彼の声1772026年10月6日「ラジオ感覚の共犯関係」それについて語っているのが当事者ではないということが、最大のメリットだとしたら、当事者には語らせないようにしているわけではないとしても、当事者ではないから語ることにメリットを感じている面があるとしたら、何となくそういうことなのかと合点がいくわけで、果たして技術論に終始する人に当事者意識があるかというと、それ以前に技術論とは、技術の本質や、人間・社会と技術との関係を学問的・体系的に考察する分野・技術哲学やその議論のことで、技術論の主な意味と視点は、技術を単なる道具ではなく、人間が自然や環境に適応し、社会や行動のあり方を形づくるものとして捉え、客観的法則を追求する科学と、それを利用して人間生活や生産を変革する技術が、いかに関わるかを考え、テクノロジーの進歩が社会構造や人間性にどのような影響を与えるか、また人間が技術をどうコントロールすべきかを議論し、日本では1930年代以降、技術を社会科学的にどう位置づけるかをめぐって技術論論争が活発に行われたそうで、戸板潤や武谷三男らが中心となり、技術を労働手段の体系や客観的法則性の意識的適用と定義づける議論が展開され、戦後も、科学技術が環境問題論や人間性の破壊にどうつながるか、あるいは技術者の倫理や社会的責任について模索が続いているそうだが、では改めて、それがどのような分野であれ、技術論に終始する人に当事者意識があるかというと、ビジネス、政治、学術、ものづくりなど、どのような分野であれ、技術論に終始する人は当事者意識が希薄である、あるいは当事者意識の持ち方をすり替えている可能性が極めて高いと言えるそうで、なぜ技術論に終始することが当事者意識の欠如につながるのか、その心理と構造には以下の4つの理由があるそうだが、1つ目の理由は、手段を語ることで目的の責任から逃げられることで、技術論とは、本来、どうやってやるかという手段の話だが、しかし、物事の本質や成果は、何を、なぜやるのかという目的や結果にあり、当事者意識のない状態で、このシステム・手法の仕様は〜、ルール上は〜、と技術的な正論を語ることで、仕事をした気になれるが、本当の当事者は、仮に技術的に正しくても、目的が達成できなければ、自分の責任として捉え、泥臭い解決策でも実行しなければならなくなり、それに対して技術論に終始する人は、私は正しい方法・技術を提示したのだから、うまくいかないのは、それを扱えない周囲や環境のせいだという免責の論理に陥りがちになり、2つ目の理由は、批判や失敗など、リスクのセーフティゾーンに身を置けることで、客観的な技術や理論を語っている間は、その人自身の人格や決断力、コミットメントが試されることはなく、それに対して、自分の意見や感情、私はこうしたい、これが絶対に必要だ、などと表明すると、失敗したときに批判や非難の矢面に立つことになり、一方で、既存のフレームワークや技術論の後ろに隠れていれば、理論上、こうなっている、と言い訳ができるため、傷つかない安全な場所から評論している状態でいられ、3つ目の理由は、専門家というポジションへのすり替えで、彼らの中には、当事者・プレイヤーではなく、客観的なアドバイザー・評論家としてその場に参加している意識が無意識に働いていて、自分はこのプロジェクトを成功させる責任者ではなく、この分野の技術的知見を提供する人、という限定的な捉え方しかしていないため、全体の成否に対するコミットメント・当事者意識が生まれず、4つ目の理由は、人間関係や泥臭い調整からの逃避で、どのような分野でも、実際に物事を動かすのは、人の感情、利害調整、泥臭い実行力であり、技術論に終始する人は、こうした数値化・理論化できない生々しい現実に向き合う覚悟が足りないケースが多々あり、技術的に正しいのだから、周りが動くべきだ、という態度は、当事者として周囲を巻き込む努力の放棄と言えるそうだが、ただ、彼らに全く当事者意識がないのかというと、本人の中ではその技術・手法の美しさや正しさを守る守護者としての強烈な当事者意識を持っている場合があるが、しかしそれは、プロジェクトや組織、顧客に対する当事者意識ではなく、自分のこだわる技術・手段に対する内向きな当事者意識であるため、周囲からは、あいつには当事者意識がない、目的を見ていないと映ることになるそうだが、当事者ではないのにそれについて語ることにメリットを感じているとしたら、やはり、語る対象が批評や評論の対象になっている、ということかというと、まさに語る対象が、自分とは切り離された批評・評論の対象になっているからこそ、彼らはそこに大きなメリットを感じていて、当事者ではない人間が、リスクを負わずにビジネスの戦略、政治、他人のプロジェクト、技術の優劣などの特定のテーマを語る際、そこには批評家・評論家特有のおいしいメリットがいくつもあり、彼らが感じている主なメリットは、以下の4つに集約されるそうで、1つ目のメリットは、知的優位性と有能感の獲得、無償の勝利で、最も大きなメリットは、自分は頭が良い、物事の本質を見抜いている、という快感・自己効力感を手軽に得られる点で、当事者なら、現実の泥臭い問題や、矛盾、人間関係に直面し、泥まみれになって悩み、客観的に見れば、スマートではない選択を迫られることもあるが、評論家になれば、そうした現実の制約を無視して、理想論や技術論、過去のケーススタディを基に正論を組み立てられて、結果として、実践のリスクを負うことなく、当事者よりも、頭が良く、正しいことを言っているポジションに立つことができ、2つ目のメリットは、リスクゼロでの娯楽・エンタメとしての消費ができ、当事者にとっての死活問題も、それを批評の対象にしている人間にとっては、知的なゲームやエンターティンメントに過ぎず、うまくいけば、ほら、私の言った通りだ、とドヤ顔ができ、失敗しても、私の指摘・技術論を無視したからだ、と当事者の無能のせいにでき、どちらに転んでも自分が傷つくことはないため、非常に安全でコスパの良い娯楽になり、3つ目のメリットは、責任ある立場からの逃避と安全確保で、物事を批評する側に回ることで、評価される側から評価する側へ一瞬でシフトでき、人間は誰しも自分がジャッジされることに恐怖を感じるが、しかし、自ら批評家になることで、周囲から矢面に立たされるリスクを回避し、常に安全な観客席からグラウンドを眺めることができ、4つ目のメリットは、コミュニティ内での承認欲求の充足に与れることで、SNSのタイムラインや、職場の飲み会、会議の周辺などが分かりやすい例で、当事者ではないのにそのテーマについて饒舌にかつ技術論っぽく専門的に語ることで、周囲から、あの人は詳しい、視点が高い、という安易な承認をもらうことができ、その種の消費する側と生産する側の決定的な断絶について、フランスの哲学者ジャン・ポール・サルトルは、行動を起こさずに口だけを出す知識人を批判し、また、テディ・ルーズベルト大統領の有名な演説『ほこりにまみれた男』でも、以下のように、批判する人間・評論家が重要なのではなく、強い男がどうつまずいたか、実践者がどこで実力を出し切れなかったを指図する人間が重要なのでもなく、称賛に値するのは、実際に競技場・アリーナに立ち、顔を泥と汗と血で汚しながらも戦っている男である、と語られ、技術論に終始し、当事者ではないのに語り続ける人は、まさにこの競技場の外からヤジを飛ばしたり、解説を入れたりすることで、自分のプライドを満たしている状態だと言えるそうだが、たぶん、その種の人たちの解説は気軽に聴けるから、多くの人々に重宝されるのかも知れず、聴く方も語る方も当事者ではないから、あまり深刻にならず無責任に聞き流せるわけで、何かのついでに聴くラジオ感覚だから、他人事でいられることがお互いのメリットだと言えるような気がするわけだが、そこには語る側と聴く側の間に、ウィン・ウィンの関係、共犯関係とも言える無責任の心地よさのネットワークが成立していて、ラジオ感覚で他人事でいられることがお互いのメリットであるという点について、構造をさらに深掘りすると、主に3つの幸福な、しかし本質からは遠いサイクルが見えてくるそうで、1つ目のサイクルは、聴く側にとってはコスパの高い知的エンタメで、アリーナの中にいる深刻な当事者の話は、生々しい苦悩、泥臭い人間関係、割り切れない矛盾に満ちていて、聴く側にもそれなりの心理的コスト・エネルギーを要求し、それを真剣に聴くと気疲れしてしまうが、しかし、当事者ではない人の技術的な解説は、現実のノイズが削ぎ落とされているため、きれいに整理されていて、分かりやすく、分かった気にさせてくれて、対岸の火事として眺められるから、自分は傷つかず、聴く側にとっては、移動中や作業中のちょうどいいノイズとして、脳に負担をかけずに知的欲求を満たしてくれる最高にコスパの良いコンテンツになり、2つ目のサイクルは、深刻さの排除という優しさで、ビジネスの修羅場や政治のドロドロした部分を、あえて技術論というフィルターを通すことで、脱臭・クリーンアップしているわけで、深刻にならずに、ガジェットのスペックを語るような気軽さで社会課題やビジネス戦略を消費でき、この深刻にならなくて済むこと自体が、現代人にとっての大きな癒しでありメリットになっていて、3つ目のサイクルは、ラジオ感覚の需要があるから、評論家の供給が輝き、語る側も、もし聴衆から、お前はそれを実際に解決できるのか?