彼の声25
2001年
7月31日
魅力とはどこからくるのだろう。例えば、人の名前が幻想をまき散らす。ビアフラという名前はこの辺では珍しい。しかしそのビアフラがどうしたのか。その名が出れば、それ相応の妄想をかき立てられる人もいるだろう。今はなんとなく無意味な意味を求めているらしい。誰が?少なくともビアフラではないだろう。誰でもなく、その場の空気が求めている。それはおかしなことを述べるためのきっかけになるかも知れない。だが、起爆剤は不意に出現するが、そのほとんどは不発弾である場合が多い。現実には誰もそんなどこにもありそうもない感覚は求めていないが、それでも夢を現実に体験しているような幻想的な感触を得たい。だから誰がそれを望んでいるのか。その場の空気に意志が存在するのだろうか。わからないが、たぶん少なくともどこかの誰かは、未だかつて味わったことのないような新鮮な感覚を求めているだろう。それは架空の人物であり、架空の意志なのだろう。そしてさらに、架空の誰かには実感を伴った言葉が必要とされている。それが無い物ねだりなのだろうか。たぶん彼は、おおよそ今までに体験したすべての現実とは異なる、まだこの世に出現できない未知の感覚を空想しているのだろう。そこには質量が見あたらない。そこにあるのは重さの欠如した幻影だけかもしれない。現実の正体はフィクションではないが、それを言葉で語り始めると、いつの間にか作り話になってしまう。しかし言葉以外では語れない。実際にやってみれば明らかになる。ようするにこれも作り話の一種でしかない。風が吹けば風圧が空気の感触をもたらす。実際に妙な雰囲気を感じているが、それがどうしたのだろう。どうしたわけでもない。ただ、奇をてらった展開にいつもながらの不連続を見いだす。そう遠くない過去において、近未来を予測したはずだった。それがもうすでに忘れ去られている。どうでもいいような内容は、すぐに記憶から消えてしまうらしい。ついさっきまで何を思い出そうとしていたのか思い出せなくなる。だが、心配することはない。いつか思い出すだろう。あるいは今は思い出せなくても、すぐにまた同じようなこと思うだろう。どうでもいいような記憶はいつでもどこでも頻繁に形成される。
7月30日
川の流れは山間部から平地へ出ると、障害物もないのに蛇行を繰り返す。目的を見失い、大きく迂回しながら何を探しているのか。泥沼にはまりこむとはどのような状況のことを言うのだろう。何を指摘しようとまったくの的はずれだ。脇道に逸れながら、さらにずれている。風にながされて雲が緩やかに変形する。様々な状況に応じて繰り出される数々の言葉には、何の意味も宿らない。波間に揺れる藻屑のようなものだろう。どこかから雨水の香りが微かに漂ってくる。地下水脈の中では木の根が土に溶け込んでいる。霞越しの月は赤く輝く。固い殻に包まれた萌芽の兆しは蓮の花を連想させる。結節点が不明確だ。比較の対象が見あたらない。リズムがはじめから壊れている。ねじ巻き式の蓄音機の回転が次第に遅くなり、間延びしたソプラノが途中で途切れる。過渡現象は何らかの次元で何らかの関数に依存している。砂時計の中の砂丘は、拡大鏡を利用してそれと認識されるだろう。青磁の釉薬は空の色を取り込んでいる。行き当たりばったりの紆余曲折には、龍の通り道が浮き出るだろう。玉石の緑には森の色が溶け込んでいるのだろうか。中空に浮かんでいるパイプの絵の作者は、画布の表面で実物のパイプを否定していた。文字には意味という雑念が紛れ込んでいる。もしかしたらそれは言葉であるかも知れない。詩人は言葉を発しない。では、あれらの言葉は言葉でないとすると何なのか。単なる否定の意志そのものだろう。これは言葉ではない、と言葉で言葉を否定している。それでは具体的な意味を伴った事物が伝わらない。そんな不在の場を形成できるだろうか。どうも行きがかり上ずいぶん込み入ったことを述べているらしい。だが、相変わらず行き先が見えてこない。何を述べたいのか、ほとんどわけがわからなくなりつつある。何もない空虚が感性を刺激しているのだろう。だがそこでの感性とは何なのか。感性には具体的な意味が欠けているのだろうか。たぶん途中から蛇足の世界に踏み込んでいるのだろう。述べる必要のないことを無理に述べようとして、まったく無駄な努力を繰り返しているような気がしてくる。あれらの連なりはあれらでしかないのだ。その表面からいくら深く潜って探ろうと、結局は何も見つからないだろう。付け足しの航海でそれらの意味を探しても無駄だ。すでに言葉は遙か彼方に退いてしまって、それを把握することは困難だろう。通り雨はすぐに去る。今はもう渇ききった大地になってしまっているようだ。
7月29日
真夜中に蝶が舞う。闇夜に暗黒を見つける。黒と黒で見分けがつくのか。では蛍光灯の光の中に蛾の鱗粉を見つける。偽りの光に向かって蛾が羽ばたき続ける。明日の朝には死んでいるだろう。黄緑色の青虫を蜂がくわえていた。死んだミミズに蟻が群がる。昼間の光景には影が射す。遠くの山並みには何も響かないだろう。近景には渋滞の車が延々と連なる。あと数十分も経てば解消されるだろう。視線は自然と宙を舞う。あてもなく彷徨っているわけでもないだろう。流れに逆らって人混みをかき分けながら進んでいくと、また別の人混みの中に入る。眼が死んでいる。見えるものがすべて同じに見える。違いを見分けるのが面倒だからそうなるのだ。聞こえてくる音楽もすべて雑音と変わらない。同じことが繰り返されているから雑音に聞こえてしまうのかも知れない。砂漠の砂がここでは珍しい。砂漠で暮らしていないから珍しいのだろう。なぜ簡単に答えられてしまうのだろうか。たぶんそれはわかりきったことなのだ。電信柱にとまったカラスの群を見つめながらそんなことを考えていた。腕時計の針はさっきからあまり進んでいないようだ。どこからともなく蚊が忍び寄ってくる。予期していた事態は予定通りに進行しているらしい。別に誰もいない荒野で空に向かって叫んでいるわけでもなさそうだ。人々をその水準で引き留めている当の各種機関は、さらなる道化を用意できるだろうか。それとも、もはやネタ切れで手持ちの札を使い回すしか術はないのか。いずれにしても今後の展開が見物だろう。まだ画面の向こう側にしがみついて馬鹿踊りを続けたいらしいことは確かだろうが、それらの見苦しい見せ物を見続ける人々の気が知れない。自らの尾に食らいついている蛇のような末期的状況を呈しつつ、自分のパロディを脇に侍らせて、してやったりの演出をしたつもりになっている。その程度でご満悦らしい。すでに腐った人々は、さらに腐るしか他にやりようがない。そんなものを見て喜んで自分も腐るほどお人好しになることもないだろう。もはや自分たちが招いたこのような状況について言及する術を失っているようだ。結局はどこかに批判の対象を捏造して、それに向かって下らぬ罵倒を浴びせることぐらいしかできないだろう。馬鹿のひとつ覚えでそんなことばかり繰り返しているからこうなったのだ。だがそれでもその馬鹿のひとつ覚えをやり続けるのだろう。あれらは本当に救いようがないのだが、それが予定通りの展開なのだ。あれらの哀れな人々のもとにも、いつか安らぎの時が訪れることだろう。そうなることを願っている。
7月28日
アメリカ型の自転車操業もそろそろ限界が近づいているようだ。いや正確には、限界が近づいているのは個々のベンチャー企業であり、自転車操業そのものは、もとから結果として圧倒的大多数の敗者を前提としたシステムであって、過酷なサバイバルゲームを勝ち抜いたごく一握りの成功者しか生み出さない。ただ、市場が拡大しつつある時期においては、努力すれば誰もが成功できる、という幻想が人々に共有されていたにすぎない。利益の出ない企業は淘汰される、そんな当たり前のことが今まで忘れられていた。もっとも、これまでにも、今は利益が出ていなくても、これからの成長が見込まれ、将来の黒字転換が期待された企業に投資がなされてきたようだが、そうやって投資してきた赤字企業の成長が鈍り、実際に業績が悪化してきたので、将来に利益を出す可能性が信じられなくなってきたというところだろうか。そして信用がなくなった企業からは資金が引き上げられ、赤字企業に資金供給がなくなったら自動的に倒産となる。こんなアメリカ型の起業&投資ゲームが、これからも世界的に繰り返されていくことになるのだろうか。たぶん今は、やり過ぎが是正されている調整局面だとは思うが、バブルと呼ばれるこれらの失敗から得られる教訓はどんな内容になるだろうか。よくわからない。教訓と呼べるようなものは何もないかも知れない。いくら確実性があるように思われても、最終的には一か八かの勝負に出ないと成功できない。確実性とは勝負に勝って成功した後から見いだされるものだ。矛盾しているかも知れないが、確実に成功した後からでないと、儲けに関する確実なことは何もいえないだろう。勝負をやる前の確実性は、確実に不確実である。だから先行投資には確実にリスクが付き物となる。しかし先行投資しなければ、現状維持どころか確実にジリ貧状態に陥る。こうして常に失敗するリスクを背負いながら先行投資していかなければ生きてゆけない。要するにこれは自転車操業そのものだ。このシステムは人々が過大に信じれば信じるほど極端な効果を及ぼすのだろう。多くの人々が成功を信じていたからこそバブルが膨らんだ。その結果、信じる者は救われるのとは逆に、その過大な成功への期待に耐えきれなくなってバブルがはじけ、最後まで信じていた者たちがもっとも甚大な被害を被ったわけだ。反対に、うまく立ち回って儲けるだけ儲け、バブル崩壊直前にこっそりゲームを降りたごく少数の者たちは成功者となった。信じる者はだまされる、これが教訓らしきものになるだろうか。
7月27日
やっと見いだされた時はすぐに過ぎ去った。あっという間に朝になる。寿命を縮めるための宴が催される。何とかノリの悪さでその場は切り抜けたが、久しぶりに実社会の儀式を体験する。過剰に飲んで食って煙草を吸う人々にはついて行けないものがある。体質的に合わない。喧噪の中でのコミュニケーションの内容は翌朝には忘れ去られるが、その一過性の親睦が夜の街を潤す仕組みになっているらしい。組織や団体は定期的にそれを開いて構成員の素性を把握しているようだ。特定の誰かが把握するのではなく、構成員同士でお互いに把握し合うのだ。表面的な当たり障りのない会話で相手の腹の中を探り合う。こんな認識ではその場を楽しめなくて当然だろう。どうやら自分は憂さ晴らしができない疲れる体質であるようだ。こんなことを述べているようでは、未だに大人になれていない証かも知れない。
7月26日
薄汚れた古本の中で火に包まれた文字を発見できるだろうか。大げさな幻影に巡り会うだろう。そこで誰が望んでいた未来を手に入れようとしているのか。未来はどこにあるのだろう。焼却炉の中で紙が燃えている。そこを曲がれば開けた場所へ出られる。気がつくと、かなりちぐはぐなことをやっているらしい。わざとそうやっているわけではないのに、いつものように辻褄が合わない。どんよりとした曇り空から時折小雨が降り注ぐ。台風の影響で北東気流が吹き込んでいるらしい。たまには涼しくなることもあるようだ。蚊に刺された背中が痒い。いつの間にかゴミ箱が紙くずであふれかえる。とりとめがない。昨日の出来事を思い出せない。それでも普段通りに時が刻まれ、朝になり昼になり夜になる。たぶん明日も同じようなローテーションが繰り返されるだろう。それが求めていた未来なのか。求めていてもいなくてもそうなる。なぜそうなるのか改めて問う必要はないだろう。それは愚問だ。何も思いつかない。それは人の願望とは関わりのない適切な近未来像なのだろう。では明日も空隙に適当な文字をフィットさせることができるだろうか。明日は明日の状況次第だろう。そんな状況には対応できない。時間の長さに若干の狂いが生じている。あやふやな意識が三時間前から呼び戻される。今日もなぜか虚無からの要請に応じてそこで何かしら舞ってみせなければならないようだ。それはとってつけたような理由になる。正気ならばそこで舞う理由など何も見あたらないだろう。動機が不在だから虚無のせいにしているだけだろう。初心を完全に忘れている。そんなことはあり得ない。様々な紆余曲折を経て、今すべてを忘れようとしている。できないことをやろうとしているのだろう。こちらが気づかないうちに、いつの間にか周りを忘却に包囲されてしまっている。そこで意識が強力な断片化作用を被っているらしい。まったく連続性が皆無だ。何が継続されているのかわからなくなる。散り散りになった断片をつなぎ合わせる気が起こらない。そのまま放っておくと、バラバラなままでもいいような気がしてくる。当初は何をやろうとしていたのか。明確な目標を持って、それに沿って努力するような具合になれば、楽になることは確かだ。だが、死ぬまでそんな受験勉強的人生をまっとうできるわけがない。そう都合よく初志貫徹とは行かない。鉄の意志はすぐに錆びつく。不純物が混じっていると錆びやすい。
7月25日
そのエレキギターの音色を聴けば、紫の煙が見えるだろう。脳が痙攣することがあるだろうか。精神に異常を来している場合ではない。これが精神と呼べるようなものなのか。何をもって精神と呼んでいるのだろう。その辺がよくわからない。すべては途上だ。まだ何もやり遂げてはいない。時間に追われ、未来を無駄に浪費している。通り雨を避けながら、蚊に刺される。蜂が水を飲みにやってくる。水道の蛇口からなかなか離れない。また別の場面ではバッテリー切れだ。その自由人は丘の上の愚か者だった。空気圧がおかしい。最後の言葉が聞き取れない。焼け切れたヒューズはどうすれば交換できるのだろう。電話の名義人が違っている。先週、中吊り広告に睨まれる。砂糖は脳のごはんだそうだ。何を宣伝したいのかよくわからない。髭面の有名俳優はくどい。螺旋階段が錆びついている。その見晴らしは最高かも知れないが、盲人には不必要だろう。糖尿病は怖い。何事もバランスが崩れると取り返しがつかなくなる。だがその崩壊をどうやって知ればいいのか。たぶん崩れ去った後から崩壊があったことを知るだろう。その時見えない鎖につながれていたことは無視される。鎖は実際に目で見えないと鎖としての役目を果たさない。不自由に感じても、別に鎖でつながれているとは感じない。見えない鎖などは存在しない。存在しないがそこで拘束されているのだ。誰もが囚われの身でありながら自由だ。囚われの身故にその崩壊を楽しんでいる。生きながら朽ち果てることを無意識のうちに望んでいるのだろう。苦痛を苦痛と感じていない。どこかが麻痺しているのだ。脳が痛みを忘れるように命令している。たぶんそれは一時凌ぎにしかならないだろうが、それらはいつも医療的表現で片づけられる。とりあえずは心の病としておこう。
7月24日
誰もがテレビの前で応援すべきだそうだ。お人好しは他人の努力が報われることを願う。修験者は瞑想の果てに何かをつかむ。若者の夢見る瞳は輝いている。夏空を見上げれば何もない。彼らはそこで何を望んでいるのだろう。少なくとも自分は何も望まないだろう。心の有り様は相対的だ。それらが決定的な体験であると思われるのは錯覚だろう。振り子は気分次第でどちらにも振れる。欲望がある限り、悟りに至ることはないが、欲望がないと修行する気がしないだろう。雨に歌えば気が触れる。炎天下に出歩くのは不健康だ。それは雨乞いの儀式なのだろうか。何やら一心不乱に祈っている。集団で念力を発しているらしいが、遠い山並みは微動だにしない。空には相変わらず雲ひとつ見えない。しばらくの間その場で時が止まっている。刑場での出来事はいつものパターンになる。見ている前で下手人の首が飛ぶ。見せしめとしての効果はそれで充分なのだろう。芝居が昔の制度を再現している。一方、画面のこちらでは、ただ暑いだけで別に戦慄するような場面には遭遇しない。世の中が不況だといわれている割には、以外とのんびりしている。危険は遙か遠くにある。わざわざそれを体験しようとは思わない。手軽にスリルを味わいたければ、娯楽施設にでも出かけていくべきなのだろう。そこでジェットコースターにでも乗れば、それなりの危険な感覚を実感できるだろう。窓越しの風景はいつもの町並みが広がっている。こちらでは劇的な展開は望めない。気分を恣意的に変えてみよう。夢から覚めれば普段の生活が再開される。紫外線をだいぶ浴びたらしい。冷水を頭から浴びる。赤い色素が入った冷たい液体を飲み干す。
