彼の声26

2001年

9月30日

 近頃はかなりぎくしゃくし始めているらしい。至るところに躓きの石が転がっているだろうが、実際に何度も躓いているのかも知れないが、それでも当たり前のように継続される営みは不可思議な趣を感じさせる。すぐにも途切れそうでいて、なぜかなかなか途切れない意志は、かなり執拗な持続力を宿しているようだ。ただ単に続いているだけのようだ。たぶん目標や目的が定かではないので、いつまで経っても何も達成されることはないだろう。目指していたのはそんな展開だったのだろうか。いつもの逆説を用いれば、目指しているのは何も目指さないことかも知れない。いや、何も目指していないからこそ、そのような成り行きになりつつあるようなのだ。現にこうしてまた同じようなフレーズが繰り返されている。いったいそれらの始まりは何だったのだろう。その発端では何を目指していたのだろうか。当初に抱いていたかも知れない思いは、もうだいぶ前に忘れてしまったが、その覚えていない思いをまた思い出そうとしているようだ。それはたぶんあり得ない思いだろう。それを再び導き出したい。思いは二度と同じようには繰り返さないだろうが、そこで導き出そうとしていたのは、不可能な実践であることは決まり切っている。たぶんそれもいつもの展開なのだろう。できもしないことをやろうとしているように装いながらも、その実何もやろうとしていないし、現実に何も行われない。望むことは誰にでもできるだろう。そして、常に不可能を望みながらも、結局できないので途方に暮れ、そのうち何もかも忘れ、いつもの怠惰に流されて、気がつけばいつの間にかこんな言葉が循環しているようだ。予定調和とはこういうことなのか。


9月29日

 思い描いていた未来は常に幻想に終わる。思いはいつも裏切られるだろう。そこには努力が欠如している。何もやり遂げようとは思わない。少し前の記憶がどこかに引っかかっているが、それはそのままほったらかしにされている。顧みられないのは記憶だけではない。相変わらず昨日の夢を思い出せない。幻想とは何だろう。夢の中で夢を思い出せないのかも知れない。光り輝く未来とはどういうことなのか。気がつくと光の眩しさに苦しんでいる。消し忘れた蛍光灯の光に邪魔されて安眠できないようだ。しかしそれでもうたた寝程度はできるらしい。釘の先端部が板にめり込んで途中で折れ曲がる。なぜか肉体的も精神的にも痛い目に遭う日々が続いている。それは大した痛みではないが、思いがけない偶然のきっかけから生じる予測不能の痛みなので、まったく事前に対処できない直接の苦痛を伴う。ダメージの蓄積は寿命を縮めるのだろう。だが、それを避けることは不可能だ。結局いつかは死んでしまうわけか。それは不条理なのではなく、極めて自然なことだ。しかし自然に逆らうのが人間の性でもある。つまり、不条理の原因は死に逆らうことなのか。だがどうやって逆らうことができようか。現時点では逆らえない。逆らうも何も生きることが死ぬことに繋がってしまうだろう。生きていることは同時に死につつあることでもある。ただ、できるだけ死を先延ばしにしたいだけなのかも知れない。しかしこんな見解では満足できない。問題や興味は別のところにある。では何が問題なのであり、興味はどこにあるのだろう。それがわかったら苦労はしない。価値や方向をどこにも定められない。闇雲に言葉をばらまいているだけかも知れない。なるほど不安の原因とはそこから生じるものなのか。何が不安かわからないから不安なのだろう。それはいつもの逆説だが、一方では、この退屈を紛らわすためには不安が必要なのかも知れない。不安に駆られて、意味もなく無駄な言葉が積み重なる。なぜスポーツ観戦などで熱くなれるのか。些細な違いにこだわればそれも可能だ。対戦している双方のチームのユニフォームの色は異なる。それを認識できただけでも大したものだ。では、他に何があるのだろう。探せば他にもいろいろな違いを見つけることができるだろう。だからスポーツはおもしろい。説得力を欠いたままいきなり結論に導かれてしまう。どうやら復活の日はまだだいぶ先になりそうだ。しかしいったい何が復活するというのか。ここで使用される言葉は厳密な意味を持つに至らない。今後何も復活しはしないだろうし、復活しようとしているものはすでに復活してしまったのだろう。


9月28日

 翌朝はかなり冷える。実際、かなり冷え込んできた。にわかには信じられないが、できもしないことが、できないままに放置されようとしている。なぜかこの時期の季語を思い浮かべてみよう。俳句について辞典で調べればわかることだろうか。世界には様々な意見が混在しているらしいが、その中で多数派を構成する意見は、いつもマスメディアによって形成されるらしい。しかし自分はどうなのだろう。自分に明確な意見があるのか。たぶん自分が今までに述べてきたことの中から、それを見いだそうとすればできないことはないだろうが、必ずしも見いだされたそれが自分の意見とは限らない。それは自分の意見ではない。そこから自分の意見などを抽出しようとは思わない。ただその時の状況に影響を受けて、そんな言葉が導き出されたに過ぎないだろう。それを自分独自の意見であるかのように思いこむのは錯覚なのだ。だがそれでもその錯覚を信じていたいらしい。信仰とはありもしないものを信じ込むことから生じる。たぶん実在したらしいイエス・キリストはテロリストとして実在したのだ。彼が聖地の神殿内で商売していた人々に対してやったことはテロそのものだった。


9月27日

 暗い夜は朝まで続く。確かに朝日が射してくれば辺りを覆っていた暗がりは物陰に退くだろう。ところが、今世界は洞窟の中に存在しているようだ。陽の光は洞窟の入り口付近に差し込んでいるだけかも知れない。だがそれは陳腐なたとえに過ぎない。それと同時に今世界は光のただ中に存在している。光の他は何一つ存在できない光そのものと化しているのかも知れない。確かに網膜は光だけを感じることしかできない。光は直接の痛みを伴わないので、そこにいくらでも勝手な幻想を付け足すことができる。眩しかったら目を閉じればいい。たぶん人間のご都合主義は、目で見ることを特権化した態度から発生しているのだろう。目で見えるものがすべてではないと知りつつも、その外界を覗く窓から見える光景は、その直接性において他の事物を圧倒している。しかしそれはどうしようもないことだ。盲人でもない限り視覚に頼って生きるしか術はないだろう。物が見えていること自体が当たり前のことなのだ。それを意識しなくても見えてしまうのだがら仕方がない。逆に、今そこで何が見えているのか、それを改めて意識する必要があるほど、眼に映っている光景をやり過ごしている場合がほとんどなのかも知れない。見えているが見ていないことがその大半を占めている場合もあるだろう。だが、それがどうしたわけでもない。ただ見えているだけなのだ。見えてしまうし、見えない場合もあるし、見ているのに見えていないことさえある。さらに見えているものを読んでいるらしい。眼に飛び込んでくる文字をこうして読んでいる。


9月26日

 なぜ途中で視線が遮られるのだろう。さっきまで何を見ていたのだろうか。今見ているこの視線の先にある、その光景を見ていたのだろう。そこには確かに何かあるようだが、同時に何もない。それは過去の幻影でしかないだろう。意識が見ることを拒んでいるらしい。要するに眠たいのだ。気がついたら翌朝になっているのは、疲れている証拠であるとともに、見ることへの拒否反応でもあるのかも知れない。おそらく、もう見なくても結末がわかってしまったのだろう。もはやそれを最期まで見届ける必要性を感じていないようだ。過ぎ去った時間は遺恨として蓄積するだろうが、つまらぬ感情は無視して先へ進もう。だが先へ進んでどうなるものでもない。今がその先なのだ。どうにもならない現実は、相変わらず人々を苦しめているようだ。自分も少しはこの現実に苦しめられているのだろうか。いったい何に対して抵抗すればいいのか、それがわからない。何を考えているのか。その時の状況によって変わってくる。何に期待しているのか。何も期待していないし、場合によってはあり得ない状況の出現を期待しているのだろう。相変わらず矛盾しているが、同時に何通りもの結末を望んでいるらしい。すべての出来事が同時に起こっていながらも、そこには、何一つ見いだせないだろう。見いだしたくない。たぶんそれはわがままなのだろう。しかしそれでも否応なくこの現実に直面してしまっているらしい。この現実とはどんな現実なのか。この現実に自分が見いだされてしまっているわけだ。この現実とはこの現実以外でない。


9月25日

 似非予言者はいつも勝手な憶測を断言口調で振りまき続ける。そのようなやり方で人々の興味を惹きつけ、常に話題の中心に居座る語り部でありたいのかも知れない。なぜジャーナリストと呼ばれる職業に属する人々は、そのような似非予言者として振る舞い続けるのか。それ以外にどのような理由があるのだろうか。彼らの予測や推測はいつも決まって脅し口調で発せられ、このままではどうにかなってしまう、とういう危機意識を煽り立てながらも、そこには、その危険が現実ものとなってほしいという願望が滲み出ている。結局彼らは、そのどうにかなってしまった状況を報道したいわけだし、実際に嬉々として事件現場に群がってくる。画面上や紙面上で日夜繰り広げられている見せ物の実体とは、そのような思惑によって演出されているのかも知れない。つまりそれは、世界に向かって何らかの意志をアピールしたいがために、より人目を惹くように派手な事件を起こす側と、その事件に寄り添って、状況をよりセンセーショナルに報道する側の両者が、互いに利益を共有している、ということになるのだろうか。件の事件について、世界が変わったとか、新しい戦争だとか、彼らは大げさに騒ぎ立てているが、結局やっていることはといえば、どこぞの大統領の派手な政治パフォーマンスと同じように、チンドン屋的見せびらかし以上のことではないような気がしてくる。もっとも、自爆テロとかいうやり方も、そこからそう遠く離れてはいないだろう。どうも自分は、それらすべてをひっくるめた過剰アピールの集合体とでも表現されるものを、真に受けられない。そこには何か冗談のような世界が形成されているように感じられる。


9月24日

 人々は競技スポーツに何を求めているのだろう。目標に向かってただひたすら努力する姿勢と、躍動する肉体に美しさを見いだそうとするロマン主義、あるいはその時々にやってくる勝敗を左右する偶然の巡り合わせや、戦術や戦略に基づいて様々なタイミングを見計らって繰り出される技の妙に感心したり感動したりするわけか。それは勝利という獲物を求めて活動する狩猟ゲームの一種なのかも知れない。それをやっている人間は動物とどれほどの違いがあるのだろう。その行動様式はアフリカのサバンナ辺りで狩りをしているライオンなどとそれほど変わらない。では、そのとき人間はどこにいるのか。いったい人間性というものを有した存在は、どこで何をやっているのか。おそらく人間と呼ばれる生き物は、それらの様子を見物している者のことを指すのかも知れない。それはテロや戦争にもあてはまるだろう。人間はそれらによってもたらされた悲劇や惨劇の現場を見物するのが好きなのだ。そして、すでに起こってしまった事件について、ああだこうだと机上の空論や憶測を交えながら意見を戦わせる。口先や言葉の上で繰り広げられる疑似シミュレーションを用いて、さらに娯楽的な要素を加味した見せ物に仕立て上げる。だが、その程度ではまだ物足りない。自ら自らが住んでいる世界を破壊するという不条理を表現するには、ただの娯楽的な見せ物では到底満足できないだろう。ただしかし、見せ物で満足するようでは虚しいだけだ。


9月23日

 まあ、よく考えてみればおかしなことだ。テロに立ち向かうも何も、事件を起こしたテロリストはすでに自爆してこの世にいないのに、未だに報復するのしないのと大騒ぎしているわけだ。証拠も定かでないままに、強引に報復の仮想目標を定めて軍隊をその周辺地域へ送り込んでしまったのだから、もう後には引けないのはわかるが、テレビをつければ毎日その話題ばかりでうんざりしているこちらからすれば、ほとんどもはやどうでもいいことになりかけている。仕返しすれば気が済むのなら、早いとこミサイルでも撃ち込んで、場合によっては地上部隊も動員して、何の罪もないアフガニスタン人を多数殺傷すればいいだろう。とりあえず一万人も殺せば一応の釣り合いがとれるのではないだろうか。それ以上殺されたら、今度はアフガニスタンの方でも、余分に殺された分をまた自爆テロでもやって、釣り合いを取ればいいような気もする。アメリカの大統領は長期戦を覚悟しているらしいので、タリバンは次々にテロリストを送り込んで、彼の覚悟に応えてやる必要があるだろう。そういえば日本の総理大臣も国際テロとの対決を宣言したようだから、その要望に応えて日本にもテロリストを送り込む必要もでてきたようだ。今はテロとの対決志願者や志願国が世界中に満ちあふれているらしいから、これからはテロリストのみなさんもその対決の要望に応えるべく、商売繁盛の大忙し状態になるのだろうか。自分は自爆しながら他人を巻き添えにしようとするような人々とはつきあいたくないから、できることなら対決は勘弁願いたい。命が惜しいのでテロに屈してもいいだろう。そんな状況に直面したらどうすればいいのだろうか。その時になったらいやでも対処せざるを得なくなるのだろうが、日頃からそうならないように火に油を注ぐようなまねはやらないように心がけよう。


