彼の声4

1998年

1月30日

 しかし、ここ二年間の間にウインドウズブームやインターネットブームに煽られて、安物のパソコンを買ってインターネットにつないで自分でこんなページを開設して、リンクしているページの影響でZDnetやCnetなどコンピュータ関連のニュースサイトを毎日のように見るようになったんだけど、このごろはそれらのニュースを読んだ後になぜかなんとなく違和感やら疑念やらが残るようになってきたよ。例えば最近は、インテルやマイクロソフトやコンパックの業績がいかに好調かが毎日のように流されている印象があって、その逆に、アップルは一時業績は持ち直して経常黒字を出したが業界全体のシェアは依然として縮小し続けていて、さらにネットスケープはブラウザソフトのシェアが下がってくるとともに初の経常赤字を出したりしてすっかり落ち目になっているそうなんですが、そのこと自体は、インテルのCPUとマイクロソフトのOSとアプリケーションソフトの入ったコンパックのパソコンの値段が安いからいろいろな会社でたくさん使われている、ってことなんだろうけど、それは、会社で、マイクロソフトのネット閲覧ソフトで情報収集して、マイクロソフトの電子メールソフトで連絡を取り合って、マイクロソフトのワープロソフトや表計算ソフトなどで書類を作成していることになるのでしょうけど、それって、ようするにそういうパソコンって会社の事務用品でしかないことだよね。使われる用途は電話やファックスと同じだし、下手するとノートやボールペンと同じ種類に属するかもしれないよね。そういうふうにひねくれて考えちゃうと(実際にひねくれ者だからしかたがないのだけれど)、このブームが始まる以前に自分が持っていたコンピュータに対するイメージと現実のインテルやマイクロソフトやコンパックの姿がどうもうまく結びつかないんだよね。以前に持っていたイメージとは、例えば、コンピュータグラフィックスアートだとか、シンセサイザーを使ったテクノミュージックだとか、スーパーコンピュータで銀河系の外の宇宙の三次元地図をつくるだとか、そういうなんていうか夢のあるイメージだったんだ。ちょっと今言ったイメージは実際の今の自分の生活からはかけ離れているんだけれど、より現実に近づけるなら、例えばMacを使って趣味でイラストや音楽をやっている人や、仕事で使っているプロのイラストレーターや漫画家やミュージシャンや作家などが日本には大勢いるわけでしょう。ま、今述べたことはウインドウズマシンでも可能でしょうが、何かニュースサイトではMacのシェアがどんどん落ちてきていることがしきりと話題になってきている印象があるのだけれど、それって単に相対的に事務用品としてのウインドウズマシンが増えているだけとしか思えないんですけど実際はどうなのでしょうか?べつにパソコンが事務用品として使われること自体は職場での仕事の能率アップに使われているのだからそのこと自体は悪いことではないのだけれど、だからといってMacも事務用品として使われるようになれとはいえないでしょう。まぁ自分はインターネット端末にPC98を使っているだけだからからあまり関係ないのだけれど、コンピュータも使う用途に応じていろいろな種類があるのがいいですね。MacはMacでいいよね、いつか買いたいよ。今は金がないから買えないけどね(笑)。


1月28日

 まったく、三塚が大蔵大臣を辞めたぐらいでガタガタ騒ぐなよ。あんな奴が辞めようが辞めまいがどうなるものでもないだろう。一体今まであいつのまともな国会答弁や記者会見を聞いたことあったか?なんだか意味不明なうわごとみたいなしゃべりしか聞いたことないぞ。それにしてもここ数日の株価の値上がりは不自然だったね。大蔵官僚の汚職摘発の前に財政投融資か何かを使って株を大量に買って株価を吊り上げておいたとしか思えないんだけどねぇ。政府の景気対策への期待感から株価が上がった、なんていう数日前のマスコミの報道自体が大本営発表くさいよね。だいたい政府の景気対策なんて二兆円の特別減税と銀行の貸し渋り抑制策だけじゃないか。そんものに誰が期待するというのかね。いやだねえ、マスコミと大蔵省と証券会社がグルになって株価操作をしたんじゃないのか?なんちゃって、勝手な憶測で証拠は何もありません。べつに自分は経済通ではありませんからあまり信用しないでください、と、でかいこと言った後はすかさずトーンダウンだ!でも大蔵官僚なんてどうでもいいよね。給料以外で自分達の利益を確保したいがために団結している下等動物でしかないもんね。彼らは組織の歯車でしかないよ。ようするに日本国内だけでやっているのなら、官僚と国内企業がお互いの利益を追求するためには接待や談合や天下りで癒着するのが一番効率的なんだよね。もちろん彼らの得る利益は商品を買う消費者や税金を払う国民によって支えられているのだろうけど。しかし金融ビックバンなどで外国の企業が国内市場に参入してくるとそうもいかなくなっちゃうわけだね。談合癒着システムはよそ者を排除した上でしか成り立たないからね。ともかく日本企業が外国で大っぴらに商売している以上外国企業の国内市場への参入を認めないわけにはいかないもんね。その上で今までのシステムを維持していくためには外国企業も談合組織に加えて官僚の天下りを要請するしかないよね。そんな要請を外国企業(特にアメリカ企業)にしようものならすかさず、日本の官民一体となった排他的商慣行として世界中に言いふらされちゃうだろうね。そうなると「ジャパンバッシング」が火を吹くね。今世界市場ではアメリカの言うことが正義だからしょうがないね。やはり金融ビックバンの前にインサイダーシステムは取り払っておかないとヤバイでしょう。全部取り払う必要もなく、一応取り締まってますよ、ぐらいにとどめておきたいのでしょうけど、どうなることやらだね。不況だしおいしい思いをしている奴に対する妬みも相当なものでしょうから、取り締まる側の思惑を超えて結構行くところまで行っちゃう可能性もあるんだよね。外圧ではなく内から日本人自身が自力で変わるべきだ、なんてカッコイイことをのたまう馬鹿者もいますが、長い間かかって築き上げてきたインサイダーシステムというのは外からの圧力でしか変わらないものなんだよね。それは日本固有の問題ではなく万国共通だよ。例えば五百年前のヨーロッパ諸国の大航海時代の幕開けはオスマントルコなどのイスラム諸国の香料貿易の独占が外圧となっていたわけでしょう。もちろんそのイスラムの交易網を武力という外圧で破壊したのがヨーロッパ諸国なんでしょうが。この先日本もそういう国家を超えたボーダレスな相互作用で変わっていくしかないでしょう。どの程度変わるかは知りませんがね。期待通りに変化するのか期待外れに終わるかを知りたければ占い師にでも聞いてみることですね。案外気象予報士の天気予報程度には当たるんじゃないですか。


1月27日

 前々から気になっていたんですけど、このページってカウンターの数字が平日で一日十ずつ増えていて土日で五ずつ増えていることが非常に多いんですよね。そして自分が深夜に見る時は末尾が五とか十とか四とか九とか必ずきりのいい数字かそれの一つ前が多いんです。これは自分が一日一回アクセスしても二回アクセスしても必ず翌日は同じようにカウンターが十増えている場合がよくあります。もしかして誰か親切な方が一人で何回かアクセスして一日で十ずつ増えるように調整してくれているのでしょうか?ま、Reload(再読込)ボタンを押せばカウンターの数字は増えるのですが。どうせなら一日で百増やして欲しいなあ。暇な方は一人でカウンターの数字をどれくらい増やすことができるか挑戦してみてくださいね(笑)。


1月26日

 やはり恋愛抜きで唯物論的に性欲の話をするとちょっと下品な感じになっちゃうかな?しかし日本の体育会系学生も大変だけど、アメリカのエロブタクリントンも大変ですね。ホワイトハウスの研修生と性的関係を持った事実を隠すために彼女に嘘の証言を強要したそうで。その嘘の証言を強要したことが非難の的となっているそうですが、これで辞任しちゃうと前代未聞だとか騒がれていますね。いいんじゃないですか絶倫大統領!笑わせてくれてありがとう!ですね。州知事時代のセクハラでも裁判となっているし、その性欲はとどまるところを知らないようですね。ファーストレディ(変な名称)のヒラリーさんも彼の性癖にはもはや黙認するしかないのでしょう。しかし、彼が空爆の脅しをかけているイラクのフセインはこの状況をどう思っているんでしょうかね。自分は政敵や邪魔者を暗殺してまで命がけで大統領の座を死守しているというのに、敵のアメリカでは自分から見れば取るに足りない些細な痴話げんかで大統領が辞任の危機に直面しているんですからね。この落差は大統領の座を降りることがそのまま死につながりかねないアラブの独裁者には理解の限度を超えた状況かもしれないですね。そういえば日本にもかつて芸者に貢いでいたことがばれて辞めた宇野とかいう総理大臣がいましたけれど、為政者が命のやり取り無しで辞任できるのは平和な民主主義国家である証拠かもしれませんね。でもそういう平和な状況では政治家は英雄にはなれませんからね。戦争の危機でもないと勇ましい演説を打ってかっこつけられないですからねぇ。自らの無節操な性欲を隠そうとしたばかりにそれをあからさまにマスコミに暴露されて窮地に陥っているのだから超間抜けな感じですよね。大統領の威厳も誇りも何もあったものじゃないですよね。しかし、国のトップがこのていたらくのアメリカが今現時点で世界の政治や経済を牛耳っているのですから、偉大な指導者や優れた大人物の出現を熱望している救世主願望の人々の考えがいかに浅はかなものか良くわかるというものです。今の時代にルーズベルトやトルーマンや毛沢東は出現できないでしょう。社会全体に修復不可能な物凄い歪みが存在していて大勢の人々が不幸に陥っていないと偉人や救世主は出現しないものなのでしょう。例えばインドがイギリスに植民地化されていて人種差別や圧政が公然とまかり通っていたからこそガンジーが出現したわけですからね。じゃあ今の平和な時代にはどのような人物の出現を期待すればいいのでしょうか。知りませんね。とりあえずいえることは他人の出現なんか期待せずに自分で生きていくしかないということぐらいですか。ま、クリントン個人が辞めようが辞めまいがアメリカ自体がどうなるものでもないでしょう。副大統領のゴアが大統領になればいいだけですからね。仮にゴアが大統領になったとしてもニクソンがウォーターゲート事件でやめてフォードが大統領になったのと同じ事ですし、何もそれに対抗して日本でマグマ大使が復活して再放送される可能性はないでしょう(若い人にはわからないでしょう)。やはり今回も希望に満ち溢れた文章からは程遠いね。だめだこりゃ。う〜ん、宇宙猿人ゴリ!それはミラーマンだって。ますますわからないよ。


1月24日

 スポーツマンも大変ですね。特に帝京大のラグビー部の皆さんと日体大のアイスホッケー部の皆さんはがんばっていらっしゃる。集団レイプですか。集団でやるところがチームワークが取れていますよね。チームプレーは日ごろの練習の成果でしょう。監督さんもコーチの皆さんも自分達の指導が実践で役立つことができてさぞや感激したことでしょう。スポーツは戦争だぁ!彼らに必要なのは従軍慰安婦でしょう。若い男ばかりが集団生活しながら筋肉ばかり鍛えていれば自然と男性ホルモンの分泌量が増大して性欲ばかり溜まっちゃいますよね。溜まった性欲の捌け口を探すのにも一苦労ですか。ま、合法的な範囲内で済ますのなら自力で彼女を見つけるか、アルバイトでもして金を貯めてソープやヘルスに通うかどちらかでしょう。今回のように安易に非合法な手段に出ると発覚した後が大変ですからね。最悪の場合選手生命を絶たれちゃいますからねぇ。今までの血の滲むような努力や精進も自分の性衝動の暴走で水の泡になっちゃいますね。過酷な練習による禁欲生活も性欲ばかりが溜まってもろ刃の剣なのでしょう。しかし、人間は集団となって群れで行動すると個人の良識やモラルより群れの構成メンバーの共通の欲望が優先されるのかもしれないですね。一人でやるには勇気が要るけどみんなでやれば恐くないんでしょうね。それが組織力なのでしょう。組織の内部ではお互いがなあなあの関係でわけ知り顔の親睦を深めていて、その反動が外に対する攻撃的性に現れるとかね。ラグビーもアイスホッケーも集団でやる格闘技みたいなものだからより攻撃性が先鋭化されちゃうのでしょう。その過剰な攻撃性はチアガールの応援ぐらいじゃ満足しませんか。詰めえりガクランの男同士のホモファシズム的な応援団なんか問題外かな。鍛えぬかれた筋肉だらけの肉体が求めるものはやはり肉体そのものなのでしょう。それはモノとしての肉体なのでしょう。健全な肉体には健全な精神が宿るのかもしれないですが、過剰な肉体には過剰な欲望が宿るのかもしれませんね。それは、その肉体を使った攻撃行動に使われることをその肉体の所有者に要求し続けるのでしょうね。鍛え上げられた肉体は使われるためにあるわけですからね。それを別の鍛え上げられた肉体にぶつけるのが格闘技系スポーツなのでしょうけど、せっかく常人以上に筋肉をつけたわけですから別の方面にも使いたくなりますよね。しかし自分の体力に対する過信も当然ながら生まれて来ますよね。その結果として力まかせが優先されちゃうのでしょうかね。ま、体力だけじゃだめなのはともかく、精神力だけでもだめだし、知力だけでもだめだし、知力体力精神力の三つの力を合わせ持っていても経済力には勝てない時もあるし、どのような力をどのように合わせ持っていても過ちを犯す時は犯しちゃうのでしょう。そして、結果として過ちを犯したことが発覚したら罰せられるだけなんですね。


