彼の声23

2001年

3月31日

 空気が澄み渡って高い空が戻ってくる。それは秋の記憶だろうか。季節は春なのに、天気は冬へ逆戻りしたらしい。しかしここには夏が欠けている。夏の蒸し暑さはいつやってくるのだろうか。すぐにやってくるだろう。暑さに耐える日々が到来するだろう。少し動くと汗が吹き出す。感性の鈍さが緩やかな落日を体験させる。闇の部分が乾燥しきっている。ここでは水が欲しい。疲れた体が水分を要求しているらしい。その時の記憶が飛んでいる。意識が途切れがちになる。どこまで覚えているのだろう。共産主義は絶望から生まれる。それはただの感傷だろう。どこかに出没する。いったいそこで誰と誰が戦っているのだろう。何も恐怖を煽ることもないだろう。恐怖の代わりに退屈を選択している。打つ手がないのにあがき続けることは、端から見ると滑稽に見えるだろう。もはやそこでカードゲームは成り立たない。それでもまだ動作は終了しないようだ。今でも対象を痛烈に批判しているつもりなのだろう。自分達が壊れていることに気付かない。しかもそう述べている自分が終わっていることに気付かない。終わっているのに終わらない。だからこれは、批判にすらならない代物になってしまう。なぜ、どこもかしこもそんな間の抜けた退屈に支配されているのだろうか。無駄な悪あがきに終わりはない。自意識が終わりを拒否しているようだ。自分が何も演じられないのに、他人の演技だけは批判する。意識ではその気になっているのに頭と体がついて行かない。たぶん、今でも気の抜けたドラマを演出しているつもりなのだろう。だが全く登場人物が皆無なのに、なぜそれがドラマなのか理解に苦しむ。それのどこがドラマなのか、その定義すら曖昧なまま、勝手にドラマという言葉を使い続ける。ドラマ自体には意味がないのだ。舞台も俳優も見当たらないのに何をどう演じさせるつもりなのか。そこにはただ、前もって批判の言葉が用意されているだけなのだろう。これからそこで何がどう演じられてもまずは批判する、そんな頑なで何の実りもあり得ない態度ばかりが、辺り一面にひしめき合っているようだ。ここに至って、もう誰にもどうにもできはしないことはわかりきっている。だから効力のない批判をくり返すしかやりようがないのだろう。やればいい、大変御苦労なことだ。他にやることがなのなら、どうぞそれを気が済むまでやり続けてほしい。こうなったら、自分達の支持者を巻き添えにして最後の最後まで行ってしまってほしい。たぶんそれは自己崩壊ですらないだろう。そこでは何も起こらないのだ。事件はどこか別の場所で絶えず発生している。それを見つけられないのだから仕方ないだろう。


3月30日

 弱い光にアスファルトが照らされる。何かの拍子に夜空を見上げると、真夜中へ向かって月が西へ傾いている。何かの加減で黄色く光っているようだ。真昼の赤茶けた大地を思い出す。つかの間の感情が廃棄される。それはいつの風景だったのだろうか。暗い歩道に白いガードレールがもたれかかる。狭い道に大型ダンプがひしめき合う。何を思い出しているつもりなのか。一夜明けたら外は雪景色だ。わからない、なぜこうなってしまうのだろう。この寒さで風邪が流行っているらしいことは確かだ。要するに、風邪に便乗してこうなってしまうのだろうか。そうかもしれない。


3月29日

 方向が決まらない。たぶん、定められた行き先はないだろう。これからどこへでも行く可能性はあるが、結果的にはどこへも行かないかも知れない。行くあてがないのだろう。だが、そんな推測とは裏腹に、結局現実にはどこかへ行ってしまう。どこかへ出かけて行って、そこで迷う。どこへいっても結末には出会えない。そのような意味での彷徨はよくあることだろうか。そしてさらなる迷路に出くわす。結論が出る兆しを見つけられないまま、迷い続ける。またもや雨の夜を体験しているらしい。雨が屋根を叩く音に悩ませられたりするわけか。そこで迷いながら悩んでいるつもりなのだろうか。どうもリアリティに欠ける言葉が連続してしまう。相変わらず何も見出せぬまま、ただ何となく迷っているつもりらしい。そこで積み重なっているものは、全くリアリティに欠ける出来事のようだ。虚無感を糧として吐き出される台詞はそんなところだろう。どうやらその行為に対して納得したり妥協したりするには、まだ半端な位置なのだろう。さらなる底があるらしいが、とりあえずはこの辺で立ち止まっているべきなのだろう。それほど徹底的に虚無を極めるつもりはない。そうなる必然性は感じないし、それほど興味はないのでその気にもなれない。あまり深入りせずに、ここは節度をわきまえなければならないかも知れない。どうあがいても大した道行きにはならないのだから、それがどこまでも続く遠い道になってしまってはいけないようだ。たぶん途中で飽きてしまうだろう。嫌になったら途中で降りればいい。ここは気軽に途中で降りられることにしておこう。もうすでに翌日の昼を過ぎている。雨上がりの大地に北風が吹き抜ける。そう簡単に暖かくはならないようだ。


3月28日

 責任とはどのような経緯で生じるのだろうか。なぜ特定の個人や団体に、なすべき任務や義務が発生してしまうのだろうか。何らかの作用によって生じた結果について、それが不都合な結果で、それによって被害を被った人が存在した場合、その結果の生成に関わったと見なされる人物や組織に何らかの責めを負わせなくては、その結果によって物質的あるいは精神的な損害を被った人々の収まりがつかないということだろうか。確かに薬害エイズの被害拡大を放置した医師に無罪判決が下されれば、その結果に対して収まりのつかない人々が大勢発生してしまうのだろう。では、世間から非難の集中砲火を浴びせられた医師に、有罪を望む世論に反して無罪を言い渡した裁判官は、いったいどのような責めを負わせられるはめになるのだろうか。やはりマスコミが主導する世間によって非難の集中砲火を浴びせられているようだ。だがたぶんそれだけだろう。まさか不当判決に怒り狂った者に自宅を放火されるわけでもあるまい。とりあえず定められた手順に則って判決を下している限り、彼の身分や生活は制度によって保証されているし、立派に職務を果たしていることになるのだから、彼は彼の責任を全うしているといえるだろう。彼を心情的に許せないと思っている人々もそのレヴェルではどうすることもできない。ただそういうことなのだ。


3月27日

 何を考えているわけでもない。そして何も考えていないわけでもない。たぶん、何かしら考えているのかも知れない。世の中は不況のまっただ中だそうだが、実感はあまりない。不況だ不況だとメディアで騒いでいる人々は、別に仕事がないわけではない。本当に失業して困っている人々は、騒ぐ立場にはない。騒いでみてもどうなるものでもないだろう。明確な処方せんなどあり得ない。そんなものは求められていないだろう。もしかしたら、この状況は誰もが納得ずくの不況なのではないだろうか。対策は何もないかも知れない。対策などなくてもかまわないだろう。なるようにしかならない。不況を実感できない人間にはそうとしか述べようがないのかも知れない。こんな世界なのだ。いらぬおせっかいはやめた方がいい。この状況を不況と見なすことすらが間違っているのかも知れない。バブルの絶頂期の頃が異常事態だったことは、誰もが納得している認識だ。日本と呼ばれるこの地域が、今さら経済的に活気づく必要はないと思う。たぶん、経済的な繁栄はこれで十分なのだ。あとは様々な立場の人間や組織が、それぞれの必然性に従って、様々な対策を講じて行けばいい。たぶん自分の今の立場では、こんなことしか述べられないだろう。これでは何も考えていないのと同じことかも知れない。そう、考えなくてもいいのだろう。


3月26日

 この世界には様々な思惑が渦巻いているらしい。自分はなぜここにいるのだろう。この場所で何をやっているつもりなのだろう。何をやっているつもりもない。だが、つもりはなくとも何かしらやる羽目に陥ることになる。なぜこうなってしまうのかよくわからない。だがどういうわけかこうなってしまうのだろう。静かな夜だ。自分には自分の思惑などわからないし、自分のやっていることが理解できない。ただ気まぐれに考えを巡らし、当てずっぽうなことを述べているだけかもしれない。それ以外に何が言えるのだろうか。たぶん、それ以外にも何か述べることはできるだろう。そう、何かしら述べられるのだ。こうして、相変わらず中身のないことをだらだらと述べている。これからもそればかりになるのだろうか。そうかもしれない。とりあえずこの世界はこういう世界にしかならないらしい。どこまでもこういう世界なのだろう。どこまで行ってもこのままなのだ。ここから先は何も変わりようがない。ここにあるすべてが空虚な営みに支配されている。ここではこんな現状を認めなくてはならないようだ。ここにあるのはただの静寂だけだ。こうしているうちにも、次第に沈黙の重みが増してくる。過去のわだかまりがどんどん蓄積してくる。些細な行き違いが決定的な亀裂を生じさせる。いったい誰がこの状況から抜け出せるというのか。誰も抜け出せはしないだろう。抜け出そうとする気が起こらない。意識の奥底に沈み込んだまま、そこから動こうとはしないらしい。薄汚れた澱みの中で停滞しているようだ。そのうち腐って腐臭を放ち始めるだろう。しかし、それでもまだじっと静止しているのだろう。そこで何かを待っているのか。何が到来するというのか。たぶん、期待はずれの何かがやってくることは確かなようだ。期待はずれが期待されている。それはよくありがちなことだ。到来する未来を批判するために期待はずれを期待している。それはありがちな予定調和だろう。だが、それは来るべき未来ではない。来るべき未来は驚くべき未来でなくてはならない。


3月25日

 久しぶりに昼は蒸し暑かった。微かに南風が吹いている。夕日が雲に隠れて見えない。黒い雲が分厚く垂れ込めたと思ったら雨だ。もうすぐ桜の季節なのだろう。どこかの公園でつかの間の宴が催されるだろう。雨の夜に何を思う。何か思うだろう。その何かについて何か述べる必要が生じるだろうか。いちいち述べるのは面倒だ。たぶん第一次世界大戦の頃までは、戦争も有効だったかもしれない。今ではどうだろう。確かに外交は戦争の延長なのだろう。国家間で血を流さない争いが演じられている。今なお国家は有効に機能しているつもりなのだ。形の上ではそうだ。国家を基準として言説を構成すればそうなるだろう。だが、それらの言説は、人々の無関心に包囲されているのかもしれない。一般市民にとっては、個人の力が及ぶ範囲外の事象については、自然と無関心にならざるを得ないだろう。今さら北方領土が日本に帰属しようがロシアに帰属しようがそんなことはどうでもいいように思われる。台湾が独立しようが中国に併合されようがそれもどうでもいい。たぶんその地域に暮らす人々にとっては、どうでもいいでは済まされない大問題なのだろう。国境の敷居を低くしてボーダレスな状況にしていけば、その地域の人々の負担も軽減されるだろうが、ヨーロッパに見られるように、家畜の狂牛病や口蹄疫が容易に伝染したり、貧しい地域から人々が流入したりする危険性と、生活の利便性のどちらが優先されるべきかは、答えはすでに出ている。一時的は揺り戻しはあるかもしれないが、長期的に見れば生活の利便性が優先されるだろう。実際に異なる地域間での交通量は二十世紀の百年間で飛躍的に増大したのだから、やはりそれだけ国境の無効化が進んだと言わざるを得ないだろう。


3月24日

 意識の所々に隙間風が吹き込んでくる。穴が空いているらしい。その途切れ途切れの空隙には、いつしか割れ目が生じて溝が穿たれている。気がつけば、至るところが溝だらけだ。その溝は感情では埋まらない。感情的になればなるほど、むしろさらに深まろうとしているようだ。どうもやりようがないので、行間の欠落している部分に無理矢理適当な言葉をはめ込んでみる。間に合わせの補修で一時しのぎをしようとしているらしい。そのやり方がどこまで有効なのか、また、いつまでそんなごまかしが続くのか。相変わらずはっきりしたことは何も述べられない。どうも老人はこの社会を健全化したいらしい。たぶんその人の感じからすると、この社会は病んでいるようだ。いつの時代も、そういう種類の人は、この社会は病んでいる、と感じるのだろう。自分が社会の新たな潮流に馴染めなければ、たぶんそう感じてしまう。それがわからない。時として人や生き物は病むこともあるだろう。確かにそういう状態を病気だと判断すればそうなのだろう。それを社会全体にまで拡張すれば、そういうことになるらしい。だが、そういう捉え方が果たして有効なのかどうかわからない。何に対して有効なのだろうか。そういう種類の人々にとっては、病んでいてくれた方がありがたい。病んでいるならば、治療の仕方や処方箋を書く必要が生じるからだ。それで無性に書きたくなってくる。自分と自分を取り巻く環境との軋轢が、それを書く糧となる。とりあえず、この社会の在り方が気に入らなければ、病んでいる、と発言する。そして、その病んでいる理由をくどくどと説明すれば、少しは気が晴れるのかもしれない。そしてさらに、自分と同じように感じている賛同者を募って、健全化の方策やらを模索すべく討論すればいいのだろう。なるほど、社会に対する抵抗の一形態として、そのような手順が確立されているようだ。だが病んでいると見なすことが変革の突破口になるだろうか。大勢の人がそのような言動を繰り返すことで何かが少しづつ変わってゆくのだろうか。たぶん良い方向へ変わってゆくのだろう。そういうことにしておこう。ただ自分は病んでいるとは見なさないだろう。これはこれでこういう社会なのだ。このような現状に対して、できる範囲でそれなりに立ち回ることしかできない。これから、この社会が良い方向に変わってゆこうと悪い方向に変わってゆこうと、そのどちらでも構わない。というより、良いか悪いか判断できないのかもしれない。自分の思い通りに事が運んだら、それはそれで気分が良いことは確かだ。だがその一方で、そうはならないと常に思っている。そうなるはずがない、と感じるのと同時に、自分の思い通りの、思い通り、とはどうなることなのか、それがはっきりしないのだ。例えば宝くじで3億円が当たればそれが思い通りなのか。近頃はまったく宝くじを買っていないのでそうではないらしい。買う気が起こらない。では何か他に目標はないのだろうか。ただ漠然としたものなら何かあるかもしれないが、その実現にはそれほど執着していないような気がする。自分の未来がどうなっても、それほど満足はしないだろうし、また落胆もしないだろう。そして、この社会がどうなろうと、やはりそれほど満足はしないだろうし、落胆もしないだろう。


3月23日

 いつまでも眺めていた虚空から目を転じて、この世に視線が戻ってくる。地平線上を飛行物体がジグザグに飛び回る。何か昆虫の一種だろう。啓蟄はもう過ぎたらしい。だが、未確認飛行物体が虫であったらつまらないか。例えばそれが、何がなんでも宇宙人の空飛ぶ円盤でなければならない立場の人も中にはいるかもしれないが、ここではそれが鳥だろうと宇宙船だろうと取り立てて問題とはならないだろう。また、それが遠かろうと近かろうと、あるいは、それがテレビ画面上の光景だろうと、直にこの眼で見た出来事だろうと、そんなことはどうでもいいことだ。ここで何を見ようがそんなものをことさら記述する必要はない。実はさっきから何も見ていない、この文字が映し出された画面以外は。たぶん他には何も見えていないのだろう。だがそれ以前に何も見ようとしていないのだ。たぶん見る必要がないのだろう。結論からいえば、そういうことになる。だが結論が先にあるわけではない。ただ、この状態を肯定しようとすると、何も見る必要がないから何も見ていない、ということになるのだろう。それは恣意的なひとつの判断に属する。見ることは不必要だと判断した。単にそう判断を下したに過ぎない。例えばこれが自分とは違う立場の者なら、要するに怠けているとしか映らないかもしれない。その通りだ、怠けている。だが、怠けているのだとしたら、何かやるべきことがあるのだろうか、今ここでやるのを怠っていることとは何だろう。心当たりは何もない。何も思いつかない。では、別に怠けてはいないのだろうか。そんなものなどありはしない。やるべきことなど何もないのだから、別に怠けているわけではない。さっきまでは怠けていると思っていたのに、すぐにその認識は否定されてしまった。そう、別に怠けているわけではないのである。そうとしか述べようがない。とりあえずここでは、現実に怠けているいないにかかわらず、なんとなく気分次第で怠けていると述べてみたり、またそう述べた途端に気が変わって、根拠が不明のまま前述を簡単に否定してみせたりしているわけだ。要するに、そのどちらでも構わないということなのか。どうやら、何かを判断する基準が消え失せているらしい。これでは明確なことを何も述べられそうもない。何かしら断言することが不可能なようだ。なんでもかんでも必要のないことまで断言ばかりしているのも、かなりいい加減な態度だが、何をどうしていいのかまったく決断できないのも困りものだ。だがここでは、何をどう断言しようがしまいが、また決断しようがしまいが、それについても、どうでもいいことなのかもしれない。ここには欠けているものがたくさんあるようだ。


3月22日

 深夜に雨音を聴く。朝には止んでいるだろう。きっと明日もいつもの日々なのだろう。いつもでない日々などない。ここはいつもこんな世界なのだ。こんな世界がこの世のすべてかもしれない。だが、こんな世界とはどんな世界なのだろう。それはいつものパターンだ。つまり、こんなことを繰り返す日々を送っていることが、こんな世界そのものを体現していることになるのだろう。だが人によっては、こんな世界でない人もいるだろう。同じ世界に暮らしているのに、別世界で生きている人もいる。この世界は一様に連続しているわけではないということなのか。地続きであってもそこには山や谷や川が存在したり、あるいは海に隔てられていたり、同じひとつの空でつながっていながら、その空はどこまでも果てしなく続いていたりする。そして、そのような地理的要因以外にも、例えば意識や認識のズレは、すぐ隣の者との間に簡単に生じるだろう。だが、それを安易にアイデンティティーなどで説明したくはない。ここで自己同一性の前提となる自己を強調する気にはならない。他人との間に生じる感覚のズレによって、後から自己の存在を認識するのであって、その自己への認識的な飛躍の前に差異がある。その差異がズレであって、自己はその差異から生じる二次的な観念だ。自己とは、自分が他人とは違う点を認識することで生まれ、その他人を含めた自分の周りの環境からの影響を受けて、絶えず揺らめきながら意識の中に立ちのぼる蜃気楼のごときものだ。そんなものの確立に励む気にはならない。自己を意識の中に確固なものとして定着させたとして、それで何がどうなるのかよくわからないところがある。別に強固な自己があるからその人独自の意見や方法論があるわけでもないだろう。またその反対に、自己がないから周りの意見や行動に流されがちになるわけでもないと思う。なぜ他人と違うことをやらなければならない羽目に陥るかは、当の他人のやり方がおかしいと感じるからだ。その人が述べていることと実際にやっていることが合わない、言っていることとやっていることが違っている、そのズレを認識してしまったとき、自分がそれと同じことをやってはいけないと思い始めるし、そういうやり方を支持するわけにはいかなくなる。たとえそうすることで金銭的な利益などが期待できそうであっても、やはりそれをやるわけにはいかなくなる。これは自己やアイデンティティーがどうのこうのという話ではない。そういう抽象的な問題ではなく、他者の言動に対してそれを自分がどう判断するか、という極めて現実的で具体的な問題となる。


3月21日

 サボテンの花を見たことがあるだろうか。生長し過ぎたサボテンはグロテスクだ。その巨大な塊の内部に水が蓄えられている。今は収穫の時期なのかもしれない。杉花粉を蒐集している。コインとイコンが重なり合う。偽の銀貨には聖母のイコンが刻まれている。禁じられた偶像を祈る人々は報われないだろう。サボテンの棘で眼を刺されて失明するだろう。場所はすでに特定されている。そこは巨大な空洞になっている。その空洞が現世なのだろうか。耐えられない空間だ。沈黙の重圧に耐えられない。堪らず走り出す。誰もが救いを求めて右往左往している。人々はそれぞれの領分に見合った快楽を必要としている。分相応な生き方しかできないだろう。当然それでは満足できないが、我慢を強いられているようだ。やはり抵抗しなければならないようだ。不快な選択の強要は拒否しよう。欲しくもないのに与えられた自由は受け取らない。名ばかりの自由ではなく、偶然に拘束されたドライヴ感を選び取ろう。


3月20日

 木像の背後に回り込み、その陰影を折り畳んで、日の光に立ち向かう。根が暗い。葉も黒ずんでいる。黄緑色の花が咲く。真正面から視線に射抜かれる。何も言い返せなくなる。どこまでも深い澱みだ。今は黄色い光の下にいる。電球色の蛍光灯は暗い。この辺で一区切りだろう。それが妄想の一部始終なのだろうか。未だに事の経緯を知らない。何も知ろうとはしていないようだ。やはり面倒なのだろうか。眠りから覚めたら今日になっていた。毎日が今日になる。どうやら永久に昨日をやり過ごしているらしい。だが、いつまで経っても明日は訪れない。どこかの誰かはそれが不安なのだそうだ。自分勝手な夢を描くために、明日という名のキャンバスが欲しいらしい。だが本当に必要なのは蛍光灯なのだ。夜の暗闇を追い払う、頭上に輝く蛍光灯が必要なのだ。光あれ、それが神の言葉であると同時に、あなたの願望の構成要素なのだ。輝くというメタリックな願望に絡め取られている。全身に油でも塗って火をつければ、しばらくの間は輝いていられるかもしれない。だが、命と引き替えではご免だろう。しかし、リスクなしで生き延びられるだろうか。安全地帯を探しに行こう。君には安住の地が必要らしい。


3月19日

 操り人形に操られ、亡者の群れに追従する。この先には更なる深みが待ちかまえているらしい。いつも心の片隅には蜘蛛の巣が張ってある。そこで捉えた獲物の養分を吸い取りながらかろうじて生きながらえているようだ。今日の獲物は何だろう。さっきから頻繁に深呼吸を繰り返している。酸素が不足しているのだろうか。その場にしゃがみこみたくなる。冷たいコンクリートの壁にもたれかかりながら、暫く休んでいるようだ。動きがない。気怠い午後の一時、窓から射し込んでくる日の光に照らされて濁った瞳が虚ろに輝く。座り心地の悪い椅子だ。これが果たして小休止となるだろうか。だが、まだ永眠の時は訪れないだろう。テレビから教会の鐘の音が聞こえてくる。またいつか走り出すだろう。そんな予感がする。突然の閃きをやり過ごし、確実な慣習と戯れる。


