彼の声44
2004年
9月30日
何を投げかけてきたのだろう。何を捧げてきたわけでもない。懸命に何を訴えかけているわけでもないか。政治的に中立などという立場はあり得ない。時を超えることも人を超えることもできない。何を語り継ごうとしているのでもない。時に流され、人に見捨てられ、何にすがろうとしているのでもなく、何の支えも見いだせず、誰がそんなことを語っているのでもなく、何を学ぶこともなく、実践する対象を見失い、批評を無視して、無常とも非情とも無縁だと思い、君は何を述べているのでもないようだ。誰かは誰の代弁者でもないらしい。誰が真実を教えられるのか。ある種の宗教は生と死を美化していると思う。たぶん信者を獲得したいのだろう。簡単に生や死へと語り始めるのは怠惰の為せる技か。それが根本ではないはずだ。この世には何が存在しているのでもなく、ただ意識がそれを認識しようとしているだけなのではないか。何が存在していると思っているのだろうか。そう思いたいだけか。大げさなことは大げさなことであり、些細なことは些細なことでしかない。たとえ大げさなことを大げさに語っていても、些細なことを些細に語っていても、それらの語りに驚く必要はない。そう語ることによって何を転倒させたいわけでもない。それらの言葉を真に受けたければそうすればいいが、それで何かがわかったつもりになるのなら、それはそれでおめでたいことかもしれない。問いは問いであり、それ以上のことを問いかけているわけではない。わかっていることはわかっていること以外ではあり得ない。それを超える答えを求めることは勘違いをもたらすだけか。ただ技巧を弄してそれをやり続けているつもりになれるだけなのかもしれない。そうやって絶えず性急な解決を期待している。たとえ解決できなくても、そのような行為に慰めを求めている。精一杯努力していると思い込もうとしているわけだ。常に自らに自らの正当性を言い聞かせている。しかしそうやって何を喚起しているのだろう。自分が無意識のうちに何をやっているのかを知りたいか。自分以外の誰がそれを教えてくれるのだろう。いったい誰が監視しているのか。自意識は無意識とは区別されるべきなのか。どこの誰が君自身になろうというのでもない。誰が何を期待しているのかなんてどうでもいいことだろう。誰の期待に沿うつもりもないか。しかしそんな思いなど誰の知ったことでもないか。架空の場所では、誰が何を知ろうとしているわけでもない。仮想空間が真の空間であろうがなかろうが、そのことの真偽をどうこういうつもりはないらしい。確かに至上のものではないのだろう。間に合わせの仮の言葉を意味不明に展開しているだけかもしれない。すでに明確なことは何一つ述べられなくなっているのだろうか。世の中を支配する馬鹿げたざわめきを黙らせることなど不可能か。ざわめきを音楽だと勘違いしているわけではない。もちろんそれが雑音であるはずがなく、ただの世間話だと思っているようだが、その世間話が何を主張しているいえば、暇つぶしの愚痴以上のものではないだろう。ただしゃべる時間があるからしゃべらざるを得ないわけだ。それによって何が変わるわけではない。何も変えられないから、愚痴をこぼしているわけだ。現状に不満を持ちながらも、やっている行為そのものは現状に満足してしまっている。しかしそんな風に思いたくはない。たぶん背後から冷ややかな視線で見つめられていることはわかっているのではないか。わかっていながらそれをどうすることもできずに、まるで機械のように繰り返し同じようなことをしゃべり続ける。しゃべっているのは君ではないはずか。誰がしゃべっているのでもなく、その場の雰囲気がそのようなしゃべりを強要する。そこにはしゃべりの場が形成されているのか。別にそのようなしゃべりを遮る必要はないだろう。たとえそれがどうでもいいような内容であっても、不快感をあらわにする必要はない。何となくそれが過ぎ去るのを待っていればいい。それらは自然に発生して自然に消滅するだけか。軽い会話が終わった後には何も残らない。そしてそれをどうしようというのでもない。少なくとも誰かが真剣に語る熱い思いよりはマシかもしれない。別にそういう機会に無理にしゃべる必要はないのかもしれない。何もしゃべらずに語ることは可能なのだろう。
9月29日
迷っている最中に雨が降ってくる。無理に無駄な言葉を連ねすぎているのかもしれない。それによって何を感知し得ないのか。はっきりしたことはわからない。君は何も説明できないだろう。たぶん迷っているふりをしているのだ。本当は疲れているのか。それで語りゆくことにはならない。特別の知性を求めているわけではない。それはただの形式に近い語りなのだろう。そこに感情は含まれない。どのように探ろうと、知識よる確信には至りそうもないが、まるでアレルギー反応のような拒否の形態を目指しているわけではない。絶えずそれとは無関係な態度を装いながら、そこから離れられない現実を無視し続ける。なぜ実態を直視し得ないのだろう。たぶんそれは警告の言葉を発している。確かに物語には魅力があるのだ。自らの都合のいいように展開している。それが現実からかけ離れているとしても、その都合の良さが魅力となっている。では都合の良さが覆い隠している現実とは何だろう。歯切れの悪い成り行きになっている現実に我慢がならないか。何を我慢する必要があるのだろう。何を耐え忍ぶ理由があるのか。歴史の中に恣意的な視線を導入することにどんな躊躇いが障害となっているのか。君は真昼の光景を直視できなくなるだろう。自らの都合を満たすためにはそこに陰影を捏造する必要に迫られている。そうしなければ実態が明らかにならないと思っている。それを施すことによって、自らが思っている実態を魅力的に提示したくなる。そうすることで物事の本質を抉り出したつもりになる。そこに何やら起承転結のような構造が見えたとき、それが真実だと思い込むことの何が誤っているというのか。少なくともわかりやすく説明できているではないか。そのわかりやすい説明がフィクションと見なされるのは心外か。それは装飾的な試みなのだろうか。どのような飾りが施されているのだろう。特定の思考パターンに合致するように何が付け加えられているのか。あるいは消化しやすいように噛み砕かれているのか。そんな風に思ってはいけないのだろうか。人は答えを求めている。そのような試みが答えを要求し続ける。事の真相とは何だろう。そこに物語的な成り行きを付け加えなければ、真実を語ったことにはならないのかもしれない。制度的にそのような構造の中で真実とされる現象の説明に価値が与えられているのだろうか。それがなければわかったことにはならないのだろう。だからこそ、君には何もわからない。それを拒否する限りにおいて、そこから得られるものは何もない。君は何を経験しようとしているのでもない。ただ観客の立場を保持したいだけなのかもしれない。装飾を施された展示物を眺めていたいのだ。そのような行為が安らぎをもたらしている。安らいでいる間はそれで十分なのだろう。だがなぜ安らぎ続けることはできないのか。それでは生きてはいけないからか。では何を生かそうとしているのか。ただの観客では何が生かされないのだろう。見聞したり読んだりすること以外にどのような能力が発揮される必要があるのだろうか。それ以上に何をやればいいのか。ただ言葉を連ねるだけでは不十分なのかもしれない。そこには行動が抜けている。それは安易な行動ではないのか。何かを提示しようとして性急な行動に訴えかけるのは、それ自体が破滅を呼び込むことになるのだろうか。それはどのような破滅を招くのか。何よりも不特定多数の人々に向かってこびを売ること自体が勘違いだと思われる。たぶん粗雑で中身のないものを提示してしまっているのだろう。どうもそんなことばかりが繰り返されており、そこから抜け出られないようだ。そのような現実から目を背けるわけにはいかないらしい。しかしそこから一歩も外へ出られないのはどうしたことか。すでに出ていると思い込んでいればいいのだろうか。なぜそう思い込めるのかよくわからないが、何となくそんな嘘をついてみたくなる。それはおかしな付け足しだろうか。
9月28日
やはり遠ざかりつつあるようだ。なぜ関心を持てないのだろう。何に関心を持てないのだろうか。関心を持つという行為から遠ざかりつつあるのか。人生がどうのこうの述べる言説ではつまらないか。なぜ簡単でわかりやすいことから遠ざかりつつあるのだろう。それの何が気に入らないのか。簡単には理由を述べられないか。はっきりした理由などなく、ただそれが気に入らないだけか。それでは話にならないだろう。たぶん話にならなくてもかまわないのだろう。君のやる気にはむらがあり、まったく当てにならない。時として見当外れの物言いを連発してしまうこともある。結論に至らないことに腹を立て、ふてくされて投げやりな言説に終始することもある。言いたいことから無理矢理遠ざかり、わざとそれとは違うつまらないことを述べようとする。それは誰が述べているのでもない内容になるだろう。君自身が思い描いていることとは大幅に異なる。そうなるより他ない精神状態なのかもしれない。それはどんな状態なのだろう。何ものも求めない態度とどのような関係があるのだろうか。そのとき君は何を求めているのだろうか。それはいつもの空虚な思いと同じようなものだろうか。それをどうやって求めているといえるのだろう。哀しげな瞳は君のものではないはずか。それは言葉が所有しているある種の雰囲気だろうか。そんな風に述べると、そこに何らかの事情が介在しているような気がしてくる。何が八方塞がりだと思われるのか。結論はどこにもないように感じられる。いったい何に反発しているのだろう。何か不快になるような対象でもあるのか。別に不快だからそれを取り除こうとしているわけでもないらしい。不快さの度合いにもよるのだろうか。どうにも耐えられない場合は取り除かなければならないか。何が取り除かれなければならないのだろうか。それは邪念か嘘か、それとも何だろうか。それの何が不快なのだろうか。不快であるはずがないか。何が不快なのかわからない。たぶん様々な出来事が心に不快さを呼び込んでいるのかもしれない。しかし不快だからといって何をどうしようというのでもなく、ただそれ相応の言葉を連ねているだけか。言葉を連ねている間に時間が過ぎて行くだけか。それはどんな時間でもなく、ただの時間でしかない。もちろんそれで何を述べているのでもない。何を述べようとしているのか定かでないらしい。意識が繰り出される言葉に追いつけないようだ。何が不快であるなんてわかりきっているのに、それを言葉で表現する気にはなれそうもない。たとえその気になってもそれはできないだろう。できることは限られていて、できることをやろうとすると必ず邪魔が入る仕組みになっている。それはただの被害妄想かもしれないが、そのようにしか思われないときには、それを肯定せざるを得ない。そんな成り行きに流されて、どこにいるのかわからなくなる。君はどこで何をやっているのだろう。どこかで何かをやっているらしいが、そのどこかは意識からどんどん遠ざかってしまうらしい。何を述べているのでもないと思われるとき、君ではない誰かが何かを述べているのかもしれない。それが嘘であることも君は知っていながら、それ放置している。ただ何もできずにどこかで漂い続けているつもりになっている。何が漂っているのか定かでないが、それが君の意識であるはずがないか。たぶん認識しているのはそれとはまったく違った現実なのだろうが、言葉にすれば、それとはまったく違った認識を捏造してしまうのかもしれない。どうもそうしなければ気が済まないようだ。だがそれで気が済むはずもなく、さらに込み入った言説に持ち込もうとして、それなりに技巧を弄しているつもりになる。しかしそれをやればやるほど、さらにいっそう気に入らない結果を導いてしまうようで、否応なく不快感が増してゆくらしい。
9月27日
冗談を本気に受け取ったつもりになっている。それで満足したのだろうか。たぶんまだ不満なのだろう。まともなことは何も述べられないか。どのように述べようとそれは思うつぼだと思い込んでしまうのかもしれない。馬鹿正直に述べようとする相手をおちょくっているわけか。からかっているつもりの言葉には素直に応ずるべきなのか。からかわれていることに気づかないふりをしながら返答すべきなのかもしれない。相手もからかっている対象を馬鹿にしているわけだから、こちらも馬鹿にされるような言葉を繰り出さなければならないか。たぶんどのように述べてもそれは馬鹿にされる言葉になるのだろう。要するにそのような状況での創意工夫はまったくの無駄なのだ。もちろんそれでもかまわないのであり、相手の思うつぼにはまることで、こちらもそれなりの暇つぶしになるのかもしれない。別におちょくろうとしている相手をおちょくり返そうとなどと思っているわけではない。ただ面倒くさいだけか。何もやる気にはならない。本気にはなれないのであり、それでしてやったりなどという気分に至りたいわけではない。たぶんそれは寝て起きれば忘れてしまうような行為なのだろう。それをやりたい者はやってもらうしかないだろう。いくらでもやってもらおうではないか。それの何が不快なのだろう。そんなことをやっている人はネット上ではありふれているか。やはりそれでは創意工夫が足りないのか。いったい何を工夫すれば満足するのだろう。わかっているが、それをやるほど暇でもないのか。一連の反応には怠惰の匂いが漂っている。やはりそれでは本気で語っている先人たちに申し訳ないか。しかし現代人は本気で語るような時代には生きていないのかもしれない。生きていないとするとどうすればいいのだろう。向こう側でにやけている面々は時間の経過とともに簡単に消えてしまう意識たちなのだろうか。それらが生きられる時間はあっと言う間に過ぎ去り、また性懲りもなく似たような意識が生まれては消えゆく現象が飽きもせず繰り返されるわけか。それらはまともに受け取られるような言葉ではないのに、執拗に発生し続けているのか。たぶん一部の人たちはそれを真に受けて、誘いの言葉に導かれるがままにゲームに参加してしまうのだろうが、それでいったい何になるというのか。何かしらになるのかもしれないが、そのような経験を真に受け取るのは何となく馬鹿げているように思われる。確かにそれでもそれなりの経験かもしれないが、やはりそれはまやかしのような気がするのだが、しかしこの世界にまやかし以外の経験があるとは到底思えない意識も一方では存在しているようだ。それでは何となくつまらないのだろうか。つまらないが、たぶんそれに対応できるような文章を構成しているわけではないのだろう。だからその程度の反応で我慢すべきなのかもしれない。それ以外にどのようなコミュニケーションが成り立つというのか。何を思い違いしていたのか。要するに相手もその程度を越える対応を思いつけないのだろう。発想が貧困なのかもしれない。長々と言葉を連ねる能力がないのだろう。そのような鍛錬を積んでいないのだろうから、それをここで求めるのは酷なのかもしれない。もちろんそんな努力をする理由は現代社会のどこにも見当たらないのだろうが、それでは単なる期待外れではないのか。しかし相手に何を期待しているのか。それも冗談の一種なのか。こちらの労力に見合った冗談をかましてほしいなんて、無い物ねだりもいいところだろうか。そんなことを述べているうちに自然と笑いがこみ上げてくる。もしかしたら君は気が狂っているのだろうか。もちろんそんな冗談も真に受けるわけにはいかないか。相手がここまで読んでいるとは到底思えないか。
9月26日
様々な出来事がどこかで錯綜しているかもしれないが、何を述べているのかわからない。君は何も述べてはいないのかもしれない。誰が何を述べているのかわからない。たぶん錯綜しているそれらの出来事と君の存在は無関係なのだろう。妄想のただ中に何があるのか。どこかに何があるなんてわかるわけがない。妄想はどこにあるのだろう。誰の心を支配しているのか。何を笑っているのだろう。誰の笑いを言葉で表現したいのか。何がしてやったりなのか。何もやっていないうちから笑っているのはおかしいか。ただくつろいでいるだけのようだ。腕時計の針の動きがおかしい。誰が笑っているのでもない。どこにも存在しない人物は文字になる。何かを絞って抽出した成分が色になる。色は紙に染み込んでその表面に定着したつもりになる。誰がつもりになっているわけでもない。そのつもりはないらしい。何が迷惑だと告げているのだろう。素直に楽しめない思いはどこから生じているのだろうか。そこで何を楽しめばいいのか。求めている水準に達していないようだ。だが何を求めているのかわからない。存在は存在しないのと同じ状態を目指している。だから何を目指しているのかわからなくなる。そこには何が存在しているのだろう。それは何かの嫌がらせなのか。とても対話が成立するとは思えないが、これから何を話そうとしているのだろう。話すことは何もなさそうに思われるとき、そこから適当な言葉が繰り出されるようだ。それは何らかの秩序を表しているのだろうか。なぜ物語的に語らなければならないのか。誰がどこでどうしたかを捏造する必要に迫られてしまうだろう。思いはそんなところにはありはしない。言葉はそこから遠く隔たっている。なぜそれらの言葉によって思いを反映させようと試みるのか。何がどう反映されているのだろう。急いで結果を提示する必要があるのだろうか。そこに何が示されているというのか。何を見失っているのだろう。何が切実に求められているのでもないらしい。それでは単なる空虚になってしまうだろうか。何を語っているでもないことになってしまうのか。何かに流されているのかもしれない。中身の空っぽな何かに関心を持っているわけか。地面との接点を見いだせないのだろうか。地に足がついていないということなのか。あやふやなことを際限なく述べ続けるはめに陥っている原因はそんなところにあるのだろうか。しかしなぜそれでもかまわないと思っているのだろう。君はそのことについてどのような感想を期待しているのか。ちゃんと箇条書きにしてわかりやすく説明されていないと理解不能になってしまうわけか。それはどういうことなのか。ただ単に能力が不足しているだけなのかもしれない。ニュース的な題材から遠ざかり、誰の興味を期待しているのかもわからない状況になりつつあるようだ。別にそれらの何もかもが馬鹿らしく感じられるわけでもないだろう。なぜそこから逸れていってしまうのだろうか。それらはすべて戯れ言の範疇なのか。何に巡り会おうとしているのか。行き先に決定的な運命でも待ち構えているのだろうか。すでにそれを通り越してしまっているのかもしれない。決められた運命に従って歩んでいるのかもしれない。そんな風に思えば少しは気晴らしになるだろうか。気晴らしは余分な行為か。だが余分なことは何も思わないことはいいことなのか。気晴らしの何が余分なのかわからないが、とりあえずここにないものは余分なものなのかもしれない。しかしそれで気晴らしになるだろうか。ここにないものを想像することが気晴らしになるだろう。そんな気晴らしを繰り返していると、適当な言葉を呼び込めるだろう。想像力から言葉が生じるわけか。しかしそれでは当たり前すぎて、気晴らしから程遠い考えか。気晴らしならもっと荒唐無稽な解釈を提示すべきだろう。だが今は考えるのが面倒だから、その程度で満足しておこう。
9月25日
何も変わっていないのか。様々な環境の変化に左右された末に今の状態がある。なぜ何も変わっていないのか。この世界はこの世界でしかない。これから何がどう変わろうと、この世界はこの世界のままなのか。君は人間なのになぜ群れないのだろう。環境の変化に適応できないかもしれない。いったい何が変わろうとしているのだろう。孤独であるはずがない。人は追想しないものだ。どこで葬儀が行われているのでもなく、ここ以外のどこかで行われているかもしれない。後戻りはしたくないか。断片的な記憶が一つにつなぎ合わされて、あの時の光景が脳裏によみがえってくる。この世界はこの世界ではないだろう。どの世界にも属さない世界を夢想している。いったん退けられた意見を採用する勇気がどこにあるのか。もう何ものにも巡り会えないだろう。それでも誰かに巡り会おうとしている。だがそれは誰か以外の何者でもない。君は酔っているのか。それは何かの冗談かもしれない。極めつきにお目にかかれないうちは執拗に画面を見つめ続けているのか。いったい何に興味を抱くつもりなのか。それ以外の何かか。繰り出されたそれらの言葉をどんな言葉と置き換えたいのだろうか。何かを一つ一つ説明していかなければ気が済まないか。何を述べているのか意味不明では通用しないだろうか。ありふれた音楽に感動している。そのままの連なりでは気に入らないわけか。ここから思考を巡らして、形あるものを構築しなければならない、と思うわけか。どこかで空気が抜けているのかもしれない。関連性を見いだせない。それは堕落と映るかもしれないが、それでもかまわないのは当然としても、それとはまったく無関係なことを述べたくなったらしい。ある出来事について述べているわけではないのだろう。特定のことを述べられなくなったようだ。意識も思考も分散していて、何となくその場の雰囲気に流されている。別に死んだ人間を再生させたいわけでもなく、フランケンシュタイン的なものを顕揚したいわけでもない。込み入った作り事には飽き飽きしている。そんな語りはあっさり捨て去り、それとは違うものを提示できるだろうか。今提示しているものは何なのか。ただの意味不明だけか。だが何を犠牲にしているわけでもない。そう思いたいだけか。どうやったら姿を消せるだろう。それは誰の台詞なのか。以前にも似たようなことを述べていた。ここに存在しないものは不在であり、空想しているものは虚構である。それの効用を語りたいわけでもない。そこから抜け出たいわけでもないか。君は機会から見放されている。君は世界から見放されている。たぶんそれは冗談だろう。見放されているのは世界の方か。誰から見放されているのだろう。それは神か人間か、あるいは君自身からか。どちらにしても大したことはないか。ただ馬鹿げた言葉を連ねているだけの者に何ができるというのか。やっているのではないか。できているのだろうか。何におもねっているわけでもなく、一切の妥協を拒んでいるつもりか。しかしそれが自由といえるだろうか。別にいえなくてもかまわないし、自由という言葉は嫌いか。不可能を可能にできるような幻想をもたらしているのが気に入らないか。気に入らないが、それが自由なのだから仕方ないだろう。たぶん君も自由を目指して努力しているのだろう。しかし努力という言葉も嫌いなはずだ。嫌いな言葉が続いてしまうとやる気が出ないか。今まで何をやる気でいたのか不明か。やる気もないのにここまで続けてきてしまったわけか。そんな述べ方は回りくどいか。ではどのように述べれば納得がいくのか。そんなことがわかるはずもなく、ただ希薄な思いとともに意識は存在し続ける。そんな風に述べたならば、何となくその場の雰囲気に合致しているだろうか。雨音がやけにうるさい。ついでに明日のことを思う。きっと明日もそんなことを語っているのだろう。
9月24日
君は謙虚さを知らない。謙虚な態度には虫酸が走る。どこまでも傲岸であろうとする。それは何かの演技なのだろうか。漫画の敵役でも思い浮かべているのだろうか。すべての思いはどこに行き着くのか。別にそれを否定しようとは思わない。それらの思いは、そのまま適当な場所に積み重なるのだろう。思考は相変わらず機能することをためらっている。無駄な方向で浮遊していたいのかもしれない。どこかで彷徨っているつもりなのだろうか。そうやって時間を浪費するばかりのようだ。雨が降り注いでいるらしい。雨とともに何らかの意識も降ってくる。別に神が降臨しているわけではない。それは誰かが奢り高ぶっていることを暗示ているわけでもない。なぜ前述とまったく関係のないことを述べようとするのだろう。ことさらにそれを繰り返したいわけでもない。ただ彷徨っているふりをしているだけか。なぜ人は死ぬのだろう。なぜ人は生きるのか。別に死ぬことによって、世界に向かって何を要求しているわけでもないのだろう。生きている人は何を要求しているのか。もっと生きたいか。植物はやがて枯れる。意識は生からも死からも逸れて行きたいようだ。そこに隠された意味などを設定したいわけでもない。ただしばしば自由という言葉に踊らされているだけかもしれない。定型を打ち破ろうとすれば意味不明になるだけか。むやみやたらに無関係な言葉を接ぎ木しようと試みる。枯れ野の広がる季節が待ち遠しいか。そんな風景を眺めたいわけでもないだろう。何を求めているわけでもないふりをするのはいつものことか。どこかで屈折しているように思われる。何が屈折しているのだろう。ドビュッシーの曲でも聴きたいわけか。今聴いているのはそれではないのか。それらの文章の中で何が了解されようとしているのか。それのどこかに折り返し点を設けいたいらしい。その地点から次第に繰り出された様々な言葉がまとまりを持つようになり、一つの主題のもとにまともな文章として形成されてほしいのか。それは誰の願いなのだろう。しかし言葉はどこにも響かない。どのような対象も文章から拒絶されてしまうだろう。あたかも自ずから支離滅裂を求めているかのように、まったく無関係な言葉が方々から寄せ集まる。そしてそれらの行状に耐えきれなくなった意識が、たまらず自己言及の悪循環へ逃げ込んでしまうだろう。しかし何を否定しようとしているのかわからない。すでに何を展開させようとしていたのか忘れている。当然もたらされた結果に納得するはずもなく、さらに無駄な悪あがきを繰り返すつもりらしい。だが今さら出直すつもりはない。どうやら次第に袋小路に追い詰められつつあるようだ。死人の声はどこまで響き渡るのだろう。何をつぶやいているのか。死者の書を探し求めていたのは誰だったか。どこかの考古学者だったかもしれない。彼は大金と労力を注いで何を発掘しているのだろう。自らの研究の正しさでも証明したいわけか。いつの日にかそれは、つまらぬ学術論文として日の目を見るのかもしれないが、別に君がそれを求める必要はないだろう。せいぜいカードゲームで暇でもつぶしていれば、そのうち寿命が尽きるだろう。そのとき老人となった意識は何を悔やむのか。もう悔やむことができるような意識ではないのかもしれない。それ以前に自殺してしまう老人もいるらしい。そんないかさまな人生はこりごりか。それの何がいかさまなのか。ただ働いて死ぬだけでは不満か。人生はそれだけではないと思いたいのだろうか。思いたければいくらでも思うことが可能か。そんな可能性を信じていれば、いつかは救われるかもしれないが、別に救われようとは思わない意識は、何を求めているのでもないらしい。何をどのように考えても、思考そのものが不都合であり、余分な精神作用なのかもしれないが、それを避けて通ることは不可能か。
9月23日
いつものように漠然とした思いに囚われて、何をどう語ればいいのかわからなくなる。雨の夜を過ごしながら、それとは無関係なテレビを眺めながら、気休めに何を述べているのだろう。気休めに述べているわけではないか。別に何を述べているわけでもなく、またいつものようにわざとらしく意味のない言葉を繰り出しているようだが、いったい何を話しているのか。別に話しているわけではないだろう。話しているのはテレビ画面に映っている人々か。沈黙とともにそれを眺めている君の方はといえば、さっきからどう話を展開させたらいいのか迷っているわけか。そんな話ではつまらないだろうか。わざとらしく迷っているつもりになって、それについて何か述べているのかもしれないが、それはつまらないことだろうか。迷うことはつまらないことなのか。それは迷う内容にもよるだろう。ありふれた内容ではつまらないか。アメリカ映画の見え透いた展開に驚き、そのわざとらしい配役にあっけに取られる。なぜそれほどまでに分かりやすくしなければならないのだろうか。しかしなぜわざとらしい話には呆れてしまうか。なぜ映画の中では探偵もどきの弁護士が無実の死刑囚を救い出さなければならないのか。そういう話なのだから仕方がないだろう。君はそれではつまらないと思うわけか。ではどのような話ならおもしろいことになるのか。例えば、本当の連続殺人犯が悪徳弁護士や検察官や裁判官を金で買収して、無罪を勝ち取る話ならおもしろいだろうか。おもしろいかもしれないが、たぶんそんな話では映画として制作不可能か。倫理的に許されない話はどんなにおもしろそうでも、映画にはならないのかもしれない。では映画になりそうでおもしろい話はないか。わからない。具体的におもしろい話を提示することは難しいのだろうか。おもしろそうな話ならいくらでも捏造可能かもしれないが、おもしろかったりつまらなかったりすることが、それほど重要なことなのだろうか。映画を制作する人たちやその映画を鑑賞する人たちにとっては重要なことかもしれないが、君は映画などまともに見たことは一度もないのではないか。件のわざとらしいアメリカ映画も途中までしか見ていないではないか。しかしそれで何か不都合でもあるのだろうか。あるいは、そのような態度に何か不満でもあるのだろうか。最後まで見れば、何かあっと驚く結末が用意されていて、そこまで見ずに途中で見るのをやめてしまったことを後悔するかもしれない。いつ後悔すればいいのだろう。たとえそういうことになっていようと、そんなことはどうでもいいことだ。最後まで見届けるだけの忍耐力に欠けているのだから、それはそれで仕方のないことか。ことさら執拗に感動を求めているわけではない。感動など何かの偶然に巡り会えたらそれで十分だろう。そもそもそこでは何が説明されているのだろうか。映画が何を説明しているわけでもないか。その光と影が織り成す空虚な内容の中に、何か伝えたいことでも示されているのだろうか。いったいそれらは何を伝えようとしているのだろう。もしかしたら暇つぶしで見ている側には何も伝わっていないのかもしれないが、それを恐れているわけでもない。何も伝わっていないとすれば、それはそれで興味深い現象かもしれない。もちろんそんなはずはなく、少なくとも何かしら伝わっているはずか。それとは気づかずに、思いもしなかったことが伝わっているのかもしれない。その映画を制作した人たちは感動を伝えようとしていたのに、それを見ていた君は、感動ではなくわざとらしさや退屈さを受け取り、つまらなくなって途中で見るのをやめてしまった。それがここでの現実なのか。要するに君はその映画を見るに値しない人間なのかもしれない。しかしそんなにわざとらしく自らを卑下することはないだろう。もう少し自らに自信を持った方がいいのではないか。それはどのような種類の自信なのか。勘違いする自信か。
