彼の声37

2003年

7月31日

 いったい何を問い続けているのか。どこまでも続いて行くわけではないらしい。何もしなくても何かしら適当な経験が積み重なるが、それは何物にも代え難い貴重な経験ではないようだ。いやに月日が経つのが早く感じられる。それでもやっとのことでそれらは続けられ、かろうじてここまでやってきたが、いつまで経っても眠いので、その場の無気力な雰囲気に負けて、ついついテレビを見てしまう。相変わらずやる気もないのに何かをやろうとしているようだが、いつまでもテレビを見ていては何もできない。そんな状態で誰が何を望んでいるのだろうか。それだけでは物足りないので、とりあえず作業を再開させなければならない。だがいくらやっても無駄に思える時もある。もはや不可能を通り過ぎて、何を述べているのかわからない状態に達しようとしている。いつものように夕暮れ時の空白を利用して、適当に言葉を繰り出して、その場の空虚をごまかしながら平静を装っているようだが、根気が長続きせず、そんな見え透いた態度はすぐにやめてしまう。結局はまた暇つぶしにテレビを眺めていると、画面上では誰かが当たり前のことを述べている。それらの目的を実現させるには何らかの犠牲が必要なのだそうだ。そんな風に考えれば、案外あっさりした結論に導かれるかも知れないが、そんな成り行きはあまり好きではない。何を思うにしても、思考過程が複雑にねじ曲がってしまうのかも知れない。何をやっても、どんな風に考えても、どこまで行っても、一定の結論に辿り着かないようなやり方を模索しているのだろうか。なぜそうするのか理解できないが、その場では理由など求めていない。たぶんそれは冗談の一種なのだろう。しかし冗談ならもっとわかりやすくならないものか。またもっと楽なやり方がないものか。しかし安易なやり方は退屈に感じられる。楽になるようにすると、偶然に訪れる機会が閉じられてしまうような気がする。そこで起こるほとんどの出来事が、物語からの要請に応じて、前もって構成されていた因果関係を保ちながら進行してしまい、そこでは誰もが台本通りにしゃべりすぎてしまう。そして偶然の行動を伴わない予定調和で饒舌なおしゃべりが延々と続いてしまう。安易な人々はそれでも感動してくれるかも知れないが、どこかの誰かにはそれが死ぬほど退屈に思われる。だがそれ以外にどうすればいいのかわからないまま、ただ何もできずにその場で途方に暮れるしかない。


7月30日

 予定的には明日が来る前に何とかしなければならないが、昨日の自分は作業の進み具合には関心がなさそうだ。ところで今日はどこまで進んだのか。だがどこまで進んでも埒はあかないだろう。言葉に詰まった先に適当な語りが横たわっているだけだ。何も思いつかないので安易な問いかけに終始してしまう。しかしなぜそれを継続させなければならないのか。たぶんなぜに理由などなく、問いかける度ごとにそうではないと思うだけか。以前の記述の中に似たような語り口を見いだす。いつもそんな言葉で満たされているわけではないと思いたいが、そこから先へはどんな言葉を配置すればいいのかわからない。そうやって結局は不完全な構成から行き詰まりに至るだけか。そんな迂回路を形成しながら時間の経過から取り残されてしまう。それでもいつもの風景と変わらない。虚無との希薄な関係がどこかで保たれている。とりあえず何もないよりはマシなのか。考えようによってはそれはそれで結構なことかも知れない。テレビ画面の方に向き直ってみると、しばらく前に退屈な謎解きは完了していたようだ。それを見続ける根気に欠けるようで、何らかの結論に至る機会を逃し続ける。無意識はそれを超えて何を経験しているのだろうか。そんなことを意識が知るわけがない。何を見失っているわけもなく、見えない現象を見ようとしているだけだ。無理なことは長続きないだろう。ならば気休めに雑音にでも耳を傾けてみたらどうか。なぜそんな展開になるのか不思議に思われる。笑えない芸を無理矢理やらされるのにも理由があるらしい。彼らは画面に出すぎて消耗しているのかも知れない。時期が来ればブームは去り、あの人は今、という紋切り型に取り込まれる運命なのか。しかしそれは過去の話になっている。ブームすら作り出せずにすべての流行が雲散霧消してしまえばいい。誰もが安易な話には乗ってこない時代が到来したら、少しは暮らしやすい社会になるだろうか。感性の磨り減った若者たちが盛り場にたむろしているだけか。そんな現象を拡大解釈しても仕方がないと思われる。虚無の渦の中心部には何の実体もなく、そこにあるのはありきたりな欲望だけか。それは荒廃ですらないのかも知れず、ただのいつもながらの人間社会そのものが顕在化しているにすぎないのではないか。動物が群れているとああいった秩序が自然と形成されるようだ。そこでは人間自身が人間そのものになろうとしている。人間とは本来ああいった動物なのかも知れない。だがああいった動物とは何だろう。それは人間自身のことか。他の動物ではたとえようのない特性を備え持っている。


7月29日

 どうも意識が過ぎ去る時間に追いつけないらしく、以前と同じような状況に度々陥ってしまうのだが、今さらそんな話など聞きたくはないか。意識は思い通りに事が運ばないことに苛立っているようだ。では意識にとって都合の良い状況とはどのようなものになるだろうか。何とかそんな状況を脱して気分をすっきりさせたいらしい。しかしそれから先はどうしたいのだろう。その後に何をやりたいのか。これから試行錯誤を繰り返して、適当な未来へ辿り着いたとして、そこで何かしら考えつくだろうか。現時点では何とも言えない。どうせまた同じようなことをやっているだろう。どこまでもそんな状況が続いていくのだろう。ただ漠然とそんな思いに囚われ、窮地を脱することはできずに、そんな現実に押しつぶされている。だがこれのどこが窮地なのか、何も実感が湧いてこない。たぶん窮地を脱するという表現自体が現状を反映していないのかも知れず、そして現実に押しつぶされていると思っている自分にリアリティを感じない。そこで虚構の世界に入っているのだろうか。この世界に本当の自分なんてありはしない。どこかでもっともらしく語られる、本当の自分を捜す旅なんて冗談もいいところか。冗談ではなく、それは様々な経験を経た先に、何らかの精神状態に達して満たされれば、それが本当の自分だと思い込むだけかも知れない。それが当初に思い描いていた通りの自分なのか、はたまた適当なところで妥協して、この程度で満足しろと自らに言い聞かせている自分なのか、そんなことはこの際どうでもいいことだ。要するにそれらの意識は自由を奪われている。それは自分ではなくなる自由となるだろうか。では自分が他者になる自由とはどういうことなのか。また他者になってどうするのか。ただ話をややこしくしているだけか。面倒なので自分が自分であっても他者であってもかまわないだろう。そして本当の自分であっても嘘の自分であってもかまわない。自分なんてどうでもいいことなのか。どうでもよくないが、同時にどうでもよくてもかまわないということか。その場の状況によって自分の立場も変わってくる。自分を無視してやらなければならない時もあるし、自らの安全を確保しなければならない事態にも遭遇するだろう。そうしなければならない必然性もその場の状況次第であったりなかったりする。それは矛盾でも不条理でもなく、そうなる可能性はいくらでもあるということだろうか。すべての状況があり得るから、正反対の立場のどちらをとっても、それが正解であったり間違いであったりするのかも知れない。


7月28日

 いつになったらやる気になるのだろうか。心境の変化はいつやってくるだろうか。現時点では、時間に追われてやるべきことができない、と思いつつも、そんな風に思うのは間違っている、とも思っている。暇がないわけではないのに、しかしその暇は別のことをやるために使われてしまう。今のところそれらはすべて睡眠時間に割り当てられているようだ。やる気が出ないのにただ機械的に言葉を繰り出すわけにもいかず、感情の赴くままに、偶然に訪れる機会を待ってから、ようやく作業が始められている。今この世界はどうなっているのだろうか。どうにかなっているのかも知れないが、自分が何かすればどうなるわけもなく、微細な範囲内でどうでもいいようなことを述べているだけなのかも知れず、目の前の作業を片づけるのに汲々としているらしい。そしてそんなことをやっているうちに一日が終わり、たちまちのうちに一週間が過ぎ去り、あっという間にひと月が経過して、気づいてみればもう八月になってしまう。しかしこちら側の世界では何も起こらない。どこかの国では未だに戦争中らしいが、そんなことには何も興味が湧かない。彼の地では戦争にもそれなりの必然性があるのかも知れないが、こちらでは何のリアリティもない。ただ何人もの兵士が殺されている事実がニュースを通じて伝わってくるだけだ。たぶん殺された兵士にも家族や友人がいたりして、悲しみに包まれているのだろう。君には君の暮らしがあり、彼らには彼らの暮らしがあり、そして仕事に追われ、疲れ、眠る毎日を送っている。そんな世界なのだから仕方がない。それ以外に何があるというのか。注意深く顧みれば何かしらあったのかも知れないが、ことごとくやり過ごしてきたらしい。それが適切な処置だったかどうかはわからない。別に適切でなくとも、間違っていたとしても、もう手遅れなのであり、今さら過去へ遡るわけにも行かないだろう。ここにはこの時間と場所しかないのだから、ここで何かやるしか選択肢は残されていない。仮にそれがつまらぬ言い訳になってしまったとしても、君にはどうすることもできはしないだろう。すべてはなるようにしかならないということか。それは誰にとってもわかりきったことなのだが、それでも絶えずこの状況を何とかしようとしているようだ。今さら安易な批判を行うつもりはないが、現状に対する批判ぐらいしか残されていないのか。現状を何とかしようとすることが現状に対する批判になるのだろうか。そんなやり方がはたして有効なのかどうか、その辺がどうしても引っかかる。結局メディアを通じて行われていることは、そればかりのような気がする。


7月27日

 君はそれに関して何を知っているのか。それとは何だろうか。他愛のない些細な歴史的な出来事がそれを可能としているようだ。神への信仰が廃れたことが風景画を可能としていて、写真技術の登場が瞬間的な時間の感知を可能としている。誰かがそんなことを述べていたが、そこに登場する古びた人々の間では何が論議されていたのか。それは抽象的で小難しい概念だったかも知れない。例えば自由は何によって可能となるのか。今まで自由になれなかったのは、わざと自由になる機会を逃し続けていたからか。そんな芸当が可能だとは思えない。今さら誰が自由を求めているというのか。今や自由という言葉はそれほど魅力的ではない。自由になれないのに自由を望むのは不合理だからか。そうだとすると自由という言葉と定義を誤って使用しているのかも知れない。相対的な自由ならいくらでも実現可能だろう。何らかのしがらみや束縛から一時的に抜け出ることで、以前より少し自由になったと思うことはよくあることか。実感できる自由とはその程度のものだろう。それ以上を求めるとリアリティをなくしてしまう。なぜそれ以上を望んではいけないのか。すべてが自由なんてあり得ないからか。空想的な自由には実体がない。それは錯覚や思い込みを利用して自由な雰囲気を醸し出しているだけだ。自由という言葉が、その実質を抜き取られて一人歩きしているにすぎない。ただ漠然と自由を肯定的に解釈している。自由だけでは何を述べているのかよくわからなくなる。いったい何が自由なのか。以前と比べてそれほど状況が悪化したとは思えない。ある面においては以前より自由になったことは確かだが、そこに暮らす人々にとっては、以前より不満が募っているというところか。インターネットを介して個人が自由に情報のやりとりができるようになったので、情報業者にとっては世論を操作しにくくなっているかも知れない。そんな実感は的はずれか。彼らにしてみれば不満より先に不安なのではないか。一刻も早くそんな不安を解消して楽になりたいところか。だが楽になるとは、具体的にどういう状況になることなのか。やはりそれが自由になることに結びつくのだろうか。だが何をどうすれば自由になれるのかわからない。君はすでに自由を享受している。それはたぶん孤独になる自由だろう。


7月26日

 話がつながらないのは自然の成り行きだろうか。別に思いがけない事態を前にして立ち往生しているわけではないが、このところの停滞状況はまだだいぶ長引いてしまうのかも知れない。今頃は何を考えているのか。誰が何を考えているのか。そこに示された記号の意図を読み解く。大陸内部には川が流れて砂漠に消えてしまう地域もあるる。はたして消えたのはそれだけだろうか。文字も消え、記憶も風化していく。行方不明の人を誰かが捜しているようだが、時が経つのは早い。この世から完全に消えてしまう前に、何らかの痕跡を残す場合がある。それらを探し当てようとする者は偶然の作用を当てにしているらしい。誰もが物事を楽観的に考えなければやって行けない。今も明るい未来の到来を夢想している。誰かがやっているように歴史のない時代に歴史を導入するのは時代遅れかも知れない。では時代遅れが何をもたらすのか。伝統の継承はことごとく断ち切られている。それが夢想している明るい未来なのだろうか。明るいか暗いかなんてどうでもいいことか。それでもまだ君は書物の力が及ぶ範囲内に生きているようだ。書物を読むと歴史の有効性に気づいたりするのだろうか。有効なのかどうかはわからないが、とりあえず誰が構築しているのでもない時間を無視して、誰かが作り上げている物語を越えて、それらの連続を信じることが可能かも知れない。何も変わらないことを祈っているようだ。拙劣な断言を繰り返しているだけかも知れない。すべてが違う方向へ推移しているらしい。何を述べているのか意味不明のままだ。できることならそれがつまらない冗談であって欲しいのか。冗談であってもかまわない。世の中の出来事に関心を持てないことのどこが冗談なのか。それは冗談ではなく、深刻な事態に陥っているわけか。たぶん勘違いもいいところだろう。政治状況について詳しく知りたいのなら新聞でも読んでみればいい。ただそれだけのことでしかない。本当にそれはどうでもいいような状況なのか。テレビニュースで何か興味深いことを報じているだろうか。いつもの内容が繰り返されているだけか。そう思うこと自体がそれらの状況に無関心である証拠かも知れない。事態がどのように進展しても織り込み済みの範囲内に収まるだろうか。


7月25日

 画面では切り立った断崖の下を川が流れていて、川の上流へ向かって船が進んで行く。だがそれがどうしたわけでもなく、そんな風景には何の興味もないらしい。それから半日が過ぎ去り、ふと窓の外を眺めると、風は止み、鳥がさえずり、雨が降り出している。他に何事も起こらないような状況の中へと意識は溶け込んで行く。自分の感じている範囲内では至って平和な日々が続いているようだ。取り立てて言葉にするような話題もなく、なんとなく焦点の合わない心持ちでいる。言葉を紡ぎ出すための対象を見いだせないのはいつものことか。しかしそれが無の境地というわけでもない。何かしら考えようとしているようだが、何も思い浮かばないので、適当な言葉を繰り出してみるが、意味がなく、具体性のかけらもない。どうやらこの辺が限界なのか。このままではまずいと焦りを感じて、明け方に試行錯誤を繰り返すが、何の実りも得られない。やる気がしないということか。以前はそんな風ではなかったはずだ。自分にも何事にも積極的だった時期があったのか。到底そんな時期があったとは思われない。当時は何を感じていたのだろうか。そのとき何を感じていたのか思い出せない。何かを知ろうとしていたのかも知れないが、その知りたかったことはもう知ってしまったのか。かなりの部分は知り得たはずだし、実際に知識として身に付いていることもあるだろう。だが今も知りたいことはあるらしい。半日前が早朝の時間帯に属していたこと以外に何を知りたいのか。それ以外のすべてを知りたいわけか。だがそのパターンは使い古されている。知りたいことは限られている。何を知りたいわけでもなく、そんな問いかけを繰り返していること自体が馬鹿らしく思える。生きていくうちに自然と様々なことを知ってしまう現実がある。それは知識としてではなく、行動と同時に理解し続けるよう形で導き出される。もう勉強して身につけるような段階にはないのかも知れない。改まった形では何も得られずにいる一方で、生きているその瞬間ごとに頭を働かせなければ、何の進展も期待できない時期にあるのだろう。現実にはすべての感覚が同時進行で生きているわけだから、いちいち時間を区切って何か一つのことに集中している場合ではない。要するにいつものように生きているわけだ。


7月24日

 つまらない疑問を思い浮かべる。光とは何だろう。空気とは何だろう。なぜそんなことを考えるのかわからない。たぶんそれに関しては何らかの回答を持ち合わせているはずだ。この世は闇夜に覆われているわけではない。同じ環境の中で人々が身勝手な行動によって競い合う。それが社会のあるべき姿かも知れない。本気でそんなことを述べているわけではない。そんな風には思わない。しかし実際にはすべてがその通りなのか。この世界に人間が存在しているとは思わない。それらの物質が人間と呼ばれているだけだ。そんな風に思われるのは勘違いもいいところか。それらは人間であって、単なる物質以上の存在だろう。では以上とは、どんな基準で以上を定義しているのか。人間と比較して、それ以下の物質は何と呼ばれているのか。ありふれた回答を出すならば、それは動物か、獣か、無機物か。無機物は以下ではなく、未満ではないのか。ならば人間以上とは何か。神か、世界か、宇宙か。だがそれだけではつまらない連想ばかりだ。そんなものと比較して人間を語るのはつまらない。なんとなくどこかの誰かが利いた風なことを語り始める雰囲気に似てくる。恥ずかしい言葉を使うならそれは人間賛歌になるだろうか。人間礼賛とも呼ばれるかも知れない。ひたすら感動も求めたい人なら、涙を流すような内容になるだろう。だが君には関係のない話だ。何もかもが馬鹿げている。人を生かすとはどういうことだろう。使い捨てにされないためにはどうすればいいのだろうか。いったん呆れられたらもうおしまいなのか。これから先に伸びる可能性がなく、手の施しようのない人だと思われた時点で、その人はお払い箱なのだろうか。自らの愚かさにまったく気づかずに、しかも周りの人々にそれを悟られてしまうと、クズのレッテルを貼られてしまうわけか。夢を追い求めるのは勝手だが、そのための腰掛け仕事程度にいい加減なことを繰り返されたら堪らない。周りのみんなが迷惑を被る。要するにクズが思っているのは自分のことだけで、やっていることといえば、いかに楽してアルバイト代を獲得することだけなのか。やることはそういうことばかりなのか。にこやかに笑みを浮かべながら、口をついて出てくるのは調子のいいことばかりだが、平気で見え透いたごまかしを繰り返す。やはりそういう人は使い捨てにしていく以外にないようだ。どうも職安はクズの宝庫のようだ。