3月18日

 暖かい夜だ。今何を考えているのだろう。そういえば以前の認識は間違っていたようだ。以前、ヒトラーは合法的に選挙で勝利して独裁者となったと述べたことがあったが、どうも事実は微妙に異なっていたらしい。彼が首相に指名される直前の選挙では、ナチスは突撃隊による粗暴な行動が有権者の反感を買って大敗を喫していたのだ。そして国会の議席数を大幅に減らして彼の政治生命がまさに終わりを迎えようとしていたとき、彼を政治的に操って政治的主導権を掌握しようとしていた人物の陰謀によって、彼は大統領によって連立政権の首相に指名されたわけだ。その時副首相となった人物は、ナチスが選挙に負けて弱体化した今こそ利用できると考えたらしい。衛星放送のドキュメンタリー番組では、その後件の人物がどうなったかあまり詳しくは触れていなかったが、ヒトラーが首相になってからは瞬く間に国家の全権を掌握して、名実ともに独裁者となった経緯が詳しく述べられていた。そのドキュメンタリー番組に従うなら、ヒトラーは、まずミュンヘン一揆と呼ばれるテロ行為で手痛い敗北を味わってから、今度は合法的に選挙によって着実に勢力を伸ばしていった後、またもや配下の組織による暴力沙汰の頻発を嫌う選挙民によって、決定的な敗北を喫して、彼を度々批判してきたマスコミからは、もはや終わった、と新聞紙上で大々的に書き立てられた、そのすぐ後に首相になって独裁者への道が開けたということらしい。これを何と言ったらいいのだろうか、まさにこれは偶然と必然の混じり合った成り行きとでも言えばいいのだろうか。ちなみに、当時、度々彼やナチスの凶暴な実態を新聞紙上で書き立てて、ナチスのデタラメな人種思想を逆手にとって、ヒトラー自身はアーリア人の子孫などではなく、その頭や顔の骨格の特徴に最も近いのはモンゴル人だと新聞の第一面でおちょくってみせたジャーナリストは、ヒトラーが国の全権を掌握する途中で起こった大規模な粛正に巻き込まれて殺されたそうだ。ところで、こんなエピソードに励まされるような政治家が今の日本にいるだろうか。何とも言えないところか。


3月17日

 猫が暗闇の中で蹲る。湿り気を帯びた微風が頬を撫でる。コールタールに沈んだ鉛の塊のような気分になる。鬱状態なのだろうか。だが、それで濃密な時を過ごしたつもりになる。空気が重く感じられる。標高の低い地域に暮らしているのだろうか。どうもそういうわけでもないらしい。外は雨らしい。


3月16日

 時計回りにアナログ時計の針は回る。それとは逆向きに回ったら鏡の世界になる。蝉の抜け殻と馬の蹄を煎じて飲む。そんな漢方薬があるだろうか。魔術を信じたつもりになって、人々を操っている振りをしてみる。言葉の魔力にも有効期限があるらしい。真正面から吹きつける強風に抗いながらも、いくらか前に進んだようだ。その微々たる歩みを振り返ってみたくなる。まだ始めたばかりなのに回想録はないだろう。もはや後ろを振り返ることしかできないのだろうか。だが、振り返るべき後ろが見あたらない。これまで何をやってきたのか記憶が定かでない。過去の言葉は忘却の彼方へ退いているらしい。元来た道を引き返そうとしても、すでに雑草が生い茂り、道は見失われている。それほどの時間が経過しているようだ。この時点は、始めたばかりなどではないらしい。その微々たる歩みは、途方もなく長い距離なのかもしれない。それに今は吹きつける風など感じていない。寒くないので暖房を切った部屋の中は、まったくの無風状態なのだ。そう度々強風が吹きつけてくるわけでもないらしい。たまには風を頬で感じてみたい、という趣味程度の問題なのか。その程度ならば、扇風機やエアコンの風で満足すべきかもしれない。しかしそれでは、風などどうでもいいことだろう。それは単なる空気の流れ以上のものではない。辺り一面に腐臭が漂うのも、微風がその臭いを拡散させているからだろう。腐りかけの鼠の死骸を藪へ放り投げる。コラールの合唱が内奥にある空洞から聞こえてくる。土偶の神を賛美しているらしい。形あるものはいつかは崩れる。水素原子の寿命と現在推定されている宇宙の年齢はかなり不釣り合いだ。宇宙はまだ生まれたばかりなのだろうか。ビッグバン理論は俄には信じられない。この宇宙を誕生の一点に集中させる必然性が理解できない。素人の認識とはそういうものかもしれない。実生活に直接結びつかないものに関心がないわけではないのだが、ハワイにある最新鋭の望遠鏡で、百五十億光年先を見るのはいつのことなのだろう。将来月面にでも望遠鏡を設置すれば、一応見えるようになるらしい。結局、社会を変化させるには科学技術に頼ることになるのだろうか。確かに月や火星に人々が大勢住むようになる頃には、地球の地図上に引かれている国境は無意味になるかもしれない。しかし、これはまったくいい加減な展望だろうか。少なくともあまり本気ではないようだ。たぶん、国境や国家がなくなっても、そこには何らかの行政機関が存在するのだろう。


3月15日

 砂埃がひっきりなしに舞い上がる。風の強い日だ。天気予報によると風向きで暑くなったり寒くなったりするらしい、ということだったが、実際はかなり寒かった。しかしそんなことはどうでもいいことなのだろう。寒かろうが暑かろうがもう春なのだろう。ところで、春は心変わりの季節なのだろうか。最近は賞味期限切ればかりを味わっている。レンジで暖めれば大丈夫だとは思うが、そのうち食中毒になるかもしれない。やはりつまらないものは無効なのだろうか。もうひとひねりほしいところなのか。今さら何もひねり出せはしないだろう。冷めたピザは遠い昔の挿話だ。それに対するフォローは何も期待しない。今さら批判しても仕方ない。何を批判するつもりだったのだろうか。それがわからない。そうこうしているうちに、またしても翌日の朝にずれ込んでしまう。どうも時間配分を大幅に間違えているらしい。意識とタイミングが変わりつつあるようだ。周りの状況の変化に対応しようとしているのか。果たしてそれが的確な対応かどうかはよくわからない。ところでこれは、以前とは何がどう違う状況なのだろうか。わからない。


3月14日

 寒い、まだ夜は冷える。きっと朝は氷点下の気温だろう。だがあと数週間の辛抱かもしれない。暑いのは嫌いだが、寒いのは辛い。どうも年がら年中、暑いか寒いかばかりで、そのどちらでもない時期や時間があることをあまり覚えていないようだ。確かにそのような快適な時期が一年のうちで何日かあったはずだが、記憶に残っているのは、いやというほどの暑さが何日も続いてうんざりしたことや、寒さに必死になって耐えていた苦痛の日々ばかりだ。なぜ快適な日々のことはすぐに忘れて、自然の猛威に耐え忍んでいた日々ばかりが思い出されるのだろうか。要するに、そうした外界から精神的肉体的に加えられる刺激が記憶を形成するということなのだろうか。そして、そのような苦痛が大きければ大きいほど、それに比例してより一層の過度な快楽を希求することになるのかもしれない。それらはアメとムチとして人々に休む間も考える暇も与えずに、四六時中過剰な行動に急きたてる。これが今日の情報化社会の特性ということになるだろうか。これはおかしい。自然の猛威と情報化社会のどこに接点があるのだろう。地球の温暖化による極端な気候変動が現代の後期資本主義社会と平衡関係にあるということか。これは奇妙な珍説だだろうか。果たしてこれにどれほどの説得力があるだろうか。だが、そんなことはまったく信じていない。


3月13日

 夜だ。暗い。確かに夜は暗い。明るい夜も中にはあるにはあるだろうが、普通夜は暗いと相場は決まっている。別に白夜を体験できるほど高緯度地方に住んでいるわけでもないが、今は夜の暗さの中には存在していないようだ。部屋の中にいるので夜でも明るいらしい。要するに、この明るさは蛍光灯の光に頼った人為的な明るさなのだ。しかし何を今さら言うのか。外に出れば確かに夜の暗さを実感できるのだろう。何を当たり前のことを述べているのだろうか。なんとなく、たまには わけのわからないこと以外のことも述べてみたくなった。だから、当たり前のことを何のひねりも用いずに極めて率直に述べてみた。しかしそれをそう述べる必然性は感じられない。何も取り立てて述べる必要のないことをことさらに述べている。それは単なる偶然の産物なのだろうが、確かに述べている内容はその通りなのだが、やはりどこかしらおかしい。なぜそんなことをここで述べるのかがわけがわからない。まったく、他に言うべきことがないのだろうか。そうこうしているうちにもう朝になってしまった。苦し紛れに窓から外を眺める。風の音が聞こえてくる。今日は殊の外風が強そうだ。天気予報によると今日で冬が一旦終わって、明日からは春になるらしい。久しぶりに青い空を見上げる。空以外には何も見えない。


3月12日

 ありもしない記憶を辿っていって、未知の出来事に遭遇する。それはあり得ないことだ。夕暮れ時に虹を見る。それはいつのことか。たぶんいつのことでもないだろう。もっともらしく述べるならば、過去のある時期にそれを見たような記憶が微かに残っており、その記憶の残滓に脳が反応して架空の出来事を再構成したらしい。何を述べているのだろう。やはりそんなことはあり得ない。どうもあまりできのいい嘘ではないようだ。たぶん、それはあり得ない記憶だ。いや、記憶ですらないのかもしれない。単なる即興の作り事なのだろう。その場で苦し紛れに捏造した嘘の記憶だ。だが、そんなことはどうでもいい。案外本当に夕暮れ時に虹を見たことがあったかもしれないが、その出来事があろうとなかろうと、取り立てて深刻な問題ではない。何やら同じようなことを述べているだけであって、なんとなく何かを繰り返しているつもりなのだろう。たぶん何かを記述しているつもりなのだろう。それがまったくの空疎な内容であったとしても、とりあえずはそれで構わないようだ。それでも少しは自己満足を味わえるのだろう。しかし同時にむなしさも感じる。こんな内容では不満なのはわかりきっていることだ。さらなる紆余曲折を展開させねばならぬ。しかしそれをやるだけの気力が果たして残っているかどうか疑問だ。まったくやる気がしない。


3月11日

 どうやら少し余裕が生まれたらしい。この辺で一気に片をつけてしまおう。意欲とは気まぐれなものだ。別にやる気はあまり湧いてこないのだが、なぜか結果的にやる意欲はかなりあるらしい。しかし、やる気もないのに意欲だけは旺盛とはどういうことだろうか。やる気と意欲はどう違うというのか。なぜか矛盾しているような気もするが、それはそれで構わないだろう。なんとなくそれでもいいことにしておこう。そんなことに構っているほどの精神的な余裕はないようだ。辞めない辞めないと言いつつ、辞めてしまってはばつが悪い。正確には辞意を表明していないのに、それを強引に事実上の辞意表明だと発表するメディアの勝ち誇り方も、なんだかな〜、という感じがしないでもない。世論調査を武器とするマスメディアとの権力闘争に敗れ去った政権政党も情けない限りだが、その両者が同じ穴のむじなだということも忘れてはならないだろう。この日本と呼ばれる地域に暮らす人々をひとつにまとめて、その全員を同じ方向に向かせようと画策していることに関しては、両者の利害は一致しているようだ。要するに、人々を自分達の思うがままに操縦したい、ということであり、彼らの繰り出す言説の端々からは、常にそういう人々に命令する指導的立場での言動が滲み出てくる。しかも、自分達があからさまに命令するのではなく、何か言う度に、これは国民の声だ、と世論調査の結果を隠れ蓑にして、あたかも自分達が国民の代弁者気取りで指令を下す。まったく、国民という実態が不明確で根拠が定かでなく、場合によっては責任逃れにも使用できる言動は即刻やめて、自分がどう思っているのか、自分が発する言動はすべて自分の考えとして自分の名前を用いて自分の責任で発表してもらいたい。国民などという無責任な枕詞を用いることがまったくの卑劣きわまりない言い方であることを理解して欲しい。国民がどう思っているかではなく、例えば、自分の意見が政局の中で何らかの議論を呼び、争点となっているのだとしたら、それについて議会の委員会や本会議での賛否で、または選挙の当落として反映される、ということだろう。なぜそれ以外の世論調査結果ばかりで国民の名の下に勝手な判断が下されるのだろうか。まったく議会軽視も甚だしい欺瞞のそのものである。何でも世論調査で決まるのなら、もう国会も国会議員も必要ないのではないだろうか。つまり政府の立案する政策に関して、その度に世論調査で賛否を取って、その政策を実行するか否かを決めたらいいのではないか。それでは衆愚政治を招く危険性があるというのなら、国会議員は国民の代弁者である前に、まず自分の名前で自分独自の意見を述べて欲しい。それを国民は選挙で判断することしかできないのが今の制度であるはずだ。マスメディアが勝手にやっている世論調査は、その限定された国民の判断する機会の少なさを補うものとして頻繁に行われているらしいが、それならばなぜ有権者全員に訊かず、数百人から数万人程度を対象として行われるのか。調査対象外の有権者の九割以上にも及ぶ人々の立場はどうなるのだろうか。単なる統計学的な説得力だけで、そんな不平等なものを根拠として、一応公正な制度だとされている選挙で選ばれた政治家を非難して大丈夫なのだろうか。しかも、そんな根拠が不明確なことを平然と行っている大手新聞社の論説委員辺りの主張が、未だに欧米先進諸国と堂々と対等な立場で渡りあえる指導者を求めているとかいう、明治維新の昔から変わらぬ価値観で凝り固まっている。まったくお笑いぐさにもならない馬鹿さ加減だ。そういうわけで、彼らはいつまで経っても甘えの消えない西洋かぶれの国家主義者なのである。そういった者達の存在が、この地域の行き詰まりを象徴しているのだろう。たぶんその程度からこそ、いつまで経っても欧米への劣等感から抜けきれないお粗末な現状を呈しているのだ。その程度ではまったく駄目であり、まずここでやらなければならないことは、この日本と呼ばれる地域が世界に先駆けて国家という近代の遺物の束縛から解放されなければならないことである。かけ声だけの解党的出直しなどではなく、国家そのものを解体しなければ、この行き詰まりはいつまで経っても解消されないだろう。しかしこれは冗談なのかどうか疑問だ(笑)。


3月10日

 忍耐が続かないし、辛抱も続かない。枝葉末節なことにあまりにも執拗にこだわっていては先に進めないのはわかっているが、やはりつまらないこだわりを捨てきれないらしい。なぜかそれを改めるのが面倒臭くなってきた。改める前に、ただ闇雲に記述を急いでいる。しかし、何をどう考えるとこんな具合になってしまうのだろうか。何を考えているかはよくわからないが、何やら忙しなく思考を巡らしていることは確かなようだが、それが認識できていない。別に熱くなっているわけではないし、それほどテンションが高いわけでもないが、なぜかそういう事態に突入しつつあるらしい。そういう事態とはどういう事態なのだろう。それに対する回答はあらかじめ定められているらしい。そういう事態とはこういう事態というわけだ。そういうとこういうの間で事態が循環している。おかしなものだ、どういう風の吹き回しなのだろう。こういう風の吹き回しなのだろう。こういう具合に、問いとそれに対する返答はほとんど同じ言葉になってしまう。それがよくわからない。述べている内容そのものはわかるが、それでどうしたいのかがよくわからない。その辺が昔からよくわからなかったが、さらにわからなくなってきた。ほとんどまるでわけがわからない。なぜそうなってしまうのだろうか。たぶんそれは自己言及の一種かもしれない。その、なぜという疑問を発したくて、そういうわけのわからないことをやっているのだろうか。それは形式的にはれっきとした回答であるかもしれないが、問いをそのまま鸚鵡返しに模倣して、問いそのものの存在を問いただす回答である。またそれは確かにその場しのぎの言説に絡め取られているが、結局そのように回答できること自体が、問いの無効性を暴き立てているだろう。まあそれでもいいのだろうが、それだけではなんとなく寂しいような気がしないでもない。毎度ながらの否定の連続にはうんざりする。そういう表現は文法的に誤っているかもしれない。まったく面倒な世の中だ。書きたいように書かせてくれない。別に書いているわけでもないのに、書かせてくれないのだ。それがどういうことなのか自分でもわからない。自分にはわかるはずもないだろう。そして誰にもわからないということなのかもしれない。やはりテンションが低いからそうなってしまうのだろうか。さあ、それとはあまり関係はなさそうだが、とりあえずの言い訳としては、そんな理由でも取り立てて問題はないだろう。そういうわけで、テンションが低いからわけがわからなくなる。しかしテンションが高いとさらにわけがわからなくなるだろう。テンションが問題なのではなく、これといった興味を惹く話題がほとんどないといったところだろうか。すでに朝になってしまった。そして気がついたらもう深夜だ。その過ぎ去った時間の間に何をやっていたのだろう。


3月9日

 なぜだろう、そんな疑問ばかりにはつきあっていられなくなってっきた。どうも質にこだわっていては、この先に進めないようだ。では今では何にこだわっているつもりなのか。質より量というありきたりな言い訳に頼ってこういうことをしているわけか。それでもいいだろう。そうではないかもしれないが、そんな感じがするような展開になってきた。どうもいつもの矛盾を糧として述べつつあるようだ。今はそんなことしかできないようだ。しかし、今までも別に質にこだわってこんなことをやってきたわけではない。ただなんとなく続いていただけかもしれない。本当のところはよくわからない。だが、わからないものに無理矢理理由をこじつけなければならないようだ。ただなんとなく、では通用しないらしい。しかし何を言っているのだろう。ここに至って何も言うことはないのかもしれないが、とりあえず何か述べないと行間が埋まらないので、適当に何かしら述べておこう。今はそんなことしかできないらしい。今までもそうだったかもしれないが、これからもそうかもしれないだろう。しかしそうでなくなるかもしれない可能性も捨てきれないでいる。どうやら執念深くて未練がましい性格のようだ。その場で勝手な性格を捏造してみる。


3月8日

 これは花粉症なのか風邪なのか、そのどちらなのかよくわからない。春と冬の狭間で体調がすぐれない。だが、それでもいつものように時が過ぎ去り、いつものように景色が移り変わる。それは当たり前のことだが、そんな経験が何の感慨もなく繰り返される。自分とは無関係な経験だろう。それはどういうことなのか。たぶんもうすぐ春が来ることはわかっているが、実際に春が来たからといって、それでどうなるわけでもないということか。時の流れや時間の経過がすべてを解決するわけでもないだろう。解決ということに関しては確かにそうかもしれない。なぜか走り出したら止まらなくなる。そのうち倒れるかもしれない。まだ余裕はあるのに時間がない。また、時間はあるのに余裕はない。つまり、余裕と時間のどちらかがいつも不足気味なのだ。だがそんなことが本当にあり得るだろうか。確かにその状態をどう表現しようと記述する者の勝手だろうが、やはりそういう述べ方は意味不明かもしれないだろう。だが仮に意味不明であったとしても、それで取り立てて不都合は感じていない。もうそんなことに構っていられない状況なのだろう。もはや限界をはるかにオーバーして未知の領域に踏み込んでしまっている。これから何が起こるのかまったく見当がつかなくなりつつある。今はそんな気配を感じているようだ。しかし、だからといって、別に人の気配を感じているわけではない。見当がつかないどころか、見当はずれの展開になりつつある。


3月7日

 ただ眺めている。遠くを見つめているようだ。さっきから視線の方向が動かない。よもや死んでいるわけでもないだろう。そこで何を見ているつもりなのか。つもりではなく、何らかの景色が目に映っていることは確かなようだ。だが焦点が定まらない。それもいつものパターンだろう。気がついてみると、だいぶ時間が経過してしまったらしい。さっきまで何を見ていたのだろう。近頃は紫の夢を見ることもなくなったようだ。どうやらナチュラルハイな状態から抜けつつあるらしい。では近頃はどんな夢を見ているのか。他人の見た夢などに興味はない。しかし自分の見た夢の記憶が消失している。自分の夢も他人の夢も見る気がしないというのなら、では、誰の夢を見たら気が済むのだろう。夢を見られずに悩んでいるわけか。かなり嘘っぽい展開だ。その悩みを誰に打ち明ければいいだろう。本気で悩んでいるわけではない。本気で悩まない悩みなどあり得ないだろう。その辺がよくわからないが、ではどうしたらいいのだろう。夢判断師とかに訊ねればいいわけか。そんな職業があるわけもないだろう。それは要するに人生相談の一種なのか。馬鹿馬鹿しい、安易な人生相談など、気休めや会話を楽しむのが目的以外ではやめておいた方がいいだろう。そこから得られるものは何もない。わかることはせいぜい相談相手の軽薄さと、そんな相手に相談を持ちかけた自分の愚かさだけかもしれない。たぶんそんなことがわかっただけでも、少しは収穫があったと見なすべきなのだろうか。それが気休めということなのだろう。おそらく、他人に夢を語る暇があるのなら、黙って自分に課せられた仕事をこなした方がいい、ということか。ところで何が課せられているというのか。しかしこれがはたして仕事なのだろうか。いったい誰がこの仕事を課しているのだろう。誰でもなく、自分自身が課しているわけか。なるほど、その程度のことはわかっているらしい。いや、その認識は間違いであって、本当は課しているのは自分でもなく誰でもないのかもしれない。要するにこれは、課された仕事などではないのかもしれない。つまり、仕事ではないことを黙々とこなしているのだろう。では、これは何なのか。わからない、自分のやっていることを名付けようがない。しかし、はたして自分がこれをやっているのだろうか。確かに自分の手が動いて画面に文字を打ち込んでいるらしいのだが、それをやるように指令を出しているのは、本当に自分なのだろうか。この作業をやっているとき、別に自分はその瞬間瞬間に、やれと命令しているわけではない。ただなんとなく手が勝手に動いてキーボードを叩いているに過ぎない。やはりそれは無意識のなせる技なのだろうか。だが、なんとなくそれはいい加減な認識くさい。粗雑な精神分析もどきに影響を受けているようだ。しかし、それはなぜだろう。なぜという疑問には飽きた。気がついたら、なぜかこんな具合にわけのわからない方向へ逸脱しているようだ。なんとなく唐突にわけのわからないことを述べてしまっているらしい。それにしても、どうも夢についてはあまり興味が湧いてこないようだ。しかしその一方で、現実に関してもあまり興味は湧いてこない。では今は何に興味を持っているというのだろうか。それがわからないのか。そういうことなのだろう。だが、その、そういうこと、とはどういうことなのだろう。どういうことでもなく、そういうことなのだろう。それはそういう循環の繰り返しなのであり、明確な答えなど元から存在しないのかもしれない。ただ、他人の視線などに興味はない。もはや誰が何を見ていようと一向に構わないのだろう。どうやら開き直っているらしい。しかし、いったい誰が開き直っているのだろう。その辺が曖昧だ。たぶん誰かしら開き直っていて、終始投げやりな態度を装っているようだ。それは自分のことだろうか。そうかもしれないが、その自覚はあまりない。とりあえずどこからどこまでが嘘か本当か、まったくわけがわからない。その状態を安易に述べるならば、すべてが嘘ですべてが本当なのだろう。


