彼の声18

2000年

5月31日

 FreeBSDのppxpで、ユーザーからインターネットにつながらない理由がやっとわかった。ようするに/etc/hostsに自分のホスト名を登録しておくのを忘れていただけだった(爆笑)。こんな単純なミスに何ヶ月も気がつかないなんて......。もしかしてワープロソフトのdp/NOTEでライセンスサーバが獲得できないのもこれが原因か?来週にでももう一度入れて確かめて見よっと。しかしどうして今頃になって気づいたのだろう。まったく自分の脳味噌の構造はよくわからん(笑)。

 いや違う違う、よく考えたらそんな簡単な理由ではなかった。別に今までだって/etc/hostsにはホスト名は登録されていた。今回はたまたまDOS/V機にFreeBSD4.0Rを入れたばかりで、まだネットワーク設定をしていないから、/etc/hostsのファイルがデフォルトのままなので、その中に記述されているホスト名とIPアドレスの項目をコメントアウトしただけで、シリアルポートからモデム経由でユーザーでもインターネットにつながったのであって、これまでは、ネットワークカードを認識させるために/stand/sysinstallから設定するときに、適当なホスト名とルータに合わせたIPアドレスを記入してしまっていたので、/etc/hostsのファイルがそれと入れ替わってしまい、それだとネットワークカードからルータまではつながるが、こんどはシリアルポート経由でダイアルアップしたときにユーザーからインターネットにつながらなくなってしまう、ということなんだろうか。どうも元のIPアドレスをそのまま使った方がいいのかもしれない。とりあえず来週戻ったら試してみよう。

 ちょっとした間違いが思わぬ波紋を呼ぶ。結果として思わぬ波紋が起こるのはよくありがちなことだが、誰もが間違えようとして間違えるわけはなく、恣意的にわざと間違えることを除けば、間違い自体が本人にとっては思わぬ事態だ。間違いに気づいた時点ですでに思わぬ成り行きに困惑している。と同時に少し安心もする。すべてが思い通りにうまくいくはずはない、という確信とともに、思わぬ間違いをこれまで度々犯してきた体験と地続きの現象であることを再確認して、間違えること自体は本意ではないが、そのような世界の経験的な連続性に安心することも確かだ。あまり思い通りに万事がうまくゆきすぎると、かえってこれから先に恐ろしいどんでん返しが起こるのではないかと、逆に不安になる。ひょっとすると、自分がすでに致命的な間違いを犯してしまっていることにまだ気づいていないのかもしれないと心配になってくる。だがどんなに用心や心配をしたところで、実際に間違いに気づいてからしか間違いに対する対処はできない。いくら間違いが起こる可能性を予測したところで、現実に発生した間違いに対応するのはそれに気づいた後からだ。間違えないように細心の注意を払うのは当然のことかもしれないが、それでも間違いは起こる。屁理屈を言えば、どこからも誰からも間違いを指摘されないような完璧な行為は、その完璧さゆえに間違っているともいえる。それ以上その行為を展開させたり発展させることができないからだ。つまり、比較的まっとうといえるような行為は、周りから不備や間違いを指摘されながらも徐々に良い方向に展開していくものだ。肯定的な側面から言うなら、間違いがその行為への他者の意志や思考の流入や、行為自体が変化したり進化したりしながら展開していく余地を残しているのだと思う。


5月30日

 人生はかけ算だ!

 確かこんな文句だったと思う。そんなことを言っているらしい326とかいう人のことはあまり詳しくは知らないが、今日電車の中で、なんとなく暇つぶしにその「かけ算」について思考をめぐらせていてちょっとひらめいたのだが、上の文句は結構説得力を持つのではないか(爆笑)。

 例えば、半人前と半人前が力を合わせた場合、

0.5x0.5=0.25

そのかけ算の効果は、一人前の人の四分の一になってしまう。
では半人前が三人で力を合わせると、

0.5x0.5x0.5=0.125

さらにひどい結果になる。
ということは、烏合の衆がいくら力をあわせても、その効果は限りなく0に近づくということになるかな(笑)。

0.5x0.5x0.5x0.5x....................→0

それでは、一人前の人が大勢で力を合わせると、

1x1x1x1x...................=1

これでは何も効果はない。
つまり、かけ算効果がプラスの方向に働くには、一人一人が何らかのプラスアルファを持っていなければならないことになる。しかし、その効果はかけ算の性質から期待されるほどの飛躍的な結果はもたらしはしないだろう。せいぜい、

1.1x1.1=1.21

この程度が常識的な数値だと思われる。そうそう人の何倍もの力を持つ天才やスーパーマン的な人がいるわけはない。
しかし、例えば「人生はかけ算」を真に受けて、くだらぬ経験や努力によって様々な知識や思想を身につけているつもりの人がいたとするなら、もしかしたらその人は、自分の能力が、

2x3x5x7x9=1890

だと思い違いをしている可能性があるか?しかしこれは完全な誇大妄想だ(笑)。
妥当な線で行けば、かなり甘く見積もっても、せいぜいのところ、

1.2x1.3x1.5x1.7x1.9=7.5582

こんな感じになるのではないか。
だが、実際のところ、最悪の場合、

0.2x0.3x0.5x0.7x0.9=0.0189

この可能性だってなきにしもあらずだ(笑)。
自分が5だと思っている力が、それを測る尺度を変えれば0.5にも0.05にもなる。1以下の数字をいくらかけ合わせても永遠にプラスにはならない。これが「人生はかけ算」の本質ではないのか。


5月29日

 誠実さの裏返しとしての過剰さが迸る。まだ指が痛い。腕も痛い。頭も痛い。暗闇の切れ間から赤いカーテンが見える。カーテンの隙間から窓が見える。ベッドに縛り付けられたまま旅をする。どこへも移動しない。周りの風景は相変わらず単調だ。それが旅といえるのか。夏目漱石はそんな旅をしたことがあるらしい。たぶん死の直前だったのだろう。なぜ彼は失敗して小説家になったのだろうか。彼が断念したことは、今では少数の批評家以外には誰からも顧みられない。やがて彼の妥協の産物である小説すら読まれなくなるのか。印象的な作品も風化してどこかへ消えてしまうのだろうか。たぶん後世の人間がそれを維持しようと躍起になる必要もないだろう。できることは、漱石が断念したものを追い求め、それを再構築しようと試みることなのか。今のところ、自分には関係のない話だ。

 ジジェクはこんなことを述べている。
 ポルノで最も維持しがたい拮抗は、それが「反対物の統一」を最も徹底的なところで提示しているというところである。一方では、ポルノは快楽の最も内密な体験を全面的に外に出すということである(カメラの前で金のためにそれをする)。これに対し、ポルノはまさにその羞恥心のなさのせいで、おそらくあらゆるジャンルの中で最もユートピア的である。それは、内密の私的なものを公的なものから分離する障壁の、もろいかりそめの中断を含んでいるという意味で、見事に「エデン風」なのだ。そのために、ポルノの立場は維持しがたい。それはあまり長くは続きえない。我々の社会的なつながりをなす恥の規則を魔法的な停止-内密を公にできる、人々が他人の前で交わることができる、見事にユートピア的な宇宙-に依存しているからだ。(『幻想の感染』263〜264ページ)
 すぐに飽きが来る一時のユートピア見たさに人々が群れ集う場がある。そこで見られる対象は、すぐに飽きが来るので、人々は絶えず新しい新鮮な見せ物を要求する。だがそれは、見かけの新しさに包まれただけの同じ内容の繰り返しでしかない。だが、はじめからそんなことは重々承知しているのだろう。同じ内容の反復こそが期待されているのであり、逆に内容といえばそれしかない。そこでやることはきまっている。ではなぜそんなワンパターンの繰り返しをわざわざ見たいと感じるのか。それはたぶん恥ずかしいからだ。それを見ることで自らの羞恥心を活性化させている。対象の恥部を見ながら、それを見ている自分自身が恥部そのものとなる。それが「エデンの園」なのだろうか。そこを覗き見る者が、その覗き見る行為を別の他者に覗き見られることに激しい羞恥心を覚える。そんなからくりになっている。だからそれを覗き見る人は自然と卑屈になる。


5月28日

 どうやらまだ残された時間が後少々あるそうだ。だが、未だに卓上の計画と机上の空論だけが頼りらしい。提示できるのは不明確な道筋だけだ。未来には何も展望はない。ただ、わけのわからぬ展開に困惑することしかできない。できれば、呆気にとられて何もできないような状況を創り出したいが、それができるほど状況を掌握しているわけではない。客に考える隙を与えては、イカサマ商売は成り立たないそうだ。だが、売る側が一方的に有利なわけではない。買う側も不誠実なイカサマ人間である可能性がある。紫の布地に白い薔薇の刺繍、そんな怖い裏地の背広だった。誰がそんなものを着るのだろうか。死人に口なしだ。口はあるが口がきけない。その死体は裏口からそっと家へ入る。ひざの破れた作業ズボンが血まみれだ。どこで何をやってきたのか、適当に想像してみる。訊くより早く返事が来る。野良犬と格闘してきたそうだ。空想をめぐらす隙もない。相手に考える隙を与えては自分の負けだ。だがいったい誰と勝負しているのだろう。これは、スポーツの一種なのか。肩の力を抜いてリラックスしようじゃないか。外ではカラスが群れている。水道の蛇口がゆるくなり、水がぽたぽた落ちている。水の落ちるリズムでカラスは踊れるだろうか。確かにジャズは最高だ。白人にとっては?もはや再起不能だ。遠い昔の栄華を思い出しているだけ。それで成り立つ商売もあるらしい。その最後の一滴まで絞りだそうとしている。そして今は末法の世だと嘆いてみせる。だがそれは千年前の台詞だろう。つまらぬ戯言など聞きたくもない。どうやら残された時間など初めからなかったようだ。では今この時間はどのような時間なのだろう。未だ到来していない来るべき時間だ。それは神のお告げか?それともブランショのお告げか。ブランショが神なのか。それはない、神が死んだ時代はとっくに過ぎ去った。だが神が復活したわけでもない。今は空白の時代だ。この先も空白の時代は続く。だが、誰がそんなご託宣を聞き入れるだろうか。神がいないのにご託宣が存在できるだろうか。どうやらそれは可能らしい。誰もが空白の存在を認めたがらない。自分たちの無惨な姿を無視しようと必死だ。それが空白の存在を許している。人々はヒューマニズムにしがみつく亡霊と成り果てている。ヒューマニズムか反ヒューマニズムか、そんな次元でしか物事を捉えられない。そんなみすぼらしい姿でしか亡霊は存在できない。答えのでない問題に間違った答えを強引にくくりつけ、それで責任を果たしたつもりになっているだけだ。


5月27日

 その場を取り繕うために見え透いた愛想笑いでも浮かべてみようか。そうせざるを得ない場にはよく直面する。その結果、おもしろくもないのに笑っている自分がいやになる。毎度おなじみの自己嫌悪だ。しかし、そうやってその場を切り抜けてほっとしていることも確かだ。くだらぬ処世術を使っている自分に安堵しているわけだ。日頃からこんな場で偉そうなことを述べてはいても、実生活での自分はこの程度だ。そして、やはり後で自己嫌悪に陥る。それの繰り返しだ。どうも制度から強制された儀礼には我慢ができないようだ。だが、表面的なつきあいにはこれからも耐えていかなければならない。もうこれ以上我慢できないと感じていながら、気がついたら我慢している。意志と行動は必ずしも一致しないものだ。近頃流行の思春期の少年みたいに、簡単に切れて怒りを爆発させる機会など、そう滅多にあるものではない。この十年で三度あったかどうか。たぶんここ二三年は至って冷静なまま推移していると思う。怒りを爆発させたように演技したことはあった。いや、それは嘘だ。演技ではなく半分本気だった。どうやら、冷静でないときも何度かあったようだ。しかし、その結果一時的に自己嫌悪に陥るが、その度ごとになんとか立ち直っているらしい。もう自己の連続性などはどうでもいいことだ。至るところに裂け目や断層や特異点が存在するのは仕方のないことだ。自分では制御できないことはたくさんある。現に今まで経験してきた出来事の堆積は、今の自分にはどうしようもできない。つまり、こうした反省によって、その度ごとに発生する怒りや自己嫌悪を静めているのだろう。情けないことだが、これからもこんなふうに生きていくことしかできないだろう。あまり厭世的に愚痴ばかりこぼしても仕方ない。今ある現実からそう簡単に逃れることはできない。仮に逃れたとして、また新たに今と似たような現実に直面することはわかりきっている。根拠はないが、今までの経験からそう思えてしまう。なるほど、自分はまるで夢のない人間だ(笑)。だが、次の選挙でも、現実路線の保守的な政党ではなく、未だに夢を追い求めている(?)共産党の候補者に投票するのだろう。なるほど、自分は意志と行動だけでなく言動と行動も一致しない矛盾だらけのふざけた人間だ(笑)。


5月26日

 子供たちに命の大切さを教えよう。だが、だいぶ前に、神の死とともに人間も死んでしまった。だから神の国である日本は亡霊の国である。つまり、近頃ことある度に命の大切さを訴えているのは、もはやとっくの昔に死んでしまった亡霊たちである。命のない死者たちが命の大切さを訴えるとは、これはかなり皮肉な現象だろうか。いや、自分が死んでみてはじめて命の大切さを実感できるのかもしれない。とするなら、まだ生きているうちは命の大切さなどわからなくて当然なんだろうか。だが、すでに神とともに人間は死んでしまった。つまり亡霊たちは、命のない死んだ人間に命の大切さを教えようとしているわけか?命を持たない者同士が命の大切さを教えたり学んだりしている。なんだかやっていることが根本的に間違っているような気がする。だが以上に述べたことについては疑問もある。もはや亡霊しか存在しない今の日本の中で、生きているのは誰だろうか。さあ、いったい誰なんだろうか。例えば、脳天気なスポーツマンとか?いや、脳味噌まで筋肉質の体育会系警察官か?それとも、テレビの前やスタジアムに集う応援団員なのだろうか。もしかしたら誰も生きてはいないのかもしれない。確かに群衆とか大衆とかいう漠然とした群れは至るところに存在しているようだが、その群れの構成員の一人一人は本当に生きているのだろうか。比較的真面目な群れの構成員は、その群れの煽動者が提供する夢や目標に向かって努力しているらしいが、それで生きているといえるのか?それは目的地まで乗客を運ぶ電車やバスとどう違うのだろうか。要するに労働を強いられているということか。それは大変ご苦労なことだ、煽動者の食い物にされている。亡霊たちのおかずにされるなんて、できればかんべん願いたいところだ。だからこの際、画面上や紙面上に存在する亡霊たちには見切りをつけて、適当な隣人にでも出会った方がいいのかもしれない。そして何をするでもなく、ありきたりな夢や目標のない純粋な会話でもすれば、それで命の大切さがわかるだろう。目的に向かってまっしぐらの命のない亡霊たちにはその程度のことさえできないのだから。功利的な彼らは金の亡者ならぬ夢の亡者である。


5月25日

 暗闇の中に冷気が吹き込む。耳障りなエアコンの音で気が散ってくつろぐことができない。暑さとともに騒音までやって来る季節になった。エアコンの音ぐらいは騒音のうちに入らないかもしれないが、エアコンを消して暑さを我慢して静けさを取るか、不快な音付きの涼しさを取るか、どちらを取るにしろ安らぎからはほど遠い。結局我慢しきれずに起き上がって灯りをつけた。だが蛍光灯をつけると、光とともに微かだがやはり耳障りな蛍光灯の音が加わる。二つで一組の蛍光灯の双方へ流れる電流の周波数が微妙にずれて干渉しあい、それで唸りみたいな音を発するのだろうか。詳しくはわからないが、これはしばらく我慢すると聞こえなくなる。だが今はまた別の音も加わっている。つまり、これを書いているわけだから、当然PowerBookの音も加わっている。PCとしてはかなり静かな部類に入るのだろうが、この音も気になりだすと無視できなくなる音になる。それで、これらの音をうち消すためにMP3で音楽を聴きながら書くことになる。しかしなぜこうまでして書いているのだろう。エアコンの音がうるさかったからか?さあ、おそらく他にやることがないので手持ち無沙汰を紛らすために書いているのだろう。だが本当に気を紛らすためにわざわざこんなことを書いているわけなんだろうか。きわめて消極的な理由だ。だがこの程度の理由で予防線を張っておくのが無難だろう。間違っても、大義のために国士気取りでこんなことを書いているわけではない。だが、少なくともこれは無為の行為ではなく、何かしら生産的な行為であることは確かだろう。何がどう生産的なのかはよくわからないが、とりあえずこうして多種多様な文章が蓄積していくのは事実だ。だから、中には意味のないこのような文章もあってもいいだろう。ネタ切れもあるだろうが、あまり殺伐としたことを連続して書く気にはならない。どこぞの反骨ジャーナリストみたいに鋼鉄の意志など持ち合わせてはいない。たぶん優柔不断で軟弱な人間なのだろう。これも見え透いた予防線か?だがこれでは予防線としての機能を果たしていない。...わからない、自己に言及すると必ずこんなふうになる。何を述べているのは自分にも理解できなくなる。


5月24日

 メディアがその事件をセンセーショナルに取り上げれば取り上げるほど、事件の容疑者や被告はヒーロー(悪の)として世間一般に流通するだろう。永山則夫氏や大久保清氏のように、その人が死刑にでもなればなおさら英雄扱いになる。その人を題材とした小説や映画やTVドラマや漫画やが創作されるかもしれない。つまり、凶悪事件は商売のネタとして貴重な価値を持つことになる。だからなおさらメディアは騒ぎ立てる。そして騒げば騒ぐほど、その事件に魅せられた一般大衆の中の不満分子が侵犯への欲望をかき立てられる。自分もひと騒ぎ起こしてみたくなる。どうせこのまま不満をくすぶらせてつまらない一生を終えてしまうのなら、せめて自分を今までないがしろにしてきた世間一般に一矢を報いなければ気が済まなくなる。そして何かのきっかけで魔が差して、気が付けばまたひとりの犯罪者が誕生することになる。とまあ、こんなストーリーが最近の凶悪犯罪とされる事件から導き出されるありがちな展開だろうか。とするなら、マスコミはこれまで通り事件が起こる度に大騒ぎすればいいだろう。そして社会の不満分子を犯罪に駆り立てて報道の餌食にすればいい。そしてその報道を真に受ける大衆はといえば、無条件で心おきなく罵声を浴びせかけることのできる対象を探し求めている。彼らは報道陣と一緒になって犯罪者に向かって、お前なんか死んでしまえ!と叫びたいのだ。野次馬の立場で言う、やれ刑が軽すぎるとか謝罪の言葉がないとかいう言葉の裏には、犯罪者をこの世から抹殺したい(殺人衝動)という無責任な怒りの気持ちが含まれている。これは罪悪感を免除される究極の差別なのだろう。犯罪者をあからさまに差別しても誰からも後ろ指を指されない。つまり以上を整理すると、犯罪者としては自分の侵犯への欲求を満足させることができ、メディアとしては格好の商売ネタになり、大衆としては心おきなく差別意識むきだしで罵声を浴びせることができる。要するに三者鼎得である。結局のところ凶悪犯罪と呼ばれる代物は、事件を起こした犯罪者と、それを報道するメディアと、その報道を受け取る大衆の三者による連係プレーから生まれる相互自己満足パフォーマンスとなっている。だが、自分としては、やはりこの状況は不快だ。


