彼の声36
2003年
5月31日
どこかの誰かがそれなりに試行錯誤を繰り返しながらも、何らかの結果に辿り着いた気になっているらしい。言葉の組み合わせを適当に変更して、思い通りの結果を得られたと勘違いしている。何もしなくてもいずれ意味のない言葉には適当な意味が宿り、無意味であり続けようとする意志を戸惑わせる。まわりくどい表現は簡単な意味に短絡させられて、そこへ至る苦労は顧みられない。何事も思い通りにはいかないものだという実感とともに、ありふれた教訓が付け加えられてとどめを刺される。人々はそうやって躓きの石を飛び越したつもりになって安心するだろう。その障害物は見え透いた罠ではないはずだ。だがそれを罠だと勘違いする意識は、クイズ形式の推理によって当たり障りのない大衆娯楽へと誘われるだろう。断じてそれは皮肉な結果などではなく、初めからそれが君たちの望んでいた世界なのだから、むしろそんな結末に至ったことを素直に喜ぶべきかも知れない。もはや虚偽の慰めはいらないのであり、底なしの疲労感もそのほとんどが拭い去られ、とりとめのない不安も完全に振り払われたはずだ。まだ一部では、そんなにうまく事が運ぶはずがない、という疑念に捕らわれている者もいるかも知れないが、とりあえずそんな風にして、目下のところは事態が進行中ということにしておこう。終わりはそういう楽観主義的な文句で彩られる。いったいそんな終わりへいつ到達できるだろうか。そして部屋の中では空の中の椅子が響き渡る。そうならない状況が現前し続けている。安易な憤りと何がそれを導いているのだろう。慎重に事態の推移を見守る必要があるようだ。ただ目的へ至るためにありもしない対話を無限に繰り返す必要はないらしい。突破口を無理に探し出す必要も感じていない。前線を突破した先に歓喜のゴールが口を開けて待っているのはサッカーでの話か。そこへ至る過程でどんなに複雑な経過を辿ろうと、終わってしまえば他愛のない話でまとめられてしまうようなことなのか。そうならないための方法などあり得ないということか。わかりやすくて単純なことは気休めとして消費されて、その反対にわかりにくくて難しそうなことは敬遠されがちなようだが、そのどちらでもないような単に何だかわからないことは、とりあえず謎解き遊びの対象として珍重されているのかも知れない。それらの中のひとつでも解き明かしたつもりになれば、自らの賢さを証明して見せたことにでもなるのか。わからないままでは愚かさの極みなのだろうか。何をいわんとしているのか、要旨がつかめない。たぶん自らの行為に意味や意義を確定できずにいるのかも知れない。安易なインタビュアーの他愛のない質問に真顔で答えようと、必死に言葉を探している人が気の毒に思えてくる。そんなテレビ番組を眺めつつ、未だに何の感慨もないことに気づく。
5月30日
並木通りの俄予言者は、起こるはずだった出来事が起こらずに気が抜ける。いい加減な状況の中で何を見誤ったのか心当たりはない。また大きな地震でも起こらないものか。その予感は補足不能に陥っている。またつかの間の慰めを求めているらしい。占い師は予言者を軽蔑している。それらの命令を了承するわけにはない。至って商売敵には冷淡なようだ。墓地の片隅で悲嘆にくれる人を見かけたことがあるだろうか。見たとすればその大半はテレビドラマの中でのことだろう。かなり遠くまできてしまったようだ。今さら勝手な論理で理論武装しても無駄だろう。たぶん現場の声はどこにも届かないだろう。やはり利いた風な意見を必要としている。浅はかな人はすぐ思わせぶりな台詞に飛びつくものだ。そんなことを恐れるには及ばない。その一方である独特な種類の出来事が静かに進行している。とりあえずそんなことには無関心でいるべきなのか。必要とされていないのに必要以上に批判を加えるべきでない。押し殺した感情には抜け道がない。いつでも冷ややかな中断への誘惑にさらされている。常軌を逸することを禁じられた感性はただ黙り続けるばかりだ。死と親密な関係を保っている者は、死から遠く離れ、自らの死ぬ可能性を眺め続ける。そして死にふさわしい言葉の形成を空虚が妨げるのを承諾する。日々サイコロを振り続ける者は自らが事故に遭遇する可能性を計り続け、明日起こるかも知れない自らの不幸を想像して興奮する毎日なのか。彼らは見ず知らずの人々にシナリオ通りの感動を味わってほしいそうだ。それに対する様々な意見があることを彼らは知っているはずだ。あれらの出来事に関しては忘れようにも忘れたふりを装うことさえ忘れて忘れられない。そんな出来事がどこかで起こっていた。君はそれを忘れてしまったようだ。あの時の約束を忘れていて、それを不意に思い出してからは、何かある度に思い出したかのように忘れたふりを装う毎日になっているらしい。そんなこともあったはずだ。君の忘れていることを綿密に調査して、それを箇条書きにして示せないものか。どこかの誰かが冗談でそんなことを思っているようだが、それが実行に移されるときは永遠に来ないだろう。だがそれらの何を真実と断定できるのか。何年間にもわたって虚無に捧げられてきた数々の言葉を、今さら誰が蒸し返す気になるだろう。要するに続けようと思えばいつまでも続けられるのかも知れない。いったい誰が続けようとしているのか、そんなことはわかりきっている。誰が続けてもかまわないのであって、仮にそれが君でなくても一向に差し支えない。つまり虚無の継続に特定の人格は必要とされない。いつの時代にも不安が付き物なのであり、その不安を利用したい者や組織はいくらでも登場する。誰もがそんな虚無に背を向けている振りを装いながらもそれを求めている。要するに愚か者の振りをする者は本当に愚かなのか。
5月29日
決まり文句の繰り返しはどのような結末を招くのか。技巧を弄して無駄骨を折る。何かの影響で無性に単純率直なことを述べたくなる。そんな嘘はつまらないか。誰かがいい加減な言葉の現前と戯れているらしい。おかげで少しは語り口に変化を持たせることができたようだ。だが自身が何を語っているのか忘れている。言葉への郷愁は沈黙によって保たれるようだ。虚偽の慰めならそこにいくらでもあるというのか。なぜか君は強がりで疲労という言葉を口にしたくない。そこでは何も切迫していないかのように振る舞っている。誰が二重死の棺桶に片足をつっこんでいるのか。また言葉で作られた時空へ閉じこめられようとしているのか。ある意味で疲労は寛容なのであり、怠惰は疲れた心身に気晴らしを引き込む。自然への回帰は二重に人工的な時空への帰還を招くだろう。たぶんそこで思い出しているのは逆説的な言葉の使用であって、気がつけばありふれたレトリックにはまりつつある。そしていつの間にか複数の人格が予定調和のゲームに興じているようだ。だがすべてを台無しにしたい者はいくらでもいるらしい。ちぐはぐなことをやっている印象は、そこで迷いが生じていることを物語っているのかも知れないが、とりあえず誰もが注目するような問題は生じていないはずだ。他人事で済ませられることが多すぎるのだろうか。それはある種の欺瞞なのかも知れない。しかしそれで一向に差し支えはない。誰が何を考え、どう行動しようと、君がそれに従う筋合いはない。彼らの要求は多すぎて、それらにいちいち応えている暇はない。我々は他の人たちと行動する動機と範囲が隔てられており、ひとつにまとまっている余裕などありはしない。彼らが伝えようとしている内容は無意味さの固まりに思える。そのすべてが同じ時間帯に同居していて、しかもその中からは何も選ぶことができない。何事も不寛容では解決しないのに、感情的に相手を許すことができない。しかもそう思っているのは、当事者ではなく傍観者や野次馬の方だ。だから支離滅裂な彼らの言い分に従うことなど到底できはしない。もはやどうすればいいかなどと述べている場合ではないようだ。すべての行き違いはひたすらねじれの方向へ伸びてゆくだけで、それらのどれひとつとして交わらないように思われる。たぶんひどい人々はこれから益々ひどくなっていくだろう。彼らは野次馬たちの感情を煽るだけ煽って、結局は当事者たちを仲違いさせることばかりを目指す。彼らは善意と無意識によって破壊者を演じる羽目に陥っている。
5月28日
誰の発言が説得力を生じさせるのか。何かが変わりつつあるという実感とともに、ある意味では何も変わっていないことが明らかになる。幻影の書記官は、死者の記述が散逸する前に、その場の空気を集めなければならない。どうやら彼にはさらなる意識の分散が待ち受けているようだ。そういつもいつも怠惰をねじ伏せてやる気を無理矢理引き出すことはできないらしい。仮想空間では、そんなどうにもならない状況を理由にして、ただ無為に時を過ごしている。その場の気分に流されながら、何気なく眺めているのはどんな風景になるだろうか。そうやってありもしない風景を構成したいらしい。見る方向や角度によって見える地形は異なる。そんなことはわかっているが、その他に気づいた点はないだろうか。そうやってそれ以外の言葉を見導き出そうとしているらしいが、そんなまやかしにはたして魅力が宿るだろうか。とりあえず山々の連なりが終わるところに平野が広がっている。それはどうでもいいことかもしれない。何が終わろうとしているのか知らないが、気分次第で言葉の連なりに適当な終止符が打たれるとき、いつの間にかその楽曲は完成している。そんな結果に終わってしまうのが気に入らないようだ。ドラマの中の小さな行き違いは些細な諍いを演出するかもしれないが、それでもまだやり残したことがあるらしい。だが勝手な思い込みにはつきあっていられない。放っておくといつまでもとりとめのないことを際限なく述べ続けている。そんなことをやっているうちに、何をどうしたらいいのかわからなくなる。だから放っておけなくなるのか。何を放っておけなくなるのかよくわからないが、その言葉の連なりが可能だということは誰もが知っていることか。だが何が知っていることなのか。それが単なる知識として消化されてしまって良いものか。堆積し続ける知識は実践を欠いている。それでもすべてが語られてほしいと願う者たちもいるらしいが、すべてが語られた後にいったい何が起こるのか。これまで通りの世界の現前が確認されるだけかも知れない。しかしそれでは何も起こらないのと同じことではないか。だがそんな心配は無用だろう。気休めに予測不能の事態に直面するかも知れない。だが相変わらずそんなこともどうでもいいと思われる。絶えず事態はそこから逸れてゆくのだろう。そんなことは何でもなかったことだと思われてしまうようになる。ようするに過去の事件は謎解きが終わりさえすれば、後は遠慮なくゴミ箱行きなのか。
5月27日
すべてが変わってしまったわけではない。フィクションは思いのほか簡単にできている。単純な思いつきから適当な作り話が形成されている。ほしいものを手に入れるためにそんなことをやっている。それは効果的なやり方だと思われている。今や君は口からでまかせを信じようとしている。そんな簡単に騙された振りを装いたいようだ。彼らの計画通りに感動している。そこで予定調和の反抗を繰り返しているのは誰だろう。わざとそうやっている必然性はどこにあるのか。いつまでも思考が固まるのを待ってはいられない。どこまで考えを巡らしていいものか、思案に暮れている。ほどよいところで引き上げなければならない。シンプルマインドとは何だろう。こうしているうちにも握りしめた指の隙間から自由がこぼれ落ちてゆく。そこで必要とされていたものはあまりにも多すぎたようだ。逆境がそうさせるのかも知れない。誰かが引き裂かれて置き去りにされている。ついでに心も虚無にさらされている。だがそれだけでは十分でない。君はその状況を遙かに超える悲惨な出来事が待ち受けているように願っている。最終的には騙された者は騙した者より賢くなるらしい。もう安易に引き寄せられることもないだろう。君はそれを理解できるはずだ。だがどこかの誰かが利いた風な台詞で対抗してくる。お前はいったい何者か。どうかそんなわかりきったことを聞かないでほしい。はじめからそれをわかっている者はいないだろうから。カレイドスコープの構造を理解しようとは思わない。そこで利用できるものは砂粒以外にないようだ。埋もれた黄金を探し出そうとは思わないのか。君の名前はどこの道ばたに転がっているのだろう。ダイヤモンドを砂利と交換している。もうすべてを犠牲にしなくてもいいのだろうか。しかしそれらの天分を誰が理解できようか。彼らは理解させる必要を感じていないようだ。たぶんそこで世界を測る物差しをなくしてしまったのだろう。その代わりに引用される言葉をどこからか探し出してきた。型どおりの習慣とともに渇きの季節がやってくる。今日も希望と宿命が適当な感情を作り上げる。それ以外に何を求めたらいいのだろう。もう引き潮の時間を過ぎている。
5月26日
抜本的な改革は楽観的な見通しと勝手な幻想を反映しているらしいが、この期に及んでどうしてまだどうにかできると思い込もうとするのだろうか。それが不具合を形成しているとしたら、何をどう評価すればいいのだろう。そんな構造上の欠陥を利用して言葉が適当に転がっていく。何やら複数の意識におかしな気分が漂っているようだが、それが愉快に思われるらしい。それらの状況をどう説明すれば納得できるだろうか。今さら使えない言葉を無理に使うわけにもいかない。しかしどんな言葉を使うべきか忘れてしまった。どうもそれら全体を把握し切れていないようだ。そこでまやかしの感動はいらないようだが、そんな笑えない状況でなおも笑ってほしいと語りかけてくるのは誰だろう。誰が語りかけているわけでもない。作り話の中では今日も誰かがいい加減なことを述べている。そこに提示されているいい加減な言葉が、君の抱えている欠陥を浮かび上がらせる。それをそのままに放置しているのはどんな倫理観に基づいているのか。倫理も何もあったものではなく、内容を伴わなくとも、受け入れ難い言葉を無理にも受け入れさせたい。そんな実現不可能と思われる願いを抱きつつも、今はそれを願わずにはいられない。いったい誰に訴えかけているのかわからないが、それでもかまわないと思っている。たぶん妄想には限りがないのだろう。影が夢想する勝手な思いに打ち勝つにはどうしたらいいのだろうか。そんなことがわかるはずもなく、仮にわかっていても打ち勝つ必要はないのかも知れない。空想の産物で満足できないのは誰にとっても同じことか。それは誰かの想像にまかせよう。その誰かはいつまで経っても不特定のままで、未来へ向かって不在であり続けるだろう。現状では誰かに助けを求められるような立場にはないので、その突き放した態度は当然の姿勢となっている。なぜそこに内容が見当たらないのか。内容を明らかにしなければ、誰の当惑も誘発させることはない。今は空白に文字を配置しているにすぎない。これからも黙っていれば適当な文字列が形成され続けるだろう。そんなやり方で偽りの時空を埋め尽くす。何を語っているのかわからないが、そうやって耐えられない風景を作り上げようとする。だからとりあえず君の心が砕け散るまで歩み続けよう。だが仮に砕け散ったからといって雨がやむわけではない。雨がやんでも何か適当な言葉が降り続いている。そんな状況を受け入れるわけにはいかないだろうか。受け入れられないからこそ続いてしまうのか。どこかに致命的な問題を抱えているらしいが、それが致命傷となることはないだろう。致命傷とならないから致命的なのか。だがそれでは致命的の意味が消えてしまう。だからいつまで経っても安易な連続を絶つことができないのか。だからではなく、どうして、どのようにしてそうなっているのだろう。
5月25日
心の痛みとは何だろう。痛ましい光景は誰の痛みも誘わない。そんな光景を安全地帯から眺めていたいだけなのか。神秘的な深みとは無縁の表面的な振る舞いに終始している。ひたすら形式的な感覚を重視しているようだ。その見方や考え方にはどんな特徴があるのだろうか。対象となる事象についてどんな捉え方が有効だと思っているのか。なぜ退屈な表現形態を好んで使うのか。そこに避けては通れない紋切り型が立ちはだかっているわけでもないだろうに。誰かが新機軸を打ち出すまで待っていよう。それを横取りしてあたかも自分が発明したかのように喧伝しよう。そんなクズのような輩の集まりなのか。そんなことを飽きもせず繰り返したあげくに、オリジナリティの欠如を嘆いて、利いた風なことを言い放つ。そんなことをやれば大衆から喝采を浴びるような雰囲気に覆われている。それはどこの世界で語られる物語となるだろうか。たぶん君が語っているのは架空の話なのかも知れない。架空の世界でありもしない感情について語り始める。嫌な人々がうんざりするような論理を押しつけてくる。そこで何を耐え忍ばなければならないのか、誰もそんなことを知る状況にはない。誰もそんなことを感じているわけではない。何を感じているのかさえ知ろうとしていない。自らの感覚に対する無知によって、マスメディアから繰り出される利いた風な意見を受け容れざるを得ない。しかしそれは架空の大衆の心に生じている現象にすぎない。現実には存在しない人々のことを述べているだけであり、著しくリアリティに欠ける言説となっている。そして何も思わぬ人々がこの世界には存在している。現実は論述からは遠く隔てられている。常に間接的な言葉の介在なしには語れない。一見それとは違うような言葉なしの映像には、言葉による編集が施されている。たとえそこに何らかの軋轢や争いが介在していようと、それは互いの価値観を押しつけ合う感性の攻防などではなさそうだ。状況に流されるがままの予定調和から、その場に適した決まり文句的な言説や映像が導き出されるにすぎない。それでもやはりそれらは痛ましい光景だと思うわけか。誰がそう思うのだろう。誰の感性がそんな風に受けて止めているのだろうか。それは誰に対する非難にも当たらない。言葉も映像もただ意識を通過するばかりで、後は忘却にまかせて何も残らない。なぜそれらを楽しめないのだろう。ただそれらを見聞している間は何らかの感覚に包まれているのかも知れないが、それで満足するはずもない。だからそれに対抗する形でそれらを凌駕するような事件が発生し続けるわけか。それが人工的な構成物を超える自然の力とでもいえば満足できるだろうか。そんな毒にも薬にもならない自然の力によって突き動かされている。
