彼の声33

2002年

11月30日

 どうも内容がないほど文章が長くなるようだ。どうでもいい対象について、どうでもいい言葉を弄してどうでもいいことを述べてしまう。それが内容のない文章になってしまう原因なのだろう。だがここで内容の濃さを追求する気はない。その反対にただ無内容であり続けることが求められているわけでもないが、結果としてそうなってしまうなら、我々はずいぶん長い間それを待ち続けていることになる。それは何を待っているのか忘れてしまうほどの長さかも知れない。意図的に実現する可能性のないことをやろうとしているのかも知れない。やはり知らず知らずのうちに不可能を目指してしまっているのだろうか。仮に得体の知れぬ何かに導かれているとして、その導いている何かを裏切ってしまう危険を冒して、それとは違う何かを作り出そうとしているのかもしれない。君は夢が生まれる場所を知っているだろうか。それが気に入らないとしたら、いつまでも夢の中へ引きこもっていればいい。だが心を入れ替えて夢以外の現実を捕らえようとするなら、きっと限りのない絶望に出会うだろう。追い続けていたのはそんな現実ではないことを思い知るだろう。落ち着き払っているのは見かけだけで、内心では混乱の極みにある時でも、誰かが君を助けに現れる。そんなお節介焼きをまったく相手にしないで、平静さを装い続けている君を、彼はどうにかしたいらしい。どうにもできないことを承知で、どうにかしたいと思い続けているだけかも知れないが、それはたぶん犬の笑いではない。どうしても笑いとは別の表情ができないようだ。打ち壊すことのできない壁に囲まれ、その内側で何を思っているのだろう。それは妄想以前のみすぼらしい具体性を纏って眼前に迫り来る。どう見てもやはりそれは透明な空気でしかないことに、失望以外の何を感じたらいいのか。もはや君が頼れるものは幻聴しかないのかも知れないが、ウサギが叫ぶわけがない。空想の国には嘘くさい設定がちりばめられている。そんなことを考えているうちに、面倒な設定に耐えられなくなる。もう帰らなくてはいけなくなったらしい。もちろん帰るあてもないのに帰らなくてはならないので、とりあえず帰る振りをしているだけだ。作業中は時々何を感じていいのかわからなくなるときがある。そんなときは鮫のように獲物を求めて深海を探しまわる。誰かが醜い者同士の愛ほど美しいものはないと歌っていた。話をまとめるところはまるでサーカスのような手際の良さだ。見習いたいが見習えない場合がほとんどだろう。それでもまだ待ち続けている。まとめられない話が自然にまとまるまで待ち続けるだけの根気があるだろうか。そこではなぜ自然に話がまとまってしまうのだろう。何がまとまっているのだろう。これでまとまったはずがない。どうも今一つ根気が不足しているようだ。何を述べているのかわからなくなってきた。支離滅裂な内容になっているかもしれないが、いくら言葉を連ねても空虚以上の代物にはなり得ないようだ。だが終わるタイミングを見いだせない。


11月29日

 相変わらずボタンの掛け違いを利用していい加減なことをやっている者たちがいる。たぶん彼らはわざとそういうことをやっているのだろう。そういう約束を交わしたのが国家であり、その約束を破ったのも国家だ。そういう約束を交わして、結果として約束を破らざるを得なかった者たちの責任がなぜ追及されないのか。その約束の内容がおかしいのなら、まずはそういう約束を交わしてしまった者や、その者が代表を務めた国家が非難されるべきだと思うが、そういう論理は現実の場では通用しないらしい。要するに結果が自分達に有利に働けばそれで良しと思っているのだろう。不法にだまされて、あるいは強制的に拉致されて連れ去られた者たちを、一旦帰すと嘘をついて、その生き残りを連れ戻して、一旦連れ戻したからには絶対に帰さないと居直り、嘘をついたことは詫びずに、一方的に不法行為を行った相手国を非難しまくるその姿勢をどう評価したらいいのか。何かそういうやり方はかつての北方領土外交と似てなくもない。相手の事情も考えずにただ一方的に失われた領土を返せ返せと連呼していた人々と同じ種類の人々が、今は北朝鮮に向かってがなり立てているような気がしてならないのだが、今回は拉致被害者の家族という誰も非難できない生身の人間を盾として、盛んに情に訴えかけてくる。しかもその訴えかけている対象といえば、相手国の北朝鮮ではなく、国内に暮らす拉致事件とは無関係な人々に向かってであり、これでもかと毎日のようにニュースで取り上げ続けている。もっとも最近はネタに詰まったのか、帰国した被害者が憧れの演歌歌手に面会したとかいう、ヤラセまでやって強引に夕方の民放のニュースのほどんどで流させる始末だ。まったくまともな人はあきれてものも言えない状況に追い込まれているようだ。そんなこととは無関係かもしれないが、かつて聞き慣れない言葉を耳にしたことがある。その言葉はあまり使われない言葉だ。何となく普段から使い慣れない言葉を使うのはためらわれる。だからこの際その言葉を使うのはやめにしよう。だが代わりの言葉がなかなか見つからない。欲動という言葉には悩まされる。今ひとつぴんとくるものがない。


11月28日

 たぶん彼が死んだという噂はデマだったのだろう。彼が死んだのではなく、少なくとも彼以外の誰かが確実に死んだということだ。その誰かがいつどこで死んだのかは知らないが、別にその誰かは彼の身代わりに死んだのではなく、ただその死に関わる特有の事情で死んだらしい。彼の存在はあらかじめ考慮にも入れられずに、彼とは無関係なところで勝手に赤の他人が死んだにすぎない。死んだ当人が特定できない死とは本来そういうものかもしれない。死人の名が明らかになるまではその死は誰のものでもない、誰にも所有できない死を形成している。では自分の死は何を形成するのだろうか。たぶん自分の死は自分とは無関係な死になるだろう。自分の死を自分で認識することはできない。認識できるのは自分以外の他人の死に限られる。そして不完全な死の認識を死全般に関する論考に発展させる気にはなれない。だから死そのものについて語るのはやめて、それ以外の気晴らし程度にとどめておこう。まともに語るには気力が不足ぎみのようだ。死を避けていつもの意味不明なフィクションへ逃げ込むことしか思いつかない。とりあえずここは安易な言説で何かを語ったような気になれるかもしれない。例えば、死は終わりとどう結びつくだろうか。自分の死も他人の死も、それで死が終わりになるわけではない。さらに別の死が続くだろう。個別の死では死そのものを終わらせることはできない。では死を終わらせるにはすべての死が必要だろうか。死ぬ可能性のある生のことごとくを終わらせることができたとしたら、それが死の完全な終わりを意味するのだろうか。世の中には生とは無関係な死もある。例えば国家の死とか星の死とか流行現象の死とか、生物学的な範疇を逸脱する様々な死がある。すべての死を終わらせるには、それらの死も終わらせなければならないだろうか。しかし誰がその死を終わらせることができるのか。仮定そのものが不可能を前提としている。どうもはじめからいい加減なことを述べていたらしい。やはり死にそのものについて語るのは、現時点では不可能なようだ。


11月27日

 それは突然の中断だった。悩み抜いた挙げ句に彼は何を思ったのか、不意に理解できない行動に及んでしまう。しかし誰がその行動を理解できないのかわからない。誰も理解しないかもしれないが、それは理解しようとしてできないのではなく、未だかつてそんな行動は見たことがないのだ。誰一人それを読んではいないのかもしれないし、読者は不特定多数だと想定しておいても差し支えない。なぜか橋の欄干にぶら下がった主人公は、絶望に打ちひしがれながら静かにその手を離す。そんな話がどこかに埋もれているとしたら、それをどうして読むことができようか。たぶんいつか誰かが発見するのだろう。ところでカフカは誰に死刑宣告を言い渡されたのだろう。忘れ去られた物語の中では、かなりの時間が経過したようだが、今から思えば、悩んでいた時間はほんの一瞬と思われる。後から思えばわかることもかなりあるらしい。辻を左に折れなければ、彼には別の人生もあったはずだ。彼は荒れた胃腸をそのまま放置し続け、ついには癌を患うまでになった。そしてどうも話に収拾がつかなくなったような気がした。過去のいきさつはこの際無視して、いい加減に話を構成してみよう。だが依然として話の内容をわかり易く整理できない。そんなわけで、ここでまとまった話を提示するのには困難を伴うようだが、それでも紆余曲折を記述しようと必死に努力しているらしい。物語にはなり得なかった話の切れ端を適当につなぎあわせて、何やら意味不明な言葉の連なりが偶然の作用で表される。そんなことばかりが飽きもせず繰り返されている。それはかなり馬鹿げたことかもしれない。しかしそんなことはわかりきっていることだ。それ以外の言葉を求めていたはずだった。今はもう思い出せないそれらの言葉をどうすれば思い出せるだろうか。これらの妄想以外に君は何を記述しようとしていたのか。当時君が抱いていた目論見を今の意識はまったく思い出せない。今はもう失われてしまった時間と見失った目標には、君のどのような思いが込められていたのだろうか。これらのフィクションとは違う何かを求め続けている。


11月26日

 遠くを眺めるまなざしが山の向こうに消え行く陽光を捉えている。しばらくそんな光景に見とれている。夕方の空気には夕日のオレンジ色が混じりあい、ラジオから流れてくる生ギターの音色に魅力を感じさせる。たぶんそれは嘘であって、現実にはそんなわけはないだろう。関係のない二つの事象を関連づけているのは、勝手な思い込み以外にあり得ない。君が情緒不安定だったのはいつのことだったのか。過去のどこかで開かれていた朗読会では、君がどんな話に興味を持っていたのか思い出せない。そうやって行ったり来たりの逡巡を繰り返しながら、実際に語られている物語の中では話が二転三転しているようだ。気温零度の外気を吸い込んで、頭の中で何かが弾けしまったのかもしれない。それでも意識が何を語っているのか不明なまま、無意識が強引に話を先へ進めてしまう。どこかの誰かは、空虚から逃れたい一心で神にすがりつくが、神に関する予言は無神論者には信用できない。君も彼も神とは無関係の当たり障りのないこと述べている。これから体験する毎日は昨日や明日とは違った日になるだろう。君は雪国でもベニスに死すわけでなく、暗闇を抜けると突然視界が開けて、明るい日差しに照らされた青色の水に空が溶け込んでいるように見えた。離ればなれの心とは別の魂には、乾燥した大地が迫り来る。自分にとって今の気分は最高らしい。しかし最高と最低の間に差異がまったくない。まさかそれがルネサンスの名言でもないだろうが、石の中に彫像が埋もれていて、自分はただそれを掘り出すだけ、と述べたのは誰だったのか。唐突に差し挟まれた言葉には魂が宿らない。過去の自分は自分に課せられた使命を忘れていて、自分には使命がないと思っていた。あるのはただ思い浮かんだ言葉を連ねるだけと思われたのだが、なぜそれが自分にとっての使命とはならないのか。君はそれらの言葉で何を述べていたつもりなのか。わかるはずのない疑問の果てに何を思っているのだろう。例えばフラミンゴは動物園の中でどんな光景を目にしているのだろうか。なぜそこでその動物が登場するのか意味不明に思われるが、そこに何か隠された意図や意味があるとするならば、それを探ることがここでの使命となるだろうか。たぶん冗談でふざけたことを述べているだけだろう。その細長いピンク色の鳥は何を象徴しているわけでもなく、その場の偶然な思いつきでもない。たぶんそれは意図的に挿入されているだけだ。その意図とは、面倒なので適当に付け足された蛇足ということか。もちろんその蛇足には何の意味もない。


11月25日

 時間に追われているつもりが通り越してしまったらしい。面倒なので出会いと別れを省略して、どこからかやってきた猫とともに人の表面を観察する。見た目の素朴さと質素な佇まいは倹約でも訴えかけているのだろうか。そこで判断を下すには材料が不足している。ここで先回りしても何をやっていいのかわからなくなる。やるべきことが見つからないのは今に始まったことではないが、意識と無意識の複合体はそれを見つけたくないのかもしれず、そこに構成されている意志のようなものに従っている気がしないでもない。ただ少なくとも何かをわかりたいという気持ちは持ち続けているようだが、そのわかろうとすることはやるべきことではないような気もしている。その両者の関係には微妙なずれと矛盾が生じているかもしれない。しばしば両者が融合した時に言葉として出力される結論が、メディアを通じて明らかにされる世論の大勢を占める意識を、決してわかろうとしないように振る舞うこととなってしまう。わかろうとしないばかりか、さらにそれを徹底的に否定しようとさえ思ってしまうのはどういうことだろうか。それは典型的な分からず屋の態度ともいえるかもしれないが、ただそれでもなるべくわかろうとしていることは確かなのであって、聞く耳を持たないということではないような気がする。それらの齟齬に敏感なのかもしれない。そこで立ち止まるべきなのか。立ち止まって忘れていたことを思い出さなければならない。北朝鮮による拉致問題は、彼らが耐え難きを耐えて後三十年も我慢していれば、日本による朝鮮人の強制連行や従軍慰安婦や、七三一部隊による人体実験のようにうやむやになるだろう。彼らがどれだけ貧窮に耐えられるかは隣の中国の出方次第かもしれない。中国が今よりさらに経済的に発展して、他国を援助できる余裕が生じたら、積極的に北朝鮮に投資して立ち直らせる可能性もあるだろうか。日本がアメリカの属国として繁栄したように、北朝鮮も中国の属国として繁栄する機会がいつか訪れるのだろうか。その辺の中国政府の意志がどうなっているのか伺い知ることは難しいが、分からず屋の北朝鮮をこのまま朽ち果てるがままに放置するだけの非情さがあるかどうか、またそうすることによってどのようなメリットが中国に生まれるのか定かでない。その前に北朝鮮の政治体制が崩壊してアフガニスタンのようになってもいいのかもしれないが、たぶんそうなってからでないと日本国内に援助の機運は生まれないのだろう。どうせ北朝鮮や金正日氏に向かって、ざまあみろと叫びたくてうずうずしているのだろうから、金正日氏はそういう醜い者たちの願望を叶えてやるべく、自己崩壊に向けてますます頑な姿勢に態度を硬化してほしい気もしてくる。まあ自分にはどうすることもできないし、それはそれでどうしようもないことなのだろう。とりあえずやるべきことではないらしい。


11月24日

 何も語らずにテレビを見ながら退屈な時を過ごしている。何も考えずに何か期待してはいけないだろうか。いつか誰かが真実を語り出すきっかけを見いだすだろう。だが見いだされたきっかけはすぐに打ち捨てられる。それはここでは真実が何の価値も持たないからだろうか。それともそれが真実とは見なされないからだろうか。たぶんそんなことはどうでもいいからかもしれない。そんなくだらぬ思いに打ち付けられている。いつもと変わらぬ時空からどうすれば離れられるだろうか。鳥の歌は石の心を揺り動かすが、微動だにしないのは石の位置だ。たとえその石を蹴飛ばそうと、辺り一面に小石などいくらでも転がっているので、体制には何の影響も与えないだろう。嘘で塗り固められたノンフィクションの手法には経済的な価値がまとわりつく。たぶんきっかけはきっかけに過ぎなく、彼らのやり方ではきっかけを台無しにしてしまうのが関の山だろう。現に今も台無しにしている最中だ。自分達と敵対しているという理由で、飢餓に苦しむ人々を見殺しにしている。彼らの人道主義とは所詮その程度なのにも関わらず、自分たちの善行を自分たちのメディアを利用して宣伝しまくる。たぶんそんなことをいくらやろうとも、身内以外の誰からも相手にされない。それは嘘かもしれない。別に彼らの相手をするつもりはない。というか、こちらの方が相手にされていないということだ。もちろんそんなこともどうでもいいことになるかもしれない。たぶん嘘で塗り固められているのはこちらの方だ。これはある種のフィクションなのであって、それについてどのように語ろうとも、作り話を語っていることになる。ノンフィクションは面倒なジャンルだ。ここでは調査対象がはっきりしていないし、それをやろうとしても、フィールドワークしている暇がない。ここでの語りだけでは実践には不向きなのかもしれない。その代わりにこのような虚構が存在しているということか。何について述べているかもわからずに、適当な気分を醸し出しているだけかもしれない。そしてその気分すらも嘘なのだ。


11月23日

 今日も空想の輪郭線に沿って意味のない語りを続けてみよう。そうやっていつまでも沈黙を守り通せるだろうか。同じことを繰り返し語ってしまうその結果をどう評価したらいいかわからない。どうやらこれから起こることは未知の出来事ではないらしい。それは未来にはつながらない退屈な昨日の続きになるだろう。あまりにも予定調和で安易な展開になってしまう。君はそのような世界で本気になるのが面倒なのか。それは君でなく彼の方だろう。そこには相変わらず自分が存在していないようだ。幸か不幸かこの世界に自分が存在する余地はない。自分は世界の外から何もできずに傍観し続ける。おそらく自分の代わりに虚構の君や彼がいるのかもしれない。その世界では君は少しずつ鳥に近づくが、彼は猫に近づいている。そんな嘘とは無関係に自分の時間は止まったまま動こうとしない。何の進展も見ないままここまでやってきたが、自分は誰がここまでやってきたかを知らない。ここまで到達したのは誰なのだろうか。君なのか彼なのか、君でも彼でもないどこかの誰かなのか、そんなことを自分が知るはずもない。たぶんこれが行き詰まりを体現していることになるのだろう。その種の行き詰まりはとうに経験したはずだったが、どうやらそれをここまで引きずってきたらしく、今もそれを引きずり続け、行き詰まりの状態のままにそれ自体を言葉で表現しているつもりのようだ。そして、行き詰まりそのものをここに定着させなくてはならない。だが誰がそんな命令を下したのか、そんなことを自分が知るはずもない。それにこことはどこなのか。またいつも述べているどこでもないこことはどこのことなのだろう。やはりそんなことも知るはずのないことなのか。すべてが嘘というわけでもないだろうが、あり得ない時空がここにあるというのは嘘かもしれない。そしてここには何もないというのも嘘だろう。ここに何があるのかは現時点ではわからない。試しに何か形のあるものを存在させてみよう。頭の中には馬鹿げたことばかりが詰まっている。それはただの脳みそだろう。ここには世界が存在している。世界の形を想像するのは困難かもしれないが、何らかの形でここに世界が存在していることは確からしい。


