彼の声40
2004年
1月31日
自然に生じた事物には利用不可能などうしようもなさがある。人はそこからなんとか利用できる部分だけを抽出して、それを材料として文明という名の自己正当化を築き上げ、残った部分は滓として捨ててしまう傾向にあるのかもしれない。たぶん滓の中に人の思い込みから逃れ去る事物の本質があるのだろう。だがそれは人にとっては本質とは思われないものだ。しかし人が本質と見なさなければ本質とはいえないだろう。人の他に誰が本質という概念を使用しているのか。そんなものが本質であるわけがないか。そんなものとはどんなものなのだ。君の自問自答には具体的な事物が出現できないわけか。君はそんな安易な見解で何かを述べたつもりになれるわけか。それは何かの皮肉だろうか。皮肉とはどういう概念なのか。わけがわからなくなるとすかさず防御機構を働かせて、何が皮肉なのかわからない振りをしている。そしてそれでも飽きたらずに、さらに無理なひねりを利かそうとして、あれこれ思考を巡らすが、結局は意味不明になり、そんな繰り返しに疲れ果て、意識は自然と眠たくなる。眠ってしまえばすべてがチャラになるとでも思っているのか。そんなことを思うだけ疲れるだけか。一日の終わりが近づくにつれて、何もできないことに腹を立ててやけくそな気分になっているのかもしれない。しかし今ひとつ自暴自棄になれない中途半端な思いにもとらわれている。だがこの期に及んで他に何を思っているのか。今の君に必要なのは自らに正直であることか。正直であるなら素直に眠ってしまえばいい。それができない理由がどこにあるのか。どこにもないと嘘をつきながらも、眠気を押さえて何をやるでもなく、何かをやる代わりに適当な言葉を繰り出して、相変わらずお粗末な内容になっているらしい。こんな状態で正直になれるとは到底思えない。思えなくても結果的に正直であるように見えればそれでいいのか。君は様々な紆余曲折を経てそんなせこい心境にたどり着いたわけか。本気でそんな風に思っているわけではないか。とても正直になっているとは思えないので、別にそこへたどり着いたわけでもないか。どこへたどり着けるとも思えない。たどり着く前にそこを通り過ぎてしまっているかもしれない。いったん通り過ぎてしまえば、もうそんな心境などどうでもよく、それを無視してさらに別に紆余曲折を経ることができるだろうか。しかしそんなことの繰り返しでは、どこへもたどり着けないのではないか。どこへも立ち止まらずにいつも通り過ぎているだけか。立ち止まって何か利いた風な言葉を繰り出すのが恥ずかしいのか。それならもうすでに繰り出しているではないか。では恥ずかしいからすでに繰り出してしまった言葉を訂正した方がいいか。それは何かの間違いだろうとまた嘘をつけば、それで一件落着となるだろうか。そんなわけで心にもないことを述べてしまった振りをしたくなる。しかしそんなことを述べて誰の賛同を得たいわけでもないらしい。不快な気分を味わいたい奇特な人がいたら、それらの文章を読めばいいのか。たぶん本心からそう思っているわけではないようだ。ただ結果的にそうなるのなら、それはそれで仕方のないことかもしれない。仕方がないで済んでしまえば、やはりそれは嘘になるか。そのとき君は何か比較する対象を求めているのだろう。嘘ではない対象がこの世界のどこかにあるはずか。だが求めているものは一向に現れずに、いつもそこで行き詰まってしまう。そんな行き詰まりを打開するために、ただ無駄に言葉を繰り出しているにすぎないのかもしれない。もちろんそれで打開できるはずもなく、さらにどうにもならない状況に追い込まれる。だがそんな状況から始めなければ何もできなくなるだろう。いったい何をはめようというのか。もうすでに始まっているのに、改めてそれをどう始めようというのか。それは不可能だと思われるか。誰にそんなことを訊いているのかわからないが、不可能ならやめればいい。やめられないから不可能を感じているわけか。
1月30日
昔も今も世の中はいい加減さのただ中にあるらしい。思いがけぬところに盲点がある。別にそんなことに気づかなくても良いと思うが、狭い地域で起こっていることが重大事だと思う人がいる。君には何が重大事なのか何も実感が湧いてこない。そしてまたいつもの決まり文句が頭に浮かぶ。彼らはそこで何をやっているのだろう。流れ去る時の経過に何も思わず、ただぼやけた意識を抱え込んで途方に暮れるばかりか。適当に戦争ごっこや救援ごっこをやりながら、人々の気を惹こうとしているだけかもしれない。たぶん中には本気でやっている人もいるらしく、たまに人が殺されたりして、その度ごとでマスメディアが騒ぎ立てる。前にも述べたことがあるが、たぶん人はみな一度は殺されなければならないのだ。殺されれば騒ぎ立てられて悲劇の主人公になれる。死んで正義を行使する口実になれる。物語の中でも刑事や探偵が活躍する場を生み出すことができる。偉そうな人々が英雄気取りになるためには、誰かが殺されたり殺される危険が生じなければならない。そういう意味で人の死を無駄にしてはいけないのであり、死者を利用して自らの正義の証を立てなければならない。そのために広島の原爆ドームや靖国神社など慰霊碑的な施設があるわけだ。お偉方はそれらの施設を利用して大勢の死者を自分たちの味方に引き入れたい。そして死者には当然生きている遺族もついてくると思っている。そんな仕組みにどうして君が賛同することができようか。では何かの間違いで君がお偉方の仲間入りができたならどうするだろうか。制度的にはそれらの施設で催される行事に出向かなければならなくなるか。たぶんそれを許容しなければお偉方にはなれないのかもしれない。靖国神社に参拝しなければ殺す、とかの脅迫状が送られてくるかもしれない。要するにお偉方になれば制度の奴隷となるわけか。そうなると自分が利用しているのではなく、制度に利用されているにすぎないことになるか。そこに自由意志などというものは存在し得ない。ただ自らで決断していると勘違いすることだけが可能なのだろう。偉くなって大勢の人前で何かを語る立場になってしまった人は短期間で容姿が老いる傾向があるように思われるが、それは自らの意志に反して制度に操られることによって消耗してしまうことが原因なのかもしれない。その典型が皇族になるだろうか。君は本気でそう思っているのだろうか。できることなら少しは常識や良識にとらわれてまともなことを述べてみたいが、どうしてもそれらを信じる気にはなれない。コモンセンスとは何のことか。昔誰かが共同幻想などという言葉を持ち出して語っていたかもしれない。小うるさい芸人が画面上ではしゃいでいるが、誰が人を魅了しようとしているわけでもない。そんな娯楽では誰も満足することなどできはしないか。満足しているのではなく笑っているだけか。辺りを漂う空疎な思いに気づかぬ人々なら笑い転げるような内容だろうが、君の思いはそこから少しはずれたところにあるのかもしない。たぶんいつも常道をはずれて中心部を迂回している。そんな回り道の途中に今までを振り返る地点がある。それから君はどうしたのだろう。それから彼はどうしたのだろう。それから誰かはどこへ行ったのだろう。別に誰もどこへも行きはしない。たぶん他にも登場人物が存在したかもしれないが、今では思い出せない人ばかりか。忘れた頃にまた出会うこともあるだろうか。人生の幸運にして不運にもそれらの誰かと出会った人々は、ただ通り過ぎるだけの人でしかなかったのかもしれない。たぶん君にはそれらの人々を束縛する力はないだろう。他人の自由を尊重することは、その他人に無視されることかもしれない。君はそんな風には思わないか。それらの言葉には何の拘束力もないだけだ。他人を魅了する何かが常に欠けている。もちろん内心ではそうは思わない。今君は唐突にさいころ遊びの最中なのだ。さいころを振って偶然をもてあそんでいる。偶然に出た目を利用して適当な言葉を連ねてみせる。
1月29日
たまに坂道を車でくだりながら犬の散歩を見かける。少し太り気味の中高年が犬に引っ張られながら坂道を上ってゆき、やがて丘の上の病院へたどり着く。そのすぐ近くにはその病院の反対を押し切ってたてられた老人ホームがある。まさか老人ホームの老人が病気になっても、その病院は診察を拒否したりするのだろうか。それほどの非人情はしないか。老人ホームの方でも何か別の病院と診察の契約でも結んでいるのかもしれない。その病院と老人ホームのある丘の隣にはそれよりやや高い松林で覆われた山がある。その山は昔キャンプ場として整備された時期もあったが、すぐに廃れて今では当時の残骸が頂上にあるだけかもしれない。昔犬の散歩でその山に行くと人糞まみれの便器の列に出くわしていやな気分になったことがある。少年の頃クワガタを探しに行ったところに、なぜかここ数十年でキャンプ場から病院から老人ホームまでできたわけだ。確かその山の裏にある丘には小児病院もできた。別に苦し紛れというわけでもないだろうが、なぜそんな風に人や物を配するのだろう。人は何かしら施設を造ってその中に人や物を詰め込まないと気が済まないのだろうか。そんな理由ではないか。とりあえず病院や老人ホームの建設用地に畑や林を持っていた人は少しは金が入ったかもしれない。ただそれだけのことか。誰かは疲れて寝て起きたら何も思いつかなくなる。しかし別の誰かは昨日もそうだったはずだと思う。そして今日もそんな感じて時が経つ。君はそれで気分を害されたわけでもないが、誰かの気まぐれな行動で思考を遮られ、なぜか気が抜けている。昨日は何を考えていたのだろう。考える手間を省いたら、ついでに言葉も省かれてしまったようだ。省かれた言葉をここで思い出すわけにも行かないか。思い出せないから省かれてしまったことにしているだけか。どこかからプレッシャーを感じているのかもしれない。そんなことはわかりきったことだが、たぶんもうすぐ春になるだろう。春が来て夏が来て秋が来て冬が来るだけか。一度に四季を感じることができないものか。それでは意味不明になってしまうか。だからどうだというわけもなく、それとは無関係なことを述べて気を紛らすつもりらしい。まだどこかで蝉が鳴いている地域があるだろうか。南国へ行けば冬でも生息しているかもしれない。南国に冬などないか。南極まで行けば季節は冬だけになるだろうか。やはりだからどうだというわけでもないらしい。たぶんこれから何をやろうとも思わないが、そんな意識を無視して、誰かが勝手にいい加減なことを述べている。君はそれを無視して適当に言葉を連ねてみせる。内容はいつものように意味不明になるだけだろう。昨日までは何を語っていたのでもないらしい。冗談はその辺で打ち止めか。それらの語りはほんの余興のつもりなのだろうか。だが気晴らしの娯楽としては使い物にならないようだ。たぶん今日も何を語っているのでもないらしい。夕闇が迫りくる頃、君はまだ仕事の最中だった。旧約聖書によると神には犠牲が必要だそうだ。そんなものによらなくともそんなことはわかるだろう。ではゾロアスター教の神には何が必要なのだろうか。ゴキブリか何かの虫が必要かもしれない。たぶんそれはでまかせの嘘だ。いったいそれらの宗教では誰が呪われているのだろうか。あるいは呪われているのと同時に祝福されているのか。いったいそのとき十字架に架けられて日干しにされたのは誰だったのか。たぶん彼のそのときの気分は最低の最高だったかもしれず、それを最高の最低ぐらいまでは神の力で引き上げてほしいと願っていたのかもしれない。なぜ最高になれないのか。最高になるのは神だけであり、最低になるのは悪魔だけだから、たぶん人には最高と最低の間しか感じることが許されていないのだろう。それは目に見えるのは可視光だけで、紫外線と赤外線が目に見えないのと同じことか。そんなことが君にわかるはずもなく、誰にもわからないことかもしれない。
1月28日
今日も思わぬところからおかしな気分を導き出す。そんなことができると思ってしまうことが思慮の足りない意識を生み出しているらしい。それでもたぶん何もできはしないだろう。そう思うことで何かができるはずだ。矛盾しているが、意識がその矛盾に気をとられているうちに何かを構築しなければならない。ここでは構築するのとねつ造するのは同じ意味を持つようだ。そうやっていつものように君は嘘をついているようだ。そんなことははじめからわかっていることか。何を思ってみてもそれがどうしたわけでもないが、どうしたわけでもないことが何かをやるきっかけとなる。心の中でもがき苦しんで七転八倒しているつもりになりながらも、とりあえずそれらの困難をやり過ごすことには成功したらしいが、その先にはまた別の困難が待ちかまえていたようで、それをなだめながら作業を継続させるにはかなりの困難が伴うらしく、無理にやっているうちに嫌気がさしてどうにもならなくなる。君はそんな状態を放置し続けるしかなくなり、ある時期何もできなくなる。しかしそうなることはやる前からある程度わかっていたはずか。いつまでも同じ調子を保つのには無理がある。山あり谷ありがないと怠惰な心をだますことはできないか。そういう意味では思いもしなかったような状況にはなっていない。要するにただ思い通りに嫌気がさしているわけか。それで何か困るようなことでもあるのだろうか。内心かなり困って大いに悩んでいるはずか。できることなら思い通りになってほしくない。君がいつも望んでいたのは、気がつけば思いもしなかった展開になっていることだったはずか。そんな虫のいい話はないだろうが、それでもできることなら今とはまったく違う状況の中で生きていたいと思う。そうやって無い物ねだりを繰り返すことこそが、嫌気がさす状況を作り出していることは重々承知の上で、それを繰り返しているのだから、そんな状態で無理に言葉を繰り出せば、当然のことのように予定調和の展開を招いてしまうだろう。そんな堂々巡りの毎日からどうやって抜け出られるだろうか。そう思うこともやはり言葉の循環に貢献してしまうわけか。とりあえず困ったときは無限の対話を真似れば何とかなるだろう。そうやって今までは困難を切り抜けてきたはずか。現に今もそれを利用しながら語り続けているわけか。そんなやり方で誰に何をわからせたいのか。わからせようとは思わないが、気づきたければ勝手に気づいてしまってもかまわない。それでも何らかの挑発になりうるだろうか。誰を挑発しているのでもなく、架空の読者を挑発しているつもりらしい。そこにはいない意識をねつ造して、それと架空を問答をしているように装っているだけか。そんな虚構の中では意識はそこにもここにも存在している。ただそう思いたいだけのことかもしれないが、空想の中に誰かの意識があり、それをねつ造している意識がここにある。いったい誰がそんなことを思っているのか。それらの意識はそうやってわかりきった問いを発しながら作業の継続を試みている。しかしそのわざとらしさが新た困難を生じさせている。何をどう評してみても虚しさを誘発するだけではないのか。何が有効に機能しているわけでもない。それでも結果は結果として受け止めなければならないか。しかし受け止めた先に何が待っているのか。幻想を抱くことで現実を変えようとしているだけではないのか。そんなことができるはずもない。現に多くの人が幻想を抱きながらも現実の中に埋もれている。しかもそれしかできないのになおも幻想を抱き続ける。そんな懲りない面々によってそれらの現実はどうしようもなくそこに存在しているわけか。そんな現状を打開するためのきっかけがどこにあるのだろうか。どこにもないから誰もがそれを空想しているわけなのか。そしてそんな空想からそれらのありふれた幻想が形作られているわけか。しかしそれではやはり堂々巡りの循環しかもたらさないだろう。
1月27日
それらの映像には何らかの企みが隠されている。人を一時的に不安にさせるのは最終的に安心させるためには必要な過程なのか。それはどういうことなのだろう。君は何に興味を惹かれているのだろう。ありふれた物語にはそんなわざとらしさが盛り込まれている。それが憂さ晴らしとして働いているのだろうか。当たり前のことをさも当たり前のように述べるのは難しい。しかしそんなものにいちいち感動していては、いつまで経っても考える手がかりをつかめない。思考力をその水準につなぎ止めているものを断ち切らなければそれらの思うつぼか。退屈を紛らすためにくだらぬことを思考の対象にしようとしている。またいつもの悪い癖が出てしまったようだ。なぜその程度のことに言葉を弄さなければ先へ進めないのか。やはりそれが君の限界を構成しているのだろうか。だがそんなことを思っているうちに投げやりな気分へ次第に近づきつつあるようだ。それ以上考えるのが面倒なので適当な嘘をついてみよう。さっきまで何を述べようとしていたのかわからなくなる。とりあえず誰かが適当な夢を抱くとき、君にそれの実現を阻む権利はないだろう。それらは君にとってはどうでもいいことになるのかもしれないが、そのとき君は何かの困難に直面しているらしい。追いつめられているように思われる。しかしだんだん斜面の傾斜が急になってくるように思われ、もうそれ以上は登れなくなるように思われるとき、急に辺りの視界が開けてきたりする。要するにご都合主義なのだ。それは確かに何かの頂点なのかもしれない。たぶん頂点にもいろいろな種類があるのだろう。そこには有頂天にたどり着いて我を忘れるために必要な手続きが控えている。何かの兆候が次第にエスカレートしつつある。誰かはまだ何かをやっている途中なのに、すでに一つの頂点を通過しつつあるようだ。毎日が有頂天になっている人は気が狂っているかもしれない。たぶんそれは漫才師の類だろう。君は人を笑わせるために命をかけることができるだろうか。命をかけていること自体が笑いとは無縁か。どこの誰がその真剣さにほだされて笑ってくれるだろうか。その命がけの真剣さが笑いを誘うとすれば、人を笑わせようとして笑われている証拠になるだろうか。それとは少し趣が違うか。そんな勘違いも計算のうちなのか。後から考えれば何でもかんでも計算のうちになってしまうだろう。終わりよければすべてよしという自己正当化もある。どうやら気まぐれに危ういことを述べようとしている。人は誰でも世間からその存在を認めてもらいたいものだろうか。しかし世間とは何のことだろう。また誰かのことを思い出しているわけではない。まさか自分が世間を体現しているわけもないだろうが、勝手な思いこみによって世間を想定していることは確かだ。そんなことを考えているうちに語りが粗雑になってくる。粗雑なのは昔からか。世間に認められたと思ったら最後、そのほんの一瞬の栄光が君の人生を狂わせるはずか。狂ってしまうのは人生ではなく、そのときの目算かもしれない。つまらないこだわりに執着しているうちに日が暮れてしまう。日が暮れて君の栄光も閉じられるだろう。それは栄光などではなく、単なる気の迷いから生じた勘違いにすぎないことが次第にわかってくる。それでも君はそんなはずはないと思う。それを誰からどう伝えられたら納得するだろうか。耳を澄ませば周囲の喧噪の中から微かなつぶやき声が聞こえてくるはずか。いったん途絶えた言葉がどこかで再開されているようだ。たぶん君にはそれが聞こえていなかったのだ。とりあえず世間は君に何も求めはしないだろう。世間ではなく自意識が君自身に何かを求めているだけだ。世間について何を語れば君の自意識を満足させることができるだろうか。満足できるわけもないか。君自身を満足させるために言葉があるわけではないからだ。君から繰り出される言葉は生身の君自身とは何ら関係を持たない。それらの文章は君とは直接関係のない物語の中に構成されている。
1月26日
わざとらしい劇画調の時代劇漫画を読んでいたら、なぜか唐突に古い形式を思い出す。それは何かの約束事なのだろうか。なぜ物語の中の強者は幇間につきまとわれるのだろう。くだらぬ誰かに盛り立てられていなければ、強者としての物語的な説得力がなくなるわけか。しかし比較する対象が幇間では寂しいような気がするのだが、まさか現実の権力者にも幇間が必要だというわけでもないだろう。それを読んで真に受ける子供たちのことを思うと、何となく冗談では済まないような寒気を感じる。それらのフィクションには魅力的な言葉が見あたらない。ではそれ以外の言葉ならいくらでもあるのだろうか。それは言葉ではなく、コマ割りされた絵と台詞の集合体だ。刀や鉄砲で人が大勢殺される場面が緻密に描き出されているだけか。それ以外に何があるだろう。登場人物の夢が描かれているわけか。天下無双の剣豪になるという夢がある。やはりそれは当時の冗談か何かだったのか。それとも物語の定型として、少年が大志を抱いてそれを成し遂げていく過程が大勢の人々に好まれているわけか。なぜ君はそれを何かの冗談だと思うのだろう。それを読んでいる人が漫画の内容とは無関係の暮らしの中にあるからか。そしてそのような状況がその読み物が単なる気晴らしの娯楽であることを物語っていることが、滑稽に感じられるわけか。それ以外に何があるのだろうか。たぶん何らかの頂点を目指すことが大きな勘違いを生み出していると感じられるのかもしれない。思考が絶えず単純化作用にさらされていて、頂点の周りにもそれ以外の地点が無限にあることを忘れさせている。つまり登場人物が目指しているそれは頂点でも何でもないただの点なのであり、その一点しか見えていないということは自分が盲目になっている証拠だろう。他の無数にある価値や基準が見えていないだけの話でしかない。しかし何もない夜に君は何を思っているのだろう。いったい誰が君に問いかけているのか。心はいつものように何もない空虚に包まれているようだが、それでもとりあえず何かしら言葉を連ねてみなければ気が済まないのはどういうことなのか。それは何らかの制度を形成しているようだが、そんな中で意識は今どこで彷徨っているだろう。意識とは違う何かが何かをやろうとしている。誰の意志でもない意志が心のどこかに居座り続ける。言葉の連なりはすでに始まりの地点を通過してしまったらしいが、そこで見いだされた時には君の意識は含まれない。そこで働いているのは自動筆記システムのようなものなのか。いったんそれに慣れてしまえばどうということはないのかもしれないが、そうすることが何の利益に結びつくのだろうか。もはや快楽などというつまらぬ利益はいらぬか。利益になるかならないかではなく、そのような思考回路は無視して話を進めたいわけか。その辺で君の本心が知りたいところか。それらの現象について君はどう思っているのか。余計な人々が余計なことをやり続け、それが文化だの文明だのを形成しているわけか。君にとってはそんなことはどうでもよくて、ただもう紅茶は飲み飽きたか。ならば次は緑茶でも飲めばいいだろう。どこかで架空の人物がいい加減なことをつぶやいているようだ。しかしそのつぶやきを聞いているのも架空の人物だ。それはたぶん幻聴なのかもしれない。その幻聴の内容はともかく、とりあえずまだやる気だけはあるらしい。しかしどうしてもおかしな言葉の並びになってしまうようで、それらのまとまりに欠ける言葉の束を眺めているとめまいがしてくるが、それが欠点と同時に持ち味なのだから致し方ないところか。だがいつまでもそこに留まっていると終いには気が狂うか。人は年がら年中ストレスにさらされていると白髪が増えるらしい。それでも気が狂うよりはマシか。ところでさっきまで何の話をしていたのか。物忘れがひどくなるのと気が狂うのはどちらがマシだろうか。それよりも白髪頭になるのと禿頭になるのとはどちらがマシだろうか。なぜか暇にまかせていい加減な比較が横行しているようだ。
1月25日
たぶん人の意識は余計なことを考えるような仕組みになっているのだろう。余計なことを考えないのは単なる動物である証か。確か退屈にやられて勝手に血を吐いたのは泉谷しげるだったか。中途半端に生きることは面倒くさいが、潔く死ぬのはもっと面倒くさいか。しかしそれで生きることを肯定していることになるだろうか。それは消極的な肯定というやつか。たぶんそんな言い草を馬鹿にしたければ自殺でもしてもらうしかなさそうだ。たぶん世の中には生きることを肯定したい輩もいれば、死ぬことを肯定したい輩もいるのだろう。面倒くさいので人それぞれの立場によって意見が分かれるということにでもしておこう。憂鬱な気分になったのはいつのことだったか。今はもうそれからだいぶ経っている。別にそれを克服したわけもなく、ただそんな気分はとうに忘れたしまっただけかもしれないが、手持ちぶさたの君は、気晴らしにそんな過去の気分を利用しようとしている。それで何かの娯楽になるだろうか。苦痛と娯楽をどう関係付けるのかよくわからない。それは何か手品の類だろうか。手品も種明かしをしてみれば驚きも半減するかもしれないが、それがはたして種明かしになっているかどうか自信を持てない。手品などではないか。それが手品として成り立つかどうか自信を持てないか。それが手品であろうとなかろうと、たぶんそれは単なる嘘だろう。手品の代わりに嘘という言葉を使った方がしっくりいくようだ。要するに手品は嘘というのが種明かしになっているわけか。そうやって君は何も語らないうちから終わりを迎えてしまうようだが、それでも終わりを迎えるまでにかなりの分量の言葉を費やしている。そこで無駄に費やされた言葉は何を体現しているのだろう。そこにはいつもながらの空虚そのものが顕在化しているわけか。ただそれらの言葉は内容を知らないのだ。そこに形成されるべき偽りの記憶が抜け落ちている。そこにあるべきものが欠落している。そこには何らかの物語でも差し挟むべきなのか。気晴らしに人を憂鬱な気分にさせる物語でも必要か。やはりそうするのは面倒くさいか。それでその代わりに構成されようとしているのが、意味のない言葉の羅列になるらしい。たぶんそれらの言葉が君のセンスを反映しているのだろう。しかしそれで過去の気分を利用しているつもりなのか。それらの何が気分なのかわからない。そんな気分があるはずはないか。それでも誰もがそこに何らかの気分を読み取れるはずか。要するに君は嘘をついていることになるわけか。それの何が嘘なのかわからない。ただ言葉が混乱して破綻を来しているだけか。確か昨晩は何か夢を見たように思うが、内容を覚えていない。覚えていないのでそれについて語りようがない。ではその代わりに適当な内容をねつ造すれば事足りるだろうか。夢はどこでねつ造されているのだろうか。頭の中でか。冗談を述べるなら、たぶん夢は眠りの中でその台本が練り上げられているのだろう。しかし夢の中で計画的な思考が可能だろうか。また夢の中で台本が必要だろうか。では夢は何かの演劇形態をとる現象なのか。舞台の上で俳優が台本通りに自らの夢を語る場面はあるかもしれないが、それでは問いに対する答えになっていないか。やはりどこかで話を逸らそうとしているようだ。要するに君は夢から逃げているわけか。それでは率直に何かを語ることは難しくなる。ただ単に君は夢を見た体験そのものをねつ造しているだけのようだ。しかしそれはさっきすでに述べていたことか。それらの作り事の話には何が欠けているのだろうか。過去のどこかで嵐の夜が映画の画面上に繰り広げられる。それとこれとは無関係だろう。この世界ではいつも君には関係のない何かが起こっている。それをあたかも関係があるかのように装うのはおかしなことか。おかしいのは誰の頭なのか。やはり何を述べているのかよくわからない。なぜそうなるのかよくわからない。よくわからないからわかろうとするわけだ。わかりたいからそれについて考える。だが考えてもわからないときは寝てしまうか。考えているうちに眠たくなるわけか。
