。しかしそれを単なる見せ物と見なしていいのか。テレビ中継されているものはとりあえず見せ物には違いないか。しかし単なる見せ物ではなく、何やらけなすことを禁じられた尊い見せ物なのかも知れない。そのイベントを見せ物という言葉で呼ぶことさえはばかられるような見せ物か。つまりそんな風に述べる者は良識と良心のない人非人なのかも知れない。君自身はそれらの文章の内容についてどう思っているのか。おおむね妥当な内容だと思っているわけか。しかしまだ先に文章が続くはずか。さらにひどいことでも述べるつもりかも知れないが、君自身はそんなにひどいことだとは思っていないのかも知れない。君はそんなイベントに同調しようとする架空の君自身が許せない。だから現実の君は自分自身に正直でありたいのか。そんなわけで胡散臭い成り行きにはとりあえず拒否反応を示すわけか。しかしそんなことをやってどうするのだろう。どうもしないが納得しているわけでもない。何よりも感情に訴えかけるような演出が気に入らない。なぜことさらそうやって人々の同情を誘おうとするのだろう。なぜ突発的な出来事をそういう紋切り型の方向に持って行ってしまうのか。それで人々に向かって警鐘でも鳴らしているつもりなのか。テレビというメディア媒体自体が、人々に忘却を促すその場限りの情報の送り手でしかないのに、なぜそこから忘れ得ない記憶が生み出されようか。彼らは毎年その時期が来たら、同じような情報を反復的に送り続けているだけで、時期が過ぎればすっかり忘れ去られてしまうことを理解できないようだ。要するにそれらは記念日的な意識しかもたらさない。要するにそれは終戦記念日があり震災記念日があるに過ぎず、その日が来たらイベントを催してメディア的に盛り上がろうとしているだけだ。しかしそれ以外に彼らに何ができるだろう。それしかできないのだからメディアの役割や機能としてやりざるを得ないわけか。制度としてはそういうことでしないのかも知れない。そして建前的にはそういうものに同調して、お悔やみの一言も述べるのが、制度側に属する常識人としては当然の行いなのかも知れない。そして識者が論じる震災の教訓を生かそうとする意見に納得して、自らも何か地震に対する備えをしておくべきなのだろう。しかしどこの誰が本気でそんな風に思っているのか。制度の申し子の役人の類ならそう思うだろうか。それが自らの利害に直結するのなら、少しは真に受けるべきなのだろうか。だが実際に真に受けて地震に備えたとして、それはそれだけのことだろう。現実に地震が起きたときに死傷しにくくなるだけだ。そんなことで満足すべきなのか。満足するかしないかは、その人の立場やその場の成り行きによって違ってくるかも知れないが、そんなことは些細なことに過ぎないような気がする。たぶん地震に遭って死傷することなど、当事者でなければどうでもいいことなのかも知れないが、当事者であっても死んでしまえば何も感じようがないか。死んでしまった時点で当人にとっては地震のことなどどうでもよくなってしまうだろう。ただ生き残った家族や友人が悲しむだけか。


1月16日

 たぶんきっかけはどこかにあるのだろう。それが紆余曲折といえるかどうかよくわからないのだが、そんな成り行きを経て、またもや話は振り出しに戻っているらしい。性懲りもなくそこで誰かは何を語っているのだろうか。また過去の言説の蒸し返しなのだろうか。それについてはまだ昨日の出来事が尾を引いているのかも知れないが、昨日の出来事とは何なのか。何が昨日の出来事なのか。そんな出来事など起こらなかったのではないか。しかしそんな出来事とはどんな出来事なのだろう。それは今日も出くわしているいつもの出来事とは違うのか。だが今日は今日で昨日とは別の出来事に出くわしているのだろうか。たぶん出くわしたのは今日ではなく、それは明日かも知れないし昨日かも知れない。もしかしたら誰も出来事などに出くわさなかったのかも知れないが、さっきからそれらの文章は何を繰り返しているのだろうか。そんなことはないと思いたいのか。別に心が揺れているわけではないが、やはり頭がおかしいのだろうか。物語の語り手を装っているつもりの誰かの頭は狂気に蝕まれているわけか。だがそれらの何が物語なのか。とりあえず昨日の記憶から思い出されるのは、テレビを見ていたことぐらいだろうか。ではそのときテレビ画面上でうごめいていたあれらの人たちは何を説明していたのか。自分たちが属しているテレビ局の不祥事から視聴者の目をそらすために、十年前の地震がどうたらこうたら述べていただけか。ではとりあえず年がら年中災害が起こっていれば、それで間をつなぐことが可能なのだろうか。確かに工夫を凝らせば、それは少なくとも明日の天気よりは興味深い内容になるだろう。しかし何をそんなに急いでいるのか。別に急いでいるわけではなく、当然結論を急いでいるわけでもないのだろうが、はたしてそれらの結論はどこにあるのか。そこでの結論とは何なのか。特定の誰かがそこで考えたり議論したりしているわけか。何か画期的なことを考えているわけでも議論しているわけでもないのに、まっとうな結論など出るわけがないが、それでも何かしら考えている振りはしているのだろう。たぶんいつか導き出されるだろう結論とは無関係に、翌日の昼にはどこかで風が強く吹いているかも知れないが、まさか答えが風の中に見出されるわけでもないか。しかし何を述べているのか。少なくとも誰かが何かしら述べているのかも知れないが、果てしない世界の片隅で何が繰り広げられているわけでもなく、それは文章上に生じた間違った言語表現の一種かも知れず、後からそれをどのように訂正しようと、今さらそれらの過ちをなかったことにはできないのだろう。とりあえずそこでの過ちは過ちとして誰かの記憶に留めておけば良いことであり、何もそこからさらに過ちを拡大させることもないだろう。それに対してどんな感情を抱いているわけでもなく、別に犬の遠吠えに過剰反応することもないだろうし、できるだけ心を穏やかに保っておけば、何事もなく日々を過ごしていけるだろうか。すぐにそんなことができたら苦労はしないだろうが、それらの苦労は単に季節的なものだろうか。とりあえずそれらの地域を覆っている冬はいつまで続くのか。そしてなぜ冬に苦労が絶えないのか。だが春には春の苦労があり、夏には夏の苦労があり、秋には秋の苦労でもあるのだろうか。季節の移り変わりにつれて苦労の質も変わってくるのわけか。確かに春になれば花粉症でうんざりさせられるのかも知れないが、誰かはそこで何かをごましているのかも知れず、それについては真正面から述べられない代わりに、何を中途半端なことを述べているのだろう。そこからさらにわけがわからないことを述べようとしている節もあるようだが、もうその辺で限界だろうか。しかし仮にそこが限界だとしたらどうだというのか。限界の手前で急いで結論にたどり着こうとしているのかも知れないが、意識にはそれが何についての結論なのか理解できていないようだ。だが誰にそれを理解してもらいたいわけでもないだろう。では現時点ではただ何を語っているのかわけがわからないだけで終わってしまいそうか。それはどういうことなのだろうか。確かに何を述べているのかわかりかねるが、わからないままにそれらの文章は放置されてしまうのだろうか。たぶんそこで考えることが放棄されているのかも知れない。ではいったい何を考えたらいいのか。その辺がよくわからないのだが、意識は常に考えられないことについて考えているのかも知れず、そんな何かを考える上で生じる矛盾について考えているのかも知れないが、そんな利いた風な結論には至りたくないのだろう。何やら無駄に逡巡を重ねているらしく、そこからどんな結論に至ろうとしているわけでもないらしいが、それでも何かしら述べていることは確かなようだ。


1月15日

 今さらそんなものを読んでどうするのか。しかしなぜ読書から遠ざかってしまったのだろう。ただ単に本を読む暇がないだけか。緩やかにもつれた関係が元に戻ろうとしているのかも知れないが、まだすっきりしたことは何も述べられないらしい。何をどう述べていいのか躊躇してしまうこともあるようだ。だいいちわからないことが多すぎるだろう。いったい何について語っているのかわからない。そんな雰囲気を醸し出したいだけなのか。少なくとも語っている者は、自らについて述べているのではなさそうだ。たぶんそこから先には何もないのかも知れない。繰り出された言葉は何かの表層をなぞるばかりで、その内部や外部について語っているわけではないのだろう。しかしその目は何を見ているわけでもないようだ。表層を見ているのでも深層を見ているのでもなく、ただその形状を想像しているに過ぎないのだろう。目に見えないものでも空想しているつもりなのか。何を空想しているのでもなく、ただ空想しているように装いながら、それについて語っているだけではないのか。しかも具体的な何について語っているわけでもなく、何について語っているのでもないように語っている。そしてそんな風に述べている時点で、それらの語りは実質的には破綻しているのかも知れない。要するに空疎な内容になっているということか。ではそこでそれらの話はお終いなのか。できればお終いにならないように工夫を施したいところか。お終いのただ中でそんな冗談が通じるだろうか。行く当てのない言葉はそこからどうやって生じようとしているのだろう。そこで何が放浪しているのか。何ではなくただの人間を設定できないものか。たぶん正確な意味で放浪できるのは人間に限られるのかも知れない。だが人間は限られた範囲でしか放浪できない。書物の中の人間が放浪する範囲は物語の始まりからお終いまでだろうか。そこで存在しているつもりの人間は空想の産物でしかないということか。だが人間の実体はどこにあるのだろう。紙の頁に文字で記された人間に実体も何もあったものではないか。文字は表層に記されているだけで、物質的な書物に深層などあり得ないか。しかしそれらの文字を読むことによって、そこに登場している人間に宿っているつもりの、心の深層を想像することはできるか。誰かはそれらの言葉を手がかりとして何を知り得たつもりなれるか。そこに記された様々な出来事から何を想像してしまうのだろう。それは読む書物の内容によってそれぞれ異なるか。物語の中には言葉によって様々な出来事が記されていて、それを読むとあたかもそれらの出来事を体験しているかのような幻覚に陥ってしまうわけか。それは幻覚などではなく、ただ文字を読んでいるに過ぎないことであり、文字を読む体験を現実の体験とはき違えているということか。文字を読む体験も現実の体験には違いないか。しかしそれはただ空想し想像することなのだろう。少なくともそれは行っていることではないはずか。生身の人間が行うことは限られていて、文字を読むことは実際に行えることの限界を取り払って、それを読む人々の脳に快楽をもたらしているわけか。しかしそれは虚しいことではないのか。虚しいことではあるが、それも生きていく上で可能な選択肢の一つなのだろうか。書物を読みながら生きていくことのどこがおかしいのだろう。実際には実行不可能な願望ばかりが意識の中でふくらんで、現実に行っていることとの落差に失望し続けることになってしまうかも知れない。そんな意識を持った人間はどうなってしまうのだろう。実際に自らがやっていることが馬鹿らしく思えてしまうだろうか。なぜ自らがそんな状況の中で生きて行かなければならないのか、そういう状況を作り出している世の中を呪うことにでもなるわけか。しかしそれらの書物こそがそれを読む者を虚無感に陥れている元凶なのではないか。だから本を読むことによって生じる快楽と、現実にやっている仕事の厳しさを区別せざるを得なくなるだろう。そういう人々は夢のような世界は書物や映像の中にしか存在し得ないことを悟しかなくなるのだろうか。それが気に入らないければ書物を書く人間や映像の中で演技する人間になるしかないか。だが書くことと読むことや演じることとそれを見ることとの間にはどのような差異が生じているのか。それを理解し得ない人は夢を見ることができ、夢を実現させるために努力することができるのかも知れない。そのように勘違いすることはそれらのシステムが成り立つ上で必要不可欠な要素か。たぶん現実には書物の中や映像上で何が再現されているのでもなく、それは読んだり見たりする対象として、それらの読者や視聴者や観客の願望を満足させるような内容が提示されているに過ぎないのだろう。それを超えるようなものはなく、超えてしまったら理解不能になるしかないだろう。


1月14日

 そこから何をどうすればどうなるのだろうか。どこまでもいつまでも始まり続けているのに、なぜ言葉の始まりにたどり着けないのだろう。いつものように恣意的におかしなことを述べているらしいが、君はそこから逃げるのか。本当に逃げられると思っているのか。それでも逃げ切れるとでも思っているわけか。別に乗り越えるべき困難があるわけでもなく、差し迫った期限があるわけでもないが、焦る理由はいくらでもありそうで、まとまりに欠ける散漫な気分のまま、苦し紛れに何を語っているのだろうか。何も語らずに、その語らない状態に逆らって、何かしら語っているつもりになっているようだが、他に何かをやる気があるのなら、そこに留まるべきではないだろう。このままではどこへも行き着かずに、その後はどうなってしまうのだろうか。とりあえずこれから連ねようとする言葉の方向性を修正できずに、文章的にはまったく行き詰まってしまうのだろうか。そうなっても仕方がないか。だが仕方がないで済むことでもないような気がしてくるようで、どこから生じているのかよくわからない義務感を利用して、何となく意味が通るように文章を修正しつつあるようだが、やはり眠気が邪魔をして、意識は自然と投げやりな思いに囚われ始めているのかも知れない。これから先に絶好の機会が到来することがあるだろうか。それは何をやる絶好の機会なのだろう。人殺しか何かか。そんな冗談はさておいて、空が一面に晴れ渡り、心が晴れ晴れするときのことを思う。それらの日々のどこに慌ただしさがあるわけでもなく、もう何もやらなくてもかまわない状況になってしまったら、それは死期が近づいていることになってしまうのだろうか。苦いコーヒーをすすりながら、人は何のために生きているのか、それが間違った問いだと承知しつつも、そう問いかけることによって安らぎでも得たいのか、それについて何かをわかろうとしているのかも知れず、テレビ画面上ではもうすぐ真夜中の時間帯に突入しようとしているようだが、今が絶体絶命のピンチなのだろうか。試練の時はいつ過ぎ去るのだろう。なぜピンチの状態でそれを無視しようとするのか。どうも話のつじつまを合わせようとする気が起こらないようで、何となくそれとは無関係にごちゃごちゃした気分でいたいらしいが、そのとき感じている意味不明とはどういうことなのだろうか。次第に投げやりな気分へと導こうとしている、そこでの話の筋書きはどうなっているのだろう。いつものわざと話を込み入らせて、それが単なる暇つぶしであり、退屈を持て余しているように装っているに過ぎない、と思わせたいのだろうか。本当に退屈だとしたら、それは誰が感じている眠気なのだろう。眠気に逆らうとすれば、そこから君はどうすればいいのか。少し風邪を引いているのかも知れないが、いったいそれ以上の何が必要とされているのか。それ以上とはどのような状態なのか。それらのどこに常人の意識があると思っているのか。誰が思っているのだろうか。その辺からいつもとは少し調子が狂っているのかも知れないが、誰かは何もないのに何をわかろうとしているのか。たぶん空疎な文章以外には何もわからないだろう。誰かがわからないことを思っているだけか。だが思っていることはそれだけか。とりあえず馬鹿らしいと思っているのかも知れないが、馬鹿らしいと思うことは、結果的に何をもたらしているのだろうか。たぶんそれだけではないのだろう。しかしなぜそんな風にしていい加減な言葉を連ねなければならないのか。それがどんな文章になるというのか。すでにできあがりつつある文章の中に存在する誰かは、そうではないと思っている。だが君は言葉だけの世界の中で暮らしているわけではない。それでは詐欺師になってしまう。誰もそんな風に感じているわけではない。誰が感じているわけでもないことが文章となっているようだ。しかしそれらの言説のどこに出口があるのだろうか。どうやって結論に到達すればいいのか。話が終わろうとしているのに、まだ何も始まっていないのはどうしたことか。要するにそれらはとりとめのない話ということだろうか。たぶんそれらの空虚の中では誰が何をやっているわけでもなく、架空の登場人物たちが何を繰り広げているわけでもなく、ただそんなありふれた物語にならないようにしたいだけなのか。台本に拘束されていることはくだらないことだろうか。それらを本当のように見せようとする試みは、本当にくだらないことなのか。なぜそんな風にして世の中の風潮に逆らおうとするのか。別にそれらが風潮だとは思わないか。ただ人為的に作られた物語の感動とは無縁でいたいだけなのか。しかしそれらを一律に否定してしまうのも虚しいことではないだろうか。


1月13日

 どうも今ひとつ乗り気がしない。そんな言動は認めがたいか。それもその場を取り繕うためのごまかしの一種だろうか。それらの何に嫌気が差したのかわからないが、いつの間にかさっきまで見ていたテレビ画面が消えているようで、そこから目を逸らして何を見ているわけでもないが、なぜか今日も意味もなく黄昏れているのかも知れない。今は夕暮れ時だろうか。どうやら誰が何を述べているのか判別不明のようで、それはいつものことかも知れないが、どうしても現実の日付に追いつけないのもいつものことであり、疲れからくる苛立ちと眠気には勝てず、いつ夜を通り過ぎてしまったのかもわからずに、気がつけば意識はいつもの昼へと舞い戻っている。そしてさらに時は過ぎ去り、今はもう夜になってしまっているらしい。たぶん翌日の空は依然として晴れ渡っている。それは昨日見た光景だろうか。架空の誰かはそんな空を見上げながら何を思っているのか。虚空の下に広がる大地のどこをどう経巡り歩いても、どのような邪念にも巡り会えず、ただそこで抱いている虚無感をどうすることもできずに、他に何を求めているのかもわかろうとせず、そんなことを述べているうちに、どのような邪念に巡り会いたいのかもわからなくなる。そんなことはどうでもいいことかも知れないが、邪念と虚無感はどのような関係にあるのだろう。いい加減な知識に基づいていい加減に述べると、何となくしらけるだけかも知れないが、確か仏教的には、邪念を振り払って悟りを開き、涅槃の境地に至ることに価値が見出されているような気がするのだが、涅槃の境地は虚無感を抱くこととはどう違うのか。もしかしたらまるででたらめなことを述べているのかも知れないが、諸行無常は虚無感とは関係ないのだろうか。そういえばそれに対する否定的な見解とともに立ち現れるニヒリズムとはどのようなものだったのか。ニーチェとかはニヒリズムとどのような関係にあったのだろうか。過去の一時期において、そのようなことについて興味を抱いていた時期もあったのかも知れないが、今ではそのほとんどを忘れてしまっているのかも知れず、たぶんそれについてどんなに難しくも抽象的な哲学用語を用いて語ろうと、そのような言説は現実の生活から著しく背離しているのかも知れない。もっとも意味もわからずそんなことを語るほど愚かではなくなったのか。今ではそれとは別の愚かさが身についたのかも知れないが、そのような言葉とは無関係に、ただ生きているという実感しか湧かないのかも知れず、そこで生きて暮らしていることと、そこから繰り出された言葉とは、質的に異なっているのかも知れない。別に生身の人間が涅槃の境地に至らなくてもいいような気もするし、何か悟りを得るとしても、何かを悟るときなどいくらでもやってきそうに思われ、そして何かの弾みで何らかの感慨に至るとしても、時と場合によってそれが虚無感であったりなかったりするだけではないのか。そんな状況にどんな救いがあるのだろう。たとえ宗教的に神に救いを求めるような状況になろうと、やはり時と場合によって、救われたり救われなかったりするだけで、実際にはただ一方的に救われ続けるようなことは起こらないだろうし、かえってそういう状況になってしまった方がおかしいのではないか。この世界には常に何かしら出来事が起きているようでいて、それらの出来事についていちいち言葉で説明しなくても済んでしまうのかも知れないが、逆に起きてもいないような出来事を空想して、それを言葉で物語ろうとしているのかも知れない。たぶんそれがその者の願望が立ち現れたときなのだろう。君はそれらの物語を虚しいとは思わないのか。物語る行為そのものが馬鹿げているのだろうか。さらに他人が物語る内容に感動してどうするのか。どうもしないが、それでもかまわないと感じているのかも知れない。確かにそれは虚構でしかないが、現実も虚構とそれほど変わらない構造の中に存在するらしい。ただそんな風に思えばそう思われるし、そうではないと思えばそうではないように思えるだけか。現実の出来事にどれほどの価値があるのだろうか。そこに価値など設定したくないか。興味を抱けばそれなりに楽しめるだろうか。何を楽しもうとしているのかわからないか。ニヒリズムとかいう格好の良さそうな概念は使いたくはないが、意識は何となく虚無的な雰囲気に覆われているのかも知れず、それを肯定も否定もできない精神状態なのだろうか。要するにただあやふやなことを述べているだけか。もはや何をどうやってもどうにもならないのかも知れない。しかしそれでも言葉を連ねているのはどういうことなのか。


1月12日

 寝て起きて深夜に目が覚めて、また何も思いつかないのに無理に言葉を連ねているようだが、それを端から眺めている別の意識は、もはやそのような状況には飽き飽きしていて、もういい加減にやめて欲しいと思っているのかも知れないが、それに抗うことはできず、それについて何を述べているわけでもないようだが、ただ押し黙って漠然とした気分のまま、真昼の意識は空を見上げながら何を思うのか。空虚な思いと空疎な文章と、見上げている空とはどのような関係にあるのだろう。ちなみに昨日の空は翌日の空とどう違うのか。違うところもあり同じところもあるが、それがどうしたわけでもなく、それについて何を述べていいのかわからないのだが、空の下に広がっている大地の上では何が行われているのだろうか。ただ人々が右往左往しながらうごめいているだけか。しかし思い浮かべている人々は架空の存在でしかない。架空でない人々は大地の上のどこに存在しているのだろう。大地の方々へ分散して暮らしている場合もあるし、大都市の郊外にでも密集して暮らしている場合もあるだろう。人が一つの地域に密集して暮らすと便利に思えるのだろうか。実際に便利だからそのような形態となっているのだろうが、そこに住んでいるそれらの人々は、なぜ休息も取らずにせわしなく動き回っているのか。そう見えるだけで時々休息ぐらいは取っているのだろう。仮にせわしなく動き回っているとしても、それが仕事なら仕方がないだろう。しかしそれが馬鹿げたことだとは思わないのか。ときにはそう思うこともあるのかも知れないが、実際にそう思ったとしても、それが仕事なら仕方がないだろう。本当は仕方がないでは済まないのかも知れないが、それで済まなくてもやはりそれが仕事なら仕方がないのだろう。たぶんそれはそれに携わっている個人にはどうにもできない制度なのかも知れない。仮にそれをどうにかしたつもりになったとしても、結局はそれとは別の決まり事の中で生きていくしかないようだ。そこから抜け出ることは不可能なのだろうか。不可能だと思えば理由はいくらでも見つかるのかも知れないが、しかしなぜそんな見方や考え方に凝り固まっているのだろうか。だがそれ以外にどんな見方や考え方があるのか。何か達成すべき目的や目標を設定して、それに向かって努力していれば、そんなことを考えなくても済むようになるのだろうか。そして現に世の中の大勢も、子供に対する教育方針なども、そのような姿勢を押し通す方向で凝り固まっているのだろうか。たぶんなるべくそうした制度に疑問を抱かないようにすることに、指導する立場の者たちは心血を注いでいるのではないか。だが本当にそれが正常に機能しているといえるだろうか。ただ機能しているように装っているだけか。現実には機能していなくても、たとえ少しでもそのような建前的な制度を真に受ける人が存在する限りにおいて、それらの社会が崩壊するのを食い止める歯止めにはなっていると思っているのかも知れない。またそういうことをやっているとされるスポーツ選手や起業的な成功者を持ち上げることによって、それらの制度が正常に機能する場合もあり得ることを必死に顕揚しているのかも知れない。しかしそれを見させられている側に存在している意識はどう思っているのか。感じることのほとんどがとりとめもないことばかりで、そう思っているそれらの感覚が一つのまとまった思考として機能しないのはどうしたことか。たぶんそれらについて考えることを阻むものは何もないような気がするのだが、周りを見渡しても考える対象自体が見あたらず、その精神状態では思考する必然性が皆無なのかも知れない。何も考えなくても生きていけるということは幸福なことなのか。しかし本当に何も考えていないのだろうか。考えようとする対象については考えていないが、他のことについては無意識のうちに何かしら考えているのではないか。その日をうまく切り抜けるために絶えず四六時中考え続けていて、それに基づいて行動しているはずか。そういうことについては確かに考えているのだろうが、それは求めているような思考の対象ではない。誰かの意識はそれとは別のことを思考の対象としたいらしいのだが、そしてそれが見つからずに悩んでいるつもりのようだが、はたして探しても見つからないようなことを考える必要があるのだろうか。それとも何か形而上学的なことにあこがれでもあるのだろうか。それらの意識は日常に考えていることとは別のことを考えられるだろうか。何となくそれは無理なような気がするのだが、夢の中では何かを考えているつもりになっているようだ。しかし夢の中の話をしているわけでもないだろう。


