彼の声31
2002年
7月31日
何か不吉な予兆でも感じ取ったのか、何もしていない時でも無意識は何かを感じているようだ。今は何も求めていないわけではないだろう。だが何もしていないことは確かなようだ。何もしないままに時は流れ、どこへもたどり着けずに、ただ辺り一面に漂い続ける。それは何の香りなのか、にわかには判別し難い雰囲気のまま、どこからかその匂いをかぎつけて、見知らぬ人影が背後から忍び寄る。そこで君はどう振舞えば納得するのか。誰も納得できぬ事態を招いたのは誰でもない。白髪頭の件の人に関してはもうあまり興味はない。子供じみた白髪の老人を非難するまでもない。その容姿には最近頓に衰えを感じる人も多いだろう。深夜の時間帯に離れ小島でつぶやくその台詞にも生気が感じられない。ところで、紋切型とは何か、例えば国民とは何か、それは三流政治家が考える問題になるだろうか。しかし何が三流で、どうやったら一流になれるのだろう、それが問題だったりするわけか。それは国民とは無関係な問題かもしれない。しかしそのような方向で述べてゆくと、どうもまたつまらぬ結果を招くような予感がするので、この辺でその方面の話題はやめておくとしよう。どこかの誰かが老齢であることの若さについて述べている。また別の誰かは、現状の貧しさをさしあたり肯定するそうだ。たぶん件の老人も、それらの文章を読めば少しはまともに物事を考えられるようになるだろうか。それとももうすでに手遅れなのか、今後の展開が楽しみに思えてくるだろうか。
7月30日
何気なく疑わしい想像力を思い浮かべてみる。もうかなり前から行き詰まっているらしい。この先どこまで行っても、話は平行線をたどるだろう。赤ん坊の如きぎこちない歩みには、どこかしら不可思議な雰囲気が宿っているかもしれないが、ムカデに刺されると激痛を覚えるそうだ。それがどれほどの痛みを伴うとしても、今更の再創造には魅力を感じない。そして相変わらず何を述べているかわからないのは、近頃のありがちな展開を予感させる。たぶん頭が壊れているからだろう。そこから見える緑色の空は、どこから眺めるとそう見えるのか、それはどのような原因によって生じる現象なのだろう。そして誰がこの不透明感を招いているというのか、誰に聞いても明確な答えは返ってこないだろう。規則正しい秩序だった世界を求める人々には関係のない話だ。彼らの希望がいかに決定的な失敗を招くのか、それは彼らの責任ではないのだろう。彼らは他人の人生を賛美しつつ、そのような行いを正当化したいらしいが、その行為には魅力を感じないし、必死になって何かを守ろうとする、そのしぐさがわざとらしい。懸命さが失笑を買うようではしらけてしまう。それが何を批判することになるのかわからないが、あらゆる政治運動が欺瞞に基づいていることのどこに問題があるのだろう。ところで欺瞞とは何だろう。政治家が嘘つきであることのどこが問題なのだろう。そこに責任が存在する余地がまだ残っているだろうか。ゲームに参加している以上、なんらかの責任を引き受ける度胸がまだあるのだろうか。
7月29日
通常の神経の持ち主ならば、望んでいる結果を手にするために努力を惜しまないところを、何もしないで怠惰に流されるがままに、望まれない結果を喜んでいるのはどこの誰だろう。ここにいる人物はそういうへそ曲がりなことを述べるのが常なのか。ありふれた日常の中で感性を磨耗させ、ついには廃人に堕し、外界からもたらされる刺激に何の反応も示さぬ人間になってしまったのか。ところで、それはいったいどこの誰のことを述べているのか。たぶん架空の物語の登場人物の一人なのかもしれない。それは誰も創作しようとしない物語に登場する、どこにでもいそうでどこにも見当たらない人物になる。まだこの世に存在しない人物だ。性別も年齢も定かでない。それは物語が始まらないうちから疲れているらしい。物語はいつになっても始まらない。作者が見つからないので始まるめどすら立たない。誰も物語の作者になろうとしない。疲れることは嫌いだし、何よりも暇がない。だからその人物は、いつまでも幻影の領域にとどまり続けるだろう。だがなぜそんなことを述べつつあるのだろう。それがどのような試みなのかわからないが、とりあえずありえない物語の中のありえない登場人物について述べることは可能なようで、それがどうしたわけでもないのだが、それでも一応はフィクションの内容を形成しつつあるらしい。だがそれで何を述べているつもりなのだろう。どうも中身のあることは何も述べていないような気がしてくる。当初はどこかそれなりの展開になろうとしていた印象があったのに、そのとたんに、いつもの無内容に覆われてしまった感がある。どうもそれを持続する意志に欠けているらしい。
7月28日
どうやら内容のなさに比例して虚無が増してゆくようだ。それはありがちな展開なのだろうか。たぶん理想を追い求める意識の方は、それとは違う結果を望んでいたのであり、当初は豊穣な実りの時を思い浮かべながら、その実現に向かって必死に努力していたのかもしれない。だがそれらは途中で挫折して、今は行方知れずとなってしまった。はじめから大きな思い違いがあったらしく、要するに、道端に落ちている石ころを拾い続けても、何の得にもならないことに気づかなかった。本当のところ何を勘違いしていたのか知らないが、その行為が何のたとえなのかよくわからない。おおかた作り話で何もない状況を隠そうとしているだけなのだろう。充たされぬ想いはいつまでも充たされぬままに推移し、はるか遠くを見つめるまなざしはどこまでも見つめ続ける。虚しい行為は虚しい結果に結びつくだけだが、それでも実質を伴わない作業はいつまでも続けられる。そして鳴り止まぬ雷鳴は天空を支配しているわけではなく、いつかは途切れるその瞬間を待ちわびても、その後に何が訪れるわけもないだろうが、これ以上君に何を述べても無駄かもしれない。君の寿命が尽き果てるに至って、まだそれらの作業が続いているとしたら、君はそのありえない現実にどう対処すれば気が済むのか。その光景をどのように受け止めることができようか。ただ惨めな思いで逝くまでか。今のところはまだ安心していられる。どう考えてもそんなに長く続くわけはないし、そのうち飽きてやめるだろう。いや、力尽きてどこかへ消えてなくなるはずだ。だがそのうちとはどのうちなのか。いったいいつまでどうやってやっていくつもりなのか。すでに終わりそうな気配も感じられる。見たところ、もう何もないようではないか。何もないのに続けられるわけがない。何もないのにどうやって続けられるだろうか。とりあえず時間があるし場所もある。そして言葉が存在している。続けるための道具とそれを使う時空があるわけだ。それは当たり前のことなのか。そうかもしれないが、それで充分なのかもしれない。それらは一時的に発生する雷鳴とは違う特性を有しているようだ。もっとも、雷鳴もその一つ一つはすぐに途切れはするものの、毎日毎時地上のどこかしらで鳴っている現象なのかもしれないが。
7月27日
今はそれほど忙しいわけではないのだが、余裕とは無縁の暮らしの中で今一つ要領を得ない説明に終始しているらしい。また余計な言い訳を多用しているのもいつものことで、それ風の内容ならいくらでも述べられるかも知れないが、それではどこかのニュース番組のコメンテーターとあまり変わらなくなるので、何とかどこかで聞いた風な台詞は避けているつもりなのだが、気づかぬうちに昔はよかった式に現在の状況を憂うパターンに陥ってしまう。まだ老年期には程遠いと思われるので、そういう述べ方は願い下げにしてもらいたいところだが、確かに過ぎ去った時代を懐かしむのも、その場しのぎに空白を埋めるやり方としては有効なようだ。そうやって、少しでも文字数を増やしていかないと、なかなかまとまった文章にはならないのだろう。またその話題はそれとして処理しておかないと、そこから先へそれ以外の話につながらなくなってしまう。今はそんなやり方を繰り返すこと以外にはやりようがないのかもしれない。限られた時間内でやるには、それが限界なのであり、そういうシステムになってしまうのにもそれなりの必然性がある。しかしそればかりではうんざりだ。どうやってそれとは違うものを提示できるだろうか。またもや苦し紛れに冗談でお茶を濁すつもりなのか。それが駄洒落とどう関係するのか謎だが、華美な装飾で黴だらけの壁面が覆われている。君の顔は黴だらけだ。しかし仏像に何を言っても無駄かもしれない。今こそ表面の黴を取り払って修復を施すべきなのか。そこで何をためらっているのだろう。やはりやめておくことにしよう。どうせありもしないフィクションを述べているだけだろう。実際わけのわからないことを述べている。
7月26日
たぶん要請はどこからもこないだろう。ここで求められていることとはなんだろうか。誰からもどこからも何を求められているわけでもないが、自己の内面が要求している水準では、未だに何もできていないように思われる。それは何らかの準備不足からきているのかもしれない。それが何の準備か知らないが、少なくともここから退散する準備ができていないことは確かだ。だがなぜ退散しなければならないのか、退散したくてもできないような気がする。そんな気がするだけで、それ以上のことはよくわからないが、ついでに何もわからないことにしておこう。何がわからないのかさえわからない。とりあえずわかっていることといえば、嘘をついていることだけか。そしてここからどうつなげていくべきか迷っている。その迷いはどこへつながっているのだろう。今のところ何の見通しもないし、どうもあまりにも迷いすぎて疲れてしまったらしく、まったく何もやる気が失せてしまった。そして今は、気晴らしになぜかバッハのパルティータを聴いている。なぜバッハを聴いているのか理由は何もないが、この場合はこれでいいらしい。とりあえず理由のないことがここでは求められているらしい。そう、偶然にバッハを聴いているに過ぎず、たまたまそんな嗜好がよみがえってきたのかもしれない。それで何か不都合があるだろうか、あるとすれば何だろう。深夜に大音量で聴いていると近所迷惑になるということぐらいか。グールドのピアノだと、第四番の七曲目のジーグが異常に盛り上がる。正味たった一分四十三秒の中で、凄まじい速さで信じられないような精度の演奏が即興的に繰り広げられている。それはまったく淀みのない完璧な演奏だ。そこには今の混迷する状況の中では失われてしまった感性がある。ところで、混迷する状況とは何だろうか。何が混迷していると思われるのか。本当に混迷しているのだろうか。たぶん昔から混迷しているのだろうし、これからも混迷していくだろう。要するに何がどう混迷していようと、どうということはないのかもしれない。昔も今もこれからも何らかの混迷を伴っているのであり、何か特定の時代や場所を正当化することにこだわるべきではない。
7月25日
何もないので、間に合わせにありがちなことを述べるなら、亡霊に巡り合うのは難破船の中で、深海の宝は巨大な海洋生物に守られている。鮫の出現は不幸が到来する前触れで、思わぬ争いごとの原因となるだろう。知っている者がいたら、海底二万マイルの結末を思い出してみよう。しかし何を述べているのだろう。暑さで気が変になったのかもしれないが、それは物語の中のアクセントとして使える現象だろうか。理想主義者は現実を熟知しているつもりかもしれないが、還元不可能なやり場のない憤りは、どこかで清算されなければならなくなる。気分が高揚し、それが頂点まで登りつめたとき、気が変になった振りをしてさらに先を急ぐならば、祇園精舎の鐘の音が聞こえてきたりするだろうか。またそれは本当に諸行無常の響きがするのだろうか。ところで諸行無常とはどのような状態のことをいうのだろう。魂の永続性が破綻をきたすとき、それが無理な理由として諸行無常と呼ばれる状態が立ち現れるのだろうか。世の中が荒廃していると思われるとき、そんな言葉が好んで使われるようだ。たぶん自らの野望に世直しと呼ばれる大義名分が付加されたとき、諸行無常に逆らって、身勝手な秩序の構築に乗り出すのかも知れない。しかしそこで死んだ振りをしているのは誰なのか。その昔、本能寺で焼け焦げた死体には諸行無常が響いていたのだろうか。そのとき、物語の安全弁はどうやって働いていたのだろう。しかし何が安全弁なのだろう。死んだ織田信長役を演じた俳優の演技がわざとらしく、周囲から失笑を買っていた、という話を捏造することが安全弁となりうるだろうか。たぶんそのことに関しては、自分は何も見ていないような気がする。見るべきものが何もないわけでもないのに、相変わらず何も見ようとはしない。脚本どおりの安易な展開は、映画の中でしか起こらないことなのか。いや、映画の中でそれが起こってしまうと見る気が失せる。それでもつまらない話で金儲けを試みる有能な人々に同情して、感動した振りを装えば、少しは気も晴れて愉快な気分になれるかも知れない。しかしだまされた振りを装って、他人をだますことが可能かどうか、その有効性はにわかには判断できない。いったい誰をだまそうとしているのか、その辺が不明確な気もしてくる。要するに詰めが甘いということか。しかし何の詰めが甘いのだろうか。どうも暑さで気が変になっているらしい。
7月24日
彼らは何か強引に見せ場をつくりたいらしいのだが、耐え難い光景にめぐり合うのは、夏の季節特有の状況といえるのだろうか。たとえば青春の熱き血潮は、埃まみれのグラウンドで消費される宿命にあるようだ。少年達を駆り立てる炎天下の中の試合は、過酷を極めているように見えるが、ひとつの目標に向かってひたむきに身体を動かしているその姿勢が、何らかの感動を呼ぶらしい。テレビカメラとマイクの脅迫によって、渋々将来の夢を語らされている幼稚園児には、どのような未来が待ち受けているのだろうか。それは転落や破滅への歩みかもしれないし、ちゃちな成功への足がかりとなるのかもしれない。しかしそれがちゃちではない場合もありえるはずだ。中には富と栄光を手にする人も出るだろう。だが、富と栄光を手にすることが夢では、それはあまりにも愚劣な発想かもしれない。まずは自分のためにではなく、赤の他人のために何ができるのか、それを考えていかなければならない。なぜそんなことを思うのだろう。それがわかれば苦労はない。理由は何もないのかもしれないし、何かそれ風の理由をつけると、くだらないものと化してしまうような気がする。ただ赤の他人のために何かをしなければならない。動機は何もないし、そして富や栄光を求めない姿勢を貫かなければならない。それだけのことをやるべきなのだ。そんなことをできるわけがない。やはり不可能を目指しているのだろうか。たぶんそうなのだろうし、それ以外に何をやれというのだろう。面倒くさいのでやらなくてもいいだろうか。富と栄光を目指すほどには面倒なことかもしれないが、現実にそれをやらなければならない状況になってみないことには、何ともいえない。はたして全面的にそれをやる機会がいつ訪れるのだろうか。今のところわからないし、そんな予感はないが、もうすでに気づかぬうちにやっているのかもしれない。とりあえずは自己や自分という幻影から離れて、何かをやらなくてはいけないことは確かなようだ。そのことについては得体の知れない確信を持っている。だがその確信が神秘主義に陥らないようにするには、誰もが納得できる説明が必要だろう。しかし今はそれができないでいるらしい。
