彼の声30
2002年
5月31日
どうやら文化の担い手を自称している人々は、大げさなイベントの周辺に群がっているようだ。それらとは関係のない無意識は、暗闇の中で適当な居心地を確保している。無駄を贅沢と取り違えている者は、ソファーがないとくつろげない。そうした勘違いに敬意を払わねばならないだろう。眠たいのに眠れない原因も、そうした状況に起因しているのかもしれない。できることなら下らぬ安眠妨害とは無関係でありたいが、気まぐれな犬の鳴き声で魘されている者のために、眠気覚ましのサイレンがいるらしい。理性に依存する者は、おおかた精神分析にでもイカれているのだろう。この霧を抜け出ると、たぶんベニスの都にたどり着くだろう。その別バージョンが、長いトンネルと抜けるとそこは雪国だった、となるらしい。しかしそこからさらに道が続いている。どこまでも続いているのは、おざなりに出現した田舎のあぜ道なのか。田植え前の泥の中で身動きがとれずに前のめりに倒れそうになる。だが倒れそうで倒れないのは、山田の中の案山子を撮ろうとする意思に支えられているからなのか。それは唐突な冗談にしては笑えないだろう。一度は放棄された歩みだったが、なぜか裏道を利用して人知れず再開されていた。そうこうしているうちに、森の都から砂漠の村へと視線が移動する。やはり物語の中の詩人には砂漠での死がよく似合うらしい。それが見え透いた伝統なのか。とりあえず今は二歩進んで三歩下がるべきだろうか。確かベニスは水の都だったはずだ。そこは森の都でも砂漠の村でもないが、こうして虚無の中に嘘偽りの集合体が構築されつつある。それと入れ替わりに、でたらめなに感性よって裏打ちされたわざとらしい詩片は、どこかの排水溝に打ち捨てられたらしい。彼は別の光景を見出したかったようだが、誰でも盲目になれるわけではない。選ばれた者達は自然と眼が見えなくなるようだ。眼が見えなくなるのと引き換えにして、天井板の木目模様が想像される。
5月30日
閃きは一瞬のうちに色褪せ、たまには虚無以外の何かが頭の中に思い浮かぶこともあるようだ。つかの間何かを思いついたが、次の瞬間には忘れてしまった。たぶん意識して忘れようと努力しているのだろう。自意識はいつも忘却作用に身をまかせているらしい。それらをどう解釈しようと、意味の通らない営みをまだ続けようと焦っている。必然性には左右されない意思でありたい。だがそんな願望に凝り固まっているわけにはいかない。さらに前に進まなければならないし、もっと後戻りしなければならないだろう。これ以上ここにとどまり続けることなど不可能だ。今は肉体にも精神にも依存していない。前もって何に対しても依存関係を放棄している。だが、だからこそ独立した魂はありえない。魂などに言葉を依存させるわけにはいかないからだ。常に原因不明な言葉を出現させるべく、何も導き出さずに意味のない空虚と戯れる。そして次の瞬間、閃きを色褪せさせるような台詞を闇の向かって呟きかける。当然ことそこには何もないはずだ。中心に近づいているつもりが、中心から遠ざかりながら、ただ中心を見つめているだけに過ぎない。そこですでに迂回が始まっていて、その心は限りのない逃避願望に染まっている。逃げ足が速すぎて言葉による追跡が間に合わないようだ。逃げ道を防ぐ暇など端から存在しない。もうあれから三日も経っている。もはや作業の遅れが慢性化してしまった観もあるが、それでも何とか、曲がりなりにもやり続けているらしい。まったくご苦労なことだ。もういい加減やめたらどうか。
5月29日
いつものことだが、何もやらないうちに深夜になってしまった。それでも何かをやろうとして、あくびをしながら起きているが、結局は何もできないでいる。そして、何もできないことからくる焦りと煩悶は、真夜中から明け方にまで引き延ばされ、絶えず襲ってくる睡魔に逆らいながらも、相変わらず無為な時を過ごしている。それは別に試練ではないかもしれないが、眠気に耐え続けていること以外の何に耐え続けているのだろう。たぶんそのような状況に耐え続けているのだろう。そうやって何もできないことにひたすら耐え続けている。さらに絶え続けながらも、何かの到来を待ち続けているらしい。その何かとは自分の想像が及ばない何かだ。変化への期待とはそのようなものなのだろうか。だが、その中身については明確なことは何もわからない。また、決して自分の思い通りには行かない未来への変化に、どんな希望を抱けばいいのだろう。しかしこの期に及んで希望を抱く権利があるだろうか。その権利とはなんだろう。何によってその権利は保障されているのか。確かに権利としか言い表せないような成り行きなのかもしれないが、実際、そんな権利などどこにもないことも確かなようだ。そこで終われないことへの苛立ちが、終わることへの恐れへと変貌して、苦し紛れの継続によっていつまでも完成とは無縁でいられる。そうやって焦りと煩悶が継続されているようだ。不完全な生成への苛立ちが、更なる継続を可能としている。しかしそれは可能ではなく、不可能の継続かもしれない。ただ完璧を目指す完結性を求めているわけではない。いつまで経っても完成されないことに苛立ちながらも、その一方で、完成され完結してしまっては困ると思い続けているらしい。つまりこの苛立ちがなくなったら困るのであり、それがなくなったときが完成され完結したときであり、そこで終わりなのかもしれない。これらの継続は終わりへと向かっているのだろうか。すべては未来の成り行きが決めることかもしれない。
5月28日
なぜか外は久しぶりに無風状態らしい。風のない静寂な空気に包まれた時間において、夜の闇は自分に向かって何かを語りかける。その何かが何なのか、それは自分の思い過ごしから生じる空疎な内容になるだろう。それがなぜ空疎なのかよくわからないが、闇に代わって何かを語る前から、自分にはその内容が空疎だとわかる。理由も根拠もなく、ただその内容は空疎なのだ。その内容については、いくらか思い当たる節もある。それについて誰が何をどう考えようと、考えられる範囲はおのずと限られていて、それを補うために用意された書物の中の引用句などにも、言葉に特有の限界がある。だがその限界が何なのか、俄かには示すことができないでいる。なぜ理由も示さずに限界があると断言できるのだろう。ただそんな気がするだけで、本当は限界など何もないかもしれないが、人の生に限界があるように、やはりその限界のある人間が記述した書物の中の言葉にも、何がしかの限界があると感じてしまうが、その限界が何なのか、具体的な理由や根拠は示せない。たぶんその辺が限界なのだろう。確かにそう感じてしまう自分の思考には限界がある。その限界を打ち破ることは現時点では難しい。感覚的には自分が語っている内容は空疎で、その思考にも限界があることはわかるが、なぜそうなのか、その理由や根拠を示せないことにも限界を感じている。そこに自分の限界があるらしい。しかし限界があろうとなかろうと、それとは無関係に今日は過ぎ去ってしまうだろう。今日が過ぎ去って明日になり、明日も過ぎ去ってあさってになってしまう。その今日とはどんな日だったのか、今日は暑かったのか寒かったのか、たぶん昼間は暑かったかもしれない。そして今日はなんら特別な日でないし、なんら特別な時代に属しているわけでもない。そんなありふれた時代のありふれた世界で自分は生きているらしい。だがありふれているのは今の時代や世界に特有の性質ではない。その他の時代においても、この時代と同様にありふれた世界にありふれた人々が暮らしていたに違いない。今が特別でないのなら、特別でないこともありふれていなければならず、そのほかの時代でも、特別でない状況がありふれていなければならないので、この時代と同様に他の時代においても、ありふれた状況で覆われていなければならない。だがなぜそうなってしまうのか、今はその理由も根拠も示せないが、ただ自分にはそう感じられてしまう。たぶんそこでは、この世界は常に共通の価値観の下に単純化されていて、その情報がさらに単純化されたスローガンとなって、世界中を駆け巡っており、その単純化されたわかりやすさによって、それらの情報を享受する人々を安心させているのだろう。ではそのわかりやすさが人々にもたらす結果とはどのようなものになるのだろうか。それはすべてがありふれていることだ。この世に特別なことは何もなく、ここで起こることすべてがどうでもいいことになるということかもしれない。そんなどうでもいいことによって、地球上のどの地域の住民とも、容易に意思疎通が取れるような幻想とともに、それらのありふれた人々は日々を暮らしているのだろうか。自分もそれらの人々のうちの一人なのかも知れない。
5月27日
たまには通り雨に濡れながら家路を急ぐこともあるらしい。深夜に至って意識の振り子が躁から鬱への往復運動を繰り返している間に、空模様は、にわか雨の断続から雲ひとつない快晴へと移行していた。そんな天候の変化に伴って、気まぐれな心境も様々に変化しているようだ。差し障りのない範囲内で、いつも行ったり来たりの逡巡を繰り返している。それでも少しは気晴らしになるのだろうか。同じような変形を被りながら、さらに同じような内容を繰り返しているかもしれない。その結果、同じ軌道上を使い古された言葉の群れが巡回している。それは何か違う内容が出現するのを恐れているかのように、ひたすら一定の無内容を保持し続ける。たぶん意識は、そこから脱却しようとは思わないのだろう。むしろ懸命にとどまり続けようとして、無意識のうちに同じ言葉を使って、同じ内容の違う配列を構成しようと試みているのだろう。そうやっていつも無駄なことをやっているのかも知れない。それが自意識には不満なのか。だが自意識が目指していることも無駄な試みだとしたらどうだろう。なぜそれらの試みが無駄だと断じられてしまうのだろう。有意義な内容にする自信がないので、あらかじめ無駄だと述べておけば、どんな内容になろうと、焦ることなく事態を収拾できるとでも思っているのだろうか。そうやって先回りしてつまらぬ内容に対する予防線を張っているのかもしれない。たぶんそれが無駄な試みなのだろう。あらかじめ無駄な試みをやっていると述べておいて、実際に無駄な試みをやってみせる。こうして同じような内容が飽きもせず繰り返される。それが構成的には思うつぼの展開であるらしい。無駄な内容を繰り返すための無駄な試みなのだろう。すべては無駄へ向かって無駄の周囲を無駄な逡巡で経巡り続けている。そして何を述べているのかわからなくなる。それがいつもの内容の繰り返しとなっているらしい。いくらそれを無駄だと断じようと、今はそれ以外にやりようがないのだから、半ばあきらめの境地でそうしているだけのようだ。確かに無内容とはこういうことなのだろう。そういうテクニックの行使は無駄で無意味なことかもしれない。
5月26日
それは時間稼ぎの一種だろうか。いまさら徹夜をする気力はないが、以前に体験したときと同じような状況になる。同じ言葉を巡って様々な意味が導き出され、確かなものを何も捉えられずに、結果として、それらの文章は著しくまとまりに欠けているようだ。だがそれ以上のものを導き出せない以上、とりあえずそれを提示する以外に方法はないらしい。そんな巡り合わせに従うしかやりようがない状況に追い込まれている。たぶんそれでなんら不都合はないだろうが、それが好都合な状況であるわけでもない。それにどのような評価をつけようと、それはそれ以上のものになりようがないだろうか。怠惰に逆らいつつも、結果として虚無を形成するだけの無限循環に陥りつつも、なぜか中身が希薄なまま続けてしまっているようだ。それ以外にどうすればいいのかわからない。やろうにもできないし、やめようにもやめられない。今はただそれだけで継続する以外にやりようがない。しかし、それでどうやって気の利いた言葉を導き出せるのか。無意識のうちに、外部からの力に期待しているのだろうか。冗談で、月の引力にでも頼ってみるか。いまさらバイオリズムを信じられるだろうか。確か昔、月に向かって吠えた詩人がいたらしい。人には狼の血が流れているのだろうか。狼男ならそれでもいいのかもしれないが、今は近所迷惑だし、気が触れたと思われては何かと面倒なので、その気にはなれない。どうやら満月かそれに近い月が雲の合間から見え隠れしている光景を、無意識が目ざとく利用しようとしていたらしい。まったく油断も隙もあったものではないが、こうしてつまらぬ記述を続けているうちにも、外部は自らに何かをもたらしているのだろうか。例えば外部からの影響による心境の変化に沿って、やり方も昔から徐々に変わってきたのだろうか。見たところ同じような内容に思われるものも、よく読んでみれば僅かながらも徐々に変化の兆しが見られるだろうか。今の自分には、よく読んでいる暇がないのでわからないが。
5月25日
天から何かが降ってくる。太陽から日差しが降り注ぐ。たぶんフロントガラスに付着した水滴は通り雨だろう。ここから遠く離れた地域で、様々な事件や事故が起きているらしい。中には多数の人々が傷つき命を落としている状況もあるようだ。運命とは皮肉なもので、偶然に生じた暇を利用して出かけた先で、帰らぬ人となってしまうこともあるらしい。なぜかある晴れた日に天から隕石が降ってくる。それが人跡未踏の地ならどうということはないだろう。過去と未来を先取りして、何らかの衝撃を感じている。別に何に驚いているわけではなく、何に対しても関心がなく、どんなことが起きても驚きようがない心的状態の出現に驚いている。末期の目に映る光景とはそのようなものになるだろうか。末期とはどういうことなのか。もう終わりが近いということかもしれない。やっとそれらの労苦から開放されるときが近づいているということらしい。だが、たぶん誰も解放されないだろう。人々は開放されることに無関心なのだ。それどころか、そうなってしまうことを積極的に望まない。骨の髄まで囚われの身でいることが好きなのかもしれない。末期に至る前に、もと来た道を引き返すだろう。そうやっていつまでも絶望の心地よさに浸っていたいのだ。喜んで悲観論を述べるときのうっとりとした様子には、どこでも見かけられるあのいやらしい偽善の仮面がへばりついている。物語の世界へようこそ、哀れむべき囚人の世界が地球全体を覆うその時まで最後の審判は訪れないだろう。だがその最後の審判も大した事件にはならない。気の触れた宗教の狂信者が神に救われるぐらいで、一般人にとってその種のイベントは、まったくの無関係だろう。それでも何らかの救いを期待している者がいるのなら、数十億年後に降臨するらしい、弥勒菩薩の救済対象者にでも加えてもらおうではないか。どうすれば救済対象者になれるのかはわからない。何らかの大乗仏教の経典でも読んでみれば、それを知ることができるかもしれないが、今はそんなものを読んでいる余裕がないので、とりあえず自分はあきらめなければならないだろう。たぶん、この世ではいつまでも欲望の虜でいることが正解なのかもしれないが、正しい姿勢をとろうとする気力に欠けているらしい。だがそうかといって、この世に見切りをつけたいとも思わず、あの世の存在なども信じられるはずもなく、何の取っ掛かりも見いだせぬまま、このまま中途半端に生きていくことになりそうだ。しかしそれで生きていることになるのだろうか。生きることにも死ぬことにも積極的な意味や意義は見いだせない。生きていること自体はどうすることもできない。
5月24日