1月24日
誰がそんなところへ誘導しているのでもないのだろうが、平和な地域では批判の矛先はいつも間違った方向へねじ曲げられてしまう傾向にあるようだ。逆らう権力さえ存在しない場所でも静寂を満喫している暇はないらしい。なにやらいいわけじみた内容とともに、一部で何か騒がしい雑音が聞こえたような気がしたが、空虚のただ中で誰がわめいているのでもないようだ。気分次第でどこへでもずれていってしまう言葉には何の力も宿らない。何か批判めいたことを述べてしまうかもしれないが、何に照準を合わせているのでもない。すぐに消え去る言説にはどこかへ流れ去る意味が込められている。消え去ることが有用な特性となっている。しかしそんな場所から何を叫んでも始まらない。いったい反戦のメッセージがどこから発せられているのだろうか。何となく悪ふざけがすぎるように思われる。矮小化された悪の軽薄さに満足できず、そうかといって邪念を遮断できるはずもなく、そこで繰り広げられる清らかな精神が顕現しつつある話を笑い飛ばし、時の経過に合わせて気分を少しずつ修正しながらも、昼と夜の狭間に何について語っているのでもないらしい。君にはそれがよくわからない。なぜ人はそんなものを好んで伝えたがるのだろうか。それでは紋切り型の言説になってしまうが、新しさの中に昔ながらの伝統の味が息づいているとでも述べれば誰もが納得するだろうか。戦っている人たちには戦うべき理由がある。人々がもてはやす夢も希望もそれらの戦いの中にあるはずだ。たぶん少年漫画の中の戦いやスポーツの中にそれらの本質があるのかもしれない。宮本武蔵や新撰組もその本質を求めて戦っていたのだろう。いつの時代でも現実やフィクションの中で富や権力や栄光を求めて戦っていたはずだ。何かになるためには自ら戦って勝ち取らなければならないわけだ。勝つためには非合法な暴力も選択肢の一つになるだろう。過去に暴力によって富や権力や栄光を手に入れた者に限って、いったん手に入れたものを手放したくないばかりに、自らの都合の良いときだけ反戦を唱えるのは欺瞞以外の何ものでもないか。そんな不条理を承知しながらもなお反戦を唱える必要があるわけか。競争と反戦を共存させることは制度的に不可能だ。ルール内での競争も争いごとには違いないからだ。ルール内での戦いに敗れた者が勝つにはルールを破る以外に方法がない場合もあり得る。ふとした拍子に誰かの名前が頭に浮かぶ。なぜそれが神の名に近いのかよくわからない。こみ上げてくる笑いをこらえながら、お前は制約された環境の中で無い物ねだりを繰り返す。それがどうしたのだろう、そんなことは誰もがやっていることにすぎないのであり、仕方のないことなのか。しかし物置の中に堆く積まれたゴミくずの中に何か使い物になるようなものがあるだろうか。言葉の並びから導き出されるいい加減な形式に惑わされる。たぶん何かのスタイルがどこかで限界に突き当たっているのだろう。それがどういう気分なのかわからないが、そんな言葉にならない気分を抱えながら、脳裏を横切る幻想を捉えきれずに何ももたらせない。繰り出される台詞に意味を感じないのはいつものことか。まるで霧に包まれているような感覚を覚える。しばらく前から誰かの意識は何の役にも立ちそうにない思考に覆われている。それは一時的な気の迷いだろうか。何をどう考えても無駄だと思われるのだが、なぜ有用なことを思いつかないのだろうか。それでも同じ調子で最後まで行くつもりらしいが、たぶん何を説明しているのでもない。がらくたのような気分のとき、そんなものは不要かもしれないが、逆説的な言い回しには、何か気の利いたことを述べたつもりにさせる意味が宿るだろうか。幸福とはひどい不幸のことをいう。君はその程度で満足するわけか。そんなことはよくあることかもしれない。夜空に星がちりばめられる時間帯に様々なことを思うが、翌朝にはそのほとんどを忘れてしまう。後ろ向きに歩んでいると未来に希望を持てなくなるか。それでも時は流れて未来へと近づいて行くだろう。そして近づけば近づくほど遙か遠くへと遠ざかって行く。だから未来は過去にも現在にもならずに、永遠にいつまでも未来であり続けるわけか。
1月23日
いったいそこで何が始まろうとしているのか。いつもの怠惰を一時的に追い払って、それとは別の雰囲気を醸し出したつもりになる。季節の中で景色が移り変わり、まだ始まりもしないうちから終わりが見えてくる。過去に忘れ去られた話の断片を入手した者は、それについてあたかもそれが義務であるかのように物語ろうとしている。物語的には望まれない結末に真実が配置され、心地よい思考の中に嘘がある。どうもそこへ入ってはいけないらしい。どこかで啓示を受けたつもりになり、誰かにその教えを伝えようとしている人がいる。誰かにとってそれは大きなお世話になるだろうか。それが身につまされるような話ならありがたがるわけか。その人の不幸な生い立ちも説得力を増すための道具となるか。だがそんな話に誰が同情するのか。よくある話はわかりやすいか。そんな本を読みながら別の本を選ぶ。読んでいる本もつまらないし、別の本も同様につまらない。たぶんそれは嘘であり、間違っているのだろう。気を入れて読んでいないのだ。印刷された文字が目の前から超高速で飛んでいく。飛んでいった先がめくられたページの裏側に貼り付く。君はそこで何をやっているのだろう。ただぐるぐる回っているだけなのかもしれない。この世界にあるすべてのものは回転している。何を中心にしているわけでもなく、とりあえず何かの周りを回っているだけのように思われる。終わりと始まりで何かが同じだ。いったい始まりがどこにあって、そこから終わりに向かって何が紡がれようとしているのだろう。そんなことのために誰が必要とされているのか。またどこからか言葉の束を調達してきたようだが、たぶん何も実現しはしないだろう。何かを実現させるのではなく、構築途中でそれらの思いを放棄するのだ。それも君の計算のうちに入っていることだろうか。架空の君を作り上げるために今さらベストを尽くそうとは思わないが、振り返ると妙な気持ちになる。まだすべてが変わってしまったわけではない。確かに道を見失ってから暇つぶしを忘れていた。暇などあった例しはないか。その状態がどこまでも続いていくことはなさそうだが、今のところそれを終わらせようとする気配は感じられない。何が終わらせようとしているのか知らないが、それで話が完結するはずもない。ではどうすればいいのだろう。なぜ中途半端なところから始めるのか。そうでない気分を味わいたいからか。まず始まりに何か適当なことを思い、次いでそうではないと思いたくなり、またさらにそれも違うと思い始める。物事には始まりと終わりと途中があるらしい。何かを読んでいて退屈になり、しばらくして空を見上げて雲の流れを追っている意識に気づく。結果など分かり切ったことか。ならば途中を省いて先回りせずにはいられなくなる。予定調和はとはこういうことだろう。終わりから始まりを予想するとき、怠惰な気分はどこからやってくるのだろうか。希薄なやる気をどこかへうち捨て、何も思わずに何かを求めて右往左往しているようだが、いったい君は何を求めているのだろうか。それがわかれば苦労はしないか。無駄な苦労が果てしなく続いて行くようだ。内面の虚空では実体を伴わない文句が宙を舞う。実質的な終わりを無視して絶えず何かが始められようとしている。その始まりのただ中において、またいつものようにいい加減な思いつきにまかせて、誰かは適当な言葉を連ねているようだ。それが無理なことは承知しているが、やはり君はそれに対して何もないところから何かを構築しようとしているらしい。空想の内容に妙な感触を覚えて、妙な響きの言葉を連ねてみたくなる。そして結局は何を述べているのかわからなくなる。わからないという言葉には、わかっていることさえわからなくなることも含まれているらしい。やはりわからなくなってしまったようだ。わかっているようでいて、本当のところはわかっていなかったのかもしれない。わかったと思うことがわかっていないことを忘れさせているだけなのか。
1月22日
そんなことはつまらないことだ。あるときありふれた文章を読みながら、そこから作者のさもしい性根がにじみ出てくるように感じられ、またあるとき、虚しい世間話の合間に人の心の中に巣くう卑しさをかいま見たつもりになる。それらの思いは自らの思い上がりを反映しているのだろうか。あり得ないことではないだろうが、たぶんそれらがないと、その場での間が持たないのであり、そうしなければ誰も何も語ることができなくなってしまうだろう。そしてそんなことにいちいち目くじらを立てなければ、これらの文章を構成できなくなってしまうか。たぶんこれまでに体験してきたことも、これから体験するだろうことのほとんども、そこからあまり遠く離れていないことになるだろうか。この先に何がどうなろうと、ただどうにかなるだけだろうか。しかしそれでは何も述べていないのと同じことではないか。何も述べていなくても言葉は記されている。ただ漠然とそんな思いにとらわれている。だがそれだけでは、感受するすべての出来事がどうでもいいことのように思われてしまうではないか。本気でそんなことを思っているのか定かでないが、どうも今までのやり方が現状にフィットしていないように思われる。だからどのようにも話を進められないのだろうか。それとこれとは話が違うか。確かに思うようにはいっていないが、それでも着実に話を進めているつもりのようだ。では今さらなぜそんなことを思うのだろう。以前から違うような気がしていたことは確かだが、何がどう違うのかが今ひとつわからない。何事に対してもわかったようなことを述べたくはないが、わからないと表明しても仕方がないような気もする。そうやってわざと不分明なことを述べて誰かを煙に巻いているわけか。たぶん自分自身が煙に巻かれているのかもしれない。そして自分で何を語っているのかわからなくなる、という筋書きでお茶を濁しているわけか。やはりそんなやり方では何も語っていないのと同じことかもしれない。しかしだからといって、違うやり方を思いついているわけでもないらしい。取り立てて何を述べようとしているのでもなく、ただ適当な言葉を空隙にはめ込んで、文章としての体裁を整えているだけのようだ。その結果として、自分が思いもしなかった言葉の羅列を眼にすることになる。そこには自分の思いとはまるで無関係なことが述べられていて、その大部分は他の人にとっても無関係で意味不明な内容になっているのかもしれず、それを読み返していくうちに、ただどうでもいいようなことが長々と述べられているだけのような気がしてくる。君はそれでもいいのだろうか。いいはずがないと思いたいところだが、それしかできない時はそれで妥協せざるを得ない状況になってしまう。あることについて賛成とか反対とか述べる気にはなれない。別に意見を求められていないので何ともいえないか。はたしてそれは本音なのだろうか。悩み苦しんで冗談しか述べられなくなっているわけでもないが、なぜそうなるのかよくわからなくなる。それはいつもの嘘かもしれない。理由はいやというほどわかっていながら、それでもよくわからないととぼけているのかもしれない。何がどうしてそうなってしまうのか。確かに未だかつてない状況の中にいるのかもしれないが、かつてない状況が積み重なって今に至っているわけだから、今後もかつてない状況が続いていくことだろう。それでもあきらめきれずに少しずつ歩を進めている現状がある。世間が用意しているように感じられる選択肢は退屈そのものだ。何を選んでも同じに感じられ、また何も選ばなくても何かしら選んだことになってしまうようだが、今の自分には何も選びようがないと思われる。様々な映像があり、様々な音楽があり、様々な書物があり、その中には様々な意見や考え方や方法があることは確かだ。君はそれらの中の何に共鳴しようとしているのか。たとえ共鳴しても無視されるだけか。ただそれらはみな目の前を通り過ぎるばかりのようだ。
1月21日
どうも君には認識の甘さがあり、それによってせわしない時の流れに押し流されて、我を失いがちになる。我がどこにあるかを知らないか。それはどういうことなのか。我を失うのと我を見失うのとはどう違うのか。どちらも同じようなものか。別に我を失ってもいいから、たまにはいつもとは違った気分になれないものか。考え事をしているうちに、言葉の整理がつかずに途中で話がこんがらがってくる。どこで話のつじつまを合わせるつもりなのか。そんなつもりはさらさらなく、一向に見えてこない話の他に、君は何を探っているのだろう。他などあるわけがない。今さら何を探求する必要があるのか。ところで話す手順はそれでいいのだろうか。その辺はまるで考慮していないかのように装って、その先へ進んでみよう。進めるものならとうの昔に進んでいるところか。進めない理由を見いだせない。やはり今の君には何かが欠けているようだ。今日だけでなくいつもそんな気がするが、まるで出そうにも出てこない言葉を探しているみたいだ。その代わりに出てくるのはつまらない語りばかりか。欠けているものなど誰にでもいくらでもあるだろう。たとえば、自分を完全無欠だと思っている人間には慎ましさが欠けている。そしてそんなありふれた見解には驚きが欠けている。驚きの欠けた見解で誰を驚かそうというのでもない。とりあえず欠けているものには完璧さが欠けていて、完璧に思われるものには欠けているものが欠けている。しかしそれではどうでもいい内容になってしまう。どこかでひねりを利かせたつもりが、ひねりすぎてひねり自体が無効になってしまう。それは技巧以前の稚拙さをあらわにしてしまうだろうか。たぶん今日は何も出てこないような気がするが、たとえ言葉につまっても、あきらめるのはまだ早いか。忘れた頃に思い出す話もあるはずだ。何をいつ思い出すのかわからないが、つまらない話なら他にいくらでもあるだろうか。必ずしもそれがつまらないとは思わない時もあるから、語りもしないうちからそれをつまらないと決めつけるのはよくないか。だが思うようにいかないそれらの現実から何を学べばいいのか。なぜそこで学ぶことになるのだろう。では学ぶことの他に何をどう繰り出せばいいのか。いったいそこで君は何を体験しているのだろう。現実に体験しているのではなく、体験について思考しているわけか。たぶん君のやり方は間違っているのかもしれない。だが仮に間違っているとしても、その時点で過ちに気づくはずがない。過ちは過ちと感じない時に過ちとして作動する。過ちだと気づいてしまえば、直ちにやめてしまうから、何とかそれを悟らせないようにしながら、過ちを続けさせないと過ちは成就しない。しかしどこの誰が他人の過ちを成就させようと画策しているのだろうか。誰でもなくその場の状況が君にそうさせようとしているだけか。そうさせたいのならそうしてみるしかないだろう。別にそれが過ちであってもかまわないと思う。そこで立ち止まって考える余裕がないらしい。後は忘却作用に頼るしかないようだ。忘れたついでに何かをでっち上げる。喜怒哀楽の中で何が君に欠けているのだろう。そうやってどうでもいいことを語りながら、そろそろ帳尻合わせの体勢に持って行こうという魂胆なのか。できることなら何も語らずに済ませたいようだが、そんな風に思っていることが、それとは逆の展開を呼び込む。どうしてそうなるのかよくわからないが、たぶんそれでも適当な何かを語ってしまうのだろう。内容がなくても意味不明な言葉を繰り出す。そんなものに付加価値などあるはずもないか。別にそんなものを求めているわけでもないだろう。ただその状況から抜け出したいだけなのではないか。なぜそういつもいつも切羽詰まってからやろうとしてしまうのか。最近はもう後がない状況ばかりを体験しているのかもしれない。何とかその場を切り抜けることばかり考えている。そして実際に切り抜けてきたつもりでいるようだ。それで何か無意味な自信でもついているわけか。だが君はそんな思いを疑っている。
1月20日
足下から忍び寄る冷気に耐えながらも、だんだん何か気が抜けてくる。同じようなことを繰り返さないように気をつけているらしいが、それでも君はまだ無駄なことを述べているようだ。そうやって今日もあまり気乗りせずに黙々と作業を進めているらしいが、それでもやはり何とか継続を保っているつもりのようだ。何かのきっかけでいったん途切れてしまうまでは、とりあえず気が済むまでその状態を続けていればいいだろう。やる気のない君は何に対しても大して興味を覚えられず、ただランダムな出来事の出現を望んでいるらしい。それが起こるのは過去でも未来でもかまわないだろう。そのすべてがフィクションであってもいいだろうか。虚構であることに気づかなければそれでもかまわないか。いつものようにそれらの出来事には興味を持てないだけか。現にさっきから、その気もないのに輪郭の欠如した油絵を眺め続けている。なぜ見る気もないのに眺め続けることが可能なのか。それは言葉の上でのフィクションだから、実際に見てもいないものを眺めているように言葉で記述できるわけか。ではやっていることは眺めているのではなく、文字を記していることになるだろうか。眺めながら言葉を連ねることも可能だろうが、面倒なので美術館へ出向く気になれないわけか。それらばインターネットで画像でも眺めていればいいだろう。画面上に表示される複製でもそれなりの感動を味わえるかもしれない。また大げさな音楽でも聴きながら眺めればさらなる感動に至るかもしれない。で、実際に見ているものはといえば、リサイクルショップで買ってきたコンパクトディスクのジャケットでしかない。そしてもはやそれも見飽きたようで、気がつくと明かりを消してしばし何も思わずにじっとしている。たぶんそれもフィクションには違いない。では現実の話とは何だろう。テレビのドキュメンタリー番組でも見れば、現実の一端をかいま見ることができるだろうか。今アフリカの奥地では野生動物の密猟が横行しているようで、その肉が闇市で売りさばかれているそうだ。しかしそれがどうしたのだろう。薫製にされたゴリラやチンパンジーの頭を見て君は何を連想するだろうか。人類の行く末を心配したりすることが、映像の制作者側から求められているわけか。このまま行けば地球上のほ乳類は人類だけになってしまうだろうか。そうなる前に人間同士で共食いが始まったりして、自滅してしまうかもしれないか。現に人間の歴史は他のほ乳類と同様に共食いの歴史を形作っている。なぜそんな風に思われるのだろうか。フィクションに飽きたら本当の嘘をつく必要に迫られているわけか。人間は構造的に他人を食わなければ生きて行けないようになっている。他人の真似をして、真似することで他人を攻撃しているわけだ。そうやって他人から利益をかすめ取る。だがそれはある面では絶えず自滅の危険にさらされていることになる。他人を食い尽くしてしまえば自分には何も残らないからだ。利用できる資源が他人にしかないことが、その人の欠陥を構成しているわけだ。語る対象がなければ言葉を繰り出せない。真似る文章がなければ言葉を繰り出せなくなる。だから真似されたくない他人は、誰にも真似できないような文章を編み出そうと心がけるようになる。独創性などという生易しい言葉を超えた表現を目指すようになる。たぶんそれも自滅の原因になっているのかもしれない。そのような努力ばかりしているうちに、いつの間にか何を語っているのかわけがわからなくなる。意識のすべてが空虚に満たされて、もはや自分の内側に何もないことを知ることになるだろう。そこまで行けば大したものか。だがたぶんそれもフィクションには違いない。誰もたどり着けぬ地点に誰がたどり着くことができるだろう。未だかつてそんな話は聞いたことがないか。君はただ聞いたことも見たこともない状態を空想しているだけなのか。それで気が済むならそれでもかまわないだろうか。その程度で気が済むわけがないか。
1月19日
何かの拍子にくだらぬ思いつきに惑わされる。その成り行きにはどんな経緯があったのか、今となってはどうでもいいことか。それは数年前の夏の出来事だったか。そのときの意識は気まぐれでどこかに立ち寄るつもりだったらしい。そこで何をやるつもりだったのか思い出せない。たぶん滅多に入らない物置の中に過去の夢が放置されているを見たかったのかもしれない。埃をかぶった本棚の中に使い古された言葉がつまっていたりするだろうか。やる気が皆無の時、君は過去の日々から何を抽出しようとしているのか。何も抽出できずに困っているようだ。切羽詰まっているのに、それでも気分は気楽な雰囲気に包まれている。結果的にはなるようになるだろう。積み重なる記憶は無駄骨をいとわないようだ。そんなことを思いながらよそ見運転をしていたら、どうもすでに留まるべき地点を通過してしまったようだ。見いだされるはずの標識がどこにも見あたらない。たぶん途中で標識を見落としたか、あるいは道順を間違えてしまったのだろう。だが今となってはそんなことなどどうでもよくなっているらしい。大して気にとめる風もなくまた来た道を適当に引き返して、ほどなく出発点にたどり着く。そしてまた道路地図を見て、目的の場所までの道順を覚えたつもりになって出発する。なぜ君はカーナビを買わないのか。理由は買いに行くのが面倒なだけなのかもしれない。そんなこんなで勘に任せて目的地にたどり着き、さっさと用事を済ませて家路につき、今は何気なしに窓から外を眺めている。日が暮れるに従って次第に暗さを増して行く外の状態をただ見ているだけのようだ。週刊誌によると、どこかで誰かと誰かが戦争ごっこをやっているそうだが、それはどんな現状なのか。現状ではなく過去の状態かもしれない。内容は読まずともわかるようなことか。何かを評して誰かが適当なことを述べているだけか。彼らは誰かの気まぐれに惑わされて焦点の定まらない話に終始している。そんな語りで現状に否のくさびを打ち込むことなどできはしない。誰もそんなことなどできるわけがない。それは誰が抱いている幻想でしかないだろう。とりあえず君は誰がどんなことをやろうとしているのかを知らない。それを知るきっかけはどこからともなくやってきて、無関心を装いながら目の前を通り過ぎ、それに気づいた時には後悔しかもたらさないだろう。運命の神はどんな結果を用意しているのだろう。まもなくこの世界に何が起ころうとしているのか。何も起こらないはずはないが、たとえ起こったとしても、誰もそれに気づかないかもしれず、それを知る手だてさえないのかもしれない。いつか氷が張った湖面を眺めながら何か適当なことを思う。たぶんそれがどうしたわけでもないだろうが、偶然の出来事だと思われることが、結果的には誰かの意識に気晴らしをもたらす。彼らはそんな風には思わないだろうが、多くの人は休日に気晴らしを求めてどこかへ出かけることぐらいしか考えていないだろう。誰がどこで何をどうやり遂げようと、他の人々はまだ気晴らしをやり足りないらしい。閉じた空間には無限のやり方がひしめいているらしく、それらのやり方を一つ一つ試してみる時間が彼らにあるだろうか。たとえそこからいくら言葉を弄してみても、その先に道が開けるわけでもないようだ。そこで要求されている表現とは何なのか。たぶん君は何を述べているわけでもないのだろう。そこでは絶えず目的から逸らせて行く何かが作用している。気がつけばもうそこには目的が失われている。それで何か困ったことでもあるのだろうか。やがて時流に押し流されてそのとき何を思っていたのか思い出せなくなる。そして混濁した川の流れのように、何もかもがいっしょくたになって流されて行く。何が流されて行くのかもよくわからない。いつか誰もがその戦争状態を乗り越えられるかもしれないが、メディアがもたらす即席のいい加減さからどうやって逃れることができるだろうか。
1月18日
どこかに何か気分転換のきっかけでも転がっていないものか。なぜいつもそんなことを思うのだろうか。今さら何を思ってみてもどうなるものでもないだろう。しかし繰り返される作業に嫌気がさして、そこから逃げ出したくなる時、それを押しとどめようとする力がどこかから働くらしい。それでも無理に付け足される言葉には新鮮味がないようだ。どこかに何かの掟でもあって、意識がそれに拘束されていて、なかなか新たな素材にたどり着けずにいるのかもしれない。もういい加減そんな成り行きには飽きているのだろうが、意識的には何に従っているわけでもないのに、どこかで道草を食いながらもまた同じ場所へ戻ってくる。そんな君が意外に思うことに意外性を感じるはずもないか。それは意外ではなく当たり前のことであり、いつもそれらの時空で繰り返されているそれ自体でしかない。だから何をどう工夫して語っても、結局は元の木阿弥に戻ってしまうわけか。そんな状況によってやる気が次第に薄れていく中で、さらにいい加減な思いを巡らせてみよう。どうも今回は言葉のつながりに欠けるかもしれない。意識が方々へ分散していて、それらをまとめる気が起こらないようだ。ある時、どこかの街に流れる川に架かる橋の上から誰かが下を覗いている。よどんだ流れの中で何かがうごめいているように見えるが、ただ風にあおられて水面が波立っているだけかもしれない。あるいは海に近いから海の波が川面に伝わってきているのだろうか。辺りに釣りをする人は見あたらないが、気まぐれで釣りについて思いを巡らす。釣りに熱中する人々は、釣り針が刺さった魚の痛みなどわかるはずもないだろうが、自分の口に釣り針が刺さったらかなり痛いだろう。そんな光景にどんな幻想を抱けばいいのか君にわかるはずもないか。わからないままに魚の切り身を焼いて食べてもうまいだけか。そして食べ終わった後は何も思わずに時を過ごしているようだ。それが何かの比喩を含んでいると思いこめば少しは気休めにでもなるだろうか。何が気休めになるのか。何かの漫画の中で、内蔵を抜き取られた人体が、アジの開きのように干されている場面を思い出して、何となくいやな気分になる。フィクションによる心理的な作用とはそんなものだろうか。魚のことは忘れて別のことに思いを巡らせてみよう。それとは別の時間帯では、電車の窓から雪をかぶった遠い山並みを眺めながら、ふととりとめのないことを思う。いつかどこかで誰かに出会ったことがある。そんな記憶はまやかし以外ではないが、実際に誰かに出会っているはずか。誰に出会って何を思ったのだろう。後からその人物の欠点をあげつらう人はよくいるだろう。世間話のネタはそんな内容が大半を占めている。そんな光景について君はどう思えばいいのか。そんなことが君にわかるはずもないか。それについてどう思ってみても、未だ何を考えているのかわかりかねる。いったいそこで誰が何を考えているのだろうか。それ以上に何があるだろうか。たぶんいい加減なことを考えている。そしてそのいい加減さを言葉で表現しようと思っている。しばらくしてさっきまで何を語っていたのか忘れてしまったらしい。頭の中でリセットスイッチが入ってしまったのか。そうではなく、ただ単にさっきまでの考察を検討し直すのが面倒なだけなのか。そのすべてが無駄だとは思わないが、何の役に立つのかわからずにいるようだ。別に語ることによって何かの役に立とうとは思わない。ただこの状況を言葉で説明したいだけか。そして説明していきながら少しは理解していきたいのかもしれない。まずは理解した上で説明するのが妥当なやり方かもしれないが、それは慣例的な見解であり、現実は説明と理解は同時に作動していて、それらが互いに絡み合って共鳴し合いながら、言葉の連なりを形成していくのだろう。しばしば述べた後からそれに対する新たな理解が得られたりすることがある。ところでさっきまで何を述べていたのだろう。