7月23日

 どこかで思考する順序がねじ曲がっている。だがどこでねじれているのかはわからない。それはどういうことなのか。近頃はそんな表現ばかりが多用されている。時として時間は有効に使うべきかも知れないが、何も起こらないと思われる時、何もない場所がどこにあるのか。たぶんどこかにあるのかも知れないが、そこで誰の精神状態を知ろうとしているのでもない。現時点では推し量れない。些細なことで落ち込んでいる割には、何が起ころうとまるで関心がない。誰かは考えることを放棄している。たぶん考えられないことが頻発して、考えることが無駄のように思われるのかも知れない。思考する度に限界が至る所に待ちかまえているのだろうか。ところで誰がそんな境遇にあるのだろう。おそらく何かに導かれているような気がして、それが勝手な思い込みや勘違いかも知れないが、それでも他に指針となるようなものがないので、渋々それに基づいて行動している。そんなわけで相変わらず勘に頼って生きている。そして合理的な判断はいつも先送りにされているようだ。しかしそれで自らが数奇な運命に翻弄されていると思うのは勘違いもいいところか。だがすべての物語から遠く離れて、何もない場所に存在している。いったい何がそこに存在しているのだろう。意識かそれとも生身の肉体なのか。それだけではないだろう。たぶんそれらすべてが存在していると思われる。またそれが勝手な思い込みにすぎないこともわかっている。そこは何もない場所ではなく、すべてがある場所だ。あらゆるものが存在する世界に生きている。ただそれだけのことなのだろう。それだけであり、それ以外ではあり得ない。それ以外を求めることは不可能だ。無い物ねだりはできないのであって、ここにはここにあるものしかなく、ここにないものはここにはない。そしてあそこにあるものはあそこにあるのであって、あそこにあるものがここにないからといって、それは何の不合理でもない。ただそれだけのことでしかない。あそこにあるものがここにもあってほしいと思うことが、無理な思考と行動を招いているのかも知れない。そう思うことが要らぬ摩擦や軋轢を生じさせ、人々を勘違いの妄想へと駆り立てている。そして妄想は妄想のままに終わらず、時としてそれは強引な手法によって不幸な結果を招く。今も誰もがそんなことばかりやっているのだろう。その結果がこんな世界の到来を招いている。しかもそれを批判する者たちがそんなことばかりに手を染めている現状がある。これではまったく救いようがない。いったい誰が救うつもりなのか。そんなことばかりやっている当人たちが救うつもりなのだ。当人たちが招いた現状を当人たちが変えるつもりでいるのだから、まったく救いようがない。


7月22日

 雨に見とれているうちにいつもの感覚が滲み出てくる。たぶん蒸し暑いので汗が滲み出てきたのだろう。少し前から何かについて思考を巡らせている。今この世界に何か重大な出来事が起こっているのだろうか。何らかの事象について論じているとき、批評的な振る舞いにはどんな欠点があるのだろう。何が批評なのか知らないが、それが批評的だとは到底思われない。批評的な文章や書物ならいくらでもあるはずだが、それはどれとも似ていないような気がする。ところでそれが重大な出来事なのか。重大か否かはどこの誰が決めているのか。どこかの誰かが決めるかも知れないが、それに同調するしないは、それを受け取る側の勝手かも知れない。考えすぎは精神衛生上よくないのかも知れず、そんなわけでその場限りの思いつきに思索の道筋を委ねる。誰が何を目指しているわけでもないが、この世界で何かを目指すことは、何らかの勘違いを誘発させるらしい。他の誰もそれを目指しているわけでもないのに、他人の目を意識して自らの体裁を取り繕っている。無常観とはどのようなものになるだろうか。あらゆるものが生滅流転するように、人間は簡単に死んだり生まれたりしている。そして生まれてから死ぬまでの間に方々へ移動を繰り返すようだ。定住する者は地面に繋ぎ止められているのか。架空の話ならいくらでもできるだろうか。何がどうなろうとこの世界は変わりようがない、と思うことが挫折といえるだろうか。君は何が挫折なのかを知っている。自らが設定した時間に追いつけなくなってしまうことが挫折になるのだろうか。意識が現在から隔たり始めていることは確かだ。意識が過去の時間の中に埋もれている間に、現在は遙か未来へ遠ざかってしまう。たぶんそれは未来ではなく、これから経験することのない想像上の未来だ。そんな風に思っているのは誰なのか。それの何が重大な出来事なのだろう。もう手遅れと認識してしまうことが、改善への手がかりを手放してしまうことになるのだろう。考えすぎの結論とはその程度のことなのだろうか。君はそこで何を批評したかったのだろう。ありふれた出来事の一部始終をただ眺めているだけで批評に到達できるだろうか。眺めているだけではだめで、そこに何らかの言葉を当てはめなければならない。その対象を何からの言葉で評しなければ批評とはいえないか。たぶん評するには及ばないと思われる出来事ばかりに囲まれて暮らしているのだろう。確かにどうでもいいようなことばかりなのかもしれない。人は使い捨てられるためにこの世に生まれてきた。誰に使われてもそうなる運命なのか。用無しの人間が生きる余地はないらしい。利用できるうちが生きている期間なのかも知れない。利用できない人間に生きている価値はないようだ。それがこの世界の現状なのか。


7月21日

 疲れきって何もやる気がなく、夕暮れ時にしばらく朦朧としていたようで、意識の途切れた時間を遡って、影の部分が感情の表層に浮き上がってくる。そのとき誰が何を述べていたのか不明だ。確か昨夜は朝と昼を取り違えていた。彼にとって、今が朝なのか昼なのか、そんなことはどうでもいいことかも知れない。どちらにしろ目が覚めるのは翌朝に決まっているだろう。気がつくと時間が二日もずれているようだ。時計が電池切れのようだ。論理的な思考が欠如している。確かに勘に頼っているだけではそろそろ限界かも知れないが、眠気とともに何が限界なのかわからなくなる。そして翌朝になって何もやらなかった事実に気づくだろう。今のところまだ翌朝ではないらしい。睡眠によって限界を乗り越えたいのか。しかしどんなに眠っても、それで乗り越えたことにはならないだろう。何を乗り越えようとしているのかわからない。感覚が狂っているのだろうか。それでも自らの正気を保っているつもりらしい。たぶんやらなければならないことは他にあるのだろう。だが未だにその他を知らない。何も無知を気取るつもりはないようだが、知らないことはそのまま放置されるだけだ。わからないことのいくつかはいつかわかるときが来るかも知れない。そのとき何がわからない状態からわかった状態へと移動するのだろう。どんな精神状態でも受け入れる準備ができているのか。受け入れられなければどうなるというのか。自分が自分ではなくなり、今までの自分以外の自分が形成されるわけか。それでも自分は自分でしかない。自分は自分であり、影はいつまでも自分につきまとうだろう。影にはわかりにくい性質がある。だがそれを性質と呼べるかどうか疑わしい。それは影ではなく自分の性質なのではないか。自分の形状が陽の光を受けて影を形成しているにすぎない。だがそれはただの影だろう。ではただの影以外にどんな影があるのか。影はただ影でしかあり得ない。それが影の正体であり、影そのものでしかないものに勝手な内容を吹き込んでいるだけか。そんな風にして意識は影と架空の対話をしたいらしい。意識は自意識からの隔たりを影に投影している。それがどういうことなのかよくわからないが、もっとわかりやすい言葉で説明できないものか。少し離れたところから自らを見つめる客観的な視点を影に求めているのだろうか。それが本当に客観性を帯びるかどうかは疑わしいが、やはり一歩下がった冷静な地帯を意識のどこかに設けておきたいのだろう。自らの稚拙さを司る感情を制御できないまでも、感情にまかせた愚かな行動を後から自らに認識させる必要がある。そのためには影を経由した迂回路を通じていったん冷却しなければならない。影はそうしたフィードバック的な隔たりの機能を担っているのかも知れない。


7月20日

 雨音に混じって何か雑音が聞こえている。そのことに意味はないが、その辺に転がっている石を見てダイヤモンドを想像してみる。同じ石でもダイヤモンドより高価な隕石があるらしい。火星の石はかなり高いそうだ。本当にそれが火星から飛んできた隕石なのか、俄には信じ難いが、確かにそうであったなら、今のところそれは高価なのかも知れない。だがいつか誰もが火星へ行くことができる時代が到来したら無価値な物となってしまうだろう。そんな時代になってもダイヤモンドは高価であり続けるだろうか。いつか人工的に大きな結晶を作り出せるようになれば、やはり価値が大きく下落してしまうのだろうか。火星の石もダイヤモンドもとりあえず貴重でなくなる可能性はある。では金はどうだろう。どこかに大量に埋まっている可能性でもあるか。たとえ話ならいくらでも可能性があるということか。要するに意識が現実から飛躍して他愛のない気休めを求めているようだ。作業がしばらく滞ってしまったとき、自然と気休めを求めるようになる。何とか停滞状況を打開すべく、文章と文章の間に付け足しに付け足しを重ねながらも、紋切り型で済まそうとする安易な怠け心に楔を打ち込んで、何とか正気を保っているつもりらしい。そして気まぐれに脱線を繰り返し、挙げ句の果てに行き詰まった振りを繰り返す。だがたぶんそれは振りではなく、本当に行き詰まっている場合が多いのかも知れない。なぜそんな底辺で踏みとどまっているのだろうか。それは何の底辺なのか、またそこからどうやって飛翔すればいいのだろう。そんなことをしながら思いを方々へ巡らしているらしいが、どうしてそうなってしまうのだろうか。同じような言葉遣いから抜け出られずに、つまらない表現で文章が台無しになってしまっているかも知れない。何とかそこから違う語り口に持っていきたいようだが、現状では試みのほとんどが失敗しているだろう。だがそんな結果にもめげずに、文章に自らの考えを反映させるべく、従来のやり方から逸脱して、これまでとは違うことをやっているつもりのようだが、なかなかうまくいっていないようだ。何が原因でうまくいっていないのだろうか。要求している水準が高すぎるのか、それとも単なる勘違いなのかわからないが、とりあえずいつまで経っても試行錯誤の段階にとどまっている。そして苦し紛れに繰り出されるのは言い訳ばかりのようだ。どこからかうめき声でも聞こえてこないものか。それを聞いてどうするのか。事件に遭遇して色めき立つのは物語の中の探偵ぐらいなものだろう。たぶんテレビのサスペンス劇場でも見ればそんな声も聞くことが可能だろう。そんな気休めで君は満足できるだろうか。満足できなければ自らが犯罪者にでもなれば事足りるか。


7月19日

 何を読んでいるのかもわからぬまま、内容を吟味している間もなく、勝手に手が動いて、次々と頁がめくられ、それでも文字を追いかけようとすると、まったく目がついていけないような速さにまで達してしまう。何がそれを読ませまいとしているのか。しかしそれでも読みたくなるのはなぜだろう。なぜそれを読まなければならないのか。無理して読む必要はない。その何だかわからない読み物について説明する必要もない。未だかつてそんな書物を読んだことはない。その書物を前にしてどんな感慨が湧いてくるだろうか。しかし読むことは叶わぬ。あるのはその断片にすぎない。そのすべてを知り得ない状況にある。すべては空想の産物になってしまう。無理に思い描いているだけに、まったく正確さを欠いている。そこからいったん離れなければならないのか。邪念を取り除いたあとに何かが見えてくるかも知れない。たとえ何が見えてきてももう驚きはしない。幻想の光景がリアリティ得ることはない。いつの間にか正気に戻って、それらの幻想に幻滅してしまう。相変わらず何について語っているのか対象が不明確だが、では幻想が取り除かれたあとに残る現実とはどのようなものなのか。それは風景以外には何もない貧相な光景になるだろうか。ただそんな風景を眺めているだけで誰が満足するだろう。ファンタジックな夢想抜きの風景なんて何の面白味もない。そんなわけで結局人々はそこにはない願望を風景の中に投影してしまうことになる。遺跡を眺めながら在りし日の栄華を想像したり、湖面を眺めながら水面下を泳ぐ謎の生物を思い描く。そんなことの繰り返しの果てに現実を見失うのだろう。想像力が邪魔をして現実が見えてこない。そんなことがあり得るだろうか。それは何かの冗談か。冗談ではなく嘘かも知れない。そんな現実を想像してみる。しかし現実とは何だろう。自らの願望を実現しようとしている現実がここにあるということか。そんな現実を空想している姿を想像してみよう。想像できるはずもなく、具体的に現実とはどんなものなのかを提示できない。その代わりにやっていることは、言葉を不必要に錯綜させ、無意識のうちに内容を込み入らせようと画策しているだけなのか。結局はわけがわからなくなることを見越して、そんなことを戯れにやって見せているだけなのか。確かにそれも一つの現実には違いない。だがそんな試みはことごとく徒労に終わるしかないようだ。次第に何を述べているのかわからなくなる。


7月18日

 君は他に何もやることがなく、どうやら自発的にいつもの発作が始まったらしい。たぶんどこかの誰かは暇にまかせていい加減なことを述べている。若者には勇気と決断力が必要だ。気まぐれにくだらぬ戯れ言で間を持たせようとしているのか。ところでどのような時にそれらは必要とされるのか。正義を執り行うには勇気と決断力が必要だ。何が正義なのかが不明だ。そこで顕在化しつつある正義とはどのようなものか。人間は正義感や倫理観だけで行動できるだろうか。行動するにはそれなりの環境と理由が必要か。中にはそれなしでも行動できる奇特な者もいるかも知れないが、たぶんそんな前提で行動するのは馬鹿げている。通常は金で動くはずだ。確かに金銭を介して行動するのが常識的なやり方だろう。しかし金や物に心を奪われている者は何か大切なものを見失っている。大切なのは金や物なのではないのか。心は見るものではなく感じるものだろう。ではそれらに心を奪われている者は何を感じることができるのか。それらを得ることで利益と満足感を得たと感じることができる。だがそれでは正義の中身を導き出せないのではないか。正義に中身など無用かも知れない。とりあえず自分勝手な論理に基づく行為が正義という言葉で正当化されていれば、それでかまわないのであり、重要なのはその中身ではなく、正義を行使した後に得られる結果だ。そのとき君はどんな台詞に感動するのだろうか。何か気の利いた台詞を伴わなければそれを正義と見なすわけにはいかないのか。言葉に感動しなければ正義の前にひれ伏すわけにはいかないのか。なぜそうしなければならないのかわからない。だが本気でそんなことを思っているわけではない。浅はかな人々は言葉にすがりつく。深淵を目指す人も同様だろうか。心とか命とか、そんなものを大げさに強調するのは恥ずかしいので、真心を込めて君に何を送るべきかわからない。所詮人の心は想像力の産物かも知れないが、その存在を信じないと人という物体を構成できないと思われる。単なる動物の一種では気に入らないわけだろう。心の中では理性と感情が適度に調整されていて、その混ざり具合によってその人の人格が形成されているようだ。たぶんそんな風に説明すると何かわかったような気になるだろううか。具体的に何がわかったのか知らないないが、今度はその何かが容易にわかるような説明が必要か。途中で何か違う方向へ話がずれてしまっているのはいつものことか。いつの間にかそうすることが自らの責務になっているようだ。その責務を果たさなければならないという強迫観念はどこから生じてくるのだろう。何事も成し遂げられないのは無能の証しだと思われるからか。そしてそれをやり抜くことで何らかの達成感が得られるからか。ではここで何を果たさなければならないのか。だから言葉でそれを説明しなければならない。何も死んだ人間を再生させようというのではない。口を開かぬ者を言葉で責め立てるのはおかしい。例えばすべての終わりを始まりの先端につなぎ合わせるにはどのような困難がつきまとうのだろう。なぜ唐突にそんなことを思うのかわからない。到底そんなことができるとは思えない。目の前から徐々に姿を消しつつある事象を、どうすればこの場に繋ぎ止められるのか。現前が失われる前にそれを言葉に置き換えて、何らかの記録として保持することに、肯定的な意義を見いだせるだろうか。今までに繰り返されてきたそれらの主張らしきものを、それとどう関連づけようとしているのか。博物的なものにどんな見解を付け加えれば気が済むのだろうか。それらがすべて無意味だとは思わないが、何らかの断定を付加すると嘘になってしまうような気がする。


7月17日

 いつもの予感がして外へ出る。夕闇が迫る薄暗い曇り空を見上げて何を思う。何も思わないから空を見上げているのか。何も思わない予感でもしたのだろうか。たぶんそれはそれはいつものことかも知れない。必死になって探し求めていたのはそんなことだったのか。ただそうやって脱力感を探し求めていたわけか。別に何を探していたわけでもなさそうだし、気晴らしに空を見上げて何か思いたかったのだろうが、今は誰も空を見上げていない。夜の闇の中を雨が降り続く。面倒なので雨に濡れてまで空を見上げるつもりはない。しかしいつもの予感とはどんな予感だったのか。今にして思えば、たぶんそんな予感がしていたのかも知れない。どうもいつまで経っても埒があかないようだ。今さら何も思っても、何の区切りもつけられずに、ただずるずると惰性で続けてしまっているらしい。外から眺めるとそんな風に映るだろうか。しかし誰に眺められているわけでもない。こちらからもことさら眺めようとは思わない。どうしてそんなものを眺めなければならないのか。実際に誰が眺めているのだろう。たぶん盲目の民が眺めているのだろう。自らが眺めていないものを眺めていると思い込んでいるだけか。そんな単純な構造だったらどれほど救われることか。誰がどんな風にして救われるのか。誰かがそれらのすべてを語ろうと試みて、それによって救われようと思うかも知れないが、それですべてを語ったことになるのだろうか。ようするにすべてがすべてでないことを知らないということになるだろうか。そんなことはあり得ないか。誰もが沈黙という言葉とその意味を知っているはずだ。語ることのすべての中にその沈黙も含まれるとしたら、それをどうやって語ればいいのだろう。はたして沈黙について語ることが沈黙そのものに結びつくか。そんな矛盾で驚くには当たらない。沈黙はその程度では語り尽くせないが、それは本当だろうか。何かについて語り尽くすことがすべてを語ることになるのだろうか。当然語らないことまでは語り尽くせない。そんな語りでは不満のようだ。確信していることは何もない。そしてそれらの救いを信じられない。救われることが本当に救われることになるのだろうか。簡単に救われてしまっては困ってしまうような気がする。救われ方が気に入らないのかも知れない。だから安易に救われないで欲しいと思うようになる。救われてしまうより、何も救いがない方が気楽な心持ちでいられる。明るい未来など待ち受けているはずがない、と思っている方が楽しい。そうやって何かから逃げているのかも知れない。救いという終わりを回避しようとして、必死に無駄な悪あがきを繰り返しているのだろうか。とりあえずの結論としてはそれでもいいのかもしれないが、どうもそれだけではないような気もしている。


7月16日

 そこでいったい何をやっているのか。それらの行動に理由や原因はない。外から眺めてみれば、それなりの理由や原因を構成できるかも知れないが、そんな面倒なことをやる気が起きないので、結局は行き先のないドライブになってしまうような気がするが、このところはそればかりになっているかも知れない。本心からそう思っているかどうか疑問だが、次第に困難になりつつある現状を何とかしなければならない。何とかしようとして何とかなるようなら苦労はしないか。とりあえず現時点で使用可能な言葉を順序立てて並べてみる必要がありそうだ。だがそれをやってどうするのだろうか。意味がないし、そんなことができるはずもない。言葉の使用にどんな順序があるのか。ただ思いついた順に自然と言葉が並ぶだけではないのか。それだけではないと思いたいところか。確かにそれだけではないのだろうが、それ以外のすべては過ぎ去ったことかも知れず、過ぎ去ったそれらには興味を失っている。立場が変われば見解も以前とは違ってきてしまう。すでに活動的な地帯からだいぶ離れてしまって、以前に思考していた物事がどうでもいいことに思われてしまう。また今さらそこへ行こうとは思わない。そしてそれらの事象に本気になれないのも当然のことか。そこでは相変わらず愚か者たちによって馬鹿踊りが繰り広げられているだけのようだ。たぶんそれだけではないのだろうが、遠く離れた地点から冷めた眼で見ることしかできない。要するにそれらは関係のないことなのかも知れない。時空の隔たりが関係の糸を断ち切ってしまって、思考の形態が以前とは大きく違っているらしい。ただそう思いたいだけなのか。世の中がこれからどんな変貌を遂げようと意に介さない心持ちなのかも知れない。どんな衝撃的な事件が起ころうと、その身に何が起きようと、ただそれだけでは退屈に思われる。ただそれを感じるだけでは物足りないのか。その程度では簡単にやり過ごせるのかも知れない。それらについて何らかの見解を述べている人々が愚かに思える。お前らみんな馬鹿じゃないのか、と大声で叫びたくなるわけではないが、そんな風にして関係を保とうとする気がまったく起こらない。馬鹿の仲間入りをするメリットを見いだせないのか。何も損得勘定をしているわけではないが、たぶんそれが正直な実感なのだろう。彼らを見捨てているのではなく、こちらが見捨てられているだけなのかも知れないが、一向にかまわないだろう。今はそんな思いでいた方が無難だと思うが、不必要に述べるための題材をそこから導こうとしてはいけないのかも知れない。強引にそんなことをするよりも、何もない空虚と戯れていた方が遙かにマシに思われる。