と詰め寄られたら語るのをやめざるを得ないが、しかし、聴き手が、へぇ〜、なるほどね、という聞き流しのスタイルでいてくれるからこそ、語り手も安心して専門家風のポジションで気持ちよく喋り続けることができ、ここでは、誰も本気で解決しようとしていないけれど、みんなでそのテーマを肴に楽しくおしゃべりしている、という空間が完成していて、それは課題解決ではなく文化であると言えるそうで、誰もが薄々気づいている通り、このサイクルの中では、仕事の改善、社会問題、プロジェクトの成功など、当初のテーマは何一つ解決に向かわないが、しかし、そもそも彼らの目的は解決ではなく、そのテーマを媒介にして、心地よい知的な時間を共有すること=ラジオ空間の成立にあり、そう考えると、彼らは彼らで非常に高度な他人事コミュニティを成立させており、それ自体が一種のエンタメ文化なのだと理解すると、合点がいき、このラジオ感覚の共犯関係という構造に気づかれると、そういう人たちを見たときの目線も少し変わるかも知れないそうだ。10月5日「アメリカの世界戦略」トランプ政権がベネズエラを急襲して政権を転覆したり、イランを攻撃して海上封鎖したりしたことにより、中国経済にどれほど打撃を与えたかというと、トランプ政権によるベネズエラへの軍事電撃作戦、マドゥロ大統領の拘束と政権転覆、およびイランへの攻撃とホルムズ海峡の封鎖は、中国経済にとってエネルギー安全保障の崩壊、巨額の投資、債権の焦げ付き、そして対米外交における戦略的敗北という、きわめて深刻な大打撃を与えているそうで、中国経済が受けた具体的な打撃の規模と影響は以下の3点に集約され、1点目は、安価な原油供給網、輸入全体の約15%の喪失と物価高騰で、中国は、米国の制裁をすり抜ける形でイランやベネズエラから格安の原油を大量に調達し、国内の工場や製造業のコスト競争力を維持してきて、中国はイランの海上輸出原油の約9割を買い取っており、これは中国の海上石油輸入量の約13%を占めていて、アメリカの海上封鎖によりこれが途絶え、中国の石油輸入の約4〜5%を占めていたベネズエラ産原油も、トランプ政権による政権転覆と米国主導の権益囲い込み、米国への原油引き渡し合意などによって、事実上遮断され、合計で石油輸入の15%以上を占める調達先が一挙に脅かされたことで、中国国内では燃料費や製造コストが跳ね上がり、ただでさえ低迷している中国経済に深刻なスタグフレーション、不況下の物価上昇のリスクをもたらしていて、2点目は、債権の罠の逆転による巨額の投資資金の焦げ付きで、中国は長年、中南米や中東への影響力拡大を狙い、両国に巨額の経済援助やインフラ投資を行なってきて、中国は2000年以降、ベネズエラに約1千億ドルの国家融資を行い、直近でも約120億ドルのローン残高や膨大な石油採掘権益を保持していて、トランプ政権が誕生させた親米的な暫定政権に対し、米国は、中国・イラン・ロシアとの関係断絶を原油生産再開の条件として突きつけ、これにより、中国がこれまでに投じてきた巨額のインフラ・石油関連投資は事実上の回収不能・焦げ付きとなり、他国を借金漬けにするはずが、自ら債権者の罠にハマる形となり、3点目は、外交・地政学的包囲網による戦略的敗北で、トランプ政権の電撃的な軍事行動は、中国の多極化世界を目指す地政学戦略の限界を露呈させ、中国にとって最も緊密だった反米同盟国2カ国が、米国の圧倒的な軍事力によってわずか2カ月足らずで無力化されたことは、中国が提供する外交的・軍事的保証が米国に対して抑止力にならないことを世界に証明してしまい、経済が深刻な状況にある習近平政権は、対米関係の決定的な破綻を避けるため、一連の米軍の暴挙に対して強い対抗措置を取れず、形式的な非難にとどめるなど、外交交渉において完全に主導権を握られる結果となっていて、このように、トランプ政権のイラン・ベネズエラへの直接行動は、エネルギーの生命線を握られ、投資資産を奪われ、外交的バックヤードを破壊されるという、近年の中国経済・国家戦略にとって最大の計算違いと言える致命的な打撃を与えているそうだが、アメリカでは表面的には共和党と民主党が対立しているが、民主党政権が立場上できなかったことをトランプ政権や以前のブッシュ政権などが強引な軍事攻撃によってやっているように見えてしまい、相互補完関係にあると考えたくなってしまうが、それを意図してやっているわけではないにしても、結果的に役割分担を考えてしまうが、もちろんそれ以前のベトナム戦争や朝鮮戦争や第二次世界大戦にまで遡れば、必ずしも共和党政権だけが軍事攻撃に加担していたわけでもないが、アメリカの外交・軍事政策における共和党と民主党の役割分担や相互補完という視点は、歴史の表舞台と舞台裏のダイナミズムを捉える上で非常に興味深く、説得力のある洞察で、意図的な陰謀やあらかじめ合意されたシナリオではないにせよ、結果として、民主党が国際協調や大義名分、人権・民主主義の枠組みを作り、共和党がそれを強硬な軍事力や実利主義で突破または破壊する、というサイクルが、アメリカの国益を最大化するシステムとして機能してきた側面は否めず、この結果としての役割分担がなぜ生じるのか、そして歴史的にどのように変化してきたのかについて、以下の3つの視点から整理でき、1つ目の視点は、国際協調の民主党と単独行動の共和党の補完関係で、第二次世界大戦後のアメリカ外交では、結果として両党がアメとムチの役割を演じる構造がしばしば見られ、民主党は伝統的に、国連や同盟国との協調、人権、国際法といったソフトパワーや規範を重視し、これにより、アメリカが世界をリードする際の本国や国際社会に対する道徳的な大義名分が形成されるが、しかし、立場やリベラルな支持層の手前、自ら過激な軍事行動、主権侵害や先制攻撃に踏み切るには高い政治的ハードルがある一方で、共和党、特にブッシュ政権のネオコンやトランプ政権のリアリズム・自国第一主義は、国際規範に縛られず、アメリカの圧倒的な軍事・経済力を単独で行使することを厭わず、民主党政権が国際世論や手続きの壁で行き詰まっていた局面を、強引な力技で打破し、結果としてアメリカの覇権や安全保障上の実利、資源確保や反米政権の排除を強引に推し進めることになり、客観的に見れば、民主党が善玉としてルールを敷き、共和党が悪玉として実利をむしり取るという、国家規模でのグッドコップ・バッドコップ、良い警官・悪い警官の役割演術が成り立っているように見えるが、2つ目の視点は、歴史的な逆転、むしろ戦争を始めたのは民主党だった、で、歴史をさらに遡ると、共和党=好戦的、民主党=平和主義という単純な構図は完全に崩れ、むしろ、20世紀の主要な大規模戦争の多くは民主党政権下で開始、または本格化していて、第一次世界大戦は、民主党の大統領、ウッドロウ・ウィルソンが、民主主義のための世界を安全にする、という大義名分で参戦し、第二次世界大戦も、民主党の大統領、フランクリン・ルーズベルトが、日本軍の真珠湾攻撃で参戦し、戦後の国際秩序、国連などの基礎を構築し、朝鮮戦争も、民主党の大統領、ハリー・S・トルーマンが、共産主義の封じ込め政策を掲げ、国連軍として介入し、ベトナム戦争も、民主党の大統領、ジョン・F・ケネディとリンドン・ジョンソンが、トンキン湾事件などを機に米軍の本格介入、地上軍派遣を決定し、これらの歴史が示すのは、民主党は、人権や民主主義、自由主義の防衛、という理想主義・イデオロギーに突き動かされた時、共和党以上に大規模で泥沼化しやすい戦争に突入する傾向があったということで、逆に、これらを終わらせた、または泥沼から撤退したのは、アイゼンハワーやニクソンといった共和党政権で、彼らはビジネスライクなリアリズム・現実主義に基づき、これ以上のコストは割に合わないとなれば、大義名分を捨ててでも撤退や和解、ニクソンの訪中などを選び、3つ目の視点は、なぜ相互補完しているように見えるのか?