5月24日
解決の糸口を見失ってから久しい。忘れた頃に影が戻ってくる。そして気まぐれに退屈な作業は
再開される。解決されなければならないと思われていた問題は、いつの間にか忘れ去られていた。本気でそんなことを述べているわけではない。まんざら正気でないわけでもないが、そんなことはこの際問題とはならない。そのとき君は問題から逃げている。逃げたついでにわざと話の本筋から逸れて、脇道で予定調和の堂々巡りを繰り返す。確かにそんな表現では納得できない。憂鬱な気分のままで満足しているつもりらしいが、もっと別の気分でいる時を想像すべきなのかも知れない。想像しているだけでなく、それが実現するように行動してみたらどうか。どう行動すればいいのかわからない。そういうくだらぬ問答はつまらないが、それを知りたいと願う。それとは何だろう。現時点で不可能なのはそれを知ることかも知れない。知りたくもないそれをなぜ知ろうと努力しているのだろう。君が知っていることは、解決の糸口を見失っているということか。だがそこに教訓めいた内容を期待するのもつまらないか。それらの失敗に利いた風な教訓を期待するのはおかしいだろうか。しかしそれらとは具体的に何を指しているのか不明のままだ。それは知りたい者の想像にまかせよう。たぶん今は失敗から何も学ばなくてもいいのかもしれない。学ぶのではなく、ただ失敗を繰り返しながら生きてゆけばいい。成功を目指してはいけないのであり、それは間違いかも知れないが、とりあえずここでは間違っていることが大切だと思われる。常に間違いながら失敗を繰り返すことで生きて行ける。だがなぜ君はそう思っているのだろう。君とはいったい誰なのか。ここで君という言葉を使うこと自体が失敗であり、間違いなのかも知れない。繰り出される言葉はそんな内容ばかりを生じさせる。そんな状況から意識は逃れたいようだ。遠ざかってしまいたい。だが遠ざかった先がここだとしたら、いったいどうすればいいのだろう。遠ざかろうとすればするほど近づいてしまう。そうやって失敗のただ中で間違いを繰り返す。だから君はさらに間違うべきなのか。何がだからなのかよくわからないが、これからも間違うほかないと思えてくる。そのうち何が間違いなのかも気づかなくなる。もう自らの行いが間違いや失敗だとは思わなくなるだろう。たぶんそんな状況になるまで、間違い続け、失敗し続けなければならないのかも知れない。
5月23日
苦労して導き出された結論は大した内容にはならない。だが話の内容がなかなか見えてこないのはどうしてなのか。世の中には様々な状況があり、それぞれの状況に応じて様々な結果を知ることができるかも知れない。しかし思いもよらぬ展開を言葉で示すことは難しいようだ。中にはそれを著した作者にさえどうにもできない展開がある。作者が当初に構想していた範囲を逸脱して初めて未知の物語が始まる可能性が生まれる。しかしそんなことはよく言われるありふれた意見の範疇に入る内容かも知れない。たぶん君が述べたい話の内容はそんな水準ではないのだろう。なぜそれを述べられないのか。君自身の語り方がまだその水準に達していないからかも知れない。今のところそれは実現不可能な妄想でしかない。そこには適当な罠が仕掛けられている。その罠をかわすには何らかの技術を習得しなければならないのだろうか。はたしてこれから知らなければならないことは山ほどあるのだろうか。未知の物語はそんな内容ではなさそうだ。例えば人を殺すには何らかの理由が要るのかも知れないが、その理由の正当性が認められれば殺してもかまわないのだろうか。いったい誰が正当性を認めるのだろう。そんなことはわかりきっている。オウム真理教の麻原氏は部下に殺人指令を発して、結果二十数人が殺されたそうだが、アメリカのブッシュ大統領は配下の軍隊に攻撃指令を出して、その結果として数千人の命が奪われた。麻原氏の行為を史上まれに見る凶悪な犯罪と断じている者が、その数百倍の命を奪ったブッシュ氏の行為に対してはどうすることもできない。そこから漫画チックな結論を出すならば、力こそが正義なのだ。強者には誰も逆らえないし、強者の傲慢な行為を断罪するには、断罪する側がさらに強くなくてはならないのだろう。だがそんな少年漫画のような論理が通用するのは少年漫画の中しかないだろう。それはそれとしてそういうことでしかない。その単純な論理にはそれ以外の内容が欠落している。それらの結果だけを比較して、後からどうこう述べてみても仕方がない。単純に殺された人数の多い少ないだけでは割り切れない面があるということか。この世界では人を殺しただけでは罪にならない場合がある。それなりの理由と権限があれば殺すことができる。ここではそんな結論が無難なところだろうか。何かのついでに誤って殺めてしまったのなら許されるかも知れない。それが自由と民主主義のためなら問題ないのかも知れない。
5月22日
例えば真夜中に地球の裏側で適当な動作が確認される。どうでもいいことだ。たぶん嘘でもいいと思っている。それはどういうことなのか。どこかに影が復活しているらしい。君は外れたことをわざと述べている。翌朝の曇り空の下で、気まぐれに何か適当でいい加減な言葉を求めているようだが、その願いはいつの間にか叶ってしまっている。そんなに不思議な現象だろうか。誰が不思議と思うだろうか。だがすべてが思惑通りに動いていると思いたい。そんな願いがどこにあるのか。そんな状態をいつまでも保てるわけがない。保つ必要があるだろうか。それほど苦難の道のりでもないはずなのに、なぜか重い足どりになっている。どこかにわだかまりがあるらしいが、挫折とは何か。何か適当なことを思う度に、そうではないと感じている。挫折ではなく、自らの思っていることが、他人から見れば誤りだという自覚があるらしい。そんなわけで勘違いを繰り返している。たぶんそれは意識してわざとそうやっているのかも知れず、何かの振りをしているらしい。適当な動作を適当に演じているだけだろう。だからそれだけのことに全知全霊を傾けるわけにはいかないようだ。時折気の抜けたようなことをやってしまうのも許容の範囲内かも知れない。それらの動作のどこかに日頃の不平不満が燻っている。それでも世界は平和かも知れない。緩やかな川の流れが泥混じりの不平不満を運んでゆく。誰の興味を繋ぎ止めようとしているのだろう。すべてではなく一部の人たちであっても商売が成り立つらしい。期待している内容はそのようなものでしかない。この世のどこにそれ以上を望む意識があるのだろう。派手なアクションで安易な人々を引きつけることに価値を見いだしている人もいる。多額の金をかけて、それに見合うだけの見返りを期待している。そしてつかの間の成功と、使い切れないほどの金と、退屈な老後が保障されるわけか。またそれに反発して、別の価値観を提示しようとする人々も浅はかきわまりない。そんなわけでこの世は肯定されたり否定されたりしているらしい。
5月21日
それはたぶん錯覚に違いない。しかし何が錯覚なのか述べていないようだ。乾き以外に何もない大地に砂塵が舞う。それでも残された一縷の望みにしがみつくようなことはしない。まだ絶望的な状況には至っていないと思っている。だが何が一縷の望みなのかも述べていなかった。賞味期限はとっくの昔に切れてしまっているのに、それでももうしばらく待ってほしいと懇願している。もうすでに手遅れなのに、そうやって悪あがきを繰り返す。ところで何が手遅れだと思っているのか。奇蹟を信じている者は誰も手遅れだとは思わない。手遅れだと思っている者だけが手遅れなのか。人の神経を逆なでしたい者たちは思い出したくない事件の記憶がよみがえるようにしたいらしい。そこにどんな魔力が宿っているのだろうか。たぶんそれは怖いもの見たさの娯楽にすぎないのかも知れないが、そこから目を背けようとする者を許さない。その全貌を是が非でも見てほしいのだ。そして余すところなく見せている自分たちの仕事を評価してほしい。露出狂は四角い画面の向こう側で今日も他愛のないものを見せ続ける。いったい誰がそれらのドラマに満足しているのだろう。たぶん多くの人々は感動するのかも知れないが、君もそれにつられて感動すべきなのか。感動してもかまわないし、あるいはしなくてもかまわない。そのどちらになっても彼らの思うつぼになる。とりあえず一瞬でも見てくれればしめたものなのだ。見てもらえるだけで収入に結びつく。そんな安易なシステムがどこにあるのだろうか。その場で使われる言葉で自らの技量を試されているとは思っていない。期待外れはいつまで経っても期待外れのままなのか。だが何が期待外れなのかその内容が明らかでない。たぶんそれは冗談の続きなのかも知れない。いつか見た光景はどんな感情を誘発したのだろうか。そこで何か画期的な結論を得たわけでもない。揺れているのは心ではなく、晴れた日の道ばたに生じる陽炎か。心のざわめきは冗談とは無関係だろう。それは慰めの言葉とも無関係だろうか。たぶんそんなことを述べたかったわけではないのだろう。偶然に発せられたその言葉の真意は誰にも理解できないようなことなのか。
5月20日
何を仮想してみても、そのことごとくが空虚な思いに結びつくわけでもないが、実現する可能性のない期待をいつまでも抱き続けることは虚しい。雑音混じりの昔の音源から、そういつもいつも聞いたこともないような旋律を期待するわけにもいかない。それは何のたとえになっているのか。必要のないことは考えないようにしているわけでもないだろう。何やら特定の現象について固有名を挙げて述べたくはないようだ。そのとき意識は何らかの制限を設けているようだ。思考の妨げになっている感情を乗り越えられないのかも知れない。それ以上は進めないような行き止まりの地点が内面のどこかにあるらしい。だがその限界を見極めるつもりはない。限界まで至らずに、そこを迂回したり循環したりしているようだ。そんなことでは限界を極められるはずも超えられるはずもないだろうが、それでいいのなら楽になれるかも知れない。しかし楽になったからといって、何も状況は変わらない。現前している困難は少しも減じることがない。何もない空っぽの状況を知識を用いてごまかそうとしている。そんなことをしても現状は現状のままかも知れないが、とりあえずそれを言葉によって切り抜ける方法は確立されている。それについて考え、考えている過程を言葉で示せばいいのか。だがそんな結論ではつまらないか。他人を魅了したいのなら、いつもそうしていなければ気が済まないのなら、もっと別の方法があるはずだが、現状ではそれは不可能だろう。誠実であろうとすれば耐え難い不誠実に魅了されるだろう。公正であろうとすると信じ難い不公正を行ってしまうだろう。不可能を指すことからそれに対する挫折が生じる。そんな必然的な挫折が罪意識と煩悶を呼び込むことになる。そしてそういうドラマチックな気分に浸かって自己満足してしまう。なすべきことは果たされたと思い込んでしまう。そこで立ち止まってしまい、そこから先へ進む気が失せる。君がやらなければならないことはその先にあるはずだ。適当な何かに誘惑されなければ何もできないようではまずいのかも知れない。だが一方では、そんなことは嘘だと思っている。何よりも利いた風な意見は疑わしい。今から進もうとしている方角には、そんな拭いがたい疑念が立ちふさがっており、面倒なのでその疑念を乗り越えようとは思わない。では乗り越えずにどうするつもりなのか。たぶんどうするつもりもないのだろう。それはそれでほったらかしにでもしておこうと思っている。たぶんはじめからなすべきことは何もないのかも知れない。君は退屈にまかせて、そこにありもしない強迫観念を言葉で構成してみせただけなのか。そこには相変わらず具体的な内容が不在だ。前進しなければならぬという強迫観念程度では、空虚な思いを解消できるわけもないということか。しかしなぜ前進しなければならないのだろうか。科学者なら、なぜではなく、いかに前進すべきかを考えるそうだが、ならば理由もなくどのように前進できるのだろう。それが前進していることをどうやって確認できるのか。自らが前進していることを、自ら証明してみせることにどのような意味や意義があるのだろうか。たぶんそんな疑問自体が予定調和を形作るばかりなのかも知れない。
5月19日
おおかたの予想に反して、結果的にそれは祝福されるべき事態となってしまうかも知れないが、それの何が矛盾しているというのか。ブーメラン効果とはどのような現象なのだろう。面倒なので君は神の前で何かを誓わなければならない。それが儀礼として確立されているのだからとりあえずここは従っておこう。だがそれは理由が希薄でいい加減な誓いかも知れない。何事についても失敗を避けて通ることはできないようだが、それでも当初の計画を前進させるべきなのか。なぜか事態は取り返しのつかない状態になってしまっているようで、そうなってしまったことについてどこかの誰かは後悔しているらしいが、いったい誰がその失敗の責任を取るべきなのか。最終的に唯一の責任者と見なされるのは誰なのだろうか。特定の誰かに責任を押しつけていいものか迷ってしまうところかも知れない。確かにそれまでに費やされてきた多大な努力は、最終的には何の実りも得られずに、まったくの無駄に終わってしまったように思われる。それでも失敗の中に何か救いはないのだろうか。しかしそこで見過ごされてきたものを探す必要はない。この期に及んで未来への希望を見いだそうとすることは単に見苦しいだけだ。実際に誰も探そうとしていないように思われる。とりあえずそれらの物語の中で何か肯定すべきものがあったとすれば、それらのことごとくは失敗に終わったということだ。彼らは君なしで、あたかも自分達の力で成功したように装いたかったのだから、それはそれで自業自得というものだ。彼らはこれからも自分達の力を信じて無駄な努力を繰り返しもらいたいような気がしてくる。徹底して自らの信念を貫いてもらいたい。そして決定的な失敗に至ってほしい。それ以外の未来はあり得ないだろう。未来とは彼らが滅び去ることで到来する時空のことだ。だから間違っても何かを悟ったつもりになって、中途半端なところで降りてはいけない。宿命とはそのような形で実現される以外にあり得ない。そんなわけで君の希望は彼らの失敗に託されている。すでに取り返しのつかない失敗を幾度となく繰り返しているが、そんなのは失敗のうちに入らないような、これ以上ない決定的な失敗を目指して努力してほしい。しかしここでの失敗とは何なのか。なぜそれを成功といわずに、執拗に失敗と見なすのか。彼らの思い通りにいかないことは、はたして失敗なのだろうか。ようするに彼らが失敗だと思うような事態の到来があるべき未来なのか。もしかしたら必ずしも失敗だとは思わないかも知れない。成功とも失敗とも異なる感慨を生じさせるような状況に至るかも知れない。そんなものはどうでもよくなってしまうような事態に至るかも知れない。たぶんそうやって君のルサンチマン的な感情はいつの間にか消え失せてしまうのかも知れない。たぶん誰にとっても復讐が成就してはいけないのだろう。その程度の感情にこだわっていてはいけないのだ。それ以上でも以下でもない、それらとは隔たった境地に達するべきかも知れない。この世界には連続と不連続が同居している。いつまでも地続きの感情の周辺で逡巡を繰り返していては、そのうちくだらぬ情念の虜になってしまう。そこで固まって変化への可能性を失う者は多い。現実に彼らの姿は石化している。まさか進んで銅像になりたいわけでもないだろうが、たぶん自らのくだらぬ情念によって固まってしまいつつあることが、彼らの失敗を形作っているのかも知れない。しかもそれが彼らには成功に思われてしまう。状況が彼らに錯覚を生じさせ、あたかも思い通りにいっていると勘違いさせた後に、思いもよらぬ展開が待ち受けているらしい。だが彼らがそれを感知できるとは限らず、勘違いさせられたまま終わってしまうこともあり得るだろう。
5月18日