7月23日
どうも欲望を抱いている者の大半は現状に不満があるようで、その不満の捌け口は当然この社会の在り方に向けられているらしい。そんなわけで社会の支配層が推奨する良識に挑戦する理由には事欠かないようだ。もちろんそれが直に英雄的な行為に結びつくわけではなく、現実に行なわれていることの大半は、犯罪行為として露見することになるわけだが、とりあえず世間を出し抜くには掟破りをすることが必須条件となるようで、今ある制度を無視して違法行為に手を染めなければ、その本懐を成し遂げることはかなわぬ状況にあるらしい。制度に従っている限り、その制度の恩恵に与っている者たちを打ち負かすことはできないし、その利益を享受している序列を変更することはできないと思われる。ではそうした制度に異議を唱える反体制派と呼ばれる者たちは、それらの違法行為を正当化しなければならないのだろうか。時と場合によってはそれもありうるが、全面的にそれでいいわけでもなさそうだ。制度にはそのような行為の存在も前もって織り込み済みの側面があって、法は破るためにあるという、疑似餌的な前提をちらつかせながら違法行為を誘発させ、それを取り締まることで制度が存在することの正義を誇示し、その正当性を強化するのも、制度を維持継続する側の目論見なのだから、安易なやり方で制度を出し抜いたつもりになるのは、愚かな振る舞いなのであり、かえって彼らの思うつぼにはまるだけだろう。しかし以上に述べたことは、たぶん冗談の範囲内かもしれない。冗談を休み休みに述べている場合ではないだろう。日々思考をめぐらせて、いかなるやり方なら制度と制度を護持する者たちを出し抜くことが可能なのか、真剣に検討すべきなのではないだろうか。だがそれこそが冗談そのものなのかもしれない。どうも自分は本気でそんなことを考える立場にはないらしい。改めてそんなことを考えるような類のものではないような気がしている。制度にも様々な種類があり、地域的にも時代的にも偏差があるだろう。どうもそれらを制度という言葉で括って、それに抵抗するスローガンや方法を掲げるのは得策とは思えない。そしてそれとは違うやり方を模索するのではなく、思考したり模索する以前に実践していかなければならない。常時あらゆる場所でやり続けるべきなのかもしれない。そして何をやり続けるべきかは、それぞれの立場や抱えている状況で異なるだろう。それぞれがやるべきことにこれといった基準や制限はない。今ここですぐにやらなければならないのだ。ただそういうことでしかないと思われる。
7月22日
勝ち負けにこだわる者には情念が宿っている。しかしそれにこだわらないと、歓喜の瞬間は永遠にやってこない。だが彼らは勝ち負けを結果とみなすゲームの構造を、世の中のどこまで拡大して適用すれば気が済むのか。体験しつつあるありとあらゆる事象を、何が何でも競争に仕立て上げ、競争相手とみなした者をやり込めるために、ありとあらゆる手を使って自らの勝利に向かって突き進み、その結果として勝てば優越感に浸り、負ければ復讐の炎を燃え上がらせる。そのどちらもが常軌を逸した行為に身をゆだねていることに気づかない。そして、勝つために自己の心身を鍛えることが、周りに多大な迷惑をかけることにも気づかない。それはいつものパターンに属する定型の展開だろう。もちろんそのゲーム構造を受け入れている者にとっては、勝利に結びつく迷惑ならば許容の範囲内なのだろう。だが迷惑をかけている者が負けたときは、その迷惑は損害となって我が身の降りかかってくるので、そうなると負けた者は、周りからひどい仕打ちを受ける状況に陥る。ところで自分は何にこだわっているつもりなのか。そもそもこだわりとは何なのか、改めて考えてみるとよくわからなくなる。それはどういうことなのだろう。たぶんこだわりが何もないわけではないだろうが、現状からそれを見つけ出し抽出するのは面倒だし、やる気がしてこない。それらのこだわりは、後から第三者によって発見されるようなものでしかないのかもしれない。とりあえず現時点では、中身はともかくこれらの継続にこだわっていることは確かなようだ。しかしこれらを続けることがどのような勝利に結びつくというのだろう。どうも勝ち負けの基準がないような気がするのだが、ともかくこれはゲーム構造には入らない営みだと思われる。ということは、これらを続けていっても歓喜の瞬間は永遠に訪れないことになるのだろうか。それでもかまわないような気がするし、別に勝利を目指してやっているわけではないので、それでいいのだろう。
7月21日
後から付け足される記憶には不自然さを覚える。だがそこで何を述べているつもりなのだろう。それがわからない。いったい何を述べているつもりなのか、また、今までに何を述べてきたつもりだったのか、その点に関しては藪の中の雀は何も考えていない。何も考えていないのは雀ではなく竹やぶの方かもしれない。竹やぶではなくどこかの誰かのことなのか。それはわざとらしい迂回に映るかもしれないが、それらの表現によって彼が何を語りかけているのかは知らない。しかし迂回とはいかなる状況から発生するのだろうか。不自然なつながりを露呈させるそれらの状況の中に、どのような迂回を見出せるのだろうか。また安易な状況描写の記述に陥りそうな予感がしてくる。彼方の地域では、過去をよみがえらせて、強引にその続きをやろうとしている。要するにつじつま合わせをしたいらしいのだが、望まれない結果はどうしても受け入れ難いようで、現状の無残な姿を救い出そうとして、無理を承知で四苦八苦している最中らしい。しかもそれが無駄な悪あがきであることに薄々感づいていながら、なおもそれをやめようとしないし、やめる手立てを見つけられないようだ。まったくその頑固さと愚かさには呆れ返るしかないが、当然のごとく思うようにその試みがはかどっているわけもなく、度重なる中断の最中に嫌気がさして、何もかも打ち捨ててそこから逃げ出してしまいたくなるようだが、そんな衝動に駆られながらも、かろうじて持ちこたえているのはどうしてなのだろう。なぜそうまでして、それほどまでにそれらの作業の継続に執着しているのだろう。たぶんそこには何らかの情念が絡んでいるらしいのだが、それは過去の出来事だ。情念の発生からだいぶ時が経っている。年月が経過するにつれて意識も磨耗して、今ではそれらの中身を言葉として抽出することは難しくなってしまった。
7月20日
ここには対話が存在し得ない。そして架空の対話を書き留めるのは困難だ。それは対話の内容にもよるだろうが、今さら登場人物を捏造して対話させる気にはならない。そんなわけで、これらの記述はもっぱら孤独なモノローグになるほかないだろう。それが困難であり、危機なのだろうか。自分には万難を排することはできない。だが、何が万難なのだろう。対話はすでに始まっている。それはどのような対話なのか。今日のところはこの辺でやめておこう。数日中にまた出直してくるとしよう。たぶんしばらくは戻ってこないかもしれない。それまでは、ここには誰もいなくなる。そしていつもの静寂が戻ってくる。ところで君は大げさなドラマに感動できたのか。だいぶ皮肉な意見を述べる者もいるらしい。かつては自分もそうだった。やはり今回も見て皮肉な意見を述べなくてはならないのだろうか。さあどうなのだろう、今回は見る前からわかってしまうことが多い。ここ数年で娯楽超大作といわれるジャンルの映画は、もはや批評すべき範疇から欠落してしまったのかもしれない。どうも今いる場所から遠く離れて妄想に耽る余裕はないらしい。今のところは、すべて地球上で撮られた映画しか存在しないのだから、どんなに遠く離れた時と場所に設定されたドラマだろうと、客観的にそれらはすべて地球上の物語なのであって、そしてまた、すべて地球上の映画館のスクリーンやテレビ画面上に映し出されているわけだから、その事実に照らし合わせて考えるとすれば、それらがどんなに物凄い特殊撮影技術を凝らした代物であろうと、まさか観客に危害を加えるようなことはできないので、現実に画面を飛び出して怪物が襲ってくるわけもなく、ようするにこけおどしの見世物以上にはならないだろう。それらは間接的な想像力を働かせて見るものでしかなく、それだけの内容なら、何も好き好んで怖いもの見たさにそれを見る必然性はないと思われる。スクリーンや画面に映し出される光景よりも日々体験しつつある日常に、耐えがたい苦痛と克服不可能な困難が横たわっている。それらを気晴らしや気休めの映像でやり過ごすことはできない。映像の中にある大きな悲劇や取り返しのつかない不幸よりも、現実に感じる中途半端なやりきれなさの方が問題なのであり、解決しようのない怠惰と疲労の複合体を形成しているのだ。
7月19日
占いには興味はないが、未来を透視するにはどうすればいいのだろう。そんなことができるようになる必要はないのかもしれないが、とりあえずそのためには、何らかの努力をする必要があるのかも知れない。修行という言葉はそのときのために用意されている。とりあえず何かをひねり出すにはそれ相応の努力が必要だ。試しに明日の天気でも占ってみよう。当たるも八卦当たらぬも八卦かも知れないが、その八卦の中身を知らないので占いにはならない。占いの基本を知らないので、何をどうすればいいのかわからず、途方にくれているようだ。でたらめな行為は予想外の副作用をもたらすらしく、占うつもりのないことを占ってしまい、思いがけずその占いが的中してしまう。そんな予感をどこかに当てはめてみる。何物にも代え難い経験は、得難い結果と連動して、誰からも歓迎されない事態を招くだろう。どこから導入されたのか、起源を知らぬ偶然につきまとわれ、努力する術を失って、それが修行とは無縁の行いであることに気づく。たぶん世の中にありふれている修行僧たちは、何か勘違いをしているのだろう。経験を積むのとは少し違う、何らかの閃きの到来を待たなければならないことに気づくべきなのか。それは気づかぬうちに通り過ぎてしまい、後から何をどう努力しようと手遅れになってしまうことが多い。我々は常に経験に頼るあまり絶好の機会を取り逃がしているのかもしれない。安心で確実なやり方こそが思い違いの原因を構成しているのかもしれない。しかし飛躍にはリスクを伴うから、それを行なうには、失敗を恐れぬ勇気が必要なのだろうか。だがそれは紋切り型であり、勇気ではなく、機会を逃さないある種の勘が要るのかもしれない。
7月18日
きっかけはいつも偶然にやってくるが、そのきっかけを招くためには無駄に言葉を弄さなければならないようだ。だがそれでも何かしら継続していれば、それなりに何とかなる場合も多い。峡谷沿いに車を走らせていると、変化に富んだ周囲の景色から、見慣れない道路標識が目に飛び込んでくる。それはいつの記憶だったのだろう。真夜中に思い浮かぶ光景は、それとはまったく違う状況の中で、見慣れない風体の異邦人が、同じ道路標識を見つめながらもだえ苦しむ。即興で用意した作り話の中では、またそれとは別の道路標識を見つめながら、自分は何も思わない。道端に佇んでいる白髪の老人の姿に気づいて急ブレーキを踏んだ。時は流れて、流され過ぎて人ごみの中でその姿を見失ってしまう。何を見つめていたわけではなく、夢の中の出来事を思い出せない。空を眺めながら思い出したその姿は、白髪の老人などではなかった。警察官が消防車に轢かれて救急車が駆けつける。満月の夜は青白い幻影と戯れる。テレビでは官僚機構の弊害について、官僚達が議論を戦わせていた。それは最近の出来事ではない。変化に富んでいるのは千羽鶴の色と形と大きさだ。それはたまに思い出す出来事とは何の関連もないことだ。たまに思い出すのは道端に転がっている小石を握ったときの感触なのか。でたらめなでまかせを述べているのだろうか。奇妙なそれを認識していながら、いい加減な過去を忘れようとしているらしい。台湾の空は日本の空と変わらない。クレオールの肌の色は薄いチョコレート色をしているそうだ。道端でもだえ苦しんでいるのは物語の登場人物に過ぎない。殺風景な空コンテナの片隅でゴキブリの死骸を見つける。気分次第で時は止まり、腕時計の針を空回りさせる。大きなのっぽの古時計は誰の時計だったのだろう。救急車のサイレンの音は犬の秘密を教えてくれる。青ざめたときの顔色は本当に青いのだろうか。ゴキブリ抜け殻とセミの抜け殻とでは、どちらがより高い価値を持っているのだろうか。つまらぬ疑問には答える手間をかけられないのか。
7月17日
またいつものように同じような言葉を弄して、同じようなことを述べているが、いつも始まりは意味不明なようだ。たぶんそのまま終わりまでやっていってしまうような気もするが、今のところ何か気の利いた言葉が付け足される予感はない。どうもこのところ、毎回似たような前口上ばかりのような気がするが、改めて何か新しいことをやるでもなく、偶然に偶然を重ねて何かしらやっているらしい。もちろんそのやっていることには必然性を感じないし、その内容にも必然性はない。長たらしくも余計な言葉が、延々と続いているだけかもしれない。たぶん精神が腐っているのかも知れない。しかし精神とはなんだろう。神経とは違うらしいが、そういえば病院の科目に神経科と精神科があるようだが、それらはどう違うのだろう。器官としての神経と、その器官を通じて作用する精神という違いはあるのかもしれないが、それらを分離して一方だけ専門に取り扱う手法は、現代の西洋起源の科学的医学の本質を物語っている。医師も商売で病院を開業しているのだから、現実問題として、とりあえず病は治さなくてはならないのであり、それが治ったこととするには、様々な複合的要因が絡み合って生じている病気から、その病気特有の症状を抑えなければならず、症状にも千差万別があるわけだから、対処の仕方も夥しい数に上るから、そこから対処法の分類と専門特化が生まれるのは当然のことなのだろう。例えば脳神経外科などは、脳の神経だけに関して外科的手法による治療しか行なわない部門といえるだろうか。たぶんそういうやり方がより効率的で効果的だと思われているのだろう。何よりもそこには病気を治すという明確な目的がある。目的があることはうらやましいことなのか。これらの記述には具体的な目的がないので、専門的な内容とはほとんど無縁のようだ。
7月16日