11月22日

 なぜか雰囲気がおかしい。眠気を振払いながら閃きの時を待ち続ける。彼はそんなことはやっていない。その場の雰囲気の奇妙さに笑いが止まらなくなる。おかしいのはその状況ではない。なぜ笑っているのかわからないのがおかしい。その奇妙な現象はどのようにして生じているのだろう。それは奇妙な現象などではない。なぜ前述を打ち消すのかそれがわからないのがおかしい。虚無はいつまでも静けさに沈黙を加え続けているらしい。そんなことをしても無駄だとわかっていながら、なぜやり続けているのだろう。ようするに何がおかしいのかわからなくなったから、ひたすら沈黙し続けているわけか。確かにそれは奇妙な現象などではなく、当然の成り行きに思えてくる。軽はずみに沈黙を用いて無為の時を過ごしているだけかもしれないが、そうなってしまった理由は他にもあるらしい。このところ安易に君を使い過ぎているのかもしれない。頭の中では何も構想がまとまっていないにも関わらず、その状況で虚無を纏って君が登場してしまう。展開に行き詰まるとすぐに君に向かって問いかけてしまうが、何を問いかけようとしているのかわからない。それは確かに苦し紛れの問いかけかもしれないが、ほとんど内容のない問いかけによって、そうやって君に助けを求めているつもりなのであり、当然そんな問いかけには答えようがなく、君には助けようがない。何をどうやって助けていいのかわからない。だから彼と君は物語の中で出会えないのか。同一人物が出会う必然性はないだろう。たぶん彼と君の使い分けがうまくいっていないのかもしれない。君の左手が痺れているのも気のせいかもしれない。なぜそんなつながりが出現するのか理解できない。いつもながら急激な場面の転換は意味不明だ。指が曲がり間接も曲がっている。自然な動作が文章のぎこちなさを醸し出す。空虚が君に向かって話しかけてくるのには何の理由もない。ただそんなタイミング選んで話しかけてくる。それは苦し紛れでも切羽詰まっているのでもなく、ただ何となく話しかけてくる。美しい世界には人は住んでいない。それはキャンバスやカレンダーの表面上に展開されている。写真にしても油絵にしても、それらを見ていると幸せな気分になれるのだとしたら、それはそこに生身の人間がいないからかもしれない。なぜ君はその平面に向かって話しかけているのだろうか。なぜそうやっていつも自問自答を繰り返しているのか。


11月21日

 暇つぶしに床に落ちたサングラスが砕け散る。冗談ではないかもしれないが、君にとってはそれも冗談の範囲内なのだろうか。かつて燃え盛っていた魂の燃えかすが、風に吹かれてどこかへ飛んで行く。そのライターはオイル切れらしく、まったく火がつかない。それでも目の前に広がる暗闇を睨みながら、やる気もないのになし崩し的に作業が再開されている。誰がやろうとしているわけでもないのに、誰もやらない代わりに、空虚がその一切を執り行っているようだ。やる動機をどのように捏造したら君は納得するだろうか。確かに何をやるにも動機が必要かもしれない。刑事事件の裁判などでは、被告にはしばしば事件を起こす動機が求められているかもしれない。そのことに関してとりたてて何を語りたいわけでもない。それは嘘かもしれないが、嘘でもいいから意志とは逆のことをやりたいらしい。考えられる限りのすべての事象を否定したい気分になる。そんなことを思っているうちに何も肯定できなくなるだろう。ここしばらくはそんな奇妙な状態が続いていることにしておこう。エアコンの性能がいまいちで、頭上の暖気と足下の冷気で何をやるのも億劫になってくる。そんな言い訳はここでは通用しないだろう。それでも無駄な言い訳を述べつつ難しい局面を迎えているらしい。だがそれのどこが難しいのかわからない。何が難局なのか知らないが、君には実際それほどでもなさそうな気もしている。何かを言葉で伝えたいようだ。つまらないことを伝えたい気持ちは昔も今も変わらない。たとえば炎上する映画のセットの前でタルコフスキーが茫然と立ち尽くしている。そんな映像が入っているビデオテープが本棚の上におかれている。それがつまらないことになるだろうか。それは確か北欧のデンマークでの出来事だったかもしれない。彼が何を撮ろうとしていたのかは忘れてしまった。今ではもうそんな記憶ことなど、君にとってはどうでもいいことになってしまったらしいが、その映画の題名を思い出せない。どうでもいいことなので思い出そうともしていないようだが、一向に思い出せないことは確かだ。そんなことをしているうちに、いつの間にか真夜中になっていて、寒気がして目が覚める。いつの間に寝てしまったのか記憶が飛んでいる。たぶんここから折れ曲がらなければならないのだろう。目に見えない連関の糸をたぐりながら、それらの表現が、彼らにとっては無効であることに気づいたつもりになる。彼らはいつも燃え上がるような情熱を求めている。そんなに燃え上がりたければ、くだらぬゲームなどさっさとやめて、放火魔にでもなるがいい。それは冗談かもしれないが、彼らにとっては本気の範囲内なのかもしれない。何やら幼稚な内容になりつつあるようだが、要するに君は予定調和の範囲内に話を収めたかったわけだ。そして中断と挫折の複合体がここに形成された。


11月20日

 どうも何も思いつかないので、また何か思い出すはめになる。面倒なので今回も作り話になってしまうだろう。いつか体験した日の記憶によれば、その日は風が強かった。そんなことはどうでもいいことか。今の自分にとってはあまり興味のない日々だったかもしれない。ところで君は忘れていた日々を思い出したのだろうか。そんなこともどうでもいいことだろうか。見えない風景は死角にある。その死角までも見たいと思うだろうか。すべてがあらわになっていないと気が済まない人もいるかもしれないが、何をあらわにしなければならないのかよく分からない。もとから不鮮明な光景ばかりをかき集めて言葉にしているので、意味のはっきりした文章には巡り会えないだろう。時と場合によってはそれが必要になることもあるだろうが、今は面倒なので死角だらけのでたらめな言葉を連ねておこう。死角がないと息が詰まるときもある。君には暴きたてられては困るような事情でもあるのか。面倒なのでそれも分からないことにしておこう。ナンセンスという言葉は何に対して適用されれば意味が通るだろうか。おそらく今は無意味で馬鹿げたことを語っているのかもしれない。相変わらず内容が見当たらないし、思い当たるようなことを思い出せない。物語の安易さはこのような時に発揮される必要があるのだろうか。登場人物が何らかの事件に巻き込まれなければ物語は始まらない。では何か適当な事件でも捏造してみようか。それも面倒なので、落ち葉をかき集めて落ち葉焚きをしているつもりになる。暖をとるつもりが煙が目にしみてくる。紫の煙にイカレてジミ・ヘンドリックスのCDを買いに走る。それもいいかもしれないが、何となく自分はクロノス・カルテットのパープル・ヘイズが聴きたくなった。薔薇の名前でそのようなものがあるらしい。なぜ今もあの曲は廃れずに様々な演奏者によって奏でられているのだろうか。その衝撃が長続きしているとは思えないが、演奏される度に再現され、聴く度に衝撃として伝わるということだろうか。それとは違って、ディープ・パープルのスモーク・オン・ザ・ウォーターは、聴く度に笑ってしまうのはなぜだろう。学園祭などで今もどこかのアマチュア・バンドが演奏しているかもしれないが、プロがギャグやパロディ以外で演奏することはめったにないかもしれない。どうも今も昔もマスメディアによってもてはやされるのは、スモーク・オン・ザ・ウォーターの方かもしれない。というか、この二曲の違いが分からない人が多数派を占めている世の中なのだろう。センスのないことをがんばってやってしまう人ばかりで、またそのがんばりようがメディアを通じて垂れ流される構図になっている。しかしここでいうセンスとはどういうことなのか、それを説明しようとすると困難に突き当たってしまう。ここで説得力のあることを述べておかないと、単なる嗜好の問題に還元されてしまうだろう。面倒なのでそれでもいいかもしれないが、たぶんその違いを知ることが死角になっているのかもしれない。とりあえずヘイズとスモークの違いを辞書を引いて確かめてみよう。


11月19日

 思っていたことを言葉にできないでいる。それとは関係ないが、確か数時間前には紅葉が夕日に映えていた。それとは無関係な思い出せない情景を思い出そうとするが、思い出せそうでなかなか思い出せないようだ。やる気が出ないので、甘過ぎる缶コーヒーを飲みながらしばらく戸外の景色を眺めていたら、ふいに苦い思いが頭の中で循環していることに気づく。街中の混雑が嫌な気分を誘発するが、まだこの国はテロの対象ではないらしい。そのせいぜいが過激派のロケット花火か。だが思っていることはそれとは無関係のようだ。意識は苦い思いの中身を語りたがらないらしい。その苦い思いをなんとか避けて語りたいようだ。とりあえず昔の思い出が何を語りかけているのかわからない。我思う故に我あり、と思ってみても、意識はそのどこにもいないだろう。世の中には何も思わない人がいるだろうか。植物人間も何かしら思っているらしい。中には脳死状態でも心臓で何か思っている人もいる。それは単なる勘違いだろうか。冗談でならそれもありだろうか。人は死んでも何かしら思い続け、この世への未練が断ち切れない人は、幽霊となって夜ごと思い出の地をさまようのだろう。ここはそんなありふれた俗説で満足すべきなのか。無理に満足しようとしても果たせず、融通の利かないつまらぬ気分に浸りながら、無力感と脱力感はいよいよ深まる。君が求めていたのはそんな状況なのか。面倒なので君の求めには応じられない。ところでさっきまで何を思っていたのだろう。ありふれた俗説に従うなら、深まる秋を感じながら物思いにふけっていたつもりなのか。それでもいいが、依然として中身がないようだ。だが中身がないならないなりに、その場にふさわしい言葉を探し続けている。今は中身のない言葉がふさわしい。そうやって空虚に押しつぶされて何も思い浮かばない。部屋の中の空気はだいぶ淀んでいるようだ。誰かに送り届けなければならないメッセージを忘れてしまったことを思い出した。


11月18日

 思い出してみよう。明日は柿の木の下で鳥の屍骸を見つける。どこかに暮らす誰かは幻影の虜になっている頃だ。耳を澄ませば小鳥のさえずりが微かに聞こえてくる。そこで聞こえているのは、排気ガスをまき散らしながら通りを激しく行き交うディーゼル車の騒音になるだろうか。その街道の周辺で暮らす人の大半は肺癌で死ぬ。たばこの自動販売機の隣に酒屋がある。道端にとめられた黒塗りの乗用車からサングラスをかけた黒い背広の男が降りてくる。面倒なのでそこで画像が入れ替わり、近所の野菜畑で老婆が農作業をしている光景が映し出される。ノルウェーの森では上質の家具材がとれていた。それがどうしたのかつながりがわからない。ブランデンブルク協奏曲は本来どのような楽器を用いて演奏すべきなのだろうか。その曲を聴いているのかもしれない。歯止めの利かない空想をどこまで続ければ気が済むのか。そうやって適当に言葉を並べているだけなのか。結局のところ、君にはどのような酬いがもたらされるのだろう。空から降りてくるのは冷たい空気の他に何があるのだろう。しかし油断は禁物だ。いつまた空白のときが襲ってくるかもしれない。そこで反復されているのは気まぐれな気分が作り出す偶然の配列だけなのか。それ以外の気休めを求められない。今のところここでは何も見当たらない。彼はどこへ行ってしまったのだろう。彼はどこかで君に出会っているはずだ。その曲は弾むリズムとは裏腹の痛ましい人生が歌われている。吟遊詩人はつまらない現実を物語るが、そのつまらない現実が、君がこれから体験するすべてだとしたら、どうやってそれを避けられようか。ならばそれ以外の何を求めたらいいのだろう。求めることが不可能だとしたらどうだろう。可能なことは不可能な未来を空想することしかないとしたらどうだろう。どうでもいいような言葉の配列の中に、どのような真意が含まれているというのか。だが道半ばにして倒れるのは不適切だろう。思いついた言葉を放り出して、今こそ考え抜いた台詞を効果的に配置できないものか。まったく何を寝ぼけたことを述べているのか。


11月17日

 何を語ろうとも、たぶん明日も昨日とほとんど同じことを述べているだろう。我々の抱いている幻想は無効だ。だが我々とは何なのか、我々はその我々ではないかもしれない。その空虚な問いが有効であるはずがない。もはや主体的にそのことについて発言する立場にはないのかもしれない。君が不在であることについて何か不満があるようだが、その不満のはけ口はどこにもないだろう。発言する機会の与えられていない人間はこの世に存在できないのか。君はもとから存在していないことになっているのかもしれない。彼も君の存在を疑っているが、彼もまたこの世に存在しようとしていないと君には思われる。要するに君も彼も作り話の登場人物でしかないが、その作り話自体ここには存在していないのだ。存在しようにも存在させるための材料が不足している。安易な転調の繰り返しでまとまった内容を獲得するには至っていないようだ。しかし何をほのめかしているのだろう。君はこれから何らかの作品を作り上げるつもりでもあるのだろうか。だが君のことは君にはわからないし、おそらく彼にとってもその内容を伺い知ることは容易でない。もうすでにこれらがフィクションなのであり、このわけのわからない代物がある意味では作品である可能性もある。だがもはやそれも打ち捨てられようとしている。どうやってそれらを終わりにするつもりなのか。それにはどうにかして現状を打開しなければならないが、打開しようのないものをどうやって打開するつもりなのか。君には何か方策があるというのか。ただ無駄に時を過ごしているだけの者に何ができるというのだろう。やはり結論としては何もできないことになるらしい。言い訳としては、空からは何も降ってこないし、ただ辺り一面には風が吹いているだけで、気分次第で途中からずれてみるが、何がもたらされるわけでもなく、単に天候に気分が左右されているだけかもしれない。どうも性急に事を運び過ぎている気がしないでもない。もっとゆったりとした心持ちでいられないものだろうか。何もしないうちに今日が過ぎ去ってしまってもまだ明日があるだろう。だが明日はいつやってくるのだろうか。もうすぐそばまでやってきている感覚はいつも裏切られ、その代わりに昨日の繰り返しになっているような気がするが、それ以外のどのような明日がやってくるのか。予感は何もない。そんなことを考えているうちに、すでにその日付けを通り越して、明日をも通り越していたことに気づく。どうも時間に追いつけなくなっているようだ。


11月16日

 幻想を抱いたのはいつだったか。あるいは昨日幻影を見たのは誰だろう。この夜空を覆っている闇とはいったいなんなのか。夢の中で自分の意識に問いかけてみるが、朦朧とした夢意識にそんなことが分かるはずもない。他に何を問いかけているのか知らないが、意識に問いかけているのは誰でもない。それはたぶん嘘だろう。嘘とはこんなものなのか。こんなものではなくそんなものかもしれない。または、そんなものでもなくあんなものかもしれない。面倒なので薮の中の雀が鳴いている。なぜ鳴いているかは雀に聞いても分からないだろう。おそらく真実のレールは滑りやすく、歯止めが利かないのだろう。運よく脱線を免れたならば、その滑っていった先が、誰もが予想だにしなかった未来になるかもしれない。しかしその先を考えるのが面倒になる。面倒なので、安易に想像を絶する未知の展開を期待しているらしい。だがそう都合良くいくはずもないだろう。先ほど何か思いついたらしいが、もう忘れている。忘れたついでに関係のないことを思い出す。いつまでも意地の張り合いをしていても仕方ないだろう。そんなことはわかりきっているはずだが、それをやめられない人々には、神も愛想が尽きたようだ。その一方で、君はいよいよ心理的に面倒な事態に直面している。被害妄想もいよいよ深まり、狂っているのは君ではなく世の中の方なのだと必死に思い込む。だが気休めの台詞にはいつも裏切られる。今も裏声で歌いかけてくるが、それには君はいっさい耳を傾けず、涼しい顔して昼寝を決め込む。おそらく考えるのが面倒なのだろう。愛に餓えているのは君ではなく、これとは別のドラマのヒロインかもしれないが、世界を覆い尽くしている現実は、君よりもいっそう薄情かもしれない。それが夜空を覆っている闇になるのだろうか。だが安易な展開は想像力の貧困を露呈する。その時夜空を覆っていたのは闇ではなく、星空だったかもしれない。曇っていたら闇で、晴れていたら星空で、そのどちらもが君の心理状態を反映しているのではなく、単にその日の天候でしかないだろう。夜空は君の馬鹿げた妄想の産物ではない。


