彼の声22

2001年

1月31日

 朽ちかけた塀越しに中を覗き込む。苔むした庭は日当たりが悪そうだ。作り話の始まりはこんな具合だろうか。いつもの調子でフィクションが語られる。別に誰が語っているのでもない。誰が語ろうとも構わない内容になる。そこでは誰も生きないが、何も死にに行くこともあるまい。神風が吹くわけもないだろう。特攻隊員はすでに神から見放されていた。だから自らが軍神という神になるしかなかったのだろうか。わからない、なぜそれで辻褄が合うのかがわからない。安易に合わそうとはしていないのだろう。淡い陽ざしはそれとは何の関連もない。桜の枝を折ると緑に出会う。中から黄緑色が顔を出す。それからどこにでもあるようなものが見いだされるのだろう。嵐の後には何がやってくるのだろう。嵐山の名物は何だったろうか。新聞の風刺画にでてくるような顔だ。石榴の実を食べる人の気持ちが理解できない。それは奇をてらった表現だ。それにはついていけないだろうか。技術のめざましい進歩にはついていけないことが、技術革新の目的だろう。差別化と選別化を目的としている。そんな強制には屈しないことが賢明な選択なのだろう。人類の進歩や進化などにつきあっていられない。それは嘘だと思っている。進歩や進化などするわけがない。嘘に対抗するもう一方の嘘とはそういうものなのか。そのどちらも嘘だというのなら、いったい真実はどこにあるのだろう。どこにでもある。嘘も真実の一種だろう。それは強風に煽られて砂丘が移動するのと同じことだ。風が吹けば徐々に動いていくだろう。何もそこで波乗りサーファーのような曲芸的パフォーマンスは必要ない。ただ普通に移動すればいいのだ。今のところ多数意見に歩調を合わせることはしない。とりあえず地道に歩んでいこう。それがどういうことかはわからないが、これからも黙々と日常をこなして行くことは確かなようだ。立ち止まること以外は動いていよう。他に何もやりようがない。だから黙っていても進んでいるのかもしれない。どこに向かって進んでいるかは判然としないが、その時々で適切な言葉を適切に繰り出すタイミングは、自然と身につける他ないのだろう。それがどういうふうにして身につくのかはよくわからない。ただそのようにしか述べられない。すべての瞬間において思考するように仕向けられている。何がそうさせているかはわからないが、やはり思考を繰り返さなければならない。そう感じているから試みようとする。絶えず自分を越えた出来事に遭遇しつつも、それを淡々とこなしていく。こなしきれないのにこなさざるを得ない。現実はそればかりなのだ。そのすべては絶対にできもしないのに、目の前にはさらなる課題が堆く積まれていくかのごとくに現状は推移している。今にも押しつぶされそうだが、そんなものに押しつぶされたままではいられない。無意識のうちに抵抗しようとしてしまうのだ。昔はそれが自己保存本能に結びついていると思っていたのだが、近頃はどうもそれとは違うと感じるようになってきた。自分には保存するような自己や自我など存在していないのではないか。後生大事に抱えているような意識そのものが見あたらないのだ。例えばこだわりは、外部からの影響で形成されたものだ。そんなものは簡単に捨て去ることができる。自己や自我などにはこだわらない判断が自分によって下されてしまうことに自分自身が驚かされる。だが主体がないわけではない。それでもなお自分には、判断を下したと思い込んでいる主体が存在しているのだろう。それは錯覚なのだろうか。だが、それが錯覚であるかどうかは、あまり重要なことではないような気がする。それが錯覚であろうとなかろうと、現代文明の中で生きている人間の脳神経回路は、絶えず自身が判断や決断を下しつつあると感じるのではないだろうか。たぶん、別の時代の別の環境の中では、今とはまったく違った感じ方も存在したのだろう。そのように想像することができるほどに、この時代の感覚はかなり狭い範囲に集中して過剰に動作しているのかもしれない。もっと別の感じ方が可能な気がするのは、それも現代文明からくる単なる錯覚だろうか。


1月30日

 大地の裂け目から聞こえる怨嗟の声には、心なしかいつもの張りが欠けているようだ。どうやら調子が悪いらしい。それとも、もうネタ切れか?さあ、どうなのだろう。これからどうするつもりなのか。たぶん、どうにもならなくても、無理矢理どうにかするのだろう。とりあえず先に述べた言葉が二重に裏切られる。まったくいつも通りの展開になるだろう。何も考慮されずに、何のつながりも必然もないのに、なぜかわけのわからぬ言葉が連続して配置されている。それをどう見ればいいのかわかりかねる。当たり前のことだ。見いだされた画面はいつも通りのおかしな感覚に支配されている。グルーヴ感とはそういうことを言うのだろうか。意味がわからない。ちょっと的はずれだろうか。意味などないと同時に、またどのような意味も当てはめられるかもしれない。そんなもので通用するのだろうか。通用するしないの基準が不明確だ。だが、なんとなくそれでも構わないような気もする。通用しなくても構わない。たぶんどうとでも言えるのだろう。そのどうとでも言えることが欠点でもあり利点でもあるのかもしれない。だがそれでは欠点にも利点にもならないだろう。欠点とも利点とも関係がない。はじめから特定の関係性が考慮されていないらしい。何も考えずにいきなり始められてしまう。なんというとらえどころのなさだろう。だがそれは捉えるための言説ではない。現実をやり過ごすためにそれをやっているだけかもしれない。だから結節点も消失点も不動点も見あたらない。点だけではない。線も面も空間もまったくとらえどころがない。例えば、カオス現象にもよく調べれば一定の規則が見いだされるそうだ。だが、その規則性をまったく見いだせないでいる。規則があるにはあるが、その潜在している規則性を見つけられないのだろうか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。それは大変まわりくどい表現だ。いつもそうなってしまう。なぜそれほどのわかりにくさを装うのだろう。明らかに嘘をついている。だが偽装の底には何もないような気がする。それは偽装というよりも真の姿なのだろう。ここではそれがより納得できる解釈なのか。コルトレーンの独奏にはそんな趣が漂う。だが、はじめからそれについて述べようとしていたわけではない。最初は言葉の対象が存在しなかった。そして、そのやり方が行き詰まると、苦し紛れに固有名を持ち出してくる。必ずしもそれがコルトレーンでなくても構わないのだろう。コルトレーンを当てはめるのには無理があるかもしれない。導き出された表現と特定の個人を一致させるのはフィクション上でしかできないことだろうか。だが、それが紛れもなくこの現状を反映している。だがそれ以外に何ができるだろうか。特定の固有名以外に何を当てはめればいいのか。いったいここでどのような結果を求めているのか。たぶん求めてはいないのだろう。はっきりした結果は求めない。よくありがちなやり方としては、架空の人物を当てはめればとりあえず安定するかもしれない。しかし何が安定するというのか。フィクションとしての構造が安定するのかもしれない。しかしそれはどういうことなのだろう。まるで自分の述べていることが理解できない。まずは、何について語っているのか、その語っている対象をはっきり特定させなくてはならないだろう。そうすれば不明確であやふやな部分が少しは取り除かれるだろうか。たぶんそういうことなのだろう。それでは、その対象に誰を当てはめるつもりなのか。すぐには該当する人物が思いつかない。やめておくべきなのか。そういう結論になるだろうか。結局は何もできないらしい。おそらく語る対象など誰でも構わないのだろう。誰について語っても構わない。まったく誰でも同じなのだ。どこかの誰かが何かを語っている、その内容は何でも構わない。誰が何を語っていようと、それでどうなるわけでもない。そんな世界で生きているらしい。均質空間とはそういうものなのだろうか。


1月29日

 はるかな土地から遠い想いが微かに伝わる。誰に伝わるのだろう。永遠の切れ端を噛みしめる。どこまでも続く空の下に大地と海がある。確かに地球の地形はそういうものだ。変わり映えのしない地形が延々と続いている。北のカムチャッカ半島には富士山がいくつもある。台湾や九州からは遠く置き去りにされている。いったいそこで何を見てきたのだろう。オホーツクの海に何が響き渡るというのか。結局は何も見いだされはしないし、何も響かない。そこで見いだされる真っ赤な血には物語があるらしい。それは蟹工船の話だろうか。何も特別な物語ではない。どこにでもありふれているかすり傷程度の話だ。糞だらけの死体に出会う。木刀で脳天をかち割られる。そんな体験をした者は、まず生きてはいないだろう。度重なる暴力には訳がある。その理由は何だろう。考察するには及ばない。誰か別の者が考えればいいことだ。そこでパイプオルガンの重層音を聴き入ることだろう。ありがちなヒステリーに対処法はない。それ以外に何があるというのか。そんな世界からは遠く離れてしまったようだ。まだバイオレンスが売りの小説や漫画から抜け切れていないのだろうか。迂回しよう。それで解決できるわけはないが、なんとなくここは回り道をしてみよう。それは時間稼ぎだろうか。切り抜けられぬのならば、そこへ留まろう。そことはどこなのだろう。低気圧の中で耳鳴りがする。気密服の中で潜水病に罹る。緊急事態だ。そんな状況になったらおもしろいだろうか。想像の域を出ないだろう。経験が皆無だ。そういう死と隣り合わせの瞬間に生きているわけではない。そのすべてが仮定から生じているので、まるでリアリティを感じない。耳が遠くなったのは年老いたせいだろう。それは後何十年後の出来事なのか。今老年期を先取りすることに何の必然性もないだろう。まだ燃える朝焼けには程遠い。朝焼けだけでなく、夕焼けも燃えているだろう。未だに決まり切った表現の羅列でその場を切り抜けているようだ。それは成り行き上仕方のないことだ。そこからさらなる展開の深化が求められているらしい。だが果たしてこれが詩になるのか。冗談も休み休みというところだろうか。本気で冗談を呟いているわけではない。そうかといって、まるっきり冗談がないわけでもない。いつもその半分が冗談かもしれない。では残りの半分は何だろう。意味不明なのか。そうかもしれない。それらは冗談に対する単なる付け足しを形成しているようだ。いつもそうなる。リアリズムとはそういうものなのか。それはリアリズムではない。リアリズムである根拠は何もないだろう。そこで循環しているのは冗談のみだ。現実をどこかへ置き忘れてきたようだ。描写がまるでかち合わない。ねじれの位置から互いを無視しながらすり抜けてしまう。もしかしたら冗談にさえなっていないかもしれない。現実の出来事はいったいどこに眠っているのだろう。いくら言葉で揺り動かしても、もう何も動かないのか。そういうわけでもないらしい。空虚な空間は意外と堅牢にできている。いくらでも膨らますことが可能だ。中身がないのだから破裂することはあり得ない。それでは膨らまないだろう。それでは、ただ膨らます振りをしているだけなのか。その振りの連続が結果的に空間を膨らますことになる。何もないわけではないのに、何もないわけだ。それで、何もない、が少し膨らむ。そういう仕掛けになっているらしい。未だにそういう昔ながらのやり方に頼っているのか。それではますます本心が分からなくなる。そこで本心の存在を否定することになるらしい。それが冗談の始まりなのか。確かに辻褄が合うかもしれない。どうやら、本心から冗談に徹しているらしい。まるで工場内で作業をしている労働者の心境だ。巨大な建物からくる圧迫感で押しつぶされそうになりながらも、かろうじてやけくそに冗談を言い合いながら、自分達の人間性を保とうと無駄な努力を繰り返す。そんなやり方では駄目だとわかっていながら、そうでもしない限りやっていられない。やらなければ自分や家族の生活が成り立たないのだ。自分はまだそこまで追い込まれていないような気がする。


1月28日

 相変わらず迷っているらしい。戯れに浅瀬で右往左往している。他に行き場所が見つからないようだ。たぶん探すのが面倒なのだろう。いい加減な態度も相変わらずだ。ここから何を見ようとしているのか。ここに見あたらないのはどのような景色だろうか。ついでに遠くを眺めてみる。思いつく地名を適当にあげてみればいい。やめておこう、何も思いつきそうにない。富士の裾野に雪が降る。ありきたりな風景だろうか。葛飾北斎の富嶽三十六景に感動できるだろうか。実際に見てみなければわからない。思いつくのは月並みな風景ばかりかもしれない。それでもいい、思いつかないよりはマシだろう。外国の映画に登場する日本人の紋切り型はカメラを首から提げている。今どきのカメラは首から提げるほど大きくも重くもない。それはカメラの種類にもよるだろう。昔からサイズの小さなカメラは山ほどあった。韓国朝鮮人に対する差別用語を用いてバカチョンカメラと呼ばれていたカメラは小さくて軽かった。自分は中学生の頃バカチョンというあだ名で呼ばれていた友人が、なぜそう呼ばれていたのか当時はまるで理解できなかった。かなり鈍かったのだろう。自分とは別の小学校からやってきた彼が、同じ小学校の出身者達から集団で手足を捕まれて宙に持ち上げられ、何度も振り回される光景をただ黙って眺めていた。彼は彼で、眼鏡を外してただなすがままにされているだけだ。成績優秀な彼は、その後、進学校経由で東北にある国立大学に入学したらしい。地元の新聞が掲載している大学合格者名簿で確か彼の名前を見た記憶がある。ただそれだけのことだ。たぶん友人と呼べるような関係ではなかったかもしれない。今となってはおぼろげであまりはっきりとは覚えていない。だが少しは感動したようだ。なるほど、ふとしたきっかけで思い出される過去の記憶には驚かされる。そういえば、小学校から高校まで一緒だった別の友人とは、中学の部活(科学部)で小さなロケットを作る目的の部費で買ってきた火薬の材料で(顧問の先生が買ってくれた)、火薬を調合しては学校近くの河原で秘密の爆破実験を繰り返していた頃がある。確かそれに影響されて自分も、爆竹を大量に買い込んで中身の火薬を取り出してヤクルトのビンに貯めていたことがある。その時の火薬は、自分の家のドラム缶でゴミを燃やしているときに投げ込んだら、ものすごい轟音とともにドラム缶のふたとして使っていたトタンの切れ端を吹き飛ばすほどだった。彼とは高校時代の途中から疎遠になってしまったのだが、風の噂で改造銃のようなものを作ったらしく、その試し撃ちに立ち会った不良によれば、分厚い木製の板を打ち抜くほどの威力だったらしい。その後彼は地元の国立大学に入学したように記憶している。どちらの場合も自分は主役ではなかったらしい。彼らは今頃何をやっているのだろう。それらは、案外どこでもありがちなことだったのだろうか。日本各地の至るところにそのような少年達が存在していたのかもしれない。何も自分だけが特別な体験をしたとは思えない。


1月27日

 眠り海から抜け出せないでいる。海中深く沈み込む。いつまで沈んでいるつもりか。まだこんな日付で立ち往生している。ようやく今日の晩に雪が降る。あれから二日が経過したらしい。雪はその二日後まで溶けずに残っていた。そして一月十五日の予言通りに、二日後のスーパーボウルではボルチモア・レイブンズが大勝した。彼の予言はたまには的中するようだ。ノストラダムスよりは信用できるだろうか。彼はもはや過去の人物だ。二年前の七月末日で過去の亡霊の仲間入りをしたらしい。殿堂入りというやつだ。当たるも当たらぬも運次第なのだから、今どきの予言者には気象予報士ぐらいが無難な職業だろう。もはや占い師では信用されない時代だ。そのインチキ臭い予言にはどのような必然性があったのだろうか。必然性があろうとなかろうと、早晩それにも静かに幕が下ろされる。おそらく字幕スーパーはつかないだろう。いかにも声優という感じの声だ。吹き替えの台詞がわざとらしい。いくぶん虚無的な響きがする。ニヒルとはどういう状況で使われる言葉だろうか。たとえばクリント・イーストウッドとルパン三世が同じ声で喋りだす。虚無主義者とはいったいどのような人物のことをいうのだろう。そのつながりが理解できない。たぶんこのままでは終わらないだろう。それは負け犬の台詞だ。出発点が霞んで見えない。スタート地点からかなりの距離になるだろう。もはや折り返し点を大きく過ぎてしまっているのに、まだこんなことをやっている。当然のように交わされる意味不明な会話にもついてゆけない。すでに無理に無理を重ねてしまっているので、このままでは軌道修正など不可能だ。情報が様々な方面で錯綜していてわけがわからなくなりつつも、何とか一応のまとまりを保っているらしい。これは奇蹟的なことかもしれない。現に恐ろしい遅延の連続に遭遇している。恐ろしいが楽しいか?それは強がりか?何もかもが一筋縄ではいかない。だが、どこからともなくやって来る雑音からの執拗な妨害にも関わらず、結果的には何とか丸く収まっているらしい。疲れる。些細なことで神経をすり減らしている。それでもまだ続けられてしまう。どうやら試練とは快楽の一種のようだ。その結果として、つまらない倒錯に遭遇する。下品な台詞で自分をごまかす。よくありがちな性格だ。快楽に忠実な振りをしている割りには、常にその快楽を裏切り続ける。たぶんX氏は馬鹿なのだろう。なぜこうも救いようのない馬鹿ばかりなのだろうか。しかも今度は架空の人物になりすましてつまらない妄想を書き散らしている。おそらく質の悪さは人一倍だろう。やめたほうがいいだろう。もうやめた方がいい。だがやめるわけがない。それはユーモアからは程遠い愚劣な行為だ。そんなことは百も承知なのだろう。だから悲惨なのだ。山でカラスが鳴いている。里では猪鍋を囲んでいる。沈む夕日に手を合わせる。暫しの間、祈りのときが到来する。実際に現物の走馬燈を見た者はいるだろうか。カーバ神殿の中には隕石が祀られているらしい。嘆きの壁に大きな穴が空くだろう。それが今回の予言らしい。それはいつのことなのか。そこまでは知らない。実際に穴が空いたとき、その予言が的中したことになる。神はイスラム教徒の味方なのか敵なのか。現実にそういう出来事が起きた結果から判断できるかもしれない。それでもまだ、誰も神には手を貸さないだろう。それは神も望んでいることだ。どこまでも単独者の道を歩んでいる。組織的抵抗とは無縁の存在だ。ここまで来たからには後に退けないらしい。それが誇大妄想であることも百も承知だ。であるにもかかわらず、あまり本気にはなれない。まるで予言や預言など信じていない。信じることが面倒なのだ。未だかつて神と言葉を交わしたことはない。そんなことはこれからもあり得ないだろう。それは信じ込む能力が欠如しているからだ。はじめから冷め切っている。冷めたピザのことではない。冷凍食品売り場にある凍ったピザなのかもしれない。裂け目から突然羽毛が飛び出す。安物のダウンジャケットは辺り一面にゴミをまき散らしている。またもやつながりが見えない。記憶をトータルリコールしても無駄だろう。すぐに断片化してしまう。


1月26日

 何かしら活動しているらしい。義務感に駆られながら日常をこなしてゆく。滑らかに滑りながら周回を重ねる。決められたコースを外れずに滑ってゆく。スピードスケートに興味はない。朝早くから早指し将棋を眺める。それがどうしたわけでもない。ただなんとなく眺めている。なるほど、数十分で決着がつく。あっけなく勝者と敗者に別れる。別にドラマチックな展開を期待していたわけでもないので、それはそれでいろいろ感心したりする。囲碁よりはいくぶんわかりやすいような気がする。たぶん気がするだけなのだろう。未だに囲碁はよくわからない。おぼろげながらルールはわかってきたのだが、実際にやったことがないので、いまいちピンとこないところがある。本でも買って定石とやらをいくらか覚えれば、少しはわかるようになるだろうか。あまりやる気はしないようだ。蝶番は何とか修復したのだが、今度はドアノブがそっくり抜け落ちる。錆びた鍵穴は使い物にならない。緑色したビー玉をひたすら見つめ続ける。ベニヤ板が腐るともう終わりだろう。敷石の間に見いだされたのは蟻の巣穴だ。例によって前後のつながりは何もない。そこで連想されるものは支離滅裂なイメージだけらしい。それだけでは駄目なのだろうか。わけのわからない突然の閃きだけが頼りだ。終わりからすべてが始まる。だが、中には始まらない終わりもあるだろう。いったいここで何が始まっているのだろうか。おおかた神でも求めているのだろう。安易な始まりとは神の気まぐれから始まるらしい。天地創造というやつだ。神を求めているのは何も人間だけとは限らない。神自身が神の出現を求めているそうだ。たぶん自らが神としてこの世に出現したいのだろう。神の目的とは神になることだろうか。本気とは受けとめられないのはもちろんのことだ。確かに本気ではない。本気ではないが、密かに確信を抱いているのだろう。その預言的な口調からして、自分が神だと思っていることは明白だろう。それをなかなか切り出せなくて、かなり焦れているようだ。何か言おうとすると、すぐに失語症に陥る。思い描いていることを言い表せなくて、焦りの表情を浮かべている。なぜそんなに性急に事を進めようとするのか。その辺がかなりの思い違いをしているのだろう。勘違いも甚だしい。時期などに何の必然性もない。思い立ったその時が適切な時期なのだろう。しかしその時、いったい何をやるつもりなのか。何か確実なあてがあるのだろうか。何もないようだ。では戯れ事以外に何をやるつもりなのか。実際には何もやるつもりはないようだ。ただ黙っているだけだろう。別に沈黙を強いられているわけではない。ただ自発的に黙っている。それ以外にはあり得ないだろう。不確実な予言に頼るわけにはいかない。一度ぐらいはだまされてもいいかもしれないが、今のところ、だまそうと仕掛けてくる人物が見あたらない。実際そんな人物がいるだろうか。たぶんどこかにいるのだろう。だが、それを探し出そうとは思わない。だましたければ勝手にやっていればいいだろう。どこかでそれなりの需要があるのだろう。つられて自分もだまされた気分を味わってみよう。誇大妄想には限りがない。被害妄想を抱きながらも、ついでに不安と焦燥で破滅のスリルも味わってみよう。不特定多数が抱いている漠然とした不安感を感じ取ろう。意味不明だ。天変地異は世界各地で起こっている。それは昔から日常茶飯事の出来事だ。何も大袈裟に驚くほどのことでもないだろう。焦点が存在しなくなる。中心はいつも空っぽなのだろう。それで何の問題もない。問題点など、こちらで勝手に捏造でもしない限り存在しない。再考を要することなど何もないだろう。いつもあり得ない視点から語られるのが、これらの問題なのだろう。あり得ないのは常に日常からの視点だろう。さて、ここからどんな展開が期待されているのだろうか。これらの問題とは何だろう。環境問題のことか?いつものようにまったくやる気はない。誰か他の者が呟いているらしい。いつものように無責任な呟きに終始している。


1月25日

 感覚が麻痺している。ただ感覚といってもいろいろある。メンタルな面だとしたらたいしたことはないのだろう。これも毎度のことだろうか。気がついたら朝になっていた。どうも疲れているようだ。雨の夜は二日前だったらしい。その二日後が雪の夜だ。では今はいつなのだろうか。またもや日付が混乱する。遅れているということか。どうやらそうらしい。蛍光灯のまぶしさに耐えながらも眠り続ける。それで眠っていることになるだろうか。意識は飛んでいるので少しは眠っていたのだろう。わけのわからない日々を送っている。何かが追い打ちをかけているようだ。その結果、追い立てられてここまで来た。今は崖っぷちだろうか。それともすでに崖から転げ落ちている最中なのだろうか。さあ、どうなのだろう。さらに時間が経過してみないとわからないかもしれない。今のところ何とも言えない状態だ。時間的に暇がないわけではないのに、結果的に暇がなくなっている。それはどういうことなのだろう。時間を有効活用していないということか。できないのだから仕方ない。どうもそういうことらしい。疲労と怠惰に流されて何もできないでいる。冬は眠たいのだからどうしようもない。冬眠の季節なのだろうか。確かに熊などにとってはそうなのだろう。そうこうしているうちにさらに一日経ってしまった。どんどんはじめの日付から遠ざかっているようだ。何としたことだろう。またもや夜になる。どうやら崖から一旦落ちてまたその崖下から歩き出したらしい。そんな状態だ。おかしい、まるで懲りていない。二日後に降った雪は夜にも関わらずどんどん溶けだしている。屋根から水がしたたり落ちる音がうるさい。そこから何をイメージしようというのか。さあ、なんだろう。どこからか鈴の音が聞こえてくる。その音色からすると風鈴のようだ。冬に風鈴を聴くのはどのような風情だろうか。風雅な趣を愛でるほどの環境には生きていない。別に茶室で正座しているわけではない。茶道の作法などもほとんど知らない。細かすぎてついて行けないものがある。狭い茶室では閉所恐怖症になるかもしれない。中には広い場所でやる流派もあるらしいが、たぶんあまり縁はないだろう。これからやる可能性はほとんどないだろう。庭の坪山は荒れ果てている。何のためにそれは存在しているのだろうか。半年ごとに庭師が剪定しにくる。誰も見向きもしないが、最低限の維持管理はされている。確か千利休は堺の商人だったらしい。弟子の古田織部は侍だったようだ。それは当時の流行だったのだろうが、茶など、飲んでうまければそれいいとしか思わない。その枝葉末節な存在を思想の中心に持ってくるのだから、考えてみれば恐ろしいセンスだ。ほとんど荒唐無稽だろう。もちろん茶を飲むことそのものが目的だったのではなく、そこでいろいろ密談とか謀議とかをやっていたらしいことは想像に難くない。現代の茶会でも、気心の知れた仲間達が集まってその手の談議をやっているわけなんだろうか。どうもただの形骸化した礼儀作法を繰り返しているだけではないような気がするのだが、実際のところはどうなのだろうか。まったく縁がないので、その手のものに関しては想像の域を出ない。今なぜかスプーンで粉を入れてお湯を注ぐインスタントの緑茶を飲んでいるわけだが、それほどうまいわけではないが、これでも現状においては許容の範囲内だろう。茶でもコーヒーでも、何かひとつのものにこだわることは、途方もない逸脱かもしれない。それともさりげないユーモアなのだろうか。ソムリエのように、それが立派な職業として成立している場合もある。そういえば一時間前には、一ヶ月ぐらい前に買った袋入りのレギュラーコーヒーをぬるいポットのお湯でドリップして飲んでいた。袋を開封してだいぶ経つのにそれでもさして不味いとは思わない。まったく味覚からこだわりが抜け落ちている。どうもインスタントコーヒーと特定の缶コーヒーの銘柄は胃を荒らしてしまうようだ。要するに、胃にやさしければ、味にはそれほどこだわらないということだろうか。その辺でいろいろな条件が錯綜しているようだ。体調がすぐれないところにも原因があるのだろう。


1月24日

 なんとなく木の切り株に躓いて転んだ振りをしてみる。やる必然性は何もないだろう。切り株などここには存在しない。他にやることがないのだろうか。退屈なのは毎度のことだ。まるで必然性のないシチュエーションを想像しているらしい。偶然な思いつきはかなり荒唐無稽だ。どうも偶然にばかり頼るのはこの辺が限界なのだろう。だがそれでも強引にやってしまう。まったく呆れてしまう。いつもわけのわからない展開に過大な期待を抱いているも考えものだ。他にやりようがないことはわかっているが、やはりそれではつまらない。やる気が失せる。ありもしない幻ばかり追い求めているわけではないのに、結果的に幻影を探し回っているらしい。大麻の力を借りずに紫の煙を見ることができるだろうか。だがその無害で合法的な幻覚にどのような価値があるというのか。それで獲得されるものは安全性だろうか。確かにナチュラルハイは安全だろう。人畜無害だ。それでもまだネガティブでないだけ、ヒステリーの爆発よりはいくらかマシではある。だが完全に外れている。蝶番は壊れやすい。外れたドアを直すのは一苦労だ。いくらかヒステリー気味になった頃にようやく修復される。壊れるときは連続して次々に壊れるので、気の弱い人だとパニック状態になるらしい。いつも昇ったり下ったりの繰り返しだ。まったく休む暇がない。躁鬱の起伏は相変わらず激しい。扱いづらいのは毎度のことだ。いくら冷静なってみても、こればかりはどうなるものでもない。だから至って冷静なのだろう。感情の起伏がほとんど感じられない。まるで原稿を棒読みしているような口調でしゃべりだす。そんな演技でその場を通り抜けなくてはならない。そこは修羅場などではない。何の変哲もない部屋の中だ。そこから移動する。今度は、そこは階段が折れ曲がるところだ。踊り場とかいうのだろうか。誰がそこで踊るのか。誰かが踊っているのだろう。いや、踊っているのではなく、語っているのだろう。その方が自然だ。きまぐれに語りだす。そうしたいわけではない。その気はないのにそうしてしまうのだろう。突然声色が変わる。転調というやつだ。ありもしない場所から誰かが語りだす。それはあり得ない話だ。ここで声帯模写などやる気はない。行き違いはまだ直らないようだ。感情の衝突は常に回避される。その必要性が感じられない。それほどのことでもないからだろう。内省を試みるには及ばない。反省のない世界に生きているらしい。試しに録音テープを逆回転させて、それらしき効果を醸し出す。そんなことをやるのが精一杯なのかもしれない。いつまでも叫んでいたいわけでもないだろう。そんなことをやれば、声帯が潰れてしまうだろう。別に無理してブルースを歌おうというのではない。それはかなり疲れるやり方だ。適当なところで息抜きをしなくてはやっていられないだろう。ごまかしの機会も度々巡ってくる。ところで、誰かがごまかせば、他の誰かが苦労をするのだろうか。そこでの因果応報はどうなっているのだろう。自分のやった過ちを赤の他人に償わせる。そんな虫のいい話があるだろうか。保険とはそういうものだろうか。面倒だから解析格子が粗くなっても構わない。どうやらまた蝶番が外れたようだ。ドアが外れかかってすきま風が冷たい。まるで西部劇にでてくる安酒場の入り口だ。部屋の中に木の切り株が転がっているのも無理はない。おおかたそれは椅子の代わりなのだろう。座り心地はだいぶ悪そうだ。客の回転率を上げないと収益も上がらない。それに威勢がいいのは苦手だ。落ち着いてものも食えない。なぜこんな場所までやってきたのだろう。適当な理由が何も見つからないまま、うつむいて黙り込む。軽い気持ちで引き受けるにはちょっと荷が重すぎただろうか。それでは分不相応なのか。それはわかりきっている。無理を承知で前進し続けなければ、得るものは何もないのだろうか。眉毛がかなり濃い。それからどうしたのだろう。前進せずに後退してみる。その濃い眉毛に裏切られる。それでは意味がわからない。それはおかしな挿し挟みだ。余分なことを言い過ぎたようだ。