1月22日

 クローン牛ですか、羊の次は牛なんだそうで。どうでもいいな。仮にクローン人間が誕生したところでどうでもいいことだね。利害関係のない自分には関係ないや。遺伝子が同じでも肉体は別々にあるんだから、それぞれの肉体が周りの環境から受ける刺激もそれぞれ違ってくるし、結局別人にしかならないよ。例えばSF的にアドルフ・ヒトラーのクローンが何人も生まれて来てもそれらがヒトラー本人と同じ独裁者になるとは限らないよ。第一、ヒトラーのクローンがヒトラーになるためにはヒトラーが生まれ育った地域や時代とそっくり同じ環境で育たないとヒトラーにはなれないもんね。それはもう今では失われた環境であり再現不可能だよ。フィクションとして仮にその環境が再現されたところで、クローン自身が別の人生を歩んでしまう可能性も大いにあるだろうし。一生売れない画描きのまま終わったヒトラーもありえたわけだからね。それでもヒトラーと完全に同じ精神構造が再現できたとして、昔と完全に同じ歴史状況にならない限りヒトラーがヒトラーとして機能しないよね。ようするにヒトラーのクローンをいくら完全に造り上げたとしても周りの状況が昔とは違うからヒトラーのクローンは永遠にヒトラーにはなれないわけだ。でも、ヒトラーのネームバリューでそのクローンはある種の話題性を獲得するから、それを利用してそいつは何がしかの利益を得られるかもしれないね。しかし、牛や羊は何らかの研究目的で同じ遺伝子にする必要性があったからクローンを造ったわけだし、人間のクローンも何らかの目的(不妊症で子供が欲しいとか)で造ろうとするのだろうけど、生まれてくるのは結局一人の人間でしかないんだからそれ自体には何の問題もないんだよね。例えばまたSF的に自分のクローンを造ってそれを殺して臓器移植したとして、それが発覚すれば単なる殺人でしかないわけだ。さらに妄想を膨らませて、自分のクローンを大量に製造して私設の軍隊を創って世界征服とかに挑戦したところで、クローンの育成や教育にそれ相応の人件費がかかるし、他人を雇って軍隊を創った場合の方がよっぽど効率がいいし安上がりになるかもね。あっそうか、H系オタク(男)の願望としては自分のクローン(女)を人知れず造ってそれを自分の思い通りにいろいろいじってみたいということか?ま、とりあえず人権だとか人としての尊厳だとか言ってみたところで、人間も結局はモノでしかないということかな。しかし、人間なんて本当に存在しているのだろうか?自分は人間なのか?人間って何だ?突き詰めていくと自分は自分でしかないよね。それは他人は他人でしかないのと同じことだね。そこに人間なんていうモノを差し挟む余地はないよ。実際に人と人との社会関係を離れたところで抽象的に人間を論じようとするなら、それはモノとしての人間に行き着くしかないよね。「人間とは何か?」なんていう捏造された設問で哲学もどきの議論を繰り広げても、結局それはモノとして人間を取り扱っているだけさ。それは下世話な人生相談などで紋切型として示される人生論や恋愛論についてもいえるよね。特定の名前を持った個人を離れたところで人間について語っちゃうとそれは抽象的なモノになっちゃう他ないよ。結構世の中にあふれている「人間論」の人間ってクローン人間とたいして違わないかもね。そういう「人間論」を真に受けてその通りにしている奴はすでにクローン人間なんだよ。もちろんそういうクローン人間は、自分は個性的な人間だと思っているんだろうけど。


1月20日

 何を語る気なんだ?何も語らないよ。嘘だ、それは嘘だ。たぶん嘘を語るんだろう。嘘についてじゃない、嘘そのものを語るだろう。これは嘘の呟きだろう。終わりのない時間の中で途絶えることのない呟きが聞こえてくる。それは何だ?幻聴なのか?それは物音だろう。声なんかじゃない。誰も何も語っていないじゃないか。呟きや囁きなんて聞こえるはずもないよ。辺りはすっかり沈黙が支配している。べつに支配しているわけじゃない。ただ沈黙しているだけさ。何が沈黙しているのか?何も沈黙してないよ。聞こえるじゃないか、物音が。何の音?それは音なんかじゃない。誰かの呟きだよ。誰の?君さ、君の呟きが聞こえるんだ。何を呟いているんだ?呟きの内容は何だ?知らないね。第一君は存在しているのか?君は存在していない。存在してない君が呟くことができるのか?できるよ。これは幻聴だ。これは物音であり声なんだ。途絶えることのない呟きなんだ。誰も呟いていない。しかし呟きが聞こえる。どこからともなく聞こえてくる。辺り一帯に漂っているのさ。実態は何もない。内容もない。何かを訴えかけているのでもない。ただ空虚な呟きだ。しかし聞こえる。何が聞こえるんだ?沈黙が聞こえるんだよ。沈黙の呟きが辺り一帯に漂っているんだ。それが嘘なのか?それが嘘を語ることなのか?沈黙の呟きが聞こえる程度の嘘なのか?嘘じゃない。幻聴は空気の振動がなくても聞こえるものだ。周りが沈黙してても聞こえるんだよ。それはテレパシーといわれるものなのか?超能力には興味はない。テレパシーではなくそれはあくまでも幻聴なんだ。ただ聞こえてくるだけなんだ。言葉としての内容は聞き取れないが、声として聞き届けられる沈黙なんだ。沈黙の声なんだ。それを黙らせることはできない。沈黙は黙る前に沈黙している。言葉に変形できないんだ。それは声なのに言葉にはならない声だ。何かの存在を語っているのではない。存在しない沈黙の声について語っている。存在しないのに聞こえてくるものについて語っている。それを誰もが納得する形で簡単に説明することはできるだろう。それは脳内の神経作用であり、何らかのきっかけで脳内の音を聞き取る部分に脳自身から信号が送られているのだろう。こんな説明で納得する人間が多いだろう。しかしそのような生理的な意味で沈黙の声を語るのは退屈だ。本当は幻聴なんて聞こえていないんだ。聞こえていないのに聞こえていることにしているんだ。沈黙を聞き取ることはできない。しかし沈黙状態を感じることはできる。何も物音がしていない時が沈黙の時だ。それが沈黙の声だよ。言葉として聞き取ることはできないが聞こえるだろう。聞こえていない状態が聞こえるだろう。それは幻聴なんかじゃない。嘘だよ。幻聴が嘘なんだ。実際に聞こえているんだ。何も聞こえていない沈黙の声が聞こえているのさ。それは事実なんだ。嘘じゃない。嘘そのものを語るつもりが嘘になった。二重に裏切りだ。沈黙の声が聞こえているのに沈黙できずに語っている。これも不誠実だ。なぜ沈黙しないんだ?それは沈黙できないからだ。途絶えることのない沈黙の声によって語らされているのだ。沈黙の重圧に押し出されて思わず語らされてしまうんだ。恐ろしいことだ。何もないのに語りざるを得ない。何だこの文章は?なぜこんな空虚な語りを続けてしまうのか?おかしい。まったくどうかしてるね。何かが狂っているよ。限界を超えている。どこかが過剰なんだ。ブレーキが利かないんだ。とどまることを知らないようだ。もううんざりだ。


1月18日

 地震三周年か。何か記念式典みたいなのをやっていたね。確か三年前の地震で六千人くらい死んだんだっけ。でももう昔のことさ。三年しか経っていないのにもう遠い昔の出来事になってしまったよ。過ぎたことは忘れる主義かな?この次にあの辺で地震が起こるのは千五百年後だそうだ。地震の専門家がそう述べていたよ。遠い未来の出来事だね。過去や未来じゃなくて現在はどうなっているのだろう。仮設住宅で老人が見捨てられているだけだろう。とりあえず仮設住宅は早く撤去したいんだそうで。そこに住んでいる老人が死ぬまで待ってられないらしい。せっかちだなあ、行政も。地震の爪痕はきれいさっぱり片づけたいのね。ついでに要らない老人も片づけたいのね。非情だなあ、兵庫県と神戸市。さすが山口組の本拠地、ヤクザの総本山。ハードボイルドだね。大藪春彦も泣いて喜ぶよ。野獣死すべし。伊達邦彦だ。それに比べると夢枕獏の小説の主人公は甘っちょろい奴ばかりだってね。まったく終わらない物語ばかりだよ。たぶん終わらないまま死んじゃうんじゃないのかな、あのおやじ。せいぜい釣りでも将棋でもやって悠々自適に暮らしていればいいんだよ。もうあれは立派な文化人だよ。使用済みの小説家だ。おや、横道に外れた。でもいいや、老人は後先短いからどうなってもいいや。ボランティアの方々が面倒見てくれるよ。ひどい言い草だねえ。単なる傍観者だ。自分が老人になったときのことを考えたことあるのか!実際に老人になってから考えます。老人になってからじゃ遅いんだよ。遅くてもかまいません。だって今現在老人のことなんて考えている余裕はありません。どうか余裕のある方がボランティア活動をしてください。自分は責任逃れです。あとが恐いでしょう。覚悟してます。嘘です。覚悟なんかしてません。老人になってから途方に暮れて絶望して挙げ句の果てに死後半年ぐらい経って白骨死体で発見されることでしょう。惨めだ。哀しい。やっぱ老後のことなんて考えるのはよそう。想像しただけで気が滅入っちゃうよ。でも弱者切り捨てが資本主義社会の掟なんだから落ち込んでる暇はないさ。弱者は弱い者同士で団結しなけりゃね。団結して何やるの?そうだねえ、まずは集会だね。何の集会?自分達の団結力を確かめ合うための集会さ。お互いの絆を深め合って組織力の強化を図るんだ。やっぱ来賓のお客様なんかを呼んじゃうんだろうね。そういうことだ、国会議員のXX先生が来ちゃうわけだ。選挙の時は何とぞXX先生に投票しましょう。そして我々の意見を国会に反映させましょう。それで?そういうことだよ。これで老後も安心じゃないか。我々にはXX先生という強い味方がついている。XX先生の後援会に入っていればよいよいのボケ老人になっても周りがちゃんと面倒見てくれるよ。ボケ老人でも偉い先生でも選挙の時は同じ一票しか投票できないんだからね。きっと設備の整った立派な老人ホームでも紹介してくれることだろう。もう安心だ。安心するためには団結しよう。でも自分はひねくれ者だから団結できません。自閉症だから人と話すのが苦手です。だから自分は白骨死体コースです。しかし今回は笑えない。本当に気が滅入っちゃうなあ(偽笑)。


1月16日

 どうやら東南アジアの経済恐慌はアメリカの経済制裁だったらしいですね。民主化もしないくせに調子に乗るなよ、ってことですか。アジアにはアジアのやり方がある、なんて偉そうなこと言ったのが災いしましたね。例えばミャンマーの軍事政権をASEANが黙認しているのが我慢がならないんじゃないの?今ミャンマーの政権に取り入って金儲けしているのはタイやシンガポールやマレーシアの華僑だし、裏で支援しているのは中国政府だしね。とりあえず国際投機屋のソロスあたりを使って華僑が資金調達している東南アジアの市場をめちゃくちゃにして、ASEAN各国の通貨が大暴落したらIMFを使って緊急融資させるわけね。でもその金はひも付きでIMF(アメリカ)の言う通りにしないと融資しないよ、ってなるわけね。ひどいなあ、アメリカも。でもASEANもそれに輪をかけてひどいことやっているんだから同情の余地はないよ。インドネシアのスハルト大統領なんかとんでもないだろ。自分のファミリー企業と韓国の自動車会社で合弁企業を作らせてその企業だけ税金を安くして優遇しちゃうんだからね。それが国産車キャンペーンだっていうんだから完全に国家を私物化しているよ。でもとうとうそういう馬鹿な行為もIMFによって止めさせられちゃったみたいだけどね。まったく、自分の健康不安説が出ればたちまち自国の通貨が最安値を更新しちゃうし、二十年も三十年も独裁をやっていると(一応選挙で選ばれているが選挙自体がめちゃくちゃ、野党指導者を逮捕したりする)弊害ばかりだね。そういえば東チモールも軍事占領されたままだね。でもインドネシア人の移民を大量に送り込んでるらしいからもう後戻りはできないだろうね。タイではIMFの言う通りにやっているのに一向に経済が持ち直さないもんだからIMFに対する批判ソングがヒットしているとかニュースでやっていたけど、一度おかしくなった経済は回復するのに時間がかかるね。日本企業も東南アジアで一儲けしようと企んでいたのが当てが外れてご愁傷様だよ。インドネシアの大規模開発プロジェクトもお流れになるそうだ。だけど経済が停滞するのは地球環境には良いことなんだそうで。アメリカは自国の温室効果ガスを削減する代わりに東南アジアの環境破壊を食い止めたってことですか。さすが世界唯一の超大国、やることが一味違うね。でも密かにキューバのカストロとリビアのカダフィを応援しちゃうな。がんばれ独裁者!死ぬまでアメリカに抵抗し続けろ!イラクのフセインは応援しなくても何かやってくれるでしょう。朝鮮の金正日はわかんないなあ。だってあいつ変だよ。何考えているのか皆目見当がつかないよ。外見はヤバそうだけど案外期待外れに終わるような気がしてならないんだけどね。でもしかし、国際情勢なんてどうでもいいな。落合信彦や大前研一じゃないもんね。ま、こうして適当な長さまで書かせてくれてありがとうだね。東南アジアの経済危機も書くネタを提供してくれて役に立ったよ。