エピソードとはなんだろう。それは誰の話でもなく、君についての挿話だ。物語の冒頭から調子がおかしい。その始まりにおいて、君は見ず知らずの人からいきなり咎められる。何も悪いことはしていないつもりなのに、これはいったいどうしたことだろう。事前に通りすがりの誰かに告げ口されたらしい。大方あらぬ濡れ衣でもかぶせられたのだろう。たぶん挿話とは、そんなきっかけでいきなり始められたりする。本筋とは関係のない話なのに、なぜかそちらのほうが面白い。だが、ここでは話の内容が意味不明かもしれない。実際、中身が空っぽなのだ。不意に立ち止まり、突然振り返って後ろを向いたと思ったら、あらぬ方向からわけのわからぬこだまが聞こえてくる。そのこだまの内容を聞き取れない。またそこで誰が振り向いたのかがわからない。なぜか君は、そこで現状を書き写すことに汲々としているようだ。そこで何かを取り逃がしていないだろうか。誰かが見つけた些細な自然現象に、そんな大げさに驚くこともないだろう。作業がもたついているのは、単なる怠け心と記述する内容の不在によるだろう。いまさら焦ってみてもどうなるものでもない。科学的にはとっくに解明されている現象について、あれこれ後から感想を付け足すには及ばない。誰が何をどう思おうと、すでに結果は提示されていて、それを、何の権限もない君が覆すことなどできはしない。科学などはすでに廃れつつある。多くの人々は、それについて考えることを怠っているようだ。今も昔も、それに携わっている人間は、ごく小数に限られているのは変わらないが、もはや、新たな発見が社会にもたらすインパクトはほとんど感じられず、その影響力は昔に比べてかなり縮小したように思われる。世紀の発見と騒がれた相対性理論も量子力学も、今や店晒し状態かもしれない。それらの理論がその後どんな進展を見せたか、ほとんどの人々にとっては無関心な挿話にすぎないだろう。君もさっきまでは何の関心も示さなかったはずだ。それが気に入らぬ状況なのか。この世の中に知らないことがあるのが不満で、それらに関して何か訳知り顔で利いた風なうん蓄を披露したいのなら、インターネット上で調べてみればいいだろう。
5月23日
昨晩は何かに追い立てられている夢を見たようだが、どうも記憶が不鮮明で、その内容を詳しく説明することは困難なようだ。現実の世界で借金取りにでも追われているのなら、なんとなく状況が飲み込めるが、そういうわかりやすさとは無縁の心理状態であるらしい。自分には心がないので心理的な作用とは無縁だ。心のない人間はすぐに嘘をつくらしいので、たぶんそれは嘘だろうが、今こそ心を入れ替えて、まともな魂を獲得しなければならないだろうか。また、心にもないことを述べている。夢で嫌な思いにさせられたことは何度もあるが、どうもうんざりするような嫌な思いを避ける方法はないようだ。もちろん嫌な思いにも程度の差があって、少々のことでは嫌な思いのままでもいられるので、嫌な夢を見たぐらいでそれがどうということはないだろう。夢から覚めてそんな現実に直面しているにすぎない。朝の日差しを浴びたとき、ただ、口の中の苦さに気づいた程度のことだ。もちろん本当はそんなことでなく、何か別の嫌な思いを心の中に封じ込めている。このところ何かに耐え続けているらしい。しかしそうやって自らにストレスを加え続けていると、終いには体調を崩して何らかの病気にかかってしまうかもしれない。胃潰瘍が悪化して胃癌にでもなったりするだろうか。そうなるとどこかで誰かが喜ぶわけか。少しでもそんな兆しがあれば幸いなのだが、それがなんで幸いなのかは自分にはわからない。だが、まだ正式に胃潰瘍になっているわけでもなさそうなので、いきなり胃癌はないだろう。それに近頃の風潮は、胃癌ではなく大腸癌になるのが流行りらしい。日頃の暴飲暴食が祟ってしまうわけか、それとも食習慣の変化に伴って肉類の食べすぎだろうか。まるで心当たりがないわけではないが、そんなことまで心配し始めたらきりがない。だいいち、自らの健康に気遣うほど用意周到に生きてはいない。自らの身体など管理できるはずもなく、ましてや自らの心理状態などまったくの制御不能だ。というか、自分で自分をコントロールできるということ自体が、かなり疑わしいことだと思われる。自らを管理したり制御したりできると思い込むことはできるが、本当にそれができているかどうかは、自分自身の判断にまかされている面が大きい。とりあえず、自分が実際にそうしているつもりにはなれるのだろう。そのつもりにはなれるが、本当のところは怪しい。周りからの助言やその手の文献やマニュアルが後ろ盾となって、それができていることを保障してくれる場合もあるかもしれない。だがしかし、それでもなお、何らかの不具合が起こってしまったとき、そうではなかったことに気づくだろう。それこそが、人々が日々行なっているつもりの様々な管理や制御の実態なのかもしれない。何事も思い通りにはならないし、完璧にやり遂げることなどできないのだろう。ただそうしたいと望み、それができるように思い込むことができるだけなのかもしれない。現実の状態を絶えず自らのいいように判断すれば、すべては思い通りになっていることになるだろうか。どんな状況になっても、これでいいのだ、と思い続ければ、それはそれで爽快な気分でいられるかも知れないが、現実にはそんな気持ちばかりに止まれるわけでもなく、たちまちのうちに思わぬ外部からの攻撃によって、嫌な思いをさせられることになるだろう。世の中には、これでいいのだと思うだけでは済まぬ状況などいくらでもあるだろう。ならば、たまには嫌な思いのまま過ごすのも、精神のバランスをとる上で謙虚さを失わずに済むかもしれない、という妥協案を受け入れたらどうか。そう思い通りにはいかないもので、ほどほどにいい思いをして、ほどほどに嫌な思いをしたい、と望むこと自体が、自らの勝手な願望であり、現実にはそれ以上の災難や幸運が身に降りかかるだろう。外部はいつも自分の都合などこれっぽちも考慮してくれない。
5月22日
たとえば未練とは何だろう。誰かが息を引き取る間際につぶやく。まだこの世にやり残したことがあるそうだ。実際、そんな絵に書いたような場面とは縁がない。また誰かが冗談を述べている。君の瞳は輝いている。たぶん昼の日差しが反射しているのだろう。さらに誰かが独り言を続ける。いつまで続けるつもりなのか、まだ何をやりたいのかわからないが、漠然とした思いにとらわれているらしい。生きている限り、君にも何らかの目標が導き出されるはずだ。私が目指していることは競争に勝ち残ること、君もそれを避けられない。与えられた時間を費やすには、それをやり続けなければならない。残された唯一の選択肢はそれだけかもしれない。いったい誰と何を競い合っているのかはっきりしないが、どこかで意味不明なトーナメントが開催されているのだろうか。試しにもう一度冗談を述べる必要に駆られる。ああ、君の瞳が燃えている。昔見た野球のアニメでは、ライバルに向かってそんな台詞が投げかけられていたかもしれない。情熱に火をつけて、燃えた後は燃え尽きて白い灰になるだろう。その状況が何を意味するかはよくわからない。たぶん美学的な結末が反映されようとしているのだろう。物語の作者は、そこに何らかの美しさを求めたいのだ。人は自らの生き方を芸術にまで高めなければならない。誰かがそんな内容を述べていた。そのために何をどう努力すればいいのだろう。目標とはそんな風にして導き出されるのか。模索と探求には限りがないし、どの水準で満足すればいいのかわからない。そのための基準が不明確だし、この辺で妥協するこの辺とはどの辺かもはっきりしない。何もかも自分で探さなければならないし、肝心なことは誰も教えてくれない。他人の中にあるのは答えではなく、何らかのヒントばかりなのか。だが、それが何を見つけるための手がかりなのかもよくわからない。果たして探しているそれが、宝なのかガラクタなのかは、その時々での気まぐれな判断に左右されるだろう。そこに宿っていると思われる価値など、いくらでも恣意的に捏造できる。それが他人に認められるかどうかは他人が決めることだ。
5月21日
たぶん未来はやってこないだろう。それでも君は夢を抱いている。できることなら暇にまかせて惰眠を貪りたい。いったい時の流れはどこまで続いているのだろう。そんな問いには関わりなく、今日が過ぎ去って、またいつもの明日がやってくる。それが未来のあるべき姿なのかも知れない。抱いている夢の内容は空疎そのものだ。自分の行為が報われたい、誰もがそんな夢を抱いている。報われない者は誰でもそう思っているのだろう。報われないことへの不満が心の中で燻っている。そして何かが壊れかけている。それがいつかどこかで、情念となって噴き出す場合もある。だが、今のところそうはならないだろう。なぜかそんな予感がしている。ある者はそれらの情念を強引に心の中へ封じ込めているようだ。その者には何かが足りない、例えば惰眠を貪る時間が足りない。そして狂気に駆られる余裕もない。物語の中ではすべてが思い描いたとおりの展開になる。そんな嘘を信じられるだろうか。作者の思惑を著しく外れて、いつまでもその物語は終わってくれない。その中で、たまには戯言以上のことを述べてみたい気もするが、怠け心が邪魔をして、結局は物語の前にその作者がひれ伏すことになる。しかし作者の敗因は単なる怠け心だけなのか。そのほかに何が考えられるだろうか。例の件についてはもう方がついているはずだ。それ以上の言及は避けるべきだろう。事の真相は未だはっきりしないまま、その一方ですでにうやむやになりかけている。あと三年もたてばすっかり忘れ去れていることだろう。生々しさはすぐに劣化して、事件の記憶はどんどん風化してしまう。それらは砂上の風紋のごとき経過をたどるだろう。その後に残るのは、役に立たない教訓と、人々を安心させる形骸化した物語ぐらいか。風化させまいとして、何がしかの抵抗を試みる者たちの成れの果てが、それらの形骸化した物語の作者たちなのか。
5月20日
それは当然の成り行きなのか、このところの天候は、雨なのか晴れなのか、曇りもあるらしい。それ以外は雪か雹か霧か、台風や竜巻も含めると、程度の強弱を伴って様々な天気があるらしい。自分の感じている範囲では、それらの天候にあまり意味はないが、関わりのある人々にとっては、どのような天候になるかが、場合によっては深刻な問題にもなりうるかもしれない。極端な事態に巡り合うことはめったにない。たぶん自分の生きているうちは大した天変地異など起こりはしないだろう。などと、気まぐれにどうでもいいことを述べてみる。そんな予感はことごとく裏切られてほしいところか。よくわからない徒労の末に途中で放棄された断片は、うんざりするような逡巡と紆余曲折を経て、次第にいつもの雰囲気に近づきつつあるようだ。気づかぬうちにいつもの徒労が再開されようとしている。環境が変わるとそれに伴って気分も変わり、なぜか進行状況が思わしくない。以前の状態には当分戻れそうもない。たぶん二度と戻れないのかもしれない。すでに以前の状態がどういう状態なのか忘れてしまっている。出任せをいえば、どうも三日前あたりから調子がおかしくなったらしい。それでも実質的には何をやるわけでもなく、かといって何もやらないわけでもなく、結局はなし崩し的に何かしらやりざるを得なくなってきたようだ。それらはいつやめてもかまわないのに、もう一方の意識はそういうやり方が気に入らぬようだ。今さらやめるわけにはいかないそうだ。まったく彼はどこで何をやっているのだろうか。だがこのまま執拗にやり続けるには、何らかの代償を払わなければならないのかもしれない。その代償とは、文学的な紋切り型に従うならば、気が狂うことになるのだろうか。これまでに狂気に近づきすぎて狂人になった人とかがいただろうか。しかしなぜ狂わなければならないのだろう。あまりに度を越して真剣になりすぎると、精神的なストレスとかが発生しておかしくなったりするのだろうか。
5月19日
なぜジャズのサウンドに惹かれるのだろう。なぜではなく、そんな疑問を越えて惹かれている。しかし自分が日頃テレビなどで見聞きする日本のヒップホップサウンドには、なぜかジャズが欠けている。そのせいぜいがハードロックやヘビーメタル止まりなのだ。なぜ彼らはジャズ系の要素を取り入れないのだろう。ジャズを入れればもっとクールなサウンドになるのに。とりあえず取り入れない理由はわからないが、どうもジャズなしのガキ系音楽は好きになれない。コラボレートするジャンルの選択を完全に間違っていると思うが、たぶん自分の方に勘違いがあるのかも知れない。単にそれらは自分のような種類の人間が聴くような音楽ではないのだろう。ではそれらは誰が聴く音楽なのか。自分以外の大勢の人々が好んで聴いているようだ。何を聴くかは人それぞれだろう。あまり偉そうなことを述べるつもりはない。自分はある特定の感性に汚染されている。昔、どこかのライブ演奏で、フュージョングループのステップス・アヘッドとラッパーのコラボレーションを聴いて感動したことがあって、それ以来、その手のサウンドを好んで聴く傾向がある。そういえばスライ&ロビーは、リズム・キラーズでヒップホップ+ファンク+テクノにストリングスをかぶせていた。
5月18日
ある方向から特定の傾斜を保ちながら、同じような事象について語られている。たぶんその人物は、日頃から大袈裟なものを読んでいるのかも知れない。自分はその手の言説の何に惹かれているのだろう。まるで昔の自分が記述した文章を読んでいるような気になる。いや、自分の文章に反発した人の文章のような気もする。今さら他人が何を述べようとどうということはない。たぶんそれでもいいのかもしれないが、冷静な人なら契約の関係を持ち出すところを、感情的な人は直に主人と奴隷の関係に言及したくなるようだ。人目を惹こうとして、ついつい極端な言葉を使ってしまう傾向にあるらしい。この社会を構成している雑多で込み入った契約関係を省略する限り、その手の分かり易さは軽率な単純化に結びつくしかない。どんな種類の人間であろうと、その立場が一方的に主人になったり、また奴隷になったりすることはあり得ず、それらの用法の大半は象徴的な意味で用いられていることが多い。たぶん主人と奴隷に分化する手前に、社会的な人間関係のほとんどが存在するのかも知れない。
5月17日
何やら懐かしいやり口に出くわした。人の生態を生物学的に語ってみせることにそれほど驚きはしない。それは古くから用いられている手法の一つにすぎないだろう。人間は〜する動物である、そんな風に語りながら、何かをやり過ごしている。それは自己言及に対する逃げ道となっている。そういうわかりやすさに引っかかる人を当て込んで、わざとらしい受け狙いに走れば、それなりにもっともな内容を獲得することができるかも知れない。人間は自らや自らの属する群れを維持発展させるために、知性と呼ばれる他の動物には備わっていない能力を身につけた。こんな風にして、何となくわかったようなことを述べられるが、何かを述べているようでその実何も述べていない。生物学的な言説自体は客観性を目指しているのかも知れないが、それが人の存在を正当化するための客観性である限り、その客観性が人間を越えてそれ以外の事象に及ぶことはないだろう。人間をどのような水準で定義してみても、それは当の人間が定義していることであり、人間以外が人間を定義しているわけではない。そして生物学的な言説も人間が語っている以上のことにはならない。昔誰かがチンパンジーの生態を観察している学者について、チンパンジーの社会を観察しながら、人間社会について考察しているのだ、というような主旨を述べていたが、なぜ直接人間社会を観察しないのだろう。どうしてチンパンジーを通して人間について言及する必然性があるのだろうか。やはりそこには、自らの言説に生物学的な客観性を装わせる必要が生じているらしい。自らの研究を正当化するための理由を必要としている。そこでチンパンジーに人の起源を見いだそうとする。人間社会の祖型をチンパンジー社会に求めたいようだ。だが実際にそこから両者の共通点がいくら求まったとしても、人間社会の本質がわかったわけではない。たとえ遺伝子的にいくら近い種類であろうと、チンパンジーはチンパンジーであり人間は人間だ。両者を比較した場合、チンパンジーと人間との違いが人間の特徴なのかも知れないが、それはそのような比較をしたときにだけ生じる差異でしかない。例えば猫と人間を比較した場合、チンパンジーの時とはまた違った差異が見いだされるかも知れない。比較する対象の違いによって、人間の特徴もいろいろ変わってくるだろう。
5月16日
