彼の声34

2003年

1月31日

 夕暮れ時に空虚な思いに囚われる。空白の時間の中で何を思い浮かべているのだろう。よくある光景とはどのようなものになるだろうか。例えば若者が集団で夜の公園を歩き回す。むしゃくしゃして腹立たしい思いに囚われているらしい。憂さ晴らしにぶちのめすための浮浪者でも探しているのか。それはその手の報道に毒された意識から導き出された光景になるだろうか。空想の産物なら何を述べてもかまわないのか。たぶんそのとき君は何となく冗談を述べているつもりなのだろう。何を述べてもかまわないわけはない。では何かしら役に立つことを述べなければならないか。妄想ならいくらでも繰り出せるだろうか。八方ふさがりの状況で、君は更なる飛躍を期待されている。短期間で驚くような進化を遂げなければならない。現状では困難な要請だと思われるが、不可能に挑戦するのが冒険の本質だろう。誰が冒険しなければならないのか。ただ文字を連ねるだけのことでどんなどんな冒険が可能だというのか。君は何もない闇の中で現実を見失っているが、見失っているものは他にもあるらしい。例えばそれは冷静さかもしれない。我を忘れるのはよくある話か。我を忘れて彼になり、彼も忘れて君になる。それもある意味では飛躍かもしれない。ようするに我から彼を経て君に進化したということか。ではそこからさらに進化するためには誰になればいいのだろう。来るべき人物とはやはり誰でもない誰かになるしかないのだろうか。君が誰になろうと、それで何が進化したというのか。ただ意表をついた語り方かもしれない。それ以外には何の感慨もないが、それでも少しは気晴らしになっているのだろうか。浮浪者狩りをするのよりは気が利いているかもしれない。しかし比較する対象にまったく必然性が感じられない。必然性がないのは君の使用も同じことか。たぶんわざと何かをずらしているのだろう。ねじれの位置に文章を構成したいのかもしれない。今までに体験してきた現実は、いつも言葉と意味が交わらずに、それを直接表現することの不可能性とともに、その両者の間に存在していたように感じられる。今はそんな思いに囚われている。


1月30日

 物置の隅に古いレコードプレーヤーを見つけた。古いアナログレコードの溝からつまらない台詞が再生される。孤独な午後は人気のない交差点で終わりを告げるそうだ。辻で辻斬りに出会ったりするだろうか。その手の時代劇の中ではよくある光景かもしれない。江戸村がどこかの山奥にあるらしいが、暇をもてあました旗本のどら息子がそんな役に収まるだろうか。無人の部屋でテレビがつけっぱなしだ。隣の寝室からはさっきから目覚まし時計が鳴り続けている。壁に掛けられた鏡に映っている誰かが、向かいの壁の中の亡霊に何やら話しかけている。壁に塗り込められた怨霊とかがどのような返答をしてくるだろうか。たぶんそれはコンクリートの中に含まれている残留放射能かもしれない。台湾ではかつて原発の廃材からコンクリートを生成して、それをマンション建設に利用していたことがあるそうだ。白血病患者の多い祟られたマンションとかがあったらしい。そのうち勝手にチャンネルが切り替わり、有名なプレーヤーが振り向きざまにシュートを放つ。いつの間にかテレビではサッカー中継のようだ。四月のパリには別バージョンがある。ありふれた音ではグル−ヴ感が感じられない。君はまやかしの対話では納得できないだろうが、ではまやかしでない対話がどこにあるだろうか。たぶんどこかにあるのかもしれない。どこかに文明があるらしいが、それはマヤ文明だろうか。マヤ文明でまやかしの対話が交わされる。それはどういう具合になっているのだろう。どうやら君の頭は壊れているようだ。とりあえず今はそういうことにしておこう。本題とはまるで関係のないことを述べている。本題に入らないうちにここまで来た。しかし本題がどこにあるのだろう。鏡の中の誰かが唐突に叫ぶ。そんなものどこにもありはしない!しかし誰がそう断言できるだろう。今までに述べてきたどこかに今回の本題が隠されているのかもしれない。鏡の中の誰かは鏡から出られないので、何を叫ぼうと実害はない。それを本気に受け止めなければいいだけかもしれない。しかし鏡とは何の喩えなのだろうか。君はそれが何なのかわかるはずだ。いったいどれくらいの人がそれを真に受けているのか、それらを信じている人が多いほど、状況は北朝鮮に近づくということか。


1月29日

 穏やかに暮らすこと、それは切実な問題ではない。それは僧侶の問題かもしれない。それは教会の問題かもしれない。仏教徒とキリスト教徒では違いがあるかもしれないが、両者とも同じような問題を抱えているのかもしれない。何をやるのにも指導者が必要だろうか。何をやるのにも儀式を執り行う必要があるだろうか。それは誰の主張なのだろうか。人々の生活に余裕ができれば、寺院も教会も存在する余地が生まれるかもしれない。信仰は富の余剰から糧を得る。信仰が人々の心を支配する道具とならないためには、その目的から遠ざかることが必要かもしれない。では信仰にはどんな目的が内包されているのだろう。それらは人々に向かって何を主張しているつもりなのか。安易な回答を提示するならば、それを信じれば穏やかに暮らせるということか。信仰から安らぎを得られるならば、信じることが肯定的な価値を有していることになるだろうか。では信仰の否定的な側面とは何か。実現可能な他の手段を破棄して、ただ信仰だけに依存してしまうということか。安らかに暮らすとは、煩悩を捨てて初めて実現されるのかもしれない。なぜそれが否定的な意味を持つのだろう。俗世間で生きていかなければならない者が煩悩を捨ててしまっては、他に何があるだろうか。現代人にとって煩悩以外に何を求められるだろう。人間社会にはそれ以外の何もない。人々が望んでいるのは常にそれであり、一切の欲望を満たすことだ。そんなあり得べき自分自身の未来像を追い求めている。欲望を満たした未来の姿を思い浮かべている時が、唯一安らぐ瞬間かもしれない。そんな未来を想像することでしか安らげない。現実には時間に追われ、仕事に追われ、神経をすり減らしながら、かろうじて生きているにすぎないのに、そんな状況とは一切関係のないことを想像している。それが安らぎの未来像だろうか。どうも言葉が循環しているだけのようだ。いつの間にか信仰とは関係のない方向へ話が進んでしまっている。煩悩を捨てるとは夢を断念することかもしれない。やりたいことをやらずに生きることが本当に正しい生き方だろうか。もちろんそんなことはどの宗教も説いてはいないだろう。やりたいことこそが煩悩を捨て去ることなのだ。誰もがそういう具合に話を持っていきたいのだろう。果たして君はそれで納得できるだろうか。


1月28日

 どういう風の吹き回しか、やばい状態が一夜にして解消されてしまったようだ。失敗かと思っていたことが、結果的にはそれほど失敗ではなかったのかもしれないが、そのおかげで何とか被害も最小限にとどまり、これで一安心といきたいところだが、どうも現実はそんなに甘くないようで、とりあえずこれからも気の抜けない状態が続いていくような気がする。やはりいつ何が起こっても不思議でない状況と格闘する日々が続いてゆくことになりそうだ。いつの頃からか安らぎとは無縁の生活になってしまっている。結果的にはこれでうまくいっているように思えるのだが、安心して少しでも気を抜くと、とたんに状況が暗転してしまうこともある。まるで綱渡りのような毎日かもしれない。もうこんなことは早くやめにして楽になりたいが、どうも状況がそうはさせてくれそうにないようだ。いったいいつまでこんな状況につきあっていられるのだろうか。もしかしたらあと十数年はこんなことの繰り返しを味わうことになるかもしれない。先のことを思うと何となく気が滅入る。そのうちこんな状況にも慣れてきて、緊張感も薄れ、何が起ころうと何とも思わなくなる心境になりたいものだが、そうなることが果たして良いことなのかどうか。そうなるまであと何度不快な不具合を経験しなければならないのだろうか。まったく想像がつかないし見当もつかない。どこまで行っても、何をどうやろうと、いつも満足からはほど遠い心境になってしまうような気がしてくる。他人と関係を持っている限り、何事も他人の思惑に振り回され、なかなか思い通りに事が運ばないのは当然のことかもしれないが、ではそれ以外にどんな状況があり得るのかといえば、一人孤独に山奥へでも隠棲するわけにもいかないだろうし、やはり今の状況から離れて生きることはできない。この現状を成り立たせている前提となる初期条件を、今さら変えることは不可能だ。この現状をふまえた上でそれからどうするか、やれることは自ずから限定されてくる。それをやることぐらいしか選択肢はないということか。たぶん可能性とはそうやって閉じられていってしまうのかもしれない。あとはそんな現実をどうやって受け入れられるか、決断を下さなければならない時が近づいているようだ。


1月27日

 これといって顕揚する題材がない。それのどこが難しい局面なのだろうか。君以外の誰がそんなことを述べたのか。何かそう感じる根拠でもあるのだろうか。根拠ではなく、実感かもしれない。何となく難しい局面にさしかかっているように思われる。ただそれだけのことかも知れない。それがどうしたわけでもない。そういうことでしかないだろう。もうとっくに夜が明けている。翌朝の陽ざしの中で昨晩の雨を思い出す。では今晩は月夜にでもなるだろうか。雨に濡れて何を思うでもない。本を読むのが嫌いになったらしい。読むこのとのない書物が溜まっている。買うだけ買って読まないのはもったいないか。では買うのをやめたらどうか。近頃はそれほど買ってないだろう。明け方に見た夢の中では本を読んでいた。夢の中で読んでいるのだからそれでいいのではないか。たぶんそれは嘘かも知れない。どうも難しい書物からしだいに遠ざかりつつあるのかも知れない。興味が薄れてきたということか。何よりも現実の生活がそれを必要としていない。しかしそれではつまらないと思われる。ハウツー本やハウツーテレビ番組は嫌っているくせに、それでは読む本も見るテレビ番組もなくなってしまうだろう。役に立つことを教えてくれる内容が気に入らないようだが、それではメディアの役割そのものを全否定することになってしまう。いったいそれ以外の何を求めているのか。ところでこれらの文章が何の役に立つだろうか。否定的な意味でなら暇つぶしということか。実感として何かの役に立っているとは思えないが、どうも役に立つ立たないという基準でやっていることではないらしい。本当のところ何のためにやっているわけでもないだろう。何の利益も生み出さない、無益なことなのか。何か一定の枠をはめたくないような気がしている。それはどうでもいいことかも知れないが、どうでもいいことだけでなく、それ以外の内容も含まれているのかも知れない。今感じている現実が含まれているのだろうか。もちろん現実がくっきりと見えているわけではない。焦点はいつもぼやけている。つまらぬ思い込みに引きずられながら過ちを犯し続けているようだ。現実はそんなことの繰り返しの上に築かれているのかもしれない。


1月26日

 状況は日々刻々と変化している。絶えず方向を修正していないと現実から飛躍していってしまうようだ。その場での状況の変化に合わせて態度を微妙に変えていかなければならない。どこまでも頑なに首尾一貫したやり方を通していくと、遠からず行き詰まってしまう。そんなことはわかっているつもりだが、わかっていてもそれができない人もいる。君もそういう質なのか。現実を見失うとはどういうことだろう。見失ったものは二度と見いだせないか。君はそこで何を取り逃がしたのだろう。現実を見失った代わりに妄想を手に入れる。そんな都合良く事が運ぶものだろうか。予想以上の成果を手に入れることができそうだと思い込んでいる。やり始めた当初はそんなつもりではなかったのかも知れないが、今や完全に妄想の虜と成り果てているようだ。目の下に隈が絶えないほど最近は寝不足気味のようだ。途中から誰のことを話しているのか定かでなくなってきた。誰のことでもなく君のことかも知れない。だがその君は君でないかも知れない。それは誰でもない君でしかないだろう。もはやフィクションの中にさえいない君だ。実態としても架空としてもそんな君は存在しない。そんなことがあり得るだろうか。あり得ないとすれば、君は自在するか物語の中の登場人物か、そのどちらかの存在となるだろうか。そのどちらであってもかまわないか。君の存在などもうどうでもいいことか。だが君という言葉を使ってここまで書き進めてきたことは確かだ。君はどうでもいい君を利用してこの文章を構成しているわけだ。それがどうかしたのか。君には君の思いがわからない。なぜ架空の対話を構成してしまうのか。綿密に計画されたわけでもない即興の文章は深みに欠けるようだ。それがある種の物足りなさを感じさせるのだろう。しかし今は周到に文章を構成できる状況にはないらしい。その結果として、至るところに不連続を覗かせている。だが粗雑なことしかできないとしても、それ以上の何ができるというのか。いったいここからどのような展開に持っていきたいのだろう。展望は何もないし、計画もない状況でどうするつもりか。どうもこうもできないのなら、このままの状態で続いていくしかないだろう。


1月25日

 ネット上に大量のデータが注ぎ込まれているらしい。川に向かって投げられた石が失速して手前に落ちる。気分次第で窓ガラスが割れたりする。面倒なので君はそれ以外の他のことを考えているらしい。だが考えているうちにまたもや眠くなってきた。翌朝は雲一つない晴天だ。昨夜のうちに四人が拳銃で撃たれて死んだそうだ。四人も殺せば容疑者たちは死刑になってしまうのだろうか。そんなことを思っているうちに日付が昨日のままだということに気づく。どうもまだ今日という日に追いつけそうもない。何か他のことを考えようとすると言葉に詰まる。そしてありふれた日常の中で自らの限界を思い知る。確かに対処できることはできるのだが、いやな思いを経験した後からでないと対処法は出てこない。そんなことを繰り返すうちに胃が痛みだす。それは大した試練ではないかもしれないが、毎日のように繰り返され、徐々に心身をむしばんでゆくように感じられる。誰もがこんな風にして老いてゆくのだろうか。ダメージの蓄積は想像以上かもしれない。だがそこから逃れる術はなさそうだ。当分はこんな環境で生きてゆくことになるだろう。夢の中では妄想が現実と混ざり合う。なぜか夢の中でもやりたくもないことをやっていたりする。仏壇の中の位牌が君に語りかける。やりたいこととは何か。何もやりたくないと位牌には告げておいた。何もやらずにただ眠りたいだけか。だが夢の中では眠らせてくれない。六声のリチュレカーレがひっきりなしに鼓膜の内側で鳴り響いている。とっさの判断でスピーカーのボリュームを下げる。夜中の三時にラッパーが君に語りかける。今はどんな気分なのか。気分は最悪かもしれない。最悪のままにその遙か下方へと誘われる。まだそこは最悪ではなかったのか。彼岸の向こう側には未開の暗黒大陸が横たわっているらしい。両岸に葦が茂る緩やかな流れの川を下っているうちに、川岸で手を振っている人に気づく。いい加減に目を覚ましたらどうだ。意識が自らに語りかけているようだ。明日はまたやり残した作業の続きをやらなくてはならない。明日になればまた何らかの対処法を思いつくだろう。どうやら久しぶりに蛍光灯をつけたまま眠ってしまったらしい。


1月24日

 至って作業は順調に進んでいるように感じられたが、それは一昨日までのことだった。あることがきっかけで、なぜかいやな思いがこみ上げてくる。その成り行きの何が不満なのかわからない。去年の暮れに起こった出来事が不意に脳裏をよぎって心が動揺する。それからというものはまるで別人のような振る舞いに終始してしまう。たぶんその別人とは君のことだろう。冗談ではないが、冗談のような出だしになってしまったようだ。ここに何が足りないかは分かり切っていることだ。君にはわかるかもしれないが、彼にはわからないだろう。そんなことを語っているうちに、結局は言葉に詰まって、何も述べられずに仕方なく冒頭へと戻ってくる。どうも話の筋がいっこうに見えてこないようだ。何について語っているのか内容がわからない。要するに本筋にふれぬまま無駄に言葉を費やすばかりのようだ。何やら語りたくないことは語らずに済ませたいらしい。今日は遠く隣の県にある雪山まで見渡せる天気だ。晴れた日の雪景色はまぶしすぎる。今日の日付は二日前のことかもしれない。雪の中に鳥の足跡を見かける。雪の中で飢えた狸が屍肉をあさる。自然界ではよくある光景なのか。凍てついた岩山の中腹から登山者が足を滑らせて転落死する。人間社会ではよくある出来事だろうか。そこでよくある台詞を思いつく。苦し紛れに出された臨終間際の感慨としては、まるで夢のような一生だったそうだ。君にもいつか終わりがくるだろうか。それはまるで絵に描いたような終わり方かもしれない。だが実際にそれを絵に描く愚か者はいないだろう。確か誰かがかつて臨終図鑑という本を出したことがある。君にはまるで興味のない書物かもしれない。怖いもの見たさも、勘違いの好奇心も、何もない日常の中ですっかり磨り減ってしまったらしい。日々の暮らしが何かに興味を抱こうとする意欲を奪い去っているようだ。もはや頭の中が飽和状態かもしれない。何で飽和状態かといえば、例えば思い浮かんだ言葉で飽和状態なのか。そんな状態がすべてのやる気を奪い取る。それは根拠のない被害妄想かもしれない。もはや内面が空虚な言葉で満たされてしまったようだ。ちりが積もって山となり、山が崩れて意識を押しつぶす。ついでにネット上では未知との遭遇が演じられるかもしれない。なぜそうなるのか、よくわからない言葉のつながりだと思われるが、気にせず先を歩み進んでみよう。二酸化炭素をはき出しているのは誰もが知っている生物だ。部屋の中の空気が乾いている。


