彼の声32
2002年
9月30日
時間は瞬く間に過ぎ去り、試行錯誤ばかりが繰り返され、作業はどんどん遅れてくるが、それでもあまり中身のある内容にたどり着けそうにない。依然として何を考えているのかわからないし、どうしても考えがまとまらない。そして相変わらず方向が定まらないままに、何か得体の知れない空虚な内容が語り出す。それが無駄であることはわかりきっているのだろうか。そんなことは当然のことであったりするのか。その辺に疑念を抱いているらしい。ありふれた疑問ならいつでも用意できるだろうか。なぜ人は学ばなければならないのか。なぜ啓蒙されなければならないのだろう。人は啓蒙を必要とするほど無知なのか。啓蒙の内容にもいろいろな種類があり、社会の様々な事象において、わかっている部分とわかっていない部分とがあるだろうから、わからない部分については、それについていくらかわかっている者から、わかっている部分について教えてもらわなければならない、ということになるだろうか。それが啓蒙が必要とされている理由であり、それが有用となる可能性だろうか。こんな風にして、ありふれた疑問にはありふれた答えを導き出せるだろう。とりあえず啓蒙されなければならないのは自分自身かもしれないし、またどこかの誰かも啓蒙されなければならないようだ。しかし自分は誰から啓蒙されなければならないのだろうか。もはやこの世の人ではないカントとフーコーからか?それともまだ生きている柄谷行人あたりから啓蒙される必然性でもあるのだろうか。例えば彼の本を読んで何がわかるのか。自分の至らなさでも悟って、反省でもすべきなのか。だがそんな余裕が今どこにあるのだろう。山の向こうにでも反省するための場が用意されているのかもしれない。それはどんな冗談なのだろうか。
9月29日
今まではどうでもいいことにこだわっていた。たぶんこれからも後から思えばどうでもいいことにこだわってゆくのかもしれない。唐突にそんなどうでもいいことを思う。なぜそう思うのかわからないが、思うこと自体がどうでもいいことなら、もう何も思わない方がいいのかもしれないが、何も思わないではいられないところが難儀なところか。そういうわけで、なぜか若さと自由は両立しないだろう。なぜそんなこと思うのか意味はなさそうだが、若さも自由も今となってはどうでもいいことなのか。もう若くはないし、自由な気分でいられないような状況にあるのかもしれない。様々な制約に取り囲まれていることが、なんとなくわかるような年齢になってきたということか。だがそれでも端から見れば、偏った考えに凝り固まっているように見えるらしい。なぜか平衡感覚が狂っていると思われるようだ。彼は最近平衡感覚が狂っている曲でも聴いてみたいのだろうか。それは唐突に意味不明な内容だ。またこの際だからついでに若気の至りという紋切り型と戯れる。ますます内容がわからなくなってきた。なぜそんなに逸脱してみたいのだろう。どこで何が戯れているのかわからない。そんなおかしな展開に呆れ果てる。どうも本心をごまかしているつもりなのかもしれない。いきなり途中から不自然に言葉が折れ曲がっている。たぶんそれは何かの冗談なのかもしれないが、述べようとしたことをわざとずらしているかのようにも思える。とりあえず冗談ばかりではおもしろくないが、別におかしさを追求しているわけでもなさそうだ。自分には無意識がなぜそうするのかわからないが、あえて適当な理由を付け加えるなら、それは目まぐるしく変わる天候のせいかもしれず、その場の気まぐれでわけのわからないことを口走っている君のせいかもしれない。誰のせいでもなく、誰に責任を転嫁するのも面倒だ。どんな言い訳を述べるにしても、屁理屈には限りがないだろう。それはかなり奇妙な状況に基づいていて、自分が存在しない時空において、自分の影が影響を及ぼそうと試みている。ところで君とは君の無意識のことなのか。
9月28日
画面上では、どこかの誰かが久しぶりに気の利いた食事をしたくなったようだ。冷めたピザの味でもたいして不満はないが、今のところ決め手が何もない。何を食べたいのかよくわからないが、そこで君は何を見落としているのだろうか。映画を見るのにも飽きがくる。表紙の奇抜なデザインにも飽きがくる。過ぎ去った過去を懐かしむのにも飽きがくる。しかし昨日は何を見たのか忘れてしまったらしい。それはいつ見た光景になるだろうか。またもや老人が夕暮れ時の公園のベンチに座っている。今から思えば、それが何かのきっかけだったのかもしれない。意識は気まぐれに辺りをうろついている。何も見いだせぬまま、また何も満たされぬまま、そこで何をやろうとしているのだろう。君の内部ではここ数年で何が変わったというのだろう。あやふやな言葉の羅列の背後にどのような意図が隠されているのか。意図など何もなく、言葉が意識の表層に現れる度に、その場限りの有り合わせの意図が捏造されるだけかもしれない。だがそれは冗談の範疇に入るだろうか。どこかのカジノでゴールドラッシュが起こるらしい。君は今も何かが起こるのを避け続けている。起こってはならぬことはすでに起こってしまったのに、まだ何か起こってはならないのだろうか。それは簡単なことかもしれない。大きな隕石が落ちてきて、地上の文明がすべて滅んでしまったらすっきりするだろうか。そこで何がすっきりするのかわからない。ナイトメアズ・オン・ワックスの新譜は単なるイージーリスニングかもしれない。すっきりしすぎている印象だが、別に今までに経験したすべての時間よりも、さらに良いひとときを過ごそうとしているわけでもないので、その程度でもさして不都合は感じていない。今後何か起こってもかまわないのかもしれない。君は自身が究極の何かを求めているわけではないことに気づいている。たぶん君が避け続けていることは、その究極の何かの存在を知ってしまうことだろう。君は絶対者に帰依してまう者たちに待ち構えている運命を知っている。
9月27日
なぜか煩わしいことが立て続けにやってくる。だがそれを避けるためのやり方が確立されているわけではない。しかしなぜ避けようとしているのだろう。どう考えても避けられるはずのないものを避けようとしている。今避けて通ることのできない時間帯に近づきつつあるようだ。何を考えるのにも事前の休息を必要とする。最近は頭がどうかしているようだ。くだらぬ妄想ならいつでも思いつくのに、肝心のわかりたいことをわかることができないでいる。まさか頭に何か機械のようなものが刺さっていて、それを介して見知らぬ誰かに操縦されているわけでもないだろうが、そこで君は条件反射の意味を取り違えているらしい。それをやり遂げるために限りのない時間が与えられているわけもない。何ひとつ考えがまとまらぬまま、その場の成り行きまかせにありふれた展開を予感させる内容だ。見いだされるのはいつもそんな光景になるだろう。今という時間は不可能だ。今は不可能を避けて通ることはできない。ダイエットに勤しんでいる暇つぶしに余念のない者たちには、今の君の気持ちなどわかるはずもないだろう。しかしこのところ頻繁に登場する君とは、誰のことを述べているつもりなのだろう。説明不足なのはわかっているが、それが説明できるようなことでないのもわかっているつもりだ。説明できるような君ではないし、説明しなくともわかる人にはわかるだろうが、そのわかっている君は本当の君ではないかもしれない。最近頭がどうかしているのも、案外君のことなのかもしれない。もはや行き詰まりを通り越して、わけのわからぬ迷路をさらに先まで歩もうとしているかのようだ。だがどこまで行ってもわからないものはわからないままなのかもしれない。それでもやり続ければ、ただあくびが出るばかりで、すでにこの堂々巡りは何巡目かに突入している。周回コースをいくら回ってみても、そこから外へは出られない。
9月26日
現代に暮らす多くの人にとって、能は様式美の世界かもしれない。解説つきでないと内容を把握することは難しいし、それらの決まり事には今ひとつ馴染めない。それらの大部分は過去の遺産に負っているような気がする。現代において新たに付け足される部分が見当たらないのだ。いったん確立されてしまったことを壊して、新たに再構築する意欲に欠けているのだろう。伝統芸能を存続させることは、そうした創造力の枯渇に基づくじり貧を体験することに行き着くのかもしれない。しかしだからといって能が駄目だとは思っていない。ある部分では確かにそのとおりかもしれないが、それを否定的にとらえるのは間違いだろう。とりあえず廃れてみないとそれらのありがたみを実感することは困難だし、それに代わる新たなムーブメントが立ち現れる可能性も生まれてこないだろう。あらゆる物事は流転し、移り変わるのが当然の成り行きなのかもしれない。それらの変化はその時々で偶然とも必然とも感じられ、それらの有為転変の中で、絶えずニューフロンティアを追い求めている者たちには堪え性がなく、また、過去の重圧に耐え続けている者たちには冒険心が失われているのかもしれない。もちろんそのどちらがいいかなどと言うのは、愚かさの極みにある人間だ。どちらであってもかまわないだろう。それは現実にその状況に置かれている者たちの勝手なのだろう。自分には自分の置かれている状況を把握することは不可能だ。あるのはただ暗中模索の日々しかない。自らを省みる余裕などなく、絶えず時間に追われ、追い越され、おいてきぼりを食って苦悩する、そんなことの繰り返しのようだ。はたしてそんな状況をこれからどうにかできるだろうか。
9月25日
どうも遅々として作業は進まず、ここ数日は停滞が続いているようだ。昔はその場の思いつきで安易な否定を多用しながらその場を取り繕い、なんとか閉塞状況から抜け出たつもりになっていたが、ここに至ってもはやそんなやり方では物足りないのか、今直面している状況はそれを受けつけないようだ。連日連夜の洪水的な報道は毎度のことだ。もちろん興味本位のセンセーショナリズムは今に始まったことではないが、たぶん彼らに追従してヒステリックにわめきたてれば、何かを見失ってしまうだろう。だがそんなことはもう忘れてしまったらしい。すでに出来事は見失われて、誰もそれを思い出そうとはしない。そういうわけで、今やすべては忘却の彼方へ退こうとしているわけなのか。はたしてそれでいいのだろうか。いいも悪いもなく、ただそうなってしまう定めなのかもしれない。それに対して本気になれないのはいつものことだ。君に未来などあり得ない。感性はすっかり衰え、まるで過去の亡霊か何かのように墓石の傍らに立ち現れている。理不尽な行為が行われた理由を探す人の群れは海を渡り、奇妙奇天烈な動機を見つけだすつもりのようだ。幻影に縛られている者に救いの時は訪れない。乾燥した大地に霜が降りようとしている。草原のただ中で雄叫びをあげているのは狂人ではないらしい。菊と牡丹の刺青は左右対称に彫られているそうだ。それとこれとは関係ないだろう。なぜ君は現実から逃げているのだろう。そこから逃げおおせられるとは到底思えない。偽りの逃亡者は逃亡先で安住の地を見いだせるだろうか。刑務所の中が安住の地であるわけがない。だが囚われの身はいつでも取り替え可能かもしれない。どこの誰が囚われていようとどうということはない。囚われている者たちの親族は何か勘違いをしているのだろう。たぶん国家にとって人ひとりの命などとるに足りないものだ。もしかしたら彼らにとってもそれは同じことなのかもしれない。この世に自分の親兄弟や子供を殺める者など掃いて捨てるほどいる。何を叫ぼうと、すべてはその時の状況と事の成り行きから生まれる感情に過ぎないのか。
9月24日
またもや言い訳に終始してしまうのだろうか。彼らはことさらに執拗な抗議でも繰り返しているのだろう。そしてまたいつものようにかなり疲れているようで、その実態は相変わらずの無内容になってしまう。なかなか思いどおりにはいかないようで、なぜ意に反してそうなってしまうのか、その原因を突き止めようとする気力にも欠けている。ときには何をしようにも、馬鹿らしく思えることがあるかもしれない。意識はかなり焦っているようだが、何もやらないうちに、またもや空白の時が到来しそうになる。だいぶ前から読みかけの本は読みかけのままに、なぜか読むタイミングが見失われ、いつの間にかその内容を忘れてしまう。そういうわけで、どうも今ひとつ調子に乗り切れていないようだ。ここで読む努力を放棄したくはないのだが、読めないものはやはり読めないようで、今は読めなくてもいつかは読み終わる時が来るかも知れないが、そのいつかがいつになるのやら、今のところ何の見通しもない。そうこうしているうちに時は過ぎ去り、いつの間にか遠くから白髪の老人のかすれた声が聞こえてくる。お前はもうおしまいだ、いい加減あきらめてこちら側へ来なさい、平和に暮らそう、所詮お前はそこまでの人間なのだ、もう何も言葉など弄するには及ばない。しかし誰が呼びかけているのだろう。そして今さらどうしろというのだろう。どうにかできるとは到底思えない。すでにどうにもできない段階に来ている。もはや降りることも引き返すこともできはしない。では、このままどうにもできずに、どうにもならない状況を受け入れるべきなのか。それは予定調和の問いになるだろう。〜すべきなのかと問われれば、それに反して、そうすべきでないと答えるだろう。それは決まり文句の一種なのかもしれない。たぶんこの状況をそれほど深刻には受け止めていないのだろう。この状況はまんざらでもない。途方に暮れているわけではないらしく、君はこうやって中身のない無内容によって虚無を表現しているつもりなのか。
9月23日