近頃は曇り空ばかりだが、とうとう夕方から雨が降り始めた。屋根を叩く雨音を聞きながら自分は何を考えているのだろう。確か数日前にも同じような雨が降っていたかも知れない。雨降る風景の中で何かが起こっているようだが、自意識の中では何も起こらない。緊張を欠いた散漫な意識はさらに薄められた気休めで充たされているようだ。彼は三味線の音色をどう思っているのだろう。たぶん今日もどこかで殺人事件とかが起こっていることだろう。昨日と今日の違いは明日と明後日の違いと似ている。観念的な歌詞にはラップがよく似合う。乾いた情念はどこで渇望されているのだろう。誰もそんなわけのわからぬものは望んでいないだろう。たぶん彼が求めているのは、情念とは無縁のただの混沌かも知れない。はっきりしない天候につられて、頭の中もあやふやなまま、自分が何を考えているのかよくわからない。あれから何かしら経験が積み重なっているらしいが、それが何の役に立つのかわからない。このままでは何の役にも立ちそうにない。もうかなりの時間が経過してしまっている。昨日の出来事は昨日で終わらせたいが、まだ一昨日の出来事に留まっているようだ。意識も感覚も時間の進行についていけてない。犯罪の温床は刑務所にあるらしいが、それがどうしたわけでもない。指名手配犯の横顔には鋲が打ち付けてある。探偵稼業には殺人事件は含まれない。もっぱら誰かの素行を調査している。それは未知の出来事だ。映画フィルムには雨が刻まれ、満たされぬ思いには最後の場面を期待させる。エピソードを積み重ねる度に、経験とは無縁の世界へと近づく。それがフィクションの特性だろう。必要なものは無用なものと似てくる。赤い血潮とは無関係の冷静さを追い求めているようだ。
5月15日
たまには積極的に精神を集中させてみるが、何もないのでどうなるわけでもなく、その場しのぎの雑な記述とともにありふれた夢を見る。どうも近視眼的に未来を求めすぎていたようだ。海の中で暮らしている夢を見る。いつもの出任せを述べるならば、人は誰でも安らぎとともにありふれた日々を過ごしていたいらしい。乾いた砂地に水が吸い込まれる。それは意味のあることではない。ただ健康に対する幻想を持ちたいようだ。宝くじに当たった時の心境を想像してみる。そこで何を我慢する必要があるのだろう。例しに連番で十枚も買ってみれば、一時の夢を見ることができる。それ以上の必要性は感じない。欲望の赴くままに自滅したいわけでもない。進んで自滅しようとは思わないが、むやみやたらに記述を続けているのかも知れない。そこで前述と矛盾するようだが、滅び去るためにも記述を続けなければならない。定義のあいまいな境界線上で、どちらに倒れたらいいのか迷っているらしい。どちらに倒れたいわけでもなく、そこで綱渡りをやりたいのだろう。だがそこは宙空でなく地面の上だ。地に足がついているにもかかわらず、意識はいつも宙を舞っているらしい。デタラメな世界では、背中から翼が生えているようだ。それが何を意味しているのかわからないが、漫画の中で天使の幻影と戯れているらしい。そんなあり得ない話をどう記述すればわかってもらえるだろうか。わからなくとも、神話の中の主人公はどこでもないどこかへ旅立つ。それが神話には欠かせぬ冒険へと発展するだろう。そして、ありふれた試練がその行く先々で待ち受けているのかも知れない。どうやらありふれた夢はありふれた話に行き着くらしい。だが、まだその話の内容が示されていない。話題の人には今すぐの登場が待ち望まれているのだろう。
5月14日
世の中には、何らかの物事を分析する仕事というのがあるらしい。で、分析した後はどうするのだろう。分析結果について報告書の類を作成して、その内容を何らかの会議で発表したり、自分が所属する部署の責任者にでも提出すれば、それで仕事をしたことになるだろうか。たとえばある種の人々にとっては、ロシアと呼ばれる国家が分析対象であったりするらしい。ところで、ロシアのプーチン大統領に何ができるだろうか。外国の要人と会って、何かしら言葉を交わすことぐらいはできるだろう。たぶん彼も何らかの意志決定ができる立場にあることは確かだろうが、しかしその意志決定が、北方領土問題について、日本側に有利に働くようなことがあり得るだろうか。分析官の勝手な思い込みで、日本側に有利に働いたと分析されれば、それで良かったことになったりするのだろうか。それでいいのなら分析もずいぶんと楽な仕事かも知れない。もちろんそんな分析などあろうはずもない。とりあえず素人的に考えるならば、件の四島を日本に返還した場合、現状ではロシア側にとって得になることは何もないような気がするのだが、日本側は領土返還と引き替えにロシア側を喜ばせるような何らかのビジョンを持っているのだろうか。ただ自国の主権の正統性を繰り返し主張し続けているだけのようだ。要するに相手国の立場も状況も考えず、一方的に自国の主張を叫ぶことしかやっていないような気がするのだが、それ以外にどのようなことをやってきたのだろう。自分の気づかぬ水面下で画期的な外交交渉が継続されていて、もうすぐにでも領土返還が実現するような運びとなっていたりするのだろうか。何を分析していたのか知らないが、領土を返還させるとかいうみみっちい目的にこだわっている限りにおいて、そんな分析などどうでもいいことに属するのかも知れない。功利的な考えは恣意的な感情と結びつく。何でも自分の利益に結びつけようと努力する者は、視野狭窄に陥りながらしだいにせせこましい権力行使ばかりにこだわる人間となってしまうようだ。当たり前のことだが、対ロシア外交のメインテーマが北方領土問題であるのは、世界中探しても日本だけだろう。そんな枝葉末節な問題を自らのライフワークだなんて言って憚らない国会議員は滑稽である。沖縄と違って、そこには自国の民が一人も暮らしていない現実を何よりも認識すべきである。まずはそこで暮らしているロシア人の意志や意向が尊重されるべきなのは当然のことで、まさかパレスチナの地に強引に植民しているイスラエルのごときやり方ができるはずもないだろう。
5月13日
何となく何を考えているのかわからない。魂は無意味な時空で虚無の餌食になっているようだ。どこまでも広がる空白をわずかにかわして、分不相応の余分なことを思っているらしい。この世界はどこまでも続いているわけではない。人の暮らせる範囲はおのずと限られている。画面や紙面に固着している無限の世界は、たぶんフィクションに限定されているのだろう。それらは相変わらず人々の欲望を充たし続けているだろうか。ある程度はそれに成功しているのだろうか。絶えず自らを自己肯定しつつも、これでいいと思いたいらしい。たぶんそれでいいはずなのだ。そのほかにはやるべきことを見つけられないような気がする。そんな世界から離れてどこへ行けるわけもなく、結局は何も見いだせずに何も思わない。それはいつもの循環に属することかもしれない。それとは別のやり方を模索している。もう二十一世紀にもなっているのに、未だに個人の行動の自由を制限する独善的な政治体制が存在し、そこからの抑圧を逃れて亡命を希望する奇特な人もいるようだ。たぶん当人にしてみれば切実な問題なのだろうが、もちろんどこの国でもある程度は行動の自由が制限されていて、行政組織に黙って出国したりするのは、密航と呼ばれる違法行為になっている。たぶん政治体制が違っていても、行政組織の構成員にしてみれば、密航者をかくまうにはそれなりの理由が必要だったのかもしれない。その理由に基づく対処の仕方を前もって訓練していないと、実際の現場でとんだ醜態をさらす結果となってしまうようだ。一方で、北朝鮮の船らしき不審船と銃撃戦を繰り広げて相手を沈没させて気勢を上げているのに、その北朝鮮から逃れてきた、自分達の味方に引き込めそうな人々には、密航者という理由で冷淡な対応しかとれない。どうも総合的な状況判断の欠如した人ばかりなのかもしれない。その程度でもお役所仕事は勤まるのだろうから、それはそれでそういうことでしかないのだろう。どうせ今回の教訓を糧として、少しづつ変わってゆくのだろう。カナダ大使館に駆け込んだ人々は事無きを得たようだが、共産主義諸国からの亡命を受け入れてきた欧米諸国には、このような場合の対処法として、それなりのノウハウが備わっていたのだろう。
5月12日
かなり煮詰まってきたようだ。定石的にはこの辺で妥協すべきなのだろう。いつも怠惰に負けて時間的な余裕を浪費してしまう。だがそれでもいいのかも知れない。その怠惰を糧としてこれらは続けられてきたのだ。何もしていない冷却期間がなかったら、とうに終わっていたかも知れない。そんな仮定には何の根拠もないが、そんな気休めを述べておかないとやりきれない気持ちになる。本当に空気をつかむようなことをやっているのかも知れない。何もつかめないのに、闇雲に何かをつかもうと努力しているが、実際、何もつかめていないのだろう。何もかもが空を切るばかりだ。だがやはりそれでもいいのかも知れない。今の時点では、ただそうとしか述べようがないだろう。せこく目に見えたり、実感できたりするような成果などを期待する時期ではないのかも知れない。何の成果も見込めないからそこ継続できるのだろう。この先どう転ぶかわからない、先の見えない開かれた可能性を絶えず保持しておきたいものだ。不透明な未来こそが唯一の可能性なのだろう。それは可能性と同時に不可能性でもあり、どこへも到達不可能になる可能性を含む可能性なのだ。目指すものは、目指さなくても自然にあちらからやってくる。それは死の可能性をも含んでいる。生きつつあると同時に死につつあるわけだ。だがそれがどうしたわけでもない。ただ続けていけば自然と何かしらそれなりの言葉に出くわすらしい。そしてなぜかそんな言葉を無意識のうちに記述しているようだ。たぶんそれを記述するのは誰でもかまわないのだろうが、たまたま何となく自分が記述しているだけなのだろう。そんなことの蓄積がこれらの継続に繋がっているらしい。だからこれからもこんなことの繰り返しになるしかないだろう。
5月11日
もう何もないのに、さらに付け足されるべき言葉を模索している。ただの空虚に何を付け足せばいいのだろう。いったい誰と何を競っているのだろう。どう考えようと、これらと競合するものは何もない。ではいったいどうすれば気が紛れるのだろう。どんな気休めが必要なのかわからない。切羽詰まってだいぶ昔の記憶をたぐり寄せる。気がつけば、あの出来事からかなりの年月が経っているようだ。今も何かしらあの出来事について記述しているが、あまり進歩のあとが見られない。却って退歩している感じもする。記述すればするほど、そこから逸れていってしまうようだ。結局は何を述べているのかわからなくなってしまう。そんな記述をどう評価していいのかわからない。真面目に受け取れない部分もかなりある。それらは感情の暴発と暴走に関する記述かも知れない。原因のすべては外部からやってくるが、その外部から影響を受けて内部で煮えたぎっているものを抑えきれないようだ。それはどういうことなのだろう。どういうことでもなく、出任せにすぎないだろう。感情はその場での出任せによって発動するらしい。いったん発動したら原因などどうでもよくなってしまう。たぶん感情的な人間は思うがままに生きられず、日々煩悶しているのだろう。それが発露した瞬間だけ苦悩から解放された気分になり、あとから羞恥心と自己嫌悪に襲われる。そんなことの繰り返しが精神的な負担となり、より一層のヒステリーとなって爆発するのだろう。だからそういう煩悶から解放されるべく、切実に冷静な精神状態を求めている。どうすれば冷静になれるのだろうか。どのようにして心の動揺を収めればいいのだろうか。どんな修行をすれば苦悩から逃れられるのだろうか。たぶん、したり顔で助言したい者なら山ほどいるだろう。探せばその手のハウツー本なら掃いて捨てるほどあるかも知れない。心理学的な解決策ならいくらでもある。だが、解決してはならないのかも知れない。それはそれとして、そのままの状態でいられるようにしなければならない。なぜそうしなければならないのかわからないが、感情が爆発しているときの自身をそのままにしておくべきなのだろう。つまり解決策を示さずにこう記述しておくことが肝心なのだ。言葉でもっともらしい解決策を示すと、その時点でその解決策は無効になる。その解決策を無効にするような対抗手段がすぐに導き出されてしまい、さらにその対抗手段に対する解決策を提示すれば、それに対するさらなる対抗手段の発動を招き、解決策とそれを無効にする対抗手段の無限循環状態となってしまうだろう。だからしたり顔でもっともらしいことを述べてはならない。
5月10日
今はいつなのか、あれから数日が経過しているが、どうも過去の記憶が不鮮明だ。なんとか疲れが癒えたと思ったら、すで日付的には二日も経過していた。この展開がどのような結末へ向かっているのかわからないが、肯定的な結果は期待できそうにない。さらに進んで何も期待でないので、この辺で苦し紛れの転回をしなければならないようだ。ありふれた欲望とは他人の愛を求めることになるだろうか。確かに他力本願は期待薄な状況なのだろう。ならば、いつものごとく意味不明なことを述べ立てるぐらいしかやりようがないらしい。とりあえず二日後の天気は晴れだった。なぜそこでフィードバック機構が働かないのだろうか。流されるがままに、意識よりも現実の方が先に未来へ到達してしまう。そしていつも自意識は現実から置いてきぼりをくっている。まるで現実に追いつけないでいるようだ。自分の感じている今はもう過去の出来事でしかないのかも知れない。今の自分は過去しか持ち合わせていないということか。ではその過去の記憶からどのような言葉を導き出せるのだろうか。すでにガラクタのような代物をかなり引き出してここで使用したはずだ。まだ使えそうなものが残っているのだろうか。過去は時の経過とともに蓄積するはずだから、また新たに形成された記憶が利用可能かも知れない。中には利用可能なほど熟成したのもあるだろう。何をもって熟成したと判断されるのかわからないが、過去を思い出しながら反芻しているようだ。だがそれでどうなるわけでもどうするわけでもない。ただそうしながら何か得体の知れないものを思い描いているのだろう。言葉を混ぜ合わせながら情景を再構成しようとでもしているのだろう。今も無意識は自意識に関係なく勝手に動作し続けているらしい。こうして何かしら記述している。自意識は無意識による出力結果をどう評価したらいいものか。今さら何をどう評価したらいいのかわからないが、何とかこれらの記述を肯定できないものか。評価の基準をなかなか見いだせない。
5月9日
なぜか夕方から寝てしまって、真夜中に目が覚めたらBSでNBAのプレーオフをやっていた。デトロイトとボストンの対戦を日本で見ているのはおかしなことか。別にメジャーリーグのように日本人が出ているわけでもない。だからといってつまらないわけでもないが、たぶんニュースネタにはならないだろう。興味本位で様々な報道がなされているのだろうが、当たり前のことだがそこには恣意的な選択が働いている。スポンサーや番組制作側の思惑と視聴者側の要望とが、少しずつ反映されているのかも知れない。何が有害な番組で何がためになる番組なのかは、最大公約数的な多数意見を基にした一定の基準を導き出すことができるだろうが、そのような恣意的な意見の集約をやらない限りは、作る側や見る側の事情によって、番組の良し悪しの判断は異なると思われる。今国会でメディア規制法案と呼ばれるものが審議されていて、当然のごとく報道各社はその法案に反対の立場で、表現の自由がどうたらこうたら、毎度おなじみの主張を繰り広げているわけだが、自分達の都合で勝手に実施する世論調査を用いて、攻撃目標に定めた疑惑議員に対して、さんざんやめろやめろと騒ぎ立てて、無理矢理そのような世論を形成させたつもりになっているのだから、やはりそのようなやり口に対する反発が出てくるのも当然の成り行きだろう。要するに今メディアと政治家との間で権力闘争が繰り広げられているわけだが、どちらに組みすることもないだろう。それらの闘争はヤクザのなわばり争いのようなものだ。日本とアメリカが軍事同盟を結びながら、互いの輸出製品について、ダンピングだ何だのとお互いに相手を非難し合っているようなもので、見せかけの対立を演じる一方で、裏に回れば持ちつ持たれつの関係を維持していることは明白だ。確か数年前に盗聴法とか呼ばれる法案の成立前後にもこのような騒ぎがあったはずだ。あの法律について未だに反対を表明しているメディアがどこにあるだろうか。マスメディアが煽り立てる批判キャンペーンに同調して、その気になって法案推進者の政治家を非難しようと、そのうちいつの間にかその件についてはうやむやになってしまっていて、当の政治家が批判の急先鋒だったメディアに笑みを浮かべながらにこやかに登場している光景に出くわすことだろう。要するに、法案の成立に憤っている名もなき一般市民のことなどどうでもいいのであって、彼らにしてみれば一般人などは、単なる世論調査の数あわせに必要なだけの存在なのかも知れない。