9月22日
何を考えているのだろうか。それをやることでどんな利益に結びつくのか。わかりやすいことを述べてみたくなったのか。これ見よがしの風景写真に嫉妬しているわけか。仏心に目覚めれば座禅がしたくなるらしい。この世に無常でないものがあるわけがないことはわかっているつもりか。しかしそれ以外に何を知っているのだろう。無常ならざるものを強引に想定したいわけか。変わらぬものとはなんだろう。それは誰かに対する愛だとか、その手のことを口走ってその場を取り繕ってみるのも、メロドラマ的でわかりやすいかもしれない。なぜカレンダーの風景写真は美しいのだろうか。しかしそれは月並みの美しさなのだろう。カレンダーとしての用途に叶った美しさなのかもしれないが、なぜそれでは不満なのだろうか。たぶんそれは変わらぬ定型の美しさなのかもしれない。ありふれているということか。しかし希少価値などを求めているわけではない。美しいだけではつまらないのかもしれない。もちろん美しいだけならわかりやすいし、そういう写真なら商業写真として金銭的な利益に結びつくのだろうが、ただそこから逸脱する部分に欠けていて、それを眺めても、一瞬は美しいと思うが、次の瞬間には無関心の彼方へ消え去ってしまう風景だ。それは自己主張のない、差し障りのない程度の美しい風景でしかない。もちろんそうであるからこそ、カレンダーの機能を邪魔しない適切な写真なのかもしれない。それは挿絵と同じようなものか。たぶんそのような風景を眺めて心が癒されたつもりになる人も多いのだろう。しかし心が癒されるとはどういうことなのだろうか。その対象はいつもの風景であり、いつもの語りであり、いつもの映像なのだろう。そういうものを見聞して、あるいは鑑賞して、変わらぬものに接することで無常を忘れ、要するに安心したいわけだ。そんな結論に君は納得できるだろうか。文章の中に皮肉の匂いを嗅ぎ取って不快になるか。反感を誘うような述べ方になってしまったのだろうか。だが別に何を批判しているわけでもなく、ただそのように思っているだけかもしれない。思ってしまったのだから、それをどのように受け取られようと、それはそれでどうしようもないことか。何やら言い訳じみた文章でも付け足して、反感を最小限度に食い止めるべきなのか。今さら何を付け足しても無駄か。しかしそんなに大それたことを述べているわけでもないだろう。別に他人に好かれようとしているわけでもないのだから、あまり無理して取り繕う必要もないだろう。この程度の文章で善人を装うのは馬鹿げている。しかし心が癒されたからといって現状がどうなるものでもないだろう。しばしの間現実逃避を試みていただけではないのか。内外のリゾート地へ観光に出かけていくのと同じようなものか。リゾート地で美しい風景を眺めながら、何もせずのんびりしていれば、やはり心が癒されるのだろう。しかしそれは無駄なことだと思う。もちろんあえて無駄なことをしている自覚があるのかもしれないが、それのどこかに救いを見いだそうとする浅はかな魂胆が透けて見えるか。ただ単に無駄なことだとは断じて言えないか。だが無駄が救われない現実を生み出していることを忘れてはならない。リゾート地で労働を強いられている人々は救われない。金を稼ぐために召使いをしなければならない。接客業に就いている人々は、客の無理な要求にストレスを感じている。また旅の恥は掻き捨てのようなことをしなければ、日頃の憂さを晴らせないとしたら、そのような人の日頃はさらに悲惨な状態なのかもしれないが、憂さ晴らしをしなければ生きていけないような状況に暮らす人々には、癒しなど必要ないのではないだろうか。いくらその期間だけ癒されても、過酷な日常の暮らしを根本的に改めなければ、それらは常に焼け石に水状態のような気がする。逆に悲惨な日常を継続させるために、一定期間の息抜きを必要としているだけではないのか。
9月21日
どうやら何を考えているのか少しずつわかりかけてきたようだ。何も思わないときでも、たぶん何かしら思っているらしい。そんな思いが矛盾しているのは当たり前か。君には何らかの目標がある。それを常に保持していながら、絶えず忘れようとしているのかもしれない。もう忘れてしまった。覚えていないことにしておこう。そうやってごまかしているのか。何をごまかしているのだろう。何も思わないように心がけているのか。よくわからないことを述べているようだ。それはいつもと同じ状況なのだろうか。いつもよくわからないことを述べているのか。何となくそんな傾向もあるのかもしれない。人の心はそんな思い込みによって構成されているのだろう。やりたいことがはじめからあるわけではない。その場の成り行きに身をまかせながら、だんだんやりたいことが形成されてくる。やろうとしていることがやりたかったことだと思い込んでしまう。当初はそれほどやりたかったわけでもないのだが、やっている途中からそんな思いは徐々に忘れ去られ、これこそが真にやりたかったことだと思い込んでしまうわけか。しかし当初においては何をやりたかったのだろうか。何かそれとは別のやりたかったことでもあったのか。あったのかもしれないが、今はもうそれを思い出せなくなってしまったのか。今やっていることに夢中で、昔のことなど思い出す必要を感じないのかもしれない。ではいったい何に夢中なのか。それを忘れようとしている。夢中であったのはたぶん睡眠中のときだろう。何をわざとずらしているのか。無意識のうちに、そこで行き詰まりかけていると判断したわけか。それは何となく見え透いた進路変更のように思える。心変わりとはそういうものだろうか。たぶん作業をこなすのに手一杯で、そこまで神経が回らないのかもしれない。何をやりたいのかはわかりきっているが、それが思考の対象にならないこともわかっている。考えられないようなことをやっているのわけか。考えるより先に言葉を連ねているらしい。それをいちいち吟味している暇がないらしい。繰り出された言葉は思考を置き去りにしている。思考は多くの人にとって邪魔な精神作用なのかもしれない。思考している間に機会を逃している現実がある。そのような場合、思考は躓きであり、停滞を招く原因でもある。迷いと躊躇いが繰り返されるだけで、そこから先へ一歩も踏み出せなくなってしまう。ではどうしたらいいのだろう。どうしたらいいのか考えている間があったら、強引にその先へ歩み出すべきなのか。歩み出してどうするのか。ただ歩み出していればいいだけか。それでは何をやっているのかわからないだろう。ただ歩んでいるだけだろう。別に一心不乱にそうしているわけでもないのだろうが、ただその先へ進んでいるつもりのようだ。今やりたいことはそういうことなのか。だから何をやりたいかなんてわかる必要はないし、それを知ろうとしていない。何を知りたいわけでもないし、進んでいる過程で偶然に知り得たことに何の意味もない。たぶんやっていることにも意味を見いだせないだろう。それでも意識は思考を捨てられないようだ。それは絶えず何かを思い考えていなければ、意識そのものが成立し得ないからか。意識の存在を感じていることが思考していることになるのかもしれない。思い悩みながらも、それを継続しているらしい。それは自らが意識してやっていることではなく、ただそうなってしまっているのだろう。そういう状況下に意識があって、思考が継続されているようだ。絶えず、あるいは断続的に、ただ思い、考えている。なぜそうなってしまうのか、そんなことがわかるわけがないが、わかるわからないの対象とはなっていないのだろうが、やはりそれでも、なぜやどうしてという疑問や疑念に付きまとわれながらも、様々な方向に向かって思考が繰り返されている。
9月20日
理屈が捨て去られたらおしまいか。何か伝えたいことがあるのか。心の中に反発を感じる。起こるはずだった出来事には巡り会えなかったようだ。何に遭遇したわけでもない。君は疲れているのか。そんなことはわかりきったことだろう。見せかけの疲労に惑わされてはならない。どこへ回帰しているわけでもないだろう。誰かが自由について語っている。自らの不自由な境遇をどうやって語ることができようか。意識の消滅を通してもう一つの意識の存在を想像しているようだ。消滅したのは誰の意識だったのか。流木はどこかの浜辺に流れ着く。そこに何を出現させたいわけでもない。誰の顔が誰の顔に似ているというのか。意味を成さない出来事の積み重なりから何を導きたいのだろう。それで障害が取り除かれたわけでもない。興味を惹かぬ出来事はただ忘れ去られようとしている。忘れられない出来事はくだらないだけか。理屈はどこで生かされているのだろうか。何を生かそうとしているわけでもないか。しかし理屈を捨て去ったらコーラを飲まなければならない。近所の自動販売機で買ってくればいいのか。頭がおかしいのだろうか。おかしいのではなく、おかしいと思いたいのだ。頭がおかしいことを言い訳にして自由になりたいのか。自由とはなんだろう。不自由に思われる原因を取り除けば自由になるだろうか。なれるはずがないか。自由と不自由との間に関係や関連はない。たぶん自由になれば肥満体になるのだろう。肥満は自由の証か。しかしそれはどんな理屈に基づいているのか。あまり本気で語っているわけではないらしい。気乗りがしないので明日になってしまうだろう。今日はもう寝るしかないのか。そのときの気分をどう解釈すればいいのだろう。そのときは今ではないのだろう。すでに昨日になってしまっているようだ。たぶんそのとき意識ではなく思考が消滅してしまったのだろう。何を考えているわけでもないらしい。考えられないのかもしれない。気がつけばテレビを見続けている。プロ野球がどうのこうのなっているらしいが、そこにどんな主張を差し挟みたいわけでもなく、ただ何となく眺めているだけか。他人事には本気になれないわけか。自分事にも本気になれないかもしれない。誰かを英雄扱いするにも飽きているのだろうか。何に同調するわけでもなく、支持しているわけでもないということか。無関係な現象にいちいち関心を持つほど暇ではないのかも知れない。しかし自分が関係を持っている現象を知ろうとはしないだろう。それは知る対象ではなく、知らず知らずのうちに直接体験する現象だろう。それが経験となって記憶に刻まれてしまうのかもしれない。だがどのような記憶を有しているというのか。それは様々な記憶としか表現しようがない曖昧なものだろうか。何となく経験が積み重なり、その積み重なり具合によって、その人独自のものの考え方や思いが形成されるわけか。それらの出来事から遠ざかることは何を意味するのだろう。何かを思い考えれば、何らかの意味に出会えるのかもしれないが、その意味を信じるつもりはないらしく、とりあえず意味不明になるように自らの言動を持ってきたいようだ。そうすることに何の意味があるのでもない。そこに意味を求めようとは思わない。たぶん君は馬鹿げたことを述べているのだろう。はじめから本気になれずに、またいつまで経っても本気にはなれない。世の中を動かしていると思われる現象には同調できそうもない。それらの何を守ろうとも思わない。ただ馬鹿らしく思えるだけなのか。どんどん無関心になってきているようだ。というか、他の人々が騒いでいるほど大変なことではないような気がするだけか。どうでもいいといえば、すべてがどうでもよくなってしまうかもしれないが、自分が参加しようと思わないのは、やはりそこに魅力を感じないからなのだろうか。
9月19日
それらの文章には魅力を感じない。あまりにも簡単に否定してまうやり方に違和感を覚える。それについて何となく反省しながら、何を伝えたいのかわからなくなる。何を反省しているのか疑わしいか。限界を認めなければならなくなる。このままでは何について述べているのかわからないままか。いったい何について述べればいいのだろうか。眠りについて、沈黙について、言葉のない世界について、そんなことについて述べたいわけではない。だが述べたくもないことを述べようとしているのはいつものことかもしれない。誰がそこで眠りにつこうとしているのか。眠っているのに目が覚めているつもりらしいが、たぶん誰かは夢でも見ているのだろう。その辺で君の認識は誰かの思いと食い違いを見せる。誰かが見ている夢の中では、君はまだ眠りについていないように思われるが、君の認識では、君自身の肉体はすでに墓の下で永眠してしまっている。何となくそこで幽霊でも登場させたいような雰囲気の到来を待っているようなのだ。君は死んでいるのにまだ口を閉ざすつもりはないらしく、懸命に自らの死亡原因を誰かに向かって訴えかけている。自分がなぜ死んでしまったのか、それを是が非でも知ってもらいたいようだ。しかしそれを誰かが知ってどうするのだろう。知り得ぬ秘密でも知ってしまったつもりになってうろたえてくれたら満足でもするのだろうか。そこから逸れて行かねばならなくなるだろう。これ以上くだらぬ言葉遊びにはつきあっていられないか。君が探し続けていたきっかけはそんなものではないはずか。意識はまだ完全には眠っていないようだ。だが首でも絞めたら意識は失われるかもしれない。明日の朝には絞殺死体が誰かによって発見されるわけか。その件については沈黙を守らなければならなくなるだろう。誰にでも黙秘権はあるわけか。だが、アガサ・クリスティーではないので、文章上で誰かが死ななければその先へ進めないわけでもないだろう。コナン・ドイルもそれと似た構造の文章を書いていたかもしれない。たぶん多くの人々も文章上で人が死なないとおもしろくないのかもしれない。物語の中で登場人物が生死を賭けて行動しないことには、本気になってそれらの文章を読む気がしないか。だがその手の技巧に染まるのは面倒くさいか。人が死のうが生きようが、そんなことについて語るのは馬鹿らしいか。ただそんな雰囲気を醸し出しながら、もっともらしいことを書いているだけではないのか。なぜそんなものを読んで真に受けることができるのか不思議に思われるか。ただ虚偽の殺人を技巧を弄して本当らしく思わせているだけか。なぜそんな風に思ってしまうのだろう。たぶん意識がその手の物語的症候群から覚めてしまったのかもしれない。なぜ暇つぶしの謎解きにつきあわなければならないのか。要するにそれらはテレビのクイズ番組と同じようなものなのかもしれない。しかしそれをいくら否定しても、実際に読めばそれらの物語に引き込まれるだろうし、おもしろいと感じてしまうのだから、それはそれで存在理由も価値もあるのだろう。その手のアニメも映画もそれなりにおもしろいだろう。だがそれの出現を期待しているわけではない。飽きもせず繰り返されているそれらの中から、たとえ新たな潮流が生まれるとしても、意識はそこから逸れてゆくだろう。君はやがて何も見いだせなくなるだろう。虚構の物語から隔てられ、日常の現実からも遠ざかり、どこにも居場所がなくなってしまうだろう。目の前の空虚が消散するはずがない。覚めているとはそういうことなのか。なぜくだらないと思うのか。すべての出来事がただ目の前を通りすぎる。何を追想する気もないらしい。過去の郷愁の中には何があったのか。何が重要なのだろう。何を理解する必要があるのか。どのような事態に直面しているのだろう。
9月18日
脱力感に苛まれている。だが精神を病んでいるわけではないと思う。それでもまともなことを述べているつもりなのか。箍が外れている。もとからそうなのかもしれない。軛によって進行方向を制御されているわけでもない。そんな風に思いたいだけなのか。述べていることとは裏腹に、束縛を感じているのだろうか。つまらないことを述べているのかもしれない。あるいは馬鹿げたことを思っているのかもしれない。下界では様々な成り行きが交錯しているようだが、それが物語に進展するとは思わない。人々はそこから何らかの雰囲気を感じ取りたいのだろう。そこに至る成り行きをドキュメンタリー風の音と映像で堪能したいのか。難儀なことだと思う。心情的に応援したい人もいるらしい。多くの心が共感したいわけだ。優しい心で世界を覆いたいのだろう。それによって憎悪の連鎖を断ち切りたいのか。しかしそこで何を告白したらいいのだろう。日頃の恨み辛みを赤裸々にぶちまけたいのか。しかしなぜそれが優しさとつながるのか。そこからまたいつもの冗談に突入してしまったのだろうか。何を語っているのかわからなくなる。気を取り直してもう一度まともなことを語らなければならないか。何を試みているのか理解できない。理解する術を知らないのかもしれない。どこへでも行ってしまいたくなるが、どこへも行けない現実がある。できることといえば、ほんのわずかな前進しかない。それでいいはずもないだろう。だが風景は何も訴えかけてこない。それが風景であることに自足しているようだ。何かを直接行いたいのは、原始人の本能がそうさせるのか。単純に生き、単純に理解し、単純に思いたいか。そう述べることが複雑さを誘発させている。何が複雑なのか理解できないが、たぶん求めているのはそんなことではない。どこかへ回帰したいのかもしれない。だが回帰する場所がどこにあるのだろう。現時点では過去に思うところはどこにもない。過去のどの時点できっかけを見失ってしまったのだろうか。それはどうなるかもしれないきっかけだったのか。今となっては何も思い出せないようだ。しかしそれはいつものパターンだろう。そこから逸れていかなければならないらしい。なぜそうなのかはわからないが、何となくそのパターンのままではおもしろくないような気がしている。そういつもいつも迷路で迷っているふりをしていては無責任か。たまには何らかの結論に向かって適切に言葉を構成しなければならないか。しかし何をどう述べてみても、求めているものとは違う内容になってしまうようだ。そして何となく何を述べているのか意味不明に思われてしまう。そこでは何が話題となっているのだろう。それらの話題には無関心の姿勢を貫き通すつもりなのか。関心を持てないことを悩んでいるわけか。どうもやり方が複雑になりすぎているような気がする。たぶんこの世界がこれからどのように進展しようと、それはあまり関心の対象とはならないのではないか。人々はもっと枝葉末節な部分に関心を寄せている。これからもその傾向は変わらないだろう。それは大したことではないし、それに関心を寄せている人々も大したことはないだろう。しかし大したことなど何もないのかも知れず、ただ大したことはない出来事が続いて行くのだろう。関心はどこまでも分散していってしまうだろう。それは大問題でも何でもない。小問題ですらなく、ただの日常が関心のすべてとなってしまうのかもしれない。日々健康で暮らしていくことにしか関心を示さない。しかしそれ以外に何があるというのか。何かがあるのかもしれないが、それが何なのか探り当てようとする気が起きないだろう。たぶんそれはただの幻想かもしれないが、その幻想が一般的には夢と呼ばれるものなのかもしれない。夢や希望や目標を抱いて、それに向かって努力する、というもう一つの罠が待ち構えている。それが暇つぶしの努力であることに気づかないばかりか、そこに至上の価値を設定してまうわけだ。要するにそうやって人々は馬鹿になる。もちろんほとんどの人は、そんな単純にはいかないのだろう。安易な夢によって苦しみや悲しみから解放されてはならないことを、本能的に知っているのかもしれない。
9月17日
誰かは偶然にその場にふさわしい言葉を見いだしたつもりになるが、他の誰かはそれとは違う印象を持っているのかもしれない。君たちはそこで何を賭けているのか。勝ち目もないのに賭博をやる者の気が知れないが、勝つ気もないのにいったい何を賭けているのだろう。なぜ勝ち目がないといえるのか。それ以前に何を賭けているのか定かでないか。それらの言葉はいつ途絶えるのだろう。どんなに継続を試みても、いつかは途絶えるはずか。しかしそれを回避する可能性はある。それが自動作文システムだと主張したいわけか。それは数年前に存在した意識の焼き直しだろう。今では消え失せている意識をどうやって復活させるつもりなのか。再開するには根本的な問題が横たわっている。いったい君は言葉によって何を構成しようと試みるのか。それは文章に決まっているだろうか。いつの間にか君自身の記述する文章が、仮想の文章と入れ替わっている状況を想定したいわけか。今はそれを実現させるために伏線を張っている最中であり、バーチャルな文章と釣り合うように、わざと意味不明なことを述べているのだろうか。そんな嘘はつまらないか。しかしそれが嘘でないとしたらどうなるのか。どうなるわけもないだろう。未だ再開にこぎつけていない現実がある。しかし君は無意識のうちに試しているはずか。記述している言葉の連なりにはどんな可能性があるのだろう。そのすべてを表現できるだろうか。別に不可能を可能としたいわけでもないが、すべてがすべてではなく、すべて以外にも表現する対象があることを、文章を構成することによって確かめてみたいか。それが君の妄想のすべてか。そうではないと思いたい。そんなつもりで述べているのではないと主張したいか。君は何も主張せず、ただ黙って示すのみなのか。だが君は一連の出来事から見放されている。出来事とは何のことなのか。それらのどこから語ればいいのだろうか。出来事の一部始終を覚えているわけではない。それとは無関係の他愛のない出来事でさえ記憶から消え去ろうとしている。そんなわけで今日もはっきりしないことを述べている。明確なことは何も述べられないようだ。しかし語るべき明確な対象が存在しないのはいつものことか。何を当たり前のことを述べているのか。どこかで当たり前のことが当たり前のように語られている。そのどこかがどこなのか誰が知り得るだろうか。なぜそれがここでなくてどこかなのか。誰かが語りたいのはそんなことではないはずか。本当はもう何も語りたくないのかもしれない。誰が語りたくないのだろう。しかし誰かが語りたくもないことを語り続けているらしい。その語りたくもないことを語っているのは誰なのだろう。やはりそれは嘘なのだろうか。行き詰まるとすぐに嘘で逃げたくなるのは悪い癖か。いったい何に行き詰まっているのだろう。そんなことはわかりきったことだ。はじめから結果の分かっている交渉は交渉ではないのだろう。たぶんそれらの人々は状況に応じた判断ができないということか。はじめに結果ありきでは何も進展しないか。では状況に適応した者にはどんな未来が待ち受けているのだろうか。たとえそれが茨の道だとしても、やらないよりはやった方がマシなのか。やりたければ勝手にやればいいだろう。やりたくない者はやらなければいい。だがやりたくもないのにやっている者にも、それなりの主張があるらしい。それはどんな主張なのだろうか。それは何かの冗談か。何となくそれらの主張には本気になれない雰囲気が醸し出されている。なぜ君は何も語れないのだろう。いったい何が君の主張なのか。誰がそれを知りたいのか。
9月16日
何となく破れかぶれで投げやりな台詞を多用しているようだが、別に売り言葉に買い言葉を求めているわけではない。高性能とはどのような機械に当てはまる褒め言葉なのだろう。どんな機械を操作しているつもりなのか。臭い文句を避けながら、またいつもの意味不明に流されそうになる。気晴らしに何らかの空気を吸い込みながら、呼吸とともにありふれた思考に導かれたいと思う。どこにでもある空気をことさら強調したいわけではなく、何も強調せずに、そこからどうやって結論を導こうとしているのか。大衆などという概念には飽きているか。野球場に集う人たちが大衆の典型だろうか。彼らにどんな力あるわけでもなく、ただ金を払って観戦を楽しみにそこへ来ているだけか。政治家にはどんな役割があるのだろう。民主主義的な制度を装うための言い訳にすぎないか。彼らに弁解の余地などない。ありふれたことを述べるなら、音楽は無力だ。芸術も無力だ。ついでに誰かの言動も無力か。いったい何に対して無力なのだろうか。すべてに対して無力だと思い込みたいらしい。それは嘘だという意見を期待しているわけか。そんな期待には惑わされずに、意識はどこへ赴きたいのか。誰の意思に背いているのだろう。闇夜の下で、君はどこにうずくまっているのだろう。別に君は道端の猫ではない。まだ悩んでいるふりをしているわけか。いつも同じ言葉の連なりばかりでは飽きてくる。ではどこかへ行けば普段とは違った響きの言葉に出くわすか。だがそれを記述するには至らないだろう。記述するのが面倒くさいか。どんなに言葉を連ねても、相変わらずどんな悟りにも至らないようだ。何を悟りたいわけでもない。気を抜くと、すぐに自意識過剰から物事を歪めて解釈しようとする。自らがその中心にいるつもりにならないと気が済まなくなる。それでも様々な試行錯誤の中から、気に入ったやり方を選び出したいらしい。しかし何を積極的に試しているわけでもないらしい。何もやる気が起きないのはいつものことか。それらの成り行きのどこに紆余曲折があるのか。それらとはどのような成り行きを伴った現象なのか。結論はまだ出ていない。結論を出そうとしていないのではないか。なぜいつも途中の段階にとどまっているのだろう。どうしてそこから進展しないのだろうか。どのように進展させればいいのだろう。そんなことがわかるはずもない。では嫌になって途中で放り出してしまうつもりか。何を放棄するつもりなのだろう。そんなことができるわけがない。放っておいても決まり文句の言葉が意識に絡みついてくる。それ以外に何もやりようがないはずだ。それ以上は何をやっているわけでもなく、何もやっていないわけでもない。ではいったい何をやっているつもりなのか。そこから何が出現し続けているのか。繰り出された言葉は何を表現しているのだろう。そしてそこから何が実現しているのだろうか。空白が空白であることをどのように説明したらいいのだろう。なぜその空白を言葉で埋めるはめに陥っているのか。それをやりたいからやっているのではないか。やりたくもないのに、はたしてそんなことができるのだろうか。しかしまだ結論には至っていないらしい。いったい何を結論として提示すれば納得がいくだろうか。納得するために言葉を連ねているわけではない。わざと迷い、偽りの彷徨を表現しようとして果たせず、そこには何も中身がないことが明らかになる。誰もそんなやり方は知らないはずだ。それで適当に語ることができたのだろうか。たぶん国家の存在は些細な問題でしかないのだろう。誰もが無意識のうちにそこから逸れていこうとする。そんなものが存在しないかのように振る舞いたいらしい。それについて利いた風なことを述べたい者は、ジャーナリストもどきになるか、あるいは学者もどきになるしかないようだ。それ以外は相手にされないのかもしれない。いったいどこの誰が誇大妄想狂の相手をしてくれるというのか。
9月15日