どうも気が抜けてしまって、何もやる気が起こらないのはいつものことだが、行き詰まりを打開しようと、必死の形相で努力しているわけでもないので、それほど苦にはならないことは確かだ。だがやはりそれでは嫌なのだろう。不徹底な作業には満足できないのは当然のことか。しかしこれ以上何を述べていいのかわからないので、それも仕方のないことか。確かに仕方がないし、そしてほとんどこれ以上は何もやりようがないのだが、それでもやはりやらなければならないのであり、実際にやってしまうのだろう。そう、こんな風に延々と言い訳混じりの駄文を連ねているらしい。これでは何のためにやっているのかわからないが、何のためでもなく、ただやっているに過ぎないのだろう。そして相変わらず内容がないわけだ。内容がない上にだるさが増している。それは暑いから仕方のないことなのか。とりあえずこの夏の暑さを言い訳として、だるそうに振舞っていれば事足りるだろうか。何が事足りるのかわからないが、いつもの調子でこれらを継続されられることは確かだ。だがそれはかなり虚しいことなのかもしれないが、その虚しさに耐えているのだろう。しかしいくら耐えても虚しいことには変わりない。いつまでもどこまでも虚しいだろうし、たぶんそれでいいわけはないのだろうが、それを打ち消すわけにはいかないし、そこから目を逸らすことはできない。その虚しさを体験することこそが、言葉を連ねることの本質を物語っている。無為の行為を続けることは、本質的に虚しいことなのかもしれない。その反対に何らかの利益を期待することは、心の充実をもたらす。それが夢や目標なのであり、本質的な心の空虚を埋めるための方便なのかもしれない。しかし今さらそんなやり方でやる気を出そうとは思わない。もはやこの虚しさから逃げようとは思わない。虚しければ虚しいままでも仕方がないだろう。それが与えられた定めなのだから仕方ないだろう。誰から与えられたわけでもなく、自ら進んでそうなることを引き受けたわけでもないが、自然とそうなってしまったらしい。
7月15日
表面に何らかの物体が付着しているが、その物体は未知の精神と共には存在しないし、何よりもそこから動かない。宙に浮くはずもないそれらの物体は、だいぶ前から地球の重力に捕らえられ、表面に貼りついている。すぐ下の表面を膜状に保護しているかのように見えるそれを、破れかけたシールをはがすように、注意しながら接着面からゆっくりはがすと、表面の損傷している箇所からどす黒い血が噴き出してくる。傷跡が修復するにはまだかなりの時間を要するかもしれない。だがいつの間に傷口が出現していたのか、それは何を暗示しているのだろう。確かにそれは皮膚表面に穿たれた傷を連想させるが、具体的に何の喩えとして述べているのか不明だ。その傷口がどうしたのか、傷を負ったことによりどのような変化を被っているのか、その辺が曖昧なのかもしれない。ところで何を説明しているつもりなのだろう。それは何らかの比喩ではなく、はじめからそれほどの内容を伴っていないのではないか。たぶんそのような説明自体が性急で安易な反転なのだ。まだ述べようとしているもの自体の描写が足りない。何も立ち現れていないうちに、言葉の持続が頓挫してしまう。そしてそれ以上は状況の説明が続くなくなる。たぶんそこで行き止まりなのだろう。それ以上に何があるのか。そこから先は胡散臭い神秘主義の領域に突入してしまうかもしれない。まさかこの期に及んで神秘主義的な事柄を付け足すわけにもいくまい。そうすることに何の説得力もないが、神秘的な体験は個人的なもので、外部から到来した何らかの作用をどう感じるか、俄かには説明できないような未知の驚きと感動を伴うとき、それを言葉で表せば神秘的としかいいようのないものになるのだろう。それを多くの人々と共有しようとして言葉を弄すれば胡散臭くなる。個人的な体験を社会に流通させようとする過程で、何らかの無理が生じるのだろうか。
7月14日
雨が空から一通り降り注いだ後、暇でもないのに暇つぶしの機会が巡ってくる。これから無為の時を過ごさなければならない。気まぐれと気晴らしとはどう違うのだろうか。気まぐれに気晴らしを味わい、それはかなりおかしな言葉遣いだと気づく。とりあえずはどちらも似たような状況から導き出される言葉なのかもしれない。その他に付け足されるべき言葉を見失う。見失ったついでに観たかった映画を見損なう。本当は観たい映画などないし、観ても記憶には何も残らないだろう。それでも強引に観る機会を導き出そうとしている。何らかのきっかけで触発されて、どこかの誰かに義理立てしたいらしい。それ以外に何をどうしようというのでもない。たぶんその機会が訪れたときにはどうすることもできないだろう。予定の行動からは大幅に逸脱しようとしている。自分の意志とは正反対のことをやろうとしているらしい。それで万事が丸く収まるだろうか。丸く収まるどころか、あちこちに点在する角をさらに鋭く尖らせているかのようだ。対立を許容を超えた対立へと導きたいのかもしれない。それはおおよそ人為的な操作であり、劇的な展開を出現させるためのシナリオ技術に関する手法のひとつだ。それが現れた時点で、その先に何が待ち受けているかはある程度予想がつく。あの誰もが恍惚の表情で画面を見つめる甘美な時間帯がやってくるわけだ。人々はその目くるめく出来事を食い入るように見つめている。だが気晴らしの時はあっという間に過ぎ去り、見つめるためだけのシーンも闇の彼方へと退き、首をうなだれながら、忙しない日常の作業空間へと帰ってゆく。いったいそのとき娯楽は何をもたらしたのだろう。気まぐれな気晴らしはそのときだけの快楽以外に何を供給していたのだろうか。たぶんポジティブに生きてゆく上での様々な効用があったのかもしれない。
7月13日
交差点で天を指差す人がいる。その人は空を見上げていったい何を見ているのだろう。いつものことだが、唐突に思いがけない言葉が差し挟まれる。猿回しの猿とは何のたとえだったのだろう。それとこれとは話が違うだろう。誰に操られているのでもなく、自主的に同じような夢を見ているのかもしれない。些細なことで悩み苦しんでみせることが、人々の共感を呼ぶだろう。出張先から送られてくるメールを待つ人がいる。そんなアニメーションが一部では脚光を浴びているらしい。そのような日常生活の美化には卑しさがつきまとう。安易でナイーブな人々はそんなアニメを見て目に涙するのだろうか。たぶんそのような人々とは話が合わないだろうし、会話の途中で、思わず口を滑らせて皮肉を述べてしまい、嫌われてしまうのが落ちかもしれない。いや、こちらのほうが逆に言い込められて、自らの非を認めざるを得ない立場に追い込まれてしまう可能性もありうる。趣味嗜好は人それぞれで違うのが当然で、他人の趣味にけちをつけるのはいかがなものか、などと心にもないことを述べて、この話題からはわざとらしく遠ざかろう。外は本格的に雨が降りだしてきたようだ。まだしばらくはこんな天候が続いてゆくのだろう。視野狭窄に陥っているのはどこの誰だろうか。はたしてそれは自分に当てはまるのか。夢も希望もなく、ただ生きているに過ぎないことが、それほど常道から外れたことだろうか。おそらく気休めの言葉は要らないだろう。確かに何かに執着しているらしいが、目下のところそれは夢でも希望でもなく、ただの作業に過ぎない。現実にそこからは何の幻想も受け取っていないようだ。そのような現実の中で生きているらしい。それ以外にどう表現したらいいのかわからない。始まりも終わりもきっかけも定かでないそれらの現実を、どのような言葉で処理したら気が済むのだろう。
7月12日
思わぬところで思わぬことを思い出す。気まぐれに去年の暑さを思い出してみよう。すでに暑さにも慣れた感があるが、やはり暑いことには変わりない。毎年のように夏の暑さは不快に感じる。ここで思うことは思いたくないことなのか。だが思い出したいことは一向に思い出せない。決して思い通りにはいかないのが世の常なのか。そのとき何を思い出したのか定かではない。様々なことを思い出していたのかも知れないが、では、誰が思い出しているのだろう。それはいつもの誰でもない誰かになるのか。またそれなのか、それは以前に何度か試みた、もはや紋切り型と化した展開だったはずだ。こうしてつまらぬうわ言とともに過去がよみがえったりするのだろうか。もちろんそれは言葉の正確な意味での嘘だ。ここで、わざとらしくも典型的な転調の定型句を導入すると、それは十六年前の春だった。だが今はその思い出について述べたいのではない。だから十六年前の春の出来事に関しては何も述べないだろう。たぶんつまらぬ過去などは思い出したくもないのだ。仮に思い出したところで、ここでそれについて述べたりはしない。今は冗談でそんなことを述べているだけかもしれない。そんなくだらぬことを述べているうちに、期待は一気にしぼみ、肩透かしを食らってしまうだろう。しかし誰の期待がしぼみ、誰が肩透かしを食らってしまうのだろうか。たぶんそれも述べられないうちのひとつなのかもしれないが、あえて語らぬことばかりのようだ。まったく内容のあることは何も語らずにここまでやってきたが、これでいいのだろうか。これではまずいというのなら、誰でもない誰かに反感を買わぬように、気休めに面白いことのひとつぐらい述べたほうがいいのかもしれない。イギリスの有名な歌手によると、イギリスの首相はアメリカの大統領が飼っている犬のプードルなのだそうだ。平板な言葉にするとまるで面白くないが、歌手が歌っているビデオクリップ上では少しは楽しめそうな気もする。そんなことをやったところでどうなるわけでもないだろうが、憂さ晴らし程度の効用はあるのかもしれない。
7月11日
誰が与えたわけでもなく、時の成り行き任せに、得体の知れぬ偶然から与えられた時間内に何ができるだろうか。何もできはしないが、何かしらやろうとしているらしい。結果としては何もできないわけではなく、やろうとしなかったことができるようになるのかもしれない。やりたくもないことができるようになるらしい。どうでもいいようなことをやろうとしていただけだろう。確かに他人にとっても自分にとっても、どうでもいいようなことにこだわっていたのかもしれない。そのこだわりはいつの間にか雲散霧消してしまう。今となっては、何にこだわっていたのかさえ忘れてしまっているようだ。こだわりの中身を思い出せずに苦悩するのか。いったい何に悩めば気が済むのだろう。何か大げさな使命感にでも目覚めてみれば、大義と小市民的な生活の狭間で悩み苦しむことができるだろうか。それはくだらぬメロドラマ的パターンなのか。目標を持っている者たちはいつもテレビ画面の向こう側で暮らしている。何らかのフィルターを通してみないことには、目標を抽出することはできないのかもしれない。この世界ではすべてが渾然一体となっていて、その中の何が目標なのか容易には判別できないのだろう。別にそれが目標と呼ばれなくとも大した不都合はないのではないか。そんなことはどうでもいいことなのであり、メディアが掲げるスローガンのバリエーションのひとつが、目標を持って生きるということになっているに過ぎない。たぶんそうする理由など何もないだろう。いや、厳密には何もないのではなく、つまらぬ理由ならいくらでも捏造できるということなのか。それは裁判で殺人事件の被告が、遺族に対して謝罪の言葉を吐かなかったとなじってみせるのにも似ているだろうか。まったく同じことではないが、同じような理由に基づいている可能性はある。その理由とは、とりあえず効率を優先させる風潮に基づいている。画面上の人々に、同じ応答やしぐさを期待し、実際にその通りになれば、考える手間がかからないというものだ。たぶん今どき農業を目指す若者も、皆同じような夢や目標を抱いているのだろう。案外安易な気持ちでやってみたほうが、成功する可能性はあるのかもしれないが。
7月10日
時間に追われているうちに、いつの間にか台風が近づいてきたようで、風雨がしだいに強まり、本当にヘビーウェザーらしくなってきた。だがそんな天候とは無関係な事情もあるにはある。安易な否定の乱用は好かないが、そればかりを多用したくなる時もあるらしい。真正面から物事に取り組むことができないようだ。つまらないことばかりでふさぎこんでいる時、なおさら否定的な気分にはまり込む。そうこうしてうちに翌朝になり、台風も去って、予報では一段と暑くなるらしい。梅雨の季節はもう終わりなのか。何もやらないうちにさらなる時が過ぎ去ろうとしている。内容が何もないままに、無為の時間が積み重なって、しだいに何もない空虚に重みが増してくるようだ。何もないのに重たいこの感覚は矛盾しているだろうか。なんとなくそんな表現がこれらの空気にはマッチしていると思われる。苦悩という言葉からは少しずれているような気がするし、絶望というほどの深刻さとも少し違うような気がする。ただ何もない、しかしそれでも大して苦に思わない。こんな状況で生きていることは確かだ。別に死ぬような騒ぎではないし、こんな状況で死ぬのは、かなりの勘違いだと思われる。まったく自殺者の気が知れないが、やばい状況には変わりがない。何よりも何がやばいのか不明確だし、このやばい状況をどうにもできないやばさがあるが、根本的に何を述べているのかよくわからない。単なる字数稼ぎのような気もするし、それこそがこれらのやばさを象徴しているのだろうか。ただ、何を述べようと嘘になるだろう。とりあえず言葉は嘘の素なのかもしれない。こんな状況で何かを記述することにリアリティは期待できない。はじめから何も期待していないのだから、それは当然のことかもしれないが、やはりそれも嘘なのだろうか。
7月9日
いつも気づくのが遅すぎるようだ。足の裏の痒みをこらえているうちに、どうも道順を間違えたらしく、とんでもない場所に出てしまったようだ。そしてまた、昨日の感覚に浸っているうちに、なぜか翌日の深夜に目が覚める。そんなことを体験しているうちに、気のせいか、今日は話の展開がいつもより早く感じられる。疲労が蓄積しているようなので、早く話を切り上げて寝たいのかもしれない。鏡で顔色を伺ってみても、かなり疲労の色が浮き出ているようだ。疲れているのは気のせいどころか、度重なる疲労感は何らかの病気の兆候かも知れない。確かそうではない内容を記述したかったはずだが、その予定がどこかへ消し飛んでしまったらしい。だからこれらの展開には、話の脈絡を感じられない。自分のペースを見失いがちになり、何もかもが一緒くたに交じり合う。知らず知らずのうちに、わけのわからない迷路に迷い込んでしまう。それがいつものパターンで、そんなことの繰り返しがこれらの積み重なりだったはずだ。たぶんそれが気に入らないのだろう。そうではないものを期待し、それとは違うものを絶えず求めている。どうも記述しているうちに、毎度おなじみのいつものペースになってしまっているようだ。頻繁に前述を打ち消すのがいつものやり方に思える。話に内容が伴わないのもこのところのパターンになっている。それが嫌で、別のやり方を模索したいようなのだが、途中で挫折したらしく、気がつけばこんな具合になっている。要するにこうして徒労が繰り返され、そして疲労が蓄積され続けているのだろう。その疲労を取るために寝てしまうようだ。そんな成り行きを経過して、気がつけばいつもと変わらぬ早朝に記述を再開している。こんなものを求めていたわけではないのは当然のことだ。だがそうなりなりざるを得ないのも当然のことだろう。絶え間ない逡巡と錯誤の結果が、こんな具合になっているらしい。
7月8日