5月8日
気まぐれに言葉を連ねているのだから、これでも何かを語っていることになるのだろうか。何も語っていないようで何かを語っているらしい。適当に、いい加減に、あやふやに、空虚とともに、前言をすべてうち消すように、それでいて結果的にはいつまでも同じような内容で、何も語らずに何かしら語っているらしい。確かにプライベートなことはほとんど含まれていない。単なる言い訳の羅列にすぎないような気もしてくる。近頃は具体的な内容に著しく乏しい。ただ単に延々と空虚を反復しているだけかも知れない。それで何が不満なのだろうか。ではその他にどんな内容をつけ加えれば気が済むというのか。良い案は何も思いつかないが、別に良くなくてもかまわないような気もする。このままでも大して不都合は感じていないのだろう。空疎な内容でも誰から批判されるわけでもない。自分は自分自身には批判的なスタンスのようだが、それでいて、この無内容をどうすることもできないでいるらしい。それはある意味で情けないことなのだろうか。ある意味がどういう意味なのか知らないが、とりあえず情けなくてもかまわない。情けのない状況をどうすることもできないのだから、それはそれで仕方のないことだ。それを仕方のないことで済ませられる状況の中にいるらしい。たぶん自由とはこういうことをいうのかも知れない。確かにここで適当に言葉を連ねている範囲内では自由でいられるのだろう。これはこれでこういうレベルでの自由なのだ。その他にどのような自由があるというのだろう。それ以外に自由などないのかも知れない。少なくとも自分に与えられた自由は、今のところこんな自由でしかないようだ。では、自分はそれ以外にどんな自由を望んでいるのだろう。自分が自分ではなくなる自由、それと同時に自分以外の誰でもない誰かになる自由、そんな自由がどこにあるというのだろう。意識して不可能を望み、ことさらに矛盾することを望んでいる。無限遠の彼方にある消失点までどうやったら辿り着けるのだろう。たぶんそれらはすべて空想の産物にすぎないだろう。何をどう思おうと自分は自分のままであり、その一方で、周囲の状況の変化に合わせて少しずつ変化している自分でしかない。自分がそうなることを望んでいるのではない自分に、少しずつなりつつあるらしい。だがそうなりつつある自分を自分はどうすることもできないでいるようだ。ただ何かに流されている自分を感じているだけかも知れない。
5月7日
不快感とそれに伴った疲労の連鎖で体調がすぐれない。何をどう思案してみても、出口が見えてこないようだ。とりとめのない逡巡を、どこで終結させればいいのかわからない。自分が自分自身であるためには、これまでの自分を見失わなければならない。だがその自分は以前の自分でない。しかしこの程度の逡巡は言葉遊びの範囲内でしかない。要するに変化するためにはそれ相応の苦難を経験する必要があるのだろうが、とりあえず自分が自分に変化するためには、今の自分ではなくなる必要が生じているようだ。しかしその来るべき自分が自分ではないとすると、それはいったい誰なのだろうか。やはりそれは誰でもない誰かでしかないだろう。なぜそうなるのかは知らない。どうやら、またもやいつものように何を述べているのかわからなくなる。どうも自分は自分のために努力しているのではないような気がする。行く先々で苦難やら試練が待ちかまえていて、それを乗り越えたりやり過ごしたりしようとして、無駄なのか有効なのかわからないが、とりあえず必死になって努力する羽目になってしまっているらしい。しかし、それらの苦難や試練を乗り越えたりやり過ごしたからといって、何がどうなるわけでもない。それなりに経験が積み重なって何らかの変化を被ったかも知れないが、その先にはまた新たな苦難や試練が待ち受けているだけのようだ。この世界はどこまでもこんな世界なのだろうか。だがこんな世界がどのようにこんな世界なのかがよくわからない。しかしこんなことを述べてみても、やはりそれも単なる言葉遊びとしてしか受け取られないような気がしてくる。自分が体験しつつも経験してつつある世界を、どのような言葉で表現したら納得できるだろうか。今のところ適切だと思われる言葉を見つけられないようなのだ。こうして繰り出される言葉の連なりは、いつも決まって空疎な内容になってしまうし、どこか自分とは無関係のことを述べているように思われてしまう。なぜか自分の述べていることは、自分には関係していない。自分のことを述べているはずなのに、経験したり体験した試練や苦難そのものの内容は何一つ述べられていない。それは別に試練の範疇には入らないような、他の人から見れば、どうということはない些細な経験でしかないのかも知れない。その内容を具体的に述べない限り、どうとでも受け取れるだろう。だがその手の苦労話や体験談などは掃いて捨てるほどあるだろう。そんなありふれた告白や暴露などする気にならない。だから決まって空疎な内容になってしまう。
5月6日
その夢は何を暗示しているのだろうか。どこかで人を呼ぶ声がするが、その声を聞いているうち意識が薄れる。いつものように精神の集中と緊張が持続しない。そこから先には何もない闇の世界が続いていた。なんのことはない、夜中の三時に目が覚めて、辺りが真っ暗だっただけのようだ。この頃はすべてがこんな調子で、ほとんど何の刺激もない日々が続いている。いたって平和な日常の中に埋もれているらしい。ただそれなりに思い浮かんだ感情を言葉で綴っているだけのようだ。文章にアクセントをつけようとして、ヒステリックに何かをわめき立てている振りを装っている。それらのどこまでが本心なのかはわからないし、何が本心で何が本心でないかの基準も不明確だ。何らかの刺激を受けて生じた雑多な言葉から形成された文章の中に、あるときは明確に、またあるときはかろうじて、何かそれなりの感情が構成されているらしい。今のところそれらは当たり障りのない範囲内に収まっているのかもしれない。別に激高したり発狂したりするほどのことでもないようだ。また感極まって涙を流す程の感動とも無縁だし、怒りに任せて大声でわめき立てたりすることもない。それらの大半はテレビ画面の向こう側で演じられるばかりで、自らの体験しつつある日常生活からは全く失われているようだ。そんな無味乾燥した暮らしの埋め合わせとして、それらのドラマや映画やスポーツ中継などが存在しているのだろうか。だがそれらを視聴することで本当に内面に穿たれた虚無が埋められているだろうか。たぶん、気休め程度にはなっているのだろう。というか、逆にそれらの激しい感情の起伏を、テレビ画面の向こう側へ封じ込めることによって、退屈で平穏なこれらの日常生活が成り立っているのかもしれない。人々の生活を破壊し、その存在を抹殺するような出来事はすべて向こう側で演じられている。こちらでは、それをただ眺めていることしかできない。それはものすごい落差であり、恐ろしいまでの隔たりを感じさせる。しかし、そんなおぞましい光景を毎日のように見せつけられても、何もやる気は湧いてこないし、何らかの行動を誘発させる手だても見つからない。毎日の忙しさにかまけて、画面を通して訴えかけてくるすべてをやり過ごさざるを得ない。こちら側とあちら側の溝は、よりいっそう深く刻まれる傾向にあるようだ。いつかそれが破綻して、これらの不均衡が解消される時がくるだろうか。そうなればあちら側がこちら側へ近づくより、こちら側があちら側へ近づく可能性の方が高いかもしれない。
どうも廃虚と化したパレスチナの地の映像を眺めていると、イスラエル人を殺したくなってくる。テレビ画面がそんな感情を自分に提供し続けている。まさか日本赤軍が復活するわけもないが。
5月5日
一夜明けたら雲一つない快晴だ。青空の下で何を思う。何を思えば爽快な気分になれるだろう。予報によると暑くなりそうで、予報通りに暑くなった。何も思わぬまま、ただ暑さに耐え続ける。本来ならそんな状況ではないはずだ。本来ではない仮想の時空へでも迷い込んでいるのだろうか。そんな時空などありはしないが、想像することならできるかも知れない。いい加減な冗談なのか。そして疲れた意識は眠りに落ちる。明日以後も昨日以前と同じような日々を体験していくだろう。他愛のない物語も疲れた心には気休め程度の効用があるのかも知れない。マスメディアが提供する娯楽にうつつを抜かして、記述する作業を怠っていたようだ。イベントを盛り上げることはいつも必要以上に盛り上げることになる。オリンピックもワールドカップも野球もサッカーも、事前から必要以上に盛り上げなければ気が済まぬらしいが、しかし盛り上げ方に適切な程度などないのかも知れない。盛り上げること自体が過剰なおこないなのだから、そこには盛り上げるか盛り上げないかの二者択一しかないだろう。盛り上がらなければ観客が集まらずに、イベントの興行収入を期待できなくなるので、それでは困るから事前から必要以上に盛り上げなければならない。そうやって年中行事のように様々なイベントが目白押しになっているのだろうか。次から次へとめまぐるしくイベントが連鎖してゆく。考えてみれば年がら年中イベントだらけだ。たぶんはしゃいでいるのは盛り上げ屋のマスメディアとそれに同調する人々だけだろう。それは昔からそうなのかも知れないが、何やら空しさを感じる。どうやら自分は蚊帳の外の人間になりつつあるようだ。
5月4日
夢の中で天井を見つめながら、蛍光灯の眩しさで目が覚める。深夜のテレビ画面を見つめているうちに自然とあくびが出てくる。できることなら眠りたい。気がつけば怠惰な誘惑に負けている。翌朝の五時には目覚めたい。他愛のない望みだが、錯綜しているのは意識のどの部分なのだろう。誰かが飛行機から飛び降りる。その手の映画にはスタントマンが必要らしい。大袈裟なアクション映画も、それなりのスリルとサスペンスを提供しているらしい。それとは関係ないが、通常の日常生活が映画になることはまれだ。夕暮れ時の公園のベンチには誰もいない。そんな風景の油絵を見たことがある。そこで台詞を発する俳優が不在だ。もういい加減に眠りたいのだが、こうして言葉を記述する作業がそれを許さない。それについてはもうだいぶ前から苦悩している。やめるべきか続けるべきか、どうしていいのかわからぬまま、結果的にはうんざりしながらも続けている。どこまでやっても、これいいという感覚に辿り着けない。大したことではないし、取るに足りぬ影響力しか持ち得ないのに、それでもやり続けなければならない。結果としてそれは、まったくの不都合と修復不可能な不具合が合体したような行為を形成している。何もかもが思い通りにならないし、何のためにやっているのかも感知できないでいる。自分の操作が及ぶ範囲は極めて限られている。自分がやろうと思っていることとはまるで無関係な文字列が、これ見よがしに出力される。自分の苦悩や努力をあざ笑うかのような意味不明が現れている。もはやどうあがこうと、単に無力なだけなのかも知れない。まったくどうすることもできずに、ただ文字が記述されつつある画面を眺めているばかりの自分に気づく。なぜこれほどまでに無内容なのだろうか。なぜやめたいのにやめられなのだろう。そしてなぜやめたいのに続けたくなるのだろう。この先、これ以上の何が出現するというのか。偶然以外の何に賭けているのだろう。変化するきっかけに巡り会いたい。また気休めを越える出来事に遭遇してみたい。その程度でも贅沢な願いになってしまうのだろうか。もう充分に苦悩したはずなのに、それ以上の苦悩を味わうことになるだろう。何の根拠も兆しも感じないが、ただそんな予感がする。
5月3日
まばらな聴衆を前にして、もったいぶった調子で、これから話すことが、さも重大なことであるかのように、空疎な内容を語りかけようとしている。そして大袈裟なリアクションとともに、突然何かに気づいた振りをする。俳優はそんな白々しくもわざとらしい驚きを演じなければならない。それのどこがおもしろいだろう。確かにおもしろいだろう。背中が痒くなるほどのおもしろさだ。つまらぬことはどこまでもつまらないかも知れないが、それと同時に、つまらぬことはおもしろい側面もある。またいつもの循環が始まっているらしい。こうして意味不明な堂々巡りを思い出す。おもしろいことやつまらないことは嫌いだ。実際はそのどちらでもない現実の中で暮らしている。思い浮かぶことは何もない。物語の筋書きは単純明快の方がいい。そこから逃れるために、わけのわからぬ複雑さを模索している。水の滴り落ちる音に苛立っているのかも知れない。なぜか洗面台の排水管の中から耳障りな音がしている。いつまでも水の滴り落ちる音が鳴りやまない。嫌がらせのように静まりかえった深夜にその音がしている。なぜそうまでして苦しめるのか。この世は片時も気の休まる間を与えないような仕組みになっているらしい。すべてがうんざりするような展開を体験させるために存在しているのだろうか。何としてでも自分を被害妄想や神経過敏症へ導きたいようだ。そうさせなければ気が済まないようだ。ところでこれは何の修行なのだろうか。あらゆる不具合に耐えるように仕向けているのはどこの誰なのだろう。それはこんな被害妄想を抱くようになったら満足してくれるだろうか。それとも何か他に違う思惑でもあるのだろうか。このあいだの吃音の復活とともに、もう充分に精神的なダメージは受けているはずだが、まだそれに追い打ちをかけるような事態が待ち受けているのかも知れないが、それらを避けることができないとしたら、自分はそれらにどう対処したらいいのだろう。これから起こる未知の出来事にどう対処したらいいのかなんてわかるはずもない。どうせ耐え忍ぶことぐらいしかできないだろう。こうして自分にはどうすることもできない苦しみに、これから何度も見舞われようとしているらしい。どう生きればいいのか途方に暮れる日々がまだまだ続いていくのだろう。まったく難儀なことだ。もうだいぶ前から呆れを通り越して、不快の感情さえ、はっきりとした形で出現しないようになってしまった。意識の中で自己がどこかへ見失われてしまっている。
5月2日
なぜかヒューマンドキュメントと呼ばれるジャンルは不快だ。他人のおこないに感動したり勇気づけられたりすることに抵抗を感じる。なぜそうやって見せびらかすのだろう。他人を感動させるために、勇気づけるために、自らの生きざまを見せびらかす。悪くいえばそうなるかも知れない。もしかしたら、嫉妬しているのだろうか。見せびらかしている様をうらやましく思うのだろうか。たぶんそうかも知れない。そんな風に感じてしまう自らを不快に感じるらしい。羨望とともにそれをうらやんでいる自分自身に自己嫌悪してくるのだろう。そんなものとは無縁の惨めな境遇に絶望しているのかも知れない。こうして感動もせず、勇気づけられもせず、ただ不快な思いだけが蓄積してゆくことになる。そしていつしか他人をうらやむことは恨むことに変貌するだろう。成功している他人が許せなく感じるようになる。そのうち自暴自棄になって、そんなものを見せびらかしている世間に向かって復讐したくなってくる。さあ君も犯罪者になろうではないか、画面の向こうの笑顔を引きつらせてやろうよ。善良な人々を恐怖のどん底へたたき落としてやろう。君には世界を破滅させるために喜んで死刑になる覚悟はできているか。だが君ひとりではだめだ、破滅させる前に命が尽きてしまう。だから仲間を増やしてともに戦おう、犯罪者の自由を勝ち取ろう。我々にはこの世界のすべてを暗黒で覆い尽くすという遠大な計画がある。冗談にも程があるだろう。たぶん我々は嘘をついているのだろう。照れ隠しというやつかも知れない。我々は犯罪者ではない。それどころか、ちゃんと税金を払っている善良な市民だ。だから他人を恨むつもりなどさらさらない。ただ日々働いているだけなのだろう。もちろん遠大な計画も目的も何もない。働きながら年老いて死ぬ運命だ。それ以外に何があるだろうか。気休めがほしいということなのか。報われたつもりになりたいのか。要するに金と名誉がほしいわけか。国から勲章と年金をもらいたいのなら諦めた方がいいだろう。それはその手の選考で選ばれないともらえないものだ。少なくとも他人を感動させたり勇気づけたりする者でないともらえないだろう。自ら発せられた突然の吃音に驚く。冷や汗が吹き出る。なぜ忘れた頃にやってくるのだろう。その不愉快な巡り合わせに言いようのない苛立ちを覚える。
