彼の声28

2002年

1月31日

 眠気を覚えるのは深夜がいい。丑三つ時に何を思うのだろう。心地よい眠りに導かれようとしている兆しかも知れない。魔の領域は人を恐怖に陥れるのかも知れないが、睡魔の襲ってくる時間帯は恐怖とは無縁だ。居眠り運転で死ぬ時は、あまり痛みを感じないのかも知れない。何を思うでもなく、何かを思い続ける。本当は何も思っていないだろう。誰も何も思わないが、それでも自分はつまらぬことにこだわっているらしい。彼が特定の言葉にこだわっているとは思われない。普段はそんな素振りを微塵も感じさせないが、何か内に秘めた闘志のようなものが、繰り出される言葉の端々から時折浮き上がってくる。それは誰のことでもなく、寡黙な人に対して割り振られる、よくありがちな紋切り型のイメージかも知れない。マスメディアの力は偉大だ。人の心の中にまで侵入してきて、紋切り型の思考を意識に植え付け、その思考が作り出す多数意見に従わせ、決まり文句で支配しながら操縦する。そんな擦れっ枯らしの薄汚れた言葉の蓄積が、人々の心を荒廃させているのかも知れない。たぶん暴力の前ではどんなに鋭い言葉を繰り出そうとも無駄だろう。だが無駄を理由にして、ありふれた紋切り型で済ましてしまっていいものなのか。少年達による凶悪事件が発生すれば、教育関係者がまたもや命の大切さを訴え、それをニュースが伝える。いったいそれを何度繰り返せば気が済むのだろうか。たぶん教育関係者の心は紋切り型の思考で荒廃しきっているのだろう。


1月30日

 昨日のことはよく覚えていないが、その嘘はよくわからない。壁を見つめているということは、壁に見つめられていることになるようだ。ここに至ってべつに何をどうしようというのでもない。たぶん今後は何もできなくなるかも知れない。自分は元から何もできないので影響はないだろう。自分には何の影響もないが、他には影響はでるらしい。自分はその他には含まれていないようだ。何か拍子抜けの感もあるが、そろそろ年度末も近いし、ここで本当に終わりの季節かも知れない。季節は否応なく移り変わるだろう。たぶん、後から振り返ってみれば、些細な諍いに過ぎなかったとしか思われないだろう。こんなことは何の問題にもならない。後には、幼稚ないざこざに下らぬ人々が巻き込まれている、という印象が残るだけだ。どこかのうさんくさい宗教によると、この世で起こっている出来事は、あまり重要ではないらしい。しかしだからといって、あの世は想像上の世界でしかないので、それもどうということはないだろう。どこの誰が更迭されようと、何がどうなるわけでもない。ただここでわかっていることはといえば、今さらどうにかできるわけがない、ということだけか。自分以外のその他の人々にはあきらめてもらうしかないようだ。それでも一部の人たちにはまだ元気があるらしく、盛んに静観の構えを取ろうとしている。その姿勢は矛盾していないだろうか。空爆狂いの暴走大統領は、今度の標的をイラクと定めている。やってみたらいいだろう。何事もとことんやらないと気が済まない質らしいから、やらせてあげたい気もしてくる。彼にとっては異教徒の貧乏人など虫けらみたいなものだろうから、いくら殺しても良心は咎めないのだろう。せいぜい貧乏イスラム虫を駆除しているつもりになってがんばってほしい。貧乏人などテロリスト一緒に皆殺しにしてしまえば、同時に貧富の格差も南北問題も解決するだろう。悪魔のささやきとはこんなものなのか。


1月29日

 闘争は無意味な諍いの連続になるのだろうか。静寂はどこにあるのだろう。しかしこれで静かになるだろう。しばらくは音沙汰なしかも知れない。もはや冬眠するタイミングを逸してしまった。この先死ぬまで眠れないのだろうか。そんなことはないだろう、たぶん気がついたらすでに夢から覚めている頃だ。人は定期的に睡眠を取らなければ生きて行けない。ということは、眠らなければ死ぬのだろうか。言葉は循環し続ける。なぜそうなるのか。それは正規の設問とは言い難い。それでも天空の星空は無言のまま回り続けるだろう。自分には関わり合いのないことだ。見過ごされているのは事実でも嘘をついている人の言動でもない。それは悲劇でもなく喜劇でもないのだろう。世界が回っているのは地球の自転と関係があるらしいが、経済が回らないのは人々の信仰心と関係があるようだ。それを信じられなくなったから、不況になったそうだ。それでは何が信じられなくなったのだろう。それは他人の言動か。買う必要の薄れたものは買わないだろう。宣伝文句に振り回される生活がいやになったのだろうか。無駄足を使うために商店街を回り歩くのがいやになったのだろうか。単にぐるぐる回ると、目が回って気持ち悪くなるから、回るのがいやになったのかも知れない。そんなわけで人々も経済も回転運動が鈍りつつあるようだ。回ってくれないとそこから利潤が得られない。同じ商品を使用している期間のサイクルが長くなれば、それだけ新製品が売れなくなる。季節が回るだけ金も回ってほしいところか。しかし利息が少ないから、いくら回してもあまり儲からない。だからもういい加減あきらめたらどうだ。これは誰に対する忠告なのだろう。


1月28日

 単純化作用は考えようとする努力を消し去ろうとする。はじめに暴力ありきならば、思考を介在させる余地はない。暴力は最もプリミティブな力なのか。それは根源的なものかもしれない。暴力は人間社会を根底から支えている不条理のなす力なのかも知れない。暴力には歯止めが利かない。暴力への衝動を止めることはできないだろう。それを別の方向へ逸らすことは難しい。暴力でしか解決することのできない事柄は世の中にありふれている。それ以外の方法では解決できないということは、それは絶望を意味することになるのだろうか。どんなに思案を巡らそうとも、他に解決法が見つかりそうにないときは、暴力に訴えるしかあり得ないのだろうか。いったんそれを許容し、暴力を解放すると、暴力はさらなる暴力を呼び込み、熾烈さを極め、荒廃に拍車がかかる。ほんの些細な暴力の行使が、取り返しのつかない巨大な暴力の引き金になる。だが暴力への誘惑には抗し難いものがある。時には誰もが相手を思う存分痛めつけてやりたい気分になる。そんな誘惑をどうすれば抑えられるのだろう。自己抑制とはどんなきっかけによって作動するのだろう。暴力を行使する側に勝算があると思われる時、それを止めることは不可能なのかも知れない。力の差が歴然としていて、相手に勝てると判断した時、人は喜び勇んで暴力を振るうのだろうか。その前の段階の衝動に駆られた暴力の行使もあるだろう。衝動的に暴力を振るっている途中から、これは勝てると判断した場合には、よりエスカレートして凄惨な結果を招くのか。たぶん相手を殺すまで痛めつけてしまった少年達にはずる賢さが欠けていたのだろう。殺す一歩手前でやめる経験と技術に裏打ちされた狡猾な判断力が欠如していたのかも知れない。自分達が勝利を収めつつある高揚感に酔ってしまい、殺してしまった後のことまで考える余裕がなかったのだろうか。グループで行動すると、その集団には個人の力を越えた慣性の法則が生じてしまう。いったん動き出したら一人ではそれを止められない。個人ではこれ以上やれば死んでしまうと思っても、その瞬間では集団と同一行動をとりざるを得ない。仲間意識が行為の停止を許さない。自己抑制は集団内では無力に等しいのかも知れない。会社や官僚組織内でまかり通る常識を逸脱した功利的な論理も、それと似ているところがあるのかも知れない。組織の利益に適っていると判断されるならば、功利的な非常識も組織内の常識と化すのだろう。


1月27日

 そこから目を背けることはできる。世界は昔から荒廃していた。たぶんこれからも荒廃し続けるだろう。繁栄とは荒廃と隣り合わせに存在するのだろう。人々には余暇が必要なのかも知れない。日々の暮らしを楽しむ余裕が欲しいところか。娯楽を楽しむことが命がけに発展してはならない。巡礼途中で命を落とすような人は異端なのだろうか。冬山で遭難死するような人にとって娯楽とはどのような意味合いを持っていたのか。単なる不慮の事故死で片づけられるような出来事なのか。残された家族はテレビドラマのような気分を味わえるだろうか。ニュースで死人の名が読み上げられた時の気分はどうだろう。退屈なフィクションとありふれた現実が交錯する時、人は娯楽の意味を理解するだろう。誰にでも体験する機会が訪れるわけではない。昔は巡礼途中で命を落とす人が多かったらしいが、今では巡礼路も整備され、周辺の治安も良くなり、命の危険はほとんどない。滅多なことで人は死ななくなった。いったい何年かければ世界は一変するのだろう。誰にも知られずにひっそりと息を引き取る人にも、かつては娯楽を楽しむ余裕があったかも知れない。人は何のために生きているのか、それは下らぬ疑問かも知れない。世界が荒廃すれば、人々は使命感に燃えるらしい。そんな時だけ都合良く他人を思いやる心が生じる。平和な時は欲得に凝り固まっているのに、災害や戦災である地域が焼け野原になってしまった時、人々はボランティアにはせ参じる。現地で困っている人々を助けなくてはならない、そんな天からの啓示に胸を打たれ、救助の人々がその現場へ殺到するわけだ。たぶん経済的な繁栄を謳歌する先進諸国民にとっての最高の娯楽は、災害ボランティアに参加することだろう。それが世界の富の大部分を所有する彼らに課せられた、せめてもの罪滅ぼしになるのだろうか。


1月26日

 天候が少し荒れているようだ。順序がいつもとは逆に推移するらしい。夜更けの雪は雨に変わるだろう。その光景が何を意味するわけでもない。季節がそんな光景をデコレートしているらしい。だが、取り立てて何も感じることはないだろう。冬になれば雪が降るし、また夏になれば蒸し暑くなるだろう。季節は当たり前の光景しか提供しない。そんな光景には飽きているのか。核爆弾でも爆発すれば、死に際に刺激的な光景を目にすることになるだろうか。目にしたければテロリストにでもなって、核ジャックでもして、勇ましいことを叫び続けるどこかの国の国家元首でも道連れにして、自爆してみたらどうか。漫画の世界でならできるかも知れない。そんな漫画を描いて懸賞に応募したらいいだろう。冗談では暇つぶしにもならない。感じるものすべてが冷めているようだ。冷静にも冷酷にもなれないだろうし、情熱的に行動することなど不可能だ。何もかもが見失われてしまったわけでもないが、ほんの少しの光明を頼りに闇の中で歩を進めている最中かも知れない。しかし誰がどこを歩んでいるかは相変わらず不明確のままだ。自分は一歩も進んでいないような気がする。苦し紛れに繰り出される言葉は、以前に述べたことの繰り返し以外の内容を示す気配さえない。なぜこうも同じことを飽きもせず繰り返せるのか、これも一つの才能なのだろうか。それは勘違いで、才能が涸れてしまった証拠かも知れないが、涸れた才能も才能の一種だと強引に見なせば、それでひとまず安心できるだろうか。要するに冗談では暇つぶしにもならないが、暇つぶしに冗談を呟くことならできる、ということなのか。それとこればどう違うのか、微妙なニュアンスの違いを説明するのが面倒になる。


1月25日

 愚問とはどのような問いを指して発せられる言葉なのだろうか。例えば、光とは何か。いつもの戯れ事とは違い、そこは闇の領域ではないらしい。感覚のすべてがありふれている。それは日常の光景でしかないだろう。天地創造の神は、神話の冒頭で、光あれ、と眼前の無に向かって呟きかけたかも知れない。では唐突に現れたその立て看板は何を意味するのだろう。それは単なる交通標識なのか。そこに描かれた矢印の指し示す方向には何があるだろう。おそらく行き止まりの先には、触れてはならぬ領域でもあるのだろう。しかしなぜ矢印の示す方向が行き止まりなのだろう。そのわけは一向にわからぬまま、とりあえずそこは避けることにして、大きく迂回しながらもその先へ進んでみよう。夢の中ではどこまでも進んでも代わり映えのしない風景が続いている。夢は無意味であり、無意味の彼方にはまた違う無意味が待ちかまえているだろう。そんな夢には耐えられないかも知れない。ならばどんな夢がお望みなのだろう。君は気休めが欲しいのか。早く楽になりたいのなら、もうやめて寝るべきだろう。そしてフィクションではなく、本当の夢の中でお望みの未来と出会うべきだ。ありふれた未来から魂の叫びでも聞こえてくるかも知れない。しかし誰が叫んでいるわけでもなく、誰も叫んでいないのになぜか魂の叫びが聞こえてしまうわけだ。たぶん、魂の叫びは無言で発せられるのだろう。それは自分自身の叫び声ですらなく、広告の中に見いだされる活字でしかないかも知れない。よく考えてみれば、それは文章の中でしか見いだされない言葉だ。実際に聞こえてくるのは、何か別の台詞を伴った叫びなのだろう。それに感動した他人が、それを魂の叫びだと見なすわけか。そんなことはわかりきったことだ。魂の叫びとは何か、たぶんそれが愚問なのか。君がそこで体験しているのは現実そのものだ。おそらく君は、そこで恐怖に駆られた人間を演じているに過ぎない。本当は怖がっていないのに、顔を引きつらせながら意味不明な絶叫を繰り返す。台本通りに絶叫を発すれば、それで君の仕事は終わるだろう。そんな仕組まれた恐怖を見ながら、観客は息抜きの時を過ごすわけだ。そこで魂の叫びを発している者などいはしない。そんなことは予めわかりきっていることだ。だが、叫びの種類が違うことなど百も承知か。それは魂の叫びの喩えとはなり得ない。そんなこともわかりきったことだ。つまりそれは、無意味の彼方には無意味が待ちかまえていて、愚問の先にはまた愚問が続くことの喩えなのだろうか。しかし、いったい何が愚問なのだろう。その、しかしに続く問いが愚問なのかも知れない。どうやら、見え透いた無限循環の行き着く先が見えなくなりつつある。もしかしたら行き止まりが近づいているのかも知れないが、おそらく行き止まりの先には、触れてはならぬ領域でもあるのだろう。


1月24日

 知ったかぶりの大学の先生によると、携帯電話では会話を楽しむより、絵文字を利用してメールを楽しむことが流行しているらしい。テレビでそういう若者文化とかいわれるものを得意になって説明している。自分は若者じゃないけれど、こんなことも知っていますよ、といった意思表示なのかもしれない。そして、自らの心情の微妙なニュアンスを相手に伝える上での、絵文字の効率的な側面や、日本独特の敬語表現との類似点を指摘したり、携帯電話のメールで絵文字が流行しているわけを的確に説明しているつもりらしい。しかし、たかが携帯のメールの絵文字程度でマジになるヤツは、本当に頭のどこかがおかしいような気がする。ただ必要に駆られて普通に友達や仕事相手とメールのやりとりをしている人たちは、まあべつにどうということはないだろう。またその中で気まぐれに遊び心を働かせて、たまに通常の文章の中に絵文字を差し挟んだりするのも取り立てて変でもないだろうが、一部のセンスのない若者がそれをさらに押し進めて、絵文字だらけのメールを仲間内で流行らせて、周囲がそれをかっこいいと思い込むと、たちまちのうちに流行に盲従する馬鹿どもを巻き込んで、奇妙きてれつな絵文字表現が大発生することとなる。そうなると早速商売の臭いをかぎつけて、軽薄なマスコミがテレビ番組で取り上げ、御意見番として大学の先生が登場となるわけだ。毎度おなじみのこの下らぬカラクリにはうんざりする。たぶん多くの人々は、この程度のことにも気づかずに、大学の先生の説明を真に受けて納得してしまうのだろう。中には、早速自分も絵文字メールにトライしてみよう、などというとんちんかんな人も現れるかも知れない。大衆社会の中で、このようなキッチュが、マスメディアを介していかにして拡大解釈されてしまうのかを、まざまざと見せつけられた思いがする。


