彼の声39

2003年

11月30日

 忙しない人は空模様を気にしている。遠くに見える岩山に低い雲がかかって、見る者を幻想的な気分にさせているかも知れない。暇な人は山水画にでも興味を持つだろうか。時が経ち、今はもうそんな気分にはない。さっきまで何を思っていたのだろう。なぜそれほどまでに大騒ぎするのか。人が二人死んだぐらいで大げさすぎないか。最初の死人はそんなものだろうか。君にはその感覚がよくわからないが、それはいつもの嘘だろう。自分が死んでも騒ぎになることはなさそうだ。報道に流されて他人の不幸に同情していないで、少しは自分のことでも考えてみたらどうか。何をどう考えてみてもどうなるわけもないか。テレビを消して少し考えてみる。自分の場合はどう考えても違うような気がする。何がどう違うのかわからないだろう。それでも辻褄は合っているのかも知れない。危険を承知で出かけていって撃たれて死んだのだから、当然の成り行きかも知れない。もう少し身の安全を考慮して行動していれば、死ぬこともなかったかも知れないが、後の祭りには違いない。たぶん戦闘地域ではよくある話だろう。これから派遣される自衛隊にも現地で運が悪ければ死者が出るかも知れない。アメリカとつきあうにはある程度の犠牲もやむを得ないところか。そういう政権が先の選挙で有権者から承認されたのだから、今さら文句を述べてみても仕方がないか。別に君がそれを批判する筋合いのことではないはずだ。また死んだ当人の関係者や関係団体以外の人にとってはどうでもいいことか。とりあえず使い捨ての人材ならいくらでもいるということか。運悪く殺されてしまったらまた人を補充すればいいだけか。そんなことの繰り返しの上に既成事実が構築されるわけか。所詮は戦争によって強引に作り出された状況なのだから、殺害に対する敷居は高くないだろうし、アメリカ軍だってテロリストを虫けらのごとく殺しているわけだから、当然その逆があっても何の不思議も不都合もありはしない。平和な地域で暮らしている人たちとは命の重みが異なるようだ。その場の状況によって人の価値は変動するわけか。彼らはイラク人のためを思って懸命に仕事をしていたらしいから、何かそれ相応の対応でも必要だろうか。いつかイラクに平和が訪れたとき、イラクのために命をなげうって尽くしてくれた人として、どこかに美談仕立ての文章とともに石碑でも建ててやればいいかも知れない。政府からの感謝状などもありだろうが、ここはひとつプロジェクトXで取り上げたらそれ風の内容にはなるだろう。マスメディアの論調もそんな傾向を示している。だが君にとって彼らはあくまでもただの他人でしかない。何かしら情熱を表に出してしまう人は、その手のわかりやすい美談でまとめられて終わりなのだ。あとはその他大勢とともに忘却の彼方へ消え去るのみか。人は何のために存在しているのでもない。それを否定したい人は大勢いるが、彼らが捏造する存在理由を信じるか信じないかは、とりあえずどちらでもかまわないだろう。何かことあるたびにマスコミが捏造する美談仕立ての物語に感動したければ、わざとらしくそれを信じた振りをしてみるのも一興には違いない。何か心があらわれるような心境になれるかも知れない。


11月29日

 画面から言葉が消え失せたとき、どこかで退屈が目覚めている。雨降る夜更けに何を思う。何も思わないと嘘をつくのはいつものパターンか。本当に何も思っていないときもあるらしい。いつものように誰に向かって嘘をついているのかわからない。無理してわかるはずのないことを思い描くこともないだろう。君が想像しているのはそんなことではない。一向に状況が改善する兆しはないようだが、誰かはそこから逃げてはだめだと思っている。誰かはどうも勘が鈍いようだ。手遅れになる前に、最悪の状況の中で憩いの時を過ごす。自らが不幸だと思うことが彼の救いとなっているようだ。不幸に興味を持って何になる。世界のどこかで不幸の競い合いが行われている。世間体を気にする人にはなじみがなさそうだ。今さら他人の死に驚き悲しむのもわざとらしい。君は突発的な事故で死んでしまう人のことをどう思っているのか。気まぐれでお悔やみの言葉でも投げかけるべきなのか。何か述べたそうな顔をしているようだが、どうも頭の整理できていないらしく、何も述べられずにその場へ立ちつくす。どこかに台本でもありそうだ。そんなありふれた光景をどこで見たのか。画面以外のどこで事件が発生しているわけでもなさそうだ。いい加減にテレビ画面から眼を離して現実に目を向けるべきではないか。君はそれが誰の声なのかわかろうとしないようだ。心の底からそんなことを思っているわけではないらしい。目を奪われているのは君ではない。君が彼らのことを考えない日はないと思われるのはなぜだろう。それほどまでに目も心も奪われている対象がどこにあるのだろう。どこかにあるかも知れぬ栄光の場所を思い描く人々がいる。目の前に成功が転がっているわけでもなさそうだ。いったい何を見て感動すれば気が済むのか。気を済ますために感動したいわけでもないだろう。誰の非を訴えようと事態が好転するわけでもなさそうだ。形式としてはいくらか人が死ななければ収まりがつかないようで、君が見ている画面上では頻繁に人が死んで行く。画面は他人の死をもって何を訴えかけているのだろうか。誰がどれほど死のうと君には何もできないではないか。困っているのは君ではなく、画面上にうごめく人影の一部でしかない。人の死が事態の転換をもたらすことはないようだ。誰がいくら死のうと何も変わらないように思えてくる。これまで通りの現状に埋もれることを人々は選ぶだろう。画面上は絶えずくだらぬ話題で満ちている。夢などどこにもありはしない。馬鹿な人々が日々無駄話に夢中になっている。自分たちの意見を他人に押しつけることばかりに情熱を注ぎ込む。そんな嘘を信じられなくなってしまったようだ。誰かはそうではないものを見いだそうとしている。君はその手のおしゃべりにはない沈黙を探し出そうとする。音楽の中に静寂の時が埋め込まれている。


11月28日

 草むらに蜘蛛の死骸が転がっていた。天を仰ぎ見て地表を蛇のように這いずり回る。いったい君の眼はどこについているのだろうか。どこに何があるわけでもないようだ。どこにも実体がない。あるのはいつもの空虚だけか。君は空虚の他に何を欲しているだろう。何も欲していないときに何を思っているのか。そこでわざとらしく行き詰まりになるわけか。そして行き詰まった後から何気ない言葉遊びが始められる。この際過去の行き詰まりはなかったことにしよう。そうなってしまう原因を今さら究明しようとは思わない。他に何もないのだからどうしようもないだろう。季節は冬に近く、蜘蛛も寒さに耐えられずに死んでゆく。冷たい雨に濡れながら何も思わない。生命に何の神秘も感じない。死ねば動かなくなるだけのことか。人は何を考えているのだろう。考えられないようなことを考えるまでもないか。それが不可能だと思いたいからそこで立ち止まる。過去を思い出しながら未来を思い描く。存在し得ない未来を空想しながら、自らに都合の良い成り行きを想定してみたくなる。たぶん空想の中では不可能が可能となるだろう。鳥かごの中のピエロがニヤリと笑ったように見えた。そのとき君の驚いた顔は不自然に歪んで見える。たぶん疲れのせいで意識が定まらないのだろう。鏡を見るたびに意識はどこかへ行ってしまう。君が覗き込んでいるのは井戸の底だ。滅び去る運命はどこにでも転がっている。そのとき意識からはじき出された魂は行き場所を見失うだろう。誰かは始めからやり直そうと思っているらしい。だがやがて朝日が昇り、真夜中の記憶を奪い去るだろう。昨日のことは昨日のことでないと思うようになる。そして昨日の努力は水の泡になるわけか。まわりくどい説明をどこかに置き忘れてきたらしい。そんなわけでまったく話の辻褄が合わなくなる。未来を求めることは夢を成就させようとすることとは違い、どこか定かでない場所で彷徨い、過去を思い出せなくなることだ。過去に誰かがそんなことを述べていたか。月は西に傾き、今が何時なのかわからなくなる。そんな過去を思い出してみよう。思い出すのではなく、わざとらしくでっち上げてみよう。そんな過去があったと思い込んでみる。明日は雨が降るだろう。闇雲に何かを追い求めているのは嘘か。曇り空を見上げながら猫が縁側に佇む。そこから何かが始まるはずもないか。空間が静止していると感じるのはどんなときだろう。車のエンジン音が遠ざかり、辺りには排気ガスの匂いが微かに漂う。どこからともなく何がやってきたら感動するだろうか。試されているのは君だけではないはずか。誰もが試練のただ中にいると思ってみても、それは自意識過剰のなせる業か。今なお続いているの言葉の連なりだけではない。断続的に何かが揺れ動いている。今も逡巡を繰り返している。君はいったい何から逃げようとしているのだろう。逃げおおせられるはずもないことを承知していながら、なおも逃げの姿勢は崩さない。そんなときにも自らのこだわりを強調してみせる。気が向けばいつか自らの敗北を認めてもいいと思う。何も思い詰めるような状況にないとき、困った顔で苦笑いを繰り返している。ゴミ箱の中から漫画雑誌が助けを求めているような気がして、誰かがそれを拾い上げて読んでいる。そこから連想されるのはどんな状況だろう。紙を求めて世界を彷徨う時代ではない。ちり紙の代わりに印刷物があるわけではない。走り去る人々はただ何も感じぬまま走り去るばかりだ。意味がないことが救いとなっているかも知れない。そこで意味を求めようというのは単なる無い物ねだりか。たぶん老人は年金とともに国家にしがみつくだろう。君もいつかはその老人の仲間入りか。身だしなみを整えなければならないか。緩やかな下り坂を下って行く。すれ違う人は息を切らしている。前につんのめりそうになりながらも、かろうじて持ちこたえている。みすぼらしい身なりが似合っているようだ。働くことが苦にならないと感じるのは勘違いだろう。何の確信にも至らずにただ迷い続けるばかりか。どこまでやってもきりがないのがこの世界の良いところか。そんな強がりを冗談代わりに使うことに慣れてしまった。たぶんどこかできりをつけなければならないのだろう。だが君が望んでいるのはそんなことではない。さらに言葉を連ねることか。それで気が済むはずがないか。


11月27日

 それらの文章では真夜中に目が覚めるのは決まり事と化しているようだ。そして何となく適当な言葉を余白にちりばめようとするのも決まり事なのだろうか。それ以上を望んでいるはずが、そこまで到達せずに空回りしているだけか。また元の木阿弥となってしまいそうだ。いつまでもどこへも進めずに、最悪の状況からさらなる最悪へと移行していると嘘をついてみようか。別に最悪でもかまわないか。本当に最悪だなんて実感していないのだろう。早く結果に辿り着きすぎる癖があるらしい。状況はまだ最悪へ至る途中の段階かも知れない。君の存在を無視し続ける人々が先にこけようとしている。自らの言動が何の影響力も持ち得ないことに気づかないばかりか、それをさらに悪化させるような言動に終始している。それを反省しようともせず、論理の単純さに寄りかかり、何か利いた風なことを述べているつもりのようだ。それを末期的症状という言葉で言い表すのは、今さらという感がないわけでもない。そんな言葉を用いたのはいつの頃だったのか、もう遙か昔のような気がする。もはやそれしかできないのだから、それはそれで仕方がないのかも知れないが、そんな代物を真に受ける人々がまだいるだろうことを、想像するだけで寒気がしてくるか。たぶん冗談でそんなことを述べているのかも知れない。いつものように本気ではないし、具体的な批判の対象も特定されない。君は言葉が醸し出す雰囲気に流されているだけか。固有名を保持する人々に対する批判が欠けているようだ。本気でないのはそんな内容からもうかがい知ることができるか。本気になれなくなってからどれほどの月日が経ったのだろう。たぶん彼らを無視しているのは君の方なのだろう。それらの言動がどうでもいいことだと思えるのは確かな実感を伴っている。そこに知性が欠けていることも疑いようのない事実かも知れない。画面上のつまらない言動に目くじらを立てるのは大人げない行為か。今ではそんな風にしか思わなくなってしまった。限られた時間内で消え去る言動にいちいち反応する気力が失せてしまったのかも知れない。それらの笑うべきセンスを実際に笑うには及ばない。あれはあれでああいうものでしかないのだから、あれ以外を求めてはいけないものなのだろう。あれでもああいう水準ではあれなりに説得力がありそうに感じられる。そんな評価が妥当なのではないだろうか。しかし何を思い上がった言動に終始しているのだろう。いったい君は何様のつもりなのか。多額の制作費と宣伝費を費やして作られているあれらの画面をけなす資格が君にあるのか。資格などあってもなくても、けなしたければけなしておいた方が気が晴れるかも知れない。ただであれらを見ているわけだから、いくら無責任な罵声を浴びせても何の罪悪感も抱かないだろう。しかし君はいったい何に腹を立てているのか、対象を名指ししなければ何のことだか何もわからないままだ。影はそれでもいいと思っているらしい。


11月26日

 虚構の風に煽られて、どこからともなく言葉が吹き寄せられてくる。それによれば、やればやるほど深みにはまる、ということらしいが、何をやればそうなるのか不明のままだと思いたい。本当はそれを知っているのかも知れないが、見せびらかしの画面を閉じて、ついでに瞼を閉じて、満天の夜空を想像して、何とか落ち着きを取り戻そうとしている。平静を装うにはまだ何かが足りないような気がする。意識はわざとらしく別のことを考えようとする。それはどのような深みなのか、嘘を突き通している意識を退けて、具体的な事実を捉えられるだろうか。まったくどこまでしらを切り続けられるのか。まるで我慢大会の様相を呈している。くだらぬ感情に囚われて重大な事実を見逃している自分に気づかない。そんなドラマチックなことが果たして生じるだろうか。見逃しているのは重大な事実ではなく、どのような展開もあり得た取るに足らぬ些細な出来事にすぎない。そんなものをことさらに顕揚する姿勢がそれらの画面から感じられる。その一見複雑そうな語りに内容など何もありはしない。稚拙な議論をどんなに積み重ねても、稚拙な内容から遠ざかるわけがないだろう。見捨てられた人々はいつまで経っても見捨てられたままだ。つまらぬ損得勘定に人々を誘い込み、いくら儲かるだのいくら損するだの、目先の利害ばかりに関心を持たせようとする。いったいそれは具体的にどういうことなのか、なぜそれが一向に示されないのか。ここで示すほどの内容とは思われないからか、あるいは単に言葉を積み重ねて示すのが面倒なのか。たぶんどちらでもあるかも知れないし、またはどちらであってもなくてもかまわないのだろう。なぜかつまらぬこだわりに具体性の出現を阻まれているらしい。とりあえずその事実は事実として受け入れよう。失われた感覚は二度とよみがえってこない。それが何を示しているかもわかろうとしないで、まだ当分語り続けられるしかないようだ。何も語ろうとせず、ただその場の無内容に流されるがまま、どこまでも延々と終わりが引き延ばされるだけか。画面の向こう側はだらけた人々の天国らしい。なぜあれほどまでに幼稚になれるのか。彼らに羞恥心というものが欠けていることは先刻承知しているようだが、自分たちのプライベートをただ見せびらかすばかりの人々に共感を覚えるこちら側の人々のことを思うと、絶望的な気分に誘われそうになる。そんな風には思わないと思い込みたいところか。画面にすべてを求めるのは間違っている。そんなことはわかりきったことか。それらを気晴らしや気休めの一種だと思っていれば、何も絶望する必要はないだろう。そんなに思い詰めるような内容では実際ないはずか。それらの画面から漂ってくる雰囲気を真に受けるのはおかしい。現実に彼らが提起した問題は今までに何一つ解決された例しはなかったではないか。そして今なおやっていることはいい加減で中途半端な現状批判ばかりか。そんな彼らが誰に見捨てられようと、君の知ったことではないはずか。しかしいったい君は何を見てそんな感想を抱いているのだろう。


11月25日

 心の片隅で微かに怖じ気づいている。確かにその先には何もなかったようだ。それは誰にとっての先だったのだろう。どこへも進もうとしない君の態度に業を煮やした影が、君以外の誰にも理解できぬ言葉の連なりでも提示してくれたなら、少しは救いになっただろうか。しかしどんなに言葉を弄してみても、所詮影は君の分身でしかなく、いかに君の思い通りに行かなくとも、君の一部分には違いない。どんなにもがき苦しもうと、一向に行き詰まりは解消しないだろう。行き詰まりのただ中に君はいつまでも留まり続けるばかりなのか。そして君の分身もそれを望んでいるはずか。意識は望まなくとも影がそれを望んでいる。そしてそれを行き詰まりだと思う意識に反発しているようだ。行き詰まりこそが君の可能性だと言いたいらしい。それが君に残された唯一の可能性だと思い込んでいるわけか。できることならそんな思い込みを打ち砕いて、さらにその先へ歩んで行きたい気もしてくるが、なぜかそこから一歩も足が動かなくなってしまったようだ。理由は何もないと思いたいところだが、作り話の中でなら理由などいくらでも捏造できそうだ。事実とも現実とも無縁の作り話の中に君がいる。君は君でしかなく君でさえない。そのどちらでもかまわないということになるだろうか。君にとってはどちらでもいいはずがないだろうが、影にとって君はどんな君でもかまわない。たぶんそれが君でなくてもかまわない。そんなことはどうでもいいことなのか。とりあえず誰でもかまわない君が適当に行き詰まって、もだえ苦しんでいてくれれば満足なのかも知れない。そんな状況を眺めているのが嬉しくて堪らないのか。その堪えられない喜びを独り占めにして、虚空のどこかで得意満面で悦に入っているわけか。そんな影の自己満足を想像しながら、君は未だに立ち直りのきっかけをつかめずにいるらしい。そして何の展望の開けぬ宿命をただ呪うばかりのようだ。そんな物語のあらすじで君は気に入っていただけただろうか。いったい誰が気に入るのか。気に入るも何も、どこにそんなあらすじの物語が存在するのだろうか。暇な人は図書館にでも行って検索してみたらいい。それでは気に入らないのなら、自らが気に入るような物語でも捏造してみるべきか。誰にだって作り話をでっち上げる自由はあるはずか。そんな自由はいらないと主張したいのはどこの誰だろう。たぶん影には影なりの魂胆があるはずだ。その魂胆に逆らっているつもりの君は影の思うつぼにはまっているわけか。思うつぼにはまって、こうして行き詰まりの中でもがいているわけか。そして意味のない言葉が繰り出されるばかりのようだ。


11月24日

 さらにその先へ進んでみよう。何かしら問答形式で話を継続させているようだ。まだ君には先があったりするのだろうか。君は今どうしている。努力し続けることが何になる。そうやってまだ先があると思い込もうとしているわけか。先がないのにどうして努力することができようか。まだ先があることをなぜ信じられるのか。先があることを信じていれば努力し続けられるというわけか。先がないなんてどうして信じられようか。それは神のみぞ知るところか。しかしその先に何があるのだろう。何もなければさらに先へ進んでいくまでか。そしてもう先などないことを知るまでか。別に先があろうとなかろうとどちらでもいい。その辺で適当に投げやりになる。つまらぬ言葉遊びにはうんざりか。リンゴが食べたくなってきた。いくら言葉をこねくり回してみても何も生まれはしない。それは単なる字数稼ぎになるばかりだ。そうしているうちも心がすさんでくる。不健全な言葉遣いに埋もれて何を述べているのかわからなくなる。なぜそこで君は笑うのだろう。情景描写の多用に寄りかかって、詩的な雰囲気でも醸し出せないものか。そんな逃げ道がどこに用意されているのだろう。詩には風がよく似合うか。風の歌を聴けだとか叫びたくなるのはどこの誰だろう。そんな衝動に駆られて恥ずかしい詩を披露しているのは誰なのか。そこから遠く離れることなんてできはしない。誰の詩だって恥ずかしい代物か。恥ずかしさに思わず赤面しないような詩はない。真剣になればなるほど滑稽に映る。吐き出された言葉そのものが日常からかけ離れている。そんな詩の恥ずかしさを解せぬ者はまがい物である。だから詩には恥ずかしさを隠すための旋律が必要になるわけか。むき出しの言葉を美しいメロディーに包んで歌うと恥ずかしさも半減するだろうか。場合によっては感動すら呼び込むかも知れない。そんなまやかしに騙されて感動してしまうのは、自らの敗北を認めるようなものだろうか。しかし誰が何に負けてしまうのだろう。詩が恥ずかしい代物だと主張する者が音楽に敗れ去る。敗北を認めることができないのなら耳のふさげばいいか。耳をふさぐと何が聞こえてくるだろう。何も聞こえなくなるわけでもなく、入ってくる音量が減少するだけか。さっきから聞いてはならぬものを聞いているわけではない。意味を解さない外国語の歌なら詩の意味を無視できるか。その発せられた言葉の響きを美しいと感じている。人の声を音楽としてしか聴かなければいいわけか。そんなことができるわけもないか。時にはそんなことが可能だと思われる瞬間もやってくる。たまにはそんな音楽を聴く機会が巡ってくることもあるだろう。さっきまで聴いていた曲がそれなのか。