1月17日
今何が問題なのだろうか。何が生まれ何が消え去ろうとしているのか。状況を把握できていない言説に取り囲まれる。君は誰のことを追想しているつもりなのか。そして思わせぶりな内容にしようとしている。彼らはいつまでも制度にしがみついて不毛なことを述べている。過去と同じような具合には行かないことはわかっているはずだ。ありふれた表現で述べるなら、彼らは今まさに時代から取り残されようとしているわけか。別に誰が取り残されてもかまわないだろう。君もすでに取り残されているのではないか。時代という概念自体が無意味なのかもしれない。過去は過去であり今は今であり未来は未来でしかない。それらにつながりを見いだそうとすれば見いだすことができるかもしれないが、それを無視したければ無視してもかまわないだろう。どのような思惑を持って行動しようとその人の勝手だろう。もはやこの国では誰も憲法など尊重する必要はないのかもしれないし、新たに創る必要もないのではないか。その必要から解放された人が大半を占めているのかもしれない。もはやそれらの地域が特別である必要はない。過去の被爆体験などに何の価値もありはしない。今となっては原爆で死ぬのも交通事故で死ぬのも大して変わらないだろう。グローバル化とはそういうものなのだろう。世界情勢など情勢ですらなくなりつつある。日々メディアを通じて伝えられるそれらは世界でさえなくなるだろう。それらはただの断片でしかなく、ある地域の中で起こっている日常茶飯事以外ではない。感性が古い人々にはそれがわからない。しかし別に感性が新しい人がどこにいるわけもなく、ただ古い人が大勢生きているだけなのかもしれない。だから別にそれがわからなくても何の支障も来さないだろう。わからない方が普通なのであって、わからないのにわかっている振りをしている人が、実のところ一番わかっていないのだろう。情報に踊らされているのは情報を発信している人たちの方だ。どうでもいいような内容を命がけで伝えようとしている人たちまでいる。実際にそれで命を落とす人たちも出ている。もちろんそれで死んだとしても世界がどうなるわけでもない。ただ人が死んだだけのことだ。要するに彼らは進んで馬鹿になろうとしているわけだ。それでもプロレスを見ながら馬鹿になるのよりはマシだとでも思っているのだろうか。それらの行為に何らかの意味や意義や価値を求めるのは愚かなことだ。それらが無駄な努力であることを認めたくないのは仕方のないことかもしれないが、それらの情報を受け取る側の反応が期待はずれであり続けているのはどうしたことなのか。彼らの悲鳴にどこの誰が反応しているのだろう。それは悲鳴にすらならない独り言の一種かもしれない。そしてそれらの独り言を共有していると思いこんでいる人々には何の力も権限もない。彼らは誰もが人々の関心を惹こうと躍起になっている状態が、逆に無関心を呼び込んでいる現状を理解できない。何もかもが飽和状態の時はそれが普通にしか感じられなくなるのであり、選択肢がほとんど無限にある時は何を選んでも同じなのであって、そこに差異を見いだせないのは当然のことだろう。わかりやすい意見はわかりやすいだけでその先がないのであり、議論がそれ以上に進展するのを妨げる。わかりやすさに逃げてしまって、現状のわかりにくさを説明できていない。そこで思考することを放棄してしまっているわけだ。けっこう興味深い映像を流し続けているのに、それを伝える側も受け取る側もほとんど理解できずに、ただ無駄に彼らの意識を通り過ぎるばかりなのだ。伝える側は昔ながらの価値観に固執した説明に終始して、受け取る側はそのわかりやすさに安心するだけで終わってしまう。そこからは何の進展も生まれはしないだろう。だから彼らはいつまで経っても火事場の野次馬以上にはなれないし、野次馬の話で盛り上がっている人々が彼らのカモとなっているわけだ。
1月16日
何もなくても君には空疎な言葉が必要らしい。気まぐれを利用して唐突に作業を再開させるが、その先を思いつかないので、苦し紛れに何か幻想を抱くとすれば、すべての時より良い時があるだろうか。それはぎこちない解釈だと思う。君は幻想を言葉にするのは苦手なのか。忙しさのただ中でもがいているうちに、いつの間にか夜になり、遠い山並みを眺めるのを忘れていることに気づく。遠い景色に飽きたら何を見ればいいか。高層ビルの屋上から誰かが下界を眺めれば、今日も人々は適当でいい加減な思惑に従ってうごめいていることだろう。中には思うより先に行動している人もいるらしい。いつもどこかを走り回っていなければ気が済まぬ人は、休日に河川敷や公園で走っている。体を鍛えていなければ気が済まぬ人はスポーツ・ジムで汗を流す。ただ汗を流すだけならサウナに入るところか。健康幻想にとりつかれた人はそれだけでは気が済まぬか。健康麻雀なら頭の健康を保てるらしい。なぜそんなことを思いつくのだろう。思いつく前にやっていたのかもしれない。そしてやっていることの名称を後から思いついたのかもしれない。とりあえず健康と名付ければ何となく良いことをやっているような気分になれて、そんな気分でいることが健康に結びつくのかもしれない。そう思っている時がすべての時より良い時なのか。君はそんな幻想で気が済むだろうか。たぶんそれでは言葉が足りないのかもしれない。もっと気の利いたことを述べて悦に入りたいのだろう。だがそれ以上言葉を弄せば不健康の領域に突入してしまう気がしてくる。君はそんなわけのわからぬ意味不明な領域が好きなのだろう。語りすぎてそれまでに語ってきた内容をぶちこわしにしなければ気が済まないのだろう。それは鍛えすぎて体をこわすようなものか。語りすぎの君にとっては、そんな簡単なたとえでは気が済まぬところか。ではどうすれば気が済むというのか。気が済むということ自体が気が済まぬ原因を作っているのかもしれない。気が済んでしまってはまずいのか。気が済まぬからさらに言葉を弄しようとするのであり、君にとってはなるべく気が済まぬ時が長引いていた方が好都合なのかもしれない。しかしそれでは簡単に結論が導き出されてしまうではないか。要するに、すべての時より良い時とは、何をやっても気が済まぬ時ということになってしまうだろう。しかし、絶えず不満を募らせている時が良い時だ、という逆説的な結論で君は満足できるだろうか。不満な時が良い時なのだから、良い時では満足できるはずもなかろう。君はそうやっていつまで経っても気が済まない状態でいることを望んでいるらしい。しかし満足したらそこでお終いになってしまうから、常に不満を維持し続けるのはかなり不健康な状態だろう。たまには気晴らしに満足してみたらいかがなものだろうか。下らぬこだわりはいったん終わりにして、少しは別の精神状態でいた方が健康に良いと思われる。冗談ではないか。冗談でなければ何なのか。何もやらずに怠惰な気分でいる方も不健康を招き寄せるか。たぶん下らぬこだわりはその都度忘れられているのかもしれない。これまでに同じ精神状態でいた例しなどあった例しはないか。例しを連続させるには何か隠されて意図でもあるのだろうか。そんなどうでもいいことを差し挟むのが気晴らしとなっているわけか。たぶんそんなやり方では不満なのだろうが、不満だからこそその先へ進むことができて、結果的には助かっているわけか。しかしその先はかなりいい加減で投げやりに語ってしまうかもしれない。そんなことを繰り返しているとだんだんどうでもいい気分になってくる。はじめから健康だろうが不健康だろうが、そんなことに興味はなかったのではないか。それらは実感を伴わない言葉だけの存在に終始している。生身の体から言葉が隔たっているのだろうか。健康オタク的な生活を送っている人は言葉に踊らされているだけかもしれない。たぶんそれだけでは部分的な要素にしかならないのだろう。
1月15日
またいつもの何かがどこかで繰り返されている。同じことが繰り返されるのが日常なら、いつも違う状況に身を置く羽目になってしまうのは非日常的な日々になるだろうか。それも日常の中で起こる出来事には違いない。終わりからすべてが始まるのはありふれたことだが、終わりと始まりがつながってしまうとはどういうことだろう。遠い目標はさらに遠くまで延長されて、もはや無限遠の彼方へ遠ざかり、目標として有効性を失ってしまい、君はそれを知っているのに知らない振りを装う。誰かは知らないことを知ろうとしている。誰もがそうしたいのだろうか。それで何かをやっているつもりなのか。下らぬ幻想に浸っている暇はあるらしいが、それを使えそうな言葉に結びつける工夫はなさそうだ。ただ漠然とした思いが何もない空間に押し込められている。そんな空間が現実にあるはずがない。それは空想上に構築された偽りの空間なのか。誰かが想像力を働かせていい加減なフィクションを構成しつつあるらしい。そこからどんな言葉が導き出されるだろうか。それらの空間には何かしら掟らしきものが張り巡らされているようだが、その状況に対処するやり方はいろいろあるらしい。そこで何が求められているのか知らないが、どこかで適当な台詞に遭遇する。いつも彼は病理学的な見解に客観性を求めている。それはどこでも通用する見解だろうか。その冷静さは正常に認識された冷静さなのだろうか。狂人は冷静であり続けるために、自分自身がまともな精神状態であることを信じている。その場合はたして平常心とはまやかしの一種なのか。それでもなぜ平静を装い続けるのだろう。まだ常軌を逸しているわけではない、という確信が揺らぐことがあるだろうか。そんなことを信じているのはどこの誰なのか。誰もいない庭には、冬の日差しに照らされて枯れ葉がきらきら光りながら舞い落ちてくる。いつの間にか風はやんでいたようだ。意識は風に吹かれてどこまで行ってしまったのだろう。君はその場の雰囲気に流されて何もできなくなってしまう。やる気を待ち続けて数日が過ぎ去ってしまう。そして今日もきっかけを待ちながら日が暮れてしまう。なぜかそれではだめだということはわかりきっているのに、そのやり方に創意工夫の欠如を感じつつも他にやりようがない。怠惰な心がすべてを台無しにしているわけか。すでに何かしら興味を惹きそうな出来事に遭遇しているのに、面倒なので無関心を装い、生起したそれらの思いを無視し続ける。それは何かの思い違いなのだろうか。何もないのにつまらぬ感傷に浸っている場合ではないらしい。その感傷にどのような思い入れがあるのかよくわからないが、たぶん次の瞬間には冗談に転じるような見せかけだけの哀しみにしかなり得ないだろう。哀しみに暮れているのは冗談の一種なのだろうか。ふざけているだけの人には悲哀を感じるわけか。コメディアンの末路に哀しいものがあったりするのはありふれた話かもしれない。無理矢理人を笑わすことに無理があるのは当然か。その笑わせ方をコンテスト形式で競わせればしらけた終わりが見えてくる。たぶんそれだけでは見せ物として成り立たないのだろう。だが成り立たなくてもごり押しでやり続けることは可能か。そうやって子供だましのイベントは人々の暇な時間を消費し続ける。しかしそうしなければ退屈な日々を消費できないのかもしれない。だが消費するということはどういうことなのか。はたして君たちに満たされることを待ち受けているものなどあるのか。別に消費する必要などないのかもしれない。必要もないのに無駄なことに労力を費やすのは愚かなことか。だが誇大宣伝によってその愚かさをあおっている宣伝媒体を君たちは無視できるだろうか。何もことさら無視する必要はないか。無視できずに無駄な消費を繰り返す人々を黙って眺めていれば、君はそれで気が済むのか。それでも気が済まなければ、何をすればいいのだろう。
1月14日
君は中途半端なことをいつまでも考えているようだが、妥協を許さぬ至高の精神状態は最悪の瞬間を連想させる。なぜそれが最悪なのか今の君にはわからない。具体的にどんなときが至高の精神状態なのかわからない。とりあえずつまらぬ話はいつまでもだらだらと続いていくのに対して、ひらめきは一瞬の出来事で、次の瞬間には跡形もなく消え失せる。そこからいくら言葉を弄しても、その一瞬を再現することはできない。だからさらに付け足された言葉に特別な意味は宿らない。最高を目指している者は最高の状態にはない。もし今が最高なら後は下り坂を転げ落ちるだけか。またもし転げ落ちたときが今なら後は上り坂を上るだけか。坂道を下ったり上ったりすることに特別な意味はない。具体的にそれが何のたとえなのか君にはわからない。そこで何が試されているのか定かでないが、どうやら寛容精神にも限度があるらしい。いったい君はそれらの無内容にいつまで我慢できるだろうか。いつまでも話にならない話が続いて行く予感がするが、たまにそれらの惨状を眼にするとき、何を思えば事足りるだろうか。何も思わないわけには行かぬ場面かもしれないが、これまでの話の中にそんな場面がどれほどあったかよく覚えていない。今や君のこだわりは君自身を裏切っている。それでも言葉を弄して話を続けようとするわけか。何も見ていないのに想像力が勝手に作動することがあるらしい。それは何かのアトラクションだろうか。客寄せの余興に出ている役者にはうら寂しさが漂う。画面上で繰り返されるそれらの余興に何を思えば事足りるだろうか。いったい何が余興なのか。見せ物の中に余興ではないものがあると思うか。それらがすべて余興だとするなら、人々の心は恐ろしい勘違いのただ中にあるということか。それらの余興を巡って多額の金が動いていることを疑問に思わないのはおかしいか。金は元来非効率で多大な無駄を伴う分野へ流れる傾向にあるのかもしれない。当たり前のことだが、ボール・ゲーム上でサムライの刀は役に立たない。武器が現状に合わなくなってきているということか。まさか日本人の野球選手がサムライであるはずもないし、映画俳優が本当のサムライであるはずもない。うわべだけの雰囲気に流されて、人々はそこで行われていることの本質を見失う。それらの宣伝文句や美辞麗句を真に受ける人は、いつの世にも多数派を形成しているが、それらの人々が抱く思いは、時が経てば忘れ去られるだけの内容だろう。しかしそれ以外に内容がないとしたらどうするのか。また時が経っても忘れ去られない内容にどんな価値があるというのか。現状でないものについて、何をどう顕揚しても無駄なのではないか。何もない現状をどう語れば事足りるだろうか。別にそれらの文章の行間に何かを潜ませているわけでもなさそうだ。そこには何の装飾もほのめかしもありはしない。いったいそれのどこに意味があるのか。なぜそれらの行為に意味を見いだせないのだろう。今生きている人間に何を求めても無駄か。とりあえず人がいくら死んでも別の人が生まれ続ける。たぶんそれらの文化だとか文明がどこで終わろうと、大した事態には至らないだろう。世界の終わりは映画の中でありふれた出来事として繰り返される。それらの物語の中では適当な人々の適当な喜怒哀楽が繰り返されている。人々はそこで何かの感情表現に終始しているらしいが、居心地の悪さに耐えかねて、誰かがどこかへ飛び出して行く。もうやっていられないということか。意味もなく凍えた指先に幻の炎が灯る。何を空想しても虚しさが増すばかりか。闇夜に舞う烏を誰が眺めるだろう。怪獣の口から吐き出された炎が画面上を虚しく照らしている。月明かりに照らされて、うごめく人影がそこで踊り続ける。病院の待合室に飾られた水槽の中で熱帯魚が揺らめき泳ぐ。ただ記憶の断片が画面上に羅列されているだけのようだ。虚無的な雰囲気では君のか細い神経が耐えられないか。
1月13日
何か述べようとすると何も述べられなくなる。些細な行き違いが拡大解釈されて偽りの危機感を煽り立てる。なぜ矛盾は拡大する一方なのか。何が矛盾しているのだろう。それは矛盾ではなく、論理的に筋の通った意見かもしれない。そうやって君は着実に老いていく。積み重なる経験が邪魔をして、次第に新鮮な気分でいられなくなる。そしてそんな状態の自己を慰めようとする感情を無視しながら、あるとき無視している自意識に驚き、次いでその驚きが見え透いていることに気づき、そんなことはどうでもいいことだと強がってみせる。そんな風にして君は着実に老いて行くわけか。また適当に無駄な言葉が循環しているようだ。それは思わぬ展開かもしれないが、思わぬ展開になることは前もって織り込み済みのこととして、話はさらにその先へ進んで行くようだ。そうやって思わぬことを忘れて精神の破綻を未然に回避しようとしているわけか。誰かの精神は破綻しなくても文章は破綻を来している。思わぬこととは何だろう。君は何を忘れているつもりなのか。途中に差し挟まれた言葉を削除したらいつもの意味不明になるだけか。結局は事前のいやな予感が的中しているのかもしれない。なぜそうなる前に手を打てなかったのだろう。やってみなければわからないのに、事前に手など打てるわけもない。やはりそこから引き出される言葉は後悔ばかりか。だがまだすべてが終わってしまったわけではない。しかし何が終わってしまったわけではないのかわからない。さっきから誰かが何かを語っているらしいが、どうも話の内容が一向に見えてこない。夕暮れ時にふと何かを思いつくが、語っているのが当人ではないので、それが何なのかわかるはずもないか。君がそのとき何を考えているのか定かでない。語る役割を担った者の存在が薄れているようだ。それでも君は何かを考え、歩きながらも考え続け、ふと途中で立ち止まって辺りを見回すが、何のために見回しているのかよくわからず、そしていつの間にか何を考えていたかも忘れてしまう。それはただ無駄に思考を繰り返しているだけなのだが、その無駄な思考が後から何かの役に立ったりするだろうか。ところでさっきまで君は何を語っていたのだろう。話が途中で省略されているらしいので、欠落している箇所を後から推測する必要に迫られる。何も思いつかぬ時、そこに都合よく何か適当な材料が転がっていたら気が楽になるだろうか。人々が暮らす地域に何か文明の痕跡らしきものが残されていることを願う。見渡す限り不毛の荒野が広がっているわけでもないだろうが、それらの世界に何の感慨も抱けないのはどうしたことか。視点や論点を変えたところでどうにもならないらしい。どうにもならないからフィクションの入り込む余地が生まれるわけか。確かにそんな思いにとらわれるときもあるが、唐突にそれとは別の話の中で、南方向へ緩やかに傾斜している大地を誰かが高台から眺めている。そこに欠陥だらけの設備を何とか稼働させようと試行錯誤を繰り返す人々がいる。誰が何を眺めているのか知らないが、鳥瞰図を鳥瞰図的に眺めて何が得られるのか。眺める者はそれをいつまでも眺め続けるだけか。たぶんそれとこれとは何の関係もない話だろう。何かを思いつくとのと同時にそうではないと思う。何を知ろうとしているわけでもないのに、心地よい疲労感に包まれてつかの間の静寂を知る。沈黙を破って何を語っているつもりなのか。たぶんそのとき何も思わないはずはない。何か適当な言葉付け足す必要性を感じるが、それで空虚な思いが消えることはない。冗談が高じてまったく本気になれなくなったのはいつの頃からだったか。ありふれた状況のただ中で君は何を考えているのか。それらの言説を理解しようとしないのは誰なのか。そんな風に脈絡のない問いかけが度重なってわけがわからなくなる。たぶんそれでも何か思っているのかもしれない。言葉の組み合わせと文章のつながりを模索している。しかし肝心の内容を思いつかないのはいつものことか。
1月12日
無駄話の中に何を見いだせばいいのだろう。始まらないうちから結論を出すのもおかしいが、たぶんどんなに思考を巡らせても、そこには何もありはしない。だが何もないから言葉がある。それは何かの屁理屈か。始めるきっかけを見いだせずにいるのはいつものことだが、やっとのことで開始にこぎ着けても、途中で息切れ状態になってしまうのは目に見えているか。言葉の海のただ中で溺れかけている。そんな状態で苦し紛れに何を繰り出せばいいのだろう。とりあえず怠惰に流されないで作業を続けなければならないか。しかし唐突に繰り出されるのはいつもの意味不明でしかないか。意味不明にならないように、意識を制御し感性を操作して、たとえ見せかけでもいいから論理的な文章の構成を目指すべきか。いったい誰に同意を求めているのだろう。身を律するとはどういうことなのか知らないが、君は自らを制御する能力を欠いているらしい。もちろんそれは相対的なもので、比較する対象によっては、相対的にその能力があると思われる場合もあるだろう。だがいったい君と誰を比較すればいいのだろう。面倒だから比較する対象が見あたらないことにしておこう。今さら君に何を求めても仕方がないか。君の意識が今どこにあるかは知らないが、その実態といえるものは何もなさそうだ。言葉が実態を反映していないわけか。そこには実体験が何もないのかもしれない。現実に見た光景といえば、何かが強風に吹き飛ばされて宙を舞っていることぐらいか。たぶんそれはスーパーの買い物袋か何かだろう。それと君の意識には何の関係もないはずか。何の脈絡も感じられない。そんな当たり障りのない内容はいつしか飽きられて、感性は次第に刺激を誘発する言葉を求めるようになる。感情的になりたい気分を押さえて、内心穏やかになれないまま、うわべだけの冷静さを求めているようだ。しかしそれで冷静になっているわけもなく、苦しみを抱えながら何もできない現状に苛立っている。煩わしい感情を打ち消すだけの気力を持ち合わせていない。以前からこだわっていた言葉の形態はとうの昔に解消してしまったようだ。悟性とは何だろう。物事を判断し理解することができたとして、それからどうすればいいのか。悟性にそれからはないのだろうか。では何を判断し理解できたと思っているわけか。物事とは具体的に何のことなのか。どのような物と事を意識の対象としているのだろうか。物とはどのようなもので、事とはどのようなことなのだろう。そして物と事の間に挟まっている言葉は何を意味しているのか。今の君には何も答えられない。意識が混乱していて答えられる状況にないのかもしれない。なぜ都合よくそんなところで混乱してしまうのだろう。ただ答えられない理由をねつ造しているだけなのか。答えるのが面倒なので、即席で意志が薄弱なっているわけか。まっすぐ答えに進むことができないので、わざと回り道をしながら道に迷った振りをしているらしい。それがいつものやり方を形作っているようだ。そうやって君は君自身のことを何も語らずにいられる。絶えずそこから話を逸らせながら偽りの文章を構成し続け、何もない空虚を導き出そうとしているわけか。しかし現実にはそこで何を導き出しているわけもなく、導き出している振りを装っているだけか。物と事の間にある隔たりをどう言い表せば納得できるだろうか。隔たりなどありはしないか。事物においても物事においても、それらは連続した一つの概念を形作っているわけか。言葉としてはそういうことかもしれない。しかしそれで何が理解できたのだろうか。何を理解しようとしていたのかわからなくなってきた。たぶん理解しようのないことを理解しようとしていたのかもしれない。わざと自らの意識と思考を迷わせているだけか。現状について何をどう判断していいのかわからなくなってきた。おかしな具合に言葉と文章が絡まってしまったらしく、まったく収拾がつかなくなりつつあるようだ。やはりそれらをまとめるためには何かが欠けているのかもしれない。
1月11日
おかしな表現は言葉の過剰さに依存しているようだ。何の展望もありはしないのに、雲一つない青空の下で晴れ晴れした気分でいられるはずがない。前後の文章で齟齬を来すのはそれらの間につながりを見いだせないからか。たぶんそれは本質的な話ではないのだろう。本質的ではない内容の集積がそれらの枝葉末節を構成している。そんな枝葉末節に物事の本質が見え隠れしているように思われ、それらを想像することが全くの見当違いかもしれないことを君は心配している。否定の連続は禁止事項に属しているのかもしれない。木を見て森を見ないのではなく、森を見てその森が含まれる山塊の形状を見ないのでもなく、山塊の形状を地図で見て、それが含まれる大陸の姿を衛星写真で見ないのでもなく、それらの衛星写真をインターネット経由で見て、店先に飾られた地球儀を見ないのでもない。それらを見ようと思えばさしたる苦労もなく見ることができるかもしれない。場合によっては見たくないものまで見てしまうこともあるだろう。しかしそれを見たからといってどうなることもない。見られる風景は次々と意識を通り過ぎるだけで、しばらく経てばさっきまで何を見ていたかなんて覚えていない。覚えていないどころか、意識は見ていない光景までねつ造しているかもしれない。実際に見ていないものを見ていたように装えばいいし、それを見ていたことを信じればいいわけだ。地球儀や地球の衛星写真は容易に見ることはできるが、実際の地球の姿を直に見ることのできる人は、今のところごく少数に限られている。しかし直に見ることと写真や模型を見ることの間にどのような違いがあるだろうか。感動するか否かの違いか。写真や模型でも直に見るのとは別の感動があるか。またある面においては、直に見るよりも写真や模型を見ることの方が、より多くの詳細な情報がもたらされ、その対象についてより深く知ることができるかもしれない。だがその対象とは何なのか。写真や模型も地球上に存在している物質を材料として作られたものであり、人工物であるがそれらも本質的には地球の一部に変わりない。木や森や山塊が地球の一部分であることとどう違うのか。それらに違いがあるとすれば、人と関係した時にその用途に違いが生まれる。木には木の用途があり、森には一本一本に限られた木とは別の用途があり、山塊にも森より広範囲な水準での用途があり、写真にも模型にもそれぞれ別々の用途がある。もちろんそれらの用途にも互いに重なり合う部分もある。単に見ることや眺める対象としては、それらはすべて同じ用途を共有しているのかもしれない。しかしそんな用途は用途とはいえないか。単なる退屈しのぎのどこに用途といえる要素があるのか。眼は何を見ているのでもないし、それについて何を思っているのでもなさそうだ。使い道のないものが風景のほとんどを構成している。見るべき対象のない風景の中に空虚な思いが包まれている。そこに思考するいとまなどあり得ないか。ただ上空の強風にあおられて雲が流されているのを見ているだけか。遠くから聞こえてくるのは竹藪を揺らす風の音と、救急車が遠ざかる際に発せられる間延びしたサイレンの音ぐらいか。いつの間にか転調してしまっている。結論というものがどこかに飛んでしまったようだ。そうなってしまった理由は何もなさそうに思えるが、たぶん後から思い当たる節を思い出すだろう。どこかに展望台があり、そこから眺める景色に見とれている人のことを想像している。流れる雲に適当な思いを託して、詩人の気分を味わったつもりになれるだろうか。ロマンティックな思いは後からとってつけたような展開を予想させる。メロドラマの脚本上ではそこで誰かに出会い、主人公は何らかの出来事に巻き込まれていくことだろう。そこに視聴者の気晴らしとしての用途が生じるわけか。見ることが必ずしも有効に機能するとは限らない。君はそこでどんな言葉が有効に機能するかを考えているらしい。