5月23日

 屈折した思いに捕らわれる。自らの意志をねじ曲げて社会的慣習に屈する。結局のところ、人々にはそんな結末が待っているらしい。誰かがそんな当たり前の理論を得意になって披露した。社会的慣習は、目に見えない網目状のネットワークを形成している。その結節点の至る場所に、人々を拘束するための罠が散りばめられている。誰もが思いもよらぬ時場所で知らず知らずのうちに罠にはまってしまう。しかも大半はそれに気付かない。気がついたときには、機械の歯車はすでに回り始めている。すでに網の中に拘束されている。冷却ファンがうなりをあげている。集積回路上が電子の流れに満たされる。眩いばかりの閃光だ。イメージ映像とはそんなものだ。しかもイメージ映像自体は誘惑の対象だ。では、そのとき人々には何ができるのだろう。何をすればいいのか。その慣習の機械的な動作を自分自身に覚え込まさなくてはならない。なぜ?罠にはまらないために?すでに、だいぶ前から罠にはまっているではないか。だから、罠にはまりながらも、また新たな罠にはまったときのために、罠にはまってもがき苦しむ動作を機械的になぞってみる。罠にはまったときにもがき苦しんでいるように見せかけるために。すでに罠にはまってだいぶ経っているのに、今さらしまったとでも言いたげな苦渋の表情を浮かべてみる。だが、なぜことさらそんなわざとらしい演技をしなければならないのか。もう罠にはまってしまっているのはわかっているのだから、そこから生じる甘美な快楽を味わい尽くすのが正統的なやり方ではないのか。だが陶酔に身を任せることは、罠から逃れられないことを逆手に取った孤独の呪いを世界中に広めること、自己崇拝が高じて論理的に飛躍すること、そこに安易なロマンがあるから、間違っても陶酔の表情を浮かべてはならない。つまり、それが人々を罠に引き込むために機能する魅惑のイメージ映像になってしまうから、それをうち消すために、ことさら苦しみ悶えるような役を演じなければならないわけなんだろうか。なんだかもったいないような気もするのだが、で、それからどうなるというのか?暴力の誘惑に誘われるまま火だるまになる。終わりのない宇宙が始まりのない宇宙を産み落とす。さあ、その先は行方不明だろうか。だが、そんなことは誰も気にしないだろう。誰もが罠にはまっているのだから、他人の境遇までは手が回らないのだろう。他人にお節介を焼くほどの余裕はない。ではどうすればいい。解決方法はないが、気休めならある。せいぜいところ、罠の替わりに、ありきたりなピアノの音にでも陶酔していればいいだろう。


5月22日

 批判者が批判している対象と同じような振る舞いをするとき、それは批判者の中に権力への意志が芽生えている証なのだろうか。しかし、権力への意志とはどのような概念なのだろう。批判している対象に成り代わって自分が権力者になろうと欲することか。よく権力者がそれを批判する者に向かって言う開き直りの台詞としては、そんなに批判するのなら、お前が俺の立場になってみろ、俺の代わりにお前が政治をやればいいじゃないか、という紋切り型だろうが、それを真に受けて権力者になろうと欲する者は、その試みが成功したとき、自分がかつて批判していた権力者と瓜二つの同じような権力者になっているのだろうか。権力者を選出する制度が同じなら、そうなる可能性は高いだろう。過去十数年間の日本の総理大臣の顔ぶれを見る限り、そこに際立った違いを見いだすことは難しいと思う。ならば制度を変えるべく安直に大統領制でも導入すればいいのだろうか。そうなればなったで、また、同じような大統領が次々に選出されることだろう。別に今のまま同じような権力者が次々と現れるので構わないのなら、闇雲に制度を変える必要はない。そうではなく今ある権力システムを抜本的に変えたいのなら、まずは今いるような権力者が選ばれないような制度を考えるべきだろう。実現するかどうかはともかく、柄谷行人が以前述べていたように、くじ引きで国会議員を選べば、今いる権力者たちは一掃されるかもしれない。例えば、今いる総理大臣の替わりなら、普通の大人なら誰でも務まるような気になることは確かだ。誰がなっても構わないような役職を選ぶために、わざわざごたいそうに大騒ぎしながら選挙で選ぶ必要もないだろう。そうすると、世の中の流れは、くじ引きで定期的に国会議員や首相を選出するような方向へ向かっているということだろうか。たぶんそれの実現にはマスコミと大衆が邪魔をするのだろう。権力者に自らの願望を幻想する人々によって今ある制度は支えられている。だから、権力者を批判する人々の中から似たような権力者が選ばれる制度はまだ当分の間は続くと思う。今ある権力の意味や意義が無効にならないかぎりそれは続いてゆくのだろう。


5月21日

 樫の木の幹に打ちつけられたわら人形が笑う。赤く錆びついた五寸釘は、人形の心臓の位置に打ち込まれ、それを見つけた人間が呪いの意図を容易に察するようにしてある。邪魔な人間はこの世から消えてもらわねばならない。だがその消え方にもひとくふうがほしいところだ。呪い殺されたなんて思われたらちょっと格好が悪いだろう。また、病死や事故死ではありきたりすぎる。では、どのように消えればいいのだろう。自殺か?それは敗北宣言に等しい。どうやら格好の良い消え方など今のところ何も思いつかないようだ。というか、どうも消えられない宿命らしい。それは嘘なのか?そうではなく、本当は最初から消えているのだ。固有名など初めから無視されている。すでに消えているのだから今さら消えようがない。それが実態だろう。その人間に消えてほしければ、まずはその固有名が公表されなければならない。一旦その人間を有名にしなければ、抹殺しようにも抹殺できないだろう。初めから固有名が抹殺されている人間なんかをいくら抹殺しても、それは抹殺したことにはならない。彼を群衆から引き剥がして有名人にする勇気も度胸も度量もないくせに、どうやって消すことができるというのか。まあ、無理なことはやらない方がいい。まずは文章を読むことだ。それしかできない。それ以外は妄想だ。そして読んだ後、読んだ人間がどうなろうと関知はしない。知ったことではない。そう思いたい。幻想の光景を期待したければ、映像でも見ればいいだろう。静止画像でもいい。そこから勝手な幻想を引き出したらいい。現実から引き出されるのは幻滅しかないだろう。だから誰かに無責任な希望を託すのはやめよう。誰かに良識を期待するのもやめようじゃないか。メディアや大衆の意向に従うのもやめよう。ではどうしたらいいのだろうか。人それぞれだろう。その時々で、自分で判断して行動してみようじゃないか。それでは気休めにはならないが、指標となる判断基準がないのだからそうせざるを得ない。自分は、このような場を過大評価する気にはならない。現実にやれることはたかがしれている。だが、別のメディアが何らかの支配権を握っているとも思えない。だから、まんざら絶望的な状況でもないだろうとは思う。その点に関しては楽観的ですらある。実際に大したことをやっているのは、ほんの一握りの人達なのだろう。


5月20日

 失われた90年代、そんな年代があったとは知らなかった。見失われた60年代、見失われていない。懐古趣味が渦巻いている。黄金の50年代、まだ自分は生まれていない。誰かが嘆き悲しんでいる。歳月が流れ去るのが許せないそうだ。置いてきぼりを食ってしまったらしい。だが年月は待ってはくれない。またそれを追いかけることもできない。誰も時間の流れに同調できはしない。それが過ぎ去った後から懐かしむものと相場は決まっている。走るために生まれてきた人々を懐かしむ。今は誰もいない。彼らはすでに走り去ってしまい、強烈な残像を残しながらも、おおかたは灰と化していて、四角い石の下で永眠している。かつて、死んで土に埋まってからしか安住できない人々の時代があったのだろうか。今の人々はそんな伝説が好みなのだろうか。少なくとも街宣車等でお出ましの方々は、そういう歴史ロマンが好きなのだろう。英雄やら英霊やらに勇気づけられて、自分たちの崇高な職務を遂行している。ベトナムの英霊たちは石の壁に刻まれている。彼らの永住地は人口密度が高い。壁の表面に密集している。現地のベトナム人は植物とともに生い茂る。たぶん、石碑が磨り減り、英霊の名が判別できなくなったとき、最後の審判でも訪れるのだろう。繁茂する植物とともに石碑にひびが入り、今のローマみたいに、廃墟目当ての観光地になっていることだろう。そのとき、誰かが忘れ去られた曲を再演するかもしれない。風の中で、風とともに、風に吹かれて、調弦の甘いフォークギターをかき鳴らしながら、みすぼらしい出で立ちで、あまり巧いとも思えないぶっきらぼうな歌い方で、とうの昔に廃れた場末のイメージを背景にして、通りすがりの人々には無視されながら、響かない声でつまらなそうに口ずさんでいることだろう。そこは雑草だけの世界だ。誰もいない。世界のすべてが墓地になる。風に吹かれて。そんな歌なのか。いや、昔はもう少しポジティヴな内容だったはずだ。いつの間にか題名や歌詞の内容や意味も少しづつ変わっていったのだろう。時の流れに浸食されて人に関する内容が消えてしまったのだろう。勝手気ままに移ろいゆく人の感情などはすぐに消えてなくなるが、英雄やら英霊やらの強烈な残像もいつしか忘れ去られて、またそれらを生み出す歴史そのものが廃れてしまい、それは辺り一面に繁茂する雑草の歌になった。


5月19日

 一瞬の間まどろむ。さっきまで何を考えていたんだろう。真昼の光景が脳裏に焼き付いている。今より状況は良くなるのだろうか。いつも考えているのそんなことだ。鮮明な光景が反復される。さて、どんな光景だったのだろうか。一時のまどろみから意識が現実に戻る。さっきまで何を思っていたのだろう。インスタントコーヒーの貧弱な味わいが舌の表面を覆う。眠れない。たぶん明日の午前三時には眠っているのだろう。夢を見ない。目が覚めたら、これから見るだろう夢を思い出せるだろうか。コードが絡まり合っている。出鱈目な進行状況に嫌気がさす。そんなことはない、思い通りにならない現状を楽しんでいる。ある面ではそうだ。だが、別の面ではいらついているのだろう。ジャンクフードとはどのようなものだろう。コンビニのおにぎりのことか?上質の米と新鮮な海苔と特産の梅干しと自然塩を使ってジャンクフードができあがる。つまり、ジャンクフードとは健康食品のことなのだろう。缶コーヒーとにぎりめしだけでは病気になるだろうか。太陽は西からは昇らない。1987年のある夏の日の午後、そんなとりとめのない思いに捕らわれた。これは嘘の思い出だ。内容のない思い出を即興で作ってみた。もちろん、真昼の光景など存在しない。今、周りにあるのは夜の暗闇ばかりだ。脳裏に焼き付いているのは、ただの空白の時だ。コーヒーの味などにはこだわらない。UCCの缶コーヒーのブラックはうまいと思う。その程度の感覚でしかない。すべてが中途半端だ。おそらく何も極めてはいないだろう。おかげで、こんなことを書いても何も感じない。だが、こんな自己卑下にはうんざりする。本当はそうではないだろう。気休めは探せばいくらでも見つかるだろう。だが、気休めがほしいのではない。かといって、真理がほしいのでもない。自分からは何もほしくない。それは嘘だが、そう思いたい。ただそれだけのことだ。それ以外はすべてフィクションだ。作り話の世界での現実なのだろう。まどろみの中にフィクションが現れる。だがそれは気休めの体験だ。真の体験からは遠く隔たっている。だが、なおも気休めの世界に留まり続ける。フィクションの世界に安住する。こうしてもうしばらくまどろむ。そういうわけで、今回はまどろみを支点として、適当にその辺をひとまわりしてみた。時間がなかったのでこんなところだ。


5月18日

 現実空間と電脳空間の区別はない。電脳空間もひとつの現実空間である。インターネットの掲示板などで、その場の雰囲気からはずれた非常識な発言をただ一方的に繰り返せば、その掲示板に集う人々による無視やいじめの対象になるのは当然のことだ。まずはその場の雰囲気を掴むことが大事であり、初めは他の人々の書き込みに合わせて、差し障りがなく無難な話題を慎重に選んで書き込むのが常識的なやり方だと思う。それができてはじめて他の参加者の信用を得ることができるのではないだろうか。つまり、電脳空間といえども一般社会の社交儀礼に則らなければ、からかいや誹謗中傷以外では誰からも相手にされないだろう。まずはその場に合わせた常識的な話題を繰り返すことで、会話のやりとりの感触から他のメンバーから信頼を得たことを確認した後に、ありきたりな話題の中にさりげなく自分の主張を折り込むのが無難なやり方だと思う。その程度のことができないのに(それが認識できない人は幼稚だ)、ただ勝手に怒りを爆発させて罵詈雑言を掲示板に書き込むならば、述べていることがどんなに真理に近くても、それは嘲笑の対象にしかならない。それは自爆テロと同じことである。

 だが、自分はそのような社交儀礼に則った書き方ができない。反発を買うことがわかっていながら、反発を買うような文章を無理矢理で書いてしまう。それは今まで書いてきたこれらの文章を読めば一目瞭然だろう。これは書いていて苦痛だ、疲れる。だが書きざるを得ない。どうも社交儀礼のオブラートに包むことは倫理的にまずいような気がするのだ。別に皆の人気者になろうとしてこんなことを書いているわけではないし、言いたいことは真正面から書かないと自分に対して嘘をついているようで恥ずかしくなる。だが自爆テロは避けなければならない、書いたことが相手に伝わらないと、わざわざ他人から嫌われるようなことを書いた意味がない。だから、読んだ人間が何も反論できずに、内容を渋々認めざるを得ないことを書くように努力している。これなら、自分個人が卑屈な嫌がらせメールなどを送られるくらいで、書いた内容は確実に相手に届くと思う。つまり自分個人よりも書かれた文章そのものを優先させている。これらの文章の内容とは何の関係もない嫌がらせメールを送ってくるということは、これらの文章を読んで、なおかつその内容に何も反論できない証拠である。人は、自分が反論可能なものにしか反論できない。反論できないときは無視を決め込むか、卑屈な手段に訴えるかのどちらかである。


5月17日

 何かにこだわらなければ、何に対しても無関心になり、興味を持てる対象は何も見つからなくなるのだろうか。それは違うような気がする。たぶん、そのように状況が進展するまえに、別の状況を経験するはずだ。まずは、受動的に何らかのこだわりを生じさせる機会に遭遇するのだと思う。つまり、積極的に自ら進んでこだわる対象を見つけようとする行為が先にあるのではなく、そのような強迫観念が生じるまえに、何らかの対象との出会いが先にあるはずだ。何かのきっかけで偶然にこだわりの対象が見いだされる機会が訪れる。たぶん、最初からその対象にこだわりを感じたわけではなかったのだろう。それにこだわりを感じるようになる成り行きにも偶然が作用する。それはわかる。だが、そのような偶然性ばかり強調すると、その対象にこだわるという自らの主体性が生まれる契機を見いだせない。偶然に主体性や自発性も生まれるとしたら、主体性や自発性に関する理論を何も構築できなくなる。だが、それでもかまわないとも感じている。別に自分は精神分析医でも心理学者でもないので、何もたいそうな理論を構築する必要も必然性もない。つまり自分は理論にこだわらなくとも何の支障もないわけだ。では、自分はいったい何にこだわっているのだろうか。それはたぶん、これを書くことにこだわっているのだろう。実際にこうして書いているのだから、それは当然のことだ。それでは、なぜこれを書くことにこだわっているのか。ここまで書いてきたのだから、途中でやめるのもなんだかもったいないような気がする、とりあえずそんな理由が思い浮かぶ。確かに当初は、偶然がきっかけでこれを書き始めた。だが、書き進めるうちに、いつしかこれを書く作業が、何やら自分の意志で自発的に書いているような形態になっていると感じられるようになった。しかし何らかの事件に関する記述は、その事件に触発されて書いているわけだから、その事件によって書かされている、という受動的側面もあることは確かだと思う。つまりこれを書くことのこだわりからは、自分から主体的に書いているという自発的側面と、周りの状況によって書かされているという受動的側面の、お互いに相容れない対立しあう両方の面が見いだされる。つまりこれを書くというこだわり自体が矛盾をはらんでいることになる。このことは、その他の様々な精神現象にも敷衍して当てはまるのだろうか。しかし、実際に当てはめてみて、それでいったい何がわかるというのか。自己の内面や精神には何の必然性もないということか?


5月16日

 人間は本当に考えたり言語を理解したりできるのだろうか。また、本当に人間には自分が生きているのか死んでいるのかを認識できたりするのだろうか。自分が何かを考えていると感じたとき、はたして自分がその時点でその何かを考えていることを証明できるだろうか。また、他人の言葉や文章中の文字の連続を理解していると証明できるだろうか。例えば、石ころが転がることと自分が動くことの区別をどうやってつけているのだろうか。なぜ自分が動いていることをもって、その時点で自分が生きているといえるのか。
 ジョン・サールの反AIの論争(漢字の部屋の思考実験)が、どう「引き立て」られ、ユーザーの日常的姿勢に統合されたかということを考えてみよう。サールは、コンピューターには考えたり言語を理解したりはできないことを証明した-だから、機械は人間の独自性に対する脅威にはならないという存在論的・哲学的保証がある以上、私は心穏やかに機械を受け入れそれと戯れることができる......。この、「否定と是認とがお互いに結びついている」分裂した姿勢は、「超越論的錯覚」という、カントがすでに目的論の概念について行っていた、昔からある哲学的なゲームを元にした変種ではないのか-私はコンピューターが考えることはできないことを知っているのだから、日常生活のなかで、それが本当に考えているかのようにふるまうことができる。(『幻想の感染』207ページ)
 PCやそれに付属するOSおよびアプリケーション・ソフトの複雑かつ煩雑でわけのわからない動作や機能に振り回され、苦悩の日々を送っている人がいたら、「コンピューターには考えたり言語を理解したりはできない」とい、サールのお墨付きが少しは気休めになるだろうか?そして、コンピューターは単なる道具にすぎないんだと必死に自分に言い聞かせながら、さらなるPCと格闘の日々をおくるのだろうか(笑)。どうも実感としては、「心穏やかに機械を受け入れそれと戯れる」ような心境になったことは一度もないのだが......(笑)。

 これを、コンピューターからは思いっきりかけ離れた例を持ち出して茶化してみよう。例えば、顔に付いたシミやそばかすがその人にとって脅威となるかもしれない。ほくろが妙な位置に付いている(鼻と口の間の真正面)とか歯並びが悪かったりすること(出っ歯とあだ名が付いたり)も同様だろう。それを取り除いたり矯正したりする機会のない人は、そのことを気にするかぎり心の傷としてその人に一生ついて回るかもしれない。確かにシミやそばかすやほくろや出っ歯は「考えたり言葉を理解したりはできない」。それどころか、それらはその人独自の外見的な特徴である。つまり、その「人間の独自性」でさえ、人間にとっては脅威となる。

 コンピューターが人間をはるかに越える計算能力を持つことを脅威に感じて、コンピューターにはない人間の独自性を持ち出して人間の優位を強調することで、コンピューターと人間の協調関係を保とうとすること(人間に足りない部分を補う道具として)は確かにフィクション(「超越論的錯覚」)なのだろう。そのような「戯れ」が見逃している点とは何だろう。自然の真の姿か?