5月1日
何の到来を待っているのか知らないが、いくら待っても空洞には何も溜まらないだろう。空っぽの状態がここしばらくは続いている。そして、耐えられない沈黙と同居している。何かの相互作用の結果としてこうなってしまったのだろう。つまらない愚考が進むべき行き先を左右する。しかし考え得る範囲ですべてを生かすことはできない。生かすべきものが、その場で取捨選別されているらしい。同じ場を同時に複数の思考が占有するわけにはいかない。だがここでは、思考そのものが不在のようだ。結果として何も生かされていない。今までに何を批判してきたのだろうか。それは一つの方便なのか。ここでしばしば言及されてきた反国家主義などに実質的な中身はないだろう。興味を持っているのは、理論やシステムとは少し異なることのようだ。それは積極的に何かを提示するようなものではないらしい。繰り出される言葉は否定や否認ばかりになってしまう。これまでやってきたことは、この社会を変革しようとする試みではないらしい。虚無に同調すること、ただそれだけのための徒労だったのかも知れない。すべて空回りするばかりだ。世界を変えようとする誇大妄想は、世界から見捨てられているだけでなく、自分からも見捨てられている。その代わりに構築されようとしているのは平坦な地平だ。何もない真っ平らな平面で、無意味な言葉の群れが、行く当てもなく滑走してゆく。それはわかりやすさとは無縁の、まったくの非生産の生産へと行き当たっているのかも知れない。それらをどう解釈したらいいものか、すでにそんな風に解釈されているようだ。常に迷いながら、そこから先へ進むことを躊躇しているらしいのだが、その一方で、近づいてくる具体的な事件との遭遇を避け続けている。そんな頑なな態度は一向に改善されない。ひたすら内部へ引きこもっているばかりか、さらにその内部からも、居心地の悪さに嫌気がさして撤退しようとしている。その結果として、どこにも居場所がなくなってしまう。ただそんなことの繰り返しでここまでやってきたのかも知れない。だがこれは反省すべきことなのだろうか。俄には判断を下せないだろう。確かに成り行きまかせでしかやりようのないことだったのかも知れない。その場の思いつきの連続が、なぜかしだいにあてどない彷徨に身をまかせるようになっていった。
4月30日
何かを探している。なぜそうするのか、始めるためのきっかけがほしいのだろう。それはわかりきった疑問だ。倦怠感とはどのような状況で生じるのだろうか。昨日と同じような疲労を覚える。どういうわけか、無意識のうちに継続させようとしている。そして、さらに続けていくための目標を設定しようとしている。どうやって生きがいを求めたらいいものか、それと似たようなの意識はこの期に及んで命乞いめいた言葉を発している。いよいよ切羽詰まってから、何かをやり始める。なぜか生きる目的を見いだそうとして、無駄な悪あがきの連続らしい。それはその場しのぎの安易なやり方になるだろうか。人は何のために生きているわけでもなく、何を求めているのでもない、そんな生き方に嫌気がさしてきたのか。それは以前からそうなのだろう。どうやら冗談が通じないらしい。そのとき自分は、自分に向かってどんな言葉を発しているのだろう。もうやめたらいい、やめるべきだろう、もうこんな時間だ、眠いのではないか、眠いのなら寝たらいいだろう、いつもお前は往生際が悪すぎる、もうすこし自分に対して優しくなるべきだ。だが誰からも返答はない。自分は自分に対して応答しない。それらは誰に対して発せられた言葉でもなく、自分に対して発せられているのでもない。そうこうしているうちにやる気を吸い取られる。虚無からの作用にはどうあがいても抵抗できない。何もやり終わらないうちに、中途半端な中断を余儀なくされてしまう。まだ始まってもいないのに、もう終了の時間となってしまう。以前からそうなのだ、それはいつものことかも知れない。昨日の感覚を引きずっている。いつものようにやる気がしないようだ。このところどうも眠い。眠いのに眠れない。深夜に目覚めるのはいつものことになりつつある。今日は少し早めに起きる。昨日も今日も明日になるだろう。気休めの予言には飽きたが、もう未来には何も起こらないだろう。この世界に事件などあり得ない。あるのは言葉によって虚飾された物語だけなのか。人はそんな物語の中の登場人物として出現することしかできないのかも知れない。たぶんそれ以外の物語の中に出現できない者にとっては、生きる目的も生きがいも要らないのだろう。
4月29日
複雑な手続きを経て、込み入った動作が繰り返されているのだろうが、それでも意味不明な逡巡はいつまでも続いているようだ。まったく意味のあるすっきりした結果に辿り着けない。だがもう戻り道はないだろう。後戻りは不可能かも知れない。いつまでも不透明な視界に包まれるがままになり、自分が自分自身でいることができない。確かに常に変化する外界に晒されているのだから、以前の自分で居続けることは不可能なのかも知れない。積極的に自分自身でいようとも思わない。意識はいつも至って希薄なままのようだ。そんな自分が今どうやって生きているのか知らないが、例えば他人はどうやって生きているのだろうか。自分ではない他人はカラスの鳴き声で目覚める。気がつけば翌朝になっていた。時間のずれは感覚のずれに繋がるようで、いつまでも日付の遅れを修正できないでいる。そうやって自分は自分からずれ続け、さらに遠ざかり続ける。自分が物語の登場人物であってはならない。自分の思い描いたストーリーに同調しながら、それに心地よく身をゆだねるのはナルシストのやることだ。そうやって身を滅ぼす者が後を絶たない。こだわりという言葉を用いて自分らしさを表現しようとする者など、今や掃いて捨てるほどいるだろう。その自分らしさ自体が、こだわり系の雑誌などに掲載されている、マニュアル通りの自分らしさでしかないことが、救いようのない貧困を煽り立てているのかも知れない。
4月28日
相変わらず何も感じないが、それでもいくらか状況は改善しつつあるのだろうか。だがこれ以上の展開があり得るだろうか。この状況をこれ以上どうにかできるとは思えない。何か手だてを持ち合わせているわけもない。それでもあるがままの状況はひとつの事実に属している。あるがままの状況を否定しようと肯定しようと、そのような状況につなぎ止められていることに変わりはない。その事実はどうやっても動かしようがない。自らの力を越えた外部からの作用によって、自らが支えられているのは動かしようのない事実だ。しかもその作用は、支えている特定の個人にはまるで関心がないかのように支えている。それは別に恣意的に無関心を装っているわけではなく、人間の人間性とはまったく無関係な作用なのかも知れない。それはヒューマニストにとっては断じて認めがたい事態だろうか。もしかしたら、そうした自らが属している世界からかまってもらえない事実について、人々は気づいていながら、それらの働きかけの不在を否認しつつも、認められない事実の存在に焦っているのだろうか。それで、本当は何も思われていないのに、何かしら思われている振りばかりを装っているのだろうが、どうやっても現実に何もないことを隠せないことに苛立っているみたいだ。では、何もないことを今こそ素直に認めるべきなのだろうか。それ以外に何が必要だろうか。気休めにかまってもらえるように祈ろう。さしあたって君のもとに幸運が訪れることを天に向かって祈ってやろう。たぶんそれ以外にできることといえば、容易に繋がりそうもない言葉を無理に繋ぎ合わせて、無闇やたらにそれを継続させようとすることぐらいか。目下のところそれ以外にやりようがないだろう。怠惰とのさらなる困難な巡り合わせに一応は悩んでいるらしいが、依然として貧窮の時が止まることはないようだ。いつまでもどこまでも、当たり障りのない退屈につきまとわれている。それは砂浜で脛まで砂に埋められているような、中途半端な感覚に近いかも知れない。無根拠な出鱈目の到来が待ち遠しいところか。どうやらつまらない思惑が作用しているみたいだ。散漫で希薄な苦しみは、それとは別の苦しみを内部に抱え込んで放さない。そしていつまでもそれ固有の内容を見いだせないでいる。
4月27日
用意周到に訓練することは、様々な感情が錯綜するには至らずに、結果として経験が積み重ならない。運命を受け入れよ、そんな内からの声には従わずに、快適さを装う。いつまでも同じ態度でいられるように、人々は用意周到な訓練を飽きもせず繰り返すだろう。教育とはそういうものだ。少なくともそれらが始められる当初において望まれているのはそういうことなのだ。そんなものに幻想を抱いてはならない。まずそれらに関わっている皆が納得するフォーマットを提示すること、計画の作成段階においてそれをクリアしなければ、そこから先へ進めない。世の中に流通している紋切り型の嗜好を計画に反映させなければ、誰も納得させられないだろう。真の変化はそれを打ち破る形でしか実現しない。つまり計画通りに事が運ばないことが変化そのものなのかも知れない。そういう意味では、人々の期待を裏切るように進行するのが真の変化といえるだろう。この世の中は着実に変化している。思わしくないことが積み重なっている状態が続く限り、人々も社会も変化できる。それは幸福とは正反対の事態なのかも知れない。思い通りに事が運ばずに、絶えず不快感に包まれている状態こそが、変化を体験しつつある証なのだろう。苦境から抜け出そうと、もがき苦しんでいるまさにその時が、変化していることになるだろう。ではその反対に、何もかもが思惑通りに事が運んでいる時はどうなのだろうか。それは自己満足に浸っている時であり、自分勝手な傲慢さが芽生えつつある瞬間なのかも知れない。
4月26日
そのことを誰も指摘しなかったが、自分はそれを知っていた。時と場所を隔てて、それはそれらと似ていたのだ。かつてはがなり立てる演説が鍵十字の旗の下に発せられていた。ここ一年の間にがなり立てていたのは誰だったか。確か、改革を叫ぶ人はがなり立てていた。蛮勇を奮ってがなり立てることが改革そのものだったのかも知れない。そうやって歴史上の各時代で同じ過ちが何度も繰り返されてきたのだろうか。偽の情熱はいつの世でも騒々しく始められ、結果として期待はずれに終わるだろう。だがそれこそが次の改革の原動力になる。期待はずれだったからこそ、さらなる期待が生じるのかも知れない。期待はずれこそが諦念とともによりいっそうの期待を誘発させる。人は諦めたままではいられないらしい。諦めに耐えうるほどの精神は持ち合わせていないようだ。だから安易な期待感にすがりつく。程度の差こそあるが、時と場所と国と状況を隔てて、それが、ある時はヒトラーに期待が集まり、またある時は小泉に期待が集まった原因だったのだろう。で、次は誰に期待が集まっているかといえば、どうやら次なる生け贄は石原東京都知事になるらしい。まあどうなろうと大したことではないような気がする。彼がまともなことをやってくれたならば、それはそれでいいことなのかもしれないが、もし仮に彼も期待はずれに終わったとしても、大したことにはならない。田中真紀子しかり辻元清美しかり、所詮マスメディアが推奨する人物はそんなものだと思われる、ただ単にそれだけのことにしかならないだろう。この世の中に指導者なんぞは不必要だ。人から命令されなければ何もできないようなことではいけない。
4月25日
あなたはもう必要とされていない。すでにだいぶ昔からそうだったのかも知れない。ならば他に誰が必要とされているのだろう。たぶん誰かが必要とされ、誰かが必要とされていないのだろう。では、どうやれば他人から必要とされるようになるのだろうか。必要とされていなくてかまわないだろう。必要とされるようにしようとは思わない。作り話の導入部ではその話を展開させる必然性を感じない。どこまでも平行線が続いていく予感がするだけだ。なぜそれほどまでに強情を張るのか理解できない。おそらく様々な事情が積み重なった偶然の結果なのだろう。そこに恣意性が生じているのかも知れない。確かに偶然だが、偶然の結果だと思い込ませるように恣意的な思惑が働いている。なぜそんな風に感じるのか、その原因を究明しようとはせずに、すべては偶然の結果で済まそうとしているらしい。そういう不徹底な態度はどこから生じているのだろう。何がそうさせるのか、そんなことはわかりきっていることだが、今は触れたくないようだ。怠惰と疲労が螺旋状に絡み合い、さらなる精神的な混沌の中へ、感じるものすべてが投げ出されている。やはりその状態からどのようにも展開しようがないらしい。そこから先へ話を進めようがないのだ。そして無理に進めようとする気がないから留まっている。いつまでもそこへ留まり続ける。なぜそこへ留まっているかは、そういった消極的な理由しか導き出せないだろう。それは別に強情を張っているのではなく、言い訳を展開させようとしているのだ。何もないことの言い訳を、何もない中で披露したいらしい。現実に何もないので寝てしまう。そしてはっきりしない天候とともに夜が明けてしまう。毎度のことながら疲れているらしい。気がつくと体の節々に痛みを感じる。さらに気がつくと窓辺のすぐ近くでカラスが鳴いている。それに気づいたら飛び去った。部屋の中なので風を感じない。遠くに見える瓦屋根には何も感じない。無機質な概観とともに、たぶん生命の息吹を感じないのは気のせいだろう。こうして近頃は躍動感とは無縁の平衡状態が、うんざりしながらも飽くことなく続いている。いつか展望が開け、そこから抜け出る機会が訪れることを祈っている間もない。
4月24日
意味不明かも知れないが、蝉の抜け殻は標本になるだろうか。そこで渦巻いているのは、様々な思惑ではなく、洗濯機の中の水流だ。空中を綿埃が漂っている。ブラインドの隙間に埃が溜まっていたらしい。アンモニア臭は肉食獣を引き寄せる。腐った肉の臭いは芳しい。少なくともそれを食べる動物はそう感じているのかも知れない。その場所で生きることも死ぬことも簡単だが難しい。確かに簡単だが難しいのだが、そんな述べ方はないだろう。日本語の文法としておかしいだろう。互いに反する概念を同時に述べようとする一方で、何かが考慮されていないようだ。唐突に探偵の眼差しは何かを見る。殺された錠前屋は、いかにも無念そうな顔のまま、ただ天に向かって両眼を見開いている。見知らぬ男が、団扇を扇ぎながら扇子を煽っているのは、暑いからなのか。どこを向いても何も目に映らないのは盲目だからなのか。連想される理由はすべて間違っているだろう。緊張のたががゆるんでいるわけではない。また、停滞のくびきから解放されたわけでもない。だが深刻ぶってみせるには及ばない。この先、死んでも生きても事態は深刻にはならない。空中を漂う煙草の煙のように、そのうち疑念も拡散して、やがて跡形もなく消えてしまうだろう。話はいつも終わりに向かって進みつつあるようだ。しかし終わり間際になっても、いかさまの言説はどこでも不滅の継続性を発揮している。つながらない言葉がただ無秩序に並ぶだけだ。例えば不老不死の病は苦痛を伴うだろうか。それがどのような意味作用を期待されているか知らないが、そんな態度がどこまで可能なのだろう。人も言葉もいつまでも不滅ではあり得ないだろう。
4月23日