1月23日

 ふとしたきっかけで人間関係がぎくしゃくする。毎度のことだ。どうもパズルを組み合わせるようには行かないらしい。不揃いな事象が立て続けに起こる。会話もまったくかみ合わない。だいぶイラついているようだ。ただストレスだけが溜まっていく。そんな状況に直面したことがあるだろうか。過去にもあったかもしれない。だが今回は軽く切り抜ける。切り抜けたつもりになる。そういうことにしておこう。相手の気持ちなんてよくわからない。だが探りを入れるようなことはやらない。面倒なので突き放すだけだ。そして突き放される。それが楽なのだ。大丈夫だ。大丈夫でなくても大丈夫なのだ。どちらでも構わないから結果的には大丈夫だ。面子や体面を保つことを放棄している。はじめからそれに対するこだわりなどない。なぜそうなってしまったのだろう。今までにそればかりで中身が空っぽの醜悪な大人をイヤというほど見てきたからなのか。それは、長年に渡って築き上げられてきた偏見から生じているらしい。ようするに、大人とはそんなもの、という子供じみた甘えなのだろう。もちろん現実は必ずしもそればかりではないだろうが、今度は大人は大人で、それに対して、子供とはそんなもの、という甘えで対応している。大人と子供の双方がそのような言説を共有することでお互いが甘え合っているのだろうか。その、大人とはそんなもの、子供とはそんなもの、という次元での言説が大量生産されている現場が週刊誌や月刊誌やスポーツ新聞の紙面上なのだろうか。確かにそういう言説で安心したい気持ちも分からないではない。電車の中でそれらを読んで憩いのひとときを過ごしたいようだ。芸能人の誰と誰がくっついたの離れたの官僚が公費を使い込んで政治家がワイロをもらってけしからん、芸能人とはそんなもの、官僚とはそんなもの、政治家とはそんなもの、人間とはそんなもの、まさに安心する材料には事欠かない日々を送れるだろう。自分達と同類の人間が世の中にはたくさんいるらしいことがわかってすっかり安心しきってしまう。これで大丈夫だろう。この程度で大丈夫だ。みんなで世間を舐めきっていれば、いつかは景気もよくなってバラ色の未来が訪れる。宇宙旅行で無重力体験にうつつを浮かす日もやってくるだろう。現実にみんなが白痴なのではない。みんなが白痴だと思い込むと、相対的に自分が優秀だと錯覚して安心できるのだ。その辺が、読者の心をくすぐって雑誌や新聞を買わせるためのコツなのかもしれない。そのためには馬鹿な人やへまをやらかした人の存在が欠かせないのだろう。あとはそういう人達を懲らしめる役柄を登場させて(ときにはスキャンダルを暴露することによって自分達がその役を引き受けることもある)、読者の溜飲を下げさせる。政府や官僚の横暴や怠慢に立ち向かう勇敢な知事や非主流派政治家や辛口評論家や活動家など、その手の人材にも事欠かないみたいだ。まさにこれこそが大衆娯楽の王道だろう。で、そういうメディアはいつから続いているのだろう。もう何十年も同じようなことをやっている気がするのだが、それで少しは世の中がよくなったのだろうか。なんだか、まるでモグラたたきみたいに次から次へと悪役や敵役が登場し続けているようなのだが、そしていつでも、このままでは日本が危ない!が叫ばれているらしいのだが、いったいいつになったらこの悪循環が終わりを告げて至福の時が訪れるのだろう。最近気がついたのだが、このような現象によって最大の利益を得ている人々はいったい誰なのか、それは他ならぬメディア関係者なのではないだろうか。どうもそれらを真に受けて安心したり悲嘆に暮れたりしてはいけないらしい。そうなると奴らの思うつぼだ。だからその手の操作には抵抗していかなければならない。それはどのような抵抗なのだろう。とりあえずは買わないことだ。彼らの繰り出す情報に頼って甘えていては彼らの食い物になってしまう。そして、彼らが俎上に上げるような人物に反発や親近感を抱いてはいけない。どちらの感情からも付け入る隙が生まれてしまうだろう。気がつけば同類になっている。そんなものは突き放して見て行こう。たぶんそんなことはどうでもいいことなのだ。そうとしか述べようがない。まるでリアリティがなくなって久しい。


1月22日

 巻き込まれる。なぜかそんな予感がよぎる。車窓から空を眺める。はるか遠くに見える山並みの向こうに幻影を見いだす。鳥のように空を飛んでみたい。戯れにそんな望みを抱いてみる。思えばいつかは願いが叶うだろう。そんな予感がする。本気ではない。たぶん神が叶えてくれるだろう。だから天に唾する気はない。そんなことをすれば罰が当たるだろう。本当にそれを信じているのだろうか。わからない。それも戯れの延長かもしれない。すでに巻き込まれている。戯れ事に絡め取られている。冗談が本気になることはない。そう思いたい。シャレが通じなくなったらお終いだ。その気になっても仕方がない。見返りなど何も期待する気にはなれない。たぶんその程度の戯れ事なのだろう。それで通用しているうちはいい。目の色が変わったら大変なことになる。欲望には限りがなさそうだ。それを優先させると後戻りができなくなる。たがの外れた連中ばかりだ。そんな連中のやることはわかっている。すべてにおいて功利主義者になるのだろう。夢や目標に向かってまっしぐらだ。わかっている、それはいつもの台詞だ。たぶん皆がそうはならないだろう。それを信じたい。実際、そればかりにはならないだろう。挫折がそれ一色になることをくい止めてくれるだろう。競争には挫折が付き物だ。挫折すれば少しは反省する気になるだろう。だから、その手の人々にはどんどん挫折してほしい。それでも初心を貫けば、きっとそいつは救いようのない馬鹿になるだろう。実際に、最高でも金、最低でも金、と心に固く誓って本懐を遂げた馬鹿がいる。だが救いようがないからこそ、自力で自分を救ったのだから、それはそれで大したものだ。それは呆れた話ではあるが、彼女が世間の注目を浴びて大はしゃぎの姿をテレビ画面で見ていると、哀しくも救われた気持ちになる。自分が浮いていることにまったく気がついていないように見える、あれに比べれば、自分はまだ少しは正気を保っているように感じられる。あんなに極端なことはできそうもない。そんなことは誰からも求められてはいないだろう。自分でも求めていない。別に求道者ではない。これは過酷な修行などではないはずだ。何も比叡山で千日業をするような気になることもないだろう。だから眠たくなったら寝ればいい。あまり高いハードルを設定しても、越えられなければ仕方がない。どうも近頃は無意識のうちにそれを越えようとしてしまっているらしい。不可能に向かって挑戦しているつもりになって、悲壮感を漂わせている。まったく愚かなことだ。以前はなんでもなかったことがまるで自分で仕掛けた罠のような形態になり、それに自分ではまっているようなのだ。自業自得だ。このままでは、いつしか冗談が本気になり、まったくシャレが通じなくなってしまうのだろうか。もうすでにそういう領域に足を踏み入れているのだろうか。棺桶に片足をつっこんでいるわけか。さあ、どうなのだろう。たぶんこれも冗談の一種かもしれない。自分が何を考えているかなんてわかるはずもない。自己に言及している自己の存在など認識できるはずがない。自己の外部にそれを眺めているもうひとつの自己がある。そして、その自己の外にまたもうひとつの自己がある。そのような調子で外部に向かって無限に自己が連なっているわけか。そんなフィクションを信じられるだろうか。たぶん自己に関する作り話も無限にあるのだろう。本当だろうか。果たしてそんな話を信じてもらえるだろうか。信じてもらえなくても構わない。どちらにしろすべてはフィクションなのだろう。たぶんそんな気がする。嘘をついているとはっきり言明しているだけでも、ノンフィクションとかいう中途半端なジャンルよりはいくらかマシなことを述べている気になれる。たぶんそれも気休め程度のことなのだろうが、救いとはそういうことだろうか。そうかもしれないし、そうではないのかもしれない。これもいつもの台詞だ。ところで、山並みの向こうに現れた幻影とは何だったのだろう。


1月21日

 哀しみと暗闇は循環しているらしい。街角で野良犬がうろついている。出来事は終わりから始まるらしい。結果だけを知らされる。情報経路が一方的だ。衝撃が神経を伝わる道筋は無視される。緑色のガラスコップが砕け散る。ふとしたきっかけで銅像と仏像が見つめ合う。修復作業の途中のようだ。重さに耐えきれずにプラスティックケースにひびが入る。それに対する思い入れはない。空虚な思いなのはいつものことだ。ようやく微かに光明が見え始めたが、まだ全快とは言い難い。だがこれまでに全快状態になった例しがあっただろうか。いつもどこかしか微妙なズレや狂いが生じているようだ。それが生じていない状態はあり得ない。結局、同じ内容の言説でグルグル回っている。相変わらずの循環状態だ。いつものパターンで進めていかなければならないらしい。またしてもうんざりするような展開なのだろうか。さあ、どうなのだろう。すでにだいぶ前から始まっているらしい。そしていつまで経っても終わりは見えてこない。時間の経過を無視している。遅々として作業は進まない。まるで時計が逆回転しているようだ。それが何を意味するのかはわからないままだ。ただ、どこまでやってもきりがないことは確かなようだ。確かに限界はある。この世界では有限の力しか発揮できない。だが、それでは物足りないのだろう。マンネリを超えることはできない。そのような思いが不可能を妄想させる。それが毎度おなじみのパターンだ。その回路網から逃れることは不可能だ。だから苦し紛れに宇宙人や恐竜や怪物や殺人鬼や超能力者などを登場させることになる。そういう方向での飛躍はもう見飽きた。だが、現実離れした効果を安易に醸し出すにはそんな方法しか思い浮かばないのだろう。そしてそのような非現実的な光景の粗製濫造がさらなる倦怠を生み出す。仮にそういうものが実在するとしても、現実としては、結局それらが目の前に出現するときは画面上や紙面上にしか現れない。直接この眼で実物を見ることはできない。また将来において、ヴァーチュアルリアリティの映像で視界全体を覆って特殊な衣服やグローブで触感も忠実に再現したとしても、やはり現実離れした光景はそれ以上の効果は望めないだろう。それが娯楽の域を出ることはない。そもそも現実の代用を娯楽に求めるという発想そのものが時代遅れである。二十世紀からの延長でしかない。たとえ宇宙旅行を楽しんでも、それはただの気晴らしだ。遊園地へ行くのと大して変わらないだろう。現実に存在する利害関係の中で、当事者としてそれを体験するのでなければ、どんなにものすごい光景に遭遇しようと、それはただの傍観者や野次馬としての体験でしかない。精神的な負担の伴わない経験は、大してためにはならないだろう。だからためになる経験は苦しみを伴うわけだが、別にそれを積極的に推奨しようとは思わない。中には死ぬまで苦しみ続ける人もいる。苦しみに限度は存在しない。それはためになるならないの次元を超えて容赦なく加え続けられるかもしれない。たぶんその苦しみを克服したらひとまわり大きな人格を伴うとか、教育関係者なら子供達に向かって説教したいところだろうが、現実はそんな生易しいものではないかもしれない。そういう試練が犯罪の温床になっている場合もあるだろう。挫折して犯罪に走る者は後を絶たないだろう。現実はそういう負の側面も含めて人々にアクセスしてくる。そこでどうなるかはそのときのコンディションしだいだろう。その現実に対する予測や対処の仕方を前もって学んでおくことが得策なのだろうが、それで万全とは限らないのも当然のことだ。それらの学習は一種のアドバンテージ以上になることはないだろう。要するに、何事も経験してみないことにはわからないという平凡な結論とともに、経験した後ではもう後戻りができないのであり、すでに二度と取り返しがつかない状況になっているということだ。たぶんこの世に、人に積極的に勧めるような試練など存在しないのかもしれない。他人にそれを勧める余裕など与えられてはいないのであり、すでに自分自身が試練のただ中に生きている。


1月20日

 どういう風の吹き回しだろうか。途中からその気になって飛ばしすぎになる。調子に乗りすぎてわけのわからない展開になる。予期しなかった事態に遭遇する。そんな体験が貴重なのだろうか。だが予期しないのはいつものことだ。そういう事態がいつも通りの展開なのだろう。このところはそればかりなのだ。つまり、予期しない事態が頻発しているわけだ。そこから何かを学ばなければいけないということだろうか。だが、何か目的がなければ学ぶ必然性はないだろう。何の方向も定まっていないのだからその必要性を感じない。その事態が何を教えているのかがいまひとつ釈然としないものがある。別に理論の構築を目指しているわけでもない。その手の人々のようにいつしか机上の空論の考察に明け暮れてみたいものだ。理論家の生活とはそういうものだろうか。どこまでが本気なのかわかりかねる。たぶん冗談のつもりだろう。思い通りにいかないのはいつものことだろう。これもいつものことなのだ。だからやめられないことも確かだ。思い通りになるまではやめられない。しかし、思い通りになったらなったで、今度は夢よもう一度と願うようになり、さらにやめられなくなる。それは本当だろうか。これも本気で述べているのではないらしい。たぶんそれは世間に流通している紋切り型の一種だろう。現実にはそうはならないような気がする。どちらにしても、それに魅入られた瞬間から末路は決まっているのかもしれない。毎度おなじみのように、飛躍し、墜落するわけだ。落下するするために飛ぶ。パリの自由人はどんな末路だったのだろう。今となっては知る由もないことだ。自由人にもいろいろな種類がいるのだろう。現実に体験しつつある不自由を無視して寿命を縮める人はいくらでもいる。例えば酒に溺れる自由人の死に様は醜悪そのものだ。周りでそれを囃し立てながら見殺しにしている傍観者達も非道い。だがそうせざるを得ない。それがその場の空気なのだ。そのような暮らしを続けることが自由人の生き方だと思っている。たぶんそれでもいいのだろう。積極的に不幸であることを望んでいるふしもある。なかには勘違いしてそうすることが英雄的な実践だと思い込んでいる人もいるらしい。たぶん過去にはそういう時代が全盛だった時期もあったのだろう。だが、今となっては自由にも不幸にも興味はない。すでに自由や不幸に憧れていた過去を捨て去っても、何の後悔もしないだろう。それはただの言葉そのものでしかない。その時代の息づかいと連動した言葉が持つ雰囲気に踊らされているだけだ。やはりそれも予定調和の一種なのだろうか。それ以外に何か積極的な意味があるだろうか。では、何かそれとは違う他のやり方が見いだせるのだろうか。いくらでもあるだろう。たまには言葉以外の物を望む。それはどんな物だろう。わかっている。どんな物でもなく、それはあり得ない物だ。物そのものであると同時に空虚な影そのもだ。そこではただ虚無が循環している。それは物という言葉なのか。そうかもしれない。もしそうだとするなら、それも言葉そのものだ。さらにたちの悪い言葉だ。単なる予定調和の循環だろう。無理な飛躍を通しての強引な折れ曲がりだ。言葉以外の何をどう語ろうとも、それは言葉でしか表現できない。当たり前のことだ。今さら再認識するようなことではないだろう。人の生き方や死に様などあてにはできない。それに大した意味はないし、たとえどんなに鮮烈な印象を残そうとも、現在には当てはまらない。それはどこまでも過去に試みられた可能性のひとつに過ぎない。自由人の存在はまやかしだ。だがそのまやかしが様々な幻想を産み続ける。それはロマン主義が生み出した幻影に過ぎないが、それが人々を絶えず魅惑し続けるのだろう。たぶんこれからもそのようなロマンの種は尽きないだろう。それは手を変え品を変え、しかし根底は共通の土壌を保ちつつ、いつまでも再帰し続けるのだろうか。ヒューマニズムだとか人間主義だとか呼ばれる共同幻想に身を任せることはたいそう気持ちの良いものだろうか。


1月19日

 相変わらずの夜だ。今まで何度いつもの夜を迎えたのだろうか。もちろんそれらの夜は作り事である場合が多い。昼間に書き込んでいてもいつもの夜と記入している。光と闇が交互に入れ替わるのも毎日の出来事だろう。車輪の下で泥水がはねる。ありきたりな日常の光景だ。もちろん車輪の下ではねているのが人体であっても、それが特に珍しい光景というわけではない。毎日轢き殺される人は後を絶たないだろう。日常茶飯事の基準が少し狂っているだろうか。たぶんそれはひっきりなしに目に飛び込んでくるニュースのおかげだろう。自分とは無関係なことにまで心配しているつもりになる。例えば未来の夜明けはテレビニュースで拝めば事足りるらしい。それで満足できれば暴走族も初日の出で騒ぐ必要はなくなるだろう。ノルウェーの森、そんな題名の小説を覚えているだろうか。読んだことはない。当時は数百万の人が読んでいたらしい。なぜ内容を何も覚えていないのだろう。それは読んだことがないからだ。たとえ数百万の人の関心事であったとしても、自分とはまったく無関係な出来事だ。確かにマスメディアのおかげで世界が狭くなったように感じる。だが世界が狭くなって本当に良かったのだろうか。たぶん良かったのだろう。過去の時代と比べて格段に良くなった。それは比べるようなことではない。本当はそれと比較できるものは何もない。この世界はひとつしかない。今のところひとつの世界の存在しか確認されていない。だからどうしろというのか。どうもしないし、どうもできないかもしれない。確かにどうにかしているつもりにはなれるだろう。どうにかしようとして現実に努力している人達は、それはそれで立派なことなのだろう。たぶん誰もが、現状維持に誘導しようとする怠惰に抵抗しながら、どうにかしようとしているのかもしれない。むやみやたらに抵抗してもどうにかなるわけでもないだろう。または抵抗の仕方を模索しているうちに死んでしまうのだろうか。結末はいろいろあるのだろう。あからさまに逆らうのは得策でない。だからといってわざと従順なふりを装うのは見え透いている。何も多言を要するには及ばない。だが及ばなくても多言を要する。それが制度なのだ。つまらないことを饒舌に語るのが儀礼らしい。うわべだけの語りの中に罠を潜ませる。そんな罠は無効だ。罠になっていない。ただ単に罠という言葉が好きなのだろう。言葉の意味に魅惑される。何やら思い通りに運ぶかのような計画を隠し持っている気になれる。罠という言葉は浅はかなのかもしれない。罠を仕掛けているつもりが逆に罠にはまっている。サスペンスドラマの犯人のパターンだ。刑事や探偵が出てきた時点でそれに気づくべきだろう。もちろん台本が邪魔をして気づくはずもない。予定調和とはそういうことを言うのだろう。捕まるために犯人役で登場しなければならない。それは台本上ではフィクションなのだが、犯人役はそのフィクションの罠にはまって、いつも最後には無様な醜態をさらなければならない。誰かが犯人役を引き受けなければその手のドラマは成立しないのだからそれはあからさまで見え透いた罠だ。確かにそんな罠は無効だ。罠になっていない。しかし、罠がはじめから罠として認識されるのは、そういうフィクションの中が大半だろう。現実の罠は罠ではない。はじめから意識して罠を仕掛けるつもりにはならない。なんとなく成り行き上そういう展開になってしまうのだ。自分や他人が窮地に陥っていると知ったとき、結果的に罠を仕掛けたり仕掛けられたりされたことに気づくのだ。しかもそれは思い過ごしの妄想かもしれない。その罠の存在が俄には信じられない。半信半疑のまま錯乱状態で放置されるわけだ。罠が罠としてわかるような罠は罠ではない。だからそのときの衝撃は、安手のテレビドラマなどでは到底味わえないだろう。探偵や刑事の謎解きを傍観者として観ていることに慣れて切ってしまっては、人畜無害な家畜同然の生活しか体験できない。


1月18日

 夜の雪だ。静かだ。朝には積もるかもしれない。闇と雪の白がマッチしている。だが、雪が闇に似合っているわけではない。闇にふさわしいのは満天の星空だろうか。違うだろう。闇にふさわしいものなどない。すぐには思いつかない。物音がしなくなる。何も聞こえてこない。雪は吸音物質なのだろうか。だが雪が降っているの二日後のことだ。日付が二日ずれている。二日前は晴れていたように思う。雪の夜に星空が見たくなる。月夜の晩には雪が観たくなる。本当にそんな気分なのだろうか。たぶん作っているのだろう。毎度おなじみの作り事の世界だろう。薔薇の花と菊の花が交互に現れる。それは毒々しい幻想だ。親にとって子供は玩具なのだろう。それはままごと遊びの人形みたいなものだろうか。ある面ではそうなのかもしれない。それがヒステリーの元凶になる。ふとしたきっかけで精神のバランスが崩れる。そして自分の子供を殺してしまうのだろうか。どうもサーカスの綱渡りようにはいかないらしい。死んだ赤ん坊に誰かが語りかける。まだ見知らぬ者の独り言が始まる。匿名の人間が他人の人形を弄ぶ。物は落下するとき放物線を描いている。誰が空を飛ぶ気なのだろう。マンションの屋上からダイブしたのは誰だろう。そこは四角いリングではないようだ。しかしそれはミルマスカラスの真似だろう。千の仮面を所有する男は空中殺法が得意だった。もっとも、空中殺法といっても別に相手を殺すわけではない。プロレスでの話だ。それは相手を殺さずに適当に加減しながら勝ったり負けたり引き分けたりするショービジネスのことだ。それをやらないと興行が成り立たない。それはそれでひとつの真剣勝負であり、観客も納得ずくで観ているのだから、八百長とは言えないのだろう。それもスポーツのカテゴリーに属する。屋上から投げ捨てられたのは洗濯物だった。死んだ赤ん坊とのつながりは何もない。それはまったく余分な挿話だ。それで不足を補うことはできないだろう。しかし、ここまでの過程において、いったい何が不足しているのだろうか。他に付け足す言葉はないだろうか。とりあえず、迷える子羊からも一言ほしいところだ。なぜそうなるのかわからないが、それはいかにも唐突な出現だ。まるでつながらない電話のようだ。喩えになっていないだろうか。牧師の説教は昔ながらの制度に支えられている。人は誰でも自らの幸福を追求すべきだ。そんな説教は聴いたことがない。本当にユダヤ教徒はエホバの奴隷なのだろうか。それも俗説か。天からの啓示とは、他人を征服せよという命令なのだろうか。何をもって他人と規定しているのか。それは動物以下の存在なのか。おかしい。それはまったくのナンセンスだとでもいうのだろうか。どうもわからないことだらけだが、その一方で、本当は確実にわかっているのかもしれない。やるべきことが無限にあるわけではない。そこからの飛翔は墜落を意味する。見いだされたものは確実なやり方だ。人を殺すことではない。もちろん救うことでもない。それは他人と戯れることに近いだろうか。非対称な関係を維持することかもしれない。それを維持できるだろうか。たぶんできはしないだろう。維持しようとしてできなければ、それでも構わない。後からなら何とでも言いようがあるらしい。結果には期待しない。薔薇と菊は似通った存在だ。象徴的な意味を宿している。花は人の勝手な感情や思い入れと結びついている。花のノートルダム、そんな題名だった。底なしの井戸だ。あふれ出るのは水だけだろうか。何とも言いようがない。日の傾きからすると今は何時だろう。道はさらに迂回して、川の向こう岸で途切れている。仕方なく元来た道を引き返す。これ以上前進する気力はない。たとえ話にも限界があるようだ。それはひとつのストーリーに拘束されているのだろう。結果としてひとつの結論に収束してしまう。それが不満らしい。そこからの逸脱を期待したい。思いもよらぬような展開で予想だにしなかった方向へ発散してしまう、結論は何もない、そんなやり方がおもしろそうだ。どういうわけか何もかもが雲散霧消してしまうだろう。それが自然な成り行きだろう。それが気に入らないだろうか。何か形あるものをこの世に残したい、人は誰でもそう思うだろうか。勝手な要求だ。何に対してそんな思いを抱くのだろう。


1月17日

 深夜のドライヴはまだ続けられるらしい。ガソリンの無駄使いだろう。凍りついた路面の感触を楽しんでいる。緩やかに季節は移りゆく。それはいつのことだろうか。緩やかさの程度が不明だ。緩やかなカーヴを抜けるとそこは市街地になる。コンビニの明かりばかりが目に付く。いつも通りの風景にとりたてて感慨はない。画面上のゲームにはもう飽きた。だが惰性でついつい見入ってしまうようだ。バスケットボールの試合を見ているうちに眠くなってきた。そして気がついたらもう深夜になっていた。時の流れは割と速い。別に虚をついてくるわけではないが、うとうとしていると、すかさず加速をつけておいてきぼりにされてしまう。空白の時間は意識が飛んでいる。それを感じ取ることを許さないようだ。眠りに落ちてゆく、そのどこまでも続く下り坂の底には何があるのだろう。虚無ではないらしい。場合によっては安らぎがあるかもしれない。それを受け入れる気になれるだろうか。わからない。いつもそこで逡巡を繰り返しているらしい。迷いはいつまでも続いてゆき、どこまでも迷い続ける。迷いだしたらきりがない。決断とはいつどのように下されるのだろうか。そこに至る成り行きには、決まった規則というものがあったりするのだろうか。決断が下される過程を分析してみれば何かしら法則が導き出されるだろうか。だがそれが導き出されたとして、それをこれから下すだろう実際の決断に応用できるのだろうか。法則通りの最も適切な時期の決断というのものが、果たして本当に正しい決断なのかは疑問が残る。決断が適切であったり正しかったりするのは、決断が下されたあとから判断されるものだからである。で、その決断は果たして適切だったのだろうか。結果的に正しい決断を下したのだろうか。さあ、どうなのだろうか。どうも決断を下すことそのものにあまり重要性を感じていないらしい。決断を下す下さないそれだけではことの善し悪しを判断できない。いや、ことの善し悪しを判断することもそれほど重要ではない。ではいったい何が適切であり正しいことなのだろうか。いったいその行為の善し悪し以外のどのような基準で判断されるのだろうか。たぶんそれぞれのケースでその場その場において何らかの判断する基準が存在するのだろう。判断したければそのときに判断すればいいことだ。今は何も判断できない。判断する材料がない。決断もしてもしなくてもどちらでも構わない。何ら決断するきっかけがないのだ。ところで、今ここでいったい何を決断するというのか。何について決断しようとしていたのだろうか。さあ、何だろう。もしかしたらもうすでに決断してしまっているのかもしれない。すでに何らかの決断を下しているのだろう。たぶんそれは些細なことだ。何も覚えていない。それは意識にすら昇ってこないごく瑣末なことについて何か決断を下してしまったらしい。まあ、それはどうでもいいことなのだろう。今さらどうしようもない。また、覚えていないのだから、そのことについて何も判断のしようがない。たぶんそれは適切な決断だったのだろう。ここは自分の都合の良いように判断しておく以外にやりようがないだろう。これも適切な判断だ。賢明な選択をしているらしい。何とでも言えるだろう。自己正当化には限りがない。同時にそれはかなりいい加減な決断であり判断であり選択だろう。やはり怠惰に押し流されているようだ。どこまでも漂流し続ける。この悪循環を断ちきれない。だが、それが憩いの時を形成しているらしい。だからさらに泥沼にはまりつつある。つまり一方では、その適切で正しい決断は悪循環の泥沼に自らを導いているのだ。これは本当だろうか。さあ、本当なのだろうし、また本当であったとしても、それがとりたててどうということはないのかもしれない。要するに、その程度の悪循環であり、泥沼のはまり具合なのだ。しかしこれはどういうことなのか。どうということはないのだろう。この世の楽園とは、こういう事態が続いている状態をいうのだろうか。たぶん天国と地獄を足して2で割ればちょうどいい状態なのかもしれないが、それが今なのか。あまり乗り気ではないことは確かだ。