咳き込んで呼吸に乱れが生じて、気晴らしに音楽を聴き、気休めに本を読み、冗談交じりに会話が継続される。それが会話といえるのか疑わしいが、いつもの日常が続いてゆく。それはいつもの日常ではなく、誰の日常でもなく、定期的にやってくる休日の日課になるかも知れないが、さらにそれは、例えば四コマ漫画の最初の一コマ目にもなるかも知れない。だがそこから先が何もない。そこで行き止まりになっている。いったいそこから何を見ているつもりなのだ。見るまでの途中が省かれているようだが、見るにいたるまでのしぐさを思い出せない。不意に口いっぱいに広がったグレープフルーツの苦さを思い出す。何かを食べたければ、歯を磨いてから食べればいいだろう。順序が逆だ。そう、順序が逆なのかもしれない。まずは構想を練ってから、内容がまとまった後に記述を開始すれば、すらすらと進行してゆくのかもしれない。目下のところ、それができる状況にないようだ。何も考えずに、ただ闇雲に記述しようとするから内容が伴わない。しかしそんなことは先刻承知でやっている。内容が伴わないのも、あらかじめ織り込み済みだ。では何のために記述するのだろう。それが欠落しているようだ。こんなやり方では、内容などまったく期待できないと思われるのに、やはりそこに内容を求めているのかもしれない。それは無内容の内容といえるかもしれないが、たぶん記述している者にとってはそうなのだろう。記述している自らの思惑とは違う内容を期待している。思い通りの内容では、読んでいてつまらないから、できるだけそうではないものになるようにしたいのかも知れない。だがそう記述すると、そうではないように思えてくる。何かが少し違うような気がしてくる。どうも説明できないようなことを説明しようとして、結果として説明し損なっているような気がしてならない。たぶん無意識はそうではないものを求めているのであって、意識が求めていないようなものを絶えず模索しているらしい。だから、そう記述してしまうと、今度はそうではないようなものを求めてくるのだろう。その辺がややこしいところだ。
7月7日
いつの頃からか、歯車がだいぶ狂っているらしい。なぜか前言を取り消すことができずに笑ってしまう。またずいぶんといい加減なことを述べてしまったようだ。まあいい加減なことなら、気楽にいくらでも述べられるのかも知れないが、しばらくはこんな調子でやってみたい気もしてくる。だがいざやるとなるとやはり何も出てこない。どうもいい加減なことさえなかなか思うように書き進められないらしい。唐突に何か頭に浮かぶのだが、そこから先が続かないようだ。もうどうでもよくなってきて、投げやりな気持ちになってばかりいるのだが、それでも惰性でやっている。このままでは誰からも見向きもされなくなるような気がするが、すでにそうなのかも知れない。それでいいのだろうか。それでいいような気もするし、一部ではよくないような気もしているが、だからといって、今後どうするめども立っていない状況なのだろう。とりあえずどうすることもできないわけだ。もう一度原点に返るといっても、原点がどんなものだったのか忘れてしまったし、もしかしたら原点など存在しないのかも知れないし、あるいは、このどうしようもない状況こそが原点の可能性もなきにしもあらずだ。つまり、原点から一歩も歩みを進めていない可能性があるわけだ。それでも強引に架空の原点でも捏造して、それに倣って言葉を連ねてみようか。あいつはやさしい奴だったのだろう。つまらないジョークでも飛ばして周りをなごませているつもりだったはずだ。もしかしたらあいつは聖者だったのかも知れないが、昔は確か貧乏人の振りをしていた頃もあったようだ。テレビゲームの中だけでは物足りない。気分は白と黒から灰色ができた時のようだった。そしてファンキーなドラムを叩きながら、ストーリーテラーを気取って、音と言葉を紙とその上の空間に配置してみたこともあった。ところでその他に何を語れば気が済むだろうか。愛は衰えたりしないが、その愛には誰も振り向かない。ハートは心臓で、その代役は電池式のモーターが担っているらしい。ペースメーカーは主役には縁遠いが、いつも目の前に存在している。そこでドラムを打ち鳴らしている人物がそうなのか。大理石の模様に見とれているうちに造型を見失ってしまう。型枠に流し込まれたブロンズ像には親指が欠けていた。心臓の鼓動は未だに蘇らないまま、土下座しているコメディアンがみすぼらしく思えるが、しなやかさとはどのようなことをいうのだろう。ゆっくりとした動作で空にかざした左手のひらが、霧に溶け込んでゆく夢を見た。そんな夢で将来の吉兆を占えるだろうか。いつもながらわけのわからない思いにとらわれているらしい。汗だくになりながら目が覚める。もう七月だから当たり前かも知れないが、今日はかなり蒸し暑い。こんな天気をヘビーウェザーとでもいうのだろうか。だが別に嵐でも台風でもないのに、それほどの天気だといえるだろうか。どうも言葉の用法を間違えているようだ。
7月6日
この世界のすべてを見ることはできない。自らのおかれている立場や状況によって、見えてくるものと見えてこないものがある。だから見るためには移動しなければならない。移動によって視点の位置が変わり、今まで見えていなかったものが見えてくることがある。それはありふれた考え方であり、ありふれた視点だが、今はそんなありふれたものに頼らなければならなくなる。盲人には見ることができない。伝説のフォークシンガーの歌には驚かない。彼の脳には膿が溜まっていた。彼とは哲学者であることを拒み続けた哲学者のことなのか。彼によれば、未だにジャズは処女航海の最中なのだ。その彼とは件の哲学者とは別人だ。どういうわけかいつもの展開になる。話の途中に無駄な文句が挿入されているらしいが、未だに何を求めているのか定かでない。結末に至るのを何とか避けようと、見え透いた悪あがきをしている最中かもしれない。ボブ・ディランの覚書は、まったくの意味不明だ。その内容は荒んだ雰囲気を醸し出している。たぶん彼は、1965年にはパンク・ロッカーだったのだ。十年早すぎたパンク・ロックは、駱駝のように顔をしかめなければ聴けない代物だったのか。君の言うことは僕にはわからない。単なる意味不明を神格化したがる人の気持ちも理解できない。廃墟の街は、十年後のアナーキー・イン・ザ・UKのことを指すのか。ジョニー・ロットンは今どうしているのだろう。伝説のフォークシンガーの名は未だに人々の記憶から消えていないのに、なぜ彼は忘れ去られてしまったのだろう。何も求めない態度は不滅の響きを呼び込むらしい。誰が呼び込もうとしたわけではないし、誰のもとにも呼び込まれてはいない。くだらぬ顛末の続きは、ただ風だけが語り継ぐことだろう。中産階級出身のモラトリアム青年が、社会の最底辺で働く労働者を歌っていた時代もあっただけのことだ。現実の労働者は、自らの境遇について歌っている余裕などありはしない。仮に歌ったところで、大衆がそんなものを受け入れるわけがない。彼らが望んでいるのは、いつの時代でも現実ではなく夢物語なのだ。社会の最底辺で働く労働者に関する虚構には、知的な言葉の組み合せと、巧みな語り口によって構成された夢物語が織り込まれている。大した驚きも魅力もない日々の日常に文学的な装飾を施している。それが彼のやり口であり、彼の崇拝者達が求めていることでもある。もちろん、彼を若者達の先導者として崇め奉りたい人々に対しては、君の言うことは僕にはわからない、僕はただ曲を書いて歌を歌っているだけさ、と鼻であしらってみせる。だいぶ否定的なことを述べてしまったが、それ以上の何かが彼にはあったのかもしれない。それが何なのかは、実際に彼の曲を聴いてみれば、たぶん聴く人それぞれでいろいろな感慨を抱くことだろう。
7月5日
深淵にはまり込む危機を回避しつつある。何とか自己言及を使って何もない空虚を埋めている。それは倫理的には許されざる行為だろうか。重苦しい問題を脇へ押しのけて、無責任で軽はずみな言動に包まれているようだ。そんな風にして、この何もない現状をやり過ごしているわけなのか。いったいこれから何をやるべきなのか、目指すものが何もない以上、これ以上は何もやらなくてもいいのかもしれないが、それでも何かしらやろうとしているし、実際に空虚なままで、その空虚をむなしい言葉で表現しているつもりらしい。それがこの何もない現状をさらに遠くまで推し進めているのかもしれない。ここで誇大妄想的な冗談を述べるならば、無意識はこの世界のすべてを虚無で埋め尽くすことを目指しているようだ。そんなことなどできはしないのに、なぜかそんなことはわかっていながら、それでも辛抱強く少しずつそれらの言葉を連ね続けているらしく、やはり目標は誇大妄想的な冗談を実現させることにあるようだ。ならば他人事のようにがんばってもらいたいとしか述べようがないだろう。そして意識の方はかなり前からやる気が皆無なので、ここは無意識のなすがままにしておくことしかできない。たとえいくら内容を伴ったことを記述してもこの世がどうなるものでもないが、どうにかしたいという気が失せた今、その後に残るのは意味不明な言葉の羅列に過ぎないのだろうか。戯れに空虚を日々の糧として、暇を見つけては無意味な作業に没頭している。たぶんこのごろは、意味不明であることや無意味だと思われることをやることが、ある種の気晴らしになっているのかもしれない。結果として誰も傷つかないようなので、何の気兼ねもなく無責任にやれるのだろう。たぶんこれは冗談の範囲内でのことに過ぎない。外部からの切実な要望がここには届かない。世界を救いたいと思う気持ちは、まったくの誤解に基づいている。救いたいと思うような世界は、そう思う者の自己の内面にしか存在し得ないことで、現実の世の中からは見向きもされない境遇なのに、身勝手な妄想を抱き続けている人々は大勢いるのかもしれない。どうも近頃はそういう心的な状況になることを避けるために、わざと意味不明を装っているような気がしてならない。
7月4日
夜の蛍光灯に照らされながら今日を思い出す。今日はかなり暑い一日だったが、それがどうしたのだろう。どうしたわけでもなく、ただ暑かっただけのようだ。たったそれだけで今日を思い出す試みはお終いかもしれない。そこから先は闇の彼方の虚ろな時間帯だ。その静寂に包まれた不動の時間帯において、腕時計はすでにコンクリートで塗り固められている。唐突におかしな表現が出現している。それがどのような状況を説明しているのかわからないが、無意識のうちに導き出される言葉に具体的な意味が伴うことはない。後から意識的な編集作業によって、ようやく何らかの意味を伴っているように見せかけているに過ぎない。そこで意識は何らかの基準の基づいてばらばらな言葉を取捨選択しながら、見せかけの文章を完成させようとしている。だが取捨選択する際の基準とはどのようなものなのだろうか。何やら意識の嗜好に基づいた美的な基準でもあるのだろうか。美しき心はただ汚されるためにのみ存在する。そんな捨て台詞には同調し難い。なぜそこで唐突に美しき心が出現して、それが捨て台詞とみなされるのか不明だが、その不連続な連なりにはどんな意図が込められているのだろう。ただ途切れ途切れの記述時間とその時々の気まぐれが、複合的に作用を及ぼし合い、この世界が同質の物事からは構成されていないように、相互に無関係で異質な言葉の寄せ集めから文章が成り立っているらしい。だがここで何を説明しているのかわからない。もしかしたらこの状況を説明しているつもりのようだが、現実からかけ離れた言葉による戯れが、様々に入り組んだ紆余曲折を経て、意味不明な迷路を作り上げている。もはや当初において何を述べようとしていたのかはどうでもいいことになっているようで、今の述べている内容を正確に把握する気が起きないほどの乱雑さに遭遇している。内容としての中身が何もないのに、まるで表面に過剰な装飾を施した空き缶のような具合になりつつある。
7月3日
なにやら台風が近づいているらしく、蒸し暑い大気の中で断続的に雨降りが続いている。しかしそれは昼までの話で、いつの間にか雨は止んでいて、夜に至っては静けさに包まれて時が推移している。そして今は何を思うでもなく、これからしばらく何も思わないような予感がしている。だが何も思わなくとも記述は続けられるらしい。この世にもあの世にも肯定的な意味を見出せないが、この宇宙のどこかで時空が途切れているとしたら、そこが世界の果てにでもなるだろうか。いつか誰かがそんなことを考えていたらしい。その誰かとは誰のことだろう。そんなことは知らないが、とりあえず誰でもない架空の誰かにしておこう。今となってはそんなことはどうでもいいことだ。この世界に果てがあろうとなかろうと、そのことについては何とも思わない。もちろんそこで何とも思わないのも、誰でもない架空の誰かになるだろう。自分が何とも思わないわけはない。絶えず何かしら思い、何かしら考えているのだろう。その何かしら思っていることを、言葉として記述に生かせないので、いつまで経っても空虚なままでいるように思える。しかしそれでも何かしら記述しているらしい。この世の果てへ行けないことに何か不満があるわけではないが、とりあえず空虚以外の何かを求めているようだ。たぶんリアリティがほしいのだろう。この世の一部分を構成している身にしてみれば、この世に存在することに対して、何がしかの現実感がほしいと思うらしい。何もない空虚なままでは物足りないと思うのだろう。しかしそれは一種の冗談なのかもしれない。空虚から生み出された冗談の一種なのだ。自分が感じている真のリアリティは、これらの空虚それ自体なのかもしれない。これ以外にありえないのだろうか。よくわからないが、とりあえず今は何もない空虚に充たされていることにしておこう。
7月2日
ここは弱肉強食の世界などではなさそうだ。すべてを覆い尽くす漆黒の闇などに興味はないが、中途半端な闇の中で、ふと見上げてみれば、天井近くで蜘蛛の巣にかかった昆虫がもがいている。蜘蛛と昆虫のどちらが強くてどちらが弱いか、などということに興味はないが、そのような世界観から導き出される妥当な答えとしては、この世を支配している自然の摂理とは、弱肉強食であると同時に強肉弱食でもあるのだろう。相手が強かろうと弱かろうと、とにかく食べなければ生き延びられない。食べるということに関しては、こんな結論になりざるを得ない。生物の捕食活動に勝手なロマンを介在させるようなセンチメンタリズムに興味はない。例えば、ライオンは百獣の王などではなく、老いて歯が抜け落ちれば、獲物の肉を噛み切れなくなって死ぬだけの、単なる野生動物の一種でしかない。ライオンが強いか弱いかは、そのときの状況や状態によって異なる結論が導き出されてしまうだろう。そこからなんら教訓めいたものを引き出すつもりはない。それはそういうことでしかなく、また別の例を挙げれば、また別の結論が導き出される可能性があるに過ぎない。実際その状況下でどう行動するかが重要なのであり、結果から何らかの評価を下すことは、あまり切実な問題とはならないだろう。適当な景色を眺めて、後からああだこうだ言い繕うことに本気でのめりこむ必要があるだろうか。そんなことができる余裕が、この世界のどこにあるというのか。たぶんくつろいだ雰囲気の中で、酒でも酌み交わしながら、そういう無駄話をしたい人は大勢いるだろうが、そうしたサロン風会話の中身などに興味はない。今ここにある現状の中で考え行動するしかやりようがない。たぶん興味はそこにしかないと思われる。