1月23日

 確か昼の間は雪が降っていた。そして今は夜空から時折冷たい雨粒が落ちてくる。確かにここは寒いが、それでも外気は昼よりも暖かいということか。それは程度の差であって、とりあえず寒いことに変わりはない。白馬の方ではまだ雪がちらついているようだが、もう雪には飽きた。なぜかそれはどうでもいいことだ。そんなことが本題につながることはないだろう。たぶん感情は時代や社会の雰囲気や空気に左右されるあやふやな思いから生じているのだろう。そのあやふやな思いに同調した言説が巷で流行しているらしい。君は相変わらずそれが気に入らないのか。それを否定的に斬って捨てればすっきりするかもしれないが、どうも今はそんな気にはなれない。面倒なので、誰かの無意識はそれとは無関係な言説を編み出そうと努力しているのかもしれないが、どうもそれも違うような気がする。何をどう述べていいかわからないが、もう何も述べたくないというのでもなさそうだ。君は何を夢見ているのだろう。ただ迷い続け、途方に暮れているだけなのか。そうかといって無理に何かを凝縮して結晶化させる気にならない。なぜかそれは違うと思う。そうやってつまらない達成感を味わいたくない。何かを知るとはそういうものではないような気がしている。では何を知りたいのだろう。それは、自らが知りたくもないことを知りたいという毎度おなじみの矛盾する欲求なのだろうか。そうではなくただ迷い続けていたいのであって、途方に暮れていたいだけなのかもしれない。だがそれは何かを知るとは無関係なことだ。たぶんそうではなく、何かを知ろうとしていたり、また何か貴重なものを探し求めているように装っていたりするのは、世間体を気にするあまりに生じた言い訳にすぎないのだろうか。そうやって何かを追い求めている間は、何となくそれで、この社会に蔓延している規範に従っていると思われ、他の人々に安心感を与えることになるだろう。もちろん本当はそんなことはどうでもいいことで、単に生まれてから死ぬまでの間の暇つぶしに何かやっていないと手持ちぶさたなのではないか。しかしこの程度では嘘としてあまりできの良い嘘ではない。


1月22日

 その組曲は至上の愛と呼ばれている。なぜかサックスという楽器が叫び続けている。何を叫んでいるかは知らない。数年後に癌で死ぬことになる男がその演奏で何を意図していたかは知らない。ただそういう音楽なのだろう。どういう音楽かはそれを聴いた者が判断すればいい。今となってはなじみの薄いものとなりつつあるかもしれない。たぶんそのような種類の音楽を共有する人は確実に減っていることだろう。流行の音とはだいぶ感覚が違うような気がする。それを聴く度に意味のないようなものに思えてくる。そこにどんな感情を込めても何となくそれに合っているだろうか。ある者はそこに時代の雰囲気を見いだすかもしれない。それを賞賛する者が発する台詞がむなしく響く。そこに反映されている感性を共有できない者にとってはそうなのだろう。すべてが遙か遠くから鳴っているように聞こえる。自己の内に取り込むことが不可能な音だ。それらにちりばめられているとされる精神性は皆幻にすぎないだろう。もはやそこから数十年が経過してしまっている。濁流によって何もかもが押し流されてしまったのか。しかし何が濁流だったのだろう。当時の音で今も魅力的に響くのは、やはりきっちり構成された楽曲だ。それは当時でも古い感性に属していたのかもしれない。だがそうだとしてもHerbie HancockのMaiden Voyageはいい。アドリブ要素のほとんどない、計算し尽くしたかのように聞こえるアドリブ演奏的な音は、やはりクラシック的な古い感性に属する音だが、でもそれが、現代の最先端の音であるかのように聞こえるのはおかしいだろうか。述べていることがかなり矛盾している。たぶんそれは音楽の本質を突いた楽曲なのだ。何らかのメロディーパターンを構築しなければ、音楽として形をなさなくなる。だが当時の音は、そこからいかに遠ざかるかを競い合っていたかのように感じられる。形式からの自由を求め、その結果として自由の不可能性に突き当たる。フリージャズは魅力的だが不可能だ。機会があったら、オーネット・コールマンのフリージャズを聴いてみたい。もしそれが単なる騒音にしか聞こえないとしたら、やはりそれは自らが古い感性の持ち主である証拠かもしれない。


1月21日

 思いついて語ることすべてが詩になる。門外漢が詩について何を語れるだろうか。ところで誰が門外漢なのか。別に誰かが詩について語っているわけではない。何かがずれている。それは謎ではない。いったい何を語ろうとしているのか。日常会話の範囲内で適当なことを述べている。枯れ葉が積もって腐葉土になる。丘を越えてゆこう。越えた先にも丘があるだろう。たまには気まぐれで越えようとしなかったりする。越えるのが面倒な時は越えようとしない。思い込みに限りはない。限りはないが眠気には勝てない。では眠っている間も思い込みを継続させればいい。1月29日の未明に何かが起こるらしい。昨日の夢の中で見知らぬ誰かがそう告げていた。まさか神からの啓示ではあるまい。確かに何かは起こるかもしれないが、その何かがなんなのか、その内容までは伺い知れない。これではその何かに対処しようがないではないか。他にも何か心動かされることを誰かは話していたような気がするのだが、今となってはまるで思い出せない。まったく夢など何の役にも立たないものなのか。ただその日が近づくにつれて、不安ばかりが募る仕掛けとなっているだけではないか。あやふやな夢などに頼っていないで、どこかのエコノミストが出す経済予測でも真に受けていた方が気休めになるだろうか。君には判断しようがないし、わからない。わかりたくないのかもしれない。わかったことがわかったことにはならないような気がしている。わかった時点でそのわかった現実は過去のものとなっていて、実際の現実は、すでに過去の理解を超えて推移しているのかもしれない。現実はいつまでも謎のまま、絶えず意識が理解する過去の先を進んでいる。そんな現実に意識が追いつけるはずもないだろう。では意識が見聞する事象はいつも過去の残骸でしかないわけか。それが残骸かあるいは宝物かは、それぞれの意識がその時点で判断することか。君は残骸を見聞するだけで満足しているのか。しかし満足しないとするならどうすればいいのか。どこかの誰かは盛んに未来を想像し予測しようと試みる。それがとりあえずの答えとなるらしい。だが君はそんな答えを出すことに満足はしない。絶えずそれ以外を望んでいるはずだ。


1月20日

 そんな語り方ではなかったはずだ。この中身はいったいなんでしょう。もったいぶった語り方は嫌いだ。何を意図しているのかわからない。最近は徐々に壊れてきているのかもしれない。誰かの根性がねじ曲がっているから、面倒なので首にしたいらしい。彼には彼が勝手に編み出したルールでやってもらおう。とりあえずそれでうまく回っていればかまわない。まるで腫れ物に触るようになってしまったらそれでおしまいだ。別に計画的犯行であってもかまわない。とりあえず計画的に犯行を重ねてもらえばそれでいいだろう。なぜか違うような気がするだけだ。そんな状況を眺めている。そしていつものようにそんな感慨を抱いている。たぶんそれは当たっているのだろう。当人にとっては気に入らないことばかりかもしれないが、そうなった原因が自らにあることをわからせようとする者は現れない。期待はずれとはそういうことだ。鈍い者は生き残れないのがこの世界の掟なのか。この世界とはこの世界のことでしかない。この世界の他にどんな世界があるのだろう。そんな世界もあんな世界もあるだろう。あると思えば思っているうちはある。それが想像力というものか。そんな想像力があるだろうか。それは適当でいい加減な想像力だろうか。だからこの辺で転調してアクセントを加えなくては続かないということか。君はそこで迷っているだけだ。そして迷い疲れて言葉にすがりつく。最近はそればかりのようだ。ただ冗長で無駄な語りを垂れ流すだけでは気持ち悪いだろう。少しは希望のもてる内容を示してみたらどうか。この世界にどんな希望が似合っているだろうか。ありきたりなことを述べるなら、愛と平和ということか。たぶん無理かもしれないが、うんざりするようなことをやってくれる人々も許しあげようではないか。それとこれとは別問題になるだろうか。どうもマスメディアの論調ではそうなるようだ。この世界には許す前に言葉や武力で攻撃して相手を痛めつけないと気が済まない、という気分が蔓延しているようだ。そんなことをやろうとしている人々も許しあげようではないか。しかしそうなると、許してあげることの意味がなくなってしまうような気もしてくる。たぶん愛も平和もそれを無視する言葉と武力の前では無力なのだろう。だから希望も気休めの仲間入りとなっているようだ。やはり君は気休めでかまわないのか。こうして気休めの言葉を連ねているだけでいいのだろうか。


1月19日

 冬の夜に雨が降る。昨日の夜は何をしていたのだろう。画面では相変わらず何かを説明しているようだが、そんなことは上の空で、ただ何もせずに指先を見つめている。雨音を聞きながら物思いに耽っているらしい。何もやらないうちに時間ばかりが過ぎ去ってゆく。別の意識は何か気になることを考えているようだが、それを言葉で表現することは難しい。いや、難しいのではなく、何も考えてはいないのではないのか。何か考えているようで、何を考えているのかと自問してみると、何も思い浮かばない。それでは何も考えていないのと同じことではないか。別の意識がどこにあるのだろう。どこかにあるのかもしれないが、それを知る手だてを知らない。今はただ何も思わずに何もしない。その状態は夜の間に解消するだろうか。しかしどんな精神状態になればまともなことを考えられるのか。そんなことがわかるはずもなく、きっかけを見つけられないでいる。強引に嘘をつくなら、今述べているこれがまともな考えを反映した文章かもしれない。ようするにまともな思考の持ち主は何も考えないということか。考える材料がない時に、何を考えればいいのかわからないのは当然のことかもしれない。ではまともでない人はこんな時に何を考えているのだろうか。空虚について、空白について、虚無について、精神の闇について、など精神に錯乱を来す材料ならいくらでもあるということか。何もない時に強引に何かを思ったり考えたりしようと試みること、たぶんそこから抽象的な哲学が形成されるのかもしれない。そこから諸々の存在が導き出される。我思う故に我あり、という風になってしまうのか。神は存在するのだろうか、そんなことを思っている自己が存在していることは疑いようのない真実だ。そんなものが真実であるわけがない。自己とはいったいどこにあるのか。これらの言葉の中に自己が反映されていると言えるのかもしれないが、その実態がどこにあるわけでもない。想像したり空想したりすることはできるが、その明証性を証明することはできないような気はする。それでも強引にやろうとすれば、難しい観念的な用語の羅列になるだけだ。もちろんその手の哲学書では、それで証明したことになるのかもしれない。だがそれを読んで理解できる人は限られてくるだろう。理解できない人にとっては、証明は証明の役割をなさない。


1月18日

 猫が湿り気を感じて顔を洗う。朝焼けは雨の兆しだそうだ。そこで何を考えているのか。他人は何を思っているのだろうか。誰かが昨日の記憶をたぐり寄せ、それとは別のことを思い描く。それとは何だろう。偶然に目覚めた意識は昨日とは違う内容を求めているが、自意識はそんな要求には応えられない。仙人が目指しているのは何も目指さないことだ。空想上の水墨画から何を連想しているのか。たぶん行き詰まりの打開法を模索しているのかもしれない。しかしこの行き詰まりの先にはまた別の行き詰まりがあるだろう。それは絵ではなく写真の一種かもしれない。絵と写真にはどんな違いがあるだろうか。提示する対象物を平面に定着させるという共通点はあるだろう。その物自体の色や形を直接視覚に訴えかけて伝えようとする共通点もある。なぜか思いつくのは共通点ばかりのようだ。それらの違いを見つけられない。写真は構図だけが問題なのだろうか。その絵はかなり雑な描き込みだ。それ以外に感じるものが見あたらない。どうやらそこで息切れのようだ。絵や写真を言葉で説明することに行き詰まる。それらを見て何を思い何を考え、その思いや考えに対応するどんな言葉を繰り出せば納得できるというのか。かつて誰かがそれらを評価して、評判を呼んだのだろう。そのような評価を共有する組織や団体や自然発生的にできたグループの中では、何かしら納得できる評価基準というものがあるらしい。世間で評判を勝ち得るには、その道の権威という存在の評価が必要なのかもしれない。そのような存在を体現する個人や団体が、素人には訳のわからないものに芸術作品であるというお墨付きを与えれば、それで何となく認めざるを得ないような雰囲気が形成されるのかもしれない。そうやって生まれたのが現代美術というものなのか。もちろんそれは絵画に限らず、音楽や文学にも似たようなものを見つけることができる。現代音楽やフリー・ジャズ、小説でいうならジョイスのユリシーズなどがそれに当たるだろうか。ゴッホやピカソの試みを、それを賞賛する権威の言葉抜きで本当に感動できる人がどれほどいるだろうか。とりあえず君の作業の方はあまり進展がないようだ。まったく浮上せずに、まるで深海で生息しているみたいだ。それでもだいぶ先まで来てしまったらしく、周囲にはもう何もない。ここが荒れ地の最北端なのだろうか。ここまでどこをどう通ってきたのか思い出せない。いろいろな紆余曲折はあったかもしれないが、ここまで来たことについては何の感慨もない。


1月17日

 この世界のどこかにただ芸術のためだけに生きる人がいるそうだ。なぜかその生ける屍から便りが届く。物語の出だしとしてはこんな内容がふさわしいだろうか。魔術の過度な使用は身を滅ぼすらしい。魔術には幻術的な力が宿っていて、それを操って人々を惑わす度に、仕掛けている自らも幻覚の虜になってしまう危険がある。自ら繰り出した術にかかってしまうわけだ。鏡に映った自分の顔に見とれているうちに、外界に対して無防備をさらけ出す。だがそれは何の例えなのだろう。今時うぬぼれ人間は流行らないだろう。その代わりに廃用になった人間ならいくらでもいる。今や誰もがいらない人間になりつつあるということか。人間だけではなく、土地や建物もいらないものが多くなるらしい。誰もが知っていることかもしれないが、人余りと物余りの時代が到来しているのだろう。それは空虚と空白の時代と呼んだら何となくしっくりとするだろうか。周囲を空虚に囲まれて窒息してしまう不安に苛まれている誰もが、このままではいけないと焦っているようだが、その焦りがさらなる泥沼を呼び込むかもしれない。もうすでに泥沼の中だ。もがけばもがくほど体が沈み込んでゆく。これがよくある話なら、絶望的な状況の中であきらめかけた時に、どこからか助けの手が伸びるかもしれない。世の中そんなに甘くないか。テレビドラマや映画のようにはいかないだろうか。滅びるきっかけがあちらこちらに転がっているのか。今日もどこかで誰かが地雷を踏んで命を落とす。こちらでは地雷の代わりに空白があるわけだ。街には空き家や空き室があふれかえる。そこからマイナスの資産が形成されるらしい。それらの不良債権は空虚の象徴だろうか。それは空虚ではなく負の遺産だ。マイナスの価値を持っている。とりあえずマイナスをできるだけゼロに近づけないと、多くの者たちがお望みのプラスの世界はやってこない。そうするための努力が無駄な悪あがきとなっているようだ。限られた獲物を多くの者たちが奪い合い、その結果として共倒れになる可能性が増してくる。客もいないのに商品が過剰に供給されている。誰もが売る側になってしまい、買う側の先細りを想定していなかった。やはりいつかはシステムが破綻を来して、深刻な事態に追い込まれてしまうのだろうか。だが今さらいくら危機感をあおって見せたところでもう遅い。後の祭りだ。もうすでにいくつもの巨大プロジェクトが進行中だそうだ。後は生き残りをかけた熾烈な価格競争に勝ち残るしか道はないようだ。のるかそるか、生きるか死ぬかの勝負が待ちかまえている。要するにこの社会は、どこまで行っても戦争形態から脱却できないということらしい。しかし来るべき競争に負けた者たちはどうなるのだろうか。どうにかなってほしいところだが、たぶんどうにもならないだろう。彼らは彼らで、彼らなりに別のやり方を見つけて、何とかそれでやっていくのではないだろうか。道はいくらでもありそうだ。まるで何事も起こらなかったかのような状況になってしまう可能性もある。あのときの大騒ぎはいったい何だったのか、今では誰もあのときのこだわりなどにはリアリティを感じられない、いつかそんな時代がやってくるかもしれない。もうすでにそんな感慨を抱いてしまう過去が多くなってきた。