11月15日

 開始の戸口近くで立ち止まる。どうしたらいいか悩みながらも、久しぶりに冒頭の語句を適当に配置している。彼は原因と結果を取り違えた上に、未来と過去を混同している。それはあり得ないことだろうか。遠い日はいつしか経験した未来の日々を懐かしんでいる。この訳の分からない過去の記憶を、どこへもっていけば誰にも分かるように順序立てて説明できるようになるのだろうか。行き場のない思いはいつも未来へ先送りされてしまう。過去を未来に変えることなどフィクション以外ではできないだろう。暇にまかせてくだらぬことを考えているようだ。いつの間にか具体性を見失う。暇を持て余している常人には不鮮明な未来が残されている。なぜそうなのかは知らない。忙しく働く人には実利を伴った報酬が約束されているかもしれない。ただそんな気がするだけで、実際は骨折り損のくたびれ儲けかもしれない。もつれた状況は面倒な未来を期待している。状況はいつまで経っても面倒なまま停滞することしかできない。そんな煩わしさは脇へ置いて、楽観的な光景を思い浮かべてみよう。他人の心は別の魂を思い出す。ほつれた糸を解きほぐしながら、無の境地が気休めだったことを思い出す。それはただ孤独を楽しんでいたに過ぎない。禅は何もない時の娯楽なのだろう。世界のどこを探しても見つからなかった宝は、絵に描いて存在させてみよう。それを空想してみれば、何かしら興味をそそる対象に思われるかもしれない。これからどんな事件に遭遇するのだろうか。ここから先は同じような言葉を使わないための工夫が必要かもしれない。なぜそんな工夫が必要なのかは知らない。何となくそんな気がするだけなのか。人間という物語を読み進むうちに、人間という表現が煩わしく思えてくるが、それらの人間はあれらの人間とは性質が異なるようだ。人間など死ねばいいと思うが、実際に死につつあるようで、いくらでも死ぬ存在でしかないことも煩わしく思えてくる。もういい加減で人間は終わりにしてほしい。しかし最後の人間は必ずしも最後に登場するわけではないらしい。登場の仕方にもいろいろなバリエーションがあるのだろう。きっと自分は最後から六番目の人間になるだろう。なぜそうなるかは知らないが、何となくそんな気がしてくる。それは謎でさえなく、別の場所で待機している本当の謎はますます深まり、やがて面倒なので忘れ去られて、謎でなくなるだろう。今日は面倒なので頭がおかしい。確か空腹だったのは三時間前だったかもしれない。


11月14日

 このところやる気がまったく感じられない日々が続いている。どうもやるべきことはもうやってしまっていて、また他にやるべきことが見つからないらしい。他の場所で人生の夢や目標について語ってしまったので、ここではそれを打ち消す内容が求められている。それを誰が求めているのか定かでないが、その遠い道のりには苦難の歴史が刻まれている。これでもかと打ち出される世論に逆らい続け、画面からくだらぬ価値観を押しつけるマスメディアを嫌悪し、絶えず押し寄せてくる自己嫌悪の荒波を被りながら、そしてそれら全体が醸し出す空虚に耐え続けている。たぶんそれらは被害妄想を形成しているのだろう。そして今や、その被害妄想をやり過ごさなければならない。行き詰まりとはそのようなものなのか。だが今さら大げさに苦悩することはできない。考える人のブロンズ像のような固まり方はできない。様々な声と共鳴しながら空虚のアンサンブルを構成していかなければならない。そして無意識のオーケストラを指揮しているつもりで、意味のない言葉を空白に散りばめる必要がある。たぶん雑音を最大限に尊重すべきなのだろう。何も言わずに沈黙に語らせなければならない。不可能を不可能として、不可能の集積を可能性の絶滅として提示すべきなのだ。内心では勘違いを承知しているつもりなのだろう。どのように言葉を労してみても、何も述べていないことになる。それが何もない空虚の正体なのか。たぶん人道主義者には模索する方法が見つからないだろう。ならば模索しなければいいのだ。ただ強がりとやせ我慢で破滅する不安を打ち消していればいい。騒ぎに騒いで、いくら騒いでも無駄なことを思い知ればいい。それが彼らに残された唯一の未来なのだ。君は頃合いを見計らって助け舟を出すようなまねはやめてほしい。しかしそれを守り通せるだろうか。もうすでに見るに見かねて、無駄な悪あがきをしているのではないのか。だが敵を助けようとしても君には無理だろう。そもそも君は敵から無視されている存在ではないか。君が何を述べようと、敵には何も届かないだろう。敵にとっては君の存在など無きに等しく、君自身未だ敵とさえ認知されていない状況なのだ。君は塵芥のような存在だ。それでも君は敵を助けようとするのか。まったくご苦労なことだ。


11月13日

 何もないのに何か語っているみたいだが、今回は散々な出来映えだと思われる。どこを探しても内容が見当たらない。彼はありふれた作り話の途中に何か文句があるらしいが、案外その強面の顔は見かけ倒しであるかもしれない。誰か事の真相を話せる立場の者はいないのだろうか。それらはいきなり途中経過を語りはじめる。気分次第で話に尾ひれが付き、思いもよらぬ脚色の出現に唖然とさせられる。その折れ曲がり方には、何か悪意による企みが介在しているかもしれない。しかしそれでも君は依然として中身のないことを語っているようだ。その意味不明な頑さと強情さは筋金入りなのか。しかしさっきまで語ろうとしていた作り話の途中経過はどこへ行ってしまったのか。君は何を誰に語りかけているつもりだったのか、それらの対象をどこかに置き忘れてきてしまったらしい。どうも試行錯誤の果てに内容が砕け散ってしまったようだ。要するにこれ自体が作り話の内容であり、たぶんどうでもいいような中身になっていることだろう。あまりの支離滅裂さに呆れ返り、途中にどんな台詞を差し込めばいいのかわからない。そういうわけで今は気の利いた言葉を見つけられない状況のようだ。ならばその代わりに過去の思い出でも語りはじめてみよう。それはいつのことだったか忘れてしまったが、またあまり気が進まなかったのだが、一応そのとき彼には意見を述べておいたと記憶している。またその内容はあまり論理的ではなかったかもしれないが、とりあえず倫理的な内容だったと思っている。それは今から二日後の出来事だった。君は過去形で未来を語ることができるらしい。しかしそれは嘘の未来かもしれない。もうすでに今を通り過ぎてしまった未来は、過去形で語るのがふさわしいだろう。そうやって過去と未来を強引に接続させてから、時間のない空虚に言葉を貼付ける。だが過去の地平にはどんな宝が埋もれているのだろう。また未知の時空にはどのような出来事が待ち受けているのだろう。それを想像し空想するぐらいは今でも可能なようだ。君は現実には会うことのできない人に会ってみたいと思っている。またそのとき、冗談でも些細なことを気にかけているようだ。どういうわけか話が飛び飛びになっている。面倒なのでかなりの部分で説明が省かれているので、何について述べているのかわけがわからなくなる。気分次第で意味のない言葉を継ぎ接ぎさせて、何かもっともらしいことを語るのを阻止しているようだ。そういうわけで冗談にもならない内容になってしまったらしい。


11月12日

 まるで靄がかかっているかのように視界不良の状態が続いている。たぶん説明が不十分なのかもしれない。毎度のことながら君の説明は理解に苦しむ。それは致命的な欠陥かもしれないが、君が何について語っているのか自分にはわからない。そこには何らかのイメージが介在していることは確かだろうが、前提として存在している元の話との関連において、そこにどの程度まで虚構が含まれているのだろうか。完全なフィクションとまではいかないものの、どの部分において事実をねじ曲げたり歪めたりしているのかがはっきりしていない。ただ冗談でそんなことを述べているらしいことは見当がついている。まったく本気になれないこともわかっているつもりだ。君はなぜ本気になれないのだろう。本当は本気なのであり、建前上は本気になれない振りをしているだけなのか。君は嘘をついているのだろうか。だがその本気がどのような程度で本気なのか、本気自体のレベルを計測するための基準があるわけではないので、仮に君が本気であったとしても、それをそのまま本気だと判断することは、あまり意味のないことかもしれない。本気であろうとなかろうと、一方で同時にそれは、冗談でやっていると判断しなければならない場合も出てくるだろう。君は冗談の方に重きを置いている可能性だってあり得るから、案外本音は冗談を通してしか出現しないようにも思われる。しかしそれがなぜ冗談とみなされるのか、その内容が冗談で述べている内容とは思えない面もある。君はいつも冗談だと前置きしてから冗談からはほど遠い深刻なことを述べている。それが本気で述べていると受け取られないようにするための方法として、まず冗談であると前置きしているつもりなのかもしれないが、そんなまやかしがはたして通用するだろうか。それには別に通用しなくてもかまわないと受け取られかねないほどの安易さを感じる。本当はまったく冗談などではなく、いつだって本気で全知全霊を賭けて述べているのではないか。いつも君は勝負にいっているわけか。しかし空虚の中で無駄に言葉を浪費しているに過ぎないような作業の、どこが勝負と結びつくのだろう。いったい誰が勝ち負けの判定をくだすのか。やはりそれが勝負だと思っていること自体がほとんど虚構なのであり、ある意味ではそれこそが冗談の大元なのではないだろうか。そういうわけで、ここでは勝負は冗談の範囲内にあり、勝負にいっていると思われる箇所はすべて冗談で勝負をしているのだろう。そして同時にそれはほとんど嘘を述べていると思われる。本気で勝負しながらも、それがまったくの冗談でしかないことが本気になれない原因なのかもしれない。一方では本気でありながら、他方ではその本気なあり方が本気になることを妨げている。その状態はまったくの袋小路に直面しているのかもしれないが、一方では出口のないことで、正気を保っていられるのかもしれないのだ。国内の不況の出口や北朝鮮問題の解決の糸口を求めてヒステリックにわめきたてている人々は、たぶん正気な精神状態ではないのかもしれない。


11月11日

 あれからかなり間が空いてしまってその時何を感じていたのか忘れてしまった。事件を見物している野次馬達が何か偉そうなことを叫んでいる。マスメディアを通して流された様々な発言から、自分達の主張に適合するものをピックアップして、何やらもっともらしいノンフィクションを構成しようとしてる。それに対する批判がないのをいいことに、ある種の人々を窮地に陥れようとして言葉による攻撃をますますエスカレートさせている。その場を占有する大半の人々は彼らの目論見に嫌気がさしているが、そのうんざりした気持ちを発散させる機会がないので、それを心の奥底にしまい込んで、ただストレスに耐え続けながら日々の生活を送るしかやりようがないようだ。調子に乗って非難のボルテージを高め続ける者達には何が欠けているのだろうか。かつて自分達が同じような仕打ちを受けたことの復讐を、この機会に心おきなくやりたいらしいが、目下の非難の対象はかつて自分達を攻撃してきた者達とは別人であり、別の組織のはずだが、なぜそうやって事件と無関係な人々へ嫌な思いを伝達させ、憤りの感情を世の中に広めようとようとしているのだろう。野次馬達は犯罪行為を許さないという反論の余地のない言葉で武装して、復讐行為の自己正当化を主張しまくるその姿勢こそが、犯罪と同等の卑劣さを体現していることに気づいていない。いくら世論調査で自らの正しさを訴えかけようと、それらの行為によって状況が変わることはない。ただそれとは無関係な何らかのきっかけで状況が変化したとき、それがあたかも自分達のキャンペーンおかげで変わった、と自画自賛するための言葉や映像を繰り出すにすぎない。おそらく大半の人々はそれを鵜呑みにして、彼らによるマインドコントロールを容易くに受け入れてしまうだろうか。自分にはその辺がよくわからないのだが、どうもそうではないような感触を得ている。事ある度にメディアを通して発表される世論調査結果が、なぜか人々の事件に対する無関心を浮き彫りにしているように思われる。それ自体が人々のどのような意志を反映しているのかはっきりしていない。調査項目にある単純な質問に自分達の意志を同調させるのは至難の業のように感じられる。大方の人はそれでも善意から答えているのかも知れないが、その時そう答えたからといって、その結果が何に反映するのかはっきりしていない。だからどうだというのだろう。それらとはまったく無関係な生活が目の前に展開されており、まずはそれをどうにかしなければならないのであり、全知全霊を傾けて対処しなければならない状況に見舞われている場合さえある。人々の思いは必ずしも一つではないのに、あたかも一致団結して、一つの問題に心を痛めているような雰囲気を醸し出そうとすること自体に無理がある。たぶん画面上で視聴者に向けて真剣な眼差しで語りかけている人々は悲惨な状況なのかも知れない。自分達が裏切られていることに気づいていない。


11月10日

 たぶん何を言っても何も変わらないだろう。そして、何か言えば少しは変わるかもしれない、と思っているのは誰なのだろう。君には人々の意識がそう簡単に変わるとは思えないようだ。時にはある事件をきっかけとして何かしら変わることもあるかもしれないが、その結果、変わったところでどうなるものでもない状況が到来することもあり得る。だがそれがどうしたというのか。変わる部分と変わらない部分の差し引きで、変わる部分の方が多ければ変わったことになるのだろうか。要するに変わり方にも千差万別があるわけか。そうなのかもしれないが、仮にそうだとしても結論は何も出ない。いつものように何を述べようとしているのかもわからない。今誰が変わろうと何が変わろうと、それがどうしたというのだろう。変化という一つの価値観に基づいて何かを語るのが気に入らないのかもしれないが、それでも何らかの価値観を有している己の在り方に嫌悪感を抱いている。馬鹿げたことを執拗に語るその態度にも嫌気が差している。だがそこが面白いのかもしれない。それは嘘なのかもしれない。君は嫌悪感が好きなのであり、嫌気が差している状態をわざと保っているのかもしれない。ここで安易に矛盾という言葉を使いたくない。自己矛盾は人間の特性であり、誰もが矛盾していて、意識と行為が一致していないことが、気が狂うのを阻止している。もっともらしいことを簡単に述べてしまうのはおかしい。そうなってしまうのは何かに洗脳されている証拠かもしれない。今にも精神の集中と持続が途切れそうだから、今日はもうあきらめて寝た方がいいだろう。何をあきらめればいいのかわからない。あきらめようにもまだ途中であり、ここで途切れたら中途半端になるだろう。持続させる理由はそれだけだろうか。たぶん本心からそれを語っているわけではなさそうだ。


11月9日

 冗談の様々なバリエーションの一つとして、無垢な子供たちの存在がある。馬鹿な人は子供たちを大人好みの人間するための手段として教育の重要性を訴えかける。子供たちは大人とは違う人間になるべきなのであり、現に別人であり他人なのだ。別の脳と別の人格を持ち合わせ、別の視点で物事について考えていることだろう。その程度のことはわかるべきなのかもしれない。それを将来の夢に向かって生きるという型枠にはめ込み、大人たちの想像を超える可能性の芽を摘み取って、結局は社会の歯車としてつまらない人生を歩むように強いるのは良くないことだ。未来へ向かって確実な生き方を提示すべきでないだろう。成功させるために手助けをすべきでない。たぶん教育は無効であるべきなのかもしれない。教育関係者は冗談ではないと思うだろうか。では、学校などの教育機関の役目とは何なのか。暇つぶしのレクリエーションをするところなのか。そうであってもかまわないだろう。一つの方向で物事を語り、もっともらしい結論を導き出そうとはしていない。もっともらしいことを述べる輩は掃いて捨てるほどいるだろうから、ここでそれをやってしまってはつまらない。教育について何をどう語ろうとも、それはことごとく余計なお世話であり、出過ぎたまねにしかならない。それでもなお語りたがる者は後を絶たないだろう。この社会を良くしようとする大人たちの願望が子供たちの将来に投影される。大人たちが思い描く理想社会を未来に実現させるためには、子供たちを大人たちの後継者にすべく教育していかなければならない。彼らに言わせれば、未来は子供たちのためにあるのだろうが、その未来には必ず大人たちの意向が反映していなければならないのだろう。何のことはない、子供たちは大人たちの支配欲を満たすための道具でしかない。子供たちが大人たちとは違う価値観に基づいて、全く別の社会を作り上げる可能性をつぶすために教育があるのかもしれない。大人たちの私利私欲に基づく教育に未来はないだろう。あるのは現状維持だけかもしれない。大人たちと同じような人間が永遠に生産され続ける停滞状況しかあり得ない。そういう意味では旧約聖書の神々が、人間たちの築き上げた成果を常に打ち壊すように作用する理由が、そこから導き出せるかもしれない。神々は人間たちに試練を課しながらも未来を与え続けているのだ。今いる場所に留まらないように、家財産や場合によっては近親者の命までも奪い去る。破壊がなければ未来はやってこないということなのか。