で、国家のインテリジェンス・情報機関や軍部、巨大資本・軍需産業や金融など、政権交代に左右されないディープステート、ディープ・インスティテュートと呼ばれる国家の基層組織・官僚機構の存在が背景にあり、政権の看板、共和党・民主党が代わっても、アメリカという国家が維持すべき、死活的利益・ドル覇権維持、エネルギー支配、覇権国交代の阻止のマスタープランは、水面下で一貫していて、そのため、民主党政権下で、これ以上は綺麗事の外交では解決できない、という限界まで問題が煮詰まると、共和党政権に交代したタイミングで、蓄積していた軍事オプションを一気に発動し、行き過ぎた軍事行動で国際的な批判が高まると、再び民主党政権に戻って関係修復とルールの再構築を図るという、アメリカという国家全体の自己修正と利益最大化のサイクルが自然と機能してしまうため、外からは精緻に仕組まれた役割分担のように見えるのだと考えられるそうだが、軍産複合体や官僚機構の成立は、独立戦争や南北戦争まで遡れるのか、湾岸戦争以降に顕著になったネオコンと呼ばれる概念は、現在のトランプ政権まで続いているのか、あるいは変質しているのか、今回のベネズエラ・イランへの強硬策が、ドル覇権維持に貢献することになるのか、その辺を解説できるかというと、これらはアメリカの国家構造、思想の変遷、そして世界戦略の核心に迫る問いで、それぞれ歴史的な事実を踏まえて解説すると、軍産複合体や官僚機構の成立は独立戦争や南北戦争まで遡れるかというと、現在の意味での軍産複合体や肥大化した官僚機構・行政国家の直接の起源は第二次世界大戦および冷戦期であり、独立戦争や南北戦争まで遡ることはできないが、ただし、その萌芽や原型は南北戦争に見られ、1775〜1783年の独立戦争の時代では、アメリカ建国期の理念は小さな政府と常備軍への嫌悪であって、常備軍は独裁や暴政につながると考えられていたため、戦争が終わると軍隊はすぐに解散され、武器製造も小規模な国営兵器廠・スプリングフィールドなどに限られていて、この時代には軍産複合体も官僚機構も存在せず、1861〜1865年の南北戦争の時代では、ここで初めて総力戦の概念が登場し、北軍が勝利できたのは、鉄道、電信、大量生産の銃器・弾薬を製造する圧倒的な工業力を背景に、民間企業と政府が一体となって戦争を遂行したからで、また、戦費調達のために一時的に限定的な官僚機構や税制が作られたが、しかし、これも戦争終結とともに大幅に縮小され、1940年代後半〜の冷戦期において、アメリカが戦争をしていない平時にもかかわらず、巨大な軍隊と巨大な防衛産業、そしてCIAや国防総省・ペンタゴンといった国家安全保障官僚機構を維持し続けるようになったのは、第二次世界大戦から冷戦期におけるソ連との対立がきっかけで、1961年にアイゼンハワー大統領が退任演説で軍産複合体の脅威を警告したことで、この言葉が定着し、政策決定が国民ではなく、軍・企業・官僚の利害関係によって左右されるシステムは、この冷戦期に完成し、ネオコン・新保守主義の概念は現在のトランプ政権まで続いているのか、変質したのかについては、ネオコンの概念は、現在のトランプ政権においては、続いているのではなく、決定的に変質、あるいは打倒されたと見るのが正解だそうで、トランプ氏の思想とネオコンは本質的に激しく対立していて、ブッシュ政権などの従来のネオコンは、アメリカの価値観・民主主義、自由、市場経済は普遍的であり、それを拒む独裁政権は軍事力を使ってでも、政権転覆してでも民主化すべきだ、という思想で、イラク戦争がその典型例で、彼らは国際主義的であり、世界の警察官としての役割を肯定したが、トランプ政権のアメリカ・ファーストによる変質と排除の論理では、トランプ氏は伝統的に、イラク戦争をはじめとする中東での終わりのない戦争をアメリカの国力と資金を浪費した最大の過ちと批判してきて、トランプ氏の思想基盤は孤立主義でイデオロギーの押し付けはせず、他国の民主化など関知しないという実利主義だが、ではなぜベネズエラやイランを攻撃したのかというと、一見すると政権転覆・レジーム・チェンジを狙うネオコン的行動に見えるが、動機が全く異なり、トランプ政権の動機は民主主義の輸出ではなく、アメリカの経済的利権の保護、石油利権、ドルの防衛及び中国やロシアといった大国の足場を崩すことにあって、つまり、軍事攻撃や経済封鎖などの手段は似ていても、思想としてのネオコンは死に絶え、現在は剥き出しのパワー・ポリティクス、力による実利追求へと変質・移行していて、ベネズエラ・イランへの強硬策は、ドル覇権・ペトロダラー維持に貢献するのかというと、短期的にはドル覇権を強制的に防衛する効果があるが、長期的には脱ドル化を加速させる諸刃の剣となり、世界の石油取引が米ドルで行われるシステム・ペトロダラーは、米ドルの基軸通貨としての地位を支える最大の柱で、イランやベネズエラは、経済制裁に対抗するために、石油をユーロ、人民元、あるいは暗号資産・仮想通貨で取引する、と表明していたが、トランプ政権がこれらの政権を軍事的に叩き潰し、海上封鎖したことは、ドル決済ネットワークから離脱し、非ドルで資源を取引しようとする反米国家は、物理的に破滅させるという強烈なメッセージを世界に送ることになり、これにより、サウジアラビアなどの産油国がドル決済から離脱することを強く抑止し、ペトロダラー体制は力ずくで維持されるが、しかし、この強硬策は、アメリカと敵対すれば、資産を凍結され、軍事攻撃され、経済的に窒息させられる、という恐怖を世界、特に中露やグローバルサウスに植え付け、結果として、中国が主導する人民元決済ネットワークやBRICSを中心とした米ドルに依存しない独自の国際決済システムの開発を猛烈に後押しすることになり、力によるドル覇権の強制は、長期的にはアメリカのルールが及ばない経済圏の誕生を急がせる結果を招いているそうで、アメリカの歴史は建国の理想である小さな政府・不介入から冷戦期のモンスター・軍産複合体へ、そして理想主義の暴走・ネオコンを経て、現在の帝国的な実利主義・トランプ流リアリズムへとダイナミックに変化していると言えるそうだ。10月4日「立場の違い」例えば、プーチン、習近平、金正恩と、トランプ、ネタニヤフ、エルドアンの立場にはどんな違いがあるかというと、その決定的な違いは、体制の性質で、独裁・全体主義か、選挙によるポピュリズムかと、既存の国際秩序に対するスタンス、完全な現状破壊か、現状の枠内での自国利益最大化かにあり、一見、全員が強権的でナショナリズムが強い指導者という共通点を持っているが、その権力の基盤と目的には明確な一線が引かれ、両グループの決定的な違いを、3つの軸で比較すると、1つ目の軸は、権力基盤と政治体制の違いで、最も大きな違いは、どのように権力を握り、維持しているかという点で、プーチン・習近平・金正恩は権威主義・全体主義ブロックで、特徴は、実質的な選挙による政権交代の可能性が排除された、あるいは存在しない体制で、基盤は、一党独裁、世襲、または軍・治安機関による絶対的な統制に基づいていて、法的・制度的なチェック&バランス、司法の独立や野党の存在が機能しておらず、それに対して、トランプ・ネタニヤフ・エルドアンは民主主義ベースのポピュリズムブロックで、特徴は、強権的・非自由主義的な傾向が強いものの、選挙という手続きを経て権力を獲得していて、基盤は、熱狂的な支持層・有権者の投票が基盤で、司法やメディア、議会からの強い反発や批判に常にさらされており、選挙で敗北すれば下野するリスクまたは実際に下野した経験を抱えていて、2つ目の軸は、国際秩序へのアプローチで、現在の世界システム、欧米主導のルールや国際法に対する姿勢が異なり、プーチン・習近平・金正恩は修正主義・現状打破勢力で、目的は、アメリカ主導の国際秩序そのものを根本から拒否し、書き換えよう、または破壊しようとしていて、手段は、力による国境の変更、核合意の破棄、独自の経済・安全保障ブロック、朝露同盟やBRICS、上海協力機構などの構築を進め、それに対して、トランプ・ネタニヤフ・エルドアンはディール型・自国第一主義勢力で、目的は、国際秩序そのものの崩壊ではなく、その枠組みの中で、自国の利益を最大化することを狙い、手段は、トランプのアメリカ・ファーストに代表されるように、同盟国であってもディール・取引の対象とし、二国間交渉で有利な条件を引き出す実利主義を取り、国際ルールを軽視することはあっても、秩序の完全な破壊が目的ではなく、3つ目の軸は、イデオロギーと正当性の根拠で、プーチン・習近平・金正恩は、国家の歴史的使命や体制の存続を最優先し、欧米的な価値観、人権や民主主義を国家を転覆させるための道具として明確に敵視しているが、トランプ・ネタニヤフ・エルドアンは、国内の分断や民意、マジョリティの不満をエネルギーにし、宗教的・保守的な支持層、エルドアンのイスラム主義、ネタニヤフのユダヤ・ナショナリズム、トランプのキリスト教福音派・白人労働者層などの声を代弁する形で正当性を得ていて、このように前者はシステムの外側から世界を変えようとする独裁者たちであり、後者は民主主義のシステムを利用して内側から権力を奪うポピュリストたちという違いがあるが、それに対して、メローニ、高市、ルペン、ドイツのAfDの党首などの位置付けをどう捉えたらうまく説明できるかというと、必ずしもトランプ、ネタニヤフ、エルドアンなどと同類とは言えないような気がするが、ジョルジャ・メローニ、高市早苗、マリーヌ・ルペン、そしてドイツのAfDの党首のアリス・ワイデルなどは、トランプ、ネタニヤフ、エルドアンなどと保守、右派というラベルでは一括りにされがちだが、決定的な違いがあるそうで、彼女たちおよびその政党の立ち位置をうまく説明するには、既成政治・エスタブリッシュメントとの距離と国際協調、特に欧米同盟・NATOへのスタンスという2つの軸、そして統治能力のアピール、現実路線へのシフトという概念を使うと、非常にすっきりと整理できるそうで、トランプらの破壊型のポピュリストと、彼女たち、制度内のニュー・ライト、新しい右派を分けるポイントを解説すると、1つ目のポイントは、破壊者か制度の適応者かで、トランプ、ネタニヤフ、エルドアンの3人は、内側から破壊または形骸化させようとするシステム破壊型の性質が強いが、一方で、メローニや高市、近年のルペンらは異なり、制度内での勝利を目指し、彼女たちは、憲法や議会制民主主義のルールをひっくり返そうとするのではなく、そのルールの中で多数派を握り、正当に政権を獲得しようとし、近代国家の統治能力・ガバナンスを重視し、過激な