3月6日

 おかしい、なぜこうなるのだろう。わからないが、現にこうなっていることは確かだ。これは夢や幻ではない。だが、別にこれがどうということはないだろう。これで何がどうしたわけでもないのだが、これはこういうことでしかない。これが現実である。では、ここからどうすればいいのだろうか。それもわからないが、結果的にどうにかなることは確かなようだ。そう、なぜかどうにかなるのである。それが今わかっていることだろう。だが、これは奇蹟ではない。奇蹟など起こるはずがない。ただ、これから起こる出来事を無理に奇蹟と言いくるめることはできるだろう。しかしそれを信じる人はそれほどいないような気もする。だが、大半の人々はこれとは別の何らかの奇蹟が起こりうることは信じているらしい。そういう自分も何かしら奇蹟が起こることくらいはいくらか信じている。それを奇蹟と見なす基準は必ずしも明確ではないが、やはりたまには奇蹟といわざるを得ない事態に遭遇する可能性はあるだろう。奇蹟など起こらないと述べつつ、現実には奇蹟に出会ってしまうわけだ。しかし、それでも、奇蹟は起こらないだろう、と述べ続けるだろう。起こるはずのないことが起こるとき、それを奇蹟と言わしめるのだから、そう述べざるを得ないのかもしれない。たぶん奇蹟に遭遇することも奇蹟のひとつなのだろう。何わけのわからないことを述べているのだろうか。あまりの退屈さに飽きて眠たくなってきた。何に関しても集中できないでいるらしい。しかし今さら集中する気はない。こんな時間に何が集中するというのか。おおかた精神の集中でも期待していたのだろうが、まったくその気配すら感じられない。もういい加減あきらめたらどうか。何をあきらめろというのだろうか。肝心のあきらめる対象がまだ見えてこない。あきらめるべき夢や目標が不在だから、そうなってしまうのだろう。これでは何もあきらめようがない。これからも奇蹟が起こることを信じつつ、このわけのわからない営みを続けてゆくしか方策はなさそうだ。もしかしたら、これが続いていくこと自体が奇蹟的なことなのかもしれない。まったく、なんでこれほど続いてきてしまったのか俄には信じ難い現実だろう。本当におかしいのではなかろうか。冗談にも程があるだろう。しかしすべてが冗談なのだから仕方がないだろう。ほどほどという状態はとっくの昔に越えてしまったのだろう。よくこんな状態を狂気に結び付けたい衝動に駆られたことも昔は度々あったが、この程度で気が狂っていてはニーチェに対して失礼というものだ。もはや狂気でも正気でも、どうでもいいような気がしてくる。今さら文学的な狂気だの死だのには興味がなくなってしまった。もうそうやってカッコつけるような文体とは縁もゆかりもないような文章になってしまった。別に気が狂っていたからといって、何の価値も見いだせない。また、人の死について何やらもっともらしいことを真剣に考察しているように装うこと自体が、まったくありふれたキッチュであることも理解できる。その程度の戯れ事で満足できれば、これほど意味不明でわけのわからないことを述べる必然性は生じてこないだろう。その程度のわかりやすい狂気や死では済まなくなってきたからこそ、こうしてあまり気の進まぬ試行錯誤を繰り返しているのではないのか。まったく実りの期待できないようなことをこれほど執拗にやり続けていること自体が、奇蹟としかいいようのないことなのだろう。だが、これからもこのあほらしくも退屈な作業をやり続けることを思うと、途方にくれること以外に何も感じなくなってしまうかもしれない。いったいこれはなんなのだろう。まるで内容が何もないではないか。やはりおかしいのかもしれない。要するにこれは、正気とも狂気とも関係なく、ただ単におかしいのだ。このおかしさをどう言いあらわしたらいいのだろうか。その辺がまだいまいち詰め切れていないようだ。これから何か確固とした表現形態に行き着くのだろうか。何やらこのままのような気もしなくもないところが少し怖い。


3月5日

 めずらしいこともあるものだ。砂の嵐で目が覚める。その粗い粒子の中に石英が一定の割合で含まれているだろうか。とりあえず砂の惑星での出来事は、同名の長編SF小説でも読んでほしい。今さら取り立てて読む気はしないだろう。画面上での出来事は奥行きが感じられない。アフリカの空は何を連想させるだろうか。南米の高地にコンドルが舞う。日本の空には鴉がよく似合う。その閉塞状況は偽りの仮面なのだろう。この期に及んで誰が困っているわけでもないだろう。仮にそこから抜け出られなくとも、絶望に打ちひしがれる者などいはしない。この状況で生きていることが当然の現実なのだ。他の状況はあり得ない。あり得たかもしれないが、現実にはあり得なかった。その可能性は架空の状況を想像させるだけなのだろう。そこでこみ上げてくる感情は絶望感などではない。しかしそれは快楽には成り得ない感覚だろう。すでに虚無感は通り過ぎている。それは何かの境地でさえない。未だに何も定まってはいないようだ。見たところ、何の変哲もない大地だ。霧が晴れ渡った後に、湿り気を含んで黒々と広がる耕地が姿を現す。まだその続きがあるらしい。冷たくて重たい空気に押しつぶされそうだ。氷雨に打たれながら凍えていた。そこにこれから何の種を蒔こうとしているのか。迫り来る時の足音に恐怖する。わずかに許された期限はそこまで迫っているらしい。これ以上の先延ばしは困難だろう。だがやろうと思えばその先の時間を設定できるかもしれない。荒れ地の時間は無限にある。荒れ狂う波間に漂う小舟のような状況まで用意されているかもしれない。冒険とはそういうものだ。何をやるにもバクチは付き物なのだろう。だがそこに留まることはできない。能う限りの確実性を求めるのが一般的なやり方になる。その確実性に群がる者が詐欺の対象になる。安全確実が危険なだまし文句になる。そんな言葉にすがって破滅する人が後を絶たない。彼らはどこでどう間違っているのだろうか。いや、それほど間違ってはいないのかもしれない。他人の言葉を信じるには、程度の差はあるが、その言葉にだまされるのをよしとしなければならないような、ある意味での勇気が必要となるだろう。そこに一か八かの冒険が伴うのである。やはり何をやるにもバクチが付き物なのだ。だからある程度の間違いは仕方のないことだが、往々にして、そのある程度の間違いでは済まなくなるだろう。痛い目に遭いながらも、さらなる土沼に引き寄せられてしまうことが多い。結局泣きっ面に蜂どころの騒ぎでは済まなくなる。絶望のどん底の底が割れてしまう。そこまでいかないとおもしろくはないようだ。なぜそんな状況がおもしろいのか。たぶん、そんな状況でも笑っていられる人に巡り会えるかもしれない期待感が膨らむからかもしれない。期待とはそういうところから生まれるらしい。ありきたりな平常心など吹き飛んでしまわないと、期待や希望には出会えないようだ。だから、すべての期待を裏切る形で事態が進行してほしい。そんな期待など期待のうちに入らない偽りの期待だ。現状維持によって、変革への期待など木っ端微塵に打ち砕いてほしい。この場合、現状を維持することが現状を変革することにつながるだろう。その反対に変革を促している人々の主張は、このままでは日本が危ないという昔ながらの紋切り型に終始している。そう言い続けることが現状維持を助長していることに果たして気づいているだろうか。そういう言説そのものが現状の維持を無意識のうちに助長してしまっているだろう。彼らの主張するありきたりな変革が現状維持そのものと表裏一体をなしているわけだ。そういう主張をすること自体が、まさにこの現状によって可能となっている。今はそんなねじれた状況のようだ。だから今はこのままの現状を維持し続けてほしい気がする。まあ、それは現状では無理なのかもしれない。どうせ中途半端なことになりそうな予感がしてくる。だからなおさら不可能な現状維持を期待せざるを得ないだろう。


3月4日

 何をやりたいのか、そして実際に何をやっているのか、依然としてわからない。誰がどこで何をやればそうなるのか。俄には判断つきかねる情勢だ。なんとなくそれで何か述べたつもりになる。世の中はそればかりなのだろうか。たぶんそうなのだろう。そして、あわよくばその状態から抜け出して、さらなる突飛な行動が期待されているのだろう。だがそれらはすべて蛇足だらけであり、そのことごとくが付け足しばかりになるだろう。それでも何かしらそれなりの達成感に包まれる。結局のところ、それがすべてだ。何かやった気になりたい症候群の実態とはそういうことだろう。そういう無駄な努力がしてみたい。すでにやっているつもりなのだが、まだこの程度では気が済まないらしい。どうぞ気が済むまで存分に努力してみたまえ。架空の同僚がこんな激励を発し続けている。無責任な人だ。存在しないのだから、責任を負わせることはできないだろう。やはり、さらなる迷宮が期待されていることは確かなようだ。まるで足の踏み場もないほどの散らかりようだ。これのどこが散らかっていると言えるのか。だが理路整然とした散らかりようもおもしろそうだ。気がつけばおかしな表現の連続に終始している。このマンネリから脱しつつ、別のマンネリに陥っている。そこではマンネリが循環しているようだ。それは現にあるがままの表現形態だ。誰がどこで何やってもそうなる。そこでやっているのは誰でも構わない。ただ誰がやってもそのような行いになってしまうだけのことだ。それでは不満なのか。ではあなたもやってみたらいい。試しにやってみれば、そのことがわかるだろう。抵抗しても無駄だ。自分の独自色なんかを出そうとすれば、たちまち他の者と同じやり方になってしまうだろう。皆が自分独自のやり方を模索しながら、その姿勢がそうすることで同じ方向を向いてしまっていることに誰も気がつかない。独自色そのものが昔から誰もが思いつくマンネリの思考から生まれてくるものなのだろう。では、そうならないためにはどうしたらいいのか。それも昔と同じ問いの形だ。答えはすでに出ている。誰ひとりマンネリからは逃れられないだろう。だから、別にマンネリで構わない。マンネリは様々に形を変えて循環するものなのだ。それはそれでそういうものとして認めるべきだろう。そこから飛躍しようとは思わないことだ。飛躍しようと努力する行為は昔から連綿とやり続けられている。そういうマンネリ行為は掃いて捨てるほどあるだろう。マンネリに耐えられないで、苦し紛れに独創を目指しても、それこそが別のマンネリを形成していることになる。とりあえず今あるマンネリをやり続けることしかできない。それを循環させ、限りなく反復させるだけだ。それの継続は、多大な忍耐と割に合わないうんざりするような苦労を伴うだろうが、ただ淡々とやるしかない。そうすることしかできないのだから、そうせざるを得ないだろう。それ以外は単なる付け足しであり、不必要な蛇足なのだろう。時として気晴らしにはそれらも必要だろうが、それはあくまでもおまけの範囲内であり、それがメインになってしまっては、それらは、ただのつまらない日常会話レヴェルの無駄話でしかなくなるだろう。しかし、それらがただの無駄話であっても一向に構わないのだ。むしろ積極的に無駄話のうちにとどまるべきだろう。マンネリは循環しなくてはならない。それらが無駄話と判断されたら、さらに無駄話を押し進め、それを限りなく反復させる。忍耐強く無駄話を続ける必要がある。決してそこから飛躍して、何かためになる話に発展させようとしてはいけない。それを体現しているのが説教話だ。その手の話が好きな人は、自分では無駄話を説教話に進化させたつもりなのだろうが、その人は話のどこが魅力的なのかをまるでわかっていないことになるだろう。まさに無駄話の中のわけのわからない無駄な部分に、様々な方向性を持つ魅力が同時に複数含まれていることを知ろうとしない。


3月3日

 不規則な言葉の羅列から取り出された未来と過去の断片に影響を受ける。宿命を運命に変えられるだろうか。またわけのわからない展開になろうとしているらしい。新鮮な感覚からは隔てられているようだ。ペイズリー柄のカーテンが井戸の水に溶け込んでゆく。皿の割れる音がした。針が動かない。腕時計が錆びついている。とりあえず時間が停止しているらしい。あり得ないタイミングで停止が繰り出される。空想の旅に終わりはないようだ。終わりはないが、いつか終わらせなければならなくなる。では夢から覚めて何を想う。思い出すのは気の抜けた冗談だけだ。夢は世界征服だそうだ。しかしどうやってこの世界を征服しようというのか。この世界を征服してどうしようというのか。それがどこまで本気なのかわからないが、本気でないのは百も承知だ。何を述べているつもりなのか。とりあえず目指すべき目標があることは何らかの励みになるだろう。それで誰が励まされるのだろう。そこで自家撞着の意味を知りたくなった。なぜかいつものように嘘をついているらしい。外では雪がちらつきながら晴れ渡る。何やら雲行きが怪しくなる。この生暖かい風は嵐の前触れだろうか。それはどこから吹き込む風なのか。窓もドアも閉め切っているので、外からではないようだ。そんなことはわかっている。エアコンから吹いてくる暖房の風が嵐を呼んだりするわけか。それが春の嵐の前触れだとでも言いたいのか。たぶん寒冷前線が好きなのだろう。花粉症の季節がやってきた。鼻水と涙が止まらなくなる。それは切れない包丁でタマネギをみじん切りにしたような感覚だろうか。それでカレーでも作る気か?わからない。何を思ってそういうことを述べるのだろう。思っていることは何もないかもしれない。そこから、前後左右のどこへ行きたいのだろう。逃げはしないが、結果的に逃げたことになってしまうかもしれない。あらかじめそうなる公算も計算済みなのだろうか。では、その他に考慮されている側面はないのか。いったい何を述べたいのか。やはりそれもわからないことのひとつであるらしい。例えば山と山の狭間に谷がある。それが暗号の断片だとしたら、解読を試みなければいけないだろうか。何を言いたいのか判然としないが、別にやる必要はないだろう。では、お節介とお人好しをどう区別するべきなのか。たぶんお節介は自分はお人好しではないと思っているのだろうが、結果的にはお人好しになってしまうということだろうか。それを誰が判断すればいいのだろうか。たぶんそんなことは当事者同士で判断すればいいことなのだろう。有権者が選挙で判断すればいいことを、お節介焼きが事前に、ああだこうだとうるさく騒ぎ立てる。判断させまいとがんばっている。多くの人々は、そんなことの繰り返しに嫌気がさしているのかもしれない。季節は着実に移りゆく。漂う空気の温度差を敏感に察知しようと、もはやどうなるわけでもないだろう。試行錯誤の段階はとうに過ぎ去った。もはや定められたレール上からは脱線できないだろう。それでいい、それが狙い通りの展開だったのだ。ただなるようになれば、それでいいのだろう。そうならなくても別に構わない。どちらであろうと狙い通りの展開なのだ。そのどちらに転んでも、もう後戻りはできないだろう。本気になる暇もなく、意味不明な冗談に呑み込まれてしまうだろう。そこで適当にもがき苦しんでいれば、なんとなく何かしらやった気になるだろう。それで満足してくれればそれでいい。あとはせいぜいその思い通りの展開とやらを楽しんでくれたまえ。その程度で我慢してもらおうではないか。少なくともバラ色の未来よりは居心地はいいだろう。まあ、おおかたの人はそれでは気に入らないのだろうが、では彼らが満足するような未来にどの程度説得力があるのか、それは勝手な御都合主義のユートピアでしかないような気がする。彼らは結局、破れかぶれでやけくそぎみの叫びを発しながら自滅するだけなのではないだろうか。もはやそんな末路しか思い浮かばない。


3月2日

 強迫神経症の人は誰かに脅迫されているわけではない。不快な気持ちでいることを無理強いされているのだろうか。誰に?自分に?自分が自分を不快感のただ中へ閉じ込めようとしているということだろうか。その心の病の病名自体はどうでもいいことかもしれないが、それが自分に当てはまるとして、今それに対する何らかの対処が必要とされているだろうか。病気だからといって、それを治そうと努力することを強いられるような環境には生きていないようだ。何かを無理矢理やろうとすればすぐに強迫神経症になる、というわけでもないような気もする。どうも病気を口実にして逃げるわけにもいかないような状況にあるらしい。それほど現実は甘くはないということなのか。この際、甘いか辛いかはどうでもいいのだが、それとは別のレヴェルでやる気がしないのかもしれない。飽きがきているということか。それはだいぶ前からそうなのかもしれないが、やはりそれでもまだ結果的にはやる気力があったらしい。実際にこうして続けている。だが、続けているうちにますますわからなくなる。やはりこれからは嘘でもいいから夢や目標などを設けてみれば、少しは気晴らしにでもなるだろうか。なぜ気晴らしになるのかよくわからない。よくわからないときは、試しにやってみればいいだろう。では夢は?世界征服。以前どこかで聞いた台詞だ。では目標は?アフガニスタンで義勇軍に参加すること。この時期に募集しているか?イスラム教徒以外はお呼びでないかもしれない。たぶん、偶像を破壊するというタリバンの主張は、イスラム教的には正しいのだろう。筋の通った主張と即実行する大胆さには敬服せざるを得ないだろう。だが、別の面から推測すれば、近頃は暇をもてあましていて、戦況の膠着状態により味方の士気も低下気味であり、現時点では、そんなことをやるぐらいしか人々の支持を取り付けるためのアピール材料はないのかもしれない。案外どこかの国の景気対策と同じようなものか。事の真相はよくわからないが、せっかく昔の人が岩山の断崖をくりぬいて作った高さが五十メートルを超える仏像を破壊するのは少々もったいない気がすることは確かだろう。他のほとんどの国がやっているような観光見物客目当ての商売をあっさり放棄してしまうところは、タリバンが清くて志の高い集団であることを証し立てているのかもしれない。その実態がどうなのかは、それを取り巻く人々によって意見が分かれるところか。昔のイスラム教徒は、交易によって巨万の富を築き上げてその勢力を拡大した、と学校の社会科の授業では教わったような気がするのだが、タリバンのいう原理主義は、どこで商売と結びつく要素があるのだろうか。どうもタリバンとイスラム商人の接点が見いだせない。そういえば、数年前にエジプトの観光遺跡で銃を乱射して多数の死傷者を出したのもイスラム原理主義の過激派だったと記憶している。昔のイスラム商人全盛時の頃の商売は肯定するのだろうが、今全世界的に幅を利かせている欧米流の資本主義には反対していることは確かなようだ。彼らは彼らで別のやり方を模索しているのだろうか。そういえば日本でも柄谷行人あたりが中心となって資本主義に対抗する運動を展開しているらしいが、彼も『原理』とかいう本を出版したから、いわゆる原理主義者のひとりなのだろう。とりあえず彼らの運動はうまく行っているのだろうか。今度彼らのサイトを覗いてみよう。またまたそういえば、もしかしてまた再開する予定の(もうすでに再開されているのか?)『批評空間』は、彼らの組織に入会しないと手に入らなかったりするのだろうか。その辺を今度メールででも質問してみようか。自分は資本主義と呼ばれる概念がよくわからない。それが果たして主義と言えるのかがいまいちピンとこないところがある。それは主義でさえないような気がしてくる。様々な偶然や過ちが積み重なってできたこういう状態を、「主義」と呼ぶことに抵抗を感じるのは当然のことだと思われる。その辺に大きな思い違いがあるのではないだろうか。自分に言えるのはとりあえずその程度のことだ。この程度では、原理主義者にはなれそうもない。