なぜか気分がすぐれないようだが、その原因を特定するには及ばない。そんなことはもう忘れてしまっているようだ。冒頭に付け足された文句が気に入らないらしいが、誰かが考えていることは未だ明かされない。たまには誰が何を思っているかを知っていることもあるが、執拗にそのときの気分について尋ねるのはやめにしてほしいそうだ。斜め横から夕日が差し込んでくる時間帯に空は曇っていた。そのとき気分はどうだったのか。空虚な気分とは何だろう。そこですんなりとやめてもらえるわけもないか。何事にも抵抗は付き物なのだろう。逃亡者の末路についてどんなケースを想像すれば納得してもらえるだろうか。考えるのが面倒なときは、相手の意表をつくことが意味をなさなくなる。確かそれを題名とした有名な映画の中では、無実の罪を晴らすことが出来る筋書きだったはずだ。昨夜に思っていたことが、まるで正反対の意味を纏って返ってくる。そんなことが現実にあり得るだろうか。たまにはそんなこともあるのかも知れない。弱気のままで強気な性格をやり過ごすことが可能だろうか。逃げ足の早さは先天的な才能かも知れない。めまいのするような言葉の羅列をどうやって避けることが出来ようか。様々な経験によって後天的に身に付いた癖には弱点が備わっている。同じような経験の持ち主によって、その行動のパターンを見破られてしまう危険性があるそうだ。だが同じような表現の循環を恐れていては何もできはしない。そんなことはわかっているつもりらしいが、やはり奇をてらった飛躍を披露しようとして、無意味な言葉の迷宮にはまりこむ。いったいそれのどこまでが本気で述べている箇所なのか、冗談と本気の間に境界を設けることは出来ないようだ。たぶん境界は別の土地に引かれているのだろう。例えばそれは音楽と哲学を隔てる線となる。架空の精神科医は自分の患者に対して、今どんなことに興味があるのかを語ってほしいそうだが、その語り口の粗雑さについては興味を示さない。その辺をもっと丁寧に説明してほしいそうだ。わざと意味をなさない内容になるように言葉を構成したいらしい。それは詩になり損ねた言葉の配置を示している。そんな風に思いたいようだが、実際はもっと違った風に思われることを望んでいる。そこからまったく新しい発想を見いだしたいようだ。無い物ねだりもいいところか。では現実にあるものとは何だろう。何らかの変化が見受けられたりするだろうか。それが新しい手法だとは到底思えない。例えばさっきまで見ていたテレビの中にあるものと違いがあるのか。あるとすればそれはどのような違いだと思っているのだろうか。どこかの誰かが求めているありふれた起承転結がどこにあるのだろう。どこかに埋もれているかも知れない古代遺跡には何を期待すればいいのだろう。世紀の大発見に感動できる人を未だ知らない。どうやら今日も満足のいく結論になるのを回避できたと思っているようだ。
5月17日
断片がいくつも結びついたところで、筋の通った言葉の連なりからは程遠いだろう。同じ調子がいつまでも続くわけもないが、あたかもそれが続いているかのように見せかけるのにも飽きてきた頃だろうか。耳を澄ませばどこからかすきま風の音が聞こえてくる。何かを混同している。平静を装いながら今から何をやろうとしているのか。鏡に映る顔は実際とは左右が逆だが、ではなぜ上下は逆に映らないのだろうか。それは人の目が左右についているからか。目が上下についていれば、鏡に映る顔は上下が逆に映るだろうか。そんな内容の書物を少し読んでいる。くだらない戯れ言で水増しされた内容には辟易させられるが、それはそれで暇つぶし程度にはなるだろう。水増ししているのは他でもなく、こちらの方かもしれないが、物語を否定するばかりでは貧相に見えてしまうだろう。今さらそのすべてを肯定するわけにもいかないが、たまには否定しながらも肯定したい気にもなるかもしれない。そんな回りくどさが物語には必要なのか。それは字数を水増しするための方法だろうか。少しでも長くその中へ留まり続けようとしたいがために、終わりを出来る限り先へ延長したくなる衝動に駆られるのだろうか。それはおかしな言葉遣いになっている。適当な頃合いを見計らってきっちり止める潔さが感じられない。それらの言葉の連なりはいつ始められたのかもどこまで続いていくのかもはっきりしていない。それらの大半は意味不明でわけのわからない内容に思われるかも知れないが、まれに何か気の利いたことを述べている箇所もあるような気もするのだが、今となってはそこでどんなことを述べていたのか読み返してみる気が起きない。転機はいつ訪れたのだろう。それの何が転機だといえるのか。いったい転機はどこにあったのだろうか。冗談でどこかに転機を設定してみよう。過去の時間の中に適当な転機を挿入して、物語の内容を活性化させてみよう。しかしこれらのどこに物語が存在しているのか。たぶん顕在化していないが何らかの物語が進行中なのかも知れない。現実に誰もが何かしら話していることは確かだが、それの何が物語といえるのだろうか。たぶん何かしら話せばそれが物語といえるのかも知れない。たぶんそのほとんどの内容には興味を持てないかも知れないが、それでも一応は物語なのだろう。
5月16日
例えば遠いクェーサーのから何十億年もかかって地球に届く光は、そのスペクトルが赤方に変移しているそうだ。それがどうしたというのだろう。ようするにその光源は我々から遠ざかっているということなのか。そこから何を述べようとしているのだろうか。何も述べられないので話は横へずれてしまうだろう。強引な転調が話の不連続を際立たせることになる。意味不明な場所から発信されたわけのわからない電波は、上空の電離層で跳ね返され、遠く離れたどこかの街で適当な音楽となって受信されるかも知れない。面倒なので君は君自身から遠ざかりつつある。あり得ないことはあり得たかも知れない可能性の世界で実現する。面倒なのでそういうことにしておこう。そんな作り話は唐突で意味不明だろうか。どうも言葉と言葉のつながりを見いだせない。話の水準が曖昧に推移しているようだ。君は一時の流行に流され、儀礼の表面的な装いに騙されたつもりになる。やはり何を述べているのか、それが具体的にどういうことなのか明らかでない。この世界のどこかに密閉された空間があり、その場の息苦しさに耐えかねて、誰かが外へ飛び出る。閉所恐怖症なのだろうか。そして夜の闇とともに空虚な気分に満たされる。空虚にも何らかの意味があるらしい。空に椅子が浮いている。君はその椅子に座ることはできない。絵に描いた椅子に座るには、そこに適当な人物を描き込めばいいそうだ。そうやってバランスを取ることができる。だがそれで座ったことになるだろうか。空中に浮いている椅子に座っている君を描いたところで、それが君の自画像になるはずがない。なぜそう断言できるのか、君にはその辺の事情がよくわからない。そのときの空の色は抽象的な青になるだろう。青色に抽象も具象もないだろう。青は色としては具体的に特定されているはずだ。抽象的な青色は存在しないのだろうか。あり得ない青で塗られた空は現実には存在しないのか。キャンバスに適当に塗られた青色の表面を空と見なしてはまずいわけか。しかしそれの何が空虚なのか。空虚とは何だろう。空虚はどこにでも存在している。例えば森の中に空虚があるらしい。高層ビル街にも空虚があるらしい。意識の中にも空虚がある。むなしさが漂う状況の中に空虚が存在している。ハーモニカの音色には空しさが漂っている。ギターの音色にも虚しさが漂っている。すべての時空には空虚がある。どこからともなく空虚が忍び寄ってくる。
5月15日
もしかしたらしらけているのかも知れない。その旋律が奏でられると、その場は奇妙な雰囲気に包まれる。誰かが意味のないことを口走る。その場に居合わせた皆が同じ盛り上がりを共有できるわけもなく、中には話題について行けなくなり、次第にそこから遠ざかってしまう者も出てくる。さっきから腕時計の針の動きが気になっている。なんでそんなにゆっくりと進むのか。一刻も早くそこから退散したいのに、なかなかお開きの時間へ近づこうとはしないようだ。何がそんなに退屈なのだろう。他人の呼吸に合わせて自らを抑制するのがそんなに苦痛なのか。感性の羅針盤はどこを向いているのだろう。精神の極北には誰にも到達できない静寂があると思っている。生きながら涅槃の境地に達することはできない。だから空海は入滅せざるを得なかったのだろうか。信奉者は未だに彼が生きていると思っているかも知れない。生きていようが死んでいようが、空想上の人格には何の影響も及ばないだろう。今日も誰かが息苦しいことを述べている。空気もないのに、なぜそこで窒息死しないのか。水もないのに、なぜそこで楽しそうに泳ぎ回っているのだろう。中には石の上を泳ぐ小説家もいるらしいが、たぶんそれは何らかの比喩的な表現には違いない。別段それで誰が困るわけでもないので、そこから先に歩みを進めてみよう。ただ適当にいくつかの出来事が絡み合っているにすぎない。まるで暗がりからゴキブリが這い出てきたときのような反応を示す。それ以上にわざとらしいリアクションを知らない。それが戯れ事の集大成だとしたら呆れかえる。それの何が気に入らないのかわからないが、微妙なニュアンスを解せないと置いてきぼりを食ってしまうらしい。ただ何事も驚きの連続とはいかないようだ。途中のがれ場で足を取られ、捻挫してしまう人もいる。いったい誰がそこで登山をしているつもりなのか。見上げれば遙か高見に見えているのが頂上というわけでもなさそうだ。たぶんそれは入道雲の先端だろう。上を向いて歩きすぎなのかもしれず、気がつくと途中の地面を見失っている。知らず知らずのうちに着地点を通過してしまったらしい。
5月14日
今そこで何が邪魔なのだろうか。いらないものは処分しなければならないようだ。どこかの誰かは整理整頓を心がけている。そんなことを述べている矢先に、机の上でほこりをかぶっている紙の山が崩れ出す。数年前のカレンダーが何の役に立つというのか。少し間をおいて平静を取り戻していることに気づく。画面を覗き込んでいる目は自然に適当な文字を見つけ出す。暇にまかせて何かを適当に眺めているらしいが、その視線の背後にはありふれた風景が広がっているらしい。しかし何を思い出そうとしているのかわからない。今は思い出せないが、いつか何かを思い出すだろう。例えば昼に眺めていた光景を不意に思い出すかも知れない。軽い雨が降り続く中、鉢植えの植物は順調に育っていた。順調に育っているのは植物だけではなく、言葉の連なりもそれなりに増殖しているのかも知れない。中身は相変わらず意味不明ではっきりしないようだが、今はそれほど突飛なことを述べているわけではないと思っている。ただ外の風景には何の変哲も感じられない。樹木の新緑も夏に向かって次第に濃くなり始めているのかも知れない。今はまったく意味のない時間だと思われる。詩人は季節の中で何を思い、どんな言葉で見慣れた風景を装飾しようとしているのか。何もないことの気休めに、どんなことを考えていればいいのだろうか。そこで何を考えればいいかなんてわかるはずもない。継続の困難さに耐えかねてどうにかなってしまいそうなのか。精神的に追い込まれているわけではないと思いたいが、それは無理な強がりの前兆かも知れず、実はかなり追い込まれていて、深刻な精神状態なのだろうか。いったい誰がそうなのか意識は何もわかろうとしていない。それは決して自分ではないと思っている節もなきにしもあらずか。確かに自分のこととなると今ひとつわかりかねる部分がある。だがそれが他人のこととなると、なおいっそうわからなくなる。しかしそれではわからないことばかりではないか。わざとわかろうとしていないのかも知れない。もしかしたらわかったと思ってしまうことが怖いのだろうか。何もわかっていないのにわかったような気になってしまうのが怖ろしいということか。その一方で、どちらでもかまわないとも思っている。少しはわかったような気になってもかまわないのではないか。たぶんそうやっていい加減な自信を身につけたいのだろう。とりあえず現状では自信過剰には程遠いということか。
5月13日
内面から自然に出てくる言葉が見つからないので、必要以上にまわりくどいことを述べるなら、いったんは何らかの内容が表され、次にそんなことはどうでもいいと思いつつ、それは大した事態ではないと感じているが、それがどんな事態なのか誰にわかるはずもない。実際どうということもないのだろう。よくありがちな事件が世界各地で起きているにすぎない。またそれについてどんなコメントを発してみてもどうなるわけもない。車の往来が激しいのに苛立って、腹立ち紛れに何かしてやろうと思い立つ。たぶんそんなことの延長上にあらゆる事件が発生しているかも知れない。そうやって苛立つ者たちは自滅への道を歩むことになるのか。それはまるで虫けらのような人生になるだろうか。今日もどこかで誰かが自爆してしまうのか。誰からも気づかれないところで細かい虫がその一生を終える。そんなことの繰り返しの上にこれらの世界は存在している。どこかに思考や行動の基準やルールがあるわけもなく、ただその場で偶然に思いついて行動したことが、新たな指針が形成されるきっかけとなるだけなのか。それ以上に何を考えればいいのだろう。砂上の楼閣を空想して、それを実現させるために虚しい努力をしていれば暇つぶしになるだろうか。やる前には何も限界は設けられていないが、やっていくうちに自ずから方向と時間が限られてくる。それは単にそういうことだけなのだろうか。だがそれ以上に何を求めているのだろう。くだらぬ幻想からありもしない飛躍の可能性を妄想するのも馬鹿らしいか。何も性急に答えを導き出そうとしているわけでもないだろう。そこにあるのは答えではなく、おびただしい数の答えを期待できそうにない問いでしかない。たぶんそれらの問いを発する者は始めから答えなど求めていないかも知れない。誰にも答えられないようなことをわざと問いかけていて、しかもそれが次々と発せられ、どんどんそこへ溜まっていってしまい、ついにはそれ自身の重みに耐えきれなくなって崩れ去り、それらのほとんどは忘却の彼方へと消え去る。結局そこには何の実りも生まれはしない。そして問うことに疲れた者は物言わぬ廃人と化すだろう。世の中の矛盾を指摘する者はそうやって次第に悲惨な境遇へ追い込まれていってしまうのかも知れない。この世界はそんなことの繰り返しの上に成り立っているのだろうか。だがそれをどうしろというのだろう。どうしようもできないだろうし、どうにかしようとしている者もいないのかも知れない。
5月12日
明け方になぜかつまらないことにこだわり続けているようだ。何を思うにしても君はどうかしている。だが何も思わなくてもどうかしているだろう。どうかしているのは君だけではないはずか。誰もがどうにかしていて、それでもそれが通常の世界だと感じている。同じフレーズは聞き飽きたのかも知れない。そこで無視されているのは日々耳に飛び込んでくる同じような主張であり、毎日のように繰り返される同じような言葉の群れだろう。あるときそれは爆撃で手足を吹き飛ばされた一般市民に同情しろと迫ってくる。またあるときそれは国会で審議されている国民を脅かす法案に反対しろと迫ってくる。それらはあからさまに同情しろだとか反対しろだとか叫んでいるわけではないのだが、これ見よがしに言葉や映像にそのような主張を忍ばせているのは明白だろう。しかしそれが必ずしも成果を上げているわけではないらしく、それどころかほとんど選挙結果や世論調査に反映されないことが、それらの主張を唱える人々に焦りを生じさせているようだ。彼らは大衆の無関心によって敗れ去ろうとしているのだろうか。いったい何に敗れようとしているのか。圧倒的な武力と経済力によって戦争をごり押しする超大国と、それに盲従する理念なき政府と政党にか。しかしそんな構図がはたして成立するのだろうか。誰が敗れているわけでもなく、それらの言説に関わっているすべての者が共犯関係にあるのかも知れない。誰もがそのような事件や現象から利益を導き出しているのだ。他人の不幸が飯の種なのだ。そしてそれらを見聞し眺めている大多数の人もそれを承知している。ああまた同じようなことをやっている、と冷めた視線で受け流している。またそれを真に受けて行動する人々を蔑んでいる。よけいなことをやるなとでも言いたげな目線でにらみつける。たぶんそれらの事なかれ主義を是正する術はないだろう。それは社会を成立させている基本的な要素なのだと思う。対岸の火事でどんなに人が死のうが結果として丸く収まればそれでかまわない。自分たちに火の粉が飛んできたとたん、急に騒ぎ始める。それでは手遅れなのかも知れないが、それ以外にやりようがない。自分たちが滅び去る一歩手前まではそれまで通りの行動しかできないのだ。
5月11日
