彼の声38

2003年

9月30日

 様々なことを思い、様々なことを忘れて、また様々なことを思い出す。そんなことを繰り返しているうちに時が過ぎ去ってしまう。そんなことを思いながら誰かがどこかで黄昏れているらしい。わざとらしい前置きが長すぎるだろうか。そうやっているうちにもくだらぬ想いがよみがえりつつある。そこから遠ざかることばかり考えていたのだろうか。すなおに考えれば過去は過去で過去の思考が過去を形成している。過去は我々にどんな思考を想像させるだろうか。君はそのときどんなことを考えていたのだろうか。誰かのおこないを強い調子でなじってみせたこともあったようだ。今となっては遠い過去の過ちになるだろうか。別の意識は断じて過ちだとは思いたくないらしい。あれはあれであの時点では正しいおこないだったはずか。あんなことがあったから今の意識があるわけか。今の存在を正当化するためには、過去のおこないも正当化されなければ矛盾してしまう。矛盾しては困るだろうか。時と場合によっては困ることもありそうだ。困った時はどうするのか。そのときになったらそのときの意識がどうにかするのだろう。今は何も困っていないし、矛盾していても一向にかまわない。ところであんなこととはどんなことなのか。具体的には何も思い浮かばない。一夜明けたらあんなこと自体がはっきりせず、それはなかったことになってしまうだろう。何となくそれでもかまわないように思われる。意識はもっと具体的な内容に話を持っていきたい。この際過去のあやふやな記憶などどうでもよくなってくる。感動が何もない暮らしの中で何もかもが平坦に感じられる。今まなざしはどこを向いているのか。何も見ようとせずにすべてを見ているように振る舞う。意識は何を感じようとしているのだろう。見聞するどのような出来事にも無関心を装う。ちゃちなフィクションに呆れ、ありふれた現実には無反応なのか。それ以外に何があるのだろうか。それは以前に述べた台詞と重なっている。過ぎ去った時間とほとんど同じような体験を繰り返すだけなのか。そこで何をやろうと同じような動作になってしまうわけか。そんな逃れられない振る舞いの連続が今日もこれから待ち受けているようだ。それを越えて何を述べる気も起こらない。ただ画面の向こう側で繰り広げられている無駄話を聞き流すだけか。なぜそれを無駄話ではないように感じられないのだろう。それの何が無駄だと思われるのか。それが無駄だと思っているわけではなく、しゃべっている当人たちにとっては無駄ではないのかも知れず、その場で拝聴している観客にとっても無駄ではないのだろう。それは無駄話というジャンルの話なのかも知れない。必ずしも無駄ではないのに無駄話と呼ばれている。


9月29日

 意識して何を思い出すまでもなく、何かが自然に思い出される。体験しつつあるのはそんなことばかりなのか。だが一方で、体験してもいないことを想像して、それを言葉によってでっち上げる作業が残されている。さっき何かの拍子に急に思い出されたのはそんなことか。想像にもそれ固有の限界がある。これまでに体験してきたことの延長上に想像を巡らすことしかできない。気休めを示すこと以外に可能ではないようだ。明日もまた同じような体験が待っていると想像してしまう。変わらぬ日常が変わってしまってはいけないらしい。そんな日常から隔たって空想を巡らすのも、これから体験するだろう日常のひとこまになるだろう。そんなことを思っているうちに無性に紅茶が飲みたくなる。ついさっき飲んだばかりではないか。出直してくるとしよう。それは昨日の台詞だったことを思い出す。昨夜から今朝まで眠っていた。そして昨日のすべては終わってしまった。今日のすべても今日中には終わってしまうだろう。では明日のすべても明日中には終わるわけか。それが終わりと呼べるだろうか。終わりの意味としてはそれで十分すぎるか。その程度の終わりが平凡な日々にはふさわしい。それらのどこが平凡な日々なのだろう。そんな日々に暮らす者の眼は死んでいる。愚かさに覆われた誰かにはそう思えるかも知れない。おもしろくないことばかりで、少々疲れが出たのだろうか。世界のそこかしこに設定されている価値についてどう評価したら気が済むだろうか。自らの好みに合うものを好意的に評価するだけで事足りるだろうか。面倒なので、その程度にとどめておくべきなのか。ややこしくなることをいとわずにそこから少し踏み込んで、好みに合わないものを否定的に評価したら文章的にはおもしろくなるのだが、否定的に述べているその内容に自信が持てない。簡単に否と断じてしまうその無邪気さに気後れしてしまう。そんな風に思いながら述べれば人畜無害な文章を構成できるだろうか。その辺でどうするべきか迷っているのだろうか。君には誰が迷っているのかわからない。君自身が迷っているようでいて、それを否定するために、他の誰かが迷っているように見せかける算段でも模索しているのかも知れない。誰が迷っているのでもなく、文章上に適当な迷いの言葉が書き込まれているだけか。斜面を石のように転がる自由が自由と言えるだろうか。たぶん転がる石に迷いはないのだろう。石のようになれない人にはためらいがある。そのためらいを無視して、転がる石のように事件が起こり、後からそれが交通事故の一種だとわかる。そんな事件が日常茶判事を形成しているらしい。それも平凡な日常の一部なのだろうか。


9月28日

 君が知りたいことはわからないことか。それは君にとってわからないことなのか。わかっているはずのことを、わざとわからないととぼけているだけか。そんなことではいつまで経ってもわからないかも知れない。わからないことから別のわからないことが導かれる。わからないから意味不明のままなのか。君はその話の結末を知っていた。さらにそれとは別の話の結末も知っている。君はこれからも様々な話の結末を知り続けるだろう。そして知った先から忘れ続け、さらにまた新たな結末を知る。いくら結末を知ったところでどうなるわけもないか。どうにかなるだろう。どうにかなり続ける。どうにかなり続けることが、どうなるわけもないという実感を形成する。君にはそれが予定調和のように思える。そんな成り行きを打破したい衝動に駆られるが、次の瞬間には忘れてしまうだろう。自分から行動を起こすのは面倒くさいのか。すでに行動しているのかも知れない。夜の闇に紛れて猫が近所を徘徊する。行動とはそんなものでしかないだろうか。それは習慣であり惰性でしかない。それとは違う行動を想像できるだろうか。すべてが同じ思考や思惑に従っているわけではない。人それぞれで行動の意味合いも違ってくるだろう。では君の行動は猫の徘徊とどう違うのか。同じ要素も違う要素もあるかも知れない。気まぐれなところが同じ要素で、気まぐれの中に計画性を求めているところが違う要素だろうか。気まぐれを装っているだけで、実は計画的に行動しているというわけか。一見気まぐれに見える猫の徘徊も、ある一定の範囲内で行動しているだけで、そこに目的がないわけではなく、自分のなわばりの中を見て回っている。では君の計画性にはどんな目的が潜んでいるのだろうか。ただ一定の範囲内で言葉遊びを繰り広げ、結果的に一定の分量を伴った文章を生成させることか。そうやってすでに終わってしまった試みがあたかも続いているように見せかけているわけだ。そんな風に思うと話の辻褄が合うだろうか。だがそれは何の話なのだろう。どうもそれだけではないように思われる。それを終わってしまった試みだと見なすなら、どこで終わっていたのかはっきりしない。すでに始めから同じような内容ではなかったか。始めから終わっていたのだろうか。あるいはそこで同じようなことが繰り返されているうちはまだ終わっていないのか。それは単に心理的なことで、まだ終わっていないと思えば、終わっていないことになり、もう終わったと思えば、そこで終わりになるだけだろうか。どう思っても言葉が続くうちは、どんな内容であれ実態としては続いているのかも知れない。ただまだ違うような気がしている。何が違うのかわからないが、もっと違った展開にならないものか、結果としてどうなろうとも、絶えず違う内容になるように心がけているのかも知れない。思っても見なかったような言葉の連なりを導き出したいわけか。自身の思惑からかけ離れた結果を体験したいようだ。言葉と意識の間に隔たりがあることを実感したいらしい。


9月27日

 唐突に月並みな意見を述べてしまうかも知れない。誰もが思うこととはどんなことか。何かから解放されたい。しがらみから、あるいは慣習から自由になりたい、君はそんなありふれた願いからも離れたいようだ。雑念を払いのけてどんな境地に達したいのか。それのどこか雑念なのか。確かそれは過去において誰かの願いであったらしいが、またいずれ誰かの願いになるかも知れないが、はたしてそれが君の願いになる可能性があるだろうか。それ以外に何かを見いだそうとしている。願いが叶わぬなりに生きているのは誰だろう。適当にいい加減に言葉を駆使しているつもりの意識を持ち合わせているのは誰なのか。それは誰でもない誰かになるわけか。能う限りすべての願いを思い浮かべてみれば、それらが互いに矛盾しあっていて、何一つとして実現可能でないことを知るだろうか。自分がいかに馬鹿らしくも支離滅裂な思いに包まれていることがわかるかも知れない。一方でそんなはずはないと思いたくなる。くだらぬ思いつきにはつきあっていられなくなる。願いのどれ一つとして叶えようと努力する気がない。努力は別の目的のために使われているらしいが、実際にどんな努力が為されているのか。目的とは何か、それは嘘であり、嘘だと嘘をつきたいだけのために努力している。たぶんそう述べてしまうと単なる言葉遊びにすぎなくなる。今は言葉遊びではないと思い込みたい。そこにそれとは違う別の価値を見いだしたくなる。そう見せかけるために何らかの努力が必要になるわけか。願いが叶うのを諦めるためには無駄な努力が必要だ。そして夢を見るためには、滑稽なことをやって目立とうとしなければならない。また本当に夢が叶ったと実感するには、それ以前に勘違いしていなければならない。偶然の成功を追い求める者は宝くじを買い続けなければならない。成功への狭き門をくぐり抜けるためには、受験勉強をする必要があるかも知れない。どこかの誰かはそんな必要に従うことで成功を収めるはずだと思い込みたい。君はそんな風に述べることで言葉遊びを実感している。そして一方でそんな実感が勘違いであることを願っている。そしてまた、そんなことを思っている自意識から自由になりたい。言葉の限界を打ち破って、すべての迷いから解放されたい。解放されたら終わりを迎えることになるわけか。迷っているうちは、その迷いを晴らそうと努力し続け、結果として迷いを晴らす作業は継続してしまう。だから意識に反して言葉の連なりは迷い続けるように仕向ける。いったい誰に逡巡を強いるのか。まずは迷い、次に迷うことをためらい、さらにためらいの中で決心がつかず、そうやって終わりを先延ばしにしている。そんな風に思うのは勘違いだろうか。


9月26日

 同じような成り行きに沿って何かを示そうとしている。道端の道祖神が君の行き先を指し示しているかも知れない。それが行くべき方角なのか俄には判断できない。だが行くべき方角がどの方角なのかわからない。ここからどこへ行けるというのか。意識はどこへも行こうとしていない。ではどこかへ向かうという話は嘘だったのか。君の代わりに誰かがどこかへ向かっていることだろう。定常状態から抜け出て、過渡的な道行きを表現しているはずだ。そうやってどこかの誰かは自身と関係のない状況とともに生きている。中にはそれらの状況を不特定多数の人々に向かってひたすら語り続ける人もいる。テレビを見ればそんな人々を大勢見かけるが、本当に語っている者と語っている状況は無関係なのか。厳密には無関係とは言えないはずか。しかし無関係ではないとしても、彼らに語っている状況を変えることが可能なのだろうか。語ることによって少しは変わるかも知れないと思いたいのだろうか。例えば彼らが執拗に北朝鮮を嘲笑し、言葉で攻撃することによって、北朝鮮の政治体制が崩壊したらおもしろいだろうか。しかしその語り口には魅力が感じられない。どこか語っている対象を相手を小馬鹿にしているように感じられ、すべてが否定的な見解で良心が皆無だと思われる。相手を思いやる心を欠いているのだろう。それがまかり通るならそれも致し方ないところか。彼らにしてみれば、こんな時代に北朝鮮のような攻撃対象が存在していてくれて、助かっている面もあるのかも知れない。凶悪犯とともに自分たちの攻撃本能をむき出しにすることができる数少ない対象なのだろう。一般視聴者の皆さんもさぞや溜飲が下がる思いかも知れない。それでいいのならそれに越したことはないか。そんな状況に心を痛めている人がいたら、その人は非国民と呼ばれても仕方のない状況かも知れない。そうやって埒被害者親族を名乗る右翼の食い物にされてしまうのだろうか。感情的になればなるほど、その人の人間性がむき出しになるだけか。たぶんそれもそれで、それに無関係で少しは理性を持ち合わせている人々にとって、国際的な政治情勢について考えてみる機会を提供しているのかも知れない。果たして全世界に向かって北朝鮮の非を訴えているつもりの日本の呼びかけに呼応して、損得勘定抜きで同情して、問題解決に向けて尽力してくれる国や組織や個人がどれほど出てくるだろうか。敢えてきれい事を述べるなら、これまで日本が損得勘定抜きでどれほど他国の人々を助けてきたのか、それがわかってしまったりするだろうか。たぶん現実には損得勘定を考慮しないとどうにもならないような気はするが、これまで日本が国家としてやってきたことを、埒被害者だけに限られた人道主義や人権意識とどう整合性を持たせるつもりなのか、その辺が問われていたりするだろうか。そんなことを問う者など誰もいやしないか。しかし北朝鮮に向かっては埒被害者やその家族を帰せと叫んでおきながら、ペルー政府からのフジモリ前大統領の引き渡し要求は頑なに拒否している実態はおかしくないか。そんなことを比較すること自体がおかしいのだろうか。どうせ中国に対しては福岡の一家惨殺事件の容疑者を引き渡せと要求するのだろうが(笑)。


9月25日

 本意ではないが、いつものように何も見いだせずに途方に暮れている状況を想像してみる。君は未だに遠くを目指しているようだが、これからどこへ向かうとしても、それで満足することはないだろう。遠くとはどのような地を想定しているのか。想定できないようなあり得ない地へ辿り着きたいのかも知れない。それは安易な特撮映画の中に繰り広げられているような世界ではないことは確かだが、ここでそれを想像してみたところで、たぶんそれとはまったく違う地になるだろうか。想像からはかけ離れた地へと思いは向かう。また思いもよらぬ展開を期待しているわけか。どこかの誰かは呆れているようだが、誰かの思いとは隔たりを感じているらしい。それでもいつかどこか見知らぬ場所に辿り着くこともあるだろうか。もちろん辿り着いてどうなるわけもどうするわけもなく、何がどうなるわけでもなさそうに思われる。そんな思いが打ち破られて欲しいと願っているのかも知れず、心の奥底ではどうにかなって欲しいと思っているはずだ。誰がそんなことを思っているのかは知らない。ここでの語り手にとっては、そんなことはどうでもいいことかもしれない。いったい誰が何を語っているつもりなのか。お前は何を嘆いているのか。書物の中で誰かがそんなことを述べていた。誰かがどこかで嘆き悲しんでいるのかも知れない。パレスチナの地へ行けば、そんな人が大勢いることがわかるだろうか。行ったところで君には何もできないだろう。鬱陶しい季節の中で、君はどこへも行かずに、ただ何かを適当に思い続けているだけか。だがそれだけではいけないのだろうか。いけないわけではなく、それさえもできなくなったら、君は君でなくなってしまうだろう。君ではなく彼になってしまうということか。彼とは誰なのか、それを君に尋ねるのは筋違いになるだろうか。そうやってくだらぬ問答が繰り返されてしまうだけか。我慢がならないなら、いい加減に悪循環を脱して、もっとわかりやすくすっきりしたことを述べてみたらいかがなものか。しかしこの何もない現実は動かしようがなく、仕方なくまた以前と同じ道筋を辿り直してしまい、ついでにいつか通った道を懐かしむ。だがやはり誰かはそれは嘘だと主張したいらしい。当然のごとく君は本気になっていない。なぜそれが当然なのだろうか。いつまでも迷ってばかりで何が当然なのかわかるはずもないか。またいつか本気になる機会が訪れるだろうか。たぶんいつかはいつまで経ってもいつかでしかないのかも知れない。


9月24日

 いったいそれはどういうことだろう。性懲りもなくつまらない言葉を囮にして適当な展開を引き出そうとしている。それで何か気の利いたことを語ったつもりなのか。なぜか身体の内側のどこかから疲れがどっと吹き出してくる。だがその疲れの持って行き場所はどこにもない。そこいら中に疲れが滞留し停滞している。そんな状況でも結果的にはうまくいってしまう。そうなることを心の奥底では信じ切っている。疲れも心配事もそんなものがあってもなくても、昨日は今日へ、今日は明日へと移りゆく。止まることを知らぬ時の流れに引きずられて、意識も明日へと向かわなければならない。それつれて否応なく感覚は磨り減り続けるだろう。一つの場所へ留め置くことは不可能になる。すべてがどこかへ向かっていることは承知しているが、それを押しとどめているつもりの愚か者も間違いなくどこかに存在しているようだ。変わらぬ意識を後生大事に保持しようと躍起になっている。それをことさら批判するつもりはない。今さらそんなものを批判してもはじまらないだろう。何がはじまらないのかよくわからないが、無責任にそんな風に述べると何となく気が楽になるらしい。そうやって多大な疲労を伴う批判作業を放棄している。批判を武器に何と対決すべきなのか、そんなことを知ろうとは思わなくなった。なぜか戦わなくなってから久しい。戦っている感覚そのものが間違った思い込みに基づいていたのではないか、という疑念が日に日に増してきたからそうなってしまったのか。今戦うべき相手がどこにいるというのか。誰かが何かと戦っているらしいことは、ニュースでも見れば一目瞭然かも知れないが、その戦いにどうやって加わるのか、その方法が君には何もないと思われる。君とは無関係な時空で、君にとってはどうでもいいような戦いが日々繰り広げられている。そんな状況で何を批判する必要があるだろうか。要らぬお節介はやめておいた方が良さそうだ。それらの事象については黙って傍観することしかできないだろう。もう誰に認められようとも思わない。それはつまらぬ邪念でしかないだろう。だからといって悟りの境地などに至るつもりもない。何を悟ればいいのかわからない。適当に思い、適当に述べれば、やがて行き詰まり、その行き詰まりを打開すべく、何かしら工夫を凝らしてみるのだろう。そんなことの繰り返しの上に、さらなる継続が展開されて行くだけだ。それ以上でも以下でもない、またそれ以上にも以下にもなり得る可能性を孕んでいる。とりあえず偶然の導きがどんなものか興味がある。偶然の成り行きが語りの必然性を支えているような気もする。今ここに意識は存在するのかしないのか、それが意識だと認識したところで、今日の意識と明日の意識の連続性を信じる気にはなれない。