9月22日

 期待はすぐに忘れ去られるだろう。明日は灰色の風景で充たされる。未来とは遠い過去の出来事なのか。どこかで時間の進行が反転したらしい。今は夜に属している。眠気には勝てそうにない。睡魔の誘いには素直に応じた方が良さそうだ。外部では明日になろうとしているのに、昨日から何も進展が見られないのはどうしたことか。解消できないわだかまりは未だにここで滞留している。傾斜がないのでどこへも転がって行けないらしい。ここは窪地なのか。ここから動き出すきっかけがどこにも見あたらずに、ただ構えの姿勢のままで硬直しているようだ。動作の軌跡を思い描けないのかも知れない。別に感傷に浸っているわけでもないし、感情の赴くままに右往左往しているのでもない。何かをどこかに置き忘れてきてしまったらしいが、その何かがわからないのはもちろんのこと、置き忘れてきたのが感情そのものであったなら、さぞかし楽に生きて行けるだろう。だが楽に生きて行けるか行けないか、そんなことがわかるはずもない。緊張が持続しないのは当たり前なのであり、何かに集中できるのはいつもほんの一瞬の間だけだ。感情的になれるのも感傷に浸っていられるのも、わずかな時間でしかないだろう。どうもつまらぬことに流されすぎたような気がする。基本的なスタンスは、他人がどうなろうと知ったことではない。現状は自分にはどうすることもできないことばかりらしい。自分の考えや行動をどう合理化しようと、そこに明らかな矛盾や整合性の欠如が生まれてしまうのは致し方ないことだ。述べていることとやっていることが違ってくるのは当然だ。テロと戦っている間は、国家はテロを必要としている。テロと勇敢に戦う姿勢を貫くことで国民の支持を取り付けようとしているだけだ。たぶんそれは見せびらかし以外の何ものでもないのだろう。いつの間にか、テロが世界の根源悪に仕立て上げられていて、なぜテロが発生してしまったのか、テロ以前に存在したテロを誘発させた国家の愚策は不問にしたまま、あたかもただなんの理由もなく、ある日突然無差別テロが発生したかのように、その事件によって発生した惨状がこれでもかと報道され、人々の考える機会を奪い去る。だが、まあそれはそれで仕方のないことかも知れない。それを真に受ける浅はかな人々は、いつの時代でも世界の多数派を形成しているのだろう。自分たちの欲望の象徴であるアメリカを否定することはできない。貧しい人々がいつも夢見ているのは、やはりアメリカ人のような生活なのだろう。この世界を支配している資本主義を受け入れる限り、夢や目標は必ずアメリカに行き着くしかない。誰もがアメリカ発の安易な大衆娯楽に心を奪われている。その手のテレビや映画を見ることによって洗脳されている。その豊かさへの嫉妬を糧とした反発だけでは、到底欲望に駆られた人々の支持を得ることはできないだろう。もちろんそれ以外のいかなる方法を用いようと、彼らの支持を獲得することは現時点では不可能と思われる。ようするに彼らはアメリカによって生み出された人々なのだから、アメリカそのものが衰退でもしない限り、いつまでも世界の多数派を占め続けるだろう。自分はそんな人々を変えようとは思わないし、変える力などありはしないのは当然なのだが、ではこの場で何をやりたいのか。さあ、現実に何をやりたいのだろう。もしかしたらやりたいことは何もないのかも知れない。この場ではただこんな言葉が示されるだけだ。いつの間にか翌朝になっていた。


9月21日

 ようやく涼しくなってきた。もう暑くはならないだろうが、寒気すら感じる。アメリカの大統領なら何を言ってもまかり通るらしい。根拠は何も示さずに、一方的に他国を脅迫しても許される。もう誰も彼と彼の同調者を諫めようとは思わないだろう。もう行けるところまで突っ走ってもらうしかない。なぜか自分はアドルフ・ヒトラーの末路を思い出すのだが、はたしてこの状況は当時とどれだけかけ離れているだろうか。ヒトラーは全世界を敵に回して戦ったが、ブッシュは全世界を味方に引き入れて戦おうとしている。その立場はまったくの正反対であり、たぶん、大幅にかけ離れているだろう。だがしかし、戦争に突き進む旗印として、今回ほど星条旗と鉤十字の役割が接近したことはかつてなかっただろう。旗の下での国民の一致団結は、同じような雰囲気を醸し出す。敵と見なした者たちに圧倒的な軍事力を持って苛烈な攻撃を加え、それらを根こそぎ排除しようとするやり方は、まさに絶滅計画そのものなのである。そして、暴力に訴える手段は国家が独占し、それ以外のいかなる者も国家に対して暴力を用いれば、それは非合法なテロと見なされ、徹底的な非難を浴びせられる。ようするに、国家による一方的な軍事的暴力に対抗することは、それ以外のいかなる組織や個人にも認められていないということだ。例えば、アメリカの報復は全世界の支持を取り付けられるが、パレスチナの人々による報復は常にテロとして否定され、アメリカの支援を受けたイスラエルによるミサイル攻撃などによって、自分たちがやったことの何十倍もの被害を逆に被ってしまう。世界は今、国家による寡占的な支配にさらされていることになるだろう。暴力を用いて国家に対抗すれば、テロ行為として断罪され、排除されてしまうほかない。たぶん暴力以外で国家に対抗する方法を模索すべきなのかも知れないが、そもそもなぜ国家に対抗しなくてはいけないのだろう。社会に様々な歪みや不自由を生み出し続ける資本主義を前提とする現在の民主主義が、そこから必然的に生み出される独裁主義をも含めた民主主義が、許せないということなのか。現時点では、国家を前提とした世界が変わる兆候は微塵も感じられないが、今、現在進行形で起こりつつあるこの事件が、これまで続いてきた国家主導の権力構造に決定的な転機をもたらすことがあり得るのか、あと何年かしたらそれがわかるかも知れないが、その結果に、若干の期待を寄せている。


9月20日

 なぜこうなってしまうのだろう。疑問は別の方向から明らかになりつつある。誰もが知っている言葉に奇妙な意味が宿る。ここで見失われているものは、この世界には存在しないだろう。未だに出現していないのかも知れない。今後いったい何が現れるというのか。新たなる原理でも示されるのだろうか。行動の指針でも明らかにされるのだろうか。別に気が狂っているわけではない。正気でものを述べているのだろうが、依然として都合の悪いことには触れないようだ。なぜああなってしまったのか、それについては一言も述べない。確かに正義は必ず勝つだろう。その必ず勝つ正義とはどの正義なのか、結果的に勝った方の正義が必ず勝つ正義なのかも知れない。つまり正義には内容が何もない。正義を唱える者は空疎そのものだ。空元気と空威張りだけで士気を鼓舞しているに過ぎない。もしかしたらそれは、破滅寸前に発せられる断末魔の叫びなのかも知れない。最後の頼みの綱は、星条旗の下に集う国民の団結なのか。


9月19日

 次々に連鎖して起こる出来事は、さながら浜辺に打ち寄せる波のようなものだろうか。因果応報とはどういうことなのか。誰もが忘れた頃に、偶然の煌めきが襲来する。不意に報復の機会が巡ってくる。人々は実証主義の支配からどのようにして逃れられるのだろう。足許に忍び寄っているのは破滅の影だけはない。そこにひれ伏している者は、別に心から忠誠を誓っているわけではない。陰で不平不満を口にしながらも、逆らう勇気がないので渋々従う振りをしているだけだ。案外結束は思いの外もろいのかも知れない。さらなる不幸が望まれる雰囲気になりつつあるようだが、状況の推移はある時期を境に急激に好転するかも知れない。争いに敗れ去るのは、現代文明を最大限に利用している側になるだろう。


9月18日

 深紅の薔薇は刺に縁取られている。忘れられた愛は今どこにあるのだろう。今は粗雑な意見しか述べられないようだ。常に迂回を経ながらも、さらに分散した言葉がちりばめられるだけだろう。それでも意味が通じればもうけものだが、無理に通じさせようと努力するつもりはない。通じなくてもかまわない。すべては未来が決めることだからだ。決まらなければ、それは曖昧なまま忘れ去られるだけだ。それでもかまわないのだろうか。さあわからない。未来のことはわからない。誰が予言者の役割を担うのか。最悪の事態こそが可能性を宿している。行方を指し示しているのは風向きに逆らう者だ。その言葉と行動が未来を決めるだろう。形骸化した国家ではなく、個人の意志によって未来を切り開くべきだ。国家による後ろ盾などに期待してはならない。


9月17日

 真に卑劣な行為とは何だろう。どうも、いつの間にか自分はテロリストの味方になってしまっているらしい。いったい何が気に入らないのか。被災現場の実況生中継なのか。そして、事件に触発されて偉そうに世界文明について語る老人の言動なのか。大げさことはわからないが、文明が衝突しているはずがない。別にイスラム教徒がどうしたわけでもないだろう。確かに生活様式の違いはあるだろうが、人それぞれだろう。現状はただ、アメリカと呼ばれる国家機構がイスラム原理組織の一部と戦争を行おうとしてるだけだ。メディアには期待していない。せいぜいこの現実を貧相な言葉で飾り立ててほしい。借り物の言葉に魂が宿るはずがない。アメリカに同調する者には幸せな未来が待っていることだろう。まやかしの言動と行動が人々を幸福に誘うのだろう。それは一種の魔術なのだ。世界各国はアメリカに同調するしか方法はない。国家そのものの存在価値を維持するためには、テロへの対決姿勢を明確に打ち出すしかないだろう。たぶんテロは、文明云々などではなく、国家に対する異議申し立ての形態なのだ。なぜ彼らは大罪人の汚名をかぶることをいとわずに、あえてテロに訴えなければならなかったのか。自分にはその辺が理解できないが、それ相応の覚悟を持ってあのような行動にでたことはわかる。結果がいかにひどい状況を招こうとも、彼らの行動を単に非難する気にはなれない。真に卑劣な行為などこの世には存在しない。そこにはテロをやるだけの理由がある。その理由が無効になるように努力しなければならないだろう。


9月16日

 必死のアジテーションは虚しく今を通り過ぎるばかりだ。口を開けば大言壮語のオンパレードになるだろう。冷めた気持ちは今も変わらない。季節は過ぎ去り、今日も熱い思いとは縁のない日常に埋もれ続ける。それでもなぜか不安を感じない。今が終わりの時であり、そして始まりの時でもある。何もないのに今がある。ただそれだけのことでしかないのに、やはり今がある。必死の思いで導き出した言葉はいつものように虚しく空を切り、瞬く間に灰色の過去に吸い込まれるだろう。無から有を生じさせているつもりが、実際はありもしない痕跡を偽りの言葉で刻んでいるだけだ。言葉の対象に実体が伴わない。実体の伴わない対象は幻影でしかあり得ない。ただ幻影に向かって無駄な言葉を費やすしかやりようがないらしい。だが、幻影とは何なのか。幻影とは今この瞬間に感じているこの世界のことかも知れない。事件の背後に黒幕がいたりすれば納得するのか。そこで導き出される結論はそればかりだ。何か背後で操る者がいないと困るのだろう。指令を発した者が存在しないと何もできないし、攻撃目標がないと攻撃すらできないのだろう。しかしそれでも攻撃したいから、少々辻褄が合わなくとも強引に攻撃目標を設定しつつある。それでうっぷんを晴らせるなら勝手にやればいいだろう。長期戦を想定しているらしいから、戦争需要で景気回復でも狙っているのかも知れない。どこからどうやって戦争経費を捻出してくるのかは知らないが、そのしわよせは攻撃対象にでも負わせれば、自国の経済が立ち直ったりするのだろうか。結果がどのようなものになるにせよ、事件を利用して何かを仕掛けてきていることは確かなようだ。数学には虚数の概念があるが、虚数と虚数を掛け合わせれば、マイナスの実数になる。幻影と幻影を掛け合わせれば、実体を伴ったマイナスの対象でも現れるのだろうか。そのマイナスの実体が、攻撃対象となるべき悪の指導者とでも解釈すれば辻褄を合わせられるのか。原理主義の幻影とテロリズムの幻影が掛け合わされて、西洋の資本主義にマイナスの影響を及ぼすらしい。しかしそれは幻影ではなく、現実に起きた事件である。実際に大きな傷痕を残したはずだ。だがその一方で、自分にとってそれはテレビ画面上に映し出された幻影でしかない。朝から晩まで、場合によっては深夜でも、テレビや新聞で騒いでいるから本当らしく感じられるに過ぎない。それは幻影を伴った現実なのだろう。こうして、テロに対する恐怖心や憤りの感情を強要されている。自分はそれを率直には受け入れられないのだろう。まったく本気にはなれないし、その受信したすべて情報を、単なる絵空事にしか感じていないのかも知れない。ようするにこの手の現実は絵空事にしかならないのだ。とりあえず今日も明日も、それらとは無関係なことで神経を磨り減らすことになるらしい。結局はこんな事件も、言葉で戯れるための材料でしかないということなのか。どうせテレビや新聞で情勢分析を繰り返している専門家のみなさんも似たようなことをやっているのだろうし、どこぞの山荘で報復攻撃の準備を着々と進めているつもりの大統領ご一行様も、戦争ごっこの準備でうきうきしていることだろう。せいぜいアメリカ軍のみなさんもアフガニスタンまでの遠足を楽しんでほしい。アメリカ軍のみなさん、お弁当を忘れずにね。


9月15日

 被災地で、まるでプロレスラーのマイク・パフォーマンスのごとき演説をする大統領を、画面が映し出す。謙虚さの微塵もない傲岸そのものの調子で威張り散らす彼に、周りにいる民衆がUSAを連呼しながらはやし立てる。馬鹿な人々だ、こういう人々がテロの標的になるのは当然のことのような気がする。これでもかと瓦礫の山をひたすらクローズアップして、状況の悲惨さを演出することに腐心している映像に感情移入できない自分には、まったく滑稽としか感じられない。やられたことに対する報復を実行するためのすべての手続きが、演出過多な三文オペラとしか映らない。国家と呼ばれる機構のすべての動作が馬鹿げているのだ。大山鳴動してネズミ一匹というたとえがあるが、かつてパナマのノリエガ将軍一人を捕らえるために、何の罪もない一般市民を多数殺した前科があるだけに、今回もそれと似たような愚挙が繰り返される可能性がある。ミサイル防衛構想の大風呂敷を広げている最中に起きた失態を隠すために、懸命に虚勢を張っているようだが、いつまでその空威張りを続けていられるだろうか。たぶん、すべてが一段落ついたあとが見物だろう。大国の没落はこうして始まるのだろうか。今回の騒動には、二十世紀を覆い尽くしてきたまがい物の文明が、世界から消え去る可能性が秘められている。確かにその可能性が秘められてはいるが、それがこの先現実のものとなるかどうかは今の時点ではわからない。