11月23日

 何を忘れようとしているのか。忘れられるはずのないことを、なぜひたすら忘れようと心がけているのか。いったいそれを忘れた先に何が待っているのだろう。妙に感傷的になっている。何か心に傷を負っているらしいが、今はそれを無視できる精神状態に近づきたいわけか。それが誰の思いになれば気が済むのか。そこでどんな人格を設定しているつもりなのか。それ以上は語れない状況だと気が楽になるかも知れない。だが君は影に急かされてそこから先を語りたがっているようだ。台本も台詞もないのにこれからどうやって言葉を発するつもりか。唐突に繰り返される苦し紛れの場面転換にはもう飽きてしまったはずだ。しかしここに至ってもそれしかやりようがないだろう。それは飽きる飽きないの問題ではなく、構造的な欠陥かも知れない。それしかやりようがないこと自体が欠陥を露呈させている。ようするにまだ手法的に未熟なのだろうか。いつまでもそれをやり続けていることが根本的に間違っているのだろうか。だができるうちはやりざるを得ない。そんな成り行きに身をまかせてやり続ける以外に選択肢はないと思われる。たぶんそう思ってしまうことが大きな勘違いなのかも知れないが、それはそれで仕方のないことか。行動するための視界がそこしか開けていないのだから、そこに向かう以外に方法はない。そこからすべてが開始されて、今もさらに遠くへ向かって歩んでいるつもりのようだ。確かに距離的にはだいぶ遠くまで来てしまった感はあるが、時間的にはたかだか数年の歩みにしかすぎない。この程度で感慨に耽っているようではもう先がないように思われる。しかしまだやるつもりなのだろうか。いったい誰に向かってその言葉を投げかけているつもりなのか。目にする光景はただの暗闇しかない深夜に何を考えている。どこかに光明でもあると信じているわけか。それはただの蛍光灯の明かりにすぎない。外から風の音が聞こえてくる。それ以外はすべて文字の羅列になってしまうだろう。作り事の世界に君と影が並置されている。そんな文章を経由しないとその先へ進めない。思っていることと感じていることとそれついて考えていることの間からかろうじて言葉が取り出される。つまらぬ思いもそれなりの文章に置き換わってくれるようだ。現実の虚構から結果的に出力されるのは言葉だけか。現状ではそうなるしかないだろう。そうなってしまうのだから仕方がない。今はそれ以外を考えられない。それしかないとは思わないが、ここにあるのはとりあえずそれだけだ。それ以外をどうやって引き出すかを考えるのは君の仕事ではない。君にはそれを利用することはできないし、それをやる権限もない。それは君以外の他者がやってくれるはずか。やれるはずもないか。


11月22日

 忘れられるはずはないか。忘れられないのに嫌はことはすぐに忘れようと思う。なぜそんなことを思うのだろう。夕暮れ時にふと周囲を見渡せば、強風に煽られて枯葉が飛んでゆく。君の意識もどこかへ飛んでいってしまった。そんなことはあり得ない。誇大妄想にとりつかれていたのはいつの頃だったか。いつものように唐突に話の調子がおかしくなる。依然として何かを求めているようだが、なぜ途中で話の内容が変わってしまうのか。だが徐々に語りの感覚は戻ってきているように感じる。それと同時に昔からおかしな語り口だったような気もしてくる。世界のどこかに何があるというのだろう。そこへ行ってみたいと思うのはなぜだろう。行き先も決めずに仮の目的地で何をするかも決めないで何を思っているのか。君はいつものように意味不明と戯れたいだけのようだ。そんな調子の君を影は喜んでいるだろうか。別に笑いを求めているわけでもないらしい。以前とは違って笑いねらっているような内容にはなり難い。しかし以前とはいつの頃の話なのか。衝撃的な光景に無理矢理笑いを重ねて語りたいわけでもないだろう。イラクで次々にアメリカ兵が殺されている光景のどこが衝撃的なのか。殺された場で民衆が歓喜の気勢を上げる光景に笑ってしまうのはなぜだろう。本当に君は心の底からざまあみろと思っているのだろうか。そのような報道の手法が目下のところアメリカに一矢を報いているわけか。ブッシュ氏の治世が四年天下に終わったときが真の勝利を確信する瞬間になるだろうか。しかしそこで誰が勝利するのだろうか。それでも政権を担当し続けているだろう自民党と小泉氏の勝利なのか。彼はうまく立ち回ったことを密かにほくそ笑んでいるかも知れない。馬鹿なマスメディアと国民が彼の延命に手を貸してくれることだろう。大衆の不満のガス抜きを担うニュースショーもいつまで続くのか。それは君の勘違いであり、彼らは馬鹿ではないのかも知れず、真の馬鹿は君の方かも知れない。今の状態が続いてゆく限り、国民もマスメディアも現状維持のままで安泰なのかも知れず、そんな人々を馬鹿呼ばわりする君の立場も安泰なのだ。しかしそんな馬鹿馬鹿しい状況を誰が変えようと思うだろう。口先で変革を訴えることは流行っているようだが、それが実際の変革に至らないのはどういうことなのか。とりあえず変革を訴えることで現状維持を図っていることは確かなのだが、それ以外がないのはどうしたわけだろう。変革を訴えている誰もが自分の姿を見せびらかせすぎている。変革する以前に誰もが話題の中心に居座ろうとしすぎている。我こそが変革の旗手だと喧伝するばかりで、実際の行動は以前と同じ相変わらずの手法に頼っている。だがそんな風に思うのも君の勘違いかも知れない。思いもかけぬような場所から、誰も関心を持たぬような出来事から世の中が変わってきているのだろう。


11月21日

 どうも君は何もできなくなってしまったらしい。できなくなってしまったようだと述べることはできる。そんなことができるはずもないと述べることもできる。できるはずもないことはできないはずだとも述べられる。何もできないなんてあり得ないことか。ではわざとらしく何ができるのかと問うこともできるはずか。すでに何かやっているはずなのに、その上に何ができるのだろうか。それは確かにわざとらしい問いになるかも知れない。まわりくどいのか、わざと込み入らせているのか、そのどちらでもあるらしい。そんなことの繰り返しにどこまで神経が耐えられるだろうか。しかしなぜつまらぬ問いをやめようとしないのだろう。問い続けているうちに何か別の内容を導き出そうとしているのかも知れない。そこに何らかの期待が潜んでいる。たぶん語ることが何もない状態から抜け出たいらしい。何の希望もない状態には耐えられないか。たぶんそう思えるときでも何かしら希望があり、当人がそれに気づかないだけかも知れない。希望などいくらでも捏造できるわけか。どんな境遇に生きていようとそれなりに希望を抱くことはできる。絶望したときでも自殺という希望があるか。それが希望といえるかどうか意見が分かれるかも知れないが、何かをしたいと思ってそれを遂げようとしているのだから、やはり自殺する当人にとっては自殺を遂げることが希望なのだろう。当然自殺したくない人から見ればその希望は希望ではないか。抱いている希望も人それぞれで違う、という当たり前の結論がそこから導き出されそうになる。そしていったい何が言いたいのかわからなくなる。いつものようにそんなことはどうでもいいことかもしれない。君は何もないことに耐えられなくなりたいようだ。耐えられなくなって何かやりざるを得なくなる状況に自らを追い込みたいらしい。要するにそれが君の希望なのか。それはつまらぬ願いか。他人から見ればそうかも知れないか。そしてやりざるを得なくなった何かをやり遂げて、早く楽になりたいわけか。しかし影にとっては、そうは問屋はおろさないというわけか。耐えられない状態をできるだけ長引かせて、君を発狂させたいとでも思っているのだろうか。それが影にとっての希望になるだろうか。だが発狂させたい君とは具体的に誰なのか。また影がなぜそんなことを思うのか。君の影でしかない者がどうして希望など抱くことが可能なのか。希望などいくらでも捏造できるというわけか。架空の君は自らを発狂させようとたくらむ架空の影におびえているわけか。そんな物語がどこに生じているのだろう。君はそんな話をどこで語っているのだろう。例えばジギル氏は自分の影であるハイド氏におびえていたわけか。


11月20日

 いったい何を語ればいいのだろう。例えば国家の在り方についてこの場で大まじめに語ることができるだろうか。君は政治家にでもなるつもりなのか。それ以前に政治評論家にでもならなければならないか。そうなる以前にかなり馬鹿げた結末が待ち受けていそうだ。それについて何を語ればいいのかわからない。冗談ならいくらでも語れるか。例えば刑事裁判と刑務所をなくして民事裁判だけにしたらどうか。人を何人も殺めた凶悪な殺人犯も罰金刑で十分だろうか。飲酒運転の罰金を高くしたら違反者が減ったという声は多いから、人を殺したら財産没収とか、財産のない者は働きながら罰金を払い続けるとかしたら、損得勘定に敏感な者ならば人殺しをためらうかも知れない。犯罪者を刑務所などに収容するよりも、これまで通り一般社会で生活させた方が、周囲の目を気にしてかえって更生する可能性が増すかも知れない。もちろん人を殺しても刑務所に入らなくて済むとなると、今度は遺族などからの仕返しにおびえる毎日を送らなければならなくなるか。明け方に目を覚ますと感覚がない。それが何の感覚なのかわからないが、以前とは違う感覚になっている気がして、試しに何か適当な言葉を繰り出してみるが、いつものように感動からは程遠いので、それはたぶん気のせいだったかも知れないと思い始める。しかし感動とは何かと問うのもわざとらしく思えてきて、そんな問いは苦し紛れだと悟り、しばらく前に感動を忘れていたことにしたくなる。やはりいつものように意味不明になっているのかも知れない。とりあえずまだ死んでいるわけではないらしい。確かに心臓は動いているようだが、その気まぐれな道行きにはついて行けないものがある。言葉にならない思いを抱え込んでいるようで、それについては何も語れなくなってしまう。もとからそうなのかも知れない。それは何かの障害なのかあるいは障害ではなく可能性だろうか。本当は何も思っていないだけかも知れないが、ここからどうすればいいのだろうか。説得力のあることを述べる自信がないので、もう何も述べられなくなる。そんな嘘が通用するはずもなく、いい加減な内容になってしまう現実を受け入れるしか道は残されていないようだ。しかしそんなものが道であるはずがない。もちろん道のない藪の中を歩んでいるわけもなく、歩んでいることさえも嘘かも知れず、実際には虚無の前で立ち往生しているだけか。しかし虚無がどこにあるというのか。どこにもないから虚無なのではないか。それは単なる屁理屈の部類に入るか。以前もそんなことを語っていたような気がする。以前とはいつのことだろう。過去のことなどいつでもかまわないか。いつまでもつまらぬ過去にこだわっていないで、もっと未来へ目を向けなければならないか。目を向けてどうするのだろうか。将来のあるべき姿を夢想しているうちに目の前にある現実を忘れようというわけか。それは何かに対する皮肉のつもりだろうか。


11月19日

 前にも同じような台詞に出くわしたかも知れない。やる気がでないのはいつものことだ。やる気の代わりに怠惰がある。惰性で怠惰な自己を寝かしつけ、心地良い惰眠とともにやる気を失わせている。君はそこから始めなければならない。思いついてからやり始めるまでに数日を要する。その数日の間が情報を入力する期間になっているのだろうか。だからといって、その情報をもとにして誰が何をやるわけでもないし、君がそれに対して何を思っているわけでもない。何の問題にも直面せずに、ただ遊技的に意味のない言葉を積み重ね、虚無的な言葉の響きを保持しようとしている。そしてそれらのすべては己に返ってくる。それが必然的な結果だと思うわけか。そんな予定調和の帰着をどのように変更したら満足するだろうか。変更できない部分がそのほとんどになるだろう。結局は何も変えられないことに気づくだけか。たとえ何も変えられなくても誰かが満足してくれると思っている。これからも選挙では何も変えられないだろうが、選挙でなくても何も変わらない。犯罪など起こって当たり前なのであり、犯罪者にも言い分はある。たとえその言葉に説得力がなくても、犯罪に及んでしまった必然性はある。この国は法治国家なのだから、その法を破らなければ生きて行けない必然性も生じる。その可能性はいくらでもあるはずか。僅かでも可能性がある限りそれをやってみたい衝動も生じるはずか。切羽詰まればやれることはなんでもやるのが人間の気質だろう。今やらなければきっと後悔すると思うからやるのであり、その時点では後からやったことを後悔するとは思わないだろう。ともかくつまらぬ規則に縛られずに生きてゆきたいとは思うか。結果的に刑務所で規則だらけの毎日を送る羽目に陥ろうと、やるときはやらねば何のために生きているのかわからなくなってしまう。人には様々な可能性がある。たとえそれが犯罪を犯す可能性であろうと、それはそれで一つの可能性には違いない。加害者と被害者の対立を越えて、その可能性はこれからも様々な方向へ広がってゆくのかも知れない。犯罪のアイデアは世の中の移り変わりに対応して無尽蔵なのかも知れない。良識的な市民が犯罪をなくすためにはどうすればいいかと考えを巡らす範囲を超えているのかも知れない。犯罪や犯罪者を憎む者やそれを取り締まる者よりも、現実の犯罪者の方がより人間の真実に近い姿をしているのかも知れない。いつの世でも人間は過ちを犯す動物であり、過ちを犯してから、絶えずそこから学んできたのだから、過ちそのものを否定するわけにはいかない。過ちのない世界は機械の世界であり、そこに生命が息づくことはできないだろう。


11月18日

 なぜ形式を守りたいのか。常識的なことが異常に感じられた時を思い出す。どこかの誰かは少しおかしなことを述べてみたいようだが、すでにかなりおかしなことばかり述べてきたはずか。今は利いた風なことを語るつもりはない。マスメディアと同じような論調で語るつもりはないらしい。つもりはないが、自然とあれらの口調に汚染されているらしい。たまには忘れたことを思い出す。どうも始めから間違っていたらしい。辞書を参考にして誤って使われた言葉遣いを修正している。そして修正したついでに抹消してしまう。さらに抹消したことを後悔している。性懲りもなくまた一からやり直すつもりのようだが、いつまで経っても先へ進めず、また数日前で停滞してしまう。その時物思いに耽っていた内容を思い出せない。君は何をやっても深淵には至らないようだ。深淵に至ることに何の意味があるのか。深淵を目指しているわけではないし、何をやっているわけでもないか。君が最後に思い出すのは最初から思っていたことだ。最初は何も思っていなかった。何も思っていなかったときのことをどうやって思い出すつもりか。まだそんなことを考えていたのか。何も見つけられずに苛立っているのは誰なのか。苦し紛れに決められた手順に沿って形式的な言葉を作動させる。君は何も思わずに二日後の雨を待つ。そして今は何も待っていない。今から三日後の視点を想像してみる。想像したところでどうなるわけでもないだろうが、もうすでに予定は決定してしまっている。未定の部分は何もない。あなたと私はどこで出会ったのか。自分と異質なものに反感を感じるのは仕方のないことか。それを受け入れるか否かはそのときの気分次第だろうか。二度と同じものは導き出せないと知ったとき、それをなかったことにして消し去ろうとする行為のどこが間違っているのだろう。そうやってかけがえのないものを葬り去ることばかり心がけている人のどこに良心があるのか。そんな人ばかりが出現し続ける仕組みになっているのかも知れない。正気の沙汰ではないと思うが、そう思っていること自体が正気の沙汰ではないのだろうか。そしていつもの生活が延々と続いてゆくばかりだ。これから待ち受けている未来の出来事には劇的な展開など皆無かも知れない。何について語っているかもわからぬまま語り進めてゆくと、やがて求めていた何かに遭遇するかも知れない。これが求めていたものだと思い込みたい何かを、それらの言葉の中から探し出せるだろうか。とりあえずやってみなければわからないので実際にやっている最中なのか。誰が何をやっているかに興味はない。誰かではなく君がそれを語らなければならないか。しかしそれとはもうすでに語り済んでしまったそれのことだろう。


11月17日

 タイミングが著しくずれているようだ。繰り出された言葉は意味を忘れている。ただ忘れているのではなく、忘却の彼方で意味が消滅してしまったらしい。そんなことがあり得るわけではなく、それは単なる誇大表現の一種かも知れない。それでも地球は回っていて、この世界は存在しているようだが、それとこれとはまったく無関係だろう。ナンセンスな方向へ逃げようとしているのか。今さら逃げられるわけもなく、見捨てられた過去の一時期を復活させようとする誘惑を払いのけ、性懲りもなくいつもの無味乾燥へと戻ってくる。砂時計の砂はもうとっくに流れ落ちてしまった。残された時間など幻想に過ぎない。だがその幻想にすがりついていないと生きて行けないらしい。君たちはそれを否定できないだろう。事態を好転させようなどと思わぬ方が良い。君たちの未来はすでに決まっているのだから、素直に課された労働といつかは死ぬ宿命を受け入れるべきだ。それ以外は幻想を追い求めるだけの人生だ。つまらぬ価値観に凝り固まって、低劣な感情とともに似た者同士で見栄を張り合う。それが競争心というものなのか。君たちにそれ以外の何ができるのか。たぶん何かできるだろう。お互いの傷を庇い合い、欠点を意図的に無視して社交辞令で褒めあう。そんな君たちが負の連帯を形成している。そんな不快な言葉による否定は受け入れ難いだろうか。ならば今度は君たちを肯定しなければならないだろう。何よりも他人を愛さなければならないか。この世に生を受けたすべての人間は、他人を思いやる心を生まれながらにして持っているはずか。そんな仁徳を心がけて他人に接すればすべてがうまくいくだろうか。それが可能な状況に巡り会うことが果たしてあるだろうか。そんな状況を作り出すのが君たちに課せられた使命か。お笑いぐさだと思うかも知れない。何を馬鹿なことを述べているのか。君たちはもっと有益なことを期待してここまで読み進んできたはずか。他人を利することは自分を利さない場合が多いだろうか。自分が他人から一方的に利用されているのは我慢がならないか。それを知った時、同時にそれは被害妄想であるかも知れず、どちらにしろ不快な気分になるしかないか。だから君たちは他人を許せない。時にはその存在を無視し、場合によっては亡き者にしようとまで思い詰める。その感情は動物的な本能に基づいているのだろうか。自分のなわばりを荒らされた時の肉食動物の凶暴さを身につけているようだ。そんな比較で満足するわけにはいかないか。人間と動物を比べて何になる。何かしら語ったような気になることは確かだろう。その程度でも気が利いていると思われるかも知れない。影はもう少し知性を感じさせる言説を期待していたようだが、当てが外れて、つまらなそうな顔でどこかへ退散してしまう。


11月16日

 気晴らしの娯楽にうつつを抜かした先はどうなっているのか。後には何もない世界が開けているわけでもないだろう。確かにテレビは何もやらせない。ただ見ること以外に用途がない。見ているだけではどうしようもないのに、見るのを止められない。そして見る者は意志薄弱な人間となってしまう。それでも何かしらためになっていると思い込みたいところか。それなしでは生きられないわけではないが、テレビを通して様々な情報を受け取っていることは確かだ。それらの情報が何のためになっているのか。改めてそんなことを考えるのが面倒臭くなる。たぶん気休め程度には何かの役に立っているのだろう。テレビのことなどどうでもよくなってしまうだろうか。今はその他のことで手一杯で、そんなことまで考えるゆとりがないらしい。だからとりあえずそれは省略して、ここからは別の方面のことでも考えてみよう。考えられるはずがないか。それ以外に現実はどこにあるのだろう。画面以外のどこに現実を認識できる場があるのか。どこか思いもしなかったところにあるとは思わない。現実などどこにでもありそうなものだが、その現実を無視して、テレビ画面に釘付けとなっている。意志の力で無理矢理そこから眼を引き剥がして、それとは別の作業を開始できるだろうか。画面に魅入られて、このままでは現実を直視することも無視することも不可能になるだろうか。画面から受け取る情報に引きずられるばかりで、そこから滲み出てくる欲望の虜になってしまう。君はそれでもいいのか。君が何を考えているのかよくわからない。誰も何も考えていないのかも知れない。たぶんさっきまで考えていたのはそんなことではなかったはずか。そんな内容ばかりではうんざりしてしまうから、もう少し肯定的なことでも考えてみようか。とりあえず避けては通れぬテレビからの影響をどうすれば無視できるだろうか。何でもかんでもテレビのせいにするのはおかしい。自らの怠惰の言い訳にばかりそれを用いるのは卑怯か。行き詰まりの原因や理由を他に見いだせないものか。そんなものをさがしてどうするのか。どうなるわけでもないが、どうなるわけでもないままにしておくのもおかしいか。おかしいも何もどうにもならないのだからそれは仕方のないことではないのか。それでもどうにかしなければならないとなると、やはりこれまでと同じように試行錯誤を繰り返す以外にあり得ないだろう。そんなわけで、何とか行き詰まりをかろうじて抜け出ると、そこにはまた別の行き詰まりが待ちかまえていて、やはりそんなことを繰り返しているうちに数日が経過してしまう。物事を深く考えるための手がかりを見失ったまま、ただ無駄に時間が過ぎ去るばかりのようだ。