言動で扇動するだけでなく、自分たちには国家を安定して運営する能力がある、というプロフェッショナルな姿、官僚機構を使いこなす姿勢を有言無実行ではなく示そうとし、高市氏が政策通として官僚機構と協調する姿勢や、メロー二氏が首相就任後にきわめて現実的な実務路線をとっているのがその典型で、2つ目のポイントは、国際秩序、NATO・欧米同盟へのスタンスで、トランプはNATO離脱を仄めかし、エルドアンはNATO加盟国でありながらロシアと接近するなど、国際的な同盟関係を揺るがす予測不能さがあるが、しかし、このグループ、特にメロー二、高市、近年のルペンは、西側同盟の枠組みを維持・強化しようとし、メロー二は極右出身でありながら、首相就任後は強烈な親NATO・新米・ウクライナ支援を打ち出し、G7の一員として責任を果たしていて、高市氏も日米同盟の強化や対中抑止など、従来の西側安全保障の文脈に完全に位置していて、ルペンも脱・過激派へのイメチェンを図り、かつてはEU離脱、NATO離脱を掲げていたが、大統領の座が近づくにつれ、それらを封印し、現実的なEUの内側からの改革へと路線を変更・正常化し、3つ目のポイントは、愛国主義のグラデーション、AfDという例外で、ここで重要なのは、ドイツのAfD、アリス・ワイデルらは、メロー二やルペンよりもさらにトランプやプーチンに近い位置にいるという点で、ヨーロッパの右派は今、大きく2つに割れていて、体制内・親西側の右派、メロー二、ルペン、高市などは、反移民や自国ファーストを掲げるが、EUやNATO、日米同盟の枠組みは壊さない範囲内で、過激思想を排除し、政権担当能力をアピールするのに対し、体制破壊・親ロシア右派、AfD、ハンガリーのオルバンなどは、ウクライナ支援に反対し、ロシアへの接近を容認し、EUの枠組みそのものを強く攻撃する、トランプのオルタナ右翼的な破壊衝動に最も近く、彼女たちを説明する際は、トランプのような嵐を巻き起こすアウトサイダーではなく、保守的な不満を吸い上げて、既存のシステムを正常に運転しようとするインサイダー、実務派右派であると定義すると、非常に合致しやすくなるそうで、反移民やナショナリズムといったスローガンの過激さだけに注目するとトランプと同類に見えるが、国家をどう統治するか、国際同盟をどう扱うか、というガバナンスの視点で見ると、彼女たちはトランプらとは明確に一線を画した新しい保守・右派の潮流と言えるそうで、メローニの評価が上がったのは、トランプと仲違いしたのも影響しているかも知れないが、ルペンが来年大統領に選ばれると、それなりに現実路線で無難な政治を行うことになりそうかというと、イタリア首相のジョルジャ・メローニが国際社会、特に欧米のエスタブリッシュメントからの評価を高めた背景には、トランプ大統領との絶妙な距離感や、ロシアのウクライナ侵攻に対して一貫して、親NATO・新米・ウクライナ支援を貫いた実務・現実路線が大きく影響しているが、では、2027年春のフランス大統領選挙で政権獲得を狙い、現在も世論調査で首位を維持しているマリーヌ・ルペンがもし当選した場合、メロー二のように現実路線で無難な政治を行うか、それともやはり過激な右派政治に戻るかというと、専門家の間では、メロー二のようにある程度は現実路線・メロー二化を歩まざるを得ないが、メロー二ほど無難にはいかないリスクがあると予測されているそうで、その理由は以下の3つの要因になるそうだが、1つ目の理由は、現実路線に走らざるを得ない理由、メロー二化のインセンティブで、ルペンが政権を取った場合、すぐにEU離脱などの過激な政策に突き進む可能性は低いとみられ、脱悪魔化・イメージ刷新の継続が図られ、ルペンは長年、党の過激・差別的というイメージを払拭する戦略を続けてきて、大統領として国を統治するには、中道派や一般の有権者に、自分たちは有能で安定したガバナンスができる、と証明する必要があり、過激な暴走は自滅を意味し、市場と国際機関からの圧力もあり、フランスは巨額の財政赤字を抱えており、利回りの上昇、国債の信用低下に直面していて、もしルペンが市場を驚かせるような無茶な財政支出や反EU政策を強行すれば、フランス国債は暴落し、金融危機を招き、欧州中央銀行・ECBや市場の見えざる手が、彼女を強制的に穏健化させるブレーキになり、2つ目の理由は、メロー二ほど親欧米・親NATOになりきれない構造的違いで、ルペンが完全にメロー二と同じになるかと言われれば、そこには大きな壁があり、メロー二は当初から親NATO・反ロシアの姿勢が明確だったが、一方、対ロシア・安全保障スタンスの歴史的経緯から、ルペンの国民連合・RNは過去にロシアの銀行から融資を受けていた経緯があり、現在でこそ対露批判をしてはいるものの、本質的には反NATO、ウクライナ支援への消極姿勢という歴史的重荷を引きずっていて、EUとの力関係で、イタリアがEUに従順だったのは、コロナ復興基金などでEUから巨額の援助、約2百億ユーロを受ける立場だったからで、メロー二に比べてルペンの方が、EU・ブリュッセルに対して強気に出る、あるいは対立する動機が働きやすい環境にあり、3つ目の理由は、ルペンを取り巻く国内の不確定要素で、直近の世論調査では、決選投票の組み合わせが中道派ではなく、急進左派のメランション・不服従のフランスになる可能性も浮上しており、もし極右と極左の対決となれば、ルペンが大統領になる現実味はさらに増すが、しかし同時に、ルペン自身は欧州議会の資金不正流用事件をめぐる裁判で有罪判決・被選挙権停止処分などを受けて上訴中であり、法的なアキレス腱も抱えたままの綱渡りな選挙戦で、もしルペンが大統領になれば、経済や内政においては、市場の反発を恐れて驚くほど現実的・無難なスタートを切る可能性が高いものの、しかし外交や安全保障、ウクライナ支援の継続、NATOやEUの統合維持などの面では、メロー二のように西側エスタブリッシュメントと完全に一致団結することは難しく、常に摩擦の火種を抱える政治体制になるというのが、最も現実的なシナリオと言えるそうだ。10月3日「万能ではないリベラル政治」リベラル政治と政府の官僚機構との親和性は高いかというと、リベラル政治と政府の官僚機構・ビューロクラシーの親和性については、政治学や行政学において多様な議論が存在し、一概に高いまたは低いと断定することはできないそうだが、双方の理念や歴史的経緯から、親和性が高いとする側面と、逆に対立・緊張関係にあるとする側面の両方が指摘されているそうで、親和性が高いとされる、協調・補完関係がある側面では、大きな政府と福祉国家の推進に関して、リベラル政治は一般に、市場の失敗の是正、社会的な格差是正、福祉の充実などを目指し、政府による積極的な介入、大きな政府を肯定する傾向があり、これらの政策を公平かつ効果的に実行・管理するためには、専門知識を持つ大規模な行政組織・官僚機構が不可欠であるため、親和性が高いとみなされ、合理的・客観的な統治に関して、近代的な官僚機構は、マックス・ウェーバーが定義したように、規則に基づく非個人的で合理的な運営を特徴とし、これは、リベラル思想が重視する法の支配や機会の平等、公平性といった価値観と親和性があるが、逆に親和性が低いとされる、対立・緊張関係をもたらす側面では、個人の自由や権利との衝突が意識され、リベラル政治の本質的な核には、個人の自由や権利の尊重、国家権力による恣意的な介入への警戒・自由主義があり、官僚機構が肥大化し、過度な規制や監視、硬直的な前例踏襲主義、官僚制の弊害に陥った場合、個人の自由やイノベーションを阻害するものとして、リベラル派からの批判の対象となり、民主的統制の難しさ、民主主義との緊張関係に関して、リベラル民主主義においては、有権者から選ばれた代表である政治家が政策を決定する国民主権が重視されるが、しかし、専門知識や情報を独占する非選挙官僚が実質的な決定権を握る官僚主導の体制は、民主的な説明責任・アカウンタビリティを弱めるため、リベラルな観点から問題視されることがあり、歴史的・地域的な背景による違いもあり、米国におけるディープステート論や政権交代の事例では、ニューディール政策以降に拡大した行政国家体制がリベラル派の政策的基盤となった歴史がある一方で、保守派からは、肥大化した官僚機構・行政国家が国民の自由を奪っている、という批判が根強くあるが、しかし、リベラル派自身も、情報機関や治安機関などの官僚機構が個人のプライバシーや人権を侵害することに対しては、強く批判・監視する立場を取り、その一方で、ヨーロッパの福祉国家や日本においては、戦後の社会安定化や経済成長において官僚機構が大きな役割を果たしてきた経緯があり、これに対して、リベラルあるいは左派政治勢力は、官僚の権限を維持しつつも、情報公開の徹底や市民参加の拡大を通じて、その独走を抑えようとする傾向があり、リベラル政治は政策の実現手段として官僚機構の能力や制度を必要とし、親和性がある一方で、その肥大化した権力集中に対しては個人の自由や民主主義の観点から警戒・批判的である、緊張関係にあるという、二面性を持っているそうで、一般的に産業活動から利益を得ようとする際に、できるだけ人件費を削る方向へ持っていくと、人件費を削る=人権を蔑ろにする、とは一概には言えないにしても、それは人の活