1月16日

 いくぶん回りくどいことを述べているかもしれない。石切場から切り出された石の中にはすでに彫像が埋まっていて、彼はそれを鑿で彫り出すだけだ。妄想の中では今もミケランジェロがどこかに生きている。教皇は彫り師のミケランジェロに礼拝堂の天井画を描かせた。以前にそんな映画を見たことがある。教皇との軋轢に苦悩するミケランジェロの姿が画面に映し出されていた。教会の天井を装飾することだけのために、全知全霊を注ぎ込んでの多大な努力と忍耐を強いられ、それでもなお二度と立ち直れないほどの深刻な挫折に何度も追い込まれて、さらに教皇もミケランジェロもほとんど死にかけるほどの大怪我や大病を患いながらも、様々な紆余曲折を経て、数年がかりでなんとかその天井画を完成させる。なるほどおおかたの人々が求める人間ドラマとはああいうものなのか、と感じた。あそこまでやれば誰もが感動するのだろう。あれと比べれば自らの中途半端な知識が何の役に立つ。役に立たない知識こそ真の知識だと開き直ってみせる。それは知識でなく、負けず嫌いの下らぬ感情だろう。知っていることはほかにもあるらしい。夕闇の遙か向こうに星が瞬いている。遠近法的な構図からははみ出ている。ならず者はどこへも行き着かない。そこへ至る過程で勝利の雄叫びは永遠に消え失せる。石頭は掛け軸と一緒に石狂いの家の床の間に飾られる。その書画の中では仙人がくたびれた草書と一緒に飛び跳ねている。それとは何だろう。君はそれを経験したことがあるのか。その経験を覚えているだろうか。果たしてその辺に転がっている石ころは自由だろうか。石ころに自由という言葉は当てはまらないか。なぜかさっきまでは自由について考えていたらしい。ここで嘘をつくなら、誰にも嘘をつく自由があるのか。自由は空手形のようなものかもしれない。さらに意味不明なことを述べるなら、この夜の朝は明日の朝ではない。確かにその早口言葉の内容そのものは間違っていないようだが、誰もが間違うことなく言えるので、それは早口言葉とは言えない。早口言葉という前提そのものが間違っているのだろう。要するにわざと支離滅裂を装うつもりなのか。石垣の上で暮らす住人は石垣の上から猫を放り投げる。道路にたたきつけられた猫は、そこを通りかかった車にひかれてぺしゃんこになる。どうも野良猫には人権がないようだ。それに対して動物愛護団体には猫を救う権利があるらしい。物語の中の登場人物にも何らかの権利が保障されているかもしれない。しかしそれらのどこに自由があるのだろう。確かに生きる権利はあるが、どのように生きるかは、その場の状況に拘束されてしまう。たぶん彼はどのようにも生きられないだろう。何かが狂っている。その男の名を知る者はいない。確か石に関する名字だったと思う。世の中には石関という名もあるが、若干それに似ていたかもしれない。たぶん今日の主題は石だと思う。ところでなぜ君は石にこだわるのか。ほんの気まぐれで石という言葉を使っているだけかもしれない。ストーン・ジャンキーとは何か。梅や桃の類はストーン・フルーツというらしい。それは本当だろうか。例えば仙台には仙人の住む台地があるわけではない。それはどういう例えなのか意味がわからないだろう。さらに述べるなら砂糖の入っていない紅茶でむせる人は幸せだ。いくぶんどころかずいぶん回りくどいことを述べているかもしれない。まったく彼のテンポにはついて行けないものがある。おかげで収拾がつかなくなってしまったようだ。


1月15日

 時計の針が止まっていた。気づいたことはそれだけだろうか。棺桶の中に横たわる死体の心臓も止まっている。思いついたことはそれだけだろうか。それとは無関係だが龍角散は医薬品だろう。話と無関係なことはそれだけだろうか。たぶん君は生きているのでその心臓も動いているはずだ。動いているのはそれだけだろうか。テレビ画面上から見知らぬ誰かが不特定多数の人々に向かって語りかける。コミュニケーション力のない人は誰だろう。隣の芝生の上で寝そべる猫には会話する能力が欠けている。今度は緑のシャツを着た男が芝生の上に寝ころんだ。確かそれは初夏の出来事だったかもしれない。会議室に設置されたプロジェクターを操りながら語りかける人にはそれなりの演技力が備わっている。彼にはさらに向こうの道を歩んでもらおう。しかし誰がこの状況を操作しているのだろうか。まるでロボットのような他人を操作することに不安を感じている。人間とはロボットのなり損ないのようなものだ。至る所で誤作動を起こし続けている。ドナ・リーの演奏も誤作動の連続によって成立する。データベース上には六種類のドナ・リーが存在していた。よほど有名な曲なのかもしれない。彼はチャーリー・パーカーのよりジャコ・パストリアスのドナ・リーが好きだそうだ。それとは関係ないが、Better All The Timeという曲も気に入っている。歌詞の内容は至って平凡に感じられるが、二種類のバージョンともアレンジが洒落ている。確かにその曲を聴いている間は、すべての時間よりも至福の時を過ごせるかもしれない。どうやら暇にまかせてつまらないことを述べてしまったらしい。安っぽいカフェ・ブラジルの演奏を聴きながらそれでもかまわないと思う。明日もまた忙しいだろう。前述を打ち消すためには軽薄なことを述べなければならない。それは難儀な巡り合わせとでも述べておけば事足りるだろうか。わからないが、わかりようがないかもしれないが、わからせようとは思わない。とりあえず時間がないので、この作業の続きは明日に持ち越されるだろう。だが明日は明日で何を述べるかわからない。だから今日のうちに述べておかなければならないこともあるのだろう。彼は妄想に浸かりながら暗黒の未来を夢見るそうだ。ビデオテープが山積みにされた部屋を見たのは何年前のことだったか。やはり彼も死刑になるだろうか。冗談を述べるなら、マスメディアと裁判官は死刑を愛しすぎている。死刑を愛する人々にはどんな死がふさわしいだろう。この際正義の味方や法の番人には幸せになってもらおう。彼らに不幸や悲しみが襲いかかるのを阻止しなければならない。まさか心底からそう思っているのだろうか。君は自らが心にもないことを語っているような不安に包まれる。たぶんこれからも至福の時は過ごせないような気がしてくる。それらの何がいけないのか。それを知っていたら君に教えてあげることができるだろうか。いったい誰が君に教えようとするだろう。


1月14日

 当たり前のことだがドキュメンタリーやノンフィクションには何らかの脚色や演出が付き物だ。ようするにそこでは事実をデフォルメして伝える手法が確立されている。実際に起こった出来事の中から、ある現象だけに焦点を当てて、それを最重要事項のごとく誇張して伝え、それだけを際立たせるために、関係するそのほかの現象についてはほとんど無視してしまうことさえある。事実を伝えようとする側が、自分たちの伝えたいものだけしか伝えることができないのは、ある意味では仕方のないことかもしれないが、一方で、それを見たり読んだりする側も、自分たちの見たいものしか見ようとしないし、読みたい内容しか読もうとしないだろう。そのようにしてできあがった、伝える側の都合と見る側や読む側の意向が反映された代物は、しばしば実際の現実からかけ離れたほとんど空想上の産物となるだろうか。そしてそのとき、それらのファンタジーを構築するための材料となった事実は、虚構と現実を混同させる罠を形成しているのかもしれず、結果として生じた構築物は、事実をありのままに伝える、という実現不可能なフィクションが可能だと思いこむ意識によって支えられている。そうやって人々の抱いた願望を反映し心をくすぐる内容が盛り込まれた作品は、マスメディアによってもてはやされて話題の作品となり、その現象を伝える人々とそれを見たり読んだりする人々の間に共同幻想を打ち立てるわけだ。そしてそれらは、時にはこの社会に共通の価値観を形成して、場合のよっては世論操作の道具となるだろう。だが以上に述べたようなことを君は本当に実感しているのだろうか。具体的にどのようなものを見たり読んだりしたのか。わからない。どうも本気でそんなことを思っているわけではなさそうだ。なぜか以上に述べたことを読み返しているうちに、どうでもいいことのように思えてくる。そんなことを考えているうちに真冬の寒さが身にしみてくる。今日はどんな一日だったのだろう。たぶんそれは昨日のことだったかもしれない。確かにこの世の中には現実だけがあるのかもしれないが、その現実の中で暮らしている人々の意識の中では、空想やら妄想やら幻想やらが渦巻いているのかもしれない。その頭の中の思考回路自体はフィクションしか生み出せないのかもしれない。人々は現実をまともに受け入れられないのかもしれない。彼らはフィクションを通してしか物事を感受できないのだ。意識の中には自分勝手な思い込みしか存在しないのだ。そして何らかの外的な圧力によって、その思い込みが打ち砕かれる時にしか理性は表れない。しかも理性の出現はほんの一瞬の間だけで、次の瞬間にはまた勝手な思い込みが何事もなかったかのように復活してしまうだろう。そうやって意識は自らの思い込みの中へ執拗に回帰し続ける。だから君には、人間そのものを肯定的に捉えて脳天気に語るのは間違っているように思える。


1月13日

 君はこの世界について何を知っているだろうか。何かを知っていたところでどうするのか。誰も知らないところでは何も始まらない。誰かが何かが始まっていることを知っているかもしれない。たぶん始まっているのは、意識の中でそう感じている妄想の生成だろう。いったい何について語りたいのか。例えばこの社会とは何だろう。この世界の一部にこの社会があるようだ。では君はこの社会の中で何をしなくてはならないのか。邪魔者は邪魔者らしく、この社会が円滑に働くのを阻止すべく何かをやらなくてはならない。君は邪魔者なのか。そして君は今日もまたつまらないことを述べてしまうのか。気休めに思いついた言葉の連なりに見とれているのは誰だろう。ナルシシズムの端緒になるような内容ではない。たぶん誰もが邪魔者になれると思っている。邪魔者は邪魔ではなく、それ自身が社会の機能を反映している。現実にはそんな者になれるはずもない。その程度の思い込みを許す意識は幼稚なのか。ならばもう少し気の利いたことを考えてみよう。それのどこが気が利いているだろうか。そんなことは無理かも知れない。救いの神は未だ到来する気配もない。だがそれとは何だろう。それとは君のことか。君のどこが気が利いているのか。では君は他に誰か気の利いた人を知っているのか。その人が救いの神なのか。この世界のどこかに救いの神がいたりするのか。ではあれらの何がそう思わせるのだろう。いったい何が救われなければならないのか。救われなければならない対象を見いだせない。この世界の一部を構成するこの社会では、ただ人が死んだり生きたりしているだけではないのか。それらの死や生がどうして救われなければならないのだろうか。それらにそれなりの理由を付加することに根拠を見いだせない。だがそのような結論に至る手前で立ち止まらなければ、何も見いだせないのはわかっている。その途中で何らかの意味をつかんで、そこに理由や価値や必然性を捏造しなければ、この世界ではただ時間の経過とともに物質が生成したり消滅したりしているだけとしか認識できなくなるだろう。それでもかまわないと思うか。たぶん今ここではそれでもかまわない。時が経てばまた別の認識に至るのかも知れない。今の君はそういう意識構造しか持ち合わせていない。もしかしたらそれが唯一の救いなのかも知れない。そう思えるのは気が利いている証拠か。理由も価値も必然性も見あたらないようだが、救いとはこういうことなのかも知れない。ニュースの中身はどうでもいいことばかりだ。誰がどこで何をしようと、またどんな事件が発生しようと、今の君にはそれらのすべてが他人事としか感じられない。もはや君は邪魔者ではなく、単なる部外者だろう。関係者以外立ち入り禁止の外で暮らしている人間だ。周囲の風景に溶け込んで判別のつかない無内容な状態なのかも知れない。しかしそれでいいのだろうか。それでもかまわないと思うか。やはりここではそれでもかまわないのか。何をやる理由も価値も必然性も見いだせない。もしかして君は嘘をついているのか。


1月12日

 どこかの誰かはいつものようにやる気がしないようだ。夕闇が間近に迫っている頃、何もできずにテレビを眺めていた。その時の眼は死んでいる。そして今は眠気覚ましに夜空を見上げている。それは勝手な都合だろう。いつも下手なことをやっている。話の都合がつかないのは誰のせいでもない。今はそんなところまで知るはずもない。誰も何も見ていないのは当然のことだ。そこで誰が何を知ることができようか。そんなところまで知る必要はない。病院で何も知らされぬまま死んで行く人もいる。死は神々をも支配する。不死が人間に宿るのはいつの日になるだろうか。話の内容が飛躍している。いきなりそんなことを思っているわけではない。もっと身近に感じられる話題はないものか。人々はいったい何に憧れているのだろう。どうなれば満足できるような日々を送れるのか。マスメディアの伝えるところによれば、ホームレスの生活では気に入らないようだ。彼らが気に入っている環境とはどんなものなのだろうか。漁船に乗ってマグロでも釣り上げれば満足するかもしれない。だがそれは環境ではなく、その場の状況だろう。地球環境に優しい暮らしがしたいようだ。ありふれた宣伝文句に踊らされていれば満足できるかもしれない。しかしそれも環境ではなく状況に過ぎない。やはり何を求めているのかわからない。噂ではこの世界のどこかに抜け道があるらしい。人間であることをやめられる方法があるらしい。ホームレスの人々は仙人になるための修行の最中なのかもしれない。生き方は人それぞれになるだろうか。きっと公園で暮らす人の中からいつの日か仙人が生まれることだろう。すでに上野の森辺りには存在しているかもしれない。それは様々な生き方の中にあるバリエーションの一つなのだ。自分が知っている範囲で仙人に近い有名人の一人はウィーンで指揮者をやっているらしい。彼がその仕事を捨てれば仙人になれるかもしれないが、今のところ彼にはそのつもりがないようだ。オーケストラの指揮者のままで死んだ人の中には仙人のなりそこないが多い。彼らはその風貌だけは仙人に近い。しかし仙人に住む場所があるのか。この世界のどこかに桃源郷でもあるのか。郊外の竹林の中に仙人のすみかがある。虚構の登場人物にはわけありの経歴が多い。その老人もわけありの人生を歩んできたらしい。ところで君に善意があるなら、退屈な身の上話にも耳を傾けてあげなくてはならないだろう。山の向こうで山羊が鳴く。たぶん山羊はしらけているのかもしれない。


1月11日

 誰かが気の利いた忠告を発する。もう偽りの努力はやめにしよう。明日の不安に苛まれている間に今日を見失う。しかしそれでもなお、君は表面的な取り繕いに終始している。いつまで経っても意味不明に惹かれている。それは病に取り憑かれた者に特有の表情かもしれない。また近頃は覇気が感じられず、その気力に衰えが目立ちはじめる。君はいつから老人になったのか。気がついたら始まりに逆戻りしている。どうも個人の嗜好の次元へ話を戻しつつあるようだ。どうやら臆病風に吹かれて、思考する努力をやめてしまったらしい。そして気まぐれに、安全な方向への軌道修正を思いついたようだ。それはどういうことなのだろう。冗談ではないと思う。それは本来ならあってはならないことなのか。そんな大げさなことでもないだろう。ただいつものようにやりたいことを忘れているだけか。そんな簡単なことでもないはずだ。君の意志が何を求めているかもわからず、ただいたずらに言葉を費やす。しかしなぜそれが無駄だとわかるののだろう。いつものように何も求めていないつもりらしい。だがそんな行き詰まりとともに閃きが到来する。それは求めていないものだろう。それはこの世界とは関係のないことかもしれないが、世界がそれについていつまでも無関心でいられるはずもない。しかしその時君はどこへ舞い戻ればいいのだろうか。はたして沈黙を破って何かを語り出すきっかけを見いだせるだろうか。いつの日か見るに見かねて不用意に何か述べてしまうかもしれない。ここは一旦退いて、また機会を伺いながらタイミングを計って出直してくるとしよう。ある程度は間をおかないと何も始まらない。その間に何を準備しようとしているのか。いつまで経っても始められないから、こうして無駄に言葉を費やしているのかもしれない。翌日の空を見上げながら飛ぶ鳥の軌跡を追う。雲の切れ間から陽が差してきた。さっきからしきりに烏が鳴いている。この世界に気まぐれと気晴らし以外の何があるだろうか。それはくだらぬ感慨かもしれない。動物ならば生きるために何がしかの努力をしなければならないのか。では死ぬためには何をしたらいいのだろう。死ぬためにはまずは生きなくてはならない。生きていればいつかは死ぬが、いったん死んでしまったらもう二度と死ねなくなる。どうも君は輪廻転生を信じていないらしい。それは信仰の問題ではなく、見たまま感じたままの現実に基づいた認識になるだろうか。


1月10日

 最近早朝に鶏の鳴き声を聞かなくなった。どうも近所の鶏がいつの間にかいなくなってしまったらしい。静かな夜明けに何も思わない。それは何かのユーモアのつもりで述べていることだろう。三途の川の浅瀬で老人が溺れる。死者が死ぬこともあるらしい。あの世では老人が溺れないように三途の川にも手すりを取り付ける必要が生じている。そんな話は聞いたことがない。聞いていれば頭がおかしいということになるかもしれない。それは誰かの曲か。君たちは空想によって幻想曲を思い浮かべる。どこからともなく何かがやってくる感覚に浸かっていたいのか。それらの無内容の中に自由な発想を見つけたいようだ。たまには気が触れてみたいのか。世の中には相変わらずではないこともあるようだ。少しは変化を感じ取れる環境の中に暮らしているらしい。だがこちらでは相変わらずのことばかりだ。君はそのことについては無関心を装っている。それについてまんざら興味がないわけでもないのに、誰でもない誰かに向かって、すぐにばれるような白々しい嘘をついているようだ。面倒なのでそのことについて語るのが嫌になってしまったのかもしれない。ならばその代わりにここで何を語ればいいのだろうか。すでに語り終わっている。そしてそれ以外のことも終わってしまったのかもしれず、今さら何も語る気がしないので、とりあえず君は終わったことをまた蒸し返して何か述べようとしている。しかし誰が終わりを感じ取っているのだろうか。君はそのことについてはわざとすべてを語ろうとしないが、それ以外に何も語りたがらない。すべてが終わってしまったと思えるその時に、いったい他に何を始めればいいのか。君は筋の通らぬことを主張したいらしい。上空には鳥が飛んでいる。そんなものに関わってどうするのか。しかも一般人には関わりようがないことだろう。それらの出来事は君とは関係のないところで進行中だ。たぶん明日の朝には眼を覚まさなければならない。霊柩車の中で誰が眼を覚ますのか。その不吉な予感が日増しに強くなる。あの時と同じような気持ちになる。これから様々な出来事が起こるのを知っている。たぶん昼間の寒気は風邪の兆しだろう。それらの言葉に何を求めているのだろう。どうしてほしいのかわかりかねる。どうやってそれらの言葉を輝かせることができるだろう。