9月23日

 面倒なので、それが何を意味するか理解しようとは思わないが、彼らの世界は階層構造の存在を前提として成り立っているらしい。そして外部で練り上げられた話の進行に逆らわずに、割り当てられた目標に向かって彼らなりに何らかの努力を重ねて、より上位の階層に居場所を確保すれば、それはその世界に設定されている価値観に照らし合わせて判断すると、何らかの勝利を意味したりするのだろうか。だが勝ったり負けたりする以前に、そのあらかじめ狭められた視野を駆使して、彼らの物語が辿り着く結果とはまったくかけ離れた状況を、無意識のうちに追い求めているのかも知れない。なぜ追い求めているのか説明が欠けているので、後から適当な理由を付け加えるなら、彼らは誰かの思惑通りに生きるのが気に入らないのだろう。誰かとは誰のことなのか、そんなことは誰かのご想像にまかせるとしよう。話を構成する上で何らかの制限を設けてしまうのは、それを構成する者の思考に限界があるからだろうか。思考よりも空間的そして時間的な制限が、何よりも物語が深化する余地を圧迫している。商業主義がくだらぬ成功への誘惑を助長している。ところで話の中に登場する彼らはどのような性格を付与されているのだろう。それは彼らがそれぞれに自分たちの性格を想像してみればいいだけのことでしかない。我々は彼らの実体よりもその影に関心を持っている。しかし我々とは何か。唐突に登場する我々にどうやって彼らの影を見ることができるのだろう。例えば真昼の太陽が彼らの真の姿を覆い隠して、その代わりに虚構の中に存在する影の群を我々に見せていたりするわけか。いったいそこで誰が何を語っているのだろう。始めから存在の曖昧な彼らに真の姿があるといえるだろうか。影にとってはそんなことはどうでもいいことで、そもそも語り手は具体的にどんな話を誰に語っているのかを知りたい。何かが陽の光に照らされて間違った欲望を構成しているように思われるのだが、なぜそうやって嘘をついてしまうのだろう。どうして嘘をついていることになってしまうのか。わざと嘘をついていると見せかけて、成り行きからあからさまな批判が導かれてしまうのを避けようとして、そこで誰かが思い違いに至るように仕向けているらしいが、陽の光に照らされて生じた影の群が追い求めているのは、それとは関係のない何か別のものになるかも知れない。一方影の原因となっている彼らの実体の方はもっと簡単でわかりやすい内容を追い求めているのかも知れない。もっと単純な構文を用いて世界を説明できる日が到来することを望んでいるのだろう。そうだとするならなぜ今はそうなっていないのだろう。たぶんいつものように話の途中が抜け落ちていて、語り手にはその途中を構成するつもりがないのかも知れない。話に興味を持たせるには、何か重大な事柄が意図的に省かれていると嘘でもついておけば事足りるだろうか。そんな見え透いたやり方で間を持たせることができるだろうか。それを話の途中に挿入すれば、もっとわかりやすく誰もが読んで話の内容を理解できる物語へと変貌するのだろうか。もちろん我々にはそんな物語などいらない。しかし我々とは何なのか。


9月22日

 同じような語り口に嫌気が差す。他に何をやるつもりもないが、影にはそのつもりはなく、そのつもりでもない。何を想像しているつもりなのか。空白の紙面が雨に濡れている。おかしな表現に意味不明の言葉が絡みつく。踊っているのは過去の映像に登場する人物だ。ドラマでは見知らぬ人から不意に声をかけられる。そこから話が始まるのが脚本的な展開なのだろう。だから虚構の現実はマンネリ気味なのか。別に今それを求めているわけではない。変化を求めるより先に現状を維持していなければならないらしい。それでどうやって現状を変えることができるのかよくわからないが、とりあえずそのための方策はいくらでもありそうだ。それがまともな方策かどうかは定かではないが、今日の政治状況を無視しようと思えばいくらでも無視できる立場の者は多い。中には政治についてわからないことを言い訳にできると思っている人もいる。判断をしないで済ますことなどいくらでも可能だろう。判断してもしなくてもどちらでもかまわない。何らかの呼びかけによって判断を強いる者の方がうさんくさく見えてしまう。それについてまともに語らう雰囲気にはない。ニュースキャスターやコメンテーターの受け売り程度でもやめておいた方が良さそうだ。場違いな雰囲気の中では黙っておいた方が身のためなのだろう。そういうことはテレビ画面の向こう側や、新聞の紙面に印刷された文字上での話に止まり続ける。関係者以外にとってはその程度で十分なのかも知れない。しかし有権者は関係者には入らないのだろうか。関係があると思っても無視されるだけなら無関係だと思っている方が良いということか。それが仕事なら嫌でも関係者になるだろうが、カメラやマイクを持って政治家に群がっている人々は、そういうことで関係者になっているのだろうか。それを見ている無関係を装う人々が、政治劇のあおりを食って昼の連続ドラマの放送が中止になったことに不満を漏らす。そしていつしか話は関係のない方向へ飛んでしまう。そんな昼のひとときを思い出しながら、やはりその内容に立ち入る気が起こらずに、そんなことはどうでもいいことだと思いたいらしい。本当はどうでもいいことではないのだが、どうにもできないとでも思っていれば少しは気が晴れるだろうか。それとも気が晴れなくてもいいから、無駄だと思いつつも少しはその内容について触れるべきなのか。触れなくても済むならそれに越したことはないか。まだ触れるには時期尚早かも知れない。結果を見てからでも遅くはないだろうか。


9月21日

 それはどんな本だったか。黄ばんだ文庫本を捨てる。休眠状態の機械を分解してみると、頭の中が錆びついている。当時は何を考えていたのか。さっき何かを捨てたらしい。面倒なので本を全部捨ててしまうかも知れない。資源ゴミとともに失われた意識が方々へ分散してしまう。弛まぬ努力は機会を見失わせ、決断を鈍らせるだろう。いつまで経っても終わらないのは、もうしばらく努力が必要だからか。このままではどこまでも続けられるように思われて、限りのない疑いの中で鬼の姿でも捏造してしまうだろうか。疑心暗鬼とはどんな意味だったか。君はディコンストラクションとリフォームの違いを示せるだろうか。構築を脱して、構築物以外の何を作り上げられるだろう。矛盾しているかまたはわかっていないか、そのどちらかになるわけか。どちらを選ぶこともなく、その件はそれで終わりとなってしまうかも知れない。これ以上傷口が広がらないうちに退散するとしよう。わざとわけのわからないことを述べるのにも苦労しているようだ。だが苦労しているのは君ではなく、それを読んでいる君の方か。君の苦労など君にとっては苦労のうちに入らないのか。言葉遊びで苦労していたら話にならない。それが言葉遊びだと思わない者もいるだろう。真夜中に吹くそよ風に意味はないだろう。別にそよ風について語っているわけではないから、苦労は風とは違う意味になる。だがそれでは何を語っているのかわからない。意味があるのは意義のある仕事の内容か。意義があろうとなかろうと、それは仕事であるはずがない。穿った見方や考え方だけでは何もわからない。それでも少しはわかったつもりになれるだろうか。予期せぬ結果だけを求めても虚しいだけか。説明が足りないのだろうか。そして未来へ結論を持ち越しているだけか。本心から何を述べているわけではないのが、わかりやすさを追求する上で障害となっている。さらに結論がないことが致命的な欠陥かも知れない。誰がそれを追求しているのだろう。わざとわかりにくさを追求しているつもりなのか。誠意とも善意とも無縁な君がわかりやすく語ろうとするはずがない。目下のところ結論は何も出ていないと思われる。誰が思っているのか知らないが、影にとって結論などいくらでも出せると思われる。だが君は影が何を語っているのかを知らない。世界のどこかに未だ語っていない部分があるはずで、それを影の語りによって、君が語っているかのように装う。それはどういうことなのか。君にも君以外にもただわかりにくいだけかも知れない。


9月20日

 夢の中では何を思ってもかまわないのだろうか。だが今は夢の中ではないはずだ。誰かの耳には幻想的な歌声がどこからか聞こえているかも知れないが、そんなやり方で遠ざかる記憶を取り戻すことができるだろうか。そんなやり方とはどんなやり方なのだろう。失われた記憶を取り戻そうとしているわけではないので、それがどんなやり方なのかわかるはずもない。もちろんやり方は他にもあるようで、今までに何を考えてきたのか、たまには何か適当なことを考えていた時期もあったはずで、風向き次第でどのような方角へも考えているつもりが、今どこかで意味不明な風が吹いているように思われるが、風に意味があろうとなかろうと、その風に吹かれて何を思うつもりもないので、何か思う時には風に関係なく思うだろう。それはどういうことなのか。もはや誰の主義主張にも興味はない、ということなのか。そんな風に思っているとしたら、それは単なる独我論になるだろうか。ところで独我論とは何か。慌てて似たような言葉の唯我独尊の意味を知ろうとするが、それと独我論にどのような関連があるか。関係がありそうでなさそうで、あってもなくてもかまわないと思いつつ、そんな風に思っている自らの考えと言葉の用法が間違っているように感じられ、そのことに気づいた振りを装い、考えている途中から投げやりな気分に満たされて、それらは確かにおかしな言葉づかいになっているかも知れないが、それはそれで大したことではない。いつものように何を述べているのわからなくなる。わざとそんな風に語っているのだろう。そんな語り方ではつまらないか。つまらないと思うなら、それの埋め合わせとして、もう少しもっともらしいことでも述べてみたらどうか。だがそれはありふれた意見になってしまうだろうか。例えばこの世界のすべては戦いに基づいて動いていて、個人や組織が互いに競い合い、切磋琢磨することによって、より良い未来を手に入れようと、誰もが日々努力し続けている、という意見はどうだろう。うわべだけなら利いた風な意見を述べられるようだ。しかしもっともらしいことは疑ってかからなければならないか。すぐに否定してしまうわけにもいかないだろう。何かを否定しにかかること自体が、その対象に戦いを挑んでいることになってしまう。それを避けて何を述べることができるだろう。例えばスポーツ選手がよく口にする、自己のとの戦い、という禅問答的な逃げ道がある。戦いではないのに、あくまでも戦いの形式を纏わないと気が済まないということか。戦うことを否定してはいけない。戦っていなくても戦っているように見せかけなければならない。嘘でもいいから何かと戦っている現状を捏造すべきなのか。そこまで述べると前述が冗談であることがわかるか。何事も強烈な印象をねらってはいけないのかも知れない。曖昧な語りに終始して、明快さを欠きながら、何を伝えようとしているつもりなのか。何も伝えていないように思われる。


9月19日

 怠惰にまかせて思考はいくらでも停滞し続ける。なぜ夜に雨が降るのか。たぶんそれは疑問ではなく、雨が降っていることが気に入らないのだろう。そんな風に解釈すれば納得できるだろうか。だがなぜか昼にも雨が降っている。それはどういうことなのか。どういうことでもなく、ただその通りのことをその通りだと述べているだけかも知れない。疑問を装って当たり前のことを是認しているだけか。画面上にはどこかで見たような光景が映し出されている。それを肴に君はありふれたことをありふれたことだと語ってみせる。それで語っているつもりになれるだろうか。ついさっきまで何を期待していたのか忘れてしまった。何かおもしろい雰囲気に浸かれると期待していたのに当てが外れてがっかりか。思い出せないことはそんなことではない。思惑を外されて、意識は何もない境地へと再び舞い戻ってくる。面倒なのでそこには何もないと頑なに思い込みたいようだが、本当は何もないわけはない。すべては変わってしまったのだろうか。なぜ終わってしまったのではなく、変わってしまったと思いたいのか。どうして終わりを頑なに拒否し続けるのだろう。些細なことに神経をすり減らして疲労が蓄積するだけだろう。感性の摩耗とともに態度や嗜好も自ずから変わってくるものだろうか。とりあえず当初に思い描いていた変化がいつ訪れるのかを知りたい。すでに絶望を通り越して何も感じなくなってしまったのは誰だろう。誰もそんな風には思わない。くだらぬ幻想がどこかに漂っている。虐げられた民衆が物語の中に存在している。誰に虐げられているのかも知ろうとしない愚かな人々だ。そんな物語を信じていたのはいつの頃だったか。物語をいったん離れると、それは大きな勘違いだったことに気づく。だいぶ前からここには誰もいない。その代わりに説明を欠いた語りがどこまでも続いている。今もどこかで語り継がれているかも知れない物語の中では、もはや誰も虐げられてはいないだろう。まとまりを著しく欠いて、何を語っているのかも定かでない。たぶん彼らは誰に虐げられているのでもなく、ありもしない幻想を相手に戦っているつもりなのだろう。気休めはそんな内容を伴って君のもとに訪れる。それの何が気休めなのかわからない。確かにどこかのアニメーション上では今も戦いが続いている。現実の世界でも戦いは継続している。それは戦争であったりスポーツであったりするようだ。特定の商品の熾烈な販売競争なども戦いの一種であるかも知れない。それらの戦いについて君はどう思っているのか。直接の当事者意識が希薄なのでどうも思わない。感情移入できないので本気になれない。それらが馬鹿らしいことだとも思わない。それらについて分析し考察すれば、そこにはそれ特有のルールが働いていることに気づくだろう。だがそのようにして見いだされたルールに従う気が起こらない。勝利を目指して戦うこと自体に致命的な欠陥があると思われ、何となく漠然とそれとは違うやり方の必要性を感じている。しかしそれはマスメディアが盛んに喧伝している癒しとは少し違うような気がしている。一方に戦いがあり、もう一方に戦いに疲れた心身を癒す場がある、というのとは何か根本的に異なるあり方を感じている。


9月18日

 影は暗闇で沈黙することを認めない。真昼の日差しが影に沈黙を促している。それとは対照的な言説を形成したいらしい。そして自然と奇形的な語り口になるだろうか。これ以上は何も望まないことを望み、その望みが叶わぬことを望み、それでも絶望することを望まない。しかしその程度で反語的な表現になるはずもないか。あまり正直に語ると皮肉屋の皮肉はすべて無効になるだろう。限りなく正直に語ろうと心がけている正直者は、語ろうとする度に意に反して嘘をついてしまう。たぶん君は正直者で嘘つきだ。言葉に忠実な者は自らの言動に反した行動を取りざる得なくなる。だから次第に語ることに嫌気が差して、虚しくなり、沈黙に助けを求める機会が多くなる。そんな内容の物語を誰がどこで語っているのか。それの何が物語なのかわからない。どこかで誰かが何か適当なことを語っているかも知れないが、それが物語であってもなくても、そんなことはどうでもいいことか。もう戻り道は消えかけている。正直に語ることが面倒になってきて、いい加減な言動になだれ込む。まるでダムが決壊するように一気に押し流される。その場に生じた一時的な軽薄さのただ中で、どうやって誠実な対応が取れるだろうか。だがそれの何が軽薄な雰囲気を醸し出しているのだろうか。それに誠実な対応とは具体的にどんな対応なのか。ちょっと行き詰まるととたんに面倒くさがることが軽薄に映るだろうか。では面倒くさがらずにさらに続けることが誠実な対応となるだろうか。やはりそのどちらもどうでもいいように思われる。そこであまり本質的なことは述べられていない。だがやはり何が話の本質なのかわからない。たぶん本質と呼べるような内容はここにはないのかも知れない。ちょっとここで立ち止まって考えてみる。立ち止まるべき場所ではないか。そうではなくここは場所ではなく、立ち止まることも比喩的な表現にすぎないか。実質的にはここはここではなく、ここではない場所がどこにあるのかもわからない。たぶんそんなことも枝葉末節などうでもいいことなのかもしれないが、さっきからどうでもいいこと以外にあり得ない成り行きとなっているようだ。そんな風に継続すれば軽薄に映るだろうか。だがここでそれ以外を求めるのは無い物ねだりになってしまうような気もするが、もはや留まるべき水準の遙か下方まで滑り落ちてしまったようにも感じる。少し悪ふざけがすぎたようだが、もちろん本気でそう思っているわけではなく、そう述べると、これらの文章に多少は整合性が生じるような気がするだけか。


9月17日

 さっきまで熟睡していたようだ。電信柱の上から鴉がこちらを見つめているようだ。安易な批判は安易に終始する。そんなことはわかりきったことか。別に何を批判しているわけではない。鴉が何を批判しているわけでもないだろう。適当な意見を述べているのは君の方か。その意見が批判に当たるとは思っていない。今は適切に対処できるような状況にはない。誰が何を批判しているわけでもなく、君の意見は意見としての体を成していない。それはどんな意見なのだろうか。泥縄式に内容を求めているらしい。たぶん意見など何もないはずだ。それは君の意見ではなく、誰か他の人の意見だろう。すでに誰かが同じような意見を持っているはずだ。君は誰かの意見を復唱しているだけなのか。それでも一応は意見であることに変わりないか。多くの人が同じ意見を共有することで世論が形成されるわけか。君はそうやって多数派に属することで満足しているわけか。要するにありふれた人間になりたいわけか。しかしありふれていない人間などこの世にあり得ないだろう。誰もがありふれていることに自足しなければならないか。ありふれた人々がありふれた世論を共有しているのが望ましい社会像だろうか。しかしそれは誰にとって望ましい状況なのか。ありふれた人々にとってはそれがもっとも望ましい状況か。それでは困るような人間がいったいどこにいるのだろうか。だがどこかにありふれていない人間が存在する、と想定すること自体がありふれた意見かも知れない。しかしそれではありふれた状況から抜け出る方法を見いだせないか。それ以上何をいくら述べてみてもありふれていることには変わりないか。どうやらその辺で煮詰まってきたようなのでそこから降りるとしよう。屁理屈をいくら述べても屁理屈であることには変わりない。視点や論点を変えて、もう少し建設的な意見を述べる必要に迫られているわけか。誰が迫っているわけでもなく、誰に迫られているわけでもない。そうやって君は他者の声を無視している。しかし誰がそんな非難を君に浴びせているのかを知らない。では誰も何も非難していないことになるわけか。本当にそれを信じていいものか。誰が信じていいわけもないか。どこかの誰かがそれを信じていることだろう。これ以上いくら述べてもきりがないので、ここではそういうことにしておこう。誰かが民主主義を信じている。誰かが三権分立を信じている。裁判所は行政府の行き過ぎを議会に是正するよう勧告しなければならないそうだ。それは議会の承認を必要としなければならない、それがとりあえずの民主主義的な判断となるそうだ。それは笑うべき茶番劇の一種なのか。


9月16日

 いつものようにどこかの誰かは君が何を考えているのかを知ろうとしている。だがそれもいつものように、誰が何を知ろうとしているのかは知りようがない。何も考えずに何かを忘れているのは誰なのか。どこかの誰かはそれが君だと言いたいわけか。おそらく誰も何も言いたくないだろう。画面上で言えるはずがない。言っているのは嘘と戯れ言ばかりか。そんな風には思いたくないか。あるいはそれでもかまわないだろうか。それ以外に何を述べられるだろうか。無理を承知で無理がまかり通るわけもないか。概して思い通りにはいかないのがそこでの慣わしなのか。おかしな表現に陥っているかも知れない。そうやって言葉に詰まって何も言えなくなる。何か漠然とした思いに囚われているらしく、それを言葉にできずに煩悶しているようだ。思い悩んでいるうちにそこから先へ進めなくなる。屁理屈でもかまわないから、何かもっともらしいことを述べてみたらどうか。放っておいても季節は巡り、やがて一回りしてまたここへ戻ってくる。こんな状態でいつまで持ちこたえられるだろうか。面倒なので持ちこたえられなくなってもかまわない。すでに持ちこたえているとは思っていない。君はいつ迷うことを放棄したのか。いつかどこかでそんな境地に至ることもあるだろうか。ではまだ迷い続けているのだろうか。迷いが一時的に晴れたとしても、生も死もいつか消滅することには変わりない。そこで何を迷っているのだろう。いつか終わりが訪れることはわかっているのに、その終わりが無効になるように画策しているつもりらしい。すでに終わってしまったのに続いている状況へ持ち込みたいようだ。それは矛盾しているだろう。たとえ矛盾していようと、その矛盾を矛盾として受け入れつつも、矛盾したまま継続して行きたい。そして継続が途絶えたとしても、それもそれとして受け入れつつも、途絶えた時空の中で再度よみがえりたい。そんなことが可能だとは思っていない。それが不可能だと思いつつも、結果的にはそんな思いとは裏腹に続いてしまうだろう。根拠は何もないがそんな予感がしている。君は君自身のことをあまり知らない。知っているのは君のことではなく、君が存在する時空から大きく隔たった時間と場所で起こった出来事について夢想している君を知っているだけか。そうやってここには存在し得ない君は何かしら思い続けている。君ではなく君の影が思い続けているのかも知れない。君とは別人の君はそんな戯れ言は読み飽きたかも知れない。飽きたところでどうしようもない。たぶんこれ以上はどうにもならないだろう。とりあえずさらなる継続の開始を期待しておこう。