経験は不可避な状態の到来を告げている。避けられない事態になることを前もって予告するかのように、過ちを犯した先にうまくいく可能性を示す。どんな出来事に魅入られているのだろうか。それはどのような犯罪に発展する可能性があるのだろう。他人を殺めることによって己の人生から抜け出ることができる。それで何かに終止符を打ったつもりになれるかもしれない。この世には安易な成り行きに身をまかせるにはうってつけの環境が整備されているのか。周りで騒ぎ立てる人々には効果音の役が割り当てられているらしい。何を深刻そうに振る舞えばその環境に適応できるだろうか。沈痛な面持ちを装うことの浅はかさを誰が指摘してくれるのだろう。たぶんあらかじめ予想していた結論からは遠ざかりつつあるのかもしれない。馬鹿げた予備知識を忘れて、どこを目指すでもなく、あらぬ方向へ行き着くように、何も定めていない。ただそこから逸脱する可能性に賭けているのかも知れず、そうなるように全神経を傾けているのだろうか。当初においてはそんなはずではなかった。どこかの誰かはうまく語れるようになりたかったのだろうか。何をうまく語ろうとしていたのか。それらの状況についてなのか、あるいは語り方そのものについてなのか。それならすでに他の多くの人々が語っているではないか。いったいそこでは何が語られ、それについて君はどう思っているのだろう。死刑を執行された者に謝罪の言葉がなかったと息巻いている大馬鹿者達を殺したくなってくるか。また世の中の常識を振りかざして、利いた風なことをぬかしているくだらぬ神経の持ち主も殺したくなってくるか。そんなことを思っているわけではない。思っているのは君ではなく、他の誰かか。たぶんそのことによって誰が殺されるわけでもないのだろう。誰も殺されるわけでもないが、誰かが別の理由で殺され、また別の誰かが気晴らしに殺され、さらにまた別の誰かが暇つぶしに殺される。中には面倒くさいから何かのついでに殺される人もいる。そこで殺されなかった人は運が良いのだろうか。大多数の人々は運が良いのかもしれない。例えば癌で死ぬ人は運が良い。他人に殺されないだけでも運が良いと思われる。老衰で死ぬ人は、天寿をまっとうできたのだから、さらに運が良い。死に方にも運が良いのと悪いのがあるらしい。ちなみにつまらない死に方をした者は運が良いと思われる。世間の話題にならないだけでも幸せかもしれない。悲惨な殺され方をした者は、死んでさらし者にされてしまう。画面や紙面でそのプライバシーがさらされる。ついでに殺した者もさらされるわけだが、その時点で生きているだけでもまだマシか。生き恥をさらしているわけだから、場合によっては死んでしまった方がマシかもしれないが、生きていればまだ発言の機会が残されている。社会から押しつけられてくる謝罪の言葉や態度を拒否し続け、悪態でもつきながらアンチヒーローを演じることができるだろう。しかしその程度で満足していいのだろうか。つまらない冗談はその辺でやめておいた方がいいか。何が冗談なのかわからないが、そこからの抜け道はどこにあるのだろう。どうやってそこから逃げればいいのか。逃げられない最低の状況に戸惑っているのは誰だろう。何が最低なのかわからないが、手品の種明かしはいつ行われるのだろう。いつ手品が行われたのかわからないが、暇つぶしのテレビでは、現前している空虚を悟られないようにするためかどうかは知らないが、とりあえず間を持たせるための手品が流行っているようだ。そこにどんな関心があるのか。ただその場をしらけさせないためだけに必死なのか。それについて何をどう解釈したらいいのかわからないか。
9月14日
何もないのに無理に語ろうとすれば、たぶんそれらの言説はまやかしになるだろうが、それでも何もない空白を生きながら、何か世の中に向かって問いかけるべきことはないか。君たちは暇なのか。君と同じような日常を経験している誰かは何を求めているのだろう。それから君は語るべき対象に巡り会えたのだろうか。それらの現状はどんな風に推移しているのだろう。忙しさを言い訳にして、怠惰に身をまかせ、思考を放棄した先には、雑な表現が適当に連なっている。たぶん思い出されることは、思い出そうとしていることではないだろう。今から何を思い出そうとしているわけでもないが、誰もそんなことを思い出すつもりはないか。何を思い出そうとしているのか。嫌なことはすぐに忘れたいわけか。すぐに忘れてどうするのか。忘れたつもりになって、運命に抗っている気にでもなれるか。何に抗っているのか定かでない。それでも定かでない記憶を手繰り寄せながら、それとはまったく異なる内容を語りたい。それはいつもの嘘になるだろうか。嘘でなければ何になるというのか。真実を語りたい人は正義のヒーローにでもなりたいのか。それでは子供だましの範疇に入ってしまうか。誰もいない部屋の中で、誰もいないはずがないと思いながらも、君はいつからそこに存在しているのだろうか。空虚な雰囲気がどこかから忍び寄ってくる。君の意識は何を思っているのだろう。それは誰の意識でもないだろう。そこに何が存在しているはずもない。耳を澄ませば何やら聞き覚えのあるフレーズが聞こえてくる。それはいつか聞いた流行歌だったかもしれない。だいぶ昔の記憶がよみがえり、しかしそれがどうしたわけでもなく、別にそこが世界の中心であるわけでもない。なぜそこが世界の中心ではないと言い切れるのだろう。別に言い切っているわけでもなく、確かそんな題名の読み物が流行っていたかもしれない。そこで誰かが何かを叫んでいたはずか。テレビのメロドラマでは、誰かと誰かがくっついたり離れたりしながら、ただ時が経つのを待ち続けている。それらは半年ごとに最終回を迎えるらしい。その決まりきったサイクルの中で、俳優たちがありふれた人々を演じている。そしてそれを見ながら、何やら利いた風なことを語りたい人々もいるようだ。日常の暇つぶしとはそういったものだろうか。たぶんそこには平凡な充実感がみなぎっているのかもしれないが、やはりそれがどうしたわけでもない。どうかしているのは誰かの精神状態だろうか。暇がないのに暇つぶしをやろうとしているようで、その矛盾にまだ気づかないらしい。架空の誰かがそれに気づかないふりをしているだけか。何に気づいていない風を装っているのだろう。それはすでに述べたことか。いったい何を述べていたのか。そこにはもとから何もないのではなかったか。何もないので、例えば誰かがあり得ないことを想像してみる。空が緑色に輝いたとき、それは何かの合図だったかもしれない。誰かは忙しいのに暇を持て余しているようだ。それが嘘であることは言うまでもないが、それに続けて、さらにわざとらしい嘘をつくとすれば、さっきまで何をやっていたのか思い出せない。しかしそれもいつものことだろう。戯れ言の中で何を述べようとしているのだろう。意識は深夜に幻影を見たような気がした。深海にはどんな生き物が漂っているのだろうか。それは誰の興味を惹く話題なのか。影はそこで何を説明したいのだろう。もはや君は影ではないはずか。しかし影でなくても、何かしら説明している現実が到来しつつある。それが現実であると見なしているのは誰なのか。何を説明しているのかわからないか。君はそれをわかろうとしていない。わかるきっかけが必要とされているのだろうか。その必要はないか。だが必要もないのにわかってしまうこともある。そんな状況の中で、物語的には何が必要とされているのだろうか。物語そのものが欠けているのかもしれない。だがそれでは物語ではないだろう。物語などどこにも存在していないのかも知れない。それともきっとどこかにあるはずか。あるはずのないものがここにはあるのかもしれない。それはどこかではなくここにあるわけだ。ここにその場の状況に合わせて語られた文章があるかもしれない。意味不明か。
9月13日
それは誰の意識でもないだろう。そこでは誰も何も思っていないようだ。その代わりに何らかの言い訳が漂っている。要するにそれは責任逃れの言説に近い。例えば、君とは別の人格を有している誰かは、気まぐれに何を思っているのだろう。気まぐれではなくはじめからそのつもりだったのかもしれないが、なぜか戯れに過去を振り返る気になっているらしい。数年前はまだ昔といえるほどの過去ではないが、その時期の君は何を述べていたのか。何となく利いた風なことも述べていたかもしれないが、その大部分はもう忘れてしまっている。それを今読み返してみると、まるで他人の文章のような気がしてくる。当時はなぜあれほどまでに批判を繰り返していたのだろう。そのときの状況も忘れてしまっているのかもしれない。とりあえずかつては批判しなければならない対象が存在したらしい。今から思えば、語る対象があるのはうらやましい限りだろうか。何をくだらぬことをうらやんでいるのだろう。今ではもはや抜け殻状態に近づいている意識は、かつての活動的な状態に戻りたいのだろうか。今さら戻ろうとする気はないし、戻りたくても戻れるはずもないか。ある時期を境に心の中で何かが途切れてしまったのかもしれない。ある時期とはどんな時期だったのだろう。自らの力の限界を悟った時期か。力とは何か。何をもってそれを力と呼ぶのだろうか。それは何らかの結果がもたらされたときに、そのような結果がもたらされるにあたって、何らかの力が働いていたと後から説明が可能な場合に、そのような力の存在が想定されるということだ。先天的に自らにどんな力が宿っているわけでもなく、それはあくまでも何かをやった結果から導き出される概念だろう。結果が思わしくなければ自らの力不足を痛感したりするわけだ。だから力の限界を悟ることはあまり重要なことではない。単に結果が思わしくないので弱音を吐いているに過ぎない。弱音を吐けば抜け殻状態になってしまうわけでもないだろう。抜け殻状態という言葉もそれによって連想される無気力などの脱力的な意味で使われているとすれば、それは何となく嘘っぽく感じられる。それよりは謙遜もしくは冗談に近いニュアンスがあるのかもしれない。要するにあまり本気に語っているわけでもなく、二度と立ち直れないような深刻な状態になっているわけでもないのかもしれない。しかし何もないことには変わりないか。それでも人は絶えず何かに挑戦すべきなのか。それはまた何かの冗談だろう。人ではなく、いったい誰が挑戦すべきなのか。なぜそれが君ではないのだろう。誰に促されているわけでもない。またどこに挑戦すべき対象があるわけでもない。これから何に巡り会うにしても、その出来事に必然性を見いだすのはおかしなことだろうか。それは君には関係のないことなのか。それが起こるべくして起こる出来事のように思われるとすれば、そこにはどんな思い込みが介在しているのか。それを運命だと見なすことによって何をもたらしたいのか。いつものように気休めでももたらされてほしいか。あるいはその程度では不満であり、何かしら驚異的な体験へと結びついてもらいたいわけか。誇大妄想にも程があるだろうか。しかしいったいそれの何が抜け殻状態だというのか。くだらぬ批判にうつつを抜かす暇あったら、何かもっと建設的な提案でもしてみたらどうか。今の状態で何を提案できるのだろうか。また君が提案したからといって、どこの誰が聞き入れてくれるのか。はたして提案する対象がどこにあるのだろう。何をどうすればどうなるというのか。その状態をどうしようというのか。本当にどうにかしたいわけなのか。ではどうにもできないと思っているわけか。いったい何について語っているつもりなのだろう。たぶん君は何かを提案する立場にはないのかもしれない。そのような述べ方が有効だとはとても思えない。ある一定の方向で述べれば、必ずそれに対する反発が起こり、意地でもそれとは逆のことをやりたがるだろう。そうやって、さらに批判されるようなやり方を推し進めて、もうどうにも後戻りできない事態に自らを無理矢理追い込んでしまうわけだ。そしてわざとらしくどうにもならない現状を嘆いてみせる。そんなことの繰り返しで誰かはここまでやってきたのではなかったか。
9月12日
現実に何を経験しつつあるわけでもない。経験はその外側にある。それは経験とは呼べないものだ。では何と呼べば納得するのだろう。誰が納得するのか。ただ言葉が循環しているだけか。なぜそんな状態を放置しているのだろう。現状でできることは限られている。では限られた範囲内でやったらいいだろう。何を考えているのだろう。考えるきっかけはいくらでもありそうだ。現状を肯定しながら癒された気になっている人には、思考が欠如している。何に癒されているつもりなのか。自国や自国民や自国の会社が世界的に認められたと見なされたら、それは喜ぶべきことなのだろうか。そんなことに喜んでどうするのだろう。喜んでいる自らの境遇には何の変化もないだろう。何となく程度が低いような気がしてくる。なぜ人々は他人を応援しなければならないのだろう。その他人や組織や集団は、その応援を逆手にとって金儲けしているだけではないのか。それらの金儲けしている人々は、応援している人たちに何をもたらしているというのか。興奮や熱狂や感動や勇気や希望をもたらしているということか。そんなものが何になるのだろう。たぶん積極的に応援している人にとっては、何かしら生活の糧となっていると思い込んでいるのだろう。世の中にはそれを必要としている人がいる。需要と供給の関係で、見せ物としての需要がある限り、それらは執拗に継続されてゆくのだろう。まるでこの世界はそれらの見せ物に支配されているように思われる。なぜそこに人々の関心が集中するのだろう。なぜそんなものに同調しなければならないのか。そんなものがそんなものではないからか。見せ物の下僕となることにある種の快楽があるのだろうか。見せ物となっている人々を神の代わりに祭り上げたいのだろうか。それを見ている自分たちより格が上の敬う対象としたいのか。満たされぬ自分たちの思いをそれらの人々に託しているわけか。君はなぜそのような行為をおかしいと思うのだろう。自分たちはただそれを見ているだけという事実が、何となくまやかしのような気がしてくる原因となっているのかもしれない。そこでは臨場感によって、やっている者と見ている者との間に横たわる差異が忘れ去られている。見ている者があたかもやっている者と一緒になってやっているような気になってしまうことがおかしいと感じられるのか。ではなぜそれをおかしいと感じてしまうのだろう。やっていないのにやっている気になるのは馬鹿げたことだろうか。たぶん馬鹿げたことかもしれない。そこからくだらぬ妄想が生まれるのかもしれない。他人の問題を自分の問題だと勘違いする。それが自らの関心事のすべてとなってしまうことで、自分の問題を忘れてしまうことになる。すべての人がそこまではのめり込まないにしても、いったいそれの何が問題なのだろうか。要するにそんなものに心を奪われていることが、何となく間抜けな気がするだけか。しかしなぜ君はそれらの見せ物をそんなものと見なすのか。そんなものに関心を抱いている人々がみすぼらしく見えるからか。そんなものに関する言説がお粗末に思われるからか。どこかで聞いたような内容が飽きもせず何十年も繰り返されているような気がするからか。なぜそんな精神状態にとどまることに満足してしまうのだろう。もう少し違ったようにならないものか。ある一つの見せ物に大勢の人々が群がって、その話題に関して同じような言説があちらこちらでささやかれる状況のどこがおもしろいのだろうか。たぶん多くの人たちにとってはそれがおもしろいのだろう。他の多く人たちと同じ話題を共有できることがおもしろいのだ。ではなぜ君はそれがおかしいと感じるのか。それが幻想に過ぎないことに気づかないからか。ではなぜそれを幻想だとして切り捨てられるのか。その辺で行き詰まっているのかもしれない。
9月11日
そのとき何かひらめいたのかもしれないが、どうも機会を生かすことはできないようだ。人々は幻想を求めていて、そうしている自らを正当化したい。それに対して何を述べればいいのだろう。何を批判しなければならないのか。しなければならないわけではないか。君はどんな幻想を抱いているのだろう。世界が平和になって欲しいか。しかし絶えず争いごとがなければ、それは世界ではないだろう。そこには様々な価値観があり、様々な利害関係がある。そしてそれらがぶつかり合うところで諍いが起こる。繰り返されるのは過去も現在も未来もそんなことばかりか。君はそれらの状況のただ中に生きているわけだが、どんな立場を取ろうとしているのか。勝手にできる範囲で勝手にやろうとしているだけか。妥協すべきと判断したときには妥協して、成り行きまかせを装いつつも絶えずつけ入る隙をうかがっている。しかしそれでは動物と変わらないか。現実に動物なのだから、それはそれで仕方のないことか。本当はやるべきことなど何もないが、やりたくもないことをやり続け、いつしかそれがやって当たり前のこととなっている事実に気づいて、わざとらしくそんな現状に驚いてみせる。しかしそれ以外にどんな現状があるのだろう。仮想空間では現状も何もあったものではないか。いったい何が仮想空間なのだろう。架空の意識は現状を現状として認められないし、そんな現状には納得できないわけか。意識は何を思っているのだろうか。面倒くさいので何も思っていないことにしたいわけか。それらの思いを言葉にして公表するわけにはいかない理由でもあるのだろうか。現状では理由など何も思いつかないか。しかし現状とは何なのか。今あるありのままの状況のどこが現状なのだろうか。なぜありのままの状況を信じられないのか。どうしてそれを認めようとしないのだろう。ただ気に入らないのか。あるいは自らの思いが現状に反映されていないのだろうか。では例えば、抱いている幻想が実現して初めて、そうなった現状を認めることができるようになるのだろうか。そんな都合のいい成り行きに持っていけるわけがないか。そうなるように努力してみる価値がどこにあるのだろう。努力したければしてみればいい。それは誰の声なのだろう。努力するのが嫌だから、そうやっていい加減な台詞を繰り出しているわけか。何を迷っているのだろう。その辺で語っていることがうやむやになってしまうらしい。何となくくだらぬ気分に覆われてくるようだ。そんなことを思いながら、いつもようにどうでもいいような気になってしまう。何をやっても変わらない思っている一方で、何かのきっかけで変わったとしても、その変わり方が気に入らないのだろう。適当に思考と感情が揺れ動きながら、今日も何事もなく過ぎ去ろうとしているらしい。今日は何かの記念日だったかもしれないが、別に誰にとっても待ちに待った日が訪れたわけでもないのだろう。そこから漂ってくる雰囲気に嫌悪感でも抱いているのだろうか。何となく感じてしてまう居心地の悪さを紛らすために、わざとらしいことでも述べたくなったらしい。それは気まぐれの一種か。たぶん君はその事件から逃げているのかもしれない。本気になるのが馬鹿らしいのか。見通しが甘かったのだろうか。気がづけば何もできなくなっている。暗闇の中に何があるのだろう。何もありはしないか。それは無駄なことなのか。本当にやる気が失せてしまったのだろうか。まともに述べるには能力の種類や差違や格差が大きすぎるか。だがそれはどうでもいいような言い訳でしかない。戯れ言の質が低下しているように思える。それは疲労からきているのだろうか。それともまだ何も述べていないように思えるのは遺憾なことなのか。そんな嘘は通用しないか。
9月10日
曇り空から時折雨粒が降ってきて、アスファルトの地面に微かな染みを残す。久しぶりに影が何かいい加減なことを述べているらしい。他人の意識が他の誰かに憑依する現象は、そのほとんどが思い込みに起因するようだ。しかし誰がそんなことを述べているのだろう。その脈絡のない唐突さはかなりおかしい。いったい君自身は誰の意識に支配されているのだろうか。意識ではなく意味不明な言葉に支配されているのかもしれない。あるいは支配されているのではなく、言葉によって君自身が存在させられているのだ。たとえそうであったとしても、それは本質的なことではない。だが誰がそう思っているのだろう。語りの中に生じている架空の存在でしかない者に、何を期待してみても無駄か。何を期待していたのか。期待ではなく、そのせいぜいが映像を見て感動している意志薄弱な者たちに、制作者の意図に沿ったありがちな不安をもたらしているだけか。しかし何を述べているのかわからないか。君は具体的どのような効果を期待しているわけなのか。それで何に勝利するつもりなのだろう。いったい何にこだわっているのだろう。勝ち負けにこだわる人は、過剰な努力と驚くべき執念によって、勝つ可能性を己に引き寄せようとする。そんな誰かは、わざとらしくも執拗にまとわりつく飽くなき闘争心の発動を喜んで受け入れているわけか。なぜそうまでして勝たなければならないのか。そんなことはわかりきったことかもしれないが、何についてどのように述べるにしても、多言を要すれば要するほど、次第に語彙が貧困化する。同じような言い回しの繰り返しとなってしまう。いくら何を述べても、状況は相対的には何も変わらないようだ。言葉のあやをついたごまかしには際限がなく、それに対する無関心は相変わらず執拗に続いてしまうだろう。たぶんそれらの連なりは、まともな人にとって肯定の対象とはならないのだろう。なぜまっとうな人間は心を単純に保たなければならないのだろう。それで何を批判しているつもりなのか。心が複雑になればなるほど、躊躇いや迷いが邪魔をして、何もできなくなってしまうからか。何もできなくても何かを執拗にやり続けている現状があるらしいが、いったんこうと決めたら、途中で過ちに気づいても、最後までやり遂げなければならないのだろうか。いったいこれから何をやり遂げるつもりなのか。何もないところに何を構成しようとしているのか。君はそうやって強引に不可能を可能としたいわけか。それこそごまかし以外の何ものでもないが、ではごまかし以外に何があるのだろう。今ひとつやろうとしている内容がはっきりしないようだが、それでいいのだろうか。いいわけはないだろう。どこかに決定的な言葉を置き忘れてきたらしい。もちろんそれは見え透いた嘘に決まっている。ないものをあるかのごとく定めようとしているだけか。それがあり得ないからこそ、まるで呪文のように同じ言葉が繰り返されている現状が容認されている。誰が容認しているのだろうか。それはいつものことだろう。何を置き忘れてきたわけでもなく、ただ単にそのような言葉を伴った文章を構成するのが不可能なだけなのかもしれない。しかしそれが不可能だというのなら、すべてが不可能なのであり、結果としてその状況から抜け出ることが不可能なのだ。そして未だに、不可能を可能であるかのように見せかける過ちに、気づいていないのかもしれない。誰が気づいていないのか。君自身はそれについてどう思っているのか。架空の君が何を思うわけもない。君の思いはそのときの言葉の連なりによって文章の中に構成されるだけか。ではそこには君のどんな思いが書き込まれているのだろうか。それは君の思いなどではなく、そのときの状況に踊らされた誰かの感情の移り変わりでしかないだろう。なぜそれが君の思いとはならないのか。
9月9日
何に反論しているわけでもなく、そうかといって、これから何を述べるつもりもない。もはやとどめを刺された観もあるようだが、それはどうも違うような気がする。いつものように本当のところはわからないが、何がわからないのだろう。それでもまだ生き残ろうとして、誰かは無駄な悪あがきを繰り返しているわけか。それが無駄だとはまったく思っていない。それどころか、極めて有効だと思われる戦略を実行に移しているつもりらしい。だが何を述べているのかわからないままか。誰が何をやろうと、それをやっている人それぞれが違うやり方に至る可能性を有しているのかもしれない。何事にもリアリティを感じないからといって、何も投げやりになることはないだろう。しかし誰に向かって何を述べているのだろうか。それはただの独白に過ぎないことか。しかし今世界で起こっている出来事に、無関心を装う必要がどこにあるのだろうか。誰が無関心を装っているのだろう。だが何もすでにわかっていることを改めて述べる必要はないだろう。しかし誰かはそこに付け入る隙があると思っているらしい。そんな思い込みが勝手な妄想を呼び込んでいるのだろうか。唐突にいつもの不連続な言説が提示されようとしている。言葉は本当に現実の出来事を再現できるだろうか。そう思い込むこと自体が間違っているか。では結果的にそれがフィクションになっている現実が、出来事の嘘を告白しているだろうか。君の思考はどこで鍛えられているのだろう。もはや思考の体を為していないか。では何が鍛えられたのか。ありふれた言説には耳を貸さない。それがありふれていると思うことは、いつの頃からか、思うことのすべてとなっているのかもしれない。見聞する何もかもがありふれているとしたら、何を新たに思考する必要があるのだろう。振り返ればいつもの風景から遠ざかっていることに気づく。そこで誰がどこに向かって歩んでいるわけでもないが、思考には距離感がつかめない。どこに思考する対象があるのかわからない。問題がどこで発生しているのか知らないが、たぶんそれが問題なのではないのだろう。では何が問題なのか。それらの出来事について、何をどう述べたらいいのかわからない。実際には何を述べているのだろうか。何を述べるべきか迷い続けているだけで、ただその逡巡の過程を語るばかりのようだ。しかしいくら迷っているからといって、別に迷宮で彷徨っているわけでもないだろう。またその手のゲームにはまっているわけでもない。別に迷宮の出口を見つけることがここでの目的ではないはずか。ではいったい何を迷っているのだろう。別にくだらぬ言動に流されているわけでもなく、現状では迷うべき選択肢などどこにも見当たらないか。しかし依然としてわからないことに変わりはない。これから何を語ろうとしているのか知らないが、なぜそれを言葉で表現できないのか。どうもこのままではまともな成り行きにはならないようだ。すでに常軌を逸しているのか。とりあえず誰かは具体的な問題を知りたいらしいが、なぜそこには問題がないのだろうか。それの何が問題なのか。問題はいくらでもありそうだが、なぜ意識はそれらすべてを無視してしまうのか。それの何が問題なのかはっきりしていないからか。どこかの誰かのように、すべてを肯定してみても、何ももたらされなかったら、今度はどうしたらいいのだろう。今度という機会があると思っているのか。時間は遠からず止まってしまうだろう。世界はそこから動かなくなる。それはいつのことだろうか。そのとき意識はこの世に存在しているのだろうか。もしかしたら誰かの妄想から生じているのかもしれない。だがそれがどうしたわけでもない。それによって何を問いかけているのでもないないらしい。それは解釈の問題なのかもしれないが、それでもそれらの状況をどうすることもできないことに変わりはないか。
9月8日
頭が重いようだ。しかし、何も思わないとき、そこからすべてが始まる。ここからどうすべきか、何も迷うことはない。風がどこかに吹きつける。どこかの禅僧のように自然体を装っているわけか。誰がそんな風に振る舞うだろう。何か別のことを思っているうちに、それに沿った言葉が合成され、偽りの意識が形作られる。何を説明しているのでもない。それらはただの雰囲気にしかならないだろう。次は何をやればいいのだ。依然として何も思わないし、何もやらないだろう。何かをやりながら、何もやらないと述べているだけか。それらの言葉を混ぜ合わせている。言葉の種類など関係なく、ただ適当に、いい加減に混ぜ合わせている。それがその場の雰囲気を醸し出しているらしい。はたしてそれが対話になり得るだろうか。それはどこまでも述べても独白から離れることはない。その代わりに現実から離脱してゆくわけか。いったいそれの何が現実なのだろう。意識の集中が切れかかっていることが、そこでの現実なのだろうか。しかし積極的に何もしないことが、なぜ重要になってくるのか。何もしないことがいかにして積極性と結びつくのだろう。そしてそうすることがどうして重要だと思われるのか。唐突にそんなことを述べても意味不明か。意識の中で何かを取り違えているのかもしれない。何もしないことは、一般的には消極的だと思われる。それは重要なことではない。何もしない人間は無視されてしかるべきか。何もしない人間など存在しない。何をすべきかはわかっているはずか。しかし君は何もやらないだろう。君は君自身であり、同時に君は現実には存在し得ない。君は不可能な状況を想定しているようだ。君は君自身から逸脱している。限界を超えて語り続けているのかもしれない。いったい限界はどこにあったのか。気がつけば久しぶりに翌朝になっていた。以前のやり方に戻りつつあるのだろうか。風邪はもう直ったのだろうか。執拗な努力は何を満たそうとしているのか。以前に繰り返された状況が思い起こされる。そうなってしまうことを待ち望んでいたのだろうか。どんな言葉を探していたのか。本当にもう何も思うことはないのだろうか。作り話の中ではどうなっているのだろう。何かが断念されているようだ。どのような結果になればよかったのか。歪んだままでいいわけはないか。何が歪んでいるのだろう。リアリティを感じている意識は誰に取り憑いているのだろうか。そんな思い込みから抜け出て、言葉につまっている現実に気づいてみるか。どのようにも変化できるわけでもなく、ある一定のパターンに収斂されてしまうらしい。別に君はそれを求めていたわけでもないだろう。可能性の範囲内に落ち着いてしまう結果には失望しているのか。いったい何が不可能だと思われるのか。継続が途絶えることか。それはすでに起こっていることかもしれない。架空の世界に住まう意識には、それがどうしても信じられないようだ。試しに誰かがつぶやいてみる。もう終わりだ。風が止んでいるのかもしれない。それで爽快な気分になれるか。現実の状況はさらに進展していってしまうのかもしれない。鳥が鳴いている。空には雲が繁茂しているらしい。花が咲き、やがて実がなる。それで秋を感じているつもりなのだろうか。誰かの意識にはわからないだろうが、作り話の中ではそういうことになるらしい。だがまだ何かが足りないようだ。足りることはないだろう。世界はどこまでも後退し続ける。たぶん空虚が拡がっているのだろう。意味もなく希薄さが蔓延しているのかもしれない。辺り一面にはどうでもいいような出来事が散らばっている。ありふれたことをありふれた言い方で述べている人は幸せか。それらの何が勘違いなのか。それで済むのならそれに越したことはない。人々は何を求めているわけでもなく、何も求めていないわけでもない。架空の意識が求めているのは、やはりどうでもいいことのように思える。
9月7日