7月23日
急勾配の坂道を一気に下る。求めていたのはこのスピード感だったのか。だがそれで望んでいたものを獲得できたのだろうか。後輪には釘が刺さっていた。口には気休めのビタミン剤だ。気晴らしのゲームが画面に映し出されている。仮想都市では蛍光灯が点滅している。いつもの光景が夜の静けさを醸し出す。簡単な物語だ。そこでどう振る舞えばいいのだろう。定まっている行き先には赤信号が映し出される。決まりや規則に従うつもりはない。九州の中心都市では水泳大会が行われているらしい。意識の中で、河童の帽子をかぶったアナウンサーが、数ヶ月前のアライグマの帽子をかぶった殺人犯と重なり合う。歩く仕草にはゆとりがない。全国チェーンの黄色い薬店で胃薬を買う。ハンディキャップはどのくらいに設定したらいいのだろう。まだ追いかけるタイミングではないらしい。なかなか青信号に切り替わらない。こうして今日も誰かが襲われるのだろう。切り裂きジャックの時代は霧に包まれていた。彼にはすべての時よりも至福な時がいつか訪れるだろう。そのいつかが死後なのか生前なのかは知らない。いずれにしても自分には関係のないことだ。確かにどこかですれちがったようだが、何も覚えていない。もはや交点は見失われてしまったらしい。今となっては、その近似値を見いだす手がかりさえない。そして二度と戻ってこない過去を改めて仮構する気にはなれない。そのとき何を思い描いていたのだろう。似たような体験はないものか。気晴らしに、恐怖映画の中で化け物に追われた夢でも思い出してみよう。
7月22日
頭の中で何かが循環している。満たされていないのに満たされている。空洞には何もないのに、そこから排出される滓は計り知れない量になる。そんなフィクションでは満たされない。どうやら役に立たないことばかりを考えているらしい。ただ毒にも薬にもならない無駄なことだけを思う。その一方で、さっきまで考えていたことをなかなか思い出せない。意図的に思い出すことを拒否しているようだ。誰がどんな意図でそのような態度を取っているのだろう。そのとき自分はどこで何をやっているのだろうか。それはずいぶんまわりくどい表現だ。そこには羽ばたきが欠けている。闇の中に舞い降りるのは鳥とは限らない。時として偽物は本物よりも魅力的だ。自らの非は決して認めない。最初から誰も謝らないだろう。その告白は本心から述べているのではない。心から懺悔していないときに懺悔の時間がやってくる。用意周到な準備などあり得ない。いつもどこかが抜けている。精一杯の努力は常に水の泡だ。何ら結果を伴わないだろう。事件を見つめるまなざしは、いつも画面越しの間接的な体験を強いられている。そこで繰り返されているのは、疑似体験にも及ばない単なる野次馬の火事場見物にとどまるだろう。それがすべてなのだろうか。たぶんその場面ではそうなのだろう。だがそれとは異なる場面では、さらなる危険が待ち受けていたりするのか。待ち受けているのはスリル満点の危険とは無縁の代物だ。そこには、ただの退屈が立ちはだかっていて、行く手をふさいでいる。もちろんそこを通り抜けることは容易に可能だ。チャンネルを切り替えればいいわけだ。そうすれば、また別種の退屈を体験できるだろう。四角い画面が手ぐすねを引いてそこで待ちかまえていることだろう。視線を画面に固定させる力には執拗な持続力がある。並大抵のことではその罠でさえない罠以下の仕掛けから逃れることはできない。その怠惰な営みを魅力的に飾り立てる金太郎飴のバリエーションはいくらでも用意されている。自発的な意志の力を減退させる麻薬のような電磁波が、七色の光と音声を伴ってこちら側へ向かって四六時中放射されているのだ。こんな世界で生きている人々に何を期待したらいいのだろう。倫理などはお笑いぐさにもならない。たぶんこれでもいいのだろう、愛さえあれば。冗談とはこういう風に述べれば少しは洒落た響きを伴うだろうか。ついでに画面を見つめ続ける勇気も必要だ。そうすれば安手の連続ドラマの中で、ヒロインが脚本上のそれらしき葛藤や困難を経験しつつ、ついにはささやかな幸せを手にする場面に出くわすことだろう。そこで画面上の映像に感情移入して、自らも主人公と同様に救われた気持ちになればいい。それが退屈だと感じないならそれでもいいだろう。
7月21日
川の深みにはまって人が溺れ死ぬ。真夏の陽ざしに照らされて川砂が輝く。土石流が流れた跡で石英の粒でも探してみよう。あるいは、崩れかけた土砂をすくい上げ、その中から砂金でも見つけられるだろうか。とりあえずの目的は無目的だ。目標は夢に逆らうことか。いや、目的と無目的を同時に実現させ、夢に逆らいながらも夢に耽ることだ。努力せずに努力を越えた結果を導き出す。まったく本気になれない。スポーツ程度で満足すべきではない。むしろスポーツで身体を酷使して苦しむべきなのだ。そして自らの限界を悟り、静かにその場から退散すべきなのだろう。やがて体は老いて使い物にならなくなる。現実を認識するとはそういうことだ。暴力に頼る者は暴力を愛している。愛する行為に及ぶときには恍惚の表情を浮かべるだろう。そこが付け入る隙なのか。死の影は至る所に現れる。神の願いは天には聞き入れられない。天の願いは人には聞き入れられない。不死であることは不能の証となる。老いを知らぬ者は老いて絶望する。老いを知る者は老いて朽ち果てるだろう。やりきれない思いはやりきれぬままいつまでもやりきれないだろう。この世に救いを求めることは、あの世に救いを求めることと大して変わらない。だが、この世に救いを求めなければやりきれない。そのやりきれなさに耐えられぬ者が救いを求めるのだ。たぶん、幻想以外では誰も救われないだろう。救われた気持ちになりたい、という願望に応えればいい。メンタルな面で満たされればそれでいいのかも知れない。自己を現状に馴致させればそれで幸せになれる。等身大の自分という虚像を確立すればいいだろう。だが、なぜかそんなまやかしをやる気が起こらない。だからやりきれない。それでいいわけはないのだろうが、よくなくても仕方がない。自己だの内省だのと戯れる気にはなれない。この際自分の心理状態や感情などはどうでもいいように思われる。昔流行ったフォークソング的心理状態とかは気持ち悪くて鳥肌が立つ。犯罪が裁かれる裁判所内の雰囲気には耐えられないだろう。学業に秀でた方々が、犯罪者を肴にして馬鹿げた三文芝居を繰り広げているだけとしか思われない。そういう心理学者気取りの気持ち悪い人々にもてあそばれないためにも、ドジを踏むような危険な行為はやめるべきなのだろう。犯罪者を告発する者も裁く者も弁護する者も頭がイカれている。法律が彼らを狂わせる。自分たちがやるべきことではないことを法律がやらせているのだ。情状酌量の余地とかいう摩訶不思議な概念で彼らの狂気は共鳴しあう。当初の志を曲げて、反省の態度を示せば刑が軽くなる、とかいう馬鹿げたしきたりがまかり通る。たぶん反抗的な態度を貫き通せば厳罰に処せられるのだろう。要するに、彼らの前にひざまずき、自分が悪うございました、と恭順的な態度を取るように絶えず脅迫されているのだ。ヤクザに絡まれているようなものだ。そんな制度がないと成り立たないような社会は、やはりどこかおかしいのかも知れない。
7月20日
どこまで行ってもきりがない。それはありふれた疑問になるだろう。ハエとウジはどちらが先に生まれたのだろうか。そこで何を見ているつもりなのか。たぶん何も考えていないだろう。地形の浸食作用は止まらない。溝はさらに深まり、やがて断崖絶壁に囲まれた谷へと変貌する。水の流れが気の遠くなるような歳月をかけてそんな景観を作り出す。それは遙か昔の出来事だった。古代の壁画は何かを暗示させる。湖底に沈んだ都市は語りかける。悠久の時が過ぎ去り、地表面にへばりついた生き物たちを水がきれいに洗い流してくれるだろう。剥き出しの大地には生物など不要だ。それが地球本来のあるべき姿なのかも知れない。自然は人間を必要とはしない。エコロジスト達の幻想を地球そのものが木っ端みじんに打ち砕く。次の世代に伝えるべきメッセージとは何だろう。人類にとって守るべき文化など存在しない。文明はつかの間の膿だ。失われた知性を悔やむことはない。荒れ地の所々には名も知れぬ雑草が微かに生えている。そしてかろうじて後から確認されることになる事実は、かつてそこには石ころが数個転がっていたということだけだ。
7月19日
その政治イベントはどこで行われているのだろう。だが今それに言及するつもりはない。いつか何かが変わるときが訪れる。そんな漠然とした期待感は何ももたらさない。偶然に起こる決定的な事件がこの世界の情勢を一変させる。それが起こった後から見いだされるのが構造的な変化というものなのだろうか。今世間に流布している馬鹿のひとつ覚えの構造改革とは、事後的に説明される概念でしかないかも知れない。要するに、結果として言及されるべきものを事前に叫んでいるだけなのだろうか。確かにそう叫ぶことがひとつの事件ではある。ではその「絶叫事件」によって変化した情勢とは何だろう。これらの馬鹿騒ぎがそうなのか。それは数日後の選挙で明らかになる程度のことかも知れない。つまり、あれらのパフォーマンスは選挙用の絶叫でしかないということか。これでは到底世界情勢を一変させるには至らないだろう。事件は別のところにある。それはすでに起こってしまっていることかも知れない。誰も気づかぬ潜在的な事件が、知らぬ間に世界を変えている。今もこの世界は変化し続けている。変化が顕在化し実感できるようになるには、それ相応の言説の出現を待たなければならないだろう。たぶんその言説の出現もひとつの事件なのだろう。
7月18日
長い橋を渡り、ヘッドライトに次々と電柱が照らし出される。雨に濡れた路面が外灯からの斜光で輝く。その営みはもうだいぶ前から続けられている。人影はまばらだ。誰が発したか忘れたが、その呟きには毒がある。雑音に紛れて遙か遠方の星雲から電波が届く。それは周期の短いパルサーから発せられた電波だろう。山奥の田んぼに数年前の案山子が立っている。田はすでに荒れ果てていて、当然稲も植えられていないので用をなさない。案山子は不要だ。砂漠の砂は強風に煽られてゆっくりと移動してゆく。それはいつ見た映像か。直接の体験ではない。砂利道の砂利は車が通る度に地中へめり込んでゆく。似たような現象だろう。激しい夕立のただ中でサイレンの音を聞く。そこで叫んでいるのは誰だろう。薄暗い室内にいると、気休めの画面が背後から忍び寄る。気にもとめないうちにチャンネルが自動的に切り替わる仕掛けになっている。喧噪の中で、そこに何かが映し出されているが、隣で交わされているとりとめのない会話に気を取られて、そちらへ視線を移す気になれない。緩慢な動作はそれを躊躇している徴だろう。少し焦れているらしい。何かの拍子に批判の言葉が口を突いて出そうになるが、理性と羞恥心がかろうじてそれを押しとどめる。若干の軌道修正が必要だが、まだやり始めたばかりだ。かなり冷えてきた。夜明けまで冷房を利かせて風邪を引かないだろうか。
7月17日
呪われた歩みはどこかで消えるだろう。人と物が消える。人という物体が意味をなさなくなる。誰が望んだわけでもなく、誰も望まぬ方向へ状況は歩み出す。誰もその位置を指し示せない。歩んでいく方向など知る由もない。崖の上で綱渡りをしているつもりにはなれない。だが宙に浮かんでいる気はしない。浮遊感覚が欠如したまま、やがて固い地面にたたきつけられて、永遠に意識が戻らなくなるだろう。そんな結末を避けるすべはない。飛び降り自殺は止まらない。止まった時点で衝突しているわけだ。誰彼ともなく飛び降りる。それは彼らの願望の集大成なのだ。
7月16日
夜に留まる人々はいつか報われる。その報いがどのような幻想をもたらすのか。噂は幻滅とともに人々の欲望を掻き立てるだろう。誰も拒んだりはしない。自分たちの願望は永遠に実現されはしないが、それを拒否する理由も見つからない。夜はどこまでも続くべきだ。願いは永遠に成就してはならぬ。たとえ疲労困憊してそこで力尽きようとも、さらなる苦難を望んでしまうだろう。能力の限界を超えてなお幻影を追い求めねばならない。何よりも夜そのものがそれを望んでいるのだ。意識が闇に支配されているのではなく、自分たちの存在が闇そのものなのかも知れない。昼の光がそれを気づかせない。影に注意を払うことを忘れさせる。
7月15日
いつものことだろう。いつも通りの不自然な導入部だ。どこか具合が悪いかも知れない。肝心なことは物事の本質とは無関係だ。たぶん本質が皆無な状況なのだろう。自分が関係している内容はここには見あたらない。ここでやっていることはといえば、内容のない逡巡の繰り返しばかりかも知れない。肝心なことが抜け落ちているが、それもいつものことだろう。どういうわけか、いつも通りの無内容に明け暮れる。肝心なことも物事の本質もない。そればかりが連続している。未だに意識はどこにもない。無意識のすべてが虚空に散在している。もちろんその散らばり具合に規則性はない。こんな状態に何の意味もないだろう。夜空の星々は消え失せ、やがて朝がくる。その途中で意識が定かでなくなり、ありふれた日常の夢と入れ替えられるだろう。日々の眠りがそれぞれの夢と融合する。そこでは当たり前のやり方は推奨されないだろう。なぜか歪んだ願望とひねりの利いた思考がもてはやされる。そしていつの間にか、この世は人のいない世界に変貌を遂げる。誰も思いつかなかった結末が待ち受けているだろう。華麗な日々は永遠にやってこない。もはやウジ虫が大量に這う光景しか記憶にないようだ。憩いの時は何ももたらさないだろう。止めどない歩みは誰のもとにも訪れる。そこで立ち止まる勇気を持つことはない。ただ目的は目的を見失わせるために存在し、それ以外の躓きの石は、遙か遠方まで歩ませるためのきっかけをつくる。思いも寄らぬ展開を期待させるだけ期待させておいて、気がつけばもと来た道の途上にある。途中の寄り道は、終わりの始まりでしかない。そこで轍にはまって身動きがとれぬまま、やがて夢から覚めて真昼のただ中を知るだろう。意識が幻想で充たされる。それが昨日の夢なのだろうか。
7月14日
そこで折れ曲がった先にはまた新たな道が続いているだけだった。道路とはそういうものなのだろう。行き止まりには滅多なことでは遭遇しない。袋小路などほとんどあり得ない。たぶんこちらから無理に入り込まない限り、燃料が切れるまでいつまでも走り続けていられるのかも知れない。放っておけば、様々な困難に気がつかないで、そのまま素通りできることもあるだろう。苦労知らずの人生なんていくらでもありふれていることだろう。もしかしたら、誰もがそうなってほしいと願っているかも知れない。だからすぐに安易なやり方に手を出す。だが、それがなければ詐欺師の商売が成り立たなくなる。甘い言葉にだまされる人々がいないと、資本主義経済は破綻してしまうだろう。では、借金地獄や自己破産は資本主義経済にとっては必要悪ということだろうか。表向きはそうなってもらっては困るのだが、市場経済が続いて行く限り、必然的にそこに陥る人や団体が出てきてしまう。たぶん、以上に述べたことの中には、辻褄の合わない論理的飛躍が存在しているかも知れない。破滅しないための方策は、あるにはあるのだろう。これからは行き止まりや袋小路に出会わないためのやり方を模索していくことが、人々に課されたとりあえずの義務ということになるだろうか。それ以外にこの世界で生きる道はないということになるのだろうか。しかし、それとは別の道を模索し、新たな道を開拓しようとしている人々や団体も存在する。では、今ある現状から出発して、いったいどちらの道を歩むべきなのか。それが、現時点での分かれ道ということになるだろうか。分岐点はこれまでにもいくらでもあったし、これからもいくらでもあるだろうか。たぶん、その度ごとに、これが最後のチャンス、と叫んでいるのは詐欺師かも知れない。
7月13日