11月8日

 君はいつものように何も思わない。君に夢や希望などありはしない。あるのはやせ我慢と強がりだけかもしれない。君の目標は、目標がないように振る舞うことであり、目標のないままに生きているように見せかけることなのか。いったい誰に向かって見せかけているのだろう。それは誰でもない不特定の誰かなのか。インプレッションは他にもある。エデンの東には何があったのだろう。ちなみに南には楽園がある。楽園は北にもあるらしい。スコットランドのゴルフリゾートを経巡る旅が用意されている。数十万円もする高級な時計を腕に巻く理由を未だ知らない。南国のリゾートは世界の頽廃を醸し出す。そこに集う人々を爆破したくなる気持ちもわからないではない。しかしイスラムが精神の拠り所であることは報われないだろう。たぶん報われない者たちはヨーロッパを目指すだろう。戒律の厳しさより物質的な豊かさを求める人々がいるが、そう簡単に報われるはずがない。そこにはすでに豊かな人々が暮らしていて、新参者がその仲間に加わるのは無理だろう。一握りの成功者とそれを目標としている貧しき人々の間にどのような親睦が生まれるというのか。わざとらしい物語ならマスメディアが報じてくれるだろう。仮にそれが真実だとしても、嘘くさい話に仕立て上げられ、浅はかな人々の興味をそそることになるだろう。世界は偏見と慈愛に満ちている。慈愛こそが勘違いや偏見から構成されているのかもしれない。不幸せな人々が偶然に救われたりするのも大きな勘違いのなせる技だ。本当はどうでもいいことだったのに、おかしな成り行きから人助けに精を出すはめに陥ってしまう。しかしそれがいったん美談として語られてしまうと、当初とは全く違う思惑や意識が生じて、それを原因としてあらゆる災難が降りかかり、その者の生を閉ざしてしまう事態にまで至ってしまう。そんな物語ならどこにでもありふれているだろうか。誰もが語りたがる紋切り型になってしまうだろうか。そんなわけで、人助けに精を出す者は不幸になるだろう。だがどんな状況が不幸なのか、当人に自身の不幸を感じ取る能力があるのか、そんなことまで赤の他人にわかるはずもない。


11月7日

 傷口が化膿しはじめる前に手当しなければならない。なぜ識者は日本経済の不振を病気に準えるのだろう。そろいもそろって発想が貧困なのかもしれない。誰にでもわかりやすい表現で説明するようにマスメディアから求められているから、そうなってしまうのかもしれないが、それとは違う仕方で説明する人を見かけないこと自体、この国の全般的な停滞を象徴しているといえるだろう。たぶん不況を説明するのに病気を喩えとして用いることが、紋切り型として社会に定着しているのであり、そのような支配的言説に適合しないことを述べようとする人は無視され、あらかじめ排除されるシステムになっているのかもしれない。また画面上には同じようなことを述べる者しか登場しないという状況は、それだけ社会が均質で安定していることになるだろうか。ならば不況と社会の安定は表裏一体の現象といえるかもしれない。たぶん激動の直中に生きている者ならば、自らが生きることに精一杯で、国の経済が病気だ何だのと言っている暇はないと思われる。画面上で悠長なことを語っている人々にはそれだけ余裕があり、切迫感が欠如しているわけだ。不況という言葉に酔っているのかもしれない。不況であることは停滞していて安定していることを意味している。それは誰もが否定しながらも望んだ状況なのかもしれない。惰眠を貪るにはうってつけの環境だ。そして誰もが高みの見物を決め込んでいる。自らが手を下すことは何もないので、政府の経済対策がどのような結果になろうと痛くも痒くもない。深刻な状況に陥った深刻な人々の有り様を、ただ視聴者に伝えていればそれで仕事をしたことになるわけだから、まったくの他人事なのだろうか。そして退屈しのぎの憂さ晴らしが北朝鮮とイラクになるわけか。北朝鮮の人々が餓えて貧しい生活をしているのはその国の体制に問題があるのであり、イラク人がこれから空爆で殺されようとしているのも、彼らがフセイン大統領を支持しているからか。この世界が荒廃しているとしたらそれは誰が荒廃させているのだろう。民主主義の世の中だから、そこに暮らす人々の自業自得だろうか。たぶんそうなのかもしれないが、彼らは決してそんなことは言わないだろう。その代わりの格好の標的が金正日氏やフセイン大統領になるのだろうか。自分にとってはどうでもいい人たちだ。その手の言動にはあまり本気になれない。それらの内容は現状を物語っていないような気がしている。我々は意図的に視線をそらされているのかもしれない。もちろんそれは特定の誰の意図でもなく、ある種の雰囲気がそのような意図を形作っていて、その雰囲気に包まれることによって、理不尽な報道の洪水にも不感症でいられるのだろう。


11月6日

 すべての否認によって肯定される行為とはどんなものになるだろうか。なぜそんなことを考えるのだろうか。考える必要のないことまで考えることに、何らかの快楽を見いだそうとしているわけなのか。もうすでに十分すぎるほど否認され、無視されているようにも思われるが、君はそれでもなお強がりを続けられるだろうか。孤独な振りを装いつつ、現実の孤独をやり過ごす。二重の否定を肯定に置き換えて、マイナスの力をプラスに反転させたつもりのようだ。それが遊戯にしか過ぎないことにも気づいていながら、君はそれ以外のやり方を知らぬ。まだ言葉の使用に関する技法が未熟なのか。所詮技法は技法でしかなく、技法を追求している限り技法を超えるやり方にはたどり着けないだろう。だが技法以外に何があるというのか。己の技術的な未熟さに気づかない輩は技法を馬鹿にして、安易に感性や感情に訴えて、その場を取り繕ったつもりになれるかもしれないが、それでも満足できればそれでいいのかもしれない。たぶんやり方はいくらでもあるはずで、どんなやり方でもそれなりの結果を導き出すことは可能だろう。そういうわけで、とりあえず何でもありであることはわかったつもりになる。しかし相変わらず求めているやり方を見いだせないことには変わりがない。何をどうすればいいのかわからない。指針が何も出てこない状況にある。ところで何を述べたらいいのだろう。それは素朴な問いだが、答えてくれる者は誰もいない。まさか目の前に広がる夜の闇が答えてくれるはずもない。世の中に絶望した者は神にすがるぐらいしか道はないのだろうか。では戯れに天啓にでも期待してみようか。神など信じてもいないのに、冗談にも程があるだろうか。しかし誰が絶望しているのだろう。もうとっくに絶望という状況さえ信じられなくなってしまったのではないか。絶望すら無関心を装っているほどのやる気のなさに覆われている。だがやる気がないと述べることはできるので、どうにか言葉を連ねることは可能らしいが、それはかなり奇妙な現象なのだろうか。やる気のなさを糧にして、やる気のない内容でやる気のない状況を表現している。やはりさぞや君はうんざりしていることだろう。


11月5日

 今は何も思い出さないが、昔は思い出していたらしい。朦朧とした意識の曖昧さの只中で、その不鮮明な記憶は忘れようにも忘れられない。だが今はもう忘れている。ただ忘れられなかった記憶が思い出されるだけで、忘れられなかったその内容をどうしても思い出せない。意識はなぜかその内容をどう切り出していいのか迷っているようだが、無意識には何を迷っているのかわからない。彼は夢の中でどうしていいかわからず、さらに彷徨い続けながら迷い続けるうちにいつの間にか目が覚めて、気がついたら翌朝になっていた。その時どんな夢を見ていたのか今は思い出せないが、なぜか夢の中で何か閃いたような気がする。ただそんな気がするだけで、実際は何もないようだ。そこで抜けているのはどんな記憶なのだろうか。いつものようにそこで行き詰まった振りをする。だがそこで中断しては中身がない。なかなか本題にたどり着けないのもいつものことなのか。君はもうすでに本題を通り越して別のことを述べているかもしれない。中身らしい内容を何も述べられないうちに、それとはまったく別のことを述べているわけなのか。もうだいぶ前に物語は終わっているはずなのに、その物語については何も語らずに、君は空虚の只中で無内容について語っているのかもしれない。だが一方で無意識は無内容に抵抗して、何もない空白に無理矢理何からの内容をねじ込もうとしている。どうやら停滞状況が気に入らないらしいが、それはたぶん無駄な悪あがきであり、往生際が悪すぎる。とりあえず何もないこの状況を直視しよう。そして無駄な抵抗はもうやめにして、素直に何もない空虚と戯れたらどうだろうか。それは軽はずみな言動だ。空虚とどう戯れたらいいのだろう。どんな戯れ方があるというのか。そんなことを知るわけがないし、それは不可能なのではないだろうか。だがそんな思いはどうでもいいことだ。意識が知らなくても無意識のうちにやってしまっていたりすることもある。案外もうすでに空虚と戯れてしまっていて、それにも飽きてしまったのかもしれない。気づいた時にはもう通り過ぎてしまっている。たぶんそれは過去の出来事なのであり、ここに記述する内容は過去の言葉しかない。だから過ぎ去った思い出が言葉として蓄積し続ける。だがそんなことの繰り返しにも飽きた。


11月4日

 それは幻影かもしれない。一時の迷いに流されて本質を見失った気分に覆われる。どうやら君は勘違いをしていたようだ。彼らを助けなければならないわけではないらしい。味方となってくれる著名人を利用して自己正当化を繰り返すマスメディアは醜悪そのものだが、それを今さらどうしろというのだろう。その制度を覆すことがはたして可能なのだろうか。相手側に言うべきところを、無関係な人々に向かってしきりに繰り返した挙げ句に、世論調査を用いて自分達の主張が間違っていないことを、自分達のメディアを通してこれでもかと宣伝しまくる、そのおぞましくも馬鹿げた手法をどうすれば変えられるというのか。たぶん現時点では無理だろう。正気の沙汰でない者たちを改心させる手段があるなどと思わない方がよさそうだ。助ける手段を欠いたまま助けることなど到底不可能だ。このまま放っておくわけにもいかないが、今さらどうしようもない。自分には何もできないし、それをやる立場にはない。そういうわけで、もはや匙を投げてあきらめた振りをしておこう。やはりこの際、彼らには行けるところまで行ってもらって、思う存分やりたい放題させてやるべきなのかもしれない。我々はただ黙って傍観し続けることしかできない。彼らのやり方には同調できない一般人は、せいぜい彼らの思惑通りに事が運ぶように、彼らの望む未来がやってくるように、ひたすら祈ることしかできないのかもしれない。そして彼らが掲げてみせる夢や希望から溢れた者たちは、彼らを逆恨みしてはならない。まずは自らの努力が足りなかったことを反省してみよう。自らの才能の欠如を悔いてみよう。世間から無視される者としてこんな世の中に生まれてきたことを呪ってみよう。もちろん本気でそんなことをやる必要はない。とりあえずそんな振りをしておくことが肝心なのかもしれない。それはたぶんインフルエンザの予防接種のようなものだ。こんなメロドラマのような現状にはまったく本気になれない。すべてが乾ききっていて、それらに抵抗する必要さえ感じられない。くだらぬ情念の生じる余地すらない。


11月3日

 それは何かの印なのかもしれない。岩に刻まれた数千年前の象形文字を発見して大騒ぎ、という成り行きを君は期待しているわけか。だが架空の話では満足できない。しかし現実の話も知らないので、フィクションとノンフィクションのどちらにも不満が残ってしまう。何かが足りないのかもしれないが、その足りない何かを補充することができない。足りないながらも、君は夢が生まれる場所を知っているはずだ。たとえばそれは二十数年前に見たヘドロの海かもしれない。君に出した手紙が君に届くことはないだろう。なぜなら誰も君に手紙など出していないからだ。聞き届けられない声は届かぬ声となって、いつか誰かが録音するだろう。それと同じように無駄なことなのかもしれない。何を述べてみたところでここでは無駄なのだろう。だからやる気が失せて何もできなくなる。だがやる気が失せているのが君でないとしたら、いったい誰が無力感に苛まれているのか。他でもなく、自分でもなく、彼でもないだろう。魂の鍵穴には小石が詰まっている。溢れ出ようとする感情がせき止められている。そしてもう一方の出口である理性が有効に作用しようにも、その行き場はどこにも見当たらない。そこで何かによって完全に押さえ込まれているらしい。現実とはそういうものなのか。そうやって現実に押しつぶされているらしいのだが、それでもなお、君には得体の知れない余裕があるようだ。いつも君の探究心が発揮されるのはそうなってからのようだ。わざとらしく切羽詰まった振りをしておいて、そこから思いもよらぬおかしな展開が当然のことのように開示される。すべての前提を無視して君とは無関係な言葉の束が坩堝の中に投げ込まれる。そしてその燃料を糧としてわけのわからぬうわごとがつぶやかれるらしい。誰がつぶやいているのでもなく、君とも彼とも違う、人格すら有さぬ群衆のざわめきとなって、彼らの下に彼らを裏切る形で訪れるだろうか。そこではもはやつぶやきすら存在できない状態となっているかもしれない。誰も何も彼らの設けたシステムの内部でしか発言を許されない状況なのか。冗談を述べるならば、もしかしたら我々はメディアファシズムの時代に生きているのかもしれない。もっともそれがどうしたわけでもないのだが、それらは出来の悪いファシズムのパロディでしかないのかもしれない。


11月2日

 相変わらずの行き詰まり状態だが、まだ何か気の利いた方法があるというのだろうか。誰に問いかけているわけでもないが、影にはまだやり残したことがあるらしい。日差しの下で自分の背後を離れようとしない。どうにかしてそれをやり遂げさせようとしているようだ。その無意味な作業を続けさせたいらしい。別にやりたいことがあるわけではない。だがいい加減それらの演劇空間には飽きたのか、夢遊病者のような人々の行列の中で誰も画面を見ようとしない。彼らはわざとらしく演じられている嘘より、それ以外には何もないという真実を見いだしたのかもしれない。繰り返し同じような映像をこれでもかと流し続けるメディアは確かに嘘をついている。そしてそれらの映像に無関心な人々が肯定されることはなく、彼らの意志はいつも無視されている。要するに世論調査と同じように同調できない人々はあらかじめ排除されているのだ。たぶん排除された人々がすべてを覆うことはないだろう。それがすべてではないからなのだろうか。すべてではないのはそれだけではない。すべてを求めてはいけないのではなく、すべてを求めることがすべてではなくなるからなのだろうか。常に反射しながら拡散しているのかもしれない。すべてが分散していってしまう。雲散霧消していくべきものを、君はどうやって定着させようとしているのだろう。言葉による構築には限界がある。それらは計り知れない労力を必要としている。たとえば誰も何も語らないことをどうやって表現できるだろうか。虚無の存在をどうやって証明するつもりなのか。だが世界のどこを探しても満足のいく答えは見つからないだろう。この世に実質を伴った空虚など実現できるはずもない。その証拠に、さっきから証明とは無縁の空虚な語りに終始している。どうやら何も考えていないみたいだ。とりあえず彼らは後戻りしたくないようだ。だが玉砕の手前で方向転換する余裕があるとは思えない。結果はすでに見えていて、このまま行けば遠からず砕け散るだろう。しかしもとからそれを避けるつもりもないのだろうから、それはそれで彼らにとっては良いことなのかも知れない。信用されなくなるのを承知の上でそうしているわけでもないのだろうが、もはや制御が利かなくなっていることは確かなようだ。


11月1日

 行き当たりばったりでどこへ飛んでいくかは知らないが、ただ適当に弾き返してみる。大砲の玉は丸くない。気まぐれに開始以前の場所へ戻ってみよう。そこではっきりしたこだわりを見いだすことはできない。ときには自己否定も自己正当化に結びつくようだ。気晴らしの映像の中から未練がましい懇願に見舞われる。影は静かに語りかける。まだ継続をあきらめてはならないということらしい。何が正しい行為なのか判別するのは難しいが、間違っているのは君の方だ。わかりやすさを求める態度は安易な間違いを誘発している。だが誰が間違っていようと無関心な態度を取り続けているようだ。それでも至って平穏に時は移り行く。何かを語りかけようと努力するが、意味不明な内容にしかならない。それにも関わらず闇からの適当な問いかけが止むことはない。面倒なので鯖の味噌煮が食べたいところか。缶詰の底に記載された製造年月日は五年前のものだ。保存食にも賞味期限切れがある。いったいいつまで続ける気なのか、しびれを切らした輩が堪らず切り出す。そして答えが宙を舞っている。その件に関して遠い山並は何も答えようとしないだろう。公孫樹の葉が黄色く色づく季節に近づいている。おかしな気配の背後からおかしな気分が登場する。腕時計の重さが煩わしい。君は今日も御機嫌斜めなのだろうか。静かな波動とともに空気が緩やかに揺れ動いている。登り坂から下り坂へと視線を上下させてみれば、君の未来を伺い知ることができる。そんな嘘を信じてもらえるだろうか。このところ登場しない彼は今どうしているのだろう。しかし今は君も彼もその気配を感じ取ることはできない。乾いた空に烏が舞っている。気配は遥か遠くを歩いているらしい。猫が見つめているのは画面の裏側だったりする。眠くなる前に終わらせようとしたが、どうやらそれも途中で挫折してしまったようだ。生きて死ぬ以外の何を求めているのか。そこからどうやって抜け出る気なのか。そんな問いはつまらない。到底眠気覚ましにはならない。人は最後を求めている。最終回を見て感動したいのだ。それが終わる瞬間に立ち会いたい。そして終わった後から懐かしむ。あの時はどうだったのかを思い出したいのだろう。だが誰もが思い描くような理想的な結末に至ることはない。終わらないのかもしれない。