1月10日
興味本位でそこから中をのぞき込むと、誰かが必死になってもがいている。今はどんな状態になっているのか。もうとっくに限界を超えていることは確かだ。それでも何かをあきらめきれずに、フィクションの切れ端にしがみついているのは誰か。話を構築するための材料はいくらでもあるだろう。未来の自分が夢の中に現れて、もうその辺でやめておいた方がいい、と忠告していた。切れ目のない思考を維持できずに、またしばらく何もできない時が訪れる。それを成し遂げられぬまま、君は様々な風景に囲まれて暮らしている。丘の上から夜の市街地を眺めていると何かを思い出す。それらの結末から過去の残骸を眺めている。過ぎ去った時間を取り戻すことはできない。かつて君はそこで何を目指していたのだろう。別にゆったりとした時の流れを体験したかったわけではないが、現状ではそれらの時を感じている間がなさそうだ。いったいどこで目算が狂ってしまったのか。見当違いが生じたのはいつだったのか。なぜ人々は生き急ぐのだろうか。そんな風に思われるのはなぜだろう。人はいつ何時でも睡眠時間を削って寿命を縮めようとする傾向がある。社会の制度がそれを助長しているのかもしれない。仕事のある者には際限のない仕事があり、仕事のない者には際限のない就職活動がある。そのどちらもが人を眠らせないように作用し続けている。確かにそれらの社会にはそんな一面もあるかもしれないが、それでも最終的にはやはり眠気には勝てそうもないか。勝てないまでも、この眠気を何とかできないものか。何とかできないから結局寝てしまうわけだ。たとえ眠気に抗って何をどう考えようと、意識はぼやけてしまい、何のひらめきにも至らず、何の足しにもなりそうにない、無駄な時を過ごしているだけかもしれない。そうやって目の前に横たわるつまらない問題は先送りされるだけのようだが、それを先送りしてしまうと他に問題がなくなる危険性がある。しかし危険性などにいちいちかまっている余裕はない。ここはいけるところまでいって、あとはその時点で考えよう。だがその時点ではすでに忘れているだろう。とりあえず忘れてしまえば解けない問題などないも同然か。だがそれでやっかいな問題をかわしたとでも思っているわけか。そうは思わないが、それでもつかの間の休息を確保して、かろうじて息を吹き返した感はあるが、それでは何も思いつかずにさらに沈黙を長引かせているだけのようだ。問題の存在を一時忘れるだけでは、この手詰まりの状況をどうすることもできない。それでも苦し紛れに何か語っているようだが、その実態は、ただどうでもいいことをどうでもいいように述べているだけではないのか。しかしそう思いつつも、意識は別の可能性を模索している。そして手遅れだと思われる地点を大幅に通り越しているにも関わらす、まだどこかに突破口があると信じている。それを信じていれば少しは時間稼ぎができるだろうか。それが何のための時間稼ぎなのか不明だが、やはりもうそんなことはどうでもよくなってしまったのか。何のためでもなく、何のための語りでもない。語るタイミングを著しく逸しているのに、まだ執拗に何かを語ろうとしている。まだ感性の針はマイナス方向に振り切れてはいないと思っている。ゼロ点の前後を行ったり来たりを繰り返しているうちは、さらに言葉を繰り出すことができるわけか。気持ちが散漫で集中力が持続しないので、その状態をそのままに保つことはできそうにないが、ある瞬間においては、気の利いた言語表現に巡り会えるかもしれない。それは蜃気楼の一種なのかもしれないが、そのタイミングを逃さず文章として定着させれば、それなりの内容に結びつくだろう。だがそう度々そんな機会が訪れるわけもないので、とりあえずタイミングを逸した時には、今までの意味不明を続けるしか方法はないだろう。
1月9日
たぶん我々はつまらぬことに心血を注いでいる人たちのことを、無意識のうちに馬鹿にしているのだろう。ニュース画面や新聞の紙面に縮小された世界情勢には無関心を装い、誰の忠告にも耳を貸さない。もちろんそれらの態度がことさらどうしたわけでもなく、誰の目にも明らかなのは、それらの出来事に誰も直接関与しているわけではないということか。そこに誰かがいることは確かかもしれないが、今のところその誰かが君と関わり合うことはなさそうだ。そして君が関わっている出来事に彼らが関わり合うこともないだろう。それらの状況に関していえることは、競争などという概念はまやかしにすぎないということだ。誰と誰が競い合うこともなく、誰一人として同じことなどやっていない。そんな概念はこれらの時代に特有なイデオロギーから派生しているゴミにすぎない。現に君たちは自らの価値観が邪魔をして、我々の言説を受け入れることができないだろう。つまり我々と同じ価値観を共有して、同じ土俵で競い合うことができないわけだ。小心者の君たちにはそれについて直接反論することさえできないではないか。たぶん以上に述べたことは下らぬざん言の域を出ないことかもしれない。ざん言にさえならないたわごとの一種か。寝て起きて深夜に目覚めれば、意識はまたいつもの意味不明に取り囲まれている。いつまでもわけのわからない内容を継続させることは不可能かもしれないが、君はそれらの不可能をどうやって継続させているのか。まだ継続の過程を見破られていないのかもしれないが、いつも原因と結果の深刻な不一致がねじれた現象を引き起こす。繰り出された言葉がどこへも至らない。結末が遠すぎてそこまでたどり着けない。やはり単純率直に負けを認めよう。度重なる行き詰まりに困り果て、また過去の文章に助けを求めている。妥協とは自己に対して不誠実であることか。忙しさの合間には俄然やる気が出てきて、何もやらないうちから時間のなさを嘆いているのに、なぜ暇なときは何もできなくなるのか。暇なときは暇なときで何もやらずに休まなければならないらしい。しかしそれでは何もできないのではないか。その何もできないことについて意識は何を感じているのだろう。とりあえず何らかのプレッシャーでも感じているのかもしれない。そして何もやらないうちから様々なことを考えすぎかもしれない。しかしそれらの考え事は、ただ頭をよぎるばかりで文字として記されることはほとんどない。実際に記される内容は何も見あたらない。何もないのにやり続けることはできないだろう。たぶんできないはずなのだが、なぜかそれでもやり続けられるのはどういうことなのだろうか。何もないはずがないか。いったいそこには何があるのだろうか。やり始めた当初においてはちゃんとした目的があったのかもしれず、その目的に沿った何らかの思惑もあったのかもしれないが、言葉を連ねているうちに微妙に心変わりがしてきてしまったようで、肝心の文章の方はといえば、当てが大きくはずれて意味不明になるしかない。しかしここに至って、なぜそんなことばかり述べているのだろう。それで何か不都合でもあるのだろうか。やりたくないことをやっているわけか、それともやりたいことをやっているはずが、そのやりたいことが気に入らなくなっているのだろうか。内容がわけのわからぬことが気に入らないのか。そうではなく、わけがわかりすぎているから気に入らないわけか。それらの意味不明はどこへ向かおうとしているのか。ある時点では退屈しのぎにやっていたことが、今はさらなる退屈を呼び込んでいるだけなのかもしれない。そんなことを感じているうちに、忘れていた言葉がふと脳裏によみがえってくる。今の時点では何かが足りないのだ。たぶん何か言葉が欠けているのかもしれないが、おそらくその欠けている言葉を今は思い出せないだろう。決して思い出すことはできはしない。そんな言葉はあり得ないからだ。それは過去の言葉ではなく、これから新たに生まれるはずの、未だ存在しない来るべき言葉なのかもしれない。
1月8日
君は我慢がならないことに囲まれて暮らしているようだが、それでもまだ今ひとつの辛抱が足りないようだ。すぐにおかしな方向へ脱線せずに、少しは肯定的なことを真正面から語らなければならないか。本当にそれができたならどれほど救われることか。何がどう救われたいのか不明だが、たぶん今日はわけのわからぬことを述べているわけではなさそうだ。しかしそれはいつの認識なのか。そんな思いこみを打ち消すように勝手に言葉が組み合わさって、これから構築されようとしている文章は、意識の中でそれとは別の感覚を呼び覚ますだろう。さらなる場所へ向かって、はたして今日は昨日より遠くへ歩むことができるだろうか。まだそれほど前進しているようには感じないが、以前からすれば少しはマシなことを述べているだろうか。あるいは以前よりひどくなっているのかもしれないが、そんなことを思っているうちにこれまでの歩みを振り返りたくなる。もちろんそんなことをやっている暇はないが、ある時ふとしたきっかけで過去の出来事を思い出したりする。以前の一時期に流行ったあれらの試みは今どうなっているのだろう。流れ去る年月を押しとどめることはできないらしいが、それでも人にはやらなければならないことが必ず一つ以上はあるとすると、今できることは何だろう。何もやらずに寝ること以外に何を思いつくだろう。深夜にカフェインの助けを借りて誰かが何かをやり続け、いくらやっても満足のいく結果を導き出せずに、毎晩のように煩悶するばかりだが、ある時、苦しみ悩んだ挙げ句の果てに突拍子もないことを思いつくが、一夜明けるとそれがつまらぬありふれた考えだと気づき、そんなことはすぐに忘れて寝不足気味の顔で仕事に出かけて行く。そんな毎日を繰り返し、いつしか君は正真正銘の老人になっていることだろう。そんな物語では物足りないだろうか。では、カリフォルニアの青い空はスモッグに煙り、陽気な歌声が古びたラジカセから聞こえてくるとき、そんな情景を想像している者には行ったことのない場所だと気づく。詩人の霊力は詐欺師のそれとどう違うのだろう。歌の力とはどのようなものだろうか。遠くにそびえる高山地帯に思いを馳せ、旅人は死ぬまで偽りの人生を送る。気まぐれと気晴らしが重なり合い、気休めとはどういうことなのかを考えている一方で、そこから繰り出される言葉の羅列に規則性を探ってみよう。何も脈絡が感じられないが、気まぐれに昼の記憶でも呼び覚ましてみるか。ブラインド越しに昼の日差しを感じて、盲人は枯れ葉の表面を指でなでて、冬の灰色を感受できるかもしれないが、枯れ葉は至る所に吹きだまっていて、それをどんなにかき集めてもきりがない。それらを眺めながら気の利いた一句でも思い浮かぶだろうか。限られた語彙とやり方を駆使してどんなに思いを巡らしても、つまらぬ内容に意識全体が覆われている現状を変えられそうもない。なぜかその程度のことに苛立ち、気が散ってから、今度は散らばった気の断片を意識が拾い集め、ジグソーパズルのように組み合わせて復元しようとしているらしい。現実にそんなことができるはずもないが、できるはずのないことを語るのは簡単にできてしまう。たぶんそうやって何を述べているでもなく、何も語り尽くせぬことを語り尽くそうとしているわけでもないが、はじめから語り方がおかしいと思われる。沈黙を打ち破って何を語ろうとしているのでもなく、ただ虚偽の言葉を組み合わせて架空の文章を構成しているだけか。そして闇夜に何らかの気分を醸し出している。外は闇夜ではなく月夜に寒風が吹きすさんでいるかもしれないが、架空の時空では闇夜に言葉を弄して適当な状況を構成したいようだ。いったいそこで何を述べているつもりなのか。そんな意味不明な試みをどうやって実現できるだろうか。何を成し遂げようとしているのでもなさそうだ。
1月7日
それをやって何か不都合でもあるだろうか。別に奇策を弄しているわけではなさそうだ。奇策ではなく、ただ奇をてらっているだけではないのか。見せかけだけの知識をどうやって知性に変換できるだろうか。君はいったい世の中の何を知っているつもりなのだろうか。誰もが抱く感情の行き先を知っているとでも主張したいわけか。しかし今さらファシズムもないだろう。歴史が繰り返されるとしたらそれは歴史を語る者の怠慢が招いた結果かもしれない。彼らは新たな時代の到来を新たな言葉で定義するのが面倒なのかもしれない。そんな態度をまねて、いつもの冗談で語るとすれば、1860年代の動乱と1960年代の動乱を重ね合わせて、今度は2060年代に動乱の時代がやってくるはずか。1860年代の明治維新と1960年代の学生運動は若者たちの革命幻想に基づいて起こった運動であり、それが百年ごとの周期で繰り返されて、今度は2060年代に再び若者たちの革命の炎が燃え上がったりするだろうか。そうだとすると今はどのような時期なのだろうか。2060年代が到来するまではまだかなりの間がある。今は何かの前触れの時代なのだろうか。前触れなどではなく、もうすでに何かが始まっているのかもしれないが、その始まっている何かは、歴史を語る者にとっては取るに足らぬ何かなのだろうか。彼らにとっては取るに足らぬ現象であっても、たとえばマスメディアにとってはそうではないだろう。情報業者は四六時中絶えず情報を発信していないと商売にならないようだ。しかしその情報を受け取っている者は過剰な情報によって消化不良に陥っているのかもしれない。受け取っている情報を利益に結びつけられずに、ただ無駄な労力を使って損失がかさむだけか。結局は過剰に言葉を弄さないと先へ進めなくなる。だがそれ以上何をやっても、もつれた糸がさらに絡まってしまうような気がしてくる。意識の中では収拾がつかなくなっているのかもしれない。近頃はただ話を込み入らせようとしているだけみたいだ。先へ進もうとしているのに意識は過去へ退こうとしている。誰が先へ進もうとしているのか。現実には妥協しているのに言葉の上では妥協できない。つまり嘘をついていることになるわけか。それはあり得ないことかもしれないが、そう思わずにはいられないのはどうしてなのだろう。そんなことがあるはずがないと思いつつも、夢の中で不意に脳裏をよぎる言葉に驚く。なぜそれをやめなければならないのか。どうやってそれを受け入れられようか。応じられない理由などありはしないが、やめられるはずのないことをやめるわけにはいかないか。いつやめてもかまわないのにやめられないわけはない。それでもやはりやめられずに言葉が循環してしまうようだ。言葉の上ではやめてもやめなくてもどちらでもかまわないが、それを実際の行動に移す気が起こらない。そうやってただ何もやらずに画面を見つめ続けるばかりか。現実の君が見つめている視線の先には何があるのか。実感としては何もありはしないが、それでもあるとすれば空虚な思いでもあるのだろうか。だが今はそんなありふれた見解では我慢できないか。虚無だとか空虚だとか虚空だとか、そんな類の言葉ばかりを好むのはおかしいか。嗜好の偏りは健康を害するかもしれないが、どのような状態が健康といえるのか。どうやら意識は結論に至りたくないようだ。君は様々な言葉があることを知っているが、それらを組み合わせて意味の通る文章を構築することが難しいことも知っている。だがいつも難しいと思っているわけではない。状況によっては簡単にできる時もあるだろう。しかしできあがったそれは、記述されたものとしては使えないことが多い。要するにつまらないわけか。しかし今はつまらなくてもかまわないだろう。何となくそう思える状況になっているようだ。そう思ってしまって何か不満でもあるのか。できれば少しでもおもしろくしたいところか。
1月6日
君は今日も道半ばにして眠気を催す。どこかに区切りを設けなくても、いつかはどこかで区切られるはずで、それが今なのかもしれないが、しかしこの状況にどう区切りをつけられるのだろうか。誰がどのようにして終止符を打てば納得できるだろうか。いったい誰が納得すると思うか。何をやっても限りがないのは悪循環に陥っている証拠か。だがそれで誰が気が狂うわけでもないらしい。どこかの誰かは至って冷静にその状況を眺め続けるまなざしを想像している。そんな風に登場人物を設定すれば何となく格好がつくかもしれない。しかしそれで淡々と作業をこなしているつもりなのか。たぶん悪あがきの先に諦念があるのだろう。しかし誰かはまだあきらめきれずに悪あがきの最中のようだ。感覚としてはいつまでたっても状態は昨日のままか。しかし現実には昨日でさえなく、あれからすでに三日も日付が経ってしまっている。それでもそれらの状況を継続させようとしている。なぜやり続けるかに理由などありはしない。同じような展開にはもはや飽きてしまったらしいが、いくら飽きてもまだやるらしい。感覚としてはまだ飽きる途中の段階に留まっているように思われる。しかしそんな状態で、たとえ気力を使い果たすまで努力したとしても、結果として何が達成されるわけでもない。ただの骨折り損のくたびれもうけか。そこにあるのはいつまで経っても完成からはほど遠いそれらの文章でしかない。君はそれでよしと思っているわけか。それともただそう思いたいだけで、それ以外にどう思っていいのかわからないだけか。たぶん飽きてもまだ適当に言葉を連ねていたいだけなのだろう。他にやりようがないのでそれしかできない。それでいいのなら苦労はしないか。だが現実には苦労している最中か。ただできもしないことをやろうとしている途上にあるらしく、もうだめだと思いたくないばかりに、無理矢理言葉を弄しているにすぎないのか。要するに末期的症状を呈しているわけか。ただやっている当人には何が末期なのかよくわからない。四角い平面を文字で埋め尽くすだけの作業に、末期も何もありはしないだろう。それらの文章に目的などないのかもしれない。はたしてこの世界に暮らす人々に共通の目的などあるだろうか。学校教育などから影響を受けたスローガン的な目的を唱えることぐらいは誰にでもできるだろうか。我々には世界中の人々を幸福にしなければならない義務がある。たゆまぬ努力と日々の労働によってそれを実現しなければならない。今ある現状と比較するとかなり抽象的な目的に思える。とりあえずそれらの作業は労働とは異質な営みだと思われる。それらによって何が有効に機能しているのかを知らない。言葉で表現された内容とその文章の機能は別物ではないのか。人類の最大公約数的な利益を文章の中で示すことによって、何らかの効果を期待するのは虫がよすぎると思われる。それでは気休めや言い逃れ程度の機能しかもたらさないような気がする。自分たちが平和な安全地帯に暮らしていて、暴力反対や世界平和などをいくら唱えても、それは自分たちと同じ立場を共有する人々を意識した外交辞令にしかならないだろう。そんな文句で感動するような人は世間知らずもいいところか。とても気が利いているとは言い難いだろうか。しかしそれ以外に何か肯定的な内容があるだろうか。愛こそはすべてだとか歌ったからといって、現実にどうなるものでもないような気はするのだが、とりあえずメロディが美しくてそれなりの人が歌えばヒットするかもしれない。だがそうなったとしてもそういうことでしかない。それ以外に何が期待されているのだろう。君はどうなれば気が済むのだろうか。歌がヒットするのと世の中が変わることにつながりでも見いだせば満足するだろうか。それは単なる勘違いに終わる公算の方が強いか。
1月5日
言葉を弄して導き出そうとしている当のものを捉えきれぬまま、意識の視界から対象が消え去ろうとしているとき、当初において何を求めていたのかを忘れてしまう。ただ迷うばかりで一向に視界が開けてこないようだが、それをどう言い表せば満足するだろうか。どのような言葉を用いて表現しても、決して気が済むことはなく、いつまでたっても不満のただ中で答えを見いだせずにいるらしいが、とりあえずの回答ならいくらでも導き出せそうだ。虚無の中に適当な答えが転がっているはずか。それを困難と感じる理由は何だろう。なぜそうまでしてそこへ留まろうとするのか。どうやらこの先へ進むのが次第に難しくなりつつあるようだが、いったい何が障害となっているのか君にはわかっているはずだ。行く手に立ちふさがっているのは誰でもなさそうだ。気に入らぬ現状を否定しながら、その現状の助けを借りて言葉を導き出す。そんなやり方で気が済むはずもないが、それ以外のやり方を思いつかない。誰がそう思っているのか。心の奥底からつまらないつぶやきが聞こえてくるわけがないだろう。つぶやいているのは君自身かもしれない。意識にまとわりついて離れようとしない疑念をはらそうとして、そこから抜け出られなくなる。それ以上何をどう考えても、たぶんそれは毎度おなじみの問いかけになってしまうだろう。いったい君はそこで何を求めているのだろう。この世界に求めるものなどありはしない、と嘘をついてみたところで何の実感も湧いてこないか。何を求めてみても本気になれないのが今の実感だろうか。実際に何を求めていいのかわからないし、求めて手に入るものがあったりすることが信じられない。それでも内心では何かしら求めているのかもしれないし、求めれば実際に何かしら手に入るのかもしれない。しかし手に入ったものが、はたして求めていたものかどうか疑問に感じる場合が多いか。確かに過去の一時期においてそれを求めていたのかもしれないが、それがいったん手に入ってしまうと、すぐにどうでもいいものになってしまう。それに対する思い入れがすぐに冷めてしまうのはどうてなのだろう。求めてから手に入るまでの途中に欲望の本質があるということか。求めているものに対して想像力をふくらませているときが至福の時なのだろう。そして手に入れると同時に夢から覚めて、こんなものではなかったはずだと思うわけか。はたしてそれでいいのだろうか。それではいつまでたっても無い物ねだりにしか行き着かないだろう。だがそれでかまわないのならそれに越したことはないか。君はそこから何かを学ばなければならないと思うが、何を学んでいいのかわからないだろう。学ぶ前にすでに学んでいるはずだ。第一に今ある現状で妥協しなければならない。そして第二に今ある現状を楽しまなければならない。さらに第三に今ある現状を変えなければならない。結局は現状を否定して、その現状に自足している君自身の立場も否定しなければならなくなる。まだこんなところで立ち往生している君は無能者だ。いったいいつになったら通常の時空へ戻れるのだろうか。過去に対してこだわりが何もないわけではないが、過去から連綿と続く慣習に引きずられて、いつの間にか身動きがとれなくなっている。しかしここからどうすればいいのだろう。なぜ眠気は魔物にたとえられるのか知らないが、ここは睡魔に襲われて眠ってしまってかまわないのか。ここで寝てしまえば、また過去の時空に取り込まれたまま、ただそこへ留まるだけか。はたして未来の君はそれでかまわないと思うだろうか。それでかまわないのならそれに越したことはないか。はたして君が求めていたのはそんな状況だったのか。もしかしたらそれでよかったのかもしれないが、今はそれとは別の状況へ移り変わろうとしているらしい。すでに何を求めていたのか忘れかけているようで、睡魔がそれを思い出させないように、意識の中で煙を炊いている。そんなことがあるわけがないか。
1月4日
そこで何を怖がっているのだろう。恐ろしいことはそれほど恐ろしくはない。むしろ普通であり続けることの方が恐ろしい。その場合、平常心は狂気と同居している。それらの狂気から逃れるには何も思わぬわけにはいかない。何かしら思っているうちは、自らの平常心を信じると同時に忘れていられる。何かをやり遂げようと思っているうちは、虚無の重圧から解放されたつもりでいられる。たぶん何もなければ気が狂うしかないのだろう。もちろん気が狂う恐怖があった方が正気でいられる。だが四六時中何か思っているわけにもいかないだろう。いつか魔が差して、ふとしたきっかけで何も思わぬ時が訪れたりするだろうか。たぶんそのときは狂っているか死んでいるかのどちらかになるだろう。不可能を意識するとき、それでもそれを思い続けられるだろうか。今は何が不可能なのかを忘れている。言葉を弄して行くうちにそれらの不可能があらわになってくるかもしれないが、その不可能にどう対処していいかわからない。たぶん影ならその対処法を知っているかもしれない。だが知っているとしても決して教えようとはしないだろう。それは教える必要のないことであり、教えてわかるようなことではないのかもしれない。影自身の存在も含めてそれらはすべて想像の域を出ない話か。しかし想像することがまったく不可能なわけでもないか。ではいったいこれから何を想像するつもりなのか。気が狂わぬために不可能な対処法でも空想してみようか。いったい何が不可能なのだろう。どうすることもできないというのか。何もない場所を想像できても、そこにとどまることはできない。そこでは必ず無から有が生じてしまうだろう。いつかは言葉を繰り出さずにはいられなくなる。空虚には言葉の素となる虚無がぎっしり詰まっているわけか。いったんそれを繰り出したら最後、いつまでもとどまることを知らなくなってしまうわけか。いったんそうなってしまってから正気でいられるだろうか。君は自分が本当に正気だと信じているわけか。正気であったとしたらどうなのだろう。それが気が狂っていない証になりうるだろうか。では正気であると同時に狂気にとらわれているとしたらどうなのだろう。どうもこうもなく、ただひたすら言葉を弄して語り続けるまでか。それ以上は何も述べてみても無駄なのだ。その状態を超えることなどできはしないし、その状態のままでいられるわけもない。躁鬱の波を繰り返しながら疲れ果て、眠気とともに意識が定かでなくなるだけか。だから別にアルコールの助けを借りる必要などもないのだろう。酒によって演じられる宴会的な狂気には見苦しいものがある。本当の狂気から逃れて飼い慣らされた狂態にうつつを抜かしているだけだ。そこに常に普通ではいられない人間の弱さが凝縮されているのかもしれない。恐怖映画を見ながら騒ぐ人々とやっていることは同じか。中高年が何かと駄洒落を口走るのも同じ類の逃避行動なのだろう。それによって、普通でいることによって生じる耐え難い緊張感を何とか解消したのだろう。こわばった神経を解きほぐすためにそんなことをやりながら、日々感じている不条理をごまかしている。そうしなければ気が狂ってしまうわけだ。普通に暮らしているだけでは気が狂ってしまうから、そこに何らかの倒錯を用意しなければならなくなる。当然その中には犯罪に走るという選択肢もあるだろう。変質者が学校に侵入して刃物を振り回すのにもそれなりの必然性があるのかもしれない。それも現代人の行動のバリエーションの一つなのかもしれない。