1月9日

 彼らは誰に何を訴えかけているのだろう。君にはそれがわかっているはずだ。わかっているが、わからない振りをしているだけなのか。掠れ声で話しかけるのはもうやめにしよう。冗談で辻褄を合わせたいのだが、それがなかなか難しいようだ。彼らに向かって話しかけているわけではない。彼らから刺激を得たいわけでもない。地下室の壁に向かって話しかけているのはどこかの囚人かもしれない。どこの誰が囚われの身なのか。もう何かの虜になることもないだろう。そういえば日本でかつて韓国のKCIAに拉致された金大中氏は、それを見て見ぬ振りをした日本政府に何か不平不満を述べたことがあっただろうか。その後囚人となり軍事政権下で死刑判決まで下された人が、後にその国の大統領になってしまったのだから、やはりそれはそれで、他の人と比較できないほどの物凄い人生なのかもしれない。しかも今やその人の息子が贈収賄事件の被告なのだから、それらの成り行きをなんと表現すればいいのかわからなくなる。そしてその金大中氏に替わって大統領になる人も、議員選挙に何度も落ちた経歴を持つ人権派の弁護士らしく、かなりの苦労人のようだ。なぜ韓国ではそういう半端でない人が国を代表するポストに就けるのだろうか。国民が民主主義を信じている証しなのだろうか。それが良いか悪いかは別にして、日本では考えられない状況にあることは確かだ。簡単に述べるなら、彼の国の人々の中には本気の人が多いのかもしれない。それと比較するなら、この国の人々の大半はふざけているのだろう。いったいどこにふざけている余裕があるのか。たぶんどこにもないが、余裕があるように振る舞っているに過ぎないのかもしれない。もちろんそれが悪いことだとは思わない。何となくみんな気楽に生きていける状況にあるようだ。それでいいのかもしれない。ふざけている人が多ければ多いほど国が平和である証しなのだろう。


1月8日

 疲れたので面倒なことは無視していい加減なことを想像すると、闇の中から希望が現れたりするだろうか。ここで毎度同じようなけちをつけるとすると、希望とは何だろう。希望の闇の中で何がうごめいているのだろうか。無視していたつもりが、またかなり面倒なことになってきた。しかし休止状態の意識を励起させるには、まだ何かが足りないようだ。無意識はその何かを知りうる立場にはない。どうもあまり本気で述べているわけではないらしい。いったい君には何が必要なのか。何も必要としていないわけでもないだろう。とりあえず呼吸をするための空気でも必要だろうか。そうやってはぐらかされたつもりになることも必要かもしれない。世の中には気休めにくだらない社会情勢について述べている人もいる。それが職業となっている人には逃げ道がない。では君にはどんな逃げ道が用意されているのだろう。なぜ君はそこから逃亡しなければならないのだろうか。いつか見た夢には神が出現していたかもしれない。君はその神に向かって、お前を絶対信じない、と叫んでいたような気がする。君にはそんな作り話は信じられない。それは君の人生に影響を与えるような話ではない。たぶん他の作り話に感動したのかもしれないが、虐げられた予言者は世界の終末を期待している。それを見て見ぬ振りをする人々を密かに呪っているのかもしれない。心の闇には明かし得ぬ秘密でもあるらしい。途切れた糸をつなぎあわせて自分の土地を囲っているつもりなのか。その雑草しか生えぬ荒れ地をなぜ死守しなければならないのか。死者を演じる者を崖の上から突き落としたい。もうひとつの黒い太陽の下で、聖者の白い影が魂の抜け殻を賞賛している。彼によれば、良心は少数の人たちを対象とした情報伝達媒体の中にあるそうだ。今や彼は気休めを述べているだけのようだ。この世界ではもう何もかもが手遅れだとするならば、もはやそんなことに落胆することもあるまい。かえってこれで良かったのかもしれない。期待とは忘却されるものに違いない。健忘症にでもかかった振りでもしていればいい。


1月7日

 挫折はよくあることかもしれない。絶望にうちひしがれた彼は詩から遠ざかる。その一方で現実に生じている空虚を埋められずに困り果てているようだ。はたして詩が空虚を埋めることができるだろうか。それ以外の何で埋めたらいいのかわからない。しかし埋めてどうするのか。空虚な思いを空虚な言葉で埋めてどうするのだろう。そんなことがわかるはずもない。とりあえずこの現実を言葉で表現しなければならない。それを言葉にするには何が障害となっているのか。彼の言葉では現実に行き当たらないようだ。現実を言葉に変換するには彼より高性能な装置が必要なのか。彼の限界はどのような人々に共有されているのだろうか。誰も共有する必要はないだろう。興味が薄い問題は誰からも相手にされない。では何か他にもっともらしい議論を展開させる必要があるのか。それは唐突な言い逃れを準備するだけかもしれない。それの何が詩なのか理解できない。それとは何なのかもわからない。彼とは誰のことなのだろう。例えばランボーのことでも述べているつもりなのか。ここでは冗談以外でランボーの名前が登場する余地はない。スタローンのランボーは冗談以外の何者でもないということか。嘘を述べるならベトナム戦争は些細な冗談から生じたらしい。怒りのアフガンも施設に収容された彼の夢想から生まれた産物だろうか。ところで誰が施設に収容されてしまったのか、たぶんそれも嘘に違いない。それは施設などではなく、例えば都市空間かもしれない。都市空間が何かのプレリュードを予感させる。そこで何かが始まり、何かが終わろうとしている。ハリウッドと呼ばれる地はある種の精神収容施設をなしているのかもしれない。娯楽の提供と引き換えにして安っぽい情緒不安定を強いる。何を述べているのでもない。彼は詩から遠ざかっている最中につまらないことを述べているようだ。北アフリカの乾燥した大地で、本物の彼はつまらない商売をしていたらしいが、それがつまらなく思えるのは、現在の状況が反映されていることによる。当時は何がしかの魅力があったのかもしれない。それとは別人の彼にとってはそんな商売などどうでもいいことだ。彼は詩に近づいたことすらない。


1月6日

 何もわからずに途方に暮れている時、とりあえず何を述べればいいのだろうか。君にはこの現実が理解できない。しかしこの現実とは何だろう。今現実に何が問題となっているのだろうか。何を考えているのかわからない。それをわかるためには何かが欠けているのかもしれないが、君はこの現実を理解しようとしていないのかもしれない。どうも違うような気がしているらしい。何が違うのかはっきりとはわからないが、何かが違うようだ。この社会には何かしら決まり事があるようだが、当然その時の状況に応じて決まり事を守ったりやぶったりして、状況が推移して行くらしい。しかし具体的に何について述べようとしているのか。ただそういうことでしかない。たぶん君にもそれ相応の過去と現在と未来があるのだろう。現実とはそういうことでしかないのか。それ以外に何があるというのか。いったいそれ以外の何を求めているのか。ただ自分の都合が反映された未来を求めているだけなのか。そんなことをどうやって肯定すればいいのか。そのためにはどのような美辞麗句が必要なのだろう。それを肯定しなければ生きて行けないのだろうか。人々は社会の中で自らを生かすためになぜ努力し続けるのか。そこになぜを差し挟むこと自体がおかしいのだろう。だがそれは違うような気がしている。今や人々はただ生きているだけのように感じられる。生まれてから死ぬまでの間生きている。生きる目的などどうでもいいことだ。個々の人格や集団によって捏造された目的などにリアリティはない。そこにあるのはそれぞれの勝手な願望が反映された妄想だけだろう。そんな妄想たちが現実の世界でぶつかりあう。その妄想に従えば幸福になるだの成功するだのと喧伝しあっている。それぞれの妄想にどれほどの人々が従うかで、妄想にも流行り廃りがあったりするらしい。今はどんな妄想が流行っているのだろう。その流行りの妄想に乗り遅れた人々は不幸になったりするのだろうか。たぶんそうなのだろう、不幸とはその程度のことなのだ。そんなレベルで何を述べればいいのかわからないが、しかし他にどんなレベルがあるというのか。たぶん君は不可能なことを述べようとしているのだろう。必死に述べようとするが述べられない。現実とはそういうことでしかないのかもしれないが、一方では、どうもそれは違うような気もしている。もう少し肯定的なことが述べられるような気がしているのだが、やはりそれも身勝手な妄想に過ぎないのだろうか。これ以上何かを述べようとすることは単なるわがままなのか。


1月5日

 宇宙から地球を見ると青く見えるようだ。かなり以前から疑問に思っていたことで、なぜ遠くの風景が青く見えるのか、その理由をつい最近知ることができた。空気中の水蒸気に光の青い部分を反射して他の部分を吸収する働きがあるらしく、それで空も海も遠くの風景も青く見えるそうだ。水の色は透明ではなく青いのだろうか。ならば大気中に水分のほとんどない火星では遠くに見える風景は青く見えないのだろうか。山が青いのは地球上だけの現象なのだろうか。まあこれから火星へ旅立つわけでもないので、そんなことはどうでもいいことだろう。今は旅という言葉にロマンをかき立てられることもない。宇宙旅行はフィクションとして見聞されるだけか。夢に向かって努力するという形式に適合することでもない。現実という状況に絡めとられている者にとってそれらは空想するだけの対象なのか。だがその現実とはどのような状況なのだろうか。はたして君はこんな現実があることを信じているのだろうか。信じていようといまいと、この現実の中で思考し行動しながら生きているらしい。しかしそれがどうかしたのだろうか。どうもしないのと同時にどうにかしているのかもしれない。結果としてただ何となくうごめいているに過ぎない。君はそこに何らかの基準や指針を見いだせずにいるようだ。何をどうしたらいいものか、考えあぐねているらしい。そして途方に暮れる毎日なのか。わからないが、そこまでは行っていないような気もする。どうも何かしらやっていることは確かなようだが、やはりそれがどうしたわけでもなく、やっていること自体もあまり強い気持ちでやっているわけではなさそうだ。それが良い意味なのか悪い意味なのかは知らないが、とりあえず力が抜けているようだ。強烈な意志といったものとはまったく無関係になってしまった。必死でやっていた頃が懐かしい。もちろん必死でやっていた頃の方が面白い内容になっていることだろう。あの頃に戻れるわけもなく、戻ろうとも思わないが、季節が移り変わるように、意識も周りの状況に合わせておのずから変化していってしまうのだろう。


1月4日

 わかりやすく述べようとするとかえってわかりにくくなり、ならば開き直って思いっきりわかりにくく述べようとするとそこで行き詰まる。要するに君には才能がないのだろう。だがそんな意見には聞く耳を持たない。それはいったい誰の意見なのか。いつもの調子で酒も飲まないのに酔った振りをしているらしい。忠告が聞こえているのかいないのかわからない。そんなことを思っているうちにいつの間にか眠ってしまったらしい。こんな気休めの物語へようこそ。何もないので安易に物語という言葉を使用してしまうが、物語とは何だろう。どこで物語が成立しているのか。それがどんな物語で何を物語っているのか不明だが、彼は午前中から気分がすぐれない。だからといって余命幾ばくもないわけでもなく、至って健康かもしれない。だがそんな表現は不自然だ。朝食べた食パンと紅茶が味気なかったのを思い出す。いったいそれはいつの朝食のことだろう。十数年前に一人暮らしをしていた頃を思い出しているのか。彼はそんな昔のことは忘れてしまった。何か適当に述べた後からいい加減な理由づけを行っているらしい。言葉のつながりと内容がぎくしゃくしている。何かがつっかえていて、それを取り除くことができないでいる。まるでしゃっくりのように事態は進行し続ける。絶えず矛盾を放置し続け、説得力のない言い訳を延々と繰り返す毎日になるだろう。そんな狭い場所に閉じこもっていないで、もっと外の世界に目を向けなければならない。そんなことをいわれても、目を向けてどうするのか。君が目を向けたところでこの世界がどうなるものでもないだろう。世界とは単に外国のことではないはずだ。ここも外国もこの世界の一部分に過ぎない。しかし依然として、世界に目を向けたところでそれからどうすればいいのかわからないのは相変わらずのことだ。ただ漠然とこの世界を感じているに過ぎない。そこで感じたことを言葉で表現する理由を見いだせないが、理由がなければ何もやれないわけでもないだろう。それがこの世界から導き出された気休めの言葉なのか。とりあえずそれを肯定も否定もしないが、たぶんそこからしか物語は始まらないような気がする。はたしてそれを物語と呼んでいいものか、かなり違うような気もしてくる。


1月3日

 夕方にウトウトし始めて気がついたら真夜中になっていた。何かがおかしい。混線しているのは頭の中ではない。とりあえずその場の雰囲気から何かの波長を感じ取り、それに合わせて話を構成しようとしているが、なかなかうまくいかない。どうもいくつかの話題が意図的に混ぜ合わされているようで、その結果としてやはり支離滅裂な内容になる。それでもあちらではなんとかまともに見えるように振る舞っているらしいが、こちらでは相変わらずの意味不明のようだ。何かうわごとのようにおかしなことを述べている。それらは無意識に発せられた歌だろうか。今何を思っているのか。バンドネオンのジャガーの物語とは何か。その時君は困難に直面しているはずだ。だがそれが困難といえるのか。忘れられた誰かの名をここに記すには多少の気恥ずかしさを伴う。間接的にに述べるならば、まずは南米の大河をいかだで渡る人がいて、森の中を流れる清流で魚がはねる。彼の名はいかだではなくあがたではなかったか。確かそんな名前の歌い手で、芝居がかった口調の歌い方が印象に残っている。バンドネオンのジャガーは怪人なのか。どこからともなくやってくるのは、江戸川乱歩あたりから影響だろうか。それとは無関係に、火星では川の流れのように大地を砂が流れるか。君はそんな光景を思い浮かべているのだろうか。首にマフラーを巻き付けて首つり自殺のまねごとでもやっているのか。なぜか君は彼の歌とはまったく関係のないことを述べているらしい。なぜ突然わざとそうするのだろう。たぶん見ている映像に飽きてきたので、チャンネルを切り替えたところかもしれない。ある日のテレビでは碾き臼の中で粉になるまで蕎麦の実が碾かれていた。だがその後が思い出せないので、また不自然なつながりになるだろう。いい加減な言葉の組み合わせは説明のつかない情景になりうるだろうか。はじめから理由などありはしない。どんな理由でそれらの言葉を組み合わせているのか君にはまったくわからない。まるでチンプンカンプンだろう。たぶんそれは君の体験している日々の光景とは異なるだろう。何を述べているのかわけがわからず、わざとらしいポーズで君は嘆いてみせる。いったい何を嘆いているのだろうか。事態は一向に改善せずに、改革への取り組みが何も進展しないことに腹を立てているのか。いったい誰が何を構造改革しようとしているのか。その非難の口調は昨日の葬儀での親族同士の口論に似てくるだろう。何事も一筋縄ではいかないだろうし、目指しているものは非難の矛先にある当の状況かもしれない。自らが否定するものが君の目標なのだろうか。ここであり得ない話に尾ひれが付いて、あらぬ方角へ向かっておのずから話は泳ぎ進む。話に方角があるはずもない。満たされているのは欲求ではなく、洗面器に張られたお湯のことか。いつものように空虚に満たされているのだろう。物音がしたのは斜め後ろの方角だったかもしれない。ここにははじめから何もないが、それを持て余しているわけでもない。寝起きに言葉を連ねるとこんな感じになるだろう。今回はまったく修正が利かないようだ。


1月2日

 いったい感動の名場面はどれくらいあるのだろう。年末年始のテレビは感動の名場面ばかりかもしれない。どうも君は今もテレビに心を支配されているようだ。フィクションの中ではそんなはずはない。荒野のただ中で地平線に沈む太陽を眺めている。だがそんな光景もいつか見たテレビ映像の焼き直しに思えてくる。もしかしたらそれが感動の名場面の一つだったかもしれない。その眼で直に見た光景を思い出せるだろうか。映像も直に見た光景には違いない。そのガラスの窓のついた四角い箱を直に見て感動していたはずだ。ある時そのガラス窓には、驚異の映像と銘打たれた代物が映し出されていたはずだ。ジャングルで囲まれた湖に得体の知れぬ巨大生物が出現したりする。またある時は、ベルリンの壁が崩壊してそこに居合わせた民衆が狂喜乱舞している映像もあった。今から思えばあれは何だったのだろう。あれの何に感動したのか思い出せない。もしかしたらあれは一種のヤラセだったのかもしれない。湾岸戦争の時は、まるでテレビゲームを見ているようだ、という台詞が盛んに流されていた。あれの何がテレビゲームに似ていたのか思い出せないのだが、確か去年のアフガン戦争の時にも同じような映像を見かけたはずだ。そして今は何が何でも北朝鮮の話題を取り上げなくては気が済まぬ人々のゴリ押しによってニュースが構成されているらしい。やはりそれが君を不愉快な気分にさせるようだ。だから最近の君は天気予報しか見ようとしない。しかし天気予報の何に感動できるだろうか。とりあえず天気予報に感動などいらない。それよりもまさか天気予報には北朝鮮の話題は出てこないだろうから、気分を害されることもない。確か今朝は予報に反して雪景色を見ることができた。それはテレビ映像ではなくその眼で直に見た光景だ。ところで君はその雪景色に感動したのだろうか。多少は眼を奪われ心を動かされたかもしれない。だがそれとこれは何の関係もないことだ。それとこれとは何と何なのだろうか。それもこれもまだ明確には示されていないような気がする。言葉にできない感情みたいなものがわだかまっている。そのわだかまりをどうすれば取り除くことができようか。無理だろう、今はその嫌な気持ちを消し去ることはできない。そしてうんざりさせられた思いを自ら解消させようとも思わない。どうやら心は頑な姿勢で固まってしまったらしい。どうしても彼らを許すことはできない。しかし彼らとは具体的にどんな人々のことなのか。たぶん君たちのことなのだろう。そして彼らは許されなくとも何の危害もおよばないだろう。別に許してもらう必要もない。誰に許してもらわなければならない理由もない。彼らは永遠に許されざる人々なのかもしれない。四角い箱の表面に映し出される人々はそんな世界の住人なのか。そんな世界とはどんな世界なのか。ようするにそんな世界とはこんな世界のことか。こんな世界に四角い箱が存在している。その沈黙することが許されない四角い箱が諸悪の根源だとは思わないが、それが善悪の基準を捏造していることは確かなようだ。その基準を見ている者に押しつけてくる行為そのものが許されざる過ちなのだ。