1月14日

 茶番だね。景気対策って何?減税ですか?それ以外は?誰か減税以外の景気対策を提言している人はいないのかな?減税の財源を確保するするために財政再建の一時棚上げですか。また赤字国債の発行ですか?ところで行政改革はどうなったんだっけ?金融ビックバンは?情報公開は?物流の効率化は?国会が始まったけど野党側の主張は減税要求だけなの?大型減税を実施すれば景気が回復するわけ?なんだかいい加減な主張だね。減税すれば景気が回復して税収が増えて財政事情も好転するなんていかにも虫のいい話だよ。そんな稚拙な論理で国民をだませるとでも思っているのかい?それで通用しちゃうところが日本なのかな?例えば、むりやり赤字国債を発行して減税すれば国の借金が増加してそれが世界に知れ亙って日本そのものが国際的な信用を失い、株や債権や円が暴落して輸入品の価格が上昇して物価が上がってほとんど恐慌状態になる可能性だってあるよ。赤字国債を発行せずに減税したければ行革で無駄な支出を減らすしか方法はないわけだよね。普通に考えれば、支出を減らした分だけを減税するのがまっとうなやり方だと誰でも気づくと思うんだけどね。でもそれはできない相談だよね。各省庁や公共事業目当ての各種団体の利益代表やその代理人が国会議員の大半を占めているんだもんね。そういうわけで現実の議論はまっとうなやり方からはかけ離れたものになっちゃうんでしょうね。まず減税ありきなんだよね。それも少しでも相手の言ったのより高い額を言いたいんだよね。あっちが二兆円ならこっちは四兆円だとかね。ようするに、減税の主張が通った時に自分の手柄にしたいもんだから少しでも額が高いほうが印象が良くなるってわけだ。でもあまりにも額が高いと現実離れしちゃうから微妙な範囲での小競り合いだね。まるで美術品のオークションみたいにね。そしてわざとらしく、臨時じゃなくて恒久的な減税にしろとかね。自分達が少しでも国民のことを考えて精いっぱいやっていることを知ってもらうためには少しの違いでも見逃せないよね。でも、彼らはその財源をどうするのかちゃんとした説明をしているのかな?そしてその減税額を捻出できる合理的な根拠はあるのだろうか?さらにその根拠にどれほどの説得力があるのだろうか?昨夜のニュースを見た限りではただ闇雲に減税要求している印象しか残らなかったんだけどね。そして、何やらヒステリー気味に甲高い声で不況になった責任を取れと政府に向かって叫んでいるだけだし、つくづく不毛な論議だよね。本当に馬鹿丸出しだよね。でも議論してる本人達はいたって真面目なんだよ。それを報道しているマスコミも真剣な態度みたいだし。べつにギャグで国民を笑わせようとして底の抜けた減税要求合戦をしているわけじゃないんだろうけどね。でも何か変な雰囲気だよ。ヤバそうだよ。目が血走っているよ。もしかして発狂しているんじゃないのか?ああいう連中と一心同体にはなりたくないよ。でも自分達が選挙で選んだ奴等があれらなんだよね。まったく馬鹿な話だね。茶番だよ。


1月12日

 ところで司馬遼太郎おちょくりシリーズは続けるべきかなあ?なんだかこんなこといくら続けても無駄なような気がするんだよね。仮にこれを司馬ファンが読んだとしても、結局、おまえは司馬先生のことを何も理解していない、世の中理屈だけじゃないんだ、俺には先生の言いたいことがよくわかる、となってそれで終わりなんじゃないだろうか。なんだかむなしいな。でも書いちゃうのか。今回の「街道をゆく」はバスク地方ですか。フランシスコ・ザビエルはバスク人だそうで。イエズス会の中心メンバーだったザビエルがたまたま日本に布教活動に来たのが縁でバスク人の宣教師が度々日本に来るようになったらしいですね。なんでも二十世紀のザビエルだとかいわれるバスク人宣教師の日本語で書かれた著作全集に司馬は大変感動しちゃったらしく、例によってバスク地方を巡礼しちゃうんですねこれが。といっても、ようするにバスク地方っていわゆる「いなか」なんだよね。これで司馬の感動しちゃうものはもうお決まりのコースさ。村祭りでの木こりの丸太割りレースや陽気な民謡や踊りに大喜びだ。それで国とは土地ですか、「山川草木」ですか。確かに地元の農民にとってはそうなるのかもしれませんね。日々の農作業で鍛え上げられた農民の筋骨隆々とした肉体は確かにその大地に結びついているよね。でもザビエル本人は貴族の出身だよ。しかも幼くして父親が死んで家が没落しちゃったからパリに出て神学校で勉強して宣教師になったんだろ。つまり、司馬が定義するバスクの国としての本質と実際のザビエルは何も結びつかないよ。べつにザビエルは農作業や牧畜をしていたわけじゃないし、丸太割りレースに参加していたわけでもないしね。それに、なぜザビエルが日本にまで布教に来たかといえば、当時のドイツのルター派やスイスのカルバン派などのプロテスタントやイギリス王が勝手に作ったイギリス国教会などがローマの教皇庁をないがしろにしちゃったもんだから、このままじゃヤバくなるという危機意識からイエズス会が設立されて、世界各地に自分達の宗派(カトリック)を広めて味方を増やそうとした戦略の一環だったわけなんだから、さらにバスク地方とは関係なくなっちゃうよ。つまり、ザビエルは司馬の提唱する国だとか民族とはまるで関係のない国際的な宗教情勢に対応して行動していただけなんだ。じゃあなんでバスク人には宣教師や船乗りが多いのか?それがバスク人気質だって?とんでもないよ、それは農村の人減らし対策の一環だよ。日本でいえばかつて農家の次男や三男が集団就職で上京したのと同じ事だよ。土地がそれほど広くないのなら後継ぎは一人で十分だろ。余った人間は外に出て働くしか道は残されていないんだよ。でも、こうして話を進めてくると司馬のロマンあふれる詩情からどんどん離れていっちゃうね。こんな展開じゃマズイのかなあ?もっと小市民の皆さんが幻想を抱いてバスク観光ツアーなんてものに参加したくなるようなレトリックを用意すべきなのかなあ?やっぱ自分の文才の無さを痛感しちゃいますね(笑)。


1月11日

 “正義”なんてクソ食らえ!ですか。なんだか仰天しちゃいますね。偉いなあ。いまどきこんなセリフでキメてくれる奴はめったにいないよね。でも、クソ食らわせる予定の“正義”って一体何だろう?何が“正義”なんでしょうね?やっぱアンチ“正義”の人って仮想敵としての“正義”の概念をはっきりと認識しているものなんだろうか?やはり「善と悪」という二元論の世界の住人なのかな?もしかしたら正義としての理性に対して個人の感情を肯定してるつもりなのかもしれませんね。もしそうだとすれば、物事の道理としての理性を認めたくないんでしょうね。理性だけじゃあ世の中は成り立たないよね。うまく回っていかないよ。道理を立てれば人情が切り捨てられちゃうよね。でもどちらか一方に味方するなんていかにも単純な発想だね。結局「理性と感情」の対立なんてどこまで行っても二元論の世界なんだ。ただ世界を二元論で単純化しているだけさ。確かに数学では三次元空間より二次元平面の方がより単純でわかりやすい式で表わされるよね。でも二次元平面よりも一次元の直線の方が、一次元の直線よりもゼロ次元の点の方が更に単純になるよね。ようするに、そういう人はどちらか一方を突き詰めていって最終的にはゼロ次元の一点を目指す人になっちゃう可能性があるんだよ。ま、そのゼロ次元の一点が神になれば宗教になるわけだ。でも実際にそうなっちゃうとなんだか寂しいよ。そういう哀しい人を見ていると辛いよ。そんな人と会話をすると絶望的な気持ちになっちゃうんだ。相手は希望に燃えているのだろうけど、現実にその人の可能性はゼロなんだ。ゼロ次元の人には三次元や四次元を認識することは不可能だろう。でも本当はそれどころじゃないんだよ。次元の数なんていくらでも無数に存在するよ。しかも無数に存在するどころか次元の概念自体が一義的なものではないんだ。例えば数学でいえばコッホ曲線は約1.26次元だよ。小数点の次元まである。次元で割り切れないものまであるんだ。でもゼロ次元の人にこんな説明をしたところでその信仰は揺るがないだろうね。数学の定理や数式は神の言葉であり、数学者はそれを探求することによって究極の原理である神の真意を探ろうといていることとされちゃうだろうね。よくいるじゃん、おまえはわかってないよ、世の中理屈だけじゃないんだ、俺にはそれがわかっている、なんて説教している人っているよね。男らしいよね、アニキって感じかな。まるで昔の青春テレビドラマの熱血先生だね。そういう人を周りでおだててやるとその気になって宗教おじさんと化しちゃうのかもね。麻原彰晃みたいにさ。ま、ギャグで冒頭のセリフを言ってるんなら少しは心に余裕があるってことかもしれないけど、マジで言ってるんだとするとそれはちょっとヤバイ徴候だと思うよ。早く改心させてあげないとゼロ次元コースだろうね。でも人を改心させようとするおせっかい野郎の中にも宗教関係者が多いんだよね。結局人間て老いてくると単純になっちゃうってことかな。こんな文章は要らぬおせっかいなのか。


1月9日

 安易な展開だよ。無気力の次は無感動さ。感動がないんだ。感動できないのさ。その程度じゃ感動できないね。雪だよ。大した量じゃないね。でもうれしいだろ?大した量の雪じゃなくても関東地方は大騒ぎだからね。毎度のことさ。二年に一度はこうやって大騒ぎなんだね。年に何回もないお天気キャスターが脚光を浴びる日だからね。普段は日陰者のお天気おじさんやお姉さんもこの日ばかりは大張り切りだろう。さぞや台風や大雪が待ち遠しいんだろうね。そうだよ、こんなひねくれた言い方しかできないんだ。性根が捻じ曲がってるからね。いやな奴だよ。自己嫌悪さ。でもやはり無感動のままじゃマズイかな?いやな奴で無気力無感動じゃあ救いようがないかね?じゃあ無理矢理感動してみるか。何に感動するんだい?そうだね、ハシモト君の脂ぎった頭なんてどうだい。よくあれだけテカテカに黒光りするほど脂ぎってて禿げないよね。弟の高知県知事はパサパサ頭でも頭髪がちょっと薄くなっているのに不思議だよね。まさかカツラってことでもなさそうだし、あの髪の毛の根性には感動しちゃうよ。それにヘビースモーカーだろ。世間の嫌煙の風潮に逆らっているところが偉いよ。でもつくづく不健康なおじさんだよね。ツッパリっていうのかな。昔の不良高校生がそのまま大人になっちゃったんだろう。横浜銀蝿の兄貴分ってところかな。そういえば銀蝿の翔は覚醒剤で捕まったんだっけ。いかにもありがちなエピソードだね。ま、翔にしてもハシモト君にしてもツッパリを実践するのはいいことだよ。何かこだわりのある奴が一人や二人いた方が世の中が面白くなるじゃないか。アクセントっていうのかな。ツッパリにはツッパリのこだわりがあるんだね。外見さ、外見にこだわっているんだ。人間は見た目が勝負だ。人の内面なんていう曖昧でわかりにくいものには目もくれずに外見で勝負するのがツッパリだ。その点が潔いね。やさしさだけの偽フォークシンガーなんかよりはるかに偉いね。それにチビな奴は何か武器を持たないとね。ハシモト君の場合は竹刀だね。剣道で外見を取り繕っているんだろう。三島と同じさ。でもハシモト君はハラキリまではしないだろう。そこまでのこだわりはさすがにないさ。ハシモト君は三島のような馬鹿じゃないからね。立場が違うよ。いよいよになったらソーリダイジンを辞めればいいのさ。後は幸せな余生が待ってるよ。べつにいのちがけなんて口先だけでいいんだね。自分はいのちがけで政治を執り行っている、とうわべだけで宣言しておけば自然と後から助け船が出るものさ。確か最初は火だるまになるはずだったんだろ?べつに非凡な指導者なんていらないんだ。平凡な調停役でいれば何とかなるもんだよね。あとは演技だね。可もなく不可もなく指導者のように演技していれば丸く収まるはずさ。アメリカの大統領も実際はそうしているんだろ?現代は政治家なんかに期待する時代じゃないよね。すべては期待外れに終わるように世の中の構造ができているんだろうね。期待がかなったりするのはフィクションの世界とスポーツだけさ。こういう時代に何かやりたけりゃ、シンナーでも吸って裸で大暴れするぐらいしかないね。それも一時の快楽でしかないだろうけど、少しは日ごろの憂さが晴れるだろう。