用を訴えるリベラル勢力の考え方とは異なる方向になるので、リベラル勢力はコスト高を考えていないという印象が、産業の国際競争力の低下や、政府の官僚機構の肥大化という否定的なレッテルを貼られやすいかというと、リベラル勢力の経済政策や労働政策に対して、コストや国際競争力を軽視しており、結果として官僚機構の肥大化や産業の衰退を招く、という批判や否定的レッテルが貼られやすいのは事実であり、これは政治経済学における典型的な対立軸の一つで、この構図が生じる背景には、企業経営の論理と、リベラル派が重視する社会防衛の論理との間に根本的な視点の違いがあるそうで、なぜコスト軽視というレッテルを貼られやすいかというと、企業や保守派・新自由主義的な視点からは、産業活動の目的は利益の最大化であり、国際競争に勝つためには労働コスト・人件費を含めたあらゆるコストの最適化・削減が不可欠であると考えられるが、これに対し、リベラル勢力は労働者を単なる生産コスト・要素としてではなく、社会の構成員であり、消費の主役として捉え、そのため、最低賃金の引き上げ、労働時間の短縮や過労防止、雇用規制の強化や非正規雇用の処遇改善、安全基準や環境基準の厳格化などの政策を主張し、これらは企業側から見れば直接的なコスト増となるため、リベラルは理想主義的で、ビジネスの実態や国際競争の厳しさを理解していない、コスト高を考えていない、という印象やレッテル貼りに繋がりやすくなり、また官僚機構の肥大化と結びつけられる理由として、リベラル派が主張する労働者の権利保護や安全規制、格差是正などを実現するためには、それらが適切に守られているかを監視・是正する政府の役割、労働基準監督署の強化、規制官庁の設置などが必要になり、それに対する批判の論理は、規制が増えれば増えるほど、それを管理するための公務員や外郭団体が増え、政府の官僚機構の肥大化と非効率な肥大化・利権化を招き、これがさらに増税や財政赤字に繋がり、国家全体の活力を奪うという批判、小さな政府論で、これに対するリベラル側の反論は、規制や監視がなければ、企業は目先の利益のために過酷な労働、ブラック企業化や環境破壊に走るため、それを抑止する、適切な大きさの政府は必要不可欠であると主張し、そして国際競争力の低下という懸念については、グローバル化が進んだ現代において、資本や企業は、より規制が緩く、人件費が安い国へ移動することができ、そのため、一国だけでリベラルな労働保護政策を強めると、国内企業のコストが上がり、安価な海外製品に負ける、企業が海外へ流出して空洞化する、という国際競争力低下の懸念が現実味を帯び、これがリベラル派への強い逆風となるが、対するリベラル派の経済合理性、反論として、現代のリベラル勢力あるいは構造改革を重視する左派も、単にコスト高を無視しているわけではなく、別の論理で競争力を説明しようとしていて、人への投資による生産性向上を目指し、低賃金労働に頼るビジネスモデルはイノベーションを阻害し、逆に人件費を高めに設定することで、企業は省人化やデジタル化、高付加価値な商品開発へシフトせざるを得なくなり、結果として長期的な生産性・国際競争力が向上するという考え方で、内需主導の経済成長を促す上で、労働者の賃金が上がれば、それが消費・購買力となり、国内市場が活性化して企業利益に還元され、賃金と物価の好循環というマクロ経済的な視点が成り立ち、人件費を削るべきコストと見る経営・保守側の論理と、守るべき生活基盤であり投資対象と見るリベラル側の論理は真っ向から対立し、そのため、短期的・直接的なコスト増の側面ばかりが強調されると、リベラル勢力は国際競争力を損なう、規制と官僚を増やすだけだ、という否定的なレッテルを貼られやすくなるが、それに対してよく持ち出されるのが、北欧諸国が高負担・高福祉でありながら高い国際競争力を維持できている理由とメカニズムで、北欧諸国にも国ごとに違いがありそうだが、比較的高コストでも成り立つ産業に特化していて、産業のすべての分野を自前で調達しているわけでもないから、その辺はコスト競争にさらされていたり、農産物や資源しか輸出できない途上国などは、真似しようとしても真似できない面がありそうで、社会の成熟度の面でも、賄賂や汚職が蔓延る国では、北欧諸国のようにはなれない事情がありそうだが、北欧モデル、高福祉・高負担と経済成長の両立が成功している背景には、小国ゆえの選択と集中、資源の有無、極めて低い汚職率など、独自の特殊な条件が揃っていて、そのため、すべての国、特に発展途上国がそのまま真似しようとしても、構造的に真似できない、という限界や参入障壁があり、その実態を整理してみると、比較的高コストでも成り立つ高付加価値産業への特化については、北欧諸国のスウェーデン、デンマーク、フィンランド、ノルウェーは、人口が数百万人から1千万人程度と市場が小さいため、すべての産業を網羅するフルセット型の経済を最初から諦めていて、その代わり、高コストでも世界で勝てる高付加価値・知識集約型の特定分野に徹底的に特化していて、デンマークでは、ノボノルディスクなど医薬品、洋上風力発電のベスタスなどの再生可能エネルギー、マースクなどの海運、スウェーデンでは、ボルボ、スカニアなどの高度な製造業、エリクソンなどの通信インフラ、スポティファイなどのIT・デジタル、フィンランドでは、デジタル技術、林業・ペーパーテクノロジー、先端素材など、これらの国は、低賃金を武器にする単純労働の製造業は早くから海外に移転させ、国内には、高度な教育を受けた人材が必要なイノベーション部門や、代替が難しい独自のニッチな強みを持つ産業だけを残し、これが、高い人件費や税金を払っても産業が成り立つ理由で、また資源や富というチートシートの有無については、北欧と一括りにされるが、国ごとの天然資源の有無による違いも大きく、中でもノルウェーは北海油田・ガス田という巨大な富を持っていて、この資源収入を世界最大の政府年金基金で運用し、将来の福祉や経済の安定に充てていて、これは高付加価値の知恵というよりは、恵まれた資源によるものであり、他の国が最も真似できない部分で、モノカルチャー・単一商品輸出の途上国との違いとして、農産物や単純な鉱物資源しか輸出できない途上国は、価格の決定権を先進国やグローバル市場に握られているため、コスト競争・買い叩きの波にまともに晒され、北欧のように、自ら付加価値をつけて高く売る構造に転換するための資本も教育インフラもないため、北欧モデルへの移行は極めて困難で、そして最大の壁として、社会の成熟度と汚職・賄賂の壁があり、北欧モデルが成り立つ最大の前提は、国民が政府や官僚機構を百%信頼していることで、北欧諸国は、国際NGO、トランスペアレンシー・インターナショナルによる世界腐敗認識指数で、常に最も汚職が少ない国、世界トップを独占していて、所得の半分近くを税金として納める高負担であっても国民が暴動を起こさないのは、払った税金が、教育・医療・福祉として確実に自分や社会に還元され、官僚や政治家に盗まれない、という強固な信頼関係があるからで、もし汚職や賄賂が常態化している国で、北欧を真似して大増税し、大きな政府を作ろうとすれば、集まった税金は官僚の懐や利権構造に消え、国民には還元されず、結果として、経済は破綻し、国民の困窮と不信感だけが募ることになり、社会の成熟度・ガバナンスの質が低い段階での真似は、むしろ国家を衰退させるリスクになり、このように、北欧諸国のモデルは、高度な教育が導く高付加価値産業の確立、歴史的に培われた透明性の高い政治・行政機構、小国だからこそ可能な迅速な方向転換、社会的な合意形成の容易さ、という条件が奇跡的に噛み合った結果であり、汎用性のある万能の正解とは言えず、リベラル勢力が北欧をお手本にしようと主張する際、こうした前提条件、産業構造の転換の難しさや、汚職耐性という地盤の重要性を見落としている、という批判は、経済学や比較政治学の観点からも的を射ているそうだが、欧米以外でも、社会主義や共産主義ではないリベラル、中道左派〜自由主義勢力が政権を獲得した例は数多くあり、発展途上国や新興国における左派政権が社会主義・共産主義に傾倒しがちだったのは、冷戦期のソ連の影響や、反米・反植民地主義に結びついたためで、冷戦終結後は民主主義的なルール・選挙に則り、私有財産や市場経済を認めつつ社会保障の充実を目指す、欧米型のリベラル・社会民主主義政権、中道左派が世界各地で誕生しているそうで、台湾の民主進歩党・民進党政権は、社会的自由主義・リベラルを掲げ、同性婚の法制化など多様性や人権を重視する政策を展開していて、経済的には市場経済をベースにしており、共産主義とは明確に一線を画していて、韓国の民主党系政権は、保守派と対峙する進歩・リベラル系の政権で、対北朝鮮の融和政策や社会保障の拡充、労働者の権利拡大を掲げているが、社会主義ではなく資本主義体制の中での改革を目指す勢力で、ブラジルのルラ政権・労働者党は、かつては急進的だったが、政権獲得後は市場経済を維持し、積極的な福祉政策で数千万人の貧困層を中産階級に押し上げ、国内外の資本からも信頼を得た、実務的な中道左派、ソーシャル・リベラルの代表例で、チリのバチェレ政権、ボリッチ政権は、独裁政権崩壊後のチリでは、中道左派・リベラル連合として長く政権を担い、緊縮財政や新自由主義を是正しつつも、高度なデモクラシーと財政規律を両立させた北欧型に近い社会民主主義・リベラル路線をとっているそうで、南アフリカ共和国のアフリカ民族会議・ANC系の政権は、かつては反アパルトヘイト活動家のネルソン・マンデラが率いていたが、アパルトヘイト・人種隔離政策撤廃後、多民族共生、レイボー・ネーションと社会的リベラリズムを掲げて政権を維持していて、憲法で同性愛の差別禁止を世界で初めて明記するなど、人権に関しては極めてリベラルな社会民主主義路線であるそうで、ソ連崩壊・冷戦終結以降は、中国による経済援助絡みの影響力拡大もあるが、一般的な傾向というか、民衆の意向としては、資本主義の枠組みの中で格差を是正する、という欧米型のリベラル・中道左派政権が選挙を通じて支持を得やすいようだが、もちろん経済が行き詰まれば、右派ポピュリズムや軍事独裁などの台頭を許すことにもなるわけだ。