7月15日

 状況を把握する間もなく、未来へと押し出される。しかも押し出された先には何もない。そこで何かしろということか。気晴らしのためのための時間がまだ少しは残されているだろうか。そんな願いはあっさりと退けられて、願いの届かない未知の領域へ踏み込んでしまう。しかし何が願いを退けているのか。誰が未知の領域へ踏み込んでしまったといえるのか。また主語のはっきりしないあやふやな文章が連続しているようだ。何か得体の知れぬ状況に魅了されてしまっているらしい。そうやって変奏曲のアリアが静かに進行して行く。何の前触れもなしに意味不明な領域に向かって適当な言葉を投げかけているらしい。辻褄の合わぬ連続をどうやって肯定すればいいかわからずに途方に暮れている。たぶんあともう少しの辛抱が必要なのだろう。何とか言葉を整理して、辻褄の合うように文章を再構成する必要がある。偶然に辞書の下からコピー用紙が見つかり、君はそこに記された文字の連なりを読み解こうとしているようだ。そこに記された内容は省略されてしまう。勿体ぶって謎かけのように語る素振りは見せずに、何者にも不必要に訴えかけてこない抑制された表現を好んでいる。ところでそこで何が起こったのか。とりあえず何かが起こっているのだろう。なぜそれらの出来事によって君が自由になるのか。不必要に無意味な言葉を連ねることの何が自由なのか。要するに冷静さを装いながらも苛立ちを隠せないということか。誰が君の邪魔をしていると思っているのか。誰も邪魔しているわけではなく、その反対にすぐに行動するように急き立てているのだ。行動とは具体的にどのような行動が想定されているのか。これからも飽きもせず言葉を連ねることか。それ以外に何を思いつくだろうか。そこで影が要求していることは、ただそれだけかも知れず、それ以外はどうでもいいことらしい。その場ではとりあえずそんな風に思っている。ならば別の機会をねらって、そんな風には思わない状況を呼び込むしかないようだ。そうなったらまずはそれ以外のすべてを行う必要がある。交互に繰り返される睡眠と妄想の合間にそれを行って正気を取り戻そう。そしてひたすら疲れるのか。できもしないことをやろうとして挫折し、結局は疲労を呼び込んですべては台無しとなるだろう。しかしそんな予定調和の結末は打ち破らなければならない。そうならないように言葉を構成する必要がある。要するに元の木阿弥に回帰してしまうのか。やらなければならないことのすべてはそこへ収斂してしまうようだ。ただ何を語っているのでもなく、何か意味のないことを語り続ける。そしてそれは狂気からは程遠い冷静な対処法としてさらに継続されるだろう。たぶんそんな水準で終わるわけにはいかないのだろう。


7月14日

 はっきりしない状況の中で何を考えているのかわからない。どこかにいる誰かはこのところ少し疲れ気味のようだ。少し休まなければならないだろうか。近頃は勤勉になりすぎているような気がする。疲労の原因としては作業のやりすぎが思い当たる。無理を繰り返して自分の首を絞めているのだろうか。そんなことは早々に切り上げて、そのうんざりするような作業に区切りをつけるべきなのか。しかし現実から逃げているわけでもないのに、影が執拗に追いかけてくる。影に追われてやめるにやめられないわけか。いったい何を述べているのだろう。そうまでして影は何を訴えかけようとしているのか。ところで影とは何なのか。他に誰も何も訴えかけてきているわけではない。それは深刻に受け止めるような現象ではない。ただ時間に追われて怠惰な気分を取り逃がしているにすぎない。影に実体はないのかも知れない。それは妄想から導き出された幻影なのか。空白の時は今も奇妙に圧縮された時間帯を形作っている。影のことを考えているうちに、虚無が濃密に漂う時間にさしかかっている。それはどのような状況を説明しているのだろう。忙しすぎて過去の幻影と戯れている暇を設けられないということか。わざとらしく文学的な表現を使って、例えば歴史の海に浅く足先を浸してみれば、内面の視界に何かが浮かび上がってくる。虚無の亡霊が何か適当なことを語りかけてくる。焦って言葉を繰り出すタイミングが少しずれているようだが、過去が未来について何を語れるというのか。毎度おなじみのありふれた予言で誰が満足するのだろうか。誰も満足しないかもしれないが、予言の定型に則って確実に予言しているように思われる。とりあえず明日は晴れるだろう。仮に晴れなくとも、いつかは確実に晴れる天候に巡り会える。そして晴れた日の前日に予言したことにすれば予言が的中したことになる。晴れた時に晴れると予言したことにすればいいのであって、そこで辻褄を合わせれば何の問題もない。問題がないどころか、一方的にそう思っているだけかも知れない。また例えば誰かが予言通りに流れ星を見ることになる。たぶん明日の夜に流れ星を見ることになっている。その予言を的中させたければ、明後日にでも昨日の夜に流れ星を見た者を捜し出せばいい。なぜそんなどうでもいいようなことに固執するのか。そこで予言する必要はないし、仮にそれが的中したからといって、世界の未来がどうなるものでもない。それは予言を行う者の内面の問題なのだろう。たぶんそうすることで退屈な日常生活を劇的に演出したいのかも知れない。予言を通じて自らが世の中の動向に関わり合っているような気分でいたいのだろう。そうやって絶えず何らかのコメントを出していないと気が済まない者はたくさんいる。どうでもいいような些細なことでも騒ぎ立てないと、自らの存在が世間から無視されているような気になってしまうか。そうやってところかまわず懸命に言葉を発し続ける。それは誰も話を聞いていないのに、虚無に向かって問いかけ続けるようなものか。


7月13日

 同じような出来事がしばらく続いている。昨日も雨が降り、今日も適当に雨が降る。つかの間の日差しを浴びたのはいつのことだったか。しばらくすれば嫌でも真夏の強烈な日差しに音を上げる日々がやってくるだろうか。それまでは気晴らしに昔を思い出す日々を送っているわけでもない。そんな状況がやってくるのを先回りして、そのときの感想まで漏らすのはおかしいか。今このときを飛び越えて、未来や過去へ思いを巡らすのは、今ここに何もないことを証しているのだろうか。何もないわけではないはずだ。何かがあるから何もないと語ることができる。暗黒物質でもあるのだろうか。別にそれが暗黒物質でなくてもいいだろう。無色透明な空間の中で生きているらしい。そこで誰が生きていると思っているのか。誰もが生きているが、同時に誰もが死につつあり、現に今も死ぬ者が後を絶たず、遠からずすべての者が死ぬだろう。生きて死ぬだけの世界だ。それ以外に何があるというのか。何かがあり、すべてがある。紫の煙もあるだろうし、走るために生まれてきた者もいるらしい。ただそれだけではなく、それ以外のすべてが併存している。ではそのすべての中から何を選び取れば満足するだろうか。満足するだけでは不満であり、満足と不満足の状況を交互に体験したいのかも知れない。つかの間の満足を感じたいために、絶えず不満だらけの現実を是正し続けることが生きている証なのか。それは底なしの欲望へと直結しているが、それを堪能し尽くすには人生が短すぎるだろうか。中にはそちらへ向かうことを断念してしまう者も出てくる。適当なところで妥協する者が大半になるだろうか。ゲームを降りた者にとって、強引に欲望を満足させようとするのは馬鹿げていると思われる。偶然でも作用しない限りその機会は永遠に訪れないように思えるからか。それもあるかも知れないが、一方でそれがすべてではないような気になるのかも知れない。そんな時期がやってきたから、そこでゲームを降りてしまうのかも知れない。自らの限界をそのとき悟ったわけか。そしてそこからいったん身を退いてそれを眺めると、競争という名のゲーム自体がみすぼらしく見えるのかも知れない。ゲームとそのルールを頑なに愛する者たちにうんざりしてくる。本当はなんでもありなのに、絶えず自らの陣営が有利に働くように、他人の行動を制限しにかかる者たちに反発しているのかも知れない。ゲームを成立させているルールとはそういうものなのか。それ以外に何があるのか。やはりそれ以外にすべてがあるのだろう。ルールの範囲内で生きられない者は、そのすべてを求めているわけなのか。


7月12日

 エアコンの効いた室内から時折窓の外を見ながら誰かが不意に呟く。気分だけは爽快でありたいものだ。気分の他に何が爽快になれるのか。そんなことを思いながらもすでに最悪の状態を脱したつもりになっている。何もやることがないと、暇にまかせてあらゆる方向へ想像を巡らす。それはいつのことなのか。だが暇がないのでその範囲は限られているようで、それほど遠くへは行けないらしいが、目新しい出来事に巡り会う機会を求めて、意識は盛んにその近辺を行ったり来たりしているようだ。いくらそんなことをやろうと、近所にある墓の底から誰がよみがえってくるわけでもない。それはゾンビの話をアレンジしろという天啓だろうか。所詮想像力にも限界があり、感性の求めるハードルが高すぎるのか、なかなかそれが文章として完成するまでには至らない。赤い革のジャケットを身につけた若者が、墓場でおかしなダンスに興じている映像が脳裡に浮かぶ。今から十数年前にはそんな出来事があったはずだ。その後若者は顔の整形手術を繰り返して、彼の背後で踊っていたゾンビに近づきつつあるのだろうか。説明とはそんな語りを利用することによって成り立つものなのか。さっきまでそこで何を説明していたのだろう。別の時空で生じた流行現象を説明していただけか。そんな説明で誰の脳裡に虚偽の慰めをもたらすのだろう。その説明にはまだ続きがあったのかも知れない。それを必死になって思い出そうと試みる奇特な人物がどこかにいるかも知れない。街に住む者はその片隅に宝があると思い込んでいる。レンタルビデオ店のソフトの中に宝の山でもあるらしい。そういうわけで昔の映像の中を意識は彷徨う。起承転結の劇的効果を疑う映像作家の作品でも探し当てて満足すればいいのか。しかし今さら東京物語もないだろう。それは正当な評価からはほど追い印象を受けるが、正当な評価自体が今や正当性を失っている。断片的な言葉がその文芸空間に埃を被って堆く積まれているだけなのか。いつの間にか古本屋で立ち読みをしている人物に巡り会う。それは局所的な情報の集積なのかも知れない。もはや顧みられることのまれな場所と化している。そんな場所でカビを吸い込みながら何をやっているのか。黄ばんだ紙の上に眼を走らせながら暇をつぶしているだけなのか。たぶん陰気な場所が住処なのだろう。やはりそんな環境に長期間暮らしていては病気がちになるような気がして、できることならそこから遠く離れて、澄んだ青空の下に活動の場を移したいようだが、もちろん本気でそう思っているわけではない。そんな環境にあこがれて、田舎で牧場や農業をやって、悲惨な暮らしに追い込まれる人々を知っている。たぶんメディアはそこにも何らかの救いを求め、それを成功として演出したいのかも知れない。


7月11日

 他人の死にも生にもあまり関心はない。それらに意味を見いだせないようだ。センセーショナルな事件に浮かれることもなく、世の中の風潮にそれほど同調しているわけでもない。流行り廃りに鈍感なのかも知れない。その場限りのいい加減な気分に押し流され、どこか遠く離れた場所へ流れ着いた椰子の実でも想像してみる。旅は画面上でうごめいている芸能人が行くものだ。そしてその画面を見ている者の何割かがつられて、型にはまった安易な旅へと誘われるわけか。安易に安心を追い求めているだけかも知れない。それでも気分は夢の中で旅をしているらしい。そればかりではないと思いたいようだ。今はそこに付け加えるべき台詞を思いつかないが、きっと気の利いた台詞をいつか思いつくだろう。そのときが来るまでじっと待っている。不安の時代ではなく、気晴らしの時代だと思いたい。気晴らしに不安を煽り立てているだけなのか。何もないから何かあるように装いたいらしい。至上の平和を享受しているのに、それでも不安でいたい人々が大勢いる。安心と不安を状況に応じて適当に使い分け、安心してばかりいて物足りなくなると不安を演じたくなる。たぶんそのどちらでもかまわないのだ。どちらも退屈を紛らすための気晴らしの一種にすぎない。今ひとつ本気になれないのは、そんな時代の雰囲気を反映しているのだろうか。それでも機械的に仕事はこなしているようだが、やはりそれでは物足りないのかも知れない。だがそれ以上を求めるつもりはない。今のところはそれでかまわない。それで困る者がどこにいるのだろう。そんな状況にいきり立つ者は、ふやけた社会に向かって激情をぶつけるかも知れない。なぜぎりぎりのところまで自己を高めようとしないのか。なぜまやかしの夢を捨てて決起しないのか。自己を高めてどうするのか。決起してどうするのか。誰も相手にしてくれないかも知れない。たぶんそれは狂人の夢へと収束するだろう。山奥でひっそり暮らす老人がそんなことを夢想しているかも知れない。四国で遍路をやっていた老人は指名手配犯だった。そんな話が気晴らしの中身となる。夢は幻想の一種なのか。その幻想を実現したらどうなるだろう。映画監督にでもなっているところか。幻想的な絵でも描いてみたいところか。内面から滲み出てくるのは脂ぎった成功願望の他に何がある。避けて通るべきなのはその手の夢になるだろうか。他にどんな夢を抱いているのだろう。あるべき姿とはどんなものになるだろうか。


7月10日

 労働が疲労をもたらし、疲労が怠惰をもたらす。一概にそうともいえないだろう。そんな悪循環の中で憩いの時が到来することを願っている。そんなわけにはいかないことは重々承知している。そこで何が不可能と思われているのだろう。あり得ない状況を夢想することか。それでもどこかで何かが起こるだろう。おそらくそれは大した事件ではない。それにわざと驚いた振りをしても何も変わらないような気がするが、何らかのきっかけになる可能性はありそうだ。それについて考えるのは面倒に思われるが、何とか少しずつ暇を見つけては考えていこうと思う。それに過大な期待を抱く気にはなれない。救いを求めようとは思わない。あまり単細胞にはなりたくない。時には自らの要求を無視してもかまわないだろう。その代わりに虚無に働きかけて無意味な言葉を引き出す。またいつもの作業が再開されているようだ。それが明日にも成果を生むとは考えにくいが、他にはこれといった妙案もないので、その場の成り行きに従ってそれをやりざるを得ない。たまにはそこから離れて別のことをやる気はないのだろうか。そこから離れようにも離れられない事情でもあるのだろうか。いつもまとわりついている空虚がどこかに消散して欲しいわけか。人生に意味などをいっさい求めようとしない、あの虚無の砦を何とかして突破したいわけか。どうして虚無と戦う気が起きようか。虚無のおかげでここまでやってきたのに、今さらそれを捨て去るわけにはいかないだろう。それ以外はすべて虚偽の慰めでしかないような気がする。肯定的に生きたい者なら誰でもそんなことはないと思いたいところかも知れないが、虚無以外の何も肯定できない精神状態では、その他のすべての気晴らしが灰色を纏っているように思われる。まるで廃墟の中で人々が暮らしているような感覚から逃れられない。人間は腐葉土の中に住まうダニのようなものか。しかしそれはどういうことなのか。何かわかりやすい比喩的な意味合いを含んでいるのだろうか。たぶんそんな気の利いたものではなく、なんとなくそんな思いを抱いているだけのようだ。季節が変わり始めてからどれくらい経つだろうか。それは四季の季節循環とは関係のない季節だ。それでも時の流れを感じているのは錯覚にすぎない。揺り動かされているのは大地そのものだ。いつまで経ってもそこに立ち止まったまま動こうとしない。にわか雨が通り過ぎ、雲が去り、陽が沈み、夜の闇に佇んでいるだけなのか。それ以外に何ができる。


7月9日

 どこかの誰かが苦し紛れに適当なことを思いつく。抜け道がどこかにあるはずだ。たぶんいつか誰かがそのときの経緯を思い出すだろう。ついでに思い出すつもりのないことまで思い出される。しかしこの世界の中で幻想を抱いているのは誰なのか。それとこれとは関係のないことだろうか。なぜそこに抜け道があると思うのか。またどのような状況から抜け出したいのか。体験しつつあるその状況を把握できていない。仮に何らかの行動によってそこから抜け出たとして、その後の展望を何も持ち合わせていない。展望がないならやめればいいだろう。抜け出るまではやめられないということか。では抜け出た先には何が待ちかまえているのか。さらなる苦難でも待ちかまえているだろうか。しかし今さら苦難が何になるというのか。展望が開けないままの状態が苦難ということになるだろうか。それのどこが苦難なのか。そんなことを述べているからまた次々と新たな苦難が襲ってくるわけか。では度重なる苦難を乗り越えた先には何が待っているのだろうか。とりあえずまた違う苦難が待ちかまえているだけかも知れない。そんな成り行きにはうんざりしてしまうか。ではどうすれば状況を改善することができるのか。例えば苦しみ悩んでいる時間を減らせばそれが可能となるのだろうか。どうすればそれを減らすことができるのか。それをやめればいいだろう。やめられないから苦悩する。もちろん苦悩するからやめられないわけではない。やめられない理由は他にありそうだ。確かに他にあるのかも知れないが、それを特定することは不可能だ。特定するわけにはいかない事情でもあるのだろうか。それをしようとするとやる気が何かに跳ね返される。素直になれない何かが介在していて、それがやる気を削いでしまうようだ。やる気が失せてそれを避けて通り、そこから大きく迂回した果てに、また問いかけの繰り返しへ戻っている。そこで何かを延々と問いかけているらしい。またいつもの答えに行き着かない問いかけが繰り返されている。それが度重なる苦難を形作っている。どうも先程から同じようなことを延々と述べているようだ。何かが循環し続け、様々に回帰し続けている。その何かが一向に減衰する気配はない。