9月15日

 それが誰の動作でもなく、機械か何かのように規則正しい動きを見かける。君は君自身のまるで操り人形のような動作を思い描く。何を思っているのか知らないが、次第に何を夢想しているのかわからなくなる。不意に口をついて出た、どこか遠くへ行きたい、という台詞の裏側で、どこへも行く気にはならない。不動点から可動線へ通り抜け、何が通り抜けたのか確認できぬままに、停止するタイミングを模索する間もなく、偶然にどこかで何かが止まるだろう。今日もどこかで虚しい努力が繰り返され、盛んにつまらないことが喧伝されている。枝葉末節な問題ばかりが論議されている。ところでそれは何の話だろう。何の話でもなく、そんな雰囲気だけの話でしかない。政治的な問題などつまらないだけか。部外者にとっては滑稽な話なのかも知れない。焦りを感じているのだろうか。焦っているのかも知れない。さらに苛立ちさえ覚えるというわけか。しかしつまらない問題に首をつっこみたくはないということか。彼らの脅迫に屈してはならないようだ。それは誰の脅迫でもなく、そんな雰囲気を醸し出している制度から発せられている脅迫なのか。誰もが彼らの行為に賛同して、何か行動を起こさなければならない、と脅迫してくる。そんな理不尽な押しつけには目を瞑って、とりあえず何もしないことにしよう。そんなわけで架空の世界に自足している。現状とは怠惰な心に言い訳を述べさせている状況のことか。いつの間にかくたびれたと思うことが多くなる。疲労を感じる合間に何を思考しているのだろうか。誰かが大いなる不幸をもたらす戦争について何か思っているのかも知れないが、それは君の思っていることではない。君は思うことを拒否し続ける。それは馬鹿げているからではないと思いたいが、思っても無駄と思うからでもないとしておこう。たぶんそれとは別のことを思っているのだろう。まともなことを主張するのが嫌になってしまったのかも知れないが、またそれをまともだと思うことも嫌になってしまったようだ。そのとき思っていたことはそんな浅はかなことではなかったはずか。だがそれの何が浅はかなのかわからない。もう何も思いたくないのなら思わなければいい、と思っていること自体が何か思っている証拠となるだろうか。やはりそれは馬鹿げた思い込みだろうか。そんなことではなく、当初はもっとマシなことを述べようとしていた。何が大衆運動なのかわからない。そんなものがいったいどこにあるのだろう。現状に対して有効に機能しようと行動を起こす人々のどこが気に入らないのかわからない。焦点がぼやけて何を述べているのかわからない。いつものようになかなか結論には辿り着かないようだ。結論など出てくるはずがない。しかしまさか結論が風の中にあるわけもないだろう。いったい誰がオーケストラの指揮者なのか、そんな時代遅れの比喩がなぜ現代に通じると思われるのか。あまりにも安易でいい加減な言説に浸かりすぎて、自ら考えることを放棄していると思われるのか。だがそれもくだらぬ苛立ちのバリエーションの一つに数えられてしまうだろう。


9月14日

 いったいどこへ留まろうとしているのか。ここからどこへ行くつもりなのか。どこへ行くつもりもない。ありふれたことを述べるなら、心貧しき者は物質的に満たされている。だから貧富の格差が縮まることはない。そんなことはどうでもいいことで、物質的に満たされない者が努力して富を獲得すればいいことか。どこかの誰かはそうやって成り上がってきた。そんな話に魅力があるとはとても思えない。では貧しき者は貧しいままでその一生を終えるべきか。そんな人生はありふれているかも知れないが、それではテレビドラマにならないだろう。だがたまにはそんな話があってもかまわないかも知れない。命令する側の人間とされる側の人間が入れ替わることばかり考えていても仕方がない。下克上なんていつの時代の話だろう。すべてがあり得るのと同時にあり得ないことばかり語りたがるのもそのすべてのうちなのか。誰かが思いついて語りたがる話はどこかで聞いた話と似ている。世の中がそんな話ばかりに満ちあふれていたら疲れる。限りのない疲労を呼び込む労働の最中に何を思うだろう。人はそれ以外に何も思わない時に何を考えているのか。画面上ではどんな話が構成されているのか。それ以外のそれとは何か。そこからここへどうやって帰ってきたのだろう。そこでは何が言葉として奇怪に響いているのか。感知し得ぬ内容を用いてどんな表現を期待しているのだろうか。もはやどんな表現も可能ではなくなっているのだろうか。まだ絶望からは程遠いだろうか。その水準で絶望できる人は幸せだ。その程度では音を上げさせてもらえない。絶えず始まり以前の状態から出発しているので、行き先も終着点も知らずにどこへ行けばいいのかわからない。画面の向こう側の誰かは爆心地で下らぬ自意識過剰に陥っている。他人の死を言葉で受けとめているつもりらしい。その心象風景を落書き以下の絵に託している者もいる。人は感情に頼って行動するとどこまでも幼稚になれるらしい。表現は表現であり事件は事件であり続けている現実に無自覚な愚か者が辺りを徘徊している。その抽象性には現実を無視する甘えが宿っている。知性にも肉体にも限界があることは何を示しているのだろうか。できる範囲内でしかできないことを否定するつもりはない。怠惰に負けてそれをやろうとしない心情も理解できる。否定するつもりはないが肯定もしないし、理解できるが賞讃しているわけではないのも当然のことか。つまらない映像のごまかしにはもう飽きている現実にも確かな実感を伴っている。


9月13日

 もう否定的な見解は聞き飽きたか。さっきまで何を否定していたのか思い出せない。思い出すのが面倒なので忘れてしまったことにしておこう。とりあえずは何も考えていない振りを装っているのだが、そこからどんな効果を引き出そうとしているのか。それは考えすぎで単なる誤解かも知れない。誰も彼も何もかも知っているわけではない。焦りとともにそんなことはないと否定したい。わざと焦っているつもりのようだ。焦りながらも焦りを考慮しつつ、効果的な言葉の組み合わせを模索し続ける。どんな効果を期待しているかは不明のままに、君は思いもしなかった心境に近づきたいようだ。わかりにくさを飛び石に見立てて、適当な庭園で散歩を楽しんでいる。そんな表現に意味は宿らない。青空の彼方の地平線近くに入道雲がへばりついている。いつものようにつながりを見いだせない。つながっているのは地続きの範囲に散らばる電信柱ぐらいか。上水管や下水管も一定の範囲内でつながっているだろう。雲と雲の間に見慣れた山がそびえ立つ。言葉はそんな風に風景を描写しているのだろうか。それを読んでみれば適当な景色を想像できるだろう。だがそこで挫折してはいけない。面倒くさがらずに、さらに言葉で説明すればいい。君はこの世界の隅々まで神の意志が行き渡っていることを信じられるだろうか。なぜそれを信じようとしないのか。意志は人間の精神作用から生じているだけと思われるからか。そうではなく、ただ信じるのが面倒だからなのか。信じるのも信じないのもそのどちらも面倒くさいから、そんなどうでもいいことはこの際無視して、早く忘れてしまいたい。今の状況に関係ないことは考えないようにしよう。単純率直に単純率直ではないようだ。間違った結論に至ることをよしとしなければやっていかれない。形而上学的には物事の本質を見極めるのがその使命となるようだが、その本質が思惟する度に違ってくる事態が、世界の本質を形成しているのかも知れない。一つの結論に至る道は寄り道を無視することでしか達成されないだろう。寄り道はやがて回り道となり、回り道の途中で道に迷い、気がつけば迷路の中で行き先を見いだせなくなってしまう。それでも結論という一定の成果に辿り着けた人は幸いだ。何とかそんな気休めを見いだそうとしているが、そこに辿り着いたと思ったとたんにまた別の道を歩んでいる自分に気づく。またとりとめのない現実に直面して途方に暮れる日々が待っているのかも知れない。まったくどこまで行っても先が見えてこない。


9月12日

 どこかにありふれた風景を眺められる場所がある。しかしそれを眺めている者には切実な思いが欠けている。だが風景を眺めるのに切実さが必要だろうか。ただ何気なく眺めていてはいけないのだろうか。荒涼とした風景を何も思わずに眺め続ける。それを荒涼とした風景と思うことが、何も思わないことと矛盾しているかも知れない。そうやって語る必要のない蛇足が語られる。君は本当にそう思っているのだろうか。本当かどうかわからないが、仮にそれが嘘であったとしても、嘘をつく必要も理由も見当たらない。どうでもいいことを語っているようで、後から虚しい気分になるだけだろう。しかしそれを語っているのは君ではなく、その語りを聞いているのも君ではないかも知れない。もしかしたらそこでは誰も何も語っていないのかも知れず、そこで何か語っているように装わなければ、そこから先へ進めないのかも知れない。実際には何を眺めているわけでもない。晴れた暑い日の二日後に明け方の星空を眺めている。それをきれいだと誰が思うのか。誰かが思い誰かが思わないだけか。誰の思いが何に反映されているわけでもない。虫の鳴き声を聞いている。影のようにつきまとう意識は内面に絡んでくる。何をやることもなく、しかし途方に暮れることもなく、文字と文字の間の空隙に見とれることもなく、様々な出来事から構成された、その出来事が何も反映していないように思われる文章を読まずに眺める。別に何のために生きているのでもないと思いつつ、何かによって生かされていることを、その原因が取るに足りないことだと考えようとしている。しかし反発する思考にどんな未来が待ち受けているかを知ろうとはしていない。それを知ってどうなるものでもあるまい。たぶん以前とは少し語り口が変わるだけか。その変化が虚しい努力のたまものとは思わないようにしよう。そう思わせる原因が下らないと思われるからそうしているわけでもなさそうだ。ただその場の心境に会わせて若干変わっているだけだろう。何をどんなに変えようと結果は変わらないと思う。それが無駄話の域を脱することはないのだろうか。無駄話だと思えばその通りになるだけか。そうではないと思えばそうではなくなるはずか。そんな簡単に内容を変えられたらどんなに楽なことだろう。楽であり楽しいかも知れない。そう思って苦痛から解放されたつもりになる。そんなことを思っているうちに明け方の空に雲が立ちこめてきて、何かの前触れを予感させるかも知れないが、天気などいくら変わろうとそのうち適当に晴れるだろう。


9月11日

 誰かに向かって遠回しに何かが告げられているが、その告げられた何かがわざと聞こえないふりを装いながら、本意でないのに自分が間違えたことにしてしまう。忠告など当然のごとく無視して失敗を導き出す。そしてそれでいいと思っている。失敗こそが間違いの証であることは明白だが、それでも間違いにはある程度満足しているはずだ。間違うという行為そのものは間違っていない。現実にその間違っていない間違いによって適当な文章を構成しようとしている。それが間違うことによってもたらされた収穫なのか。だがわざと間違えているわけではない。ただ正解を求めようとしていないだけのようだ。何が正解としたらいいのかわからないので、とりあえず結果的には失敗であり間違っていたことにしておこう。現時点ではそうとしか思えないのだが、その必要もないのにそう思い込むのは浅はかだろうか。そうとしか思えないのなら仕方ない。しかし後から思えば、それは間違ってさえいなかったのではないか、という疑念も湧いてくるだろうか。要するにそれはどうでもいいことの部類に属する結果なのだろうか。結果でさえなく、まだ結果まで至っていない過程の段階ではないのか。だが過程でさえないとしたらどうなるのか。まだ始まってさえいないということになるのか。いったい何について述べているのだろうか。まだ何についても述べていない段階なのだろうか。言説が闇雲に後退し続けている。もっと簡単にわかりやすく述べられないものだろうか。何もないのにわかりやすくなるはずもないか。それは単なる独り言なのか。彼は孤独に耐えられずに絶えず他人との衝突を好む人々のことを思い出す。脚本的にはそこから何とか他人とのやりとりが実現する段階まで持っていきたいようだが、肝心の話がまったくかみ合っていない。君はなぜ働いているのか。生きるために、家族のために、そんなありふれた回答を予想しながら、唐突にそれとは関係のない話題を語りはじめる。彼は過去に犯した過ちを帳消しにしたいらしい。いつまでもそんなことにこだわっていたくないと思いたいが、忘れようとする度に執拗にあの時の悪夢が脳裡によみがえってくる。だからことさらあの出来事を思い出そうとするのか。あの出来事について何か気の利いた言葉を繰り出せるだろうか。その前にあの出来事とは具体的に何を指しているのか。今となっては何もかもが見失われている状況で、さらに多くのものが奪い去られようとしているが、いったい誰が何を奪い去ろうとしているのか。それは誰でもなく何でもないだろう。ただ時が経過するだけなのかも知れない。ぎくしゃくしたやりとりの後、別れ際に彼の口元が微かに言葉を発したように見えたが、そこで何か気の利いた台詞を期待していたわけか。二年前の今日が何か特別な日だと思い込みたいわけか。いずれにせよ大したことではないのだろう。一連の行為が成功であっても失敗であってもかまわない。


9月10日

 想像上の空間では特定の誰かが自発的に何をやっているわけでもない。誰もそれが作動するのを望みはしないだろう。しかしなぜ君はことさら無意味な結果を求めているのか。そんなことはないと思いたいところだが、結果的にそうなってしまっている現実を前にして、そんな嘘を信じていいのか、あるいは信じない方が無難なのか、そのどちらにすればいいのか、あるいはどちらも違っていると思えばいいのか、なんとなくそんなどうでもいいことで迷っている。だがそんな迷いも虚構の中にあるのかも知れず、ただそうやって言葉を弄んでいるにすぎないのではないかと思われる。何をくどくどとわけのわからないことを述べているのか。そうやって誰に何を訴えかけようとしているのだろう。別に訴えかけているわけではなく、昔のことを思い出しながら、何か適当なことを述べられる可能性を模索している。それは奇怪なことかも知れない。すでに可能性を通り越して、現実に何かしら言及しているではないか。その何かしらの内容を知りたいところか。たぶん昔から何も変わっていない。確実に何かしら変化しているのに、敢えて何も変わっていないと述べているだけかも知れない。誰がそんなことを述べているのかは知らないが、一方ではそれが嘘であることを百も承知しているはずだ。誰かではなく、君でもなく、影でもなく、それらのすべてが含まれている意識が何かしら語っているのかも知れない。そんな風に考えを巡らしていると、何か虚構ではない現実の意識の動きを捉えているような錯覚を覚える。ここは冗談に逃げるわけにはいかないのだろうか。それほど馬鹿げていると思わないが、それはやはり思い違いかも知れない。やはりここは意味不明だが逃げた方が良さそうだ。唐突に馬鹿げた人物の馬鹿げた言動に一喜一憂する人々のことを思う。しかし勇ましい人の勇み足をあげつらうのも馬鹿らしく思えて、昔ならわざとらしい冗談を交えつつ、いい加減な言説に終始してしまうところをぐっと押さえて、その内容についてはいっさい触れず、ただ足早にその場を通り過ぎる。もしあなたが愛の中でそれを思い出すならば、そのほほえましい光景を自らの都合とは無関係に受け入れてしまうだろう。人間は適当に生まれて適当に去って行くものだ。去りゆく人にもそれなりの人生があり、去り際にその人生を何か適当な言葉で飾り立てるとしても、それを虚しい行為だと馬鹿にするには及ばないだろう。そんなことは当人が先刻承知していることか。すぐに忘れ去られる無意味な結果を求めるのにもそれなりの理由でもあるのだろうか。通り一遍の哀悼の意を捧げられておしまいになるだけだろう。しかしそこに誠意が不在だとは思わない。通り一遍なことが何よりも誠意を表している。儀式には感情を込めるべきでないと思われる。つまらぬ感情は行き場のない方が良い。


9月9日

 眠気さえ催す他愛のない状況をやり過ごしたつもりが、それにも勝るとも劣らないどうしようもなく下らない思いつきにもつきまとわれて、やっとのことでそれを振り払ってもなおそこに生じている空虚が鬱陶しいので、そんな思うようにいかない現実から逃げる素振りを見せながら、途方に暮れ絶望に打ちひしがれている振りを装っているようだが、それでも当たり前のように退屈な日々を暮らしていけるらしく、まったく自己の意志や思惑など簡単に無視されるがままに、ただ時間が過ぎ去って行くだけだ。それ以上いくら言葉を操作しても何ももたらされはしない。操作しようとすると反対に操作されてしまう。誰が操作しているのでもないのに、なぜか操作されているような気になってしまう。こんな調子では誰かの何かを評する言葉など見いだせはしない。弔鐘の音色を聞いてみたい。その奇妙な言葉の響きに興味がある。そこで誰が弔われるのかを知りたい。それはいつの話なのだろう。過去のある時点において話の結末が二転三転しているようで、それでも話を続ける気があるのかないのかわからなくなり、気がつけば話すことを放棄してしまった君を虚空に見いだしていた。たぶんそこから言葉の連なりが構成されて行くのだろう。いつものようにまわりくどくなる。どこかでボタンの掛け違いでも起きているのだろうか。何かが食い違っているのかも知れないが、その食い違いを利用しつつ、つながりの希薄な言葉が適当に連なって行く。別に何も思わないのに思っていると述べているようだ。石ころだらけの道で蟻が踏みつぶされる。遠い土地でどんな物語が生まれるのか。誰を頼りにしてそれをやろうとしているのか。もうすでに終わってしまった物語について何を述べれば納得がいくだろう。それでもその物語について何かを語ろうとしている。一縷の望みにしがみついて、懐に暖めてきた妄想に栄養を補給し続ける。何とか虚偽の慰めから解放されたいようだ。気休めの励ましには苛立ちを隠さない。惨めな境遇だとは思いたくないそうだ。人々が反応する言葉は決まりきっていると思われるが、誰もが涙を誘う状況もそんなものだろうか。それらの涙には欺瞞と偽善の印が刻まれていたりするのか。だが涙を流せば誰からも非難されないわけでもないだろう。涙とともに何かを訴えてくるのは卑怯者のやることか。誰もそこまで酷薄にはなれないか。君は感極まっている者には何も言いたくなくなる。どうやってそれをやり過ごすことができるだろう。だが今その必要を感じているわけではない。それはすでに過ぎ去った経験でしかないだろう。何も技術的に回避したいわけではなく、ただそんな光景を何の感慨も排除しつつ表面的に眺めていたい。見え透いた演技には無感動で対応したいようだ。