3月1日

 空っぽの状態が続いている。たぶん何も思いつかないだろう。ならば、ふとしたきっかけで何かを思いついた振りでもしてみようか。確かにさっき何か閃いたような気がしたのだが、すぐに忘れてしまったらしい。それがなかなか思い出せない。ではもう一度閃いてみよう。閃くわけがない。そんなことができたら苦労はしないだろう。そう都合よく閃くわけがないだろう。どうやら神経の配線がおかしな具合に絡み合っているらしい。そこで無理矢理何かを述べようとしているらしいのだが、言葉を適当に配していくうちに、初めに言いたかった内容とは似てもにつかぬ代物になってしまう。こんなはずではなかった、とさらに言葉を積みかねていけばいくほど、どんどんおかしな方向へ内容がねじ曲がっていってしまう。なぜそうなってしまうのかはよくわからないが、何とか元の路線に戻そうと四苦八苦しているうちに、結局わけがわからなくなる。もはや些細な言葉の行き違いを修正するのに多大な苦労を伴うようになっているらしい。これでは、もう元に戻しようがない。だが、さらにまだこの続きが待ちかまえているようだ。この先はもう一段の苦労を強いられるだろう。これ以上続けていけば、もはや終わりの来ない面倒な作業になるのは必至な情勢なのだろうか。まったく、これはいったいどういうわけなのか。どういうわけでもないだろう。こういうわけであることは一目瞭然だ。だが、それでもなお、将来については楽観的な見通しを持っているようだ。すべてがうまく行く日が必ずやってくる。そういつもいつも終わりなき日常ばかりが続くことにはならない。またその一方で、間違っても終焉など訪れはしないだろう。いったいここから何をどうやれば悲観的な予測が導き出されるのだろうか。それはあながち無根拠な強がりというわけでもないようだ。確かに疑念を差し挟む余地のない確信に満ちた歩みなどではないが、常にどこかへ向かって導かれている予感はしている。そして、なぜか問いを発する以前に答えが出ている。それはどのような答えなのか。さあ、どんな答えなのだろう。これはこういう答えなのだ。それはこれが答えだとしか言いようのない答えである。それにしても、これでは何に対して答えているのかさえわからない。そもそもこれが答えなのかどうか疑問だ。疑問ではないだろう。確かにこれは疑問ではない。これは問いではなく、答えなのだ。問いの内容が何もないにもかかわらず、なぜか答えがすでに出現しているらしい。それではなぜ問いが存在しないのだろうか。途中で断線しているのか。問いが発されて、それに対する答えを導き出そうと思考が複雑に絡み合う以前に途切れてしまっているのだろうか。思考する過程で生じるコードの束はどこへ行ってしまったのだろうか。どこからそれらは抜け落ちてしまったのか。しかし、問いがないにもかかわらず、答えは依然としてここに現前している。問いかけが行われる以前に答えが出現している。まさか無から有が生じているわけでもないだろう。どこかに何かしら生成物質でもあるのだろうか。真空からもクォークとか言う物質が生じるらしい。では今現実に生じているこの空白の時間はどこから生じているのだろうか。どこから生じていようと、それがどうしたわけでもないだろう。たぶん空白の時は空白ではないのだ。そこから何かしら生じるのだろう。この空白の時にはそのような性質が備わっている。ところで、この答えとは、どのような答えなのか。今ここでわかっている答えとは何なのか。その内容を是非知りたいものだ。差し支えなければ教えてほしい。その問いのない答えについて明確に説明してもらいたい。それはだいぶ前に、何の前触れもなく突然閃いたはずだった。雷に打たれたかのように、天啓が意識に突き刺さってその答えは生じたのだろう。わからない、それがこの言説に対する答えだろうか。かなりいい加減なことを述べてしまったらしい。


2月28日

 ある程度はアドリブが利くらしい。行ったり来たりしながら、その機械の動作は、能力の限界を超えるだろう。振り子の傾きが不自然だ。首が不自然な角度で曲がっている。時空の歪みは未だに修復できないでいるらしい。遠くから見ただけでは、生きているのか死んでいるのかわからない。そこから落ちて行く先は不明だ。たぶんわずかに地球の中心へ近づくのだろう。位置エネルギーが運動エネルギーに置き換わる。その瞬間、中枢神経が消失しているらしい。ほんのわずかなズレに戸惑ってしまう。浮遊する感覚に変化が生じているようだ。振り子の往復運動は途中で止まって、目覚まし時計のけたたましい騒音で我に返る。夢の中では浮遊できるようだ。実現性のない冗談はあてにならない。その言説の再現性に関して何のあてがあるのだろうか。不可能という毎度おなじみの決め台詞が期待されているらしい。それで平常心を保とうとしているのだろう。それは呪いのような言葉だろう。すべてがその言葉で支えられている。極めて脆弱な構造だ。放射状に広がるその末端では何が語れようとしているのか。そこでも不可能に関する言説に終始するつもりなのか。つもりはつもりであって、そのつもりでしかない。たちまち何を述べているのかわからなくなる。そこでは夢のまた夢について語っているのかもしれない。夢や目標がないと生きてゆけない素朴な人々がそこで将棋倒しになる。金がないと夢のバーゲンセールには加われないそうだ。だが拡声器から吐き出される声は、もっともらしく金で買えない夢がどうのこうのとがなりたてるのだろう。要するに人々の中に眠っている欲望を、励起状態へと持っていきたいらしい。無意識のうちに馬鹿の一つ覚えに陥っている。無駄な努力とはこういうことを言うのだろうか。だが、たぶんその程度では収まりそうもない。どうやら、それらの幸福を煽り立てる公式的イデオロギーとは別の次元で事態は進行しつつあるらしい。彼らは、足下の土台が消失していることに気づいていないようだ。自分達が築き上げたつもりの言葉の意味が、今や他の人々に通じていない現状を理解できていないらしい。たぶん、だいぶ以前から疲れているのではないだろうか。今となってはもう手遅れだが、少しは自分達の疲弊を認めてみたらどうか。現時点でわかっていることは、老いが確実に進行してきているのに、未だにその場所に居座り続けているということだろうか。たぶん今までにも、老害という言葉を政治家に向けて何度も口走ってきたのだろうが、自分がその老害の対象者になっていることについては、今のところ口をつぐんでいるらしい。かなりの無理を強いられているらしいことは端から見ても明白だろう。とまあ、単にそういうことであって、これにはあまり説得力はないだろう。今さら本気にはなれないが、この程度の認識で満足してくれただろうか。とりあえずここでは、これ以上踏み込んだ発言は差し控えることにしておこう。狂牛病に感染すると脳がスポンジ状になるそうだ。スポンジ状になると水分を吸収しやすくなるのだろうか。たとえば、頭蓋骨の中にスポンジを詰め込んだ場合、狂牛病になった脳とどちらがたくさんの水を吸収できるのか、それを実験してみたらいいだろう。なぜそんな実験やるかは、読者のみなさんのご想像に任せることにしておこう。どうも事態を完全に把握し切れていないようだ。それはどういうことなのか。その手の番組ではそういう台詞と深刻そうな効果を演出する音楽に満ちあふれている。なぜか見ていて、滑稽に思える。果たしてあれを本気で見ている人がどれほどいるのだろうか。たぶんたくさんの人が本気で見ているかもしれないが、科学的検証というものは、説得力はあるが信用できない。検証する素材そのものが、どうでもいいことのオンパレードなのである。それでも何かの役には立つのだろう。しかし、仮に役に立ったとして、やはりそれはそういうことでしかないだろう。それらはどこまでもハウツー的な役の立ち方の域を出ない。


2月27日

 忙しない時期にさしかかっている。どうも時間に追われるままにその気になってまだ疾走しているつもりらしいが、本当は立ち止まったままだいぶ時間が経過してしまっているのかもしれない。そこから得られるものは何もないような気になっているらしい。その辺に転がっている石ころは、外部から何らかの力を加えない限り転がらないだろう。だがそれが何の喩えなのか判然としない。走り去っていくのは時間だけか。しかし時間が疾走していると言えるのか。疾走するのは馬とか車みたいなものか。人間はあまり疾走はしないか。確かにスポーツでは度々疾走する場面に出くわしはするが、あれはテレビ画面に映し出された幻影なのか。実際にスタジアムへ足を運ばないので、あれらはいつも幻影にとどまっている。たぶんスポーツはその程度でも事足りるような出来事かもしれない。おそらく来年のワールドカップもテレビで見るくらいにとどまるだろう。それでとりたてて不満はない。なんとなく現状ではテンションが低い。どうもそれを伝える人々の情熱に反比例して、どんどん冷めていってしまうようだ。たぶんひねくれ者なのだろう。まったくおもしろくないわけではないのだが、素直に感動できない部分もある。そういう性格なのだろう。来年になれば少しは気が変わるかもしれないが、今のところはそれで不都合を感じない。今から盛り上がっていては後が続かない。疲れた体に鞭打ってまで疾走したくはない。他にやらねばならぬことが山積している状況では、この程度が精一杯なのかもしれない。とりあえず全快には程遠い体調だ。曇り空が体内に入り込んだような感覚を味わう。それはどういう感覚だろうか。はっきりしない天候は春の予感でも感じさせるのか。どこまでも続く空の一点から神経の滲みが滴り落ちてくる。さらなる雨を望んで、ビデオテープを早送りする。不意にテープの回転が止まったとき、庭から鴉の鳴き声がするだろう。今し方、この世界からこの世界へ戻ってきた。メビウスの輪の表面を疾走し続け、人の表裏を堪能する。飛び散る火の粉を振り払っていたら、目にゴミが入る。邪魔な障害物を蹴散らして、前進しながら後退しながらジャンプしながら飛び降りる。そこから先に着地地点を模索し始める。もはや手遅れだろう。遅すぎて話にならない。今さらやり残したことを指折り数えてみても無駄というものだ。すべてが叶わぬ幻であり、その幻さえ、今はもうだいぶ色あせた。それらは総じて輝きを失い、居心地が悪そうにして、狭いゴミ箱の中で押し合いへし合いしながら、日頃の不満を愚痴り合っている。それはたぶん井戸端会議というやつか。井戸もないのに公園やスーパーの前で井戸端会議に興じている。気分次第で曲がり角が現れる。その手品の種が明かされるとき、どこかの誰かが失踪するだろう。身元不明のまま、匿名希望の人物が荼毘に付される。その時現れる炎の形に注目してほしい。割れた頭蓋骨から紫の煙が立ちのぼるだろう。その時の炎の色は薄鼠色になるらしい。足許がおぼつかなくなったので、転ばぬ先の杖を調達した。どこまで歩いていくつもりなのか。富士山のてっぺんまでか。体を走り抜ける電流に打たれ、我に返る。もう一度やり直そう。不可能の手前から歩き出す。前の神経質な性格に戻ってしまうだろう。それでも構わないというのか。誰がそれで了承してくれるだろう。それが元の木阿弥なのだろうか。眠気が覚めた後から本格的に眠り出す。二度寝の快楽はいつまで続くのだろう。夢の続きを体験したいのだろう。ここから4マイル先に一本松がある。そこでこれらの言葉の羅列が終了する気配だ。慎重に歩を進めながらも、気まぐれに躓いた振りをしてみる。それが突発的な事件と言えるだろうか。計画された偶然性に感動できるだろうか。何をやるでもない、何もやらぬように、偽装工作に熱中しているらしい。ところで、それらのちぐはぐな歩幅は何を意味するだろうか。改めて考えてみよう。だがすでに時間切れらしい。


2月26日

 ちょっと座り心地が気に入らないようだ。いつまでもねじれた位置には耐えられない。たまには視線の向きを修正する必要に迫られる。ここから見渡せばいつもの風景になる。竹藪の向こう側は昔小さな沼だったらしい。窓を開けて心地よい空気の流れを感じていると、微かな振動が床を伝ってくる。最近の洗濯機は静かになった。その機械で何を洗い流そうというのか。洗濯しているのは洗濯物だろう。なぜそういうふうに変な方向へ持っていくのか。またもや出鼻を挫かれる。すぐに脱線ぎみになってしまう。まったくひねくれた輩は突然何を言い出すか気が気ではない。だが心配するまでもないだろう。いつものパターンだ。それでも気に入らないなら、一遍クリーニング店で脳味噌でも洗濯してもらったらどうか。そんなことができるわけがないが、洗脳とは脳味噌の洗濯を意味する言葉だろうか。床に大穴があく。ちょっとニュアンスが違うかもしれないが、ここではそんな意味でもいいような気もする。そんなことはどうでもいいことだ。しかしどうでもいいからこそ、なんとなくその言葉にこだわってしまうのかもしれない。それはどういうことだろう。なぜそういうふうにつながってしまうのか。それもどうでもいいことなのか。たぶんそうなのだろう。その辺のいい加減さはさておき、何でもいいから、一度洗脳されたつもりになってみたいものだ。つもりではなく、実態としては、すでに何らかの思考によって洗脳されていて、それを洗脳とは感じられないのだろう。その可能性はなきにしもあらずどころか、すでに薄々洗脳されていることに気がついているかもしれない。なんとなく気がついていながら、それに抵抗する気が起こらない、といったところだろうか。実際そんなものに抵抗したり反発する必要はなく、逆にその洗脳を利用する手だてを考えた方が、よりおもしろい展開に持ってゆくことができるかもしれない。洗脳された気になるどころが、それと積極的に戯れることによって、気晴らしの糸口を見いだそうとしているらしい。洗脳の是非よりも、退屈しのぎの手だてを考案することの方が優先されるべきだろう。そのためには、安易な洗脳ごときはすぐに受け入れる度量がなくては、何もはじまらないだろう。例えば、偏狭さで凝り固まったニュースショーの司会者の何かに取り憑かれたかのような哀れな姿を見れば、思考や行動の柔軟性がいかに大切なことかがわかるというものだ。しかし奴はいったい何に憑かれているのだろうか。たまに見る度に顔面麻痺が進行している。なぜか顔の表面をサランラップで覆っているように見えてしまう。それと比べれば、事故の影響で顔の半分が歪んだままのコメディアン系文化人もどきの人のほうがまだ生き生きとしている。だが、もしかしたらそれは気のせいで、要するに単なる老化現象の一種なのかもしれない。人の表情に対する感じ方など、人によって千差万別なのだろうか。ところで、いったい何が述べたくてこんな回り道を強いられているのだろう。これが回り道なのか。そんなことが直接わかったら苦労はしない。現時点でそれがわかるわけがないような気もする。では後から何かがわかるだろうか。後になってみれば何かしら判明するかもしれないが、とりあえず現時点では何も述べるつもりはないらしい。では、なぜこうして何かしら述べているのだろう。その動機は相変わらず不明のままだろう。本当に何もないのかもしれない。では、嘘では何かあるのか。何があるわけでもないが、嘘でなら、何とでも言い繕えるかもしれない。しかし、ここで言い繕うには及ばないだろう。現時点では何もかもがうまく行っているようだ。本人の感覚としては、視界には一点の曇りもないらしい。順風満帆といったところか。とりあえず気晴らしにやっていることといえば、自画自賛だけだろう。ぬかるんだ土手から一気に駆け下りると息が切れる。もはやそんな真似はできない年齢にさしかかってきた。心臓が持ちそうもない。だからそんな無茶をする機会はたぶんやってこないだろう。そう願いたいものだ。


2月25日

 これはどのようなルールに則ってやるゲームなのだろう。あまり突拍子もないような事態には至らないだろう。人工衛星が落下するらしい。ダーツの矢が世界地図のどこかに突き刺さるだろう。流鏑馬の馬は少々疲れぎみらしい。ラムサール条約で保護されている湿地から有明海の干拓地まで拘泥している人は誰だろう。やはりありふれたエコロジストなのか。端境期の古米はどんな味がするだろう。耳からゴキブリが這い出てくる。きっとその彫像の内部は空洞なのだろう。自由の女神の目から大西洋を眺めたりできるのだろうか。その金の花は造花の匂いがする。その仏壇の中身は金庫だった。ところで先ほどの湿地帯はうまく通り抜けられたのだろうか。泥沼にはまりかけて、危うく小麦粉の中でもがく。なるほど、二者択一の一方は泥沼だったらしい。危険な遊戯は柔術の一種で妥協しておこう。だが、それ以上は踏み込まない。そこから先は滝壺へ真っ逆さまだろう。バンジージャンプの一種らしい。おそらく翼が必要なのだろうが、現実にそこからの飛躍はあり得ない。バラエティとはそんな具合なのか。見せかけだけの多様性が地球の裏側で行き詰まる。もう一周りしてきた方が良さそうだ。何もそんなに食わなくてもいいだろう。たぶん胃拡張ぎみなのだろう。食い倒れに類似する語として、着倒れというのがあるらしい。化けの皮が剥がされた後からへたな言い訳に終始している。いつまでも神の加護があるわけはない。飛び飛びの値の間に貴重な空白がある。そこで何とか息継ぎができるらしい。岩の裂け目から山椒魚が這い出てくる。それがゴキブリだったら嫌悪感を催すのだろう。生理的にゴキブリは苦手なようだ。ところで生理食塩水もミネラルウォーターの一種なのだろうか。今どき国家論を展開したいそうだ。いつの間にか地上から植民地がほとんど消滅したように、今度は国家が消滅してくれるだろうか。願望の本質は予言じみている。あまり乗り気がしない。ここから一気に畳みかける。それはないだろう。一息つく。緊張が持続しない。緊張感もないだろう。とてもそんな状況ではないようだ。せいぜいできることといえば、わけのわからない無駄話ぐらいなものだ。そしていつか君の笑顔に出会うだろう。それは二者択一ではない。そこには笑顔しかないだろう。喜怒哀楽の多様性は消え失せた。他に選択肢が存在しない世界に迷い込む。だまされているのはどちらなのだろうか。もう夜更けだ。さらに朝がやってくる。そうこうしているうちに昼になる。いったいいつになったら休息の時がやってくるのだろうか。それはいつも、いつかでしかあり得ないということなのか。クロスオーバーイレブンとかいう時間帯は何をやっているのだろうか。今日と明日の狭間からワープして、いっきに三日後に現れるとかなるわけか。そこに誰が現れるのだろう。さあ、知らない。答えを知りたいのなら、誰か別の人間に訊いてみてくれ。世の中は広いから、探せば答えられる者もいるはずだ。小学生にでも訊けば、二等辺三角形の証明ぐらいできるかもしれない。それで答えをはぐらかされたつもりになる。そこでのズレは必要最小限にとどめる。たぶんその程度ではつまらないのだろう。まったく物語性が皆無だから、通常の感動とは無縁だろう。レクイエムを奏でるのはバイオリニストとは限らない。そんなものはオリンピックの柔道選手がやれば済むことだ。なぜ済むかのかは謎のままだが、なんとなくそれでもいいような気になってくる。どうでもいいことは深く考えたりしない。様々な局面で、その状況に即した独自のルールが適用される。それでいて全体としてみれば、ひとかたまりの内容を有しているだろう。たぶんそこでできることといえばそんなことぐらいだろう。そうなること以外にあり得ない内容だ。確かに他に選択肢はないのだろう。二者択一など最初から存在しない。いったいどこに岐路があるというのか。誰が他の選択肢を用意しているというのか。


2月24日

 今ここで抱いている感じをどう表現したらいいだろうか。激しい怒りなどとうに消え失せたが、かといって思考する動機も見あたらない。理性と感情はどこかに置き忘れてきてしまったらしい。外は相変わらずの暗闇だ。そのおなじみの風景にはもう慣れてしまって何の驚きも感じない。胸をときめかせるような不思議な感覚は遙か遠くに退いたまま、二度とここへは戻ってこないかもしれない。まあそれも構わないだろう。今は奇妙な静寂に満たされている。それは、適当に騒がしく、また適当に静かであって、要するに通常のごく当たり前の日常なのだが、やはりそれは空虚に満たされているようだ。昔から感動とは無縁な生活でもさして困らなかったのだが、もはやここに残っているのは退屈な日常の繰り返しだけであることも当然だとしても、他に何があるのかわからなくなった。何も思いつかないし、本当に何もないような気がする。以前は何を求めていたのかまったく思い出せない。何かを求めていたらしいのだが、その一方で、昔からこうだったような気もしている。確かに何かを期待していた時期もあったのだろうが、そのとき何を期待していたかはもはや覚えていない。もうだいぶ前にその期待の内容を忘れてしまったらしい。もしかしたら未だに何かを期待しているかもしれないが、たぶんそれは、内容のない期待なのだろう。期待の抜け殻だけが浮遊している状態なのだろう。なぜそうなったかは知らないが、とりあえずそんなところだろう。それが嘘であることは当然だろうが、今となっては、そんなわけのわからない思いつきもいささかマンネリぎみかもしれない。だが本気でそう思っているわけではないらしい。ただ試しにそう記述してみたら、結構おもしろそうな内容になった、そんな気もしてくる。その一方で、人知れず何か別のことをやっている可能性もなきにしもあらずだろう。もしかしたら、密かに埋もれた黄金でも探しているのかもしれない。いったい宝の山は世界のどこにあるのだろう。どこかにあるかもしれないが、今のところ積極的にそれを探しに行く気はない。では、消極的に探しているとでも言うのだろうか。確かに今は冒険をする状況ではない。インディ・ジョーンズは映画の中での話だろう。だが、宝探しの物語を見るのも退屈だ。途中で気晴らしのCMでも差し挟んでくれれば、いくらかその気が持続するだろうか。気がつけば、テレビ画面から目を背けて、壁の模様に見とれている。どこに行っても壁紙には出会うだろう。それは見慣れた風景のひとつだ。では他の風景には興味がないのだろうか。たぶんそのときはそうなのだろう。それとは別の機会に何か別の風景に見とれているかもしれない。では、どこをどう探せば壁紙以外の風景に遭遇するのだろう。安易な問いの立て方だ。これもテレビからの影響だろうか。テレビには壁紙以外の風景は求めない。本当に求めているのは問いでも答えでもない。原因と結果の因果律を廃した場所に生じるあるがままの現実世界を求めているらしい。だがそれは、改めて求めるようなものではないだろう。今ここに現前しているこの世界がそうだ。それは与えられているのでも求めて手に入れるようなものでもないだろう。それは、ただここにこうして、それを認識する者をその一部に取り込みながら存在しているのだ。この世界のどこに宝の山が存在しているというのか。まったく信じられないし、現実に埋もれた黄金を探り当てたとして、ツタンカーメンの黄金を掘り当てたハワード・カーターのようになってしまうのが関の山だろう。それは様々な実例の中のほんの一例だろうが、では他の例ではどうなっていたのだろう。たぶん幸せになった場合もあったのかもしれない。だが、それはそういうことでしかない。ただそういう現実が存在したかもしれないということだ。だから今こそ宝探しの冒険に出かけてみようではないか。たぶんこれが昔抱いていた期待のひとつなのだろう。リアリティが欠如している。だが夢とはそういうものかもしれない。