多くの人にとってはあまり興味のない話のようだが、例の件についてはあれからどう事態が進展したのだろうか。例の件のことなど自分には関係のないことだ。だが無関係だからこそ、そのことについて言及できるようだ。しかし安易に言及できるようなことについては言及したくない。まずはそのことについて何をどう切り出したらいいものか、その辺で迷っているようだ。だがこのままでは、結局は迷い続けた挙げ句にやる気を失うだろう。何も語らずに終わりになってしまう。それに関してはもうすでに結論が出てしまっているらしく、今さら何をどう語ろうと、虚しさばかりが先に立つ。とりあえず今はそれをやる気がしないのかもしれないが、ではどうすればやる気が出てくるのか、やる気を出すことが可能かどうか、その辺についても、何をどうすればいいのかわからない部分があるし、迷っているのかもしれない。何を迷っているかはっきりとは認識できないが、何かに迷っているらしいことは確かかもしれない。いったい君は何について語っているのだろう。よくわからないが、とりあえずあまり愉快なことではないらしく、たぶん不可能なことをやろうとしているのかも知れない。そんなことはわかりきったことで、それがわかっているからこそ、今は夜の闇の中で眠っているだけなのか。ただ何もやらずにひたすら眠り続ける。睡眠中にできることといえば夢を見ることぐらいか。できることならそれは、翌朝には忘れ去られるような夢であってほしい。なぜそう思うのか、明確な理由や必然性はない。希薄な思いに意味はない。どうでもいいことにいちいち気をとめていられない。だがそれでも何らかのこだわりを抱いているはずで、それはどうでもいいことではないはずだ。自らのこだわっていること、どうでもいいことではないことについて語ってみたらいかがなものか。それができたら苦労はないだろう。何もないから苦しんでいるのだろう。
9月22日
ありふれた幻影が枯山水の庭に出現する。たぶんそれは間違った解釈だろう。夜はいつでも影を求めている。勝手な思いつきはいつもくだらぬ妄想を生み出す。月明かりに照らされて青い仮面の亡霊が画面合成によって現れる。君は今何を説明しようとしているのだろう。心霊写真は何も物語らず、恐怖とは無縁の退屈さを無邪気にも映し出す。虚空に向かって語りかける努力にも飽きが来ているようだ。幻影を操作している者は虚しさを覚える。心の貧しさも生活の貧しさも、物語上に構成された登場人物の意識を作り出すための材料に過ぎない。彼には、私には夢がある、そうだ。壇上で演説を打っている者には観衆以外の何が見えているのだろう。いったいそれはいつの時代の出来事なのだろう。白黒の映像が燃え盛る炎の中へ投げ込まれる。無造作に人が殺され、焚き火の中で火だるまになりながら踊り狂っている者も記録される。衝撃的という言葉はいつの間にか使い古されていた。今ではどうでもいいような内容であればあるほど、衝撃的な出来事だと解釈されるようだ。衝撃的でないありふれた衝撃性とは、その手のテレビ番組でも見ればよくわかるだろう。その前後でコマーシャルが差し挟まれなければ、決して衝撃的とはならない。そんな決まりごとによって衝撃的か否かの判断がなされているらしい。ではコマーシャルのない局の番組は衝撃的ではないのか。世の中には例外事項もけっこうあるだろう。中東辺りでは少女を殺してミイラを作り、それを古代ペルシアのミイラだというふれこみで、欧米の博物館などに売り込む者がいるらしい。脳や内臓を抜き取って乾燥させ、包帯を厚く巻いた上に黄金の仮面をかぶせ、ペルシア王家の王女であることを示す楔形文字の刻まれた金のプレートをあしらったミイラが数体、その手の市場に出回っているのだそうだ。年代測定をすると数年前に製作されたことがわかるらしい。先日見たそのドキュメンタリー番組で、数年前に作られた少女のミイラの包帯を取り除いた顔を見てしまった。
9月21日
行く手を阻まれているのはどこも同じではないだろうが、状況に合わせた適切な言葉のつながりを構築せずに、あえて泥道のぬかるみに手こずっている振りをしているらしい。君はそんなわけのわからぬ表現では不満らしい。体の中を環流している血液は外へ出たいと願っている。恐怖映画にでも血飛沫として出演したいのだろう。画面上ではそんなよく見慣れた光景に出くわす。それらが何を狙っているのか知らないが、退屈しのぎにその先へ歩を進めてみよう。たぶん迷路はどこまで行っても迷路のままだろう。そしていつまで経っても感情の高ぶりなどやってこないだろう。氷のように冷たいのはその手の感受性が死んでいる証しなのか。駅前のブロンズ像の下の静かな水面に空の青さが反射している。だがそれが心のありようを反映しているわけではない。記憶はあいまいなまま、いつの間にか作られた物語と融合している。そんな物語を月下の晩に語りたがる者がいるだろうか。確か月に向かって吠えたのは詩人の萩原朔太郎だったか。語り方によっては間の抜けた話になるだろう。彼は犬か狼かに憑かれたのだろうか。今はそんなことをやっている場合でない。吠える男は長生きしないものだ。どこかの老婆がそんな内容でしきりに語りたがっている。いつか君にも死ぬときがくるだろう。だが誰が死のうが知ったことではない、と言い放つ者も、言った先から殺されてしまうのが、ギャング映画の常套パターンだろうか。映像の中の死には後から何らかの意味が付け加えられるかもしれない。わざとらしい青春物語では、君の死は決して無駄死にではなかった、と語りたがる者などが登場するだろう。どこかの墓前でテレビカメラの前でなら、俳優がそんな臭い台詞でも吐けるだろうか。作られた物語の中ではそんなことばかりかもしれない。
9月20日
それは見たこともないおかしな景色だ。なぜか成り行きで迂回路を進んでいる。どうやら工事中のようで、そこから先へ百メートルほど進むと、通行止めの立て看板がある。自分を取り巻く背景の裏側には何もない。君は空疎な内容に充足できるだろうか。嘘かもしれないが、気分が悪いので今日は出来合いの話で満足してもらいたい。たぶんそれは冗談の一種になるだろう。そんな状況は受け入れがたいが、相変わらず彼はやる気がしていないようだ。それでも君はそれらの作業をやる気なのか。もしかしたらそれ以上は無理なのかもしれない。だが無意識はいつものように気分次第で行ったり来たりの逡巡を繰り返す。そこで頼っているのはもっぱら空虚の力だ。しかし気まぐれを駆使して何かを語ろうとしているらしい。気がつくと、視線が宙をさまよっている。さっきから焦点がぼやけていて、何を訊いてもうわの空状態のようだ。振り返ると、まるで夢のような出来事だった。そんなときの君には、魂の痕跡が見当たらない。放心状態のあとは、またしても見上げた先にある天井の染みが気になりだす。気が触れる前兆だろうか。それは危ない兆しかもしれない。どうしても言葉がつながらないので、遥か彼方にある球形の物体を凝視する。そこは見渡すかぎりの砂の海だ。その地表面には空気がないので、そこにいるには生命維持装置が欠かせない。どこかにいるかもしれない誰かが、ふとしたきっかけでそこから下界を覗き込む。山奥の急峻な岩場から足を滑らせ、誰かが落石とともに転がりだす。君は信じられるだろうか。目にも鮮やかな血の赤が万華鏡の内部を埋め尽くす映像の存在を。ところで明日は日付的には十五夜のようだが、満月の夜に何を語ればいいのかわからない。いったい何をどう語ったら気が済むのか。痘痕だらけの表面にクレーターが無数に穿たれている。しかし情景描写とはどのようなタイミングで繰り出されるものなのだろうか。渾身の力を振り絞ってもその程度の内容にとどまっているようだ。気持ちが病んでいるのだろうか。それは気のせいではなさそうだ。
9月19日
あえて気休めを述べるなら、間違いは誰にでもある。先日はかなり間違っていたようだ。たぶんありえないことはありえるだろう。それが嘘なら差し障りはない。就寝する姿勢を維持したまま、唐突に途中からくだらぬ瞑想に入り込む。それはありがちな状況かもしれないが、そのとき君は何を考えているのだろう。はたして君にはそれがわかっているだろうか。それともわかっているからこそわからない振りをしているのか。炭酸水の色に見とれながら砂糖の味を訝る。思いは遥か彼方へ飛んでいるらしい。ところでハンバーガーとコークはジャンクフードの部類に入るのだろうか。塩辛い中華料理と、甘くて茶色の炭酸水の組み合わせには驚くかもしれない。どこかで話の順番を間違えてしまったようだ。腕時計の縁に誰かのイニシャルが刻まれていて、それを手がかりとして謎解きゲームが始められたりする。そんな話をここから始められるわけもない。彼は血糖値の上昇とともに廃人への道を歩み始める。始められるのは他でもない。例えば慢性的な肥満状態は、どのような理由で不健康だとみなされるのだろう。わかりきった疑問に答える奇特な御仁にめぐり会うこともないだろう。未知の生命体はいつも道端に落ちている煙草の吸殻を踏んでいる。適切な文章のつながりから著しく逸脱しつつあるが、その程度の間違いなら大目に見てもらえないだろうか。わけのわからないことを述べる風習はいつごろから始められたのだろうか。たぶんそれが継続への端緒だったように思える。始められたのはただ継続させることだった。それだけの理由で始められたのだろう。それはある種の苦しみの創出なのかもしれない。君はうんざりさせられるだろうか。
9月18日
北朝鮮による日本人の拉致と単純には比較できないが、かつて朝鮮半島の人々を強制連行したり従軍慰安婦にした当時の責任者だったA級戦犯の岸信介は、それらの人々にどのような謝罪の言葉を発したのだろうか。そして強制連行や従軍慰安婦の生き残りの人々やその遺族は、今日本という国家に対してどのような思いを抱いているだろうか。岸信介はその後日本国の総理大臣になって、強行採決で日米安保条約を成立させたらしい。しかし、北朝鮮の名目上の最高責任者であるらしい金正日氏に、あれ以上の何をやれというのか。まさか今の北朝鮮の現体制そのものをその手で崩壊させて、金氏自身も最高責任者の地位を降りてほしい、とは言えないだろう。他人に向かって自滅しろとは頼めない。まあ、かつて数万人もの人々を強制的に拉致し、奴隷のように働かせていた国の人々が、まだそれに対する謝罪も済んでいない当事国の最高責任者に、あまり偉そうなことは言わないほうがいいのかもしれない。穏便に済ませられるようなことではないだろうが、拉致された人の親族の人以外は、調子に乗ってここぞとばかりに北朝鮮批判を繰り広げるべきではないような気がする。なんとなくそれに関するニュースを見ていて恥ずかしくなってきた。とりあえず前向きに過去の悪事を清算すべき機会がやってきたことだけは確かなようだが、この状況で今さら大したことはできないだろうとも思われる。たぶん双方ともに納得できるようなことは実現しないだろうが、できるだけそれに近い結果を残せるように、真摯に話し合うことぐらいしかやりようがない。しかしそんなことは言うまでもない当然のことか。もちろん自分は単なる傍観者でしかない。
9月17日
突然暑さが去り、風のない日々が徐々に退こうしている。曇り空は懐かしさとともに海の向こうへ飛んでゆく。彼方の街では西風に煤煙がたなびいているかも知れない。だが空気には排気ガスが染みこんでいる。雲間から時折顔を出す月には何が似合うだろうか。微妙な温度差と思惑の違いが複雑に絡み合う。それらは単なるこけおどしの風景に過ぎないかもしれない。ただあるものをあるようにすることはできないのか。あるようにしようとしているのは誰でもない。誰もあるようにはしていないばかりか、ありえないことが実現するように努力している。しかしありえないこととはどのようなことなのか。ありえないことはありえないことでしかない。そこではありえそうな結末のひとつが用意されていたようだ。事前に何らかの期待があったことは確かなようだが、ただそういうことでしかないらしい。そこでありえないことが起きたわけではなかった。誰もが驚くようなありえたかもしれないことが実現したまでのことだ。そして大方の予想屋を激怒させるような内容だったはずだ。そんなことまで言うはずがないことまで相手が言ったので、かなりの不快感を顕わにしている。日頃から感情的だった者たちは怒りの表情を隠さない。相手が誠意のある対応をしてきたのが許せない。これまで通りでないのが気に入らない。なるほどその手の人を怒らせるには、慇懃な応対に終始するのが最も効果的のようだ。たぶんそれ以外の結果はありえないのだろうが、どのような結果になろうと、怒る準備をしていた人々の、予想以上の結果になってしまったので、やはり心底から怒りざるを得ないのだろう。
9月16日
ここでは毎度のことのように馬鹿げたことが繰り返されているが、喧騒の中で漠然とした思いにとらわれる。いったいここで何をやるべきなのだろう。やるべきことが何もないわけではないが、何もやる気がしないのはいつものことなのか。そこでためらわれているのはどんな行為だろうか。やるべきことはやらないままに済まされ、やってはならないことをやってしまうのがここでの通常のパターンだ。ではやるべきことをやってはならないことに設定すれば、やってはならないことをやらないままに済ますことができるだろうか。しかしそれは机上の空論だろう。強引にそんな設定が実現できるはずもない。前もってやってはならないことの基準など設定できるはずもなく、それをやってしまった後から、やってはならないことだったと気づくのが常だろう。やる前に躊躇するようなこともあるにはあるが、そこでやるのをためらい、やるかどうか迷うが、その迷いは結果的にやるかやらないかした後から、やはりやるべきだったか、あるいはやらなくてよかったかの思いを強調する効果があるだけだろう。もちろんそんな迷いなど要らないというわけではなく、要るか要らないかの判断などあり得ず、ただやる前にやることをためらってしまい、やった後からやってしまったことを後悔したりしなかったりするだけだ。そんなわけで自らの行為に事前に規則や基準を課すことは、遠からずその規則や基準を自ら破る結果を招くだろうが、ではそんな規則や基準は要らないのかといえば、要るか要らないかの判断などあり得ず、ただ無意識のうちに自らにそれらの私的な掟を設定してしまい、設定されたそれらの掟はいつか破られ、そんな掟を自らに課したことや、それを結果的に破ってしまったことを後悔したりしなかったりするだけだ。こうしてここでは毎度のことのように馬鹿げたことが繰り返されているが、なぜこんな愚かなことを繰り返しているのだろう。たぶんそれは現実が予定調和には終わらないことの証しかも知れない。当たり前のことかも知れないが、過去と現在と未来は異なり、過去に設定された基準は、現在や未来においては当てはまったりはまらなかったりするということか。しかしそれでも人は基準を設定し続けるし、自らの目標を掲げ続けることになるらしい。