深海はどこへ繋がっているのだろう。マリンスノーが地獄の底へ降ってくる。おかしな表現だ。そこで巨大なイカにでも出会ってみたいものだ。大王イカは一説には体長が五十メートルにもなるという話もあるらしいが、どこかの浜辺に打ち上げられてニュースで伝えられるものは、せいぜいのところ数メートル程度にとどまっていると記憶している。十メートルを超えるイカが見つかったというニュースは聞いたことがない。その体長が五十メートルという根拠はどこにあるのだろう。そういえば世界最大のほ乳類といわれているシロナガスクジラも、最大で体長が三十メートルにもなるそうだが、その手の動物番組で見かけるシロナガスクジラは、二十メートルにも達していないものしか記憶にない。どうもそういう方面での自分の知識は、かなり大げさな情報から成り立っているらしい。ほとんど見かけない未知の生物は、より巨大なものほど人々の関心を惹く傾向にあるのかも知れない。有史以前に滅んだ象の数倍もある巨大なサイの仲間や恐竜などにロマンを感じる人は多いだろう。あとはその形状が魅力的に見えるということもあるだろう。常識はずれの奇怪な形に惹きつけられる。要するに、巨大で奇怪な形をした生き物といえば、それは怪獣ということになるだろうか。やはり日本ではウルトラマンが多大な影響力を持っているのかも知れない。そして怪獣が等身大になると、怪人になり、そうなると仮面ライダーになるのだろう。つまり、その手の魅力の集大成はウルトラマンと仮面ライダーになるのか。他愛のない結論になってしまった。
7月12日
猛暑と酷暑は違うそうだ。似たような表現だが、少しニュアンスが異なるようだ。ちなみに今日のような暑さは酷暑と呼ばれるらしい。気温が摂氏三十五度を越えると酷暑になるそうだ。言葉的には猛暑と酷暑のどちらでもかまわないような気がするが、とりあえず暑かった。そしてどうでもいいことかも知れないが、しばらく言葉を繰り出す機会が失われていた。白色光が視界から遠退いている。暗闇では何も見えない。色弱なので黄色と黄緑の見分けがつかない。しかしカナリヤの色には飽きた。色的にはブラジルとオーストラリアは似通っている。南半球の人々はおおざっぱなのだろう。いい加減な見解だ。偏見とはこういうことをいうのかも知れない。何もないので、空間と時間の隙間から虚無が垣間見える。それは本当なのだろうか。実際は見えない。虚無が目で見えるわけはない。それは嘘かも知れない。今は嘘ではないが、いつか嘘になるだろう。どうやら何も見いだせないみたいだ。信仰とはどのようなきっかけで始まるのか。人それぞれで、ケース・バイ・ケースなのだろう。やはりその中身までは踏み込まない。言葉も人も神も自分も信じてはいない。相互不信の相互とは何と何のことなのだろう。切り札と決め台詞を欠いている。だから、唯一信じられるものなどない。ついでに物語が皆無だ。ここ数年で何を見いだしたのだろう。記憶があやふやなことと、言葉は無限には存在しないということか。
7月11日
空白の時空にはまっている。ここで何やらもっともらしいことを述べてみよう。空間はすべての時間よりも空間的であり、時間はすべての空間よりも時間的である。意味がわからない。それで何を述べているつもりなのだろうか。別にそれほどもっともらしいことでもないだろう。少なくとも何か具体的なことではないようだ。結局は、何も述べていないのかも知れないし、実際に何も見えていない。苦し紛れにいつもの言葉が繰り出されているだけだ。それが気に入らないのだろうか。では、別の表現に変えてみよう。空間ではない空間で、時間ではない時間が経過している。それもよくわからない。具体的な話の内容が抜けている。麝香の香りを思い出せない。今ここで何が起こりつつあるか知らないが、そこで渦巻いているのはただの空気だ。ビルの一室は煙草の煙で淀んでいる。空気清浄機は機能していないようだ。地球の自転が地表面近くの大気中に空気の渦を発生させる。それが低気圧とでもいうのか。どうも貧血状態は改善されていないようだ。青ざめた生地に血管がのたくっている。それは低血圧だ。血管の血流が停滞している。いつものパターンになる。見知らぬ顔は見あたらない。誰に話しかけるでもなく、空虚な会話が始まる。誰も話など聞いていない。関心はないし、興味はもとから薄い。そこで費やされるのは時間とニコチンの他に何があるのだろう。だがそれでも険悪な雰囲気からはほど遠い。表面的には和やかに感じられる。喧嘩腰になるような気配はみじんもない。争いごとに発展する要素が見あたらないのだ。改めて事を荒立てる気が起こらない。はじめからそんな気力も勇気も欠いている。ただ現状を確認するにとどまろうとしているだけなのだ。
7月10日
光と影のコントラストに惑わされる。緑の重なりの中に微妙な色合いを感じ取る。何も感じていないわけではなさそうだ。ガラスが砕け散る音を聞く機会は滅多にない。社会の隅々まで行き渡っているその物質は、割れやすいのに滅多に割れない。いや、割れている場所ではしょっちゅう割れているのかも知れないが、そのような場所へ行く機会がないのだろう。窓ガラスが割れない社会は安定しているといえるだろうか。少なくとも暴動が起こることはほとんどない。それと同時に社会に対する期待もほとんどない。暴動を起こす人々は、何かを期待してそのような行為に及ぶのだ。しかし、窓ガラスが滅多に割れない社会には、暴力に訴えるのとは別の期待が渦巻いているのかも知れない。たぶんその別種の期待がなんなのかを感じ取れていないような気がする。誰にも気づかれぬまま、事態は着実に進行しつつある。もはや後戻りはできない。神は押し黙ったまま、夜空の一点を指さしている。そこに暗く輝く死兆星が見えるだろうか。その微かに燃える火球は何を暗示しているのだろう。そんなものがどこにあるというのか。それは太陽のことか?よく見かける恒星にいくつかの名が付けられた。だとすれば、どうだというのだろう。雰囲気だけの世界に染まっているようだ。鮮明な記憶は誰かの所有物になる。ここからは南十字星は見えない。星占いはあまり正確ではない。それが成立してから数千年の間に、星の位置が微妙にずれてしまっている。北極星は中心からわずかにずれている。天は人や神の思い通りには動かないらしい。
7月9日
すでに示されているその内容は、人々をどのような選択へと導くのだろうか。それをここで予測する気はない。空疎な内容になるだろう。そこで循環しているのはごく普通の営みになるだろう。日が昇り、日が沈む。その狭間で空が明るくなったり暗くなったりする。時には晴れたり曇ったり雨が降ったりする。そんな当たり前のことが繰り返されている。だが、人々はこうした日常の繰り返しだけでは、日々の重みに耐えられない。だからそれとは別のメニューを選びたくなる。政治・経済・思想・哲学・宗教・科学・音楽・趣味・旅行・恋愛・スポーツ・レジャーなど、いくらでも追加メニューは増殖する。選択の対象はどんなジャンルのどんな項目でもかまわない。その場での思いつきで行うランダムな選択行為が日常の迷路を形成する。そして、その迷路の中で、忙しなく行ったり来たりしている。それは予定調和の暇つぶしかも知れない。では、その時人は迷路のどの場所にいるのか。そんなことを想像して何になる。そこでの心理状態を分析すれば、何らかの思考パターンがわかるかも知れない。ところで、その迷路を一望できる高みからのぞいている人物は誰なのだろう。自分で自分の行動を分析できるだろうか。どこかの心理学者や思想家ならそんなことが可能だろうか。その特権的な視点からの報告をありがたがって拝聴する気にはなれない。そんな眺めにリアリティは感じられない。そんな神の視点のような所から、ああだこうだと見解を述べてみても、そのような視点があらかじめ存在する前提そのものが疑わしい。それが存在していることを前提とした論にどれほどの説得力が生じるだろうか。自分は誰に見下ろされているのだろうか。影は何も答えない。いったい誰に問いかけているのだろう。
7月8日
雨上がりの夜空には何が見えるだろうか。虹が立ち上る場所には何が埋まっているのだろうか。プリズムの経験とは何か。光の反射具合で肌が緑色になる。歴史は不自然な成り立ちを誇示する。支配された住民は支配者に服従する。見いだされた時空とはそんなものなのか。そこでの息継ぎは無用だ。深海に潜ったまま二度と揚がってこないだろう。示された内容には常に不満が残る。突然の雷鳴が心臓の鼓動を意識させる。曇り空を意識しているわけだ。水晶球に映っているのは石榴の実だ。それ以外の埋め合わせは期待していない。占いに見返りはない。見返りを求める占い師にはよくありがちな末路が待ち受けている。金や名声と引き替えに何かを失うだろう。その失われる何かは人それぞれで異なる。ある者は視力を失い、またある者は命を失う。おそらくその片足が消失した占い師は糖尿病を患っていたのだろう。どこかに手加減できる余地はないものか。生きながら腐り果てる人々は幸運だ。性根の腐った人々には繁栄が訪れるだろう。この世の春を謳歌できる。せいぜい今を楽しむべきである。幸福を追い求める人々はすでに幸せな人生を送っている。だからこれから待ち受けている出来事には狂喜するだろう。喜びとはすべてを肯定することだ。たぶん、性根の腐った部分も神からの恵みなのだろう。彼らに対して恨み辛みをぶつけてはならない。彼らの繁栄を妬んではならない。あれが人間のあるべき姿なのだ。もはやその愚かさにはつきあいきれないが、その光景は目に焼き付けておこう。現実は現実として受けとめなくてはならない。現実が狂気の沙汰なのではなく、狂気の沙汰が画面の向こう側で日夜演じられている現実がこれなのだ。出来の悪い三文芝居を見せつけられて、それを真に受けている人々もまた画面や紙面の向こう側に存在している現実がここにあるわけだ。そこに自分はいない。いるはずがない。自分は常に画面のこちら側からあちら側を見ているだけなのだ。これが現実なのだろう。この世は恐ろしくも滑稽な世界だ。こちら側から視線を送っている者が、あちら側からのあり得ない視線の虜になっている。あちら側からはこちら側が見えないはずなのに、なぜかその盲目の視線からの命令に服従することが、こちら側での慣習になってしまっている。人々はいつからそれらの四角い画面や紙面の支配を甘受するようになったのだろう。いや、人々が変わったのではなく、そのような奴隷人が、新たに大量発生してきたのだ。もとからいた人々は少数派になってしまったが今も普通に暮らしている。あちら側で演じられている馬鹿騒ぎを受け入れられない人々も、多数派の情報奴隷達と共存しているのだろう。それが今の現状なのかも知れない。
7月7日
暗闇に視線が吸い込まれる。夜の力にも限界があるらしい。そろそろ睡魔に敗れそうな気配だ。すでに精根は尽き果て、斜め後ろからの視線は弱まりつつあるが、まだ背後から押し寄せる磁力線が存在しているようだ。視線の衰弱を磁力線で補えるだろうか。何を考えているのだろう。なぜかわけのわからない幻想を抱いているらしい。気晴らしにそれを想像してみる。疲れているらしい。気力が尽きかけたとき、砂嵐の画面から救いの手が伸びるだろう。安易な手段でその場を凌いで、安らぎの時を過ごそう。安手の表現を借りれば、その雰囲気は謎に満ちていた。謎は使い古されている。謎は謎を呼び、時間稼ぎのきっかけを作ってくれる。こうして摩耗を最小限に食い止める。ここで磨り減っているのはどのような感性なのだろう。要するに謎と疑問が切れかけた神経を修復してくれるだろう。それは枯れ葉とは無関係だ。確かに神経は何度か切れかけているが、すべてが朽ち果てているわけではない。朽ち果てているのは自分自身だ。では、自分以外は無傷のまま残されているのだろうか。今や自分は完全な空洞に成り果てているらしい。思い描いていた未来の姿とはそれだったのか。もはや自分は死人同然ということか。ならば、死者の視線はどこに向けられているのだろう。わからない、ここでは定まった視線に出会えない。まだ死んではいないので、視線の向かう方向がわからないようだ。だから自分はまだ死者ではないらしい。それはお粗末な話だ。いい加減な屁理屈だろう。よくわからないが、とりあえずは視線が固定されていないようなので、まだ生きているようだ。たぶん、まだ死者にはなれないだろう。死ねば焼かれて灰になる。死者ではなく灰になるのだ。確かに物質的な現実としてはそうだが、人々の心の中では故人は死者として息づいているだろう。しかし、それが死者といえるのだろうか。それは単なる記憶の集合体でしかない。記憶の中では生きている。しかもその記憶の所有者による恣意的な味付けがなされていて、必ずしも生前の故人の姿を正確に反映しているわけではない。実際それは、故人を知る人々の間で共有されている物語の登場人物としての死者なのだろう。それが美談であろうと汚談であろうと、その挿話の中の死者は語り部の所有物と化す。物語る者の恣意的な操作で、人格までが変更可能な死者は、もはや死者とはいえないだろう。何よりも死者としてのリアリティに欠ける。物語は死者がすでに死んでこの世に存在しない事実を無視しようとしている。そんな風にして死者を生き生きとこの世に現前させようとする試みは、やはり虚構となりざるを得ないだろう。こうして、画面や紙面上には亡霊が立ち現れることとなる。亡霊は死者とは違ってリアリティに欠けている。
7月6日
どうも不眠不休というわけには行かないらしい。閃きとは何なのか。安らぎとはどのような状態の時に感じるものなのだろう。何も感じないが、それでも回廊は果てしなく続く。感性ではなく、惰性が糧となる。気の遠くなるような長い平衡状態を脱して、どうにかこうにか深い眠りから覚めつつあるようだ。それは誰のことを言っているのだろう。誰でもない、君のことだ。これから君についてありふれた答えを模索してみよう。君はうそつきだ。君は誰でもない、君は君でしかない。むなしい答えだ。どうやら君についての模索はまだ始まっていないようだ。君の輪郭を描けない。では、彼についてなら少しはマシな答えが提示できるだろうか。たぶんその時点では、誰も彼ではないだろう。彼については、その存在が常に否定的な次元にとどまっている。いつもその先にある肯定には至らない。たぶん、言葉足らずなのだろう。良い感触が得られない。限られた文字のなかで漂い続けている。だがそれで幾分視界が開けた。それがその場での限界なのだ。その場で眠っているのは誰だろう。誰でもない、君だ。君は閃きとは無縁の感性を奏でる。そして霧の中に安らぎを見いだす。盲目の琵琶法師は不眠不休で物語を奏でる。海へ続く回廊は果てしなく続いている。引き潮に合わせて小舟が去ってゆく。霧の彼方に船影は消えゆく。それは気の遠くなるような長い道のりだ。歩いてここまで来たわけではない。これからあらゆる結び目を探してみよう。宝の山はまだ見つからない。尖った山のすそ野のどこかに桃源郷があるらしい。探しているのは彼だろう。彼とは誰か。君のことなのか。彼と君の結び目は意外なところにある。プッシャーマンとはヤクの売人のことなのか。視界が開けることは死ぬことではない。ましてや彼を捜し出すこととは関係がない。たぶん彼もうそつきなのだろう。そこに私は存在しないだろう。存在し得ない。その余地が見当たらない。よくできたおもちゃだ。左右対称の顔はそう微笑んでいる。もうここでは誰も死にはしない。すでに全員が死んでいるからだ。海は何も語らない。無限には至らないだろう。回廊は途中で腐り果てている。塩水で錆びて朽ち果てる。期待は途中で折れ曲がり、血の叫びは怨嗟の声にかき消される。それでも星空は何かを語りかける。感性とは惰性のことなのか。安らぎとは眠りのことなのか。閃きとは不眠不休のことなのか。誰もそれを期待していない。夢のなれの果ては、タレントになることだそうだ。すべてが四角い画面上に吸収されてしまうらしい。
7月5日