1月3日
だいぶ前から気の利いた内容を思いつきそうにない雰囲気に包まれている。そこにどんな言葉を付け足してもしっくりこない。そうやっているうちに気力は次第に薄れてきて、意識の奥底には眠気だけが残る。今さら何をやっても無駄だと感じるとき、君はそこで何をやろうとしているのか。やる気が持続しなくなるときが終わりの時なのかもしれないが、やる気もなしに何を継続させようとしているのか。それはたぶんこれまで惰性でやってきたことかもしれない。しかしそれでもやらないよりはマシだと思っているわけか。だが影はそれとは違う風に思っているのかもしれない。マシだなんてこれっぽっちも思っていない。惰性で続けるなんて最悪か。しかしその最悪の状態こそが望むところか。絶望のどん底から天井を見上げれば、希望の光が微かに差し込んできたりするものだろうか。だが安直にピンチはチャンスだなんて言い放つのは、単なる強がりにしかならないのではないか。そうやって出てくるものは掛け声だけの強がりや痩せ我慢ばかりで、他にめぼしい内容はないようだ。いったいそこにどんな内容を付け加えれば価値が宿るのだろう。それは誰が決める価値なのか。自意識はどんな類の価値を求めているのか。何かしら価値に結びつきそうな断片がそれらのどこにあるのだろう。そんなことがわかるはずもなく、結局はつまらぬ言葉の循環に陥ってしまう。それでも時は過ぎ去り、無駄に言葉を繰り出している者は着実に老いて行く。老いはそれらの言説の構築作業に何をもたらすのだろうか。反射神経の衰えや柔軟さの欠如が紋切り型表現の頻発を招いているわけか。それは脳の神経回路が硬直している証になるだろうか。君はそうなってもまだ続けられるだろうか。そうなる以前にやめているかもしれないが、すでにそうなっているかもしれないのに、それを認めることができない場合もあり得るか。それはそうなってみなければわからないことかもしれないが、すでにそうなってしまっているのだとしたら君はどうするだろうか。どうもしはしないだろう。その時点でもはや制御不能なのかもしれない。すでに君にはどうすることもできない状況に陥っているわけか。今そうなっている証拠がどこにあるのか。そんなことを示せたら苦労はしないか。君がわかっていることは、それをわかろうとしていないことか。わかったと思うことがわかっていない証となってしまうかもしれない。だがそれでもすべてをわかろうとしてないわけではあるまい。すべてではなく、限られた範囲内で中途半端に思考を巡らせているだけか。限られた思考ですべてを知ろうとは思わないのは当然のことか。しかし多くの人々はそれですべてを知りたいと望んでいる。望むのはその人の勝手か。望みたいならいくら望んでもかまわないということか。望んでいるうちは、望んでどうなるものでもないとは思わないか。では望みをあきらめるときはどんな瞬間になるだろうか。いくら望んでもいっこうに望みが叶わぬ時にあきらめてしまうものだろうか。だが君は望みが叶わぬと思った瞬間からそれらを開始したのではなかったか。叶わぬことを知りながらもやり続けることに、何かしら積極的な意義を見いだしているわけか。そうではなく、君の望みとは無関係に継続させることが肝心なのかもしれない。それらは君の所有物などではなく、誰のものでもなく、誰の思いも跳ね返す力を宿らせなければまともな内容とはなりがたい。ただそれだけで自立しているように見せかけなければならない。しかしはたしてそんなことが可能だろうか。
1月2日
悲観的な未来を語るのは思わせぶりに思われる。それは何かの予言なのか。たぶん何か警鐘でも鳴らしているつもりなのだろう。今ある繁栄を長続きさせるために、進んで社会の指導的立場にある者に対して諌言すべきだとでも思っているわけか。そうしなければならない理由はどこにあるのだろう。またそれをやって受け入れられる立場とか社会的地位みたいなものがあったりして、そうでない一般人が何を言っても無視されるだけなのか。そんな世の中は滅びた方がいいのかもしれない。誰かが数年前に抱いていたことを要約すればそんな内容になるだろうか。今となってはそんなことはどうでもいいことかもしれない。もうすでにそんな図式は無効になりつつある。というより、社会がそのような仕組みを必要としなくなっているのかもしれない。結局嘘がばれてしまったということになるだろうか。指導的立場にある者とかそれに対して諌言する役割を担っている者とかが、両者とも一般の人々から全く信用されなくなってしまったのかもしれない。両者ともにやっていることといえば、自らの保身や延命のみであることがばれてしまっているように思われる。何かことあるたびごとにメディアに露出しては偽りの対立を演じているだけで、彼らが常々主張している問題はいっこうに改善される兆しはない。そうやって何の成果も上がっていないのに、もう何年も同じような顔ぶれがメディアに登場しては同じような議論を戦わせているだけだ。ふつうの会社なら彼らはすでにリストラ対象になっているはずかもしれないが、未だにテレビ画面に顔を見せては、相も変わらず音声付き自動販売機のように同じようなことを主張し続ける。しかしそれの何が問題なのか。それこそ彼が望んでいた状況なのではないか。今や誰もが愚かさに関しては平等の立場を共有しているわけだ。それがこの社会の成熟を物語っているのではないだろうか。誰もこれでいいとは思わないだろうが、人々の意に反してこのような状態が社会の繁栄を示している。これこそが社会のあるべき姿なのかもしれない。こうであり続けなければ、誰も偉そうに社会批判などできはしないだろう。彼らが相も変わらず利いた風な意見を述べ続けるのためには、この状態の維持が是非とも必要なのかもしれない。たぶん何かのきっかけで状況が変化するような事態になれば、毎度おなじみの批判を繰り返す彼らの立場もなくなってしまうだろう。だからこそ自分たちが批判できる程度の社会状況を保たなければならないわけなのか。もちろん意識してそうしているわけではなく、自らがそこに居座り続けて、何の変革ももたらさないような言説を操り続けることが、結果的にこの状態の維持につながり、彼らの延命に寄与している。だが彼らはそれ以外には何もできないのだし、やりようがないのだから、それはそれで仕方のないことなのだろう。しかしそれ以外ことができる者が果たしてこの社会に存在するのだろうか。それに関してはこれからちょっとした出来事に感動するだろう。それ以外は何も思わない。君はそこで何を述べているのだろう。予言ではなく予告かもしれない。ただそれだけではないはずだ。夜に何を思っても夜は夜でしかない。神は夜を昼に変えようとしているわけではない。期待をかける人は何を望んでいるのだろう。その期待が裏切られることか。期待が裏切られ、最悪の事態になることを期待しているわけか。そんなことは誰も望んではいない。それは物語の特性なのかもしれない。困難が到来しないと話にならない。深刻な事態にならないと盛り上がらない。不幸にならないと感情移入ができない。何もなければ何も語る必要はないか。
1月1日
運がいいとはどういうことだろう。苦し紛れに何かを探しているようだ。精神の集中はどんな結果をもたらすだろう。にわか仕立ての精神論で難局を乗り越えられるはずもないか。それでも少し前からやる気になっているらしいが、感性からはずれたことを述べている。影の不在は自我をむき出しにして、意識は感情を優先させる。どんなに努力しても思惑の不一致を埋めることはできない。誰と誰の思惑がずれているのか。そんなことはどうでもいいことか。次第に終わりようのない状況に追い込まれつつあるのかもしれないが、気休めに終わりの時を想像してみるが、遠くに見える山並みが近づいてくることはない。遠くに見える風景はこちらから近づいていかない限り遠くに見えるだけか。たぶん過去の何もかもから意識は遠ざかろうとしているのかもしれない。そしてすでに身体から言葉が去ろうとしている現状を無視して、何も我慢比べをしているわけでもないのに、さらに君は歩を進めようとしているようだ。それは無理だろう。ここに至ってまだいくらかやる気はあるらしいが、見失っているものは見失われたままになるしかないのかもしれない。思い出せないものは後から別の出来事をねつ造して穴埋めすればいいのだろうか。同じようなことを繰り返しているのにも、それなりに苦労が絶えないようだが、たぶんやればやるほど多様性は失われてしまうのかもしれない。やっていることをその基準に照らし合わせて考えるとそうなってしまうが、それでも何らかの結論に至りつつあるらしく、やっていることに意味を見いださないならば、それは何でもなくなってしまうような気がしてくる。そこで結論に至って終わりとなってしまうのだろうか。そんな風にしか思えないのはどうしてなのだろう。結果のわかっている歴史を物語で繰り返して何がおもしろいか。おもしろく思う人にとってはおもしろいのかもしれない。そのおもしろさがわからない人にはわからないか。そんないい加減なことを述べていていいのだろうか。時代から見放されているのはどちらの方だろうか。飽きもせず同じことを繰り返している人々によってこの世の中は支えられているわけか。おそらくそれだけではないと思う。彼らはきりのいいところでやめられないのだ。やめるきっかけを見いだせないでいる。彼らにはやめる理由が見あたらない。それらを自主的にやめることなどできはしないだろう。外的な圧力でもかからない限りいつまでたってもやり続けるだろう。破滅に向かってまっしぐらなのかもしれない。そういう意味では破滅は必要不可欠な現象かもしれない。破滅や破綻や人の死がない限り、世の中は動いて行かない。失敗がないと別のやり方は採用されないまま闇に葬り去られる運命か。それでもやり続ければ、地下水脈を通っていつか地上に姿を現すことができるだろうか。その場合地上とはどんな意味をなすのだろう。何が地下で何が地上なのだろうか。それは人の見方や感じ方にもよるだろうか。必ずしもここが地下であそこが地上だと思っているわけではないらしい。君にとってここは地上であっても地下であってもかまわないのかもしれない。それが暗中模索なのか試行錯誤なのかわからないが、何かしら言葉を弄しているだけのようでもあり、そこに何らかの思惑を見いだそうとすれば、それを即席で構成することも可能かもしれない。行われていることには何かしら意味が宿っていると思えば、とりあえずはそう思われるだろう。
2003年
12月31日
まだこんなところに留まっている。それでも少しは前進しているような気はするか。何とかしようとして何とかしているつもりなのか。確かにようやくすぐ近くまでやって来た気がするが、はたしてここから先へ進むことができるだろうか。できなければやめるまでか。ここまで来てそんな気はさらさらないだろう。しかしそれらについてどう思ってみても、この先もつまらぬ世の中が続いてゆくだけかもしれない。本当はそんな風には思いたくないが、たぶんこれまで通りを続けようとしている人は大勢いることだろう。それが恒例の行事でないと困るわけか。そんな思い込みが崩れてしまってはまずいわけか。自分たちが勝手に主催する行事に多くの人が参加してくれないと面目が立たなくなるわけか。できればそんな立場にはなりたくないが、実際にそれらの行事を執り行っている方は大変かも知れない。しかし見れば見るほどつまらなく思えて来る。もしかしたらやっている方も案外飽きているのかも知れない。とりあえずそんなやり方も飽きられれば徐々に廃れていくだろう。そうなることを願っているが、自分一人が願ったところでどうなるものでもなさそうだ。馬鹿げたことを本気でやっている人達には呆れるばかりで、そんなことをいくらやっても感動するわけはないと思うが、自分一人がそう思っても他の人はそうは思わないのだろう。それがいまだに大だい的に執り行われているところを見ると、それを馬鹿げたことだとは思わない人達が多数派を形成しているのかも知れず、そんな現状を自分一人で変えられるはずもないか。そんな風に思ってしまうこと自体が、それらに対してすでに敗北を認めている証拠かも知れないが、馬鹿げたことにもそれなりの存在理由や必然性があることは確かだ。それがなくならない限り、それらの行事は今後も続いてゆくだろう。そこに皆の視線が集中していて、それを提供している側がそこから利益を得ていると思い込んでいるうちは、誰もそれをやめさせることなどできはしない。本当にそうなのだろうか。本気でそんな風に思うわけか。とりあえず気に入らなければ見なければいいのだし、実際に見ていないようだが、それで気が済んだのか。要するにそれを見ている多数派の存在が気に入らないだけか。そしてそんな感想を抱いてしまうことが気に入らないわけか。なぜそんなことはどうでもいいと思わないのか。何かにこだわらなければ何もできなくなってしまうだろうから、ここは何でも構わないから、それらの行事に対して反感を抱いておいた方が得だということか。しかし本当にそんな理由でここまで述べてきたわけではないだろう。本当は理由らしい理由など何もないのかも知れず、それらはただ言葉を労するための題材に過ぎないのかも知れない。所詮は年末年始のイベントなどすぐに忘れ去られてしまうようなものでしかないだろう。単なる娯楽に気晴らしや気休め以外のどのような意味もありはしないか。しかしそんな風に思ってしまっては元も子もない。これまでの言説がまったくの無駄でしかなくなるだろう。だが無駄は無駄なりに何らかの効用はあるのかも知れない。結局はすべてが無に帰すことが自然な成行きなのだろうか。
12月30日
不可能なことはできないが、それを不可能だと思うのは間違いかも知れない。しかしそれを繰り返してどうなるものでもないだろう。執拗なまでに繰り返される問いを取り除くことはできない。取り除いた後には何も残らないだろう。君は内面に何もないことを疑っているが、それを知り得る立場にはないので、その疑念を払拭することは不可能だ。なぜそれほどまでに懐疑的なのか。何に挑戦しているわけでもないのに、なぜ無理を承知で問い続けようとしているのか。問われているのはそんなことではないのかも知れない。そこで問われているのは君とは無関係なことだろう。君は問う必要も考える必要も答える必要もないことについて語っているようだ。不意にそんな思いに因われて何もできなくなってしまう。そうではないと思いたいが、どうしても問う根拠を見出せずに途方にくれながら、何げなしに昼の空を見上げれば、鳥が空高く飛んでゆく。ただそれだけのことにどんな効用があるだろうか。上を向けば背骨が伸びてすこしは運動になったりするわけか。だいぶ疲れが溜っているようだが、あのとき君は何にのめり込んでいたのだろう。何かに夢中だった記憶はないから、たぶん何ものめり込んではいなかったのかも知れない。そのとき何を思っていたのか思い出せないが、もうだいぶ手遅れ状態を放置しているようで、この期に及んでまだ立ち直れる機会がめぐって来るかどうかは分かりかねる。何のきっかけも見出せないのに、さっきまでの眠気はどこかへ消え失せ、何かの転換点を過ぎたように思われ、視界が急に開けたような気になり、その時点ではわずかにかいま見たと思えた誰かの情念も、いずれは過去の記憶として忘れ去られて、結局は以前と同じ状態の繰り返しを期待している。そのとき彼は気まぐれに何を思っているのだろう。彼の代わりに中身のない空虚そのものが出現して、どこまでも意味不明な地平が続いている。それでも相変わらず君は不正確なことを述べているようだ。いったいそれらの何が正確さを欠いているのか。面倒臭いのでいちいちそんなことには言及しないので、架空の対話はそこで一時停止状態になる。相手もいないのにいつ対話が成立していたのだろう。すべての言説が不正確な語りで構成されているようだ。君はその不正確な語りを用いて、誰に何を分からせたいのか。分からせたいのではなく、迷わせたいのだろうか。その辺がよく分からないが、何か人を迷わせるようなことでも述べているつもりなのか。誰が迷っているわけでもなく、ただ君自身が迷っているだけなのではないか。たぶん君は何を語ろうと君以外では何も起こりはしないだろう。君の語りにそのような力はない。それがあるかないかは君自身には分かっているはずか。なぜかそこでモノローグが循環しているらしい。いつまで経っても君は君以外の誰にも語っていないわけか。だがそこに君がいるはずもない。そこでは誰も何も語っていないように思われる。沈黙に支配された画面上に文字が記されているだけか。その中には君という文字も記されている。しかしそんな述べ方ではつまらないか。君以外の誰がつまらないと思うのか。文字に記された君ではなく、生身の君ならそれについて何か思うだろうか。何か適当に思って欲しいわけか。誰がそう思って欲しいと思っているのだろうか。しかしなぜそんなことにこだわっているのだろう。他にやりようがないからそんな循環になってしまうだけのようだ。
12月29日
いくら言葉を弄しても、話の中身がいっこうに見えて来ないようだが、君は今何を見ているのか。夜の闇の他に見ているものがあるだろうか。テレビはさっき消したようだが、何もないのでそこから何かを思い出して適当に語ってみよう。画面上の人々は暴力に飢えているのだろうか。そうではなく、ただそれを見物したいだけなのだろう。蹴り技は痛そうだが、間接技も痛そうだ。もう少し痛みを和らげたいのなら、人体の代わりにボールを蹴るスポーツもある。それを直接サッカーと呼ばないのはわざとらしい言語表現か。格闘技よりボール・ゲームの方がやっているぶんにはいくらか痛くないか。とりあえず身体がぶつかり合う競技は痛そうだ。スポーツで怪我をすれば不健康になるだろうが、スポーツを真剣にやればやるほど、怪我をする危険度も増してゆくのかも知れない。それがスポーツをやる者について回る宿命か。では健康のためにやっているスポーツにはどのような意味合いがあるのだろう。より軟弱な部類に入るということか。それをやる目的が違うということか。勝つためにやるスポーツほど怪我する危険性があるということになるだろうか。同じ条件で競技をする以上、競技相手より無理をしないと勝てないし、無理をして身体に負荷をかければ、その結果として怪我をする可能性も出て来るわけか。とりあえずテレビ画面を通してそれを見るだけなら怪我をすることもない。しかしなぜそんな当り前のことを述べているのだろうか。別に今からスポーツをやりたいとも見たいとも思わないのに、そんな自分とは全く無関係なことを述べて何がおもしろいのか。なんとなくそんなことを思いついただけか。ふと思うのだが、君はこれからどうなるのだろう。何をどうするつもりなのだろう。もしかしたらそれとは気づかずに何らかのゲームをやっている最中なのかも知れないが、たとえそれを知ることになったとしても、そんなゲームには興味がない。知りもしないに興味があるかないかなんて分かるはずもないか。だがそんなことはどうでもいいことか。これから自分が何を語ろうとしているのか分からない。いまだに以前の感覚が戻って来ないようだ。久しぶりに操作している機械も、取り扱いに慣れるのにまだだいぶ時間がかかりそうだが、あれからどれほどの時間が経過したのだろう。あれとは何のことなのか、そしてもうこんな時間らしいが、こんな時間とはどんな時間なのだろう。やはり頭脳からは意味のない言葉が出力されるだけのようだ。もしかしたらそれが以前の感覚なのかも知れず、今はただその感覚を忘れているだけかも知れない。だいいち感覚が一定の状態であるはずもなく、状況によって様々に変化するのが人の感覚であり、以前の感覚も千差万別でいろいろな感覚があったはずだ。つまらぬうんちくとしてはそんな見解もありかも知れないが、それがどうしたわけでもないか。今は感覚ではなく、思考を働かせなければらないか。だがそれ以前に思考する対象を見出せなければ思考しようもないか。いったい何を考えれば気が済むのか。気が済むために考えることがはたして必要だろうか。たぶんそんな意識の水準では何も思いつかないだろう。思いつく必要を感じない。
12月28日
数日前から作業を怠けているうちに、なぜかわけの分からぬ展開に突入してしまったらしい。わけなら少しは分かっているはずか。ハードウェアが故障してしまい、窮余の策として今までとは別の機械を使っている。そんなことではなく、どうしてそうなってしまったのかが分からない。よりにもよって様々なことがたて込んでいるときに、なぜそうなってしまうのか。単なる偶然で片付ける気にはなれない状況なのだが、それでも何とか続ける気にはなっているようだ。しかし別のハードとソフトではどうも調子が狂ってしまい、今ひとつ調子に乗り切れないまま、次第にやる気が失せて、記述している内容にも納得できない状態が続いている。しばらくの間どうしていいのか分からなくなってしまったりしている。こんなとき君は何を思っているのだろうか。思っているのではなく、何かをしているわけか。取り立てて何もやる気はしないが、それでも何かしらやっているはずか。たぶん呼吸ぐらいはしているだろう。その他には何をやっているとも思わない、文字を記す以外は。だいぶ投げやりな気分が先行しているようで、今さら気を入れてやる気にはなれないのだが、状況的にはやらずにはいられないようだ。それはどんな状況なのだろう。とりあえずはそれ以外にやることがないのでやるしかない、ということだろうか。別に君がやらなくても他の誰かがやるだろうし、実際にやっているはずだろう。しかし君にとっては他の誰かがやっていることはつまらないと思われる。それは人にもよるだろう。中にはおもしろい内容を書く人もいるだろう。とりあえず他人の文章を読めば、それがおもしろいか否かが分かるかも知れないが、別に分かったところでどうなるものでもないか。おもしろければおもしろかったで、例えばそれを書いている人に嫉妬したりするだろうか。他人に嫉妬してどうなるものでもないか。場合によってはどうにかなるかも知れない。人知れずそれを真似たりするわけか。それはよくありがちなことだろうか。俗に言うパクリというやつか。その文章があまりに魅力的なので、そうする以外に考えられないときもあるだろうか。それ以外にやりようが無ければ、良心の苛責に逆らってそれをやるしかないか。だがパクる気がないときはどうすればいいのか。それさえもできないとなると、他にやりようがないか。それが行きづまりということか。ただ何もできなくなり、何もできないままの現状をただじっと眺めている。焦点が定まらないまま、どれほどの時間が経過しただろうか。寝て起きてまた現状を眺めて、そうしているうちにまた眠くなり、気分はだんだん憂鬱になってくる。そしてなんとなく現状に嫌気がさしてくる。しかしそれでもまだ黙って眺め続けていると、今から自分のやろうとしていることがまるで他人事のように感じられて来る。心の制御機構のどこかが狂っているのかも知れない。そしてなんとはなしにその心理状態のままでいたいと思うようになる。自分のやり続けていることが自分で理解不能に陥っているらしい。それが楽しいわけか。何か全面的に矛盾しているようで、その矛盾している様が楽しい。無理矢理そんな風に思っているだけかも知れないが、それを合理的な理由とともに考える気になれない。何をやっているのか定かでないままに過ごしたいのか。
12月27日
君はそれ以上に何を知っているというのか。それ以上のそれとは何だろう。普通に思うことが何をもたらすのだろうか。具体的に何を思うかによって違ってくるかも知れない。それについて君がどう思ってみても仕方のないことか。それとは例えば世界情勢とか何かの大げさな事象か。国家について何を述べてみてもどうなるわけもないか。君には関わりのないことなのか。関わりがあるかないかは君次第になるだろうか。たぶん関わりがあるのは君ではなく他の誰かだろう。政治家とか官僚とかなら何らかの関わりがあるのかも知れない。なぜか今年はユニセフの募金に二回も応じてしまって、ネット経由で四千円ずつ送ってしまったわけだが、別に世界の子供たちに何の思い入れもないし、貧しい地域に暮らす子供たちが死のうが生きようが、送った金のおかげで学校に通ってどうなろうと、自分がどうなるわけでもないだろう。とりあえず自分の行動については懐疑的だ。自分は誰かに試されているのだろうか。それとも単なる自意識過剰でしかないのだろうか。しかしなぜ子供たちは夢を持たなければいけないのだろうか。そんな問いに取り立てて意味らしい意味はないか。夢を持ちたければ何か適当な夢を持てばいい。そしてその夢を実現させるために努力してみればいい。努力してみれば何らかの結果が到来するだろう。努力しなくてもいい。努力しない方が幸せになれるかも知れない。努力してもしなくても不幸になるかも知れない。どちらでもかまわないのかも知れない。夢など持たなくても生きて行けるかも知れない。夢を持っても持たなくてもかまわないのかも知れない。何をどうやってみてもなるようにしかならない。そしてあきらめてもあきらめなくてもいい。人それぞれにそれぞれの結果が待ち受けている。いったいそれらの可能性のどこで踏みとどまろうとしているのか。踏みとどまれるはずもなく、ただ行ったり来たりを繰り返して、様々な結果の手前で彷徨うばかりか。可能性はどこまでも可能性以外には行き着かない。しかし可能性のままでいられるはずもない。放っておけば可能性はいつしか消え失せ、現実が双肩にのしかかってくるだろう。そうなってから可能性を試さなかったことを後悔しても始まらない。後悔するのもひとつの結果なのだ。後悔している自らにはまだ可能性があるかも知れない。ならば今度はその可能性を試してみればいい。どこまで行ってもそんなことの繰り返しにしかならない。そこで終わりなどと思うのは現状に対する甘えだ。もちろん甘えたままでもかまわないか。甘えた態度に徹することが何らかの結果を呼び込むだろう。どのような結果に至ろうとも、その結果からまた別の可能性を窺うことができる。タマネギの皮をいくらむいても涙が止まらないだけか。それが何のたとえなのかよくわからないが、いくら語っても大して意味のない言葉がいつまでも続いて行くだけのようだ。たぶんそのような手法に終わりはないのだろう。人の生き死にに意味があるとすれば、そこに何らかの肯定的な意味を設定する人にとっては、それなりの意味があるのかも知れないだけか。そんなことには無関心な人にとってはどうでもいいことか。だが別に誰もが何らかの意味を設定しなければならないというわけでもないだろう。