1月1日

 安易な意識が言葉の呪縛から解放されることはない。紙パックを開封したらなるべく早く飲んでほしいそうだが、紅茶の甘さに耐えかねて毒舌を吐く人はいないだろう。五十年以上も前の素朴な音楽を楽しんでいるうちに夜になる。明日の夜は何をしているのか、明日になればわかるだろう。君が聴いているのは現代音楽ではない。なぜか現代音楽はさらに古い音楽に属する。ちまたに満ちあふれている流行歌は使い捨てのための音楽だ。だがそんなひどいことを述べていいのだろうか。そのいくつかは捨てられずに、押し入れの中の古いカセットテープに録音されていることだろう。もう二度と聴くことはないそのテープをなぜ捨てられないのだろうか。もはや捨てるタイミングが失われてしまったのかもしれない。黄ばんだ文庫本とともに、がらくたとしてしばらくは押し入れの中で眠り続けることだろう。たぶん引っ越しでもする時にそこで捨てられることになりそうだ。引っ越しをする予定はない。カセットテープを捨てるより引っ越しをする方が大変だ。だから状況が変化する兆しは感じられない。がらくたが溜まった押し入れを整理する機会は訪れないだろう。押し入れの中は日差しが足りないから、押し入れの中の住民はもがき苦しんでいる。必死になってその悲惨な現状を外の世界に向かって訴えかけようとしている。おもちゃの兵隊とともに暗中模索の日々なのだろうか。世界がそこにあることを信じて疑わない人は幸せだ。もう後戻りはできないことを自覚できない人も幸せだろうか。何かの気配に気づいてふと振り返るとみすぼらしい身なりの人が追いかけてくる。なぜか何もかもがスローモーションで動いているように感じられ、その人はいつまで経っても追いつけそうにない。よく考えてみるとそれは紙の上での出来事かもしれず、その紙の上にペンを走らせている人が意図的に追いつけないように言葉を操作しているのだろう。たぶんそれはドタバタ劇の台本かもしれない。どうやら空想が押し入れの中から外へ這い出てきたようだ。思えば埃っぽい押し入れの中の環境は最悪だった。きっと眼を覚ませば明日は青空の下で思いっきり新鮮な空気を吸うことができそうだ。夜空を見上げれば冬の星座が瞬いている。些細なことに神経を尖らせていた意識も自然とリラックスしてくるような気がする。夜空がそんなことはどうでもいいことだと言い聞かせているようだ。たぶんそれこそありふれた言い回しなのだろう。やはりつまらない月並みな表現に思えてくる。だがそこでこだわりを構築できないようで、それはそれで適当に受け流しておいてもよさそうだ。それは何かのエッセンスなのだろう。言葉は本質的にありふれた表現の積み重ねとして使用することしかできない。奇をてらった表現を多用しても、ただ意味不明になるだけかもしれない。


2002年

12月31日

 そこで何を語っているのか知らないが、饒舌を終わらせるにはまだ言葉が足りないのか。今さら何をどうしようとも、それが無駄だとわかってはいても、今も君はどこかで言葉を探し続けているらしい。だからやる気もないのに、探している限りはまだ続くのだろうか。やる気と実際にやっていることは無関係なのか。なぜそこまでやり続けるのだろう。以前から漠然と抱いていた終わりの予感は気のせいだったかもしれない。しかし相変わらず普段思っていることを思い出せずにいる。考えていることもまったく生かされていないような気がする。たぶん君がやっていることは無駄な作業だろう。確かに無駄な作業だが、無駄でない作業を見つけられない。しかし人は無駄に言葉を費やして何を述べるべきなのか。何もなければ本来は沈黙すべきなのかもしれない。日常会話以外で述べる内容は決まりきっている。本来なら自らに利益をもたらすために、何か適当なことを述べなければならないのだろうが、ここではそのような目標が消失しているらしい。いったい利益とは何だろう。他人を魅惑するような言葉を連ねて共感を得なければならないのだろうか。その必要がどこにあるのだろう。そんなことに価値を見いだせない。ならば沈黙を空虚に変換して、誰からも見向きもされないような内容を述べればいいだろう。そうやって君はその役割とは関係のない方向に歩んできた。しかし役割とは何なのか。何をすることが求められているのだろう。誰からも何も求められていないような気がする。空虚な言葉を操ってこの世のすべてを空白の平面に移し換えること、そんなことが可能であるわけがないが、空虚な妄想の終着点はそんな内容になるだろうか。しかし何を戯けたことを述べているのか。そのような表現でもやり方次第では行き着くところまで行き着くだろうか。君は彼と同じように完全に常軌を逸して、初心を忘れている。それらの作業はいったい何のためにやっていることなのか、相変わらずそれを思い出せないまま、ただ闇雲に空虚で意味不明な言葉を費やす。だが当然それでは何も見いだせないし、そのことから生じる苛立ちを紛らわすために、時折つまらぬ評論もどきなどを語ってみせるが、気分は最悪の状態からさらなる下方へと落下し続ける。結局は迷い疲れて、混迷の直中へ留まっている自意識を救い出せぬまま、ただ途方に暮れている。そんなことを繰り返すうちに、どこかで無理が積み重なっているようだ。そうやって徒労に徒労を重ねて、やっとことで繰り出される言説といえば、自己言及的な現状分析ばかりのようだ。一見したところそこには説明のための言葉しかないようだが、それでもまだ説明が足りないような気がしている。君がその程度の内容で満足できるとは到底思えない。さらに言葉を連ねる必要を感じている。そうすることに目的も目標もない。ただ何となく言葉を記している。たぶんこれからもそんなことの繰り返しになるだろう。


12月30日

 例えば最高レベルの野球を見たければアメリカのメジャーリーグを見ればいい。アメフトならばNFLでバスケットボールならばNBAになるだろう。それらのスポーツにおいては国別にチームを組んでの世界大会というのは、実質的にエキスビジョンマッチという色合いが濃くなる。どうも今年行われた日韓共同開催のサッカーのワールドカップを見ていて、サッカーもそれらのスポーツと同じような状況になりつつあるのではないかという感慨を抱いた。サッカーの最高レベルの試合を見たければ、ワールドカップではなくスペインやイタリアやイギリスなどのプロリーグを見ればいいということかもしれない。プレーヤーたちも実質的な報酬が絡んでくるそちらの方を優先しているのではないか。そういえば相撲も世界大会よりも日本の大相撲の方がレベルが上ということになっている。ワールドカップではなく、ワールドエキスポとその名称を変更した方がいい。報道の方も何か万国博覧会のような内容だった。マスメディアの感情とは裏腹に、スポーツにおいては、国別に優劣を競い合うというオリンピック的な形式は廃れつつあるような気がする。もちろん旧式の報道機関は北朝鮮のピョンヤン放送のように、これからもいつまでも国家の枠組にしがみつき、大本営発表的な報道をして行くのかもしれないが、MLBやNFLやNBAを衛星放送でアメリカ以外の国で放送するということは、アメリカ中心主義(ナショナリズム)とは別の意識を形成する結果を招いているのではないだろうか。それらを見ていて、自国の選手よりも外国の選手に親近感を覚える人が多くなればなるほど、国家に捕われない精神が養われていってしまうと思うのは自分だけだろうか。例えば相撲の横綱や大関がハワイやモンゴル出身の力士であったり、アメリカ開催のバスケットボールの世界選手権で、本国アメリカが六位に終わったりしたことが、あまり不自然に感じられなくなってきている状況が、それらを促進していることになるだろうか。


12月29日

 どうも君にはいつものようにスリルとサスペンスが必要なようだ。気休めに空想した架空の物語の中では、殺意を抱いた男が懐に隠し持っていたナイフがどこかへ消え失せる。どこかへ落としてきたのかもしれない。そんなことを述べている場合ではないのかもしれない。技巧を凝らすような場合ではないということか。そんなイメージには興味を持てないだろうか。近所の子供がどこからか錆びたナイフを拾ってくる。そのナイフを木の幹に刺して遊んでいる。少年漫画に出てくる英雄気取りでナイフを振り回す。そんな話が実際にあったわけではなさそうだ。作り話の続きでは夜の公園で人がうずくまっている。砂場では脱ぎ捨てた革靴が散らばっている。そして風に揺れているのはブランコだろうか。大した事件が起こったわけではなさそうだ。近所の少年には、魔法使いの少年が不思議の旅へ出る話でも語って聞かせよう。この殺伐とした世界にはそれに見合った気休めが必要だろうか。君には夢が必要なんだ。僕には何が必要なのか。必要なのは美談かもしれない。例えば不治の病で余命幾ばくもない子供に向かって、何を語って聞かせればいいと思う。それではマスコミがいかにも喜びそうな設定だが、そんな条件付けにどんなリアリティが宿るのだろうか。冬晴れの空は寒々としている。その青い空の下ではただ人々がせわしなく動き回っているだけだ。そこにどんな興味を持てるだろう。知ったかぶりして何か世界情勢について述べてみたいわけか。どこの誰が述べる必要に迫られているというのだろう。CNNのコメンテイターになりたいわけでもあるまい。そんな気力がどこに残っているというのか。投げやりな君は、みんな死んでしまえばいいと思う。特定の誰というわけではなく、すべての人間がこの地上から消えてなくなってほしいと思う。物語の中の登場人物もこんなことを思っているのだろう。それは巧妙な逃げ口上か。巧妙でも何でもない、あからさまな逃げ台詞かもしれない。考える努力を放棄しているようだ。たぶんそんなことを述べたかったのではなかった。結果としてこうなってしまった。何がうまくいかない原因なのだろうか。


12月28日

 いつも君のカメラは決定的瞬間を見失う。それは眼の代わりをなしていない。眼とは違う働きをする機械かもしれない。その瞬間を画像として平面に定着させる機能にどんな役割が担われているのだろうか。失われゆく時をつかの間思い出すための道具なのか。それ以外にどんな気休めを導き出せるだろうか。限界はとうに過ぎ去ってしまったようだ。鏡に写った彼の眼は虚ろだが、その死から何十年もの歳月が過ぎ去っているにもかかわらず、その先に言葉をつなげられない。だが唖然としている余裕もないらしい。まだ残された時間を活用できるのだろうか。途方に暮れるのはこの辺でやめにしよう。時間に追いかけられて、執拗に追いまくられ、見失っていた精神を完全に忘れ去り、昔の意気込みを闇に葬り去り、去り行く意識をそのまま消え去るにまかせ、今や忘却の彼方で何をやっているのか認識不能に陥る。そんな時はこんな時なのだろう。そして怒りにはほど遠い否認の感情を呼び覚ます。誰かがどこかで叫んでいる。そんなことをやっている場合ではないと、君に向かって無益な言葉がこだまする。冗談ではないと別のこだまがやり返す。つまり彼らはそこに何らかの争いごとを介在させたいらしい。単純に競争原理を導入したいのかもしれない。まるでどこかの経済評論家のように、自由競争のメリットを強調したいだけなのだろう。老人よ、今すぐそこから立ち去ってほしい。それは誰に対する呼びかけなのか。今は知りうる立場にはないと言いたいわけか。たぶんそれは嘘だろう。それで君は嘘を見抜いたといえるだろうか。動き出しているのは、通りに止まっていた宅配業者のトラックかもしれない。そのエンジン音を子守唄として誰が寝るだろうか。その歌声には暗い哀愁が込められているそうだ。そんなスタイルがどこにあるのか君には知り得ない。ひび割れた敷石に躓いた老人は何を思ったのだろう。理解不能な言葉は魅惑の解釈を可能としている。気休めとはそういうことかもしれない。さっきまで見えていた夜空の星を見失う。君は星が消える瞬間が見たかったらしい。同志は世界を見ていない。それ以上の何を望むだろう。歌声と笑い声はどこかで途切れ、いつかは沈黙に包まれるだろう。そんな場所で君は何を思っているのだろう。ただ適当に言葉をつなげているだけなのか。


12月27日

 どこからともなく忍び寄ってくるのは何だろう。それは月並みな老いだろうか。さっきまでいた猫は今はもういない。早朝に道路の真ん中で黒い猫が死んでいた。そこはありきたりの場所でよくある光景かもしれない。音楽の中で誰かが歌う、君に歌ってあげよう。世界平和のためにつまらぬ努力はおしまないそうだ。人生が固まってしまわぬように、口先だけの自由を君に捧げよう。そのギターの音色が気に入ったのか。それは死人のギターだ。紫の幻影にいかれて数十年前に黄泉の国へと旅立っていった。それのどこがおかしいのだろう。血気盛んな時代なら、腹に短刀が直入することもあるだろう。三百年前なら四十七人の腹に直入したはずだ。しかし忠臣蔵の誰が忠臣だったのか。その名前のどこに忠臣としての証しがあるのだろう。それが名前で表現されるはずはない。空を飛ぶ鳥は誰がリラックスしているかを知っている。彼は芋の蔓を引きずりながら何かを叫んでいる。言葉の組み合わせと文章のつながりがおかしいそうだ。四声のカノンは暇にまかせてどこへでも鳴り響いている。音楽の捧げものは君には面倒くさいか。しかしタロ芋の茎から繊維が取れるだろうか。単刀直入は短刀とは無関係な言葉かもしれない。なぜか黄色い太陽の下で土木作業員がくつろいでいる。確か五年前の君は無職だったはずだ。計測不能な感情を無視して話を進めよう。そのとき感じた心の痛みは何によって測られるのだろうか。そんなのは何でもないことだ。やけに長く一日が感じられる時、ふいに昨日の出来事が思い出される。演歌歌手は自分の持ち歌の内容につり合うだけの波瀾万丈な人生を送ることができるだろうか。そんな他愛のない疑問とともに君は内容のない話を持続させる。今ではヘルダーリンの声も聞こえない。横目でちらちら見ているのはテレビ画面しかない。そこから先にあるのは夜の闇だけか。歌の中で奇蹟を信じる人は秘めた怒りを鎮めながら聖人の像を彫っている。幻想と苦悩が彼にまとわりついて離れない。無限の時を体験できる人がいるだろうか。衰えた人から順に癌になるだろう。意識が途切れるその時まで君は語り続けるつもりなのか。今はもう君が何を語っていたか知る術はない。ディスクの表面に彼の指紋が見受けられる。破損したケースはまた買えば済むことか。


12月26日

 今からっぽの頭はどこにあるだろうか。迷路の中で出口を求めて彷徨っているわけではないが、それらの状況を肯定する以外に出口はないかもしれない。気分は最悪と最高の間にはなさそうだ。たぶんそれは気分ではない。いったい脳みその中はどうなっているのだろうか。たまには警戒水域を超えて川から水が溢れ出す。そんな喩えが何らかの意味を持つことがあるだろうか。それは喩えではなく、いつか起こるかもしれない架空の出来事に過ぎないかもしれない。何かの合間に作業を再開してみた。それは何の合間なのだろうか。案外何かが始まる合間かもしれない。睡眠の合間に深呼吸を繰り返す。そして食事の合間に何かを思い出す。懐かしいギターの音色につられて、何が懐かしいのかを思い出そうと試みる。今ひとつ思い出そうとしている内容をわかりかねる。どうも今回はあまり気乗りがしないようだ。必死になって思い出そうとしていないような気がしてくる。その内容があまり面白くないのかもしれない。いつかどこかに置き忘れてきたのはどんな夢だったのか、それが何だったのかを思い出せない。唐突によみがえった記憶によれば、それは陳腐な内容を呈している。何が陳腐な内容なのかわからない。君はそこで何を思っているのか。重力に影響を受けて生じた空間の歪みを利用して、恒星の向こう側が見られるらしい。重力場の理論からそんな現象を説明できるのだろうか。そんな内容を思い出したことにする気なのか。たぶんそれは冗談の一種だろう。君は今何となく嘘をついている。そんなことを思い出したのではなく、もうそろそろ起きなければならないことを思い出したのだ。しかし起きてどうするのかわからない。深夜に起きたら、また寝ればいいのかもしれない。なぜか面倒な内容になるのを避けようとしているらしい。そして何となく内容のないことを述べ続けている。これは危険な徴候だろうか。洪水でも近づいているのだろうか。