1月7日

 何をやっても無駄なんだね。無気力なんだ。何をやればいいのかな?無駄なことをやればいいのさ。無気力で生きて行こうよ。君の望みは何だい?そんな望みなんか早く捨ててしまえよ。望みを持たずに生きて行こう。希望のない道を歩もうじゃないか。不可能を弄ぼうよ。可能なことは何もないよ。可能なことは無視しよう。何も実現しないさ。もうそんな戯れ事はやめろよ。ネガティブなことばかりだよ。どこにも行かないよ。何も学ばないよ。ここにいるだけさ。何か方法があるのかい?思いもよらないことを期待してるのかい?何か見落としてないかな?過去の教訓なんかを持ち出すのかい?それで何かを学んだことになるのかな?失敗から学んだりしちゃうのかい?これから何をするんだ?過ぎ去った過去なんて後から何とでも言えるよね。失敗したことを批判すればいいんだ。簡単なことさ。それが常套手段だろ?お互いの傷口を舐め合って罪をかばい合えばいいんだよ。それを批判すればいいんだ。それで丸く収まるんだろ?今度は組織論かね。何もかも単純化しちゃうんだろ?過去のさまざまな出来事を勝手に繋ぎ合わせて語っちゃうのさ。気分しだいで嘘もつくしね。物凄い論理の飛躍だよ。まるでSFじゃないか。どこまで行っても老人の講釈話なんだよ。何を言っても無駄なんだよ。それを認めることができないのかね?じゃあ気が済むまでどうぞ勝手に喋り続けていろよ。それで気が済むのなら幸せだね。おめでたいよ。でもそうしたいんだろ?喋っていたいんだろ?そうやって喋っていれば何か気の効いた結論でも出せるのかな?せいぜいかっこいい断言が導き出せればいいね。何かコツでもあるのかい?知らないね。わからないよ。なんとなくわかったような説明で満足すればいいさ。それでいいんだろ?それで何かを喋った気になれるよ。でも何を喋ったかは思い出せないだろう。すぐに忘れちゃうんだ。喋りっぱなしだね。でも中身は何もないんだ。ただ喋っただけさ。喋った後の満足感が欲しいだけなんだろう。そんなくだらないものをありがたがって聞く奴がいるのかねえ?いるよ。いるんだろう。いるかもしれないよ。きっといるはずさ。聴いてくれる奴が一人でもいれば救われるだろう。誰からも相手にされずに無視されたままじゃプライドが傷ついちゃうよね。きっと誰かが聴いてくれるはずだ。それは希望的観測なんだ。だけど何も根拠はないさ。本当は誰も聴いてくれないんだ。そんな事は初めから分かり切ったことさ。だって何も喋っていないからね。何かを喋っているのに実際は喋っていないんだよ。君が喋っているんじゃないんだ。世間に流通している言説を君が鸚鵡返しに口にしているだけさ。君は九官鳥と同じだよ。何も考えていないんだ。考える必要も生じないんだ。でもべつにそれがいけないわけじゃない。実際に君はそんな事しか口にできないんだよ。それでいいんだ。個性的なことが言えない自分を責めることもないさ。そのまま九官鳥みたいに喋っていればやがて寿命が尽きて死ぬだろう。死ねば無駄な努力もせずに済むよ。なかなかハッピーなことじゃないか。


1月5日

 いよいよ来年は1999年ですか。何か天変地異でも起こるんですかね。来年のことを思うと何か期待でワクワクしちゃいますね。でも何も起こらなかったらノストラダムスも大嘘つきになっちゃうね。違うか、ノストラダムスの予言書を勝手に解釈した奴が大嘘つきなのかな。いや、解釈の方法が間違っていたのであって、本当は2015年あたりに地球の大変動が起こるとか。どんどん予言の年を先延ばしにいていけばいつかは当たるかな。確実なやり方は何かが起こった後にそれが予言書に書かれてあったと主張することだね。いづれにしてもその前年の今年はどうでもいい年なんだよね。なんだかつまらない一年になりそうだね。でもワールドカップに日本が出場するからいいや。長野五輪の方は開会式と閉会式の演出がクサそうだから少しは笑えるかな。力士が裸で出場国のプラカードを持って登場しちゃうんだろ。まわし姿でお尻を見せながら行進しちゃうのかあ、恥ずかしいなあ。ホモの人なんかは男のお尻を見ると喜ぶんだろうか?こういうのをオリエンタリズムっていうのかな。フジヤマゲイシャの延長だね。何考えているんだろうね?なんか勘違いしてんじゃねえの。もしかしたら自分が勘違いしてんのかなあ?考えてみれば氷点下の寒い中に裸で力士が登場するわけないかな。どうなんだろう、でも裸じゃないとおすもうさんに見えないしねえ。それじゃあ単なるデブのちょんまげ野郎だよ。やっぱ裸で登場なのかな。きっとそうだよ、でも変だよね。そして閉会式の司会が欽ちゃんなんだよね。なんだかなあ…。そういえばアトランタ五輪の閉会式で布袋がギター弾いていたそうだけど何も記憶にないなあ。こうしてロックンローラーも恥ずかしい汚点を残しながら成長してゆくのか。ロックといえばロックじゃないけど、藤井フミヤが作ったNHKの長野五輪イメージソングとかいうやつもクサイ曲だよね。何だかMacを使って変なTシャツ(長野五輪開会何日前を表示するやつ)のデザインもしていたけど文化人とかにでもなりたいのかなあ?おっと、人気のある奴をあまり中傷してはいけないな。ま、開会式だとか閉会式だとかの儀式はどうでもいいことなんだよね。でも肝心の中身もあまり興味がないなあ。例えば、フィギアスケートだとかよくわからないものがあるよね。ただ曲に合わせて滑ってクルクル回ったりしちゃって芸術点だとか技術点だとかで採点されちゃうんだろ。まあダンスコンテストの延長なんだろうけどいまいちカッコよくないんだよな(曲もクサイし)。ま、趣味の違いかな?中にはあれを見て感動しちゃう人もいるわけだからね。やっぱそういう人は体操の床運動や新体操やシンクロナイズドスイミングなんかにも感動するんだろうね。単に若い女の子のお尻が見たい男もいるんだろうけどね。あっそうか!わかったぞ!フィギアスケートの女子選手のお尻とおすもうさんのお尻で釣り合いを取っているわけか!何の釣り合いなのか意味不明だけど、長野五輪の開会式の力士登場には何やら隠された深い意味があるらしいぞ!さあ謎解きだ!金田一少年!推理はまかせたぞ!長野五輪殺人事件だぁ!キーワードはお尻だ!さあ行くぞ!マジカルバナナ!始めはお尻っ!終わりは欽ちゃんっ!それがドーシタ!だから何なんだ!たぶん観客を笑わせたいんでしょうね。でもそんなどうでもいい馬鹿なところに無駄なお金をかけんなよぉぉぉぉぉぉ…!


1997年

12月31日

 しかしペルー軍の兵隊さんもやってくれるよね。いかだで下ってきた日本の冒険野郎(早稲田の学生さん)を集団で殴り殺して川に捨てちゃった。彼らが金を持っていることがわかって、これは天からの贈り物だと思ったんだそうで(コントではない)。アマゾン川をいかだで川下りですか、いかにもな企画だけど冒険には危険がつきものなんですね。骸骨になって発見されちゃう結末もありがちなストーリー展開だよね。でも行方不明になってもただでは見つからないところが二人とも気合いが入っているよ。こういうのを役者馬鹿っていうのかな。そういえば植村直己は今ごろどうしているんだろう。マッキンリーの山の中で凍ってるんだろうね。誰か氷漬けの植村直己を発見しないかなあ。発見して冷凍保存のまま植村記念館に展示しよう。ありゃ、ちょっと人非人なこと書き過ぎたかな。でもいいや、面白けりゃいいや。ま、冒険野郎もこうして間抜けな話題を提供してくれるだけでも立派に社会に貢献しているよ。笑い話も暇つぶしの娯楽にはなるもんね。でも殴り殺されて骸骨になって発見されちゃ割に合わないね。やっぱこれからは猿岩石やドロンズみたいにちゃんとしたスポンサー(テレビ局)つけてやらせの冒険をしなけりゃだめだね。冒険も商売に結びつければ安全性も増すし金も入るし一石二鳥だよ。純粋でひたむきな冒険心だけじゃ生き残れないよ。なんちゃって偉そうなこと言ってるけど本当は冒険なんてまるで興味がないんだ。冒険しようとも思わないししたくもないね。自分は安全地帯でぬくぬく生きていて他人に冒険してみろとそそのかすのが一番賢いやり方だよ。こうして馬鹿な冒険者の悲惨な末路を茶の間のテレビで見て大笑いしてるのさ。ひどい!ひどいじゃないか!そんなの許せないよ!性根が曲がっているよ!でも猿岩石やドロンズと違って本物の冒険者は自発的に危険な行為におよぶんだから失敗して笑われても自業自得だよ。どうせ彼らの大半は売名行為が目的の一部だろ。冒険体験を自慢する本でも出版したいのさ。でも大半の人は失敗しても笑わないだろうね。だって冒険に成功しないと有名になれないからね。ようするに無視されるだけか。しかも今日では山登りも極地探検もジャングル探検も世界一周も数多くの人が達成しちゃったから成功しても有名人にはなれないね。話題になるのは芸能人のやらせ冒険ぐらいだね。と、以上に述べたことはほとんど嘘だ。本当はただそこに行ってみたいだけなのかもね。エベレストの頂上や北極点や南極点に立ってみたいし、太平洋をヨットで横断してみたいし、チベットやアマゾン川をこの目で見てみたいんだ。月や火星にも行ってみたいよね。つまり、ここではないどこかに行ってみたいんだ。


12月29日

 何かを振り返らなくちゃいけないのかなあ?今年一年を振り返るのかい?何か重大な事件でもあったのかい?べつにないね。もう忘れたよ。来年も似たような年になるんだろうね。もう何も起こらない世界なんだろうね。でも過去に何か起こった年なんてあるのかなあ?たぶん重大な事件が起こった年なんて一度もなかったろうね。重大な事件なんて忘れたよ。忘れたから何も起こらなかったことにしているだけさ。本当は何かあったのかもしれないね。でもいいんだ。もう忘れよう。忘れたままでいいよ。思い出したくないよ。思い出せないんだ。もういいのかもしれないね。すべてを許そう、許してやろうじゃないか。何を許してやるわけ?何か許してやるような事件でもあったの?知らないね、忘れたよ。じゃあしょうがないね、許そうにもその対象となるものを忘れたんじゃ許せないよ。そうだね。じゃあ許さなくてもいいんだ。そうだ何もかも忘れたのなら許さなくてもいいんだ。でも許さなくてもいいのなら何をやればいいのかな?それは簡単さ。批判すればいいんだ。すべてを批判すればいいのさ。馬鹿な展開だね。すべてを忘れたなんて見え透いた嘘さ。本当はすべてを思い出そうとしてるんだ。すべてを批判するためにすべてを思い出そうとしてるのさ。それが愚かな野望の正体だ。馬鹿な話さ。不可能だよ。すべてを思い出すなんて馬鹿げてるよ。本当はそれも嘘なんだろう?すべてを思い出すことなんてできっこないよ。そういうわけだ。そういうわけで批判できる都合のいいものだけを恣意的に思い出しているわけさ。いや、思い出した振りをしているだけだろう。本当は思い出す前に既に知っているんだ。しかも都合の悪いことまでも知っているがそれは忘れた振りを装うのさ。そして更に自分が批判できる都合のいい出来事を矛盾なく批判できるように加工するのさ。都合の悪い部分を削ぎ落とすわけだ。そこまでやればもう大丈夫だね。胡散臭い批判者も正義の味方に大変身だ。正々堂々を相手をやっつける準備が整ったよ。さあ出陣だ。思う存分批判するがいいさ。自分の勝利を高らかに宣言するまで容赦はしないぞ。覚悟しておけよ。首を洗って待っていろ。本当に馬鹿な話だね。リアリティがないよ。でもこんな話でもある程度の真理は含んでいるさ。べつに批判しなくてもいいんだ。忘れたままでもいい。思い出してもいい。真実を捏造してもいい。嘘ついてもいい。すべてを許してあげようじゃないか。しかしここで許しても何の効用もないんだ。すべてを許すことはすべてを許さないのと同じようなものだ。許すものと許さないものを選り分けないと何も批判したことにならない。差異が生じないんだ。だからこんな議論は何にもならない。実質を持たない架空の話さ。ようするに無駄話だね。でもそれでいいだろう。こんな無駄話も許してあげよう。もうこれから先は何も起こらないし何も生じないだろう。来年も今年と似たような一年になるだろう。すべては終わってもいないし始まってもいないんだ。ただ宙吊り状態が続くだけだ。もういいだろう。