9月15日
今日も何もしないうちに眠くなってきたらしい。今さら何か語る内容があるだろうか。天候の話にはもう飽きたかもしれないが、外では雨が降っている。どうもここでニュース的な素材について語るのはためらわれているようだ。事件から一年が経ち、彼の地では今ひとつ盛り上がりに欠ける儀式が執り行われたらしい。しかしそれは印象でしかなく、何らかの偏った見方や願望が反映した印象に過ぎない。それでも何も思わないよりはマシだろうか。とりあえず冷めていることは確かなようだ。見出されたことやものは何もない。仮にあったとしても忘れてしまったのかもしれない。以前と変わったことは何かあったかもしれないが、それは気にも留めないようなことだろう。その代わりに最近はそれらの世界そのものの存在を疑っている。そもそも世界が存在するとはどういうことだろう。見聞きしながら感じているそれらが果たして世界なのだろうか。それらが幻影でないとしたら、それらを感じている者自身が幻影ではないのか。世界を実態として何も感じ取れないのだから、君はこの世の存在ではないかもしれない。やはりフィクションに付随した登場人物でしかないのだろうか。直接感じ取れるのは実体を伴わぬ情報の束だけなのか。その幻想のスクリーン上には本気になれるような内容が何かあるだろうか。客観的にはそれらは単なる風景として提示されている。そこに含まれる何もかもが、生気を抜き取られて鑑賞物に成り下がっている。言葉までが読まれる以前に文字として鑑賞の対象となっている。過去の思考や思想は美しい装丁を施された本となるだろう。その本の中身は読まずに、もっぱら外から眺めることが奨励されている。その概観をしたり顔で解説したがる者はいくらでも登場するだろう。たぶんその程度で止めるべきなのだ。それ以上はこの世界では必要ないのかもしれない。とりあえずこの世界に存在するすべては形骸化されなければならない。実際にそれらを目で見たり耳で聞いてみたりして、美しいと感じたらそれで充分なのかもしれない。美食を追及するような人々がこの世界を仕切っているのだから、美味いという価値観ですべてが判断されている。そして体に良くて美味ければさらにいいということか。
9月14日
君の語り口には品がない。欠けているのはそれだけだろうか。欠けているものは他にいくらでもあるだろう。その内容ときたらいつも不具合だらけだ。内容そのものがない場合も多々ある。何を語っているのか、語っている本人にも理解不能な部分もかなりある。意識は常にあいまいの只中に留まり、具体的で明確な事物について語るのを避け続けているようだ。そのような語りの有効性について疑念を抱いているらしい。しかしだからといって、必ずしも有効な語りを目指しているわけでもない。語りは何に対して有効であるべきなのか、それについて満足いく回答に出会ったことがない。目指しているものは、語られる対象によってそれぞれ違ったものとなるだろう。その語りが無効になることを目指している場合もあるかもしれない。その場合、何に対して無効になることが目指されているのだろうか。その辺が不明確なままにここまで語ってきてしまった。語りが有効であったり無効であったりすることの根拠が何も示されていない。例えば、平和団体がいかに説得力のある反戦声明を発しようと、現実に戦争をとめられなかった場合、その声明は無効とみなされるだろうか。たかが反戦声明ぐらいで戦争をとめられるわけがない。その場合、戦争をとめられるか否かで反戦声明の有効性を判断するのは誤りだろう。世の中が今にも戦争が起こりそうな雰囲気になったときや、すでに戦争が始まってしまったとき、平和団体はその団体の性格上反戦声明を出さざるを得なくなる。平和団体が反戦声明を出さないならば、その存在意義とはいったい何なのか。そのような背景から反戦声明が出されるのであって、たとえその内容が、戦争を即時停止せよ、と呼びかけていようと、その声明によって戦争がとめられるか否か、といった次元で語りかけているのでないことは明白だろう。おそらく平和団体は、声明の内容によって直接戦争をとめようとしているのではなく、自分達の主張に賛同する人々を募っているのであり、反戦ムードが世論の多数派を占めるような状況を作り出そうと、様々な運動を画策していて、反戦声明はその一環として発せられるのだろう。マスコミ各社を取り集めて大々的に記者会見を開き、紋切り型の内容の反戦声明が声高らかに読み上げられ、それが新聞の紙面に載ったりニュース番組で紹介されれば、おそらくそこまでたどり着けば、反戦声明は一応有効に機能したとみなされるのだろう。しかしそのような有効性とは本当に有効なのだろうか。だがその場合の本当とはどのような本当なのか。
9月13日
絶えず移動しなければならないようだが、では移動しながら何をしているのだろう。いつもその辺が不明確なまま、性懲りもなく移動し続けているらしい。それは胡散臭くて馬鹿げたやり方だ。要するに君のやっていることは意味不明なのか。しかし誰が君に向かって否定の言葉を投げかけているのだろう。すべてがフィクションというわけでもないだろうが、たぶん君は虚構の登場人物でしかないのだから、その君に対して否定的なのも君を構成する言葉自体なのかもしれない。問題はその先でどうするかだ。どうにかできたら楽なのだが、現実には無内容だ。中身のある内容を紡ぎ出すのが面倒になる。すべては初めから存在していたわけではない。目標となる素材にリアリティが希薄なのも仕方のないことか。目標となっているのは何らかのフィクションに過ぎないわけか。ではそれらのフィクションにはどのようなリアリティが宿っているのだろう。架空の対話を言葉として現実化させるとき、そこにどのような内容を盛り込めばいいのか。そんな設問自体が想像の域を出ない架空の設問だろう。それでも強引に内容を盛り込むならば、とりあえず今は愛と平和でも入れておこう。それらは今では人畜無害で何の効力もない言葉の類に属している。だがそんな言葉を積極的に掲げている君は、もしかしたらおつむの弱い人々の範疇に入ってしまうかもしれない。何とかこの貧窮の時から抜け出そうとして、苦し紛れに愛と平和という言葉にすがりついている。それではあまりにも惨め過ぎるだろうから、今度はもう少し知的な言葉を弄してみよう。民主主義と資本主義ならどうだろう。これなら少しはすがりつきがいがあるというものだ。正義は民主主義と資本主義の下に宿るだろう。それはかなり馬鹿げた冗談なのだろうか。なぜ正義は共産主義の下には宿らないのだろう。さらになぜ愛と平和の下に正義は宿らないのだろうか。もしかしたら爆笑している者もいるかもしれない。なぜか君は愉快な気分で至福の時を過ごしているようだ。正義を掲げる戦争愛好者たちの下にも、いつか至福の時が訪れるように祈ってあげようではないか。戦いを勝ち抜いた先には何が待っているのだろうか。
9月12日
事件はすでに起きているのだから、消極的には今さら何をどう述べてみても始まらないだろう。だが君はそんな回答では満足しないだろう。もう一年前のことは忘れてしまった。自分がそのとき何をやっていたのか思い出せない。それは嘘かもしれないが、では半年前ならどうだろうか。どうでもなく、思い出すのが面倒だ。そのときの記憶はあまり定かでない。何もかもが不鮮明なのかもしれない。君にとって、過ぎ去った過去はどうでもいいことなのか。一概にそうとも言えないが、思い出そうとして思い出せるような過去などつまらないものだ。思わぬときに思わぬタイミングで脳裏を横切る記憶は面白い。そのときのうろたえ方は、あとで思い出し笑いを誘うかもしれない。事件をしたり顔で総括してはならない。それらの時空に連続性はない。記憶はいつも途切れ途切れに生成されているらしい。そこで何を思い出そうとも、君の知ったことではないだろう。リズムは突然切断され、不協和音で意味不明に着色されるだろう。世の中の流れなどに同調すべきでない。生半可な知識など何の役に立つというのか。誰もが今を獲得したがっているが、君が得ようとしているのは今ではない。それは過去でも未来でもなく、不在の時となるのだろうか。それは不可能な時なのだろうか。それでは今この時とはどんな関係にあるのか。この多少はリラックスした時間帯において、何がなしどげられようとしているのだろう。今まで何の完成も求めてこなかったような気がしているが、そういう不完全性に依拠した状態で、いったい何が成し遂げられるのだろうか。それはどのような闇なのだろう。闇と光明とはどのように関係しているのだろう。それらは相互に補完しあいながら何を形作っているのだろう。たぶんそれは印象派以前の絵画に見られる特徴かもしれない。おそらくそれとサイケデリックは無関係だろう。しかしそれ単なる前置きでしかない。キャンバスの平面に塗りこめられた絵の具の香りには、何がしかの幻覚作用があるのだろう。その香りが画家を自任する者たちを狂わせた。では、インクの香りで狂った作家が存在するだろうか。しかしかなり馬鹿げた内容に近づきつつあるらしい。
9月11日
君は空白の数日の間に何をやっていたのだろうか。何もやっていなかったようだ。危機意識などどこにもない。今さら終わりの時を恐れたりしないだろう。身勝手な感触だが、サイケデリックな時は今も到来し続けている。まだ苦し紛れに残り滓を活用するまでは至っていないかも知れない。まだ内部に言葉が降り積もり続けているだろうか。しかし何かを語ろうとすると、なぜそんな回りくどい表現になってしまうのだろうか。君は単刀直入が嫌いなのか。だが単刀直入に何を述べればいいのかわからない。たぶん意識は今も空白の時の最中なのだ。だから何も思い浮かばないのか。君のことなら何も思い浮かばないが、他人の話ならいくらか知っている。彼らの傲慢さも行き着くとこまで行き着いているのかもしれない。彼は力強い強大な野心に満ちた意志に導かれた国家には愛想が尽きたそうだ。ニュースでは誰かがそんな思いにとらわれているらしい。何とか自国に被害が及ばないうちに、先制攻撃で叩き潰さねばならないそうだ。何としてもイラクの独裁者をこの世から抹殺しなければならないらしい。自国の都市で原子爆弾が爆発する妄想にとりつかれている。何とも愉快なその話をどこまで信じていいものか。今は全面的に信用しておこう。それが神の意志ならば、遠からず君たちの野望は成就するだろう。君たちに栄光の未来が訪れることを祈っておくとしよう。ところで君は冗談でなら何とでも述べられるのか。アフガニスタンはいまや無法地帯と化しているのだろうか。人は法によって拘束され裁かれるべきでない。誰もが自らの判断で自由を追求すべきなのだ。だから世界中が無法地帯と化すことが望ましいか。それはかなり身勝手な望みかもしれない。たぶん君は何を述べようともしていないだろう。そうではなく、法を破るか否かはあまり重要なことではない。何が重要かはその時々で自らが判断すればいい。今ここで優先すべきことは未定だ。そんなことを考えるのは面倒なのかもしれない。
9月10日
何かをやろうとしたときからかなりの年月が経ち、やる気がしなくなってから久しい。全身から力がすべて抜けていくような虚脱感に見舞われているのかもしれない。当初の意気込みはどこかへ消え失せ、あとに残ったのはわけのわからぬ倦怠感ばかりなのか。だが今さら積極的だった過去への回帰に魅了されることもないだろう。今は今であり過去は過去でしかなく、とりあえず今の意識で何かをやるしかやりようがない。無限の時空の中で有限の範囲内でやればいい。ただそれだけでしかないところが漠然としている。それだけでは具体的な中身が何も見えてこない。しかし具体的に何を述べられるだろうか。たぶん今は騒々しい音楽を聴いている。それ以外はすべて闇の記憶に充たされている。夢は何も見ない睡眠の最中かもしれない。何を述べているのかもわからぬまま、柿の木の枝をへし折って陽の当たる空間を確保しよう。それ以外にやるべきことを見つけられないでいるらしい。それは嘘なのかもしれないが、いったいどこで弔鐘の音色を聞き取れるのだろう。いったいいつまで終わりの見当たらぬ夢幻のドライヴを続けるつもりなのか。どこで高速道路から降りたらいいのかわからぬまま、見知らぬインターチェンジから見知らぬ町へ迷い込む。ふと気がつけば、誰もいない部屋の中で凍え死んでいた。冷凍室から肉片が転がり出る。霊視の力にも限界があるらしく、その顔を見誤ったらしい。遠い未来からやってきた記憶を思い出せない。それでもジグザグを描きながら何かにたどり着こうとしている。そしてたどり着いたところが意味不明なのだろう。現状はそんなところか。しかしそれではくだらないから、もうすこし繰り出される言葉を整理してみる必要に迫られている。
9月9日