12月26日
何を求める気も起こらず、その場の成り行きでどこかを彷徨い、たわごとばかりの喧噪をくぐり抜け、どこか得体の知れない場所へ意識の断片が辿り着く。他の心身はどこへも辿り着けずに喧噪のただ中で力尽きる。自分たちが会話に加わっていないことに気づいた時にはもう遅い。誰と誰が話していたのか思い出せなくなる。夜空を見上げれば微かに雪が舞っている。それとこれとは関係ないか。雪が舞えば気温が下がっていることの証となるだろうか。証であろうとなかろうと、寒くなっていることは確かなようだ。北海道あたりでは、ホームレスの人が公園で凍死していたりするだろうか。市役所にでもホームレスの人たちのための宿泊施設でも設置して、衣食住でも提供してやれば死人が減るかも知れないが、赤字財政でそのための予算など確保できないか。確か国家財政の半分が借金だそうだから、とりあえず公務員の半数をリストラして役所の仕事を半減すれば赤字はなくなり、税収だけで行政サービスを行えるかも知れない。リストラされた公務員はどうすればいいかといえば、自力で仕事を探してもらい、それでも職にあぶれて行き詰まった人はホームレスになってもらえばいいか。そうすれば役所に設置された宿泊施設で寝泊まりできるようになるか。何かの間違いで自分がこの国の独裁者にでもなった暁には、この現代のホロコーストならぬ公務員ホームレス化計画を実行するかも知れない。冗談はさておき、国が赤字財政で借金漬けらしいが、民間の借金と国家の借金ではその質が異なるように思われる。何しろ国は造幣局などで金そのものを作り出すことができる。その気になれば国債の代わりにそれと同額の紙幣を印刷できるだろう。もちろんそんなことをやれば円の信用がなくなって、貨幣経済がめちゃくちゃになってしまうかも知れないが、とりあえず円安になれば輸出企業は儲かるだろうか。儲かる以前に国自体がどうにかなってしまうか。これも自分が独裁者になったらやってみたいことかも知れない。どうやらこれも冗談の域を出ない話になってしまったようだが、実際の国家財政も国債の発行残高などはほとんど冗談のような数字だと思う。返すことが不可能だと思われるような天文学的な額の借金をしていて本当に大丈夫なのだろうか。発行された国債を将来どうするつもりなのだろう。たぶん将来のことなど何も考えていないのかも知れない。やはり最終的には毎年少しずつ造幣局で余分に紙幣を印刷して、償還期限の来た同額の国債と交換して行けば何とかなるだろうが、とりあえず発行する国債の額を少しずつ減らして行かないことには、いずれ国家財政が破綻を来すことは目に見えている。もうすでに破綻状態かも知れない。破綻状態なのにそこに暮らす自分たちには実感が伴わないか。結局貨幣経済なんてそんなものだろうか。国家財政がどうなろうとそこに暮らしている人々が普通に暮らして行ければそれでかまわないのかも知れない。中には困っている人が大勢いるのかも知れないが、その中に自分が入っていなければ何とも思わないのだろう。他人の不幸はどこまでも他人の不幸でしかないか。しかし自分が不幸になっても助けてくれる者は誰もいないかも知れない。
12月25日
誰かが闇夜に語りかけてくる。夜の闇は何も語らない。それに応じているのは誰なのか。それはそれとは別の闇かも知れない。もはや気休めとはかけ離れた何もない時空から意味のない呼びかけが鳴り響いている。そんなことがあり得るだろうか。フィクションでならば何でも可能だろうか。たぶん呼びかけとは何の関連もなさそうなことを述べてしまうだろう。前述を打ち破って、それに輪をかけた意味不明が、ここではないどこかに到来する。それは何かの予言なのか。それともただそんな気がするだけか。わからないが影はそうなって欲しいと思う。何を述べているかわからなくなると影が登場するらしい。それはつまらないことを思っているのを見透かしたような対応になるだろうか。活動が休止してから長い時間が過ぎ去った。まだその時のことを覚えているだろうか。影の記憶は途切れ途切れで曖昧だ。その上都合の悪いことはすぐに忘れたふりをする。同じようなことは誰の意識にもいえることだろうか。ここでは記憶が問題となっているわけではないらしい。何も覚えていなくても、何か適当な記憶を構成してみよう。過去の記憶は創作に関係するらしい。そのとき君は何を思っていたのか。普段の生活からは想像できない思いを抱いていたが、その内容を思い出せない。思い出せないのではなく、普段の生活をしていてはそんな思いを創造できるはずがない。非日常的な思いを抱きたいなら、非日常的な暮らしを体験しなければならない。いったいどこで体験できるのか。何か予期せぬ事件に遭遇しない限りそれは不可能だろうか。しかし偶然の巡り合わせでもない限りそれは無理だろう。中には偶然が必然になるように努力する輩もいるかも知れないが、君にそこまでやる根性があるとは思えない。根性というより危険を冒す必然性がないのかも知れない。事件の渦中に自ら進んで飛び込んで行くような、向こう見ずなことをやれる環境には生活していないのだろう。だから必然的に日常の中に留まり続けているわけか。だがその一方で君には別の経験が積み重なって行くだろう。戦火の中に暮らす人々には決して体験できない平和を享受している。またそんな平和に飽きたらず、自ら進んで紛争地域へ出かけて行く人々にはない体験もしているはずか。テレビ画面の前の見物人としての体験にも何らかの意味があるのだろう。安全地帯で言論の自由を行使することにも一定の効用があるはずか。たぶん君は甘えを甘えとしてわきまえながら発言しなければならない立場にあるのかも知れない。そしてそれらの平和が甘えをもたらしていることは確かかも知れないが、一方で、平和の対価を支払えとかいう脅しに屈してはいけない、という論調にも同意する振りをしなければならない。紛争の原因を作りそれを助長している者たちの脅しにもそれなりの根拠はあるのかも知れないが、ただ筋の通っていそうな言説には逆らいたくなる。正義の味方のような口調には反感を抱いてしまう。この世界に正真正銘の善などあり得ないからそう感じるのかも知れない。嘘偽りなどあって当たり前だろう。それを前提として述べなければ現状に適合しなくなってしまう。
12月24日
前言を取り消すとはどういうことなのか。気まぐれを利用して適当な雰囲気を空想する。意味のない文章を構成したいのだろうか。誰がそうしたいのかわからない。誰もしたくはないのに結果的にそうなってしまうのだろうか。たぶん部分的には正しいのかも知れない。だがそれらの大部分は忘れてしまっている。取り消したつもりの前言とはどんな内容だったのだろう。しかし忘れ去ってしまった夢を復活させることはできない。以前の言葉が繰り返されることはない。以前そんなことを言っていた。誰が言っていたのか思い出してみよう。それとは違うことを言っていた者もいる。その状況を楽しまなければ損だ。強がりとしてはよくありがちな言葉か。何も言葉を付け足さないことに神経が耐えられるだろうか。意思を伝達する役割から逸脱した言葉を誰が受け入れることができるだろうか。それは単なる画面の彩りでしかない。なぜ文字には色が付いているのだろうか。白い表面に黒い文字では不満か。そんなことはどうでもいいことだろう。色には気まぐれと気休めの作用が期待されている。求められているのは癒しの効果か。君の想像力は貧困そのものなのか。それだけではないと思いたいようだ。思わぬところで思わぬ作用が働いている。文字は言葉の働きを離れて何を意味するのか。文字を眺めて文章を読まないことにどのような意味があるのだろう。言葉に意味を求めないことにはどんな配慮が働いているのか。その表面には何か文字が記述されているらしいが、読む気が起こらないのはどういうわけか。日本語ならば読めないわけもあるまい。別に読む前から内容がわかっているわけでもない。何も訴えかけてくるものがないわけでもない。読めばそれなりに感動するかも知れない。なのに一向に読む気配はないようだが、それを読むのが怖いのか。なぜそれを恐れる必要があるのか。読もうと思えばいつでも読めるような代物だろう。では読む前に何か他にやることでもあるのか。読む前に書かなければならない。これから読もうとする内容を書かなければそれを読むことはできない。本末転倒とはそのような状況を指し示す言葉だろうか。それとは少し意味がずれているかも知れない。ただやろうと思えばやれることをやっているだけかも知れない。忘れていたこととはそんなやり方だったらしい。そんな結果になるような過程を記述していたわけか。たぶん当初に抱いていた想像力は、それとは別の結果を模索していたのかも知れない。それはつまらない結果に至らないための努力だったが、結果的にそれが報われることはなかったようだ。結局は何も見いだせずに空虚な思いに囚われる。だがそれは受け入れ難いことではない。そんな空隙がなければ何も生み出せない。それでもたぶん何も生み出せないのかも知れないと思う。結局、前言を取り消して得られたものは何だったのか。気まぐれで取り消された言葉は二度と戻ってこない。今や取り消された前言すら忘れてしまったようだ。利いた風なことを述べすぎたのかも知れず、それの反動が意味不明を纏って出力されたらしい。
12月23日
気まぐれに思うことはどことなく現実感に欠ける。いつもとは違った景色を眺めているつもりのようだが、何かが次第に意識から遠ざかりつつある。消えゆく風景は新たな自然と融合している。誰も助けてはくれないだろう。回復が困難になるにつれて、これまでとは違う環境に慣れてくるのかも知れない。助けられないものを助けようとしているのは神ではなくマスメディアだ。だが報道の自由とは違った水準で変化する事物をどうして助けられようか。それは彼らが求めているような情緒的な風景ではない。困難に立ち向かっているつもりが安易な方向へ押し流される。押し流しているのはそれらを享受している人々の欲望の力か。大衆が求めるものを提示してみせることが利益につながるという思い込みが困難を呼び込む。欲望を満たそうとすればするほど安易な単純化作用を被る。人々の幸せを思えば思うほど痴呆化が進行して行く。それでも幸せを掴もうとすれば馬鹿になるしかない現実を提供することしかできない。馬鹿になって他人に騙されて幸せとは正反対の状況に追い込まれる。それに対してどんなに警鐘を鳴らしてみても、それらを見聞し続ければ馬鹿になるしかない。彼らはそんな矛盾を隠し続けることしかできない。ニュースを見ながら知識を身につけたつもりになって、スポーツを見ながら馬鹿になる。そして馬鹿になったままくだらぬ夢を追い求める。やっていることはそんなことの繰り返しでしかないようだ。興味を惹くためには何がなんでもおもしろおかしく見せなければならなくなる。それをやっている側は彼らなりの創意工夫があるのかも知れないが、見ている側はただ見ているだけであり、画面を見ながらリモコンボタンを押しているだけの生活に、どんな創意工夫が生まれるだろうか。物事をわかりやすく伝えようとすることは、わかりにくい部分を削ることにしかならない。いったいそこからどんな疑問が生じるのだろう。疑問が生じなければ現状維持の生活に自足するだけだ。そこからは何の変化も生まれはしない。その通りしろと言えばその通りにしか行動できない者が生まれるだけだ。そうなるためのマニュアルを作成しているだけかも知れない。これからは現状の生活の範囲内で食生活を改善して健康を保ち、ただ長生きするだけの人生がもてはやされるだろう。人生の目的が幸せになることであれば、ただそれだけで十分なような気がする。そして運がよければ有名人にでもなって、世間の注目を集めればそれでいいのだろう。たぶんそこに欠けているのは、人としての特性のすべてかも知れない。しかし人の特性とは何なのか。それは思い悩んで迷いながら考えを巡らして、それでも飽きたらずに年がら年中不満だらけであったりすることか。そんな生活はごめん被りたいし、勘弁して欲しいと思う生活が、本来の人としての特性を生じさせているのかも知れない。そうなりたくない当の状態が人間そのものを作り上げているわけだ。
12月22日
目が覚めているらしい。視界が開けて何を見る。鳥の群が空を舞う。同じような思考に染まった人々には何があるのだろう。その思考パターンを律儀に守り通すための団結心か。過去のくびきを乗り越えることが果たして彼らに可能だろうか。そう簡単にはできそうにない。君にはできそうもないから、できるはずもないことを考えている。そこからどんな可能性を想像しているのだろう。そこで何を思い出そうとしているのか。思い出しているのではなく、ありもしなかったことを夢想しているのかも知れない。あのときどうすればよかったかを今でも考えている。何をやっても同じ結果になってしまったかも知れない。そんなはずはないと思いたいところが、どう考えてもそうはならないだろう。あの状況ではそれ以外の結果を導き出せなかったし、想像できない。それが思考の限界なのか。もうすでにあの時点でゲーム・オーバーだったのかも知れない。それより先へ進むことは無理のようだ。だからそこから引き返そう。引き返してもう一度別の方向へ歩んでみよう。だが引き返す道はとうの昔に途絶えている。だからそこから引き返そうにも引き返せないだろう。もはや目の前には何もない空虚がぽっかり口を開いているだけのようだ。君はそれが真の現実だと思っているのだろうか。無意識のうちに頭の中で刻んでいるリズムに忠実に言葉を繰り出すならば違うかも知れない。君の思考パターンはそれとは別の結果を求めているらしい。同じような結果の中からも空虚の中からも適当な言葉が生まれてくる。それは一種のごまかしかも知れないが、そのごまかしから彼らと違う言葉を導き出そうとしている。自分たちの行き詰まりを他人のせいにしていること自体に問題があるのだろうか。あるいはそれは自業自得の結果なのか。別にそんなことを思っているわけではないらしい。あれらの見せ物を簡単に否定してはいけない。そう思いたければそう思っていればいいだろう。ゲームで勝ち負けを競う以前に、本当にそのゲームに参加しているかどうかが疑わしく思われる。すでにゲーム・オーバーなのに、なぜいつまでもゲームのただ中に居続けられるのか。何もやっていないのに何かやっているように見せかけているだけではないか。それでも何かやっているとするならば、それはゲームなどではなく、ゲームを空想しているだけのような気がしてくる。日々体験しているそれをゲームと見なせば、何か適当に説明がつくような気になれるだけかなのかも知れない。だがそんな風に思って一連のゲーム感覚から解放されたいとは思わない。ゲーム感覚はゲーム感覚のままで温存しておきたいのかも知れない。それはそのままにしておいて、都合の許す限りはゲームをしていることにしておいて、そしてそれに飽きたら、別にゲームをやっているわけではないと意識を別のモードに切り替える。そんなご都合主義的なやり方でかまわないのかも知れない。要するにいつまで経っても本気にはなれないのだろう。しかしその結論も所詮は仮のものでしかないような気はする。結論や結果などその時々で状況に合わせてどのようにも変化してしまうだろう。
12月21日
いつも途中で挫折してしまい、結果を導き出せない日々が続いている。お望みの結末とはどんなものになるだろう。なぜか話の内容が分散していて、個々の内容の間には何の関連もなさそうだ。つまらぬ知識のひけらかしは見苦しい。どう読んでもまともには読めそうもない。このままの状態でいてはまずいか。しかしそこから離れてどうやって語ることができるのか。他に語り方を知らぬわけではないのに、それ以外の語り方ができないのはどういうことだろう。そこに何らかの可能性を感じているから、いつもそんな風に語りたがるのだろうか。それの何が不満なのか。別にすべてを見ることを渇望しているわけでもあるまい。不可視の領域があろうとなかろうと、見聞することがすべてだとは思えない。それが不可能だと感じられないだけか。それでもいつかすべてを知る時が訪れる。望みもしないのに知ってしまう瞬間を体験できるかも知れない。その場合のすべてとはすべてではないかも知れないが、それらのすべてにはそのすべてが含まれている。それは具体的にどういうことなのか。いったい何を述べているかを知りたいところか。内容を悟られては困る事情でもあるのだろうか。それともそれは何かの目くらましのつもりなのか。とりあえずいくら言葉を弄しても具体的なことは何も語られないようだ。しかしそればかりではどうしようもない。やはり意味不明なことを語らなければその先へ進めないのか。しかしその先へ進んでどうするのだろう。その先に何があるというのだろう。君はその先にも何もないことを望んでいる。どこまで行っても何も見つけられないだろう。ただ意味の定かでない問いを繰り返すばかりか。笑う人は怒る人より偉大な場合もあり得るか。人の偉大さにそんな比較は当てはまらない。人それぞれで違うし、その人に対する評価も人それぞれで異なる。なぜ偉大であらねばならないかを説く者の思想は大げさな場合が多い。偉大さとは大げさなことと近い意味を持っているのかも知れない。その足跡が偉大であったりする人は、人格がそのおかしな表現に付随して構成されている。そんな語られ方をされる人は、多くの場合ブロンズの胸像と化していて、公園がどこかでハトの糞害にさらされているか。たぶんその中にはカラスの糞も多少は混じっている。その偉大な足跡も野鳥に踏みにじられているわけか。しかしそんな話は気乗りがしないか。もっと真正面から偉人を論じなければ何かを語ったことにはならないだろう。そんなことができるはずもない。例えば現代人はネアンデルタール人の偉人を知らないだろう。今から何万年も前では偉人も何もあったものではないか。先史時代に偉人がいるはずがないか。例えば黒曜石から石器を作った最初の人は偉人かも知れない。例えば世界で初めて石器を使ったチンパンジーは偉人だろうか。類人猿にも偉人を適用できるだろうか。冗談でそんなことを述べてみてもつまらないだけか。ただ呆れられるだけか。しかし文明とは何なのか。文化や文明の中に何を肯定できるだろうか。その中で起こり得る様々な出来事の結節点として偉人を当てはめることに何の意味があるのだろう。その人がいたか否かで歴史が変わったとして、その変化した歴史でもかまわないような気がするのだが、それらの薄められた偶像崇拝こそが、物事を考える上での障害となっているのではないか。君はそういう利いた風な意見は嫌いかも知れない。
12月20日
つぎはぎだらけの意見にはどこから移植してきた思想が見え隠れする。新しい時代には古い思考が似合うか。あからさまなペテンがむき出しだ。しかしこの際それはどうでもいいことか。それは何かの決まり文句なのか。いつものように何を述べているのかわからなくなる。思いついた言葉は他にもあるらしく、その後に続けて同じような文章を思い浮かべてみる。明日の夜空にはどんな星が瞬いているだろう。それは何かの変光星を望遠鏡か何かで見ているつもりなのか。ヒマラヤの空には死兆星が見えるそうだが、たぶん悪い兆しではないだろう。もうすぐ誰が死ぬわけでもなく、すでに死んだ人の葬式が明日に迫っているだけか。至るところで毎日が葬儀なのかも知れないが、それらは君には関係のない葬儀なのだろう。だからといって死に神の仕事が大忙しというわけでもなさそうだ。君はいつから死に神と知り合いになったのか。別にそんなことを述べた覚えはない。やはり思いつきだけでは粗雑になってしまうようだ。静かな空間を愛する人たちに向かって意味のない訴えかけが横行している。たぶんそれは昔から行われている行商の類かも知れないが、まさか天体望遠鏡の行商などあるわけがない。どうも今ひとつ話の内容が見えてこないようだ。その先に話がつながらないような気がしてくる。いったい誰が死に神と知り合いなのだろう。それは未だに生き延びている戦場カメラマンか何かなのか。彼は何にあこがれていたわけでもなく、ただその時の成り行きでその職業に就いたそうだ。ヒマラヤの夜空を写した写真が印象に残っている。それは戦争とは無縁のただ美しい夜空でしかない。その他にどんな作り話がお望みなのか。誰からの問いかけもなく、巷では無駄な知識を披露するのは流行っているようだ。ヒマラヤ山脈はどこまで高くなるだろうか。地球表面を包み込んでいる地殻の厚さには限度があり、標高一万メートルを超える山が形成されることはほとんどあり得ないそうだ。地殻の厚さが増せばますほどその下のマントルに沈み込んでしまい、それ以上標高が高くなることはないらしい。たぶんそれがどうしたわけでもない。火星のオリンポス山は標高二万メートルを超える高さだが、地球とは惑星の内部構造が違うからその高さが実現したのかも知れない。だが君はそんな挿話には興味を惹かないかも知れない。人間の知識など人間以外にとってはどうでもいいことか。死に神はその人の知識ではなく命に興味があるのだろう。だがろうそくの炎に象徴される命の灯火を吹き消す役割を担っているのは死に神ではなく、単なる偶然の作用かも知れない。では死刑執行人や暗殺者なども偶然の産物だろうか。そんな職業があったとして、その職業に就いている人も、戦場カメラマンと同じようにあこがれてその職に就いたわけでもなさそうだ。たぶんそんなことをやらなければならない偶然の成り行きがあったはずか。そこに善悪の基準を当てはめてみたところで、何がどうなるわけでもなさそうだ。とりあえず人には様々な行動パターンがあり、その中のひとつが人殺しということになりそうだ。
12月19日
それは良くわからないことか。なんでも十把一絡げにして語らないと、個々の事例に何か値打ちがあるような錯覚に陥ってしまうだろう。別にそれでもかまわないか。炭もダイヤも同じ炭素からできているが、その結合構造が異なることから価値が違ってくることは誰もが知っていることか。空への跳躍も闇への歩みも、そのどちらもが抽象的か。語る方向がまとまらないようだ。走り出す方向と歩み出す方向が正反対の向きになっている。本気の部分から適当な感情を引き出して、気がつくとそこに居座っている怠惰と戦わせているらしいが、どんな結末になろうと満足とも失望とも無縁の心境でいたい。やがてつまらぬ感情は敗れ去り、自分が本気からは程遠い感覚であることを悟るだろう。言葉をひとつの方向にまとめるつもりがないようだ。だが始めからあきらめの境地というわけにはいかないだろう。何とかしなければ何ともならないのはわかりきったことか。それでいいわけはないだろうが、それ以前に指先の切り傷をどうにかしなければならないか。時折感じる痛みをこらえながらも、さらに何もやろうとしない。その感覚がわからないばかりか、たぶんその感覚はどこへも伝わらないだろう。それは感染力が全くない病原菌のようなものか。君はなぜそのことについて何も語らないのか。それらの欠陥について説明すればそれで気が済むのではないか。それについて語らないことは今後大きな損失となるかも知れない。何となく話が嘘っぽくなって、次第に興味が失われつつある。当初はそんな大それた話ではなかったはずか。あり得ないことだと思うかも知れないが、やろうと思えばできない話ではない。その気になればやってしまえる程度の話にしてみよう。単なる妄想の域に留まらずに、少しは現実的に物事を考えなければならないか。現時点では今ひとつ確信を持てないが、それらの試みがもし失敗に終わって、他に良い方法を思いつかない場合、最後の手段としてそれをやってしまったら、おもしろいことになるかも知れない。自分がその立場だったら、迷わずそれをやろうとするだろう。たぶん周囲がやらせてくれないかも知れないが、是が非でもやってみたい気はする話か。そんな話はなかったことにしよう。何となく馬鹿らしく思えてきて、その話は抹消してしまう。半身不随の男が海の歌を歌っている。車椅子に座って余生を送る気分はどんなものだろう。それでもまだ君は生きているのか。その怖ろしい歌声が虚空にこだまする。ムンクの叫びより強烈かも知れない。それとは無関係に誰かは冗談ではないと怒る気持ちを抑えながら、次の一手を必死になって考えている。もはや負けは動かしようがないのに、起死回生の一撃を食らわしてやりたい衝動を押さえきれない。すべてが妄想でしかないのを承知していながら、それでもあきらめきれずに情念だけで生きている。そんな話はいくらでもあるだろうか。アニメの対決シーンは決まってそんな具合に話が進展して行く。いつも顔から汗が滴り落ちているのだ。往生際の悪い敗者は必死の形相で歯ぎしりしている。誰もがプロレス的な決着を期待しているのだろう。
12月18日
退屈で死にそうになった時には、すべてが気晴らしにつながると思い込んでみよう。意見の食い違いを埋められずに、それらの会話はいつまでも平行線を辿る。君は聴き慣れた曲を聴きながら、今さら何を語ろうとしているのか。何かしら語っているのに、語りそのものが無意味に感じられ、何を語ってもどことなく嘘っぽく感じられる。それらはみな空想の産物なのだから、嘘であるのは当然か。しかしその場の思いつきで思いっきりでたらめなことを述べると、少しは気分がすっきりするかも知れない。いったい何がでたらめなのか。それらのいい加減な思いはどこにどんな影響を及ぼしているのだろう。君の意見が世界情勢のどこに反映されているというのか。それがでたらめだなんて信じられない。それはでたらめなどではなく、紛れもない真実だと思われる。今はそんな思いのままでいる方が無難なように思われるが、どこか別の場所で利いた風な意見を述べていたい気分になる、まだ過ぎ去った時間をすべて経験していないはずか。今はまだ時間的には過去の途中になるのだろうか。ただ語ると同時に過去になるだけのようだ。別にそれを気にしているわけではないが、今はそれを超えて言葉を発することなどできそうもない。それをやるだけの気力が欠けているらしく、それ以上に何があるかを知らない。疑問は何もなく、何もない理由を導き出すことは困難かも知れない。そんな思いを脇に置いて、そこからどこへも進めないことに気づく。オルガンの音色はどことなく気が狂った人の叫びを連想させる。まるでお経を読んでいるようなラップには何が宿っているのだろう。仏陀には何人の弟子がいたのか。問いの質としてはどうでもいい部類に入るだろうか。孔子の弟子と仏陀の弟子と夏目漱石の弟子の話にはどんな共通点があるだろうか。弟子になる人の気が知れない。自分が誰々の門下だと言うことにどんな価値を見いだせば気が済むのだろう。そこに何らかの特権意識が芽生える土壌でもあるのかも知れない。弟子が師を超えたら師の名声が霞んでしまう。有名な画家にはその名声によって霞んでしまった師の存在を想像すればバランスを保つことができるだろうか。その意味では、師弟対決にはその優劣がはっきりした後に到来する敗者の絶望がつきものか。弟子に敗れた師の悲哀と、師に及ばなかった弟子の惨めさには似たような意味合いがあるようだ。師と弟子が同じ目標を持っているという前提がそこには必要となるようだが、果たしてそんなありふれた物語に誰が満足するだろう。おもしろければそれでいいわけか。とりあえず孔子や仏陀や夏目漱石を超えた弟子はいないのだろうから、孔子にも仏陀にも夏目漱石にも、弟子の名声に霞んでしまった師の存在があるのかも知れない。しかし君は人が人を超えたり超えなかったりすることにリアリティを感じられない。要するに後世の人がそんな評価を下すだけなのだろう。そんな評価を下す人の気が知れない。誰にそんな資格があるのか知らない。仮にあるとすれば、それは思い上がり以外の何ものでもないか。なぜ比較しなければならないのかといえば、それは比較しなければ話にならないからか。