いったい沈黙の時はいつやって来るのか。いつまでもどこまでも言葉に付きまとわれている。それを口実として、やはり意識は何かを続けるふりをしているようだ。本当のところは、虚構の世界では、君にはやることが何もないらしい。現実の世界でならやることはいくらでもあるのか。意識はそれらの何も肯定できないようだ。何を肯定したらいいのだろう。やることが何もないことを認めなければいけないわけか。だがすぐにそんなことはないと思ってしまう。そんなことがないわけではない。それはどういうことなのか。どういうことでもなく、そういうこと以外の何になるのだろう。いったい何を迷っているのだろうか。意識のどこに躊躇が生じているのだろう。話がどこかあらぬ方向へ進んでしまうことを恐れているわけか。それはあり得ない話ではない。注目に値しない出来事はいくらでもある。だがどんな出来事に注目しているわけでもない。それらはすべて埒外の出来事なのか。また嵐の夜になるらしいが、意識はそこから遠ざかり、現実から逸れてゆく。意味のない精神作用に侵食されているのか。現実の時空から退いているのだろうか。何も思わないのはいつものことだ。何についてどんな風に思えばいいのかわからない。それらの思いをどのような言葉で表現したらいいのかわからない。それは何かの冗談か。はたして実際にそう思っているのだろうか。とりたてて何を求められているわけでもなく、ただ漠然とした雰囲気に包まれているだけかもしれない。それを虚無と見なしたところで何がどうなるわけでもない。そこで何を苦しんでいるのだろう。どうでもいい現実をどうすることもできずに、それがどうでもよくはないことを認められない意識に嫌気がさしているわけか。それはどんな意識なのだろう。何かが都合よく捏造されているのだろう。何か適当なことを述べるために必要な意識が文章の中に構成されている。やはりそれは何かの冗談か。そのように述べる意図がわからないか。そこにどんな意図を思い描くことができるだろう。君は何かをごまかしている。何かではなくすべてか。しかしすべてとは何か。たぶんすべてとは嘘なのだろう。何かは何かでしかなく、何か以外の何でもあると同時に何でもない。要するにどのように解釈してもかまわないし、そこにどんな言葉を当てはめてみても、なんとなく嘘になってしまうような気がするだけか。具体的に語る気力に欠けているのかも知れず、ただそれらしい雰囲気でごまかすのが精一杯なのだろう。今できることはその程度か。それ以上の状態になることは今後もあり得ないのかもしれない。それはまるで閉ざされた空間で有限の言葉が適当に組み合わさりながら循環し続けているだけのように感じられる。そこには何らかの用心深さが介在しているのかもしれないが、簡単に結論へ至らないための迂回路でも用意されているのだろうか。しかし慎重に言葉を選びながら語り進んでいるのでもなさそうだ。まったく構築的な文章からはかけ離れているように思える。時々不用意に語り手の本音が漏れてしまうこともあるようだが、同時にそれを本音と解釈していいのかどうか判断しかねる言い回しもある。もちろん本気でそんなことを述べているわけではない。なぜ前言を打ち消さなければならないのか意味不明かもしれないが、なんとなくそんな成り行きなのだからそれは仕方のないことか。それは何なのだろう。それはどういう成り行きなのか。それらを可能たらしめている状況をわかりかねるか。そんなことを述べているうちに意識が覚めてきたようだ。いったい何を述べているのだろう。それは白々しい思いに変化しかかっている。今さらそれはないだろうと思われるだろうか。たぶんそこからもたらされるどんな思いも跳ね返されてしまうだろう。それらはすべて無視の対象なのか。別に理解されるわずかな可能性に賭けているわけでもないが、とりあえずいつものようにそんなことはどうでもいいことなのか。
9月6日
昔エホバの証人に言われたことがある。とりあえず何かを肯定しなければならない。唐突にそんなことを思い出したらしいが、たぶんそれはいつもの嘘だろう。しかしいったい何を肯定しなければならないのか。それは以前にも述べていたことかもしれない。なぜそれを続けようとするのだろう。それは陽の光がまぶしすぎるからか。今は夜だろう。それ以前に続ける理由になっていないか。面倒なので、何らかの感情が思考に絡みついていることにしよう。それも理由になっていない。それ以前に文脈的に意味不明か。まだその場の空気をつかめていないらしい。どこにつかむことのできる空気があるのだろう。どうやら意識は、生身の肉体がやっていることに飽きているようだ。それはかなり以前からそうだったのではないか。絶えず何をやっているのでもないと思い込みたいようだが、なぜそう思い込みたいのかがわからない。しかしそれでも何かしらやっている現状を、どう考えれば納得するだろうか。納得するつもりもないし、考えるつもりもないか。誰も知らないところで何が続いているのだろうか。誰も知らないわけでもないだろう。だが誰が何を知っているわけでもない。誰が何を続けているわけでもなく、何を続けたいわけでもない。ただ適当に何かが続いているだけか。ただ執拗に同じような言葉の連なりが連続している。いったい何が続いているのだろう。誰が何を続けようとしているわけでもない。たぶん何かが循環しているのかもしれない。ありふれた言葉を伴った思考が循環している。それをどうしたいのだろうか。ただ同じようなことを述べていたいだけなのか。しかし話の核心はどこにあるのか。この世界の有り様を肯定しなければならない。この世界に生きて死んでいく限り、それを認めなければならなくなるのだろうか。否定したければ簡単にできるかもしれないが、その態度をどれくらい持続することができるだろうか。遠からずすべてを否定するわけにはいかなくなる。それと同じようにすべてを肯定することは不可能か。絶えず何かを肯定したり否定したりしながら、何を肯定し何を否定するかによって、人それぞれの差違が生じ、他人との違いが明らかになったりするわけか。もちろん肯定しっぱなしでも否定しっぱなしでもなく、その場の状況によって、肯定と否定が入れ替わることもある。どんな人にも変節してしまう可能性がある。自らの価値感を自らが裏切ってしまったことに気づいたとき、その人はどんな感慨を抱くだろうか。無理なつじつま合わせを試みて醜態をさらすか、何事もなかったかのように振る舞い、うやむやにすることに成功するか、そういうときにその人の力量が試されるわけか。いったいそれは何の力量なのだろう。やはりそれは嘘をつくことか。なぜ嘘をつかなければならないのか。嘘をつきざるを得ない状況に追い込まれた時点で、もうほとんど終わっているのかもしれない。何が終わっているかは知らないが、なんとなく他人が嘘をついていることに感づいたとき、そう思ってしまう。なんとなくその人が信じられなくなってしまうわけか。しかしいったい君はどんな嘘をついているというのか。それらの言動の何が嘘なのだろう。別に嘘をついているとは思っていないか。すぐにそんなことはどうでもいいような気がしてくる。いったい今まで何について述べていたのだろう。そんなことはわかりきったことだろうか。わかってはいるが、あえてそれを述べるまでもないか。やはり何を述べているわけでもないのだろう。何も述べようとはせずに、しかし勝手に何かしら述べているらしい。そんなことはあり得ないか。現実にはあり得なくても、そんな風にしか思えないのかもしれない。なぜか思うことのすべてが馬鹿らしく思えてしまう。考えることのすべてが無駄なように思えてくる。すべてがどうでもいいような気がしてくる。だがそれでも何かしら言葉が連なってしまうらしい。それはかなりおかしなことだろうか。
9月5日
未だに何を続けるふりをしているのだろう。それは話し合う契機を失った言葉の連なりなのだろうか。そこには受け入れ難い隔たりがある。絶対に認められない内容でもあるのだろうか。しかし何を要求しているわけでもなく、必要なら、別に認められたいわけでもない、と嘘をつくことも可能だ。文章を読んで欲しいわけでも、読ませたいわけでもないらしい。ではなぜ文章が書き連ねられているのか。もし必要が何もないならば、さっさと消え失せて欲しいか。そんな思いは無視されるだけで、いったん存在してしまったものは、執拗に存在し続けようとする。なぜそうなってしまうのだろう。それはそこに宿っている虚無の力がそうさせているのだろうか。現実の物体はそこに存在するだけで重力が生じているらしいが、それらにもそれが含まれるファイルの重さだけ生じているわけか。君以外の誰もそんな風には思わないか。君も思っていないようだ。背反する複数の要求が満たされる時は永遠に来ないだろう。それ以前に何が背反しているのか定かでない。それにしても、目の前には何とくだらない光景が広がっていることか。彼らはどのような状況を維持したいのだろう。そのようなやり方で維持できると思っているのか。過度な弾圧からもたらされるものは、その弾圧を生き延びた者たちが行う、過度な復讐しかないのだろうか。それをやれる状況ならやるしかないのだろう。そんな風にはなりたくないか。目的のない蓄積が不気味に膨れ上がる。それが負債だとするなら、もはや取り返しはつかないだろう。廃墟の中では怨嗟の声が渦巻いている。たぶんやり方はいくらでもあるかもしれないが、余裕のない彼らには最悪のやり方しか思いつかないだろう。要するにごまかしがきかないのだ。いい加減なことはできないから、より過激にならざるを得ない。それは神の対する信仰の深さでも物語っているのだろうか。状況はすでに行き着くところまで来ているのかもしれない。それでもまだ何か不満でもあるわけか。しかしそれ以上を誰が望むだろう。もしアメリカの大統領選挙でブッシュ氏が当選したら、それ以上が望めるかもしれない。あと四年は興味深い現象が長続きするわけか。しかし何事もアラブのテロリスト頼みでは、あまりにも無責任だろうか。彼らに何を期待しているわけでもない。では日本の少年少女たちが人殺しでもすれば気分が晴れるわけか。いったい誰が愚かさの限界に挑戦しているのだろうか。どこかでその種のオリンピックが開かれているわけではない。たぶんその種の現象は特定の開催地を必要としないのだろう。たぶん人々が国家という枠組みを維持しようとすればするほど、その矛盾があらわになり、結局は多くの人々の血が流されるだけなのではないか。しかし今の世界に生きる大多数の者たちには他に選択肢がない。ロシアという大国の領土を維持するためには、周辺地域に暮らす少数民族の独立要求を力で押さえ込まなければならないし、アメリカを維持するためには、世界中に軍隊を派遣して、テロに訴えかける反米勢力を殺戮しなければならない。では日本という国家を維持するためにはどうしたらいいのだろう。教育によって政府の言うことを聞く国民を作りださければならないか。しかしそんな教育に耐えられずに脱落した者たちが、些細な犯罪によって社会不安を招いているわけか。別にそれは教育のせいではないか。では何が原因なのだろう。別に原因と呼べるようなものは何もないのではないか。ただ好き勝手にやりたいだけで、そのやりたいことが、別の者のやりたいことと競合したり、あるいは他の心理的または経済的な要因によって、自分のやりたいことが妨害を受けたときに、暴力によって活路を切り開くしか、やり方を思いつかないだけなのかもしれない。まあそれでかまわないのなら、それに越したことはないのか。あとはそれが発覚したときに、犯罪としてメディアで取り上げられるだけか。それもそれで夢を実現させるやり方には違いない。
9月4日
何を考えているのだろう。なぜそんなことを思うのか。考えているのは考えられないことか。何も考えられない現実があるだろうか。何を思っているわけでもなく、いくら努力しても、何も見いだせないようだ。それで努力しているつもりなのか。いくらやってもきりがないと思っているようだが、いくらもやっていないのではないか。いったいそこで何をやっているつもりなのか。ただ無駄に言葉を連ねているだけだろう。それ以外には何もないことはないが、興味を持てる対象を見いだせないことも確かだ。いったい何について考えればいいのだろう。対象は手の届くところにはないらしく、日常とはかけ離れた次元に存在しているのかもしれない。それはどこにあるのだろう。テレビ画面の向こう側か。そんなありふれた答えでは不満か。君はそこでどんな映像に見とれているのか。鉢植の植物に虫が這い回っている。闇夜の向こう側に夕焼けが遠ざかる。それは朝焼けが近づいてくるところだったかもしれない。だがそれらは興味の対象ではない。ただの自然現象では不満か。それでは思考の対象とはならないか。では今人間社会で起きていることについてどう思っているのか。何が起きているのだろう。ありふれていることには興味が持てない。そこに本音があるとは思えない。真実や本音が嘘であることに気づいているのだろうか。だがそれで何を述べているのか定かでない。人々は何によって安心したいのだろう。安心できるとは思えない。要するにわけがわかるようにしたいだけか。わけがわかったと思い込んで安心したいわけか。しかしそんな単純な成り行きでいいのだろうか。世間の一般的な意識は、とりあえず世の中がわけがわかるようにしたいのかもしれない。不確実な世界を、何らかの方法によって確実な世界だと解釈したいわけか。それは人間の思考作用としては当然の成り行きだろうか。しかしわけのわからないことならいくらでもありそうだ。それを解決できるだろうか。なぜ解決しなければならないのか。何を解決すればいいのだろう。解決しようとするそれとは何なのか。解釈と解決はどこでつながるのだろう。それは同じことなのだろうか。よくわからないが、思い込みだけでは何も変わらないか。だが何を思い込んでいるのかよくわからない。何も思っていないのかもしれない。それでは不満だろうか。ではそれ以外にはどんな意識が働いているのか。別に理不尽な仕打ちに怒りをあらわにしているわけでもない。それこそわけがわからないか。唐突に脈絡のないことを述べているのは、心身のバランスが崩れている証拠だろうか。それも脈絡的にはわけがわからないか。病んでいるのかもしれない。病んでしまうのは安易だろう。それを病だと見なすのはくだらないか。これ以上煩わしい言葉の連なりをいくら読んでも何も思わないか。煩わしいと思っているわけではないのか。本当にそこでは何が起こるはずだったのか。この世界ではただ人が生まれて死ぬだけか。それは他人事の領域で為されていることかもしれないが、なぜそれとは無関係だと言い切れるのか。誰が言い切っているわけなのか。たぶんそれは本心から述べているわけではないのだろう。途中の文章が省略されているようだ。別に混乱を引き起こしたいわけではない。率直な感想としては、感想を述べずにその先へ進みたい。まったく率直にはなれないようだ。どうも文章を理解する気が起きないらしいが、たぶんそれも嘘だろう。なんとなくしらけているのかもしれない。ショッキングな効果を求めている人は幼稚なのかもしれない。強烈な結果ばかりがもてはやされているわけでもないだろう。別に大変な時代に突入しているとは思えないのだが、講談師のような人が子供たちを説得してるようだ。
9月3日
そんなことを語りたかったわけではないのだろうが、何かを述べようとして、それとは違う何かが述べられてしまう。いったい誰に述べられてしまうのだろう。それが君自身でないとすると、そこで述べているのは誰なのか。忙しい時間の合間に、ふといつかの出来事を思い出す。たまにはつまらないことを思い出すのも精神衛生上は必要か。そんな言い草では病んだ体には良くないだろう。いつもはさらにつまらないことを思っている。凡庸な誰かが、凡庸な作品の中に登場して、毎日が非日常からはかけ離れた生活を送っている、と思っている。それはどういうことなのか。要するにそれは平凡な毎日のことなのだろう。それ以外には何もないのに、他に何があったのか知らないが、そして誰もいなくなったらしい。誰もいなくなってから誰かの記憶がよみがえる。その記憶はいつの時点で途切れているのだろう。唐突に思うことは次の瞬間には忘れてしまうだろう。この社会の制度とはどのようなものなのか。どこに何があるのだろう。何かが崩れようとしている一方で、別の何かが形成されようとしている。ある夜、それはいつの夜なのか。私は君を覚えている。そんな曲がある。しかしそこからどんな風に話を展開させたいのか。作り話の中では、誰が騒ぎ立てているのだろうか。なぜそういう成り行きなるのかよく分からないが、それらの事態は一向に収拾がつかないようで、誰も収拾させようとはせず、一部の人々はあろうことかさらに混乱を長引かせようとして、どこかで聞いたようなありふれた台詞で、煽動を繰り返している。しかしそれが状況に対して有効だとはとても思えない。どこかで聴いた曲が数十年ぶりに演奏されているようだ。行く手に困難が待ち受けているのは、ありふれた成り行きだろうか。しかしなぜありふれた成り行きになってしまうのだろう。それが当たり前だからか。困難以外はあり得ないのか。強がりの意識は、そうは思わないつもりらしいが、本気でそう思っているわけではない。困難を困難と思わないのは、それが困難ではないからではなく、困難であることが気に入らないのだ。何かをやろうとすれば、様々な障害に打ち当たるのは当然のことかも知れないが、何とか行く手に立ちふさがっている障害を、やり過ごす方法はないものか。困難を乗り越えなくてはその先へ進めないなんて、くだらなすぎるだろう。もちろん本気でそう思っているわけではないのだろうが、そういう行動パターンには飽きているのかもしれない。しかしそうではない成り行きを望むのは、無い物ねだりもいいところか。それが困難であることをなぜ受け入れられないのだろう。それを無視して先へ進みたくなる。無視できるわけがないだろう。できないことをできるかのように思い込むことはできるかもしれないが、それでは嘘になってしまうだろうか。話はそこで停滞するだけのようだ。ならばできないことはできないと開き直って、そのままにしておくことしかできないだろうか。それでもかまわないか。気に入らないが、そこであきらめなければ先へは進めないらしい。だがそんな風に思われるのはどうしてなのか。誰もそんな風に語りたいわけではないはずか。いったい何を語っているつもりなのだろう。いつものように何を語っているのかわからなくなる。別にそんなことはどうでもいいことだろう。それではあまりにも無責任だろうか。それらのどこに責任が生じているのだろう。君が保持していると思っている架空の意識では理解不可能か。そんな述べ方自体が理解不能を導いている。では君は言葉以外の何も保持していないのだろうか。言葉でさえ他人のものに違いない。その他人の言葉も絶えず意識から立ち去り続けているように感じられる。絶えず君は何もないところから語り続けているようだ。それは具体的にどのような状況なのだろう。それ以上は言い表せないような状況なのか。あるいはそんなことは嘘に決まっているか。しかし誰がそれを定めているわけでもなさそうだ。
9月2日
何を迷っているのだろうか。どこへも踏み出せぬままに、自らの歩みが止まってしまう。自分が何をやっているのか気づかないとき、予定調和とはどのようなことなのだろう。不可能を可能とするような努力は、それが可能となった結果から求められる。今は変わるきっかけをとらえられない。永遠にそうなのかもしれないが、その前に何が変わるか予測してみるべきか。それをやってみたところで、根拠の希薄ないい加減な予測に落胆するだけか。作り話的には、何かのきっかけで、壁が揺れて天井がぐるぐる回りだし、自分の目が回っていることに気づく。なんとなく意気消沈気味のようだが、言葉の変形には根拠がない。そこからどんな意味を導き出せばいいのか。すでに意味不明で無駄な言葉の群れが導き出されているのではないか。しかしそれで気持ちがすっきりするわけではない。例えばそれらをどんな話にすれば気分が優れるだろう。あり得ない未来から虚構の使者がやって来て、何か胸がすくようなやり方を伝授してくれるだろうか。それでどこかに引っかかっている余分な残滓をどうやれば取り除けるだろうか。歯医者に行って歯石でも除去してもらえばいいのか。それとこれとは意味が違うか。あまりにもわざとらしくて、それ以降は何も述べられなくなってしまうか。しかしそうなる必然性は何もなく、そうすることでどうなるわけでもない。目的は何もないはずだ。何を思い描いているのでもないらしい。さっきまで思い描いていた戯れ事は、すでに言葉の連なりとして記載されている。ただそこからの逸脱に歯止めが掛からない。中途半端な室内の湿気と温度に苛立っているのか。壁の向こう側には、雨降る夜が存在している。存在しているのは虚構の物語か。雨降る夜の何が物語なのだろう。別に雨のただ中に走り出したい衝動に駆られているわけでもないだろう。人が行動すればどんな機会に巡り会えるのだろう。今がその機会なのかもしれない。別に信じられない事態の到来に驚いているわけではない。自らが災いを招いてるわけではないと思い込みたい。だがどんなに現実の存在を信じようと、それはいつか嘘になるだろう。ではいつ自らが嘘をついていることに気づくのか。ひたすらその機会を待ち続けている。何かが巡ってくるときを思い描き、誰かはその瞬間を求めているようだ。しかし求めているものが求められたとして、それで助かる保証はどこにもない。助かるのではなく救われるのではないか。どちらも同じような意味だろうか。なぜ君はそこで助からないのだろうか。誰も助けてくれないからだろうが、誰に助けを求めているわけでもないらしい。ではそのまま誰の言うことも聞かないつもりか。滅する直前は誰の場合もそんなものだろうか。しかし特定の人物が滅しなければ物語にはならない。それらの物語のどこかに悲壮感が漂う状況があるらしい。もう戻り道はどこにもないらしく、黙ってその先へ進むしか道は残されていないようだ。しかしそれが現状なのだろうか。どうも現在は過去を反映した状況にはなっていないようだ。いったい君は過去から何を学んだのか。過去は過去で未来は未来であるということか。そんなことは学ぶ以前からわかっていることか。そこに何らかの勘違いを見いだせるだろうか。誰も求めていないような未来を思い描いてみたいか。突然何もできなくなってしまう。しばらく前からテレビを見ていたように思われた。投げやりな気持ちをそのままに保ちながら、何を考えあぐねているのだろう。もはやいつも使っている空虚や虚無という言葉には飽きてしまったのだろうか。しかし、やはりそこで感じてしまうのは、相変わらずの空虚であり、虚無なのかもしれない。じっとしていても、とりたてて何を体験しているとも思わないが、何をどう体験しようと、それを言葉にすれば何でもないことか。真昼の曇り空を見上げることもなく、時折降ってくる雨に濡れながら、何を思うこともない。言葉と思いはどこで交わることもない。言葉は言葉で余白に適当に書き連ねられ、思いは思う度ごとに過去の思いと入れ替わるだけで、意識の中では何も起こらず、記憶には何も残らない。それでも書き連ねられた言葉の中に、そのときの思いが反映されているのだろうか。
9月1日
闇の中で架空の誰かに話しかけられながら、なんとなくわかったようなわからないようなことを知る。それは何かの妄想か、あるいは本当に知ることができたのだろうか。別に知りようがないことを無理に知りたいわけでもない。血がたぎるほど熱くなりたいとは思わないか。どこかの物語では登場人物が熱にうなされて死に至ろうとしている。死は安易に語られてしかるべき言葉なのだろう。語るだけなら、いくらでも死について語れるだろうか。だが命懸けでやっていることの現実は他愛のないものだ。当たり前のことだが、虚構の中の死は現実の死ではない。もちろん現実の死も、そのときの状況次第では、他愛のないものと思える場合もあるだろう。唐突に簡単に死んでしまったら、それは価値の低い死となってしまうだろうか。事故死とはそういうものなのか。とりあえず物語の主人公が、何もやらないうちに簡単に死んでしまったら、話にならないか。死ぬ以前に、何らかの出来事の中である一定の期間生き続けなければ、物語にはならないか。なぜ作者はある人間の生きざまを物語らなければならないのだろう。物語とはそういう制度なのか。かつて誰かが語った虚構の物語上での主人公の生きざまが、それに接した現実に生きている人に影響を及ぼして、架空の人物のように生きたいと願うようになったらおもしろいだろうか。英雄気取りやその人を英雄と見立てた報道や宣伝などは、しばしばそんな物語と同じような語り口になってしまっているときがあるだろうか。そのとき世界は思い込みの世界と重なり合う。その思い込みの世界こそが人間が体感する真の世界なのかもしれない。自らの思い込みを信じれば信じるほど真の世界に近づくことになる。しかし君はここで何を語りたいのでもない。物語的に語るべき架空の人物を構成できないようだ。君が体感しているのは、そういった生きざま的な人たちではない。それはただのみすぼらしい通行人の類かもしれない。何か仕事をしているのかもしれないし、学校に通っているのかもしれない。それは架空の人物とは違って、現実に生きていることは確かだが、たぶんそれだけなのだ。生きていて何かしら行動したり、適当に会話していたりする。たぶん何か思っていたり、考えていたりもするのだろう。しかしそれはそれでそういうことでしかなく、物語の登場人物のように、一方的に語られているわけではない。たぶん語られてしまう人間は、その時点で虚構の存在となっているのだろう。その辺に生きている一般的な人々は、それほど語られているわけではない。たまには噂話の俎上に載るときもあるかもしれないが、それだけの存在ではあり得ない。話の中だけで生きているわけではない。自らのすべてを語れるはずはないし、他の誰かにその人のすべてを語れるはずもないだろう。そういう意味では露出狂は不可能に挑戦しているわけだ。確かに過剰な見せびらかしをやらなければ気が済まない人はいくらでもいる。他人の気を引くためには手段を選ばず、恥や外聞を投げ捨ててまで、あの手この手を繰り出してくる。あの手この手ならまだましな方で、中には馬鹿の一つ覚えをごり押ししてくる人もいる。そんな光景を目にすると、それをやっている人の浅はかな意図を感じながらも、早くその場を立ち去りたくなる。だがそんな人々を馬鹿にしたいわけではない。やりたければ気が済むまでやってみたらいいのだろう。案外何かのきっかけで、それが功を奏して、富や栄光を獲得できるかもしれない。全知全霊をかけてやっていることが、その方面の権威に認められて、その努力に見合った賛辞でも送られるかもしれない。たぶんそれらの行為は正当に評価されるべきなのだろう。誰かが善意によって評価してやらなければならない。ところでそれは何かのフィクションだろうか。君は冗談で適当なことを語っているつもりなのか。そんなはずはないと思うが、意識は別のことを思っている。もう少し本気になってみたらどうか。本気になれるはずがないか。なぜそうなのかはわからないが、たぶんそれらの折衷的な語りに、嘘の匂いを感じ取っているのかもしれない。嘘でもかまわないか。真実は嘘に含まれる。それが真実だと思ってしまったら嘘になる。なぜそう思うかのはわからないが、なんとなくそう思ってしまう。君には真実という言葉が真実の現象につながるとはどうしても思えないようだ。
8月31日