1月23日

 継続は自ずから途切れる宿命にある。それは困難とは無関係かも知れない。しかし空虚な思いはどこまでも続く。同じ言葉の繰り返しとして、闇が行き着く先は闇なのか。光の連続は昼の時間帯をもたらす。夜になれば闇が続いているだろう。何を述べているわけでもない。どこまでも続いているのは時間と空間だけなのだろうか。それ以外の継続は不可能なのか。表面だけの会話では内容が伴わない。だがそれに内容を期待する方がおかしいだろう。四六時中携帯電話で会話を楽しんでいる人は、それで何の不都合も感じないだろう。中身のない会話も会話には変わりない。話し相手との他愛のない言葉の応酬によって脳の神経回路上に微弱な電気信号が流れていれば、それで沈黙の不安から解放される。そのような会話は単なる息抜きであり、交通機関による移動時間等に憩いのひとときをもたらしているのだろう。だがマナーとは何だろう。周りにいる人が迷惑するような行動はマナー違反なのだろうか。他人事としてなら、携帯電話から発生する電磁波で、心臓に埋め込まれたペースメーカーが誤作動したらおもしろいかも知れない。とりあえずそれが電車内で携帯電話を使用してはいけない理由であるらしい。人の生死に関わる大袈裟な理由によって、携帯電話は車内で使わないようにアナウンスされている。それでも使う人は使っているし、誰も死人が出るとは思っていないだろう。それで本当に死人が出たらニュースになる。ただそういうことだ。実際に死人が出てから、関係方面の人々がうろたえながらも本気で対策に乗り出すのだろう。こういう些細なことにも一応は犠牲者が必要であることは、現代社会のおかしくもおもしろいところかも知れない。まあこれは、どうでもいい話の部類に入るだろうか。携帯電話で話し相手とこんなことを語り合えばおもしろいだろうか。


1月22日

 なぜかここ数日は気温の変動が激しい。雨とともに風も強かったらしい。強い南風によって雨水がもたらした水分を吸収できたらしく、一週間ぶりに見たベランダの草木は生き生きとしていた。久しぶりの雨が雑草の発芽を促す。冬の蒸し暑さは何をもたらしたのか。早すぎるつかの間の春をもたらしたのだろうか。目の焦点が定まらずに、ぼんやりとしたまま一日が通り過ぎる。少し気分がすぐれないようだ。これはどうしたことだろう。どうもしないだろう、さっきから自分のことを記述しているつもりらしい。だがその日の気分には虚構が付き物だ。ここでそれが表面化することはないだろう。自分について伝える内容は何もない、たぶん昨日は不快だっただけかも知れない。この地域では冬の雨は珍しいのだろうか。自然と渇いた心に湿り気が加わる。それで妙に感傷的な気分になれるのだろうか。しかし冬の雨のどこが感傷的なのか。言葉の使い方がおかしいだろう。俄に感傷的という言葉の意味がよくわからなくなる。ここ数日の間感じている微かな頭痛は風邪の前兆だろうか。暇つぶしに風邪でも引いたらしい。暇ではないのに、暇つぶしなのか。だが風邪を引くのは暇つぶし以外に考えられない。だから暇ではないのに暇つぶしに風邪を引くことになる。ようするに頭がいかれているのだろう。他に適切な言葉を導き出せない。


1月21日

 紋切り型の決まりきった表現には嫌気がさしているつもりなのだが、気がつくと前に述べたことを飽きもせず何度も繰り返している。そんな状況が気に入らないらしい。それしかできないのに、いったいそれ以外に何を求めているつもりなのか。たぶん求めているものはここにはない何かなのだろう。しかしそれも以前に述べていたことの繰り返しに過ぎない。自分にはこれといった主張がないような気がする。世間に向かって何をどうしろとも言えなくなりつつある。犯罪者は犯罪者のままでもいいだろう。更生するには及ばない。殺人鬼は殺人鬼のまま生きて欲しい。その人独自の生を全うすればいいような気がしてくる。だがそれは自分がそう思うだけで、別に犯罪者や殺人鬼に向かって語りかけているわけではない。モノローグの中でそう思っているに過ぎない。犯罪者も殺人鬼もその手の小説の中ではヒーローだが、べつに頭の中で現実とフィクションがシンクロしているわけでもない。そこには何の救いもないが、与えられた環境の中で人は生きたいように生きればいいだろう。たぶんそのほとんどは生きたいようには生きられないだろうが、それでも生きたいように生きて欲しいと願うしかない。誰のためでもなく、自分のためでもない。人は生まれた時点から死を迎える時まで、その生のすべてを拘束している様々なしがらみに抵抗しつつ、自分自身を磨り減らしながら生き続けるだけだろう。他人の意見に同調しようが反発しようが、そのどちらを選んでも疲労が蓄積する。どちらでもない立場を無意識のうちに探そうとしてしまう。まったく別の可能性を探ろうとしてしまう。今ある現実が現実のまま現実の世界に定着してしまうような現実には耐えられない。取るに足りない根拠の薄弱な決まり事を、あたかもすべての者が守らなければならない絶対的な掟のごときものとして後生大事に保持しようとする人々や、そのように機能することを目的とする団体を嫌悪している。どこかの誰かや団体が勝手に作った決まり事は、常にその不都合な面の修正要求に晒され続けるべきなのだろう。現実の変化していく方向に、自らの都合で勝手な目的を設定しようとする試みは、遠からず挫折するほかないだろう。世界はフィクションや物語の内部には存在し得ない。それらすべてを含んで、無目的と無意味を伴って在り続けている。


1月20日

 それは誰のために掲げられたスローガンだったのだろう。確か二十一世紀は命の世紀になるはずだったが、まるで害虫駆除のために撒かれた農薬の空中散布のような空爆によって、テロリスト達は虫けら同然に殺戮された。そんなやり方をアメリカの世論は支持しているらしい。世論調査ではアメリカ国民の八十パーセントを越える人々が、政府の戦争継続政策に賛同しているのだそうだ。日々スポーツをこよなく愛するアメリカ国民のメンタリティとはこういうものだ。サッカー以外のスポーツで成功を夢見る人々は、こんなアメリカを目指さなければならない。そういえばラグビーもアメリカ以外で盛んなスポーツだった。探してみればそういうスポーツはいくらでもあるのかも知れない。もしかしたらスポーツは特定の国家とは無関係に成立する可能性があるかも知れない。スポーツが特定の国家の国技でなくなった時こそが、未知への可能性が宿る時なのかも知れない。だがそれは何もスポーツでなくてもいいような気もする。なぜスポーツがそんな大袈裟な意味合いを持つのかよくわからない。たぶんスポーツを推進している人々や団体は、スポーツによって世界が一つに統合されることでも夢見ているのだろう。スポーツには人類共通の価値観を内包している可能性があるとでも思っているのかも知れない。誰もが気軽にその共通の価値観であるスポーツを通して交流し合う、ユートピアのごとき世界を実現したいのかも知れない。それを批判しようとは思わない。今日もNHKニュースは、アフガニスタンでアメリカ軍のヘリコプターが墜落して兵士が二人死んだと騒いでいる。たぶん故障か何かで墜落したのだろうが、テロリストが何人殺されようと知ったことではないのに、アメリカ人なら二人事故死しただけでも騒ぎ立てる、こんな放送局がスポーツを推進しているわけだ。またオリンピックでも始まれば、連日連夜これでもかと映像を洪水のように流し続けるのだろう。こういう連中が仕切っている単なる娯楽でしかないものをなぜ肯定できようか。どうも自分は、いつの間にか娯楽を娯楽として楽しめなくなってしまった。


1月19日

 なぜか睡眠不足から解放されつつある。夢は何もない時の逃げ道として使えるかも知れないが、それが何を意味するかは知らない。何かあり得ない空想に浸っているらしい。夢と衝突した独楽はぐるぐる回りながら外部へはじき出されてゆく。回転体に関する力学法則はややこしい。物理法則は個人の感情とは無関係なのだろう。科学主義の断片は自分に向かって何も示しはしないだろう。なぜありふれた日常生活について記述しようとしないのだろうか。唐突にすべての答えを要求しているらしい。いったい何に対して回答したらいいものか、その対象を俄に見極めることは困難だ。自由への道には困難が付き物なのだろうか。たぶん、何も回答など要求された覚えはないだろう。どんな壁にぶつかろうと、感触としてそれは痛いだけだ。外部へはじき出されたら、それはそれで幸運かも知れない。自分は翼など持ち合わせていないから、大空へ舞い上がることなどできない。そんなことは鳥にやらせておけばいいだろう。ここは誰に支配された世界でもないのだから、見えない鎖を断ち切って自由の翼を広げるには及ばない。たぶん君はその手のアニメーションに入れ込みすぎて、現実を見失っているのかも知れない。よくある台詞のパターンはいつの時代でもあまり変化しないようだ。たぶんそれは何も言っていないのと同じことかも知れない。辺り一面には砕け散った窓ガラスの破片が散乱している。同じ仕草を無意識のうちに繰り返すことが反復強迫の兆候を示していることになるのだろうか。また秘教的な言葉を断続的に呟き続けることも、それと同じ状況を物語っていることになるのだろうか。大空へ向かって叫ぶことは風に煽られて舞い上がった凧の喩えになるだろうか。それが何を示しているのかよくわからない。何に触発されてそのような展開を好んで多用するようになったのだろう。言葉だけでは物にも心にも触れられない。激昂した人間は自分や他人の気に触れる一歩手前で躊躇しているのだ。そこでの強制的な足踏みが狂気への誘惑を形成しているのかも知れない。言葉はどこへでも飛んでいけるわけではない。飛んでいけるのは鳥か飛行機か巡航ミサイルだろう。遠く離れた彼方の土地で爆発した時の気分は最高なのかも知れない。きっと数人を無差別に殺して死刑判決を下されるのとは天と地ほどの差があるだろう。殺人鬼よりも軍事的な英雄の方が人殺しの方法をよく心得ている。その点では合法的に殺人指令を出せる裁判官も同様なのだろう。殺す側の論理こそがこの世の最高の正義を物語る。


1月18日

 季節には必要性が欠けている。夜空に輝いているのは無数の星々なのだろうか。朝になれば昔の記憶を思い出すかも知れない。迷信を押しつけているのは宗教ではなく、今さら哲学について語りたがる説教師の方だろう。そんなものをありがたがって拝聴するのは誰でもなく、自分しかいないかも知れない。その実態は、哲学とは無縁の単なる世間話の域を出ない話だ。何が哲学なのか自分にはよくわからない。たぶん大袈裟なだけかも知れない。ただ題名に哲学という文字がついているだけなのだろう。季節とともに今や哲学にも必要性が欠けているようだ。おそらく今の自分は哲学を必要としていないのだろう。昔の自分はその手の大袈裟なものを求めていたのかも知れないが、年齢を重ねるにつれて、自分自身が宗教や哲学から必要とされない種類の人間であることに気づきはじめた。もしかしたら、自分は何からも必要とはされない人間なのかも知れない。世界が自分を見放しつつあるのだろう。そんな感傷的な気分に浸っていたいものだ。やるせなさとはどのような感覚になることなのだろうか。例えばそれは冗談とどう違うのだろう。まったく無関係な言葉なのかも知れない。誰からも必要とされていないにもかかわらず、相変わらずこうして五体満足で生きているらしい。だが真に必要とされる人間は、誰からも惜しまれつつこの世を去るだろう。つまり人々が必要としているのは、物言わぬ死者の群れなのかも知れない。死人なら自分達の都合に合わせて、勝手に恣意的な脚色を施して使用できる。宗教も哲学もそうした偉人と呼ばれる死人を利用して権威を確立した。そういう自らの権威付けに死人を使うような手法にはうんざりさせられる。その意味では、誰からも必要とされない状態の方が気分がいい。疚しさにつきまとわれるのは御免被りたい。少なくとも自分が生きている間は、誰からも無視される人間でいたいものだ。猫なで声ほど気色悪いものはない。真に必要とされるのは、特定の人名などではなく、その人が考案し実践したやり方なのかも知れない。


1月17日

 顔面から感情が剥離してしまっている。誰の顔を意識しているのだろうか。誰のものでもなく、やはり名のない誰かの顔なのだろう。それはデスマスクの一種かも知れないが、墓にそんな人面が刻まれていたら鬱陶しいだけかも知れない。顔は何を思い出そうとしているのだろう。ありふれた下らぬイメージだが、無縁仏には雑草がよく似合うのだろう。クールなジャズは二度も聴けば耳に馴染んでくるだろう。そこで陳腐化が加速するのかも知れない。デスマスクは誰に語りかけているのでもなく、それを眺めている者に何かを語らせようとするらしい。その凍りついたまなざしは、見る者をどこかへ誘う。それは大したところではなく、おおかた近所の居酒屋へでも足を向けさせるだけだろう。たぶん酒を嗜む習慣のない自分はどこへも行かないだろう。その手のこけおどしは通じないのだろうか。どこにデスマスクがあるわけでもない。それは遙か昔の画面上にほんの一瞬出現したバーチャル人面画像の一種でしかない。もしかしたら人面魚のイリュージョンだったかも知れないし、あるいはそれはモップの柄の先に貼り付いたモアイ像のシールだったかも知れない。月面のある場所では、今でもモアイ像が地球を見つめているかも知れない。そんなことが書かれた子供だましの本を喜んで読んでいた過去がある。確か西暦1990年代には、癌が克服されているはずだった。そんな予想は大きく裏切られ、今でも多くの人が癌で死んでいる。どうやら子供の頃よりも未来は遠くなりつつあるらしい。


1月16日

 不可能なこととは、不可能なままにしておくのが無難なやり方だろう。あり得ないことは、映画の中でもあり得ないことではいけないらしい。ひねくれ者は目を覚ます時には寝ていなければならないそうだ。起きていても眠っていなければならない。起きて仕事をやっているのに、それは寝ていることに等しいということなのか。大衆文化を否定してはいけない。CMソングに感動するべきなのかも知れない。何百万もの人々が買うCDこそが優れた音楽を収録しているのだろう。売れる商品こそが優れている。おそらく現代は大衆が勝利する時代なのだ。なぜこうも心にもないウソをつけるのだろう。信念が揺らいでいる証拠なのか。文明の進化や進歩を否定することはたやすい。だがそれでも変化していることは確かなようだ。すでに形骸化してしまったものを、未だに話題の中心へ持っていこうとする魂胆は大衆によって支持されるだろう。マスメディアが世論調査をすれば支持されていることになっている。おそらく大衆としての人格には中身がないのだろう。だが、その中身のなさを否定することはできない。それこそが人類の最新の進化形態なのだ。どうもこれはウソのようだ。これでは大衆文化を肯定していることにはならないだろう。大衆という言葉自体にリアリティを感じられない。そんなありふれた言葉では、状況を語ったことにはならないような気がしてくる。使い古された言葉には魅力を感じないのかも知れない。ここに至って今さら衆愚論もないだろう。自分の立場すら肯定できないのに、他の何が肯定できるというのか。どうやら何を述べてみても無駄のようだ。しかし、たぶんこれもウソだろう。