何も思わないときに何か考えている。思うことと考えることはどう違うのか。今は考える理由が見当たらない。何も見いだせずに何かを思う。何も思わずに適当にそこから立ち去る。適当な時期を見いだせない。始まりと終わりの間に継続が存在している。閉ざされた扉をこじ開けるためには鍵が必要だ。まとまらない言葉を束ねるには強引な手法を必要としている。心に扉などあろうはずがない。心そのものは存在し得ないが、それを想像することは可能だ。そのついでに心の扉も想像してみようか。そして扉に鍵穴を付け加えることも可能となる。鍵穴をつければ鍵も必要となる。くだらぬ想像にはきりがない。何かが見いだされたときには時間が終わっている。扉の向こうには魅力が欠けている。そこに生きているのは言葉ではない。詩は死者の言葉で構成されている。栄光から見放された言葉の群れは行き先を見いだせない。居場所のないつぶやきは永遠に循環し続けるだろう。どこまでもこの世界をさまようことしかできない。屋根を叩く雨音を聞きながら何も思わないのは誰でもない。他に何かを感じ取っている。苦悩する振りをしているのは他でもない誰か。瞬きしている間に映像が切り替わる。持続しない精神の集中が適当な言葉を紡ぎ出す。中途半端な表現は、他でもない誰かの思考に基づいている。メディアの神話作用について語っているわけではない。メディアは何かに利用されているだけか。それは何かではなく誰かになるかも知れないが、その誰かも何かに利用されていて、その誰かを利用している何かも、他の誰かに利用されている。テレビでは俳優の名声を利用してドラマが制作される。しかしその名声を作っているのもテレビになるだろうか。その劇の中で苦悩を装う俳優の演技に感動する人もいるらしい。テレビ中継されるスポーツの劇的な試合展開に感動する人もいるらしい。中にはクイズ番組の奇妙きてれつな回答に感動する人もいるらしい。だが君は感動しない状況を見いだそうとしている。何も思わずに、ただ夜の雨空を見上げている。そしてがらくたのつまった頭で、適当な文章を構成しようとしている。夜の暗闇に感動できるだろうか。それは時と場所にもよるだろうか。感動なしで生きてゆくことが可能だろうか。それもその時の状況によるかもしれない。感動しようがしまいが、そのどちらでもかまわないのかも知れない。
5月10日
わけのわからない言い草に花が咲く。ルールなき世界にどんな花が咲くのだろうか。花など咲くはずもない。それではくだらぬ言葉遊びになってしまう。この世界にルールなどいくらでもある。今もいい加減なルールが粗製濫造され続けている。様々なルールが互いに関係しあいながら社会の表層を塗り固めているのかも知れない。そこに暮らす人々はルールでがんじがらめの毎日を送っているのだろうか。そうではなく、自分の行動や思惑に沿ったルールを考案して、そのルールに周りの人々を従わせて、自分にとって有利な環境を作り出そうと絶えず画策しているのかも知れない。そうやって自らを社会の中で生かさなければならず、それが生存競争を形作っているのだろうか。誰もが自らの思い通りになりたいという夢を抱いているわけか。人のあるべき姿とはそういうものだろうか。さあ、どうなのだろうか。現実にはそんな単純にはいかないのかも知れない。夢の中にいつもの光景が現れ、そこにさりげない終わりが用意されているにもかかわらず、それらの作業は一向に終わる気配がない。だが夕方から何もしないうちに真夜中になってしまうのはなぜだろう。たぶん彼が退屈な毎日を送っているというのは嘘に違いない。遅々として進まない作業の合間に、気休めの映像と音楽に満たされる。そして休んでいるうちにつかみかけていたものを取り逃がしてしまったかも知れない。ここでの休息に救いはないようだ。すべてが悲観的な展望に包まれ、見聞する何もかもが救われない兆候を示しているように思えてくる。だがそれが唯一の救いだろうか。現状がそれらの宗教の嘘を端的に示している。不幸のただ中で、救われた気になっているのは良くないことなのか。イスラム教に期待するつもりはない。人々は宗教の呪縛から解き放たれようとは思わない。失われた古代文明は失われたままの方がいいのか。今は散在しているそれらの断片から古代人の過ちを読みとることができるかも知れない。そんなことを思いながらも君はその程度ではだめだと感じている。今日も人々はありもしないものを飽くことなく探し回っている。
5月9日
誰かがそれを求めている。だがそれはそれだけではないようだ。緋色の物語の中では緋色の絹が現れる。そんな映像の合間を突いて、誰かがくだらぬ言い訳に終始している。見え透いた嘘を語るのはやめてもらいたいそうだ。彼はやめられないのにやめてほしいと望んでいる。なぜそうなってしまうのだろう。それがわからないわけはないはずだ。何をするにも同じルールを共有する者同士が競い合い、互いに切磋琢磨しなければ高度な達成はあり得ない。確かにそれはその通りなのかも知れないが、面倒なので本気で競争するつもりはない。そんなに競争がしたいのならやりたい奴らが勝手に競争していればいいということか。それの何が気に入らないのだろう。まったく感知していないところで、知らないうちにやりたくもない競争に巻き込まれているのが気に入らないのか。君が何を語ろうと君の勝手だが、語っている当人の自己正当化には辟易させられる。どこから話が始まっているのかよくわからない。そんな感想とともに文章が構成されようとしているが、そこで自由について語ろうとは思わない。また見えない意図をわかろうと努力するつもりもない。しかしそこで話が飛んでいるようだ。競争を否定するつもりはないし肯定するつもりもない。そこからは始まらないということだ。何が始まらないのだろうか。結果として生じた競争ついて何を語ろうと何も始まらない。競争しすぎた反動としてゆったりとした暮らしを望むのは虫が良すぎる。そんなところから開始される語りもくだらない。そう簡単に事が運ぶわけがない。好きなことをやろうとしてもできないのはよくある話か。そうではなく、好きなことをやっていると感じている人は自らに騙されている。騙されていた方が楽だからそうしているだけかも知れないが、それが自らの怠惰から生じていることを認めようとはしない。彼がかたくなに拒否しているのは後戻りできない自らの境遇を呪うことか。その結果、自らの不自由な生活を幸せだと誇ってみせる。この国にはそんな老人が多すぎるように思われる。
5月8日
闇の中で眠気にまかせて誰かが眠り続ける。蛍光灯のスイッチはどこにあるのだろう。明かりを求めて辺りを見渡しながら、ついでに何かいい加減なことを考えようとするが、何も考えつかずに再び眠りに落ちる。それは冗談にもならない退屈な状況かも知れない。そこで目を覚まさなければならない理由は何なのか。意識は現状を把握しようとしているようだが、真夜中に何をやる必要も感じない。では目を覚ます必要はないのだろうか。必要も何も眠りながら意識がそんなことを思うはずがない。要するにその意識が存在するのは作り話の中なのか。だが夢の中でならあり得るかも知れない。退屈紛れにそんな夢を見ているようだ。だが退屈しているのは誰なのか。きっと誰もが退屈しているはずだと思いたいようだ。現状では誰が退屈しているのか知りようがないので、ではそんな現状を変えるべく、作り話の中ではその誰かに適当な固有名でも付けた方がいいだろうか。面倒くさがり屋の彼がそんなことをやるはずがない。わざと大げさにその理由を付け加えるなら、そんなことをすれば、当初に抱いていた構想は著しくねじ曲がってしまい、結果として提示された内容は彼の意志とはほど遠いものとなる。だが現時点でそうしないことをどう評価すればいいのかわからない。彼はそのとき何を考えていたのだろう。そこでどのような意志が介在してそうなってしまうのか。いつものようにそんなことはどうでもいいことになるのだろうか。誰もそんな風には考えないだろう。とりあえずそこから先を考える必要があるらしい。誰もが理解可能なように修正を施し、もっとマシな内容にしないと受け入れ難いかも知れない。だがマシな内容にしたところでいったい誰が受け入れるのか、またそもそもそれのどこが受け入れ難いのかもわからない。たぶん彼はそこで言葉を複雑に絡み合わせて、意図的に何を述べているのかわからないようにしているのかも知れない。そんな風にして、そこに横たわる空虚を彼なりのやり方でやり過ごそうとしているのかも知れない。そしてまた、そんな状況をどうにかしなければならないと思っているようだが、どうにかできているはずもなく、その文章の全貌は意味ありげな言葉の束によって遮られている。そこには何が存在しているのだろう。ありもしない本心を悟られないようにしているのだろうか。それでもよくありがちな内容にならないように何らかの工夫を凝らしているつもりかも知れない。
5月7日
どうも君は彼とは別の世界に生きているようだ。だが文章が面倒になるので、君も彼も受け入れられないだろう。それはどういうことなのか。それとこれとは話が違うのではないのか。ハッブルによると宇宙は膨張しているらしい。宇宙が膨張していることと君と彼の存在をどのようにリンクさせるつもりなのか。とりあえず空間が膨張しているということは、その膨張している空間の中に存在している物質は、そのことで何らかの作用を被っているのだろうか。我々の体も空間の膨張に比例して膨張し続けているのだろうか。そんなことを実感している人はいない。体を構成している分子同士を結びつける力によって膨張せずに済んでいるということになるだろうか。例えば地球と太陽の距離が膨張によって広がらないのは、重力によって引き合っているからか。ではこの宇宙に存在する物質は、空間の膨張に逆らって重力の力でまとまろうとしているのだろうか。しかしなぜ彼方に見える星雲はまとまらずに遠ざかっているのだろう。それは物質と物質との間が開きすぎていると、重力よりも膨張する力の方が勝ってしまうということだろうか。どの程度の距離になるとまとまらずに遠ざかってしまうのだろうか。あるいは物質が密集している空間と空疎な空間では、膨張する比率に違いでもあるのだろうか。そんなことがあるわけないか。誰に聞けばそういうことを教えてくれるのだろうか。たぶん誰かに聞けばわかるかも知れない。それに関する書物を読めば少しは理解できるかも知れない。ところで君と彼はどこに行ってしまったのだろう。宇宙の膨張に従ってしだいにここから遠ざかりつつあるのだろうか。ここに至って、そんなことはどうでもいいことかもしれない。なぜかそれに関する質問のメールが文字化けしていたので、そんな現状を目の当たりにしてやる気を失い、深夜の作業は宙に浮いてしまう。そしてしばらく立ち直れなくなる。今の君に残された選択肢は睡眠しかあり得ないだろう。また明日出直してくるとしよう。だが明日は明後日になるかも知れない。いったんやる気を挫かれると、立ち直りには相当な時間を要する。どうも思い通りに事が運ばない事態ばかりのようだ。疲労以外にはそんな実感しか残らない。
5月6日
ゴキブリが鳥のようにさえずっているようだが、それに関して彼は何も思わない。ふと気づいてみると彼には何もやることがない。体調を崩した人が病院へ入院する。日頃から当たり障りのないことを述べるように心がけていた人が、心労が重なり帰らぬ人となる。彼が想像していた最後は、たぶんそんなものではなかったはずだ。壮絶な最期を遂げた人は思い残したことがあったらしい。この世に未練のある人は成仏できないそうだ。誰かが彼の幽霊を見たと言っていた。同じ災難が他の誰かに降りかかる。煩わしさに耐えかねて面倒なので自殺してしまえばいいと思うようになる。そんな死に神のささやきはあの世への招待状らしい。しかし作り話の中での自殺にはリアリティがない。彼は本気で自殺を考えているわけではないようだ。その代わりに、もうここにはいない人のことを思う。遙か昔に死んだ人々のことを思う。そしてまだどこかに生きているかも知れない行方不明者のことを思う。今それらの人たちはどこにいるのだろう。生きているはずのない人がどこにいるというのか。行方不明者はどこかにいるかも知れない。映像の中に澄んだ瞳が三つある。眼帯の奥から見えない視線を感じるが、残された時間が無限にあると思っているその時間の中に、彼はどれほどの間留まっていられるだろうか。誰が彼を留まらせることができるだろう。確かに時間はいくらでもあるだろう。どこかで何かがはじけ飛ぶ。それがはじけ飛んでいる間は、彼にも行動が可能となる。地面に落ちた柿の種に蟻が群がる。たまにはひまわりの種がはじけ飛ぶ。そして空中に放物線を描きながら何かが飛んでゆく。彼の地では爆撃で手足を吹き飛ばされて、面倒くさそうに人体が飛び散ったかもしれない。誰がそんな光景を想像するのだろう。ランボーならそんな光景を好むだろうか。それがどちらのランボーなのか知らないが、地獄の季節に感動できる人ならそこに極端な感情を求めるかも知れない。人が引きずっているのは影ばかりではないようだ。XTCのアンディー・パートリッジがひねくれた頭で白人音楽を礼賛する振りを装う。しかしそんな固有名など誰も知らないだろう。誰にも知り得ない場所から、誰かが放送電波を発しているようだ。彼は何もチェロ奏者とは限らない。たぶんどこかに、彼よりも死ぬのにふさわしい者がいるのだろう。そのとき複数の彼がゆっくりうなずいているのかも知れない。
5月5日
言葉に詰まると不連続を生じさせ、わざといい加減なことを述べている。その結果として粗雑な言葉の連なりから何が生まれようとしているのだろう。それを簡単に述べるなら、そこにはノイズのようなものが生じているのだろう。文章の個性とはそのようなノイズの内容が決めているのかも知れない。しかしノイズは言葉ではなく音の一種ではないのか。とりあえず彼らは流行していると思われる現象を捉えて、それを的確な言葉を用いて適切に説明しなければならない。そんなことが可能だろうか。見聞している現象はことごとく不快なノイズに覆われていて、何がそこで起こっている現象なのか判別不可能なように思われる。もしかしたらノイズも現象の一部かもしれないが、すべてがノイズである場合もあり得るだろうか。ノイズをより分けて、その中からあらかじめ設定しておいた理論に適う、規則的に変化する現象を発見したとして、それが本当に求めていた現象といえるだろうか。ノイズの中から自分達の説明に都合のいい部分だけを切り取っているにすぎないのではないか。そもそもそれらをノイズと見なしていること自体が誤りなのかも知れない。ノイズこそが現象なのであり、そのノイズ自体を説明できない彼らの理論が間違っているということか。しかし理論とは何なのか。理に適っていないものを理論で説明できるだろうか。説明できないものを説明しようとしていることになるだろうか。では説明できないのならどうすればいいのか。言葉は何かを説明するためにあるのではないのか。例えば何も説明しないのに存在する言葉があり得るだろうか。要するにそれは間違っているということか。説明しようとして、何かしら適当な言葉を連ねているつもりだが、結果として何を説明しているのかわからない文章となれば、それが求めている言葉になるだろうか。だがそれに何の意味があるのだろう。意味などありはしないだろうか。何か意味がなくてはまずいのだろうか。それを恣意的に読めば、何かしら適当な意味が抽出されるかも知れない。例えば読む人によって違った意味を持つようなら、それはそれで少しは気が利いていることになるかも知れない。無理に意味を求めるならば、たぶんそのようなものにしかならないだろう。ノイズとはそのような現象なのかも知れない。
5月4日
ところで彼の物語はどこまで進行しているのだろうか。ありもしない虚構の話に惑わされているのは誰だろう。誰が惑わされているわけでもなく、ただ惑わされている振りを装っているだけか。どこかの誰かは今そんな状況の中にあるようだ。だが相変わらず中身がないようだが、それが君にとっての致命的な欠陥になりうるだろうか。それがなぜ欠陥なのか君にわかるはずもない。君には中身がある方が欠陥に思える。中途半端な中身など何の利用価値もありはしないし、かつて中身が中途半端以外であった例しなどもありはしない。しかしもし本当にそうだとしたら、どれほど心がいやされることか。君はその欠陥によって心がいやされるのか、それを知らないことでいやされるのか、はたまたその両方の相乗効果によっていやされるのか、なぜそれでいやされるのか意味不明に思われるが、とりあえずいやされるためには、まずは傷ついていなければならないだろう。ではそこで誰の心が傷ついているのだろう。実際にはそんなわけもなく、それどころか誰の心もそこにありはしないだろう。人に心は宿らない。心は誰に宿るものでもなく、あたかも心が存在しているかのように振る舞うことで生じるものかも知れない。久しぶりに実名をあげて何か気の利いたことを述べるなら、宮崎駿は二十数年前から現在に至るまで、「未来少年コナン」を繰り返しているにすぎないように思われる。それらのアニメで彼は性的な現象を避けて通り、きれい事で済まそうとしているようにも思われる。ようするに、大人が子供に見せたいアニメを制作し続けているということか。大人が子供に対して抱く希望とは、ああいったものに集約されるだろうか。あれのどこが気が利いているのだろうか。たぶん大人たちは、あれらのアニメーションを子供たちに見せて満足することだろう。子供たちの方はどうなのか。大半の子供たちも満足するに決まっている。子供たちどころか、大半の青年たちも満足するだろうし、感動するだろう。だが君は違うと思っている。君にはあれらのアニメが安易でお粗末に思われる。もちろん安易でなくお粗末でないアニメがどこに存在するのか知り得ない。たぶん君が見て満足するようなアニメなど存在し得ないし、仮にあったとしても、それはほとんどの人から見向きもされないような代物かも知れない。君は映画にしろテレビドラマにしろ、物語そのものの存在がすべてくだらないと思っている。脚本に沿った劇の進行そのものにまったくリアリティを感じられないのかも知れない。作者の都合の良いように登場人物が動き回るその予定調和が嘘くさく感じられる。だから彼の物語などありはしないのか。