どうも今日もおかしな言い回しになっているようだ。いくら努力してもまともには語れそうもない。なぜそうなってしまうのだろう。そんなことはわかりきったことか。はじめから何もないのだから仕方ないのだろうか。何もなければ思い出してみればいい。また何を思い出そうとしているのか。何も思い出せないときは、周りの風景を意識してみよう。だが意識してどうなるわけでもなく、また、何も思い出せないわけではないが、思い出したからといって、やはり何がどうなるわけでもないか。きっかけがつかめないようだが、それでもどうにかしようとしているのかもしれないが、どうにもできないときは、どうにもできないままなのかもしれない。要するに無内容を回りくどく語ればいいわけか。今さらそんなやり方では通用しないか。たぶんそれでもそのまま続いていくしかないのだろう。続けられるはずがないが、強引に続けてしまうわけだ。だが何を続けようとしているのか。それはいつもの言い回しの繰り返しにしかならないだろう。それでもかまわないのだろうか。君にはそうなってしまう原因がわかっているはずだが、それを言葉で言い表すことはできないだろう。ただ何も述べられないふりをしている。君に代わって誰かが何か述べているようだが、別にそうなってしまう原因について語っているわけではない。誰がそれを語ろうとしているわけでもなく、ただ何も述べられないふりが嘘であることを、自ずから証明しようとしているだけなのか。いったい何が証明されているのだろうか。ここにはだいぶ前から何もないことか。そんなことはわざわざ証明しなくてもわかっていることだ。わかっているのにわからないふりをしているだけか。そんなことは知ったことではない。しかしそれでも誰かが何かしら述べているらしい。君はそれがおもしろいとは思わないか。おもしろいわけがないだろうか。それらはいつものことでしかないか。そこで語られていることといえば、何をどう述べてみても、途中で飽きて、呆れて、またやり直そうとすることばかりのようだ。そして、やり直す度に、また同じような言い回しに終始している現実に気づく。それを何度繰り返しても、そうなるより他はないのか。本当にそうなっているのだろうか。そのように思われてしまうのはなぜだろう。現実にそうなっているから、そう思われるだけか。それではいつまで経っても打開策が見つからないだろう。ただ執拗に同じような言葉が循環し続けるばかりでは、いつか気が狂ってしまうか。そう思われるのは何かの気休めだろうか。何が気休めなのだろうか。それで本当に気が狂うことができたらおもしろいか。しかしそれで行き詰まっていることになるのだろうか。そういうことが行き詰まりと定義されているのなら、たぶん行き詰まっているのかもしれないが、それでもその状況をあまり苦にしている風でもなさそうだ。かなり前からそればかりのような気がしているのだが、なぜそんな状況で平気でいられるか理解に苦しむか。誰が苦しんでいるのだろう。それは君以外の誰かということか。君にはそれが誰なのか知りようがないか。たぶん何もわからなければ、それはそれでかまわないのかもしれない。仮にわかっているのだとしたら、それでもかまわないのだろう。今は面倒なので、わからないことになっているようだが、それは何かの冗談だろうか。冗談であると同時に、ある意味では真実なのかもしれない。ある意味とはどんな意味なのだろう。どんな意味でもなく、例えばそんな意味であるということか。それは何かのごまかしか。何をごまかしているのだろう。意味がわからないのに、わかったふりをしているということか。誰がわかったふりをしているのかも知らない。なんとなく知ろうとしていないのかもしれない。たとえそれを知り得たところでどうなるわけでもないか。いったい何を知ろうとしていたのだろう。どうも途中で忘れてしまったらしい。それは白々しい言い訳か。たぶん君は何も思わなくてもいい状況の中にいるのだろう。何も思わず、何も考えず、それでも何かしら述べているのはおかしいか。おかしくてもかまわないか。そうやっていつも空疎なことを述べているらしい。
8月30日
暗闇の中で思い出すのは真昼の光景になるだろうか。風が徐々に強くなる。台風が去った後はまた蒸し暑くなるらしい。まだ夏が必要とされているのだろうか。必要か必要でないかは蒸し暑さとは無関係か。もういい加減に暑いのはやめてほしいか。そんな風に思っても暑いときは暑いだろう。この先の暑さを予想してみてもはじまらないか。何がはじまらないのかわからないか。どうも不必要なところで多大な努力が払われているようだ。それは甚大な浪費だろうか。だが浪費し尽くして何もかもが消失しなければ、あきらめきれないときもある。何をあきらめようとしているのか。まだあきらめるような段階ではないだろう。中途半端な状態では何も進展しないだろう。しかし何を進展させようとしているのだろう。とことんまで突き詰めてみなければ、それが本当に無駄な努力かどうかはわからないか。だから何を努力しているつもりなのか。それは改めて言葉で表現しなくてもわかることかもしれない。何をわかってほしいのか。わかってくれなくてもかまわないか。たぶんそれらの努力が無駄であるわけがないと思っているのだろう。無駄でない根拠は何もない。ならば無駄である理由を知りたいか。君は述べてはならぬことを述べてしまっている。くだらぬ言葉遊びに終始している。本気で語っているわけではない。他人に説教している暇はないだろう。では今こそ無駄な努力をしなければならないのか。理由が何もないからこそ、それをやり続けなければならない。それでは言葉の接続が間違っているのか。理由がなければ、理由があるように装ってみたらどうか。偽りの目的を設定して、そこへ向かって努力しているふりをするわけか。しかしなんとなく本気になれない。それはまたいつもの嘘のような気がする。それらの努力はどんな言葉によっても報われることはない。なぜそう思うのかよくわからないが、ただそれを努力だと見なすならば、そうなのだろう。もしそれが努力ではないとするならば、それはただの戯れ事でしかない。戯れ事であってもかまわないが、戯れ事でなくてもかまわない。それを受け取る者がどう思うかは、誰かの知ったことではないのかもしれない。ところで日頃から偉そうなことを述べている誰かは、本当に偉いのだろうか。本当は偉そうなことではなく、偉いことを述べてみたいか。何が偉いことなのだろう。偉いことを述べて他人から尊敬されてみたいか。誰にもできないようなすごいことをやり遂げてみたいか。現実に何をやり遂げようとしているのだろうか。面倒なので、やり遂げないうちにやめてしまうか。何をどう考えてみても本気にはなれないが、妄想の行き先は無限の彼方へと続いてゆくらしい。本当に続いてゆくのだろうか。誰かがそう思いたいだけなのか。たぶん誰かは他の誰かに認められたいのだろう。何を認めて欲しいのだろう。自らの偉大さを認めてもらいたいのか。何が偉大なのだろうか。言葉遊び的にはここで偉大さの内容を誇示しなければならないか。何もないのに偉大であるはずがない。笑い話的にはそれもありかも知れないが、とりあえず本気で述べているわけではないので、誰かの何が偉大かは他の誰かの想像にまかせるとしよう。そうやってわざと話の収拾がつかなくなったように見せかけて逃げるつもりか。それで本当に逃げていることになるわけか。はたして逃げ切れるだろうか。いったい君は何の話をしているのか。君が話しているわけではなく、作り話的には自然と言葉が連なって、文章を形成しているわけか。もちろんそれは嘘であって、どこかで誰かが言葉を操作していることは明白か。明白だからどうだというのか。どこの誰が嘘をついてもかまわないし、その嘘が嘘でなくてもかまわないだろう。誰かの心の中に巣くう空虚を言葉にすれば、まったくのでたらめで何の意味も成さない言葉以前の言葉の羅列になるしかない。もちろんそれが嘘であることは明白だ。
8月29日
君は何を恐れているのか。意識は語るために必要な具体的な対象を求めているらしい。そんな求めには応じられないか。ではいつかの空白にはどのような文章が似合うだろうか。戯れに何を述べているのだろう。恐れていたことがまるで予定調和のように出現しつつある。そんなことははじめからわかっていたことだ。それは馬鹿げたことかもしれないが、誰かの意思とは関係なく、勝手にいい加減な言葉が増殖し続ける。それは何かの幻影か、あるいは誰かの幻想か。何を期待しようと、そんな願望が叶うはずがないと思われるが、いつからそれ以外には何もできなくなってしまったのだろう。何もできないことの中に、それらの作業は含まれていないのか。それでも何かをやっているとしたら、ではいったいそれらの作業の中で何をやっているつもりなのか。やっているのではなく、やらされているだけなのかもしれない。しかし何にやらされているのか不明だ。必ずしも状況がそれを強要しているわけではないと思うが、誰かの意志薄弱がそれをやらされる原動力になっているように感じられる。しかしそれによって無駄に繰り出された言葉の群れをどう整理したらいいのかわからない。それが無駄であるかどうかは、整理した後から明らかになることか。だがどのように取り繕ってみても、たぶん無駄なままのような気がする。しかしそれに絶望しているわけでもない。気分転換を装えば、空が暗い。夜だから当たり前だろう。丘の上から眺めれば、雨の中に濡れた夜景が広がっていることだろう。別にそれを眺めているわけでもないし、眺めてみたいとも思わない。外へ出れば、夏の終わりの肌寒さが心地良いかも知れないが、部屋の中から言葉を操作するだけで手一杯のようだ。そんなわけで、やはり画面上では、これから誰が何をやろうとしているわけでもなさそうだ。疲れているのはいつものことかもしれないが、それは何らかの心理的状態を伴って出現しているわけか。いったいそこに出現しているつもりの幻影について、どう思えばいいのだろう。そんなことがわかるはずもなく、わからないままに、それについて言葉を繰り出すつもりらしい。ただそれを想像しているだけか。意味もなく幻覚に酔っていたいのか。何が幻覚なのか何も感じられないだろう。ただ何も思わなくても、何か思いたいのかもしれない。すでに何かしら思っているのだろう。何かを適当に思っているはずだ。何を思っているのだろう。なぜそこから文章に発展しないのか。それがくだらぬ思いだから、わざわざ文章にする気が起こらないのか。そんな風には思いたくないか。それ以外に何か適当な思いはないだろうか。意識は今起こりつつある状況に対して適切に対処しているとは言い難いか。すぐにそんなことはどうでもいいことだと思いたくなる。そう思いながら、収拾のつかない現実から逃避したいわけだ。何を収拾させるつもりもない。そこには言葉以外に何もないだろう。それをどうまとめあげるかが試練となっているわけか。しかしそんな試練はあり得ない。まとめる意志のない意識に何を課しても無駄か。誰が何を課しているのでもないだろう。ただやる気はないが、やる気とは無関係な誰かの意識によって文章が構成されようとしているだけだ。それでも何かを適当に思っているのかもしれないが、その思っていることとは無関係な文章が出力されてしまう。たぶんそれが誰かが日頃から抱いている幻想の正体かもしれない。そうなって欲しいと思いつつも、そんなくだらぬ思いとは無関係なことが、そう思っている意識とは別の意識によって、成し遂げられようとしているらしい。そんなはずがないだろう。それはあり得ないことか。しかしそれがどうなろうと、それとは無関係な誰かにとっては、やはりどうでもいいことか。だがそれで何を述べているつもりなのだろう。
8月28日
いつものようにテレビを見ながら、怠惰な意識に失望して、その失望している意識が怠惰であることにも気づき、次いでそれがどうしたわけでもないことにも気づく。いつものように何を述べているのだろう。やはり何を述べているわけでもないか。意識は何も思いたくないようだが、言葉は勝手に連なり、何かしら利いた風な内容の文章を形成させようとしているらしい。誰がそうさせているわけでもなく、自然にそうなってしまう、と嘘をついているふりをしているらしい。本心では嘘ではないと思っているのだろうか。現実の君は今から何をやろうとしているのだろう。あるいは久しぶりに何もやらずに寝てしまうのか。君の代わりに誰か他の意識が言葉を連ねて欲しいところか。通常の人間は金が絡めば何でもやろうとする傾向にあるようだ。オリンピックでメダルを獲得して、数千万円の報奨金をもらって、その人物の浅はかさが露呈する。なんと単純な人たちなのだろう。運動能力に長けた人たちも、その精神状態は大したことはないように思われる。プールの中で阿波踊りを踊っている変な集団の映像を見ながら、そのキッチュな美的センスに何を思えばいいのだろう。誰も変だとは思わないのだろうか。村社会の中ではそう述べること自体がルール違反なのか。それは何かの冗談だとしても、精一杯努力していることの、その努力自体がおかしいと思われるのはなぜなのか。余興として男が集団でプールの中で踊っている映像も見たことがあるが、その練習風景の中で、鬼コーチみたいなのが怒鳴り散らしているところを見たとき、今回の阿波踊りもどきの練習風景と同様に、それを指導している人の怒り口調が、スポーツの本来の意味からは大きくかけ離れているように感じられた。なぜ楽しんでいるように感じられないのだろうか。一応本来の阿波踊りは楽しみながら踊るものなのではないか。また選手たちにバレバレの作り笑顔を強要することもおかしいと思う。どんな素人にもそのぎこちなさがわかってしまうのではないか。それでも長年二位を保持してきたのだから、それはそれで立派なことだと褒め称えられるべきなのかもしれないが、それが競技として成り立っていて、参加した集団ごとに順位がつけられること自体に違和感を覚える。それはエアロビクスやチアリーディングコンテストなどにも言えることかもしれないが、そんなものまで競技にしなくてもいいような気がする。何でもかんでも競争させて、勝つための猛特訓とかがあったりして、何もそこまで、と思わせるようなことが、この世の中にはありすぎるような気がしてくる。しかしそんな気がしても、それはその場だけのことであり、その時点から時が経過すれば、そんなことはどうでもいいことになってしまうのだろう。別の時空では、誰が何を思っているのか知らないが、思うことと思われることはどこかで重なり合うこともあるのだろうか。誰がどう思われているのか知らないが、今さら何をどう思ってみても無駄か。思うのではなく、今のところは何も思うことはないが、それ以外の時間帯なら何かしら思っているのかもしれない。意識は四六時中何も思わないわけでもないようだ。それは要するにどういうことなのか。どういうことでもないだろう。別にそこから新しい表現が生まれているわけでもない。それでも過去は閉じられない。すぐに思い出そうとしてしまうらしい。別に過去を閉じようとしているわけでもないだろうが、唐突にひらめいた言葉はその前後の文章とは異質だ。次の瞬間、面倒なので、なぜか唐突にに結論が導き出される。作り話の中では、すでに未来のただ中にいるようだ。それの何が結論なのだろう。ここから遠い地域では、台風の接近によって強風が吹き荒れているようだ。
8月27日
いったい理由はどこにあるのだろう。何をやる理由が必要なのか。別に理由を求めているわけではない。それでは理由にはならないだろう。それとは何なのか。わざとらしい問いには呆れ果てるばかりか。呆れているのは君ではない。呆れられているのも君ではなく、別の誰かになるだろうか。馬鹿げたことを述べている。自分が述べていることに自信がないのだろうか。何もないのに自身も何もあるわけがないか。それらは研ぎ澄まされた感性の賜物などではない。誰もそんなことは言っていないだろう。やはりそこには何があるわけでもないらしい。しかし何もないわけではない。そんなことは君には分からないだろう。君が求めているのはそんなことではないはずか。誰が誰のことを述べているのでもない。君は誰でもないただの言葉だ。言葉でしかない君に何がわかるのか。言葉でしかない君が何を求めているというのか。それはこの世界に対する認識か。世界の何を知りたいのか。君が保持しているつもりの架空の感性では何も捉えられないのか。いったい何を捉えようとしているわけか。まだ捉えるにはかなりの時間を要すると思われるのだろうか。誰がそう思っているのだろう。君に残された時間があとどれくらいあるかは知らないが、もういい加減に悟ってしまったらどうか。何を悟ればいいのだろう。孤独だということか。誰が孤独なのか。またそうやってはぐらかそうとしている。何をはぐらかそうとしているのだろう。そこまで述べるとくどいかもしれない。また何を述べようとしているのかわからなくなってしまうだろう。それはいつもの嘘だろう。気休めの湿り気とともに夏を忘れようとしている。夜は何ももたらさない。時間は過ぎ去るだけか。記憶は意識から遠ざかり、その代わりに何をもたらそうとしているのか。記憶は単に遠ざかるだけか。他に何が遠ざかっているのか。他には何もない。それはくだらぬ思い込みなのかもしれない。それどころか何も思っていないのかもしれない。どこに記憶があるわけでもない。記憶は人が後から捏造するものだ。かつて誰かがそんなことを述べていたらしい。それも捏造された記憶の一種だろうか。まだ捏造するような時期ではないのかもしれない。ではかつて捏造したあれらは何なのか。単なる作り話の一種か。そう思ってもらってもかまわないか。しかし何が作り話なのだろう。そうやってまた話を循環させようとするが、いったい話の内容はどこへ行ってしまったのだろう。たぶんそれを繰り出す機会をうかがっているのかもしれないが、いつになったら作り話が始まるのだろう。今は面倒なのでその気にならないだけか。そんな話はもとからないのかもしれない。これ以上何を話したらいいのかわからない。しかしこれ以下もないのに、これ以上があるわけがないだろう。くだらぬ話にはついていけないか。くだらぬ話以前に、話そのものが存在していないのではないか。君は今までどんな話をしてきたのか。そんなことは記憶にないか。ただわざとらしく無内容を装っているだけなのか。本気にはなれない。それは誰の台詞なのだろう。だが考えさせられるのはそんなことではない。何をする気もないのに、何をやろうとしているのだろう。目の前を飛び去る何かを捉えるつもりはない。だが飛び去るのは何かの幻影だけではないだろう。君はそこから一歩も動こうとせずに、変化する機会を逃し続けている。何が変化するのか見当がつかない。ただ待ち続けているのか。機会を逃し続けると同時に、機会の到来を待ち続けている。君は待ち続けることに自信があるようだ。それは大きな勘違いかもしれないが、やはりそれでも待ち続けているらしい。待つことに慣れてしまって、他のやり方が馬鹿らしく思えるのか。何をそんなに焦っているのだろう。なぜ人々は生き急ごうとするのか。確かにそれは大きな勘違いなのだろう。たぶん生き急がなくては人生が終わってしまうのだろう。しかしそんなことはどうでもいいことだ。どうもそれは違うような気がしているらしい。すでに老いてしまったのか。それも違うと思われる。何か悟りでも開けたのだろうか。そんなはずはないだろう。何かを期待しているのかもしれない。そしてその何かは何であってもかまわない。期待外れでもかまわない。それでも何かを期待している。それが起こるのを待ち続けているわけか。別に何を待っているのでもなく、なんとなく生きているだけかもしれない。生きながら、期待し、期待していることを忘れ去っている。そして、やはりそれで何を述べているのでもない。
8月26日
今日も内容を伴わない言葉が過剰に出現しているようだ。何かを語っているうちに、いつものように何を述べているのかわからなくなる。言葉を加えれば加えるほどわかりにくくなる。なぜわかりやすく述べられないのだろう。だがそれらのぎこちない言葉の連なりを、それが滑らかになるように修正を加えたら台無しになってしまうか。できるわけがないことを、やるつもりもないのに、やった後のことを想像してみても無意味だろう。何をどう考えても、また何をどうやっても、結果的には自然に振る舞っていることになるのかも知れない。その不自然さをなぜ自然だと思えるのか。自然にも時には不自然な側面もあるのだろう。それは何かの気休めに感じられてしまうかもしれないが、それでも時の流れに沿って、絶えず言葉を繰り出す機会を探っているつもりなのだろうか。それで時の流れに身をまかせているとは思わないか。なぜそう思える場合があり得るのか。またなぜそうする必要があるのだろう。はじめから何でもありなのではないか。他の人々にとっては、時間の経過とは無関係なことをやっているように思われるのだろうか。他の人々とは誰のことなのか。それらの語りは時機を逸しているように思われるだろうか。そういう問題ではないような気がする。しかし何をごちゃごちゃ述べているのだろう。それは毎度おなじみということか。いつもそうとってもらってもかまわないか。なぜそう思うのだろうか。一昔前の誰かは窮屈な思考を持て余しているようだ。なぜ君ではなく誰かなのか。その辺が不明確かもしれないが、述べている内容には必然性が感じられない。何となくその場の雰囲気に合わせていい加減なことを述べているように感じられる。語りたいことからどんどん遠ざかってしまい、もうやるのが嫌になったのか。だいぶ前からそうなのかもしれない。しかしそれでも安易な嫌気に逆らってやり続けるつもりなのか。言葉はだいぶ前から飽和状態に達しているかもしれないのに、まだ執拗に続けるつもりらしい。そんなわけで、さらに何かを書き足そうと考えているようだが、誰かはもうくだらぬ作り話には飽き飽きしている頃だろうか。それらの何が作り話なのか。それで真実を述べていると思い込みたいのか。それではあまりにも虫がよすぎるか。意識は何を想像しているつもりなのか。どこかの猫が曇り空を眺めている。鳥が飛んでゆく方向へ顔を向け、それを目で追っている。やがて手の届かない獲物は飛び去り、しばらくして猫もそこから消え去る。それはいつの記憶なのだろう。記憶ではなく、その場の思いつきか。去りゆく時は何も残さない。誰かの意識はそこに何かが残っているとは思わないらしい。意識は何を望んでいるのだろうか。この世界がどうなって欲しいのか。すぐに世界という言葉を持ち出すのは安易すぎるか。すでに世界はどうにかなっているではないか。確かにどうにかなっているかも知れないが、それは君がどうにかしたわけではないだろう。これ以上はどうにもならないとは思わないのか。何らかの作用で絶えずどうにかなり続けるのだろう。そこで君が及ぼす作用は、ほとんど無視されるようなわずかなものか。それでは気に入らないのか。もういい加減にあきらめたらどうか。何をあきらめたらいいのかわからない。それは見え透いた嘘だろう。それでもなぜあきらめなければならないのか。できることが限られているのは承知している。それは誰にとっても同じことではないかもしれないが、様々な制約を受けながらも、何かをやらなければならないと思っているらしい。それはしばしばくだらない言い回しを伴っているが、とりあえず誇大妄想にならない程度には、やはり微力ながらこの世界に影響を及ぼしたいのかもしれない。誰かはいつもそんな風に思っているのだろうか。それは大きな勘違いだと思われるが、この世界は誰もが勘違いするような世界なのかもしれない。
8月25日
気分は最低でも最高でもない。中途半端な気分で何かを語ろうとするが、語る材料が見つからないようだ。だから何を語っているわけでもないらしい。たぶんそれはつまらない言葉遊びになるだろう。気がつけばどうでもいいようなことを述べているのかもしれない。それでも何かしら述べているらしい。何を述べているのか知りたいか。知りたいのはそんなことではないか。では意識は何を知ろうとしているのか。意識が知りたいわけではない。どこかで誰かが知りたい内容を述べているだろうか。そんなことを知り得るはずがないか。それを知りたければ、知っている本人に聞けばいい。本人とは誰なのだろう。誰が知っているかを知りたい。誰が何を知っているのだろう。何を知りたいのか。何を知りたいかがわからなければ、何も知り得ないだろう。意識は何も知ろうとしていないのか。戯れに知り得ないことを知ろうとしている。知り得ないことは知り得ない。それを知り得なければ、誰が何を知ろうとしているのかも知り得ないか。どうやら同じような言葉が循環しているようだ。語っているうちにだんだん馬鹿らしくなってくる。どうも気乗りしないようだが、気乗りしない理由は、語っている本人が知っているつもりか。だがそんなことを知ろうとしているわけではないだろう。なぜそうなってしまうのかを知りたいところか。君にはやることがない。やることがないのに何かをやっている。たぶんそこから苦悩が生じているのだろう。しかしその苦悩を取り払うことはできない。それは何かをやり続けているからか。やることがない、という前提が間違っているのかもしれない。やることがないわけではない。実際に休日が取れないほど忙しいのではないか。もう何年もまともに休んでいないような気がする。なのになぜやることがないのだろう。そのやっていることはやる必要のないことなのか。必要があるかないかは現時点ではわからない。必要だからやっているとはとても思えない。しかし結果的にやり続けていることは確かなのだから、一応は必要といえるのではないか。たぶんやり続けているから必要と感じるのだろう。それが何かのきっかけでやめてしまったら、必要ではなくなるのかもしれない。しかしそれならば、必要であるかないかなんて、意味のない問いなのではないか。そんなことはどうでもいいことか。ただそれらの作業を毎日やり続けているに過ぎないのであり、その結果をどう評価する必要はないのかもしれない。それは今の君にはどうにもならないことか。それが生活の一部と化しているわけか。いったいそれの何を知りたいのだろう。理由などというものはそれを正当化するための口実にしかならない。たぶん理由が必要なのではなく、理由を知りたいわけでもないのだろう。そんな風にして、安閑なままに、目の前の危機を乗り切ろうとしているのだろうか。乗り切るつもりはなく、乗り切れるとは思っていない。危機を乗り切れずにどうするのか。どうにかなってしまうのだろう。危機のままの状態を保とうとしているわけか。そんなわけにはいかないだろう。危機は危機のままに、適当に襲ってきて欲しいか。何が襲ってくるというのか。何かが襲ってきたらおもしろいか。何も襲ってこないのに危機といえるだろうか。そんな危機があったらおもしろいだろうか。つまらないから危機なのではないか。つまらなくてもかまわないだろう。なぜそうやって開き直ってしまうのだろう。それが危機であるとは思えない。ならばそれは、単にやめるための口実か。しかし今さらやめて、やり直すわけにもいかないだろう。やり直す理由がどこにあるのだろう。つまらないからやり直そうとしているのかもしれない。何をやり直そうとしているのか、それを述べている本人には知り得ないか。
8月24日
久しぶりに当たり障りのないことを述べるなら、世界的なスポーツ・イベントからもたらされる感動も、毎日繰り返されると飽きてくるか。もうすぐそれも終わりか。そういえば、今回はそれについてあまり言及していないことに気づく。いつも無表情を装っている誰かは、とりあえず適当なニュースに適当な反応を見せているだけか。そこでは何か悲惨な雰囲気が醸し出されている。山間の地域では、豪雨で生じた濁流に巻き込まれて、誰かが行方不明になる。またどこかの浜辺では、強風が吹きつけてきて嵐になり、誰かが波にのまれて溺ぼれ死ぬ。そんな出来事はありふれているだろうか。そこに駆けつけて救助しなければならない立場の人にとっては他人事ではないか。この世の中では、誰もが生きることに執着しているのだろうか。中には死にたい人もいるだろうか。だが誰もがスポーツ選手のように束の間の栄光を目指すことはない。命懸けでやっていると思うことは大きな勘違いを前提としている。死に物狂いの状況に追い込まれている、ということは、悲惨な事態に陥っているということだ。何もそこまでやらなくても、と思われることが平然と行われている。そこまでしなければ勝つことはできないのだろうが、それをやって当たり前という状況が、悲惨な雰囲気を醸し出している。人は絶えず自らの限界に挑戦しなければならない、という宿命の下に生きているのだろうか。そうやって自ら進んで悲惨な状況の中にその身を投じて、そこでより強烈なことをやった者に栄光の時が訪れる。それがそこでのルールなのか。だがそこに参加する者たちが手にするものといえば、大多数の敗者が味わう挫折感と、一握りの勝者にもたらされる束の間の栄光と金属のメダルだけか。それでもその場の雰囲気に呑まれて味わう一時的な高揚感を基に、その人なりの物語を造り上げて、すばらしい体験だった、と思い込もうとするのだろうか。そう思っている人にとっては、確かにすばらしい体験だったのだ。それを見ている人にとってもそうなのかもしれない。現実に感動してしまうのだから、それを否定することはできない。それはそれでそういうことなのだ。それが悲惨なことであるわけがないか。そこから肯定的な効用を導き出そうとすれば、いくらでも導き出せるだろう。現に大勢の人々が効用を導き出しているのだろう。しかしそれで世の中がどうなるわけでもない。四年前もそうだったし、四年後もそうなのだろう。誰が東京オリンピックの時のメダリストをすべて覚えているだろうか。調べればわかることだろうが、意地になって調べるほどのことでもないだろう。たぶん今から数十年後にはそういうことになっているのだろう。もちろんその期間だけ楽しければそれでかまわないのかもしれない。ただ人々は生きて死んでいく。人は死んで、人は生まれてくる。誰が何人殺そうと、それはそれで当たり前のことなのか。オウムの麻原氏は数十人殺して、アメリカのブッシュ氏は数万人殺している。どちらもどうということはないただ人間なのかもしれない。そういうことが起こりうる状況のただ中で、その場の成り行きに従って決断し、命令を下した結果、そうなったわけだ。だからどうだというのか。そういう状況を招いているということか。とりあえずオウムに関しては、ほとんど沈静化している一方で、テロとの戦いに関しては、現在進行中ということか。この先いくらやっても人が大勢死ぬだけか。打開の糸口はいくらでもあるのかもしれないが、それはあらかじめ選択肢から除外されているのだろう。絶対に譲歩や妥協はできないということか。ならばこのままでやってもらうしかないだろう。やれる範囲内でやってもらって、その結果、それなりの状況に推移するのだろう。それはそれでそういうことでしかない。
8月23日