1月15日

 脅し文句とはどのようなものだろうか。お前はいったい何者か。しかしそれで脅し文句といえるだろうか。つまらないので脅し文句はやめにしよう。では、別の文句としては何があるだろうか。殺し文句は脅し文句の親戚かも知れない。だが、殺し文句にはいやらしさが宿る。誰も殺し文句で殺されるわけではない。殺し文句は意味が骨抜きにされているが、今どきわざとらしくおだてられてその気になる者などいやしない。それでも騙されたつもりで騙されてみよう。嘘を承知で騙されたいものだ。要するにそれは騙されていないことになるのだろうか。たぶん騙されることは大したダメージにはならないのかも知れない。程度の差こそあれ、今や誰もが嬉々として騙されている。宣伝文句に騙されないと何も買えない時代だ。その気もないのに、騙されたつもりで商品を買ってみよう。クールなジャズはクールなだけなのかも知れない。何を言いたいわけでもなく、ただ単にそう感じるだけだ。聴いている途中で眠たくなってくる。魅力を感じないものばかりに手を出してしまっているらしい。たぶんそれらは、ある特定の環境の中では魅力的に思えるものなのだろう。力の及ぶ範囲が、極めて限られた範囲内にしか届かないのかも知れない。つまりそれをつまらないと感じている自分は、その範囲内には存在していないということなのか。ではどうすればその魅力が届く範囲内に移動できるだろうか。しかし、そのような努力がはたして自分にとって必要なことなのだろうか。そんなことが自分にわかるわけもないだろう。その音楽は何度か聴いてみれば自然と耳になじむような気もしてくる。無意識のうちに、それらの退屈な音に妥協してしまうわけか。どうなるにせよ、それほど大した問題でもないことは確かなようだ。


1月14日

 虚ろなまなざしが閉めきった窓から外を覗く。それでは空気の流れを感じ取れないだろう。窓は風にとっては障害物なのかも知れない。淀んだ気持ちがおぼろげな輪郭を纏って表面に取り憑く。窓には土埃がこびりついている。それは隠しようのない怠惰の痕跡だ。虚飾された心は虚しい成功への夢を抱き続ける。おそらくその時点ですでに失敗しているのだろう。予定調和なのだろうか。それは覚え込まされた欲望に溺れているだけかも知れない。常に素直さを装いつつも、偽りを承知で均衡状態を保ち続けているらしい。そこでは、複雑に紆余曲折を重ねながらも、たどり着く先は予め決められていたりする。たぶんそれは暗闇の中で眠ることだ。その最終的なゴール地点では、寝床に身を横たえて静かに目を閉じることしかできないだろう。他者のいないモノローグの世界で夢を見るわけだ。そして夢の中で偽りの自分を物語る。何としても外界との間に防音壁や防火壁を築かねばらならいだろう。こちらからは覗き込むことができてあちらからは見えない遮光シールドやカーテンも必要だ。たぶんこうして個人的な居住空間が建造されるのだろう。誰かが自分の家に閉じこもりきりになるのにも、一応はそれなりの理由があるらしい。簡単にいえば、外界との直接の関係を構築できないから閉じこもる。ある部分では誰もがそうなる傾向にあるのかも知れない。例えば通信手段を通しての間接的な関係で済むのなら、迷うことなくそれを選択するだろう。


1月13日

 人は旅路の果てに何を思うのだろう。時が過ぎ去り、また別の風景に出会う。改まって旅をするまでもないだろう。その地域には、旅人には感じ取れない雰囲気もある。そこを通り過ぎただけではわからないこともあるだろう。旅を愛でる人は、変わり行く風景を楽しんでいる。そこに暮らす人は旅人の感じる風景を知らないかわりに、日頃から見慣れた日常の風景を知っている。そのどちらもが同じフレーム内に収まる風景かも知れないが、それを受け止める人の立場によって、まるで違った雰囲気を醸し出すのかも知れない。しかし今はそれほど風景に興味はない。美しい風景にはそれを美しいと感じる者の趣味嗜好が投影されている。またその者は過去において、それを美しいと思わせるような教育訓練を受けてきたわけだ。それとはまったく異なる教育訓練を受けてきた者にとっては、その風景の美しさをまったく感じ取れないかも知れない。誰もが感じ取れる普遍的な美はあり得ないのだろうか。おそらくすべての人々に同じ教育訓練を施せば、誰もが同じ美意識を共有できるかも知れない。それはあり得ない仮定であり、あってはならないことだ。なぜか人々を同じ方向へ導いてはならないような気がする。あまり説得力のある理由はないが、それは個性などいうことさら貴重さを尊ぶようなものではなく、ただ人それぞれに違う部分と同じ部分があるだけなのかも知れない。それらは、時には不自然であったり自然であったりするのだろう。人々はその相違点や共通点を基として互いに関係しあう。現状では、対立し合いながらも許し合える妥協点を模索し続けるしかやりようはない。その煩わしさを放棄したら、後は戦うしか道は残されていないのだろうか。たぶんこんな語り方ではこんな結論にしか至らないだろう。現実には具体的な個々の問題について関係する当事者同士が話し合うことに落ち着くのだろう。それで問題が解決するとは限らないが、現状ではそうするぐらいしかやりようはない。だが、それでも自分は嘘をついているかも知れない。自分はそうしない場合が多い。怠惰に流されるものは関係の煩わしさを嫌って隠棲するだろう。人は全面的に自分をさらけ出さない。誰もが都合の悪い部分は隠し通すだろう。


1月12日

 静寂は果てしなく続いているわけでもなさそうだ。盛り上がりに欠けているとは、誰が判断することなのだろうか。なるほど自分は必ずしも沈黙しているわけでもなさそうだ。沈黙しているのは自分ではなく、例えば地中の死者だろう。冗談かも知れないが大根の葉も沈黙している。夜は闇を纏っている。それに対して昼は光を纏う。光の三原色を重ね合わせると真っ白になる。狂言師は光の中で笑いながら叫んでいる。それは笑っているのではなく、笑いを演じているのだ。ただ大袈裟に演じている。何を思っているのか定かでない。ただ真剣に笑わなくてはならないらしい。それで能の合間に煌めきが生じたりするだろうか。ひょっとしたら、それを見ている能面の下に笑い顔が形作られるかも知れない。押し殺した笑いは健康に良くない。たまたま気まぐれでそれを見ている人は、舞台上で飛び跳ねている狂言師に躍動感を見いだすだろう。そこでは何かが演じられ、なにがしかの表現形態が見いだされる。体操の床運動にも躍動感が欠かせない。だが身体は身体でしかないだろう。身体で何を表現しようと、それは一瞬の煌めきにしかならないだろう。しかし永遠の煌めきはあり得ない。永遠の時空は煌めかない。煌めきを見いだせない人は何を求めるのだろう。人は静寂の時を好むだろう。生と死の狭間で、空白の永遠が生じている。空白の時は生きているのでも死んでいるのでもない。ただ永遠に静まりかえっているだけかも知れない。しかし何を述べているのかよくわからない。


1月11日

 まだ冬なのだろうが、時期的には春が近いかも知れない。少なくとも去年の夏よりも春に近い。何を戯けたことを述べているのだろう。ところで、オリンピックもワールドカップもマスメディアによる過剰な盛り上げキャンペーンがないと、その種のイベントは成功しないものなのだろうか。自分にとっては、盛り上がらなくとも成功しなくとも何の不都合もないわけだが、それにすべてを賭けている人々にとっては、イベントの成否は死活問題なのかも知れない。盛り上げている側からすれば、それらをできるだけ多くの人に見てもらいたくてやっているのだから、まあそれはそれで彼らの努力が実ることを祈っておこう。そして自分も、これを機会にスポーツのすばらしさとやらをわかろうと努力する気になるかも知れない。そういえば古代ローマにおいては、コロッセウムで剣闘士による殺し合いが長い間行われていて、その残酷な見せ物をローマ市民は熱狂的に支持していたそうで、時の権力者の皇帝達も人気取りのために度々盛大に開催していたらしい。それと比べれば、現代のスポーツ・イベントは、事故でもない限り死傷者が出ないだけでもまだマシな見せ物といえるのかも知れない。何やらそこで勝負が行われていて、時の運や力関係に基づいて勝ったり負けたりするらしい。テレビゲームでも似たような感覚が得られるだろうか。もうその種のゲームをやらなくなって久しい。ところでゲーム感覚とはどういう感覚だったのか。少年達が気軽に人を殺したりする事件が起こると、それをゲーム感覚と呼んでいたのかも知れない。いや、遊び感覚で浮浪者を殺傷したりすることだったか。人を殺すにはそれなりの理由が必要なのだろうか。では、理由なき殺人はミステリー小説の題材になったりするわけか。古代マヤ帝国の蹴球ゲームは、勝った方の主将の首が刎ねられて、神前に供えられるという恐ろしいルールがあったようだが、やはりそれも一応は人を殺す理由には違いない。要するに神の供物として人の首が必要なわけだ。それと比べれば、現代の競技スポーツは負けて悔し泣きしたり勝ってうれし泣きしたりする程度だから、まあ他愛のないものといえなくもない。この世界がスポーツのように他愛のないものであったら、さぞや平和な世の中になっていることだろう。だが確かにそれらを見ている側にとってはそうなのかも知れないが、やっている側はやはり死に物狂いでやっているわけだから、もちろん他愛のないものどころではないのだろう。誰もが観客のように傍観者的な態度ではいられないということか。


1月10日

 確かに、失われた命が二度と戻ってこないのと同じように、この世界ではやり直しがきかない。それでもやり直してみよう。だが、いったい何をやり直そうというのか。わからないから、それを今から考えてみよう。今から何をやり直せばいいのだろう。またその際、この世界ではやり直しがきかない、という前提はどう処理したらいいだろうか。どうやってそれを覆せばいいのだろうか。覆す必要はないだろう。やり直しがきかないからこそやり直そうとする。ただそういうことでしかない。ようするにそれは嘘なのかも知れない。べつにやり直しがきかないわけでもなく、だからといってそのことごとくをやり直すこともないし、やり直そうとも思っていない。状況によっては、やり直そうと思えばやり直すこともできる場合もあるかも知れない。実際にやり直そうとしてみればそれがわかるだろう。そういうわけで、自分は今やり直そうと思いつつ、実際にはやり直さないでまた新たに言葉を付け加えている。やり直そうとしたらやり直せないことに気づいた。だがこの状況は袋小路ともいえないだろう。そう思いたいところだが、べつに袋小路のどん詰まりであってもかまわない。ところで何をやり直すつもりだったのだろう。それはたぶん、話の中身がないからやり直して、適当な中身を付け加えようとしていたのかも知れない。その後何か気の利いた中身が付け加わっただろうか。正反対の対立する二種類のケースを想定しただけでは、何か云ったことにならないだろう。やり直しがきくかきかないかだけで、それを判断しても意味はない。はたして、それでやり直しているつもりなのか、それを判断するのは誰なのか、そして、その判断が正しいのかどうかをどう判断すればいいのか、そんなことまで考えを及ぼすのはうんざりだ。面倒くさいし眠くなる。どうも無意味なことに全力を尽くそうとしているらしい。


1月9日

 冗談とはどのような経緯から生まれるのだろうか。それは無意味な問いかも知れないが、人は神と和解できるだろうか。神は人を信じないだろう。神は人間不信なのだろうか。人間を宗教の中心に据えることはできない。その玉座にはいつも神が座るべきなのかも知れない。だがそこへ実際に座っているのは、偶像などの神の模造品であり、神の代替物に過ぎない。偶像はもはやその場所に神がいないことを示している。もしそこに神が存在するなら、偶像も教会も神殿も必要はないはずであり、人々は神と直接出会えないからこそ、神と人の間に余計な物や手続きを差し挟むことで、神の不在という事実をごまかしているのだ。だが、そんなことは誰もが知っていることだ。それをわかっていても人々は信仰をやめないだろう。信仰の対象は何も神でなくてもかまわない。では、人は神以外の何を崇拝しているのか。現代において大衆が崇め奉っているのは、やはり人間になるだろうか。彼らは特定の固有名や形容詞の伴った者を崇拝するわけだ。そして、そこで終わりなのかも知れない。人間に対する興味はそこで尽きる。はたして人は人から自立できるだろうか。他人に頼らずに生きて行けるだろうか。それは不可能かも知れないが、たぶん彼らにとってはどうでもいいことかも知れない。そしてまた、それは自分が考えるようなことでもない。どうも神も人間も自分の思考する対象とはなり得ないようだ。確かにこの世界には神が存在したり人間が存在したりするのかも知れないが、それらの存在の有無自体が問題となることはないだろう。少なくとも自分にとってはどうでもいいことなのだ。神や人間に限らず、それらを含んだこの世界が存在していることは確かだが、この世界がどんな形でどんな性質を伴ってどのように存在していようと、それらについてどう考えたらいいのかよくわからなくなってきた。なぜそれらについて特定の思考形態を提示しなければならないのだろう。どう考えてみても、説得力を持つに至らないような気がする。


1月8日

 マルクスはどこかで、人間は人間を生産する、と述べているらしい。それについてフーコーは、われわれは、まだ存在せず、どのようなものになるかわからない何かを生産しなければならない、と語っているようだ。自分には定まった目標というものがない。いったい何をどうやればどうなるのか、何の結論も結果も見いだせない。人は虚無に浸食され続けている。人とは誰のことを指しているのだろう。何も見いだせないのは、何も見いだそうとしていないことから生じている結果だ。その結果が原因となって、絶えず虚無に侵されているのだろう。まだ何も始まっていないうちからすでに終わっているのかも知れない。だが今は始まりも終わりも見いだせない。何かをやっている途中なのかも知れないのだが、それをやり始めたきっかけをも忘れてしまっている。それでも何かを生産しているらしい。いったい自分は何を生産しているのだろう。これも一つの出来事であり、これでも一つの事件を形成しつつあるのだろうか。なぜいつも理路整然としたわかりやすいことが述べられないのだろうか。何一つはっきりとしないし、具体的な事物や問題から、絶えず遠ざかり続ける。しかしいったいこの世の何が問題なのだろう。世界は何の不具合も不都合もなく、絶妙に作動しているではないか。その中で、人は生まれて、人は死ぬ。その他の動植物も生まれて死ぬ。そこにどのような問題が生じているのだろうか。何が気に入らないのだろう。何に、どんなことに反発を感じ、抵抗し続けているのだろう。不寛容な抑圧や情報による管理や統制が気にくわない。正義を主張する組織や団体が嫌いだ。そのときの都合に合わせて、矛盾する論理を強弁する人々が許せない。人殺しが許せないと叫んでおきながら、正義に名を借りた人殺しを正当化するような輩を非難できないような者を信用できるだろうか。そんな者達が大手を振るって繁栄を謳歌しているような世界をなぜ肯定できようか。それは戦略や戦術以前の問題だ。