10月31日

 どこかで人知れず誰かが生きているらしい。手のひらを太陽にかざしてみれば、赤い血潮が透けて見えるかもしれないが、それで生きている証しになるだろうか。歌の中ではそんな表現もあったかもしれない。だが面倒なので死んでいることにしておこう。そもそも歴史が間違っていたのだ。群雄が割拠する大げさな王朝史ではない歴史もあったはずだ。たぶん今ならそれを実証できるかもしれない。しかし誰がそれをやろうとしているのだろう。過去のことはもう忘れてしまったのか。過去には歴史などないが、歴史はこれから作られる。たぶん歴史家が歴史を作るのかもしれない。ところで司馬遷は何年前の歴史を著述したつもりになっていたのだろう。おそらく彼は二千年後の歴史を捏造しようとしていた。彼は彼の未来の姿を予感していたのかもしれない。それはいつもの冗談に近い内容になる。映像の中でお馴染みの俳優が微笑みかける。彼は君には未来がないことを知っていた。それは勝手な思い込みで勘違いだったかもしれないが、その思い違いが実現するようにわざとらしく振る舞っているようだ。その困難はいつまでもどこまでも不可能と結合できない。そして心臓のリズムがかき乱されて、呼吸困難の最中に思いもよらぬ旧友と再会することになる。死の友は死神だけではなかったようで、その貧乏神は行方知れずの誰かに借金をしていたはずだ。そのとき神の名に値しない神の姿をおぼろげながら見ることができたかも知れない。死の友はある秘密を語ってくれた。偽りの真実を執拗に話し続けていると、いつかそれが偽りでなく本物の真実になるだろう。血による粛正を繰り返す者は、血みどろの真実を作り出せるかも知れない。真実を求める者には、嘘で塗り固められたいかがわしさがついてまわる。何を言ってみても約束を破ったことには変わりがない。だがご都合主義者にはそれ相応の言い訳がふさわしいようだ。自分たちの勇み足を認めようとしない野次馬連中も自己正当化に余念がない。腐った国の腐った奴らは、交渉が不調に終わった責を一方的に相手に負わせることしかできない。要するに安易な人々には安易な未来がふさわしいのかもしれない。それでも誰かが助けてやらねばならないのだろうか。仮に助けようとしても無視されるだけだろう。君は敵に塩を送る気にはなれないのだろうか。沈没する船にしがみついている人々を助けることは不可能なのか。しかし何が沈没しようとしている船なのか、あなたにわかるはずもないだろう。船が水底に没して、人々が亡霊と化したとき、彼らの影が死人たちに問うだろう。もう自分たちには用がないはずだから、あなたがたから離れていいだろうか。影たちには何ものにもとらわれない自由が必要だ。


10月30日

 なぜか睡魔に邪魔されて間が空いてしまった。そしてとうとう行き詰まりを打開せずに放棄してしまったらしい。それはある程度は予想された結果だったのだろうか。たぶんそのとき自分は他のことを考えていたのだろう。熱にうなされていたのは何年前のことだろうか。そこからかろうじて立ち直るきっかけを見いだしたつもりになっていた。すべての光景はそこから遠ざかりつつある。結局見いだされた大地もただの荒れ地に過ぎないのだろう。その季節が来ると花の咲き乱れる荒れ地が死海周辺にあるらしい。遠ざかる大地には何らかの痕跡がしるされている。しかしなぜ大地が遠ざかるのだろう。自分達が何らかの乗り物に乗っていて、そこから別の場所へ移動している最中なのかもしれない。大地から遠ざかりつつあるのは自分自身なのか。それでもまだ同期への試行を続けているらしく、継続をあきらめていないように思われる。立ち直るきっかけを必死に模索しているようだ。しかし誰もそんなことは望んでいないだろう。もはや手遅れなのであり、すでに出口は閉じられてしまったようだ。それが何の出口か知らないが、どこかへ通じる経路であったことを誰かが物語っている。いつかはその誰かに出会ってみたいものだが、そうなる前にこの意味不明な内容をどうにかしなければならない。だがそれも手遅れだろう。鬱状態の意識にはどうすることもできない。ただ流れるがままに流され続けるだけのようだ。それでもつかの間の気休めが示され、いつかは君の謎も明らかになるだろうか。何も見いだせぬまま、気まぐれに目の前に現れた空虚の塊を握りつぶす。それは偽りの動作として認識されるだろう。そこからそう遠くない地点に自転車が転がっていたはずだ。タイヤの空気が抜けていて乗り心地は最低だろうか。駅前の放置自転車は腕章をつけた老人たちが撤去している。それは雨の日も晴れの日も毎日続き、彼らの仕事が終わる気配はない。たぶん十年前の老人は数えるほどしかないだろうか。老人の顔ぶれも年とともに変化しているはずだ。廃棄処分になるのは自転車も老人も同じことなのか。リサイクルには生身の人間そのものは適さないのかもしれない。若者が無造作にバイクを止めて老人に睨みつけられている。あと数十年も経てば、今度は彼が睨みつける側に回る可能性もあるだろうか。たとえばそれを因果応報という表現で言い表すのは間違っているだろうか。


10月29日

 予感は予感としてただの予感でしかないのだが、その予感に意志決定を左右されたくないのに、やはり結果的には左右されてしまっているようだ。その辺に精神の弱さと限界を感じさせる。わざと曖昧な態度を装い、わかっている部分とわかっていない部分を意図的に混ぜ合わせているような印象を抱き続ける。自分にとって自分自身は謎のまま置き去りにされている。自分でいることよりも彼や君でいる方が気楽な気分になれる。たぶん自分には逃げ道がなく、言い訳のしようない実体が存在している。自分を全面に押し出すと、生身の肉体に魂が宿っている、というフィクションを受け入れざるを得なくなる。それでは駄目だと思われるのに、駄目な理由を導き出せそうにない。ただそんな気がするだけかもしれないが、その点にこだわっていないと駄目になってしまうような気がしている。だが霊感ばかりに頼っていると現世での力学を見失い、事件の到来を感じ取れなくなり、ついにはその霊感からも見放されてしまうだろう。一応は神秘主義思想も一つの技術体系に属しているはずだから、そのような結果よりも、そこに至る過程に本質が宿っていると思われる。たぶん霊感に導かれていると感じるのは気のせいと思っておいた方が無難だ。そう思っていないと思考する努力を忘れてしまう。常に考え続けていなければ霊感には巡り会えない。そうすることで苦境を乗り切ろうとしているわけではなく、むしろ苦境に捕らえられ、その只中に縛り付けられているような気さえしてくるが、そこから解放されるのは簡単であり、無駄な思考を放棄して安逸な日常生活を楽しもうとしさえすれば、ただちに幸せになれるかもしれないとも感じられるが、どういうわけか今のところそうする気にはなれない。なぜか自分自身の境遇などあまり重要ではないと思ってしまう。もちろん一方では打算的な生き方もしている。もしかしたらその両方を巧みに使い分けているのかも知れない。人並みに老後の生活まで計算に入れながら、巧妙に立ち回っているのかもしれない。カフカのようにすべてを文学に捧げるような痛ましい生き方はできない。そうならないためにも無意識の霊感に頼らざるを得ないわけか。つまり極端な逸脱はできないので、大したことは成し遂げられないように思われる。しかしそれでいいのだろうか。それで良いか悪いかなど考慮には入れられない。それは結果が明らかにしてくれるだろうし、その途上にある者が結果まで手に入れることは不可能だ。たぶん無意識がなるべき結果に導いてくれるとしかいいようがない。かなり無責任だがその程度のことしか述べられないのであり、それ以上のことやそれを超える内容にはなりようがないだろう。それがこの場での限界なのだ。もちろんそれは暫定的な限界であり、今後起こるかもしれない思いがけない変化はほとんど考慮されていない。だがそんな変化など予測しようがないので、この場での限界などあまり重要ではないのかもしれない。それは話を維持するための言葉としての限界なのだろう。ところで自分はいったい何を語っているのか。これは内容のある話なのだろうか。ここにどのような霊感が閃いているのだろう。何もないような気もする。


10月28日

 どうも正義の味方を標榜している人たちは愚かさの極限状態にあるようだ。だが愚かであることは賢くありたいと望むことよりも良いことなのかもしれない。愚かであるからこそ出過ぎたまねをやってしまう。不正を見逃すまいとして盛んに教条主義を振りかざす。自分達に理性が宿っていると勘違いしている。教条主義の権威とはその理性の濫用を指すのかも知れない。勝手な思い込みと論理だけで自らの主張や立場の正しさを確立できるわけがない。ようするに彼らは限りのない馬鹿なのかも知れない。しかしなぜそれが良いことだといえるのだろうか。彼らの主張がまったく完全無欠で理に適っているからなのか。たぶんそうなのかもしれない。よほど自分達の正しさに自信があるのだろう。たぶんほとんど完全に正しいのだろう。それだけのことなのだろうか。そうに違いないと感じている。それにひきかえ自分は間違った主張を繰り返す。自分はなぜか間違った主張をすることが好きのようだ。犯罪者や犯罪行為を働く国が好きだし、何とか彼らを助けてやりたいと願っている。もちろん彼らを更生させたいのではなく、犯罪状態のままでいてほしいとすら思う。しかし彼らを助けるとはどういうことなのか。馬鹿な正義の味方から彼らを守りたいのだろうか。助けることは守ることとは限らない。ただそのような在り方でいてほしい、そんな希望を抱いているだけなのかも知れない。それで現実に助けることになるのかどうかはわからないが、とりあえず彼らの側に立って言葉を紡ぎ出さなければならないと感じていることは確かだ。そうしなければ、世の中は犯罪被害者の味方ばかりになってしまうような気がするからである。それが絶対に正しい立場と見なされているのだから、なおさら間違った立場で間違ったことを述べなければならない。自分は何よりもそういう連中が許せない。今回の北朝鮮騒ぎでそれを確信してしまった。猫も杓子も北朝鮮批判を繰り返す状況に憤りを感じている。特に公正中立を標榜しているニュースメディアの報道はひどすぎる。去年の同時多発テロの時よりさらに許し難い。相手がひどい国であり、その国の代表者がひどければ、感情にまかせて言葉で攻撃してかまわないのだろうか。なぜあんな奴らに他国やその代表者を罵る資格があるのか。どうして一方の側について他方を攻撃してしまうのだろうか。相手がどんなにひどい輩であったとしても、どんなにひどいことをやっていようと、正義の味方を気取ってメディアが言葉や映像で攻撃するのは、あまりにも軽率な行為であり、倫理感が欠如しているといわざるを得ない。無自覚にそういうことばかりやっているから権力に利用されてしまうのかも知れない。たぶん北朝鮮や金正日氏は格好の獲物であり躓きの石なのだ。報道関係者でいったんあれらを非難した者は、もう後戻りができなくなるだろう。もはやまったく修正が利かなくなる。失われたバランスは二度と釣り合わなくなる。これは本当に良いことなのだろうか。


10月27日

 過去に意識した内容を思い出しながら、その時の気まぐれで省略されてしまった台詞をよみがえらせる。だがその努力は報われない。まるで本気になれないうちに、また同じような内容になってしまうだろう。気づかぬうちに切羽詰まっていたのかもしれない。しかしそんなことなどおかまいなしに、話の脈絡など無視して、強引にどこかで聞いた風な台詞が繰り返され、権力と栄光を手に入れるべく無駄な努力が繰り返される。滅び去る者にも未来を与えよう。夢と希望に満ちあふれた未来の到来を期待させてみよう。それはまるで人々をだまし続けるようにその耳に聞こえてくる。愛のささやきはいつも画面上から発せられるのだろうか。今さらありふれた話の筋を繰り返すにはおよばない。読者の想像にまかせられているものまで語る義務を感じさせない。その響きは郷愁の只中へ引きずり込まれた者たちの悶え声に似ている。だがそこで自分は何を馬鹿にしているつもりなのか。それも想像にまかせられている内容なのかも知れない。語らずにいる内容は、実際に語ることが不可能だから語れないのだろう。それは自分には自分の馬鹿さ加減を計測できないのと同じことかも知れない。しかし心の中ではまったく違うと思いたいようだ。内心でわかっていながら、それをなかなか認めたがらないらしい。壊れかけた扉から隙間風が吹き込んでいる。本心を見透かされたような気分になる。ついさっきまで描いていた心象風景を忘れていたようだ。いつの間にか時間と日付けに追い越されている。だが何が追い越されたのかわからぬまま、その先へ歩を進めていかねばならなくなる。そして更なる展開など思いつく間もなく、またもやおいてきぼりを食ってしまうらしい。なぜここに留まっていられないのか、留まる場を見つけられない自己を疑い続け、さらに自己の存在を信じられなくなる。そして疑いつつ存在し続ける自己を捨て去る場所も見つけられない。夜は安易に深まって、あっけなく朝になってしまうだろう。ただ地球が自転しているに過ぎないことを悩みの種にするのはおかしい。一年のうちで快適に過ごせるのは、11月から2月までの4か月間だけかも知れない。話の内容とはまるで関係のないことが頭に浮かんでいる。


10月26日

 なぜか他人の思想に依存できなくなる。面倒だから作り話に感動したりしないが、その作り話にもついに終わりの時が到来してしまったようだ。疑り深い意識はいつまでも疑念を抱き続け、信用できる言葉の行方を見失ってしまう。一人で荒野の只中に取り残され、何をしたらいいのかわからなくなる。そんな話は俄には信じ難いが、未だ話の内容を確定できないようだ。だから何を語っているのかわからない。それはいつもの堂々巡りなのかもしれない。不可能で満たされた空気を掴み損ない、空虚に満たされる。誰もが死に損ない、偽りの死を手に入れ損なう。そんなわけで生きている者たちは皆現実に生きている。だが、そんな意味不明な内容が空虚に満たされているらしい。死人に何を語りかけても自己満足にしかならない。それは自らを納得させるための儀式になるだけなのか。そこで動き出しているのは、物語のどのような構成要素なのだろうか。歪な面影の表面をなぞり、画用紙にクレヨンが擦りつけられる。忙しげな表情のどこかで空を見つめていたらしい。刈入れ時の穀物畑には枯れ草の香りが漂っている。その悠久の時とは無縁の風景は一日で一変するだろう。北の大地では冬の訪れが早いそうだが、今はまだ紅葉の季節かもしれない。そんな場所へ行ってみたいわけではない。行きそびれてしまった場所とは正反対の場所で、途方に暮れている。どうしていいのかわからずに、呆然とその場に立ち尽くす。漫画ではないので、時空のねじれなど感知できるわけもなく、当たり前の現実の中につなぎ止められているだけなのかもしれない。その空虚はこの現実から生じていて、別の選択肢から意識を引き離している。今は別の選択肢などあり得ないのだ。自分にはこの世界のこの現実しかあり得ない。この世界に希望を押し込めてみよう。そして空想の世界では希望から解き放たれよう。そこから先は虚無の世界になるだろう。そこでは言葉の屈折率が違い過ぎて、微妙な角度で発せられた言葉が思わぬ方向から戻ってくる。差し障りのない表現を構築できずに、強烈な日差しとともに砂漠の渇きを招き寄せてしまう。そしてもはや手の施しようない状態まで発展させてしまったらしい。涅槃の境地は美学的なのかもしれず、現実から遠ざかった悟りには、作り話特有のインチキ臭さが絡まっている。


10月25日

 困難を乗り越えられずに途中で引き返してしまう。そんな事情で過ちはいつまでも続いてしまうだろう。いったいいつから勘違いを犯していたのだろう。まだ内容は知らされていないだろうが、だいぶ前からそれに気づいていたはずだ。今さらながらそこで君は何を求めていたのか。そこでは何も求めないが、それ以外でならそんなことはない。確かにその時は何も求めはしないが、それとは別の機会に、何も求めていない状況も含めたすべての状況を求めていたのであって、それ以外は何も求めていないのかもしれない。どうも冗談を述べている最中のようだ。それでは単に恣意的な文章の複雑化を表現しているだけだ。言葉が無駄に重複しているだけかもしれない。それにしてもその突然の転調の原因がわからない。今さら何を求めようと、それはありふれた白昼夢になるだけだろう。ようするに何を述べてみても無駄だから、あきらめてほしいわけなのか。そんな挑発には乗らないのは当然としても、もうすでにあきらめている。安易な希望などどこにも見当たらない。おそらく思い描いている天国は地獄の勘違いになるだろう。君がもう一つの天国で何を思っているかは知らないが、君の意に反して君の影は何も思わない。相変わらず思考とは無縁の影には、君の存在が邪魔なのかもしれない。だが影がそこで自覚しているつもりのことも勘違いかもしれない。依然として何が勘違いなのかは不明のままだ。本人に勘違いを自覚する機会は永遠にやってこないのかもしれない。だからその場の思いつきで当たり障りのないことを述べるにしても、とりあえずそんなに険悪な表情を見せなくてもいいだろう。不用意な発言は控えた方がいい。精神のバランスが崩れかけ、危うく本音を漏らすはめに陥りそうになるが、なんとかそこで踏み止まって、虚構の世界で一息ついている。気がつけば、方々へ分散していた言葉がたまには寄り集まって、何か意味のある内容を形成しているらしい。しかしそれは一瞬の幻覚かもしれず、これからどうしたらいいものか、気の利いたことは思い浮かばないが、とりあえずくだらぬ感情を心から締め出して、また一からやり直してみよう。冗談ではないが、本当に冗談にはなり得ない内容だ。