1月16日

 まったく、いつまでもだらだらと続く上り坂にはうんざりする。いつかはこの物語にもピリオドが打たれる時がくるだろう。そのとき、終わらないことが裏切られる。それはごく平凡な結末だ。しかしこれは何の物語なのだろうか。何の物語でもないかもしれない。そこでどこにでもある誰もが知っている事の成りゆきが明らかになる。終わりたいのに終われない。できることなら、そんな状況になりたいものだ。またしても嘘をついているらしい。なりたくもないのに、なぜかなりたいと嘘をつく。実際は、終わる気など更々ないのに終わりに追い込まれてしまうことが多いようだ。なぜそこで持続が利かないのだろう。現に、まるで根気が持続しない。この期に及んでやる気など更々ない。だがまたもや結末を先延ばしにするつもりらしい。なぜ?耳がかゆいから。それが理由なのだろうか。またしてもわけがわからない。確かにその理由は平凡からは程遠い。どうやらそれが嘘なのは百も承知で、それを前提としてさらなる逸脱を試みているらしい。結局意味のない蛇足がどこまでも続いてしまう。それが理由でないことなどわかりきっていることだ。ただ終わりたくないから絶えず何かを付け足したいのだろう。そこで立ち止まるのが気に入らないのだ。それに、落ち着きが皆無だ。あちらこちらへ言葉が飛び回っていないと気が済まない。これは芸術ではないので、爆発していなくても構わないが、できれば方々へ分散していることが望まれているようだ。一極集中には耐えられない。とても持ちこたえられない。ひとつの方向へ集中できない。しかも、あまり本気になれない。そんなことに命を懸けるほど熱中していいものか。どう考えても熱くなるようなことではないらしい。現にだいぶ前から冷めている。かなり冷め切っているようだ。そういえば冷めたピザは今頃どこでどうしているだろうか。もはや熱くなっていた時期を思い出せない。そんな時期がかつてあっただろうか。立ち直るきっかけなど与えはしない。今さら立ち直らせるような手助けは絶対にやらない。ここで立ち直ってどうする。立ち直らせて何を期待しているのか。心を入れ替えて何をするつもりだ。下手な小細工を弄する段階ではない。そんなやり方で通用するなら、何もここまで落下させる必要はないだろう。別に思いのままに生きているわけではないが、ここで成り行きに任せるしか術を知らない者の願いを聞き入れてどうする。どうもしない。ただ、こうして同じ場所で行ったり来たりしながら無駄足を稼いでいる。その場の気分次第で逡巡を繰り返す。その軌跡を分析すれば、何らかのカオス的な図形が導き出されるだろうか。その成り行きとは何だろう。それはある一定のサイクルで循環しているのだろうか。その循環運動の係数でも知りたいところだ。知りたいが、知らなくとも別に困りはしないだろう。それがわかっているのなら、是非教えてほしい。いったい誰に教えてもらえばいいのだろうか。神か?そういうよくありがちな答えは前もって用意されていたものだろう。ではそれ以外の答えを導き出せるだろうか。今はそれ以外を望んでいる。今さら神では満足できない。以前から不満だ。いくらなんでもこの期に及んで神はないだろう。安易すぎる。数百年前ならいざ知らず、もっとましなことを述べられないものだろうか。例えばそれは確率的変動の範囲内だろうか。なぜ突然確率が出現するのか。それではわけがわからない。神が出現する確率を計算できるだろうか。仮に計算できたとして、それにいかなる信憑性があるのか。核心からずれている。最初の設問からの関係性が薄れている。何を述べているのかわからない。相変わらずの意味不明だ。少し方向を修正してみよう。ところで、これがいかなる循環を形作っているというのか。そこが知りたい。なぜかこんなやり方が通用している。下手な小細工を弄しているらしい。この辻褄をどう合わせるつもりなのか。合わせられないだろう。さらに追いつめられる。ここにも何らかのサイクルが存在するらしい。以前は無駄足で稼いで、今度は神を利用して安易に字数を稼いだ。それが付け足しの正体なのか。しかし蛇足にも何らかの使い道があるだろう。探せばきっと見つかるはずだ。今度、蛇足にまつわる物語の別バージョンでも考案してみるとしよう。もちろん、そういう行為こそが蛇足なのは百も承知だ。


1月15日

 なぜだろう、今年は思いの外寒い。今朝も氷点下の気温らしい。深夜に赤々と燃えていた炭は、朝には白い灰になっていた。まだ生きているらしい。どうやら火鉢の炭で一酸化炭素中毒にはならなかったようだ。それは作り話だろう。ボルチモアの鴉が南国のスタジアムで騒いでいるらしい。それはあと数日後の出来事なのだろう。頭上では数十分かけて大きな雲が通り過ぎる。樫の木の葉は冬でも青い。絡まっている蔓植物も落葉せずに執拗に幹を覆っている。変わらない。相変わらずの光景だ。最近気がついたのだが、砂の岬を唄う詩人は重度の糖尿病だそうだ。地球の裏側でまだ生きているのだろうか。薬物中毒だったアルゼンチンのスーパースターは未だに健在らしい。若くして余生を送る羽目になった境遇をどう思っているのだろう。今までに強烈なことをやりすぎた。彼がこれからクラブチームなどの監督になる可能性は低いように思われる。遠い視線は宙に舞う。なかなかこの場所へ戻って来ない。何を見ているのでもない。ただありきたりな風景を眺めているだけだろう。風と空と大地と海と陽ざしが織りなす光景を眺めているのだ。それがすべてだ。それ以外に何も見いだされはしないだろう。移動がままならない。体はどこへも行かない。いつまでもこの場所へ留まったまま動かない。動けないのだろうか。いくらでも動くことはできる。動けるが動かない。それは意志ではないらしい。結果的には動けないことになるかもしれない。何がそうしているわけではない。見えない力に押さえ込まれているわけでもない。ただ動かない。そこにいつもの逆接を適用しないのか。いくらでも動ける可能性が逆に動けなくしているということなのか。意味が通じない。ただここで停滞しているのだ。それをわかりやすく説明しようと努力する気力がないだけなのかもしれない。真っ白な灰が宙に舞う。どこかから風が吹く。気持ちにメリハリが利かない生活を送っているらしい。いつまでも惰性に押し流されたまま、その状態をどうすることもできないでいる。何かをやろうとする気が起きない。それ以前に、その何かが見つからないのだ。いや、それは嘘だろう。何をやらなければいけないかはとうにわかっているはずだ。要するに怠惰が循環しているのだろう。そこいら中から虚無が押し寄せてくる。実体は何もない。ただそう感じるだけなのだろう。にもかかわらず、実際にはすでに何かをやり続けてはいるらしい。それを否定することはできない。言っていることとやっていることが矛盾している。これもいつものことだ。その食い違いを利用しながら何かをやり続けているのだろう。客観的にはこれからもそういう状態がいつまでも続いていくのかもしれない。だがそれは、述べている内容とはまるで違う結果をもたらしつつある。内容があちらこちらへ無軌道に飛んでいるのに対して、それを読んでいる身体は常に一カ所へ留まり続ける。その結果、身体と視線がまったく背離してしまっている。だから実体がまったく消失することになる。ここでの実践とはそういうものなのだろうか。スピーカーが空気を振動し続ける。その空気の振動を鼓膜が捕らえる。鼓膜も空気の振れに連動して振動する。ここでの手順とはそういうものなのだろうか。それがすべてなのか。他にこれを動かしている要因はないのだろうか。例えばこの冷え込みが活動に影響を及ぼしているのだろうか。それはいつもの手法に属するだろう。まったく無関係なことを並置させて、何を述べているのかわからなくする。繰り返されるのはそんな記述だろう。それをやる積極的な意味や意義は何もないが、これはこれでひとつのノウハウになっているようだ。やはり、わけのわからないことをやりながらも何かが確実に蓄積しているのだろう。つまり、無軌道な軌跡を言葉で忠実になぞっていくと何かしら歪な形態が抽出される。その形状を読んで楽しんでいるわけだ。今はそれに頼り切っているみたいだ。だがそれと同時に、まったく別の可能性も探求しているらしい。今のところそれをはっきりと捕らえ切れてはいないだろう。


1月14日

 そのとき見た炎の色が気にかかる。何かを暗示していたそうだが、まだそれに気づかないでいるらしい。だいぶ冷え込んできた。雪がちらついている。燃えさかる言葉はいつか灰に帰すだろう。度々襲ってくる手の痺れと耳鳴りに悩まされる。老人にはよくありがちな症状だろうか。道ばたで生活していると自然とそうなるらしい。そんな環境で生活している人がいるだろうか。絶え間なく聞こえてくるのは叫び声などではない。たぶん低周波の騒音だろう。動作が不安定だ。不意に遠くを見つめている。通りの向こう側で肌に施された装飾に出くわす。あらゆる人間が刺青をしているわけでもないが、それが流行っていることは確かなようだ。その鮮やかな刺青は何を語っているのだろうか。発せられることのない言葉がそこで紡がれていたりするわけか。ロマンチシズムとはそういうものなのか。その沈黙の世界には何があるのだろう。だが、そんな言葉など信じられない。それが言葉を発する人間ならなおさらだ。その表面に刻まれている意味不明な漢字に肯定的な意味など宿りはしないだろう。確かにその表面に何かが到来しつつあるかもしれないが、それは、使い古されたよくありがちな言葉かもしれない。そんな言葉がどこかの誰かから別の誰かへ次々と伝達されたあげくが、その非意味の漢字として刺青に結実した。そのすべてが無駄とは思われないが、無駄な時間は死ぬ前に必ず虚無の空間とともに訪れるだろう。そのとき消し去ることが難しいその痕跡は、虚無の前で為す術もなく消え去るだろう。それは復讐の炎などではなく、現実に存在する焼却炉の中の炎だ。求めている声はそんな内容ではない。それでもまだ生き残っているだろうか。灰塵に帰すのは言葉だけではない。肉体も現実に火葬される。別に復活を願って体を暖めているのではなく、この世から痕跡を消し去るために燃やしているのだ。そのために冷たくなった肉体に火をつけるわけだ。だがそれでも満足することはできないらしい。確かに短時間で肉体は焼けこげて灰になるが、言葉はいつまで経っても冷えたままだ。以前に言葉ははじめから死んでいると述べたことがあったかもしれないが、どうやら不滅の言葉は数が少ないらしい。だがそれが貴重であるとは限らない。いつまでも変わらない言葉など単なる粗大ゴミだ。しかし中にはその粗大ゴミをいつまでも愛でている人もいるようだ。過去の歴史の転換期に名を馳せた偉人が口にするような大袈裟な表現を大変好んでいるらしい。そのとき大人物というのが出現したらしい。愛好者達はその人物の声を後光をつけて現代によみがえらせようと試みている。そうするうちに、いつの間にかそれは粗大ゴミではなくなる。どうやら偉人の言葉はリサイクルが利くらしい。言葉資源の再利用は経済的だし、エコロジカルなことかもしれない。大変ご苦労なことだ。だがそんなものを安易に信じられるだろうか。たまには信じてみてもいいだろう。戯れにそれを信じれば少しは救われるかもしれない。気休めにもなるだろうし、眉唾の言葉に踊らされて自然と頭と体を使う羽目になり、下手な体操よりは健康維持に役立つだろう。それは言葉のエアロビクスだ。老人の有効活用が期待されている今日、それは大変有意義なことかもしれない。ところで何を述べているのだろう。調子に乗りすぎてわけがわからなくなる。無理が祟って頭と体にがたがきているようだ。堪らず紅茶の香りでひと息つく。寒さで足先が痺れてきた。なぜかおかしな展開に脱線してしまったが、それもいいだろう。仕方がない。ニューヨーク・ニックスのキャンビーという選手の腕には「勉」という文字が刻まれている。学生時代の彼は勉学に励んでいたのだろうか。それとも、現在の彼は大変勤勉な男なのだろうか。どちらも当たっているとは思われない。たぶんそんなこともどうでもいいことかもしれない。単なる流行なのだろう。流行とはそういうものだろう。門外漢にはその美的感覚は永久にわからないだろう。そのようなセンスとは無縁の生活を送っていながら、衛星中継のテレビ画面に映し出されるその光景を眺めている。身長が二メートル十センチの彼がゴールにボールをねじ込んで歓喜の雄叫びを上げている姿に何の感慨も抱かない。おそらくアメリカは土葬が一般的だろうから、彼が死んで運良くその死体がミイラ化すれば、腕に刻まれた「勉」という文字は数千年先まで残るかもしれない。


1月13日

 真夜中のドライヴには何が付き物なのだろう。ありがちな光景が目に浮かぶ。それは煙草の匂いだろうか。喫煙者にとっては匂いであり、嫌煙者にとっては臭いになる。言葉遊びとはそういうものだ。それがどういうものかは、それを感じ取る人によって意見が分かれるところだ。今はあまりそれを肯定できない気分だ。それ以上を望めない。それ以下のやり方ならいくらでもあるだろう。そのいくらでもあるやり方はといえば、それはそれで退屈しのぎ程度にはなるだろう。だがそれが不満なのかもしれない。退屈しのぎ程度では退屈から抜け出られないのだ。いつの間にかこの退屈な状況が嫌いになったのだろうか。退屈を弄ぶのにも限界があるのだろうか。どちらにしろ、ただ言葉を弄しているだけだ。要するにその言葉が退屈の元凶なのだろう。その言葉の配置が気に入らない。だが他にどうやったらいいのかわからないので、今さら直しようがない。気に入らないのはそういう態度にもある。だが、直しようがない態度についていくら言及しても、今さらそれがどうなるものでもないだろう。それと比べれば、言葉の配置などいくらでも修正できる。それは本当だろうか。そう思いたいところだ。別に思わなくとも、実際にやってみればいい。いくらでもやりようがあるところをやってみせればいいだろう。それができればの話だが。できやしないことが証明されてしまうのだろうか。今にも崩れ落ちそうな廃墟だ。朽ち果てているのはそれだけではない。社会全体が荒廃しているとは言えない、腐っているのは、そのごく一部のごろつき共がたむろしている区域だけだ。その手の言説が今まさに朽ち果てようとしている。それが望んでいる方向を示していると言えるだろうか。今こそ何をやればいいのだろうか。それは伝わらない。どこにも伝えようとはしないだろう。そんな疑問を発するたびに、ことごとくはぐらかされる。見いだされないのはそれに対する答えだけではない。返答そのものが望まれていないのだ。その代わりに、何もかもがわからないままであることが望まれている。それがこの退屈な言葉遊びを継続させるやり方なのは百も承知だろう。この荒廃の元凶はそれだと思う。真夜中のドライヴに付き物なのはそれかもしれない。幾筋もの閃光が目の前を走り去る。しばらくうたた寝をしていたようだ。今は停止状態らしい。ラジオからは物悲しい調べが流れてくる。どうやら活動の再開にはさらなる沈黙の時が必要のようだ。その雌伏の時はいつまで続くのだろうか。もしかしたら、いつまで経ってもこのままかもしれない。たぶんこのままでも何の不都合もないのだろう。理由の不在はここにいたってさらに深刻な度合いを増している。やる気のなさは日増しに募るばかりになる。そこが愉快なのだろう。まるで虚無からの影響を無視している。夜空の星の輝きが唯一の慰めだ。月光に照らされながら、意味不明な衝動に駆られるのだろう。安っぽいサウンドに支配された地域は日増しに拡大していくだろう。いや、もはやそんな段階ではない。そこではただ冗談だけが蔓延っているようだ。そこで何が語られているのでもない。何も語られていないのでもない。そこには、ただの冗談だけが浮遊している。内容は何もないのかもしれない。それだけならまだ救いがあるだろう。それだけではないのだろうか。それだけではないかもしれない。ろれつが回らなくなる。はっきりしていることは何もはっきりしていないということだろうか。そんな生易しいことではないらしい。はっきりしているかしていないかもよくわからないのだろう。自らの破滅さえ感知できないでいる。それは当然のことだろう。やりすぎな面がかなりある。それに呆れてしまっているのだろう。恥ずかしい暴走行為には思わず退いてしまう。何もそこまでやらなくてもいいだろうに。だがそれが愉快なのだから仕方がない。現に一旦それをやりだすと、そればかりになってしまうきらいがある。止まらなくなってしまうのだからどうしようもない。もはや制御不能状態だ。


1月12日

 ぬかるんだ道を歩いていると靴の裏に泥がこびりつく。そんな体験のどこが貴重なのだろうか。無意味に汗を流す。サウナ風呂にでも入っているつもりなのか。相変わらずズレている。打ち出しのタイミングが悪い。さっきから一度も的に当たらない。別に何をやるでもない、かといって何もやっていないわけでもない。それが真の体験と言えるのか。縺れた糸を解きほぐすにはまだだいぶ時間がかかるだろう。おそらく出口は一カ所だけではないはずだ。やろうとしていることと実際にやっていることがことごとく食い違っている。思い通りにならないことが体験の本質だ。現代人が思い描く未来の姿と、未来の人々が実際に体験する世界との間には、いったいどのようなズレが生じるだろうか。たぶんそのような視点が欠けているからいつになってもその手の企画は退屈な空想の域を出られないのだろう。くだらぬ先入観に基づいた恣意的な詮索はやめて、たまには犯罪者の言い分にも真摯に耳を傾けてみたらどうか。自分の行為を正当化できない人々の体験こそが貴重なのかもしれない。そんなノンフィクションが過去において流行った時期もあったと思う。それが何に対して有効であったかは知らない。通ぶってビートルズのリボルバーを聴いている。相変わらず貧相なサウンドだ。ここで素朴という言葉は使えないだろう。決して素朴ではない。至るところにギミックが散りばめられている。よくできている。これはこれでこういうものなのだろう。それと比較してはいけないのかもしれないが、スティービー・ワンダーが七十年代前半に発表した一連の作品群(トーキング・ブック、インナーヴィジョンズ、ファースト・フィナーレなど)が、歌詞やヴォーカルやサウンドをまったく滑らかに統合しているのと比べれば、それはまったくの寄せ集めであって、至るところでつぎはぎだらけな印象を受ける。たぶん、それが魅力といえば魅力なのだろうが、それを強引に比較して、ビートルズの優位を主張するには、かなりの無理を伴うだろう。同じポップミュージックのカテゴリーに属していようと、音楽そのものの質や種類が違いすぎる。だが、それでも比較せざるを得ない。その不必要で不自然な評価の問題点を明らかにするためには比較できないものを比較するしか術はないだろう。そのような比較を通して、彼らの意識の偏りが明らかになる。しかし、その偏見がどのような経緯で形成されたのか、その内容にまでは立ち入らない。それを知るには及ばない。知らなくても困らない。


1月11日

 階段を走り降りると、人気のない地下通路に出る。歩き出すと靴音がこだまする。叫び声を上げたのは三年前だ。それ以来無口になった。何か変だ。地面が傾いている。自然と首が斜めに曲がっている。さっきから息苦しい。心臓の鼓動が不規則になる。この道は無限に続いているだろうか。そんなことはないだろう。それが有限の歩みであることは確かだ。まるで人跡未踏というわけでもないが、行き先不明の迷走が続いているらしい。しばらくはこんな状態なのだろう。もうあきらめている。まだ発作が起こらないだけマシな方だろう。たぶん多重人格なのだろう。彼とはだいぶ前に山奥の分水嶺で別れたきり会っていない。そこには道などなかった。別に道草を食っていたわけではないが、継続が困難になりつつあるらしい。その道は完全に閉ざされた。だが別の道には退屈しきっている。それは嘘かもしれないが、便宜的にそういうことにしておこう。だが、ここで何を道に喩えているかはどうでもいいことだ。誰もが使いたがる人生などいう言葉は好まない。そんなありがちな言葉は退屈だ。道とは無関係だと思いたい。現実にはそうでないかもしれないが、そう思いたい。そして誰もが思い描くありきたりな結論への誘惑を断ち切りたい。今こそ真実を受けとめよう。道は道であって、道でしかない。そんなところで生きられないし、死ねない。なぜか人の生と死に反発を覚える。生きることと死ぬことの両方が嫌いなのだ。生きたくもないし、死にたくもない。なぜそう思うか、その理由ははっきりしていない。考えるのが面倒なのだ。発作を起こしたくない。もういい加減に無駄な抵抗はやめたらどうだ。次の台詞に期待しよう。それは誰が発する台詞なのか。ベッドの上に仰向けに倒れ込んだら、蛍光灯が眩しかった。アニメの中でオタクが躍動している。映画の中では地球の危機が訪れる。どうやら宇宙人が攻め込んできたらしい。そういうものに感動を覚える。映画の中だけの話だ。一方アニメの中では、相変わらずの超能力で戦闘状態になる。どちらにしろ、安易な娯楽には変わりがない。バラエティのお笑い番組の内容を現実の実社会で実践したら、おふざけのやりすぎが祟って逮捕されてしまった。高松市のホームページには、ニュースショーのコメンテーター気取りが大量にメールを送ってくるらしい。それをマッチポンプですかさず増幅させる。大衆娯楽とはさもしいものだ。たぶんどこかの老人がそういう貧困なる精神を憂うのだろう。憂慮の念というやつだ。あとはお決まりのコースだろう。それについて言及したい人々が現れる。異論反論で討論したがる。今の若者はどうたらこうたら説教したい輩が大量発生することだろう。もうすでにそういう状態なのか。それをどうしろというのだ。どうにもできはしないだろう。気力は失せたままだ。そんなものに太刀打ちできそうにない。太刀打ちしようとすること自体が共犯関係になってしまう。もう休みたい。熱が出そうだ。憩いの時は永遠に訪れないのだろうか。発作どころではないらしい。まるで真剣になれない。別に筋弛緩剤を打たれたわけでもないのに、体中が弛緩しきっている。脳味噌もゆるみっぱなしだ。そこで検出されるのは改行コードだけなのだろうか。もっとマシな仕様にしてほしい。反応が鈍い。確かに区切りが必要なときもある。だが、そこで区切ってどうするのか。区切る必要性をまったく見いだせない。人工衛星がピラミッドの上に落ちてくる。偶然とは恐ろしいものだ。様々な出来事が絡まり合うだけ絡まって、まったく元には戻れなくなってしまう。よじれた糸を元に戻すのは至難の業だ。できないだろう。それはほとんど不可能かもしれない。思いもよらぬ出来事の連続に圧倒されっぱなしだ。まったくその現実を乗り越えられない。じっくり考える間がなかなか見いだせない。しかも、よく考えないうちに絶えず決断を迫られ続ける。これで冷静さを求めるのは無理というものだ。いったいこれから何をどう受けとめてゆけばいいのだろうか。その答えはわかっているつもりだ。


1月10日

 月夜に暗雲が立ち込める。凪がれている。西風だろうか。味覚はほとんど感じられない。苦い。そこで立ち止まる。立ち止まって巡らす。言葉が抜けているだろう。単純なことに気づく。難しく考えすぎていたようだ。方々に張り巡らされた情報網のどこかにひっかかる。送り主は不明なまま返信される。何も見ていない。実体は何もない。どこで繰り返されているか不明だ。川岸には切れ端が流れ着く。山林を経由しつつ渓流の水にその香りが移る。香具山にはその材料が生えているだろうか。ヴェトナムあたりの森に生えているらしい。それは沈香とは違うのか。その辺はあまり詳しくない。伽羅木の使い道など知らない。知識の欠落を埋め合わせる暇もなかったので、それはそのまま置き去りにされた。竹林に適度な湿り気が行き渡る。適当な時期を選んでそれは始められるようだ。不定期的に行われるので、ごく一部の人々の間に知られているに過ぎない。結社のような形態をとるらしい。たぶんほとんどフィクションに属する事柄なのだろう。目立つ行為は敬遠されているようだ。特定の場所を持たない。一回ごとに顔ぶれもまったく変わってしまうので、そこで交わされる内容はほとんど伝わってこない。誰も同じ体験を共有することができないらしい。なぜそこで獅子の面を着けているのか。暗闇の中で舞っても何も見えないだろう。ただ気配だけを感じることができる。無言劇は何も語らない。そこで何が伝達されるかも不明だ。そこはなぜか榛名の裏側だ。鳥居は見かけない。月光は近くまで迫っている山の影と密集した竹に遮られてここまでは届かない。冷たい石段に座る。どこまで昇ればたどり着けるのだろう。途中で引き返そう。真夜中の散歩は寒すぎる。いつか奈良と和歌山の境あたりに行ってみようと思う。解けない。謎は相変わらず謎のままだ。やり直しだ。また網を張り巡らさなければならない。罠を仕掛けよう。しかし、何を捕らえるつもりなのか。捕らえてみなければわからないだろう。真っ二つに割られた面の作者でも探してみるとするか。半信半疑だ。あまり乗り気ではない。斧と鉈のどちらが扱いやすいだろうか。左手の力が不足している。このままだと、振り下ろすときにわずかなブレが生じてしまう。体を鍛えなくなってから十年近くが経つ。筋力と体力の低下は著しい。年齢的にも十年前の状態には戻れないだろう。たぶんそのほとんどが作り話なのだろう。どうも最初から致命的な欠陥を抱えているようだ。もうそれを補修するには遅すぎるだろう。竹林を抜けると次は篠藪だ。どうやら、この先に進んでみてもほとんど収穫は期待できそうにない。やはり引き返すべきだろう。あまりにも深入りしすぎた感がある。この辺でやめておこう。執拗な追跡は藪蛇だろう。余力もあまり残ってはいないようだし、ここは一旦引き上げるとしよう。夜明け前の冷え込みは半端ではない。それらしき雰囲気だけは感じ取れた。それが収穫といえば収穫なのか。息づかいが荒い。呼吸がひどく乱れているようだ。置き去りにすればそのまま凍死かもしれない。赤の他人でも助けてやらねばならぬ状況らしい。面倒だが仕方ない。退屈そうな寝顔になった。タイヤの接地面がアスファルトになる。何とか舗装道路までたどり着いた。何をやっているのだろう。アイスバーンでスピンする。下りカーブは危ない。ガードレールは一枚三十万するそうだ。眠そうな朝のラジオを聴きながら、ひたすら前方だけを注視し続ける。つまらない創作は夜の出来事と交錯する。自然と無表情は能面に近づく。眉ひとつ動かさない。その顔で何を言いたいのか。別にしくじったとは思わない。それは見解の相違だろう。あり得ない現実だ。そんな計画など何も知らされていない。そんな指令など受けたこともない。つまらないスパイごっこはこの辺で終わりにしよう。何よりも体を動かすのが面倒くさいのだ。命令なんぞに従うのも不快極まりない。体を突き抜けた視線は、遠い岬の記憶を呼び覚ます。だがそれは、自分には関係のない出来事だ。おぞましい過去はもう忘れて久しい。


1月9日

 どうやら朝になってしまったようだ。これでもまだ一日ずれている。だが、そのズレをなかなか修正できないでいる。それをやり過ごすことができない。それは何やら執念に似た思いだろうか。しかしそこで何をやりとげようとしているのか。が、今のところやりとげられないでいるようだ。たぶんその方がいいのかもしれない。別のそこでもがき苦しんでいるわけでもないようだし、勝手に不可能なことをやらせておけばそれで構わないのだろう。誰も助けてはくれないし、助けようもないだろう。どういうわけか、そこでそのズレを楽しんでいるのかもしれない。その感覚のズレをそのまま放置している。やる気もないのにやっているという矛盾を、そのまま矛盾として受け入れている。いつの間にかそれが日常の習慣となっているらしい。それはそれでいいのかもしれない。それ以外にやりようがないだろう。それがルーティーンというものだろう。そんなつまらない日常の業務を黙々とこなしていくことに慣れきっている。それだけでいいわけはないだろうが、それがなくてはその先へ進めないことも確かだ。だがその先は依然として不透明なままだ。まだその先で何をやるかも決まっていない。もしかしたらその先は何もないのかもしれない。仮にそうであったとして、それでもやり続ける気だろうか。仮の話には興味がないらしい。その先がないことも折り込み済みなのか。さあ、どうなのだろう。ただ単に、先のことを考えている余裕がないのかもしれない。先のことだけではなく、それをどうやって継続していくかもあまり考えていないのだろう。たぶんそれがどういうことかもほとんど考慮されていないだろう。今何をやっているかさえわからないままのようだ。それは遂行者の意識などはいっさいお構いなしに続いていく、ひとつの制度になっている。そんな制度に身を任せていると精神的に楽なのかもしれない。何しろ、自らのやっていることに対して、何も責任感を持たなくてもいい。これでかなりの負担が取り除かれるだろう。自動化作業の本質はそういうところにあるらしい。それによって生じる余裕を利用して、憩いの時を創出することができそうだ。無責任な心の有り様が心のオアシスを生み出す。そんなことがあり得ようか。それは単なる仮説なのか。責任を持つことと無責任は対立する概念だろうか。一般的にはそうかもしれない。だがここでは、責任感と無責任が互いに協力し合っている。それを継続させることが行為遂行者の責任であり、同時に継続させるためには無責任になりふり構わずやっていかなければそれの継続は難しいだろう。だがそれだけではない。適当なところでやめてもいいのだ。それを続けていく責任などいつ放棄しても構わない。たぶん責任は仮構のものなのであり、それを続けるための口実に過ぎない。そんな責任に殉じるのは愚の骨頂だろう。だからそれをやることに何の必然性もないのは当然だし、そういう行為なのだから、やろうと思えばいくらでも無責任にやれるのも極めて当然のことだ。そのレヴェルでは何の歯止めも設定されてはいない。だからこれから先の可能性はほとんど無限であり、やろうと思えば無制限にいくらでも継続が可能なのかもしれない。確かにそういうレヴェルではそうなのだろう。疲労や摩耗さえなければ、そうなるだろう。それは現実にはあり得ない無限性になるだろうか。だがあり得ないことをいくら妄想しようとも、誰に迷惑をかけているわけでもないので一向に差し支えはないだろう。自分勝手に無限を追い求めていれば、いつか疲れてくたばるときが訪れることだろう。そのときになって何を後悔しようともすべては後の祭りだ。後悔してもしなくても、消え去るときは大して変わらないのかもしれない。だから先のことなど何も気にしなくてもそれはそれで構わないし、別に気にして何やらそれらしき計画を立てて相応の戦略を練ってみてもいいだろう。どちらでも構わないのだ。あとから後悔するかしないかはそのときになってみないとわからないことだ。それをいちいち予測するのも面倒かもしれない。