1月7日

 人々は仕事とは質的に異なる息抜きを求めているらしい。人々の暮らしは、仕事と息抜きとしての娯楽のどちらがメインになるのだろう。どちらも欠くことのできない日常生活の一部を構成しているのかも知れない。だが一方で、娯楽への需要があろうとなかろうと、絶えず何かが娯楽として供給され続けるだろう。娯楽にうつつを抜かしている時、たぶん幸せを感じることもあるだろう。そこで誰かと誰かが何かを競い合う。確かにそこで何らかの技が競われるのだ。今年もいくつかの世界的なスポーツ・イベントがそれぞれの地域や都市で開催されるらしい。この地域ではもうすぐサッカーのワールドカップが始められることになっている。予定通りに開催されれば、多くの人がそれなりに楽しむのだろう。自分もプロサッカー選手の妙技やら神技に感動したりするのだろう。どこの国を応援することもないだろうが、細切れになったニュース映像で、ただ漠然と人体の動きを観察するだけにとどまるのかも知れない。たぶん、白線で四角く区切られた大地の切れ端に複数の人体がうごめく映像を目にするだろう。試合を映し出すテレビ画面に興奮したりするだろうか。そのときの状況によって異なる。興奮するしないは、あまり重要なことではないような気もする。また、そこに何らかのドラマを見いだすことにもそれほど興味はない。自分はそこに何を見ようとしているのだろうか。何も見ないかも知れないし、何も感じないかも知れないが、たぶんそれでも何かを見ようとはするだろう。芝生の緑が目に焼き付いていたりする。退屈紛れに、冗談の一言も発したくなる。まだ始まっていない段階ではなんとでもいえるだろう。心にもない嘘をつくなら、自分は晴れた青空を愛している。限りのない欲望に突き動かされているわけではない。自国の勝利を願っているのは、自分とは無関係な赤の他人だ。自分には他人と競い合うための技がない。それは欠如しているのではなく、満ちあふれているのかも知れない。すでに満たされてしまっていて、勝つために技を磨く必要性を感じられない。勝たなくてもいいし、競わなくてもかまわない。ではいったい何に満たされているのだろう。あまりうまく言い表せないが、とりあえず何かに満たされているのだろう。対決やら競争やらに至らない何かに満たされている。自分は息抜きと仕事の区別をつけられない。そのどちらもが退屈なのだ。それらはすべて影にまかせておくしかないだろう。


1月6日

 何もない一日の時間は、朝を通り過ぎ、昼を通り過ぎ、夜を通り過ぎ、朝になる。それが何日も繰り返されると一週間になり、さらに一か月になり、そして一年になるだろう。たぶん去年の今頃も同じようなことを思い、同じようなことをやっていたのかも知れない。月日が流れるのは早くもなく遅くもないだろう。実際は月日の流れをあまり感じていないのかも知れない。だが昔のことをなかなか思い出せない。それとこれとは関係のないことだろうか。時の流れをつかみかねている。時流とはどんなことだろうか。そんなものをつかんだからといってどうなるものでもないだろう。時に流れがあるとするなら、それは例えば川の流れと似たようなものだろうか。その流れに乗っている人にとってはそうかも知れないし、その流れを感じ取れない自分にとっては、そうでないかも知れない。何を想像しようと想像の域を出ないことは確かなようだ。何か具体的なことについて語らなければ意味不明のままかも知れないが、今はあまりその気になれない。眠気の蔓延で意識が定まらないようだ。もうつまらない批判はやめにしようと思いつつ、いったん具体的な事物に接したとたん、もうすでに批判を開始していることに気づく。どうも物事を批判的にしか捉えることしかできないようだ。おそらくこの現実を受け入れられないのだろう。誰がこの現実を受け入れることができようか。ここには誰もいないし、自分さえいないだろう。


1月5日

 無言の退屈に耐えきれなくなり、影が何かを語り出す。静寂の時が何かの前ぶれになるらしい。突然の出来事は人を驚かせる。なぜそんなことを口にするのだろう。それから無言の時がしばらく続く。画面上ではそんなシーンをよく見かける。実際にはよくあることなのだろうか。よく見かけるのだからよくあることかも知れない。時は流れ、どうも時間につながりが感じられない。いつもどこかで編集作業が行われているような気がしてくる。途切れ途切れの断片を意識がつなぎ合わせているらしい。ついさっきまでは何をしていたのだろう。物語の中ではこれからどこへ行くことになっているのだろうか。悪い奴らを懲らしめに行くのは、きっとどこかの国の軍隊だろう。そんな光景を数か月前のテレビ画面が映し出していた。覚えていることは何かの切れ端に過ぎない。その記憶には結末が欠けている。どこまでもあやふやな記憶の海でおぼれかけている。どうやら何も見いだせない貧窮の時が遠からず到来しそうな気配だ。この宇宙の無言は、なるか彼方まで到達しているのだろう。自分は無言ではない。自分の代わりに影が語ってくれている。影はオートマチックな動作で、こうして自分の空白を補ってくれているらしい。だが自分の方は明日も無言のままかも知れない。自分に備わっているのは簡単な日常会話を話す能力だけかも知れない。毎日通常の時空で退屈な日常生活を送り、退屈な日々を暮らし続ける。もはや自分に残された時間はテレビを見ることにしか費やされないだろう。しかし、その一方で、自分は自分ではないことも確かなようだ。自分はテレビドラマで見かける通行人の一種かも知れない。たぶん物語の中の自分はそうなのかも知れない。影はどこにも見あたらない自分について語っているらしい。


1月4日

 物事に正反対の概念が存在するだろうか。その気になれば、存在していると思うこともできる。それは気休めに思うことだ。不幸の幻影に怯え、幸福への幻想を抱き続ける。たぶんそんなことは思わないだろう。たぶん気分次第で思ったり思わなかったりするのだろう。気がつけばこの現実に囲まれている。この現実を受け入れられるだろうか。常に具体的な物事が目の前に存在している。その場で思い感じることは、その時々で対処できる範囲内でのことだ。限られた可能性しか持ち合わせていないらしい。痛みを感じるのは神経が通っている証拠であるらしい。心にも神経が通っているのだろうか。心の痛みは幻想の産物なのか。心など持ち合わせてないだろう。小銭ぐらいなら少しは持ち合わせがあるかも知れない。限られた可能性とは自動販売機で缶コーヒーを買う可能性のことかも知れない。たぶん自動販売機では心は買えないだろう。ところでこの世界のどこに心が売っているのだろうか。今必要なのは心ではなく休息かも知れない。心には中身がない。ではその表面には色でもついているだろうか。心が移り気なのはその色が変色しやすいことに関係しているのだろうか。結果から原因を推測すれば、場合によってはそんな推論もありかも知れない。気休めに思い浮かべる思考は、信憑性を纏う必要を感じさせない。あちらでは誰がどこで何をしているかは知らないが、こちらでは何もしないうちに勝手に時間が経過するだけだろう。道の途中で風景に気づく。環境の変化とはこういうことなのか。時間の進行に沿って勝手に心が移り変わる。それは自動制御理論にでも従っているつもりに感じられる。誰の心でもなく、自分の心でもなく、どこかにいる誰かの心かも知れないし、誰の心でもないかも知れない。何も思い出せないのは誰でもないからだ。そしてすべてを思い出そうとしているのは、どこかの図書館にある百科事典を読んでいる人だ。それは人の心ではなく、何冊もの巻を構成する書物の一部だろう。心の外に百科事典の知識が存在している。心の内は空っぽだ。そしてその表面には色がついている。そこには正反対を構成するような概念の入り込む余地はない。何と何が対応しているのかは判然としない。物事が相互に入り組んでいるようでいて、まったく関係がないことかも知れない。何となくはっきりしないことが述べられているらしい。とりあえず昨日のことも今日のことも忘れよう。忘れられたら楽しい。またいつか思い出すことを期待して、今しばらく忘却を楽しんでいよう。その一方で、いやなことはすぐに思い出す。今は不快になりたいらしい。それはたぶん嘘だろう。嘘だと思いたい。


1月3日

 誰もがとりうる態度とはどんな態度だろうか。少年による凶悪事件が発生したなら、子供達に向かって命の大切さを訴え、アメリカで同時多発テロが起こったら、卑劣なテロは許さないと叫び、アメリカ軍によるアフガニスタンへの報復爆撃で多数の民間人が巻き添えで死んだなら、アメリカへの直接の非難は避けつつも、戦争のない平和な世界が到来するように祈る。NHK的な態度とはこういうことかも知れない。おそらく大衆化された社会では、卑劣で欺瞞に満ちた人々が多数派を構成するような仕組みができあがっているのだろう。正義はいつの時代でも彼らの側にある。それに対して自分は反発を覚えるだけだ。いったい誰の命が大切なのか。要するに、同じ価値観を共有する自分達と自分達の仲間の命が大切なだけなのだ。犯罪者やテロリストや、それらの人々の命も大切だと思うような人々の命などはどうなってもかまわないと思っている。そういう人々が例えばオウム真理教の信者の排斥運動を積極的にやっているのだろう。テロに対する恐怖感や犯罪を憎む心は誰しもが持っていることだろう。だが、テロリストや犯罪者やそれらの人々の人権を擁護する人々を排斥するだけで、テロや犯罪がなくなるわけではない。それはテロや犯罪が起こった後から絶えず感情的に生じてくる運動なのであり、すでに事後的な手遅れの行動でしかない。テロリストや犯罪者にも親兄弟や友人や仕事仲間もいるかも知れない。憎しみの感情はそれらの人々を不幸に導くだけだろう。要するに、この大衆社会と呼ばれる形態は、大多数の攻撃する側の人々と、攻撃され差別されるごく少数の人々を必要としているようだ。大多数の人々が何の良心の呵責も覚えずに攻撃できる対象を作り出すことで、この社会は円滑に機能し続けるのかも知れない。そのために差別され虐げられた犯罪予備軍を温存しておくことが必要なのか。パレスチナやカシミールなど、多数派への憎悪をかき立てるようにゲットーと呼ばれる劣悪な環境を世界各所に配置しておく必要があるのだろう。それらの地域から時々暴発する、世界に対する復讐者や復讐組織を多数派を構成する国々がよってたかって痛めつけ、日頃の暴力に対する欲求不満を解消して、この世界の秩序が維持されることになるのだろうか。アメリカなどは、今から多額の予算を注ぎ込んでミサイル防衛構想の餌食となるための暴発者を待ちかまえている。


1月2日

 電柱の上でカラスが鳴いている。晴れた空に雪がまばらに舞っている。雲の中では翼が凍りついている。寒空に舞っているのは飛行機なのか。頭上の雲は鮮明な輪郭を持つ。陽の光の加減で何か別のものを想像させる。その別のものが何か忘れてしまった。昨日の記憶は定かではない。そして今日も明日になってしまった。無理に思い出そうとしても、怠惰が邪魔をしてなかなかその気力が湧かない。気がつくと作り話を語っているらしい。何も思い出そうとしない一方で、ありもしない情景を語りたがる。それでも少しは昨日の出来事を思い出したのか。たぶん昨日は冬の晴れた青空を仰ぎ見ていたかも知れない。それが出来事といえるだろうか。事件でないことは確かだ。


1月1日

 何を予想するでもなく、ただ漠然とした思いを抱き続ける。何も思っていないようで何か思っているらしい。闇雲に繰り返される逡巡を通過してなお、結局は何を思っているのか定かではない。自分に関しては、たぶん今年も停滞するだろう。それはわかりきったことなのだろうか。はじめの一歩は三歩目から二歩後戻りした位置に歩み出す。どこに歩み出すでもなく、自分の影に向かって歩を進めている。たぶん飽きているのだろう。それは誰しも思うことかも知れないが、剣の刃先は鋭角に研ぎ澄まされているつもりだが、使う機会に恵まれない。だが誰もそんなことは思わない。あっさり前言が取り消される。誰もが内心で天狗になっているわけもないだろう。では刃先が錆びつかぬように何をやればいいのだろう。何もやる必要はないだろう。英雄の幻影に浸っているのは夜の間だけかも知れない。空白を埋めるためには何もやる必要はない。空白は永遠に埋まらない。それでも何かをやりたいのなら、自分の過去を思い出せばいい。気休めに、今までに見聞してきたことを思い出そうとしている。それで終わりなのだろうか。今さら感動的なフィナーレを期待する人もいないだろう。季節は少しずつ春に近づいているらしいが、ただひたすら画面上を眺めているだけで、現実には何も体験していないようだ。冬の経験はなおざりにされている。画面上では、冬とも春とも無関係な常夏の風景が写し出される。画面上に写し出される光の陰影が何かを訴えかけているようだが、わかりきったことは何も指し示されない。ただそれを眺めて何かしら感じれば、それでしばらくは幸せなのかも知れない。しばらくして幸福の賞味期限が切れたら、また別の番組を見て楽しめばいい。何を選ぶこともなく、何かしら選んでしまうだろう。それを否定することはできない。そこで気休めに嘘をつくのは安易な選択だ。無意識のうちに何を選ぼうとも、自分には何もわからないのだ。少しはわかっていることもあるかも知れないが、それと同時に何もわかっていないのだろう。今わかっていることは、今年も去年と同じように去年とは違う生き方を模索する日々が続く、ということか。


2001年

12月31日

 爆心地では死者の影が写真に映る。その祈りは天に届くだろうか。世界に平和を、人々はそんなありふれたことを願っているらしい。願いが叶うといいだろう。除夜の鐘を聞きながら自分は何も想わない。この一年を思い出す暇もなく明日になる。きっと明日からも同じような毎日を体験していくことだろう。終わりなき世界を死ぬまで体験するのだ。しかしそれでも自分は何も想わない。それが自分の置かれている状況なのだ。この場では、嘘ならいくらでもつけるのだろう。想わないつもりでも、思い起こす過去は山ほどある。思い出したようにひたすらピアノの音に耳を傾ける。昔はよく聴いていたCDだ。深夜にバッハのピアノ協奏曲集を聴いている。昔はグレン・グールドのピアノばかり聴いていた時期があった。バッハの音楽に出会ってから、ハービー・ハンコックが好きになった。彼が二十年近く前のアルバム『フューチャー・ショック』でやっていた水準のはるか下方で、現在のヒップホップ・テクノ系ミュージシャンが最先端音楽を奏でているつもりでいるのは、レコード店でそれの宣伝文句を書いている人でなくとも口惜しく思われるだろう。彼が完璧にやってしまった音楽はなかったことにしてやらないと、誰もその手の音楽はできないのかも知れない。もちろん彼とは違うアプローチでいくらでもやりようはあると思われるのだが(アルバムに欠点があるとすれば、音の強弱に乏しいということか)、テレビでたまに見かける貧相な日本人のラッパーは、やはり許し難いことをやっていると感じられてしまう。所詮ポップスが子供だましで通用してしまうことは百も承知しているつもりなのだが、もっと何とかもう一工夫やりようがないものだろうか。ラップだけではなく、ちゃんとした歌唱力のあるヴォーカルと厚みのあるサウンドをバックに重ねないと、なまじメッセージが稚拙なだけに、音楽としてまったく聴くに堪えないものとなってしまう。また、つい先日テレビで見かけたのだが、それ風のルックスをした平井堅とかいうヴォーカリストが、お〜お〜きなのっぽのふるどけい、と、少年少女合唱団らしき団体とともに童謡を歌い始めたのには吹き出してしまった。なぜカッコつけ系のいかにもとんがっていそうな若者が、大まじめでそんなことをやってしまうのだろう。どうも自分の感覚では理解できないような状況が進行中らしいのだが、これも自分のセンスが時代遅れである証拠だろうか。