1月11日

 部屋の中の空間をよく見ると、夥しい数の細かな埃が浮遊していることに気づく。なぜそこで空気の存在を知ることになるのか。それらの何が空気なのだろう。君はその場の空気を読めていないようだ。結果はすでにわかっている。事件とは何か。それの何が事件につながっているのだろうか。事件とは何かを知る前にそれとは何なのか。意識は一連の騒動に関して、何か適当なことを述べなければならない雰囲気でも感じ取っているのだろうか。そしてそのときの情勢に流されつつあるのだろうか。そこではどのような人々が流されているのか。そもそもそれらの何が騒動なのだろうか。今わかっていることはこれからわかりつつあることとは違い、すでに過去の時間帯に属していることか。たぶん過去は未来へとつながっていて、これからわかろうとすることのきっかけを内包しているのかも知れない。ではこれから何が始められるのだろう。何らかの変動が生じて、その変動に対応しきれなくなった人々がどうにかなってしまうのだろうか。人はどのように死ぬのだろう。あるいは人はどのように生まれてくるのだろうか。存在している人が多ければ生まれてくる人も死ぬ人も多くなるのだろうか。意味不明な意識にとっては、それらの出来事には意味がなく、何の脈絡もないように感じられ、ただ唐突にそんなことが起こりつつあるように思われるだけで、それに連動して何か適当なことは起こっても、仕方がないような気になるらしい。しかし何が仕方がないのかわからない。やはりそこまで述べても、それらがどんな騒動なのかわからないか。意識はわざとわからないように述べているわけか。案外本当にわかっていないのかも知れないし、騒動に該当するような事件を特定できないのかも知れない。実際生身の神経回路はそれらに関して何も思いたくないのだから仕方ないか。なぜそう思われるのか。ならば何か他に思うことでもあるのだろうか。例えば真夜中に目が覚めて誰かは何を思うのか。何も思わないのでまだ目が覚めていないことにしておこう。では翌日の昼に何か適当なことでも思いついたか。昼は昼で何を思う暇などありはしない。そんなわけで、結局誰かの意識の中では、何も思わないうちにまたいつもの夜になってしまうようだが、それでは何も思いつかぬままに、またしても空虚で意味のない言葉を繰り出す羽目に陥ってしまうのではないか。すでにそうなっているのであり、それはいつものことなのかもしれないが、そうなるとまたいつものように、意識にとっては気に入らない状況になってしまうのか。内容のあることは何も述べられない状況は耐えられないか。いったいいつまでその不快さのただ中に留まっていられるのだろう。それが嫌ならなぜやめようとしないのか。その抗いがたい執拗さに根負けして、歯が痛くなってくるか。歯が痛いのは虫歯のせいだろうか。また歯医者に行かなければならないのか。どこの誰がそんなことを述べていて、誰の意識が歯の痛みを感じているのか。そんなことを述べているうちに歯の痛みなど消えてしまい、歯に関する文章も尻切れとんぼ状態になってしまうようだが、その代わりに窓から外を眺めれば、寒空に時折雪が舞い、窓を開けても冷気以外の何ももたらされはしないようだ。ではなぜ窓を開ける必要があるのか。よどんだ空気でも入れ換えたいわけか。ではそんな状況からどんな思いが導き出されるのだろう。思いではなく、言葉がもたらされているのかも知れないが、とりあえずその時刻ではそこから抜け出したいとでも思っていることにしておこうか。そんな思いでも何も思わないよりはいくらかマシに感じられるか。何がどのようにマシなのかよくわからないが、窓の外ではさっきより雪の勢いが増しているらしく、外へ出れば寒気が吹きつけてきて耳が痛くなるな天気だろうか。しかしだからどうだというのか。その場の思いはそれで終わりなのか。たぶんそれはその場で抱いた思いではないだろう。その場がどの場なのかわからず、その場ではないところでその場の思いをねつ造しているだけかも知れない。もはや思いを抱く場所すら虚構になりつつあるのか。誰かは現実には何も思わないように暮らしているのだろうか。そんなことがあり得るだろうか。現実にはその誰かの存在自体が虚構なのだから、あり得ないことをやっていてもおかしくはないか。そんなわけでそれらの文章の中では、何も思わない設定となっているのかも知れない。かも知れないではなく、そうなりざるを得ない成り行きになってしまっているわけか。そうなってしまう原因は何なのか。わかりきったことをわざとらしく述べるべきではないか。


1月10日

 つかみかけていたリズムが不意に消え去って、目が覚めているわけでもなく、眠っているわけでもないと思うとき、まだそこから夜は続くのだろうか。夜と交互に昼も続くらしい。しかし夜と昼がどうしたというのだろう。それを連想させる言葉によって、明と暗でも対比させたいわけか。それらの言葉に取り立てて意味は何もなさそうだ。意味を見出せないのはいつものことだろう。あえて見出そうとしていないのではないか。見出すつもりがないのだろうか。言葉の意味など他の誰かによって勝手に見出されればいいことか。そんな投げやりな気持ちでは後が続かなくなるか。だが文章は言葉によって構成されているだけで、そこにどんな幻想を抱いても虚しくなるだけか。しかしそれらに付随しているように思われる意味という概念は幻想なのだろうか。たとえ幻想だと思ってみても、それでどうなるわけでもないだろう。では言葉が意味を持つことによってどのような効果が得られるのだろう。それを読んだ者が文章を理解できたように錯覚するわけか。それは錯覚などではなく、真に理解したつもりになれるのかも知れない。つもりではなく、中には本当に理解している者もいるのかも知れない。なぜ誰かはそんな風には思わないのか。なぜそれを幻想と見なして否定したいのか。幻想だからといって、すぐに否定されるわけでもないか。ただそんな風には思いたくないだけで、意識して自らを理解から遠ざけているだけではないのか。なぜか文章を理解していないつもりでいたいらしく、わざと意味不明のままに留まり続けたいのかも知れず、要するに自らが述べていることをわかろうとしていないようだ。そうやって頭の中にもやがかかった状態を保持していたいわけか。それでどうなるわけでもないだろうが、はたしてそんなことが可能なのだろうか。それはフィクションの中に存在しているつもりの架空の誰かがそう思っているということか。しかしなぜそんな風にしてやっていることと構成されていることの関係を、わざと込み入らせようとしているのだろうか。単にわけがわからない風を装いたいだけか。そんな風にしか思えないのは不幸なことかも知れないが、誰がそう思っているわけでもなく、何かを思っているような意識をフィクションの中に設定しているつもりで、現実にそう思っている意識は単に嘘をついているだけなのかもしれない。だが同時にそういうごまかし的な述べ方が気に入らないらしく、何とかそのような展開を解消すべく努力している最中なのかも知れないが、今のところそれが成功しているとは言い難いようだ。まったく何をどう述べてもしっくりこないらしいが、そんな風に思っているうちに夜も明け、煩悶の時も簡単に過ぎ去って、すでに現実の意識が存在している地域では、昼の時間帯にさしかかっているらしく、次第に何もやれないような雰囲気に近づきつつある。それでもまだ余裕があるとでもうそぶきたいわけか。いったい誰がそんな風に思っているのだろう。またもや架空の時空へ意識を移動させようとしているわけか。だがそれで何もない空虚をごまかしきれるだろうか。頭をどうひねってみてもファンタジックなフィクションなど出てきそうもないし、どこに他人の興味を惹くような物語が構築されようとしているわけでもないだろう。ではしきりに述べていることはただのいいわけに過ぎないのか。それでもそんないいわけの中にも幻想といえるような内容を導き出すことができるだろうか。しかしなぜそこで幻想が必要とされるのか。何か適当な気休めの出現でも期待しているわけか。しかし何を述べているのか、あるいは何を思い、考えているのか、そんなことを知ろうとしているわけでもないだろう。どう考えてもそこに何があるわけでもなく、興味も何も惹かないような空虚が横たわっているだけではないのか。そしてそこから生じているとりとめのない漠然とした思いのままに、昼の時間は過ぎ去ろうとしている。それ以外に何があるわけでもなく、それ以外を求める気にもなれないが、それはそれで仕方のない状況であり、それ以外の状況の到来を期待すべきではないのかも知れない。たぶんそんな成り行きで状況が固定されているのだろう。時は動いているが空間は静止したまままったく動こうとしないようで、そこで感じられるのは、昼の日差しのまぶしさと屋内のほこりっぽさだけか。それでは気に入らないのかも知れないが、ではそこに何かを付け足すべく、不意に窓の外に目を転じれば、空に浮かぶ雲は風に煽られてゆっくりと動いているようだ。そんな状況が許されるのは俳句の世界ぐらいだろうか。まさかこれから詩的な雰囲気でも醸し出せるわけでもないが、それでも人はなぜ動いているのだろう。それは石ではないからか。


1月9日

 自家中毒とはどのような状況のことをいうのだろう。そこから何かを付け足さなければならないか。それが何らかの状況ならば、その状況が求めているものとは何だろう。状況が求めているのではなく、成り行きまかせに誰かの意識が適当な状況を求めているだけかも知れない。気候的にはシベリア経由で寒気が吹き込んできて、暖冬の予報を裏切る冬になっているらしく、時刻的にはだいぶ現在に近づいたのかも知れないが、まだ日付的には昨日の時間帯なのではないか。どうやら明日は移動を繰り返しているようだ。たぶんそれらの時空での状況はそんなところなのだ。その中で意識はどこにあるのだろう。そこで意識は何を探しているのか。探しているのではなく、見ているのではないか。誰かはどこかの街の夜景でも眺めているのだろうか。それに飽きたら、夜空を見渡せばオリオン座でも見つかるか。だがなぜそんな暇つぶしが可能なのか。それは暇つぶしではなく、忙しさの合間に時折暇があるにすぎず、そのわずかな暇を利用して言葉を繰り出しているわけか。だがそれを暇つぶしというのではないのか。別にそんなことはどうでもよくて、とりあえずまだ時間的に追い込まれているわけではなく、それがかろうじて言葉を繰り出す余裕につながっているらしく、現実にそれを行使しながら、意識は何を語っているのかわかっているつもりのようだが、同時にそれが求めている文章ではないことも承知している。しかし本当は何を求めているのだろうか。それがわからないならば、何を求めているか否かについては意味がないだろう。少なくとも求めているものはそれではないと思っているだけか。しかし同時に今はそれでも仕方ないと思っているわけか。とりあえず今のところは主張すべき内容を欠いているらしく、それが原因でそんな風に思われるだけか。しかしそんな状態でどんな風に思っても、何を主張すべきかなんてわかるわけがないか。ではいったいどのような立場でものを言えばいいのだろう。今は何らかの利害関係の中で、自らを利するような語り方を実践しなければならない状況なのだろうか。そこからどのように語れば自らの立場を高めることができるのか。それらのどこに自らの存在の正当性を見出せるのか。まだ自らのことは何も語っていないのではないか。自らとはどのような存在なのだろう。それは言葉的におかしな表現形態を伴って存在する意識のようなものか。しかしそれはどういうことなのか。なぜ自らをそんな風に解釈できるのか。その辺で何かがずれているような気がする。そもそも何をもって自分自身であると証明できるのだろう。いったい誰が自分なのだろうか。そんな風に語ることによって、自らが自分自身であることを逃れ去ろうとしているわけか。それはさらにおかしな言い草か。なぜそうやって自らを避けようとしているのだろう。どうして自らではなく誰かでなければならないのか。他の誰でもかまわないのに、自らであってはならない理由があるだろうか。要するにそうやって何かを先延ばしにしているわけか。いったい何が先に延ばされているのだろうか。自らについて語ることか。しかしなぜ自らについて語ろうとしないのか。理由など何もないと思いたいのか。ただ何となく誰かが語っていることにしたいだけか。しかし別にそんなことを正当化したいわけでもないだろう。そこから自らの存在の正当化には結びつかないだろうが、もちろん架空の誰かの存在を正当化したいわけでもないが、何を正当化しているわけでもなく、それらの文章のどこに利害関係があるわけでもないようだ。ただ適当に語り、そのときの気分次第で言葉を繰り出して、それが結果として適当な文章に構成されているだけか。たぶんそれがどうしたわけでもなく、そこから何をどうしようというのでもなく、何となくその場の成り行きまかせに事態が推移しつつあるように思われるだけか。どこかの誰かはそれだけではないと思いたいだろうか。いったい誰がそう思っているのだろうか。そこからどのような方向へ話の内容をもっていきたいのだろう。しかしもう言葉が尽きかけているように思われる。その先に何を述べていいのかわからなくなりつつある。いったいどうすればいいのか、あるいはどうしようというのか。そこからどんな風に思ってみても仕方のないことか。結局はなるようにしかならないのであり、それでつまらなければそういうことでしかないか。つまりそこに見出されつつある結果とはそういうものなのか。たぶん誰かはそれが気に入らないようだが、まだあきらめきれないのも知れず、さらにどちらでもかまわないのであり、そこであきらめるか否かの判断などしないだろう。


1月8日

 災いとは何だろう。画面に映っている災いにはリアリティを感じられないのかも知れず、実際に災いと呼べるような事態に遭遇してみなければ実感が湧いてこないのだろうが、現実にそうなってしまうと取り返しがつかないことになってしまうのだろうか。画面からは災いのただ中にいる人々の悲惨さが伝わってくるか。しかしそこでは何が報じられているのか。勇気を持って希望を抱いて、目の前の困難に立ち向かっている人々のことか。そんな風に思えたらどれほど幸いなことだろうか。冬の寒さで精神がいかれているらしい。そんな冗談も唐突に出現するとわけがわからないだろうか。しかしそれが冗談でなければ、なおのこと意味不明に思われるか。誰が何を思おうとその人の勝手だろう。では実際に誰かは何を思っているのか。空を見上げれば雲の切れ間から日の光が差してくる。画面をのぞき込んでいる眼がそんな光景を眺めているわけもなく、そのとき空を見上げているつもりの架空の誰かは何を思っているのだろう。そんなことが君にわかるはずはずもなく、いつものように何も思わずに何を述べようとしているのか。それでも何かしら思っているのではないか。はたして誰かが述べるのべき対象はどこにあるのだろうか。それは君のことではないのか。君は誰が述べるべき対象なのか。そんなことはどうでもいいことか。ところでさっきから何を述べているのか。なぜ本気で語ることができないのだろうか。たぶん今回は本気なのかも知れない。誰がそう思っているのだろう。少なくとも誰かはそう思っているかも知れない。ただだらだらと無駄なことを記述している誰かにはそれがわからないらしい。では真剣になるとはどういうことなのか。真剣に語れない者にそんなことがわかるわけがないか。ならば誰かは見え透いた批判によって何を斬ろうというのか。真剣は他人を斬る道具なのか。いったいどこに真剣があるのか。文章の中には真剣という言葉しか存在していないが、言葉では本物の真剣にはなり得ないのであって、世間一般ではそれは漫談の一種になるしかないようだが、それらの文章上では、今のところ漫談にさえなっていないらしい。しかしそれのどこが見え透いた批判なのか。何を批判しているつもりなのか。画面上のどこかにギターでも奏でている者がいるのだろうか。ギターで人を斬れるだろうか。それは君のことではなく、知っている人は知っているらしい、特定の誰かのことなのだろうか。文章によって何をどう批判するにせよ、何かを述べる度に苦痛を感じていてはどうしようもないが、批判の対象を馬鹿にするがごとくに笑っている風を装うのもわざとらしいか。何となく本気からは程遠い雰囲気になってしまうようで、別にことさら嫌みなことを述べようとしているわけでもないが、今さら世の中のくだらない部分ばかりを嘲笑的に批判しても仕方ないだろう。それでも何かしら語る必要がどこから生じているのか。別にそれが職業ではないのだから、何かを述べることに見返りを期待しているわけでもないが、それらの言説の内容が危険を冒しているとは到底思えない。ならば期待外れなのだろうか。ではそれらの期待外れはどのような災いをもたらしているのか。それらの何が残念だと言うのか。また残念だと言う前に何について語っているつもりなのか。それらの雰囲気から何が想像されるのか。何も想像しなくてもかまわないが、何を想像してもかまわないだろう。何を想像するにしても、どこの誰に許しを請わなければならないわけでもないが、とりあえず誰かは他人が想像している内容を言葉で示せないようだ。自身が何を述べているのかわかっていないようだ。そこには誰もいないのに誰が他人なのだろうか。誰かは他人となるべき存在をどこに想定しているのか。またなぜ想像している主体を他人に限定する必要があるのか。誰かは他人の何を想像しているのだろう。本当に誰が誰かなのか。架空の魂は他人に宿る傾向でもあるのか。ここで魂云々はよくわからないか。何となく語っている他人が自分ではないとすると、はたして誰かが構成しようとしている物語の中に登場するのは他人だろうか。他人であるとするなら、そこからどうやって逃げられるのだろう。物語の中で誰かが他人について述べようとするとき、そこにはどんな想像力が働いているのだろうか。しかし何を逃げているのだろうか。わけがわからないように述べることによって、君ではないつもりの誰かは何を示したいのだろうか。何となくそういう語り方が意味不明な災いを呼び込んでいるのかも知れない。まるでわざと過ちを犯しているかのように思われ、まったく深刻さが欠けているところが、逆に深刻さの度合いを深めているのかも知れず、もはやこれから先にまともなことは何一つ述べられないような気がしてくる。


1月7日

 二日後の意識は現状の何が気に入らないのか。もはやそれは現状とはいえなくなっている。昨日を過ぎても今日を過ぎても、なぜ何もやろうとしないのか。このままでは明日も過ぎ去ってしまうだろう。そんな焦りの心はすぐに結果を求めたくなる。しかし結果とは何なのか。すでに到来しつつある結果に何を期待しているのか。それはどういうことなのだろうか。意識は自らの精神現象を捉えきれずに困惑を覚えるらしい。そんな難しい表現では嘘になるか。それを推し進めれば安っぽい言動になるだろう。まだ何を述べているのでもないようで、何が始まっているわけでもなさそうに思えるが、導き出されたそれらの言動には、わけがわからないことの他に、いったいどこに欠点があるのだろうか。そんなことしか述べられない状況をどうすればいいのだろう。何も述べていないと述べているだけの誰かを何とかできるだろうか。それしかできない誰かをどうやって諫めればいいのだろう。諫める対象がどこに存在しているのか。奈落の底から影が舞い戻ったつもりになる。まだ水分が足りないようだ。水分ではなく湿度が足りないのかも知れない。意味不明な乾きのただ中で、それが渇きではないと思いたいらしく、強迫観念に囚われているのかも知れない。要するに何もなくても言葉を繰り出さなければ気が済まないのか。しかも同じ話を二度続けるわけにはいかないらしい。誰かの意識には何かプライドのようなものが宿っているのだろうか。それらの言葉の何が不満なのか。何を極めているわけでもなく、とっておきの奥義があるわけでもなく、まったく痛快な展開とはいかないらしいが、また言葉を付け足さなければならないと思い、強引に話を進めようとしているのかも知れないが、進められるわけもなく、そんな状況を誰かに笑われていると思い込み、心の中で根拠のない被害妄想をふくらませて、何もできないのに何がおかしいのか、と妄想の対象を罵っているつもりなのかも知れない。だがそれでは罵っていることにはならないだろう。何もできないは自分自身ではないのか。批判する対象に巡り会えなければ言葉を繰り出すことができないわけか。しかしそれでも何かしら文章になっているようで、要するに何もできない自らを批判しているわけか。だがそんな話の展開では退屈きわまりないのかも知れず、意識の外部へ向かって何も届かないだろう。やはりそれでは何を語っていることにもならないか。では何かを語るとはどういうことになるのだろうか。そんなことはわからないが、とりあえず現状はどういうことにもなってないのかも知れず、どうにかしなければと思いつつもどうにもなっていない現状にただ苛ついているだけなのかも知れないが、それでも何かしら言葉はつながるわけで、それはまったくの空虚以外の何ものでもないのだろうか。それと知らずに恐ろしいことを述べているのかも知れない。誰かの意識の中では恐ろしいことは馬鹿げたことなのか。しかしそんな馬鹿げた妄想は、そこに生じている窮迫の時を一時的に忘れさせてくれるらしく、それが偽りでしかないことを知りつつも、別に経済的に困窮しているわけでもないのに、虚仮威しのために窮迫という言葉を使いたがる意識を状況が見下している現状を、乾いた空気とともに別の意識が冷ややかに眺めているつもりにさせるだろうか。何を述べているのかわからなくなっているようだ。笑いをこらえながら本当に笑っている顔を思い浮かべて照れ隠しでも装うつもりか。言葉はさらに意味不明へと近づいているのかも知れないが、そんなわけのわからぬ文章が現状の何もなさを物語っているのだろうか。何もないことの苦し紛れにそう思いたいだけか。それでいいのだろうか。それで難局を切り抜けたつもりになれるだろうか。別に囲碁や将棋をやっているわけでもないだろうが、難局とは何なのか。困難を困難とは思わず、それに対応しているつもりで実は対応し切れていないように思われ、ただ過ちや間違いや勘違いを利用しながら、何となくそれ相応の言葉の連なりを構成していると思っているようだが、たぶん結果としてそれらの困難から逃げているだけなのかも知れず、その逃げ方のバリエーションの数を増やそうとしているだけのような気がしてくる。それでも何らかのことを述べていることになっているのだろうか。確かにそうなっているかも知れないが、結果として導き出されたそれらには、すべて空虚で空疎な雰囲気が漂っている気がしてならない。本当にそれでいいのだろうか。いいわけはないのかも知れないが、そうなってしまうのだから、そうなってしまった結果を受け止めなければならないか。


1月6日

 面倒臭いので闇の中で何かが使い捨てられようとしている。いい加減に継続をあきらめたらどうか。その時空の中で架空の誰かが何をするわけでもない。誰が何を想像しているのでもなく、どんな文章を構成したいわけでもない。しかしなぜそこに架空の誰かなどという人物が出てくるのか。何となく文章的におかしいのではないか。それをおかしいと思っているのは誰なのか。そんな風にして話を込み入らせる以外に君は何もできなくなろうとしているようだが、それで何か不安を感じることでもあるのか。いつものように漠然とした気分のまま、わけのわからぬことを述べようとしているらしいが、本当にそれは君にとってわけのわからないことなのか。わかりすぎるくらいのわけのわからなさではないのか。そういう部分が何か矛盾しているような気がするのだが、それによってわざとらしく語ろうとしている話の内容が、意味不明になることでも恐れているのだろうか。しかしそんなことは毎度のことであり、本当に恐れているのは、そこから自らのあずかり知らぬ意味が生じてしまうことではないのか。そんな想定外の意味に翻弄されながらも、想定外でもあずかり知らぬわけでもないと思うようになり。架空の誰かは、いつしかわけのわからぬことを述べることに生き甲斐を感じるようになってしまうのだろう。それこそ無根拠でわけがわからない内容だ。たぶんそれを述べているのは架空の誰かではないだろう。そうやってわざと述べている主体を間違えて、そこから何を肯定しようとしているのだろう。ただ単に間違えることを肯定したいだけか。それは間違え方にもよるだろうか。いったんそうなってしまうと、それと気づかずに無用なことばかり述べてしまっているように思えて、やはりわけがわからなくなってしまうのだが、少なくともそれが無用であることには気づいているのではないか。そして無用であると同時に、何を述べているのでもないことにも気づくべきか。その辺でいつものとは何か違うような気がしてくるはずだが、違っているのは話の内容だけか。確か以前にもそういう成り行きを経験したことがあったかも知れないが、つながらない話を無理につなげようとして、架空のエピソードをでっち上げるつもりはないようで、とりあえずどうでもいい話からどのような結果を導き出そうとしているわけでもないらしく、それによって何を知りたいのかわからないが、いい加減な言葉を繰り出すことによって、何を知ろうとしているのでもなく、それを語ることによって、そんな成り行きを意識しながら、やはりわけがわからなくなろうとしているのではないか。そんな風に思えるのはどうしてなのだろう。誰もがすでに知っていることはつまらないことであり、また誰にも知り得ないことはくだらないことかも知れないが、それを無理に知ろうとするより、自らも知り得ない何かを構築することに快楽でも見出そうとしているわけか。ではそれを知ろうとしている意識はどこから生じているのだろう。自らも知り得ないことを構築しようとしている意識とは無関係なのだろうか。両者はどのような関係にあるのだろうか。架空の誰かはそんな語りの仕組みに、まやかしの匂いを感じ取っているのかも知れないが、誰かの意識が構築しようとしているものにまやかしでないものなど皆無か。しかもそれらのまやかしから容易には抜け出られないようだ。何とか虚空に言葉を様々な語り方でちりばめて、かろうじて真実らしき意味にたどり着きたいと思いつつも、それが虚しい行為であることに気づきたくはないのだろう。誰もいない部屋の中に誰かいるような気がするのはなぜだろう。虚空はどこに生じている空間なのか。そんなものがあるわけがないと思いつつも、どうもそれなしの文章表現には魅力を感じないように思われる。北風は乾いた空気をもたらし、雲は流れ去り、過ぎゆく時は過ぎゆくままに、また以前と同じような展開になりつつあるらしいが、そこから何が過ぎ去ろうとしているのか。さらなる忘却の時を許しているのは誰の意識なのか。冬に降る雨について何を思うだろう。何も思わずに唐突に出現したそんな言葉は無視したくなるが、一方でそれが継続させるためには必要なきっかけになることを願い、誰かはそれより前に生じている意味のない話の展開を切り捨てようとしている。やはりそれらはあまりにも不自然な言葉の連なりに思えるらしく、ただわけがわからないだけで、それらの内容がおもしろくもないと同時に、つまらなくもないような気がしているようだ。話のおもしろさやつまらなさからはかけ離れているように思われるらしい。それは単なる勘違いで片づけてしまってもかまわないような代物か。