1月8日

 どうも昼も夜もあまり変わりないようだ。やっていることにさほど変化がない。何もやっていないのと同じだろう。夕暮れ時に何を考えていたのか、それを思い出そうとはしない。思い出すのが面倒だ。思い出すべきなのか。すぐには思い出せないだろう。だがなぜそれを思い出さなくてはならないのか。相変わらず理由は不明のままであり、何を述べたいのかはっきりしないようだ。まだ眠たいらしい。退屈な世の中に飽き飽きしているらしい。しかしだからといって、何をどうすればいいのかわからない。わかるきっかけがつかめない。何もやりようがない。しかもその退屈さから抜け出られないのだ。現状に飽き飽きしながらも相変わらず退屈なままだ。これでは何も変わりようがない。だがそこから進み出そうとしているようだ。その退屈さ加減を糧として進んで行かなくてはならない。そのどうにもやりようがない状況をそのままにして、さらにそこから移動したい。すでにそこから抜け出すきっかけを模索することは放棄している。もはや不可能という当たり前の言葉とは無関係に何かを実践しているようだ。その実践はそのような実践なのだろう。それがどのような実を結んでいるかはあまり定かでない。実際に何をやっているかは不明だ。今のところ特定できるものは何もない。ただそうやって窮迫の時をやり過ごしているのだろう。意味のない記載の進行に身を任せているようだ。やっていることはそれだけかもしれない。それが限りなく循環しているのだろう。結果的には途切れることを知らぬような構造になろうとしている。それに何を付け加えればいいのだろう。何も思いつかない。いつの間にか退屈な現状は放置されたまま無視されている。その現状には飽き飽きしているはずなのに、そんな思いが顧みられることはない。気にも留めていないらしい。退屈も倦怠も、そうであって一向に構わないのだ。しかもそうでなくても構わないだろう。それはそれとしてすでに折り込み済みだ。勝手に退屈して倦怠感を抱いていればそれで良い。もはやそのレヴェルには留まっていないようだ。状況はさらに進行している。彼岸に到達しているのだろうか。これが彼岸なのか。そうだと思えばそうなのかもしれない。たぶん彼岸などどこにでも存在するのだろう。あえてその場所を特定するまでもない。そこが彼岸だと思っていればそれで良い。例えば川向こうが彼岸だ。また海を越えた向こう岸も彼岸だろう。たまには電車内のあちら側の座席が彼岸であったりする。サスペンスドラマではそこで事件が起こったりすることもあるだろう。ボールを抱えてエンドゾーンまでフィールドを走り抜ける。それがそこでのルールなのだ。そんなスポーツまである。そういうスポーツで彼岸までたどり着けるだろうか。たどり着いたからといって、それでどうなるわけでもないだろう。たぶんそこで、一定の得点が加算されることになるのだろう。そんなことで、何も心臓が張り裂けるほど喜ばなくてもいいだろう。興奮しすぎて心筋梗塞なのか。それで彼岸まで旅立つことになるらしい。それは何ともやりきれない結末だろうか。どうということはない日常の出来事だ。大した事故や事件ではない。それもある一定のルールを共有した結果ではある。もしかしたら、人を彼岸に導くルールというものも何かしらあるのかもしれない。今はそのルールに従っている状態なのだろうか。よくはわからないが、そういうことにしておこう。ルールがあろうとなかろうと、適当な場所が彼岸であることに変わりはない。誰が決めたわけでもない、たぶんその場所が彼岸なのだろう。フィールド上の末端にあるその場所がエンドゾーンであるように、そこが彼岸なのだ。エンドゾーンの位置がルールによって決められているように、彼岸の位置も仏法か何かによって決められているかもしれない。どうでもいいことだろうが、そんな共通点を勝手に想像してみよう。それを空想すれば、どこかの老人が救われたりするかもしれない。横目で見ているアメフトの試合は何やら膠着状態のようだ。


1月7日

 どこまで語ったのだろう。すでにあれから二日が経過している。その脇道は思いの外長く続いているようだ。どこまで行ってもきりがない。そうこうしているうちに暗くなる。何も見えないので闇の中でいつもの手探り状態だ。その暗闇を楽しむ。単なる強がりだろうか。それは本当の暗闇に直面していない証拠だろう。昔そんなことを述べた記憶がある。それがおかしい。笑ってしまう。たぶんそれは本当の暗闇なのだろう。本当の暗闇は楽しい。ついでに述べるならば、偽りの暗闇も楽しい。暗闇が楽しいのは嘘だ。だからその嘘が楽しかったりするらしい。たぶん他愛のない嘘をつくことが楽しいのだろう。それをまるで他人事のように述べている。その他人事を無責任に楽しんでいる。無責任なことを述べるのも楽しかったりするらしい。これではこの世は楽しいことばかりになってしまうだろうか。それに何か不都合があるだろうか。不都合がないのが不都合なのか。そんな述べ方には飽きた。こうしてまたもやありがちな表現に遭遇している。もっとも、たまには不都合があった方が楽しいだろう。それはケースバイケースなのだろう。確かにそれはそうだが、そう述べてしまうとそこで終わってしまうだろう。たぶんそこで終わってしまっても、それはそれで楽しいかもしれない。無理に長引かせる理由も必然性もない。もうそろそろ脇道で道草を食うのはやめて、今こそ真正面から真剣に直面している問題や課題に取り組まねばなるまい。たぶんそれは冗談だ。そしてそれは、まるで試験のようだ。やめよう、わざとらしい。現に直面している問題や課題が何も見あたらない。どうやら今のところそんなものには直面していないようだ。わざと気づかない振りをしながらも、いかにも興味なさそうに横目でちらりと見やるのがせいぜいのところだろう。それが精一杯の対応になる。たぶんそれを避けることしかできないのだろう。それが問題と言えば問題になるだろうか。だが、まだ逃げ道があるのだろうか。袋小路でどうやって逃げ道を探し出すのか。なぜ翼を使わないのだ。そんなコマーシャルが記憶に新しい。背中に生えている翼は飾りだ。そんなもので飛べるわけがない。だいたいそんなところでいったい誰に追いつめられているというのか。自分自身か?そういうのはよくありがちな話だ。ならば、自分の影に追いつめられているとでも言えばいいのか。少しは気が利いているかもしれない。だが、自分以外にいったい誰がいるというのか。誰もいないだろう。小心者は自分の影に怯えているらしい。だが怯えているのは小心者だけではないだろう。不特定多数の視線に怯えている。世論調査結果を気にしているということか。それもあるだろう。だがそれは言い訳に過ぎない。そんな状況で果たして逃げ道が見つかるだろうか。たぶん見つかる可能性がほとんどゼロでも、見つかるだろうと言い切るだろう。場合によっては、見つかったと嘘をつく。それで通用するのだろう。それを通用させなくては破滅する。例えば、本当に破滅してもいいんですか、いいんです、とは言えない。破滅を免れるためにこのままでは破滅すると叫ぶわけだ。それは一種の脅しだ。オオカミ少年の警告だ。実質や実体は何もない。だがその警告を無視する勇気があるだろうか。破滅を実際に体験するだけの余力がまだ残されているだろうか。どの程度までその破滅に耐えられるだろうか。だがそんなこととは無関係にいつかは破滅がやって来る。否応なしにやってくる。本当か?確信は何もない。すでにやってきているのかもしれない。今体験しつつあるこんな状況が破滅なのかも知れない。そうであるのならこんなに楽なことはない。破滅は楽しい。苦痛が伴わない。誰か他に、苦痛に苛まれている人でもいるのだろうか。暴走族はけしからん!だから暴走行為は楽しいのだろう。みんな目が生き生きとしている。他にやることがないのだ。手持ち無沙汰なのだろう。そうやって警察と鬼ごっこをやっているうちに、いつか誰かが助けてくれるだろう。希望とは無責任なものだ。


1月6日

 枯れ野に粉雪が舞う。花の魅力は急に色あせる。すでに水が腐っていた。花瓶から萎れた草花を捨てる。周縁と中心の間に中庸の世界があるそうだ。そこに偏りのない状態があるらしい。なぜかそこから離脱しつつあるらしい。刃こぼれが目立つようになってきた。切っ先が鈍い。パステル画の表面に油彩で塗り込める。感傷に浸り始めるにはまだ時期が早いだろう。元の風景が気に入らないのだろうか。たぶんそれだけではないのだろう。そこに緊張と動揺が同時にやってきたようだ。気がつけば辻褄の合わない説明に終始している。だがそれで構わない。そこで辻褄を合わすことは奇蹟に近いだろう。今さら奇蹟に頼ろうとは思わない。それを無理に成功させようとは思わない。一方の端からもう一方の端への綱渡りは失敗に終わる。試しにその綱で首でも吊ってみるか?左右のスピーカーのバランスが乱れる。もはやそこから得られるものは何もない。失意に打ちひしがれる暇もない。その涸れ井戸から遠ざかる。汲み尽くされた水は、今どこをどうやって流れているのだろう。落ち葉が敷きつめられた斜面から転げ落ちるように退散する。靴底と膝下が泥まみれだ。濁った水を飲んで野良猫は生きている。誰も泥水をすすりながら生きるつもりはないだろう。市販のミネラルウォーターでも飲んでいればいい。下界は相変わらずの喧騒だ。耳が痛い。メガフォンでがなりたてるのはいつもの手だ。時折起こるハウリングが険悪な雰囲気にさらに拍車をかける。拍車がかかっているのはそこだけではない。競馬に大金をつぎ込む人の気持ちも分かるような気がしてくる。窓から覗き込む人々に用はない。それだけでは物足りない。その窓を開けで飛び降りてみてはどうか。空中で手足をばたつかせるだけだろうか。まるで空気を掴むような動作だ。そこで何かを掴み損ねていることは確かだ。有刺鉄線の前まで来た。脱線し始めたのはどこからだろう。いつの間にか想定していたレールの軌道が見あたらない。曲がりきれずに直進する。スクリーンに映る影に驚きはしない。砂漠の映像越しに煉瓦の壁に突き当たる。すり抜けられない。道が狭すぎるのだ。澄んだ瞳の狂人は絵の中で踊る。誰がそんな絵を描こうとしているのか。過去からの参照は期待できないだろう。本当にこれから描く予定なのか。冗談を休み休みに言う余裕はない。みぞれ混じりの雪に何を期待しているのだろう。宮沢賢治の再来か?どこからその言葉を見つけてくるつもりなのか。人名辞典か?その澄んだ瞳は本当に狂人の証なのだろうか。終わりの季節とはどの季節なのだろう。わき上がってくるのはそんな疑問だけなのだろうか。必死になってそのつながりを探そうとは思わない。斜線を引かれた主体を認識しようとも思わない。認識しているのは自分ではない。それを認識するより忘れる方が早い。そして忘れながら別のことを思い出すのだ。そしてさらにその思い出したことを認識する暇もなく、またもやそれを忘れながら別のことを思い出す。そこで連続しているのは忘れながら思い出すことであり、そこに認識が差し挟まれる余地はない。だがそれでも何かを知りたいし、わかりたいらしい。ありがちなことは認識できないものを認識したいという願望だろう。常にそれをやろうとしている。偏った熱情に突き動かされて不可能を求め続けているのだ。だが一向にその偏りの原因を見つけられない。もちろん不可能は不可能なまま、心の片隅にいつまでも残り続ける。不透明な未来は相変わらず不透明なまま、安易な予測や予言は簡単に跳ね返される。それでもお粗末な予測や予言で空きスペースが埋められる。それがいつものやり方なのだろう。年輪を刻むとはそういうことを言うらしい。自分達がこれまでやってきたことを自画自賛する人々には、きっとそのような年輪が刻まれていることだろう。自分達が批判している社会が自分達のそうした行為の連続によって形成され、維持継続されていることを誰も自覚できないでいる。彼らに彼らの批判対象を批判する資格などないことは、彼らが飽きもせずそのような行為を繰り返す現実を見れば一目瞭然だろう。


1月5日

 そこで何が足りなかったのだろう。あるいは、何が過剰だったのだろう。過ぎたるは及ばざるがごとし。そんな格言が当てはまるだろうか。どこに当てはまるのか。どうやら言いそびれてしまったことがあるらしい。あの時何を言いたかったのだろう。地球は回転しているらしい。目が回る。おそらく太古の昔から回っているのだろう。その回転が脳味噌をシェイクして、宇宙へのロマンをかき立てたりするわけか。夢が目的になり、目的がその夢を実現させることになる。そのコーヒーは苦い。紅茶にしておくべきだったかもしれない。今となってはもう遅い。今の実感は取り返しがつかなくなってからやって来る。早すぎることは遅すぎることなのか。その区別は曖昧だ。樫の木に取り囲まれて暮らしている。過剰な言葉は分散しつつあるようだ。その分布図を眺める。座標の取り方を変えてみよう。それで言葉の分布が変化してくれるだろうか。それでわかりやすい配置を見いだせるだろうか。疑問だ。設問とそれの答えが交互に現れる。繰り返しとはそれの繰り返しを言うのだろうか。効率的な進行だろう。それは効率的な単純化だ。老人が自ら描いた水墨画の滲み具合に喜悦の表情を浮かべる。唐突にそんなエピソードが折り込まれる。刀の刃に映った自分の顔にうっとりする。そんな陶酔が構成される場面もある。その表情がわざと作られた感は否めない。時としてわざとらしさが必要になる。その表情によって何かを知らせたい。それをわかってほしいから必要以上に強調する。繰り返しとはそんなことの繰り返しを言うのだろう。強調したいことはそこで繰り返すことなのか。それを何度も繰り返しておきながら、さらにこれでもかと執拗に繰り返す。こうして嫌われる条件は整った。そこで刃を突き立てられているのは自分自身だ。試されているのはさしずめ自尊心なのか。逆に自己卑下してみせる。そのへりくだった先には何が待っているのだろう。和解の兆しはまだ見えない。三十年前につかの間の雪解けを経験したそうだ。突飛で滑稽なものに惹かれる。氷山の下に暗い海底が横たわっている。山水の風景を愛でるにはそれ相応の財力が必要らしい。それがどこでどうつながるのか、どこへも解消しがたい。理由が不明のまま閉じたブラインドを見つめている。さらなる試練を待ち望む気が知れない。たぶん瞼の裏側に刺青が彫ってあるのだろう。その死体には防腐処理が施されてある。今のところ、解釈は無限にある。その可能性のひとつひとつを検証していかなければならない。今まさに気の遠くなるような作業に直面しているらしい。そこからどう逃げ出せばいいのだろうか。そうなる事態を避けることばかり考えている。それは回避できない解決法だろう。絡まり合うのは針金ばかりではない。錆びた鉄釘が板に突き刺さる。結局ところ、この思索の散歩道は誰のために用意されていたのか。未だにそうすることの不可能に気がつかないらしい。今どきペイズリー模様に見とれている。白頭巾が掲げる炎の十字架は如何様にも利用できるだろう。ありふれた音楽だ。それを楽しむことにさしたる理由は存在しないだろう。この時期に二十世紀を代表するアルバムを選出することにどのような思惑が渦巻いているのだろう。おそらく、百年後にはまったく違った結果になるだろう。そのような行為そのものが意味をなさなくなるかもしれない。今発言力のある人間は、たぶん百年後には存在しないだろう。通ぶった態度で選考した挙げ句に無難な線に落ち着くのは当然の結果だ。それが人々の自尊心をいたく刺激する。自分達の価値観をその道の専門家達が認めてくれたのだ。大衆から見捨てられたくない専門家気取りと、自分達の姿勢について権威による裏付けがほしい大衆が二人三脚で作り上げてきた社会だ。ITがどうしたこうした程度で、そう簡単に手放すわけには行かないところだ。そのような意識でがんじがらめのマスコミュニケーション社会がそう簡単に崩壊するとは思えない。サイレントマジョリティの力はここに至ってなお侮りがたい。


1月4日

 その情景はどこから来るのだろう。水のイメージが頭から離れない。水の滴りを思い浮かべる。そこで耳を澄ませば音が聞こえてくる。それは水の音なのか。他に何を聞きたいのか。今日も夜になってしまった。当然のことだが毎晩夜がやってくる。辺りは静まりかえっている。風の音は聞こえない。その静寂の中で他に何を聞き取れるだろうか。聞こえてくるのは幻聴なのか。以前そんなことがあったかもしれない。それはどんな情景だったのだろう。それはすでに語ってしまった情景だろう。あまりはっきりとは覚えていないが、そのとき何かを求めていた。突然のかん高い笑い声で我に返る。それはよくありがちなフィクションだ。そんなドラマのシーンを今まで数多く見てきたような気がする。連続ドラマにはそういう性格設定の脇役が必ず登場するようだ。どういうわけか主人公を嘲笑する人物がその手のストーリーには欠かせないらしい。わざと主人公を真面目に振る舞わせ、その姿勢をシニカルに嘲る人物を近傍に配置する。視聴者は、当然その皮肉屋に嫌悪感を抱き、そのような感情がより一層主人公に好意を抱かせ、そのドラマにのめり込むことになる。その構造がわかってしまえばどうということはない。それを感知できない人々によって、その手の連続ドラマは支えられているのだろう。もちろんそれだけではない。そんな単純なことではない。それはかなり粗雑な説明だろう。現実のテレビドラマはもっと様々な要素がいろいろ絡まり合ってそれなりのリアリティを伴うように構成されているのだろう。確かにその中の一要素だけを取り出して説明すれば、その手のドラマをそんなふうに嘲笑することができるが、その程度のやり方で果たして通用するだろうか。いったいどこで通用するというのか。通用する対象を見つけられない。そういう安易な姿勢は正されなければならないのだろうか。しかし何のために正さなくてはいけないのかがわからない。そこが不明なのだろう。そこでも依然として対象が不在のままだ。何か限定された特定の対象というものを持ち得ないらしい。例えば、テレビで映画を見たとする。なるほどよくできたSFXだ。だが29インチのテレビの画面でCGを駆使した特撮映像を見てもなかなか感動できない。その手の映像は映画館の大きなスクリーンと大音量の効果音を伴うならば感動できるのかもしれない。それは、ある条件に拘束された特定の環境の下で最も効果を発揮する技術なのだろう。つまりこの言説は、その手の技術とは根本的に違う方向性を持っているのかもしれない。連続ドラマやSFX映画のように、特定の領域へ影響を及ぼす力が端から備わっていないらしい。しかしそれは何と荒唐無稽な比較だろう。それらを比較することには何の必然性も説得力もない。それらは比較する対象でさえないのだ。やはりここでも対象そのものが不在なのだ。しかしそんなことはすでにわかっていることだ。はじめから重々承知の上でこのような言説を展開しているはずだろう。どうやら、わかりきった結論に導くために、わかりきっていることをことさら述べ立てているようだ。これでは同じことの繰り返しだろう。だがそれ以外に何ができるだろうか。たぶん、何か他のこともできるかもしれない。どうもその何かを探求しなければならないらしい。その何かは何なのだろうか。どうすればそれを見いだせるのか。だが、それもかなりわざとらしい言説に属するだろう。またもや予定調和なことをやっているらしい。ここで何かを探求しなければならないこともわかりきったことだ。それもわかりきった結論のうちのひとつなのだ。どうやら本気で探求しようとはしないらしい。それも毎度のことなのか。わからない。だがわからないのも毎度のことだろう。要するに毎度のことも毎度のことなのだ。こうして自家中毒を繰り返すしか方法はないのだろうか。さあ、どうなのだろう。それはこれをやり続けていけばわかることだろうか。やってみればいい、冗談や洒落を超えてやってみればいい。たぶんそんなものは超えられない。


1月3日

 見上げてみれば夜空に半月が浮かんでいる。雲一つない星空の下に立ち止まる。そこで何を想うだろうか。何かを想うのだろう。試しに流れ星にでも願いをかけてみようか。たぶんそれは軽薄なロマンチシズムだろう。だいいち流れ星を探すほどの忍耐や根気を持ち合わせてはいないだろう。それに、今のところ願いなど何も見いだせない。だがそれは嘘かもしれない。なぜ嘘なのか。よく考えてみれば、願いのひとつやふたつすぐに見つかるかもしれない。見つかるわけがない。自分の願望を熟慮するほどのナルシストではない。だがそうすることがなぜナルシストになるのだろう。はたしてそれをナルシストと呼んでいいものかどうか。そんなことはわからない。ここではわからないことにしておこう。それが無難だろう。それでこの場を切り抜けたつもりになる。これで本当に切り抜けたことになるのだろうか。切り抜けたことにはならないかもしれないが、そのつもりになることはできる。それをどう思おうと自分の勝手だからだ。確かにそれはそうなのだろう。だがそれからどうするつもりなのか。さて、どうしたものか。この先はどうするつもりだろう。どういう展開に持ってゆきたいのか。何もあてはない。では、この退屈なモノローグをまだ続けるのだろうか。続けるつもりはないが、結果的にはこのまま続いてしまうのかもしれない。要するにそれが定めなのか。そんな定めなどない。それは定めではない。未だに何も定まってはいない。定まっていないからこそ、こうなってしまうのだ。確かにそれが正解なのだろう。自分には何も制御できないのだ。そうかといって、感情の赴くままに生きてゆけるわけもない。だが、別に生きてゆかなくてもいいのかもしれない。かといって、無理に死ななくてもいいだろう。つまり、何をどうやってもよくて、また同時に、とりたてて何もしなくてもいいわけだ。どうやってもかまわないことが、逆に何もやれなくするらしい。何か制限や制約がないと人は何もできないのかもしれない。だから人は不自由さを嫌いそれに抵抗しつつも、その不自由さに依存しながらでしか、自らの思考や行動を実践できないのだろう。それは何と不自由な制約だろうか。自由に思考や行動を実践することはまったくの不可能なのだ。それらはみな、主体の不自由さを糧としてしか作用しないものなのだ。こうして何やらそれらしき結論が導き出された。だが、そんな結論は信じられない。そんなものは嘘だ。嘘としておこう。何よりも、そういういかにもわかったふうな結論が嫌いなのだ。当然そんな結論には従わない。従わないつもりだ。結果的にそうなったとしても、なおのこと無駄な抵抗を繰り返すだろう。別にありもしない自由をことさら求めているわけではない。そういう自由を求める英雄気取りには成り難い。なろうとはしていないだろう。そうなるとやはり、自由も不自由も求めない否定的な姿勢に留まるつもりなのか。いや、それもやめておこう。自由も不自由も、その時やその場の状況によって求めたり求めなかったりするだろう。そうなるしかない。たぶん、それは仕方のないことだ。自分から一方的にどちらかを選び取ることはできない。選択の自由など元から存在しない。その場その場で、選択させられたり、させられずに押しつけられたりするのだろう。そしてそれを拒否したりしなかったり、場合によっては拒否できなかったりするわけだ。その場では、その時の状況によって様々な選択のヴァリエーションが組み合わさっているらしい。それは、偶然と必然がミックスされた自由と不自由の混合体だろう。自らの思考や行動を超えた場がそこに存在している。そこでどうするかはその場でしかわからないことだ。いや、その場でもわからないのかもしれない。何もわからずに絶えず致命的な選択を余儀なくされているのかもしれない。ではそれに対処するにはどうしたらいいのだろうか。どうしようもないだろう。結局、その場で何かをやらされてしまうことになる。やっているつもりがやらされてしまっていることになる。


1月2日

 電気コードが絡まっている。もつれた話はどこまで続いていくのか。適当なところでそれなりの区切りをつけてしまいたい気もする。しかしどこで区切ればいいのだろうか。すべてが同じように思えてきて、そのきっかけがなかなかつかめない。このままだらだら続いていってしまうようだ。いったいいつ完結させればいいのだろうか。完結できるのだろうか。このままやっていけばそれがわかるだろうか。それがわかったとしてどうするのか。わかったときにはすでに終わった後かもしれない。終わる前にはわからないような気がする。たぶん終わるときは、そんなことはわからないまま終わってしまうのだろう。それがすでに終わっているのに、それに気づかないことだってあり得るだろう。案外すでにそんな状態なのかもしれない。電気コードはプラグの部分がいかれているらしい。部品を買ってきてプラグを交換した。まだ使えるようだ。確かにどこまで行ってもきりがない。そうこうしているうちに、またもや暗闇の時間がやってきた。半月前よりは確実に日が長くなっているようだが、さすがにこの時刻はもう暗くなる。どうやら今日もまた何も見いだせないうちに一日が終わろうとしている。複数の扉が目の前に開かれているが、そのどこにも入ろうとはしないだろう。なぜだろう、入るのが面倒なのか、そうかもしれない。だがそれ以外に理由はないのだろうか。他に理由が見あたらない。しかしそれは理由とは言えない理由だろう。たぶんはじめから理由が不明のままなのだろう。理由そのものが見いだせないのだ。何の理由もなしに、意味不明な逡巡を繰り返している。いったい何をためらっているのだろう。それがわからないまま、実際には躊躇し続けているらしい。だから何も決着をつけられないでいる。決着などどうしてつけられようか。よそでは、もうだいぶ終わっているところもあるようだ。なるほど、そこには様々な終わりがあるらしい。内容そのものは終わりようがないのに、なぜかそこで何の脈絡もなく唐突に終わってしまう。そこで、いかに続けることが困難かを感じさせる終わり方に遭遇する。確かにそこには限界があるのだろう。それがどんな限界なのかは知らないが、そこで終わってしまったという現実が、何らかの限界を露呈させているようだ。だがそれがどうしたわけでもない。それはそれで仕方のないことだ。どんな経緯があってそこで終わってしまうのか、そんなことに興味はない。むしろ興味を抱かせるのは、その内容が抱えている可能性だろう。その可能性が示している方向性を今度はこちらが模索してみたくなる。そこには確かに何かが欠けている。それは勝手な思い込みかもしれないが、その欠けているもの探し出し、その箇所にはめ込みたくなってしまうのだ。だがそこで完成するわけではない。はめ込んだ破片がそこにピッタリと収まることはまずない。必ずわずかに隙間が空いてしまうし、またうまく収まりきらずに、全体の形が歪んでしまうときもあるだろう。さらにまた、別の箇所に新たな欠落が生じてしまうときもある。はめ込み作業によって、新たに欠けているものが見いだされてしまう。そうした模索に終わりはない。完結の時は永遠に訪れないのかもしれない。そこでは絶えず構築者が入れ替わっているのだろう。ある時代に存在するひとりあるいは複数の構築者には、常にその時代の環境からくる限界がつきまとう。彼や彼女は、その限界によって形作られた思考や方法によって構築しなければならない。そんなふうにして作られ、そして完結することなく放棄された構築物には、何らかの可能性が宿っている。その可能性を感じ取りたい。感じ取るだけではなく、そこに新たな可能性を付け加えたくなってくる。その付け加えようとしている可能性が、はたして正当なものなのかどうかはわからない。たぶん、そうした行為に何の正当性もないのかもしれない。ただ、そうした作業がおもしろい、だからそれをやろうとしてしまう。様々な構築物を、勝手な思い込みで組み合わせ、わけのわからないその場の思いつきでつなぎ合わせ、時には偶然に見いだされた順番通りに再現してみたりする。そうした試みから、はじめはわからなかった様々な可能性が新たにいくつも見いだされてしまうだろう。それが見いだされた瞬間に感動することになる。


1月1日

 ここで何をやっているのだろう。何をやるでもなしに、退屈を紛らすためにいつものように画面を見つめているらしい。表示された文字を斜めに読む。そこに刻まれた文字はただ読まれるために存在するのだろうか。たぶんそうなのだろう。それだけのようだ。確かに目線が下を向いている。実際にそれを読んでいるらしい。別にそれは幾何学模様ではないだろう。起き上がって上を見る。見上げればいつもの空だ。昼の日差しは眩しい。この世界に空はひとつしかない。それは当たり前のことなのか。たぶんそうなのだろう。遙か遠くに地平線が見える。それよりもさらに遠くに視線を移す。何も見ていないようだ。その遠いまなざしは遠いまま消え失せた。どこにも自分の視線を見いだせない。覚えているのはそこまでだ。気がつくとまだ遠くを眺めている。まるで時間が消失しているようだ。視線に時間など当てはまらない。突然、遙か遠くに自分の視線が見いだされる。途中がない。そこまで行く過程が消失している。ところで、そことはどこだろう。そことはあそこのことなのか。あそことはどこだろう。たぶんあそこはここではないはずだ。こことあそこは限りなく隔たっている。ここからあそこまで行く道のりは相当あるだろう。距離がありすぎる。遠すぎてあそこまで行く気にはならない。疲れるのは嫌いだ。だが、ここに留まっているつもりもない。こんなところに留まれはしないだろう。こんなところとはどんなところなのだろう。たぶんこんなところはあんなところではないのだろう。ではこれからどうしたらいいのだろう。どうもしないのだろう。たぶんこのままだ。だがこのままでは居場所がどこにもなくなってしまうだろう。そんな場所は元からない。居場所を自分で選択する立場にはない。だが居場所がないのは愉快なことだ。それを楽しんでいる。困っているのに、なぜかそれが楽しい。たぶん本気で困っているのではないのだろう。本当にこれからどうするつもりなのか。どうもしない。それは以前と同じ台詞だろう。風が鳴っている。月夜に強風が吹き荒れる。何も求めてはいないのだろう。求めているのはそんなことなのか。求めていないものを求めている。何も求めない態度を求めているつもりなのか。よくはわからない。だが、相変わらず逆説で逃げているのかもしれない。そうかもしれない。風は昨晩には止んでいた。今はいたって静かだ。物音ひとつしない。大気中の埃や塵を強風が吹き飛ばしてくれたおかげで、空気が澄んで暗闇がよく見える。目の前の闇を眺める。何の比喩にもならない。精神や心理状態を闇にたとえるのには飽きた。計画的な犯行があれば、よく犯人の気持ちが心の闇にたとえられる。部外者にとってはそんなものはどうでもいいことだ。だがそれが字余りなのだ。リズムが突然乱れる。異物が混入したらしい。修正はいたって簡単だ。視線は何も求めない。ただ網膜に映る光と影のコントラストを受け入れる。犯罪心理学者が分析する心の闇も受け入れよう。フィクションとしておもしろければそれでいい。求められているのは話のおもしろさなのだろう。たとえそれが真実だとしても、おもしろくなければ見向きもされない。その手の商売も決して楽ではないらしい。目先の利益に群がるセコい輩は自分の話を売り込むことに必死なのだろう。きっと競争も激しいのだろう。しかしいつも供給が過剰なのだ。そうなるとただうるさいだけだ。あの手この手で事件を盛り上げているうちに、その事件に影響を受けた似たような事件が続発する事態になり、さらにヒステリックに騒ぎ立てる。そうなるとまさに犯罪のインフレーション状態だ。ここぞとばかりに、心の闇だの社会の闇だの、それ風の言葉が画面上や紙面上から溢れ出す。しかし、いったい誰のせいでそうなってしまうのだろうか。誰のせいでもない、社会のせいなのだ。そんな結論に満足できるだろうか。嘘をつくならもう少しマシな嘘をついてもらいたい気がする。どうせフィクションなのだから、放火魔諸君には、もうすこし工夫を凝らしてほしい気がしてくる。