坂道では転がり続けるだろう。別に転んだ気はしないが、そこで躓いたことは確かだ。どういう風の吹き回しなのだろう。風は吹いていない。無風状態だ。馬鹿にされているのか馬鹿にしているのか、そのどちらかになるだろう。しばらく前から途切れがちになる。だが音信不通というわけではないようだ。脈がない。だが心臓が止まったわけでもない。同語反復は強調表現になるだろう。どうやら世の中は甘いようだ。たらればの話で赤の他人を勧誘できるらしい。もし、あなたが預金している銀行の隣に、金利が十倍の銀行ができたらあなたはどうしますか。そうなったときに考えるしかないだろう。今は何ともいえない。当事者からもうけ話の勧誘があった場合、それを鵜呑みにする人間がいるだろうか。電話でその手の話が来て、すぐさまそんな話に飛びつく人間がどこにいるのだろうか。そういう電話勧誘で商売が成り立っているこの国は、やはり甘っちょろい社会ということになるのかも知れない。他人から勧誘されて金儲けができるようなら、そんな楽なことはないだろう。世の中みんな大金持ちになる。現実はそうではない。勧誘者はうまい話にだまされるカモを探しているのだろう。金儲けは難しい。とりあえず、最低限、勧誘者が儲からなくてはならない。そうでなければ、わざわざ赤の他人に電話したりしない。まずは自分たちの商売が成り立たなくてはいけない。その上で客にも儲けさせなければならない。資産運用だけでその二重の金儲けができると言い張っているわけだ。この低金利時代にそれをやれるというのだから恐ろしい話だ。現実にそうやって二重の金儲けが成功したとして、その儲けた金はどこから出てくるのだろうか。この世の中がゼロサム社会ならば、一方でそれだけ損した人間が必ず出てくるだろう。損した人間のことは考えなくていいのだろうか。損した人の中には、破産して首つり自殺してしまう者も出てくるのではないか。自分の資産を他人任せで増やすのはちょっと虫のよすぎる話だ。そこまでして金儲けをやる気は起こらない。倫理的にそういうことはやりたくない。もちろんそこにはリスクがつきものなのだろうが、他人に金儲けを任せることで背負い込むリスクなどごめん被りたい。自分が仕事した分以外での報酬はあまり期待しない方が無難だろう。期待して大金を注ぎ込んで損したら、自己嫌悪で立ち直れなくなる。そういった金は、期待していなかったにもかかわらず、忘れた頃に偶然転がり込むのがいい。こちらの予期せぬ金なら疚しさは感じないだろう。もちろんそんなことが起こる可能性はほとんどゼロに近い。
7月4日
暑さにはさらなる続きがあったようだ。昼はうんざりするほど暑かった。死ぬほど暑かったが、死ぬほどのことはなく、現にこうして死なずに生きている。結局死ぬほどの体験は体験者を死には至らしめないようだ。では、本当に死んだ体験をした者はどうなるのだろう。この国では火葬場で肉体を燃やされてしまうようだ。文字通り灰燼に帰した者は、このように自らの体験を語ることができない。まさか死んでからわざわざ恐山まで行って、今日が死ぬほど暑かったことを、霊媒師の口から語らせるほど執念深い人もいないだろう。これはくだらぬ冗談かも知れない。冗談にしてはいささか冗長すぎる。とりあえず暇な人は、自ら死んで死んだあとから、今日が死ぬほど暑かったと私に語ってほしい。それが成功したらほめてあげよう。たぶん夢で死者に会えるだろう。しかし暑苦しい死者はごめんだ。夢の中まで暑さに占拠されてはたまらない。死者は体温がないから涼しいと相場は決まっている。それはどこの相場なのだろう。ニューヨークのアナリストにでも訊けばそんな相場を紹介してくれるだろうか。たまには夏の恒例かも知れない怪談話でも聴けば、少しは背筋が寒くなるだろうか。たぶんアラスカにでも行ってシロクマに食われたら、死んで冷たくなるだろう。しかしシロクマの胃袋の中では暖かい。だが、消化されて糞になったら、アラスカだからすぐに冷えるだろう。たぶんこれも冗談なのだろう。こんなものでは怪談にならない。どうやら、どこまでいっても馬鹿げたたとえ話の域を出られないようだ。
7月3日
蒸し暑い日の午後、アスファルトに覆われた地面から陽炎が立ち上る。昼の陽ざしはどことなくぼんやりとしている。暑さでいかれた意識が霞んだ視界をもたらすのかも知れないが、白昼という言葉通りにこの時期の昼は白色で覆われている。それにつられて頭の中も真っ白だ。だが、頭の中が真っ白になったからといって、それで真昼の世界を体験していることになるのだろうか。たぶん世界にはこれとは違う真昼もあるのだろうが、確かにそれとこれとはまったく関係がないかも知れないが、実感としては頭の中が真っ白になるほど真昼の世界は明るい。陽ざしが眩しすぎて、何もはっきりとは見えない。そこで見えるものは影ばかりだ。強烈な光の洪水の中で影だけが見える。物事の影の部分だけがはっきりと浮かび上がる。自分は今まで真昼の暗がりに惹かれていたのだ。それは狂気の領域なのか。真昼と同時に存在するその真っ暗闇は狂気を暗示しているのだろうか。さあどうなのだろう。はたしてその影が闇といえるだろうか。確かにそこには理解不能な不連続面が存在しているようだ。現にここで何を述べているのかわからなくなってきた。外界に存在する昼が心の奥底に潜んでいる闇を吹き払えるわけもないだろう。だがそんなものが吹き払われなくとも何の支障もない。心の奥底に闇などありはしない。そんなものがあるような気になるからあるように思われるだけだ。そこに答えはないだろう。ただ答えのない問いが循環しているだけだ。それはいつもながらの堂々巡りでしかないだろう。暑かろうが寒かろうが、どんな環境であろうと、この無意味な循環は終わらないようだ。おそらく死ぬまで終わらないだろう。漠然とそんな気がする。暑さに耐えていたら、天気の方が暑さに耐えきれずに雨を降らせた。夜の雨は闇夜に激しく雨音を響かせる。屋根をたたく音がうるさい。雨はしばらくして止んだ。
7月2日
例えば、今ここで様々な思いが錯綜している。それを順序立てて考えることができないようだ。今さら何を思う必要があるのだろう。どうやら、明日のことを思いながら昨日のことを思い出そうとしているらしい。無駄な悪あがきだ。すでにそれから二日も経ってしまっている。今日は昨日でも明日でもない。昨日は昨日の時点では今日だったし、明日は明日になれば今日になる。自意識が存在しているその時点では、今日は今日でしかない。それはこの地上で生きている限り、いやでもそうなる。地球が太陽の周りを自転しながら公転し続け、それに沿って当然のことのように歳月が積み重なり、そして絶え間なく毎日今日が巡ってくる。意識があるのは常に今日だけであり、今日にしか意識は存在できない。それがいつであろうと、意識の中ではいつも今日なのだろう。今を生きるとはそういうことなのだろうか。しかしこのどうしようもない今日をいかにして生きればいいのだろうか。いつまで経っても明日は来ないし、昨日に戻ることもできない。ただ機械的に今日が繰り返されているだけの現状のどこに救いがあるのだろう。安易に救いなど求められないだろう。このうんざりするような堂々巡りは、もとをただせば単純な天体間の相互作用から生じているだけなのであり、この世界そのものがそんな構造になっていて、現実にこの世界の一部を構成している自意識がこの世界以外の世界で存在することは不可能なのだろう。とりあえずこの地上では、惑星の表面を海とともに覆っている大地そのものが回転しながら、惑星の公転軌道上を移動していて、そんな回転と移動の繰り返しが、この世界のこんな時間を作り出している。今はそんな時間に束縛されていて、意識が今以外に存在する自由を奪われているらしい。
7月1日
今日は晴れて風が強い。強風で湿気が飛ばされて乾いているが暑い。昼間はそんな天気だった。ところでそれ以外に何があるのか。何もないようでいて、実際何もないだろう。たぶん何かあったかも知れないが、思い出せない。ここでの記憶はそんなところだ。遙か彼方の散開星団の中には、年老いた恒星が数多く存在するらしい。それは別の時空系から取り出された知識だろう。もう深夜になってしまったようだ。こうして何も語らないうちに一日が過ぎ去ってしまう。何か語っているようでいて、その実何も語っていないだろうし、ここから先も以下同様になるかも知れない。それでは嘘になってしまうのだろうか。では、とりたててどうということはない一日に、陳腐な物語を導入すればそれで満足なのか。希薄になりつつある記憶をたぐり寄せて、その日に体験した出来事の中から、クローズアップすべき事件を選び出す。それを語ればいい。たぶんそんな操作を繰り返せば、どこにでもある日記に発展するのだろう。なぜそれをやらないのか。やりたくてもやれないのだろう。今日一日のうちで起こった出来事や事件がないことはないが、そのすべてが些細なことであり、いちいち語る気が起こらない。ではどのようなことが起これば語りたくなるのか。そこにどのようなこだわりがあるのだろう。語る基準など存在しないかも知れない。語るときは偶然に語るのであり、語ること自体が突発的な事件になる。語る語らないは気分次第、というのは少しいい加減かも知れないが、それ以上は突き詰めて考えられない。それ以上深く考えると、自分や自己が生成されるようになる。主体的に自分が何かを語っている、という錯覚に陥るだろう。自意識過剰な思いは報われない。自分という虚像まで作らなければ語れないのは不自由だ。さっきから視線は動かない。ただ壁を見つめているだけだ。壁の模様から言葉を導き出している。その程度でかまわない。それがここでの日常かも知れない。おそらくそれも嘘だろうが、既知の知識から未知の体験は説明できない。当たり前のことだが、未知の知識はいったん知ってしまえば既知になる。
6月30日
気配は何もない。その時を待っていても無駄だ。ただ老いるだけだろう。いつかこらえきれずに死んでしまうだろう。いつまで経っても何も起こらない。くだらぬ情報に満たされて、やることが見つからなくなる。やりたいことはいくらでもあるが、そのどれもがメディア経由の洗脳によってもたらされた夢である。人々は過度な情報に退屈し、疲弊するだろう。怠惰で蝕まれた心はテレビ画面に釘付けだ。だいぶ前から世界には際限のない時間が到来しているようだ。暇つぶしは幻影との戯れから始まる。それはあり得ない出来事だろう。時の歩みは逆行しながら前進してゆく。過去を回想しても結局はどこへも行けないだろう。螺旋回転をしているうちに、もと来た場所へ戻ってきている。そこがまた際限のない堂々巡りの出発点になる。カラスの鳴き声が嵐を呼ぶ。超高周波がUFOを呼ぶ。冗談の鉱脈は尽きた。尽きかけているのは風前の灯火だろう。別に地上から緑が尽きようとしているわけではない。雑草は至る所に蔓延っている。何もない不毛の地であっても、よく見れば雑草が生えていたりする。不毛の大地には名も知れぬ雑草がよく似合う。だが、雑草の楽園は風前の灯火だ。今や不毛の大地は存亡の危機に瀕している。その場所はやがてアスファルトの全面舗装が施されるだろう。こうしてつかの間の繁栄は、空き地が駐車場になることで終わる。しかし部屋の壁にかけられた四角い印刷紙には別の自然が息づいている。森が尽きたところに中世の城塞都市が広がっている。それはカレンダーの中の風景だ。ヨーロッパにはそんな景観が数多くあるようだ。さらにそこから目を転じると、今にも崩れ落ちそうな崖の上に新興住宅街が連なる。そんな光景がモニター上に映し出される。いったい自分は何を見ているのだろうか。そこから何が導き出されるのだろう。強風に波打つ竹藪の近くで蚊に刺された。そこで話の辻褄を合わせようとしているらしいが、パズルのつなぎ目になかなか断片を合わせられない。そしてわざとらしく途方に暮れている。まったく本気になれない。いびつな瓶に入っている琥珀色の液体はアルコール濃度が高い。酔いが回るにつれて眠くなるだろう。誰が何をやろうとしているのか不明確だ。事の真相は藪の中だ。どこまでも続く藪の中で足を取られて転ぶ。息を切らせて喘いでいるらしい。逃亡者には未来がある。映画の中ではそうだ。真上からの光に照らされて影が極端に短くなる。
6月29日
世界には未だに戦争状態の地域もあるだろう。実際に戦争になってみれば、戦争の悲惨さを実感できるとともに、平和の尊さも実感できるのだろう。しかし今のところそれらの実感は想像の域を出ないものだ。何も進んでそのような実感を得たいとは思わない。もしかしたら戦争はすでに過去の遺物かも知れない。今戦争が行われている地域は、過去の歴史的背景から脱却できない周縁地域なのだ。そこから導き出されることは、今日の世界では、戦争に至るような原因となる出来事が新たに生産されていないということだ。もはや戦争は、過去の因襲を糧とすることでしかその継続は困難なのである。過去の歴史にしがみつくことで、かろうじて戦争が成り立っているにすぎない。戦争がその地域に暮らす人々に利益をもたらすことは決してあり得ないという認識は、今や世界の隅々にまで行き渡っているかも知れない。グローバリゼーションの効用はこういうところにあるのだろうか。しかしこの認識はかなり甘い楽観論でしかないだろう。脳天気とはこういうことをいうのかも知れない。だが、日本で暮らしている自分の実感は、このようなものになりざるを得ない。今の日本では、たぶんこのような甘っちょろい認識でも通用するだろう。自分はパレスチナ人でもアルバニア人でも北朝鮮からの亡命家族でもない。もちろん、日本人であることに何のこだわりもない。民族としての誇りなどなくても日本人でいられるわけだし、愛国心などなくてもごくふつうに暮らしていける。何もこれは自分だけが特別に抱いている思いではないだろう。まさか北方領土を取り戻すためにロシアに戦争を仕掛けようなどと思っている人は今どきほとんどいないだろう。それが無謀な試みであることなど正気を保っている人なら誰でもわかっているはずだ。昔の日本人はアメリカに戦争を仕掛けることを無謀だとは思わなかった。もちろん当時の世界情勢を把握していた人は、それがまったく勝ち目のない戦であることは重々承知していたのかも知れないが、当時は日清・日露・日中戦争での経験と結びついていて、それだけ戦争が身近な存在だったのであり、戦争が人々の暮らしに恩恵をもたらすかも知れない、という漠然とした期待感が民衆の感覚を麻痺させていたのだろう。それは今日の日本ではあり得ない状況だとは思う。これからもそうであってほしいものだ。
6月28日
たまには晴れることもある。夏の陽ざしは焼けるように熱い。だがここは砂浜などではないから肌を焼くこともないだろう。もうすでに夜だから夏の陽ざしは存在しない。では、ここはどこなのだろうか。ここはここではないどこかだろう。ここではないどこかとはどこなのだろう。それが夏の砂浜なのか。そんなはずはない。例えば、夏の砂浜で自ら進んで皮膚にやけどを負う若者は馬鹿かも知れない。太陽から降り注ぐ紫外線は馬鹿者達の脳髄まで達しているだろうか。南海の漁師や炎天下の土木作業員は、馬鹿でなくとも労働によって肌を焼く。たぶん、日焼けにも焼ける状況によって種類や価値に違いがあるのだろう。例えば、日焼けサロンで焼く日焼けには価値があるかも知れない。金を払ってわざわざ焼いたのだから、焼いた当人にしてみればそれだけの価値がないと困るだろう。同じように、ハワイまで行って焼けばさらに価値が増すだろうか。そういう種類の人にとってはそうなのだろう。確かに日焼けに興味のない人にとっては、それはかなり馬鹿げた行為と思われるだろうし、わざわざ皮膚癌になる危険性を高めてまでして、何を獲得したいのか理解に苦しむかも知れないが、焼いた当人達にしてみれば、実際に何らかの価値や雰囲気を得たつもりになっているようだ。それは一次的には外見上の価値であって、日に焼けた肌が魅力的だとメディアによって思い込まされている人にとっては、さらなる価値を帯びるのだろう。その一次的な外見上の価値を共有している異性や同性を焼けた肌の色で誘惑できる、という二次的な価値に結びつく。そのような意味では、確かに紫外線は馬鹿者達の脳に危険な作用を及ぼしているのだろう。それが危険かどうかは、その価値を認めるか否定するかで判断の分かれるところだが、発癌性云々を抜きにして考えるなら、たぶんそれは趣味の範囲内での危険度かも知れない。
6月27日