12月30日

 この世界はいかにして機能しているのか。なぜ今さらそんな疑問を抱くのだろう。思考力が衰えてきたようだ。疲れ果てることには慣れているつもりだが、この辺が限界なのかも知れない。頭はある水準以上には働かないようだ。海の向こう側から流氷が押し寄せる。いつか冬のオホーツクを訪れたい。そのときは老人になっているかも知れない。老人は旅が好きなのだろう。暇にまかせて古寺巡礼の旅にでも出たいものだ。未来の老人は空想の世界を彷徨っているらしい。しかし空想の世界では物足りないだろうか。旅が実現する前に、まだやらなければならないことが山ほどある。現実に押しつぶされてしまう前に、何とか隠棲できるだろうか。だが、どうやって現実から逃げ出せるというのか。逃げ出す前に片をつけておかなければならない。しかし、これでも前進しているつもりなのか。確かに何とか言葉を積み重ねていることは確かなようだが、やはりそれは苦し紛れでしかないのだろうか。たぶん自分はまだ老人ではないのだろう。まだ試行錯誤をやり続けているらしい。この期に及んでまだ何も一定のスタイルを確立できないでいる。どうやら片が付くには、まだかなりの時間と経験が必要であるらしい。まだ悩みと苦しみが足りないのか。


12月29日

 どうもアメリカという国家は軌道修正が利かないらしい。このままだとかなり危うい状況になるかも知れない。命が惜しかったら、しばらくアメリカ本土には近寄らない方がいいかも知れない。ビンラディン氏がまだ生きているとするなら、最後の逃げ込み先はサウジアラビアのメッカになるだろう。だが以上に述べたことについての根拠は何もない。ただ何となくそう感じるだけである。予感などまったく当てにならないが、なぜかこのままでは終わらないような気がしている。著しくバランスが狂い始めている。過剰にやりすぎているのだ。まったく歯止めがかからない。この状況がさらに進行すると、そのあとにやってくる反動が凄まじいものになる可能性がある。この予感が杞憂に終わったら終わったで、その方がいいかも知れないが、どうも国家は国家以外の要素を過小評価している。もうすでに取り返しのつかない段階なのかも知れない。見捨てられた大地は不毛の荒野となるだろう。神はその大地もそこに暮らす人々も守ってはくれない。ただあるがままの姿を眺めているだけだ。最悪の未来も、神にとっては、当然の成り行きから導き出された妥当な巡り合わせと映るだろう。因果応報は偶然と必然の接触から現れる。それは奇蹟ではなく、日常の出来事と変わらない。自由とか民主主義などの西洋的な価値観でいくら装飾を施してみても、今回の事態の本質が別のところにあることは明白だろう。発端は地方のヤクザが広域暴力団の本拠地に鉄砲玉を送り込んで、派手な騒ぎをやらかして気勢を上げたわけだが、結局は資金と武器を豊富に所有している広域暴力団の返り討ちに遭った、ということ以外にそれほどの意味はないように思われる。広域暴力団側からすれば、それ以外の意味や意義をどのように言いつくろっても自己正当化にしかならない。ただ自分達に正義があることを主張することしかできない。自分達を批判するような輩はテロリストの仲間なのだ。そんな主張を繰り返すことで、事態を乗り切ろうとしているらしい。だが、神はすでにそんな彼らを見放しつつある。不毛の荒野となるのはアフガニスタンではない。しかし神とは何だろう。誰が神なのか。なぜ神でもない自分がこのようなことを述べているのだ。何やら神は直接語らずに、代弁者を通してその意向を明らかにするらしいが、なぜか神に敵対する無神論者の自分が神の代弁者になっているらしい。たぶん、自分はこれを本気で述べているのではないのだろうし、ただ神の名を借りて自分の願望を述べているに過ぎないのかも知れない。どう考えても、今後アメリカの大地が不毛の荒野と化すような事態に進展するとは思えない。だが現状にとらわれた常識的な思考を抜きにすると、そんな予感がしてしまうのだ。そんな荒唐無稽なことが起こるはずはないと思っているのに、その一方でアメリカが敗れ去るような気がしてきてしまう。ちょっとこれは、もしかしたらもしかするような事態になってしまうかも知れない。


12月28日

 月夜の晩は意外と明るい。だが、ある種の人々にとっては月夜の晩だけではないのだろう。復讐を誓う人々にとっては、月夜の晩だけでは都合が悪いらしい。狼は復讐を誓う、確かそんな題名の小説を読んだことがある。その小説の主人公は別に復讐だけのために生きているわけではないが、世の中には復讐することが人生のすべての人がいるだろうか。その全生涯をかけて復讐を成就させることに情熱を傾けている人が存在するだろうか。やはりそれは、ドラマチックなフィクションの中の世界でしかあり得ない話なのかも知れない。自分が暮らしている範囲内での現実の世界では、いったい何に対して復讐すればいいのか定かではない。復讐の対象が不在だし、何よりも復讐している暇も余裕も情熱も情念もない。今ここで体験しつつあるこの現実を生きるのに精一杯なのかも知れない。現状では、復讐に限らず、計画的な生き方ができないようだ。遠大な計画を練っている時間がない。しかし遠大な計画とは何だろう。何かこの世に計画されていることがあるだろうか。メディア上で言いふらされているプロジェクトならいくらでもありそうだ。それらは計画通りに事が運んだり運ばなかったりしていることだろう。計画が成功すれば莫大な富をもたらすようなことがまことしやかにささやかれている。それらは、自分にとってはあまり魅力を感じさせない話だ。なぜ自分は計画を好まないのだろう。計画通りに行かない時に落胆することがいやなのだろうか。計画通りに行かせようとして、四六時中注意を払うのがいやなのだろうか。探せば理由などいくらでもでてきそうだ。一つのことに集中している時、なぜか疲労感とともに無駄なことをやっているような気になる。それはやる気をなくす前兆なのだろう。それでもうんざりしながらもやり遂げることはできる。途中からは半ば義務感に駆られながらも、半ば逃げ出しそうになりながらも、最後まで何とかやり終わった時、毎度おなじみの自己嫌悪に陥るのが常だ。なぜ自分はこんなにも苦労しなければならないのだろう。所詮それは独りよがりの被害妄想でしかないのだろうが、やはり辛い作業としか思われない。どうも自分は自分のやっていることを肯定する気にはなれないようだ。


12月27日

 意味不明な言葉の羅列を見いだすが、まったくそこにつながりを見いだせない。いつもの調子のようでいて、また、いつもとは少し違う展開のような気もしてくる。結果を見ればわかることだ。結果から過去の今を振り返ってみよう。今は過去の時間に属しているらしい。たぶん明日も過去の時間かも知れない。確か昨日もそうだった気がする。過去においては、昨日が未来の時間だった時もあった。あり得ない時間はフィクションによって補われるだろう。作り話の中では、過去も未来も現在も自由自在に配置できる。だが作り話は虚しい。それを実際に体験できないから、それほど本気にはなれない。作り話を作る作業にそれほど魅力を感じない。また近頃は他人の作り話を読む時間がないので、作り話に接する機会はテレビに限られている。だがテレビだと途中でチャンネルを変えられるので、あまり話の中へ入り込めないうちに次々とチャンネルを変えてしまい、やはりそれほど本気にはなれない。しかし作り話ではない現実はどこにあるのだろう。今ここにあるこの現実以外に現実があるだろうか。はたしてテレビ抜きの生活に耐えられるだろうか。別に四六時中テレビを見ているわけではないが、至るところにテレビが配置され、否応なくそれを目にしているわけだが、そんな世界に生きているのにもかかわらず、テレビに対しては懐疑的であったり否定的なことも度々述べている。それはメディアから発せられる情報に頼りきって生活しているにもかかわらず、やはりメディアの存在には懐疑的あるいは否定的なスタンスであるのと同じことなのかも知れない。ではいったいどのような状況ならば満足できるのだろう。どうもあるべき姿というものが不在らしい。意識の中では理想状態が欠落している。現状が気に入らないことは確かなのだが、それ以外の状態はあり得ないのだ。要するに、体験しつつあるこの現実とはそういうことらしい。それ以外のないこの現実なのであり、この現状なのだろう。


12月26日

 枯れ草が辺り一面を覆っている。風は誰に向かってささやいているのだろう。どこからともなくかすれた声が聞こえてくる。空からは何の兆しも感じられない。影の声は語り継がれないだろう。その場所にはもとから何もなかったのだ。まだ語られたことのない物語はどこにも出現できない。だが、いつの間にか物語の方は中盤にさしかかっている。話の筋が一向に見えてこない。その洞窟はどこまでも続いているが、どこにも出られないだろう。風になびく風鈴の音色を楽しんでいる。辺りに響き渡っているのは何の音なのか。究極の出来事はまだ到来していないようだ。生きたまま最後の審判を体験できる者は運がいい。それは物語の中の台詞だろうか。未だかつて語られたことのない物語の中では、時々そのような台詞が聞かれるらしい。現実には最後の審判など訪れない。そんな名前の壁画が有名な寺院の中に飾られているに過ぎない。またそれの到来をほのめかす人々も若干いるかも知れない。駅前で拡声器を片手に、そんな内容をがなり立てている人もいる。この現実は想像上の産物に近くなっているかも知れない。微細な覗き窓から辺りを窺っている。用心に越したことはない。用心しすぎて墓穴を掘ったらおもしろいだろう。墓穴の中で余生を過ごすのも悪くはない。単純なことの繰り返しは嘲笑の的となるようだ。それでも必死の形相で無駄な努力を繰り返す。決して報われることのない作業はいつまで続くのか。そんな内容でみすぼらしい模倣者がぼやいている。そこでの決まりとはこういうことだ。ゴミの周りにはクズが集まる。落ち穂拾いを繰り返すと堆肥が生まれるそうだ。幸せは不幸せと同じコインの裏表なのか。何を想うでもなく暗闇に吸い込まれる。


12月25日

 乾いた季節の中で、北風に煽られて粉塵が舞う。微粒子を吸い込んで呼吸が重くなる。潮の満ち引きにつられて感情が揺れ動く。巡礼者は観光気分で軽い散策を楽しんでいる。広場に向けられた銃口がどこを狙っているのかは誰にもわからない。そこで砕け散っているのは何だろう。解体させられているのは組織ではなく、解体しているつもりの意識そのものだ。そこでは誰も死なないし、また誰も彼も死んでしまうだろう。ある映画のシーンではそうなるように演じられている。排ガスを車内に引き込んで自殺した絵描きもいたようだ。こみ上げてくるのは胃酸ではなく、満ちてくるのは悲しみとは無縁の白々しさなのか。白けきった場を無理にも盛り上げようとあがいている人もいるらしい。そこで演じられているのは間違ってもフラメンコなどではなく、情熱が冷めきった、しかも調子の外れた三文オペラなのかも知れない。何を語っているかも知らず、ただその場限りの熱狂に酔いしれる。熱を帯びすぎて演説は自然と怒鳴り口調になってくる。終いには、誰も聞いていないことを忘れさせるような大音量で怒鳴りまくる。それのどこに解決の糸口があるのだろう。いったい人間はどこで何をやっているのだろう。誰も語らないし、自分も何も語ろうとはしない。しだいに北風が強くなってくる。顔の皮膚が痛いほどの冷たさだ。高速道路上では、横風で車体が飛ばされそうになる。強風に煽られながらも、ごちゃ混ぜの言葉が頭の中で入り乱れ、得体の知れない妄想が次々に浮かんでは消える。何をどのように考えを巡らそうとも、もはや大勢は決したのだろうか。それでもまだ残っている可能性はないものか。


12月24日

 磔の刑はかなり痛そうだ。十字架にはりつけられた人体を偶像に持つ宗教は、よく考えてみればかなりグロテスクな面を持っているのかも知れない。例えば、チベット辺りにあるラマ教の寺院に行けば見られるらしい、頭蓋骨を数珠状に首から提げた像が描かれている極彩色の曼陀羅絵と比べてみても、それほどかけ離れた印象でもないような気がしてくる。キリストの生誕から二千年以上も経っているらしいが、偶像崇拝という点においては、磔にされた人体像を偶像として掲げているその宗教が、他の偶像崇拝を行う宗教に比べて特に洗練されているわけでもないだろう。もちろん多くの人々は、十字架にかけられたキリスト像を実際に目にしても、磔の刑が物語っている残酷でむごたらしい惨状までは想像が及ばない。単なる教会の装飾品と言わないまでも、どのような形状であろうと偶像の本来の用途は見て拝むものなのだ。それをいくら精神を集中させて見入ろうと、十字架に釘で手足を打ちつけられて晒されている者の、苦痛や苦悶まで感じ取ることはできないだろう。どんな対象をどのように見て、何を感じようと、見るという行為から感じ取った以上のことはわからない。その宗教の教えでは、磔にされたその痛々しい姿が、全人類が犯したすべての罪を購ったことを象徴しているらしいが、それは罪を犯して裁きを受けた結果としての磔の刑を、後の人々が大げさに拡大解釈しながら転倒させた結果なのだろう。見るという行為から、さらにそれを材料として想像し思考し続けた結果として、あのように大がかりな宗教体系が確立された。


12月23日

 眠たい。足下から忍び寄る冷気は静けさを醸し出す。月明かりに照らされた庭の樹木は青白い。そんな光景を眺める間もなく闇の世界へ引きずり込まれる。闇の言葉は魔術に属する。魔術に衝撃はない。衝撃的な効果を発揮するのは魔術というより奇術に属する。魔術は人々を誘導する術なのかも知れない。魔術に欺かれた人々は盲目になる。神に対する盲信は自由に対する盲信とどう違うのだろうか。たぶんどこかが違っているのだろう。そしてどこかしら違っている両方を同時に盲信している人々もいる。彼らは盲信している姿を世界に向けて誇示したいのだ。誰も何ものにもとらわれることのなく生きてゆくことはできない。神に束縛されるだけならまだしも、彼の地の人々が自由に束縛されている状況はかなり滑稽だ。それは中身のない言葉だけの自由だ。自由という概念の中身ではなく、言葉そのものに拘束されている。自分達の存在を正当化するために、自由という言葉を獲得したつもりになっているのだ。言葉の意味を自分達の願望の実現そのものに定めているわけだ。自由を連呼する人々は不自由である。自由という欲望にとらわれた人々は不自由である。自分達の思想的な不自由さを自覚できない人間は不自由である。限度や限界のない自由の無限性を考慮できない者は思考的に不自由である。言葉の意味を恣意的に設定する営みは、こんな風にして人類の文明が存在する限り続けられてゆくのだろうか。