2000年

12月31日

 すでに存在しているものを改めて見いだす。見いだされたものは何だろう。今さら何を見つけたつもりなのか。それは見つけようがないものだ。ここで話に行き詰まる。ところでついさっきまで何を語っていたのだろう。未だに始まらないそうだ。そしてまだ終わらないそうだ。もうその話には飽きた。では、他からどんな言葉を引き出すつもりなのか。そこで見いだされる風景をどう説明するつもりなのか。何も見いだされはしない。そんなことだろうと思った。にもかかわらず続いてしまう。呆れた話だ。深夜から明け方にかけてはかなり冷えるだろう。犬が吠える。聞こえてくるのはそればかりだ。犬は元気らしいが、風は止んでいる。そして暴走族も元気な時間帯だ。一カ所に集まって初日の出を拝みたいらしい。丑三つ時に何を想う。おそらく煩悩は百八もないだろう。どうということはない年に一度の行事だ。騒ぎのネタもだいぶ使い古された感がある。有名人にも限りがある。同じタレントの使い回しも見苦しい。まったく、今どき未確認飛行物体で盛り上がるのにはかなりの無理があるだろう。それでもやるしかないらしい。たぶんやっている方は大変なのだろう。だがそれを見ている方も大変だ。年末年始の行事とはそういうものだろうか。大がかりな暗黙の申し合わせで、それでも許されることになっているらしい。いったいどこの誰が許しているのだろう。知らない。知る必要はないし、知ったところでどうなるわけでもない。そういうものだと割り切って、見たくなければ見なければいいだけなのだろう。だからあまり見てはいない。もっとも、普段からその手のものにはあまり縁がない。もう二十一世紀なのだ。だがそれがどうしたわけでもない。それが現実なのだろう。実際になる前からすでにほとんど使い古された世紀なのだ。勝手な願望によって汚染し尽くされた時代だろう。そこにフロンティアなど見あたらない。もうすでに、マスメディアによって縄張りが張り巡らされていて、一般人が入り込む余地など何も残されてはいないだろう。このまま彼らが提供する夢という支配道具の前に屈するしかないのだろうか。そうならないことを願っている。パーソナルメディアが存在できる余地がまだ残されていることを期待しよう。マスメディアが勝手に設定する夢の一方的な押しつけには、誰もがうんざりしているはずだ。世論調査結果から出てくる、最大公約数ばかりを肯定する論調にも飽き飽きしていることだろう。限られた有名人のとりたててどうということはない意見ばかりがまかり通る状況にも嫌気がさしているだろう。やはりそういったあからさまな差別構造は、できうる限り是正していかなければならないだろう。が、一方で、たぶんこちらが思い違いをしているところもかなりあるのかもしれない。現状はそれほど悲観的ではないのかもしれない。あまりヒステリックに非難したところでどうなるわけでもない。すでに存在しているものはそれはそれで少しは利用価値があるだろう。それらを無理に無視する必要もない。せいぜい、共存共栄ぐらいの気持ちでいた方が無難なのかもしれない。どちらにも限界は存在する。個人の力ではどうにもならないこともある。だいたいこちらには、そもそも目的という概念が存在しない。これでは何を言ってみたところで、説得力が伴わないことは確実だろう。何をどうしようというのでもなく、ただ漠然と存在しているだけなのだ。だが、現実にそのようにしか存在できないのだから、それは仕方のないことだろう。これからも、何かためになることや利益を生み出すようなことは何も言わないだろう。そういう態度が倫理的といえば倫理的なのかもしれないが、無目的は大変わかりづらい姿勢であることは事実だ。何か下心があるように思われて当然だろう。案外そうかもしれないし、あるいは本当にそんなものは微塵もないのかもしれない。その辺は自分ではよくわからない。ただあまり気に留めてはいないらしい。一連のこれが何のためなのかは、この試みの結果から、自然と浮かび上がってくるかもしれない。このような試みにはじめから目的などを設定するのはおかしい。むしろ目的とは結果からしか導き出されないものだと思う。その辺に誤解があるようだ。


12月30日

 暑い。確かに半年前は暑かった。今頃になって夏の暑さを懐かしむ。何の脈絡もない。少し時間を遡りすぎたらしい。目が渇いている。少し前の風景を思い出してみよう。そこで何を感じていたのだろう。感じる前に思い出せない。思い出す努力を怠っている。たぶん未来が邪魔なのだ。ただ漠然と未来へ思いを馳せてばかりいて、過去を思い出すコツを忘れてしまったらしい。そんなコツがあるだろうか。その代わりに何かを感じている。微かに予感がする。それはどんな予感だろう。その予感は当てが外れたのかもしれない。過去においてはそうだった。予感などそうそう的中するはずがない。始まりの兆しは終わりの予感だった。それはどういうことなのか。その予感が意味するところのものを把握できない。その予感が実現するとは限らないだろう。実際はいつまで経っても終わらないだろう。そしていつまで経っても始まる兆しはない。それは以前からわかっていることだ。今回の予感はどうもそれではないらしい。あれからだいぶ時間が経過してしまったらしい。焦りの予感がする。誰が焦っているのかはわからない。しかしあれとは何か。感情の蓄積は摩耗していく。過去からの蓄積はあまり役に立たなかった。いつ終わるのかわからない。どこから始まろうとしているのかもわからない。どうやら無限遠の彼方へはたどり着けそうにない。終わりも始まりもないわけではない。これまでに何度か終わり、また何度か始まったらしい。その兆しをどこで感じたのだろう。感じ取ることはできなかった。未来においてそうなるだろう。手が荒れている。あかぎれがひどい。その荒れた手で何を操っているのだろう。操っているつもりなのだ。手に余る事態に対処できないでいるらしい。だから、苦し紛れにいかにも操作しているように演じている。しかもそれが効を奏していると述べてはばからない。予想屋の言い分はいつも同じだ。自らの主張をごり押しすることが仕事だと勘違いしている。たとえそれが間違っていても、非を認めないことを誇りとしているようだ。成功を求める自我を押しとどめることができずに、やがて詭弁やこじつけに終始するようになる。結局それが度重なると、言説の中身が似非科学からインチキ宗教に変質してしまう。そうまでしてなおその主張を信じて欲しいそうだ。信じるふりでも構わないからそれを装って欲しいらしい。信じられるものなら信じてもいい。その程度のことを信じる余裕は持ち合わせているつもりだ。だがおおよそそういう善意は気まぐれなものだ。それを信じるきっかけは、ちょっとした気まぐれから生じるらしい。たぶん魔が差したのだろう。本気で思考するのが面倒なのだ。あまりそれを真に受けとめてはいない。信じようがないことを信じること自体フィクションなのかもしれない。それはどうでもいいことに属する。だからすぐにそれを忘れてしまうだろう。そして改めてそれについて言及するには至らない。いったいさっきまで何を信じていたのだろう。それが思い出せない。それを思い出そうとする気が起こらない。それについて思いを巡らしているつもりなのだが、まるで上の空なのだ。まったくその気にならない。思い出そうとする途中で意識が途切れてしまう。その代わりにまったく別の思念が割り込んでくるのだ。それとは別のことを思い出そうとしてしまうらしい。なぜそうなるのかよくわからないが、何か別のことを思い出そうとしていたことは確かだ。実際さっきまで何か予感を感じていたのだった。微かに何かを予感した。何か予感がしたように感じられた。そんな気がしたのだった。それはどんな予感だったのだろう。それを思い出そうとしていたらしい。だが結局思い出すことはできなかったらしい。もうすでに思い出す余地が消え失せてしまったようだ。思い出すには時期が遅すぎたのだ。そんな時期があるだろうか。それは不明だが、それと同時に始まりの兆しも消失してしまった。終われないので始められない。しかしそれは以前からわかっていたことだ。そうではなく、さっきの予感はそれとは違う予感だったはずだろう。


12月29日

 空気の流れが気にかかる。気のせいだろうか、心なしか傾いている。ドミノの位置が微妙にずれているようだ。碁盤の上に宇宙が広がっている。そういうありふれた表現を嫌う。チェスの駒が床に散らばる。老人はいつ倒れるのだろう。3秒後には場面が転換する。それが文化であるらしい。平面を滑っていくのは碁石だけではない。手も滑る。橇も滑る。何を述べているのだろう。南海の孤島で殺し合いが繰り広げられる。そういうありふれた話は漫画の中に山ほどあるだろう。月並みな願望がそこに投射されているようだ。そしてそれをフィクション上で実現した場合、良識という月並みな反感が動作するだろう。滅びゆく文化はそういうレヴェルで担われているらしい。それを無視する勇気は持ち合わせていないのだろう。そこに留まっていたいのだ。そのレヴェルで自分達の価値観を保持していたい。事態がそれ以上進んでしまう前に、その程度の残酷さに押しとどめておきたいわけだ。おそらくそれを超えて語ってはいけないのだろう。あくまでも両者が納得づくの暗黙のルールの範囲内で対立していなければ、すべてが押し流されて、対立の基盤さえ見失われてしまう。そうなってしまっては対処することが不可能となってしまうから、その程度の素材で擁護する側も批判する側も手を打たなければならない。そういう悲惨な人々がお互いの生き残りを模索する目的で、そこで議論を闘わせている。やはりそれは滅びゆく文化にふさわしい予定調和の対立を形作っているようにしか見えない。まともな人間なら、はじめからそんなものに関与すべきではないだろう。だが、どこにまともな人間がいるのか。そんな人間などどこにもいやしない。では、まともでないから人は皆滅びゆく定めにあるのか。そうではない。まともであってもなくても人はいつかは滅びる。迫りくる生体の死は避けられない。それは当然のことだ。その意味ではこの世に滅びない者などいやしない。だからいつまでもそこに留まっていては埒があかない。保存できないものを保存しようと無駄な努力しているだけだろう。それは完全な思い違いだ。現実にはありもしない想像上の共同体への帰属意識が、人々を悲惨な行為へと駆り立てる。いったいどこの誰がその程度のフィクションで満足するのか。マスメディアによるマインドコントロールによって満足していると思い込まされているだけだ。そこに登場する有名人が満足しているように装うから、それにつられて自分もそう思うことが可能なように無理して合わせているだけなのだ。お人好しにも程があるだろう。滅び去る前にもっと別の道を模索した方がいいだろう。できるかぎり様々な可能性を試してみるべきだ。だが、それを模索し続けていれば、いつかはありふれていない表現にたどり着くだろうか。確証は何もない。ここにある言葉は依然として沈黙したままだ。決して自らは何も言わない。それはただ言葉そのものとして示され、刻まれるまでだ。だが、その場限りの安易な思考の果てにたどり着いた結論とは、そんなありふれた真実だったのか。それでは不満だろうか。それ以外に何が言えるだろう。他にどんな可能性が残されているのだろうか。そこから何を積み重ねようとしているのだろう。これ以上何を望むのか。望みはしない。おそらく望みもしないことを実際にやりとげようとしているのかもしれない。それは自らの意志とは無関係にやってしまうことだ。気のせいなのではない。気にもしないことだろう。そこに心など存在する余地はない。それと比べれば、人為的にわざとらしく制作された残酷な映像など子供だましだ。人知を越えたことを人がやらなければ驚きは生まれない。もはや驚きという言葉ですら驚きの範疇に入らないだろう。それは唖然とする間さえ与えないようなことだ。そこでは何が起こるでもなく何かが常に起こっている。しかしそれはどういうことなのか。単にそこで言葉が積み重なっているだけではないのか。たぶんそうなのだろう。それ以外にはあり得ない。それ以上でも以下でもない。そのものなのだ。


12月28日

 そのまなざしが何かを語りかける。鳥のさえずりが中空から聞こえる。風がでてきた。窓ガラスを伝う水滴が斜めに走る。何を求めているのでもない。何も求めていないのでもない。何かを求めているのかもしれない。それは特定の事物とは限らない。何も明らかにはならないだろう。だが、その何かは少なくとも未来へ向かって開かれている。将来、そこに何かを繰り入れることができるかもしれない。たぶんそれは可能性だけの何かだろう。しかしこんな展開はいつものことだ。常にあやふやなままなのだ。そしてこれ以上は踏み込めない。探るべき中心部が消失している。深淵は当然のように抜け落ちている。関知することができる箇所はそれの表面だけだろう。しかしそれは何の表面なのだろう。画面のことか?画面上に開いた窓の中身を操作変更する。そんな作業の繰り返しかもしれない。それで満足なのか?では、全身の筋肉を激しく動かせば満足するのだろうか。腕から先だけを酷使するゲーマーは満足しているだろうか。いったい何に満足しなければいけないのだろう。いけなくはない。ならねばならぬのでもない。それほど満足する必要のない場合が大半だろう。おそらく人は不満と共に生きている。世の中は気に入らぬことばかりなのかもしれない。それが行動の原動力となっているようだ。人を際限のない行為に駆り立てるのは、そうした事情によるのだろうか。それだけではないだろう。常に行為や行動に駆り立てられているわけではない。案外、何もしていないときが大半かもしれない。そういう時期もある。人によってはそういう時期しかない人もいるかもしれない。では、何もしなくても暮らしていけるなら何もしないだろうか。そうとも限らないだろう。場合によっては生理的欲求以外の何かを求めることになるだろう。知らないうちに自分とは関係のないことをやっていたりする。なぜそうなるのかはよくわからないが、何か得体の知れないものに導かれて何かをやっているらしい。その視線に目的はない。ただ漠然と眺める。例えば、疾走する車内から遠い山並みを眺める。何を求めているのでもない。蓄積されるものは無意味な記憶だけだろう。それで満足しているわけではないが、とりたててそれが不満というわけでもない。満ち足りていようがいまいがどちらでも構わないのかもしれない。それはどういうことなのだろう。満足することとは別の尺度は存在するわけか?それとは別の基準によって行動しているというのだろうか。ではその基準とはどのような基準なのだろうか。その時その場で基準そのものが変わる。しかも基準そのものがないときもある。その行動には過去も未来も現在もないのかもしれない。行動では満たされない。しかし行動していなくても不満だ。行動そのものを求めていないのだろう。意思や思考に関係なく動いているらしい。そんな時が行動の大半を占めているようだ。行動が行動から逸脱している。その行為は行為を外れている。依然として遠い山並みを眺めているらしい。その行為に変化はない。こうして言葉を刻み続けている。どこまで行っても際限のない表面を滑走し続ける。たまにはスピンしたりするのだろう。つまり、終わりはあり得ないということなのか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。終わりたければいつ終わってしまっても構わないのだ。だがその終わりは終わりではないのだろう。終わりは終わりを外れ逸脱し続ける。言葉は常に裏切られるのだろう。定着する間もなく、別の内容に変質してしまうらしい。数十年前の色あせたカラー写真を覚えているだろうか。箪笥の引き出しに仕舞ってある、あの薄汚れたアルバムを、今こそお見せしよう。なぜ今なのか。何の必然性もない。それになぜ突然こんな文章に繋がるのだろうか。たぶんその場の思いつきなのだろう。だかそれは思いつきですらない。思いつく前に言葉が出現しているようだ。それをあとから思いつきだったと、自分自身に納得させるわけだ。だが納得できはしないだろう。辻褄が合うのに納得できない。いつもあとからそんな思いに捕らわれることが多いようだ。


12月27日

 蝶番が壊れている。柱がだいぶ傾いているようだ。扉がうまく閉まらない。さっきから犬が吠え続けている。霜柱を踏みながら庭を歩く。スイッチがオフのテレビ画面が反射光によって外の風景を映し出す。灰色の風景は昔見た白黒画面を思い出す。壊れているのは蝶番だけではなさそうだ。ドアノブも外れかけている。今では懐かしい思い出になるのだろうか。犬の鳴き声は止んでいた。いつの間にか朝になる。気がつけば夕闇が迫っている。真昼の記憶は昨日に属するらしい。目覚まし時計で目が覚める。昨晩の椅子は座り心地が良かった。盲目の視線ははるか彼方を見据えているようだ。陽光を感じることができるらしい。それをなぜ文字で表現したがるのだろう。コードが絡まっているらしい。まだ足腰は丈夫なようだ。ブラインド越しにゼブラを眺めている。短針と長針が二度重なる。あれから二時間が経過したようだ。ブラインドを完全に閉じる。目が見えるということはありがたいことなのだろうか。それは当たり前のことだろう。通常はそうだ。小川のせせらぎに耳を傾ける。滝の音を聞く。鹿威しが鳴る。そこに撃ち込まれた弾丸は土手にめり込む。足許がおぼつかない。散弾が夜空に飛び散る。硫化水銀はどんな色をしていたのだろう。硫酸銅の青い結晶がガラス瓶の内部を飾り立てる。かじりかけの林檎の賞味期限はいつまでなのだろう。たぶんありふれた機種になる。いつの間にかそうなってしまうようだ。親は犬の遠吠えと赤ん坊の泣き声のどちらに腹が立つのだろう。泣き止まない赤ん坊に腹を立てて殺してしまう現象は、昔からよくあることだろう。小川のせせらぎに撃ち損じた散弾が降り注ぐ。一目散に斜面を駆け上がるのは、間一髪で逃げおおせることができた猪だろう。犬には生肉が与えられる。ソファーにもたれかかって画面を見ている。枯れ枝を折りながら藪の中を進んでいる。雪と氷の大地は海で終わっていた。何のためにそこまで行くのか。寒さと暑さの両方を同時に体験したいらしい。単独なのは強いからではない。単に気が小さいからなのだろう。他人と対話する勇気がないから、人跡未踏の地まで赴かなければならない。それが冒険心なのか。孤独な狩人は人を避けて生きている。人の匂いから遠ざかる。農民はよそ者を遠ざける。それで村落共同体を維持している。吟遊詩人は隙間に生きるしかない。現世では生きられないのだろう。板の間に座している人は瞑想に耽る。ナチュラルハイを求める中毒患者だ。禅に凝りだすと危ないらしい。密やかな楽しみは、真夜中の陽ざしに導かれ、闇の中へと消えてゆく。ひたすら月光を求める人もいる。放っていくと世の中は中毒患者であふれかえるだろう。それは望むところだ。そこに打ち込まれたのは弾丸ではない。盲目の視線が光線となってどこかへ延びてゆく。岩だらけの山頂から青い光が放射される。十字の影が雲に反射する。卍の車輪が石段を駆け下りる。転げ落ちる。下り坂では止まらない。その速度ではカーブを曲がりきれない。ガードレールをぶち破って谷底へ真っ逆さまに落ちてゆく。その軌跡を眺めてみよう。おそらく映像からのフィードバックに酔いしれているのだろう。盲目であることは映像からの自由を獲得することになる。大地に降り注ぐ日差しからも自由になれる。日差しは容赦しない。人々の精神に直接働きかける。肌にはメラニンを染みこませるのだろう。紫外線によって細胞が壊れる。たまには癌になったりするらしい。その強烈な日差しの下で砂漠の宗教は育まれた。日差しは人々にいっさいの妥協を拒むように教えた。今こそ物事の白黒をはっきりさせなければならない。だがそんな勇気は持ち合わせていない。鎖を外された犬はうれしくてしょうがない。猫を捕らえて遠慮なく殺す。動物に対する躾とは何だろう。人の知恵は虚しいものだ。明け方、車のヘッドライトに驚いて飛び出した狸は轢き殺された。年がら年中その道路工事は続いている。数年前の舗装はすでに轍ができ始めている。また削って再舗装しなければならないだろう。


12月26日

 真っ白な光景を目にしている。雪景色なのだろうか。見渡すかぎり、白以外には何も見えない。だが、そこに何もないわけではないだろう。探してみれば何かあるはずだ。何も見いだせないのは相変わらずのことだろうが、それは見いだそうとしていないのだから仕方ない。だが、見いだせないまでも、何かしら見つかってしまうはずだ。無理に見ようとしなくても、自然に見つかってしまうものがあるはずだ。確かにそれはあるかもしれないが、仮に何か見つかったとしてもわざと無視してみよう。たぶんそれについて言及するのが面倒なのだ。では、真っ白な光景を目にしているというのは嘘なのだろうか。いったいどこに白い雪景色が広がっているというのか。おそらくどこかに広がっているのだろう。冬の荒野にでも行ってみれば容易に見つかるはずだ。そこまで出かける暇がない。ならば、画像や映像で我慢すればいいだろう。例えば、カレンダーの中に白い光景が広がっているかもしれない。いつの間にかそんな季節が到来している。ところで、来年はいつから始まるのだろうか。たぶん1月1日からなのだろう。それはわかりきっていることだ。それを知らない者は滅多にいないだろう。そんなことにとりたてて疑問を差し挟む余地はない。それは、今どき日めくりカレンダーを毎日引きちぎっていることにさしたる重要性を感じないのと同じようなものだろうか。おかしな喩えだ。今までにそれが重要だった例があったろうか。それに両者の間にどのような関連性があるというのか。よくわからない。だがよくわからないことは他にもあるだろう。確かにいろいろある。例えば、なぜ今年は12月31日で終わらなければならないのか。なぜそれがよくわからないことなのかよくわからない。どうもそれを本気で述べているのではなさそうだ。なぜか脱力感に襲われているらしい。今まで何をやってきたのだろうか。いったいどのようなことをやってきたつもりなのか。そして現実はどうだったのか。それについてどのような感慨を抱いているのか。それによって何が明らかになったのだろうか。今もって何も明らかにはなっていないような気がする。明らかにしようとしないのだから仕方がない。だがそれでいいだろう。あまり多くは望まない。今さら何を望む気も起こらない。相変わらず世の中はマスメディアが煽るセコい感情に支配されているらしい。だから森首相にはもう少しがんばってもらった方がいいだろう。現実にはもう息切れ寸前かもしれないが、あと三年も続けたら、この国は凄いことになっているだろう。それは無理なことだろうか。無理かもしれないが、一応はそれを期待しておこう。たぶん、本気で期待しているのではなさそうだ。期待が裏切られたらそれはそれで構わない。結果がどうなろうと知ったことではない。それはどうでもいい期待だ。ではそれ以外に期待することはないのか。本気で期待することはないのだろうか。ない。たぶんこの時期の新聞や雑誌には二十一世紀への期待がいやというほど載っていることだろうから、期待などそちらに任せておけば事足りるだろう。別にこちらで期待するには及ばないだろう。こちらでは何も期待しない。おおかた何も期待されていないだろうから、こちらから何かを期待する必然性がないのだろう。こちらでは、ただ何もない空白の時間に充たされている。過ぎ去ろうとしているのは二十世紀だけではない。大衆文化も過ぎ去ろうとしている。人々を愚かなレヴェルに引き留めてきた者達も徐々に表舞台から退場しつつある。彼らの商売が立ち行かなくなる日も案外すぐ近くまで迫っているのかもしれない。だが本当にそうなるだろうか。現実には、様々な価値観や主張がひとつにまとまらなくなってきているのかもしれない。今までひとつのものを皆で共有することを可能にしていた、共通の枠組みというものが消失しつつあるらしい。だからこれからも価値観や意見が多種多様にどんどん分散していって、ひとつにまとまる余地が完全に消滅したらいい。それが誰も支配できない世界を可能とするだろう。


12月25日

 釘が一本足りないらしい。詰めが甘いのだろう。面倒だとすぐ勘に頼ってしまう。根気というものが皆無なのだ。情熱などさらさらない。それが自我の弱さを露呈させる。だからすぐに飽きてしまう。何事においても本気になれない。集中力など端からない。しかし、それでうまく行くときも時たまある。だがら甘えは治らない。年中痛い目にあっているのに、性懲りもなく同じことを繰り返しているようだ。それで通用しているのだから仕方がない。通用しなくなったときは、この世から消えるときなのだろうか。そうかもしれない。しかし、それでもなおのことどうでもいいのだ。それらの言説に何一つ繋がっているものはないだろう。すべては相変わらずの戯れ事なのだろう。それ以外にはあり得ない。たまにはそれ以外のやり方を期待したいのだが、なかなかそういう方向で努力することはできないらしい。しかしそれは本当なのだろうか。言っていることとやっていることがことごとく食い違っているような気もする。いったい何をやっているのだろう。それがいまいちはっきりとは認識できていないようなのだ。だが、真の姿など認識できるわけはない。たぶんそれが真実だとは認めたくないのだろう。真実は誰の味方でもない。それとは逆に、偏見はいつも自分の味方だ。絶えず自己や自分の立場を正当化させるために偏見を必要としている。自己にとっては偏見こそが真実だ。だがその真実は真実でない。真実が特定の誰かの味方であるなんて、到底信じられない。だから真実は信仰とは無縁だ。それが真実だなんて信じられないからだ。むしろ、信仰こそが偏見を必要としているのかもしれない。誰もが信じられるような偏見を必要としているのだろう。誰にとっても都合の良い偏見が幅広く真実として信じられている。そんなことがあり得るだろうか。ある程度はそうなのだろう。そしてまたある程度は、それとは異なる真実も存在するだろう。中には好きこのんで都合の悪い真実を暴露したがる者もいる。さらに、それを商売としている者までいる。そんな真実も信じられやすい。それを使って他人をからかったり笑い者にしたり攻撃したりできるからだ。そういう人間にとってそれは都合の良い真実になるだろう。それは敵と味方の二項対立を媒介する真実だ。それの真偽を巡って両者が対決するわけだ。だがそれは一方の側からすれば真実ではない。真実とは認められない。到底受け入れがたい真実だ。そういう真実は矛盾している。闘争によってどちらの主張する真実が真の真実であるかを決めることになる。それはかなり退屈な真実だろう。真実は、はじめから真実ではなく、あとから闘争の勝者によって示されること自体、そのような過程そのものが真実からは程遠い。やはりそんな真実も信じられない。だから真実は信じられないのだ。ではいったい何を信じたらいいのだろう。ただ、何かを信じればいいだろう。その時々で、気まぐれに気分次第で、信じたり信じなかったりすればいい。信じることそれ自体は、それほど重要なことではない。では重要なこととは何だろう。それは、その時々で違ってくるだろう。偶然や気まぐれや気分次第で変わってくる。例えば、ある時点では重要なことであっても、別の時点では重要ではなくなるときもある。真実もその時々の見方考え方で変わってきてしまう。そんな物事は真実とは言えないだろうが、ある時点では真実として通用しているのだろう。まったくもって、言葉の意味そのものが信用できないだろう。何もかもがはっきりしているときとあやふやなときがあるようだ。それらは決して均質に配置されたりはしない。透明と不透明が常に同居している。そんな世界に包まれているらしい。だが、こんなことをいくら述べてみたところでどうにかなるわけでもない。同じことの繰り返しでしかないだろう。しかしそうせざるを得ないらしい。そんなことしか述べられないようだ。たぶんそれを絶えず繰り返すことしかできないだろう。なぜだろう、そのなぜだろうも繰り返される。


12月24日

 どうかしている。確かにどうかしているのだろう。だがどのようにどうかしているのだろうか。それをこれから考えてみようか。別に考えてみるまでもないだろう。考えるには及ばない。それはわかりきっていることだ。別にどうかしているわけではない。いつも通りの展開なのだろう。そんなふうにどうかしていると述べることがいつものやり方なのだ。そして前言をうち消しながら話を進めて行くのもまったくいつものことだろう。それは同じことの繰り返しなのだ。なぜそうなってしまうのか。やはりそれもわかりきっていることだろうか。そうかもしれない。たぶんそんなことしかできないのだろう。本当にどうかしているらしい。それを認めざるを得ない。どうすることもできないでいる。そうなってしまうことを拒否することができないようだ。だからどうかしている状態なのだろう。そんな気分に浸ってみる。気が動転しているつもりになる。だがそれは、あくまでも仮の話だ。まるでことの深刻さが抜け落ちている。そんな話は理解できない。できることなら四百兆円も借金してみたいものだ。個人では到底できはしないだろう。まるで冗談のような額だ。目眩がするような金額だが、なぜかうきうきしてくる。よくそこまでやったものだ。それが許されるのだから仕方がない。ある意味ではあっぱれなことかもしれない。そうなることに批判がなかったわけでもないだろうが、現実にそれを許してしまったのだからどうしようもない。むしろこの期に及んで意気盛んな人もいるらしい。こうなった以上誰も責任をとろうとはしないだろう。責任をとりようがない。たぶんそれでも大丈夫だと思っているのだろう。そんな空気が支配的だろうか。案外そうなのかもしれない。そう願いたいものだ。だがそんなことはどうでもいい。どうでもよくはないのかもしれないが、まるで話に切迫感が感じられない。別に借金取りに追われているわけでもないのだから、それは当然だろう。誰が借金をしているかもよくわからない。それは本当に借金の範疇に入ることなのだろうか。確かに将来返済を迫られはするのだろうが、その債券証書がただの紙くずになってしまう事態がなきにしもあらずかもしれない。旧日本軍が発行した軍票は現実にただの紙切れになった。実際にいったい誰がその債券を買っているのだろうか。まさか銀行や郵便局が勝手に割り当てを押しつけられて預金や貯金を財源として買わされているのだろうか。そうでないことを願いたいものだ。そうであったら即刻やめて欲しいが、預金者の願いなど聞き入れられないのかもしれない。しかし国債が紙くずになったら、その国の通貨自体もほとんど無価値ということかもしれないから、いくら預金していても意味をなさないということになるのだろうか。その辺はあまり詳しくない。実際どうなのだろうか。近い将来そんな事態が訪れたりするのだろうか。では、そうならないように、世界で一番国力のある国の一番の大銀行に、その国の通貨で預金しておけば、相対的に一番リスクが少ないだろうか。だがそこまで手間をかけるに値するほどの預金額ではない。破綻したらしたで、そのときは素直にあきらめよう。はした金をせこく貯めていた自分が馬鹿だったのだ。たぶん、国や銀行など、はじめから信用していない。金も信用できない。では信用できるものとは何だろう。さあ、わからない。これからもわからないと思う。何も信用できないというわけでもない。ある程度は信用しているのだろう。だから銀行に預金しているし、この国の通貨も使用している。実際に使えるうちは信用するしかない。使えなくなったときに、はじめて裏切られたと感じるのかもしれない。しかしそれでは遅すぎるのだろう。だが、そうなるより仕方ないのだろう。つまりそうなっても仕方がないという程度の金しか所持していないということだ。もっと多くの金や資産を所持している人なら、当然そうなったときのリスクを避けるために、いろいろな手段を講じていることだろう。