12月25日

 そこでいくら批判めいたことを述べてみても、あまり本気で批判している気がしない。それらの批判のような内容を読むと、ただ何となく虚しい。自分にとってそれらは、批判の範疇に入らないことなのかもしれない。それらの批判はあまりにも推敲が未熟で推考も浅はかに感じられる。深く掘り下げて考えている暇がないのだろうか。夜の庭で月影が西に傾きかけたとき、そんな言い回しを嫌悪していることに気づく。どうもそれらの言説は、以前の内容とはかなり違うのではないか。だが君は何が違うのかを知ろうとしていない。君はそうやっていつも決定的な言葉に至るのを避けながら、すでに破たんを来している事実を隠しておいて、何やらつまらぬ例え話を用いて、それとなくその内容にもならない無内容を示唆しているらしいが、毎度のことながらそこで行き詰まっているようだ。だがそんなことなどどうでもいいことだ。無内容に内容があるように見せかけるための手法に過ぎない。西に傾いているのは月影ではなく、冬の日の午後の日差しだろう。そして遠くから聞こえてくるのは風の音ではなく、竹林の竹の幹がしなる音かもしれない。冒頭の出だし部分が抜けている。言葉がまとまらないうちに意識は迷走し続ける。当初においては何を語ろうとしてたのか。思い出せないのは架空の冒頭なのか。今さら謎解きをやっている暇はない。日差しの中にどのような心が見いだせるだろう。面倒なので自分の内面には心がない。心があると面倒なのか。心とは何だろうと問うではなく、心という言葉を用いて何を述べようとしているのか、そしてこれからどのように語りを継続させるつもりなのか、そこが知りたいところか。だからその辺が違っているのかもしれない。心で何を述べているわけでもないし、何も中身のあることは語っていない。それについて嘘偽りを述べるなら、まるで崖の上から飛び下りるような気分だ。しかし何を述べているのだろう。いつか風の強い日がやってくる。そしていつの日か破たんを来している心に気づくだろう。心の底が抜けていることに気づく。しかし相変わらずそれがどういう気分や状況を示しているのか不明確だ。


12月24日

 現代音楽とクラシックの間に空虚が差し挟まれる。何となく物思いにふけっているうちにこんな時間になってしまったようだ。相変わらずの他愛のなさに何も込み上げてこない。床に飛び散った黒い血は死んでいる。体内を流れる赤い血は生きている。想像上の赤と黒の境界線上にはゲル状の物質が確認されるかもしれない。では乾ききった干物には赤も黒も確認できないか。捕らえた獲物を食するには、まずは血抜きを施さなければならないということか。猫は今でも三味線の皮として需要があるのだろうか。三味線の音色には猫の怨念が取り憑いている。鰐皮の財布やハンドバッグには鰐の怨念が取り憑いていたりするのだろうか。また牛革の靴やコートには牛の怨念が取り憑いていたりするか。そんな問いに答えを探し出す気はない。世間ではどんな問いに答えが求められているのだろうか。この世界に何を問えば気が済むのだろう。テレビのクイズ番組でも見れば、簡単に問いと答えを知ることができる。一般に問いがあって答えがある。問いがなければ答えもない。だがそれは建て前の上での話であり、問いがそのまま答えには結びつかないことが多く、それでも答えがないと不安が募るから、あらかじめもっともらしい答えが用意されていて、その調整された答えに合わせて問いを捏造する場合もあるだろう。テレビ放送などの内容は、前もって自分たちの都合に合わせて考え出された答えから、そういう答えに至るような問いを考案する場合がほとんどだろう。人々はそういう作られた情報が溢れ返る日常に何を求めているのだろう。彼らが推奨するような美しい生活がほしいところか。それらの美しき日々にはどんな問いと答えが用意されているのだろう。それの何が美しき日々なのだろう。例えば田園地帯ではきつくて実入りの少ない農作業とは無関係な、趣味としての園芸を楽しむ日々が構成されるかもしれない。それらの不自然な日々はとってつけたような印象を与えるが、そんな光景を画面に映し出している合間に流される商品の宣伝広告によって、一般的な農作業とは桁違いの高額な収入を得ているわけで、一般人がそれらの光景に憧れて同じようなことをやれば、とたんに行き詰まってしまうだろう。たぶん夢を売るとはそういうからくりなのだろう。夢と現実には恐ろしい落差があり、画面上に構成される光景と現実の状況にも同じような落差が存在する。そこには取り返しのつかない嘘が差し挟まれているのか。赤と黒の境界線上には薔薇と闇が共存していたりする。君の気分はさらにおかしな状態を呈する。とりあえずここには問いがあったり答えがあったりするようだが、冗談のような光景にうなされ、真剣に問うことに疲れているのかもしれず、したがってその答えを導き出す努力にも熱が入らないようだ。


12月23日

 今日もたった一行で終わるところを長引かせるのに苦労しているようだ。ある晴れた日の午後、まどろみの中から一陣の風が巻き起こるはずもない。内陸部にある赤土の大地で見果てぬ夢を追い続ける人は、いつしかその身も精神も化石となるだろう。突然の土砂降りで表土が押し流される。ところで珪化木にはどんな年輪が刻まれているだろうか。観察しているのはそんなものではない。だがその否定の先には何も見当たらない。君も彼もその身や精神が燦然と輝くことはあり得ない。後光がさしているのは薄暗い寺院の内部に安置されている仏像以外にあり得ない。彼らはあり得たかもしれない解決手段を無視しているうちにどうなったか。絶好のチャンスを逃して意気消沈するどころか、逆に居直っているらしい。要するに馬鹿な人々はこの世の醜さをそれらの身に体現しているわけか。しかし醜い人々の方はどうなのだろう。この世の馬鹿さをそれらの身に体現しているとでもいうわけか。自分にはそれらの人々の神経がわからない。どうしようもない人々はそれらのどうしようもない態度や行動にふさわしく、にっちもさっちもいかないどうしようもない状況下に置かれているようだ。それでも自分たちの愚かさを認めようとはしない。それは認識の甘さどころではなく、まったくの勘違いのなせる技かもしれない。その程度の人々に発言する機会を提供する言語空間などに用はない。すべてがすべてではないが、すべてはなるようにしかならないだろう。朝鮮半島を統一するにはどうしたらいいだろうか。とりあえず北に配慮して国名を朝鮮民主共和国とでもして、首都を平壌にでもおけば納得してくれるだろうか。統一議会の議席配分は三分の一を朝鮮労働党にでもやって、残りの三分の二は経済力があって人口も多いと思われる韓国の取り分にすればいいだろう。そして大統領には韓国の新大統領がそのまま横滑りしてその職に就けばいい。何かと評判の芳しくない北の金正日氏には、その罪を問わないのと引き換えにして、政治活動からは引退してもらわなければならない。そしてもし中国の協力が得られるならば、統一直前から統一後三年ぐらいにかけて、治安維持のために十万人規模ぐらいの人民軍を北の各地に配置させれば、北の人々も安心するような気がする。そんな感じで統一したら、四年後ぐらいに改めて議会選挙と大統領選挙でもやれば、とりあえず普通の国家の体裁は整うのではないか。もちろんこれは絵に描いた餅に過ぎないだろう。こんな提案をどこにすればいいのかもわからない。おそらくその機会がやってくることはあり得ないか。


12月22日

 折衷的な儀式の帰り道にふと思う。君は今何を思っているのだろう。別に思考の限界に挑戦しているわけではないが、やはりこの辺が限界かもしれない。この辺とはどの辺なのか、その辺がよくわからない。よくわからないついでに、わかろうとする努力を放棄してしまいそうになる。わからなくてもかまわないことは確からしいが、その確からしさが疑わしく感じられる。なぜゴリ押しをしてしまうのか。他人のゴリ押しを醜く感じてしまう感性に嫌気が差す。しかしそのうっとうしい感性をなかなか放棄できないでいるようだ。また他人に認められようと努力することが嫌になる。たぶんそれでは自分の殻に閉じこもっていると見なされてしまうだろうが、自意識はそうではないと感じている。うまく表現できないが、それらとは別の感性を生み出したいのかもしれない。好きでも嫌いでもないことを勝手にやっている、そんな感覚に包まれているのかもしれない。好き嫌いの次元ではいられないし、夢だの希望だのでも表現できないと思われる。そういう単純さには還元できないようなことがこの世界のすべてではないのか。そんな言葉を用いて語られる安易な話にはうんざりさせられる。なぜ人々はそんなところで思考停止しているのだろう。面倒だから安易に夢を追い求めるのはやめにしよう。その代わりに何もやろうとはしないだろう。ただ何もやろうとは思わずに、しかし結果的に何かやっている。そんなことは嘘に決まっているか。そう、何かをやりながら何もやっていないと嘘をつく。しかしすぐさまそれも嘘だと自覚してしまう。何かをやろうとしているのは確かな事実だ。だがその何かが何なのかは明かせないらしい。自分のやりたいことについて語るのが面倒くさい。だから何も語らずに何かをやっている。だがその何かをやっていることこそが、何も語らないと語ることなのか。やはりそれも嘘の部類に入るだろうか。そんなことはどうでもいいことになるか。どうも嘘でも本当でもかまわない内容について語っているらしい。


12月21日

 何を考えていいのかわからないが、何も考えなくてもいいわけではないらしい。だがその理由を知らない。昼の青空と夜の星空の違いでも考えてみよう。そんなことを述べると、とたんに考える意欲を失ってしまう。何かと何かを比較して、それらについて言葉を構成してみる。だがそれらをこれらと比較することはできない。比較すること自体が意味を失っている。安易にそれとこれとを比較してはいけないようだ。何を比較しているのかわからない。たぶん比較などしていないのだ。比較するつもりもないし、しても仕方がないとさえ思う。そんなことを思いながらも比較する対象を見いだそうと試みる。なぜ世界はここにあってそこにはないのだろう。そこでは世界を感じられないだろう。しかし世界とは何なのか、欧米やアジアやアフリカや中南米やオセアニアや南極などが世界ということか。だがなぜかそれらの地域が世界とは思えない。世界の一部なのに、なぜ意識には世界とは思われないのだろうか。理由はまったく見いだせないが、それらではなく、今ここで感じているこれらが世界だと思う。それは特定の地域にはなく、ただここにしか世界はない。ここが世界そのものなのだ。ここが世界のすべてかもしれない。世界は狭かったり広かったりするわけではない。ここには無限の空間が広がっているわけでも、限られた場所が存在するわけでもない。ただこんな世界があり、こんな環境に取り囲まれているだけだ。時空を今やここに限定すると世界は見失われてしまう。ここは境界のない時空として存在していると同時に無限でもない。仮に限定された場所や時を感じようとしても、また反対に無限を感じようと試みても、共に世界はここから逃れ去るだろう。それを特定することは不可能なのだろうか。不可能ではなく、世界を認識可能としているもの自体が世界なのであり、特定の時空として認識されたものは世界ではないのだろう。世界という言葉自体は世界からもたらされるが、それを世界という言葉で断定すると、それは世界ではなく、世界の一部でしかなくなる。その一部は例えば地域や時代と呼ばれるだろう。それらは世界ではなく、それらを感じさせるこれらが世界なのであって、たぶんそれらとこれらの違いとはこういうことなのだろう。それらとこれらを比較することに意味はない。


12月20日

 君は青く光る星を見たらしい。遠い道は思いのほか近くにあった。気づかないうちにだいぶ遠くまできてしまったようだ。眼が見えぬ人は水の色を想像している。彼は見え透いた嘘の有効活用法について言及したいようだ。それらの言葉には、夜の湖面で揺れ動く枯れ葉のように意味がない。かつてバードランドでチャーリー・パーカーの演奏を聴いた人がいる。パーカーとコルトレーンはマイルスでつながっているわけか。それらの人名にどんな意味が宿るというのだろう。その誰もが真似た演奏にはどんな魅力が宿っていたのだろう。自らの内部から吹き出た燃え盛る炎に焼かれて死んだ者が、バードという渾名で呼ばれた男だった。しかしウェザー・リポートのバードランドがチャーリー・パーカーの演奏とどうつながるのか。聴いた範囲内での両者の演奏スタイルや曲調はまったく似ていない。当時は画期的で革命的で驚異的だったパーカーの演奏も、今となっては織り込み済みの一様式なのだろうか。そのドキュメンタリーでは現代の奏者がこともなげにパーカーを真似てみせる。それがどの程度の真似なのかは分からないが、とりあえず1940年代後半の音を集めてみたくなってきた。しかしなぜマイケル・ブレッカーからジョン・コルトレーンを経由してチャーリー・パーカーにまで遡らなければならないのか。現代から未来へ向かわなければならないのに、そんな意志をあざ笑うかのように、過去へ過去へと引っ張られていってしまう。過去に強烈な音楽がある。郷愁と伝説を超えて破天荒な世界が横たわっているらしい。宗教が麻薬ならジャズは覚醒剤なのか。そのヘロインで大幅に寿命を縮めた男にどんな興味があるのか。バードの音楽に興味があるのであって、ヤク中の男自身には何の興味もない。しかし男とバードをどうやって区別できるだろうか。ヤク中で死んで伝説と化した男は他にもいたはずだ。確かウェザー・リポートのベース奏者もその一人だったはずだ。ジャコ・パストリアスについて君は何を知っているのか。


12月19日

 馬鹿な連中なのかもしれない。執拗に記者会見を繰り返す人々はみすぼらしく見える。それらの意思表示は、人々の理性ではなく、何に訴えかけているのだろう。そうすることは誰に求められてやっている行動なのだろう。求められていることとは何か。つまらぬ嫌がらせ以外の何がそれらの人々を行動に駆り立てているのだろう。具体的には何も求められていないような気がするのだが、君は求められていないことをやるべきと言いたいわけでもない。砂漠に薔薇の花が咲くだろうか。夜の寒さに凍えながら、誰も知らない夢を追い求めている。適当な気まぐれと気晴らしが闇に交差する真夜中に、自由とはどのような状態になることなのか、そんなことを考えているらしい。それ以外に何を考えているわけでもない。それらを理解するために考えるのではなく、理解できないことを考えている振りをする。そんなことは考えられないが、そんなこととはどんなことなのか。考えている内容を見いだせず、見いだせない空虚を探し求めている。だがそんなことを考えているわけではない。そんなこととはこんなことで、こんなことがそんなことなのだろう。どこにそれらの言葉を散りばめれば気が済むだろうか。たぶん人々はお互いの理性に訴えかけているのだろう。そしてくだらぬパフォーマンスはもうやめてほしいと願う。またもっと真摯な態度で中身のある話し合いをしてほしいと願っている。しかし叶わぬ願いにはきりがない。見えない誰かに操られ、操られている以外のことを、まるで誰かに操られているかのように演じている。それはパントマイムの一種だろうか。この場合は、木を見て森を見ないということわざを適用すれば、それで少しは気休めになるだろうか。気休めが何の役に立つ。役に立たないから気休めなのか。彼らは腹立たしいほどの馬鹿だ。許せないほどの大馬鹿連中だ。感情的には絶対に許せない人々だ。もちろんそれが罠であることも承知している。罠に落ちた者たちを餌にしてそれらのマスメディアは存在し続ける。だからいくら感情的に許せなくとも、あれらの相手をしてはいけないのだろう。あんなものは批判にも値しない愚劣な代物だが、そういう憤りの感情はそれ以上は爆発させないようにしておこう。


12月18日

 それはわざとやっていることかもしれないが、なぜ思考と視線を取り違えているのだろう。視界がまったくきかないわけではないが、今は何を見つめているわけでもない。その焦点の定まらぬ眼は何を見ているのだろう。枯れ葉舞う空はどこまでも深く遠い。実際にそんなものを見ているわけではない。見もしない光景を思い浮かべているだけだ。嘘をつくならそれはいつもの幻影だろう。目の前にちらついている平行線はいつまで経っても交わらない。それでもいつかどこかで話が錯綜するかもしれない。錯綜しているのは煩雑な作業行程のことだろう。行ったり来たりを繰り返しているだけで、まったく能率が上がってこない。ときには決まり文句で逃げたい気もするが、そんなことをやる気力さえも奪われて、今はただ途方に暮れることしかできないらしい。何を思ってみても仕方がないように思える。背景から流れてくる安易な歌詞に導かれて、気休めの言葉でも連ねるのが関の山だろう。かなり不自然な言葉の連なりになってくる。今思っているのはそんなことではないが、今考えているのも別のことだ。背後から聞こえてくる雑音をどうやって終わらせることができるだろうか。終わるはずのない背景放射から身を引き剥がすことなど不可能だ。できもしないことはやはりできはしない。意識はそれとは別のことを考えている。嘘をつくならもっと現実味のあることを述べてみたいものだが、その現実味がどのような希望を持っているのか知りたい。未だそれらの平行線は折れ曲がることを知らないようだ。あらゆる妥協を拒んでどこまでも突き進んでどうするのか。どうするわけでもなく、どうにもできない状態を保持しているだけだろう。具体的に何を述べているのかなどという問いは無視されるばかりだ。虚構の閉塞空間に閉じこもっているだけかもしれない。そこでたまに出現する具体的な事件に関する言及にも、ただうんざりするしかないようだ。だがうんざりしつつも、気休めと絶望を述べなければならない状況に陥ってしまう。