犬の癌はもう治らないそうだ。猫はこっそり物陰から周囲を窺っている。状況は固定され、軸は動きようがない。ただその場でぐるぐる回っている。回転しているのは何らかのモーターなのかも知れない。だが、昨日やったことも明日やることも同じでいいのだろうか。同じことをやれるわけがない。だが、それでも滞留する心はいつまでもそこへ留まり続けようとするだろう。ただそこに留まるのはいたたまれない。できることなら、そこから少しでも遠くへ歩を進めたいと思っているのに、そんな気持ちとは裏腹に、なぜかいつまでも同じ場所に佇んでいるようだ。留まる理由は何もないが、しかしそこから一向に歩み出さない。歩み出さずに歩み出されている。それはおかしな表現だ。そこには何かが抜けている。そこで意識が飛んでいるようだ。その前後で話の連続を維持できないらしい。ところでそれはいつの話なのだろうか。そのいつとは今のことなのか。今しがた到着した文には、定規で引いたような角張った文字で、たぶん別れが告げられているのだろうが、その内容はどのようにも解釈できる。無理に歩み出されながらも、ここに留まることが大切なことだとも解釈できる。逃げ出したくなるほどに、ここに留まり続けることがますます大切に思われてくる。そして、よりいっそうの逡巡が留まる力を増幅させる。だが、ここに留まりながら何を期待しているのだろうか。歩みをとめ、いつまでも留まり続けるがままにしておくことが、未知の思いがけない変化を生じさせることになる、とでも思っているのだろうか。わからないが、どうもそうではないらしい。それ以上の何かを期待しつつも、たとえ失敗して、それ以下のつまらない結果になってしまってもかまわないと思っている。また、どちらでもかまわないが、どちらにもならないような予感もしてくる。
4月22日
焼けこげた紙切れの向こうから誰かに見つめられている。だが怖がることはない。その眼差しは印刷された紙の上の幻影にすぎない。見つめられている自分にしても、おおかた破れたポスターの一部に刷り込まれた画像でしかない。こうして物語は語られる手前で終わってしまう。たぶん長々と語るのが面倒なのだろう。今さら何をどう語ろうとあまり本気になれないし、語っているうちに時の流れから取り残されてしまうだろう。それらの不幸に同情する筋合いはないが、戻り道の手前で、考えるいとまもなく、虚無と暗闇が間近に迫っている。この先いくら努力しても、もうすでに手遅れなのだろうか。手遅れなら、なおのこと未来へ近づけるだろう。積極的に手遅れであるべきなのかも知れない。切羽詰まっていても、逃げ道は必ずどこかにあると思いたい。しかしなぜ現実から逃げるという発想に行き着くのだろう。いつも逃げたいと思い続け、実際に逃げ続けていると思い込みたいらしい。そして逃げ足の速さを競うのが近頃の流行りなのかも知れない。で、自分はまんまと逃げ切れているのだろうか。それは冗談だろう、実態としては、逃げ切るどころか、追い越されているのかも知れない。現実に追い越され、置いてきぼりを食らっているのに、未だ逃げていると思い込んでいる。それどころか、今や完全に無視されいるのかも知れない。たぶん、間近に迫りつつある虚無や暗闇も自分には関心がなく、自分を追い越して別の誰かに襲いかかろうとしているのかも知れない。その誰かが誰なのかは知らないが、とりあえず自分は、こうして虚無からも暗闇からも見捨てられていることにしておこう。そうなっているとすると、それはそれでありがたいことなのか。そんな物語の設定でおもしろいだろうか。ここには空白以外に何もない。夜明け前のひとときを何もせずに過ごしている。あと少し経てば、夜の暗闇が通り過ぎて朝になるだろう。案の定、目が覚めたら朝になっていた。どうも眠気には勝てないようで、気がつくといつもひと眠りしたあとになっている。どうやらまた置いてきぼりを食らってしまったらしい。
4月21日
なぜか頭の中を整理できずにいるらしい。まともなことを述べられずに、自然と引きつった笑顔になっている。確かにその状況は滑稽な印象を抱かせる。それでも人は誰でも自らの立場を正当化したいものなのか。一概にそうとも言い切れないが、やりたいことをやることにどれほどの価値を見いだせるだろうか。何をやりたいのか一応はわかっているつもりだ。フィクションとしての人々が抱く夢は、そのことごとくがマスメディアに吸引され、その手のありふれたテレビ番組や雑誌や新聞のネタにされてしまうだろう。それではつまらないだろう。やりたくないことを様々事情からやらされている人々について、何も考慮されていないかのように語られるのは不公平だ。やりたいことができない人は、人生の敗北者になるのだろうか。また、やりたいことが取り立てて見つからない者についてはどうなるのだろう。たぶんどうにもならないだろう。冗談としてなら、その程度でいいのかもしれない。しかし生きがいとは何だろう。生きがいなどないとは言い切れない。それを生きがいだと認めれば、それが生きがいになるだろう。どうも俄には認めたくない価値観ばかりに囲まれて暮らしているらしい。頻繁に起こる精神的な煩悶の原因は、そんなところにあるのかも知れない。すべてが実感から著しくかけ離れているのだ。それらのフィクションと実感との間には深刻な背離があるらしい。気休めの娯楽などではまったく何も充たされない。だがそれ以外に何があるのだろう。気が進まないが、たぶん仕事をしなければならないのだろう。別にそれはやりたいことではないが、やらなければならない状況の中で生きている。どうやら人は疲れるために生きているらしい。そこに一定の真実があるのだろう。もしかしたらそれ以外は、すべてフィクションの領域に属しているのかも知れない。やりたいことについて夢や抱負やらを語っているそれ自体は、恣意的な言葉によって構成されたフィクションであり、実際はそれを語っている誰もが疲労の色を隠せない。夢と現実の差異や落差が拭いきれない疲労を生じさせている。それでも画面上で懸命にやりたいことを力説しているその顔には、やはりいつも疲労がへばりついている。がんばることは疲れることにつながる。だが人々は疲れるためにがんばっていることをなかなか認めたがらない。それを何とか覆い隠すためのフィクションが夢なのだろう。夢を実現させるためにがんばっているというフィクションと戯れることで、懸命に疲労や老いという現実を忘れようとしている。しかし現実の過酷さに対処するにはそれ以外にやりようがないのだろうか。やりようがないわけではないが、くだらぬ反論を誘発させるために、あえてそれ以上の言及は避けることにしよう。別に現実が過酷であるとは限らない。大人げないことならいくらでも反論は可能だからだ。訳知り顔にも疲労は付着している。目の前には新緑の樹木の上に曇り空が広がっている。たぶんそれは昼の光景なのだろう。いつの記憶か忘れてしまったが、いつの記憶であってもかまわない、どうでもいいような光景だ。そこから何も導き出されないだろう、憩いと安らぎの時以外は。
4月20日
これからどう生きようと自分はいつまでも自分のままなのだろうか。今のところ事態が好転する兆しはないようだ。しかし兆しがないことが好転するきっかけとはならないだろうか。それは強引なこじつけだろう。だがもっともらしいことを述べるのが面倒になる。気まぐれにある感情が発動する。些細な諍いが始まったきっかけは何だろう。小さな囁き声は誘惑の印になる。暴力への誘惑は正義によって正当化されるだろう。だが囁きと呟きの間に純粋な違いはないだろう。どうも近頃は中身を伴った内容に至る前に思考が終わってしまうようだ。しかし今ここに至って、気まぐれに導き出された数々の言葉を破棄できるだろうか。無理はできない。煙草を吸う者は、息が上がり、苦しそうに喘いでいる。中毒患者は、どこまでも何もやりたくない。もうやめたいらしいが、切実に訴えかける演技のどこまでが本気なのだろう。更なる飛躍へ何らかの助走が必要になる。その鍵を握っているのは、おそらく自分の意志だろう。しかし自分には自分の意志がわからない。距離が遠すぎるのかも知れない。ここよりもさらに遠くから、はるか遠くへ、自分の意を介さずに言葉は伝わって行くだろう。この時間帯に入るとなぜか全身から力が抜け落ちる。耳元で執拗に鳴り響いているのは目覚まし時計のベルなのだろうか。意志が薄弱なのはいつものことだ。それが嘘になるように努力し続けているらしい。嘘は薄弱な意志から生まれるらしい。未だ始まる兆しはないし、終わる予感もしないまま、何をやろうとしているのかわからない。だからやめるわけにはいかないようだ。これはどういうことなのか。イメージとして幻聴の利き目には計り知れないものがある。何に耳を傾けているのか知らないが、何らかの音が耳障りなことは確かなようだ。うるさくもなく静かでもないその音が気に障る。それで何も聞こえていないのに、聞こえている振りをしている。心の琴線に触れるような音なのに、いたたまれなくなる。できることなら何らかの勘違いであってほしい。破綻が間近に迫っているとしたらどんなに喜ばしいことか。しかしそれよりも退屈な継続を望んでいる。今後は心変わりを期待するしかないようだ。どうも排水管がつまっているらしい。深夜に近づくにしたがって雨が止みつつある。
4月19日
理由のない衝動は行動した後から理由を探し出そうとするだろう。なぜ無意味な対話を継続させようとするのだろう。それが無意味にならないように、後からもっともらしい根拠を付け加えようとしている。循環する思考への試みは明け方にも再開されている。今の時点で取り出されるはずの根拠を明日は見失うことになる。それらの言い訳は、一度きりの使用にしか耐えられないようだ。何を見いだすわけでもなく、結果的には何も見いだせないのか。常に迷いは結論を拒絶し続ける。今をやり過ごすために、意識は昨日に戻り、明日を想うだろう。それほど退屈な時を過ごしているわけでもないだろう。今は退屈ではないと思いたいらしい。それで退屈さを紛らわすための言い訳を探しているのかも知れない。静けさに包まれている事実から逃れるためのBGMを探し出そうと試みる。たぶんそれで現状を打開できるとは思わないだろう。その程度では現状をやり過ごすことさえできはしないだろう。だから絶えずこの現状に留まり続けているのかも知れない。それがここでの暫定的な結論になるだろうか。丑三つ時には何もやらずに寝ているべきなのか。唐突な言葉の出現は昨日の余韻を反映しているのかも知れない。今はのめり込むような情熱の季節ではないが、理由も根拠もないやりきれなさは、その頑迷な執拗さに由来するらしい。なぜ無意味な行為が繰り返されるのか、それがここでの疑問だったはずだ。結局はそんな疑問に答えられぬまま、また翌朝になろうとしている。どうやらいつものように気の利いた結論には至らなかったようだ。
4月18日
まばらな人影の中に、ひときわ甲高い話し声を耳にする。些細なことにこだわっているうちに、いつの間にか何を捜していたのか忘れてしまったが、その後捜し物は見つかったのだろうか。今はそれを思い出せないが、いつか思い出すこともあるだろう。期待と忘却の時は交互にやってくる。やる気と怠け心の間に憩いの場があるらしい。たまには忘れていたことを思い出してみよう。唐突にある日の出来事が思い出される。物陰で何かの術が施されている。静かに響いているのは呪文の一種かも知れない。幽霊を招き寄せることがそこでの課題となるだろう。映画のスクリーンには、墓の底から死者の影が這い出てくる光景が映し出される。気まぐれなゾンビの大群が襲ってくる。彼らは何を目指しているのでもなく、前言を撤回することに喜びを見いだそうとしているらしい。君は誰を呪えば気が済むのだろう。自分自身の至らなさを呪ってみる。生きること、生きることを全うするために生きること、健康志向者の目標は生きることにある。他人を呪うために生きる人も健康志向には違いない。少なくとも、わら人形に五寸釘を打ちつけるだけの体力は保持しておかなければならない。丑三つ時の深夜に、神社の裏手の森で徘徊するのにも、相当な体力と勇気が要るだろう。そこから導き出される虚構の結論とは、他人を呪うためには、まず第一に自分が健康でなければならない、となるだろうか。しかしそれの何が虚構なのだろう。たぶん嘘も事実だし、場合によっては真実であるかも知れない。誰を呪うかは私にはわからないが、君にはわかっているはずだ。それらは自分の言葉とは異質な性格を宿している。安易な結論を求めるならば、呪いの言葉は他者の言葉なのだろう。不快さの原因は、常に他人のせいにしたい衝動に駆られるらしい。しかしその他者は自分の分身でしかないのかも知れない。呪いを正当化するために、呪われてもかまわないような極悪非道の他者を、心の中で構成しているのだ。
4月17日
近頃はこの世界への興味が薄れているが、それのどこまでが真実なのだろう。投げやりな感情に対する無関心に沿いながら、何の変哲もない一日が過ぎ去ろうとしている。夜になって風の音が気になりだす。気象作用は曇り空と時々の雨と寒冷前線の通過による強風をもたらしている。今日の出来事はニュースにはならないようだ。すべてが無関心の中へ落ち込もうとしているわけか。なぜか気まぐれに思い出すのは、雑木林の梢が強風に煽られて激しく揺れ動く光景ぐらいか。その他に何か気になる出来事があったかも知れないが、なかなか思い出す気にならない。また、思考の方は数日前から停止したままのようだ。意識が何に抵抗しているのか定かでないが、わけもなく執拗に抗い続けている。その結果として、現状を受け入れられないでいるらしい。おのれを信じることも神を信じることも大切だろうが、一方でその大切さを理解できないでいる。自分にとってはおのれも神も当たり障りのない存在のようだ。もっぱら別の事象による脅威にさらされているのだろう。行く手を妨げるのは奇蹟とかいう大袈裟な出来事ではない。そのかわりに自然の気まぐれで起こる偶然の巡り合わせに苛まれる。その結果日常に積み重なるのは、些細な不安と諦めの連続になる。こうして休息する間もなく次々に不都合が訪れる。うまくいかないのは気のせいではないだろう。しかしうまくいかないことの連続が、あきらめというつかの間の休息をもたらしてくれる。世の中はそんな不都合を巡って、ただぐるぐる回り続けているだけなのかも知れない。それは永遠に続く堂々巡りの端緒なのか。逡巡には終わりがないかのように、偶然に目の前を通り過ぎる些細な事件を巡って、ああでもないこうでもないと思案を巡らしながらも、何の結論も得られぬまま、結局は忘却による憩いへ、なす術もなく移行してしまう。
4月16日
無から有を生じさせるには、真空の力を借りなければならない。無限の可能性を追求することは虚無を目指していることになるらしい。それのどこまでが不可能で、どこまでが可能なのだろう。そこにルールがあるとするなら、決して同じものを目指さないこと、それが無限を継続させるために必要とされている。しかしモノローグには限界がある。内面にある共通の土壌から生成した別々の意識を我有することが可能だろうか。意識の中の登場人物は複数であるべきなのかも知れない。そしてモノローグの中で対話に至るには、虚構の生成力が必要なのだろう。だがその一方で、技巧を弄して対話を続ける振りをしてはならないそうだ。要するに、モノローグはモノローグのままで続けてゆくしかやりようがない。それがどこへ到達しようと、到達した時点でまた改めて考えればそれでいいことかも知れない。今さら何をつなぎ止める気も起こらない。何を思う間もなくすべての事象は、意識の向こうにある無意識の闇へと取り込まれる。そんな作用を意識を越えて無意識のうちに保ち続けているらしい。そして忘れた頃に思い出す。もはや用済みになったガラクタ状態で記憶の奥底から取り出されるわけだ。そんな互いに無関係に散在しているバラバラな断片を、意識はどうつなぎ合わせればいいのかわからず途方に暮れるしかない。だからそこで真空の力が必要とされているらしい。どこでどうつじつまが合うのかわからないが、結果的には何となくまとまりのある文章として出力されているらしい。まったくの他力本願的なやり方なのかも知れないが、そこには依然としてモノローグがあるだけのようだ。
4月15日
いつもの虚無に包まれている。別に理由も必然性もないが、毎度おなじみの嘘をついてみよう。気の利いた冗談が思い浮かばないので、センチメンタリズムに感染した振りを装う。心の中の空白が言葉によって埋められるのはいつになるだろう。それにつれて画面上の白い余白も文字によって埋め尽くされるだろうか。どちらも無意味な営みなのかも知れないが、骨の折れる作業であることは確かだ。妥協したければいくらでも妥協できる。しかしいったん妥協してしまうと際限なく妥協してしまうような気がしてくる。だがこだわりを持ってやり通したとしても、おおよそ気休め程度の効用しか期待できない。それでも懲りずに継続させているらしい。試みのすべてが気休めなら、今さら何と戯れることができようか。思うことすべてが不必要ならば、必要から見放された心にはどのような使い道があるのだろう。人とともに心もリストラされなければならないのか。それでもいいような気もしてくる。しかしリストラの意味がよくわからない。それがどのようなタイミングやってくるのかわからないが、どうも気の利いた内容が見あたらない時期らしい。巡ってきた状況に意識が適合できないでいる。だが意識が適合してもしていなくても、それを無視する形で言葉を紡ぎ出す作業は続いて行くらしい。おかしな季節と時期と精神状態だ。