10月2日「政治の部族化とファシズム」順応主義、宗教、部族主義の3つの概念は、いずれも人間が社会や集団を形成する上で、強力な原動力となってきた要素で、これらは集団の結束を高める一方で、他者への排他性を生むという共通の二面性を持っていて、順応主義は周囲の行動や社会の規範に自分の意見や行動を合わせようとする傾向で、利点は、多くの人が同じルールやマナーに従うことで、予測可能性が高まり、社会の摩擦が減り、社会の安定と秩序をもたらし、また災害時や緊急事態において、一糸乱れぬ行動や迅速な協力が可能性になり、効率的な集団行動がもたらされ、みんなと同じであることで、孤立する恐怖や、意思決定に従う不安が和らぎ、個人の心理的負担が軽減されるが、その一方で、問題点は、自分で善悪を判断せず、周囲に盲従することで、個人の創造性や批判的思考が失われ、思考停止と個性の喪失を招き、少数派の意見が抑圧され、いじめや排除の論理が動きやすくなり、過剰な同調圧力が生じ、明らかに誤った方向であっても、みんなが賛成しているから、という理由で暴走を止められなくなり、時に過激なナショナリズムへの傾向が強まったりするが、それに対して宗教は、特定の神聖な存在や教えを信じ、それに基づいた世界観や儀礼を共有するシステムで、利点は、何が善で何が悪かの基準を提示し、社会全体の犯罪を抑制し、相互扶助を促し、普遍的な道徳の提供に貢献し、苦難、病気、死の恐怖に直面した際、人々に意味や希望を与え、心の平穏をもたらし、精神的な救済と回復力を人々に与え、人種や国境を超えて、同じ信仰を持つ人々が深く結びつき、大規模な支援ネットワークを形成でき、強固なグローバルコミュニティが生まれるが、問題点は、自分たちの信仰こそが絶対の真理だと信じることで、他の信仰や無宗教者を見下したり、排除したりしやすくなり、絶対主義と排他性を増長し、古い経典の文言への固執から教条主義に陥り、新しい科学的事実の受け入れや、ジェンダー平等の実現などを阻み、社会的進化や科学との対立をもたらし、政治的・領土的な対立が宗教的な大義名分、聖戦などと結びつくことで、紛争が長期化し過激化しやすくなり、紛争の正当化に宗教が利用され、そして部族主義は、自分が所属する血縁・地縁・現代では政党やファンコミュニティなども含む特定の集団への強い忠誠心と、それ以外への敵対心を特徴とする傾向で、利点は、仲間を絶対に裏切らないという強い絆が生まれ、危機的な状況下でもお互いを命がけで守り合い、それが究極の帰属意識と生存戦略となり、内部における信頼関係が非常に厚いため、集団内での取引や協力が極めてスムーズに行われ、高い社会資本・信頼のネットワークとして機能するが、問題点は、自分の部族を過剰に優遇し、外部の人間を不当に扱う派閥主義によって、公平な社会の実現を阻み、社会に身内びいきと分断を生じさせ、彼らが増長すれば、私たちが損をするという思考に陥りやすく、妥協や対話が不可能な社会の分断を引き起こして、ゼロサム思考や敵味方の二元論が集団内で蔓延し、身内の人間が犯した過ちを隠蔽したり正当化したりする一方で、敵対するグループの落ち度は執拗に攻撃する傾向が顕著になり、客観性の喪失を招き、これら3つは、人間が数千人、数万人規模の社会を構築して生き残るためには必要不可欠だった社会の接着剤だが、しかし、それらが過剰になり自動化されると、現代の多様な人々が共生する社会においては、分断と抑圧のツールへと変貌してしまい、現代社会においては、これらの利点を活かしつつ、いかに客観性と個人の自由を保つかが課題となっているそうだが、中でも部族主義と政党制の関係は、現代の政治学において、政治の部族化として非常に重視されているテーマだそうで、本来、政党制は政策や理念に基づいて有権者が選択を行うシステムとしてデザインされているが、しかし、部族主義に結びつくと、政党が単なる政策の提示者ではなく、アイデンティティをかけた敵・味方の集団へと変貌し、この両者の関係性とそれによって生じる影響を、以下の3つの側面から解説すると、1つ目の側面は、政策論争からアイデンティティの対立への変質で、部族主義が政党制に侵入すると、投票行動の本質が変化し、何を成し遂げるかから誰が勝つかへと変質し、有権者は政党の経済政策や外交リスクを客観的に評価しなくなり、自分の属する部族・政党が勝ち、敵の部族・対立政党を打ち負かすことそのものが目的化し、信条のパッケージ化が起こり、本来、個人の意見は、経済は保守だが、社会政策はリベラルのように、多様なはずだが、しかし、部族化された政党制では、この党を支持するなら、このテーマもあのテーマもすべて相手側を否定しなければならない、という同調圧力が働き、2つ目の側面は、感情的極性化の加速で、現代の政党制、特に二大政党制において部族主義は、感情的極性化を明確に引き起こし、相手政党を単なる意見の異なる競争相手ではなく、社会を破滅に導く敵・悪とみなすようになり、セロサムゲーム思考に囚われ、政治における妥協は民主主義の根幹だが、部族主義的な支持者の前で相手党と妥協することは裏切りを意味するため、議会の機能不全を招きやすくなり、3つ目の傾向は、メディアとSNSによる増幅構造で、政党の部族化は、現代のテクノロジーやメディア環境と強力なシナジー・相乗効果を生んでいて、SNSのアルゴリズムは、ユーザーが心地よいと感じる情報だけをタイムラインに流し、これにより、自分たちは常に正しく、敵は常に愚かだ、という部族意識が強化され、エコーチェンバー現象に意識が囚われ、相手政党を皮肉ったり、スキャンダルを叩いたりするコンテンツが、部族内の絆を深める儀式として消費され、敵への攻撃の娯楽化が促進され、例えば、アメリカ合衆国は、民主党と共和党の二大政党制が完全に部族化している典型例で、支持政党が、住む場所、見るメディア、乗る車、信仰する宗教と強固に結びつき、相手党の支持者との結婚を嫌う割合が激増していて、またケニアなどのアフリカ諸国では、植民地時代に引かれた国境線の中に複数の実際の民族・部族が共存していて、政党が特定の民族・部族の利益代表となりやすいため、選挙のたびに民族・部族間の利権争いとなり、時に大規模な暴動に発展したりして、さらに欧州では、労働者対資本家などの伝統的な階級政党が衰退する一方で、移民問題などを軸とした、自国民のアイデンティティを強調する右派ポピュリズム対多様性や国際協調を強調するリベラルという新たな部族主義的対立が多党制の中で先鋭化していて、本来の民主主義は、間違っていたら軌道修正できるという柔軟性がメリットであったが、しかし、政党制が部族主義化すると、有権者は、自分の部族が間違うはずがない、敵の言うことはすべて嘘だ、と信じ込むため、政治の自浄作用や客観的な検証機能が完全に失われ、思想信条の面から事態を見るなら、以上のような考え方がもっともらしく感じられるところだが、その一方で、政治と産業の結びつきを考慮に入れるなら、それとは少し違った面も見えてきて、IT・AI革命以前では、鉄鋼業や石油産業、あるいは化学や機械といった重化学工業の発展とファシズムの台頭・深化の間には、極めて強力な相互依存の並行関係があり、歴史家ダニエル・ゲランの古典的名著『ファシズムと大資本』をはじめとする政治経済学的分析では、ファシズムとは、重工業セクターの利益を最優先するために、国家権力を動員したシステムである、とさえ指摘されていて、この両者がどのように並行し、結びついていったのか、そのメカニズムを4つの構造から解説すると、1つ目の構造は、重工業界からの要請による労働運動の弾圧で、1920〜1930年代、重工業は莫大な設備投資と多くの労働者を必要とする産業であったが、しかし、世界恐慌や戦後の不況により、労働運動や社会主義革命の機運が高まり、ストライキが頻発し、工場が占拠され、利益が圧迫されることを恐れた鉄鋼・機械などの大工業家たちは、強力な力で左派や労働組合を叩き潰してくれる政治勢力を求め、実際にムッソリーニやヒトラーが政権を握ると、独立した労働組合を即座に解散・禁止し、これにより重工業界は、ストライキに怯えることなく、国家の統制下で労働力を最大限に搾取・動員できる環境を手に入れ、2つ目の構造は、軍備拡張という巨大な市場の創出で、鉄鋼業や石油産業がさらに発展するためには、生産した製品を大量に消費してくれる巨大な買い手が必要であって