7月8日

 退屈にまかせて意味のないことを述べている。だがここでは予言の言葉は無効だ。不十分な知識で何を問うても、満足できる回答は導き出せないだろう。ところで何もないのにこれから何をやるつもりなのだろうか。何もないから何かを見ている。そこで何を見ているのか知らないが、周りの風景を眺めるだけでは未来を見通すことはできない。未来は不明確なままの方が気が利いている。何かをやる前から結果が知れているのなら、何もやる気が起きなくなるのはもちろんのこと、それでは未来が過去と同じ性質になってしまうだろう。元からそんなことをやるつもりはないようだ。そんなことがどんなことなのかやってみなければわからない。その代わりに何かいい加減なことを思いつく。それは嘘で、本当は何も思いつかない。周りからあらゆる出来事が去って行く。そして何もなくなったとき、そこから意識も去って行く。本当に何もないのだろうか。今何が求められているのだろうか。そんなことを想像することが息抜きになるのか。息苦しいのは溺れている証拠となるだろうか。まともな神経の持ち主ならそんな風には思わないかも知れない。たぶん未知の何かを巡って適当な文章が構成されようとしているのかもしれない。別に見ることを渇望しているわけではなく、むしろ一刻も早く目を閉じて眠りたい心境だろう。見慣れた風景を眺めながらも、それとは違う風景に囲まれた自分を夢想する。意識はここにはあり得ない世界を渇望しているようだ。見るよりも想像する方が心地良いか。だが想像力にも限界がある。しかし見ることにも限界があるだろう。ではどちらの限界が問題なのか。どちらも問題ではない。どちらがどうだとか比較するのは無意味かも知れない。ただ見るのも想うのもそれだけでは漠然としすぎていて、見る対象や想う対象が特定されないと、何を比較していいのかわからない。だがそれを特定することはできない。特定しようにも対象を思いつかない。見る対象も想う対象もないかも知れない。あるのは見慣れた風景と空虚な心だけか。それが日常のすべてだ。そんなことはないと思いたいところか。そうではないときもあるだろう。だがそうではないときを忘れてしまった。そうではないかも知れないが、そうであってもかまわないということか。そのどちらであったとしても、その状況に合わせた言葉を伴った文章を導き出せるか。それは思考によって導き出されたレトリックの一種になるだろう。要は技術的な問題に還元されるということか。それを否定することはできない。


7月7日

 できることはそれだけなのだろうか。どうやら何事も批判することしかできないらしい。そんなペースでひたすら文句ばかり述べて、いったい何に幻滅しているのだろう。そんなつまらぬことを思いながら、他には何もしないつもりのようだが、遠からずそんなわけにはいかなくなるだろう。そうなる理由は何もない。たぶんそうなりざるを得ない宿命なのであり、勝手にそう思っている。だが思っていることがそのまま表に出てくるわけではない。表に出てくるのは偶然の成り行きから思っても見なかった形に変形してしまった意識だ。それは思いがけない台詞とともに驚きを表す。だがまた深夜に目が覚めて、その続きをやる羽目に陥るのだろうか。これ以上何を述べてみても、それでもこの世界は存在していて、こんな世の中が続いて行くことは確かなようだ。とりあえずはそういうことにしておこう。それ以外に何があり得るのか。その辺で踏みとどまっておかないと、わけのわからない妄想の虜となってしまうような気がしてくる。現に何も見いだせないのに自然と言葉が連なってしまっている。しかもそれで何を語っているのでもなく、そうやって空虚の直中へと押し出されて、どうしようもなくそれ以外を求めざるを得なくなり、しかし一向に抜け出ることができずにもがいている。やはりそれ以外はあり得ないようだ。そんなことの繰り返しがここでは演じられているわけなのか。言葉遊びの範囲内で行ったり来たりしている。虚空の端から端へ適当に振動しているだけなのか。そんなよくわからない説明に終始している。困難な方向へ話を進めることしかできない。そうやってその場での暫定的な結果を残そうとする。そこからどのように歩を進めようと同じような逡巡にしかならない。絶えずそれ以上を目指しているにもかかわらず、現実に足を取られ、地べたに這いつくばってしまう。そして当初に思い描いていた内容はいつの間にか意識から消え去り、気がつけば思いがけないことを述べている。前にもそんな台詞が出現していたかも知れない。そんな台詞では誰も何も救われないがそれでいいわけか。ありのままの世界にこれ以上何を付け加える必要があろうか。気に入らぬことだらけだがそれでもいいわけなのか。そんな風にしか述べられないだろう。


7月6日

 彼らの自画自賛にはきりがない。それの何が自画自賛になっていると思われるのだろう。絶えず自らの成果を誇張して伝えようとしていることが気に入らないわけか。それについては面倒なので肯定も否定もしないし、それらの行為には賛成でも反対でもなく、そのような意思表示をすること自体が嫌な感じがするだけなのか。そしていつもながらそんなことはどうでもいいことになるかも知れないが、そんな風に思いながらも、その嫌な感じがする状態が続いてしまうのも不快に思う。結果的には自分たちの反対している事象を助けていることになる。絶えずガス抜き効果を利用して現状維持に余念がないことになっているのに、当人たちにはその自覚がないのだから始末が悪い。自分たちは一生懸命体制批判に精を出していると思い込んでいるわけだ。要するに自分たちの批判が届く範囲を見誤っているように見える。そして届いても仕方のない人たちに批判している仕草を見せびらかしている。批判すること自体が型にはまった演技として目的化していて、批判している対象に批判の内容が何も届いていないように思われる。その対象となっている人たちは、ああまた同じことをやっている、としか思わないだろう。彼らにしてみれば、毎度おなじみの人たちが毎度おなじみの批判を繰り返してくれることで、結果として自分たちに向かってくる逆風を無効にしてくれているような気になるのかも知れない。もはやそんな批判には飽き飽きしていることを誰もが感じていることを、批判している当人たちはわかっていない。それでも彼らは批判することが一応は仕事の内なのだから、それらの仕事が続いているうちはそれをやりざるを得ないということか。今のメディアにはそんな不具合が蔓延しているのかも知れない。ではどうすればいいのだろうか。どうすればそれらの批判が有効に機能するのだろう。たぶんそのような批判が有効に機能することはないのかも知れない。かえって無効だからこそ批判が批判として流通することができる。それは不具合などではなく、むしろ一定の機能を担っている。制度を支えることで社会の安定に貢献している。彼らが批判する権利を握っていて、それを独占しているからこそ、今の体制を維持できる。彼らを通してしか批判を公にできない制度が確立されているからこそ、体制に害を及ぼす危険性のある批判が表沙汰になることはないだろう。現実にそんな批判があろうはずがない。


7月5日

 それほど怠惰に流されているわけでもないような気がするのだが、ふと気づいてみると何もしていない時間帯が増大している。時間はできるだけ有効に効率的に使うべきか。そんなことはわかりきっている。今までのやり方ではいつまで経っても満足のいく結果を導き出せないだろう。たぶんそんなことも承知の上で、惰性にまかせてやっていることかも知れない。何とかそんな状況を改善して、行き詰まりを打開しなければならない。そんなことを思いながら眠りにつく。だが翌朝にはそんなことは忘れているかも知れない。ついでにわかりきっていたことも忘れてしまうだろうか。感動の人生にはその内容が欠如している。彼らは病魔と闘いながらいったい何をやってきたのか。残された遺族からはその壮絶な生き様ばかりが強調されて、現実に彼らが作り上げた作品そのものの評価が遠ざけられてしまう。あるのは毀誉褒貶に彩られた彼らの人物評価だけで、そしてそれが彼らの残した作品そのものの評価と重なってしまうわけか。そんなものは遠からず廃れるしかないと思うが、時が経って彼らの賞味期限が切れたならば、また別の著名人の病魔と闘う壮絶な人生が付け加えられるだけなのかも知れない。そんなことの繰り返しの上に、これ見よがしの闘病日記や人生劇場的なメロドラマが成り立っているということになるだろうか。それが真摯に人生の意味や意義を問う試みだと思われている。それはそれでそういうことなのかも知れないが、それでもそれなりに感動して、他人のプライベートを覗き見るような好奇心を満足させることはできる。他人の人生を垣間見て自らの生き方を問い直してみるきっかけになるわけか。では問い直されるべき自らの生き方とはいったい何なのか。今さら自分の生き方をどうしろというのだろうか。何か大げさなことを考える必要に迫られているわけか。気晴らしや気休めだけではまずいのだろうか。それ以外にどんな方向性を求めることができるのか。誰かが以前、人は自らの生き様を作品と化さなければならない、と述べていたかも知れないが、例えば運良く末期癌になって、余命幾ばくもないことを知らされた時、その闘病生活の何が作品なのだろうか。確かにそれを言葉や映像に納めてメディアを通じて発表すれば作品になるのかも知れないが、やはりそれはそれでそういうものでしかない。たぶんナイーブな人たちが感動するのだろう。中には涙を流す人もいるかも知れない。そのような方向から話を進めていくと、かなり馬鹿げた結論に辿り着くかも知れない。


7月4日

 運命とは何なのか。それが宿命と感じるのはいつ頃になるのだろうか。誰でもその人独自の境遇というものがあるらしい。どこかの国の独立記念日に生まれて、戦争にかり出されて、名誉の負傷をして、今では車椅子の生活を送っている人もいる。昔そんな映画があったかも知れない。演じていた俳優の名声に寄りかかった知識を持ち合わせている。しかしそこから遠く離れた地域に住んでいる者にとっては、いつものようにそれがどうしたわけでもない。それについて考えることは面倒なだけの迂回路にしかならない。彼の地では絶えず何かのイベントに参加していないと何もしていないように思われる。参加しない人はまるでそこに存在しないかのように扱われる。君にはそれがわからない。今はそれ以外には何も提示できないようだが、それでも悲惨な境遇とは無縁な暮らしかも知れない。ただ何もない風景があるだけなのか。そう都合良くそこに参加できる機会が巡ってくるわけもない。また吹き付ける風に流されるがまま、それ合わせて適当に振る舞っているわけにもいかなくなる。そこには信念が見当たらない。迷い疲れて語るべき言葉を見失ったまま、今さら何を信じればいいのかわからなくなる。気休めの励ましには中身が伴わない。途中で立ち止まって反省する余裕すらないらしい。いつものやり方を忘れて途方に暮れている。やはり時間がないのが気になっているようだ。やるべきことがわからないのに、それでも何かやらなければならないのは不条理だろうか。だがここには他人の言葉しかない。他人の言葉からどうやって自分の主張を引き出せるのか。言葉は誰の所有物でもないだろう。人と人とを関係づける媒介なのではないか。また人々の間に流通する貨幣のようなものかも知れない。そんな風に考えるとなんとなくわかったように気になれる。何がわかったのかわからないが、とりあえずはそう思われる。誰の所有物でもない言葉を操って何か利いた風なことを述べてみても、何がもたらされるわけでもない。言葉を用いて批判する者には何の権限も宿らない。実質的に何かをやっている範疇に入らないのかも知れない。何もやっていないのと同じことだとは思わないが、結果として無駄な努力だとわかる場合が多い。ただ無駄でない努力に巡り会えたこともないような気もしている。有益だと思われることには利権が張り巡らされている。人々はその有益性を我がものとするために日々争奪戦を繰り広げている。だが君はそんな風には思わないように心がけているのかも知れない。


7月3日

 どうも間があいてしまったらしい。しばらく時が止まっていたように思う。どうでもいいような些細な出来事が度重なって心労を来す。まるで前もって仕込まれていたかのように順を追って動作する偶然の積み重なりに感動すら覚える。なぜこうも思いがけぬ出来事が次から次へと引き起こされるように感じてしまうのだろうか。それぞれの出来事は互いに無関係に発生していると思われるのだが、その連続に驚き感動してしまう意識が、それらを結びつけて考えようとしてしまう。神が自分を懲らしめようとしているわけか。それとも試練を課して精神を鍛えようとしているわけか。とりあえず何らかの経験が積み重なったことは確かだ。そんな境遇に陥っている自らの不幸を呪う気にはなれない。不幸なのか幸福なのか俄には判断しがたいのだが、一方ではなんとなくそれらの経験を肯定的に捉えたいような気になってくる。実際に何とか切り抜けてきたことは確かである。確かに人差し指の先端に深く刺さった木屑はかなり痛かったし、それを針でほじくり出す時の激痛も耐え難いほどだった。また尖った石ころを踏んでパンクしたタイヤは、修復できずに新しいのと交換する羽目になった。立て続けに何かの虫に刺された跡も痒くて堪らない。いつもは飛んで逃げる小鳥を車で轢いてしまったことも精神的なダメージとして残っている。そういえば偶然に拾ったクワガタムシをなぜ他人にあげてしまったのだろう。そのときの心境を今は思い出せない。そしてそれ以外にもどうでもいいような出来事が立て続けに起こった。偶然にしてはいささかできすぎの感がある。それは一日ですべてを体験するにはもったいないほどの頻度かも知れない。たぶん機械の不調は梅雨時の湿気に原因があるのだろうが、すべての原因を考察する気にはなれない。考えるには値しないような出来事に思われるし、それらはすべて深刻に悩むような結果をもたらさない。ただ通り過ぎて行くだけで、時が経てば忘れ去られる体験になるだろう。短期的にはそういうことでしかない。では長期的には何をもたらすのか。遠くから見つめている者がいる。少しは暇つぶしになったと思うわけか。いつかあの頃を懐かしんで、適当な脚色付きの記憶をたぐり寄せるときが来るかも知れない。何も残らないと思っていた記憶が不意によみがえったりするだろうか。そしてその内容を記述したりするわけか。きれい事ばかりで済むはずがない。うるわしき田舎の暮らしを囃し立てている人々はよほどの世間知らずと見える。いつまで経ってもそういう固定観念から抜け出られずに、型枠にはまった紋切り型の暮らしを提示することしかできない。たぶん彼らには現実の体験が欠けているのだろう。当たり前のことを未だに感じ取ることができないようだ。夢だけにしか反応しない欠陥人間なのかもしれない。


7月2日

 昨日の夜は今日の朝につながっているのだろうか。どこかで時間的な連続が計測されるならば、それはその通りかも知れない。影はまたもや同じようなことを思っている。そんなことは初めからわかっていたはずだ。同じような展開には必ず飽きが来る。そんな断言もつまらないが、ついでにこれからどんな状況が訪れようとかまわないと思い始める。未来の時間においてそんなことを思うのは誰なのだろう。丘陵地帯には時折西風が強く吹き付ける。上空から鴉がこちらを眺めている。眺められていると思い込んでいる者がそんな風に思いたいだけかも知れない。面倒なのでそれ以上は何もないことを願う。まだその先に何かあると思いたいところだが、何もない可能性が濃厚かも知れない。砂上の凹凸は時が経てば平らになる。それらの断片が引き潮に乗って沖の方に流されて行く。君は未来の時間において、そこで何を作っているのだろうか。紋切り型に従うならば砂上の楼閣になるだろうか。できることならもう少し気の利いたものを作れないだろうか。現に今ここに作り上げようとしているのではないか。たぶんそれはうぬぼれの一種で、冗談で自画自賛がしたいだけかも知れない。望まれているのはそんな状況ではない。たぶんそれは誰が望んでいることにも当てはまらないだろう。いつまでもメディアから押しつけられた価値観に従うのではうんざりか。しかしそれが誰の本音なのかはわからない。とりあえず状況は誰もが思っても見なかった方向へと動いて行くのかも知れない。そうなるためにはそのことに誰も気づいていないことが肝心なのか。それを誰かに悟られてしまったらつまらなくなる。だから君は今くだらぬ予言で煙幕を張り続けているのだろうか。誰のための世の中でもなく、誰のための世界でもない。ただそういうことでしかないような気がしている。また誰かの思い通りになるような世の中になってはいけないのだろう。そうなったように見えるのは、メディアを通して見た場合に限られる。すぐに特定の誰かの支配を囃し立てる者たちは浅はかだ。それはそんな風に見えるように訓練を積んでいる者にしか見えないことだろう。何も我々がことさらそんな訓練を積む必要はないはずだ。善意から姿勢や態度を彼らに合わせようとする人はよほどのお人好しだ。物事を穿った目で見ようとすること自体が出過ぎたまねなのかも知れず、大半の事象は通り一遍で済ますべきかも知れない。好奇心など無駄で無意味な心理作用だろう。嘘でもいいからとりあえずはそういうことにしておこう。ならば語るすべてが冗談でかまわないのか。それでいいのかも知れないし、場合によってはそうでないかも知れない。


7月1日

 近頃は意味のない行動に急き立てられているようだ。機会が訪れるのをただ待っているだけでは物足りないのだろうか。なんとなくやっていることには何の面白味もないように思われる。そして慌ただしさに疲れ果て、ふと昔のことを思う。怠惰な暮らしからどれほど遠ざかったのだろうか。今そこで何がどうなっているのかよくわからない。彼らが顕揚する勇気とは何だろう。どんなときに勇気が試されるのだろう。何もしない勇気などというものがどこにあるというのか。またそれがどんな意味を持つだろうか。彼らは至る所で抵抗ばかり繰り返しているうちに、何に逆らっているのかわからなくなる。そして何を持ってそれを表現すればいいのかわからなくなる。それでもある程度は成功していて、その後に待ち受けているのはどんな状況なのか、それを必死になって見極めようとしている。月並みな展開になるとすれば、歳月とともに余分な角が取れて丸くなる。いつかは社会の歪みが正されて、まっとうな世界の住人になるつもりでいるらしい。今がそれほど不測の事態に陥っているわけではないが、この先何が起こってもあまり驚きはしない。そういつもいつも予定調和の展開にはならないような気がしてくる。暇つぶしに君は予期せぬ出来事にでも期待しているのだろうか。たまには思いがけないことが起こるかも知れないが、そのときありもしない何かが湧き出てくるだろう。だがもうその手の予言は聞き飽きたかも知れない。たぶんこれからも何も起こらないで、こんな調子の世の中が続いて行くのか。いったい君は何を期待しているのだろう。しかし君にはもう時間がない。それはどこかで聞いた台詞かも知れない。時間があるかないかは、実際に時が経ってみないとわからない。だが時が経ってみてからではもう遅すぎるわけか。それはつまらない循環論だ。ようするにそんな言葉遊びの範囲内での時間概念ではくだらないということになるだろうか。今も人々は次々に去って行く。去りゆく者たちに未来はなく、彼らに残されたのは過去の記憶だけかも知れない。時代遅れの老人たちが今を求めてメディアにしがみついている。君はまさかこれから脱メディア社会にでもなるというのか。老人たちにとってそれは怖ろしい予言だろうか。今にしがみついている者たちにとってはくだらぬ冗談でしかないだろう。君自身も本気でそう思っているわけではない。なんとなくそうなってしまったら面白いような気がするだけかも知れない。有名なメディア論者によれば、メディアの発達によって教育機関としての学校そのものが無意味になってしまったそうだ。そんなメディアがどうして廃れるというのか。分散と細分化によって雲散霧消してしまうとでもいうのだろうか。