5月3日
この世界はそれほど謎に満ちているわけではないらしい。ただ謎を作る人や謎を求めている人はたくさんいるようだ。テレビの大半の時間帯は安易なクイズ番組で占拠されているかもしれない。安易な人々の興味を繋ぎ止めるために、CMの後にはすぐにわかるようなそれらの安易な謎は存在しているのだろうか。しかしそれがどうかしたわけでもない。それらはそれらでそういう種類の謎なのだろう。とりあえず考える手間を省くために安易な謎がつかみとして簡単に提示され、それによってちょっとした思考作用を誘発させたら、すぐに答えを出して安心させる。そんなシステムが横行しているだけなのだろう。実際には彼らが望むほど多くの謎が生み出されているわけでもないようだ。それらの安易な謎の多くは過去に何度も使い回しされた紋切り型の謎のように思われる。例えばエジプト文明やマヤ文明などの古代文明はそういった紋切り型の謎の部類に入るだろうか。確かに知らないことはいくらでもあるが、それがすぐさま謎になるわけでもない。それらの大半は謎として本格的な思考対象になる前に忘れ去られてしまうだろう。そのついでに安易な謎自体も、興味を引かなくなれば、遠からず忘却作用によって人々の意識から消え失せるだろうか。一時的には消えてしまうかも知れないが、それらは忘れた頃に再び現れるだろう。安易な人々と共に安易な謎もいつの間にか復活している。それらはテレビによって再生産されているのかも知れない。手を変え品を変え、それらは何度でも電波に乗って戻ってくる。まるで空気のようにこの社会の隅々にまで行き渡っているのかも知れない。そうだとしたらどうだというのか。たぶん、我々は馬鹿げた詐欺に遭っているのかも知れない。たぶん大半の人々は軽薄な嘘に喜んで騙されているのだろう。たぶんそうしていないとこの社会は継続できなくなるのだろう。彼らを目覚めさせてはいけないのかも知れない。だが現時点では彼らを目覚めさせる術は何もないのではないのか。では深刻な状況からはほど遠いと思われているこの社会は、いったいいつまで続いていくのだろうか。そんなことがわかるはずもなく、意識はただこの状況に押し流されてゆくばかりのようだ。たぶん君は冗談でそんなこと述べているだけなのだろう。君自身が本気で思考している節はまったくないようだ。
5月2日
そこで聞こえのいい言葉は要らないらしい。ただ真実を語ってほしいそうだ。誰かがそんなことを要求していた。どこかの適当なドラマでは、秘密を握っているらしい人に向かって、よくそんな台詞が発せられる。いつもどこかでそんなことが口にされる状況が物語の中で生じている。真実はいったいどこにあるのだろう。たぶんどこかにあるのかもしれないが、誰がそれを求めているのか君にはわからない。確かに表向きは誰もがそれを求めているつもりのようだが、彼らが求めているものは、はたして本当の真実なのだろうか。しかし真実が本当でなかったら何だというのか。嘘の真実が真実といえるのか。そこで言葉と意味の関係が破綻を来しているのかもしれないが、それは他愛のない内容に思われる。あまり本気で語っているわけではなさそうなので、それを真に受けるのはやめにしよう。君が求めているのは適当な冗談かも知れない。疑り深いので君は真実の存在を信じられない。だから君は、どこかにあるかも知れない真実より、その場で思いついた冗談の方を信用している。くだらぬ雰囲気を纏いながらも、冗談には確かな手応えを期待できる。たとえ結果が期待はずれに終わろうと、つかの間そんな気になれただけで十分なのだろう。君は本気になるのが面倒なのだ。本気になった後で裏切られるのが怖いのかも知れない。だからいつも軽い気持ちで表面を取り繕っているようだ。君の真実とはそういうものなのか。君がかぶっている軽薄な仮面の裏側にそんな真実があったとしたら、それはそれでどうでもいいことになるだろうか。なぜそれがどうでもいいことなのか。では面倒なのでそれは真実ではないことにしておこうか。その場の都合に合わせて同じものを真実と見なしたり偽りと見なしたりしてみよう。偽りの真実とはそんな内容になるだろうか。そんないい加減なことを語っているうちに、なぜか背中がかゆくなる。だが背中のかゆみと真実の関係について何か語りたいわけでもなく、ただ真実とは無関係に背中がかゆい。誰の背中がかゆいのか君にはわからない。もちろんそれが君にとっての真実になりうるかどうかは定かでない。たとえ真実になったとして、それがどうしたとなるばかりだ。そんなくだらぬ作り話では君は満足できないのかもしれない。しかしどこまで行っても意味不明では仕方がない。
5月1日
我々は今どんな言葉を求めているのか。我々ではなく君はどうなのか。今までに一度も使われていない言葉は存在しない。だが存在しない言葉はいつか存在し始めるだろう。今はそれがなんだかわからないが、いつかわかるようになるかもしれない。しかしそれがわかったときはすでに手遅れになってしまっているかも知れない。何が手遅れになるのか今はわからないが、手遅れになる前にそれを見つけ出さなければならない。しかし今ここでは見つけ出せないようだ。言葉の配列は手に取るようにわかるが、それが何を意味しているのかさっぱりわからない。だがいつまでそんな嘘をついているのだろうか。君にはそれがなんだかわかっているはずだ。わかっているがそれを言葉で言い表せない。文字として記述できない。たぶんそれも嘘なのかも知れない。なぜ嘘をつくのか、その理由がわからない。意識は理由など何もないと思っている。そうやって君は嘘をついている。わざと話をややこしくしている。適当に言葉を錯綜させて混乱を装っているが、何かを先取りしているつもりのようだ。言葉が出現する手前で、それをあらかじめ否定しておいて、盛んにそれが嘘だと述べ立てている。まるでそれが出現しては困るかのように思わせる。その決定的な言葉が述べられてしまうのをなんとしても阻止しなければならないのか。いったい誰が阻止しようとしているのか。何とかそれの出現を遅らせなければならないと思っているのは誰なのか。たぶんそれは誰でもなく、偶然の成り行きで必然的にそのような展開になっているにすぎないのだろう。偶然の成り行きを後から考えると、それがあたかも必然であったかのように思われる。偶然の結果に必然的な法則を当てはめることは学術上での常套手段かも知れない。そうやって他の人々を納得させようとしている。何事もそこへ至る理由がなければ納得できない。今やっていることにも何らかの経緯がないと不安だ。そうなってしまったことに対しては、それ特有の事情があるはずだ。そんなことを思わずにはいられないのが現代人の探偵的な気質だろうか。
4月30日
皮膚呼吸がそれ以上長く続かないので、途中から冒頭へ戻って作業はやり直される。未だ明らかにされないそれについて君はどう思っているのか。ところでそれとは何のことなのか。行き当たりばったりで、それが何なのか読み解いていかなければならないだろうか。読み解く対象となる文章はどこにあるのだろう。それをこれから記述しなければならないのか。そんなことができるわけがないだろう。流行の言葉やフレーズにすがりつくマスメディアは醜いだろうか。それを成立させるためには様々な条件をクリアしていることが前提とされる。その条件をいちいち示す必要に駆られている。三文芝居をまるで貴重品のごとく騒ぎ立てる人々には、呆れかえっているだけで事足りるのだろうか。貴重品は元々虚栄のシンボルだったはずだ。その点では彼らは必ずしも間違っているわけではない。伝えたい部分だけ切り取ってきて、それを繰り返し騒ぎ立てることに、どのような意図を感じ取っているのか。愚かさを増幅させて人々をそれの虜にしたいだけなのだろうか。別に意図してそんなことをやっているわけではないだろう。それは逃れられない形式に則っているだけなのかも知れない。彼らも仕事をやらなければならないのだ。それが仕事なのだからどうしようもない。仕事にはそれをやる必然性と理由が抜けている。彼らが日頃からそれをやる理由だと思っているものは単なる言い訳である。どうしようもなくやらされている仕事に、無理矢理とってつけたような意義を付け加えているにすぎない。それらにどのような価値を見いだしたつもりでも、そこには必ず不自然な押しつけがましさがついて回る。確かに世の中には様々な暮らしが営まれているようだが、それらの中からある特定のものを切り取ってきて、流行の言葉やフレーズでそれを装飾することにどのような必然性があるのだろう。また安易な人々はなぜそんなまやかしにだまされてしまうのだろう。だがそれがまやかしだとどうしていえるのか。もしかしたらそんなものを肯定したり否定したりすること自体がまやかしなのではないか。ならばまやかしではないものとは何か。
4月29日
昔流行った煙草の宣伝では陽気にしゃべることが推奨されていた。カラオケボックスの中で雲雀がさえずっている。近所の竹藪の中には鶏が住んでいる。近所の国道沿いでは排ガスによる肺癌が流行っている。遠くに見える風景の中には適当な言葉が隠れているらしい。それらの幻を使用して意味の不確かな文章を構成する。そこで何も見ていないのに、あたかも何らかの映像を眺めているつもりのようだ。スクリーンに映し出された光の表面には、小さな無数の水滴が張りついている。それらの映像による連続的な表現の中には意図的な切断面が見えかくれする。だがそれは亀裂でも溝でもなく、別々に取られた映像をつなぎ合わせた時に生じた接合面だろう。その不自然な連続が不連続を現前させているとでもいうのだろうか。極端な興奮状態を連続して写し出すと、冷静な目を養うことができるかもしれない。極端な現象なら簡単に述べることができるだろうか。ならば、それとは反対の曖昧な現象は曖昧に語るべきなのか。何を語ろうとしているのかわからなくなる。本来ならできうる限りわかりやすく語ろうと心掛けなければならないそうだが、言葉がいい加減な音楽に汚染されてしまっている。そしてその旋律に沿った組み合わせではわけがわからなくなる。なぜそうなってしまうのだろう。おそらくそこには練りに練った計画的な構築が欠けているように思われる。その場その場で苦し紛れに繰り出される即興的なコラージュ手法も、それを多用すればするほどおのずから限界が見えてくる。だがその限界に沿って、適当な何かが適当にまとまろうとしているらしい。あるいはまとまらずに離散したまま、その全体の形で何かを想像させようとしているのかも知れない。いったいそこで何を想像すればいいのだろう。それらの文章の対象となっている架空の物語でも思い描くことができるだろうか。それ以上は何も生み出されないのか。それを越える物象化した文字の連なりを空想してみよう。君はそんな荒唐無稽なものを求めているのかも知れない。しかしわけのわからないことにはどのような効用があるのだろう。要するに中途半端なものには、それをどうにかしなければならない、という強迫観念を生み出す効果があるということだろうか。だが今のところはそれをどうすることもできずに、ただ途方に暮れるばかりのようだ。
4月28日
晴れた日に青空を仰ぎ見れば何を思うだろうか。同じような社会環境の中で、多くの人が安易な悦楽に浸りながら時を過ごす。物思わぬ人々の間に他愛のない流行が通り過ぎる。ありふれた光景の中で、過去の人が頻繁に話題を振りまいている。見るべきものは思うべきこととは繋がらない。気まぐれに何か思い、その内容を瞬く間に忘れ、そんな思いとは関係なく、どこかに明日がやってきているようだ。翌日の朝日に照らされて、意識は休眠状態から覚めているようだが、覚めているのはそればかりではないらしい。目覚めてみればいつもの風景が広がっている。見通しが立たないわけでもなさそうだが、相変わらず内面は空虚に覆われているようだ。今日も見渡す限りの眺めはテレビ画面に遮られている。その額縁の中の世界はただ見られるためだけに存在しているようだ。そこで誰が何を思ってみても、それが何を批判していることにも行き当たらない。そこで何をどう表現しようと、それはただ現状を肯定しているだけと見なされてしまうだろう。どんなに荒唐無稽で支離滅裂なことを述べようと、そのことごとくは見てくれのいいパッケージとなって包装され、何の違和感も感じることなく流通してしまう。どんなに偏向した意見であれ、それは極めて正当な評価であり、何の非難にも当たらないだろう。そんなわけで、君はしだいに何も思わないわけにはいかなくなる。その場限りの視聴覚的な刺激だけでは我慢ができなくなり、何らかの断固たる行動を促される。それを遙かに超える体験を求めるようになるだろう。そんな幻想の虜になってしまうだろうか。そんなことを思っている暇があるわけないか。それはあくまでも日常の取るに足らない一部分での話なのか。この世界には無限の領域があり、それは意識の外部に普通に存在している。日頃から何の関心も払われないその外部を探索することは無駄かも知れない。そこは意識的に感動したり感情移入する必要の生じない領域だ。それは利用することの不可能な荒れ地なのか。しかしその外部がこの世界の大半を占めている。外部こそが自然なのであり、人の意識も外部の一部分にすぎないのかも知れない。
4月27日
物語の中ではどうも頭のおかしい人物が回帰してきている。君はいつかその言葉とともに不死鳥のごとくよみがえるつもりらしいが、なぜそれほどまでに回りくどい表現に終始するのか。そこでどれほどの命が失われようと、存在の耐えられない重さとはならないようだが、それとは逆の表現の軽さを模倣できないらしい。なぜそんなことを思うのか、そう思っている誰かにはわかるはずもないだろう。君がそんなことをわかるはずもない。誰にも理解不能に思われるような内容を、誰に向かって語っているつもりなのか。誰もそんなことを語っているわけではない。ここにはもう誰も存在しない。存在しないのではなく、存在できないようにしているのかも知れない。誰もがいつかは死ぬことになるわけだから、未来を奪われた者が発する悲痛な叫び声がつまらないフィクションであったことなど、いちいち気にとめるようなことだとは思われない。そんなことより明日の予定で頭がいっぱいなのかも知れない。そして貴重な時間をできるだけ有効に使いたいと思っている。無駄な時に流されて、やっとのことで辿り着いた先には先住民が暮らしていた。彼らが言うには、力ずくで奪い取らないと居場所を確保できないそうだ。他人を蹴落とさないと競争に打ち勝つことはできないらしい。それが成功者の勝手な思い込みであることを他の人々はわかっているそうだ。進んで勝ちを譲ってやることが大切だと不気味な人々が説いて回る。いったい何が勝ちで何が負けなのか、その基準を設定している者たちに操作されている者が、勝ち負けを感じることができる。そうなってしまった時点で、勝者も敗者も実質的には敗者なのだ。勝ち負けという貧相な価値判断に染まってしまった者たちは、いつまで経っても単純な形式から抜け出せない。だがそれも嘘かも知れない。世の中はそうした状況を眺めている傍観者であふれかえっている。彼らは愚か者たちが勝ったり負けたりする、その結果を得る過程を見て楽しんでいる。
4月26日
どういうわけか仕事が省けたようだ。そのままでは面倒くさかったのか。なぜか去年の暮れから立て続けに三人が死ぬ。それが不運なのか幸運なのか、当人たちやその家族とっては、間違いなく不運であり、不幸な状況に陥ったかも知れないのだが、日頃からその存在を快く思っていなかった者たちにとっては、煩わしい障害物がいなくなって過ごしやすくなったようだ。とりあえずそれらの出来事は偶然の巡り合わせだったはずだ。人の死が一概に哀しい出来事とはならないのはわかりきったことかもしれないが、それをお涙ちょうだい的な紋切り型のストーリーに仕立て上げるのが葬儀屋の役目なのか。だが実際には誰も涙を流さない。そのような形式で滞りなく葬儀が執り行われたことに納得するだけかも知れない。その夜に誰かが光り輝く空を見る。なぜ空が光って見えるのかよくわからないが、それはこれから何か起こる前触れなのか。確かにそれは何かの前触れかもしれないが、同時にそれはすでに起こってしまった現象でもある。これからも人が死ぬのだろう。ふと誰かがそんなありふれたことを思うが、それではつまらないので、他に何かおもしろいことはないものか。では死んだあとに生まれればおもしろいだろうか。死んだり生まれたりすること自体は別におもしろいことでもつまらないことでもないだろう。たぶんそこに至る経緯が人々の関心を惹くのかも知れない。だがそれは大したことじゃない。今から数年前の文章を読んでいるうちに、それと比較して今の文章が、知らず知らずのうちに、かなり鬱陶しい言葉遣いの連続になっていることに気づく。今さら気づいたところでその状況がどうなるものでもない。そんなことは先刻承知している織り込み済みの状況であり、そうならざるを得ない事情さえわかっている。今の文章には手本となる対象がない。模倣したいような文章に出会えない状況の中で暮らしている。利いた風なことを述べることが面倒になってしまったのかもしれないが、なぜそうなってしまったのだろう。もはやそういったものに関心がなくなってしまったのか。それはもうすぐ別の出来事が起こることを見越して、それが起こったときに驚いたり感動したりするための準備として、意識がわざとそういう先入観を遠ざけようとしているのかも知れない。たぶんそれは、人の死や生とはあまり関係のない出来事になるだろう。