1月5日

 さっきまで何を述べようとしていたのか。空洞が心のどこかに生じている。暗闇の中に天井から鍾乳石が垂れ下がっている光景が目に浮かぶ。そんなテレビ番組でも見たことでもあるのだろうか。今さら何を目指しているわけでもない。画面の中の人物は誰の姿を見つめているのか。何か途方もない出来事が起こる前触れか。これからどのような事件が起ころうと、それに対して無関心でいられるだろうか。君は事件以外の何に関心を持っているのだろう。それらの文章は誰の意識によって語られているのか。何を見つめているのか知らないが、目は口ほどにものを言うはずもないか。闇の世界ではすべてのまなざしが盲目に近づいているのかも知れない。さらに空虚な雰囲気が深まり、もう誰も何も語れなくなってしまうだろう。すでに意味不明かも知れないが、それでも言葉はその場にどんな雰囲気をもたらそうとしているのだろうか。いったいこれからどんな風に言葉が連なっていくのだろう。つまらない続きなど知りたくもないか。もはや意識はどこにも存在せず、何をもたらそうとしているのでもないのかも知れないが、努力すれば何とかなるような状況を超えて何をやろうとしているのだろう。誰が何をやろうとしているつもりなのか。万策尽き果て、どうにもならない状況に突入しようとしているのだろうか。 はたしてそれは困難と呼ばれる概念が示される状態なのか。ではどのような嘘をつけばそれらの困難を乗り切れるのか。誰もどうにもできないような気がしてくるが、それでもその場限りのごまかしで生きて行くことが許されるだろうか。誰かはコーヒーの飲み過ぎで体調が優れないようだが、これから何をやろうとしているのだろう。何をやれるはずもなく、ついて行けない言葉の連なりにうんざりしているのかも知れない。それらの言葉と言葉が構成しつつある内容について行けるはずがないだろう。思いはどのようにもまとまりようがないらしい。すべてはとりとめのない思いを無視して成立する文章か。崩壊壊寸前の意識を再構成したいらしいが、いったいどこにきっかけが潜んでいるのか。それともこのまま何もできずにあきらめてしまうのだろうか。軽率な台詞から生じたぎくしゃくした成り行きに翻弄され、それが誰の思うがままなのかわからないが、誰かは何となくそんな気がしているようだ。何がそんな気なのかわからないか。無駄に言葉を弄しているうちに、ただ時間が過ぎゆくばかりか。事の重大さに気づいていないのは誰だろう。君はそこで何を感じ取っているのか。別に政治家に何をやって欲しいわけでもなく、世界がどう変わったらいいのかもわからずに、いったい何を述べようとしているのだろうか。ただ石が転がるように生きていればそれでいいのか。そこからどんな行動を期待しているのか。誰が行動する必要もなく、ただ予期せぬ事態に右往左往していればいいだけか。何が起こってもどんな問題が投げかけられても、ただ困惑するばかりなのか。現実に何をやっているのでもないらしく、何もできないことを誇るわけでもなく、そうかといって情けなく思っているわけでもない。もちろんそれが宿命だと思いたいのでもない。とりあえず運命に逆らうつもりはなく、神の意志を出し抜こうとしているわけでもないだろう。神など信じていないし、誰の裏をかいているのでもないらしい。予想外の言動を目指しているのでもない。単に何も述べられないのか。それでも何を述べようとしているのだろう。そんなとりとめもない結果を受け止められないようだ。そこには依然として何も生じていない。気休めに調子に乗っていた状況を思い出してみるか。まだ言葉が足らないようだ。しかし何をつなげようとも思わないのはどうしたことか。意味もなく漠然としているだけか。心身共に脱力感に覆われ、精神の集中が途切れたとき、出し抜けに雪でも降るだろうか。君は天気の話でごまかすつもりか。それはどのような基準に沿った意見なのか。意見などではないだろう。では何に基づいて言葉を発しているのか。そこにはどのような概念が想定されているのだろう。何も述べられないのに、修正不能なことを述べているつもりかも知れない。そして結果として何を生じさせようとしているわけでもない。結果とは何なのか。はたして壊れているのは精神なのか。ただ単に厳しいことを述べようとしているだけか。そうやって救いを求めようとする心を破壊したいわけか。叩き壊すべき対象を取り違えているのではないか。それらの何が改革なのだろう。何を改善しようとしているのか。他の誰かはそんなことをやる必要性を感じないか。何も出てこないことに苛立っているのかも知れない。誰かはそれ以外のどんな結末を求めているのだろう。何も恐ろしい未来を予言しようというのでもない。だらけているように思われ、何もする気が起こらないのだが、すでにかなりのことをやってきたような気もしてくる。


1月4日

 つまらない疑問とはどんなものなのか。なぜ人は生きているのだろう。何を問いかけているのだろうか。それらの何が冗談なのか。はたして冗談にはならないようなことを述べられるだろうか。人は冗談だけでは生きて行けないのかも知れない。ではたまには本気になって何かを語るべきなのか。何が本気な状態なのか判別できない。何を述べてもとりとめがないような気がする。誰かは心に安らぎが欲しいのだろうか。何を求めているのでもないような気がする。では何が気に入らないのだろうか。気に入らない何かを求めているわけか。自己顕示欲とは何なのか。自らの主張がどこかで認められたいのだろうか。誰もが何かしら思いを抱いていて、その思いを自らの主張という形で発表したいのだろうか。それとも秘めた思いのままでもかまわないのか。どちらでもいいような気もしてくるが、発表したそれが、自らの思いとはかけ離れているとしたらどうすればいいのか。いったいどこに向かって発表したつもりでいるのだろう。自らの思いと何なのか。何を思っているのか正確に認識できるだろうか。何も思っていない場合はどうすればいいのか。何も思っていないのに何かしら述べているとしたら、それはどういうことなのだろう。別に思いたいことを思っているわけでもないし、述べたいことを述べているわけでもなく、ただ思いもしなかったことを思っているのかも知れず、述べようともしなかったことを述べているのかも知れない。それは誰の意識から出てきた思いでもないし、誰が述べようとしたことでもないことを述べているわけか。そんなことがあり得るとしたら、それらの文章は誰のものなのだろう。誰のものでもなく、誰のものでもあり得るようなものか。やはりとりとめがないような気がするだけで、そんな風に思われるしかないようだ。過去の蒸し返しにはもう飽きたのだろうか。何を批判しているわけでもなさそうだし、誰かは批判する対象を見出せないらしい。人は死ねば腐るものなのだろう。地震による津波に襲われた地域には腐臭が漂っているようだ。深刻な事態なのに、あまり深刻だとは思われない。たぶん人は消え去るものなのだろう。それが不幸なことだとは思うが、不幸は必要不可欠なのかも知れない。どのような時代にあろうとも、人は腐臭と共に生き続けてきたのかも知れない。これからもそうなるのだろうか。許せないことを執拗にやり続けることが人間のすべてなのかも知れない。何をどうやってもうまくいかなければ、それをやり続けることしかできはしない。要するに生きることも死ぬことも、悲惨なままに留まろうとすることにつながってしまうのだろう。ただそれを悲惨だと思うか思わないかの違いがあるに過ぎない。実際これでもかと執拗に迷惑メールを送り続ける人は、その状態を客観的に見ればかなり悲惨なのだろうが、それを送り続けている当人は、案外ざまあみろと思い続けているのかも知れない。それは本当に思い通りの状況なのだろうか。その感情は本当に当人から生じているものなのか。自発的にそう思い、そのような行為をやり続けているのだろうか。本当に良心なんかくそ食らえとでも思っているのだろうか。その場合反骨精神とは何なのか。そんな高尚なものではなく、単に利益目当ての卑しい心しか持ち合わせていないのか。では復讐とは何だろう。何のために復讐という行為は存在するのか。人は何のために復讐しなければならないのか。そのような行為に駆り立てる動機というものはどこから生じるのか。安易にリベンジという言葉が使われている傾向があるのかも知れないが、何となく軽薄そうに思えてそんな風潮が好きになれないのだが、してやったりと思ってしまうこと自体、自らの馬鹿さ加減がわかっていない証拠なのではないだろうか。長い目で見ればそんなものは、忘却の彼方へと消えゆくどうでもいいような出来事にしかならないのだろうが、そういう些細な愚かさの積み重なりが、それと気づかない悲惨な人間を大量に生じさせてしまっているような気がする。それらの馬鹿げた行為の無限循環に囚われながら、人々は生きて死んでいくのだろう。要するにそんな世界のただ中で生きて暮らしているわけか。たぶん現実に何がどうなるわけでもないのだが、結果的に何かしらどうにかなったと勘違いするだけか。それ以外に何があるというのだろう。何もないわけではないが、ただそこには常に腐臭が漂っているだけなのかも知れない。そういうわけでどういうわけでもないが、とりあえず腐臭は人ともに生じているのだろう。もちろんそんなことはどうでもいいことだと強弁したい気にさせられるのだが。


1月3日

 なぜ君は冷静でいられるのか。何が冷静な状態といえるのか。日本国と呼ばれる国には不要なものがたくさんあるそうで、その中でも代表的なものが皇室なのだそうだ。たぶんそれは正解なのかも知れないが、公に述べてはいけないことらしい。たぶん普通の国家には行政機構と議会と裁判所があれば十分なのだろうが、歴史的経緯によってそこに余分なものが加わってくるようで、皇室もその中の一つなのだろう。確かに不合理な存在だが、誰かその存在意義を納得いく形で説明できるだろうか。昔からあるものだから、とりあえずは残しておいた方がいいということか。そんな説明では右翼が承知しないか。伝統とは何だろう。たぶん伝統とは何かなのだろう。君は伝統について何も述べられないか。伝統的な人間にはなりたくないか。いったい何が伝統なのだろう。なぜそんな風にして話をはぐらかしているのか。皇室について否定的に述べると身の危険を感じるのだろうか。それともそれ以上は何も述べることがないからか。皇室の存在を前提とした上で、公務がどうのこうの議論するのはおかしなことか。以前にも述べたことだが、憲法を改正して、皇室と国家を分離して、国家は共和制にして、皇室は宗教法人にでもなって、律令制に戻って、その信奉者たちのお布施の額に対応した官位を授ければやっていけるのではないか。しかし話者は本気で述べているのだろうか。それともいつもの冗談か。実現不可能なことを述べていることは確かだろうが、今さらなぜそんなことを述べる気になったのか理解できないか。気まぐれにその場の成り行きでいい加減なことを述べているに過ぎないのかも知れない。要するに何の必然性もないことを述べているわけか。皇室の存在自体が君には関係のないことだろう。だが君もこの国の国民なのではないか。毎年払っている税金の一部が皇室の維持に使われているはずか。金の問題ではないか。皇室も職業の一種なのだろうか。公務とは仕事の範囲内での行動なのだろうか。皇室の人々は公務員とは違うのだろうか。公務員でない人が公務も何もないのではないか。公務と公務員とは意味が違うか。その辺がよくわからないのだが、実際にあやふやでうやむやのままなのではないか。はっきりさせようとはしていないのかも知れない。はっきりさせる必要がないだろう。税金の無駄遣いと皇室を絡めて議論してはいけないのだろう。いったい宮内庁の職員は何人いるのだろう。皇室の有無でどれほど財政支出が違ってくるのだろう。たぶんその件で世論調査をやっても、皇室は不要だという意見が多数を占めることはなさそうな気がする。仮にそうなったとしても、違う結果発表が用意されているのではないか。もちろん国内のメディアにそんなことをやる勇気があるわけがないか。それは未来永劫触れてはならぬタブーなのだろうか。しかし君はなぜ簡単にその件について述べているのだろう。そういうことを述べても大丈夫なのか。たぶんまだそれを発表していないからか。だがこれから発表しようとしているのではないか。それは許されないことなのか。どこかで内容に検閲が施され、発表しても削除されるようなことにはならないのだろうか。とりあえずマイナーであれば、そんなことにはならないのかも知れない。メジャーなメディアが注目しない範囲内であれば、何を述べても何のことはないのかも知れず、そこに言論の自由が存在するのだろう。万が一報道機関でも騒ぎ出せば、とたんに周りから有形無形の様々な圧力がかかり、脅しに屈して発言を自粛しなければならないような成り行きに持って行かれてしまうのかも知れない。そういう意味ではマイナーであることは、何を述べても自由であることに結びつくようだ。どんなことを述べても無視されているうちはそれが可能なのであり、その意見に同調するような現象が顕著になったときから、言論闘争のような事態になってしまうわけか。たぶんここではそうはならないような気がするのだが、実際のところはどうなのか。天皇制の廃止に同調することは無謀なことなのか。右翼に襲われるリスクを冒してまで、そんなことに首をつっこむ必然はないか。とりあえず今の君にとってそんなことはどうでもいいことであり、実際に皇室の存在が有害とは思われないのかも知れない。皇室以前にまだ無駄をなくす必要がある行政機構はいくらでもありそうか。なるほどそんな風に逃げればいいわけか。面倒なのでそんなことに本気にはなれないか。本気になったとしても何ができるわけでもないだろう。わずかな暇にまかせて言葉を連ねる以外に、何をやるつもりもないのかも知れない。そんなわけでその程度のうちは人畜無害の範囲内なのかも知れない。


1月2日

 それにしても新聞を配達している人は、自分が配っている新聞の内容に興味はないのだろうか。その社説にはたいそう立派なことが書かれてあるだろうに、それを真に受けるような精神を持ち合わせてはいないのだろうか。毎日朝早くに起きて新聞を配り、昼は購読の勧誘にその地域一帯を歩き回る日々の中で、心が荒んでくだらぬ妄想の虜となってしまう人も出てきてしまうのだろうか。それはこの国特有の制度なのかも知れないが、新聞というメディアはそれを売りさばく段階での仕組みに欠陥があるような気がしてならない。押し売りまがいの勧誘員から強引に新聞を購読させられた過去の苦い体験が脳裏をかすめたか。やはりものの売り方がどのようなものであれ、大がかりな商売を展開するには、そこに何らかの犠牲となる人々がつきものなのかも知れないが、それをやっている当人たちは何とも思っていないにしても、そういう荒んだ職業に従事している人たちが事件の加害者となる度に、そこにある種の差別意識が形成されていくような気がしてくる。もちろん新聞配達員でなくても、幼児を誘拐して殺害するような事件を起こした人はいくらでもいるだろう。職業と事件を結びつけて語るのはおかしいのかも知れないが、新聞の勧誘員に良い印象を持っていないことだけは確かで、新聞を読まなくなった原因が勧誘員との押し問答にあったことは事実である。しかしそれはもう二十年近く前の出来事だろう。今もそんな勧誘員がいるかどうかはわからないし、こちらも少しは人間的に成長しただろうから、相手の口車に乗せられて安易に購読契約するようなこともないだろうし、押し問答になるような応対はやらないのではないか。あのような新聞の売り方は今もどこかで行われているのかも知れないが、あんなことはいくところへいけば日常茶飯事の当たり前のことで、そして多くの人に購読を断られているのだろう。たぶんほとんどの家庭で新聞は読まれているのだろうから、今さら新たに新聞を購読する必要もなく、勧誘員はそのほとんどが断られて当たり前の勧誘をやっているわけだ。新たにその地域へ引っ越してきた人以外は勧誘の対象になっていないのかも知れない。そんな風に考えていくと、勧誘員の態度を否定的にどうのこうの述べても、そんなことはいつもながらのどうでもいいことにしかならないのかも知れない。では幼女誘拐殺人事件の容疑者のことをどう思えばいいのだろうか。単なる哀れな中年男としか思えないか。彼は自己の欲望に忠実な正直者か、あるいは殺した後先のことまで考えが及ばなかった愚かな人か。何を考えていたのだろうか。あまり考えていなかったのかも知れないが、宮崎勤氏や神戸の酒鬼薔薇少年のように、過去に似たようなことをやった人が大勢いることに気づいていたのだろうか。そんなことを想像してどうするのか。もう少し何とかならないものだろうか。すでに日付的には明日を過ぎようとしている。たぶん人間は何をやってもいいのかも知れない。過去にひどいことをやった者がたくさんいることは動かし難い事実か。人殺しが社会的に容認できないことなのは当然だが、どうしてもそれをやってしまう人間が生じてくるのはどうしてなのか。それもやることが可能な選択肢の一つとして設定されているからだろうか。たとえそれが愚かなことや馬鹿なことだとわかっていても、やりざるを得ない状況に追い込まれてしまうものなのか。実際に殺しているときには、そんなことはわからないのかも知れず、殺してしまってから取り返しのつかないことをやってしまったことにでも気づくのだろうか。それでも気づかない人もいるかも知れない。中には詫間守氏のように死刑になりたくて人殺しをやった者までいる。今回の新聞販売員に関しては、何となく惨めで格好悪そうな風体に見えてしまうことで、女性にもてないコンプレックスのかたまりのような男だと誰もが想像してしまうのだろうが、そんな男の性的対象が幼児に向かうことで、さらなる救いがたい悲惨さを醸し出している、というその手のアダルトサイト的な紋切り型の見解になってしまうのかも知れない。それもそれでその手のメディアが取り扱う題材としては利用可能な事件になっているのだろう。そういう意味で新聞販売員の男は、メディアからありふれた性格を付与されている。要するに百科辞典的に分類可能な種類の人間だ。これから裁判でこれまでになかった異常さをあらわにする可能性もあるにはあるが、今のところは宮崎勤氏や酒鬼薔薇少年や詫間守氏よりはランクが下なのだろう。とりあえず殺された小学生やその家族や周囲の人々にとってはたまったものではないのだろうが、これからも社会はその手の人間を生み出す可能性があることは確かだろう。今のところそれらの犯罪に歯止めをかけるような方法はないように思える。


1月1日

 いつものように限られた時間の間に、何をやろうとしているのかわからないが、とりあえず良くなるきっかけが見あたらないように思われる。それ以上良くなってどうするのか。何かそれらの状況が好転するような兆しでも感じ取ったのだろうか。良いのか悪いのかよくわからないが、そんなことを思っているうちに今日も過ぎ去ろうとしているのか。確かに日々は過ぎ去るものらしいが、そこで何が積み重なって行くのだろうか。それは過去という無駄で余計な記憶か。記憶も日々とともに忘れ去られるものかも知れないが、君は過去の何に興味を持っているのか。そこでは相変わらず誰が何を語っているわけでもなく、誰がそれらの現実を捉えているわけでもないが、君は何が現実なのかわかったつもりになれるだろうか。つもりではなく、それが現実だとわかるだろうか。安易にわかったと思っていると馬鹿だと思われるか。馬鹿でもかまわないからわかっている振りをしていたいか。そして利いた風なことを述べていたいわけか。どうも話し始めるきっかけをつかめずに、成り行きまかせに粗雑な内容になっているようで、結局はわけがわからなくなって、いつものように意味不明な言説へ逃げ込もうとしているのかも知れず、その時間と場所から、何を語り始めようとしていたのかわからなくなる。それでも強引に語ろうとするならば、誰かの神経や精神は、それらの継続にどこまで耐えられるだろうか。しかしそこで何が試されているわけでもなく、年明け早々からすでに意識は意味のない空虚に耐えられなくなっているのかも知れない。しかしそれでも何もないわけでもないはずか。では架空の意識は空虚の中で何を想像しているのだろう。世界の終わりか。そんな答えでは安易すぎるだろうか。確かについ先日までは終わりの時を過ごしていたはずだが、それらの雰囲気は簡単にリセットされて、またいつもの始まりを経験しているらしいが、それは単なる時間的な区切りでしかなく、当たり前のことかも知れないが、終わりは始まりにつながっているのであって、絶えず時間は始まりと終わりの間を循環しながら進んでいるわけで、もちろんそれがどうだというわけでもなく、それについて何を思う必要もなく、どこかに実在するかも知れない誰かは、年の初めに何を思うでもなく、また何をやるでもなく、いつもの日常を送りながらも、やはりある種の物足りなさを感じているらしく、ある種という種がどんな種なのかわからないが、どこかの畑で穀物の種でもまかれているのだろうか。ある種は穀物とは無関係だろう。しかし種がまかれたのはいつの出来事なのか。たぶん去年も来年もどこかの畑では種がまかれたりしているのだろうが、そんな風に話を展開させるのは不自然だろうか。年の初めに何が始まろうとしているわけでもなさそうに思えるから、退屈を紛らすためにでたらめなことでも述べているのだろうか。それはでたらめとは少し趣が違うか。しかし何が退屈なのだろう。昨年末には史上最大級の地震で多くの人々が津波に流されて亡くなったではないか。それと誰かの退屈な日々とは結びつかないように思えるが、災害は過去の出来事であり、また未来の出来事でもあり得る。では誰かは災害から身を守るためにどうしなければならないのだろう。畑に穀物の種をまくことと災害は関係ないように思えるのだが、思いついたすべての対象について一つの文章の中で語ることは無理なのかも知れない。まるで無関係な別々のことをつなぎ合わせるには何が必要なのか。それは災害から身を守ることとどんな関係があるのか。別に今すぐそんなことをやる必要はないのかも知れないが、戯れにくだらない文章のつなぎ方を試してみたくなっただけなのだろうか。それは単なる成り行き上生じた不幸な巡り合わせかも知れないが、語りつつあるその大半は、いつもながらの自己言及でごまかしているに過ぎないのではないか。それは災害や自然の猛威とは無関係な内容を構成しつつあり、たぶん何について述べているのでもなく、その述べていることについて、繰り返し述べているだけなのではないか。やはりそれはごまかしそのものでしかないか。だから何も始まりようがないわけか。そこから何を語り始められるわけでもなく、ただそれは少し違うと思われるだけで、微妙に本質からずれているように装いつつ、それに失敗しているような気がするだけか。結果として戯れにくだらないことを述べていることにしかならないのかも知れない。どうもまた今年も過去の蒸し返しばかりが語られる宿命にあるのか。それはどんな宿命なのか。何が蒸し返されているのか不明だろう。誰かは過去に何か内容のあることを語ったことでもあるのだろうか。たぶんその誰かが特定の誰かになれば、その有無がはっきりしてくるかも知れないが、今のところ誰かは架空の誰かに留まり続けているようだ。今年もそこから何も始められないらしい。


2004年

12月31日

 別に今日が世界最後の日というわけでもないだろうが、白々しくその時空で何が終わろうとしているのだろう。誰もそんな風には思わないか。思わなくても今日が一年の最後の日らしい。だが意識はそれらの現実には関わりたくないようだ。目の前の現実を無視し続けているらしいが、それ以外のことについて具体的に何を述べるわけでもなく、誰かが空想した虚構の世界で何を体験しているわけでもない。ただそこから逸脱しようとしているだけか。誰かはどこかでそんな印象を求めているつもりのようだ。そしてそれらの空間をいつもと変わらぬ状況に見せかけたいらしい。壁に掛かった肖像画の顔から脂が抜け落ちている。ついでに植木鉢の中で枯れて干からびている草に火がついた時を空想してみる。そんな言葉遊び的な表現では気に入らないか。それらの何が言葉遊びなのだろう。ではわざとらしくも唐突な転調が腑に落ちないときは、他に何を考えればいいのか。考える糸口をどこで探せばいいのだろう。何も見せかけだけのジャズ的な思考を展開させているわけではない。画面をにらみながら、あり得ないことをいくら考えてみても、虚しさが増すばかりか。ではその状況からどうすれば抜け出られるのか、それを考えてどうするのだろう。そこから何を実行に移せば気が済むのだろう。実際には浅はかなことを述べているらしく、さらにどうすれば気が済むのか考えあぐねているようだ。意識にはそれらのどこまでが冗談なのか判別がつかない。わざと言葉を間違えているのだろうか。述べていることのどこまでが本気なのかわからないところだが、冗談と本気の区別などつくはずがないか。そのどちらの状態でもないとき、たぶん言葉がつながって行くのだろうが、意味が置き去りにされている。それについてまともに考える術を見失い、成り行きまかせにどこまでも継続させようとしているらしく、どこでどうなってしまったのかわからないが、わからないままにそれをわかろうとせず、それでも何を述べているのかわからない状況を肯定できるだろうか。たぶん肯定も否定もしない意識の存在を想定しながら、それに合わせた雰囲気を醸し出す言葉を模索しているのかも知れない。しかしそんなまわりくどい嘘は馬鹿げているか。何が本気で何が冗談なのか、そんなことを語りたいわけではない。だがそこで何を否定しているのだろう。夜の寒さで頭がいかれてしまったのか。暖房で温い思いをしながらつく嘘としてはありふれているか。いったい誰の頭がいかれているのか、誰がそれを特定しようとしているのか。現実の寒さに震えている誰かにとっては、何が嘘なのかわからない。手の甲に刻まれたあかぎれがなかなか治らないようだ。たぶんある状況下においては述べていることのすべてが真実に思えるときもあるらしく、それらの作り話のどれもが捨てがたく、それらを混ぜ合わせて意味不明な効果を醸し出したくなるのかも知れないが、それで何を説明していることになるのか。どんな話をしたかったのか思い出せないようで、そこからどう話をつなげればいいのかわかりかねるか。とりあえず話をまともな方向へ戻さなければならないようだが、それらのどこにまともになるきっかけがあるのか、何をまともに見せかけようとしているのか、そこからそれらの何をどうすればいいのか、そんなことがわかるはずもなく、またさらにわからないままに言葉をつなげようと試みるしかないのか。誰もそんな風にやれるとは思わないか。だが過去のどこかにそれと似たような言説が埋もれているかも知れない。しかしそれを探し出すには過去の文章を読まなければならない。はたして今から読む時間があるだろうか。読み終わる前に記憶が死んでしまうのではないか。その辺の嗅覚がどうかしているようだ。しかし画面から文字を記したときのインクの匂いが漂ってくるわけもなく、どうかしているのは嗅覚ではなく視覚なのではないか。誰かの目は文字以外の何を見ようとしているのだろう。ならばわざとらしくこれでもかと繰り返される紋切り型のリズムが聞こえてきたりするだろうか。耳で文字を見ているわけでもないか。そんな文章のねじ曲げ方がわざとらしいのかも知れない。やはりここに至っても、どうも建設的なことは何も述べられないようで、とりあえずひねくれた風を装わないと気が済まないらしいが、何とかそこから肯定的な意味を掬ってみたいような気もするが、その気がないのは気のせいだけではなく、本心からそう思っているのかも知れず、それが誰の本心なのか不明確だが、何となくそれでもかまわないような状況に持っていきたいらしい。たぶんそれらの考えを述べているのは不特定多数の人々なのだろう。