9月8日

 君は黙っていると果てしなく黙り続けるようだ。何も言わずに黙々と作業をやり続ける。それで翌朝には何ができあがるのだろうか。たぶん何かしら不満を誘発させる言葉の束が記述されていることだろう。そのとき君は何を思っているだろう。何かつまらぬ思いを抱くに違いない。そのとき何が君の邪魔をするというのか。それをつまらないと思うことのどこがいけないのだろうか。別にそれほどいけないわけではない。ただつまらないと思うことのどこに関心を惹くかということだ。たまにはつまらないことに興味を覚えるときもある。だがいったい具体的に何がつまらないのか。何となくつまらないことを述べているうちに焦れったくなる。あまり性急に答えを求めるのは良くないことだろうか。焦らず根気よく語り進むうちに、自ずから答えが近づいてくるかも知れない。そうなる前に終わってしまうかも知れない。わかりやすい結論に至ろうとは思わない。周りを取り巻いている環境がそうさせない。何かを知れば知るほど、まったくわからないことばかりになる。わかろうとすればするほどわからなくなる。その反対に気に入らぬことはわかるまいと思えば単純になれる。わかりやすい保守的な人間になれる。その程度だと思えば本当にその程度で間に合ってしまえる。君はどの程度になれば満足するのか。欲望は本当に底なしなのだろうか。ただどん欲に無駄な知識を収集しているだけで満足なのか。わざとらしくへえへえ言っているテレビ番組程度で満足できるだろうか。何か本質から外れているような気がするのだが、それでは本質とはいったい何なのかと問われれば、たぶん答えに窮してしまうだろう。青天井のさらなる高みは高さそのものが無意味になる宇宙空間へと迷い込む。天上界は宇宙空間よりは低いのかも知れない。人の想像力が及ぶ限界は、せいぜい積乱雲が届く程度の高みか。それよりさらに高くなってしまうと、それは高いとは言わずに遠いという表現になるかも知れない。高さに限界があるのと同じように低さにも限界がありそうだ。地球で一番低い場所はどこだろう。中東の死海か。感覚としてはそれに類する低地や、あるいは深海の海溝部を思い浮かべるが、客観的に判断すればそれは地球の中心点になるだろう。もし地中をまっすぐ深く掘り進んでいけば、やがて地球の最深部にある中心点に達して、それ以上掘り進めば今度は高度が高くなって、結局は地球の反対側の地表面に達するだけだろう。そんな高さや低さには魅力が伴わないだろうか。そういう水準で高かったり低かったりするのは、やはりつまらないか。誰もが興味を惹くのは、羨望と嫉妬の対象であったりする上流社会とかそれに類する身分であったり、嘲りと軽蔑の対象であったりする低脳とか低級とかいう概念であったりするのかも知れない。相対的に自分の地位や身分や頭のできが、高という名の付く言葉または意味するもので言い表されれば満足するだろうか。しかしそういう願望の持ち主には俗物という言葉がふさわしくなってしまう。

9月7日

 邪念が消え去ろうとしている。邪念だけで生き延びてきたのに、それなしでこれからどうやって暮らしていけばいいのか。内部の空洞に何かが生まれつつある。ひからびた心に湿気が入り込んだらしく、カビが大繁殖して思わず咳き込む。掃除をするのを忘れていた。掃除機が全盛の折、今時掃除にほうきは流行らないだろうか。ほうきでどこかにいるらしいディラン信奉者たちを塵取りへ掃き込んで欲しいか。彼らとともにディランの歌を称賛するわけにはいかないらしい。利いた風な彼らの意見が気に入らないようだ。だが彼らの意見は間違っていないはずだ。それなりの説得力も持っている。それの何が気に入らないのだろうか。彼らがディランについて語っている時、そこに醸し出される趣味的な姿勢に嫌悪感を抱いているだけかも知れない。ディランを特別な存在として扱う必然がこの時代には見当たらない。なぜそう思うのだろうか。たぶんそれは彼らと君の立場の違いに還元されるかも知れない。君はディランをただのフォークソングの一種と割り切って聴いている。もはやそれが可能な時代になってしまっているような気がしている。今さらボブ・ディランを知っていることぐらいで自慢するのはおかしい。例えばなぜそれがボビー・ウーマックであってはいけないのだろうか。どうも君はいきなりおかしな主張に突入しようとしているようだ。それはどういうことなのか。ウーマックにもイカした曲がたくさんあるとでも主張したいわけか。それは単にボブとボビーの違いだけか。歌っているジャンルが違うだろう。ジミ・ヘンドリックスは確かディランの曲を歌っていたが、ウーマックの方はキャロル・キングの曲を歌っていた。それらの曲に幻想を抱いていた時期を忘れてしまったらしい。ここにある現実から遠く離れて、フィクションとしての現実と向かい合うことができなくなってしまったのか。幻想が現実から遠く離れては困るようなら、現実そのものに幻想を重ね合わせてみればどうか。そうすれば幻想が幻想でなくなり、現実も現実でなくなるだろうか。幻想と現実の隔たりをなくしてどうするのだろう。どうなるわけもないような気がする。それではまったく実感が伴わずに、単なる言葉上での話にしかならない。しかし実感とは何のなのか。曲を聴いている実感と歌詞を読んでいる実感と現実の行動との間に、どんな関連を想定したら現実感を持てるだろうか。そこに利いた風な説明を用いて何らかの説得力を持たせようとすると、たちまち嘘になってしまうような気がする。ディランが単なるフォーク・シンガーであっては何か不都合が生じるのだろうか。その歌を聴いたり、あるいは歌詞を読んだりして、何かしら感銘を受けただけでは物足りないのだろうか。いったいそれ以上の何を望めば気が済むのだろう。わからないのならボビー・ウーマックのI Can Understand Itでも聴けばわかるか。そういえばウーマックもヘンドリックスと同じくディランのAll Along The Watchtowerを歌っていたことに気づいた。


9月6日

 フィクション以外に悪夢にうなされて寝汗をかくこともあるのか。やっと目が覚めたようだが、そこからどうやって言葉を発すればいいのだろう。どこかの誰かはなぜか禁句を口にしたい衝動に駆られている。そんな衝動を抑えながら、具体的な禁句を思い浮かべることは避けて、嘘の禁句を捏造してみようか。何をわけのわからないことばかり述べているのだろう。書くことばかりに気を取られ、肝心の内容が何ひとつまともに出てこない。だから出直してくることになるのだろうか。なぜどこから出直せるのだろう。とりあえず意味が通るように修正する必要がありそうだ。意味がないのにどうやって意味が通るのか。誰もそんなことは求めていないかも知れない。強引に意味に巡り会うようにするための算段は不要だろう。不平不満はいつの世にも聞かれる背景放射だろう。気に入らないことが何もなければこの世はあの世になってしまう。世の中に対する不平不満が現実を構成している。それでは君は誰に何をわからせたいのか。何もわからせるつもりはなく、わからないままに作用する言葉のあやを示すだけなのか。肝心な内容をいっさい省いて、表面上の形式に固執しているようだ。虚無以外に何も求めない心は誰の心でもない。空間上のねじれの位置に互いに交差し得ぬ直線が引かれる。その直線上を進むに従って、互いの隔たりはどんどん増して行く。たぶんその距離感が空間の奥行きを感じさせるのだろう。そこにあるのは虚無ではなくただの現実にすぎない。虚無でさえ何らかの意味と雰囲気を伴っている。虚無について考えるのは自己矛盾になるだろうか。何もないのに、その何もないことについて考えを巡らしているようだ。それは嘘の響きを放射する。何もないのに何かあるはずだと思わせる。そこに何かを捏造しているのだろう。何かという言葉を文章の中に置いてみる。それで気が晴れると思うか。憂鬱な気分に拍車がかかるだろうか。そして最後にやってくるのは何なのか。なぜ最後のことまで考慮する必要があるのか。それは常に付け足しにすぎないように思われる。戯れ言の続きには別の戯れ言が付け足されるだけのようだ。そこで終わらせないために続きが必要らしい。そして苦悩のただ中での中断が逆に君を勇気づける。その中断が何もないのにまだ先があると錯覚させる。その錯覚が作業の継続を可能にしてしまうようだ。錯覚が現実を変革させることもある。正しい行いは現状維持に貢献するばかりなのか。もはや勘違いや思い違いしか現状を変える手だてはないのだろうか。そんな風に思うこと自体が認識の甘さを温存させているわけか。何とか話の筋道を再構築しなければ意味不明を脱することはできないようだ。


9月5日

 どこかで何かが違っている。過去は未来に何を託しているのだろうか。果てしなく愚問を問うている。不可能とはどんなことだろう。避けて通ることのできない状況になるのを避けようとして、避けられない事態に見舞われている現実を無視する。それはまるでわざと愚か者を演じているかのように振る舞っている。それは無理というものかも知れないが、その無理を無理と思わない、無理なのに無理ではないと思い込もうとする、ねじれた意識がどこかに存在していて、いつまで経ってもそこから抜けきれないでいるらしい。架空の君は絶えずその先を求め続けている。それが無理な願いなのだろうか。やはり君も無理ではないと思い込みたいようだ。無理を承知でそれでも無理を押し通すつもりなのか。そんな強情さが仇となっていつか取り返しのつかない事態に陥るだろう。もうすでに陥っているのか。そうであったらどれほど救われることか。まだ実感としては何ひとつ成し遂げられていない状況で、取り返しも何もあったものではないはずか。たぶんそれが嘘であることはわかっていながら、意識はそれをなかなか認めようとしない。認めたくないので盛んにそこへ至らない回り道を模索している。もう辿り着いてしまっている事実を、新たに迂回路を設置することで帳消しにしたいらしい。この期に及んで屁理屈を並べ立てるようなものか。いったん来た道を途中まで引き返して、そこからわざと横道へ逸れたりして道草を装っているようだが、はたしてそれで通用するのだろうか。いったい何に対して通用すると思っているのか。たぶんそんなことを思う余裕はなく、それだけで精一杯なので、そこまでは考えが及ばないかも知れない。今日も彼は何の変哲もない部屋の中で目を覚ます。まだ朝には少し間があり、この時期のこの時間帯は真っ暗なことに気づく。誰かの思い込みによると闇こそが思考の源泉となるはずか。闇の中でどこからか導かれているような気になってくる。何もやらずに何か適当な言葉が脳裡に浮かんでくるはずか。そうなったらしめたものか。なかなか思い通りには行かない現状が目の前に立ちふさがっていたりするだろうか。朝の光を待ち望みながら夜の闇が醸し出す居心地の良さに未練がある。それはいつものレトリックで装われた矛盾になるだろうか。矛盾にすらならないかも知れず、当然の成り行きを矛盾だと勘違いしているだけか。まったくどこまで行っても迷いが晴れることはなさそうだ。


9月4日

 努力が報われる時、成功を讃える歓喜の渦に巻き込まれて、どこかの誰かが有頂天になる。我を忘れている光景が画面に映し出される。それを横目で眺めながら何もない時を無言のまま過ごしている。この沈黙がいつまで続くのか沈黙している本人には見当がつかないらしい。強いられて沈黙しているわけではなく、自発的に沈黙しているわけでもない。ただ言葉を発せない状況がしばらく続いているようだ。つまらない時をいつまでも過ごすことには慣れている。何の面白味もない状態が好きなのか。人は何のために生きているのだろう。そんな問いが愚問であることは百も承知で、それでも性懲りもなく執拗に自問してみる。たぶん何かのために生きているのだろう。その何かが無意味とか虚無とかだったとしても、何かのために生きていることには変わりないだろうか。それは〜のためにという文章から導き出される目的なのだろうか。〜のためにの〜に何を代入しても、それが目的となってしまうのかも知れない。そんな目的に何の意味があるのか。中には意味のある目的をその文章の〜に代入している人もいるかも知れない。自分は〜のために生きていると信じている人もいるだろう。たぶんその〜に確信を持てる人は幸いなのかも知れない。その道一筋に努力できる人は社会的に人間として立派だと見なされるだろうか。そういう人は信用や信頼があるし、他人として友人として安心して接することのできる人の部類に入るかも知れない。要するにその手の人は表面的には安全パイと見なして良いということか。その反対に目的の定まらない不安定な人は危険人物になるのだろうか。表面的にはそんな割り振りが可能かも知れないが、他人を二項対立の範疇で決めつけて、それぞれに応じた接し方で区別する気にはなれない。他人をその程度の人間として見下すのは虚しいことだ。その人にはもっと別の可能性があるかも知れない、と思わずにはいられなくなる。その程度の人だと見下している当人がその程度の人だと他人から見下されている可能性もあるので、安易な決めつけは油断につながっているかも知れない。そして周囲の環境からその人だけを取り出して評価すること自体にも認識の甘さが潜んでいるだろう。周りの環境や生い立ちがそのような人物を作り上げてきたことは確かだ。そんな風に考えると、犯罪者を裁くことに大した意味はないのではないかと思えてくる。要するに被害者やそれに同情する人に対する言い訳や気休めとして、裁判所が世間体を気にしつつとりあえずの罰を下すことで、ルールを守っている人々の不満を解消する、という意味合いでしかないのだろう。普通はルールを破ると罰を下されるので、ルールを守っておいた方が無難だと誰しもが思うところかも知れないが、様々な事情で守れなくなってしまう状況に追い込まれる人は後を絶たないだろう。実際に社会がそういう成り行きを後押しするような状況になっている。やらなければならないのはそういうルールを守れなくなってしまった人々を罰することよりも、そういう成り行きにならないようにルールを改正することの方だと思う。人殺しを死刑にすることばかり考えている人は愚かさの極限にあるのかも知れない。


9月3日

 迷い疲れて何もできなくなる。それでも迷うことをやめられない。それのどこに逃げ道があるというのか。逃げているのではないだろう。そこには何もないのに今さら何を思い出そうとしているのだろうか。思い出そうとしているのでもないはずだ。たぶんそれはいつもの嘘で、何もないはずもなく、何かがそこにあるからそれを表現したいのだろうか。その何かが迷いを引きつけているとでも言いたいわけか。それでが原因であやふやなことを述べるとでも思っているらしい。誰がそう思っているのか不明だが、それは当たらずとも当たるとも遠からずの内容になろうとしているわけなのか。そんなことがあるはずがないと君は思っている。例えばそれはいつもの君が登場する毎度おなじみの構成とどんな関係にあるのだろうか。関係があるはずもないと君は思っている。いつも唐突にあり得ない時空に出現しているつもりらしく、君が登場した時点で、そのほとんどは虚構の中で展開される話になってしまう。そんなわけで虚構の君はさっきから無言のまま同じ言葉を繰り返し記述しているようだが、一向に書き込むペースは速まらずに、そんな状況でもうかれこれ三日が経とうとしているのに、まだほんの数行しか書いていないようだ。その場の思いつきではもはや何も述べられなくなっているのかも知れない。それがいかにくだらない行為に結びつくか、それとは別の時空で繰り広げられているつもりが、いつの間にか現実の行為と混じり合う、ということになっている架空の物語の中では、その黙して語らない言葉を唱えると、頭が変になりそうに感じているらしい。被害妄想的には誰が変になって欲しいと願っているのかを想像すると、なぜか愉快な気分になるようだが、君はそこで無意識のうちに取り返しのつかないことをやり損なっているように思い、実際には取り返しのついているありふれた現実を恨めしく思うのかも知れない。何もせずに何かをやっている振りをしているだけでは気が狂うこともできない。別に気が狂いたいわけではないが、なぜ君はそんな風にわざとらしくエキセントリックな状況を空想するのだろう。そう思うことが何もない現実に対する気休めの効果をもたらしているわけか。だが一方では自分が空想しているわけではないと頑なに思い込んでいる。そのようにして構成されようとしている文章そのものがあらぬ空想を書き込ませているだけだと思いたい。だがそれも嘘を述べているだけなのか。なぜそれがそうではないとわかるのか。感性のどこかにそれを知らせる機構でもあるのだろうか。だが今までのやり方は間違っていると宣告されたらどうなるだろう。方向転換や軌道修正が必要となるわけか。何をやろうと、結局はこれまで通りになってしまうのだろうか。すでにそんな展開の途上にあるのかも知れない。やはり何を述べてもわけがわからないだけか。


9月2日

 またもや時の流れから大きく外れて、意識は過去の時空へ取り残されているようだ。いつまでもそこに留まることはできないのはわかっているつもりだが、なかなか過ぎ去る時間に追いつけずにいつも遅れ気味になってしまう現実がある。やがてそんな意識もどこかへ消え去るときが来ることを願いつつ、今日も過去の時間と悪戦苦闘しているわけか。なぜ意識はこの時間へ戻ることができないのだろうか。君の命脈もすでに尽きかけているのかも知れない。架空の人格にも死が存在するだろうか。君はどのようにして死という言葉と結びつくつもりなのか。それに関する適当な台本があることを前提として、君の意識は死に向かって静かに歩み続けていることになっているわけだ。もしそれが長編小説に発展するとすれば、まだ物語の終わりと死に巡り会うまでには数多くの言葉を尽くさなければならないだろう。そんな風に君の物語を構成すれば今より少しはおもしろくなるだろうか。根気と時間がないのでそこまではできないような気がする。ありがちな展開としては、冗談と戯れ言の範囲内で君は行ったり来たりするのが関の山か。そして現世に漂う生身の肉体は今もありふれた日常の中にどうしようもなく留まっている。別に今すぐ死にたいとは思わない。そうやって滅び去る未来へ向かうこともできずに、結局は今日も明日も昨日の繰り返しになってしまうのだろうか。いったい意識は今どこに留まっているつもりなのか。夢も希望もない虚無の中でどうやって生き続けるのだろう。留まっているつもりのここが果たして現実なのかどうかわからない。架空の話の中でそんなことがわかるはずもないが、そこにいることを俄には肯定できないらしい。しかし虚無とは何だろう。なぜ虚無に関心を持っているのか。そこに興味を惹く情景でも広がっているのだろうか。何もないのに情景も風景もないだろう。だが何もないことを語ることは可能だ。それを語ることが君の夢であり希望なのかも知れない。なぜそんな風に虚構の中へ逃げようとしてしまうのか。それで逃げているつもりなのだろうか。そうやって現実から逸れて嘘の情景を言葉で展開させようとしているわけか。往々にして状況描写とはそんなものなのかも知れない。何か現実から逃れるための口実を空想の中に構成してしまう。ただ単に目の前に美しい風景が広がっていると思い込もうとしているだけなのか。例えばそれは、富士山を眺めながらその雄大な景色に感動しつつも、すぐ足下の辺り一面に散らばっているゴミを見ようとしないのと同じようなものか。風景の中に都合の良いものだけを見ようとするのは当然のことか。見たままあるがままなどという風景はあり得ないのかも知れない。