12月23日

 それは仮の話らしい。どうも仮の話が好きらしい。だが、何が仮の話なのだろうか。それをこれから考えよう。そこで意外な事態に遭遇しているつもりらしい。しかし、それをあまり深刻に受けとめているわけでもない。ところでその事態とはどんな事態なのだろうか。たぶん、それは冗談の一種なのだろう。例えば、深刻な冗談というものがあるだろうか。今までにお目にかかったことはないような気がする。では、そういうものにお目にかかれて光栄なのだろうか。そんなものがあったら少しは面白いかもしれない。だがそれはたとえばの話だ。実際に遭遇してみないことには何とも言えないだろう。どうやら相変わらずの言葉遊びに終始しているようだ。まるで実質が伴っていない。切迫感が感じられない。ではそれはつまらぬ戯れ事なのだろうか。たぶんそうなのだろう。そうかもしれないし、それしかできないのかもしれない。もちろんそれしかできないわけでもないのだろうが、あまり時間的な余裕がないのだろう。限られた時間内で何ができるわけでもないし、やる気そのものがないのかもしれない。つまり、前言をうち消すことしかできないということか。少なくとも今はそうなのだろう。煮詰まっていないようだ。低空飛行のままかもしれない。それも仕方のないことだ。崩壊の前兆はいつまでも引き延ばされる。いつ破綻するのかわからなくなる。当面の危機は脱したつもりらしいが、誰がそれを保証しているのだろうか。誰も保証はできないだろう。そもそもそれが本当に危機だったのだろうか、それさえも曖昧だ。たぶん、深刻な事態に遭遇して、かろうじてそれを乗り切ったとき、誰もが納得するような達成感に包まれるのだろうが、現実はそういうドラマチックな展開にはならないようだ。はじめから、乗り切ろうと努力する気になるような事態には遭遇しない。そんな心構えを準備する余裕など与えられてはいない。知らないうちにそれに巻き込まれているのだ。そして自分とは関係のないところでわけのわからない決定が下されている。自分にはどうすることもできない。しかもそれを拒否するという選択肢は用意されていない。不平を述べるいとまさえ与えられてはいない。それは受け入れられない事態だ。だから受け入れないだろう。では、それからどうなってしまうのだろうか。どうにかなるのだろう。そこで新たな事態が生まれるわけだ。事態は平行線のまま推移したりするのだろうか。そうなることもあるだろう。新たな妥協案が導き出されるまではそうなるより仕方ないだろう。しかしそれが危機だったりするのだろうか。妥協が成立すれば危機を乗り切ったことになるのだろうか。それで達成感に包まれたりするのだろうか。わからない。確かにそうなる場合もあるだろう。だがそうなったとして、それがどうしたというのか。たぶんそんな気分はすぐに忘れてしまうだろう。仮に、忘れずに良い思い出として記憶に残ったとして、あとからそういう思いをかみしめることにどのような意義があるというのか。つかの間の良い気分に浸ることができる。それは精神衛生上良いことかもしれない。あるいはそのときの経験が教訓として後の人生に役立ったならば、それは実益をも伴うことになる。なるほど、そうなれば大変結構なことではないか。そうなればいいだろう。なぜそれを拒む理由があろうか。それを拒否するという選択肢は用意されていないだろう。自分の知らないうちにサクセスストーリーに巻き込まれているのだ。不平など述べられるわけがない。そんな展開になったらさぞや面白いことだろう。しかしそれはどこまでも仮の話でしかない。確かにそこでは成功という意外な事態に遭遇しているが、仮の話など真に受けようがないだろう。たぶん、それは冗談の一種なのだろう。その話に深刻さなど微塵も感じられない。そんな話にお目にかかれて光栄でもないだろう。それは相変わらずの言葉遊びなのだろう。つまり、ここでも前言をうち消すことしかできないということか。


12月22日

 たまの気まぐれで本気になったりするらしい。だがすぐにその感情は引っ込めて、何事もなかったかのようにいつものやる気のなさを装う。本気にはなれない。それはいつもの台詞だ。だがそれが本心なのだろうか。心の底からそう思っているのだろうか。そうかもしれないし、そうではないのかもしれない。そんなことは知らないし、知り得ない。わからないし、わかるはずもない。知ろうとしていないし、わかろうとしていないらしい。たぶん、それはどうでもいいことなのだろう。それは単なる気まぐれであり、気晴らしでもあるのだろう。しかし何が気まぐれで、何が気晴らしなのだろう。とたんに述べている対象がわからなくなる。まったく、いつもながらの意味不明だ。それを本気で述べているのではないのだろう。何かのきっかけで、たぶん偶然に、気まぐれに気晴らしの言葉を記述してみる。そんなことの繰り返しだ。近頃はそれしかないし、それ以外にはあり得ない。そういうやり方はマンネリだろうか。たぶんそうなのだろう。だからといって他のやり方はできないだろう。だからそればかりになるのは仕方のないことだ。仕方はないがそればかりではつまらない。本当につまらないだろうか。それは後で読んでみればわかることだろう。だが、後ではたして読む気が起きるだろうか。それは後になってみればわかることだろう。今この段階では、何とも言えないことだ。その辺の時間的なズレが歯痒く感じられるときもある。だがそれは時間が解決してくれるだろう。いずれにしても時間が経過すればわかることだ。そのときつまらなく感じたら失望でもすればいいだろう。今ことさらに、その失望を先取りして感じる必要もないだろう。失望するような未来に責任をとれるわけでもない。未来は未来で今は今でしかない。未来や過去に存在する人々に対してどう対処すればいいのだろうか。そもそも対処できるだろうか。不可能なのだろうか。たぶんそれらの人々を自分の利益のために利用してはいけないのかもしれない。倫理的な態度とはそれを実行することなのか。ではそれをどのように実践すればいいのだろうか。今存在する人のみならず過去や未来の人々も生かさなければならないらしい。では、それらの人々をどのように生かさねばならないのだろうか。過去に埋もれた人々の言説を未来の人々に伝えるために、このような場でそれらを積極的に紹介していけばそれでいいのだろうか。それ以外に何ができるだろう。それで過去現在未来に存在する人々を生かせるのか。無理だろう。限界がある。それは仕方のないことなのか。そうかもしれない。では、できる範囲でやったらいいということなのか。そうなるよりほかないのだろうか。たぶんそういうことだろう。だが、それで責任を果たしたことにはならない。責任など果たしようがない。果たしようがないが、それを放棄して、好き勝手にやればいいというわけでもなさそうだ。ではそれに対してはどうすればいい。無責任に利益を追求しようとしている人々を批判すればいいのだろうか。確かにその程度のことならできるだろう。やってみればいい。それをやったとしても責任を果たしたことにはならないだろうが、とりあえずその程度のことはやらないよりやった方がいいのかもしれない。たとえなんの利益も得られなくても、それをやればいいだろう。やらないよりはやった方がマシだ。しかしそれでもなお、気が進まないことばかりだ。気持ちはなかなか晴れない。曇り空の下で途方に暮れているようだ。たぶん虚しいだけなのかもしれない。実体が何もないからなのだろうか。ことさら利益を否定しなくでもいいのかもしれない。だがその先は不透明だ。相変わらず何も見いだせないままだ。何をやるにしても欲求が欠如している。別にやらなくてもいいことが、やる気をなくしているようだ。だがやる気がなくても自らの意志とは無関係にやってしまうのだろう。それは無意識でさえなく、何かに操られているのでもなく、なぜか偶然の気まぐれでやってしまうのだろう。こればかりは制御しようのないどうにもならないことだ。


12月21日

 また夜が来た。毎晩夜が来るだろう。明日には昼になる。それは当たり前のことだろう。そこにどうして疑問の入り込む余地があろうか。あるわけがない。ただ、昼になったり夜になったりするだけのことに、なぜやどうしてはあり得ない。交互に暗くなったり明るくなったりするしかない。しかし、そのことがある困難に直面させている。なぜそれが困難なのだろう。それは回避できないことだ。選択の余地もない。選択肢が何もない。なぜ可能性がないのだろうか。ここからすぐには変われないだろう。しかもこの状況から逃げることは不可能だ。交互に繰り返される昼と夜の到来をどのようにして回避すればいいのだろう。しかしなぜそれを避けなければならないのか。理由は知らない。知りようがない。では、誰がそうしたいのか。それも明らかでない。たぶんそんな試みに挑戦する人物など誰もいやしないだろう。現状では昼と夜の到来を回避する手だてはない。ではこれからどうしたらいいのか。どうにもできないし、どうする気も起こらない。はじめから昼と夜を回避したいとは思っていない。ではなぜそうしたいようなニュアンスを匂わせたのか。ふとしたきっかけでのほのめかしが、そのまま実際にやりたいことに直結するわけではない。たぶん困難は別の所にあるのだろう。それは得体の知れない困難なのかもしれない。何一つ明らかでない、漠然とした困難だろう。本当にそれが困難なのかも不明だ。しかし、本当に困難に直面しているのだろうか。わからない。ただ漠然とそうした思いに駆られるらしい。確かにこのような状況に直面していることは事実だ。この現状を前提として先に進まなければならないらしい。だが、そう簡単には進めないだろう。進もうとも思わない。進む気が起きないようだ。では後退すればいいのか。それも面倒だ。たぶんどうしたらいいかわからないのだろう。しかしそれは、たぶんでしかない。それはどこまでも推測の域を出ない。本当のところはよくわからない。今のところすべてはあやふやなままのようだ。しかもこれからそれらがはっきりする当てもない。いつも目の前には靄がかかっていて、焦点のはっきりしない視界に苛立ちながらも、手探りでどこかへ進もうとしているようだ。できることが限られている中で、特に何をやりたいわけでもなく、また何をする気にもなれずに、だが実際には何かをやっているらしい。これをどう説明したらいいのだろう。明確には何一つ説明できないだろう。だからこんなあやふやな述べ方になってしまう。別に必死になって出口を見つけようともがいているわけでもない。もがく気さえ起こらない状況だ。やる気はとうに失せたまま、立ち直ろうともしないまま今に至っている。しかもここのままでいいと思い始めている節もある。これはどうしたことだろう。どうもしないことは当然なのだが、どうもしないままでもいいだろうが、どうもそうはならないような予感も微かに感じられるのだ。しかし、この期に及んで積極性は期待できないだろう。何をやるにしても消極的な受け身の姿勢をとらざるを得ない。臆病なのだろうか。それもあるだろうが、世間で行われている積極的な努力に対する根深い不信の思いがあるのだろう。それらのほとんどがくだらぬ次元に留まろうとしているからだ。それらはあくまでも目標となる夢に向かって進もうとはするが、その夢を超える気はないようなのだ。あらかじめ設定されている目標の範囲内での努力には限界がある。たぶんその許容力にも限度がある。その限界を超えた状況には拒否反応しか示せない。自らの夢を超えるような可能性を受けつけないのだ。その可能性が明らかになったとたんに現状維持に躍起となる。誰もが自分に対しては保守主義を貫いているのだろう。自分の存在が脅かされたりすれば、容易にそういう体質が露呈するだろう。結局そういう人々は、夢と現実を折衷する功利主義にならざるを得ないだろう。そのようなやり方が今ここに厳然と存在しているこのような現状を支えているのだ。こういう現状を批判する人々が、こういう現状を支えている現実は皮肉なことだろうか。それは当然のことだし、当然の成り行きだし、当然の帰結でもあるだろう。


12月20日

 面倒なので何も語らずに済ませよう。何を語るわけでもなく、ただ余白に記述する。偶然に思いついた適当な言葉を気まぐれに記入してみよう。だが、気の利いた言葉などそうは思いつきそうもない。ではどうしたらいいのだろう。どうもしない。何か興味を惹くような話題を探した方がいいだろうか。そんなものは何もない。何も思いつかない。探したところで何も見つからないだろう。だいいちどこを探したらいいのだろう。探す当てもない。それは本当か!本当だ!突然何を驚いているのだ。そんなことには驚かない。驚きようがない。驚くべき要素が見つからない。しかしなぜ驚かなければならないのだろう。別に驚かなくてもいいはずだ。驚くには及ばないだろう。本当にこのままでは何も驚きを覚える出来事には巡り会えないだろう。これは驚くべき状況なのかもしれない。にもかかわらず、依然として驚かない。こんなことに驚きはしないが、驚くべき状況に直面しているらしい。ようするに、驚きがないことが驚くべきことなのか。それはいかにもありふれた逆説だ。だが、そんなことがあり得るだろうか。あるかもしれないがあるわけがない。あるわけはないが、記述することはできるだろう。こうして驚きのない状態を記述している。そして、意味のない記述に終始しているらしい。これでは何も響きはしないだろう。しかし、これがどこに響けばいいのかがわからない。どこにも響く当てがない。響かす必然性を感じない。どうやら自らの感性が着実に鈍化しつつあるようだ。しかしなぜそうなってしまうのだろう。たぶんそれは思い過ごしだろう。はじめから感性などない。だがそんな気休めの台詞は聞き飽きた。しかしなぜそれが気休めなのか。思い過ごしなどではない。それは嘘なのだ。嘘でさえない。ではなんなのか。なんでもない。別に驚くべきことではない。たまたま成り行きでそう述べてしまっているだけなのだろう。本当は驚いている。さっきの本当は嘘の本当だ。では嘘の驚きが本当の驚きなのか。本当は驚いているが、その驚きには驚かない。それは嘘だからだ。それはどういうことなのか。何を述べているつもりなのだろう。まるで一貫性のない言説だ。たぶん何かを述べているようで、実際はほとんど何も述べていないのかもしれない。何も述べていないのに、何かしら適当に記述することはできるようだ。どうらや、はじめから内容が空っぽなのだろう。それは、はじめからわかりきっている。ただ惰性で記述しているだけかもしれない。それもわかっていることだ。なぜそのように記述してしまうのか、その理由や原因はよくわからないのだが、それも嘘だ。本当はわかっているが、よくわからないことにしておこう。本題にはいることを避けているらしい。とりあえず、前置きはこれくらいにしておこう。なぜこれがとりあえずなのか、そして、なぜこれが前置きなのかも不明だ。煮詰まっているということだろうか。どうやらこの辺で横道に逸れなければ話が続かないらしい。しかしなんの話をしているのだろうか。これは話ではない。これは話にすらならない、内容のない空っぽの話なのだろうが、このような展開には、何らかの偶然と必然が作用していることは確かなようだ。だが、それがどうしたというのだろう。どうもしやしない。ただそれだけのことなのだ。これでは挙動不審だろうか。いったいなんのつもりでこんなふうに振る舞っているのだろう。これが振る舞いなのか?立ち振る舞いではないが、これも何らかの演技なのかもしれない。なるほど、職務質問を期待して挙動不審者を演じているわけか。しかし、いったいどこの誰が職務質問をするというのか。さらに意味不明になってきた。元からそうだろう。元からわけがわからなくて、元から意味不明だろう。ようするにこれらは煮詰まりを演じているということか。演じているのではなく、現にそうだろう。そうとしか思えない内容だ。いや、内容がない内容なのだ。たぶん、それが唯一の救いだろう。なぜ救いなのかはわからないが、ともかく救いだと述べておこう。そう述べればそれが救いになるだろう。まったくいい加減なことだが、そう述べるより仕方ないだろう。


12月19日

 しかし何を所有しているというのだろう。それは言葉なのか。言葉だけではないはずだ。では、言葉の他に何がある。たぶん何かがあるのだろう。それをわかろうとはしない。その代わりに癒しのための音楽でも聴いていればいいらしい。そんなごまかしが通用するのか。通用するもしないもどちらでも構わない。問題にはならない。だから決まった答えもない。結局何を言いたいのかわからなくなる。何を言いたいのだろう。それがわかったら苦労はない。しかもそれがわからなくてもいいのだ。呆れてばかりの毎日のようだ。ため息をつきながらも相変わらず夢の中なのだろうか。夢想家はどこまでも夢想家であるらしい。壊れかけの夢はどこに仕舞われているのだろうか。その納経にはどんな夢が詰まっていたのだろう。指先の感覚が麻痺してきた。よくありがちな表現だ。おおかた雪山で遭難でもしたのだろう。そうなんです。突然の駄洒落には驚いた。だがそれのどこがおかしいのだろう。たぶん、指先とともに他にも麻痺しているところがいくつかあるのだろう。いつかは夢が現実になる。そんな希望とともに生きているそうだ。確かに現実になるだろう。そのとき叶わぬ夢が哀しく語られるのだろう。しかもそれだけではない。叶ってしまった夢までが哀しく語られるのだ。琵琶法師はうたかたの栄華を物悲しく語ってみせる。まるで破滅の前兆が栄華であるかのごとく物語ってみせる。その仕掛けにだまされてはいけない。今こそ壊れた夢を修復しなければならない。それが残された唯一の希望だ。なるほど、嘘はいくらでもつけるのだろう。嘘にもいくらか救いが含まれていることだろう。夢想家にはその救いすらない。夢がすべてだからだ。それは嘘ではなく真実である。だから救いがない。ごまかしは通用しない。だが、通用しなくても一向に構わない。くだらぬごまかしをいつまでも繰り返していれば、いつの日かそれが真実になるだろう。それが唯一の希望なのかもしれない。叶わぬ夢とはそのことを指しているのか。いくら嘘を積み重ねても嘘は嘘だろう。しかしそれではつまらないわけだ。そこでフィクションが出現するらしい。これは真実の物語だと作り話の中で宣言することになる。うまいやり方だ。しかしことはそんなに単純だろうか。そうではない部分もある。ある部分では作り話も真実を含んでいる。それが実際に作られたことは紛れもない真実なのだ。作り話を作る過程には真実が含まれている。話の内容は真実によって作られる。それはどのような真実だろうか。そこで様々な言葉がつなぎ合わされてひとまとまりの文が生成される。それは嘘ではない。だが真実はそれだけなのだろうか。他に真実はないのか。たぶん他にも何かあるのだろう。だがそこで思考を停止しておこう。真実はつまらない。ため息交じりにそう呟いておこう。真実などどうでもいいことだ。確かにここではどうでもいいことなのだろう。真実など裁判で明らかになればそれでいい。それ以外に真実の使い道など何もないだろう。嘘も方便なら真実も方便だ。ついでにどさくさに紛れてわけのわからないことを述べている。そもそも言葉そのものが方便なのだ。だが、そうなると方便以外には何もないことになる。この世は方便だけで動いていることになってしまう。しかし方便は都合のいい嘘だ。では、この世は嘘だけで動いているのか。真実は動かない。確かに動かぬ証拠は真実だ。とすると、世の中が動いているのは嘘なのか。だいぶこじつけ気味な展開になってきた。たぶんそんなことはないだろう。何かと何かが意図的に混同されているようだ。それは毎度のことだ。何とか話を面白くしようとして嘘をつく。事実をねじ曲げてまで嘘をつく。それはよかれと思ってやっていることなのだろうが、やはり嘘はどこまで積み重ねても嘘だ。だが、なぜことさらそんな当たり前の結論が導かれてしまうのだろうか。それはおかしいことか?それは嗤うべき事柄だろうか。しかし、もっとマシな言い方はないのか。うまいやり方は何も浮かばない。嘘でもいいからもっとマシな嘘をついてみよう。しかし眠気はなかなか去らないようだ。


12月18日

 大地の裂け目は至るところにあるらしい。それは活断層と呼ばれるものだろうか。海溝の底にはどんな世界が広がっているだろうか。不信の元はどんなきっかけから生じるのだろうか。気分次第で行ったり来たりする。突然意識が飛ぶ。退廃期のローマ帝国は地上の楽園だったらしい。たぶんそんな雰囲気を味わってみたいのだろう。どこまでが本気なのかつかみかねる。奈落の底で諍いが起こる。すべては想像の世界で起こっていることだ。イマジナリィウェスタンを聴きたくなった。常緑樹の葉は冬でも青い。樫の木の幹に刺さった釘を抜く。枯れ枝を折って火にくべる。それからどうしたのだろう。言葉に詰まる。何か哀しい出来事でもあったのだろうか。それはエデンの園で起こった出来事だろうか。旧約聖書でも読んでみるといい。指に刺さったとげを抜く。それは死とは無関係な出来事だ。たぶんこの世の楽園は老人の王国だろう。老人ホームがそうなんだろうか。動物園はエデンの園に近い雰囲気だ。では老人ホームと動物園の共通点は何だろう。探してみるといい。ダイジェスト版で相撲をみるとわかるだろう。そこに欠けているものは若さか?そんなわかりやすいものでもないだろう。たとえそれを見つけられたとしてもどうなるものでもない。そんなことはどうでもいいことだ。別に憎しみが蔓延して心を破壊しているわけではない。そこいら中に蔓延っているのは愛だ。その愛が憎しみと嫉妬を呼び込むことになる。では人を愛さなければいいのだろうか。それはできない、人は必ず誰かを愛さずにはいられなくなる。それは本当だろうか。それはどうしようもないことだ。必ずしも本当ではないのかもしれないが、一度はそういうキザな台詞を吐いてみたくなるものだろう。その言葉にリアリティは何もない。たぶんフォークシンガー気取りなのだろう。今までの成り行きを再考してみる。邪悪な力はどこから発現するのだろうか。宝探しの冒険でもすれば、どこからともなく現れるだろう。現実の世界はそのような成り行きにはなっていない。実際の邪悪さはいつも中途半端だ。どうということはないつまらない小市民がふとしたきっかけで人を殺めてしまう。ニュースに登場する邪悪さはその程度の邪悪さだろう。それは邪悪さの範疇にすら入らない邪悪さだ。しかしそれ以外は邪悪さではなく真面目さが剰って犯行に及ぶのかもしれない。では、真の邪悪さとはどのようなことを言うのか。そんなことは知らない。どうやら邪悪さとは無縁の生活をしているらしい。邪悪な人より真面目な人の方が怖い。思い詰めたら何をするかわからない、そういう怖さがある。おそらく、邪悪さはフィクションの世界を形成するかもしれないが、真面目さは実質を伴っている。真面目な人間は邪悪な物語に簡単に染まってしまう。そして物語上の虚構を現実の世界で実践しようと試みる。そのような努力を本気でしてしまうのが真面目さの本質だろう。だからシャレの通用しない真面目人間は恐るべき可能性を秘めている。だからこそ、安易に真面目さを馬鹿にしてはいけないのかもしれない。日頃から真面目な人を大切にしていないと、いつか恐ろしい結果を招くだろう。たぶん真面目人間が馬鹿にされるようになったら、それはその社会が崩壊する兆しなのだろう。だが、それでいいのだ。崩壊しなければならない。それで結構だ。どんどん真面目人間を嘲って欲しい。いつの世でも真面目人間は馬鹿にされる宿命なのだ。容赦や手加減はいらない。いじめることこそがいじめる側を自滅に追い込む。いつかは歯止めが利かなくなり、暴走してしまうのだ。その暴走そのものが凶悪な印象や邪悪さを醸し出す。こうして邪悪な人間が生み出される。真面目な人間を必要以上に攻撃することが、自らの邪悪さを目覚めさせてしまうことになる。その結果、真面目人間は事件の被害者として正当化され、それを必要以上に攻撃してしまった邪悪な者には、犯罪者としての後ろ暗い人生が待っていることだろう。躓きの石は真面目さを馬鹿にする社会の風潮だろう。だがそのような風潮が蔓延している社会こそがこの世の楽園なのだ。失楽園こそ楽園の極みである。


12月17日

 遅れを取り戻す試みは不毛だ。だがその不毛な大地で踊っている者もいる。舞っているのは木の葉だけではないようだ。ある場所では札束が舞うかもしれない。たぶん、その手のアクション映画の中では頻繁に舞うだろう。その言葉づかいが気に入らないらしい。そして何もかもが気に入らなくなる。不安定な大地だ。いつも饒舌なのだろう。その丘から転げ落ちてくるのは愚か者だけではないようだ。餓死者も坂を滑り落ちてくる。なぜ一滴の水も口にしないのだろう。激しい下痢には避雷針が役に立つらしい。近頃流行のダイエットはミイラになることなのか。拒食症はダイエットとは無関係であるらしい。ピラミッドのてっぺんに雷が落ちる。メソポタミアの大地では砂漠の嵐作戦で死体が黒こげになった。それがアメリカンヒーローを呼び込んだらしい。政治とは愚かさの積み重ねだ。どこまでやってもきりがない。何を想っても無駄だ。思い出されるのは塹壕から聞こえる断末魔の叫び声だけだろう。火砕流に巻き込まれて鎮魂の記念碑が造られる。有機水銀は利益をもたらす。海の底で何を想っているのだろう。何も想いはしない。たぶん石の大地から鉄の意志を読み取るだろう。復讐の願いなど叶えはしない。素直に成仏して欲しい。誰にも聞き届けられぬ思いは海の藻屑と消え去る運命だ。恨みの声などただ聞き流されるだけだ。だから悪人でも成仏することができる。金さえ払えば免罪符も手に入るだろうし、立派な戒名を墓石に刻んでもらえるだろう。だがらどうなるわけでもないが、それはそれで金持ちにはふさわしい未来の姿だろう。貧乏人は立派な墓地の傍らで物乞いでもしていれば幸せかもしれない。そこにあるのは別に何のための死でもない。ただの死だ。そこに見いだされるのは、焼け野原に舞う鴉の群だろう。そんなことはあり得ない。たぶんそれは嘘だろう。作り話だ。鴉の群は麦畑に舞う。そんな絵を見たことがあるらしい。だがその先が続かない。その絵の作者は自殺するしか術がなかったようだ。現状はどこで虚構とつながっているのだろうか。それはすべてだろう。どうやらありもしないことばかりを口にしたいらしい。それしか他に術がないようだ。そんなこともあり得ないだろうか。ペリカンの群のすぐ近くにフラミンゴの群が飛来する。それは合成映像だ。ユーカリの林が大規模な山火事を引き起こす。それらのどこに関連性を設定できるだろうか。たぶん思い浮かぶ光景は、飛び飛びの何の関連も見つけられないようなものばかりなのかもしれない。それらを強引につなぎ合わせようとすると、たぶんフィクションになるより他はあり得ないのだろう。何を述べるにしてもフィクションに頼りざるを得ないようだ。作り話の助けを借りないと何も語れなくなる。言葉の不自由さの由来はそんなところから生じるのかもしれない。未だに日干し煉瓦を積み重ねて家を建てている地域もあるらしい。大地震に見舞われればひとたまりもないだろう。しかし、それはいつの時代の話だろうか。だいぶおかしな展開になってきた。何かが枯渇しつつあるらしい。余分なものなら山ほど持ち合わせているが、肝心な言葉が見つからないようだ。それは接着剤だろうか。それとも冷却装置なのだろうか。しかし何を冷却するのだろうか。頭か?では何と何を接着するつもりなのだろう。その場その場でくっつけるものは違ってくる。だから話がややこしくなる。まったくの偶然に頼るしかないのだろうか。この期に及んでそれだけでやって行けるだろうか。わからない。気まぐれに何か述べている状況が続いていることは確かだが、それ以外に何か他のやり方があるのだろうか。たぶんあるのだろう。では黒猫と鴉以外に不吉な前兆を探し出せるだろうか。その場からいったい何を予言するつもりなのか。もうノストラダムスは過去の話になってしまった。なぜ今が世紀末なのだろうか。それは愚問だ。あと二週間でそうではなくなるだろう。それだけの話である。しかしなんとあっけのない世紀末なのだろう。実際に体験している者にとってはそうなのだろうが、しばらく経つと、あとからこの時期に何らかの大袈裟なドラマが付け加えられるのかもしれない。