5月15日

 何を求めているのだろうか。ありきたりな欲望に従うなら、金と物と名誉を望むことか。だが、実際にそれらを求めようと努力はしていない。すでにそれらを獲得するための激しいつばぜり合いやらしのぎを削っている人達が大勢いるだろうから、今さら自分が競争に参加しても、栄冠を獲得することは到底無理だろう。では、ありきたりな欲望以外にはどんな欲望があるのだろうか。欲望をやり過ごすこと、自らの欲望を成就しようとしない、そんな選択しか残されてはいない。欲望に価値を見いだせない。しかし本当だろうか?自分に嘘をついているのではないのか。たぶん嘘をついているのだろう。だが、それでもいいと思っている。自分に関しては、欲望をめぐって取る様々な態度をそれほど重視していない。適当に妄想を膨らまして実現不可能な夢でも追い求めていればそれでいいのではないかと思う。それはそれで少しは気晴らしになるだろう。それで欲望をやり過ごすことになるのだろう。欲望の浪費だ。欲望と行動と思考が一致していない。だから欲望がそれの実現へ向かっての努力と結びつくことがない。だが、考えてみればこれはすごいことだ。たいていの人間は夢に向かって努力するように教育によって調教されているはずだ。例えば学校の校長が生徒に向かって、君たちは別に目標なんか持つ必要はないし、夢に向かって努力 しなくてもいい、ただ適当に生きてくれたまえ、私と君たちは赤の他人だ、私の願望を君たちに押しつけようとは思わない、とか訓示を垂れたら結構クールなんじゃないかと思う。だが、おそらく、そんなことを言える度量のある人は、学校の校長なんかにはなれないだろう。しかし、ならば、欲望と結びついていないとすると、自分の行動や思考はいったい何と結びついているのだろうか。空虚か?よくありがちな文学的成り行きだ。それとも無意識か?それは精神分析学的成り行きだ。それでは社会か?それならマルクス主義的成り行きだ。まあ、実感としてはよくわからない。つまり、モラトリアム的成り行きだ。要するに、改めて自分の行動や思考が何と結びついているかなんてあまり本気では考えていないということだ。学校教育によって生み出された夢を追い求める自我などはとうに磨り減って、ほとんど思考の対象にならなくなってしまったのだと思う。


5月14日

 様々な現実がある。仮想現実という現実もある。妄想やら空想やらを含めて、確かにすべては現実に起こっている。何かの作用で現実に妄想したり空想する場合がある。例えば、モニターの表面には仮想現実が貼りついていたりするのかもしれない。だが、まだどこか違っている。現実そのものは対象でない。妄想や空想が現実に作用して幻想を思い浮かべたとき、その幻想が現実よりもさらにリアルな対象になる。だがそれは何の対象だろうか。欲望の対象なのか。だが現実は現実だ。ただ、欲望を充足させるために幻想を思い浮かべている現実がある。そこに何も神秘はない。それほど今流行の情報革命とかに幻想を抱けない。幻想を抱く気になれない。様々なメディアが、自分たちのテリトリー内に情報を囲い込もうと四苦八苦している。テレビ局や新聞社や雑誌出版社が、ネット上にWebサイトを立ち上げて、自分たちのメディアの宣伝をやっている。しかし、ネット上ですべての情報を公開すれば、何もテレビを見たり新聞や雑誌を読んだりする必要はなくなるかもしれない。つまり、それぞれのメディアの本音は、Webページを見た人間が自分たちのメディアに興味を持って、実際に自分のところのテレビを見たり新聞や雑誌を購読してほしい、ということではないのか。それとも、Webサイトでもバナー広告等で独自に採算を取りたいのだろうか。テレビ・ラジオ・新聞・雑誌などの補助メディアとしてではなく、それらと同等の独立したメディアと位置づけているのだろうか。いずれにしてもこのような認識からは、単に情報収集や情報交換、あるいは商品を売買するための選択肢が増えた、という事実が導き出されるだけだろう。そのような側面では、従来からの構造とそれほど大差はないのではないかと思う。今までとは情報量とその伝わる速さ(質は度外視して)が飛躍的の増大しているらしい。そんな実感なのかもしれない。そのようなメディア側から見れば、自分のやっているこのような試みなど、単なる自費出版の延長程度の認識なのかもしれない。たぶん現実にそういう側面もあるのだろう。だが、自分にはよくわからない。IT革命のカリスマとか呼ばれてもてはやされている人達は、インターネットを利用した商取引に即時的な効果を期待しているらしいが、同じネット上でこんなことをやっている自分個人にとっては、まるで縁のない話だ。あと何十年かしてまだこんなことをやっていたとしたら、そのときこれらの文章を読み返してみてどう感じるか、それが楽しみといえば楽しみかもしれない。


5月13日

 カナリヤが歌を思い出すとき、雑木林で雉が鳴く。時を告げる鶏の鳴き声で目が覚める。何かを探しているらしい。どこかに眠っている時間があるそうだ。硫黄の鉱脈を探す人々に影響されて、茶色の世界で呼吸する。裏山で影に尋ねる。どこで時間に出会えるのだろう。空白の時を見いだせるのだろうか。寄り添う影は何も答えない。知らないのだろう。歩き出せばいい。行き先を知らずに歩き出す。歩いてみないと行き先はわからないだろう。幻想を横断するとして、横断した先には何があるのだろう。実際に横断してみてほしい。そして横断している途中で立ち止まってほしい。是非その光景を眺めてみてほしい。秋に降り積もった枯れ葉に馴染む。午後の木漏れ日に照らされながら、空気の揺らめく音を聞いてみたい。水の流れは至って緩やかだ。水面をのぞき込む。そして水面に揺らめく声に幻惑される。行き先を知らぬ批判者たちが惑わされる。もう戻り道はない。そんな題名だった。流転する拳銃に引き寄せられる人々。その拳銃を手にした者には、それぞれの破滅が待ち受けている。そんな物語もあったはずだ。だがそんな物語はとうに忘れ去られた。過酷さを知らぬ人々が幼稚なまま犯罪に手を染める。それに対してどんな対応ができるのか。その程度で深刻ぶってみせる。人が死ねば深刻ぶることしかできない。何か起こる度に深刻ぶることしかできない。だが、そこをまた別の若者につけ込まれる。そして、ざまあみろ!という叫び声がむなしくこだまする。ほうら、また深刻ぶってみなよ、と笑い顔で挑発されることになる。だが、それ以外の対処の仕方など誰にもわからないだろう。だからまたもや深刻ぶる。そして、そんな対応が積み重なり、冗談のようなパラダイスが現世に現れる。もう若者の暴走などは飽き飽きだ。誰も気に留めなくなる。勝手に暴走していてくれ。巻き添えを食った方はご愁傷様です。こんなふうなシナリオで、今まさに地上の楽園が実現されようとしているわけだ。天国とは、おそらくこのようなものなのだろう。こうなった以上、もう誰も何もできないだろう。下手に手出ししない方がいい。やぶ蛇だ。人々にできることは、ただ天国の生活を満喫することだけだ。せいぜいこの極楽生活をめいっぱい楽しんでほしい。それが今時のハッピーエンドというものだろう。


5月12日

 いったい誰がこの世の中を作っているのだろう。誰か作っている人がいるのだろうか。それが特定の個人でないことは確かだと思う。よくありがちなフィクサー的存在が機能するのは演劇空間においてである。フィクションにおいては、ある特定の性格や役割を一人の登場人物に集約させることで(この意味で、当時のドイツ国民の意識の中では、ヒットラーは演劇空間の中に存在した)、性格別の役割分担がそれぞれの登場人物ごとに割り振られて固定され、結果として、観客に、目の前で行われている劇の内容を容易に理解させるような効用を形作っている。要するに劇的効果をねらっているわけだ。だが現実の社会では、一個人の中で様々な性格が渦巻いており(それは、その人を観察する者の社会的立場によって変わってくる)、しかも性格によって社会の役割分担がきまっているわけでもなく、様々な偶然の成り行きから、人々は様々な次元(学校や会社や町内会や家庭など)で様々な役割を担わせられている。だから、社会全体を影から操っている黒幕(闇将軍とか)なんかを想定する気にはならない。実際黒幕などには到底手に負えない複雑な世の中になっていると思われる。ではこのような事態をどう考えたらいいのだろうか。たぶん、一人一人の意識を越えた、何らかの集団意識みたいなものを想定できるかもしれない。しかしそのようなものを想定したとして、自分個人はそれに対してどんなアクションを起こせばいいのか。少なくとも、飛んで火に入る夏の虫のごとく、バスジャックとか起こして世間をお騒がせすればいいわけではないだろう(それで世の中が変わるかどうかはともかく、一般的に言って、世直しとかを思い立つのは単純で幼稚な人かもしれない)。とりあえずは、目立たないが、地道な努力でもしていれば、少しは気が晴れるだろうか。別に、世の中全体がメディアに支配されているわけでもないだろう。例えば、巨大メディアの存在を脅威に感じ、そのようなメディアに取り込まれないように主体性をもってメディアに接していこう、とかいう類の言説で、メディアの中でその読者や視聴者に警鐘を鳴らしているつもりのお節介な人々こそが、実際のところ心身共にメディアに依存し、結果としてメディアに支配されているのかもしれない。だが、そういう人々こそが、大衆がメディアに支配されていると思っているのではないか。そう思いたいのだろう。そうでなければ、自らが主体的に警鐘を鳴らしていると思いこんでいる意味がない。


5月11日

 双方向性とはどのような概念なのだろう。メディアにもてあそばれること、与えられた選択肢の中からただ選ぶだけ、そして人々は、自分たちが能動的な選択を行っていると錯覚する。話題を提供して話のネタとして利用されるだけ利用され、この狂乱のお祭り騒ぎにめいっぱい貢献しているのに、感謝されるどころか逆に非難され続ける殺人事件の容疑者たち。割の合わない人々だ。一方詐欺師の教祖様、群がる報道陣に「最高ですかぁ!?」と自分の十八番を叫ばれて沈黙する。落ちぶれて、かつての行いの因果応報として、こうしてルサンチマン的な復讐の対象となる。その場面で沈黙すること、それは賢明な選択だ。沈黙することしかできない場面で、相手から勝ち誇ったように復讐の言葉を浴びせられる。それには沈黙せざるを得ない。できれば、このままずっと沈黙していてほしい。口を開けばまたネタとして利用されるだけだ。オウムの麻原氏のように、裁判で意味不明なうわごとを呟いただけで話のネタにされてしまう。だから、沈黙すること、それがかつてメディアの寵児だった教祖様の、メディアに対する残された唯一の抵抗となるだろう。こうしてお祭り騒ぎの中でやりすぎてしまった人々は、メディアの奴隷となる。話のネタ元として、表向きは真摯な口調で、だが実際の効果としてはおもしろおかしく書き立てられる。無責任なコメント記事という形態で、この狂乱のお祭り騒ぎの燃料として供給され続ける。だからメディアは、調子に乗ってやりすぎてしまう、過ちを犯して話のネタを提供してしまう不注意な人々を絶えず探している。このお祭り騒ぎを持続させるためには、こうした犠牲者兼加害者の存在が必要不可欠なのだ。このやくざな興行を続けるためには、期待に胸を膨らませた観客のために、自ら進んで馬鹿踊りを踊ってくれる人が欠かせない。観客は、他人事でつかの間の憤りを疑似体験したい。メロドラマで非日常的な感情の起伏を味わいたい。安全地帯にいるコメンテーターの立場で事件に口先介入したい。また、自分が被害者にならないことを祈りながら、一方では被害者のお涙ちょうだいコメントを期待しているわけだ。


5月10日

 確かに紋切り型は、否定され、蔑まされ、馬鹿にされ、一旦「紋切り型」というレッテルを貼られたら最後、ただそのような否定攻撃によって斬って捨てられるだけで、その中身について詳細に吟味されたり顧みられることはない。だが、どうも事態は、「紋切り型」というレッテルを貼って馬鹿にするだけでは済まされなくなってきているようだ。
 この逆説によって、性差に対しても新しい光を当てられるようになる。ジョン・ロールズは、分配の公正についての議論を始める際に、その仮説には合理的主体に嫉妬が存在することは考えていないと宣言しているが、それによって彼は、<他者>の欲望と根幹を成す媒介関係にある欲望そのものを排除することになる。しかし「嫉妬」の論理は男女双方にとって同じでない。すると、「欲望が<他者>の欲望である」は、男と女の場合とでどう違っているのだろう。男性版は、単純に言えば、競争/嫉妬のものである。「私がそれをほしいと思うのは、あなたがそれをほしいと思っているからで、あなたがそれをほしいと思っているかぎり、私はそれがほしい」である-つまり、ある対象に欲望の度合いを与えているものは、それが他の人によってすでにほしがられているということである。ここでのねらいは、最終的に<他者>を破壊することであるのは当然で、そうなってしまえば対象は無価値になる。そこに男性的な欲望の弁証法の逆説がある。これに対して女性版は、「私は<他者>を通じて欲望する」であり、それには、「<他者>に私の代わりにそれをやらせる(対象を所有する、享楽する)-夫に、息子に、私の代わりに出世してほしい-と、「私は相手が欲望することだけを欲望し、その欲望が成就することだけを望む」(アンティゴネは、兄を適切に埋葬することをやりとげる際、<他者>の欲望を成就することだけを望んでいる)。

 男は自分で直接行為し、自分の行為に加わるものであるのに対し、女は代理によって行為し、自分の代わりに他人にやらせる(他人を操ってやらせる)のを好むというテーゼは、女を男の背後に隠れる生まれつきの策略家とする悪名高い女性イメージを起こさせる、最低の紋切り型に思えるかもしれない。しかしこの紋切り型がそれにもかかわらず、主体の女性的な立場を示しているとしたらどうだろう。「原初の」主体的な身振り、主体の根幹を成す身振りは、自律的に「何かをする」身振りなのではなく、むしろ、原初の代替、後ろに下がり、自分の代わりに、自分になりかわって他人にやらせるという身振りだとしたらどうだろう。女は、男よりもはるかに、代理によって享楽することができ、自分の愛する相手が享楽している(あるいは出世するなど何らかの目標を達成した)という意識に満足をおぼえることができる。まさにこの意味で、ヘーゲルの「理性の狡知」は、ヘーゲルが<理性>と呼んだものが断固として女性的なあり方をしていることを証しだてている。「隠れた<理性>を探せ(それは自己中心的で直接的な動機や行為が一見混乱している中で自らを実現している)」は、有名な「犯罪の影に女あり」のヘーゲル版なのだ。こうして、相互受動性を参照することによって、男と女を能動と受動とするよくある対立を、ややこしくすることができる。性差は代替関係のまさに核心に書き込まれている-女は、自分の相手を通じて能動的である間は受動的でいられるが、男は自分相手を通じて身に享けている間だけ能動的でいられるのだ。(『幻想の感染』182〜184ページ)
 たとえば、NHKの大河ドラマなどの戦国時代劇においては、人間の欲望のあり方は、以上に述べられている男女間の性差の紋切り型通りに設定されているように思われる。男同士においては、相手がほしいものを自分もほしがり、その競合する欲望の対象(それが女である場合は恋愛ドラマの三角関係になる)を巡って、どちらかが死ぬまで闘争が繰り広げられ、一方で、その男たちの欲望が成就するように影で(家庭から)応援している女たちの存在がある。それは、確かによくありがちな紋切り型の構造だ。それはスポーツ選手(チーム)とその応援団やアイドルとそのファンクラブなど、似たような構造はいたるところで見られるだろう。そして、「女性的な立場を示している」と述べられている主体は、たとえば、宿主であるその人の存在やその人が関係することによって生み出された作品が世間で認められ脚光を浴びることを望み、そうなるように応援するという行為「を通じて能動的である間は受動的でいられる」とすると、では、主体が受動的でいる間は、その宿主は、欲望の対象を巡って競争相手と死の闘争を繰り広げていなければならないのだろうか。もしそうだとすると、主体とは自分にとっては恐ろしい招かざる応援団である。それでは、もし主体の宿主が相手との闘争を放棄してしまったらどうなるのだろう。そうなると主体が意気地なしの宿主を攻撃するようになり、それによって宿主は自殺に追い込まれたりするのだろうか。そうなると、闘争するにしろ自殺するにしろ、つまり宿主を精神的に追いつめるために主体が存在しているみたいだ。要するに、主体の最終目標は、宿主を破滅に追い込むことにあるのではないだろうか。いやはや恐ろしい結論になってしまった(笑)。


5月9日

 なぜかVine2.0のgEditでこのファイルが表示されなくなってしまった。なぜそうなったのかよくわからない。何か設定をいじってしまったのだろうか。どうも記憶にない。思い出せない。そういえば、以前に使っていたLASER5でも、最初は同じように表示されなかったことがある。そのときも、なぜ表示されなかったのか、また、なぜ後から表示できるようになったのか結局わからず終いだった。どうも原因を突き止めようと努力する気力がない。それで、なんとかLinuxを使ってこの文章を書こうと、Kterm+viで書いてみたり、KDE付属のエディタを使ってみたりしたのだが、いろいろ試してみたがどうもしっくりこない。viで日本語が表示できたのには驚いたが、文章の途中に後から文字を挿入しようとすると、前後の文字が文字化けしてしまう場合があり、一方、KDE付属のエディタは、途中で改行しない限り、文章がウインドウからはみ出てずうっと横に伸びていってしまう。今までは、ウインドウの端まで文章が来ると、改行しなくても次の文字が自動的に下の行に表示されるエディタを使っていたので、これでは今まで書いてきた文章との整合性がとれなくなる。見た目がおかしい。それで、結局Macで今こうして書いているわけだが、ふと気がついてみると、なんだかんだいっても、クライアントマシンはこのPowerBookで充分間に合っているのではないか。なにも無理してDOS/VマシンにLinuxやFreeBSDを入れてをデスクトップとし て使う必要性はないのではないか。そんな疑問に打ち当たる。安物のマシンなので音もうるさいし、長時間マシンの前に座っていると耳鳴りがするほどだ。やはりDOS/V+Linux&FreeBSDはインストールを楽しむためのものなのか。いや、インストールした後に様々なソフトの動作確認や環境設定をするための楽しみもある。さらにまた、たとえば、このページのトップの絵はGimpで描いたのだし、それなりに役に立ってもいる。日頃から勉強嫌いの自分も、LAN設定など少しは勉強するきっかけになった。たぶん、これからサーバの設定も勉強しなければならないし、はっきりした目的や夢はないのだが、これからもLinux+FreeBSDあるいは新たなOSでなにやらいろいろやっていくのかもしれない。要するに、これらのわけのわからない徒労の営みは、実験的な試行錯誤を楽しむことにその主眼をおいているわけなんだろうか。うまく言い表せない。途方もなく非合理的な努力であることは確かだとは思うが。

 なぜか今日中に更新できそうだ。よくわからんが......。


5月8日

 明日5月9日は午前10時から終日プロバイダのサーバがメンテナンスのために停止するらしいので、どうやら明日の更新はできなくなるようだ。

 このところ夕日とは縁がない。だいぶ昼が長くなったようだ。部屋の中で気がつくと辺りが暗くなっている。蒸し暑い。前進すること、何か得体の知れない物に向かって前進する。そんな前進があったりするのか。それはわけのわからない闇雲な前進だったりするのだろうか。猪突猛進というやつか?数日前のバスジャック犯の少年みたいに?つまらぬ前進だ。興奮して吠えているらしい。いや、世間が認知できるような範囲内での「吠える人」を演じているのだ。そう、目立ちたかったとか、とりあえず無意味な行動にありきたりな理由を当てはめてみる。そして、そんな生半可な理由では承知しないという叱責を誘発させるわけだ。本当はもっと切実で深刻な理由があるはずだ、それを吐く(脚色し構成する)までは許さない、という方向で尋問は繰り返される。そのような前進もあるだろう。物語は前進しなければ終わりが来ない。暗闇に向かって誰かが吠えている。それは誰かではなく犬だろう。目の前の壁に向かって吠えているのは狂人か酔っぱらいだ。だが前進があれば後退もあるのだろうか。どこに向かって後退するのか。後退する先がない。ではどうする。横に移動すればいいのか。蟹の横歩きだってあるそうだ。枝から枝へと飛び移る猿のような移動もあるだろう。そのいずれもが富や栄光とは無縁の、ただの純粋な移動だ。そんな移動に意味はないだろう。要するに、意味がないような移動を列挙しているだけだ。だが意味がないのに移動を強いられる。しかし、なぜ人は移動を強いられるのだろう。留まることができないから移動せざるを得ない。中にはそこに目的を見いだす人もいるだろう。ノマドの民の心境でも知りたいところだ。だが、それは遊牧民だけではない。放浪することが好きな人もいる。詩人気取りのさすらい人だっているだろう。昔、「叫ぶ詩人の会」という団体があった。だが、中には本当の詩人もいるようだ。ランボーのように破滅へ向かう移動もあるらしい。そんな移動はごめんだ。せいぜいが観光的な一般市民の移動だ。だが、実際はそうはいかない。結局そういうエキゾチックな好奇心とは相容れない移動になる。観光地の労働者の現実を目の当たりにしてしまうわけだ。いやな物を見て正気に戻る。気晴らしだけのそんな移動に積極的な意義を見いだせなくなる。ではどうする。留まること、どこかに留まる。どこに留まったらいいのだろうか。


5月7日

 ゴッホの描いた絵は、生身のゴッホ自身にはなんの恩恵ももたらさなかった。自分の作品によって自分が何らかの富を得られるとは限らない。だからといって、自らの構成物によって自らが富を獲得できるようなシステムを積極的に築くべく努力すべきなのだろうか。たとえば実際にそのようなシステムを実現している特許制度は、発案者や発明者が、自らの富の獲得という目的ばかりを追求するためにその制度を乱用した場合、もしその新たに発案されたり発明されたアイディアや技術が人々にとって有用と思われたとき、発案者や発明者の金銭的な利潤追求活動が、そのアイディアや技術を幅広く世の中に普及させる上で著しい障害になってしまうだろう。

 ではどうしたらいいのだろうか。解決方法など存在しないと思う。そう思いたい。自らが作り出した物によって自らが報われようとは思わないことだ。自分は自分とは関係のない物を生み出しているのではないか。こんなものにはなにも期待しないこと、今のところそれが賢明な態度だろう。そう思いたい。だが、自分という主体はそれとは違う何かを期待しているようだ。こんなものに自分の権利を主張する気にはなれない。だが、自分という主体はこれ対して何かしら権利を主張したいらしい。しかし目下のところ、誰に向かって権利を主張したらいいのかがわからない。このような意識の分裂をどう説明すればいいのだろうか。このことからわかることは、たぶん自分という主体自体は、自らによって生み出されたこれの存在に付随して生み出された人格なのだろうということだ。これが生じた結果として、これを顕揚する目的でこれに付属する人格も生じた。自分としては、これを金銭的な利害関係に発展させたくない。しかしもう一方の自分という主体は、発展させたいのに発展させる才覚がないと感じている。たぶん、怠惰なのが原因だろう。だからそういう利用法を導き出せない。こんなふうにして主体は気を紛らわせている。