2月23日

 贅肉と筋肉の違いは何だろう。どちらも過剰につけば無用の長物だろう。なぜそれほどまでに体を鍛えるのだろうか。たぶん冒険には危険が付き物なのだろう。ではその奇妙な冒険も危険と隣り合わせなのだろうか。格闘技のショービジネス化は今に始まったわけではない。観衆はそこで何を期待しているのだろう。何かが邪魔をしていて観衆にはなれそうもない。そのショーを見ても熱くはなれない。たとえそれが本気の殺し合いであったとしても退屈感は拭われないだろう。どう見てもそれは、なぜか絵空事の世界になる。書き割りの背景が周囲を取り囲んでいる。その舞台装置がゆっくりと回転し始める。わずかだが遠心力を感じている。そして、天井からは細いひもが垂れ下がっている。ぶら下がれば切れそうなひもだ。まるで蛍光灯のスイッチみたいだ。それを引っ張ればくす玉が割れるのだろう。何よりもそこで苦行僧のような顔をすることがおかしい。皮下脂肪の厚みを考慮に入れて、どこまで絶食に耐えられるか計算する。確かにそれはおかしな展開だ。そこで誰がダイエットに励むのだろう。苦行をして骨皮になった仏陀の像が思い出される。まずは水が必要だろう。すかさず天井から水が落ちてくる。雨だ。見上げれば天井がない。風で吹き飛ばされたらしい。そして雨足はどんどん激しさを増してゆき、ついにはどしゃ降りの豪雨ですべてが押し流される。ここはガンダーラなのか。意味とつながりがちんぷんかんぷんだろう。書き割りの風景は雨に対して脆さを露呈した。その舞台を回転させる駆動装置も故障してしまう。所詮、絵空事の世界とはそんなものだ。長年風雨にさらされた岩肌には、自然の滑らかさが備わっているだろう。天井の消失したプレハブ小屋には、今ごろ飢餓が蔓延しているかもしれない。そこで観衆は何を求めているのだろう。刺激か?人工的な闘技場からは、コンクリートの臭いが絶え間なく発生する。自然から見放された機械文明には、潤滑油が必要らしい。油の滑らかさがベアリングの回転運動を支えている。段ボール細工の芸術家は、その後どこで何をやっているのか。たぶん、まだどこかで同じようなことをやっているのだろう。そのまやかしの構築物も雨に弱いらしい。段ボールにも水が必要だ。水を含んだ紙は畑の肥やしになるかもしれない。しかしそこで取れた作物を食べたくはないだろう。そこには細いひもが見あたらない。それは地獄へ垂らした蜘蛛の糸だろうか。何やらそんな物語へと導かれているらしい。そのひもが見つからないうちは新しい冒険を始められない。しかし傍観者の視点は一向に改まらないようだ。それで蓮の池から下界を覗き込んでいる人物は、まったく退屈しきっている。池の底にはヘドロが溜まっているようだ。満開の桜の下には犬の糞が置かれていた。奈良土産は鹿の糞だろう。黒大豆の納豆は食べにくい。昔連想ゲームという番組があった。蛭に血を吸われるのもまんざら苦痛でもなさそうだ。単に血を吸われていることに気づかないだけか。今ごろ警鐘を鳴らしているのは放火魔以外に誰がいるだろうか。消防士が放火魔になり、警察官が空き巣になるご時世だ。誰が何をやっても驚きとは無縁だろう。とにかく眠い。春眠暁を覚えずとはよく言ったものだ。去年の春の出来事はざっとこんな感じだったろうか。何が言いたいのだろう。何かしら言いたいのだろう。時期的には今は春かもしれない。近所では肥満体型の猫がやせ細っている。熾烈な縄張り争いの時期らしい。猫にしてみれば必死なのだろう。そんなことはどうでもいいことだが、さらにどうでもいいことについて言及しなければならないのか。だが一向にその気にはなれない。それについては、誰か他の人が連日連夜いやというほど言及しているだろうから、何も自分が改めてここで述べるほどのことでもないだろうが、では他に何が言えるというのか。おそらく何も述べられはしないだろう。だからひたすら意味不明なことを記述すればいいわけか。それはそうかもしれないし、じつはそうではないかもしれない。


2月22日

 何を知ろうとしているのか、それがわからない。すでに知られていることに興味はない。しかしそう言いきれるほど知っているだろうか。いったい何を知っているつもりなのだろう。それは例えば百科辞典的な知識ではないようだ。知りたければそれを買って読めばいい。そういうことなら、その気になればいくらでも知ることができるだろう。どうやらそれは百科辞典を読めば事足りるようなものでもないらしい。とりあえず何かを知っているらしいが、自分が何を知っているかなんて俄にはわからないかもしれない。たぶん、その場その場で何かを思い出すだろうし、ときには思い出さないことも、思い出せないこともある。それは昔のことではない。ここで思い出すのは、これから起こる出来事である。予言者気取りならそれが当たり前だろうか。何を言いたいのかよくわからなくなる。明るい星空に白い雲が散りばめられている。見上げれば寒空に北極星が輝いている。それに見とれていたら、言うべき事柄を忘れてしまった。他に何か言うべきことがあったらしい。あとからなら何とでも言えるだろう。真夏の夜の夢はどんな内容だったのか。それは唐突な夢だ。なんとなくすでに思い出していた出来事が、これから実際に起こるだろう。夢が実現するとはこういうことをいうのだろうか。さらに述べていることがわからなくなる。その内容を思い出せない。その思い出せないこと、それを知りたい。流れ星にそんな願いを託す。だが、実は肉眼で流れ星を見たことがない。だから新月の晩が待ち遠しい。それがわからない。新月だからといって流れ星を見られる確率が増えるわけでもないだろう。別にその晩に流れ星を見たいわけではない。気分次第でなんとなく流れ星について言及してみたまでのことだ。なんとなく月の満ち欠けに気分が左右されるらしい。またデタラメを述べている。本当は流れ星のことなどどうでもいい。ところで物思いに耽るとはどういうことなのか。何を心配しているつもりなのか。知りたい欲求には限りがないということか。だが現実には、どこかで限界にぶつかるだろう。どこで妥協を強いられるのだろう。すでに大幅な妥協を強いられているかもしれない。どういう妥協なのか、知ろうと努力できない。それについて考えるのが面倒だ。そしていつの間にか、妥協しようがしまいがどうでもいいことになってしまった。そんなことにいちいちこだわっていては生きてゆけない。ではこだわりのある人は自殺しやすいのだろうか。いつか太宰治に訊いてみよう。そんな機会が巡ってくるわけがない。それはどういうことだろう。本当に何を述べているのかわからなくなってきた。これがあるべき姿なのか。そうかもしれない。ノープロブレムとはこういうことをいうのだろうか。わからないことがありすぎて、どこから手をつけていいのかわからなくなる。途方にくれる。この現状が手に負えなくなる。それでノープロブレムとなるのか。それとはまったく逆の意味になっているだろうか。それが疑問か?だがやはり、それについて考えるのが面倒だ。それでついつい勘に頼ってしまう。そんなことの繰り返しから、さらなる惰性に流される日々を過ごす。まったく日常はよくできているようだ。そんな予定調和を打ち破ることは不可能なのか。だが、それを打ち破ろうとしていないことは確かかもしれない。そう、確かかもしれないのだ。確信と曖昧さが同居している。そこから何をやろうとしているのだろうか。やろうとしているつもりなのか。それあくまでも「つもり」ということなのか。実際にやろうとしていることが、そのつもりのレヴェルでとどまっているかもしれない。それで何か述べたつもりなのか。たぶん何かをやったつもりなのだろう。さらに眠気が強まる。その辺がわからない。またもやどうでもいいことを述べてしまったらしい。朝焼けの時間からはだいぶ経つ。そう頻繁に朝焼けが見られるわけでもないだろう。ところで、今朝は何を眺めるつもりだったのだろう。いや、そのつもりはないようだ。いつでも予定があるとは限らない。


2月21日

 ふとしたきっかけで昔のことを思い出す。いつか誰かに出会うだろう。未定の場所で誓い合う。一度出会ったことがある。出会った場所はどこだろう。荒野の果てに日が沈む場所がふさわしい。そこで怪訝な顔に出会う。改めて説明を必要としない。コミックの紙面上で人々が戯れる。未来と過去の両方で同じ顔を見かける。片手の指先が四つしかない。窓ガラス映る幻影は誰の姿なのか。真っ赤な空は何を暗示しているのだろう。それは君の行く末を映し出している。もう時間がないということだ。残された時間はあとわずかだ。たぶん君に未来はないだろう。なぜそう断言できる。予言とはおかしなものだ。外れた方がおもしろい。だが、占いよりはいくらかマシかもしれない。占いは商売になるが、予言は金とは無関係なので気楽だ。数百年前と千数百年前に二度同じ出来事があったようだ。大河の流れが変わり、文明が衰退した。それだけではない。それだけではつまらないのだ。作られた無表情が二つに折れ曲がり、薄氷の割れ目から水が噴き出す。それはどういうことなのか。他に何も感じないのが不思議に思われる。どういうわけか、ついでにわけのわからないことが述べられる。ハンティングワールドで蜘蛛男が踊る。広角レンズを通して見た風景の中に笑顔が映る。磨り減った靴先から腐りはじめる。水虫の一種だろうか。それは単なる腐敗だろう。腐敗は用心深い。今さら真意を知ろうと探りを入れているのは誰だろう。一方的に尋問されているわけではない。今頃はどこまで語ったのだろう。先端が鍵状に曲がっていた。それでどう闘うつもりなのか。死人に口なしか。それはよくある台詞だ。コントで使われる。どうもこの展開には馴染めないようだ。いい加減ではないらしい。湯加減はちょうど良いかもしれない。淡い期待は粉微塵に砕かれた。排除された魂には行き場がない。行き場のない産業廃棄物はどこで処理されているのだろう。なぜそこまでやる必要があるのか理解できない。いつも真実は闇の中というわけにもいかなくなった。しかしそこで思いがけない反撃に出くわす。死人にも口はあるようだ。つまらぬ内容の箇条書きが遺書として認められた。なるほど、いつもの展開だ。いつもはこうして処理してきたのだった。そうまでしなければならないわけが少しはわかるような気がしてくる。見つめている先には何もない。あきらめが悪い。まだ何かやるつもりらしい。やめておいた方がいいだろう。あれを信用するわけにはいかない。ひも付きの金を掴まされるだろう。遠くの幻を呼び寄せる。空を飛んでいる夢を見る。中空に浮遊しながらどこまでも進んでゆく。信用金庫に強盗が現れる。盗んだ金を預金しているらしい。タクシー運転手の他殺死体には背中から包丁が生えていた。おもしろい寄生植物だ。出刃包丁は血を栄養源として人の背中に生えるらしい。結末はそのような場面で幕を閉じる。狂言師の笑いには笑えない。室町時代にはそれでも笑いを誘っていたのだろうか。失笑してしまうことは、結果的には笑ったことになるらしい。まったく失礼な笑いだ。腹の底から怒りがこみ上げてくる。誰が怒っているのか。たぶんどこかの誰かだろう。紙コップから検尿検査の尿がこぼれ落ちる。病人に笑いを浴びせかけるのはいかがなものか。ならばせいぜい罵声ぐらいで勘弁してほしいだろうか。雄猫同士が罵りあう。犬は鎖が絡まって哀れな悲鳴を上げる。富士山周辺の樹海に死体を捨てにいく。そんな場面の小説は結構あるかもしれない。だがここではサスペンスのかけらもない。死人には三つも口があった。本当の口の他に、包丁で両頬に穴をあけられていた。こんな状況になれば金田一少年が登場する展開に持ち込めるだろうか。彼は誰に向かって説教を垂れるつもりなのか。犯人はあなただ、と名指しされた人間は動揺してしまう。どうやら結末は近いようだ。しかしここで謎解きをするわけにもいかないだろう。暇も余白も残されてはいない。だが以上に述べられた話はどんな事件なのだろう。これが事件か?冗談だろう。冗談でさえない。


2月20日

 まるで後だしじゃんけんのような展開となっている。嘘かもしれないが心苦しい。そういうことにしておこう。ロボコップはグロテスクな映画に属するだろう。だがそれがどうした訳でもない。制作者達の意図があるとすれば、そうした印象を抱かせることを目的としているのかもしれない。ブラジルの大地を詐欺師の老婆と母を亡くした少年が少年の父に会いに乗り合いバスで旅をする。そんな映画もあった。人を感動させるためにはああいうものを制作すればいい、という見本のような映画だ。臓器売買業者に売ってしまった孤児の少年を救い出したばかりに街にいられなくなったりする老婆に感動したりするのだろう。また、手紙代筆業を装って少年の文盲の母親をだまし続けた老婆が、母親が事故死して、少年と一緒に旅をしなければならなくなる成り行きにも感動したりするだろう。たぶん気の弱いヒューマニストなら、始めから終わりまですべての映像と音声に感動してしまうだろう。なぜそういう映画が存在してしまうのだろう。なぜそんなものを見て感動しなければならないのか。世界が至るところで不条理だらけであることを、しかもそれがあるがままの当たり前の姿であるかのように装う根拠を、そういう映画によって示したいということだろうか。勝手にその理由を捏造してみるとそういうことになるだろうか。あまり説得力はなさそうだ。後付の理由などいくらでも捏造可能だろう。しかし映画そのものも捏造物の一種だろう。その画面上に醸し出された不条理で現実の不条理を体験したことになるだろうか。それは捏造された体験だろうか。捏造されたと同時に、それも紛れもない現実の一種なのだろう。そこでは現実によって捏造物が構成されている。それはスクリーン上で展開される現実だろう。たぶんそれが真実の体験となるようだ。確かにそれでも現実の不条理を体験したことになるだろう。だがその一方で、娯楽としてロボコップを見て楽しむ不条理も存在する。その苦痛が充満する近未来のデトロイト市を見て体験することができる。そのあからさまな暴力が顕現しているあり得ない世界を、こちら側の安全地帯から眺めることができる。そこに欠けているリアリティとは何だろうか。そこでは権力が権力者という生身の身体と人格を伴って出現してしまう。その権力=権力者という昔ながらの図式が眠気を誘うのかもしれない。その単純な図式はその手のアメリカ映画に共通してみられる現象だろうか。すぐに同じ図式をバットマンに適用できるだろう。たぶんそれは現実の権力関係からはかなり後退した図式だ。例えばそこでは、通行人は始めから終わりまで通行人のまま主要登場人物よりも低い位置に置かれている。彼らには何の権力も与えられてはいないのであり、ただパニック状態で逃げまどうことしかできない。その点が件のブラジル映画では事情が異なる。主人公の老婆と少年に対して通行人達が様々な権力を振るい、あるときは二人を助け、またあるときは二人の行く手を遮り徹底的に打ちのめし、絶望のどん底へたたき落としたりする。だが、彼らは別に権力者ではなく、ただ普通に生活していて、それでいて二人に関わると、結果的にそういう状況へ追い込んでしまうのだ。つまり、通行人達は、旅を続ける老婆と少年に、頬に吹きつける心地よい風や、いつまでも降り注いで体温を奪う雨や、そこから一歩も前進を許さぬ雷や嵐のように、まるで神=自然のように振る舞う。感動はそのようなエピソードの端々から滲み出てくるのかもしれない。そして二人は旅を続けるうちに、ますます救われなくなり、しかしそれと同時に、その救われない状況が深まることによってなぜか希望の光を見いだす。その希望とは絶望的な希望かもしれない。ようするに、少年の父に会うという目的をあきらめることが希望の光を灯すことになるわけだ。なぜそうなってしまうのだろう。そのなぜは愚問だ。やはりそうした結末が感動を呼ぶことは確かだ。


2月19日

 深夜になりつつあるのに、あまり寝る気が起こらない。眠たいことは確かなのだが、なぜかここで寝てしまうわけにはいかないらしい。それはなぜだろう。何かそうせざるを得ない事情があるのだろうか。今度神にその訳を訊いてみるとしよう。もう取り返しがつかないほど遅れてしまった。今後はさらに遅れるだろう。どうやらそうなるしかないようだ。あらぬ方角から鴉が飛んできて、屋根に舞い降りる。しかしそのあらぬ方角とはどの方角なのか。それは知り得るすべての方角の中にはない方角なのだろうか。そうだとしたら、確かにそんな方角はあり得ない。しかしそんなことはどうでもいいことだ。たぶんここに鴉など飛んできはしないだろう。部屋の中に鳥が飛んでくるわけがない。窓を開け放ったままにしておけば、飛んでくるかもしれない。鳥ではなく、蛾が飛んできた。それは鳥の餌だろう。蛍光灯の近傍で埃をまき散らしながら狂ったように飛び回る。どうやらすでに春らしい。蛾を捕まえるのに悪戦苦闘しながら、汗びっしょりになる。悠久の時が流れ去り、世界中が虫だらけになった。だが昔から世界は虫だらけだろう。もう数億年はそんな状況が続いているらしい。人も虫の一種だろうか。虫けらのように生き、そして虫けらのようにあっけなく死んでゆく人もいるだろう。投石してイスラエル兵に射殺されたパレスチナの少年などは虫けらのような人生だったのだろうか。聖地の近くに住んでいるユダヤ人達は、そういううるさい蠅に囲まれながらつまらない人生を送るのだろうか。たぶん殺しても殺しても次々に発生するそういう虫けらの脅威に悩ませられ続けるのだろう。馬鹿な話だが、その土地に固執する限り、それは避けられない事態なのだろうか。さっきからクラクションが鳴りやまない。誰かが駐車している車が邪魔で通り抜けられなくて迷惑しているらしい。うるさいのでこちらも迷惑だ。イエローサブマリン、その潜水艦は黄色く塗装されている。なぜだろう。おもちゃの潜水艦だからか?深海調査潜水船も黄色かったような記憶がある。軍事目的で使う黒っぽいのは目立たないようにするためだろうか。えひめ丸には伊予かんは積まれていただろうか。こちらでは、愛媛の伊予かんが段ボールに二箱もあるので食べきれない。すでに長野産のリンゴは食べきれずに干からびてしまった。この時期は、果物が過剰供給気味だ。しかしそれもどうでもいいことだ。だがそうなる以外に続けられないのだろう。まったく関係のない話に終始している。そして毎度のことのようにつながらなくなる。電話も話し中でつながらない。もっとシンプルな人にお目にかかりたいものだ。自分を飾り立てるのに躍起となっている。南の海では死体を引き上げるのに後数ヶ月かかりそうだ。北の海で沈んだままの潜水艦とどちらが早いだろうか。そのどちらが早かろうと遅かろうと、それもとりたててどうということはないだろう。もはやそれらはどちらも事後処理の段階なのだろう。きっと今よりはマシな時が訪れるだろう。海の藻屑は藻屑のままで結構なのかもしれない。その事故に対してどうこう言う気にならない。しかしものつくり大学とは何をやる大学なのだろう。あれほど有力な国会議員が後押ししていたのだから、きっと画期的な大学なのだろう。しかし自分には無関係なのだろう。やはりそれもどうでもいいことの範疇に入るらしい。なるほど、近頃まったくやる気がしない訳がなんとなくわかりかけてきたようだ。何も神に訊くまでもなく、要するにどうでもいいことばかりなので、それでやる気をなくしているらしい。だが、以前はなぜやる気があったのだろうか。今とあまり変わらない状況だったような気がするのだが、なぜそれでも少しはやる気があったのだろうか。今ではどうでもいいことが、以前はどうでもよくはなかったということだろうか。そうだとすると、周りの状況は変わっていないのに、自分が変わってしまったのか、あるいはそれとも、ただ単に周りの状況の変化に自分が気づいていないだけなのか。


2月18日

 なにやらそれらの政争劇は笑えない状況であるそうだ。なにも無理して笑う必要はないだろう。ここで笑う笑わないはどちらでも構わない。たぶんどうでもいいことなのだろう。ただ滑稽であることは確かだ。それがおかしいから自然と笑みがこぼれる。その内容にはあまり興味が湧かない。本質は何も変わらないだろう。周りがあまりにも口出ししすぎる現状は、相変わらずそのままの形で維持されている。批評家があまりにも多すぎて人々に考えるいとまを与えようとしない。いらぬお節介が過剰にある限り、現状は何も変わらないだろう。とりあえず主権があると規定されている人々が、その機会を選んでそれを行使すればいいだけだろう。批評家達が過剰に判断材料を供給する必要は何もない。だから今ことさらに非難のボルテージを高めることは、現状を維持するためのガス抜きと受けとめられても仕方のない行為だろう。しかし現状がこのままでもとりたてて不都合は感じない。もはやどうでもいいことだ。そんなレヴェルで物事を思考することはできなくなってしまった。せいぜい毎度おなじみの世論調査で人々を思考停止状態に誘ってほしい。どうやら行くところまで行っても、その先がまだあるらしい。終焉の時はまだやってこないだろう。来年の今頃もきっと同じような騒ぎが繰り返されていることだろう。誰がやってみても同じようなことしかできないだろうから、結局は同じような事態に陥る。そんなことが繰り返されるうちに、もはやどうでもよくなって人々の興味はますます薄れてゆくばかりになる。確かにそんなことはどうでもいいことなのだ。怒りを顕わにしていきり立つようなことではない。その手の人々がその行為が論理的にあるいは倫理的にいかに許せないことかを説明しても、それはそうだ、おっしゃることはごもっとも、で終わってしまうだろう。たぶん、それらの批判をひっくるめたその手の現象の全体が信用できないのかもしれない。主権を行使するなんてできの悪い冗談だろう。誰が実際に行使しているのか。行使しているつもりにもなれない。まず第一にそういう民主主義といわれる茶番を啓蒙している人々が信用できない。自分達が商売をやっているメディアに、人々を引き留めようとしているだけだ。そしてそれを真に受けた人々を食い物にしている。やっていることといえば、何のことはない、自分達が批判している対象とそれほど違わないことを平然とやっている。要するにその手の批判は自分達の飯の種なのだ。だから彼らは、その利潤を生み出す飯の種が尽きないように、現状を批判しながら維持するという卑劣な行為を長年やり続ける、骨の髄まで保守主義者なのだろう。現状を変化させるには、その手の批判には安易に同調しないことが、とりあえずのやり方になるだろうか。世論調査で9割の人々が批判に同調していると喧伝されても、調査対象の人数を見れば、それはたかだか数百人から数万人が同調しているだけなのである。それがその手の調査の限界であるらしい。つまり彼らには数百万の同調を得ることさえ不可能なのだ。今やアイドル歌手でさえ数百万人の同調者がいるかもしれない。だからそんな結果を鵜呑みにするのは、まったく愚かなことだろう。情報操作の罠にはまっている。そのような長年に渡る世論操作の結果がこのような現状を招いたのは火を見るより明らかなことだ。最低限その程度のことは認識してほしい。もう何十年も前からこのようなことが繰り返されている現実を無視することはできないだろう。手を変え品を変え蛭のように人々の生き血を啜りながら現状維持に貢献してきたそれらの権力者気取りが課す頸木から今こそ解放されようではないか。しかし、だからといって、あまり本気にならなくてもいいだろう。その気になっていきり立てば、たちまち奴らの餌食になってしまう。ニュースショーが主催する討論番組のエキストラにされてしまうだろう。運が良くてピエロ役がまわってくるぐらいだ。だから、その気にならずに、まずは彼らを無視ししてみようではないか。