9月1日

 フィクションに心打たれる時、人はそれのどこに感動するものだろうか。作者の思惑通りに感動したりするだろうか。思い出は過去を美しく飾り立てるかも知れないが、そうなるとそれは思い出ではなく物語となってしまうだろうか。たぶんその物語が思い出と呼ばれているのだろう。思い出とは関係のない話になりそうだ。何となくどこかで聞いた台詞を思い出す。誰かが何か利いた風なことを述べている。それらの行為をすべて許すわけにはいかないが、たとえどんな状況に陥ろうと自らを卑下してはならない。いったい誰が励まされているのか。唐突にそんな台詞を繰り出すが、そこから話の脈絡を構築できないようだ。次第に筋道のない希薄な話になっていく。その時点での評価はそれくらいにしておいて、すぐにその先を構成しなければならなくなる。また誰かが適当なことを述べる。人を安易に感動させてはならない。簡単に感動できる神経の方がどうかしているのかも知れない。時代の気分に押し流されて、流行り廃りの水準で感動できてしまうのは不幸なことなのか。テレビドラマのように激情に駆られて涙を流すような状況があり得るだろうか。そういう場面は避けて通るようにしているので、その手の状況を好む人の気持ちがわからない。極端な感情の発露を避けようと心がけるのは通常の神経だと思われるのだが、いつも破顔ばかりの人は何か心を病んでいるような気がするのは自分だけだろうか。それはその人の心が何かの防御態勢に入っているというサインなのかも知れない。いつ何時でも笑顔で挨拶を交わしてしまうのは営業用に調教された人間特有の癖かも知れない。ひねくれ者はそんな皮肉で我慢できるだろうか。社会の制度は人をロボット化する傾向にあるのかも知れない。多様性を肯定するだけでは様々な機能のロボットが多数出現するだけか。そこでの困難はどのような形となって現れるのだろうか。別にそこで何を目指しているわけではないので、何を目指しているのかわからないのは当然のことか。ロボットが人であってもかまわないだろう。単に人をロボットと呼んでいるだけなのだから、それは文章上のレトリックにすぎないだろう。人が単純ではないのなら、ロボットも単純ではない。そこに差異を設けるのは欺瞞だ。将来は繊細な心遣いなどもロボットにも可能となるだろう。人を特別な存在と見なすのが面倒になる。文明のすべては猿まねの集積で構成されている。だがそんな言葉を用いて人を否定してもはじまらない。何がはじまらないのか意味不明か。とりあえずあるがままの現状を認めることからはじめようとは思うが、はじめた後はどうすればいいのだろう。どうもしなくてもいいのだろうか。


8月31日

 雨空を見上げながら、季節を忘れて、それでも時は流れて、面倒なことも忘れて、何も思い出さなくてもいいようになるはずもなく、時流に流されて、時流に乗れるわけもなく、それでもどこかで何かをやり続けている。たぶんそんな表現は君にはなじまないだろう。だがどこかで完結させるわけにもいかないから、もちろん完結させることが可能だとは思わないが、ここはそんなやり方で納得しておこうか。納得できるはずもなく、納得しようとしてできない自分に気づく。何を迷っているのだろう。迷っているのではなくどこかで彷徨っているのか。そのどちらでもないような気がしてくる。詩人が繰り出す詩的な表現はわざとらしい。詩人ではないので詩心など知らぬ。だからこのままでは詩が心に響くことは不可能だ。心に響くのではなく、ただ身体を通り過ぎるだけか。何か語るたびに気恥ずかしくもわざとらしくなる。結果的に何も述べていないのではないかと心配になってくる。その程度では宴席の余興にもならない水準か。何がその程度なのかがわからない。その程度がどの程度の水準なのかも不明確だ。客観的には何も述べていないような気がしてくる。言葉が自然に出てきたように装っている一方で、技巧を凝らし、その方面で流布されている詩的な雰囲気に浸っているだけ、ということになるだろうか。だが依然として何を説明しているのかよくわからない。それのどこに詩があるのだろう。詩より先に説明がある。説明はあるが詩が不在だ。確かにそれでは心に響くことは不可能だ。それで架空の詩が誰かの身体を通り過ぎたわけなのか。詩に関して何を述べても的はずれになるようだ。それはおかしな引き延ばしになるだけだろうか。よくわからないが、影はそんな効果を期待してここまで話を進めてきたのかも知れない。ゆっくりと語り方を変えて行きたいらしい。そんなことが可能だとは思わないが、不可能と見なすにはまだ時期尚早になるだろうか。まだ変えて行く方向が定まっていない段階では、試みととしてはそれもありということだろうか。たぶんそれも冗談の範囲内だと思っている。何をどうやっても半信半疑ですぐに軌道修正が待ち受けている。当分はこれでいいという結果には結びつかないだろう。能力に限界があることはわかっているつもりだが、能力自体にわけのわからない部分があることは確かなところか。とりあえず何をやってもはっきりしない状態が続いているようだ。意識は妙に冷めていて、今ならかなり馬鹿げた妄想でも受け入れてしまうだろう。受け入れたまま何もせずその場に放置されるだけか。はたしてそれで受け入れたことになるのだろうか。


8月30日

 その場所は居心地が悪そうだ。だが無理して快適さを演出するには及ばない。小手先のごまかしがそう長く続くはずがない。それでもそのまま暮らしているのだから仕方ない。それは贅沢な悩みなのだろうか。それでもかまわないのに、なぜその上を目指そうとしているのか。語る対象を見いだせないのは、そうした向上心が招いた結果だろうか。だが見いだせなくとも何かしら語っている現状が一方にある。これ以上何を努力すればいいのか。そこでの向上心とは何だろう。それ以上を求めなければ、その水準で語り続けられるかも知れないが、そんなものを読み返す気にならない。そのとき影はいつか見た光景を思い出しているのかも知れない。何を思っているのか定かでない。わかっていること以外は何も明らかではない。わかっているはずなのにわかろうとしない。意味のない言葉からありもしない出来事を想像しているようだ。そんな妄想の行き着く先は怠惰と倦怠の日々かも知れない。わからないことをわかろうとしているのではない。毎度おなじみの試行錯誤を繰り返しながら、ひたすらわかろうとしない。ついでに何をわかろうとしないのかまでわかろうとしない。そのうち何を述べているのかわからなくなるだろう。それが無意識のねらいなのかも知れない。その程度の心理状態でわかってしまってはつまらないとでも思っているのだろうか。しかしいつまでもわからないままではつらい。そんな状態で居続けるのは精神衛生上良くはないだろう。ならば適当な時期を見計らって、わからなくてもわかったこととして、わからないままにその先へ進んでみるのも一計か。今はわからなくてもいつかわかるような気はしている。そういう気休めはいらないだろうか。いらなくはないが、ここはそれで納得しなくともその辺で妥協しておいた方が無難かも知れない。何もわからなくとも誰に非難されるわけでもない。だがどうやってわからない現状を受け入れることができるだろう。果たして困難な現状を自力で打開することができるのか。ただそこで立ち止まって足踏みしているだけでは、どこへも行けないだろう。もちろんそれでいいわけはないがどうしようもなくそうなってしまう。それは様々な水準でできることとできないことがあるということかも知れない。例えば大方の一般人は自動車を運転することはできるが、それを製造することはできない。機械を操作することはできるが製造することはできない。さらに一人で機械を製造できない場合が多く、その部品ごとにそれぞれ別の人が製造しており、それを製造するにもまた別の機械を必要としていて、その製造工程は複雑な分業体制の上に成り立っている。またそれを操作するにも操作の仕方を理解しないと操作できないことが多い。操作が複雑になればなるほど、操作手順を記した使用説明書は膨大な量になるだろう。それをどう使いこなすかは使う側の力量次第になるだろう。しかしそれではつまらないと思う。


8月29日

 不意にここを離れてどこか遠くへ行きたいと思う。しかしそんな思いはすぐに脇へ押しやられ、今日も虚無を避けきれずに、無意味な言葉の羅列を生じさせているようだ。それらのご託を後から読み返してみると、未だに何も語っていないように思われる。思ったことを語っているつもりが、いつものようにそこには具体的な内容が不在だということに気づく。それについて誰が何を思っているのかよくわからないが、確かさっきまでは君が何かを語っていたはずだが、なぜ君に具体的な内容を期待できるのか。君は単なる登場人物であり、語っているのは君ではない。語りは語られずに終わり、語っている君についても何も語られない。そんな状況に業を煮やして誰かが君に問いかけてくるかも知れない。だが語りの中に存在する君には応えようがない。君に何らかの反応を期待しているわけではないし、実体のない君に外部からの問いかけに反応できるはずもない。それは君が君でないからなのか。たぶん君は君であり、同時に君ではないということか。そうやってわざと話がかみ合わないように装っている意識の持ち主が君自身ではないのか。君の正体は君自身がよくわかっているはずだ。ひねりを多用した文章を構成するには君が必要なのかもしれない。それだけの理由で君は文章の中に存在している。そして君は影の存在を必要としている。誰かが君を必要としているように君は影を必要としている。虚構を通して影が君を内側から支えている。外部からの接触を不可避にして不可能にしている。かつて誰かがそんなことを語っていた。そのとき君は用心深く振る舞っているつもりの外見から見捨てられている。何に対しても無防備のままなのか。何を見つめているわけでもなく、見つめられている対象が不在なのか。君を見つめているのは君自身の影だけだ。しかし影に見つめるための眼はない。それは単なる思い込みにすぎない。そう思い込むのは自意識過剰に原因がありそうだ。だが虚構の登場人物の自意識にリアリティがあるだろうか。その辺で君は現実から逃げているのかも知れない。都合の悪い展開になると虚構へ逃げてしまう。しかしこの現実自体が君の作り上げた虚構から派生しているわけであり、君ではない君がいい加減に構成しようとしている話の上に、それらの虚構の現実が乗っているわけだ。要するに君はそれらをただ説明しているだけなのか。そして現実の君はここでナレーションをする役割をあてがわれているようだ。君はそうやって君について説明するばかりだ。そんな偽りの自己言及によって君自身の作業の継続を意図している。君にとってそれは著しく不毛な行為に思われる。早くそこから脱出したいらしいが、眠気が邪魔をして、面倒くさいので脱出劇は明後日に順延されることとなる。


8月28日

 何か思惑があるわけもない。ただこのところ同じような状況が循環しているだけだ。もはやそこには使える言葉がなくなってしまったのだろうか。この状況で無理に言葉を繰り出せば、また同じような表現に終わってしまうかも知れない。だが何も語らずに無関心を装えば虚しくなる。そんな思い込みが勘違いを招くのはいつものことか。本当に勘違いだと思っているのか。内心では正しい態度だと思い込んでいるはずだ。それが勘違いだと言いたいようだ。そんな結果が伴わない現実を前にして何も述べられなくなる。それ以外に何もないのに、これからどうやって語りを継続させるつもりなのか。いったい何をどうすれば続けられるだろうか。文字を記述し始めると、何も言葉が出ないことに気づく。何が君の邪魔をしているのだろう。誰も邪魔していないから何も出てこないのかも知れない。誰かが邪魔をしていることが判明すれば、それに対する抵抗の言葉が生じるはずであり、その誰かに対する闘志が沸き上がってきて、ありがちな罵詈雑言などで盛り上がれるかも知れない。しかし今はそんな気などさらさら無い。かつてそんな言葉ばかりがちりばめられた雑誌を読んでいた反動で、その手の言葉が醸し出す雰囲気を敬遠しがちになっているのかも知れない。虚しい結末しか招かない抵抗運動に嫌気が差している。しかし誰が過去に抵抗運動をしたといえるのだろう。誰が何に対して抵抗していたのか。今となってはほとんど忘れてしまったのだろうか。もはや誰も何も抵抗などしていないし、何に逆らうにしても、逆らう対象自体が誰かが逆らうことに大歓迎なのかも知れない。どうぞ思う存分に逆らって欲しいという意思表示を絶えず発している感すらある。逆にそうしてくれないと対象自体の存在意義が消滅してしまう。要するにその対象は危機感を抱いているという筋書きで話を進めたいらしい。いったい誰がそんな筋書きの話を語っているのか。やはりそれは君のことなのか。だが一方で君はそんな話にも飽きているはずだ。話している途中から馬鹿らしく思えてきて、そこでやめてしまうだろう。もっと魅力的な内容にできないだろうか。何も持ち合わせていない君にとってそれは無理な話か。それでもその場の思いつきで、適当な話をでっち上げて、何とかそれで急場をしのいで一段落できるだろうか。だが一段落ついた後はどうするのだろう。浅はかな思いはすぐに打ち砕かれて、また何もない現実がその場を覆い尽くすだけかも知れない。そこから抜け出すことは不可能なのか。もう気休めでは満足できないのはもちろんのこと、メディアを通じて唱えられるありふれた幻想に浸ることもできない。今まで経験してきた気晴らしのすべてが、退屈なガラクタとしか思われない。いったい誰がそんな風に思っているのか。たぶん君は冗談でそんなことを語っているだけだろう。その程度の話では、君ではない誰かはあまり本気になれない。そのうち影は退屈し始め、眠気が襲ってくるだろう。感覚としてはもうすぐ真夜中の時間帯に近づきつつある。


8月27日

 誰かが何かに見とれている光景が画面に映し出されている。それのどこに魅力があるのだろう。君にはあまり魅力が感じられないようだ。今の意味不明な君に何がわかるというのか。たぶん何もわからないが、いったんわかってしまえばすぐに興味を失い、遠からず忘れてしまうような内容に魅力を感じるはずもない。しかし何を遠回しな表現に終始しているのか。具体的な対象が何なのかまったくわからない。たぶんそこには何もないのだろう。何もないから文章に何の具体性もない。もうそんな風に思うのにも飽きてきた。ところでおもしろおかしく語ることを忘れてしまってからどれほどの月日が経過したのだろうか。今さら逃げ道を確保しようとは思わない。なぜできることをやろうとしないのか。できることをやってしまってはつまらないからか。ではできもしないことをやろうとして、結果的に行き詰まっている現状のどこがおもしろいのか。行き詰まりは苦しい。だがそこに未知の可能性がある。結果がどうあれ、確かにできるかも知れないと思っているうちは可能性があるのだろう。だが可能性だけではどうしようもない。何らかの確証が欲しいところか。確証があっても結果が伴わなければ、いかなる努力も無駄になるだろう。今やっていることが無駄になってもかまわないのか。しかし無駄にならないためにはどうしたらいいのかよくわからない。だがそんな逡巡は意味がない。本気でそんなことを述べているのではないはずだ。今の君にとっては結果も確証も努力も可能性もどうでもいいことだろう。もうすでに終わっているかも知れない。終わったことについてあれこれ述べてみても始まらない。季節は秋へと移り変わろうとしている。夏の終わりに何を述べているのだろうか。たぶん夏の終わりとは無関係なことを述べているつもりなのだ。季節と同じように着実に移り変わろうとしているわけか。いったい何が移り変わっているのだろう。以前と同じようなことを述べているだけなのに、何かが微妙に変化してきているとでも言いたいのか。自発的に何も語らないことを心がけているのだろうか。やはりそれでは意味不明になるだろう。それでも何かしら語っているのだから、結果として文章が生まれているはずだ。その辺が矛盾しているようだ。その程度では物足りないのだろうか。もっと完璧な沈黙へ近づきたいとでも思っているつもりなのか。それこそできもしないことか。あまりにも安易に不可能を抱きすぎかも知れない。不可能に行き着く前にまだやっておくべきことがあるはずだ。


8月26日

 君は自分が何を望んでいるのかわかるだろうか。何かの弾みに不意にそんなことを思うが、それは昨日のことのように思われる。そのとき君が何を思ったのか思い出せない。辻褄が合わないかも知れないが、そんな言葉以外に何を記述できるだろうか。君はありふれたイメージに惑わされたくないのだろう。犯罪者を憎む人々の間から犯罪行為が生じている。そんな逆説にどうやって説得力を持たせるつもりなのか。現時点では説得力など何もないし、持たせるつもりもない。ただそんな風に感じているだけかも知れない。犯罪の加害者と被害者の間に対立を設けたくはないのだろう。君は対立を煽っている人々が嫌いなようだ。今も愚かな野次馬どもが北朝鮮を非難し続けている。君はそういうゴミクズのような輩が許せないのかも知れない。たぶんそんな言葉を用いてしまう君の感情が説得力を失わせているのだろう。だから無用な対立を避けるためにもなるべくその話題は避けて通りたくなるが、それでも何か付け加えるとすれば、北朝鮮を敵と見なしたいのなら、その敵を助ける度量が必要だと思う。そういう心理的あるいは経済的な余裕がなければ何事も良い方向には進展しないだろう。分別のありそうな大人が同じ日本人に向かって北朝鮮の非を喧伝しているだけでは情けない。とりあえず交渉する立場の人たちはそんな傾向の世論に抗って冷静に対応しているような気はする。別に交渉には何も期待していないし、どうなってもなるようにしかならないのであって、それについてはどんな結果に終わってもかまわないだろう。これからも適当にお付き合いしていればそれでいいのではないか。そのうち外部からも内部からも変わって行くのだろう。まあ強引に変わって欲しいのなら、中国やロシアが行動を起こすことに期待するしかないだろう。だがそんなことを述べている君は何様のつもりなのか。単にニュースを見てそんな風に思っているだけではないか。どうやらいつまで経ってもくだらぬものに惹かれてしまうようだ。そして本気でそんなことを思っているわけではないのもいつもの通りなのか。今さら時計の針を過去へ戻すわけにもいかないだろう。もういい加減にその手の時事問題的な言説からは卒業すべきではないのか。もちろん卒業するしないの問題ではない。感情がそういう稚拙な水準へ戻りたがっているようだ。何かが違っているのだろう。またなかなか容易には言い表せないものが内部で燻っているらしい。それをもう少しわかりやすく表現したいのだが、今のところはうまくいっていない。この調子では先が思いやられるか。はたして思いやられるような先などあるのだろうか。


8月25日

 明け方に目が覚めて、怠け心を何とかやり過ごして何かをやろうと試みる。どうやらつまらない終わりに飽きて、また何かを新たに始めようとしているのかも知れないが、その現象についてこれから何を語ればいいのだろう。またいつものように何を語っても嘘になるとうそぶきながら、だが語ってみないことには嘘になるかどうかわからないと思いながら、とりあえず過去から引きずってきた経緯についてはすでに興味を失いかけているようだ。これから興味のないことについて述べるつもりなのか。そのつもりはないし、それではあまりにもお粗末でつまらないことのように思えるのだが、実際はどうなるのだろうか。やはり実際にやってみないことにはどうなるかわからない。すでに言い訳じみたことを語り始めているようだ。始まりの突端で行き詰まっているようだ。その現象のどこに興味が生じるのかよくわからない。結果的にそうなったら儲けものだが、外部からの視点にとって、それは生ぬるい態度でしかないないだろう。意図した結果を説得力のあるやり方で導き出さなければ、何を述べたことにもならないのではないのか。過去に同じようなことを述べていたかも知れないが、もう一度それをなぞるわけにも行かないだろう。表向きの意識は同じことの繰り返しには陥りたくないようだが、ではそうならないために何か良い手だてを思いついたのか。思いつく前にここまで進んでしまっている。何を思いついても明日には忘れているだろう。覚えていたらいたで、それはくだらぬ内容に変貌しているかも知れない。眠気とともに虫の鳴き声に耳を傾ける。明け方の静けさの中で何を求めているのか。そんなことを知ってどうするつもりなのか。例えばそれで何か適当な教養でも身につけたつもりになれるだろうか。そういう問題ではないのはわかりきったことかも知れないが、いつまで経ってもそこから先へ進めないのもわかりきったことかも知れない。ありふれた内容には陥りたくないが、それを避けて通ることは不可能なのか。そのようにしか語れないのであり、否応なくそこへ引き寄せられてしまうのは致し方ないことなのか。誰もがマスコミの報じている問題について、まるでコメンテーターのように言及したくなる。だがそうやって導き出された言葉のほとんどは似たり寄ったりの紋切り型にしかならない。何かの呪縛にはまっているかのごとくに貧相な言説が漂う。それでいいわけはないとは思うが、それとは違うことを述べれば、漂うことすら許されない状況になっているのかも知れない。そんな風に思われるのはどうしてなのか。それは単なる被害妄想だろうか。