6月30日

 意味のない迂回の連続に疲れ果てながらも、それらの無駄な試みから何かを得ているような気になる。やはりそれは気のせいでしかないのだろうか。無意識のうちにわざとそう思っているのかも知れないが、それにしてもわけがわからない。そんな感慨ばかりが飽きもせず繰り返され、少しも気が晴れることはない。例えば暗中模索とはどのような状況を指すのだろうか。そんな言葉が現状にフィットするだろうか。それについてまだ考えがまとまっているとは言い難いが、それほど常軌を逸している内容にはならないように思われる。それはたぶん他の人との見解の相違に違いない。そんなふうにして安易な道筋から少し遠ざかったつもりになる。暫定的にはそれで満足しなければならない。正しい意見はその正しさゆえに間違った行為を是正できない。間違っている人は他人の諫言が気に入らないわけだ。仮にこのままやり続けてもまだその先の展開があるように思われる。間違い続けているうちに、いつの間にかそれが功を奏して、結果的にはうまくいってしまう場合もあるかも知れない。そんないい加減な展開を期待しているので、わかっていてもわざと間違うことの方に魅力を感じてしまう。ようするにそれは虫のいい言い訳と自己正当化の温床となっている。多くの人はそんなふうにして現状から飛躍して妄想を抱くための余裕を確保している。絶えずこれでいいのだと思っていたい。そんなやり方でここまでやってきたのだから、それを簡単に軌道修正するわけにはいかないだろう。たとえそれが間違ったやり方であろうと、そのやり方で今まで積み上げてきたものを台無しにするわけにはいかないところか。そうなってしまった者達に今さら何を言っても無駄なのか。とりあえずそれはそれで放置することしかできないようだ。もちろんそれで良いわけはないのだろうが、そこから先はその場の状況に応じて適当な判断するしかないだろう。それをあからさまに非難しても無駄であることは確かなようだ。むしろその努力を労ってやらねばならないのかも知れない。頑なにひとつのやり方を押し通してきたその姿勢を称賛してあげる必要があるようだ。心からそうしなければならないのだろう。真心を持って接することで、こわばった態度を和らげて、込めていた力を散らすことが大切なのか。それについてあまり感情的になれないのは、誰からも見向きもされないような事柄を顕揚するのにも慣れてきた証か。とりあえずそれでもかまわないのかも知れない。その人独自のやり方があっても、それはそれで仕方のないことか。他に納得のいく方法がないのだから、そんなやり方も認めざるを得ない。結果的にそれらの行為が正しかったり間違っていたりすることにそれほど関心を持てない。基本的にはやった者勝ちなのであり、やってしまった後からそれを他人がどう評価してもすでに手遅れなのか。すべてがそうだとは思わないが、後から修正が利かない場合がほとんどなのかも知れない。そうなってしまったことについて、いちいち後悔ばかりしていてはうんざりしてしまうだろう。それは一種の気休めにしかならないのかも知れないが、気休めがないよりはあった方が少しはマシだろう。その程度であったとしても、それを超えて何か気の利いた内容を提示するのは至難の業かも知れない。


6月29日

 妄想から降りるきっかけを逸して、そこへ辿り着く機会を逃してしまったらしい。迷路の出口を見いだせないのはいつものことか。それが本当の出口だと思っているのか。何気なく意識は言葉を連ねているが、意識から切り離された視線は、夕暮れ時の薄明かりの中で、ぼんやりと空を眺めている。それがどうしたわけでもなく、そんなことで気が晴れるだろうか。隔たっているのは意識と視線ではなく、当たり前のごとく空と大地が地平線で隔てられているだけかも知れない。そのとき彼方に見える地平線は何を物語っているのだろう。何も物語りはしない。地平線が見えるほど広く何もない大地に暮らしているわけもなく、適度に人口密度のある町中に住んでいるだけのようだ。なるほど、そんな風にしてどうでもいいことを少しは物語れるらしい。そんな内容ではなんとなく馬鹿らしく思われる。そんなことを思いながらも、意識の別の部分ではそれとは違うことを考えている。そう思っていたいだけかも知れず、本当は何を考えているのかわからない。ようするに語る言葉の方向をねじ曲げている。意識的にそうしているわけではないのだが、自然とそういう方向へ導かれていってしまう。ただ否応なくそんな展開になってしまっている。思い通りの展開に持っていくことはなかなか難しいようだ。恣意的に何かを無視することで、その欠如を利用して危機感を煽る言説には飽きている。彼らが無視している事象を付け加えて説明すれば、それほど深刻な状況には至っていないことが明白になってしまうだろうか。そんな説明はあり得ないのかも知れない。現状をありのままに完璧に説明できたならば、それは説明ではなく現状そのものでしかなくなってしまうだろう。驚きとも感動とも無縁の、現に感じているそのままの状況には興味を持てないか。人々はそれとは違う何かときめくものが欲しいわけなのか。しかし人々とは誰のことを指しているのだろう。夢見るような人々が求めているものと、現状の説明とは無関係なのであり、彼らの願望を満たそうとして、強引にそれらを結びつけてしまうと、どう考えても気晴らしの娯楽にしかなり得ないような気がする。その辺で何かを混同してしまっているのかも知れず、多数派に媚びている部分があるようだ。そんな風にして、現状をおもしろおかしく伝えようとして、現状から飛躍していってしまう。そんなことの繰り返しによって、ここ何十年かが過ぎ去ってきたのかも知れない。今もそういう愚かな連中が蔓延っている。常に興味本位でしかない彼らがいるために、こんな現状になっていることは確かな事実だ。たぶんそれ以外の選択肢は存在し得ないのだろう。そんな彼らがいくら現状を批判してみても、それ自体が現状維持にしか結びつかないだろう。


6月28日

 意味のない会話はいつの間にか途切れる。歩行の途中でふと立ち止まり、辺りを見回してみても何もないので途方に暮れる。ただそんな振りをしているだけなのか。作業の途中で言葉に詰まって立ち往生している。物語の中では神は望みの時に叶わぬ願いを受け入れる。望みの時とはどんな時なのだろう。誰が何を望んでいるときなのか。それは唐突な神の出現になる。信じていないのに、気分次第でいい加減に神という言葉を使っては、何か罰が当たるかも知れないが、何がどうなればそうなるのかわからない。そんなわけのわからぬ出現の後には、月並みの展開が待ち受けている。それが嘘であり勘違いであったことが明らかになる。なぜそんなことを思うのだろう。思っているのではなく、事実をありのままに提示しているだけか。神の何が事実なのか不明だ。偶然の作用で神が出現してしまっただけかも知れない。だがそんな展開の中で何を表現しようとしていたのか。さっきまで何を思っていたのか忘れている。どこかで様々な思いが交錯しているらしいが、届かぬ願いは誰にも届かない。初めから届ける意志がないのかも知れず、わざと宛先を間違えて発送したかのように思えてくる。ところでその願いは誰に届かせようとして届かなかったのだろうか。本当に君は神に祈っているつもりなのか。その思い違いは何から生じているのか。なぜそれが思い違いだといえるのか。願いをかなえてくれるのは、気まぐれな偶然の神ではなく、そんな思い込みの中に住まう虚構の自意識かも知れない。自作自演であたかも願いが叶ったかのように振る舞っているだけなのか。そんな嘘で満足しろと自らが自らに言い聞かせているだけなのだろうか。心の中ではそうではないと思いたいようだが、その否定が説得力を持つには根拠が希薄に感じられる。結局は話の途中で挫折して、意味不明を是正することができずに、何を語りかけているのかわからない。それでもその惨憺たる現状を肯定したくなる。決して否定はできないだろう。何かに導かれているようで、導きの糸はまだ途切れていないような気がしている。いつかはわけのわからぬ何かを達成できると思い込んでいて、今はその途上にあるような気になっている。当然そうなることについては根拠も自信も何もない。ただ漠然とそんな思いに囚われているだけなのかも知れない。そこには何か特定の主題が存在するはずもなく、掘り下げるべき大地も、飛翔するための空も、航海すべき海洋も見当たらない。どこか得体の知れる地帯で適当に漂っているだけかも知れない。だが怠惰の合間をついて繰り出される言葉の群れは、そこで起こっている出来事には無関係に躍動している。


6月27日

 そんな風に解釈するのは不公平かも知れない。崩れ去る一歩手前でかろうじて持ちこたえているだけかも知れない。そこでもっともらしい意味を伴った内容を構築するのは難しい。不可能であることを承知の上で、それでも内容が空虚であることを悟られないように、用心深く言葉を配置していく。そこでは思いがけない事故が起こる偶然に出会える可能性もあるが、始まりがいつも突然にやってくるのもありふれた展開だろうか。狭い範囲内で予測した通りに事が運んで、それで少しは満足しているつもりなのか。前もって結果が固定されているような状況である限りにおいて、安心して予測が可能なだけだ。それはごまかしの一種だろうか。暗黙のうちに理論と結果を合致させるために、あらかじめ都合の良い初期条件を設定してある。実際は必ず誤差が生じてしまうだろう。誤差を何らかの方法で取り除かないときれいな結果は望めない。だがその取り除かれてしまう理論にとっては都合の悪い誤差の中に、この世界に生じているあらゆる真実が詰まっているのかも知れない。理論通りの予定調和を打ち砕く現実がそこに存在している。そのような現実のことごとくは人々にとっては障害物としか思われないのかも知れないが、たぶんそのような摩擦や軋轢や抵抗感があるからこそ、この世界の存在そのものを認識できるような気がする。思い通りにならないことがこの世界の特性なのだろう。そして思い通りにならないのを承知しているにもかかわらず、それでもなおのこと思い通りになるように努力しなければ気が済まないこと自体が、障害物を構成している。人々はそんな矛盾を生きなければ現実を実感できない。絶えず誤差や誤謬なしで済まそうとして、その結果現実と衝突し続けている。まさに無い物ねだりでねだっているのは、現実から目をそらして空想の中で過ごすことなのだ。そうやって思い通りの世界を望みながらも、否応なくそうではない現実を直視しなければ生きて行けない。それを望みすぎる者は、自殺することでしか自らの願望を実現する術を見いだせなくなってしまうだろう。たぶん望みを叶える唯一の方法は、この世界から消えていなくなってしまうことなのだ。多くの者はそこまで行かないうちに適当な妥協点を見いだし、ようするに思い通りにいかない現実を受け入れざるを得なくなる。そうやってこの世は中途半端で不完全な者だけが生き残れる世界となっている。だからこの世には完璧な理論も人間も思い通りにいくような状況も生まれてこないだろう。


6月26日

 冒頭で見失っているものがあり、それが何かわからぬまま、そこから抜け出られないことに困惑しながらも面白がっている。それを説明する必要を感じながらも説明から逃げている。説明できるのに説明しないまま、説明を省いたことで生じる意味不明を利用して、それとは関係のない言葉を説明の代わりに差し挟んで、さらに誤解を増幅させてしまう。そんなやり方に正当性は宿らない。もちろん正当性など初めから求めていないようだ。辻褄が合うことを期待していないし、仮にそれが合ったとしても面白くはないだろう。ただ面倒なのでやる気がしないだけかも知れない。確かに集中力の欠如はいつものことかも知れないが、怠惰の直中であっても何もできないわけではない。今さら何をしたらいいかわからぬのなら、わからないままでもいいだろうか。それでも何か適当にいい加減なことをやりながら、現状をやり過ごすことは可能なはずだ。それらを些末なこととして片づけてしまうことも可能なのか。いつまでも些細な行き違いにこだわっていてはらちがあかないということか。たぶん誰かの死期が間近に迫ったとき、あり得るかも知れない世界の将来について適当に語り始めるかも知れない。それがいつになるかは未定だ。退屈なので何か適当なきっかけを探り始める。今ここで必要とされているのは、遠くにかすかに見えるなにがしかの文字ではなく、やっとのことでかろうじて紡ぎ出された意味のない言葉の連なりでもない。ようするに必要とされないことが実現されつつあるということらしい。何が必要とされているかは、人それぞれで異なることはわかっているが、はたしてそれについて論じる意味があるのだろうか。おそらく意味のあるなしにかかわらず、必然なのか偶然なのかわからぬままに、それらの時空にそんな状況が出現してしまうだけだ。意味のあるなしも、必然なのか偶然なのかも、そこではあまり重要でないらしい。さらに重要であるなしもがあまり問題とはならず、問題自体がそこには存在しない。初めから何の問題もあり得ない。それらはすべて状況が出現したあとから、それを説明する人々による恣意的な解釈によって生じてしまうものなのかも知れない。そこで余分なのは交錯する様々な思惑なのか、あるいはそれらを感じ取っているつもりの様々な人格を伴った意識の群れか。そんなことを考えているうちに、冒頭において見失っていたものがだんだん見えてきたような気がするが、何が見えてきたのか言葉で表現することが難しいことにも気づく。余り物を蓄えることが物質的にも金銭的も豊かになると信じられている。その辺に散乱している余剰言葉を辻褄が合うようにつなぎ合わせ、それらの連なりを眺めていると、なんとなく豊かになったように錯覚できるかも知れない。


6月25日

 画面の中の患者は上辺だけ病的な振る舞いを装っている。あまり根を詰めていないで、たまにはしばらく空疎な思いのままでいた方が、精神衛生上は良いのかも知れないが、いつまでもそんな風だったらまずいだろうか。しかしそんな状態のまま、ついさっきまで何をやっていたのだろうか。気がつけばさっきまでのやる気がどこかへ消え失せている。雨が止めば少しは涼しくなるだろう。あるいはさらに蒸し暑くなるだけか。時には意表をついた状況が到来するかも知れない。そのとき思いがけなく何を思うのだろう。過去に出会った人々のことを思い出す。確か忘れ得ぬ人々とは、日常の風景の中に溶け込んでしまっていて、中身を抜き取られた人々だったはずだ。誰かが書物の中でそんなことを述べていたかも知れない。人々はそんな風にして安定化するものなのか。いつも都合の良く解釈されてしまう人々には、それ固有の中身が欠けているらしい。外見上は誰もが同じようなことを思っていると見なされ、いとも簡単にメディアによって操作された流行を受け入れてしまう。その種の洗脳に対して無警戒で無防備なのかも知れない。考える手間を省くことばかりに夢中で、受け売りでしかないことに気づかずに、紋切り型の語り口を自らの個性だと思っている。それらの人々は、まるで血液型のごとくに分類されてしまう自らの画一性にも気づかない。しかしその反対の概念だと思われている多様性とか個性とかも、人間を個別に分類し操作するための道具かも知れない。特定の地域やそこに暮らす人々や、スポットライトを当てる個人に、そんな言葉を当てはめて賞賛するわけだ。そこに様々な考えや意見があることを多様性として褒め称え、そんな考えや意見を持つ人々を個性的だと称揚してみせる。しかしそれの何がいけないことなのだろう。要するにそれらのほとんどが自慢に結びついてしまうことが、結局は愚かさをもたらしてしまうのかも知れない。どう考えても大したことではないのに、それがさも大げさに取り上げられてしまうことが、錯覚と勘違いを周囲にまき散らすことになる。韓国に亡命した北朝鮮の元最高幹部だった老人の実現性のない稚拙な戯言を、老人の大げさな経歴と、大儀のために家族を犠牲にしてまでの亡命という宣伝文句を利用して、まるで貴重品のごとく扱ってみせる。ようするに馬鹿はいつまで経っても馬鹿なのかも知れないが、これからもうんざりするような状況が続いて行くのだろうか。


6月24日

 晴れない気持ちとともに雨が降り続き、早朝の雨空を鴉が鳴きながら飛んで行く。何か他にないのだろうか。想像上の大地の裂け目から何か適当なうめき声が聞こえてくる。それはフィクションだろう。描かれた絵の中にそれ風の感情が宿っている。何もない自然な状態から逃げているのかも知れない。屋根を叩く激しい雨音で目が覚め、憂鬱な気分を振り払えないことに気づく。雰囲気の他に何も必要ではないらしい。それはどういう雰囲気なのか言葉で表すのが面倒になる。どこかの誰かに聞いてみれば納得するだろうか。それでも何かを継続しなければならないことに、かすかな苛立ちを覚えているのかも知れない。今からやろうとしていることを本当にやらなければならないのだろうか。それはどうでもいいようなことに思えてくるが、どうでも良くないことを知り得ない状況にあるようだ。そこまで気が回らないのだろう。その場しのぎの言葉の群れに埋もれながら、しだいに感性が鈍ってくるように思われる。それを継続させようとする意志は、絶えずそのような危険にさらされている。それ以上は何もやりようがないように思われる状態から、そこから適当に何かしらやって見せなければならない。そんなことの繰り返しを営々と経験していくだけなのか。当初はそれ以外になる可能性もあったかも知れないが、結果としてそれらの可能性のことごとくは消え失せ、わけのわからぬ状況の到来とともに、似たようなことの繰り返しとなっている。そしておおよそ感動とは無縁の内容に落ち着きつつあるようだが、そんな感慨に包まれながらも、継続の姿勢を崩すわけにはいかないらしい。何かに凝り固まっているのかも知れない。君はそこに何らかの意志を感じるだろう。そこで常にそれ以上を求める向上心が空回りしているのか。あるいはそれを利用して、適当な言葉の連なりを生じさせているのだろうか。それは既知の状態を未知の体験のように見せかけるための装置なのかもしれない。あとから思えば、大したことではないのは明らかになるだろう。幻想的な世界を楽しみたければ映画でも見れば事足りるようだ。テレビでも見ればそれなりの情報を得ることもできる。たぶんその程度で満足すべきなのだろう。そしてその程度を越えたければ、自らの思考力でも鍛えればいいのかも知れない。それなりに無難な結論に導かれてほっとする者もいるだろうか。


6月23日

 何かしら出来事が積み重なって、それらから派生した作用が互いに打ち消しあっているようで、状況としては安定している。早朝に小雨が降り続ける中、部屋の中で壁に向かって何かを語りかけようとして、あわてて口ごもる。意識はまだ正気を保っていたいようだ。たぶんそれは嘘だろう。確かに嘘かも知れないが、たまには嘘を信じても差し支えないだろう。いったいそれを信じて何に差し支えがあるのか。嘘でもかまわないから何か都合のいい出来事が到来することを期待しよう。そんなわけでどこかの誰かは、何やら得体の知れぬ胸騒ぎがしているらしい。彼らが特定の人物に群がっているのはいつものパターンか。そこで何を感じ取っているつもりなのか。あり得ない状況になることか。それはどんな物語の中での出来事なのだろうか。現実の断片からもっともらしい話をでっち上げることに何の罪悪感も感じない。はたしてそれでよかったのだろうか。結果的にそうなってしまったのだから、それはそれでそういうことでしかない。ところでそれとはどういうことなのか。その状況をどう表現したら納得できるだろう。いったい誰を納得させたいのか。誰もそれで納得できるはずがない。はじめから納得させようとは思っていない。誰もが納得できないような結果を導き出そうと心がけている。本当にそんなことを思っているわけではない。思ってもみないことが偶然の作用によって生じている。だが偶然の結果だと述べれば何でも説明が可能だろうか。たぶんその方が都合がいいのだろう。何事も偶然の作用によって成り立っている。ならば必然とは何なのか。偶然ではないと信じたい意識が作り出した幻想か。そこに何らかの意味が宿っていると思いたいわけか。どうしてそうなったのか説明するためには必然が必要なのか。偶然だけでは納得できない者のために用意された言い訳なのだろうか。なるようになってしまうと思われることから必然が導き出される。そうならざるを得ないのは必然のおかげだろうか。その時必然という言葉が必然的に登場してしまうわけか。確かに必然は必要なのかも知れない。自らの存在を確定するためには偶然ではなく必然が必要だ。その存在を不動のものとするために用いられる。あやふやな部分を必然によって廃棄しなければならない。たぶん必然はそれを用いる者が自己満足するために必要な言葉なのだ。様々な現象が必然的に動作するならば、こんなにわかりやすいことはないだろう。世界は神が設定した機械のごとくに予定調和をもたらすかも知れない。もしそうなれば誰も苦労はしないか。逆に言えば、要するに人々が苦労するために偶然の作用が存在するわけか。理解不能な現象は偶然の作用として処理するしか方法がないということか。