12月30日

 言葉がまとまらないうちに明日になってしまうらしいが、少し時が経つのが早すぎないか。そんな風に思われるのは老いた証拠か。まだ老いるような歳でもないだろう。誰の歳のことを述べているのか。あれらの文章に私という言葉が消えてから久しいのかも知れない。あのときから数年しか経っていないのに、なぜ遠い月日を思い出しているような気分になるのだろう。歳月の何がそうさせるのか。あのときとはいつのことなのか。あのときはあのときでしかなく、いつまで経ってもあれらは作品と呼べるようなものにはならないようだ。誰からもそう思われない理由や原因はどこにあるのだろう。それは何かのフィクションなのだろうか。誰がそこに存在しているわけでもないか。では誰か以外で、あれらには何が欠けているのだろうか。欠けているのではなく過剰なのか。逆説的な表現を用いて、空虚が過剰に横溢しているとでもいうわけか。そんな物言いでは、わざとらしく浅はかに思われるだろうか。ただ単に内容が希薄でわけがわからないのではないか。では何がわからないと思われるのか。あれらとは何のことなのだろう。少なくとも誰が誰に問いかけているのわからないが、それが独り言だとかつまらない愚痴だとかいうわけでもなく、ただあれらの言葉を繰り出しているときの意識が、時の流れに乗り切れていないように思われるだけか。そんな場当たり的な嘘では説得力を得られないように思われ、あれらの納得しがたい言葉に反発して、語っている内容はそれだけではないと思いたいらしいが、そんな思いとは裏腹に、今日も明日も何事もなく過ぎ去ろうとしているらしく、気づいたときにはもう夜になっているだろう。だが夜になればなったでどうなるわけでもなく、寒くなるだけの状況の変化に精神が耐えられなくなるか。しかし画面の中でうごめいている登場人物の誰もがそれに気づくわけもなく、賞金が高そうなクイズ番組の中で盛り上がっているだけのようだ。そんな一方的な情報伝達を当たり前のことと思い、ただひたすら画面を眺めているだけでは、何かが失われていくように思われ、急いでテレビから視線を逸らして、別の画面をのぞき込むが、そこでは誰が何を述べているのか、はたしてそれを確かめる必要があるか疑問に思いつつも、それでもいつものように連なる空疎な文字列を目で追いながら、そこで誰が何を思っているわけでもないことを、その意識なりに悟ったつもりになるだけか。なぜそれらの文書が空疎だと思うのか。空疎でなければ何なのだろう。それでも何か思っていると思い込みたいのだろうか。君は何を思っているのか。君とは誰なのか。そんな展開には飽き飽きしているだろうか。それではそこからどう話を展開させれば気が済むのか。どこかにあるかも知れない得体の知れない物語で、気まぐれに誰かが何かを断念したつもりにでもなれるというのか。できることならそんな内容にはしたくないと思われるか。だがそこから容易に飛躍することなどできはしないか。ではただ黙って他愛もなさそうなテレビ番組でも見ていれば、それで暇つぶしや気晴らしになったと錯覚できるだろうか。わざと錯覚したつもりになってどうするのか。そんな暇があったら、何か他のことをやった方がいいのだろうが、わずかな暇を有効活用できる手段も方法もあるとは思われないようで、ただ何もやらずに時が過ぎ去ってゆくのを感じるだけか。意識はそこから何を思いたいのだろう。思いたい前に思っているだろう。とりあえず何を断念したつもりになっているのかを知りたいか。何らかの文章を構成することをあきらめているのではないか。訳知り顔を装いたい誰かには、何もかもが退屈に感じられるらしく、どうでもいいような出来事によってこの世界は覆われていると思われるらしいが、一方でそれに対する否定の声が遠くから聞こえているような気がしていることも確かだ。それは神の気まぐれによって繰り出された意味不明な声か。辺り一面に響き合っている様々な言葉の意味は何なのか。やっていることがどうにも収拾がつかなくなるのは、どのような状況においてなのか。今さら始めからやり直せるわけもないか。もはやすべてが手遅れだと思いたいようで、そこから立ち直ろうとする意識を、感情が無理に押さえ込んでいるのかも知れない。君が生きていると思い込んでいる期間はほんの一瞬の間しかない。それが何と何の間なのか考えを巡らす暇もない時間だ。誰かはその間に何を思うだろう。何も思わず、ただ瞬く間に老いて行くだけか。話が不自然に折れ曲がっているようで、話の脈絡が感じられないが、とりあえずそんな意味不明では不満なのだろう。


12月29日

 夢の中で鳴りやまない音楽を止めようとして、目を覚まして鳴りっぱなしの音源を止めた。なぜ夢の外側で鳴っている音に夢の中で気づいたのだろう。そんな他愛もないことに感動してどうするのか。どうもしないが、すでに終わりの季節も終わろうとしているらしく、数日後にはまたいつもの年が明いてしまうのだろう。ここ数年は同じことの繰り返しのような気がする。何もできずにまた一年が終わるだけか。たぶんそれは嘘なのだろうが、とりあえずそんな嘘でもついておけば、少しは新しい出来事に出くわしたように思えるときもくるだろうか。思いがけず何に遭遇するというのか。新しい感覚でも手に入れることができるだろうか。どうでもいいことかもしれないが、何もかもあきらめてしまったわけでもないが、何となく見聞する世の中のすべての現象が馬鹿らしく思えるのは、自らが思い上がっている証拠だろうか。こだわるところがどこにもなくなりつつあるらしく、すべてがどうでもいいように思われてしまい、どうなってもかまわないような気がしてきて、そこで興味が途切れてしまうのはどうしたことか。正当に評価するに値する対象がどこにもないと思われてしまうらしい。要するに現実に感じる何もかもが他愛のないことのように思えてきて、この世界のすべてが一瞬のうちに消滅してしまっても一向にかまわないと思われてしまうようだ。他人の痛みを感じなくなってきているのかも知れないが、例えばテロや災害で何人死のうが、それがどうしたわけでもないだろうと思えてしまう。そう思えてしまう原因は何なのか、それが今ひとつよくわからないのだが、それらの出来事が頻発してしまうと感覚に慣れが生じてしまうということなのか、ほんの数日前に津波で何万人も死んでしまったのに、別にそのことに大した衝撃を受けたわけでもなく、ただ淡々と日々を過ごしているに過ぎないらしく、周りの状況が何も変わらないことに苛立つわけでもなく、今日もいつもと同じようにつまらない言葉を適当に連ねているだけのようだ。それ以外に何ができるというのだろう。何もできはしないと思っているわけか。何かできることがあるといえば、義捐金でも送ることぐらいか。それらの災害とは関係なくできることといえばそれは何だろう。少なくとも眠くなってあくびをすることはできそうだが、そんな勘違いな思いを修正することはできないだろう。人はなぜ移動するのだろう。同じ場所に留まっていると退屈になるからか。そんな問答自体が退屈に思われる原因を探ろうとは思わない。唐突にそれとは違う言葉が繰り出されるのを期待しつつも、退屈に堪え忍びながらそこへ留まり続けている意識をどうすることもできずに、なぜそこから移動しなければならないのか、その理由を探し求めているわけでもなく、導き出そうとしている答えが、それとは無関係なものであるように願いつつ、祈っている対象が神でないことを祈りつつ、願うことと祈ることが多少は違う意味を持っていることを無視しつつ、やはり何を述べているのでもないことを悟っているらしい。架空の誰もがそんな風には思わないだろう。まだ誰も亡霊にはなりきれていないようだ。津波で死んだ何万もの人々のすべてが亡霊になってしまったら、化けて出る場所が足らなくなるか。無数の死骸は波に揺られながらやがて海の底へと降って行き、深海に棲むエビやカニのえさにでもなるのだろうか。そんな風になってしまったら、言葉的な表現としては海の藻屑となったことになるのだろうか。人はなぜ移動するのかの答えの一つとしては、移動して気晴らしがしたいからということになるだろうか。中には気晴らししたついでに津波にさらわれて、海の底まで移動してしまう人もいるということか。しかしそれがどうかしたのか。誰かがつまらないことをつぶやいているらしく、そのつぶやきに合わせて、何かいい加減なことを述べているような気になってきたようだ。たぶんそれがどうしたわけでもないらしい。どうもしないからこそ正気でいられると思っているつもりのようだ。本当のところはよくわからないが、おそらく狂気に囚われているわけでもないような気がしているのだろう。しかし地震や津波ばかりが話題となっているようだが、テロの方はどうなったのか。たかが数十人が死ぬぐらいでは大したことはないのかも知れず、天災に比べれば人災など些細なことでしかないか。だがそんな些細なことも執拗に継続されるとたまったものではなくなって、いつかアメリカ軍も音を上げるときがやってくるだろうか。もちろんそうなったからといってどうなるわけでもないような気がするのだが、この世界のとりとめのなさをどうにかするためには、何が必要なのだろうか。何も必要ではなく、どうにかしようとする考えを改めなければならないのかも知れないが、なぜそうしなければならないのかはよくわからない。ただそんなことはどうでもいいとしか感じられないだけで、それ以外の感じ方があり得ないのかも知れない。


12月28日

 どうも誰かは未だに継続の意志を捨てきれないようだ。何を今さらわざとらしいことを述べているのか。それは見ず知らずの他人には理解できないことか。別に他人に理解してもらおうとは思わないようだが、何が理解できないのかわからないか。はじめから理解しようとしていないのかも知れない。ではなぜそうなってしまうのだろう。別になぜという疑問を呈するほどのことでもないか。しかし何を理解しようとしていないのだろうか。それを誰に理解させたいのか、理解させる対象が不明なのかも知れないが、理解の対象がなければどのようにもなりようがないのではないか。何を述べても何の必然性もないか。それがないのならどうだというのか。そこで立ち止まることができないのだろうか。立ち止まってどうするのだろう。そうやって意味もなくどうでもいいようなことを述べて続けていると、口の中が苦くなるか。誰でも苦い液体を飲めばそうなるだろう。誰かはまだ紅茶が飲みたいのか。しかし寝て起きて真夜中になってしまったことが、なぜ意識には理解できないのか。それは理解の対象ではないからか。そんなことを理解するために言葉を弄しているわけでもないか。またそうやってわざとらしい言葉を記述する作業は翌日の午後にまでずれ込んでいるらしいが、下手をすると夕方からまた再開しなければならなくなるのかも知れない。要するにいつもの悪い癖が出て、何もないのに言葉を繰り出そうとしているだけであり、どこにも存在し得ない架空の誰かには、その状態からどうやって脱却すればいいかなんてわかるはずもないか。架空なのだからわかるわからない以前の問題だろう。では現実の意識は、これから何をやればいいのかわかっているはずか。とりあえずやるべきことをやらなければ、さらなる継続は不可能だろう。そんなことはわかりきっていることで、そのためにもこのタイミングで無意味な言葉を吐き出しておかなければならないわけか。しかし嘘八百の他に何を述べているのだろう。やる気がしないのはいつもそうなのだが、時にはそんな継続の仕方もありなのかも知れないが、それでもわけのわからない膠着状態から抜け出ることができないようで、それらのわざとらしい言葉の連なりのどこに出口があるわけでもないらしい。ありもしない出口から出たいとは思わないか。それはやるべきことではないのかも知れないが、そんな語り口が文章表現の軽さを醸し出しているとは思えないか。もはや負担を減じる効果を期待できない述べ方には愛想が尽きたのか。いつからそうなってしまったのか知らないが、何事も簡単に成し遂げられるわけがないことは承知しているつもりだが、なぜいつも冗長気味な説明に終始してしまうのか理解しかねるか。だから誰が理解しかねるのかわからない。いったいそれで何について述べているつもりなのか。それがわかったら苦労はしないか。いったい何がわかるのか。とりあえずそれらの説明には今ひとつ乗り気でないらしく、それがあまりうまい話だとは感じないようで、これからどう修正しながら語っても、うますぎる話にはなり得ないだろう。しかしそれを了解することによってどんな利益がもたらされるわけでもない。それどころか何の利益も得られないようなことをやろうとしているのかも知れず、ただの骨折り損のくたびれもうけになろうとしているようだ。そんな風に思われるのはどうしてなのか。別に儲け話をしているわけでもないだろう。ではさっきまでは何の話の最中だったのか。何となくそこからずれてしまいたくなる。人々はこの地上以外のどこに暮らしているのだろう。未来においてどこか別の場所を確保する可能性でもあるわけか。また空想の中には誰が住んでいるのか。架空の彼らは何を糧にして暮らしているのか。だがそれはどんな空想なのだろう。それらの虚無は現実の生活の何を蝕んでいるのか。虚無は具体的に何を目標にして攻撃を仕掛けてきているわけなのか。何をやらせまいとしているのか。そこにはどのようなブレーキが利いているのだろうか。どんな方向へ飛躍することを妨げているのか。しかしそれらの全貌として構成されていると思われる精神と呼ばれる概念は、虚無からの作用によってどんな障害を負っているわけなのだろう。何かをやろうとすると必ず何らかの制約を受けるのは当然のことではないのか。とりとめのない妄想がそのまま実現するはずがないか。だがそのような作用は何を実現させようとしているのだろう。何を成し遂げようと努力しているのか。しかし虚無が構成する架空の精神は、何となくそこで挫折しそうになっているようで、どうもその挫折を乗り越えることができそうにないらしい。だがらとりあえず睡眠を取らなければならないわけか。しかしそれでどうなるわけでもないだろう。どうなるわけでもなかったら、それはどうでもいいことではないのか。ところで虚無はどんな理由で存在しているつもりなのか。何か理由がなければ眠ってはいけないのだろうか。眠りたいのは虚無ではなくそのときの意識だろう。だが意識にはそのわざとらしい言い回しは理解できない。


12月27日

 もはやイデオロギーは尽きている。しかしイデオロギーとは何だろうか。その言葉が醸し出す雰囲気ぐらいならわかりそうなものか。別にイデオロギーについて何か述べようとしているわけでもないだろう。その他に何か主義主張でもあるのか。この期に及んで今さらどんな主義を主張したいのか。それは時代遅れの社会主義か共産主義の類なのだろうか。そんなものはどこにもありはしないか。どこにあるのか知りたければ探してみればいい。そんなものを誰が探す気になるだろうか。では資本主義ならどうなのか。改めて探す必要はなく、今この世界中に現前しているのか資本主義なのだろうか。今や中国ですら資本主義体制だ。彼の地でやっていることは金儲けの他に何があるのだろうか。何か世のため人のためにやるような行為がどこにあるのだろう。慈善事業は金持ちになってからやることか。なぜそれ以外のことが思い浮かばないのだろうか。たぶん失業者以外の誰もがやっている仕事の目的は、金儲けに直結しているということか。金を得るためには仕事をしなければならない。金がなければ生活していけないから仕事をしなければならない。だから誰もが金儲けに精を出さなければならず、余暇に暇つぶしができるのも仕事をやっているからか。しかしなぜ今さらそんな当たり前のことを述べているのだろうか。別にそれが恐ろしい制度というわけでもないだろう。逆に仕事をしない方が恐ろしいことかも知れない。また仕事をしても金が儲からないことも恐ろしいことか。金儲けに直結しない仕事には深刻な欠陥がある。ともかく衣食住が確保されていなければ、そこから先に思考が及ばないだろう。仙人ではないのだから霞を食って生きていくわけにはいかないか。たぶん多くの人々はそんな仕事に束縛されながらも、仕事から逃れてありもしない生活を夢想していたいのかも知れない。遊んでいるだけで生きていけたらどんなに愉快だろうか。遊び呆けてばかりだと気が狂ってしまうか。しかしそこからどんなイデオロギーが出てくるのか。閑人以外にイデオロギーなどという言葉を真に受ける者はいないか。年金暮らしの老人なら社会主義や共産主義に傾倒している暇があるか。しかしそれでは社会主義も共産主義も余命幾ばくもないのではないか。老人から老人へと受け継がれるなら、案外長続きするかも知れない。これからは高齢化社会になっていくわけだから、そうなる可能性もなきにしもあらずか。余命幾ばくもないのにあまり資本主義的に殖産に励んでみても仕方がないだろう。老人が財産を殖やそうとするから詐欺に遭ってしまうのではないか。年寄りの冷や水という表現がこの場合は当てはまるだろうか。老人になったら慎ましく暮らしていける以上の貯蓄などせずに、社会主義的あるいは共産主義的に世のため人のために生きていけばいいのではないか。要するにささやかなボランティアでもやっていればいいということか。しかしそれは何かの冗談かも知れない。なぜそこにイデオロギーが不在なのだろうか。そんなものが社会主義でも共産主義でもあろうはずがないか。あまり本気でそれらの主義について論じているわけではないらしい。ここで特定の主義や主張について論じるつもりはないか。歴史的にそう呼ばれてきた血なまぐさい主義や主張を肯定する気にはなれないか。過去においてなぜ多くの人々がそれらの主義や主張に殉じてしまったのか。そこには何か資本主義から逃れることができるかのような幻想があったのかも知れない。人々が抱いている利己的な欲望を甘く見ていたのだろうか。別の制度を構築することによって、それらの欲望を沈め、害にならない程度に制御できるとでも思っていたのか。結果的に思えば、現状では何もかも計画的に制御できるはずもなく、絶えず偶然的あるいは突発的に起こる出来事によって、どうにでもなってしまうような成り行きの恐ろしさを、過小評価していたことは確かなようだ。しかし理論だけではどうにもならないことがあるのは当然だとしても、それでも理論を構築しようとしなければ何もわからないことも確かで、何らかの思考と実戦から導き出された理論を現状に当てはめてみて、その理論が現状にうまく適合しない場合を導き出して初めて、現状の形状や性質を知るに至るのであって、そういう意味で理論はとりあえずのものでしかなく、その理論に当てはまらない状況を探し出すために理論は必要なのであり、要するに絶えずうち捨てられるために理論は存在しているわけか。もちろん理論家はうち捨てることの不可能な究極の理論を見出そうとしているわけだが、今のところそんなものの存在は確かめられていないようで、もしその存在が確かめられ、証明されでもしたら、そこで人間は考える必要がなくなってしまうだろう。何事もその理論に当てはめて行動すればいいだけの存在となってしまうからだ。そうなれば完璧な社会主義的な計画経済が実現するのかも知れないが、もちろんそんな社会がおもしろいはずがないだろう。究極の理論がないからこそ、人間には考える自由があり、成功する自由も失敗する自由もある。


12月26日

 事態が打開するわけがない。テロが一向に収まる気配がないのは当然のことか。怖いものは何もないのだろう。だからやりたければいくらでもやればいいだろう。誰に向かって述べているわけでもない。テロリストはいつの時代でも少数派だ。いくらテロをやってもテロの対象がなくなるわけがない。続けられるなら永久にやり続けられるのではないか。勝利することも敗北することもない。盛んになるか下火になるかの二つの状態しかあり得ないだろう。たぶんテロをやるのが面倒になったらやらなくなるのだろう。テロの代わりに別種の遊び道具でも与えてやれば案外気が済むかも知れない。頭がよければマネーゲームでもやればいいのだろうか。もとになる金がなければどうにもならないか。別に本気で述べているわけではない。それらの文章の対象にテロリストは含まれないのか。暴力の行使に資本力の行使も含まれるのだろうか。いったい彼らは何を用いて競争しているのか。競争ではなく戦争だと思っているわけか。競争という言葉ではまだ生易しく感じられるのだろうか。何でもいいからとにかく力による押さえ込みを推し進めればいいのか。民族対立や宗教対立を利用してテロを助長させることが、誰かの使命なのかも知れないが、それでは何となく面倒臭いと思わないか。そんな見方や考え方では世界情勢を説明することはできないか。とりあえず何でもありなら暴力の行使が手っ取り早い手段であることは明白だろう。そんな暴力は何に結びついているのだろうか。犯罪行為か何かだろうか。それを国家に属する軍隊がやるなら暴力も正当化されるだろうか。要するに暴力の行使にも国民の支持が必要不可欠だということか。では暴力の行使を正当化する大統領の再選を支持したどこかの国の国民は暴力的な人々なのだろうか。形式的にはそういうことになるのだろうが、実質的にも暴力が国内の至る所に蔓延っている現状もあるようだ。たぶんそれらの社会は性と暴力によって支配されているのかも知れない。ある面においてはそういえるかも知れないが、もちろん別の見方や考え方も可能だが、それらをどのように見なそうと何が変わるわけがないか。変わるわけがないかも知れないが、中にはそれを言葉によって変えようとする人々も存在している。要するに現状分析を繰り返して、絶えず処方箋じみたものを言葉で提示し続けているわけだ。これから世界はどうなるべきなのか、人々はどう行動すべきなのか、各国の指導者はどう行動すべきなのか、そんな内容を訴え続けている。過去において彼らの言葉が聞き入れられたことがあっただろうか。部分的にはあったかも知れない。ではそれでどうなったのだろうか。世界はこうなったわけだ。たぶんこれからもこうなり続けるだろう。こんな現状であり続けるのかも知れない。それでも世界は変わったといえるだろうか。昔に比べて良くなったと思えるか。その時代ごとに良い状態の概念が異なっているかも知れない。たぶん未来においても、この時代とは別の良い状態になるように願っている人々が存在するのだろう。人々が抱く価値観もそれと取り巻く状況も変容していくのだろう。何が良くて何が悪いかの基準は絶えず変動し続けているのかも知れない。性急な暴力の行使が良いと思う人はあまり多くないと思いたいが、それらの人々はどうしようもなくそれに頼っている現状をどうすることもできないらしい。ただ暴力が行使されているテレビ画面を見ながら嫌な思いが募るばかりなのかも知れないが、それを変える手だては思いつかないのだろう。仮に思いついても実行に移す力がないのだろう。一市民にそんなことができるはずがないか。自らの生活を犠牲にしてまでやるようなことではないか。成功する可能性のまったくない行為に身を捧げるのは馬鹿げたことだろうか。それは正しい認識に違いない。それも一つの物語に過ぎないのだろうか。そのすべてが架空の話であって、その手の漫画やアニメの中に登場するヒーロー気取りになりたいだけのことでしかないのではないか。一時的にそういう気分でいたいということでしかないか。そして現実とフィクションの違いは、そう思っている人物に超人的な力が備わっているか否かの違いか。大げさな力が発現してすべての問題を一挙に解決してしまうという幻想と戯れるのは気持ち良いことなのだろう。一時的に現状のどうしようもなさを忘れることができるからだ。だがそればかりに浸っていると幼稚になってしまうのではないか。何でも短絡的に考えることしかできなくなってしまうのではないか。だからこそフィクションはフィクションでは何も解決しないことを自らの内に示すべきなのかも知れない。


12月25日

 言葉がどこにも見あたらないのはどういうことだろう。どういうことでもなく、これから言葉を記述しようとしているところだからか。だがそれが始まりではない。何も始まらないのかも知れず、始まりの言葉を失ってしまったのかも知れない。誰の意識が何を思っているのか知らないが、そこから何が始まるわけでもないらしい。何も始まりようがないのかも知れない。しかしすでに始まってしまっているのはどういうことなのか。何が始まっているわけでもなく、それとは別のものが始まっているに過ぎないのか。始まれない意識はどこかに置き去りにされてしまったのかも知れない。言葉を繰り出しているのはそれとは別の意識なのだろう。それが誰の意識なのか別に知りたくもないが、たぶんそれを知っている意識は言葉を繰り出している意識と同一の意識なのだろう。誰がそれを知りたいわけでもないが、ただそんな仕組みによって言葉が繰り出されているだけか。だから何も始まりようがないのだろうか。始まらせようとする意識が不在なのだろう。しかし何がだからなのか、そこで意味がつながらないのではないか。面倒なのでそんなことはこの際無視して、とりあえずだから何も始まらないということにしておこうか。始まらないのに始めているのは、くだらぬ矛盾を醸し出すためなのか。では言葉がどこにも見あたらないというのは、ここにいたって否定されるべきことなのか。いったいどこに言葉があるのだろう。それは言葉ではなく、ただの文字に過ぎないのではないか。だが言葉と文字をどうやって分けられるのか。それは何かの冗談か、それとも通常とは別の意味で言葉と文字を分けて論じているわけか。そんなことをやればさらに面倒な展開になってしまうではないか。言葉の表現形態としては音声と文字の二種類があるというのが、一般的な考え方だろう。またただ文字が羅列されているだけで、それが言葉になっていないというわけでもないだろう。一応は意味を伴った言葉が連なっている状況のただ中に、それを記述しつつある意識が存在しているはずか。存在していると同時に、そんな意識を空想している。内面のどこかに適当な文章を記述しつつある意識があるはずだ、と意識は思っている、と記述しているところか。だがそれがどうしたというのか。別にどうもしないのではないか。しかしそれらの文章のどこに意味があるのだろう。君はそれらの文章にどのような意味が宿ることを期待しているのか。何を期待するまもなく終わろうとしているのではないか。何も始まっていないのに、すでに終わろうとしている文章を意識は記述しているらしい。いったい内容はどこへ行ったのだろう。どこへも行きもせず、始めから見あたらないだけか。何も期待されないうちに、始めもしないのに終わろうとしているのか。そんなことがあるはずがないか。あるとしたらどうだというのか。それが何だというのか。何でもなく、どうしたわけでもなく、ただそんなことをやっているらしい。たぶん誰かの意識の中ではそれもありなのか。何でもありなのだから、それもありだと思うわけか。しかしそればかりでは虚しくないか。虚しいからどうだというのか。虚しいとどうにかなってしまうのだろうか。実際にどうにかなっているのかも知れず、そのどうにかなってしまった意識がそんなことを記述しているのかも知れない。そんな記述ならいくらでも可能なわけか。そんな風に思われるようだが、それをやるには抵抗感を伴う。はたしてそんなことをやっていていいのだろうか。だが事の善し悪しがやるかやらないかの判断基準になっているのだろうか。記述しつつある意識は良いわけも悪いわけもないと思っているのかも知れない。ただ何も思わずに言葉を連ねて文章を記述しているだけか。しかしそれで何を述べていることになるのか。それでも何かしら述べているつもりで記述しているのか。そんなやり方が通用するのだろうか。いったいどこで通用させようと思っているのか。そんなことはわからないし、別に通用しなくてもかまわないのかも知れない。やはりそれらの行為は制御することの不可能などうしようもない行為なのだろうか。ただやりたければやってもらうしかないのか。だがそれで気が済むわけでもなく、それどころかさらに無意味な行為の継続を誘発するばかりのように感じられるのだが、そんな状況をどうすることもできなくなっているのではないか。そんなわけでどうしようもないのだからいい加減にあきらめたらどうなのか。そこであきらめなければ、さらなるとりとめのなさが待っているだけなのではないか。さらなる意味不明と虚無に意識が覆われようとしているわけか。そうなってもかまわないのだろうか。もはやそれはかまうかまわないの問題ではなくなってきているのかも知れず、もしかしたらそのような行為の継続が宿命と化しているのかも知れない。しかしはたしてそれでいいのだろうか。