この世界はどこへ向かって進んでいるのか。今日も誰かが、誰もいない空間に向かって、わざとらしく問いかけているようだ。なぜ率直に語れないのだろう。何となく文章の冒頭から破綻を来しているように思われる。なぜ言葉がつながらないのだろう。また嘘をついているようだ。たぶん本気で問いかけているわけではないのだろう。そこには決して結論に至らない問いかけが意味もなくちりばめられているだけか。それらの言説は多くの無駄な問いかけによって、何を避けているのだろうか。避けているのではなく、招き入れているのではないか。更なる意味不明を招き寄せているわけか。わざと何も導き出せないようにしているわけか。それでも何も導き出せないことはないだろう。否定的な響きの言葉ならいくらでも集まってくるようだ。しかしそれらが集まりすぎて、何を述べているのでもない状況を構成している。そこでは前述を否定する言葉が複雑に絡み合うばかりで、すっきりしたことを何も述べられない状況が形成されている。そうやって飽きもせず回りくどい言い回しを用いることに、どのような効用があるのか。君は素朴さを嫌悪しているのかも知れない。いったいどのような状況下でなら素朴な心でいられるのだろう。ここでは、例えばスポーツのような単純な目標設定は不可能なのだろうか。それでは嘘を覆い隠すことにしかならないか。それらの混濁した泥水のような文章の中には、何が生息しているのだろうか。話者の意図はどこにあるのか。確かな感触が不在のままに、苦し紛れにいい加減な言葉を繰り出せば、更に説明のつかない蛇足に進展してしまう。いったいそれらを読んで何を抱けばいいのだろう。絶えず繰り出される意味の希薄な問いかけと、それと連動して生成するはぐらかしを、どのように心の中で処理すればいいのだろう。うぬぼれた人間なら、そこに微妙な心境の変化を感じ取ったつもりになれるだろうか。とりあえず何かの限度を超えていることは確かなようだ。言葉によって構成される空虚の中で、誰のまなざしが何を眺めているのかは知らないが、いつか見た遠い風景は過去のものとなりつつあるようだ。過ぎ去る日々は記憶の中で変質しながら摩耗するだけか。外界では季節が確実に移り変わろうとしているらしく、それらの地域では、何やら当たり前のように涼しくなり、それを当たり前のように感じる意識は、今日も現実の時間帯を横断して、未知の時空領域へとその歩みを進めている。そこから何が見いだされるのだろう。人々は何をやっているのだろう。ただ当たり前のことを当たり前のようにやっているだけか。それは実在している君自身にも当てはまることかもしれない。だが当たり前のこととはどんなことなのだろう。なぜそんなつまらないことを思うのか。つまらないことはおもしろくないだけか。それで何を述べているのかわからないが、誰が満足しているわけでもなく、何がわからないのかわからないのが気に入らないのかもしれない。わかっているのにわからないふりをしているのも気に入らない。だがそのままの状態でどこまでも先へ進めるわけもなく、同じやり方をいつまでも続けられるはずもない、と思いつつも、どこへ進んでいるのか、また何を続けているのか、それをわかろうとしていない。以前と比べて何が変わったというのか。変わったことなどいくらでもあるはずか。すべては惰性で続けられていることなのか。しかし何を利いた風なことを述べているのだろう。今こそ行間に省略されている言葉を呼び戻さなければならない。とりとめのない妄想を断ち切って、確かな意味を伴った文章を構築しなければならない。散漫な気まぐれを滞りのない連続性へと転換しなければならない。そんなことができるはずがないか。しかしまだ他にやることがあるのだろうか。ではやらなければならないことを思い出してみよう。それがなければ思い出せるはずもないか。またもやさっきまで何を述べようとしていたのか忘れているようだ。
8月22日
怠惰な心は君に何をやらせようとしているのか。あるいは何もやらせまいとしているのか。すでに何かをやり始めているらしいが、それを誰が受け入れられよう。感性に逆らうような逆説的な数々の問いかけが、はたして有用だと思われる場合があり得るだろうか。それ以上はどんな言葉を求めているわけでも、何を求めているわけでもないか。空想の世界では、白亜の壁に蔦が這いずり回り、そこに光合成作用をもたらそうと、突然真正面から光がさしてくる。それで太陽の位置を知ることができるだろうか。それを知ってどうするのか。そこから昼の時間を計測しようとしているわけか。今どき日時計は流行らない。いつの間にか空は雲で覆われて、中途半端な雨で路面が少しずつ濡れてくる。今年の夏ももう終わりだろう。馬鹿げた暑さともようやく別れられるか。しかし依然として何を述べているのでもなさそうだ。何がしかしなのかわからないが、やる気もないのに言葉を連ねている現状には変わりないようだ。だが誰が君にそれをやらせているわけでもない。他人の思い通りにはなりたくないのは当然かもしれないが、なぜ何もやる気にならないのか。誰がやる気にならないと述べているのだろう。また思い通りになりたくない対象の他人とは誰を想定しているのか。またそうやって話を込み入らせようとしているが、込み入らせた後のことを考えていないようだ。とりあえず想像上の世界では何かの基準が緩和されているらしく、それにつけ込んで、ひねくれ者は他人とは別の方角を目指しているつもりらしいが、今どこかで話題となっているのはそんなことではない。ではどんなことが話題となっているのだろう。そんなことは分かりきっているのことか。君は始めから話題に背を向けながら語り続けている。誰かはそんな態度に嫌気が差しているのかもしれない。またわざとらしい問いかけにもだいぶ前から飽きているようで、毎度のこととは違う内容で話を展開させたいらしい。他とは毛色の違うことを述べてみたいようだ。だが実在する君が考えているのとはまったく違うことを、空想上の誰かが出力できるだろうか。どこに何が出力されるのか。だが今までに君の考えが話に反映された例があっただろうか。それは嘘だろう。わざとずれたことを述べているだけか。そういうやり方に、なんとなく笑いがこみ上げてくるが、誰が笑っているのかは定かでない。誰かにとっては、まだ何も語らないうちからオチが読めてしまうのかもしれない。それはいつものことかもしれないが、まだ頭の整理ができていないうちに無理矢理わけのわからないことを語り始めてしまい、結局は何を述べているのかわからないままに終わってしまう、そんなよくありがちな展開を飽きもせず期待しているのは誰だろう。もしかしたら今回はそれとは違っているのかもしれない。何かのバランスが崩れて、それ以降はどうなってしまうのか先が読めなくなる場合もあり得るだろうか。そんなはずはないだろう。すでに予定調和の展開になりかけているように思える。それが君の特性なのか。あるいは君ではなく、誰かの特性なのだろうか。なぜそんな疑問を抱くのだろう。なぜわざとらしく虚空に向かって問いかけるのだろう。こんなことばかりやっていると、天から見放されてしまうだろう。すでに見放されているのかもしれない。どうやら以前と同じことを述べているようだ。それはどのように同じことなのか。それに関しては懐かしい言葉を思い出す。マンネリだの紋切り型だの、かつて他の人々を批判していた言葉が、すべて自らの文章に当てはまるだろうか。それを後からどのように修正すればまともな内容になるだろうか。意識が捉えきれない事象を、無意識が感じているのかもしれない。それを利用して、千回に一度ぐらいは真実を述べられるかもしれない。しかし千回も同じようなことを述べているわけでもないか。
8月21日
局面を打開できずにいると、現実から見放されてしまう。そんな気がして焦りが募ってくる。なぜそうやって嘘をつくのだろう。嘘を信じられないのか。嘘によってどこまで話を進められるのだろうか。それはおかしな言い草だ。まだそれを信じているなら、たぶん明日になれば信じられなくなるだろう。もうすでに明日になっているのではないか。それが嘘ではなくなっていることに驚く。驚いているわけがない。そんな風になるはずがない。今はどうなのか。何を信じているのだろう。誰かは笑っている。わからないから笑っているのだろうか。何がわからないのだろう。どうもまた行き詰まっているのかもしれない。目の前にある現実を信じられないか。何を馬鹿にしているのだろうか。あるいは何を信じているふりをしているのか。まだそれが嘘だとは思わないが、語り進めていくうちに嘘になってしまうかもしれない。そんな嘘はわざとらしいだろうか。事実を語るだけでは物足りなくなってしまうのだろうか。物足りないのではなく、事実そのものが語りには合わないのかもしれない。それをおもしろおかしく語るには、話に尾ひれをつけなくてはならないか。おもしろおかしく語れるわけがない。しかし嘘で塗り固めて何を語りたいのだろう。何かを期待しているわけか。その場を取り繕って見栄を張りたいだけか。虚栄心とはそういうものなのだろうか。そういうもではないだろう。とりあえずそればかりを期待するわけにはいかない。現実から遠ざかるだけでは、何をやっているのかわからなくなる。もうすでにそればかりになっているようだ。それをどうやって構成しようとしているのだろう。いったい何を信じられないのだろう。ところで何が嘘だったのか。誰の言うことを信じればいいのだろう。そんな風には思っていないか。誰かが思っていることを信じられない。誰が何を思っているのだろう。誰もそんな風には思っていないか。誰も特定の信仰を強要しているわけではない。何を信じても救われるわけではない。世の中はそんなに甘くはないのかもしれない。もちろん本気でそんなことを述べているわけではない。誰が本気で他人の身を案じているわけでもないか。他人に対してどうして欲しいとも思わない。そして自分がどうしたいわけでもない。ただ周りの成り行きに合わせて行動しているだけかもしれない。しかし思うことはただそれだけなのか。たぶん目的を達成するためには、粘り強く交渉相手を説得しなければならない。詳しい説明がなければ何も分からないか。できるだけ丁寧にわかりやすく説明しなければならないだろう。だがそれが嘘の始まりになるのかもしれない。それらの言葉にはあることとないことの境界がない。基本的に嘘で成り立っている説明でも、語り口や説明の仕方によっては説得力を持つこともあるだろう。だまされやすい人にはすぐにだまされるようなやり方が考案されているのかもしれない。そんなマニュアルもあるらしい。だがそれについて何を語りたいわけでもない。君はそれを信じられない。現実はそんなものではないはずか。しかしそのように語りたいわけではない。心に野望を秘めている人は、これから他人に何をやらせようとしているのか。そのためには何をどうしなければならないのか。ただ自分勝手な思い込みを実現させようとしているだけなのか。そんな思いが世の中にひしめき合っているのかもしれない。要するに誰もが自らの思いが実現されていないことに苛立っている。もちろんそれも誰かの思い込みには違いないだろう。いったんそれが表明されれば、そんなことはないと反論したい者が大勢現れるわけか。そんなわけはなく、現実にはそれらの言葉は放置されるばかりで、忘れ去られるまでさらされ続けるだけだろう。諦念さえ無視され、そこには何もなかったかのように取り扱われる。
8月20日
別に朝焼けが燃えているわけではない。明け方の曇り空を眺めながら、風の流れてゆく先に興味をつなぎ止めようとしているが、それは無理だろう。なんとなく継続は無理だと思われる。あきらめきれないが、あきらめてしまってもかまわないか。かまわないがあきらめきれない。今度はさっきとは逆の心境になる。たぶん何とでも述べることは可能なのだろう。何をどのように述べても、何かを述べていることには変わりないのか。何やらまたごちゃごちゃしたことを述べているようだ。だがいつものように誰が何を述べているわけでもない。そうやって君はまた嘘をついているのだろうか。ただわけがわからないだけか。そんな紋切り型の言葉しか出てこない。やはり何を語ろうとしているのでもない。まだ何も述べていないのだろう。しかしなぜそうやって何も述べようとしないのか。何も述べられないから、何も述べられないのだろうか。何を述べているのだろう。わざと理由になっていないことを述べているらしいが、それで何か述べていることになるのだろうか。なんとなく虚しいことを述べているらしい。たぶん意識して空疎なことを述べているのだろう。今はそんなことしか述べられないのか。まともなことを述べられるようになるには、ただ時が過ぎるのを待つしかないか。いつかまともなことを述べられるようになるだろうか。そんな風には思いたくないか。ではどう思えばいいのだろう。何を思いたいのだろうか。それはおかしな問いかけかもしれない。見え透いた矛盾を抱え込んでいる。ここでは誰が何を思っているかを文章にしなければならないが、そんなことができるわけがない。たぶん何もできないが、何かしらやっているつもりにはなれるだろう。嘘を利用すれば、言葉の上では何でもやっているつもりになれる。しかしはたしてそんなのがありだろうか。誰がそう述べているのだろう。誰が何を述べていようと、それがどうしたわけでもなく、どこかの誰かは、何も述べられないのに何かしら述べている、という矛盾を是正するつもりはないようだ。矛盾していることが悪いわけではない。矛盾しているおかげで、こうして空疎なことを語り続けることができるのかもしれない。しかしそれがなければ何もできないのだろうか。それ以外に何があるというのだろう。そうやってまた言葉が循環しようとしているだけか。どこまで循環し続けるのだろう。嫌になるまで循環し続け、嫌になってもまだそれが繰り返されて、そんな繰り返しをどうすることもできなくなる。ただ使い古された表現が性懲りもなく再利用され、そんな成り行きに嫌気が差して、自己嫌悪でも招いているのだろうか。それでかまわないのか。かまわないわけはないが、それをどうすればいいのかわからないか。そうなってしまった後で、やる気はどこへ行ったのだろう。誰かがどこかでやる気になっているようだ。それでもどこかに導かれているのだろう。真昼の明るさを想像しながら、その想像を超える事態の到来を期待する。明るいだけでは物足りないのか。では日差しに照らされて汗が流れ出ている姿に、どんな真実が宿っているのだろう。夏になればそんな状況が繰り返されるだけか。そのうち涼しくなるだろう。涼しくなるまで不快な暑さに耐えていればいいわけか。それ以外に何を感じているわけでもない。四季は絶えず循環しているように思われる。また来年の夏も暑いのだろう。去りゆく夏にどんな思いを重ね合わせようと、そんな言葉遊びの世界に違和感を覚えるまでもないか。今は言葉で空虚を埋めても仕方がないだろう。それができるとも思わない。言葉は言葉であり、空虚は空虚でしかなく、それを重ね合わせて何かを述べたつもりになっても、そこには誰の存在も反映されていないだろう。なぜ反映させる必要があるのか。それで救われた気持ちにでもなれるのだろうか。別に救われようとは思わないか。
8月19日
なぜそうなってしまうのだろう。そんなことはわかりきっているか。つまらないことにこだわるのを強要されているように思われる。それはどこでもそうだろう。しかしそれを拒否することはできない。拒否することは大人げない行為なのだろうか。それでもかまわないから拒否するべきなのか。別に拒否することによって誰に対抗しようというのでもないが、それは馬鹿げた話に思えるか。こちらが馬鹿にされているのだろうか。そんなこともわかりきったことか。話がかみ合わないのは、双方に認識の違いがありすぎるからかも知れない。それも承知している。たぶん今のままでは、それをどうすることもできないだろう。とりあえず根本的に世間とは合わないようだ。だがそれで何を悩んでいるわけでもない。ただくだらないと思うだけか。阿呆臭いのかも知れない。しかしそんな否定的なことばかり書き連ねても、何がどうなるわけでもない。ただ自己嫌悪に苛まれるだけか。もちろんそれは嘘をついていることになるのだろう。しかしそれ以上に何があるというのか。どうも世の中のしきたりというものについて行けないらしい。そう述べながらも形だけはついて行っているのではないか。そうやって何となく無駄な労力を使っているような気がするが、それが世間的なつきあいだということは知っているつもりか。無駄なことがいけないわけではなく、気に入らないことも時にはやらなければないのであり、結果的には無駄に思われるだけなのだが、その過程においては、その場の対応として、そういうことをやっておかなければならないのだろう。要するに無駄であっても、それが気に入らないことであっても、それはそれとして、それをやることによって生じるストレスとともに、それをやらないことによって生じる世間的なリスクを避けているわけか。しかし何がリスクなのだろう。それは社会的に孤立してしまう危険性だろうか。すでにある程度は孤立しているのではないか。もちろんそれは言葉の意味としての孤立からはかなりかけ離れた程度であるが、その仮性の孤立が本物の孤立にならない程度には、つき合っていかなければならないのだろう。だがそんな経験を重ねるにつれて慣れが生じ、何とも思わない状態が徐々に深化していってしまうのだろうが、はたしてそれでいいのだろうか。良い悪いに関係なく、現実にそうなりつつあるのだから、それはそれで仕方のないことかも知れない。しかしそれに呑まれてしまってはいけないような気がする。受け入れがたいことを完全に受け入れてしまっては、そういう世間で通用している人々と同じになってしまうだろう。もちろんそれもありかも知れないが、そこで感じている疑念を解消する気にはなれない。呑まれて、流されて、年老いて、そんなつき合いを続けていくうちに、いつかそんな風にして死んで行くだけのような気がする。それで納得することは無理だろうか。納得できなければ、後悔しながら恨み辛みばかり言う愚痴オヤジになるだけか。それも哀しい末路か。世間にはそういう人が多いのだろうか。そういう人を更生させることは不可能か。できることならそんなお節介な役は勘弁して欲しいか。たぶん愚痴オヤジと説教オヤジとの間に境界はないだろう。どちらも世間とのつき合いに呑まれてしまった哀しい人なのではないか。それを受け入れてしまうと、それ相応の立場とそれ付随するコミュニケーションによって、そんなありふれた人格と特性が知らず知らずのうちに身に付いてしまうわけか。酒の席などで、そこにはいない他人の悪口と、立場の下の者に対する説教によって、その場をそれ風の雰囲気に包み込もうとする人は多いだろうか。しかしはたしてそれ以外のコミュニケーションが存在するのだろうか。他人に何かを強要しなくては気が済まないこと以外に何かやることがあるのか。あとは気の合う対等の立場の人と世間話でもしながら、その時間が過ぎ去るのを待つだけか。もちろんきれいごと的には親交を深めるためにそうした場があるわけで、大いに飲んで食べて語らえばいいわけだ。懇親会とはそういったものだろう。きれいごとを優先させて、そういった趣旨でその場を取り繕わなければならないわけだ。たぶんそういうことの何を批判しようというのでもなく、やはりそれはそれでそういうことでしかないだろう。あまり本気にはなれない。
8月18日
なんとなく呆れた展開になりつつある。誰かは何も思わないので、その代わりに架空の人格には何を思わせれば納得するだろうか。誰が納得するのだろう。何かを思わせるのが面倒なので、誰かの意識はなかったことにしよう。支離滅裂なことを述べているようだ。朝から晴れた空に蝉の鳴き声が響き渡っている。また暑さがぶり返してきたようだ。夏バテ気味の心身には応える。文章上ではそれがどうしたわけでもないが、とりあえず始まりを設けなければ何も始まらないだろう。始めから支離滅裂なのだから、そんなことはどうでもいいことか。誰かにとってはどうでもよくないかもしれないが、それらの文章はどこから始まっているわけでもないらしい。始まりのきっかけをつかめないのはいつものことか。確かにそこには何かが生じているのかもしれないが、それを気に入るような形に修正するには無限の時間が必要かも知れない。要するに現状が気に入らないということか。しかし現状をどうすることもできない。何を求めようと、どんな現象に巡り会おうと、どうなるわけでもなく、以前と同じような言葉が連なるばかりか。そんなことを続けていると、神経がどうにかなってしまうかもしれない。すでにどうにかなっているのか。仮に君の精神が異常を来たそうと、この世の中はどうなるものでもないか。誰がどうなろうと、この世の中でしかないか。それ以上の何を期待してもどうなるものでもない。期待は裏切られるためにあるというわけか。君はそんな状況の中で何を醸し出したいのか。どんな雰囲気に君の嗜好が合うのだろう。そこからどうなって欲しいのか。現状では、ただ意味不明な成り行きが放置されているようだ。もう手遅れなのだろうか。それはいつもの泣き言につながる台詞になるだろうか。決定的な機会を逃してしまうのはよくあることだ。何もそこから苦し紛れに狂気を演出しようというのではない。ただ平静を装う意識を驚かせたいだけか。誰が平静を装っているのだろう。どんな精神状態が平静だといえるのか。まだ何も述べていないような気がする。だから焦っているのか。そんなわけはないだろう。物語の登場人物は、これから何かをやるところかもしれない。何もない空虚のどこに楔を打ち込んだらいいのか迷うところか。現実には何をやっているのか。そこから現実の事象を感知することは容易だろうか。ただむやみやたらと言葉を繰り出しているだけかもしれないが、文章のつながりは後から構成されるものなのか。すでに後から構成している段階かもしれないが、未だ何も述べていないような気がする。とりあずそこに生じているのは空無ではないと思いたいようだが、やはり意味を持ち得ないようなことを述べているような気がする。あり得ないことをあり得ないように語っているのかもしれない。いったいそれらのどこに作者が存在するのか。そこには誰の意向が働いているのだろう。例えば記念碑的な建造物には誰の作為が反映しているのだろう。わかりきったことを虚空に向かって尋ねないで欲しいか。実際にそれらを誰が見聞しているわけではない。ただそのような出来事を想像しているだけかもしれない。出来事の積み重なりが建造物として実体化するだろうが、それは何かの比喩だろうか。それをどうしようというのか。特定を場所を占有しているものをどうにかできるのだろうか。どうにかできる範囲は限られている。空想の中でならどうにでもできるか。自らに都合のいいように適当な光景を思い描くことは可能だろうか。現実にはそんな風に思うことしかできない。どんな風に思っているのだろう。架空の人格は思わぬ事件にでも遭遇したいわけか。たぶんそれは交通事故の一種だろう。事故は未然に防ごうと心がけても、防ぎきれないことがある。それは何の言い訳なのか。
8月17日
今の時間帯から言葉を繰り出すのは難しいか。それにここしばらくは気が抜けてしまっているようで、状況としては微妙な局面に突入しつつあるようだ。ここからどうやって持ち直せるのか。そんな状況とは関係なく、誰かの意識はいつもながらの空疎な内容に嫌気が差して、たまにはそれとは違うことを述べてみようと思うが、何をどのように試みてもうまくいかず、結局はいつもと同じようなことを述べている現実を変えようがない。そんな風に思われるのはなぜなのだろう。ただ単にそれとは違うことを述べられないからか。確かにそれはその通りなのかもしれないが、それでも内容のマンネリ化を認めるわけにはいかないようだ。たぶん君は自らに嘘をついているのだろう。そんなことは百も承知か。そうやっていつも真実に背を向けながら語り続けているつもりなのか。やはりそれとは無関係に、架空の誰かは、今にも雨が降りだしそうな空模様を気にしながら、蝉の鳴き声に耳を傾けている。そんな余裕がどこにあるのだろう。それほど切羽詰まっているわけでもないように思われるのだろう。なぜそうなのかは、君にはわからない。もしかしたらせわしない日々のただ中で、憩いのひとときでも求めているのかも知れない。だが君にとってそれは意味不明に思われる。まともなことは何も述べられないもどかしさとともに、放っておけば、たちまち歯切れの悪い言説に終始するようになるだろう。しかしそれ以上に何を述べられるのか。雨はすでに降り出していて、窓ガラスにはまんべんなく水滴がついている。もちろんそれがどうしたわけでもない。これから雨の話をしたいわけではないし、ただそれらを眺めている意識が誰のものなのかはっきりしていない。とりあえず架空の誰かは、どこかで人々がうごめいている光景を眺めているらしい。何が生命の神秘なのか。それは場違いな台詞だろう。まったくロマンを感じられないか。それもおかしいか。眺めているのはどんな光景でもなく、ただ電車の中で複数の誰かがしゃべっているだけの光景かもしれない。それらのしゃべりは、たとえ話題がかみ合わなくても、しゃべる相手にただ一方的にしゃべりの内容を伝えれば、それで気が済むような水準の会話か。そこでは何の進展も期待されていないようだ。君は他愛のない会話から何が進展すると思っているのか。何かを語れば、語った分だけ何かが進展するのだろう。だがその何かを誰がわかろうしているわけでもない。そこでは言葉が流れ去ろうとしている。誰の記憶に留まることもなく、ただどこかへ台詞がひっきりなしに流れてゆく。それに対応して、意識もどこかへ流されてゆく。行き先は常に適当などこかであって、特定のどこかではない。そのときの気分次第でいかようにも方向も行き先も変わってしまう。ところで君はその空疎な会話の内容に踏み込んで説明しないのか。君には関係のない話には興味がないのだろうか。それは何の話だったのだろう。さっきまで聞いていた話の内容を、もう忘れてしまっているようだ。もしかしたら何も聞いていなかったのかもしれない。それらは生命の神秘などに言及していたわけではないだろう。どこの誰某が格好が良いか悪いか、というような軽い内容だったのかもしれない。生命の神秘がどうのこうの、と電車の中で語っている者がいるとすれば、その人は外れた人間だろう。何が外れているかは想像にまかせるしかない。たぶん頭の中にある想像上のネジが緩んでいるのかもしれない。ネジが緩みすぎると、ふとした拍子に何かの部品が外れる危険性がある。だからその場の空気をつかむことが重要になってくるのだろうか。空気をつかんでどうするのだろう。ただ世の中の動向に調子を合わせるだけか。とりあえず流行り廃りに敏感なふりをしていなければならないか。もちろん建前上は軽はずみに流されてはいけない、と思っているつもりなのだろうが、ある程度は流されていないと、やはり外れた人間になってしまう恐れがあるか。
8月16日
本当は誰も何も求めていないのかもしれない。感覚的に情報の洪水的な伝達には無理があると思う。それはおかしな光景だろうか。ふとテレビ画面に目をやると、どこかで誰かが叫んでいるようだ。以前にも似たような光景に遭遇したことがある。なぜ音声を切っているのだろう。その手の映画やアニメでも見れば、いつも誰かがひっきりなしに叫んでいることだろう。いったい誰かは何に興奮しているのだろう。わざとらしく沸き上がる疑念はそのままにして、何かを振りほどこうとして、必死にもがいても、それらの感覚はまだどこかに引っかかったままなのか。それは何かの感想になり得るだろうか。ここ数ヶ月間続いた、ごちゃごちゃした紆余曲折を抜けると、またもや視界が開けて、意識はただ漠然とした思いに囚われる。断続的に継続していたあれらの感覚は何だったのだろう。それも引き潮のように去った今、これから何をやっていいのかわからないのだが、誰からも顧みられない過去の時間からは、もうしばらくは解放されたままなのか。相変わらずそこには、何やらわけのわからない言葉が連なっているようだが、それは人間が繰り出した言葉ではないのかもしれない。それは嘘だとしても、それらの言説には結論が見当たらない。それについていくら多言を要しても無駄なのか。その誰が発したわけでもない台詞には、意味不明な尾ひれがついて、誰も知らないどこかの言語空間で、当てもなく泳ぎ回る。そんな妄想がどこで成り立つのか。どこでも成り立たないのが妄想の特性か。感性の許容範囲を逸脱しているだろうか。だがそこで麻痺しているのは良心ではない。それを受け取った誰かは、天から授かった無感動を受け入れようと思う。荒唐無稽な言葉の並びに感動してしまったら、そこで破滅か。そんな大げさなことでもないだろう。状況は誰の思惑とも無関係に、自ずから生成されようとしているようだが、それについて述べているつもりの、それらの言葉は、余白に出現する機会を逸している。余白はすでに別の言葉で埋め尽くされている。そしてそれらの言葉には無感動が付きまとう。その作業に費やされた時間はどこから生じているのか。時の流れは誰の要望を受け入れようとしているのか。時から見放されて、過去へと逆戻りか。フィクションを構成する言葉は現実から遠ざかる。乾いた空気を吸い込みながら、残暑を感じている心は、秋晴れの空を思い出す。他愛のない想像力から派生した虚構は、何を求めているのだろう。どんなに言葉を巡らしても、意識の中に巣くう虚無を取り除くことはできないか。意識に絡まる感情の蔦は、自らの影とのつながりを模索しながら、絶えず空想を妄想に育て上げようとする。その力は留まることを知らず、しばしば空想を通り越して実体に影響を及ぼしてくる。現実に対する見方や考え方を変容させようとする。何もあり得ない光景の出現を求めているわけではない。それは出現するのではなく仮想しているわけだ。そこに出現しているのは、自らの意識に絶えず否の言葉を投げかける現実だろう。それらは互いに、絶対にお前の思い通りにはさせない、と硬く誓い合っているのかもしれない。たぶんそれは何かの被害妄想なのかもしれないが、それがまんざら荒唐無稽な話ともいえない雰囲気を漂わせている。はたしてそれらの現象をどう評価したらいいのだろうか。愚かな人々はどこにでもいるのだろうが、そんな人々のやっていることに、いちいち付き合っていられないか。たぶん君は何に言及しているのでもない。君が構成しようとする言説には、出現する余白が存在しない。はじめから存在する余地のない場所で空想されているのだ。だから君の言葉は、それらの文章のどこにも見当たらない。君が述べようとする以前に、すでに他の誰かが語り続けている。それらの言説に、君の思考が入り込む余地などない。君は君の意識とともに、それらの言説から、言語領域の外に押し出されてしまっているのだ。だから君に残された動作は、ただ呆然として途方に暮れることだけのようだ。