12月17日

 日々の暮らしには何かが欠けている。もう彼らには魂も心もいらない。それは気休めのためだけにある余計な言葉なのかもしれない。そんなものがなくても生きていけるだろう。却ってない方がまともな神経でいられるかもしれない。ただそこにあるのは形式だけだ。その他はすべてが形骸化しているように思われる。誰かがどこかでつまらないことを叫んでいるかもしれない。もはや法律などあってないようなものだ。それは単に解釈の問題なのかもしれない。その場を占有している側の都合に合わせて新たなルールが作られるしかない。そうなれば部外者には溜息の出るような未来になりそうだ。それでも夢をあきらめきれない者たちは、一向に努力をやめようとしないだろう。ゴリ押しにゴリ押しを重ねて、やっとささやかな成功にありつけるらしい。そんな人々でもうすでに席は満杯状態なのだ。すべてがこんな調子で事態は推移しているようだ。そんな状況にうんざりして、そこから目を背けている人たちも多いかもしれない。世捨て人といかないまでも、世の中の主流や激戦区から距離を置いて、意味不明な空虚に包まれている人もいるはずだ。何気なく輝いているそのまなざしから受ける印象は、力みが皆無であるように感じられる。そんな人は何の役にも立たないことに興味があるのかもしれない。気まぐれに繰り出される言葉のどこまでが本気であるのか不明だが、無内容であるように思われる内容にも、ある程度は真実が含まれているのだろう。程度の差は人によってまちまちだが、一様に深刻さが欠けているところに、却って状況の深刻さが伺われる。それは過去の価値観に照らし合わせると深刻に思われるだけかもしれない。今やどんな価値観が提示されても嘘っぽく感じられてしまう世の中だ。下手をすると馬鹿げていることで身の回りを包囲されているような感覚に陥ってしまう。そんなことに本気になること自体、気が触れていることを証しているような気がしてきてしまう。見聞きする何もかもが正気の沙汰でないように思われるが、そんな現実に取り囲まれている自分自身も、まったくの馬鹿げた存在かもしれない。世界は常に刻々と取りかえしの利かない状況に追い込まれつつあるようだ。


12月16日

 相変わらず昨日のことは覚えていないことになっているようだ。そうやって具体的な体験は何も語らないつもりらしい。そんなつまらぬことはすでに忘れてしまったのだろうか。忘れてしまったことは未知の記憶となるだろうか。未知の記憶ではなく、既知の記憶を忘れただけか。君は今頃になって何を言っているのだろう。別に何も言ってないし、ただ何を忘れたのか思い出せない。思い出せないからきっと何か忘れているのかもしれない。あやふやなことを述べているようだ。述べているのは明確なことかもしれない。このあやふやさは明確なあやふやさなのかもしれない。そして君は今も何も言わずに沈黙を守っている。そういうレベルでの争いは面倒なので、今はそんなことにしておこう。忘れているのは君ではなく、物語の方かもしれない。物語の語り手は物語を物語ることを忘れているのだろう。そんなことはこの状況では不可能か。何が不可能なのかわからない。物語れない物語があるだろうか。それはわざとらしい逡巡を呼び込むだけかもしれない。何もない状況が物語の外側にあるらしく、だからこんな状況は物語の中にはないのだろう。こんな状況とは単に今は物語の外側にいるという事実なのか。ならば冷めているのも当然のことだろうか。物語ることにあまり熱心ではない。積極的に語るための材料を探しもしないで、ただここには何もないと語ってみせる。それがここでのパターンと化している。それがどうやって世間でいわれるところの物語に発展するというのか。なぜ君は自分自身を物語らないのだろう。そういう行いがありふれているからつまらなく感じるのか。ではなぜ物語という言葉を執拗に持ち出すのだろう。物語らないうちに物語を否定するのは卑怯ではないのか。要するにそういう物語には同調できないということを示したいのだろうか。実感として、彼や彼女が登場して、何やら不幸な身の上話を語り出すのは不自然に感じるのかもしれない。ではそれらに代わってナレーターでも登場すれば、自然な印象を得られるだろうか。なぜ人々の暮らしにナレーションが必要なのだろう。日々の生活で、どこからともなく自分たちの行動や心理状態を解説するナレーションが聞こえてきたら変だ。人々がそんな物語に共通感覚を求めることがはたして必要なのだろうか。必要だから存在するのではなく、存在しているからそれが必要だと思い込んでいるだけではないのか。現にあることだけがそれらの存在理由なのかもしれない。


12月15日

 いったいこの世界に何を見いだせば気が済むのだろうか。ありふれた世の中にありふれた人々が暮らし、ありふれた思考でありふれた内容を語り続ける。人々は馬鹿げたことに夢中になる。宴の最中には何もわからないが、いつも決まって後からわかることは、それが思い違いだったことだ。思い違いは他にもある。被害妄想には限りがないのは、それが妄想ではないからか。たぶんそれは妄想ではなく、紛れもない現実なのだろう。今ここにある現実は何もないし、何ももたらさない。それでも何かあるのかもしれないが、その何かを意味を伴った言葉で表現することに失敗しているようだ。その代わりに何もない空間を空虚な言葉の群れが埋め尽くす。現に言葉で空白を埋めつつあるようだ。今ここにある現実は、具体的な事物が何もないのに、文字として言葉が空白を埋めるために出現しつつあるということなのか。それが情景描写とは言い難いところか。しかし情景とは何なのか。そこで言葉はどうやって出現し、それがどういう風に乾いた心に訴えかけているのか。しかしなぜ乾いているのだろう。心ではなく空気が乾いている。冬だから乾燥しているのであり、この辺はもとからそんな気候なのだ。これは紛れもない現実そのものだ。ここでは心と空気が乾燥している。なぜか砂漠でもないのに乾ききっている。そんな風に述べると何となくそういう感じがしているような気がしてくる。言葉がまったくの虚構を作り出しているのだろうか。まったくではなく、ある程度はありのままの現状を表現しているのかもしれない。現にそれ以上の思考は必要とされていない。ありふれたことしか受け入れられないのかもしれない。この世ではくだらぬ人々が幅を利かせ、そのくだらぬ思考が空気を支配する。しかし支配しているのは空気だけなのか。支配している空気とは何だろう。この空虚な空間を満たしている言葉そのもののことか。なぜそんなにこの世界を否定的に語るのだろう。とりあえず今はそんな気分で満たされていたいようだ。


12月14日

 自分が何を思っているのかわからない。やる気がしないし、あまり気が乗らない。彼はかなりのスランプなのだろうか。どうも今回も話の途中で終わってしまうようだ。どうせ話しているうちに何を話しているのかわからなくなる。その部屋で絵を眺めるのはあまり好きではない。しかし何が桃源郷なのだろう。桃源郷は絵の中にあるらしい。水墨画の世界に墨人が住う。床の間に掛け軸がかかっている。ただそれだけの話なのか。そこで何を語ろうとしているのだろうか。打ち砕かれた夢の彼方に廃墟が横たわっている。内面が空洞と化した廃人は夢の中で闇に包まれる。ありのままの世界に嫌気が差した誰かの影は、あるときふと旅に出たくなったらしい。彼の魂は今どこにあるのだろう。殺風景な部屋の中ではやる気が放棄されている。心と体は別の場所に存在するらしい。切れ目のない作業に追われながら、何の変哲もないただの一日が通り過ぎる。しかし必死になっているのかもしれない。空虚について考えている。それは意味のない思考かもしれない。未だに何も解き明かされていないようだが、それでもいつかどこかで解決の糸口を見いだすだろう。これから体験するであろう未知の時空の只中で、いつか自然とすべてが解決していることに気づくだろう。何を解決したいのかわからないが、そこで怠惰の連鎖を断ち切って、やるべきことをやらなくてはならない。だがそこでやるべきことが何なのかわからない。過去において、冷静でいられない心は気圧の変化を見落としていた。耳鳴りがするのは低気圧が近づいているためだろうか。会話の途中で言葉に詰まったとき、大げさな意識は理性と感情の過大評価に気づく。どうやら今日もわけのわからないことを述べているらしい。昨年の今頃は何をやっていたのだろうか。顔はいつまでも動揺の色を隠せない。青ざめているのはブロンズの彫像の顔色かもしれない。しかしそれが何の冗談なのか意味不明だ。


12月13日

 彼らはねじれた関係を元に戻すことができないでいるようだ。手先が不器用なので、ほつれた糸を力まかせに引きちぎる。そうやって何も語らないうちに新たな経験が積み重なる。過去において至福の時とはどんな時だったのか。それらの時期において毎朝の記憶がことごとく欠落している。目が覚めきらないうちに昼を通り過ぎて夜になる。そんな生活は遥か過去の日々になりつつある。そんなことは今となってはどうでもいいことなのか。もたらされるものが何もない時期だったかもしれない。とりあえず過去に向かっては何も追い求めないと述べておこう。架空の君が追い求めているのはそんな過去ではない。何か無駄な言葉を積みかねつつあるようだが、意識してそんなことをやっているわけではないと思いたい。誰がそう思いたいのだろうか。誰も何も思わないだろう。そこに特定の人格を伴った意識が介在しているわけもなく、わざとそんなことをしているとは思えないが、様々な紆余曲折を経た末に、結果として思いもよらぬ事態を招いている。それは確かに思いもよらぬことだが、それほどのことでもない。大げさな内容は何も含まれない。思考が意識から逸脱した結果だろうか。その思いもよらぬことを考えついてしまうのは誰なのか。依然として誰も何も考えつかないようだ。それは嘘かもしれないが、その内容に照らし合わせて、一応は事の顛末でも捏造できるかもしれない。特定の誰でもない誰かの意識はいつも空虚を求めている。何も考えないことが意識にとっては唯一の救いになるようだ。だがそれではその先に話が続かない。なぜかここでは、思考することと救われることは両立しない傾向にあるようだ。意識は常に思考することに優先権を与えている。意識は思考することによって今の意識の状態から逸脱したいらしい。今の状態を乗り越えたいのではなく、絶えずその横へずれて行きたいのかもしれない。横へずれながらいつまでも迷っていたいのだろう。意識が求めているのは迷路の中なのか。どこへも行き着かない彷徨状態のままにありたいわけか。どうやってそんなものを求め続けられるだろうか。求めているのではなく、結果としてそうなっているだけでしかないのかもしれない。ただそうなってしまったから、その結果を合理化しようとして、はじめからそれを求めていたように、自らに思い込ませているだけではないのか。そうだとすると意識は自らに嘘をついている。自らとは誰の自らなのか。またその誰かには、何かそんな嘘をつき続けなければやっていられない事情でもあるのだろうか。


12月12日

 どこまでも続いているのは空の他に何があるだろう。鏡に写る景色から目をそらして、しばらく窓越しに遠くを眺めている。昨日はまるでタリバンの公開処刑のような報道だった。他人が死刑になるのがそんなにうれしいか。結果的に複数の人を殺してしまうと死刑になるらしい。報道機関と裁判所は、やはり見せしめにする目的であのような演出を仕組んだのだろうか。見たくもないのに一日中あんなものを見せつけられて、嫌な気分が増すばかりだ。そして今日は、それに追い打ちをかけるような北朝鮮報道だ。そういえば、拉致被害者の夫だからという理由で、なぜアメリカ人の脱走兵が恩赦されなければいけないのだろう。その一方で日本から北朝鮮へ脱走したよど号事件の容疑者たちは絶対に恩赦などされない。そんなことなら、よど号グループも拉致被害者と結婚しておけば良かったということになる。北朝鮮がイエメンにミサイルを輸出したぐらいで大騒ぎだが、それならばアメリカは日本にどれほどの武器を輸出してきたのだ。イージス艦や戦闘機など、これまでに夥しい数のハイテク兵器をアメリカから買っている国家が、貧乏国のちゃちなミサイル如きを脅威に感じているなどと言える立場なのか。たぶん日本と北朝鮮とが戦争をやれば、確実に日本の圧倒的な勝利となる。また韓国もロシアも中国も北朝鮮には余裕で勝てるだろう。今の北朝鮮がその周辺国と戦争して勝てる可能性はほとんどゼロだ。そんな状況で誰が戦争を仕掛けると思う。とりあえず戦争になってほしいと願う向きもあるだろう。かつて朝鮮戦争で戦後復興のきっかけをつかんだ日本としては、景気回復の起爆剤として、第二次朝鮮戦争でも勃発してほしいところか。だんだん述べていることが冗談に近づいてきたようだ。そんなわけでテポドンでも東京のど真ん中に二三発打ち込んで、景気良く戦争でもやろうではないか。社会に不安と憎しみの種をまき散らす報道機関のみなさんも、そうなれば思う存分大本営発表ができて、憂さ晴らしには持ってこいだ。犯罪被害者を利用して加害者を攻撃している暇もなくなる。


12月11日

 普通の世界は異常な世界からそれほどかけ離れているわけではない。普通であることこそが異常なのであり、普通の状態が異常な状態そのものなのかもしれない。それが異常に思われるから状況の変化を感じ取れるのかもしれない。異常な事態が世界を突き動かしているといえないだろうか。異常事態の連続が変化そのものを表している。だがそれは普通の状態なのである。変化しなければ時間が止まってしまう。同じことの繰り返しはあり得ない。それは言葉遊びの範囲内で述べていることだ。何が異常で何が正常なのか、その基準は不明確だ。具体的な事例をここでは何も示せないので、それらを述べている途中で嫌になる。今日も日が昇り、日が沈み、そして夜がやってくる。そんな一日の中で何も異常だとは思わない。時間も普通に推移している。だがそれのどこに感動があるだろうか。そんな日常の何に感動できるのか。何気なく見ているテレビ画面のどこかに感動の源泉でもあるのだろうか。君がそれを知っているとしたら教えてほしい。誰かがどこかで感動していることを何らかの手段で示してほしい。しかしそんな感動などいらぬ。感動するのが面倒なのでそんなものはいらない。何よりもイントロダクションがつまらない。演技以外では誰も感極まって涙など流さない。すべてが馬鹿げている一方で、すべてが当たり前のことになる。その当たり前のことになんとか感動してもらいたいそうだ。秋から冬への季節の変わり目なのだろう。それは遥か昔の出来事だった。今はもうすっかり冬だろう。昨日は雪も降った。猫の死体も凍りつく。ドラマの中の刑事も配置換えらしい。年末年始を挟んで、来年の初めあたりには昔の刑事が戻ってくる。また適当な犯罪に巻き込まれて、いつものように一時間弱で片を付けることだろう。そしてたまに探偵も登場してしまうようだ。つまらない事件の周りで、いつもの俳優たちが、それなりの演技を繰り返す。たぶん君ならそんなことにも感動できるだろう。そんな君はお人好しもいいところか。


12月10日

 それの何が不満なのかわからない。不満なのではなく、不満がないのが不安なのではないのか。記述した内容が気に入らない時、未来への期待とは無関係に過去への追憶が止めどなく続く。だがなぜそうなるのかわかろうとしていないようだ。おかしな表現だが、やる気が希薄に感じられる。宙に漂い出ているのは肺から出た二酸化炭素だけか。いくら深呼吸を繰り返しても、気力も気迫も感じられない。要するに気力も気迫も自らが感じるものではなく、他人がその人物を見て感じたりするものなのかもしれない。それらはオーラとか呼ばれるものの親戚なのだろう。他人にとっては気になる気配かもしれないが、当人にとっては余分な言葉でしかない。稀に自意識過剰な者がその言葉を自らに適用したがるかもしれない。君は他人が君から気力や気迫を感じてくれなければ不満なのか。確か奄美大島で世捨て人のような暮らしをしていた画家には、その人が絵を描く時にそれを他人に感じさせたという伝説があるらしい。その人とその絵は一時ブームになったことがある。また親しみある内容と形の書画で有名になった人の書からも、そこでは気力やら気迫やらが漲っていたのかもしれない。ではこれらの文章からそれらが感じられるだろうか。いったい何を感じれば気が済むだろうか。どんな内容なら不満が解消されるだろうか。冗談ではないと思う。それは嘘で本当は冗談なのかもしれないが、それでも冗談ではないと思う。そんなものと比較してもらっては困る事情でもあるのだろうか。わからないが、不満だらけなのが気休めになっている気がしてならない。内容も語り方も完璧からはほど遠いから続けられるのだろうか。完璧さを身につけたときが終わりのときであることぐらいはわかるが、それとも少し違う事情が生じているのかもしれない。気休めを糧にしているだけでなく、要するに惰性の連続で継続しているのではないか。しかもそれでもかまわないと思われる事情もあるらしい。それを乗り越えようとは思わない。面倒なので乗り越えずにひたすらそこからずれ続け、そのうち何を語ろうとしていたのか忘れてしまう。うんざりしつつも飽きもせず繰り返されているのはそんなことだろうか。それでもいいが不満が残る。不満は残るがそれでもかまわない。一方ではもう少し気の利いた内容にしたいが、もう一方ではこれでいいと感じてしまう。とりあえずそれらがせめぎ合いをしながらも、結果としてこうなってしまうらしい。すべては反転しながらも、絶えず自らに返ってくるようだ。そうやって返ってきた言葉がこうしてただのモノローグを形成する仕組みになっている。


12月9日

 空を鳥が飛んでいる。一瞬の出来事がいつまでも脳裏に残っている。誰かが自らの境遇を嘆いているらしい。今日も昨日も明日もここには何もない。相変わらずここに内容がないことがそれほどおかしなこととは思えないが、そのことで君は無性にいらだっているらしい。だが面倒くさいので自分からあえて欠落した部分を探そうとは思わないようだ。何が欠落しているのか君には痛いほどわかっているはずだ。これまでの日常の経験は未知の未来に向けて大して役には立たないだろう。それらのことごとくは大した体験ではない。夜に月を眺めながら、今の気分とは違うことを考えている。確かに過去に体験した苦い思いはいつまでも心の中に残っているが、今さらやり直しの利かないことをどうやって取り戻すことができようか。それらのバラバラな断片をパズルのように組み合わせて、何か納得のいく内容を構成できるだろうか。だがあのときは仕方がなかったと納得してどうするのか。単にそんなことがあっただけだろう。それぞれのケースについていちいち後悔してみても自己嫌悪が増すばかりで、精神衛生上良くないかもしれない。何もうまくいかなかった原因を探ろうとしているわけではない。今から思えば、うまくいかなくても良かったのかもしれない。うまくいってもいかなくてもほろ苦い体験をしようとしまいと、それらはすべてどうでもいいことだと割り切ってしまえることも今ならできるはずだ。そうやってある程度は割り切って考えないと神経が持たないだろう。だがなぜそこから教訓を導き出そうとしないのか。なぜ経験から学ぼうとしないのか。その手の教育的な紋切り型には飽きたのだろか。たぶんそれは冗談ではないらしい。過去の失敗から未来の成功を導き出そうとはしていないようだ。とりあえずここではそういうことにしておこう。何となく当たり前のことは述べたくない。今は過去でも未来でもないから失敗とも成功とも無関係だと思う。うまくやろうとは思わないし、周りの人にもそれなりに気を利かせて、ある程度は自らも努力を惜しまずに、そうやってうまく立ち回っている人々にはあまり関心を持てない。そういうのは嘘だと思う。絵に描いた餅なのではないか。生きることに本気にはなれない。うまくやろうとすることに肯定的な価値を見いだせない。要するに自らを生かそうとはしていないのかもしれない。もちろん死にたいわけでもないが、積極的に生きたいわけでもない。なぜか体験するすべてが馬鹿げていると思えるのはどうしてなのか。たぶんそれに理由などないだろう。理由を求めようとすると、テレビで馬鹿踊りを繰り広げている人々の仲間入りができるかもしれない。