12月27日

 暗闇に目を凝らしてよく見てごらん。何か見えるかい?何が見える?何も見えないわけじゃない。暗闇が見えるだろう。暗闇にも色がある。黒だ。黒い色を見ているんだ。黒は単調だ。色彩がない。しかしその単調さが何かを語り掛けてくる。耳を澄ましてごらん。何か聞こえてこないかい?君は幻聴を聞きたくないか?壁に向かって話し掛けている人を見たことないかい?壁と対話できるなんてなかなかファンキーじゃないか。植物に話し掛けている人よりははるかに高度なテクニックの持ち主だ。それに比べれば猫と話してる人なんてまだまだ修行が足りないね。動物との対話なんて幼稚なざれごとだよ。他人と差をつけたけりゃこれからは無機物との対話だね。でもたまごっちやゲームの美少女キャラなんかじゃだめだよ。画面上で動いているものは生物を連想させるからレベルが低いんだ。せいぜい無機物対話入門編くらいのレベルだね。上級者は静止物に話し掛けるんだ。やはり何も動かない物に話し掛けなくちゃディープな快楽は得られないからね。どうだい、君もやってみる気はないか?善は急げだ、さっそく無機物対話に挑戦だ。例えば冷蔵庫なんか対話の練習にはもってこいじゃないかな。時々怒ったようなうなり声がするところがアクセントになってかろうじて正気を保っていられると思うよ。やっぱ洗濯機じゃうるさすぎて耐えられないだろう。まずは慣れが肝心さ、毎日一時間冷蔵庫に話し掛けて対話の練習をするんだ。初心者にはちょっときついだろうけど得られるものは大きいだろう。ここでのノウハウの習得が後になって生きてくるんだ。挫折しそうになっても自分を責めちゃいけないよ。自分は今偉大な挑戦を遂行しているんだ、誰も成し遂げられなかった困難に挑んでいるんだ、と自分自身に思い込ませることさ。それは初めてエベレストの頂上に立つことと同じくらいの困難かもしれないけれど、きっと君は成し遂げてくれることだろう。君の成功を信じているよ、ファイト!がんばれ!自分を信じるんだ!自分をひたすら信じて懸命に冷蔵庫に食らいついてゆけばおのずから道は開けるよ。やがて苦痛も快楽に代わるよ。それを一ヵ月も続ければ大丈夫さ。君はついに冷蔵庫を征服することだろう。しかし休んでいる暇はない、次なる困難に挑戦だ。戦士に休息は許されない。次は時計に話し掛ける番だ。時計は冷蔵庫よりはるかに音が小さいから更なる神経の集中が求められる。水晶振動子の単調なリズムに耳を傾けなくてはならない。そのリズムに自分の脈拍を溶け込ませるんだ。君の心臓の鼓動と時計の音が一体化した時、君は時計を征服するだろう。それが成し遂げられればもう恐いものはない。君は達人の一歩手前だよ。残された課題は音のしない物に話し掛けることだ。それは今まで経験したことのない未知の領域に足を踏み込むことになる。しかしこれまでの経験が物を言ってきっと対話に成功することだろう。血の滲むような努力によって知らないうちに対話術が身についているんだ。おめでとう!成功した暁には君を盛大に祝福してやろうじゃないか。成功の記者会見でも開いた方がいいね。ほら、北極点や南極点に行ってきた人がやるあれだよ。テレビとタイアップしておけばお金ももらえるかもね。そうだ、この企画をさっそく売り込みに行こうよ。タイトルはもちろん「XX君、愛と感動の廃人への挑戦」だ。


12月25日

 やってくれるね沖縄の名護市の市長さん、住民投票で反対票が過半数だったのに在日米軍の海上ヘリポート建設受け入れですか。民主主義を踏みにじる暴挙なんですかね。まあ民主主義なんてその地域の住民や為政者に良識がないと成り立たないよね。でも心に余裕がないと良識は生まれないんだよね。しかし経済的に豊かでないと心に余裕は生まれてこないよね。けれど経済的な豊かさなんて相対的なものでしかないね。県民の平均所得が全国平均より低いそうだけれど、だからといって何も食えなくて餓死者が出ているわけでもないしね。とりあえずヘリポートの建設を受け入れれば国から補助金が出るのだろうけど、それで豊かになる保証はどこにもないよ。せいぜい市民センターだとかスポーツセンターだとかいうわけのわからない娯楽施設が建つだけかもね。仮にそれで豊かになったといえるなら豊かさって何だろうね。いくらそんな建物ができてもダムや原発と同じように賛成派と反対派の亀裂が深まるばかりだよ。やだよね、そんなことで隣近所がいがみ合うなんて。それが豊かさを手に入れるための代償だというのならますます豊かさが何なのかわからなくなってしまうよね。ま、ありきたりなことを言うなら、物質的に豊かになって精神的に貧しくなった、となるのかな。でも豊かさや貧しさなんて曖昧なものでしかないよ。その時の状況で何とでもいえるものさ。「清貧」なんていう言葉で貧しさを正当化することだってできるしね。それに実際に住民投票で過半数の人が反対したのだから厄介ものを受け入れてまで国から金をもらいたいほど物質的にも精神的にも貧しくないみたいだね。賛成した人達は補助金やヘリポート建設で金もうけでも企んでいるのかな。飲食店の経営者の皆さんはアメリカ軍の兵隊さんに期待しているんだろうね。市長さんもそういう町の有力者の方々の意見を投票結果より尊重しているわけだ。顔の見えない一般住民より選挙で支援してくれた街の顔役の方が大事だもんね。それに日本政府からの脅しもあるし。あっちを立てればこっちが立たずですか。大変だね。住民投票には法的拘束力はないんだそうで、なんていう言い訳も通用しますか。では何のための住民投票だったんでしょうね。何のためでもなくて単なる通過儀礼なのかもね。一応住民の方々の意見も聞いてみました、ということだね。これからも市民の皆さんの意見を十分に尊重して粛々とヘリポートを建設して行きたいと思います、ですね。あんまり民主主義に過大な幻想を抱かないことが賢明のようですね。為政者にとっては自分達に都合のいいように持っていく手段として民主主義が存在するのであって、都合の悪い結果が出ようものなら勝手な理由をつけて捻じ曲げるだけだよね。ま、ミャンマーみたいに選挙結果を無視して勝手に軍事政権を打ち立てたままのところもあるし、カンボジアなんかクーデターで第一首相を追い出しちゃったんだよね。日本はそれほどじゃないけれどゴリ押し体質は似たようなものかな。一方アメリカはアメリカで沖縄問題は見て見ぬふりだもんね。自国の勢力範囲を維持するためには他国の住民なんかどうなろうと知ったこっちゃないよね。大統領選挙や上下院選挙で沖縄県民が投票してくれるわけでもないしね。アメリカの民主主義はアメリカ人にしか適用されないわけだ。しかし現地で「本土並み」なんていう幻想に踊らされている皆さんは悲惨だね。本土自体がたいしたことないんだから。もちろん「沖縄の痛み」なんて知らないしわからないしわかろうとも思わないけどね。それに沖縄に同情して行動を起こしているのは比較的裕福で心に余裕のある人達なんだろうけど、実際に「本土並み」で踊っているのは経済的な生存競争を繰り広げている欲望多き人々なんだからお互いにわかりあうこともないんだよ。


12月23日

 うりゃ!また性懲りもなく適当なまやかしをかましてやるよ。当然無駄話さ。もうそれしかないんだ。ネタ切れさ。でも書いちゃうんんだ。だって馬鹿だもん!馬鹿なんだからしょうがないだろ!開き直りだね。真面目になれないよ。でもかつて真面目だったことが一度でもあったかい?記憶にございません。過去のことは忘れました。これからは前向きに未来への希望について語り合いましょう。そうだ、そういうことだ。いつかは真面目に討論しなけりゃならないんだ。ニッポンの未来について考えなければならない時期にさしかかっているのだ。明るい未来明るい正月明るいナショナルを迎えるには今何が必要か?それは指導者の勇気ある決断だ。それは違う!明るい未来明るい正月明るいナショナルを迎えるためには電球の交換が必要なんだ。消費電力が多くて寿命も短い電球はやめてナショナルのパルックボールにすべきだ! 電気代は三分の一で寿命は約六倍だ!どうだ!参ったか!パルックボールを買うとナショナルが儲かるぞ!日本国民が一人一つずつ買えばナショナルがすごい儲かって内需が拡大して景気も回復するぞ。つまらないぞ!くだらないこと言うな!しかしいくら指導者が勇気ある決断なんかしたって無駄だ!部屋の中が明るくなければ意味がないぞ!そうだ!部屋の中が明るくなれば自然と心も明るくなるはずだ!いい加減なこじつけだ!どうだ!あきれたか!これこそ意味がないぞ!それは毎度のことだ!ついでにネタ切れも毎度のことだ!ネタ切れでも書くことが偉いことなのか!そんなこと知らん!ところでニッポンの未来についての討論はどうなったんだ!そんなこと知らん!過去のことは忘れた。だから過去じゃないだろ!ニッポンの未来についてじゃないか!しつこいなあ、だから日本の未来について考えること自体が古い発想なんだよ。これからは未来への希望について語り合いましょう。また繰り返す気か!そんなごまかしやめてしまえ!ごまかしなんかじゃないさ。未来への希望は日本とは関係ないのさ。国家の枠組なんか取り払って考えることが未来への希望なんだよ。おやおや、なんだか抽象的なこと言いやがって、さてはエコロジズムに頭を汚染されてるな。どうせ挙げ句の果てには自然と人間との共生が大事だとかいうしょうもないイデオロギーを持ち出すんだろう。違うよ、それは誤解だよ。ただ未来への希望は漠然としたものでしかないということだ。国家に未来はない。それが希望だよ。十九世紀に生まれた国民国家はすでに破綻しているんだ。それを無視しちゃいけないね。国家の単位でで物事を考えちゃうとあらぬ誤解を生むと思うよ。国家じゃなくて議会や政府の段階で考えるべきなのさ。日本国じゃなくて日本政府なんだ。これを混同しちゃだめだよ。例えば沖縄の住民は日米の政府のやり方を非難しているんだ。本当は国家なんて何も実態はないんだ。政府があって議会があるだけなんだ。本当はあと裁判所も独立しているべきなんだけど、日本の場合は政府に組み込まれちゃっているから実態としては議会と政府が存在しているだけだ。ってな具合で途中からもっともらしいことも述べてみました。でも内容は何もありません、はい。ではさようなら。


12月21日

 物事を単純化して説明すればわかりやすくて辻褄も合うね。でも何かが抜け落ちちゃうような気がするんだ。それを簡単に言っちゃえば曖昧なわかりにくさが抜け落ちちゃうってことかな?でもそんな風に簡単に言っちゃうと曖昧なわかりにくさそのものが解消されちゃうね。しかしそんな風にしか説明できないだろう。それが曖昧でわかりにくいところなんだ。説明する行為自体が物事の単純化に結びつくしかないんだけれど、説明しなければわかってもらえないし、だからといってわかってもらっちゃうと曖昧でわかりにくい部分が抜け落ちちゃうんだ。じゃあどうすればいいんだろう?決まっているじゃないか、説明するしかないんだよ。何を説明するのかい?曖昧でわかりにくいことさ。とりあえず利害関係はないんだからわかってもらわなくてもいいんだ。それなら気が楽だろ。いくらでも嘘をついて構わないさ。何なら説明なんかやめて無駄話で終わってもいいんだ。じゃあ何のためにここまで書いてきたんだ?決まってるじゃないか、曖昧でわかりにくいことを説明するためだよ。それなら説明をやめるわけにもいかないだろ。だから説明してわかってもらっちゃ困るからこうして説明しているんじゃないか。これが説明?これのどこが説明なんだ?だから言っただろ、これが説明だとわかってもらっちゃ困るって。この説明は説明じゃなくて無駄話だとわかってほしいんだよ。でもわかっちゃ困るんだろ?誤解なら構わないさ。これが説明だと思われなければいいんだ。これは説明じゃなくて無駄話なんだよ、頼むからそれを信じてくれよ。でもこれが説明じゃなくて無駄話だと誤解してくれって説明しているよ。それは構わないんだ、無駄話の内容を説明しているわけではないから構わないんだ。おや、自分の説明の矛盾が露呈して苦しくなって言い逃れかな?いつからそんな自分勝手な基準を設定したんだい?今からさ、それにもう十分この話は曖昧でわかりにくいだろ。ひたすら無駄話に終始しているからね。そういうことだ、結局、曖昧でわかりにくい説明は無駄話と同じってことなんだ。ほう、うまく話をまとめたね、でもその説明で大変わかりやすくなっちゃったよ。構わないさ、わかりやすくてもいいんだ。わかりにくいのよりはましさ。その方が安心できるだろ。世の中単純明快じゃないと困るよね。わからないことが世界中から一掃されてこの世に神の国が実現されたらエホバの証人も大喜びだ。そうなればヨハネも自分の予言が当たって一安心だろう。「ヨハネの黙示録」を読んで真に受けた誇大妄想狂も救われるよね。ついでに「ノストラダムスの大予言」も的中すればいいのにね。じゃあ、いかにもって感じで1999年に天変地異でも起こればいいのかな?やっぱわざとらしいけど、それが今一番期待されてることだろ。やったね、これで世紀末は大騒ぎさ。祭りだ祭りだ!お祭り騒ぎだ!こんな感じで浮かれていたいよね。みんな一緒に観光気分で最後の審判を見物していたいよね。でも自分が審判を受けるんでしょ?構わないさ、天国と地獄のどちらかしかないんだろ。こんな単純明快なこともないよ。むちゃくちゃわかりやすいじゃん。やっぱ宗教って曖昧でわかりにくかったら敬遠されちゃうよね。年中難しいことばっかり考えていたらハッピーになれないもんね。みんなで一緒に幸せを掴むためには単純でわかりやすい宗教が必要なんだ。ハッピーハッピーハッピッピー!実におめでたいよ、もうすぐ正月だね。せいぜい年賀状を百枚も二百枚も書いて郵便事業に貢献してね。じゃあね!