4月14日
たとえ産業社会の中に暮らしていても、雨水による浸食と風化作用によって、自然とともに人も変わる。それに何の意味があるのかはわからないが、ただ変形し変化している。それに理由を見つけだそうとするのは、人間の勝手な都合によるのだろう。価値のあることをやりたい、生きがいを感じる仕事に就きたい、夢や感動を追い求めていたい、安らぎがほしい、それらは無い物ねだりの範疇に入るだろうか。それらの思いがすべて無効であったとしても、さらに弛まぬ努力を続けられるだろうか。たぶんはじめからそんなことは思わない。それに、まだ試練の水準からは程遠い状況かも知れない。なぜ悲壮感とは無縁のままでいられるのだろう。何も思わなくても、何もやる気がなくても、見聞きし感じる物事のすべてが移り変わってゆく。なぜそんな思いを抱くのだろうか。少なくともそれは悟りの境地ではないらしい。時にはつまらぬに感情に支配され、我を忘れることもあるが、我を忘れたままでいても、さして不都合は感じない。そのまま自我は忘却の彼方へ払い除けたい気もする。理性と感情の二項対立は廃棄しておこう。そのような水準で言葉を弄ぶのは、通俗の心理学的な感性を呼び込んでしまうのでつまらない。よくテレビドラマに登場する殺人事件の容疑者の心理状態ほど浅はかなものはない。探偵や警察関係者が理解可能な範囲内での心理状態に落ち着くように、前もってドラマの筋書きによる拘束を施されている。偽りの葛藤や苦悩も番組の放送時間内に解決を見ないと視聴者も安心できないのだろう。しかし現実はそこに留まらない。恐ろしいのは、ニュース番組に登場する現実の殺人容疑者や被告までもが、テレビドラマの殺人犯と同じように、安易な心理学的精神状態が付加されていることだ。しかも裁判で罪状を争う弁護士や検察官や判決を下す裁判官までもが、それを基として自らの言説を構築しているらしい。たぶんそうしないと収まりがつかないのだろうが、現実にそんな馬鹿げた制度で裁かれてしまう者達は、かなり割の合わない境遇に陥っているのかも知れない。犯罪が割に合わないのは、こういうところからきているのだろう。過ちを犯してしまうと、紋切り型の出来心をあてがわれ、理不尽な言葉を一方的に言い放たれて、社会的に葬り去られる。
4月13日
眠気とともに追加される言葉は、三日も経てば忘れてしまうだろう。いくら神経を研ぎ澄ませ、精神を集中させたとしても、大したことは感じ取れないだろう。依然としてこの大地はただの大地のままだ。地表面を覆う大地には、常に様々な変形作用が働いているらしいが、大地に刻まれた溝は溝としてさらに深まり、やがて急峻な山岳地帯を形成するだろう。それを人の一生程度の時間でどれほど感じ取れるだろうか。どうすれば大地が大地であることを自覚できるだろう。なぜかわけのわからないこと述べているらしい。とりあえずしたり顔はやめた方がいい。誰もそんな顔はしていない。内容が希薄に感じられる。単純化された言説には魅力を感じない。しかしまだ複雑なことを述べられるだろうか。希望を持つこと、それは希望とは何だろうとは考えずに、ひたすら抱いている希望について語ることかも知れない。停滞の予感とともに、ここから先へは進めないだろう。何を求めているのでもなく、何も求めぬことは幸福を呼ぶらしい。こちらでは相変わらずの平穏な日々が続いている。いつもの季節は五月の風とともにやってくる。もう半月もすれば、夏の暑さに悩まされるのか。しかしその前に梅雨がある。梅雨の季節は六月だろう。もはや季節の変化にさえ耐えられない精神状態なのだろうか。成り行きまかせでそんな嘘をついてみる。季節の変わり目はいつなのか。誰でも苦しい時には救いを求めるものなのか。夏にはまだ間があるが、秋が来るにはまだ半年も待たなければならない。
4月12日
嫌気がさしているのはいつものことだろう。いやな気分に包まれている。それは気の持ちようでどうにかなるものではない。今度ばかりは、どうにもできないレベルにまで達してしまっている。もうおかしな成り行きは御免だし、くだらぬ対応にも飽き飽きしている。だが、何を今さら焦っているのだろう。それもいつものことではないのか。こうしていつものように無駄な言葉を並べ立てている。こんなことしかできないのだが、それも気まぐれな成り行きによって出端をくじかれる。どうやら怠惰と疲労のおかげで、煩わしい作業から解放されつつあるのだが、それが気に入らないらしい。まだ解放されるには気が早すぎる。だが、いつもの成り行きに留まるには、これまでよりもさらに多大な労力を要する。もはや意地を張り通す気力が失せている。その場限りのアドリブがそういつまでも続くはずはない。この辺がひとまずの限界なのだろうか。できればそう願いたいところか。いくら高い理想を掲げようと、結局はいつものワンパターンへと落ち着くしかない。毎度おなじみの二項対立へ意識は導かれ、ヒステリー気味に錯乱への憧憬を反復させている。この世に気休めは要らないが、真摯な努力は永遠に報われることがない。人々の内面にある妬みと疚しさが外部へ滲み出る時間的な順序を考えてみよう。なぜかそのような成り行きで醜さが出現する。何の権限があってそれは行われるのだろうか。気休めをいうならば、人々の善意に期待している。そこで何が期待されているのかといえば、型にはまった答えが多数を占めることかも知れない。彼らの真意を察知して、善意で要求に従うことが期待されている。とりあえず現実を隠し通すことが我々の使命になるだろう。我々が彼らを嫌っていることを、彼らが我々に嫌われていることを、知っていながらそれを彼らは認めない。そうやって、できるだけ大勢の人々から、善意の賛同が得られたように装い、わざとらしく媚びを売るその姿勢が不快でたまらないのだ。
4月11日
雨を眺めながら雲を眺める。空を眺めながら雲を眺める。では雲を眺めながら何を眺めるのか。何を眺めるでもなく、雨音を聞きながらテレビを見ている。もたらされるのはそんな状況だろう。やはりユダヤ人はこの世から抹殺しておくべき民族だったのかも知れない。ホロコーストを実行したヒトラーの正しさが今になって証明されようとしている。悲劇は起こるべくして起こり、過ちはさらなる過ちへと発展するらしい。苦難の歴史に終わりは来ないだろう。それを終わらせるためには、民族や国家の呪縛から解放されなければならない。そんなことはわかりきっていることだが、それができない人々が世界の多数派を構成しているわけだから、それをいくら叫ぼうと無駄であることに変わりない。今後予想されるのは、全世界的なユダヤ人排斥運動になるだろうか。そうなる可能性は少ないか。だいいちアメリカがそんなことを許さないだろう。イスラエルの支配層を構成するユダヤ人達は、ユダヤ教徒である前に欧米人なのだ。過去数百年間にわたって欧米人達が他の地域で行ってきた侵略の歴史が、今パレスチナの地で、ユダヤ人達によって再現されているのかも知れない。欧米による植民地戦争の最後の舞台がパレスチナの地になるのだろうか。それとも今後また別の地域で、同じような愚が繰り返されてゆくのだろうか。どうなるにしろ、民族や国家単位で優劣を競い合うという偏狭な意識が人々を支配している限り、世界から争いごとはなくならないだろう。そのような単位で世界が分割されていることが紛争の原因であることは明白なのに、それを温存しつつ問題を解決しようと四苦八苦しているのだから救われない。それは愚かさの極みに達しているのかも知れないが、それでもやはり別の道を模索することは不可能なのだろう。現状ではそれでうまく行っている地域の方が多いと思われている。少なくとも、国内で資本主義市場経済が機能している地域では、国家という枠組みを捨てる理由は見あたらない。イスラエル自体がそうなのかも知れない。たぶん何の権限もない個人がいくら別のやり方を模索しようと、今すぐどうなるものでもないのだろうが、それをやらないわけにもいかないだろう。何よりもそういった枠組みにしがみついている人々が不快に感じられるのだから仕方がない。もう二日も経ってしまっている。雨上がりのぬかるみ足を取られる。この時期は樫の木が落葉の時期らしく、その落ち葉が排水口につっかえて、屋上に大きな水たまりが出現する。
4月10日
つまらぬ意地の張り合いはやめようと心がけているのに、やはりいつものように意地を張り通しているのだろうか。それが何の意地なのか知らないが、意地の感情だけでは到底勝てないだろう。そして何に勝とうとしているのかもはっきりしないのだが、どうやら現実の勝負には敗れつつあるらしい。装われた勝負に勝つのは物語の中の登場人物なのか。そこで思い浮かぶのは巌流島の決闘ぐらいなものか。例えば宮本武蔵はそんな物語の主人公に属している。自分はその程度の勝負にも感動できるだろうか。やる気はないが、ゲームセンターで画面を覗き込んでいる。今日では現実の勝負はゲーム機の中で繰り広げられるのだろう。アメリカの戦争はまるでテレビゲームのようだ。そんな紋切り型が流行ったのは湾岸戦争の頃だろうか。我々は操作レバーやボタンによる選択動作に左右される物語にも感動できるだろうか。普段からテレビで、スポンサー付きの映像が提供する物語を見聞きして、適当に感動しているのだから、それなりに感動できるかも知れない。その内容は売れ筋の小説に近いだろう。昔はそんな読み物もよく読んでいた。そんな過去はとうの昔に忘却の彼方へ過ぎ去っているつもりなのかも知れない。とりあえず今は昔とは違う状況の中で暮らしていることになっている。今を生きる者は、たぶん明日も生きられるかも知れない。明日のない者は今を楽しまなければならないわけか。そんな需要の行き着く先がテーマパーク型の遊戯施設になるのだろうか。予想外に多かった遊戯施設の入場者数は、経済効果という気休めを導き出すようだ。たぶん人々は、そこでありもしない明日の出来事でも体験したいのだろう。テレビを見つめながらそんなことを思う。その一方で過去の歴史から何かを学び取りたい者達も、同じテレビ画面の別の番組を見つめている。経験から学ぶことは大切だ、そんな結論に感動できるだろうか。そんな結論へ至るまでの挿話の内容に感動するのかも知れない。自分は歴史から何も導き出さないが、そこから導き出されるのは、毎度おなじみのありふれた教訓になるのだろうか。それ以上を望まない人々はそれで満足するだろう。しかし何も望まない者には未来がないのだろうか。はたして自分はこんな状況で何を望んでいるのか。瓢箪の中の世界には外界との共通点がある。それらには私の個人的な感情が不在だ。閉ざされた空間はいつまでも閉ざされたままのなのか。
4月9日
少し肌寒いが、季節的にはもう雪は降らないだろう。その状態を何といったらいいのか、意識が希薄で薄弱になってしまった。曇り空の下で闘争が繰り広げられている。しかしそれは部屋の中にあるテレビ画面上での話にすぎない。今後どれほどの血が流されようと、自分には直接の関わりはないらしい。外では猫と雀が鳴いている。真昼の記憶は真夜中に蒸し返され、こうして文字として画面上に定着される。撃たれた感触は人それぞれで違うだろう。戯れ言の着弾点には土煙が舞い、やがて出血が止まらなくなる。荒唐無稽の作り話にはリアリティがない。内容が希薄なのだろう。その他にはとりたてて何もないので、その時何を見誤ったのか、思い当たる節をあたってみよう。それとは無関係に、虚無の空間もどこまでも無内容だ。何事も積極的に行為できない。だから今日も何もやらなければ、明日も昨日と同じ内容となってしまうだろう。今日の自分が何を考えているのかよくわからないが、それらの言動には何らかの作為を感じる。それはいつもの引き延ばし工作かも知れないが、彼はそこで何を演じているつもりなのだろう。何をどうするわけでもなく、何をどうしようともしない。そういうわけのわからないことには飽きた。意味不明な演技を強いられている者は、あるがままの精神状態でいられないようだ。だが、そこであるべき姿として措定されているあるがままの精神状態も、それらのフィクションから派生した幻影の一つにすぎないだろう。あるがままでいられないのが、自分の現在の精神状態なのかも知れない。彼はそれを否認すべく、あるがままに見せかけようとして、意味不明な演技を強いられるわけなのか。述べている途中から意味的におかしくなっているかも知れない。ところで、演技とはどういうことなのだろう。誰が何を演じているのだろうか。また、何をもってそれを演技と見なすのか。たぶんそれは、怠惰と戯れながら何もしようとしない自分自身に対する、わざとらしい言い訳なのかも知れない。
4月8日
奇妙な予感の正体は未だ特定されていないが、そればかりを追い求める予定調和の閉じた体系に充足しているわけにもいかない。不連続に至るさらなる展開が期待されているが、意味不明な逡巡に導かれるだろうそれらの続きは明日になるだろう。この地に雨天が近づくには、いったん晴れた後に曇り空が通過しなければならない。大地に根付いた植物は何を守ろうとしているのか。その前の世代が自らの屍とともにもたらした、栄養分に富んだ表土を守っているのだろう。しかしそれも時の流れとともに徐々に失われてゆくだろう。表土は雨に洗い流され海底に地層として堆積する。その海底が地殻変動によって隆起し、また以前と同じような大地が生じるわけなのか。そんなことが何億年もの間、飽きもせず繰り返されている。だが誰が飽きるのか定かではない。くだらぬ人々はそこに神の存在でも設定するのかも知れない。そのような状態にアクセントやバリエーションをつける目的で、人間が作り出されたのだろうか。しかし人間はこれまでに地上にどのような痕跡を残してきたのだろう。遺跡の中に神の痕跡を探している人々は、雨風に削り取られた石の欠片から古代の神々の姿を想像するだろう。神は人ともに存在してきた、そんなありふれた結論以外に何が求められるのだろう。そんなことが何千年もの間、飽きもせず繰り返されてきたのかも知れない。では、そこで人々が守っているものは何なのか。その前の世代が屍とともにもたらした、文化とか文明とかいわれる概念を含んだ歴史なのか。それらの歴史が予定調和の閉じた体系を形成していることになるだろうか。
4月7日
しかしその人物は何を悟ったのだろう。悟りに到達できぬ人々は、読書によって神秘主義思想と戯れる。涅槃の光景を思い浮かべているのは誰だろう。しだいに薄れゆく意識は、昨晩の就寝前を思い出しているのかも知れない。まだ薄暗い朝の空を見上げながら、今から二日後には何を思っているのだろう。なぜかかなりの行き詰まりに直面しているらしい。たぶんやる気がないのだろう。それでもまだ前進しようと試みるが、未だ定められた位置へ到達できずにいるらしい。予定は遅れに遅れ、設定した日付からだいぶ時が経ってしまったようだ。しかしここに至ってまだ同じようなことをやり、同じような道筋を辿ることに満足できるだろうか。それはまるで精神を鍛錬するためにやる苦行のようなものなのか。しかし今後もそのようなやり方を押し通せるだろうか。肉体的な鍛錬には限界があるだろうが、スポーツをやる者は、ある特定の競技に則した筋肉を鍛えている。自ら意識することなく目指している彼らの最終目的は何なのか。人はその日その日を、まるで人生の最後の一日であるかのように過ごさねばならない。昔の哲学者はそうやって自らを鍛えながら、それに則した主体を徐々に構成していったらしい。修行の目的は、苦難を苦難と感じなくなるようにすることではなく、苦難を苦難として体験しながらも、苦難を体験しつつあるまさにその状態でいられるようにすることにあるそうだ。どんな事態に陥っても平常心を保つこと以上の精神状態を追い求めているらしい。スポーツをやる者は、競技を体験しつつある状態でいられるように、日頃から自らの身体を鍛えている。それらは健康を保つこととは違い、不健康の状態のままでいられるようにすることにつながるだろう。怪我や病気と共に生きていられるようにするために体を鍛えているわけだ。それの行き着く先には、自らの死と共に生きていられるようにすることにある。筋肉に下される絶え間ない苦難には、苦難を体験しつつあるまさにその状態でいられるようにすることに真の目的がある。その結果としてもたらされるつかの間の勝利などは単なる気休めにすぎない。