2月17日

 迂回路はどこまでも続く。回り回っているうちに元いた位置を見失う。しかしそれでもまったく懲りていないらしい。未だに悪あがきの段階にとどまっているようだ。本当にすべては戯れ事なのだろうか。たぶんそうなのだろう。そこで見いだされるのは、質の悪いおふざけ以外にあり得ないだろう。もうそれには飽きたが、自然とそれを繰り返している。どうやら、その手の無限循環にはほとほと嫌気がさしていながらも、なおも続いてしまうらしい。まったく身についた習慣とは恐ろしいものだ。なかなかそれを変えられない。ついでに、だいぶ疲れているようだ。意識が朦朧として、自分が何をやっているのかさえ把握できない。見上げれば空がグルグル回っている。仰向けの状態で身動きがとれない。意志の力で起き上がることもできない。近い将来、もはや冗談では済まなくなるだろう。実際このごろは、どうもそれほどふざけてはいないようだ。精神的追いつめられていて、徐々にふざける余裕がなくなってきているらしい。これが行き詰まりというやつだろう。どうもそのようだ。戯れの思考にも限界がある。だが、これはこれでいいだろう。こんな状態でも一向に構わない。いつかはこうなる宿命なのだ。今はそれを自覚する時期なのだ。こんなやり方で無限に継続させようとすること自体にかなりの無理がある。感性が摩耗してしまっていて、何も感じなくなりつつあるようだ。だがここに至ってなお継続を望んでいるふしがある。まったく呆れた根性だ。とりあえずは、これも冗談の一種と受けとめておくしかないだろう。やはりこれもおふざけの延長上の出来事なのだろう。そのうち無理が祟って自滅するだろう。曲がりくねった先は崖の上だった。いくぶん現実逃避の傾向がある。現実をまともに直視できない。漂泊の想いはどこまで先へ進んでいったのだろう。視界に捉え切れていない。それを見失い続ける。どこまでやればいいのだろう。これではきりがない。きりがないが、それでもまだ続くらしい。いつまでも違った方向から回帰し続ける。さらなる循環に導かれてゆく。堂々巡りの果てに待っているものは、またもや変わり映えのしない堂々巡りになる。意味不明だ。夜明け前が永続し続ける。朝焼けの光景が瞼に焼き付いて離れない。まったく昼はどこへ行ったのだろう。こんな案配では冷静であり続けることは困難だろう。同じような風景を飽きもせず眺め続ける。行動のローテーションが完全に崩壊してしまったらしい。今はどういう順番で動作しているのだろう。まったくのランダムになっている。神経の伝達回路がいかれている。何が先で何が後なのか判然としない混沌状態だ。そしてこの混乱が収拾することはないだろう。まとまりのあるものなど何一つ導き出されはしない。その限界は、限界として存在し続け、同時に無視され続ける。そこに厳然と限界が存在するのに、わざとそれに気づかない振りを装う。求めているのはそういう態度なのか。いったい誰がそうなることを望んでいるのだろう。神か?やはり逃げ道は宗教に落ち着くようだ。魅力的な名前に惹かれるのだろう。アレフとは、ヘブライ語のアルファベットの最初の文字であり、ボルヘスは、その作品『アレフ』のなかで、「あらゆる角度から眺められた、世界のあらゆる場所が、お互いに混じりあうことなしに存在している場所」を、「アレフ」と名付けているそうだ(モーリス・ブランショ『来るべき書物』の訳注より)。そのアレフという呼び名にこれからどんな内容を付加するつもりだろう。あらゆる混沌の力を借りて、未来を創りあげようとするだろう。たぶん、安らぎを拒否する人々がこの世界を構築している。だからどこまでやってもきりがないのは当然のことだ。好むと好まざるとに関係なく、人の身体とそれに付随している意識は、絶えず乱雑な手順を受け入れざるを得ない状況に投げ込まれる。それらにつかの間の優劣や順序をつけることで生が費やされる。それはまったくの骨折り損のくたびれもうけになるだろう。


2月16日

 闇の空間は居心地が良さそうだ。オレンジ色の炎に照らされて、無口な人影に薄暗い色が付く。闇夜に舞い上がる火の粉はどこへ向かって飛んでいくのだろう。微風に凪がされて東へと向かう。意識はどこへも行かないだろう。ここにとどまりながら夢を見ようとしているらしい。総天然色の夢を。意志の力を借りて、強引に夢の中へ侵入を試みる。飽きっぽいので強靱さに欠ける。精神の集中はあまり長続きはしないだろう。それが垣間見えるつかの間の一瞬に全知全霊を傾けようとは思わない。相変わらず本気にはなれないようだ。だから程良いところで力を抜くしかないだろう。やはりほとんどその気にはなれない。やる気がまったく湧かない。しかし、全編をそれで通す気は更々ない。たまにはおかしな展開になってしまうこともあるだろう。いや、そのことごとくがおかしな展開になっている。そのすべてが極端な脱力感に包まれていて、そこではまったく意味不明な内容が延々と繰り返されているようだ。それらの内容を理解しようとは思わない。理解したくてもできない。わかろうと努力しても無駄だろう。それは教えたり学んだりするものではないらしい。そこでは学校のようにただ一方的に教えたり学んだりする立場にはなれない。そう都合よく特定の役回りが個人にあてがわれるわけではない。気に入らない人間には絶対に教えないし、学ぼうと欲している人々には平気で横やりを入れて妨害する。そうやって絶えずやる気を削ぐように仕掛けてくるのが彼らのやり方だ。全神経を集中させるいとまなど、はじめから与えられていないだろう。そんな瞬間がやって来るわけはない。そうかといって、偶然にやってくる不意打ちの一撃をいつまでも待っているほど暇でもないだろう。だから人々は、彼らの繰り出すくだらぬ言葉に踊らされながらゴミ情報が降り注ぐ鍋底で右往左往するしか生きる余地は残されていないのだろう。ではそこにどのような気休めが見いだされるだろうか。何も気休めにはならないだろう。気休めだと思っているそれらは気休めではない。ただ快楽への誘惑に絡め取られて、自らの神経と身体を消耗しているに過ぎない。消費しているつもりが、逆に情報産業に消費されてしまっているのだ。もちろん、それをどう感じるかは人それぞれだろう。だが、こうした気休めの言説でも、少しは心の支え程度の役割を担えるだろうか。しかしこれで誰の心を支えるつもりなのか。何もあてはない。おそらく対象となる者などいはしないだろう。だからこそ、内容が意味不明でも構わないのかもしれない。それでとりたてて不都合を感じていない。やる気など湧かなくても大丈夫なのだろう。ただ倦怠感や脱力感に包まれながら斜面に従って下へ下へと転がって行けばいいだろう。斜面さえ存在しないのならば、慣性の法則にでも従うしかないのか。あとは、欲望の重力に捕らえられ、放物線を描きながら落下することぐらいが関の山だろうか。以上のように何事も否定的に捉えれば、様々な言葉を招き寄せることができるらしい。現状を否定することは容易い。その反対に現状を肯定するのは至難の業だろうか。そうかもしれない。ではこの世界で起きている出来事のどこを肯定すればいいのだろう。わからない。わからないが、それでも肯定しなければならない。そうする理由はどこにも存在しないだろうが、やはり肯定するしかないだろう。どうやって?それがわかれば苦労はしないだろう。いや、わかってしまっては肯定する必要がなくなってしまうような気がする。つまり、わからないからこそ、肯定すべきなのかもしれない。だからこの際、偏狭で陰湿な情報業者のみなさんも、その日頃のおこないを肯定してあげようではないか。彼らのおかげで、日々様々な情報に接することができるし、その批評に似せて玩具を売り込む詐欺師の手口を眺めながら、冗談や皮肉のひとつやふたつ思いつくかもしれない。たぶん自分達にとっては、言葉も気休めの玩具のひとつに過ぎないのかもしれない。


2月15日

 相変わらずの言説に終始しているようだ。それしかできないのはわかっているが、それだけだとどうしてもネタ切れの感を否めないだろう。近頃は前置きばかりが以上に長く、なかなか本論に入れない。中には本論に入れないまま、前置きだけで終わってしまう時もある。いや、本論そのものが存在しないことの方が多いかもしれない。それは昔よく遭遇した序論だけで終わってしまう批評と同じようなものだろうか。もしかしたら序論にすら達していないのかもしれない。まったく内容がない場合が多い。それがなんとなく続いているようだ。たぶんそれでいいだろう。なぜそれいいのかはわからないが、なんとなくそれいいと感じることが多い。現実に、気がつけばそればかりになっている。なぜそうなってしまうのだろう。迷っているらしい。日増しにその迷いが脹れあがっている。その迷いのただ中から、迷いそのものを表そうとするのか。どうやらそのようだ。そこに留まっていてはいけないのだろう。前進も後退もできないその場所からどうやって移動するつもりなのか。そこに留まり続けながら、しかも移動してみようではないか。それは不可能だろう。だが不可能のままに移動する。不可能は不可能のままやり過ごす。だからそんなことはどだい無理な話なのだ。そもそもはじめから不可能なのだ。無理なことは無理だろう。ならば、無理をそのままにして移動してみせよう。どうやらまったく聞く耳を持たないらしい。もはやついてゆけない。なぜそうやっていつまで経ってもつっぱっているのだろか。疲れる性格である。いや、それは性格などとは無関係であって、そういう状況に支配されていて、そうせざるを得ない立場に追い込まれているのかもしれない。当人の意思や気持ちとは関係なく、その姿勢を強いられているのだ。だから、それを見ているこちらも疲れる。まったく視線が耐えられない。なんとか目を逸らすのに精一杯になる。なぜそこまでやらなければならないのだろう。何がそこまでやらせるのか。そんなことまでやって、本当に幸せなのだろうか。まったくやっていることが理解できない。たぶん無理して幸せなど求めるべきではないのだろう。そもそも目標が間違っている。いや、目標を設定する行為自体が誤りなのだ。そうすることで何か大切なものが見失われてしまうだろう。その何かとは、その場の状況によって千差万別だろうが、やはりそれがないと恐ろしい勘違いの原因になると思われる。自分達のやっていることの滑稽さを認識できなくなる。幸せなど、本来他人に見せびらかすようなものではない。そんなものをおおっぴらに見せびらかす行為自体が限りなく醜いことだ。たぶん人それぞれが、様々な事情に拘束されながら生きているのだろう。その生きている状態を幸せだとかいう基準で単純に比較できるだろうか。強引に比べたとして、それで何がわかるというのか。その人の生きている状況が不幸せなら、ではどうしろというのだ。例えばその不幸せな状態からの脱出をお手伝いするお節介な人々は、いったい何様のつもりなのだろうか。そういうお助けマンの世話になって幸せになったというのなら、そんな幸せにいったい何の価値があるのだろう。何らかの価値はあるのだろう。だがその価値を認める気が起こらない。立場が違うからかもしれない。たぶんお助けマンにとっては、それは全面的に肯定できる価値なのだろう。自らのやった行為を正当化するためには、多大な価値がなければやった意味がない。それを見せびらかすとは、誇らしく思っているからなのかもしれない。だが、その状況とは無関係な人にとっては、それはどうでもいいことかもしれない。渦中にはいないのだから、それをどう思おうと他人の勝手だろう。どこまでも、人それぞれの域を出ない話だ。自分の生き方に判断を下せると思っている人間は、きっとその人は、自分が勘違いをしていることに気がつかないだけなのだろう。自分がいったい何を求めているのかなんて、それをわかっているつもりにはなりたくない。


2月14日

 たまには奇怪な夢を見る。虫の知らせとはどのような感じなのだろう。妙な胸騒ぎがしているらしい。ぼやけている。視界不良だ。目が霞んでいる。靄が生じているようだ。もはや自分さえ存在できない。それは奇妙な言い方だ。あやふやな気配が漂っている。闇の中で自分の気配を感じる。それは錯覚だろう。そこには誰もいない。そして何も見いだされないだろう。何もない。虚無さえ存在できない。それも嘘臭い言い方だ。魅力を感じない。いつも常道から離脱しつつある。昔からそうだろう。断崖絶壁から飛び降りる蛮勇など持ち合わせてはいない。そんなのはわかりきったことだ。たとえ話なら何とでも言えるだろう。リアリティが実感できない。その言葉のフォルムに魅せられる。その形に興味があるらしい。これから何か形あるものを探そうというのか。今となってはもはや手遅れだ。だが、手遅れだからこそおもしろいわけだ。その場の思いつきであらぬ方角へねじ曲がる。気がつけば語る内容が消失している。気持ちのねじ曲がりは修正不能に陥る。そこで何を語るつもりだったのだろうか。あらかじめ用意しておいた草稿などない。くだらぬ暴走を止めるための何らかの歯止めとなるようなことを語るつもりなら、やめておいた方がいい。無駄だだろうし、もったいない。それしかできないのを無理に止める必要もないだろう。辺りに浮遊している意識は、拡散したままひとつにまとまることができないでいるらしい。闇雲に存在感を醸し出そうとしている。また絶えず理想の状態を探し回っている。最後の悪あがきだ。一度、他愛のないデマで踊らされてみたい気がする。宙を舞う紙吹雪が脳裏に焼き付く。何かのパレードに遭遇したことがあるようだ。その記憶には何の意味もないだろう。言葉がこちら側に戻ってくるのを、意識的に邪魔している。自分で自分の邪魔をする。焼き魚は美味いが小骨を取るのが面倒だ。季節はずれの秋刀魚を食べる。冷凍物だろうか。それがどうしたというのか。わからない。その体験をどう説明するつもりなのか。説明しようがないだろう。気持ちが散漫のようだ。これからやろうとしていることがわからない。それはどんな実践なのか。枯れ木に花を咲かせよう。木が腐ればキノコの花でも生えてくるだろうか。あれを花と呼んでいいものか。その形状から、その気になって見れば花に見えなくもない。それはいい加減なこじつけだろう。例えば羽衣がパラグライダーに化ける。それが何を暗示しているというのか。なぜ暗号を解読しなければならないのか。おそらく、ヤラセ番組かもしれない。シャーロック・ホームズは犯罪を愛しすぎた。いつの間にか、犯罪者と二人三脚の協力関係にある自分を見失う。そして彼は愛すべき黒幕と共に滝壺へ消えざるを得なくなる。それで何か気の利いたことを語ったつもりなのか。そうは思わない。逆に、ほとんど何も語っていないような気がする。幻覚なのだろう。それらしき雰囲気の中で溺れている。彼を溺愛しているのだ。ミステリーは気晴らしの娯楽なのか。おそらくそうだろう。だから、そこから無限の意味を学ばなければならない。本当か?どうもまた嘘を言ってしまったらしい。接続の仕方がおかしい。幻覚に幻滅する。さらに安易な姿勢に貫かれているらしい。その先が見えてこない。それは当然のことだろう。どうも近頃は一カ所で旋回しているだけのような気がしてくる。堂々巡りなのだろう。苦し紛れに名探偵が登場してしまう。だが内容は相変わらず何もないらしい。ちょっと一瞬の間接触しただけで、すぐに退場願う羽目に陥る。もはや苦しいときの探偵頼みは通用しないらしい。そこから話を展開させるのが面倒なのだろう。それは理想状態からは程遠い展開だろう。理想そのものが見失われている。ところで、理想状態とはどのような状態なのだろう。自分の都合と合致している状態なのだろうか。とすると、何もうまくいないのが今の状態だとするなら、それが理想状態なのかもしれない。つまり、今が理想状態なのだろう。理想状態から程遠い今が理想状態だ。こうしてまたもやワンパターンの逆接に遭遇してしまう。まさに予定調和の展開になる。しかし、これで、してやったり、となるのか。わからない。


2月13日

 最近は生活にメリハリがない。特にどうということはない平凡な過去が洗い流される。その場所で誰かに会ったらしい。先日の出来事を思い出せない。ところで、さっきまで何を考えていたのだろう。どうも思考がまとまらないようだ。近くで道路工事をやっているらしい。聞こえてくるのは交通誘導の笛の音なのか。よそ見をしているうちに場所を見失う。今はどこを見ているのだろう。どこか他の場所を探しているようだ。交差する視線の先に目標物が見え隠れする。誰がどこを見ていたのだろう。遠くを見据える眼差しには陰りが見えはじめる。見えない光景を思い出す。それはいつもの嘘だろう。困惑の表情と共にいつもの顔がやってきた。目の下に隈ができている。疲れているのは毎度のことだ。ついでに眠たい。道ばたで座り込んでいる人を見かける。交差点の真ん中で枯れ葉が舞う。何の気なしに思いがけない光景を目にする。彼はどこで何を見聞しているつもりなのか。情景描写には恣意的な介入が欠かせない。行き先が定まらないのもいつも通りだ。なぜか抵抗することを忘れてしまったらしい。抵抗できない状況に直面しているのか。このごろは怠惰に流されっぱなしのようだが、勤勉になるきっかけがなかなか見いだせないでいる。確かに批判することには飽きた。ことある度ごとに現状に異議を唱えるのも面倒になってきた。人間不信を通り越して、もはや呆れる気にもなれない。確かに馬鹿馬鹿しいことばかりだ。それについては何も言う気が起こらない。やっていることと述べていることが違いすぎるような気がする。そこには大きな落差と極端な認識のズレが生じている。勘違いどころではない。愚かだ。本当に気がついていないのだろうか。ところで、現状の何が不満なのだろう。不満は探せばいくらでもあるだろう。世の中には気に入らないことが山ほどあるようだ。例えば、資質に欠ける人物が国を代表する役職に就いている現実が気に入らないらしい。しかし森氏も大変だ。重大な事故が起きたら(誰がその事故が重大かどうかを判断するのか)、さっさとゴルフを切り上げて、沈痛な面もちで総理官邸へ馳せ参じろ、と周囲から説教されているらしい(笑)。彼に資質が欠けているとすれば、それは偽善者や俄ヒューマニストとしての演技力だろうか。クリントンが大統領を辞めて暇そうだから、彼に演技の手ほどきでもしてもらったらどうか。とりあえず森氏がいてもいなくても政府はそれなりに機能するのだからどうということはないのだろうが(却って彼にしゃしゃり出てこられると状況判断を誤るかもしれない)、嘘でもいいから指揮者のように振る舞っていてほしいということだろうか。なかなか世間体を取り繕うのも楽ではなさそうだ。しかしこれで森氏が総理大臣を辞任するようなことになってしまうと、なんでそうなるの?としか言えなくなるだろう(爆笑)。


2月12日

 無意識に権力が行使され、他愛のない言説に絡め取られる。それを信じていないからこそ、容易に言葉で操縦されてしまう。ならば信じていたらどうなっていただろうか。言葉の奴隷状態にでもなるのだろうか。いったいどこまで信じて良いものか。変わらぬ姿勢は何も信じないことか。国家による統治を拒否し続ける。では具体的に何をやっているのだろう。その手の政治家や官僚を批判するだけで満足しているわけか。彼らだって国家に絡め取られている。ただ心情的に拒否の姿勢を貫いているだけなのだろう。当然それだけでは不満だ。他人の模倣に屈するのはご免だ。不満がくすぶり続け、鬱積が溜まり続け、その状態から抜け出すために嫌でも別のやり方を模索しなければならなくなる。いつも安住の地から追い立てられ、常に袋小路へ追いつめられている。しかしそれでもまだ悲壮感とは無縁だ。神風特攻隊は世界に通用するギャグだった。ハラキリ、フジヤマと並んで一世を風靡した。そこまでやるか、の後に来るものは笑い以外にあり得ない。これが笑わずにいられようか。いつも我々はさよならを言う。確かに攻撃は最大の防御だ。だがいったい何を守っているつもりなのだろう。それがいまひとつ理解できない。それは守っているのではなく、裏切り続けているのだと思う。悪貨が良貨を駆逐するのではなく。そもそも貨幣に悪貨も良貨もないのであり、強いていうなら、貨幣はそれを使う者の意図を絶えず裏切り続けるのだ。こんなはずではなかった、という後悔の念を腹の底から抱かせる。それが貨幣の主要な効果かもしれない。しかし、そんなことはすでに折り込み済みなのか。後できっと後悔するだろう、と思いながらも金を使ってしまうことがしばしばある。後悔が先に立つ。だから買った時にあまりときめかない。貨幣が自分を裏切る前に自分で自分を裏切っているらしい。感激や感動を最小限にくい止めつつ失望感や後悔の念が感情の表面に浮かび上がってこないようにしている。そんなやり方は邪道だ。自分で自分の首を絞めつけている。そんなやり方で満足しているのか。いや、当たり前のことだが、大いに不満だろう。不必要なほどの用心深さに捕らわれている。自分の感情までもごまかして、いったい何を守っているつもりなのか。それは平常心だとか冷静さなのだろうか。精神に破綻を来さないようにセコく感情を抑制し続けているのだろう。そうやって、ごくまっとうでつまらない人生を歩みつつあるらしい。それでは成人式で意味もなく騒いだり暴れた若者達がうらやましいだろうか。そうかもしれない。若さゆえの暴走は微笑ましい出来事なのか。神風特攻隊で非業最期を遂げた数十年前の若者達よりは、それでもいくらかマシだろう。今と昔では、取り巻いている状況がまるで違う。例えばノルマンディー上陸作戦は米英版の神風突撃だろう。もっともこちらの方は、兵士や兵器の物量で相手を凌駕したので勝利を収められた。今の時代にそんな無謀な真似は不可能だ。せいぜいできることといえば、おふざけやおちゃらけで退屈な儀式の進行を一時的に滞らせるぐらいなものなのだろう。そして大人達の無様なヒステリー爆発を見て二度楽しむ。しかしその比較は荒唐無稽の極みだ。あまりのめちゃくちゃさに冗談も冗談でなくなるだろうか。比較の土台となるべき共通の土壌が何もない。そこで何が欠けているのだろうか。それをまったく真に受けない姿勢に抵抗の徴が見いだされる。それで儀式を通しての国家による統治を拒否したつもりなのか。資本主義社会が必要としている人材は、第一に真面目に働ける者だろう。それが必要最低限といったところか。他愛のないおふざけやおちゃらけで世間をお騒がせする不届き者は必要とはされていないらしい。表向きはそうだ。勤労青年の労働意欲を削ぐような光景がメディアを通じて流されるのは、由々しき問題だろう。ところで、本気でこんなことを述べているわけではないことは明白だ。たぶんこれもひとつの他愛のないおふざけやおちゃらけの一種なのかもしれない。