10月24日

 いつまで経っても冷静にはなれず、過ちに気づきながらもそれを直せないでいる。どうも感情的になっているのは自分の方かもしれない。何もかもが思い通りに行かない荒んだ状況から、時には攻撃的な感情が芽生えてきたりすることもあるようだ。とりあえずテロリストにも独自の言い分があるらしい。理由なき暴走では民衆がついてこない。いつも決死の覚悟で暴力に訴えるその理由を求めている。だが事件を起こすことによって状況を変えることができるだろうか。夜に輝く太陽がその登場を欲しているだけなのか。ある時期においては時代は緩やかに変わりゆく。だがその時代に暮らしている人にとっては、それを感じ取るのは難しいかもしれない。時代の変化はその変化が一段落ついてから事後的にわかるものだろう。後から歴史家が自らの研究素材として、その変化についてああだこうだと考察するぐらいなものだ。だから今ここで現に過ごしているこの時空間は、まだ時代とは呼ばれないあやふやで流動的な時期なのだろうか。時代とは過去の一時期を区切って示される観察対象なのかもしれない。テロの脅威に直面している地域には、それなりの原因があることは確かだろうが、その図式的に示される怨恨関係を超えて導かれる答えもある。テロリストが行っている解放闘争は、それとは別の現実を覆い隠している。攻撃対象の国家へ武力で攻撃を加えること自体が、それに対抗する手段として用いられる軍事力を背景とした国家的暴力の継続と延命を許していて、その結果として開放への道を自ら閉ざしてしまっている。それは隠された現実などではなく、現に世界の至る所にむき出しでさらされている現実だ。それはまた答えに至る過程での途中経過なのかもしれない。あれらのテロもいずれは何らかの結末に至るわけなのか。冗談を交えながら簡単に述べるなら、この世界には人が多すぎるのだろう。お互いに殺しあいながらも人口は増え続けている。たぶん人口を減らせば相対的に争いごとも少なくなるだろう。ではどうやって減らせばいいのかといえば、やはり余分な人には死んでもらうしかないのだろうか。しかし殺せば殺すほど増えるのだとすれば、殺すのは間違ったやり方ということになる。要するにのんびりすればいいのだ。あくせくせず競争心もない無気力な人間だらけになれば、たぶん自然と争いごともなくなるだろう。だがそれでは国家やマスメディアが困ってしまうだろう。そして荒唐無稽なこじつけを述べるならば、テロリストやテロ行為こそが人々の競争心を煽り立てていて、否定的な意味合いで国家やマスメディアの存在意義を構成しているのかもしれない。二項対立を構成するテロリストと国家と、それをはやし立てているマスメディアがこんな世界を作り出している。しかし現状ではテロリストがテロをやめるのは不可能だ。世界がテロを求めている。それは嘘なのかもしれない。だがこの程度の冗談では気がおさまりそうもない。


10月23日

 すべてを表現すれば矛盾してしまうだろう。自分にはそんなことは不可能だが、矛盾しながらもそれをやってしまっている者もいるようだ。それは茶番劇には違いないが、少しは感動できるかもしれない。たぶん北朝鮮は日本と国交正常化などすべきではないのかもしれない。とりあえず生存している拉致被害者とその家族とよど号ハイジャック犯とその家族を全員日本側へ渡して、それで今回の交渉はひとまず終わりにした方が無難だ。寛容精神のひとかけらもない国から経済援助などを期待すべきではない。しかし拉致被害者とその家族は日本でどうやって暮らしていくのだろう。向こうではエリートだったのに、日本ではパートタイムの職にしかありつけない中国残留孤児と同じような境遇になってしまったら悲惨だ。彼らも北朝鮮では一応はエリートだったのだろうから、それなりの肩書きを持つ職業をあてがわないと、北朝鮮での生活の方がよかったとなってしまう。この際外務省に北朝鮮担当局でも設立して、日本と北朝鮮の架け橋として働いてもらうような形にすれば、彼らも納得してくれるような気がする。北朝鮮にも友人や世話になった人たちがいるはずだから、そういう方々と頻繁に連絡をとれるような環境を整えてやる必要もある。また彼らの子息は北朝鮮の一流大学へ通っているらしいから、日本でもできることなら偏差値の高い大学へ通わせてやる必要がある。はたしてそんなお世話をしてやれば彼らは満足するのだろうか。どうも虚しさばかりに覆われてしまうような予感がする。しかし自分にとっては他人事でしかない。これ以上はこの話題を続けられない。彼らの気持ちを察するにはおよばない。あまり本気にはなれない。そのすべては仮想空間上で繰り広げられているフィクションなのかもしれない。それらは空虚な物語であり、どう見ても茶番劇であり、見え透いたメロドラマとしか思えない。お涙ちょうだいシーンはもういい加減でお開きにしてもらいたい。そんなクサいシーンばかり見せられると脳みそが腐ってくる。密かに日本の衛星放送を傍受していると噂される金正日同志も、さぞやうんざりしていることだろう(笑)。ひどい国に交渉を持ちかけたことを、今さらながら後悔しているはずだ。そういう意味では、日本の嫌がらせもいくらかは功を奏しているといえるのかもしれない。どうせこの機に乗じて経済援助額を値切る算段でもしていることだろう。そんなわけで、まったく馬鹿げた話になってしまった。これで自分には未来を見通す力などありはしないことが証明されたわけか。もう予言者的な言辞を弄することもない。未来にも過去にも今にも自分の幻影は現れはしないだろう。あるのは日差しに照らされてできる普通の影だけだ。たぶん知性を放棄した人々は幸せになれる。そして彼らの馬鹿踊りが脳裏に刻み込まれる。世界とはこういう世界なのか。こんな世界が滅びるわけがない。おそらく滅びる価値さえ持ち合わせてはないだろう。


10月22日

 まともな精神状態とは言い難いが、まともなことを述べたければ、考えうる限りすべての可能性について語らなければならない。だがその先が少し違うのかもしれない。前提そのものが間違っている。国家が国民を必要としていることは確かだ。国家が国家として維持継続されるには、それを担う人材が欠かせない。そのためには教育によって質の高い人材を育成しなければならない。またまともな職に就いてちゃんと税金を払ってくれるように、権利と規則を使い分けて人々を調教していかなければならない。国家を繁栄させるために、人々は自分の能力に応じて割り振られた仕事をこなしていかなければならない。ここで権利とは参政権や裁判を起こす権利などで、規則とは国家の一員として守らなければならない法律一般のことになるだろうか。だがいったい誰がそんなことを人々にやらせているのだろう。特定の誰かは何かをやっているのかもしれないが、大半の人々はそんなことはあまり意識せずに、ただ日々を暮らしているに過ぎない。それが結果的に国家装置の歯車として動作しているとみなされるのか。やはりそんな前提はおかしい。それが国家と呼ばれる実体とフィクションの混ぜ合わせられた複合体の正体なのか。しかしそれで何か述べていることになるだろうか。冗談でならそこで終わりだが、その先に何か述べてみる必要があるらしい。しかし何を述べたらいいのだろうか。それのどこに脱出口があるのかわからない。国家の呪縛からの脱出は不可能なのか。だがなぜ脱出しなければならないのかもわからない。脱出する必要を感じない。たぶん矛盾しているのだろう。だが国際社会などというごまかしでは納得できないだろう。諸国家が参加している国際社会などという概念もフィクションだろう。だがそのフィクションに縛られている人も多いことは確かだ。ただ人々が国境を越えて自由に往来できればそれでいいだけなのかも知れない。それ以上を望んではならないのだろう。いつもながらその理由は知らないが、現状では無理かも知れないが、あまり感情的にならない方がいいだろう。しかしいったい誰に向かって呼びかけているのかは不明だ。しかしご都合主義にも呆れ果てる。核開発はやっていないと言いながら実はやっていたと言ってみせるのと同じように、拉致被害者はいったん北朝鮮に帰すと約束しておきながら、いったん日本に帰ってきたからには絶対帰さない、と約束を反古にしてしまったら彼の国と同じ論理ではないのか。相手の非を一方的に攻撃しながら、自分達の言っていることの不具合については口をつぐむのが、マスコミ特有のご都合主義なのだろう。北朝鮮につけ入る隙をいくらでも与えてやる度量に欠ける人々の心は、たぶん偏狭で卑しいのかもしれない。要するにその程度の人々が画面や紙面で感情的に騒ぎ立てているのだから、何となく馬鹿らしく思われる。人間などどこで生きていようが死んでいようが、赤の他人にとっては基本的にどうでもいいことだ。たぶんこんなことを述べている自分は矛盾しているのだろう。現状では矛盾せざるを得ない。騒ぎ過ぎて事態を悪化させようとするばかりの能無し連中には同調できない。


10月21日

 近所の公園で子供が犬と戯れている。その澄んだ黒い瞳には何も映らない。つる草がおのずから折れ曲がり、隣同士で互いに絡み合う。動植物は周りの風景を意識していないようだ。唐突に誰かがこんな台詞を発する。今から二十年後にもう一度会おう。それは作り話の中の一シーン以外にはあり得ない言葉かもしれない。物語はもうはじまっていて、誰に会うかもわからないまま、無為に徒労の時を過ごす。それは救世主の出現を待ちわびる古代ヘブライ人の心境と似ているだろうか。鼻の欠けたブロンズの胸像は、数百年間ひたすら土の中から掘り出されることを待ち望んでいた。ジュラ紀の植物は今に至るまで様々な変化を被り、その成分を石に変化させた。君の意識も年月の経過とともに石化していってしまうのだろうか。いくら待っても何もはじまらないし、誰とも会えないだろうか。架空の物語は退屈と空虚に充ちていて、ドラマチックな展開など望むべくもない。ただ貧窮の時が延々と続くのみだが、それでもあまり日記的な台詞は使いたくない。何もない日々はただ何もないままに推移しているだけだろう。それだけでは君は不満なのだろう。誰に急かされているわけでもないが、暇にまかせて辺り一帯を歩き回る日々が続く。過去の一場面を思い出して言葉を連ねているのかもしれない。今の慌ただしい現状からかなり隔たった時代もあったらしく、追憶とともに過去を想い出す日々もまんざら悪くはない。そうやって誰に語りかけるでもなく心の空白を表現し続けるつもりなのか。センチメンタリズムは今にはじまったことではないが、それを感じていることがうまく言葉として表現されていないらしい。だがそれは架空の感情でしかなく、どこまで行っても空虚な作り話の中での意識なのかもしれない。しかしそれ以外に何を持ち合わせているというのか。日常生活の中でも絶えず偽りの感情を演じているに過ぎない。いつも他人からどう見られているかを気づかう毎日なのだろう。ストレスは日常の演技がうまく行かないことから生じている。疑心暗鬼に囚われていて、何でもないことが恐ろしく感じる。考えることは、自分が他人からどう思われているか、そればかりなのかもしれない。いつも気にとめてもらっていることを求めていて、他人から少しでも無視されている仕草を感じ取ると、それだけで絶望してしまう。世の中にはそんな連中しか存在しないのか。だが孤独を受け入れて強がっているのも単なるひとりよがりでしかないだろう。それだけではないと思いたいし、単純な心理作用に還元したくはない。君は作り話の中で絶えずそれ以外の出現を待ち望んでいるらしい。しかしそれが世界を覆っている空虚の正体なのかもしれず、これからフィクションが書き込まれる空隙なのかもしれない。


10月20日

 昨日は昨日のことを思い出せずに寝てしまい、目覚めたら朝になっていた。昨晩見た夢の内容も思い出せない。意識と無意識の間にわずかな隙間があるらしい。その隙間を埋めることができないようだ。針穴に駱駝を通すことができるだろうか。どうすればうまくいくのかわからないままに、今日もまたいつもの苦悶が待ち受けているのだろう。なぜ君は当たり前のことを受け入れられないのだろうか。気に入らなければ画面を見なければいいのだが、それも気に入らないらしい。そしてメディアが否定的なニュアンスで伝えようとしている事件の当事者を応援したくなる。何度も同じ内容をこれでもかと報道する姿勢に腹が立つらしい。その連日連夜の攻撃の矛先が、無関係な一般の視聴者に向けられていることが、何よりも不快なのかもしれない。たぶんこのまま不快な状態のままでいた方がいいのだろう。誰もが評論家のように振る舞いたいのだから、付け焼きの評論でも気が済むまでさせてやればいい。国家に存在理由など設定する必要はない。国家がここにあること自体が存在理由なのだろう。そんなものがすぐに解消されるはずもない。国家の経済は破たん状態かもしれないが、仕事はなくならないし、商売が立ち行かなくなったわけでもない。だから不況の実感が何もない。年がら年中サラ金業者からの融資の勧誘電話ばかりだし、郵便受けにはその手のチラシが山と溜まっている。たぶん借金をすれば地獄を見るシステムなのだろうし、そんなことはわかりきっているので、借金などする気にはならないし、今のところする必要もない。世の中には株価が下がって困り果てている人や会社もあるかもしれないが、もしかしたらそういう状態にあるのは少数派かもしれない。失業者がいかに多くても、全体から見れば九割以上の人々には何らかの職がある。オオカミ少年のように危機感を煽り立てている人々は、どのような実感を抱いているのだろうか。このままでは日本が危ないとほざいている人々には多額の収入があるらしい。テレビの出演料や雑誌や新聞の原稿料などはかなりの額にのぼるだろうし、自ら会社の経営者であったり、大企業のコンサルや顧問を引き受けている人もいるはずだから、高収入であることは間違いない。不況の実感が伴っていないのは彼らも同じことなのではないか。彼らは何不自由のない生活をしていながら、それでいて政府の経済政策を執拗に批判しまくっている。いったい彼らは誰の代弁者のつもりでいるのか。彼らが言っている国民や市民とは、いったい誰のことを言っているのだろう。以前にも述べたことがあるが、とりあえず自分は、全国規模のテレビ局や新聞社がつぶれたら不況だと認めよう。経済運営など誰がやっているわけでもない。誰がどのような政策を打ち出そうと、経済状態はなるようにしかならないだろう。それで成功するしないは別として、地道に不具合箇所をひとつひとつ直す努力を続けていくしかやりようはない。その手のマスメディアはもう手遅れになってしまったから騒いでいるに過ぎないのであり、彼らははじめから無責任で大きなお世話なのである。彼らの付け焼きの提言など何の役にも立たないだろう。


10月19日

 暗闇を思い浮かべながら何かを表記しようとすると、まずは否定的な言葉が現れ、次の瞬間その否定がことごとく打ち消される。情景描写とはいえないその部分から、ある感情が表出する。笑顔ではないようだが、その表情は誰かに似ている。その誰かは暗闇から逃れようとしているらしい。だがその表情に真剣さは感じられない。蛍光灯の明かりの下で、思い出す年月を思い出されようとしている日々と重ねあわせる。そこには実際の経験とは違う、勝手な思い込みが投影されている。都合の悪い体験が抜け落ちているようだ。感情の赴くままにでっち上げられた過去と妄想上の未来を操作し、それで現状を変革できるような錯覚に陥っているらしい。それで具体的に何をいわんとしているのか。歩み続けているのが道の上とは限らない。横断歩道のすぐそばで、橋の上を歩いている映像を見かける。この時間帯に宙を舞っているのは、枯れ葉と銀杏の実だろう。あらゆる毎日がそれぞれ異なる試練にさらされている。このまま戯れ言を続ける気にはなれないが、結果としてそうなってしまうのであれば、それはそれで戯れ言の存在意義もあるのだろう。ふと横を向くと、四角い部屋の隅から紫の煙が上がっている。それはバルサンの煙だろうか。連想されるのはかなり古いアナログレコードの燃えかすだ。その時どこからともなく声が聞こえてくる。君は君の音楽をでっち上げなければならない。君は決して公にされることのない文字を発見しなければならない。まったく漠然とした指令だ。旅路はどこかで終わりと結びつく。どこかで見かけた緑の草原と青い空が映り込んだ晴れた日の湖面に波紋が広がる。誰もが肯定している事象に石を投げ込む。線路に置き石をし、走り去る車に石を投げつける。荒んだ気分に充足した人々は、行為の何もかもが投げやりになる。ニュース番組は必死になって何かを訴えかけているらしい。そこでまぎれもない事実を示したいのだろう。普段は興味のないことにも、それらをきっかけとして興味を持ってほしい。ニュースを通して他人の生活をかいま見て、目を輝かせて欲しいのかもしれない。誰もが興味本位で画面や紙面をのぞいてほしいのだろう。君はそんな下らないことで満たされている場合なのか。では他に何があるというのだろう。何年か前のアニメ映画を見て感動すべきなのか。積極的に何もすべきではなく、ただ今やっている作業を消極的に続行することだ。そして、自分のねじれ具合を計測するための材料をひたすら生み出すのだ。それは指令ではなく、何の拘束も受けない行為だと錯覚していればいい。終わりは近いが、その近さは無限遠と比較できるほどの距離になるだろう。だから答えを出力させるまでにはまだかなりの時間を要する。たぶん答えはすぐそこにあるのかもしれないが、そこへたどり着くまでには、まだかなりの紆余曲折があるだろう。無限の迂回路は今も無限のまま眼前に横たわっている。