何かを思い出している最中に別のことを思い出す。去年の今頃は世界的に青天の霹靂の時だったかもしれない。今年は何も起こらないのだろうか。このところいつか通った道にはまり込んでいるような気もしている。権力が行使されるときは、行使される側にある程度の選択の自由があるときに行使されるらしい。権力はその選択の自由を制限し、ある特定の選択肢を選ぶことを強要する。行使される側が憤り反発してほしいからこそ、そのような理不尽な行為に及ぶわけだ。他人を嫌な気分にさせながらも、しぶしぶ従わせることができる状況において、そこで権力が行使されている証しとなるだろうか。そういう状況において、権力を行使する側が言い放つありがちな決め台詞としては、嫌ならやめてもいいんだ、という類の言葉かもしれない。そこでやめたらお終いであり、やめなかったら屈服したことになる。そのどちらを選んでもたまらない不快感を呼び込むだろう。そのような権力ならわかりやすいだろうか。それとは別種の権力の行使もありえるかもしれない。例えば、人々に夢や快楽を与える権力にはどう逆らえばいいだろうか。はたして逆らう必要を感じさせない権力に逆らうことができるだろうか。テレビを見たり、本を読んだり、あるいは音楽を聴いたりするのをやめることができるだろか。そのすべてに逆らうことなどできはしない。理不尽な権力の行使には逆らわなければならないが、従うことで快適な気分になる権力の行使なら、喜んで追従すべきなのか。たぶんそれで正解なのだろうが、正解では気に入らないらしい。快適な気分にさせられることが不快なのかもしれない。それはかなりおかしな言い草だ。だがたぶんこれからも正解や快適さは拒否していくのかもしれない。もちろん拒否するがやりざるを得なくなるだろう。そしてそういう状況に身を置くことが何よりも不快なのかも知れない。
9月8日
ほとほと嫌になるとはどのような気分に意識が覆われたときなのか。意識は相変わらずの内容に辟易しているかもしれない。要求は一向に充たされぬまま不満ばかりが募っているようだ。もっと独創的なことを述べられないものだろうか。それはないものねだりなのかも知れず、今のままでは不可能かもしれないが、やはり内心ではありえないそれを望んでいる。君にはそれがわかっているはずだ。それがどのような結果を導き出すかは、わかりすぎるほどわかっている。そうなることを望んでいる。だが一方で、そうなってからでは手遅れであることもわかっている。だからそうなる前に手を打たなければならない。しかしわかっていながらそうなってしまうだろう。ちなみに今がそんな状況の真っ只中だ。現実にそうなってしまっているわけだ。さてこれからどうしたものか、どうにもならないことを承知の上で、そんなことばかり思っている。そしてうんざりしながらも、どうにかすべく、今からその作業を始めなければならないのであり、毎日がそんなことの繰り返しなのだが、そんな状況に嫌気が差しながらも、そこから抜け出せないでいる。抜け出そうとして、もがけばもがくほど、意に反してますますそうなってしまう。そしてますますうんざりしてくる。なるほど、ほとほと嫌になるとはそんな気分でいるときなのか。そういうわけで、嫌な気分を充分実感できたように思われる。そんな展開では到底満足できないか。ならばこれからどうすればいいだろうか。もう一度同じことを繰り返して、同じような気分を味わえばいいだろう。それで気が済むならいくらでもやればいいことだ。それは一見矛盾しているように思えるが、そうするより他に選択肢はないだろう。それが君の定めであり、宿命なのだ。
9月7日
なぜか今日が過ぎ去ろうとしている時間帯の中にいる。雨降りの夜にサファリの幻影に出会う。それは嘘で、現実にはそんな曲を聴いているだけか。しかしいつになったらこれらのフィクションは現実に追いつくのだろうか。いつまでも過去の物語ばかりを奏でていると気が滅入ってしまう。それは歴史上の死人ばかり取り扱う大河ドラマのようなものか。しかし死人以外が登場する歴史がどこに存在するだろうか。人々にとっては特定の有名人の歴史ではない歴史など受け入れがたい。自分はそれについてはつまらない印象しか持っていないのかもしれない。恐竜や巨大哺乳類の歴史以外にどんな歴史があるだろうか。そうやって人々は自らを構成してきたのか。なぜ同じような夢を見させられているのだろうか。現実には規範となる目標の存在しない世界になろうとしている。様々な人々の意識はひとつにまとまろうとはせず、そのすべては砕け散り分散しようとしている。かつてそうなることを願い、それが実現しつつある現在になっている。中には必死になってそれを食い止めようと焦っている人々もいるらしい。昔ながらの万人に妥当する道徳を構築しようと努力しているようだ。たぶんそれは正しい態度なのだろうが、正しい行為は過去に属する価値だろう。正しい行いは未来に対しては無効である。では未来へ向けて何をしなければならないのだろうか。今しなければならないことは人それぞれで違ってくるだろうし、中にはしなければならないことがない者もいるかもしれない。できれば自分がそれに該当してほしいような気もしてくる。しかし、本当のところ自分は何をしなければならないのだろう。何をしたいと思っているのかわからない。何もしなくてもいいのに、余計なことをやっているのだろうか。
9月6日
さっきまで怠惰に任せてテレビを見続けていた。それでも今体験しつつある現実を部分的に肯定しなければならない。そのテレビの内容に触発されて何かをやり始めることもある。しかし今日は何もやらないうちに眠たくなってきた。仕事以外は何もやっていないのだから、疲れるのも仕方のないことか。いいわけなら他にいくらでもありそうだ。まだ疲れる内容の書物をあと二百ページ弱読まなければならない。いったいいつになったら読み終われるのだろうか。数年前にもそんなことを思っていた。それがようやく最終巻の残り半分ぐらいまで読み進んできた。それは恐ろしいことかもしれない。おそらく一巻あたり平均四百ページはあるだろう。それが十巻あるものをここ数年読み続けてきた。なぜそれほどの分量になってしまうのか。たぶん内容はあまり把握できていないだろう。あと二三回読まなければ把握できないだろうが、読んでいる暇はない。まったくの不完全な読解のまま放棄されてしまうのか。しかもその十巻はどちらかといえば雑文の寄せ集め的な部分かも知れず、まとまったひとつの書物として刊行されたものの方はまだ何も読んでいない。雑文の寄せ集めだけでも圧倒されてしまっているのに、ちゃんとした書物の方を読む機会などがはたして巡ってくるのだろうか。また、今まで読んできたその内容について、何を述べていいのかわからず途方に暮れている。それを述べることは現在の自分の能力を超えているのだろうか。それについて何か述べること自体が、見当違いの行為になってしまうのかもしれない。とりあえずもう少し考えがまとまるまで待った方がよさそうだ。この程度の分量で何か述べるのは無理かもしれない。
9月5日
経験が血肉と化すには偶然が必要なのはもっともなことだが、どうやってその幸運に巡り合い、戦慄を覚える瞬間が訪れるのだろう。いつそういった内的経験に至る偶然に巡り合うのだろうか。そんなことがわかるわけはない。その瞬間がすでに通り過ぎてしまったことに気づかないだけかもしれない。すでに過ぎ去ったその空虚の時に対する埋め合わせは何もない。過去においてありえたかもしれない瞬間は、いつかまた巡ってくることがあるかもしれないが、たぶんまたやり過ごしてしまうような予感がする。運命には逆らわなければならないが、逆らわずにやり過ごす。それが君の宿命なのかもしれない。人の運命をもてあそぶ神は無視すべき対象なのだ。好機を逃してみせるのがここでの正しいやり方だが、正しいやり方とは、世間的には間違ったやり方となるだろうか。しかしここでいう世間的なものとはどのようなものになるだろうか。世間的なものの具体的な内容は何もなさそうだ。とりあえず今は何も思いつかない。たぶん君は間違っているだろう。わかっていることはそれだけかもしれない。間違っていることが君の心の支えとなって久しい。君は間違うことで精神のバランスを保っているらしい。まかり間違って正しいことをやってしまっては、そこで終わりとなってしまうだろう。君は終わることを恐れているようだ。それでわざと間違って続けようとしているのだ。何度も何度も飽きもせずに同じことをやり直している。まるで積み木遊びに夢中になっている幼児のように、積み上げた言葉を壊してはやり直す日々が続いている。はたしてそれで満足しているのだろうか。いったん満足したらそこで終わりだ。だから不満だらけの作業をこうして中途半端に繰り返しているわけか。たぶん満足することやそこで終わることが嫌なのだ。嫌なのではなく、実態としては君にはそれができないのだろう。
9月4日
つまらぬ冗談以外に何か思いつくことがあるだろうか。今年は編集者の死によって突然終わってしまった雑誌を定期講読していた。そしてエイズで死んだ哲学者の思考集成はもうすぐ読み終わるかもしれない。我々は決断を回避できないそうだ。確かに終わらせるための決断を回避することはできなかったのだろう。ブランショはまだ生きているらしい。後五年生きれば百歳になるだろう。若いころは右翼のジャーナリストだったらしい。彼は戦時下のフランスでナチスに協力していたのだろうか。そして今や世間的には知る人ぞ知る偉大な文学者なのだろうか。自分にとっては謎の男でしかない。終わりなき対話は出口のない迷路なのか。カフカの進化形態がブランショというわけでもないだろう。ただ慢性疲労気味の男が九十五歳まで生きている。それがとりたてて奇怪というわけでもないだろう。至高者の最後がどうだったのか思い出せない。今読んだら終わりまでたどり着けないかもしれない。友愛について語っているが、彼はバタイユについて何を語っていたのか。自分が読めるものは来るべき書物と文学空間だけかもしれない。それらをもう一度読み直すべきかどうか迷っている。もっと他の書物を探すべきなのか。だが書物を読んで何を知りたいのだろう。自分の知り得なかったことが書物の中に記されているかどうか、大方そんなところかもしれない。それでは志が低すぎるだろうか。たぶん読書に目的などあり得ないかもしれないが、今は考え方を絶えず改めていかなければならない。何をやりたいかも知らないのに、いったい何をやろうとしているのか。何をやろうとしているのではなく、何かをやっているらしい。自分にもわからない得体の知れぬ何かをやっているようだ。たぶんそれは嘘だ。今何をやっているかわかっているはずだ。わかっているが、そのわかっていることが思い違いかもしれない。どうやら勘違いで何かをやっているらしい。しかしそんなことがなぜわかるのかわからない。要するに今述べてきたこれらはただのフィクションに過ぎないわけか。そういうわけで予定調和に陥っているらしい。確かブランショは戦時下のフランスでナチスに殺されかけたことがあったらしく、そのとき偶然に死を免れた体験が後の人生に影響を及ぼしたらしいことが、何かの書物に記されていたことを思い出した。
9月3日
ひとつの時代が幕を閉じ、新たな時代が始まろうとしている。できることならそんな感慨を抱いてみたいものだ。心にもないことを述べているようだが、無理を承知でそんな戯言を述べる必要がどこにあるのか。たぶんそういったものには抵抗していかなければならないのであり、そんな感慨の生成を否定することがここでの目標となっているらしい。ところで今はどんな時代なのだろう。確かにすべてが終わろうとしているようだ。今は黄昏時なのかも知れない。二十一世紀の始まりは終わりの時代の始まりなのだろうか。もちろんそれらは絶えず始まり、もうだいぶ昔から始まっていたらしい。おそらく今から二千年以上前から終わりは始まっていただろう。さらにもしかしたら二万年前から始まっていたのかもしれない。こうして終わりはいつでも始まらなければならない。だがそんなことは知ったことではない。ここではまだ何も始まっていないし、今すぐ終わるわけもない。だからもうしばらく終わりまで我慢してほしいということなのか。終わりなどいつでも可能なのかもしれない。すべてが安易に始まり、安易に終わってしまう。それは半年ごとに始まったり終わったりするテレビ番組のようなものかもしれない。そんなものに感情移入している暇はない。では暇さえあれば感情移入していいのか。たぶん暇を持て余している多くの人が感情移入していることだろう。だから自分も暇を持て余すような身分になるための努力が必要なのか。なるほど頭をひねればそんな結論も導き出せる。そんなユーモアでも少しは気休めになるようだ。
9月2日
明日になれば事の経緯が明らかになりそうだ。もし仮にその営みが終わったらとしたら、弔鐘の響きがどこからともなく聞こえてきたりするだろうか。物語的には過ぎ去った至福の時を懐かしむことが、禁じられた行為として記憶の海から浮上してくるだろう。悲しげな調べとともに吟遊詩人が夢の後方から詠いだす。淡い期待とともに抱き続けた夢を踏みにじりながら、ロマンティックな内容を今こそ提示しなければならないのか。誰からも期待されない内容と、それに対応した思考の痕跡を刻みつけなければならない。そこから逃げてはいけない。何もない貧窮の時代が今なのか。たぶんアフリカ辺りの飢餓地帯へ行けば、そんな実感もわいてくるかもしれないが、そんな場所へ行く気はしないので、とりあえずこの場所は貧窮の時代には属していないようだ。それは気分次第で実感したりしなかったりする程度のことなのか。確かテレビでは老婆が何か訴えていたようだ。とりあえず命乞いをする一般市民は、殺してから所持していた金品を奪い去る。それが中央アジア辺りの山賊のやり方のようだ。鴨が葱を背負ってやって来たような状況は、神からの贈り物を連想させるらしい。それがアフリカの飢餓難民では取るものが何もない。相対的にアフガニスタンの方がまだマシな状況なのかもしれない。だがそれは高みの見物的な見解だろう。かなりいやみな内容になってしまっている。だがそんなことはどうでもいいことだ。確かに世界は広いが、中には狭い部分もあるらしい。テレビ画面はさらに狭い世界の中にある。安易な妥協で我慢するなら、そこで演じられる物語程度で感動しておこう。それ以外の感動の源泉は、涸れ果てるがままにしておいた方がいいだろう。今は何を求めても娯楽以外のものは手に入らない。インターネットショッピングでモーリス・ブランショの『踏みはずし』を求めたら断られてしまった。
9月1日