11月15日

 依然として出来事が言葉の連なりに発展する気配は感じられないが、そんな受け入れ難い状況も自然と受け入れている事実に気づき始める。それでかまわないのならそれで行くしかないだろう。それを否定し続けても何の進展も得られない。もはやそれをどう進展させればいいかわからない。それはそれでその程度に止めておくべきか。止めることさえできずに、さらにたががゆるみ続け、瓦解を押しとどめようとする気力も失せ、なぜそうなってしまったのか考えれば考えるほど、納得のいく回答から遠ざかるような気がしてくる。ただそうなってしまう事実に気づくことが、ここでのありようなのか。だがそれ以外がないのはどうしたことなのか。具体的には何も語れなくなってしまったらしい。そうやって行き詰まりがいつまでも長引いている。忘れていることを思い出せずに、忘れられないことは言葉にできず、晴れ渡った空を見上げて何も思わない意識を感じている。意味のないことが多すぎる。人も意識もどこへも行かないようだ。日々同じことが繰り返されて、何の変化ももたらせない人々が世の中の変革を訴えている。変える必要のないことを変えることは不可能なのか。たぶん彼らにとってその必要はないのだろう。相も変わらず変革を訴え続ける彼らにとっては、本当に変わってしまったら訴え続けられなくなってしまう。だから彼らはいつまでも訴え続けられる現状を維持しているわけだ。何という馬鹿げた人々なのか。だが当人たちがそれに気づいていない節さえあるのだからかなりおめでたい。たぶん変化するためには彼らに訴えるのをやめてもらうしかないと思うが、それは絶対にできない相談になるか。そうすることしかできない人間にそれをやめさせることはできない。彼らは死ぬまで世の中の変革を訴え続ける宿命なのか。そして彼らが訴え続ける限り現状維持が果てしなく続いて行くわけか。それは救いようのない状態といえるだろうか。彼らにとっても、彼らを支持する者にとっても、案外それは望ましい状態なのかも知れない。いつか自分たちの夢が叶うという期待を保ち続けることができる。自分たちが夢や希望に向かって努力していると思い続けることができる。本当に世の中が変革されてしまったら、心地良い夢から覚めて厳しい現実に直面してしまうだろう。だからひたすら変革を訴え続ける必要があるわけか。確かに訴え続けている間は夢から覚めることもないだろう。そして彼らを支持する人々も、そんな彼らの存在が生きる支えとなっているわけか。まったく冗談にもほどがあると思うが、そんな冗談を真に受けている人たちが多すぎるような気がする。


11月14日

 さっきまで何を思っていたのか。思っていることを言葉にすればそれは嘘になる。すぐにわけがわからなくなってしまう。いつものように君が何を述べているのか知らないが、意識はいい加減な妄想の虜となっているらしい。まったく真意を語らずに、なぜ今の制度を維持しようとするのか。それは当たり前のことだろう。それは制度であると同時に慣習だ。同じような意味を持っている。思っていることが記述している言葉とは違う印象を予感させる。語っている内容にしたがって思いを制御するわけにはいかない。困難になればなるほどテレビに逃れたくなる。テレビを見ながら暇をつぶしている間に、何もかもが台無しになってしまい、いつまでも行き詰まりを打開できない。求めている意味がどこにも見当たらない。意味そのものを知り得ない状況にあるのかも知れない。昔の文章を読めばそこに答えが出ているかも知れないが、今の君にとってはそんな答えでは退屈に思われる。新しい展開を求めつつもいつまで経ってもそうならない言葉の連なりに苛立っている。君にはどうすることも出来はしない。語っているのは君ではないし、記述しているのも君とは別人のはずか。そんな嘘はつまらない。もう少し迂回して別の方面から話を構成してみよう。受け入れ難いのはどんな結果なのか。何に対してどうすれば満足するだろう。誰が満足するかを知りたい。別にそんなことは知らなくてもいいだろう。この世界に人間が存在している事実に驚く必要があるだろうか。どこかに適当な人間がいて、その人間が誰かに向かって何かを語りかけている。そんなことは当たり前ではないか。今ここが語りかけの場であることに何ら不思議はない。今がなければ明日もないはずか。今の意識が何を述べたいのか明日の意識は知りたい。明日になればそんなことは忘れてしまうから、今ここにそれを書き残しておきたいわけか。それにしてはいつまで経っても本論にならないような気がするのだが、どうしたわけでそうなっているのか。夜はさらに更けて、深夜になりやがて朝が来るだろう。繰り返されるのはそんな中身のない日々でしかない。何に頼ることもなく、誰に語りかけるわけでもなく、ただのモノローグが延々と続いて行く。そして終わりを迎えるための言い訳が語られる。もうあきらめるしかないのだろうか。いつの間にかそんな心境になってしまったわけか。だが影の意識はここに至ってもまだわからないと思っている。終わりがいつ来るかなんてわかるはずがない。永久に終わらないなんて思っているわけではないが、それを待っていても仕方がないだろう。まだ何もしていないわけではなく、何かしらやってきたはずだ。その事実は否定しようがなく、その内容を否定しようがない。否定し続けても仕方のないことだ。それはそれでそういうことでしかないらしく、今はその状態を受け入れざるを得ない。


11月13日

 意識が何かと融合している。みすぼらしさに嫌気が差して、外見を着飾ることに必死か。安易な夢に踊らされて、あるがままの現実を見失う。どこに世界が存在しているのか。そんなありふれた台詞にはうんざりしている。では失われた古代文明の痕跡でも探しに出かけよう。君の行く先には適当な冒険が待ち受けていることだろう。インディー・ジョーンズの真似事をしたがっている者がどこに存在するだろうか。そんなことをやりに行く理由がここには見当たらない。それは過去の話でしかない。今では世界中のどこにも冒険者が活躍する場は存在しないか。いるはずのない冒険者が至るところでうごめいている現実に直面するだろうか。それは見方や捉え方の違いであり、冒険の種類や質の違いによるだろうか。それを冒険と見なせば、それをやっている者は冒険者になる。インディー・ジョーンズも俳優が虚構の冒険を演じているにすぎないか。例えばどこかの遊園地にあるジェットコースターに乗るのも、人によっては冒険行為になるかも知れない。それを冒険だと見なす基準はその場での恣意的な判断に委ねられる。そんな風に冒険を語ってしまうと夢のない話になってしまうか。そこで話が終わってしまってはいけないだろうか。どこかの誰かはもっと期待に胸ときめかせ血湧き肉躍る話がしたがっているはずか。それだけでは虚構の語りを維持できないと思われるか。現実よりもフィクションの冒険の方がおもしろいということか。言葉や映像を駆使すれば見聞用の冒険を構成できるか。それの最たるものが今や映画のマトリックスになるだろう。そこでいったい誰が冒険しているのか。観客の眼に映る光景や耳から聞こえる効果音などが脳の中で架空の冒険を構成している。金を払って、映画館の客席で、身の安全を保証された状態で、命の危険にさらされることなく冒険を体験できる。例えば冒険に失敗して命を落とす体験などは、脇役の俳優が死んだふりをすることで代行してくれる。そのとき嘘の死を本当に死んだと感じることで死そのものを疑似体験できるだろうか。それがかけがえのない貴重な体験となり得るか。かけがえのない体験を求めているわけではなく、金と暇さえあればいくらでもかけがえが利くその場限りの体験を、嘘を承知でかけがえのない貴重な体験だと思い込みたいのかも知れない。その手のものには感激したり感動したりするものだ、と自分自身に言い聞かせているのかも知れない。それは嘘で大半の人々は本当に感動するだろう。それに感動しないためにはある程度の知性や理性が必要かも知れないが、よほどのひねくれ者でない限り感動しない必要はない。だがいちゃもんをつけたい人は感動しなかったと敢えて嘘をつくか。誰もが非日常を映し出す映像体験に飢えているのかも知れないこの世界で、あの手のものに感動しない者は頭がいかれている証拠になるか。とりあえず君には今のところ見る機会が巡ってこないので判断しようがないか。


11月12日

 どうもここ数日言葉の連なりを構築できない日々が続いている。言葉をどう組み合わせてみてもしっくり来ない。今までが勘に頼りすぎていたきらいがあったようで、いったん勘が鈍ってしまうと何もできなくなってしまう。本当に勘が鈍ってしまったのか、また今までが勘に頼ってきたのかどうかは、何となくそんな気がするだけで、それが客観的な真実かどうかはわからないが、少なくとも論理的に思考を重ねつつ、筋道の通った内容を示していないことは確かだ。たぶん勘ばかりに頼っていると遠からず行き詰まる時が来るのだろう。今がそんな時なのかも知れない。だがそれはつかの間の時だ。君に沈黙する権利はない。誰がそんなことを決めているのか。権利などあってもなくても沈黙する時はするし、状況や成り行きによっては沈黙できない時もあるだろう。では今はそんな状況や成り行きなのだろうか。言わせてくれ!言わせてくれ!と誰かの歌詞の中に記されている。そのとき君の苦渋を誰かが見ている。是非もう一度話を聞かせて欲しいそうだ。そして君が何を思っているのか君には定かでない。ただ本能の赴くままに、次いでそんな本能は嘘だと思い、本能が状況によって造られた虚構だと嘘をついてみる。結局何が嘘なのかわかりかねている。虚構のどこまでが君の意志を反映しているのだろうか。だがやはりそんなことはどうでもいいことか。意志などどこにもありはしない。どこにもありはしないと思いたいだけか。たぶん意志はこれまで通りの継続を望んでいるのだろう。それともまた新たにやり直したいわけか。だが残された時間はあとわずかになってしまったようだ。面倒なので残された時間を無視して適当な言葉を繰り返す。もはやゲーム・オーバーだ、誰かがキザな台詞で応対している。それはどこかのアニメーション上での話だろう。シルクハットの中からパイナップルを取り出す手品師の話を知っているだろうか。そんな話を知ってどうするのだろう。つまらない思い込みは止まることを知らず、誰も知らない話まで捏造しようとしているらしい。海と空と陸の狭間で、そこに隙間がないことに気づく。海岸線をどこまで辿ってもどこにも行き着かない。砂混じりの茅ヶ崎から江ノ島が見えてくるのはいつの季節の話か。いったい誰の家が近づいてくるのか。昔そんな歌が流行っていたはずだ。ついでに昔の事情も思い出す。思い出しているのは今風に脚色された虚構になるかも知れない。だが今風とはどんな表現のことをいうのだろう。今の君は昔を懐かしむような心境にはなれない。暗い過去でもあるのだろうか。夢を実現させるために何か努力でもしていたわけか。そしてよくありがちな挫折でも経験したのだろうか。しかし今でも実現された夢について語る場がどこかに用意されている。まだあきらめきれずに何らかの努力をしている最中なのだろう。では暇つぶしにそこで過去に省略された言葉を思い出してみよう。触れてはならぬ暗い過去を捏造してみよう。


11月11日

 誰かが行方知れずになっている。気がつくと影はどこへ行ったきりになってしまい、今のところここへ戻ってくる気配はない。そんな嘘の声を聞いているのは誰だろう。またいつもの誰でもない誰かでも持ち出してくるのか。そんな言葉は聞き飽きたか。まだ聞き飽きるほど聞いてはいない。民主主義にも様々な在り方があるらしい。その中の一つを体験しつつあるわけだが、その民主主義の何を不満に感じているのだろう。その辺がよくわからないが、この程度で妥協すべきだと思っている。民主主義に直接参加しているとは思わない。だが参加することに意義があるとは思わない。始めから無視されているのにどうやって参加すればいいのかわからない。だがそれが不公平だとは思わない。どういう状態が公平な状態かを知らずに不公平を感じることはできないか。やはりどうでもいいことになるのだろうか。そんなわけで面倒くさいから次回は投票するのはやめにしよう。投票する人々と同類だと思われるのが嫌になる。たぶんそれは大きな勘違いだろう。だが勘違いを改める必要性を感じないのはどうしたわけなのか。うんざりするような人が投票を呼びかけているように見える。彼らが仕切っているらしい。出口調査をやって結果を予想しまくっているのが気に障る。そうやって結果を受け入れる雰囲気作りをしているわけか。いったいおまえら何様のつもりなんだ!と叫びたくなる。あんな奴らがのさばっているうちは政権交代など実現して欲しくない。そんな不快感に打ちひしがれているうちに数日が経過してしまったようだ。君は本当にそんなことを思っているのだろうか。君ではなく他の誰かが思っているのかも知れない。現実の君は開票速報など見ていなかったではないか。確か教育テレビと放送大学ではそれをやっていなかった。文章を書くために即席でそれ風の怒りを演じてみせただけか。その思いは数年前に抱いた感慨だったかも知れない。もうとっくにそんな心境は通り越して、今ではもはや半ばあきらめの境地に達しているかも知れない。とりあえずそこへ参加していない事実でも受け入れようか。何となくそれがすべてではないことは理解できる。実際そうなのだからその事実は動かし難い。なぜ七割弱の大人が投票に行くのか君には理解できないか。それが義務だと感じているからか。どこかの誰かはそう思っているらしい。そんな人々に支えられて民主主義は成り立っているわけか。民主主義そのものが成り立っているわけではなく、彼らは単に投票システムを維持存続させているだけか。誰も投票に行かなければそんなシステムは無効になるだろう。近い将来そんなことがあり得るだろうか。政権交代よりもそちらが実現した方がおもしろいか。あり得ないことを夢想している方が楽しい。何となく癒される思いがする。政治に無関心の方が気楽に生きられるかも知れない。


11月10日

 前置きが長すぎるようだ。前置きだけで終わってしまいそうで、本論の内容を見いだせずにいるらしい。どこかに言葉の断片が転がっているわけもない。何を思いつこうとも間を持たせることはできない。それは片時の暇つぶしになるだけか。北側の窓から夜の冷気が入り込む。外では光と闇のせめぎ合いが続いている。新しい表現を模索しつつも新しさそのものは求めない。どこかで何かを取り違えているらしい。本来あるべき姿がこの世界にあるとは思わない。何もない時だけ何かを欲している。何もない時は何もない。何もないのに何かがあると思いたいだけか。そんな思い込みはいくらでも可能か。何もない時はどこかに言葉が散らばっているだろう。そんな風に思って気を紛らしているだけか。老人にとっては時が経つのが早すぎるように思われるが、誰が老人なのか、それを特定する気にもならない。この際そんなことはどうでもいいことか。気休めのための継続に老人という言葉が使用されている。ついでに何か意味深なことをほのめかしたい。本音を漏らさずに嘘の本望を設定してみたい。状況によってはつまらないことがいつもつまらないとは限らない。つまらないことを思っているらしい。勝利や成功は後の敗北や破滅を用意する。歴史的には戦乱を平定して統一国家が誕生した時、建国の功臣たちは次々に粛正される運命にあるようだ。ひとたび平和になってしまうと彼らの出る幕はなくなり、最高権力者やその側近から見れば、もはや用済みの扱いづらいやっかいな危険物と映るらしい。遠方に領地を与え、次いで謀反の疑いをかけて葬り去る。そんなやり方が一般的だ。そうやって戦場の猛将たちは、自分たちが身を挺して守ってきたものに裏切られ、非業の最期を遂げることとなる。たぶん彼らもそうなる運命を薄々感づいていたはずだ。自ら進んで戦いに巻き込まれ、功を立て名を挙げて、その上生き抜いてしまった時点で、すでに目算が狂ってしまったのだ。使い捨てが使い捨てられずに残ってしまってはまずいわけだ。時代が激動するとき、必ずそういった類の者たちが大量発生するのかも知れない。戦う者は戦っている時点が頂点なのであり、それ以上の状態はあり得ず、ひとたび戦いが終われば、そこには滅亡の兆しを見いだすだけだろう。それでも平和な時代を生き延びようとするならば、屈辱的な境遇を甘んじて受け入れなければならなくなる。処世術に長けた者の踏み台にされるだけかも知れない。それでもそういう人々は、戦の神に魅入られ太く短く生きる宿命に酔ってしまうのかも知れない。ずる賢く立ち回る才がなければ生き残れないが、仮に生き残ったところでどうなるものでもない。サバイバルしたあげくに、そのサバイバル術そのものが完全否定されてしまうだろう。自負心ほど邪魔なものはない。生き抜いたことを誇りに思うことが、様変わりしてしまった世の中に適応できなくさせる。戦っていた当時の価値観が消滅してしまっていることに絶望するだけか。そんなことが史記には記されているのかも知れない。


11月9日

 誰かが何かを言いたいらしいが、伝え聞く範囲内では大したことではないようだ。それがどこかで噂に上るほどのことでもないだろう。あやふやな固有名に頼って語ってはいけない。しかし何が固有名なのか。どこかに有名人でもいるのだろうか。例えばサッカーの世界的なスター選手の名前でも挙げて何か語れば、それなりに興味を惹く内容になるだろうか。しかし固有名で興味を惹いてどうするのか。すぐに人寄せパンダという死語が思い浮かぶ。それ以外に適当なことを思いついている。だが依然としてやはり何がどうしたわけでもない。それ以上語るのが面倒になり、その件についてはそこで封印してしまいたくなる。結局何を語っているのか不明のままにどうでもいいことはどうでもいいままに、語る気力が抜けて脱臼状態に陥る。何か騙された気になるか。何を騙しているわけでもないのに騙された気になって先に進んでみよう。不協和音にも利用法がありそうだ。焦点が定まらぬままに何の一体感もなくひとかたまりの群衆がどこかで右往左往している。それは群衆でさえなく、虫の一団であり、イナゴの集団発生かも知れない。なぜ人を虫にたとえなければ語れないのか。では虫ではなく機械にたとえれば、何か知性を感じさせる内容に近づくだろうか。機械にどのような知性が宿っているのだろう。そうやってわざと他とは違うことを述べようとしている。慣用的な用法を避けようとしてわけがわからなくなる。わかりやすさがわからないらしい。もし選挙をやめて国会議員をくじ引き抽選で選ぶとして、そうなると政党の役割はどうなるのか。例えば選ばれた議員に対して政策を提言したり提案したりする役割を担わせれば事足りるだろう。政党を直接的な政治の場から排除すれば、少しは融通の利く柔軟な政策転換が可能かも知れない。今のままでは議員の世襲制や政党間やその支持者の間での感情的な対立で、ますます政治が硬直化してしまうような気がする。別に民主党の政策を自民党が取り入れてもその逆でもかまわないし、共産党の提案なども完全にシャットアウトしないで、国政に反映させて有効活用すべきだと思う。今のような政党間の縦割り政治を排して、各政党が互いに政策を出し合って、それを採用すべきか否かは、くじ引き抽選で選ばれた議員に判断してもらえば、怒号飛び交う会議などでつまらぬ対立を煽って無駄な労力を使うことなく、スムーズで効率的な議会運営が可能だと思われるが、如何なものだろうか。どうせこれから国会で馬鹿なヤジの掛け合いや怒鳴り合いでうんざりさせられるのだから、それに苦言を呈するだけではもはやどうしようもないと思われる。たぶん進歩的な人々はいつまでもイギリスの議会での予定調和的な政策論争でも夢見ているのだろうが。