6月22日

 昨日は何をやっていたのか、なぜか気が抜けて散漫な状態になっている。途方に暮れるとはどのような状況と心境のことをいうのか。自分の精神状態を自己分析するつもりはないが、例えばこれから何をすればいいのか、何もしようとしていないのに、そんなことがわかるはずもない。昨日はなんとなく読み返す気がしなかった。とりあえずそこに記されたつまらぬ言葉の群れにどのような処置を施せばすっきりするだろうか。他の誰かがやっているように、あまり興味を惹かぬ出来事をいい加減な言葉で装飾して、何か興味深い出来事に見せかけることができるだろうか。できるわけもなく、ただありのままの内容をありのままに提示することが可能なだけだ。たぶんそんな内容で何らかの関心を引き寄せることなど不可能かも知れない。だから今は不可能に挑戦したくはない。それらの空白はどんな意味を伴った言葉で埋め尽くされているのだろうか。状況的には、何もない虚空に適当な文字の断片が散らばっているようだ。それらを束ねるために必要な条件が設定されていないらしい。散らばったままにしておかないで、秩序だった言葉と文章にまとめるための何らかの規約を設けないとわけがわからない。何か特定の方向へ言葉の流れを導かなければ、何を述べているのかわからなくなる。そこにそれなりの意味が生じるように、何らかの力を加えて、ある種の説話論的な場を作り上げなければならない。だがどこに何を可能とする場を構成したいのだろう。いったいそこで何を問うつもりなのか。試行錯誤の果てに苦労して導き出された回答とは、そんなまわりくどい表現なのか。そこには落胆以外の何が含まれているだろう。とりあえず今のままでは我々に未来はないと思う。あるのは今まで経験してきた過去の記憶だけかも知れない。その結論は不吉な響きを伴っている。だが何が不吉な響きだと思うのか。なぜ未来がないと思うのだろうか。それらの言説は何を指すのだろうか。どうしてそうなるのか、それについて説明するための内容が欠けている。途中に差し挟むべき言葉を忘れている。今こそ何らかの条件を定めて、これから歩むべき方向を決定すべきかも知れないが、その際何を考慮する必要があるのか、何もありはしない。視界には何も浮かび上がってこない。どこにそれがあるのかわからない。例えばそれは言葉の一種なのか。それがわからずに深刻な失語状態に陥っているのだろうか。そうなってしまったのはどうしてなのか。どうも何かが決定的に違うような気がしてくる。それはボタンの掛け違いどころではなく、根本的な間違いなのかも知れない。


6月21日

 今は樹木の枝がもっとも伸びる季節だろうか。自然からの作用は人々の思惑とは関係なく勝手に作動し続けている。今年新たに伸びてきた枝を眺めながら、唐突にわけのわからないことを思う。この世界に山積している諸問題は、魔法を使うことでその多くは解決されるだろう。もちろん本気で述べているわけではない。想像上の世界にしか魔法は存在しないことはわかる。それでも時には魔法を信じている暇もあるようだ。そんな余裕のある人々が、文字として紙面上に印刷された魔法の幻影を求めて、書店に群がっている光景がテレビ画面に映し出されている。気晴らしにそういう書物を読んでみるのも良いだろう。掃除中に本棚から落ちてきた古い地図を開いてみる。大地と海が交わる場所には何があるだろう。もしかしたらそこに魔法使いでも住んでいるのかも知れない。そこは適当な文明の発祥だったのだろうか。現実の世界には、例えば港町と原子力発電所がある。かつてそこまで行ったことがある。影がそこで空想を働かせて、閉じた球形の世界に架空の誰かが住んでいるという設定で、何か適当な作り話を構成しようとしている。意識はそれに関する何かを思い出そうとしているようだ。それは遙か昔の出来事だったかも知れない。だが砂の岬という曲を聴きながら眠気とともに記憶が曖昧になってくる。目が覚めるともう朝になってしまったらしい。夜明け前の空に向かって鴉が鳴いている。またそれに呼応しているわけでもないだろうが、近所の鶏もうるさく鳴き出す。あり得ることはいつも他愛のないことか。中途で挫折した目論見は誰かに見透かされている。しかしそれはどうでもいいことのように思える。見透かされてどうなる目論見でもない。いくら良心的なことをやっているように装っていても、それを提示する形式がいつものやり方でしかないのが致命的な欠陥かも知れない。翌日の昼にそんなことを思いながら、過ぎ去る時間に身をまかせることしかできない。曇り空の下で、風がくだらぬ妄想を運び去ってしまった。意識はいつの間にか現実の世界へ引き戻されて、影が空想した物語をそれなりに筋が通るように、それ風の言葉で組み立て直している。重力の作用で球形の物体の表面に押しつけられている人々に何ができるだろうか。何かしているつもりのようだ。絶えず何かしていなければ気が済まない。


6月20日

 彼は継続が途切れてやる気をなくしている。時には式典や儀式の必要性も認めざるを得ないが、それによってペースを乱され、眠気の到来とともに一時的に怠惰に拍車がかかる。何かのスイッチが切れたままのようだ。無理に作業を開始しても、言い訳のような内容になるだけかも知れない。奇想天外な話もそればかりだとつまらなくなる。それについて何を語ればいいものか。山奥の駅の近くに奇岩の山がそびえ立つ。軽井沢と草津の中間地点ぐらいに長野原駅があり、そこから少し道を下って行くと天空の城のような山が見えてくる。その形は小型のテーブル・マウンテンといったところだろうか。なんとなくそれに見とれながら運転していたら、危うくハンドルを切り損ねて、谷底の川へ落ちるところだった。多少の嘘を交えて大げさに語ればそんな風になるが、本当はそうなる可能性が脳裡をよぎりながらも、ハンドルを切り損ねることもなく、横目でちらちらその山を見ていただけだったかも知れない。もしロック・クライミングが趣味だったら、あんな山へ登ってみたいと思うだろうか。興味のある方は是非挑戦してみて欲しい。地図でも見ればその山に何らかの名前が付いているのを知ることができるだろうか。しかし近くの浅間山や白根山などの有名な山とは違って、まさか登山道などが整備されているとは思えない。たぶん八千メートル級のヒマラヤの山々を直に見れば、あんな山など比べものにならないほどの感動を味わうかも知れないが、自分がここ数年間行動した範囲では、もっとも興味を惹いた対象に属するものになるのかも知れない。なんとなく、そこに山があるから登ってみたくなる、という誰かの発言にも、それなりの説得力が宿っているような気になってきた。仕事関連の会社の創立二十周年記念式典につきあわされて山奥の温泉街までやってきて、パーティーで景品が当たって、その会社が出資している地元のサッカーチームの監督とコーチのサイン入りウインドブレーカーをもらったからといって、それが取り立ててどうということはないが、犬も歩けば棒に当たる、ということわざの意味とは違うかも知れないが、どこかへ出かけて行けば、何かしら興味を惹く対象に出会うこともあるらしい。


6月19日

 湿り気を含んだ空気が辺り一帯を覆っている。蒸し暑さに誘われて蚊が飛んでくる。小さな蟻の群がコンクリート面を彷徨う。甲虫の残骸が散らばっている。そこには生と死がありふれている。あふれているのではなくありふれているのだ。それ以外の現象も様々に入り組んでいるのだろう。だがそれが影響を及ぼす範囲は限られているように思われる。ただ蚊に刺されて痒くなってくる。それ以上の何を感じればいいのかわかりかねる。何かに導かれるままにその何かを見つけられずにいるようだ。それとこれとは違う水準で論じられるべきことかも知れない。それらはレトリックの範囲内で結びつけられているにすぎない。だがそれ以外に何があるだろう。ただそれだけのために文学が存在している。異なる傾向の言葉をつなぎ合わせて、新しい言葉遣いを発明することだけのために、今までに多大な努力が払われてきた。しかしそれ以外の中身には、何の文学的価値もないのだろうか。その場を和ませるための単なる付け足しにすぎないのか。たぶんそう思ってもらってかまわないのだろうが、その付け足しがないと誰もそれらの文章を読まなくなってしまうだろう。甘い夢や希望が織り込まれていないと食指が動かない。ミーハーな人気を博さないとそれを伝えるメディアにとっては商売にならない。そんな事情から軽薄な流行が作られているのかも知れない。だがそれ以外に何を求めればいいのだろうか。無味乾燥した言葉の群を眺めていて何が楽しいか。中にはそこに勝手な意味を見つけ出したつもりなって、大喜びしている者もいるだろうか。世紀の大発見とまではいかないだろうが、なんとなくそれを見つけてしまって愉快な気分になってくる。記述した者が意図していると思われるのとは、明らかに異なる意味が導きさせることに驚き、またそれに気づいた者がまだ他にはいないのではないかと、ひとりで優越感に浸りながらほくそ笑む。そんな自己満足にすぎないことを感じるためだけに書物を読むわけではないが、それも付け足しの一種であることは確かなのかも知れない。どう考えてもそれらは気晴らしの娯楽にすぎないのか。わざとらしく嘘をつくならば、たぶん読書はあまり役には立っていないだろう。それはそれでそういう体験でしかなく、そこで得られた情報や知識が、他のことに役に立ってしまったらおかしい。読書が何かの役に立つとしたら、それは読書し続けるための役に立つのだろう。しかしそれ以外に何があるのだろうか。どこかの誰かは、ここで利いた風なことを述べたくなってしまうのだろう。


6月18日

 彼らは何を焦っているのだろう。そこではくだらぬものをつかまされて地団駄を踏むことが推奨されているかのように思われる。だがそれくらいの見込み違いがそんなに悔しいのだろうか。当てが外れて無駄骨を折るのが嫌なら、もう少し確実な方法をとるべきではないのか。しかしそれではつまらないかも知れない。当たり外れのない結果をねらうことにはあまり魅力を感じない。彼らは彼らなりの冒険がしたいわけで、常にハラハラドキドキの展開が望まれているようだ。そんな内容の映画を見ているだけでは物足りないのだろうか。あるいはその手の漫画や小説ではだめなのか。だがそのような思い込み自体が、それらのメディアを見聞することで養われた感覚なのであって、山あり谷ありの人生が魅力的な時空を構成しているのは、それらのフィクションの中にしかない。現実に感じている労苦はメディアによって構成された作り話とはかなり違っている。文字や画像や映像で埋め尽くされた間接的な平面からは遠く隔たっている。何もかもがまるで別世界のごとくに動作しているようだ。絶えずそれらとはまったく無関係な現実に直面し続けている。ところでその漢字を何と読めば意味が通るだろうか。意味が通るようには連なっていないように思われる。古の物語の中では頑丈な男は短命に終わることが多いそうだ。それどころか彼らは太く短く生きることを誇りとしていたらしい。積極的に生死をかけた戦いを挑んでいた。そのときの彼らはまるで死ぬために生きているかのように思える。それが良いことなのか悪いことなのか、それらの行為に善悪の基準は当てはまらない。それは単にそのようなことでしかない。そうするしか選択肢がなかったのかも知れない。そうなることが宿命と化している世界に生きていた。当時の彼らには何が欠けていたのだろうか。欠けていたのではなく、過剰にあったのかも知れない。時として女々しさが寿命を長らえさせる秘訣であることはわかっていたはずだが、そうしなかったのはなぜだろう。自らの命よりも優先させなければならぬ課題でもあったのだろうか。たぶんそこに唾棄すべき言葉として何かが浮かび上がってくるかも知れない。男らしく蛮勇を奮うことばかりに夢中になっていると、そういう形だけの雄々しさが無謀な賭けへと自らを誘い込んで、結局は破滅の快楽に身を焦がす。今日ではそこまでやる馬鹿はあまりいないようだ。とりあえずそんな郷愁に惹かれる彼らは安易な表現ばかりを用いて、かろうじて男たちの興味を繋ぎ止めているだけかも知れないが、見聞したいものがそればかりになってしまうと、結局は何も述べていないことと同じになってしまうだろう。


6月17日

 作り話の中ではどうしてそうなってしまうのか。他人の忠告を上の空で聞きながら、結局わけがわからなくなるのはいつものことかも知れないが、蒸し暑さに耐えかねてどこかに行ってしまう。途中までは順調にいっていると思っていたらしいが、なぜか急に仮構された骨組みが崩れ始める。誰かが釘が一本足りないと歌い始める。どこかの誰かは何かしら幻想を抱かずには気が済まぬ性分らしく、いい加減な気持ちのままでいつまでもいい加減なことをやり続け、それ以外に何も求めていないわけでもなく、さらにそれ以上の何を求めているわけでもなく、そこで何をやっているのかわからぬまま、それらの作業は今日も当てもなく続いてゆくらしい。そこにどんな秘密が隠されているのだろう。それは隠された秘密ではなく、単にそのような作業にすぎない。どちらを向いてもはっきりしない天候に包まれているのは、梅雨前線が近づいているからなのか。そんなことは天気予報でも見ればわかるだろう。依然としてわかりかねる現象は、わかろうとする意志をいつまでも拒絶している。それは思い違いであり、拒絶しているように思われるだけで、互いに互いを説明の対象としていて、その二つの言説の間で螺旋状に言葉が積み重なっているだけかも知れない。だがそんな言葉の連なりがどこに生じているのか。例えばそれは仮想現実の世界にでもあるのだろう。もしそうだとすれば、どうやってそれをこちら側の世界に持ってくればいいのだろう。そんなことまで教えてくれるような親切さは持ち合わせていないらしい。こちら側もあちら側も、こちら側で思い描いた空想の産物かも知れない。そのどちらもが適当なフィクションで構成されているだけでしかなく、すべてに物質的な実在が抜けているように思われる。それは点には距離がなく、線には面積がなく、面には高さがないのと同じことか。ついでにそんなこじつけには説得力がない。では空間には何がないのだろうか。とりあえずそこに物質がなければ時間がない。何もない空虚な空間には時間がないということか。ではそこに物質があればどうなるのか。物質が生まれてから消えるまでの時間が生じることになるだろうか。それでなんとなくわかったようなわからないような感覚に包まれるだろう。また結果的にはそんな説明でその場を切り抜けたようなつもりになっている。だがそれ以外に何を付け加えれば納得しくれるだろう。いったいそんな説明でどこの誰が納得すると踏んでいるのか。またそういういい加減な見積もりにどんな価値が宿るのか。そんな価値をどこの誰が付与してくれるのだろう。


6月16日

 そこでは何かが無視されている。言葉で何を構築するにも、導き出される意味はいつも外部からやってくる。そんなことがあり得るだろうか。なぜ内部からわき上がってくる感情を無視して話を進めるのか。感情は現象を見極めようとする冷静さに欠けている。だから意味の発生は、外部からもたらされる偶然の作用に依存しているように思われる。自分勝手な論理で、感情が無理矢理押しつけてくる意味は、誰もが納得しうる普遍性を伴わない。そんな意味を導き出そうとする内部から生じる感情を無視して、思いがけない方角から思いもしないような意味が到来してしまう。さらに導き出されるのは意味だけではない。それをどう思い、それについてどう考えるのか、というその現象によってもたらされる思考も、外部からの偶然の作用に依存している。思っても見ないような事態に直面するから驚いたり感動したりして、それを思い、それについて考えさせる。しかし何もかも偶然だけで説明するのは安易すぎるように思われる。そこにそのような結果に至った必然的な因果律を提示しなければ気が済まない者も大勢いる。彼らはその偶然を、何らかのからくりを伴う必然的な構造を用いて説明しなければ気が済まない。そこにはただの驚きや感動だけでは飽き足らない探求心が生じている。そしてその偶然と必然を結びつける妥協の産物して、確率という概念が導き出されることになるわけか。必ずしもすべての現象がそのような結果に至るわけではないが、全くの偶然というわけでもなく、そこにはそのような結果に至る確率が、計算によって導き出されたりする。仮に予測したのとは違った結果になったとしても、それが確率的な予測であれば、そのような予測を導き出した考え方も、そのすべてが否定されるほどのダメージとはならないだろう。また用心してあまり高い確率では起こらないような予測にとどめておけば、予測自体はあまり信用されないかも知れないが、もっと確実な予測方法が確立されない限り、暫定的な方法として予測のやり方は是認され、仮に当たらなかったときの風当たりも、それほどきついものにはならないかも知れない。まさかそんなことまで考慮して予測する者はいないか。とりあえずそれは予言ではなく予測であって、予言の計量的な方向での進化といえるかも知れない。確かにそのような意味では、今は予言者ではなく予測者の時代ということになるだろうか。ようするにアナリスト全盛の世の中になっている。それは有無をいわさぬ断言とは違う、社会の諸事象を詳細に分析し判断した結果を基にして構築された言説になるだろうか。少なくとも彼らの建前上はそういうことになっている。


6月15日

 迷いが晴れぬままに樹木が風に揺れている光景を眺める。なぜ意識は過去へ向かって開いているのに、人は未来へ向かって自らの思いを託そうとするのだろうか。確かにここは誰かが思っているような世の中ではなさそうだ。ここではうまくいかなくとも、自らが成し遂げられなかったことをいつか誰かが引き継いで、それを成し遂げて欲しいとでも思うのか。それはだいぶ虫のいい話だ。多くの人の思惑が錯綜している現状では、結果としては思い通りには行かないのは当然としても、できるだけ自らが思っている理想の状態へ近づけるために、どのように行動すべきなのか。その辺を知りたいわけか。とりあえずあるべき状況などもとからありはしない。なぜそんなことを思うのかわからないが、理想をことさら求めているわけではないので、このままで終わっても良いような気になりつつある。だからいつまで経っても事件の目撃者にはなり得ない。偶然が作用しない限り無理だろうが、近頃はそれほど劇的な変化を目の当たりにして、感動したいとも思わなくなった。偶然の巡り合わせだけではなく、自らが積極的に動かない限り、強烈な出来事に遭遇できるはずもない。ただ退屈な日常に視線を占拠されたまま、退屈な人生を送るだけだろう。だが本当にそんな風に思っているわけではない。それは例えばそういう内容の映画の中で主人公が体験する出来事にすぎないだろう。そういう内容と無縁の映画もたくさんあるし、劇的な体験とは違う現実の暮らしもあるはずで、むしろそちらの方が多いように思われる。だからそれがどうしたわけでもないが、なんとなく今は何を見聞したいとも思わないようだ。それらの文章の中ではそう思っている意識が見当たらない。だがどこに物思う文章が存在するのだろう。それは意識ではなく、無意識そのものではないのか。では無意識とは何だろう。意識でも無意識でもなく、言葉の連なりから構成された実体のない人格かも知れない。しかしそこで文章を記述している意識はどこへ行ったのか。どこへも行かずに、ただ文章の中には存在しないだけかも知れない。そんな意味不明な内容で妥協したい意識が誰かの頭の中で構成されようとしている。何かがいつの間にか立ち消えになっているのかも知れない。今までにどのような変遷を経てそこへ辿り着いたのだろうか。なぜありもしない物語が未完成のまま消え去ってから、適当な人格が登場するのだろう。彼らはそれをことさら虚無として強調したいようだが、唐突に記述される彼らとは誰なのか。絶え間ない変化の中では、彼でも彼らでも君でもなんでもかまわないのかも知れない。そうやって彼らは何とか難局を切り抜けたつもりになっている。彼らが誰なのか特定されぬままで偽りの物語は進行中だ。要するにさらなる変化を求めているらしい。何が要するになのか不明だ。そんなどうでもいいような話をどうでもいいことだとは思えない人は、きっと頭がいかれているのだろう。そこでは適当な捨て台詞が必要とされているかも知れないが、何を思いつくこともなく、ただ平穏な暮らしの中に埋没しつつあるようだ。現状を物語るには理路整然としたことを述べてしまうと嘘になる。それではよくある作り話にしかならないだろう。テレビでやっている生中継も、一種の作り話を演じているにすぎない。そこでは素人に紋切り型の台詞が前もって割り当てられているだけのことだ。