9月14日

 音楽には言葉の連なり以上の奥行きがある。たぶん行間はどこまでも空白になるだろう。そこに構成されようとしているものは、まがい物の複製だけなのか。それだけでは間が持たないだろう。だが、さらに異質な構成を導入することはできない。これ以上の軌跡を辿ることは難しいだろう。今ここにあるのはこれだけだ。ここにはこれだけしかあり得ない。そんな行き詰まりは日常茶飯事なのか。壊れているのは韻律の秩序だけではない。他に何が壊れているかは知らないが、確かに何かが壊れているらしい。今は壊れていなくても、壊そうとしている者は大勢いる。いくらでも気が済むまで壊したらいいだろう。この行き詰まりを打開するためにはやむを得ないのかも知れない。聞く耳を持たぬ人々が権力を振るう立場にいるのはいつものことだ。それが国家機構の特長なのであり、民衆が惨劇の巻き込まれる原因なのかも知れない。すべては過去の出来事だ。今もないし、未来もないだろう。


9月13日

 暗がりに埋もれた空間が蛍光灯の光によって眩しく照らし出される。明け方に夢を見たが、今はもう思い出せない。それは単なる記憶違いだったかも知れない。夢はまたいつか見る。死人の姿は色あせた写真の表面に凝固したままだ。どこまでも続いているのはいつまでも引き下がらない執念なのか。ついさっき引き返してきた道には、もと来た道の香りがする。同じようなフレーズがただ闇雲に繰り返されているだけなのか。単調なリズムの繰り返しの中にどこかで聴いたような旋律が挿入され、それを少女達が懸命に踊りながら歌っている。モンキー・ビジネスとはこういうことを言うのだろう。馬鹿なことだが金になるらしい。つかの間の息抜きだけを求めて多くの人が群がっている。しかし、彼らは他に何を求めたらいいのかわからない。たぶん誰にもわからないだろう。自分にもわからない。その氾濫するまがい物がこの世の中を支配しているとしても、充たされぬ思いは抵抗し続けるだろう。無駄な抵抗であり、無益なことだ。それらに勝つことは不可能だ。


9月12日

 報復が報復を呼び、神風の怨霊が世界を徘徊している。たぶんこの惨事はミサイル防衛構想以前の問題なのだろう。複数の価値体系が互いに対立し合う現状には寛容さが欠如している。不寛容は対立する価値体系の存在を許さない。同じ体系以内に生きている人々に向かっては決して行わないようなことも、それがいくら卑劣な行為であろうとやりざるを得ない。もちろん卑劣な行為などとはまったく思っていないだろう。攻撃を加えた側からすれば、それは命をかけた聖戦のまっただ中で遂行した英雄的な行為なのだ。善と悪の聖戦は悪と見なされた側からしても、善と悪の価値観をそっくり反転させた、やはりそれは善と悪の聖戦なのだろう。互いに自分の側に正義があると確信している。もし多大な被害を受けた側に正義があるとするなら、報復攻撃などは行わないことだ。それでテロを撲滅できるとは思えない。テロの発生源となっている地域や民族に属している人々にこそ、率先して援助の手を差し伸べるべきなのだろう。すでにそれらの地域では今回の事件に匹敵するだけの未曾有の惨劇が起きている。感情的に逆上して、卑劣だ何だといくら非難の声をあげようとテロはなくならない。もはやテロに走るしか選択肢がないような状況に追い込まれている人々を今こそ救わなくてはならない。とりあえず事件の処理は、その国の法律と、場合によっては国際法廷などを利用して、惨劇を指揮したと見なされる責任者を裁きの場に連れてくるのがまっとうなやり方なのかも知れない。どこの誰にどんな正義があろうと、正義は自己正当化に利用されるしかないだろう。正義を主張する者とその同調者以外に正義の正当性はない。


9月11日

 昨日のことは忘れてしまった。さらに一昨日のことも思い出せない。あたりには、朝から晩までただ虫の鳴き声が響いている。明日の事件はすでに起きてしまっている。だから今日は何もないのかも知れない。晴れて暑かったのも明日のことであり、時間的には昨日の出来事に属する。わけのわからない時間経過と日付のずれを意識しながらも、さらに、その狭間で耳障りなエアコンの音を聞きながら外の風景を眺める。いつの間にか台風も天気図からも話題からも消えている。別の台風は未だに迷走しているようだが、こちらまではその影響は届かない。すでに秋なのだろう。極端な出来事には遭遇していない。それはいつもテレビ画面の向こう側で起こっているに過ぎない。自分は怒りなどこみ上げてはこない。まったく感情的になれない。感情的になっているのはいつも画面の向こう側だったり、紙面の論調だったりする。


9月10日

 雨足が強い。おかしな表現だ。台風の接近で何もかも予定が狂ったが、なぜかそれで好都合だ。いつまで経っても通り過ぎないようだが、予想が完全に外れているわけでもないことになっているらしい。通り過ぎたら過ぎたらで、また蒸し暑くなるのだろうか。まったく九月の中旬になろうとするのに、南海からつかの間の夏が到来する。なぜそれで好都合といえるのだろう。半日経ったら好都合にも嫌気がさす。確かに半日前は好都合だったのだが、一夜明けたら不都合な側面も徐々に明らかになってきた。もう日付は明日になっているというのに、未だに昨日の平面上でつまらぬ事を述べている。こんな状態は不都合なのか。不都合なのに好都合だとでも強弁したい気になるが、そんな予定調和が虚しくなる。結局何をいいたいのかわからない。いつもの堂々巡りを繰り返しているらしい。いつまで経ってもそればかりだ。いつかは台風も過ぎ去ってしまうのだろうが、また新たにやってくる。その季節になると毎年のように到来するだろう。ようするにこの世界はそんなことの繰り返しでしかない。この世界を貫いている退屈なリズムに合わせて、これらも似たような循環の時を刻んでいるのか。さっきから雨は降ったり止んだりで時々風が強くなる。そんな空気の波に煽られた外界を眺めている。そこに何があるわけでもなく、外にでなければ、嵐のただ中でもいたって平穏なのだ。


9月9日

 どうもこの言葉は好きになれない。プライドとは何だろう。自尊心の欠片が思索の途中で結論を断念させる。意識はあちらこちらに彷徨いながらも、正気を保とうとする無駄な努力は惜しまないようだ。現実は正気の沙汰でない。到底正気にはなれない精神状態だ。どうして無意識はいつでも保身へと向かうのだろうか。身を保ってどうするのだろう。どうもしない。それが自己崩壊を避ける術といえるだろうか。よくわからないが、わからないことは考えなかったことにしたいらしい。その時何を導き出そうとしていたのか、今となってはそれを知る術は失われたが、過去に埋没している。忘れ去られた時間と空間は何を望んでいたのだろう。望んでいたのは自分ではないようだ。誰が望んでいたわけでもなく、誰も望んでいないことを、どこかの誰かが望んでいるのだろうか。プライドなどこの際どうでもいいことだ。それは強がりの領域に属する心情だが、ここで望まれているのはプライドの発動ではなさそうだ。彼は尊ぶような自己を持ち合わせていないだろう。では何を持ち合わせているのか。決して思い通りにならない不自由な時間と空間だ。時間的な順序からすると、過去と未来の間に今がある。だが今はその今が欠けている。過去も未来も曖昧なままで、ただ漠然と今を通り過ぎてしまう。意識はどこへも到達できないだろう。ここにある時間と空間はまったく容認し難い今を構成している。その今を今さらどうしようというのか。どうにもできないだろう。どうにもできない今がここにあるらしい。どうにかしたいという望みは叶わない。不可能を目指すことは目標ではない。ただひたすら不可能を目指さなければならない。どうにもできないことを目指さなければならない。それはどういうことなのか。そんなことは誰も望まないし、自分さえも望んでいない不可能を目指さなければならないのか。やはり、正気の沙汰ではないらしい。不可能など目指しようがないだろう。なぜ功利主義に背を向けて、虚空を見つめ続けているのか。それでは得るものが何もないのではないか。それは強がり痩せ我慢とは異質な行為なのだろうか。強がっているのでもないし我慢しているのでもなく、弱さにまかせて我慢できなくなり、現実から目を背けた結果が虚空を招き寄せているのかも知れない。だが現実を受け入れることはできない。不可能なのだ。目指さなくてもすでに不可能なのだろう。


9月8日

 光はどこまで届くのだろう。遠くに見えるのは過去の映像だ。見ているこちらまで光が届くのに時間がかかるからだ。距離が長くなるとその概念はあやふやになる。この宇宙の年齢が百五十億歳だとすると、もし、この先より高性能な望遠鏡が建造されて、百五十億光年彼方の宇宙が見えたとしたら、それは百五十億光年の距離を隔てた宇宙の姿ではなく、なぜか百五十億年前の宇宙の姿ということになってしまう。どういうわけか距離がいつの間にか時間と入れ替わってしまう。確か、ビッグバン理論が正しいとするなら、最初は宇宙は一点から生じたらしいので、誕生直後の宇宙に百五十億光年という距離を含んだ空間は存在しないはずである。これはどういうことなのだろう。素人の自分でもわかることは、少なくとも、今現在の時点での百五十億光年彼方の宇宙を見ることは不可能ということになるのだろうか。しかし、光は百五十億年かけてどうやってここまで届くのだろう。確かにこの空間を地球の表面のような閉じたものに見立てれば、光はその閉じた空間内を百五十億年間ぐるぐる回っていて、宇宙の誕生当初は百五十億光年の距離が存在しなくとも、時間の経過とともに徐々に空間が膨張してきて、今ではその距離が収まるほどの広がりになったということになるのだろうか。だがら今百五十億光年彼方を見ることができれば、それはこの宇宙空間を百五十億年間ぐるぐる回り続けてきた光を捉えることになるのか。では宇宙の誕生以前の姿を見ることはできるだろうか。やはり光自体がこの宇宙から生まれたものだから、光の誕生する以前の姿を見ることはできないかも知れない。月あたりに天文台が設置されるまで、はたして自分はこの世に存在していられるだろうか。


9月7日

 どういうわけか左足の関節が痛む。体を動かしたときの格好によっては激痛を伴う。投げやりな台詞には倦怠感がついてまわる。ここには雨の記憶しかない。闇の中で雨が降る。だが、それでも現実から目を背ける気にはなれない。やはり、今さらメディア批判などでお茶を濁してはいけない状況になっているようだ。今や高校生までがネット上でメディア批判をやっているらしい。若者はすぐにキレやすい、そんなイメージを流通させながら、一方ではそれをネタにして、それ風の若者を集めて討論番組を仕掛けてくる、そういうやり方には反吐がでるそうだ。ただその時代の気分で流行している、あやふやなイメージではなく、大人達は若者一人一人の中身を見てほしいそうだ。ごもっともな意見だろう。そういうわけで、数日前に、はったりだけで中身が空っぽの若者がクビになった。高校時代はひたすらアルバイトに明け暮れ、学業はまったくだが、体力には自信があるというふれこみだったのだが、結局彼がその豊富なバイト経験で覚えたことといえば、ごまかすこと、手を抜くこと、それがバレたら居直ること、それでもだめならごまをすること、当然それもだめだったのでクビになった。どうやら今までそんなやり方で世の中に通用してきたらしい。怖ろしいことだ。高校を卒業した時点ですでに粗大ゴミと化している。まったく、気がついたら凄まじい世の中になっているらしい。とりあえず、彼の代わりに職安経由で四十歳の人が雇われた。三十数社目でやっと職にありつけたらしい。だがこちらが従業員募集を申し込んだとき、職安の職員に、職安に来るような連中にロクな奴はいない、と言われたそうだ。三カ月間様子を見た上で正式採用するかどうか判断するらしいが、先が思いやられる。


9月6日

 もうだいぶ前からあきらめているのかも知れないが、やはりそこにあるのはいつもの空虚でしかないらしい。どこまでも不在の時空に充たされている。ありふれた光と闇のせめぎ合いには愛想を尽かして、意識はいつまでも暗闇に留まっているようだ。しかし夜もありふれている。世界の半分が夜に充たされている。別に夜は不在の時空などではなく、現実そのものだろう。現に今は夜と呼ばれる時間帯に属している。では、意識が滞留し続ける暗闇は夜とは無関係なのか。たぶん不在の時空はここには存在せず、これらの言葉が構成しているあり得ない場に存在するらしい。ここではないどこかではなく、永遠にどこにも示されることのないどこかなのかも知れない。さっきから似たような言葉が循環しているようだ。不在の時空では、このような現実で充たされているらしい。ようするにつまらぬ虚無を弄んでいるだけだ。確かに不在とは存在しないという意味なのだろう。存在しない時空についてあれやこれや言を労するのは不毛なことだろうか。そうかもしれないが、それしかやりようがないのかも知れない。たとえ不毛な営みであっても、何ら不都合を感じない。どうやら安易に批判の対象を捏造するのにも飽きが来ているらしい。しかしそれでも性懲りもなく批判が繰り返される。そこには何らかの否定的な感情が介在していることは間違いなさそうだが、それを是正して、ここを肯定的な言葉で満たす気にはまだなれそうもない。いったい何を肯定すれば気が済むのか。この不在の時空だろうか。これらの空虚をどうやって是認すればいいのか。何をどのように認めるべきなのか。是非ともその辺を知りたいところだが、誰も応えてくれないだろうことはわかりきっている。やはり予定調和なのだ。これらがモノローグの域を脱することはまずないだろう。対話しようのないことが連なり続けている。しかもそれでかまわないわけだ。つまり、これでいいのだ。なるほど、虚無の循環はこうやって肯定されるわけか。否定的な営みはこうして安易に肯定することができた。ならば、これ以上何を望むつもりなのか。肯定した後にどうする。もう一度否定してみるとするか?たぶんこれらは、肯定しようと否定しようと、どうにもならないものなのかも知れない。ただ、だらだら循環しながら続いてゆくだけなのだ。それでもいいのか?いいだろう。もう一度肯定してみよう。これでいいのだ。こうして安易な台詞で満たされる。