12月22日

 現状を理解するとはどういうことなのか。たぶんそんなことならいつでも誰でも言えるだろう。勝者が敗者を踏みにじる。敗者を精神的にも肉体的にも徹底的に打ち砕く。源平合戦では、情けをかけた平氏が滅び去った歴史的事実もある。国家的な儀式には欺瞞が満ちあふれている。だが欺瞞こそが正しいとしらどうだろう。暴力には暴力で対抗することが正しい道なのだ。戦場では人道的なヒューマニズムは通用しない。何よりもアメリカがその圧倒的な軍事力で、自らが行使した暴力の正当性を証明してみせた。もはや誰もその暴力には逆らえない。躊躇や手加減のない暴力の冷徹な行使こそが抑止力となる。やられたらその何倍もの力でやり返すのが正しいやり方なのだ。今やその圧倒的な正しさには、誰もどのような国家も組織も対抗できないだろう。もちろん言葉だけが頼りの自分には、どうすることもできない。自分は正しいおこないが嫌いだ。今回の騒動でさらに嫌いになった。自分は正しいことはやらない。正しいことをやってはいけないと強く感じた。個人なら間違ったことをいくらでもやれる気がした。現実にはいくらでもやれるわけもないだろうが、とりあえず間違ったことを精一杯やりたくなった。積極的に間違い、下らぬ常識を無視して、醜い正しさから逸脱しなければならない。具体的に何をやるかはまだ何も決めていないが、何もやらないのも間違った選択肢のひとつかも知れない。何をやってもいいし、何もやらなくてもいいのだ。そう思っただけでも自然と気が抜けてくる。ひたすら怠惰に身をまかせるのも悪くはない。怠け心はいつどこからもどのような場所からも湧き上がってくる。まるで催眠術にでもかかったように、しだいに眠くなる。正しさに対する怒りなどまったく持続しない。自分は間違っているのだから、怒りを覚えるは筋違いかも知れない。少なくとも彼らが主張する自由とか民主主義とかは、自分の側にはない。そんな言葉で自らのおこないを正当化するのは欺瞞だ。だがその欺瞞がまかり通っている現状を誰もどうすることもできない。中には積極的に支援する輩もいる。今や自由と民主主義の名の下に暴力を振るうことが絶対的な正義になっている。世界を支配しているつもりの彼らに、何をどう批判しても馬耳東風なのかも知れない。これは予言かも知れないが、いつか自分に機会が巡ってきたら何かをしなければならなくなるだろう。神は偽善者達を幸福へ導かねばならぬ。自分は神ではないので、その任に当たることもないだろうが、そういった使命とは無関係な何かをやりたくなった。


12月21日

 穴が空く。銃弾を食らって身体に風穴が空く。現実にも空想世界にもそんなシーンが紛れ込んでいることだろう。心の中に空隙が生じている。必要から見放されているらしい。今や完全に忘れ去られた感のある、パンクバンドのアナーキーは、心の銃を使って戦って行くのさ、と歌っていた。それは稚拙で抽象的な文句かも知れない。勇ましいことは何も言えない。そんな時期はとうに過ぎ去ったのかも知れない。今はその気がしない。その必要はないようだ。なぜ必要がないのだろう。必要性が見失われている。現状を打破する必要は感じないし、その突破口も見つからないらしい。必要がないのに見つかるはずもない。危機感が欠如している。記憶と意識が薄れている。精神薄弱なのだろうか。そうかも知れないし、自問自答のモノローグ的応答にも飽きが来ている。可能性は倦怠の向こう側にある。だがそこにある確信は信用できない。自分には何もない。何かあるかも知れないが、何もないと感じている。沈黙を突いて自然と繰り出される言葉は、かも知れないばかりになる。自分の言葉に確信を持てないでいる。それは自分の言葉ではないかも知れない。自分は何も言葉を所有してはいないかも知れない。やはりかも知れないばかりのようだ。もしかしたら行き詰まり状態なのかも知れない。だがそれも、かも知れないの域を出ていないだろう。何かしら感じているが、それを言葉として定着できないでいるらしい。


12月20日

 唐突に感情的な言葉が挿入される。もしかしたら、意地悪でひねくれたことばかりを述べているのかも知れない。昼は遙か西の彼方へ遠ざかり、すでに外は暗い。明日は太平洋側でも雪が降るらしいことを天気情報が告げている。月もすでに西の空へ傾きつつある時間だ。過去の一時期も忘却の彼方へ消え失せた。そのとき何をどう思っていたのか忘れてしまったが、相矛盾する要素を同時に体現していた。たぶん感情的に理性的でありたかったのかも知れない。小心者は焦りをひた隠しにしたままで、うわべだけの冷静さを装いたかったのだろう。どこの誰が小心者なのかは忘れてしまった。その顔と名前を思い出せない。案外自分のことを述べているのかも知れない。老人は老人のままで、若者は若者のままで、他の誰とも向き合うことなく、ただ何となく各々の領分で生きているらしい。世代間の溝はその時々で埋まったり埋まらなかったりするのだろう。過去においてはすでに場所が見失われている。その一方で四散した自己は、昔の思い出話の中にひっそりと生きているかも知れない。陳腐なことを述べると、秘密の隠れ家は心の中にある。対話の成立する土台は今どこにあるのだろうか。失われた時に対する埋め合わせなどを期待する方がおかしい。だがそれが誰の台詞なのかは忘れてしまった。すべては忘却の彼方へ消え失せる。今はあまり冗談を述べるタイミングではないようだ。この寒さに打ち勝とうとは思わない。たぶんそれも、自分とは関係のない台詞だろう。戯れ言は戯れ事に直結するらしい。存在するすべての時は、ブラインドの隙間にある。荒唐無稽とはどのようなことを指し示すのだろう。存在しないすべての時は、腕時計の裏側にあるだろう。感性の属性は個人にはなく、理性は社会の片隅のゴミ捨て場で見捨てられる。その否定的な見解は誰に所有する権利があるのか。だがその言説は、何か気の利いたことを述べているような気になるのとは反比例して、内容が希薄に感じられる。必要以上に多言を弄せば、結果的にわけがわからなくなる。だが、多言を弄して様々な言葉を複雑に入り組ませて、辞書に載っているそれぞれの言葉の意味を脱臼させないとおもしろくない。ではなぜ言葉を弄するのだろう。目的が不明確だし、はじめから確固とした目的はないのだろう。なぜという問い自体が無効なのかも知れない。まだ滑走路の途中でうろうろしているわけであり、大空へ向かって飛び立つ気配すらない。しかし、それが何の喩えなのかよくわからない。隠喩とはどういうことだろうか。何をどのように用いれば隠喩になるのだろうか。たぶんそれは隠喩ではないのだろう。では何なのか。ただどこへ向かっているわけでもないし、その向かう先にあてはまるかも知れない虚無という言葉は、もはやこの場では使い古された感がある。たぶんこれらの言葉が夢見る仮の場所が、虚無であり虚空なのかも知れない。そして時たま使われるゴミ捨て場こそが、この世界や社会のすべてを体現しているのだろう。ようするにこの世の中を否定的に述べるとゴミ捨て場になる。それはかなり怠惰で投げやりな表現だ。もっとマシな言葉を当てはめる努力を放棄している。もはや世界に対する批判すらやめているのかも知れない。現状を批判することの中にしか真の自由は存在し得ないが、自由にはあまり魅力がない。不自由に凝り固まって幸福を享受している人々に敗れ続けるだけだろう。戦わずして負けるだけのために生きたいとは誰も思わないだろう。思わないが、そうせざるを得ない。これからも、うんざりしながらもそれをやり遂げなければならないらしい。それは自由のためでも自分のためでもない。よくわからないが、結果的にそうしてしまうわけだ。


12月19日

 先週は何をしていたのだろうか。あまり鮮明には思い出せないが、なぜか先週の疲れがなかなか取れないでいるらしい。先週の後遺症がまだ続いている。昨日は気がついたら翌朝になっていた。そして今日は気がついたら深夜になっている。昨日の夕方から眠ってしまったようだ。目が覚めると天井の蛍光灯がやけに眩しい。どうも蛍光灯を点けながら寝てしまうのが習慣になりつつある。そしてもうすでに翌朝になろうとしている。いったいこんな夜中に何をやっているつもりなのか。時間の経過は意識できるが、その進行速度をコントロールすることはできない。昔の空想的な物語の中のタイムマシンが思い出される。今でもそれの実現を試みようとしている人がいるだろうか。もはやその手の話は流行らなくなっていて、そのような発明に対する情熱も冷めてしまったのかも知れないが、中には荒唐無稽なことを思いながら、世間に見捨てられながらも、ひっそりとわけのわからないことをやっている変人もいることだろう。もしかしたら自分もそのような変人の範疇に入ってしまうのだろうか。自分ではそんな実感も自覚もないし、実際のところはよくわからない。しかし、世の中がそういう変人だらけになったら、さぞや愉快な世界になっているかも知れない。たぶんひとつの意見や考え方に同調する者もいないだろうから、戦争などはまったく起こらずに、平和な世の中になっていることだろう。アメリカでは戦争の継続に同調する世論が形成されているらしいが、アフガニスタンでの空爆の巻き添えで死んだ人の遺族は、アメリカ政府に損害賠償請求でもしたらいいかと思う。確か同時多発テロの犠牲者の遺族が、同様の請求をどこかに申し立てたと記憶している。まあ戦争においては、そういう請求は無視されてしまうのかも知れないが。


12月18日

 どうも意識が朦朧としているようだ。気休めに夢を見たわけでもないが、夢についてはそれほど興味はない。だが夢の続きを見るにはどうすればいいのだろう。朝はまだ薄暗いが、目覚まし時計の音で睡眠が中断される。当然のこと朝から気分は思わしくない。眩しい光が頭上の蛍光灯から発せられているのが原因かも知れない。また明かりを点けっぱなしで寝てしまったようだ。眩しさで寝起きが不快だし、しばらく目がよく見えない。そして視力が徐々に戻ってくるのと同時に、現実が現前している事実を実感し始める。さっきまではつまらない夢でも見ていたのか、おそらく現実の夢は希望を伴わないのだろう。たぶんそれは間違っている。今はただ、心のありようがそのまま映像として提示されているだけかも知れない。夢は夢であり、夢も現実の一部であることに変わりはない。中には希望を伴う夢もあるかも知れない。夢から覚めたとき、どんな感慨が生まれてくるのかはよくわからないが、今ここで今が過ぎ去ろうとしていることは確かなようだ。自分は大して変わらないし、世の中もそれほど変わらない。今ここで感じる実感や感慨は、絶えず意識の連続をなぞろうとしているようだ。だがそれは昨日の出来事に過ぎないだろう。そのとき何を思ったわけでも感じたわけでもなく、今ここで昨日の記憶を再構成しているだけのようだ。ようするにそれは作り事なのかも知れない。なぜか日付的な感覚のずれがさらに拡大し始めているらしい。


12月17日

 そのことに関しては、今では誰もあまり多くを語らない。彼らはそこで何を予想しているつもりだったのだろう。大袈裟なことは何も述べる気はないが、確かなことは依然として何もわからないし、どのような予想も裏切られるような未来が到来するのかも知れない。粗雑な当て推量はいつもその先を見越して発せられる。その未来からの衝撃は人々にどう映るだろう。たぶんどのようにも映り、どのようにも解釈されるのだろう。案外自分の予想などまったく裏切られて、衝撃など何も伴わないのかも知れない。それは未来でさえなく、過去と未来の隙間から垣間見えるかも知れない今でさえなく、遙か昔に過ぎ去った過去の大地だ。そこで現在から取り残されているのが自分だけなのか。未来において、どこを眺めても過去の光景ばかりが広がっていることだろう。たぶんそれはついさっきまで見ていた夢の内容に近い。今までに体験したことは、何も衝撃的ではない。それは嘘であって、衝撃的な体験はいくらでもあったのだろうが、今はそれを思いだせないし、思いだそうとする気がないのだろう。だから今は何も衝撃的ではない。おそらく、都合良くイヤなことは忘れて、健忘症にかかったつもりでいるらしい。怠惰は勤勉よりも意識や感情に忠実だ。手際よく現状分析をしたいところだが、今はその材料を持ち合わせていない。怠惰にまかせて入力してきた信号をかなり見落としているのかも知れない。面倒くさいので、神経がそこまで細やかに働かないのだろう。ところで、今ここで何について語っているつもりなのか。身体は静止したまま動こうとしないし、思考も止まったまま休眠状態だ。今そんなことができるはずもないが、ここで全力疾走したら息が切れるだろう。仮の話ならいつでも可能なわけか。自分は何を語っているのでもなく、何も語っていないのかも知れないが、それでも何かを語り続けているらしい。仮にそれが全力疾走でないとしたら、何にたとえられるだろうか。マラソンなどという陳腐な表現はなじまない。別に走っているわけではないのかも知れない。だからといって歩いているのでもないし、そのまま表現するなら、ただ文字を記述しているだけなのだろう。それは当たり前のことなのか。


12月16日

 唐突に途中から始まってしまうらしい。変化とは何か。たぶん進化と退化を含んでいるようだ。自分は相変わらず空洞のままであるらしいが、影は何もない貧窮の時を過ごしながらも、さらなる空白の時空を求めている。何か形ある姿を求めながらも、結局はさらなる空洞を穿とうとしているようだ。希薄化への変化は止まることを知らない。そして、自分からはもはやそのことに関しては何も述べられなくなる。その変わりようがない状況は、影からの作用でさらなる強固な防塁壁が築かれつつある。時には時流に流されながらも、変わらない気持ちはいつまでも変わらない。周囲を取り巻く風景が少しずつ変わりゆくのとは対照的に、時代遅れの古びたセンスは、遙か昔の時空とのつながりを維持したまま、はるか後方へ置き去りにされているらしい。その場所では言葉は何も出てこない。何も出てこないが、無理にも虚無に虚無を積み重ねようと試みるから、よりいっそう過去に生成された偶然の歴史と一体化してしまう。偶然は必然の中に見いだされるだろう。決まりきった変化は、怠惰と徒労の果てにどのような花を咲かせるつもりなのか。ビニールハウス以外にこの寒い大地に花は咲かないだろう。それは決まりきった変化ではない。なぜそうなるのだろう。唐突におかしな表現だ。