8月24日

 ここから先に何を述べてみても、暇つぶしの戯れ言になるだけかも知れないが、今日もどこかで何かふざけた言説が進行中だ。架空の物語の中では何かが終わりを迎えているようだが、いつものようにすべてが終わってしまったわけではないらしい。本当に終わってしまったら、どんなに楽になるだろう。それは望んでいた結末からは程遠いようだが、やはりまだその先があるらしい。何か終わるに終われない事情でもあるらしく、終わりの先にどうしようもなく続きがあり、中身のない言葉の集まりがどこかで適当に舞い続けているようだ。それでは過去の言動と矛盾していないか。今体験しているのは本当の終わりではないということか。きっといつか忘れた頃に本当の終わりがやってくるだろう。今はまだ仮の終わりを越えて惰性の続きを維持しているようだが、それ自体に行き詰まったら、今度は本当に終われるような予感がする。その時が来るまでさらなる難行苦行が続けられるわけか。本当にもういい加減にして欲しいと思う。なぜそれほど継続に執着するのか、影の意図がよくわからない。もう何もないことは明白なのではないか。そしていったん何もないと述べてしまったら、そこでおしまいになってしまうような気がするのだが、そのおしまいなのかも知れない状況の直中に、継続への意志の残り滓のようなものが残っていることを示すために、今も無駄に言葉を弄しているのかも知れない。たぶんすべてを無駄にするわけにはいかないのであり、影は現にそうなろうとしているこの状況を黙って見逃すわけにはいかないらしい。こんなところで途絶えてしまったらつまらないと思うのだろうか。また何事も中途半端では済ませられないとでも思っているのだろうか。もうすでに中途半端どころの騒ぎではないだろう。ただひたすら継続していると同時に混乱し続けている。頻繁に何を述べているのかよくわからなくなってしまう。わざとそういう成り行きに持っていっているのかも知れない。意図して語る方向をよくわからない状況に導いているのだろうか。そこに何の意図があるというのか。そうやって現状をそのまま言葉に反映させているつもりなのか。そんな煮え切らない態度ではいたくないのに、それを簡単に取り払ってしまったら嘘になる。別に嘘になってもかまわないし、元から嘘ばかり述べているような気もするのだが、その嘘の種類や水準にも譲れない一線があるらしく、そこを越えてしまうと、やはりただの嘘になってしまう。


8月23日

 遠ざかる記憶を引き留めようとして、ただ闇雲に何かを思い出そうとしているが、語り進むほど次第に本筋から逸れていく。ところで本筋とは何だったのか。それから何を語るべきだったのか。元から本筋などありはしない。では枝葉末節なことを語っているのだろうか。よくわからないが、どうもそれとは違うような気がしている。結果だけを見てそのうまくいっていない状況を非難することは誰にでもできるし、実際に多くの人々がそれを実践している。だがそれでいいのだろうか。それをやっている多くの人々にとってはそれでかまわないのだろう。それで済んでしまうのなら、そういうことでしかない。実際にそれで済ましてしまう人々が大勢いることは確かだ。例えば今の北朝鮮の政治体制を非難することは誰にでもできることであり、実際に多くの人々が非難している現状がある。ただそういうことでしかない。たぶんこの国の人々はそれでもいいのかもしれない。ここは一つ君も世論が形成した非難の輪に加わって、北朝鮮を非難してみないか。その気もないのにそんな素振りを見せて、何とかその場を取り繕ってみたいのだろうか。それがよくわからない。何か引っかかるものを感じているが、なんとなくそれを感知できずに適当なことを述べているだけのようだ。彼らはその辺の融通が利かないのだろう。誰もが愚かになりつつあるのかも知れない。それは例えば山の上から適当な内容を叫ぶようなものか。そんな光景を夏山の山頂に見かけることができるだろうか。ではヘリコプターでもチャーターして、それを探しに出かけてみようか。現状ではできるはずのないことを述べている。それと同じように遠回しに何か別の可能性を提示したいようだ。そのすべてがどうでもいいことだとは思わないが、それに近い状況に近づいているのかも知れない。それらの問題は自然に解決してしまうのだろうか。知らないうちにそうなっているかも知れない。すでにその兆候はあるようだ。たぶんそれは言論の勝利であり、一時的には君の勝利を意味しているのだろう。しかしその意味合いは通常の勝利とは著しく異なっているかも知れない。結果的には誰が勝ったのでも負けたのでもない結末に導かれるのだろう。勝ち負けが無効になってしまうことがそこでの勝利となり、いつの間にか勝敗の行方がどこかへ消えてしまう。君はいつものようにそんな状況を夢想している。いつかそれが実現することを願っている。また冗談でそんなことを述べているだけなのか。以前のようにこれ見よがしなことを述べるのがつくづく嫌になったのかも知れない。相手を言論で打ち負かそうという魂胆が限りなく浅はかに思われる。


8月22日

 すべてを理解することはできないが、それでも学ばねばならぬ状況の中で、聞こえてこない音を想像してみる。それは冗談の一種になるかも知れない。すでに学ぶことを放棄して、横道に外れている。どうやったらそこから姿を消すことができるだろう。つまらぬ規則を無効にすることが可能なのか。ありふれた手順を踏んで論述を行使する必要がどこにあるのか。どこかではそういうことが未だにまかり通っているのかも知れない。つまらぬ作品を無理して肯定する気はない。見せかけにすぎない繁栄を横目で見ながら、さらに先へ進むことを心がけている。退屈な言葉を駆使する君に気の利いた返答を期待するのは無理か。様々な語り方の中からどうしてそんなありふれた語り口を用いるのか理解できない。影にはそのつもりがなかったのかも知れないが、君を巻き添えにするのが怖かったのかも知れない。しかしその疲弊した大地にどんな雑草が生えてくるのか。読まれる前に見出しだけで理解されてしまう新聞のコラムのようなものか。それで満足するようならば何も言葉を付け加える必要はないだろう。それは技巧以前の問題であり、そうした技巧に執着するわけにはいかない。虚構の内側では朽ち果てた墓の底からそんな声が響いている。廃墟と化した街から風に吹かれて骸骨が転がる映像が伝わってくる。土石流で押し流された家の下から泥まみれの人形が掘り出される。影はそれらの出来事からどんな慰めを引き出せるのか。そのすべてが作り話ではないはずだ。それ以前に生じていた不快感が行き場のない袋小路で温存されたまま、勝手気ままに混乱を引き起こしている振りをするだけなのか。誰も影の言葉を理解することもする必要もない。ただ何らかの事情が説明されぬままに漂っている。あらゆる隔たりからも距離を保とうとしているのだろうか。そのとき心の目は何を眺めているのだろうか。自発的に何をすることもなく、現状の直中で惰眠をむさぼっているのか。いつまでもそうしているはずもなく、夜が来て昼が来て昨日が明日になり、機械的な作業が待ち受けている日常へと意識は戻っていき、日が差すと影は単なる影になるだけかも知れない。何も思わぬ時間帯に真夏の太陽が空を横切る。すべては自然現象の一部なのだろう。いくら言葉を弄してもそれ以上の水準には達しないし、戯れ言はどこまでも戯れ言の範囲内に留まっている。それでも偶然を糧として、それとは違う状況を望んでいるのか。


8月21日

 いったい誰が何をやらなければならないのか。そんなことがわかるはずもない。では同じような手順を踏んで、誰が何を問いかけているつもりなのか。そう問いかけて自らを欺いている。自分に誠実であろうとすると、その誠実さに裏切られてしまう。同じやり方をいつまでも押し通すことはできない。絶えず軌道修正していなければ遠からず行き着いてしまうだろう。そんなことはわかりきったことか。色即是空を認識しなければならないところか。変わり行く世界の中に君は息づいている。いつまでも変わらない思いはいつどこで認められる機会を得られるだろうか。その可能性を思い描いているのは誰だろう。だが微かに認知されている断片を拡大解釈するわけには行かない。それは過ぎ去った思い出とともに忘却の彼方へ遠ざかっている。積乱雲の到来は単なる自然現象で片づけられる。人の行動も自然現象で説明してみたくなる。そこに何らかの理由を見いだすことに飽きているのかも知れない。思考し行動することに理由など要らぬ。絶えず意味不明を抱え込んでいる部分がある。宴会で酒のつまみとして食い散らかされて、その大半が残飯と化す料理を作っている料理人に誠意を求めるのは酷だ。二十世紀後半にピークを迎えた大衆文化とは、そんな人々を対象としたお粗末な宴会芸だったのかも知れない。今もまだその残照の中にあるのか。ありふれたことを述べるならば、狂乱の宴の後に必然的に生じた長期にわたる不況のおかげで、人々は徐々に目を覚ましつつあるのだろうか。そんな風に思っているのは誰でもなく、利いた風な言葉を並べていくとそういう成り行きで文章が構成されるだけで、そんな楽観的な見通しで良いはずはないが、少なくとも過去の繁栄は決して同じ形では戻ってこないだろう。まだもうしばらく待つことが必要なのかも知れないが、今のままでもこれ以上繁栄してもしなくても、どちらでもかまわないような気はする。今困っている人は大勢いるかも知れないが、それは繁栄していた時期にもいたはずだ。今も昔も困りながらも暮らしている人は大勢いる。そうした世の中の状況をおおざっぱに把握して述べる手法自体が的はずれであり、時代遅れなのかも知れない。景気をどうこう述べている者たちの言説に説得力が伴っていないように思われる。感知されるあらゆる事象が分散化しつつある現状を適切な言葉で説明できずにいるのかも知れない。そんな風に感じていることが的はずれなのか。では世界に生じている現象のどこに中心があるのだろう。何を中心として世界は回っているのか。例えば今のアメリカにどのような求心力があるといえるのか。


8月20日

 現実に存在する対象についてどのように語ってみせたとしても、結果的には語る意識の範囲内でなるようにしかならないのに、やはりその結果に不服があるらしく、もっとマシな方向でどうにかならないものか、たぶんそれ以上は無理だと思いながらも、できもしない妄想を安易に思い描いてしまうが、次の瞬間には羞恥心とともに理性が働いて、所詮それが幻想にすぎないことを悟って、意識の活動は徐々に休眠状態へ近づく。そして軽く微睡んだ後に今まで考えていたことのほとんどを忘れる。わざと忘れた振りを装っているだけかも知れないが、一方で、いくら忘れても忘れたりないとも思う。いったい何を忘れ去ろうとしているのだろう。ついさっきまで思い描いていた可能性のすべてか。そしていったん忘れた振りをしてから、まるで失われた記憶を取り戻そうとするかのように、忘れたつもりの内容について、わざとらしく考えている。そんなことが現実に可能だとはとても思えない。文章上でそんなことを述べることが可能なだけか。それでは語る内容に虚偽が含まれるのも致し方ないところか。そこで何を語っているのかわからないが、ついさっきまで思い描いていた実現不可能な幻想であることは確かなようだ。虚偽の可能性の中で言葉が循環しているだけかも知れない。戦火の中で彷徨う人々にも明日はやってくるだろう。昨日もあったはずだ。彼らは昨日の出来事を明日に結びつけて未来を占う。一方で、世界の片隅に暮らす人々は平和な日々に埋もれながら、理由の定かでない漠然とした不安に襲われる。ニュースで報じられる凶悪事件が他人事でないと思いたい。彼らは世間と呼ばれる共同体との接点を見いだしたいようだ。しかしそれについて利いた風なことを語っているつもりの報告者は、次第にそれらを対比して語る自らの言説に飽きてきて、そのように語ることにリアリティを見いだせなくなる。そして他のどの問題とも結びつけるのが馬鹿らしく思えてくる。そんなことを語って何になるのか。いったい君はそこにどんな気晴らしを期待しているのか。深刻ぶった態度でどれほど持ちこたえられるだろうか。まさかその上に眉間にしわ寄せる演技が必要とされるわけもないだろう。それとこれとは直接は関係ないかも知れないが、案外真摯な態度を維持するには見せかけの演技が必要とされるのかも知れない。そうやって心の中でそんな雰囲気を演出しながら、見てくれの表面を取り繕ってしまい、それが自らの言説に返ってくる。言葉の貧困化にいっそうの拍車がかかる。要するに何をどう述べてみても面白味がなくなり、ただ同じ言説を繰り返すだけのアナウンスそのものと化す。だがそれでは決まりきった行き先だけを告げる電車の車掌と同じか。どうも語り方のバリエーションにも限界がありそうだ。それを押し広げている暇と余裕がないのだろうか。


8月19日

 いったい誰が何に対して不満なのかわからないが、どこへ行っても、何を見聞しても、そこにはつまらない光景が広がっているようだ。確かにそこには意識が偏見を形成する以前の現実があり、それなりの時間と空間を伴った世界が存在しているようだが、それではただ漠然としすぎている。とらえどころがなくて途方に暮れてしまう。いったい何が欠けているのだろうか。というよりは、ただの現実に意識が対応できない。そこにどんな形式が潜んでいるのか、またどんな具合になっているのかを知る手がかりを見いだせない。しかし今までに多くの人々がやってきたように、過去の思い出と未来への期待を用いて、満ち足りた理想の世界像を思い描いて、そうした妄想に自足しているわけにはいかない。それでは今まで通りの実体を伴わない影の世界を構成するしかない。だが意識が影以外の世界を提示することがはたして可能なのか。言葉が何らかの実体を伴うことがあり得るだろうか。現状ではただ空虚を指し示すばかりでそれだけでは話にさえならない場合もあり、結果的にわけのわからないことを述べているだけで、その場で意識を通り過ぎる偶発的な思いつきを基にして、それに適当な言葉を絡めているだけの場合がほとんどになり、それ以外は時事問題に苦し紛れの言及をせざるを得なくなるわけだが、それは画面上や紙面上に表示された言葉や映像の影響を受けているので、そこから導き出される言葉は実体を伴わない虚偽の現実を語ってしまい、そこに展開されている物語の内容に応じた偏見を意識に植え付けて、ますます実感から遠ざかる。そんな現状から何を導き出せるのだろうか。すでに何か結論らしきものが導き出されているのかも知れないが、やはりそんな結論ではつまらないと思われる。つまらないから、それをそのままにはしておけないということになるだろうか。例えば世界のどこかに苦しんでいる人々がいるらしい。それをそのままにはしておけないから、誰かが手をさしのべようとしている。損得勘定抜きの善意だけでそれをやる人はまずいないのだろうか。何かしら自らを有利な立場へ持っていきたい思惑が渦巻いている。自らを利する行いだけで人は生きていけるのだろうか。現実問題として自らの生活がかかっている人々はそれをやるしかないだろうが、すべての人が死にものぐるいというわけでもないような気はするが、はたして余裕のある人々は進んで損をするようなことをやれるだろうか。きれい事を言いたくはないが、やはり世の中が命がけの死にものぐるいばかりでは嫌になる。


8月18日

 また内部で時間が著しく遅れてきたようだ。関心の赴く方角へ倦怠が先回りしている。無気力の根が辺り一面に張り巡らされているらしく、どこへ向かってもやる気が失せる。同じ所を経巡っているだけなのかも知れない。それはどこへも向かっていないのと同じことなのか。すべての関心が違う方角を向いていると思いたい。以前は複数の意識が同じ場所を獲得しようとしていた。そんな昔を懐かしんで、あらぬ思いを過去の地平へ投げかけ、そこに漂っている残り香をかいでみるが、とたんにそんな言葉使いがくだらなく思えてくる。君の美的センスに期待するのはやめにしよう。今さら後戻りするわけにはいかないつもりのようだ。結果として後戻りしてしまうのは致し方ないところだが、後退とも前進とも停滞とも違う不可能な動作を期待している。要するに過去や未来や現在とは不連続な動きをするつもりらしい。君はそれが偶然だと思うわけか。それはたぶん原因を知ろうとしない怠慢に寄りかかった心の有様だろう。そこで思考が止まったままで、ここから先へどう論述を展開するつもりなのか。そんなつもりはないとしておこう。そうやってつまらぬ結論へ至る路をふさいでおく。何かが頭の中ではじけているのかも知れないが、現状にしがみつくことに何の意味があるのだろう。想像すればするほど不可能が実現する瞬間を思い描く。いくらかマシな心境でいたいがために、理想を実現しようと無理を重ねる。それが何かを知ろうとして、さらなる深みにはまって身動きが取れなくなる。もがけばもがくほど底なしの泥の中へ引きずり込まれる。できればそんな風には思いたくない。誰もが希望を捨てきれずにいるのかも知れない。遠くに霞む出口を求めて必死に前進しているつもりなのか。この地上にどんな魅力があるのだろう。だが天上も冥界もこの地上にうごめいている人々の想像の産物にすぎないのだから、それ以外の何に魅力を見いだせばいいのか。この世の事物をどう感じれば満足できるだろうか。例えば壁に飾られた絵画を見てどんな感慨を抱くつもりか。たぶんあまり興味を惹かなくとも少しは何かを感じるだろう。その何かはすぐさま言葉で表現する気が起きるような感慨ではないのかも知れない。驚いたり感動したりしても、すぐさまそれが文章を構成するとは限らず、その場で消え失せてしまうこともあり得る。そんなことが繰り返されて今の状態があるらしい。しかしそれと同時に違う状況も共存している。自らで新たに満足のいく作品を生み出したいのかも知れない。


8月17日

 いつまでも迷い続け、ありもしない虚空を彷徨い続ける。次々に起こるわけのわからない出来事の先に希望があることを信じているのは誰だろう。誰が信じているのでもなく、誰も信じていないことを信じていたい。なぜ迷い続けるのか理由が不明のままに、その場所へ引き寄せられている。あらゆる出来事が何かの部分を構成している一方で、それらの部分全体をひとまとめにすることはできない。それをどう表現すればいいのかわからなくなる。その場で何を言い表せるというのか。意味不明の繰り返しに疲れ果て、どこかきりのいいところで降りたくなってくる。それぞれに関心を惹く部分に引きずられながら、支離滅裂な感覚を体験し続けているだけなのか。見聞する事象がことごとく虚空で分解してしまう。すべてがどうでもいいことなのか。中にはそうではないこともあるはずだが、なぜか意識が捉えるのはどうでもいい事象ばかりのようだ。それらの何が駆け引きなのかわからない。それが対象としている相手が文章の中に見当たらない。遠くにあるものを近くに引き寄せて、それを吟味することもなく、一瞥しただけですぐさま遠ざける。その存在理由などというものには何の興味も湧かないようだ。ただ目的も定かならぬ行為が虚空の宙を舞っている。画面の表面で揺れ動く映像とスピーカーを振動させて伝わる音で、魅惑のイメージを構成しているつもりのようだ。気分次第で時たまその通りだと思い、混乱を装いながらも冷静な対応を求める。そして絵に描いたような落ち着きを偽装している。それのどこが楽しいのだろう。現に笑っている人々を笑う立場にはないようだ。ぶざまな姿を人前にさらすことで笑いを取る者たちに拍手喝采を浴びせるつもりはない。それだけでは物足りないのか。では他に何が必要だと思うのか。感動の涙でも期待しているのか。それとこれとでは愚かさの質が異なるだろう。それらの行為の何が愚かに思えるのかを知りたいところか。愚かなのはそんな風にしか思うことしかできないこちらの方か。今のところそのどちらが愚かなのかをわかろうとはしていない。それを知ろうとはしないだろう。興味を惹く対象がある時期を境に激変してしまっている。目的のためだけに何かを知ろうとする気が起きない。何が目的となるのかを知り得ない状況にあるらしい。ただ様々な出来事が周囲に発生しているだけなのか。それらの間にどんな関連があるというのか。それを見いだそうとすると同時に逆の意志が働いてしまう。それをそのままにして、何も見いださずにやり過ごしたい。何も構築せずに、それでも結果的に何かが存在してしまうことを認識している。このままではだめだと思いながらも、その裏では黙々と考え続ける。何かよくわからない情熱が内面から沸き上がっており、それが形を成すまで耐え続けなければならないのだろうか。