7月1日
なぜか唐突に決意を固める。間近に迫った明日を拒否して、はるか遠くの景色を眺めてみよう。それでは未来は永久にやってこない。なぜそんなことを思うのか。ここには何もないことを避けるための方便としての嘘かもしれない。苦し紛れにややこしいことを述べている。もう何も求めないわけではないが、とりあえず物にも心にも救いは求めない。それらに救いは求めないが、それ自体を求めているらしい。しかし何のために求めているかは不明だ。何のためにではなく、それ自体を求めている。いつもながら理由や目的が不在なのだ。それでも変わらない意識は徐々に変わりつつあるようだ。誰もがいつまでも変わらないことを願いつつ、そのままでいられるわけがないことを承知している。変化を嫌いつつも変化せざるを得なくなるのだろう。ところでそれらのどこが方便なのだろうか。それは記述を継続させるためにはやむをえない嘘なのか。では、それらのどこが嘘なのだろう。にわかには嘘の範囲を確定できないので、便宜上簡略化して、すべてが嘘だと述べておこう。そう、すべてが嘘だが、そのすべてには入らない嘘もある。嘘は嫌いだし、嘘つきも嫌いだが、それでは嘘はつかないと告げる嘘つきも嫌いの範疇に入るだろうか。いったいそれらのどこまでが嘘なのだろう。本当の嘘はなかなか容易には確定できない。しかし、本当に嘘ついているのだろうか。とりあえず未来はいたるところにあるらしい。永久にやってこないのは過ぎ去った時間になるだろうか。ではその時間を巻き戻し再生してみよう。それはビデオテープ上の光と影が織り成す幻影になるだろうか。画面やスクリーン上で過去が再生されているようだ。思い出される過去の記憶は、薄暗い映画館の中で、スクリーン上に映し出されたはるか遠くの景色を、航空機の乗客が眺めている光景が映し出されているスクリーンだ。たぶんそれは嘘の記憶だろう。しかもわざとややこしいことを述べている。なぜそうする必要があるのかわからないが、どうもこのところわけのわからない記述が続いているようだ。
6月30日
あえて久しぶりに冗談を述べるならば、サッカーは芸術領域に関わる想像力を喚起するスポーツだろうか。変な髪形の男には笑わせてもらったことだけは確かだが、あの小僧走りはユーモラスでこそあれ、その動作を芸術的だとする意見には首を傾げたくなる。何もそこに芸術的な要素を期待したいわけではなく、あるのはゲームをした結果としての勝ち負けに過ぎない。人々はあれらの何に感動したつもりなっているのだろう。あれらの騒がしい一ヶ月間は、期限切れの映像として人々の記憶から徐々に消えてゆくだろうが、君の頭に浮かぶすべての記憶には賞味期限とかが設定されているのか。未来と繋がらない過去は、明日になればつまらぬ思い出として蘇るかもしれないが、世間は常に新しい話題を求めている。ディランはこう歌っていた、どう歌っていたのだろう。ただ転がる石のように、どんな気がする?やはりそれはどうでもいいことなのだろうか。人々の想いは陰惨な結果の前で木っ端微塵に破壊される。なぜお前は多くの人の心を誘惑したのか、しかしお前とは誰なのか。いったいお前は誰を置き去りにしているのだろう。お前はおまえ自身を置き去りにしている。放浪者に安住の地はない。街角の物乞いには住む場所がない。この世が適者生存の世界だとすると、どのような種類の人間が適者となるのだろう。たぶん結果として今ここに生き残っている者が、適者の資格を有しているのだろう。だがそれは誰が与えた資格でもなく、その者が適者である根拠や必然性は、結果以外には何もない。たとえあの変な髪形の小僧走り野郎が勝者であり適者だとしても、それがどうしたわけでもない。彼らの神があの黄色いシャツを着た奴らの勝利を祝福していると思い込んでいるだけなのだろう。その光景を記憶に留めながらも、それを忘れ去るためにつかの間の勝利を祝っているかのようだ。そんな言い回しが気に入らないのか、どこかの国の似非共産主義者にしてみれば、あれらは革命とは何の関係もない、資本主義的な堕落を象徴する馬鹿騒ぎと思い込むしか術はない。ところで自分はあれらをどう思っているのだろうか。そのことに関してはあまり本気になれない。それにしても以上に述べられている内容はわけがわからない。
6月29日
それは当たり前のことだが、今日のことは今日のことで昨日ことは昨日ことだ。昨日の出来事を思い出すのが億劫になる。そして今日の出来事は記述の対象から抜け落ちてしまうかも知れない。昨日でつかえているので今日にまで至らないようだ。何もできないことへの苛立ちが増してゆく。だがそれも時間が解決してくれるだろう。時が経てば少しはあきらめもつくはずだ。朝方の強い雨は昼に近づくにつれだんだん小降りになってきたが、それと入れ替わりに標高の高い地域では霧が出てきた。しばらくしてその霧もどこかへ消えて、変わり映えのしない午後の雨空を眺めながら、意識はどこかへ飛んでいる。しばらく何も考えていなかったので、思考に要する脳神経の動作速度が至って緩慢になっていることに気づく。簡単なことを考えるのにもかなりの時間を要する。それとは対照的に、無意識の方は徐々に通常のペースに合わせてきているようで、その自動制御機構が何とかスムーズに働き始めているらしいのだが、どうも意識の方は物事を把握する焦点がぼやけているようで、取り留めのない彷徨から完全には戻り切れていないようだ。そういえばさっきまで何を考えていたのか思い出せなくなる。ところでこれから何を述べるつもりだったのか。たぶん何も述べるつもりはなかったのだろう。ついさっきまで眠っていたらしい。そのついさっきが三日前のことなのだから、それを思い出せないのも当然のことかも知れない。すでに今はそれから三日後の昼になっている。しかしそこからさらに意識が飛んで、もうすでに四日後の深夜だ。ここ数日間の内容は何もない。記憶にはここで述べるようなことは何も残っていないようだ。意識は依然としていつもの空虚に満たされているらしい。どうもやる気が出ないので朝まで寝るとしよう。どうやらこの辺が限界なのかも知れない。
6月28日
久しぶりに雨が止み、弱い陽の光に包まれながら、昼は明るい風景の中へ取り込まれる。梅雨の合間の曇り空は何かの到来を予感させる。たぶんそれは大げさなものではなく、どうせまた雨でも降るのだろう。それ以外に何が到来するというのか。到来したときにわかるだろう。すでにこれらの言葉が到来している。到来しながら循環を繰り返しているらしい。実際に同じような内容が飽きもせず繰り返されている。それはまるで梅雨の季節に雨空が繰り返し到来するかのごとく、執拗にやって来る。いつの間にかそうなるような仕組みになっているのかも知れない。そして、何がそうさせているかはわかっているつもりだ。くだらぬ意地がこれらの循環の原動力となっているのだ。自分を馬鹿にした不特定多数の誰かを見返すためにやっているのだろうか。安易に答えを導き出すならば、それでもいいような気がしてくる。しかしそれではあまりにもお粗末でなさけない理由に思えるから、とりあえず、わけのわからない空虚がそうさせている、ということにしてあるのかも知れない。これなら至ってわかりやすい結論だと思われる。テレビや安手の新聞や雑誌の中でならこの手の理由はいくらでもあるような気がする。たぶん世の中には、この手の人々が大勢存在しているのかも知れない。いまや自分もその中の一人に堕しつつあるのだろうか。元からその種の人間だったのだろう。つまらぬ意地を張り通して大切な何かを見落としているのだ。だがその何かとはなんだろう。それがわかっていたらこんなことは続けていない。それがわからないから、こうして言葉を積み重ねているのだ。くだらぬ紋切り型を受け入れながらも、さらなる言葉の到来を繰り返さなければならない。
6月27日
いつもの日常の中で、昼の出来事は大した内容ではなかった。記憶に残っていることといえば、うるさく飛び交っていた数匹の蝿が、スプレー式の殺虫剤で殺されたことぐらいか。人は昔から蝿とゴキブリとねずみと共に生きてきたのかも知れないが、そのことは絶えず否定的な反応しかもたらさなかったと思われる。それらの存在は人間が生息する領域の汚れ具合を象徴し、それらの大量発生は人々の悩みの種となっていて、そして、いつもそれらを駆除しようと躍起になっているにもかかわらず、今までにそれらを根絶した例はないはずだ。それらの生物は人の眼前に出現する度に殺傷の対象となり、現実にあらゆる手段を使って大量殺戮されているにもかかわらず、一向に減少したり滅びる気配はない。それらは人間にとって否定的な自然そのものだろう。それらとは正反対の希少価値を伴った肯定的な美しき自然は、今後さらに地球上から減少する傾向にあるのかも知れないのに、それらにカラスやダニなどを加えた、人々に忌み嫌われる否定的な自然は、人類が繁栄すればするほどそれに付随して拡大していく傾向にあるようだ。このままでは後に残るのはすべてそれらの否定的な自然になってしまうかも知れない。つまり大多数の人々が拒否反応を示すようなものこそが、人間の生息環境では生き残ることができるのだろうか。そのような側面から見れば、確かにそうなのかもしれない。そんな捉え方で述べれば、説得力のありそうなことを提示できる。だが、そんなことはどうでもいいことだ。説得力があろうとなかろうと、あまり興味がわかない。蝿もゴキブリもねずみもカラスもダニも、人類の繁栄によって生じた環境に対する適応力があったのだろう。それらは地球上では人類とともにメジャーな生物なのだ。たぶんそれらが多数派を構成しているわけだ。要するにこの地球を代表する生物は、蝿とゴキブリとねずみとカラスとダニと、そして人類なのだろう。それらはどれも似たような特徴を有しているのかもしれない。
6月26日
いつの間にか梅雨の季節で、この付近の大地には朝から絶えず細かい雨が降り注いでいる。確か昨日も一昨日も雨だったはずだ。見つめている光景にはそれ以外の出来事が感じられない。いつかとてつもない大洪水でも発生したりするだろうか。たとえそれが発生したところでどうなるわけでもないが、そんなものを本気で待ち望んでいるほど、退屈で死にそうになっているわけでも、世間にあらぬ恨みを抱いているわけでもない。ただ何もないだけなのかも知れない。何もないから何も述べられないはずなのだが、それでも何かを述べようとしているところに無理がある。たぶん無理を承知で何かを述べつつあるのだから、そこから先はもうわけのわからない展開になってしまう。どこかが狂っているのであり、狂っている箇所もわかっているが、一向にそれを直そうとしない。たぶん直せないのだろう。何かが直すことを阻んでいるのではなく、何も阻むものがないからこそ直せないのだ。もはや行く手を阻むものは何もない。外は鬱陶しい雨空なのに、心の中は一片の曇もない快晴状態なのだろうか。何もないのだからどうとでもいえるだろう。案外これも冗談の一種かもしれない。被害妄想的な述べ方をすると、狂っているのは世の中の方か。ただ自分は狂うことに魅力を感じない。突然精神に異常をきたすことは、周囲の者達に対してこけおどしのハッタリをかますようなことにしか思えない。人は他人や肉親を驚かすために狂うのだ。現実の発狂は敗北の印となる。英雄気取りで勝ち誇ったり、発狂して敗北したりしてはならない。何に対して勝ったり負けたりしているのか意味不明となってしまう。そこにゲームのルールが設定されていない限り、勝ち負けには何の価値も宿らない。そこには元々何もないのだから、あらぬ幻想を抱く必要は何もないだろう。
6月25日
夕暮れ時に画面を見つめていると、なぜそれがおかしいのかわからないが、苦笑いが爆笑の渦へと発展している。誰が笑っているのでもなく、自分さえも笑っていないにもかかわらず、背景からわざとらしい笑いが響いてくる。その切れ目のない映像に定着された笑いの主はどこで休息をとるのだろうか。しんと静まり返った早朝はそれから二日後の現実になる。場が笑いに覆われていたのはほんの一瞬だったかもしれない。確か映像の切れ目にはコマーシャルが挿入されていたはずだ。お笑い番組の合間に、数十秒の短い物語が束になって、まぶたの重さにかろうじて耐えている視覚へ向かって、何らかの広告情報を送り込んでいたらしい。それは車の宣伝だったかも知れないが、内容はあまりよく覚えていない。たぶんそれ以上は何も述べることはないだろう。わざとそうしているのではなく、自然と内容が空疎になってしまう。物事の美的な側面や文化的な側面から離れて何を述べたらいいのかわからないが、ではそれ以外に何が思いつくだろう。例えば政治とは何なのか。物事の政治的な側面について何を述べられるだろうか。それについて誰もが納得し難く、常に非難の対象になっていることが、とりあえずの政治に関する出来事の特徴だと思われる。しかし、個々の事例に即して何を述べたらいいのかわからない。そこではこれから行なうべきことについての様々な利害調整が行なわれていて、当然のことすべてを納得させるようなわけには行かず、調整の対象からもれた人々や、利益を得られなかった組織から、不満の声が次々と上がることになり、そういった不平不満の集合体が新聞やテレビのニュース番組の素材となっているのだろう。たぶん表面的はそういうことでしかないが、それらの素材の中から恣意的に選ばれた特定の事例について述べなければ、何かを述べたことにはならないだろう。やはり内容は空疎なままのようだ。
6月24日
なぜかいつもの定型から少し離れ、決まり文句の外部へ逸脱を試みる。それは遠い昔のことではなく、たぶん昨日の出来事だったかもしれない。ぼんやりと枯れた植木を眺めながら、明日の我が身を考える。内容は忘れてしまったが、それが何になるのか。確か遠い昔の物語は、公開が間近に迫っている映画のSF超大作のことだったかもしれないが、果たしてそれらの幻影を見ている暇がまだあるだろうか。忙しない意識はそれへの興味からだいぶ離れてしまっている。過ぎ行く時間に追い立てられ、すでにそんな昔話と付き合っている余裕すらなくなってきているのかもしれない。もはやそれらの出来事が不意をついて向こうからやってこない限り、それらの物語と出会う機会もないだろうが、それでも意識は、微かに残されたそれらと不意に遭遇する機会を待ち望んでいる。そして、それが成就するように密かに日程を調整している気配もある。果たしてそうなったとき、意識と意識を陰で操っている無意識との連携に関する構造が解明されたりするだろうか。何かしらわかったつもりにはなれるかもしれない。その時点での構造はそこに提示されるだろうが、それでどうなるというのか。それらは前もって予期された予定通りの偶然を人知れず演出しているのかも知れないが、やはりそれでどうなるというのか。まるで予定調和のように希望が成就して感動することになるのだろうか。ならば、今のうちからせいぜい近未来がそうなることを期待しておこう。彼らの努力が無に帰さぬように、あまりでしゃばらずに控えめな自己のままでいられるだろうか。それがどういうことかよくわからないが、たぶん今現在は控えめであるらしい。このところやる気が皆無なので、薄弱な精神状態のまま、ただ成り行き任せの状況に押し流されて、なかなか自己を一定の方向へ固定できないでいるらしい。目標となる地点を特定できないようだ。いつまでもあやふやな心で漂い続け、どこへも行き着く気配が感じられない。それが控えめな態度なのだろうか。たぶんそうかも知れないし、別の言い方で述べるなら、ただ怠惰なだけかもしれない。
6月23日
誰が味方で誰が敵なのか。それはその時の状況によるだろう。自分には敵も味方もわからない。敵とか味方とかいう概念で人を区別していないのかもしれない。敵と味方がはっきり色分けされているスポーツなどの試合をやっているわけではないし、ましてや敵味方に分かれて戦場で殺し合いをやっているわけでもない。そういった極端な状況の中で暮らしているわけではない。たぶん今の自分にとって、それらの概念はどうでもいい範疇に属しているのだろう。対決する相手も競い合う相手も不在だ。ただ何の取っ掛かりもなく、誰とも遭遇できない状況の中で生きている。実際には様々な人格と出会っているのに、また出会いつつあるのに、どうもそれらのすべてをやり過ごしてしまっているらしい。こちらから関係しあうこともなく、あちらからのアプローチも不在のまま、ただ無関係を継続し続けている。その結果、何も見出せずに空虚に充たされている。たぶんそれではつまらないし、不満なのだろうが、そこから抜け出すための積極性が欠けている。今後も誰とも係わり合いにならないままで生きていける、という幻想に浸り続け、このまま虚無の深みで抜け殻状態になってしまうかもしれないが、それでもいいような気もしてきている。これはフィクションなのだ。作り話の中の自分についてはいくらでも虚飾が可能なのだろう。現実の自分とはまったくかけ離れた特徴を当てはめても、それでどうなるわけでもない。しかし現実の自分などどこにいるというのか。たぶん記述の中には現実の自分は出現しないのだろう。現実の自分は、今これを記述している最中なのであり、決して記述の中の登場人物ではないし、なり得ない立場にある。だから自己についての言及には必ずフィクションが伴うのだろう。それが言葉として示されている限りにおいて、その自分はいつも虚構の自分なのだ。そう思っている自分が、都合よく言葉で表現されているだけであり、自意識過剰な悲劇の主人公が、被害妄想気味に登場しつつあるのかもしれない。
6月22日
いつものことだが相変わらず何もない。しかしそれでも何かしら述べていたいらしい。まったくご苦労なことだが、それでも苦労しているわけなのだろうか。それが苦労なのか苦痛なのか、俄かには判断し難いが、とりあえず、何もないのに何かを記述しているらしく、その結果としてどうも抽象的な言い回しに終始してしまっているようだ。たぶんそれは効率的な字数稼ぎを狙ってのことかもしれないが、現実にそれ以外のやり方ができないという側面もあるだろう。そういうわけで、何かを述べているようで何も述べていないようなことを好んで述べている。やはりそれ以外にやりようがないのかもしれない。思考の居場所が他にないのだ。現実の自分は住む場所がないわけではないのだが、考えるために必要な特定の場所を持てない立場にあるらしい。しかし考える場所とは何だろう。どこで何についてどうやって考えることが可能となるのだろうか。その辺がよくわからない。しばらく前から定期購読している雑誌は批評の場という名を持っている。たぶんあの雑誌の紙面上が批評するための場所となっているのだろうが、ならば今ここで述べつつあるこの場所が、考えるための場所となっているのだろうか。そのような言い回しで述べていくと、確かにそうなのかもしれないが、この場所が特定の場所とは思われない。考えようとすれば、どこで何を考えてもかまわないような気がしてくる。そしてここで取り立てて何かについて考える必然性は何もない。ここは別に考える場所でなくてもかまわない。現実に、ここでは何も考えていないのではないか。特定の時期や場所を選んで考えているのではなく、いつでもなくどこでもないありえない時空で、たぶんいつかどこかで適当にいい加減なことを考えているのかもしれない。しかしそれでは著しく具体性に欠け、リアリティに乏しい。では、それ以外にどう表現すればこの何もない状況について説明できるだろうか。そしてそれを説明してどうなるのか。もうすでに、冒頭において何もないと述べているのであり、それ以上の何を説明する必要があるだろう。ただ何の変哲もない一日が過ぎ行くだけでは不満なのか。おそらくそれでは不満なのだろう。ではそこに何を付け足せば気が済むのだろうか。何もないことを体験するだけでは物足りないことはわかっている。しかしそれ以外の何を求めているのか。何らかの感動であったり、あるいはスリルやサスペンスであったりするものを体験したければ、とりあえずテレビでも見ていればいいだろう。街頭の大型スクリーンに映し出されたサッカー中継を見て大騒ぎしている群集を見習えば、それなりの感動を体験できるだろう。だがそれは一時的なもので、この国の人々は、すでに自国の代表チームが決勝トーナメントで敗退してしまったので、もう騒げない。とりあえず同種の騒ぎは、騒ぐことの可能なスポーツチームを抱えている市町村を除いては、四年後までお預けなのかもしれない。しかしその種の一時的な感動で何が不満なのだろう。取り立てて何の不満も見当たらないだろう。それ以外には何もないのだ。
6月21日
そのことについては後で暇に任せて考え続けよう。考える暇あったらの話だが。付け焼きの知識を身につけるために書物を読むことは、もうあまり流行らないようだ。だが付け焼きではない本当の知識とはどのようなものなのか、それがよくわからない。他人を馬鹿にするとき、知ったかぶりを付け焼きの知識だと揶揄したくなるのだが、ならば嘲弄できないような知識が世の中に存在するのかといえば、すべての知識はからかいの対象になり得るような気もしてくる。知っていることを前面に押し出せば、必ず何らかの反発を食らうようだ。そうならないようにするためには、まずは知っていても知らない風を装い、話し相手に対してすでに知っていることについてわざと質問し、相手からその知識に関する答えを引き出して、わざとらしく相槌を打つやり方が多用されている。同じような知識や見解を会話相手と共有することで、反発を未然に防いで相手との信頼関係を維持しようとしているのだろうが、それとは無関係な第三者としてそんな光景に出くわすと、かなりの居心地の悪さと不快な気持ちになる。自分がその会話に加わって、相槌を打つ立場になっているうちはそれなりに気分がいいのだが、それを外から眺める状況になると、とたんに嫌な感じを覚えるのはどうしてなのだろうか。自分だけ除け者の仲間はずれになったように思えるのだろう。そんな疎外感とともに、わざとらしく相槌を打つことで成り立っているような共同体に、その醜さに嫌気がさしてくるのかもしれない。なぜか自分はあまり人と会話しない傾向にあるようだ。とりとめのない世間話をしているうちに、だんだん不快になってくる。相手に合わせ続けることは、精神的な負荷と苦痛を伴う。だから自然と沈黙を守るようになり、今度はその沈黙の重みに耐え続けるはめになってしまう。どうも自分は必要以外の無駄話ができないらしい。
6月20日
なぜそのことについて沈黙を守っているのだろうか。もうとうに終わってしまったことなのに、未だに何らかの感情的なしこりが残っているのかも知れない。今はその内容については語れない。ことのいきさつは様々な事情が複雑に絡み合っているので、その経緯は何がどうなってそうなったのか、容易には説明しがたいものがある。もっとも、沈黙せざるを得ないような状況こそがすべてを物語っているともいえる。様々な紆余曲折を経て、結果として強いられている、その居心地の悪そうな沈黙こそが彼らのすべてなのであって、それ以外の内容は何も持ち合わせていないだろう。そこに示されている沈黙が、暗黙のうちに沈黙することしかできない者たちの心のありようを物語っており、それ以外のことは想像の域を出ないことだ。そうせざるを得ない者達は何らかの障碍を抱えているのかもしれない。言葉を発することを困難にさせる障碍が彼らの眼前に横たわっているのだろうか。あるいはそうではなく、沈黙によって何らかの意思表示をしているのだろうか。だがここでその内容を推し量る気はない。それはそれでそのままそっとしておいたほうがよさそうだ。もうその件に関しては、そろそろ見切りをつける時期なのかもしれない。とりあえず沈黙には沈黙で答えておくのが無難なやり方だろう。たぶんあれがあのまま終わってしまっても、それはそれとして受け入れる以外に手立てはなさそうだ。脆く壊れやすいのがその手の関係なのかもしれない。まるで自分達が泡沫のように消し飛んでしまいそうな状況の中で、彼らは仮想敵に対してあれこれ対策を迫られているようだ。もちろん彼らに大したことができるわけもない。すべては同じような日々の語らいの中に埋没するまでだ。同じような人々しか同じ場所にはいられないのが、そこでのルールであり、同じようなことしか述べてはいけないのが、そこでのマナーなのだろう。
6月19日
静かだが普段の感覚からすればいつもの喧騒に近い。昨晩の激しい雨音が静けさに関する基準を少し弛めに設定させているようだ。外の天気は雲ひとつない快晴のようだ。天気予報によると朝は冷えたが昼は暑いらしい。実際にはそれほどの暑さでなく、空気が乾いていて爽快でさえあった。そんな天候に関する話題を抜いたら何も残らないような内容になる。心の中は相変わらずの空虚に満たされつつ、何の変哲もない通常の一日が過ぎ行く。そういえばどういうわけかここ数日テレビを見ていない。NBAファイナルは数十年ぶりの低視聴率だったそうだ。レイカーズが強すぎて、見ていてスリル感や面白みに欠けるのかもしれない。アメリカの視聴者が何を思っているのかそれほど興味はないが、試合内容以前の問題として、わざとらしい演出でショーアップされたスポーツ中継ほどつまらないものもないだろう。事前からの盛り上げなど余計な装飾はいらないと思うが、それをやらないと門外漢の関心を引くことはできないところが、その手のイベントの欠点なのかもしれないが、それ自体がどうでもいいことの気晴らしの対象である限りおいて、自分にとって関心のないものとなってしまうようだ。そこに入り込むことがためらわれてしまう。映画にしろテレビにしろ、それらを観ることから遠ざかりつつあるようだ。近頃はもっぱら、それらを見た者が記述した批評ばかりを読んでいるらしい。どうも見る機会に恵まれないのと同時に、それらを見ようとする好奇心が、見るまでに至らずに萎えてしまっているようだ。
6月18日
意識の中では、夜明け前に霧が立ち込めているようだ。鶏の鳴き声を聴きながら、それはいつもの夢に違いないと思い込んでいるらしいが、現実には目覚まし時計のベルがうるさく鳴っていて、夢を見るような状況にはない。気がつくと未明の薄明かりの中で埃っぽい空気が部屋の中に漂っている。悪夢にうなされて無意識のうちにもがいていたのかも知れない。それはいい加減に作り話に属するが、笑えない冗談には飽きている。たぶんそれは冗談でさえないのだろう。わざとらしくも意図的な引き伸ばしに思える。要するに毎度のおなじみの意味不明かもしれない。何を思っているのでもなく、何かしら気の利いた考えを披露したくて、頭を回転させようとして、首の骨が折れて死ぬほどの苦痛を味わう。それは苦し紛れの滑稽な言い回しに思える。雨中に踊りながら水飛沫を撒き散らしているのだが、それに何の意味があるのかわからない。雨に歌えば、気の触れた友達と仲直りができるだろうか。そこで破れかぶれのやけくそ気味にもがき苦しんでいる者は、いったい何に耐えているのだろうか。スタジアムの中で繰り広げられた貧相なゲームを呪っているわけでもないだろう。地球の片隅で芝刈り機に乗った若者が勝利の雄たけびを上げている。そういう馬鹿者を祝福しているのは毎度おなじみのテレビ局なのか。F1レースもあれば芝刈り機レースもある。そのどちらが多くの価値を有しているかは、本当のところよくわからない。より多大な金銭や人員を巻き込んで開催されているものに価値があるとするなら、それはわかりきったことだが、そんなわかりきったことを基準として価値を当てはめるのはつまらないことだ。もちろん芝刈り機レースなどどうでもいいことかも知れないが、自分にとってはF1レースもどうでもいいことに属する。一昔前の日本人ドライバーに対する感情的なテレビ放送で、見るのが嫌になったのかも知れない。今思えば、なぜそんな些細なことに反発を覚えたのかよくわからない。
6月17日
誰が悪いわけでもないことはわかっているが、それでも誰かのせいにしたいところだが、やはりそれは誰のせいにもできない。何が悪いわけでもないし、それが悪いことだとすると、とりあえず悪い状況にさせた責任は自分にあるとしておこう。自業自得でそんな状況になってしまったのだ。二日も作業を怠っていると、だいぶ切羽詰まった状況に追い込まれる。だが切羽詰った状況が作業を再開させる原動力となっている。ゆとりのあるときは怠惰に流され、これ以上怠けるとどうにもならなくなった時点から記述し始める。そして何も思い浮かばないことの言い訳として、いつもの自己言及に終始してしまうわけだ。繰り返されるのはそんなことでしかないらしい。こうして自分の内部から空っぽの言葉が滲み出てくる。たぶんそこで毎度おなじみの空虚という言葉を使わざるを得ないだろう。それ以外の言葉は気まぐれを経由して偶然に導き出される。目指していることはその状態を維持継続させることになるのだろうか。目指しているのではなく、成り行き上そうならざるを得ないという表現のほうが近いかもしれない。何かを目指しているのならば、その目指していることには何らかの内容を伴うはずだ。空虚には内容がないので、目指すようなものではない。たぶん世の中に流通している何らかの主義主張に則って記述すれば、それなりの内容を伴うのかもしれないが、その世間から背を向けているので、それらの主義主張のありがたみを実感できない。何かを主張することは何に繋がるのだろうか。主張する内容によって様々なケースがあるだろう。なぜ山に登るのかという質問に、そこに山があるから登るのだ、と答えた登山者のように、ここに国家が存在するから国家について考えねばならない、と答える国家主義者にも、それなりの説得力がある。様々な主張のうちのひとつとしては、その主張にもそれなりのリアリティがあるだろう。それらの主張とは無関係に自分の内部に生じている空虚には、その種のリアリティが欠けている。たぶん個人的なものと国家的なものは、次元の異なる水準にあるのかも知れないが、為政者が国家を統治するようには、自分は自己を統治してはいないような気がする。それらの人々が国家を制御しようとしたり支配しようとしたりするようには、自己に働きかけていないのではないか。自らが自己を管理するのと同じように、家族を管理し、部下を管理し、会社を管理し、国家を管理する、といった紋切り型のフィクションには魅力がないが、内容をもう少し込み入らせて複雑にすると、とたんに誰もがだまされるような魅惑の国家論が出来上がるのかも知れない。