4月6日
自分の第六感は不完全だ。終わりの予感を感じているのだが、何が終わるのかは明らかでない。何も終わらなくてもいいような気もする。始まらなくても終わらなくてもいいだろう。あるいは、その場の気分次第で終わったり始まったりするのにも魅力を感じる。予感は予感でしかなく、現実には終わらなくてもかまわない。まだ何も始まっていないのに終わる必要はない。しかしそれは嘘だろう。ただそう思いたいだけなのだ。すでに始まっているのであり、刻一刻と終わりに近づいている。唯一神はユダヤ人の神に対する忠誠心を試しているのかも知れない。パレスチナ人に対してどこまで酷薄になれるかが試されている。二つの民族の共存共栄はあり得ない。二つのうちどちらかが一方を駆逐するまで闘争は続いて行くだろう。現状ではイスラエルは勝利しつつある。かつてドイツ人が自分達にやったことを、そっくりパレスチナの民へ施すことができて、さぞや得意満面になっていることだろう。唯一神も、下僕達が異教徒から強奪した土地や資産が夥しい量に達していることにご満悦かも知れない。ヒトラーは敗れ去ったが、我々は同じことをして勝った、これで我々がナチスドイツより強いことが証明された、イスラエルは正真正銘の偉大な国家だ、まだ生き残っているパレスチナ人は、いきなり殺すと文句が出るだろうから、辺境の砂漠にでも隔離して、生きながら朽ち果てるにまかせておこう。今後イスラエルの唯一取るべき政策はアパルトヘイトになるだろう。すでに何十年も前からそうなのだ。我々はアメリカとともに、それを見て見ぬ振りをしてきた。イスラエルがそこにそうやって存在していることをなし崩し的に是認してきた。いつも他人事だったのかも知れない。たぶんこれからもそうだろう。これからも自分達の生活とは無縁なところで事態は進行してゆくのだろう。彼らと我々は同じ人間ではない。彼らは神に選ばれた民族の一員なのだ。それとは対照的に、我々は宗教が形骸化し朽ち果てた地域の住民だろう。この地に住んでいる八百万の神々に人を統率し操る力などありはしない。もはや人々から見放された用済みの中古品が、大陸の東側の海に浮かぶ列島へ、漂流民とともに吹き溜まったまでのことだ。だから我々は特定の宗教に拘束される必然性がないし、そこから生じている我々の曖昧さや不徹底さは、イスラエルを生じさせた欧米の価値観からは、消極的ではあるが自由な立場を有している。我々の意識には何よりも主体がない。その何となく周りの状況から導き出される価値観は、すべて相対的な相互関係からその都度暫定的に形成されている。我々の内には確かなものが何もないのだから、固定した価値観を後生大事に守ってゆく必要も生じない。我々は今後もそのような情けない立場に留まってゆくだろう。だが我々とは誰を指すのだろうか。具体的には日本国民ということなのか。さあ、我々と日本国民が重なる部分もあるだろうが、そうでない人々もいるかも知れない。それがイスラエル人であってもパレスチナ人であってもかまわないだろう。
4月5日
意味不明とはどういうことなのだろう。どういうわけかどういうわけでもない。それは何らかのシステムなのだろうか。そういう意味不明な言説によって何を切断したいのだろう。民衆は自分達の見たいものしか見ていない。それはいつもの繰り返しになるだろう。物語から遠く離れながら、そのような行動に反して、物語へ近づきたいと願う。自ら進んで未来への可能性を閉ざしたことの言い訳がしたいのかも知れない。たぶん意味不明とはこういうことなのだ。ある晴れた日の午後に他人の消息を知る。枯れ葉が溜まった屋上の片隅で、プラスチックの欠片を見つける。絶海の孤島で大蝙蝠と出会う。ありふれた好奇心はテレビ番組で満足させなければならない。拙速な事の運びに苛つきながらも、他人の努力に共感することでそれなりの愉快な気分を得られるだろう。ロマンを掻き立てられる戦いには武器が必要だそうだ。ミサイルやロケット弾が飛び交うご時世なのに、その手のアニメーションの中では、何でも切り裂く大きな剣をよく見かける。力の象徴であり源泉でもあるそれらの剣には、よくありがちな神秘的な力とともに、対決を簡略化する経済効率の良さが宿っている。チャンバラ・シーンで間を持たせる一方で、とりあえず生死をかけた決闘をやっている、と視聴者を納得させる効用があるのだろう。それらはいつも、物語の一時的な停滞を招く。剣にはそういう実用的な面とは異質の魅力もあるだろう。古代から伝わる三種の神器の一つである神剣には、刃の部分にいくつかの不思議な枝分かれがあったように思う。また、スターウォーズに登場するジェダイの騎士のビームサーベルも、作りはシンプルだが、ビームの部分の色が美しく、遠くからでもひときわ目を惹く魅力的な剣だ。床の間に飾られた日本刀には、美的な価値が宿っているらしい。博物館に飾られるロケット弾やミサイルにもそれと同じような価値が宿るだろうか。人を殺める武器が、美しいかそうでないかの分かれ目はどの辺にあるのだろうか。よくわからないが、人の手から遠ざかるほど、また個人による直接の行使から遠ざかるほど、それらは美と無関係になってゆくのかも知れない。
4月4日
吹きつける強風は何の兆しだろうか。柄にもなく北風と戯れてほしいわけか。しかし風と戯れてどうするのか。風と戯れるとはどういうことなのか。北風と戯れるという前提が意味不明なのか。たぶん前提とは往々にして意味不明なものなのだ。それを事後的に、さも当然なことのように装うのだろう。そうやって起源を捏造する行為にはいかがわしさが伴う。その存在の正当性を問うのは馬鹿げたことだ。だが正当性という言葉自体、不当な起源の捏造を正当化するために必要となる。不必要なものこそ言葉によって正当化されねばならない。そして言葉による正当化を必要としないものは無視される。必要なものはただ黙って使われるだけで、何の称賛も祝福もされないだろう。その反対に大袈裟に喧伝されるようなものは、そうしなければ本来なら誰からも見向きもされないものなのかも知れないが、誇大広告によって人々に必要だと思い込ませるわけだ。物事の必要性や正当性は、そのような言葉を使って、その必要性や正当性が説かれない限り、その対象の必要性も正当性も生じない、といった概念なのだ。要するに多言を要することから、不当なものの正当性が生まれ、不必要なものの必要性が生まれることとなる。しかしそうした言葉による過剰な装飾は、往々にしてその対象となる物事の寿命を縮める結果になる。そういつまでも称賛の言葉が続くはずもない。年がら年中、一つの物事が話題の中心に居座り続けるわけにもいかない。対象についての言葉が尽きた時点で、それらは廃れる運命になっている。だから誇大広告によってメディアへ露出した者の末路は決まって、あの人は今、という番組のネタにされるのだろうか。
4月3日
薔薇の名前を思い出す。薔薇は植物に属するが、人は植物でも動物でもない。人がそれらの対象を植物だとか動物だとか、勝手にそう呼んでいるだけだ。人は人のことを何と呼ぶのだろう。人を植物とか動物とか呼ぶこともあるだろうか。虐げられた人々が武装蜂起すれば、それはテロ行為と呼ばれるだろう。どこかの国で自爆テロをやっている人々は永遠に救われないのだろうか。被害者は加害者の烙印を押され、虫けらのごとく蹴散らされる。我々はそんな光景を黙ってテレビ画面で眺めるしかない。我々は被害者にはなり得ない立場にある。自分達はどちらかといえば加害者側に属するだろう。この国の国民は被害者ではなく、その大半は加害者の部類に入るだろう。真の意味で被害者の名に値するのは、アメリカ大陸の先住民や、公園や河川敷で寝起きしているホームレスなどのような、虐げられた少数派に属している人々のことだ。そのような意味で真の批判者は国民の味方などになってはいけない。国民こそが批判されるべき対象なのだ。何をどう解釈しようと、民主主義は常に多数派の意向に従って作用してきたのだから、この状況を批判しようとする者は、何よりも先んじて、まずは世論調査の多数意見こそ批判すべきだろう。それができないのならば、その者も多数派の加害者側にまわるしかない。政治に対して何か文句があるなら、選挙で政権交代を実現させてみればいい。ただそれだけのことでしかないような気がする。それだけのことができないのだから、やはりこの政治不信の元凶である加害者は、制度上の有権者である国民しかいないだろう。しかしそのようなことは、もはや自分にとってはどうでもいいことになりつつある。もう議会や政府やそれに関わる政治家が、何をどうしようと大して気にならない。それらすべては冗談のネタ程度のことなのかも知れない。自分には関わり合いのないことなのだ。要するに自分達ではなく、自分こそが加害者になりつつあるのだろう。どうも被害者づらして政府に向かって、景気をどうにかしろ!とか叫ぶ気になれない。むしろ不景気でありがたい。いや、実感として不景気ではないのかも知れない。確かジョン・F・ケネディの父親は世界大恐慌で手持ちの資産を倍増させたと聞く。それほどではないにしても、気分だけでもそんな風になりたいものだ。今の自分ではどうやってもパレスチナの住民を救うことはできない。しかしなぜそんなことを思うのだろう。自分が彼らを救いたいなどというのは、まったくの荒唐無稽で妄想の域を出ない願望でしかないのに。
4月2日
季節はずれの暑さはエアコンを思い出させる。だいぶ前から集中力が切れている。冷房の利いた電車の中でこんな夢を見た。ビルの一室から目の前に広がる墓地群を眺めている。記憶が定かではないのだが、昭和の森霊園と呼ばれる場所を思い出す。彼岸の風景は霊園の中から輪廻への願望を語りかける。君の心は一昨年の冬山で遭難している。雪の結晶は複雑な幾何学模様を示す。吹雪の中の彷徨はランダムな足取りを演出する。火の国は熊本にあるらしい。防火扉に挟まれてうめき声が絶え間なく響いているようだ。吹雪の中では出火の原因が見あたらない。煙に巻かれながらも、見知らぬ建物の中を彷徨い歩く。非常階段はどこにあるのだろう。フィクションに合理的な説明は要らないらしい。冷や汗を流しながら、焦りの表情とともに、話の筋を見いだそうと必死の形相でいるらしい。それらとはまるで無関係に、つながりのない無内容に感動しながらも、冬の八甲田山は映像として美しい。美としての飢餓感は、喉の渇きに由来するのか。しかしなぜ雪山で遭難した軍隊と、拷問で苦しむキリシタンが火事場で同居しているのだろう。聖母マリア像が弥勒菩薩像と重なり合う時、天使の涙は悪魔の微笑みに問いかける。キリシタンの聖母像は、なぜここではなくあそこにあるのだろう。どうして吹雪の中ではなく火事の光景と重なり合うのだろうか。解読格子にかからない台詞は無色透明を連想させる。事実は執拗にフィクションのまねをしているようだ。まるで虚構の出来事のようにその光景は語られる。スポーツを楽しめない者はテレビから遠ざかりながら、意味不明な捨てぜりふを吐く。ひねくれ者は馴染めない環境に住むことが好きなようだ。どこまでも続く青空に呆れながらも、頭上の月は何を語りかけるのだろうか。それらは繋がらない電話とは無関係の昔話なのか。気晴らしに、さっきとはどこか趣の異なる風景に出会う。どこまで続けてもばらばらな言葉はどこへも繋がらない。言葉の散策は落ち穂拾いの意味を理解できない。寒気がして目が覚めたようだ。背中が痒い。さっきからほとんど時は経っていないらしく、車窓の風景は相変わらず退屈な住宅の連なりばかりだ。田畑に囲まれて同じような住宅が碁盤目状に配置されている。それからしばらくして、しだいに住宅もまばらになり、まるで砂漠を思わせる乾いた畑の中で、密集から点在へとその有り様が移り変わる。確かにここは不毛の大地ではないようだ。埼玉県北部は大都市と地方都市との中間地帯なのだろう。
4月1日
どうやら気まぐれで唐突な疑問が提示されているようだ。しかもその疑問に大した意味はない。それは疑問ではないかも知れない。正確さを著しく欠いた疑問だろう。例えば、行為の対称性とはどういったものなのだろうか。対称的な関係は非対称な関係とどう違うのだろう。そのような関係のモノローグ的な例として、自分を見つめている者は自分に見つめられている、という関係を考えてみよう。また、それと対称的な関係を考えると、他人を見つめている者は他人から見つめられている、となるだろうか。この場合、自分と他人とはどう違うのだろう。意識の中では、自分が他人であり、他人が自分でもある。わざとそう思い込めば、そんな具合に意識できるだろうか。異なる眼差しを介して、文章の中で自分と他人が融合しているというのだろうか。その時の都合で、自分にも他人にもなる眼差しが、自分以外の他人と他人以外の自分を同時に見つめている。しかしその眼差しの所有者は、これを記述しつつある自分であり、同時に文章の中の自分や他人にとっては、別の次元から見つめている第三者になるだろうか。それは自分なのか他人なのかはっきりしない。現時点でこの文章を見つめているのは、とりあえず自分自身であるはずなのに、文章の中の自分や他人にとっては、誰でもない文章の外部の眼差しにさらされていることになる。それと同時に文章の中の自分も他人も、これらの文章をこうして記述しながら見つめている自分の派生物だろうか。どうも自意識が都合に合わせて、その都度適当に自分や他人を書き分けているらしいが、こんな風にしてできあがったこの文章を読むことになるのは、不特定多数の誰かになるわけだが、その誰かには、当然自分や他人も含まれるだろう。もちろんその時の自分や他人は、この文章の中に含まれている文字としての自分や他人とは異なる、別次元の時空に生じている生身の自分や他人になるのだろうか。いや、そのような自分や他人も、今しがた、生身の自分や他人という文字として、この文章の中に取り込まれたようだ。このようにして、例えば、自分も他人も含めた誰かという文字を介して寄り集められたすべての人々は、文字としてこの文章に取り込めるのかも知れない。そしてたぶん、その誰かが見つめているのがこの文章なのだろう。それは現実の眼差しであると同時に、それらが文章の中に文字として絡め取られたフィクションとしての眼差しなのだろう。そしてこことは別の場所では、それは文字以外でも生成している場合があるだろう。それは、写真や絵画上に写し出された人物の眼差しであるかも知れないし、映像の中の眼差しであるのかも知れない。とりあえずそういう種類の眼差しならば、見つめられてもとりたててどうということはないだろうか。動く映像中の眼差しに不意に見つめられたなら、一瞬は驚き、場合によっては恐怖すら覚えるかも知れないが、しかし所詮それは生きた眼差しではないから、時間をかけて思考してみれば、直接の衝撃や脅威は取り除けるだろう。また、それが生きた眼差しであっても、例えば猫などのペットに見つめられているときは、あらかじめ馴らされているのでそれほどの威圧感は感じない。もっともそれが、同じ猫科のライオンに間近から見つめられた時の眼差しならば、そのような状況によほど慣れている人でない限り、とても平常心を保てないだろう。現実問題として、それらに見つめられている時点では、見つめられている当人には、まだ何も直接の作用は及んでいないはずなのだが、それだけで怯えてしまったり、場合によっては、恐怖に駆られて意味不明な叫び声を発してしまう時もあるだろう。そのようにして、ただ見つめられているだけで、何らかの心理的な作用が生じてしまうことがある。そうやって他人からの視線は、小心者である自分の心理状態を自分に向かって告げているのだろうか。つまり、その時の自分は、他人に見つめられているのと同時に、自分自身からも見つめられていることになる。他人からも自分からも、自分自身の気の小ささを見透かされてしまっているのだろう。
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