4月25日
自分にとって都合の良いこととは何だろう。なぜそんなことを考えるのか不明だが、何を求めているわけでもないのは、今や誰もが抱いている共通認識だろうか。君は本気でそんなことを思っているようだ。そんな状況になれば君にとって都合が良いのだろうか。ただそうなればいいと願っているだけかも知れないが、そんなときに限って、闇の向こうからうんざりするような何かがやってきたりする。だがこちらではすでにうんざりしきっているので、そんなものがやってきたところで何も感じないかもしれない。君はそんな状況をいい加減に想像しているようだが、それで君の気が休まるわけもない。現実は想像以上のでたらめさで迫ってくる。筋の通ったことは何も起こらないように思われる。ときには冗談で冗談を越えた事態が起こったりする。それが具体的にどのようなことなのか、そんな内容を記述できるわけもなく、それでも現実から目をそらしてはだめなのか、と思いつつも、そんな現実に嫌気がさして、無意識は勝手に空想の世界で憩いの時を追い求める。だがその無意識自体が空想の産物なのだとしたら、もはやどこへも逃げられなくなるのだろうか。しかし誰が何から逃げようとしているのか。例えば君が現実から逃げようとしているわけなのか。だがその君自身も空想の産物には変わりない。その君はいったい今まで何を述べてきたのだろう。君は何も述べてこなかった。これからも何も語ることはないだろう。何もやろうとしないだろう。語っているもやっているのも君ではなく、君について語っている人物かも知れないが、ではここで千切れて四散した言葉の連なりを、君はどうやって修復すればいいのだろう。今さらそれを再構成できるはずもないが、それをやるのも君ではないことは確かだ。それどころか元からそんなものはなかったのかもしれない。それらは元から壊れていたのかも知れない。そしてそれ以上は何も思い出せないのは、元からそんな記憶自体がなかったからなのか。
4月24日
些細な行き違いをきっかけとしてつまらない事件が続いてうんざりしている。そんな冒頭が気に入らないので、作業は始めからやり直される。誰が何をやり直すのか知らないが、それらの体験に教訓など含まれないだろう。いちいちそこで反省している場合ではないらしい。思い出しているのはそんなことではないはずだ。階段の傾斜に沿ってゴキブリが空中を飛んでいく。君はそんな光景を見たことがあるだろうか。そこでいったい何を眺めているのか。君はその対象に心当たりがあるらしいが、それが何なのか語ろうとはしない。眺めているのはただの夜空かも知れない。ここでは面倒なのでそういうことにしておこう。だがそれではつまらないので、何か別の内容を捏造すべきなのかも知れない。やはり君はそこで画期的な言葉の連なりを模索しているつもりなのか。そんなことができるはずもないことを承知しながらも、それでもまだ実現不可能な夢を追い求めている。そうやっていつまでもつまらぬやり方にこだわり続けている。だから結果としてひとまずここから撤退しなければならなくなる。いったいそれはどういうことなのか。今となってはそれを語らない理由などどうでもいいことかもしれない。体全体に力が入らないので、その怠惰な意識をどうにかする必要がある。必要があると感じている意識がなぜ怠惰に覆われているだろう。例えばその意識は何らかの勘違いに基づいて構成されていて、それが原因でそう思っているだけということになるだろうか。とりあえず何をやるにも気が進まない。要するにやる気がしないということか。それでも意識の中から未知の心を導き出そうとしている。それはどういうことなのか。もうこれ以上何をやってみてもらちがあかないということなのか。何をどのように述べてみても、そこには具体性が欠如しているようだ。要するに心は具体的に何を述べたいわけでもなさそうだ。その結果として、なぜか述べたくもないものが記述される。空虚の中に存在する心の作用とはそういうものらしい。何もかもが中途半端な段階で放棄されてしまう。
4月23日
物語の中に存在する君のまなざしは何も見ていない。なぜかそのうつろな目は死んでいるみたいに思われる。今は夜の時間帯かもしれない。絵の表面に塗り込まれた人物が何を悩んでいるわけもないだろう。夜の絵にはぼやけた月が描かれている。別に理想的な環境を夢想しながら建前ばかりを述べようとしているわけではないが、本音と建前の間で何か利いた風なことを語ろうとしているわけでもない。ただ内容が不鮮明で焦点が定まらないような気がする。様々な立場から様々なことが言われているし、確かにそれを可能とする環境が現前しているのかも知れない。例えば独裁権力の支配を拒絶して個人の自由意志を追求するには、別の権力の支配を受け入れている現実を忘れる必要があるらしい。一方的に正しいことを主張しようとすると、その正しさを構成している言説の矛盾点を無視しなければならない。戦争が起きたら苦しむのは誰か、そんなことを考慮して戦争を起こす者はいないだろう。遂行しようとしている行為を妨害する可能性のある、都合の悪い事情は無視されなければならないだろう。穏便に事を運ぶには、わかっていても進んで健忘症になる必要があるらしい。結果として穏便に事が運んでいるとは言い難いが、穏便に済まそうと努力している仕草は演じていなければならないようだ。君たちがやっていることはそういったことの積み重ねであり、それの繰り返しによって周囲を納得させようとしているにすぎない。だからといって心から納得させることができるとは思っていないだろうが、それはそういうことで納得できないだろうがあきらめてほしいということかも知れない。なし崩し的にそうした現状を受け入れてほしいということのようだ。たぶんそこで行使されている権力の内容はそういったものなのだろう。そして受け入れたあとは速やかに忘れて、他の話題に心を奪われていればそれでかまわない。そうやって嫌なことはすぐに忘れて、このくだらぬ現状を肯定していればいいということか。ついでに別に現状がくだらないとは思わなくてもいいとなる。しかしこの世界を肯定するには、どれほど愚かになればそれが可能となるのだろうか。それとも肯定も否定もしない態度が求められているのか。
4月22日
ある書物によるとこの宇宙は非対称性の構造を持っているそうだ。確かに対称性を前提とすればそれは異様に感じられるかもしれない。現状ではどう考えてもプラスとマイナスの合計がゼロにはならない。その合計がいくらかプラスに振れているのだとすれば、そのプラスを打ち消すマイナスの要素がどこかで見落とされているのだろうか。もしかしたらマイナスの要素は、この宇宙から別の宇宙へ流れ込んでいるのかも知れない。どこかに得体の知れぬ未知の宇宙と物質が存在していることになるわけか。そうなるとこの宇宙内では、その存在によってますますプラスが増えてしまうことになるのかも知れない。そんなことがあるわけないかもしれないが、以前どこかでそんなことを聞いたことがある。だがなぜそこでバランスを保とうと考えるのだろう。どこかで何かが一方的に勝ち続けたり、逆に一方的に負け続けたりしているように思われるとき、必ずそんなはずはないと思いたくなる。勝ち続けている裏でも必ずどこかでひずみが生じているはずであり、そんな状態がいつまでも続くはずがなく、いつか必ず歪みが拡大して、それに対する逆転現象が起こると思いたくなる。なぜそう思いたくなるのだろうか。それは勝ち続けている者に対する嫉妬であり、負け続けている者に対する同情なのだろうか。もしそうだとしたらどうだというのか。たぶんある程度はそうなのかも知れない。そしてある程度でない部分でも今はそういうことにしておこう。それはいくらか虚偽の内容でも含んでいるのだろうか。君はそこでどんな嘘をついているつもりなのか。適当な嘘でもついて、その場を和やかな雰囲気に保とうとしているつもりなのか。そうやって嘘をつきながらも真理へと至る突破口でも模索しているつもりなのか。つもりではなく、もしかしたら本気なのだろうか。しかしその思考は少し抽象的な観念に偏っている。それが具体性を得るためには、繰り出す言葉をもう少し現状に合わせたものに近づける必要でもあるだろうか。ところで現状とは何だろうか。今どのような現状を感じているのだろうか。例えばそこに流通しているメディア言語に合わせることが可能だろうか。その文法的な画一性に内容が耐えられるだろうか。耐えられないのならどうすればいいのか。言葉とともにその内容も一新しなければならないのか。なぜ唐突にそう思うのだろう。現時点でそんなことが可能とは到底思えないからか。少なくとも君は嫉妬だとか同情だとかいう情緒的な表現は好まない。
4月21日
世の中は適当に回っているらしい。何が回っているかといえば、とりあえず地球は自転しながら太陽の周りを回り続け、その表面では金や商品が循環している。今日もどこかで誰かが散々な目に遭っているのだろうか。だがそれは当たり前のことなのかも知れない。誰かがひどい仕打ちを受けないと、他の誰かの夢が叶わないのだとしら、社会がそういう仕組みになっているのだとしたら、それはそれで仕方のないことなのか。仕方のないことでは済まない場合もあるようだ。だがそれを是正しようとすることは大きなお世話かもしれない。不幸な出来事からも利益を絞り出さないと、世界経済は回っていかないのだろうか。他人に損害を与えてから、その損害で生じた空白を自らのビジネスチャンスと見なす。そんなことが繰り返されているらしいが、誰が誰に損害を与えているのだろう。ここ数千年間の歴史からわかることは、牧畜民が森の民に損害を与えてきたということらしい。森を切り開いて農地を開墾し、その木材を利用して家を建て、そんなことをやっているうちに、かつて地上を覆っていた大半の森が消失してしまったのだそうだ。今もそれが続いているのだろうか。一部では続いているかも知れないが、それはもう枝葉末節的なことになりつつあるかも知れない。すでに森の大半は消費されてしまったのであって、これ以上木材を使うには、植樹して逆に森を作らなければならない段階に来ている。これからは自然林ではなく人工林から木材を調達する割合が多くなっていくのだろうか。もうすでにそうなっているのだろうか。つまり元々あった環境を破壊し尽くしてから、そこに自らの目的に適ったものを構築してゆく、そこからそんな原理を見いだすことができるだろうか。今盛んに喧伝されている、イラク復興事業とかいう人道支援的な似非慈善事業も、そういったものと何ら変わるところはないのかも知れない。
4月20日
遠くで寺の鐘が鳴っている。目を覚ますと周りは見覚えのある風景だ。どうやらいつものように様々な紆余曲折を経て、またしてもここに戻ってきてしまったようだ。性懲りもなくありきたりのことを述べるなら、ここはどこなのか、ここが天国なのか地獄なのか、そんなことを知りたいわけでもなく、たまにはこの地上のどこかへ行ってみたいと思うこともあるだろう。そう思っているのは誰なのか。誰が何を述べているのだろうか。現実にどこかへ行ってしまっているらしい。それはおかしな表現か。なぜかくだらぬことを述べている途中から、その述べている内容がどうでもよく思われる。何を思うでもなく何かそれとは違うことを思っている。時間とは何か、空間とは何か、誰かがそんなことを考えているかも知れないが、それに対する一応の答えは、それに関する書物の中に示されている。時間とは様々事象が変化している過程であり、空間とはそれが生じている場所である。誰がそんなことを思いついたのだろうか。今も誰かが何かを考えているようだ。だがそれがどうしたというのだろう。それがどうしたわけでもなく、何を考えようとどうなるものでもないと思われる。状況はそれ以上に進展していってしまう。考えたり思ったりしていると置いてきぼりをくってしまうようだ。計画を練っているうちに現実が様変わりしてしまうかも知れない。練りに練った計画はその結果過去を反映した時代遅れの産物と化す。そんなわけで考える人は古い感性に縛られた融通の利かない老人となる。考え続けるだけの人は周りの見えていない痴呆老人なのか。かなりいい加減なことを述べているようだが、それは本当だろうか。そのほとんどは冗談には違いないが、ある部分は当を得ている可能性もあるか。では君は痴呆老人になるために何を考え続けているのだろうか。それは老後の心配なのか。たぶん老後の計画を練っているうちに、現状から飛躍していってしまうのかも知れない。それは見るも無惨な末路を用意しているだけだろう。
4月19日
状況は日増しに悪化の一途を辿っているのだろうか。もしそうだとすれば、結果として負の連鎖になってしまったきっかけは、取るに足らない些細な出来事だったかも知れない。その出来事とは何なのか。君にはわからないだろう。その出来事はここでは起こらなかった。それを構成することができなかったのだ。たぶんその時の状況では不可能だったかも知れない。君は何をやろうとしていたのか忘れてしまった。思い出すのが面倒なので自然とそこから話は逸れていってしまう。話題はすでに別の出来事についての言及に移っていた。だがしばらくすると、そこからも逸れていってしまう。もうそれらの出来事については触れたくない。うんざりするような会話はできることならなかったことにしたい。たぶん君はだまされ続けているのだ。単純なことを述べるなら、悪意ある者たちによって人生を台無しにされている。それでも君はそれをやり続けるのか。それとは何か。それがなんだかわからない。たとえそれを知ってしまったとしても、なんの気休めにもならない。仕掛けが著しく甘いのだ。特にネタばらしの瞬間がつまらない。影でだましているつもりの者こそが真っ先にだまされていなければならない。物事は安易に一件落着してはならない。だます相手の人格を変えてしまうようなだまし方をすべきだ。それも良い方向へ変えてやる必要がある。そしてだまされた者がだました者より徳をするようなだまし方をすべきだ。いじめのようなだまし方では下劣すぎる。だがそれでもだまされた者の惨めな姿を使って笑いを取りたいらしい。たぶんそれが文化なのかも知れない。それでもかまわないのだろうか。それを肯定も否定もしたくはない。君は意識して自らの立場をはっきりさせようとしない。過去からの経験の積み重ねが君を用心深い性格にしているのかも知れない。君は初めからその内容の存在そのものを疑っている。それが今ひとつ本気になれない理由だろうか。いったいそこで何が始動しているのか、ここからそれを知ることができるのだろうか。それを知ってどうするのか。どうするわけもなく、どうすることもできない。君はここで果てしなく停滞している。それが目下のところわかっている現状のようだ。
4月18日
誰かが車の中でくだらぬだじゃれを連発して、周囲からひんしゅくを買っている。冷静になってその風景を眺めてみると、計画的な言葉の散布に失敗している。一方的な独り言の押しつけは感情の激高を招くようだ。それがあったのはいつのことなのか。いつのことでもなく、事件自体が架空の話かも知れない。うわさ話には尾ひれがついているのだろう。上り下りを繰り返しているうちに斜面が急になる。誰が山登りをしているわけでもないが、山頂では西風が南風に変わる。まだ雪崩の季節なのかも知れない。ふもとの鬱蒼とした森の中は昼でも暗い。有名なブナの森が東北地方にあるらしい。だがそこへ行ってみたいわけもなく、ただなんとなくそんなことを述べているだけのようだ。マンネリから抜け出すためにも、記憶回路をもう少し高性能にしておかなければならないだろうか。どのような鍛錬によってそれを実現できるだろう。意識の中では、今まで見過ごされていた盲点を突いて、あらぬ出来事が構成されつつある。何かがそこで言い直される。そんな瞬間に誰が立ち会っているのだろう。でっち上げられた真実が本当の真実になるとき、誰がそれを真実と見なすのか。そこでおかしなことを述べているのは誰だろう。なぜ誰かが述べる必要があるのか。そうしているうちにも誰かのまなざしは意味もなく遠くを眺めている。しばらくの間何もやらずに座っている。ふと板の間に絨毯を敷き詰めるのはやめにしようと思う。またもや言葉の構成に破綻を来しているようだ。意識はいつの間にかどこかへ飛んでいってしまったらしい。たぶん意識には嘘の羽が生えているのだろう。意識の中でランダムに記憶を配置してみると、それらの離散系の中では相互の関連が何もないことに気づく。それに沿って言葉を連ねてみても、意味に到達することはできないだろう。もし強引にそれを意味が通るように結びつけようとするなら、そこには何らかの嘘を介在させなければならないだろうか。それが各種のメディアを通して流される物語となっているのか。その無関係の出来事を強引に結びつける手法によって、この人間社会が形成されているのだとしたら、それに対して君は何を語りかけなければならないのか。
4月17日