 このような思考の逡巡から推測されることは、一般的にいわれるように、独創的な思考の持ち主から画期的な発案や発明が生まれるのではなく、その画期的な発案や発明によってその発案者や発明者の独創的な思考が生み出され、さらに発案者や発明者の人格までもが形成される、ということではないだろうか。たぶんその画期的な発案や発明を思いつかせた一瞬の閃き以前の彼らは、どうということはない普通の一般市民だったのではないかと考えられる。ではその一瞬の閃きはどこから来るのだろうか。神や天によってもたらされるわけか。そのような宗教的思考から離れるなら、それは偶然によってもたらされるとしか言いようがないだろう。確かに彼らは努力したのだろう。だが、努力しているときの彼らは普通の一般市民であった。天才としてもてはやされることになるその後の人物とは明らかに別人である。だから天才が天才になる前の過去と同じような過去を持つ一般市民は五万と存在するだろう。天才になるべく英才教育を受けている中流以上の家庭のお坊ちゃんお嬢ちゃんは、世の中に掃いて捨てるほどいるのかもしれない。だからそういう方面での教育の重要性を訴える人々にはあまり共感できない。放っておいても、富や栄誉の獲得という動機から自分の子供に英才教育を受けさせる人々は存在し続ける。実際にそれに成功する家庭も、ほんの一握りだが生み出されるのだろう。だから国や自治体やマスコミが、第二のビル・ゲイツをつくれとかいうさもしい音頭をとるのは勘違いもいいところだと思う。一般的な公立の 学校での教育などは、社会的な公正さを身につけさせるように努力すればそれでいいんじゃないかと思う。功利主義的な目先の利益ばかりにこだわるから、大人の世界での利潤追求活動が子供の世界までに蔓延しているような気がするのだが......。


5月6日

 このままではまずいそうだ。いい加減な俗説を吹聴して回る邪悪な連中のいやがらせにはもう耐えられないそうだ。もはや我慢の限界に達したそうだ。このまま彼らのやりたい放題にはしておけない。何よりも自分たちの良心が許さない。ついでに再び権力への野心も芽生えている。我が世の春を謳歌したい気持ちもある。何事にも執拗に食い下がるのが信条だ。そのためには何らかの打開策を模索しなければならない。この切羽詰まった閉塞状況を打開するために、何かしら対抗措置が講じられなければならない。オーストリアの都はウィーンだ。会議は踊る。覆面会議は紛糾に紛糾を重ね、ようやくそんな結論に達したようだ。人々に夢と勇気を与えよう。ちょっと拍子抜けしただろうか。だが、最後の望みとはそんなものだろう。神頼み以外では、もうそんなものにすがるぐらいしか出口が見いだせないらしい。だが、解決のための出口とは、要するに白痴になることだ。こうして使い古された百年前のヒューマニズムを引っ張り出してくる。それを読むと、自分のこれまでの人生がまったく無駄ではなかったことがわかり、これからも前向きに生きていけるような気になるらしい。それは大変結構なことだ。世の中にはそんなふうに誰かに励まされることを必要としている人が大勢いるようだ。人々は傷ついた心の癒しと救いの対象を求めている。だから、たぶんそういう内容の本は、ひとたび脚光を浴びればベストセラー間違いなしなのだろう。せいぜい自分もそんな本にあやかりたいものだ。もうひねくれることにはほとほと疲れた。この辺で方向転換しようじゃないか。自分は打算的な人間だ。これからは、そういう癒し系で麻薬的効果のある本でトリップしてみようじゃないか。だが、この程度の内容はつまらぬ嘘としてすぐに忘れ去られる。むしろ、人々を魅惑するのは邪悪な俗説の方だ。ヒューマニズムの仮面の裏側で、おどろおどろしい迷信が息づいている。もはや権力への意志には誰もが逆らえないだろう。それは人間の理性から発する攻撃的本能だ。自分たちの良心に従うことが他者への攻撃を誘発する。もうなにがなんでも自分の良心を土足で踏みにじる他者の存在が許せなくなるのだ。その結果があのようなみっともない逆上の露呈だ。たぶんそれがもう一つの出口なのだろう。


5月5日

 私はこのページを実名で公開しているわけだが、だからといって、自分が実名で意見を述べていることを鼻にかけ、それを利用して匿名の相手を卑怯者呼ばわりする気にはならない。どうも久米宏はいつまでたっても馬鹿なままなようだ。なぜマイクロソフト社のメールソフトのアウトルックがコンピュータ・ウィルスの標的されるのかがまだわからないらしい。やはり彼は中村正三郎氏のWebページでも読むべきなのだろうが、まあ、こんなマイナーなページでこんなことを述べても、実名で意見を述べていることを鼻にかけるメジャーな久米には伝わらないだろう。ここはいっちょニュースステーションにメールでも送ってみるか(面倒だから誰か送って(笑))?アウトルックを使い続けることは、それだけでどのようなウィルスに感染しても文句を言えない立場になっているのであり、それでも匿名のウィルス作者を卑怯者呼ばわりしたいのなら、そもそも卑怯なやり口で比較的安全な他のメーラーを駆逐してユーザーに危険なアウトルックを使うようにし向けている、元祖卑怯者のマイクロソフトをまずは非難すべきなのだ。


5月5日

 どうやら、世界の片隅には今でも冗談を言い合っている領域が確かに存在するようだ。路肩の段差に躓きよろめいて、周りの空気をつかみ損ねて両手をバタバタさせながら体を泳がせたとき、路地裏の屋台が炎上した。何の意味もない。単なる焼き鳥屋台の光景だった。なぜかスーパーの軒下を借りて屋台で焼き鳥を焼きながら売っている人々をよく見かける。彼らはその筋の人々なんだろうか。露天商系のその筋の人々にスーパーが場所を提供しているわけか。スーパーの中の総菜売り場の焼き鳥と完全にバッティングしていると思うが、その辺は了解済みではあるのだろう。不意に頭突きをされて目の前が真っ白になる。そんな経験はない。子供の頃にあったかもしれないが忘れてしまったのかもしれない。何事もなかったかのように平静さを装う。だが、そのぎこちない態度でかえって心の動揺を見透かされる。そんな経験を思い出せない。恥ずかしいこ とはすぐに忘れたつもりなるのだろうか。思い出しているのに思い出せないと書いてみたわけか。そんなぎこちない述べ方では、かえって心の動揺を見透かされる。誰に?自分自身に。凶悪とされる事件が起こる度に冗談で笑い飛ばす、過去にそんな漫才ばかりの時代があったかもしれない。自分もそれに影響を受けたのだろう。そして月日が経ち、いつのまにやら真面目なだけが取り柄の学校の先生風の人ばかりがのさばるようになった。今はそんな物語の時代なんだろうか。さあ、よくわからない。そんな実感は希薄だが、周りの状況はそんな気配だ。確かに学校の先生は生徒から馬鹿にされるために存在している。自分の経験ではそうだった。大人は子供にとって、いつの時代も嘲笑の的である。大人の馬鹿さ加減を横目で見ながら子供は育つ。だが、自分はあんな大人にはなるまいと心に誓いながら成長するわけだが、なぜか成長して大人になって気がついてみると、周りはあんな大人ばかりになっている。こうして子供は成長するとあんな大人ばかりになる、ということが実感される。たぶん世の中はそれの繰り返しなのだろう。


5月4日

 包丁一本さらしに巻いて、その若者は修行の旅に出たらしい。それが剣豪伝説の始まりだった。ロールプレイングゲームの始まりとはそんなものだろう。その平成の宮本武蔵は、旅に出た動機をあまりしゃべりたがらない。寡黙な男だ。今は広島あたりの関所で足止めを食っている。とらわれの身だ。このまま故郷へ強制送還なんだろうか。そういえば名古屋の佐々木小次郎はどうしているだろうか。彼は武蔵とは違い電車の旅だった(武蔵の場合はバスの旅だった)。どしゃ降りに遭って立ち往生した後、自ら進んでリタイアした。彼の武器も包丁だった。今の時代の若者にとって、日本刀はなかなか入手困難な武器なのかもしれない。これでは、巌流島の決闘まで物語を続けることはできないだろう。結局、武蔵も小次郎も道半ばで挫折したようだ。彼らはこのまま剣の道をあきらめてしまう運命なのだろうか。彼らの修行の旅はこのまま一泊二日で幕を閉じてしまうのか。ゴールデンウィークの剣豪伝説はこれで終わりなのか?それとも今度は平成の柳生十兵衛でも出現するのだろうか。そういえば自分の高校時代の修(学旅)行は京都奈良だった。新幹線と観光バスを乗り継いで、集団でお寺ばかり巡り歩いた記憶がある。今の関東あたりの高校生の修(学旅)行もこれが定番なんだろうか。そういえば現地の土産物店ではよく木刀やおもちゃの刀を見かけた。やはり今の若者にぴったり合った武器はなかなか思いつかない。しかしあんまりマジになっちゃうと銃刀法違反で捕まる危険性があるから、とりあえずは、木刀や金属バットや金槌や包丁あたりが手頃な武器なのだろう。しかし老人ばかり殺してもあまり手応えがないだろう。武蔵の場合は突入してきた警察の特殊部隊の一人や二人殺していれば、あっぱれな手柄だったかもしれないが、まだそこまで剣の腕を上げないうちに取り押さえられてしまったのが、よほど口惜しかったのだろう。それで、自分の剣の腕がいかに未熟なのかを悟ったから口数が少ないのかもしれない。一方、小次郎の場合も、高校での学業の成績が抜群に良かったらしいから、たぶん、受験勉強に追われて剣の腕を磨く暇がなかったのかもしれない。だからいったんは電車で修行の旅に出たものの、これから剣の道で生きていく自信がなかったので、雨でずぶ濡れになったぐらいであっさりリタイアしてしまったのだろう。それでも、小次郎の場合は遅れて登場した武蔵(巌流島の決闘みたいに?)によってその存在が霞んでしまったが、両者ともに一応はマスコミが騒いでくれたので、連休で楽しい気分の世間に水を差す程度のいやがらせ効果はあったのかもしれないが、しかし結局は、その程度のことは所詮大衆娯楽の一部として消費されるだけでしかないだろう。たぶん彼らの努力は何も報われないまま早晩忘れ去られる運命だ。


5月3日

 たとえば、物理的あるいは社会的現象等について、その現象の特性あるいは特徴といったものが導き出され説明されるのは、必ずその現象が起こった後においてである。ところで、その現象が起こる前にされる予測や予言といったものについても、その時点ですでに起こっている似たような過去の現象や前兆現象と呼ばれる現象に基づいて説明されるものであり、これも現象が起こった後からなされる説明と同種のものだが、それはあくまでも過去の現象や前兆現象の特徴や特性を語っているのであり、これから起こるかもしれない未知の現象の特徴や特性を説明しているのではない。それがいかに説得力があろうと、どこまで詳しく説明されていようと、それは単に未知の現象の特徴や特性を推測しているに過ぎない。だが、どうやら現実の社会では、予測や予言と特性や特徴が明確に区別されていないらしい。それどころか、予言や予測といった類が、あたかもこれから起こるかもしれない未知の現象の特性や特徴と混同されて流通しているようだ。つまり、予言や予測が、未知の現象を飛び越えて、直接、未来の特性や特徴とショートしてしまっているのだ。要するに世間の人々は、(過去の現象)→(前兆現象)→(予言や予測)→(現象)→(特性や特徴)という時間的な生成順序を短絡した、(予言や予測)=(特性や特徴)という単純化された構造の幻想に支配され、またそれを積極的に信仰してさえいるらしい。そこでは、その最も根本にある現象自体が忘れ去られ、場合によっては抹消されている。たとえば、スポーツニュースにおいて、プロ野球のシーズン前の順位予想を野球解説者に強要することが慣例となっているが、それは、仮にそれがお約束の慣習やギャグやシャレの要素を含んだ娯楽的パフォーマンスであっても、(予言や予測)=(特性や特徴)信仰の根深さを示す顕著な例である。そこには、眉唾もののいかがわしい予測や予言をいったん信じたふりをしておいてから、これから現実に起こる現象との落差に驚いたふりをする、という、現象そのものをやり過ごすため(実際に予言や予測とは明らかに違う特徴や特性が見られるのに、それを直視しようとせずに、あくまでも予言や予測の範囲内の言説(常勝巨人であらねばならないのにどうして?という言説)に留まろうとする)の予定調和の宗教的儀礼が潜んでいる。
 商品呪物崇拝というマルクスの問題の立て方に対する古典的なアルチュセールの批判によれば、この商品呪物崇拝という概念は、「人間」と「物」という人文主義的イデオロギーによる対立に依拠している。呪物崇拝において我々は、直接の「人と人との関係」ではなく、「物(商品)と物との関係」を扱っている-呪物崇拝の宇宙においては、人々はその社会関係を物と物との関係の形で(誤って)認識する-というのは、マルクスの呪物崇拝についての標準的な規定の一つではないか。アルチュセール派が、この「イデオロギー的な」問題の立て方の奥に、別の、全く異なる-構造的な-呪物崇拝概念があって、それがマルクスの中で動作しているのを強調するのは当然だ。このレベルにおける「呪物崇拝」は、形式的/差異的構造(これは、そもそも「不在」である、つまり、我々の経験的現実の中では「それとして」は決して与えられない)と、この構造の実定的要素との間の直結を指している。我々は、「呪物崇拝的」幻想にとらわれているときには、呪物崇拝の対象が構造内に得ている位置のおかげで付与されているものを、その対象の直接の/「自然の」特性だと(誤って)認識している。貨幣によって市場で物が買えるという事実は、貨幣という対象の直接の特性ではなく、社会経済的関係の複合的な網目の中における貨幣の構造的位置から結果するものである。ある人物を「王」と呼ぶのは、その人が「即自的に」(その人のカリスマ的性格あるいはそれに類することによって)王だからなのではなく、一群の社会象徴的関係の中で王の位置を占めているからである。(『幻想の感染』161〜162ページ)
 つまり、「貨幣によって市場で物が買えるという事実」は、実際に市場で貨幣と物が交換されるという現象の後から導き出された特性であるのに、それを、未来においても同様に市場において貨幣で物が買えるだろうという予測に「直結」させてしまうと、貨幣には物と交換できるという特性が元から備わっているという幻想が形成される、ということだ。そこから、貨幣そのものをどんな物とでも交換できる万能の神として崇め奉る拝金主義という「呪物崇拝」が生まれる。要するに拝金教徒は、実際は貨幣と物の交換(現象)が成立した後に、事後的にしか見いだされない「社会経済的」特性を、貨幣の「直接の/「自然の」特性だと(誤って)認識している」。


5月2日

 確かに信じることは大切だ。だが、一体何を信じればいいのだろうか。簡単なことだ。さしあたって、お金と商品が交換できること、そんな当た り前なことをとりあえず信じていればいいかも知れない。そういうわけで、何にも役に立たないどころかおもいっきり多大な金銭的被害をこうむりかねない、いかがわしい宗教とはこの際きっぱりと縁を切って、世界最大の宗教宗派である拝金教に帰依しようではないか。何もオウムだとか法の華だとかいう教団のややこしい教義を信じるには及ばない。それらの宗教の本家本元である拝金教の教義を信じればいいのだ。カネにまつわるこの種の宗教のなかでは、拝金教が一番の正統派だと思われる。しかも、教義はいたって簡単だ。うさんくさい偶像や呪物を法外な値段で買わされてそれを拝まされる代わりに、それらの偶像や呪物の大元であるお金そのものを拝んでいればいいのだ。カネこそが最も御利益がある世界共通の呪物である。こちらの方がよっぽど公平だしはるかに良心的だろう。仮にカネを拝んでいても、単に強欲だと思われるぐらいで、周りの誰にも迷惑はかけないだろうし、わけのわからない突飛なものを拝んで気が狂れたと思われるよりは百倍はましだ。だいいちそれらの偶像や呪物は結局お金と交換しなければ手に入らないわけだから、そもそも偶像や呪物はお金と同じ価値を持つはずだ。だから当然カネを拝むことの方が合理的だし、別の商品と交換可能なぶん、より便利だし経済的だろう。インチキ宗教の偶像や呪物はいったん買ったら最後、何物とも交換できないから、その宗教に飽きたら無用の長物になってしまう。それに修行だって何の手間もかからない。これまで通り市場経済にどっぷり浸かって、今まで通り売ったり買ったりしていれば、それが修行になる。わけのわからない施設に閉じ込められて、精神的肉体的暴力を振るわれて錯乱したりすることもない。要するに、修行していっぱい稼いでその金を拝めばいいわけだ。こんなに効率的で合理的な修行は他にないだろう。もちろん稼いだ金で好きなものを買って気持良くなるのも修行のうちだ。禁欲的にならずに修行ができるところが大変楽だろう。そういうわけで、変な宗教に金を巻き上げられて意気消沈している人がいたら、是非、拝金教徒になることを勧めようではないか。


5月1日

 あまり他人や他国に対して、自分や自分の住んでいる国を自慢する気にはならない。そうすることは、他者や他国との無用な軋轢やつまらぬ競争心を招き煽るだけのように思われる。誇るとは、つまり、自慢することと同じ意味だと思う。たとえば、誇り高きインドとパキスタンが、互いにいがみ合い軍拡競争を繰り広げている現状は、それを如実に物語っている。核兵器開発の成功というお国自慢があだになっている。また同様に、誇り高き朝鮮人民に対する取り扱いも、まるで腫れ物にさわるようではないか。ようするに、誇り高き民族や宗派は概して好戦的なのである。一触即発はごめんだ。だから、むやみやたらに自分や自分の勤めている会社や自分の住んでいる国を誇ってみせたりするのは、あまり得策ではないように思われる。自慢される相手の立場も考慮に入れなければならないだろう。とりあえず、それらの存在を誇りに感じるようにすべく努力する前に、他にやるべきことがあるのではないか。で、今日何気なく日本経済新聞の1面のコラム「春秋」を読んでいたら、そのことのヒントを見つけたので、ちょっとその部分を引用しておこう。
 多国籍化が進む米国の自動車メーカーの会合での話だ。集まったのは買収された日欧の企業はじめ約百人の人事担当者で国籍は二十カ国以上に及ぶ。最近、買収されたスウェーデン企業の人事担当者が、紹介を兼ねて自社の特色を説明する。

 「我が社が大事にしているのは、クオリティー(品質)、セーフティー(安全)、エンバイロメント(環境)」と解説が続く。そして「最大の価値と誇りはスウェディシュ(スウェーデン的なもの)だ」と締めくくった。その瞬間、米人を除く全員が総立ちで拍手喝采をした。経営不振でグルーv入りしたが、誇りは別というわけだ。(「春秋」日本経済新聞より)
 なるほど、誇り高き人の熱弁には、あんたは偉い!と拍手喝采を浴びせればいいわけだ。なにもそういう人々と誇りで張り合う必要はないだろう。自動車メーカーなら、高品質で安全性が高くて環境にやさしい車を低コストで製造販売するように心がけたらいいのではないだろうか。それが目下のところ一般人が乗る自動車に課せられた本質的な使命だろう。それと同じように、たとえば国家なら、外国や外国人と誇りで張り合うのではなく、それらとの軋轢をできるだけ解消し、なおかつ国内に住んでいる人々(外国人も含めて)が生活しやすい国を作っていく方向で努力したらいいだろう。ともかく、誇り高き人々には拍手喝采を浴びせられるような余裕のある立場になったらいいと思う。


4月30日

 メーリングリストによると、どうやらRed Hat Linux 6.2Jは、サーバー(兼ルーター)としても使えないどうしようもない代物らしい。またすかさず改訂版を出すのかな(笑)。