世界に果てはないが、映像や画像にはそれがある。それらはいつも四角く区切られている。そこには外界との境界が存在するのだ。そのこちら側とあちら側の境界の存在が、何よりもあちら側が作り事の世界であることを認識させてくれるだろう。常にその境界は限界を露呈させる。限られた面積しか持たないその画面上で演じられている出来事には広がりが欠けている。境界のない無限の広がりこそがこの世界そのものを現しているのであって、映像や画像はそんな世界の一部分を恣意的に四角く区切って提示しているにすぎない。その四角い画面に見入る者は、常に区切られた境界の外側に存在している事物を無視して、その内側だけで自足した光景を見いだしてしまうだろう。フィクションとは境界を設けるという行為そのものである。それらが四角く区切られていることが虚構であることの証なのだ。この世界はそんな虚像を映し出す四角い窓で満ちあふれている。それが真昼の世界の特徴なのか。真昼の光は眩しすぎる。真昼の光は少し弱められなければならない。それはいつのことか。ふと歩みを止めて辺りを見渡すと、砂利道の脇には雑草が生えている。だがその光景がどうしたわけでもない。その景色の中では何も強調したりしない。それがどうしたのだろう。相変わらず自分が何を考えているのかわからない。ただどうということはない平凡な日々を送っているだけなのだろう。なぜか重苦しい空気は雨を呼ぶらしい。しかし、この雰囲気のどこが重苦しいのか。とりあえずまったく先が見えてこない。だが五里霧中というわけでもなさそうだ。この不安や焦燥は一時的なものだろう。どこまでも何がどうしたわけでもないのだろう。これからやることはわかりきっているし、何をどう考えればいいかもわかっているつもりだ。だがその結果として先が見えてこないのだ。こんなやり方ではだめなのだろうか。たぶん、そんなこともわかりきっているのだろう。わかっているからこそ出口が見えてこないのだろう。だが出口などはじめからないのだろう。いったいここを出てどこへ行けるというのか。あの世か?あの世なら死ねば行けるかも知れないが、今のところ興味はない。たぶんまだ死ぬ間際ではないのだろう。こうして出口を見つけられない間は生かされているわけなのか。
6月26日
雨音が退き、つかの間の静けさに包まれる。にわか雨はとうに止んでいる。しかしこの蒸し暑さはまだしばらく去りそうにないようだ。これからは暑くなる一方だ。あと二カ月は辛抱しなければならない。しかしそんなことはどうでもいいことだ。心頭滅却すればどころではなく、この時期は蒸し暑いのが当たり前なのだ。それ以外はほとんどあり得ない。たぶん、そんな当然の成り行きに毎年うんざりするのが恒例行事になっているのだろう。それだけでも暇つぶし程度の刺激をもたらしてくれるというものだ。つまり、この蒸し暑さは、うんざりしながらもありがたいことなのかも知れない。快感ばかりではなく、同時に不快感を味わうことも必要なのだろう。この程度の不快感をやり過ごせないようでは、すぐにくだらぬ感情の虜になってしまう。不快に耐える必要はない。不快は不快なのであり、不快は不快として受け止めなくてはならないだろう。例えばその不快感を別の感情に置き換えると、暴力沙汰になってしまったりするときもあるだろう。不快に暴力という出口を開くわけだ。そんなところに突破口を見つけたいのなら、それはそれで仕方のないことかも知れない。やりたければどうぞ勝手にやってほしい。ありふれた日常犯罪に発展するだけだろう。被害者でもない限り、そんなことにいちいち腹を立てることもない。やはりそんなことはどうでもいいことなのだ。しかしそれでは、この世はどうでもいいことばかりになる。それでもいいのか。いいだろう、すべてがどうでもいいことなのだ。ここで述べるだけなら、そうなってもいいのかも知れない。今ここではどうでもいいことでも、また別の機会にはそうではなくなるだろう。その時になったら、そこでそれなりのこだわりを述べればいいことだ。しかし、そんな機会がいつやってくるのだろう。未来のことはわからない。もうそろそろくだらぬ予言にも飽きてきた。だからここでは、未来のことなどどうでもいいことになるのだろう。せいぜい、この状態から少しは前向きに気が変わることを期待しておこう。
6月25日
理由ははっきりしないが、何やら反抗しているらしい。しかし何に対して反抗しているのかよくわからない。まるで空気に逆らっているみたいだ。つかみ所のない雰囲気が不快感を増幅させる。確かにそこには何らかの反感が芽生えている。それがどのような情動へ発展するかは知らないが、たぶん、気に入らないことがあるから反抗しているのだろう。やはりそれは、自らに由来するものなのだろうか。そんな気がするのだが、それだけでは何もわからない。何かもめごとに巻き込まれているわけでもない。ただ漠然とした焦燥感がある。いったい何を焦っているのだろう。はたしてこれから自分はどうすればいいのだろう。今さら何をどうやろうと、もはやどうにもならないことは確かだ。今のところは何もやりようがないだろう。今まではそんな思いに包まれてきた。今現在もそうだ。これからもおそらくそんな思いを抱き続けるのだろう。未来はいつも漠然としている。そして救いが何もないのもいつものことだ。はじめから救いなど求めていないのだからどうしようもない。宗教に救いを求めている人は幸せ者だ。また恋愛に救いを求めている人も幸せ者だろう。だが他者に逃げ道を求めても仕方ないだろう。強がりではなく、安易に救われたくない。禁欲とも快楽とも無縁でいたい。そんなことができるはずはないだろう。ある程度はそのどちらにも染まってしまうし、現にそうなのだろう。ようするに求めているのは不可能な願望なのか。しかし不可能からは逃げない。可能よりも不可能を選びたい。そもそもそれが不可能な願望なのだ。こうして、意識は自然と袋小路へと引き寄せられる。そんな見え透いたカラクリにとまどう気にもなれない。どうやら馬鹿げた戯れに絡め取られているらしい。できないことをやろうとすることのために立ち往生を余儀なくされている。気がつくと、近頃はそればかりになってしまっている。はたしてこれでいいのだろうか。いいわけはないが、なぜかこうなってしまうのだろう。これ以外にやりようがないらしい。何という不自由さだろう。ならば、こんな状況は何としても打破しなければならないわけか。そんな気にはなれない。そんな気は毛頭ないようだ。では、どうしたいのだろう。たぶんそれがわからないのだろう。時折気まぐれに反抗を試みる時もあるが、まったく本気にはなれないので、結局は元の木阿弥になってしまっている。しかし、こんな状況をあまり深刻には受け止めていないらしい。これは単なる怠惰のなせる技なのかも知れない。もしかしたら、このまま死ぬまで怠けている可能性もなきにしもあらずだ。まあ、それでもいいだろう。
6月24日
かなり湿度が高いようだ。だが部屋の中にいれば蒸し暑さから逃れられる。エアコンが人工的な乾きを供給してくれる。それとは無関係かも知れないが、心も渇ききっているらしい。いつも空虚な思いに満たされているのだろうか。虚無に憧れているわけか。だが虚無に中身はない。自分には本質がない。あるのは虚無だけか。どうやらくだらぬ美意識に染まっているらしい。見え透いた嘘だろう。今は冗談にもならない拙劣な感性であるらしい。そうやって、くだらぬ感傷に浸って何を求めているつもりなのか。偽りの虚無感に酔いしれて、さらなる虚無を求めている。しかし求めている虚無も偽りだろう。ようするに真に求めていたのは虚無という言葉であり、現実にそれを獲得して、こうして虚無という言葉と戯れている。これが紛れもない真実になるわけか。それはかなり馬鹿げた真実だ。もう少し気の利いた言葉のドライヴはないものか。たとえば、迫り来る死と戦う末期癌患者の愛と感動の物語とかが必要か?そういう末期的ヒューマン・ストーリーが人々の間で感動を呼ぶのだろう。だがいくら共感が得られるとしても、そんなものばかり追い求めてゆくと、ドキュメンタリーそのものが末期的症状を来すだろう。それ以外のものが見えなくなる。どこの誰が死のうと知ったことではない。そんな代物に励まされるようでは人としてお粗末きわまりない。感動や共感や激励などは一時的な効用しかもたらさないだろう。そもそもそれは効用でさえなく、単なる錯覚かも知れない。そういう瞬間的なアクセントばかり求めても空虚は埋まらない。世界は英雄と犯罪者だけで成り立っているわけではない。それはセンセーショナルなマスメディアが情報操作を駆使して作り上げているフィクションである。もちろん英雄と犯罪者の合間に登場する一般市民も、メディア側の都合で編集されていて、都合の悪い言動はあらかじめカットされ、メディアそのものを脅かさない程度には人畜無害な人物に加工されて登場する。やはりそれは恣意的な現実のコラージュにしかならないだろう。そんなものの出来の善し悪しをああだこうだ述べても仕方のないことだ。たぶん人は英雄にも犯罪者にも一般市民にもなる必要はないだろう。そんな登場人物を進んで模倣するのは愚かなことだ。無理かも知れないが、そういう誘惑には惑わされずに勝手に生きて死ねばいい。別に空虚と戯れても、それがどうということはないだろう。勝手に暇つぶしをやっていればいい。自らの立場など正当化したくはないし、実際できないだろう。どのように生きてもかまわないのだから、特定の立場を正当化するのは無意味なことだろう。否定もしないし肯定もしない、ただそうやっているだけだ。それが虚無主義だというのなら、その通りだろう。それはそれでかまわないはずだ。それを肯定することはできないが、現実にそうなのだから仕方がない。目的を持って生きろ、とかいう強迫観念を抱いて生きてゆきたいのならそうすればいい。やめろとは言わない、そうやって生きて死ねばいい。自分はそれをやらないだけだろう。今までの自分にはそういう許容力が欠けていたのかも知れない。彼らの生き方も認めてやらなければいけないのだろうか。だが、自分がそれを認めたからといってどうなるものでもない。こちらで認めても、あちらにしてみれば認めていないことになるのだろう。あちらの言い分は二者択一だ。それを認めることはそういう生き方を実践することだ。実際に夢や目的を持って生きなければ、それを認めたことにはならないだろう。たぶんそれがマスメディアがファシストの末裔であることの証かも知れない。
6月23日
鳥のさえずりに耳を傾ける。柄にもなく風雅な雰囲気を愛でているのだろうか。だが、いつまで経っても鳴き止まない。鳴き止まないどころか、どんどん鳴き声が大きくなる。かなりうるさいので目が覚めた。それは目覚まし時計の音だった。朝から意識がもうろうとしているらしい。とりあえず、今日も日常茶飯事をやらなければならないようだ。そして時が経つ。そうこうしているうちにもう夜になってしまった。なんのことはない、こうしていつもの一日が過ぎ去っていくらしい。夜の闇を眺めながら、ただ漠然と未来の姿に思いを馳せる。自分はどのような思想に染まっているのだろう。今は紅葉の季節ではないし、夜なので日焼けして肌が黒く染まることもない。何を述べているのだろう。どうやらいつものはぐらかしをやっているらしい。ストア派とエピクロス派の違いはどのようなものだったろうか。ネットで検索したら違いがわかるだろうか。それはどちらかが禁欲主義でもう片方が快楽主義であったかも知れない。専門家に言わせれば、そういう安易な区別では誤りなのかも知れない。ようするに、禁欲を追求することが至高の快楽につながり、逆に快楽だけを追求してゆくと、ついには禁欲的な求道者になってしまうということなのか。勝手な解釈で安易な結論に至る。ならば書物の上でのサドは、禁欲的な快楽の求道者となるだろうか。はたして彼はストア派なのかエピクロス派なのか。例えば、陰と陽が交じり合った姿を表象する太極の思想とはそういうものなのか。ますますいい加減な解釈に進展してしまう。なんとなくわかったようでいて、その実何もわかっていない。欲望は他者がもたらすものだ。欲望をかき立てる対象がそこに出現している。そこで欲望を押さえ込もうと努力する方が禁欲主義で、欲望を満たそうと努力する方が快楽主義ということになるのだろうか。どちらにも努力ができない場合はどうなるのだろう。どっちつかずということか。どうも主義には至りそうもないらしい。とことんまで突き詰めて考えるには至らない。考えれば考えるほど眠くなる。今は、ぎりぎりのところで思考を働かす状況にはないようだ。命を懸けてひとつのことに全知全霊を傾けるような生き方とは無縁なのだろう。そういう恐ろしいことをやっている人はどこにいるのだろう。きっとどこかで命を燃やしてがんばっているのだろう。できればそんな立場にはなりたくない。とりあえず、英雄とか犯罪者にはならずに生きてゆきたいものだ。しかしいつまで経ってもこんな半端者でいられるだろうか。
6月22日
自分というものが存在するかどうかはわからない。意志が石のように硬いかどうかわからない。はたしてそれで賢いといえるのだろうか。まわりは相変わらず暗闇に支配されている。誰の支配も受けつけないが、自分の支配をもはね除けられるだろうか。自己による己の制御を拒絶している。何がそうさせるのか。何がそうさせているわけでもなさそうだ。そうさせないように自己ではない何かがそれを拒絶している。しかし何が頑なに抵抗しているのだろうか。やはりこれは単なる怠惰なのだろうか。怠惰は自己に属さないものなのか。いったいそこにどのような作用が働いているというのだろう。たぶん何らかの力がいくつも交錯して相互作用した結果としてこうなっているのだろうが、だからといって、それがどうしたわけでもない。ただこうなっているにすぎない。それの解明をここで試みるつもりはない。もうどうしようもなくこうなってしまう。それだけのことだ。もはやこれは迷路などではない。ここには迷路すら存在できない。進むべき通路すらない。今まで道を歩んでいると錯覚していたのかも知れない。迷っていたのではなく、元から迷うべき選択肢が不在だったのだ。ようするに、自分がやるべきことは何もない。この世界でやるべきことのすべては、自分ではなく、他の誰かがやればすむことなのだろう。これからも何に対しても、関わり合うことはないかも知れない。たぶん自分としては、生きる必要も死ぬ必要もないだろう。こうして、もはやどうでもよくなった自己は放棄されているらしい。はたしてこれはフィクションとなり得るだろうか。架空の自己について架空の話をでっち上げてみる。抵抗の原因となる摩擦力は熱として発散されるらしい。おおよそすべての発熱作用は抵抗の証なのだろう。冷静さを著しく欠いているようだ。平穏な未来はいつやってくるのだろう。それは永眠したときにしか訪れないものなのかも知れない。安息日は一時的な死の時なのか。亡者に安息の時は訪れない。だから亡者は不死を身につけた。自己とは欲望に突き動かされ続ける亡者のことなのだ。だから、亡者が夢に向かって努力して、それに挫折したり失敗すれば凶悪な犯罪者になる。マスメディアにはそういう人が必要だ。だから成功者という餌を提示して常に欲望を煽り立て、目標を持って夢に向かって努力しろと日夜がなり立てる。確かに世界は闇に支配されている。しかしそれを自分がどうしろというのか。自分個人ではどうすることもできないだろう。だから、自分や自己は放棄しなければならないわけか。わかりづらいが、たぶんそういうことなのだろう。自分ではなく他者にやらせなくてはいけない。それは恐ろしい結論だ。自己の責任をまったく放棄している。だが、元から無視されているので、責任などまったく取りようがないだろう。それは仕方のないことだ。かえってその方が自分は何もやらなくていいので気楽な面もある。このようなやり方では何も正当化できないだろうが、それでいいのかもしれない。根拠は何もないし、これ以上の説明は今のところ持ち合わせていない。そういうわけで、自分以外の他者はそれをやってほしい。メディアの支配に屈して彼らに吹き込まれたすばらしき目標に向かって努力してほしい。それが亡者として生きる正しき道だ。
6月21日