8月15日
ざわめきを聞きながら、使い古した表現を避けようとする。すぐに決まり文句が思い浮かぶが、それを使わずに、他の言葉を用いて何かを言い表そうとする。今さら何を反省しなければいけないのだろう。風の中に答えがあるわけがない。それは責任逃れの一種か。しかし責任を自覚すればやる気を失い、やる気になろうとする心を押しとどめてしまうだろう。それ以上は何を述べても気休めにしかならず、気休めは気休め以外には進展しないだろう。巷に満ちあふれているそれらの物語に、どのような目的や効用があるのだろうか。そんなことはわかりきったことか。だがそれが顕在化することはない。またそれらの事象に誰が戦いを挑んでいるわけでもない。君はただやらなければならないことをやっているに過ぎないのに、なぜやらなければならないのか理由がはっきりしない。他の理由ならわかっているつもりか。とりあえずはそれらの結果を見極めなければならない。君に見極められるはずがないか。では何もかも分かった上で、それをあえて無視しようというのか。それに関して、つまらないことならすでに述べているはずか。何もそれを文章の中に集中させようというのではない。決定的な断言を封じて、いかに我慢するか、それがいつまで持続するのだろう。はじめから力の差ははっきりしている。だから何も述べようがないのだろうか。できることといえば、相手の虚を突いて、知らない間に何か述べるぐらいが関の山か。相手の存在がはっきりしていない状況で、それがどこまで有効なのかわからない。それでも誰かがそこで踊っているらしい。妄想のかけらはゴミ箱に次から次へと投げ込まれるだけか。そんな様々な歪曲によって人間社会は形作られている。誰も真の姿を把握できないのだろうが、それは定まった形状を持たないものなのかもしれない。誰の視界からも見えていて、誰の思考からも導き出されるのかもしれないが、それらを擦り抜けてしまう部分を持っている。人々は絶えずそれに単純な構図を当てはめようとして、結果的に失敗している。わかった風を装うことは誰にでも可能なのだろう。それを真に受けることはできない。なぜそんなことをやっているのか、いくらでも理由を導き出せるのかもしれないが、そんな理由を真に受けることはできない。それらが所有している価値観を認めるわけにはいかないのだろうか。なぜ認めなければいけないのだろう。ではそれらの何に疑念を抱いているのか。そんなことを思っている君は間違っている。誰が間違っていると思うのか。この世界に何があるというのか。どのような可能性があるのだろう。様々な意匠のうちで何を受け入れたいのだろう。いったいどのような状況になれば満足するのか。このつまらない状態をいかにして耐え忍ばなければならないのか。君の本音はどこにあるのか。どこにもないと述べたいわけか。まだ何も述べていない。森のざわめきには適当な暗号が含まれている。月明かりに照らされて適当な獣が現れる。眺めているのはそれ以外の何かだ。誰かが基準の定かでない価値にだまされてがらくたを収集している。金で買えればそれでいいのか。何を集めているのでもない。ただそれを信じられないのだろう。それに関しては利いた風な見解を期待しているわけではない。世界の多様性を肯定すべきなのか。それに本気になれる人がうらやましいか。なぜ単純になれるのだろう。どうして熱狂できるのか。そんなことはうわの空の君には見聞する何もかもが信じられない光景だといいたいわけか。そんな言い草は見え透いているか。それもわざと焦点をぼかしているに過ぎないことか。まともに述べてしまったら角が立つだろうか。まともでないので、その辺は曖昧にしておこう。
8月14日
どういうわけか奇跡的にこの時間帯へたどり着いたようだが、感慨は何もない。なぜ何も思わないのだろう。曇り空の下で何も思わないなら、星空の下でならどうだろう。冬になったら試してみればいい。たぶん思いと空は無関係だろう。何か思っても言葉には至らないのかもしれない。それは曇り空の下でなくても同じことか。何か言葉にするには不都合なことでもあるのだろうか。たぶんつまらないことならいくらでも思っているのだろうが、それを言葉にしてもつまらないだけか。しかしおもしろくても言葉にならないことなどいくらでもあるような気もする。ではどんな思いを言葉にすれば納得するだろう。納得しなくても言葉にしているときもあるはずか。ちょうど今がそんな状態だろうか。長続きするはずがない。またすぐに遅れ始めるのだろう。意識は時の流れに乗りきれない。時に流れがあるなんて信じられない。思っていることはそれだけか。なぜ否定的な感情に支配されているのだろう。何が支配されているのか。ただ目に映る光景には興味を抱けない。この世界には興味を惹きそうなことが何もないような気がしてくる。興味を惹かなくても言葉で表現することは可能だ。人は何を美しいと感じるのだろう。それは何かの苦し紛れか。では人は何をおもしろいと感じるのだろう。人にもいろいろな人がいる。人でなくても人の心を持っているものもありそうだ。そんなものに興味を覚えるわけか。嘘かもしれないが、あり得ない話ではないと思う。思いもしなかったような言葉の出現にうろたえる。誰がうろたえているわけでもなく、そう述べると、思いもしなかったような言葉が出現したように思えるだろうか。そんなことを確かめたいわけではない。ペットに人の心を想定したい人もいる。他人の心の動きを読み取りたい人もいる。意味のない会話に意味があると思い込みたい人もいる。晴れた空にそのときの気分が反映されていると思いたい。悲しいときには雨が降るのだろうか。残暑のただ中では何をあきらめたらいいのだろう。思いを託すべき天候に巡り会えないときには、他の何に気休めを見いだせばいいのだろう。それが間違った思いであることに気づいていないふりをするばかりか。たぶんわざと文章がつながらないように、前述とは少しずれたことを述べようとしているらしい。どんな言葉を繰り出そうと、それをまともに受け取るつもりはない。それが誰の思いなのか特定できないようにしたいのか。夕闇の中にその日の真実があるわけではない。それで何を述べているわけでもない。おかしな思いはおかしな感性を呼び込めるだろうか。それをおかしいとは思わない人は素通りしていくだけか。何の疑問も感じない人は恐ろしい。たぶん天才か何かだろう。そんな躓きのない人は架空の物語に登場するだけか。君はどんな疑問を感じているのだろう。この世界はどこにあるのだろうか。ここにはないとすると、こことは何なのか。そんな疑問はわざとらしいか。この世界とは何か。この世界に、この世界とは何か、という疑問に対する答えがあるだろうか。誰が答えを求めているわけでもない。そんな答えなど必要ないと思われてしまう。では必要のない答えが導き出された場合、それをどのように処理すれば精神の安定を保てるだろうか。そんな風に思う必要もないだろう。どうやら君には音楽による癒しが必要なのかもしれない。今聴いている音楽ではなぜ駄目なのか。それらの文章に理由が入り込む余地などありはしない。気分次第でそんな気分を引っ込めてしまう。とりとめのないことを述べていたいだけのようだ。しかし頭が壊れた風を装えばそれで満足できるのか。頭が壊れているのではなく、では何が壊れているのだろう。他の何かが壊れているのだろう。例えばそれは何だろう。それは例えにはならない何かか。何を否定しようとしているのか不明か。
8月13日
それは不可能なことか。中途半端なことをやりながら、誰かは至らない現状をどこかへ至らせようとしているらしいが、意識はまだ何も見いだせないようだ。見いだそうとしていないのかもしれない。見いだせそうなものはすでに見いだしてしまった。そんなはずはないと思いつつも、それが事実だということを知っている。では事実をねじ曲げて、嘘で何を塗り固めたらいいのだろうか。とりあえず対象の不在は妄想で間に合わせよう。間に合わせられるわけがないか。間に合わせの思考は、それとは違う述べ方を模索している。冗談は冗談として、本気になるのを避けながら、気休めの戯れ事に染まりながらも、それはそれとして、紛れもない現実であることを認めよう。何を認めようとしているのか。君には認められない現実でもあるのだろうか。それらのどこまでが妄想なのだろう。妄想の本体はどこにあるのだろう。どこに何が隠れているのか、今のところそれに関する言葉を見いだすには至っていない。その代わりに余分なことを述べているらしい。それとは違うことを述べようとしているのに、そこから逃れられないようだ。束の間の希望は遠のき、いつもの日常が近づいてくる。感じていることはそれだけか。それだけでなければ、他に何があるのだろう。知らず知らずのうちに、大げさなことを述べるのを忘れてしまった。はじめからそんなことは述べようとしていないだろう。今からそれを考えているのかもしれない。世界に向けて、人間以外の声を届けよう。それは機械の声だろうか。向かっているのは世界ではなく、どこかで開かれている国際試合の会場か。それにどんな価値があるというのか。別に不可能を可能たらしめるわけでもなく、戦争を終わらせようというのでもなく、ただ偽りの戦いを演じているだけではないのか。それも戦いの一種なのだろうか。平和の祭典に選ばれた者たちが戦わなければならない。現実の戦争から目を逸らすために、偽りの戦いが演じられる。しかしそんな風に思ってはいけないのだろう。心を入れ替えて、もっと肯定的なことを述べなければならない。目を閉じて選手たちのさわやかな笑顔を思い浮かべよう。だが冗談を本気に受け取ってはならない。君はそこから夜空を眺めている。立ち向かう対象を間違えているのだろう。スポーツで金を稼ぐのは良いことだ。メダルを獲って国家から報奨金をもらうことは、何も恥ずべきことではない。今のところ何を責めているのでもなさそうだ。君たちはエーゲ海に命を捧げてくれたまえ。何を述べているのだろう。それは何かの予言なのか。イルカ漁で海が血で染まった映像を覚えているだろうか。神に生け贄を捧げる行為がまだどこかで行われているのだろうか。それは本当に機械の声なのだろうか。どこかに盗聴器が設置されている。たぶんそれは天啓ではないと思う。もっと簡単に未来に起こるだろう出来事を予想してみたらどうか。あすの天気は晴れだろうか。壊れた頭は元に戻らない。元に戻るのは月の満ち欠けか。誰かがやろうとしていることは知っている。同じような言葉の循環を断ち切りたいわけか。そうやって何とか本性を隠し通したいのだろう。不在の心を顕在化させることはできない。理想と現実はともに妄想の一部と化すだろう。勝負事はどこから始まっているのでもない。勝敗が決した瞬間から過去を巡る言説が始まるだけだ。画面の向こう側では、それを何とかおもしろおかしく伝えたいだけか。そんな気を引こうとしているだけの人々を横目で見ながら、勝敗の行方を見失い、自分とは無関係な勝負事だと感じてしまう。別に勝っても負けてもかまわないか。誰を応援する気にもなれない。見え透いた反応はなしにしよう。何を批判したいわけでもないし、それについて何を述べたいのでもない。
8月12日
何かをあきらめることは、他の何かを獲得することにつながるだろうか。どうもそれは違うような気がするが、すべてが違うわけでもなさそうだ。本当にそうなったら、それはすごいことかもしれない。だが大げさなことではないだろう。ただ求めてもいないものが手に入るだけか。それで何をしようというのか。何を手に入れたのかわからない。それは何かの経験かもしれないが、その経験がいつか生かされることがあるだろうか。生かされたとしてもそれに気づかないかもしれない。それでかまわないのか。それはそれでそういうことでしかない。それ以上に何を期待しているのだろう。何がどうなれば満足するのか。思い通りにいくことがどういうことなのか理解できない。様々な思いが同時に生じている中で、それらの何が思い通りなのだろう。ある思いが他の思いに同調できない場合がある。何を思っているのかわからないときもある。思い通りにいったはずなのに、それが不満なときもある。思い通りにいかなくても納得してしまうときもある。思いそのものが状況から疎外されているときもある。すべての思いが無視されている。何に、あるいは誰に無視されているのだろう。君自身に無視されている。それは君の思いではない。そこから逃げては駄目なのだとしたら、いったい誰が駄目なのだろうか。何から逃げようとしているのか。終わりのない言葉の循環からか。終わらそうとしていないのだろう。逃げても逃げていないことになってしまう。何をどう思っても無駄というわけか。何が無駄なのかわからない。安易にすべてが無駄と思いたいらしいが、何がすべてなのかわからない。すべてをわかろうとしていない。すべてはここにある。すべての空虚もここにあるだろうか。思いがどこかへ逸れていく。逸脱しながら新たな軌道を探している。そんな風には思わないだろう。誰もが思いたくない結末を模索しているのだろうか。心の琴線に触れてみたいか。それは誰の心だと思いたいのか。重層的に複数の心が互いに違うことを思っている。それが普通の状態なのだろうか。普通ではないと思いたいのは誰の意識なのだろう。意識は何に反発を覚えるのだろう。ありもしないことを思い、現実の出来事から遠ざかる。暇つぶしの戯れ事に屈しているわけか。それが現実だとは思いたくないわけか。誰かは単調なことを述べているようだ。何が幸福をもたらすのだろう。何が至上だとも思わない。求めていないのは何なのか。なぜもたらされようとしているものを避けるのか。それがもたらされているとは思えない。空虚がすべてを覆っているのか。それ以外に何を覆いたいのだろう。すべて以外に何があるのか。思わぬことを述べられるだろうか。君はすべてをすべてだと思いたい。それが余計なお世話を構成している。神は世間を見下している。誰が神であるわけがない。神はそれを知らないらしい。自分が神以外の何者であるかを知らない。それ以外の何を証明したいのか。誰にも証明できないか。何も思わないとき、何も思っていない意識が存在しているはずがない。それをどうやって証明しようというのだろう。それは証明以外の方法を求めている。それとは何だろう。神はそれ以下の存在なのか。根拠を求めているわけではない。ただそう思いたいだけか。何を思っていようと、思っている意識の勝手に思える。冒頭に戻ってみよう。戻れないことに気づく。なぜそれをあきらめてしまうのか。あきらめきれないなら、何か適当な言葉を付け足してみればいい。それで文章がつながるなら、それに越したことはない。そうやって君は文章のつながりを獲得してきた。手に入れたものはそんなものだったのか。そんな嘘が付け足されて困惑しているかもしれない。そのとき君は何を思っているのだろう。
8月11日
今日も何も思わずに何かを述べているらしい。それはいつもの思考パターンか。真夏の陽射しを浴びながら、晩秋の光景を思い浮かべる。それは見え透いた嘘だろう。どこかの誰かは思い悩んでいるのだろうか。そんな精神状態だからどうだというのか。何を悩んでいようと、それは嘘だということで片付けられるか。花柄模様の壁紙がどこかの画面を覆っている。それも嘘だと思うが、そんな画面を見てみたいような気もしてくる。どこかの誰かはそんな戯れ言は相手にせず、ただ漠然とした思いに囚われる。誰かの思いに漠然も何もないだろう。どこの誰が囚われの身であるわけでもない。誰もが社会の様々な因習に囚われている。実際に刑務所や拘置所や少年院や鑑別所や学校や会社や病院に捕らわれている人は、ただそのような施設内で生きているだけだ。では、施設内で囚われの身になることと、社会の様々な因習との間には、何か興味を惹く関係でもあるのだろうか。関係があったとして、それについて何か気の利いたことを述べられると思っているのか。誰か他の者に述べてもらえばいいだけか。それらの施設内で適当な処置を施されて、囚われの身となっている誰かは、何か意味のある人間に矯正されてしまうだけか。表向きは、より健全な人間に生まれ変わるために、それらの施設は存在しているらしい。反社会的な人間が社会的な人間に生まれ変わるわけか。たてまえとしてはそうなのだろう。実態とはかけ離れているだろうか。そう思ってしまう者は反社会的な人間か。たぶん誰かは何も思わないだろう。何を思ってもそこに意味を感じ取れない。誰かの意識はどこかで別のことを考えている。その別のことは様々なことであり、何か特定の思いではなく、ただ漠然とした思いに囚われているのかもしれない。すべてが無意味ではないが、意味ある物事を信じられない。だがそれで何を語っていることになるのだろう。誰が何を語っているのか知らないが、まともな精神状態なら、そんな風には述べないところか。もう少しまともなことを述べてみたらどうか。例えば、誰かは流行り廃りの対象から興味深い現象を探し出そうとしている。いったい何が流行っているのか、また何が廃れようとしているのか。それを探し出すのは有意義なことだろうか。それとも無駄な試みだろうか。何が無駄であるはずがもないか。意識が思っている無意味なことはそんなことではないのか。何が無駄であったり、無意味であったとしても、それはそれでそういうことでしかないだろう。なぜそういうことしか語れないのだろう。他に何もないからか。たぶん誰かはどのようにでも語れると思っているのだろう。そういう思いが欠陥を形作っているらしい。どのようにでも語っているつもりが、何を語っているのでもない結果を招いている。ではどのようにでも語ってはいけないのか。語ろうとしても語れないはずか。それを語っていると思い込んでいるのが間違いなのか。語る対象が不在である現実を直視するつもりがないようだ。今はその事実を認めるべきなのか。認めたところで、何について語れるわけもないか。ではどうすればいいのだろう。それで悩んでいるつもりなのか。君に誰かの悩みなどわかるはずがないか。しかし誰かとは誰なのか。たぶんここでは誰か誰かでしかなく、誰か以外の誰でもない。便宜的に誰かという言葉を使用しているに過ぎない。例えば誰かが君であっても、それほど違和感はないと思うが、なんとなくここでは君ではなく誰かという言葉を使いたいようだ。そうやって話を横道に逸らすのにも、誰かという言葉が欠かせないのかも知れない。しかしさっきまでは何に言及していたのだろう。
8月10日
どうも世の中にはわからないことが多すぎるのかもしれない。しかしわかっていないにも関わらず、とりあえず何らかの対処を講じなければならなくなる。それが適切な方法なのか否かは、結果を待たなければ何ともいえないのだが、結果が出てしまえばもう手遅れになってしまうのだから、どうにもやりようがない。どうしてもそれは賭の一種になってしまうのだろうか。一か八かとまではいかないが、対策が万全であるはずがない。どんなに工夫を重ねても、これで完璧というわけにはいかないようだ。そんなわけで、作り話の中でも現実の世界でも、人々は、あやふやな状況判断と、それに対する不完全な対処法を駆使しながら、またくだらぬ感情とともに、あくせく動き回らなければならないようだ。どんなにうまく立ち回ったつもりでも、どこかの冒険活劇アニメのようなわけにはいかないか。毎週のように必ず窮地に陥りながらも、見ている者たちのハラハラドキドキを期待しながら、必ず危機一髪のところから、起死回生の技を繰り出して生還を果たす。確かにそれはおもしろい話かもしれないが、なんとなく子供だましのような気がするのは当然の成り行きか。どうもその辺で認識の違いが露呈してしまうようで、それ以上は何を述べていいのかわからなくなる。何をどのように述べたら説得力が出るのかわからない。物事の捉え方が誰かとは微妙に違っているのかもしれない。とりあえず、いつまでも馬鹿げた成り行きには付き合っていられないが、わざとらしい話にはわざとらしく感動してしまう。もちろん本当に感動しているわけでもないのだろうが、誰かは、それは嘘の感動だとでも述べたいのだろうか。では感動できないときには何を思えばいいのだろう。気休めに何を思えばいいのだろう。そんな作り話はつまらないか。誰もがつまらないわけがないだろうと思うところか。そんな思いとは関係なく、どこかで誰かが必死になって堕落しようとしている。しかしそのひたむきさが堕落するのを妨げている。堕落しようと思って堕落してしまったなら、それは堕落ではないだろう。一般的には、思いを遂げられずに挫折してしまうことによって、あきらめの脱力感とともに、堕落への道が開かれるのではないか。そういう成り行きにならなければ、堕落には至らないはずか。そこに至る成り行きが不在であるのに、意味もなく自分から堕落するように仕向けてしまっては、本末転倒だろうか。それは堕落しようとしているのではなく、堕落を演じようとしているだけか。それを演じようとしている誰かは、本気で堕落しようと思っているのかもしれないが、必死になればなるほど、状況に裏切られてしまうだろう。それでもかまわないか。結果的に堕落を達成できないことが、その人にとっての堕落なのかもしれない。何かを演じようとする者が孕んでいる矛盾とはそういうことなのかもしれない。物語を構成しようとする者が物語内に生きているわけがない。映画やテレビドラマの中で特定の役を演じている俳優にも、それとは無関係な現実の生活がある。虚構の物語の枠内だけで、その人物が完結しているわけではない。演技の範囲内で堕落しているように思われたら、その堕落は嘘の堕落であり、ただ堕落を演じているに過ぎないことになる。その反対に、物語の中では堕落してしまう設定なのに、まったく堕落しているようには感じられない演技なら、その俳優は演技的に堕落しているのであって、そのようなまずい演技を許している制作者側も、堕落しているといわざるを得ないだろう。演技で堕落しているように見せかければ、それがいくら真に迫る演技であったとしても、それは偽りの堕落であり、逆にそのような演技を放棄してしまえば、それは迫真の演技からは程遠い、堕落した三文芝居となるだろうか。そんな風には思わないか。どんな演技であっても、それが演技である限り、偽りであることには変わりないか。もしかしたら、そんな演技に魅了されて、感動しているつもりの意識も、善意でそのような演技に付き合いながら、演じている者を落胆させないように、感動する観衆を演じているだけなのかもしれない。要するに演じている側が、無理矢理感動させようとしているのに対して、それを見ている側は、そんな魂胆を悟って、演じている者に恥をかかせないように、無理矢理感動しているように装っているだけではないのか。どうもそういうわざとらしい空気を察知してしまうとしらける。
8月9日
時間に追われて何となく無意味なことを述べているようだが、お節介な誰かによって見いだされた時と場所には興味を抱けない。無駄に時間と神経を浪費させるように、なぜ飽きもせず他愛もない娯楽を提供しようとするのだろう。それは誰に見いだされた対象でもなく、ただ匿名の意識が感じ取っている時空に出現しており、暇を持て余している誰かを基準にして、それに興味を抱くように仕向けているだけかもしれない。そこには誰でもない誰かしか出現できないような欠陥が備わっているのかもしれない。そんな見え透いた嘘によって繰り出された言葉は、今のところ特定の固有名を見いだせないようだ。それとは無関係に、とりあえず夏に対応したつもりの意識には、朝から蒸し暑いような気がするが、それをどうすることもできずに、ただ冷気の当たる場所へ移動しようとしている。気持ちが散漫なのだろうか。言葉は連続して文字列を形成せずに、どこかに散らばってしまう。それはよくあるパターンかもしれないが、それらを集めて文章にする必要がどこにあるのだろう。人々の思いは今日も社会にあやふやな雰囲気を醸し出していて、そのような雰囲気をなぞっているかのように、毎日のように気の毒な人たちがニュースに登場している。誰のものでもない空間の中で、それらの意識がうごめいているらしい。それはたぶん何者でもない人格を所有していて、何でもない何かに囚われている。個々の人物は一応固有名によって名付けられてはいるが、その実体は、やはり何でもない何かでしかないだろう。それらが巡り会うのは、特定の出来事から遠ざかりつつある誰かの意識でさえない。そんな妄想を無視して、夏の日差しを浴びながら、誰かがどこかを歩いている。意識はそんな車窓の風景に目を奪われているわけでもなく、また何を考えているわけでもなく、相変わらず何を述べようとしているのでもないが、それは悲しむべきことなどではない。何も悲観することはない。悲嘆に暮れている間に、そんなことはどうでもよくなってしまうだろう。それとは別の時間帯においては、なぜか気まぐれにくだらないことを述べそうになる。昨日のことは今日のことであり、明日のことは百年後のことになるかもしれない。誰がそんなことを思っているのだろう。暇にまかせて誰かはくだらないことを述べているようだ。くだらぬことはくだらないと思うことではないと思っているらしいが、見聞する何もかもがくだらないなら、そう思っている感性がくだらないのではないか。なぜそれを認めることができないのだろう。何を認めたらいいのか。気が弛んでいることか。弛んでいるのではなく、そう思ってしまうのだから、そうなってしまうのが必然の成り行きなのかもしれない。それは注意していても避けられない事態なのだろうか。事故は起こるべくして起こってしまうのかもしれない。ではそれについて何を思っても仕方のないことなのだろうか。たぶん何か思いたければ何かしら思っていればいいだろう。たとえそれが無駄に終わったとしても、それでも適当なことを思っていればいいのではないか。思うだけならそれほど神経を消耗することもないか。思い悩んでいれば、それが適当な暇つぶしにでもなるだろうか。それが強がりだということを認めるわけにはいかないようだが、たぶんくだらないと思うことはつまらないことなのかもしれない。ではくだらぬことをおもしろがっているのもつまらないことなのか。そんな反論は見え透いている。はじめから予想の範囲内か。何をおもしろがっているわけでもないだろう。ただ何かを述べているに過ぎず、それがくだらぬことやつまらぬことだとしても、とりあえずそれをおもしろおかしく語ろうと試みるのは無益なことだろうか。なんとなく話が変調するように仕向けている節がある。このままではつまらないままで終わってしまうような気がするらしく、何とかつまらないなりに、それを興味深い現象であるかのように見せかけているのだろうか。だが結果としてはわけがわからないか。
8月8日