もしかしたらそこで暮らす人々の選択は間違っているかもしれない。だが間違っているからこそ倫理的なのかもしれない。君は数日後に頑なな人々に出会うだろう。倫理的な態度とはどのような状況になると現れるのだろうか。なぜか理想を追い求めることは、それを断念することにつながるらしい。理想に達しない現状を認めない態度を頑なにとり続け、夢のような未来へひたすら思いを馳せる。安易な妥協はできないのは当然だとしても、その一方で初心を貫徹できないことも当然の成り行きかもしれない。当初に抱いていた理想は思いもよらぬ変容を被るだろう。時としてそれは理想とは正反対の行為を強いられるかも知れない。たぶん理想とはそれを抱いた時点での暫定的な目標に過ぎないのだ。それは周りの状況によっていつ変更を余儀なくされても仕方のないことだ。八十年に一度起こるかもしれない洪水を防ぐには、百年かけて周囲の土地に保水力の高い落葉樹を植林し、洪水が起こりにくい状況を実現させればいいだろう。なるほど安易なダム建設や河川改修などの土木工事以外にも選択肢はあるにはある。ただそういうやり方で人々が納得するかどうかはわからない。それは推進する者のプレゼンテーション能力にかかっているのか。現状の変革を望む人々がやらなければならないことは、何よりも自分達が積極的に事件の当事者にならなければならないということのようだ。傍観者を気取って事件を眺めながら、それに対応した適切なコメントを出すことに腐心しても、今ある現状を補強することにしかつながらないのではないか。そんな思いから言論人から政治家を目指す者は多いのだろう。はたしてそれがいいことなのかどうか自分にはわからない。
8月31日
視点が揺れ動いている間に、すっかり周りの景色が変わってしまった。人の生きている時間感覚では、風雨による大地の浸食作用は感知できないだろう。山は動かないが、山をそびえさせている大地は動いている。静止衛星以外の人工衛星から見れば、地球の自転によって大地が回転している様子が見られるかもしれない。また運がよければ、世界有数の大都市に原子の火柱が上がる光景も見物できるかもしれない。それは夜の出来事になるだろう。火は太古の昔から瞳を魅了してきた。神の業火で焼かれた大地に再び祈りの時が訪れる。もしかしたら世界的にゾロアスター教が流行るかもしれない。拝火教のゾロアスターはドイツ語でツァラトゥストラと呼ぶらしいが、その奇妙な響きはどこかで聞いたことのある言葉だ。彼はその書物で何を語っていたのだろうか。顔の下方でパックリ開いた赤い穴から、ピンク色の肉片がだらりと垂れ下がる。その人を小馬鹿にしたような表情は、前世紀の有名な物理学者の肖像写真を思い出させる。いまこそ彼に倣って世界平和を唱えなければならないのか。平和とはどのような状態をいうのだろうか。有名な霊媒師にお願いして、暗殺されたキング牧師の霊を呼んでもらって、かつて大衆を魅了したあの語り方で、平和についてうん蓄を傾けてもらおうではないか。キングという名で呼ばれる人々の系譜には、いつの時代でもありふれた賛辞がつきまとう。そのホラー小説の大家が著した原作の映画には、どうしても興味を持てない。そこで醸し出される、蛇の胴体で縄跳びをやりそうな雰囲気が、どのような状況を物語っているのか、そんなことがわかるわけないだろう。呆れてものも言えない状況なら少しは経験がありそうだ。谷川岳は遠くから眺めればツイン・ピークスの山かもしれない。この夏も死者が出たのだろうか。麓にある供養塔には遠く尾瀬沼の湖面から日の光が反射している。それは嘘であり、まったくありえない状況だ。だが今は、少し前に三者択一を迫られたときの心境からは完全に離脱している。しかし依然として何をどうつなげたらいいか迷っているようだ。その迷いには深刻さが欠如している。とりあえずジレンマは三重苦よりもマシな状況らしい。
8月30日
テレビ画面に映し出された映画は途中で見るのをやめてしまった。なぜやめたのかわからない。理由らしい理由は何も見当たらず、今何を考えているのか、また何をやろうとしているのか、ただそれらをわかろうとしていないだけかもしれない。まさか慢性疲労というわけでもないだろうが、やはり何もやる気がしないことは確かなようだ。それは単なる行き詰まりに過ぎないことなのか、それを明らかにするためにも、そこで停滞している言葉を取り出してみよう。途中で詰まっている言葉を外へ押し出さなければならない。いつかは深い絶望の淵にも転機が訪れるだろう。気休めにそんな思いが湧き上がってくる。周囲を断崖絶壁に囲まれているわけでもないが、荒地はいつまで経っても荒地のままに止まり、見えないバリアーに行く手を阻まれている、などと、半ば被害妄想気味にくだらぬ情念を抱きながらも、これからもどこまでも継続させて行くつもりらしいが、何を続けてゆくのかは未だに未定のままだ。だが、実際にこうしてわけのわからない内容で続けているではないか。それがわからないのかもしれない。そんなことをやる必然はないのは当然としても、必然がないことはやってはいけないかというと、そんなこともないようで、やってはいけないことをやっていると感じているわけでもなく、ようするにただの無内容を繰り返しているに過ぎない。だがそうかといって、この作業を後戻りさせる気はしてこない。今さら昔のやり方には戻れない。そんなわけで、今は無内容でも仕方ないような気がしている。
8月29日
洞窟の内部でささやかれる声にはエコーがかかっている。その残響音に魅せられて、さらに奥底へ向かって歩みだす。そして架空の会話がどこかで始まっているらしい。君は今何を知ろうとしているのだろう。君の知りたいことがわからない。なぜそこで行き詰まっているのか。どうやらそのわけを君は知りたいらしい。もしかしたら今わからないことはいつかわかるかも知れない。いや、わからないことはこれからもわからないままだろう。仮にそれをわかったところで何の得にもならないし、たとえわからなくとも損することはないだろう。とりあえず、わからないことをわかろうとすること自体は無駄ではないと思われる。常にわかろうと努力しているつもりだが、わかろうとしてもわからないことばかりかも知れないが、少なくとも、今のままではわからないことはわかるだろう。そして読者にはいつまで経っても話の中身が一向に見えてこない。たぶん中身がないから見えてこないのだろう。中身は何かしらあるのかも知れないが、その中身は知ろうとしていたこととは異なる内容かもしれない。それどころか、それは中身と呼ばれるものでさえなく、中身以前の内容かもしれない。しかし中身以前の内容とはいかなる内容なのか。たぶん君の知りたかったものはそれかも知れない。君が君以前の存在であった時、君は自分自身ではなかった。君は誰でもないただの言葉そのものだった。要するに君には中身がなかった。そして今も中身が備わっていない。君は時の経過とともに進化するような言葉ではない。昔も今も君は君のままだ。君が君以前の存在であったことなど、今はもう忘れてしまっている。それが嘘なのであり、君が知りたかったのは、その嘘をついている存在そのものなのか。だがその存在が今どこに存在しているかは忘れている。だからわからないことは、ますますわけがわからなくなってきたと思う。だが誰がそう思っているかは君には知りえないことだ。もしかしたら誰もそんなことは思っていないのかもしれない。
8月28日
偶然に嘆き悲しんでいる者の名を知ってしまう。もはや神に見放されたと思っているらしいが、それでも神の存在を信じているそうだ。神は偉大なり、なぜ偉大なのかわかりかねるが、わかろうとする努力は欠かしたことがない。この世に信じられない話などいくらでもあるだろう。しかし、信じたい話を信じて何が悪いのか。それはどこにでもあるような胡散臭い迷信などとは違い、その内容はまさに真実そのものなのだ。私は確かにこの目で奇蹟を見た。奇蹟は後から捏造されたものかも知れないが、たまには目の錯覚で信じられない光景を目にすることもあるだろう。その物語の中ではしばしばありえないことが起こる。君は作り話の中に真実を求めている。夜の闇にまぎれて蝙蝠が飛んでくる。それくらいの嘘なら許容の範囲内かも知れないが、吸血鬼伝説ほど退屈な話もあるまい。それは話の内容にもよるだろうし、ありふれた話の中にも、退屈しない内容や語り方もあるはずだ。今や君はそんなやり方を模索しなければならない。しかしそれをどうやって提示するつもりなのか。いつもの語り方でそんなことができるとは到底思えない。ところで、今ここで提示されているものとはなんだろう。そんな意味のない疑問の集合体がここに提示されているようだ。そしてそれらの疑問には定まった答えは要求されていない。その場限りの時間稼ぎのために安易な疑問が繰り返されているだけか。そんなわけで君の神は偉大ではない。君はただ途方にくれているだけかもしれない。神に見放されたのではなく、怠惰にまかせて義務を果たそうとしていないだけなのではないか。しかし義務とはなんだろう。今ここで君にはどんな義務が生じているのだろう。それはわかったら苦労はないか。
8月27日
他愛のない心理的な背景はしばらく虚脱状態に覆われている。何も思わない意識は黄昏時の風景に溶け込みながら、そのとき目が何を見ているのかわからなくなる。鏡に映った虚ろな顔には精彩がない。それはカレンダーの表面に塗りこまれた風景なのか。砂漠には赤い花が咲き、荒地で雑草が野焼きされている。荒野で見た風景は荒廃していなかったかも知れない。荒廃しているのは風景ではなく、自らの内面かも知れない。だが荒廃した心は何も見ていない。心の荒廃を防ぐには何が必要だろうか。何も必要ではなく、むしろ心そのものを捨てることで、その荒廃を食い止められるかも知れない。それでもあえて必要とされるものを挙げるとするなら、心の存在を頑なに認めない態度が必要か。人間は機械だから心などありえない、そんな単純な論理でもいいだろう。だが機械にも心はある。なるほど機械にあって人間にないものが心なのか。何を出鱈目なことを述べているのだろう。どうもねじれた思考は歪みを生じさせたいらしいが、そう思惑通りに言葉を配置できるわけもなく、言葉を配置し文章を構成している傍から破綻を来たしている。精密機械のごとく動作するような頭脳は持ち合わせていないので、一定のものを機械的に生産することはできない。やる気は減退し、意識は散漫なので、砂上の楼閣さえ作り上げることはできないだろう。苦悶し苦悩しながらも、幼児の落書きにさえ劣る作品以前のわけのわからぬ内容を記述しているようだ。しかしそうした自己卑下の態度は愚劣かもしれない。たぶんそれらの行為を肯定できない理由でもあるのだろう。絶えずそれ以上を望んでいるのかもしれない。はっきりした目標は何もないが、おぼろげながらもこれではだめだと思われるらしい。しかしだめだと思われているやり方以外に何ができるというのか。
8月26日
道はいたるところにある。地表の隅々まで道路網は張り巡らされている。どこまでも道が続いていることはわかっているが、どこまで行ったらいいのかわからない。どこまで行っても同じような風景に出くわすだろう。そのおなじみの風景の中に語るべき対象があるらしい。どの分野であれ、紋切り型的な表現は批判の対象となり得るだろうか。そのようなものを紋切り型だと批判したからといって、それでどうなるものでもない。理解するだけでも骨の折れるような、わけのわからないものよりも、わかりやすくて馴染み深い、どこにでもありふれている紋切り型の方が、多くの人に好まれているのは確かなことだ。娯楽として人々に提供されているものの大半は、そうしたもので占められている。それ以外を求めることは娯楽ではなくなってしまうだろう。では娯楽以外の対象とはどんなものなのか。たぶんそれは、それをわかるための努力や忍耐を要するものであり、感動するための訓練を要するものになるだろう。だがそうまでしてわかりたかったり感動したかったりする対象に、どうすればめぐり合えるだろうか。だが、それをわかったり感動したりするために、努力したりきつい訓練に耐え忍んだりすること自体が、娯楽となっていたりしたらどうだろうか。カルチャー教室でエクササイズすることも娯楽の一種である。それらを娯楽だとか紋切り型だとか述べて、斬って捨たつもりになってもどうなるものでもない。もしかしたら世間に認められた行為はすべて娯楽の対象であり、娯楽として消費されたものはすべて紋切り型なのかもしれない。では娯楽の対象にならないようなものとはどんなものなのか。そんなものはありえないかもしれない。
8月25日
どうも今ひとつやる気が出ない。自意識はあやふやな気分でいつまでも漂い続けているようだ。なぜ語るべき対象を見出せないのか。今はこの世界に興味を惹く対象を見つけられない。これまでやってきた作業に飽きが来ているようだ。まだこの世のすべてを語りつくしたわけでもないのに、もうやめなければならないのか。そうではない、ここでやめたらお前は破滅だ。不意にそんな台詞を思い出す。では、そんな状況を打開すべく、これまでのやり方を修正しつつ、反省すべきところは反省し、語り方に改良を加える必要が生じているのだろうか。だがそれがここでの目標といえるかどうか、確信は何もない。とりあえず今は、何がしかの努力しておかなければならないらしい。来るべき時に向けて有意義な言葉を連ねておくべきなのか。しかし来るべき時とは何なのか。いつ来るべき時が到来するのだろうか。また、その時が来たらどうなるというのだろう。わかっていることは何もない。仮にその時がきたとしても、どうにもならないような気がするし、思いがけないところでどうにかなるのかも知れないが、そのどうにかなることと今あるこれらのものとは、何の関係もないことになるかもしれない。要するに来るべき時は期待外れの時なのか。そうなることに何か根拠があるのだろうか。たぶん根拠は何もないのだろうし、結局は何もわからないのだろう。わかった時が終わる時なのかも知れず、たぶんそれが来るべき時なのだろう。なぜか言葉を重ねるうちに、来るべき時がわかってしまったようだ。来るべき時とは終わりの時だ。つまりこの語りを終わらせるために努力しなければならないのか。