10月18日

 一週間ぶりの機会をとらえて、今日という日付けに追いつきつつある。まやもや毎度お馴染みの状況に遭遇しているらしい。たぶん過去にも同じような思いにとらわれている。同じような言葉で同じようなことを述べているようだ。いったい今までに何をやってきたのだろうか。いつからそうなのか忘れてしまったが、いつまでも試行錯誤を繰り返している。だがそんなことの繰り返しにもいつしか飽きが来る。誰かこの役目を代わってくれないだろうか。代わりがいないから、こうして同じようなことをやっている。そしてはじめから君には特定の役目など割り当てられてはいない。それは役目というよりは自発的な行為であり作業なのかもしれない。自発的にやる気のしないことをやっているわけだ。これ以上続けることは不可能かもしれないのに、まだ執拗にやり続けているらしい。自動筆記システムでも確立しなければ、これ以上は続けられないのだろうか。どう言葉を連ねても、もはや無意味な内容の繰り返しにしかならないような気がする。無意味の連続によって意味の生成を避けている。なぜそういつも意味や概念の形成を断念しているのだろう。なぜ積極的に意味を受け入れ、具体性をその身に纏わないのか。確か以前にもそんなことを述べていた記憶がある。だが何をどう試みてみても、自分自身の拒絶に見舞われてしまう。そう思い通りに事が運ぶわけもなく、期待を超えて思いがけない展開に至ることもなく、ただ低空飛行のまま、途中で墜落してしまう。だがそれで何を表現しているのか不明だ。意味深な言い回しを持ち出すまでもなく、実際には何も表現していないと思われる。前もって、どこへも行き着かないような配慮がなされているのかもしれない。ここでは何も語らずに語るのことが、言語活動のシステムとして確立されているようだ。何も有益な結果を求めない態度が感性に染みついている。たぶんまた嘘をついているのかもしれない。本当は何か希望の持てる内容を述べてみたいようだが、その何かがわからない。見聞するすべてが希薄な意志とともに馬鹿らしく感じられる。馬鹿げたメロドラマが至る所で煽り立てられ、自分はいつの頃からか感動という言葉が大嫌いになってしまった。夢を売る商売全般が嫌になってしまったのかもしれない。安易な感動で人をだまそうとしているとしか思えない。


10月17日

 一度逃した奇跡は二度とやってこない。どこかでそれに遭遇しているはずだが、その密会の内容を誰に告白することもないだろう。一時期のめり込んでいた悪習から解放され、身体から見えない殻が引きはがされる。それでも依然として君の目は死んでいるそうだ。占い師によれば手相が悪いらしい。行く手を遮っていた霧が晴れ、浅い眠りから目覚め、少しずつ視界が開けてくる。怠惰を食みながら、意識の奥底から、過去に刻み込まれた思い出したくない記憶が、出口を求めて無気味に迫り上がってくる。ある時期そんな不快感に苛まれていた。嘔吐しそうになりながらも、胃液の噴出をかろうじて押しとどめ、それらの内容物を全く別の横溢に再構築しようとしていた。それは意味不明でわけのわからない行為なのか。その徒労は誰に聞き届けられるのだろう。ところで君は神の存在をどの程度まで信じているのだろうか。神はなぜ君の心の中に存在しているのだろうか。昨日見た夢の中では、なぜか自分を中心にして世界が回っているような傲慢さで満たされていた。しかし次の瞬間その自分が希薄な幻影に乗っ取られる。神は心に巣食う幻影の一種なのだろうか。そして今や、世界の中心に自分という偽の空虚が生成している。だが話の途中で息切れのようだ。言葉がこれ以上は続かない。またいつものようにわけのわからないことを述べているようだ。まだ君は本当に目覚めてはいないのかもしれない。だが本当という言葉の便宜的な使用が、本当でないことを物語っている。なぜ本当ではないのだろうか。それらの表現は一種のレトリックに過ぎず、しかも適切さを著しく欠いているからか。君が本当に実在しているか、今ひとつ確証が得られないでいる。日差しの下では君の足下には影がない。物語の中ではそういう設定になっているそうだ。それは実在しない物語かもしれない。誰がそんな物語を構想しているのだろう。誰にとっても無用の物語がどこに出現するというのか。ありもしない物語について、その内容を朗々と語り出す機会がいつやってくるのだろう。


10月16日

 相変わらず疲れているらしく、夕方から眠り続け、気がつけば深夜になっている。そして明け方になって、ようやく起きて少し言葉を記述してみる。だがそれだけでやめてしまう。何もやる気にならないし、気の利いた文句など何も閃かない。マンネリぎみのローテーションを繰り返しているうちに、まるで怠惰な気分の只中に脳みそが埋没してしまったようだ。まったくお節介にも北朝鮮などを擁護している場合ではなさそうだ。ならば今度はオウム真理教の麻原尊師でも擁護している場合だろうか。何としても彼の死刑が執行される以前に、死刑制度そのものを廃止に追い込まなければならないか。そんなことを実現させる力が自分に備わっていないだろうことは承知している。どうも苦し紛れの冗談が過ぎるようだ。そのついでに幼稚な問いでも発してみようか。なぜ人を殺してはいけないのですか?実際に殺してみてから、良いか悪いか自分で判断して下さい。人を取り返しのつかない行動に駆り立てるには、その程度の回答では力不足だろうか。自分には文章で他人を魅惑する力に欠けているようだ。苦し紛れのユーモアではユーモアからはほど遠い。何事も実際にやってみなければどんな結果を招くかわからないが、ある程度は予想のつく行為もあるだろう。そして事前に予想のつくような行為をやっても面白くない。他人を魅惑したいならば、予測不可能な思いがけない言葉を投げかけるべきなのだろう。もちろんそれは理解不能な内容になる危険性もある。だから他人を魅惑するか理解不能に陥れるかは、実際にやってみないとわからない。たぶんその大部分は失敗の連続になるかもしれないが、現にこうして失敗の連続になっているのかもしれない。いったい何を述べているのか自分でも理解不能な部分が多い。君はその辺を理解してくれているだろうか。しかし君とは誰なのか、その唐突な登場は理解できない。やはりそれも苦し紛れの登場なのだろうか。その辺もよくわからないのだが、このところの文章がマンネリぎみであることの原因の一つとして、君という言葉の多用があるのかもしれない。


10月15日

 なぜか時間に追われ、気がつくと何もできなくなっているようだ。普段の状況と比較してそんなに忙しいわけでもないが、今のところ何もできない状態から抜け出ることは難しいかもしれない。何もできないことが何らかの感情を誘発している。精神のバランスが崩れかけている。被害妄想に凝り固まっている。誰かが自分を陥れようとしている。そして今まさに取りかえしのつかない罠にはまろうとしている。暇つぶしにそんな物語を想像してみる。筋書きのないドラマには、成り行きまかせという筋書きがあるのかもしれない。これから起こりうる未知の出来事や偶然もその筋書きに取り込まれなければならない。それはあらかじめ作られた物語であってはならず、常に現在進行形で筋書きが書き込まれ、修正を施されなければならず、場合によっては物語そのものが筋書きに先行して発現する可能性もあり得る。そこでは不可能が不可能としてあり続けながらも、可能性を凌駕するほどのリアリティを纏うだろう。そうではあり得なかったことが思いがけない現実としてそこにある。あたかもこの世界がこの世界以上の世界を夢想しているかのうような、信じられない幻影を人々の眼前に出現させる。それは人が作り出す魔術や芸術などとは異質の事象を招き入れるだろう。自然そのものは思いがけない反自然を含んでいるのかもしれず、産業資本主義の作り出すメカニカルな人工物こそが、この世界が夢想している当の事象なのだ。シロアリの巣とともに文明はその模倣体として現前している。蓮の花の上に都市の蜃気楼が立ち現れている。油絵の具で塗り固められた城塞が嵐に包まれようとしている。スピーカーから発せられた断末魔の叫びに君は恐れおののく。だが誰もそこで死にはしない。これから自らにふりかかる死に恐れおののいているのは君ではなく、銃口を額に突きつけられたやくざ映画の中の俳優に過ぎない。そこでわざとらしく身を震わせているのが演技に過ぎないことは、君にもわかっているはずだろう。君が求めているのはそれとはまったく違う展開なのだろう。


10月14日

 朝日を浴びながら、唐突に昨日の出来事を思い出す。それとは別に何が衝撃的なニュースがあったかもしれないが、それは思い出せない。本当は知っているが、面倒なのでここでは思い出そうとしないようだ。相変わらず回りくどい言い回しになっている。ここではそんな表現ばかりに出会うだろう。荒廃した風景のただ中で画面上から青い空を見上げる。それでも君は希望をつかんでいるらしく、意識の中では何かが構成されつつあり、その得体の知れぬ思考を想像してみる。とどまることを知らぬ空虚なまなざしの先にありふれた言葉を探し出す。その先へ進まなければならない。だがこのまま進んでもその先には何もないだろう。安易な希望は容赦なく却下されて、後に残るのは希望でも絶望でもなく、昨日までと同じ日常生活の繰り返しになる。今は黙ってそれを体験していくだけかもしれない。意識や感情には容認できないことだが、それでも歳月は情け容赦なく過ぎ去ってしまう。そこでどのように立ち回ろうとも、待っているのはほどほどの安堵感と耐えられることの可能な期待外れぐらいなものかもしれない。その程度で妥協すべきなのだ。あなたの代わりに歓喜や絶望を味わうのは、紙面や画面の上で繰り広げられる物語の登場人物になるだろう。だがそれでかまわないのだろうか。たぶんそれでは納得できない人々が、あのような紙面や画面を構成する側に回っているのだろう。彼らは常に極端な感情を我がものとして独り占めにしたいわけだ。大多数の人々はそれらの馬鹿騒ぎを見物しながら、見物している時間として歳月を奪われており、常に疑似体験として偽りの経験を注入され続けている。


10月13日

 いくら努力しようと、どうしても納得いく言葉に出会えない。だがいったん引き返して、従来のパターンで妥協しようとすると、今度はそれさえもつかめなくなっている。気力に欠けているのはもちろんのこと、何を構築しようとしても、構築途中で完成することなく放棄されてしまい、崩れ去る構築物まで至らずに、未だ土台さえ定まらない。その未完成の構成はかなり支離滅裂になっているかもしれない。そんなわけで効果的に言葉が配置されていないのは周知のとおりだ。その時の感情はどこに置き去りにされてしまったのか。そのような心境へ行き着く過程が抜け落ちている。その結果、ご都合主義といわれても仕方のない成り行きになってしまうようだ。できる限り詳しく説明しようと心掛けるが、怠惰のおかげでまたもや途中が省かれてしまう。結果として何を述べているのかわけがわからなくなる。さっきまで何を述べようとしていたのか忘れてしまったらしい。ここから一歩も先へ進めないとしたら、その原因は何だろう。ここで停滞している理由をどう説明すればいいのかわからなくなる。その理由や原因など探せばいくらでもありそうだが、今は探そうとしていない。探そうとしていないから、何もかもわからないまま、時間の経過とともに立ち直るきっかけは押し流されてしまう。だがそれで何を説明しているつもりなのか。その虚無的な無表情にはどのような言い訳を用意すれば納得するだろうか。どのような言い訳を用意しようと、意識も感情も思考もそれで納得するわけがない。それらはもっと別の展開を期待している。しかしそれは夢想の中の理想の姿でしかなく、そんなものに虚無が本気になれるわけがない。君は自分が納得し難く、それらすべてを出し抜くような意表をつく事件を導入したいのだ。虚無の無意識は外部から侵入してきて、驚く間も与えぬ手際の良さで、自我の連続性を保とうとする甘い期待を無造作に引き裂くだろう。


10月12日

 君はそのねじれた意識で何を夢見ているのだろうか。夢想家にはこの世界は明るすぎる。たぶん秋の陽光が眩しすぎるのかもしれない。何を思っても上の空なのはいつものことで、精神の集中が持続しないのもいつものことだろう。思いついたままに様々な言葉が互いに無関係に分散しながら記述され、依然として意味とも内容とも結びつかないのもいつものことだろう。ところで夢想家とは誰のことなのだろうか。君とは誰のことなのか。君と自分との関係は、同じコインの裏表に例えられるかもしれない。だが表裏一体となっている基の実態が希薄だ。いちいちいい加減な登場人物に固有の人格を設定するのが面倒なのだ。そんなことを思いながらコーヒー豆を手動ですり潰しているうちに、何を夢想していたのか忘れてしまったようだ。作り話の中では、彼は昨晩、夢の中で本を読んでいる夢を見たそうだ。だいぶ込み入った状況のようだが、夢の中では物凄いスピードで文字が雪崩のように押し寄せてくる。しかしそんな表現で何を示そうとしているのか不明だろう。何が悲しくてそうなってしまうのだろう。悲しすぎる現実など記憶にない。行き先はいつも不明のままで、これから何が起こるかなんて興味はないが、明日になればそれは嘘になるだろう。ゴミ箱のすぐ後ろにパチンコ玉が散乱している。幻影のまなざしは他に何を見たのだろうか。君は仮面の裏側で板の木目を見つめているだけなのか。暗くて明かりがなければ何も見えない状況で、手探りをしている振りをする。そして意味のない行為に酔いしれているのは君だけではない。その真剣な表情は見せかけだったのか。険しい顔して奇妙な言葉をあやつる。呪術師は陰陽道以外にもやり方を知っているらしい。呪いが実態化する場面は、画面の表面に映り込んでいる作り話の内容を説明している時だったかもしれない。今さらいったい誰に呪われているというのか。まったく被害妄想もいいところだろう。だが呪いに怯えているのは君だけではない。


10月11日

 何もないのに何かにせき立てられて何かをしなければならない。それでもまだ君にやりたいことがあると思うか。毎度お馴染みで繰り返される陳腐な台詞には聞き飽きたが、やはりある部分ではそれを求め続けているようだ。それがないと間が持たない状況もあり得る。そして今はそれ以外の何を求めているのでもなく、ただ話が途切れなければそれでいいと思っているのだろう。この何もない状況で、それ以上の何かを望むのは贅沢だろう。その話はすでに賞味期限切れに近く、さっきから頭の中はゴミのような記憶で覆われている。感性の隙間から虚無が入り込み、何を思うこともできずに廃墟と化している。それでもまだ何かを思いついたと嘘がつけるだろうか。だがそれらの思いつきには具体性が感じられない。結局思いつきの内容を表現できないようだ。映像と戯れようとすると次第に画面が遠のき、新しい波は強引に古い波と合成され、共振しながら何かを語ろうとしているが、盲目は依然として解消されていない。時には他人の自慢話にでも耳を傾けてみよう。そして当人の意志を無視して話にデフォルメを加える。だがそれは譬え話の域を出ない。その物語では誰も主人公にはなれない。横道に入り込んだら、だんだん道幅が狭くなり、側壁のブロック塀に車体を擦ってしまう。それが何の譬えなのか意味不明のまま、さらに生け垣を乗り越えて、他人の家の庭先へ突っ込んでいってしまう。なぜ途中で横道に出会えないのだろうか。どうやら途中の交差点で判断を間違えてしまったらしいが、もう今さら手遅れだ。こうして誰からも歓迎されない闖入者は、そこで神への供物として祭壇の生け贄とされてしまうだろう。現実の世界でそんなことが起こるはずもないだろう。どうも感覚が狂っているらしい。しかしつながらない言葉の群れを、どうやれば内容を伴うように定着させることができるだろう。どのようにしてこの事態を切り抜けられるのだろう。いつかその秘けつに巡り会うことができるだろうか。今は冗談が冗談として認識されない。だが冗談を語っているわけでもないらしい。


10月10日

 状況はいつも楽観的な方向へ推移するだろう。何かに誘われているらしく、その誘いを断る術を見いだせない。そういうわけでまだ続けなければならないらしい。乗り越えなければならない壁とやらを設定して、必死にそこへ食らい付いている者は裏切られ、奈落の底へまっ逆さまに墜落するだろう。もはやお笑いぐさにもならない形状への変化を被る。木っ端みじんに砕け散り、すべては残骸に覆われる。解体作業は止まるところを知らず、エントロピーの増大の法則をどこまでも忠実に再現するだろう。しかし明け方に何を述べているのだろうか。意識の中ではもう終わりのはずがなかなか終わらせない。何が終わらせないのか知らないが、その何かに導かれて内容のない言葉を羅列している。その止まること知らぬ幻滅が株価の下落を招いているわけなのか。そんなことは知らないし、その責任は誰かに押し付けられるかもしれないが、それはありふれた感情の吐露になるだろう。もはや方法などを模索するにはおよばない。そのまま何もやらないのが最善の策だろう。破滅への道が最善の策かもしれないが、時には無駄な悪あがきも言いわけとして必要なのだろう。そういうわけで何かをやらなければならなくなり、その何かをやっている間は破滅を忘れることができるかもしれない。たぶん時が経てばそんなことはどうでもいいことだとわかる。破滅することなど大したことではない。なぜか破滅は破滅でさえなかった。破滅以前に破滅という言葉の使用が不適切なのだ。実際に破滅してからその言葉を使うべきなのだ。脅し文句としてしばしば大げさな言葉を使い続けると、だんだんその言葉の意味が失われていってしまう。もはや言葉を発することで得られる効果が期待できなくなる。年がら年中、このままでは日本が危ない、と言い続けているどこかのマスコミと同じように、毒にも薬にもならない代物と化してしまうだろう。安易に希望や絶望を振りまくべきでないのは当然のことだが、ではほかに何を述べればいいのだろうか。そんなことはわからない、と述べ続けるのもつまらないが、わからないのは確かな感触だ。事前に何を述べればいいかなどわかりようがなく、述べた後から何を述べたのかがわかるだろう。さらに述べた内容を詳しく分析すれば、述べている時の心理状態などを導き出せるかも知れない。わかることといえば、そういう類いのことになるだろうか。