11月8日

 さっきまで何を聞いていたのだろうか。まだ何も述べていない。それは誰の台詞なのか。いつかきっと誰かに会えるだろう。確か昨日も誰かに会っていた。会ってどうしたわけでもないらしい。そして気がつけばいつものように何かを忘れたまま作業を始めている。人がいやがる苦しみを表現することに如何ほどの正当性があるだろうか。正当性のないことをやってはいけないのか。わざとやっているわけではなく、また一概にいやがることを述べているわけではないと思っている。活発に意見を交わすことが奨励されている状況で、そうすることが苦手な者にとっては、その場をどうやり過ごすかが課題となってくるようだ。しかしそうなると討論の場がしらけてくる。面倒なので意見は何もないと嘘をついている。面倒に思わなければその場の雰囲気に合わせて何か気の利いたことを主張したくなるのだが、そう都合よく思いついた時に、意見を述べる順番が回ってくるとは限らない。現状では君に順番が巡ってくることは永遠にあり得ないか。何かの間違いでたとえ順番が巡ってきたとしても、そのときはすでに何の意見も持ち合わせていないかも知れない。仮に意見があるとすれば、それは他人の意見の複製であり、こだまとして辺り一面に響き渡っている雑音の一種かも知れない。そんなことあるわけがないか。たぶんそれはありふれた言説にすぎず、誰もが語ることの可能な広く世の中に行き渡っている決まり文句の一種なのかも知れない。そしてそんなことはなく、自発的に語っていると思い込みたいのだ。実際に何を語っているわけでもないのに、その場の都合に合わせて適当に言葉を選んで語り、それがその場の雰囲気に適合しているかどうかを見極めようとする。そして外れたことを述べてしまったと悟った時には気まずい雰囲気になってしまうだけか。それ以外に何があるのだろう。何かあるに違いないと思いたいところか。語ることについて何らかの効用を提示したくなるが、すぐには思いつかない。何かの役に立つことを述べてみたいと思っているだけか。誰がそんなことを思うだろう。誰も思わないなら楽な状況になるかも知れない。どういう意味で楽なのかわからない。何も思わないなら楽だろうか。実際にそうなってみないことにはわからないか。そうなればもういい加減な言葉を無理に弄することもないだろう。現状ではそんなことはあり得ない。なぜかそうしなければ気が済まないので、無理を承知で言葉をつなげているのだろうか。いったい誰がそれを望んでいるのか。君は退屈紛れに何かを考えざるを得ない境遇にあるらしい。他の誰がそうしたいのでもない。それは誰が望んだことでもなく、望みもしないことをその場の状況がさせているのだろうか。


11月7日

 老人が何かを思い出しているらしい。確か世紀末は三年前のことか。では意味のない年代に突入したのはいつの頃だったか。過去にもこんな年代が存在しただろうか。歴史に繰り返しはないか。不用意に浅はかな見識を述べてしまう。そんなことはどうでもいいことかもしれない。振り絞った気力は数年前に使い果たしてしまったらしい。その程度を抜け出たのは正解だったかも知れない。未だにその水準で何か述べている人もいる。一般的な価値基準ではそちらの方が正解であることは承知している。しかしその一般的な価値基準が信用できない。それは消え去るための条件と等価な水準を示している。たぶん消え去ってもかまわないのならそこへ留まるべきだったはずだ。しかしそんなことを思う者は誰もいないだろう。誰もが少しでも生き長らえたいと思うところか。自殺もそのための選択肢として存在している。この世から消え去りたくない者が自殺するわけで、外からの自己否定に耐えられない者が自殺する。変われない者は自殺願望の虜となる。生き長らえたい者は自己矛盾的に消え去る。そんな人々が消え去った後に残るのは例えば自己が欠如した者たちか。そうではなく、自己が欠如した者は透明人間なのであり、人間として扱われない。人間として社会から認知されるのは自殺願望者に限られる。安易に命がけだとか公言する者たちが自殺願望を象徴しているだろうか。命がけで何かを成し遂げようとする者たちこそが認められなければならない。命がけは安易な気持ちで口走っているのではないはずか。では勝手に命がけになっていればいい。たぶんそれで世間的には正しい行いになってしまうのだろう。どうやら君は正しい行いが好かないらしい。命がけで生き急ぐことに不満があるようだが、その逆の意味で流行っているスローライフほど胡散臭いものもないだろう。ただ趣味に走ってままごと遊びをしているだけな気がしてくる。命がけもスローライフも、どちらも安易な言葉に流されているだけでしかない。病的に考えれば、それらは麻疹の一種になるだろうか。今思い出しているのはそんなことではない。過去に置き去りにされ、消え去った自己を思い出している。そのとき自己は何を思っていたのか。何か遠大な構想でも抱いていたのだろうか。そのようにはなり得なかった現在についてどんな感慨を抱くだろう。いったいどこで道を間違えたのだろう。どうやって消え去る運命を回避できたのだろう。なぜそこに留まって命がけをやらずに済んだのか。どうして趣味に走ってしまう誘惑を振り払って、虚無の空洞を抱え込んでいるのか。それらをみな体現している意識は自己の利害を超えて作動している。


11月6日

 昨日も今日も誰かが何かを眺めている。何を眺めているかはどうでもいいことか。たぶん明日も眺めていることだろう。夕暮れ時に遠くの空で鴉が鳴いている。文章に主語が欠けているようだ。ここからどこかへ移動したいらしい。誰が移動したいのかわからない。毎日車で移動を繰り返す。急に息切れがして、体が酸素を必要としているようだ。鉛のように重い足を引きずりながら歩いている。気がつけば車は遙か彼方に遠ざかっていた。状況を説明するのが面倒になってきた。求めていた状況から意識は遠ざかる。言葉だけの表面には画像が欠けている。人はその表面を読むことができるだけか。その他に何を想像させたいのかわからない。君は何を読もうとしているのだろう。何を読ませられるわけでもない。読み進むうちに何も読んでいないような気がしてくる。いったいどこに書物が存在するのか。架空の書物を思い浮かべてみる。テレビゲームの中に伝説の導師でも出現しそうな気配になる。誰がどこに導こうとしているのか知らないが、どこに行っても画面上で右往左往しているだけか。そんなつまらない世界の住人が世の中の流れに抵抗している。何に抗うつもりもないのに気に入らないのはどうしてなのか。どんな状況に対処するつもりもないらしい。対処できないわけでもなさそうなのに、結果として対処しているとは到底思えない。この先どこへ向かうかは未定のままだ。引っかかるものが何もなくなってしまったらしい。時間的も空間的にもすべてが希薄に感じられる。昔より着実にエントロピーが増大している。久しぶりに新聞を読んでみたら文字を読めないことに気づいた。そんなのは嘘に決まっているが、コラムを書いている人の幼稚さに唖然とさせられる。多くの人は盲目ではなく文盲なのかも知れない。粗雑な話題で適当に暇つぶしをしているうちに、そこから先へ進めなくなってしまう。観戦用のスポーツの勝敗結果に心を奪われているうちに、誰もが満ち足りた気分に包まれる。それを見ている時だけ目を輝かせているのかも知れない。マスメディアからの影響で、夢や希望を抱いて、人生の目的まで定めているのに、なぜ笑顔がみすぼらしく映ってしまうのか。なぜ薄っぺらい人間になってしまうのだろう。その程度の人々にはちょうどよい世の中なのかも知れない。それも画面から伝わるフィクションの一種なのだろう。そこでうごめいているのは虚像そのものか。そんな虚像を真に受けて何か述べるぐらいしかやりようがないのは情けないことか。それ以外にやりようがないのだから仕方がない。いつかそこに構築された仮の表面にも砕け散る時が来るのだろうか。それともすでに砕け散った跡に散らばる残骸の中で暮らしているわけなのか。もはや新たな仮面を造る気力は残っていないか。


11月5日

 君は夢の中で何を見ているのだろうか。夢を見る度ごとにその光景は異なるだろう。架空の世界ではどこまで行っても同じような風景が続いている。それは夢ではなく現実の世界かも知れない。なぜ現実が架空だと感じるのか。作り事の世界にもそれ相応の現実がある。想像には現実の作用がある。様々な現実がつなぎ合わせられて架空の世界が構成されている。それはまるでパッチワークのような作業から生まれる。それは何らかの舞台装置なのかも知れない。状況から見放された説明には説得力が宿らない。壁に向かって何やら適当な台詞を投げか欠けているだけのようだ。そこに壁掛けが張られている。君には想像力が欠けているらしい。誰もいない空間から何を語ろうとしているのか。君は語り疲れているのかも知れない。いくら語っても何も示せないことに苛立っているようだが、それでも真剣に語る気はない。つまらぬ状況をどう語ろうとおもしろくはならないか。語りのおもしろさは語る題材に左右されてしまうようだ。しかしおもしろいかつまらないかをいう以前に内容を伴っていない。何もなくても言葉は適当に繰り出されるが、語りはどこへも進まず、相変わらず袋小路に留まり続ける。そして次第に現実の世界に追いつけなくなる。だが現実の世界には何も見当たらない。出来事はただいたずらに意識を通り抜けるばかりで、そこから気の利いた言葉や文章を得ることはできない。そんなわけで意識は現実から離れて虚構の思惑を形成しようとしているらしい。要するにいつものように君は嘘をついている。嘘をつかなければ真の現実に到達できないと思うからか。たぶんそれが嘘に違いない。嘘が真実を語るはずがないと思うのは間違いなのか。嘘でもいいからその嘘を信じていたい気にさせられる何かが嘘にはありそうだ。もはや嘘以外に頼るものは何もないと思うのはなぜだろう。そこで君は何かを忘れているはずだ。窮地を脱する方法を忘れていると思い込みたいようだ。現実には何も忘れていない。君は自分が嘘をついていることさえ覚えているではないか。間違っても夢など見るはずのない君がそんな夢を見ている。そんな夢とはどんな夢なのか。見るはずのない夢とはどのような夢だろう。想像力が尽きた果てに夢を見ているつもりになる。感性は大海原を飛び越えてどこかへ行ってしまう。そんなものを飛び越えるはずもないと思うことが間違っている。そのとき君の真実はどこにあるのだろう。嘘の中に突飛な発想が潜んでいる。くだらぬ想いはいつまでも過去の幻影を懐かしみ、未来を忘れて架空の世界に安住している。そんな言説は何の効力もない。始めから何の効力も期待していないのは承知の上で、意味のないことを語り続けているらしい。しかしそこから逃げ出すつもりはなさそうだ。


11月4日

 妄想が弾けた先に岩がある。それはただの岩かも知れない。意味は何もないらしい。岩の上には違和感が残る。それは岩ではなく紙だろう。紙の上にペンを走らす。書いているのかも知れない。漢字を忘れてしまったらしい。その文章は理解できない。画面上に手書きの文章が映し出される。遠回しに何かを言おうとしている。直接的な表現が見当たらない。どこかで道を間違えたらしい。たどり着こうとしている地点の近くで、何かに気づいてもと来た道を引き返す。道の話をしているわけではないらしい。話をしている場合ではないらしい。何の話もしていない。深化しているのは話の中身ではないようだ。形式的な言葉遣いが多用されている。話はどこにも進まない。進まずに留まるだけなのか。しかしどこに留まるつもりなのか。具体的に何も話していないのではないか。まともに話すつもりはなさそうだ。一瞬のうちに通り過ぎる画面上で何を話せばいいのだろうか。どこに話す場所があるのだろう。無能な人々が無能だという根拠はどこにあるのだろうか。どこかに固定点があるらしい。何やらつまらぬことに全力を傾けているらしい。なぜかそこにはつまらぬ人々がいるらしい。政治について利いた風なことを述べている。取るに足らぬどうでもいい部分に視線を注いでいる。なぜ人々は老後の保障などに関心があるのだろう。それほど年金が欲しいか。それともマスメディアがせこい方向に世論をねじ曲げようとしているのか。そんな見苦しい醜態に耐えかねてテレビのスイッチを切る。何を血迷っているのだろう。馬鹿な連中はいつまで経っても馬鹿から抜け切れていないらしい。たぶん選挙自体に意味などない。何を選ぶことも出来はしないだろう。ただ投票行動を強いられているだけしかない。いつまでも他愛のない夢に踊らされるのは馬鹿らしい。選択の余地などどこにもありはしない。選択していると思わされているだけであり、誰かが勝ったり誰かが負けたりすることに大した意味はないだろう。ただ漠然とそんな風に思っているらしい。多数派を形成する人々を軽蔑している。そして少数派を気取る人々も軽蔑している。そんな水準で物事を考えていてはいけないらしい。具体的な政策についてあれこれ述べれば説得力があるかも知れないが、その気にならないのはどうしたわけなのか。君は粗雑なことを述べ続けているらしい。それで気が済んだだろうか。できればもう少し内容の伴ったことを記述したかった。それができていないのが心残りか。この世には独りよがりが多すぎるような気がするだけか。それでいいのなら仕方ないだろう。今後何がどうなろうと、それは本質的なことにはならず、つまらぬ言い訳が横行するだけだろう。間違っても的を射る言説に巡り会うことはないだろう。とりあえずなるようにしかならないのがこの世の定めらしい。誰の思惑とも無関係に何らかの結果が出るかも知れないが、それがどうしたわけでもないだろう。


11月3日

 どこかで空白が求められている。誰がそれを必要としているのか。こらえ性がないので空白の時は数時間で消滅してしまい、気がつけば深夜に目覚めて作業を再開させている。どうやらまだ忍耐が足りないらしい。自らの編み出した方法を完全に信用しきれていない。そこで疑心暗鬼になっているのは誰なのか。限りのない疑いは心を曇らせる。疑う根拠は何もないのに疑うしか術はない。ただ適当に疑い続けるだけの人生か。たったそれだけのことに数日が費やされ、結局は骨折り損のくたびれもうけか。いくら疑ってみても疑いが晴れるわけもなく、疑いを晴らすためでなく、疑い続けたいから疑っているにすぎない。そんな疑いが何になるのだろう。ただ疑うことしかできない愚かな心を哀れに思って欲しいのか。他人の哀れみから何を抽出したいのか。疑い疲れて希望でも見いだせるだろうか。どのような救いを見いだしたいのか。救いではなく、絶望でも見いだした方が気が利いているのではないか。すべての言葉の使用法を絶望的に疑っている。そんな風に語れば格好が付くかも知れない。だがいくら格好が付いたところで、依然として疑いは晴れないままだ。そしていつの間にか何を疑っていたのかわからなくなる。言葉の使用法などいくらでも変更できるはずだ。方法は無限にあるように思われる。どんなに語っても語り尽くせないほどやり方はある。それらをいちいち疑っていたら何も始まらない。まずは疑う前に語ってみること肝要であり、物事にはあきらめが肝要なのかも知れない。しかし果たして疑うことをあきらめられるだろうか。疑うことをやめてしまったら、他に物事について考える手段を見いだせるだろうか。疑わずして思考を巡らすことが可能だろうか。どこかの誰かは信じることが大切だと言う。確かに信じていれば疑うことはないだろう。いったい何を信じていればいいのだろう。まずはそれをさがさねばならない。神を信じていれば事足りた時代は遙か昔に終焉を迎えた。信じる対象を見つけられなければ信じることは不可能だ。何も信じられなければ、信じること自体を疑わなければならない。信じることはその時点で無効となってしまう。だが君は安易な方法で困難を乗り切ってしまうだろう。疑うこと信じれば、これまで通りに疑い続けることができるはずだ。それでは元の木阿弥になってしまうがそれでいいのか。それでは信じることと疑うことの間で往復運動をしているにすぎない。その過程の中に思考作用が存在しているわけか。ある事柄について信じてみたり疑ってみたりしていることが考えることを体現しているのだろうか。そんな安易に話をまとめていいものか。たぶん結果的に何も語っていないのかも知れない。


11月2日

 想像力が尽きたと思った時から何かが始まる。それは想像力の捏造になるだろうか。過去に出力した想像力のサンプリングで何もない貧窮状態をしのいでいるようだ。将棋盤上で王が消え去る時を想像してみよう。消える前に負けを悟った側が投了している。あとは感想戦が残るのみか。視点を戸外に転じてみると、誰かが街角を歌いながら歩いている。何かのミュージック・クリップでも思い出しているのか。甲高い声で俺に言わせてくれと叫んでいる。誰にでも口を閉ざす権利はあるだろうか。どうやら胸が痛むようだ。そしてどこかで誰かが君の苦渋を見つめている。独りよがりの妄想を思い出す度に胸が痛むらしい。そんな出来事はありふれているだろう。ありふれていないようでは誰も共感できない。貴重な体験はそんなありふれた思いに包まれている。どこかで誰かが苦しんでいるのがわからないわけではない。だがその苦しみを和らげる術はない。いたるところでどうしようもないところまで来ているかも知れないが、それは過去の一時期においても同じような状況だったはずだ。世論の番犬がいたるところで目を光らせている状況を今さら呪ってみても仕方がない。昔から人民の敵は人民でしかないことになっている。誰もが気ままな暮らしを続けるために無関心を利用している。関わり合いたくないことに首をつっこむのを避けている。現状の不合理はそのままにしておいて、メディアに誘導されるがままに惰眠を貪り続ける。そんな物語も昔から変わっていないようだ。たぶんそれとは別の次元で思いを巡らせているのだろうか。あり得る事態があり得なかった結末はよくあることか。誰もが結果を先取りしすぎて、そこから変わる可能性をつぶしている。状況をわかりやすく説明しようとする善意が、不毛な未来を呼び込んでいることに気づかずに、過去に犯した愚をいつまでも繰り返している。そんな彼らも未来の波間に消えようとしている。有限の感情がいつまでもそこにのさばり続けられるはずがない。君は今何を述べているのか。君が述べているのではなく、君以外の誰かが抽象的なことを述べている。具体性のかけらもない、ただわけのわからぬことが語られるばかりのようだ。時とともに壊れてしまった言葉の意味をどうやったら取り戻せるというのか。過ぎ去ってしまった遠い感覚は二度とここへは戻らない。悪いことも善いことも、今では何のことやら思い出せず、それらは判別がつかないほど微かな光を発しているだけだ。過ぎ去った日々の中で多くの経験は摩耗して、ただ無駄に浪費された。それはいつしか抜け殻だけになってしまったらしい。そうやって殻の中を満たす空虚はどこかへ到達したのだろう。中身を何も残さずに形式だけがかろうじて保持されている。


11月1日

 今日も誰かが斬られている。無益な殺生が時代劇の中で繰り返される。もちろん本当に殺されているわけではなく、殺生が演じられているだけだ。イラクやイスラエルでは殺生を無益と思わない人々が本当に殺し合う。しかしいつものようにそれがどうしたわけでもないか。人々は殺し合いを見ることで自らの本性でも感じ取るのだろうか。しかしそこでの本性とはどんなものなのだろう。まさか本性に目覚めて人殺しをしたい衝動に駆られるわけでもないか。いつの時代でも争いごとが絶えないのは致し方ないことか。我々は様々な不具合に囲まれて暮らしている。それらの不具合に腹を立てて、時には怒りにまかせて人を殺めてしまうこともあるだろう。過ちを犯してしまう人も最終的には神が救ってくれるだろう。無神論者の君がなぜそう思うのか。何とか麻原彰晃氏の死刑が執行されるまでに死刑を廃止しなければならない。誰がそんなことを思うだろう。何となくそうなれば世の中がおもしろくなるような気がする。愉快な気分になれるような世の中になってもらいたい。犯罪者や北朝鮮を責め立てる口調に出くわすのが鬱陶しい。お前ら何様のつもりかと怒りがこみ上げてくる。本当にそう思っているわけではなく、それはほとんど嘘だと思われる。何となく状況に合わせて言葉を重ねると、そんな結論に導かれるだけのようだ。本当はそれさえもどうでもいいことかも知れない。世界の片隅で些細なことに腹を立てている振りを装っているに過ぎない。今さら何をどうすればいいかなんて考えたくはない。その時代の流行にあわせて薄っぺらな言葉を操り、それ風の文章でも構成していればそれでかまわないのかも知れない。そんなこともできないようでは、もう他に何もやりようがなくなってしまうだろう。何をどう語ろうと説得力など求めはしない。感性のあらゆる水準で気が抜けているようだ。荒野の静けさの中にどんな意識が宿るか。そんなわけのわからぬ問いを発してどんな驚きを求めているのか。耳をふさいで波の音を想像してみよう。夢でも見られるように祈っていれば事足りると思っている。だが祈りを捧げる対象を見いだせないだろう。信じる心は傷つきやすい。裏切られた時を思って四六時中不安に駆られている。彼はまだ信じ足りないようだ。しかしどうやって裏切りへの疑念を払拭できるだろう。信じることと引き替えに見返りを期待しているうちは無理か。信仰への不信感にもそれなりの理由があることがわかるが、全面的な信仰への依存から脱却するには、その不信感を利用しない手はないだろう。それを信じていても何の御利益もないことの説明に終始する。そしていつしか話は平行線を辿っていることに気づく。そんな架空の話は信じられないか。君の発想はその場限りの思いつきがすべてかも知れない。