12月17日
君たちは国家から脅されている。テロに対する備えが必要だそうだ。それで多額の税金を使って軍備拡張路線を突っ走る。そうやって無駄な金を使ってアメリカの番犬の役を割り当てられているわけか。たぶん真に対決しなければならないのは、北朝鮮でもイスラム過激派でもなく、それらとぐるになって日本から活力を搾り取ろうとたくらむ、アメリカという国家かも知れない。別に本気でそんなことを述べているわけではなく、何となくそう考えると愉快な気分になるだけのことだ。もはやアメリカという国家自体はどうでもいい国かも知れない。彼らの暴走はもうすぐ終わりだ。それはテロリストがどうしようと、北朝鮮がどうなろうと関係のないことだろう。何となく無関心な人々が最終的には優勢になってしまうような気がする。アメリカの大統領や軍事関係者が述べていることは大しておもしろくない。単に馬鹿な人々が馬鹿なことを口走っているとしか思えない。あまり興味を惹くような話の内容ではないのだ。それを報道し続けるメディア関係者も飽きているようで、もうかなりうんざりしているらしく、嫌気が差しているような表情になっている。この先人が何人死のうと、それらは結局同じことの繰り返しにしかならないだろう。もはやそんなことはどうでもよくなりかけている。交通事故で亡くなる人と同じ扱いになるだけかも知れない。テロはすでに脅威などではない。それは日常の一部でしかなく、運が悪ければ巻き込まれて死傷するだけのことだ。だいたい人の死など日常茶飯事でしかないだろう。これ見よがしに他人の死などを見せつけられても何とも思わないし、親族や友人が死ねば、悲しむか内心喜ぶかのどちらかでしかないだろう。葬儀など単なる儀式でしかなく、今時そこで感情をあらわにする者などいはしない。誰かが死ななければ他の人が生きられなくなる。人がそこで生きていることは、他人にとってその人の存在は邪魔なのであり、単なる障害物としか思われない。早くその人が消えてくれないと、自分の人生が台無しになってしまうと思い込んでいる人も多いはずだ。多くの人が金正日氏の死を望んでいるのだろう。アメリカの大統領は拘束されたフセイン元大統領の死刑を支持している。要するに憎らしい者を殺したいという点では、テロリストとあまり変わらない意識かも知れない。そういう意味ではテロリストはごく普通の人々と同じ意識なのかも知れない。両者にはそれを実行に移すか移さないかの違いがあるだけだ。もちろんブッシュ氏やブレア氏はテロリストと同じようにそれを実行に移している。両者の間には合法か非合法かの違いがあるだけか。たぶん歴史的にそんなことは日常茶飯事なのかも知れない。殺し合いと戦争の歴史が人類の歴史だという人も少なからずいるだろう。そんな歴史の続きが今世界中で繰り広げられているわけか。そうだとしてそれがどうしたというのだろう。一般人の日常生活においてはそんなことはどうでもいいことか。国家のお偉方が税金を使ってやることに一般人は黙って従うか、あるいは無関心であらねばならない。それに反対するような者は共産党か社民党のシンパと見なされて、無関心な人々と同じように無視されるだけだろうか。やはりそんな風に考えると愉快な気分になれるだろうか。
12月16日
今や粗雑な言い回しを容認すべきなのか。日々の経過にはあまり魅力を感じないが、朝が来て、昼が通り過ぎ、そして夜がやってくる。たぶん明日もそれが繰り返される。そんな毎日が死ぬまで続くとしたら、人はどこで安らぎを得ることができるだろうか。それでもすでに何かしら安らぎを得ているのかも知れない。そんな毎日が安らぎをもたらしているとしたら、君はそれを容認すべきなのか。どちらともいえない状況にあるわけか。ただ機械的に巡ってくる事態に対処しているだけかも知れず、それでうまく回っているうちは、そのままにしておいた方が無難なような気がする。何も思わぬ時は何も思わぬままに、ただその日を適当に過ごしていれば、それでかまわないのかも知れない。しかしそこからは何の展開も期待できそうにないので、無理に思考を働かせて、適当な思いつきに従って言葉を連ねてみるが、おもしろい話にはなりそうもない。もうその手の語りには飽きてしまったのかも知れない。当然それで満足するはずもないが、それ以外にやりようがないとしたらそれを続けるべきか否かを、どのような基準に従って判断すべきなのか。こんな状態で基準などあろうはずがないか。相変わらず何かに流されているようで、思考するきっかけをつかめずにいるらしい。どこかで何か重要な問題をつかみ損ねているのかも知れないが、それは何かの欠陥に関する問題だろうか。なぜそんな風に思うのだろうか。今はそれについて考える術を知らないが、過去のある時期においては知っていたような気がする。いったいそこで何が問題だったのだろう。だがそれを必死に思い出そうとしているわけでもなさそうだ。今となってはそれらの不具合は解消されてしまったのかも知れない。それはどんな不具合だったのだろう。なぜそれが不具合だったか思い出せない。それは不具合ではなく長所ではなかったか。意味が見当たらないことがその文章の長所だとしたら、意味が明確な文章の何が欠陥なのか。使い道が限られていることがまずいのか。その場の状況によって長所にも短所にもなり得るだろう。使い方を間違えなければ有効に機能することもあるかも知れない。それが有効か否かはそのときの目的にもよるだろう。目的に叶った言葉であればいいわけか。そうするとやはり功利主義的な言葉遣いに行き着くだろうか。だがそれ以外に何があるというのか。何もないわけではないと思われる。語っている方向が間違っているのかも知れない。まずは語りたいことを語ってみることだ。語りたくないことを語る必要はないはずか。では語りたいこととはどんな内容なのだろう。それがないとしたらどう語れば納得できるだろう。語る必要がないのになぜ語らなければならないのか。そんなことがわかるはずもないだろう。なぜという問いかけには、それに対する理由があることが前提となっているはずか。明確な理由もないのになぜと問いかけるのは間違っているだろうか。語る理由が見当たらないのに語っているだけのことに、なぜと問いかけても無駄かも知れない。たぶんそれはいつもの嘘だろう。その理由は始めからわかっていることか。それは簡単なことで、要するに語り続けたいから語っているにすぎないのだろう。そういう意味では、それらはそういう目的に叶った文章なのかも知れない。
12月15日
しばらく前から沈黙が思いのほか長引いている。しかし誰が沈黙しているのでもない。テレビはさっきから消したままなので、他に見るものもないから夜空を眺めている。冬の夜空にはどんな星が瞬いているかをあまり知らないが、どういうわけかオリオン座の形だけはわかるらしい。しかし別に夜空がどうしたわけでもなく、他に言葉を繰り出せなかっただけのようで、あまり興味を惹くような夜空では実際ない。夜空が君に何を訴えかけてくるわけでもない。夜空だけでなく、すべての訴えかけが今の状況では有効だとは思われない。願いは何も聞き入れられずに、ただ暴力によるごり押しだけがまかり通る世の中か。そして言葉による訴えかけは功利主義に汚染され、それ以外の魅力はそぎ落とされていて、ただ情報伝達の道具として流通するだけか。だがそれだけではないと思いたい人は大勢いるはずだが、偏狭な縄張り意識が邪魔をして、よそ者の意見を無視することばかりに躍起になっている。そして利益を見込めない言説は見向きもされない。自分たちの価値観から外れたことを述べている者は、やはり排除すべきよそ者でしかないか。そんな人々がきれい事を述べているのを見るのは腹が立つだろうか。しかしそこで怒りをあらわにしたらお終いか。それを超えて善意を保たねば何もできなくなる。そこからしかまともな言葉は生じないだろう。何とかそこで辛抱しなければならない。いちいち待つことに疲れていては、それ以上先へ進むことはできないだろう。とりあえずは忍耐が肝心のようだ。新たな言語表現が生み出されるまでもうしばらく待ってみよう。それは誰が生み出すのでもなく、何らかの偶然によって意表をつく形で思いがけずに出現してしまうのが、これまでのありふれたパターンかも知れないが、そうであってもなくてもかまわない。そしていつ出現してもしなくてもかまわないが、とりあえず暇つぶし程度の気持ちで現状に埋もれていよう。やはり本気になれないのが致命的か。だが致命的といっても命を取られるような状況ではない。手遅れは手遅れかも知れないが、それとは別の面ではその手遅れを放置しておいてもかまわない。手遅れの有り様をただ眺めているだけしかやりようがないのかも知れない。誰と競争しているわけでもなく何と競合しているわけでもない。他人とぶつかるような意見は持ち合わせていないはずだ。ただ気まぐれで適当に言葉を弄しているだけだろう。現時点ではそれ以上を求めているわけではないらしい。それ以上でも以下でもない、単なる説明の言葉を並べているにすぎない。そこからどれほど遠ざかることができるだろうか。遠ざかったり近づいたりしながら、ただ文章に抑揚をつけているだけか。この状況ではそれでもいいのかもしれないが、そこからはみ出している部分も少しはありそうだ。何らかの制限を取り払って、偽りかも知れないが、以前より少しは自由な気分を味わっているらしい。しかしそれも所詮はつかの間の自由でしかないだろう。思いは次第にそこからずれ始めている。少しずつずれながらそれらとは違う方法を模索している。
12月14日
君は四角い画面を眺めながら何を思う。熱帯雨林のただ中にぽっかり空いた赤茶けた大地は何を物語っているのだろうか。廃屋の中で傾いた柱を眺めながら何を思う。夕日を浴びてオレンジ色に映える雲を眺めながら何を思う。擬人化された神にとって、そこまで飛んで行けない自分はどんな存在と見なされるのだろうか。果たして自然の神は宇宙の本質を人間ほど理解しているだろうか。君は杉の木のてっぺんから鴉が舞い降りるのを見たことがあるだろうか。神は森の中で枯れ木から這い出した虫を見つめながら何を思う。君はそうやって神という言葉を利用しながら偽りの風景を思い描く。何も思わないのに強引に言葉を連ねている自分を見つめながら影は何を思う。それらの景色は様々に変奏され、意識は適当な表現形態を仮構しているつもりになる。アマゾン川ではまだ金の採掘が続けられているのだろうか。そんなドキュメンタリー映像の魔力からどうやって逃れることができるだろうか。密かに待ち続けている解放の時をいつに設定すべきなのだろう。まだ当分の間はそのきっかけをつかめそうにないが、ひたすら待ち続ければやがて綻びの時に出会えるかも知れない。この先地上波デジタル放送が広まって、これまでのアナログ放送が打ち切りになる頃がチャンスかも知れない。たぶんデジタル対応のテレビを買わなければ、それらの放送メディアから離れることができそうだ。そのときが来たら画面に見とれているだけの時間をなくして他のことをやろう。そうすれば今までより少しは行動範囲が広がるかも知れない。思索に耽る余裕も生まれるはずか。そんなバラ色の未来が今から数年後に実現しようとしている。とりあえずはそのときまで生き長らえなければならない。そうなるまでもうしばらくの辛抱だと思いたい。たぶんそうなっても世の中の何が変わるわけでもないだろう。自分自身のものの見方や考え方が少し変わるだけで、他の人々は相変わらずより鮮明になったデジタル画面に釘付け状態なのだろう。そして今まで通りのやり方が繰り返されるだけか。その手のマスメディアは世論に訴えかけて政治批判を繰り返し、満たされぬ思いを映像とナレーションで構成してみせる。だが番組数の増大に比例してそれを見ている各自の意見も分散して、それらの存在の希薄化が進行して行くだろう。しかし影はそんな予想は思いっきり裏切られて欲しいと願っている。思いもよらぬ展開によって君を驚かせて欲しいか。今とはまったく違った世の中が到来して欲しいか。その可能性はほとんどないのかも知れないが、そう願わずにはいられない。そうでなければ未来は未来として機能しないか。現状ではあり得ないことを思うのが未来への思いとしては健全だろう。たとえ当てが外れようと、勘違いであろうと、そう思わなければ何のための未来なのかわからなくなる。実際何のための未来でもないか。未来は今生きている誰のためにあるのでもなく、実際に未来の時点で生きている人々のためにあるのが、合理的な未来の在り方かも知れないが、そんな合理性を超えて、誰のためにでもないと同時に誰かのために未来はあるのかも知れない。とりあえずその誰かは誰でもかまわない誰かになるだろう。
12月13日
話している途中で何を話しているのか定かでなくなる。別に他愛のない話の中に何か罠でも仕掛けられているわけでもないだろう。とりあえず何でもお見通しというわけにも行かないが、それでもなんとなく意図していることはわかっているつもりのようだ。さっきまで何を話していたのか。いったいそこで何を思っているつもりなのか。思っているのではなく考えているのかも知れない。そして考えながらも思い続けているわけか。その内容を言葉を用いて具体的に示すことができないのがつらいところか。理路整然とわかりやすく述べれば嘘になってしまうような気がする。しかしそれを怠れば何を述べているのかわからなくなる。意味不明な説明は無効だろう。だが何に対して無効なのだろう。その対象がうまく説明できない何かになるわけか。その何かとは何らかの幻影になるだろうか。幻影ではなく、今ここにある現実そのものだろうか。あるいはそのどちらでもあるのかも知れない。幻影にも現実にもなりうる、あるいは同時にそのどちらでもある、そのなんだかわからない対象について、何をどう述べたら納得できるだろうか。納得したらやはり嘘になるか。それが幻影である場合は嘘でもかまわないのではないか。相変わらずその幻影の内容を示せないでいる。嘘であってもかまわないのにその嘘を示せない。依然として説明の前で立ち往生していて、どうしてもその先へ進めないらしい。語ろうとすると、幻影そのものが存在しないことに気づく。しかし語らないと何かを語りたくなる。ここには何もない、と思い始めると、何もないのではなく説明の対象がないということに気づき、次いでそれは冗談の一種かも知れないと思うようになる。だが冗談でなければ何も語れないような気もしてくる。確かに冗談でなら何を語ってもいいような気がするのだが、何を語ってもいいとなると、今度は何を語っていいのかわからなくなる。今外は晴れているのか。晴れていたらそれだけのことか。そして風が吹いているのか。風が吹いていたらそれだけのことか。そんなことを語って何になる、と思い始めると何も語れなくなる。それ以外に何があるというのか。たぶんそれ以外にも語るべきことはあるはずだが、それは語るべきことではなく、語らなくてもいいことかも知れない。そこに目的を設定できれば、それを目指して語り続けられるはずか。いったんそれを拒否したらそこで終わってしまう。目的を否定し続けることが目的と化してしまうだろう。たぶんそれでも何かしら目的と化せば、それを目指して語り続けられるのかも知れない。何もかも否定的な語りに終始できるか。しかしそれでいいはずはない。興味本位で他人の悪口ばかり並べ立てれば、それなりの内容にはなるだろうが、そこに凝り固まってそれだけしか語れなくなってしまうだろう。そんな雑誌をある時期まで長期間にわたって読んでいたこともある。なぜそれを読まなくなってしまったのか。その理由は何だったのだろう。単に嫌気がさしただけではなかったような気がする。
12月12日
また例によって不明確な思考を駆使して徒労に至るわけか。今さら何を思ってみても始まらないとは思いたくないが、たぶんさっきまではそう思っていたのだろう。そしてきっとしばらくしたらまたそう思うようになるだろう。何をどうやっても同じ結果に至るだけか。もはやそんな成り行きから逃れることは不可能なのか。だがそんなに状況を悲観しているわけではない。では君はそれでいいと思っているわけか。疲れはどこから来るのだろう。頭の中がまだ整理できていないようだ。何かに助けを求めているらしい。影は急場しのぎに書物の中の言葉を使いたいようだが、怠惰な心がそれを許さない。書架まで歩くのが面倒くさく思われる。頭が無性に痒いのは何も考えていない証拠だろうか。そんなことではなく、いつものように大事なことを忘れている。君はこの世の中についてどう思っているのか。いったい誰がそんな問いかけを行っているのだろうか。たぶんどうも思っていないのかも知れない。つまらない人々がつまらないことを述べあって、つまらないことをやっているだけか。今はそんな回答しか持ち合わせていないか。ではその他にどんな感慨を抱いているのか。その他なんてあり得ないか。そこに何か引っかかるものを感じているのかも知れない。それ以上に技巧を弄するわけにも行かないようだが、だんだん忘れていた台詞を思い出してくる。忘れかけていた調子を取り戻しつつある。なぜか頬の筋肉が回復基調のようだ。要するにまたもや意味不明になりつつあるわけか。やはり口の中が苦く感じられる。そんなことを思っているうちに明け方が近くなる。影は惰性のただ中でさらなる継続を望んでいるらしいが、何の内容ももたらせないそれらの作業に何を感じているのだろう。そこに何らかの感性を確認して満足すべきなのか。そんな君の見解は聞き飽きたか。誰がそれを聞いているのかを知らないか。何も突拍子もないことを述べているわけではなさそうだ。何をもがき苦しんでいるのでもない。微かに聞こえてくるのは道を行き交う車の音だけのようで、幻聴などはどこからも聞こえてこない。心の中にはいい加減な言葉の構成が出番を待っている。それを早く吐き出さなければ先へ進めないようだ。影もそれ以上の譲歩はしたくないので、渋々それの使用を許している。あまり時間的に遅れてしまうと意味不明が止まらなくなる。具体的な内容に近づくには、少しでも現在に近づかなければその気にならないようだ。そうしないとその時点での心の有り様を提示できなくなる。だがそんなものを示す義務はないので、君にとってはその方が居心地が良さそうだ。何も思わないと嘘をついて、その場を取り繕うことになれてしまって、いつの間にか本心と言葉が結びつかなくなってしまったらしい。出力される文章には生気を感じられない。たぶん生きているのでも死んでいるのでもないのだろう。
12月11日
地道な努力がいつかは報われることを願いながら死んでいった人は、ただ忘却の彼方へ消え去るのみだろうか。そんな無名の先人たちの努力によってこの世界が存在するわけか。こんな世の中でなくても良かったのかも知れないが、とりあえずそれらの現実を前提として、その上に何か適当な出来事でも積み重ねていくことしかできない。相変わらず目的は何もないが、画面では子供たちに向かって夢や目的を持てと説教する人をよく見かける。たぶん彼らには生きる喜びが必要なのだ。自らの思いが叶った時に味わう歓喜の瞬間が求められているのだろう。君にとってはどうでもいいことでも、社会にとってはそれがないと困った状況になってしまう。誰もが夢を見失い、ただ希望のない閉塞感だけが支配的になってしまうと、犯罪ばかりが蔓延ることになるらしい。そんな思い込みに不安感を募らせた人々が、子供たちに夢を持てと語りかける。本当にそれで正解だろうか。君はそれとは別の回答でも持ち合わせているわけか。たぶん君の回答では不正解なのだろう。だが不正解の方が魅力的に思われる。いつの時代においても夢も希望もなくてもかまわなかったのだ。人々はただそこでうごめいているだけだ。天から適度な喜怒哀楽の感情を授けられて、それを面に表したり内面で思ったりして、生まれてから死ぬまでの間、ただ暇つぶしをしているにすぎない。本気でそんな風に考えているわけでもないらしい。たぶんそれでもいいが、それとは別の見解でもかまわない。この世界で何をどう考えようと、それが周りにどんな影響を及ぼそうと、君の知ったことではないのだろう。すべてがどうでもいいわけではないが、どうでもいいと思っていても何の不都合はないだろう。それでいいのならこれでもよくて、これでいいのならあれでもかまわない。何をいくら考えてみてもどうなるわけではないが、もしかしたらどうにかなるかも知れないと思う時もあるだろう。そして本当にどうにかなってしまってから、わざとらしく驚いてみせる。願いが叶ったと思い込む。それが予てから思い描いていた夢だったと思い込もうとする。そうやって意識の中から偶然を消し去り、偶然の結果に自らの思いを合わせて、必然的な出来事として消化する。それが結果から導き出された夢の有り様になるだろうか。今も地道な努力を続ける人は、それだけではないと思うかも知れない。自らが何のために努力し続けるのか、それを正当化して何になる。気休め以外の何を求めているのか。では気休め程度で満足できるだろうか。とりあえずはそれでも満足しなければならない状況にあるのかも知れず、それでどうなるものでもないが、そのどうにもならないことについて何やら考えを巡らしているようだが、やはりどうにかしなければならないと思い始めた矢先にどうにかなってしまう。別に努力が報われたわけではないらしいのだが、適当な結末に至ってしまったらしい。
12月10日
作動しない機械をいじくり回しているうちに陽が沈んでしまう。意味のない夕焼けを眺めながら何も思わない。それに無理矢理意味を見いだそうとすれば、都合に合わせて利いた風な意味が湧きでるわけもないか。善人はきれい事を肯定しなければ何も言えなくなるのか。何も言えなくなれば黙るだけか。君はそれで満足するだろうか。誰が満足するのだろう。何も言えなくなってから文字を記述できるようになるだろう。だが文字を記述してどうするのか。いつものように記述することに目的はないと嘘をついてみる。別に意味のないことを記述する必要はない。時には何もやらないことだってできる。だが君は何もやらないことを利用して言葉を連ねてしまう。利用できるものは何でも利用しなければ記述を継続することはできないが、それをやめても苦痛は伴わないだろう。ただ終わりに近づくだけだ。それでも沈黙によって文章を作成しようとする。黙ることが終わりには結びつかないことを主張したいらしい。だがそれが君の存在する理由を示しているはずもない。君が存在しない代わりに君という言葉が記されるだけで、君が存在する理由が明らかになるわけもないか。だが理由がないことがそれらの継続を可能としているようだ。しかし継続が可能なそれらとは何なのか。それらには言葉を連ねることも何もしないことも含まれるだろう。何も見いだせずに虚無感を感情から引き出すことも含まれる。そしてどこへも行けずにここにも留まれなくなる。刺激を求めずには何ももたらせないのがマスメディアの特性かも知れない。その状況で何が刺激となるのだろう。ありふれた話題に興味はないようだが、それ以外を知らないとしたら黙ってそれを見聞するしか選択肢はないか。苦し紛れにそれらの言葉を紡ぎ出す過程を見せたところで、大して賢く見えるわけもないだろう。ご託を並べて理由や必然性を提示しているつもりでも、意味不明な結果を覆い隠すことは不可能だ。文章のどこかに誰の主張を潜ませているわけもなく、お前の企みとっくにお見通しだ、と叫んでわけのわからない思いを悟られまいとしても無駄か。どうもそれらの料理には塩が足りないらしい。内容がないことの言い訳として、特に内容を求めていないと主張しても無駄か。塩ではなくスパイスが足りないのではないか。スパイスではなく無知を認める潔さが足りないようだ。本当は誰もが画期的な言葉の連なりを構成したいのだろう。そして驚くような内容をそれらの文章の中に実現したいわけか。それは過去の著作物の中で実現されているかも知れない。それでに示されているそれらの驚きにどうやって気づけばいいのだろう。気づかれないのに驚きようがないか。実際驚くような内容ではない。ただつまらないことを述べているにすぎない。そこで事前に用意していた言葉を忘れてしまったらしい。君はそのわけを知りたいらしいが、言葉を忘れた理由などないだろう。後から適当に理由を捏造するならば、今日は気分がすぐれないから言葉を忘れたことにしておこう。
12月9日