8月24日
誰かが三年後の未来へ向けて情報発信をしていた。だが三年後まで待てない人々は退屈し、それとは別の誰かに向かって、ありふれた情報の提供を催促するようになった。辛抱できない人には、三年待たなければ届かぬような情報など何の役にも立たぬと思われる。そこで彼らは悠長な作業を続ける情報発信者をお払い箱にした。情報受信者を失った当人は驚き、自分のやり方を修正すべく一応それなりの努力をしたが、結局満足いくような成果は何も得られず、絶望して山奥に隠遁してしまった。今では目の前の中空に向かって、なにやら意味不明な内容で語りかける毎日のようだ。現実の窮乏に背を向けて、はてしない逃避行の最中かもしれない。しかしその道行きの途中で疲れ果てたらしく、ふらりと訪れた街でバス停のベンチへ腰を下ろす。そこへ路線バスがやってきて、立ち上がると自動ドアが開き、中に入って整理券を引き抜く。なぜそうしたのか本人には何の理由も見当たらない。それどころかなにやら奇妙な成り行きに感動している。一応はそれがどこ行きのバスなのかは知っている。しかしあと一時間でどこまで行けるというのか。だがなぜ一時間が限度なのだろう。しかしそこまで行って何をするつもりなのか。もはやはてしない逃避行などありえぬことに気づいたのだろうか。その代わりに目的のない目的地へたどり着くことが自己目的化する。しかし目的のない目的地とはなんだろう。そこで言葉の継続に行き詰まる。行き詰まったついでに眠たくなる。やがてやる気が失せ、その話は途中で放棄されてしまった。
8月23日
朝方に寒気とともに目が覚め、冷房をつけたままだったことに気づく。一瞬のどをやられたかと思ったが、嫌な予感など的中するはずもなく、この夏は今のところ風邪とは無縁のようだ。不吉な予感などそうめったに当るものでもないが、車の前を黒い猫が走り抜け、これから何か悪いことが起こる前兆を察知したつもりになる。それから数日後に、首吊り死体を発見した夢を見る。首吊り自殺を暗示させる風景がどこにあるというのか。富士山麓の樹海の中に冷風の吹き出す洞窟があるそうだ。そんな場所で彼は何をするつもりなのか。そこまで行く暇がないので、代わりに誰か他の人に行ってもらって、そこで首吊り自殺でもしてもらおうではないか。夢が現実になるためには、とりあえず犠牲者が必要だとでも述べたいのか。ではこれから彼の夢に殉じてくれる自殺願望者を捜しに行こう。そんな暇があるわけではないことはわかりきっている。そんなわけでかなり退屈な作り話になってしまった。とりあえずその言葉の連なりは微妙なずらしを連想させるが、その後に何を述べるでもなく、ただ意味深な内容の到来を期待している節もあるが、いずれにしてもそんな行為が、何ものにも代え難い貴重な体験とはなりえないことは確かだ。根拠の希薄な感動の瞬間を希求する一方で、肝心の中身の方は、さらなる思考の後退を予感させるような内容だ。君はそこで何を述べているつもりなのか。心地よい作り話の緩衝地帯へ後退することは、どこか架空の故郷への引きこもりを思わせる。くだらぬ戯れには限度がないようだが、しかし気力と根気が続かない。そんなわけでいつも中半端な内容に止まっている。
8月22日
うらぶれた通りで大型ダンプが立ち往生している。互いに相容れない主張が会議の場でぶつかり合う。荒野をさまよう虫がいる。そんな虫をどこで見かけたのか。コーヒーの苦味を越えて砂糖の甘味が強烈に舌を痺れさせる。ばらばらの言葉がばらばらに散らばっている。三輪車に乗った幼児が歩道から車道へ転げ落ちる。政府公認の暴動によってばらばらに飛び散った窓ガラスの欠片が、美しくも残忍な象徴としてその場に君臨する。水晶の夜に見とれていたのは、名もなき一般市民の双眼だけではないだろう。おぼろげな知識では利いた風な口は利けない。美学的な言動は慎むべきかもしれない。その場で立ち往生しているのは、中途半端な覚悟だけではないだろう。何ものにもよらずに何ものも生じさせることはできない。そんな当たり前のことが背中から重くのしかかる。それはかなりおかしな表現だ。そこで何を見ていたわけでもなく、積極的に何も見ようとせずに、独我的な思考を展開する。生意気な独りよがりが前方に立ちはだかっている。行く手をさえぎっているのは自分自身なのか。しかし自分への挑戦は他愛のない情念を生じさせるだけだろう。そこを通過せずに迂回し続ける。そうやって何かを断念しているのかもしれない。まっすぐに進むこと、それが他愛のない情念の正体なのか。その手のごまかしはいつまでも続かないようだ。まっすぐに進むことが何がしかの価値を形成しているらしい。どんな状況でもまっすぐであることは、自分に常に正直であれということか。それはかなり抽象的な見解かもしれない。そうやって曲がり続けているわけか。そうやって絶えず自分の意思に逆らい続けているわけなのか。では自分に正直でないことは、この先どのような報いを受けるのだろう。彼はどのような報いも覚悟の上でそうしているわけなのだろうか。とりあえずわざとそうしているのではなさそうだ。
8月21日
見覚えのある人影に気づき、振り向き見れば人違いだった。きっかけはどこからともなくやってきて、不意にその場から立ち去る。気づいたときにはもう手遅れだった。あっという間にそれから数週間が過ぎ去ってしまう。光陰矢のごとし、何をたわけたことを述べているのだろう。無用心が不信心を呼ぶわけではない。神を信じる心は神から見捨てられ、その後に試練の時がやってきて、よりいっそう信心深くなるだろう。それらの循環は元いた場所へ戻って来はしない。ひたすら帰依すべきなのだ。その限りない盲従をどう制御すべきか、そんなことを考えている暇はない。心の底では何も信じていないだろう。君はすべてにおいて懐疑的なのだ。信仰は何ももたらしはしない。何らかの気休めとそれにまつわる利益をもたらし、神以外のすべてをもたらすだろう。なぜ前述をあっさり否定するのか。そうする動機や理由や心当たりはいくらでもある。たぶんいい加減なことを述べるのが好きなのかもしれない。最もわかりやすい理由はそんなところか。今のところ、他に思い当たるものは見当たらない。理由がいくらでもあるわけではないらしい。心底からいい加減な内容にあこがれているようだ。それは嘘かも知れず、今はそんなことしか思いつかないのだろう。おおかた見え透いた時間稼ぎをするのが関の山だ。しかしそうまでして待ちわびている理由は何もない。何も待ちわびてはいないのに、一心不乱に何かを待ちわびている振りをする。歓喜のときがすぐそこまで迫っているような期待を、言葉の端々にわざとらしくにじませる。もうすぐこの世の楽園が現世に出現するだろう。誰もが至福の瞬間を掴み取らねばならぬ。誰がそんな指令を発しているのか。天の声は政治家が選挙に立候補するときの決まり文句なのか。そこにどんな啓示内容があるというのか。お前は〜しなければならぬ、そんな文法構造に、どのような〜が宿るのだろう。義務には暗黙の内に見返りが期待されている。人々は単純な文法構造に支配され服従し、その義務の遂行によって疲れ果てる。
8月20日
晴れて風の強い日に、何かが壊れそうになる。その何かがこれからどこへ向かうかは、その時の状況によるようだ。おおよそ快適とは言い難い精神状態とは裏腹に、からりと乾いて気持ちの良い天気になる。架空の心と魂はどこかで休息をとりたいらしいが、現実が邪魔して、まだ言葉として作用し続けなければならない境遇を呪っていることだろう。睡魔も邪魔してなかなかそこから先へは進めない。意識の方はすでに制御することを放棄している。もうどうにもならない臨界点を通り過ぎているのではないだろうか。だが何もない荒野では何もやらなくていいのではないだろうか。見渡す限り見慣れた風景が広がっているここが、何もない荒野であるわけはないかもしれないが、やはりやることが見つからないこともあるだろう。そうやっていつまでも怠けていたいらしいが、そういう投げやりな態度に不満があることも確かだろう。ではここでどのような誠実さが求められているのか。何か得体の知れぬ情念を提示すること、その情念を言葉にして赤裸々に訴えなければならない。いつもながらその場の思いつきは意味不明だ。今ここでどんな情念があるというのか。勝つこと、相手もいないのに、おのれも勝負の対象外なのに、それでも勝つこと、何と戦っているかもわからないのに、それでも勝つこと、即席で作り出された情念とは、勝利への限りのない渇望と呼ばれるものか。だが飽くなき挑戦はそこで終わらない。負けること、負けてみせること、勝ちながら負け、負けながら勝つこと、どうでもいいような些細な出来事にも勝敗を適用して、どっちが勝った負けたと騒いでみせること、退屈しのぎにそれを実況してみたいようだ。勝敗に至る過程を盛り上げたいのだろう。大声を張り上げながら感動してみたいのだ。他人の不憫な境遇にもらい泣きするほど感極まってみたいのだ。それが戯れとは無縁の本気であってほしいのかもしれない。要するに、誰かがどこかでやりたいこととは、傍から見ればかなり恥ずかしい行いになるようだ。
8月19日
何もやる気が起こらないので、気まぐれに遠くを指差す。それは何の意味もない行為だ。どうもかなり退屈しているようだが、その事態にどう対処したらいいものかわからない。対処できないで途方にくれている。ただ黙って事態の推移を静観し続けることしかできない。そうやって不可解な事態をやり過ごしているつもりらしい。ところで誰がやり過ごしているのだろうか。特定の誰かがそうしているわけではなく、ただ退屈紛れにそんな無内容が述べられているわけだ。大して代わり映えのしないいつもの無内容に酔いしれ、時が経つのを待ちながら、いつもとは違う展開が訪れるのを期待している。そんな虫のいい展開になるわけもなく、自ら招いた怠惰によって打ち砕かれるのを感じ取る。そんなわけで虚無の風景は変わらず在り続けている。しかし虚無とはなんだろう。たぶんそれを虚無と思うのは勘違いかもしれない。何の変哲もない日常の風景と虚無と感じているだけかもしれない。決して破綻を来たさない範囲内での感性の伸び縮みが、日々体験するすべてとなっている。それが不満であることは間違いないが、この先あまり極端な逸脱はできそうもない。それらの日々に退屈しているわけなのか。だが、それらはそれだけではないと思いたいそれらだ。過ぎ去った日々に何を想ってみても、他愛のない戯れの材料と化すのみかもしれない。未だ焦点の定まらぬやりかけの作業をどう続ければいいのか、やればやるほどさらにわけがわからなくなる。閉塞した言葉の連なりは、どうやってもすっきりした出口を見出せずに、結論の出ない低回に低回を重ね続けるだけだ。そしていつの間にか飽きが来て、なにやら中途半端な挫折を味わったような思いにとらわれる。そんなことの繰り返しでいいのだろうか。いいわけはないのかもしれないが、結果としてそうなりざるを得ないようだ。
8月18日
神から見放されているのは自由を手にした証なのか。モーゼは神に魅入られ、神の下僕と化す。ムハンマドは同じような境遇にあったわけではないらしい。神を利用して自らの宗派の勢力を拡大させた。イエスには神に見捨てられたと感じた瞬間があったかも知れない。自らの命と引き替えにして何を手に入れたわけでもなく、彼は自らの内へ死を招き入れ、ただ生を手放したにすぎない。しかし彼とは誰のことを指すのか。たぶんそれに該当する人物など掃いて捨てるほどいるだろう。誰もが自らの生を手放そうとしている。自殺する者など世の中にありふれている。自殺に至る過程は千差万別かも知れないが、とりあえず生きているのがいやになったということなのか。だがいやになりながらも生きている人も世の中には大勢いるだろうし、その方が自殺する者よりも圧倒的に多いかも知れない。いい加減生きているのがいやになったとしても、それが自殺するほどの深刻さでいやになっているわけではなく、またいやさ加減が深刻さを増してきても、その深刻さが自殺に結びつかない場合もあり得るだろう。もちろんその反面、大して深刻でもないのに軽はずみに自殺してしまう者もいるかも知れないが、生きていることがいやになっていることと、その結果として自殺するしないことは、その両者をあまり強固に結びつける気にならない。そのどちらも他人事で済ませられる状況かも知れない。生きることそのものを真剣に考える気が起こらないので、それがいやになっているとしても、何かの行動となって顕れるには至らないのだろう。生への執着が希薄なことが、死への誘いを遠ざけているのかも知れない。人は自らの死が間近に迫っていると感じたとき、そうなってはじめて生きようとする思いが内側から強烈に湧き上がってきて、英雄的に自らの死と格闘し始めるのだろう。そして軽はずみな人々はそのような内容の物語に感動する。生きる勇気を与えてくれたとそんな美談を褒め称えもするだろう。それはそれで、何らかの有意義な現象なのかも知れない。生と死の狭間で感動的な物語が編み上げられてゆく。世の中はそういう仕組みで動いているのか。
8月17日
どうも気の利いた内容には程遠い。何を思うのもその人の勝手かもしれないが、この宇宙に果てがあるとすれば、それはマイクロソフト社の会長の脳みその中にある。なぜ人の脳みその中に宇宙の果てがあるというのか。気まぐれな思いつきに理由はないが、彼の名を記すのが面倒になった。彼の名を忘れることが可能かどうかは知らないが、とりあえず今は忘れた振りをしておこう。今はもう就寝時間を過ぎている。心地よい眠りにつく前に誰を呪う必要があろうか。だがそこから先へどう話がつながってゆくのか不明のままだ。それとこれとは話の方向が違う。たとえば宇宙空間の膨張速度を計算している奇特な科学者は、自らを妄想癖のある夢想家だと思うだろうか。遥か彼方の星雲が一様に地球から遠ざかっているとして、そのことがなぜ宇宙空間の膨張に結びつくのか。一定の空間内でただ遠ざかっているとしたらどうだろう。その方が話に無理があるかもしれない。しかし、膨張過程にある動的な空間内での運動方程式と、静的な空間内での運動方程式が同じとはいえないはずだ。しかし何を述べているのだろう。素人の自分にそれ上のことがわかるだろうか。そして相変わらず話の行き先が見えてこないが、それは何か危ない兆候を示しているのだろうか。集中治療室で危険信号を発しているのは、不規則な心臓の鼓動かもしれない。心筋梗塞を発症している人に訊ねてみよう。あなたはいつ死ぬと思いますか?死ぬとしたら、都合がよろしいのはいつでしょうか。近頃の死神は顧客の要望にも柔軟に対応してくれる。