12月15日

 たまにテレビで映画を見かける機会に遭遇することもある。その映画の中では、数千年後の未来の地球は、猿の惑星であるらしい。どうやら続編らしいその映画の内容は、核戦争後の地球という今では使い古されたテーマが下敷きとなっている。それは未来の物語ではなく、二十数年前の世界で支配的だった映像表現とストーリーの複合体なのだろう。たぶん当時の人々にとっては何らかのリアリティをもっていたのだろうが、特殊メイクと共に醸し出される全体の構成は、今となってはかなり稚拙な印象を受ける。軍国主義的な猿の帝国と超能力を有するミュータントの地底王国との戦いは、映画の最後が示しているような、核爆弾で地球が滅び去るような結末に結びつくには話にかなりの飛躍があるように思われる。どう見てもそれらの内容は、数千年後のアメリカの東海岸のニューヨーク周辺で勃発した、単なる地域的な部族間抗争の域を出ない話であって、それが当時のアメリカとソビエトとの最終核戦争の喩えだとしたら、まったくお粗末すぎる話だろう。しかし、そういう解釈は間違っている可能性もある。独りよがりな憶説を勝手にそれらの映像に結びつけているだけなのか。


12月14日

 なぜか日本海沿岸の雪景色を眺める。彼の地では昼でも暗い寒空から雪が舞い降りる。太平洋側で暮らしている人にとっては、やはりそれは裏日本の風景と映るかも知れない。海岸沿いの松林に沿った道を車はひたすら北へ向かって走り続ける。その途中で巨大な僧侶の像を見かけた。たぶん寺の境内にその像は建っているらしいのだが、通常の仏像の類と違い、妙にリアルな顔立ちをしているので、かなり奇異な印象を受ける。やはり寺院には、昔から決まりきった顔立ちをした仏像が合っている。だがそれがどうしたというのだろう。特にそれがどうということはないだろう。それ以外に何も付け足されないだろう。それからしばらくして温泉街へたどり着く。そして、ここから空白の二日間が始まるらしい。影にとっては何もできない時間が到来する。たぶんこれらの継続はしばらく途絶えてしまうだろう。仮に再開するとしても、かなり遅れてしまうだろう。状況は様々なしがらみに囲まれているらしい。怠惰と共に逃れられない空白の時間の合間を縫って、言い逃れのできない言い訳を差し挟まなければならない。どこまでも継続できるわけでもないらしい。案外終わりの時がすぐ近くへ迫ってきているのかも知れない。


12月13日

 逃亡者にも正義はあるようだ。逮捕された覚醒剤常用者は芸能人なのか。芸能界と世界はどこで繋がっているのだろう。浮き足立っているのは次期監督内定者なのか。道標が壊れているらしい。道に迷っているのは誰なのか。進むべき道はどこまで舗装されているのだろう。事がうまく運びすぎて有頂天になっていると、数日後には面目が丸つぶれになるかも知れない。どこの誰がそうなるのだろう。たぶんどこかの誰かがそうなるのだろう。その人物の名前まではわからない。予言の嘘はこうして作られる。他に思い浮かぶことはないだろう。限界はいつも目の前に横たわっている。言葉の組み合わせは無限ではない。どこまでも舗装道路が続いているわけでもない。スポーツ新聞の大げさな見出しのようにはいかないらしい。途切れた文章を修復するのにはかなり骨が折れる。途中から意味不明になってしまうこともしばしばだ。だがやりすぎているとも思わない。そして、何よりも内容が伴わないことが致命的な欠陥として浮かび上がる。時間は二十四時間しかないが、いつも一日でそれを成し遂げようとして、必ず途中で挫折してしまう。時間が足りないのだろう。そして時間が余りすぎている。何もできないのと同時に、多忙を理由にして何もやろうとしない。抽象的な言い回しでその場しのぎを連発する。それらのどこに真実が宿っているのだろう。たぶんそのすべてが真実なのだ。それらの言葉と言葉の重なり具合を、どう理解したらいいのだろうか。何か評価の基準を設定できるだろうか。すでに内容があやふやになりつつある。このままでは毎度おなじみ状態になってしまう。知らないうちに横道へ入っていて、そこで轍にはまって身動きが取れない。空転しているのは車輪だけではない。


12月12日

 まっすぐな枝はない。その所々に枝分かれがある。何もない夜、暗がりから透明な腕が伸びる。何か思い違いはないだろうか。気まぐれで複雑なことを述べようとしているらしい。確か作り話の中では、踏み外しを実行するために階段が存在している。無限を目指す限りのない逡巡はあれからどうしたのだろう。今もどこかでそれを繰り返しているのだろうか。だがそれを何度も繰り返していると、さすがに回り道にも飽きが来る。それが誰の実感なのかは知らない。虚無に向かって何を訊ねても返答は望めない。沈黙の支配は今に始まったことではない。車の流れは絶え間なく続く。騒音にかき消されて会話を聞き取れない。何か無計画な計画が進行中だったらしい。突然の中断は何を意味するのか。回り道の途中で、意味付けを嫌うひねくれ者にもようやく意味が宿り始める。だが、それがどのような意味を持つのだろう。なぜか意に反してそこで急停止だ。この期に及んで方向転換は不可能だ。たまにはブレーキとアクセルを踏み間違えることもあるだろう。際限のないことはとりとめがない。同じことを二重に述べている。タイミングが著しくずれている。ふとしたきっかけから遠い日々を思い出す。空しさは日増しに強くなる一方だろうか。日付上の明日は雨になるらしい。関東地方は冷え込みもきつくなるそうだ。くだらぬ言い訳はすぐに忘れてしまった。すでに時間的には明日を過ぎて明後日になろうとしている。何もない夜に風の音が聞こえている。冬に風鈴は似合わない。星空には流れ星が現れる。満月の夜には犬が騒がしい。野生では牙と爪を抜かれたら生きては行けないだろうが、人間社会では、そうした鋭さを摩耗させる術が発達した。野生から遠ざけつつ、野生の掟で支配する。抑圧の本質とはそういうことかも知れない。支配者や支配権力の言いなりにならないためにはどうすればいいのだろうか。どうもしないで、ただ冷静に見つめ続ける。闇の中で何も見えないのに、ただ闇そのものを見つめ続けよう。そうした、無駄な行為をやり抜いて、できる範囲内で無抵抗の姿勢を貫いてゆこう。何もかもが今に始まったことではない。目新しいことはごくわずかにしか見いだせないものだ。空気や雰囲気が強要してくる服従の態度を拒否している。ここで立ち現れるのは、圧倒的な反作用の力だ。


12月11日

 想像してみよう、この世にも天国が存在することを。想像するだけならたやすいことだ。地獄は足下にあるのではなく、今連日連夜の空爆に晒されている地域が地獄そのものなのかも知れない。ではこの世の天国はどこにあるのか。たぶん、世界各地に点在する高級リゾート地がそうなのかも知れない。そこで贅沢三昧の休暇や、引退後の余生を過ごしている人々が天国の住民なのだろう。そしてこの世の地獄にも天国にも青空や曇り空や雨空が広がっていることだろう。さらに想像してみよう、その日暮らしを嫌って、明日の成功を夢見て、明日のために今日を犠牲にしながら必死に努力している人々のことを。夢に向かって努力する人々を美談仕立てで報じるメディアのことを。明日があるさ、と呟きながら今日の惨めな自分を慰めている人々のことを。想像してみよう、南極の除いた世界中に国境線が引かれていることを。そんなに難しいことじゃない、世界地図を見れば人間の勝手な都合で世界が細かく分割されてしまっていることがわかるだろう。想像してみよう、国が自分たちの払っている税金を利用して、宗主国が大々的にやっている大量虐殺の手助けをしていることを。誰かに殺されたら、その仕返しをする権利が国家にはあることを。殺人犯の死刑判決を望む遺族の気持ちを。暴力によって平和を維持しようとする国家を、誰も止められないことを。そうやって維持されている平和な地域に自分たちが暮らしていることを。想像してみよう、財産のない人々がホームレスとして公園や河川敷で暮らしている現実を。君にできるだろうか。想像してみよう、どん欲と空腹だけの競争社会を。他人の足を引っ張ることだけを競い合う、欺瞞に満ちた偽善社会を。想像してみよう、国家が世界中の人々を支配するために、世界すべてを国境によって分割している現実を。君はこの現実をどうするつもりなのか。ただあるべき姿を夢想するだけで、何もしようとしないのか。確かに想像するだけならたやすいことだ。なぜ人々はジョン・レノンの真意を理解しようとしないのか。彼の絶望をわかろうとしないのだろう。


12月10日

 寒空に無数の星が瞬いている。夜空はどこまでも闇に覆い尽くされている。暗闇の時空には限りがない。これよりさらに徒労を続ける理由はないだろう。今ここで求めていることは、せいぜいのところ、清涼飲料水を飲むことぐらいなものだろう。深夜に自動販売機から買ってきたその赤茶色の液体は甘酸っぱい味がする。気まぐれにおかしなことを思いつく。ユダヤ人にも、この赤茶色の炭酸飲料を飲ませてあげたいところだ。ジーンズの製造だけでは物足りないだろう。常人にはなぜそんな接続になるのか皆目見当がつかないだろう。薔薇の花びらは一瞬の火花と共に焼け焦げる。ブラインドの隙間から覗いているのは誰でもなく、猫の瞳に違いない。漆黒の棺の中に納められたダイヤモンドは光と出会うことはない。衝動的な振る舞いと言葉の羅列には関連性がないだろう。それを翻訳したければ、彼の助けが必要だ。暁の神殿には大きな銅鐸が飾られている。解体されるべきは国家ではなく、己の感情であるらしい。抽象的な要請には応えられない。虚無は表面近くに存在するようだ。球体の表面積を求める公式を思い出せない。つまらない感情はどこかへ置き忘れてきてしまったのか。自己を見いだせないのはいつものことだ。なぜかそこで飽きが来てしまう。狂っているのは社会ではない。だが自分の神経も至って普通だ。相容れないのが普通なのだろう。状況はいつも自分を苛立たせる。そうなるより他はあり得ない。どう転んでもそれは気に入らない状況になってしまうわけだ。だから絶えずいらついているのかも知れない。そして、誰がいらついているのでもなく、自分と他人と死人の影がいらついているのだ。そんな出鱈目な感覚に支配されている。誰が支配されているのでもなく、やはり自分と他人と死人の影が出鱈目な感覚に支配されているのだ。なぜそうなのかは、いつものように知らない。自分も他人も死人も、そのわけを知り得ないだろう。理由が導き出されるような言葉の配置ではない。これらの空洞が存在する理由などあり得ない。その存在理由やわけを導き出そうとすることは、はじめから考慮に入れられていないのだろう。何の必然性もなく、ここには意味不明な言葉がただ散らばり続ける。


12月9日

 お粗末な状況は何を意味するのだろう。語彙の貧困はどのような事態を招いているのだろうか。それは経済的な貧困とはどう違うのだろうか。たとえば、ジャズの香りが音の貧困を招いている。また、大きなスピーカーは置き場所の貧困を招いている。だが、それとは無関係に心の貧困は幸福を招くだろう。安易な人々の思っていることは荒唐無稽なのか。皆が同じ夢を見れば幸せになれると思うか。たぶん幸せになれるだろう。誰もが夢を抱くことで幸せになれる。時にはそれが同じ夢であってもかまわない。この際そういうことにしておこう。やはり夢では本気にはなれないのか。ならば他に何が必要とされるのか。必要ではなく、不必要で無意味なことこそが、人々をその気にさせる。誰もが決まりきったしきたりや意味の束縛から逃れたいらしい。だからそこに空想や妄想が入り込む余地がある。たまにはそれが夢と呼ばれることもあるだろう。様々な夢は論理的な飛躍を望んでいるのかも知れない。夢が夢見る人の人格を所有している。時には荒唐無稽な空想の中に真の人間が存在している。それらは空想上の現実を夢の中に構築しているのだ。多種多様な言葉が夢の中で入り組んで迷宮を作り上げている場合もあるだろう。人々が抱く空想上の人間こそが真の人間なのである。思わせぶりな赤と黒は地の果てで交わるだろう。交差点では横断歩道が交わる。飛び火した火の粉は、そこで新たな宴を繰り広げるだろう。饗宴はローマ帝国内で鉛中毒を流行らせたそうだ。成功と失敗の狭間でせこい金儲けが流行っている。だがそんな挿話には興味がない。何の必然性もなく、よくわからない断片が差し挟まれているようだ。ところで夢の話はそこでどうしたのだろう。夢から覚めて今日も夜空を見上げている。つかの間の妄想の内容を思い出せない。


12月8日

 愛と平和の共存は不可能なのか。愛は平和には結びつかない。愛は紛争の元なのかも知れない。愛国心は戦争の継続に役立つし、敵兵や敵国民を無慈悲にも虐殺するには、自国を愛する心の助けを借りなければならない。国を愛するがゆえに、悪魔のテロ組織を徹底的に殲滅しなければならなくなる。それらの悪の権化達をこの世から抹殺した後に、はじめて恒久的な平和が訪れるわけだ。そんな筋書きならば愛は平和に結びつくわけか。そういう意味でならば、アメリカ兵は愛の戦士達なのだろう(爆笑)。世界の恒久平和のために日夜悪と戦っている愛の戦士達を、日本国民は後方から応援しなければならない義務が生じているらしい。漫画的に解釈するならこうなるだろうか。在日米軍が居座っていることから生じている騒音問題や強姦事件については、この際目をつむってもらわなければならないのかも知れない。世界の平和を実現するためには戦争が必要なのであり、圧倒的な軍事力を有する米国や米国の支援を受けているイスラエルによる、テロ組織とテロ支援国に対する徹底的な空爆攻撃が必要なのだろう。やってもらおうではないか、いくところまでいってもらって、その結果を見定めてみよう。自分にはそれ以外に何もできない。横柄で威張りくさった彼らの態度に我慢ができないのなら、気休めにジョン・レノンの「イマジン」でも聴いていれば、歌の中だけの空想的な「愛と平和」に浸ることで、つかの間の間だけ現実を忘れることができる。自分はオノ・ヨーコが演出している愛と平和のジョン・レノン像は大嫌いだ。だが、何もできない現実の自分はさらに大嫌いだ。


12月7日

 目が疲れている。肩が凝る。神経を磨り減らしている。何かそれに対応した薬を服用しなければならないのだろうか。しかし誰がそうなのか判然としない。確かにどこかの誰かはそういう状態であるようだ。自覚はないが、知らないうちに自分もそうなっているのかも知れない。まだ来ぬ時のことばかりを思う。そうしているうちにも内部の空洞は広がり続ける。状況の詳しい説明はいつの間にか省略されてしまう。時間がだんだん少なくなってきていることは確かなようだ。それが何をするための時間なのかよくわからない。それとは反対に、何もせずテレビ画面をただ見つめている時間ばかりが増加している。テレビ画面に何かをやろうとする気力を吸い取られてしまっている。テレビを見たあとに残るのは、ぼんやりとして焦点の定まらない受け身の姿勢だけかも知れない。確かに仕事さえしていれば、その他は何もやらなくても生きていけるのだろう。あとはテレビでも見てくつろいでいればそれでかまわないのかも知れない。すでに自分の義務を果たして、その上に何かさらに別のことをやる必要はないのだろう。現にやりたいことは何もない。どこの誰が死のうが生きようが自分には関係のないことだ。そんな断言に留まっていてもどこからも文句は来ない。今の自分はその程度の現実の中で暮らしている。これはどうしようもないことだ。そこから無理に飛躍していくらそれ風な言葉を弄しようと、嘘以外には何のリアリティも伴わないだろう。自分は間違っても冗談抜きで世界情勢について語るような時空には生きていない。たぶんそんなことは、テレビ画面の向こう側に登場する国際政治学者とかいういかにもうさんくさそうな人物に語らせておけば事足りるだろう。