12月16日

 二度と目覚めはしないだろう。光り輝く太陽に誓って何をやろうとしているのか。別に泣きたい気分でもない。心を変えてしまったんだ。それは誰の心なのだろう。大袈裟な表現だ。涙に溺れることなどあるだろうか。そこに邪魔が入る。悲しみよりもさらに重い気分をもたらす。気まぐれで解決法を試してみるだけだ。驚きを簡単に通り越して呆れている。砕け散った夢の欠片を拾い集めて構成されたものは、あまりにもグロテスクな代物だった。無駄に過ごした年月を取り返せるわけがない。しかしそれは何の話なのか。待っていた者は誰だったのか。誰が待っているわけもない。それは太陽のせいではないだろう。輝かない太陽は眩しくない。ちょうどいい季候なのだ。たぶん何年経っても枯れ木は枯れ木のままだ。枯れ木に日差しは必要ない。では、暗闇は何が必要としているのだろう。水の涸れた井戸を必要としているのは誰なんだろう。架空の人物を必要としているらしい。案外、誰かが必要としているのは月明かりかもしれない。そこに存在するだろう人々には命がない。墓場で出会うのは墓碑銘だけだろう。墓地を所有しているのはその場の空気だ。そこを占有しているのは死者の気配だろう。誰のものでもない、単なるイリュージョンだ。吹きつける風に舞っているのは木の葉だけではない。人々の視線も揺れ動く。注がれているイメージは、どこかで見かけた光景になる。何の変哲もないただの風景に見とれている。だが、それを思い出せない。昼の日差しは眩しい。二度目の目覚めは信頼性を損なう。それは嘘の目覚めだ。夢の中で目覚めたらしい。そこで水分を補給しなくてはいけないだろう。渇いている。だが、ここが砂漠になるのは遠い未来のことだろう。まだ何かがもたらされているらしい。そこには、水分ではない何かがあるようだ。それは油だろうか。たぶんそれは大袈裟な表現だろう。涸れ井戸の中を覗き込む。覗き込んでも何も見あたらないだろう。土壁に塗り込められた泥人形の数を数えてみる。無駄なことだ。倉の中には何もない。それでも探し物が何なのか覚えているだろうか。それはどこへ行けば見つけられるだろうか。しかしどこへも行かない。だから見つからないだろう。ここにあるのは枯れ葉と冬の日差しだけだ。その他は言葉の幻影に呑み込まれてしまったらしい。そんなことがあり得るだろうか。あり得ないだろう。何を求めているのでもない。何も迸りはしない。では閃いているのはくだらぬアイデアだけなのか。それさえもない。そういつまでも幻影ばかりにつきあってはいられないだろう。だが、この期に及んでまだ続けられるらしい。これはどうしたことなのか。どうもしない。ただこうなっているだけだ。どこかに楽園があるわけでもないだろう。だからそこを目指す気は起こらない。今体験しつつあるのは、こんな風景でしかないだろう。どこまで行っても、こういう景色が続いて行くだけだろう。もう後戻りはできないし、この先に輝ける未来もない。それがこの光景を眺めつつある者の定めだ。周りでざわめいているのは架空の群衆だ。書き割りの背景に描かれた人々がいる。なぜその立てかけられた平面から声がするのか。するわけがない。誰も声など発しはしない。墓石に刻まれた文字をいくら読んでも、墓の下から生き返るわけでもない。どこかで大がかりな勘違いがまかり通っている。巡り会うのは死人だけではないはずだ。だがその死相を振り払うことが可能なのだろうか。デスマスクを打ち砕くことができるのだろうか。おそらくは可能なのだろう。だが、誰もそれを試そうとはしていないようだ。必死になって何かにしがみついて、そこから利益を絞り出そうとしている。たぶんそれが功利主義の正体なのだろう。それがいかにさもしいことであっても、それをやめることはできないだろうし、やめさせることもできないだろう。それはいつの世でも循環している現象なのだろう。それだけが何かを述べる手だてを与えているのだ。おそらくそこから逃れることはできないだろう。


12月15日

 薄汚れた街並みには排気ガスに臭いが立ちこめている。誰の見せかけを信じたらいいのだろう。平和に満ち足りた世界は小競り合いの繰り返しの上に成り立っているようだ。たぶん、信じる者は救われるだろう。別にそこに行きたいわけではない。だが、あてどなく流離っているのでもない。誰も一番高いところまではたどり着けないだろう。確かに権力は嘘をつき続けるだろうが、それは人々の願望を反映した結果だ。誰もその願望には手出しできない。神は君たちを愛している。憎みながら愛しているそうだ。神託によって告げられる言葉の内容は、いつも同じ態度を示している。盲目の眼から放たれる視線はどこかに向かっているらしい。少し喋りすぎたようだ。凄い計画など何もないだろう。人々は学び続ける。何の役にも立たないことを学び続けるだろう。それを話してもらおう。神の言葉など何も出ては来ないだろう。世界は回り続ける。確かに地球は自転しながら太陽の周りを公転している。たぶん嘘をつき続けるのにはわけがある。先が短いからなのか。彼女は愛の国が到来することを信じている。しかし国は到来しないだろう。愛も国も解体されるだけだろう。たぶんそれらは不要になりつつあるのだろう。破局など訪れるわけがない。蘇生のチャンスなど与えはしない。それでも牧師達は説教し続けるだろう。確かに今日は昨日ではない。だが昨日は今日から生成する。それは思い出なのか。彼らについて話してください。はたして嘘をつかずに話せるだろうか。とりあえず人々は死に続ける。生まれてくるのは犬と猫だ。誰が語っているのでもない。たぶん君が語っているのだろう。君の瞳を見つめる。あてどなく流離っているのは誰なのだろう。そこに行きたいのは誰なのだろう。どこへも行かない。国境や人種は真に重要なことを隠しているらしい。しかし声色には何の変化もない。誰もその声には逆らえない。彼らの願望は何も叶わないだろう。迷信でも信じていればいいだろう。それでも信じられない。短い言葉のやり取りから何かが導き出される。励ましの言葉などあり得ない。それが何を示しているかもわからない。それをどう扱っていいかわからないらしい。それは誰の関心事でもない。誰も関心を示さないことばかりだ。繰り返し述べている間はない。何でも知っているのは神ではない。知の収蔵庫はゴミの山だ。図書館に火を放とうともそれは解決しないだろう。強気で迫り、早口で喋る。誤解を招く暇さえ与えない。しかし、いったいここがどこにつながって行くのだろうか。くだらぬ企てだ。誰も驚かないだろう。砂漠の盲人は地面の感触から何かを読み取ろうとしているらしい。そこに文字が刻まれているわけでもない。蟻の巣でも見つけたのだろうか。乾燥しきった大地からは、日差しの照り返しで熱風が吹き上げている。明日の夕日は何色だろう。何も生まれては来ないだろう。生きられるわけがない。アニメーションは一過性の熱風だったようだ。数年前を覚えているだろうか。リバイバルされるたびに思い出す。なぜ娯楽は顧みられないのだろうか。消費されたらそれで終わりなのだろうか。愛が消費される。破局も消費される。ついでに、それを見ている観客までが消費される。消費の対象はすべてに及ぶらしい。次から次へと大通りに山車が繰り出す。それらは二度と帰ってこないだろう。片道だけの進行だ。逃げ道はどこにも見あたらない。ベルトコンベヤー上の人々には予想通りの末路が待ち受けている。そこにどんな憩いがあるのだろうか。沈む夕日すら眺めるゆとりも残されていないのに。どこまで行けばいいのかわからない。だが転がる石はどこかに転がってゆくのだろう。その行く末を見届ける必要はない。そこまでは興味を持てない。たぶん始まりだけなのだろう。何かが始まるらしい。わかるのはそれだけであり、興味があるのもそこだけだろう。あとはどうでもいい。好き勝手にやってもらえばそれでいいのだろう。自分には関係のないことだ。ことさら騒ぐには及ばない。その程度のことだ。


12月14日

 はじめから何を述べているのかわからない。疑問とはどのようにして生まれるのだろうか。例えば悩みと闇は似た概念なのだろうか。そこには何らかのシステムが横たわっているらしい。知らず知らずのうちに、そのシステムに同調している。操られている。中には踊らされている者もいるらしい。つまり、そこには虚構の現実がある。そして、それを語っていくにつれて、しまいには何を述べているのかわからなくなる。わざとわからなくしているらしい。本当は何もないのだ。人を操るシステムなど存在しない。ただそのような現実に、機械的に同調しているのだ。なぜそうしなければならないのだろうか。理由は相変わらず見あたらないままだろう。見つけようとするきっかけすらつかめない。時はただ過ぎ去るのみだ。考える時間さえ与えてはくれない。思考は絶えず循環している。石は転がるか止まるかのどちらかの状態を保っている。削られて砂になる。地中深くで圧縮されて、また岩盤の一部となる。人も死ねばいつか土に還るだろう。それは人ではなく、物質の一部だ。結局のところ、自然は何の解決ももたらしはしないだろう。ただ循環しながら過ぎ去るのみだ。そのとき悩みは闇に還る。一筋の光明に出会うこともなく、薄暗い部屋の中で黴にまみれている。それは求められた解決ではない。求めもしないのにあちらから勝手にやってきて、そして誰が許可したわけでもないのに、それが当然であるかのごとく振る舞いながら居座り続けている。今なおそこに留まっているようだ。夕方から六時間ぶっ通しでテレビを見ている。人は暇つぶしに支配されているらしい。頼みもしないのに時間の浪費につきあわされる。無駄な時間の蓄積が老化を加速させる。だいぶ衰えた視線だ。内部から内部へのまなざしに射抜かれる。しかし何の影響もないようだ。それは死に至る視線ではない。その放射線はそれほど強力ではないのだろう。たぶん本人は人を視線で射抜いているつもりなのだろうが、どうやら、そのまなざしが誰からも無視されていることをわかっていないようだ。もはや誰も同調しないだろう。人々の興味は別の所にある。すべては分散しつつある。他人と同じものやことに興味を示さなくなるだろう。今まさに、一極に集中した権力が成立しなくなる時代が到来しようとしている。今もある程度はそうだ。そんなことがあり得るだろうか。それは見方考え方によってどうとでも言えることかもしれない。だが未来に関しては白紙状態だ。それは誰にも予測不可能なことだ。予測すれば必ず裏切られる。それをネガティブに伝えようとポジティブに伝えようと、どちらでもいいのだ。要するに何を述べているのかわからなくすればいい。本来、未来は意味不明なのだ。人々の欲求や欲望も意味不明だ。どうしてそうなのかわけがわからない。そんなことまでやらなくてもいいのに、なぜかわけのわからないことをやってしまう。そればかりのときもある。今さら闇に向かって吠えている犬の気持ちなど分かりたくもない。どうぞ勝手に存分に気が済むまで吠えて欲しい。たぶんいくら吠えても気は済まないだろうし、却って自らの無力感に苛まれるだろう。自分にはそこまで面倒はみきれない。ここで犬の自滅を待つとしよう。闇は相変わらず闇のままだろう。どのようにも変わりようがない。一般の人々はバトルロワイヤルで殺し合いを演じるほど暇ではないのだろう。ただ黙ってそれを見物しているだけかもしれない。自分の場合は、見物する暇もない。では彼は何をしているのだろうか。テレビを見る以外に何か他にやることでもあるのか?あるだろう。それは呼吸することだ。それと食事もしないと餓死してしまう。他には?他は暇つぶしだけだろうか。それはわからない。たぶんそれは未来に属することだろう。これから何かをやることになるだろう。それは、もしかしたら今やっていることとは違うことかもしれない。だがあまり期待はしていない。だが、少なくとも犬の遠吠えよりはマシなことをやろうと心がけている。


12月13日

 たまにはオレンジ色の夕焼けを眺める。どうもいつもと違うようだ。見慣れた画面の向こう側に曇り空が広がっている。いつもはどんな光景を眼にしていたのだろうか。内部からの視界には一点の曇りもない。そんなことがあり得るだろうか。視線だけですべてを操作できるだろうか。監視するだけで権力を行使できるとするなら、これからいったい何を努力していけばいいのだろう。それを見たければ気が済むまで見ていればいい。ただひたすら監視していればいい。それで権力を行使していると思い込んでいればいいだろう。しかしそこに秘密など何もないだろう。そこにはあるがままの曇り空が広がっているだけだ。いつもの闇が迫っているらしい。そんな時が到来する。夜の闇の中に何を想う。闇の色がわかるだろうか。闇に色があるのだろうか。

 情報公開と競争はどのように結びつくのだろうか。公開された情報を最大限に利用しながらも、自分の持っている情報はいっさい公開しない。公開する振りをしながら、肝心なことは何一つ明らかにしない。その一方で、他の人々には盛んに情報公開を呼びかける。さしあたって競争相手を出し抜くには、この方法が最も有効だろう。世の中に公正な競争などあり得ない。ただ自分が有利になるように公正な競争を装うことはできる。共通のルールに従っているように見せかけることで、競争相手の油断を呼び込むわけだ。競争に勝ち抜くためには、そうするのは当然のことかもしれないが、そこに倫理など入り込む余地はない。ただ、そうすることで、自分だけが成功する可能性は高くなるのかもしれない。

 では、そういうやり方で、誰もが公開された情報を利用して競争すべきなのだろうか。では何のために競争するのか。自分だけが勝つために、成功するために競争するのだろう。だが、それでは積極的に情報公開した者が馬鹿をみる。正直者が嘘つきの食い物にされる。しかしこんな状況でも情報公開を推進すべきなのだろうか。それでもいいのかもしれない。世の中は醜悪な嘘つきだけの世界でもないだろう。競争だけがすべてではない。競争などするには及ばないときもある。何よりもまず、情報を入手した者は、その情報がより有効に機能するように改良すべきなのだ。そうするために、その情報を公開した者と積極的にコミュニケートすべきなのだ。そして、皆にとってその情報が有用だと判断されるなら、それを共有する者達が力を合わせて、その情報がより広範に流通するように努力すべきなのだ。それは利己的な競争とは無縁の倫理的な運動になるだろう。まあ、マスメディアが支配するこのような社会では、そうなることは難しい。まだしばらくは、マスコミの推進する利己的な競争が支配的な価値観のままだろう。


12月12日

 勇ましいことならいくらでも言えるだろうか。イマジンを紹介しておいてコールド・ターキーについて何一つ言及しない者にジョン・レノンを語る資格はないっ!とまあ、今や絶滅寸前のロックおやじなら、こう叫んで昨今のビートルズブームを否定してみせるのだろうか。またキザでイヤミな奴なら、ビートルズのヘルプ!みたいなつまらない曲を聴くぐらいなら、ジョニ・ミッチェルのヘルプ・ミーを聴くべきだ、こちらの方が数百倍音楽的に優れている、と勝手な思い入れで知ったかぶりを披露するだろうか。どちらにしろ、単なる馬鹿野郎として片づけられるだけだろう。まあひねくれてアンチ〜を貫き通すのは、ただのひがみ根性としか映らないかもしれない。ビートルズのすべてを否定するにはかなりの無理を伴うだろう。レヴォリューションやカム・トゥゲザーなどのように知性を感じさせる曲もいくつかある。またア・デイ・イン・ザ・ライフに見られるような音楽的な構成力を賞讃することもできるだろう。ポール・マッカートニーはどんな曲でもそつなく歌いこなせるし、ジョン・レノンに至っては、ボブ・ディランと同じように歌声そのものが独特な魅力を湛えているだろう。だが、それでもなお、今さらビートルズやジョン・レノンの曲を聴く気にはなれない。それはあまりにも多くのビートルズ以外の曲を聴きすぎてしまったからだと思う。ビートルズの曲は、ある時はポップスもどきであり、またあるときはロックもどきであり、さらに進んでハード・ロックもどきの時もあり、また今度は、後退してクラシックもどきの時もあるし、レゲエもどきの時も現代音楽もどきの時もフォークもどきの時も民謡もどきの時もソウルもどきの時もある。つまりそれらはすべて〜もどきの音楽なのだ。このように述べては非難されるかもしれないが、彼らの音楽はすべてイミテーションである。自分の場合はビートルズをひとつの通過点として、もっと濃い音楽、こう述べるとかなり軽率な言い方に見えてしまうが、もどきではない本物の音楽を探し求めていたのかもしれない。自分はどちらかといえば、ビートルズよりもビートルズから多大な影響を受けたと語る、ミルトン・ナシメントやジャヴァンの音楽に感動してしまった。なぜか彼らはイミテーションに感動して音楽活動を始めて本物の音楽を奏でてしまっているのだ。たぶんビートルズで留まってはいけないのだと思う。もっと様々な方向でいろいろな音楽を聴いてみるべきだと思う。多種多様な音楽を聴くための入口がビートルズなのではないかと思っている。そういう面ではポップミュージックの様々な可能性を聴かせてくれたビートルズに感謝しなければならないだろう。


12月11日

 何をやるでもない、恩を仇で返すような恩を受けることもないだろう。受け取るものは空白の時だけのようだ。あとは虚無の場所だろうか。実体のあるものは何もないのだろうか。それでも何かあるのかもしれない。あるかもしれないが、それはいつも見失われているだろう。探そうとしても見つからないものだ。それは探す必要のないものだろう。今ここに現前しているのだから、あえて探し出す手間のかからないものだ。しかしそれは、探す必要はないが受け取る必要もないものだ。すでにここにあるのだから、それを求める必要はないだろう。にもかかわらず、それは見失われていることが多い。その存在を意識することが難しいのかもしれない。今ここにある現実は、確かに見失われがちなものだ。欲望は、往々にして、現実よりも夢や希望や理想を求めてしまうものだ。現実を求めることはできない。それを求めることは倒錯である。すでに備わっているものをいったん引き離してから、改めて獲得するような方法を必要とするだろう。現実には、そんなことはできないが、それが可能であるかのように思い込むことはできるし、例えば記憶喪失で失われた記憶を取り戻した時など、それを獲得できたと実感するかもしれない。だが実際は、そこで、現実が記憶喪失状態から過去の記憶を認識できる状態へ推移したのであり、記憶のない時もある時も、そのどちらもがその時の現実なのである。もちろんそこで記憶喪失状態のときには、記憶がある状態が失われていて、記憶が戻った時には、記憶喪失状態が失われたことになり、どちらかの状態を獲得することは、もう一方の状態を失うことになる。当然それらを同時に求めることはできないだろう。そしてとき、自分にとって都合の良い方の現実が、夢や希望や理想なのだろう。また、都合の良いそれらの現実を求めることで見失われる現実とは、都合の悪い方の現実なのである。人々は挫折しようとして努力するわけではない。成功しようとして努力した結果失敗してしまうと、次のチャレンジに向けて今回の挫折も良い経験になったと、その行為を正当化するわけだ。そこでは失敗そのものが見失われる。失敗したという現実が、その失敗の経験も将来への財産になる、という希望に取って代わる。そういうやり方では駄目なのだろうか。別に駄目というわけではない。ただ現実がそうように推移していく、それだけのことだ。そのような変化に善し悪しを当てはめる気はない。期待は忘却から生まれるようだ。都合の悪い現実を忘れることで、未来への希望を構成することができるらしい。しかしそれでいいのだろうか。いいのだろう。たぶんその場での都合の善し悪しはそれほど重要ではないのだろう。様々な状況や要因もあるだろうが、基本的には気分次第で良かったり悪かったりするらしい。それは嘘かもしれない。だが嘘でも良い、とりあえずはそういうことにしておこう。それ以外の善し悪しを決める決定要因は無視しよう。そう、現実の変化には、気分次第が欠かせないのだ。偶然にたまたまそんな気分になってしまう。それでいいだろう。そんなわけで、夢や希望を抱くのも、その時の気分による。やはりそんなものはどうでもいいのだ。確かにそれらを抱かずにはいられないだろう。何もなければ、まるで味気のないつまらない人生になってしまうだろう。だから自らの都合に合わせて勝手な夢や希望を抱き、それらが実現することを期待しようではないか。それらが実現するように努力しようではないか。やってみればいいのだろう。やってみればわかることだ。そのような行為には何のリアリティも感じないが、その努力が報われることを期待しよう。それが実現しようがしまいがどちらでも構わない。自分が受け取るものは、いつでも空白の時であり、虚無の空間である。そこには夢や希望の欠片すら存在しない。それらの残骸は誰かの記憶の中に息づいていることだろう。せいぜいそれらを思い出す度に別の記憶を忘れて欲しい。忘却を期待しつつ思い出して欲しい。何も変化させずに変化して欲しい。今望んでいることは、都合の良いことも悪いことも、すべてが肯定されて欲しい、そういうことかもしれない。


12月10日

 雲の切れ間から淡い陽光が射し込む。窓ガラス越しに外を眺める。見慣れた光景が映る。夕闇の時からはだいぶ経った。降りたブラインド越しに風が吹きつける。月は真上で光っているが、流れる雲に遮られてわずかに垣間見える程度だ。まだ進展は期待できそうにないだろう。だが、徐々に機能不全を起こしつつあるのかもしれない。もう役に立たなくなった部分もちらほら見受けられるだろうか。どうやら微かに効き始めているようだ。劇的な効果はそれへの反動や反発をもたらし、却って変化の妨げになってしまう。彼らのシステムは、そういう効果に対しては容易に対処できる仕組みを備えている。そのシステムに真正面から立ち向かってはいけない。同じ条件を前提としての競争では勝てないのは当然だ。実際、全面的にこちらが負けていることは、動かし難い事実だ。すでに勝敗は決している。はじめからこちらが負けているのだ。もちろんそれも想定した範囲内ではあるが、その事実を事実として受け入れることは当然としても、あえて全敗状況はそのままで、勝つための努力はしない方がいいようだ。別に勝たなくてもいい。勝つ必要はない。たぶん、その方針は変えずにこれからもこれまで通りやっていけばいいのだろう。そして、このまま無駄な抵抗を繰り返していればそれでいいのだろう。勝敗は結果であり、それは過去に属する評価だ。無理にその評価を変えようとしてはいけないようだ。肝要なのは、ただ平然とやり続けることだ。それが当たり前のごとく映るように、そうすべきなのだろう。競争や勝敗とは違うことをやり続けよう。内容が他と競合することのないようにしてゆこう。何の役にも立たないようなことを積極的に出してゆこう。つまらない感情には辟易している。もういやなことを無理してやることもないだろう。それは吐き気のするような人々がやればいいことなのかもしれない。実際にメディア上には、そういうものがいやというほどある。それがこの時代の主流なのだろうが、あえてそういう時代からは取り残されるような道を選択しよう。別に商売でやっているわけではないのだから、嫌がらせみたいなことをやる必要もないだろう。だが、実際には道を選ぶことなどできはしないだろう。確かにいやなことを無理してやろうとはしないだろうが、結果がいやなことになってしまっても、それをあとから修正しようとは思わない。それはそれとしてやり過ごすしかない。そうなってしまうのだから仕方ない。それはメディアの嫌がらせに影響されているだけだろう。自分にはコントロールできないし、しようとも思わない。常に世界の状況が反映しているのであり、その反映や影響はそのまま受け入れるより他にない。影響を与えるメディア上で醜悪な物言いが蔓延っていれば、自然とこちらも醜悪なことを述べてしまうかもしれない。それに抵抗することはかなり難しい。これまでは何とか抵抗しようと努力してきた。これからもできるかぎり倫理的に抵抗していかなければならないが、それにも限度があるだろう。はじめから全面的にこちらが負けているのだから、やりようがないだろう。変化を期待しても無視されるだけだ。無視されるようなことをやっても仕方ない。だからそれに対する批判は、はじめから無効であるような気がする。積極的に批判しなくてもいいのだろう。しかし、では何をやればいいのだろうか。そこで行き詰まっているらしい。だが、それは本気で行き詰まっているわけではなく、別にそのことで深刻に悩んでいるのでもない。それは悩む必要のないことなのだ。悩もうと悩むまいと、また行き詰まろうとどうしようと、そういう自分の心理状態は放っておけばいいことに、いつの間にか気づいているようなのだ。ただこんなふうにして述べてゆけばいいらしい。そうすればこうして自動的に言葉が積み重なっていく。自分の思いや感情とは関係のない言葉が記述されればそれでいいのだろう。これはどうしようもなくこうなってしまうのだから、それに対して自己は、単なる傍観者の立場なのかもしれない。


12月9日

 どうもそれを思い出せなくなった。香港や台湾のアクション映画はいつも汗だくだ。なぜああも焦っているのだろうか。しかしまだ継続させたいらしい。ところで何を思い出せなかったのだろうか。また忘れてしまったらしい。どうやら適当なところで今回も切り上げなのだろうか。そんなに適当な題材はそうは見あたらないだろう。そう都合良く次から次へと素材は見つからないようだ。そうこうしているうちに足元から冷気が忍び寄ってくる。どうも冷笑が繰り返される気配になってきた。だがらいわんこっちゃないというありきたりな応答が期待されてしまう。確かにそれを忘れていた。今さらながら実感させられるのはそんなことだ。眠気とともに、日記風の文章が還ってきたようだ

 そこに出来事はあり得ない。倦怠のイメージは常に先行しているだろう。目標とは怠惰を演出することかもしれない。そこから立ち上げて、さらなる混沌へと導いてゆけるだろうか。なぜ混沌が必要かどうかはともかく、秩序という強制は息苦しいものだ。どうかすると、堪らずファシストが秩序に訴える。今の混沌に我慢ができないのはわからないでもない。だが、その脅迫的な物言いが何よりも倦怠のイメージを想起させる。どうやら混沌とは倦怠から導き出されるようだ。妄信的な秩序への幻想もそこから生まれるらしい。思い通りにいかないのも、うまく行かないことばかりなのも、やはり何かそこに至る現実的な状況が存在していることは確かなようだ。耐えられないような出来事に、過敏な神経が絶えずさらされていると、やはりヒステリックに反動的な物言いに訴えるより他に方法はなくなるのかもしれない。しかしなぜその現実に耐えられないのだろうか。それは、今まで自分は培ってきたものの捉え方や考え方が、今ある現状に対応しきれないようになってきたからだろう。思い描いていた将来とはほとんど無縁の現状が、さらに、もはや受け入れがたい方向へ進行しているように思えて、自分がどうすることもできないという焦りと苛立ちだけが蓄積することに、為す術もなく直面している状況になっている。そうなったら、強権発動的なことしか思い浮かばなくなるのだろう。そうなると、その手の言説のオンパレードになるより他なくなる。あとは暴力的な行動あるのみだ。

 だがそんな側面ばかりでもないだろう。何かが抜けている。たぶん何か肯定的なことも述べなくてはいけないのかもしれない。だがそれが思い出せない。なるほど思い出せないこととはそれだったのか。それのことのようでもあり、それではなかったかもしれない。それとはまったく無関係なことを忘れているのかもしれない。確かに何かを見つけようと焦っていた時期もある。他にはないものを見いだそうと努力していたこともあった。おそらくその時点ではオリジナリティという幻想を信じていたのだろう。心の片隅では今でもそれを信じているのかもしれない。だが現実はそれとは全く異なるようだ。

 その存在の有り様を思い描いてみよう。綻びを縫っている。埃だらけの季節だ。乾燥している。乾いていることは必ずしも不快ではない。ここからずれてどこかへ行こう。中心を少しはずれた所に憩いの場所がある。確かにそれは真実だろう。だがそればかりでは退屈だ。しかしそればかりになりざるを得ない。中心に存在しているものが不快の源泉だからだ。そうなると、やはり批判的な言説に頼りざるを得ない。なぜ批判するかはわからない。どのように批判するか、そのやり方しかわからない。こうして批判は繰り返されるのだろう。中心から少しはずれて中心方向を眺めたら、やはりその中心を批判するしか術はないのだろう。それで飽き足らないのなら、自分が中心になればいい。その誘惑に導かれるように、世の中には中心になりたい者が大勢いるだろう。そして中心になれなかった者が中心を批判するわけだ。だがそれは退屈な構図である。中心と周縁の紋切り型である。その構図に安易に取り込まれてはならないだろう。それ自体が中心が望んでいるシステムであり、またそれに対する批判勢力も自分達の中心化を望んでしまうシステムでもある。その絶え間ない中心化作用によってその中心は存続している。中心を批判することも、自分達の中心化を望んでいるかぎり、システムの維持に貢献してしまっているのだ。だから、中心を前提とした上での中心に対するどうような批判や反対も、脱中心化には至らないだろう。


12月8日

 保存される内容を吟味している。まるで嘘ばかりだ。何を述べているわけでもない。そればかり述べているらしい。たぶん保存される前に消されてしまうだろう。大変短気な性格のようだ。それに飽きっぽい。すでに半分忘れかかっている。何を伝えたかったのか。覚えていることは、何も覚えていないということだ。

 ありきたりな言葉はいつも繰り返される。それが日常空間を形成している。いつまでも役割を放棄してばかりいても、いつかは順番が回ってくるだろう。もう何度目かの繰り返しになっているらしい。どこをどう探しても在処を特定することはできない。眠りから覚めたらまたいつものことの繰り返しが待っている。それが明日体験する日常であっても、その光景をただ眺めてばかりもいかないだろう。自分とはあまり関係のない業務を自分でやらなければならなくなる。それは嘘ばかりではない。それが現実を構成している。たぶんそれだけが唯一の現実だろう。

 遠回しに伝えられた内容とはこんなことだった。内容があってないような内容であれば、それが日常の現実なのだろう。すべてがすべてではない。そこには必ず余分な空隙が存在している。そのすべてとは違う隙間から内容が発生するのだろう。書きかけの文章から横道に逸れて、まるで違う展開を夢想することが新たな現実を生み出しているようだ。空想される内容は日常のすべてとは別の空間を導き出す。

 何もない時から何かが生じる。空いた時間だけがその営みを可能としているようだ。別に決まった量をこなさなくてもいいのだが、なぜかそうしてしまうのは、何らかの強迫的な使命感に駆り立てられているのかもしれない。それが何かはわからない。わかっていてもわからない振りをしているのだろう。