9月5日

 当然のことかも知れないが、あまり進展はなさそうだ。何も見いだせないのに、その先へ進んでみると、何に遭遇するのだろう。今その何かに遭遇しているはずだ。このごろは構成要素としての語彙が少なすぎるのかも知れない。今さら時事問題でもないだろう。相変わらず画面や紙面上には死者の名前が溢れかえっているが、どこの誰が殺されようと知ったことではない。日本人の死よりパレスチナ人の死の方が重く感じられたりするのだろうか。それは距離と政治情勢が意識に影響を及ぼしている結果だろう。人の死には悲しみが欠けている。死んで当然なのであり、悲しむべき事ではないような気がする。たぶん死ぬときの状況にもよるのだろう。非業の死がナイーヴな人々の涙を誘う。百歳を越えて亡くなった人に向かって、まだもうすこし生きていてほしかった、と言うとわざとらしく聞こえてしまうだろう。奇妙な死に方は探偵小説の誕生を許すことになるだろう。予定調和の謎解きゲームは暇つぶしに読む以上の効果を期待してはいけない。余暇とは時間を浪費するためにある。どこの誰にヘミングウェイの再来と呼ばれる資格があるのだろう。未来永劫彼はやって来ないだろう。今でもキーウェストには猫が群れているだろうか。感動とはまやかしの一種なのか。なぜ人々は感動するのだろう。不安を忘れさせるために感動が存在しているわけなのか。ならば、人生から感動を取り去ったらあとに何が残るのだろう。私は死ぬのが不安だ、死ぬ間際に発せられた最後の言葉としてはありふれているが、それはシリアスな場面には打ってつけの台詞になるだろう。だがフィクション以外では通用しない。ようするに、死を不特定多数の人々向かって提示するためにそのような台詞が発せられる。そこに死のリアリティは存在しない。そこあるのは安っぽい言葉の積み重なりだけだ。だが人々はそれを求めている。そういうわかりやすさがないと感動できないのだ。物書きに書くネタを提供するような死はうそっぱちもいいところだ。死に感動などは必要ない。特別な死には商売の臭いがする。なぜ葬儀屋が人の死を不必要に飾り立てるのかがわかるというものだ。


9月4日

 何もやっていないわけではないようなのだが、その一方で、特に何かやろうとしているわけでもなさそうだ。どうもわけがわからない。それはいつもの紋切型だ。努力とは違う種類の行為が必要らしいが、どうしたらいいのか皆目見当がつかないままだ。いったいそこで何をやっているのか。たぶん何かしらやっているのだろうが、そのわからないことが放置され、闇雲な思索の果てに何も見いだせなくなる。それは自業自得なのだろう。何もわからないが、その一方で、何もわかろうとしていない。だがそれもいつものことだ。いったい何が欠けているのだろう。すべてが欠けているわけでもないのだろうが、これは価値や目標に結びつかない営みなのかも知れない。しかし唐突になぜ価値や目標なのか。いったいこれから価値や目標をどう設定すればいいのだろう。どのような目標を掲げ、その目標を達成することにどのような価値を見いだせばいいのだろうか。だがこれは苦し紛れの疑問だ。いい加減な疑問を提示して逃げをうつつもりなのか。以前と同じようなことが繰り返されている。結果としての価値は不明だが、ただ継続させることが目的の一部となっているらしい。なぜ続けているのだろう。そんなことがわかるはずもない。いや、わかっているが、あえてわからない振りをしているだけかも知れない。中断や完結に至らないだけなのか。そうなることから逃げることはできないが、もうどこにも逃げ場はない、というのでもなさそうだ。背水の陣は昔流行った兵法の一種か。今はまだそんな状況ではないだろう。この期に及んで、まだ終わりから逃げたいわけなのか。いったいそこからどこへどうやって逃れたらいいのだろう。妙案は何も思い浮かばないので、とりあえず寝ることにしよう。明日になったら考えよう。それは嘘だろう。眠りから覚めればいつもの日常が待っている。たぶん明日になったら忘れていることだろう。つまり、この現実を忘れることがとりあえずの暫定的な解決策のようだ。やはりこれからもつまらぬ展開になりそうだ。無目標と無価値の創造は達成困難な課題なのか。だがそんな課題を自分に課した覚えはない。自分にはまだ何も課されていないような気がする。これからもそうありたいものだ。


9月3日

 秋が深まるにつれてだんだん夜が長くなる。まだそんな時期ではない。幻影とは何だろう。夢の中では宙を舞っていたが、現実の世界では地を這っている。意識に映し出された像は少しぼやけているようだ。いつまで経っても見いだされない像には見切りをつけて、ここはありふれた概念を用いることにしよう。鳥類と爬虫類は親戚同士だが、行動形態はかけ離れた存在なのか。いや、空を飛ぶ爬虫類が鳥なのかも知れない。鳥が夢を呼び込み、蜥蜴が現実を示しているらしい。意識が探り当てた場所と時間は何かを示している。過去ではないらしい。遠い日は未来に属するのだろう。どこかに隔離された妄想に浸りながらも、その場から離れようとして離れられないまま、さらに遠ざかりつつ近づいてくる空間に遭遇できないでいる。いったい何を述べたいのか。なぜそこに到達できないのだろう。理由などない。理由を導き出す気にならない。いつもながらの中途半端な行動なのかも知れない。まだ見いだされつつある途中であることは確かだが、無理に到達させようとは思わない。それは忘れた頃に向こうからやってくるのかも知れない。たぶん気がついたらその場所にいるのだろう。いや、もしかしたら気がつかずに通り過ぎてしまったかも知れない。その結果何も見いだせずに、ただ漠然とその場に立ちつくしているだけの可能性もあるだろう。何もやらずに他人の醜態を眺める。酒に溺れた人生は美しい。自分にはあり得ない話だ。皮膚が黄ばんで今にも死にそうだ。破滅する人々には憂いがある。すべてが中途で逃れ去る。今後も極端な依存症へ導かれはしないだろう。なぜかそこまでやる気力が生まれない。


9月2日

 どこまでものびてゆく不在の影におびえながらも、死の絶対性に対抗して何らかの生を提示する愚を避けられるだろうか。対抗しているのは生ではなく死そのものだ。死には別の死が対抗して、互いにどちらの死が絶対性の度合いが高いかを競い合う。それはほとんど意味のない馬鹿げた争いと化すだろう。相変わらず具体性が乏しい表現になっている。近づいているのは終わりであるのと同時に始まりでもある。今後生と死は極端に高い価値を持たないだろう。二者を対立させるようなやり方は好まれない。どちらの意味も曖昧なまま放置されている。物事の本質と呼ばれる概念は、単純化や省略を避けられない。本質は簡単に言い表すほど本質から遠ざかってゆき、また詳細さを追求するために多言を要せば、そこには、現実とはまったく別の、要された多数の言葉で囲まれた空洞が生じてしまう。現実を表現する手段として言葉を使えば、その現実は言葉で構成された別の現実と入れ替わる。また絵や音で表現しても、同様に、それぞれの表現手段に応じて新たに構成された別の現実と入れ替わってしまうだろう。何かをやれば、必ずそれに対応した新たな現実が作り出される。現実は再現されるのではなく、絶えず新たに生成されるものだ。だから生の再現も死の再現もあり得ない。なぜか生が生み出されるように死も生み出される。死と呼ばれる現実が、その意味に反して生じてしまう。この矛盾は解消できないだろう。この世界では、すべての出来事は新たに生み出される。消滅さえも生み出される。確かにそう言い表すことは可能だ。それは単に言語表現の限界を浮き彫りにしているにすぎないのだろうか。死に生が付加されて、死が生じるとなるわけだ。それをそっくり裏返して、生が死ぬと述べることも可能だ。一見対立し合っているように感じられる生と死を融合することなど、言葉の上では造作もなく簡単にできる。この程度の戯れで何か気の利いたことを述べたことになるだろうか。その辺がよくわからない。ここには本気になるかならないかを決める確固とした基準が見あたらないので、何をどう述べてみても、確かな感触とは無縁のまま、ただ途方に暮れるしかない。幼稚な言葉遊びかも知れないという、ぬぐいきれない疑念や不安と絶えず隣り合わせだ。それらはまったくの的はずれなのか、それとも紙一重のところではずしているのか。それがわかったら苦労はしないだろう。そのあやふやな感覚自体が、現実を言葉で言い表すことによって生じていることは確かなのだろう。


9月1日

 夜の静寂に包まれた背景からは何も飛び出さない。炎は今どこにあるのか。南国へ行けば炎天下に立ちつくすことができるかも知れない。魂が存在すべき空間とは何か。夜を通して語られる物語はどのような空間を思い描いているのだろう。その空間はもはや見向きもされない。退屈に疲れて夜空を見上げているらしい。意識は別の場所に眠っている。そのありかを捜すのは面倒だ。すでに自分は自分からも見放されている。唐突に唐突さが欠けている。すべてがスローモーションで推移してゆくように映る。網膜の神経がいかれているらしい。そういえば昔、ボールが止まって見えると言った野球選手がいたとかいないとか。結末から始まるのはいつものパターンだ。精神の退化は徐々に身体を蝕んでゆく。理由とはどこで形成されるのだろう。何も述べないための理由がどこにあるというのだろう。結論は冒頭で述べられているはずだ。もはや何も飛び出さないだろう。飛び出さずに飛び出る。それは詰まらぬ言葉の戯れにすぎない。大したことは何も述べられていない。いつのもパターンは空虚が循環してゆく。存在する空間はどこかに存在しているだろう。何も言わぬための迂回路には、無駄な言い回しが積み重なる。それが至福の時を呼び込むわけだ。どこまでもいつまでも同じ事を言い続ける。なぜ炎は今ここに現れないのだろう。いつも遠方の火事としてしか出現しないのか。放火魔とは相容れない精神構造を持っているのかも知れない。ぐるぐる回りながら、何を考えるでもなく、ただひたすらねじ曲がる。それが何もない空間にのめり込むための秘訣なのか。綿菓子のようなねばねばした気持ち悪い甘さが口の中に広がっている。炎に包まれて焼け死ぬこともないだろう。テレビ画面が火を噴くとき、それは単なる受像器の故障だろう。誰かが楽しげにささやく。今日は仏滅だ。いつか大安吉日に葬儀が執り行われるだろう。断片だけでは意味がわかりにくい。それは何かの冗談なのか。鼓膜を通して入ってくる音とは別に、何か得体の知れぬ音を感じる。破れているのは鼓膜ではなく居間の障子だ。障子の穴からすきま風が吹き込んでいて、うなじに微かな空気の揺らぎを感じているのだろう。それは音ではなく、空気の圧力だ。不在の空間では、何も見えないし、何も聞こえない。そして何も感じないだろう。おおよそ至福の時は退屈に支配されているようだ。だが、それでも世界がここに存在している。この世界内でもがき苦しみ、ただひたすら精神の解放を求めているのはどこの誰なのか。安易な救いには飛びつかないが、背景からは何も飛び出さない。その代わりにアマガエルが大量発生しているようだ。水に飛び込むのは蛙ではなく、芭蕉自身なのだろう。俳諧は命がけでやらねば輝かないらしい。いまどきそのやり方はまったく流行らないだろう。過ぎ去っているのは時代ばかりではなく、炎のゆらめきだろうか。一陣の風は冬に吹く。ろうそくの炎を吹き消しているのは誕生日の恒例行事だ。それを毎年律儀に繰り返すのは、偏執狂かも知れない。ボールペンの先には黒いインクが付着している。それを気にとめる者などいるはずがない。どこかで日常からかけ離れてしまうのだ。そして、どこまでも継続させるつもりでわけのわからない営みを導入しているらしい。それが無駄な悪あがきでないとしたらいったいなんだろう。相変わらず何も繋がらないままだ。


8月31日

 つかの間の涼しさかも知れないが、今年は秋が早い予感がする。一年中これなら快適なのだが、現実はそうでないので、不快な季節ばかりに感じられる。馬鹿げた感覚だ。こうして愚かな体質をさらけ出す。十五夜はいつだろう。丸い月を眺めながら何を思う。秋の夜長は冬への準備なのか。嵐は静けさへの呼び水をもたらすのか。これまでに過ぎ去った月日は、これから来る時間よりまだ短いだろうか。希望をまだ捨てきれないわけか。とりとめのない思いはどこで途切れるのだろう。間延びした冷静さには嫌気がさす。だが探求への情熱は何も感じられない。このままではさらなる停滞が待ち受けていることだろう。今さら何を思うのか。腕時計の秒針は忙しなく回り続け、あと数分で明日になってしまう。今日と明日の境目に何か目印でもあるのだろうか。時にはどのような性質が備わっているのだろう。何らかの尺度であることは確かだが、日付が変わっても何も変わらないようだ。相変わらずこの世界の中にいる。今は夜の闇だけが安らぎをもたらす。虫の鳴き声が秋の徴だろうか。遠い風景はまだ思い出されないらしい。夏の終わりに何かを葬り去る。見計らっていたタイミングで極端な感情を発動させる。それが罠だったらしい。それは人の感情が消え去る場面だ。無意識のうちに、そうなるように挑発していたのだった。うまく事が運び、ひずみや歪みを取り除くことには一応の成果があったようだ。隠していた筋書きは、誰に悟られることもなく、うまい具合に攻撃目標のバランスを崩し、自滅の方向へ道を整えてしまったらしい。気がつかぬ間に最終章を歩んでいた。もはやどんでん返しの余地はないだろう。残された余白は別の人のためにとっておいてほしい。それがここでの希望かも知れない。