10月31日

 もう意味のないことを語ることにも飽きたか。意識はそんな風には思わない。君にとってそれらの文章はどんな意味を持つのだろうか。それほど重要な意味は持たないが、気づかぬところで何か思いがけない意味を持っているかも知れない。だが何を語っているのかわからないそうだ。意図的に固有名を避けて語るとわけがわからなくなる。なぜ避けているのかわからない。どこかの誰かはもう君のやり方にはついて行けないらしい。君とは誰のことなのだろう。誰でもないならやり方も何もあったものではないか。そうやって君の退路は断たれてもうどこにも逃げ道はない。なぜそこで袋小路になってしまうのか。逃げ道が見つからないからか。逃げてばかりでは可能性を見いだせない。逃げるほかに何か納得のいくやり方があるだろうか。やり方ではなくまだやり残したことがあるはずか。そんな見え透いたずらしは見苦しいか。物語はそこからどこへ向かうのというのか。どこへも向かいはしない。ただそこへ留まるばかりで一向に動こうとしない。他人の生き方やその一生をドラマ仕立てにして何がおもしろいのか。それらを見聞して感動することに飽きてしまったわけか。その必要はないと思うのはどうしてだろう。脚本や台本を基とした虚構の物語を信じられないのはどうしたわけか。明確な理由はないようだ。なぜ画面や紙面上でうごめくキャラクターに入り込めないのだろう。現実の生活と無関係だからか。何らかの精神的な影響を確実に受けていると思われるのに、なぜ無関係と言い切れるのか。君ならそれらの物語をどう改善できるだろうか。できるはずがないか。それらの決まりきった結末を変更したいわけか。できるだけ現実に近づけてつまらなくしたいらしい。それで満足するはずもない。だが物語をおもしろくしてどうするのか。それを商売に結びつけてベストセラーでもねらっているわけか。しかし何がおもしろいのだろう。それらの内容から夢やロマンやカタルシスを得られるならおもしろいか。時として驚きや悲しみも必要だろうか。ほんの気晴らし程度の内容なら誰からも好まれるだろうか。全面的に感情移入する必要のない些細な事柄について語られているなら安心できるか。この世の誰とも関係のない架空の話なら気分を害さないか。例えば会社を舞台としたドラマなのに、業務とは関係のない殺人事件が主題となっていたりする。なぜその会社の業務や作業内容を物語の中心に据えないのか。要するに仕事は退屈でつまらないものと相場は決まっているからか。そんなものを主題にしても高視聴率は期待できないか。だからそれに対する解決策として、刑事や探偵が主人公の仕事と殺人事件が一致するドラマが繰り返し制作されるわけか。人々はそこに展開される錯綜した人間関係に興味を抱くだろう。だが作る側と見たり読んだりする側の両方がそこに見いだそうとする、いわゆる人間模様ほどうさんくさいものはない。そこで演じられている恋愛や争いごとは、現実から背離した物語用の台詞で彩られている。いつの頃からかそれらの台詞に不自然な印象を抱くようになってしまったらしい。どうしても作り事の感をぬぐえない。そしてフィクションだけでなくナレーション付きのドキュメンタリーにもリアリティを感じられなくなった。それさえも制作者の都合に合わせて作られた模造品でしかない。


10月30日

 どうも今ひとつ格好が決まらない。誰が格好をつけているわけでもないだろう。そこで瞑想しているのは誰なのか。瞑想ではなく迷走しているだけかも知れない。ところでいつかの物語はどこへ行ってしまったのだろう。面倒なので架空の話は尽きてしまったことにしておこう。それでも話はその先へ続いてしまうようだ。その先には何もないのに何もない状況が続いてしまう。君はその気もないのになぜそれを語ってしまうのか。その気のあるなしにかかわらずただ語っているだけか。何もないことについて語っているらしい。適当に語り進むうちに、話は次第に疲れる展開になって嫌気が差してくる。一瞬のひらめきが一瞬のうちに消え去るのは当然のことか。それをどうやって保持し続けることが出来るだろうか。不可能は不可能でしかない。不可能が可能となる時、それは不可能ではなくなるだろう。無理に言葉を重ねていくうちに、当初において何をさがしていたのかわからなくなる。昨日まで何を求めていたのか。イーハトーブの森には何があるだろう。メルヘンにはどのような意味があるだろう。唐突な展開に意味はない。それに癒しの効果でも期待しているのだろうか。暇つぶしにそれを好む理由でも聞かせて欲しい。それによって現実に迫り来る酷薄な環境を無視したいとは思わないか。それが出口の至る近道であったりしたらおもしろいだろうか。いつも迂回して目的地をやり過ごす。目的地をわざと見失っているつもりなのか。いつまでも目的はないとうそぶいていて本当にいいのだろうか。とぼけるのもいい加減にして欲しいか。だが目的がないわけではないと述べることは、何もほのめかす内容を持たないこととどのような関連があるのだろうか。幻想を抱いていてはいけないとは思わないが、現実を直視できない意識は今さら何を思うのか。君はあくびとともに空虚をはき出す。それでは何もはき出さないのと同じではないか。はき出すものが何もないわけでもないはずだ。例えば二酸化炭素をはき出していれば生きられる。はき出す前に酸素を取り込まなければならないか。呼吸するだけではつまらないか。やはり根気が不足しているようだが、たぶん今がチャンスかも知れない。君の妄想によれば、次第に彼らが滅び去る手筈が整いつつあるわけか。彼らとは誰のことを指すのだろうか。今のところは誰のことでもなく、誰かが滅び去った時にそれが初めて特定される手筈になっているわけか。しかしそれが手筈といえるだろうか。苦し紛れに何を述べているのか。


10月29日

 目が覚めると気分がすぐれないことに気がつく。何について語ってみても、ちょっとした経緯でつまらなくなる。それがどんな経緯なのかわからない。古い漫画について何を述べるべきか迷っている。それは漫画ではなく劇画と呼ばれるジャンルの画だ。劇的な漫画のことを劇画とでも呼べばいいのだろうか。しかし漫画は漫画でしかない。時代の変遷とともに漫画の形式や内容も変化してきているようだ。いかに多くの人に読んでもらうかを競っている週刊誌も未だ健在らしいが、それを読むことをリタイアしてからかなりの年月が経ってしまった。今や漫画を読むことからは完全に離れてしまった。それらを原作に持つテレビアニメやイラストを見るぐらいしか機会はない。床屋で順番待ちのゴルゴは退屈だ。ぱらぱらと頁をめくり、あっという間に数分で見終わってしまう。絵だけ見て文字を読む気が起こらない。サラリーマン金太郎は男一匹ガキ大将の亜種と考えれば、何となくそんな雰囲気を感じ取ることが出来る。登場人物はいつも叫んでいるような気がするが、他愛のないことでも深刻そうな顔になるところが特徴といえるだろうか。たぶん激高しやすい人格に設定されているのだろう。とりあえずつまらないことで対立し、最終的には対決しなければならなくなる。そして窮地に陥った主人公を助けるために訳知り顔の仲裁者が登場か。なるほどわかりやすい話の展開だ。そんな物語が世界のどこかで繰り広げられていたら興味深い話になるだろう。何とか現実の世界情勢の中にゴルゴが活躍する場を構成しなければならない。そうしなければ漫画が終わってしまうからやりざるを得ないようだ。テレビアニメの中では様々な能力を持った者たちが敵味方に分かれて戦っている。そんな中で例えばおじゃる丸は教育テレビの中で放送されているから、教育的配慮から戦いとは無縁でいられるのだろうか。一応は戦いの形態をとる話もあるが、いつも途中ではぐらかされて戦わずして終わってしまう。そんなアニメを肯定も否定も出来ない。たぶん選挙は戦いではない。立候補者の中から適当な人材が選ばれるだけか。君は投票に行かないかも知れない。選挙で騒いでいる人々が気に入らないから投票には行きたくない。そんな馬鹿げた理由が通用するわけもないか。通用しなくてもそれでかまわないような気がする。近頃の政治情勢について、その内容をまじめに受け取れなくなってしまったらしい。それらはそれを飯の種にしている人々のものなのであり、今の君にはまったく関係のない世界の話なのかも知れない。


10月28日

 今日も誰かがどこかで躓いている。他の誰かが躓くことを願っている場合もある。君はそこで何を主張しているのか。当たり前のことを当たり前のように語っていたいだけか。観戦用のスポーツに熱中できる人は幸せだ。君も他の人々と同じように熱中できるはずだ。誰もが同じような気分になれる催し物があるのはありがたいことか。そこで商売している人にとってはありがたいことか。招かれざる客にはなりたくないものだ。そうやって皆が好意的に同調している対象に文句をつける気にはなれない。死んだ人間もまだ生きている人間もそれらの対象に興味を持っていた。今も興味を惹かれる対象なのだろう。君はそれを知らない。架空の存在には知りようがない。ではそれ以外に何を知らないのか。袋小路で出口を見いだせないのは当然のことか。だが心配することはない。偶然が君を助けてくれるだろう。いつかそれを知る機会が偶然に巡ってくるか。だがいつかそんな期待が裏切られたことを知る場合もあるか。何を知ろうとしていたのかを忘れてしまった。誰かが袋小路でわめいている。選挙で自分に投票して欲しいのだろう。街頭で演説をぶたないと誰も投票してくれないのだろうか。それはしきたりのようなものか。そうやって自らの名前を覚えてもらいたいわけか。だが君は演説の内容を理解できない。理解する気がないだけか。そんな君の態度には思いやりが感じられない。人が一生懸命やっていることには立ち止まって耳を傾けてみるべきか。そのがらくたのような頭脳には入力機構が欠けている。ただ意味不明な言葉をはき出すばかりか。指の働きを使って出力された文章には情熱が感じられない。すべてにおいて魂を欠いている。それは勘違いかも知れないが、嘘でないことを願っている。どうしてもそれが真実であって欲しいか。事実を語っているように見せかけたいわけか。なぜ語っている内容が虚構の作り話になってしまうのか。それが勘違いのなせる業なのか。しかし勘違いが結果的に正しい認識となってしまう場合もある。具体的にそれはどういうことなのか。架空の君に思い当たる節があるのか。君が思い当たらなくとも、他の誰かには思い当たる。間違えることは重要な行為であり、まったく間違えなければ同じことの繰り返しになってしまうだろう。間違えなければ人は何も学ばなくなってしまう。では思い違いこそが思うことの本質であったりするわけか。例えば思い違いを犯さなければ、そこからさらに深く思いを探求することはなくなってしまうか。そうであるなら深く思いを探求することが思うことそのものなのかも知れない。そうしなければ思考そのものが成り立たなくなる。それらの光景をただ見て騒いで表面的な喜怒哀楽で消化するだけでは思う必要はない。


10月27日

 夕暮れ時に心臓の鼓動を感じる。見えない景色を想像して、見える景色をやり過ごす。その理由を知ろうと心がける。ただ退屈なだけかも知れない。しかし退屈で死にそうというわけではない。そんな未来を予測しているわけでもない。複雑なことを考えれば考えるほど勘違いの罠にはまっていることに気づかない。やはりそれは単なる思い過ごしに過ぎないのだろうか。何を思い過ごしているのかよくわからない。道端の道標は何を示しているのか。いつか来た道をまた歩んでいることをわからせようとしているのかも知れない。その角を曲がればまた振り出しに戻るだろう。しかし曲がらなければ退屈で死にそうになる。死にそうになるだけで本当に死ぬわけではない。その場をうまくやり過ごせたら、それだけ明日に近づくかも知れない。ささやかな心遣いは冷ややかな反応を引き起こす。昨日のことを思い出す時、紅茶の味を思い出す。そこに現前しているのは誰かの姿であるはずがない。だがその根拠は何もない。いつものようにそこには根拠と理由が欠けている。生きているということはすでに死につつあることだ。生きていることを否定的に捉えるとそうなるだろうか。退屈で死にそうになる時、君は死から遠ざかりつつある。まだ自らが生きていることを再確認する。可能な限り死を忘れようとしている。論理的な整合性を無視して生きているらしい。同じような欲望を共有しているのは、メディアによる支配を受け入れている証か。生きていることが欲望とは結びつかない状況を想像できるだろうか。誰がその欲望を受け入れているのだろうか。誰もがそれを抱きながら生きている。そんな見解を信じられるか。誰が信じているのか知らない。そこから具体的に何を語っているのかわからなくなる。今も彼らが生きているとは思えない。では何が生きていればそれらの欲望を受け入れられるだろうか。当初はそんな話ではなかったはずだ。曲がり角を曲がらず、まっすぐ進んで塀にぶつかってみよう。誰かが塀に激突して多数の死傷者が出ている。また連日の自爆テロのようだ。爆弾を満載した車が目の前につっこんできたら、心臓が張り裂けそうになるだろうか。それらの映像から、死傷者が被害に遭う直前における心臓の鼓動を想像してみよう。それは無益な想像か。想像する意味がよくわからないが、生きているからそんなわけのわからないことも想像できるのだろう。たとえ退屈で死にそうになっても、生きていることには変わりないか。それ以上に何を説明すればいいのだろう。死ぬことも生きることも肯定の対象とはならない。君が受け入れられないのは、死んだり生きたりしている人々の存在かも知れない。しかしそれ以外の存在を想像できるだろうか。安易に生や死を持ち出していい加減なことを語っているに過ぎないようだ。


10月26日

 折れ曲がった枝は元には戻らない。枯れた枝先に生命の息吹は感じられない。やがて菌類がとりついて朽ち果てるだろう。物を腐らせる菌類が生命を象徴している。なぜそれが生命の息吹でないのだろうか。人の感じ方に生命に対する偏見が宿っているわけか。そこで何をどう感じようとその人の勝手だろう。それが偏見であろうとなかろうと君には関係のないことか。赤や黄色に変色した枯葉舞う季節を愛でる人も多い。紅葉の季節は行楽の季節か。そんな余裕のある人はほんの一握りの人々かも知れない。余裕のない人はそう思い込みたいだけで、多くの人が野山に気晴らしを求め出かけて行く。そこで人と自然との共生を唱える人が、メディアを通して自らのメッセージを訴えかける。君にはそれがよくわからない。そんな成り行きがまかり通っている現状が気に入らない。だが無理して反論を述べるには及ばないとも思っている。反論などあろうはずがない。そんな風に生きて行きたいなら生きて行けばいい。そんな生き方を否定しようがない。否定する必然性のないことをことさら否定してみても仕方がない。以前は無駄に言葉を弄して、気に入らないことは無理にも否定していたような気がする。そしてひねくれた結論を提示していた。今そこまでやる必要があるだろうか。やろうと思えばやれぬわけでもないが、何となく虚しさだけが漂うような気がするだけだ。浅はかな者を対象としてひねくれたことを述べてみても、浅はかな反論が返ってくるだけだろう。反論できなければ無視されるだけだ。君はそんな世界に暮らしている。君にはそんな現状をどうすることも出来ない。人々にそれ以上を望めないのはわかりきったことなのか。いつの時代にもくだらぬ結論が用意されているわけか。そして君は何も提示できないのだろうか。安易な希望は聞き飽きたか。たぶんくだらぬと感じていることの中に思いもしなかったような答えが含まれているのかも知れない。それを言葉で提示できない君が力不足なのだ。この世界はありのままの姿で感じたままに存在している。ただそれだけのことにさらなる言葉を付け加えるのは間違っている。間違っているかも知れないが、それでもたぶん適当な言葉を用いて語ってしまうのだろう。言葉を用いることで自然を理解したかのように錯覚することができる。それを錯覚と見なしてはいけないのだろうか。それらの安易な語りを否定してはいけないらしい。何も言葉を持ち合わせていない君には否定しようがない。それらに反論してはいけないのだ。それはそれとしてやり過ごさなければならない。肯定も否定もせずに黙っていなければならない。そうしなければまたいつもの繰り返しになってしまいそうだ。


10月25日

 何を悩んでいるのか。言葉が飽和状態へと近づいているように感じられるが、それで悩んでいるのではない。なぜ良心が欠如しているのか。何が良心なのかわからない。誰が何をやろうと、もう何も変わらないような気がする。メディアを通じて様々な憶測が飛び交っているだけで、それらの形式や本質は何も変わらない。何が変わって欲しいのかわからない。たぶん何かが確実に変わろうとしている。形式や本質とは違う何かが変わろうとしている。変わろうとしているのは何なのか。やがて引き潮がやってくる。人々の関心はかなり退いている。しかし人々とは具体的に何を指しているのか。人々ではなく、君一人が引き潮に乗って沖へ流されているだけではないのか。だが沖へ流されてどうなるものでもない。そこはいつもながらの何もない虚無の海域でしかない。具体的に何も語らずにおくことの不可能は何によって打ち破られるだろうか。もうすぐその結果がわかる。どこかの誰かは自らに努力することを禁じている。ただ時流に流されるがままに、間違いも勘違いも無視して適当に振る舞い続ける。だが何が適当なのかわからない。その適当さを信じられない。迷いを晴らすためにはまだ言葉が足りない。出来れば利いた風なことは述べたくないが、述べる前から禁止事項や要求が多すぎて、結局は何も述べられなくなってしまう。そんな成り行きに嫌気が差しているのは誰だろう。何がいらないと思っているのか。まず架空の君はいらないだろう。その次にどこかの誰かもいらない。だが君と誰かがいなくなってしまっては他に誰がいるというのか。もう誰も何も語りようがなくなってしまうだろう。語り部はいったいどこへ行ってしまったのか。ここにいるのは誰なのか。誰でもない誰かは過去の住人かも知れない。過去から未来へ向かうことを拒否している。時の流れを拒否してどうなるものでもないだろう。時の流れへの迎合を拒否した者は忘れ去られるだけか。君はそんな風には思わない。それをどう思ってみても時の流れにとってはどうでもいいことだ。時流から取り残された者は無視されるだけのようだ。しかし誰が無視しているのでもなく、無視される対象ですらない。そんな境遇を利用して君は適当なことを述べ続け、君にとって適当だと思われることが、どこかの誰かにとっては適当でないことを知らない。架空の君には知りようがない。そして君の作業はさらなる高みでも深みでもなく、ただの横へ延長されて行くだろう。すでに過去の思考は砕け散っている。また新たなる思考が生まれる余地もない。ただ何もない地平へと導きかれ、そこにまだ何かあることを知るだけのようだ。そこからいくら遠くへ遠ざかったと思っても、現実にはそれほど遠くへ行けなかったことを思い知る。だからまたさらに遠くへ遠ざかり続けなければならないようだ。忘却の彼方へと歩み出さなければならない。


10月24日

 何もしなくても自動的にその日はやってくる。怠惰に対する歯止めがきかないのは誰もが抱えている欠点かも知れない。誰もではなく勤勉な人には当てはまらない習性か。それは習性ではなく、特性とでも言えば適切な表現になるだろうか。ところで君にはどんな特性があるのだろう。怠惰にまかせて何もやらないのが君の特性なのか。何もやらないのではなく、何もないので何も出来ないのではないか。いつもそうやって他愛のない逡巡を繰り返している。そして相変わらず文章の内容をつかめていないようだが、その間に何か適当な言葉を差し挟む必要がある。どこかに気の抜ける時間帯がある。また同じことの繰り返しなのか。君の知っていることはわからないことばかりか。わかっていることはたかが知れている。それはおかしな言い草だ。国を守ることが人や財産を守ることに結びつかない場合もあり得る。国の方針に逆らう人やその財産は守られないか。機械仕掛けの時計が人間の社会に何をもたらしたのか。そんなことは誰か他の人が考える問題か。そうやってなぜとりとめのないことを考えているのだろう。君はしばらく前から何か適当な考え事をしていたと思っていたが、現実には数時間もテレビを眺め続けている事実に気づく。昨日から作業は遅々として進んでいない。昨日ではなく二日前だろう。そうやっていつものようにわざと間違ったことを述べている自分に気づく。自分ではなく君だ。だが他の君がそれを聞き流し、間違いを認めようとしない。その代わりに心の中にある君の意識を認めている。あやふやな意識の存在を認める。物語の中では自分が自分でないことに気づく。付け足された言葉が気に入らないか。てんでばらばらな意識の断片をかき集めて、強引にひとまとまりの人格を装っている。心はどこへも行かずに心臓の振りをしている。何かの鼓動を感じているようで、それが心臓の鼓動と混同されてしまっている。かつてリズミカルな太鼓の連続音を聞いたことがある。かつてではなく、それは今かも知れない。人々が競い合いをやめた時、話し合いの時が訪れるだろうか。何も見栄えを気にする必要はない。しかしありのままの自分が誰なのかわかっていない。不連続な語りはいつも意味不明か。なぜ奇をてらった述べ方に執着するのか。その結果として意味不明になる。そして気がつけば翌朝になっている。ここ数日はそんなことの繰り返しを体験している。どこかで悪循環を断ち切らねばならないと思うが、今のところそれが宿命と化しているように思われる。どうも無駄な悪あがきはやめた方が良さそうだが、何かやろうとするとそれが無駄な悪あがきに思えてくるのはいかんともしがたいところか。