6月16日
夕刻のにわか雨をやり過ごしているうちに、相変わらずの深夜に目が覚める。闇を照らす蛍光灯の光が眩しく感じられるのもいつものことだ。辺りの静寂に包まれた空間から、時折走り去る車の音が滲み出てくるが、気に障るほどの騒音でもない。今見出されるのはそんなことぐらいだろう。それはここで度々安易に使用している空虚という言葉では、言い表せない状況なのかもしれない。たぶん空虚という表現は、自分が何も見出せないことの代わりに、フィクションとして構成される文章に欠かせない言葉のひとつなのだろう。確かに夜明け前の闇は空虚以外に何も見いだせない。他に記述する内容が何もないとき、やはりその状態を表現するには空虚が必要になる。だが本当はそれで何かを述べているとはいえない。それを空虚と述べるだけでは、この眠気混じりのけだるさを言葉で表現したことにはならないだろう。それ以上の表現への努力が放棄されてしまっている。だが空虚以外の言葉を見つけられないこの現状は、現時点では如何ともしがたいところだ。そんな状況から抜け出せぬまま、空は白み始め、やがて翌朝になってしまう。どうやら今回も時の流れに追い越されてしまったようだ。早朝の曇り空に飛び交いさえずっている小鳥を眺めながら、やはり空虚な思いに充たされている。そして今日もまたいつもの繰り返しになりそうな予感がしてくる。外の樹木はこの時期の雨をたっぷり吸い込んで、また一段と枝葉を茂らせているようだが、自らの思考の枝葉は、もはやこれ以上伸びないのだろうか。
6月15日
乾いた地域にしばらくいたので、ここはかなり蒸し暑く感じる。そして少し疲れているらしく、夕方から眠り、深夜に目を覚まし、いつもの夜がやってきて、同じような状況を体験しつつある。テレビの画面上では二十四時間車が走り続けるレースの真っ最中だ。それは年に一度の光景だが、毎年見ているわけでもない。リタイアした車のドライバーの話が冗長で、退屈に感じられたので、同じコースをひたすら車が回っているその画面を消して、遠くの闇へと視線を移す。イベントだけの時空間の中にイベント以外の要素を見つけるのは至難の業でもないだろうが、それらの画面からそれを探し出す気にはなれない。レース自体に魅力を感じないわけでもないが、コースをぐるぐる回っているだけの単調な進行状況の中で、そのほかに何を見出せばいいのか、あえてそうすることの必然性を感じない。レースにレース以外の何かを見つけ出そうとする試みには、あまり乗り気になれない。そういうことをやっている人々の行為は理解に苦しむ。実際にレースに参加している者は、真剣に全霊をかけてそのイベントに臨んでいるのだから、途中でレースを降りてしまったら、悔しいのは当然のことだろう。だが見ている側は、いつでも見ることをやめられる。面白ければ見ている暇が続く限り見続けていればいいし、退屈に感じていたらそこで見ることから降りればいいだけのことでしかない。やっている側とそれを見ている側では、かなり大きな認識や感じ方の相違があるのだろう。たとえば、仕事に仕事以外の要素を求めるのはまっとうなやり方なのだろうか。だが多くの人々はそれをやりざるを得ないだろう。パートタイム労働者にとって、仕事にやりがいを求めることにどれほど本気になれるだろうか。その本気がフィクションでない保証がどこにあるのだろう。たぶんある程度は満足できる収入があって、その職場の人間関係がうまくいっていて、和気あいあいと楽しく仕事ができればそれでかまわないのだろう。ならば、パートではない労働者の人たちは、それ以外に何を求めているのだろう。やはりその仕事で成功することが主たる目的になるだろうか。どうも自分はそれらの両方の目的には懐疑的にならざるを得ない。たぶんそれは、そう思っているだけなのであり、仕事の中で実際に見出されているものは、ただ仕事をやっていること、それをやり続けようとして、実際にやり続けていること、やり続けていることから生じる、精神的・肉体的な負担に耐え続けていること、そんな無味乾燥な現実がむき出しになっているだけのように思われる。
6月14日
戻った先では雨が降っていた。そしてそのニュースは大したものではなかった。いくぶん内容が空疎でさえある。騒いでいる人々も同じような面々がいつものノリで騒いでいる。ここでの日常はこんなことの繰り返しでしかない。戻る前と戻った後で何が変わったのかは、今のところよくわからない。少なくとも自らに何らかの変化が生じているのかもしれないが、今のところそれに気づかないようだ。もしかしたらだいぶ時間が経過した後に、少しずつわかってくるのかもしれないが、それについては、たとえわかったとしても何の感慨も抱かないだろう。ただ単に、それはそういうことでしかない。それ自体がそれ以上でも以下でもなく、その場の成り行きで生じているそういう変化でしかないだろう。彼らが抱えているのはいつもの人々だ。いつもの人々がいつものノリで、画面の向こう側でいつものように騒ぎ立てているが、とりあえず自分には、あのように騒ぎ立てる時空が存在しない。そんなものはもとから用意されていない。少なくとも、自分は彼らの仲間ではないらしい。自分はただ淡々と、その場で思いついたことを言葉で刻んでいくことしかできない。それ以外は不必要なのであり、今のところそれ以外のことをやろうとは思わない。そういうことの繰り返しがここでの作業となっている。
6月13日
ようやく旅も終わりに近づき、あと半日もすれば普段の日常生活を送っている地域へ到達する。そこでまた以前と同じような日々が待っていることだろう。以前と同じように何がどうなるわけでもなく、何もかもがあるがままの成り行きでそうなっているような世界へ舞い戻る。そこで普通に暮らしてゆかなければならないようだ。たぶんそうすることに何の不都合も感じないし、それ自体が、そこで生じているあるがままの成り行きに含まれているのであって、普段の暮らしとはそんな成り行きの繰り返しのことなのだろう。たぶん自らが生きつつある世界は、そこだけにしか存在しないのかも知れない。それ以外はメディアが作り出す幻影に属することなのか。しかしここで幻影とは何なのか、という毎度同じ型の疑問が導き出される。幻影もこの世界に属していて、それらの都合に合わせて、あるがままの姿をまとって画面や紙面の上に提示されている。たぶん自分たちはある部分ではそれに頼って生きているのだろうが、全面的な依存関係にはないはずだ。それらにも多種多様なあり方があり、競合する話題について、互いに競い合いながらも別々の視点で、独自の幻影を作り出そうとしていて、われわれはそれらを、ある面では恣意的に、別の面では強制的に、様々なやり方を選び選ばされて受け入れているのだろう。それでも幻影は幻影でしかない。幻影の中で踊らされている人たちにとっても、それはそうなのだ。ある部分では彼ら自身が幻影のとりこになっており、幻影によってあるがままの姿を逸脱して、きわめてグロテスクな相貌を手に入れることになってしまった人々もいる。そんな人々が当の幻影によって、幻影の場所から退けられそうになる場合が多い。そこでそれなりの地位を獲得したつもりになっている人々に対する、幻影からの糾弾は熾烈を極める。たぶん、その人には幻影の場から速やかに退場してもらって、また新たな幻影のとりこを幻影自身が求めているのかもしれない。
6月12日
たぶんそれは気のせいだったのだろう。あるいは深夜に夢を見ていたのかもしれない。見知らぬ街角で誰かに呼び止められたような気がして、振り返るとそこには誰もいない。その呼びかけは誰に向かって発せられていたのだろう。気のせいなら誰が誰を呼び止めたわけでもないし、その眼はそこで何を見ていたのでもない。未明に見た夢ははっきりした内容を記憶に留めていないらしい。ホテルの窓から見える明け方の景色は、何の変哲もないただの風景だ。そんな景色に見とれることもない。別に感動的な情景が眼前に迫ってきているわけではないし、目に映る光景が心に響くこともなく、ただ薄ぼんやりとオレンジ色に彩られた夜明け前の空を眺めながら、道沿いに植えられた街路樹から聞こえてくる鳥のさえずりに耳を傾けている。ここで周囲を見渡した限りの有り様は、とりあえずこんなところか。いつもの作業は、ありふれた風景の中でありふれた言葉を刻んでいるようだが、それで意識は満足しているのだろうか。とりたてて満足しているふうではないが、それはそれで一向に構わないし、今はそれ以上の言葉を導き出すことはできない。何やら意識は腑抜けた状態で覆われているようだ。たぶん、今しばらくはこんな状態で時が過ぎ行くことを望んでいるのだろう。そう思い通りに満足いく内容を導き出せるわけでもない。気がつくとこうして言い訳に終始してしまうが、今はそれ以外のやり方ができないようだ。だが、今以外ならできるというわけでもなく、できないときはできないし、できるときはできるのだろう。
6月11日
今までやってきたことの積み重ねの結果が、こうした継続なのかもしれないが、毎度おなじみの繰り返しの中で、やはりそれは毎度おなじみの問いになってしまうだろう。ところで今日は何を語りたいのだろうか。何も語りたくないが、たぶん何かを語ってしまうだろう。なぜ語るのかはよくわからないが、どうしても語りざるを得ないようだ。しかも何もないのに語らなければならない。まったくどうにもならない状況の中で苦しんでいるらしい。確かにそれは苦しみには違いないが、苦しまなくなる可能性のない苦しみだ。苦しむこと以外にやりようがない。ただ苦しみの中から、苦しむことに耐え続けているだけなのかもしれない。ここで目指されていることは、さらに心の底から苦しむことだ。もはや苦しみからの解放はありえない。とことんまで苦しみ抜いた先でもっと執拗に苦しむべきなのだ。苦しみ抜いた先の更なる苦しみの後に、また別の苦しみが待っている。生きている限り、いつまでもどこまでも苦しみにつきまとわれるはずだ。たぶんそういう苦しみに耐えられなくなった時点が、死を迎える瞬間になるのだろう。だから人は死ぬまで苦しまなければならない。たぶん喜びも悲しみも、それぞれ違う種類の苦しみを導くのだろう。人は喜びながらも苦しみ、悲しみながらもまた苦しむ。苦しむからこそ喜び、また悲しむのだろう。もちろんそこで悲しみに比べて喜びは、苦しむことからは縁遠いように思われるが、それは喜んでいる瞬間に同時に苦しんでいることになかなか気づかないだけなのであり、喜びが長続きせず、また新たに喜びを求めなければならない苦しみを、なかなか感じ取れないだけなのだろう。そこで、いつまでも喜んでいるわけにはいかないのに、意識の方は喜びの余韻に浸りながら、いつまでも喜んでいたいのであって、それをやりたいのにできない苦しみがあり、さらにそういう意識と現実の板ばさみ状態に苦しんでいる。そんな風にして、喜びは絶えず苦しみしか生み出さないのに、それでも人は一時の喜びを求めて苦しみ続ける。一時たりとも、喜びを求めないわけにはいかないのであって、それはまた直しようのないどうしようもない習性であり、それを求めることも無理して求めないことも、それぞれ別の苦しみに耐える羽目に陥るのだろう。
6月10日
今日はやけに空が低い。たまには湿り気を含んだ強風が乾いた大地を適当に濡らし、見せかけの表情がどこまでも潤っているかのように映る。その一方で、何も見出せない意識は光に飢えているのかも知れない。やがて気休めの薄日が、午後の光としてつかの間に射し込んで、あいまいな明るみの中に、不動の意志が存在することを再確認させる。しかし、今受け入れ可能な現実とはこんな現実でしかないのか。いったい午後の時間の中で何を見出そうとしているのだろうか。たぶん何も見出せないだろうし、何かしら見出すかもしれないが、それが何なのかはっきりとは捉えられないだろう。何かしら具体的な事物が見出されることを望んではいないようだ。とりあえずそれなりに導き出される言葉と戯れていれば、それで満足しなければならないのかもしれない。またそれ以上を望む状況にはないような気がするほどの希薄な空虚に満たされている。しかしそれは本当に空虚といえるのだろうか。現実に即して解釈すればただの転寝でしかないだろう。眠気とともにやってくる軽い意識の空白を、希薄な空虚といえば、それはそれでなんとなくそうなのかもしれないが、改めてそんな言葉で言い表す必要はない程度のことでしかない。要するに文章の中にそれ風の言葉を配置させたいだけなのだ。それで間を持たせようとしているらしい。見え透いたごまかしにしか過ぎないのか。そうかもしれないし、そうであってなんら不都合を感じさせない状況の中にいる。そんなどうでもいいような状況に巻き込まれているらしい。だが今は、それ以外の状況を望めない場所に存在している。身動きが取れないように、不動の意志に絡めとられているらしい。
6月9日
冗談でなく、どうも相変わらず言葉がまとまらない。これまでにその時々で何かしら適当なことを述べてきたが、まだ記述とそれに伴う配慮が足りないようだ。だが、いったい誰がそんなことに気を配らなければならないのだろうか。そこで何を感じ取っているのだろう。確かにそこで何かを感じ取っているのかも知れないが、それが些細な思い違いなら、どんなに気が楽なことか。本当に何かが違っているような気がするだけなのか。表面的な実感としては、この世界はどこへ行っても何も変わらないような気がする。たぶんこの地上のどこに暮らしていても、誰もが同じような習性を身につけられるのかもしれない。一見のどかで牧歌的な風景の中にも、どこにでもありふれている人々が暮らしている。たぶん彼らはごくありふれた平凡な人生を送りながら、やがて静かに死ぬ運命にあるのだろう。現状に思いをはせる限り、この世界の先行きはどこまでも不透明だが、同じような人生を送る人々は、依然として世界のいたるところで同じような暮らしを体験しつつある。そのような共通感覚は、この世界の根底に横たわる普遍的な観念を形成しているのかも知れない。一応は誰のもとにも日の光が降り注いでいる。しかしその光を利用できる者は限られていて、ほんの一握りの者たちに、集中して利用する権利が与えられているにすぎない。その他大勢の人々にとっては、日の光が何をどうするものか気づく権利さえないだろう。装われたわざとらしさの中に、誰もが道化を演じなければならない真の理由が見出される。
6月8日