疲労し、疲弊し、徒労に徒労を重ね、かなり煮詰まってきたようだが、まだ何かあるだろうか。取り立てて何もないような気がするが、それでも何か思うところがあるらしい。だが今は何も思っていないつもりだ。そう、何もかもがどうでもいいのだろう。この世界の中でどのようなこだわりが必要なのだろう。いったい何にこだわれば気が済むというのか。気休めに言葉にでもこだわってみよう。それは愚かな選択だ。だがどうして愚かなのかわからない。それをわからないことが愚かなのだろう。言葉にこだわるということは、循環してしまうということなのか。つまり、言葉に向かって言葉を重ねる。螺旋状に前進しているつもりが、結局のところは堂々巡り状態なのだろう。それでもかまわないのか。望むところか?目の前の空気と戯れて、手足をばたばたさせているうちに、もしかしたら宙に浮くかも知れない。そんな空想と戯れる。夢の中では空を飛べる。漫画の中でもそうだ。たぶん、ライト兄弟はもっと賢かったのだろう。リンドバーグはアポロの月面着陸をテレビで見ていたらしい。映画の中では空中浮揚車をよく見かけるのに、現実の車には未だに四つの車輪がついている。その落差が気に入らないのか。文部科学省は暇つぶしに空飛ぶ円盤でも制作してみたらどうか。今こそ子供達に夢を与えようではないか。なるほどおもしろい。冗談とはこのようなタイミングで打ち出せば、少しは笑いに結びつくのだろうか。少なくとも自分は笑えたからそれはそれでいいか。自分さえよければそれでいい。他人のことまで気を配っている余裕がない。だからこんな殺風景な部屋でも耐えられるのだろうか。だが例えば、部屋の中に色とりどりの花々が咲き乱れていてはおかしい。狂人の部屋はそんな感じだったりするのだろうか。真っ赤な壁紙で覆われた部屋の中で暮らせば発狂するかも知れない。暇な人は試してみよう。他人を発狂させたら地獄へ堕ちるか。さあどうなのだろう。地獄の赤といえば三途の川の色がすぐに思いつく。三途の川は血で赤く染まっているのが相場か。それは、屈強な赤毛の白人男は赤鬼とあだ名を付けるのがスポーツ新聞の相場なのと同じことか。しかし連想ゲームはもう流行らない。そういえばあの番組はいつ終わったのだろう。子供の頃によく見た覚えはあるが、ある時期からまったく見なくなったようだ。たぶんそれが一家団欒の終わりだったのだろう。そして今は曇り空の下で暮らしている。もう何も思わない。衣食住以外は何もなくともこうして生きている。それで満足しているわけでもないだろうが、満足していなくてもあまり気に留めずにいられるらしい。満足しようと努力する気が起こらない。そういう努力では満足できないからだ。夢や目的を持って生きることでは満足できない。ようするに自分は愚かであるらしい。
6月20日
迷いつつ迷い慣れて、何に迷っているのかもわからなくなる。たぶん、何も迷ってなどいないのだろう。ここでは、気休めに、澄み渡った風景が眼前に広がっていることにしておこう。だが実際は、未だに迷路の中を彷徨っているのだろうか。そうかも知れないし、そうでないかも知れない。そんなことはどうでもいいことかもしれないが、この時点では何とも言えないらしい。つまらぬ嘘には飽きた。だから何も思い浮かばない。気晴らしに遠くを見れば、何か気に入ったものでも見えるだろうか。今の季節は見えないかも知れないが、あと何ヶ月が経過して、冬晴れにでもなれば、たぶん澄み切った空気を通して、遠くの山並みがくっきりと見えるだろう。それまで待てばいい。だが意識して待っていなくても、その時期が来たら、いやでもそんな光景を目にするだろう。通りがかりに偶然見かけることになるのだ。もしかしたら、覚えていないかも知れない。目にするだけで、記憶として刻み込まれずに、意識を網目をすり抜けてしまう。道ばたに咲いている雑草の花など気にも留めないだろう。よほど神経が研ぎ澄まされていないと、かすかな空気の振動を感じ取ることはできない。どういうわけか今は目が淀んでいるし、意識も不鮮明だ。なぜか生きてゆくのが馬鹿らしく感じる。しかし死ぬのも面倒だ。死の恐怖に打ち勝つことなどできない。だからこうして生きているのだろう。それは確かに馬鹿らしいことかも知れないが、その馬鹿らしさを夢や目標などを設定して打ち消すつもりはない。そんなやり方はごまかし以外の何ものでもない。馬鹿らしさは馬鹿らしさとして残しておかないと、つまらぬ罠にどうしようもなく簡単にはまってしまうだろう。馬鹿らしさが本当の馬鹿に変化してしまう。そうなったらそうなったで仕方のないことかも知れないが、それでもやはり、安易な目標設定は拒否し続けるだろう。面倒だし、何よりもそういうことをやっている人々が嫌いなのだ。現実から目を背けようと必死になっているように見えてしまうから。そういう人は、違う価値観に遭遇すると、すぐに真剣な眼差しになってくだらぬことを強弁したがる。ようするに、みっともなく見えてしまうのかも知れない。
6月19日
窓の外で雨が降っている。どうもそればかりなようだ。梅雨だから仕方ない。だが、夜の闇に見とれているうちに、またしても昨日になってしまったようだ。こんな風なやり方では気が進まないから結局こうなってしまう。時間に追い越されて昨日になってしまったので、今日と明日がない。日々の煩わしさに時間を取られて、ほとんど何もできないうちに、ふと気がついたらいつもの深夜だ。そしてさらに何もしないうちに今朝になる。ちょっと気を抜くとたちまち二日も経ってしまうようだ。近頃は時の経つのが早い。まるで老人のような台詞だ。老人でなくとも時の経つのが早いときもあるだろう。今はそんな時期なのだろう。なぜこうなってしまうのだろう。思い当たる節はいくつもある。怠惰が主な原因だが、確かに心身とも疲れている。こんな状態では、気休め以外に何を求められるのだろうか。今は何も求めていない、といったら嘘になるか。嘘かも知れないが、それでも何かしら漠然と求めているのだろう。そう、表向きはポジティヴになって、薔薇色の夢に向かって突き進んでいるつもりなのだろう。漆黒の闇の彼方には光り輝く未来が待っている。いつもそんな風に感じられるのだ。出来合いの表現で嘘をつけばそうなるだろうか。確かにこの時期は雨に打たれて寝ぐせは直るが、それで気分爽快とはいかないようだ。それは当然だろう。しかし、そんなことはどうでもいい。自分の気持ちなど自分とは無関係だ。だが、それがよくわからない。なぜ根拠もなしにいきなりそう言い切れるのか。もしかしたら、求めていることとは、そのような言い切り方なのかも知れない。何もない空虚な時空に精神が耐えきれなくなり、自然と意識が自分の内面に近づきつつあるとき、いきなり、そんなことはどうでもいい、が出現する。自意識がそこから先へのドライヴを拒否している。気持ち悪い内面への戯れへ行かないうちに、この辺でやめておこう。これはこんな虚無でしかない。そこから先へ発展させるも面倒だ。
6月18日
どうやら自分は何も考えていないわけではないらしい。一応は何かしら様々なことを考えているようだが、それを表出することができない。結論が出ないのだろう。考えがまとまらず、少し横になったら、たちまち翌朝になってしまう。疲れて眠ってしまったらしい。それで昨日までの疲れはいくらかとれたようだが、相変わらず考えはまとまらない。しかし自分はいったい何を考えているのだろう。それがわからない。なぜそれを言葉で言い表せないのだろうか。それで考えていることになるのか。それもわからない。たぶん嘘をついているのだろう。日頃から何を考えているか自分ではよくわかっているはずだ。よくわかっているはずなのに、よくわかっているがゆえに、その考えを直接表に出すことができない、ということなのか。わざとらしい、そんなもったいぶった性格ではないはずだ。時折、そのわずかな思考の断片が一瞬こぼれ落ちることもあるようだが、すぐにそれは別の言葉で言い換えられて隠蔽されてしまうらしい。結果的にそれは、妙に遠回しな表現になってしまっているように思える。それで途中から何を述べているのかわからなくなる。まともに言葉の連なりを構築できないようだ。焦れったくて歯がゆいが、こんな風にしかならない。虚無に意識が覆われているらしい。今は内容のある対象を何も見つけられないでいる。こんな状況では、どうやらしばらく待つしかないようだ。待てばまた何かしら出くわすだろう。その時になったら、またそれなりに言葉を弄してみるしかないだろう。どうやら気の進まぬときにはつまらぬものしか出てこない。とりあえず空虚とはこんなものだろう。大げさなものではない。
6月17日
なぜ夜になると木霊が届くようになるのだろう。まったく意味不明だ。それは、たぶんいつものでまかせだろう。暗闇をかき分けながら久しぶりに外から戻る。しばらく部屋でくつろぐが、それでどうしたわけでもない。まさか枯淡の境地に達しようとしているわけもない。それとはまったく関係のない心境なのだろう。相変わらず言葉が分散してしまっているらしい。今はその散らばった断片を集めている最中なのかも知れない。しかしそれを集めてどうするというのか。この際、そのすべてを燃やしてしまおう。こうしてできもしないことを一応は述べてみる。以前のくだらぬ感情との関連では、脈絡は何もないようだ。何を述べてみても、所詮英雄気取りにはなれないだろう。心臓にはクロームメッキが施されてある。軽い頭痛の後に、さらにそれよりも軽い発作が訪れる。それはありもしないフィクションの発動を誘発させるための儀式なのか。そうであったなら好都合だろう。腐食した壁に囲まれた空き地が隠れ家になる。何も考えてはいない。そこで常軌を逸した感性のドライヴから身を守っているらしい。流転しているのは人々の命ではなく、そこで流行っている馬鹿げた思い込みだろう。月並みな言葉を用いて、ありふれた狂気につまらぬ常識が縫い込まれる。そうすることによってわけのわからない精神の飛躍を押さえ込んでいるつもりなのだろう。信じられるものはこの世界のすべてだ。軽薄な人々が命という名の宗教をゴミ言葉とともにあたりかまわずまき散らしている。画面や紙面から飛び散る狂気のかけらを避けている暇はない。あちらから送り出された情報はこちらで実質を伴って作用する。狂気の世界を受け入れる素養が、こちらの世界で暮らしている人々にはすでに備わっているらしい。前もって心の鍵をこじ開けるウィルスに感染させられている。で、それで何か気の利いたことを述べたつもりなのか。おそらくこの程度ではだめなのだろう。やはり満足からはほど遠い。それは狂気などではない。それらのすべてが、まったくの正気な人々によって行われていることなのだ。そんなものを心の闇や狂気によって説明すること自体が、今ここで流行っている馬鹿げた思い込みに感染させられてしまっている証拠だ。正気の人々が、真心を込めて、すばらしい命の思想を広めようとしているわけだ。で、「いのちの地球」には、ミサイル防衛構想が必要なわけか?それとこれがどう連関しているのかは知らない。アメリカが新たにミサイル開発をしたいのなら、北朝鮮のミサイル開発も解禁すべきではないか。公正な競争があってこそ、画期的な技術革新や産業育成に繋がるというものだ。また、平和秩序を乱すならず者国家のリストには、アメリカの支援を受けた圧倒的な軍事力を背景として、投石する人々に重火器やミサイルで応戦しているイスラエルも含めるべきではないのか。おそらく命の宗教に染まった人々はこんなことすら述べられないだろう。正気の人々は役立たずなのか?田中外相には、公式の場でこの程度のことは述べてほしいが、おそらく無理だろう。周りがそれを許さない。
6月16日
今月は六月だ。枯れ葉が舞い降りる十一月、まだそれを見つけようとしていない。辺りに言葉が見つからないから、去年の秋を思い起こして、失われた空間の中に空白の時を思い出してみよう。大げさな回想の中に迷路の出口が見つかるだろう。ヴィブラホーンの音色を思い出す。それは苦痛とは無関係な挿話になる。物語と無縁な自分は、平坦な大地から過去の姿が導き出されるだろう。心の内面を無視しながら、不遜な態度の裏側を読みとる。言葉は中空にぶら下げられたまま、誰のところにも降りてこない。投げかけられた言葉は誰もいない空間にむなしく吸収される。それでも相変わらず仮面の表情に変化は起こらない。解決の糸口は敢えて無視されなければならないのだ。それがあからさまに提示されては困るのだろう。風のささやきに耳を傾けても、なぜかそれをそのまま受け取ることができないでいるらしい。何よりも自分が取り上げている素材の中から真の言葉が発せられないと、我慢がならないようだ。来るべき言葉を無視しようと懸命にがんばっている姿は痛々しくも滑稽に見える。この大地が求めているのはそんな声なのだろうか。たぶん誰もそんな声を聞き取ろうとはしないだろう。意識から消えていった人々は、今は何をやっているのだろう。彼らは故郷への郷愁を胸に秘め、流浪の民と化した。確かに様々な境遇がある。今こそ人それぞれに分け与えられた運命を呪ってみようではないか。気休めの戯れ事は決して長続きしないだろう。求めることは失うことを通して達成される。しかしそれは誰の物語なのだろう。匿名の個人はここで消滅する。筋書きに絡め取られた末路を打ち破りたいらしい。末路を避けながら、末路の向こう側からされる誘惑の手招きに引き寄せられるだろう。それが末路といえるのか。いったいどこで目が覚めるのだろう。目には目を歯には歯を、人々に与えられる報酬は昔からあまり変わっていないようだ。こちら側ではいつまで経っても良識ある行動は報われないだろう。名を得るには良識などいらないそうだ。人並みの卑劣さが備わっていれば紳士面ができる。しかしそれだけでは満足できない。それらの人々には何が足りないのだろう。きっかけがない。風を受け流すことができない。つまらぬ感情にこだわるあまり、大地の鼓動を聞き取れなくなる。些細なことに一喜一憂することばかりになるだろう。毎日がそれの繰り返しになる。今でも覚えているだろうか、その出来事を。そのハーモニカの音色を。なぜそこで短い語りかけが行われるのだろう。はじめからやり直そう。取り返しのつかない毎日からかけがえの瞬間が見失われる。それは人の命や思い出などではない。これから先、まだ決して揺るがない態度を保つことができるだろうか。弱者の泣き言などは無視してそれを貫き通せるだろうか。だが、本当はそういうものではないかも知れない。ここで硬直するわけにはいかない。初志貫徹などとはまったく違う何かを見いださなければならないらしい。そのための試行錯誤なのだろう。
6月15日
なぜか今日も寝不足で眠い。この先無限に眠りたいが、果てしない眠りとは死のことだ。そんな表現はありふれている。ついでに、昨日より今日の方がより死に近づいている、と月並みに思うのだろう。たぶん、他に何も思い浮かばなくなったとき、人は自らの死について考える。本当に馬鹿な人達だ。子供が八人死んだだけで、まるで我がことのようにうろたえてみせる。やはり、こんなことを述べてはいけないのだろう。自分のような人間にはなかなか生きにくい世の中なのだろう。本当にそう思ってしまうのだが、どうか非難しないでほしい。どうもマスメディアが画面の向こう側から押しつけてくる多数の人々の思いとは、相容れない精神構造をしているらしい。自分は部外者なので、いくら許せない悪人だろうと、ガキを八人殺した者を擁護したくなってしまう。それはなぜなのだろう。まったく同情の余地のない、どうしようもない極悪非道の他人なのに、連日連夜あれこれ過去の悪行を暴き立てられ、さらし者になっていることに憤りを覚える。マスメディアのやり方は絶対に許せない。弱者の慰み者と化している彼に成り代わって、くだらぬお涙ちょうだい報道に荷担している者全員を殺してやりたくなる。当然それは実行されないだろう。ただそう思うだけで、自分には何もできないのだ。自分も弱者なのだろうか。自分の無力さを思い知らされる。もちろん、現実にそんなことは誰にもできないことだろう。しかし、なぜそういうお涙ちょうだい報道がだめなのだろうか。なぜ自分はそういう光景を目にすると、押さえようのない怒りを覚えるのだろう。なぜそんなに犠牲となった人々に同情している人々をことさら取り上げるのだろうか。これもかこれでもかと一週間も連続して悲嘆にくれる人々を報道するのか。もしかしたら、世の中のすべての人々が同情して涙を流すまでそれは続けられそうな勢いだ。すべの者が涙を流したら、このような事件は二度と起こらなかったりするわけか。そんなことはあり得ない。そういうことではないのだろう。人がむごい殺され方をしたら、とりあえずは悲しみの涙を流さなければいけないのだろう。そしてマスメディアはそれを連日報道しなければいけない義務があるのだろう。やはりそれは自分とは無関係な世界なのだろう。そういうことだ、そういうものは見なければいいのだ。今のところはそういう結論になるしかなさそうだ。部外者は黙っていればいい。行き場のない怒りは押し殺すしかなさそうだ。自分はああいうものとは無関係なことを述べなければならない。こんなことを述べてしまうこと自体、自分が弱い証拠なのだろう。くだらぬ感情を抑えなければならないのは自分の方だ。
6月14日