2月11日

 何を想っているのだろう。夜景を眺めながら竹藪を想う。遠くの山並みを眺めながらさらに遠くの星空を想う。用法が少しおかしいかもしれない。田園地帯に風力発電の風車が林立している未来を想像してみる。具体的な風景とはこんな感じだろうか。分散型ネットワーク社会はかなり昔から実現していたそうだ。それは石器が広範囲に流通していた旧石器時代からだろうか。その起源を求めるのはあまり意味のないことかもしれない。人が広大な地域に分布すれば、離れた場所に生活する人々の間で何らかの交流や交通があって当然なのだろう。ありきたりな結論だ。退屈な成り行きにあくびが出る。では分散の逆の概念である集中はなぜ起こるのだろう。一カ所に固まる方が効率的なのだろうか。そこで都市が生まれるわけか。これもありきたりな結論だ。しかし都市全体を見れば、様々な規模の都市が地上に分散して配置されている。それは、その中のひとつが壊滅しても他の都市は生き残れるという危険分散の意味があるのだろうか。要するに、集中と分散がそれぞれのレヴェルで共存しているのが人間社会の在り方ということなのか。確かに、例えば、発電技術の一点集中形態である原発は、その地域の中核都市から離れて分散して配置されている。もちろん、過疎地域には原発が何基も集中して建設されるのだが、電力の大消費地域からみれば、それは事故に伴う危険が回避されている周縁部に立地されていることになる。チェルノブイリの未来に想いを馳せる。原発派の巻き返しはあるのか。ありそうな雰囲気だ。彼らはどんなやり方で生き残ろうとするのだろうか。経済効率と利権が結びついている技術は長持ちするらしい。そんな慣習を打ち破ることが本当に可能なのか疑問だ。所詮夢は夢でしかないのだろうか。自分達では何も変革できはしないことは、今までの状況を思えば確かなことだ。今まではそればかりだった。これは世界から見捨てられた地域に暮らす人々には納得できない結末に至る。たぶん、この地域は世界の中心から遠く離れた辺境なのだろう。極東は東側の周縁部に属する。それでも何らかの取り柄はあるのだろうか。変化を拒む姿勢からは、どのような力が湧きだしてくるのか。それは睡魔の魅力だろうか。横たわること、ただそれだけを求めて右往左往している。過ちは時や場所を選ばずにやってくる。たまにはニアミスも犯すだろうし、原子力潜水艦にぶつかって沈没もするだろう。電車に轢かれてバラバラになったと思ったら、今度は洞窟からバラバラ死体が発見される。それがどうしたわけでもない。ただそういうことがひとつながりの言説としてまとめられる。それでなんとなくわかったような気分に満たされる。どこからともなく何かが聞こえてくる。不協和音が日常の毎日だ。だがなぜか晴れやかな気分になる。ハーモニカの音色が二重に重ねられる。葬送曲にはある程度の抑制が必要だろうか。相変わらず緊張が持続しない。ひとつのことに精神を集中できない。麦の種が蒔かれるのはいつの季節だろうか。秋か?その地方や品種によって違いがあるのか。いつしか時が流れ去り、何か適当なことが明らかになる。別にそれがどうということもないわけだが、とりあえずそれをありがたがって受け取っておこう。気まぐれな未来に想いを馳せる。次の世代へ受け渡される伝統は適当な儀礼だけだろうか。それだけではないかもしれない。だがそれは命などではないだろう。命はだいぶ前から廃れた概念だ。昔は際限のない博愛主義と偏狭なヒューマニズムの狭間で消費されていた。それはあたかも分散と集中が共存できないかのように装われていた。それが欠陥だったのだろうか。説明できない矛盾が伴わなければリアリティを得られない。論理的矛盾を越えて存在しなければフィクションになる。彼は気難しいだけが取り柄だった。それ以外には何も思い浮かばない。明日はもっと別の魅力探してみよう。そこで行き止まりだった。気晴らしにも限りがあるらしい。ところでこれも冗談の一種なのだろうか。


2月10日

 意味が理解できない。言葉そのものの意味が違う。美しい、そんな形容詞は美しくない。それは見解の相違だろう。たまには美しかったりするかもしれない。それ以外はとりたてて美しくはないだろう。今ここには美しさの基準が見あたらない。現状が美しくないからだ。しかし美しい現状は気持ち悪い。常に色とりどりの花が咲き乱れる環境で生活すれば、きっと発狂するだろう。それはあやふやではないが、気色悪い。不気味だ。何も述べられない、というのは嘘だったのか。だが、依然として何を言いたいのかよくわからない。ついでに何をやりたいのかもわからない。ではそれを探してみよう。オカルトに入れ込んでいた頃を思い出す。そんな頃は存在しない。突然、不吉な前兆に出くわしたつもりになる。それが不吉な前兆かどうかは実際に不吉な出来事が起こってみないとわからないだろう。では、占いを信じていた頃を思い出す。星占いによると、これからの運勢のすべてが凶だ。もっとマシな作り話はないものか。いつも呆れている。その性急さが必要以上の疲労を伴うだろう。たまにははっきりしたことも述べてみようではないか。君には七色に輝く未来が約束されている。ステンドグラスが頭上に落ちてくる。それで天国へいけるだろう。肘掛け椅子に腰掛けて、暗い夜空を夢想してみる。物干し竿には雑巾が貼りつく。高層ビルの屋上から吊された干し大根で漬けたたくあんはどんな味がするだろうか。竹林で鉈を振る。青竹の割れ方で吉凶を占う。川沿いの土手の上の遊歩道を歩きながら考えた。未来はどこからやってくるのだろう。本当に明日からなのか。もしかしたら三年後ぐらいからやって来るのかもしれない。あるいは昨日からやって来るかもしれない。根拠は何もない。とりたてて焦りはない。試しに撃たれてみる。斜め前から狙い撃ちされた気持ちをわかってもらえるだろうか。それは被害妄想だろう。そこで退場するのは司会者だけではない。ついでにゲストも退場する。話が宙に舞う。他に舞っているのは羽毛だけではない。綿埃も舞っているだろう。あらゆるものが舞う。ここで舞っていないのは紙吹雪だけだろうか。結局は話をはぐらかされるだけのようだ。地平線の彼方から見渡す限りの広大な荒野が迫り来る。開放感に連動してげっぷが出る。下水道の底からメタンガスが立ち昇る。ヒューム管にひびが入る。そして何度目かのやり直しになるだろう。相変わらず修復できない。自分はいったい何に守られているのだろう。いつか守護神の本音を是非聞いてみたいものだ。とりあえず神が老いた女王を守ってくれるだろう。カッパハゲの皇太子が即位すればイギリスの国歌は変わるのだろうだろうか。どうも脈絡が感じられない。ここでの通低音は何だろう。それでも天球は回り続ける。孤狼は北の寒空へ向かって吠える。北の原野に鶴が舞う。氷の大地に何が舞うのだろう。ペンギンなのか?そこで途切れるのは何だろう。消息が途切れる。徒労の報酬は何だろう。金銭的な見返りは期待されていない。重低音に魅力が宿る。ヘヴィーメタルのどこが徒労だったのだろう。無作為に抽選された葉書から目眩が生じる。通草の実を食べようとは思わない。どさくさに紛れて泥鰌がはねる。なぜ唐揚げなのだろう。終止符が打たれたのはどの楽譜だろうか。それらには、まったく関連がないらしい。限りのない声に耳を傾ける。とぎれとぎれに聞こえてくるようだが、いつまで経っても前進できそうにない。しかし後退もできないようだ。いつの間にか苦悶が宿る。晒し首の顔の表情を思い浮かべてみよう。映画の中での話になるだろうか。いかにも古い話だ。もはや死に体だろうか。ところでレイムダックは誰だったのか。その話はすでに終わっているらしい。生きているのに過去の人だ。情報革命の真の目的はあらゆる人を過去の人にすることだ。だいぶ前から別の話に移行していた。何でもない話からどうでもいい話へ移行していたようだ。もはや歴史が刻まれることはないだろう。終焉を迎えたのではなく、それさえも忘れ去られたのだ。


2月9日

 ちょっとうとうとして気がついたら朝方になっていた。どうも疲れているらしい。やっと日付が正常に戻った途端に一日遅れだ。どうやら限界のようだ。しかし、まだやめないつもりだろうか。わからない。分量を半分程度に押さえて、一日おきぐらいにやるのがちょうどいいように思える。おそらくその程度なら続けられるのかもしれない。もう他のことをやらなければいけない時期にさしかかっているのだろう。これ以上やっても無駄なのかもしれない。たぶんそうなのだろう。だがそれでもなお続けてしまったらどうなるのだろうか。さらに状況が悪化するのだろう。しかしその状況とは何の状況なのか。取り巻いているすべての状況か。破滅へ向かって一直線ということだろうか。そうかもしれない。なるほど、悪い方へ悪い方へと考えると、確かに深刻そうな雰囲気を醸し出せるようだ。おもしろい。まったく懲りていないらしい。もう手の施しようのない段階に来ているのかもしれない。末期的状況なのか。そうなのだろう。こうして言葉を積み重ねるほどに症状に深刻さの度合いが増しているようだ。なぜそうなってしまうのだろう。たぶんいろいろな出来事が折り重なって、それらがあまりにも煩雑な事柄なので、脳の処理能力を上回ってしまい、もはや一時的に考えることを放棄しているのかもしれない。頭の中が真っ白な状態とはこういうことをいうのだろうか。これからどうしたらいいのかわからない。それは、これまでもそうだったはずだ。今さらそんな台詞を真に受けるわけにもいかないらしい。ではどうしたらいいのだろうか。やはりどうしようもないので、どうしようもしないということなのか。これまでもそうだった。これからもそうなのだろう。たぶん何もわからないだろうし、またそれを裏切って、いくつかの事柄についてわかったつもりになるのだろう。ソクラテスは自分の無知をひけらかしたらしいが、彼は自分と同じように他人も無知だと本当に思い込んでいたのだろうか。思い違いをしてはいけないことは、自分が無知であることを自分が知っていることは、何の救いにもならないということだ。その自分が無知であることを他人も知っているかもしれない。そうなると、他人の方は無知ではないことになるだろう。自分の無知を知っているからといって、他人も無知であるとは限らないだろう。それは単なる思い違いである。もっと謙虚に、自分が本当に無知だと自覚しているのなら、他人は無知ではないかもしれないと思っていた方が無難だろう。とりあえず、自分はいくらかのことを知っているかもしれないが、その知っているつもりの知識にも限界があるということだろうか。まっとうな結論とはつまらないものだ。それでは満足できないのも当然のことだ。だから人はすべてを知りたいと願うのだろう。願うのだけならたやすい。無理だとわかっていても願う。無知であることに居直るよりはいくらかマシだと思われる。それが何であっても、とりあえず知らないのは損な気がする。だから知り得ないことまで知りたいと願うのだろう。他人が無知であることまで知りたい。それの延長上で自分が無知であることまで知りたいのだろうか。ところで、自分は何に関して無知なのだろう。無知な分野はいくらでもあるだろう。確かに様々な方面で無知なのだろう。知りたくても知り得ないこともたくさんある。しかし、仮にそれを知り得たとして、それでどうなるのか。どうにかなるのだろう。その知識を利用して何か利益を得たり、あるいは、知りすぎたばかりに、逆に損害を被ったりするのだろう。中には何の役にも立たない知識もあるだろう。そのような利害とはまったく無関係な知識もあるかもしれない。いつも損得勘定だけで知識を求めているわけでもない。では何のために知識を得ようとしているのか。それが、ただ知りたいから、という理由だけだとするならば、それはいったいどこから生じているのだろう。また、知りたくなくても結果的に知ってしまう場合もある。どうやら結論にはたどり着けそうもない。


2月8日

 動乱が日常的に起こっている地域もあれば、いわゆる平和と呼ばれる状態が何十年も続いている地域もある。たぶんそのどちらであってもとりたててどうということはないのだろう。とりあえずこんな世界なのだ。何をどうするでもなく、ただなんとなく生きているらしい。こだわりが見あたらない。気の抜けた状態が続いているようだ。確かにこんな状態なら、愛だの勇気だの夢だのについて何か言及したくなる気持ちも分からないではない。もっとポジティヴなことを述べた方が無難だろう。何か生きる勇気が湧いてくるようなことを述べるべきなのだろう。しかし本当のところはそうすべきとは思っていないようだ。その辺がねじれている。やはり本気でそう述べているのではないらしい。ちょっとジグザグな歩みをやってみたくて、そういうありきたりな内容を差し挟んでみたのだろう。もしかしたらそれしかできないのかもしれない。いつの間にか具体的な内容を直接述べることができなくなってしまったのだろう。だが、本心からそう思っているのだろうか。本当はできるくせに、わざとできない振りを装っているのではないのか。たぶんそれも当たっているのだろう。当たっていると同時に、あるいは本当にできないのかもしれない。またもや曖昧きわまりない言い方だ。そのどの部分が本心なのかよくわからないところがある。たぶんそのどれも本心ではないのだろう。本当は何も本心から述べてはいないし、どれも当たっていないのかもしれない。ますます事情が込み入ってくる。ジグザグが止まらなくなる。だがそれもジグザグを装っているに過ぎない。そんなことをやる必然も必要もないだろう。だが、現実にはなんとなくやってしまう。これはどういうことだろう。どういうことでもなく、そういうことなのだろう。しかしそれでは何もわからない。確かに何もわからないが、それはそういうことでしかないだろう。何もわからないことなのだ。たぶんそこで終わりだ。それ以上は続かないだろう。続きようがない。どうやらこのジグザグな歩みにも限度があるようだ。では別のジグザグが必要なのか。そのジグザグとはどのようなものだろうか。さあ、よくわからないが、どうもデタラメなことを述べていることは確かなようだ。ジグザグなど知らない。いったい何がジグザグに進んでいるのだろうか。言葉か、それとも文章か、あるいはそのどちらでもないか、さらにどちらもそうなのか、それらのどれもが当てはまるような気がする。まったくあやふやなことだ。それはわかっている。わかっているからそう思うのだろう。要するにジグザグは戯れ事なのか。その通りだろう。と同時に、そんなことはないだろう。正反対の意味の二種類の答えを常に用意しておくのがジグザグの特徴なのか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。つまり、それは当たっているらしい。そう、らしい、のである。たぶん、そうなのだろう。おそらく、そうなのだろう。そして、もしかしたら、そうではないかもしれないのである。それらのどれでも構わない。と同時に、どれでもないだろう。いったい何が言いたいのだろう。もしかしたら言いたくはないのかもしれない。ただ前言を裏切り続けるしかないようだ。ああ言えばこう言う、たぶんそれの繰り返しなのだろう。そうせざるを得ない。それらはどのようにも肯定でき、またどのようにも否定できる。それは、この世界そのものの本質なのかもしれない。そう、確かに言ったり述べたりすることは可能なのだ。そればかり延々と続けることも可能かもしれない。結論を出すことなど二の次だ。そんなものに価値を認めない姿勢が世の中には氾濫している。どうでもいいことなのだ。自分達のやりたいように事態が進行していけば、それで満足してしまうのだろう。そのおかげでひどい結果を招こうとも、一向に懲りない。ほとぼりが冷めたら、またいつものように同じことを繰り返す。近頃はそんな出来事ばかりに出くわすような気がするのだが、それは気のせいなのだろうか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。


2月7日

 どうやら昨日来続いていた低周波の振動は収まったらしい。そして、一時的な錯乱状態を切り抜けたようだ。要するに、発狂した振りを一旦取り下げて、今度は正気の振りをしているということだろうか。さあ、そんな述べ方では嘘になるだろうか。それでも構わない。結局はそれほど大したことはない偽の錯乱状態だったのだろう。そう、実際は錯乱などしていなかったのだ。たぶんそれはいつもながらの冗談だったのだろう。本気で錯乱などする気はない。したくてもできない。そういう心理状態にはなれないし、錯乱に導くような、外部からのきっかけも働きかけもないだろう。今ここには空虚な時間しか到来しない。何らかの心理作用を起こす材料は何もない。ただ外では雨が降っているだけだろう。どこから説明したらいいだろうか。たぶん、わかってくれないだろう。残された時間は消費された時間よりも多いだろうか。そう願いたいところだ。戸惑う余裕もないような生活には慣れている気がする。すべての事柄をいっぺんに片づけてしまいたい気持ちになる。できもしないのにそんな幻想を抱きたい状況に陥っているらしい。そもそも何がすべてなのかわからない。どこまで範囲を拡大させればすべてになるのだろうか。無限なのか。では無限の範囲とはどういうことだろうか。それは想像もつかないし、不可能なことだろう。だが、それでもなお妄想を捨て切れないでいるらしい。この世がきれいさっぱり跡形もなく消えてなくなる妄想だ。すべてが片づくとはそういうことなのか。それは無意識のうちに世界の終わりを信じているということだろうか。最後の審判を望んでいるのだろうか。それは成り行き上の嘘だろう。ときどき何を望んでいるのかわからなくなる。いったいこれからどうなってほしいのだろうか。どうもならないだろうことはわかっている。なりようがない。ここでも不可能に遭遇する。変化する可能性は何も見いだせないだろう。だが一方では、別の面で着実に変化し始めている。その変化に可能性を見いだせるかもしれない。それはどのような変化なのだろうか。確証は何もないが、多くの人々が困っているらしい。その困り具合に変化の兆しが見られるだろう。その困惑を解消するための対処法が何もないことに気づき始めている。おそらくその歪みを指摘することはできるだろう。確かにそうなっていると説明することはできる。だがそれに対する対策を何も打ち出せないでいる。何もできないでただ状況の推移を見守っていることしかできないから、苛立ちが募るばかりなのだろう。しかし、どうすればこの状況が変化するのかは、すでに多くの者が気づいているふしもある。苛立ちを募らせている当の自分達が、この世の中から消え失せれば状況は変化するだろう。だがそれはまったく不可能なことだ。絶えず現状を批判し、状況の変化を望んできた自分達が、なぜ真っ先にいなくならなければいけないのか、まったく理解しがたいし、絶対に承伏しかねるだろう。まずいなくなるべきなのは悪徳政治家や汚職官僚達の方だろう。まったくその通りだろう。倫理的にも道徳的もこちらの方が正しい。今こそ皆が正しいおこないを実践しようではないか。それを本当に実践できるだろうか。とりあえず、実践したつもりになることはできるだろう。それについてどう思おうと、その人の勝手だからだ。だから、せいぜい選挙で清廉潔白で政治行政改革を行う熱意を持っている候補者に投票してほしい。候補者が誰も信じられなかったら、自らが立候補してほしい。そうすれば今の状況も少しは良くなるかもしれない。そう、なるかもしれないのだ。もう何十年も前から、その、なるかもしれない、を信じ続けてきた人はきっと大勢いることだろう。だからこそ、そういう人々がいなくなれば、この状況は確実に変化するだろう。今ある国家・政治・行政の制度を信じない人々が着実に増えていけば、現状は確実に変化するだろう。そうなるためにはどうしたらいいのか、答えはすでに出ているだろう。たぶん彼らはこういう冗談が許せないのだろう。