12月24日

 何やら言葉の迷路にはまりこんで、何を述べているのかよくわからないのは毎度のことだが、しかしその症状がさらに悪化しつつあるのかも知れない。もしかしたら誰かは異様なことを述べているのだろうか。それは異様ではなく無用なのではないか。何となくそれ以上はどうにもならない雰囲気のようだが、それでも意識はそれらの文章をどうにかしたいらしく、それらの試みに最終的な決着をつけるべく、努力している最中だと思いたいらしい。しかし終わりの部分ではどうなっているのか。もはやどのようにも終わりようがないのかも知れず、不確かで無用に思われる言葉ばかりが連なっているようで、一向にそれらを終わらせる言葉が出てこない。それでも何を述べているのかわかっているつもりだが、わかっていながら、その存在理由をわかろうとしていないように思われる。なぜそんなことをわからなければならないのか。それらの文章はいつものように意味不明でしかないのではないか。述べていることが矛盾しているだろうか。それよりも何を述べているのかよくわからない。もちろん最初から支離滅裂を装うわけでもないが、何をどう述べても最終的にはどうにかなると思われるようで、そんな偽りの安心感に支えられて、存在が特定されていない誰が何を思っているわけでもないが、適当な時期と場所において、架空の思いをどこかにねつ造したいようで、そのとき誰かの意識はどこにあれば都合が良いのか、それを模索しているのだろうか。そんなことを問いかけたいわけでもないだろう。どこかに何らかの危機感から生じている意識が存在するとして、その意識を所有しているつもりの人物は、これから何をやりたいのだろうか。別に意識が将来の行く末を見据えているわけでもなく、別にこの世界について大げさなことを述べようとしているのでもなく、まさか未来のある時期に起こる現象を予言しようとしているわけでもないのだろうが、例えばこれから何が起こり、そのとき誰が救われるのだろう。しかし誰がそんなことを思っているわけでもない。では作り話の中で密かにささやかれている救済の時とは何なのか。誰かがどこかでくだらないことを思っているのかも知れない。もしかしたら今はいつかやってくるかも知れない救済の時を待ち続けている時期であって、現代は貧窮の時代に属しているのだろうか。しかし何が不安感をかき立てているのか。そのときどこからか架空のつぶやきが聞こえてきたりするだろうか。誰がつぶやいたとしても話の本筋から著しく外れている。何もないのなら、別に貧窮に甘んじていてもかまわないのであって、今さらわざとらしくもくだらない豊かさを享受する気にはなれないのかも知れないが、すでに十分に豊かな暮らしを送っているのではないか。それでも何かしら求めるものがあるのだろうか。何に飽き足らないのか知らないが、今さら虚無の彼方へと出向きたいわけでもなく、そんなことができるはずがないと思いながらも、さらに何を構成しようと試みているのか。やはりそれでは言葉だけの無意味な文章にしかならないか。しかしそれ以外に何を構成できるのか。過去においては何を述べていたのか、昔の文章はどうであったのだろうか、それを覚えているだろうか。別に誰が昔を思い出そうとしているわけでもないが、忘れかけていたことを思い出すまでもなく、また何かを必死になって忘れようとしているわけでもなく、そういうやり方にはもう飽きたと思いつつも、そんな思いを無視しながら、それを誰に向かって問いかけているのでもなく、意識の周りを覆っている虚無からまともな返答を期待しているわけでもなく、それ以外のどこに語る対象が出現しているわけでもなく、それでも何かしら適当な何かを語ろうとする意識は、焦りを感じながらも、執拗に意味不明な言葉を繰り出そうとしているようだが、そんな風に語ろうとする意識の内部に矛盾を感じながらも、そこで言葉によって構成されようとしている架空の誰かは、何を思っているわけでもないらしく、何を思っているように見せかけたいのかもわからず、また何も思い浮かばないので、性懲りもなく決まり文句的なことを述べようとしているのかも知れず、別にそこからどんな結論が導き出されるわけでもないらしいが、どうやらそこから逃げ出したい気分でいることは確かなようだ。そして誰が夜の風景を眺めているわけでもないが、光を遮断された空間では、静けさの中に闇が広がっているように感じられ、消音した画面を眺めながら何を思うでもなく、別に強烈な現象が画面の向こう側から飛び出てくるわけもなく、励起状態とは無縁の推移を体験しているらしく、現実の意識はそんな風には思わないが、耳を澄ませて目をこらして何を感じ取ろうとしているのでもなく、しかし誰も何も求めていないわけがないだろう、と思いたいようだ。やはり何を述べているのかわからない。


12月23日

 なぜいつも批判的な姿勢でいられるのか。馬鹿の一つ覚えのようにそれしかできないからか。でもそれを突き詰めようとする気はないらしく、いつも中途半端なところで意味不明に逃げてしまっている。そして別にそれによって何をもたらそうとしているわけでもないようだが、そんなスタンスで何をいくら述べようと、やはりそこにはつまらぬ言葉以外の何がもたらされているわけでもないだろう。そしてそれらの言葉を読む者にとってはただわけがわからないだけか。そんな風にして、毎度のことのように繰り出される意味不明な言葉の羅列を眺めているとき、それらの言説がいつ始まったのか、その発端を覚えているだろうか。はたしてその起源はどこにあったのだろうか。しかしなぜ起源が問われなければならないのか。今さら何を期待しているわけでもないが、何が今さらなのか意味不明だろう。近頃は無駄な言葉が多すぎるのかも知れない。それが原因かどうかわからないが、とりあえずいつも期待外れに終わっているようで、何を期待していたのかもわかろうとせず、期待そのものが忘れ去られているのにもかかわらず、執拗に期待外れを変奏させているらしく、何の期待もしていないのに、単に期待外れだと思い込もうとしているだけなのかも知れないが、やはりそれがどういうことなのかわかりかねるか。わかってしまってはつまらないから、わざとわからない振りをしながら、つまらないことを述べているのかも知れない。しかしそれではどちらにしろつまらないことになってしまうか。もちろんそれでもかまわないのであり、かまわないからこそ、つまらないままでいられるのだろうか。だが誰がつまらないと思っているのか。また誰がどう思っているとしても、そんなことはどうでもいいことだと思えるか。しかしそれでどうしたのか。つまらぬ言葉の停滞が長引いているだけでしかないか。たぶん君は時間の経過を忘れているのだろう。時間だけではなく何もかも忘れ去ろうとしているのかも知れない。そしてそうやって忘却の彼方へと消え去った言説の廃墟から、不完全な言葉の断片を寄せ集めて、誰かの意識はとりとめもない文章を適当に構成しようとしているわけか。意識ではなく言葉そのものが文章を構成しようとしているのであって、意識はそれについて何の判断もできないし、何もさせてもらえない立場にあるのかも知れない。ただうつろな目つきで、読むことの困難なそれらの言葉の連なりを眺めていることしかできないのか。だが君にはそれが嘘だと思われる。誰かの意識が君の内面のどこに生じているわけでもなく、君はただ架空の誰かの意識を文章の中に定着させたいだけなのかも知れず、それを試みているつもりが、いつもわざとらしく失敗に終わってしまうので、そんなことはどうでもいいような気分に見せかけるために、長々とそれとは無関係な言葉を連ねているだけなのではないか。しかしそれもフィクションの範囲内の言説であって、嘘しか語っていないようなつもりになろうとしているようで、そんな意識に嫌気が差して、それとは無関係であろうとするまなざしは、現実の世界に息づいているように思い込もうとしているらしく、自らの意識が体験しつつあるせわしない日々に何を思うでもなく、ただ状況に流されるがままであることに、どんな危惧も抱いていないかのように振る舞っている。だが現状についても何も思わないとすれば、仮に君がそれを無視して、それとは別のことを述べようとしているとき、それらのどこに意味がもたらされているのだろう。あるいはそれらの言葉がいつものようにわざとらしい嘘を構成するとき、それを否認することができるだろうか。容易には認めがたい内容が示されているとして、それについてまともなことは何も述べられずに、容易には説得力のある言葉が口をついて出てこないのではないか。そこで意識は何をわかろうとしているのだろう。また何もわからない振りをするのか。それが何のゲームなのかわからないが、誰がゲームをする必要があるのか。それらの言説は何を先取りして述べているのだろうか。妄想癖の意識は切羽詰まっておかしなことを述べているようだが、まだこれから何か適当なことを述べるところであるとしても、それらの文章は以前にも増して意味不明になっているように感じるのだが、それもまたいつものことであって、何の驚きも感じないようだ。なぜ驚かないのか。誰が驚かないのか。誰もそんな風に驚くはずがないか。たぶんそれについては少なくとも傷口が三カ所あり、手が荒れてあかぎれがひどくなっているのかも知れない。いきなり無関係なことを述べても無駄か。それは言葉とは関係のない事情だろう。


12月22日

 もはや意味不明のままでもかまわないのかも知れない、と思わず音を上げたくなるような状況かも知れないが、そこでかろうじて踏みとどまって、それ以上に何をやれるというのか。いつまでたっても文章の内容が定まらないようで、誰かは唐突に感慨に耽っているような振りをしたくなる。だがそれとこれとは文章的につながらないだろう。意識は未だに決まり切った言語表現から遠ざかろうとしているようだが、すでに月日は流れ、何ももたらされなかった年が終わろうとしている。誰かは他に何をすることも忘れている状況を見過ごしているようだ。そんな風に思いたいのではないか。状況を捉え切れていないのかも知れない。しかしここには何があるのだろう。遠くから風の音が聞こえてくる。それは鈴の音色なのではないか。しかしそれの何が現状なのかわかりかねる。そんな現状が気に入らないのならどうすればいいのだろうか。今さら何をやる必要があるのか。現実に何がどうなっているわけでもないが、それらのどこへ到達しようとしているのか。それをわかろうとしている意識を何が妨げているのだろうか。そこには障害物以外に何が見出されているのか。とりあえず誰かはありふれた話をしたいらしいが、何がありふれているのかわからないようだ。それを知り得ないうちはありふれていないと見なされるのだろうか。見なそうとしている対象が見あたらない。現実に何もないのだから仕方がないか。だが現実の他に何をねつ造しようとしているのか。ねつ造するためのやり方を知りたいか。何もなければフィクションを構成する言葉を収集すべきか。何かが変わりかけている。そう思いたいだけか。そのついでに何を思いたいわけでもないと思いたいらしい。誰かの思いはいつでも同時進行する性質があるのか。何をもったいぶっているのだろう。それらのどこに重々しい雰囲気があるのだろう。やはりそれとこれとはつながりにくい文章なのかも知れず、結局何を述べているのでもないことになるのだろう。そこに何があるわけでもないか。しかしあり得ない風景を思い浮かべているわけでもないが、透き通ったカラス越しに不透明な空気を眺めている。言葉的に釣り合いがとれていないのではないか。その場の空気を読めていないのかも知れない。なぜその場面を覚えていないのだろう。見失っている対象物を取り戻そうともがいているわけか。無駄なことはやめた方がいいか。はじめからそんなものはあり得ないのかも知れず、そこで何を繰り返そうとしているのでもないような気もしてくる。意識はどこを向いているわけでもなく、行き先がどこへつながっているのでもない。何が行き先なのか識別不能なのか、あるいはそんなことではなく、どんなことでもなく、それという指示対象が不明のまま、それについて何を語ろうとしているのでもないのかも知れない。要するにそれは幻想でも幻影でもなく、何でもないのだろう。何でもないことを述べているだけか。何でもないことがあり得ないわけでもないか。それに対して言葉がどこにあるわけでもない。それそのものが不在だということか。つまりそれが何を述べているのでもないことの実態なのか。だがそれで何を話していることになるのだろう。ただそんな疑問が繰り返され、無駄に言葉が費やされているように思われるだけか。とりとめのない世界がここにあるように思われ、それが嘘でも幻想でもないように言葉で実態を覆い尽くすことが可能だろうか。何がもたらされているわけでもなく、それでも何かがもたらされているかのように装いながら、そこに漂っている雰囲気をつかみ取ることができるだろうか。できもしないことをやろうとしているかのように思わせるつもりもなく、ただ言葉を込み入らせて、何を語っているのでもないことを言葉によって示そうとしているわけか。しかしそれで暇つぶし以外の何になるのか。いったい現実の行為はどこから逸れてしまっているのだろうか。ただ外れたことを述べている実態があるわけか。そんな風に思っている意識のことを誰かはどう思っているのだろう。ただ鬱陶しい存在でしかないか。しかし同じ意識から生じている君と誰かについて何をどう語ればうまく説明ができるだろうか。別に誰がそんな説明を求めているわけでもなく、その場しのぎのつなぎの文章が偶然の成り行きでそうなってしまったに過ぎず、最初からそんな風に思っていたわけではなく、当初においては何か特定の対象について語ろうとしていたことは確かなようだが、結果的には何について語っているのでもないことになっているというわけか。しかしそれが何の理由にもなっていないように思われるのはどういうことなのか。わざとそういうことを語っているのでもないだろうが、実際にそうなってしまっているのはどうしたことなのか。しかしそれでも理由など何も求めていないのだろう。


12月21日

 何をどうやっても同じような内容にしかならないのだろうか。どんなに言葉を弄してみても、たぶん結論は何も出てこないだろう。心情的にそうなって欲しいのかも知れず、いつまでたっても世界の状況は変わらないように思えて、それに対して誰が何をどう試みても、目の前に広がるわけのわからない困難を乗り越えることはできないようで、そんな風に語れば何となく世の中について語ったことになるわけでもなく、しかしそれでも何が困難なのかわかろうとしてないらしい。この世界はどのような困難に直面しているのか。見知らぬ星から宇宙人が攻めてきて、そんな話をもとにした大げさな映画が制作されて、それなりの興行収入がどこかの配給会社にもたらされれば、世界が直面している困難はぬぐい去られ、すべては一件落着するだろうか。そんな冗談のような嘘にはうんざりか。今時そんな話には誰も興味を示さないか。そんなわけで映像の中で利いた風な台詞を発していた人物も、遙か昔にこれ見よがしにわざとらしい映像とともに、どこかへ消え去ってしまったらしい。たぶん意識の外には何もないのだろう。だから今は何も述べられないでいるわけか。だが言葉は連なっている。また忘れた頃に、その人物と似たような設定のキャラクターを持ち合わせた別の人物が、性懲りもなく昔と同じような台詞を発しているのかも知れない。今このとき、世界と人類は史上類を見ない未曾有の危機に直面している。そんな台詞に色めき立っているのはどこの誰なのか。それはどこかにいるかも知れない当選の見込みのない立候補者の誇大妄想的な頭脳から発せられた台詞だろうか。そんないかにもな人物設定もわざとらしいか。別に心底からそんなことを述べたいわけでもないのに、成り行き上、文章をおもしろおかしく展開させたい都合から出てきた言説かも知れないが、例えば君は、戦争と平和についていかなる言説を持ち合わせているのか。どんな言葉を用いて説明できるだろうか。それではたしてそれらの映像表現を凌駕するような文章を紡ぎ上げられるだろうか。誰かはこれからできるはずのないことをやろうとしているわけか。他の誰もそんなことをやろうとしているわけではないだろうが、気まぐれに生じている成り行きとともに、架空の誰かは説得力を持ち得ない文章の構成を模索しているようで、必然性の希薄なことを述べていたいだけなのかも知れない。仮にその状態を平和と呼ぶのなら、その平和はいつまで続くのだろうか。何が平和なのか何の実感も湧かないが、別に誰と戦争をやる必然性もないだろうから、その状態は平和のままでいいと思われる。平和に浸かりながら戦争について思いを巡らしても意味がないか。もちろんねつ造しようと思えば、意味などいくらでも構成できるのかも知れないが、その意味について何も述べる気にはならないだけか。また現実に戦争状態の中で暮らしている人々が何を思ってみても、その思いが平和な地域に暮らす人々に届くはずはなく、絶えずメディアを通して届く内容は、その類の映像が醸し出す平和への願いだけだろう。しかしなぜ平和への願いがそれらの人々の思いではないのか。君だけがそんな風には思えないだけで、君以外の誰もが戦争が早く終わって欲しいと願っているのかも知れないが、たぶんそれが思いのすべてではないだろう。たとえ世の中が戦争だろうが平和だろうが、人々はそこで生きて死んでいくだけなのであり、そのことに何の価値を見出せるわけでもなく、感情的になって無理に価値をねつ造したとしても、それはどこかで聞いたような紋切り型の台詞とともに立ち現れる薄っぺらなスローガンに過ぎない。それでもことさらに生きることや死ぬことに何らかの価値を見出そうとしている人々は、それ以外に何もない悲惨な境遇の中に暮らしているのかも知れず、それが本気になれる唯一の価値観となってしまっており、その切羽詰まった深刻な状況に意識を完全に支配されていて、他のことを考える術を失っているのかも知れない。だが実態としては、何をどんな風に思ってみても、端から見れば、そこに存在している誰もがそこでただ生きて暮らして死んでいくだけの存在でしかないのであり、そこで無理に生きようとしても、また逆に無理に死のうとしても、それは独りよがりな価値観や思い込みに殉じているだけなのではないか。そこで生じているつまらぬ偏見を取り去ってみれば、それ以外に何があるわけでもないように思えてくる。それ以上に何を考えたり思ったりしてみても、ただどうでもいいような日常の日々が時間とともに過ぎ去っていくだけでしかない。


12月20日

 誰かはどこまでも続く意味不明な状況に嫌気がしたのか、まわりくどい迂回に迂回を重ねて、無駄で無用な逡巡を繰り返しつつも、ようやくありふれた言葉の連なりを構成しようとしているらしい。はたしてそれができるのだろうか。できそうに思われるからそんなことを述べているわけか。明るい日差しを浴びながら、昼の時間は何事もなく推移し、雲は流れ空は晴れ渡り、周囲に広がる景色も見慣れたものに戻りつつあるようで、空の下に存在しているはずの意識は、いつものように何を考えるでもなく、かといって何も思わないわけでもなく、思うことと考えることの狭間で、見聞しようとしている出来事を見出したつもりになり、それに対してあたかも興味があるかのように振る舞い、それについて何かしら気の利いた言葉を、適当な文章に織り込ませようとして、瞬く間にできあがったそれを読み返して悦に入るわけでもなく、何について述べているのか疑問に感じることもないようになろうと心がける。それで何を語っているつもりなのだろう。ところで興味深い現象はどこから湧いて出るのか。この世界以外のどこにそれがあるというのか。普通はそんな風に思われるかも知れないが、普通とはどのような状態なのか。普通に思われる状態が普通のなのだろうか。例えば普通の人々は新聞を読んでいる。普通の人々はテレビを見ている。たぶんそこに欠けているものは何もないのだろう。気晴らしの娯楽などもいくらでもありそうだし、それによってそれなりに満足のいく生活も送ることができるらしく、それ以外に何を思えばいいか、なんて考える必要はないのかも知れないが、それでも考えようとしていることとはどんなことなのだろう。通常の意識ならどのように文章を構築すべきか、などと思案する必要はなさそうに思え、日々の光の中で、あるいは闇の中で、その場の状況に合わせた思惑や行動に従いながら生きていれば、それでいいだけでしかないか。はたしてそれで生きているといえるのだろうか。それでも生きていることには違いないだろう。少なくとも心臓が動いて呼吸をしていれば、生きていないわけがないか。そういうことと生きていることは別問題なのだろうか。ではそれ以外に何を見出せば気が済むのだろう。それで誰の気が済むのか知りたいところか。とりあえずは何か適当なことを述べていればそれでいいのだろうか。適当なことの内容が知りたいところか。知り得ないことは知り得ないことでしかなく、そんな限界をわきまえて、あまりその気にならずに、気が触れない程度に語れば無難な線に落ち着くだろうか。しかしそこから先にどうやって言葉をつなげていけばいいのだろう。まだつなげる必要があるのだろうか。必要もないのに何をやろうというのか。ではつなげられるものならつなげてみればいいことでしかないか。誰がそれをやる気でいるのか。少なくとも誰もがやろうとしているわけでもやりたいわけでもないだろう。別に今さら不可能に挑戦しているわけではなさそうか。それでもそこに何もないわけではなく、何かに挑戦しているように振る舞いつつ、かろうじてそれをやる気でいる時間帯もあるらしく、今がその時間帯なのだろうか。しかしそれでも眠気には勝てそうにないか。わずかな空虚に思考が鈍く感応しているらしい。そんなあやふやな表現ではごまかしが利かないか。わざとらしくごまかすのではなく、さりげなく意味不明な言葉を連ねたいところか。それでもごまかしには変わりないか。もはやごまかしの限度を超えているだろうか。そこに語る対象があり得ないことは一目瞭然か。取り立てて何が見出されているわけでもなく、特に見出されるべき事象もないようで、どこまでも広がる何の変哲もない青空の下で、何でもない何かが適当に繰り返されているだけなのか。やはりそれでは不満なのだろうか。しかしそれとは違う何かを他の何に求めたらいいのかわからない。この世界の他には何もあり得ないような気がするのだが、それでも何か救いや幻想をねつ造すべきなのか。だがこの世界にある何かを見聞したり体験したりする以外に何があるのか。この世界にはあり得ないことさえ存在しているのではないか。夢からもたらされる幻影として、現実に存在するもの以外の何もかもが見出されてしまうだろう。だが夢の中では不可能が可能となるだけで、他に可能なものは何もないように思える。それだけではなぜ気に入らないのだろうか。他に何かあるという幻想を打ち破る要素が夢のどこにあるのだろう。ならば現実の中に何があるのか。現実に感じているものは何なのか。空虚そのものの他に何を感じているのだろう。語っている途中からまたもや内容を持ち得ないことに気づき始めているのかも知れない。


12月19日

 さっきまで何をやろうとしていたのか、そんなことを知りたいわけではない。では意識は何を思い浮かべているのだろう。何を思い浮かべようと、そんなことはどうでもいいことか。行き詰まりの末に、行き詰まったまま言葉を繰り出しているように感じられ、それがある種の限界を形作っているのかも知れない。しかしそれで何を述べているわけでもなく、それが何の限界なのかよくわからないが、たぶんもう限界なのだろう。あらゆる方面にわたって限界なのか。だが限界だからどうしたというのだろう。それはそれとして、限界は限界として受け止めておこうか。何の限界なのかもわからずに何をどう受け止めるつもりなのか。やはりそんなことは嘘でしかないか。嘘でもいいから、嘘も限界に突き当たっているのかも知れず、そんなわけで何を述べているのか不明かも知れないが、それでもどうにかなる可能性を模索しているようで、その結果として不適切で不適当な文章が構成されているらしい。内容が何もないのに何が可能性なのだろう。そこで意識はどのような可能性を信じているのだろうか。実際にこれからどうなる可能性があるのだろう。今ある状況をどんな風に思っていて、これからどんな風になる可能性に期待しているのだろう。思わぬ展開に驚いてみたいか。そんなことを期待しながら、実際にそうなったらどうするのだろう。結果的にどうにかなるのかも知れないが、今のところそのどうにかなった状態を想像しようがないので、どうするわけにもいかないらしく、まだどうにもなっていない状態で、先のことを考えてみてもどうしようもないから、現実にはどうにもならないのかも知れないが、それでも別に何に躓いているわけでもなく、それで何の問題もないのに、それでも行き詰まっていると感じたとき、いったいそれらの状況のどこに解決の糸口を見出せるだろうか。何を述べているのかわからないが、ここから何を解決しようとしているわけでもなく、何も解決できない状態が長引いているだけでしかないのかも知れず、ただそこに具体的な出来事を入り込ませるのが困難になりつつあるようで、何となく無理に話のつじつまを合わせるのも面倒になり、それとこれとは違うと思っていても、正しい内容に修正するのも面倒臭くなり、誰かはまたいつものように内容のないことを語り始めているらしいが、それでも白々しく、なぜこの世界には語るべき内容が見あたらないのか、と嘆いてみせることが可能だろうか。いったい誰がそう思っているのか。そんな風に思っていること自体が間違いであることは当然だとしても、現実に大したことは何もなく、些細なことを大したことだと思ってしまうことも間違いだと思われてしまうのはどうしてなのか。どうしたわけもなく、大したことでなければ語る必要はないと思われるのも当然だろうか。別にそう思うこと自体は大したことではないのかも知れないが、少なくともそれは些細なことではないはずか。些細なことでなければ気に入らないのだろうか。それについてどう感じるかは、人それぞれに見解の相違があるだろうが、それが何なのか、それについて具体的に語らないことにはどうしようもないか。なぜそれを語れないのだろう。意識の中にそれの内容が不在だからか。またそれが何なのかわからないからか。そしてそんなことはどうでもいいと思っているわけか。それではいつまでたってもらちが明かないだろう。何かを語る前からすでに言葉が尽きている感がある。言葉ではなく、内容が尽きているのだろう。しかしそれは過去に述べた内容なのではないか。過去だからどうだというのか。ならばそれ以上に何を述べることができるだろうか。例えばつまらない日常に散在している些細な出来事について、どんな言葉を用いて語ればいいのだろう。すでに語っているのではないか。それにそれはそれ以上ではなく、それ以下のことなのではないか。別にそれ以下でも、語れる内容があるのならそれでもかまわないか。ならば今から気まぐれに何を語り始めようとしているのか。翌日の曇り空について意識は何を思っているのだろう。今にも雨が降り出しそうな空を見上げながら、それでも何も思わないのならどうすればいいのか、と誰に問いかけているのだろう。自分自身に問いかけて、何もない意識から何を導き出せるだろうか。それはその場しのぎの問いかけに過ぎず、問いかけ自体には何の効力もなさそうに思われ、その種のどんな問いかけも、ここに至った時点で無効か。では本当にどうすればいいのだろうか。そこには曇り空の他に何があるのだろう。たぶん何もかもがあり、そのすべてを感じきれないほどの濃密な物質世界が広がっている、とでも思えば、さっきとは違うその場しのぎにでもなるだろうか。何をしのいでいるのかわからなくなる。まったくしのぎ切れていないのではないか。確かに現実にはそうなのかも知れないが、そのすべてを語れるとは思わないか。すでに何もない空虚について語っているのではないか。