4月30日

 風のないどんよりとした曇り空の下で、救急車のサイレンの音に呼応して犬が吠えている。そのとき機械と動物が共鳴しているように感じられる。救急車と犬がつかの間の会話を交わす。話の内容は意味不明だ。そしてさらに、一羽のカラスが両者の間に割って入って、より一層の意味不明な鳴き声で聞いている者を戸惑わせる。カラスの群は早朝の電線上に集結する。そのとき電線とカラスがゴッホ的な異様な風景を構成する。その風景は人々の不安に呼応する。曇り空は人々の不安を反映しているようだ。テレビを見ていた猫の意味のない鳴き声に、テレビの中の司会者が会釈する。その場の気まずい雰囲気を猫が救ってくれたらしい。そんなことはあり得ない?猫とカラスはキャットフードを仲良く分け合う。ところで、猫と司会者の分け前は視聴者とスポンサーが分担して支払うのだろうか。どうでもいい疑問だ。意味不明なフリージャズに耽る。うさんくさいジャズ愛好家によると、その健全な耳には騒音にも聞こえるらしい音の重なりの中から救済のメッセージが読みとれるそうだ。その幻聴愛好家は愛猫家でもあるらしい。カラスの表向きのスポンサーは生ゴミを出す街の飲食店らしい。その番組のスポンサーはペットフード業者だった。その業者が宣伝販売しているキャットフードを近所の野良猫とカラスに分け与える。野良猫とカラスの真のスポンサーは自分かもしれない。どうやら、その救済の音楽を奏でるジャズミュージシャンは、自分が人々を救う曲を演奏しているという自覚がなかったようだ。そのCDを愛蔵している幻聴愛好家が勝手に、この曲にはイエスからのメッセージが含まれていると喧伝している。論理的に突き詰めて考えれば、神による救済は次のような矛盾を孕んでいる。だが、宗教愛好家にとっては、以下のような考えは愚劣な曲解と見なされ、表向きは荒唐無稽な説として嘲笑する身振りを伴って、内心では感情的な怒りとともに退けられる対象になるだろう。
 デカルト的なカトリック教徒で、死後、あまりにも正統的であったために破門され、その著書が破棄されたニコラス・マルブランシュも、この系列に入れるべき枢要な哲学者にして神学者である-ラカンが神学者こそ真の無神論者だと言ったときに念頭に置いていたのは、マルブランシュのような人物だっただろう。まさしくパスカルの伝統に従って、マルブランシュは自分の手札をすべて場にさらし、キリスト教の(歪んだ真実である)「秘密を暴露する」。キリストは人々を罪から解放し、アダムの堕落の遺産から解放するために地上に降りてきたのではない。逆であって、キリストが地上に降りて救済を施すことができるようにするためにアダムは堕落しなければならなかったのだ。ここでマルブランシュは他ならぬ<神>に、他者を窮状から救い他者のために自分を犠牲にする聖なる人物は、密かに、自分が救うことができるようになるために他者に苦しんでいてほしいと望んでいるのだと教えてくれるという「心理学的」洞察を適用する-足の悪い気の毒な妻のためにせっせと働くが、妻が健康を回復して、キャリアウーマンとして成功するようになれば妻を捨てることになる、伝説の夫のようなものである。気の毒な人々のために自分を犠牲にする方が、その人々がその気の毒な状態を失い、もしかしたらこちらよりも順調になるかもしれないようにするよりもずっと満足できるのだ......。

 マルブランシュはこれを平行移動して究極の結論へとつなげる。それにおそれおののいたイエズス会は彼を破門することにしたのである。聖人が、苦しんでいる人々を助けるという自身のナルシスティックな満足をもたらすために他者の苦しみ利用するように、神もとどのつまりは自身だけを愛しているのであって、自らの栄光を知らしめるために人間を利用しているだけだ......。この逆転から、マルブランシュはラカンの先に言及したドストエフスキーの逆転(「父は神が存在しなかったら、何でも許されると言う。もちろん、素朴な考え方だ。我々のように分析すれば、神が存在しなかったら、もう何も許されることはない ということはよくわかる」)に匹敵する結論を出す。キリストが人類を救うた めに地上に到来していなかったら、誰もが道に迷っていただろうというのは真ではない-まったく逆で、誰も道に迷うことはなかったのだ。つまり、キリストが到来して一部の人間を救うために、人類全員が堕落しなければならなかったのである......。ここからさらに、予定と恩寵の逆説的なありようが浮かび上がってくる。神の恩寵は気まぐれにばらまかれるもので、我々の善行とは全然関係がない。恩寵と我々の行いとのつながりが直接に認識できるようになったとたん、人間の自由は失われる。神は直接に宇宙に介入できるようにはなっていない。つまり、恩寵は覆われていなければならず、恩寵そのものは、直接の神の介入としては認識できないままでいなければならない。それが直接に見通せるようになれば、人は動物のように神に従属する奴隷のような存在に変わってしまい、自由な選択に基づく信仰がなくなってしまうのだ。(『幻想の感染』125〜127ページ)



4月29日

 辺り一面真っ白だ。灰が降り注いでいる。煙突からもうもうと煙と煤が舞い上がる。どこかで見た光景だ。その地域を思い出せない。円筒形の白い筒の中から磁器が現れる。細かい染色が施されている。だいぶ手間暇がかけられているようだった。その淡い水色の器は無造作に叩き割られた。発色具合が気に入らないようだ。辺り一面には、作品になり損ねた無数の破片が散らばっていた。川の流れは至って緩やかだ。水面からぼんやりと靄が立ちこめる。この辺りは湿気が多い。盆地にはありがちな風土なのだろう。不意に他人の視線を感じた。人影に気がつく。振り返ると、誰かが立ち止まってこちらを見ている。何気ない風貌と佇まいだ。霞のかかった周りの山並みが、希薄なその人物を風景の一部にして取り囲んでいた。一瞬身構える。打ち解けるには隔たりがある。だが隔たりが埋まるはずもない。距離を縮めようとは思わない。確かにお互いに面と向き合うにはある程度の隔たりが必要だ。一定の距離を保っていないと、儀礼的な会話すら成り立たない。実際に二言三言、とりとめのない型にはまった会話のあと、そのまま再会の約束もせずに別れた。再び出会うはずのない、その場限りの出会いだった。何の感慨もなく、その場を立ち去った。立ち止まらずにそのまま歩き続ける。目的は何もない。あれから何時間歩いたろうか。さらに、どこまで歩いたらいいかもわからずに、途方にくれながらも歩き続ける。なぜだろう、なんでこんな展開になってしまうのだろう。たぶんこれは架空の身振りなのだ。一定の行動範囲内での移動しか可能でないために、意識が勝手に行ったこともない土地への憧れを抱いているのだ。架空の地での架空の出会いを夢見ているわけだ。だが、なぜそれが希薄な出会いでしかないのだろうか。想像力の貧困だろうか。なぜか濃密な出会いを嫌っているらしい。だが、架空の物語はすぐに忘れ去られる。明日にはもう跡形もなく消え去っているだろう。辺り一面には、作品になり損ねた無数の断片が散らばっている。たぶんそれらが集積することは永遠にない。


4月28日

 夜が反転して昼になる。では昼が反転すると夜になるのだろうか。空が動くということか。ただ天球が回っているように見える。実際は大地が動く。自転しながら公転する。朝の記憶だ。二度目の赤い空だ。昼と夜の境目はオレンジ色に染まる。ドアを開けるとそこには見慣れた光景が広がっていた。だいぶ前からここは昼の世界だ。真昼の日差しが眩しい。ここでは自らの相対性が拒絶される。自らの曖昧さを拒否する日差しによって、白か黒かのどちらを取るか迫られる。眩しくて眼が痛いくらいだ。そんな午後の日差しに照らされながら、漠然とした思いに捕らわれる。気持ちは依然として曖昧なままだ。これから何を思うのだろう。たぶん何も思わないのだろう。それが当然の成り行きだ。こちらも何とも思っていないではないか。ただ拒否されているのだろう。認められない宿命にあるそうだ。結局のところ曖昧さは感覚の摩耗によって忘れ去られる。そして、ありふれた日常の風景に溶け込んでゆく。風が吹いている。今日は北風だそうだ。少し寒い。風が吹くと砂埃が舞う。空気が動いている。澄んだ空気だ。風で柱が揺れている。周りの木々も揺れている。心が揺れる。心臓が脈打つ。だが、頭は乱れない。平静を装う。冷静さが信条なのだろう。微動だにしない。だが、世の中にはそれとは別の揺れもある。風とは無関係に大地が波打つ。地震以外でも微かに震動しているらしい。その周期の長い微弱な揺れは普段は気付かれない。専門家が計測してはじめてわかる。感じることができるのは風の凪がれぐらいだろう。斜めの日差しに照らされて枝葉が揺れる。きらきら輝いている。まやかしの苦悩には飽きた。どこからかハエが飛んでくる。君の行動はハエに似ている。


4月27日

 かなり荒唐無稽な話になってしまうかもしれない。たぶん、まるで信用できない話だ。だから、これから述べることをあまり真に受けないでもらいたい。だが、最近こんなふうに感じていることは確かだ。今回は久しぶりに発狂モードで書いてみよう(笑)。

 おおよそ、これまで世の中に凶悪犯罪などあった例しがない(たぶん、スターリンやヒットラーは人々の退屈を紛らわそうとしてあのようなコメディを命がけで演じて見せたのだ)。TVや新聞や雑誌で騒いでいるあれらは、要するに単なる下劣な大衆娯楽の域を出ないくだらぬ代物だ。あんなものは、所詮、安物の犯罪小説やらTVドラマらや映画やら漫画やらTVゲームやらの代替物でしかないだろう。いや、それ以下かもしれない。最近だけでも、風邪薬を大量に飲ませての保険金殺人やら少年グループの五千万円恐喝やら携帯電話を悪用しての小学生誘拐やら、いろいろ世間をお騒がせの事件があったらしいが、どう考えても、これらは、それがどうしたとしかいいようがないアホくさい事件で、こんなしょうもないもんを真剣に見入っている人間は、ひょっとして馬鹿なんじゃないかと思う。いや、思いっきり大馬鹿者だ。脳味噌が腐っている。要するにマスコミ商売の食い物にされているだけだ。出来の悪い三文芝居を見せられて、おまえら平民はそれで満足しろとナメられているのだ(笑)。
 言い換えれば、マルブランシュがここでしているのはモンティ・パイソンに似たことである。彼らはいつも、根底にあるリビドーの経済を暴くために、セックスを退屈な官僚的義務として扱ったりするなどの逆転を行っている。『人生狂騒曲』にある性教育の場面の出だしは、教師が来るのを待って退屈した生徒たちがあくびをしたり、宙を見たりしている。一人の生徒がドアを閉めて「先生が来た」と叫ぶと、全員が突然大声を出し、椅子と机で音をたて、紙をぶつッあう......教師が怒って鎮めると思われているいつもの騒ぎである。この逆転は、状況の真の理法を明らかにする。生徒が騒ぐのは、学校の規則に押さえつけられているエネルギーが自発的に噴出するのではなく、教師に向けられているのである。アダムはその自律的なうぬぼれゆえにではなく、キリストが到来できるようにするために堕落しなければならないのだというマルブランシュにおけるように、ここでも生徒たちが音を立てて騒ぐのは、彼らの自律的な自発性のせいではなく、教師のしつけ のための叱責を引き起こすためである(そこにあるのはフーコー流の「抑圧的」権力と抵抗の連動、権力に仕える抵抗である)。(『幻想の感染』128ページ)
 要するに、最近の事件に登場する間抜けな犯人たちは、TVニュースのキャスターやコメンテーターや、新聞や雑誌のコラムニストたちの「叱責を引き起こすため」にくだらぬ事件を起こしているのだ(笑)。彼らは知らず知らずのうちに権力(世間やマスコミ)の下僕と成り下がっている。彼らのやっていることはまさに「権力に仕える抵抗」そのものである。


4月26日

 もし借金が膨らんでにっちもさっちもいかなくなったら、自殺するか、あるいは犯罪に手を染めるか、とりあえずそんな方法しか思いつかないのかもしれない。精神的に追い込まれると短絡的なやり方しか思いつかないものだ。また、ある程度正気を取り戻して、自己破産で逃げることを思い立っても、申請に際しての手続きがわずらわしかったり、申請しても基準を満たしていないと自己破産できなかったりするのだろう。いずれにせよ、借金をしたことが破滅するきっかけを作ったわけだ。だが、もしそのとき借金をしていなかったらどうなっていただろうか。生活苦に陥っていてしかも金を工面するあてがなかったら、餓死するか浮浪者になるか、そんな選択しか残されてはいないかもしれない。生活保護を受けるにしても、申請に際しての手続きがわずらわしかったり、申請しても基準を満たしていないと生活保護を受けられなかったりするのだろう。結局、自殺するか犯罪者になるか餓死するか浮浪者になるか、こういう過酷な選択をせざるを得ない人が現実に存在してしまう。資本主義的競争に敗れた者はこうして社会から排除さ れるわけだ。恐ろしいことだ。だが、こういう人が存在するからこそ救いの道がある。破滅した人々は救済の対象になる。では、どうやって人々は救われるのだろうか。たとえば餓えた浮浪者は、善意あるボランティア団体による炊き出しによって救われる。犯罪者は刑務所で更正への道を学んで救われる。自殺したり餓死したり死刑になったりした者は、たぶん、坊さんがお経を上げて成仏させることで救われるだろう。つまり全面的に救われるのではなく、気休め程度に救われる。救済とはそういうものなんだろう。現実は厳しい。だが、その厳しさを実感するには、実際に破滅してみないとわからない。だから破滅していない者が破滅した者にとやかく文句を言うことについて、あまりリアリティを感じない。


4月25日

 Vine Linux 2.0は、と りあえず日本語デスクトップとして使えるようだ。今これをKDE+Wnn6+gEditの組合わせで書いているのだが、実はWinなみのデスクトップ環境を実現しているKDEを使っていながら、相変わらずKterm上からコマンドを打ってアプリケーションを起動させている(笑)。しかもわざわざ別のターミナルからKtermを起動させてから、あらためてKterm上からXwnmoとNetscapeとgEdit(なぜかKDEではなくGNOMEのエディタを使う)を起動した(意味がない)。そういう癖が知らず知らずのうちについてしまった。KDEのメニューエディタでアプリケーションの起動設定をするのが面倒くさい。それにKDEではよくありがちなことだが、ユーザーレベルでは設定できなかったりするかも知れない(やり方がわかっていないのかも知れないが、rootではできたりすることもある)。枝葉末節の些細なことだが、そうなったときにガックリくる。だが、Netscapeで掲示板のテキストエリアに書込みできたのでほっとした。これができないと買った意味がない。モジラではできるらしいが、昨日Mac版のM14をダウンロードして使ってみたら、どうもフォントの変更がうまく行かず、字が汚いままだったのでやめておいた。そして、さらに実は、今日Vineを買う以前にRed Hat 6.2Jの一番安いパッケージ(約3千円)を買ってしまって(笑)、これがおもいっきりハズレで(よくLinuxがわかっている人で、サーバーで使うか、またはデスクトップで使うなら自力で日本語環境が構築できる人ならおすすめなのかも知れない)、相変わらず掲示板のテキストエリアにNetscapeで書き込むと文字が消えてしまう。これにはまいった。疲れがどっと出て、しばらく立ち直れなかった。ああ、こんなことなら金を出し惜しみせずにコンダラかターボにしておくべきだった(笑)。それゥら、夕方になって気を取り直して、もう一度買いに走ったわけだが、しかし一度買わなかったものを再び買うのはしゃくだし、買ってまた同じ症状が出たら、今度は本当に立ち直れなくなるかも知れないので(笑)、結果的にVineを買うことになった。もしVineでだめだったら、もうデスクトップでLinuxを使うのはやめようと決心していたので、辛うじて首の皮一枚つながった感じだ(笑)。まあ、大した金額じゃないが、よくわかっていない素人がLinuxを買うのは、いまだにバクチだと思う。ネット関連株を買うかLinuxを買うか、という感じじゃないだろうか(笑)。今日は本当に疲れた。


4月24日

 暗闇の外側に理想の姿がある。本当だろうか。知らないが、外部の理想を空想してみる。あるべき姿とはそういうものなのか。しかし今は暗闇の中だ。想像上の外部にある理想とは曖昧な隔たりを感じる。だが、ここで何をやればいいのだろうか。理想から適当に隔たること、そして隔たりの空間を認識すること。ぎこちない動作だ。何も見いだせない。自分はそんな空間に存在する。その漠然とした空間を踏破してみたい。そんな行為に理由を見いだせるのか。過去においては理由を見いだしたはずだ。だが、見いだされた理由を忘れてしまった。もっともらしい言葉は見失われた。理由として見いだされたその言葉とは何だったのか。だが、その決定的な言葉が刻み込まれた粘土板はすでに風化してしまった。もはや跡形もない。完全に忘却されたのだ。そう、その忘却の言葉も過去に見いだされた。それはどのような忘却だったのだろう。思い出せない。忘却からも隔たっているようだ。今は忘却のときから遠く離れて歩き続けている。依然として理由を見いだせない。説得力のある理由を見いだせずに煩悶する。自分で自分を説得することができない。たぶん説明不足なのだろう。これでは納得できるはずがない。だが同時に、納得すること自体が納得できない。はたして説得力のある説明程度で納得していいのだろうか。そんなものではないような気がする。気休めの言葉なら簡単に出てくる。ただ理想の外部から遠く隔たっているのだろう。そして今は理由のない暗闇に支配されている。光の届かない影の場所で何か独り言を呟いているようだ。これが気休め言葉だ。だが気休めでは納得できない。抗いようのない決定的な言葉ではないからだ。何とでも言い逃れのできる気休めの言葉とは根本的に異なる外部の言葉の出現を期待している。自分の言葉ではなく、もちろん神の言葉でもなく、誰の言葉でもない、外部の言葉を構成しなければならない。それは不可能な言葉だ。構成不可能な言葉を構成する、そんなことなどできるわけがない。だから期待するのだ。不可能な言葉を期待する。不可能な言葉の出現を期待する。


4月23日

 一見矛盾した話だが、カリスマ的存在は、そのありえない無謬性によってではなく、むしろカリスマを敬う集団内で露見するその存在を危うくするような欠陥によって、より一層積極的にカリスマは慕われるようになるらしい。
 同じ論理の別の例が、「ズボンをおろしたところを見られた指導者」によって与えられる。集団の連帯は、指導者の失敗あるいは無能をあからさまにした不運を、臣民/主体が共通に否定することによって強化される-共有された嘘は、真実よりも比べものにならないほど実効のある集団の絆なのである。ある学術部門で、有名な教授を囲む内輪の会のメンバーが、その教授に何かの欠陥がある(薬物中毒だったり、盗癖があったり、マゾヒストだったり、議論の肝心要のところを学生から剽窃していたり)ことに気づくと、まさにその欠陥についての知識-この知識を否認しようという気持ちと組合わさる-が、集団をまとめる一体化の真の姿なのである......(大事なところは、もちろん、指導者のカリスマ的な姿に魅ケされている臣民/主体は、必然的に一種の透視図法的幻想にとらわれているということである。この臣民は、「〜だから」を「〜にもかかわらず」と(誤って)認識する。この臣民の主観的体験では、彼は指導者を、その欠点にもかかわらず尊敬するのであって、それがあるから尊敬するのではない)。(『幻想の感染』44〜45ページ)
 これを読んで、誰もが思い浮かべる典型的なカリスマの実例が、オウム真理教の麻原氏になるのだろうが、それほど極端な例ではないにしろ、たとえば、大はマイクロソフトのゲイツ氏から小はそれを批判するカルトライターまで、様々な感染レベルでカリスマとそれを慕うカルト集団がいろいろ存在するだろう(326とかいう人もそうなんだろうか)。とりあえずそういったカリスマを守り立てる臣民にはなりたくないし、臣民から慕われるカリスマ的存在にもなりたくはないが、なぜそのようなカルト集団が発生してしまうのか少し考えてみよう。

 一度惚れ込んだ人物に対して、それと同じ思いを抱く多数の人々が賛同して、いわゆる応援団組織が結成されてしまうと、仮に後からその人物の嘘や欠陥がばれても、もう後戻りが利かなくなるのだろう。その人物が否定されることは、それを慕って応援している自分たちも否定されることになってしまう。自分たち臣民が生きている間は、目の黒いうちは、あるいは応援団が存続しているかぎり、教祖様の地位と名誉は断固として守り通さねばならない(たとえば、佐高信がいくら司馬遼太郎の嘘や欠陥を指摘しても、司馬ファンからは無視されるのも当然のことだ)。確かにこのような現実があることは認めねばならない。だが、ならばこの現実に対してどのように対処すればいいのだろうか。カルト集団からの陰湿ないやがらせや中傷攻撃を覚悟の上で、なおのこと積極的にカリスマの嘘や欠陥を暴露し続けるしか方法はないのだろうか。できればそういう多大な精神的苦痛を伴う闘争は避けて通りたいが、他にうまいやり方が思いつかない。