大陸の中西部の土地では、空気が完全に乾ききっていて、空は見渡す限り晴れ渡り、どこまでも高く、天に向かって突き抜けている。暗く痩せ細った魂はそんな大地にへばりつきながら、どんな夢を見るのだろうか。どうせ何も見やしないだろう。どこへ行っても、どのような環境においてもまともな安らぎは得られない。つかの間の休息はつかの間で終わるだけで、見せかけの大地は見せかけのまま、その地平線はどこまでも続いてゆく。何の変哲もなく、当たり前のように存在する、この空と大地に挟まれて、はるか遠くの湿った土地から引きずってきた心境は、ここにいたって、未だ変化の兆しなど何も見せはしない。そこに暮らす人の言葉と外見が変わっただけで、この世界を感じる心は、以前とまったく同じ姿勢を崩さない。いやそれどころか、ますます不動のスタンスに近づきつつあるようにも思われる。なぜそれほどまでに変化を拒むのか、それは何によって制御されているのか、そこで相変わらずの皮肉な状況ばかりを感知してしまい、それに感応した言葉を選んで、空虚をもたらす結果をさらに増幅させるように吐き出し続ける。素直な感動をことごとく裏返すような言葉を使って、無意識のうちにその場の状況に挑んでしまっている。要するにそれは無駄な抵抗に属する徒労の一種なのかもしれない。何かを避けつつ、その何かに捕獲され、そこへ向かって吸い込まれていってしまうわけだ。まさにそんな状況に魅入られているのかもしれない。結果的にそんな状況へ行き着く成り行きを、これまた皮肉交じりの視線が冷ややかに眺め見下しているのだ。しかもその皮肉な視線を投げかけているのは、皮肉な言葉で徒労を重ねている当人なのだから救われない。要するにそれらは単なる独りよがりでしかないらしい。いつもの神経過敏症が再発したのだろう。ひ弱な人間が旅先で気疲れを起こしているに過ぎない。しかしそれも、わざとそんな心境になって、それを基として言葉を導き出すためにやる戦術のひとつなのだろう。
6月7日
なぜかおかしな幻影が唐突に現れる。移動によってもたらされたその幻影は、どのような状況を呼び込んでいるのだろう。いつもの環境における内容とは何かが食い違っているようだ。人工的に構築された閉塞空間から、何らかの心象風景が導き出されているらしい。それがどのような感覚に基づいているかは不明確だが、通常の感覚からするとそれらは著しい圧迫感を伴い、心身に多大な不快感をもたらすようだ。地上を離れて高速で移動する乗り物の内部には、人の行動する感覚から逸脱した過剰な何かが詰まっているらしい。その内部に穿たれた空間は、通常の自然環境から大幅に外れた不快な空気によって構成されている。地球の自転に逆らって昼夜を通り過ぎる間、ただ何も言わぬことを継続しながらも、その空間を管理する人員によってもたらされる、有無を言わせぬ規制の言動で行動の自由を奪われながら、完全には意味を解せぬそれらの言葉とともに、経済効率を最優先にした制度がもたらされていることを受け入れざるを得ず、それが疎外感とともに苦痛の痕跡として確定する段階で、一刻も早くそこから逃れたいと願う他愛のない希望が、一定の時間をそこで我慢することで実現することを悟らされる。とりあえず狭い空間の中に多数の人々を効率的に押し込めて、高速で移動させることから生じる制度の支配を黙って受け入れていれば、遠からず開放の時はやってくるだろう。だが意識の中では、そんな当たり前の現実とは相容れない快不快の感覚からすれば、それらの結果としてもたらされる功利からはかけ離れた次元で繰り広げられる、快適さの幻想を追い求め、眠気に逆らいながら心の隙間に入り込む、うんざりする不快感を受け入れられずに、文字を刻むことで何とかやり過ごそうと、こうして無駄な努力を繰り返す。窓の外にはすでに夜の闇が到来しているが、その機械がもたらす高速移動は、真昼の感覚で夜を体験させ、結果として心身のリズムを著しく狂わされ、通常では考えられないような荒唐無稽の幻影を無理にも出現させようとしているらしい。
6月6日
なぜそんな顛末を呼び込んだのか、ことの始まりはいつもわけがわからない。それが何を述べているのかはっきりしないが、近景と遠景ではとりあえず物事の捉え方が異なるらしい。でたらめな比喩で、ただ何もないことの埋め合わせで間を持たせているだけかもしれないが、そうやって描き出される世界の裏側で何かが渦巻いている。君が眺めているのは複数の映像を映し出すスクリーンに過ぎないが、遠くの画面には二種類の異なる映像が交互に映し出され、近くの画面の背景からは騒音交じりの音楽が垂れ流される。そしてさらに遠くのスクリーンに映し出されている映像には、効果音と肉声以外の音が欠けている。辺り一面を覆う飛行機の騒音によって、耳で聞き取れることの可能なすべての音が掻き消されている。だがよく考えてみれば、撒き散らされているそれぞれの音が、どのスクリーンの映像に対応しているのか定かでない。このような状況の中で、なぜ安眠が可能となるのだろうか。騒音によって神経を疲れさせることで、無理やり泥の中の眠りに引きずり込もうという趣旨に基づいているのかもしれない。そこで意識には何がどう響いているのだろう。誇張されたデフォルメを被っているアニメ的な表現を超えて、ただ異常な環境の中で通常の作業を推し進めているのだが、記述される言葉の内容は著しく正確さを欠き、その半分は虚構の作り話になりざるを得ない。耐え難い飛行機の爆音が影響しているらしく、意識は頭痛とともにでたらめな言葉を排出したがるようだ。まるで頭の中で非常警報のサイレンが、途切れることなく鳴り響いているような錯覚に襲われる。こんな環境でまともなことを記述するのは到底不可能だろう。
6月5日
今日はまた一段と暑くなってきた。どうやら季節は一時的な夏になったらしいが、それほど湿気は感じられないようで、暑くとも乾いた空気の中にいる限りそんなに不快ではない。もっともこの暑さに湿気が加わると、とたんに耐えられなくなるのだろう。そんなうんざりするような蒸し暑さがやってくる日も近いだろう。もうすでに、この暑さでハエのような人々が大量発生している地方もある。なにやらスタジアム周辺では、浮かれている者がおびただしい数に上っているらしいが、そんなところで浮き足立っているのは誰だろう。たぶん誰もが浮かれ、浮き足立っているだろう。もう何をどうやっても我慢ができないようだ。ただ冷静になれない状況で冷静でいられないのは、いたって自然なことであり、無理に冷静さを装うのよりは、精神衛生上は良いことかも知れない。何よりもそれらのハエ人間たちは、多少は暴力に飢えていることがあっても、一時的にはこの地域の平和の象徴になっている。そうしたハエたちを害虫として駆除することなどできはしない。今や誰もがハエの味方であり、それらの現象を報じる者たちを養っているのもハエたちなのだ。ハエにサポートされている者たちが、ハエをサポートするのは当然だ。そのような相互補完に基づいて、この世のハエ天国は成り立っているのだろう。大衆と呼ばれる人々は、蝶のように舞い、蜂のように刺す、という行為に及ぶ特権的な者たちを眺めつつ、アリのように働き、ハエのようにうるさく飛び回る宿命にあるのかもしれない。
6月4日
周りの環境から何も見出せないとき、たぶんそのこと自体は問題ではないようだ。ではいつもの無内容から導き出されたそれは問題なのだろうか。誰がそれを問題だと感じているのか。いったい誰の了承を得てそれが問題だとみなされるのだろうか。誰とは自分のことかもしれないが、安易な問題は往々にして安易な回答を引き出し、一方で、深刻な問題は返答そのものを遠ざけるだろう。さらに安易な言い回しに終始するなら、安易な回答や返答できない沈黙が、それらの問題そのものを形作っている場合があり、それは問題以前に出される、問題を構成するために用意された事前の回答なのかも知れない。この場合、回答は問題に先回りして、あらかじめ問題の質を調整する役割を担っている。つまり回答は問題を問題至らしめる原因なのだ。たぶん沈黙を引き起こす問題が、そのような沈黙を想定して形作られているわけだ。無論、そんな回答では問題を解決できないが、必ずしも回答は解答でなくてもかまわないのであり、回答によって問題が解かれる必然性はない。むしろ黙して語らない行為こそが、効率的な対話の省略形態になる場合もある。実際、何を語っているのでもなく、何も語らないことに耐え続けることは、時として、それが問題に対する対処法として有効に用いられたりする。沈黙は沈黙すら語り得ないことこそが、ある局面では効果的な武器になりうる。その反対に饒舌な語りは、沈黙について多種多様な解釈を生み出すかもしれないが、それらの解釈は沈黙とは無関係の無用な解釈に陥るだろう。何も言わぬことによって、沈黙は饒舌を欺いている。だが、何も言わぬ人間に何かを言わせようとするのが、現代の情報化社会といえるかもしれない。テレビ画面上でおびただしい数のマイクを突きつけられている者たちは、それらの象徴を体現している。
6月3日
どういう風の吹き回しか、それはただの気まぐれにすぎないかも知れないが、わざと隙だらけに振る舞ったとしても、何も罠にはめようというのではない。ただほんの少し冗長な言い回しに疲れただけかも知れない。ふと振り返れば、ただ振り向いている自分が見いだされる。誰かを出し抜くために先回りしたわけではない。むしろ出し抜かれているのは自分の方だ。調子に乗ってここぞとばかりに先回りしたつもりが、途中で必要以上に悪ふざけをやったぶんだけ、素直に努力した者達よりもかなりの周回遅れに陥っていることに気づく。だが同じコースをぐるぐる回っているだけの彼らにはない、貴重な体験が積み重なったような幻想を抱いている。たぶんそれが貴重だと思われるのは気のせいだろう。そんな気休めとともに、さらなる逡巡を繰り返す。それが宿命だというのではない。運命とも宿命とも異なる、単なる偶然の成り行きに依存しながら、すべて違うパターンで空虚を反復しようと試みているようだ。まったくご苦労なことだ。そんなことを繰り返せば疲れるだけだろう。彼は必要以上に疲れることを望んでいるらしい。だから意識して無駄な逡巡を繰り返す。だがそれをやっているのは彼だけではない。疲弊し消耗するのが生物の基本的な性質であることを誰かがどこかで述べていた。しかし、そんなレベルで無駄な疲労を説明するのはおかしい。そんな説明ではつまらない、ただそれだけの理由で無理矢理くだらぬ屁理屈をこね回す。そういう展開で満足できるのか。それは展開ではなく、よくありがちな閉塞ではないのか。飽きが来ているのだろう。違うパターンで同じ空虚を反復させようとして、それが不可能なことを無意識のうちに悟っているのかも知れない。いや、可能とか不可能とか、俄には判断できるようなものでもない。本当に空虚を反復させようとしているのだろうか。そんなものがどこにあるというのか。空虚とは具体的にどんなものなのだろう。中身のないもの、例えば以上に展開された逡巡の軌跡が空虚だと見なせるだろうか。そう思えばそんな風にも思われる。しかし逡巡という言葉を多用しているわりには、何をためらっているのかはっきりしない。これ以上続けていいものかどうか、はたして続けられるのか、それを現実に続けてしまっていることに、いかなるためらいがあるのだろう。樹木が枝葉を茂らすことに何か理由があるだろうか。それと同じようなことでしかないのかも知れない。どこでやめていいのかはっきりしないのは、成長し続ける植物が自ら成長を止めることがないのと同じようなものか。たぶん外部からの作用が加わらない限り、このまま、まだもうしばらく続いて行くのかも知れないが、とりあえず近々数日間の空白がやってくるらしい。
6月2日
上がり下がりの途中で脇道に逸れるのはいつものことだ。別にそれほど歯車が狂っているわけではないが、歯車ならいつでもどこでも狂っているはずだ。そうでないとここから先へは進めない。しかしここから先へ進んでどうするのだろう。もうすでにだいぶ前から、ドブに片足を突っ込んで身動きが取れないではないか。その滑稽な格好をどうやれば修正できるのか、未だに良い案を何も見いだせずに困り果てているようだ。口先だけは猪突猛進のように威勢が良かった昔を懐かしんでいるらしい。だが誰を批判しているわけでもない。批判する勇気を失って久しい。誰も批判せずに誰かを批判しているような雰囲気を醸し出す。そんなまやかしがどこで通じるのだろう。どこでも通じているとは思えない。通じさせようとさえ思っていない。それでもなぜか通じないことをごり押ししているようだ。それが何のためなのか、そんなことはわからない。たぶんそうすることしかできないので、仕方なくそうしているのだろう。そうやって君は徐々に哀しい人に近づいてゆく。だがここで君とは誰のこと指すのだろう。君は私ではなく君でしかない。君に何らかの実態は与えられていないようだ。単に話を進める上で君という単語が必要だったのだろう。つまり、ここから先へ話を進めるためには、彼とともに君という言葉も必要になる、ということなのか。そんな理由で君は満足できるだろうか。だが、ここで君が満足しようがしまいが、彼にとってはどうでもいいことかもしれない。ここから先へ進んで彼はどうするのだろう。ドブに片足を突っ込んで身動きが取れないのは彼なのか。
6月1日
いつも謙虚に振る舞うこと、それは殊勝な心がけかも知れない。弛まぬ努力の末に、いずれ適当な未来を手に入れるだろう。控えめなやり方はどこまでも控えめな成果を期待されている。それは連続的な前進と後退を同時に体験することに繋がるだろう。そのやり方では、突発的な飛躍は期待できないし、それをやりたいわけでもない。今は何もやりたくないのだろう。そのやり方とは何もやらないことかも知れない。停滞した時空に湿り気を帯びた空気が滞留している。気怠い雰囲気がすべてを覆いつくしている。そんな状況の中で何もやらないことを控えめな形で押し進めること、それが弛まぬ努力の正体なのか。それでも刻一刻と清算の時期が近づいている。どこからともなくすべての方向から、それらは近づきつつある。それが到来した時、君にはどんな代償を払う用意があるのか。その時が来てみないことには明確なことは何もわからない。現状では気の利いたものは何も用意できないかも知れない。今ここにあるのは、使い物にならない空っぽの頭と、隙だらけの神経だけか。今も憔悴しきった顔で何も映っていない画面を覗き込んでいる。たぶんお望みの結末とはこんな具合になるだろう。それは予言ではなく、今ここにある現実のことを述べているのかも知れない。ここにあるのはここではないどこかにあるかも知れない想像上の現実だ。ことの真相を隠すために、ありふれた空想がここに提示されている。それはいつものやり方なのだ。弛まぬ努力とは、始めから終わりまで終始嘘を突き通すことにあるらしい。漲る活力とは無縁の地平で、誰かが放心状態で彷徨い、いつか未来の欠片に出会うだろう。おそらく君にはまだ救いがある。安易な救いを執拗に拒絶し続けているその姿勢が、ある意味では唯一の救いかも知れない。
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