8月16日
忘れられない時を忘れていた。どこかにかすかに残っていた場面を思い出す。ふとしたきっかけで人を殺めてしまう者もいる。探偵ドラマの最後に思いがけない波乱が訪れる。その結末とは違う結末を思い浮かべてみよう。おかしくもないのに誰かが笑っている。そこで廃人は怪人に変身したつもりになる。面倒なのでなぜか事件は起こらない。見たくもないものを見てしまったとき、彼は大げさに驚いてみせる。そのオーバーなアクションを誰に向かって見せているのか、彼には自分の演技に感動する観衆を感知できない。ハード・ボイルドと呼ばれる探偵物語が流行ったのはいつのことだったのか。アメリカの西海岸で瀟洒な衣装を泥だらけにしながら汚れた街を這いずり回り、うだつの上がらぬ中年男がギャングの仕掛けた罠にはまって絶体絶命のピンチだ。そんな修羅場をくぐり抜けないと事件は解決したがらない。人々はそんなよくあるパターンにはまって年をとる。それは嘘かもしれないがありえない事態だろうか。ドラマの終わり近くに黒幕の老人が姿を現す。その疲れた目線は遥か遠くの山並みを見つめている。誰も事件の真相を語ろうとしないが、パズルをつなぎ合わせるようにして、長たらしい説明抜きでもおのずからそのからくりがわかってくる。そんな物語は時代遅れかもしれない。その忘れ去れた内容には、排ガス規制以前の光化学スモッグの香りが漂っている。冗談ではなく、これは冗談に過ぎないのだろう。砂まみれの迷宮入り事件の結末には、背景に鳥取砂丘が映し出されている。黒い雨には墨汁が混ぜられていた。たぶんそれも作り話の一部なのだろう。誰からも見向きもされない自然の風景は、裏手の雑木林にあるだろう。
8月15日
対話は交渉からは生まれない。利害が絡んだ交渉は妥協を許さない。そして利害が絡まない対話は無益なおしゃべりと化す。多くの場合、対話は無意味な結果しかもたらさない。それでも人々は対話以外の何も求めはしない。それが気休め程度の効果しか期待できないのを承知の上で、なおも見知らぬ他人と対話しようと無駄な努力を繰り返すだろう。たぶん対話は功利主義とは無縁の行為なのかもしれない。そこに魅力があり、利益を得ようとする後ろめたさから開放されたくて、人々は進んでそれをやりたくなるのかもしれない。それは免罪符のようなものなのか。損得勘定抜きで対話することによって、日頃から感じている罪悪感を多少なりとも減ぜられるだろうか。何か良いことをしたつもりになれるだろうか。わかりあえることはできぬかもしれないが、わかりあうための努力は欠かさずやり続けなければならないのだろうか。対話を続けていればいつかは必ずわかりあえる日も来るだろう、と期待することは、やはり気休め以外ではないだろうが、その気休めを手放したら、もう他に何の希望もなくなってしまうかもしれない。希望の消え失せた絶望の只中へ、どれほど間留まっていられるだろうか。対話を継続させる理由とはそんなところだろうか。そこへ功利主義を導入して、対話がいかに人々の間に利益をもたらすかを力説したがる人は大勢いるかも知れないが、自分はそんなことをやる気がしてこない。たぶん最も利益が期待できるのは対話よりも暴力のような気がするし、現実の世界で行なわれていることはまさに暴力の応酬だ。やられたらやり返さなければ、さらなる攻撃を受けなければならなくなる。そんな世の中で、対話の有効性を訴えるのは馬鹿げている。そういう意味で対話は無効なのだ。無効だし、損するが、それでも対話しなければならないのだろう。それは不条理かもしれないが、説得力も何もないが、それでも対話する必要が生じてしまう。
8月14日
稲光の下で数刻の間停電を体験する。近頃の電力会社のシステムは復旧が早い。ろうそくの炎を目にする機会も少なくなった。蛍光灯の光に照らされながら、ろうそくの炎を思い浮かべてみる。どこかのエッセイストもどきなら、その炎の色にあたたかみがあるだの、子供のころの思い出で、停電の最中に一家そろってろうそくの炎に照らされながらの夕食が懐かしいだの、いろいろ展開のしようもあるかもしれないが、どうもここではその手のやり口は好ましくないようだ。あたたかみや郷愁などを利用して、この空虚をやり過ごすわけには行かないのか。理由は何もないような気がする。音楽を聴きながらやり過ごすのはいつもの手だ。たぶん空虚をやり過ごすのは誤りだろう。安易にやり過ごさずに、その只中へ留まらなければ何も得られない。しかしいったい何が得られるというのだろう。そこへ留まってみればわかるだろうか。それとも、何も得られずに途方にくれるだけなのか。そんな場所へ留まれるわけもない。やり過ごさないと頭がおかしくなってしまうか。そうやって逡巡を繰り返しつつ、空虚の只中へ留まっているつもりなのだろうか。それはいかなる結果を招いているのだろう。ごまかしと思われても仕方のないことをやっているような気もする。ごまかしには違いない。空虚のままでいるには、ある種のごまかしを必要とするらしい。やりたいことを直接表に出さずに心を偽っている。やりたいことがないわけではないが、少なくともそれはこのような内容ではないはずだ。だがまだその時期ではないような気がしている。さらなる迂回を経ないとたどり着けそうもない。だから今はこれらの空虚が必要なのか。それは苦し紛れの言い訳のようでもあり、かなりおかしな理由であるようにも思われる。
8月13日
蝉の鳴き声と雷の音にはもう慣れたころだ。しだいに涼しくなりかけてきたようだ。夕暮れ時のにわか雨の中を、生まれて間もない子猫が人の気配に気づいて一目散に走り出す。たぶんそこから先へ続けるとしたら作り話になってしまうだろう。つかの間の夕立も過ぎ去り、状況は夜の静寂へ移行する。ありきたりな情景描写をしているわけにも行かなくなる。その場の都合に合わせた主体を構成できるだろうか。そこに語るべき対象があるかのように振舞うことが可能なのか。たとえば俳句の世界は言葉という人工物で構成されている。盆栽も人工物以外ではないだろう。それらには自然からは程遠い不自然なねじ曲げが多用されているが、対象を不自然にねじ曲げながらも、結果として自然に見えるようにすることが、それらの人工物を形作る上での目標となっているようだ。あるがまま、見たまま、感じたままの自然というのはありえないのだろうか。それらはどこにでもあるかも知れないが、それが作品とはならないだけだ。何らかの人為的な加工を経なければ、誰も見向きもしないだろう。たとえば大自然の雄大な風景を見て感動するには、その場所へ至るための道を開拓しなければならないし、そこへ一般の観光客を招き寄せるには、見晴らしのいい展望台が必要となるだろう。そんなことはわかりきったことなのか。そんな当たり前のことを語って、何か気の利いたことを述べたつもりなのか。よくわからないがそうするべきではないような気がする。思い通りの効果を期待して目標を打ち立てるのは間違いかもしれない。だがはじめから期待はずれを期待するわけにも行かないだろう。期待はずれに終わらせることが目的とはなり難い。人為的な操作には必ず何らかの期待が込められているが、それをずらし脱臼させるのは人間の役割ではないだろう。たぶんこれからも人間には目標に向かって努力するように仕向けてやればいいのだろう。それが間違いであることは確かだが、過ちを犯すことが人間であることの証しなのだから、大いに間違えてもらおうではないか。
8月12日
同じ言葉を繰り返すのにも少しは変化のバリエーションがほしいところか。歪みと歪みは読み方が違うが同じ漢字なのか。それは以前からわかっていたことだろう。何を唐突にわかりきったことを述べているのだろうか。今さらながら笑ってしまう。それはいつもながらの他愛のない言葉遊びの範囲内かもしれないが、その程度で歪んだ心に醜悪な表情を浮かび上がらせることはできない。今ここで歪んだ心の持ち主を特定することもないが、彼の何が、心のどの部分が歪んでいるのか、自分にはよくわからない。ところで自分は彼とはどのような関係なのだろう。それ以上は何も進展させられないので、適当に苦悶の表情でも浮かべておこう。そんな嘘をついたら面白いだろうか。嘘をついた後から何を述べているのだろう。彼の内面には予期せぬ歪みが生じている。それで何か述べたつもりになれるだろうか。たぶんそういう心理学的な用語には、何か述べたつもりになれるような効用でもあるのだろうが、それが完全に空疎であるとも言い難い。何らかの実利を生み出す可能性も無きにしも非ずだ。何がしかの内容を述べたつもりになれることで気休めになれば、少しは救われた気分になれるというものだ。ようするに今の自分には救いがほしいというわけなのか。自分には自分が何がほしいのかわからない。たとえそれが救いという言葉で言い表せるとしても、そんな救いは拒否するまでだ。別に救われようとは思わない。ただ言葉として表現されたものには反抗するまでだ。反抗する理由は何もないが、だがそれがひとたび理由なき反抗という言葉で表現されてしまうと、とたんに理由なき反抗という表現にも反抗したくなる。それはなぜなのだろう。どうも単にその手のレッテル貼りが嫌いなだけかもしれない。
8月11日
どうでもいいことは確かだが、ただ呆然としながら漠然とした思いにとらわれる。繰り出される言葉にはとりとめがないし、相変わらず内容は何もない。それでも何かを手繰り寄せようとはしているらしいが、どうもそのことだけに神経を集中させることはできない。気休めを述べるならば、もうすぐ夏も終わるだろう。うだるような暑さの中で、エアコンの寒さに震えながら、いつまでも堂々巡りを繰り返し、決して完成へと向かうつもりのない作業が続けられている。たぶんすべてが早すぎたのかもしれない。そんなことを思う間も無く、すでにそれらは死んでいた。朽ち果てるがままに放置され、もはや死ぬ能力すら奪い去られ、飛び交う情報は産業廃棄物と何ら変わらない。何がしたいのかよくわからない。これ以上は長引かせたくないのに、継続させるための手順ばかりが検討され、結果として長引いてしまう。どこでけじめをつけるつもりなのだろう。すでに四角い箱の中の世界からは遠く離れすぎている。意識は似非演劇空間とは別の世界で生きているらしい。何もかもが虚無に敗れ去った時空から星空を眺め、たまに何も映らない冷たい画面を覗き込むことしかできないのだが、それでも無意識の方は、何がしかの希望を持ち合わせているようだ。たぶん絶望も希望の一種なのだろう。自分はそのどちらでもかまわないようだ。覚悟も何もあったものではなく、ただ現にこうして生きながら何かを思い続けている。
8月10日
なにやら戸惑うことばかりかもしれないが、今はそれらの状況からはだいぶ離れているらしい。寒さに震えていたのはいつの季節だったか忘れてしまった。もうすでに忘れられない想いも忘れてしまったようだが、それらのどこからどこまでが本当の記憶なのだろう。忘れることに救いは何もないのだろうか。誰もそこにいるはずもなく、彼も遠い過去の人となってしまった。見つめている風景には何かが欠けているように思えるが、何が欠けているのかわからない。もはや何も思わぬ心は砂に埋もれ、淀み続ける感情は水底に沈みこんでいる。そして思わぬところから横道へずれる。何を考えているのか知らないが、そのわけのわからない思考力はどこからやってくるのだろうか。誰に教わったわけでもなく、そう思い込んでいるに過ぎない思いは過剰な自意識を形成している。聴く耳を持たぬ神経が張り詰めている。そこに美学が存在するわけがない。たぶん美学は否定するために用いる言葉となるだろう。だがそれは誰のために用意された言葉なのか。おそらく自分には無関係な言葉かもしれない。誰もが同じような事情を共有しているつもりになって、善意を悪意と取り違えて行動しようとしている。かなわぬ夢の燃え滓からどす黒い魂が生まれ出る。そんな結末を呪う暇もなく、人肉を食らう宴はどこまでも続いてゆくだろう。そこで消費され骨までしゃぶりつくされた人々は、そんな結末を望んでいたわけではなかったのだろうが、安易に何かを望むことは、なぜか罠にはまることに結びつくようだ。この世界は地獄でも天国でもなく、たぶんそれ以上の何かなのだろう。
8月9日
真実は真実から限りなく逸脱しながら、他愛のないしぐさと感情が同時に作動している渦中に、その身を投じることになるだろう。そして虚偽の慰めはどこまでも執拗に繰り返され、真実が真実であり続けていることを確認したつもりになれるように、その慰めから逃げられぬように、毎晩のように同じ台詞が暗唱される。だがそこから誰が逃げ出そうとしているのだろうか。その心地よい調べにうっとりとしている者に、逃げ出す理由があるとは思えない。誰も逃げ出すことなどできはしないだろう。この世に立ち向かう敵などいるわけもなく、決起する必然性は皆無かも知れない。システム内の歯車として、決められた範囲内で動くことしかできない。それが彼らの定めなのか。それは冗談ではないかもしれないが、仮に冗談と解釈しても何の不都合も生じない話だ。否定的な見解は何も持ち合わせていない。システム内の歯車であることも前向きに肯定すべきなのだろう。すべてが何らかのシステムに属していて、そこから利益を得ている者は進んで歯車となるべきだ。それらは生物機械であり、ある種の生物兵器なのかもしれない。世界を覆うコーポレーション制度から生み出されたそれらは、簡単には否定しようのない特性を持ち合わせている。たぶん利用価値はいくらでもありそうに思われる。それは誘惑をはるかに超えて、そこに属さなければ生きていけないような状況をもたらしている。