8月16日

 明日はどんな天気になるだろうか。昨日よりはマシな状況になることを期待している。昨日から言葉では何も表現できずに、もちろん言葉以外で表現する手だてもなく、漠然とした心の有り様を虚構のまなざしで見つめている。そんなとりとめのない現状を前にして、どうしようもなく途方に暮れてしまう。そこに横たわっている限りのない時と場所を、君はどうすることもできずにいる。確かに君にとってそれは魅力的だが、利用不可能な時空なのかも知れない。無理に何かをやろうとすると必ず失敗して、その上に手痛いしっぺ返しまで受けて、挙げ句の果てに、何をやろうとしているのかまで曖昧になり、結局は安易な不条理に寄りかかって、どこかへ流されるだけのようだ。偶然に繰り出された言葉は雨に向かって何を呟きたいのか。呟いたところで雨が止むはずもない。だがそれをそのままにして、どこで何をやれるはずもない。結局は何もやることが見つからずに、どこへも行かずにただそこに佇む。ただそこへ佇んでいるだけではどうしようもないが、他に何をやる気も起こらないので仕方がないだろう。だが仕方がないからそのままでいいのか。そんな気分と雰囲気をどこまで延長しようとしているのだろう。やはりどこまでやってもきりがないと思う。たぶんきりがないから続けられるのかも知れない。どこかで尽きてしまっては終わってしまうか。それが怖くてそこから抜け出られないのだろうか。君の真意はいつまで経っても謎のままだ。物語の中ではそういう設定になっている。君の逃げ道は物語の登場人物になることなのか。それもありかも知れないが、初めから君は君ではなく、君という言葉を使って文章にすること自体が最も有効な逃げ道だと思っているのだろう。誰が逃げているのかといえば、そうやって君自身が逃げているのであり、君ではあり得ない君が君という言葉を使いながら逃げているのだ。いったい君は何から逃げているのだろうか。やはりそれは終わりからか。それが無理な話だろうことは、君も承知しているはずだ。ではなぜ逃げられないのに逃げている振りを装うのか。いつか必ずやってくる終わりを先延ばしにすることなど不可能だろう。たぶん君が逃げているつもりのものは本当の終わりではない。君は物語の中で、偽りの終わりを巡って偽りの逃走劇を演じているだけなのかもしれない。それで何かをやり過ごすつもりなのか。その何かとは何なのか君にはわからないようだが、得体の知れないその何かに対処するために、君という架空の人物が物語の中に構成されているようだ。


8月15日

 たまには神秘的な状況も必要らしい。雨が降り続く大地に神が宿る。誰かが暇つぶしに音と映像から安らぎを得ているようだ。暇なら誰もがそうしたいところかも知れない。たぶん実際に誰もがそうしているに違いない。それ以外を求めないのは頭がおかしいだろうか。しかしそうしないからといって別に気が狂っているわけではない。いつまでも無い物ねだりばかりを繰り返しているよりはマシか。だいぶ前から行き詰まっている。だが何もないからといって、そこから簡単に退くわけにも行かず、かろうじてそこに残っている、あり合わせのもので我慢するしかないようだ。しかしそこにあるのはありふれた虚無だけのようだ。今さらそれをどうしろというのか。そこからどんな文章を構成できるだろうか。すでに意味のない作業が開始されてらしい。何かを完成させるために努力しているようだが、そんな行為自体に疑念を感じている。今までのしがらみに囚われない感性になりたいところだが、過去の経験をすべて捨て去るわけにはいかないようだ。自然に逆らうのも従うのも自然からすればどうでもいいことかもしれない。それはすべて人間側の問題でしかない。自然に何か意志があるわけではなく、人間の心の中で作用しているある種の感情が意志と呼ばれているだけだ。そんなことはわかりきっていることかも知れないが、自然を擬人化して語らないと、文章に神秘的な雰囲気は宿らないだろう。それは人間側の一方的な都合であり、自然の中に神の声を聞くためには必要な思い込みになる。人が語る言葉は人の都合によって構成されるしかないが、それと自然とはどんな関係にあるのだろうか。人がそこから発生したように、言葉も人と自然との関わりの中から生まれたことは確かかも知れないが、もちろんそれだけではなく、人と人あるいは人と人工物との関わり合いの中から、様々なバリエーションがネットワーク的に生じてきたことも確かだろう。実質的にはそちらの方が圧倒的に多いのかも知れない。社会の中で暮らしていれば、人がまず出会うのは自然ではなく人であることが多いが、それは蟻が蟻の巣で他の蟻に出会うのと同じようなことだろうか。人が対象としているのは人である。それは自分であり他人なのだろう。例えば世界最高峰のエベレストへ登るのは、その荒々しい自然と対峙したいというよりは、自分に苦難を課してそれに打ち勝った自分を誇りたい、あるいは自分が登頂に成功したことを他の人々に知らしめるのを目的としている割合が高いような気がする。やはりそれは毎度おなじみの虚栄心と結びついているのだろうか。とりあえずは命がけなことは確かかも知れないが、だからといって、それをすべての人々が褒め称える義務はないだろう。


8月14日

 迂回路で迷い、我を忘れた末に我に返る。そんなことがあり得るだろうか。無理に無理を重ねているうちに心身がどこかに置き去りにされている。もうそこには何もないようだ。限界とはそんな状況の中で認識されるものだろうか。想像力の尽きるところで弔いの鐘が鳴る。弔鐘とはそういうものかもしれない。そうしているうちにも遠くから夜の闇が迫ってくる。ところでゲームはすでに終了してしまったのだろうか。静けさの最中に人気を感じさせない空間が出現している。いったいそこで何のゲームが行われていたのかわかりかねるが、何もしないうちから、君には選択肢が何もないことに気づいているようだ。状況の方から勝手にこちらへやってきて、期待と不安の同居状態をその場に繰り広げてみせるが、大抵は君の思惑を無視しながら、思いもしない結末をもたらすと期待させておいて、さらにその期待を粉みじんに打ち砕いて途方に暮れさせる。結局は何がどこでどうなったのかわけがわからなくなり、やがて記憶の中でそのことごとくが辻褄が合わなくなる。それでも影は通常の時間の中から適当な虚無を取り込んで、意味不明で抽象的な外観を伴って存在しようとするが、相変わらず中身が何もない。現状に飽き飽きしているのなら、なぜそこから一歩を踏み出そうとしないのか。それは現状ではあり得ないことか。あり得ないのではなく、そこから抜け出そうとする気力が失せているだけかも知れない。そのような行為そのものが虚構の振る舞いになってしまうだろう。それは実践しているのではなく、ただ言葉で語っているだけでしかない。そして次第に何を述べているのかわからなくなる。繰り出された言葉が具体性を帯びることを拒否しているのか。何を小難しい表現へ逃げているのか。影はわかりやすい日常言語には興味がないのだろうか。日常言語で文章を構成する能力に欠けているようだ。確か標準的な話し言葉は学校教育を介して意図的に作られた言葉だったはずだ。国内のどこでも話が通じるように配慮されている。誰かが何かの書物でそんなことを述べていた。仲間内だけで通じるような話し方では、仲間以外の誰も耳を貸さないだろうか。では仲間がいない独白はどうなのだろう。ただ一般大衆に媚びているだけか。著名人の独白は初めから聴衆の存在を前提としているのだろうか。出版するために独白録を執筆するのならそうなるかも知れない。話が変な方向へ行ってしまっている。誰に向かって何を語りかけているのかわからなくなる。何もないからわざとそうしているのかも知れない。


8月13日

 立場が違えば自然とその認識にも落差が生じる。何とかその食い違いを是正したいところだが、別々の状況の中で生きている者たちが、はたして同じ認識を共有することが可能だろうか。何らかの基準の下で共有していると思うことはできるかも知れないが、例えば何を持って共通の認識だと見なすのか、それに関する定義を決めて、その定義に適合すればそれで共通の認識に至ったということになるだろうか。本当にそれでいいのだろうか。強がりを述べるならば、それでかまわないと思いたい。最終的にはそれを信じるか否かで決まるだろう。それを受け入れられないのなら仕方がない。それはそういうことでしかない。相手の善意に期待するとしておこう。その程度にとどめておけば無難だろう。それ以上を望む気になれないので、その話題はそこで終わりとなるしかない。そこから先は想像の世界となってしまうのか。要するに作り話で妥協せざるを得なくなる。すでに物語の中には架空の登場人物が出現していて、意見の一致を見るために何やら討論し始めている。紙面上ではカギ括弧に囲まれた台詞が延々と続いている。そうやってページ数を稼いでいるのか。たぶんそれは小説の中で憩いの場を形成しているのであり、そこでは何よりも書く手間と読む手間が省かれていることで、精神的な余裕が生じて、結果として安らぎがもたらされる。架空の対話の効能とはそういうことだろうか。それ以外に何があるのか。探せば何か見つかるかも知れないし、思い込みとごり押しによってそれをでっち上げることも可能かも知れない。気の利いた、すてきな対話がおしゃれな気分を高揚させるかも知れないし、そこには単なる時間稼ぎではない、充実した濃密な語らいを感じさせるものがある。またユーモアとウィットに満ちあふれた都会的なセンスに感銘を受けたりするだろうか。だが絶えず歯の浮くようなほめ言葉を投げかけていないと、空疎な内容がむき出しになってしまう。いったい何を読んでいるのか。たぶん何も読んでいないだろう。過去にそんな書物を読んで感動した覚えがあるらしい。また書店で探せばいくらでも見つかるかも知れないし、電車の中で他人の読んでいる本を盗み見れば、十中八九はそれに近い感覚に出会えるかも知れない。たぶんそれ自体が勘違いを伴った一種の偏見なのだ。君は端から小説を馬鹿にしている。満足に文章を読めもしないのに、表面だけ取り繕って利いた風なことを述べようとする。


8月12日

 やる気が遠退き、空疎な思いに満たされる。時間以外には何が流れているのか。水は川を流れ、海の中でも海流となって流れている。空を流れる雲は詩的な想像でも掻き立てるかも知れないが、今はそんな気分ではない。目的もないのにそれらを思い浮かべる。そして次第に仮想の目的らしきものから逸れてゆく。何もかもがどうでもいいことのように思われてきて、そんなことの繰り返しにうんざりする。そのどれもが大したことではないが、それらが積み重なって重みを増してくる。いつかその重さに耐えられなくなるだろうか。そうなったらどうなるというのか。たぶんどうにかなるのだろう。そのどうにかなった後に安らぎの時が訪れたりするらしい。それが気休めの救いとなるだろうか。そんなことを思っているうちにさらに時間が過ぎ去り、前進しているのか後退しているのかわからなくなる。それでも相変わらずあいまいな心境のままに留まっているようだ。何かしなければならないのだろうが、やるきっかけを見失ったままだ。いつまでもそこへ留まっているつもりはないようだが、一向にそこから先へは進めない。迷っているだけなのか。この期に及んで躊躇するような要因がどこにあるのか。それが見あたらないから逆に疑念が生じているのかも知れない。それはどういうことなのか。何か罠でも仕掛けられているとでも勘ぐっているわけか。そうかも知れないし、それ以上の結末を恐れているのかも知れない。今いる環境から飛び出すにはそれなりの勇気が必要らしい。何も一か八かの選択を迫られているわけではないのに、理由もなく怖じ気づいているわけか。だがこのままだらだらと現状をなぞっているだけではもう先が見えている。頭ではわかっていながら、それがなかなか行動へと結びつかない。崖の上で後ろから押されているような気さえしてくる。まさかそこから谷底へ真っ逆さまというわけもないだろう。石橋を叩いて渡る時に、強く叩きすぎて、その衝撃で石橋が崩れてしまったらおもしろいか。別にそれほど用心しすぎるような状況とは思えないが、何か嫌な予感でもしているのだろうか。実際にやってみればわかることだろう。やってからではもう手遅れになることもあるが、手遅れになったらなったで、そこからいくらでもやりようがあるような気はしている。だがそんなことを思いながらも、未だにそこへ留まっている状況が続いている。それこそが最悪の手遅れになってしまうような気もするのだが、そんな状態のままで一週間が過ぎ去ろうとしている。そのまま機会を逃してしまうのか。


8月11日

 つかの間の晴れ間はどこへ行ったのか。それはおかしな表現だろうか。どんよりとした曇り空の下で蒸し暑い。その場の成り行きで適当なことを述べている。偶然に遭遇した何かに癒されている一方で喉が渇いている。とにかく疲れたのでどこかで一休みしようと思う。何もないので、機械が鳥のように羽ばたく瞬間でも夢想してみよう。たぶん言葉遊びの世界になるだろう。具体的に何を思い描いているつもりなのか。確かそれは奇想天外という言葉で言い表せるかも知れない。実際は何を思い描いているのでもない。思うより前に思わせぶりな言葉が先行している。成り行きまかせにくだらぬことをほのめかしているだけなのか。面倒なのでそんなことを述べているようだ。だが言い表せないことを記述できるような気がしている。書く目的を見失うとうまく話せるような気になるそうだ。誰かが書物の中でそんなことを述べていたかも知れない。その場に渦巻いている怠惰な気分をどこかへ持っていきたいようだが、梃子でも動こうとはしない。影はそんな表現とともに未来永劫そこへ居座り続けるのだろうか。些細な違いをことさら強調する気にはなれないが、そこには微妙な温度差があるようだ。思っていることと考えていることの間に微妙な食い違いがある。これ以上いくら考えても無駄だとは思わないが、無駄にならないまでも結局は無に帰すような気がしていることは確かだと思う。影はそれでも考え続けようと思っているらしい。思考作用によって単純化された世界の構造を提示し続けるのか。誰もが理解できる水準に簡略化して世界を説明してほしいと思っているのか。しかしそれで説明したことになるのだろうか。すべては無理で、個々の具体的な事例についてしか説明できない。それでも説明は説明でしかないだろう。説明に説明以外を求めるのは無理だ。説明自体に変革や進化を期待するのはおかしいか。例えば解説によって解説している当のものが変わることがあり得るだろうか。変わることを期待しながら解説して、偶然に解説者の思惑通りに事が運んだとして、では解説されている当人達は何なのか。ただの操り人形であるはずがない。何かがどこかで転倒されている。それに気づかない人が多すぎるために、こんな状況がいつまでも続いている。


8月10日

 それはよくありがちなやり方だ。自らの制度を温存しながら他の制度を批判する。熱血で正義漢というありふれた漫画的な性格を割り当てられている主人公が、医療制度の中で生じている矛盾を前にして思い悩み煩悶する、それだけの話なのか。しかしなぜそんな簡単に話を要約できるのか。あまり乗り気にならないし、興味が湧かないからだろうか。主人公をそういう性格に設定しないと漫画雑誌には載らないだろうし、単行本も売れないし、マスメディアも取り上げないし、話題にもならないだろう。漫画の中で告発されている医療制度の中の問題もそれと同じようなことなのだ。そうしないと漫画が商売として成り立たないのと同じように、そうしないと医療も商売として成り立たないのであり、さらにそうしないとマスメディアも商売として成り立たなくなる。商売として成り立たせるために、漫画業界も医療業界もマスコミ業界も同じような矛盾を抱えている。そしてそうした制度に依存しながらも、自分たちのことは棚に上げて他の業界を批判する。そんな彼らが何を主張しようと、そうした制度の助けを借りている限り、その主張には何の説得力も宿らない。そんなことを語れば何か述べたことになるだろうか。もちろんそんなつもりはさらさら無く、以上に述べたことは冗談の範囲内だ。どうでもいいことについてどうでもいい話をでっち上げてみた。彼らはそれ以外のやり方ができないからそうするしかないのであり、それはそれで仕方のないことなのだ。それは何かしら事件が発生していないと話が先に進まないテレビドラマのようなものか。しかしいったい誰がそうした物語の中の住人でいられようか。いつの頃からか、そうした幻想からかなり遠ざかってしまっている。そんな形式には誰も乗ってこないだろう。君は君で別の夢を見ているのかも知れない。物語の中に登場する現実離れした人物にはあまり興味を持てないが、そんな物語に感化されて勘違いの言動に及んでしまう人々のことを知っている。だが知っているつもりで実は知らないのかも知れない。自分の方こそ勘違いの言動を重ねているのか。ただ本気に受け取れないだけなのか。世界の至る所で冗談のような出来事が発生している。冗談で済まされない出来事などあり得ないか。画面では老人が若者相手に討論会を開いているようだった。いかにもな話題を巡っていかにもな発言が続出して、結果として誰もが共感を示すような言動だらけになる。まるでどこかの三文芝居のような雰囲気だ。要するに誰もが演劇空間で演技を強いられているのだ。彼らは彼らのものではない言葉を、討論の意図に沿った内容を、無意識のうちに発してしまっている。まるで誰もが自己満足に浸るために行う儀式のようで、前もって台本が用意されたフィクションの一種としか思えない。


8月9日

 昨日は何を思い出そうとしていたのだろうか。記憶に途中から追いつけなくなる。意識が方々へ飛んでいく。たぶん疲れていることは確からしいが、それがどうしたわけでもなく、いつも夕方になると足が棒のようになり、体の節々が痛む。しばらくどうかしていたようだ。昼の慌ただしさに我を忘れて、気がつくと夜になっていた。何を思う間もなく退屈をやり過ごしているうちに明日が近づいてくる。あまり時間もないので、仕方なしにこれから見聞する対象について思いを巡らせてみよう。しかしここにはただの夜しかない。それ以外に何か気休めでもいいから欲しいところか。求めているものを獲得する以前に見失っている。ところで希望とはいかにして生じるものなのか。夜を過ごしているうちに、どこかで偶然に希望が現れたりするだろうか。何をありもしない幻想を抱いているのか。それは急ごしらえで作り出された幻想かも知れない。何もないのに幻想を抱いていると嘘をつく。別に嘘をついている自覚はないだろう。誰が嘘をついているのかわからないが、そう語ると話がつながるような予感がするらしい。希望がいつの間にか幻想と入れ替わっている。しかし依然として内容は空疎のままに推移している。人は何も思わずとも生きて行ける。明け方に蝉の鳴き声がうるさい。思っているのはそんなことばかりではないはずだ。いつの間にか明け方になっていた。その間にどれほど眠っていたのか。明かりをつけたまま寝てしまうのにも慣れてきたようだ。思っていることをそのまま言葉で表現しようとは思わない。いつかどこかでそんなことを思っていた。それは思っているのではなく、考えているのかも知れない。どうすれば意味が通るか考えを巡らせながら文章を構成しようとしている。だがそんなことを考えているうち内容を忘れてしまい、内容のない文章が蝉の抜け殻のように残っている。とてもそれでは満足しようがないが、何も思いつかない時はそんなものだろう。そういつもいつも内容に辿り着くとは限らない。そして抜け殻のような文章の中に空虚が宿っている。それが導き出された何もない言語空間なのだろう。その中に影が息づいている。何もないのに語り続ける君の影が存在しているわけだ。