8月30日

 これから難があるとしたら避けられない。人々は不安から逃れたいがために娯楽に走る。不安を不安として受け止め、不安に耐えようとは思わないだろう。不安から解放されるための方法を絶えず探し求めている。有限の生しか持たぬ人間が宇宙の無限性に耐えることはできない。だからその代わりに他愛のない迷路で戯れている。たとえわざとらしく道に迷っても、出口があることが心の支えとなるだろう。それが娯楽の特質らしい。感動の許容範囲とはそんな水準なのかも知れない。限度を超えたものは理解不能として片づけられる。理解不能なものの存在は人々を不安に陥れる。闇はどこまでも闇だ。暗闇に希望はない。あるのは出口のない不安だけだ。なぜ世界は不安に覆われているのだろう。たぶん人々がそれに耐えてもらうためにそうなっているのかも知れない。安易にそこから逃げてもらっては困る。まだ不安が足りない。安手の娯楽に感動されては困る。それで済むような世界なら、これからも生きてゆく必要はない。よりいっそう自分たちの思慮の足りなさや軽薄さに苦しんでもらいたい。なぜそうなってしまうのか。この世界が無限だからだ。この世界に理解可能な理由などあり得ない。決して真の答えには到達できないだろう。だが、それは無理な願いだ。現実はどうだろう。つかの間に到来する気休めの安心ばかり追い求めていればしあわせになれる。不安から解放されたと実感できるだろう。それでいいのならそうすればいい。本当の幸福とはそういうものなのかも知れない。晴れたら幸運だと思い、雨が降ったら、農作物が育つために天の神が気を利かせたのだと思えばいい。雨に歌えばいつか晴れるだろう。ようは気持ちの持ちようだ。すべての出来事をポジティブに捉えれば事は足りるだろう。それがまやかしなのか。不安を排除すれば事が足りるのだろうか。気休めレベルならそれでいいだろう。気休めが生き方のすべてなら、そうやってしあわせになれるだろう。それでいいのならどうぞ実践してもらいたいものだ。お気楽人生を歩んでもらいたい。だが、こんな述べ方では反感を買うばかりだ。


8月29日

 空間はどこにあるのか。時間はいつ過ぎ去ったのだろう。いい加減なことを述べているうちに、いつの間にか場所を見失う。教育したりされたりする場はどこにもない。生きることが猶予されるわけがない。誰も教えることはできないし、それを学ぶことなど不可能だ。何をどうしようと時が経ち、場は見失われる。そこに留まることはできない。法が執行される時はもはや手遅れなのだ。すでに不寛容がまかり通っている。誰も救い出すことはできないし、助ける気もない。過去は放置され、荒れ地となる。歴史は忘れるための言い訳と化す。形骸化した物語で十分だろう。それ以外のすべてはなかったことにしておこう。虚無で覆われた時間と場所は過去から未来へと浸食されてゆくばかりだ。では、今思い出されるのは嘘ばかりなのか。同じことをやろうとするためには嘘が必要らしい。過去と同じやり方を通用させるには、嘘で塗り固めなければならない。そしてひずみはさらに深まり、亀裂は修復できないほど拡大するだろう。それでかまわないと言うのなら仕方がない。たなざらしの季節が去る気配はない。そのまま風雨にさらされていればいいだろう。結果を期待するような状況からはほど遠い。足りないものが多すぎる。あるのは粗雑な言い回しだけだ。しかし、この期に及んで、雨に打たれて誰が成長するのだろう。まだ幻影を追い求めている。


8月28日

 メディアの画面や紙面は何によって人々を惹きつけているのだろう。人々はそこで何を期待しているのだろうか。なぜそんなものの存在が必要とされているのだろう。そこで人々はどんな夢を見ているのだろう。またそれを馬鹿げた妄想として斬って捨てることが可能なのか。しかし、そんなものをわざわざ目の敵のように批判する必要があるのだろうか。例えば、プロやアマを問わず競技スポーツは、さながら現代の英雄叙事詩ように扱われている。スポットライトに照らされた英雄達の近況や動向が、憶測や推測も絡めながらおもしろおかしく語られ、それが興味を惹く共通の話題として人々に受け入れられているようだ。はたしてこの社会には英雄が必要なのだろうか。世間話の材料としては必要なのかも知れない。たぶん、自分は英雄的な行為を嫌悪しているらしい。ただ普通に生きてゆけばいい。他の誰よりも秀でようとか目立とうとかいうのは嫌いだ。それを目指すのはむなしいことだ。そんなことが目的化したならば、それは二十世紀の繰り返しになってしまうだろう。ところで二十世紀的な有名人には何が備わっていたのだろう。はったりとごまかしだけで中身が空っぽという共通点がそれらの人々にはあったかもしれない。それらの有名人とは、具体的に誰を指しているのか。ケネディ、マリリン・モンロー、アインシュタイン、ピカソ、ヒトラー、スターリン、毛沢東、ガンジー、エジソン。なぜこれらの人々がはったりとごまかしだけの人物といえるのか。中身が空っぽではないような気もしてくる。彼らがまだ無名だった頃は、確かにそうだったかも知れない。だが、いったん時の人となり、注目の的となってメディアに取り上げられるようになってからは、大したことはやっていないような気がする。有名人となった時点で彼らの生は終わってしまったのだろう。つまり彼らは偶像となって単なる人寄せの道具と成り果てたのだ。ようするにここで言うはったりとごまかしとは、過去の名声となるわけか。もしそうであるなら、それはスポーツヒーローにはあてはまらない。彼らに備わっているのは現在進行形の名声だろう。しかし体が衰えて競技を引退すれば、結局それも賞味期限切れの過去の名声に成り果てるだろう。ここでの名声とは、ろうそくの炎のようなものだろうか。通常は燃え尽きた時点で終わるはかない炎ということになるだろう。だが、何らかの事情で利益が見込まれる名声には、それをはやし立てようとするメディアの側でろうそくを継ぎ足してくれる。名声に踊らされるのは、やはりむなしいことだ。ではむなしいことはやめて普通に生きるとはどういうことなのか。どういうことでもないだろう。今現にこうやって生きているではないか。だが、こうやってとはどうやってなのか。普通にということだ。ただあるがままに生きている。それは自分の意志ではどうにもならないことかも知れない。しかしそれは名声を得た有名人にもあてはまることではないのか。ここにはあるがままの現実しかあり得ない。有名であったりなかったりすることにあまり差異はない。それは自分とは関係のないことだ。それをネタに商売している側の問題なのかも知れない。


8月27日

 しばらくの間、今まで見落とされていたことを改めて述べなければならない。怠惰に流されてばかりいると、いつの間にかワンパターンになる。同じような表現で和んでいるらしい。結局は最低のラインに落ち着くようだ。天空の静寂に比して下界の喧噪は距離の短さに由来する。すべてが近づいてひしめき合う物質同士が摩擦熱を発しているのだろう。それらは常に敵同士なのだろうか。関係し合う者たちが敵か味方かはこの際どうでもいいことだ。どちらであってもやっていることは大して変わらない。それは関係した結果においてその時点で相対的に判断されているにすぎない。どうもそのような結果はあまり重視されるべきではないような気がする。結果がすべてではない。それは一時的な評価以上のものではない。さらにそこから先のある時点では、今度は正反対の評価をせざるを得なくなる場合もあるだろう。では結果よりも何を重視すべきなのか。何か特定の判断を重視すべきではないということになるのか。相対的な判断材料は無限に存在したりするわけか。それでは何も決断を下せなくなってしまうだろう。いや、実際にはその時々で相対的な無数の決断がなされている。判断材料が無限にあると同時に、それらに対する評価も無限にあり、またそれらの材料に対する評価を吟味しながら、様々な側面で違う種類の決断が無限に下されているだろう。たぶん、結果こそがすべてだ、といえる状況もある時点では到来するだろう。だがそれはその時点特有の判断でしかない。それとは別の時点では、結果がすべてではない、となる場合もあり得る。ハウツー本やハウツー番組の内容を真に受けてしまう人々にはそれがわからない。状況が変化してそれらの内容が陳腐化したとき、しばしば裏切られたと感じると同時に、また別のハウツーを求めながら、その時点での支配的な流行に染まることになる。とりあえずこの程度ことは押さえておかないとまたしても軽薄なバブルに踊らされて、宴の後で当時の自分の狂態に赤面するはめとなる。いや、もしかしたら自分を省みる時すらやってこないで、泡沫として消え去るのみかも知れない。互いの距離の短さは寿命の短さに関係している可能性がある。激しく揺れ動く過渡現象には消滅の危険が潜んでいる。どうやら今は生き急ぐ時ではないようだ。怒りまかせに激しく沸騰するような状況ではない。そうならないように歩むことが求められているのかも知れない。


8月26日

 たぶん悲鳴とは違うだろう。雨が降るとゴムとガラスが擦れ合う。それはかなり耳障りな音だ。さらに雨足が激しくなると、フロントガラスに付着してワイパーの往復に抵抗している油膜が気になりだす。この汚れがなかなか落ちない。こうして些細なことに無駄な神経を磨り減らす。そんなことに気を取られていたら事故を起こしかねない。雨の降り始めに事故が起きたらしい。パトカーが二台と事故車が三台、道路脇に止まっているのを横目で見ながら現場を通り過ぎる。それがどうしたわけでもない。いつか自分も事故を起こしたりするのだろう。得られるものはそんな感慨だけなのか。だいぶ前から、意識や感情とは無関係にいつまでも雨が降り続いているような気になる。ところで、いつもの暗闇はどうしたのだろう。しかしそれは昨晩の思いだろう。もうすでに時間的には明日だ。だがそれがどうしたわけでもない、結局こうして気がつけば、いつもの暗闇に囲まれているわけだ。昨晩から明日の未明にかけて何をやっていたのだろう。なぜそこに今がないのか。どうして明日が過去のことのように語られてしまうのだろうか。たぶんそこには時間が省略されているのだろう。今はどうでもいい不在の時間に属しているらしい。


8月25日

 意欲を失ったまま先端から躓いているようだ。冒頭に邪魔な言葉が挿入され、やる気をなくす。画面上ではまたしても同じような事件に遭遇するだろう。昨日の出来事には何も感じない。現実とは何だろう。何もない一日だ。それは嘘だが、何もない。実際には様々な出来事に遭遇したはずだが、何もないと述べている。なぜ嘘をつくのだろう。嘘ではなく、興味を引く出来事には何も遭遇しなかったということか。とりあえず、何も感じないらしい。世界が自分から遠ざかりつつある。それでいいことはわかっているが、何かしら腐った人々に未練でもあるのだろうか。たぶん自分はすでに朽ち果てているのだろう。中身が何もない空洞状態だ。それでも疲れている。夏の終わりで疲労が蓄積しているらしい。生きてゆく気力もないが、死にたくもない。そんな状態がいつまで続くのだろうか。自分自身についてはどうでもいいのかも知れない。だが自分以外もどうでもいい。自分も含めて世の中のすべてが下らぬものに思えてくる。確かに自分の意識の中では、何もかもが投げやりになっているらしい。しかしそれが下らぬ感情なのだ。自分を蝕んでいるとらえどころのない疲労は、そんな感情から来ているのかも知れない。たぶん自分は甘すぎるのだろう。その感情を捨て去ることができないでいる。だから安易な厭世観に流される。その場の都合で、良心などに期待してはいけないのだ。ただ自分の弱さをさらけ出しているにすぎない。では、何をどうすればいいのだろう。どうしようもない、ようするに最善の方法などを模索してはいけないのだ。ただ、どうしようもなく日々を生きてゆくぐらいしかやりようがない、自分は他人に感動を強要したりはしない。そして何も教えられないだろう。学びたいなら他で学んでもらうしかない。これまでも、そしてこれからも、この世界では何も起こらないだろう。何が起ころうとそれはどうでもいいことなのだ。こうしているうちにも、絶えず意識はすべてから遠ざかりつつある。そして待ちかまえているのは睡魔なのだろう。眠いから寝られるとは限らないが、とりあえず寝たいらしい。その程度の欲求には素直にしたがった方が良さそうだ。


8月24日

 秋の空気が近づいている。雨は昨日のことだ。そして今日も逡巡がとまらないようだ。いつもの散策はどこで途切れるのか。ふと気がつくと、どこまでも続く空に向かってあやふやな視線を投げかけている。明瞭な意志が見つからぬまま、また今日も一日が終わってしまう。たぶんこの時点で明日も終わっているのかも知れない。すでに退屈な散策は途切れている。尽きかけた思索の種も、もはやガラクタばかりになってしまったようだ。放置された残滓の中にまともな材料は何も残っていない。それでいいのかも知れない。何をやるでもなしに続けられた散歩は、やがて奇怪な迷路の中に迷い込み、そこで立ち往生してしまい、どこへも進めなくなった。それがこれまでのあらすじだったはずだ。そんな話は聞いたことがない。いや、それはどこにでもありふれたストーリー展開だろう。だから退屈になったのだ。もっと別のやり方を模索していたはずだった。だがそんな話も聞いたことがない。別のやり方を模索することでは、この退屈な状況を打開できないだろう。理由など省略だ。理由もなしに断言される内容には納得できないか。納得はしないが、なぜかその先へ進んでみよう。見慣れた暗闇の中を歩き出すと、どういうわけかこれらの馬鹿げた歩みに呆れて、迷路までも退散してしまったらしい。もはや行く手に立ちはだかる障害物が見あたらない。これではまずいわけか。何か越えるべき壁とかがないと困るわけか。行く手を遮る大きな岩石とかがないと張り合いがないとか思うのだろうか。またそこで励ます人々とかが登場しないと、メロドラマは先へ進まないわけか。画面上の迷路は実に難儀なものだ。それらは迷路ではない。ちゃんと出口が最初から設定されているではないか。始まりがあれば終わりもある、それでは迷路とはいえない。それでは、いったい出口の先には何があるのだろうか。また次の始まりが待ち受けているだろう。同じようなストーリーが前もって用意されているわけだ。行く手を阻む困難に勇敢に立ち向かい、周りから励ましの言葉ではやし立てられながら、ついには栄光の瞬間を手中に収める。確かにそればかりだと退屈だ。他のやり方を模索しようとする人々の気持ちもわかるような気がする。だが、それが罠なのだろう。なぜ罠なのか、その理由はわからない。それではまったく説得力に欠ける。しかしそれでいいのだ。どうでもいいことについていくら深く考えてみても、まともな結論にたどり着くはずがない。たぶん考えてはいけないのだろう。そして別のやり方を模索するのもやめた方がいいだろう。ただ痴呆の表情を真似ながらそれらを眺めていればいい。そして、周りに合わせてわざとらしく感動すればいい。実際に感動するより手だてはない。この世は感動を強要する人々が支配する社会なのだ。こんな馬鹿げた社会に真正面から立ち向かってはいけない。真剣になって別の価値観を提示するような試みなどをやってはいけない。こらえきれずに声を発したら、向こうの思うつぼだ。たちまち退屈なストーリーに絡め取られて本質を抜き取られてしまうだろう。忍耐に忍耐を重ね、この貧窮の時代を堪え忍ぶこと以外にやることはなさそうだ。もちろん貧窮ではない時代が過去に存在したとか、そんなことを述べてはいけないのだ。むしろそれは来るべき未来に求めるべきなのだろう。絶望に打ちひしがれながらも、決して未来への可能性を捨ててはいけない。なるほど、こんなストーリー展開も可能なのか。しかし、どうも今ひとつ本気にはなれない。