12月19日

 それにしても韓国の人達は偉いよね。誰が大統領になってもたいして変わらないのに約八割もの有権者が投票したんだからね。韓国は民主主義国家の鏡だよ。経済は危なくなっていても政治意識は高いんだ。国家に対する責任感が強いと言ったらいいかな。自分達の国は自分達で動かしていこうという気概があるみたいだね。このぶんでいくと、どうせ、それに比べて我が日本はだらしない、だとか言う連中が出てくること間違いなしだよね。でも本当は投票に行かなくてもいいんだよ。だってそれは義務じゃなくて権利だもんね。別に投票に行かなくても罰せられるわけじゃないんだから行きたくなかったら行かなくても構わないのさ。ま、その国それぞれ違う風土なんだから韓国と日本を比較してもしょうがないよね。例えばアメリカの大統領選挙なんか投票率は五割に満たないんじゃないの。問われるべきは選挙で選ばれて何をやったかだよ。今の韓国の大統領の任期中は金権腐敗が物凄かったんだろ。国会議員や企業関係者が何人も逮捕されて、大統領の次男までが汚職の容疑で捕まったよね。それに今未曾有の大不況だし、大企業がいくつも倒産してIMFから借金しなけりゃやっていけないんだろ。確か前回の大統領選挙の投票率の方が今回より高かったんだよね。まったく一概に投票率が高けりゃいいってもんでもないよ。重要なことは民主主義が成熟してくると候補者の差異がなくなってしまうことなんだ。今回のそれぞれの候補者の主張もたいして違わないんだろ。つまり、誰が当選しても同じな状況が生まれちゃうのさ。ようするに、結果として有権者の選択が無効になっちゃうんだ。それが日本では政治的無関心を生み出して相対的に韓国よりは投票率が低くなっているわけだろ。やっぱそれを批判するのはちょっと的外れだよね。だいたいその国の社会が安定してくると政治家のやれる仕事も決まりきったものでしかなくなるし、それに対する取り組みかたも一定のルールに則ってやるしかないし、当然それぞれの主張も似通ったものでしかなくなるよね。もちろん当選するも同じような人間になっちゃうわけだ。もちろんマスコミもそれに対して個性がないだとかいう決まりきった紋切型で批判しちゃうんだけどね。ようするに社会が安定するとマスコミも同じような人間の集団になっちゃうわけだ。このようにして民主主義の究極の姿が実現しちゃうのさ。つまり、同質の人間の集団が異質な個人を排除する社会が実現するわけだ。


12月17日

 おやおや、金融機関を救済するために公的資金導入十兆円ですか。利子のつかない特殊な国債を十兆円分発行するんだそうですね。なんだか勝手に新しいルールをとってつけたようなやり方だね。そんなやり方で国民の信用が得られるんですかね?信用なんて得られなくてもいいのかな?時が経って好景気にでもなればそんなごまかしもうやむやになるのかな?好景気になればの話ですがね。なんかこの先日本はヤバイんじゃないの?ヤバくてもいいのか、あとは野となれ山となれだもんね、先のことなんて知ったこっちゃねえよ、どうせいつかはみんな死んじゃうんだからね。でも日本がどんなに不況になってもそういうごまかしやってるおじさんたちは金持ちなんだから別に平気なんだろうね。今がよけりゃあそれでいいんだ!今を切り抜けりゃあそれでいいんだ!ですか。それならそれでいいんだけどさあ、まったく、どうせ国が新しい国債を印刷するんだから、そんな回りくどいやり方をしないで紙幣を十兆円そのまま印刷すればいいじゃん!ついでに旧国鉄の二十八兆円だかの債務もそのまま紙幣を印刷すればいいんだよ(冗談)。まぁ、そうしちゃうと通貨供給量が増大してインフレが起きて通貨の価値が大暴落しちゃうんだろうけど、やってることはたいして違わないと思うよ。どっちも国がその時の都合にあわせて印刷して発行しているわけだし、金額が書いてある紙切れなんだから国債も紙幣も同じようなもんだろう。それにそんなに国債ばかり大量に発行しちゃうと、そのうち通貨供給量を国債の発行額が上回って、国債が新たな通貨になっちゃうんじゃないの。近い将来国債を使ってスーパーで野菜なんかを買っちゃう時代が到来しちゃうよ。ま、そうなる前に国家が破産しちゃうかな?あっそうか、破産する前に韓国みたいにIMFからの緊急融資がなされるのかあ。つまり、不況が他国へ飛び火して世界経済が破綻しないためのシステムが作動するわけだね。困った時は世界が助けてくれるか。でも国家はそれで存続されるのかもしれないけれど貧乏人は大変だろうね。いざとなったら都会でホームレスになるか、それとも田舎で畑でも耕して自給自足で生きていけばいいのかな?ま、そういう状況になったら考えればいいのか。しかし誰もはじめからなりたくてホームレスやってるわけじゃないよね。思いもよらないきっかけでそうなっちゃうんだろうね。つまり、今、のほほんとネットサーフィンなんかをやっている人間には不況なんてまるで実感が湧かないんじゃないのかな。結構そういう奴の何人かは数年後に新宿の段ボールハウスで生活していたりしてね。ほんと、将来自分の身に何が起こるのかわからないもんだよ。ところで年末ジャンボ宝くじは買ったかい?当たるといいね。


12月16日

 ただ単に考えてしまう。何かを考えてしまう。何かについて考えてしまう。考える対象について考えてしまう。その対象に思いを巡らせていることについて考えてしまう。それをどのように考えるかについて思いを巡らせてしまう。そして、このように循環する思考からどのように抜け出すかについて考えてしまう。この思考がアクセントとなって以下の文章が展開するのだった。そういうわけで、そこから抜け出す方策について思いを巡らせてしまう。実に安易な展開である。いい加減な成り行きだ。そうだ、どこかに何かを設定してみようか。何かをでっち上げるんだ。どこかに捏造するんだ。何かとは何か?これだ、この何かが循環する疑問を設定してみよう。この疑問から、何かとは何かとは何か?が出てくる。それからすぐに、何かとは何かとは何かとは何か?が生み出される。このように疑問の文章がだんだん長くなってくる。だが、この後に更に疑問を追加しようとは思わない。すでに文章が退屈になってきているからだ。この退屈さから速やかに抜け出さなくてはならない。つまり、もう、何かとは何か?の役割は終わっているのだ。では次は何か?これだ、これが捏造された次なる疑問である。次があるのか?次があったのか?これは少し意表を突かれた驚きの表現だろう。そして、こんな安易な展開ではたしていいのか?このような非難の意味もわずかに込められているだろう。次は何か?これはそれ以前を忘れ去るための疑問だ。それに対しては、そんな簡単に過去を無視していいのか?過ぎ去った現実などどうでもいいのか?それに、なぜ、次などという当てにならない未来に期待してしまうのか?次があるとでも本気で思っているのか?という批判がなされるだろう。では次はないのか?それは知らない。未来があるかないかは未来になってみないとわからないだろう。それに、次は何か?はこれくらいでいい。次は何か?の次は、この次は何か?である。そうだ、次の後にはこの次がある。この次の後にはその次がある。その次の後にはそのまた次がある。そのまた次の後には更にまた次がある。次の後には次があり、そのまた後にも次がある。しかし次とは何か?次の後に次があるのはわかったが、次自身が何なのかその意味内容についてはまったく言及していない。意味としては、次とは後に続くものである。しかし、後に続くものとは次のことである。つまり、次と後に続くものとはお互いに意味を補い合って循環しているのである。そういうことだ。思考の循環から抜け出す方策自体がでっち上げだったのだ。単なる嘘でしかない。ただ疑問を設定して安易に循環に身を任せていただけだ。疑問を循環させることで文章の終わりを遅延させるやり方だ。しかし何を考えていたんだ?疑問について考えていたんだ。どのような疑問か?それは疑問についての疑問である。それは違う。そうやってまた疑問を使って循環させる気か?もういいだろう。この辺で終わりにしよう。こういう不毛な文章は精神に多大なダメージを与える。空虚すぎるだろう。内容が何もない文章は苦痛ですらある。しかし書いてしまう。そして更に続いてしまうだろう。だがこれは予言ではない。口からでまかせである。これが嘘になっても構わない。次があったりなかったりするのなんて興味ない。興味はないがなんとなく書いたまでだ。だがこれは書いてしまったことに対する言い訳ではない。これも口からでまかせである。そうだ、そういうことだ、疑問ではなく口からでまかせが循環するのである。しかしなぜ終わらないんだ?この疑問も口からでまかせである。本当に何を書いているのだろうか?これも言うまでもなく口からでまかせである。この次の言葉も口からでまかせなのか?そうだ、その通りだ。この次もそうなのだ。しかし次は何だ?何が出てくるのだ?次とは何か?次とは後に続くものである。後に続くものとは次である。


12月14日

 さあ、何を書けばいいんだろうか?今回は疑問から入ったね。また疑問の無限循環になるのかな?ほら、また疑問だよ。この先何度疑問が出てくるか見物だね。でもそんな不毛な期待なんかすぐに裏切っちゃうよ。先の予測なんかどうでもいいんだ。投げやりさ。適当に言葉と文章がつながればそれでいいのさ。ようするに文章を書くことが目的なんだね。ただ漠然とした目的さ。内容なんかどうでもいいんだ。無から有はつくられないとか、そんなこともどうでもいいのさ。無の世界なんてどこにあろうと知ったことじゃない。何も説明しないさ。内容があったりなかったりするわけじゃないんだ。これは何を説明しているのでもない。ただ書かれた文章だ。これを読む人間が勝手に解釈すればいいことだ。解釈しなくてもいい。どっちでもいいんだ。何も選ばせないよ。何も選ばなくてもいいんだ。でも選んでもいい。勝手に選んでくれ。しかしそれは選択の自由などではない。もちろん、それを選択の自由と解釈してもいい。解釈するのも選択するのも勝手だ。自由じゃないものを自由とみなすのもそちらの勝手だ。そう、結果としては自由なんだ。でもそんなのは自由じゃない。自由なんて知らないね。何も知らないわけじゃない。すべてを知っていると主張しても構わない。でも何も知らないんだ。何かを知っていたり知らなかったりすることが面倒くさいんだ。歯痒いんだ。それで何かを知っているとみなしていいのかわからないんだ。わかろうともしない。別にわかってあげてもいい。でもわからなくてもいい。その程度のことでしかない。わかることにこだわらない。こだわりのある人間なんてつまらない奴だろう。つまらなくてもいいだろう。こだわりがあってもいい。それを否定しようとは思わない。それでもいいんだ。それではだめでもいい。本気じゃないんだ。本気の状態なんてない。ありえない。でも本気であっても構わない。それが本気というのならそれも認めよう。何かを統一的に考えたいのならどうぞ好きなように考えてくれ。すべてを総合したいのならどうぞやってみたまえ。すべての説明に挑戦してくれ。説明できるかもしれないよ。それが学問の究極の目的だろう。でも説明できなくてもいいんだ。説明しなくてもいいんだ。矛盾だらけのあるがままを認めてもいい。認められないのなら努力して自分で道を切り開いてくれ。がんばってくれとしか言えない。でもがんばらなくてもいいんだ。どちらでも構わないんだ。それを選択の自由と解釈しても構わない。しかしそれは自由ではないんだ。それを自由と理解することも自由ではないんだ。それを運命だとか宿命だとかに解釈してもいい。でも運命でも宿命でもない時もあるんだ。そうすることが使命であったり義務であったりすることもあるんだ。そういうふうに思い込んでも構わない。その使命や義務を果たしてもらおうじゃないか。でも果たさなくてもいいんだ。挫折しても構わない。挫折して悲嘆に暮れてくれ。でも使命や義務を果たさなくても挫折する必要はないんだ。挫折してもしなくてもどちらでも構わないんだ。何も要求しないよ。勝手にやってくれ。でもそれで勝手にやれるわけじゃない。君は自由だ。でも実際は自由じゃない。自由であってもいい。それを自由と思ってもいい。言葉ではこういう曖昧なことしか言えないだろう。でも厳密に言葉で定義したいのならできるかもしれない。それが真に厳密であるかどうかは知らないがね。誰かその道の権威にでもきいてみることだね。せいぜいそれが認められたり認められなかったり無視されたりするだけじゃないの。そんなの他人事でしかないよ。でもそれでいいんだ。そういうふうにしかならないだろう。