12月6日

 何もしないうちに、いつもの夕方からいつもの夜へ時間が移り変わる。退屈紛れにいつか見た昼の記憶を呼び覚ましてみよう。意識の周りを取り囲んでいるのは代わり映えのしない光景なのか。風景を写すには丘の上の高圧鉄塔が邪魔のようだ。気がつけば風向きが変わっている。高圧電線の弛みが空を弓状に切り取る。小雨混じりの曇り空はかなり動きが速い。当たり前のことだが、今は冬なのだろう。では、その冬に何を思うのか。何か適当に思いつくようだ。意味不明な展開ばかりかも知れないが、おそらく言葉を散りばめるには冬はちょうど良い環境なのだろう。確かなことは何も言えないが、あやふやなことなら容易に記述できるようだ。風が吹き込む位置に井戸があり、陽の当たる場所には屋根が張り出している。なぜそうなっているのかは知らない。そのあとは以下同文だ。隠し事は何もないらしい。そこにあるのは目に見える表面だけである。それを擬人化することにさしたる意味はないだろう。影は影でしかなく、それらに何らかの人格が宿っているわけではない。そこで思考を働かせているのは、物語の中の脇役だけだろう。根拠は何もない。しかし、なぜかそれを読んでいる者は何も読み取れないらしい。それらの歩みは前進とは限らない。読書は歩まないだろう。それは錯覚なのであり、前進しているつもりが昼寝の最中だったりする。退却が転進と呼ばれていたのは遙か昔のことだ。いい加減な思い込みが、勝手に勘違いの罠を呼び込む。だがそれは罠でさえない。そこに呼び込まれたのはいつもの暗闇だろう。眠るために必要不可欠な暗闇だ。意識はこの辺で眠ってしまいたいらしい。それが自然な成り行きかも知れないが、意識が夜の暗闇に吸い込まれる前に成し遂げておかなければならないことなど何もないだろう。窓に映る蛍光灯の光は、網膜を活性化させるには弱すぎる。また、それとは無関係に、カーテンの網目模様も何も語りかけはしないだろう。辺り一面に漲っているのはただの沈黙でしかない。感動とは無縁の暗闇に覆われている。そして室内が乾ききっているのかも知れない。エアコンから流れ込む暖気で乾いているのだろう。だからどうだというわけでもないが、さて、どこで区切りをつければいいのだろうか。時間的にはあと一時間半ぐらいで明日になってしまう。戸外はかなり冷え込んできたようだ。夜空には雲が広がっている。また静かに目を閉じれば、天井に青い世界が広がっている。蛍光灯の光が閉じた瞼に影響を及ぼすらしい。ところで空気に溶け込んでいる窒素にはどのような効用があるのだろうか。先ほどの光とはまったく関係がない。またなぜここで窒素なのか。窒素と蛍光灯の光との間に関連性を打ち立てられないでいるようだ。たぶん植物には窒素が必要なのだ。そしてさらに光から遠ざかる。昔、趣味の園芸という番組ばかりを見ていた時期があった。テレビは画面を見るためだけの道具に過ぎない。では、新聞は何を見るための道具なのだろうか。紙面上の文字と絵とかを見れば満足できるだろうか。たまには満足することもあるだろう。決まり文句はいつも忘れた頃に閃くらしい。しかし、それ以外の大半の時間が無駄というわけでもないだろう。


12月5日

 それは宇宙の奇蹟ではないだろう。生命あふれる惑星の表面では共食いの歴史が刻まれ続ける。誤った観念はどこへ向かって発せられるのだろう。視点そのものが間違っているのかも知れない。いったいそこで何を見誤っているというのか。冷たい北風に向かって沈黙を叫ぶ。曲がりくねった神経回路はまともな思考を懐かしんでいる。今はもう失われてしまったのは、過去の時間と飛行機の爆音と森の静けさかも知れない。何ひとつ木霊の内容を理解できない。山奥の滝には精霊が宿っているらしいが、その存在を知覚できた者は誰ひとりいない。ただ滝の姿に見とれているだけだ。利益の出ないやり方は魅力を欠くそうだ。そこで人々を誘惑しているのは何だろう。金銭的な解決では満足できないようだ。聖戦に駆り立てられているのは実際には戦わぬ人々だろう。堪えきれずにあきらめの言葉を漏らすのも、正義を愛する人々のようだ。この世の天国を体現しているのは今をおいて他にない。もはやこの社会が欠いているものは何もない。あらゆる苦痛と快楽に彩られたこの世には倦怠感が渦巻いている。もうたくさんなのかも知れない。ここに存在するすべてを消化しきれずに、何もかもがそのままの形でゴミと化している。生きながら腐り果てる人はまだマシなほうかも知れない。終わりを体験できる人は幸運だろう。新たに生み出される生命のほとんどが、人格すら伴わないまま廃棄処分になる。それらの大半は生まれながらにしてすでに終わっている。始まりと終わりが同時に共存しているわけだ。個性という名の終わりは誰に向かっても微笑みかけるが、そこで立ち止まる者はまれだ。大半の者はそこを素通りし、また、大半の者はそこまで辿り着けずに消滅してしまう。結局は、忙しなく動き回る機械の群れがこの地上にあふれかえる。同じような成功への野心が、同じような人格とともにゴミ置き場に溜まり続ける。それが地上の天国の実態かも知れない。充たされぬ思いを充たそうとする欲望に突き動かされながら、すべての人々が同じような物質に同化されることを願っている。たぶんそれらの物質にとっては、愛こそはすべてなのかも知れないが、その至上の愛が何を示しているかは誰も知らないだろう。愛が地獄の苦しみを示す場合もたまにはある。愛の内容は、それぞれが置かれている立場や状況によっても異なり、そのときの都合で、それぞれの抱いている欲望の対象を獲得することが愛だと思い込もうとする。そして、そこから生じる軋轢や諍いは都合良く忘れ去られる。自分が欲望を充たそうとすることで他の誰かが苦しむことなどをいちいち考慮していたら、もはや何もできなくなってしまうだろう。その存在自体が多くの人に苦痛をもたらすような人も中にはいるだろう。お互いに相容れないのはごく普通のありふれた状況なのかも知れない。だからこそ、自分以外の人々は生まれながらにして死んでいて欲しいのだろう。生きているのは自分だけでたくさんだ。その他の者は、単なる機械でしかないと思うべきなのだろう。肥大化した自己の最終形態はそうなるしかないのだろうか。だがそう都合良く事は運ばない。大半の人はそこまで辿り着けないのだ。そうなる途上で生を消耗し、結局は出来損ないの中途半端な生ゴミと化すわけだ。つまらぬこだわりやプライドを後生大事に守り通すことで、生き甲斐と呼ばれる錯覚を獲得して、そこで固まってしまうのだろう。それが人間廃棄物の正体なのかも知れない。


12月4日

 凍える大地は月の裏側に広がっている。遙か遠い未来を想う。虚無の大地には灰が降り積もる。風が吹き、干上がった河床に砂が流れる。遙か彼方に見える山は切り立った断崖に囲まれている。その褐色の岩肌には何が刻まれているのだろう。そのとき影は遠い過去を思い出すかも知れない。思わせぶりな口調で謎の問いを吹きかけるのはスフィンクスなのか。都合の良い思惑は、思い切り当てがはずれる。見いだされた現実はこんなものだろう。答えを性急に求めるのは悪い癖だ。それ相応の結論はすぐにも導き出されるだろう。それで満足ならばお望みの結末を用意しよう。結果がすべてではないが、破壊には破壊で対抗しなければ虫の居所が収まらないのは当然のことだろう。通常の神経を有した者ならそうするところだ。だが音楽はそれを求めない。影もそれには同感かも知れない。たぶん音楽は何も求めてはいないだろう。成功を求めているのは演奏者や作曲家達だ。血をたっぷり吸った大地は穢れた土地になるだろうが、数年後の豊作を期待できるかも知れない。しかし屍の上に生えた桜は何の実りももたらしはしない。ここでは、言わんとしていることは何も示されないだろう。もしかしたら時期が半年ずれているかも知れない。ならば、今から一年半後にでも真実を明らかにしてみようではないか。たぶんそのときには忘れているだろう。物語は虚無に蝕まれている。それは終わらない物語上での話だったはずだ。終わらない物語は、過去においては完結してしまうが、未来へ向かってはどのようにも継ぎ足されるだろう。それがどのような事件であったかはもはや誰も知るよしもないが、その顛末のすべては、忘れ去られた過去の歴史に示されているらしい。過去の一時期にはそれが存在していて、その時代に生きた一部の人々にとっては、その物語はある種の現実感を伴っていたようだ。たぶんそこで読者に向かって語りかけているのはスフィンクスではない。誰も語りかけはしない。そして今となっては、誰も読むことができない。幻想を抱くことさえ不可能だ。未知の物語について、どのような空想を抱くべきなのか。何をどのように推考し、推敲を重ね、どんな組み合わせの言葉で虚無の楼閣を構築したらいいのだろうか。影は常にあり得ない展開を期待している。一瞬ですべての方向へ到達するリアリティを求めているのだろう。一瞬の閃きさえあればそれで満足なのだし、その燃えかすによる惨めな持続など端から期待していないのだろうが、その意に反して、神の方は、無意味な逡巡とわけのわからない逸脱の果てに、限りのない持続を実現させてしまうだろう。それはもはや持続でさえない。それは引き延ばされて過ぎて千切れてしまったゴムひものようなものだ。しかも、それでもさらに引き延ばしの力がかかり続ける。そして、千切れたゴムひもの間に虚無の空間が広がり続ける。終わらない物語はその虚無から生まれた。こうして言葉と言葉を組み合わせながら絶えず拡大し続けている。


12月3日

 何か良い兆しはないだろうか。確かニュースでは、数日前にそんな兆しが報道されたようだが、昔からの言い伝えによると、夕焼けは明日の天気の予兆を示しているらしい。だが今日は夕焼けを知らない。カフェインの効果は一時的なものだろうか。なぜか今日は眠気を催さない。そこで退屈紛れに何かやろうとして、過去の記憶を辿って何かを見つけようと試みるが、一向に何も思い出さないし、怠惰に負けてこれ以上は何もしたくないのに、どういうわけか眠くならない。たぶん今は昨日の夜だろう。つまり今は作り事の時空に属している。昨日が今日に属しているらしい。これらの虚空は頭の中から発生しているのだろう。確かに変化の兆しはあるようだ。これから何が起こるのだろう。その兆しが何の前ぶれなのか知らないが、結果は見知らぬ未来から見通されるだろう。それはまたもや自分には関係のないことだろうか。その可能性の方が高いのかも知れないが、それがどのようなものであれ、無理矢理こちらから関係したくはない。そちらの方は影にまかせよう。自分は常に空洞そのものだ。近頃は何に対しても何の反応も示さない。その一方で影の方は、確か先週もそうだったかも知れないが、夜明けを迎えないうちに明日を体験しているつもりのようだ。しかしそこで何を体験する予定なのだろう。明日の予定など決まりきっている。予定調和なのだ。明日のことはきっと明日になればわかるだろう。とりあえずは永久に試行錯誤を繰り返すまでだ。どこの誰がそれを体験しているつもりなのか知らないが、今週も空虚なまなざしが中空を彷徨う、今やそんな時間帯にさしかかっている。しかしそれがどうであれ、この閉塞的で開放的な現状には何の区切りもついていない。相変わらずどこまでも果てしなく徒労の道が続いている。たぶんこの先も延々と続く退屈な未来のことを思うと、半ば呆れを通り越してうんざりしてくる。しかしそれは誰の未来なのだろう。そこには一向に自分が見えてこない。はじめからそこに自分を見いだそうとはしていないのだから、それはそれで仕方のないことかも知れないが、ではその可能性の未来は誰が体験すべきものなのか。


12月2日

 同じような色調の画面を飽きもせずにただ眺めている。いつものパターンで上り下りが激しい。何も見いだせずに他のことを想う。それからだいぶ時間が経過して、よそ見をしているうちに気がつくと、七色の画面はどこかに飛んでいってしまい、意識は、まるで予定調和のごとく行き当たりばったりで、わけのわからない迷路に迷い込み、どこで何をやっているのかわからなくなる。そこでは誰が何を考えているのだろうか。少なくともそれは、自分とは無関係な意志に基づいている。この世界では自分はどこにも存在できない。あるのはただ機械的に動作する空っぽの肉体だけだ。たぶんこの肉体には誰かの亡霊でも宿っているのだろう。死んだ他人の意志によって動いているのかも知れない。どこ誰が操っているかは知らないが、それでもまだこの空洞に自己を創造する余地があるだろうか。自分にはわからないし、知り得ないだろう。何も明確にならないまま、ただ何となくこの世界に漂っているだけかも知れない。だがその一方で、だいぶ前に見捨てられた影の方はといえば、相変わらず他力本願で何とかこの現状をやり過ごしているらしい。そして、何を思っているのか知らないが、空虚な黒い影はさらに拡散する兆しをみせている。たぶんそれらは空気との融合を望んでいるのだろう。しかし、なぜ空っぽの自分に影の気持ちがわかるのだろう。その辺に亡霊はわざとらしい矛盾を感じ取る。いったい何が矛盾しているのか、そこまでは考えが及ばないらしい。今日の亡霊はあまり賢くないようだ。おおよそ冗談というものが理解できないのだろう。


12月1日

 どうもNHKのニュース番組の編成責任者には、自制だとか羞恥の心が欠けているらしい。皇太子妃が子供を生んだぐらいで、まるで北朝鮮の国営テレビのごとき騒ぎようだ。例えばイギリスのチャールズ皇太子の子供が誕生した時、現地のBBC放送はこれほどまでに大騒ぎしただろうか。自分には番組の大半の時間を費やして伝えるほどの内容とは到底思われないのだが、もしまだ理性あるメディアがあれば、チャールズ皇太子の子供が生まれた時のBBC放送と、今の馬鹿騒ぎ状態のNHKの報道を比較してみればおもしろいだろう。自分はあまり興味はないが、今の皇室に威厳が感じられないのは、メディアの報道の仕方が影響しているのは間違いのないことだと思う。もし天皇崇拝者の三島由紀夫が自殺せずに長生きして、今の権威が地に墜ちた皇室の現状に直面したら何を思うだろうか。当時彼が自殺せざるを得なかったのも少しはわかるような気がしてくる。まあテレビ画面が映し出しているお祭り騒ぎ状態の町内会関係者は、たぶん北朝鮮の金正日氏の誕生日に広場でマスゲームを繰り広げている朝鮮人民とそれほど変わらない心境なのかも知れない。またどうせ、今回のお祭り騒ぎの経済効果がいくらだった、とか算出したがる馬鹿なメディア関係者も出てくるのだろうが........。