10月23日

 ヒエログリフとは何だろう。古代エジプトの象形文字で何を語りたいのか。意識は今何を思っているのだろうか。唐突におかしな言葉を思いつく。それは交通事故のような出来事かも知れない。しかしそれは、例えばくさび形文字であってもマヤ文字であってもかまわなかったはずだ。必然性が皆無の出だしから速やかに遠ざかりたいので、立て続けに意味不明を繰り出そうとする。そして言葉の陰に本心を隠そうとしている。ありもしないことをわざとらしく思い出した振りを装うのはやめにしよう。たぶんやめるつもりはないのだろう。そんな嘘で塗り固められているのがパピルスに記されたヒエログリフか。パピルスではなく石版に刻まれているのかも知れない。腐りかけの体を弄んでいる。それは恐怖映画を思い起こさせる。すべては究極ではない。どことなく中途半端な出来だと思わせる。漫才と漫談の違いを説明するのは面倒か。とりとめのない話には芸人の話芸があり、その芸を拝聴している人々がそれらを支えている。それらの象形文字から何を連想しているのか。ただ印象的なデザインの横顔を見つめているだけで、何も思いはしない。ありふれた秘境に分け入り宝を手にするのは、欧米人の探検願望を象徴する物語か。エジプトの砂漠は秘境でなくて観光地だろう。原理主義者が銃を乱射して多数の観光客を殺した事件もあった。ジャングルの王者が金髪の白人男性だったこともあった。スーパーマンのコスチュームを見て趣味が悪いと言ったのは誰か。ヒーローにはピエロとチンドン屋がよく似合う。そんな話は聞いたことがないか。関係のない出来事を結びつけて教訓話を構成する人の欺瞞を暴き立てるのは余計なお世話だろうか。だが一言おじさんにはそれ以上を期待できない。切羽詰まって他人に責任をなすりつけるのはよくあるパターンだろうか。病んでいるのは人以上に社会だとかいう毎度おなじみの論理を信じてみよう。そして三歩歩いたら忘れてみよう。歩き終わるまでは信じていなければならない。そうやって善意の輪を広げて行くのだ。冷ややかな視線だけでは善良な人間にはなれない。善良さを装うだけでは飽きたらず、わざと悪ぶって人目を惹きたい。そんな子供にお目にかかれるのはテレビドラマの中だけか。人とともにそれを取り巻く環境も変化している。君はいつまで経っても本気になれない。それとこれとは無関係な現象なのか。誰にとっても現状は捉えがたい相貌をしている。その姿形をどう表現したらうまくいくのか。うまくいくことばかり考えている一方で、うまくいかない状況に陥ってしまうことを恐れている。そして今が恐れていた状況のただ中にいるわけか。意味不明の中に微かな光明が見え隠れしている。トンネルを抜けるとそこは別のトンネルだった。


10月22日

 その表面には何が描かれているのだろうか。また何かを忘れているようだ。昨日やるべきだったことを今日やるのはつらいことか。つらいことだと思えばそんな風に思えることもある。椅子には背もたれと肘掛けが欠かせない。リラックスできればどんな椅子でもかまわないか。パイナップルがあれば心安らぐ者もいるらしい。君は抽象の意味をわざと取り違えているみたいだ。そうやって強引につながりのない言葉を繰り出し、とりあえずの間を保たせているつもりらしい。写真の表面に貼り付いた風景を眺めながら、何やら適当な状況を空想している。美しい塩の歌を聴きながら、その内容の酷薄さを知りうる状況にある。しかし酷薄という言葉の中に希望があるようだ。未来へ思いを託すのは、現時点の不幸な境遇が起因している。それをなぜ不幸だと思うのだろう。不幸な内容の歌を歌いながら夢を実現させた者もいる。やはりそれはありふれた物語でしかないだろう。だがありふれていることが希望を抱かせる。成功の扉は誰に向かっても開かれていると思わせる。誰もがありふれた夢を抱いていなければ、この社会を存続していくことは不可能になるだろうか。夢見ることを諦めた者たちが犯罪に走ってしまうのだろうか。そんな図式は嘘だと思いたいところだろうか。たぶん嘘だろう。そしてたぶん本当なのかも知れない。夜が更けてきた。それはどんな時間帯で使用しなければならない言葉なのか。たぶん夜明け前には使わない表現だろう。夜明け前だと思わなければ、夜が更けてきてもかまわないか。またわざとまわりくどくなる。いつかきっと君を捜し当てる。探し当ててどうする。やがて信じる心は見捨てられ、考えようとする意志は放棄されてしまう。それが今風の生き方に結びつくだろう。人は家庭菜園の作物が育つのを眺めながら何でもない日々を過ごすことになる。それでもいつかは涅槃の境地に辿り着けるはずか。いつかは誰でも死ぬと思えば、それも許容範囲に収まるだろうか。それではいったい仕事とは何か。社会を維持継続するためには仕事をする人がいないと困るだろう。それだけの理由で納得できるならば、もうそれ以上は何も考える必要はないか。誰もがありふれた結論で納得しようとしているわけか。時には大人が幼稚園の先生の言うことに耳を貸すこともあるか。そういう水準で物事を考えて行くと、なぜか気が楽になる。その程度でも何となく納得できるような気がしてくる。できればその先に広がっている虚無には目を向けたくなくなる。人はただ何となく生きていて、何となくその場の成り行きで仕事しているにすぎない、などと思ってはいけないような気がしてくる。そこには意味や意義や理由などがあった方がありふれていて安心できるか。


10月21日

 どこかでろくでなしが話したがっている。そんな者がどこにいる。この辺ではペットショップの中にいたりするらしい。それはろくでなしではなくなまけものではないのか。鳥かごの中にハエが飛び込む。そこをすり抜け、窓ガラスにぶつかって行く手を阻まれる。輪になって踊ろう。まるで小鳥のように誰かがささやく。誰かではなく、それは書かれた文章の中に記述された台詞だ。誰かの想像力によって生み出された人々の間では、死肉を食らう禿げ鷹は忌まわしい存在だと思われている。希望はどこにも見えない。希望は見えるものではなく、思ったり感じたりするものか。だが出口が見えてこないと不安を解消できない。今日は夕焼け空を写真に撮るのを忘れていた。なぜか言葉が断片的になってしまう。荒野は静けさに包まれているものだろうか。誰かはそこで何を連想しているのか。ハイエナの誘惑とはどのようなものだろう。君にはジャッカルとハイエナの区別がつかない。そこはすでに荒野でさえなくなっている。ただの空き地に雑草が生い茂り、やがて造成されて建て売り住宅が建ち並ぶ。そんな光景が見られたのは何十年も前のことか。今や大半の住宅は建て直されて当時の面影はない。古い教えは廃れて昔の言葉も今風の解釈に置き換わっている。苦い涙は海水の味か。それが何を意味するのか教えて欲しい。何も知らずに犯罪を犯す者もいる。それでは何の答えにもなっていないだろう。君の残した言葉の痕跡は今や風化しつつあるようだ。何もわからなければテレビでも見ていればいい。アニメーションが伝説の怪物でも登場させて君を少し驚かす。それは手品の一種か。手品ではなく超能力だと思われたい。ある時君は恐怖と驚きで死ぬような思いをしたはずだ。めまいを覚えながら冷静さを装っている。冷や汗を流しなら笑顔を顔に貼り付ける。シーク教徒のターバン姿がインドを象徴している。まわりくどい外しに戸惑っているかも知れない。誰か聖剣の所有者を知らないか。漫画の中で捜し物をしている人物を眺める。時にはグリーンランドの氷河の中に存在するかも知れない。何があるかは探し当てた者が知ることになるだろう。支離滅裂の混乱から何を導き出すつもりなのか。導き出さずにぶちまけているだけなのか。暦の中にいつまで経っても訪れない日がある。まとめる意志を欠いた話は意味不明なだけなのか。凶弾に倒れたのは紙の空蝉だと教えられた。やる気がないのは鎖につながれた犬のあくびに原因があるそうだ。お前の匂いは知っている。犬の眼を見ながら誰かが話していた。そのときの犬の表情を思い出せない。ざっくばらんとはどういう意味なのだろう。なぜどうやってそのような響きの言葉が発生したのか、それが生まれた経緯を知りたいところか。当初に思い描いていた軌跡とはまるで違ってしまったようだが、それはいつものことだろうか。


10月20日

 いったい何を比較すれば説得力のあることを述べられるのか。納得できる内容を構築できないでいるようだ。そこには何らかの文化があるらしいが、感知しているすべての事象に存在理由があるわけでもない。それが存在しているのは単なる偶然の成り行きかも知れない。そうでなければ関係や形状の非対称な構造を説明できなくなる。なぜあそこでなくここに意識があるのか、そんなことを誰も説明しようがないだろうか。たぶん君は問題を解決する気がない。君が解決しようとしなくても他の誰かがやってくれる。君が抱えている問題は君の問題ではないらしい。だがその問題とは何なのか。それが示されなければ解決しようがない。それがわからないのかもしれない。問題など何もないとは思えないのに、それを特定することができない。意識がその何かを捉えようとするとすり抜けてしまう。もはやそこには何もなくなっているように感じられ、また別の箇所に何か問題があるように思われるのだが、今度はそこに焦点を当てようとすると、もうそこには何もないことがわかる。いったいそれまでに何を求めていたのか、それさえもわからなくなってしまうようだ。求めていたのは問題ではなかったはずか。なぜ君は問題を求めるのだろう。絶えず試練を課されていないと人生の醍醐味を味わえないわけか。試練ではなく安らぎの方が楽ではないか。安らぎ単独で到来することはなく、まずは試練がやってきて、その試練を乗り越えた先に安らぎの時が訪れることになっているわけか。君はそんな物語的な予定調和を信じられるだろうか。それを信じて毎日を生きてゆけばしあわせになれるとでもいうのか。しあわせになってどうするのか。それは愚問というものだろうか。しあわせになることが人生の最終目的だと思えば事足りるか。そうやって理由の定かでない将来への漠然とした不安を解消したいわけか。それは安易な生き方かも知れないが、試練は試練で、安らぎは安らぎで、また不安は不安で、それらが互いに関係し合いながら到来する場合もあれば、それぞれが単独でやってくる場合もありそうだ。さらにそれらが到来している期間にも長短がある。そしてまったく何も到来しない期間もあるが、とりあえずそれらの現象についてどう考えても、とりとめのない思索を重ねるばかりのようだ。その水準では結論は出てこないかも知れない。意識的にわざと結論を出さないように心がけているのだろう。その程度のことで結論を出してしまってはつまらない。


10月19日

 神ではないのでこの世のすべてを見通せるわけはないが、たまには見通したつもりになれるときもあるらしい。状勢が過去に語った通りの成り行きになってしまったとき、自らの予見の正しさを認識して、得意になってそれを喧伝したい衝動に駆られる。浅はかな行為をやるつもりはないが、希望はもっと別のところにあることを願っている。今さら何を述べてみてもどうなるわけもない。互いを無視し合うだけのつまらぬ意地の張り合いにも嫌気がさしている。もはや何もできないことはわかっている。この期に及んでまだ何かやれると思い込むのは、欺瞞以外の何ものでもないか。誰かは欺瞞でもいいからやらなければならないと思っているらしい。なぜ漫画の中の世界は戦いに満ちあふれているのだろうか。誰かと誰かが戦わないと、話にならないのはどうしたわけなのか。それは特定の漫画の中での話で、すべての漫画がそうなっているわけでもないだろう。そうなっているのは、現実の世界を反映しているからなのか。必ずしもそんなわけでもなく、何と戦っているのかよくわからない場合がほとんどだという実感もある。また戦っているのではなく、直接の戦いを避けている場合がほとんどかも知れない。そうなるのを避けるために、あれやこれや地道に対策を講じている場合がほとんどだろうか。そんな実感は冗談にも程があるか。冗談ではなく現に誰もが何らかの戦いに巻き込まれているはずだ。それはどんな戦いなのか。アニメの中の暴力的な戦いに心を奪われている。戦いに勝った者が生き残り、負けた者が死ぬ成り行きに感動する。もちろん最終的には、悪者に設定されているキャラクターが、安易な共感を得やすいように性格設定されている主人公と、その仲間たちによって成敗されてしまうわけだが、たとえば現実の世界ではそんなことがあり得るだろうか。伝える媒体によって都合のいいように解釈されたドキュメンタリーではなく、人々の実際の経験に基づいた勧善懲悪的なドラマが存在する余地が日常のどこにあるのか。それはメディアを通してしか意識に入ってこない物語でしかないような気がする。実際の日常生活の中で経験する現実は、もっと局所的で部分的な出来事の積み重なりにすぎない。行為のほとんどはやりっぱなしあるいはやられっぱなしなのであって、なかなかそれが物語的な完結に至る瞬間に出会えない。何らかの意味や意義を伴う以前にいつも継続の最中であり、終わりや始まりの区切りがつかない。戦いによって相手をたたきのめしたり、自分がたたきのめされたりするようなことはなく、かといって小津安二郎の映画に出てくるような日常会話とも無縁で、ただメディアを通して伝わってくる情報を受け売りしているだけのような会話に囲まれ、しかもそれらを見聞する観客の立場以上にはなれない人々に囲まれて暮らしているような気がしている。しかし実際にやっていることはそれらの会話や見聞とはまったく無関係で、なぜか現実の行為と暇つぶしの会話や見聞とは明確に区別されている。


10月18日

 それは誰の台詞なのか。もう何も思い出せないのなら、すべてを忘れたままでかまわない。また何かを忘れていた。また何かを忘れようとしている。忘れたついでに何か適当なことでも思い出せないものか。昨日の出来事でもいいのなら思い出してみよう。何の変哲もない退屈な日々の一部を思い出す。誰が思い出しているのだろう。架空の誰かが適当な未来を思い描いている。思い通りの未来になるように祈っている。いつの間にか昨日の想い出は脇へ追いやられて、未来への希望で心は満たされているようだ。やり直せるものならいつからやり直したいのか。未来にやり直しはないだろう。別に悪夢を見ているわけでもないのに、何をやり直す必要があるのだろう。あまり関心がないのに何を見ているのか。数年前には何を息巻いていたのか。遠く隔たってしまった意識はそこへ戻ろうとは思わない。そのとき抱いた怒りは時空の彼方へと消え失せて、あとには何も思わない意識が居座っている。せめて安らぎを感じていたいが、それさえもここには見当たらない。何かをもたらすための努力はどこかでやめてしまったらしい。すでに虚無がもたらされているだが、その虚無がなんなのかわかりかねる。君はそれを虚無と呼ぶことに抵抗を感じているのかも知れない。案外それは虚無ではなく希望なのではないか。それによって意味の希薄な言葉を繰り出せるようになったはずか。何かを断念する代わりにもたらされたのが言葉なのだから、虚無と呼ばれる希望に感謝すべきか。それらの言葉を使って毎回同じようなことを述べている。その一方で、昔のことを思い出している。画面の中の人々は昔流行った歌を思い出している。テレビでも昔の想い出ばかりに浸っているようだ。もうすぐ滅びるのかも知れない。滅び去る前に昔の記憶を保存しておきたいのだろう。絶えず昔の焼き直しをやり続ける一方で、未来へ向けては自分たちの存続を疑わない。どこもやっていることは一緒のようだ。誰かの亡霊が映像に貼り付いている。それを顕揚し続ける人々は疲れを知らぬ。飽きもせず同じような内容を追求し続ける。そうやってその場限りの関心を惹くことばかりに汲々としている。いつからそうなってしまったのだろう。そこに引き留められて身動きが取れなくなっているのは誰なのか。君は君ではない君に向かって何かを語りかけ、身動きが取れないのは君とは別の君だと述べたい。君が思い出しているのは昨日の出来事ではなく、それは出来事にさえならないいつもの何かだ。


10月17日

 居心地が悪いのは心と体のバランスが悪いからか。陽が沈んでから徐々に冷えてきた。いつかの情景を心に思い浮かべる。案山子は心がないから思い浮かべられない。案山子の代わりにネットが張られている。道端に落ちているのがゴキブリの死骸なら、誰も気にもとめないだろう。妄想の種がどこかに落ちている。晴れた日の午後に空の広さを感じる。刈り取られた稲穂が干されている。そんな光景を思い浮かべながら他のことを考えている。何をやりたいのだろう。この世界のどこに価値を見いだせばいいのか。一度確立された階層構造を壊すことは難しい。そこに適用されている掟に背くことは死を意味するか。そんな大げさなものでもないだろうが、自由に振る舞うためには障害となっていることは確かなようだ。障害があるために何が自由なのかわからなくなっている。だが自由になるために既存の階層構造を壊そうとしているのではない。そんなつもりはなく、ただ世界を眺めているだけに留まる。現時点ではそれ以外に何もできはしないだろう。眺めていて何か気づくことはないだろうか。状況が変わりつつあると感じるのは誰かの勘違いか。述べるだけならいくらでも理想を述べることは可能だろうか。しかし斬新なアイディアを思いつくには至らない。たとえ思いついても誰からも相手にされないだろう。君は月並みな発想だけが受け入れられる世界に暮らしている。そんなはずはないと思いたいところだが、現状がそれを物語っている。物語っているとは思わないか。ではそんなはずはないと思い続けているだけなのか。そうかも知れず、そう思いながら世界を眺め続けているだけのようだ。できることなら階層構造があるなんて思いたくはないはずか。上位の階層に位置すると思われる人々は何を思っているのだろう。君はそんな風には思わないのかも知れない。どこに世の中の底辺で暮らす人々が存在するのだろうか。そんな風には思わない。そこから遠くへ目を向けたくなる。遠くに何があるわけもなく、目の前にあるがらくたから目を背けているにすぎない。たぶんそのがらくたに埋もれて君の心があるのだろう。だがそこに何があろうと興味を惹かない。世の中に客観的なまなざしなどというものが存在するだろうか。誰がそれを定めているのか。誰もそんなことに気をとめはしない。君のまなざしは客観的でない。それはがらくたなどではなく、がらくただと思いたいだけの空虚そのものか。なぜそれが空虚ではいけないのだろう。感動できなければ何の価値もないのだろうか。その一方で、心を動かされたりするようなものは希有の存在だと思うわけか。興味を惹く事象が何もないとは思わないが、同時にそれがありふれていると感じるのはどうしてなのか。うまそうな食べ物ばかり漁っていると味覚と金銭感覚が狂ってしまうか。ほどほどのところで妥協できなくなるのは君が愚かな証拠だろうか。それとは別人の君はそんなはずはないと思うだろう。