12月12日

 また適当に書いてみますかね、と適当に書いてみました。前にも同じようなことをやっていたよね。まったくワンパターンだね。こんなんじゃ先の展開が読めてしまうね。どうせまたしょうもないことを延々と書いてお茶を濁すつもりなんだろう。そうだよ〜ん、その通りだよ〜ん、また例によって書くことがないのに書いちゃうんだよ〜ん。どうぞあきれてください、あきらめてください、馬鹿にしてください、哀れんでください、気の毒に思ってください、ご愁傷様です。あれ?ちょっと違うかな?これを読んでいる皆さんにご愁傷様なのかな?わぉ!怒っちゃった!?ごめんよ、悪気はあったんだ、もっと怒ってくれよ。怒り爆発だぜ!ベイビィ!赤ちゃんだぜ!君はファンキーモンキーベイベェ!かわいいサルの赤ちゃんだぁ!矢沢のエーチャンさ!缶コーヒーでロックンロールだぜ!ボスジャンほしいか!じゃあコーヒー飲んで応募しなっ!CMにでてるあのロボットもほしいな。でもエーチャンの演歌ロックは別にほしくないっ!ギャー!エーチャンのファンに殺されるー!それは被害妄想だよ、いや、加害妄想だろ。エーチャンのファンはホメイニ師よりは寛大だろう。うひゃー!イランから暗殺教団がやってくるー!イランの皆さーん!ワールドカップ出場おめでとう!どーかひとつ許してくださ〜い!単なる冗談です、はい。墓穴を掘ってますね。本当にお気の毒。本当につまらない冗談だ。つまらないジョークで悪かったね。シラケさせてごめんね。悪気はあったんだ、もっとシラケてくれよ。シラケ爆発だぜ!ベイビィ!赤ちゃんだぜ!君はファンキーモンキーベイベェ!かわいいサルの赤ちゃんだぁ!矢沢のエーチャンさ!缶コーヒーでロックンロールだぜ!ボスジャンほしいか!じゃあコーヒー飲んで応募しなっ!CMにでてくるあのロボットもほしいな。でもエーチャンの演歌ロックは別にほしくないっ!ギャー!エーチャンのファンに殺されるー!おいおい、二回も繰り返せばほんとに殺されるかもしれないぜ。でも二回繰り返したおかげでだいぶ行数が稼げたよ。はぁーっ、まったく不毛なことを、何やってるんだろーね。でも中学校時代エーチャンや甲斐バンドをラジオで聴いていた恥ずかしい過去があります。バカヤロー!そんなこと書くと甲斐バンドのファンからも殺されるぞ!ひぃいろぉ、ひぃいろおになるとき、あっはぁー、それはいまぁああ!恥ずかしー!そういえば食堂のサンドイッチがまずかったなんて歌もあったよね(記憶が定かではない)。ヤバイ、このままだと敵がどんどん増えるかもしれん、この辺で誹謗中傷はやめておいた方がいいかな?大丈夫、ここはマイナーなページだから平気だよ。好き勝手に書きたい放題書いたらいいさ。でも書きたいことがないんだ。それは嘘だ!嘘で悪かったな。嘘ついてごめんね。悪気はあったんだ。もっと嘘つかせてくれよ。嘘つき爆発だぜ!おや、この表現はちょっと不自然だね、嘘つきまくりだぜ!にした方が自然な感じだ。でもそうすると前の表現と違ってしまうよ。やはり三回同じ事を繰り返すのにはちょっと無理があったようだね。そうだね、でもおかげでだいぶ書けたよ、これで当初の目的は達成されたわけだ(何か目的があったのか?)、じゃあ文章も破綻を来たしたことだしこの辺で終わりにしますか?そうしましょう、じゃあね、バイバイ。


12月10日

 別に書くことないんだけれど、なんとなく書いてみよう。でもそろそろ二日に一度のペースはきつくなってきたね。書きたいことなんてそうあるものでもないしね。もちろんこれまでも書きたいことを書いてきたわけではないけれど。かといって、まさか身辺雑記のようなものを書いちゃうと際限がなくなっちゃうような気もするしね。よくあるよね、自分のプライベートのひけらかしみたいなところ。ま、そんなやつでも内容が面白ければいいんだけれど、面白くなければ読まなければいいんだけれど、読んでみないと面白いかどうかはわからないんだけれど、読んでみてもそれの面白さがわかるかどうかはわからないんだけれど、途中まで読んでつまらなくてやめちゃう場合もあるんだけれど、よくアクセスするページなんか気がつくと飛ばし読みしていて惰性で読んでいる場合もあるんだけれど、こんな書き方も飛ばし読みならぬ飛ばし書きだよね。ただ惰性で書いている状態かもしれないね。でも、今までこんな書き方が多かったね。最初のころの比較的長い文章なんかはちゃんと紙に鉛筆で下書きしてからエディタで打ち込んでいたんだ。ああだこうだ下書きしながらいろいろと考えを巡らせていた時期もあったんだ。でもいつしか鉛筆で紙に書くのが面倒くさくなってしまって直接エディタで打ち込む方式になってしまったんだ。つまり、前もって考えるのがつまらなくなってしまったのさ。それからというものはこういうどうでもいい文章が増えてきた感じがするんだよね。なんだか焦点の外れた意味不明なことをだらだら書いてしまうことが多くなってきたんだ。でも、そんな文章の方が良く思えるようになっちゃったんだ。それは書く方向性を見失ったことと関係があるのかもしれない。最初の頃は何やら社会批判めいたものが多かったよね。青年の主張のような青臭い正義感も少しはあったのかもしれないね。評論家もどきの語り口を結構多用していたような気もするし。あの頃はいったい何だったんだろうね。何かに燃えてたのか?もしあの頃の自分が今の自分を見たとすると、こういう無内容な言葉の羅列を読んで怒りに震えちゃうのかな(笑)。これは嘘だね、あの頃も決して熱血じゃなかったよね。それに文章を書いていた自分なんてどうでもいいことさ。そんなものは過去の記憶によって再構成された虚構の自分だよ。物語の登場人物としての自分さ。過ぎ去ったあの頃の自分を現在の自分がいい加減に捏造してみせただけさ。本当の過去の自分なんてもはや誰にもわからない幻の存在だね。ただ思い返されるだけの存在は、思い返される度にその時々の心境から影響されて適当に味付けされた新たな人格を伴って、記憶の底から繰り返し別々の存在として浮かび上がってくるんだ。その存在が文章の断片でも残しているようなら、その文章からその文章を書いた人物が作り上げられてしまうんだ。例えばそれが文章によって作られるならば、ある程度の長さをもち興味深く面白い内容と思われるようなら、それは伝記文学にでもなるのかな。映画やテレビドラマでもそういうの結構あるよね。しかしどんな場合でも、その物語の主人公の人物像なんてどうでもいいことさ。どのように書かれたのか(撮られたのか)が問題なんだ。実際作家のセンスがクサイと何もかも台無しだよね。でもそれがクサイかどうかは実際に見たり読んだり評判を聞いてみないとわからないものなんだよね。ま、なるたけクサイものに出会わないようにするには、ちまたの評判からそれを判断するセンスを養うほかないし、そのセンスにしても絶対的な基準はないから曖昧なものでしかないんだよね。でもこうやって「センス」という言葉で説明してそれに説得力があるかどうかわからないなあ。どんなものでしょうか?


12月8日

 おいおいおい、また司馬遼太郎を批判しなければならないのかあ。NHKスペシャル「街道をゆく」ですか。津軽の地が北のまほろばなんですか。縄文時代は豊かだったそうで。それに比べて江戸時代には度々飢饉(けかち)に見まわれて当時の人口の3分の1にあたる十万人も餓死した時があるそうで。それについて司馬は当時の津軽藩の稲作奨励政策を批判しているけど、それと引き合いに縄文時代を出すのは思いっきり筋違いだよ。だって江戸時代当時その地域には飢饉の前で三十万人が、飢饉で十万人死んだとしてその後も二十万人が暮らしていたことになるんだぜ。縄文時代にその地域にいったい何人の人間が暮らしていたというんだ?どんなに多く見積もっても数千人がやっとだよねえ。つまり、縄文時代の生活用式では二十万から三十万人もの人間をその地域で養っていくのなんて無理なのはわかりきったことだろ。豊かさの尺度なんて縄文時代と江戸時代とでは根本的に違うよ。もちろん、江戸時代と現代を比較して豊かであるだのないだの言うのもナンセンスだけど。それに本当のところ縄文時代が豊かで自由だったのかなんてよくわかんないよね。遺跡から土器や土偶や食べ物の残飯がいっぱい出てきたところで、客観的にわかることはそこに大勢の人が暮らしていたことくらいだよ。それが豊かさの証拠だというのなら、江戸時代にはその数百倍もの人が、現代ではその数千倍もの人が暮らしているんだから、いったいどういうことになるのやらだよねえ。まさか土偶や耳飾りを作っていた縄文時代の職人とひな人形やかんざしを作っていた江戸時代の職人とを、どっちが芸術的に豊かであるかなんて比較するわけにもいかないだろう。ともかく普通にいえることは江戸時代には津軽の地は江戸や上方に比べて貧しい地域だったことくらいだね。それに司馬は太宰治の厳しい津軽感を引き合いに出して、それは違う本当は津軽は豊かなんだ、と言いたいらしいんだけど、実際に太宰の生きていた時代も東京に比べて青森は貧しい地域(一握りの大地主(太宰の父親も)が大勢の小作人を支配していた地域)だったんだから、縄文の幻に浮かれている司馬より太宰の感覚の方がよっぽど現実的だよ。しかしまあ、こうやってずいぶん屁理屈をこねて司馬を批判しちゃったけれど、司馬の言いたいことは、一見貧しく見える地域にもその地方独自の文化が根差していて太古からの歴史に支えられた素朴で力強い豊かさがある(ねぶた祭りなど)、ということなんだろうけど、でもそういうお国自慢的なものなら日本全国世界各地にありふれているよ。そういう豊かさはどこにでもあるものであって、何も津軽地方特有のものではないんだよ。津軽がまほろばの地なら世界全部がそうだよ。人の暮らしている所ならどこに行ってもその手の豊かさがあるんじゃないの?ま、そういう豊かさを街道を歩きながら探してまわったのが司馬遼太郎なんだろうね。やっぱそんなものをあんまり真剣に批判しちゃいけないかな?少し反省。


12月7日

 相変わらず書くことがないなあ。でも書いちゃうよ。今回はどんなごまかしにするのかな。今から考えようか。そうだねえ、こんなのはどうだい。こんな感じだよ、こんな感じ。「こんな」を三回続けたよ。こんなごまかしでいいかな?どんなごまかしだい?こんなごまかしさ。同じことを二度続けるな!なかなか呆れたやり口だね。誉めてくれてありがとう!人を誉めるのはいいことだ、どんどんやりなさい、誉めればこの世に花が咲く。これは意味不明だ。どれが意味不明なの?これだ、これが意味不明なんだ。これとはなんだ。これとはこれだ。これしかない。これしかないんだ。これしかないだろう。これしかなかった。今のは過去完了だ。今のとはなんだ。さっきのだ。ところで、こんなことやってて空しくないかい?知りません、わかりません、記憶にございません。これが証人喚問三段活用だ、試験に出るぞ、嘘です。嘘ついたら針千本飲まされますよ。嘘だ!それこそ嘘だ、指切りげんまんで本当に針千本飲まされた奴がいるかあ!嘘をつくんじゃない!偽証罪で訴えてやる!覚悟しておけよ!覚悟しません、偽証罪なんか成立しません。うるさい!生意気な口きくな!もうこんな嘘の会話なんかやめてしまえ!まだちょっと短いです、もうしばらく続けるつもりです。人には色々な事情ってもんがあるんだ、やめろと言われてもやめられない事情があるんでい!まだちょっと短いからやめられないんでい!何それ?変な語り口だね。まったく、いつまでもこんなことやっていると頭がふやけちゃうよ。頭がふやけたらシャンプーしなさい。貴様!人に命令する気か!人に命令するなんて十年早いわ!顔を洗って出直してこい!あんたこそ頭を洗った後はリンスを忘れずになっ!それからちゃんとドライヤーで乾かせよ!濡れたままだと風邪ひくぞ!今年はたちの悪いインフルエンザが猛威を振るうかもしれん、せいぜい気をつけることだね。やはりそれはエルニーニョ現象と関係があるんでしょうか?そんなこと知らん!エルニーニョと関係があるのはインドネシアの山火事だ。気象予報士さんも天気予報で指摘していたよ。エルニーニョが起こるとペルー沖の海水の温度が上昇して魚が取れなくなっちゃって現地の漁師さんが大変困っちゃうのさ。そんなこと関係ないね。重要なのはあくまでもシャンプーした後にリンスを忘れないことさ。そしてドライヤーで乾かせば一件落着さ。そうすれば事件が解決して刑事さんも肩の荷が下りて一安心だよ。ほんと、今回はここまで来るのに実に様々な困難に陥ったけれど、最終的にはハッピーエンドで終わることができて良かったね。でも本当は嘘なんだ。嘘が本当さ。嘘でも本当でもどっちでもいいんだ。重要なのはシャンプーの後のリンスだよ。これを読んでいる皆さんもシャンプーの後のリンスを忘れずにね。それからちゃんとドライヤーで乾かした方がいいよ。風邪をひいてからじゃ手後れさ。じゃあね、バイバイ。