強引に語ろうとすると無理が生じる。無理に語ろうとすれば粗雑になる。どちらにしろそんなことは無視して勝手に語るべきなのか。勝手に語れるわけがない。語ろうとすれば意味不明になるだろう。どのように語ろうと、そこには嘘が生じてしまう。その嘘をいかにして真実に見せかけるかが、そこでの技巧になるだろうか。別に嘘だと思われてもかまわないか。それはそのときの成り行きや状況にもよるだろう。では今はどのように思われたいのだろう。どう思われようとかまわないのだろうか。たぶんそれが嘘なのかもしれない。他人から馬鹿にされるような内容にはしたくないか。なぜ良く思われたいのだろう。格好の良いことを述べて見栄を張りたいのか。何が格好が良いのだろうか。それに関する判断はどうなっているのだろう。もし思い通りに語っているのだとしたら、それが格好の良い語りになっているのかもしれないが、現実には思い通りであるわけがないので、もしかしたら今語っているのは、他人から馬鹿にされるような内容かもしれない。空疎であることは百も承知か。空疎でなければそんな風には語れない。内容の具体性を求めるには、常に興味深い出来事に遭遇していなければ、その対象については述べられないか。語る対象がなければ何も述べられないなら、そうかもしれないが、そういつも興味深い出来事に巡り会えるとは限らないので、年がら年中語り続けることは不可能だろう。要するにそういう方面での継続は無理なのか。ではその無理を押し通すにはどうしたらいいだろうか。思考や想像力に頼って語ればそれが可能となるだろうか。たぶんそれにも限界があるのかもしれない。ならばその限界を超えて語るにはどうしたらいいのだろうか。そんなことができるはずがないか。ではできるはずのないことをやるにはどうしたらいいのだろう。やはり嘘を述べなければならなくなるのだろうか。そんなことははじめからわかっていたことかもしれない。以上に述べていること自体が嘘なのかもしれない。不可能や限界などあるはずがない。もちろんそれも嘘だろう。不可能も限界もあるにはあるのだろうが、それがいつ訪れるかなんて予測すること自体が無益なことなのかもしれない。行き詰まったときが限界なのであり、現実にできないと思うことをやろうとするのが不可能なのか。もちろん実際には行き詰まった後から、しばらくしてやり始めてしまうこともあるし、それ以上やることは不可能と思った後から、なぜかやってしまうこともあるだろう。要するに限界も不可能もそのときに思った相対的な認識であり、結果的にそれが打ち破られてしまえば、それは限界でも不可能でもなくなってしまう。もちろんそんなこともわかりきっていることで、今さら述べるにはどうでもいいことかもしれない。しかしどうでもいいこと以外に何を述べることができるだろうか。やはり興味深い出来事に巡り会わなければ新鮮な言葉を繰り出すことはできないのだろうか。それには偶然の幸運を待ち続けなければならないか。だが待ち続けている間は何も語れなくなるだろう。では待ち続けることは不可能なのか。もしかしたら空虚な語りをやり続けながら、それを待っているのかもしれない。しかし語り続けていてはそれの到来に気づかないのではないか。別に気づかなくてもいいだろう。気づいたらそれについて語ればいいし、気づかなければ今まで通り空虚な語りを継続させればいいのではないか。たぶんそんなのも嘘だろう。心にもないことを語っているらしい。冗談にも程があるだろうか。冗談だと面倒なので、できることなら冗談ではないと思いたいところか。無理に冗談だと思い込んでも無駄か。何が無駄なのか、あるいはそうではないのか、なんて何で後になってみなければわからないことか。では後からそれらの試みは無駄であった、あるいはまんざら無駄でもなかった、なんて思ってみたいのか。そんなことを思ってみても、すでに語ってしまったのだから、それはどうでもいい無駄な蛇足に過ぎないか。
8月7日
誰かは誰が定めたわけでもないルールが有効だと思いながら、そのルールを破ることに全知全霊を傾けているらしい。誰がルールに従っているのかもわからないのに、なぜそれを破ろうとしているつもりになれるのか。そのルールとは何なのか。例えばそれは、生きている人間は呼吸をしなければならない、というルールだろうか。君はなぜそんな見え透いた嘘をつけるのか。君にはルールに対する愛がない。そうやってまたわけのわからないことを述べようとしている。愛とは何か。それは自分以外を愛さない者にはわからないことか。では何を愛すれば愛が何なのかわかるだろうか。すでに愛しているのではないか。いったい君は何を愛しているのだろう。愛すれば本当に救われるか。愛で救われようとは思わないか。では愛は余分な概念か。余分な愛の行き場はどこにあるのだろうか。たぶん行き場のない愛は地球でも救うのだろう。ついでに憎しみも地球を救うかもしれない。もし愛や憎しみで地球を救えたら、それは何を救っているのでもない。地球を救うには人類を滅ぼさなければならない。それは嘘だろう。人類が滅んでは地球は救われないか。単に次元の違う対象を感情によって無理矢理結びつけようとしているだけだ。人類がどうなろうと地球がどうなるわけでもない。人類から見れば地球がどうにかなってしまったと思えるだけで、仮に地球上の生物のすべてが死に絶えてしまっても地球は地球でしかない。それは太陽の周りを回るの岩の塊に過ぎないだろう。では愛はどうやって地球を救ったつもりになれるのか。愛そのものは何も思わないが、地球を愛している人は何か思うかもしれない。その人が関わっている慈善事業の恩恵を受けて、多くの人が救われたと思い込めるわけか。たぶんその人にとっての人助けは、天から授かった使命なのかもしれない。簡単にそれを遂行できる人は幸せ者だろう。簡単にいかなければ執念が宿る。その執念が実って何か形ある結果を残せれば満足するだろう。しかしそれに挫折した者には怨念が宿るか。また使命を果たせないと悟った者には失意の時が訪れる。なぜそうなる途中で立ち止まれないのか。実際には多くの人が途中で立ち止まり、それをやり続けることに疑念を感じ始め、やがてそれに飽きてきて、結局はうやむやのうちに、あるいは意図的に、それについては語りたがらなくなる。忘れたふりをしているのだろうか。そうすることに自責の念を感じている人は、とりあえず年に一度ぐらいは思い出したつもりになって、気休め程度に募金活動でも行えば、自尊心を満足させることができるかもしれない。それで気が済むのならそれでかまわないか。気が済まないのなら、それとは別のことでも考えればいいか。人にはその人固有の領分があり、できることとできないことがある。できないことを無理にやろうとしても無駄であり、ただできる範囲内でやればいいだけだ。誰かは何やら急にわかったようなわからないようなことを述べている。冗談ではないか。冗談でなければ本気になるしかないか。冗談も本気も言葉でそう述べているだけで、それを記述している本人には関係のないことかもしれない。ここまで述べてきた内容のことごとくを真に受けられない。それどころか馬鹿げているとさえ思っている。たぶんその思いをどうすることもできないだろう。誰かは他人のやっていることに首を突っ込みたくなる性分なのだろう。そして、絶えずそれがごまかしやまやかしを含んでいると疑っているので、ちょっとした不手際にも過剰に反応してしまい、後先考えずに、それを見つけたつもりになって批判を繰り返すのが、その手の人たちの性質なのだろう。あえて嘘をつくなら、そういう人たちのおかげでこの地球は救われているのかもしれない。
8月6日
いつの間にか誰かは危険なことを述べている。ところで君はいつ死ぬのだろう。まだ死ぬわけがないと思っていると、じきに死んでしまうかもしれない。しかし君が死んだらそれらの試みはどうなるのか。残された遺物はがらくた同然か。繰り出された言葉の連なりは何の実感も伴わない。空想の産物はそれらの場所のどこに存在するのか。それらの場所には極端な空疎がもたらされている。しかし何が極端で何が空疎だというのか。そういう大げさな物言いにはリアリティがないか。それらの場所はどこにあるのだろう。空虚なら宇宙に行けばいくらでもあるだろう。しかし宇宙まで行ける人はいくらもいないだろう。死んでしまったら生き返ればいい。簡単に述べているが、本当に生き返れるのだろうか。すでに君はその場所から消えている。空疎な場所には何もない。その場所では以前と何が変わってしまったのだろう。何もかもが変わってしまったわけではない。では変わらずに保持しているつもりの思いとは何だろう。思いが変わらなかったわけではない。後生大事に何を持っているわけでもない。幻想を抱く人々のメンタリティは何も変わっていないか。そんな言い草も以前から変わっていないか。今はそれについて語るつもりはないようだ。語れるはずがないだろう。語ろうとしても語れないのかもしれない。なぜ語れないのかはわからないが、少なくともそれ以外については何か語れるかもしれない。いずれにしろ、かも知れないでは話にならないか。その時点で継続への意志はどんな障害にぶち当たっているのだろう。あり得ないことを述べていることについて、何か負い目を感じているのか。あるいはそれ以外は何も語れないことを悩んでいるわけか。ここまで述べてきて、安易なことを述べるわけにはいかないと思っているようだが、そこで行き詰まってしまう。それ以降は何も述べられなくなる。ならばそれ以前のことについて述べればいいだろう。前述を裏切って、かなり安易なことを述べているようだ。楽しむための手段を取り違えている。目標に向かって努力する人々の行動はどれも一緒だろうか。それらの行動を尊ぶわけにはいかないか。誰もが際限のないことをやっている。燃え尽きるまでやり続けなければならない。だが本当に燃え尽きてしまったらそこで終わりかもしれないが、運良く燃え尽きる前に目標を達成できたら、その経験を次に定めた目標へ向かう行動に生かさなければならない。しかし次の目標とは何なのか。時節柄わかりやすく述べるなら、はじめの目標がオリンピックに出場することであり、次の目標がオリンピックでメダルを獲ることか。それらの目標を無効にしてしまう脇道はないだろうか。テレビを見ている人には想像不可能か。任務を遂行するのは誰の役目なのだろう。人々はそんなに幼稚ではない。誰かの言動にそのやっている行為を正当化する雰囲気を感じたら、透かさずそれを茶化したくなるのがまともな反応だろうか。まともでない人はそんなくだらぬことを考えているわけか。まともでない人は、無関心を装いながらも、テレビでそれらの行動を眺めている。別に見下してるわけではない。君はそうやって自らの無感動な体質を強化したいようだ。選ばれた人々が目標の周りでうごめいている姿を眺めながら、それを角砂糖に群がる蟻の群れにでも見立てているのだろうか。言葉で述べれば、思ってもいないようなことを、あたかも思っているがごとくに語ってしまうわけだが、実際には何を思っているのでもなく、ただ語ってしまった内容がおもしろければ気分がいいだけか。奇妙なことを述べたつもりになって悦に入りたいのか。それもあるかもしれないが、それだけでは面白味に欠けるだろう。君は自身が抱いているそんな思いを超えて適当に語りたいわけか。しかし適当とはどういうことなのか。適当でないようなことを語っていながら、それを強引に適当だと思い込みたいだけか。要するに非常識を愛でているだけか。
8月5日
新たに付け足された言葉に他意はない。気休めの信仰は何をもたらすだろうか。神はどこか遠くへと退く。では神に代わって天を指さしているのは誰だろう。意識は今を生きているわけではない。過去を思い出しているだけか。未来の世界へ妄想を投影する。思い描いた筋書きがあり得ない結末になって欲しい。現実には何も起こらない。何かが起こるのは探偵漫画の中でのことか。実際の君は、歩きながら、何も思わずに、気にも留めずに、見知らぬ場所を通りすぎる。そんな漫画を読んだことがあるだろうか。思い描いている話の中では、君の意識と関係しない対象に影が差す。風がどこかへ吹きつけているようだ。そこでの君は、相変わらずそれとは別のことを述べている。例えば腱鞘炎を超えて言葉は適当に連なるだろうか。それはどうでもいいようなつまらない出来事だろうか。安物の腕時計が何かの弾みに適当な衝撃を受けて分解してしまい、そのバラバラに散らばった破片を眺めながら妙な気分になる。妙とは具体的にどんなことなのか。奇妙というほどのことでもなく、しかしなんとなく言葉にならない感動を覚えているような気になる。それが妙だと思うわけか。そんな風に文章にしてしまうと何かが違っているような気もしてくるが、ある時点での想像力はご都合主義と見分けがつかない。勝手な妄想を抱きながら、それが何らかの形で実現しないと機嫌が悪い。言葉で示されたそれと、思い描いたそれが微妙に違っている。なぜ完全に一致しないのか。まだ技巧が足りないのか。あまり本気にはなれないし、言葉そのものを信用していないのかもしれない。たぶんそれは実現不可能な誇大妄想だろう。しかしそれとこれとでは意味がだいぶ違うか。あるいは、結論ははじめからわかりきっていることなのか。結局はいつもの予定調和に話の内容が落ち着いてしまうわけか。君は意味のある結果を求めているのではない。名誉や栄光は求めて獲得されるものではない。それを望む者は意味の虜になってしまうだろう。何らかの社会的な地位を望んでしまうわけだ。自らが尊敬や崇拝や羨望の対象になりたいのだろう。妄想の世界では部屋の中に誰かの亡霊が現れる。その手の怪談の読み過ぎか。亡霊は君自身ではないのか。真夜中に青白い顔をしている。それは画面に映し出されたありふれた幻影の一種だろう。要するに最近見た恐怖映画の中に亡霊が立ち現れていただけか。それは嘘かもしれないが、辺り一面が空虚に包まれている。そう思われるだけで、実際は何の変哲もない空間の中に存在している。そんな風に当たり障りのないことを述べて、目の前にいる幻影から逃れたいのか。だが幻影を見ているのは君ではない。君はただ画面を覗き込んでいるに過ぎず、これから構想されるだろう話の中では、誰かが空想している物語の中に登場する人物が、何やら魅力的な幻影に遭遇していることになっている。しかしあまり本気で空想しているわけではない誰かは、幻影の具体的な容姿までは想像していない。幻影は物語の中の人物に何をもたらそうとしているのだろうか。ただの気休めなら、君が嫌というほど抱いているはずか。それでもまだそれらの空想を形あるものに発展させようとする意識がどこかにあるらしく、やる気を見せるために、苦し紛れに何かを画策しているようだが、眠気とともに頭が重くなってくる。明日になればそんなことはどうでもいいことになるかもしれないが、その時点ではまだ何かをやっているつもりでいるらしい。世の中は絶えず動き続けている。何が動いているかはいろいろありそうだが、誰かの文章はそんな世の中の動きを捉えきれてない。ではいったい何を述べているのだろう。何を思っていたいのか。たぶんそんな風には思いたくないのだろう。まだその後に続けようとする気力が残っている、と思い込んでいるだけか。本当にこのままやり続けるべきか、あるいはここでやめておくべきかどうか迷うところか。しばらく横になって考えてみる。そんなのは嘘だろう。結論ははじめから出ているのかもしれない。やる気があるならやってみればいい。いったい誰がやるのだろう。妄想は妄想のままに終わりそうか。
8月4日
そういうやり方は間違っている。また冒頭で躓いているようだ。さっきから文章の冒頭に言葉を付け足し続けている。様々な紆余曲折を経つつも、結局は元の木阿弥に戻ろうとしているわけか。気分が乗ってこないので、そんな気分は無視して、ついでにそんな気分をもたらしている周りの環境も無視して、結局のところ何を述べているのでもない。そんな君には気休めが必要なようだ。ところで君が探していた宝は見つかっただろうか。誰もそんなことを聞いているのではない。宝探しをしている者は他にもいるだろう。だがそこで問われているのはそんなことではないはずか。今日は何をしていたか、本当にそれだけなのだろうか。はたしてそれで誰の日記になり得るのだろう。日記をつけている者など他に山ほどいるだろう。誰かは散漫な意識を取りまとめられずに困り果てる。それはいつもの嘘なのか。岩山から誰かが転落したらしい。君はそんな気配を感じ取れないか。その辺でうごめいている意識を捨て去り、なんとなく思うことに飽きてくる。言い訳として使用される言葉には違和感が付きまとう。今日も時間が経過して、夜を過ぎようとしている。どこで何に狂いが生じているのだろう。別に精密機械のように作業を進めようとは思わないが、気がつけばいい加減なことを述べている。何を思い出しているのか。昼に空を見上げれば、いつものように雲が風に流されている。それらの現象について何を思えば納得するだろうか。誰が納得するのだろう。そこで誰が何を思うのだろう。おそらく言葉の組み合わせの仕方は無限にあるのだろう。それで今日は何を思ったのか。朝が来て昼になり夕方を過ぎて夜が訪れる。そんなありふれた出来事について何を思えばいいのか。一日の中の適当な時間帯において君は何を想像しているのだろう。世界がこうなっている理由を知りたいか。短時間で知ることはできない。あるいは永遠に知り得ないか。誰が何を空想しているのか知らないが、誰もそんなことは思わないだろう。この世界は空想の産物などではない。想像しているのは現実の姿かもしれないが、それについて何も思わないのなら、たぶん架空の誰かは想像力が枯渇しているのだろう。しかし誰かは実在していないのだから想像力も何もないか。では現実の意識は何を考えているのだろう。それは誰から生じている意識なのか。君はそんな風には思わない。意図的に何も考えていないわけではないが、いつものようにわざと考えていないふりをしているのかも知れない。何も思わないつもりでいるように装っている。そんなことはあり得ないか。どうも実体から架空の意識へ向かって感情の自然な移行が感じられない。誰が何を述べているのかわからないか。それは嘘だろう。では、そこには見え透いた策略でも感じ取れるか。小雨で濡れたアスファルトの路面が雨上がりの日差しに照らされて光っている。それを眺めているのは誰なのか。それでも何を語っているのでもない。そのときの気分は唐突に何をもたらしたいのか。意識からもたらされるものはただの言葉だけだ。君は誰かの文章を読んでそれらしいことを思う。他の誰かは、そんな文章に賛同したり、納得したり、反発したり、否定したりするわけか。だがその文章にはまだ読まれていない部分があるらしい。その部分をいつか読む機会が巡ってくるのだろうか。誰に巡ってくるというのか。そんな書物が存在するわけがない。それは書物ではなく、どこかの余白に記された短い文章の断片でしかないのかもしれない。たぶんそんな意味のない想像は簡単に打ち砕かれるだろう。断片は知らず知らずのうちに次々と生成し続け、どこかに積み重なってゆき、いつかそれは無限の長さの文字列と化すかもしれない。ところでそれは誰の誇大妄想なのか。妄想が現実となることはないだろう。だがそれを述べているのは君ではない。その見解は誰のものなのか。君はまだ何も語っていないのではないか。意味のない文字列を構成することさえできない。その事実は、まだ頭の中が空っぽになっていない証拠になるだろうか。しかし誰がその証拠を求めているわけでもない。ただ君は退屈を持て余しているだけなのか。
8月3日
いつまで経っても出来事に巡り会えない。しかしそれは嘘かもしれず、目の前で起きている出来事を感知できないのかもしれない。それについてどんな風に述べれば納得できるだろうか。水増しされた空虚に溺れかけている。いったいどこまで語れば気が済むのか。無理に言葉を重ね合わせるほど、つまらないことが繰り返されているように思われる。何かが障害となっているようで、声が発せられてもそれを理解できずに、思わず何もない虚空に向かって聞き返してしまう。たぶんそれは思いもよらぬ内容だったのかもしれない。他の意識にとってそれは障害ではなく、見解の相違だと思われる。誰がそう思っているのか。誰も思わないようなことを述べてみたいだけか。君はそれについてどんな見解を持ち合わせているのか。神経が麻痺しているように思えるときは、何もないときの心理状態を想像してみよう。他人の声がよく聞こえないようだ。独り言が多すぎるのだろうか。それらの告白はどんな結果を招くのだろうか。いつか思っていることのすべてを語って、わざと取り乱してみよう。それはいつかではなく、今この時ではないのか。理性を装う意識のどこかに風穴が開いている。たぶんそんな風には思わないだろう。誰かは思わないようなことを述べようとしている。慌ただしさに我を忘れ、意識の混乱を鎮めようとして深呼吸を繰り返す。他に何を思っているのか。何を眺めているつもりなのか。早朝の曇り空に鳥が舞う。枯れ葉が舞うのはいつの季節だろう。烏が奇声を発しながら飛んでいく。雲の流れが速い。これから雨でも降るのだろうか。何が起こることを期待しているのか。午後には高層ビルの背後に入道雲が立ち現れる。そんな光景を眺めながら少しは感動でもしたのか。冒頭から投げやりなことを述べている。何をやろうにも気乗りがしない。何となく気が抜けてしまって、雰囲気的には何も語れそうもないが、軽い眠気を覚えながらも、意識は何かを適当に語ろうとしているらしい。またどうでもいいことでも語ってしまうのだろうか。今日も誰かがせわしなく動き回りながら、その気もないのに何かをやっているらしい。そこには何か思惑でもあるのだろうか。思い通りに事が運んで欲しいが、その時々でそれぞれの思惑は微妙に異なっていて、互いに相容れない利益を目指している場合があるかもしれない。どこかで他人の思惑と競合してしまっている。だから無用な争い事を避けるためには、譲り合いの心が大切になってくる。何を冗談を述べているのだろう。譲れない場合は、法律などの決められたルールの範囲内で正々堂々と戦う必要があるのかもしれない。戦って何を勝ち取りたいのだろう。それは自らが何かを行う権利だろうか。他人を出し抜いて獲得した権利を行使してどうするのか。それは権利の内容にもよるか。何をどうしたいわけでもない。そこでは誰に何を述べる権利があるのか。現実には誰も権利など求めてはいないだろう。フィクションの中では、特定の誰と戦っているわけでもない。戦う相手がいないのだから、戦いにはなりそうもないか。怠惰が幸いして、あるいは災いして、わざわざ相手を定めて戦う気が起こらない。そんなことを思っているうちに、いつの間にか外は晴れ渡っている。外へ出ると蒸し暑い空気が漂ってくる。何をつまらないことを考えているのか。君は何を考えているのだろう。様々な考えが複雑に交錯しているように思える。何かを述べている途中から、述べている当の内容を否定したくなってくる。だからそれを加味して文章を構成すると、結果として何を述べているのかわからなくなる。要するにすべてを語ろうとして意味不明に陥っているわけか。いや、意味不明ではなく、意味が過剰で、全体を一定の意味として捉えられないのかもしれない。
8月2日
何もないのに虚無から何かが抽出されるように思われるのは気のせいだろうか。それでも何かが頭の隅に引っかかっている。そんな表現は誤用に近いか。そんなやり方では何も述べられないか。何も述べられなくても、結果的に何かしら述べているように装うことは可能だろうか。そんな可能性に賭けるのは虚しくないか。何も述べられないなら沈黙していればいいだろう。沈黙し続けられるはずがないか。しかしそれは見え透いた嘘になってしまう。沈黙しながら、それでも何かしら述べているつもりになっているようだ。それは矛盾しているかもしれないが、その矛盾を認めた上で、その矛盾を放置しながら何かしら述べようとしている。それらの作業について否定的な見解を並べつつ、なおそれを糧として文章を構成しようとしているが、そうやって何に勝とうとしているのでもないらしい。君は勝ったり負けたりするのが嫌いなのか。嫌いだが、結果的に勝ったり負けたりしたと判断されたら、その判断に抵抗するようなことはしないだろう。もちろん君にそんな判断を下すような者は誰もいないだろう。誰からも無視されている君が誰を無視しても、そんなことはどうでもいいことか。はじめからあり得ない仮定で話を進めても、それは無意味な話か。それはたぶん真意ではない。ではいつもの嘘の範疇で述べられていることなのか。この時点で君の真意を推し量ることはできない。君はまだ何も述べていないような気がする。それはいつもの言い訳でしかないが、それ以外にどう述べたら君の真意に近づくだろうか。この世界について君は何を述べているのだろう。実質的には何も述べていないのに、何を述べているもないか。では現状の何を批判したいのか。現実には誰が何を批判しているのだろう。誰もがこれでいいわけはないと思っているわけか。しかしこれとは何のことなのだろう。まだこれについて具体的には何も述べていないのに、そんなことがわかるわけがないか。そんな風に逃げるのはわざとらしいだろうか。たぶんこれはこれでしかないのだ。誰もこれについて批判できるわけはない。案外これはこれではなく、それかもしれない。また逃げているようだ。そんな言葉遊びはくだらないか。とりあえずテレビばかり見ていては埒が開かないだろう。今は何とかその先へ言葉を繰り出さなければならない状況なのかもしれない。しかし相変わらず何を述べているのでもなさそうだ。現状では君は何も述べられないが、それでも言葉を繰り出さなければならないと思っている。だがそんな話は嘘なのだ。嘘なのに、それが嘘であることを知りつつも、その嘘によって辛うじて作業は継続しつつあるらしい。そんな馬鹿げた話はないか。ないから嘘なのか。苦し紛れにかなり雑なことを述べているようだ。しかしそれによって何を批判しているのだろう。君自身が述べている空虚な話を批判しているつもりなのか。だがそれは見え透いた自己言及の繰り返しに過ぎない。しかしそれでも何かしら語っていることになるのだろうか。結果的にはそうかもしれないが、はたしてそれでいいのだろうか。はじめからいいわけはないことは承知しているのに、なぜそんなことを述べてしまうのだろう。要するにそうやって見え透いた嘘を繰り返していることを実証しているつもりなのか。さあどうなのだろう。なんとなく面倒だからとぼけてみたくなる。たぶんこれはわざとらしい悪循環なのかもしれない。なるほど、これとは悪循環のことなのか。つまりこれについてここまで述べてきたわけか。知らず知らずのうちに君はここまで述べてきたらしい。だからどうだというのか。気分的にはどうでもないが、頭はどうかしているのかもしれない。しかし意識の方は至って冷静でいるつもりのようだ。そんなわけで、これはこれでこういうことでしかないのだろう。
8月1日
いつものようにそんなことはどうでもいいことなのか。到底これでいいとは思えないが、ではこんな世界はどんな世界だというのか。どんな世界でもなく、こんな世界なのだろう。この世界がどのような世界だとしても、こんな世界でしかない。君はこの世界が気に入らないわけか。たぶん気に入ったり気に入らなかったりしていることに大した意味も意義もないだろう。何か偶然で思い通りに事が運んだと勘違いしたときには、その勘違いに気づかない間は、この世界が気に入ることもあるかも知れないが、それでどうなるわけでもなさそうな気がする。どうにもできないわけではないが、仮にどうにかなったとして、そのどうにかなった結果に満足したり、不満に思ったりするだけだろう。そのような成り行きのどこがおもしろいのか。たぶんおもしろいと思ったり、つまらないと思ったりするのだろう。それだけでは気に入らないわけか。気に入らなければ、他に何をやったら気に入るのだろうか。たぶん何かをやれば、そのやった結果が気に入ったり、気に入らなかったりするのだろう。そんなことを繰り返しているうちに、人は老いたり事故や災害に遭ったりして死んでしまうわけか。そして他人のそのような人生に対して、無常観でも当てはめてみれば、何か気の利いたことを思いついたつもりになって、それで満足してしまうわけか。君はそういう成り行きが気に入らないわけか。気に入らないのなら、他にどんなことを思いつけばいいのだろう。何か哲学的な物言いでもねつ造したいわけか。例えば無常の反対はどのような言葉として示されているだろうか。常ならざるということの反対だとすると、それは不変ということだろうか。では戯れに変わらないものでも求めてみればいい。安易な思いつきに従うなら、それは伝統だとか慣習だとかいったものになるだろうか。もちろんそれはつかの間の不変に過ぎず、そこには不変だと思いたい規則や価値観を頑なに守ろうとする人々が存在するだけか。もちろん実態はそんな生易しいものではなく、それらの人々の内面には自らが身を捧げているものに対する恐ろしい執念が渦巻いているのかも知れない。自分たちが生きている間はそれを命がけで守り抜かなければならないのだろう。また部外者には断じて好き勝手にはさせないと思っているだろうし、それに関わる者たちの間でも激しい権力闘争が繰り広げられている場合もあり得るだろう。変わらぬ伝統の中にも、そこに人がいる限り、勢力争いが起こるだろうし、路線対立が生じてしまうだろう。対立する相手のやり方では、その伝統は守りきれないと思われてしまう。だからこそ伝統を守るためには、相手を排除しなければならなくなる。そんなわけでそこにありふれた人間ドラマが見受けられてしまうわけか。それのどこがおもしろいのか。たぶんそれに魅了されてしまう人もいるのだろう。中には対立する片方の言い分に心酔してまって、応援団をかってでる余計なお世話のチンドン屋気取りもいるかも知れない。そんな成り行きになれば少しはおもしろいと感じるだろうか。単に馬鹿げていると思うだけか。それは作り話であり、現実に体験しつつある世界とはあまり関係のない話だ。気晴らしをもたらそうとする目的で、わざと馬鹿げた語りを装っている。そんな風に語ればおもしろおかしく思われるかも知れないが、それではあまりリアリティを感じられない。そんな風に語ることも思うこともできるかも知れないが、やはり現実の世界はそんな風になっているとは思われない。現実の権力争いや路線対立は、そんな簡単には語れないのではないのか。簡単に語ってしまうと、それらを改めさせる可能性を閉ざしてしまうことなりかねない。他人がやっていることを馬鹿にしたような語りでは、そのような現状を変えることはできないどころか、その馬鹿にしているようなことに、語っている本人も関与していることを気づかない場合がある。他人の行為を馬鹿にしつつも、自分たちもその馬鹿にしている対象と同じようなことをやっていることは棚に上げているわけだ。誰もが同じようなことをやっていながら、その同じようなことを馬鹿にしつつも、それを自分もやっていることに気づかないのが、この世界の現実なのではないだろうか。
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