10月16日

 なぜそんなことを述べているのだろう。誰が何を思い何を考えているのか。あり得ない心象風景を懐かしいと感じる心には、偽りの響きがこだましている。あり得ない風景とはどんなイメージに基づいて構成されているのか。今は具体的な像を思い描けないので、あり得ないことはあり得ないままに留まり続ける。そして何について語っているのか未だ不明のままだ。その印象を語っている者は、他人にそれをわからせようとする気がないのかも知れない。何かに影響を受けてそんな風に語っていることは確かなようだが、その何かについて語っている者には心当たりがあるだろうか。無意識の影響なのか、あるいは他からの影響については無頓着なのか、それが個性だと思いたい節もあるようだが、君は個性という言葉を好まない。むしろ誰かの模倣であることを誇りに思う傾向がある。どこかに崇拝すべき話者のアイドル的な存在を想定したいわけか。仮に想定したとして、それによって内容がどうなるわけでもないだろう。そんな語りには、時としてうんざりさせられ、途中で語るのを放棄して、どこかへ逃げてしまいたくなる。では何か他の話題に切り替えて憩いの時を過ごしたいところか。無理して誰からも見向きもされそうにないことを話したところで、何の反応も得られない。そうやって無視のただ中で孤独に打ち勝とうとしているわけか。大げさな展開はわざとらしい。そんなたいそうな野望は持ち合わせていない。ただその場を切り抜けたい一心で必死に言葉を繰り出しているにすぎない。だが別に窮地に陥っているわけでもないだろう。頼みの綱はいつも偶然と気まぐれしかないようだが、その程度の苦労は苦労とはいえないはずか。それは苦労ではなく、暇つぶしの退屈しのぎにしかならないものだ。しかし目下のところそれぐらいしかやることがない。やれるだけでもまだマシな状況なのか。それだけが頼りか。だがそれだけで文章を構成するのは至難の業か。現実にはそんな風に思ったりしない。絶えずそこから外れる要素に目を向けている。自分ではなく他の誰かが語っているように装いたい。なぜそんなことを述べているのかを知ろうとしていない。それは語っているのが君でないからそう思うのか。その代わりに誰か他の人が語って欲しい。意識的に避けているようだ。評価すべきものは何も見当たらないし、何か画期的な内容があるはずもなく、ただ淡々と意味のない言葉の羅列を維持継続している。具体的に何を示すべきなのか、それを教えて欲しい。しかし誰に教えを請うこともなく、教えて欲しいのはそんなことではないと思うだけだ。要するに求めているのは求めていなかった状況なのか。だが次の瞬間には前言を否定しにかかるはずだ。常にそうではないと思っていたいようだ。


10月15日

 人はその内に熱い魂を宿している。そんなこと思うのは誰だろう。たぶんスポーツマンの類かも知れない。情熱とは何だろう。わかりきったことを聞かないで欲しい。皮肉なことを述べてしまいそうになる。またいつものパターンになってしまうのか。それをやる前から怖じ気づいてしまったのか。はじめからくだらぬと思わない方が身のためだ。何か危険が潜んでいるのだろうか。それが危険だというのなら、すでにその真っ直中で語っているかも知れない。空虚を表す言葉に何らかの意味が宿り、詩の中に詩句が潜んでいる。その内容を理解することは困難だ。難解なことは難解なままに意識の脇を通り過ぎ、何を読んでいたのかあとから思い出せなくなる。また言葉を見失い、何を述べているのかわからなくなる。そこで何が危険だったのか忘れてしまった。何もかも相対化されているような気がするだけか。言葉を見失ったついでにそれらの関連性も見いだせなくなる。謎解きには興味がない。わざと隠しておかれる真実にも興味はないが、そんな真実に驚いた振りをするのは見え透いた演技に違いない。画面を見ている者がそんな演技を強いられている。どこかの誰かは詩的な表現を好んで使う。それはだいぶ的はずれなやり方に思われるが、彼はれっきとした詩人なのになぜ的はずれなのだろう。そもそもれっきとしていること自体が間違いなのだ。格調の高い詐欺師やペテン師がいったいどこにいるのだろう。身体から滲み出てくるいかがわしさを隠すことばかりに気を配っていては、いつまで経ってもまがい物の域を抜け出られない。そこにどんな真実があるというのか。それらのすべてを否定することは出来ない。偽りの多様性を演出しているだけか。そうともいえない側面でも見いだしたいわけか。ならば具体的に何を述べたいのかここではっきりさせる必要がある。まわりくどい隠喩的な表現ばかりでは何もわからない。わけのわからない曖昧さから抜け出すには具体的な記述が求められる。空虚の下に集う者たちは何を欲しているのだろう。見せかけの曖昧さを利用して、何も語らずに済まそうとしている。何もないのに何か気の利いたことを語れるはずもないか。それでも魅惑的な何かを語っているように見せかけている。容易には意味に結びつかぬ言葉を多用して、難儀しながらも読もうとする善意を煙に巻いて、何も語らずに言葉にならない言葉を読ませようとする。それが悪意から派生した意識の正体を悟らせることになるだろうか。悟った頃には悪意ではなくなっているかも知れない。悪意ですらなく、ただの気まぐれに吸収されてしまうような戯れ事に近くなる。やはり大半の者にとってそれはどうでもいいことにしかならない。多くの者が途中で挫折して読むのを諦めてしまうだろう。


10月14日

 のんびりしているうちに、気がつけば慌ただしい状況になってくる。時空のどこかで形勢が逆転しつつあるのか。かつて勝ち誇っていた側は、慎重に状況の推移を見極める必要に迫られている。そんな具合にはいかないものか。それだけでは何について語っているのか定かでない。何について語っているわけでもないらしい。今のところはそうだが、語っているうちに次第に何らかの内容を獲得してしまうのか。そんな都合よく行ったらいいと思うだけで、現実には限りのない支離滅裂にさらされているだけかも知れない。いったいどこが支離滅裂なのか、それを是非知りたいと思う。語っている物事の筋道が立たないのは当たり前なのであり、筋道が立ってしまったらそれはただの教訓話にしかならないだろう。職業的な教育者が垂れる訓話などに魅力が宿るはずもない。目的を明かすのは冗談か嘘を述べたあとにしよう。もちろん本気であるはずがない。本気になって何らかの努力をする必要が失われているようだ。本気であることが冗談の一種と化している。茶化され、ずらされ、怒るタイミングを外され、何をやっても無駄だと悟らされる。それでもそこから何かを始めなければ嘘になる。様々な邪魔や横やりをくぐり抜けて、ようやく開始に漕ぎ着けるわけだ。始めるまでに大半の努力が無駄になってしまうわけだ。だが今に至ってまだ希望を保持している。絶望などはとうの昔に通り過ぎてしまった。たぶん希望も幻想なのだろう。しかし幻想以外に何があるのか。幻想しか持ち合わせていないのが当然の成り行きになっている。誰もがくだらぬ幻想を抱きながら生きているのかも知れない。成功という名の虚しい目的が心と体を狂わせる。虚栄心に包まれて、表面的な笑顔とともに何とか正気を保っているのだろうか。正気でない人も何とか今を生きている。病んだ心身は憂さ晴らしだけを求めている。その憂さ晴らしを提供する人々が金儲けと結びついているわけだ。しかしそれ以外に何があるのか。おそらく何か重要なものを見落としているはずだが、それを思い出すにはまた始めからやり直さなければならない。そして始めるに至るには多大な労力と偶然と紆余曲折を必要としている。また無駄な努力を積み重ね、忍耐と辛抱を嫌と言うほど味わうことになる。いったいいつになったら始められるのか、そうまでして始める必要があるのか、今の段階ではいつ開始に至るのかまったく見当がつかない。それでも君は希望と期待を持ち合わせている。いつか始められるだろうと思っている。もうすでに始める理由など何もなくなってしまったかも知れないが、それでもいつか始めてみようと思っている。そうやって開始の時を思い描きながら生きている。それが今のところは幻想でしかないのはわかりきっているが、その幻想を取り去ったら、もはや何も希望はなくなってしまうだろう。たぶん希望などなくても生きていけるかも知れないが、希望があるうちは保持しておいた方が何となく気分がいい。だから気休めにくだらぬ希望を抱き続けているらしい。


10月13日

 数日前から何を探していたのか。今となってはそんなことはどうでもいいことか。どこかに何か魅力的な言葉はないか。言葉を探していたのではなく、実体を求めていたのかも知れない。実体とは何なのか。空虚にも実体があるだろうか。それの何が空虚なのかわからない。たまには他人の心を知ることがある。知ったつもりになれる時がある。他人の心が空虚の源泉なのだろうか。それらの意識にどんな実体があるだろうか。脳や心臓が意識を実体化しているとは思えない。今も誰かの意識は何か適当なことを思っているらしいが、それはつまらないことかも知れない。しかしそれがつまらないことだとなぜわかるのか。わかっているのではなく、いい加減に推測しているだけか。わからないことをわかったつもりになって、勝手な思い込みの虜になってしまう。別に虜になっているわけでもないだろう。君は今いったい何を思っているのか。おもしろいことでも思っているのかも知れない。そんな嘘は聞き飽きたか。ではそれがおもしろいことではなく、つまらないことであった方がより真実味が出るだろうか。虚構の話に真実味を出す理由でもあるのか。つまらないと思うことがおもしろいわけはないが、それほどおもしろくなくてもつまらないとは思わない。ただそこで繰り広げられているぎこちない演技と、わざとらしくも勿体ぶった言い回しに退屈しているようだ。さっきまで何か適当なテレビドラマでも見ていたらしい。確かにそこから得られるものは何もないかも知れないが、何もなくてもすでに何らかの言葉を得ているはずだ。それらの否定的な言葉を不特定の人々に伝えて行けば、何らかの話が構成されるらしい。しかしそれらの言葉が何を構成しているのだろうか。いつもの見慣れた風景しか導き出せない。それでは不満なのか。そんなはずはないと思っているようだが、不毛な無内容で語っているそばから虚しくなってくる。そこにある風景をただ眺めているだけでは物足りないのはわかりきったことか。そこから何も得られないのは承知しているはずだが、とりあえず内容の出来にかかわらず語っているだけで救われた気持ちになれる。何が救われたのか知らないが、気持ちだけはそんな雰囲気に満たされていたいようだ。それが誰の気持ちなのかは知らない。君は知っているはずだが、わざとらしく知らないことにしておこう。そこで救われたいとは思わないし、そんな語りで幸せになりたいとも思わないが、確かにさっきまで述べていた内容に嘘偽りはない。結果的に嘘をついているとしても、そう思っていたいようだ。もう少し先まで行かなければ、どうなりたいのかわかりかねる。たとえ先へ行ったところで何もわからないかも知れない。耳を澄ませば道を行き交う自動車のエンジン音が聞こえてくる。


10月12日

 目の前に青い海が広がっている。それは何年前の記憶だろうか。それはいつもの嘘かも知れないが、本当にそんな光景に巡り会えたら心が安らぐかも知れない。陽気な歌声がラジオから聞こえてくる。ラジオを聞かなくなってから何年が経つだろうか。ラテンの曲調は何となく陽気な雰囲気を醸し出す。そんな雰囲気を忘れていた。陽気な歌声を聴いて陽気に振る舞えるだろうか。だが今はそんな雰囲気ではない。別に陽気に振る舞うつもりはないようだ。それどころではなく憂鬱な気分の真っ直中かも知れない。そしてまたもや悪循環に陥っているのかも知れない。それが悪循環でもかまわないだろう。たとえ悪循環であっても君にはいい加減な言葉がある。それらの言葉を適当に循環させながら時間稼ぎをしている。それが事態を悪化させないための取り組みになるだろうか。そうやって何とか破滅を先送りにしているわけか。まさかすぐに破滅するはずもないと思っているようだが、何をもって破滅とするのかよくわからない。すでに君は破滅しているのだろうか。破滅しつつも破滅のただ中で、希薄な期待を抱えたまま懸命に何かを掴もうとしている。何を掴もうとしているつもりなのだろう。言葉の意味か、人生の意味か、それとも破滅の回避か。それらの期待にどんな関連があるのだろうか。関連を捏造できるだろうか。そんなことができるはずもないか。できるはずもないことをできると思い込みたいのか。なぜか思い込みたい。それを成し遂げてから意味もなく元気になりたい。すでに成し遂げないうちから元気を装う。それが空元気に終わらないように祈ろう。誰に祈ればいいのだろう。テレビ画面の向こう側から励まし元気づける人たちは、何かがおかしいか。別におかしくはないだろう。それが仕事なのだから仕方がない。たぶんそれは健康食品やドリンクの宣伝をやっている人たちだ。それらを食べたり飲んだりして、元気になってくれるように願っているわけか。そんな人たちの下にもいずれ適当な未来がやってくるだろうか。それが最後の審判になるわけでもないが、たとえそのやり方が毎度おなじみの紋切り型であってもかまわないか。それを食する以外に何の妙案も思い浮かばない君は、やはりスポーツでも見ながらお茶を濁しているわけか。必死になって目の前の困難に立ち向かっている人たちの姿を見ることで勇気づけられるわけか。他人の戦いと自分の置かれた境遇をどう結びつければ納得がいくだろう。別に納得するためにスポーツ中継を見ているわけではない。それとこれとはまったく関係がない。いや、一概にそうとは思えない。それらを見ていることで、やらなければならないことをやらずに済ませているのだ。なぜするつもりもないことをやらなければならないと思うのか。適当なことを述べているだけか。そこで何が試されているのだろうか。そうやって知らず知らずのうちに破滅を呼び込んでいるわけか。


10月11日

 誰かには根気が足りないらしい。そして愛が足りないのかも知れない。時として恥ずかしい台詞に出くわす。もう同じ台詞は聞き飽きたと思っている。誰かが戦争を憎み平和を愛する。また別の誰かがそれを当たり前のことのように思う。どこかで誰かがそんなことを思っているのだろうか。そこから逃げ出したい衝動に駆られながらも、君はかろうじて何もない場所に止まり続けている。そんなことがあり得るだろうか。たぶんそこには何もないわけではないらしい。つまらぬ話を語り続けているわけか。誰がそんな状況を好むだろう。君は何もない時を好んでいる。いつまでも何もやらないでいたい。門外漢にとっては小津安二郎の映画はつまらない。しかし映画通を自称する者にとってそれは禁句なのか。たぶん思慮の足りない者なら、小津映画を褒め称えた書物でも読んで勉強してから映画を見てはじめて、そのすばらしさがわかるのかも知れない。別にわからなくてもかまわない。けなしてはいけないものをけなすことに躊躇が必要だろうか。ある者にとってそれはは軽はずみな行為になるだろうか。その代償は軽くはないのかも知れない。タブーを打ち破るにもそれ相応の権威が必要か。何を述べるにも肩書きが必要なのか。君は何かを恐れて何も述べようとしないだろう。そしてちまちました日常生活に埋もれて老いるしかない。そんなはずはないと思いたいところか。どこかの誰かは冗談ではないと思っているはずか。冗談でなくてなんなのか。冗談にさえならないと思いたいか。場数を踏んで少しはずる賢さを身につけているつもりのようだが、その気になってどんな風に立ち回ればその場を取り繕えるのか。要するに面倒なのでそれくらいでやめておこうと述べるだけか。何とか軽はずみな言説を救い出す手はないものか。君にはちゃんと映画を鑑賞した経験があるのか。あると言えばあるし、ないと言えばないともいえる。では皮相な見解だけが君の持ち味なのか。今の君にはそれしかないのかも知れない。ドタバタ劇にしか興味を覚えないわけでもないだろうが、映画にもっと別の可能性を見いだすには時代が進みすぎているのかも知れない。別の可能性の一つが小津映画だとは思えない。映像表現で何ができるというのか。絵画で音楽で文学で何ができるのか。映像は映像で、絵画は絵画で、音楽は音楽で、文学は文学でしかないことに、どんな可能性があるのだろう。たぶん何らかの可能性を見ようとすれば見いだすことはできそうだ。それを見いだしてどうするのか。君にはどうしようもない。何となく絵を描きたくなってきた。暇な時でも絵でも描いてみようか。暇があったらの話だが、描けば気晴らし程度にはなりそうな気がしてくる。


10月10日

 深まる謎はどこで解決されるのだろう。それは何の話でもない。総選挙が近いらしい。ニュースでそんなことが述べられていた。君が小心者や臆病者の類なら、今のままでいいのかもしれない。そして勇気や度胸があるなら政権交代でも望んで投票すればいいのか。またどちらでもない者なら無関心を装えば事足りるだろうか。それ以上に何を述べたらいいだろうか。面倒なのでその程度にとどめておいた方が良さそうだ。しかし深まる謎の方はどうなったのか。謎が深まることはない。未だにそんなことにこだわっているわけもないだろう。別にこだわっているのではなく、いったい何が謎なのか、まずはそれを示さなければ何もわからないだろう。ところで何が謎なのだろうか。ここでは何も謎ではないようだが、どこかで何かが謎として隠されていたりするのか。ところで君の誇大妄想の方はどこまで進展したのか。とりあえず誇大妄想の中身はまだ明かされていなかったので、とりあえずそれがここでの謎としておこう。そんな謎には興味が湧かない。もっと興味深い問題はないものか。謎や誇大妄想ではなく、今後誰かの努力によって実現する可能性のある問題について語るべきではないのか。今まさに誰かが実現させようとしているのは何か。どこかの誰かにとってそれは政権交代であり、別の誰かにとっては北朝鮮による拉致問題の解決になるだろうか。中にはそれとこれとを結びつけたい輩もいるようだ。それが謎なわけはないだろう。そこで何かが聞き流されていて、くだらぬ誰かが適当な思惑を捏造しようとしている。しかしそんなことはどうでもいいことだ。それとは無関係なことがここでの主題となっている。なっているはずか。そんなはずもないか。君はそんなことで騒ぎたくないか。騒ぐこと自体が馬鹿らしく思えるか。騒ぐのは他の誰かがやることかも知れない。ならば久しぶりに白髪の老人のたわごとでも聞いてみようか。その老人に思い当たる節のある人がどれほどいるだろうか。もう過去の戯れ言は忘れてしまった。それは今から何年前のことだったのか。ほんの数年前の出来事が遙か大昔のように感じられるのはなぜだろう。それなら謎として興味深い問題になりうるだろうか。ここ数年でめまぐるしく世の中が変わったとは思えないのに、なぜか長大な時を経て今に至っているように思われるのはどうしてなのか。確実に何か重大な出来事を経験してきたはずなのに、それを感知できないらしく、未だにわけのわからない状態のただ中でもがいている。その状態が延々と嫌になるほど続いているように感じる。いったいいつになったら見通しがきくようになるのだろう。暗中模索をいつまで続ければいいのだろう。


10月9日

 この夏の湿り気はどこへ行ったのか。どこかへ行ってしまったのだろう。今の季節とは無関係な台詞か。扉が開いて空気が微かに動く。誰かが何かの気配を察知したらしい。ノルウェー産の家具にはどんな付加価値があるだろう。それに関係のあるビートルズの曲でも聴いてみればわかるかも知れない。過去にそんな題名の小説もあったはずだ。何かが少しずれている。ただそのことを言うために、そんなまわりくどいことを述べているわけなのか。もっとわかりやすくて具体的な内容を語ってみたらどうか。どこからかそんな台詞が聞こえてきそうだ。わざとわかりにくくすることが文学の神髄なのか。それは奥義でもなんでもなさそうだ。魔法が使えないのでハリー・ポッターのようなわけにはいかない。遠からず本棚に飾っておくのが恥ずかしくなるだろうか。読まなければ意味がないわけではないのか。繰り返し読んで読書を極める必要がある。いったい誰がそんなことを思うだろうか。思う以前に何を読めばいいのかわからない。おそらく読む前にテレビでも見れば読むべき本を推薦してくれるだろう。要するにベストセラーを読めばいいのだろうか。たぶんそれでいいのかもしれない。最近は昔の名作のあらすじだけ紹介する本が売れているそうだ。その本を読んで興味を持ったあらすじの原作を読めば間違いがない。間違った読書を避けるには最善の方法のようだ。たぶんあらすじ本の作者は間違った読書から学んだ経験がないのだろう。間違う可能性を排除しているような気がしないでもないが、もう少し良心的に解釈すれば、名著と呼ばれる書物をできるだけ多くの人に読んで欲しくて、そのような試みをやっているのだろう。それだけ読書に対する思い入れが深いのかも知れない。そうやって忘却の彼方から過去の亡霊を呼び寄せる。それは亡霊ではなく、現代社会に是非とも必要な過去の宝か。それに対する受け取られ方も色々ある。すべては想像の範囲内にある。読書など所詮暇つぶし程度の効用しかないか。それでいいならそれに越したことはない。中には読んで教養を身につけたい田舎者もいるらしい。今はそれほど皮肉屋の使い古された皮肉には興味はないか。それの何が皮肉なのかよくわからない。皮肉でないのならそれは素直な感想なのだろうか。まったくの無関心と無感動をもたらすだけの話題か。話題にすらならない些細な現象なのかも知れない。いったい何を読めばいいのかなんてわかるはずもないか。たぶん読み終わったあとにわかるのかも知れない。それでは手遅れか。その書物からくだらぬ影響を受けた思ったら、早く内容を忘れることだ。忘れるためにはまた別の書物を読めばいい。そしてまたそれがくだらぬと感じたら、読書などやめてしまえばいい。