2月6日

 疑問などとうに吹き飛んでしまったが、なぜか未だに疑問文に頼り切っているらしい。まったく疑問文が接続詞の役割を果たしているようだ。これからもまだとうぶんは、わざとらしい疑問文で乗り切らざるを得ないだろう。何を乗り切ろうとしているかは、とりあえずは不明としておこう。本当は嘘なのだ。まったく乗り切れていない。疑問の坩堝の中でもがき苦しんでいるだけだろう。気分は情熱の塊というわけにもいかない。やる気のなさがすべてだ。まったく正気の沙汰でない。だが不思議にも正気を保っている。これが冷静さの徴なのだろうか。達観することはできないし、厭世感に包まれているわけでもないが、どういうわけかこの現状を肯定しているようだ。意識の上では肯定する気は更々ないのに、態度や行動には現状肯定が滲み出ているようなのだ。要するに、この程度の状況なら別に肯定しても構わない気がしてくる、これ以上を求めても仕方がない、自然とそんな気分に包まれているのだろう。もはや世の中の現状を批判するのが馬鹿馬鹿しくなっていることは確かだ。何しろその手の批判者達がこういう状況を支えているのだから、はじめからそれ自体が無効であることが明白となっている。そんなからくりがわかったときから、その手の批判を聞いたり読んだりする度にただしらけるばかりになってしまった。まさに批判者という立場が世間に認知されると同時に、その者は自分の立場を死守しようと躍起になっている単なる保守主義者になってしまう。つまりそこで批判している当の対象とほとんど変わらぬ立場になって、批判対象とともにその他大勢の人々を支配しようと自らの言説を駆使し始めるのだ。つまり、そういう人々がその立場に留まっているかぎり、現状は変化しなくなる。何か適当な事件や事故が発生する度に、その手の人々が適当に説明したり当事者のやり方を批判したりする。そしてそれが、次々と飽きもせず延々と続いて行く毎日になる。それと同時に、そのような批判と批判対象との役割分担が確立され固定されている限り、そのような批判される現況も飽きもせず延々と続いて行くことになる。そういったヒエラルキーは、それを内部から支えている者と、外部から批判しながら支えている者の両者の協力によって保たれているのだろう。どちらにとってもそれが崩壊しては困るのだ。その構造に真の外部は存在しない。外部はあらかじめ排除された後に、内部の者が外部を装って批判者の役割を演じているに過ぎない。それは当の批判者達が一番よくわかっていることだろう。自分達の素性の胡散臭さに感づいているからこそ、ことさらどうでもいいことにムキになって偽善者面をしたがるのだ。そういう態度にはまったく吐き気がする。だからこそ、そんな三文芝居には同調しないようにすべきなのかもしれない。国会上での政争劇などはすべて予定調和のまやかしである。そんなもんを周りで囃し立てている者達もそもそもが共犯関係なのだ。これからもそれらを正視することはできないだろう。では、どうすればいいのだろうか。とりあえず批判せずに肯定してみればいいだろう。ああ、それらはそういうものなんだ、と単に肯定すればいいだろう。批判する者は別にちゃんと存在している。自分が批判するには及ばない。自分などが批判しても、無視されるか彼らの言説の材料として利用されるかのどちらかでしかない。部外者はいつまで経っても部外者でしかないだろう。だからせめて、彼らの見るも無惨な姿や、聞くも哀れな言動を、勝手に肯定してあげようではないか。そう、がんばってくれたまえ、としか述べられないのかもしれない。しかしこんな冗談を真に受けてくれるだろうか。わからない。率直に言って、今まで冗談以外のことを述べた例しがないだろう。なぜそうなってしまうのだろう。なぜ真面目になれないのだろう。やっていることはといえば、照れ隠しのはぐらかしの他に何をやってきたのか。まったくこの現状に対処できていない可能性が高い。だが、やはりそれでもいいのだ。何の不都合もないだろう。


2月5日

 これで少しは錯乱状態に近づいただろうか。ここに至って、なおのこと冷静なのかもしれない。安っぽいハウスビートに乗って暴走し続ける。要するに精神錯乱を装っているわけだ。それを、昔フォークシンガーだったトレイシー・ソーンが歌うと演歌みたいに聞こえる。またデタラメを述べてしまった。何の根拠もないめちゃくちゃな言い方だ。だがこの際それでもいいだろう。それでもなんとなく言いたいことは外していないように思われる。ファンタスティック・プラスティック・マシーンというグループ(プロジェクト?)は日本人が手がけているらしい。あなたの欲望のすべてを書き綴って下さい、そんなメッセージを発している。なんとなくインテリ臭いが、サウンド的にはダンスビートのツボをよく心得た造りになっている。とりあえずベン・ワットのサウンドよりは聴きやすい。たぶん洋楽かぶれの日本人のサウンドだからかもしれない。相変わらず自意識は、どこまでも続く限りのない怠惰に絡め取られているようだ。サイケデリックの伝統は連綿と未来へ受け継がれている。黙っていてもどこかの誰かがやりたがる分野になっている。どうぞ好きなだけやってほしい。自分にそんなことを述べる権利も必然も何もないが、なんとなくそう言いたくなってしまうサウンドだ。これもよくわからない述べ方だが、そういうふうにしか述べられない。それが限界なのだろうか。たぶんそうなのだろう。だがこのままでは終われない。もう少し先へ進んでみよう。それからもっと後退してみよう。後ろへ退きながら前進を繰り返すのだ。それがいつものパターンだったはずだ。ボサノヴァの雰囲気から転げ落ちながらも、坂のどこかにしがみつくきっかけを見つけだそうともがく。さらにおかしな状況に陥っているようだ。しかし、戯れ事が本気に変わるきっかけはとうとう見つからないまま、表情は自然と弛みっぱなしになるだろう。それとは反比例してこわばっているのはどこだろうか。怒りながら笑いながら爆発しようとしてもできず、結局は不発に終わるだろう。別に腐れ落ちるわけではない。そうなった方がある意味では幸せかもしれない。現実には眠気に耐えられなくなって眠るだけなのだろう。そして何もかもすべての現実を忘れてしまうのだろう。そんなフィクションに浸りながら、徐々に忘却の海へ身を沈めてゆく。そんな冗談が実現したらさぞかし愉快だろう。しかし何が愉快なのかさっぱり理解できなくなる。愉快な感覚までも忘れてしまうからだ。その途中の過程における意識が飛んでいるのだ。だから、物事の始めと終わりしか感じ取れない。それが原因と結果に分裂した意識を形作っているようだ。よくありがちな症状とはそのような傾向であることが多い。だがその両極からの引力に逆らうことはできない。遅かれ早かれ結局はその二項に絡め取られてしまうのだ。原因と結果に吸い取られて意識の中身は空っぽになるだろう。その途中にしがみつく場所など何もない。言葉そのものが存在しないのだ。それはデジタル信号が0と1の中間には留まれないのと同じことだろう。だからそこから始めよう。あり得ない地点から語り始めるのだ。白痴の無表情が連続しながらも、喜怒哀楽とは無関係に、わけのわからない昂揚を冷めた手つきで記述するのだ。何もそこで本当に錯乱しなくでもいい。ただ冷静に自らの錯乱状態を見つめ続けるのだ。そのいかにもわざとらしい演技を分析してみよう。魂の不発弾を弄んでみよう。本気なのだろうか。半分はそうかもしれない。が、残りの半分は常に遊び半分だ。この状況で、なぜ全面的に本気になれるのか理解に苦しむ。その真面目な口調が、今にも冗談に転じる可能性を秘めている。なぜそうなのだろう。それは他の誰かに尋ねてみるといい。真面目で勤勉な人ならば、きっと万人が納得のいく説明を携えていることだろう。自分は不真面目なので説得力のある答えを用意できない。だからこんなふうに状況を理解しているのだろう。ただ、わけがわからない。そういうことだ。


2月4日

 かなりおかしい。どこからどういうふうに展開させていけば、そんなつながりが可能となってしまうのだろう。一見不可能と思われることが、結果的には可能となるらしい。そればかりになる。確かにそればかりでは飽きが来るだろう。草原の記憶が断片化して森の記憶と融合する。まばらに点在する灌木を眺めているようだ。なぜか街に黒豹が出没するらしい。その人物は黒豹刑事とかいうのだろうか。思わず笑ってしまう。ゴルゴダの丘には十三番目に到着することになるのだろう。茨の王冠では満足してくれないのか。他に欲しいものはないか。すべてが欲しいとは、かなり強欲な願いだ。だが、そんな出鱈目な性格が気に入られているようだ。誰かに好かれるということは、あまり気持ちの良いものではないそうだ。すぐにひねくれるのもかわいいそうだ。あまのじゃくとはどういうことをいうのだろう。なぜ仁王の足下で踏みつけられていなければならないのだろう。ゴルゴダの丘の周辺で繰り広げられているトライアスロンはまだ終わらないだろう。終わりたくても見ている観衆が終わらせない。当時ブラックパンサーのメンバーはイスラム教に改宗したと記憶している。それは実体験を伴わない単なる知識のレヴェルでの記憶だ。苦悩や苦痛を伴わない話をするのは気楽だ。マルコムXの話など知らないし、今どき黒豹たちへの鎮魂歌を歌う者も存在しないだろう。茨の王冠をかぶった救世主はイスラム教徒には無関心だ。きっと彼らは人間以下だと思われているのだろう。廃棄物と兵器がひとつに融合する。劣化ウラン弾の破片に近づいて白血病にでもなればいい。そこで飛び散る肉片は何色をしているだろうか。それを見物しに、わざわざ現地まで行く気はしない。ぞっとするし、そんな暇もない。それに白血病になるのも困りものだ。だが仮定の話には緊張感が欠けているようだ。出来事の起こる順序もまるで考慮されていない。やはりこれは冗談の一種なのかもしれない。ブラックジョークなのか。どこがそうなのか、はっきりとはわからないかもしれないが、たぶんそのつもりで話を展開させているのだろう。だがその内容は、理想からはまったくかけ離れている。というより理想そのものが存在し得ない代物になっている。ところでシュールレアリスムとハイパーリアリズムの違いは何だろう。程度の差の問題だろうか。そうかもしれない。本当は違うだろうが、ここではそういうことにしておこう。とりあえず韻を踏まなければならないそうだ。ルールに従いながらも、同時にルールから逸脱する。ルールの本質とはそういうものらしい。真にリアルな表現は、同時にリアルから最もかけ離れたものになる。そこで踏みとどまることはかなり難しい。だから安易な妥協をせざるを得ない羽目になる。だが、それしかやりようがないのだから仕方ないだろう。永久に居座り続けることなど不可能だ。やることをやったら、さっさと退散することにしよう。後がつっかえてしまう。そうなると周りの迷惑だし、ひんしゅくを買ってしまうだろう。どうやら導火線は今も完全に消えてはいないらしい。まだ執拗に燃え続けるつもりなのか。もういい加減にしてほしい。いまに爆発するという期待感だけが先行しているようにも感じられるが、それは本当だろうか。爆発するのは芸術だけではないのか。それ以外で爆発するものは爆弾と火山だろう。では富士山が爆発する日もそう遠くないわけか。本当に爆発したらおもしろいだろう。それに対する期待感が不気味にくすぶっているそうだ。どこでくすぶっているのだろう。たき火の中でか?それで急に焼き芋が食べたくなったわけか。しかし眉毛の太い殺し屋の話はどうなったのだろう。確か十三番目の天使は堕天使だったと記憶している。ではあの目が細い角刈りの中年男がルシファーなのだろうか。慣用的な表現としては、馬鹿も休み休みに言わなければならないらしい。たぶんすべてがデタラメなのだろう。それは嘘も方便の限度を超えているかもしれない。とりあえずここで一息つく。


2月3日

 昼の陽ざしが斜め上から差し込む。今は何時だろうか。場所を見失ってから、だいぶ時間が経過してしまった。約束の時間には間に合いそうもない。さて、どこまで歩いたのだろう。突然の場面転換に驚く。ありもしない地名に戸惑う。そんな場所がどこにあるのだろう。どうやら、そこから先は作り事の世界らしい。だがそこで躓くはずもない。石ころだらけの大地は、はるか以前に通過したはずだ。道ばたに看板が四つ並んで立っているが、そのどれもが真上を見上げている。そんなことがあり得るだろうか。あり得ないから作り事の世界なのか。たぶんそうなのだろう。それではこれまでの繰り返しになってしまうが、それは仕方のないことだ。どのように進んでみても、そんな展開にしかならないのだから仕方がない。進む方向が常にねじれている。絶えず同じ場所に戻りつつ進んでいくことしかできない。そうしてまたもや同じようなことが循環している。そんな毎度おなじみの繰り返しと循環の中から、似たような作り事の世界は構成されるのだろう。たぶんそこで話が尽きようとしているのだろう。背景から全景へとめり込む影に操られながら、いつのも舞いが始められ、そこで話が尽きようとしている、その瞬間から語りだされるのだ。翼は空へ向かって離陸しながら海底へと沈み込む。そんなあり得ない話を語りたいらしい。それはいつものパターンだろう。ここではありふれた表現だろう。確かにそのようなマンネリはここでは尽きない要素だ。それによって不可能な循環を繰り返す。だがそれは無理な話だろう。不可能ならば繰り返せない。だから、本当は可能な循環を繰り返しているはずなのだ。しかしこれが循環していると言えるだろうか。本当に何を繰り返しているつもりなのだろうか。嘘以外に何がある。それ以外には何もないかもしれない。だが、その何もないところから話が始まるのだ。砂の岬も石ころだらけの荒れ地もはるか遠方へ退いてしまった。今体験しつつあるのは、何の変哲もないありきたりな日常そのものだろう。そこから一歩も外へ出ない。ただ屋内空間の中で呼吸しているようだ。そこから眺めているのは、窓越しの風景になる。背景は窓の外にある。カーテンの模様は何を語っているのだろう。何も語りはしない。心象風景はカーテンの模様などには重ならない。心の陰影はどのような影響の上に成り立っているのだろうか。心がないからわからない。今どき心理描写にうつつを抜かすのはつまらないことなのか。だがそのうち情景描写にも飽きが来るだろう。心理描写と情景描写の違いがわからない。心がないからわからないのだろう。それもマンネリの一種なのだろうか。にわかに靴音がリズムを刻みはじめ、何やらそれらしき曲になる。床に砂を撒いてタップダンスを踊ることが新鮮な驚きをもたらす。それは、今まで見たことのない光景だったことによる、一度限りの驚きなのだろう。それ以外は毎度おなじみのミュージカル映画なのか。作られたどしゃ降りの中でも踊り出す。そんな映画もあったらしい。雨に歌えば、その先はどうなるのだろう。どうにかなるのだろう。さらに踊り続けるのかもしれない。映像は容易に途切れる。簡単に切り替わる。場面転換というやつだ。夕日に照らされながら荒れ地を彷徨う。ようやくここまでやってきた。鍾乳洞の中で交わされた約束は果たされたようだ。大地の至るところに洞窟が口を開けている。そこで誰が待っているというのか。待っているわけもないだろう。時代が数百年は隔たっている。今から何百年か先に生まれてくる人間に託すものなど、何も持ち合わせていないような気がしてきた。そんなものを持っている義務も責任もないだろうから、それはそれで構わないのだが、それで済んでしまうのもなんとなくしゃくな感じがするので、洞窟の入口に横たわっている大きな岩に何か文句でも刻んでおくことにした。湿潤な気候ならば風化してしまうだろう。それでも何もやらないよりは少しはマシだろうか。単なる自己満足の域を出ないことだろう。


2月2日

 あやふやな思い出に浸りながら、そこで何を見いだそうとしているのか。何かが見いだされる。そことはどこなのだろう。場所が不明だ。季節の記憶を辿っていって、そこで見いだされる花の色について考察してみよう。これはでまかせかもしれない。春を思い出す。もうそんな季節なのだろうか。たぶん冬の終わりに春が見いだされるのだろう。それは当たり前のことだ。では当たり前でない光景を思い出す。俄に空がかき曇り、辺りに雷鳴がとどろき渡る。だが、まだ雷が落ちる季節からは時期的にかなり離れている。稲光には年に数回お目にかかれるだろうか。たぶん今年も何度か見ることになるだろう。それは自然の花火みたいなものか。不自然な話になる。どうもこの地方では、この時期の雷は季節はずれになるだろうか。冬の稲妻は豪雪地帯の話かもしれない。では、この時期にあった風物詩とは何だろう。例えば今は火鉢の季節なのか。それは昔の話だ。現代では家の中で炭を使う環境にない。その手の住宅環境はごく少数にとどまるだろう。昔、暖炉のある家を訪問したことがある。それはだいぶ昔の話だ。手作りの真空管アンプに人の背丈ほどもある大きなスピーカーをつないで昔のLPレコードを聴かせてもらった。その趣味人は、パイプで煙草を吸いながら、コンパクトディスクなどのデジタル媒体では絶対に出せない音だと自慢していた。今ではどうなのだろう。あれから十数年が経過している。金をかければアナログ音に匹敵するデジタル音が出せるだろうか。出せそうな気もする。だが、仮に出せたからといって、とりたてて画期的というわけでもないだろう。生演奏とほとんど遜色のない音を聴くよりも、実際にコンサートホールへ出かけていって直に生演奏を聴く方が勝ってしまうような気がする。出かける手間を省くために投資する金額が、果たしてその音と釣り合うのだろうか。確かに、家の居間でゆったりとくつろぎながらクラシックの世界に浸るのも悪くはない。いい趣味をしている。しかもそれは二者択一ではない。それでいて気が向いたらコンサートにも出かけていくこともできる。たぶんその手の趣味に凝りだしたらきりがないのだろう。昔の王侯貴族のように、自宅の庭に自前のコンサートホールを造って、演奏家を招いて私的な演奏会を開くほどの金持ちもいるかもしれない。様々なレヴェルで様々な質の音が発せられる。たぶんそのすべてを聴くほどの根気も金もないだろう。適当なところで妥協するのが当然の成り行きだ。そして、それに対する妥協点も無限にあるだろう。そのどれであっても構わない。だが現実には今の状況で入手できる音しか聞けないだろう。それ以上でも以下でもない。ちょうどたまたまそうなってしまうのだ。その現実はどうにもできない。だから、それ以外のものを求める気が起こらない。求めても無駄なような気がする。確かに可能性は無限にあるのだが、実際に体験するのはそのどれでもない。ただその現実を一度体験するのみだ。そして次の瞬間にはまた違う現実を一度体験する。どうもそれが連続してるらしい。可能性を体験することは不可能だ。ではもはや不可能には対峙できないのだろうか。愚問だ。それはそうかもしれないし、そうでないかもしれない。すでに不可能に対峙しているらしい。可能性の塊に耳を傾ける。その呟きは何を訴えかけているのだろう。確かにそれほど聴く気は起こらない。情熱はとっくの昔に冷めたまま放置されている。だが、それで構わないだろう。どうやらまた嘘をついているのだろうか。未だに不可能に対する情熱が心の奥底でくすぶっているらしい。そう、不可能を求めているのだ。求めているのは常にそれだけかもしれない。それは音だけではなく、自分に向かってくるすべての事象だ。それを直に受け取りたい。それらをそのままの形で見いだしたい。しかし、そこでわけがわからなくなる。何が不可能なのだろうか。それを具体的に言い表せないことが不可能を自覚させるのだろうか。だがそれでも構わない。それはそういうものでしかないだろう。


2月1日

 何やら一時期騒がしかったようだが、風向きが変わったとたん、あっという間に静まりかえる。そして誰もいなくなる。どこかで聞いたような台詞だ。急に方向転換したらしい。何がそうさせるのか、誰もそれに気づかない。いや、実際は多くの者が気づいているが、わざと気づかない振りをしている。そのことについてはあまり触れられたくないようだ。恐怖に怯えて蜘蛛の子を散らすように逃げ出してしまった、あの時の無様な後ろ姿については、できれば見なかったことにしてもらいたいのだろう。たぶん、逃げ切れずにそこで力尽きた人々に対する哀惜の念など、まったく感じていないのだろう。彼らにそこまで気が回るほどの神経はない。消えた人間の不足分はすぐに他から補充すればいい。ベルトコンベアーに乗って人は生まれてくる。やがて大量生産大量消費の時代がやってくるだろう。かつてそんな未来を思い描いていた時代があった。それはいつの時代の話なのだろう。今でも夢をもう一度と願っている人も少なからず存在するのだろうか。さあ、どうなのだろう。過ぎ去った時代に想いを馳せても何の感慨も浮かんでこない。機械による大量生産そのものには何の魅力もない。誰でも容易に同じような工業製品を手に入れられるようにしたい、という経済的な要請に応えているまでのことだ。確かに機械が台頭してきた時代には、何らかの驚くべき期待があったのかもしれないが、今ではその手の自動制御技術にはほとんど慣れきってしまった感がある。そんなオートメーションテクノロジーを夢見た産業革命は遠い昔の話だ。たぶんこれからも自動化され続けるのだろうが、だからといってそれほど便利になったとはあまり実感できない。はじめは驚いたり感動したりするのだが、すぐに慣れてしまって、今度はそれが当たり前の感覚になってしまう。結局それに対する期待は急速に萎んでしまう。そこからどうすればいいのだろう。毎度おなじみのことだが、どうもしはしない。何も構築する気にはならないだろう。今さら形あるものを作ってどうしようというのだ。では、現在の話はどのような内容になるのだろう。今はどのような時代なのだろうか。安易な回答としては、脱産業化の時代になるだろう。どうやらすべてが空洞化しつつあるらしい。では既存の産業が空洞化した後には何が来るのだろうか。来るものなどない。もう何も来ないだろう。空洞化とは文字通り空っぽになることだ。ようするに来るべき次の時代は、何もかもが空っぽになる時代となるだろう。価値を形成しているものすべてが消え去り、完全に見失われてしまう。跡形もなく、影も形もなくなってしまう。確かにそうなればおもしろいだろう。それでまったく不都合はない。そうなることによって、失われる感覚はたくさんあるかもしれないが、それはそれでまったく構わない。一旦失われたものは二度と戻ってこないで欲しい。永劫回帰はご免だ。今の体制下で欲しいものは何もない。欲しくもないものを無理矢理押しつけられるのもご免だ。もはや、欲しがりません、勝つまでは、では通用しない。欲しがらないし、勝たなくてもいい時代になりつつあるようだ。だから今さら誰もカリスマの意見など聞きたがらない。カリスマが一般人と同じようなことしか述べられないのだから、それはすでにカリスマではないのだろう。差異が急速になくなってきているのかもしれない。学ばなければ理解できなような知識はほとんど顧みられない。長時間かけて身につけるような技能さえ早晩意味をなさなくなるだろう。これからは何もできなくなるだろうし、何もやらなくてもいいようになる。本当だろうか?どうもその場の成り行きでいい加減なことを述べているようだが、それは本当だろうか。嘘というのは、こういうふうに述べればある程度の説得力を持つだろうか。だが、これは本当に嘘なのだろうか。何が嘘なのだろう。自分にはその嘘が理解できない。ただ、未だに何も見いだせない。それが嘘であることは承知している。