時代は変わり世界は変わる?そんな世界はあり得ないか。世界は変わらず時代は幻想に覆われ、それが単なる虚構だと誰も気づかない。そんな話を本気で信じているわけではない。すべては事前に編集されているわけか。しかし編集しようにもできない内容になってしまったらしい。君の視線の向こうにあると思っている世界は世界でないかも知れない。世界でなければ何なのか。嘘の世界も世界の一種だろう。嘘の風景に見とれて我を失い、ついでに言葉も失う。さらに何かを見失っていると思い込み、嘘の風景の中に見失った何かをさがしている。たぶん何も見つからないだろう。何も見つかって欲しくないから、そこにはあり得ない何かをさがしているわけか。それは一方的な思い込みだろう。君の真意をわかりかねる。何を述べようとしているのかわからない。爪弾き者の振りをしているようだが、彼には仲間はずれになるための仲間さえいないようだ。彼とは誰のことを指すのだろう。またいつもの誰でもない誰かになるわけか。可能性はいつまで経っても可能性のままで、決して可能性が実現することはない。夢想し続ける者は眠り続ける。薔薇と野獣の主人公はひたすら眠り続けるそうだ。夢の中では野薔薇の自生地をさがしているらしい。たぶんどこかで躓いているのかも知れないが、わけのわからない話には慣れているか。わけはわかっているのかも知れない。過ぎ去った時間の長さだけ経験が積み重なるわけもない。心に沈殿しているのは無駄な知識ばかりか。早くそこから逃げ出したいと思っている一方で、もがけばもがくほど逃げ出せない状況に追い込まれる。そしてさらに無駄な言葉を連ねなければならなくなる。しかし言葉に救いを求めないのは良いことだ。何かに救いを求めたいならば、同時に絶望も求めるべきだろう。理由は何もないからそれを真に受ける必要はない。ただそんな風に思っていれば気が楽になる。それ以外の何をあきらめる必要もなく、とりあえず可能性のすべてを求めるべきだろう。そうやって現状を肯定すべきなのか。そして肯定すると同時に否定して、肯定と否定の両方を無効にしなければならない。それは誰の要請でも命令でもないから、やはりそれを真に受ける必要はない。ただすべてはどうでもいいわけではないが、どうでもいいと思ってみてもかまわない。どこの誰がどう思ってもどうなるものでもないか。思うだけでは他人に届くことはないから、その思いを何からの表現形態を用いて明らかにしなければならない。だが思いがない時はどうしたらいいのか。思いがないのにそれを言葉で表現して何の意味があるのか。意味はないが言葉はあるらしい。そこにはいい加減で適当な言葉が記されているようだ。だからいつも意味不明な内容になってしまうわけか。別に言葉に意味がないわけではない。それらを読んだ者が自分勝手な意味を当てはめてみればいいだろう。そうやって読書は何らかの創作的な行為に荷担するわけだ。読む者がその場で作品を作り上げる。そんな話をどこかで読んだことがあるらしい。たぶんそれは何かの冗談かも知れないが魅力のある意見か。その魅力とは何だろう。一つの言葉の連なりに対して様々な解釈が可能だという魅力か。そんな可能性をなぜここで夢想しなければならないのか。それは現にここに一つの言葉の連なりがあるからだろうか。
12月8日
鏡の表面上で誰かが言葉に酔っている。そしてスクリーン上では老人が酒に酔っている。老人に死が訪れる時、誰かは無言のまま灰になるだろう。紙は薪に放り込まれ、一瞬のうちに燃え尽きるだろう。しばらくして沈黙のただ中に静寂の時が訪れる。何もできない人々は言葉を弄して何かができる振りをする。現実には何もできないが、とりあえず何かしら行動しなければと思い、不安に駆られながらも思いついたことを行動に移す。その行動とは仲間に会いに行くことになるようだ。その老人は旧知の仲間と同じ認識を共有したいらしく、さかんに自分の言い分と同じような主張を仲間から引き出そうと努力する。そのとき偶然はどのような結末を用意しているのだろう。部屋の中に迷い込んだハエは水分が切れたところで動かなくなる。そして偶然に吸い込まれた掃除機の中でダニの餌となる。老人は会話の中に虚偽の慰めを期待しているわけではないらしい。君は決して寓話にはなり得ない挿話に関して何を考えているのか。話の本筋も内容も見当たらないのに、挿話も何もあったものではないか。水の中に魚が泳ぎ、道路の上を車が走り、空を鴉が飛び、人工衛星が地球の周りを回る。それらの自然現象にはどのような定義が必要とされるのだろう。誰かが始めからやり直そうと歌う。偶然は君に何を言わせて欲しいのか。それを知りたいわけもなく、無理にわかろうともしない。その時が過ぎ去った後でしかわからないし、もしわかったと思っても、その認識が正しいかどうかはわからない。ところで知って当たり前のこととはどんなことなのだろう。渇きを覚える時は水を飲めばいい。では水を必要としているのは誰なのか。今を生きる人は過去に生きる人や夢に生きる人のことをどう思っているのか。その問いがどんな理由で発せられているかを知らない。では何も思わぬ時、それ以上に何を望んでいるのか。矛盾した内容しか提示できない愚者は、苦悩とはまた別の思いを抱いている。格別の存在でないことを悟った時、人は何に頼ろうとするのだろうか。頼るものが何もないと思い知った者は、悲劇の主人公にでもなりたいわけか。そうではなく悲壮感に酔いしれていたいだけらしい。君はどんな出来事を予想しているのだろう。予想している結果は現状維持であり、とりあえず自分たちが生き残るための方策が実行に移され、またいつもの展開を予想させるように人々は協力し合う。そうやってこの世界は構成されているのだろう。予定調和を崩す綻びが至るところで口を開けているようだが、見て見ぬふりをしながら、どうにかこうにか体裁を保っているらしい。何に酔いしれても現実は不満を抱いている者を除け者にするだけか。不満があるのにそれを押し殺して、現状を容認することしかできはしない。たぶんそんな人々の集まりなのだろう。自分の主張が間違っていることを承知でそれを押し通す。そんな人々が多すぎるか。そんな現実の奴隷のような人々にはなりたくないか。奴隷は今日もテレビ画面に映し出されているようだ。
12月7日
すでに終わってしまったらしいが最初から始めよう。どこかの誰かがそれを繰り返す。同じことの繰り返しのように感じるが、何かが少し違っているようにも思われる。挫折しそうになっても、決してあきらめてはいけないそうだ。同じような台詞を何回聞けば気が済むのか。馬鹿の一つ覚えのようにまたいつものやり方に凝り固まっている。また無邪気な笑みを浮かべている方がやられてしまうのもいつものパターンだ。そのような形式の中にすべての話は展開されるわけだ。どうすることもできはしない。がんじがらめの制度の中に馬鹿な人々を感動させる仕組みがある。君が何を思ってみても無駄である。いくら画面の向こう側から訴えてもこちら側には何も届かないだろう。彼らの卑しい感情に心動かされることはない。くだらぬ論理に呆れかえってそこで画面のスイッチを切る。なぜ自分たちの無力を悟ることができないのか。今まで通りの論調を強めているだけで、他に何の方策も見いだせずにいる自分たちの愚かさに気づかない。そんな連中はもういらないのはもちろんのこと、早く消え去って欲しいが、制度が彼らをそこに留まらせる。そんなわけで彼らはいつまでも画面上に醜態をさらし続ける宿命らしい。そしてそれを見ている大半の人たちはそれに気づかない。それが醜態だとも思わないだろう。とりあえず情報発信源の一部門としての役割以上の意味づけはしない方が無難だろう。制度的には世論調査結果よりも選挙結果の方が優先するわけだから、彼らが世論調査結果を盾に取って何を述べようと、選挙で選ばれた人たちには通用しないような気がするのだが、そればかりか、選ばれた人たちは自分たちに都合の良い調査結果だけ取り上げて、それを自らの人気取りに利用する傾向にもあるようで、世論調査などに自らの主張の論拠を求めるメディア関係者は大馬鹿もいいところだ。世論がある前に自らの意見を持っていなければ何の説得力も得られないと思うが、その辺はどうなのだろうか。世の中の動向を示す一つの指標としては世論調査もありかも知れないが、それならそのあとに何の意見も加えずにそこで止めておくべきだろう。だが彼らはそこで止まらずに調査結果を利用しながら馬鹿げた政治批判を繰り返す。一応この国は議会制民主主義制度なのだから、世論に従わずに為政者が政治を行っているというのならば、悪いのは為政者などではなく、その世論とやらを選挙に反映させない有権者が悪いことになり、それなら彼らは政治家など批判せずに、そんな政治家を選挙で選んでいる有権者を直接批判すべきだろう。一応憲法的には主権は国民の側にあるのではないか。それとも制度的に世論が選挙に反映されにくいというのなら、世論が反映するような選挙制度にしろとでも主張していればいいだろう。たとえイラクへ派兵される自衛隊員に死者が出ても、首相の小泉氏や政権与党の自民党や公明党などを批判しても仕方がないような気がする。それが悪いというのならば、すべての責任はそれらを選挙で選んだ国民にあるはずだ。世論調査などで不満をぶちまけていないで、次の選挙で政権交代が実現するように投票したらいいだけだ。それをやらないで政治批判などを繰り返すのは卑怯だ。制度的にはそういうことでしかなく、その程度のことが理解できないのならどうしようもないような気がする。
12月6日
さっきまで何を考えていたのか。寝ては起きて意識も時間もだいぶ飛んでいるようだが、どうせまたつまらないことでも考えていたのだろう。確かさっきとは別の時間では、何か利いた風なことを述べている文章を読みながら別のことを考えていたようだ。たぶん読みながら、そうではないと思い込んでいたのかも知れない。思い込んでいただけで現実には何もできていない。何もできないうちにまた日付が明日になってしまう。まだ意識が少し寝ぼけているようだ。無限の対話はどこで行われていたのだろう。何かに憑かれたように物凄い形相になって何をやっているわけでもない。憑かれているのではなくただ疲れているだけか。やりようのない状況のただ中にいるようで、だがなおもそこから何かしらやろうとしているらしい。何をやるにも日々の暮らしが重荷となっていることは確かだが、それがないとどこかへ飛んでいってしまいそうになる。意識は睡眠不足を感じているようだが、実際にはよく寝ているのかも知れない。なぜかいつも決まって夕暮れ時になると、何もせずに寝入ってしまい、気がつくと明け方になっている。近頃はそればかりで、そんなことの繰り返しの中で、何を思えばいいのかわからなくなる。実質的には何も思わないのかも知れない。この時代にどんな不安を感じれば安心できるだろう。安心するために不安を抱くのはおかしいか。そんな風に考えるのは間違っているか。とりあえず睡眠できればそれで一時的には不安は解消してしまう。そんな風にして今日もなぜか生き残ってしまったらしい。迷う必要を感じないのにわざと迷った振りをするのは良くないことかも知れないが、意識はその意に反した睡眠がどうしても受け入れ難いようだ。考える暇を許さない身体の防衛本能に意識が負けている。それを困難だと思っているようだが、実際は身体が強制的に困難を解除しているのかも知れない。眠気に勝てないことが功を奏して、そうやって自らの意に反する形で生き長らえ、それ以外に生き残る可能はあり得ないのに、それでも内面のどこかに不満が燻っている。たぶん意識の思い通りに行けば破滅してしまうだろう。できないことができそうに思われることが危ない兆しのようで、それを実際やれば挫折は目に見えているわけか。そしてそんな状況に対処するやり方は意に反して寝てしまうことなのか。しかし寝てしまったことで、状況的には窮地に陥ってしまっているように思われる。無意識が意識に向かって、もうやめろと言い聞かせているのかも知れない。それでもやってしまうところがよくわからない。そうやって無意識に逆らいながら疲れる毎日を送っているわけか。それらの試行錯誤にも何らかの意義を見いだしたいわけか。しかし救いはどこにあるのだろう。救いなど何も求めていないのに、今さらどうして救いが必要なのか。たぶん疲れが君を弱気にさせているのだろうか。弱気になりながらもそこから始めようとしている。すでに始めてしまっているではないか。そして今日も意識はわけのわからない状況のただ中に留まっている。すべてはいつものことなのか。
12月5日
何も思いつかぬとき、苦し紛れに言葉を重ねているうちに、どこからともなく何かがやってくるわけもないか。やってくるのは明日の現実だろう。それは仕事に追われてそれ以外は何もできない現実か、あるいは疲れて夕暮れ時に微睡む現実だろうか。何事も否定的に考えてはきりがないか。くだらぬ想像をして落ち込んでいる場合ではなく、まだやらなければならない作業が残っている。何に強いられているわけでもないのに、何かに強いられているような強迫観念に凝り固まっているのかも知れず、そんな妄想がないと続けられないのならやめた方が良いと思いつつ、それでもまだ続けようとしている。それはどういうことなのか。たぶん本人は冗談のつもりなのかも知れない。やる気がなく意欲も散漫のまま、架空の集中力を意識しながら惰性でやり続けている。君が求めているのはそうした雰囲気かも知れない。たぶんそれはどういうことでもない。要するに言葉だけのその場で捏造された虚構の雰囲気だろう。本当にそんな雰囲気を感じているわけではなく、そんな風に語れば、何か述べているような錯覚に陥っているだけなのだろう。どうやっても現実の時間に追いつけないので、そのギャップを埋めるための言葉が必要となるわけだ。何も理路整然と物事について述べるのをよしとしているわけではないのだから、ときには込み入らせながらわかりにくい表現でまわりくどく語ってもかまわないだろう。語る内容がない時も、とりあえず何かしら言葉を繰り出してみるべきか。たとえそれがご都合主義の亜種だとしても、それしかやりようがないならそれを試してみるべきか。今度は言い訳の連発になっているらしい。どこかのスポーツ選手なら、プレッシャーを楽しまなければならない、とか述べて自らのやり方を正当化してみせるだろうか。ものはいいようで、自己正当化を目的とすれば自然とそれに合わせた言葉が集まってくるものか。それらの意識の中には、目的のないところに精神はない、とかいう格言でも存在するのだろうか。ならば精神を維持するためには目的を捏造する必要があるだろうか。とりあえず目的は継続させることになるだろうか。ではそれらを継続させるためにはどうすればいいのだろう。もう少し本気になるべきか。他のことは考えず、ただしゃにむにそれらの言説を前進させるべきなのか。しかし、継続させるためには手段を選ばない、と述べてみたところで、現実には手段を選んで継続させようとしている。繰り出された言葉にはあまり実感が伴わないようだ。君は切実な気持ちにはどうしてもなれない心境にあるらしい。何を述べても口の中が苦くなるだけか。しかし現実にはそうやって事態を切り抜けようとしている。何もないところに煙は立たないようだが、煙は立たないが、他の何かは生じるかも知れない。人が集まって話し合えば、そこには必ず意見の齟齬が生じるだろう。それを傍観者が伝えれば臨場感に欠けるのは当然かも知れない。その大半は予定調和の物語として一方的に閉じられる。意見の多方向性が語り手の思い込みによって削られてしまうのだ。
12月4日
適当に言葉を連ねた末に導き出されるつまらない問いの他に、君の脳裡には何が記憶されているのだろう。その記憶をどこかにたぐり寄せ、どこにも存在しないどこかで適当な文章を構成する。不意に出来事は到来するらしい。何かの途中で停電を体験するが、それがどうしたわけでもなく、しばらくして明かりがついたあともひたすらテレビを見続け、結局は何もできなくなってしまう。暇なときは退屈にやられて廃人状態のままだ。だが良くも悪くもその退屈に助けられ、気まぐれに気晴らしを求め、どこかの街で誰かが彷徨っている話を思い出す。ある夜の出来事に適当な脚色が為されて、そのときの情景描写でも捏造してみたくなる。寂れた商店街には秋風が吹き抜け、人気のまばらな狭い路地を小学生が駆け抜ける。誰がそれを眺めているのだろう。そこにいるは誰でもなく、例えばそれは何かの監視カメラの映像かも知れない。たぶん季節は冬に違いない。夜空に月が昇る頃、クリスマスのイルミネーションが場違いに感じられる。小さな豆電球が木陰で無意味に光っている。人を登場させるのが面倒になり、監視カメラの作動時間が長くなる。意識はその心象に何を再生しているわけでもない。人の目には見えぬ空気がそこにあるらしい。こんな時間に機嫌が良いのは誰だろう。驚くような日々とは無縁の毎日に誰が感動できるだろう。人気のない風景にそれほど嫌気が差しているわけでもあるまい。いつの間にか夜も更けて、犬の遠吠えが恋しくなる時間帯にさしかかっている。そんなものが恋しいわけもないだろう。たぶん夜には効果音としての犬の遠吠えが必要なのだ。そんな決まりがどこにあるのか。決まりではなく何らかの慣習かも知れない。ちょっとした勇み足が長引いていつもの調子が戻らなくなる。ありふれた展開を慌てて打ち消して、平静を取り戻そうとしているのは誰だろう。そして急に言葉を繰り出すのが面倒になり、しばらく天井を見上げながら何もできなくなる。まるで他人の話を聞かずに自分だけの世界に閉じこもっているかのようだ。影は暇をもてあましているらしく、それとは対照的にまったく暇がない自らの生活を馬鹿にしている。いったいそれは誰の暇なのだろう。それは暇ではなく、失語状態が長引いているだけだ。君はそれ以上を求める気にはなれない。混ぜ合わされているのは現実と虚構の他に何があるというのか。自由を何かと取り違えているのかも知れないが、その何かがなかなか導き出せずに困り果てる。無意識は絶えずそこから先を求めているらしいが、今はそんな期待には応えられそうにない。とりあえず言葉は分散しているらしく、ある特定の目的を伴った文章としてまとまる兆しはない。まとめようとする意志が感じられない。馬鹿げた儀式にはもううんざりだ。
12月3日
何に熱狂しているわけでもないが、それほど冷めているわけでもない。ただ淡々とその日の作業をこなしているにすぎない。現状でそれ以上を求めるのは無理かも知れない。別に興味を抱く対象を見つけられなくても仕方ないだろう。与えられた環境に順応すること以外に何ができるだろう。努力とはいかなる場合にも気休めを伴うわけではなさそうだ。それが無駄な努力だと見なされても一向にかまわない状況にあるらしい。何も求めない無欲の境地に達しているわけではないが、特に何を求めているわけでもないらしい。とりあえず意識が感知しない領域で影は何かを求めている。メディアに登場する人はまるでけんか腰に見える。イラクやアフガニスタンで人助けの活動をしているらしき人には何やら縄張り意識が芽生えつつあるらしく、自分たちの縄張りに自衛隊が入ってきては困るようなことを述べていた。確か別の番組のアニメーション上では、今まさに忍者同士でけんかの最中らしく、馬鹿げた能力を駆使してやり合っている合間に、自分の生い立ち関する恨み辛みを相手にぶちまける。イヴァン・リンスは有名な歌の中で、僕らの希望が復讐以上のなにかとなるように、遺産などではなく未来へ続く道となるように、と陽気に歌っている。たぶん世界にはまともな人も少しはいるのだろう。別に意識は何を思っているのでもなさそうだ。何を思うのも人それぞれで異なるだろうし、また、たまには意見の一致をみるときだってあり得る。それらの現象はそれほと大したことではないように思われる。あまり本気になれないのもいつものことか。君はまた何を述べようとしていたのか忘れてしまったらしいが、とりあえずけんか腰の論調は見苦しいからやめておこうと思う。大幅に言葉を入れ替えて、結果として意味不明になってしまうが、それでも日付を一日遅らせた甲斐があったことになるだろうか。誰かが死んでも追想することぐらいはできるかも知れない。在りし日の姿を思い浮かべて涙することで、ある種の情念を昇華することができるだろうか。失われてしまった彼の思考を今さら復活させようとは思わないが、追想に浸っているばかりではどうにも退屈から逃れられない。結果を求めない態度とはどのようなものだろう。どこにも行き着かない試行錯誤の中に留まり続けることなど不可能だと思うのは当然だとしても、現状がそのものだと思われるのはどういうことなのか。なぜ君は不可能の最中に留まっていられるのか。それは何らかの勘違いに基づいた認識には違いない。そしてその勘違いを改めようとしないのも確かなことか。勘違いこそがそれらを継続させるための源泉なのだろう。それらの勘違いが、あるときは北朝鮮の卑劣さを糾弾してみたり、またあるときは日本政府の煮え切らない態度に憤りを感じさせてみたりしているのだろうか。とりあえず君は名もなき道化役者などではなさそうだ。滑稽なことを述べているのは画面の向こう側で原稿を読んでいる人たちか。
12月2日
誰かが部屋に閉じこもって、自ら抱いた妄想を肯定するつもりらしい。わかりやすい話を忘れてしまった。君は復讐心をどこに置き忘れてきたのか。わだかまりを氷解させる状況がいつの間にか到来している。どこかで和解の機運が芽生え、くだらぬこだわりを解きほぐして和やかな雰囲気を演出したいらしい。現実の世界がそんな事態になるわけもないか。たぶん忘れた頃にいつの間にか平和な時代が訪れているのかも知れない。何を思っているのかを知りたいようだが、なぜか舌先がしびれて味覚を失ってしまう。求めている感覚を取り違えていた。指摘したいのはそんなことではないはずで、不幸な境遇がわざとらしく設定されている現状を認めたくないらしい。敵役には自らが行動する理由をわかりやすく説明しなければならない状況が訪れる。大半の読者がのめり込めるような内容にしなければならない。大げさな対決にすれば安易な興奮を誘うことができるだろう。何よりも考えさせてはいけないらしい。他愛のない話であることを見破られては元も子もないか。いかにして子供だましを大人に読ませるか、その辺のノウハウはすでに確立されているのだから、不意に感じた小さな怒りはなかったことにしよう。そんな話でも楽しまなければ損だ。損な役回りばかりでは話にならないか。その澄んだ瞳が何を暗示させるかわかりきっているかも知れないが、わからない振りをしてその先へ読み進んでみよう。それはいつもの嘘につながる展開を予想させ、苦しい言い訳とともに、出来の悪い作品を評価する人物の存在に気づく。彼は今後も限られた言葉の周りで頑なに旋回し続けることになる。それが彼独特の安心理論に基づいた行動なのだろうか。そこから再生への願いを構成するのはどう考えても無理なように思うが、無関心を装いながら君は気休めの言葉を使うだろう。その地点からそれほど遠くへ赴こうとは思わない。そこで行き止まりになっているのだから、無理してその先へ行く必要はないし、すでに矛盾は現前しており、それをことさら強調するには及ばない。その矛盾をどうすることもできはしない。わかりきっていることは他にもありそうだ。過去に幻影を求めれば、現実の過剰には到底及ばない貧相な相貌が明らかとなるだけで、特殊な事情ばかり積み重ねて話を膨らましても構造が大げさになるしかなく、結局は予定調和の結論へ至る迂回路の数を増やして、そのぶん話を長引かせている現状を追認するしか道は残されていない。作者も読者も編集者も、それをやれば話がおもしろくなると思い込んでいる。実際にそれはおもしろい話だとされているのだから、同時代の誰もその定義を打ち崩すことはできないだろう。すべての特殊事情が忘却の彼方へ消えてからでないと、その貧相な姿が明らかになることはない。その時代において誰もが共有していると思い込んでいる価値がいかにつまらないものかを、その時代に暮らしている者が知ることは困難なのかも知れない。
12月1日
空を覆い尽くしているのは何か。光が途切れるところに影が沈黙のうちに住まうだろう。そこで何も語らずに話を進めようとしている。言語表現はどこまでも無限に変化するように感じられる。その一部が時折君のもとにもたらされ、それを使用するか否かの決断を促す。今はやめておこう。しばらくしたらまた別のきっかけがやってくるかも知れない。待つことに疲れ、すべてを投げやりにしてしまいそうになるとき、どこからともなく声がする。その身はさらに遠くまで引きずられて行かなければならなくなる。何かのリズムに乗せられて、影はまるで操り人形のように動き回る。そこにはもう実体がない。声は遙か彼方から聞こえているわけではないらしい。有限の中途半端が人をそこに留まらせ、声という記憶を文字を用いて記す。あるときそれは魔術的な効果を発揮したように思われ、言葉に何の実体もないことを忘れさせる。ときめく心はいつも決まって騙される。嘘を嘘として正視するのを妨げる。何かどこかに救いがないか、ありもしない気休めをさがすことしかできない。きっとどこかに希望を見いだすだろう。たとえそこへ至る過程が苦難を伴う迷い道であったとしても、いつの日かそれを克服して必ずや至福の時を得るだろう。それを言葉にすれば他愛のない内容になる。つまらぬことを述べてしまったと後悔するだろうか。そんな風にして獲得できるものは何だろう。どんな実体を求めているのか。自然の成り行きを緩やかに手に入れようとしている。なるようにしてなるものを獲得するつもりらしい。それは破滅の兆しを感じ取る心か、あるいは徐々に崩壊していく過程を眺める視線だろうか。影の風景の中で、物事の痕跡をなぞり、その存在を見定めるだけの意識しか残されていない。どこまでも続いているわけではないらしい。眠気とともに意識は途切れ、心の闇が影の意志を呼び覚ます。ありふれた欲望を摩耗させ、世間と違った見解を構成しようとする。あんなものに騙されてはいけない。騙している者の意識に現実感はない。別に騙そうとして騙しているわけではないらしい。本当にあれらの光景が実在することを信じているだけのようだ。そして原因と結果の間に横たわる過程をその場のご都合主義で省略しているだけか。現象を見定める前に結果ありきの思考を持ち合わせている。語る前に設定しておいた結論に到達しなければ話が成立しない。そんな予定調和を悟られまいとして、必死になって視聴者の欲望に語りかける。今はそれをやる時間なのであり、時間内に話を終わらせなければならない。そんなその場限りの話術を競い合う。定型の語り口をつぎはぎしながらぎこちなくも内容の希薄な語りが続いている。何事についても熟考する時間などありはしない。そんな内容ではその必要さえ感じられないようだ。現実の世界がそれを必要としていないのだろう。人の思考など無視して世界は変動し続ける。世界はそれが内包する法則に基づいて変化していて、それを感じ取ろうとすると思考の限界に直面してしまうだろう。それを意識する者の存在理由を見いだせなくなってしまう。そんな者がいてもいなくてもかまわない。仮にいたとしてもどうなるわけでもなく、存在しなくてもそれなりに世界はあり続けるだけか。偶然の作用とはそういうものなのか。存在の必然性を感じ取ろうとする意志のことごとくを脱臼させる。それは間違いだと思い込みたい感情を、そして何物にも代え難い貴重な存在などどこにもありはしない、という真実を否定する感情を、虚構の物語に塗り込めて、みすぼらしい美談へと腐食させる。君はなぜそんな成り行きに希望を抱くのか。何事もあきらめが肝心だと諭したいわけか。しかしあきらめた先にも意志が構成されるかも知れない。あきらめてもあきらめなくてもどちらでもかまわないのか。あきらめるかあきらめないかの水準で語る必然性を見いだせない。それを意識せず適当にいい加減に語るばかりか。それとは別の方向を見いだせずにはいられない。どこへ行こうと行くまいと、何がどうなろうと、とりあえずはそこで言葉を弄するしかないらしい。それ以上を望んでもかまわないし、そこに留まってもかまわない。
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