8月23日

 どこからともなく水の香りが漂い始め、蒸し暑さに誘われてにわか雨が降ってくる。湿りが至るところから滲み出る。それは大気の汗なのか。もちろん本気で述べているわけではない。本気で述べると汗クサくなる。戯れの水準での言及以外にその場を切り抜けることはできないだろう。その場とはこの場のことらしい。だがこの場は不在の場所だ。どうでもいい場所を巡って、堂々巡りが繰り返されているのだろう。何を述べたいわけでもなく、実際に何も思い浮かばない。だからこそ空虚な戯れが必要なのだ。だが必要は必要とされていない。不必要なことを実行しているらしい。ではなぜ不必要なことを実行することが必要なのか。それを簡単に述べるならば、たまには息抜きや気晴らしが必要だということを言いたいわけか。わからない、簡単に述べるとそうでないような気がしてくる。それらの行為を世間に流通している紋切り型の表現で述べると、なにかがそこから抜け落ちてしまうのだろう。たぶんその余分な何かが不必要な迂回なのであり、だがその迂回を経ないと何も述べられなくなるのかも知れない。そうした矛盾は矛盾として受け止めるしかないが、それをわかりやすい表現で洗い流してしまうと、あとには何も残らない。ただのありふれたつまらない言説が、無味乾燥した近況報告という形で機械的に出力される。たぶん必要とされているのはそんなわかりやすい紋切り型の情報ばかりかも知れないが、やはりそれではやっていてつまらないので、こうして不必要なことを述べているのだろう。誰のためでもなく自分のためでもないことを述べているようだ。彼はどうでもいいことをどうでもいいように感じていたい。


8月22日

 了承していた事態が一変したとき、休息が無限遠の彼方へ遠ざかる。そもそも順序が逆だ。期待はずれの時はすでに過ぎ去り、憩いの時もあっけなく消え去り、すでに体験済みの昼夜が反転しながらねじまがり、昼でも夜でもない時空が不意に出現する。そこで何を思うのか。あり得ない歴史でも捏造してみれば気が済むのだろうか。失望と幻滅から、そうであったかも知れない可能性との戯れが生まれるのだ。虚構が始動するにはそんなきっかけが必要なのだろう。心外な結果に対する否認から、もはやあり得ない失われた理想像を思い描くとき、記憶を過去へと遡らせながら、ある時点での出来事の順序を逆さまに羅列したくなる。その人物が生まれる前の事件までも、その人物に関わらせなければ辻褄が合わなくなる。聖人には未来を見通す力が備わっているの同時に、生まれる以前からすでに人々の心を統御していたのだ。だからその誕生を祝福する手筈が整っていた。それはおかしな言葉づかいなのだろうか。救世主の型枠にはめ込まれた人物は、その死後に人々の願望を一身に詰め込まれて到来し、神の彫像として教会の祭壇に登場することになる。人々はそこで彫像に向かって祈ることによって、人としての心を獲得するだろう。そんな社会システムが幻想の彼方に存在していたのだ。その遠い過去の記憶は、しばしば魂の救済への出口となって、魂そのものをそれに合わせて作り上げてきたのだ。過去にも未来にも人は人為的に作られるらしい。忘却されるべき忌まわしい過去とはそういうものなのか。だが今さら忘れようがない。そもそも人為的に作らなければ人はこの世に生まれない。例えば、自然児と呼ばれる概念は、懐かしき田園の風景の中に配置されるべき人として、その手の漫画やアニメの中に登場する架空の人間である。そしてそれを真に受けた人々が、現実の子供達を「自然児」という型枠にはめ込もうとして四苦八苦することとなる。それがある意味での教育の現状なのかも知れない。では、それに対する反語的表現とはどのようなものになるだろうか。あまり気が進まない。それらとは関わりあいになりたくない。その一方で、すべてはすべてではないが、それでもすべてを把握したいらしい。そんな願望を成就させることは不可能だ。何か特定の役割を演じることを目指す努力は、自らの破滅を早めることに繋がる。往々にしてそんな結果を招くこともあるだろう。すでに皮肉な表現になってしまっているらしい。


8月21日

 流行が消滅しつつある。もはや誰も時流に乗って踊り出しはしないか。狂うのは簡単なことだ。代わりに口笛を吹きながら走り出す。誰が見ても景色は同じになる。台風に伴った雨と風らしい。空からこぼれ落ちてくる大量の雨粒が路面のゴミを洗い流す。それでもすべてを洗い流すには至らない。さらに強風に煽られてゴミが散乱する。濁った水は海にまで届くのか。一過性の気象現象にはまったく期待できない。台風が去った後にいつもの日常を見つけるだけだ。大げさな気象情報でその気になると肩すかしを食らう。名のある人物は誰も現れないが、その代わりに匿名のざわめきが辺りに漂い始める。他にやることが見あたらないから人々が群れている。これでは時間と空間の狭間に人物を配置してもうまくいくはずがない。今までうまくいくと信じていた人々は何を夢見ているのだろうか。今そこで何をやろうとしているのか。風雨が屋根にたたきつけられて騒がしい。台風にできることと言えば安眠妨害程度のことでしかないのか。自然災害で死傷した方々には申し訳ないが、何がどうしたわけでもない。それはこれから先も同じようなことなのか。


8月20日

 部屋の中が久しぶりに涼しい。外は無風状態なのか。気配が読めなくなってきた。句読点が少しずれている。たぶんどこかに意識を置き忘れてきたのかも知れない。昨日の夜は今日の夜であり、明日の朝になるだろう。早朝に鳥のさえずりが聞こえてくる。それは何が起こる兆しなのだろう。日がまた昇り、また沈む。そしてまた夜明けが繰り返される。どこで区切れば気が済むのだろう。しばらく前から空白の時を刻んでいる。いつものように暗闇が到来しているらしい。状況描写とはどのような状況で使うべきなのだろうか。小石を拾い上げたらバスに乗り遅れた。


8月19日

 湿り気を感じる。物置の隅に置いてある段ボール箱にカビが生える。空っぽの箱には空気が入っている。埃っぽい部屋の空気にはダニの死骸が飛散しているかも知れない。これでガレージの床に血の流れた跡でもがあれば、犯罪の臭いがしてくるかも知れない。即席の作り話ではそんな展開になるしかない。その場限りのいい加減な思いつきはくだらない。メモ帳の最終ページには投げやりな道行きが示されているらしい。あやふやな知識はゴミに惹かれて立ち往生している。高速道路は車に轢かれている。それは一般道も同じことだ。道は多くの人々に踏みつけられ、車道はひっきりなしに車に轢かれ続けている。どこの誰が轢かれようと、それは退屈な付け足しにしかならない。


8月18日

 干上がった水田の土にひび割れが刻まれる。ある日そこに、防鳥ネットがすっぽりかぶせられ、その土地が自然環境とは異質な空間であることが明らかになる。後は収穫の時期を待つばかりだ。世界のために種をまく。それは何を期待した行為だったのだろうか。世界に事件の種がまかれる。事前の思惑や期待とは無関係に植物は周りの環境に応じて生長する。リアルなスタイルは今ここに現前している。これがすべてなのであり、これ以外は空想の領域へと押しやられている。この現実を受け入れざるを得ない。直面しているのはこんな現実なのだ。ひからびたダム底に泥が溜まり、否応なく未来の地層を形成するだろう。事態は思った方向には展開しないものだ。期待が実を結ぶ可能性は、やがてその大部分が見失われしまうことになる。だからその前に、打つべき手はすべて打ちたくなる。浅はかなやり方だ。末期的な悪あがきにはきりがない。そこには優先順位をつける意志が欠けているのかも知れない。できることとできないことをより分けて、無駄なことを切り捨てる決断が求められているのだろう。だがその求められている行為はあり得ない。実際にはそんなものは存在しない。何かやってしまった後から、その時点までさかのぼって、何らかの決断が伴われていたことがわかる。決断は意志を追い越す形ですでに下されてしまっているのだ。ただの闇雲な手探り状態で、わけのわからない衝動から事件が起こり、その結果からそれが浅はかなやり方であったり、無駄な悪あがきだったと後からわかる仕掛けになっている。すべての破局は先回りして人々を待ちかまえている。運命の賽はすでに投じられていて、今さらそれを止めることは無理だ。なぜそのような無力に逆らいたくなるのか。自らの無力を認める気にはなれないそうだ。死ぬ間際まで必死に生きることを願う。人々はいつも蝋で作られたイカロスの翼にすがりつく。それが定められた宿命なのだろう。希望とは生きることでしかないのだろうか。一般にはそれに繋がっていくのが希望なのかも知れない。希望の暗部はほんの一瞬の出来事に押しとどめておこう。だから死への希望は無視したくなる。死は絶望と堅く結びついた概念だと思われている。その認識を保持しながら生きてゆけたら幸せな人生を送ることができるかも知れない。そこで留まるべきなのだろう。だがそこから先には何が待ち受けているのだろう。例えば限りのない無限の彷徨なのか。なぜそうなるのかわからない。希望とは無縁の地帯で彷徨い続ける。目指しているのはそんな強がりと痩せ我慢の混合でしかない。たぶんそれは嘘なのだ。崖の途中の枯れ枝にぶら下がっている。誰がぶら下がっているのかは不明だが、それを眺めるだけ眺めて助けようとはしない。他人をただ見殺しにしているだけなのかも知れない。どういうわけかここでは他人の死が希望に繋がるらしい。それが自分に割り当てられた宿命なのだろう。


8月17日

 久しぶりに真夜中が到来しているらしい。漆黒の闇は何らかの虚構を形成するだろう。なぜ眠気がしないのだろうか。疲れているのに眠くない。状態は最悪かも知れない。妙に鮮明な意識が昔の記憶を反芻している。もう少し意識を現在に近づけてみよう。思い出されるのは昨日の出来事だ。だが昨日の出来事は昨日に属する。それをここで取り上げれば作り事になるだろう。過去と未来の狭間に今があるわけはない。今はフィクションに含まれているらしい。不在の時が今を飲み込んでいるようだ。時間が完全に死んでいるらしい。それでもまだ生きている。しぶとく生き残るための知恵は、書物の中には記載されていないが、周りの状況がヒントをくれる。気がつけば三週間後に存在するだろう。意識は常に空白の時間を必要としているらしい。もうすぐ秋になるだろう。秋になったら目を覚まそう。暑いのはもうごめんだ。どうやら実現が不可能な夢を見ている。現実逃避と戯れているらしい。たぶん、どうせまたうんざりするような暑い日々が復活するのだろう。まだ当分は気が抜けない。気を抜いたらそこで終わってしまうような予感がする。そうなったらなったで仕方のないことかも知れないが、やれるうちは無駄な悪あがきでもかまわないから、とりあえずやってみるしかないだろう。それが誰でもない誰かによって課されている義務なのかも知れない。自分は未だに行方不明中らしい。自分ではない自分が、闇に消えた自分に成り代わって空の自分を制御している。自分と入れ替わりに闇から来た自分が空の自分を生かしてくれている。真の自分はどこかへ消え去ったまま、二度とここへは戻ってこないかも知れない。たぶん忙しくて戯れに言葉を繰り出す余裕がないのだろう。そういうわけで、いましばらくは闇の自動筆記にこの場はまかせておく以外に継続の方法を見いだせないでいるようだ。まあそれでもいいだろう。大した不都合は感じていない。


8月16日

 戯れ言はどこまでが戯れ言なのだろう。どこまでも戯れ言なのだ。それ以外のすべても戯れ言に含まれる。そんな台詞は聞き飽きた。どこかに台本が存在するはずもない。それは台詞ではない。台詞にもならない意味不明な言葉を発している。そうこうしているうちに、記憶がどこかへ転がりだす。消失した跡には空虚が残る。岩山から霊気が立ち上る。何をそこで見つけるつもりなのか。それは写真の中の風景だ。どうということはない、それらの影を見つめるまなざしには安全が確保されている。写真集を閉じればその風景を見なくても済む。たぶんそれを見続ける必然性などどこにもないだろう。目を閉じれば心の眼が開く。そんな簡単に事が運ぶはずもなく、闇が盲目を支配するだろう。やるべきことは他にもあるらしい。たぶんそれは睡眠を取ることかも知れない。闇が求めているのは意識を消し去ることだ。ならば安易に惰眠をむさぼっていることにしよう。のらりくらりをやらせたいのだろう。闇が眠りを呼び込み、戯れ言が戯れ事を呼ぶ。