12月18日

 言葉を繰り出すたびに、次第に意識の中と文章の内容がごちゃごちゃし始めてきたらしい。ただそこから何も見出せずに、それについて何を語ろうとしているわけでもないが、また状況がいつもの同じような推移を見せつつあるのはなぜだろう。別に誰がそんな状況の推移を見ているわけでもないのだろうが、なぜどんな状況なのか言葉で示せないのだろう。なぜそれとは無関係な言葉が連なってしまうのだろう。別に無関係であるわけでもなく、言葉で示せない状況が、それについて述べている言葉で示されているわけだ。何を語っているのでもないのに、それらの言葉は何を語っているのでもないことを語っている。要するにすべてはまやかしなのか。だがそれは誰に対する問いかけなのか。問いかける対象などありはしないが、問いかけ自体が問いかけられている。そうやって確かに言葉は連なるが、連なっている言葉が特定の意味をもたらすことはない。特定の意味ではないが、それでも様々な意味を伴っているはずだ。なぜそうなってしまうのか。ただそうなっているだけか。理由はないと思われるが、やはりこの世界にはとりとめがないということか。なぜそれを世界のせいにできるのか。どうやら性懲りもなく意味不明になろうとしているらしく、意味不明で現状を片づけたいらしい。それでいいのだろうか。意識はその状態が生じてしまう前に無駄な悪あがきの最中のようだが、もちろん予定調和のごとくそれらの試みは徒労に終わるだろう。しかしその徒労がそれらの語りを構成している。そんなことを語っているうちに、また君は時間から置いてきぼりを食ってしまったのだろうか。もはや君は不必要なのかも知れない。近頃は文章から君が省略されていることが多いようで、たぶん何かを語ろうとしている誰かは、何を求めているのでもなく、架空の君を求めているのでもないようだ。ただ言葉が自然に連なるにまかせているだけなのか。だが誰がそうしているわけでもない。君がそうしているわけでもない。その場所では誰も何もできないのだろう。しかしこの世のどこにそんな場所があるのだろう。それがどんな場所なのかもわからずに、いつものように時間が遅れ気味になり、そこへたどり着く前に、何がわからないのかわからない意識が生じているだけか。だが同時にそれは誰の意識でもない。意識という言葉が生じているだけか。そしてそんな言葉では、誰もどこかもわからない場所にたどり着けるはずもないか。言葉でなくてもたどり着けるはずがない。別に意識はそんな話をするつもりもないのに、意識から派生した誰かは、そこで何を読もうとしているのだろうか。なぜ話から生じた文章を読もうとしているのか。まだ読む段階ではなく、今は記述している最中だろうか。なぜ記述しつつある文章を読んでいるのだろうか。読むことが話すことと取り違えられているのだろうか。ではなぜ話しつつある文章を記述しているのだろうか。話すことと記述することと読むことが同時に行われているわけか。そんなことは当たり前のことだろう。だが意識はそんな話をするつもりもないのに、そこから生じた文章をあえて読む必要があるだろうか。そことはどこなのだろう。どこかに読む場所があるということを述べたいわけか。それは場所ではなく、機会なのかも知れず、今は何となくそれらの文章を読む気はしないが、読まない代わりに、何か別のものをつかみかけているのかも知れない。この世に読み得ない文章など存在し得ないと思い込みたいのだろうか。だが文章の中に存在する君がそう思い込もうとしているわけではないはずか。それは依然として架空の君とは無縁の話か。だが無縁の話には続きがあり、話の中で過去に存在した誰かに関する物語を、別の誰かが思い起こそうとしている。しかしそこでつかみかけていたものは誰かの意識をすり抜け、あっけなく闇の向こうへと消え去ってしまう。そんな話をしたかったわけではない。時代は移り変わり、そこに暮らす人も消え去りながら新たに生じ続けるだろう。そこで言葉が何も生じないはずはない。では意識をすり抜けていった言葉の行き先はどこにあるのか。そんな場所を求めてみたところで、求めているものがあり得ないものなのか。はじめから何もないのかも知れず、誰かはそれらの話の内容をつかみ損なってしまったらしい。決して完成されることのない意味不明な何かが、誰かが語り終えるのを阻害しているようだ。その何かははじめから語りなどなかったかのように思わせ、絶えず語りとは異なる成り行きを用意している。語り損なっている誰かにはそんな風に思えないのだろうか。それはどのような成り行きなのだろう。何も語らずに、その代わりに虚無は何を語っているのか。語っているのは虚無ではなく、もちろん語らずにいるのは君ではない。ではそれらの言葉の連なりは虚無とも君とも無関係に生じているのか。そんなことを誰が知るよしもないだろう。


12月17日

 昨日のことは今日のことではないが、時には昨日の出来事が今日の出来事に連動して起こっているような気になることもあるようで、そこに何らかの関連性を見出したつもりになって、それを知り得たことを誇りたい気分になる場合もあるらしい。だがたぶん明日になればそんなことは忘れているだろう。明日も昨日や今日と連動しているとは限らないか。しかしそれでも今日知り得た知識が明日も役だって欲しいと思うか。現状では知識が何の役に立っているのだろうか。そこで知り得たことの何が知識だと思っているのか。何が知識だとも思わないか。誰かはどこに知識があるかを知らないようだが、同時に誰にも知り得ない知識を知ろうと欲している。そんなものが知識であるわけがないか。別に知識を得ようとしているわけはなく、得られた知識を何かの役に立てようとしているわけか。その時点ではすでに知識が得られているのであって、今はその活用法を模索しているところか。しかしなぜそんな風に話が進んでしまうのだろうか。いったい何について語っているのだろう。その知識の中身すら明かされていない状態で、何をどう語ればいいのか。誰かは語りようのないことを語ろうとしているわけか。とりあえずそこまで語り進んできた途中に省略されているはずのエピソードを徐々に継ぎ足していって、話を持たせなければならないだろう。この期に及んでそんなことができると思うか。もはやつじつま合わせのねつ造の連続には飽きたか。それでは語る以前に語りを放棄していることになってしまうか。そこで何を放棄しているとも思えないが、ではいったん放棄された語りをまた取ってくるとしよう。成り行きに合わせてそれ風の内容でもねつ造してみようか。しかし何をねつ造しようとしているのだろう。何も思い浮かばないか。そんなときに過去の知識が役に立つはずか。すでに役に立っているのではないか。何もないのに語り続けるには過去の知識が必要なのであり、知識を活用することによってそれらの語りは成り立っているはずか。しかしそれでは予定調和もいいところか。それでは単なる語りの自己言及に過ぎず、話の内容がそればかりでは、見え透いた予定調和を繰り返すばかりで、何のおもしろみもありはしないだろう。確かにおもしろくはないが、それで一時的に虚無の深淵に落ち込むのを避けたように思われ、とりあえず一時しのぎができたような錯覚をもたらしてくれる。だがそれでいいのだろうか。あまりいいとは思わないが、それでも何とか明日まで生きながらえることはできるかも知れない。それではたぶんわざとらしい時間稼ぎにしかならないのだろうが、今はそれをやることによって生じるわずかな時間も貴重なのかも知れない。しかしそもそも時間は浪費するためにある。時間の貴重さは無駄に浪費されることによって打ち消されなければならない。何がそもそもなのか。なぜ唐突に前言が打ち消されなければならないのか。それこそが無駄な字数稼ぎの時間稼ぎなのではないか。そうやって無為に言葉を弄して何を待ち望んでいるのだろうか。たぶん時間的に明日になることを望んでいるのだろう。明日になれば何が解決するわけでもないが、少なくとも明日にたどり着けたことに安堵するのかも知れない。明日という日が現実に到来した事実に感動したいのか。それはどのような感動なのだろう。それは明日になってみればわかることかも知れない。だから明日が待ち遠しくて、暇つぶしに言葉を弄せずにはいられなくなるということか。そんな理由が説得力を持つとは思えないが、とりあえずは何らかの理由が見出されたことに感動しなければならない。それらのわけのわからない言葉の連なりにも、一応はそれなりの存在理由があるらしく、それはその場限りのとってつけたような理由でしかないが、それでも完全に意味不明というわけでもなく、わずかながらも何らかの意味を伴って存在しているようだ。しかしそんなことに感動してどうするのか。どうもしはしないが、依然としてそれが冗談の一種であることに変わりはないか。だが冗談という言葉を記述したとたん、虚しさがこみ上げてきて、そんなはずはないと思いつつも、やはり何もかも冗談で済ますのが無難だと思っている意識の存在に気づき、それがそれらの中途半端な言説の存在原因であるとも思われ、さらによりいっそう虚無感が深まってしまうだろうか。しかし笑みを浮かべながら何をねつ造しているのか。たぶん当初においては、そんなことを思いたいのでも語りたいのでもなかったのだろうが、何となくその場の成り行きに流されながら、また時には逆らいながらも、結果としてそんなことを語ってしまったらしい。やはりそれは虚しい試みなのだろうか。


12月16日

 どこまで続けるつもりなのか。君はまだやるつもりなのか。実際にやっているのは架空の君ではないはずか。君はどこかの誰かが何をやっているのかを知らない。文章上にしか存在しない言葉には何かを知るという能力がない。それは画面やスクリーンに映し出される平面上でうごめく映像に映し出される人影にしても同じことだろう。ならば記述された文字や発せられた台詞に何を思えばいいのだろうか。それに対して勝手な妄想を抱けば済むことか。それで済んでしまうのなら、それは恐ろしく簡単なことかも知れない。架空の君には何か適当な思惑があり、その思惑に従って空欄に言葉を連ねていることにしておこう。そして唐突に君の意識にはアイデアらしきものがひらめく。この思いを何か形あるものにしなければならない。しかし姿形なき君が形あるものを創造できるだろうか。そんなことははじめからわかりきっていたことで、それが何らかのフィクションを形成しているわけか。しかし誰が何を述べているのだろう。なぜそこから具体的な話に突入しないのか。どうしてありふれた物語を提示できないのか。そんなものは持ち合わせていないのか。持っていなくてもねつ造することは可能だろう。ねつ造できなければ盗作でもしてみるか。では何をどこから盗んでくれば気が利いていると思われるだろうか。できもしないことをできるかのように語るのはつまらないことか。だが別につまらなくてもかまわないだろうか。できることならそんな風には思いたくないか。しかしできないのなら仕方がないだろうか。やはり何を盗もうというのでもねつ造しようというのでもないらしく、ただ何もない空虚について語ることしかできないようだ。その先もそれよりも前においても、語ることが可能なことはただそれしかないらしい。だから自然と物語を避けて話を進めようとしているわけか。だがそれで話が進んでいるといえるだろうか。そこには話も何もなく、ただ停滞だけが居座り続けているとしか思えないか。たぶんそんなやり方もありなのかもしれないが、それでは著しくつまらなく思われてしまうのではないか。少し前でつまらなくてもかまわないと述べていたはずか。つまらなければつまらないなりに、それに沿ったことを述べているはずか。それで良いのならそれで仕方がないだろう。仕方がないのなら、それ以上は何を述べても無駄ではないか。無駄だとしたら、無駄なことを述べ続ければ済むか。無駄でないことを述べるのはかえって不必要であり、成り行き的にははばかられることかも知れない。しかしこの期に及んで何を遠慮しているのだろう。何を述べているのでもないとすれば、何を述べても何も述べていないことにすればいいのではないか。それはすべて嘘だと述べておけば事足りるのではないか。しかし何と退屈なことを述べているのだろう。そんな風に述べながらどこに行き着こうとしているのか。はたして虚無の彼方には何があるのだろうか。現時点ではまったく想像の及ばない事態が待ち受けていたら楽しいか。要するに何もなくても、未来に対する希望だけは持ち合わせているということか。しかしそれが希望といえるのか。何もない先に何があるわけでもないとは思わないのか。絶望も希望のうちだと自らを言いくるめたいのか。それでも言葉を連ねられるのだからそれでかまわないのかも知れない。それが行き詰まりの一種だとしても、そんな行き詰まりの先にはまた別の行き詰まりがあり、その先にはさらに別の行き詰まりがあるらしい。つまり行き詰まりで行き詰まらずに、行き詰まりの永劫回帰現象を眺め続けている視点を有する意識がどこかに生じているようだ。しかし何がどこに回帰しているというのか。一方では、もはや戻りたくても戻れないところまで来てしまっているような気がしているのだが、それでも強引に回帰しているとすれば、何が戻ってきているのだろうか。過去に試みた言い回しと同じようなことを述べていると思われるか。それとも過去とは明らかに違うことを述べているのだろうか。同じようでもあり、違うようでもあり、そのどちらでもなく、同時にどちらでもある、とかいい加減な嘘でもついておけば、その場は丸く収まると思うか。収まりなどつくはずもないか。あるいはそれが何かの惰性なら、その始まりにはどのような経緯があったのか、そこが知りたいとは思わないか。いったいどこの誰がそんなことを思うだろう。実態としては、ただ正気とは思えないようなことを延々と述べているに過ぎないか。だから誰が何を正気とは思えないのだろうか。はたして君はそれらの文章から狂気を導き出すことができるだろうか。仮に狂気を感じたとしても、たぶんそれは気のせいだと思う。君は狂気と冗談を取り違えているのだろう。


12月15日

 たぶんそれは間違ったやり方だろう。何らかの現象を言葉で捉えようとして、結果的にそれを果たすことができずに、その代わりとして、本筋を無視しつつ脇道に逸れながら、わざと中途半端なことを述べているらしい。苦し紛れにひたすら意味不明を追い求めているのかも知れない。何を述べたいわけでもないのに、なぜことさら難しく表現しようとするのか。何を語っているわけでもないのに、どうも近頃は誰にも読み得ないような文章が出力されているらしく、それでも我慢して読んでみると、途中から頭が痛くなってくるが、それと同時に文字を追い切れなくなってきて目も痛くなる。本当にそうなのだろうか。語っているそれらの何がフィクションで何が現実なのか、そんなことはやり続けていくうちにどうでもよくなってきてしまうのだが、冗談とは別の水準で、本当に何を語っているのか不明確になってきて、後からつじつまを合わせるのが困難になってしまうようだ。そしてそれをすべてやり終えるのにも多大な時間がかかってしまう。だから日付に追いつかなくなってしまうのか。そんなことを語っているうちに、まるで憑きものが落ちたように無気力感が満ちてくる。なぜ正気に戻れないのだろうか。何が狂気で何が正気なのか、意識はそんなことにはまるで無頓着で、二つの状態の間に区別をつけることも境界線を引くこともないようだ。しかし今見ている光景は何なのか。それに何の意味があるのだろう。上弦の月と下弦の月との間に何があるというのか。なぜそこで夜空を眺めながら意味不明なことを口走る余裕が生まれるのか。もちろんそこで口走っているわけではなく、どこかの空欄にそんな記述が出現しているに過ぎないのだが、いったいそこで誰が何を記述しているつもりなのだろう。それは少なくとも何らかの文章として構成されているものなのか。そんなことは当たり前のことかも知れないが、いつの間にかまたもや問いかけの無限循環に陥ろうとしているらしい。なぜいつもそうなってしまうのだろう。わざとやっているのだろうか。それも何かの冗談の一種なのか。冗談であるとすればどうだというのか。堕落しているとでも思われるだろうか。しかしそれで継続させているつもりなのか。そんなことでは、いつかやってくるかも知れない新しい世の中には残れないか。しかしそれは現時点では架空の世の中だろう。架空の世の中がどうやって実現するのだろう。そこには何があるのだろう。なぜ唐突にそんなことを思うのか。それで未来に期待しているつもりなのか。それは甘っちょろい考えなのかも知れない。世の中とはいつの時代でも保守主義に支配されているものだ。革新的な思考や行いはいつの世でも容易には受け入れられないものだ。保守派がそこに利用価値を認めない限り無視される運命にある。体制に迎合する要素が見受けられないものはゴミと同じか。しかしそれは利いた風な意見だろう。そんなことをいちいち気にとめていたら何もできなくなってしまう。保守派や体制派がどうであろうとそんなことはどうでもいいことではないが、それをどうにかしようとする気にはなれない。そんなことにかかずらっていたら、ただ無駄に労力を費やすだけか。だが今やっていることが無駄だとは思わないのか。別に無駄であってもかまわないのだろうか。現に積極的にも消極的にも無駄なことをやっているような気がするのだが、それとこれとはどうやってつじつまを合わせるつもりなのか。何をどうやってもつじつまなど合うはずがないか。ただとりとめもないことを漠然と語っているに過ぎない。だから長い夜はさらに長くなり、夜の闇は昼の記憶を容赦なく奪い去り、何かについて思考する気力さえ萎えさせる。何を考えているのでも思っているのでもない状態を執拗に維持継続させるわけだ。そんな成り行きに蹂躙されながら何ができるのか。それでも何かをやっているのではないか。ほとんど冗談のような何かが続いているらしい。誰の思考とも無関係な言葉が次々に連なり、まるで無限に続く行列のように果てしなく生じているように思えるだろうか。無限に続くはずがないか。それも何かの冗談なのかも知れないが、冗談としてはあまり気が利いているとは言い難いか。言い難いから記述されているわけか。しかし何が記述されているのだろう。たぶんどこかに構成されている架空の誰かによって何かが記述されているのだろう。面倒臭いからそうなっていることにしておこう。そんなことはどうでもいいことかも知れないが、たぶんどうでもいいことだからこそ記述できるのかも知れない。どうでもよくないことなら、安易に無責任にいい加減に記述するわけにはいかなくなるか。もちろんそんな結論もどうでもいいことの範疇に入る記述だろう。


12月14日

 誰かが思っていることは、すべて嘘の世界のことかも知れない。フィクション以外で何を思っているのだろう。現実にどんな現象が起こっているのか興味がないのだろうか。ありふれた世界のただ中で、画面やスクリーンに見とれている自意識を軽蔑しながらも、自らの周りには空虚の他に何もないとき、他の何に気づくことがあるだろうか。何もないのだから気づくはずもないか。空を見上げれば雲が足早に流れ去り、君は流れ去りつつある雲を目で追いながら、意識が何も思っていないことに気づく。また別の時空では、満天の星空の下で、寝苦しさに気がつくと、夢の中では真昼の世界で暮らしていることに気づく。強烈な日差しで全身を焼け焦がしながら、紫外線の色を夢想している。紫外線に色などあるわけがないか。それでは意味不明だろうか。そんな粗雑なフィクションでは物足りないだろうか。熱でもあるのか。何にうなされているわけでもなさそうだが、なぜそんな文章が出力されてしまうのか理解できない。心の中で何かが弾けて、何もかもがどうでもよくなってしまっているのか。誰がそんな風に思えるのか、それもくだらない嘘の続きなのかも知れないが、なぜフィクションの世界ではそんな風になってしまうのだろう。別にそれは虚構の中の出来事ではなく、どういう風の吹き回しか知らないが、何がどうなってもそんなことがあるはずがない、と思いたいがために、あえてでたらめなことを述べているのかも知れない。そこからまともな解答が求まらないのは当然としても、はじめからまともな問いかけではないのだから、それは致し方ないところか。何を問いかけているのかわからない。たぶんその世界では誰が何を求めているのでもなく、たとえ誰かの意識が何かしら求めているつもりでも、実際にはそれとは別のものを求めているのかも知れず、しかしそれが別のものである根拠もあやふやで、真に求めようとしているものは、そのどちらでもなく、実際に求めようとしているそれではないのかも知れない。それで何を求めているつもりなのか。それでも何かを求めているといえるだろうか。真に求めているものがどこにあるかを知りたいか。だが特定の誰がそれを知りたいのではなく、誰でもかまわない誰かが、別に知りたいとも思わないことを知る可能性しかないのかも知れない。はじめから何を知りたいのかわからないのだから、そうなるより他ないだろう。だた誰にも知り得ないそれを、知りたがっている人は大勢いるのかも知れないが、本当は誰も真には求めていないのであって、そもそも真に求めているという状態そのものが、この世界には存在し得ないのであって、ただ誰もが何かを求めている風を装っているだけでしかあり得ない。だから別に誰も何を求めているわけでもないのだが、それでも何かを求めているような気でいたいのだろう。もちろんあからさまにそんな風に思いたくないのだろうが、人々は常に何かを求めているという前提がないと、それ提供しようとする商売は成り立たなくなるか。執拗にスパムメールもどきを送りつける人々も、そういった強迫観念に取り憑かれているのだろうか。しかしそれでどうなるというのだろう。送りつけられた人々が嫌な思いをするだけか。嫌だろうがそればかりはどうしようもない制度と化しているのか。まあ大変な世の中になっているのかも知れないが、とりあえず君はそうやって意味不明なことを述べているだけでかまわないようだ。何を話しているわけでもなく、何を話しても話の筋が通らなくなってきているらしく、気まぐれに発した言葉のつじつまを合わせられなくなってきているのかも知れない。だがそれとこれとは関係ないか。それとこれとは言葉とは無関係な事象なのかも知れず、どこかに意識があるとしたら、その意識に何か語りたいことがあるわけではないが、それが気に入らないときはどうすればいいわけでもなく、そんなことはどうしようもないのかも知れない。だがそれらの人々がその気もないのに言葉を繰り出すのに疲れたときはどうすればいいのだろうか。まだ心に余裕があれば、冗談でノイローゼになったつもりにでもなれるだろうか。ノイローゼとはどんな症状を伴うものなのか。それはわざとらしい精神疾患の一種だろうか。いったい誰がそうなのだろうか。そんな人物が身近にいたらどうだというのか。どうなるわけでもないか。そこに誰が現れているわけでもなさそうだ。何となくいつものように夜明け前の薄暗い空を見上げながら、架空の意識はどうでもいいことを思っているらしい。現実にはどうでもいいこともどうでもよくはないのかも知れず、どうでもいいような状況をどうにかしなければならないと思っているようで、それとは別の時空では、すでにどうにかしている最中なのかもしれず、そんなわけで、まるで蔦が絡まるように言葉が自然に連なっているらしく、いつまでもそういう執拗な試みを続けているつもりのようで、だがそれで何を知ることができるわけでもなく、それは誰にとっても知り得ないことなのかも知れず、何かを知るためにそうしているのではなく、何も知り得ない風を装うためにそうしているのかも知れない。


12月13日

 何だか今回はとりとめのなさの際限がないような気がする。たぶん世の中には気に入らないことが山ほどあって、それをどうすることもできずに鬱積がたまっている人も多いことだろう。中には具体的に何が気に入らないのかうまく表現できず、それでも無性に気に入らないので、その対象に向かって嫌がらせなどをやってしまう人もいるのかも知れない。しかしその結果として生じているわけのわからない状況に誰が笑えるだろうか。いったい何がわけがわからないのか。どこかの誰かには言うに言われぬ悩みでもあるのだろうか。入手したそれらの言葉の印象としては、ただわけがわからないとしかいえない。それ以外に何をどう述べていいのかわからない。たぶん君は君自身のあり方が気に入らないのだろう。そして何よりも君が述べているその内容が気に入らないのかも知れない。ではどうすればいいのか。誰かは自ら述べた内容を修正しなければならないだろうか。具体的に何をどう修正すればいいのか。いくら修正しても、それでも気に入らない状態が改善されない場合はどうしたらいいのだろう。どうしたらいいのかわからないか。だが君以外にもその内容が気に入らない人がいるらしく、それらの文章に対して何か文句があるようで、何やらそれについて何を述べているのかよくわからない、意味不明な短い文章をメールで送ってくることがある。やはりその人が具体的に何を述べているのかよくわらないのだが、もしかしたら怒りが先走ってしまい、感情まかせになりすぎて、気に入らない内容を言葉でうまく伝えることができないのかも知れない。あるいはまともに対話する気がないのか、はじめからまともな返事を期待していないのか、要するに心の内に生じている荒んだ雰囲気を送りつけて、それなりに嫌がらせをやっているつもりになのかも知れないが、はたしてそれで嫌がらせになっているかどうかは、結果として生じている状況が微妙で、確かに言葉的にはよくわからないのだが、一方で、そんなことをやる気持ちもわからないではないような気もしてくる。案外誰もがそう思っているのかも知れないが、それは本当に案外だと思っているわけではないのかも知れないが、その誰もの中に君の意識が入っていないのは当然だとしても、それについてどのように思ってみても仕方がないような気がするのだが、自分が思ってもいないことを述べているのかも知れず、それを無意識のうちに思っているかような振りをしながら何を述べようと、そんな嘘がどこで通用するのだろうか。何が嘘なのか。だが架空の存在でしかない君が、それに合わせてさらにわざとらしい嘘をつく必要はないと思うが、架空の存在がそんなことを思うはずもなく、君とは別の誰かが、そんなことを思いながらも、そう思っている人格をどこに生じさせたらいいのか迷っているところだが、しかしいったい何を迷っているのだろう。迷うべき現実の時空にはどんな人格を生じさせる余地もないように思われ、ただ人々は自分たちの都合に合わせたフィクションの中に、自らの思いを反映させようとしているだけのように思われる。だがそんな人々がこの世の中のどこに存在しているのだろう。君はどこにも存在しない人々について語っているつもりなのか。君が何を語っているわけもなく、語り手のはっきりしない言葉の連なりの中に、君という言葉が適当に記述されているだけか。しかしそれのどこがおもしろいのか。現実にどこの誰がおもしろいと思っているかなんて、君には知りようがないのかも知れないが、何となくそんな思いがどこかに記述されていてもいいような気にはなっているのかも知れない。少なくともフィクション的にはそんな成り行きになっているらしい。そして成り行きにまかせつつも、誰かはいつものように馬鹿げたことを述べているつもりなのか。別に馬鹿げていると思う必要はないか。とりあえず誰かは、翌日の昼に空を見上げながら、何となく何かを述べているようなつもりになり、それでもかまわないような気がするのだが、話的にはどうにもつまらない事態に陥っているようで、そんな状況の中で積極的には何か別のことを思いたいわけでもないが、誰が意味不明なメールを送りつけて悦に入っているのか定かでないが、そんなつまらない事態を引き起こしている人格を所有している人物とは、あまり関係を持つ気がしないことははっきりしているようで、そんなわけで、どうでもいいような嫌がらせらしき結果を招いている作用が尽きることは今後ともないと思われるが、それらの表層には、それを誘うような記述が存在しているのかも知れない。だが本当に君はそんなことを思っているわけか。記述しつつあるときはそうかも知れないが、それ以外ではそんなこととは無関係なのかも知れない。どちらにしてもあまり本気にはなれないようだ。直接何をされているわけでもないので、こちらとしても何ともやりようがない。とりあえずこれからもそんな状況が続いてゆくだけなのだろう、ということは疑う余地がないか。