6月14日

 他愛のない情報に一喜一憂させられるほど退屈なことはない。だが退屈を紛らすには他愛のない出来事を眺めるに限る。どちらも本気で述べているわけではなさそうだ。情報が錯綜して飽和状態に達しているのかも知れない。ひどい連中はいつまでもひどいままでいたいようだ。愚かな戦いにうつつを抜かす人々を賞賛してみよう。あなた方は偉い。偉いだけでなく賢い。多数派に追従する人々を夢中にさせている。北朝鮮とアメリカが互いの利益に叶う現状維持という点で、認識が一致していることを指摘することさえできないマスメディアは、単なる馬鹿である。馬鹿を通り越して愚劣だろうか。在日在韓米軍の規模を維持するためには、北朝鮮の軍事的脅威が必要なのであり、是が非でも北朝鮮が危険な存在としてあり続けなければならない。そんなことは少し考えれば誰もがわかることだが、北朝鮮脅威論を煽っている愚劣な連中に馬鹿な奴らが踊らされている現状を、大馬鹿メディアが盛んに好意的に囃し立てていることは悲惨の極みだろうか。確かにひどい言葉を使って現状を説明すればそうなるかも知れないが、本当にそんなことを思っているわけではない。たぶんそれも冗談のバリエーションなのかも知れず、どうでもいい現象をそれ風の言葉で変奏して見せただけかも知れない。今はそんなことを本気で述べるような状況ではないはずだ。眉間にしわを寄せて東アジア情勢について深刻ぶったことを述べるのは、どこかのニュース番組のコメント屋でもやらない行為かも知れない。それはただのエンターテイメントとしてしか扱われない出来事にすぎない。しかもそれ以外の出来事のことごとくはすべて無視されている。だからそれらの情報はいつまで経っても本気で受け取られないのかも知れない。たぶんそんな光景を本気で受け止めてはいけないのかも知れない。おおよそ彼らの馬鹿踊りは退屈だ。まるで戦時中の大本営発表のようなものかも知れない。ようするに日本人の松井がヒットやホームランを打ってくれればそれ良いのであって、ヤンキースの勝ち負けは二の次でしかないということなのか。その程度の人々がスポーツを賞賛し続けているのだから笑ってしまう。その程度の心根しか持ち合わせていない人々をいくら非難しようとまったくの無駄なのだ。彼らはただこれまで通りやり続けることしかできはしない。あの手のものにはあれ以外にやりようがない。またそれをどうこう述べてみてもらちがあかない。そんな他愛のない人々をただ眺めることしかできはしない。しかしそうだとすればこの世はなんと退屈なことか。たぶんそう感じているのは、それ以外に目を向けていないことに原因があるのかも知れない。だんだん予定調和の展開に近づきつつある。そして書物を読まなければならなくなる。テレビ画面ではなく、直に周りの光景に接しなければならなくなる。そうすれば少しは正気に戻るかも知れない。どうでもいいような些細なことを深刻に受け止めて、神経をすり減らしていた自らの愚かさに気づくかも知れない。


6月13日

 それは何かの決まり事なのか。成文化されたルールがあるわけでもないが、わかりやすいことを述べようとする者は嘘をつかなければならなくなる。君は君のでっち上げたフィクションについて語っているのか。ところで急に何を祈っているのだろう。意図的に批判しやすい対象を選別して、どうだ参ったか、といわんばかりに自らの論理を展開してみせる。クズがやっていることはそんなことばかりなのだろうか。それ以外に何ができるのか。しかし中にはそんなことを真に受ける人もいるらしい。自分にはそれがわからない。そんな甘えは許されないと思っている。おそらく誰もがそれを見聞して安心するのだろうが、世の中に暮らす人々が皆その程度であったらいい、などとは思わないだろう。そんな水準で停滞していていいわけはない。たぶんそんなことは興味深い現象にさえならない。それはどういうことなのだろう。彼はわざと無駄な言葉を多用しているということになるだろうか。わざとではなく、本気でそう考えているのかも知れない。少しは良心というものを持ち合わせているなら、そうでないことを祈るばかりなのか。そう思うと悪意に満ちた内容ではいられなくなる。こざかしい論理には頼っていられなくなる。いい年をして、利口ぶって生意気な論理をひけらかして恥ずかしくないのだろうか。それでもそんな甘え言葉に引っかかるのは幼稚な証しかも知れない。かなりそれ風の言葉を使用して、そんな雰囲気を醸し出している。だが自らがずる賢いなんてほのめかしてしまう者は単なる間抜けにすぎない。そこまで行かなくとも、途中でいくらでも逸れてしまえるのに、やはり最終的には悦に入ってしまう愚かさはどうしようもない。久しぶりにキッチュという言葉を思い浮かべる。ここで利いた風なことを述べるなら、この世界はキッチュのためにある。少なくともこの国ではそうかも知れない。この市民社会自体にキッチュで成り立っている側面がある。おそらくキッチュがなければ誰も感動できなくなるだろう。だがそれをキッチュと見なしてしまうと、本物はどこに存在するのだろうか。それを本物と見なしてしまう者こそが、それと気づかずにキッチュに感動している。だからあまり本気で特定の物事を賞賛する気にはなれないが、やはりそれをことさらキッチュと断じて、蔑んではならないのかも知れない。特定の固有名を伴う物事を大げさに名指しして、それがまがい物であると断言する勇気などわいてこない。どうも自らの確信を今ひとつ信じ切れていないようだ。とりあえずそんなものを揶揄していては、そのからかっている当のものと同一の地平で論じられることになる。そして自らの程度がその地平より高いか低いか、などとくだらぬ判断を迫られてしまうだろう。そういう方面での議論にはなるべく加わりたくない。確かにそちら方面でなら、おもしろおかしいことをいくらでも述べられるような気になるが、実際に一度それをやってしまうと、もうこちらには戻って来れなくなるような不安がある。だがしかし、こちらはこちらで何を述べているのかわけがわからない。本当にどちらが良いか判断しがたい状況にある。どちらもだめなのかも知れない。


6月12日

 様々な試行錯誤の果てに、やはり相変わらずの語り方にたどり着き、当然のごとくそんなことの繰り返しに飽きてくる。君は何を考えているのだろう。想像される魂の内部は幻想に包まれているようだ。それは、地道に努力していればいつかは必ず報われるときが来る、という毎度おなじみの幻想だろうか。幽霊のように実体がない。そうやって見通しのないことをやり続けているらしい。だがそれがいつまでも続かないのはわかりきったことで、結局は行き詰まり、そこで適当な過去の経験を参照しなければならなくなる。気休めを述べるなら、そうすればただ単純率直に自らの主張を提示できるかもしれない。本当にそう思っているわけではない。あるいは苦し紛れに嘘をついているわけでもない。それは語り終わった後からわかることかもしれない。ようするに前置きばかりが長くなっているということか。今の君には語り終わった後のことなど何も考えられない状況かもしれない。それがわかっていたら始めからその結果に対応したことを述べているだろう。自分にはそれがわからない。今こそ忘れていた言葉を思い出すときなのかも知れないが、行為が行なわれた後からそれらをいくら非難しても無駄なような気がするが、そうせざるを得ないのも当然のことのような気もする。どうしようもない状況を変えられないのはどこも同じなのか。泥沼という言葉を頻繁に使わなければならなくなっているのかもしれない。その状況を脱するには、当初から抱いている主張を曲げなければ何の進展もありえないことはわかりきっているはずだが、それができないからそんな状態になってしまうのもわかりきったことか。しかしそれでもどうしようもなく袋小路でもがくしかやりようがない。案外彼らはそれらの場所でそんな状況の中に暮らしているのが好きなのかもしれない。もちろんそれらを伝える側にも面子があって、それが邪魔をして、同じような言葉で同じような内容を飽きもせず伝えることしかできない。誰もが解決方法を知りながらわざとそれを無視して、自分達の言い分の正しさにしがみつくばかりなのだ。まったく欺瞞だらけの世界に暮らしているらしい。


6月11日

 継続が破綻をきたすときはこんなものか。思いもかけぬ些細な出来事が連続してしまい、意識が集中せずに方々へ分散してしまっている。それらの作用の傾向を見極められないので、崩壊を食い止めるための有効な対策を講じられない。そんな難しい表現はいらないはずだ。その結果として、まったく立て直せなくなってしまう。そんなことばかり繰り返しているような気になる。要するにもと来た道を逆戻りしているのか。我々はそうやって世界を変えようとしているのだろうか。だがなぜそれで世界を変えられると思うのだろうか。そもそも我々とは誰のことなのか。我々の安易な使い方にはうんざりさせられるが、それしかないとしたらどうしたらいいのか。何をやっても何も変わらないとは思わないが、何を述べてみても何かがかみ合わない。そのかみ合わない何かを特定できないでいる。さらにそんなことを考えている最中にわけがわからなくなる。その状態を何とかしなければならない思っているが、それを始めるきっかけを逸してしまい、絡み合った糸をほぐすことができなくなってしまう。そんなわけで、はっきりしない状態が続いているようだが、やはりそこでも何がはっきりしないのかはっきりしていない。とりあえずはそうやって言葉を紡ぎ出しているつもりなのか。何が原因でどんな感覚が失われているのだろうが、だがそんな状態のままで、これからどこへ行こうとしているのだろうか。そうしたいと思うが、勝手気ままに心の赴くままに振舞うことなど、現実にはできはしない。いったい意識はどこへ向かって働こうとしているのか。これから君は何を述べようとしているのか。しかし語るべき内容は何もないような気がしている。ただ内面の空白が黒く塗りつぶされているだけかもしれない。それは具体的にどのような状態なのだろうか。絶えず脳内の思考回路が働かせて、それらの状況から脱しようとしている。何もせずに上の空状態でいるわけでもないようだ。だがそこで意識が途切れて、夕闇が迫る時間帯から一気に飛んで、気がづけば明け方になってしまう。どうやら意識はリセットされているらしく、そのとき何を考えていたのか覚えていないらしい。たぶんわざとそうしているのだろう。


6月10日

 いつものように何に言及しているのかよくわからない。だが意地だけで長続きするはずもなく、当たり前のことかも知れないが、弛まぬ努力もいつかは止むときが来る。そして意外なところから破綻が始まる。どうやってそれを執り行って来たのかはっきりしないが、やはりそれほど長続きはしないような気になってくる。しかし何が長続きしないのか、依然としてその内容が定かでない。確かに信じられない出来事が頻繁に起こって、驚くばかりの毎日というわけではないが、予想通りの結果を目の当たりにして、なぜか愕然としてしている。恣意的な行動の最中に何か得体の知れぬ予感がして、こうすればこうなるからこうしよう、という一見合理的と思われる因果律を無視した動作に突入してしまうと、なぜか結果としてうまく事が運んでしまうことが多々あるのに対して、こうやった方が確率的には無難だと思われて、そんな思考に忠実なことをやると、思いっきり当てが外れて、結果として思いもよらぬ窮地に陥ってしまうことがよくある。そうなってはじめて自らの思い込みのいい加減さに気づくことになるわけだが、確かに綿密に何らかの計算を行った上で、そうなる確率の高い方を選択しているわけではないのだが、なぜそうやった方が合理的だと思ってしまうのだろうか。過去の経験からそんな思いに囚われてしまうのかも知れないが、その反対に、何も考えずに思いもよらぬ不可解な行動に突然出てしまい、しかもそれがうまくいってしまうのはどうしてなのか。そこに無意識が働いている、という説明になってしまう以外に、何か納得できるような法則というものがあるのだろうか。後から思うとその現象が絶妙のタイミングで到来して、自らの思い込みに基づく行動を絶えず凌駕しながら、いつもの行動パターンを改善しているように思われるのだが、神秘主義的な言葉を使うなら、それは守護霊のようなものの仕業だと見なされるだろうか。だがそれもある種の思い込みなのか。現実にはうまくいったりいかなかったりしているわけで、うまくいったときに限って、後からそんな思いに囚われるのであって、うまくいっているときは、どうしてそんな行動に出たかなんていちいち気にとめることはなく、行動したきっかけが記憶に残らないということだろうが。その反対にうまくいかなかったときは、どうしてそうなってしまうのか、という落胆と驚きが強烈に意識に反映して、行動した理由が思い出されるか、またはそこで行動の理由が構成される、ということになるだろうか。ここはなんとなくそんな説明で納得したつもりにしておこう。意識作用を説明しようと思えばいくらでもできるような気がしてくる。しかし一方では、何か論点をはぐらかされたような気になってくることも確かかも知れない。なぜそんな風に思われ、どのようにして自らを納得させることができるだろうか。そんなことができるわけないと思いつつ、いい加減な言葉をまき散らしながら結論には至らずに、それでもいいと思い続けているようだ。結局何を語っているのかよくわからなくなる。


6月9日

 何かを忘れていて、つい今しがた過去の風景の中に適当な何かが浮かび上がる。忘れ得ぬ人々は思い出した人々であり、かつてそこに描き損ねた人々となるだろうか。またもやいい加減なことを述べている。軽い眩暈とともに未来志向と呼ばれる決まり文句が意識に戻ってくる。違法行為だけが許されないわけではなく、それを知りながら見逃してきた人々も糾弾されている。彼らはそれをでっち上げているのではなく、新たに発見したのだそうだ。どういうわけかテレビ画面から伝わるその雰囲気は尋常でない。ある種の異様な熱気に包まれている。正気を保ちたい人なら間違っても彼らの仲間には加わりたくないだろう。君はただそれを静観することしかできないようだ。そんな過去の感慨を明け方の薄暗がりの中で思い出す。それが何年前の出来事だったのか思い出せない。原子力空母の寄港に反対する人々が過去に同じような雰囲気を持っていたかも知れないが、それは歳月の隔たりを物語っているにすぎないのだろうか。別に油断しているわけでもないのだろうが、そんなことをやっているうちにも年月はどんどん過ぎ去ってしまうのだろう。解消できない歪みはいつまでも残り続けるが、人々はどんどん老けてゆく。老化とともに過去へのこだわりがより一層増してゆくだけかも知れない。彼らは自らに死ぬまで実りの来ない徒労を課し続ける宿命なのか。ここではそんなはずはないとひとまず述べておこう。いつかそれらの運動も報われるときが訪れるだろう。それは皮肉でも気休めでもなく、そうなってほしいと心の底から願っている。曇り空の下で彼らに幸が降ってくるように祈ろうではないか。もはや彼らに後戻りはできない。それはそれでそれなりに未来志向を反映した出来事なのだろう。今まで行われてきた不合理は未来へ向けて是正されなければならない。忘れ得ぬ人々の労苦もまったくの無駄にしてはならないのかも知れない。死に物狂いの彼らに正気や平静を要求するわけにはいないのであり、それらの熱狂と興奮をいかに持続させるかが、今後彼らが目的を達成する上で鍵となってくるのだろうか。しかし何を評論家のような意見を述べているのだろう。現実の有り様は、その内容とは裏腹に、まるで傍観者のような突き放した態度でいるようだ。まったくこれ以上ない冷え切った意識で語っている。そしてそれらの出来事を取り巻いている熱気からは完全に距離を置いているようだ。生身の体は興奮からは遠く隔たって暮らしている。いつものように語っている内容は本気で述べているわけではないらしい。気晴らしのやっつけ仕事というわけでもないのだろうが、気乗りしない出来事であることは確かなようだ。はたして今から一年経ったらどうなっているのか。どうも事態は様変わりしているような気がしている。世論は熱しやすく冷めやすいものなのか。その場の雰囲気はそんな差し障りのない感慨に覆われているかも知れない。たぶん君は嘘をついているのだろう。本当の意識は静かな怒りで充ち満ちているのかも知れない。そのどうしようもなく愚かな者たちに過酷な罰が待っていればいいと思っている。正直に述べるならば、まったく反吐がでるような雰囲気だ。何となくきれい事を述べているうちにうんざりしてくる。


6月8日

 忘れたいことは忘れられないが、時が経てば思い出しても気にならなくなる。いつか都合の悪い記憶がよみがえるかも知れない。今は黙して語らない真実を思い出して欲しい。今までそれを無視してきた自らの愚かさを反省してもらいたい。しかし君に心当たりはない。それを知っていながらわざと無視しいている自らの行いを正しいと思っている。あるいは正しいとは思わないが、そんなことは死んでもやりたくないと思っている。自らの生存を脅かしかねない存在を利するなど絶対に受け入れられないし、何よりもその存在を感情的に許せない。それを強引にやらせようとしているのはどこの誰なのか。それは誰でもなく、もちろん神でも自然でもないだろう。少なくとも君ではないはずだ。誰も何も語らず、相変わらず大地は沈黙したままだが、いずれ軽薄な振る舞いが正されるときが来るだろう。そんな願いがいつ聞き届けられるのだろうか。だが沈黙しているのは大地ばかりでなく、天も海も押し黙ったまま何も語ろうとはしない。人でないものが何かを語るはずがない。いったい何に語らせようとしているのだろう。願っている対象が何なのかはっきりしない。それらの存在は人の願いとは関係ないものかも知れないが、それでもそれらに向かって願わずにはいられないのはどうしてなのか。そこから偶像崇拝でも生まれるのだろうか。なぜそこで神が出現してしまうのだろうか。事物に対する中途半端な割り切り方が問題なのかも知れない。天や大地や海に向かって叫ぶ人は気が狂っているわけではない。むしろ他人や社会に向かって、自らの願いを叶えて欲しいと要求する人の中に、尋常でない人がいる。そこから脅迫行為などが生じるわけか。テロが起こるのにもそれなりの必然性があるのは周知のことだ。かつてオリエンタリズムについて気の利いたことを述べていた人も、だいぶ年を取ったようだ。ここでもうろくという言葉を使って良いものか、使用した場合は少し適切さを欠いてしまうかも知れないが、それを見ず知らずの人に投げかけるには躊躇がある。言葉を投げかける対象ではないような気がする。ところで君は東洋について何か気の利いたことを述べられるだろうか。東洋と呼ばれる概念を安易に使いたくない時代なのかも知れない。神秘主義は人が生活した痕跡のあるところならどこにでも蔓延る。仮に東洋に神秘があるとしたら、西洋にもアフリカにも中近東にも南極にも、それなりのものがあるだろう。例えばそれはゾロアスター教のようなものか。真言宗の総本山にあるらしい神秘主義の奥義を見てみたい。たとえ現地に出向いて見せて欲しいと願いでても、そんなものはないと断られるのがオチだろうか。しかし仮の話があまりにも飛躍していて非現実的になってしまっているかも知れない。実現しようとも思わない話を、実現させようとしたらどうなるかなんてどうでもいいことか。ただ言葉だけが一人歩きしているのは神秘的な気がする。昨日まではそう思っていたかも知れないが、昨日ことは昨日のことにとどまらない。きっと明日も君はそんなことをやっているかも知れない。誰かが夜道を歩いて帰る途中で、ふと別れの挨拶を忘れたことに気づく。誰に向かって挨拶すれば良かったのか、そんなことで悩む必要はないだろう。また押し黙ったままで夜道を歩いてゆくと、遠くにいい加減な明かりが見えたりするのか。他人に裏切りには寛大に対処しよう。そんなことを語っていたのは誰だったか思い出せない。几帳面な性格の人は自らを裏切ることが許せない。そのとき一瞬願いが成就するように思えたが、何を願っていたのか忘れてしまった。