8月15日

 権謀術数の歴史は古い。それは人類の歴史そのものかも知れない。シェークスピアの演劇上ではそればかりだ。リチャード三世はそれに長けていたので、成功して破滅する筋書きになっている。脚本上ではそういうことになっているが、実際の彼がどうだったかはよくわかっていないらしい。ただ、イングランド中部の平原で、反乱軍との戦闘の最中に壮絶な最期を遂げたことが歴史書に記されているらしい。激しい憤りは何に対してなされるべきなのか。人はどんなきっかけで激昂する瞬間へと導かれるのか。どうして劇中の彼は自ら怒りまかせの死を呼び込んだのか。そういう筋書きなのだから仕方がない。亡霊の予言通りにむごたらしい死に方をしただけだ。電車の中で劇団に所属しているらしい純朴な若い男女が、演劇について語り合う。その途中から、ユーゴスラビアの民族紛争が千葉と東京が戦争しているようなものだという珍説を真に受けて、馬鹿話を繰り広げた後に、今度上演するらしい劇の選考に漏れたらしい男の方が、何かしら役をあてがわれたらしき女に対して、羨望混じりにこう助言する。若いうちはどんなにうまく演じたつもりでもへたくそだと見なされるから、とにかく一生懸命ひたむきに演技することが大切なんだ、そのひたむきに演じている姿が少々へたくそでも観客の感動を呼び込むことになるんだよ。なぜか男が選考に漏れたわけがわかったような気がしてくる。なぜ男は電車の中で下らぬ三文芝居を無意識のうちに繰り広げてしまうのか。恋心を抱いている対象の前で少々あがってしまっているのかも知れない。それから、行きつけの飲み屋の親父にこうも言われたそうだ。抱いている夢はなるべく表にだした方がいい、自分はこういうことがやりたいんだ、と周囲の人間に吹聴しているうちに、それを聞きつけた誰かが、じゃああいつにやらせてみよう、ということになるかも知れない、どこからともなくそんな話が舞い込むかも知れない。何かが抜けているような気がする。この男は雰囲気だけのメロドラマに頭を侵されている。劇の中のリチャード三世は、権謀術数の限りを尽くして、まずは自分の次兄を牢獄に送って殺し、次いで長兄の王の死を利用して、王位継承権を持つその子供達をロンドン塔に閉じこめて、子供を王位につけようとした重臣も殺して強引に自分が王位についてから、ついにはその子供達も葬り去った。その過程で自分の悪事に荷担してきた腹心の部下まで平然と裏切る冷徹さものぞかせる。まさか電車の中の甘っちょろい劇団員が将来リチャード三世を演じることはないだろうが、このフィクションの内と外の落差は何なのだろうか。電車の中で、しかも彼女の前で、なんで自分がみすぼらしい三文芝居を演じていることに気がつかないのか。気づかなくて当然だ。今彼は自らの夢に向かって辛いバイトをしながら必死になって努力している最中なのだ。


8月14日

 触らぬ神に祟りなし。靖国神社の英霊たちは誰に取り憑いているのだろうか。確かにA級戦犯も英霊には違いない。いくら状況が変わったからといって簡単に除外するわけにはいかないだろう。自分たちが戦争犯罪人として罪をかぶることで、天皇制を守ったわけだから、天皇の忠臣としての役割を立派に果たしたことになる。神社の性格上、英霊として祀らないわけにはいかないだろう。そういう神社に参拝したければ堂々と参拝すればいいとも思う。それが一国の総理大臣であってもかまわない。それが気に入らなければ、選挙で彼と彼の所属する政党に投票しなければいい。参拝に対して近隣諸国が反発しているのなら、彼自身がその国へ行って、直に自分の考えを伝えるべきなのだろう。その国の学生や民衆と直接の対話集会とかをやれば、政治パフォーマンスとして一定の成果が上がるかも知れない。例えば南京大虐殺の記念館の前あたりで集会を催せば、それなりのインパクトはあるだろう。もっとも中国当局がそれを許すかどうかわからないが。だがそんなことはどうでもいいことだ。神社に参拝する習慣のない自分にとっては他人事なのだ。誰がどんな神社に参拝しようと、そんなことには興味を持てない。また、戦争体験など聞く気が起こらない。どこの誰が、悲惨な戦争は二度と起こさない、との思いを強く抱こうとも、そんな思いとは無関係に生きているらしい。社会は争いごとで満ちている。実際うんざりするような争いごとで疲れている。何もかもがいやになる一歩手前でかろうじて踏みとどまっているようなのだが、それがいつ切れるとも限らない状況だ。猪突猛進でごり押ししてくる人にはどう対処したらいいのだろう。どうにもやりようがない。聞く耳をまったく持たぬ人には、一旦こちらが引き下がるのが無難であることは確かなのかも知れないが、引き下がったあとにどうすればいいのだろう。やはり、触らぬ神に祟りなし、ということになるしかないのか。まったく馬鹿げた世の中だ。


8月13日

 演劇は恐ろしい。大声を張り上げながら、非日常の光景が静寂を利用して襲いかかる。観客席は息を殺して静まりかえり、その大声のなすがままに受け入れなければならない。劇場は専制君主に支配されている。そんな制度が飽きられている。家に帰ればテレビがある。今度は自分が専制君主になる番だ。気に入らなければチャンネルを切り替えればいい。だが、切り替えてばかりいると、やはり飽きてくる。つまらない番組ばかりで、見続けるのが苦痛だ。専制君主制にはうんざりだ。だからインターネットなのか。だが電脳空間はとらえどころがない。わけのわからないカオス空間の中で右往左往している。双方向のコミュニケーションが成立することはまれにしか起こらない。その大半は発信しっぱなしであって、また受信しっぱなしなのだ。それが魅力なのかも知れない。自己中心的には絶対なれない。専制支配はあり得ない。法が成り立たない。とりあえずの現状とはそういうことなのだろう。過剰さの希薄な、スカスカのほとんど真空状態なのかも知れない。そこに可能性があるのだろう。


8月12日

 当たり障りのない述べ方は却って反発を呼ぶだろう。わざとらしい言葉づかいから容易にそれが感知されてしまうからだ。なぜか日々の暮らしの中では、ぎこちない動作が繰り返されてしまう。齟齬が無限に循環し続けるかのように思われる。時と場合によっては相互不信ばかりが増幅されてしまうこともあるだろう。相手は何を求めているのだろうか。相手は相手が自分より劣った人間であることを望んでいる。内心では相手を馬鹿にしたいのだろう。だがその馬鹿にしたい相手も同じことを思っているかも知れない。相手が自分より優れているのを認めることは屈辱だ。その屈辱感が相手に対する妬みや憎しみに及ぶこともあるだろう。人間関係の中で乗り越えなければならない壁とはその程度のことなのか。だがそれを乗り越えられない人々が権力への意志をたぎらせているのかも知れない。乗り越えられるはずがない、そんなことは不可能だ。壁の手前で居直って、自分と同じ思いの人々と連携して乗り越えようとする者の邪魔をすることが権力への意志なのだろう。公正な競争とは、すべての人間が壁の手前で闘争を繰り広げることなのだ。


8月11日

 確かにいろいろな種類の文字は刻まれるらしいが、相変わらずその中身は空っぽであるようだ。それらの状況に対して適切な表現を当てはめられないのだろう。それでも幸か不幸か、気まぐれな偶然だけで一応は継続されているらしい。おそらくそれは無駄な継続なのだろう。そんなやり方で何を感じ取れるというのか。感じ取れるのではなく、言葉が独りでに自ずから表出するのだろう。自然に発生したいくつもの音から複雑なリズムが導き出される。それらを間接的に言葉で表さなければならない。それは偶然に起こった出来事ではなく、意識して空虚を構成しようとして、その場で様々な思惑が交錯しているのだ。そして今はなぜか雨音に耳を傾けている。いつか見た光景には音がない。あるのは光の束だけだろう。光の三原色が重なり合って白色光が構成される。無音状態の方は、消音ボタンをオフにすれば、いつもの雰囲気に戻るかも知れない。だがそこから真っ白な光は退かない。たまには気晴らしに蛍光灯を電球色の黄色がかった色に替えてみよう。平坦な大地で一般道と高速道路が交差する。インターチェンジはまだ遙か彼方だ。変わらぬものには躍動感が欠けている。記憶は曖昧なまま、いつまで経っても現実に追いつけない。意識はまだ、その現実を体験できないでいるらしい。かなり焦れているのかも知れない。画面の向こう側では、まだそれを覚えているだろうか。その約束がもうとっくに期限切れなのは承知している。結局何も実現されはしないだろう。馬鹿な人々がいくらか騒いでかつてそれが存在した名残をとどめるが、暁の誓いはそのまま忘却の彼方へ消えゆくのみだろう。約束を果たそうとすると必ず邪魔が入る。それがその場でのお約束らしい。わざとらしい紆余曲折を経ながら物語を長引かせるためには、そんな手法が欠かせないのだ。今はそういうシステムの虜になっているらしい。それとの関係を断ち切ることは容易にできるが、断ち切られてしまえばあちらが困った事態になる。だからすでにぼろ切れ同然の物語にもうしばらくつきあってほしいそうだ。どうか見捨てないでもらいたいと訴えかけてくる。だが自分はすでに見捨てているのかも知れない。今さらそんなものにしがみつくのは滑稽だ。だが人によっては、それを見捨てることは無理難題に属することかも知れない。いくら世の中の価値観が多様化していようと、依然として流行の残響は鳴り止まないようだ。鳴り止んでしまうと、これからどうしていいのかわからなくなってしまう。おそらく単純な主題は命令と服従を巡って反響し合うのかも知れない。奴隷と主人は相補的に互いの存在を必要としている。両者は同じものが違う役割を担っていると錯覚しているのだ。彼らには見る角度が違えば異なる風貌に見える二つの同じ装置が必要とされている。そういう単独では成立し得ない概念が、この世のすべてを覆い尽くしていることになっている。そうでないと嘘がばれてしまうのだろう。もちろんそれは、彼らによって構成された物語上での認識だ。だがなぜか今日では、対立しないゲームが模索されているらしい。相手に依存することなく、この局面を要領よく切り抜けていかなければならない。それは何か複雑に込み入ったやり方なのだろうか。ジギルとハイドではなく、石ころと傾斜が求められている。


8月10日

 思い出されるのはいやなことばかりとは限らないだろう。それとは無関係に思い浮かぶのは想像の域を出ないことばかりなのか。空想上の出来事とはどのようなものになるだろうか。蛙が雨音に浮かれて踊り出す。そのついでに、大地が裏返って何もかもが地中に引きずり込まれる。そして、それらと入れ替わって地中から大量のミミズが這い出し、またそれと同時に、墓場からも夥しい数の骸骨が這い出てくるかも知れない。その光景は、さながら最後の審判を連想させるだろう。だがはたしてそれが最後の審判であり得るだろうか。かなり強引なこじつけだ。そこで何が裁かれるというのか。そんな状態で誰が何を裁いてみても、はたしてそれが公正な裁きの場となるだろうか。わざとらしい逸脱はさらに続くのだろうか。だが、日本では火葬されてその大半が灰になっているから、骸骨がそのままの形で這い出てくることはあり得ないだろう。ただ灰が風に巻き上げられて埃っぽいだけかも知れない。そんなありもしない出来事が羅列される一方で、にわかにユーモアのセンスを疑われはじめるだろうか。それらのどこにユーモアを見いだせるのだろう。独りよがりの強引な展開は、完全につながりが無視されて、著しい不連続を呈するようになる。そしてうんざりするような荒唐無稽の連発にあきれながらも、その所々につまらぬぼやきを差し込むことで、それでもかろうじて正気を保っている気になっているらしい。たぶんそれは気のせいだろう。これでも冷静でいるといえるのか。どうでもいいことかもしれない。たぶん外は雨なのだろう。どうやら雨に浮かれているのは蛙だけではなさそうだ。雨は曇り空の進化形態だ。曇り空の厚みが増すと雨が降る。雨によってはそのさなかに稲光に出会うこともあるだろう。そんな天候で少しは感動できるかも知れない。そのとき雷の音が刺激となって、意味不明な空想が頭の中で増殖するらしい。だがそんな推測はわざとらしいフィクションだ。きっかけに理由などない。ただなんとなくそうなってしまうのだ。例えば、ただなんとなくその場の雰囲気で殺人事件が起こってしまうと、それを社会のシステムを維持するために誰もが納得する形で処理しなければならなくなり、その突発的な事件を何らかの連続性を持った出来事としてあつかうために、後から原因や動機をこじつけてひとつの起承転結を伴った物語として文章に定着させなければならない。それもフィクションなのだろう。だが事件はフィクションに変形する以外に処理する手だてがない。目下のところ人々は事件を事件そのものとして受けとめる術を見いだせないでいるようだ。


8月9日

 いつもの闇に飽きたのだろうか。このところ空白が目立つようになってきた。とりあえず鶏が先か卵が先かの議論ではないようだ。先にミサイル攻撃をやったら自爆テロで応戦してきた、それが今回の事件の正しい時間的な順序であると思われる。報復合戦が一時的にエスカレートすることもあるらしい。もちろん逆の見方も通用するだろう。ミサイル攻撃で自爆テロの芽を事前に摘み取ったつもりがそうではなかった。確かミサイル攻撃の後に当局は自爆テロを未然に防ぐためにやったとの声明を出していた。だが結果的にはそれを防げなかった。双方の表向きの思惑とは違う方向に絶えず事態は推移する。そこにどのような物語を組み込めば満足するだろうか。それとは別に黒幕がいて、その特別な立場にある人物が人々を操っていることになるのは、出来の悪い三文小説ではよくあるパターンだが、未だにそんなフィクションを信じている人がいるだろうか。さらなる重大な事態が起こらないと戦闘に終止符が打たれることはないだろう。和平とは正反対になって、一度に数十万もの命が奪われれば収束に向かうことは確実だが、そのような取り返しのつかない事態を避けるために関係各国が和平工作を行っているわけだ。だからこのような少しずつ断続的に人命が失われるという泥沼状況になってしまっているのだろう。やっていることがそれとは違う結果を招いているにもかかわらず、それをやめるわけにはいかない。それは恐ろしい矛盾だがどうすることもできない。たぶんこれが事件の実体なのかも知れない。