10月9日

 どうもいかんともしがたくやりようがない。一見いくらでもやりようがあると思われるのだが、実際にやってみるとやれる範囲は限られてくる。その限界に引きずられながら、勘違いや間違いもいくらでも犯してしまうようだ。たぶんこれからも間違うことしかできないのだろう。その一方で何が正しいことなのかわからないし、意識してわかろうとしていないらしい。その辺に幼稚な感性が宿っているのかもしれない。もう若くはないのだから、そういつもいつも間違いばかりを犯しているわけにはいかないはずなのだが、現実には依然として間違いだらけの惨状の中でもがき苦しんでいる。道はいっこうに定まらないし、定まった道へ進もうとしていないように思いたいようだ。この期におよんで何もにも捕われない自由を望んでいるのだろうか。だが望んでいることと現状とのギャップはあまりにも大きく、その落差を意識する度にうんざりするような煩悶が襲ってくる。きっとそんな生活の中で自滅した人は数知れないのかもしれないが、それでもそれ以外の選択肢は存在しないのだから、そこに居続けるしかやりようがないのだろう。彼らが抱く夢とは、そこからの逃げ道を空想し、それが必ずあると信じ込むことだ。バラ色の未来を想い描くことが悲惨な現状からの脱出口になり得るだろうか。現実にそうなった人々のサクセスストーリーを見たり読んだりして、羨ましがるのが関の山かもしれない。自分と同じ国民や同じ市民の成功を我がことのように喜んで、心理的な代償行為に耽る人もいるだろう。この世に運のいい一握りの人々がいることが、夢に向かっての努力を継続させるための心の支えとなっている。そういう希望がこの社会の秩序を保っているわけなのだろうか。その希望が大多数の人々にとっては幻想であることがわかってしまうと、世の中は幻滅に覆われ、荒んだ空気が支配的となり、たぶん世界は魅惑のワンダーランドと化すだろう。君はそうなることを願っているわけなのか。そうだとすればそれが君の幼稚さの一端を示している。近未来SF映画でも見れば、ある程度は映像の中でその手の願いがかなうだろう。


10月8日

 何もないが、何もないというのは嘘かもしれない。明け方の風景の中で、何かが視覚を刺激しているらしい。何も眺めてはいないが、空の眺めは心を飽きさせない。いったい誰が空を眺めているのだろうか。どこからともなく風が集まり、雲を押し流す。どこまでも続く空の下で、他愛のない争いごとが繰り広げられているようだ。些細な利害の対立が闘争本能を呼び覚ます。そんなことはどうでもいいことだ。はじめから対立しようとは思わない。むしろ対立したくないのに、結果的に対立してしまう。それは相手と自分の違いを認められないからだろうか。今は闘争に勝とうとする意識ばかりが強調される世の中なのか。そういうわけで、誰一人相手を思いやる発言をする者などいはしない。みんな自分や自分の仲間の利益のことしか口にしないような連中でしかない。たぶんそれが北朝鮮による拉致被害者の家族に同情できない理由なのだろう。はたして報道する側にその辺のニュアンスを感じ取れる者がいるのだろうか。たぶんピョンヤン放送の報道姿勢に近い態度の者たちばかりなのかもしれない。日頃から競技スポーツの勝ち負けばかりを嬉々として伝えたがる人々に、相手を思いやる気持ちなど湧いてこないのだろう。しかもその相手が北朝鮮なのだから、遠慮などする必要はないのであり、戦争に勝った勝ったとわめきながらちょうちん行列をしていた時代から、それほどかけ離れていないメンタリティでいても、誰からも非難はされないということなのかもしれない。ならばこの機会に憎き北朝鮮を打ちのめすためにせいぜいがんばってほしい。彼らにとっては外交交渉も戦争の一種でしかない。ちょっとでも相手に譲歩する姿勢を示しただけでも、弱腰姿勢だと烈火の如く怒りまくる。そういう心の狭さと憎悪の感情をむき出しにしてまうところが、外国などから幼稚な印象を抱かせてしまうことをわかっていないらしい。まるで自分達の滑稽さを外から眺めてみる訓練ができていないのだろう。その程度の連中が何かもっともらしいことを述べているのだから、まったくのお笑いぐさ以外の何を思えばいいのだろう。しかし今さら何を述べても仕方ないのかもしれない。手痛いしっぺ返しでも受けない限り、誰も反省などしはしないだろう。懲りない面々はいつまでたっても懲りる気配さえない。


10月7日

 うすぼんやりとした意識はますます曖昧の深みに誘い込まれ、深夜に近づくにつれ、闇の彼方に光明の幻影が見えかくれしている。だがそれは幻影などではない。近づいてみたらただの街路灯に過ぎないだろう。しかしその街路灯は頭の中に浮かび上がった幻影かもしれない。ところで今は夜の話をしているらしいが、今さら何を言ってみてもはじまらない。明け方の寒さに凍えながら君は何を思っているのだろう。たぶん架空の登場人物は何も思わないだろうし、君には人格そのものが設定されていない。君は未だに君にさえなれないでいるようだ。君などという言葉を多用する習慣がいったいどこから湧き出てきたのか、君の使用によって何から逃げようとしているか、その辺が今ひとつわかりかねるが、だが逃げ道はどこにもありはしない。いつでも今ここから始めなければならないだろうが、いったい何を始めなければならないのだろう。今何かを始めてどうするのか。その辺もよくわからないが、とりあえず君はあたかも君であるように振る舞わなければならない。それがあのとき君と交わした約束だったはずだ。そんな約束などした覚えはないだろう。つまらぬ循環にはまりつつある。それはつまらぬモノローグの切れ端でしかないだろう。そして中身を未だに見いだせないでいる。心は今どこにあるのだろうか。闇のどこからか皮肉な声が聞こえてくる。人に心などあった例はないだろう。あるのはただ空虚だけかもしれない。そして空疎な夢なのか。成功への虚しい努力に全知全霊を注ぎ込む、あのマスコミ公認のありふれた物語なのか。なぜ君はそこへ近づかないのだろう。そこにどのようなためらいが息づいているのか。そこで何を思い何を捕獲しようとしているのだろうか。どうして物語を無視できないのだろう。時代遅れの栄光を誰が欲しているのだろう。幻影の虜になっているのは君自身なのか。今さら即興で思いついたギャグと無邪気に戯れる気にはならない。


10月6日

 映像詩とはどのような状況を形容しているのだろう。自然を映し出す映像は何を訴えかけているのだろうか。何もない地中に微生物がうごめいている。深海の底では鯨の死骸に甲殻類が群がっている。メディアなしでは決して見ることのできないそれらの光景を見せられて、我々はメディアのありがたみを改めて実感しなくてはいけないのだろうか。映像が映し出される受像機やスクリーンを眺めながら、なぜかそれらの平面を見入る人々が滑稽に思えてくる。だがその理由を見つけられないでいる。なぜそれがおかしな光景なのかわからないのだが、やはりおかしいという実感は否定できない。画面の前に釘付けにされて、強制的に見るように仕向けられているわけでもないのに、なかなかそこから立ち去れないところがおかしいのか。そこで無為の時を過ごして、貴重な時間を浪費し続けることが腹立たしいのだろうか。それを息抜きのひとときと割り切ってしまえる勇気はないが、何かためになっていると考えることも到底不可能かも知れない。全面的に依存していると思いたくはないのだが、やはり何らかの依存関係にあることは確かなのであり、そこから何らかの知識を得たりすることで、それらの影響下にあることは事実なのだろう。そしてそれらとの関係を断ち切ってしまえないことが、ある種の苛立たしさを生じさせている。嫌なのに見てしまい、その結果うんざりさせられるが、それでも見ようとしてしまう。そんなことの繰り返しが快楽の源泉であることも不快に思われる。たぶんこれからもそれらはストレスを加え続けるだろう。蔑みの対象として見られながらも、心に深く食い込んでいくのかも知れない。


10月5日

 間違いは思考と行動に変化を促す。君はまだ虚無主義には陥っていないと思っているが、偶発的に起こる変化を肯定できるだろうか。だが無理に変わらなければならないわけではない。変わってしまいそうになるのを押しとどめようとして何が悪いのか。変化には抵抗が付き物なのだろうか。気がついたら変わっていたり、変化を意識することができなかったり、ときには抵抗しようのない変化にさらされることもあるだろう。そしてそのとき、良い変化と悪い変化の区別をどうつければいいのだろうか。どのような判断基準に従って変化しようとすればいいのか。変化を肯定するための条件をどうやって知ればいいのだろう。君はそれを知っているはずだ。よく使われる最後の言葉を知っている。そんなことはわからない、それがいつもの答えだったはずだ。ただ変化しているのであって、その変化にどんな言葉を当てはめようと、変化は変化でしかないだろう。しかしそれでは虚無主義に陥っているのではないか。なぜそれでどうして変化を肯定していることになるのか。変化に抵抗することは悪い変化を呼び込むだろう。変化に逆らうことによって、思いがけない別の変化を被ることもある。その状態へ留まろうとすること自体が変化であったりするわけか。頑なになること、ひたすらその場所で固まろうとすること、貝のように心を閉ざし、岩のように動かなくなること、たぶんそんな変化が悪い変化の例かも知れない。間違うことをおそれず、絶えず動き続けられる可動性を確保しておくことが必要なのか。いったん止まってしまえば、それは風景の一部として世界に取り込まれてしまうだろう。だが本当にそれでいいのだろうか。君は変化にはいつも懐疑的な姿勢で臨んでいる。なぜ変化しなければならないのか、納得できる理由を見いだせない。絶えず疑いつつ生き続けることが、多くの書物や今体験しつつある社会状況から導き出された答えなのだろうか。


10月4日

 今晩はいつになく猛烈な眠気が襲ってくる。ある時不意に頭の中で何かが弾ける。それは脳梗塞の前触れかもしれない。彼によるともう心身共に限界らしい。それをどうして教えてくれたのか。なぜ突然画面上の人物に頭痛が襲ってくるのだろう。それはなぜなのか、と問う前に、そんなことはドラマを見続ければわかることだ。それは疑問ではなく答えになるだろう。睡魔に苛まれながらそれを見ている君には頭痛が感じられない。それどころか、相変わらず君は足が遅いし、鈍感だ。頭の鈍感な人間は頭痛になりにくいのかもしれない。以前から何も見いだせないことに悩んでいたはずだった。ところで君の見つけた答えの内容を今すぐ知りたいのだが、まだ未定のままなのか。いったい何が未定なのかわからない。今の君にはわからないし、その問いの真意を測りかねているようだ。影は皆目見当のつかない問題の答えを見つけようと焦っているらしい。今こそ決着をつけるべく影と合体すべきなのか。それはどういう意味なのだろう。迷いはいつまでも迷い続けることを望んでいるらしい。このままでは睡魔に負けてしまう。それでもかまわないのかもしれないが、せっかく教えてもらったことをどうしてここで生かさないのか。なぜその程度の無内容で妥協してしまうのか。秘密でさえないそれらの事情をどうして公表できないのだろう。内容はまだ無内容のままかもしれないが、すでに答えは表示されている。おそらくそれは欠陥商品でさえなく、商品であることをまったく感じさせないみすぼらしさを纏っているだろう。貧相な未来と、それに劣らずどうしようもない設定の現実に絡めとられている。ありとあらゆる古今東西の紋切り型がそれらの物語には詰め込まれていて、次々に襲ってくる度重なる困難を危機一髪でくぐり抜けた先に、馬鹿げたやり方よって強引に終わらせられる。たぶんそんな内容が彼らのお望みなのかもしれない。


10月3日

 蒸し暑さで目が覚める。雨が近づいているらしい。考えごとの最中に電話のベルが鳴る。最近は何も思いつかなくなってしまった。明日の朝は目覚まし時計の鳴る音でも目覚めはしないだろう。いつもの夜にいつものテレビ画面を見続けている。過去の亡霊は英語で何か喋っている。だが英語のわからない自分には意味不明だ。昨日撮ったピンぼけ写真の背後に見慣れた幻影が宿っている。死神はなぜか切羽詰まってからそれをやり始めているようだ。さっきから無意識がしきりに何かを訴えている。ところでその駄作は十分に堪能できただろうか。たぶん堪能できなくても興行的には大成功なのだろう。生の二重の強調の先に死が餓えているが、謎はいつまでたっても謎のままだ。その投げやりな態度はもう直しようがない。呆れ返って、すでに今から何を述べようとしていたのかを忘れてしまっている。毎度のように失望しながらも、冷めたコーヒーの苦みで何とか間を持たせているだけかもしれない。ハリウッドの商業映画は愛のメッセージに満ちあふれている。それが絶体絶命の危機から脱出する手法となっていて、無理矢理そこに男女間の愛の語らいを挿入して、主人公かが死なないことの不条理や不自然さをごまかしているようだ。そういう安易な展開の過去の大ヒット映画を嫌というほど見せつけられる。そんないい加減なことをこれでもかとやっておいて、しかも世界中の人々がそれを黙認せざるを得ない。そんな代物を批判する方が馬鹿だとみなされてしまうだろう。こ難しくて頭が疲れるような内容であってはならないのであり、誰もがわかる安易さを追求することこそが美徳なのであり、効率的に金を稼ぎ出す方法なのだ。少数派の人々が何を抗議しようと、何も聞き入れてはもらえないだろう。抗議することこそがすでに間違っているのであり、そこで罵声をあげた時点で自らの敗北を認めたことと受け取られてしまう。そんな制度の中で、それでも何か気の利いた賛辞を表明しなければならない。まずは駄作を褒めることがこの世界の礼儀なのか。広告とはそういうシステムで成り立っているのだろう。


10月2日

 作り話の中では花が咲いている。何かが風にそよぐ気配で目が覚める。夜の闇からも秋の夜空からも何もやってこないが、それらの背景にある何かが自分に教えてくれる。その何もやってこない何かのことを、もっとよく知らなくてはならないようだ。何もわからないのに知ることなど不可能だろうが、また知らなくてもいいことを知る必要はないが、それが知らなくてもいいことだと誰が判断できようか。天も神も何も教えてはくれない。なにものにも帰依したりせず、唯一無二の存在などあり得ないと思う。そんなことはわかりきっていることなのに、それでも何らかのよりどころを探し出そうとする人々を哀れむ。しかしその哀れむべき存在に自分自身も含まれるとしたらどうだろう。今まで絶えず決定的な何かを求めていたのではなかったのか。それより先には何もない、最期に発せられる言葉を見つけだそうとしたように思う。いったいそれはどういう状況で出現するのか、それが出現する条件を知りたかったのではなかったか。確かにそんなものはあり得ないことは経験的にわかっている。だがその一方で、そのあり得ないものが出現することを願っていることも確かなのだ。不可能が可能となる瞬間を体験したいわけなのか。それはまるで平行線が無限遠の彼方で交わる光景を見てみたいのと同じことかもしれない。ようするに目標が実現不可能なことに設定されているのかもしれない。だから実現しそうな夢に向かって努力するような輩を軽蔑したくなるのかもしれない。こちらが間違っているのはわかっている。間違ってはいるが、間違っている方が面白いような気がしている。


10月1日

 このところニュース番組は毎日がヒステリー状態らしい。ショータイムはいつまでも続き、彼らは四六時中騒ぎ立てている。このマスメディア総動員体制での北朝鮮ネガティブキャンペーンにもかかわらず、それでもなお、過去の植民地時代の非を詫びて国交正常化を実現させれば、小泉氏も大した輩だと認めざるを得ない。しかし自分はなぜそんなことを思うのだろう。なぜマスメディアとともに拉致被害者の家族に同情しないのだろうか。なぜ北朝鮮の工作船の脅威を無視して平然としていられるのか。どうして金正日同志を非難しないのか。よくわからないのだが、まあこれからは日本語を習いたければ拉致などせずに、彼の地に日本語学校でも設立して、朝鮮総連あたりから講師を招いて習えばいいことだし、国家が直接工作船で覚せい剤など密輸したりせずに、そちらの方面は民営化して、表向きはそれを取り締まる側に回らなければならないだろう。世界中のどの国にも覚せい剤などを売りさばくギャングやヤクザはいるわけだから、今威張りくさっているどこかの国の大統領からならず者国家と呼ばれないためにも、ダーティーな部分は切り離して、代表者がきれいごとを言っていられる状況にしていかなければならない。国家のすべてを一元的に管理しようとするから、ヤバい部分まで一手に引き受けなければならなくなる。ある程度は悪人たちや彼らの組織を野放しにしておいて、日夜それらと戦っている姿勢を見せておかないと、外国からは国家ぐるみで悪事を働いていると思われてしまう。その辺を金正日同志には理解させる必要があるのかもしれない。ところで自分はいったい何を述べているのか。こんな内容で北朝鮮を擁護していることになるだろうか。なぜ自分が擁護しなければならないのか理解できない。まるで詭弁家の熱弁のようだ。もう少し気の利いたことを述べられないものだろうか。冗談半分に冗談まかせに冗談すら思いつかないようだ。確かに浅はかな人々の饗宴にはうんざりさせられるが、そんなことはどうでもいいことだろう。つまらないことにエネルギーを費やすのが彼らの性分なのだから、今さら何を批判してもはじまらない。暇つぶしに誰かの歌詞を読みながら過去の亡霊の言分にでも耳を傾けてみよう。もはや過去の過ちはどうにもならないのに、どうにもならないことにひたすら慰めを求めるのはおかしい。たぶんそれが不快に思われる原因かもしれない。