6月7日

 こんなはずではなかったと思うのはどんなときだろうか。テレビ番組でも見ているときか。冗談はさておき、それとは違う冗談でも探してみよう。プロレタリア作家の労働とは物を書くこと以外に何があるのか。現実の労働体験を元に作り話を構成することに、どんな意義があるのだろうか。君が死ぬことが僕にとっての幸運になるだろう。余りにも不幸と幸運を短絡しすぎている。その間の紆余曲折の中に適当な物語が存在すると思っている。ありがちな意見には耳を貸さないだろう。やはりそれを語るのが面倒くさいからなのか。それがどんな理由を含んでいるのかはわからない。どのような苦難が書かれていようと、それらは書くための材料にすぎない。読む者に共感と同情を求めているだけだ。なぜそれらの苦難を省略できないのだろうか。そこにくだらぬ思い込みとして片づけられない強烈な思いがあるようだが、歳月の経過によって、体験は自ずから摩耗していってしまうだろう。昔の体験は昔のことでしかない。今もどこかで同じような仕打ちを受けている人がいるかも知れないが、それはどこかであって、ここではない。この世界のどこかに、信じられないような過酷な環境の中で暮らす人々がいるらしい。その信じられないようなことを文章を読むことによって信じてもらいたいということか。それでお人好しを気取って信じた後はどうすればいいのだろうか。今こそ立ち上がって社会主義運動に参加して欲しいとなるのだろうか。それは何十年前のスローガンなのだろうか。どうも現実にはそうはならないようだ。誰も助けてくれないだろう。共同募金程度の気休めしか思いつかない。しかしそれで立ち直るとは到底思えない。今体験しつつある現状をどうにかやり過ごすことだけで手一杯なのか。根本的にはそこで暮らす人々がどうにかしなければならない。ここと彼の地のと間には、広大な海と大陸が横たわっている。現地の情勢を伝える電波の行き来は頻繁に行われるが、ただそれだけのことで、そこまで行ける人数も限られているし、仮に行ったところでよそ者に何ができるわけもない。そのような短絡的行動では何の効果も期待できない。だがそこまで行けないことを言い訳にして、何もやらないことを正当化するのも卑劣かも知れない。その代わりにこちらでなおざりにされていることを是正してゆくべきなのか。しかしそんなかけ声はマスメディアを通じて過去から何度もなされてきたはずだ。そしてこれからも未来へ向かって何度もなされるだろう。今このときはそんな持続的な行為の途上にあるわけか。それが何らかの実を結ぶまでにどれほど時を必要とするのだろうか。すでに適当な実を結んでいるのだろうか。しかしそれを知ろうとは思わない。またそんなことはどうでもいいように思われる。眼中にはないということか。そんなことよりも今この現状をどうにかしなければならないだろう。がらくたの中から使えそうなフレーズを探し出さなければならない。だがそれが目的となることはないようだ。面倒なので中途半端なところで切り上げよう。やる気がでないのはいつものことか。


6月6日

 実際には何も思っていないのに、突然に思いがけない言葉が出力されてしまい、困惑にいっそう拍車がかかる。火葬場の煙突から立ち上る煙には何が含まれているのだろうか。ここにきてあまり中身のないことは述べたくないが、その文章は批判以外の何を誘発させたいのかわからない。その他に何があるというのだろう。君はなぜ唐突にそんなことを思うのだろう。夕方はだいぶ前に過ぎ去ったはずだ。教会の屋根に取り付けられた十字架が夕日と重なる位置に見えたとき、それ内容は狂気の沙汰とは無関係だと思われる。何が狂気の沙汰なのかが示されていない。それでは意味不明になるだろう。また不意に繰り出された意味のない台詞に感動しているつもりになる。ひとしきり取り乱した後はなるべく穏便に話を済ませようとしている。構造に軋みが生じているらしい。だが建物が老朽化していることから演劇空間が崩れ去るわけもない。どこかの劇場が火災によって崩れ落ちるとき、君はスペクタクルという言葉を思い出す。だいぶ前の今は陽の光を真正面から受けて眩しい。また至る所で話が破綻しているようだが、それ以上に何を述べてもかまわないだろうか。続かない言葉をまき散らして、しだいに辺鄙な場所へと、誰に導かれることもなく自然に導かれるような感覚に陥る。そこで何を操作しているわけでもない。今は深夜なので、もう野良猫は暗がりへ逃げたりしない。しかしさっきまでは猫について話していたわけでもないだろう。わけのわからない重圧から解放されて雀の群れが飛翔する。それは擬人化されていないそのままの光景になる。容易には抜け出せそうにない深みで溺れる者の眼には、幻の魚影が映るだろうか。それは意図的に演じられた冗談かも知れない。いちいち説明するのが面倒なので、そうやってわざとおかしなことを述べてみせる。また事前に構想していたこととはまるで異なる状況の出現に驚いている。たぶん明け方におかしな夢を見たらしいが、さもないと地球が反転してしまうわけでもない。それとこれとはまるで関係ないだろう。猫に追いかけられたネズミは隅に追いつめられて逃げ場を失い、冗談で人気アニメのハムスターに変身する。それでも猫に食べられてしまうかも知れない。そんなことを述べてみてもどうなるわけでもないが、わざとらしく制御不能になってしまうのもいつものことかも知れない。深夜に意味不明な言葉遊びをしている場合ではないが、そんなことはわかりきったことであると同時に、どうやら君は半分本気でそんなことを述べているようだ。しかしなぜそんな風に語ることが可能なのか。それは誰にでも許される展開なのだろうか。心象風景とは別に適当な光景が思い浮かんでいるだけなのか。君にとって恣意的な風景の選択はどんな傾向を示すだろう。写真を見る眼は鏡を覗き込んでいる眼と微妙に異なっている。そしてあらかじめ心の準備ができているかのように振る舞っているのはどうしてなのだろう。表面的に語らうそれら人物は、それらを連想させる状況を把握できていないかのように振る舞っている。


6月5日

 そこに暮らしていれば、この世界は平和そのものだと思えるだろう。テレビをつければうんざりするようなニュースをいくらでも見ることはできるが、彼らが思っているほど状況が切迫しているとは思えない。現に至って平穏な毎日を送っている。そんな状態を保ちながら、もう何年もそれを維持継続しているのだから、今さら余分な行動を付け加える必要はないように思われる。どこかの誰かは満ち足りた生活に埋没しているらしい。まるで何もやらなくても十分な暮らしが保証されているかのうように思われる。もはや意識が完全に周りの風景に溶け込んでしまっている。いったんそうなってしまった者にはやることが見つからない。嘘でもかまわないからそんな状況を是非一度体験してみたいものだ。しかしそれを願うまでもなく、もうすぐそうなるような予感がしている。何の苦労も伴わない生ぬるい人生に浸かり続ける。そんな現実感に欠ける思考作用に悩まされる。たぶん唐突に何かが打ち切られるとき、急に目が覚めるのかも知れないが、話の前後でつながりを著しく欠いている現状をどうすることもできない。そして言葉を繰り出すタイミングのことごとくがずれているようだが、正気に戻ろうと盛んに訴えかけてくる理性も、わけのわからない話の飛躍を前にして、呆れて何もできなくなる。前もって提示されていた質問には答えようがない。確かにそれは回答不能な疑問かも知れないが、しかし形式とは何だろう。絶え間ない雑音にさらされて、当初に抱いていた何もかもが思い出せなくなる。論争を挑む対象などあり得ない。まともな仕打ちを期待したいのなら、もう少しシステムに合致したやり方を模索することが求められている。だがそれ以前に、それらのシステムに同調できない何かを抱え込んでしまっているらしい。今さらそれを投げ捨てて多数派に同調することなど不可能だ。気休めの娯楽などを提供するつもりはないし、できるはずもない。たぶんその無謀な強がりが君の人格を形成しているのだろう。浅はかな設定のメロドラマに一喜一憂する人々を心底軽蔑しているようだが、そうではない人々にお目にかかれたことなど一度もあった試しがないのはどういうことなのか。それは君の独りよがり以外ではない。ただ単に一方的な思い込みなのだろう。そんな風にして物語の登場人物としての君には、単線的な人格しか宿らないのであり、それはメロドラマの中のヒロインと同じく深みに欠けるキャラクターとなってしまう。多重人格ではない性格の多様性を、言葉によって一人の人物に吹き込むのは至難の業なのか。しかし本気でそう思っているのだろうか。いったい誰がそう思っているのかはっきりしない。架空の君がそんなことを思うはずがない。ただその場の話の展開から一時的にそんな結論が導き出されたにすぎないのであり、要するに誰も思ってもみない結論が偶然によって生じているだけなのだろう。そんなことを知るよしもない君にとって、それはまったくのどうでもいい話だ。話の中の登場人物にすぎない君が、その話の話者になるなんてあり得ない話だ。だがそんな話自体が意味のない蛇足にしかならないのはどうしてなのか。


6月4日

 誰もがそこから離れようとしている。扇動者たちは誰よりも早く危険な兆候を察知したつもりになって、逃げ道を確保しようと四苦八苦している。しかし賽を振る者は自らの運の盛衰に敏感だ。ただ用心深いだけでは修羅場を切り抜けられない。誰も切り抜けようとは思っていない。楽しんでいるのかも知れない。いつの間にか君も架空の登場人物になりつつある。状況を操作しようとしている者はすでにあきらめ顔で、まだ誰も気づいていないうちから帰り支度に余念がない。何もないのに夜空を覆い尽くしている闇に答えを求めても無駄だ。いつまでも未練がましく、それがただの空虚だとは思いたくない人の中には、ファンタジーが現実からの逃避だとは思いたくない人もいるらしい。そこで不連続な話の続きを空想しているつもりのようだ。想像力もそこから繰り出される言葉の力が及ぶ範囲も限られている。様々な出来事のうちの一つが、偶然にそこで起ころうとしているだけかも知れない。しかしそれらの舞台設定には真実味が欠けている。無味乾燥した技巧とは違う作用を期待していながら、それが何らかの技術であることに気づかない。ただ不安を多用して安心を仮構しているだけなのに、その矛盾を受け入れられない。そこで感じている時間の流れは、他のどの土地で感じるより遅いのかも知れない。だが未だに何も成し遂げていないと思われるのは気のせいなのか。斟酌する余地はなく、何の配慮も考慮もしてあげられない。その存在はまったく無視され、多大な努力とは裏腹に、無能の烙印を押されかねない状況なのか。何を嘆いているのかは知らないが、伝達不能な雰囲気や感じ方には居場所がない。無関心は真っ赤な嘘だと思われる。そして何も勿体ぶっているわけでもない。同じ水準で語ることはできないようだ。要するに幸運に出会えない者たちが必然を構築しようとしているわけだ。そこでどんな愚か者にも理解可能な形式を打ち立てようとしている。破綻と衰退はそこから始まるのだろうか。だがそうやって不快な欺瞞にさらされている者たちにも未来はあるようだ。また先細りの我が身を呪い続けている者たちにもそれなりの未来が到来するだろう。それでも規則的な振る舞いは軌道を逸脱し続ける。一見不規則に見える運動にもカオス的な規則性が垣間見える。そんな慰めを何回唱えれば気が済むのだろう。君が本気でそんなことを述べているとは到底思えない。やはりそれは何かの冗談なのか。悪い夢も良い夢も、それを判断する基準がなければ無効だ。言葉によるごまかしはいくらでも可能なのか。いったんできあがってしまった欠陥構造を修正しようと思う者は、その欠陥そのものが人々の欲望をかき立てていることを知りながら、自らの首尾一貫性を保つためにそれをあえて無視している。たぶん遠からずそんな欺瞞によって崩れ去ろうとする我が身を、誇りに感じることになるだろう。なぜ世の中ではそんなことの繰り返しが飽きもせず演じられているのか。なぜそれを愚かの一言で斬って捨てるわけにはいかないのだろうか。ようするに良識派を気取っている人々は馬鹿なのか。


6月3日

 誰が何をやろうと知ったことではないのかも知れないが、物語の中の彼はこれから何をやるのかはっきりしていない。今のところ予定は未定かも知れない。不安の種火から空間全体に火が回る。火にあぶられた灼熱のフライパンの上で油がはねる。地獄の業火に焼かれ、虚構の矛によって三つに引き裂かれた人格のうちの一つから魂が芽生える。研ぎ澄まされた出刃包丁には何がよく似合うだろうか。野獣は動物園で飼い慣らされている。風と自由は文体を超えて意味不明になるだろう。死んだ人間は再生する前にもう一度死ぬことがあるらしい。ザムザラと呼ばれる現象に関係があるようだ。何をやるにも困難がいつもどこかに待機している。愛を信じるには今がその時だそうだ。サンプリングされた言葉をランダムに並べてゆくとどうなるだろうか。疑いようがない、と叫んでほしいと歌われている。だが愛について繰り返し歌っているのには辟易させられるかも知れない。それしかないのか、そんな反応が内面から沸き上がってくる。いったいどこの誰が愛こそはすべてと日本語に訳したのだろう。自由が欲しいなら悪魔に魂を売ってほしい。真昼の太陽の下で君の死について語りあかそう。彼は冷たく孤独な人生を愛している。そして誰かがこんな苦しみには耐えられそうもないと思う。たぶん接続詞が抜けているので、不連続感を醸し出せるのかも知れない。ペットボトルの再利用は行き詰まり、峠の一本松でカラスが鳴いている。それは嘘であり、何かの冗談だろうか。心で感じるままにやりたいと思っていたことをその通りにやればいい。ここにきて何を怖じ気づいているのか。それらの身震いするような惨状は誰が招いたのか、そんなことは誰もが知っている。君はそんな絶望的な状況から生まれてきた。そのわけのわからぬ語り口にも君なりの理由と必然性が宿っている。逆さまから歌詞を読みながら、気に入った言葉をサンプリングする手法も、君独特のやり方だ。これが言葉遊びじゃないわけがない。ではそれで満足しているのか。シェキナはヘブライ語であり、イスラエル人たちが追放されるところには、つねにシェキナがあるそうだ。そのとき君は彼との架空の対話を思い起こし、彼らが滅びる瞬間を空想する。そこで君の存在が確定されるかも知れない。そして壊れた時計が真夜中に動き出すかも知れない。君は彼以外の誰かになるだろう。人は死とともに永遠に休息したいらしい。どこかに暮らす人々はそんなことを抱いていた。我々は今なお沈黙から多くのことを学ばねばならぬ。誰がそんなことを述べていたのだろう。だが学んだ後には何が待ち受けているのか。たぶんそれは人それぞれで違う状況になるだろうか。しかしそれでは学ぶことにどんな意味があるのかわからなくなる。おそらく君はそれでいいと思っている。学んだ結果から何らかの利益を得るなんて虫が良すぎる。


6月2日

 歌舞伎でもないのに地上の片隅で大々的に顔見世興行が執り行われ、そのニュースをミネラル水でも飲みながら眺めている者もいるらしい。まわりくどい語り口も時には有効に機能するかも知れない。その近くでは大勢の理論物理学者と実験物理学者が巨大な粒子加速器を使って狂気の沙汰を執り行っている。確かそれの副産物としてインターネットが生まれたのだそうだ。彼らはこの宇宙の初期状態がどんな具合であったかを実験的に確かめたいらしい。初期のわずかな時間においては物質と反物質が同居していたそうだが、それらがぶつかり合って打ち消される過程で、質量があることで反物質の大半は消滅したが物質はわずかに残り、現在あるような物質的な宇宙が生まれた。反物質は今の宇宙にはほとんど残っていないそうだが、電子の反物質の陽電子は結構頻繁に生じるようで、現在の宇宙に働く基本的な四つの力のうちの一つである弱い相互作用によって生まれる。ある種の元素の放射性同位体は弱い相互作用によって放射性崩壊を起こし、その過程でその原子核から陽電子を放出するそうで、放出された陽電子が電子とぶつかってガンマー線を生じさせることで、間接的に陽電子の存在を確認できるようだ。その現象は医療において利用されていて、脳などの身体内部に同位体を送り込んでの断層撮影を行うことができる。また身近な例としては太陽から地球表面に降り注ぐ日光も、太陽内部で二つの陽子がぶつかってその一方が中性子と陽電子となることから生じた陽電子が、さらに電子とぶつかって崩壊したとき生じるガンマー線が、太陽表面に達するまでに減衰して可視光線となったもので、つまり地球上に暮らす生物の一種である人間も、反物質が存在することで生きながらえているということになるらしい。フランク・クロースという人が著した物理系の教養書の中にそんな内容が記されていた。ちなみに四つの力のうちで残り三つは重力と電磁力と強い力か。しかし冒頭において何を語ろうとしていたのか。サミットと反物質に何の関係があるのかよくわからない。たぶんほとんど関係はないようだ。ある種の人々にとっては重要なイベントもその他の人には無関心である場合が多い。


6月1日

 誰もが知っている光景の中で、未知の世界が既知の世界と重なり合っている。だが未知も既知もそのどちらも退屈だ。それらの映像は神の視点を再現しているわけではない。では再現していれば退屈でなくなるのか。その退屈を紛らすために君は感動とは無縁の光景を好んで取り上げている。この世は退屈な感動で満ちあふれているらしい。そうすることで世俗のまなざしをやり過ごそうとしているのか。それができるとは思わない。ある時誰かが崖の上から下界を覗き込む。大した光景を目にする機会もないだろう。見上げれば曇り空だ。さっきまでは雨が降っていた。なんとか気をとり直して作業を再開させるが、思い描いていた鳥瞰図を信じられなくなる。一貫性の欠ける多様な視点に潜んでいるわずかな視差のずれに惹かれ、従来からある高い位置から低い場所を見る構図に飽きてくる。高層ビルの屋上から飛び降りてみたい人には、パラシュートをつけての落下訓練が必要だろうか。自殺志願者には余計なお節介になるだろう。今ひとつ目線も人格もはっきりしない誰かが、気まぐれに発せられた戯れ言につられて、究極の状況を夢想する。君にはそれが何のことなのかよくわからない。今はそんなありもしない話をでっち上げる余裕はないらしく、とりあえずその話の続きは、余裕のある時にあらためて夢想してみよう。だがそんな機会は永久に訪れない。毎度のことながら君が何を語ろうとしているのかよくわからないが、たぶん誇大妄想狂は語ることの不可能について語りたいのかも知れない。しかし究極の状況とはどのようなことなのか。例えばそれは、何らかの偉業を成し遂げたい人物を取り巻いている今日的な状況かも知れない。七十歳の老人までが世界最高峰の山に登る理由があるらしい。しかしその魅力に欠ける事件を綴った不連続な文章には今ひとつ表現力が足りない。その事件が事件でなくなる時、事件の目撃者は日常の風景へと溶け込んでゆく。事件はそれについて費やされる言葉の使い方次第で消滅する可能性がある。すべては平凡な日常の中で磨り減ってしまうだろう。では万物の消滅は宇宙の終わりを意味するのだろうか。言葉や映像でそれを表現することができるかも知れない。いい加減な夢想の最中に誰かが不意につぶやく。なぜそれが疑問を呼び込むのだろう。それは何らかの曲なのか。どこかに宇宙の終わりという曲があるらしい。だがなぜそれは言葉でなく曲なのだろうか。たぶん宇宙の終末においては、誰かや何かの存在はあまり重要な意味を持たないだろうから、手持ちぶさたの神が退屈紛れに、何か適当な楽器を用いて君の曲でも奏でるかも知れない。