 たぶんそんなことばかりだ。途中で邪魔が入った。また最初からやり直しになる。体調も万全ではない。近頃は空白ばかりに頼り切っているらしい。後はこの寒さだろう。冬になると夏の暑さが恋しくなるのは、夏になると暑さに我慢ができないことへの裏返しの感情なのだろう。どうしても今の気候が気に入らないのだ。まったくこればかりはどうしようもない。季節によって生じるのはこういうネガティブな心境ばかりだろうか。こればかりではうんざりしてしまう。たぶん快適な状態の時もあるのだろうが、それはすぐに忘れてしまうのだろう。もはやこれを修正する気力は残っていないようだ。

 呼びかけにはこんな返事が返ってきた。まだ何かやって欲しいらしい。勝手な思い込みだろう。もう何もできないと思うことも勝手な思い込みであると同時に、まだ何かできそうだという思い込みもそうなのだろう。何もできないわけではなく、また何かできるわけでもないだろう。ではどうすればいいのだろうか。たぶん、どうすればいいのか、と問うことしかできないのかもしれない。また、そのような問いに、お節介にも答えてくれる人の登場を期待しているわけでもないだろう。ただ、どうすればいいのか、と何の当てもなく問い続けることしかできないのだ。

 怠けようとすればどこまでも怠けることは可能だ。また、それをやろうとすれば、絶えず継続の困難につきまとわれるだろう。ペース配分など計算することは不可能だ。その場その場が、どうすることもできない状況に直面しているのだ。そこで全力を出しきるか、または怠けて休息を優先させるか、さらにまた、力を温存させながら適当にこなすか、それらはすべて架空の選択肢である。現実には何も選ぶことなどできはしないだろう。ただやるしかないし、また休む余裕があれば休むだけだ。だがその余裕は勘違いである場合が多い。本当は休む余裕など少しも与えられてはいないのだ。後から思えば、単に怠けていただけとしか感じられない、不快な感情に覆われる。しかしそれでも休息は必要だろう。後味が悪くても休まなくてはならない。やり続けることなどできはしないのだから、やはり休んで正解なのだ。たとえそれが間違いであったとしても、それいいのだと思い込んでおこう。


12月7日

 ここで見いだされるのは預言の言葉だけなのだろうか。しかし神託とは何だろう。どこに神がいるというのか。たぶんそれは、神とは言わずに別の言葉でも表現できそうな気もするのだが、適切な別の言葉を見つける努力を怠っているので、かなり安直に神という言葉で代用しているらしい。まったく、明確さからはかけ離れた、それらしき雰囲気だけの表現になってしまっているようだ。困ったときの神頼みだ。砂漠に行ったこともないのに、砂漠のまっただ中で暮らしている。それは雰囲気だけの砂漠だろう。こうして突然の場面転換ばかりが繰り返される。それがこれらを継続させる唯一のやり方なのかもしれない。だが、別の方法もあるのだろうか。今後、それとはまったく別のやり方を模索する必要性が生じたりするだろうか。すべては未来に向かって開いている。またすべては過去からの継続を前提としている。だが、未来は過去を裏切り続けるだろう。そこに過去とのしがらみを断ち切る不連続線を引きたいらしい。退屈な思い出から自由になりたいのだろう。そして怪しげな方向にいつも視線を送っている。ふざけた作り話の出現を望んでいるようだ。忘却からのメッセージとはそういうものだ。記憶喪失や盲目を疑似体験したいらしい。だから、唐突な展開ばかりを目論むのだろう。試されているのは忍耐だけではない。いかに現実と向き合うのか、それと対峙する姿勢が試されている。逃げてばかりではつまらない。自由は逃避する自由ばかりではないだろう。かといって、垂直に落下する水の滴を顔面で受けとめるしか術がないわけでもないだろう。絶えず遅延させているらしい。結論は常に先延ばしにされる。はじめから結論に至ろうとは思っていない。結論に至る前に、いつも曖昧な言葉によって論点をはぐらかされる。何を述べているのかわからなくなる。その砂漠の横断は、いつまで経っても途中のままなのだろう。どこへも至らずに、途中の過渡現象だけがただ長引いているようだ。それは死に至らない病だろう。しかし同時に、それはいつまで経っても治らない病気でもある。まさに、永遠に癒えない病に罹り続けているらしい。どっちつかずの宙吊り状態なのだろうか。そこに留まっているかぎり、おそらくそうなのだろう。入口も出口もないのに、なぜかそこに存在している。どうやってそこに入ったのだろうか。また、なぜそこから出ていく気配が感じられないのだろうか。いったいそこで何を待っているのか。何を希望し、また何を断念しているのか。確かにそこには、何かあきらめの境地のような雰囲気が漂っているだろう。しかしそれは、実際の意志とはまったく違った雰囲気だ。何か偽装しているらしい。それは擬態を演じている姿勢だ。見たところ、風邪が長引いているかのように装っている。軽い風邪なのに、なぜか治らない。それが嘘であることは明白なのだが、どの程度の嘘なのか、俄には判断できかねているようだ。まるで深刻な事態ではなさそうなのに、何か挙動がおかしい。どこかが不自然なのだが、それがどこなのか特定することはできない。焦れったいし、早く白黒をはっきりして欲しい気もするが、しかしそこで性急に事を運んではまずいような気もする。どうやら、まだ耐えなければいけないらしい。明確な展望は何もないのに、まだそこに留まり続けなければならない。留まる理由は何もない。しかし何か別の動作を行う理由も見あたらない。何をやってもいいのだろうが、実際には何もできない。可能性の自由と結果の不自由から生じる狭間に留まり続けている。何かと何かの間に宙吊りの場所が存在している。それは留まる理由があり得ない場所である。また位置の定まった特定の場所でもない。空隙は、いつどこにでも生じるだろう。この世界は余白だらけだ。余分な場所や余計な時間で満ちあふれている。陸地の三分の一は砂漠で覆われている。また海上では定まった場所は存在し得ない。絶えず揺れ動いているだろう。定住を拒絶する場所の方が圧倒的に多いのだ。むしろそちらの方が普遍性を帯びているだろう。


12月6日

 なぜか一日とばしてしまった。別に毎日記述しなくてもいいとは思うが、やはりなんとなく途絶えてしまうのはしゃくだから、空白の一日に適当な文字を記入しておくとしよう。

 ここだけの話はそこだけの話とどう違うのだろうか。たぶんその話には無理がある。誰も信じてくれないだろう。決まり切った映像に感動する。躍動する肉体が一瞬止まる。ストップモーションになる。砲丸投げの選手が丸いサークルの中で窮屈そうにダンスする。ハンマー投げはマイナーな競技だ。氷の微笑は笑えない。微笑さえできない。悪趣味なセンスとフライドチキンは脂ぎっているようだ。代理人は誰の味方なのだろう。メジャーリーグで使用されているボールではスタンドまで届かない。ベースボールと野球の違いはそういうことだろうか。猫はあっけなく死んだ。なぜかこの寒さで病気が流行っているらしく、この一週間で野良猫の子供が十匹は死んだだろうか。その朽ち果てたストーンサークルの中で何を祈ればいいのだろうか。砲丸投げとハンマー投げと円盤投げの選手達が踊っている。ぐるぐる回りながら瞑想状態に達したようだ。その楽器の名を思い出せない。クラリネットのような音色で人をトランス状態に導くらしい。その映像の片隅には、微かに人の手が映し出されている。それはゴムハンマーを持った手だ。警鐘を鳴らしているのは何のためだろうか。心地よい眠りは目覚まし時計の音で掻き乱される。夢の中でベルが鳴る。火災報知器の音がする。一週間眠らないと、すでに死んでいるらしい。不眠症なのに永眠してしまう。死の眠気は自然に覚めてゆく。凍りついた時間が到来しているようだ。情勢は極めて切迫している。弛緩しきった顔でそう呟く。肩を怒らせて意外な仕草を見せる。サークルとサークルは二重に重なっているようだ。またもや円運動になる。一度戻ってきたのに、またもう一度戻ってきてしまうだろう。さっきとはまるで異なる方角からやってきた。だが、その顔には同じ笑みを浮かべている。やはり同一人物なのだろうか。回転しかけた腕を止めて、水平方向に開く。重なっているのは、同じ映像に映った同じ手の動きだろう。ほとんど縁遠い関係にある三つの掟がひとつに重なり合う。菱形のマークが回転している。それらは風車みたいに風上に向かって一斉に回転し始める。そこでは何が回っているのだろうか。河川敷で爆破試験を繰り返した。辺りには硝酸の匂いが立ちこめる。どうしても花火を打ち上げたいらしい。どうやら一瞬の美を追究するのが美学だと思っているようだ。意見の対立は日増しに強まってくる。逃げ道はふさがれた。あらかじめ設けてあった妥協点は簡単に放棄された。もう誰も信じられなくなる。物語の進行とはそんなものだ。そのストーンサークルの中心点に立って南側を眺める。太陽の方角だ。日時計の影が一番短くなった頃を見計らって北へ向き直る。そこで何を見たのだろうか。枯れ木に花は咲かないだろう。腐った幹から生えてくるのは黴やキノコだ。その場所で微笑んだ人は、空白の時が到来するのを待ち続けている。それを待っている間は何もしないし、何もできないだろう。だが今でさえ何もできないのに、将来において、何かを待つことができるのだろうか。時は待っていないだろう。誘惑に費やされる時間は一瞬だ。その後は見捨てられるだろう。準備ができるまで待ってくれるほどお人好しではない。移りゆく時は移ろいゆく心などつなぎ止めてはくれない。時の経過に気がついたときにはすでに置いてきぼりをくっている。時に見放されているのだ。何をやるでもなく、何をやる暇もなく、ただ時間だけが経過してしまう。どこまで行っても、間に合わないだろう。常に遅刻しながら生きているようだ。このまま何も見いだせずに、時の波間に消えゆく運命なのか。それは、いくぶんロマンチシズムに毒されている表現だろう。実際はそんな思いを抱く余裕は与えられない。そんな感慨さえ、すでに忘却の彼方の出来事となっているようだ。


12月5日

 汚い口調で罵れば罵るほど信用をなくすだろう。さらに無関心になる。このままそれを続けていけば、近い将来、誰も相手にしなくなるだろう。せいぜい街頭でその馬鹿騒ぎにつきあってくれるお人好しを捜し続ければいいだろう。放っておけば、このままの状況が永久に続いてしまうから、それに対する対抗運動を組織しなければならないらしい。どうしても彼らは自力で変革を成し遂げたいようだ。その気持ちは分かる。その言い分にもかなり説得力がある。口汚く罵るだけで、結局は罵っている対象にしがみついているだけの輩よりは、はるかにマシな心構えだ。彼らの思い通りに事が運ぶかどうかはわからないが、たぶんそうはならないだろうが、ともかくやってみればいいだろう。やっているうちに当初の思惑からは大幅に逸脱して、思いもよらぬ展開や結果に茫然自失して途方にくれることもあるだろうが、そうなってはじめて今までの状況が変化したことに気づくだろう。だがそうなったときには、自分達の始めた運動も跡形もなく消え去っていることだろう。そこには、当初はまったく考慮されていなかったまったく新しい状況が出現しているのだ。まるで無関係な現象や出来事があり得ない仕方で結合して、これまでの常識や思考からは想像できないような状況が出現するだろう。そんな結末になることを期待しているのかもしれない。それは期待だけにとどまらずに、現実にそうなるだろう。それはこれまでの歴史が物語っていることでもある。だが、その運動がまったくの無駄なのではない。そのような運動があるからこそ、それを裏切る形で事態は推移するのだ。つまりその運動は、状況が変化するきっかけとなるだろう。たぶん、その程度の認識で構わないと感じている。その運動に過大な期待は禁物だ。メジャーなマスメディアが取り上げるような事態は避けた方がいいだろう。途中で潰されてしまう危険性がある。軽い気持ちでマイナーに展開させればいいのだろう。組織の拡大より、別々に活動するマイナーな組織が多数出現すればいいわけだ。そして個人は重複していろいろな組織に参加すればいいらしい。そうすれば重複して所属している人を通して、それぞれの組織の間に横の連携が生まれるだろうし、孤立感に苛まれて悲壮な決意に至ることもないだろう。大丈夫だ、国家主義者達は未だに偉大な指導者を求めているらしい。口を開くたびに、決断力だの実行力だの指導力だの、そんな時代遅れの幻想を政治家個人に期待しているようだ。それは思考することを放棄した甘えそのものである。今現実に存在するこういう状況を背景として、それに関係する、それぞれ微妙に異なる思惑の複数の人々を介して政策は立案され、それらの人々の了承を得ながらそれの実行が決断され、またその政策に関係する様々な方面への指導が行われている、そのような現実をほとんど考慮しない言説はまったくの空論である。そういう現実を知っていながら、マスメディアを通して主張するときは、相変わらずの政治家個人の資質がどうのこうとかいう議論を飽きもせず繰り返す。まったく、毎日ニュースをネタにして馬鹿騒ぎに興じている人々は、無能無策なのは自分達の方であることをまるで自覚できない輩の集まりだと思う。だからこそ、まだまだ付け入る隙は十分にあるだろう。たぶんそういう馬鹿騒ぎメディアを介さずに運動を展開していけば、なんとかその分散的で複数的な運動が広がる余地は十分にあると思う。今ある制度と競合しながらも、決定的な対立には持ち込まずに、共存共栄を装いながら、なし崩し的に蔓延ればいいらしい。そういう周到な用心深さを保っていれば、まずは生き残るだろう。何の違法行為もやらずに今ある制度を変えようとしているのだから、ある意味でそれは、暴力革命を唱える過激派よりも過激な実践だろう。だがその過激性を体制側に悟られたら、そこで何らかの弾圧に直面する可能性がある。もちろんそれは直接の暴力ではなく、例えば、地域通貨の流通に税金をかけるような法律を制定するかもしれない。もっとも、体制側がそのようなアクションを起こすことにでもなれば、あるレベルでは、その運動が各地に広まり、確実にその地域に根付いている証となるのだろう。


12月4日

 どのような空が望みなのだろう。どこへ行けば理想的な曇り空に出会えるだろうか。灰色の空の下にコンクリートの壁が林立する。コーヒーの香りはブリキ缶の中に封じ込められている。中身は相変わらずの空っぽだ。なぜか一日遅れの毎日を送っているらしい。未来が一日余分に増えたみたいだ。なぜこの一日の遅れを取り返せないのだろうか。日付を現在に取り戻せないのだろう。やろうと思えばできるはずだ。それはたぶん幻想だろう。だからその幻想を実現させてみよう。実現できるだろうか。やってみればわかることだ。ブリキ缶の中に青空が広がっている。コーヒーの香りとともに真夏の空が封じ込まれている。あり得ない話だ。曇り空を望んでいたはずだ。室内からは曇り空を見上げられない。天井が視界を閉ざしている。カーテンの模様が行く手を阻む。夜の暗闇が視線をあらぬ方角へ屈折させる。目覚まし時計の秒針がわずかな時を刻む間に、どこかで何人かが死んで、また新たに何人かが生まれてくるのだろう。たまにはありきたりな表現に浸ってみる。人の生死には関心がない。死体が火葬されたあとに残る灰の重さは、生前の体重からはどれくらい減少するのだろうか。たぶん火葬時の熱によって水分が蒸発した分だけ減るのだろう。それは究極のダイエットである。太り気味で自分の体重を気にしている人は死んで火葬されたらいいだろう。それを真に受けて実行する人間はいないだろう。たまには突飛で荒唐無稽な表現にも浸ってみる。戯れ事だ。ナルシシズムからは程遠い。賞味期限はとっくに過ぎている。ブリキの缶詰の中に詰め込まれている鰯は冷めている。腸詰めのウインナーは煙の香りがする。スモークサーモンは冷蔵庫の中だ。紫の煙に包まれたギタリストの最後はハワイ公演に後に訪れた。彼の記念碑はシアトルの動物園の中にあるらしい。薬物中毒と群衆の欲望の狭間で寿命を縮めた男は、どこで輝いていたのだろうか。もはや輝きはしないだろう。生きる余地はどこにもありはしない。ただプラスチックの小さな円盤から、光や電気の信号によって彼が奏でた音の痕跡が時折取り出されて、スピーカーを振動させるだけだろう。死者の響きが部屋全体を覆う。別の男は、すべての人間には愛が必要だと世界初の衛星中継で歌っていたらしい。愛こそはすべてでない。愛だけでは足りないのだ。人を愛する者は憎まなければいけない。愛と憎しみは対立する概念ではあり得ない。それは同時にやってくる。二十年前、彼を撃ち殺した男は彼を愛していたのだろう。昆虫を愛する者はその昆虫を殺すだろう。殺して標本にするのだ。コンパクトディスクは死者の標本だろうか。それは音の標本だ。だが問題は別の所にある。賞味期限の切れた缶詰はどうしたらいいだろうか。処分に困っているらしい。あけて中身は生ゴミで容器は分別ゴミだろう。賞味期限が切れたら、中身よりも容器の方に価値が残る。それはわずかな再利用価値だ。だが中身も土に混ぜて醗酵させて堆肥になるだろう。中身にも再利用価値があるのだ。こうして前言が簡単に否定された。間違いに気がつくのはいつもそれを述べてしまった後からだろう。コンパクトディスクはそこから音を取り出す以外には、どのような使い道があるだろうか。西周りでヨットの単独世界一周の新記録をうち立てた男は、ひげを剃るときの鏡代わりに使っていた。インド洋では発狂しかけたらしいが、それでもまるで懲りていない。金持ちの道楽はとどまることを知らぬようだ。労働とは無縁の暇な時間が次々と危険な冒険へ当人を駆り立てる。それこそが究極のスポーツであるらしい。それは命がけの暇つぶしだ。安楽な暇つぶしの概念をディコンストラクトしている。そんなことなどやろうとしてもできない貧乏人からすれば、馬鹿な話だとは思うが、それは価値観の違い程度のことだろうか。貧乏人にとってはささやかな無駄遣いでさえ、それが積み重なると命取りになりかねない。議会制民主主義で保証されている平等とは、せいぜいのところ、たまにある選挙でひとり一票しかない投票権ぐらいなものだろう。たぶん大部分の人々がその程度の民主主義では満足していないことは、だんだん明らかになりつつあるらしい。人々は従来からある民主主義とは別のシステムを求めているようだ。


12月3日

 なぜこうも言葉が蓄積するのだろうか。しかしそのほとんどが空っぽの言葉だ。内容が何もない空疎な言葉ばかりだ。どうやら、まだ怠惰な気分から抜け出せないようだ。それで相変わらず惰性の産物ばかりが溜まり続けているらしい。疲れていると同時に関心を惹くような話題に遭遇していないことも原因の一つだろう。しかし、この期に及んで、いったい何を述べるつもりなのだろう。さらに、何をどのように述べるつもりなのだろう。これから何を述べたらいいのだろうか。それがわかったら苦労はしない。それをわかろうとすること自体に無関心なのかもしれない。そんなことはいちいち気に留めていないらしい。その結果、さらにわけがわからなくなるだろう。何がどこでどうつながってそういうことになるのかが理解できない。確かにわからないことはたくさんあるだろう。だがそれについてもあまり関心がない。それは仕方のないことだ。現実にそうなってしまうのであり、また、そのようにしか述べられないのだから、それはそれで、そういうものとして認めなくてはならない。そういうものが存在する以上、それを否定するにしろ肯定するにしろ、まずはそのようなものが現前することを認めなくては、そこから先へ進めないだろう。で、そこから先へ進んでどうするのか。さあ、どうしたらいいのだろうか。たぶん先へ進んでも、どうにもならないのだろう。確かにどうにもならないときは、何をどうしようともやはりどうにもならないものだ。どうにもならないときは、ただ無力感が漂うのみだろう。自分にはどうすることもできない。だがたとえそんなことばかりであっても、そしてそういう成り行きを嘆いてみても、またいくらそんな境遇を呪ってみても、それは仕方のないことだ。自分にはどうすることもできない。だからそれはそれで、そういう運命を受け入れるしか仕方ないだろう。今このような現実がここに存在していることは認めざるを得ない。だがこの現実がこのまま未来永劫続くわけでもないだろう。確かに明確な目標は何もないが、このような現状を前提としながらも、何か自分なりに試行錯誤をやっていることは確かだ。その試行錯誤の行き着く先は不明のままだが、どうやらそれをやめることはできないらしい。それをやめられないのではなく、何の理由もなしに、また何の展望もなしに、ただなんとなくそれをやっているのだ。別にやった結果として何が得られるわけでもないだろうに、もしかしたら何も得られないかもしれないのだが、たぶんその可能性の方が高いのだろうが、そんなことはすでにわかっていることだが、にもかかわらず、現実に、こうしてやってしまっているらしい。不可解だ。わからない。それは当たり前だ。どうしてそうなのか。なぜそうなるのか。予定調和の疑問が連続する。当然そんな疑問に答える術は持ち合わせていない。だが、絶えずそういう疑問を抱きざるを得ないだろう。別にそれの答えを求めているわけではない。ただ慣性の法則に従って、そのような疑問に行き着くだけなのだろう。それらの疑問に意味はないし、それに答えることにも何の意味も意義もない。内容の不明確なことを述べてゆくと、やはりなぜそんなことを述べているのか自問してみたくなる。単にそういうことなのだろう。だが、こんなことの繰り返しばかりではつまらない。もっと何か別の試みが求められているらしいが、それがわからない。たぶんわからなくて当然だろう。実際に何かやってみたあとからでないと、それを感じることはできないだろう。言葉は絶えずやったあとからついてくる。やったことを説明すれば、それが何らかの言葉の連なりになるだろう。実際に今それをやっているわけだ。前口上だけのわけのわからない先延ばしに苦心している。だぶんここから本題に移ることはないだろう。その前に終わってしまうだろう。それはなぜだろう。そんな疑問ばかりが繰り返されるのが退屈だからだ。そうではない展開を望みつつ、だが実際にはこうなってしまった。


12月2日

 それはおかしなやり方だ。なぜ突然断片的に分散させるのだろうか。たぶんそれは偶然の気まぐれによるのだろう。気まぐれに気分次第でたまには分散したりする。それは罪悪感なしにはできないことだろうか。しかし、そこで罪深いことをやっているという意識は感じられない。当然その罪を償うつもりもない。それは罪なことではあり得ない。それは、はじめから罪意識とは無関係だ。なぜそういう展開に持っていくのか、わけがわからない。まったくの謎だ。理解できない。たぶんそれも単なる気まぐれなのだろう。気分次第であらぬ方向へ逸脱してみる。たとえば、仮にそこで贖罪を強いている者がいるとすれば、それは誰になるのだろうか。さらに強引な展開だ。その設問はかなり不自然だろう。それはジーザスのことだとでも言うつもりなのだろうか。なぜ罪は償わなければならないのだろう。ジーザスによって贖われなければならないのか。たぶんそこで何らかの操作が行われていて、そのような制御によって、人々は何らかの罪意識に目覚めるように操られているのだろう。だがいったい誰がそのような操作に荷担しているのだろうか。やはりそこでもまたジーザスの名が利用されているのだろうか。それは知らない。別にキリスト教徒ではないので実感が湧かない。たぶんそれはでまかせだろう。困ったときの神頼みというやつだ。それとも何か天啓でも得たのだろうか。ここから唐突な展開だ。それは突然の出来事だった。これが青天の霹靂というものなのか。いや、単なる気まぐれかもしれない。たぶんそれはどうでもいいことなのだろう。冗談の一種かもしれない。何か困難に直面しているのだろうか。いや、別に前途多難というわけでもない。だが、たまには落ち込むこともあるらしい。相変わらずのおかしな展開だ。それはいつもことだろう。だがこんなやり方が楽な展開につながるらしい。なぜそうなるのかよくわからない。しかし、どういうわけか、毎度おなじみのことだが、かなり意味不明だ。しかし驚くべき持続だ。わけがわからない内容だ。確かに支離滅裂な内容になるのはいつものことだ。すべては気まぐれな偶然から生成されるらしい。もうそれ以外の事象に頼ることはできないようだ。最近はそればかりの無内容に覆われている。だが、そういう内容によってこれらを持続させることには、ある種の罪悪感が伴う。しかしそれはすでに終わった話だ。今さらそれを蒸し返して、自己嫌悪に浸る必要もないだろう。今は気分次第でどんな方向へも逸脱できるのだ。たぶん、そういう気楽なやり方が性に合っているのだろう。内部では十分リラックスしているようだ。外部では様々な情報が錯綜してるらしいが、それをまるで捉え切れていない。しかしそれはそれで構わない。外部のことなど何もわからなくて当然なのだ。それは内部も同様である。外部のことも内部のことも何もわからない。ところで、いったいここで何について語りたいのだろう。わからないが、何かについて語っているらしい。確か以前も同じようなことを述べていた。今さら真顔で、トルシエは日本社会には必要だとかほざいている者がいる。彼はスポーツジャーナリストとかいう肩書きのようだ。おつむの具合は大丈夫なのだろうか。何かしら良い結果が出れば、とたんにそんな大げさなことを言いたがる。ただ指揮を頼まれたサッカーチームが強くなるように努力しているだけなのに、なぜそこで日本人や日本社会がどうのこうのとかいう話に持っていくのだろうか。本当に恥ずかしい話だ。なぜそういう述べ方が恥ずかしいことなのか、依然としてそれをわかろうとしていないようだ。その結果、とりとめのない思索ばかりになり、何を述べているのかよくわからなくなる。難しい単語を駆使して複雑なことを述べているわけでもないのだが、その場限りの偶然性に頼っているかぎり、断片的かつ分散的で支離滅裂な内容になるのは避けられないことだろう。そういう倫理観の欠如した輩が偉そうに解説者気取りでのさばっている光景にはあきれる。真に受けてはいけないことだろうが、やはりうんざりする。


12月1日

 何ものにも拘束されない、そんな自由を実現させることはできないだろう。夢想していることや空想していることとは別の不自由に束縛されているようだ。どうやら未だに宿命を受け入れる準備はできていないらしい。それが宿命といえば宿命なのかもしれない。まだ早すぎるし、もう遅すぎる。それが絶えず今の時を構成しているのだろう。今ある時間は常に到来し続け、また常に過ぎ去り続ける。感動する暇さえ与えないだろう。どこに向かっているのでもなく、留まっているときでさえ、絶えず変わり続けるのだ。

 過ぎゆく時のなごりを何に喩えたらいいだろう。今は余韻に浸っているときではない。頸木から解放される時を願いながらも、その頸木に依存しきって生活している牛馬のことを想う。本当にそれを望んでいるのは、頸木を課している側である。頼られる側に生じる負担こそ軽減されなければならない。それは虫のいい話だ。利用しているのはどちらの側なのだろうか。利用されている側が利用している内容を吟味する必要が生じるだろう。その内容しだいでは、相互依存関係を断ち切る機会が訪れたりするらしい。推測はどこまでも推測の域を出ない。

 そこに溜まっているわだかまりは、いつの日か解消するときがくるだろう。氷の溶ける季節を待つ忍耐が備わっているだろうか。いつまで経っても同じ口調を繰り返す人々に、そのときが訪れるだろうか。困ったときには街角に佇んで道化役を物色している哀しい者達にも、本当に未来があるのだろうか。頼まれもしないに愚者を買ってでる蛮勇に敬意を賞することのどこに救いを求められようか。もう誰も気にしていないのかもしれない。気に留める人もいないのに、依然として儀式は滞りなく執り行われているらしい。そのレベルで留まれる人は幸せだろう。

 断片的な記憶は次々とランダムにつなぎ合わされる。その構成に秩序はない。ある一定の限界を超えたところに憩いの場が生まれるようだ。苦しみのあとにはさらなる苦しみが待っている。それを避けて通ればオアシスにたどり着けるだろうか。苦しみを避けては通れないだろう。そこを通らないし、オアシスにも永遠にたどり着かないだろう。どうやらそこへは近づけないような仕組みになっているらしい。そのオアシスは砂漠の蜃気楼なのだろうか。それは予定調和である。ここには砂漠など存在しないし、ここでオアシスを夢想する必然性は何もない。憩いの場で憩いの時を過ごす夢を見る。たぶんその夢を見ているときが憩いの時なのだろう。

 継続される行為は、何らかの形で実を結ぶらしい。だがそこに救いはないだろう。救いを求めるような行為は貪欲さに結びついている。貪欲さとは無縁だ。貪欲に知識を吸収したわけではない。その行為を継続してゆけば自然と蓄積するはずだ。利益とは無関係の情報ばかりが溜まり続ける。実を結んでいるのはそのような果実なのだろう。それが未来への可能性かもしれない。未来があるとすれば、利益に固執している人々の夢が破れたあとにある。利益がでない仕組みが確立されて、人々が競争とは無縁の生活を送れるようになったとき、たぶん未来が訪れるのだろう。国家や民族という頸木でつなぎ止められなくても生きて行けるようになるかもしれない。

 それはひとつに可能性に過ぎない。様々な未来が並置されて入り混じっている。ひとつの秩序や形式に縛られない、多種多様な価値観が渦巻いている。それらは互いに矛盾しながらも、すべてが現前しようと、今ある地盤の割れ目や裂け目の至るところから炎となって噴き出している。それらをすべて出現させるようにしなければならない。その際、旧来の価値観に縛られた事の善悪を基準として取捨選択してはならない。まず非難されるべきは、目先の利益を守るためににこれらの出現をくい止めようと必死に努力している者かもしれない。変化の邪魔をしているのは、恣意的な調査によって多数意見を構成し、そのような同一意見に人々を誘導しようと画策している者達だ。多数意見によって創出される権力は、必ず多様性を排除しにかかるだろう。意見や立場の分散を嫌って絶えずひとつの態度に結集することばかりを求めてくる。そうやって人々に頸木を課すわけだ。