12月12日

 誰かは相変わらずの風景を眺めながら、相変わらずのことを思っている。意識が風景と同化しているのだろうか。何も思っていないような気がする。まだ何も思いつかないのだろうか。君は「千と千尋の神隠し」というアニメを見たことがあるだろうか。そこでは何が語られているわけでもなく、ただ妖怪の類が騒いでいるだけのように感じられる。たぶん「ハウルの動く城」というアニメは「天空の城ラピュタ」の別バージョンなのだろうが、そこでも何が語られているわけでもないのだろうし、その手のアニメーション特有の不可思議な雰囲気を醸し出すアクションシーンが多用されていて、それがこけおどし効果となって、何となくそれを見る者たちにそれなりの感動をもたらすのかも知れない。それらは子供用の絵本やおとぎ話の世界が動画となった作品なのだろうが、たぶんそれらのアニメには何かが欠けていて、一部ではそれが嘲笑の的となっているのかも知れない。そこに登場するすべての人物の誰もが夢から覚めていないことが、救いようのない欠陥を形作っているのかも知れない。誰もがアニメの中だけの世界で自足しようとしていて、その外の世界に対してはまったくの無関心であり、その結果として、気の利いた皮肉の一つも口をついて出てこない惨状になっている。物語を描く視点が内側にしか向いておらず、外側がまったくの無防備なのだ。そんなわけで、登場人物の誰もが一生懸命自らに割り当てられた役を演じようとするあまり、すべての人物が単一の真面目人間的なキャラクターと成り果てている。だから彼らは外から見られていることにまったく気づかない。肩の力が抜けていないと言ったらわかりやすいだろうか。なぜ途方もなく馬鹿げた話が進行中であることに気づかないのか。なぜそんな状況下でひたむきに生きられるのか。物語の荒唐無稽さとそんな世界の存在を信じて疑わない人々との間に何もないはずがないだろう。たぶんそんなところにリアリティを感じられない原因があるのかも知れないが、やはりそれでは冷めた目で見れば、すべての登場人物が馬鹿だと思われるのは当然のことか。自分たちが操り人形と化している事態に、誰も気づこうとしていないことが、救いがたい愚かさを醸し出している。通常の人間ならそんな風には行動しないだろうと思われることを、物語の制度が登場人物に目隠しをさせて、強引にやらせているような気がしてならない。もちろん物語の中に住まう者が通常の人間であるはずがないが、それでもそこに構築されている馬鹿げた構造をはみ出す部分が自然に出てくるような気がするのだが、物語の始まりから終わりまで首尾一貫して、物語の意識に従い続けている光景には異様な感じがする。例えばシュレックとかいう緑色の化け物は、相棒のロバとともにわざとらしい冒険の最中に、絶えず不平不満を漏らし合い、なんで俺たちはこんな馬鹿げたことをやっているのか、なんで俺たちはこんなくだらない物語の中に登場しなければならないのか、と思い続けているはずだ。もちろんうんざりしながらもアニメの制作者の意向に逆らえるはずもなく、いやいや最後まで冒険につき合わされるわけだが、そこにはアニメの外にある現実の世界に向かって、こんな話が現実にあるわけがないだろう、そんなことはあんた方もわかっているはずだ、というメッセージが発せられているような気がする。通常の感動とは違うそういう部分がないと、単線的に展開するだけのつまらない話になってしまうのではないか。画面の中に荒唐無稽な代物が出現した時点で、そんなもんがあるわけがねーだろ!というつっこみを無視しながら物語が進行してしまうのは、やはり不自然であり、それは不可思議なアクションシーンの多用でもってしても隠しきれない欠陥だろう。それでは新手の詐欺に簡単に騙されてしまうようなナイーブな人たちにしか通用しない物語となってしまうだろう。しかしそれを見ている大半の人たちもそんなことに気づくはずもないだろうし、そんな風に述べていることが間違いであると思うかも知れないが、それでもそんな風に思われてしまうのはなぜなのか。そんな物語が通用している現状が紛れもなくあるはずなのに、それについてはどのように考えられるのだろう。ただそれを否定しているだけでは済まない事態が進行中なのだろうか。なぜ人々はそんなフィクションを求めてしまうのか。なぜそれがおかしいとは思わないのか。それらの何に期待していて、実際に何を楽しんでいるのか。その辺に何らかの認識のずれがあるのだろうか。その辺から先が今ひとつよくわからないのかも知れないが、気が向いたら忘れた頃にその続きでも述べてみようと思う。忘れてしまったら続けようがないか。その辺が何となく矛盾しているような気もするが、それはそれで意味不明な付け足しなのかも知れない。


12月11日

 冗談もほどほどにしなければならないと思っているらしいが、目は何を見ているのでもなく、たぶん何かしら見ているつもりなのだろう。述べている意味がよくわからなくなる。そのとき誰かは何を述べていたのだろうか。なぜそれが気に入らないのだろうか。気に入らないのなら、なぜそれをやめようとしないのか。やめる必然性がないからか。必然性とは何なのか。何が必然性なのかわからない。いつものようにつまらないことを述べているようだが、君はどこかで偶然に何を見かけたのか。たぶん冗談では本気にならないのだろう。それらの文章に意味などありはしない。しかし何を嘆いているのでもないようだ。つまらない人生を送っている人が多いらしい。何もかも馬鹿にしたくなるような意識がそれらの言説に介在しているのだろう。そんなものを改めて読み返す気にはなれないか。しかし簡単に削除してしまったことを後悔しているのではないか。何となくあきらめてしまっているようだ。そしていつの間にか適当に言葉を連ねている。何に気づいているわけでもなく、どんな状況に陥っているわけでもないはずか。そうは思いたくないのにそんな風に思われるのはなぜか。君には何もわかりようがないか。現時点ではまだ何を述べているのでもない。ただ空っぽの中身を提示し続けているだけか。気に入らない台詞などいくらでもありそうだ。しかしそれがどこに寄せ集められているわけでもないか。何を想像しているのだろうか。誰もが想像できないことを思い浮かべることが冗談だとは思わない。それらのどこに冗談があるわけでもないか。しかし何を語り継げばいいのだろうか。後には何も続かないようだ。そんなところで迷っている。迷っているのではなく立ち往生している。だが誰が立ち往生しているわけでもない。君は何を迷っているのだろう。誰かの好みの展開に話を持って行けなくても仕方ないか。そこから逃げ出したくなる。誰の意志でそうしているのだろうか。だが逃げだそうとして逃げ出せないのはどういうわけなのか。そんなわけがあるわけがないだろう。誰もが自由を求めているのは当然だとしても、自由のない束縛から誰もが意識を生じさせていることも確かなようだ。つまらないことに腹を立ててはいけないが、腹を立てるのはつまらないことに限られるだろう。おもしろいことに腹を立てるわけがない。嫌なことはできるだけ避けて通りたいが、避けて通れないのが嫌なことなのだから仕方がない。だから嫌なことを体験して、自由のない束縛に委ねられることになるらしい。うんざりするような毎日を過ごさなければならなくなる。そんな風に思いたくはないか。しかし逃げ道などどこにもありはしないか。ではどうすればいいのだろうか。黙ってそこにとどまり続けていればそれでかまわないわけか。かまわなくはないが、それ以外にやりようがないのだから、結果的には仕方なくやり続けているということか。何をやり続けているのかわからない。それは以前に発した台詞か。要するにまだあきらめきれないでいるということか。なぜそんな結論に達してしまうのかわからない。わかりようのないことを述べてみたいわけか。すでにそれに類することを述べ続けているではないか。うんざりするほど述べているつもりのようだが、まだ述べ足りないのだろうか。本当に何を述べているのだろう。何も述べていないと思いたいようだ。だが意識が何を思っているのか定かでない。わけのわからない文章にしたいのだろうか。結果的にそうなってもかまわないと思っているだけか。何となく無責任になっているのかも知れない。述べている途中で何かを見失ってしまったらしい。ただそんな風に感じられるだけかも知れないが、何を忘れているのだろうか。意識が不在の語りは何を目指しているのか。どこかに安住の地があるとしたら、そこにたどり着こうとしているのではないようだ。単に迷っている振りをしているだけか。毎度同じようなことを述べながら、ただ何もない空虚の周りを目的もなくぐるぐる回っているに過ぎないのか。そんな風に感じられたとしたらどうだというのか。別にどうもしはしないが、それでもかまわないと思っているつもりのようだ。何がつもりなのかわからないが、何となくそんな風に語っているだけのようだ。そうやって何かを放棄しているのだろう。どこかを目指す意志を捨て去っている。現状では何も目指しようがないのだから仕方がないか。仕方がなくても語り続けられるのだから仕方がない。だが依然として何を断念しているのかわからないままか。たぶんそれは嘘だろう。


12月10日

 安易なことを述べてはいけない。安易なことを述べているだろうか。意味がわからないか。意味をわかろうとしていない。それは意味ではない。どうにも納得がいかないか。納得のいく説明を知らない。今は夜なのか。夜に何をやっているのか。これから何を見せようというのだろう。もう日付が一日遅れているのではないか。だから安易なことを述べているのではないか。いつの時代でも世の中の情勢は不透明なのだろう。そんな風に思えるのなら、そう思っていればいいだろう。誰が物語を操作しているのでもない。それらを一つの話にまとめられるわけもないだろう。たとえ求めていた結果とは違うことになったとしても、何らかの結果であることには変わりないか。よくある話としては成功を求めれば求めるほど失敗が積み重なる結果となる。それらの意識は未だかつて一度もうまくいった例しがないと思い込もうとしているらしい。だがそれでも成功を夢見て生きて行かなければならない定めなのか。絶えず水分を補給しなければ干からびてしまうということか。しかしそれで何のたとえとなっていると思っているのか。しばし立ち止まって考える暇があるだろうか。何も高度で複雑なことを語っているわけではない。この世界に勇者はいらないから、真の勇者はありふれた物語の中に退いているわけか。作られた勇者が真の勇者なのか。勇者には彼を作り上げた作者が必要か。そんなわけで作者は勇者について語らなければならない。しかしいったん語ってしまったら、物語の支配を受け入れたことになってしまう。では勇者について語ってしまった作者には何がもたらされるのだろうか。うまくいけばそれなりの成功と引き替えに、物語によって語り続ける使命が与えられる。そして勇者の物語をシリーズ化しなければならなくなる。あるいは手を変え品を変えて、様々な勇者について語らなければならなくなる。勇者のキャラクターをバリエーション化させて、物語の享受者たちを飽きさせないようにしなければならなくなる。彼らの目の前にある現実から目を背けさせて、物語の中へ意識を引き込むための工夫を凝らさなければならなくなる。現実にはあり得ないファンタジーで彼らの意識のすべてを覆わなければならなくなる。だがそんな都合よく事が運ぶだろうか。なぜ勇者が現れなければいけないのか。強大な悪が顕在化していて、それを打ち倒してこの世界に平和を取り戻さなければならないからか。だがそこにあるのはこの世界ではないだろう。物語の中にある世界はこの世界とは違う。そんなことはわかりきったことであり、勇者が存在しているのは物語の世界の中だ。勇者が現れなければならないのはこの世界ではなく、その世界でありあの世界だろう。そして現れるためには物語の中にそれなりの条件が整っていなければならない。そこに暮らす民衆が悪意によってもたらされた災いに苦しめられていたりするわけだ。そんな状況の中でその災いを取り除くべく勇者が現れなければならなくなる。たぶんそういう条件が整わなければ勇者が現れようがなくなり、物語が存在できなって、作者がそんな物語を語る必要がなくなり、作者自身が存在し得なくなってしまう。要するにその手の作者が出現するためには、ある適当な物語があり、その物語の中では民衆が悪によって苦しめられており、その民衆を救うために勇者が現れなければならない。しかし現れる順番はそれで合っているのだろうか。作者と勇者のどちらが先に現れる必要があるのだろう。あるいは両者は同時に誕生するわけか。現れる順番などどうでもよく、とりあえず物語の中の民衆が救われる必要があるわけか。だが民衆が救われるには、前もって悲惨な状況に陥っていなければならない。ではなぜそれらの民衆には不幸がもたらされているのだろうか。その不幸を取り除く役割の勇者が登場するためにもたらされているわけか。そして同時にそういう物語を語る作者が存在し得るためにもたらされているわけか。つまりそれらの民衆は勇者が活躍するために、その勇者の活躍を作者が語るために不幸になっていなければならないわけか。もちろんそんなことは物語的な必然であり、そんな予定調和を遂行するために架空の不幸な民衆が必要とされているわけか。しかしなぜそんなものに感動しなければならないのか。それが多くの人々にとって感動しやすい内容だからか。だが実際に感動してどうなるというのか。感動したということでしかないか。それの何が不満なのか。感動させられるのが気にくわないのか。暇つぶしと息抜きのために感動して何が悪いのか。何となく馬鹿らしいような気がしてくるのだろうか。大げさな話に惹かれるのは人々の悪い習性だろうか。そんな話に惑わされて、現実に体験する素っ気なさを一時的に忘れようとしているだけか。


12月9日

 また心の中に空白が生じているらしい。何も思い浮かばずに途方に暮れている。それでも語ってしまうのはいつもの悪い癖か。夜は更けて時間的には明日へと近づいているが、明日になったら何か適当なことを思いつくだろうか。すでに何か思いついているのかも知れない、と嘘をつきたくなるが、嘘をつきたくなるという思いが嘘なのかも知れない。とりあえずこのままではらちが明かないので、何か気分転換が必要だろうか。その何かとは何だろう。何か特定の場所へ出向かなければ気分は晴れないか。特定の場所とはどこだろう。特定の場所などあるはずがなく、しかも場所でなくてもかまわない。何がかまわないのかわからない。しかし本当にわからないのはそんなことではないような気がする。最初に思いついた言葉は何だったのか。君からのメッセージの内容を知りたい。君以外の誰が知りたいのだろう。わざとはぐらかそうとしても無駄か。そこで何をやろうとしていたのか。君以外の誰がやろうとしていたのだろう。あくびが出てくる。頻繁に心臓が動いているのは生きている証か。やろうとしていたことはすでにやり始めていることなのか。求めていることはやろうとしていたことではない。実際に何を感じているのだろう。何を信じていいのかわからない。それは誰の台詞だろう。どこかのドラマの中ではありふれているだろうか。思いついたのはそんな言葉だったのか。確かにそれは思いついた言葉には違いないが、もっと他の言葉も思いついているはずだ。それを記述できないのはどうしてなのか。これから何を述べようとしているのだろう。すでに何かしら述べているではないか。夜の闇に何を求めているのか。唐突に夜の闇もないだろう。そんな言葉を使いたかったわけではない。それらのどこかに隙ができている。その隙間から覗いてみると何が見えるだろうか。そこには何が到来しているのだろうか。それを通せばすぐに意味不明な言葉が思いつくはずか。それはどのようなフィルターなのか。物事を色眼鏡で見るのとどう違うのだろう。うがった見方や考え方を捨てなければまともな思考には到達できないだろうか。まともとはどのような価値判断に基づいてまともなのか。そうすれば世間並みのメンタリティを得られるということか。だが何について考えているのでもない。常識を省けば非常識になるわけでもないか。どのような状態が非常識なのだろう。今あるそれらの文章が非常識で充たされているのだろうか。もちろんそれらはこれらでもあれらでもない。どれであってもかまわないだろう。そんな前言を打ち消してどうするのか。そこで飛び交っているのは情報でも銃弾でもミサイルでもない。たぶん何も飛び交ってはいないのだろう。価値はそんなところにはない。さっきから何を述べているのか不明のままか。不明なのは飛び交っていたと思われる何かか。部屋の中には埃が漂っている。空気も思考も停滞したままのようだ。乾いた季節に曇り空は似合わないか。北極星はどこに見えているのか。人と物との関係はどのような言葉で言い表せるのだろう。別に何を考えているわけでもないのだろうか。安易な言説は言説であることをやめて、何を述べているのでもなくなってしまうだろう。説明しようとしているものを言葉で示せなくなっているのかも知れない。たぶんわかりやすさとは無縁かも知れないが、何となくその雰囲気だけは微かに感じられるだろうか。止めどなくこぼれてくるものは涙ではないはずか。要するに何も思いつこうとしてないようだ。繰り出された言葉に意識が拒否反応を示しているのかも知れない。偶然に起こる現象はとりとめがない。思考が及ばないところから何かが降りてくる。その美しさはあまりにも作為的で、その裏側でとぐろを巻いている醜さが透けて見えるようだ。くたびれた心がそんなもので感動するはずがない。たぶん何を見ているわけでもないのだろう。それが当たり前の状況になるまで何も気づかず、気づいたときにはもう手遅れになっているのだろう。取り返しのつかない事態の中で何をすることもできはしない。もうそんなところまで来ているのだろうか。着実に何もなくなっている。だがそれが破滅といえるのだろうか。双六のあがりのようなものか。君とは別の誰かによって賽が振られて、出た目の数だけ君が歩みを進めるわけか。本当にそんなゲームをやっているのだろうか。実際にやっているのは君ではなく、見ず知らずの誰かなのかも知れないが、その誰かと君には接点が何もない。君も誰かもそんなことはどうでもいいことだ。面倒臭いからそんなことまで考えないようにしている。今は眠らなければならないらしい。誰でもない誰かがそれを促しているような気がするのは、根拠のない思い込みに過ぎないか。そんな気がしているのも誰でもない誰かでしかないのではないか。それらの文章には特定の語り手も語られる対象も存在していないようだ。ただ言葉だけが何の必然性も感じられないような連なり方を呈している。


12月8日

 明日は風が強い日になるのだろうか。そんなことはわからないか。天気予報でも見ればいいだろう。風が強ければどうだというのか。寒くなるのかも知れない。何を考えているのでもないらしい。さっきまで何を考えていたのだろうか。何を願っているのか。世界が平和になるように願っている人は多いはずか。作り話の中に存在している神は何を願っているのだろう。聖書でも読めばわかるかも知れない。聖書の神は嫌いか。水を求めて彷徨っているのは砂漠の民ではないが、文章の構成力が不足している。それで苦し紛れにわけのわからないことを述べているわけか。役に立つ知識がどこにあるのだろうか。それをどうやって役に立たせるつもりなのか。情報ばかり追いかけていてもこの世界の現状を捉えられないだろう。それをどのように解釈しても、何かを得られたと錯覚しても、そこから何らかの利益を得られようと、まだ何かが足りないように思われるか。それが無い物ねだりなのだろうか。何かの源泉を得るためにはそれ相応の犠牲が必要か。そんな考え方が定着したのはいつのことなのだろうか。交易しているだけでは飽きたらずに、強引に力ずくで奪い取ろうとしたのは誰なのか。暴力を正当化する根拠はどこから生まれてくるのだろう。そこで本気になる必要があるのだろうか。夜空はどこまでも暗い。星明かりに照らされて枯れ草が地面に貼り付いている。架空の意識はどこを彷徨っているのだろうか。そこから見える風景はどうなっているのか。息を潜めて草むらに隠れている動物でも見たいのか。それは狸か狐か野良猫か。子供が鼠をコンクリートの床に投げつけて殺している。害獣は駆除される運命のようだ。それらの何が作り話なのだろう。余裕があるわけではない。わざとつじつまの合わないことを述べているようだ。どこまで正気で述べているのか知りたいところか。戯れに冗談でも飛ばせば納得するだろうか。シェーンベルクの歌曲はまるで狂人が歌っているように聞こえてくる。そこでの雰囲気はいい加減な思い込みから影響を受けながら感じられてくる。どんなに言葉連ねてもまだ何を思っているのでもない。人はどこまでも悲しんでいるつもりになれるようだ。いつまでも立ち去らずに、そこから立ち直ろうとはしないらしいが、誰かが唐突に醸し出そうとする哀愁など嘘に決まっている。すべての時間より空疎な時間帯に何をやれるわけでもなく、そんな述べ方自体にとってつけたようなぎこちなさを感じている。わかるわけのないことをわかろうとして、軽薄に思い悩んでいる振りを繰り返しているだけか。苦いだけの液体を口に含みながら、どんな状況に耐えているのか、それについて適当に思いを巡らしているようだが、別に言いたいことを述べているわけではない。しかし言いたくないことを述べようとしているわけでもないらしい。たぶんそれらとはまったく無関係なことが述べられているのかも知れない。それらとは何を指しているのだろうか。そこにはどんな状態が示されているのだろう。眠気に逆らいながら何を述べようとしているのか。君が君でありながら君でないわけを説明できるとは思えない。ただ適当な言葉が積み重なって文章として構成されようとしているだけであり、その文章は君とは関係のない内容を宿している。君はそうなって欲しいと思っていて、そうならなければ嘘だと思いたい。それらの何が嘘なのだろう。少なくとも真実からは程遠い内容に仕上がっているのだろうか。別に仕上がっているわけもなく、常に未完成を装いたいのか。確かに完璧とは言い難いか。完璧さを求めているわけではない。不自然で意味不明なことを述べているだけか。しかもそれで良いと思っている節もある。現状はそんなところだろうか。何でもかんでもやりかけのままにとどまり、とりあえずの姿しか提示できないことに変わりはない。そこにどんな思惑が働いているわけでもないが、どうやってもそうなってしまうようで、いつもように疑問だらけの文章が展開されているらしい。そうやって何について述べているのでもないように思われる状態が続いている。誰かは蛍光灯が光り輝く天井を見上げながらそんなことを思っているわけか。またそんなことを述べているうちに、すべてを冗談で済ませたくなる衝動に駆られる。もういい加減に観念したらどうか。何をあきらめきれずにいるのだろう。しかし何をあきらめなければならないのか。すでに多くのことをあきらめているのではないか。こうしているうちにも刻々とどうにかなる可能性が閉じられている。要するにもはやどうにもならなくなっているということか。それならそれで仕方がないか。何を開き直っているのだろう。


12月7日

 情熱に乏しいのでそこから先へ踏み込めないようだが、それについて何を思っているわけでもなく、その先が何なのかもわかろうとしていないらしい。その先とは死だ、おまえもやがて死ぬだろう。それは誰の台詞なのだろうか。誰かはそんな風に語りたいのではない。別にどこへ向かおうとしているのでもないが、とりあえず前言を打ち消して、その先へ進まなければならないと思っているが、しかしそんな使命感もすぐさま否定されてしまいそうだ。先へ進む理由が見あたらないか。どうしてそうなってしまうのだろう。やる気がないからか。やり方が間違っているからか。だが正しいやり方があるとは思えない。やっていることはすべて間違っていることであり、しかもそれを正しいやり方だと思い込んでいるわけか。そんな筋書きだったらおもしろいか。それらの話のどこに筋書きがあるのだろうか。安易に死を語るべきではない。死は安易な選択肢なのだろうか。生きている者が死を選べるはずがないだろう。誰かが死ぬとしたらそれは必然的な宿命なのか。死にゆく者に死を実感できるわけがなく、常に感じているのは自らが生きているということだ。意識が死を体験することは不可能か。そんなことはわかりきっていることで、今さら述べるまでもないことだ。それに誰が死にゆくわけでもないだろう。架空の死について語っている架空の誰かを文章の中に存在させようとしているだけか。そんな風に語るのは間違っているだろうか。たぶんこの世のどこかに末期癌患者やエイズで死にそうな人が大勢いるのかも知れないが、そんな人々を文章の題材にするのは間違っているだろうか。あるいは状況によっては正しい行為となり、多くの人に感動と生きる勇気をもたらしてくれると思いたいか。だが恋人が不治の病に罹らないと世界の中心で愛を叫べないか。無意識は暇つぶしにそんな冗談を述べたかったのか。わかりやすい浅はかさには安易な感動を求めて一時的に多くの人が群がる傾向にあるようだ。それが流行現象というものであり、大量に消費されてそれを作った特定の個人や組織に多大な利益をもたらした末に、やがて飽きられて忘れ去られるのだが、忘れた頃にまた同じような物語が手を変え品を変えて登場するわけだ。そういう商売が成立するには、浅はかな人々を浅はかなままに押しとどめておく必要があり、大量の広告や宣伝などで絶えず安易な欲望を煽り立てて、要するにシャブ漬けにしておいて、考える暇を与えないようにしておくことが肝心なのだろうか。だがそれは間違ったやり方なのか。それをやっている者たちにはそうは思えないだろう。それらの感動を享受している大勢の人たちもそうは思わない。そんな風に述べているからそれらの感動が否定的に響くのであり、それとはまったく逆の宣伝文句的な述べ方にすれば、それはそれでもっともらしく思えるだろうし、多数決的にはそちらの言説の方が正しいように思われるかも知れない。とりあえずそれについてどう思うかは、個人の好みの問題に還元してしまえば、それを肯定しようが否定しようが、どうでもいいことになってしまうだろう。そういう需要があり、それに対する供給があり、そのような供給を恒常化させるために、集中豪雨的な広告や宣伝を利用した洗脳があるということか。どうということはない韓国の陳腐なメロドラマの主演男優に群がる人たちもそんな洗脳の享受者なのだろうか。もちろんそういう述べ方は公平ではないのだろうし、別に安易な娯楽を否定的に語っても何の得にもならないか。息抜きや暇つぶしとしてはそれでいいわけなのだから、それに対していちゃもんをつける筋合いはないのかも知れない。そんなことをいえばスポーツも音楽も映画もテレビドラマも書物も、みんなその手の類で覆われているのだから、いくらそれらについて否定的に語ってもまったくの無意味か。そしてそれらの中にはそこから逸脱する要素もあるわけであり、それについて述べるのが批評家的な姿勢なのだろう。もちろん無理にそんなスタンスをとる必要もないが、何となくまともなことを述べようとすると、そんな線に落ち着くのかも知れないが、ここでそんなことを述べるのは退屈きわまりないか。そこまで分析する気になれないのかも知れない。どうということはない事象について本気で語ろうとするのは馬鹿げたことか。たぶん過去にその手のおもしろおかしい批評もどきを読み過ぎているのかも知れず、自分でも真似していたこともあり、今さらそれを繰り返すのは何となく虚しく思われるのだろう。