4月22日

 崖の上からの眺めは記憶にない。何が見えたのだろうか。あそこからはことのほか遠くまで見渡せたかもしれない。昔何度かあそこまで昇ったことはある。だが崖の縁まで近づいたことはない。崖から下をのぞき見るほどの勇気はなかった。今は崖の下の用水路の縁を歩いている。川の流れが尽きるところまで来た。川はそこからトンネルによって地下に潜っている。この用水路で自殺する人は多い。この辺で飛び込むと、たいていはここから五キロほど下った下流の堰で引っかかる。これまでこの近所でも数人は自殺しているようだ。だが、ここからさらに標高の高い畑作地帯には別の用水路があって、そこでもよく用水路に飛び込んで自殺する人がいるそうだ。深い水の流れは、見る者を水底に引き込む妖しい魅力があるのかもしれない。それは、たとえば、崖の上に立つとそこから飛び降りたくなる衝動を誘発することと似た感覚だろうか。そこには何か想像を超えた不可思議な自然の力が働いているのだろう。何か人の不安と共鳴するものがあるのかもしれない。無理して説明すれば、人を呑み込むような深さの感覚は、崇高な神秘的呪術力を備えているとでも言えばいいのだろうか。なんとなく嘘っぽい。そんなくだらぬ思索に飽きたので、振り返って、気晴らしにその小高い山を眺める。その山は遠くから見ると、どこでも見かけるありふれたお椀を伏せたような型で片側が消失している。川に面した側が切り立った崖だ。高いところでは三十メートルぐらいあるだろうか。たぶん川の流れで削り取られたのだろう。その大きな川から水が引き込まれ、小さな水力発電所と農業用水に利用されている。そして、これまで農業用水は自殺用水としても利用されてきたわけだ。


4月21日

 ざまあみろ(様を見ろ)と相手をあざける者は、相手からざまあ見られていることを知らない。
 主人と召使いの弁証法においては、召使いは主人を、ジュイサンスをため込んでいると(誤って)見ており、ジュイサンスのかけらを取り戻す(主人から盗みかえす)。こうしたささやかな快楽(自分にも主人をごまかすことができるのだという自覚)は、太っ腹な主人に黙認され、主人に対して何の脅威にもならないばかりか、実は、召使いの奉仕を維持する「リビドーの賄賂」を構成している。要するに、自分が主人をだますことができるという満足が、まさに召使いが主人に仕えることを保証しているのである。(『幻想の快楽』62ページ)
 なぜ人々はかくも懸命に召使いになろうとするのだろうか。対等の関係を構築する努力を簡単に放棄して、主人の前で卑屈にひれ伏し、慇懃無礼な愛想笑いの裏側で、密かに復讐の機会をねらっている。隙あらば主人の富を横取りしたいらしい。召使いにはなりたくない。召使いから主人に成り上がることも拒否する。何よりも主人の立場で召使いを雇うのがいやなのだ。太っ腹な主人にはなれないし、なりたくもない。他人をルサンチマンに凝り固まった卑屈な状態のままで縛り付けておくことなどできない。だから、こうした下克上の物語はどうしても受け入れられない。ならばどのような物語なら受け入れられるのか。例えば、これと逆の物語ならどうだろう。
 そうして盗まれたジュイサンスを<他者>の側から奪い返すことによって満足を得る神経症患者とは対照的に、倒錯症患者は直接に享楽する大文字の<他者>を、<法>の施行者へと持ち上 げる。すでに見たように、倒錯症患者の目標は、<法>を確立することであって、それを危うくすることではないのだ。よく言われる男のマゾヒストは、相手、つまり女王様を、従うべき命令を出す<立法者>にまつりあげる。倒錯症患者は<法>のいかがわしいジュイサンスを持つ裏面のことは重々承知している。<法>の規則を立てるという身振り-つまり「去勢」-のまさにいかがわしさから彼は満足を得るのである。通常の事態にあっては、象徴による<法>は、対象(近親相姦)への手出しを妨げ、そうしてそれに対する欲望を創造する。倒錯においては、法を作るのは対象そのものである(たとえばマゾヒズムでは女王様)。こうすると、倒錯としてのマゾヒズムという理論概念が、「<法>によってさいなまれることを楽しむ」というマゾヒストの一般的な概念に重なる。マゾヒストは、享楽への手出しを禁じる<法>の施行者のところに享楽があると見るのである。(63〜64ページ)
 別にこれは逆の物語とは言えないだろう。どちらの場合も相手に勝つ(勝ったつもりになる)ことを目標としている。勝てば(勝ったつもりになれば)ジュイサンス=享楽が得られるらしいが、それほどジュイサンス=享楽とは魅力的なものなのだろうか。召使い(神経症患者)やマゾヒスト(倒錯症患者)になってまでして獲得しなければならない重要なものなのだろうか。自分はその辺にあまり実感が湧かない。リアリティを感じない。そうまでして勝とうとしなくてもいいような気がする。だが、ジジェクに言わせれば、私のようにジュイサンス=享楽にあまり関心を示さない人間は分裂症患者とでも見なされるのだろうか(笑)。実際どうなんだろうか。不安になってきた。


4月20日

 ちょっとジジェクを利用して悪のりしすぎた嫌いがある。確かにジジェクを利用することは愉快だが、調子に乗ってあまりやりすぎると、今度はこちらが幻想感染者になってしまう。まるでミイラ採りがミイラになることをそのまま実行しているみたいだ。柄谷行人が以前どこかで、ジジェクには何でも説明できると言っていた。少し自重しよう。やりすぎは良くない。愉快なことはほどほどで済ませておこう。いつもファンキーな気分というわけにもいくまい。

 本当はあまり世間話には興味を持てない。今ある現実を変革するとかいう勇ましい言い方は自分の言葉ではない。そういう崇高な使命や目的を連想させる言葉には抵抗を感じる。いったいどこからそういう目的や使命が発生するのだろうか。例えば、神が私に、この汚れた現世を変革せよと命令しているわけか。あほくさい。当然真に受けることはできない。それとも自発的なものなのか。それもいやだ。自分で世の中を変えてやろうとかいう誇大妄想にはつきあいきれない。そういう過大な主体性にも疑問を感じる。もっとくだらぬ言い方がないものだろうか。真正面から言うあからさまな言い方だと通用しないような気がする。もう少し何か今以上の工夫が必要なのだろうか。だが結局何も思い浮かばない。

 どうも何かから逃げているようだ。批評からか?その通りだ。吟遊詩人は歌を選ばない、確かそんな台詞だった。いかに詩人の苦痛に満ちた叫びが天に届こうとも、現実は現実のままなのか。そんな気がする。だからといって、吟遊詩人を否定する気はない。しかし一方で、現実などどうでもいいんだ、とも簡単に断言できる。すべてはやりきれないことばかりだ。だが、そんなことは昔からそうだった。将来においてもそうだろう。絶望したければすればいい。季節が移り変わるようにそのときどきで希望を抱いたり絶望したりすればいいのだ。そんな凶悪事件など昔からありふれていたではないか。せいぜい何かその辺に転がっている適当なイデオロギーにこだわって状況と戯れてくれ。あまり自分からお節介はしたくないし、他人からのお節介もごめんだ。わずらわしいことだし面倒くさい。社会的な連帯の強要はやめてほしい。道徳などあろうとなかろうと一向にかまわない。そんなものは弱者の言い訳だ。社会道徳や慣習にすがるような弱者が、社会から裏切られた腹いせに事件を起こしているだけでないか。そんなものは幻想だ。そんな幻想にすがる奴が馬鹿なのだ。自分を暖かく包んでくれような社会を幻想することがそもそも間違っているのだ。そういう甘ったれた奴が、自分の思い通りに行かない理由を幻想に求めるわけだ。思い通りに行かないのが当たり前なのに、夢や努力では手に入らないのが当たり前なのに、そこには自分ではどうにもならない偶然が作用しなければならないことをわかっていない。それをわかろうとしない甘えが、裏切られたと感じさせるわけだ。くだらぬことだ。


4月19日

 なるほど、ジジェクは世界有数の雑文ライターかもしれない。ジュイサンスを用いないで説明している部分は大変わかりやすい。
 ラカンは、「精神分析の倫理」というセミナーの中で、現代知識人の二つのタイプ、愚者と無頼の違いについて詳述している。
 「愚者」は無垢で、単純だが、この「愚者」がときに道化の刻印をま とっているという事実のおかげで、その口から発せられる真理は容認させられるだけでなく、用いられもする。私の見るところでは、左翼知識人の重みを説明するのは、同様の幸福な影、同様の根本的な「愚かな言動」である。

 これと、同じ伝統によって厳密に現代用語、先の愚者と関連して用いられる用語を与えるものについての呼称と対比しよう。すなわち「無頼」である。......無頼はその姿勢に含意される一連のヒロイズムのある皮肉屋ではない。正確に言うと、スタンダールが「純然たる悪党」と呼んだものである。つまり、おなじみの凡人に他ならず、ただ個性が少々強くなった凡人である。

 誰もが知っているように、無頼の自分の見せ方は右翼知識人のイデオロギーの一部をなしていて、それはまさに私は「無頼」ですよという役を演じるというものである。言い換えれば、彼はリアリズムと呼ばれるものの帰結から退却せず、必要なら自分は悪党だということを認めるということである。(Jacques Lacan, The Ethics of Psychoanalysis, London : Routledge 1992, pp. 182-3.)
要するに、右翼知識人は無頼であり、所与の秩序の根拠として、ただそれが存在することだけを言う体制派であって、左翼をその「ユートピア的」計画につ「て、そんなものは必ず破滅すると言ってばかにする。それに対して左翼知識人は愚者であり、現存の秩序にある嘘を公然と見せる道化であるが、その見せ方がその言葉のパフォーマンスとしての実効性をなくすようなものである。今日、社会主義が倒れた後となっては、無頼は新保守主義的に自由市場を唱道し、あらゆる形の社会的連帯を生産性に反する感傷だと言って冷酷に否定する人々のことであり、愚者が脱構築派の文化批評家で、彼らは既存の秩序を「ひっくりかえす」べき滑稽な手順によって、実は既存の秩序の補助をしているのである。(『幻想の感染』74〜75ページ)
 ここまナは確かにわかりやすい。愚者と無頼が、表向きは対立するが結果としては相互に補完しあう機能として、左翼知識人と右翼知識人に当てはまることをわかりやすく説明している。だが、問題は次のこの記述だ。
 精神分析がこの愚者=無頼の悪循環を断つために役立つところは、その根底にあるリビドーの経済-二つの立場それぞれを支えている、リビドーにとっての利益、「余剰=享楽」をあからさまにするところである。(75ページ)
やはりこの辺りがいまいちピンとこない。本当に「二つの立場それぞれを支えている、リビドーにとっての利益、「余剰=享楽」をあからさまにするところ」が、現状を変革する上で役に立つのだろうか。とりあえず数日前に権力=反権力にとっての共通の利益をあからさまにしたつもりだが、あれが少しは役に立っただろうか。ここでは、「愚者=無頼の対立を余すところなく描いている」そうである、「東欧にある、睾丸についての二つの下世話なジョーク」についての「第一のジョーク」で、当てはまる人物を偶然に発見してしまったので、それを紹介しておく。
 バーに客が一人座っていてウィスキーを飲んでいる。猿が一匹、カウンターの上を踊りながらやってきて、客のグラスのところで止まると、睾丸をそれで洗い、また踊りながら行ってしまう。ひどく驚いた客は、ウィスキーを取り替えるように命じる。猿はまた戻ってきて、同じことをする。客は怒り狂ってバーテンに聞く。「あの猿がなんで俺のウィスキーできんたまを洗うのか、おまえ知ってるか」。バーテンは答える。「さあ、わかりませんね。あちらのジプシーにでも言ってくださいよ。あいつなら何でも知ってますよ」。客がそのジプシーの方を向いた。ジプシーはバーの中を歩き回り、バイオリンと歌で客をもてなしていた。「なんであの猿が俺のウィスキーできんたまを洗うのか、おまえ知ってるか」。ジプシーは落ち着き払って答えた。「ええ知ってますよ」。そしてジプシーは暗い悲しい歌を歌いはじめる。「なんであの猿が俺のウィスキーできんたまを洗うのか、ああなんで......」-もちろんジプシーの音楽家は、歌をいくらでも知っていて、それを客のリクエストに応じて歌えると思われているというところが肝要だ。だからジプシーは客の質問をウィスキーで睾丸を洗う猿のことを歌った歌をリクエストしたものだと理解したのである......。(75〜76ページ)
 なんだかナインティナインあたりがやるギャグみたいだが、昨晩、ニュースステーションを見たとき、久米宏が隣のコメンテーターと一緒に「なんでこんなひどい世の中になってしまったんだ、ああなんで......」と歌っていたのを思い出して、電車の中でその部分を読みながら思わず噴き出してしまった(笑)。

 またそのとき、「あれほど注意しているにもかかわらず、なんで電車の中で携帯 電話を使う者が一向に減らないんだ、ああなんで......」とも歌っていたようだが、例えば久米は、電車の中で携帯電話を使っている者を見かけたとき、それをやめるように注意する勇気があるのだろうか。実際に「他人の迷惑になるからやめろよ」とか言ったことがあるのだろうか。あったとして、なぜその体験を番組で言わないのか。やはり彼はそれを実践していないからなのか。ならば彼には、人々に現実を変革させるような実践を要求するメッセージになる、例えば「電車の中で携帯電話を使っている人がいたら、勇気を持ってやめるように注意しましょう」とは言えないだろう。彼には言う資格がない。要するに彼は、ジプシーの音楽家と同じく、「なんでこんなひど い世の中になってしまったんだ、ああなんで......」と歌うのが商売なのだ。そう歌うことで利益を得ているわけだ。しかしそんなことをいくらほざいても、それは「その言葉のパフォーマンスとしての実効性」は何もない「愚かな言動」だ。では、自分ならどうするのか。もちろん人に注意する勇気などない。不快だったら我慢するしかないだろう。通常はそうだ。しかし今のところそうやって耐えているが、未来はわからない。状況によっては注意せざるを得ない場面に遭遇するかもしれない。だが、そのとき実際にどう行動するのか今はわからない。それだけだ。今日電車の中で、横に座っていた二人の老人の一方の人が、話し出したら止まらなくなるタイプのようで、もう一方の人が明らかに迷惑がっているのに、延々と、やれシベリア抑留だ満州だと、自らの戦争体験を一方的に語り続けていてかなりうんざりしたが、終点近くで毎度おなじみの時事問題の世間話に展開して行ったとき、今の世の中の乱れについて、「強盗なんかみんな死刑にすればいいんだ」と言っていた。しかし当たり前のことだが、その人に強盗を死刑にする権限などないだろう。仮に彼が裁判官であっても、現行の制度から逸脱して、強盗をすべて死刑にすることなどできない。そのとき、自分のできないことを軽々しく口走るべきでないと強く感じたし、そんなことをいくら口走っても何も実現できないだろうと思った。


4月18日

 本当だろうか。さあ、本当かもしれないし、本当でないかもしれない。何が?わからない。こんなやり方だった。適切さを欠いた方法だ。本来ならもっと別のやり方があったはずだ。分析しなければならない。何を?人の心を。しかし分析対象が見つからない。飽きた。あまり精神分析というものには興味を持てない。退屈しのぎの精神分析。響き合う音だ。どこかで反響音が鳴っている。トンネルの中から不気味なうなりが聞こえてくる。トンネルを抜けると、そこは海だった。聞こえていたのは波の音だ。雪景色とは無縁だった。雪の記憶はとっくに消え失せた。だが、北国では微かな痕跡が見られる。ともかく北国へ行けば、現実の雪に出会うだろう。畑の黒ずんだ雪を見ながら春を感じるのだろう。つかの間の快楽だ。だが、マイクがハウリングを起こす。これは歌う前の儀式なのか。そして何を語るつもりだ。何も語らずに歌う。歌人とはそういうものだ。トンネルを抜けると、そこは街だった。そこは山だった。そこは森だった。そんなありきたりな風景を思い浮かべれば、そこが君の故郷だ。急激に変転する影 のドライヴに魅惑されるだろう。走馬燈とはどのようなものだろう。映画の登場で廃れた技術だったのか。ついでに風景も廃れてしまったようだ。もはや風景を探求することに飽きてしまったのか。サンプリングとはこういうことか。だがどのような入力にも出力が存在する。無も出力のひとつだ。とぎれとぎれに集められたものの間を埋め合わせねばならない。ディジタル波をアナログ波に変換する。それで何がわかるのだろうか。元の波形を再現できるらしい。そんなことはない。真正面から見つめなくてはならない。真実など知らないはずだ。それなのに、なぜ真実を語ることができるのか。嘘をつくことで真実を語るらしい。嘘をついているつもりが、結果として真実を語ってしまう。真実を語ることはいかがわしい行為だ。たぶん何もわかっていないのだろう。記憶を欠いた思い出に充たされる。それでつかの間の休息が生じる。疲れてはいない。何かを言いたげだったが、それを言いかけて、口をつぐんだ。思い直したらしい。その沈黙が居心地の悪さを物語っている。変転する風景に心を奪われる。なるほど機会は失われた。だが、また巡ってくるだろう。まもなく、誰にも聞かれることのなかったその言葉が発せられる機会が巡ってくるはずだ。本当か?信じられない。


4月17日

 他に何があるわけでもない、ここしかない。ここだけしかない。だがここに何があるのだろう。例えば、ここに酷薄な環境がある。荒れ地だ。ここで人々が試される。ここでもがき苦しむのか。誰が?知らない。少なくとも自分ではない。自分には関係のないことだ。なぜそう言いきれる。自分はそれに参加する資格がない。比較的楽な立場だ。有名人ではないから。だが、なぜ唐突にこんなことを述べるのだろうか。脈絡が何もない。ただの気まぐれだろうか。たぶんそうに違いない。それ以外の動機を探し出す気力がない。疲れているのか。そうに違いない。試しにそんな幻想を抱いてみる。それはありふれた幻想だ。どこかで誰かが同じ幻想を共有しているかもしれない。しかし、同じ幻想とは何か。その幻想を抱くとどうなるというのか。報われる。それを期待して幻想を抱く。幻想を共有する人々は誰もが報われることを期待している。実際に誰が報われるのか。誰もが報われたいのだ。報いを受ける人物とは誰なのか。特定の人ィではネい。ところで、報いとは何だろう。罰なのか。それとも享楽なのか。あるいは、その二つが同時に到来するわけか。そうに違いない。ということは、罰を受けることは享楽を体験することなのか。たぶんそうに違いない。だが結局のところ誰も報われはしない。期待はつねに裏切られる。だが、何か別の体験をするかもしれない。期待していたものとは違う何かをあてがわれる。たぶん、それによっても何かしらリアルな体験をするかもしれないが、それと報いが結びつくことはない。報いは幻想だろう。想像上の救済だ。そのかわりに、別の現実を体験する。やり過ごすことだ。何も見いださず、何も触れることなく、ただそこを通過するのだ。映像は蓄積しない。映像は人々を突き抜ける。痕跡は何も残さない。それは体験といえるようなものではないかもしれない。ただ人々の身体を通過し、そして忘れ去られる。それを自らにつなぎ止めておくことなど不可能だ。人々は静止している。そして映像にさらされるがままになる。映像にさらされる人々は、静止して、じっと画面を見入ることしかできない。他の動作は余分だ。だから映像に支配された人々は動かない。死んでいる。


4月16日

 ジジェクは、フーコーを批判しつつ、だが同時にフーコーに依存しながら自らの考えを述べる。
 今やフーコーの<権力>と抵抗との間の連関と、ここで言う「内的逸脱」との区別を特定できるところまで来た。<法>とその違反との間にありうる関係のマトリックスから始めよう。最も初歩的なのは、外在性、外からの対立という単純な関係で、そこでは逸脱は合法的<権力>とダイレクトに対立し、それに対する脅威となる。第二段階は、逸脱がそれが侵す障害に依存すると主張することである。<法>がなければ逸脱もない。逸脱は自らを肯定するためには障害を必要とする。フーコーはもちろん、『性の歴史』の第一巻で、これら二つのものを否定し、<権力>に対する抵抗は絶対の内在であると説いている。しかし、「内在的逸脱」のポイントは、抵抗が<権力>に内在し、権力と反権力は、お互いがお互いを生むということだけではない。<権力>そのものがもはや支配できない抵抗という過剰を生み出すということだけではない。また、-性の場合のように-リビドーの覆いという規律による「抑圧」がこの抑圧の身振りそのものをエロチックにする-強迫神経症の人がリビドーの満足を、まさにトラウマ的なジュイサンスを追い込む定めにある拘束的な儀礼から得ているのと同じように-ということだけでもない。