8月8日

 どこかで見たような光景だ。はじめはゆるやかだった傾斜がしだいにきつくなり、やがて急峻な勾配の果てにひとつの頂点をむかえる。たぶんそんな凹凸を下敷きとして、そこから可能な限りのバリエーションを奏でる。その気もないのにわざとらしい迂路を辿り、ついには意味不明な放浪の果てに自滅するのが関の山なのか。だが、この際結果などどうでもいいような気がしてくる。退屈な状況を無理矢理センセーショナルな言葉で飾り立て、明日にもこの国がどうにかなってしまうような気分を誘発しようと、必死に訴えかけてくるどこかのメディアよりは、まだだいぶマシなことをやっているつもりなのか。さあどうなのだろう。大同小異ではないつもりでいるらしい。


8月7日

 代わり映えのしない日々の中で、ときには新鮮な感覚に出くわすこともある。物語の中で航海している帆船も、ときには嵐のただ中で難破しそうになったりするらしい。そこにどのような意味を見いだそうとしているのか。諍いごとはコップの中の嵐で終わるのか。囚われの蚤はコップの中で跳躍し続ける。それに負けじと、水槽の微塵子は水中で跳躍している。外からのぞき込んでいると背中がむずがゆくなってくる。そして気分はいつも通りのありふれた展開に退屈しだす。ガソリンスタンドの洗車装置を通り抜けるとき、ときには偽の嵐を体験している気分になるかも知れない。信じがたい体験とは無縁の日常に埋没しながら、あり得ない狂気を素通りして、退屈な正気も通り越して、いつもの空虚に浸かり続けている。落ち着いた先にはそんな時空の光景が広がっている。あやふやな意識は、ただの曇り空に包まれている。そして、この空模様を反映しているとでも言いたげに、その気もないのに下らぬ怠惰と戯れているらしい。


8月6日

 人は生き続ける限り不自由を体験するらしい。生存のための時間と空間は限られている。ここに現れた状況はどんな具合になるのだろうか。わずかな隙間に肉が詰め込まれている。薄くスライスされたパックは冷凍されていた。体温がないから死んでいるのだろう。缶詰の中のサンマは冷たくなる。ようするに、整理整頓をしっかりとやろうということなのだろう。そのコンセプトは極めて当たり前な内容に落ち着く。意味不明な歪みは意識して排除したいらしい。それでも、招かれざる不幸に喜んでいるのなら、君はきっと笑い出すだろう。自らの境遇がおかしくてたまらないのだ。君が冷凍室の寒さに凍えているのなら、バタイユでも読んでみるといい。何も海の塩水を全部飲み干す必要はない。適当な水準で妥協しようではないか。難しいことは早く忘れて、軽薄に気分転換でもしてみよう。衛星放送で大リーグ中継でも見れば気晴らし程度の効用はあるだろう。お望みの結末にはまだ遠い。おそらくあまりにも遠すぎて、途中でどうでもよくなってしまうだろう。同じ心理状態では到底いられない。最後までつきあう気はない。どんなに夢中になっていても、遠からず必ず飽きが来る。そうなったときに身の振り方でも考えてみようではないか。


8月5日

 当たり障りのない時間が見いだされる。捜し物は月並みなものが多い。エジプト辺りに行けば、地面の下に幻覚の種が埋まっている。それは土の一種なのか。地底には土が埋まっている。そこを掘ってみればわかることだ。掘れるだけの財政的なゆとりのない者は、博物館にでも行って掘り出された土の一種でも見物すればいい。そこで悠久の時と土に覆われていた暗闇が刻みつけた汚れを見いだすだろう。では、遙か昔に暗闇から分離した人々の意識はどこに現れるのか。いつかどこかで似たようなものが出現するだろう。もうすでにそれを見物している人々の間にも滲み出ている。それらのお宝を我がものとしたいという浅はかな欲望が立ち現れている。紫の煙はどこにでも見いだされる。誰もが紫の雨に打たれて軽薄な成功を夢見ている。だが、三日後の雷鳴はかなり遠い。今ここでそれを心配するのは愚かなことだ。せいぜいそれは喫煙に結びつくぐらいなものだろう。紫の煙の代用品が煙草の煙なのか。喫煙からくる発作は魂を揺り動かすかもしれない。それは思い違いだろう。現実には単なる麻痺にすぎないことが大げさに扱われる。喫煙の風習は肺気腫とともに世界中へ広まったのだろうか。そこには、かつて虐殺されたアメリカ先住民の呪いが込められていたりするのだろうか。煙草は征服者の肺が腐れ落ちるように調合された毒薬なのかも知れない。不意に生じた妄想の原因は定かでない。理由のないことに理由をこじつけようとしている。さらに時間的な不連続を埋めるための作業に勤しむ。遠いまなざしを近づけようと無駄な努力を繰り返しているようだ。ここにはあり得ない砂漠の思い出を捏造するようなものかも知れない。暗闇と砂漠は結びつかないのだろうか。その接合面にはどのような種類の接着剤が必要なのだろうか。能う限りの不自然さを装うことが必要かもしれない。すでにかなりずれている。思いつきのほとんどは、まったくの見当違いであることが多い。機会があったら何らかの見聞録を参照してみよう。経験の蓄積を文献上に載っている知識で肩代わりできると思いこんでいることがそもそもの過ちなのだ。だが、そんな過ちの蓄積が貴重な経験になる。こうして意識を世界に隣接させるための愚かな経験が積み重なるのだろう。書物などいくら読んでもきりがない。そのほとんどは無駄な時間を過ごすだけになる。しかし無駄でない時間を見いだすことはかなり困難だ。時間が有意義であった例しはない。時間ではなく、経験そのものの中に思い違いが潜んでいる。ほんの些細な質的相違を見分けられないことが致命傷になる。そこを素通りして、読まなくてもすでに前もって示されている文字をただなぞっているだけになる場合が多い。だがこんな述べ方ではいけないのだろう。神秘主義の棺桶に片足を突っ込んでいる。前もって自分が承知していることを書物の中に見つけて喜んでいるようでは、そんな読書は時間の無駄といえばいいのだろうか。それは読書にとどまらず、それ以外のすべての経験についてもいえる極めて当たり前のことかも知れない。だが、現代に生きる多くの人々は、そういった自己満足のための娯楽を求めて続けているのかも知れない。ただそこに驚きが欠落していると述べるだけでは不十分なのであって、彼らは自分たちが感動できる程度の予定調和の驚きを求めているのだ。そんな驚きは、驚きの範疇にも入らないまやかしの驚きだ。


8月4日

 押しつぶされた叫びが無言になる。この場で反復される動作は逆接する。終わりから始まるのはいつものパターンだ。つまらないことはおもしろい。おもしろくないことはつまらなくない。どこかで配線を間違えている。前言はあっさり取り消される。気に入らないリズムだ。それらの木霊はどこからくるのだろう。嘲りと罵りはどこかで食い違っている。その罵りには迫力が欠けている。これらの画面上で罵声はあり得ない。非難の矛先はいつも途中で折れ曲がる。ねじが折れ曲がって使い物にならない。しかし今どきどこの誰を非難すれば気が済むのか。雲散霧消する感情に行き先が左右される。朝には晴れるだろう。午後には晴れるだろう。夜には晴れるだろう。雨宿りの場所を探している。空の気まぐれで曇り出す。曇りだしたら雨が降るつもりなのか。折り畳み傘の先が折れ曲がる。ついでに背骨も折れ曲がる。命の代替えは難しい。人間に命など存在しないだろう。生命は機械だ。心臓に不整脈が見つかるかも知れない。嘘はどこまでも嘘かも知れない。ここからどこへ行くつもりもない。ここへ留まりながら、目の前の四角い画面に視線を走らす。曲がった釘が弾け飛ぶ。それは三日前の出来事だった。確か三日前には、四日前の出来事を思い出していた。では五日前はどうだったのだろう。昔ことはどうでもいいことだ。ついでに未来もどうでもいい。確かに今の時点では過去も未来も関係がない。要するに荒んでいるのだろう。そのうち過去の怠慢が未来の暮らしに響いてくるだろう。短絡的な思考が徐々に道を狭めてくる。そうなっても誰も助けてはくれない。世の中には嫉妬に狂って状況判断を大きく誤る人が数知れないそうだ。それだけで貴重な可能性を台無しにしているらしい。案外せこくてつまらないそんな嫉妬心がこの世の中を裏から支えているのかも知れない。体制批判勢力にはそんなルサンチマンの固まりが多いといわれているが、実感として、そういう意見の真偽のほどは定かでない。やはり自分にとってはどうでもいいことだ。そういった勢力からはある程度距離をとっていた方が無難なのだろう。過去においても未来においても、始めから終わりまで蚊帳の外であるのが望ましい。


8月3日

 昨日の出来事は昨日で終わり、明日の出来事はまだ始まってもいない。では今日の出来事はどうしたのだろう。そんなものは覚えていない。覚えようとしないので覚えられない。なぜ今さら嘘をつくのか。どうしてそこで急ハンドルを切ったのか思い出せない。いつまでもどこまでも何も思いつかない。思い出せないことは他にもある。挫折しながら屈折する。腹筋運動だけで体を鍛えられるだろうか。しかし腹筋を鍛えてどうするのか。気まぐれな思いつきで蛇行を繰り返す。重い塊が落下してくる。フィルム上の四輪駆動車は、それらをうまく避けながらその先へと進む。その先に待ち受けているのはアメリカ合衆国なのか。彼はシベリア鉄道の旅で休暇を満喫できただろうか。波間に浮かぶ孤島では何も起こらない。鉛の塊は海底へ沈んでゆく。サルベージ船は不沈艦の残骸を引き上げる。画面上の人物は赤く錆びついた鉄くずに興味があるらしい。それは何十年前の映像なのか。それとは別の記憶では、古ぼけた写真に、昭和天皇とともに甲板や艦橋や砲身の上にまで兵士が鈴なりになって写っている。その後撃沈された不沈艦は、そのときは確かに世間の注目の的だったのだろう。マスメディアにはどのような力があるのだろう。出来事をデフォルメしつつ増幅させ、本質を隠蔽しながら中身が空っぽの抜け殻だけをセンセーショナルに報道する。しかしその出来事の本質とはいったい何なのか。お前らにはどうにもできないということだ。すでに起こってしまった出来事は変えられない。それを嘘で塗り固めてあたかも対処することが可能なように加工してある。そのような現実の重みを理解していない者たちが、悲惨な戦争を二度と繰り返すな、と叫んで安心している。


8月2日

 今よりマシなことができるだろうか。遠い地点を目指す意志がまだ少しは残っているだろうか。今は何ともいえない。この現実を具体的にどう表現したらいいのか。現実を的確に把握できない。的確であるかどうかを見極める基準自体が存在しない。今メディア上に流通している言説や言表はまったく信用できない。信用できる人物による書物はとっくの昔に絶版になっていた。そのはるか下方でうごめいている腐った人々の言動には吐き気がするが、今はそればかりになってしまった。そうではないものを見いだす努力をすべきなのだろう。試行錯誤によってそれがここで見いだされなければならないということなのか。現状に嫌気がさしているのなら、ここにまともな何かを現前させなければいけないのだろう。かなり難しい。とても自分の意志だけではできない。だからその手がかりを以前から探しているが、まだ見つからない。自分以外の外部が必要なのはわかっているつもりだが、相変わらずそこは混沌としていて、外部との伝達回路を構築できないでいるらしい。たぶんまだ何も見いだせないだろう。無理やり何か形あるものを見いだそうとすれば、腐った人々と大して変わらなくなるだろう。しかしいつまで待てばいいのだろうか。いつまでも気が済むまで待っていればいいだろう。それを見いだすための試行錯誤を繰り返しながらも気長に待てばいい。焦って何をどうしようと、どうせこんな世の中なのだ。どうでもいいような出来事で満ちあふれているだけの世界でしかない。たぶん昔からこうなのであり、未来へ向かっても、この現状は大して変わらないだろう。そんな認識には嫌気がさしているが、それを変えざるを得ないような事件には今のところ遭遇していないのだから、その思いはとりあえずそのまま続いて行くのだろう。


8月1日

 まだそこへ留まり続けるつもりなのか。そして、そこで繰り返されるのはいつもの台詞なのか。そうかもしれない。そしてわけがわからなくなる。どうも近頃はそればかりだ。もはやそこでは何も見いだされはしないだろう。しかし、まだ続けようとしているらしい。ようするに往生際が悪いということか。だが、この期に及んで何をどう往生したらいいのかわからない。そういうわけで、なぜかまだ終われないらしい。どういうわけか知らないが、終わりたいと願う自分の意志が完全に無視されているようだ。では、これを継続させているのは誰の意志によるものなのか。そんな意志などどこにもありはしないだろう。これは意志ではなく、成り行きで続いているのだろう。わけのわからない意味不明な成り行きは、そこに外部から及ぼされる何らかの意志の介在を連想させる。得体の知れぬ外部の意志がこれの継続を強いているように思えてくる。案外ある面ではそれで正解かも知れない。それが意志であろうと成り行きであろうと、どちらを用いて説明しても結果は同じようなものだろう。何となくそう言われてみればそんなような気がするだけで、その場ではそれで納得してもいいような気になる。その状況を言葉で言い表せば、そんな風に表現されるしかない。それ以上いくら言葉を弄してみても、よりいっそう説明が複雑になるだけだ。そもそも人の意志と呼ばれるもの自体が、その人物に対して周りから及ぼされる様々な影響を、脳の神経回路が複雑に錯綜し合いながら処理する過程で生成される情報体系の総体をある側面から切り取ると、その時点でかろうじて何か意味のあるものとして浮かび上がってくるひとかたまりのものを、便宜的に意志と呼んでいるにすぎないのかも知れない。しかしそれはどういうことなのか。現時点でできる限り複雑に述べればそういうことになる。ようするに、今現在はそんな地点に留まっているのだろう。