見上げれば空が低い。雨の季節に鳥の巣が増える。この時期は餌が豊富なのだろう。これでもう少し暑くなれば、足長蜂の巣も成長してくるだろう。何気なしに蝸牛の殻を踏みつけた。確か蝸牛を専門に食べる昆虫がいたはずだ。近頃はナメクジを見かけなくなった。たぶん、こんな雨の日に雑木林にでも入れば、縞模様の入った大きなナメクジに出くわすかも知れない。ナメクジも蝸牛の一種なのだろうが、殻がついているかいないかでだいぶ印象が違ってくる。ところで蝸牛は陸上に生息している巻き貝と見ればいいわけなのか。その辺がどうも蝸牛やナメクジが貝の一種とは思えないのだが、本当のところはどうなのだろう。種類によっては鳥も蝸牛を食べるらしいが、近頃はやたらと雀の鳴き声がうるさい。ついでに目覚まし時計も鳥の鳴き声で起こしてくれる。不快な朝を迎えたくないので、目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚まして時計のスイッチを切る癖がついてしまった。それが近頃悩まされている寝不足の原因だろうか。寝不足が溜まってくるとやがてその反動がやってきて、夕方に意識が朦朧とし始めて、気がつくと朝になっていることがある。しかしそれでもまだ眠たい。今度は寝過ぎて、眠たいのに眠れなかったりする。これはどういうことなのだろう。ようするに疲れているということか。たぶん、今夜は雨音が気になってなかなか寝つかれないだろう。つまりそれは神経過敏症の一種ということか。どうなのだろう、神経症にもいろいろな症状があるようだ。だがこの程度では病気のうちに入らない。病気であるかないかは医者が判断することだ。健康だと思っていても、病院で診察してもらえば、何かしら病気が見つかるかも知れないが、去年の夏に胃腸の具合が悪くなって十年ぶりぐらいで病院に行って診察してもらったら、単なる夏バテでいたって健康だといわれた。どうもそれほど寝不足では悩んでいないようだ。どういうわけか、悩まされていると述べたとたん、そうではなくなってしまうようだ。ようするに自分は、かなりおかしな体質であり、恐ろしくひねくれた精神構造なのだろうか。だが、こんな個性もそのうち消えてなくなってしまうだろう。これは、この場でどうでもいいことを述べるために即席で形成された個性なのだろう。
6月13日
思い出そうとしていることとは別のことを思い出す。不意に昔の記憶がよみがえる。あのころは何を考えていたのだろう。何も考えず、ひたすら祈っていた、この世界が消えてなくなることを。しかしそれは誰の記憶なのだろう。またもや作り事の思い出なのか。まるでどこかの青春ドラマで根暗な少年が思い描く願望のようだ。赤茶けた剥き出しの大地がうねっている。アマゾンの奥地にある金の採掘現場ではありふれている光景だろうか。それはわざとらしくおかしな表現だ。時代劇では佐渡の金山あたりが有名なところだろう。たぶん火星へ行けばそればかりかも知れない。何を述べているつもりなのか。苦し紛れに繰り出された言葉がうねっている。曲がり角にさしかかっているらしい。何気なしに逸脱が連続してしまう。街中でふと見上げると、高層ビルの壁から装飾物がせり出している。金属製のガーゴイルに見下ろされながら並木道を歩く。その道はどこへ繋がっているのだろう。どこへでも繋がるだろう。神社の裏山は鬱蒼とした樹木で覆われている。深夜にでもなれば、樹木の幹に釘を打ち付ける音でも聞けるだろうか。今でもワラ人形にすがる人がいるらしい。たまにワラで包まれた納豆がスーパーで売っているかも知れない。きっとワラにもすがる思いなのだろう。しかしクライスラービルの近くに並木道があっただろうか。ニューヨークへ行ったことがなのでその辺は思いっきりいい加減だ。ようするにこれは昔の記憶などではなく、単なる出鱈目の羅列でしかないだろう。こうして横道へ逸れているうちに、何を思い出そうとしているのかもわからなくなってきた。確か昨日も雨だったような気がする。では明日も雨だろうか。街中の銅像が雨に濡れながら少しずつ溶けてゆく。なぜそれらは裸婦の像が多いのだろうか。それは日本特有の現象かも知れない。なぜか沖縄には小渕元首相の銅像が建っているらしい。この場合、銅像も記念碑の一種なのだから、立つよりも建つの方が適切な表現であるようだ。仮名漢字変換ソフトでは一応そのような判断であるらしい。銅像が建つ、銅像が建っている、なぜ銅像は立ってはいけないのだろうか。確かにロダンの「考える人」は座っている。昔あった英会話学校のコマーシャルでは、座りながら移動していた。中には器用なことができる銅像もあるのだろう。なるほど、様々な迂路を経て、やっと思い出そうとしていたことを思い出したらしい。
6月12日
過ぎゆく時に流されて、何もやらないうちに朝がくる。無駄な時を何となく過ごしてしまった。だが、その妙に間延びした時間の中からいつもの言葉が紡ぎ出されるだろう。そう、そのとき何を思っていたのだろうか。闇に溶け込んで何を聴いていたのだろう。ときにはくだらぬ映像に不満が募ったりするのか。とりたてて満足もしないが、それほど不満でもない。なぜこうも動揺とは無縁な状況なのだろう。ここは嵐の中で激しく揺れ動く船内などではない。たぶんここは、大地の上にどうしようもなく静止した地点なのだ。大地自体は動いている。確かに地球は自転しながら太陽の周りを公転しているらしい。また微妙に波打っていたりもするようだ。だが、地球の回転や振動がわかるほど敏感な神経を持ち合わせてはいない。物質的には微少な存在なのだろう。だから自らが移動しない限り何も動かないだろう。なぜ移動しなければならないのか、それによって自分以外の何かが動くことなどあり得るだろうか。結局なぜという疑問とは関係なく、なぜか移動しなければならなくなってしまう。理由を見つけている暇はない。気がついたら動き出している。きっかけも動機も原動力も慣性もないのに動き出す。そんなことがあり得るだろうか。もしかしたら錯覚しているのかも知れない。自分が動いていると錯覚し、それによって自分の周りの状況も変化していると思いこんでいる。現実には止まったままで、状況は相変わらず何も変わらない。そうだとしたらこれは無駄な徒労の積み重ねでしかないだろう。実際はどうなのだろうか。たぶん、どうでもいいことかも知れない。なぜかそう思ってしまう傾向にある。自分で自分をどう評価したらいいのか。判断基準が何も見当たらない。それを積極的に見つけようとしていないから、それでもいいことになっている。自分に降りかかっている現実をやり過ごしているつもりでいるらしい。本当にやり過ごしているわけではないのかも知れないが、意識の上ではそういうことになっているようだ。これで何とか切り抜けられるだろうか。世の中そんなに甘くはないのは百も承知か?たぶん、何も承知していないのだろう。孤独がもたらす被害妄想と戯れる気にはなれない。なぜかヒステリーに陥る前に笑ってしまう。ようするに本気になれないのだ。かなり不徹底なのだろう。おかげで何も構築されることはないだろう。おそらく自分は言葉の迷宮など作らないだろう。そうなるかなり手前で降りてしまう。だから不徹底だと見られても致し方ない。凶暴さが欠如している。その辺が個性と言えなくもない。常に立ち向かうべき敵が不在なのだ。時折見られるこれ見よがしなメディア批判などは、単なる気まぐれでそうしているだけなのかも知れない。瞬間的に装う怒りの感情はすぐにうち捨てられる。やはりその辺がどこぞのメディア批判メディアなどのようにはいかないらしい。メディアによるメディア批判そのものが虚構なのかも知れないが、おそらくそれは閉じたループ上で行われていることで、自分のような部外者が批判する資格はないのだろう。
6月11日
結局は何も述べないのと同じようなことを述べているようだ。これではいつか自身の至らなさを痛感させられるかもしれない。たぶん自分にも夢があるのだろう。その夢は何なのだろう。自分の夢などを軽はずみにひけらかすべきではないと思っている。たぶん現時点では、はっきりした夢はないことになっている。死者の夢を洪水のようにまき散らすメディアには反吐が出る。しかもそれは殺された子供達の夢だ。本当に許せないのはそういうお涙ちょうだい式の報道姿勢だろう。他人のプライバシーをここぞとばかりに暴き立てる、そういうやり方に反発して、今後さらなる凶悪な事件が起こるだろう。心の傷に辛子を塗りたくるような輩はいやというほどいるだろう。今世の中にあるのは、これでもかという嫌がらせの洪水かも知れない。結局今回のお涙ちょうだい報道も、メディアに同調しない無関心な人々に対するこれでもかという嫌がらせである。自分の近親者は、それを見ながら、まだやっているのか、とうんざりした様子でつぶやいていた。なぜことさら怒りの感情をあらわにしなければならないのか理解できない。そういう馬鹿な大人達を見て、子供達は笑っている。はっきり言って自分の周りでは、誰もそんな報道に同調していない。ニュースを見ながらまったく別の世間話に興じているのだ。そんなやつらにも街頭でマイクを向ければ、それなりのことを言うのだろうが、それはただ、世間に向けて正義感を装っているだけのことだ。現実とはそういうものなのだろう。本気で怒っているのはブラウン管の向こう側だけだ。人々にマイクを向ければ、普段はまるで関係のないことを思っていても、インタビュアーの意図を察知して、なぜか突然そこから怒り出したり、被害者に同情してみせたりするのだ。周りの誰もが怖がってあるいは自分に危害が及ぶのをおそれて助けようとはしなかった。だからこんな事態に陥った。ただそういうことでしかないような気がしてくる。たぶん誰も厄介者を助ける余裕などないだろう。もしかしたら自分もそうなのかも知れない。情けないことだが、たぶんそんなことはできないだろう。それがこの社会の中で生きている自分の限界なのかも知れない。
6月10日
この社会からの爪弾き者は、いよいよにっちもさっちもいかなくなると、自殺するか大暴れして他人を殺めるかの選択を迫られてしまうらしい。なぜそんな選択肢しか残されていないのだろう。やはり、そんな風に追い込まれる前に、周りの誰かが助け船を出す必要があるのだろう。イエスや釈迦や親鸞など、昔の有名な宗教家は、そういう疎まれている人々と積極的に連帯したらしいが、今でも、教会の牧師やホームレス支援団体の人達などが、メディアに無視されながらも世間の片隅で地道に援助活動をしているのかも知れない。社会の敵を助けることは、野良猫に餌をやる人のように白眼視され、自身にとっては何の得にもならないことかも知れないが、社会にとっては、今回起こったような自暴自棄の破滅的暴走を未然に防ぐ、防波堤の役割をいくらかは担っていることになるのだろう。また、報われぬことをやる人には、人一倍強固な信念が備わっていることだろう。どうやら損得勘定よりも、困っている人に出会ったら見て見ぬ振りができない精神がこの社会には必要なのだろう。そういう意味では、牧師などの慰問的宗教活動を否定することはできない。確かに宗教は民衆の阿片である。現実に直面している問題を死後の世界や神に祈る行為にすり替えればそうなる。もちろん世の中が絶望的な状況になればいやでもそうなるだろう。たぶんそうなる前に何とかしようと活動を始めるのが真の宗教家なのだろう。それは何も宗教家だけではなく、孔子やソクラテスなどの思想家や哲学者も同じようなことをやり始める。かつて歴史上の一時期においてはそうだったのかも知れない。現代においても、柄谷行人あたりがやっているらしい運動もそれと似たようなものだろうか。しかし、それでは自分はどうなのだろう。こんなことを述べている以上自分も何らかの行動を起こさなければならないのだろうか。あまり気は進まない。それ以前の問題として、全面的ではないが自分自身もある程度は社会の爪弾き者ではないのか、という疑念を抱きざるを得ない。ならば今の自分は人を助ける立場ではなく、反対に助けられる立場なのか?たぶんあるときは助ける立場であり、またあるときは助けられる立場なのかも知れないが、どうも明確に何らかの立場になることはできないような気がしてくる。実際に自分が存在しているこの状況は、様々な力が様々な方向から働いていて、それらの力の一時的な均衡の上にかろうじて自分らしき人格が存在していて、そういう人格を伴った自己は、周りから押し寄せる様々な力の強弱によって、絶えず流動的な作用を被っていて、これから先どのように変化するか現時点ではよくわからない。とりあえず自己の破滅的暴走は未然にくい止めなければならないだろうとは思っているが、実際にどうなるかわかったものではない。できれば気楽に生きてゆきたいが、そういう怠惰な願いをはたして聞き入れてもらえるだろうか。誰に?神か?さあ、どうなのだろう。
6月9日
近頃は粗雑な台詞で覆われている。それ以外にまともな言葉を繰り出せなのだから、仕方のないことかも知れない。最近繰り返されるくだらぬ逸脱の連続は少し反省しなければならないだろう。反省してどうなるものでもないが、とりあえず明日も雨が降るように神に祈ろう。だが、明日雨が降ったからといってどうなるわけでもないだろう。適度な湿り気によって意識全体が黴に覆われている。つまり、粗雑な台詞は黴の一種なのだろうか。鉄が赤くさびている。そういつまでも幻影に頼っていては、いつかこちら側に戻ってこれなくなるかも知れない。だが現実の世界ではこちら側とあちら側の区別はなくなりつつある。ところであちら側とは何だろう。どこかに魔法の世界でもあるのか。どうやら感性までもさびついているようだ。この程度では、どうやっても魔術には至りそうにないので、芸術程度で満足すべきなのだろうか。たぶん芸術とは冗談の一種かも知れない。だがこの程度では鑑賞に堪えられそうにない。求めている水準とはかなりのひらきがあるようだ。いったいいつになったら満足いくものが導き出されるのか。導き出されはしない。永遠に満足などしないだろう。自分が導き出すのではなく、なぜか突然到来するのだ。結果として提示された現実に浸っている暇はない。ここに具体的な事件など存在しない。ならば、ここにあるのはただ虚構の戯ればかりなのか。それだけではいささか寂しいのではないか。では他に何が必要なのだろうか。火が必要だ。それは燃えさかる情熱の炎か?月並みな表現にはときめかない。月並みな表現が無限に蓄積すれば、月並みではなくなるだろうか。月に言葉が届くようになる日も近い。人やロケットが到達したのだから、おそらくその時に言葉も届いたのだろう。全世界の人々が宇宙飛行士の足跡に感動するというお粗末な結果に終わったらしい。言葉にとっては大した一歩ではなかった。だがその程度でかまわないだろう。言葉にとっては大した一歩ではなかったが、人類にとっては偉大な一歩だったのだから、人類の一員とは思っていない自分には関わり合いのないことだ。赤色の大地はいつも無言だ。そこからは何も導き出されはしないだろう。しかしそれで何が到来するというのだろう。たぶん言葉以外の何かが到来するのだろうが、自分の意識はいつもその何かを見逃してしまう。その微細な何かを見いだせない。もはや手遅れのようだ。また次の機会が訪れることを期待しよう。いいだろう、まだかなり長い時間が必要だ。それまで待ってくれるだろうか。誰が待っているのか。たぶん人々には心のケアもお涙ちょうだいも無効だろう。
6月8日
空間と平面の境目にあるわずかな隙間の中でゴキブリが暮らしている。魔術に魅せられて遙かな土地をめざす集団は途中で道に迷うだろう。薔薇の園は茨の道の遙か彼方にあるらしい。熱帯地方に生息しているゴキブリは思いの外でかいそうだ。シャーロック・ホームズは病んでいた。阿片を嗜んでいた男はいつしか行方知れずになる。午前0時をすぎると時計の針は不規則に歪む。幻影は他愛のない冗談から生じたりはしないだろう。カマキリの幼虫がバックミラーに映る。そこにもたれかかっているのは、自分ではなく壁の方かも知れない。コンクリートの冷たい肌触りは、真夏の思い出になる。春には桜が咲き、今は毛虫の季節だ。腐ったタマネギは生ゴミの中で腐り続ける。切れたケーブルワイヤーが肌に突き刺さる。まとわりついているのは、蚊と電気コードの他に何があるだろうか。試しにそれらのつながりを思い描いてみる。あり得ない組み合わせは夜の闇に溶け込んでゆくだろう。世界にはショックとやりきれない思いが充満している。子供は心にたくさんの傷を負うべきなのだろう。場合によっては死んでしまったりするらしい。この世界に安全な空間はない。だからこの世はワンダーランドなのだろう。それをいくら詳細に調べても、まともな答えは出てこない。要するに突発的な事件が起きてから、今後二度と同じ風には起こりそうもない事件の対処法を考えなくてはならなくなる。それがこの社会の制度であり、その制度を離れて何かやることは不可能であるようだ。画面上で限りのない夜の力を見せつけられる。魔術も技術の一種なのだろう。心を病んでいるのはお互い様だ。自らが正常だと思いこんでいる人は心を病んでいる。心の闇を晴らそうとする者は、いつしか死の病に取り憑かれるだろう。救われるときは死ぬときなのだろうか。どこからかハエが飛んでくる。汗に濡れた肌にまとわりついて離れない。床を這っていたゴキブリには熱湯がかけられた。それで救われたのだろうか。ゴキブリにとっては、やりきれない思いだろう。小学生が蛇のしっぽを掴んで振り回し、無造作にコンクリートの床にたたきつけた。蛇もゴキブリも死ぬときは簡単に死んでしまう。それと同じように子供も死ぬときは簡単に死んでしまうのかも知れない。虫や爬虫類と人を同等に扱ってはならないか?電波を介して伝わってくる情報にどのような価値があるというのか。私はその価値を認めない。命が貴重であるわけがない。残念ながらそれが真実だろう。蛙の口に爆竹を押し込んで、火をつけて爆発させ、千切れた死体に目をときめかせていた子供は、今や立派な大人に成長したらしい。たぶん、事件を伝えるメディアが駆使する言葉より、殺人犯の言い分の方に道理があるのかも知れない。それは痛ましい現実だろうか。