唐突にどこかの誰かが嘘をつく。昨日のことは何も覚えていない。君が覚えていないのは昨日の出来事ではなく、明日の天気かも知れない。明日の天気なら天気予報でやっている。君が今考えているのは明日のことではなく、昨日の出来事についてだろう。君は虚無の中から何を利用しているのだろうか。できることなら利用不可能なものを利用してみたいが、それがなんだかわからない。たぶんそれは嘘だろう。わからないのなら利用不可能かも知れないが、強引になんだかわからないものを利用してみよう。そんなことを考えているうちにろれつが回らなくなる。ろれつが回らないのは電話で決まり切ったことを話す時だ。君は今日も語るべき対象が見つからないらしい。途中で何らかのごまかしが介在しているのかも知れない。さっきからカノンとフーガが頭の中でぐるぐる回っている。その渦の中から何を取り出せるだろうか。要するに君はバッハを聴いているだけかも知れない。いい加減に夢を見るのにも飽きが来たのか。夢の話には具体性を見いだせない。今まで本気でそれを考えてきたわけではない。それは苦し紛れに抱いたくだらぬ夢だったかも知れない。誰もそれについてはまともに取り合おうとしなかった。そのエピソードは何のことはない、宝探しのヴァリエーションのひとつなのか。宝探しは二人でやらなければならないそうだ。三人で行けば必ず一人は死ぬ運命なのか。その話をどこで聞いたのか。そんな話などいくらでも転がっている。君はその話をどうやってふくらますつもりなのか。話を適当に膨張させて長編小説でも書き上げるつもりか。だが今の君にはできないだろう。他の仕事で手一杯の君に、はたしてそれをやる時間が残されているだろうか。たぶん君は嘘をついている。君が利用しているのはそんなちゃちな話ではないはずだ。君が利用しているのは君には利用できないものだ。それが利用できないことを知っていながら、利用している振りを装っている。
4月16日
彼らは決定的な断言を回避しようとしている。なぜそこで黙っているのか。そこで沈黙しているのは君ではない。いつも出だしは唐突に感じられる。ここでの主題とは何だろう。何が仕組まれているわけでもない。沈黙に耐えきれずに誰かが意味不明なことを語り出す。意味の通ることを語るわけにはいかないらしい。どうも君は我慢が足りないらしい。黙っていても息苦しいので、試しに何か適当な言葉を連ねてみる。そうしているうちにも、無駄に時間ばかりが経ってしまう。だから沈黙の重みに逆らって何か言葉を発しなければならなくなる。そして何か適当な断言に遭遇する。人は意味もなく叫ぶものだ。それは時と場所にもよるだろう。人はその場の状況に叫ばされているのかも知れない。崖の上から誰かが叫んでいる。今から飛び降りるそうだ。気休めの風景には影がないが、逆光を避けて写した写真には面白味がない。要するにどこかの誰かが墜落したいようだ。今度はビルの屋上から誰かが叫んでいる。今から飛び降りるそうだ。そんなわざとらしい叫びとは無関係な日常の記憶が脳裡をかすめる。音響装置に囲まれた部屋の中から叫び声が聞こえてくる。今から演歌を歌うそうだ。ラジオのリクエスト番組からその演歌が流れてくる。誰がそれを聞いているわけでもない。各駅停車の車内で車掌がアナウンスしている。次の駅名とそこからの乗り継ぎの案内を淡々としゃべっている。誰がそれを聞いているわけでもない。そんなはずはなく、そこに居合わせた誰もが聞いているはずだ。その電車から少し離れた道を歩いている者には聞こえない。だがなぜ道を歩いている者が叫ばなければならないのか。いや、そんなはずはない。通りかかった電車の中で奇声を発しながら暴れている者を目撃したからか。有線放送から流れてくるくたびれた演歌を聴きながら、造りの悪い椅子に腰掛けながら、たぶん何もしていない。誰かが階段の上から叫んでいる。今から飛び降りるそうだ。たぶんそこから飛び降りる勇気などありはしないだろう。君はそれ以上を望んでいるらしい。
4月15日
いったい彼はそこで何を語っているのだろう。君は一日の終わりに何を思う。昨日の夜は今日の昼と夕方に構成されている。迷宮の中で秘密の扉を探り当てたつもりになっている。作り話の中でそんなこともあったかも知れない。ところで誰がそれを見つけたのか。彼と君は誰なのか。それを見つけたからどうだというのか。それは何かのきっかけになるかも知れない。だがどんなきっかけを形作っているのだろう。きっかけではなく、それは何かの説明かも知れない。そこで交わされた話の内容を説明したいらしい。わざと間違えて、勘違いしているつもりのようだ。誰の話を信じていいのか迷っているのは誰だろう。遠くから響いてくるのはかすかな歌声なのか。それは歌声などではなく、背景放射の雑音かも知れない。その雑音の中に神の声が紛れ込んでいる。たぶんそれは気のせいだろう。神が守っているのは誰なのか。守っているのではなく、神は誰かに守られているのかもしれない。守られているのは神ではなく神殿や像だろう。では神は誰の記憶の中に息づいているのだろうか。息づいているのではなく、情報としてハードディスクに書き込まれているのかも知れない。神の声はどこから聞こえてくるのか。聖書や教典を精読すれば聞こえてくるだろうか。しかしそれは神の肉声ではなく、人によって書かれた言葉にすぎない。では直接声が聞こえてくることはないのだろうか。もしかしたら短波ラジオから神の声が聞こえてきたりするかも知れない。物置の中でほこりをかぶっている短波ラジオは何を物語っているのか。廃れてしまったメディアの末路でも物語っているのだろうか。なぜ活用しないのだろう。それは過去の記憶にこだわっている暇がないからか。時と場合によってはこだわっているときもある。だが話の内容が理解できない。ここで神と短波ラジオの等価性について説明しているわけでもないだろう。
4月14日
さっき何か思いついたようだが、それはすぐに意識の外へ去ってしまう。そのあとに残ったのはいつもの空虚だけだろうか。空虚だけでは張り合いがないので、その代わりに何か適当な作り話を語らなければならないだろうか。適当なことはいい加減なことだろうか。別にいい加減というわけでもないが、他に何もないのでその内容を披露してみよう。面倒なのでビデオテープの中で死人がしゃべり出す。何が面倒なのか知らないが、まんざら死人に口なしでもないらしい。どこか遠くへ行きたい死人が近くまで来ている。死人がどこから来たのか誰も知らない。背広の内ポケットから出てきた財布を開いてみると、得体の知れない名刺が何枚か出てくる。得体の知れない死体は他に所持品がないのだろうか。例えばその右手に握りしめていた絵はがきの中の風景は、どこか見覚えのある場所を思い出させる。その懐かしい風景は誰の記憶が作り出したものだろうか。それは庭師の剪定作業が、カレンダーに見受けられるような伝統的な景観を作り出すのとどう違うのか。なぜ唐突にそんなことを述べるのか。君は安易にそれ風の郷愁には染まりたくないと思う。間に合わせの言葉には魅力を感じない。風景の中で何かを見失っているようだ。たぶん見失っているのは返答を要するような言葉ではなく、どこかへ突き抜けていってしまった言葉の影の部分かも知れない。そこから何かを導き出さなければならない。実体のない何かを示さねばならぬ。場所のない位置へと移動していく過程で抜け落ちてしまう何かを。だがこの先何が抜けようと、そんなことでは誰も驚かない。頻繁に冷や汗をかくような状況は漫画の中でしかあり得ない。わざとらしく取り乱しているのも漫画の中でうごめいている登場人物たちだ。何に驚いたら君は納得するのか。そんなことで納得などしたくはない。くだらぬ思いつきを繰り出している間に、それなりに意味の通る言葉を差し挟むべきなのか。そんなことやっても人を驚かせるような内容になるはずもない。今はそんなことをやる必要すら感じないのだから、それはそれでいいのかもしれない。
4月13日
制度はいったん定着すればすぐに形骸化するものなのか。もし形骸化しているように思えたら、それは制度が円滑に機能している証拠かも知れない。個人ではその制度をどうすることもできないと感じられるようになったら、もうその制度は盤石の状態になったといえるだろうか。制度はその賞味期限が切れてから人々を拘束し囲い込む。もちろんそれは、人によって感じる微妙な温度差を無視しているかも知れない。だがいったい何がそう思わせるのだろうか。不思議な状態は不思議なままでは終わらない。誰にとってもそれらの制度は、うんざりするような状況を体験させる。だがそれが制度によってもたらされた安定なのだとしたらどうだろう。それは制度を作った当初の目的が達成されたことを意味しているのかも知れない。制度は人々の思考や行動に制限を加え、人々を一定の方向に導くために動作する。当然その方向が気に入らない人々は反発し、制度に異議を唱え違反する。それが犯罪者が誕生する瞬間なのか。制度はそうした犯罪者を生み出すと同時にそれを取り締まることで、制度の存在と正当性に説得力を持たせる。その一方で、制度に従って生活している人たちに安定という恩恵をもたらす。そんな風に思い込む人々が多いほど、その制度は盤石になる。その制度の下に、同じ価値観を抱いて生きてゆけば、それなりの豊かな暮らしが約束されるだろうか。そんな幻想を信じる人が多ければ多いほど、その制度は盤石になるだろう。だがそれが退屈に思われるのはどうしてなのか。生活が安定しているだけでは不満なのか。画面上でスリルやサスペンスを疑似体験するだけでは物足りないか。ではいったい現実の生活に何を求めたいのか。すべてだ!そんなことは不可能かも知れないが、すべてを求めたい。君にはそれは何かの冗談だと思われる。制度は制度として機能していてもかまわない。だがそれと同時に制度に囚われない水準での多様性を感受していたい。求めているのは何らかの救いとは性質が異なり、知覚を超えて継続する言葉の連なりとなるだろうか。もしそうであったとしても、どうなるものでもないだろう。
4月12日
意識は今どこにあるのだろう。君はまた途中で道草の最中らしい。そんなことをしているうちに上空の雲は流れ、日が西へ傾いてくる。君がそこからどこへ行くかは天気まかせになるだろうか。こちら側の世界では雨と晴れが交互に繰り返される季節に入っている。あちらでの作業はどこまで進んでいるのだろうか。語り継がれる話には相変わらず中身がない。成功も破滅もないただの日常に覆われている。物語の中の彼は、そこからどこへも移動せずに、来る日も来る日もテレビを見る毎日のようだ。そんな意味のない日々を送っている。今日も画面の中の風景を眺めているうちに、たちまち時間が過ぎ去ってゆく。怠惰を助長するためにテレビはある。そんな暮らしの中で、彼はしだいに考えることを放棄しつつある。今の彼には、知識を身につけるために苦労を重ねた昔ことなどほとんど思い出せないだろう。その知識を生かせないことを悟った彼は嫌悪感に苛まれ、今やすっかり厭世観に染まっている。そして、この世界からの逃避願望がテレビ画面に定着されていることを知ってからというもの、彼はひたすらテレビを見続ける日々を送っている。退屈な暮らしを強いられている自らの境遇を紛らわすために、彼は自然とテレビを見てしまう。そこから逃げ出したいのに、画面から放射される麻酔光線を浴びているので逃げ出せない。それで仕方なくテレビであちら側の世界を見させられる。こちら側からは何の手出しもできないあちら側の世界を嫌というほど見せつけられる。この世界の人々はそうやって画面の前に釘付けにされているのか。もし画面の向こう側が夢の世界なら、それを見ているこちら側はまるで悪夢の世界だ。そんなわけでテレビの前から離れようにも離れられない。テレビを見ることでどれほど時間を浪費しているだろうか。作業を怠けている元凶のすべてはテレビにあるわけか。何でもかんでもテレビに責任を転嫁するのは虫がよすぎる。できることならそうは思いたくないが、彼はくだらぬ言い訳を述べながら無駄な時間を送っているらしい。怠けている理由をテレビに押しつけている。そんなに嫌ならテレビなど見なければいいのか。だがそれができれば苦労はしないだろう。
4月11日
それをどう語っていいのかわからない。それがなんなのかよくわからない。君はわけのわからぬことを必死になって語ろうとしているようだが、その言葉遣いは何に影響を受けているのか。ここで問題となっているのは言葉遣いではなく、そのわけのわからぬもの自体の内容だ。君にはそれが語りようのないことだと思われる。だから内容ではなく語り口に逸れてしまうのかもしれないが、とりあえずその語り口は、何か特定の影響を受けているわけではなく、様々な紆余曲折を経て結果としてそうなっているにすぎない。だがそうやって何を語ろうと、別に驚くほどの内容ではない。それほどのことではないはずだ。誰にもできないことをやっているわけでもないだろう。大げさなことをやっているわけではない。別に不可能に挑戦しているわけでもない。まったく異なる状況で生じた二種類の要素を組み合わせて、何か利いた風なことを述べている、そんな風に述べておけばなんとなく理解できたような気がするだろうか。しかしなぜそれが二種類の要素と思われるのか。二種類ではなく三種類以上になると何か不都合なことでもあるのだろうか。例えばニュートン力学では三つ以上の物体に関する力の運動方程式を計算することは不可能だそうだ。だがそんな難しい内容をここで扱うことはできない。とりあえず今わかっていることは、もういい加減君の繰り出す屁理屈にも飽きてきたということだろうか。ここはもっと簡単なことで妥協したくなる。ところで君の本性とは何だろう。蛇の本性は蛇でしかない。蛇は筋の通った理屈には魅力を感じない。外は季節を感じさせる気温になり、そろそろ部屋の中の暖房とも別れの時が近づいている。ようするになんとなく思いついたことを羅列しているだけか。確かにそれは簡単なことのように思われるが、どうもそれだけでは物足りないと感じられる。
4月10日
三日前の出だしから躓いているかも知れない。些細なことに気を配りつつ、大きな過ちには気がつかない。そんなことは分かり切っていることかも知れない。何が過ちなのかわからない。何かが弛んでいるようだ。弛んでいるのではなく、歪んでいるのか。彼には弛みと歪みが複合的に生じているらしいが、そんなことは大した痛手にはならない。表層の亀裂は浅く、深層までは届かない。地表面で続いている争いごとにもしだいに飽きてくる。彼らの正しさは言葉遊びの範囲内に生じている幻想なのか。状況から来る特有の事情を無視すれば、誰もが正しいことを述べられるだろう。しかしそこに至った経緯を考慮するならば、その過ちにもそれなりの必然を見いだせるだろうか。だが彼らの過ちを断罪する術はない。深層にうごめいている意味はどのようにも解釈され、どんな理由にも適合させることができる。今感じているのはそんなところか。それでは納得できないか。それは当たり前のことでしかないのだろうか。それらのフィクションに必然性や説得力を求めるのは無理なのか。君がそう感じていないだけで、場合によってはそれで納得してしまう人もいるかもしれない。メディアにとっては対決や競争以外の出来事は魅力に欠けるようだ。そんなことは巷にあふれかえっている少年漫画誌を読めば誰にでもわかることか。そこで描き出される人格は攻撃的な感情に支配されている。というか、対決せざるを得ない形式の中に人物が配置されているので、その人物たちはそのような内容に沿った人格を付与されている。なぜそんな内容ばかりが横行しているのかといえば、読者がそれを求めているからである。読者にアンケートして人気投票を行えばそうなってしまうのだから仕方がない。気休めの娯楽としては、対立という単純明快な形式が求められるのは当然のことか。読者の爬虫類的な攻撃本能を満たすことで、それらの漫画誌やそれを元としたアニメーションは人気を博しているのかも知れない。
4月9日
どんなに努力しようと繰り出される言葉は意味を失っている。風景を見失い、でたらめなことを思い、その行動も思考もちぐはぐは印象をぬぐえない。だがそうしているうちにも時間は経過し、すでに無意識の作業は再開されているらしい。何もないのに精神を集中させて何をするつもりか。互いに無関係な言葉を組み合わせるが、結果として示されるそれらの独白には、まったく必然性を見いだせない。思っていることは実現不可能な妄想ばかりかもしれない。それを実行するつもりはないので、それでもかまわないのだろう。やっていることと思っていることの落差を思うとめまいがしてくる。それでも自らの考えが宙に浮いているとは思えない。意味不明な言葉を弄することに汲々としていて、それで難局を切り抜けようとしているらしいが、それは単なる見せかけの演技にすぎないのだろうか。しかしそんなことができるはずもないか。できるはずもないが、やっているつもりのようだ。不可能という言葉を受け入れながらも、それを信じようとしていない。だがそれで日常の繰り返しから抜け出られると思っているのか。そんなことは思わないし、何か気の利いた妙案を思いついているわけでもない。しかしそれとは違うことを思っている。だからといって息が詰まるような毎日でもないだろう。それはいくらでもやり過ごせる毎日なのだ。とりあえず仕上げは明日の夜に持ち越される気配が漂っているが、たぶん明日の夜になっても仕上がらないだろう。何かに邪魔されて、たびたびの中断にはうんざりさせられる。それは自業自得かもしれず、その先へ続けられる要素が見つからないのだから仕方ないだろう。意識は自然と眠くなり、静けさのただ中へと沈み込み、何もすることが見つからなくなる。そんなどうしようもできない退屈さを背負い込んでいるようだ。だがそれでもいつかはそこから抜け出せることを信じている。