8月8日

 言葉の残骸から再利用可能な断片を取り出して文章を構成し、ただそんな作業に埋もれて無駄に時間を費やす。夢の中で奇妙な感覚に触れることもあるらしい。それは意識を魅了する記憶となるだろうか。あるいはそんな記憶など要らないか。外では嵐の気配がするだろうか。台風が近づき、風が次第にその強さを増している頃、苦い味が口いっぱいに広がってゆく。不意に意味のないことを思いつき、静けさの中で耳をふさいでみる。巻き貝の音を聞きたくなった。土砂崩れで人が生き埋めになる。それはつい最近の出来事だったかも知れない。あるいはこれから起こる現実なのか。画面は限りのない事件にさらされて、それを報じる側も見聞する側も感性を磨り減らし、何事にも鈍感になるのだろうか。遠からず同じようなことしか述べられなくなるだろう。もうすでにそれらのほとんどがそういう状況に陥っているのかも知れない。要するにそこから抜け出る唯一の方法はそれをやめることだ。もちろんそれをやめる気はないだろうし、やめようにもやめられないということか。絶えず滅びを予感させるのかも知れないが、もはやそれ自体をも取り込んで、廃墟の継続によって生きながらえている。それが目下のところ究極の進化形態であるらしい。コミュニティになったらおしまいなのか。いったい何について語っているのだろう。様々な側面を持ったそれらについて適当に語っているらしい。それらとはそれらのことでしかない。それら以外にあり得ない。継続は困難だが、その困難さによって継続させられている、ということになるだろうか。自業自得を利用しながら自業自得の結果を見せびらかす。絶えず反省材料を供給しながら無反省に居直っている。それらはすべて偽りの二項対立を形成するだけだ。二項対立のすべてがくだらぬ言説を引き出すために偽装されたものなのか。たぶんそれを批判している当人たちが真っ先に批判されるべき立場にある。日々見聞し続けるそれらのことごとくはそんなことの上に成り立っているのだから、そこから先にいくら思考を展開しようと無駄なのかも知れない。しかしそれでも無駄を承知で批判していくべきなのか。もはや批判の体をなしていないような気がしてくる。すべてはなし崩し的に現状の追認へと追い込まれていってしまうかも知れない。結局はなるようにしかならないのだが、それが人々の都合とはかけ離れた代物になっていることに、いったい誰が気づいているのだろう。メディア上で現状を批判している当人たちが、そのことに無自覚なのは致し方ないことか。


8月7日

 実りのない季節はまだ続くようだが、無駄だと思われる試行錯誤も、どこかで未来へつながっていくのだろうか。いつものようにわからないのだが、近頃はよりいっそうわからなくなってきた。何がわからないのかもわからない。だがそんな嘘をつくのにも飽きてきた。明日もまたつまらないことを述べて不快指数を上げることになるのか。それは明日になったらわかることか。とりあえず昨日のことは少し覚えている。それについてこれからつまらない見解を述べるのにもわけがある。いつも本心をそのまま言葉にしているとは限らない。わざと的はずれなことを述べて、批判する気も起こらない稚拙な言説をやり過ごそうとしているのかも知れない。それでは批判すらされない側に不満が残る。なぜ真正面から応えようとしないのか。それはかなり不誠実に思われる対応になるだろうか。では誠意のある対応とはどのようなものになるだろうか。なんとなく丁寧な言葉使いをちりばめておけばそれで片が付く場合が多い。内心では不満が燻っているかも知れないが、一応はそれで引き下がるのが礼儀というものか。何も極端な出来事の到来を期待していたわけではない。不自然な成り行きに疑念を抱くのにも疲れた。そうやって面倒なことは避けて、わからないままに放置するつもりなのか。それでも一向に困らないのかも知れない。そこからどのように思考して、どのように行動しようと、単にそれまでとは異なる状況の中へ移動するだけなのか。だがそれでは何も進展していないように思われる。事態が良い方向へ進展するにはまだ何かが欠けている。良い方向という方向をどうやって決めればいいのか。昨日は昨日でただ慌ただしかっただけだろうか。過ぎ去った時を思い起こしている間もなく明日がやってくる。今日の記憶を昨日へ追いやるために時間は進むのだろうか。たとえそんな風に表現したところで、何の満足も得られないし、気休めにもならない。だがことさらに満足感や気休めを求めているわけでもない。いったい意識は何を求めているのだろう。そんな台詞も聞き飽きたかも知れないが、出された結果には素直に従うべきか。素直に従うという行為がどのようなものなのかを知らない。素直に従っていると見えるように行動すれば満足するかも知れない。いったい誰を満足させようとしているのかわからない。その対象を見いだせずに、ただ闇雲に言葉を弄しているだけではないのか。たぶん最初からそんなつもりではなかったはずだ。出来うる限り誠実な対応を心がけるほど、言葉の意味通りの誠実さから背離していってしまい、怠惰と気分次第の偶然に左右されたよくわからない言説になってしまうが、何事も突き詰めて考えれば考えるほど意味不明に思われてくる。


8月6日

 一時的な拘束から解放されて何をしていいのかわからなくなる。強制されない行為にはどの程度の自由が含まれているだろうか。夏は過去の戦争を絡めて紋切り型を語る人々が多くなる。過去の出来事に関して、何か利いた風なことを語る資格を持ち合わせていると思っている者が今もいる。それはそれで大変結構なことではないのか。それらの古くさい記憶に今風の脚色を施して、後世へ大切だと思っている内容を語り継ぎたいのだろう。だが放っておけば風化する記憶を風化させまいとするのは、自然現象に逆らう人工的な行為だろう。記念碑的な構築物をいつまでも保存しようと思うのは人間の哀しい性なのか。それでも時代と意識は移り変わり、その変遷の過程で内容も自ずから変質して、今では形骸化したみすぼらしい儀式になりはてている。では昔はどうだったのか、それは今と変わらず盛大に執り行われていたような記憶があるが、それを眺めている意識が昔とは明らかに違い、ある時期からどうしても真に受けることができなくなってしまったようだ。相対的に人の多く死んだ時期が過去にあった。組織的な大量殺戮による大量死が頻発していた。だが今も昔ほどではないが、過去を彷彿とさせる出来事がたまに起こる。それがどうしたのか、ニュースになるということか。人々はそんなニュースを見聞して何か適当なことを思う。世界を平和な状態へ導きたいと思う者も中にはいるはずだ。そのための努力も日夜行われている。そんな努力の甲斐があって、昔と比べて少しは平和になったと実感している者もいるかも知れない。それはただの印象でしかないのだろうか。逆にそうした努力が廃れてきて、大規模な戦争が近づいてきたと心配する向きもある。そのどちらが正しい認識なのか、実際にそうなってみてはじめてわかるだろう。ただ絶えずそういう警鐘を鳴らし続けて、自らが戦争を防いでいると思い込んでいる人々もいることは確かだ。要らぬお節介かも知れないが、ご苦労なことだと思う。そんな発言を繰り返すことで平衡を保っているつもりなのか。作用反作用の法則の意味を忘れてしまっている。この世界は何らかの力の釣り合いが取れていたりするのだろうか。そんな風に世界を見ればそう思われるだけなのではないか。パワーバランスとかいう用語にどんなリアリティが宿っているのだろう。しかしどこかで釣り合いを取ろうなんて思うのは馬鹿げている。いったい何と何を釣り合わせるつもりなのか。


8月5日

 知っていることはたかが知れているかも知れないが、世界を知らないということはどういうことだろうか。ただそういうことでしかないだろう。昨日は出だしの数行で躓いた。どこへも行き着かないのはいつものことか。明日は何を思い出すのだろうか。今日は空白のままに昨日と明日のことを思う。つながりに欠ける文章を構成している言葉の意味をいちいち調べてみる。虚構の世界で、そんなことがあり得るはずがない、と呟いてみる。誰が呟いているのかは知らない。いったい誰が知らないと述べているかもわからない。ただそういうことにしているだけか。そこで何か人物的な表現を使用する気になる。君は君自身の人生とは無関係に生きているつもりのようだが、いったい君は何を嘆いているのか。何もわからないことのどこが嘆かわしいことなのか。わかっていることはまだたくさんあるはずだ。関心を寄せているのは別の言葉かも知れない。わざと無関心を装っているのを見透かされたように、向こうから何か適当な台詞が迫ってくる。ところでさっきまで思い描いていた虚構の世界はどうなったのか。その中に何か謎めいた言葉の断片を見いだせるだろう。内面の深いところで生じている苦悩を無視しながら、ただ闇雲に先を急ごうとしているようだが、未来はどこかで閉じられている。どこまでも行けるはずがないと思いながらも、それでもどうにかこうにかやりくりをつけて、その先へ歩み出す。無論現状では認識不可能な言語を読み解くことはできない。持ち合わせているものはわかりやすくなじみ深いものだけなのか。それだけではここに現前している状況をどう解釈したらいいか迷うところだ。状況に対処するやり方はいろいろあり、確か書物の中で偶然に開いた頁には、いろいろなやり方の具体的な事例について述べられていた。それでは君の意志に反するやり方になるかも知れないが、それでいいのならばこれからはそうしてみよう。だがどうも途中に入れるべき台詞が省かれているらしい。なぜそんな具合にわざと戸惑いの表情を浮かべるのか。そこで誰が何を演じているつもりもなく、演技しているのは誰かの無意識の方か。虚無の仮面について理解するための手がかりを探している。だが仮面は仮面でしかなく、その表面を取り繕っているにすぎないのだが、それを見る者の心理状態に応じて、時には深い印象を与える場合もある。制作者の思惑を探り当てた時、あるいは表面を形作っている凹凸がその思い込みに合致した時、たぶんその意識に何らかの幻想を抱かせる。


8月4日

 それはどんな感覚になるだろうか。その感覚を忘れていたようだ。今も忘れているのでその感覚を知らない。それは忘れているのではなく、元から知らなかったのではないか。まわりくどい表現になるしかないようだ。高速道路を民営化してどうするのか。逆に国営化してただの国道にして、通行料金をただにすればいいだけだ。では今までの借金はどうするのか。国民負担か?それも簡単なことで、造幣局で紙幣を印刷していっぺんに返せばいいだけだ。そうすれば市場に流通している通貨が自ずから供給過剰になって、嫌でもデフレがインフレになって一件落着だ。めちゃくちゃなことを述べるならそういう内容になってしまう。ついでに暴論を述べるならば、酒税やガソリン税やたばこ税などの間接税はすべて撤廃して、消費税だけに一本化すればわかりやすくなる。それらの間接税をなくす代わりに、消費税を十パーセントぐらいに引き上げるのならば、目くらまし的に有権者も納得するかも知れない。また一方で、贈与税や相続税なども撤廃して、こちらは所得税に一本化すればわかりやすくなる。贈与や相続も所得と見なして、こちらは最高税率を引き下げれば馬鹿な有権者をだませるかも知れない。では固定資産税や自動車税はどうすればいいのか。それもやめて、それらを買ったときに消費税がかかり、売ったときに所得税が生じるだけになる。たぶん今後間違ってもこんな案が実現することはないだろうが、行政サービスの効率化にはうってつけの私案だとは思っているが、いかがなものだろうか。素人が考えるとこんな風になるが、この程度の認識しか持ち合わせていない者が、今の政治経済情勢について、何か気の利いた意見を述べられるだろうか。どうもメディアを通じて伝わってくる、マニフェストとかいう選挙公約的なものには、あまり魅力が感じられない。本当に彼らは政治的な玄人なのか。玄人だとして、それと現状維持との違いが今ひとつわからない。まあ、ああいうことを述べておくのが無難な線なのだろう。あれらのマスメディアも含めて、結局はどちらの陣営も同じような内容に落ち着くような気がする。政権を担っている陣営にしてみれば、争点があいまいな方が戦いやすいと思っているわけだから、当然マスメディアが主張しているようなことも、自分達もやろうと思っていたところだと主張してくるだろう。もはや選挙によって世の中が変わるとは誰も思っていないのではないか。それでも誰もが自らの手で政権交代ぐらいは実現させてみたいと思うところか。


8月3日

 紋切り型的な思考にとって、死と終わりは人生の最大のテーマになる。それをどうすれば避けることができるだろうか。避けられずにそれらの言葉に引き寄せられてしまい、それらについて何か利いた風な意見を述べたくなってしまう。君はそれが気に入らないらしい。ならばそういう避けて通ることのできないテーマについて言及してみよう。とりあえず適当な試行錯誤の果てに、作業の終わりを予感させる雰囲気にたどり着く。しかし今のところ何をもって終わりとするか決めかねている。終わるときは寿命が尽きて死ぬときなのか。そういう成り行きになる場合もあるだろうか。仮にそんな人生だったら満足するかも知れない。それが本望だと思いながら、必死になって作業をやり続けるのが、ありふれた人生におけるひとつのパターンになるだろうか。だがそんな思い込みの激しさとは裏腹に、次第に死ぬ気でやっている作業自体に興味を失ってくる。焦りを覚えて必死になればなるほど、意識は自らの行為から遠ざかるようになる。そして命がけでやるという行為が馬鹿らしく思えてきて、ついには何かの冗談でつまらぬ戯れをやっている感覚に近づく。まったく本気になれなくなり、そこで死ぬ以前に終わっている自らに気づく。なぜ終わっていないうちからそんなことがわかるのか。なんとなくそんな風に終われば楽かも知れないが、まだ正式に終わっているわけではないらしく、仮の話にリアリティを見いだせない。やはりそんな状態で作業の終わりと死をからめて考えるのは早すぎる。死についてそれほど真剣に考えていないのかも知れないが、ならば終わりの方も自然と結論は先送りになるだろうか。いつかは終わることはわかっているが、それが今でない理由はないはずだ。何らかの理由があって終わるのではなく、ただ自然とそれらの言葉と文章から縁遠くなっていくのだろうか。そのときまだ死んでいないがすでに作業は終了している状態が到来するのかも知れない。だが仮にそうなったとして、終わってから死ぬまでの間は、何をやって過ごせばいいのか。それではまた仮の話になってしまうだけか。そうなったときには、すでに何か別のことをやっているはずで、今それを予想する必要はない。曲がり角を曲がるとそこにはまた同じような道が続いているだけなのか。すべてがそうとは限らず、道を踏み外したところに雑草の茂る草むらでもあるかも知れないが、それを眺めたところで何の感慨も抱かないだろう。過去の記憶を辿ればそれらを眺めていたかも知れないが、除草剤の散布によって半分枯れていた。そのとき眺めようとしていたのは草むらではなく、草陰に隠れていた昆虫の類か。


8月2日

 だいぶ前から機能的な文章からは程遠くなってしまったようだ。感覚の不一致ゆえにすれ違いが頻繁に起こり、隔たりは修復不可能なほどに広がってしまう。たぶん何を述べているのか理解不能に陥っているのだろう。だから言葉を繰り出すほどに絶えず居心地の悪さを感じている。画面や紙の表面に空間は存在しない。ただ言葉によって空間を感じさせるだけなのか。現前している対象物から絶えず逸れて行く空間を意識させる。例えばそれは偽の空間であり、取り返しのつかぬ嘘でも構成しているのだろうか。そんな大げさなものでもないような気がする。日頃見聞している現実について少し語りかけてくる。ちょっとだけ常識からずれているような感覚を持ち合わせているかも知れないが、それを用いることで効率的な作業を実現できるわけもなく、煩わしさとともに無駄に思考を重ねている印象しかもたらさない。そこではわかりやすい説明が周到に省かれているような気もするが、始めから何について説明しているのでもないのかも知れない。何も思いつかないのは君ではなく、何も思いつかない振りを演じているのも君ではない。表現の曖昧さと戯れているのは誰でもない。たぶん作業の滑らかな進行具合を演出したいのだろう。ぎくしゃくした印象とともに滑らかな語り口を誰かは目指しているようだ。また現実から逸れて行き、対象からも逸れて行く。それは薄っぺらい作り事の世界なのか。そうやってみすぼらしい言葉に酔っているわけか。そしてありふれた矛盾を暴き立てたつもりになるのだろうか。前もって知られていることしか読まれないわけではない。ベストセラーばかりを読んでいるわけでもない。ひたすら読んで安心したいために読むのではなく、恐怖やスリルを味わうために読むのでもないはずだ。だが読者におもねっている文章を読むと吐き気がするわけもない。ただ読んでなんとなくわかったような気になると安心するのだろうか。稚拙な書き手を見下したつもりになるのだろうか。すべての事象から一部分だけ抜き出して、それをことさら顕揚する人々を軽蔑しているのかも知れない。だがそんなことが可能だと思っているうちは、まだ先があるということか。あまり勿体ぶったことを述べるのは気が引ける。とりあえずは内容について適当に批評したつもりなっているのが無難なところだろうか。その程度でも間を保つことはできるはずだ。それは絶対的な隔たりなどではなく、適切な努力によって接近可能な距離だと理解しておこう。所詮はそれも気休めにしかならないような気はしているが。


8月1日

 文章の中でのこだわりとは何だろう。外部に存在する感情のある部分では、すでに受け入れ難い状態になっているようだ。そんな感情に呼応して出力された言葉はさらなる虚空へと放射されて、結局は意味を伴わないで細かく分散してしまうだろう。それでも感情的な断言は退けたいようだ。またどんな言葉を繰り出すのにも細心の注意が必要だと思われるが、それを実践しているつもりの結果がその程度ではお話にならないかも知れない。偶然に導き出された結論はそれほど奇怪なものではない。わざとらしく難解な言葉を使って煙に巻いているだけかも知れない。それでも意味不明な説明のどこかに、突如として視界が良好になる場所でもあるのだろうか。理解可能な法則を導き出せずに、わからないことはわからないままにやり過ごされ、苦心して作り上げられた作品らしきものも、結局は無視され、遠からずうち捨てられる運命にある。そんな宿命を背負っているのは誰の記述なのか。雰囲気だけはそれらしきものを感じさせるが、雰囲気以外は何も印象が残らない。それほど常軌を逸しているわけでもなく、至って平凡な暮らしの中に何があるのだろう。無関心の中へと落ち込んでいくものの中に、昨日見たニュースの断片でも混じっているのかも知れないが、そこから何を学ばなければならないのか。学ぶことに虚偽の慰めを求めているのか。しかしそれが慰めになるだろうか。なぜ学ぶことが虚偽の行為に結びついてしまうのだろう。学んでいるつもりが自己確認にしかなっていなかったりするためにそうなるわけか。まだ興味を繋ぎ止めるまでには至っていないようで、それに対する返答は何もない。初めから何も期待していないかも知れない。それが何らかの技術の上に立脚した伝達であることは間違いない。何かを伝えるために言葉や文章を記述するにもそれが必要だ。パソコンがそうであるように紙とペンもひとつの工業製品である。その表面に得体の知れぬ迷いが生じている。その迷いが何らかの記述を形成する頃には、また別の思いが生じていることだろう。つまらぬ感情が折りたたまれて影を潜める時、偶然に君が現れる。深い絶望はちょっとした勘違いで構成されているのかも知れない。そこから導かれる思いは忘れる度に思い出され、いつも意識による制御を逃れ去る。まとわりついて離れようとしないそれをまた思い出す。忘却の機会はいつでもそこにあるらしいが、実際にさっきまで完全に忘れ去っていた。それはまわりくどい表現のようだ。