12月6日

 何となく工夫して語ることができなくなりつつある。もはや頭脳が硬直化していて、その場の状況に即した臨機応変な対応ができないのだろうか。そんなわけでマンネリ状態のままに、またもや同じようなことを述べてしまうのかも知れない。どうも他人の文章にも魅力を感じなくなったらしく、何も読む気がしない。たぶん興味を惹くような文章に出会えないのだろう。何を読んでも自分とは関わりがないような気がしてくる。関わりがないようでもおもしろい場合もあるだろう。しかし誰が何を読んでいるのか知らないが、君には文章読解力など不要か。読んでも理解しようとしないのだろうか。確かに何をどう読んでも、この世界はこの世界のままで存在していて、そこから何が変わるわけでもないが、そう述べることによって何を否定しているつもりなのか。読書を否定してどうするのか。読書に何らかの効用があることは知っているつもりだが、では他の誰かは書物を読むことによって、何を変えようとしているのだろう。物事の見方や考え方は変わるかも知れないが、直接この世界が変わるわけではないか。この世界の何が変わらないのだろうか。たぶんいろいろな物事が変わらないのだろうが、それとは別の要因で変わることもあるだろう。そして変わったからといってどうなるわけでもないか。そういうものの述べ方はおかしいだろうか。何となく呆れたことを述べているのかも知れない。どこの馬鹿が世界を変えようとして読書にいそしんでいるのだろう。もしそんな人間がいるとしたら、恐ろしい誇大妄想の持ち主かも知れない。別にそれが読書でなくてもかまわないだろうが、具体的に何が変わって欲しいのか。変わって欲しいのは世界ではなく、人々の意識だろう。政治的な不具合が表面化したり凶悪な事件が立て続けに発生したりすると、そんな風に思ってしまう人が多くなるのかも知れないが、いくら多くの人々が思っても、現実には何も変わらないのではないか。何かのきっかけで変わるときは変わるかも知れないが、変わらないときは何も変わらないだろう。少なくとも誰かの思い通りに変わることは絶対になさそうだ。特定の人物の思い通りに世の中が変わるとしたら、その者が独裁者であったり神憑り的な力の持ち主であったりする場合だろうか。しかしそれはフィクションの世界での話か。多くの場合、変わるときは思わぬ変わり方をするものだ。それはたぶん多くの人々にとって気に入らない変わり方をすることが多いだろう。またそれにかこつけて、今時の若者は云々と嘆いてみせるありふれた人も多いだろう。できることならそんな紋切り型の台詞を発したくはないが、そんなことには気にもとめない人が大半だろうか。そしてどこかの誰かは、どうせくだらない世の中なのだから、それでもかまわないと思いたいのだろうか。何がかまわないのかわからない。何がくだらないと思っているのか。とりあえず何かが変わったら、できるだけ早くそれに順応していけばいいだけの話だが、順応しようとしまいと、大規模な天変地異でも起こらない限り、人類のすべてが一挙に絶滅することはないのだから、もちろんそのときが来たら絶滅してもかまわないのかも知れないが、とりあえず生きているうちは何かしらしていなければならないらしい。周りの環境に順応できずに苦悩してみるのも、それなりの生き方なのかも知れないが、何もしていないと思っていても、生きていれば呼吸ぐらいはしているはずだから、それで良いのか悪いのかわからないが、その場の状況によって暇だったり忙しかったり退屈だったりしているらしく、その時々に思ったことがそのときの気分次第で言葉になるようだが、どこかの誰かは思わないことまで文章の中に存在させたいらしく、何やら最近はそうなることを望むばかりに、超能力の存在を信じているのかも知れず、神秘主義的な傾向を強めているのかも知れないが、それは何か意識とは別の外部からの作用なのだろうか。もちろんそんなものとは関わり合いのない意識にとっては、それがどうしたわけでもないが、偶然の成り行きで、それとは別の何かを述べていることがあるのかも知れない。述べている途中から何を述べているのかわからなくなる。別にそれが深刻な事態とは思わないが、どういうわけかそれなりの危機感を持っているのかも知れず、このままではいけないと思いつつも、何かの深みにはまりつつある状況から、抜け出ようとする気が起こらない自らの意識に、得体の知れぬ不安を感じているのかも知れない。しかしだからといってそれらの試みをやめるつもりはないようだ。やめるときは外部からの作用によって無理矢理やめさせられてしまうときか。


12月5日

 いったいいつになったら言葉が止むのだろうか。何をどこまで述べてもきりがない。どこまで述べているわけではない、と前言を打ち消したくなってくるか。どうも近頃はそれがパターン化しているようだが、また寝て起きたらもうこんな時間になっている。さっきまで何をやっていたのか思い出せない。たぶん夢でも見ていたのだろうが、なぜそんな風になってしまったのか、この期に及んでなぜこの期に及んでしまったのか考えてみるべきか。そうやってわざとつまらないことを語りたいわけではないが、実際につまらなくなっているのかも知れないが、最近は同じようなことばかり語っているようで、例によって具体的な事物は何も出てこないが、それでもそこから何かを呼びかけているつもりらしく、その呼びかけがどんな主張を伴っているわけでもなさそうだが、唐突に何を述べているのだろう。何が唐突なのか。本当は唐突ではなく、唐突に唐突という言葉を使いたくなっただけか。そんなわけはないが、とりあえずそこからわかることは、そんな風にしてそれらの言葉は、予定調和の語りの一部となっていくのかも知れない、ということか。そんな眠くなるような退屈さのただ中に、とりあえずという言葉とともに、いつもの空虚がそこに出現しかけているようで、できればそれらのごちゃごちゃした言葉の連なりをどうにかしたいところだが、たぶんどうにもできないかも知れないが、それを誰に向かって何を語りかけているわけでもないか。では具体的に何をやっているのだろうか。誰かが何かを語っているだけか。あえて嘘をつくとすれば、誰にも向かわずに何もないのに何かを語っている。別にあえて嘘をつかなくてもいいのではないか。そんなのはフィクションであることは誰もがわかっていることか。語っているということ自体が文字によって表現された虚構なのだから、そんなことは当たり前のことかも知れないが、それでも何かを述べていることは確かなようだ。とりあえず誰かの意識が何かを述べていると思っている。しかし内容の退屈さに耐えきれなくなって、意識はすでにそこから逃れようとしている。もういい加減にやめて欲しいか。それ以上は何も語らないでもらいたいか。誰かはそれをそう理解したいと思うだろうか。本当にそこから発せられているのはどんな声なのだろう。本当の内容がないから嘘なのか。述べている内容が本来の成り行きからはだいぶずれているようだ。本来の内容などもとからありはしないか。では偽の本来ならどうなっているところなのだろう。そんな本来があるとは思えないが、あえてあると嘘をつくなら、とりあえず何か適当な対象を標的にして批判を繰り返しているところか。そしてああだこうだ利いた風なご託を並べて悦に入りたいところか。今さらそんな単純なことはやりたくないところか。やりたくないのではなくできないのではないか。もはやそんな能力は使い果たしてしまっていて、やりたくてもできないようになってしまったのではないか。ではそれでも何をやろうとしているのか。やりもしないことを述べて、そうではないことを強調したいだけか。それは見え透いているだろうか。では何もないのだからそれ以外のことを述べればいいのか。それ以外とは何だろう。面倒なのでそれがわからないと思いたいか。ついでにそれ以外のそれもわからない。ではなぜそんなことを述べているのか。わからないということをわかろうとしているわけではなく、わかろうとすることが億劫になっているのだろうか。それは様式化した応答の形態にでもなっているのだろうか。何となく馬鹿げたことを語っているような気になってきただろうか。そんなことは語る前からわかりきっていたことか。何もないのに語ればそうなって当然だろう。しかしそれをそうでないように語るのが語りの技術というものか。できればそんな風になってしまいたくはないか。しかしそういうごまかしの中でしか語れない状況なのかも知れない。その中でもがき苦しんで悪戦苦闘しながら、何か適当な希望といえるようなものを見出したいわけか。現実はそんなに甘くはないか。甘くなければ辛いのか。甘くも辛くもなく、それは無味無臭の空虚そのものかも知れない。だがそれでも継続させたいようだ。それが誰かの本能なのだろうか。それの何が本能なのだろう。そうではなく要するに惰性でやっていることに過ぎないのではないか。もはやそれは習慣と化していて、やめることができない状態にまで中毒化してしまったのだろうか。言葉中毒で文章中毒というやつか。そんなやつはいないしあり得ないだろう。だがそれでおもしろいと思うか。別につまらないからどうだというのでもなさそうだが、何を改善すればいいのかわからなくなるだけか。はたしてそこから良くなる余地があるのか。


12月4日

 それらを改めて読み返すと、ますます泥沼にはまりこんでいるような気配がしてくる。忙しくなると時の流れから取り残されてしまうのだろうか。だが焦って遅れた分を取り戻そうとすると、さらにわけのわからない遠回りが待ち受けているようで、どうにもやりようがなくなってしまう。もちろんそれもいつものことかも知れないが、そういう成り行きをいくら経験しても嫌な気分になるだけで、まったくいつまで経っても慣れた風には思えない。そうなる度に切羽詰まって追い込まれた心境になり、何とかしようともがけばもがくほど、空疎な内容を呼び込んでしまう。いっそのことあきらめてしまえば楽になるかも知れないのに、それだけは絶対に拒絶しているようで、あらかじめ選択肢から外れてしまうのだが、それでも頑なにやり続けていればいつかは何とかなると固く信じているのだろうか。それが唯一の譲れない点なのだろうか。しかしそれはあくまでも文章上の表現でしかなく、誰かの本音とはまったく異なる内容でしかない。誰が誰の頭の中をのぞき込んでいるのでもないだろう。すべては架空の思いであり、そんな風に語れば何となく状況を理解できたような気がするだけか。しかし理解できたように思うのは誰でもない。架空の君が抱え込んでいる状況は君だけにしか通じないのではないか。君にさえ通じていないのかも知れない。要するに誰からの共感も得られないということか。別に誰の共感を得るために語っているわけでもないか。誰が語っているわけでもなく、ただ文章が記述されているだけか。ではそれを記述しているつもりの意識は、言葉を繰り出すことによって何を見せびらかしているつもりなのか。何がつもりなのだろう。何を見せびらかしているわけでもないか。ならばどんなことを述べているつもりなのか。それは述べているままを読めばわかることか。しかし何を述べているとも思えないのはどうしたことか。どうもしないだろう。君の意識ではそこから先が読めないのかも知れない。その先を読むには君という架空の存在では無理なのか。しかし生身の人間に何ができるというのか。例えば人が生きて何かをやって考えて思うことに、どんな意味を見出せるだろうか。誰が見出そうとしているのか。ただ言葉の連なりとしての文章の中に、それが見出せるような気がするだけだろう。ではそこに何か肯定できる概念を当てはめられるだろうか。意味がないでは済まないような言説をどうやって導き出せるだろうか。はたしてそんなことは無理だと思う気持ちを打ち消すことが可能だろうか。そこにどのような主張を構築できるだろうか。何となくそんなことができるとは思わないが、別に意味がなくてもかまわないと思いたいようだ。誰が意味を求めているわけでもないような気がするし、意識の中には意味を付加された対象が存在しない。それは厳密には嘘かも知れないが、意識が何もない状況に順応してしまっているように思われる。それは批判されるべき態度なのか。別に態度について何を述べたいわけでもないだろう。ただ批判を繰り出す気力がないだけか。たぶん誰かは批判そのものが受け入れられない社会に住んでいるのかも知れない。そこでは何もかもがただなし崩し的に推移しているだけのように感じられるだろう。もはや何かに賛成したり反対したりしても、そんなことはどうでもよくなっているのだろうか。誰かがやっていることについての賛否は、とりあえず都合が悪ければ放っておかれて、都合が良ければ宣伝材料に使われるだけであり、部外者にとってその賛否の大半は、ほとんど気にとめる必要さえないのではないか。直接関わり合いのない人々の意見などは無視されるのが関の山だと思われるのかも知れないし、そこでは聞く耳を持たないことは良いことだと思われているのかも知れない。聞く耳を持たれるためには、聞く耳を持っている人に利益をもたらさなければならない。あるいは自分が述べていることに耳を貸すように説得しなければならないか。そのためには何かうまい話をでっち上げて、それに群がってくる人々を利用する必要があるだろうか。応募してきた人の中から抽選で何名かにプレゼントを贈らなければならないのか。そんなことばかりやっているから、愚かな人々が増殖してしまう事態に陥っているのではないか。そればかりではもう誰も贈り物なしでは耳を貸さなくなってしまうだろう。部外者を味方に取り込むにはそんな方法しかないのだろうか。商品を売るためにはそれは仕方のないことなのか。だが損得勘定ばかりで行動していると荒んだ気持ちになってしまうような気がするが、それでもかまわないのだろうか。


12月3日

 今日も話の始まりに巡り会えないようだ。何も考えられないので、何を考えているのでもないようだが、まだ考える時間がいくらか残されているだろうか。何を考えなければならないのかわからないか。考えている振りすらできないらしい。無理に考えようとしても、考える対象がどこにも見あたらないことに気づくだけか。もはや架空の君は用済みであり、お役ご免なのだろうか。しかし君とは別の誰かの思考はどこまでも分散していって、決して一つの思考がそのすべてを網羅することはできないだろう。要するにとりとめがないということか。そこから何が生まれるわけでもない。意識がどこにも存在しない空虚の中で、辺りに散らばっている断片を寄せ集めても、何を構築できるわけでもないか。文章を構成する誰かがどこに存在しているわけでもないようだ。それは誰かでさえない意識以前の神経作用から生じているらしい。だがそれで何を述べているのでもない。何も述べられないのに、それを言葉の連なりとして提示しなければならなくなる。作品以前の作品として、わけのわからない代物が出現しているわけか。だが何がどこに出現しているわけでもなく、その痕跡すら見あたらない。完成する見込みのないそれらの何が作品なのだろう。ただの言葉の連なりでしかないか。言葉がどこに連なっているのだろうか。それを言葉だと誰が認識しているのか。それらの文章の中では、確かに取り立てて誰が何を述べているのでもないが、それが作用している意識は何も述べられないわけでもない。だがいつもこれから何かを述べようとしているところで終わってしまう。そこには出来事が見あたらない。出来事がなければそれについて述べるわけにはいかないか。いったいこの世界のどこに出来事があるというのか。世の中では何が起きているのだろうか。絶えず何かが起きているのだろうが、なぜそれに興味が向かないのだろうか。興味を惹くような対象に巡り会えないのか。あるいはわざと興味のない振りをしているだけなのか。興味はあるにはあることもあるが、それが適当な言説に結びつかないだけか。述べるべき対象が見あたらない、というのは嘘かも知れないが、それについて述べようとして述べられないこともあるかも知れない。なぜ述べられないのだろう。それがわかれば悩みはしないだろう。ならば何も述べなければいいではないか。なぜそれができないのか。それもわからないのだろうか。誰かにはわからないしわかろうとしていないらしい。誰かはわかるわからないとは無関係だろう。別に誰かについて語っているわけではないはずか。何とかそこから言葉がつながるように誰かを持ち出してきたのか。そんなやり方は邪道だろうか。それのどこが間違っているのだろうか。それとは何だろう。そうやって無理にはぐらかしているのかも知れない。とりあえずどこまで述べれば気が済むわけもなく、意識は空疎な内容から逸れていこうとするが、逸れていった先がいっそう空疎になってきているかも知れない。何をいくら述べようと、もう抜け出ることの不可能な言葉の繰り返しにしかならないのだろうか。たぶんそこからしか言葉を繰り出せないのだろう。何があるでもなく、同時に何もないわけでもなく、ただ同じような語りが循環しているらしい。確かそれも以前に述べたことかも知れない。そんなことを述べたいわけではないのに、そんなことしか述べられない現状の中に、それらの文章が存在しているらしい。もちろんだからどうだというわけでもなく、どうしようもなくそんなことを述べているだけか。そんなことを述べるのが嫌なら、何か世の中で起こっている出来事について適当に述べてみたらどうなのか。なぜそうしないのだろうか。なぜそうやって他人の気を惹こうとしないのか。世の中で何が起ころうと、もはや君には関係のないことのように思えてしまうわけか。そう思ってしまえば楽な気分になれるのか。ここから政治がどうのこうの述べても不自然なだけだろうか。今はそんな気にはなれないし、本当に政治家がひどいのなら、それを選挙で選んでいる人たちの方がもっとひどい、なんて今さら述べても仕方がないだろう。そんなことはわかりきっていることだし、誰が述べるまでもないことだろう。たぶんそんな制度によって人は生かされているのだろうし、民主主義という名の不自由を信じることはできないが、そんな制度から逃れることは不可能か。しかし別に民主主義について何を語っているのでもない。ただ自分の与えられた範囲内で何らかの意見を述べ続けることは必要だと思う。あきらめてはいけない。


12月2日

 二日後の雨音を聞きながら、今日も話の核となるような内容に巡り会えない。巡り会うような努力をしていないのではないか。巡り会うのではなく、構築しなければならないのではないか。どうやって構築すればいいのだろう。構築すべき内容に巡り会えないようだ。また巡り会わなければならないのか。暇もないのに何を語っているのだろう。暇がないから語れないわけでもないだろう。この二日間は暇があっても語れなかった。ただ語れないのに語ろうとしているだけのようだ。全くの無駄で無意味なことを試みながら挫折を繰り返している。しかしいつものようにそんなことはどうでもいいことか。性急に答えを求めても何も出てこない。何が答えなのだろうか。それは何に対する答えなのか。いったい何を誰に向かって問いかけているのだろう。そんな問いかけ自体が空疎なのかも知れない。相変わらず何を語りたいのかはっきりせず、まともな言葉を繰り出せないようで、そんな状態では、まともな文章にしたくてもできるはずがないか。だがとりあえず何もなくても、風が吹き川は流れ雲も流れる。何もないのは天候の問題ではないだろう。どうもそれとこれとは違うような気がするが、移りゆくものはただ移りゆくだけなのだろうか。そうではない事物や事象もあるにはあるが、それは語る対象から外れて存在しているのかも知れない。そんなやむを得ない状況をどうすることもできないのか。何がやむを得ない状況なのだろう。理想と現実が食い違っているのは当たり前のことだろう。だが食い違いはいつまでも食い違っているつもりのようだ。何がつもりのまま存在しているわけもないか。たぶんそれは文法的な誤りかも知れない。すべてが移ろいゆくわけでもなく、意識はいつまでも変わらないつもりでいたいのだろう。誰かの妄想癖に従うなら、この世界に自らの変わらぬ思いを固定させたい。そんな誰かの変わらない思いも、いつかはどこかへ流れ去るのだろうか。さらにわざとらしく述べるなら、変わらないのは夜空に広がる闇の他に何があるのだろうか。星の位置なら徐々に変化してゆくらしい。しかし何かが変化してゆくそれらの成り行きに宿命があるとは思わない。行く末はまだ決まっていないと思いたい。そんな思いが流れ去る先が見えてこないか。そこで意識が何を考えているとも思わないが、いつも思い描いている思考からは導き出せない行為が、偶然によってもたらされたとき、把握不可能な意味の定かでない感慨が生じてくるかも知れない。誰かはただ漠然とした思いに囚われているらしい。知覚される何もかもがとりとめがないような気がしくる。何をどう言い表していいのかわからない。単に何を述べているのでもないような気がするだけか。そんなことをいつも思っているわけでもないが、気がつくとその他には何もなくなってしまっていることに気づく。気づいているのではなく、錯覚しているのかも知れない。要するに何も思いつかず、何も考えつかなくなっている現実に気づき、どうすることもできなくなっていることにいらだちを覚えるが、なおもそのままであり続けている状況から抜け出られずにいるようだ。しかし君自身が何を思っているかなんて知る必要はないか。必要はないが知りたいときもあるようだが、そんなことはやはりどうでもいいことか。他に知るべきことが見あたらないから手持ちぶさたになっているのだろうか。確かにそんなことはどうでもいいはずなのに、そのどうでもいいことしかできなくなってしまっている。意識はそんな状況が気に入らないようだが、それではいったい何を知りたいのだろう、と自問しても何も出てこない。何を知ろうとしているかなどと思っている自分自身の本音が自分にわかるはずがないか。無理にそれを知ろうとしても何も得られないか。この世に得ようとして得られないことやものなどいくらでもあるが、何も得ようとしていない者が何を得るのだろう。それが誰かのやりきれない思いをもたらしているのかも知れない。べつにそうなることが宿命づけられているとは思わないが、それをどうにもできない現状が歯がゆくてならないようだ。もちろん日常的にはそれがどうしたわけでもないが、ある種の意識はそんなことを真面目に考えているようだが、それは何かの冗談なのだろうか。君の逃げ道はいつも冗談で済まそうとする。それらの言葉はどこから生じているのか。どこから生じているわけでもないだろう。では誰がそれを知りたいのか、誰かがそれを知りたくなってくるかも知れないが、そんな問いかけに何の意味もありはしない。架空の文章には誰の人格が引っかかっているのか。別に君がどんな言葉を求めているわけでもなく、誰かがそれを知ろうとして知り得るものでもなさそうに思える。誰がそれを知っているのだろうか。誰も知っているわけがなく、相変わらず述べていることが意味不明に思われるだけか。そこで何が言葉となっているのか。目に映る景色を言葉にしているわけでもないが、秋は紅葉の季節なのだろう。たぶん昼の日差しが衰えて枯れ葉が舞っているかも知れない。誰かは他の誰かと同じ目線で何を見ているのだろうか。そんなことを誰に問いかけているのでもないか。君はそれについてどんな意見も持ち合わせていないか。


12月1日

 何を信じようとしているのか。今さら宗教もないだろう。あり得ないことかも知れないが、何か奇跡が起こることでも望んでいるのか。それについて君には心当たりも手がかりもないが、拝火教の司祭は何を求めているのだろうか。ただ自らの信者を求めているだけか。揺らめく炎から何が導き出されるのだろう。そこからどんな悟りに至ろうと、今の君には関係のないことか。それは虚構の物語にならないような気がするが、どんな物語を求めているのでもないのだろう。誰かが期待するようなありきたりの物語にはならないかも知れない。結局何を信じても救われたり救われなかったりするのだろう。それがどのよう結果であろうと、誰にとっても受け入れがたいものが出現してしまう。もっと単純な成り行きに導かれることを期待していたはずか。それらの期待外れをどのように修正すべきなのか。だから別のどこかの宗教勢力によって編纂された物語の中では、誰にとってもわかりやすくなるように、闇と光のせめぎ合いが演じられているわけか。神はそれが気に入らないのか。そんなわけで誰かはわざと闇と光を取り違えて、闇の中に憩いの時を見出したつもりになるが、そこから何が始まるわけもない。君は面倒なので闇も光も認識できないことにしておこうと思う。すべては幻想なのかも知れない。それ以上は何も述べる気が起こらない。実際に何もないのだから仕方がないだろう。もちろん理由も何もないが、それでも何か目新しい効用をねつ造できないものか。例えばそれはどんな話の内容になるのだろうか。何をたとえているわけでもないが、ただわけのわからないことを述べようとしているだけか。ローマの廃墟を歩く人の靴底を押し上げようとしているものがある。すり減った石畳の隙間から雑草が生えている。そんなテレビ画面から目を転じると、通りでは車に轢かれて猫が死んでいる。二つの光景は無関係なように思えるが、何らかの虚構がそれを結びつけようとする。しかしそこには誰の思惑は働いているわけでもない。ベートーヴェンの曲はその旋律を劇的に推移させながら、急激に曲の終わりに向かって盛り上がろうとして、高揚した気分の中にあらぬ妄想をかき立てる作用があるらしい。それは何かの冗談か。ヒップホップサウンドが乾いた空気をもたらしているような気にさせるのは、その言葉を理解しなくても楽しめるからか。何を述べているのか意図がわからないが、わざと込み入らせているように装いながら、人は何を恐れているのか。やがて滅び去る日が到来することを想うと、今さら何をやっても仕方がないような気になれるだろうか。だがそんなあきらめの心境をやり過ごして、何も思わずに何も語らず、それでも言葉が連なっている現状をどう思うのか。それは本当に嘘なのか。そこには何が存在しているのか。言葉以外の何があり得るだろうか。意識は何に囚われているのだろうか。ただそれが嘘だと思いたいのだろう。誰もいない夜の闇に向かって、誰かは何を問いかけているのか。誰が問いかけているわけでもないか。そんなわけのわからない問いかけはやめて、もっとありふれたことを問いかけられないものか。例えば哀しみはどこから湧いてくるのだろう。虚しさはどんな状況から生じるのか。誰かはあくびをかみ殺しながら何を見ているのだろう。メディアからもたらされる虚構の時をやり過ごして、何の変哲もない画面から遠ざかり、今日は何か語る対象を見出せたのだろうか。何を続けようとしているのか知らないが、いったいどこまでそれを続ける気なのだろう。まだやり続けようとしていることを思うと、何となくため息が出る。何のためにやっているわけでもないことは確かなようだが、それでもやり続けようとしているのだから、その執念深さは並大抵のものではないのかも知れない。もう正気の沙汰ではないのだろうか。正気でなければ何なのか。別に狂気や妄想に取り憑かれているわけでもないか。至って普通なのかも知れないが、どのような状態が普通だといえるのだろう。要するにそういう極端な感情を持ち合わせていないということか。具体的に喜怒哀楽の中のどんな感情が与えられているのだろう。それをどこから授かったのか。天から授かったと述べたいわけか。何となくそれで格好がつくような気がするが、何を述べているのでもないのだろう。別に感情にまかせて何をやっているわけでもない。それではつまらないか。何かを語りたいが、何もないので語れない。気の向くままにいい加減なことを語りたいとは思わないか。気はどこへも向いていないのかも知れない。では何を糧にして語っているのだろう。本当に語りたいのか。それはどのような試みなのだろうか。その手の試行錯誤にはきりがないか。