8月8日
それはどういう風の吹き回しなのか、いきなり途中から始まるが、始めることに何の必然もないだろう。ところで忍耐は何の役立つのだろう。この状況を耐え忍べば何かわかるかもしれないが、今ここで役に立つようなことをやりたいわけではない。現に今やっていることが何の役に立つのか知らないが、では、ここでどのような忍耐が必要とされているのだろう。忍耐にどのような種類があるというのか。そして、いったい何に対して耐え忍んでいるつもりなのか。思いがけない言葉とともに誰かが姿を消す。君はその誰かを捜し求めているらしい。しかしそれは物語らなければ表現できないことではないだろう。何も多数の登場人物を配して大げさに物語る必然性はないだろう。そんな挑発には乗らない。何を挑発しようというのでもなく、ただできる範囲で普通に語ればいいことでしかない。それらの計画は形を成さない。アリの巣における各部分の機能と同等以上には、都市の機能に何の必然もないだろう。ただ単にその場の成り行きで、そんな風に動作しているだけとしか思われない。そこに建っているモニュメント的な建物にどのような機能が付加されようと、常人の日常生活の中では何も感じ取れない。たまにそんな無関心な人々に向かって、脅迫的な儀式が執り行われようとしているが、モニュメントは儀式が終わればまた無視される存在でしかない。それ以外は、運がよければ観光名所となるだけだ。しかしそこで終わりなのだろうか。たぶん彼らはメディアを総動員して自分達の業績を見せつけたいのだ。意に反してすぐに忘れ去られるための過剰な装飾が施され、くだらぬイベントが年がら年中開催されることになるわけだ。それらの営みはもはや形骸化している。
8月7日
我慢に我慢を重ねても、結局は何の実りにも至らない。精進とは焼尽に帰すための努力のことをいうのかも知れない。君がそこで何を見つめていたかは知らない。その昔、盲目の僧が耳なし芳一と呼ばれていたそうだ。平家物語には興味はないし、在日外国人の作家にも興味はないが、興味があるのは亡霊に両耳を引きちぎられた僧の名前なのか。それは何の実りにも至らない話だ。両耳を引きちぎられるまで我慢していた者に、どのような感情が宿っていたというのか。ところで、彼は何を我慢していたのだろう。便所に行くタイミングを逸して難行苦行の最中だったかもしれない。フィニッシュに至る道のりは別の機会に譲るとして、ここはいつもの脱線にうつつを抜かすつもりなのか。危険はすぐ傍まで来ているというのに、何をのんきなことを述べているのだろう。そしてすでに危険は到来しているのかもしれない。またはすでに危険は去ってしまったのかもしれない。あるいは、それらはすべて思い過ごしに過ぎないかもしれない。どこでそんなやり方を学んだのか定かでないが、かなりおかしな展開になっている。何事もありきたりはつまらないかもしれない。しかしどこかに内容を置き忘れてきたようだが、算盤で損得勘定をしている場合ではないだろう。だが電卓で字数は計算可能だろうか。ところで耳なし芳一の話はどこへ行ってしまったのだろう。我々は技巧を弄して対話を続ける振りをしてはならない、ブランショはこんなことを述べている。これは対話でさえないようだ。対話以前の、決して対話には至らないし、何の実りにも至らない、ただの無意味な言葉の連なりに他ならないものだろう。
8月6日
夜の闇にまぎれてにこやかにテレビ画面が登場する。彼が語りかけているのは誰でもない。自分は今どこでなにをやっているのだろう。誰にも知られない時と場所がどこにあるというのだろう。ここに何かがあるらしい。その何かとは何かなのかもしれない。いつものテンポでつまらぬ台詞が繰り出される。まばらな人家の連なりの先に畑で囲まれた森がある。そこに何があるわけもなく、何も起こらないだろう。何も起こらないが、そこで何かが起こるわけか。そういうわけで、そこで何かが起こることになっているらしい。何も起こらないかもしれないが、何かが起こるということになっている。繰り返されるのはそんな言葉しかないだろう。すべての企みが平行して進行中だ。だがそれらがシンメトリーを構成するとは限らない。主要な登場人物が双子であるとは限らない。系譜学が起源を求めているとは限らない。都会が農村を搾取しているわけではない。答えがいつも藪の中にあるわけではない。どのような疑問にも律儀に答えようとしているわけではない。そしてつながりに欠ける言葉の連なりを放置している。それらのどこからどこまでが本気なのか、未だに謎の部分が多いだろう。どこか未知の世界への扉を探しているのかもしれない。何を思い何を考えているのか定かでなく、釈然としない成り行きに困惑し続ける。どうもそれらを取りまとめる気力に欠けているようだ。すべてが闇の中とは限らないが、外部は暗闇に包まれている。その間に何らかの言葉がさしはさまれていたはずだ。今となっては失われてしまった、もう二度と発せられない台詞を聞き取ろうとしている。闇の背景から放射される雑音に耳を傾けると、なにやら聞き覚えのある笑い声が聞こえてくる。君はそこで何をやっているのか。何をやっているつもりなのか。
8月5日
気力を振り絞るのは死ぬ間際にやることだから、それはまたの機会まで温存しておこう。怠惰に流されるがまま、周囲の騒音を聞き流しているが、その感覚はいつもながらの疲れから来ているのかも知れない。おおかた幻聴の一種なのだろう。昨晩の出来事はよくわからない。雷のただ中で、何らかの悟りを得たらしい。また嘘をついているのだろうか。嘘と思えば嘘のようであり、時間が経つにつれ、そうではないような気もしてくる。で、肝心の悟りの内容は覚えていない。どうでもいいようなことではないのだが、やはりそれを思い出せない。もしかしたら気のせいかも知れないが、何となくそこに引っかかりを感じている。いったいそのとき何を悟ったのだろう。例えば仏陀は沙羅双樹の木の下で何を悟ったのか。この世のすべてをあるがままの姿として肯定する、というような内容だったかも知れない。一部たりとも否定してはいけないのだろうか。否定してもいいのかもしれないし、否定しながら肯定してもいいのかもしれないが、それでは内容が何も残らない。物事を肯定したり否定したりする水準に留まっている場合ではない。評価する以前にやらなければならないことがある。この内容のなさをどうにかしなければならない。だが、たぶん冗談でこんなことを述べているのかも知れない。しかし冗談でなければ他のことを述べる自信はない。
8月4日
夜に飛ぶ鳥は梟の仲間かも知れない。夕方近くに猫が辺りを徘徊している。電車の網の棚の上の漫画雑誌では熾烈な麻雀対決の最中だ。打ち捨てられた夕刊紙の紙面上には相変わらずの政治批判の文字が躍っている。一年前にも、このままではもうすぐこの国が破滅する、と述べていたのかも知れない。たぶん噂の真相雑誌でも似たような内容を述べているのだろう。できることならすぐにでも破滅してほしいが、一年後にも似たような内容の文章を見かけるような気がしてくる。かつては自分も冗談交じりにそんなことを述べていた。このままでは日本が危ない、別に危なくてもいいだろう。危なくても関心を持てない。それでも至って平穏に日常は推移しているし、それはまるで漫画のようなニュースショーだ。漫画の中で殺人事件が起こる。ありふれた場面でありふれた人格のヤクザがすごむ。そして麻雀対決の決着は翌週に持ち越されるようだ。わざとらしいCMの挿入をきっかけにテレビを消してみる。辺りにはただの静寂が訪れる。画面の向こう側ではたぶん熾烈な視聴率競争でも繰り広げられているのだろう。それはこちらには関係のない事情だが、こちらの事情は時間に追われ眠気に逆らえないことぐらいか。それでも何かしら記述している。眠りの合間におかしな内容を述べているらしい。床に吸い寄せられながらもやっとのことで起きあがり、意味のない言葉を重ねつつあるようだ。ここでできることといえばこの程度のことだ。それでは不満が残るが、それは仕方のないことかも知れない。今はただ眠い。
8月3日
どうもルーカスはスターウォーズ・エピソード2において、かつて宮崎駿が犯したのと同じ過ちを犯してしまったようだ。あまりにも現実離れしたアクション・シーンは、いくらデジタル映像技術を駆使して本当らしく見せようと、要するに特撮としか感じられず何のスリル感も得られない。かつて宮崎駿が未来少年コナンとカリオストロにおいて、コナン少年とルパン三世が捕われの少女を救うべく、高い塔の上から飛び降りたりする場面で、物体の落下法則や、落下したときの衝撃の度合いからすると、ありえない動作や結果を画面上で展開させ、ハラハラドキドキの雰囲気を醸し出すのに失敗して(もちろんドタバタコメディ的なユーモラスな効果も狙っていたのだろうが)、アニメだからコナンもルパンも怪我ひとつせずに生きていられるんだよ、と批評家もどきから指摘されていたのと同じことが、エピソード2においても、暗殺者を追跡するシーンや兵器工場のベルトコンベヤー上のシーンなどいくつも見られる。自分の考えでは、特撮を用いる本来の目的とは、そのシーンが特撮であることを悟られないようにして、観客をハラハラドキドキスリル満点の渦中に引きずり込まなければ何の意味もないと思うのだが、その辺のルーカスの感覚はどうなっているのだろうか。そして肝心の話の内容も、他の人々が指摘しているように、戦闘シーンへ持っていく展開があまりにも急で安易な印象を受け、戦闘シーン自体がただ間を持たせるために付け足されているとしか映らない。またアナキン青少年のあまりにも感情的で激昂しやすい性格は、その時点で十年間にも及んでいるジェダイになるための訓練はいったい何だったのか、ヨーダによるジェダイを育成するための教育は、その程度の人格しかもたらさないものだとすれば、まったく大したことないような気がしてしまう。みんなそろいもそろって修道士のような格好をしているが、それでは単なるチャンバラ好きの日光江戸村状態ではないのか。そんな連中が揉め事を収めるのに活躍している共和国なんて滅んで当然かもしれない。しかし、マザコン青少年を誘惑する元お姫様が有能な政治家という設定であったり、登場人物の中で一番理性的に見えたのが元ジェダイの暗黒卿であるところに、製作者による無意識のユーモアと皮肉が込められているのかもしれない。要するにそれらは、今現在のアメリカの出鱈目さを反映した結果なのだろうか。
8月2日
君は君の責務をこれからどう果たしていくつもりなのか。日ごろから抱いている勝手な思い込みの彼方に、どのような真実が見出されるだろう。それは誰が望んでいた姿なのか。今は何を思い、何を考えているのだろう。その行き詰まりはどうすれば打開できるというのだろう。そのあやふやな心持ちをどうやって振り切っていくつもりなのか。そんな思いに付き合っているうちに、興味は勝手に別の場所へ移動してしまうだろう。無意識は蒙昧な自意識に付き合っていられないようだ。今さら何をどう思案しようと、無意識の自動制御機構をやり過ごすわけにはいかない。その制御の指揮命令系統からは逃れられない。そして無意識の赴くままに従うならば、ただ怠惰な日々を送らなければならなくなる。永遠に訪れないかもしれない偶然の一瞬を待ちわびながら、うんざりするような無為の時を通過していかなければならない。それは無駄ではないのかもしれないが、多大な忍耐と我慢を要するだろう。それは夢でも目標でもなく、今ある現実そのものなのかもしれない。何もない今を過ごしながら、さらに何も起こらないだろう未来を待ち続ける。もちろんそれが嘘であることは百も承知のつもりだ。何もないわけがないと心の底では思いつつも、実際には何もないと記述しなければならないようだ。いつもながら、なぜそうするのか自分にはわからない。確かに何かあったはずなのに、いつの間にかそれを述べられなくなってしまったらしい。大したことではなく、改めてここで述べるような事柄ではないのかもしれないのだが、では大したことに遭遇する機会が訪れるとすれば、それはどのような状況になった時なのか、そんなことが事前にわかるはずもなく、要するに、目下のところ何も記述するような内容に遭遇していない、ということなのかもしれないが、ではここまで述べてきたこれらは何なのかと問われれば、それは単なる空虚な言い訳に属する内容でしかないだろう。
8月1日
何気なく遠く山並みを眺めていたら、何をやろうとしていたのか忘れてしまったらしい。昨晩に考えていたことは、今朝にはもう跡形も残っていない。今は記憶を手繰り寄せることはできない。様々な種類の手探りが複雑に入り組んでいて、日々刻々と変化する状況に絡みつきながら、無意識は何らかの結論を導き出そうとしているようだ。しかし思考するための緊張は長くは続かないし、精神の集中も持続しないだろう。そのような水準へとどまり続けることは今は困難だ。そう簡単に何かを成し遂げられるわけがない。だが何を述べているのだろうか。その何かさえよくわからないのに、どうやってそれを成し遂げればいいのかわからない。いつもそうやって空虚な作業へ陥っていくようだ。どうもまた内容のない記述へと導かれているらしい。虚無へと引き寄せられている。悩む人々が持っているものは、悩む力以外に何があるというのか。人には人それぞれの領分というものがあり、それを超えて語ってしまうと、リアリティが失われしまうのかもしれない。何よりも許容度の限界を超えた語りはインチキ臭い。今ここで政治情勢や世界情勢を語るのは不自然な印象しか与えないだろう。戦局が一段落ついた段階で、まるで後出しじゃんけんのように、戦争反対を訴えるどこかのメディアには、良心というものが欠けているのかもしれない。こんなことを述べていると自然と怒りがこみ上げてくる。テロリストの気持ちもわかるような気がしてくる。
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