6月7日
将棋以外のくだらぬ感情で成り立っていた将棋漫画は簡単に忘れ去られたが、将棋は今も普通に続けられている。漫画に登場したハッタリだらけの天才棋士の名を覚えているだろうか。その他の登場人物達も、それに合わせてどうしようもなく拙劣な言動に覆われている。なぜ現実の将棋をそのまま漫画にすることができなかったのだろうか。それが漫画の限界なのか。たぶん、それが掲載されていた漫画雑誌の読者が喜びそうな漫画とはそういうものなのだろう。要するに、漫画は漫画であり、将棋は将棋なのかもしれない。当たり前のことだが、漫画と将棋は違うものなのだろう。それと同じように、このような言葉で組み立てられた虚構も、それ以上でも以下でもないだろう。これはこれ自身以外ではあり得ない。あまり過大な期待は禁物だろう。大衆娯楽と割り切って作られている漫画や小説の中では、その手の天才や大人物のバーゲンセールになることが多い。そしていったんそういう人物を描き出してしまうと歯止めが利かなくなり、次々と物凄い人物を登場させ続けないと主人公との釣り合いがとれなくなって、物語が破綻を来すようになる。たぶん虚構の中でなら、凄い人物はいくらでも描き出せるのだろうし、そればかりになってしまうと、それ以外はやられ役の雑魚しか登場しなくなって、物語の中で、それらの人物達が巻き込まれている何らかのイベントには無関心な普通の人間はいっさい登場しなくなるだろう。日頃からそんなものばかり読んだり見たりしていると、現実の世界でメディアが仕掛けてくるくだらぬイベントに簡単に引っかかってしまうのかもしれない。いや、その手の漫画や小説やテレビドラマ自体が、すでにそういうイベントの一種なのだろう。今も数百万の読者や視聴者がイベントの虜になっていることだろう。それらはキャラクター至上主義とでも呼べば的確な表現になるだろうか。その至上主義にはまって思わぬボロを露呈させてしまった人も外務省辺りにはいるらしいが、絶叫総理は、その辺は冷静に自己分析できているのだろうか。経済担当大臣がドリフの仲本工事なのが、かなりの危うさを感じさせるが、本当に大丈夫なんだろうか(笑)。どうもこの内閣に関しては、その外見だけで笑ってしまって、未だに中身まで踏み込んで何かを述べるには至っていない。何か突拍子もなくおかしいのだ。まるで冗談のような人達ではある。本気で彼らに対峙している人達が気の毒に思える。
6月6日
どこまでも続くはずのない道はどこまでも続くだろう。道を外れて野原に出る。そこで湿り気を感じて立ち止まる。たぶん明日も雨が降るだろう。雨空を見上げていたら、なぜか新聞紙上に印刷された台詞がよみがえってきた。まだこの人達がいる、と空元気を張る者は、自らの足許が危ういことに気づかない。どうも、そして誰もいなくなった、を理解できないらしい。そこに挙げられているのは、我々にとっては必要のない人達だろう。今さらメディア空間の空虚を埋める存在は必要ない。もう彼らのご託宣は聞き飽きた。そんな風にしてお告げを発する行為は、我々よりも彼らにとって必要なのだ。彼らが生きてゆくために、彼らの繰り出すお告げを我々が聞き入れてほしい、だから、まだこの人達がいる、どうかこの人達の主張を真に受けてほしい、というお願いになる。大変ご苦労なことだ。もし彼らに飯の食い種を提供したいと思うお人好しがいたら、どうか彼らの主張を真摯に聞き入れてほしい。また、もし金銭的に余裕のある人がいたら、彼らが多大な労苦とともに渾身の力を降り注いで書き上げたであろう、自薦他薦の最高傑作でも買ってあげてほしい。それらは自分とは関わりあいのないことだ。たぶん今の自分に必要なのは、この雨空なのだろう。雨空のおかげでここまで歩んでこられた。それは何の根拠もない勝手な思い込みかも知れないが、晴れた青い空とともに、雨空を見上げることは格好の気分転換になる。晴れでも曇りでも雨でも、どんな天候でもかまわない。何かきっかけが必要なのだろう。だが、それが何のきっかけなのか。それは別の日に思いつけたら思いついてみよう。とりあえず今は思いつかないようだ。やはりこの道がどこまでも続くはずはないのに、今のところはどこまでも続いているように感じられる。遙か手前に置き去りにされた主張は、すでに朽ち果てている。かつて自ら主張らしきものを発していた時期があったなんて、もはや想像すらできないほど遠くまで来てしまったのだろうか。世の中には郵便受けに突っ込まれている広告チラシに憤っている人もいる。たぶん、そんなことをもとにして何か主張してみたら、それなりに人々の共感を得られるのかも知れない。しかしそうまでしてウケを取りたくはない。やはりその程度では情けなくなる。ではどの程度がお望みなのか。ウケることを望んでいるわけではないのだろう。何を望んでいるのか、それがわからない。しかしなぜか自然に他人の揚げ足取りの展開になってしまっているようだ。思わずその滑稽な内容に顔がほころぶ。やはり他人の主張はおかしい。この国にもまだ“人物”はいる!そうだ。確かにいるにはいるのだろう。だが、なぜ“この国”にこだわるのだろうか。その辺が理解不能だ。例えばスポーツでは、別にイチローばかりに視線を注ぐ必要はないだろう。どう見てもアイバーソンの方が凄い。人物的には数段強烈だろう。だが強烈なのは彼だけではない。それがシャックとかになると、もはや人物の範疇を越えて凄い。彼の凄さは“人物”という言葉では語れない。彼らの凄さについて語ろうとするならば、“人物”ではなく“バスケットボール”という言葉を用いて語らなければならない。その辺が“人物”や“この国”という言葉を用いて語ろうとする者の限界に感じられるし、彼らが纏うことになる滑稽さの源泉でもあるのだろう。
6月5日
さらに一日が経過して、二日分の平凡な体験が積み重なる。この二日の間に何を見聞したつもりなのか。たぶん何らかの様々な光景に遭遇したのだろう。しかしここではそれらすべては省略されることになるだろう。いちいちそれらを思い出すのが面倒なのだ。思い出せないのかも知れない。思い出す気がないのだろう。虚無はいつまで経っても虚無のままの方がいい。間違っても、そこに夢などが生じたりするはずがない。はずはないがそれでも何気なく夢を見る。それは矛盾しているだろうか。別に矛盾していようがいまいがこの際どうでもいい。たぶん、何も肯定する気にはなれないが、自らが矛盾していることは肯定してみよう。それはまったくのご都合主義になるだろう。しばらく前に雨が降り出す。楽器のごとく声を響かせる人が何かつぶやくように唄い出す。それはスピーカーの振動にすぎないが、それで転調したつもりになる。何も結びつかずに、ただ夜の暗闇とスピーカーの振動が同期している。思い込みとはそういうものなのだろうか。まったくの出鱈目であるはずなのに、なんとなくその組み合わせが、この時間と空間にフィットしているように思われる。なんでもない些細な状況を、かろうじて言葉に結びつけているつもりなのだろう。それは、この空虚に対処しようとする、実に涙ぐましい努力の結晶なのだろうか。それで対処していることになるのか。結晶とは言い難い粗雑さの塊を生成しているだけかも知れない。その実体といえば、何も結実せずに、ただ屑のような言葉が虚無の周囲に散らばっているだけのことなのだ。それでも一応は成功しているといえるだろう。失敗を成功と言いくるめる程度には成功しているのだろう。
6月4日
ここ数日の記憶は曖昧かつわかりにくい。はっきりしないようだ。そうかといって、この空白の一日の間に偽の記憶を注入する気はない。しかし偽の記憶とはどのようなものなのだろう。それをどうやって注入することができるというのか。またしても、できもしないことを、あたかもやればできるかのように装う。そして、言葉の集合体はどこまでも仮の物語をなぞることになる。しかもその仮の物語の内容はいつまで経っても明らかにならないまま、中身が空白の言葉はさらに先へと進むだろう。たぶん、シリコン基盤の上を微少な電流が流れれば、しかるべき操作過程を経由して何らかのディスク上に何らかの記憶が蓄積することになる。そんな記憶が、銅線や光ファイバーや電波に乗ってどこか未知の空間へ伝播したりするわけか。まったく馬鹿げた世界になったものだ。それは、たぶんここ十年くらいの世界が呈している症状なのかも知れない。別に病でもないのに、仮病には仮病特有の症状があるのと同じことなのか。やはり意味がわからなくなる。そのついでに頭が四分の一回転する。この続きはさらにわけがわからない。爬虫類の記憶が象の意識の中でよみがえる。それをテレパシーで象使いにわからせようとしているのだ。おそらく踏みつぶされて記憶が閉じる間際の象使いは、目がつり上がっていることだろう。それは痛みとは無縁の衝撃をじかに体験できる一生に一度の貴重な体験なのだ。どういうわけか象に踏みつぶされた象使いは、誰よりも幸せになれるだろう。象の足の裏を見た人は幸運だ。たとえ踏みつぶされて死んでも、それを見るべきかも知れない。サーカスとはそういうものなのだ。うさんくさそうな薄汚れたテントの中でおかしな曲芸を披露していた人々は、後に代議士や国家公務員にでもなったのだろうか。今や事態はその逆を辿っているといえるかも知れない。
6月3日
気まぐれで何かを悟るときもある。いつまでもここにとどまっていてはいけないらしい。たまには真実に出会うだろう。また、どこかに明確な言葉が存在するかもしれない。だが、今はそれが見あたらない。そこで出会うのは相変わらずの作り事だけなのか。悲しみに打ちひしがれて、喜びに打ちのめされる。悲しみも喜びも似たようなものかも知れない。どちらも近頃はあまり経験したことのない感情になるだろうか。曇り空全体が薄暗い無表情に覆われている。どこから見ても眼には何も映りそうにない。なぜかそこに存在している事物が見えない。それとは別の場所へ意識は飛んでいるようだ。空想の中で偽りの自意識が見いだされる。目の前には、誰かに影響を受けたみすぼらしい夢が散らばっている。そこで抽出されているのは苦い思い出なのか。いやなことを思いだしてしまった。たまらずコーヒーカップの中の黒い液体を一気に飲み干すと、少しは気分が晴れた。胃が少し気持ち悪くなる。まぶたの裏側で星が舞う。作られた暗闇に見慣れた幻影が舞っているのがわかる。こちらへ手招きしているのはどこの誰だろう。すかさず間隙を突いてくる。誘惑は魔が差した時を見逃さない。怠惰な空間がそろそろ反転する時間なのだろう。またすぐに忙しくなってしまう。彼岸にはとってつけたような思考が用意されている。どこへも行き場がないとき、更なる停滞の時が待ち受けているらしい。立ち止まったまま、石化してしまう。どうやらここから闇雲に前進する必要はなさそうだ。減速して後退局面を迎えるのは、何も景気判断だけではなさそうだ。知らぬ間に足には根が生えて、今度は梃子でも動かなくなる。こうなるともうどうしようもない。ここはいったんあきらめて、二日後の復活に期待しておこう。それで少しは気休めになるだろう。
6月2日
鬱な気分に水を差すと雨が降る。曇り空から時折降り注ぐ雨に阻まれて、打ち沈んだ心はどこへも行けない。なぜそうなるのかわからない。そのような気持ちに至る過程が消失しているらしい。つまりそこで物語を構築できないのだろう。そうこうしているうちに、いつの間にか彼方から冷風が吹きつけてくる。久しぶりに風邪を引いているのかも知れない。軽い眠気とともに、冷蔵庫の中にある冷えた空気は、いつまでもそこで停滞し続けるだろう。何気なく選ばれた状況に応じてそれなりの眠気に遭遇するだろう。眠気にも様々な種類があるらしい。今はそのうちのひとつを選んでいるのだろうか。どうやらあまり本気で述べているのではないようだ。そのついでに、顔に吹きつける冷気がこれから辿るべき道筋を選ぶかも知れない。答えは風の中にはないだろう。なぜか急に用事を思い出した。とりあえずやらなければならないことが山積している。そしてさらに追い打ちをかけるように、時間がかなり遅れているようだ。しかし、砕け散った心はいつまでもあちら側に散らばっている。復帰にはかなり時間がかかりそうだ。その可能性すら風前の灯火かも知れない。黒いメッセージの端には、血の赤が付け足されていた。そんな活動には同調できないが、そのような意志とは関係なく、テロがテロを呼び、歓喜の嵐をひたすら夢想している人々が大喜びな展開に突入しつつある地域もあるらしい。そんな物語へようこそ。どうぞ気が済むまでやりたい放題やってほしい。どうやら飽きもせず求められているのは、皆が望んでいるような平和な時空ではなさそうだ。そんな飽くなき探求心はどこかで停滞させてほしい。今望まれているのはごく平凡な休息の時だが、そんな願いなどお構いなしにわけのわからない闘争に巻き込まれてしまう。とりあえず、今眠らなくては明日は来ないだろう。
6月1日
果たして靖国神社に祀られている英霊達は愛されているだろうか。誰に?私に。私は祖国の英霊よりアドルフ・ヒトラーの方が好きだ。嘘だろう?たぶんでまかせか。久しぶりに『我が闘争』を読んでみようか。もう十年以上読んでいないので内容をすっかり忘れている。たぶん今となってはどうでもいい書物なのかも知れない。それは、それよりさらに凄い書物に遭遇したからだろうか。それもあるだろう。未だに第二次世界大戦を用いて何か言い出す人々の時代感覚に呆れているからだろうか。それはわからない。自分は日本国憲法に興味はない。そんなものはすぐに無効になってほしい。もはや自分にとっては、すでに無効かも知れない。自らの意識や思考は国家とは無関係にありたいものだ。国家による束縛は嫌いだが、国家が与えてくれる自由はさらに大嫌いだ。国家が保証してくれなければ自由がないのだとしたら、そんな自由などうそっぱちの自由である。国家が存続していくためには各人の自由は制限されなければならない。その領土内で、各人が好き勝手にやりたい放題なことをやっていたら、国家そのものが成り立っていかないのはわかりきっている。国家はその領域内で暮らしているすべての人々を幸福にしなければならない。それが近代から続いている国民国家の使命だろう。もちろんそれが無理なのもわかりきっていることだ。各人が抱いている幸福のあり方は人それぞれであり、それらひとつひとつは互いに利害がかち合うから、国家は妥協の産物としてそれぞれの幸福の最大公約を提示して、各人をそれに従わせなくてはならない。そのためには各人の自由にいったん制限を加え、改めて国家が提示する制限付きの自由を各人に押しつけてくる。だからそんな自由などうそっぱちもいいところなのだ。まあ、以上に述べたことは屁理屈の範囲内だろう。だが、とりあえず国家が押しつけてくる自由には、個人の思想信条の自由というのがある。だからこんな屁理屈を信じる自由も、とりあえずは国家によって保証されているのかも知れない。だがこんなものを国家に保証してもらう筋合いはない。よけいなお世話だ。
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