10月8日

 君はただ眠っているだけかも知れない。眠っている間に探偵ドラマでは犯人が特定され、犯行の手口が明らかになるだろう。あるいは次回に謎解きが持ち越しになるだろうか。テレビの見過ぎで何もできなくなる。そんな意志薄弱な愚か者に未来があるだろうか。たぶん適当な未来ならいくらでもあるだろう。どこかの誰かはつまらない将来を約束されている。あるいは絶望を回避することでつまらなくなる。中には特権的な振る舞いに酔っている者もいるらしい。フィクションの中ではそんな者によく遭遇する。意味のない戦いを挑んでくる者は己の生に意味を求めている。感情の虜になって、誰かの思惑通りの展開になるために利用されているにすぎない。やられキャラには未来がない。思っていることはそんなことではないだろう。難しい言葉をわかりやすく翻訳する必要に迫られる。いつか出会った光景が塩の歌と重なる。なぜかそれが哀しい内容に思われる。これから思い出そうとしている出来事に先回りして、意識の外から心に修正を施す。誰もそんなことが可能だとは思わない。たとえばの話ならいくらでも可能だろうか。何が可能なのか今は思い出せない。思い出そうとしているのはそれとは違うことかも知れない。急にその場で味付けした話には真実味が欠けている。何も嘘をつこうとして嘘をついているわけではないらしい。嘘でもいいから誰もが感動する話を構成したいのだろうか。同じ歌を違ったアレンジで何度も歌うのは、その歌に対する思い入れの強さを物語っているのだろうか。それとこれとは違う意味合いがあるのかも知れない。そんなことはどうでもいいことだろうか。今思っていることを言葉にしようとは思わない。そして別の言葉でいい加減にその場を取り繕う。誠実に仕事していれば、いつか人から尊敬される機会が巡ってくるだろう。たとえそれが表面だけの社交辞令であっても、その程度で満足していればそれだけで幸せになれる。そんな人々を君はどう思っているのか。単純率直にそんな人々を愛しているわけか。今もそこから遠く隔たっているわけではないだろう。しかし秘めた思いを打ち明ける相手を探しているのは誰なのか。誰でもない誰かの思いが宙を漂っているだけか。そして君はまだ嫌気が差しているわけではないと思う。古い丘の話はまだしばらく続いてゆくだろう。印象的な歌は君の記憶の中にいつまでも残り続ける。だが君はそれで満足しているわけではなさそうだ。そこから先に新たな記憶を付け加えて行きたいらしい。自らの言葉で話の続きを構成したいと思っている。それが浅はかな試みに終わらないように思考を巡らせている。いつまで経っても無理な話だろう。それを諦めきれずに他のことが滞ってしまうだけか。


10月7日

 そこで語られている空虚とは何だろう。何かの周りをいつまでも回っている。しかし回っているのは何だろう。ハエか人工衛星か月か地球か、それぞれに回っている対象が異なる。人工衛星と月は同じ対象の周りを回っているだろう。だがそれの何が問題なのだろう。それを回るタイミングが問題なのか。何がそれを続ける口実となるだろうか。それとは何か、と問う度にタイミングを微妙にずらされて、結果的に何を問うているのかわからなくなる。何かの周りを回っているのは何か。何の周りを回っているのか。何らかの理由で何かやらないわけにはいかなくなっているようだが、本当にそんなわけで何かやりざるを得なくなっているわけか。そんなわけとはどんなわけなのか、いつものようによくわからない。たぶん意識は空虚の周りを回っているのだろう。何も語る材料がなければ何も述べられないだろうか。いつか語る必然がなくなるかも知れないが、語らない理由がどこにあるのか。今のところその理由は理由になっていないように思われる。何をやるにも理由は必要だろうか。必要な場合がほとんどかも知れない。必要を見いだせなければあからさまなことは何も述べられない雰囲気にあるか。しかしあからさまなこととはどういうことなのか。苦し紛れと思わせておいて、露骨な言葉遊びに終始する。まだ理由のない継続を諦めきれないようだ。いずれどこかで障害にぶち当たって、困難な状況に直面するだろう。それが今だと思わないのはおかしいだろうか。たぶんわざととぼけているのかも知れない。誰がとぼけているのか知っているはずだ。ここで知っているのに知らない振りをする必要があるか。この不毛な成り行きから抜け出すには、何か適当な出来事を捏造する必要があると思われるが、いったい何を捏造して語り出せばいいのかわからない。無理にそんなことをやる必要はないのかも知れない。君は嘘をついている。そして君は真実を語っている。わざと嘘つくことがその場の真実になるだろう。何について何を語っているのでもない。何もやる気にならないのもいつものことだ。たぶんそれが何かやり始めるきっかけになっているのだろう。遠くを見つめるまなざしはさらに遠くを見つめているようだ。何を見つめているのでもない。また君は嘘をついているようだ。風景の中に溶け込めないひねくれ者に居場所はないらしい。見つめている先にいつもの風景があるとは限らないか。何も非日常的な状況を求めているわけではない。そこでの偽善とは何だろうか。誰かの死とともに偽りの和解がやってくるのが許せないのか。邪魔者は遠からずこの世から消される運命にあるのが納得できないか。だが邪魔者とは誰のことなのか。まだ君は嘘をついている。


10月6日

 どこかの誰かが自らの至らなさを痛感しているようだが、なぜかこのままではいけないとは思わない。なぜか至らないままでもかまわないと感じている。あるがままの姿や態度でもやっていけるからだろうか。少年に幼児を殺された親はやり場のない憤りで凝り固まっているかも知れないが、年端の行かぬ少年を罰することはできない。たぶん赤の他人にとっては、少年が更生するしないはどちらでもかまわないと思われる。それは嘘で更正して二度と犯罪を犯すことのない立派な社会人になって欲しいか。たぶん彼の代わりに、別の少年がまた似たような事件を起こすかも知れない。そうなってから、また別の誰かが自らの至らなさを痛感することになるのだろうか。たぶん良識のある大人ならこのままではいけないと思うのだろう。だが彼らとは別の良識を持ち合わせていない大人がいるかも知れず、その中の誰かが成り行きでまた別の事件を起こすだろうか。まるでモグラたたきのような状況が未来永劫続いてゆくわけか。それとも今後何らかの転機が訪れて、それ以降は徐々に犯罪が減少傾向になる可能性もあるか。人が減れば犯罪も減るだろうか。人々の競争心が減退して、何もやる気が起きなくなれば、それにつられて犯罪も少なくなるだろうか。独裁者でも現れて厳罰姿勢を示せば、恐怖から犯罪を犯す気力が失せるか。犯罪を犯さなくとも生きて行ける社会体制に持って行ければいいのだろうが、そのためにはどうするべきかを考える段階で、各自や各組織間で利害がぶつかってしまい、結局は有効な対策を示せないわけか。どこかの誰かはそれを実現させるためには構造改革が必要だと叫んでいる。また別の誰かは治安回復のために警察機構の改革強化が必要だと叫んでいる。さらに別の誰かは地域住民が連携して防犯対策を講ずるべきだと主張する。やってみればそれなりの効果があるのだろう。とりあえずそれ以上の方法があればそれに越したことはないかもしれないが、その一方で、今のままの現体制を温存させたい者も大勢いるだろう。そこから利益を上げている者や組織にとっては現状を変えて欲しくないところか。表向きは改革に賛同する姿勢を見せているが、裏から人知れず改革の邪魔をしているのだろうか。それを抵抗勢力だと見なして批判するやり方もあったかも知れない。君にとってそれらはすべてどうでもいいことになるだろうか。たぶん実際に犯罪に巻き込まれてひどい目に遭ってみればそんなことは言ってられなくなるのだろう。では今はそうならないことを祈るのみか。もうすでに巻き込まれているのかも知れない。巻き込まれていたらどうしよう。それに気づいてから考えよう。気づいてからではもう遅いか。もう手遅れなのか。ならば仕方ない。とりあえず本気になれないし、何もかも馬鹿げている。無理を承知で犯罪者を擁護しなければならないと感じている。


10月5日

 変化の兆しは思いもしないところからやってくる。ただそんな風に思いたいだけで、実際は何も変わっていないことに気づかない。誰が気づいていないのか。たぶんそれが君の限界なのだろう。それとは何か、君の何が限界なのだろうか。なぜかしっくり来ない表現ばかりのようだ。ところで画面から受ける間接的な影響を振り払うことは可能だろうか。そこでは誰かが悪人の振りをして、凶暴に振る舞っているように見えるが、そんな演技で誰に何を伝えようとしているのか。別に他人を陥れることしか知らぬわけではないだろう。それが窮地だなんて何も実感が湧かない。安易な人は遠からず社会から除去される傾向にあるのか。誰かがくだらぬ犯罪を犯して排除される一方で、同じような人間がまたどこかから安易に生まれてくる。そうやって同じような人間と犯罪が絶えず再生産され続けている。かつて起こった事件と似たような殺人事件が連日報道されている。そこで同じような人間が同じような人間を殺しているだけか。それらの人々は時と場所を越えて、絶えず同じような成り行きに身をまかせている。彼らはまるでハエのような一生を送る宿命なのか。それに気づくか気づかぬかはその人間の問題でしかない。気づかぬ人間はハエのように生きることしかできない。同じような仲間との接触の中で醸し出される欲望に向かって群がるだけで、些細なことから取り返しのつかぬ事態になり、あとはひたすら廃人への道が続くだけか。彼らを取り巻く状況が、そんな風にしか行動できない仕組みになっているのだろうか。お節介な正義漢がそんな彼らを更正させたい気になったりするだろうか。そんなテレビドラマならいくらでもありそうだ。そこにどんな救いを見いだせるだろうか。あまり否定的にはなりたくないが、それを否定的に捉えて説明する必要を感じない。その悪循環を抜け出す方法はないのだろうか。他人事でしかないので、本気になって思考を巡らすわけには切実さが欠けている。そんな方法を思いついたとしても、まともに受け取られる成り行きには至らないのかも知れない。机上の空論の域を出ない提言になりそうだ。君にはその手の討論番組がとても有効だとは思われない。だいいち犯罪を犯すような人間はそんなものは見ない。ニュースさえ見ないから、そこで報じられている過ちを同じように繰り返すに至るだけか。まったく戦略も戦術もありはしない。少しは考える習慣を持ち合わせていれば、安易に人を殺したりしないだろう。要するに彼らは幼稚で凶暴なだけなのか。


10月4日

 君が何を知りたいのか定かではない。メディアによって視野を広げられると同時に狭められて、思考にたがをはめ込まれた状態では、そんなことを知る機会はやってこないか。今誰がどこで何を考えたらいいのだろうか。そんなことを知る必要はないか。おそらく誰もが何かを思い何か適当なことを考えていることだろう。その何かをどうやって知ることができるだろう。直接誰かに訊いてみれば、訊き方によっては誰かの本音を引き出すことができるかも知れない。しかしそれをできたとしてそれからどうするのか。どこかにそれを公表しようとするわけか。たぶんそれは虚しいことかも知れない。他人の心の内を覗き込もうとすることは卑しい行為だろうか。だがそれがなければお互いに分かり合えないか。心を貝のように閉ざしていないで、包み隠すことなく本音で語り合うことが必要だろうか。何となくそれは利いた風な意見のように思われる。大抵はそこに至る段階で躓いて、表面的な会話でその場を取り繕ってしまうだろう。しかし本音とは何だろう。仮にそれがいないとしたら、そんな状態があり得るだろうか。今一番強く思い抱いていることが本音なのか。こうしたいと思っていることが本音だといえるだろうか。しかしその内容を語ってどうするのか。本音を語ってしまうことでそれを断念せざるを得ない状況に追い込まれてしまう場合もあり得る。その場の状況に応じて本音と建前と嘘と方便を使い分けているのが実情だろうか。何をやりたいかなんてよくわからないが、本当にそうなのかもよくわからない。ただ漠然とした思いで日々を何となく過ごしているだけのようだ。それでも何かしらやっている。別にそれをやらなければならないとは思わないが、やる理由を見いだしたければいくらでも見つかるような気もする。やる理由などなんでもかまわないのだろうか。そしてその理由が本音でも建前でも嘘でも方便でもかまわない。とりあえずすべてはどうでもいいと思うが、そんな思いなどあっさり無視されて、今日もまた何かが適当に続けられてしまうだろう。続けられるうちは続くのかも知れない。それはそれだけのことでしかないのか。それだけでないとしたらどうだというのか。それ以外の何かを思う度にその何かを言葉が退ける。すぐにそうではないと思いたくなる。意識はもうすでに違うことを求めている。それ以前の思考に対するこだわりはない。それが違っていると感じれば、すぐに修正したくなる。もっと違った表現にしなければならないと思う。


10月3日

 なぜ商売とは言わずにビジネスと言うのだろう。商売と言うと何か下世話な印象を受けるのかも知れない。日本語と英語の違いだけなのに、それを英語でビジネスと言うと、何となくかっこいいような錯覚を伴う。例えばエリート商社マン(死語?)の仕事は、やはり商売ではなくビジネスになるのだろうか。一方八百屋のおじさん(差別用語?)の仕事は、ビジネスではなく商売と呼んだ方がしっくり来るような気がする。また世の中にはビジネスでも商売でもない仕事もある。例えば医者や弁護士の仕事は一応は報酬をもらって金儲けしているのに、なぜかそれを商売やビジネスと呼ぶことははばかれる雰囲気がある。何となく高尚だと思われている仕事は商売ともビジネスとも異なる価値があるらしい。それはどんな価値なのか。例えば世間体の良さなどが価値の一部を形成しているのかも知れない。ただそれだけのことなのか。何となくどうでもいいように思われるが、それが重要な要素なのだろうか。見てくれや格好の良さは大事か。本音としてはそれが最優先事項のように思われるか。それ以外に何があるだろうか。収入だけなら産廃業者やパチンコ業者やサラ金業者だって高収入を見込める。そんな意識がなければ誰も競争などやりはしない。誰もが格好のよい職業に就くために子供の頃から競争しているわけか。子供の親なら特にそんな思いが強いかも知れない。そしてある時点において、そうなることをあきらめた者たちは、心がすさんでしまうのだろうか。もちろん誰もがそうなってしまうわけではなく、中には何とか社会の中に自分の居場所を確保して、そんな境遇にある自らに妥協と納得を強いているのかも知れない。そして自分の子供には自分よりさらに幸せになるように願うことになり、自分の叶えられなかった夢に向かって努力して欲しいと思うわけか。そのためには子供をより偏差値の高い学校へ入学させて、そこで非行に走らずまじめに勉強してもらう必要が生じるわけか。そんなメロドラマ的な展開が教育問題の本質なのだろうか。誰かにとってはあまり切実な問題とは思われない。たぶんそれがすべてではないと思いたいのかも知れない。誰が思っているのかは知らない。例えばアフガニスタンやイラクの子供たちなら、将来医者や弁護士やプロスポーツ選手やジャーナリストなど、欧米的な価値観では格好が良いと思われる職業に就きたいと思うだろうか。欧米に反感を抱いている人々ほど内心では欧米にあこがれを抱いていて、自分たちも成功して欧米的な生活を満喫したいと思っているのかも知れない。だが欧米にも格好の悪そうな職業に就いている人は大勢いるだろう。あこがれがテレビ画面に映し出されたメロドラマ的なフィクションに結びついていることに気づかない。気づいているがそれ以外の価値を見いだせない。やはり物売りの商売より背広を着込んだビジネスマンになりたいだろうし、さらに金儲けだけが目的の仕事より周囲から尊敬される職業に就きたいと願うだろう。そしてその仕事に成功して、ある程度の富や名声を得たら、今度は田舎の田園生活にあこがれて、農業でもやりながら余生を悠々自適に過ごしたい、とか思ったりするのだろうか。それはもとから農業をやっている人を小馬鹿にしたような発想かも知れない。


10月2日

 何かを手本としなければ何も記述することはできない。いったい君は何を手本として述べているのか。ブランショの終わりなき対話か?それついて答えられる者はどこにもいない。誰も読まない書物について何を語ってみてもはじまらないか。意味のないつぶやきに意味が宿るとしたら、そのつぶやきに誰かが呼応していることを示している。君のつぶやきに対して何らかの責任が生じる。安易な意見には無邪気な批判がこだまする。なぜ君にそのつもりがなかったのか。君の責任を君にわからせようとは思わない。対話から見放されて自己対話を装うことにどんな責任が生ずるのか。なぜそれを投げ出さないのだろうか。それは奇怪なことか。あまり深く物事について考えられない雰囲気だ。自発的に何をやっているわけでもないと嘘をついてみる。今さら何に挑戦しているわけでもないと思いたい。できることなら思考は簡単に済ませたいところか。ことさら思慮深くなろうとすることで苦しみたくないのかも知れない。目的地まで行くのに高速道路を利用するか一般道を使うかの違いだろうか。高速道路は安易さの象徴になるだろうか。たぶん便利さを追求することは思考の短絡を意味しているのかも知れない。怠惰になればなるほど安易な流行りに流される。それでよければそれに越したことはないか。君はそこからどこへ行くつもりなのか。ちゃんとした手順を踏まないと誰も認めてはくれない。その手順を構成しているのが世の中のしきたりだと言いたいらしい。そんなしきたりに則って何かを述べれば利いた風な意見ができあがるが、それで君は満足しているわけか。それに反発して虚偽の慰めを導き出そうとする者もいるようだ。何かに抵抗していると感じることで、それだけで満足なのか。君はいったい何に満足しているつもりなのか。その満足感にはどんな幻想が付随しているのか。虚無だけに関わっていて他に何もないよりはマシか。疲労が言葉を不正確にしているのだろうか。なぜそこで疲れているのだろう。自身の怠惰が自身の心身を蝕み疲労させる。結局のところ何をやっているわけでもなく、ただ眠り続けていて、疲労が睡眠の原因となっている。そこでは結果が原因を兼ねているようだ。何が結果で何が原因なのか、結果と原因を区別する気にはなれない。接続詞を省略して意味不明を装わせているのか。それとも単なる勘違いのなせる技か。やはり何について語っているのかわけがわからない。


10月1日

 フィクションの登場人物が使う超能力や魔術は安易に見えるが、言葉や映像技術を駆使してそこに醸し出される雰囲気には魅力を覚えることもある。それが嘘であることは頭ではわかっている。ファンタジックなアニメーションや実写のドラマには欠かせないそれらの能力には、どんな働きが備わっているのだろうか。現実の世界にはないその力を利用して不可能を可能としているところに読者や視聴者を惹きつける魅力があるのか。それは曲芸を見る時と同じような感動を心の中に形成しているのかも知れない。要するにサーカス的な見せ物の延長上にそれはあるわけか。映画の中で座頭市が目にもとまらぬ速さで人を斬る場面や、宮崎駿のアニメーションでの機械と人間と化け物が織りなすアクション・シーンなど、果たしてそれらの超人的要素を取り去った後にどんな魅力が残るだろうか。そこには安易な一般大衆には感知できない芸術的な要素がこっそり隠されていたりするのだろうか。仮にそれがあったとしてそれは何のために存在するのだろう。何らかの心理的な作用を誘発させるために映像の片隅に組み入れられているのか。それとも小難しい批評家の賞讃を得るには必須の要素なのだろうか。それがなければ安手のテレビドラマやアニメーションあるいは観戦用のスポーツなどと変わらない代物と化してしまうということか。もしかしたらそんなものがあると思うこと自体が単なる勘違いかも知れない。その曲芸的な要素をいかに効果的に見させたり読ませたりする技術の集積がそれらのすべてだと考えられないか。敢えて物事を単純化する省略の罠にはまって考えると、例えばピカソのキュービズムやダリのシュールレアリズムなどに見られる現実にはありない構図や歪曲や変形なども、絵画上の曲芸だと見なせないだろうか。またスペインのバルセロナにあるガウディの建物は建築的な曲芸の一種なのか。そんな風に類推してゆくと他に音楽的な曲芸や文学的な曲芸なども導かれるかも知れない。そんな曲芸的な要素を取り去った後に残るものは何だろう。しかし曲芸的な要素を排していったいどんな魅力があるだろうか。何の変哲もないただの日常があるだけなのか。まさかこんな風に述べていることも、その内容自体は曲芸的な意見に属してしまうか。非日常的な驚きを誘発するすべてが曲芸的だと見なすことにどんな意味があるのだろう。もっと多様な要素について考察して述べないと魅力を醸し出せないか。