12月5日

 おやおや、久しぶりに彼が書いているじゃないか。相変わらず偉そうなことを書いてるね。なんでそんなに偉そうなの?まったくしょうがないね。やはり語り方が横柄なんだよ。他人を馬鹿だと決めつけるやり方が傲慢だし、断言口調も相変わらずだしね。ま、こんなのもたまに読むには新鮮だけど、これが毎回続いちゃうと暑苦しくなっちゃうよね。でもなんか不自然だよ、目いっぱい力んじゃってさ。もっと肩の力の抜いた楽な文章が書けないものかね。もっとフレンドリーに親しみやすく書いて欲しいよ。なんちゃってね。これくらい書いておけば彼の偉そうな文章も中和されるかな?やっぱ人間やさしくなければ生きて行けないよね。どんな馬鹿な人でも良いところがひとつやふたつ探せば必ずあるはずさ。そこを誉めてあげないとね。しかしどこまで偉そうなんだろうね。人を誉めてあげるような偉い立場でもないのに、そんなできもしないことを書いていていいの?あんたに誉めてもらうほど落ちぶれちゃいないね。あれ?何だこの展開は?話を変な方向へ無理やり捻じ曲げようとしているな。実際捻じ曲げているよ。こういういじけたごまかしは誉められたものじゃないよね。断固批判すべきだね。そうだ、人を誉めるべきではない、批判すべきだ、批判こそが万能の態度だ。ありゃ、またおかしな言説を差し挟んでいるよ。いい加減だなあ。こんな言葉のお遊びをいつまでもやっていていいの?もう少し大人になりなさい。潔くもっと普通でわかりやすい文章を書いてください。こんなんじゃお天道様にまともに顔向けできませんよ。これこそ普通じゃない変な文章だよ。前の文章とどういうつながりがあるのかまるでわからんよ。意味が通らないよ。わざとふざけているとしか言いようがないね。でもふざけていないと書けないね。そう書くためのネタがいつでも見つかるわけじゃないもんね。ネタが見つからない時はこうやっておふざけの文章を書くしかないんだよね。書かなきゃいいのに書いてるもんだからこういう馬鹿な文章が出現してしまうんだ。でもこういう中身のない文章の方が気楽でいいよ。変にむきになって肩肘張って書いた文章は後で読むとうんざりしちゃうんだ。見苦しく思えちゃうんだ。なんでそんなに偉そうなことがいえるの?って自己嫌悪に陥っちゃうんだ。そんな文章は早いとこ忘れたいんだ。だからこうやって適当なことをグジャグジャ書いているわけだ。ようするに現実逃避だね。いやなんだよ、マジになっている時が。こうやって言い訳をうだうだ続けている時が安らぎの時間なんだ。もう頭が壊れてかけているのさ。脳みそパーンだよ。うひゃひゃひゃひゃ。ね、時々笑い声なんかを入れると気持ちがなごむだろ?え?なごまないだって?気持ち悪いかなあ、こういう笑い声は?こんなのはどう?こうやって(笑)を挿入するやり方は。時には(爆笑)なんてやるんだけど、どこかの誰かさんは(苦笑)なんてやっているよね。じゃあ(微笑)とか(激笑)とかやればいいのかな(愚笑)?ま、考えればいろいろ出てくるかもね。笑いの種類が増えるのはいいことだよ、って無責任なことを述べつつ今回は終わりだね。じゃあね。


12月4日

 久しぶりに馬鹿な光景を見てしまった。はたして自分がこんなどうでもいい事を書かなければいけない義務でもあるのだろうか?なぜ書かなければいけないのかわからない。空しい。ニュース23で三島由紀夫と東大の全共闘との討論会の映像を放映していた。討論の内容はいたって空疎だ。日本人であることのアイデンティティをめぐって三島と学生が噛み合わない議論をはてしなく続けているだけだ。日本人であることのこだわりを執拗に主張し続ける三島に学生が抽象的な哲学用語で質問を繰り返しているだけだ。貴重な映像らしいが内容は「朝まで生テレビ」レベルだ。しかし、三島も学生も馬鹿であることは一目瞭然なのに誰もそのことを指摘しない。それどころか当時を振り返って討論に参加した元全共闘は、三島由紀夫は西郷隆盛と同じだとか述べている。だがこれはある意味では当たっているのかもしれない。三島と同じように西郷も過剰に美化され過ぎているのだろう。しかし西郷と三島では状況は明らかに違う。西郷の場合は自らからが積極的に企てたわけではない反乱の首謀者に祭り上げられて自決せざるをえない立場に追い込まれたのに対して、三島の場合は最初から計算づくのパフォーマンスとして自衛隊の駐屯地を占拠してこれ見よがしに自決して見せただけなのであり、西郷の場合が悲劇なら三島が演じて見せたのは笑劇である。なぜ三島の馬鹿なパフォーマンスを笑わないんだ。笑わないどころか真剣なまなざしを投げかけてしまう人々ばかりなんだろうか。あのあからさまな三文芝居のどこに謎があるというのか。謎があったとしてそれに何の価値があるのか。戦後の無責任体制を三島が告発したとかいうもっともらしい説明があるが、日本は戦前から既に無責任体制である。アメリカと勝てる見込みのない戦争をやったこと自体無責任だし、満州の関東軍の暴走を誰も止めずに日中戦争を泥沼化させたのも無責任極まりない。だいたい明治憲法自体が、名目上天皇にすべての権限を集中させておきながら実際は象徴天皇制でやっていたのだから、天皇の名前を使って官僚が好き勝手に無責任なことをやり放題できる構造だったわけだ。つまり三島のハラキリパフォーマンスなどはどうでもいいことだ。自分の信奉している価値観が滅びゆく状況に我慢がならず、精いっぱいのイロニーで抵抗して見せただけのことだ。自分の無力さを優越性に転倒して自分の命さえ蔑視できる自己を誇らしげに見せびらかしただけだ。ようするに三島は単に不快な奴なのである。こんな奴を真剣に論じてはいけない。三島の思うつぼだ。こういう馬鹿野郎はただ笑ってあげるのがせめてもの救いだと思う。それが馬鹿野郎に対する最低限の礼儀だ。


12月3日

 冗談に決まってるだろう、マジであるわけないよ、ほんとに。でも何も書くべきことがないのは本当なんだ。何を書いたらいいのかわからないし、もう何も書く気が起こらないんだ。みじめだ。せっかくここまで書いてきたのにもう書けないなんて悔しいじゃないか。でも、何の目的もなく書き続けてきたんだからこれ以上続ける必然性はないんだよね。書き続ける義務も責任もないんだよ。ほんとに何ヵ月も前からもう終わりにしようと思い続けながらこうして書き続けてきたんだから、もうそろそろ終わりにしても何の未練もないはずなんだ。とまあ、以上に述べたことが今回の言い訳だ。こうして弱音を吐いたら少しは同情してくれるだろうか?何について同情してくれるのか知らないけれど、あなたもしょせん弱い人間だ、なんて爆笑なセリフを期待しちゃうんだけど、どうかな?少しは間抜けになって同情してくれたかな?しかし、仕事に追われる忙しい日々を送っている労働者の皆さんは他人に同情している暇などないかな?ほんと、あんまり忙しいといったい何のために生きているのかよくわからなくなっちゃうよね。まあ、究極的には生きるために生きているとしか言いようがないんだろうけど、何か生きる目的を捏造できた人は幸せだよ。そういう人は馬鹿なんだろうけどうらやましいよ。人間馬鹿にならないと生きて行けないよね。暇つぶしだけじゃ寂しいし、安らぎだけじゃちょっとつらいよね。ってことで、こうやってまたもや人の同情を誘おうとしちゃうんだ。でもこんなんじゃ同情してくれないかな?真面目な小市民の皆さんを小馬鹿にしているもんね。それにこの先生きて行けば色々な楽しみや感動があるかもしれないのに、そういう希望をいっさい無視して物凄い人生を単純化して考えているし、ただ生きる目的を持った立派な人を馬鹿にしたいだけだしね。まったく人生の成功者に対する妬みでしかないし、単なるひがみ根性のひねくれ者だよ。うっひゃ〜!自己嫌悪の自己卑下だーっ!サイテー!でもこれで同情してくれるかなあ?いや、いやな性格全開だよ、こんなこと書いてるとますます嫌われちゃうよ。どーしよー(笑)!自業自得だね(笑)。でもいいや、これが素直な感情表現だもんね。おや、この期に及んで開き直りかい?でもほんと、近頃ぼやきが多くなってきたよ、このページは。やっぱ、既に終わっているのに続けているのが原因か?まったく終わりを認めているのに終わらないのがおかしいのか?わからんなあ、わかろうとしていないのか?でも今更まともなことは書けないよね。どうでもいいんだけど。この先もこのままつまらないぼやきをうだうだ続けちゃうのかなあ?わからん。だんだんこうやって書いているのがあほらしくなってきたよ。しかし何なんだあ、この内容のない文章は!おかしいよ、どうかしてるね。そういえば、近頃はインターネットに頻繁につないでいないと体調が悪くなっちゃうネット依存症の人が増加しているそうだけど(今これを読んでいる君もそうなのかい?)、これも一種の病気なんだろうか?でも、どんなことでも過剰にやりすぎちゃう人は世間から病気として片づけられちゃうわけだから、これが病気であったとしても何かの救いになるわけではないね。例えば、まともな人でも精神科に行った時点で病気にされちゃうような気がするんだよね。まあ、精神科に行くような奴は最初から病気だっていう偏見が世間にはあるのかもしれないけれど。じゃあ、こんな時は精神科でサイコセラピーでも受けて心の病を患っちゃえば結構イカすのかな?ん?順序が逆か、病気になってからセラピーを受けなきゃね。なんだか今回は変な展開になっちゃったね。それは毎度のことか。


12月1日

 何冗談言ってんですかね。何も言ってないよ。いや、出だしがうまく行かないんで適当に言ってみただけだよ。それにしてもさあ、それにしてもだよ、まったく。何も言ってないね。これから言うよ。言うんじゃなくて書くんだろ。そうそう、書くのさ、馬鹿なことをね。つまり馬鹿なこと以外は何も書けないってことだ。なかなか本題に入れないね。このまま本題に入らずに終わっちゃうんじゃないの?いつものパターンだね。でも本題って何だろうね?この疑問さ、この疑問が本題について考えさせるんだ。本題とは何か?とは何か?これが真剣な議論へのプロローグだ。でもプロローグのまま終わりたい。考えたくないんだよ。真剣な議論から逃避したいんだ。何も書きたくない、と今書いた。書きたくないことの意思表示を書くことは矛盾ではない。しかし「何も書きたくない」が嘘になる可能性はある。何も書きたくないのになぜこうして書いているんだ?つまりその時、何も書きたくない、と書きたかったのさ。何も書きたくない状態で書きたいんだ。こうやってつまらないことをうだうだと書いていたいんだ。こうやって開き直りの意思表示を書きたかったのさ。以上に述べたことは嘘だね。本当は内容のあるまともな文章を書きたいのに、何も思い浮かばないものだから、こうやってあからさまなごまかしで取り繕っているんだろう。でもこれでは取り繕っていることにならないよ、無内容がむき出しのまま露呈されているじゃないか。これはごまかしなんかじゃないよ、この無内容はごまかしようがないよ。実に誠実な文章だよね。内容がなければ内容のないことを書く、書きたくないのなら書きたくないと書く、実にストレートな表現だ。しかし別の観点から見ればやはりごまかしだよ。内容がないのなら書かなければいいし、書きたくないのならやはり書かなければいいはずなのに書いている。これは自分自身に対するごまかしだ。自分の気持ちに対して誠実な対応をするのなら当然書くべきではない。自分の意に反して書くことはごまかしである。自分の書きたい時に書きたいことを書くのが真の誠実さである。ということでこのような真っ当な意見も書いてみました。これこそごまかしです。だいたい書きたい時なんかがいつ来るのか知りません。書きたいことなんて知りません。何か書きたいことがあるんですか?書きたいことはなんですか?それを教えてくれませんか?自分の気持ちって何?自分の意志とはなんですか?何もわかりません。何も知りません。つまり無知を装っています。これもごまかしですね。こうやってごまかしで文章を書いています。楽なものです。これは嘘です。楽じゃありません。自分の気持ちに素直に従えばこうやってごまかしの文章が書けます。これも嘘です。ごまかしです。誠実なるごまかしです。これこそが真の誠実さである。