4月8日
ちょうどいい潮時を逃してしまい、もういい加減に済ませたいところだが、性懲りもなく無意識がどこかから舞い戻ってくる。余白に残っている空白を執拗に連続させようとしている。何もない空虚な心は空気の色を表しているのかもしれないが、人の目には無色透明にしか見えないだろう。人の周りには酸素と窒素が取り巻いている。そこから意識を飛躍させようとは思わない。何が飛躍していると思われるのか。思考が現実から離れて虚空へと舞い上がっている。どう表現すれば納得がいくだろうか。ところでそれは誰の思考なのか。あまりいい加減なことを述べていると、居心地の悪さに耐えかねて、苦悩の果てに旅立ってしまうかもしれない。しかし行方知れずの人のことを思う気持ちには隙が生じている。不安に駆られて簡単にだまされる。逃げ出したいのは山々だが、そうも行かない事情があるらしい。それはどうでもいい事情に思える。ただ悔しいと思う感情だけでそこへ留まっていることになるだろうか。明け方に思うことは昨日思っていたことよりもさらにくだらなくなる。昨日から今日へと受け継がれた意志は、賞味期限が切れて腐ってしまったのか。そんなわけのわからぬ言い回しには飽きている。腐っているのは生ゴミだろう。そこで意味もなく饒舌にはなれないが、いつもそんなことを思っているわけではない。何も思いつかぬままに、ただ時計の針が回っている。それが無為に時を過ごしていることを示している。いったい誰に向かって示しているのだろうか。誰もいない部屋に意味のないことが示される。確かにそうだとするとそれは意味のないことか。たぶんそうなのかもしれないが、そこから簡単に脱出できるとは思わない。誰もいない部屋から誰が脱出できるのか。そこで誰が何を思っているわけでもない。たぶん偶然に左右された言葉の羅列ではどこへも行き着かないだろう。気持ちは散漫なまま、公園の桜も散る。君はひたすら雨を待ち続けているが、雨が降ったら腫れを待ち続けるだろうか。春の天候は変わりやすいようだ。
4月7日
何事も一段落がついてみると、自らの立場や主張を微妙に軌道修正せねばならぬ人々が出てくるようだ。とりあえずの終わりが近づいているのにあわせて、その状況に即した言説を構築しようと利いた風な言葉をこねくり回している。その筋の情報によると、確かに状況は収束局面ということらしいが、終わってみればどうも収まりのつかない人ばかりように見受けられる。しかし翌日にはもうそれらしいことを述べているニュースキャスター氏に出くわす。その変わり身の早さには唖然とさせられるが、はたしてそれでいいのだろうか。それらの結末には何が足りなかったのか。やる前には準備万端整っていたと思われるが、いくら万全の備えがあっても何事も順風満帆というわけにはいかないようだ。たまには思いがけない事態に遭遇することもあるらしい。必ずしも思い通りに事が運んでいるわけではなさそうだ。それが焦りの表情を形作っていて、それによって過ちを犯した事実が判明してしまう。もちろんそれは仕方のないことかもしれない。人はその内部に誤作動を繰り返す機構を抱えている。過ちを犯すのはやっかいなことだが、それがないと人は人ではなくなってしまうだろう。過ちは過ちと認めなければその先へは進めないだろう。それが過ちだったといつの日か気づくことができるだろうか。弛まぬ努力もいずれそれが無為な営みだったことを知る機会が訪れる。すべては偶然の作用だと割り切ることはできないが、たとえそうであったとしても何事も必然に至るようにすべく、日々精進しなければならない宿命なのかもしれない。たとえそれが徒労と挫折に囲まれた状況であっても仕方のないことなのか。しかしそれがたとえではなく現実であったとしたらどうなのだろう。いったい誰がその現実の中に生きているのだろう。君はそれを認めたくないようだ。ありふれた意味の中に埋もれたくない。特定の価値や基準に縛られた生活を拒否している。それが無駄な悪あがきであることを否認しているつもりなのか。
4月6日
最近は言葉と言葉をつなげて意味を構成することに疲れているのかもしれない。あるいは飽きているだろか。適当な技巧を弄することで何に打ち勝とうとしているのかわからない。見ず知らずの人には何も感じないかもしれないが、通りすがりの意見にはっとさせることもある。通行人の死角から誰かのまなざしが何かを見ているようだ。それらは眩しいばかりの光を求めている。昼の意識はひたすら明晰さに近づきたいようだ。それとは対照的に夜に意識は淀んだ不透明感を醸し出す。それらの意識を混ぜ合わせて何を嗜好しているのか。混沌のただ中に鋭利な切っ先を突きつける。今の君にそんなことが可能だろうか。雰囲気だけならそれらしい言葉で装飾できるだろう。しかし現実に何することもできはしない。はたしてそれらを使って何をしたいのか、それさえもわかっていないのかもしれない。夜に昼の光景を思い浮かべていると、夜の闇は何らかの視界を見いだす。夜行性の動物にとってはそうかもしれない。それらは暗闇の中でどんな種類の光を感知しているのだろうか。月光に照らされて辺り一面の景色が青白く浮かび上がる。だが夜の意識はそんな風景を眺めているわけではない。それを眺めているのは映像の中で動き回る影かもしれない。とりあえず眠気に打ち勝つことができないようで、やり残したことをそのままにして、夜の意識は闇の世界へと誘われる。だがそこから影は歩み出さねばならないようだ。君は夢の中でも無駄な言葉を弄する羽目に陥っているらしい。それが無駄だとは思いたくないようだが、君にはどうしようもなく無駄に思えてくる。彼らの言い訳はいつも見苦しい。自分たちの惨めな敗北をどうしても認めたくないということだろうが、この期に及んでまだ勝利する可能性を模索しているのかもしれない。しかし彼らにとって勝利とは何だろう。勝利することに何の意味があるのだろうか。自分たちの手中にはないものを、どうやって言葉で表現するつもりなのか。そうすることがなぜ勝利につながると思われるのか。やはりそれが幻想にすぎないことをわかっていながら、なおも認めようとしない態度を強引に保持しているだけなのか。
4月5日
惰性にまかせて言葉を連ねるが、それもそろそろ限界に近づいているかもしれない。ありふれた知識では空虚な気分を繰り返せないのか。上の空の意識は画面を見ながら内容のないことを思う。風の強い日の記憶が雨の降る夜によみがえる。それから彼はどうしたのか。物語の中である人物を演じている俳優は典型的な誇大妄想に苛まれていた。彼の野望は劇場のシステムを乗り越えようとしている。凍りついた頭で何を画策しても、つまらない結果を招くだけだが、遙か向こうに見える大地では沈む夕日に向かって雲が流れてゆく。見ず知らずの誰かがわざとらしい台詞をつぶやく。昔の夕焼けはもっと赤く染まっていたかもしれない。まだ後悔するには時間が有り余っているか。だが奇蹟が起こるのはいつも漫画の中だ。奇術師の芸も見慣れてしまえばそれほど驚かない。鳥が空を飛んでいるのは当たり前のことか。結論はそこでの議論とは無関係に始めから決まっている。だがそんな結論とは無関係に、果てしなく会議は続いてゆくだろう。誰かがそこで妥協することはあり得ない。いくら話し合いを重ねても、納得するような心境にはとうてい至らないだろう。誰もがそうならないことを承知している。互いの利害が一致しない限り決して歩み寄ろうとはしない。それは意見が対立していることを自分たちの仲間に見せるために利用する、一種の言い訳の場なのかもしれない。自分たちは精一杯努力しているが、相手がなかなか折れてくれない、そんな状況を見せつけたいわけだ。しかしそんなことは話し合う前から分かり切っていたことだった。そうなることを承知で話し合いに臨んでいた。話し合ってもどうにもならないことをわからせるためにそうしたのかもしれない。要するに結論とはそういうことだったのだ。はたしてそれでよかったのか、良いか悪いかは立場の違いによって異なるだろう。状況は良いか悪いかの判断を越えて今も転がり続けている。
4月4日
緊張が持続しないのは弛んでいる証拠だろうか。何かもっともらしい理由を探してみるが、彼はそこからさらに遠くまで歩んでいく気にはなれないらしい。そこで退屈に押しつぶされてしまったのか。安易な散歩は取り返しのつかない災難でも呼び込めるだろうか。世の中はそんなに甘くないという返答が返ってきそうだ。病み上がりの意識はどこまでも不透明かもしれない。軽い眠りから覚め、眠気覚ましに何をすればいいか考えてみる。今の君にはゆとりがないと思う。いつも焦って詰めを誤る。昔の君は古本屋で何を見ていたのだろう。どこかの地方の地図を見ていると、そこには大地の溝に沿って川が流れているらしい。そこで誰かがありふれたものを見つける。木の切り株に刻まれた年輪は北の方角を教えてくれるが、別に北を目指して歩んでいるわけではないだろう。退屈な日常の風景から垣間見えるのは、忙しさを言い訳にしてやるべきことを怠っている自身の姿かもしれない。すべてに優先させて今やるべきこととは何だろう。少なくともそれは北を目指して歩くことではないはずだ。それはもうすでに今やっていることの中にはないのだろうか。では何をやっているといえるのか。それは全知全霊を傾けてやっていることではないのだろうか。ところでそこで誰が何をやっているのだろうか。いつの間にかやるべきことは闇に葬り去られ、やりたくもないことを意志に逆らってやっているのかもしれない。だがそれでもかまわないと思う。うんざりしながらも君にはそうやって生きていくことしかできない。選択肢は他には存在し得ないだろう。それは君自身が招いた宿命なのであり、それ以外の可能性を自らうち捨ててここまでやってきた。君は君自身を犠牲にして、そのような人格と能力を獲得したはずだ。そうやってそれ以上でも以下でもない等身大の君が存在しているわけだ。画面では善玉の刑事が単身で悪の組織に立ち向かう。そんなありふれたドラマを眺めることが、今の君に可能な選択肢の一つなのか。いったいそれ以上の何を求めることができるだろう。もういい加減くだらぬ戯れ事はやめにして、今こそ現実の世界に立ち戻らなければならないのか。しかしここは紛れもなく現実の世界なのだ。この世界では日常がテレビ画面に吸い取られつつあるようだ。その登場人物たちは戦争をやっている国を人道主義的見地から非難しつつも、一方ではその国で行われているプロスポーツに参加している自国の選手の活躍に目を輝かせている。夢見る人々の限界はそんなところに垣間見える。
4月3日
そんな状況で今さら何を語ろうと言葉遊びにしかならないような気がする。昨日の内容は戯れ事から生まれた結果のように感じられるが、それは単なる敗北宣言なのだろうか。ここでは誰が何に敗れたわけでもないが、敗れつつある者たちは他の場所にいるらしい。わかりやすいことを述べるのには骨が折れる。転がる石も笑うことはあるだろう。転がりすぎて崖から落ちて割れてしまう。言葉が通じないのはそれが暗号だからか。苦労してやっと通じたと思ったら、話している間中相手が眠っていたことに気づく。君はわざと無視しているつもりかもしれないが、無視し続けることで貴重な時間を浪費してしまうだろう。たぶん忘却の彼方で自分の方が無視されていたことに気づくだろう。そうやって墓穴を掘ることばかりに時間をとられ、肝心の作業がおろそかになる。大切なものを見失っているのにもかかわらず、画面の向こうの他人には、自らが見失っているものを大切にせよと訴えかけるばかりだ。そうした欺瞞だらけの者たちに今さら何を求めても無駄か。しかし誰がいつ彼らに良心を求めたのだろうか。ところで良心とは何か。誰がそれを良心だと判断するのだろう。自分の行いを自らの良心に基づいていると思うことは欺瞞か。それの何が欺瞞なのか知らないが、時には自らに嘘をついて自らの行いを正当化したくなることもあるだろう。そうやって君は懸命に言い訳を繰り出しているようだ。それが無駄なことだとわかってはいても、それ以外にはやりようがないのでそうせざるを得ない。しかし作り話の中でしか解決できない話に、どのようなリアリティが宿るのか。後退戦を強いられるばかりのマスメディアを良心的だと感じている人々はおめでたい。日々見たくもない光景を見せられてうんざりしつつも、いつか良識が勝利することを願っている人々は何もできない。何もできない代わりに、利いた風な言葉を弄するばかりなのか。しかし彼らは誰と戦っているのだろうか。
4月2日
登山者はそこに山があるから登るのだろうか。だが君はまだ愚かさの極みには到達していないと思っている。まだ頂上にたどり着くにはかなりの時間を要するのかもしれない。とりあえず君たちはスポーツを見て憂さを晴らしていればいい。忘れ去られた戯曲の作者はそれでは不満らしいが、それがすべてではないことは誰もが承知している。たとえお涙ちょうだいだと蔑まれようと、要は売れて話題になり、作者が富と名声を手にすればいいということらしい。すぐに忘れ去られても、そんな時代もあったと後から懐かしがられるだけでも幸せなのか。それを顕揚し、誇張された讃辞で送葬したい人々はいつの時代でも存在するということか。浅はかな言葉が画面の中で飛び交い、紙面を賑わし、それでも溜め息なしで済ますことは可能なのだろうか。過去の感傷に浸りながら、ただ単純に感情的な映像と言葉のただ中で眠気を催す。彼らは自分達が画面の向こうで囚われの身となっていることに気づいているようだ。殴り合いや蹴り合いが興行として注目を浴びる時間帯もあるようだが、そこで誰が勝っても負けても、それを見ている者はあまり感動できない。遙か彼方の乾燥地帯では迷彩服を着た蟻の大群が移動を繰り返す。彼らが時折繰り出す詭弁も事後確認的な説得力を伴えば、君にもそれなりに楽しめるだろうか。眠り疲れて気がつけば、風はとうにやんで雨が降っていた。あの世への旅立ちはまだ先になるらしい。そのがらくたのような頭脳は何の役に立っているのか。風向きを計算に入れて、おかしな台詞を漂わすことに執着しているだけなのか。無意識に行っている作業には責任を持てないということか。乾いた風を真正面から受けながら闇の彼方へそれを放り投げる。風船はどこかで破裂するかもしれないが、シャボン玉ではそこまで届かないだろう。実弾なら貫通してしまうかもしれない。風にたなびいているのは、ぼろ切れのようになったどこかの国の国旗に見える。彼が話すいつもの変奏はどこか哀しげに響いている。つながりを見いだせないのはいつものことか。人々の行動する原理に良心を求めるのはどこかの教会の司祭のようだ。それは神の意志とは食い違っているらしい。神は生贄の供物を求めていると昔の司祭は語っていた。愚かな人間たちの願いを叶えるためにはそれが必要だ。だから今も神は必要とされるのだろうか。
4月1日
迷いが尽きることはない。いつもの逡巡もいつものように一回りしたので、またはじめからやり直さなければならないようだ。それは何らかの試練といえるのだろうか。影によると今は試練の時ではないそうだ。誰も好き好んで試練など望まないだろう。それらの試みは試練ではなく、日常の作業をただ繰り返しているだけかもしれない。しかし影とは何者なのか。どこからともなく微風が吹き込んできて、そのついでに誰かが答える。影は影でしかない。影には実体がない。実体が光を遮った時に影が生じる。それは日陰のことか。微風はいつの間にか消えていた。彼方から忍び寄る不安の影は文学的な幻影にすぎない。そこで気流を巻き起こしているのは気圧の変化だ。だがそれを感じ取ることにどれほどの意味があるのか。影はこの世界において何を感じているのだろうか。どのような信念に基づいてそんなことを語るのか。何を持って影に信念があると判断されるのか。信念は誰に宿っているのだろう。それは不屈の魂とかいう毎度おなじみのハードボイルド的な幻影なのか。なぜそれが毎度おなじみなのだろう。今や完全に忘れ去られた感のあるハードボイルド的な表現が毎度おなじみであるはずがない。影にそんなことを問うのはナンセンスか。そんな複雑なことは理解できない。何が複雑なのかもわからない。とりあえず雨上がりの朝に空を見上げているのは影ではなく、毎度おなじみのどこかの誰かだろう。ついでにそこで迷っているのも、その誰かなのか。試しに踏み込んだ迷路で迷った振りをするのは、それが試練であるかのように装うための演技なのか。その偽りの行動はどんな罠を呼び込むのだろう。晴れた日に雨が降ったことに驚き、雨の日に日傘を差すことが、曇り空を呪っていることになるだろうか。屋根を叩く雨音に苛立っているのも影ではなく、毎度おなじみのどこかの誰かなのか。その人物を特定する必要はないのか。ありふれた人々がありふれた作業を繰り返すことで日常の風景が形成され、その風景の中にどこかの誰かがいるということか。
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