 この最後の点はさらに徹底しなければならない。権力構造そのものが、内部から分裂しているということだ。それは自らを再生し、その<他者>を含むためには、それの基礎となる内在的な過剰に依存しているということである-ヘーゲル的な思弁的同一性の観点から言えば、<権力>はつねにすでに自らの逸脱であり、それが機能するとすれば、一種のいかがわしい補足に依存しなければならないということである。したがって、フーコーのように、権力は反権力と分かちがたく結びついており、反権力を生み、それ自身が反権力に規定されている、つまり、自己反射的に、この分裂はつねにすでに権力構造そのものにはね返ってきて、それを内部から分断し、自己検閲の身振りが権力の動きと同質となると断じるだけでは十分では ない。さらに、あるリビドーの内容の「抑圧」が遡行的に、まさに「抑圧」する身振りをエロス化すると言うだけでも十分ではない-この権力の「エロス化」は、それをその対象に行使することの二次的効果ではなく、否定されてはいても実はその基礎なのであり、「根幹をなす犯罪」であり、権力が正常に機能するとすればいつまでも見えないままでいなければならない創始の身振りである。(『幻想の感染』50〜51ページ)
 ここでジジェクは、フーコーの権力論について、「〜ということだけではない」「〜ということだけでもない」「と断じるだけでは十分ではない」「と言うだけでも十分ではない」と、度々その不完全性を批判しながらも、おおむねフーコーに沿って権力論を展開しているようだ。つまりジジェクがここで述べようとしていることは、フーコーの権力論が「機能するとすれば、一種のいかがわしい補足に依存しなければならない」ということになるだろうか。もちろんここで言う、「一種のいかがわしい補足」とは、フーコーの権力論の「一種のいかがわしい補足」として機能すべく形成されたジジェクの権力論のことである。

 それでここで述べられていることの具体的な事例としては、本書の中でいくつか提示されているが、ここでは、最近話題となった 石原東京都知事の「三国人」発言について説明してみよう思う。彼が無意識に(と同時に意識して)、かつての在日台湾韓国朝鮮人に対する差別用語として機能していた言葉をあからさまに口にしてしまったことに対して、表向きは反権力側のマスコミ関係者だけではなく、権力側の河野外務大臣からも非難の声があがっていたようだが、これは権力=反権力機構による大衆の支持を取り付けるための「自己検閲の身振り」である。彼らは、合法的な在日外国人に対するあからさまな差別発言を非難することで、暗黙に不法滞在者などのいわゆる不良外国人に対する差別を温存させ、結果として外国人に対する差別意識を持つ保守的なサイレントマジョリティからの支持を期待しているわけだ。つまりそれは、国家の庇護を受ける資格のない最も弱い立場の者に対する抑圧を暗黙に是認することになる(学校での集団による弱い者いじめと構造が似ているかもしれない)。しかしそのような行為をあからさまにやってはいけない。あからさまな差別が明るみに出れば、それは非難の対象になるし、場合によっては(暴力を用いて殺傷したりすれば)罪に問われることになるだろう。だが、暗黙の差別は容認されるし罪に問われない。これは権力=反権力機構が国民の支持を取り付ける上では、表向きは否認しながらも暗黙には容認しなければならない、という、どうしようもないジレンマだろう。例えば、不法滞在者などに日本国民と同じ権利を与えるようなことをしたら、日本国民が日本国民として存在する必然性がなくなってしまう。この辺が従来からの国民国家の限界だと思う。


4月15日

 それを積極的に選んだにせよ、あるいは消極的に受け入れざるを得なかったにせよ、自らの置かれている立場の正当性を声高にアピールする気にはなれない。その辺が自己主張ばかりのアメリカのビジネスマンもどきに違和感を覚えるゆえんかもしれない。だが、自分の立場や意見以外に何を主張したらいいのだろうか。これといった決定的な観念は何も思い浮かばないが、主張という言葉の意味する積極的な働きとは異なる、たとえて言うなら、消極的な否定性とでも言った観念を肯定しようとしているのだろうか。それで自己主張に違和感を感じると主張しているわけか。確かに自己主張をするには多大なエネルギーを要する。特に世間の常識とかけ離れたことを主張するのは並大抵のことではない。世間とのつながりが太ければ太いほど、周りから様々な圧力や攻撃が加えられることだろう。それらを防御するバリアー(社会的地位や権力、場合によっては匿名性)がなければ、かなりの忍耐と苦痛を覚悟しなければならない。それに比べて、他人の意見を紹介するのは気が楽だ。自己にこだわらないので忌憚のないことが書ける。自分が必ずしも全面的に同調しているわけではないことまで、一定の留保をつけることで、自らの感情を差し挟むことなく比較的容易に書ける。ともかくある程度の説得力を持っていると判断できるなら、必ずしもそれが自分の意見である必要はない。できうるかぎりこのような場で積極的に紹介した方がいいと思う。それを読んでどう判断するかは読者次第だ。つまらない党派性や感情でねじ曲げることなく、様々な意見や思考を容易に流通させることが肝心なことではないかと感じている。何も絶対的な正しさを求める必要はない。正しさこそが相対的な概念だ。ことの正しさなど時代の変遷によってころころ変わる。だから今のところそれほど自己主張の必要性を感じていないし、野心といったものとはとりあえず無縁なのかもしれない。本当のところはよくわからない。これも自己主張の一種かもしれないし、これらの文章の存在が、結果的に将来の野心を形成する温床になっているのかもしれない。はたして今書かれつつあるこれらの文章に未来があるのだろうか。自分にはよくわからない。


4月14日

 ジュイサンスとは何だろう。日本語では享楽と訳されている。以前からこの言葉の意味がよくわからなかったのだが、実は数日前からジジェクの『幻想の感染』(青土社 松浦俊輔 訳)を少しずつ読んでいて、読み始めると、いたるところでこのジュイサンスという言葉にぶつかり、そこでよくわからなくなる。自分にとって享楽という言葉はあまり馴染みのあるものではない。自分にはジジェクが度々使用するこの言葉がどうもピンとこない。辞書に載っている意味での享楽ならわかる。だが、例えば、
●近代の到来とともに、まだ明瞭な「生活様式」の享楽が浸透している具体的な伝統的共同体に根差す法が、中立の象徴的な<法>と、そのいかがわしい書かれざる規則という超自我の補足とに分かれるという物語。実質を伴うジュイサンスを生む<法>という中立の法秩序が登場したのは、近代が到来してからのことである。(27ページ)
この文章で使われている「享楽」あるいは「ジュイサンス」とはどのような意味なのだろうか。しかし、不思議なことに、この言葉の意味がわからなくても、この言葉を抜かしても、以下のようにこの文章の解釈は一応できる。

 近代の到来とともに、これまでその地域に根付いていた慣習的な共同体内の規則が、例えば国家がしかるべき手続きを経て定めた比較的中立的な内容と見なされる憲法などと、いわゆる世間の常識というあやふやな概念に従うことによって結果的に見いだされる規則との二つに分離するという物語。支配者による恣意的な押しつけではない中立的な法秩序が登場したのは、近代が到来してからのことである。

 ではなぜ中立的な法秩序がジュイサンス=享楽を生み出すのだろう。実は先に引用した文章のすぐ後に、その物語に対抗するさらに複雑でわかりにくい物語についても述べられているのだが、その物語についても同じような解釈をするのは、かなりややこしくて骨の折れる作業となりそうな気がするので、ここでは省略するが、このジュイサンス=享楽について、いくつかの例の中で比較的わかりやすいものをここでは引用しておこう。
 カルカッタにおけるマザー・テレサの「聖者の」活動について氾濫するメディア報道にも、同じ操作があることを、すぐに見てとることができる。それは明らかに、第三世界という幻想の衝立に依存するものである。カルカッタは、きまって地上の地獄、退廃、貧困、暴力、汚職にあふれたところであり、住民も末期の無表情にとらわれている、崩壊する第三世界の都市の典型として提示される(事実はもちろんまったく異なる。カルカッタは活気にあふれた、ボンベイよりもずっと繁栄している都市で、地元の共産党政府がうまく機能して、行き届いた社会的サービス網を維持している)。このどうしようもない苦悩のイメージに、マザー・テレサが、ふさぎ込んでいる人々に、貧困は救いに向かう道として受け入れるべきだというメッセージとともに、希望の光をもたらす。貧しい人々は、その悲しい運命を、もの言わぬ尊厳と信仰とともに生き抜いて、キリストの十字架を背負った道を再現しているのだ......。この操作のイデオロギー的利益は二重になっている。彼女が貧しい、病気で死にかけている人々に、あなたがたはその苦しみにおいて救いを求めるべきだと説くかぎり、彼女は自分たちの状態の理由を詮索しないような-自分たちの状況を政治化しないような-方向に目を向けさせている。同時に、彼女は西洋の豊かな人々に、彼女の慈善活動に財政的貢献をすることによって一種の代理救済の機会を与えている。ここでも、こうしたことはすべて、この世の地獄、いかなる政治活動もこの苦痛を軽くすることはできず、慈善と同情だけがそれを行うことができるほど完全に荒れ果てた場所という第三世界の幻想のイメージを背景にして、作用しているのである。(37〜38ページ)
 要するに「西洋の豊かな人々」(日本人も含む)は、マザー・テレサとともに、第三世界の「貧しい、病気で死にかけている人々」に同情し救済の手をさしのべることによって、ジュイサンス=享楽を得ているということになるのだろうか。確かにそのような行為は、良識ある世間一般の人々からは絶対に非難されることのない正しい行為であり、そのような絶対に正しい、非政治的な中立の立場でいることは、かなり気持ちの良いことであるには違いない。だが、ジジェクに従うなら、もちろんそれは同情し救済する対象が「貧しい、病気で死にかけている」場合に限られ(戦争避難民など)、例えば彼らが一致団結して暴動とかテロとかを起こしたら、とたんにそのような行為を非難する側に転じてしまうのかもしれない。しかし一方で、例えば、パレスチナの人々と共闘してイスラエルに戦いを挑んだ日本赤軍の人々も、それとは別のジュイサンス=享楽を得ていたのではないだろうかとも思う。この辺がよくわからない。とりあえずはもう少し読み進んでみよう。


4月13日

 たぶんどうでもいいことなのだろう。確かにその程度のことで動揺などしない。自分自身が希薄な存在なので、自分がどのような攻撃を受けようと、それを真に受けることができない。ただ愉快である。自分のような存在にしつこくまとわりついてくれる人間がいること自体が愉快だ。まるで自分が世間に認められでもしたかのような錯覚を覚える。これは何かの冗談なのだろうが、まあ、無視されるよりはマシなことかもしれない。だからといって、とりたててどうということはない。何も感じない。この程度のことはどこまで行ってもこの程度のことでしかない。たぶん、こうやってこれからも、私のクローンを、ときには増長させ、そして辛抱強く気長に育てていかなければならないのだろう。まるで一匹のペットを飼っているみたいだ。とするならば、目下のところ私の飼育方針は放し飼いなのだろうか。捕まえるのが面倒なので、それに捕まえようとして捕まるのか疑問なので、とりあえず放し飼いにしておくより仕方ない。でも放っておいても私の周りでうろちょろしてくれるのだから、それはそれで私になついてくれている証拠だろう。やはりその人は私のペットであるには違いないようだ。それに、こうやって挑発すれば何らかの反応があるようだし、そこがペット愛好家にとってはたまらないところだろう。だが、こういう述べ方ではいけないのかもしれない。このように挑発していることは、自分が、これらのいやがらせに対して何とも思っていないことが嘘であることを証明しているのではないか。本当はいやなのだろうと思う。放っておいてほしいのに、ことさらちょっかいを出してくる人に嫌気がさしているのかもしれない。そしてそれに対して単に強がっているだけかもしれない。たぶんある程度はそういう気持ちもあって、このような挑発で応じているのだろう。そう、人を思いやる気持ちは大切だ。少しはペットの気持ちも大事にしてやらねばならない。ペットにも、ある程度はいやがらせが効果を上げていることわからせて、それに伴う満足感やら達成感やらを与えてやらねばならない。ペットに欲求不満を起こさせては、飼い主としては失格だ。そのためには、もう少し飼育のノウハウを蓄積させなければならないらしい。どうすればペットが満足してくれるのかこれから勉強してみようと思う。たぶんこれは嘘だ。だが、これも挑発には違いない。


4月12日

 レズビアンサイトを運営しているカノカノさんという方から検索コーナーに登録してほしいとのメールをもらった。メールの内容が本当だとすると、どうやら私のクローンは、まだどこぞのHページの掲示板で活躍しているらしい。それで、冗談で下記のページに私のページを新規登録しておいた。

http://www.office88.net/kano2/cgi-bin/navi.cgi

 それでこれを読んでいる人で自分のページを持っている方がおられるなら、是非上記のページに登録をお願いいたします(冗談で)。Hページ以外の方は登録する際に自分のページがどの分類に当てはまるか迷われると思いますが、その辺はシャレということで適当によろしくお願いいたします(笑)。ちなみに私は無料画像の分類で登録しました(笑)。

 また、ときどき変な薬物ページを紹介するメールが届いたりするので、私のメールアドレスの

c8b7ff43@a1.mbn.or.jp

の方は、もしかしたら私のクローンにハックされている可能性がなきしもあらずなので、このページに関する質問や感想に関しては

mkoike@be.mbn.or.jp

こちらの方が私に直接届く確率が大きいのかもしれません(ホントか?)。こんなこと書くとさっそくこちらにも変なメールが届くことになるのだろうか(笑)。


4月12日

 どうも本気ではないようだ。見え透いた話題で何かを期待している。頑なな姿勢を軟化させたいらしい。心変わりを期待しているらしい。たぶんそうするより他に方法がないのだ。しかしどのようにしたら心境が変わるのだろうか。そして、どう変化したら満足してくれるのか。これからも何の展望もないだろう。もうどうにもならないだろう。そのようにしか思われない。変化するときは様々な思惑を越えて根本的に変化するしかない。その変化に対しては誰もどうすることもできないはずだ。そう簡単に行き詰まりが打開できるわけがない。確かに打開はできないだろう。積極的に何か障害を打開して変化するわけではない。何か問題が解決するようには変化しない。だが、何かしら変化はするようだ。おおかたは期待はずれの変化だと思われるだろう。それでいいのかもしれない。それではよくないかもしれないが、結果としてはそれでいいのだろう。その辺は微妙なところだ。つまらない期待は打ち砕かれるべきだ。期待は常に忘却される。そして忘却の彼方で何かが変化する。誰も気づかないような変化が訪れる。いつの間にか季節が移り変わるように、気がついたら何かが変わっているだろう。たぶんその変化にうまく対応して成功する者も出てくるのかもしれない。だがそれ自体はあまり重要なことではない。それはあくまでも変化から生み出された副産物でしかない。成功するしないはどうでもいいことだ。そしてその変化自体も自分にとってはどうでもいいことだ。自分は変化にはついてゆけずに置いてきぼりを食うかもしれない。それでもいいのだろう。そのような変化にはあまり関心を持てない。積極的に関わろうとする気がしない。それは自分にとってはすでに過ぎ去った変化かもしれない。なんとなく日々をやり過ごしてきた過程で、すでに変化してしまったようだ。だからもうそのような変化には関わらなくていいのだろう。自分にはもはや関係のないことだ。


4月11日

 なるほど、例えば、タブーに挑戦すると息巻いて、いくら過激な性愛を描き出そうと、そのような小説がベストセラーになってしまうこと自体が、それはタブーなどではなく、すでにそのような文学が体制内に組み込まれている証拠で、ただ作者だけが体制破壊的な試みをやっていると勘違いしているのだそうだ。よくぞやってくれた、と拍手喝采を浴びるようなものは、すでに従来からある人を楽しませ消費されるような伝統に沿ったもの書いているに過ぎないらしい。ただ大衆の欲望を的確に捕らえてそれを満足させるように書いたに過ぎない。ではどのようなものを書けばいいのだろうか。まともに書くのなら、伝統的な人を楽しませ消費されるようなものを書いたらいいのだろう。そのほかの効果をねらった努力はあまり推奨されないだろう。とりあえずは、できる限り大衆迎合的なものを書くように努めるべきだ。これからはあまり過大な期待や幻想を持たないように心がけようと思う。自分の書いているものが、大衆から拒否されつつも読まれるような何かである、などという思い込みは捨てた方がいいみたいだ。要するに、現状では、ただマイナーなことを書いているだけなのだろう。と、以上に述べたことは、ある程度は真実だと思う。そう、ある程度はそうだ。どのようなものを書けばいいのか、という問いに対してはそう答えるより仕方ない。だが、これでは直面している困難に何も答えていない。どのようなものではなく、どう書けばいいのか、それがわからない。自分には大衆迎合的なものを模倣することができない。自分の書いたものが、結果として大衆迎合的にはなり得ないのだ。現実に大勢の人々から拍手喝采を浴びているわけはないし、目下のところ、そうなるような要素は何もない。そのような状況で、そのような場で書いている。これではどうしようもない。人を楽しませ消費されるようなものを書くことなど到底不可能だ。というより、そのようなものを目指す必然性が今の自分には決定的に欠けている。別に無理してそのような努力をしなくても生きていけるわけだ。つまり、このような状況下でどう書けばいいのかが問われている。では、実際にどう書けばいいのか。よくはわからないが、今現実にこうして書いているように、こんなふうに書けばいいのだろうか。


4月10日

 途方もない記述だ。異常な文体だ。想像を絶する文章だ。まるで理解できない。何を述べているのか内容がほとんど把握できない。繰り出されるのはこんな台詞ばかりだ。いったい何を書きたいのだろう。どんなことを主張したかったのか。結局はわからない。ただ何かが絶えず反復される。だがどこへも行かない。どこかに無数の出来事が散らばる。そして、その出来事が思いがけない道筋をたどり、理解不能な偏在する中心から伸びる粘着質の触手に少しずつ絡め取られる。その結果出来事が出来事でなくなる。言葉に変形されて出来事が記述に変化する。方策とはそのようなものなのか。安易な解釈としては、散らばった出来事をひとつにまとめて意味のある文章を構築する、となる。だが、そうではないらしい。かつてはそうであったはずものが、今ではそうでない。出来事は相変わらず方々へ散らばったままだ。ひとつにまとまる気配など微塵も感じられない。たとえて言えば、天空のどこかで生じる出来事と出来事を結んで星座を形作ること、その星座の形から連想される事物の名前をあてがうこと。そうではないらしい。そのような方策はもはや廃れた。もっと直接かつ間接的に出来事へ接近していきながら、一方では絶えず出来事から遠ざかる。直接かつ間接的に接近しながら遠ざかる。そのような相矛盾する動作を同時に実践しているらしい。確かにわからない。何を述べているのか理解できない。たぶんそのような実践は容易なことではないのだろうが、それ以前にそういう説明が理解できない。理解すべきなのだろうか。または理解できるように努力すべきなのか。以前は、まだ少しはそれに向かって努力する姿勢があった。理解に向けて前向きな努力を望んでいたりもした。だが、季節は巡り、人の心も変わった。もはやかつて備わっていた思考の基盤は完全に風化した。許容範囲が狭まったようだ。理解しなくてもいいのかもしれない。では、理解せずに実践すべきなのか。だがそれではまた不可能に直面せざるを得ない。


4月9日

 世の中には大変律儀な方がおられるようだ。不快なメールを送ってよこす人に、その人が紹介するWebページに記載されているメールアドレスに、メールを送るのをやめてくれるようにメールを出したら、すると、なぜか素直に、そのWebページの宣伝メールは今回限りでやめるとのメールをもらった。そして、たぶんこれだけじゃあ終わらないだろうと思っていたら、案の定、今度は別のWebページを紹介する不快なメールを送ってくるようになった。なるほど、こうやってしつこく自らの存在を自己主張するのが生き甲斐の人もいるわけだ。自分にはこれほどの根気はない(笑)。まぁ、このようなことをいくらやってみても、どこまで行っても意味不明なままだろう。これからもその人にはがんばってもらうだけだ。それが制度というものだ。