、ファシズム政権は、国民の消費生活、軽工業や農業を犠牲にしてでも、軍備拡張・再軍備や巨大な公共インフラ開発へと国家財政を集中させ、ドイツのクルップ(鉄鋼・兵器)やイタリアのアンサルド(造船・重機械)、日本の三菱重工などは、軍艦、戦車、航空機などの大量発注を受け、ファシズムと軍事化と並行して空前の規模へと急成長を遂げ、3つ目の構造は、自給自足・自閉的経済への傾斜と資源確保の欲望で、ファシズム国家の多くは、外国への経済依存を嫌い、国内で経済を完結させる自給自足・国家自給圏を掲げ、資源の乏しいドイツやイタリアにとって、近代戦に不可欠な石油の確保は死活問題で、ドイツの化学トラストであるIG・ファルベンは、石炭から人工的に人造石油や合成ゴムを製造する技術を開発し、ナチスから巨額の補助金を得て発展し、イタリアも国営石油会社を設立して石油開発を急ぎ、国内での自給に限界が来ると、鉄鉱石や石油、石炭が眠る領土を武力で奪うというファシズムの侵略政策、ナチスの生存圏、日本の大東亜共栄圏などへとシフトし、重工業界は、この侵略によって得られる新たな資源や市場を求め、政権の戦争遂行を全面的に支え、4つ目の構造は、国家・企業パートナーシップ、コーポラティズムで、ファシズムは共産主義のように、企業の私有財産を没収して完全国営化はしない代わりに、私有財産を認めつつも、国家の計画に従わせる国家と大企業の独占的パートナーシップ、コーポラティズムを形成し、国家は中小企業を整理統合し、重工業を中心とする少数の巨大独占企業、ドイツのコンツェルン、日本の財閥に権益を集中させ、これにより、企業は国家の強力な保護のもとで効率的に発展し、国家はそれらの企業を通じて経済全体を完全にコントロールし、かつてマルクス主義的な歴史観では、大工業・資本家が裏でファシズムを操り、台頭させたと言われていたが、近年の歴史研究では、台頭期には重工業界も必ずしもヒトラーらを全面的に資金援助していたわけではなく、政権を握った後に、お互いの利害が一致して急速に癒着し並行発展していったという、より相互的・日和見的な関係であったことが明らかになっていて、この国家の軍事化・自給自足化と重工業の巨大化のサイクルは、最終的にコントロールを失い、破滅的な世界大戦へと突き進むことになるが、それに対して、現代のIT・AI産業の発展と、ネット右派あるいはオルタナ右翼、ネット右翼などに象徴されるマイルドファシズムあるいは新右翼・ポピュリズムの平行関係は、21世紀の政治・経済学において最もホットかつ危機感を持って議論されるテーマだそうで、戦前の重工業が物理的な暴力と領土拡大のためのファシズムと結びついたのに対し、現代のIT・AI産業はデータ、アルゴリズム、認知の支配を通じて、新たな形での排他主義や権威主義、マイルドファシズムと強力な並行・相互依存関係を築いていて、この両者がどのように結びついているのか、4つの構造的側面から解説すると、1つ目の構造的側面は、関心経済、アテンション・エコノミーと部族主義のマネタイズで、メタ、X、グーグルなど、ビックテックのビジネスモデルの本質は、ユーザーの潜在時間、関心を最大化して広告収入を得ることで、人間が最も長くエンゲージ・反応するのは、ポジティブな情報ではなく、怒り、恐怖、敵への嫌悪感といった感情で、AIアルゴリズムは、ユーザーをプラットフォームに繋ぎ止めるために、ネット右派的な敵とみなすリベラル、マイノリティ、既得権益、外国などを攻撃するコンテンツを優先的にインマニ、拡散させ、IT企業のアルゴリズムは政治思想を持っているわけではないが、しかし、分析やエコーチェンバーを煽るほど儲かる、という経済的インセンティブが、結果としてマイルドファシズム的なネット右派勢力を巨大化させる土壌をシステム的に提供・平行発展させていて、2つ目の構造的側面は、シリコンバレーの思想的変質、テクノ・リバタリアニズムから暗黒啓蒙へで、かつてIT産業は、民主主義と自由を広げるリベラルなものとされていたが、近年のトップ経営者や投資家の思想は急速に変化していて、イーロン・マスクやピーター・ティールといったIT界の巨頭たちは、効率の悪い民主主義的な合意形成や政府の規制、多様性・公平性・包括性、環境規制などを激しく嫌悪していて、彼らの一部は、テクノロジーの進化を最大化するためには、強力は一人のリーダー、CEOのような独裁者が国家を統制すべきだ、という思想、暗黒啓蒙などに傾倒していて、この反リベラル・反民主主義のトップ思想が、草の根のネット右派が掲げる、強いリーダーシップへの渇望、リベラルエリートへの敵意と完全に共鳴していて、3つ目の構造的側面は、AI生成コンテンツによる認知のジャックとポピュリズムで、LLMや画像・動画生成AIなどの生成AIの爆発的普及は、マイルドファシズム的な世論誘導のコストを劇的に下げ、大量のアカウント・ボットと生成AIを組み合わせることで、特定の移民排斥や陰謀論、敵対勢力を貶めるディープフェイクを自動で24時間拡散できるようになり、何が本当で何が嘘かわからない状態、情報環境の汚染が作られると、人々は疲弊し、客観的な事実ではなく、自分が信じたい物語=ネット右派が提示する強い身内意識にすがりつくようになり、これはまさに、戦前のファシズムがプロパガンダで行なったことを、AIが自動かつマイルド・日常的に行なっている状態で、4つ目の構造的側面は、監視資本主義とデジタル統制のインフラで、IT企業が開発した高度なユーザー追跡・プロファイリング技術は、国家や政治勢力が国民を監視・誘導するための最高のツールになり、ユーザーの検索履歴やAIとの対話データから、どのような恐怖や不安を抱えているかを分析し、その人が最も右傾化しやすいピンポイントの政治広告やフェイクニュースを届けることができ、安全保障やテロ対策、サイバー戦の名のもとに、パランティア社などのデータ分析IT・AI企業は国家の防衛・警察機構と巨額の契約を結んでいて、これは戦前の重工業、クルップ等が軍需産業として国家と癒着した構図の、現代版・データ版と言えるそうで、現在のIT・AI産業とマイルドファシズムの関係は、企業が意図的に右派を育てたというより、IT産業の収益モデルと技術的特性・アルゴリズムが、人間の部族主義や排他性を刺激するのに最適だったため、ネット右派という政治勢力と奇妙な並行進化を遂げてしまったというが正確な構図で、物理的な暴力は見えにくいため、マイルドと呼ばれるが、人々の脳や認知・情報空間をハッキングし、民主主義を根底から機能不全にするという意味では、戦前の重工業とファシズムの並行関係以上の深刻な影響を及ぼしているとも言えるそうだ。10月1日「ネット右派問題」今、日本も含めて世界的にネット右派問題というのが結構流行っているらしく、それと対になってリベラル批判というのも、だいぶ紋切り型的な提示のされ方がされているらしいのだが、それに関して、リベラルはきれいごとしか言わない、というありふれた評価や、ネット右派による批判の背景に、政治的な思想の対立だけでなく、実質的な経済問題、格差や生活の不満が深く絡んでいるという指摘が、政治学や社会学の議論では多くなされているそうだが、この現象は、国内外の社会・経済構造の変化から、以下のように分析されることが多いそうで、ネット右派の支持層と経済的な背景に関して、多くの社会学的調査、例えば、社会学者の辻大介氏らの研究などによると、日本のネット右派、あるいはネット右翼的傾向を持つ層は、必ずしも社会の最貧困層ではなく、中流の下、ロワーミドルや自営業、中小企業の労働者、あるいは非正規雇用を含む、将来への経済的不安を強く抱える層に多いと指摘されていて、彼らは、バブル崩壊以降の失われた30年の中で、実質賃金が上がらず、社会保障費の負担が増えるなど、経済的な地盤沈下を直に経験していて、そんな背景から、きれいごとが既得権益に見える構図が生じ、リベラル勢力や左派が主張する、ジェンダー平等、外国人などの人権の擁護、多様性の尊重、LGBTQ+などは、人権論として正当なものだが、しかし、生活の余裕を失った層から見ると、以下のような認知の歪みや反発、バックラッシュを生むことがあるそうで、まずは優先順位の乖離で、明日の生活や自分の雇用すら危ういのに、なぜ身近ではないマイノリティの権利ばかりを最優先するのかという不満があり、そして偽善、きれいごとへの反発として、ネット右派から見ると、リベラルな主張をする層、大企業のホワイトカラー、公務員、学者、メディア関係者などは、比較的経済的に恵まれた、安全な場所にいる人々と映り、そのため、彼らの主張が、痛みを伴わない高みの見物、きれいごとに見え、一種のエリート特権に対する反感、ポピュリズム的性質へと変換され、それが、マジョリティの逆差別感という経済問題を生じさせ、リベラルが生活困窮者やマイノリティの分配を訴えるとき、ネット右派層はそれを、自分たちの取り分が減らされ、努力していないと彼らがみなす他者に流れていると捉えがちで、努力が報われないという不満に結びつき、過酷な労働環境で耐えている自分たちへの支援はなく、福祉や人権の枠組みで保護されている人々ばかりが優遇されているという逆差別感を生み、これは、限られた経済的資源を奪い合うという、極めてリアルな経済問題から生じる感情で、欧米のラストベルト、錆びついた地帯との共通性を連想させ、この構図は日本特有ではなく、世界的な現象で、アメリカのトランプ支持者、白人労働者層や、欧州の右派ポピュリズム支持層も同様で、かつて労働者の味方だった民主党や左派政党が、経済のグローバル化や文化的リベラル、アイデンティティ・ポリティクスに傾倒した結果、経済的に取り残された伝統的な労働者層が右傾化し、リベラルをエリートのきれいごとと批判するようになったという文脈と完全に一致しているそうで、リベラルはきれいごとしか言わない、という言説は、単なる言葉の好みの問題ではなく、経済的な閉塞感や格差に対する不満が、文化的一致点やアイデンティティの対立、政治的主張に形を変えて噴出している側面が非常に強いと言えるそうで、言葉の裏には、自分たちの苦境を見てくれという切実な経済的動機が隠されているケースが少なくないそうだが、リベラル政権の経済政策がうまくいかないことが、右派ポピュリズムの台頭を招いていることは確かだが、右派政権になっても必ずしもうまくいくわけでもないだろうが、とりあえず経済発展の幻想を抱けるという現状を考えるなら、まさに経済発展あるいは復活への幻想や期待感を抱かせること自体が、右派ポピュリズムや右派政権の強力な支持基盤になっているそうで、右派政権の経済政策が必ずしも成功するわけではないにもかかわらず、なぜ有権者が幻想を抱き、支持が集まるのかについては、政治経済学や社会心理学の観点から以下のように分析されているそうで、まずはシンプルで力強い物語、ナラティブの提示によって、リベラルや左派の経済政策は、富の再分配、格差是正、セーフティネットの拡充、増税による財政再建など、地味で、負担を伴い、かつ複雑な議論になりがちだが、一方で右派ポピュリズムは、有権者に分かりやすい力強い成長の物語を提示し、かつての偉大な姿を取り戻すという主張は、トランプ氏の、メイク・アメリカ・グレート・アゲイン、や、アベノミクスの、日本を取り戻す、のように、過去の成功体験に結びついた、直感的にワクワクできる幻想、ノスタルジーを提供し、敵を明確化して、経済が停滞しているのは、既得権益に結びついたエリートや官僚や、不当に利益を得ている国あるいは移民のせいだ、というシンプルな構造を作り、それを打破すれば経済が良くなるという幻想と共に、痛みを伴う分配より経済成長の果実の分配へと期待を抱かせ、リベラルが言う分配は、どうしても持てる者、中流以上から持たざる者へという税の移転を連想させ、中流層や労働者層に、自分たちが損をするのではないか、という警戒感を生むのに対して、右派は規制緩和、減税、自国第一主義的な投資によって経済全体の規模を大きくする、成長させるという言い切り、経済規模が大きくなれば、あなたの生活も良くなる、というトリクルダウンの幻想を伴った説明の方が、有権者にとっては耳触りが良く、希望を持ちやすくなり、一時的なカンフル剤による演出として、右派政権が実際に経済を構造改革できなくても、株価の引き上げや、一時的な大型減税、財政出動、国債発行などといった、目に見えやすい短期的な成果を出すことは得意で、株価やマクロ指標の連動によって、実際に生活実感が伴っていなくても、株価が上がっている、円安で大企業が儲かっている、というニュースが連日流れると、社会全体に経済が上向いているような空気感・幻想が醸成され、人間は不確実な未来に怯えるより、たとえ根拠が薄くても前進している感覚を強く求めるが、実際には右派政権の経済政策が長期的にはうまくいかない理由は、規制緩和や減税は、結果として富裕層や大企業をさらに富ませ、皮肉にも彼らを支持したはずのロワーミドル・労働者層をさらに困窮される結果に結びつき、格差のさらなる拡大を招き、自国第一の関税政策などは、一時的に国内産業を守るように見えても、輸入物価の高騰や他国からの報復関税を招き、最終的には国民経済を疲弊させ、有権者は、右派政権の具体的な政策の緻密さを支持しているというより、彼らが提供する、ここから抜け出せるかもしれないという希望・幻想や力強さに一票を投じていて、現実の経済が停滞し、未来への不安が強い社会ほど、正しいが暗い話をするリベラルよりも、根拠は薄くても明るい話をする右派にすがりたくなるという心理的なダイナミズムが働いていると言えるそうだが、実際にアベノミクスがもたらした期待感と、現在の日本経済の現実を検証してみると、2012年末からのアベノミクスは、それまでのデフレによる閉塞感を打破する強力な期待感を演出することに成功したが、その後の現実には大きな課題が残され、もたらされた期待感と初期の成果は、異次元の金融緩和、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略の3本の矢を掲げ、日本経済は必ず復活する、という強力なアナウンスメント効果を生んだ結果として、大幅な円安・株高が進み、企業業績の改善や雇用者数の増加、特に女性や高齢者の就労拡大など、マクロ指標の上では、戦後最長級の景気拡大という空気感を醸成したが、現在の日本経済の現実は、一方で、アベノミクスが前提とした、企業が儲かれば賃金が上がり、消費が増えるというトリクルダウンは限定的で、企業の利益は内部留保、現預金に回り、実質賃金は長年低迷を続け、その結果、潜在成長率の引き上げ、構造改革が進まないまま、異次元緩和による財政ファイナンス、国債の大量買い入れのツケが残り、近年の世界的なインフレ局面において、悪い円安や実質賃金のさらなる目減りという形で国民生活に跳ね返るという厳しい現実に直面しているそうだが、それに対して欧米のトランプ政権や欧州右派が掲げた経済公約の実際の成否は、欧米の右派ポピュリズム政権・勢力も、自国第一主義による経済復活の幻想を掲げたが、その結果は複雑なものとなっているそうで、米トランプ政権においては、第1期トランプ政権は、大規模な法人税・所得税の減税や、環境・金融規制の緩和を断行し、これは一時的に米国内の投資を刺激し、株高や低い失業率を実現して支持層を熱狂させたが、しかし同時に、中国や同盟国に対する高関税・保護主義はサプライチェーンを混乱させ、製造業の雇用を米国内に劇的に連れ戻すまでは至らず、結果として、財政赤字の大幅な拡大と国内の経済的分断・格差の固定化を招いたと指摘されているそうだが、また欧州右派の変遷は、イタリアのメロー二政権やフランスの国民連合などの右派勢力は、当初ユーロ離脱や過激な保護主義を掲げて財政的な不満層の支持を集めたが、しかし、実際に政権に就いたり、あるいは現実的な権力に近づくにつれ、過激な公約は市場の信用失墜、国債暴落などを招くため、現実的なマクロ経済路線、EU強調、財政規律の一定の維持への修正を余儀なくされていて、結局、右派であってもグローバル経済の構造から完全に離脱することはできないという現実を示していて、それに対して、リベラル側が提示すべきオルタナティブな、もう一つの選択肢となるべき、経済成長の模索としては、右派が提示する経済規模を大きくすれば全員が潤う、という幻想に対抗するため、リベラル側は、格差の是正自体が、持続可能な成長を生むという新しい成長論、オルタナティブを提唱し始めているそうで、右派ポピュリズムの経済論・幻想が、成長の原動力として、規制緩和、減税、投資の呼び込み、自国産業の保護で、分配のアプローチが、トリクルダウン、成長の果実が滴り落ちるのを待ち、産業・環境方針が、伝統産業の保護、環境規制の緩和、エネルギーコスト削減で、社会保障の位置づけが、財政の無駄、依存を生むものとして抑制的であるのに対して、リベラルのオルタナティブ経済論・現実路線は、成長の原動力が、人への投資、教育、リスキリング、現役世代への支援で、分配のアプローチが、プレディストリビューション、賃金引き上げ、中間層の再生、産業・環境方針が、グリーン・ニューディール、脱炭素投資による新たな雇用創出で、社会保障の位置づけが、社会的共通資本、医療・ケア・教育の充実による将来不安の解消だそうで、人から始まる経済循環として、リベラル側が提唱するのは、富裕層をさらに富ませるのではなく、社会の土台である中間層・困窮層の底上げ、ボトムアップこそが消費を活性化させ、健全な経済成長をもたらすという理論で、育児や教育の無償化、非正規雇用の処遇改善は、単なる福祉、施しではなく、将来の労働生産性を高めるための不可欠な経済投資であると位置づけ直すことが核心となり、このように比較すると、右派が過去の栄光への回帰というエモーショナルな物語で惹きつけるのに対し、リベラルは将来の安心と構造の安定という持続可能性を訴える構図が見えてくるそうだが、自分としてはこれらの見解は、現在進行形の世界の変化からズレているような気がするわけで、もう少し考える猶予がほしいし、AI革命のさらなる進展を待ってから、時期が来たら自分の考えをまとめてみたいと思っているのだが、この先どうなるにしても、言葉で説明してもっともらしく感じられるような成り行きではなく、たぶんリベラル的な主義主張や価値観からしたら断じて受け入れられないだろうが、否応なくそうなってしまうような成り行きになるのではないかと予想したくなるわけだ。 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