12月8日

 今は退屈を持て余し気味の時間らしい。これから何か面白い状況にならないだろうか。例えば今君に語りかけているのは近所の野良猫だったりする。そんな嘘ではつまらないだろう。冷たい雨の降る日の午後に何か思っているらしい。たぶん過去の話を思い出そうとしているのかもしれない。遠い土地の風景を写真に収めて、そこで採取してきた黄金色した枯れ草の匂いをかいでみる。枯れ草から漂ってくるかすかな土の匂いが、写真の中の風景に含まれているはずもなく、そんな雰囲気を物語る気にはなれない。虚無的で何に対しても無感動な君には何も語りかけないし、その風景は何を物語っているのでもない。面倒なので君はただ言葉の上での否定作用に支えられている。なぜ面倒だとそうなるのだろうか。理由など何もなさそうだ。対象を肯定することよりも否定することに積極的な精神作用を感じられる。そうやって心身のバランスを保とうとしているのだ。その辺が君のわかり難いところであり、そうやることの必然性と合理性が欠けているところでもある。だが何を述べているのかわからないのだ。そんな言葉を弄んでいるうちに心臓の鼓動が不規則になり、バランスも何もないような状態になってしまう。今は過去が読めていないし、これから先の未来を見通す力もない。ただ過去の苦い思いだけが心に残っている。うんざりするほど失敗に失敗を重ねながら、ついには成功を成功とは思えないような心持ちになってしまったようだ。それは失敗とも成功とも無関係な営みになりつつあるが、ただの否定作用だけで継続を図っているつもりらしい。ところで探し物は見つかったろうか。もはや何を探していたのか忘れてしまったが、いつか思い出して、探す作業を再開する機会も訪れるだろうか。しかしそれを期待するでもなく、待っているのでもない。また偶然に新たな意識が生み出され、今とは同じような違うようなことを思う日も来るだろう。その時に気づいたら適当に言葉を試してみることにしよう。


12月7日

 あまりやる気がしないようなので、面倒なのでそのうちやめるだろう。すべてを否定されて無視されているのかもしれないが、誰に同情されているわけでもなく、何か精神的な支えがあるわけでもない。抵抗する気も起こらない府抜けた精神状態なのかもしれない。ちょっとしたはずみで過ちを犯しそうになるが、みぞれまじりの雨に助けられる。たぶん精神状態も気分もある程度は天候に左右されるのだろう。今も暗い夜空を雨が濡らしている気分に浸り続けている。遠い道はいつまで経っても遠い道のままに、今日も身体がカフェインを要求しているらしい。語りかけているのは、いつもの空虚に向かってなのだろうか。それのどこに語りの対象があるわけでもなく、実質的には何も語っていないのと同じことかもしれない。他に何もやることがないので、暇つぶしにテレビを見たり見なかったりしている。そうしているうちにも周囲では何か些細な出来事が起こりつつあるのかもしれないが、それは時計の針がぐるぐる回っている間での出来事でしかない。時間の経過は心身の老化を物語るだけかもしれないが、そこから何かを感じ取ろうとしている。何もしていないことも一つの出来事といえるだろうか。しかし一つ目の後に二つ目や三つ目があるわけではない。確かに出来事がいくつも重なりあって、今体験しつつある現実を構成しているのかもしれないが、それらの一つ一つを現実から分離して数え上げることなど不可能だ。数えたところで必ず数え漏れが生じるだけだろう。こうしている間にも、この世界では無数の出来事が起こっているはずだが、その一つ一つを触知することなどできはしない。限られた範囲内でそのいくつかを感じ取っているに過ぎない。たぶんそんな思いが空虚な思いを構成しているのだろう。とりあえずここで感じ取れるのはそんなところだろう。それはたぶん冗談ではなく、冗談にさえならないようなどうでもいいことかもしれない。だがどうでもいいことだからこそ、それを言葉に置き換えて表現したところで決して満たされることはない。満たされてしまったらもうお終いだ。


12月6日

 確かに大げさに語ると何となく意味のあることを語ったような気になれる。大げさな言葉が語る人物の真剣さや深刻さを言い表していると勘違いされる反面、大言壮語という言葉とともに嘲笑の対象になりかねない危険性もあるが、意味不明で空虚な内容より常識的で健全な印象を抱かせる。もちろん自分は意味不明な方が好きだ。はっきりとした内容を伴ったものよりも無内容の方が自由を感じられる。世間に認められた形式より、その形式に逆らうようなものに親近感を覚える。安定した退屈の極みのようなものよりも、不安定で脆さや危うさを露呈しているものの方に惹かれる。たぶんそれは冗談の一種でしかないが、要するにそれはありふれた無い物ねだりであり、虚無的な姿勢と見なされるだけのことだ。だが具体的に何が好きなのか特定の事物を示すことはできない。世の中には、不幸になりたいナルシストなど掃いて捨てるほどいるのかもしれない。たぶんそんな不幸などどうでもいいことに属するだろう。結果的に不幸になろうと幸福になろうと、やはりそれでは物足りないのかもしれない。不幸だとか幸福だとか、そんな言葉で片付けられてしまったら、それはたぶん退屈でつまらない結末だと思われる。そうなる以前の状態を保たなければならないのであり、同時にそれを超えた状況に至らなければならないのだろう。もちろんそれも冗談の範囲内で述べていることだと思ってもらって差し支えない。そんな状態や状況などどこにもありはしないだろう。それらのことごとくには何の具体性も現実性も宿ってはいない。ただ言葉の上ではいくらでも述べることが可能なだけなのだ。しかしそれ以外に何があるのだろうか。あるのは退屈な現実だけなのか。おそらく自分はそれ以外を知らないだろうし、実際にそれ以外を見いだすことは困難だろう。それでも無理を追求すれば、それこそありふれた無い物ねだりになってしまう。テレビに登場するコメンテーターと同じようなメンタリティーに近づくだけだ。


12月5日

 かすれた高音の歌声が部屋全体に響いている時、その摩訶不思議な雰囲気に同調するとすれば、世界はそこに暮らす人々を裏切り続け、大地は人間に不死を与えたがらない、ということらしい。それはまったくの荒唐無稽な話だ。誰が語っているわけでもない。誰もそんなことを語りたいのではなく、もっと通常の生活に近い領域の内容にしたいのだが、なぜかそれではつまらなく思われるのかもしれない。遠い昔に地中で朽ち果てた亡骸が無言で意味不明な言葉を暗示している。墓石に刻まれたその文字を解読する必要はない。面倒なのでそんなものはどこにもありはしないと述べておこう。それ以外に闇とともに消えたその人物に関していえることは何もない。ただ当時の彼には何の計画もありはしなかったということなのかもしれない。その人物はこれからありもしない架空の物語の中で使用される予定なので、人物描写のほとんどないこのとりあえずの場では、その姿形はなかなか定まらない。要するにそれも中身のないほのめかしに過ぎないのだろう。一日の終わり近くになって、憩いの時間は突如としてその人物によって遮られ、一時の安らぎが急激に身体から遠ざかり、その代わりに謂れのない疲労感を背負わされる。画面から不特定多数の人々に向かって語りかけるその人物は、いつものようにこの世の中が抱え込んでいるとされている現実の諸問題を意識せざるを得なくなるように、彼の視聴者を追い込みたいらしいが、日常とは無関係なところでわざとらしく起こっているそれらの事件について、どうあっても誰もが関心を示してほしいというその願望には、どう考えても納得できないものがある。要するに他人事ではないと思い込ませたいらしいのだろうが、なぜ他人事であってはならないのか、その理由が現時点では何もないような気がするのである。もちろんその人物もフィクションの中の登場人物には違いない。おそらく世界が彼の一挙手一投足に注目しているというわけではなさそうだ。だが世界とは何のことをいうのか。世界という言葉は、その対象としては漠然とし過ぎている。例えばアメリカやヨーロッパで日本人が認められたら、それで世界に認められたことになるのだろうか。そうではなく、そうなった場合に日本のマスメディアが、日本人が世界に認められた、と報じるだけのことだ。彼らには彼らなりの理由があって、そのような世界認識が定着しているのだろうが、だからそれがどうしたというのでもないが、ただそういうことでしかないのだろう。


12月4日

 作業を再開しようと決意したのは夜明け前だったが、何もできずにそれから半日以上が経過してしまったらしい。今はもうそのときの気持ちを思い出せない。その場のいい加減な思いつきに従うなら、もしかしたら適当な言葉が見つからずに悩んでいたのかもしれない。だが未だにその悩みを解消するめどは立っていない。そんなことを思っているうちに、やがて丸一日が過ぎ去ろうとしている。そこで言葉が死んでいるようだ。気分は凍てついた大地から寒風が吹き込む天気図に特有の徴候を示している。だがそれがどんな気分なのかわかりやすく説明することはできない。自分は今の自分の気分などに興味はない。だから気休めにフィクションを語りたいのだろう。誰もが他人の不幸に興味があるのも、それと比較して自らの境遇に気休めを見いだしたいということだろうか。小説を読まなくなってから久しい。美しい文章へのイメージが地に落ちた栄光とどう重なりあうのかわからない。神々しい荘厳さとは無関係な状況が到来し続けている現代において、大げさな展開とはならない些細な試みにどのような価値を見いだせばいいのだろう。たぶん時代は百年以上前に終わっている。今はどのような時代にも属さない脱歴史的などうでもいい時期なのかもしれない。百年後に歴史家がまだ存在するとしたら、おそらく自分自身の存在意義を正当化するために、この時期にそれなりの根拠に基づく適当な名を付すのかもしれないが、自分が百年後まで生きていたとして、時代という時間区分にどんなリアリティを感じるだろうか。過ぎ去った過去の一時期に時代という言葉を当てはめて、その時期の特徴を簡潔に言い表す行為自体が、限りなくフィクションに近いことのように思われる。たぶん今ある世界の多様性が見失われる遠い未来において、はじめてこの時期の特徴が確定し、時代という言葉を使っての説明に説得力が生まれるのだろう。


12月3日

 君は相変わらず怠惰にまかせて軽はずみなことを述べているようだが、別にそれがどうしたわけでもなく、それ以外に何ができるのか、というのでもない。そこで放棄されてしまった中途半端な断片について、その先へどう発展させていいかわからずに思い悩んでいるのは誰だろう。ここまで来るともはや再生不能な状況かもしれない。しかしこの期におよんで君が何をどう再生させようとしているのかわからない。やり方はいくらでもありそうだが、却って選択肢が多すぎてこれというものを選べない。というより、なぜか今は何も選びたくないのかもしれない。そんな単純な物言いでは物足りない状況になってしまったのだろうか。納得や満足を引き出すには、努力が足りないのかもしれないが、何も地べたに這いつくばってカイラス山の周りを巡礼しようというのではない。できれば大げさな努力とは無縁でいたいし、そうまでして魅力を失ってしまったものにしがみつくのはやめにしたくなる。このごろは画面を正視できないことが多くなってしまった。それは勘違いに原因があるのかもしれないが、気の毒に思えて見ていられないということだろうか。だがいつかそんな思いも消えてしまうだろう。煩わしいことはすぐにでも雲散霧消してほしい。そう都合良く思い通りにいくはずもないことはわかっている。結局は困った事態に追い込まれていってしまうのだろう。この世界では、真理はいつも手遅れになってから開示される仕組みになっている。そんな真理など誰からも見向きもされないのは言うまでもないが、たぶんすでにそれが導き出される以前に興味が失われてしまって、関心をつなぎ止めるための材料のほとんどは使い果たされて、もはやあとに残っているのはどうしようもない倦怠感のみなのだろう。誰もがそんなことにはもう飽きてしまったのだ。そこからどうやって前向きなやる気を引き出せようか。そこから先は荒唐無稽な話になってしまう。とりあえず、いつもの真空の力で何かを生み出す以外にやりようはなさそうだ。しかし真空の力とは何なのかよくわからない。ただ何となくそう名付けているだけなのだろうか。


12月2日

 気がつくとまたいつもの君が登場してしまう。君は神の啓示なんて信じない。君にとって黙示録は暇つぶしの戯れ言に過ぎない。だが君とはいったい誰なのか。それはいつものパターンだろう。このようにして繰り出される言葉すべてが遊戯でしかないのかもしれない。神のみぞ知りうることは自分には知り得ないだろう。だが神の存在そのものがフィクションだとしたら、そのいい加減な作り話を構成しているのが自分であることはあり得る。こうして神という言葉を含んだ話を語っているのは事実かもしれない。とりあえずここでは、現実の神は言葉として存在しているようだが、それでは神の実在を示したことにはならないだろうか。要するに神の代わりに神という言葉が文字として記されているだけであり、それはただ文字の実在が示されているのであって、神そのものの不在を物語っていることになる。このように事物を言葉で記述するだけでは、文字の実在しか示せないのだろうか。ではその他に証拠写真や証拠映像を提示する必要に迫られているわけか。しかしそれも神そのものではなく、写真や映像の実在が明らかになるだけのことかもしれない。それらのすべてはどこまでも間接的なものであり、そのことごとくは事物の疑似体験を誘発させる効果しかもたらさないだろう。あとはそれを見た人がそれの実在を信じるかどうかの問題になってしまう。もちろん中には実際に直にその目で神の姿を見たとしても、その実在を信じない人もいるはずだ。また数学的に、あるいは科学的に神の自在を証明してみせたとしても、それらの数学や科学の理論を理解できない人には信じられない。神の実在に関して直接の利害関係を持たない人にとっては、その実在を信じるかどうかはそれほど切実な問題とはなり得ない。たぶん神への信仰とその実在の証明とは次元の違う話なのだろう。実在が証明されなくても心の拠り所としての宗教は継続する。そしてそれは神以外の事物にもあてはまる可能性がある。現実に体験していると思われているこの世界そのものに、そのような不確かな側面があるのかもしれない。


12月1日

 いつも感じていることは、どうということはない日常から生じる些細な感情の蓄積をもとにしているようだ。今日もまた同じことが飽きもせず繰り返されているような気がしてくる。夕方から夜にかけて移り変わる車窓からの眺めは、小雨模様から次第に曇り空へと移り変わる。黒い雨が降る光景を見たのはいつだったかよく覚えていない。虚構の登場人物にとっては実際の出来事のように思われるかもしれないが、過去において本当にそんなことがあったのかも知れないが、それは自分の体験いえるかどうかわからない。映像体験はいつも間接的なものなのだろう。時折空から落ちてくる現実の雨粒に濡れながらそんなつまらないことを思う。虚構の世界ではそれではもの足りないので、更にもうひとひねり訳の分からない要素を加える必要が生じているようだ。そんなくだらぬことをやっているのは君でも彼でもなく、こうしていい加減なことを述べている自分なのだろう。多重人格でもないのに、それで複数の意識を適当に使い分けているつもりか。自分というひとつの意識が君と彼と自分を使っているだけだろう。今思い悩んでいるのはそんなことではない。無理をしているのは自分ではないのかもしれない。深夜の記憶は見たこともない古い映画と結びつくが、一方では、そんな映画は未だかつて見たことがない、というのは君の嘘かもしれないと彼は思っている。どうもどこかで君は思い違いをしているようだ、とも彼は思う。その記憶は鏡の国の鏡の中にはなく、どこかの古本屋の薄汚れた本棚の最上段に飾ってある。その黄ばんだ表紙には、なぜ人は胃を荒らしながらもコーヒーを飲むのだろう、という文句が記されているかもしれない。わざと古く見せかけたCDのジャケットには、手のひらに隠れるほどの小さなカップで黒い液体をすする人々が写っている。画像そのものは実際に古い時代の光景なのだ。だがそこでコーヒーを飲む人々にコーヒー色の焼けた黒い肌が似合っているわけではない。似合っているかどうかはそれを見た人それぞれで感じ方は様々だろうが、彼はそれらの服装に時代の古さを感じているらしい。なぜ突然そうやって本筋とは無関係なことを述べてしまうのか不思議な気がする。だがここまでの話の本筋が何なのか分かりづらい。不思議の国ならディズニーランドにでもあるだろう。気が触れた振りをしていた当時の印象としては、眩しすぎるほどの蛍光灯の明かりの下で、ひたすら暗かったように思われる。うすぼんやりとした色調の壁紙を配した部屋の中で、まるでつじつまの合わないことを語っていたようだ。なかなか自分の非を詫びる気にはなれなかったが、誰が何を詰問してきたかは覚えていない。