4月9日

 取るに足りない些細な違い、見過ごされがちな微少な差異に注目してみよう。さて、その対象を見つけなければ。否定的な見解を述べることはたやすい。それは嘘だ。現実には難しい。実際にはあり得ない見解が要求される。幻影に向かって眼を開く。様々な差異を肯定してみる。ではどのような差異を実際に肯定するのか。あなたと私の違いか?お互いの類似点を導き出してひとつのカテゴリーで括ることは避けなければならない。たぶん様々な話題があるのだろう。プロ野球とかサッカーとか、それらが好きな者同士が話し始めると会話が止まらなくなるほど話題には事欠かないだろう。だがそれらの中にどのような差異があるのだろうか。差異を探さなくてはならない。共通点はすぐにわかる。それらが見せ物であることは確かだ。見せ物に観客として参加する。金を払ってスタジアムまで足を運ぶ者。TV中継で見ている者。ラジオ中継を聞いている者。スポーツニュースだけで済ませる者。翌日のスポーツ新聞を購読する者。それらを重複して選択することも含めて様々な選択肢があり、それぞれがそれぞれのやり方でひとつのイベントに参加している。だから当然それぞれの見方や接し方も様々で、それぞれが違う思いでイベントを観戦している。それくらいのことは容易に推測できる。中にはそれだけのために生きている熱烈なファンもごく一部にはいるだろうし、また、中には職場や仲間内での話題に合わせているだけの者もいるかもしれない。なるほど、イベント観戦者のそれぞれには確かに差異があるらしい。それらの差異は取るに足りない微細な違いになるのだろうか。そのように捉えることも可能だ。大多数の見解はそれらを一括りにまとめてスポーツファンと呼ぶ。語る状況に応じて様々なレヴェルで様々な述べ方がある。中には、かなりおおざっぱに、スポーツファンはバカだとか述べる者もいるだろう。それは確かに雑な述べ方だ。だが、ときにはそれと同じような述べ方が有効に機能する場合もある。例えば、それを肯定するにしろ否定するにしろ、大勢の人々が巨人ファンについて一括りの同質の人間として言及することが「巨人ファン」という幻影を存在させている。たぶんそれについて語る者がいる限り、これからも巨人ファンはそのようなものとして存在し続けるだろう。ただ時代によって語る内容が変化するだけであり、巨人ファンそのものはメジャーであり続ける。巨人ファンの実態はそれについて語る者が作り上げた幻影だ。だがその幻影が力を持っている。それについて語る者が多いからそれの実在を信じる者が多くなり、結果として幻影の力が増大する。そしてさらに、幻影の力の増大は実在するプロ野球チームをも強化するのだろうか。実際に、皆がそのチームを勝たせたいと願っている、というムードがこの半年あまりで半ば強引に形成されたように思われる。


4月8日

 確かに覚えている。六本目の指の存在を鮮明に覚えている。足の指も六本あった。意識は途切れたまま、崖から飛び降りた。溜め池から泥水が噴き出す。何を期待していたのだろうか。案山子がしばらく考え込む。打ちのめされる。幻覚が吹き飛ぶ。それは紛れもない事実だった。その喫茶店はとうに閉鎖されていた。薄暗い地下道で金色の文字を見た。ビルの窓すべてが夕日に照らされてオレンジ色に輝く。細い一本道の途中でさらに細い横道が林の中へと続いている。さらに進んでいくと突然町中に出る。表通りから少し奥まったところにその家はあった。二言三言言葉を交わす。スプレータイプのペンキで辺り構わず落書きされている。天井からは水が滴り落ちる。どこからかカラオケの歌声が聞こえてくる。当たり前のごとく熱唱している。違和感が生じる。そんな風景に惑わされる。何か勘違いしているようだ。前後左右から騒音が押し寄せる。そこはビルの建築現場だった。横断歩道の向こうで犬が吠えている。つられて雨が降り出す。通り雨だろう。夏の暑い時期だった。コンビニには土木作業員がたむろしている。アスファルトを削る作業車に人が巻き込まれた。しばらく辺りは静かになることだろう。少なくとも数ヶ月後に蝉の鳴き声でうるさくなるまでは静かだ。路上の敷石が砕ける。なぜだろう。蟻の大群だ。巣立ちの季節なのか。敷石の間からは雑草が生えていた。どこからかポリ袋が飛んでくる。風が強い。風圧と強烈な日差しで肌が痛いくらいだ。生き延びるとはこういうことなのか。どこで感じた思いなのだろうか。休息しているようだ。しばらく動かない。やがて始まるのだろう。車の騒音でかき消された鳥のさえずりがよみがえってくる。そして水の音だ。生暖かいカルキ水が蛇口から勢いよく噴き出す。何も期待していなかった。飛び降りた地面は固かった。前歯に衝撃が加わる。誰が打ちのめされたのだろう。記憶にない。何も覚えていなかった。ただ道に迷っていただけだ。太陽が眩しい。後光に照らされながら誰かが光臨するらしい。そんな宣伝文句の記載された紙切れがゴミ箱から見つかった。


4月7日

 たぶん、いくらか嫉妬が入り混じっているのだろう。うらやましい。うらやましいが、自分には不可能だ。自分にはそれができない。様々なしがらみが邪魔をしてできない。しがらみによってそれをやる機会が奪い去られている。だが、自分からこのしがらみを断ち切ることはできない。何よりもしがらみを断ち切る勇気がない。それをやる決断ができない。だが、しがらみを断ち切るための勇気とか決断とかはまやかしだと思う。若者が陥りやすいまやかしだ。しがらみを断ち切ったと思わせることが罠なのだと思う。断ち切れるようなしがらみは本当のしがらみではない。しがらみを断ち切るという行為自体が、既成の慣習や秩序にはとらわれずに自由に生きよ、という「青春」という名のしがらみに縛られている証拠なのではないか。さらなるしがらみに捕らわれるために偽のしがらみをあてがわれているのだ。そのダミーのしがらみと格闘しているうちに、より大きなしがらみに呑み込まれてしまう。そのときの勇気や決断はしがらみが撒いた撒き餌のようなものだ。しがらみは勇気や決断では解決できない。しがらみには勇気や決断を腐らせる効能がある。そもそも勇気や決断は、主体による自由意志から生じている。しかししがらみは自由意志を受けつけない。しがらみには自由意志を存在させる余地がない。しがらみとは自由がない状態のことを言う。常に個人の意志を押さえ込む形でしがらみは設定される。だからしがらみは主体による解決そのものが不可能なのかもしれない。しがらみは主体を越えて存在する制度的拘束だ。ではどうすればいいのだろうか。すでにやっているではないか。だいぶ前からしがらみに対して実行していることがある。待つことだ。忍耐強く待つこと、ただひたすら待っているではないか。実際、待つことしかできない。しがらみが自然に解きほぐされるのを待つ。自分にできることは待つことだ。待っているうちに一生を終えてしまうかもしれないが、それも仕方ないだろう。しがらみを受け入れてそれに従って行動するよりはマシだ。これからもしがらみには抵抗して行かねばならない。断固ととしてしがらみに逆らって生きてゆくのだ。それで不幸になっても仕方ない。幸福になるよりマシだ。


4月6日

 照れる素振りなど少しもない。いきなり平然と子供の頃の思い出を語り始めた。さらに驚くべきことには、今に至った自分の思考や行動の必然性が幼少期にまでさかのぼって導き出される。あのころあのときの強烈な体験が今の自分の在り方を規定しているのだそうだ。恐ろしい。何かの冗談なのか。それともフィクションなのだろうか。どうもそうではないらしい。本気で、そしてかなり真面目に、幼年期の体験から現在の自分に至る確固とした連続性が構築されようとしている。こうして、ひとりの男の首尾一貫した人生が堂々と語られる。呆気にとられる。と同時に大変ご苦労なことだと思う。まるでひとつの国家の歴史みたいだ。なるほど、これは世界史から恣意的に隔絶させて成立する日本史とどことなく形態が似ている。だが、理解できない。そのように平気で思い出話を語ってしまう思考形態が理解できない。自分にとって、そのような連続性は考えられない。過去の自分と現在の自分は明らかに違う。まるで別人のように違う。さらに言えば、過去の自分も現在の自分も一義的にひとつの意味では規定できない。過去と現在の自分が違うように、現在の自分でさえ様々な違う側面を持っていることだろう。彼に話を戻そう。どうも語られている内容がどこかおかしい。何かがずれている。明らかに違うレヴェルの体験がごちゃ混ぜになって同一レヴェルで展開している。元はといえば偶然性に支配された体験だった。しかしそれが今では必然的な因果関係で語られる。そうならざるを得なかったかのごとくに説明される。他の可能性を排除したかのごとく切れ目なく直線的に出来事が並んでしまう。その結果、取るに足りない些細な体験が大げさな装飾を施されて決定的な重要性を帯びてくる。まるでいびつな表面をかんなで削るごとく滑らかに語られる。彼は何を語りたいのか。何を語ろうとしたいのだろうか。あの体験でその少年の自己が形成されたらしいが、それから何十年か後の自分とあの体験が、どこでどう結びつくのかがまるで理解できない。よくありがちな過ちが脳裏をかすめる。やはり原因と結果を取り違えているのだろうか。幾分かは合理的な解釈をするなら、たぶん、今の自分があのころの自分を必要としているのだ。今の自分が存在するための根拠をほしがっている。自らの存在を否定しにやって来る圧倒的にリアルな現実に対して、それから身を守るために、自らを自らとして自らにつなぎ止めておくための根拠を必要としているようだ。つまり、すべては今の自分から生じている。幼少期の記憶でさえそうだ。今の自分があの体験に特権的な価値を規定している。今の自分を正当化するためにあの体験だけがクローズアップされている。他にも様々な体験があったはずなのに、それらは取るに足りない体験であり、首尾一貫した自己を構築するには邪魔な要素なのだ。自己の連続性を阻害する記憶は意図的に忘れ去られる。自己防衛のためなら無意識でさえ意図的に作用するものだ。


4月5日

 忘れてしまった。今は思い出せない。様々な書き方がある。誰かが何かを指摘していた。何かの諫言だったような気がする。何を諫めていたのかが思い出せない。しかしパントマイムではわからないことがある。なるほど、直接批判する度胸がないようだ。確かに直接のあからさまな批判をするためには、冷静な勇気と前もってある程度は自分の勝算を見込んでおくことが必要なのだろう。神風特攻隊や自爆テロでは批判者の未来がない。そうやってせこい損得勘定と自己保存本能が他愛のない卑屈さを助長する。そうかといって大義のために自らを犠牲にするほどの覚悟もない。もちろんそのような行為に大義があるとは思えないが、結局はどっちつかずの宙ぶらりんだ。そういうわかりやすい人々は世の中に大勢いるのだろうか。では自分はどうなのか。もうあまり他人を批判したくない。よほどのことがない限り批判はしないだろう。では、よほどのこととはどういうことなのか。そのときが来てみないとわからない。つまり、もし今後批判することがあったとしたら、そのときはよほどのことがあったということだ。ずるい述べ方だがこんなふうにしか言えない。しかしどこからそんな幻想を感じ取るのだろうか。どのように幻想が生じるのか、そのような幻想が生み出される過程に興味がある。書かれた文章からだろうが、書いている本人は何も幻想を抱いていない。当然のこと誇大妄想など嘘だ。ただ書いた結果からその文章を誇大妄想だと判断してみただけだ。当たり前のことだが、思ったことをそのままストレートに書いているわけではない。この辺が小学生の作文とは少し形態が違うと思う。むしろ思ってもみなかったことを積極的に書いているとしか言いようがない。自分とは別の人格が自分を越えて書いている。そして書かれた文章を後から読んでみて、その途方もない荒唐無稽さに自分自身があきれているわけだ。しかも書いた数日後にわけのわからない展開が待ち受けている。さらなる驚きに遭遇する。それが他人の不幸であったとしても、結果として書くことが実に愉快に感じられてしまう。自分が感じ取っている範囲内での事の真相とはそういうことだ。勘違いされては困るが、私は決して事情通などではない。


4月4日

 なんだ、正統派だとおだてたら、その気になって無理をしすぎたのか、かなり悲惨な結末になってしまった。まだ生きているうちからその機能を果たせないとわかるやいなや、もはや用済みとなって厄介払いの対象になっているようだ。周りの者は一刻も早く彼の名前と存在を忘れてしまいたいらしい。代わりの犠牲者(後継者)を選ぶのに夢中になっている。あれほど尽くしてきたのに薄情なことだ。もっとも、そのように振る舞うよりほかにないわけだが。不謹慎なことだが仕方ない。ほかにどう振る舞ったらいいかなんて誰にもわからないだろう。制度とはそういうものだ。そしてこの際、彼と一緒に彼に付随するいやな思い出もついでに忘却したいのだろう。いやなことは早く忘れて、心機一転やり直しと行きたいところだ。そんな心境が蔓延しているらしい。せいぜいがんばってくれたまえ。だがやり直しはきかない。一度回り始めた歯車を逆転させることはかなり難しいだろう。無理して強引にそれを行なったら、今度は制度そのものが崩壊するだろう。もっともそれを期待しているわけだが。だからまだまだがんばらねばならない。こうなったら、徹底的に時代の流れに逆らってくれ。とことんまで抵抗すべきだ。それでもうまく行かなかったら、最後の手段はクーデターだ。よその国ではよくやっていることではないか。川の流れを止めて水を停滞させるのだ。そして濁りきって泥沼になるまで放っておくのだ。なぜ?すでに底なしの泥沼ではないか。実際にドブとなって悪臭を放っているではないか。だから今以上の更なる泥沼を期待する。こんなものではまだ物足りないだろう。たぶんこれは挑発なのだろう。つまらない挑発だ。間違ってもこれは予測や予言などではない。ただ、そうなったらおもしろいと思っている。それだけのくだらない感情の産物だ。誰も月並みな展開は望まないだろう。大衆演劇はおもしろければそれでかまわない。内容は問わないのが習わしだろう。そんなふうに過大な期待をしておいて、結果、退屈な成り行きとつまらない現実に幻滅するのだ。そしてより一層の不満や鬱積が溜まることになる。たぶん、それが明日を生きて行く上での活力になるだろう。何事に対しても抵抗して行かなければならない。そのためにはこのような誇大妄想が欠かせない(笑)。


4月3日

 悪夢を繰り返して見る現象から何がわかるだろうか。悪夢が反復される。ただそれだけだ。これでは説明したことにならないか。では、たぶんストレスが溜まっているのだろう。この程度の説明ではだめだろうか。例えば、フロイトのまねをして、死の欲動がどうたらこうたら言わねば納得してくれないのだろうか。ここで無理にフロイトのまねはしなくていいと思う。フロイトの場合は、第一次世界大戦後に発生した戦争神経症の患者が、戦争やそれに伴う災害などの不快な夢を反復して見るという現象を前にして、自説の快感原則と「不快な夢の反復」との整合性を考慮した結果「死の欲動」という概念を導き出したのであるから、フロイトやフロイト主義者にとっては「死の欲動」という概念はリアリティを持つが、自分にとってはリアリティがなくて当然だろう。何しろ精神分析は、臨床経験と切り離して考えるとリアリティを失ってしまうそうだから、精神分析医ではない自分には当然のこと臨床経験はないわけで、無理に「死の欲動」について語る必然性はない。たぶん戦争神経症と診断された人々は、実際に体験した戦争に伴う不快な苦痛が夢の中でこだましているのだ。快感が無意識の想像力で増幅されて夢の中でこだまするのと同じように、不快感も無意識の想像力で増幅されて夢の中でこだまする。人間を機械と見なせば、アンプと同じ動作をしていることになる。当たり前のことだが、強烈な体験が増幅されるとさらに強烈になる。それで後に尾を引くことになるのだろう。それが「不快な夢の反復」だ。では現実の悪夢に対してはどのような態度をとったらいいのだろうか。さあ、人それぞれだろう。自分の場合は、悪夢を取り除こうして精神分析医に相談したことはない。まだ精神分析医に相談するほどの悪夢を繰り返して見た経験はない。運悪く悪夢を見ても大概はそのままだ。ただそれだけのことだ。悪夢を見た経験が記憶に残ってもそれをどうこうする気にならない。ただ忘れた頃に突然いやな思い出がよみがえってまたいやな思いを反芻するだけのことだ。つまり、幸か不幸か自分は、その程度のリアリティしか持てない人間なのだ。フロイトのように「死の欲動」を導き出さねば気が済まぬレヴェルで生きてはいない。


4月2日

 理解しがたい難解な理論の書はあまり読まれない。しかし、それを可能な限り真理に近づけさせるような配慮によって、物事をできるだけ詳しく説明しようとすれば、自ずからその説明は難解な理論になるしかないのだろうか。そうなると限られた知識人にしか読めなくなる。例えば数学的概念を導入した説明は、数学が苦手な人には敬遠されてしまうだろう。しかし説明にどうしてもそれを導入しなければならない必然性が生じた場合、数学の不得意な人は見捨てて説明するしかない。しかしこのような傾向を押し進めていくと、より真理には近いかもしれないがその分野に精通した人にしか理解できない説明か、または、誰もが理解できるがその分野に精通した人にとっては雑な説明かの、それぞれに一長一短のある対立する二種類の説明に分化してしまうだろう。実際に今日の現状はそうなのかもしれない。では、誰もが容易に理解できて、なおかつ、より真理に近い説明というものは可能だろうか。そのように見せかけることは可能かもしれない。不都合な側面を注意深く隠蔽したりよけて通ったりしながら説明すれば、それは可能かもしれない。もちろんそれはごまかしでしかないが、容易にはバレないように細心の注意を払いながら文章上のレトリックを駆使すればそれができるだろうか。自分にもある程度はできるかもしれないし、実際にこれまでにもそのような類の説明があったかもしれない。あらためて注意深く読んでみればごまかしの箇所がいくつも判明することだろう。そのごまかしが、自分のその時点での限界を示している。では、これからはどうするのか。難解な理論を駆使した説明を目指しているのだろうか。その必要が生じた場合はそうせざるを得なくなるが、たぶんそればかりになることはないと思う。少なくとも自分に理解できない理論は導入できない。完全に理解していない(消化できていない)のに知ったかぶって理論を振り回すと、後で必ずボロが出る。そのような悲惨な例は、サブカルチャー系知識人の中にはいやというほどいる。それに現時点では難解な理論書を読んでいる暇はないので、今のレヴェルからそれほど飛躍的に難解さが増すということはあまり考えられない。とりあえずはこの程度の説明しかできないことは確かだ。


4月1日

 様々な音の中から、様々な声の中から、様々な記述の中から、様々な風景の中から、様々な幻想の中から、様々な感覚の中から、その他の様々な物事の中から、そんなものの中から何を探し出せばいいのだろうか。探し出すのは面倒だ。探し出すのはやめだ。こちらからは何も探さない。ではどうしようか。あちらから来るものだけを取り上げようじゃないか。だが、もし何も来なければどうするのか。そのときに考え直そう。本当はどうでもいいのかもしれない。探し物なんて何も思いつかない。たぶん、それよりもどこかへ置き忘れてきた音や声や風景や幻想や感覚や物事がありすぎるような気がする。これらの過ぎ去ったものたちにはどこかで再び出会う機会があるだろうか。あったりなかったりするのだろう。そうだ、大事なものを忘れていた、人間には再び出会えるだろうか。出会えたり出会えなかったりするのだろう。だが、出会うのが面倒だから、人間は避けようじゃないか。しかし、こちらからは避けていても、向こうから勝手にやって来る者については避けては通れない。面倒だが何らかの対処はしなくてはならないのだろう。無味乾燥な打算的出会いだけではやっていられない。少しは損得勘定なしで対処したいものだ。では、どうすればそのように対処できるのだろうか。例えば、人をモノと考えればそのように対処できるだろうか。突き詰めて考えれば、人は機械の一種でしかないのかもしれない。なぜだろう、なぜそのように考えるのか。それは自分がヒューマニズムとは無縁だからか。では、人を機械と見なさなければ対処できないとすれば、機械に接するときの対処の仕方を人に応用できるのだろうか。やってみればいい。実践してみれば、それが可能かどうかがわかるだろう。しかし、日頃から自分はどのように機械に接しているのだろうか。例えば、機械を恨んだことなどほとんどない。機械を擬人化して名前を付けたこともない。使用しているそれぞれの機械については、その用途や機能にしたがってそれなりに公平に扱っているつもりだ。何よりも機械そのものには何も幻想を見いだせない。機械から出力される情報に幻想を抱くのだと思う。だから、人間そのものの存在に幻想を抱くようなヒューマニズムは避けなければならないのだろうが、人と人が関係した結果として出力される様々な情報から何らかの幻想が生じることはやむを得ないことなのかもしれない。だが、そんな幻想にいつまでもとらわれているのはいやだ。幻想はさっさとやり過ごそう。幻想を通りすぎて、ついでに、その先に見いだされる幻想もやり過ごそう。錯覚はごめんだ。間違っても幻想の先にモノ自体などない。そこにモノ自体などないと思っておこう。抽象的な概念は嫌いだ。幻想は幻想でしかないし、機械は機械でしかない。人間も人間でしかない。そこに何かを探し出そうとすれば、たぶん幻想しか見つからないだろう。やはり面倒だから探し出すのはやめだ。